2024年12月12日

同年代の人の死―西田敏行 小倉智昭〔77才〕等など 【死後長く語られる人は価値がある】

同年代の人の死―西田敏行 小倉智昭〔77才〕等など
【死後長く語られる人は価値があるー棺(かん)を蓋(おお)いて事(こと)定(さだ)まる

短日や同世代の二人死ぬ

西田敏行 小倉智昭〔77才〕も死んだ。火野正平(75)77才であり同じ年である同世代が死ぬ
この人というときはテレビでなじみだった。だから驚く、何か身近でも消息でも分からないし何をしてきたかもわからない人が同世代で近くでもいる。だからテレビでお茶の間で常に見ていた人の方が親しく感じる。どちらも東北出身であり西田氏は福島県の郡山市だった。でも全く朴訥な東北人とは違っていたのである
軽妙な語り口で人気だった。だから東北人だからと一様ではない、様々な人がいる。

火野正平(75)もテレビのドラマで良く見かけた。個性的な俳優だった。この人はまだ若いと思った。
ただ死というのは常に驚く、でもすぐ忘れてしまう、なぜならその歳ならいくらでお死ぬ人が増えて来る。一応有名だから死んだ瞬間は驚くもすぐ忘れられる
同業というか谷川俊太郎(92)詩人も死んだ、この人は92才だからしょうがないとなる。ただ詩人としての評価はどうなるのか、
単純な詩を作った人である。では評価すればどうなるのか?

つくづく人間は呆気なく死ぬ。この年になれば同年代でも次々に死んでゆく、死ぬと同時にすぐに忘れられてゆく。例え有名人でもそうである。もし死んでから十年後でも語られることがあればいい方である。作品を残してもその後語られることがあればその人は活きる。でも大概忘れられて語られることもないのである。だから芭蕉とか見ればその作品は不朽のように残されて常に語られる。芸術は長く人生は短しとなる。
でもその芸術家にしても語られ続けられる人は本当にまれである
みんな泡沫のように消えてゆくだけである
まず死んで10年でも20年でも語られる人がどれくらいいるのか、
もし死後50年後でも語られるとしたら凄いとなる

それは芸術家だけではないいろいろな分野でそうである。そして百年後のも語られる人はさらにまれでありほとんどの人何も語られない、だから内村鑑三は1861年3月23日〈万延2年2月13日〉[1] - 1930年〈昭和5年〉3月28日を生きた。江戸時代から戦前の昭和まで生きていたのかとなる。約今から93年前である
でも全集を読むと何故これまで聖書を深く研究して書けたのかと感心する。彼は教会を否定して単独者として信仰を貫いたのである。明治時代に死んだと思っていたが違っていたのである。
何か内村鑑三は日本のアブラハムのような偉大な存在に見える
江戸時代になりキリスト教深く知り始めて伝えた人だとなる

つくづく人間とは何を残して死んでゆくのかとなる。芸術家なら作品を残すそれにしてもその残された作品について語られ続けるのは一握りだとなる。何か本でもすで家を傾くほど買ったがその著者も死んでいる人が多いのである、30年前に本を買ったすればすでに著者も90以上とか死んでいるとかなる
でも本を残した人はいい方かもしれない、あとは一般人は何も残らないからである。

ともかく短日というときこの年になるとあっというまに時間過ぎて目前にあるのは死だけだとなる。あと何年生きるのかとなる
そして人間は一体何を残すのだろうとなる。金を持っている人を知っているがその人はその人生を何も語らないからない、中味がからっぽだともなる。
つまり最後にはいくら金を残してもその人の評価にはつながらない、だから人は何を残して死ぬのかとなるとき何を生きたのかとなる。その一生は何だったのか、その人の価値は何だったのかとなる。それは金で計れないのである。
巨万の金を稼いで残してもそれで最後に死後でも価値ある人とされるとはならない。そこに人生の後悔がある。
だからいろいろな分野の人がいて死後も延々と語られ人はその人は死後も生き続けているのである。ただそういう人は極ごくまれな人なのである

棺(かん)を蓋(おお)いて事(こと)定(さだ)まる 
《「晋書」劉毅伝から》人間の真価は、死んでから決まる。人事は棺を蓋 (おお) うて定まる










posted by 天華 at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年12月11日

石にもそれぞれ表情がある 東北人的気質との関係ー素朴と文明の対比〔奈良と―京都、京都と鎌倉〕

石にもそれぞれ表情がある
東北人的気質との関係ー素朴と文明の対比〔奈良と―京都、京都と鎌倉〕

自然を観る場合石であれ岩であれそれが単体であることはない
だから石でも岩でも写真で見てもわからない。
それ何でもそうなる、なぜテレビを見てもその場のことがわからないのかとなれば一部分を映し出されてもその周りの全体が見えないからっである。
それでイラク戦争で海鳥一羽が油まみれになっていてイラクはひどいと世界中の人に印象付けられたのである

だから石でも岩でも単体では存在しない、その石の置かれた場があり全体の中に置かれたことをみないとわからない
それを写真を見ても分らないのである

宝蔵寺の庭の石にしてもそうである。その場に立たないと感じることができない、そこで光とか風とかでも感じる

それで

寂けさや岩にしみいる蝉の声 芭蕉

この句は山寺でその全体の雰囲気で感じたのである


●宇多川上流のピラミッド石と高瀬川上流の皺石

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相馬市の宇多川の上流にあったのはまさにピラミッド石だった。この石はめずらしい。あんな川の石がごろごろした所にあるのも珍しい、形が長方形の立体になっているからである。

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この石は浪江の高瀬川の上流地域にあった。そこはめったに人も通らない場所だった、石が皺のようになっている。それで皺石と名ずけた。何らか石には表情がある。

●真野川上流の老子石?

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老子石

この道を幾度通りしや
我が気づかざるかな
枯木を通して大石一つ
冬日さし静謐に鎮まりぬ
誠に我が気づかざるかな
自然の静寂のいかに深しや
騒擾に過ぎゆく世の日々
そは千年知らずここにありぬ
我が老いゆくにこの石知りぬ
この石の悪しき夢見ず
徒に無益に使役されることなく
太古のときより変わることなく
神の御旨のままに騒ぐことなく
ここに鎮めと動かざるかな
木の葉かそかに一二枚散り
静けさはさらにここに深まりぬ
汝、この世に何を成せしや
成さざるものこそ成しぬ
故にこの知られざる大石の尊き
そこに癒しと鎮めのありぬ
神なるごとき石にあるかな

静かな石、時を超え 風に吹かれ、雨に濡れ その身に刻む、記憶の音 大地の歌を語り続ける

光に輝き、影に佇み 重厚な存在、変わらぬ心 自然の声を抱きしめて 静寂の中で響き渡る

あなたの足元にある石も 遥かな旅路を経てここに そのひとつひとつが 宇宙の物語を宿している

by chat gpt

石には何らか表情がある、真野川の上流に隠れて石がある。それはいつも木の蔭にかくれてあった。ただ最近その木を切ったから丸見えになって神秘性が失われた。隠れ石とか名づけられたかもしれない。石はこの辺だけでもいろいろある。名前はついていないのがいくらでもある。
前には老子石とか大鎮石とか名ずけた
なぜ老子石と名づけたのかとなると老子は成さずして成るという思想がある。人間は様々なんことを成すがそれが文明であり
その成すことが災いとなるカルマがある。この辺の原発事故がそうである。それで老子は鍬でも道具でも使うことを否定したのである、確かに車のことを批判してきたが車に乗ることで人間の五感は失われたからである。だから歩くことが人間性の回復にもなたったのである。また政治でも人間が成すことにより乱れるとなり否定したのである。

そして東洋的思想とは植物的思想である。石と木は他の物を傷つけない,ㇵ−ムレスである。それが何なのかとなると狩猟民
遊牧民となると他者を傷つける、動物でも殺す、また傷つけるというとき暴力だけではない口でも他者を傷つけるの普通に行われている。でも当たり前でも石や木は植物は他者をきずつけないのである。だから野生動物でも草食動物は他の動物を殺さないから平和的な動物だとなる。東洋はインドでも木の下で釈迦が瞑想して悟りを開いたように禅宗なら座禅するように活動しないのである。むしろ口を慎み相手を傷つけないことを主眼としている、それは仏教でも老子の思想でも共通している
他人に奉仕するために働くという思想ではないのである。だからヨーロッパ人の思想とはキリスト教でも違ったものになる
積極的に慈善活動をしないのである。

●海老の宝蔵寺の石

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宝蔵寺の石は近くで何度も見れるからいい、石でも何度見ているとその石の表情がわかるようになる
名前がつけていないが確か特徴がある。一つは土台石とかなるのか、またヒトデ石になるのか、石が四方に根ずく感じである。石が四方に張り付いた感じにもなる
big rooted stoneとdeeple翻訳したら大根石とでてきた
するとこれはヒトデ石より大根石がいいとなる

禅宗だと石と砂で海でも川でも現わす枯山水の庭が生まれた。
禅宗だと座禅で沈黙の行をするから石と相性がいいのである。また釈迦でも菩提樹の下で悟りを開いたというとき樹と一体化したそうなった。私自身も石とか樹とかとアイデンティティ化することしてきた。詩にしてきたのである。

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石でも相当に貫禄があるもおがある。それは大きな岩になる
大場石などがそうである。これは大きいいから見どころがある
その石の表情も縄文土器のような模様があり貫禄がある
ともかく石は定着であり安定でありそれが心に反映する

●言葉の対応、英語と漢字

沈静、沈着、沈潜ー堅実、着実、質素、実直、忠実、・・・

She's a down-to-earth woman with no pretensions.「彼女は全く自己主張をしない堅実な女性だ。」
down-to-earthで堅実なという意味になります。基本的に人に使います。
worthy person" (立派な人/堅実な人)
"steady person" (しっかりした人/堅実な人)
"reliable person" (信頼できる人/堅実な人)

沈静〔fáithfulness〕cool down、cool off、settle down、・・
堅実 steady、rock-steady、steady-going
確実性〔certainty 誠実〔 sincerity〕質素(simplicity)、

rootededness 根づいた、根深い、(…に)深くしみ込んだ、定着した、(恐怖などで)(根が生えたように)動けなくなって

英語にするとこういう単語になる。英語にしてもその言葉の意味とか感覚を理解するのが難しい、漢字でもそうである。その背景にその国の文化文明がある。だから文字からだけで理解できないのである。
rock-steadyとは岩のように着実となるのか、sincerityとは継続の意味があるから誠実とは一時のことではなく継続することにある。人間も一時的な付き合いでは誠実になれない信用できないのである

石を象徴する言葉を英語で表現

Certainly! Here are some words in English that symbolize the essence of a stone:

  1. Solid: Representing firmness and stability.

  2. Enduring: Denoting a lasting, timeless quality.

  3. Stalwart: Signifying steadfast and reliable strength.

  4. Resilient: Emphasizing the ability to withstand pressure and adversity.

  5. Anchored: Symbolizing a strong foundation and stability.

  6. Immutable: Highlighting an unchanging and permanent nature.

  7. Steadfast: Reflecting unwavering and firm determination.

  8. Granite: Specifically referring to a type of stone known for its hardness and durability.

  9. Timeless: Conveying the idea of something that transcends time.

  10. Rock-solid: A phrase denoting absolute reliability and dependability.


●文明と素朴〔東北人的気質〕

奈良と京都というとき奈良は素朴であり京都は洗練されている優雅と優美になる。万葉集は原始性があり土着性がある。でも京都になるとそれは都会的になり優雅とか貴族の文化になる、宮廷文化になる。万葉集は素朴なものは失われている
それは公家に仕えた平家と関東の武士団の源氏を頭領とした鎌倉政権の相違がある。なぜ平家が敗れたかとなると関東の鎌倉の武士団は師従関係が強く主君に忠誠を誓う、その文化も武士を基にしているから質実剛健になる。それで禅宗が鎌倉五山とかで栄えた。鎌倉の大仏は質実剛健である。平安貴族の優美な仏像とは違うのである。つまり鎌倉には素朴なものがありその相違が現われたのである。
それはヨーロッパでもロ−マ帝国のラテン民族とゲルマン共同体との相違とも似ている。ゲマインシャフトとか強固な原始的共同体を形成していてその絆は強固であった。
ローマ帝国は文明でありゲルマンは未開であるがそこに原始性がありそれあらたな文明文化を作る、ゴシック聖堂などがそうである。

いずれにしろ西の京都が千年の都としてあり鎌倉が関東武士団により日本を支配した。その後家康が江戸に幕府を置いて300年の幕藩体制を築いた。それでまた関東と東北では違っている
関八州があり東北は依然としてみちのくである。辺境の地であった。でも素朴性が残されているとなる、それはまた後進性にもなる、何か人間にしても石のようでありいい面もあるが積極性に欠けるとなる。伊達政宗は芝居気がありとか東北人らしくないのである。東北人では例外的だともなる

ただ薩摩長州は横暴であり東北人とは対象的だともなる。ただ外国と通じて先進性があり銃でも最新式を使うとかで東北連合もならず敗れた。それも対象的である。
どうしても後進性があり地理的に不利であり遅れたとなる
ただ一方で素朴さは残されたとなる。でも東北人でも一様ではない、現代では人間も一様化する。全般的に都会化している。都会人となっているからである

ただ依然として東北人はその性質に素朴性を残している、それは後進性ともなる。なぜか栃木県出身の内村鑑三でも上野霄里(うえの しょうり)とかのように独立性を強力に主張する人物は出ない。権力に抵抗する人物も出ない。それはやはり東北的風土から育まれた忍従的なものになる
だからそれは石とにているのである。伊達政宗や石川啄木とは例外的存在なのである。

どうしても開明的ではなく閉塞的になる。福島県でも浜通リは海に面してもそれは瀬戸内海のような絶えず船が行き来する交通の海ではない。一二艘くらいしか大型の船は通らないからである。
要するに交流する海ではないのである。だから海に面していても閉ざされている。海にとって閉ざされているのである。それが薩摩とか九州とは違っていた時勢に疎く遅れ薩摩長州に蹂躙されたとなる、ただ内村鑑三は薩摩長州をその後の薩長政府を批判していたのは幕臣でありまたその横暴性に気ずいていたからだとなる
とにかく文明化することは素朴性を失うことである。だから逆に後進的地域でも鎌倉幕府やロ−マ帝国の侵略を阻んだゲルマン民族の原始性が新たな文化を創造することにもなったのである。







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2024年12月10日

寺と石【冬に入る宝蔵寺の庭ー紅葉、冬桜】


寺と石【冬に入る宝蔵寺の庭ー紅葉、冬桜】



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大石のここに定めて冬に入る
紅葉濃く大石一つ動かざり
冬日さし大石にここに鎮まりぬ
大石をすえてここにし冬桜

寄り合いぬ石の硬くも重々し一村静か冬に入るかな

海老村の宝蔵寺に紅葉と冬桜がいい、それと石がいい、石に興味がある。何か石は冬ににあうのかもしれない。
寺というとき江戸時代から明治から戦前でも農村社会であり活きつづけるものがあった。江戸時代なら村の中心がだったのである。寺は役所の代わりもしていた。

日本全国には7万を超すお寺が存在し、コンビニの数が5万軒であることを考慮すれば、お寺が我々に与える影響は決して小さくありません。

実際、お寺は葬儀等に限らず、寺子屋として教育機関の役割を果たしたり、江戸時代には戸籍管理を行うなどして現在の自治体の役目を担うなど、お寺と地域社会との関係性は密接なものだったのです。

寺は村があって機能していた、なぜなら村は農業が生業でありそれも代々続いたからである。ということは寺も代々続いたもである。日本のエトスというか心情は村で作られてきた

エートス (古希: ἦθος, ἔθος; ethos, 複: 古希: ἤθη ἤθεα; ethe, ethea) は、「いつもの場所」 (ἤθεα ἵππων) を意味し、転じて習慣・特性などを意味する古代ギリシア語である。他に、「出発点・出現」または「特徴」を意味する。

こうしたものが村で作られてきた。いつもの場所というときそれは場所に由来するともなる。場所の特性から作られてきたともなる。村で定住するから先祖も変わらず村にあり続ける、それで先祖への供養も続くとなる。そこで情を育み連帯が生まれる

でも今は農業中心ではない工業中心の社会であり絶えず移動する社会でもある。すると定着しないし代々続く家も減るから寺も無用化してくる。村の要とあったとしても今はその機能がないのである
ただ庭を見るにはいいとなる。京都でも寺の庭を観光するにはいいのである。別に信仰など関係なくなっている

ともかく石の庭と冬桜がいいとなる。場所的にも山の蔭になっているとか立地もいい、街が近くても山門があり雰囲気がいいのである

2024年12月09日

年金が少なすぎて老人が困窮 【介護も子供にも頼れない事情】

年金が少なすぎて老人が困窮
【介護も子供にも頼れない事情】

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【警告】老後破綻と貧困で苦しむ人の7つの『特徴』と『対策

65歳以上の単身女性44%が“貧困”の現実【報道1930】

鈴木ハナイさん(90)
リハビリと訪問ヘルパー代に月3万円はかかる。贅沢はできない。服のひとつも買わない。殆ど3〜40年前に買った服を繕っては着ていた。布団も夫と寝ていた頃のままだという。

「贅沢しないで、少しでも残していかないと今の年金だけでは老人ホームに入れない。やっぱり20万くらいかかるから…。離れて一人暮らしをする娘には迷惑かけたくない。娘の世話になりたくないと思ってる。自分が親として娘にあまりしてこなかったから…」

この人は90才だけど73才とかで同じ状態になっている女性がいる
脳梗塞になり杖をついて玄関からわずかの距離しか歩けない、
今車で私の家に息子に乗せられてくる。
その息子も52才くらいになって独身であり建築土木関係で働いていたが足を怪我して介護で働くようになった
その女性は息子が良くされないといつも言っている。その原因は発達障害の長男がいてその長男に手をかけて弟のことをあまりかまわなかったからかもしれない、他でもそういう事例はあるからだ。介護というとき誰もしたくないから兄弟間でも一番良くされた人がやれとなる。

贅沢はできない。服のひとつも買わない。殆ど3〜40年前に買った服を繕っては着ていた。
布団も夫と寝ていた頃のままだという

その女性も服を買いたくても買えない、脳梗塞になり糖尿病になり目が悪いとか関節が痛いとか介護度2なのである
それでも台所で料理をして洗濯物を干したりと自力でしている
でも歩くことがほとんどできないのである
何か気晴らしに息子に車で連れて行ってもらいといってもしてくれないのである。何か介護をしたくないのである。でも他人の介護をしているのも変だとなる

離れて一人暮らしをする娘には迷惑かけたくない。
娘の世話になりたくないと思ってる。自分が親として娘にあまりしてこなかったから…」

こういう感覚が親にあるのか、親にもいろいろであり事情がある
ただ親の良くされないというとき兄弟間でも一番良くされた人が介護しろとなるのはやはり人情なのだろう。
だから一人っ子は親を良くするとはなる。私自身がそうだった。特別良くされたのである、だから一人でも病気になっても必死で介護したとなる。それは自然なことであり強いられたものでもなかった。だから死んでも供養している
でも一人っ子は一人で負担するから苦しいとなる
つまり人間は何でもいい面と悪い面が生じる。

とにかく年金が少なすぎるし生活保護で実際いろいろであり年金が、4、5万もらって後は一万とかもらえない人もいる
年金だけで生活できる人は30パーセントくらいかもしれない、
そして収入がないから貯金もないから80歳以上でも働いている人がいる。施設には20万以上になると入れないのである
だから老後が余裕を持って暮らせる人は少ない、昨今の物価高でも苦しむ,コメが高すぎるのである。でも米は着るものと違って買わざるをえない、でも年金はほとんど増額されないのである。
困窮した老人が相当に増えている。

いずれにしろ日本が貧困化して様々な問題が生まれている。老人でもその皺寄せがある。若い人にすれば老人には金を使うなとなるし子供でも援助できない、親にしても援助されたくない、ではどうすればいいのかとなる。それで家族遺棄社会にもなる
これは一時的なものではなく団塊ジュニアの今の40後半から50才くらいの人が60以上になったらもっとひどくなる。数も多いし今よりひどくなる。貯金もない人多いから困窮するのは目に見えている。やはり日本全体が貧困化していることの影響があらゆるところで問題を起こす、凶悪犯罪を犯すのもそうである。若い人も苦しいからだとなる。
それで自分親を介護している時来たのはそうした老人でもあった

それで私自身が入院したとき家に誰もいなくなり大金を家捜して奪われたし事業に失敗した人に金を要求されたし現実に家の中に泥棒も入って来た、金庫も開けられた、中に金は入っていなかった。二階に来たの気づいたが顔をあわせなかった。
顔を合わせたら危険だった、その泥棒は外部から来た人だったろう。このように近辺でも貧困化してくると危険になる、背に腹は変えられないと近辺でも犯罪が起きて来る

今の時代金しか見ていない、田舎でもそれは同じである。人の繋がりは希薄化している。だから金をとればいいとかなくなる
ただ田舎でも他所から来た人は危険になる。でも田舎でも近くでも何をしているのかわからない人が多い、また田舎の一軒屋とはまわりの目がないから狙われたりする。日本は今アメリカのようにもなっている。やはり金しか見ない社会になているからである。




2024年12月08日

ヨーロッパの心と日本の心の対比ー晩秋ボーデン湖の詩 【ドイツと東北の風土の共通性】

ヨーロッパの心と日本の心の対比ー晩秋ボーデン湖の詩
【ドイツと東北の風土の共通性】

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      ドイツの駅
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グローバルとローカルは結びつく―グローカルになる


晩秋のボーデン湖

波たたぬボーデン湖の岸辺の道
ポプラの木の枯れて線路は尽きぬ
静かに落葉を踏み歩む
ベンチに老夫婦が休む
古い教会の鐘が鳴り
赤い薔薇の心にしみぬ
ドイツの大地を踏みしめドイツを知る
荘厳なゴシックの大聖堂
その重厚な石の柱に寄り
パイプオルガンが鳴りひびく
調和の楽が鳴りひびきわたる
樅の木は荘重に大地に根を張り
重々しくも語り主の教えは語り継がれる
常に歴史は語り継がれる場
それぞれの国がせめぎ合うも
モザイクのように色は違っても
一つのヨーロッパは重層的に形成されぬ

ヨーロッパの魅力はモザイク模様のようになっていて国がそれぞれ個性があり歴史があり多様である。
バライテイに富んである。ロシアとか中国とかアメリカとか大国になると大きすぎてつかみどころがないとなる。
人間はそもそも国家があるとしてもそれは人為的なもの人工的なものである。

ドイツの一語は使う場合気をつけねばならないのはそれは国も民も指さず土地を指す、もっと前8世紀にはには学問、教会公用語ラテン語に対してのゲルマン土着人の言語を指し
ヨーロッパの心―犬養道子

土地を指すというとき国家とか国民とかは存在しない、それは日本でも同じである。お国はどこですかというときそれは大きな国ではない国家ではない、狭い範囲であり土地のことである
そしてもともと〔訛りは国の手形]というように訛りでどこの国の人かを見た。訛りはなかなかとれない。だから不思議なのはこの地から東京とか埼玉県に就職した人がその土地の訛りを話す
混交したものとなったのである。話すことでも長くその土地にいればやはりその土地の訛りが自ずと話すようになる。それが土地が変わり訛りも変わったとなる。ドイツ語に濁音が多いというとき東北弁も濁音が多い、ズーズー弁になるから似ている
だからローマ帝国のラテン語とゲルマン語は異質である
それでラテン語のキリスト教をゲルマン語にドイツ語で訳したルターがカトリックに対してプロテスタントになった

言葉が国家や国民ではなく土地をさす国が土地を指すというとき
日本でも国家はなく土地を指していた。

会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結びさね

という歌も国家ではなく一地域のことである。ただ会津で国と言った時はそれなり大きな国だった。大きな国が形成されていたのである。ここですでに日本国家が生まれていて防人として九州の方に派遣されていた。
つまり大きな国家が形成されて強制的に国家の兵士にされた。だから本来の国から離間させられて妻であれ母であれ家族と別れる悲しみが歌として残された。ク二は故郷のことであるからその土地と結びつく一体となる、でも国家は人為的人工的になるから本来の国と違っている。

ヨーロッパでも国も多様であり言語も多様である。その多様さがあってもヨーロッパは一つだという意識はキリスト教をベースにして作られた。ただラテン語で聖書が読まれ書かれていたのをドイツ語に訳したのがルターの時代であった。
ともかくヨーロッパが複雑なモザイク国家でありそれぞれに違った文化を育んだ。ワインでもパンでもチーズも百種類とかありその土地土地で違った味になる。
だからcultureはcultivate(耕す)から来ている。国家はそうした土地土地の文化でも一様化する
それは政治であり行政でも元々あった小さな国を無視して作られる。つまりクニとは自然発生的に作られたものである。

とにかくドイツは寒いとか陰鬱だとかなると東北の風土とも似ている、それで東北人とドイツ人は共通なものがあるともなる
朴訥で実直とか何か融通性がないとかで共通した性格がある
芸術にしてもフランスのモネのような明るい陽光はない。霧に覆われ寒く陰鬱である。何かそれが東北の風土と共通しているともなる。ドイツ語にしても言葉が何か重厚になり重い感じの発音になる。それはフランス語とは余りにも違っている。
大阪弁がフランス語ではないにしろ軽さがあり共通している
ズーズー弁の東北弁はドイツ語にも似ているとかなる

ともかくヨーロッパを理解することはむずかしい、なぜモザイクのように様々な国があるか、東欧はヨーロッパなのかとなる
ヨーロッパであれ大陸だと陸続きだから絶えずそれで争いになる、それは川を挟んで国が対峙する、それでriverがライバルになったことが地理から納得がいく、それはウクライナの戦争でもドニエプル川を挟んでの攻防があったことでもそうである
ライン川はラテン諸国とローマ帝国とゲルマンを分ける境界線になった。大陸国家では川が境界になりやすいのである

あなたはお聞こえなりませんか
裂かれた土地のすすり泣きが
もぎとられて行った大地の泣き声が

この美しい風景に血がにじみつづけて止まらないのか
血は一刻も止まらずに、にじんでは流れてヨーロッパの痛みをかきたてつづけているのです
犬養道子ーヨーロッパの心

これはまさにそうである。ウクライナ戦争で依然として戦争が継続されて血が流されていることでもわかる。それは陸続きであるために起きる、日本なら海で囲まれているから異民族の侵入ができなかったからそれがわかりにくいのである。   



2024年12月07日

貸金庫の金を銀行員が盗んた 【野村証券会社員が顧客の金を奪い殺人】


貸金庫の金を銀行員が盗んた
【野村証券会社員が顧客の金を奪い殺人】

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三菱UFJ銀行貸金庫10数億円以上の重大窃盗!
オールドメディアが報道しない理由】昔3億円事件で日本中が大騒ぎ!
今回は10数億円


この事件は今年7月、野村証券の社員だった男が広島市内の顧客の住宅から約1800万円を奪ったうえ、放火し、住人の女性を殺害しようとした罪で起訴されたものです


銀行が何なのか理解できない、別に利子がついている時は銀行が何なのかなど問わない、でも今になると利子がつかないし何のために預けているのかわからない、それで銀行員と証券会社の人が来て投資信託をすすめられる、それで損したとなる
銀行は証券会社なのかとも思うようになった。
銀行はそもそもどうしてもうけているのか?
それが利子もつかないとなるとわからなくなる。

銀行は貸金庫ではないか?

金を安全に保管してくれる場所ではないか
私がそう思ったのは現実に金をたまたま家に置いていたら本当に盗まれたからである
その人はここに前から住んでいた人ではない、でも遠くない所である

その人は【金をくれ】と家に来た、それで多少手伝いして緊急入院して家を空にしていた時家捜しされて大金を盗まれた
そもそも私はそんな人がいると思わなかったのである
金をくれと言って本当に屋探ししたのである。その人は今でも近く会うがなんにも反省などしない、悪びれもしない、そんな人が近くにいる驚きである。

野村証券の会社員が顧客から金を盗んだとかもありこれは何なんだろうとなる。もはや根本的なところで人間のモラルが崩壊しているのではないか、何かそうなると誰も信用できなくなる
確かにその人はずっと金で苦しんできた人である
だから金を盗むことに抵抗がなかった。でも金をくれと来て本当に屋探して盗むとは思わなかった

それだけ今の世は金だけしか見ていない、人が苦しんでいるからこの際金をとるチャンスだとしかならないのである
一人は事業に失敗したからその人も同じだった。今の人は金のことしか考えないのである。私が苦しんでいることに何ら考慮することはなかったのである。

そして金の切れ目が縁の切れ目となり終わった

何か今は人間のモラルとか日本人の良さとかも喪失している。日本人がアメリカ人になったというときすべてが金になってしまったのである。だから犯罪も増えて殺伐としたものとなる。
もう末世でありそこでは犯罪が横行する。それは銀行とか証券会社とかで犯罪が行われることでもわかる、そこは一番信用が必要なと所だからである。
銀行が既得権者の一つということはなかなか理解しにくい
銀行の役割とは何なのか理解しにくい、今までなら利子がついているから考えることもなかった。
私は銀行は貸金庫ではないかとも思った
だって利子もつかないとしたら何のために金をあずけているのかとなる。その貸金庫も銀行員が盗んでいたというのだから何を信用したらいいのかとなる。

つまり今起きていることはモラルの全般的崩壊なのである。金さえ得ればいいとしかない社会である。それは銀行員ならいつも金の計算しているのだからそうなる。金がこんなにあるのに私はたいして金をもらっていないと不満になり盗むとなる
つまり銀行員とか証券会社員は金しか見ていないのである

例えば農民なら果物でも野菜でも実ればそれが労働の成であり収穫する時喜びがある。でも銀行員の労働の喜びは何なのかとなる
医者なら患者を直った時喜びがある、物を作る人はいいものを作れば喜びがある、大工なら家を修理するとか家を建てることで充実感がある、何か金融関係にはそいうことがない、それで銀行員がやめて農業を始めた人もいる
意外と金融関係で働いた人は老人になった時語ることも何か仕事を成し遂げたということまなく空っぽにもなっているかもしれない、金融関係の仕事は私はこういうことしてきましたとか語れないのである。だから老人ななって自分がしてきたことを語れないのかもいしれない。ただ金は儲けている人が多いのである

でもその人は最後に何も語れない。その人生はただ金を右から左へ流すだけのものであり何か充実した実りがないとなる。
だから銀行であれ証券会社員であれ仕事としてはいいものに思えないのである。その仕事でも何も残らないとなってしまう
ただ何か成果があるものとして主張できるものもある。
それは見えない、大東銀行でもカードで支払いして不正を見抜いたのである。それで警告してくれカードの番号を変えた

だから銀行金融業で一番大事なのは信用であった!

その信用も失われたときその存在意義もなくなる。現実に銀行でも前のようにもうけられない。銀行自体がそれで成り立たなくなっていることも原因している、とにかく銀行でも信用がなくなったら終わりだとなる

それにしても野村證券の人は顧客の金を奪い殺すとなると何なのだろうとなる、世も末だだとなる。それは社会全体に起きているモラルの消失から起きる、盗むのがいいとなりそこに悪びれることもない、特に日本でも貧困化してくるとますます金を奪えばいいとしかなくなる怖い社会になる

posted by 天華 at 13:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年12月06日

真野の草原の歌の謎ー毛野氏と伽耶国ー安曇氏系統の八木氏と犬養氏の関係 【真野古墳群の船の線刻画の謎】


真野の草原の歌の謎ー毛野氏と伽耶国ー安曇氏系統の八木氏と犬養氏の関係

【真野古墳群の船の線刻画の謎】

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●なぜ浮田国造が毛野氏になったのか?

毛野国は相馬地域からかなり遠い、だからどうして毛野氏の鹿我別王が浮田国造になっていたのか、今の栃木県とか群馬県になると遠い、ただ常陸国に毛野氏の勢力が拡大して常陸国からこの地に来たという説がある。地理的にはそれがなっとくがいく

毛野氏を考えると任那の安羅と耕地の争いがあり洛東江流域の東方で新羅領と任那領の中間に位置した国とも記している。神功49(369)年荒田別、鹿我別を将軍として百済の死者と共に卓淳国に集まり新羅を撃破した

卓淳国の地は二説ある。軍隊を動員して比只(ひし)国、多伐国、
草八国―慶南国を討伐してここを併合したという記録がある

この草というのは伽耶(かや)のことであり草(くさ)ではない
音が基でありそれに漢字を当てたからまぎらえあしくなる。それは北海道のアイヌ語に漢字を当てたのと同じである

伽耶(かや、伽倻または加耶とも)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょこく)は、1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国々を指す。

毛野氏の浮田国造鹿我別王が将軍として派遣されていたことが重要である。なぜならなぜこの相馬地域に浮田国造が置かれたのか
それはまた伽耶国と関係していた。それが重要なのである

みちのくの真野お草原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)

この歌の草原とはカヤハラのことでありカヤに草を当てるからわかりにくくなった。つまり草八国とは伽倻八国のことである。
となれば草原は単なる草でもないし萱が茂っている地でもない
国名だとなる。それは毛野氏が伽耶国と深くかかわっていたからだとなる。

とにかく伽耶とは日本が支配した日本の一部であり密接な関係がある。最近前方後円墳が伽耶地域から発見されたことでもそうである、任那に日本府があったし天皇も伽耶の出だというのもそうでらる。
だからこそこの地域が深く伽耶と関係して真野の草原の歌が生まれたのでありその背景は伽耶と密接に関係していたのである
韓国伽耶地域の地名が日本にも移されている。近江の真野とかの地名も移されている。笠とあるはこれも漢字を当てたのでわかりにくくなる。笠とは加佐という韓国の地名なのである。
埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣に
加差披余となっている。カサヒヨは元の音でそれに漢字の当て字になるから誤解しやすいのである

だから笠女郎は渡来人系だともなる。伽耶の王子のツノガノアラシトノアラシトでもアラは阿羅国があり地名から出て荒になり毛野のかが別と荒田別がいたとしてこのアラからきている。つまり渡来人系統伽耶国からでているとなる
また唐神という地名がここの真野郷にあるが唐は韓であり中国ではないのである。仏教が韓国を通じて入って来たからである。
とにかく日本の古代史は伽耶と密接関係がありそこが起源になるから伽耶を知ることが大事にになる
洛東江は大河でありそこを電車で下ってきたことがある、この流域に伽耶の国があったのかと春の日に思ったのである。一つの日本の故地でもあったとなる

●長野県の安曇野の八木氏犬養犬飼氏の跡

新撰姓氏録に安曇宿禰(あずみのすくね)海神綿積豊玉彦神の子、穂高見命の末なりとある
その穂高神社の神官に犬養犬飼がいた。新撰姓氏録を参照すると
安曇犬養連がありそれは海神大和多罪(おおわたつみ)の三世孫
穂己都久命の後なりと記されている。ワタツミの子がホタカミその孫がホコツクということになる
穂高神社の神官でもう一つ注目すべきは和田氏である
本姓は倭太(わた)である。

犬飼の地名として下高井郡の野沢温泉は犬飼の湯と呼ばれ郡内に犬飼の地名がありその他八木、波田、畑、、、、は海洋民に由来する

信濃川を下流から上流までたどってみると河口付近から源流近くまで海洋民ゆかりの地名が点々と連なっている

全国を見渡すと福浦、福良,吹浦とあり海人族とかんけいあるらしい。三原郡阿万(あま)に福良駅がある。三原郡には養宜(やぎ)
郷もありこれは安曇氏の八木造と幡多郷があり幡多(はた)は魚の総称のことであり朝鮮語のパタに通じ海人族の居住地名と考えられる
波多、波多、波太、幡太、八多、八太、飯田、半田・・・さらに北部九州では畑の地名が海人関係と並んで多数存在する、これは海を意味するかもしれない。

丹後の海部については丹後加佐郡に海人関係の式内社として与謝郡龍神社(この神社).宇良神社が鎮座する
海人関係を拾えば舞鶴市(和田、加佐郡)に和田、八田、大江町、宮津市に由良、畑、加悦(かや)町・・・とかある

龍神社(この神社)が『延喜式』で山陰道唯一の官幣大社に指定された丹後国一之を宮で総社を兼ねるようになったのも同社の古さを物語る
この社を奉斎した祝部海部直に代表される丹後地方の海人集団の実力が想定されなえばならない

海人の伝統ー日本の古代ー中央公論社ー大林太良編


犬飼(犬養)の地名について考察した。それは安曇氏系統の犬飼(犬養)であり海人族である。また龍神社でも松川浦の原釜にあった。つまり海人族の跡が濃厚に残されたのがこの辺である
その基は九州の福岡にあったとしてもその後拡散して瀬戸内海から大阪から尾張の名古屋から静岡県と拡散したのである。
小高に角部(つのべ)とあるときこれは伽耶国の王子ツノガのアラシトからきているし福良も福浦と小高に地名がありそれも海人族の跡さとなる。そもそも畑がパタであり朝鮮語で海だというときそれは海人族でしか発想できない、海で魚捕ることで食料を得られるから畑で食料が得られるから畑でも海と同じだとなった

そしてなぜ犬飼なのかとなると犬に魚を与えて養ったからだというのも何か納得する。
ともかくなぜこれほどか海人族が日本列島にかかわったのかそれは四方が海に囲まれていたから海を渡ってきた人が入ってきたのである。その人達が内陸の山の中にも入って来たのである

「厳々(みつみつ)し 久米の子らが 粟生(あわふ)には 香韮一本(らみらひともと) 其根(そね)がもと 其根芽認(そねめつな)ぎて 撃ちてし止まむ」

「厳々(みつみつ)し 久米の子らが 垣下(かきもと)に 植ゑ山椒(はじかみ) 口疼(くちひひ)く 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ」

「神風の 伊勢の海の 大石に 這(は)ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ」

この歌は焼畑でとれるものであり日常生活で親しいものであった
生業として焼畑があり漁業もしていた人たちが海人族である
細螺(しただみ)いうのは漁業とか海で生活する人がかかわるもである。つまり久米族は海人族であり神武天皇軍の東征は海人族が先導したのである
それに安曇族が関係していた。だから神武東征とは海人族の安曇族の移動が下敷きになっていた。それで日本尾いたる所にその跡を残したのである。

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海人の伝統ー日本の古代ー中央公論社ー大林太良編

●真野古墳群から発掘された20人ほど乗る船の絵の謎

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こちらから草に火をつけて敵の方に火勢をしりぞかせた。そこを脱出してからその国造どもをみな斬り殺して、そして死体に火をつけてお焼きになった。それゆえ、今日その地を焼津やきつというのである。
 さねさし 相武さがむの小野に 燃ゆる火の 火中ほなかに立ちて 問ひし君はも

(さねさし)の相模の野原に燃え立つ火の、その炎の中に立って、私の安否を尋ねてくださったわが夫せの君よ)
その后の弟橘比売命おとたちばなひめのみことという方が、「神の怒りをしずめるために、私が皇子みこの身代わりとなって海にはいりましょう。皇子みこは命じられた東征の任務を成し遂げて、天皇に御報告なさいませ。」と進言して、海にはいろうとなさり、


日本武尊は上総かみつふさより転じて、陸奥国みちのくにに入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦あしのうらを廻り、玉浦を横切って蝦夷えみしの支配地に入られた。蝦夷の首領島津神しまつかみ・国津神くにつかみたちが、竹水門たけのみなとに集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、従った。

竹水門がタカ港ともされる、式内社の多可神社があり高倉神社が南相馬市の奥の山の方にある。
そしてなぜ南相馬市の原町区に綿津見神社がこれほど多いのか、これは何なのかとなる。それで海人族の安曇氏の後裔の八木氏と犬養氏がこの地で地名化していることで明らかに安曇氏ではないにしろその後八木氏とか犬養氏が関わったことは確かである
ヤマトタケルの神話は安曇氏など海人族が日本全国に移動したことが下敷きになり後にヤマトタケルの遠征として創作されたともなる。

それでなぜ20人も乗る船の線刻画がこの地に残されたのか、それは誰が描いたのかとなる、海人族であることはたしかである
ただ
海人族でも物部氏でも船を作り操作する軍事氏族であった。それが安曇氏系統なのかどうかわからない、何故なら時代的に合わない、古墳から発見されたことは相当に前になり安曇氏の後裔の八木氏とか犬養氏が進出するのはその後になる。
ただ南相馬市の原町区であれ鹿島区であれ小高区であれ海人族であれ渡来人が深く関係していた。だからこそ20人も乗る船の絵が発見された。20人も乗るということはかなり大きな船であり外洋でも航海できるともなる。

古代では無理だとされているがつまり真野の草原は大和王権が蝦夷征服した北の境界戦でありそれで真野の草原は中央の奈良に知られたからである。ただここが船で来る限界地点であったかもしれない。気候的にも相馬地域は温暖であり奄美大島から種が流れ着いてマルハシャリンバイが海老村に自生した南限の地でもありそれで気候的境界戦になっていたこともある。
だからヤマトタケルの神話も全部想像で作られたのではなく何らかの事実があって作られたとなる。



引用が長くまた図も載せた、これは著作権違反になるのか?
でも和歌山県の和田の地名を大文字で和田として20くらいあると書けば著作権違反にならないかもしれない、ともかく著作権はめんどうである













posted by 天華 at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

キツネが一匹近くの道路で死んでいた 【全国的にキツネが増えている】


キツネが一匹近くの道路で死んでいた

【全国的にキツネが増えている】

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飯館村では数匹のキツネを見た


18年からキツネの情報を収集している県立自然博物館(海南市)によると、紀ノ川流域の住民から「キツネを何十年ぶりかに見た」「何年も住んでいるが初めて見た」などの声が寄せられているという。さらに交通事故に遭ったとみられる死骸も複数見つかっている。

専門家は、キツネが都会の真ん中に姿を見せるようになった理由を「屋外に生息するキツネの数が増えると、人間が生活する都市部にも進入してくるキツネが増えてくる。 空き家や緑の多い公園に巣を作って、すみついてしまう」と話す。

「レッドデータブックなごや2015」では、キツネの都市動物化についても触れられてますが、実際 桃花台ニュータウン内にキツネが生息してることを考えると、名古屋市内でも都市部にもキツネが生息範囲を広げる可能性は高いのではないかと。


今朝右田の方に行ったらキツネが死んでいた。交通事故なのか、あそこは車が通らない道である、でも交通事故なのだろう
またキツネと犬は見間違い安い、でもこれはキツネである
ネットで調べると全国的にキツネが増えて市街地にも出てきている報告がある。
飯館村でもキツネを何匹か見た。飯館村の場合は原発事故の避難区域になり空家が多くなり猿も人を恐れずでてくるとかある

ただ街中でキツネは見なかった。だからキツネが増えていることは確かである、一時減ったのは伝染病のためらし、それと全国的に空家が増えたことも関係しているかもしれない、空家に住み着くなればそうである。
とにかく空家が街中でも増えているからである、いずれにしろ人間が減ると野生動物でも増えるとなる

キツネは昔ニワトリを襲ったとかの話を聞いたし身近なものとしてあった。キツネにだまされた昔話も多くあるから人間と関わる親しい動物だったのである
何か熊がスーパーに隠れたとか話題になった、野生の動物が街中に出てくる原因は何なのか?餌不足なのか、キツネの場合は増えたのはなぜなのか、空家とか空地が増えたためなのか、それは人間の方の変化が野生動物にも影響したともなる。

ともかくインターネットの便利なのは全国のニュースが検索できることである。キツネで調べると全国的に増えていたのかとわかるからである。また地域のことが別に新聞社でなくても個人的に報道できるのが強みなのである。無数の地方新聞社が存在するともなるからである

posted by 天華 at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年12月04日

山を聖なるものとした宗教は世界共通 【現代文明は大都市からはカルトとか異常なものしか生まれない】


山を聖なるものとした宗教は世界共通
【現代文明は大都市からはカルトとか異常なものしか生まれない】



聖なる山

山は聖なる場シナイ山に
モーゼは十戒を神より授かる
その荒寥たる厳格なる山々
山は神より啓示を授かる場
ギリシャのドルフィーの高みに
清水は山より流れ落ちて
神殿の柱はもの寂び古りぬ
ここに巫女は神より啓示を受けぬ
山は深く黙し鎮座する
崇高なる山を仰ぎ心も高なる
日本の山伏は尾根を伝い修行する
六根清浄を唱え身を浄める
山々の重なる深い奥処
神は人を拒み隠れ棲む
重なり連なり聳える山
山と山は力強く結び合いぬ
地球創成の太古の紐帯
億年の風雪に鍛えられた山
地球の歴程が刻まれた山
山は力強く威圧する
荒々しく人を寄せつけず
山唸るその底から虎のように
神は不浄を拒みその中に住み
そして未だ見ぬ神秘の花を秘めて咲く

智は、鳩摩羅什訳の『法華経』『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』、そして『涅槃経』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。

天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった

さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

天台宗

日本の仏教は天台宗から始まっている。近江の比叡山がその本拠地となった。天台宗は天の台であり山岳宗教だった。だから山で修行した。そえは山自体を聖なるものとするものがありそうなった
奈良の三輪山は何を礼拝しているのかというと山そのものが礼拝の対象なのである。そこに礼拝すべきものがないからである
山が御神体のようになっていた。
それが世界的に共通しているものがある、シナイ山でモーゼが10戒を授かったのもそうである。シナイ山に登ったがこには1本の木もないし草もない岩石の山である。砂漠の山は大概同じである。だから荒寥としている。

またギリシャのゼウスが住んだオリンポス山も雪に覆われて高く本当に聖なる山と感じた。いかにも神が棲むにふさわしいと感じた。デルホイの神殿も山の上にありそこが中心となり巫女が神より啓示を受ける場所になった。だから人間の感覚として山に聖なるものを感じたことでは世界で共通している。共通の感覚をもっていたとなる。

だからこの辺で福島県でも霊山は僧侶が修行する場でありその後に南朝の拠点になった。学問岩とかもあり何かそこで学んでいたとなる。でもそこは戦場となり炎上した。
それから山形県の山寺でもやはり天台宗の僧が修行した場所なのである。つまり山を聖なる場として修行した。それは江戸時代でも修験者がいて山で修行した。山伏がそうであり法印の墓が小さな村でも町中でも必ずあることでもわかる。六根清浄を祈り修行したのである、山で霊力を身に着けるということがあった。
そのがの鎌倉時代になっても念仏を唱える親鸞の真宗とかがうまれたのも実は天台宗の比叡山で修行していたからこそそこでヒントを得て念仏を唱えることになった。日蓮でもそうである。
天台宗を基にしていることは共通しているのである

だから現代の宗教が東京という大都会から生まれているというときそれがカルト宗教となった。ただ創価でもオウムでも富士山にお山にお参りするとかあったかたやはり山を聖なるものとしている伝統が続いた。ただ創価は団地の宗教と言われる如くそれは地方から出てきた人たちが仲間作りして政治団体化したのである。
だから選挙宗教にもなった。権力奪取を目的とする政治団体化した。それは本来の宗教的要素がない、ただお山参りとして富士山の本山に行くというのは山で身を浄めることがありその伝統を受け継いでいたのである。

天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される

題目をあげるということとは天台宗を基にしていたのである。
それが狂気のように御利益現世利益を求めるカルトと化したのである。何ら宗教的なものがないのである。
何か身を浄めるとか教えない、毎日御利益を得るために狂気のように祈るだけなのである。山で修行することは山の清浄な気に触れて身を浄めることである。そいうことが一切ない、ただ現世利益と御利益を求め祈るだけだとなる、それが宗教として通用したということも異常であった。何かナチスとも似ていたのである

だから古代であれ人間の感覚として世界共通なものがあり聖なる山への信仰があったことはそれは正常だったのである。
人間はそうした聖なる感覚を文明化で失ってきたのである。
だから文明自体が大都会自体が何か返って異常なものを生み出すし犯罪の温床にもなる、そこは連関なき社会であり人間がアトム化した荒野なのである。そういう場所から何は生まれるのか?
異常化した世界でありオウムのような異様なものも生まれる
つまり東京自体が異常であり異常なものを必然的に生み出すのである。それは山を聖なるものとして修行した人達とはまるで違っていたのである。そこではロゴスが言葉も通用しなくなっている

混沌カオスでありだからこそハイルヒットラーのナチスが生まれたとなる。
人間の精神の修養とかはない、ただ物質的なものの追求なのである。高層ビルにしてもそれがあまりに大きいから人間的なものを逸脱して人間の精神が作用しないアイデンティティ化できないのである。
それは恐竜のようなものに感じる。巨大というだけでそこに精神は宿らないのである。建築でも古代であれギリシャの神殿であれそこに精神性を感じる。キリスト教の聖堂でもイスラム教のモスクでも精神性を感じる。だからアテネの学堂という絵は建築と人間が一体化して建築が人間に威厳を与えている。現代文明は人間と建築は分離して建築が人間を圧倒して人間を卑小化している
そして人間はただ数となり大衆化してそこに人間の威厳は失われたのである。

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建築から見る歴史(アテネの学堂-詩)

2024年12月03日

明治維新と東北−文化の時代の変化 【なぜ少年兵が戦い死んだのか?−強固な侍共同体があったからー失われた共同体】


明治維新と東北−文化の時代の変化
【なぜ少年兵が戦い死んだのか?−強固な侍共同体があったからー失われた共同体】

●地理から見る東北の戊辰戦争

なぜ戊辰戦争戦争で東北が薩長軍に蹂躙されて敗北したのか
その第一の理由として地の利があった
情報を得るのに江戸までも遠く京都になるとさらに遠い
その時情報を得る手段は人伝いであり何が起きていたのか対処が遅くなる。

臣不肖ながらもとより朝廷に抗し奉る存意は毛頭ありませんでしたが遠境隔絶の地に在しておりましたゆえ、春以来の天下の形勢に疎く恐れ多くも宸襟(天子の心)を悩ますに至った次第です

同盟軍を主導した仙台藩伊達慶邦が新政府軍に提出した謝罪文

仙台に奥羽鎮撫軍なるものが到着した時点でではその鎮撫軍はそれが官軍であり新政府軍の認識があまりなかった。
薩摩長州軍であり政府軍とか天皇の軍と戦うという意識はなかった。これも京都とか江戸が遠くて正確な情報を得られないためであった。そもそも江戸時代とかなると何かを正確に知るにも人伝いであり遅れる、その遅れることで知ることができないことで対応が誤る。それが東北の諸藩にあった
薩摩長州は海に面して交通があり薩摩藩では中国と貿易していたり外国の船が身近に来てイギリスと戦ってもいた。また貿易で財政が豊かであり海に面していない会津とか他の藩でも米を主要な財源としていたのと違っていた。
ただ庄内藩は酒田港があり最新の銃を知れていたりして唯一薩摩長州軍と互角に戦った。地の利がありそうなった

また二本松市の地理は複雑である、城のある場と町人の住む場所は山で隔てれ簡単に通行できない、分離しているから町人のこと知らず武士的なものが純粋培養されて少年隊が悲惨な最期を遂げたいう指摘もある。それは地の利がそうさせたとなるのか、確かなことは二本松城は山城でありそれが影響したかもしれない、山に籠る山を守るとかなり薩摩長州軍に抵抗したとなる

二本松は明治維新後二本松県になることまった。丁度福島県の中心にあった。でも平地がないので福島市と郡山市が発展した。福島市に県庁があり郡山市は経済の中心地となった。それも地の利が影響していたのである。地を離れて人もないのである。
薩摩長州軍と東北連合軍が戦ったのだが棚倉町が決戦の場所になったの地の利が関係している。なぜなら古代に蝦夷はツガルまで参加して大和王権と戦ったからである。白河ではなく棚倉町が戦いの場となった。相馬藩士もそこで戦い死んだ人がいる。それが戊辰戦争戦でも再現されたとなる
つまり地の利がそうさせたのである。歴史は地理と不可分なり地理がわからないと理解でできない。特に東北は江戸や京都から離れすぎていたから当時の情勢にうとく判断を誤ったとなる。臨機応変に対応できなかったのである。

●二本松藩と会津藩の戊辰戦争戦争の相違

会津藩と二本松藩の相違は会津藩は女性が戦い戦死した。少年も白虎隊で戦ったが女性が戦ったことが違っていた。何故なら戦国時代でも子供女子は逃がしていたからである。だら二本松藩では子供女子は逃して死ぬことはなかった
もう一つは会津藩ではあれだけの被害があり薩摩長州軍と必死に戦っていたのに町民でも農民でも傍観していた。それより会津で年貢の負担に不満がありその時好機とヤーヤー一揆を農民が起こしたのである。つまり侍と一緒になり城を守るという意識はそもそももっていなかったのである。誰が支配者になるにしても年貢の負担を減らしてくれれば良かったとなる

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戒銘石

でも二本松藩では善政がしかれていたのでそいうことはなかった。こういう意識が藩内にあった。ただそれでも江戸時代は城があっても戦い死守するのは侍であり農民町民は戦い守る意識はなかったのである
それが中国であれヨーロッパであれ大陸国家また都市との相違である。なぜなら中国の万里の長城のように絶えず異民族の侵略がありその時兵士だけではないすべての民が蹂躙されて負ければ奴隷にされる歴史があったからである。その恐怖を共有していたのである。ヨーロッパでも市は城壁で囲まれその中で安全を保ち生活する。だから城壁内で死生を共にする連帯が生まれた
それでシテズンシップが養成されたのである、だから敵が攻めてきたら市民是認で戦うのである。農民で市壁の中に逃れて戦うとなる。日本では侍集団のみが戦うのであり別に侍と共に戦うことはなかったのである
ということは市民が日本にはいなかった。だから市民社会もないのだから大陸国家を根本的な所で理解できないとなる
教育にしても侍と農民と町民は別である。侍なら侍とはいかにあるべきかと武士道を自ずと身に着ける。でも農民であれ町民は読み書きソロバンができればいいとなっていて武士道など関係なかったとなる

また悲劇を生んだのは銃器の差だった。会津藩であれ二本松藩であれ旧式のもので大砲もなかった。だから武器で太刀打ちできなかった。ただ庄内藩では酒田で貿易をして最新の銃を知れて薩摩長州軍と互角に戦った。酒田は海に通じていたからそれができたとなる

●人間はその時代社会の影響で作られる

江戸時代というとき現代と比べると大きな相違は侍社会であり侍が力でもモラル的にも導いた。また厳しい身分社会でありそれを脱することはできない社会だった。
だからこそその身分でも上級侍と下級侍では差があり不満があり明治維新は下級侍が中心になり変革した
それで奇兵隊が高杉晋作が組織化したけどそこには町民でも農民でも侍でない身分の者が参加したことが画期的だったのである
強烈な身分の縛りから脱するものとして明治維新があった。

だからこそ足軽に養子になった伊藤博文が首相までなったのである。江戸時代ならありえないことだったからである
この身分社会がどいうものか理解できなくなった。でも相馬野馬追はただの過去を偲ぶ祭りではない。身分社会が現実に再現される祭りなのである。だから見る者は下位のものであり馬上にお侍を見上げる。その時明らかに侍と下々の者の差を意識する
要するにヨーロッパの貴族であり身分社会であり強い身分の縛りががあり生まれた家でその一生は決められる。
だから侍社会があり共同体がありそこで武士道のモラルが家であれ養成された。武士はかくあるべきだと日常の生活で体得したのである。それは部分的なものではなく武士の規範が社会全体に通じる社会だったとなる

それはギリシャのポリスとかでもそうである。ポリスが一万くらいでも強固な共同体でありそこで民主主義が培われたというときポリス共同体があったからできた。ただ矛盾が奴隷階級がヨーロッパには常に存在していて一般の庶民と分離していたのである
ともかく何か人間を育成する時それは一人の人間がいかに優れていてもできない、それは全体が影響して形成されるからである。
現代はそういう共同体が失った時代である。絶えず語られるの経済のことであり政治のことであり科学技術のことである
そして膨大な知識が詰め込まれるのが学校でありまた社会である
そんな知識をとても消化できないのである。そこに人間はどうあるべきかとか関係ない、とにかく得すること知識を得て金を多く得る人が模範なのである。そこにはモラルでも関係なくなることが怖いのである。だからもはや人間を教育する場がない、大学でもそこは文系なら遊びの場だとか暇つぶしのモラトリアムの場だとかなる、大学教授は研究する人であり教えなというのも不思議なのである。そこで学生運動がうまれカルト宗教団体がナチスのように席巻する恐怖になった。

●巨大国家から都市から文化は生まれにくい―文化の時代に変化

つまりそれは共同体の喪失の結果だったのである。グローバル経済があったとしてもそれは共同体ではない。ただそれで人間形成にはならない。そこで力を持つのは金だけになる。モラルなき経済なのである。そこにあるのは世界的部品化でありばらばらの出界なのである。何か全体を生きることができない全人間として生きることができない世界である。マルクス流にいえば人間の商品化なのである。
もちろん江戸時代がすべていいものではなかった。ただ現代と比較する時見えてくるものがある。
要するに小規模なポリスとか要するにの中世と都市とか小国にこそ文化はうまれ人間はまともに形成されたとなる

中国であれロシアであれ国が巨大だと返って統一がなく濃密なアイデンティティは形成されない、一極集中の帝国主義になる
現代は経済のグローバル化になったが地域的にアイデンティティを見出す文化の時代になってゆく、アメリカフアーストとかトランプが唱えるのもそうである。グローバル化は文化を作らないのである。自然と人間の一体化アイデンティティ化とかギリシャのポリスとか中世のヨーロッパの市民社会とかまた日本なら江戸時代の侍社会にあった。そこに矛盾がありすべて肯定することはできなくても何かモラルが共通のアイデンティティが形成された。
だからcultureはその土地土地を耕す(culutivate)から出ている。文化の時代になるというときアメリカであれ中国であれロシアであり国土も巨大過ぎてアイデンティティ化できないのであり文化が生まれにくいのである。

現代の荒廃はなぜ生まれたのか、どうしても一千万の東京は何なのだろうというときもはや理解不可能である。とても連関性はもてない。ばらばらの世界であり統一した世界になりえない、だからこそそこにナチスが大衆を扇動するヒットラーが生まれたとなる。それはカルト教団がそうでありただ数だけを集めることが目的として大衆を支配するのである。それにマスコミが加担して大衆をパンとサーカスで娯楽を与える、無思考人間にする
だから現代は大衆が力を持った時代である。でもそこから文化は生まれない、かえって小規模な都市からでも文化は育まれるのである。

参考にした本ー数学者が見た二本松戦争ー渡辺由輝





冬に入る相馬の城下町(紅葉映える黒橋)―俳句十句【晩菊、紅葉、冬に入る、冬星座】


冬に入る相馬の城下町(紅葉に映える黒橋)―俳句十句【晩菊、紅葉、冬に入る、冬星座】


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【松川浦】


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磯部村このような砂州の上にあったが津波で消失した


相馬市や晩菊五色城下町
城下町紅葉の映えて門を入る
黒橋に紅葉の映えて登城する
黒橋に紅葉の散りて上るかな
城下町散りし紅葉や夕暮れぬ
組合す石の堅しも冬に入る
組合す石の堅固に冬星座
冬の灯の灯り合うかな城下町
松川浦冬夕焼けやひびく波
夕暮れて白鳥飛ぶや一番星
主逝く大石残し冬の星

相馬市は城下町である、でも城ないしどこが城下町なのかとなる。石垣があり丘の上に城があった。でも館のようなものであり最初は天守もあったらしい、でも普通の人はここがどうして城下町なのかとなる。町割りは碁盤の目のようになり城下町としての名残がある、6万石であり規模が小さいからそうなった。

また相馬藩で不思議なのはなぜ華麗な野馬追行列がありうるのかとなる。それは街から出ない郷士であった農家から出ている
それでもやはり城下町であり原町とは雰囲気が違うのである。
それがいつも不思議になる。それで晩菊でも華やかに5色になるのを見た

城に上る黒橋に紅葉が映える、それもあっている。あそこは急だからやはり城に攻められないような構造にはなっている
それにしても何か物語にも欠けているし昔が偲べないのである

それから松川浦をまわり磯部に出て六号線を帰って来た
磯部村は津波で消失した。それも13年過ぎている、磯部村は一番被害が大きかった。

白鳥が夕暮に飛ぶのを見た、白鳥は場所変えている。あんなとこrにいたのかと見るからである。


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2024年12月02日

人は誰しも価値を認めてもらいたい―冬に入る、冬の菊 【家族の価値、故郷での価値‥価値は多様】


人は誰しも価値を認めてもらいたい―冬に入る、冬の菊
【家族の価値、故郷での価値‥価値は多様】

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今はこのように群像になりにくい、ばらばらになっているからである
農民社会だったら群像になりやすかったとなる、同じ職業になるから共有する
それで一体感を持ちえたとなる

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我が母の嫁ぎて長し冬の菊

玄関の曇りガラスに映りける冬の紅葉や母を想いぬ
大らかに笑いし姉の我が家を守りて長し今なきしも
我が町に働くと老いぬ豆腐屋の女のあわれも残る虫かな
その人今あるごとく重々し岩を残して冬に入るかな
岩一つ空家に残り何をかを語るものあれ冬に入るかな

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人間は誰でも価値あるものでありその価値を認めもらいたいのである。その価値も多様であり家で価値あるものがあり故郷という範囲で価値を認められるものもある。
だから田舎では農民の顕彰碑が多い、でもそれを今見て価値を見出す人がいるのかとなる。また戦争で死んだ人を記念する石碑があっても上等兵とかの墓があってもそれに注意してその価値を今認める人がいるのかとなる
人間は死んだ時点で休息に忘れられてゆく。ただ私の家族が忘れられないのh60年も子供の時から一緒に暮らしていたからである。母は目立たない人で働くばかりの人だった。
だから冬の菊とか冬紅葉がにあっていた。姉は外交的であり大らかな人であった。性格は全く正反対だった。でも私はこの二人の女性に育まれて一緒に暮らしたのである、だから忘れれないし死んでもやはり依然として残るものがある。

最近死んだ男性も別に親しいということでもないが知っていた
それでその家には立派な岩がありその人はがっちりした体で岩のようでもあった。その家も庭もトラック運転手で人の倍の荷物を運び20代で建てたのである
だからいつも自慢していたこともわかる。今20代でローンなしではとても建てられない、私の家も新しく建てたのはローンではない、400万くらいで大きな家を姉と母で建てたのである、その時はまだ大工の手間賃が安かった、でもすぐその後に倍とかあがっていった。そして私はその家を継いで住んでいられるのも姉と母の御蔭なのである。

何故二階の家を建てたかとなる水害で前の平屋のトタン屋根の家が破壊されたことで逃げることができないで危険な目にあったからである。場所が悪く低い土地にあった。だから今でも大雨になると下水から水があふれて家まで入って来たのである
その後も床上浸水している、でも河川改修してからは洪水にはならなくなった。何か一つ一つの家に歴史がありそれが郷土史にもなる。ただそれも空家化しているからその歴史も失われるのも問題である。

人間は死んで終わりではなくその後も価値を認められたいのである。それでこそ価値を認められて成仏するとなる。ただ死んでも何も家族でも語られないとしたらその人は浮かばれないとなる。
ただ近くでも今何をしているひとかわかりにくい、だから故郷でも価値がわからない、それで30年前殉職した消防隊員の記念碑があったことはその人の価値が認められているから成仏したとはなる。

とにかく人間は死んですべてが終わるわけではない、生き続けるものがある。それが歴史だとなる、historyはストリー物語だからである。それでも何も死んでから語られないとしたらその人は本当に死んだのかともなる。長く語られつづければ生き続けるともなる。だから消防隊員でも石碑に記念されて残ることは価値あるものとして残されたから成仏するなる

ネットだと細部が報告できて価値を乱し認める。でもマスコミは全国民が相手になるから細部は報告できない、プログでは全然注目されないことを報告できる、何か個人的なものでも語れるのが特徴なのである、マスメデアはオールドメデアになったのである

古い碑が語る故郷の昔−
消防隊員が殉職した碑【秋の暮、菊、柿、冬に入る】

ノブレス・オブリージュとは何なのか 
【大衆社会で失われたものー公務員も尊敬されないのでやめる人が増えた】
命がけの仕事なのに文句ばかり言わる消防隊員の不満の怖さ






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2024年12月01日

岩と文目の詩ー夫婦をイメージする 【人間は見ること記憶することが仕事でもある】


岩と文目の詩ー夫婦をイメージする
【人間は見ること記憶することが仕事でもある】

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岩と紫菖蒲

重々しく夫は岩のごとく
その片へ妻は従順に貞節に
紫の文目のごとく
その色を濃くして
夫に添え夫に仕えぬ
夫は岩の如く動かず
二人を目合わせしは神なり
かくて歳月を重ね夫婦は
互いに欠けたるものを補い
契りの堅く離れざるかも
静穏な日々を重ねてこそ
有意義なる実りはあるべし




人間の心にも様々な作用がある。その最たるものが観ることである。人間は見て認識することが基本にある
では花を見るというとき本当に花の美を見ることができるのか
何か人間は何かを理解することでもまた見ることでも一回くらい見ても分らない、忘れてしまうだろう。だからどうしても旅となると表面的なものしか見ないとなる。それは一回しか見れないからそうなる。

私は40年前とか河川改修するまえの土手の道を歩いていた
そのとき草叢に菖蒲ではなく日本に自生していた文目を見ていた
そして薬師堂があり白いツツジに覆われていた記憶がある
その薬師堂は別な場所に移された、何かあの頃は自分の一身上でも平和な恵まれた日々だった。
私は自由にいつも散歩していた。でも激変は津波と原発事故とまた家族の病気の介護と看取りがあり激変したのである
そして家族もみんな死んだのである。でも平和な日々が長かったのである。一般的にそんなに変化はないのが普通である。でもその平和な時に何か花を見ることでも深く見れるとなる
だから何故今頃思い出しているのか不思議だとなる。
そんな前のことなら忘れるからである。だから人間の記憶は謎である。そんな遠い前のことを思い出すのが不思議である


水に映る紫の菖蒲の花が
池の水底に映されて
その花を私の脳裏に記憶される
それが随分時間が過ぎてから
またその花のことを心に見る
あなたの心に何が映るのか
日々の暮らしのなかで
静穏な暮らしの中で留まる記憶
あなたの心に映るものを知るべし

The purple iris flowers reflected in the water
Reflected on the bottom of the pond
the flowers are memorized in my mind
After a long time has passed
I see the flower again in my mind
What is reflected in your mind
In my daily life
A memory that stays in the quiet life
You must know what is reflected in your mind



deeplel翻訳したものであるがpond-mindが韻を踏んでいる、だから詩にもなる
AIが詩を作るが韻を踏むとなると簡単におできない、これは偶然にそうなった




人間最後に残るのは思い出だけ記憶だけだというときそれは平凡な日常の積み重ねが人生でありその時間のなかに記憶される
一割くらいは何か激しい変化があったとしてもあとは平凡な生活の繰り返しである。でもその平凡な生活の中で記憶されるものがわすれないとなる。ただ自分の住んでいる場所が記憶に残る思い出すというときやはり変化しても変わらないしイメージできるからだとなる。場所と一体化しているから思い出しやすいのである

ともかく岩があり文目が咲きそれが一体化する。それが夫婦にも見える。岩は夫であり文目は菖蒲は妻となる。その時岩と花とは一体化する。人間は自然の事物でも人間化する。
自然でも人間的価値を付与して自然は活きる。名前を付けること自体が人間化していることである。エデンの園では人間は植物であれ名前をつけるこをしていたというのもそうである
名前をつけることはその特徴をとらえて記憶することにもなる。
だから名前を付けることは誰でも詩人になっているとなる


2024年11月30日

文目(あやめ)と菖蒲の相違【その内面化した短歌】

文目(あやめ)と菖蒲の相違【その内面化した短歌】

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紫の色の濃くして草深き田舎の道に文目咲くかな
雨しとと岩の鎮まり紫の菖蒲の心に沁みて咲くかな
池映る紫の菖蒲ひそかに水の波紋かすかにたちぬ
ひそけくも人のあれかし文目咲く時に歩みぬ人まれにして



「あやめ」の名の由来は、「花びらに網目の模様があったことから、文目(あやめ)と呼ばれるようになったといわれています。

一方、「しょうぶ」はその昔、飛鳥・奈良時代には「あやめぐさ」と呼ばれていた歴史があります。「しょうぶ」を「あやめぐさ」と呼ぶようになった理由は諸説ありますが、「しょうぶ」を使った邪気払いの儀式をしていた女性を「あやめ」と呼んでいたことが理由といわれています。

あやめ / 菖蒲、文目、綾目[アヤメ科]
・花びらの根元に網目模様がある
・葉脈は目立たず、細長い
・畑や草原など乾燥した場所に群生





文目は野に自生しているものであった。乾燥した地に咲く、一方菖蒲は池などの水際に湿地帯に咲く、文目は日本に自生していたが菖蒲は中国から入って来た。今大概見ているのは菖蒲であり花が大きいのである。私は川の土手とか歩いて文目を見ていた
そこは確かに乾燥していたのである。山の方でも崖の下に咲いていたりと水がないところにも咲いている。
ただこれは混同しやすいのである。今大概見ているのは菖蒲である。

ともかく文目はより繊細な感じがする。花びらも小さいからである、何かそれで細身の母に似ている、私の母は内気であり陰の性格でもあり自分もその性質を受け継いでいる。遺伝は逆らえず現れる。
つくづく私は混雑した人混みの都会はあっていない、誰も通らないような田舎の道を一人歩いているのが向いている
そこでアヤメをみていると心がなごむとなる

この心境を絵で表すのはむずかしい、絵では人間の心すべて表せない、内面的なものになると言葉が必要になる。
花を見る鑑賞するにしても都会ではできない。野の花は野に咲いている時映えるからである。草深い田舎に咲いている時映える
ごみごみした都会では映えないのである。だから花でもいろいろあるが田舎で日常的に見ていないとわからない、文目というのは今は野でもなかなか見れなくなっている。私は前はすぐ土手の道で見ていた。でも今は見ていない、それで山深く入った所に咲いていた。そこは乾燥した所だったのである。
いずれにしろ文目の方は見ることが難しくなっている

花を見るにしても常に見ていないと花を知ることはできない、文目は随分昔に40年前とかに見ていたなと記憶していて思い出している、花でも一回くらい見ても心に残りにくいからそうなる





冬の虹【鍋冠山【ナベカンムリ山】かかる】


冬の虹【鍋冠山【ナベカンムリ山】かかる】

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朝日さし鍋冠山【ナベカンムリ山】に冬の虹

白鳥の群れ飛び山に朝の虹

山の方が雪雲になりそこに虹がかかった。珍しい光景である
鍋冠山とはまさにその名の通りなのである。ただこの辺に欠けているのは高い山がないことである
阿武隈山脈は阿武隈高原でもあり低い山である。新地の鹿狼山でも400メートルでこの辺では一番高い
何か高い山を毎日見ていたら心にも影響する。ここでは高い山がないから何か平凡化する
景色が引き締まらないのである。ともかく朝に風が唸り吹きまた本格的な冬になるのだろう

ネットの醍醐味はリアルタイムで報道する時感じる。今感動したことを時間差がなく伝える
でも見る人はいない、奇妙なのは放送する方が今感動したことを伝えることで一人興奮している
でもリアルタイムで見ている人はいないのである。今は何かそうして気軽に放送できても見る人が観客がいないのである
でも放送する人は興奮しているのである






2024年11月29日

相馬地方の横穴古墳の謎 【鎧兜に馬を操作する渡来人集団の移住】


相馬地方の横穴古墳の謎
【鎧兜に馬を操作する渡来人集団の移住】

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都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと、生没年不詳)は、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物で、加羅国王の息子と言う。

『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。

意富加羅国(大加耶/大加羅、おほからのくに、現在の韓国南部)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

〈御間城天皇(=後述する崇神の名)の世に、額に角のある人が一つの船に乗って、越国の笥飯の浦に着いた。ゆえに、そこを名づけて角鹿という。〉
 「どこの国の人か?」と尋ねると、「額に角のある人」は答えます。
〈大加羅の国の王の子、名は都怒我阿羅斯等。〉…。
 「牛頭の冠」をかぶっていたので角に見えたのでしょう。それが地名の由来で、角鹿は敦賀の古名。笥飯の浦とは敦賀湾の気比の松原あたりです。

 1世紀から6世紀ごろまで朝鮮半島南部にあった小さな国の連合体を伽耶または加羅といい、なかでも有力な国を「大加羅」と称しました。加羅や新羅の最高の官位が「角干」で、訓読みだと「ツヌカン」。これが「ツヌガ」の意味のようです。

相馬地方の蝦夷の謎 (渡来人地名は蝦夷と混血したためか?)

横穴墓の壁画は群馬栃木埼玉などのいわゆる毛野文化圏にはほとんど存在していない、しかもそれらは日本列島の中央部にはあまり見られず九州と山陰それに関東と東北の太平洋岸のみに分布しているものだという。
つまり横穴壁画文化を携えた人間たちは九州から集団移住してきた形跡がある。その移動経路は当然海路であったろう。各地の横穴壁画に船の絵が多いという事実がそのことを物語っている。
横浜墓を営んだのは侵攻の有力農民層であり彼らは濃厚集団とあると同時に武力集団騎馬集団であったことはすでにふれたが彼等はまたこう航海集団水軍集団でもあったのである

こうした横穴墓は普通数体の遺骸が納められていることから家父長個人の墓ではなく家族墓であったと推定される。副葬品には従来の古墳のような銅鏡は見当たらないが玉類や金は見られ特に目立つのは鉄製の窯、斧、直刀、矢じり、轡、鐙金具などの農具である。
彼ら群衆墓に葬られた人々は農民層であったと同時に日常的に武装した武力集団騎馬集団であった様がうかがわれる。

彼らは大和政権の覇権が北関東東北の浜通りに及ぶずっと以前からこのうち根付いたパイオニアだったのだだから彼らとても大和政権の支配者に言わせれば単なる野蛮な蝦夷でしかなかった
【古代東国物語ー永岡治】

横穴系の埋葬施設は、中国大陸(塼槨墓)の影響下に、その波は朝鮮半島の高句麗から南下し百済・加耶、そして日本列島へと伝播した。4世紀後半から5世紀初頭に石積みの石室に現れ、北部九州において横口の石室を生み出し、横穴式石室へと整備され、5世紀は畿内も含み限定的な展開に留まるが、6世紀には列島各地で採用されるに至る。

埋葬思想の独自性〜多様な墓制〜

古墳時代、5世紀後半の九州北部の豊前地域に淵源を持つと考えられている。おもに6世紀中葉に山陰・山陽・近畿・東海地方まで盛行した。7世紀初頭までには北陸・関東・東北南部まで分布した

年代的には4世紀後半から5世紀初頭が想定される。埋葬された人物は、古墳の立地や築造年代からも新田川流域を治めていた浮田国造の初祖・鹿我別命だったと考えられる。しかし、2箇所の棺の痕跡は何を意味するのかなど今後究明すべき点も多い。

そして物部軍はヤマト国に進軍し、出雲王家の分家である磯城王朝を滅ぼし、ここに物部王朝が誕生します。
この武勲により、豊国物部氏には三河の地(愛知県)が与えられます。
なので愛知県には「豊」がつく地名が多いのです。

宝田氏によると、群馬県富岡市にある貫前神社の神官である物部公と浮田国造(鹿我別(かがわけ)王)は同族であるそうです。

北関東に追いやられた豊国物部氏

学会では福島県に安曇氏が来ていたことは否定されています。
福島県の綿津見神社の創建は、中世に建てられたのがほとんどだそうで、古代安曇氏との関連はないそうです

南相馬市にあるほぼ全ての綿津見神社は、江戸時代幕末まで「八竜神」「八竜権現」という社名だったのです!
つまり、南相馬市では竜神信仰、「アラハバキ信仰」が江戸時代幕末まで行われていたのです!




桜井古墳は東海から来た物部氏がかかわった。最初に物部氏がこの地にかかわった。物部吉名という人がいて小高に吉名郷がある。
また鹿島の右田の御刀神社は明らかに物部氏のものである
だから物部氏が一番古く氏族としてかかわったことは確かである。
その割にはなぜ物部氏の跡がないのかとなる、神社もないのである
それでなぜまた綿津見神社がこんなに南相馬市の原町区に多いのかとなる、それは古代ではなく学会では中世のものとしているという、その論文も誰が書いているのかもわからない、綿津見神社と山津見神社はこれだけ多いということ古代に安曇氏が来たという証拠になるとしても確かなことは安曇氏の後継者の八木氏とか犬養氏が開拓に入ったのである。
それが八木沢峠とか相馬市から宇多川を上った玉野村から霊山に行く道に八木原があり石戸村に犬飼という地名がある。だから地名化するくらいだから古い、でもそれがいつの時代になるのかそれが問題なのである。それは古代ではなく中世だとなるのか?八木氏とか犬飼(養)氏は平安時代からでも大きな氏族として継続している

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でも疑問なのはたか神社の脇に綿津見神社が残されてその脇に式内社の立派な多珂神社(たか)神社がある。するともともとそこは綿津見神社がありそこに後から多珂神社が建てられたともみる
第一立派な多珂神社の隣に綿津見神社を作ることはない、つまり綿津見神社の方が古いから新しく立派な多珂神社が作られたと見るのが普通である。
綿津見神社がこれだけ多いのはなぜなのか、いつの時代に建てられたのかが問題である、そもそも古代からこんなに多く綿津見神社が建てられことはない、それを考慮すると古代ではなく平安時代以降となっても不思議ではない、安曇氏自体は消失してもその後継者の
八木氏とか犬養氏は継続して現代まで存続しているからである。

ただ大和王権の支配下に入ったのは南相馬市の鹿島区であり真野郷なのである。真野郷は古代の官製の正式に記録に残されたもである。鹿島の鹿島御子神社は武御雷の神を奉る大和王権の武神である
鹿島区には大和王権がかかわり支配した。だから原町区に桜井古墳があっても真野郷に浮田国造が置かれた。それは大和王権が最初に支配したからである。それで寺内の前方後円墳に金銅双魚佩が発見された。それは中央の政府から有力な氏族から贈与され双魚佩たのである。
だから大和王権に最初に従属した支配したのは真野郷であり鹿島区であり原町区ではない、だからなぜ綿津見神社が原町区に多いのか

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また桜井古墳はなぜあれだけ大きいのか、つまり物部氏がこの地に最初に来て支配して桜井古墳を作る首長が存在した
二つの棺があったというときそれは原町区の勢力の首長と大和王権の真野郷の首長なるものが埋葬されたとなる。
宝田氏によると、群馬県富岡市にある貫前神社の神官である物部公と浮田国造(鹿我別(かがわけ)王)は同族であるそうです。
これは重要な指摘である、つまり桜井古墳の埋葬された二つの木の棺は物部氏と浮田国造の鹿我別王(かがわけ)となる

ただわからないのは安曇氏系統の八木氏であれその人達がこの地に入って来たのはいつなのかとなる。それは古代ではなく中世だとすると確かにこれだけ神社があるのだから中世とかにならないと建てられないとなる。ただ最初は小祠であり神社になったのは後だともなる。

ただ古代の伽耶と海人族の安曇氏とかは一体化していた。伽耶の王子がツノガノアラシトでありこのツノは地名化している
小高の角部(ツノベ)相馬市の松川浦の津神社はツノミツ神社でありツノガノアラシトなのである。それは間違いなく古代に遡る
また横穴古墳に描かれたもの渡来人のものであり鎧に兜をかぶる刀も持っていて馬を操る人でありそれは縄文人とかとはまるで違った先進文化を持った武人である。ではこの人たちは何者なのかとなる。それは韓半島系統の渡来人であり横穴古墳を作った人達である
でも桜井古墳の方が古くそれは物部氏がかあったとなる

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この船は相当に大きい船である。前に8人が確認されるが破片であり全体になると
十数人20人くらいになるのか?梶でも20くらいになる、これは内海だけではない
外洋にも乗り出したのかもしれない、何故なら人数が多いからである

安曇海人ー宗像(宗像)海人、大山祇(わたし)和邇氏

安曇海人ー宗像(宗像)海人、大山祇(わたし)和邇氏は海人族であり和邇氏でもその系統に真野氏が存在していたのである。
つまり航海にたけた氏族である。だからこそ真野古墳群から20人くらいが乗る船の絵が発見された。20人も乗れるということはそれだけ大きな船である。それだけの技術と航海術も持っていたとなる
だから焼畑の技術であれ鉄作りの技術であれ船を作る航海できる技術であれ鎧兜をみにまとい馬を操る人達は縄文人とかとはまるで違った異質な人達だった。だから縄文人は圧倒されて従属させられたことが明確に見える
ただ時代的に時間軸でみるとわからなくなる。

つまり横穴古墳にこのような絵を描いたのは誰なのかとなる。それは物部氏ではなくその後に来た人達であ安曇族系統の人たちになるのかとなる
最初に大きな古墳が作られて次に群集古墳となる小さな古墳が作られる、横穴古墳も家族とか小さな単位の集団が作った
大きな古墳となる桜井古墳でも大きな集団をまとめるものとして作られた、だから二つの棺があったというときそれは誰なのか、物部氏でありもう一人は誰なのかとなる、浮田国造の加賀分け王なのかとなる。大和王権が今の鹿島区の真野地区を支配して原町区の物部氏の勢力と合体した、そこにまた安曇氏系統の海人族がどのようにかかわったのか、海人氏系統の八木氏とか犬養氏は古代から後の平安時代以後にかかわったのかとなる。時間軸で見るのがわかりにくいのである。

そして大和王権が真野郷を支配して真野の草原の万葉集の歌が作られた。その真野の草原(かやはら)とどうしても草原ー萱の原にはならない。

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものをー笠女郎

陸奥の真野の草原のように遠いけれど私にはあなたの面影が見えるというのに…
草原ーかやはらは萱が茂っている所ではない、確かなことは遠い場所であり地名なのである。つまり大和王権に反抗する蝦夷の地域が服属したということで知られるようになった。

笠女郎もまた加佐でありこれは韓国の地名であり笠は当て字であり各地にある。

稲荷山古墳出土鉄剣は、1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣。
カサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る

カサヒヨ(カサハラ)があり渡来人の名のである。
その前にすでに渡来人がかかわりその渡来人が実は大和王権に反抗していた。それで蝦夷とは大和王権に反抗する人達のことでありすでに縄文人は先進文化をもった渡来人と一体化して鎧兜を身に着けた馬を操る人達がいたなら手ごわい相手になったのである。

南相馬市の原町区と鹿島区の古代史の相違
 (鹿島区が大和王権に先に従属した理由−真野の草原の歌の意味)



posted by 天華 at 12:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2024年11月27日

南相馬市の名前の考察 【地名は方角地名が基本−東西文明の興亡】


南相馬市の名前の考察
【地名は方角地名が基本−東西文明の興亡】

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北辰は北極星

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庄内藩の旗印

●相馬藩の北郷(鹿島区)の由来

地名の基本がなぜ方角地名が基本になるのか、それは常に人間は太陽の昇る方向と沈む方向に注意する、そしてそのことで方角を知る。福島県でも浜通リになると常に太平洋に面しているから太陽は海から昇る,ところがすぐ近くの飯館村だと山から太陽が上り山に沈むのである。それで私は自転車で行って方向が分からなくなった。東の方向と思って行ったらそれは西の方向だったのである。それはなぜかわかったかと言えば太陽が山に沈む方向だったからである。

つまり回りが山で囲まれていれば方向が分からなくなる。その方向が分からなければ道に迷ってしまうのである。だから方向を知るということは大事なことになる。そして人間の一番意識するのは太陽は昇り太陽が沈む方向なのである。
つまり一番意識するのは太陽は昇る東の方向と太陽が沈む西の方向は基本になる。だからこそ世界は東西に別れたのである。

●東西から見る世界史

欧米では東西の世界にそれぞれオリエントとオクシデント (Occident) の表現を用いることがある[1]。イースト (east) とウエスト (west)、オリエントとオクシデントはいずれも方向を指し示すもので、ラテン語であり、もとはギリシャ語からきている[。「オリエント」の語源はラテン語で「日が昇る方角」(=東)を意味するオリエンス (Oriens) である。

東は太陽の昇る方向である。オリエントの範囲は広くメソポタミア地域からインドから中国まで入る。そして東が先進地域であり文明の発祥地域である。誤解するのは今でもオリンピックでアジアというときエジプトであれ中東であれイスラエルでもアジアなのである。西洋というときまず東があり西が生まれた、東がアジアが古いのである、それが誤解しやすいのである。
ともかく東西南北とあるが東西の感覚が陽が昇り沈む方向が基本なのである、それは地球を横に見るのである。

西欧というとき東があって西がある。ただ人類は東から西に発展して大西洋を渡り西のアメリカにわたりさらにアメリカの東部から西のカリフォルニアに西部開拓として進みまた太平洋に閉ざされたのである、でもさらに西に向かいアメリカが日本に到達した。ペリーが船で日本が開国を迫ったのである。
日本は極東であり陽が昇る東であり西の果てでありその結節点にあった。つまり東西を結ぶ結節点に位置していたのである

●方角地名で大事なのは中心となる地域とその変遷

南相馬市の名前の由来は市町村合併から生まれたものであり新しい、でもなぜ南相馬なのかとなると実はもともともとは小高に相馬氏の城を最初に築きそこが中心となった。だから北郷【鹿島区】というとき小高から北だから北郷なのである。
でも南相馬市になったのは中村が今の相馬市に城が築かれて中心になったのでそこから南ということで南相馬市になったのである
つまり方角地名で大事なのはどこが中心となるかである

それは例えば中国でもなぜ北京があり南京があるのか、これも北京がモンゴル帝国の首都となり中心になった。それは相馬氏が中村に城を築いたと似ている。北京が中心となりその南が南京となった。だから中心地が変わりそうなった。
今の西安は長安であるなぜ西安なのか、それは東に中心がありそこから見て西だからだとなる、でも長安は始皇帝が最初に中国
を統一したのである。でもその後中心が移り西安になった。
だからその中心が変わることで地名も変わるのである

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●日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致すの意味

ともかく地理はまず東西南北の方角を知ることである。次に境界を知る。この二つが基本になる。そして方角が大事だというとき人間の地理感覚は太陽が昇り沈む方向が基本になるのは一致している。

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや

聖徳太子は中国から進んだ文化を学ぼうとして、遣隋使という使いを中国に送りました。その代表が小野妹子です。『妹子』ですが、この人は男性ですよ。この国書は、小野妹子が隋の皇帝に渡したものです」
これは中国の隋の皇帝の煬帝(ようだい)が激怒した。でもそれは別に方向を言っただけである。中国を下に見るとか同等だとかではない、世界を意識する時方向が基本だからそうなっただけである。
ただ韓国でも日本海という名称の反対している。だから日本海は東海になっている。韓国から見ると東海さからそうなる。太陽の昇る方向だから日本と韓国では相当に違った感覚になる

日本でも日本海は太陽が沈む方向であり陽の昇る太平洋とはまるで違った感覚になる。つまり太陽が昇る東と西の感覚で相当に違った感覚になる。また方向を知るというとき何故北斗七星が北極星が信仰までになったのかというと遊牧民にとって常に移動しているのだから方向を知ることは命にかかわることでもある。だから信仰までになったのである。
それで相馬藩の相馬市の旗印は北斗七星であるそれは妙見信仰となっていたのである。その信仰は中国からさらに遊牧民から伝えられたものなのである。相馬氏が馬を操るのに長けていたということは遊牧民の末裔だからだともなる。

『妙見』は仏教では菩薩ですが、天の中心にあって星々を従えていることから神道では『天之御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)《北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)》』となります

●東(あずま)は東西の境界ー京都の東山と柿本人麻呂の歌

地理ではまず方角を知るのが基本である。東西南北とあっても東西が基本になるのは太陽が昇る方向と沈む方向が基本になるからである。日本でも東となるとき東(あずま)でありそれは私は琵琶湖の湖西から名古屋の関ケ原の方向から太陽が昇って来たの見た時なるほど関ケ原が東西を分けるものでありそれは日本の地理の境界でもあるが歴史の境界であったと認識したのである。
だから東と西が方向の基本としてある。京都でも東山となれば陽が昇る方向であり意識される。

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。(枕草子)

それは東山である。

東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 
万葉集巻1 48番歌 柿本人麻呂

これも東は炎の立つ見えてとなり明るい感じになるが西は月が傾くとなる。それは東西文明の興亡も感じられる壮大な歴史のドラマも象徴しているとなる。東洋文明が興隆して西洋文明が興隆して今また西欧文明が衰退して東洋文明が中国がインドが日本がアジアが興隆するとなる、その周期が500年とかなると長いのである。



2024年11月26日

金閣の美【the beauty of KINKAKU temple】

金閣の美【the beauty of KINKAKU temple】

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金閣の美

金閣寺眩く映えて
中島に亀のいて
春日を浴びてくつろぐ
池の水面に映る金閣
桜も映り映えて
苔むす庭に椿の赤く散り
千年の都の美かな

金閣の眩く映えて苔むせる庭に椿の赤く散るかな

Kinkakuji Temple shines brightly
Turtles on the island of Nakajima
Relaxing in the spring sun
Kinkakuji reflected on the surface of the pond
Reflected in the cherry blossoms
Camellia reddish in the mossy garden
The beauty of the city of a thousand years

金閣寺の俳句(2)(千年の都の美)



金閣の写真はネットから切り取ったものだから著作権違反になるかもしれない。ただ他にも同じような写真が多いからわからないとなる。何かネットこうした切り貼りとか引用がしやすいのである