真野の草原の歌の謎ー毛野氏と伽耶国ー安曇氏系統の八木氏と犬養氏の関係
【真野古墳群の船の線刻画の謎】
●なぜ浮田国造が毛野氏になったのか?
毛野国は相馬地域からかなり遠い、だからどうして毛野氏の鹿我別王が浮田国造になっていたのか、今の栃木県とか群馬県になると遠い、ただ常陸国に毛野氏の勢力が拡大して常陸国からこの地に来たという説がある。地理的にはそれがなっとくがいく
毛野氏を考えると任那の安羅と耕地の争いがあり洛東江流域の東方で新羅領と任那領の中間に位置した国とも記している。神功49(369)年荒田別、鹿我別を将軍として百済の死者と共に卓淳国に集まり新羅を撃破した
卓淳国の地は二説ある。軍隊を動員して比只(ひし)国、多伐国、
草八国―慶南国を討伐してここを併合したという記録がある
この草というのは伽耶(かや)のことであり草(くさ)ではない
音が基でありそれに漢字を当てたからまぎらえあしくなる。それは北海道のアイヌ語に漢字を当てたのと同じである
伽耶(かや、伽倻または加耶とも)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょこく)は、1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国々を指す。
毛野氏の浮田国造鹿我別王が将軍として派遣されていたことが重要である。なぜならなぜこの相馬地域に浮田国造が置かれたのか
それはまた伽耶国と関係していた。それが重要なのである
みちのくの真野お草原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)
この歌の草原とはカヤハラのことでありカヤに草を当てるからわかりにくくなった。つまり草八国とは伽倻八国のことである。
となれば草原は単なる草でもないし萱が茂っている地でもない
国名だとなる。それは毛野氏が伽耶国と深くかかわっていたからだとなる。
とにかく伽耶とは日本が支配した日本の一部であり密接な関係がある。最近前方後円墳が伽耶地域から発見されたことでもそうである、任那に日本府があったし天皇も伽耶の出だというのもそうでらる。
だからこそこの地域が深く伽耶と関係して真野の草原の歌が生まれたのでありその背景は伽耶と密接に関係していたのである
韓国伽耶地域の地名が日本にも移されている。近江の真野とかの地名も移されている。笠とあるはこれも漢字を当てたのでわかりにくくなる。笠とは加佐という韓国の地名なのである。
埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣に
加差披余となっている。カサヒヨは元の音でそれに漢字の当て字になるから誤解しやすいのである
だから笠女郎は渡来人系だともなる。伽耶の王子のツノガノアラシトノアラシトでもアラは阿羅国があり地名から出て荒になり毛野のかが別と荒田別がいたとしてこのアラからきている。つまり渡来人系統伽耶国からでているとなる
また唐神という地名がここの真野郷にあるが唐は韓であり中国ではないのである。仏教が韓国を通じて入って来たからである。
とにかく日本の古代史は伽耶と密接関係がありそこが起源になるから伽耶を知ることが大事にになる
洛東江は大河でありそこを電車で下ってきたことがある、この流域に伽耶の国があったのかと春の日に思ったのである。一つの日本の故地でもあったとなる
●長野県の安曇野の八木氏犬養犬飼氏の跡
新撰姓氏録に安曇宿禰(あずみのすくね)海神綿積豊玉彦神の子、穂高見命の末なりとある
その穂高神社の神官に犬養犬飼がいた。新撰姓氏録を参照すると
安曇犬養連がありそれは海神大和多罪(おおわたつみ)の三世孫
穂己都久命の後なりと記されている。ワタツミの子がホタカミその孫がホコツクということになる
穂高神社の神官でもう一つ注目すべきは和田氏である
本姓は倭太(わた)である。
犬飼の地名として下高井郡の野沢温泉は犬飼の湯と呼ばれ郡内に犬飼の地名がありその他八木、波田、畑、、、、は海洋民に由来する
信濃川を下流から上流までたどってみると河口付近から源流近くまで海洋民ゆかりの地名が点々と連なっている
全国を見渡すと福浦、福良,吹浦とあり海人族とかんけいあるらしい。三原郡阿万(あま)に福良駅がある。三原郡には養宜(やぎ)
郷もありこれは安曇氏の八木造と幡多郷があり幡多(はた)は魚の総称のことであり朝鮮語のパタに通じ海人族の居住地名と考えられる
波多、波多、波太、幡太、八多、八太、飯田、半田・・・さらに北部九州では畑の地名が海人関係と並んで多数存在する、これは海を意味するかもしれない。
丹後の海部については丹後加佐郡に海人関係の式内社として与謝郡龍神社(この神社).宇良神社が鎮座する
海人関係を拾えば舞鶴市(和田、加佐郡)に和田、八田、大江町、宮津市に由良、畑、加悦(かや)町・・・とかある
龍神社(この神社)が『延喜式』で山陰道唯一の官幣大社に指定された丹後国一之を宮で総社を兼ねるようになったのも同社の古さを物語る
この社を奉斎した祝部海部直に代表される丹後地方の海人集団の実力が想定されなえばならない
海人の伝統ー日本の古代ー中央公論社ー大林太良編
犬飼(犬養)の地名について考察した。それは安曇氏系統の犬飼(犬養)であり海人族である。また龍神社でも松川浦の原釜にあった。つまり海人族の跡が濃厚に残されたのがこの辺である
その基は九州の福岡にあったとしてもその後拡散して瀬戸内海から大阪から尾張の名古屋から静岡県と拡散したのである。
小高に角部(つのべ)とあるときこれは伽耶国の王子ツノガのアラシトからきているし福良も福浦と小高に地名がありそれも海人族の跡さとなる。そもそも畑がパタであり朝鮮語で海だというときそれは海人族でしか発想できない、海で魚捕ることで食料を得られるから畑で食料が得られるから畑でも海と同じだとなった
そしてなぜ犬飼なのかとなると犬に魚を与えて養ったからだというのも何か納得する。
ともかくなぜこれほどか海人族が日本列島にかかわったのかそれは四方が海に囲まれていたから海を渡ってきた人が入ってきたのである。その人達が内陸の山の中にも入って来たのである
「厳々(みつみつ)し 久米の子らが 粟生(あわふ)には 香韮一本(らみらひともと) 其根(そね)がもと 其根芽認(そねめつな)ぎて 撃ちてし止まむ」
「厳々(みつみつ)し 久米の子らが 垣下(かきもと)に 植ゑ山椒(はじかみ) 口疼(くちひひ)く 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ」
「神風の 伊勢の海の 大石に 這(は)ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ」
この歌は焼畑でとれるものであり日常生活で親しいものであった
生業として焼畑があり漁業もしていた人たちが海人族である
細螺(しただみ)いうのは漁業とか海で生活する人がかかわるもである。つまり久米族は海人族であり神武天皇軍の東征は海人族が先導したのである
それに安曇族が関係していた。だから神武東征とは海人族の安曇族の移動が下敷きになっていた。それで日本尾いたる所にその跡を残したのである。
海人の伝統ー日本の古代ー中央公論社ー大林太良編
●真野古墳群から発掘された20人ほど乗る船の絵の謎
こちらから草に火をつけて敵の方に火勢をしりぞかせた。そこを脱出してからその国造どもをみな斬り殺して、そして死体に火をつけてお焼きになった。それゆえ、今日その地を焼津やきつというのである。
さねさし 相武さがむの小野に 燃ゆる火の 火中ほなかに立ちて 問ひし君はも
(さねさし)の相模の野原に燃え立つ火の、その炎の中に立って、私の安否を尋ねてくださったわが夫せの君よ)
その后の弟橘比売命おとたちばなひめのみことという方が、「神の怒りをしずめるために、私が皇子みこの身代わりとなって海にはいりましょう。皇子みこは命じられた東征の任務を成し遂げて、天皇に御報告なさいませ。」と進言して、海にはいろうとなさり、
日本武尊は上総かみつふさより転じて、陸奥国みちのくにに入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦あしのうらを廻り、玉浦を横切って蝦夷えみしの支配地に入られた。蝦夷の首領島津神しまつかみ・国津神くにつかみたちが、竹水門たけのみなとに集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、従った。
竹水門がタカ港ともされる、式内社の多可神社があり高倉神社が南相馬市の奥の山の方にある。
そしてなぜ南相馬市の原町区に綿津見神社がこれほど多いのか、これは何なのかとなる。それで海人族の安曇氏の後裔の八木氏と犬養氏がこの地で地名化していることで明らかに安曇氏ではないにしろその後八木氏とか犬養氏が関わったことは確かである
ヤマトタケルの神話は安曇氏など海人族が日本全国に移動したことが下敷きになり後にヤマトタケルの遠征として創作されたともなる。
それでなぜ20人も乗る船の線刻画がこの地に残されたのか、それは誰が描いたのかとなる、海人族であることはたしかである
ただ
海人族でも物部氏でも船を作り操作する軍事氏族であった。それが安曇氏系統なのかどうかわからない、何故なら時代的に合わない、古墳から発見されたことは相当に前になり安曇氏の後裔の八木氏とか犬養氏が進出するのはその後になる。
ただ南相馬市の原町区であれ鹿島区であれ小高区であれ海人族であれ渡来人が深く関係していた。だからこそ20人も乗る船の絵が発見された。20人も乗るということはかなり大きな船であり外洋でも航海できるともなる。
古代では無理だとされているがつまり真野の草原は大和王権が蝦夷征服した北の境界戦でありそれで真野の草原は中央の奈良に知られたからである。ただここが船で来る限界地点であったかもしれない。気候的にも相馬地域は温暖であり奄美大島から種が流れ着いてマルハシャリンバイが海老村に自生した南限の地でもありそれで気候的境界戦になっていたこともある。
だからヤマトタケルの神話も全部想像で作られたのではなく何らかの事実があって作られたとなる。
引用が長くまた図も載せた、これは著作権違反になるのか?でも和歌山県の和田の地名を大文字で和田として20くらいあると書けば著作権違反にならないかもしれない、ともかく著作権はめんどうである