2019年12月31日

人間と金の問題 (金は万能ではない、時間の方が大事だった)


人間と金の問題

(金は万能ではない、時間の方が大事だった)

今年も終わりだけどどうしても現代は金の問題が一番話題になる
たいがいyoutubeでも経済の問題が一番見られている
日本の貧困化も深刻だし金ももっていれもっているで銀行がなくなるとか預金封鎖があるとか心配になる
貧困化と同時に一億以上ある人は300万人も日本にいることの驚きである
これも格差社会になったからだともなる
株をもってれば株価が気になる
私は株とかしたけど何もしないでもっていたら上がっていた
それはリーマンショックのとき持っていた株だったのである
それを銀行員が来た別な投資信託に回したから損しないまでももうかることもなかった

というのは株とか投資というのはそれで自分自身だけでもうけるとすると
そこに時間をかけないとできない、デイトレだ―などはいつもパソコンを見ていなければならない、そうすると他のことはできなくなる
それで一億円もらったとして何か実りがあるのか?
金に換算するとあってもではその人を豊かにしただろうか?
何か銀行員とか証券会社で辞めた人はそうして金ばかり追ってそれが何か実際は実りがないということで新しく店を現物を扱う仕事をはじめたとかいうのもわかる
農業は苦しいにしろ収穫する時の喜びは格別だろう
それを金に換算するだけのものだったら喜びがないだろう

金があたかも万能のようになった社会がグロ−バル経済社会である
でも金が万能とはならない、例えば今どこでも耕作放棄地が増えている
その土地は一年数千円で借りられるとしてもそこで農業することは労働が必要なのであるその労働についてプログで書いた
小さな畑で毎日草刈りであり害虫から鳥からネズミとかに野菜が食われる
天候の影響が常にあり実りを得るのが容易ではない、するとその話を聞いただけでもう苦労が並大抵でないとなるかしたくなくなる

一億円やるから耕作放棄地を実りある畑にしてくれといってもそこにそうした苦しい労働がないとできないのである、もし機械とかで楽にできればいいが機械を使ってもまたそれも労働が必要なのである
それで一億円もらったらどうするのか?みんなそれで家を建てたり車を買ったりして農業という労働はしない、そのことは原発事故で誰も田畑での労働をしない、放置されて補償金をもらった若い世代は帰ってこないことでもわかる
もともと農業でも漁業でも跡継ぎがないのはその労働がきついからである
金にならないことがあるとしても労働自体が楽ではないからである

金でなんでもできるというのは消費はできる、でも生産するとなるとなんらかの労働が必要になるのだ
それで武田邦彦氏のような科学技術者の研究者が政府から官僚から研究して成果を出せ、その成果は金を出した方が得るのは理であるというのに反発したのもわかる
研究の成果にも労働が智慧や知識や実験とかが必要になりそうして苦労して出すのが研究者なのである
ただ金を出す人が何かを作り出すのではないのである
なぜ今地銀とか銀行がだめなっているのか?
それは金が余っていても銀行自体では何も作りだせないからである、金を貸すから何か利益を出してくれと頼むだけである
でも今はそうして金を貸してもうける人がいないから株とか投資信託とか外貨の保険とか何かアメリカの国際金融資本家にだまされて金を奪われる
それはゆうちょ銀行でも農林中金でも同じである
今は金が金を産みだしているが何か本当の実りを生み出していないのである
それは金融資本主義では金が金を産みだしても本当の価値は産みだしていない
それでアメリカも衰退してドルの価値はなくなるという人がいるのもわかる

人生でもすべて金で計られるとしたら間違いである
この人は一億円残したから一億円の価値があり金がない人は価値がないとはならない
価値は多様でありその人の価値は金があることだけにない
価値は金だけでは作りだせない、確かに金は必要なのである
それよりも老人になればわかる、いかに時間の方が貴重だったかわかる
だから老人はみんなあの時何かをししていれば良かった、旅行していればよかったとか
勉強していれば良かったとか何かしらみんな後悔しているのは金がないからではない
時間がなくなった、その時すべきことをしないで後悔しているのである
そういう時は時間が消えてしまうからである
そしてその時には青春時代などあっという間に過ぎて老人になっているのである

自分の人生をふりかえると何かお前の人生は遊びだったとかなる、でも電車であれ自転車であれ旅行したことが貯えとなっていた、学問であれ芸術であれ知識であれまずその場を踏まない限りわからない、実感できないからである
まず芭蕉でも「奥の細道」は旅しない限り空想では書けないものだった
外国でもそうである、いくらテレビを見ても本を読んでも外国のことはその地を踏んだ人と踏まない人の差が大きい、百聞一見にしかずになる        
だから外国で暮らした人は日本を外国と対照して見れるからかえって日本のことをわかるのである
それで50歳からバックパッカーで外国旅行したのが本当に大失敗したにしろ良かったとなる、なぜならその後介護とか体力の衰えでできなくなったからである

そうした経験が貯えとなって後で何か書くにしても活きてくる
人間はとにかく何かしら日々貯えているのである
花の名前を覚えるのにも一日ではできない、花を知るには相当な時間が必要である
なぜなら種類も多いし季節で違っているから花に通じることは時間がかかる
それは何でもそうである、この世にある無数の事に詳しくなれないのはそのためである
だから雑学でも後で役にたつのである
ただくだらないことに時間を費やしていると後で何も残らない、知識でも経験でも金を貯金すると同じように蓄えることである
人間は何かを日々貯えている、それは金だけでないのである

もちろん金は必要である、でも時間がそれ以上に大事なのである
旅するにしても自分は金がなかった、だからいつも安い宿を探すのに苦労していた
食事は最低限でおさえてグルメなどしなかった
でもありあまる時間があったからできたのである、会社勤めだったらできないからである外国旅行でも金を使わなかった、それは意外だった、外国は安い宿が多いのである
だからヨ−ロッパなど金がかかるようで基本的に宿代が安いから旅行しやすいのである
ゲストハウスなどが多いのである、日本はホテルでもビジネスホテルでも5000円となると高いと思うからだ
外国旅行はしたとしてもやはり自分は一年くらい外国に住むべきだったと後悔する
自分の時代はあまり外国旅行をしない、また留学もしない時代だった
今はそういう点では留学も安くできる時代である、だからそういう経験が後で活きるのである

とにかく人生で一番後悔するのはその時々に成すべきことをしないことであり時間を無駄にしたことなのである
才能があるなしにしろその一人が成せることはわずかである
楽器でも一つはできてもいくつもはできない、いくら天才でもできない
天才を見ても意外と業績を残していないのはやはりあらゆることに通じることができないのである

いづれにしろ人間は最後はみんな時間切れで終わる
今日は大晦日だけで何かもう時間かない、もう人生も終わりだとなる
今日は生きていたけど明日という時間がないとなる
いかに時間が貴重だったかを最後に知らしめられるのである
青春などあっというまに過ぎる、そして40くらいになってみんなおっさんだよとか白髪でてきたとか語っているのである
それだけ時間が過ぎるのが早いのである
(少年老い易く学成りがたし)である
一つの学を成り立たせるには相当な時間が必要である、雑学でさえそうである
何か一つのことに詳しくなるにはそれだけの時間が必要なのである
でも結局学問でも何か無駄が多い、それは勉強の仕方が悪いとかなる
それでもともとあった才能でも活かせないのである

今年も終わったけどももう人生も終わるとなる、老人になったら先がない
それは生きる時間がなくなることなのである

2019年12月30日

万葉集にみる国意識 (場所とのアイディンティティが人間の存在意義を作る)


万葉集にみる国意識

(場所とのアイディンティティが人間の存在意義を作る)

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会津嶺の歌」『万葉集』巻十四、3426番、東歌に会津の歌が収められています。

「会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね」


この歌が何か国を象徴している、会津嶺という山があり「紐結ばさね」と妻との強い絆を歌う、それは妻だけではない家族でもはあり人との絆でありつながりを歌っている
ただ国となるとそれなり大きいのである
第一会津となると面積では福島県の半分にもなるから広い
ところが故郷ととなると古里であり里は極めて小さな地域なのである
だから国と故郷はまた違ったものにもなる
古里意識と国意識は違う、だから会津となるとどうしてそれだけの広い国意識をもったのかともなる、どのくらいが国の範囲かわからない
それより国意識は外部との関係で持つことが多い、あなたはどこから来ましたとなるとき・・・の国ですとなるからだ
日本でも日本国内では国意識をもてない、外国に出ると国意識をもつ
日本という国を意識するのは外国に出たとき最も意識するからである
故郷は別に対外的には関係ない、何か家族くらいの狭い範囲なのである

忘れがたき故郷 如何にいます父母恙なしや友がき

これは父母であり故郷の人との絆を歌っている、これと国意識は違っている
国となると会津のように広いのであり家族とかでもない広い共同意識である
それは地形とか地勢とか風土とともに作られたアイディンティティである
だから会津にはそうした風土と歴史があり国意識が作られた
それで明治維新で薩摩長州が攻めてきて踏みにじられたとき特別の憤慨があった
そこに生きてきた人たちのアイディンティティが踏みにじられたということがあったためである、それはベトナム戦争の時もあった
なぜ強大なアメリカに抵抗できたのか?それは根底にこうしたその国に生きる根強い国意識があって抵抗できたとなる
ある土地を知ることはその国の全体を知ることであり一部分を知ることではない
料理でもそれは一部分である、全体は風土であり歴史でありそこから醸し出されるものである、会津にはそういうものを感じやすいのである
福島県では他に感じにくいのである

ただ国と言ってもそれが日本となるとその国意識は違ってくる、国家となるとそれは風土があっても広すぎるから国意識から離れる
最初の大和国家でもそれは奈良中心の狭い範囲なのである
大和とは一地域名だったからである

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし

この歌は奈良盆地のことであり広いにしてやはり日本全土にすれば一地域なのである
多多国意識は山と関係して日本では生まれている、これだけ山が多ければそうなる
外国でぱ国意識は父なる川のラインとか長大な川がありそれがアイディンティティ化して国意識になっているのだ
だからここが日本人にとっては理解するのがむずかしいのである
いかに川に対する思いが深いかわからないのである
ケルンの塔に上りライン河を見たときそれがオランダの方まで流れるのが見えた
そして平坦だからさえぎるものがなくイギリスまで望まれる感覚になる
そのライン河の河口にオランダという国が生まれたのか?
これも何か地形的な要素がありそうなったのか?
とにかく川はドイツの大地を貫きまたフランスの境界となっている
それはまたローマが支配できない場所とゲルマン民族の国としてライン川はあった
世界でぱガンジス河でも中国の川でもエジプトのナイル川でも長大だから四大文明もその川の側にできたのである

日本の国は比較的その範囲が狭いものとしてあった 

天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

  大和には 群山(むらやま)あれど 
  とりよろふ 天(あめ)の香具山

  登り立ち 国見をすれば 
  国原は けぶり立ち立つ 
  海原(うなはら)は かまめ立ち立つ

  うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづ しま) 大和の国は 」 

          巻1−2 舒明天皇

天香具山は低い山である、そこから見える範囲はかなり狭いのである
各地にある国見山でもあんなに低くはないのである
南相馬市を一望できる原町の国見山でも高いと思う、天香具山は小高い丘なのである
そこから国見するとしたらその範囲は狭い
でもここに歌われているのは海原とかまた国原とか広い感覚なのである
それが謎になる、そんなに広い空間を天香具山に上っても見えないのである 
鴎というときどうしても海をイメージするからである
現実になぜ琵琶湖に鴎の群れがいたのか、それは川を通じて海から鴎が飛んできて琵琶湖に来たとなる、だから大昔は飛鳥の近くは海になっていたしもともと奈良盆地は湖だったということもある、ただそんな昔までさかのぼれるのか今になると不可解になる

南相馬市の国見山から見る景色は広い、太平洋も一望できるしまた片倉のフラワ―ランドからは金華山と牡鹿半島が見えたからそれだけ広い範囲が見える
そしてその石巻の沖が震源地になり大津波がここにもおしよせてきたのである
そういう海を通じて一体化したのが相馬とかでありまた浜通りだったことを地理的に意識したのである

相馬藩内だと飯館までが国意識をもてるかもしれない、なぜなら飯館村は阿武隈高原としていつも南相馬市側から見ているし川でも真野川だと南相馬市内に流れてくるからである原町の新田川でもその上流は飯館村に通じているからである
それで飯館村は実際に鎌倉時代から鹿島の屋形に住んでこの地を支配した岩松氏がいて飯館村も支配していたことでもわかる
だから行政的にも相馬藩内にあった歴史があり古いのである

飯館に久しく行かじ冬の雲山にたれこめ今年の暮れぬ

飯館村はこのように山の向こう側であり山にさえぎられても地理的には一体感をもつのである、でも標高が高いから飯館村は飢饉があった地域である
米の被害が大きかったのである
それで南相馬市の合併を計られたことはそういう地理にあったからである
だから放射能被害でも放射性物質は真野ダムから真野川を通じして流れて来る
それを飯館村だけを隔離して見れない、土地はつながっているからである
飯館村を南相馬市とは別な地域として関係ないとできないのである

うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづ しま) 大和の国は

このうましというのは大和言葉としていい言葉である
ただ今になるとうましとは食べ物がうまいということだがそれだけではない、食べ物もうまいがその土地自体がうましなのである
それが放射能汚染でだいなしにされたのである

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2019年12月29日

オリンピックもカジノも消費増税も国民が望んたことではない (ではなぜそれが行われるのか、決められるたのか?)


オリンピックもカジノも消費増税も国民が望んたことではない

(ではなぜそれが行われるのか、決められるたのか?)   


東京オリンピックを開催するにあたっては、当初の6倍である1兆8000億円と試算されていて、税金が1兆円以上投入されるという試算があります。更には、1兆8千億円では不足しており、2016年に出された新しい試算において3兆円にもなるという試算が出されています。3兆円というのは、とんでもない数字で、破綻寸前で世界で最も国債の発行残高が多い国が行うようなイベントではありません。

東京オリンピック2020返上へ!東京五輪を中止すべきとの意見が多数!オリンピックいらない 

復興とオリンピックは相容れない

どう考えてもオリンピックを国民が望んだのか?
とても望んだと思えない、東京オリンピックは戦後復興を世界に示すものとして国民が望んだのである
でも今回のオリンピックは国民が望んでいない
ではどうして国民が望まないものをできるのか?また決定できるのか?
政府だって国民が望まないとしたらしたら不人気になり政権維持もできなくなることだってある
だからどうして国民も望まないオリッピックをすると決めて来年実行されるのか?
それはすでに決まったことだし国立競技場もできたことだから来年はオリッピックが行われる

ただ自分は何の期待もないしそもそもオリッピック自体が意味もなくなったと思っているオリッピックが平和をもたらすものでもないしオリッピックで金メダルとったからとそれでその国を誇れるものなのか?
ノーベル賞だったら誇れるがオリッピックでは誇れない
それは世界的な巨大な商業ショーでありメデアに勤める人々は熱狂する、放送することによって視聴率をかせげるということでテレビ局が放送権を得る
そういう利権があってオリッピックが行われるようになった
オリッピックで日本の停滞した衰退した経済が上向くこともない、かえってオリッピック後がかえって日本の経済の深刻な衰退が露わになってゆく
だからそんなものをなぜするようになったのか?
それが日本政府によって成される、でも国民は望んでいないのである
すると政府とは国民の臨まないものまであえてする
それができるとなる、政府がすることに国民は従わねばならないとなる

今日本で望まれているのはオリッピックというスポーツの馬鹿騒ぎではない
衰退の一途をたどり貧乏国になる日本をどうするかである
また震災や原発事故からの復興もないのである
そういうときなぜオリッピックなどするようになったのか?
本当に理解できないのである
これはアメリカに強制されたとはならない、日本が望んだから決められたのである
別にオリッピックなどしなくても良かったのである

最近分かったことは日本郵便の民営化はその貯金をアメリカにさしだすためだということがわかった
なぜなら危険なCLOとかに農林中金が6兆円もだまされてつぎ込んだというからだ
ゆうちょもまた同じであり顧客の貯金をアメリカの国際資本家にだまされてつぎこんでいるという、そのことでなぜ小泉信三首相が郵政民営化をあれほど叫んでいたのか?
その理由はアメリカの圧力があり国際金融資本家に日本人の貯金をさしだすためだったからだとなる
日本はアメリカのと疑似植民地でありアメリカの意向に逆らえないからそうなった
投資先もなくなったことで怪しい投資先に汗水たらして得た金をつぎこみ奪われとまでなる

オリッピックのために震災原発事故からの復興は未だにされていない
オリッピックのために震災関連の仕事する人たちが奪われたためだともなる
そんなオリッピックのような遊びのためにショーのためになぜ費やされたのか?
世界でもオリッピックはすべきでない世論になっている

それを望んだのは誰なのか?

そこに利権があったことは推測である
なぜならカジノも日本に作るということで中国の会社が暗躍して政治家に金を配りその政治家が検察に取り調べを受けたからである
なぜカジノも必ずしも国民がみんな賛成しているわけではない
確かに一部利権を得る人たちは望んでいる、でも否定する傾向も強いのである
オリッピック、カジノ、消費増税は納得いかないし国民が望んでいないのである
ただ日本人は戦争でも本当に望んだどうかはわからない
国民が戦争に熱狂したということも言われるからだ
でも戦争したかったのは国民全部なのかとなると疑わしいともなる

アメリカでもイラク戦争は指導者がしたいものであり国民が望んだものでなかった
ベトナム戦争でも国民が望んだものではなかった
それは軍事産業が望んで武器を売るためにアメリカ政府が起こしたとも言われる
アメリカの軍事費は世界で突出していてアメリカの産業は軍需産業だとしているからだ
つまり武器を売ることで産業が成り立つとまでなっている
だからあえて戦争を起こして武器を売ることだとまでなる
そういう国は恐ろしいとなる
アメリカ国民が戦争を起こしているのではない
そうした軍需産業にたずさわる人達が起こしたともなる
そこにアメリカの危険性がある

中国でも中国人と共産党幹部の政府とは別である
中国人は必ずしも政府の意向に従わない、反対する人たちも多い
でも政府の意向で共産党の意向で物事が決まってしまうのである
だから国と国のつきあいはむずかしくなる
たいがい独裁政権でもそれがいいものでないにしても今実権をにぎっていれば仲良くしたり援助したりしているのである
でもそれはその国民のためにいいとは限らないのである
ただその国の支配階級に金が流れる、奪われるだけだということもある

だから政府と国民の意向が大きく乖離してくるときその国の統合と調和は崩れてゆく
それがやがて政権交代になり革命になってゆく
それが今アメリカでも中国でも起きているのである
アメリカの国際金融資本家が富を独占している、格差社会になりそれが極端なのである
そこでもうそうした指導者と支配者と国民は乖離している
もう同じ国の国民ともならない、それは国際金融資本家にとってアメリカという国も必要ないという時、グロ−バル経済でもうけるというときそうなっている
でもグロ−バル経済自体が成り立たなくなるのはそんな極端な格差が世界で許されるのかとなり世界革命が起こる、何か大きな変革が世界で起きてそうした巨額のモンスターのような大金持ちは血祭にあげられるかもしれない、フランス革命のようなものが起きるかもしれない、それが2020年以降に起きることは間違えないのである

日本ではオリッピック、カジノ、消費増税は必要なかった
なぜ国民が望まないことをあえてすることになったのか?
それは政府の利権のためなのか?
カジノはアメリカでも作りたい、その利権を得たいとして働いていたというから利権である、中国もカジノ利権を得てもうけたいとして検察に自民党議員が調べられたのである
日本は中国とアメリカの利権の場になる、そういうふうに米中の巨大な国にはさまれた国になっているからだ
中国が台頭した結果余計にそうなったのである
日本がアメリカにつくか中国につくかで世界政治の情勢が決まるとまでなるかもしれないからだ、中国が台頭した結果そうなってきたのである
ただ下手するとアメリカと中国が日本を舞台にして争い日本は今度は朝鮮半島のように分断される、それは戦後ロシアとアメリカによって二つに分断される危機があったからである、東西ドイツのようになることがあったのだ

いづれにしろオリッピックは国民が望んでいない、カジノも消費税も望んでいない
オリッピックだと望んでいるのはスポーツする特殊な人たちとマスメデアが視聴率をかせぐためとかまた政府でオリッピックが利権になる政治家とか利権なのである
オリッピックの精神などももうとっくないのである
それで世界でもオリッピックなど中止すべきだしない方がいいとなっている
だから日本のオリッピックは何のためにするのか?
ただ国民の財産と労力を費やす無駄だとなる
だからまだ津波でも原発でも復興していないのだからそこに金でも労力でも費やすべきだったとなる

復興五輪などまやかしなのである福島県でも地元でもそんなことに熱狂しいないのである聖火が福島県を回ったとしても復興自体がない
避難区域には若い人は返ってこないからである
もう安倍政権は終わりなのである、長すぎて傲慢になってこうした国民ののぞまないことをえて実行する、安倍政権も限界が来たのである
2020年は安倍政権も危ない交代の時である、それも変化の一つでありそれより何か大きな変化が起きることも予測される
2020年は区切りがいいし大きく変わる時代になる
オリッピックの後にかえって絶望の時代になり変革が迫られることになる    

政府も追い詰められ預金封鎖を実行するとか貧困化して追い詰められた人たちが反乱を起こすとか暴動を起こすとかもあるかもしれない
とにかく追い詰められ人間は何するかわからないからだ
そういう人たちはやけくそになり襲ってくる、今日食べるものがないとなればわずかの金でも殺すということもあるからだ
そういう恐怖を常に味わってきたのが自分だったのである
それだけ窮迫した人々が増えることは怖いことなのである


posted by 老鶯 at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

年の暮の俳句(家事に追われる自分に変わりがない)


年の暮の俳句(家事に追われる自分に変わりがない)

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まじかにて花見て遺影年暮れぬ


ひよどりのけたたまく飛ぶ寒椿

荒浪の轟きよすや寒椿    

山鳩に烏に雀年暮れぬ

山茶花のここに咲きしや目をとめぬ

まじかにて花見て遺影年暮れぬ

買物や一人忙し年の暮

野良猫に食われしオカズ年の暮

金なしと嘆く老女や年の暮

死ぬまでの金勘定や年の暮

原町へ今日も行き来や年の暮


今日は原町の道の駅まで行った、そこで正月の飾りなどを見た
花も買った、正月の飾りつけはできた
でも花は活けた花はいつもそばで見ている
そこに遺影がある、食事する場所のすぐ近くなのである
何かそれだけでも花をいつも見て遺影を見ているとなる
離れた所には別に花を飾る場所を作った
生け花はいつも身近に見る所にあるのがいい、家の中でも離れるといつも見るとならないからである
でも床の間だと今はいつもいるとはならない、やはりいつも食事する間がいいとなる
仏壇でもそれは別な部屋にあったりする、花はいつもまじかに見る所に飾るのがいい
ただ生け花はフラワーレンジメントは別にして写真をとるのである

金がないということは苦しい、それでどうにもならなくなり借金する人もいる
そもそも金が基本的にたりないのだから必ず月末に金がなくなり電気水道がとめられたりするのである、そのことが変えられないのである

買物に行っている間に野良猫が入ってきてオカズを食べられたというより口つけられたかもしれないとなりバイキンがついたのかと恐れた
野良猫にすれば食べるものがないのだからなんとか食料を確保しようとする
その親子二代でこの辺にいるのである
もう7年前とかだったかその子猫を生んだ親を知っている
その兄弟がいて子供を産んだから孫になるのである
それだけの歳月がすぎた、隣で餌をやっているから集まる
でも自分の家にも隙を見て餌をねらってくる
これが困ったことなのである
時々留守の時荒らされるからである

猫が危険なのはバイキンである、また人間が危険なのは盗まれることである
これはみんな困っている、人を見たら泥棒と思へどこでもそうである
そうして自ら盗んだり盗まれたりしない人はいないのである
まさに現実に人間の泥棒猫が入ってきて荒らされた
それも近くの人だったのである
野良猫にしてみれば生きねばならない、だから隙をみて飼いネコの餌を狙って家に入ってくる、でも留守の時荒らされてそこにバイキンがつくことを恐れる

ともかく今年も終わりである、相馬市までは今年中には行けない、原町は8キロくらいであり行ける、どうしても買い物があり行くことになる

山鳩に烏に雀もそれぞれに年が暮れた、人もそれぞれである
ただこの一年は台風被害をのぞいてそれほどのことはなかった
ただ何か自分の場合忙しすぎる、全部家事を一人でしてさらにプログに書いているから
ほとんど食事してもすぐインタ−ネットを読んだり見たりしてプログを書く
だからそこに暇がなくなっているのだ
本当は家事を少しでも手伝う人が必要なのだけどそれがうまくいかない
家の中に人をいれることやどういう人が来るかわからない
何か相性もある、今は一人だけ以前として同じ人が来ているがその人はただ話するだけであり何もしない、だから結局介護になってから全部家事はしていることには変わりなかったのである

ただこの年になると時間が貴重になる、生きる時間がなくなってきたからである
本当にいつ死んでもいい年になっている
だから時間を無駄にしたくない、作品を完成するべく整理している
それも手間なのである、とにかく今年も終わりである










会津の舘岩村への旅-短歌十首(NHK―小さな旅を見て)


会津の舘岩村への旅-短歌十首(NHK―小さな旅を見て)  

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栃餅の味かみしめよ奥会津

蕎麦の花霜ふり会津の暮らしかな
                                                
清水飲み舘岩に入る夏の暮                          

合歓の花山々閉ざし村一つ                                                      


舘岩の奥の流れの清らかに夏の日に来ぬ山の奥かな

一すじの奥の流れの清きかな隠されありぬ舘岩の村

萱刈りて肥やしとするや舘岩に暮らして長く老いにけるかな

夏の日や舘岩に来て栃木の山のそそり迫りぬ村は隠さる

萱ととも暮らしの長く舘岩の集落あわれ冬に入るかな

しんしんと雪にうもれて舘岩の村は閉ざさる冬の長しも

茅葺の家や村人の身を寄せあい暮らしあわれも雪にうもれぬ          

舘岩に暮らして老いぬその月日ここを離れじ刻みし時かな

冬長く囲炉裏を囲み閉ざされぬ薪をくべて外は雪なり

舘岩を去りて栃木やトンネルの長きを覚ゆ那須の原にそ我がい出にけり   
            

会津という時、

伊佐須美神社の社伝では、紀元前88年(崇神天皇10年)、四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が蝦夷を平定するため北陸道と東海道に派遣された折、出会った土地を「会津」と名付けた

大塚山古墳からは三角縁神獣鏡が発見された、これは東北ではここからしか発見されていない、これは吉備系統のものであり大和王権が確立するまでは吉備系統の支配があった
みちのくの真野の草原(かやはら)も笠女郎(かさのいらつめ)も吉備出身だったとも推測される
吉備は大和王権が成立する前大きな国でありそれで会津とか東北にもその跡を残している

会津嶺の歌」『万葉集』巻十四、3426番、東歌に会津の歌が収められています。

「会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね」

ここでまず会津嶺とでている、この嶺は複数なのである、会津は山国である、千メートル以上の山が密集しているのだ、ひしめいている、だからどうしても地理がわからなくなる、これだけ山があると方角もわからなくなる
それで舘岩から太田原に出てきたのだけどその辺の地理がわからなくなった
何か長いトンネルを出て太田原に出たことは覚えているのである

会津嶺とはこのように千メートルから二千メートルまで山がひしめきあっている嶺のことである、一つの山のことではない
そして唯一東北で国と出ているのは会津だけである、その国の古さは古代から始まっていたのである
なぜならみちのくの真野の草原(かやはら)はみちのくの境界線のことでありここが国とはなっていなかったのである
ここに東北での会津の古さがあり会津こそ東北で国として意識された場所だとなる
それは明治まで継続されていた地域なのである、このことは会津を知る場合は重要である
その国への思いが今日まで続いているからである
例えば相馬藩とかになるとそれが成立したのは江戸時代でありその前の国となると明確なものがないからである

会津の特徴はこうして古代からすでに国として意識された場所でありそれが明治維新まで継続されていたのである
会津とは風土と一体化して継続されてアイディンティティの場所だったのである
その風土と歴史の重みが一体化した場所なのである
福島県の地図をみると半分が会津なのである、だから福島県がハマ、ナカ、アイヅとなっているけど実際は会津は別の大きな一地域としてある、国としてあったから福島県として一つにしたことが無理だったのである、それは廃藩置県で全国的に起きたことである
廃藩置県は風土とか地理と歴史から生まれたのではない、行政的区割りとして人為的に生まれたのである、政治的なものであり風土歴史を無視しているから不自然なのである

ただ私は会津に自転車で二回くらいまわっている、夏と秋だった
その時昭和村の方まで行ったが一面に萱の原だったのである
いかに萱が多い地域なのかわかる、だからこそ昔は茅葺の家が曲がり屋が作られた
それには大量の萱が必要だったのである
それでNHKの小さな旅でその屋根裏に大量の萱をためていたのである
そして萱はまた畑の肥やしにしていたのである、それだけ萱が多いからそれをなんとか利用しようとする、とにかく農業は肥料が最大の問題だからである
だから貝殻まで肥料にしている

今日後半だけ見たNHKの小さな旅で舘岩の曲がり屋集落の前沢部落を写していた
そこにおばあちゃがいて萱を刈ったりしていた、ただ息子とは市に出て行っていないという、息子は世話するから市に移れというが嫌だとして残っている
これも今や日本全国で過疎化する村の姿である

ただ老人はわかるけどそれが簡単に移住できないのはそこで生きたことが人生そのものでありそこがアイディンティティの場所であり深い愛着のある場所というより
自分の人生の証しがその土地と家と暮らしにあったからである
それをつくづく自分の家のことについて延々として語ったが同じである
家はただの物ではない、その家族のまたは代々の歴史を刻んだものであり単なる家という箱ではないからである
その家はまた周りの自然と風土と歴史と一体化して形成されたものでありそこに価値がある
飯館村でも原発事故で若い人が帰ってこない、そこに山菜をとり山村の独特の暮らしがあった、それが消失したら飯館村に生きる意味がないというのもわかるのである
放射能汚染で山菜がとれないということはだから飯館村で致命的だったのである
そこに暮らしがなくなったとき何が残るのか?
森とかその自然は残っても人々の暮らしは失われてただ元の自然に戻ったともなる

でもそこに失われたものはそうしたそこで継続した暮らしでありそこに価値があった
それは金で換えられない価値だった、人間の価値は必ずしも金だけからは作りだせない
だから一旦失われた暮らしはもう戻らない、再現できないことにその価値の重みがある
芸術にしてもなぜ芭蕉の「奥の細道」が廃れないのか?
価値が継続してまたこその価値が衰えないのか?価値がさらに増しているともなる
その不思議はやはりその時代がありもうその時代を再現できないということにあった
それが故にその価値が長く時間がたっても廃れないし価値を継続してさらに価値を増している、それはそういう時代が再現できないからだったのである

何か茅葺の家でも城でも新しく再現しても博物館とかになると見世物になりかつてあった暮らしもなくなると価値がなくなるのである、でも時代の流れでそういう暮らしが成り立たなくなる
例えば栃餅はこれはいつも食べていたものではない、非常食として作られていた
第一栃餅は簡単に作れないのである、栃の実を拾いそれを餅にするまで相当な手間なのである、だからこそ貴重である
ただそういう暮らしがなくなるときもし栃餅が簡単に機械で造れるとかなるとありがたみがなくなってくる
つまりそういうものは風土と歴史と一体化して生まれたものでありそこに暮らしがなくなると価値がなくなるのである  

だからそうした価値は一旦失われたら再現できくななる
ただ茅葺の家があったとしてもそこに暮らしがなくなれば茅葺の家は博物館のようになるのである、日本の城でもそうである、再現されても新しくてそれが実際に博物館になっているからだ、会津の鶴ヶ城でも新しいからそれが博物館のように見えるしそうなる
かえって廃墟となって石垣だけが残っているかえって歴史を偲べるともなる
それで荒城の月の歌ができたとなる、それは廃墟化した城を見て作られたからである

とにかく会津の地理はわかりにくい、それは山国であり山に入ると方角もわからなくなるそれは近くの飯館村でもそうだったのである、方角がわからなくなり太平洋側の相馬の
方に帰るのに逆の方向に行っていたのである 
浜通りだと海が見えれば東だとしてわかる、山国になるとまわりが山だらけなのだから方角がわからなくなるのである

いづれにしろ思い出す旅をしている、それは冬ごもりの季節に向いている
ただ思い出す旅は記憶がとぎれとぎれになるしいかに再現するかが問題になる
だからいかに記憶させる旅をするかが問題なのである
それでた車とか便利だかいいとはならない、帰って苦労して峠を越えた記憶とかは残るのである、なぜか舘岩村から栃木の方に太田原の方に那須の方に行くとき長いトンネルがあったことを記憶していたのである
そういう記憶がなかなか車だと残らないかもしれない、自転車だと苦労してやっとトンネルをぬけたという記憶が体に残る、そして広々とした那須野に出たいうことが記憶に残っていたのである

ただ何かその記憶もとぎれとぎれになりあいまいとなり思い出すのもむずかしくなる
でも今日のNHKの小さな旅で後半だけ見て思い出したのである
舘岩村は本当に奥地であり秘境の感じがする場所だった
桧枝岐もそうだがあそこは尾瀬観光の拠点の村となってしまった
だから秘境という感覚がイマイチなくなったのである
観光化というのは本当の価値を失うのである、そこに暮らしがあってこそ価値がある
ただ現代ではどうしてもそこに暮らしていくには金が必要であり観光化はさけられないのである、現実に何で暮らすちとなれば昔のような暮らしができない
薪をくべて囲炉裏で暮らせない、そうしたとても電気を使わずに暮らせないのである

会津はこれからますます雪に埋もれてゆく、雪の時会津を訪ねれば会津に理解が深まる
それは山形でもそうである、でも実際にそこに生活するとなると楽ではない
ただそうして雪に埋もれて春が来て夏が来て秋が来てと暮らしてこそその土地と一体化するのである
舘岩村は本当に山々に閉ざされた奥地の村だった、だからまだ秘境の名残りがある場所だったとことを記憶の旅でたどったのである

舘岩村の情報

ここで紹介している

2019年12月28日

大東銀行の収支決算をみる (危険度は103行で83位)


大東銀行の収支決算をみる

(危険度は103行で83位)

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収益率がROAで順番を決めている
0.12ということは1億円から0.12パーセントの収益は120万となる
10億だと1200万になる
この比率は総資産額が多くその金の大きさ比例して大きくなる
だから総資産額が大きいと有利になる

それは株でも投資でも金が大きければ大きいほど世うける率も大きくなる
一億で一パーセントでも百万になり百万の収益ともなる
だから金の量に比例して例えもうける比率が低くても大きな収益になる
ただ損も大きくなる、でも株式だとそうして大きな金をもっていないとまずそもそも大きくはもうけることはできない、だからその元金が多くためないと株でもなんでも金融では大きくもうけられないのである
大東銀行の総資産は少ない、東邦銀行から比べると一けたも少ない
総資産が少ない銀行は危険度が高くなる、それで福島銀行と島根銀行がSBIに外資に買収されたのである

そして収益を見る場合、そこに勤めている社員の頭数をみる
つまり収益に対して勤めている人の頭数で割ると一人当たりの収益もわかる
それでその収益に対して人が多すぎると負担になりスリム化したり人を減らさざるを得ないのである

従業員数515名 
※従業者数は就業人員数であり、出向受を含み嘱託および臨時従業員を含んでおりません。
店舗数58

515人の従業員がいる、515÷58=8・8人である
この人数だとすると鹿島区の従業員はそのくらいかもしれない、ただ臨時従業員とかもいるからその内訳はわからない、臨時従業員はスーパーとかコンビニのように銀行では雇いないと思う、なぜなら金を扱うから信用が第一になるからだ

福島県の市町村の数は

13市 31町 15村 / 計 59市町村 

南相馬市だと原町区は人口が多い、鹿島区は一万くらいである、南相馬市内に二つ店舗がある、だから市となると広いから二つあるのも普通である
また町となると一つくらいがあるのか?村となるとないようにも思う
つまり13×2=26であり一つの町に一行あれば26+15=41になる
会津市とか郡山市とかになると三つくらい天保がるのかもしれない
そんな店舗の数がある
そしてこの店舗の負担が今になると大きいのである
その維持費が負担になるのである

そして大事になるのが収益があったとしてもそこで大事なのは一人一人でその収益を割ることだと説明している
なぜなら従業員に給料を払うにしても収益に左右される、収益率が下がれば従業員の数が多ければ負担になるからだ

10億の収入があるとして収益があるとして従業員の数で割れば
1000000000÷515=194174になる

つまり約20万は一人頭の給料として払えるとなる、ただそこに店舗の維持費などを計算するとそれだけではすまないから今では店舗を維持することが問題になる
インタ−ネットだと店舗がないから費用を節約して手数料とかを安くできるのである
ただこれは高齢者になると通信だと苦手になるから問題がある
なぜなら今金をもっているのは60以上だからである
私もインタ−ネット預金したが何かアクセスするのに暗証番号とか複雑でできなくなってやめたからである
だから対面であり店舗があると安心であり信用につながっているのだ
それは高齢者にはいいのであるがこれからそうでなくなるら店舗営業を減らさざるをえなくなるのである

何か自分は大東銀行には投資信託とかで一番かかわった
だから地銀の経営が苦しくて倒産するとかいろいろ言われると不安になったのである
そして銀行の社会的役割というのも良くわからなかったのである
社会では銀行は一番わかりにくいのである
それでこれがグロ−バル経済の金融資本主義になったとき本当にわかりにくくなる
その仕組みの複雑さで投資関係は人をだましやすいのである
だかち農林中金が6兆円もの金をアメリカの国際資本家にだまされて投資したと警告されている、それはゆうちょ銀行でもそうであり地銀でもそうである

投資とか株とか何かそれがだまされやすいのはそもそも複雑で理解しにくいからなのである、それは原発ともにていたのである、原子力のことを説明されても理解できないからである、あなたは核のことがわかるのですかと言われれば何も言えなくなるからである
私は文系だから科学のこと技術のことはわからないからである

ただ文系でも銀行となると数字が大事になるから理系でもありまた文系的要素もある
何か政治とかそれぞれの国の事情とかいろいろもものが関係しているからである
株が上がったり下がったりするのはいろいろな要素がある
その要素を見るということは国際政治とかいろいろなものが関係してくる
そういうものは文系なのかとみたのである
ただ銀行は数字を扱う会社だから数字に強くないと仕事はできない、もう金は数字になっているからだ

そして金が数字になったとき良く数字を見ていないので自分の金を把握できなかったのである、いろいろ利率とか関係して数字で混乱したのである
それは投資信託などは毎月分配型となるとそれは元金から引かれていたから収入にはていなかったのである、投資信託などはまず素人には理解できない
農林中金でもゆうちょでも地銀でもアメリカの国際資本家にだまされてCLOとかの危険な商品を大量に買って警告されている、農林中金では6兆円も買った
その金が吹っ飛んでしまうというのも怖いことである
それはら預金者に返ってこないともなる、他にも投資で失敗すれば巨額の金が返ってこなくなるということがある、それは日本の年金でもそうなのである

そして何百兆の金がアメリカに日本でつぎ込んでいて為替差益でドルの価値が低下してゼロになるということを言っている
アメリカの経済は落ちてゆくだけでありドルの基軸通貨の時代は終わったとしている
そうなると外貨建ての保険なども危険なのかとなる
そしてなぜ日本ではゆうちょでも小泉首相の時民営化したりしたのか?

それは国際資本家にまたアメリカの圧力でそのゆうちょの金を国際金融資本家にまたはアメリカにさしだすためだったとなる
つまり日本は独立国ではない、アメリカの疑似植民地であるからアメリカの意向に従わざるをえないのだ                                                
だから中国に朝貢したように貢がねばならないのである
結果としてアメリカによって日本が汗水たらした働いた金が百兆円がゼロになったというのも悔しいとなる
ただ額が大きいから実感できないのである

なぜ自分がこんな大東銀行が気になったのかというと自分の金がそこでゼロにもなるという恐怖を感じたからである、自分の利害と密接に結びついたからなのである
科学技術となる理解できないがなんとか銀行だと文系でも理解できる範囲にあるのかと思った、ただ細かい数字になると理系の分野なのである
銀行と数字は切り離せないし今の社会は数字化した社会だから数字に強くないと生きてもいけないとなっているのである 

とにかく最下位の島根銀行が外資のSBIに合併吸収されたとか福島銀行もそうなった
つまり大東銀行もそうなるのかという不安である
総資産額が低いのはどうしても危険になる、福島県では東邦銀行が安定しているからこの一行しか残らないとされているからだ


週刊ダイヤモンド】全国地銀 余命ランキングから見る 銀行・企業の見方

youtubeはわかりやすい、そしていいものがヒットしやすいのである
テキストの検索だと数が多すぎで目当てものものに当たるのが大変なのである

預金封鎖その2 欧州初の預金封鎖の凄まじい事実、ドイツ、フランス、そしてロシアの裏にあのIMFの圧力があった!

スペインに住んでいる人も金融について預金封鎖について語っていた
スペインに若い時からずっと長く住んでいたので詳しい
実感で語っている、個人的ボランティアの特派員になっている
こういう人は見る人も多くなる、まず外国は旅行したくらいではわからない
住んだ人しか深いところがわからないのである 

youtubeは相当に情報世界を変えている、テレビとなっているから見る
テキストだと検索で読まれるのは少ないがyoutubeだといいものに当たり安いのである
そしてわかりやすいから要点を理解できるのである
第一一つのテーマで一万人も見ればすごいと思うからだ

ただこの世界も子供が見ている、何百万の登録者がいることに驚く
それは軽い娯楽としての子供向けのyoutubeなのである
でもこういう人達が大人になればもうテレビは見ない、だから大人になったらユウチュバーになりたいというのもこの数字からわかるのである






posted by 老鶯 at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

金融資本主義の限界を語るyoutube (2020は確実に経済でも大きく変化する年)


金融資本主義の限界を語るyoutube  

(2020は確実に経済でも大きく変化する年)

「金融資本主義支配と搾取の構造」

経済の仕組みがわかりにくいのは貨幣とか紙幣とかの問題が基本にある
貨幣が生まれたことで便利になったのだがその貨幣によって人間の社会が変質してしまった
それはギリシャのボリス時代からすでにそうなっていたのである
つまりすべての価値が貨幣で計られる、貨幣が生まれたことのマイナス面がすでに紀元前から始まっていたのである
だから貨幣のない社会と貨幣のある社会を対比で考える必要がある
でも貨幣の歴史そのものがそれだけ古いのだからもう貨幣のない社会がわからなくなっている、エジプト文明には貨幣がなかった?、マヤ文明とかにもなかった
中国で始皇帝の時代に貨幣は統一されていた

何か金融資本主義と本来の資本主義が違う、そのことをわかりやすく説明するyoutubeがあった
これも何か理解を深めたがそれでもむずかしいと思った
このサイトでは金融資本主義だと必然的に極一部の人に金が集中する
世界で六人の人たちが金をにぎる、それはそういう仕組みでありその仕組みをかえなければ格差はなくならないというのもわかる

金とは銀行が作り出す借金でありその借金は幾何数級のように増えてゆくという
そして返せなくなりその借金は次代にもちこまれる、子供たちがその借金を払うことになる
つまり借金は消えないのか?それはやはりカルマとなってゆくのか?
親の因果が子に報えてゆくという
でもまた不思議なのは政府通貨を百兆円だすと借金は消えるとかもいう
これも不思議だとなる
まるで手品ではないか?そんな簡単に借金とは消えるものなのか?
個人で借金すると借金を返せないために自殺する人が普通にいる
その負担はそれだけ大きいのである

政府通貨を百兆円だせば国の借金は消える?

これもなんなのだろうとなる
国レベルになると金というのもを理解することが不可解になる

金はもともとない、金は数字としてはゼロだというのはわかる
金自体には何の価値もないからだ
金の力を実感するのはそれで買ったもの得たものによってである
家一軒でも建てればその力を実感する
でもその他で金の力を実感できるのものがあるのか?
いろいろ遊ぶということもある、旅行もある
そういうものはしてきたから今はしたくない、本当は山でも上りたいが体力がなくなりできなくなった、年取ると金だけではできなくなる

金融資本主義が国際資本家によって富が強奪される仕組みだという
それは日本の銀行でゆうちょから地銀でも特に農林中金が6兆円の金をあやしげな投資先に金をつぎこんだから破産の危険があると警告されている
これも投資先がないためである、それは国際資本にだまされて買ったという
するとそうして農林中金に貯金した日本人の金が奪われるとなる

それはもう金を投資して利益をあげる会社もないからだ

そこで資本主義がゆきづまっていると学者も言う
そんな変な危険な場所にアメリカの国際資本にだまされて金をつぎ込んでいるからである
金が行く先がない、投資する先がないというとき米余りともにているのか?
米をいくら作っても売れない、米が余るから値段も安くなる
そしてかえって減反して補助金を出していたのである
なにか今も金余りでそれと似ているのかもしれない、ただ最近はブレンド米は結構高いからそれが売れれば農家も成り立つとなる

米をいくら作っても価値がない

金がいくらあっても増やせない

そういう社会になっている、米は実体経済でありブランド米とか酒に利用したりして外国に売ったりもしている
でも金はどうなるのか?それはあくまでも紙に過ぎないのである
いくら貯えても紙でありそれが紙くずになる危険性が常にある
だから今数パーセントの大金持ちがいろいろな権利を買っているという
土地とか水と水道経営の権利とかいろいろな特許とかもそうである
必ず生活に欠かせないものを資源でも買っている
金でもっていても紙幣は紙きれにすぎないからである
それは本当に紙切れになるがこうした実体経済の権利を取得していれば他者を支配できるという、そして国際資本家は国より政府より力をもっているのが現代の金融資本主義だという、それがグロ−バル化の金融資本主義なのである
このyoutubeを理解するのはむずかしい

今の格差を作る金融資本主義、国際資本家による富の強奪をふせぐには政府通貨の発行とかベーシックインカムとかを政策として提示している
とにかく世界でなんらかでこうした極端な格差を止めようとする運動が活発化してきたのである、それも当然なのである
そんなわずかの人に世界の富が集中して支配されることを誰も望んでいないからである
ただその仕組みがわかりにくい、戦前だと地主が大きな力をもって小作は苦しめられた
その時地主は憎悪の対象になった、それは誰が苦しめているから近くで目に見えていたからである

グロ−バル経済になるとその苦しめているものがアメリカだったりイギリスだったり見えないのである
グロ−バル経済を理解できる人はいないと思う
それだけ世界の市場になると巨大でありとても理解できない、すると本当は憎むべきもの地主のような人が見えないから必ず陰謀論になるのである

国際資本家とかを世界で攻撃すべきだとなる、その六人の名前はあがっている
そういう人たちは犯罪者と同じである、もしかしたら本当は死刑に値するような人かもしれない、そんな莫大の富をもってどうするのだとなるからだ
それには借金だらけの国も勝てないとしているからだ、そこに世界的な革命さえ必要にもなる、でもそれが共産主義ではない
結局と共産主義も一部の幹部が富を強奪したのであり同じだったからである
「世界のプロレタリアー斗、団結せよ」それは通じなかったのである

ともかく2020年は激動の年になるのか?

何かのけじめの年である、だから何かわからないが自然災害なのか政治なのか経済変動が起きる、その規模も大きく世界が変わる、日本だけではない世界が変わる年になる
そういうふうに変わる時大きな痛みがともなうのである
その後に戦後復興のように新たな世界が生まれる
ただ未来は予測はできない、経済活動が社会のすべてではない
文化的な価値もあり物質的豊かさの後にはどうしても文化的な価値を追求するようになる文化的な価値となるとそれは精神性を追求するものであり物質的な価値をもたらさない
でも物質的な価値から文化的精神的価値の追求の時代になる
インパウンドでも最初は爆買いだけで次は事の消費だとか日本の文化をするものへと変わる

ただこの文化的精神的価値は物質的な価値とはなりにくい、金を産むものとはなりにくい要するに減反してその土地を何に活かそうかとなる時、どうするのか?
そこを花畑にしようかとかなる、でもそれが金になるとは限らないのである
花畑にして菊畑にして花を売れるとなればそれが金を産んだとはなる
でもただその花を観賞して楽しむということもある
金にならないとしてもそこに価値を作りだしたのである
もしかしたらそんなふうにして金を使うようになるのかもしれない
オランダのチューリップバブルがそうだったのである
その後にヒヤシンスバブルがあったからくりかえしていたのである
ただ花に価値がないというものではない、花には価値がある
それは美として文化的価値がある、一時は絵画がゴッホの絵とかが100億円とか値段がついたことがあった、それとにている
何に価値があるか、明らかなことは紙幣には価値がそのものにはない
だから金は仮想であり仮想通貨が生まれても不思議ではないのである

価値はいろいろありただそれがもう金を産む利益を産むということにならない
だから銀行は利益にならないのだから投資先がないのだから消失するとなる
要するに資本主義が金融資本主義になりグロ−バル化して極端な格差社会になり
人々は苦しめられる、そういう世界の終わりが来ている

ただ次なる世界は何になるのか?

それは当分模索中となるがただ確実にそういう大変化が起こり強いられて戦後のような状態になる
それで銀行の無用論とか倒産とか預金封鎖とか言われるようになったのである
そういう傾向は何かで変わりえようがないと思う
下降トレンドから何かの調子で上昇トレンドになるとは思えないのである
それは日本の株で官製のものであり実体経済を反映していないからである
だからどうしても悲観的な見方が大きいのである 

時代が変わる時、江戸時代から明治になった時、江戸時代にあった仕事がなくなった
大井川の渡しの仕事はなくなり茶畑を作るようになった、それで静岡は茶で有名になった職種転換が起きて来る、産業の変化が起きて来る
戦前は養蚕農家がどこにでもありそれが兜屋根として残っている
絹織物が主用産業であり石炭産業がエネルギー産業になり蒸気機関車の時代だった
それは戦後十年くらいまでつづいたのである

時代が変わる時職種が変わる、だから銀行が半分なくなるとかいらなくなるとなる
何か地銀でも一万くらいの人口なのに店舗を構えて十人以上も働いているとなると多いと思った、そこにかかる費用を想像するとかなりのものになると思ったからだ
つまりそれだけの費用維持できなくなる
そして投資先がなくなり銀行員が農業を実地にして投資していることをテレビで写していた、youtubeでは銀行員がやめて実際に農業をしていた
ここで紹介した証券会社で金だけを扱っている仕事がいやになり実際に店を開いたりした何か金ばかり扱っていて生きがいを見いだせないとなった
そして金はもともとないとかゼロなのだということを言うのもわかる
金は実際に引き出して使う時金の力を発揮する
特に紙幣になれば金本位制でないということはもう実質金の価値はゼロなのである
それは数字だとなりゼロになる

いづれにしろ来年は2020は大きな変化の年になる
特に経済の変化がもうさけられない、それはほとんどの人が言っている、良く言っている人はないからだ、要するに経済が良くなる要素がないからそう言っている
ただ時代の変化に老人は対応できないのである
技術に関しては非常に不利なのである、新しい技術に対応できないからである




posted by 老鶯 at 08:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年12月27日

年の暮(家の整理に追われる)


年の暮(家の整理に追われる)


年の暮家の整理の月かな

年の暮金の計算に追われけり

冬紅葉雨にぬれけり家の前

我が一人時雨ぼつりと年終えぬ

夕空に鳩十羽ほど年暮れぬ

寒雲や風車はとまり年終えぬ

十数本寒木動かじ風唸る

星増えて星座となるや冬木立


我が庭に今日も数枚の木の葉散る心にとどめ日は暮れにけり

死者なおも家のまわりにいるものや一人守りて今年も暮れぬ  

家の整理と掃除とか金の計算とか料理とか生け花とかして疲れた
なにかずっと介護になってから家族が死んでも家との格闘がつづいている
家は何か物というのではない、そこに生きたものがまだ生き続けているという感じになるだから家を生きるとまでなる、自力で家を花を飾るように作った
何か一つの仕事場にした

今日は夕暮れが迫りぼつりと頬(ほほ)を時雨がぬらした
時雨でも雨と間違えやすい、ぽつりとか濡らす時は時雨である
でも雨が少しでも全体にふれば時雨ではない
せいぜいぽつりと頭でも頬(ほほ)でも濡らすくらいのが時雨である
時雨は何か死をにおわすということがある

夕空に鳩が十羽ほど飛んで旋回した、これはただ写生である
写生が俳句の基本である、いちいち説明するのではない
だからこれは今年も十羽ほど鳩が飛んだということで平和に終わったとみたりする
その解釈はいろいろになる

風力発電の風車は四つあるが海岸でとまったままである
これも長いと思った、もし電気でもこうして発電できなかったら大変なことになる
だからあまり風力発電とかソーラーパネルは頼りになるものではないのだ

銀行員が昨日も来たし今日も近くの地銀に行った
何かこの銀行は何なのかわかりにくいのだ
どういう社会的役目があるのかわかりにくい
でもそこには十数人くらい働いている、するとそれなりの人が社会のために働いているとなるのか、でも今の仕事は投資信託とか今度は保険とかすすめる
つまり地銀は今や証券会社の支店のようになっているのだ
だから何か本来の仕事から離れてもう地域に必要なのかとまでなる

そして地銀でも銀行でも半分がつぶれるとかなると不安になる
地域に尽くすものとして地銀の仕事ではなくなっているのだ
でも利益を出さないといけないからわかりにくい外貨だけの保険とかをすすめる
でも投資信託では損しなかったから助かった
本当は株をもっていればもうかっていた
やはり資本主義を批判してもそのシステムでもうけるには資本が元金がものいうのである

どうも銀行を調べるともともと地元に住んでいた人ではない
銀行は転勤が多いのである、その転勤が多いことには事情がある
銀行特有の事情がある、一地域に長くいられない事情がある
つまり寒木が近くの公園に十数本あり根付いている
そういうふうに地域に根ざすものとも違っている
一応福島県だから大銀行とは違っていても転勤が多いか地域に根付かないのである
土建業などは地域に根付いている、でも土建業も遠くに仕事があると移動するのである
移動社会になっているからそうなる、土建業でもいつも地元に仕事があるとは限らないからである

今日は銀行で記帳してもらい、次に布団を丸洗いした、それで失敗した
丸洗いできない羽布団だった、たいがい布団は今は洗えると思った
それは通販で買ったもので軽いからいいものだった
汚くなって洗えないとなると失敗だったのでまた別なものを注文した
その後に食器を拭く付近を近くの100均で買った、蓋の無い醤油瓶を使っていたらそこに
蠅が入っていてその醤油を使ったのは失敗だった
何か台所仕事は必ず何かある、第一冷蔵庫に何が入っているのか忘れるのである
こうして毎日自分は家事に追われるしプログも書いているから追われるのである
ただ介護が終わったのでその点は楽である
ただこんなに家事に追われると思わなかった
家事には何か細かいことに気を使うのである、料理自体いろいろなものを使いすぎるのである

とにかく今年も終わる、やはり今年は自転車が危険だった、車も危険だが自転車も危険なのである  




鹿島駅に来た外国人を回想する


鹿島駅に来た外国人を回想する


●母親がフィリンピン人でここに住んでいてカナダのトロントに青年が来た

フィリンピン人は結構いる、前は風俗関係とかダンスとかで来ていた

ネパール人が駅の向かい側のホンダの車会社にいて日本に5年とかいる
奥さんをつれてくるという、4000メートルのヒマラヤに住んでいる

ネパール人とは原町のユッサであった、第一福装に勤めている女性がいる
その女性はいつも見かけるからである

●ベトナム人が結構見かける、原町に鹿島にもいる

 ベトナム人は一番多いことは確かである
 次に見かけるのは今はネパール人である
 中国人は少なくなった、ただやはり福相に勤めているからいる
 前の満州地域から來る人か多い
 この土地の人と結婚していた女性もいた

●タイの放浪画家が来た
  
原町の高倉の知人をたずねてきた、その高倉の人は外部から来て住んでいた人だった
その後はわからなくなった

●フランス人の教師が野馬追いに来た、平泉にも行くと言っていた

野馬追いには必ず外人がくる、でもなかなかちょっとの時間だから話ができなかった

●ドイツ人の技術者が来た

風力発電の関係で来ていた、東北電力の原町火力発電所にも来た


駅は外部の人が入る玄関にもなる、だから外国人も来ていた
これだけ見ていてもいかに地方の田舎でも国際化しているかわかる
やはりベトナム人ネパール人が目立つようになった
田舎でも一万くらいでもまた原町となると人口が5万とかなるから多い
原発関係で働いている人もいるのでこの辺には来る


来年は常磐線もいわきとつながるから乗客も増える
ただ実際は双葉とか大熊が避難解除されても人はもどらない
浪江でもそうだし小高でもそうである、老人だけ帰ってどうなるのとなっているからだ
だからそこに金をつぎこんでも人が帰らないから無駄だともされる

とにかく駅にどんな人が来るかを知れば人の流れもわかるし世の中の動きも多少はわかる普通はどういう人かなどわからないからだ
それで関所を通る時、この人はどういう人かとわかる、どこの出身だとかわかる
どんな職業かもわかる、今の時代はどこから来たのかどういう人なのかもわからない
車だったら通りすぎるだけだとなる

何か駅は関所とにているのである、それで防犯カメラに犯罪者が映っていたとかあった
つまりどういう人が出入りしたかチェックされているのである
たたこんなことを知り得たのは無人駅であり駅に待っている人はが数人単位であり一人だったりしたからである
ただ今は無人駅とは言えない、高校生の見守り役が朝と二時半からいるからだ
ただ半分は無人駅となっている

誰が来るや無人駅も年の暮

2019年12月26日

貨幣と証券とか債権とは先物相場とは何なのか? (キプロスの預金封鎖をふりかえる-警告のyoutube)


貨幣と証券とか債権とは先物相場とは何なのか?

(キプロスの預金封鎖をふりかえる-警告のyoutube)

貨幣がまずあった、キクチスーパーのカードは通用するのはキクチスーパーだけである
でもキクチスーパーは原町にもあるし相馬市にもあるし山元町の駅前にもあるから結構広くある、そこでは通用しているのである
ただキクチスーパー専用のカードなのである
それはキクチスーパーが発行する貨幣であり紙幣になる
ただこれは落としたり無くした場合無効になる
誰かが拾っても返してくれれば別である
でもその誰かがキクチスーパーで買い物してもわからないのである

これは他のカードでも同じなのでがゆうちょカードでもビザカードでも無くした時点で連絡すると誰も使えなくなるシステムになっているのだ

貨幣の謎は貨幣自体に価値がある、貨幣が金だったり銀だったり銅だったりする
それで貨幣にするために金が貴重になる、銀でも日本なら石見銀山とかが世界へ貨幣にするために供給された
金本位制が基本なのである、ただ中国では貨幣といように貝が貨幣となった経過がある
子安貝が貨幣になったので貝の漢字になった

金本位制から紙幣になるとその変化が大きい、なぜなら紙幣には何の価値もないからだ
紙にすぎない、そんなものをいくら保存しても何の価値があるのかとなる
それで江戸時代は蔵に千両箱を置いて厳重に鍵をして泥棒が入れないようにしていた
その貨幣は金だから貨幣そのものに価値があったからである   

1914年にはじまった第一次世界大戦により各国政府とも金本位制を中断し、管理通貨制度に移行する。これは、戦争によって増大した対外支払のために金貨の政府への集中が必要となり、金の輸出を禁止、通貨の金兌換を停止せざるをえなくなったからである。また戦局の進展により世界最大の為替決済市場であったロンドン(シティ)が戦火に晒され活動を停止したこと、各国間での為替手形の輸送が途絶したことなども影響した。

例えば日本は1913年12月末の時点で日銀正貨準備は1億3千万円、在外正貨2億4,600万円であり、在外正貨はすべてロンドンにあった。また外貨決済の809割をロンドンで行っていたが、1914年の8月に手形輸送が途絶した(当時はシベリア鉄道で輸送していた)。 

ここで興味深いのはイギリスが金本位制が始まり金融の中心になった 

在外正貨はすべてロンドンにあった。また外貨決済の809割をロンドンで行っていたが、1914年の8月に手形輸送が途絶した(当時はシベリア鉄道で輸送していた)。 

これは金の貨幣を運んだというのではない、手形輸送していたとなるとそんな紙切れまで輸送していたのかとなる
通信が発達しないからこうなっていた、、シベリア鉄道で輸送するとなるとその距離も大変だとなる、シベリア鉄道には乗ったことがあった
そんなして書類まで運んでいた時代があったのかとなる、その後はモールス信号とか電話とか無線とか通信の時代になっていることを見れば隔世の感がする

大阪の蔵屋敷に送られてきた米は、入札の資格を持つ米仲買商人に売却され、こ
れを正米取引と称した。
また、米仲買は米の代わりに米切手という証書を受け取り、
この証書を堂島の米市場で米問屋に売り渡し、これを帳合取引と呼んでいた。
前者現物取引、後者は先物取引である。

積むだけで、差金決済による先物取引が可能であり、現代の基本的な先物市場の仕
組みを備え、世界初の整備された先物取引市場であった。堂島米会所で決められた
米相場は、大阪の商品の値段相場の基本となった。
 明治になって堂島米会所は、幕府崩壊とともに廃止 

 先物取引とはどのような取引ですか?

 米切手なども手形とか証券とか紙幣の代わりのものだとなる
 米切手は米しか買えないものに限定された紙幣だともなる
 こういうのも貨幣とか紙幣の代わりに進化したものなのである
  
 こういうこは現代でも行われているから江戸時代から始まっていたのである 
米相場であり今なら石油とになっている、石油が先物取引になっているからだ
また北前船ではよる港で商品の値段が違っていたのでその差益でもうけていた

明治以降に日本では金本位制から紙幣になり資本主義社会となり株式市場化した
紙幣というのは証券とか債権の証文ににているのである
でも紙幣は誰の者か権利が特定されない、誰が持っていてもそれは使える、盗んでも使える、それでめれを所持している者を特定できない
だから紛失してもどらなっかたらその金は返ってこないのである

スーパキクチのカードは一種の紙幣である
スーパーキクチがある所だけで使える
一万円の紙幣でありそれで買い物ができる
でもなくした時点で無効になるから普通に使う金と同じなのである
でも違っているのはスーパーキクチでコンピュターに記録されている
ある特定の人がカードを購入しているからそのカードの持ち主を特定している
それで残金が8000円あったらそれは記録されているのである
普通に使う紙幣にはそういうことはない、落としたりなくしたら記録もされないのである

記録されることと記録されないことの相違は大きい!

記録されることは証拠となる、記録されなかったら証拠もないのだから誰のものと特定できないのである

通貨には金にはいろいろな形態がある、証券とか債権にも種類が多いように一つではないのである、だから貨幣自体紙幣自体でも複雑な要素がある
地域通貨とかあるとしてそれもある地域でしか通用しないものである
それがどういう意味をもつのか?地域がそれで活性化するのかわからない
仙台銭とかあったから地域通貨は江戸時代にあった
何か関所で今の時代のように為替の交換することもあった
地域経済が主流だと地域通貨もありうる、
江戸時代にも金融があり頼もし講などがあった、それは狭い範囲の金融組織であり銀行の代わりでもある、地銀を小さな藩よりも小さな地域の金融組織であり相互扶助的なものだったのである
でも明治以降は全国の行き来が自由になると共通の紙幣が利用される
それで小判とか金本位制は終了したのである

とにかく貨幣の機能には実際いろいろある
貨幣の歴史を調べるとそれが政治であり経済であれ世界史であることがわかる
だから貨幣に興味をもつのである

キプロスのことを書いたがそこは様々な国が交差するアラベスクのような国だった
古くはギリシャが支配して十字軍でイギリスが支配したりやがて大英帝国が支配したり
次にオスマントルコが支配したりと大国に分割されて支配された
そこにロシアが入ってきたのもロシアの金持ちが避暑地として選んだからである
またギリシャ正教がロシアに布教されることも影響していた
ギリシャ文字からロシアの文字も作られていたからである
イコンの信仰とロシア正教でもあり共通しているのである

そこでスペインに住んでいる女性がキプロスで起きた預金封鎖のことを報告していた
いかにここに国際情勢が金をめぐって反映されたかを知った
ロシアのブラックマネーが没収されたとかユーロ―に金を奪われたとかIMFがかかわり操作したとかなんとここがヨ−ロッパと中東とトルコやロシアの交差点になっていたから
そんなことが起きていたのである
シリア紛争の原因もロシアが深くかかわっていた、ロシアでもアメリカ中心とかヨ−ロッパに対して対抗心がありIMFとかで管理されることを拒絶していたからである
シリアの紛争にしてもこうしてヨ−ロッパとかトルコとかロシアとかアメリカの思惑がかかわりあれだけ複雑化していたのである
そういう国際情勢が反映されてあれだけの紛争になったのである

いづれにしろ貨幣とか紙幣とか証券とか債権には共通したものがある
貨幣はそれ自体に価値があるものとして発明されたが紙幣と証券とか債権はそういうものではない、その価値は常に経済の変化で価値変動する
つまりいくら紙幣でも千円がいつまでも千円の価値はない、物価があがれば価値がなくなる、またそれは株の有価証券でも同じなのである
常に毎日でもその価値は変動している、それは株と同じなのである

資本主義はいろいろな見方があっても基本的には資本を貯える→投資→利益を得る

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現在は金があっても資本があっても投資先がないのである
貯蓄とか交換とか消費があっても投資先がないのである
つまり資本主義が成り立たなくなっているのだ

このサイクルがあって成り立つ、でもそれが今成り立たないから危機なのである
銀行でもゆうちょ銀行でも地銀でも農林中金でも投資先がないから危ない投資をアメリカからもちこまれて損したらリーマンショック級の世界的混乱が来るとしている
それは専門家がみんなそう言っている、youtubeで見ているとそうなのかと納得する
第一日本経済をみて見ればカジノがどうだインパウンドをもっと増やせとかそんなことしか経済を上向きにするものがないのである
これを見るだけでいかに日本がすでに後進国になっている
つまりグロ−バル競争に敗れると実質的に他国の奴隷化するのである   

女性も安く売られたりする、カンボジアでは5ドルだとか驚く、十数年前はそんなに差があったのである
そこに訳のわからない年配の日本人がたむろしていたのである
そしてアンコールワットでは中国人が現地人に日本のホンダのバイクを貸して観光に使っていたのである
今はもう中国人がカンボジアを経済的に支配している 
そもそもカンボジアが一つの独立した国なのかどうかもわからないのである
こうして日本も今度は経済戦争に負ければおもてなしとかカジノとかで外国人の富裕層に奴隷のように使われるのである、それが過酷なグロ−バル経済なのである
それは殺し合う戦争ではないにしろやはり形を変えた戦争なのである  

良く理解できなかったがキプロスでは預金封鎖があり金持ちの外国人の金が没収されたとしている、ただそれも複雑だからその金がどこにもちさられたのか
EUにもちさられたとか奇奇怪怪になっている
その金が闇になりどこに流れたのか、もちされたのかもわかりにくくなっているのであるだから日本でも預金封鎖があるとIMFとかがかかわり金を奪われたりするから気をつけろとこのサイトでは警告しているのである

預金封鎖その2

欧州初の預金封鎖の凄まじい事実、
ドイツ、フランス、そしてロシアの裏にあのIMFの圧力があった!

証券、株、債券はどう違う?基本知識からネット証券までわかりやすく解説






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2019年12月25日

スーパーキクチのカード紛失(続) (貨幣と紙幣とカードがありカードは有価証券なのか?)


スーパーキクチのカード紛失(続)

(貨幣と紙幣とカードがありカードは有価証券なのか?)

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 有価証券の所持人
原則として権利者として推定される   

 現金の所持人
券面の所持人は権利行使の際に権利の立証を要しない


<紙幣・コイン管理のリスク・コスト>
 従業員等の労務管理
内部・外部の盗難・強盗発生のリスクがある

物理的な紙幣・コインの管理

釣銭の確保・維持が必要となる
盗難防止のための措置が必要となる

経理上の金銭管理

データ化,集計に手間がかかる


キャッシュレス社会はさけられないことを書いた、貨幣は貨幣自体に価値があった
金銀の貨幣だとそれ自体価値があり小判だと金なのだからそれ自体に価値がある
ただ紙幣になると紙になるのだからそれ自体には価値がないのである
それは証券とか債権とにているのである
銀行に貯金しているのは銀行が顧客から借金したというとき債権化した
借りた金だから本当は必ず利子をつけねばならないのが理屈である
金貸し時代はそうだったろう、金を貸して利子をとるのである
実際にもし銀行にあづけて利子をもらえなかったら銀行は何になるのか?
ただ金を安全に保管している貸金庫のようになる
それは誰でもできるし銀行というものではないだろう
巨大な絶対に入れない金庫を作ればいいのである
そこには暗証番号とか鍵とかで入れないようにしておく、貸金庫と同じである

今回のスーパーキクチのカードが紛失したのはそのカードが実は紙幣と同じだったのである

有価証券の所持人

原則として権利者として推定される   

現金の所持人

券面の所持人は権利行使の際に権利の立証を要しない 

もしカードがこのように有価証券の所持者となっていれば原則として権利者として推定される
でも現金の所持人だったらカード(券面の所持人は権利行使の立証を要しない)
これは権利者として認められないということなのか?
現金を落としてもその現金を落とした次点でもう誰の者かわからない
その金を使ってもその所持人は別な人に完全に移行したのである
権利が移行したのである
本当だったら盗んだものとなるのだがもう誰の者か特定できないから権利を消失したのである

だからかえってタンス預金とかが危険になるのは盗まれた時点で何らか消失した時点で
その権利は消失しているのである
その金が誰の者か立証できないからである
銀行だと誰があづけたかわかるしその金を所持者を特定できる、つまり権利者を特定できるのである
だから安全なのはタンス預金ではないし現金を持つことでないとなる
今回のスーパーキクチのカードは現金と同じだったのである
一万チャージして8000円残っていてもそのカードを落として返ってこなかった
すると取り戻すことが不可能になる
でももしそれが証券とか債権であればそうはならない

有価証券の所持人

原則として権利者として推定される

権利者が特定できるからカードをなくした時点で連絡すれば使えないようにできる
使ったとしても実はその拾ったカードを使うとわかる場合があるかもしれない
いづれにしろ落としたことを連絡した時点で使えなくなる

ただスーパーキクチのカードは一万とか5000円とか限定してチャージして使えるのであるだからそれ以上は使えないカードなのである
ところが他のカードだと無制限に使える場合があるから危険なのである
大きな買い物もできるとなると危険である
だからなくした時点ですぐに連絡する必要がある

何かここでわかったことは金を持っていてもタンス預金だと盗まれたり消失した時点で
何の権利もなくなることである
でも銀行に預けるということは第三者が保証していることなのである

江戸時代だとそういう仕組みとにたものがあったにしろ現代のようにあらゆるものが数字化して証券債権化する社会ではなかった
貨幣でも小判とか銀を使用してその貨幣自体に価値があった
紙幣はなかったからだ、紙幣は証券債券になるまえのものとして生まれていたのである
それ自体には何の価値もないが金として認定されたものだからである

いづれにしろ私自身が大学の経済学部を出たしても何にも勉強していないのである
ただそれは名前だけなのである
おそらく経済を勉強するなら百万くらい与えて株とかいろいろ投資を学ぶことである
ただもう老人には推奨できないのである、その仕組みでも複雑で理解できないからであるただ現代の資本主義社会とかグロ−バル経済を理解するには銀行のことを知らねばならない、それで銀行とかかわりそれを理解しようとしたのである

とにかくキャッシュレス社会はさけられない、するとそういう社会は理解する必要があるそれはコンピュター社会の発展したものとして必然的にそうなったのである
なぜならコンピュター化しなければありえないことだった
IT化社会というのもそうである、コンピュターは記録することが人間より格段に優れているからである
あらゆるものを記録するのである、買い物でもすべて記録される
するとそこからその人の買い物をみてその人の性向までどういう人なのかまである程度わかるのである
それでアマゾンではその人の欲しいものを提示するのである
だからコンピュター社会とはいろいろあるのだが何でも記録する社会だということであるそれで犯罪者の名前が前科となりコンピュターから消えないと訴えるものもわかる

コンピュターは記憶装置であり膨大なものを記録できる
個人の記録でもそうである、いくら書いても負担にならない、それが記録される
だから自分の書いたものでも忘れているのが人間である
本当に自分の書いたものでも文章でも詩でもこんなことを書いていたのか読み直しているのも不思議なのである
人間ほど忘れやすいものはいないのである
だから過去になると膨大なものが忘れられてしまった、記録に残らなかったのである
すると歴史でも過去でも探ることがむずかしくなるのである

例えば相馬藩とかで相馬藩政史に慶長津波の二行だけ生波(いくなみ)で700百人溺死したと記されていたのである
それがいかに貴重なものだったかわかる、それ以外の記録が皆無だったからである
記録はこのように大事なものであり記録がないと証拠にもならないから悪いことした人でも裁判になれば負ける
裁判で必要なものは証拠だからである、証拠がないと有罪にされないのである
だから何らかの証拠を探すことが必要になる、メモでも何でも必要になる
ただこのコンピュターの記録する能力は無限である
でもまた反面一瞬にしし電子記録が消失する危険がある
これもまた常に恐怖していないとならないのである
本でも冊子でもなんでも紙に書いていた方が残る場合がある
だから記録の保存という点では必ずしも万全ではないのである
そうなると後世に残すにはやはり石碑のようにして記すほかないともなるのである


冬の俳句十句(家に生きる-家の重み)


冬の俳句十句(家に生きる-家の重み)

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ひなたぼこ家猫平和争わず

隠れ咲く枯菊ひそか隣かな

大石に冬日のさして隣かな  

玄関の曇りガラスに冬紅葉

我が家や長くも棲みて冬紅葉

我が家に母もなきしも冬紅葉

我が家や冬紅葉も散りにけり

枯蔦や我が一人残り家守る

我が庭に数枚散りぬ枯葉かな

大石に山の枯蔦太しかな

我が家を守りて一人冬の暮

広き家南天飾り幸のあれ  

なまこ壁蔵ある家や冬の暮


我が家に刻みし時の長きかな今年も暮れむ家をめぐりぬ


家というのも何か人間と一体化する、アイディンティティ化する
ただ家を深く意識するようになったのは家族がみんな死んでからである
死んでから親のことなど深く思うようになり家もまた思うようになる
家というのはただの人が寝起きしたり食べるだけのものではない
そこに人間一人の一生が刻まれて一代だけではない、何代も続く場合があり
そこで重みをもつ、だから蔵のある家は重みがある
私の家だってすでに築50年過ぎた、古くなっている
何か私の家は大きい、だから二階の八畳間に寝ていると気分がいい
家の広さは人間の心に相当に影響する、狭い家にいると圧迫されるのである
これまでは狭い部屋に寝起きしていたから圧迫されていたのである

まず田舎だと家とか土地とか恒産がないと住みにくい、市営住宅のような狭い所に住んでいると心まで圧迫されて狭くなる、いつもとなりの人のことが嫌だと言う人がいるからだ何か変な人がいてもがまんするほかない、でも離れていればそれは関係ないのである
そして家というのは長く住むとまた重みがもつようになる
農家がなぜ重みをもつのかとなると土地と一体化して何代も住んでいるからそうなる
農家は三代住まないと仲間になれないというのもそうである

でも私の家は外から来たから二代目とか三代目なのである
街に住んでいる人は比較的新しいのである
隣の家をのぞいたら枯菊が咲いていた、それを今日見つけたのである
なにかひっそりとしている、最近は隣の女性と話もしない
その女性もおとなしいのである
そしてまた左の隣のおくさんも顔すら見たことがない、同級生がおとなしい女性だったというからそうである
その庭には大石がある、ところがその家は貸家である、でも庭が広いのである
そういう家を田舎でぱ安く借りられるのである
もうすでに30年くらい住んでいるとそれは貸家ではない感じになる

何か老人になると家が大事になる、なぜならあまり遠くに行くのも億劫になるからであるすると家にいる時間が長くなる、それで家が広かったり住み心地良くないと嫌になる
また家は周りの環境も影響する、何か田舎でも車社会だから車の騒音に悩まされる
だから立地が悪いと騒音が都会のようにある
ここでも前は道路が近くで車の音がうるさかった
でもそこに家が建ったので音がさえぎられたのと下にいるようになったから車の音は聞こえないのである、だからこの家に満足している
ただ広い家だと掃除するだけで手間なのである
家事に時間をとられるのである

なんか猫が家の前でひなたぼっこている
それが平和だった、ところが野良猫がいつもいる、隣で餌をやっている
その野良猫が自分の家の中に入ってくる、それも問題なのである
地域猫として飼うとういのでもない、ただなんらか餌やる人がいてこの地域にいるのかとなる
地域猫でもネズミ駆除にはいいのかもしれない、というのは田んぼの近くの市営住宅の人は小さなカヤネズミが入ってきて米を汚されたとか言っているからだ
ここでは住宅整備地域にして改造したから堀もなくなった
一時震災後にどぶねずみなどが入ってきたが今はネズミは見ない

飼い猫は餌が与えられるので平和である、でも野良猫は平和ではない
餌が与えられないからである、平和という時これは人間でも同じである
やはり餌が与えられないと治安が悪くなる
貧乏化すると安定しないから治安が悪くなる
日本は今貧困化して犯罪が増えてくる
それは自分自身が被害者だったからである
銀行まで窮地に追い込まれて貯金してもそれが奪われるとまでなっているからである

とにかく田舎は家があり土地がありある程度の金の余裕がないと住みにくい
恒産があれば田舎の方が住みやすいのである、そしてそこで文化的なものをつちかわれるのである
だから公務員とか農協とか銀行は生活的に安定していたのである
それは田舎でぱエリートだったのである
今は貧困化するとそういう安定した職業がなくなる、そこで田舎でも犯罪が増えたり住みにくくなるのである

いづれにしろなぜ老人ホームに入った老人が家に帰りたいというとき家が一生を過ごした場所でありそこに深い思いがあり家は単なる箱ではないからである
だから原発避難者でも故郷に帰りたいというのは老人なのである
それを奪ったのだからそれが罪深いものだったとなる
人生の最後は家で死にたいとか故郷で死にたいとか田舎で死にたいとなるのはそれだけ
そこに深い思いがあるからそうなるのである
家というのはだから嫁にもなる、女と家は一体なのである

そして意外と大工さんというのが家にかかわるから大事だとなる、でも建売とかなるとあまりかかわらない
庭作りでも家でも大工さんの手作りだと家とかかわるだけではない
その家の人とも家族でも深くかかわることがある、ただ今はそういうことは少なくなった
また茅葺の家のときは地区の人がみんなかかわったのである
だから家はその村とかと一体化していのである
それが建売だと地域とは関係ない、ただ金で家を買うという感じなり重みがなくなった
ただこの辺で一つの新しい街ができるほど家が建ったがみんな建売であり一週間くらいで組み立てて建てたものである
昔の家は普請は大仕事であり地域の人がみんなかかわってできた
だから何か昔の家には重みがあるが今の家には重みを感じられないのである
また家の重みは長く住むことによって重みが生れて来る
それはその家族がその家と一体してただ物質ではないものになるからである






人を見たら泥棒と思え (国も政府も官僚も銀行も弁護士も・・・みんな泥棒?)


人を見たら泥棒と思え

(国も政府も官僚も銀行も弁護士も・・・みんな泥棒?)


銀行・証券・政府が「低リスク商品だと勧めたから」という理由で投資するなどというのはばかげている。投資先(金融商品)のリスクが高いか低いかを判断することこそ投資家の最大の仕事なのに、それを他人任せにするべきではない。

「銀行・証券等の金融機関は決して責任をとらない」と法律で明記(損失補てんの禁止)されているのだ。

「新NISA」への違和感…結局、儲かるのは「銀行」だけという真実

本当は帰れるのにダラダラと会社に残る「残業泥棒」、決められたことしかできない「マニュアル人間」…。日本企業を見渡せばそこら中にいる「非生産的」なビジネスパーソン。彼らは今後世界から必要とされなくなります

会社内でも会社で働いて有用な人でない人がいる、その人たち有用な有能な人から盗んでいるともなる
なぜなら無駄な残業しているだけだとしている、盗むということは多様なのである


人見たら泥棒と思へという格言も全く今も同じである
ただ泥棒というときそれは個々人のことではない、政府までが泥棒であり国民の金を盗むのである、国家自体が盗賊国家だったということを書いたがこの世の中官僚でも泥棒なのである
外国でも他国の金を盗む、アメリカは強い巨大な国だから日本から金をまきあげているというのも泥棒だということである
国自体が政府が自国国民の金を盗んでいるし外国では他国の富を金を盗む
これが政府と証券会社と銀行がグルになって盗む、盗賊化していたのである
ニーサとか非課税商品だとして政府がすすめた理由は投資の方に国民の金をまわしたいからである
そして利子がつかないのだからただ金を集めても増えない、地銀でも地方は衰退して金を貸してももうけくれる会社がない
すると証券会社のすすめる投資信託を売る
それは確実に手数料が入るものでありリスクをとらないから銀行にとってはいいものなのである

そもそも人間が盗むというとき安藤昌益が侍を批判したのは働かないで農民から税を搾り取って暮らしていくということで批判した
だから盗むとなっていたのである、他人の労働を得たものを何もしないで盗んでいるのが侍だとしていたのである
盗むということは小銭でも何でも金を盗むとかでもない
他人の労働を盗む、他人が工夫して苦労の上に作り上げたものを何の労苦もまた智慧も発明もないのに盗むということがある、著作権などがそうである
この盗む行為は日常的に社会でしている

弁護士でもそうである、相談料として事前に百万とるというのも盗みだった
その金は交通事故で死んだ人の金でありその遺族に入るものだけど盗まれたとなる
遺産で何か正当な理由があれば受け取れる
でもその金で盗むということがある、多分に自分自身にも盗むということを知らずにしていることがある、つまり誰でもなんらか盗むとういことをしているのである  
それが自覚できないことがある、百円から盗むとなぜかひどく自覚しているが大きな金になると自覚できないのである、ここに人間の盲点がある、何かリンゴ一つでも盗むと良心の呵責を覚える
ところが政府でも銀行でも会社でも横領する金が一億となったりする、でもその時リンゴ一つ盗むような良心の呵責も覚えないのである、それは単なる数字のように思えるからかもしれない、金はもう現代では数字だからである
良く一桁のゼロを間違えることがある、1000000を100000と見間違いることもある、その額は大きいのだけど数字では間違いやすいのである、その額を間違えたら大きなことなのだけど自覚できないことがあるのだ
それはすでに物ではないからである

人間は罪を指摘されて自覚されないとわからないことがあるのだ
だからたいがい人間はみんな善人だと思っているのだ
だからこれは悪いことだと自覚することはその人はまだいい方だとなるのである
それで人を見たら泥棒だと思へとなっていたのである
そこに格言に変わらぬ人間の真理があり人間社会が技術が進歩しても常に盗むことが起きる、ただそれが複雑な社会で見えなくなっているだけなのである
第一政府が盗むとなるともう盗むということはどこでもありうる
第一政府がそうなのだからそれに習へとなるからだ
共産党幹部でも中国国民からその労働の成果でも盗んで巨万の富を得ているとなる
共産主義革命は何なのだろうとなる

盗むというとき不思議なのはそもそも火を神からゼウスから盗んだプロメテウスのようにエネルギーはもともと神のものでありその神から人間が盗んだのである
だから科学技術でもそこに呪いが隠されていたのである
そして過酷な罰を受けたのである、それが原発事故として現代に事実として現れたのである
それで風力発電でも水力発電でも太陽光発電でも自然のエネルギーを盗んでいるものだからいいものではないというときなるほどなと思った
そういうふうに盗む行為は何か災いが隠されていたのである
だからこそ過酷な罰をプロメテウスは受けたのである
そして逆説としてシンホシスがただ転がり落ちる石をもちあげる、終わりなく持ち上げる労働を課せられた罰はこれも何か意味あることしない、働かない罰だったともなる
それはもしかしたら他人の労働を盗んだ罰だったかもしれないのである

だから社会を見る時不思議なのはみんな泥棒である

では誰が泥棒ではないのか?これを見れば何か人間を社会をみる糸口が開けるのではないか?
するとまず政府の官僚とか政治家とか士業と言われるもの、弁護士でも銀行員や証券会社はみんな胡散臭い奴らだなともなってしまうのである
それらはうまく操作して市場が公平のように装いグロ−バル経済で金を右から左に流して巨万の富を得ている、それは世界から盗んでいるのである
そのことを知ったゴールドマンサックスの会社員は自らそうした仕組みを頭いいからITとかで作ったから良心にさいなまされてやめたとしている、日本の富を奪うために仕組んだからである
ただその人はましだった、悪いと感じていたからである、もう現代では感じないからである
盗み稼業でも現代ではその人自身が気づかない
盗んでいるとなど思わないしむしろ正規の仕事をしているだけだとなる
なぜなら決してそれをとがめられることもないからである
だからそんなのいかさまのギャンブルだとして民衆がデモを起こしたら怖いことになるでもそういう人達はかエリートとしてのうのうとして公然と人も国も会社もだまして外国の富も奪っているとなる、なんかそうすると悪魔的になっている

いづれにしろ今や銀行そのものが地銀でも社会に害を及ぼすだけであり必要なのか問われている、社会の不思議は人間の不思議は社会の害になっても生きねばならい
日々の糧を得なければならない、だからきれいごとを言っていては生きられないとなる
それでマフィアは麻薬をやめられない、その栽培をアフガニスタンではやめられないとしていたのであく
何かそれがアフガニスタンだけではない、現実世界でも日本でもそういうことが日常的に行われていたのである
原発マフィア村というのもそうだったのである、原発は何兆円とかの金に鳴る木だからそこに利権がありみんな食い物にした、それは政府でも政治家でも官僚でもそうであり検察も官僚であり東電に天下りしていたからグルだったとなる
マスコミもみんな原発村の一員であり巨額の宣伝費が東電や電気連合からもらっていたのである

ではみんなそうして金で汚れてしまったのか?汚れていない人はいない

その対比から見ると貧しく社会の底辺で呻吟している人はそうした金が入らないのだから汚れてないないのかとなる
まず土建業とかになるとそこで下働きなどしている人は金は入らない
でも原発の除染の仕事では会社の幹部には何億の金が入っていた、それで奪われた盗まれたとして逮捕されたりする
でも下の方で現場で働く人にはそうした恩恵がないのである
でもその人たちは心は汚されないとなる、それも何か理解できないのである

もちろん上に立つ人がすべて盗むというのではない、重責をになって仕事している人はいる、ただ社会のためにとか政府でも官僚でもまた銀行員とかでも何か社会の害悪にもなるそれで地銀の頭取が地域のため副業するのがいいとか奨励している
野球の監督とか塾の英語の講師とかして地域に尽くせとしている
それは本業で地域に尽くすことがてきなくなった
ただ貯金を投資信託にまわして金を奪うようなことをしているからそうなる
それもだから銀行員は今何のために地域にあるのかと問われる
ただ地域住民をの金を奪うだけのものなのかとまでなる
それで老人と貸した団塊の世代がねらわれているというのもわかる
月々分配型などは貯金に利子がつくような感覚になっていたからである

でも元本も保証できない危険な商品だったのである
銀行は損しても一切責任はとらないうまみのある商品だったのである
それが政府ぐるみで奨励しているというのはグルで盗賊化していたのかとなる
ただ人間はこのように知らず盗む行為をしている
遺産とかになるとただ親の労働をその子が盗むとなる
それは自分の場合に言えたのである
最後に介護したので遺産を受け取る権利は生まれたとはなる
むしろ親族でも子供で介護が別な他人がすればその人に権利がでるのは当然なのである
それは盗むと同じになっていたのである
自分の場合は一応介護したから権利があったとなる

いづれにしろ人間社会とは何なのだろうとなる
弁護士まで猛勉強してもそれが社会のために尽くすかとなるとただだますために盗むために法律を学んだとまでなる
政府の官僚になっても国民から税金を盗むためだったとまでなる
それは何なのだろうとなる、そのために勉強してきたのか?
実際団塊の世代の受験勉強はそういうものだった
他者を蹴落としても点数をとりそれでいい暮らしをしたい、官僚になれば高い地位につけば実入りが良くなるというたげの教育である
それも私の経験から納得することはある
なぜなら底辺になると悲惨だからである、流れ作業をロボットのようにしていなければならなかったり建築現場でも危険と隣り合わせだからである
そこは汚い場所でもあり誰もそんなところで仕事したくないとなる
そのために勉強しなければならないという動機にもなる
ただそれが盗むという地位に就くということではない
設計とか事務になれば楽だとなるから勉強しないというのはわかるのである

銀行は高度成長時代とかは楽だった、ただ金を集めれば良かった
そして金を貸す会社でもいくらでもあった
だからほとんど審査する必要もなかったという、そしてそこから利子がとれて顧客にも利子が回っていたのである
つまりそれは高度成長時代でありどこでも金回りが良かったからそうなっていたのである金さえ集まれば借りてくれる人や会社はいくらでもいる、それも高度成長時代だから投資も盛んになっている成功している人も会社も多いから不良債権にならなかったのである
審査する能力すら必要なかったのである

銀行がいかに楽な商売だったかわかる
これからの時代は銀行は半分なくなるとか銀行自体必要がなくなってきたのである
ただ訳のわからない投資信託とかうりつけて手数料だけはとるとなったりもう顧客から
いかにだまして金を奪うかとかなればそうである
そのターゲットに団塊の世代がなっているというのもわかる
高度成長時期に貯えた金融資産があるからそれが奪われるとまでなったのである
月々分配型などが何かうまい仕組みである、それが利子がもらえると勘違いするものだったのである、実際は利子がとられる商品だったのである

posted by 老鶯 at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年12月24日

スーパーキクチのカードは再発行できない (残金は没収されて返ってこない)


スーパーキクチのカードは再発行できない

(カードが返ってこないと残金は没収される)

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スイカはなくしても再発行できる、なくしたら使えないようにできる
連絡するとできる これは買い物でもできる所がある
チャージして使うからビザのようなカードとも違い気楽だともなる
毎日カードを買い物で使うとなるとこうしたものが使いやすいのである




スーパーキクチのカードはチャージして使う
一万ジャージして2000円くらい使ったが落とした
そのカードはもどってこない
それはもどらないにしても記録されている
スーパ―側には8000円残っていることが記録されているはずなのである
明らかに8000円分はスーパーキクチの会社側に入金されているのである

だからなぜカードをなくしてそれが返ってこなかったらスーパーに金が入ったままであり返金はされない
ただ誰か拾った人が使うことができる
これは人を特定できないカードだからそうなっている?
その拾った人が買い物してもわからない
それはちょうど紙幣を落として拾った人がその金で買い物したり使ったりしてもわからないということである

ここに何か大きな問題があった!

キャッシュレス社会にするための問題があった
suica(スイカ)といきうJRが発行する切符なしのカードがある
それはカードをかざせば切符代わりになる
それは自動的にコンピュターに記録される
そして話題になったのが改札を通るだけでカードをかざすだけでも乗れるとニュースであった
そしてこのスイカはスーパーでも連携していれば使えるのである

これは再発行できる、無くした時点で連絡すれば使えなくなり後で再発行できる
だから今回のような私の損失にはならないのである
他のカードもそうなっている
ただクレジットカードでもいろいろあり気軽に使えるのとそうでないものがある
毎日買い物にするのにビザとか使うのはしにくいのである
だからスイカのようなものがあればしやすいとなる

こういうことはスーパー側で備えるべきだとなるがそうなると資金とかがかかりめんどうになるのかもしれない
キクチスーパーのカードは一回店員に見せてそれから入金を確認させる
ここで一回手間になっている、他のカードだと一回だけなのである
だから他のカードの方が手間にならないし安全だともなる
ただビザカードとかなると使いにくいと思った
毎日買物する旅にそれを出すのが何か怖いとなる、紛失しやすいからである

でも再発行はされるべき

こうすれば紛失しても入金した分はもどるし減らないのである
こういうことはキャッシュレス社会では備えるべきだとなる
これから顔認証とかなり顔でその人を特定して入金する
そんな社会にもなるし中国ではある程度なっている

とにかくコンピュターというのは何でも記録する、それが得意なのである
今や金は数字であり数字として確実に記録される
だからスーパーキクチのカードの残金は記録されているしそれが証拠になる
人間はミスがあってもコンピュターにはミスがそういうことではないのである
ここはスーパーでも改善すべきである
ただこういうことるなると費用がかかる
自動機械で金の出し入れをするうよになったときも設備費用でかかった
でもそれで人件費とか節約できたから損したとはならないだろう

技術関係は老人に不利 (インターネットでもこれまで覚えた技術しか利用できなくなる)


  技術関係は老人に不利
  
  (インターネットでもこれまで覚えた技術しか利用できなくなる)
  
何かプログとかホームページをSSL化しろ、暗号化しろとか言われるしみんなしている
でもこれもまた良くからないし何かこれまでしていたことが御破算になるかと不安になるこういうふうに技術が変化すると対応しにくくなる
特に老人はそうなる 
何かインタ−ネットが利用されるようになったときこのITというのは何か変わり安いのである、パソコンにもそういうことがあった

私は最初は富士通のワープロを使っていた、それを始めた利用が余りにも悪筆だったからである
でも人間の不思議は中国だとなぜあれほどスマホが普及してキャッシュレスになったかというと紙幣自体が中国でぱ信用度が低すぎたからそうなったのである
偽札かが多すぎた、それで買い物してもその紙幣をいちいち調べていたのである
それから後進国でスマホが普及したのは電話を引くのがめんどうだったからなのである
携帯がまず普及したのである、今や固定電話を持っている人は本当に少なくなったのである

何か不利になり有利になるかわからないのが人間である
弱点が有利になる場合もある、不思議なのは人間の仕事がなくなりしきりにみんなクリエイターになるほかないとかもう大企業はなくなるとか会社員の時代は終わったとか言うことである
みんな猛烈社員だった企業戦士だったのになぜそんなことになったのか?
自分のようにただ旅ばかりして無職であり家にこもってパソコンをしていた引きこもりはかえってそういう方面では遊びではたけている
でもそんなことしても金にはならなかったのである
ベーシックインカムが真面目に語られるとういことも不思議である

おそらく時代によって要求されるものが変わってくるためなのである
もし肉体労働でもロボットに代われば仕事に要求されるのはロボットを操作することである、家事などでも家電がないときは洗濯でも洗濯板でごしごし洗っていたのである
それで私の家で認知症になった姉は洗濯機が利用できなくなる洗濯板で洗っていたのである
認知症になるとボタン一つ押すことができない、極端に機械に弱くなるのである
数字もわからなくなるのである
家事でも機械化自動化するとどうなるのか?
女性は何をすればいいのか、それでも女性の役割がある、それは癒しだったり話し相手だったりある
すると家事と言うだけでない何か違った能力が必要になる
家事にたけている人が望まれるわけではないのである
実際私は一人でも全部家事でも一人でしているからである
それは家事が機械化しているからできるのである
洗濯ものは洗濯機にほうりこめばいいからである

私がワープロから進化したやはり富士通の通信できる機械を買ったことがインタ−ネットになじむものとなった、その時パソコン通信の時代だったのである
そういう最初から自分はかかわっていたのである
それができたのは富士通のオワシスで親指シフトのワープロを利用していたからできた
この恩恵が大きかった、まず文章をスムーズに変換できないとなじめなかったとなる
パソコンは技術の習得のハードルが高かったのである
それも引きこもりで時間があり習得できたのである
結局何かするにも時間がかかるのである

ただインタ−ネット空間は変わり安い、それでついていけなくなる
まずスマホがないと現代では日常化しているから生活するのも不便になる
もうキャッシュレスはさけられない社会になっているからだ
それで納得できないのはキクチスーパーのカードをなくした
そこに8000円くらい残金が残っていた
でもカードを拾った人もいないし返ってこない、でも明らかにカードの残金は記録されているつしそのカードを誰か使ったら記録されるしわかるはずなのである
つまりとにかく現代は電子化社会になるとあらゆることが自動的に記録される社会なのである
だからこれは変だなと思った、普通のカードは紛失した時点で誰も使えなくされる
だから別に損することはないのである
そして新たにカードが発行される
ただ買い物のカードはしょっちゅう出したり入れたりするから無くしやすいのが難点なのである、スマホでもなくすとめんどうになる
それで何か鉄道の駅でも通るだけで乗れるとかできるようになったとなれば便利である
いちいちスマホを出したりカードを出すことが手間でありそれで紛失しやすいのである
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いづれにしろ老人の不利なのはこうして技術が進化したとき取り残されるたとである
そして車の免許を返納しろとかなる、それはかなりショックになる
なぜなら車と一体化して生活してきたからである
私の場合は自転車に乗れなくなったときそうなる
商売でも自転車でも種類が多くなったのと電動化したことなどで技術的に追いつけない
だから若い人が経営する店に行けとなる
最新の技術のことがわからなくなるのだ
それは医者でも同じである、確かに経験があっても医療技術も格段に進歩している
それが老人にはわからない、でも近くの医者は90まで現役だった
医者でも高齢化している、でも最新の医療については知識でも技術でも遅れているのである

困ったのはホームページを最初に作ったがここ十年以上更新していない
それををとするのかも問題になる
SSL化とワードプレスもしてみたいとなるがこれもまた手間なのである
これももし10年前からしていればこんなことにはならなかった
ただ SSL化は最近の技術なのである
介護とかで追われて十年の間はこうしたことまで手が回らなかった
つまり何か新しい技術を取り入れることがむずかしくなるのが老人なのである
それで社会から取り残される、これが相当に不利なのである
有利な点はどんな人でも経験しているからその経験が活きるのである
知識でも経験がないと身につかないのである
それは馬鹿げた経験でも経験なのである

なぜなら老人になるともう経験がてきないからである
結婚も経験であり結婚しない人は女性とうまくコミ二ケーションできないし人格的にも大人として形成されないのである
会社に働くのもやはり経験であり貴重である、奇妙だけど引きこもりも経験なのである
引きこもりがすべてマイナスともならないのが人間の不思議である    
結局人間は人生をふりかえれば何が不幸か幸福かもわからないのである
マイナスだと思ったのがプラスになりプラスと思っていたものがマイナスになったりするから不思議だとなる  

2019年12月23日

私の十大ニュース(2019)


私の十大ニュース(2019)

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YPJ-XC(ヤマハ)
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星自転車屋では客の対応がいい、商売できる
普通他の店で買うと修理はしない
でもここでは引き受ける
原町の自転車屋ではあからさまにお前は来るなと言われたからだ
そういう人は自転車屋の商売には向いていない
一回は買ったのだからそこまで言うのには驚いた
ただやはり自転車は後で世話になるからどうしてもそうなりやすい
ただここではロードを買うのは向いていないかもしれない
相馬市とかで若い人が買っていたからである
ただ鹿島で一軒しかないのだから貴重なのである
ただここだって病気しているからいつなくなるかわからないのである
そうすると相当に困ったことになる




●ヤマハの電動自転車のJPJ-XCを一年間乗り行動範囲が広がった

●自転車で夜にライトがなく側溝に転んで傷

●カードなくして損したと思って赤になったのに自転車で横断して危険

●台風で家の中まで水が入った(近くで台風の被害)

●丸森の台風被害が大きかった 

●大熊双葉だけではない浪江とか小高とか飯館村はもう復興できない?

●仙台に一回しか行かなかった

●ゆうちょや地銀や銀行への不安がつのる

●家の中を電動のこぎりを買って改造した

●駅で高校生の見守り役で案内もあまりしなくなった


結局今年は自分にとって何か大きなことはなかった、あったとすれば新しく買ってヤマハのJPJ-XCにまつわることだった
これだけ本当に乗りやすく楽に遠くへ行けるので助かった
そもそも走り自体が軽快になっているから楽なのである
車がないからどうしても遠くに行くには自転車になる
今までの自転車だと体力がなくなっているから苦しい
でもこの電動自転車は楽に走れるから老人向きだったのである
だからマウンテンバイクなのに老人向きだったことが意外だったのである
だからこれは老人にすすめられる自転車なのである
ただこの自転車の最大の問題は荷物がのせられないのである
すると買い物で困るのである、スタンドもないことも困る
この二つでは困ったのである

ともかくみんな車が常に大事なのように車無くして生活できないように自分にとって自転車なくしては暮らせないから自転車がこのように大事になる
何十年前とかに新しい自転車に乗ってブレーキがきかず頭を打ち付けた
その時前歯が二三本折れた、この事故でぱ頭を打ったから死ぬこともあった
だから車もそうだが意外と自転車は危険なのである
側溝で転んだのも頭をうつと危険になっていた
車でもそうだが自転車でも死ぬのである                              

そして年末に自転車では危険な目にあった、赤信号なのに国道を渡ろうとしてトラックが来て止まったのである、年末はいろいろあると危険にもなる
これだけ車社会なのだから自転車もその中に巻き込まれるのである
ただ一回だけ大けがしたがその後は起きていない
実は自転車では二回死ぬ目にあっている
坂を下る時ブレーキがきかなくなった
その時一瞬足をついて自転車と一緒に転んだからよかった
そのまま坂を下ると急な坂を下り塀にぶつかり死んでいたかもしれない
それから25万のヤマはの電動ロードは何の役にも立たなかった
ほとんど利用せずに終わった
そしてこれも一回ブレーキがきかず転んだ
その時そこも坂でありそのまま下ると死の危険があったとなる
だから自転車だと安全なようで危険なことが結構あった
でも自分の一生は自転車とともにあったともなる

あとはたいしたことはなかったが台風は自分の家でも被害があった
家の中に水がかなり入ってきて水浸しになった
下に置いたものが水にぬれた、膝くらいまで水につかった
私の家は街で一番低い場所にあり水が入ってくる
二回も洪水の被害があった家なのである
水に苦しむ家であり土地なのである
ただ今回はこの辺でも洪水の被害があった
相馬市でも原町区の高倉でもダムの放流で被害があった
相馬市は千軒くらい床上浸水とかあったから意外と広範囲に被害があった 

仙台に一回行かなかったということもこれまではなかった
必ず一か月に一回くらいは行っていたのである
だからこんなに仙台に行かないことはなかった
それは何で本でも古本でも通販で買えるということがあった
そこであえて仙台に本を買いに行く必要がなくなったのである
また今年は仙台にも行かない、近間しか行かなかった
これもめずらしいとなる
家に閉じこもってプログを書いたり創作の仕事をしたりするのが主になった
いろいろまとめることがあるが整理できないのである
冊子とか本にしようとしているのだがこれもなかなかうまくいかない
めんどうになるのだ、でもそれが今や仕事である
実際はインタ−ネットだと出版から放送から配布まで全部一人でできるししている
それを紙で印刷したり書店に置いてもらったりしていたら一人ではとてもできない
そもそも出版とか書店に置くことはできない
だから本当は一人でこれだけしていることは今までならありえなかったのである

ともかく家事もあるし全部一人でやっているから忙しいのである
まず忙殺されるのである、家事でもまず料理にこったら何もできなくなる
料理はそれだけ手間だし専門的な技術が必要なのである
家は自分で改造した、自分なりに今は改造できる、ただ簡単な棚を作るくらいである
助かったのはユニットバスを百万で仙台の優創建という会社で作ってもらったことだったこれだけは得だった、風呂はやはり癒しになるし体にもいいのである
ただ私はあまり風呂に入らないのである、一週間に二回くらいになる

あとは金のことで銀行のことが心配になったのである
youtubeを見てもいいことを予測している人はいない
地銀でも半分はつぶれるとか預金封鎖があるとか株は暴落するとかいいことを言っている人はいないのである
だからJ-REITを売った、損はしなかったので良かった
でもその後どうしていいかわからない、備えることもできないのである
まあ、億とかの金はないからそれを心配してもどうしようもないとなる
今金持っている人は戦々恐々としいるだろう
まず預金封鎖になったらもう国に金は没収されるからこれは怖いことである
ただ金のない人は心配しなくていいとなるが日々金に追われているのである

傷浅く危険まねがれ年終わる

まだ年終るというけどまだ一週間とかある、この間にも何かあるかもしれない
つまり人間は一寸先は闇だとなっているのだ
それは津波や原発事故や家族の認知症やら介護やら自分の病気になってからそうなったのである、こんなに災いがつづくものかと苦しんできたからである

駅でぱ高校生の見守り役が常駐するようになって案内はあまりしなかった、仕事もなくなったとなる
来年は常磐線がいわきまで開通するからそれはかなりの復興になる
あとは避難区域なにった所はもう復興しないと見る
若い人は帰ってこないし飯館村でも小高でも浪江はさらに悪い状態でありそうした老人だけいる所に金をつぎこんでも無駄だという意見に同調するようになった
最初は復興してもらいたかったけどそれも今になると無理だとなる
私の場合は飯館村があんなふうになったのがショックだった
そこは何か森に包まれた癒しの場だったからである、双葉とか大熊にあまり何かそうしたものを感じなかった
飯館村はあんなになったのはショックである
そこで失われ精神的なものは余りにも大きかったのである
そこに住んでいなくても一つの貴重なアイディンティティの場が失われたのである

posted by 老鶯 at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

精神性を文化を追及すらなら田舎か地方都市 (都会は経済科学技術しかないー精神性は追求できない)


精神性を文化を追及すらなら田舎か地方都市

(都会は経済科学技術しかないー精神性は追求できない


田舎と都会の相違はただ経済とかからしか見ない、都会には多様な仕事がありそれぞれの才能が確かに発揮されることがある
田舎でぱ職業というと農業や漁業や林業とかあってもそれが衰退した
結果としてこの辺では原発を誘致した
原発の経済的効果は抜群だったのである、だから本当に原発で働いていた人が多い
飯館村でも働いていたのである
おそらく日給とかにしても三倍にもなっていたということも聞いた
それだけ原発は金のなる木だからみんな賛成したのである

その経済普及効果は地域にとってあまりにも大きすぎたのである
それで高浜町ではその斡旋するボスが助役が殿様みたいな豪邸を建て利権を得ていたのである
それは知らなかったが漁業権を売り渡した漁業組合とかで船主は原発事故前から原発御殿を建てていて周りからうらやましがられていたのである
港があってもみんな漁業をしているわけではない、船主でもないからだ

とにかく現代とは何か?電気社会なのである、電気なくして日々の生活すらできない
だから貧困者は必ず電気をとめられている、それも毎月なのである
料金をとどこおると即座に電気がとめられて生活できなくなるのである
そして原発事故のとき原発で電気工事関係者1000人も働いていたというから驚きである
それだけの雇用があるのが電気事業なのである  

私は田舎で追求してきたのはそうした仕事ではない、私は30年間ひきこもっていたのだからそうした仕事と関係せずに生きていたというのも不思議である
そういう家庭環境にあり別にとがめられることも一切なかったのである
それだけ家に生活の余裕があったからそうしていたのである
別に親から働かなくてもとがめられたこともないのである
だからこれは特殊な家庭環境でそうなったのである
親にニートが殺されたけどそんなこと絶対にありえなかったのが自分の家だったのであるだから最後は恩返しに懸命に認知症になっても親の介護をしたのである
それで多少は恩返ししたとしてつくづく良かったなと思った
それがなければ相当に後悔したことになっていたのである

田舎とは何か?それはcultivate(耕す)からcultureになったことでその言葉が明確に象徴している                                                          
言葉の生まれる背景にはその背景に生活の現実とか自然の現実があり生まれている
スレーブとはスラブでありスラブ民族から生まれている
それは奴隷の意味だったのである、それでドイツがアーリア人であり東欧からロシアはスラブ民族で劣っている民族だから優れた民族に従うべきものとしてロシアとの戦争で3000万人が死んだというのも驚きである
つまりスラブ民族が奴隷民族だという意味である
説はあるにしてもその言葉が語ることは歴史を語っているのである

田舎とは地方都市でも経済とか科学技術とかでも富を得ようとすることは変わりない
でも田舎の場合はもともと文化が耕すから生まれたのだからそのよって立つべきものが
その大地であり自然だった
実りをもたらすのは自然だったから自然にアイディンティティを求める
そこが田舎と都会の大きな相違である
ただ都会という時、地方都市は言うのではなくイメージするのは東京のような大都会なのでなしる、それはモンスター都市でありそこで追求されるものは何なのか?
もう精神性とかは関係ない、物質的なものしかない、そこにアイディンティティを求めることはできない、東京砂漠とかなってしまうのである

例えば人間は自然があるとする、確かに自然は食料を提供するし材料を木材でも何でも提供する、石でも土台になるし材料としての自然がある
でも一方で自然と一体化アイディンティティ化しようとする、精神性を追求する、
それは山でも崇高さとか厳粛さとか精神性を人間が自然に付与するのである
だから高い山がない所ではそうした精神性が育たないから偉人がでないというのも納得するのである、毎日富士山を眺めていたら何か心も必ず高められるからである
ここにはまず蔵王が見えるにしても高い山がないからそうした精神性が備わらないとなるのだ

精神性を追求する時、これまでグロ−バル経済を批判してきたがグロ−バル経済ではただ地球から物が入ってきてもそこから精神性は備わらないのである
葡萄でもそれが実っている場所にあってこそその実り何でも実感するのである
葡萄が実るに適した場所がありそれは川岸とか湖の側とか何か光でもいろいろ自然が関係しているのである、それは野菜でもその土地と土とから生まれる、そこで特産物が生まれるのである、食料の場合はその土地と一体化して生まれる
文化もまた同じなのである、その土地の風土と一体となり生まれるそれが文化なのであるだからただ物が入ってきてもそこで精神性文化は追求できないのである
だから私の偏見かもしれないがワインというのは日本に合っていない
そういう風土にもないし文化もないからである
何かいろいろな食料でもみんな外国産を輸入しているのは間違っているのかもしれない
それが食料が文化の基本にあることは確かなのである
日本料理は日本の風土とか文化から生まれたからである
ワインとパンはあっているが日本食は日本食であり合わないのである

いづれにしろグロ−バル経済はいすいろな点で限界に来ている
そこには道徳もないしただ物だけが入ってくる
そして世界的に豊かになるからいいではないかとなるが実際は世界的天文学な格差が生まれたのである、世界的共同ではない、富が奪われるシステムだったのである
国際資本家が金融を牛耳るシステムであり公平な市場での取引ではないのである
そして食料でもその国の風土にあったものがありそれも無視されるのである
世界が第二次世界大戦で破局的なものになった、何千万人も死んだというのはグロ−バル化した世界の結果だったのである
むしろ国々はその国の風土と歴史に根ざした国造りをするべきでありかえって貿易はもしかしたら必要最小限の方が良かったとまでなる
それが中国で政治で苦しんできた老子の小国寡民の思想になったのである

なぜなら貿易が盛んになると同時に摩擦が激しくなる
経済戦争になるからである、絶えず食料でも輸入していると何かもめごとがあると食料でも入らなくなる
それは国同士だと信用がない、何かあると戦争までに発展するのが国なのである
そして国が違うと食の安全など関心がなくなる、売ればいいとなるのである
アメリカでも日本の国などなくなってもいいとか中国でも小日本がなくなっても民族が滅びてもいいとなまでなる、それは第二次世界大戦でナチスがロシアに進攻したときそうだったのである
日本は島国で孤立した宇宙だから同じ民族同士だから敵味方塚として戦争しても供養している、中国だと墓を暴いても敵を罰して許さないのである
民族自体の殲滅を計る、それが大陸国家なのである

とにかく東京のような大都会からは文化は生まれない、そこは巨大な胃袋になっているだけなのである
パリの人口でも市内だと300百万くらいであり少ない、だから文化都市でありえた
ヨ−ロッパには東京なような巨大マンモス都市はない
歴史的にも地方都市が繁栄してルネサンスがあった、フィレンツェでもそうである
5,6万しかないとしたら原町とかくらいの人口だったからである
そこからあれだけのものを芸術文化都市になったのである
地方都市の充実がありそこで天才も育まれたのである
ただこれから少子化で人口が日本で減る時東京の人口もへる
すると田舎の地方都市が充実する時代になるかもしれない、江戸時代は江戸があっても
地方がそれぞれに経済でも文化でも育んできたからである
ただ地方といっても大きな地方でなければ今は成り立たない
東北だったら東北政治経済文化圏を作る構想が必要になる
東北という風土と歴史でアイディンティティ化するのである
そうすると精神性が追求できるのである、それを自分は詩とかで追求してきたのである
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ドイツの都市の人口は大きくて300百万人である
後は50万以下が多い
いかに地方都市社会になっているかわかる


いづれにしろ次の時代がどうなるか予測はできない、時代の傾向としてはグロ−バル経済の見直しがありまたもう資本主義が銀行が投資先がなくて破産するとかしきりに言われるようにゆきづまっている
そして日本に成長産業がなくなり農業が見直されているのも時代である
日本の農業は何かきめこまく技術的に優れているからである
だから耕作放棄地がこれから活かされかもしれない、またそうしなければ日本自体が生活すらてきなくなるかもしれない
戦後は引揚者が開墾にいたるところに辺鄙な場所に入った、それは働く場所がなかったからである、でも結果的に半分がつづかずやめたのである
その時高度成長時代になり仕事が増えたからそこに吸収されたのである
原発事故周辺でも街の回りが草ぼうぼうになっている
するとその土地を大規模に利用できる、それで外から農業を始めた若い人がいる
そういうチャンスもは一方で生まれているのである

東京のような大都会では精神性は文化は追求できない、どうして高層ビルとかと精神的に一体化できるのか?建築でもルネサンスのようなラファエロのアテネィの学堂のような壮大な絵巻物は作れないのである
そこにいるのは精神的に高揚された人間がいるのである
東京砂漠には人間はいないのである、ただ経済的単位の数値化した統計化した数量化した人間がいるだけである
宗教はカルト教団であり一票として数として計算されるだけである
そこに一人一人の個性を見ないのである、要するに数としてしか見ていないのである
数が民主主義では権力なるからである
それはすでにギリシャのボリスで始まっていた、世界は数であるという感覚が生まれたのも哲学が生まれたのもそうである
あのようにボリスにしても一二万の規模でもそうなのである
それは貨幣も生れて数量化の思想が生まれたのである、貨幣は人間性を奪ったのである
貨幣が万能になると人間は数量化される運命にすでにそんな古い時代からありそれがグロ−バル経済で極端化したのである

だから次の時代は高度成長とか経済の時代から文化芸術とかの時代である
奈良時代は唐風の文化が入った時代であり次に平安時代がかなを発明して国風文化になり女性が活躍した
次に鎌倉時代になりこれも宗教の分野で仏教は日本化した民衆化した時代であり東国の武士の文化の時代だった
それから戦国時代になり安土桃山時代が国際的な文化があった
そして江戸時代300年がありこれも国風文化であり明治維新でもまた外国文化が入り第二次世界大戦で日本は負けた、それで高度成長時代になり今度はアメリカの物質文化の繁栄の時代なにった
そしてやはり時代のサイクルとして文化の時代、国風文化の時代へ回帰するのが日本の歴史だとなる
明らかなことは文化が華開く時代なことは確かである
つまり高度成長とか経済が繁栄した後に宗教とか思想とか文化芸術の時代になる

みちのくで考えればここも歴史と風土で培われてみちのくになった
関東とは別なの領域なのである
それで平泉の栄があったがこれも三代で短かくして終わった
その繁栄は千年の都の京都とかにはならなかったのである
それがまたみちのく的だとなる

三代に終わる栄やみちのくの枯野のあわれ風唸るかも

旅に病んで夢は枯野をかけめぐるー芭蕉の句はみちのくの枯野だったのだろう
「奥の細道」はまさにみちのくの風土を俳句という短いものに凝縮させたのは驚きであった、そういう俳句は今ではもうできないが何か依然としてみちのくの風土がかもしだすもの歴史がかもしだすものはありつづけている
北海道とみちのくは東北は全く違ったものになっているからだ
北海道はそうした歴史とかないし風土が違っている、むしろ明治以降の開拓の歴史として新天地としてフロンティアとして意識されるのである
アイヌがいたにしても何か北海道の風土は歴史感覚は明治以降に培われたものなのであるただつくづく日本は島国なのだけど多様である
平坦な大地がつづくだけではない、多様な風土に地勢がありあきないとなる
満州のようにな地域はただどこまで言ってもトウモロコシ畑であり汚い大きな川が流れていて何か変化がないのである
だから日本という国は旅するにはいい国だと思う
常に山から海からと変化してゆくからである、だから日本を旅するだけで一生は終わるとなったのである


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2019年12月22日

2020年以降の日本の社会の恐怖 (すでに自分が経験したことだった)


2020年以降の日本の社会の恐怖

(すでに自分が経験したことだった)


2021年 団塊ジュニア世代が50歳に。介護離職が増加
2022年 団塊世代が75歳になり、超高齢化社会が加速
2025年 東京都の人口が減少に転じる。全国で介護職員が37万7千人不足
2026年ごろ 認知症患者が800万人に
2031年 18歳人口が100万人を割り込む。経営が悪化する大学が続出
2035年 日本の人口の4割が60歳以上になる
2040年 自治体の半数が消滅の危機
2040年ごろ 孤独死が年間20万人発生
2053年 日本の人口が1億人を切る
2055年 75歳以上の人口が2446万人に。4人に1人が後期高齢者になる
2056年ごろ 現役世代の社会保障負担が重くなる。海外に移住する若者も
2065年 日本の人口が約8800万人に
(取材をもとに編集部作成)

※週刊朝日  2017年8月4日号

この表で2026年ごろ 認知症患者が800万人に

これも怖い、現実に私の家では自分が重症の認知症患者を介護した、そのことをプログで書いてきた
800万人となればどうなるのか?そこらじゅう徘徊する老人であふれるのか?
認知症の介護は精神的にも相当な負担になる
そして認知症は精神的障害だかさ回りでも援助などしない、馬鹿になったと笑われるだけであり後見人制度も金をとることしか考えないとして問題になっている
つまり金のことがわからない、銀行からも金を下ろせないのだから他人だとそうなる
そして今は近隣の助けは得られない社会である
認知症だけではない精神障害者でも肉体障害者でも一千万とかいる負担も大きい
その息子をかかえた母親は毎日そのことばかりいって心配している
でもすでに50歳近くになっている障害者なのである
障害者は生涯めんどうを見なければならないのである
その負担は並大抵のものではない、最近我が町に立派な障害者用の学校ができたのであるそれも立派なのである
でもその負担も大きいなとつくづく思う

2040年 自治体の半数が消滅の危機

これも原発事故周辺では現実化したのである
避難区域になった所は田畑は草ぼうぼうであり若い世代は流出して帰らないのである
残ったのは老人である、でも小高などでは浪江でも原町が大きいからそこに住んでいる
それで不便は感じないとなる、でも若い世代が住んでいないのだからやがて老人だけになり町自体を維持できなくなる
そしてそういう場所に予算を金をつぎ込んでも無駄だともされる
官僚がジジババしかいない所に金をつぎこんでも無駄といか本音を言ったことでもわかるただいい面として耕作放棄地が全体に広がったためその土地を利用しやすくなって外から来た若者がその土地を手に入れて農業をはじめたとかある

そして農業が次の時代にかえって有望な産業として見られるようになったことである
それは日本の経済がグロ−バル競争に敗れた結果そうなったのである
ただ農業は土地だけあってもできない、人手が必要でありその苦労が並大抵ではない
だから知人の畑ではただその苦労だけを聞いて収穫はゼロだったとなる
それだけ農業は労力も大きい、だから土地だけあっても簡単にはできないのである
農業は親の後継ぐ職業としてあったことでもわかる

ともかく限界集落というとき小さな村だがここでは津波原発以後大きな村でも町でもそうなった、第一津波でぱいくつもの村が消滅したからである
そこはもう人も住んでいないからである
もうこれからは限界集落のようなのが増えてくるしもう今のレベルの生活は無理だから都市部に移れという人もいる、インフラも維持できなくなるからだ
つまり電気すら利用できなくなるかもしれないからだ
そうでも昔なら自給自足で生活していた、その昔には戻れないとなると都市部に移れとなる
そういうふうにこの辺では原町区はもともと5万以上の都市だったから小高の人はそこに住んでいる、浪江の人や双葉でも大熊でも移り住んでいる
とても原発避難区域になったところはもう回復できないようにも思う
最初は回復復興してもらいたいと思ったが今はそれよりもう維持できないとなり
かえって移り住み集約化した方がいいのかともみる
ただそこは限界集落とは違う、浪江でも二万人とか小高でも一万人とか住んでいたのだからそれが全部なくなることはどうなるのか?それが問われる
でも現実的にはすでに原町区に相当数移り住んでいるし帰らないともなっているのだ

2040年ごろ 孤独死が年間20万人発生

ロスジェネ世代も深刻である、結婚しない人が20パーセントとか独身のまま老いるのだが貯えもないから生活保護化するとかなる、でももう国では支援できないとして捨てられるその最後は捨てられて孤独死だとなる
それは自分にも身近である、結婚しない人は頼る人がいないのだから悲惨になる
ロスジェネや非正規とか未婚社会となりこれも深刻なのである
この世代は負の遺産となり社会を圧迫する
団塊の世代も高度成長時代は人口が多くても社会にとってプラスの人口増加だったのである、それが今になると負の遺産になって社会を介護とか認知症とか病人社会になり負担となる
ただ2040年となると団塊の世代でも90歳以上になれば死ぬ人が多くなる
すると団塊の世代の負担はへる、代わりにその子供時代のロスジェネ世代が大負担になってくるのだ
つまりロスジェネ世代が死ぬまで日本は負担に苦しむ社会となる

ただ長期的にみればこれらの負担が消えればどうなるのか?
そこにまた新しい未来が開けるのか?
結局未来はどうなるかわからない、戦後の焼け野原から何もなくなっても戦後は復興したそれは戦争によって負の遺産をかえって一掃して新生日本になったからだったのである
それだけの衝撃があっても復興したということは戦争は日本にとって次の時代を作るのにかえって貢献したとまで長期的にみればなる、全体的に見ればなる
だからかえってもし団塊の世代とかロスジェネ世代でも戦争で戦死するようなことになれば若い人達の負担がなく新生日本が生まれるとまでなる
だから後30年後とか40年後には日本は新生日本として蘇るとなる
ただ未来が予測できないのは必ず不測の事態が国際政治でも自然災害でも起きるから予測できないのである

人生でもみんなそれぞれの一生をふりかえると何か意外な結果だったなとなる
つまり個々人の人生も予測できない、そして結果的に人生でも幸不幸が何だったのかわからなくなる
不幸だと思ったのが実は幸福の基だったとか幸福だったのが災いの基になっていたとかある、まず一生楽な人生などないのである
いくら恵まれていても一生の間には何が起きるかわからないからだ
そして何か損だったのか得だったのかもわからない
ただ戦争時代に生まれ人は損だった、若くして死なねばならなかったからである
ロスジェネ世代も損な世代だったと今では言われる
こういう時代のめぐりあわせはどうにもならないのである
運不運でありどうにもならないのである

いづれにしろ団塊の世代も一つの歴史となってゆく
老人の強みはこうして長い一生をみて歴史をみる、それが若い世代にはできない
つまり人間はいくら本を読んでも知識を積み重ねても経験から学ぶことが一番多いからである
それで何か学問なくても経験した人は肌で知っているのである
学歴よりその人の経験が人を作るのである
それはつまらない経験でもそうなのである、経験が教えることは忘れないのである
私自身はたいした経験をしていない、結局底辺労働者と引きこもりとわずかの教育体験だったとなる、だから経験としては貧弱だったのである
それでも人間はふりかえると経験から学ぶ方が大きいのである

それで50歳でバックパッカーで大失敗したけど海外旅行して良かったとなる
その経験は確実に活きてくる
その時海外旅行しなかったら遂にできなかったともなる
団塊の世代では同世代でも海外経験した人はわずかだろう
そういう時代ではなかったからである
なんであれ経験が人間を作るのであり本だけ読んでは作れない
そこで本を読んでいてもつくづく印や線をびっしり引いてあるのだがほとんど理解していなかったのである、これでもいくら本を読んでも経験に優らないことがわかる
経験したことは体で覚えているからだ、これは外国だけではない日本でも地理をわかるには本を読む前に実地にその地を踏まない限りわからない、日本の場合は隈なく旅行しているから地理を理解したのである

ただ本を読むことが無駄だとはならない、それも後で活きてくる
雑学でもしないよりはした方がいいのである、知識でも経験と合わせて必ず役にたつようになるからである
それでも外国の旅行の本を読んでいるより海外旅行を実地にした方が外国は表面的でもわかる外国は本を読んだだけではわからない、そのことがいかに経験が大事なのか証明しているのである、百聞は一見にしかずなのである、百聞とは外国のことを百回聞いても本で読んでも理解できない、本を読まなくても一回でも外国に行った人の方が知っているのであるだから行動が先で知識や理解は後からついてくるというのが順序なのである

今年も終わりだけど今年は結構youtubeを見た、これも新しいメデアであり知識を得られた
youtubeだと短いにしろ要点がわかる、それで大勢の人に見られるのはテレビに似ている
何かこれからテレビの代わりになるのがyoutubeなのかとなる
テレビはマスコミでありそれが情報を独占したいた時代は終わった
マスコミの力は六局が動画で放送できる権利をもって権力をもったのである
それが個人レベルでもテレビのように放送できることは大きな変化だった
これからはテレビを見ない時代が来る、六局の放送局でも別に安価にyoutubeで放送できる
ただコンテンツを作るのはむずかしい、その能力があればyoutubeでも有料で放送できる
youtubeはまだそうした人材を集めたり特派員をもっていない
それはだけのい収入が得られないからである、でも放送局のように金が入ればそういうことはできるのである

2020年は時代が大きく変化する、区切りよく2020年となり元号も令和に変わったからである
その変化は日本にとっては厳しいものとなる、日本自体はこれから厳しい冬の時代になる
自分自身ももう冬を生きる老人となり過去を回想して引きこもるともなる





posted by 老鶯 at 15:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年私が選んだサイト お金のために働く人が、「起業家」に向いていないワケ


2019年私が選んだサイト

お金のために働く人が、「起業家」に向いていないワケ

人間はどうしても目の前の利益にとらわれる、これは逃れようがない、なぜなら毎日生活する金が糧がなければ生きていけないからである
するとまずは利益だ、金だとなりブラックにでもなんでもなる
それが現実社会であり甘いことなど言っていられないとなる儲けがなければ客が来なければつぶれてしまうからである

ただこの人の言うようにただ金のためだけではない、もちろん金を得るために働くことはあるが何か仕事にはそれだけのものではないものがある
何でもできる大工さんを見ているとその人は根っからの大工なのである
また庭作りもできる、単なるハウス会社の組み立てやではてい
修理とかもできる大工なのである
だから楽しそうに仕事をしているのである、そして自分で作ったものを誇示する
それは別に奢りでもなんでもない、自分の作ったものに満足している、仕事に満足しているのである
ただその人は実際は大工ではない別なしなくてもいいブラックな仕事をしている
それは本当に金のためだけの仕事である

つまりその人を仕事でも見ている時、金を得ることが仕事ではあることはいなめない
でもその他に何かある、自転車屋ですら何かある、その仕事に誇りをもっている
ただ誇りを持ち過ぎて人との対応が悪くなる、技術屋ならいいが客と対応することで
商売ができない、それは医者だって技術があっても患者と対応することがありにている
駅前で商売しているから街を良くしようとする気持ちがある
ただ駅の見守り役はそういうことがなかった
それは同じ市内でも区域が違ってそうなった、やはりそこに住んでいる人はその住んでいる場所を良くしようとする、同じ市内でも気持ちが違ってくるのだ

経営者にはただ金だけではないものがあってできるというのもわかる
自分は技術者として優秀だから優秀な所をみせてやるとかそんな動機で会社を初めて失敗した人もいた、その動機自体がただ金になり社長として成功したいというだけだったのである
その人は雇われて技術者としてやっていれば何の問題もなかったのである
経営者となると違った動機とか経営理念とかでも必要になる
理系だとそういうことが不得意だともなる、そういう点では文系が経営者に向いているから文系が経営者になっていたのもわかるのである

塾を経営していた人も何か教育などに何の関心もない、生徒を集めて金になればいいというだけである、教育はただ金儲けの手段なのである
自分自身も教育のまねごとをしたが失敗だった
でも何か自分には能力がないにしろ教育を楽しいもの学びを楽しいものにしようする動機があった、だから経営者のように全然動機がない、金だけの動機とは違っていた
ただそれは自分も失敗だった
でも流れ作業しか仕事とししていないものにとってそういう仕事は全く違ったものだったのである、そこにはある程度創造性も発揮できる仕事だった
ただ矛盾は金にならないとかもあり挫折したともなる
自分にとって仕事は流れ作業くらいしか経験していない、だから何でもいいからそれ以外の仕事をしたかったとなるができなかったとなる
それだけの能力もなかったとなる

でも自分は依然としてホームページでもプログでも創造性を追及している
天才でもなんでもないのだけど創造性を追及していることは理解されるだろう
その一つはソフトによる抽象画だったのである
他でもいろいろなことを探求して来た
それは「郷土学」というものである
郷土を一つの全体として多角的に考察してゆく、アイディンティティ化してゆく作業である、いわば今はやりの地域創成学部とでもなる
これは地域全体の学でありまた地域を改善することである
そのささやかなものとして無人駅の案内にかかわった
これも怪しいと疑われただけだったともなるが何かふるさとの一員としてかかわるものだったのである
つまり何か成功するとか金になるとかの前にそうした気持ちが動機が必要になる
それがそこに住んでいれば自ずとそうなるのである

結局あからさまに金だけを求めて経営者になっている人はやはり経営者にふさわしくないとなる                                    

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

そうすれば糧は神から与えられるだろうとしている、でも現実世界はまず糧をくださいとなる、それが先だとしているのである、まず金を与えてください、さすれば与えられるとなる
人間の矛盾がここに一番現れている、それはあらゆる仕事でもそういうことで葛藤する
それは本当にみんな働いているとしてそういう問題をかかえているとなる
何を求めるのか神はその心を見ているというとき動機を重んじている
でも現実社会ではまず利益であり金だとなっている
人間はみんなその葛藤で苦しんでいるのである
そのためにこの世ではサタンのささやきが優っているからこの世は腐敗して乱れるのである

特にグロ−バル経済とか資本主義社会では修道院から生まれ動機とまるで正反対になったその求めるものは金だけであり極わずかの国際金融資本家たちに世界の富が吸い上げられる、日本の富もアメリカに吸い上げられる、それが日本貧困になった原因だという人も多いのである
つまり金が利益がまず先だ、そのためには手段を選ぶなとかいうことでサタンのささやきに従ったのが現代のグロ−バル資本主義になった
ガンジーの言う道徳無き経済となってしまったのである


人間はとにかくジキルハイドになる、善と悪との二面性がありアメリカ人がアングロサクソンがその二面性が極端だというのもそのためである
善を言うのだがその善と裏腹に本当にどす黒いものを平気で実行してくる
人をだますのも平気なのである、敵に笑顔を見せてその裏では相手を平気でだまして殺す善悪の二面性が極端なのである
そういう二面性を日本人はなかなか理解できないというとき日本は島国で平和だったからそうなる、熾烈な民族同士の争いを経て来た人たちはそうはならない
契約は正義を実行するためのものでもない、相手をだますものとして法律もある
法律もその利用する人によってどうにでも解釈できるからである

裏を見せ 表を見せて 散るもみじ 良寛

裏表を見せる人はいない、表だけを見せて装う、それが現実の社会であり人なのである
だから人間はその行動だけから判断できないのである
どうしてそういう行動をするのか?それが問題になる
経営でもあからさまに金だけを求める人も多いしそれが現実社会だともなるからだ
まず金をもらわなければ一歩も動かない、何かそういう人は金だけが目的であり仕事そのものをするにふさわしい人ではないだろう
例えばここに倒れた人がいる、その時まず金を出せば助けるでは仕事にならない
まず助ける、そういうことは医療関係者に望まれている
何か仕事というとき金をもらうことはいいとしてその前に仕事そのものに生きがいを見出すことも必要である

それでworkとなっている、仕事は作品なのである
大工が作ったものは本当に作品だった、だからその作品に満足するのである
それは芸術家なら特にそうなる、金が欲しい得るにしてもまず自分が納得いく作品を作りたいのである、その動機も目的もまず金になるのではない、その人の創造性を個性を発揮したものを作りたいとなるのである
ただ仕事でも多様だから本当に好きな仕事をできる人は限られている
でもそういう人が仕事するときいい仕事はできないし社会にとっていいものではないのである、適材適所で働いていたらその社会は活気がありいいものとなっていることは確かなのである
posted by 老鶯 at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題