今日の一句一首(小林勇一)

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相馬藩内の人の移動について
(天華 at 12/18 20:02)
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相馬藩内の人の移動について●相馬藩の外部からの移民
南相馬市の鹿島区でも原町区でも前は鹿島町であり原町市であって街としてあり中心だったがもともとは鹿島村であり原町村だった。原町市が原町村だったというのは意外お思うかもしれないが原町村からは野馬追いに一つの姓で一つの旗しか記録のっていないのだ。他の村はいくつも旗が記されているから昔から農家として郷士が住み着いていたのである。一地域内にも人の移動がある。大きな移動は相馬氏の移住だった。次に大きな移動は越中や薩摩など全国にわたり相馬藩は飢饉に陥って人工が激減したとき三分の一くらい減ったとき相馬藩では「相馬、相馬と草木もなびく・・・」と民謡のコマ-シャルソングを作り全国から人を呼び寄せたのだ。だから鹿島区に薩摩内とか他にも九州地名が残っている。なぜ九州の方からまで相馬に来たのかというと様々な事情があった。薩摩に真宗が広まったのは越中などの薬売りが広めた。薩摩とは薬を通して深くかかわっていたのである。真宗が薩摩で禁止されて移住したとかあるのは薩摩と越中が薬を通して結ばれていたからである。相馬藩内で移民の影響はかなり大きかった。相馬藩の墓所を見れば必ず真宗系の墓が二割三割とありその影響を如実に知る。
今日見た六号線の脇の川子の小高い山の上の八龍神社のあるところから下ったところの墓所は三分の二くらい真宗系の墓であり越中などの移民でしめられていた。ここは集中的に越中の移民が住んだ場所だった。富山の薬売りと薩摩藩」の周辺
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2008/07/magn_8ec0.html●鹿島区塩崎からの鹿島町への移動(中田氏など)
塩崎の中田氏は文政十年十月、越中砺波郡中田村より当地に来る
中田氏と大岩氏は一緒に来た
記録にはこうあるがこれは塩崎であり川子ではない、でも川子にも越中系の移民が多く住んだのである。塩崎から川子へと移民は拡大して住んだ。塩崎は越中の移民が多い場所
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