2018年08月06日

蝉の声(晩年は時間に追われる)

蝉の声(晩年は時間に追われる)

horsechou1.jpg

晩年やせわしなに蝉鳴き暮れぬ

方角を違えて夕べ雲の峰

今日もまた同じ木陰に休みけり

夏の夕馬草を食い眠る蝶

親子して草食う馬や夏の牧


同じ年の人と自転車でよくあう、その人は一回脳梗塞をしたからそれ以後体を気にしている、体が弱っている,でも別に自転車でも散歩しているし普通の生活をしている
その人は郷土のことも調べているので時々話する
その人も晩年である、何か晩年になるとせわしい、楽隠居というが何か追われる
それは生きる時間が短くなって追い詰められるという感じになるからである
まだまだ生きる時間が長ければ追われるという感じになはならい
まず50代すぎるともう人生も終盤が見えてくる
すると何か追われるようになるのだ

人間が死ぬまじかになると延々と自分の生きたことを語る、認知症になっても過去を忘れないからそうなる、そして死んでゆく、それはちょうど蝉が短い間でも懸命に鳴いて死ぬのとにているのだ
最後は人間は日暮らしのように鳴いて死んでゆくとなる
終わってみれば蝉のように人間ははかないのである

昨日も暑かった、方角が違って雲の峰が夕べ見えた
今年は雲の峰が見えても雨がふらないのも不思議である
今日は雨がふってすずしい、ここも34度くらいになったが今日は相当にすずしい
ただ体が夏バテになりぐったりしている
40度近くになるともう耐えられない、体が弱い人は死ぬと思う
自分も体が弱いから危険になる、だからここは気候がいいからなんとかしのげるとなっている、老人は意外とこの気候が影響するから住む場所を選ぶべきだとなるが
簡単に人間はどこでも住む訳にはいかないのである
でも山を越えた福島市だったらもう住めない、夏は蒸し風呂になり冬は酷寒になる
だから気候的にここはいいからしのいで生きられるともなる

毎日川の土手の道の木陰で休む、ほとんど同じ道を行ったり来たりしているだけである、それは十年つづいている
それもいいのかなと思う、やはり人間はあまりに変わりすぎると落ち着かない
人は最後は落ち着く場所を求めるからだ、だから同じ木陰でアイスコーヒ−を毎日飲むのが楽しみだとなっていた
今年の体の状態は胃が悪くならなかったのが良かった、冷たい水を飲んでもならなかった
必ず夏には胃を悪くしていたから不思議である
やはり健康であれば冷たいものを飲んでもいいから夏を楽しめる
人間はやはり健康が第一なのだ、健康でなければいくら金があってもうまいものさえ味わえないからだ

夏の夕暮れこの辺には牧場がある、野馬追いのために馬を飼っている、それがこの辺の特徴である、ただ北海道のような広い牧場はない、写真は北海道なのである
それを写真を加工したからまずいと思うが著作権とかで注意されたことがない
インタ−ネットでは広いからわからないのだろう
現代は写真の時代でありその写真を活かすことが必要になる
でも他人の写真を見て俳句を作ったことはない
今回は親子の馬がいたので俳句にした
写真は写生になるのだが写真を見てだけでどうして俳句などでも作れないのか?
それは写真はあくまでも一部だからである
その辺の気候とか全体がわからない、それでいい写真でもそこにいる臨場感をもていなのである、写真はあくまでもきりとった一部だからそうなる

この辺は野馬追いがあるから馬の風景が一応があるが北海道のように雄大にはならない
そこに不満があるが馬と親しむ場所であることは確かである
それで小高復興のために牧場にして馬を放し飼いするのもありかなと思ったのである

2018年08月05日

小高復興の一試案 (牧場などを作り車の通行禁止で江戸時代にもどる)


小高復興の一試案

(牧場などを作り車の通行禁止で江戸時代にもどる)

wedge2233.jpg
wedge22.jpg

yubariii222.jpg

bkkujyooo11122.jpg


nomakakeee1.jpg

小高に三年ぶりで行った不思議を書いた,前よりは人は帰っているけどやはり通る人が少ない、通りに歩く人も見えない、ただ前からは通りはどこでも歩く人がまれである
車時代になってからそうである
ただ小高で感じたことは車が通らないから江戸時代にもどったような気分になった
やはり車というのがいかに社会に影響しているか実感した
一時大きな街で歩行者天国を作り車をしめだした
小高では別にしめださなくても車が通らない、6号線は通っても通らない所が多い
車が通らないとどうなるのか?江戸時代にというか車ない社会にもどったようになる
それは戦前でも戦後十数年でもそうだった
車が普及したのは高度成長時代になってからである

輸送の手段は遠距離になると蒸気機関車時代があり貨物輸送の貨物列車の時代があった
近間では馬車の時代がありリヤカーがあった、それで梨を売るために相馬市まで鹿島から運んだというのもそのためである、でも今からすると距離があるから苦労だった
ただあまり遠くまでは行かない、近間で用をたしていた
馬頭観世音がこれほどなぜ多いのか?それは馬で荷物を運んでいた輸送の主役だったからである、だから江戸時代の馬頭観世音はまれであり明治時代以降のが多いのである
馬が人間を助けてくれたから供養のために馬頭観世音をいたるところに作ったのである
まず馬車だったら遠くに荷物を運ぶのは無理である。
それで鹿島の右田の農家では肥料となる草を橲原(じさばら)から運んでいたという話を聞いた、橲原に入会権の山を所有していたのである
つまりその頃は近間でなんでもまかなっていたのである
なにか小高ではそういう時代にもどっいたという感覚にったのも不思議である

自分は江戸時代に関心をもつようになった、それは江戸時代には今の時代に失ったものがあるからだ、だから時代劇を良くみている、その風景がなつかしいとなる
江戸でも舟が縦横に行くのはベネチアのようでありその風景にひかれるのである
それはただ過去を美化しているということもあるが江戸時代には旅人でも歩いていた
それがみんな絵になっている、この歩くことを感心してみているのも時代である
今は旅人はいない、歩いて旅している人がいることはいるが車の騒音の中に消されてしまうのである、浮世絵のような絵にはならないのである
yubariii1111.jpg


小高の復興というときそれをどうするのか?
これはあくまでも自分の試案でありアイデアでありそんなことできるのかともなる
何か空想的になってしまうのが自分だからである
関わる人、交流する人を増やしその中から住民と「外の人」が精神的な豊かさを分かち合う

ここでどうして「外の人」と精神的な豊かさを分かちあうのか?

夕張で炭鉱がありそれを活かす取り組みをした、その例に習えば小高では野馬掛けの野馬追いの原型の行事があり牧場に向いているともなる
もう田畑は草に埋もれて草原化した、もうそこを田畑にすることは無理だと感じたからである、ではどうするのか?
牧場化して馬を放牧するのがいいのではないか?そして乗馬などをさせるのである
そして回りは車も通らないから車をしめだすから江戸時代にもどるともなる
ただ車で来る人が多いからそうもならないかもしれない、ただ車をしめだして江戸時代にもどる体験をする、車が通らない地域を作るのである
車を通るとしても制限するのである

これはあくまで試案であってそんなことできないということはある
一番の問題は田畑というのがみんなここに所有者がいて牧場にするからと勝手にできないこの辺でも畑の半分が未だに荒地化している、でも所有者がいるから勝手にできない
無料でも貸すと所有者は言っても誰も畑で野菜作りなどしない
その手間と労力が大変であり金もかかる、自分が支援したが一年で10万はかかる
その収穫はこの前太いキュウリをもらったがあとはなかった
田畑を活かすことは楽ではないから前々から高齢化などで受け継ぐ人がいなくなっていたのである。

明治後で失敗したのは私有権を過度に認めたことである
山でも平地でも海でもそうだったのだ、だから土地が細分化されて利用しにくくなったのである。漁業権のことを書いたが補償金を得るために自分の家の前の海にも権利があるとして交渉していたのである
それほど私有権が強固なものとして権利を与えた結果何か公共的な用として利用しにくくなったのである。
江戸時代までは入会権とかあり山でも共有であり村を単位にして土地は共有していたのである
だから荒地があると村では困るので村全体でその荒地をみんなで元の田畑にもどした
草が生えてきて隣り合う畑をもっていると困るからである
田んぼでもそうである、水の共同利用とかありそれは個々人が私的に利用できるものではなかったのである。農業は自然が相手だから土地は共有になっていた

現実に飯館村で補償金をもらって土地を売った方がいいというときそこが放射性物質の廃棄物になっては困るのである。なぜなら土地はつながっていてその放射性物質が現実に保管されないで流れ出したからである、それは南相馬市の方に流れてくるからである
だから過度な私有権を認めたことは失敗だった
現実に荒地化している土地をもっている人はそこは自分の土地だから売らないとなれば貸さないとなれば何もできなくなる
牧場とか大きな土地利用をするにしても一人の地主が反対すればできないのである
ただこの辺ではそうして荒地のままに草ぼうぼうにしていいのかということが切実な問題となっているのだ
だからこれをなんとかしようとするときいい知恵はないかのかとなる
何かそういう知恵を出し合うことも必要なのである
おそらくいくら土地をもっていても無駄でも何か金になると土地をもっている人はかがえているのかもしれない、例えば放射性廃棄物の処理場とかになり金になると考えているのかもしれない、それは私有権があるから自分だけの利益しか考えないからそうなる、後はソーラーパネルが一番有力なのかもしれない、あれだけの土地が空いているとそうしやすいからだ
そのために土地を保有しているかともなる、そうなったら景観は乱されるから江戸時代の街作り構想は消える
ただ土地を有効に生かす方法がないとそうなる可能性が強いとなる
それをするとするとしたら海側であり山側はしないということもある

何かこの辺で問われているのはそうしした共同性の回復だったということもある
それが失われたからそういうことが望まれる、それは江戸時代の村への回帰でもある
そんなも古いものはあてにならないというのもある
でも明治以降の私有権の強固な権利とか共同性の喪失とかが問われている
一方であまりにも大企業の力が強くなりそれが市町村でも自治体でも今回のように東電によって破壊されてしまうことをまざまざと見たのである
江戸時代の村は別に理想的なものではないにしろ自然と共生した共同体だった
でもそれも巨大な大企業によって破壊された、またグロ−バル化社会の影響もありもうそうした世界の中で経済が動くようになった
その時肝心なものが見失われたということ喪失したことがある
結果的に自然は放射能物質で汚染されてとりかえしがつかなくなり家族はばらばらになり共同体は失われてしまった、原発事故前からもそういう状態はあったがここでは拍車がかけられて田畑は草ぼうぼうになり人が住まなくなったのである。

ただ江戸時代にもどれと言っても電気がない世界に住めるのかとなる
エネルギーは炭になるのかとかなる、囲炉裏が復活するのかとかなる
そんなことができるのかとかなる、それは無理だとなる
でも何かそういうことを志向するのも今回の原発事故でありうることなのかとも思った
江戸時代だと夜は真っ暗な世界である
小高などは街まで真っ暗だった、そこにイルミネーションをして電気を使うより提灯でも使えば江戸時代にもどることができる
街全体が江戸時代にするとそこで江戸時代の気分が味わえる
ただこれは他で江戸時代を再現して観光している場はある
ここが違うのが現実に江戸時代にもどったような場なのである
特別な場所が江戸時代になっているのではない、街全体が回りがそうなっているからだ
それがテーマパ-クなどとは違っている、そこに現実に人が生活しているからだ





posted by 老鶯 at 12:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年08月04日

南相馬市鹿島区の姓の考察


南相馬市鹿島区の姓の考察

kashimaseii123.jpg

iwamatusei1.jpg

岩松氏の伝説

南相馬市鹿島区の歴史で姓がたどれるのは岩松氏からである
それは鎌倉時代にこの地に来た、その家臣が従った者が蒔田、島、中里、日里氏だった
その子孫は継続して生きている、ただ相馬氏と組んでこの家臣が一家を惨殺した
子供まで殺したのでそれが伝説となって残っている
それが500年たっても継続している
なぜなら蒔田、島、中里は姓として残り子孫も残っている
日里はいないがこれはその残虐な行為を恐れて姓を変えたのである
それが郡(こおり)となったのである。
その子孫たちは別に今も身近に生活をつづけている
ただこれが歴史というものなのか?500年とか過ぎてもそれが語られるから子孫にとっては気持ちいいものではないのである
今ではそういう人たちはそのことを語ってくれなともなる

貞治5年(1366年)桑折五郎元家は伊達郡桑折より真野郷に移り中館を居城として真野五郎と名乗った。

奥相志には、「往昔、国司源顕家の時、桑折五郎元家伊達郡桑折より来たり、江垂館に住し真野五郎と号す。その後田中塁に移り居ること七世なり。古記にいふ、江垂館は天文中古城と唱ふ。古館の跡なり。」と


南北朝に由来する者では但野氏について前に書いた、お浜下りでおつづら馬という役を担っている、それは重要な役目でありその家の歴史はそこまでさかのぼるから古いとなる
他地菊池氏などもそうなのだろう、野馬追いの旗で天皇の菊の紋を旗印にしているからだ後は山王の旗印がありこれも南北朝の時落ち延びた武士でありその子孫は玉野村で相馬市方面と鹿島に分かれて落ち延びたのである。

次にあまり目立たないが三春藩をめぐって家督相続でも問題が起きて相馬氏と伊達氏が熾烈な争いをした、三春とはもともと相馬氏は婚姻関係を結んでいて親しい仲である
その関係で相馬藩内に三春関係の姓がもたらされた、田村がそうである
田母神村が三春にありそれの基は坂上田村麻呂なのである。
田の神とは別なものでありまぎらしわいとなる
実際田村という姓は鹿島区で古く身近なのである。
鹿島区は人口一万にもみたないから姓にしても身近に感じる
極端なのは末続駅のある末続村である、そこの墓地では9割が新妻の姓だった
つまり新妻一族が住んだ村だったのである。
そういうことは小さな村だとわかりやすいのである
それが原町とかになるともともと5万くらいの人口がありいろいろな人が混じりわからなくなる、相馬市でもそうである、外部から入った人たちが多いからである
それはどこでも市の単位になると人口が多くなるからそうなる

相馬藩で注意しなければならないのは越中から富山県からさ真宗系統の人たちが大量に移住したことである、その理由はさておき相馬藩で飢饉になり天明から移住した
その数が多いのである、相馬藩では三分の一が欠落したが真宗系統の移民によって穴埋めされたのである。
だからその系統の姓が多いのである、墓の三分の一は真宗系統だとなるから多い
五賀は僧であるが南相馬市内に80人もいるのである、これは越中富山県からの移住なのである、他にも中田とか大岩でもそうであり相馬藩内で身近にそういう姓の人が今も住んでいる、だから相馬藩の特徴はともかくこの越中からの移民した子孫が多いのである
それは三分の一もそうなのだから身近にその子孫が生活しているのである
それでこの真宗系統の子孫は見分けやすいのである
宗教も違っているから見分けやすいのである。

相馬氏系統は多様だからここには書かない、でも基本的に南相馬市鹿島区の姓はこのように成り立っている
姓から歴史を見ることは身近だから親しみやすいとなる
それで良く自分の姓についてたずねる人がいる
岡和田氏はここの由来なのだとか荒氏は相馬藩とどういう関係にあるのだとかなる
ただこれはなかなか姓でもわかりにくい、なぜ相馬藩内に荒氏が多いのか?
それは渡来人関係のツノガノアラシトに由来していてここのアラをとって荒になったのかということもある、それは古代に由来しているのである。
全国的にも渡来人関係の姓も残されている、でもどうしてここに荒姓があるのか?
それは古代に関係して名付けられたのか不明なのである。
posted by 老鶯 at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

三春で相馬氏と伊達氏が熾烈な争い (インタ−ネットで読める一連の物語)


三春で相馬氏と伊達氏が熾烈な争い

(インタ−ネットで読める一連の物語)


伊達政宗の夫人愛姫の父田村清顕は三春城主でしたが、天正14(1586)年に亡くなりました。清顕には男子がいなかったため、相馬派と伊達派で家督を巡り争いがおきましたが、故清顕の婿である伊達政宗が調停に乗り出し、跡継ぎを清顕の甥であり伊達家の血も引く宗顕に定めました。(田村仕置) 

しかし、当主・田村宗顕が小田原北条攻めに参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉によって田村家は改易されてしまいます。(奥州仕置)
  このとき、田村宗顕をあえて参陣させなかったのは、他でもない政宗でした。 
 そして、結果的に田村領は伊達政宗に与えられてしまい、事実上の領地乗っ取りとなり、改易された宗顕をはじめ田村家中は 「政宗にしてやられた!」 と大いに憤慨したと記録されています。


清顕は、相馬高胤(たかたね)の娘を室として迎えます。
政略としての婚儀の意味合いもありますが、古道、岩井澤、葛尾、南津島はその時の化粧料として田村氏の領土として授けられたとされています。

この都路村は、田村領の中でも相馬領に近く、隣接の葛尾村(現双葉郡)田村領内でも治外法権的な要素を持った地域で、田村家旧臣が多数移住して開墾していたのではないかと考えられます。

 清顕には男子がおらず、後継を決める間もなく急死したため、相馬家出身の清顕夫人を中心に重臣たちの合議制がとられます。当初は、政宗に男子が誕生したならこれを田村家の後継にするという清顕の言葉に従い、何事も政宗の意向を受け、さらに伊達・相馬両家の家臣は三春城へは入れないと取り決められました。しかし、政宗夫妻の不仲が清顕夫人に伝わると、夫人は実家の相馬家に頼ろうとし、清顕夫人を中心とする相馬派と、伊達家出身で先代隆顕夫人を中心とする伊達派に家中が二分されます


 天文18年(1549)相馬顕胤の娘が三春領主田村清顕に嫁したが、天正14年(1586)清顕が男子の跡継ぎなく没した。清顕には顕胤の娘との間に娘(愛姫(めごひめ))があったが伊達政宗に嫁いでおり、田村家は断絶。田村領をめぐって伊達政宗と相馬義胤が争ったが、結果は伊達の傘下となった。三春家中で相馬側であった大越・熊耳・阿部・栗崎の諸氏は相馬の臣となった。

 田村郡大越村

第一章 大越氏 


 田村家家臣で伊達家召し抱えの田村家御家門方坂ノ上田母神玄蕃頭が天正十五年に記した「田母神氏旧記」(田村仕置き直前の田村家臣録


 母野家の墓碑の写しの一つ[故祠掌田母野坂上衛之墓]と、石に彫るための準備であったと思われる墨書[田母野坂上家之奥津城]を奥から持ってきてくれた。  
 「ウチは田村郡田母神村(現・郡山市田村町田母神)出身で、元の姓は田母野ではなく田母神だった。田母神は田村麻呂と関係があると言われている。                                     

 神社明細書]を見せてくれた。それには、(田村大元神社が)[小山田村今明王壇より移され]と記されてあった。

 その他別系の田村氏
武蔵七党に属す“西党”に田村氏がある。多摩川中域を統治していた日奉氏を祖とする地方豪族である。一族には小川氏、立川氏、中野氏、柚木氏、稲毛氏、平山氏、田口氏、西氏、由井氏、高橋氏などがおり、活躍した武将も存在する。



miharuhannn1.jpg
この書状で寒気節とあるのは寒い時期である、でも朧月とあるのは春なのである。
春だけどまだ寒いということになる、ここでよくわからないが取籠とはとりこむということで相馬氏への味方として取り込むことをお願いした書状なのかとなる

いづれにしろ寺までまきこんで熾烈な争奪戦が三春で行われていたのである。
それは戦国時代は全国でそうだった、家督相続でももめていたらそこにつけ入られて相馬氏と伊達氏などが好機とばかり侵入してきたのである
こういう経験を介護の時したから戦国時代は弱肉強食が露骨だったのである
相手が弱ったらチャンスなのである、その弱みにつけこまれるのである。
ここは大きなドラマにもなる、小説にもなるからめご姫のことが物語となりNHKでもドラマ化したのである
othahakami1111.jpg
tahahakamik12.jpg
tahahakamiii123.jpg

これとは別に田村氏は相馬氏と関係して田村氏関係の人が相馬氏に移り住んでいるようである
その証拠はダイユーにある(田母神)である、これはダイユーができる前に田の中にあった、その田がダイユーの建物になったがこの社は残されている
これは単純に田の神と思ったがそうではない、田母神村という村が三春にある
これの由来がインタ−ネットに出ているように坂上田村麻呂に由来しているとすると
三春関係の人が相馬氏と関係してここに移ったためだとなる
信仰も人とともに移動するからである
田村という姓を鹿島で身近に知っている、他でもあるにしてもこの三春から移住してきた
それはかなり有力な証拠である
ともかくここに引用したものを一連の物語として読むことをすすめる
小説のように面白い、一部は小説家して語っているからだ


インタ−ネットの優れている点は知識を関連付けられることである
リンクできることである、図書館ではそういう機能がない、本をいちいち取り出して読んでもわからない、郷土史でも知識が膨大だからである
そして介護とか家事に時間をとられるから図書館に6年間でも行っていない
図書館とは意外と使いにくいのである、何か調べたり物を書くときは自宅でできるのがいいのである、そのために自宅にある程度資料となるものを用意するといい
だから南相馬市博物館のテレビのチャンネルで今回放送した伊達氏と相馬氏の関係は面白かったのである。
そういう地元で番組つくりする、それはインタ−ネットでしているのである
テレビだって本当はyoutubeでもできるのである
ただ手間になるから一人で時間がかかりすぎる、でも今回引用したものを連続的に読むとすでに郷土史の物語になっていたのである


posted by 老鶯 at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2018年08月03日

八戸から来たおばさん (跨線橋(こせんきょう)を渡るのが老人には辛い)


八戸から来たおばさん

(跨線橋(こせんきょう)を渡るのが老人には辛い)

八戸から来たおばさんがいた、その人は鹿島区の出身で前の中学校に通っていたという
そういうふうにここ出身で鉄道で来る人に良くあう
そういう人はたいがい福島市でもそうだが距離があるから鉄道を利用する
八戸までは新幹線で一時間二〇分というときここから仙台に行くより近い
だから距離感覚ではなく時間感覚になると近いとなる

そのおばさんが言っていたのは跨線橋をわたるのが荷物をもっているとき大変なので今までは若い人がおりるとき頼んでいた
この前は誰もいなかったので苦しかった、それで今回は荷物をあらかじめ宅急便で送ったという
スーツケースを階段をひきあげるのは大変だなと見ていた
重いから階段はきついのである
それが田舎駅の不便な所である
田舎駅だけではない、相馬市にはエレベーターがないのも意外だった
相馬市は4万くらい人口があるのにエレベーターがない、原町駅にはある
ここより乗り降りがない新地駅は津波で流されたのでエレベーターがついたのである。
駅のなかもエアコンがついた、でもュツは海から風が吹いてくるからこの辺は涼しいのである

駅が意外と気づかないのがホームが二つあり反対側に行くとき不便だし外から来た人は
その行く先がわからずにホームがどっちなのかわからない、表示するように頼んだらJRでは二か所したがそれでも気づかない人がいて聞かれるのである
ただ仙台行きは待合室からすぐに外に出れるから便利なのである。

駅というのは意外と利用しにくいものがある、駅についてもそこからの足がない、タクシーになると高くなる、これも不便なのである。
跨線橋(こせんきょう)をわたるとき荷物をもっていたりすると辛い
特に老人になると辛いのである
実際に階段から落ちて怪我した老人がいたのである
階段を上ることでも老人になると辛いとなる、階段が意外と急なこともある
高齢化社会で老人が鉄道を利用することが増えるとしてもこうした設備がないと利用しにくいのである、でもJRでは相馬市にもエレベーターを設置しないのだから作らない
そしたらローカル線はみんな赤字なのだからますます費用ばかりかかるとなる
現実に今駐輪場を新しくしている,柵を新しくする
これは市の方で作るのだが市でも金をだしているから金がかかる

JRだけではない、鉄道というのは維持するだけで手間がかかり金がかかるものなのである広島の方で鉄道が洪水で使えなくなったがその復旧にしても金がかかる
只見線でもあれだけ乗る人が少ないのだから維持するのができないとなり福島県で半分費用を負担して復旧することになった
ここで津波の被害があったとき復旧に400億円もかかった
でもそれはJRで負担して復旧した、六年もかかったのである。
その費用は新幹線でもうけているからできたのである。
ローカル線は新幹線につなぐものとして効用がある、ネットワークとして効用があるから維持しているのである。
鉄道はもともと石炭とか木材とか資材を運ぶものとしてはじまり発達した
乗客をのせるためではなかった、この辺でも戦前は乗車賃が高いから普通利用していなかったのである。主に貨物輸送として石炭とか木材とか石材とかを運ぶものとして発達したのである。
だから今でも鉄道は近隣の足ではない、中距離輸送に向いている、この辺だと仙台に行くときなどき便利なのである。近間だと車が便利であり自分でも原町に用事があるときは鉄道を利用しない、鉄道ではイオンとかにも回れないからである。

その八戸からきたおばさんは八戸ではサバとかイカとかなに魚がとれていないという、それで困っているという、水産関係の仕事が八戸では多いから魚がとれないということは困る、サンマもとれないとかも報道されている
こういうふうに生の情報を知るのが駅でもある
だから今は何もしていなくても話かけているのである
野馬追いの時はフランス人の人が来た、これは特別だった
ともかく駅は外との交流の場になっている、そういう効用もある
広場の効用もある、街の玄関口でもある、つまり遠くから来た人を最初に迎える場なのである、駅に降りてその街の第一印象をもつのである
高速のSAのセディティは人が駅より百倍とか出入りがあったとしても何かそういう機能はあまりない,通り過ぎてゆくだけで街の方には来ない
街とつながっていないのである。駅は駅前通りとあったように街とつながっていたのである。

階級社会と格差社会の相違 (社会をいかに構成するのか?)


階級社会と格差社会の相違

(社会をいかに構成するのか?)

kakusasss1.jpg

階級社会とは歴史を見れば常にあった、それは歴史的に経験済みでありヨ−ロッパなどでは継続している、貴族と労働者は英語でも違った使い方をする
英語といってもいろいろある、クイーンズイングリッシュとアメリカの英語は違うというときそうなのである、同じ英語でも違うのである
歴史的伝統的に作られてきたものがありその中で言葉も洗練されて使われる
アメリカ英語が平民的だというとき平等の言葉だというとき王様もいないし貴族もいないからである、そういう歴史もない国では平民的な対等な言葉になる
上の人にへつらう言葉は生まれない、敬語もあってもないとなる

京言葉があんなにやんわりしているのは上の人にへつらうご機嫌をとるためだだんという東北弁になるとぶっきらぼうになる、おめえとか・・・だべえとか敬語を使わないのである。人との関係でもそうなっていたのである
確かに侍という支配階級が生まれて侍言葉が生まれた、平和な江戸時代に階級が作られたからである。
階級社会というとき不平等な社会であり理不尽な社会だと今ならみるがその時代にはその時代の生き方がありそれに適合するからすべてが悪いとはならないのである。
階級社会があって身分制があって社会のモラルとか秩序が形成されていたからである。
日本だと侍で贅沢していたのは極一部でありその他の侍は他の身分の人ととさして変わらなかったのである。極端な格差はなかったのである。

今になると時代劇でもどうして身分の上の人に奴隷のように忠勤する人がいたのか?
時代劇では仕える家と一体化して犠牲になる人すらいた
それは家族のようになっていたのである。でも身分社会で今なら差別されていたとかなる経済的にそう強いられていたのだとかなる
でもその時代にはその時代のモラルがありそれで社会が成り立っていた
だから階級社会の負の面をみればもう暗黒社会だとなるのである。

不思議なのは戦前とかはまだ新しい時代である、その時なぜ女中がいて家で働いていたのか?それも特別金持ちではなくても中流階級でも二人も女中を雇っていたという
自分の母親も東京で女中していた、その頃女性の働く場所が女中とか紡績工場しかなかった、絹織物を生産してアメリカに売り外貨を稼いでいたのである。
紡績は富国強兵の政府の政策で奨励されていたのである。
それで母が言うには紡績工場で働いていても現金をもらったから良かったと言っていた
それは女性が働いて現金になる場が限られていたからである。

そしてなぜ女中という仕事がそれほど求められていたのか?
家事には大きな労力が必要でありそのために人力でするほかないからそうなった
電化製品がゼロというとき洗濯板でごしごし洗っていたらその労働は並大抵のものではないからだ、それは世界で共通していてあのパリのセーヌ川で女性たちが洗濯していたことでもわかる、世界的には洗濯は川でしていたのである。
自分の家では裏に堀があってその流れる水で洗濯していたのである
ご飯をたくのにも竈の時があり手間がかかりすぎていた、ボタン一つで米はたけないのである。すると家事の労働を頼まないと仕事もできないということになっていた

自分も介護から家事労働をしているが電化されていても労力がいる、手間がかかる
だから料理はしていない、買うだけである、最近オカズを得るために生協に入った
簡単にオカズになるものを用意しておくと便利なのである
冷凍とか冷蔵であり長持ちするから一人暮らしには便利なのである。
一人暮らしだと使わないで腐らすものなどが多くなるからだ
戦前辺りだと人間の労働は女性ならほとんど家事に費やされていたのである。
それも妻一人ではできないから女中を頼んでなんとか家を維持していたのである
そういう時代は別に女中になることはさげすむことでもない
女中は女性の仕事として認められていたしそのモラルも要求されていたのである。

もし今のように女中が差別語として使われなくなったように女中という仕事はあってもお手伝いさんとかなる、職業としては家政婦とかなる
しかし女中という仕事はないのである、職業もない、女中という仕事が成り立ったのは戦前までであり後はないのである
その時代は女中は普通の家庭でも中流家庭でも雇えるものだったのである。
その時代の要請で女中がいてそれは普通のことだったのである

今はなぜ女中がいらないのか?それは家事が電化されたりオカズでも買う時代になったからである、ともかく買う種類が多いのに驚く、料理を作ることではない、何を買うかが家事なのである、家事のために便利な道具を買うことなのである。
家事も機械化されやがてはAI化されるてさらに手間が省かれる
そもそも今は誰も女中とかにならない、お手伝いさんにもならない、何か会社で掃除するとき掃除を一時間とかするときそれは会社員であり女中でもお手伝いさんでもない
その人は会社員なのである。

そして昔の女中は家政婦になるがこの家政婦は気軽に雇えるものではない、もう極一部の恵まれた社長とかしかない、給料だって相当に高くなるからもう雇えないのである
ただ家事は機械頼みだということをしてわかった
機械化してなるべく手間をはぶくことなのである。やがてAIで機械化して自動的に料理ができることなのである。それをみんな願っている
なぜなら家事の手間は今でも時間をとるからである
そして今は女性でも外で働いているから家事に時間をかけられないからである。

もともと家事をとりしきる女性は重要な役割を家でもっていた
母刀自というとき墓に刀自と記されてもいるから家事をとりしきったものとしての誇りを記していたのである。 

 真木柱(まけばしら)、ほめて造れる、殿(との)のごと、いませ母刀自(ははとじ)、面(おめ)変(か)はりせず

 大黒柱というけど女性こそ大黒柱という矜持をもっていたのである。

今は家事は女性でも第二級の低いものとして見られる、価値観は時代によって変わる
時代のモラルも変わるのである。
今はお手伝いさんでも家政婦でもなりたくない、母親が娘を医者にしたくて娘が母を殺したという事件があった、母はどうしても娘を医者にしたかったのである。
看護師にはなったがその後も医者の試験を娘は受けていたのである。
それは母が医者にしたかったからである。女性でも男性のように医者にしたいとなる
その時代の価値観の差は大きい、戦前だったら別に女中になってもはずかしいことではない、そこが働く場所として必要だったし社会が要請されていたからさげすまれるということもない、普通に働く場所だったのである。

いづれにしろ人を雇うこと働いてもらうことにはコストがかかりすぎる
ロボットだったらA地点からB地点に物を運ぶならそれだけ忠実にして文句言わないのである
人間だったらそうはいかない、怪我したときのために保険をかけたり家族がいてそれも考慮しなければならい、そして仕事はA地点からB地点に物を運ぶだけでも人間はそれだけではすまない、なにかやと要求がある、それに答える方が嫌になるのでできないのでAI化であり機械化しようとする、人間が一番効率的ではないのである。
その効率的でないことがまた人間だとなる
でも資本主義社会では効率化が要求される競争に勝たねばならい、そこでジレンマに陥るのである

人間と機械の間では情は生まれない、でも人間と人間の間では情が生まれる
その情を重んじれば効率的でとなくなるのである
そのこと故に人間でありうる、資本家とか経営者からすれば人間は大きなコストになる
だから極力省く方向になる、AIとか機械は文句を言わないからである。
機械にはプライドもないから文句は言わない、うらやましがったりもしないからである
資本主義社会を追求してゆくと非情になる、すでになっている、金だけがすべてになる
何でもあれなんの能力もないものでも何もできないものでも人格的に悪辣だなんだといっても金のある人間は資本主義社会では勝ち組なのである。

だから格差社会と階級社会が違うというとき階級社会とは何か?
それは人間の歴史で階級社会の方が長いのである。格差社会と階級社会は違う
階級社会は簡単に作れない、貴族社会は長い時間の中で作られてきたからである。
その階級を否定するとしても貴族社会には階級社会にはそれなりの価値観とモラルがあり社会を維持してきた、江戸時代がそうである
それがすべて悪いものだった、格差社会であり奴隷社会だったともみる
でも江戸時代全体を見たとき階級社会でも庶民は外人が明治に日本に来たとき幸福そうな顔をしていたというとき今見るものとは違っていたのである。

階級社会より格差社会が悪いというとき階級社会は江戸時代のように侍が支配して身分社会だった、その人たちは階級として共同体を形成してモラルを形成した、武士道でもそうである、そして責任が重かったから責任をとるとき切腹したのである
そういうことを庶民は見ているから侍にはなりたくないと言っていたのである。
今ならそういう責任がないから庶民から見て金持ちはただ楽しているだけだと見るから
階級社会ではなく格差社会なのである。
格差社会はただ収入の金があるかないかだけで判断している社会である
階級社会はヨ−ロッパでも長い歴史の中で生まれたものであり日本の侍でもそうである
今は格差社会であり階級社会ではない、階級社会は簡単に作れない、長い時間の中でしか歴史のなかでしか作れないからである
格差社会より階級社会の方がいいというときその階級社会は歴史の中で長い時間の中で作られたものだから作りようがないのである。江戸時代でも300年ありヨ−ロッパだってそうである

階級社会というとき侍を庶民は認めていた,それは金があるからでなはい、経済的に豊かだからではない、社会の中で重い責任を果たすものとして見ていた
だからこそ侍として庶民は認めて従っていたのである。
今は金持ちを誰も認めていない、あいつらむしろ不正しているからあこぎなやつだから金に汚い奴らだから金持ちになっている
そういうやつは許してはならない、資産でももっと税金をかけるべきだ
むしろ金を奪うべきだともなっている、格差社会ではいづれそうした不満が爆発する
金持ちをそもそも認めていないのだから金持ちは暴動が起こり襲われる
格差社会はこうして深刻な対立を生み国は分断されるのである。
格差社会は金持ちにとっても危険なのであり常におびえていなければならない社会である枕を高くして寝ていられない社会なのである。
そういう社会では金持ちもいいものではないとなる


posted by 老鶯 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年08月02日

日本語と英語の相違の背景を見る (狩猟牧畜民とアジア的農耕民の相違がある)


日本語と英語の相違の背景を見る

(狩猟牧畜民とアジア的農耕民の相違がある)

haveworth11.jpg

fox123.jpg

straight111.jpg


言葉の背景にはまず人間の生活があり生まれる、はじめに言葉ありきではない、はじめに生活ありきで人間は始まっている
その生活の相違が文明と文化の大きな相違を産む、それがどうししても相いれないものとなり対立する、それを象徴していたのが遊牧民のモンゴルと農耕民の中国だった
それで万里長城が作られたのである

農耕民からすると狩猟とか牧畜民族は遊牧民はそもそも定住しないで羊を追って生活しているから理解しにくい,ただ日本人でも縄文人とかは狩猟民族だったのである
それでアイヌ語にhaveと同じような使い方があるというのも不思議なのである。
そこに狩猟民として印欧語との共通性があるとなるがこれは簡単には解明できない
アイヌ語はあまりにも未熟な言葉だからである、極端に語彙が少ないからだ

ただ縄文人が狩猟民であるとしたらかえって印欧語族の人たちと生活形態が同じだから通じ合うともなる、それは言葉の前に同じような生活をしていたからそうなる
言葉にもいろいろあるが例えばstraightという言葉は日本語にはない
それは砂漠とか平原とかに合う言葉でありそういう風土から生まれたものである
どこまでも平坦な土地にstraightに道が伸びているとかなる
straightに天に達するとかなる、日本は常に山であり山で遮られるからそういう感覚がない
それを訳すとなおる、直るという言葉である、直るとは修復するとか曲がったものが直るという意味になる、これはストレートとは違った意味である
直るとは立つではなく座る意味だからである。
万葉集にもある「真直なる」まなおなるとは日本人の自然と融合した文化から生まれた
それはストレートとは違ったものである、だから訳しにくいのは世界観が違うから訳せないとなるのだ

語順もまたその国の自然観とか文化とか関係して生まれている、ともかく英語などの印欧語は平原とか砂漠とかで暮らしている人から生まれたのである。
そこで狩猟するとか遊牧するとかしていてその言葉が生まれた
だからイメージできるのは平坦な土地に動くもの、動物が現れるとするとまずその動くものに注目する、そして動くものを捕らえたり追ったりするのだから主語の次に動詞がくる動詞が主語の次に来るのはそれは動くものに即座に反応するためである
もし豹でも迫って来たら即座に行動しないと殺されてしまうからである
素早い反応するということは動詞になるのである

アジアは植物的世界観の上に言葉も成り立っている、そこで最初に見えるのは森とか山であり動物がいたとしても森とか山が迫るからその後に動くものを見る
そして主語が日本語で省かれるのは主語が日本では山とか森になるからである
自然が主体であり自然に主語なる人間は消える、溶け込むからそうなる
だから語順はそうした生活から生み出されたのである
誰かが勝手に作り出したものではないのである。
つまり狩猟や遊牧民の人たちはそういう言葉を使っている必要があったからそうなったのである

言葉にもいろいろあるが日本語と同じような語順をとるのが40パ―セントくらいあるとき半々になる、それは東西の自然と文化の相違からそうなった
東西の文明文化の相違は言葉となれば印欧語族とアジア系統の言葉である
それは自然の相違でそうなったのである。仏教でも草木も成仏するとの思想もアジアの思想なのである、印欧語族だとヨ−ロッパとかになるとそうはならないからだ

文明とか文化をみるとき平原とか砂漠は幾何学的発想が生まれる、なぜならストレ―トがまっすくだというときそれは幾何学的てもの図形的思想が生まれやすい
だから砂漠の平坦な土地のエジプトにピラミッドが生まれともなる
日本のようなアジアで熱帯のような鬱蒼とした森からはそうした図形的立体的幾何学的感覚になりにくいのである。
つまり森とか山にさえぎられてそうした思考が起こりにくいのである

ただなぜ中国は主語の後に動詞が来るのか?中国は最初の始皇帝の国家が西から来た遊牧民によって騎馬民族によって作られたことでわかるように平原地帯の人々が入ってきて作られた国家という側面があった、ただそれが主語の後に動詞が来るのかという説明があたっているかどうかはわからない、でも語順が大事だというとき中国はアジアとは異質だともなる、中国は農耕民であったが遊牧民と商業民族の血が濃くまじっているのである
方向を示す北斗七星や北極星信仰があるのもそうである、それは遊牧民から伝わったのもである
それで野馬追い知られる相馬氏の信仰が妙見信仰になっている、それは北斗七星と北極星の信仰なのである。それは中国から入り韓国経由で伝えられたのである。

haveというときなぜこれほどの多様な意味があるのか?
haveには羊を持つとあれば羊を育て養うという意味がある
それは遊牧民の生活から生まれたのである。
日本語だったらそういうことがありえないからである。
このhaveはとても言語学では理解できない、その生活形態を知る時理解できるものだからである、つまり言葉だけでは異なった文明文化を理解できないのである
haveには日本語にすれば養う、培う、育てる、・・・とかの意味があり日本ではそれは米とか野菜をとかを育てるとか培うとなるが英語では羊を養う、育てる、飼うとなるのである。培う(つちかう)は土が関係しているが英語では羊を育てるとなる
羊文化、牧畜文化がヨ−ロッパ全体にも広がっている、羊はヨ−ロッパのどこでも飼われている
それはやはり平坦な地が多いとかなり地理的特性が平原地帯とにているからである。
日本だと山ばかりだから平坦な地が少ないから牧畜に向いていなかったのである。
日本は海に囲まれているから海の幸にめぐまれて生活したとなるからだ 


ezoyumi111.jpg
生活形態や地理が異文化交流の障壁となる 
(蝦夷は狩猟民族だったから対立した)





続きを読む

Aabstract Architecture


Aabstract Architecture

ccccorodorrr111.jpgundergrounddd11122.jpg
kiricoooo234.jpgdesertssss11.jpgkirico4545.jpg


crossend11.jpg

crossggggggmm1.jpg



2018年08月01日

生活形態や地理が異文化交流の障壁となる (蝦夷は狩猟民族だったから対立した)


生活形態や地理が異文化交流の障壁となる

(蝦夷は狩猟民族だったから対立した)

異文化交流というとき何が大きな障害となっているのか?
言葉が一番障害になっていることがわかる、でも言葉の前に何が異文化交流となるとき障害になるのか?
外国人になると何が障害になるのか?それは地理とか天候がわからないということであるそれは別に日本でもそうである、山に囲まれた盆地に住んでいる人も日本では多い
そこでは太陽が山から昇り山に沈むのである 

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。 (枕草子

春の夜は 東山よりくると云ふ 寺寺靄(もや)し月のぼるとき
【作者】與謝野晶子

枕草子では東山から昇る太陽を見る、それが山だからこそ見える風景である
この辺では海から太陽が昇るからこの感覚がわからないのである

与謝野晶子の歌は山から月が昇る風景である、こういう光景は海側に面している人たちは見ることができないのである。

ここで文化というときその土地から培われて育まれ養われる、だからその土地の地理を知らなければその土地の人でも理解できないとなるのだ
日本だとなんとかイメージできるが外国となると山が全然ない平坦の土地がつづき大きな河が流れてそこは運河のようになり船が行き来している
その風景も日本ではなじみがない、そこに異文化交流のむずかしさがある

ここに住んでいるネパ―ルの人は4000メートルの所に生まれ育った
これもどういう暮らしをしていたのかイメージできなくなる
それはあまりにも異質だとなるからだ、言葉の前にそんなところに人間が住めるのかという疑問になるからだ
まず今なら都会に住んでいる人は同じような生活をしている、だから特別なものではない都会の人同士だったらかえって外国人でも同じであり理解しやすい、とまどうこともないでもネパ―ルとかモンゴルの平原で生活している遊牧民とかなると理解しがたくなるのである。その生活がイメージできないからである
東南アジアとか中国でも稲作しているとかえって生活が共通しているから理解しやすいのである、田んぼがあって米を食べているとなるからだ
でも二毛作とかであり隣で稲刈りして隣で田植えしている風景には日本になかった

だから言葉とか外国人という前に意思疎通できない、理解しあえないのとむしろその生活形態が違うときなのである。
それで遊牧民と中国の農耕民は理解しがたいものとなり万里長城ができたのである
遊牧民は食べるものがなくなるとき農耕民の中国に押し入り奪ったからである
なぜそうするのか?それは遊牧民にとっては生きる死ぬかになるから食料を確保するために侵入する、それを止めるために万里長城ができたのである

例えば日本でもなぜ蝦夷との戦争となったのか?蝦夷とは何者なのか?
それはアイヌのように狩猟漁労採集民族であり稲作民族でないから対立した
人種的対立でもなかった、人種よりそうした生活形態の相違が意思疎通できないものにする

斉明天皇5年の遣唐使に、道奥の蝦夷男女2人を連れて行かせ、唐の皇帝に会わせることになり、皇帝高宗との謁見は洛陽でなされました。皇帝は蝦夷を見ながら、遣唐使に尋ねました。以下は、遣唐使に随行した外交官的官人である伊吉博徳(いきのはかとこ)の文書によるもので、かなり信頼性が高いと思われます。

 「これらの蝦夷の国は、どのあたりにあるのか」と皇帝は尋ね、遣唐使は「国の東北のあたりです」と答えました。

 皇帝「蝦夷はどれぐらいの種族からなっているのか」

 遣唐使「3つの種族からなります。ここには熟蝦夷(にぎえみし)がまいりました。毎年、朝廷に貢物をもってまいります」

 皇帝「その国に五穀が実るのか」

 遣唐使「ございません。獣の肉を食べて生活しております」

 皇帝「これらの者が住む家があるのか」

 遣唐使「ございません。山深いところで、樹木の下で住まいしております」
 

 皇帝「その国に五穀が実るのか」

 遣唐使「ございません。獣の肉を食べて生活しております

中国人は羊を追う遊牧民に悩まされていた、そこでこの問答が生まれた
五穀が実るのかということは稲作民族なのかどうかということである
それはなく獣の肉を食べて生活していますということで納得したのである
生活形態を知ることの方が異民族を理解する手段なのである
今でもマタギ言葉にアイヌ語が残っているというとき蝦夷とはアイヌと同じ生活形態をしていた人たちだったとなる、稲作民族の相違がそれだけ大きかったから対立したのである言葉が違うから対立したのではない、生活形態が違うから対立したのである

熟蝦夷(にぎえみし)とは

邪馬台国のころには、アイヌ系のエミシ(クマ祭りをする)、縄文系エミシ(狩猟採集の倭人)、弥生系エミシ(農耕の倭人)、海沿いの海人系エミシ、そして少し後には戦乱をさけ日本海を越えてきた大陸系エミシなどの人々が住んでいたと考えられます

蝦夷には朝鮮系統の伽耶族とかも混じっていたしいろいろな人種がいたがその人種で分けるのではなくその生活形態で分けていたのである。
だからアイヌ語が一部残っていたとしても蝦夷語があったとしても一つではなかった
だから蝦夷語は解明できないのである
熟蝦夷(にぎえみし)とは農耕化した稲作を覚えた人たちで大和王権にまつろう人たちとなったがまつろわぬ人たちは依然として稲作になじまずに狩猟をつづけていた人たちでありそれがマタギとして今にも残りそこにアイヌ語が残っていたともなる

いづれにしろ異文化コミ二ケーションとなると言葉の障壁もあるがまずこうして地理とか生活形態が違うと理解するのが極めて困難になるのだ
それで対立して争いになり戦争になるのである。
例えば今でも漁師と農民は違っている、漁師は農民のことがわからないという
米を作ることに理解がないのである。
古代から海彦と山彦神話があるのはそのためなのである。その対立の方が大きいのであり言葉で対立するというわけでもないのである。
つまりこうした地理とが生活形態が違うと理解ができなくなる
天候でもそうである、日本の文化を俳句でも日本の四季を経験しない限りいくら言葉で説明してもできない、なぜならその感覚は風土によって養われたものだからである。
それが大きな障壁となって異文化コミ二ケーションはむずかしいのである

例えば封建制があるのはヨ−ロッパと日本だけである、それでヨ−ロッパにも城がやたらと多い、日本でもそうである、そこに歴史的共通性があるから理解しあえるともなる
でもそういう歴史がなっかたら外国は理解するのがむずかしくなるのだ
それでマヤ文明などはジャングルに謎として埋もれてしまっていた
そこに歴史として共通なものを探るのがむずかしいから孤立した文明となり理解しがたいものなとる、日本はヨ−ロッパと離れていても共通した歴史があったということでそこから理解するとなる
いづれにしろ異文化でも外国を理解することはむずかしい、中国は広すぎて地理からして理解しにくい、モンゴルのような大平原に住んでいる人もネパ―ルのような4000メートルの所に住んでいる人も理解しにくいのである

そこでの地理的感覚とか気候でもイメージできなくなるからだ
モンゴルに住んでいた人は冬は寒く一回りやせるというときそれだけ過酷だとなる
まず暖房自体が粗末なものであり冬は厳しいとなる
ただその生活も日本の文明的生活からイメージできなくなるのだ
だから都会で便利な生活している人は理解しやすい、今は都会だと同じような暮らしをしているからである、電気を使わない人もいないし車にも乗っているからである
でも全く未開の地から都会に来たからその変化にとまどい理解できなとなるのである。
今はグロ−バル化しているからそういうことはない、ドルがどんな奥地でも価値あるものとして認識している、それだけでもグロ−バル化しているから金の重要さを知っている
金で買えるということそして別な世界の暮らしをしるからヨ−ロッパのようにアメリカでも移民問題が生まれる、気軽に越境できるからである

観光は楽しむものだ。旅行者が楽しみ、また受け入れる側も楽しむことが基本だ。なぜなら観光は、産業である前に交流だからである。
交流は楽しくなければならない。楽しんだ結果、経済もまた潤うことになるかもしれないが、基本はあくまで楽しむことにある。

  
観光とはいろいろあるがもともとは異文化と異人種との交流という側面があった
異質なものにふれて見聞を広め視野を広げることである
観光で利益優先にするのではなく異文化交流を楽しむということにある
ただそうなると小学校の先生のように野馬追いを見に来たフランス人のようにやはり知的興味のある文化人とかだとそうなるが一般人はそういうことはない
でも今は日本に興味をもって外国人がおしよせてくるのである 
それでも東京に来てもそれほどめずらしいものがあるとかなると都会に住んでいればたいして変わりないのである。

今までは海外旅行となると学者だとか特別な人しかしていなのである。
今は大衆化したからそんなことに関係なく外国に人は行くのである
観光で交流としても何を交流するのが問題になる
何か目的をもって交流するとなる観光ではないだろう
技術を学ぶとかなるだろう、農作技術もあるからだ、お伊勢参りでは種を仕入れていたことでもわかる、なかなか遠くに行けないからそこで種を仕入れていたのである。
そういう交流は観光とも違うのである、ただ文化交流となれば付随いしていろいろなものがある 観光というときそうしした実利を得るものではなくその国の光を見るとなっている、交流を楽しむというとき何を交流するのかが問題になるのである。




2018年07月31日

雲の峰(俳句十句)


雲の峰(俳句十句)

summercloud12432.jpg


summercloudkkk1.jpg


summercloudkkk122.jpg





大いなる空の広きや雲の峰

みるみるに高くなりにき雲の峰

燕飛び見ぬ間に高く雲の峰

真昼間や日射しの強く雲の峰

形変えみるみる高き雲の峰

畑仕事太りし婦(おんな)にカンナかな

新たなる宅地またふえ雲の峰

今日もまた同じ木陰に休むかな

カンナ咲き夏の雲湧く白さかな

暑き日を吸い込み一日雲の峰

雲の峰二つ割れて山を成す                            


この道の行く人知りぬここに立つ木の影濃くも後に人なし


今日は暑いけどからっとしている、ここは32度くらいかもしれない、そのくらいだと耐えられる、晴れ渡り雲の峯がぐんぐんと高くなる
それが気持ちがいい、夏らしいなとつくづく思う
名都を楽しむには34度とか35度になったらもう無理である
熱中症になる、日本は季節の変化がありそれで俳句ができた
夏は夏らしいとなる

太った女性はどこにあっているのか?それは畑にいるときあっている
根っからの農民なのである、生まれも育ちもそうだからである
人間は何かそこにふさわしいとなる場がある
自然の中で人間も映えるから農民や漁師や林業でもそういうところで働く人は自然とかかわり自然と一体となる、ただハウスとかなるとそれは別なものになる
働いている人が見えないからである

でももうハウスでなければ農業は成り立たない、それは不自然に見えても今はそうしないと成り立たない、でもトマトでも露地ものがうまかったということはある
それはたっぷりと自然の光を吸ったからだともなる
現実としてはもう畑といってもそれを維持することの苦労を聞けばもうやりたくないともなる、いろいろと金がかかる、それをこっちで支払うのも苦しいとなる
趣味の畑は金にならない、かえって金がかかる

それでもその女性は畑にいる時カンナのように映えている,そこにふさわしいとなる
それは生まれつきであり育ちもそうであり体つきでも農民だという感じなのである
人間はやはりその人にふさわしいものがありその時その人は生きる価値があるともなる
ただ正直それは外から見ている時そうなるのである。
現実に農業するものは違う、だからなぜ原発事故のあと耕作放棄地が増えたのか?
誰も耕さないのか?それは手間であり金にもならないとなり高齢化して放棄したのである
雲の峯は変化する、雲の峰を見ていると気持ちがいい、そこに自由な力も感じる
自然の雄大さを感じる、この辺には高い山がないから本当に山のように見る
駅前通りにも映えたが降りる人が一人とか少なかった
野馬追いが終わり閑散としている、駅前通りはにぎわっていたが今はどこもにぎわいがないのがさみしい、ただ駅からおりてこの雲の峰を見ればきもちいいとなる

小高の不思議は人が通るのがまれである、車も他よりずっと少ない、すると江戸時代のような雰囲気になっていた、車がないと江戸時代に還る
人が一人道を歩く、その人を道は記憶している、そして木の影が濃く道をおおいその後を一日行く人もないともなる
車がなければ江戸時代は戦前でもそういう風景だったのである
江戸時代にもどりたかったら小高とか浪江でそれをある程度経験できるともなる
夜だって暗くなり江戸時代にもどったようになるからだ
江戸時代を体験するとかの観光さえありうる、そんなことを言うとまたしかられる不謹慎だとなるが「江戸時代にもどった町」とかで人が来るかもしれない
ただそうはいってもやはり駅前通りが活気がないように自然でも街でも活気があるとき自然が映えるとういことがある、都会では自然がないから逆に人の活気だけになるからつまらないともなるのだ
タグ:雲の峰

外国の理解は言葉だけではできない (言葉の前に地理とか天候を知るにはその地を踏まないとわからない)

  
外国の理解は言葉だけではできない

(言葉の前に地理とか天候を知るにはその地を踏まないとわからない)


 駅であったフランス人は小学校の先生である、まだ若い
いろいろ文化的なことでも知りたくて日本に来ている
それは先生だからである
日本についての好奇心と探求心がある、だから二回目であり日本語でもしゃべれる
かたことにしてもしゃべれる、まず外国では言葉はまるで自分はわからなかった
ただ英語は習っている、単語でも聞き覚えがあり通じたのである。

だから事前に習わないと言葉は簡単なものでも覚えられない
中国語は発音がわからなくて皆目わからなかったが漢字がわかったので助かった
フランス人は漢字はむずかしいときうそうだろう、見慣れていないからである
漢字は何か謎の絵に見えるだろう、韓国のハングルもそうだった
アルプスベットは見慣れているからわかりやすいのである

フランス語でもは英語と実際は発音でも相当違っている,だからその発音で音の理解ができないので通じないのである。
むしろ文字だったらかえってイメージできるともなる
日本人は外国語でも音ではなく文字から理解している
ところが会話となると音が大事になる、音を聞き取ることが大事になるのだ

言葉とは最初は文字ではない、音なのである、文字は音より高等なものであり文明化して生まれたのである。だからマヤ文明とかインカ文明とかには文字がないのである。
でも高度な文明があった、しかし文字がなかった、日本でも漢字が入るまで文字がなかったが言葉はあった、大和言葉はあった
言葉のない民族はないのである。
アイヌ語は音として残っている、蝦夷の言葉も音として残っている
それで北海道ではアイヌ語を文字化するのに漢字を当てたからおかしなものになった

それは日本語の地名を漢字化したときと同じだった、日本の地名はもともと音で表現されていたのである。それは漢字化した結果そこに誤解が生まれるようになった
漢字を見て意味を感じるからである、でも漢字の意味ともともと音だった意味とは違うのである。
ただ日本語の大和語は音として今日継続している、だから日本人の精神と文化は日本語として継続しているのである。
言葉というとき音の音韻の多様性に注目していない、日本語だと母音が主であり子音は少ない、英語は子音が豊富である、だから日本人は英語の発音が下手なのである
そういう音を聞きなれていないからである、言葉は慣れであありいつも聞いているとその言葉を音から理解する、赤ちゃんは字から理解しているのではない、母親の音から理解している、だからこそ母国語というのである,それはどこの国でも同じなのである。

言葉のグローバル化というとき本当は音からはグローバル化は相当にむずかしい
世界の音としての言葉は理解しにくいのである
でもアルプスベットでも文字ならかえって理解しやすいのである。
ただ漢字になるとヨ−ロッパ人とか他でも理解しにくい,それはエジプトの神聖文字のように謎めいて見えるのである
ここの障害は相当に大きいのである、漢字の表記だと理解しにくいのである
ただ東南アジアでもインドでも文字もなにか謎めいて理解しにくかった
だから文字が必ずしも理解しやすいともならないのだ
日本は英語を文字から読むこととして理解した、会話することもないから音を通じてではなく文字を読み翻訳することで英語を学んだのである

いづれにしろ外国の文化に通じるには言葉が障壁になる、フランスに行っても城があってもその由来などわかりにくい、歴史はわかりにくかった
それは言葉が通じないからである。説明を聞いてもわからないからだ
ただ英語で表記されていればわかるともなる
ともかくグロ−バル化してこれだけ外国人が観光でも来るととうしてコミ二ケーションするのかとなる、それは言葉なら英語しかないのである。
英語なら本当は中学英語を完全にマスターししていれば最低限は通じるのである
観光旅行ならまにあうのである

ともかくこれだけグロ−バル化することは言葉でみんな苦労する
それで共通語になるものが必要になる、それは英語しかないのである
ただ英語だけを共通語とすると他の国や日本でも損なのである。
なぜなら英語を身につけるには日本人はヨ−ロッパ人より何倍の努力が必要になるからだ英語と日本語の共通性がない、英語はヨ−ロッパでは共通性があるからだ
だから英語を理解するししゃべることも比較的に楽にできるのである。
日本は英語で大きなハンデキャッフを負っているのである

ただ日本というのは確かに観光面とかで会話できない、しかし別に英語であれドイツ語であれ翻訳して自家薬籠中の物にしている
それでヨ−ロッパの文明であれ文化であれ取り入れている、だから別に技術にしてもあらゆる用語でも日本語に訳せるのである、日本語で理解できるのである。
観光とかでは確かに不自由があっても高度な文化文明の移入しているのである
アイヌ語とかのようなものだったらまず技術的なものは翻訳できない、日本は漢字を取り入れることでヨ−ロッパの文明文化を理解した
そして漢字を通じて今度は中国に西欧の文化文明を翻訳して中国に与えたのである
だから日本人が発明した漢字を中国はとりいれているのである。
だから漢字は広範囲に多様に表現できる言葉である
ただ漢字の一字一字に意味があるとしてそれは中国の文化なのである
でも日本人は中国人の解釈ではない日本独自の漢字の理解と応用をしたのである
それがヨ−ロッパ文明を取り入れるとき漢字を新しい意味あるものとして造語したのである。

だから観光で言葉がわからないというときと文明と文化とか大きなもので言葉がわからないことの意味は違っている
もしヨ−ロッパの文化でも文明でも入ってきてそれを理解できないとなれば大問題になるそれにあてはまる言葉がないともなればもう外国の文化でも文明でも技術でも理解できなくなる、技術用語も医療でも他でもあるからだ
とてもアイヌ語のようだったら理解不可能になるからだ
だから日本人は英語ができなくても外国語ができなくてもいいというとき別に高度な分野では理解して文明でも文化でも技術でも取り入れることに成功しているからである。

観光でちょとした言葉がわからないのとこうして大きな分野での言葉の問題とは分けて考えるべきなのだろ、観光で言葉がわからない通じない問題と違ったものとして言葉を考えるべきだからである
別に翻訳してもわかるとしたら翻訳を読めばいいしグーグルでも翻訳して理解すればいいとなるからだ
ただ外国人が直接日本に来るということはまたそうしたて文明文化のレベルとは違った問題として考えるべきだとなる
実際はそのことで日本人は大きく困ることはない、でももしヨ−ロッパの文化文明を翻訳できなかったらあらそる分野で日本はヨ−ロッパに学ぶこともできなかったのである
だから人と人が直接交流するのはせ違ったものとして言葉を考えるべきだとなる

そもそも言葉の前に理解するものがある、日本でも日本の風景でも気候でも知らなければ言葉も理解できない、日本の文学で俳句とか短歌を理解するとしたらまず日本の四季を知らなければ理解できないのである。
それはまず言葉ではない実感の世界なのである。日本に少なくとも一年間住んでみないと日本の四季がかわらない、すると俳句も短歌も理解できないのである。
その小学校の先生は曲水の宴のことを聞いていた
何を言っているかわからなかったがそこで短歌を即興で書くことを言っていた
それがすぐわかったのは説明の写真をもっていて自分に見せたからである
写真だと言葉でわからないものが即座にわかることがある
言葉からイメージするのはかなりの高度なの作業なのである

自分が今回そのフランス人にあって英語で説明ができなかったのは短い時間だったからである,駅で待っている時間しかなかったからである
そこで理解しあうことはできない、でももし長かったらまた会ったりしたら説明もできたそもそも外国を理解するには言葉だけではない、そこに一週間でもいればまた一か月でもいれば理解が深まるのだ
何かを理解することは常に時間がかかる、また人間と人間が信頼関係を築くのにも時間がかかる、だから家族しか信用できないというとき家族は長い時間子供の時から一緒に暮らしているから信頼する、それは時間で作られたものなのである

要するに外国でもある国を理解するにはそこにいる時間とか学ぶ時間で決まるのである
あらゆる国に詳しくなれないがある国を知るために時間を費やせばそれに比例してその国を理解することになる、でもあらゆる国を理解することは不可能だとなる
まず地理とか天候とかはその国に行って長い間住んでいないとわからないからだ
日本の気候は変化が激しい、台風がきて驚いたり地震もある、そういう経験があって理解が深まる、だから外国の本をいくら読んでも理解できないのである。
ただ似た歴史があると理解しやすい、ヨ−ロッパには城が多いし騎士がいるから侍とにているということで説明したのである

いづれにしろ英語という言葉の前に俳句とか短歌でも理解することはその国の深い理解が必要である、それより例えば俳句でも短歌でも作っていない人と日本でもいるし日本の文化を知らないものがいくら英語ができても説明もできないのである
それは英語力だけではどうにもならないのである。他の科学的なことでもなんでもそうである、まず学問でも日本で深く理解していないものは英語ができても説明しようがないのである。
ただ数学とか科学的なことは世界共通性があり理解しやすいだろう
でも文科系とか文学とかなると本当に理解するのはむずかしい、その国の歴史とも深くかかわっているからだ、そもそも日本人すら理解していないのである。

東北にいたら奈良と大阪と京都とか神戸の違いがほからない、神戸は須磨でありそこは砂浜と漁師の貧しい家があるだけである、塩焼きしていた浜である
でもそこでも現代になるとそうした面影はなくなる、近代化した港にもなればもう須磨として知られた古典でも理解できないのである。
ともかく日本すら理解することがむずかしい、それで英語ができるとしてもそもそもそうした日本の歴史とか文化を理解しないものが伝えようがないのである
外国人が能に興味あるとしてそれを説明できるのか、そもそも日本人自体が能について知る人がどれくらいいるのかともなるからだ

今回駅であった人は日本には二回目であり日本語もわずかだがしゃべれていたし学ぼうとしていた、だからこれから日本通になるのかもしれない、言葉はマンツーマンでないと覚えられないというのはそうだろう
それは母国語が母親との会話のなかで覚えるのとにている
ただそういう機会が日本では特殊な立場の人しか持ちえないのである。
だから英語を学べ時間は無駄だともなる、使う機会がないからである。
ただグ―グル翻訳ではたりないから英語の基本を知っていればいいとはなる
それは学校英語であり実際の会話英語ではないのである。
でも文学とか宗教とか何か歴史とか深いものを知ろうとするとなると外国人でも少ないだろう、これだけ外国旅行が当たり前になるともうそういう人は少数派になっている
それは日本人が円高のとき豊かな時に東南アジアであれヨ−ロッパであれおしよせたのとにているのだ、知識人とかだけが行ったのではないからである

正直外国は歴史でも文化でもわからなかった、ただ地理的に平坦て地が多く長い大きな川があるとかが印象に残った,それでいかに外国人がヨ−ロッパでも他の国でも世界的に川とアイディンティティ化しているかわかる
詩でも川をテーマにしているのが多いこともわかる、それだけ川と人間は血肉のように一体化している歴史があるからそうなる、だから川について考察を深める作業をしている
まず川を知らなければ外国は知りえないのである。
そういう地理的なもの天候はその地でしか知りえない実感できないのである。
それは日本内でも同じなのである。だから世界の理解の基本は言葉の前に地理だともなるのである。

人の生が終わる
様々のことを成さんとして
成しえず終わる
人の生は短い
学ぶべきものは無限
人はただその住む
一地域すら知らずに果てる
無数の人の生があり
それも知りえない
一つの生が終わる
その成すべきことはわずか
ただ無限の知らざる世界が残る

英語だけでも覚えるのは時間がかかる、するともっと他のことに時間を費やしていた方がいいという反省にもなる
それほどまでに勉強しても社会では使わないとなればそうである、外国に旅行に行くときくらいしか使わないとすれば貴重な時間の無駄だとなるのである。それより日本について深く知ることに費やした方がいい、それは英語を覚えることではないからである
第一日本の古典がいろいろあるけどどれだけ読んで理解しているのか?つまり他に理解することが山ほどあるからだ
結局そうなると英語に時間を費やすよりそっちの方に時間を費やした方が実り多いとなる
人間はいかに時間を無駄にするのか、無駄にさせられるのかそれを最後に反省する
英語だけにこんなに時間を費やして何か実りが特別あったのかとなる
英語をいくら流暢に話せてもそもそも日本のことを知らなかったら何の役にも立たないからである。

タグ:言葉 外国語

2018年07月30日

外国人旅行者の増加も日本のカルマ (日本人が日本の旅行を楽しめなくなっていいのか?)


外国人旅行者の増加も日本のカルマ

(日本人が日本の旅行を楽しめなくなっていいのか?)

人口激減時代。短期的に労働者不足、中期的に消費者減少、長期的に日本民族日本人は少数派に転落する

─観光立国。訪日外国人観光客の迷惑行為に耐える日本。中国人観光客の非常識にしてモラル無きマナー違反。


これもひどい、もうこうなると観光公害であり京都ではもう限界になっている
もう外国人は来てくれるなともなる、制限も必要になる
日本人が日本をゆっくり旅行できない、外国人がおしよせてホテルもとれない
中国人が大声をだして情緒も壊される、こうなると京都に行っても京都を楽しめないとなる

でもこれもカルマである、日本人は円高のとき一ドル80円とかのときがあり中国でも東南アジアでも同じようなことをしていたのである。
ヨ−ロッパでもどこでも日本人がおしよせていたのである。
その時日本人は顰蹙(ひんしゅく)をかったのである。
そして女性でも信じられない値段で買って遊んでいたのである。
日本人はその時金にものいわせてしたいことをしていたのである

それが今度は逆に外国人に同じことをされている、特に最近東南アジア関係が裕福になっている、タイなどは物価も日本並みに高く物価が日本が安いとして遊びに来ている
中国では上海でも北京でも日本より物価が高いのである
それだけいつのまにか様変わりしたのである
10年一昔というけどグロ−バル社会は世界的な変化が激しい、そして世界中がその変化にさらされる、つまり為替の変動でも日本が物価が安いとなれば観光客が押し寄せるのである
日本人が一時一ドル80円の時代があったき海外旅行ブームになったからである

グロ−バル化とは人も移動しやすいから世界中で観光でも移動する、アジアは近いから余計に移動しやすい、日本人は円高のとき高度成長がまだつづき経済大国のとき金にものいわせて海外に団体でもおしよせていたのである
グロ−バル社会とはこうして世界中で株のように変動するのである
日本人が外国を観光している時、日本人が金持ちだとうらやましがられていたのである。その逆の現象がカルマとして起きているのである。

要するに日本人が電気製品を売ったりして稼げなくなった、貧乏国になると観光で稼ぐほかないとかなる、カジノでもそうである
日本で売るものがなくなるときグロ−バル社会で生き抜くために観光立国になる
それはギリシャがそうだしエジプトでもそうだしネパ―ルがそうだしそこで外貨は観光で稼ぐほかないのである、何も売るものがないからである。
グロ−バル社会では何か売るものがないときたちまち貧乏国になり観光立国とかいうようになる、日本がグロ−バル社会の競争で遅れをとりそうなったのである。

カルマと個人単位でも国単位でもめぐってくる、日本人が外国でどういうことをしていたかのか?今の中国人であれ同じようなことをしていたともなる
爆買いだってしていた、だからカルマとなって返ってくる
日本人が東南アジアの貧乏国で何をしていたか?女性を安く買って遊んだりしていた
それと同じことが今大阪の一地域で行われている
日本人がサービスを提供しているのである
観光立国とは日本人が貧乏化したことでありグロ−バル競争に遅れをとり負けた結果なのである
カジノを誘致するのもとても日本が品位ある国として経済的に保てなくなっているからである、それで恥も外聞もなくなり外国の奴隷にもすすんでなる
観光立国というと何かきれいごととに見えるが実際は外国人にサービスする召使になるとういことにもなる 

確かに世界との交流が生まれて国際化して理解を深め合うということはある
でもそれも限度がある、どこに行っても外国人だらけでありサービスは外国人が優先であり日本人は金がないから後回しだとなるのも本末転倒なのである
それもこれも日本人のカルマだとつくづく思う
東南アジアで日本人の観光客がいかにのさばっていたか?金にものいわせていたか?
それがカルマとなり逆の現象が起きているのだ
日本人は金でさんざん俺たちの国で威張り遊んでいたな、今度はサービスしけもらうぜ、せいぜい頭を下げてサービスしろよ、貧乏になればそうなるんだともなる

別に外国人が来ることはいい面はある、フランス人の小学校の先生は日本の文化に興味がありきている、日本の文化を学びたいのである。
そういう人もいるしみんなが悪いとはならない、中国人は評判が悪いのはその数が多いからである。
要するに日本人が除外されて外国人優先になるのはグロ−バル化社会では観光でも起きてくる、観光で生活している地域ではどうしても外国人頼りになる
日本人が貧乏になれば金を使う外国人の方がいいとなるのがグロ−バル社会なのである

旅に費やした自分だが旅と観光は違ってる、旅は道をどこまでも気ままに行く、コースが定まっていない、そして旅は豪華なホテルでグルメするとか保養するのとは違う
かえって木賃宿とかにとまっても風情がある、ホテルには風情を感じない
団体客用でありそれは社員旅行とか受け入れて増えたのである
今の時代旅人は存在しない、ただ車であれバイクであれホテルでグルメだとか保養することが目的であり旅人はいないい、わずかに歩く人とか自転車で旅する人は旅人らしいとなるでも本物の旅人はいないし現代では存在しにくいのである

交通があまりにも便利なったせいもある、歩いて旅していても電車を利用したりして旅のまねごとをしているという感じになるのである
だから旅というのは旅人になれないし何か浅薄なものとしてしてしか旅ができない
だから逆に交通が発達して便利になりすぎて本当の旅ができなくなったというのも逆説だなと思う、旅人になるには必ずしも金があるなしではなく貧乏でも旅ができる
かえって貧乏の方が旅らしい旅だともなるからすべては金で得られないのである 

いづれにしろ田舎の方にも外国人が増える、すでに観光地では増えている
ただ外国人慣れしていない人も多いのが田舎である
言葉の問題がありそうなる、だから国際化は悪いことではないのだが限度がある
限度を越えたとき観光公害になり日本文化の破壊までなる
それは移民問題とも通じているのである。

破壊される京都−観光立国、インバウンド、民泊、土地買収[桜H30/7/20]




posted by 老鶯 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

震災より7年過ぎた小高の不思議(短歌十首) (故郷は古里で古きを守る場なのか?)


震災より7年過ぎた小高の不思議(短歌十首)

(故郷は古里で古きを守る場なのか?)

agedtreee1223.jpg

odakakarasuu1.jpg
帰る人あり→帰る人ふゆ


街道の道幅狭く黒々と杉木立見え曲がりゆくかな

街道をまた旅人の行くなれや夏の日さえぎる森の暗しも

大きなる岩やこの家に人のなくいつ帰りなむ声もなきしも

街道に蝉の声ひびき行く人のありて活きなむ道にしあるかな

街道をまた旅せむや夏の日に浜風涼し進み行くかな

街中に根付き古りにき蝉の声ひびき小高に帰る人ふゆ

街中に根付き古りにし木のあれや蝉の声聞き人も聞くかな

帰り来て小高の人の安らぐや我が土地家と芙蓉の咲きぬ

夏草に田畑の埋もれ烏二羽黒々として離れざるかな

道の辻馬頭観世音の碑の残り夏の日さしてめぐり帰りぬ

農家一軒帰りてこの道行く人のまれにしあわれ芙蓉咲くかな


なんか小高に三年ぶりに浜街道を行き不思議だった、なぜそう思ったのか?
それはまずまだ小高には車でも行く人が増えたにしろ少ない、すると浜街道でも江戸時代にもどったような気分になるのだ
車がもし走らないと前も感じたが江戸時代に戻るのである
それであれこんなにこの道は細かったのか、黒い杉木立が道を隠していたのかと改めて見た、前はこんなふうに見ていない、浜街道沿いに人が住んでいないことも影響していた

双葉とか大熊辺りはもともと夜の森(よのもり)とあるが相馬藩主が余の森とした
自分の森だとした、そこは森が鬱蒼と覆っていたのである。
大野とか広野とかも野が広がっていたのである。
何か原発事故以後人が住まなくなった結果、元の原始状態にもどったようになった
それは津波の後でもそれを感じた、一時海岸地帯は湿地帯になり沼がいくつもできたからだ、八沢浦は本当に海になった時ほど驚いたことはない

小高は確かに住む人が増えたけどやはり街中は森閑としている
それで古い木が街中に根付いている、それから寺に古い五輪塔があったりる
すると故郷とは何なのか?古里でもあり実は古いものがあり古いものが継続して守る場所なのかとなる、故郷はまた故ある場所である
古いものがあるというとき墓地でも墓でもそうである
故郷とは新しい場所ではない、前々から人が代々住んだ古い場所なのである

だから街中に古い木があるなとつくづく見た、そしてそこに蝉の声がひびいていたのである,故郷とは古いものが意識される場所なのか?人が帰ったときまずその古いものを見るもちろん次々に新しいものも生まれるが古いものがある所が故郷なのかとなる

まずこうした感じは本当は小高の人とか浪江の人とかまた仮設などに移り住んだ人が一番実感していることである、その経験は普通は経験しがたいことだったからである
だから仮設に5年とか今や7年も住んだらどんな気持ちになるのだろうとなる
それはそうした経験をしないものしかわからないのである
故郷の家に土地に帰って安心しているのか不便と感じているのかわからない

いづれにしろ浜街道をまた旅したくなった、あんなところだったのかというのも忘れていた、人間は忘れやすいのである、まず車の通らない道というのは本当に不思議である
それは江戸時代にもどることなのである。
だから車の影響がどれだけ大きいかそれでわかる、なぜならいろいろあるが車がなかったら江戸時代にもどった気分になることでもわかる
その時自然は元の原始状態のように見えるのである
浜街道でも旅人となると普通ではないがやはり旅人でも通るとき活きてくる
道すら原発事故以後この辺は死んでいたのである
ただそのことで原始の状態に戻ったということはある、それが何とも不思議なのである

烏二羽が茫々とした夏草の原の牧の柵のような所にとまっていた
それもこの烏はもともと故郷を離れずいた、その黒々とした烏が故郷の住人のようにすら思えた、黒いということが何かあっていたのである。黒装束の通夜に出るような人に見えた、何か烏でも避難区域では違って見えたのである

道の辻の馬頭観世音でもそうである、この碑でも人が通らないと死んだものになる
人が住まなければ古いものも本当に死んだものとなる、人が通うことで活きているのである、そもそもがそういう道は常に人が通っていたからだ
それが人が通わないとどうなるのか、道すら死んでゆくとなる
鳩原では二三軒人が住んでいた、だから違っていたが夏草に埋もれていたのである。

次は今度は浜街道を浪江の方まで行ってみよう、浪江は小高より人が住んでいない
だから小高より廃墟のような感じる、小高は住む人が増えたから浪江とは違っていた
でも何か依然として普通の街ではない不思議を感じたのである。

hakura111.jpg

小高には前より人が帰っていた
(馬頭観世音の碑)


2018年07月29日

原町の雲雀が原へ(野馬追い短歌十首) (黒い顔のイスラム系のモハメッドの姓の人が出ていた)


原町の雲雀が原へ(野馬追い短歌十首)

(黒い顔のイスラム系のモハメッドの姓の人が出ていた)

haramachinoma1.jpg

イスラム系の騎馬武者





haramachinoma3.jpg

ナマズの旗印は面白い




haramachinoma2.jpgharamachinoma4.jpgharamachinoma5.jpg






クリック拡大
haramachinoma9.jpg
北郷の旗印
haramachinoma6.jpg

只野氏の旗印
haramachinoma7.jpg






haramachinoma8.jpg




雨しとと舗道をぬらし大将の母衣(ほろ)の赤くも進み来たりぬ(鹿島−北郷)


鬼百合の朝日さし映ゆ野馬追いの騎馬武者そろい雲雀が原へ

夏日さし旗ゆらめきて野馬追いの行進続く雲雀が原へ

大声の時にあげにつ野馬追いの一年に一度晴れ姿かな

旗印そろい三つや同族の頼もしきかな行進続く

原町の昔の街道練り歩く騎馬500頭の勢揃いかな

原町の昔の街道松古りぬ騎馬武者の兜誇らしきかな

朝日さし兜光りぬ手綱とり馬も誇らし昔思いぬ

小高郷神社の旗は黄色かな雲雀が原へ入りゆくかな

北郷の旗印一つ我が見つけ雲雀が原へ武勲あれかし

総大将の後につづきぬ奥方の紫の旗ついてゆくかな

野馬追いにモハメッドの姓黒き貌国際化する時の変わりて

oniyurinoma11.jpg


原町の野馬追いの行列を見に行った、すでにはじまっていた、今年の野馬追のニュースはなにか?
モハメッドというイスラム系の黒い顔の人が出ていたのである。
これはめずらしいと思った、確かに前にも外人で出ていた人がいた
今回はイスラム系の人なのである。イスラム系というと東南アジアにも多い
中東ではないだろう、なぜ出ていたのか?
東南アジア系の人が野馬追いに出る家の女性と結婚したのだろうか?。

中村神社の神輿をかついでいるのは東京電力の会社員だった、これも原発事故で被害を与えたのであえてそうしているのか?会社員が担いでいることは聞いたが東京電力だとは思わなかった

野馬追いはやはり旗が何を示しているのか?それをある程度わからないと深く見れないかもしれない、基本的に小高郷と中の郷(原町)と北郷(鹿島)と宇多郷(中村)が一体となり雲雀が原に合流している入ることは知らねばならない
標葉郷(しめは)浪江も参加するが基本的にはこの四つの郷が一体となり原町の旧街道を行進する、その時相馬藩の歴史が再現されて一体化するのである
小高からも出るということは原発事故で避難区域からも出たとなると復興のための野馬追いがつづいているとなる、野馬追いは相馬藩を再現する一体化する祭りだからである。

野馬追いも国際化することはさけられないだろう、外国人は日本の侍に憧れる、それを目の当たりにするから魅力を感じるだろう
侍の国でも日本ではこうして侍の時代をリアルに再現する祭りがないのも不思議である
例えば会津藩などは30万石とか大きいのにそういう祭りが残っていないのも不思議なのである。会津武士道の日新館の車が必ずきている、でも武士道は会津に残っているが相馬藩ではそうした藩校などはなかった
でもなぜ野馬追いがこれだけの規模で残っているのか?。
それが相馬藩の特殊性なのかもしれない、代々殿様が変わらずつづいたのもめずらしい
必ず代替わりを他ではしているからである。殿様が継続して変わらずつづいたことが野馬追いを残したともなる

野馬追いの見方として旗印だが三つそろったりするのは同一の一族であり村も同じだろう北郷(鹿島)では副大将の紫の母衣9ほろ)の武者がいる、これも特徴である
小高の神社の旗は黄色だとか見分けることも必要である
そして総大将の後ろに紫の旗がありこれは奥方の旗なのである。奥方も旗印をもって総大将についていたのである。奥方も城では力をもっていたのである。

原町の雲雀が原に行く道は昔の街道である、その絵も残っている、宿場町だった
木戸があり許可なしでは通れなかった、いい松があったがそれほど古いものではないだろう、ただ通りに松があるだけで違うなと思った
ただ家だけがあると景観としてものたりないものとなるからだ
並木道として松があるのがふさわしいとなる、松がもっともふさわしいのである

いづれにしろ国際化して外国人が大勢来る時代になると英語で説明することが必要になるそれを自分でもグーグルの翻訳で試みてみよう、あの翻訳は本当に優れている
外国人でスマホがあればある程度は基本的なものは通訳できるかもしれない
どうししても単語が出てこないからだ、日本では話す機会もないから最近英語で通じにくくなった、でも絵や写真を通じてだとわかりやすいのである。
それをスマホとかですると通じるとなる、まず言葉だけでは今は通じにくいのである。
言葉だけで説明することはわかりにくいのである
ただそこで問題なのは説明の仕方だとなる、外国人にわかりやすい注意をひくものとしないと通じない、外国人に日本をどう紹介するのかということにもなってくる
ただ説明する時ヨ−ロッパだと城が多いからにているから説明しやすいとなる
東南アジアとかなると説明しにくいのである。 

今回は雲雀が原で旗とりは見なかった、行列で盛り上がるのは雲雀が原に入る時である
だからあそこで写真をとるのがいい、曇っていたりちょっと雨がふったり台風が来て変わりやすい天気だったが晴れあがったから写真をとるにはいい天気になった
やはり野馬追いは暑くて晴れて夏の雲が湧きあがるときあっているのである。
ただ雨の時でも風情はある、雨しととふり大将が行進してくるのも良かった

2018年07月28日

駅でフランス人と話する (野馬追いなども国際化が迫られる)


駅でフランス人と話する

(野馬追いなども国際化が迫られる)

駅にフランス人が来ていた、日本に三週間いるというし二回目だという
小学校の先生だった、何か日本のことを知りたい熱意が感じられた
それは先生だから知的好奇心があったからだとなる
日本語も少ししゃべれていた、英語で話しした、英語といっても自分の英語は会話まではいかない、でもなんとか通じるというだけである

その人はフランス人でも知識階級だと普通英語はしゃべれるのである
何かその人は平泉のことも知っていた、いろいろ日本のことを知りたくて来ていたのである
何かわからなかったが平泉でししている「曲水の宴」のことを言っていた
つまり杯がながれてくるとき短歌を即興で作る、そのことを言っていた
俳句のことを言ったら短歌のことだったが短歌を知らなかったのである。
説明書を出してその絵を見たらわかったのである。
それだけこの人は日本の文化と歴史に興味をもっている
前にも韓国へわたる船でフランス人とあった
その人は退職した人で日本の祭りを見て歩いていたという、それも何か月もである
民宿を泊まり歩いていたというから驚いた
今になるとインバウンドで外国人が増大した、前はフランス人の女の人が原発事故が起きたことで一人で来ていた、フランス人とは結構会っているなとふりかえる

それで思ったことはやがて田舎に外国人が増えてくる、すでに増えている場所がある
辺鄙火て温泉に外国人が集まっているとか放送していた
都会だけではない、日本の田舎に興味を感じる人がでてくる
また祭りでもそうである、つまり観光は国際化してくる、すでに国際化しているのだが
田舎になるとまだ波及していない、ただ野馬追いなどはそうした日本を知りたい人にはいいとなる

説明するのにフランスでは城が多いとか侍はナイト(騎士)だとか言った
ヨ−ロッパには城が多いから日本と共通性があるのだ
ただ東京は城がないからつまらないとなる、自分が外人と話せるようになったのは英語ができるからではない、外国に旅行してから外人慣れしたのである
外人と別に言葉ができなくても多少でもわかりをえるということを経験から知ったからである、言葉の前に相手も人間であるということで外人に慣れる必要があったのだ
今でも外人に田舎の人を嫌がる怖がるのは慣れていないからなのである
それでアルプスの白馬町の民宿の年配の女性が外人でだきあって別れを惜しんでいた
それだけ外人が増えたからである、日本人は貧乏になり来ないとなると外人を相手にするほかない、それが嫌でもそうするほかなくなったのである。
そうなると言葉すら覚えるのである。人間は食べていかねばならないとなると必死になるから言葉以前にそういう態度が身についたとなる

野馬追いにも国際化が必要になる、そのフランス人は漢字がむずかしいと言っていた
確かに漢字は苦手だとなる、中国では日本人は漢字が読めるから有利だった
ただ外国人は漢字が読めないから困る、それで英語の表示が必要だとなる
野馬追いでも国際化が迫られる、英語で説明する、アナウンスも必要になる
まだそれだけ外国人が増えていないがこれからは外国人を集める必要もある
外国人はかえって日本のことに異常に興味を持つ人がいるからだ
つまらない日常のことでも興味をもつのである
かえ、こんなことを面白いのかということで興味をもつ
ただ今は都会中心であり東京−大阪間がメインであり後は田舎にはまだ来ない
でも都会にあきたら日本の田舎にくる、でも田舎では外人慣れしていない
そのことからが言葉の前に問題なのである。

今日は駅で案内することが多かった、普通は今はほとんどない、外人が来たことも案内することになった、ボランティアのガイドだがそれもオリッピックで必要になる
東京とか大阪や京都になったら今や外国人だらけである
それがかかって今度は日本の情緒を壊すとまでなるし日本人が旅行しても宿がとれないとかなる、それも問題である。自分が旅行した時はそういうことがなかったからである
ただ京都では修学旅行生が売るうるさかった、今は外国人がこれだけ多いともうそんなところではなくなった、日本人が日本を旅行しにくくなったのである。
東北辺りはまだそういうことがないがいづれはなるかもしれない、都会はあきて田舎の方に移るかもしれない、そのフランス人は長野にも行っていた
東京に来ても田舎を回って歩いていたともなる、どうしてもまず東京に来てそこから日本全国に行くからである

国際化の時代は大学でもそうだが英語がコミ二ケーションの言葉として重要になってくる銀行でも国際化するから英語でやりとりできないと外国にも仕事が広がるから今の上司は外国が経験ないということで若い人からうとんじられるし重要な仕事がまかせられないとかなりはずされているというのもわかる
庶民レベルでもそれだけ国際化してしまっているからである
田舎にいると仕事でも外国と関係しないとわからないが実際はインタ−ネットとかも普及してグロ−バル化しているし国際化は否応なく迫られる
それがどうのこうのといっても現実なのだからもうどうにもならないともなる

駅前の自動販売機は一番売れている、店もないし駅で休むことが多いからそうなるのである、そのフランス人も飲もうとしたが青森のリンゴジュースをすすめた
フランスとかヨ−ロッパではみんな葡萄でありワインであるが果物はあまり生産できないらしい、リンゴジュースはめずらしかったのかもしれない、自動販売機だって外人にはめずらしいのであり食べ物でもそうである
別に知的文化的なことだけではない、食べ物は一番わかりやすいものだからである
ただ今はいくらでも外国から食べ物は入ってくる、自国でとれなくても外国から入ってくるからヨ−ロッパでも食べ物は豊かなのである。
確かにイギリスなど寒いから果物はとれない、でも外国からいくらでも入ってくるのである。

そのフランス人は宿は仙台にとってあり明日は雲雀が原の旗とりを見にまたくる
やはり宿をとるのは地元ではむずかしいから仙台になった
仙台でも今は外人でホテルがこんでいるかもしれない、その小学校の先生はサマーバーケーションで来ていたのである。
ホテルでもこむと日本人の旅行者は困るのである
日本はただ貧乏になるとカジノとか観光とかをすすめるほかなくなる
おちぶれるとそうなるのである。外国人を相手にするほかなくなる
それで長野県の白馬の民宿のおばさんが外人と抱き合って別れを惜しんでいたのである。それが現代を象徴していたのである、一部では観光地は外人だらけだとなってくる
それで温泉とか人気になり雪のない国から東南アジアでも今は裕福になってくるのである日本人でも外国に一時ブームになったように異常に興味を好奇心をもつことがあるからだだから人間が外国に異常に憧れることがある、それが日本で旅行が解禁されたからそうなったのである。

野馬追いは前は暴力団が参加して活気があった? (伝達式を金沢から見に来る人がいた−鹿島(北郷)での儀式)


野馬追いは前は暴力団が参加して活気があった?

(伝達式を金沢から見に来る人がいた−鹿島(北郷)での儀式)

nomahatas11.jpg
これは街内から出ていた只野氏だった
nomahatas1122.jpg
横手での行進
arrow111222.jpg
arrow111.jpg

これは菊池氏なのか?
arrow11122233.jpg
北郷の旗とり(杉の旗は只野氏、あとは御家とあるのは小高の人が
鹿島に移ってきてでているとかある、宇多郷の人も出ている)

 副大将は、他の郷にはなく、
唯一北郷に与えられた役付であることから、
謁見の際の口上や作法のやりとりは、
他の郷には見ることの出来ないものです

駅で地元の人が「伝達式」のことをしきりに言っていた
北郷と宇多郷が大将を迎えて合流する儀式はする
でもそれは12時頃であり11時頃に連絡かかりが伝える儀式がある
それが古いもの古式にのっとりするもので歴史的に伝えられたもので言葉も違っているという、その後に北郷と宇多郷が合流するそれは12時以降である
普通見ているのは合流する場である
その前の方が重要な歴史を伝えるものだという、金沢の人は野馬追いのことを調べて来たとなる、鹿島に来るのは少ない、ただフランス人が二人きていた

その人が言うには野馬追いはもともと暴力団が参加して活気があったという
暴力団だから荒っぽいから喧嘩もするし行列で意気盛んになったという
そんなことがあったのか?
確かに何十年前になるのか野馬追いは熱気があった、地元の人でも食い入るように見ていた時代があった、今はただ行列するだけでおとなしいからつまらないという
そういうこともあった、野馬追いは馬が暴れたりして危険な面があった
それには暴力団がかかわっていたのである
暴力団のとりしまりがきつくなり排除されておとなしくなった

暴力団というとき昔は子供の頃は近くに親分がいたのである。
その親分が死んだとき周りの人は参列者が多いので驚いた
その親分は立派といえば変だが大物の親分だったのである
暴力団は親分子分の関係が厳しいから親分が野馬追いに出て子分が補佐する
だからかえって野馬追いには向いていたのだ

そもそも侍とは武闘から戦争から生まれた人たちだか荒っぽい人たちが多かったのである時代劇で盗賊団が村を支配したりすることがあるがそういうことと似た面もあった
武力で村を支配するのだから似ているのである
だから暴力団がヤクザが支配者だったということもありうる
ただそれが後に洗練されて侍となり支配するものとなった

野馬追いは活気がなくなったというときそれはずっと前から言われてきたことである
野馬追いは歴史の保存だから勝手に出れない、野馬追いに出れるのは由緒ある侍の出でないと出れない、その家には旗とか甲冑が伝えられていて認可されているのである。
スコットランドのタートン模様ともにている、勝手に旗を作って出れないのである。
でもそうした歴史と伝統の保存を残して工夫はできる、その後ろに自由参加で踊りでもなんでもさせてやる、それがないので地元の人すらつまらないとなるし盛り上がらないのであるそのことはもう何度もみんな言っていることだが変わらないのである。
何かそうしたことをしたいとしても上の人が許さないとして変わらないと言っている

ともかく野馬追いに来る人は写真を撮る人が多い、地元の人でも自分でも写真がうまくとれない、それは野馬追い行列でも過ぎるのが意外と早いからである
毎年見ていても過ぎるのが早いからうまくとれないのである
動いているものでありそれが早く過ぎるからうまくとれないのである
野馬追いはどうしても絵になるからいい写真をとりたいのだがうまくいかないのである




posted by 老鶯 at 19:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

蝉の声(小高まで行く-前より人は結構帰っている)


蝉の声(小高まで行く-前より人は結構帰っている)



小高へ
6route11.jpg

bigrock1111.jpg

agedtreee1.jpg

oniyuriodaka11.jpg


鳩原へ

smokehouse1.jpg
煙が立っている
chucho1111.jpg

natukusahi111.jpg

himawarifff1.jpg


nisshikannn123.jpg

日新館は必ず野馬追いに来る

フォルダのスライドショーで見ると大きく見えます


浜街道木立の繁く蝉の声

鬼百合や小高よりも野馬追に

この道や車もまれに芙蓉かな

峠越えかなたに望む夏の山   

夏草や罵頭観世音に羽倉へと

ひまわりや畑広々と耕やしぬ


大岩の据えて家あり人住まぬ帰るを待ちてここを動かず
                                                  
街中に根づきて古りぬ樹のありぬ帰りて住める人も少なし

街中に五輪塔古り守る寺蝉鳴く声の真昼ひびきぬ

帰り来ぬわずかの家に蝉の声真昼ひびきぬ小高の街かな

人住むもわずかや小高の街通り真昼静かに蝉の声ひびく

煙たち住む人あれや夏草に田畑のうもれ久しくなりぬ

この家に人帰らざり夏草の高く伸びにつ久しくなりぬ

羽倉へと碑に記されて分かれ道夏の日遠くめぐりゆくかな
          

涼しいから小高まで行ってきた、小高では確かに住む人が増えた
街中でも医者でも二軒開業するとか店もいくつか開いている
でもそれで商売になるのかとなる
通りに高齢の女性がいたのでたずねると私は鹿島に住んでいるんですがここに立っていても知っている人と会わないですよ、郵便局に来るのはここに住んでいる人ではないです
郵便局に用事があり外から来ているんですよと言っていた
車の往来も前よりは増えているけど外部から入ってきている、ここに住んでいる人たちではない、それでも三年ぶりくらいに来たから増えていると実感した

それでも何かこういう街は不思議である、人がいないから一段と淋しく感じる
ただ蝉の声がしんとした街にひびいていたのである
街中だと騒々しいところがあるからそんなに蝉の声がひびかない
でも蝉の声がひびいている、前もそうだったがこういう世界は江戸時代なのである
江戸時代を知りたかったら車がないとそういうことだけで江戸時代はこんなふうだったのだと実感する、だから車の影響がいかに多いかわかるのである

浄園寺の中に古い五輪塔がある、これはいつの時代のものなのか?
あの墓を守っているのか?あそこは寺という感じがない
普通の家の庭にただ墓があるだけに見えた
それから古い樹があり街中にも古いものがあり今やそれを帰った人たちが守るのかとなる
鳩原の方に行ったら牧場があり煙が立っていた、人が住んでいるのだとほっとした
前は草ぼうぼうだが蝶々が十羽くらい盛んに舞っていた、その前の家は草にうもれて帰らない、もうあの家には住まないとみた
でも広い庭の農家でも帰っている人がいる
だから前とは違って人の営みがあるのだと見た、ただ道路にしても車はたまに通るだけである、車が通らないということは江戸時代に帰ることなのである
芙蓉がそこに咲いていて花が映えるのである
ただ放射性廃棄物になっているところが広いからあれをかたづけないと元にもどらない
この辺でもまだそういう場所がある

それから碑があり羽倉へとか記してあった、そこから原町の方へ馬事公苑の方へ行くと
広々とした畑をトラクターで耕す人がいた、その相違も大きいと思った 

とにかく今日はかなり走ったけど涼しいから疲れなかった
こんなに疲れないのも不思議である、筋肉も疲れていない、これなら結構長距離行けるなとも思った、このロードではないきで疲れないのかもしれなしい、ロードは早くても疲れる、前かがみになるから疲れる、やはり年になれば楽な自転車がいいと思った

2018年07月27日

野馬追いの旗は分類できない (どこの家から村から出るのかわからないから)


野馬追いの旗は分類できない

(どこの家から村から出るのかわからないから)


鹿島(北郷の旗)
kashimakitahata1.jpg

kashimahatagggg1.jpg


kashimahata44.JPG

鹿島村


kashimahata33.JPG

屋形村


原町(中の郷の旗)

haramachinaka111.jpg
haramachihata22.JPG



小高郷の旗

odakahatakabe11.jpg

odakahatohara1122.jpg

odakahata11.JPG
鳩原村

oniyuriodaka11.jpg





鬼百合や小高よりも野馬追いに
                                                        
いきりたつ馬4頭や日の強くさして肌光り野馬追い迫る

いづこより野馬追いの旗ひるがえる雲雀が原に会しけるかな

今日は涼しいので小高まで行った,どこの家に旗がたつのか見たいと思ったができなかった、なぜなら野馬追いは500騎出るとしても相馬藩内で人口でも所帯数でも多い
500騎は500所帯なのである。
1000所帯の1パ―セントが10所帯である、一万の一パ―セントが百所帯である
すると5万所帯で500所帯となる時、一パ―セントなのである。
だからそれだけた野馬追いに出る家は少ないのである
何か野馬追いに出る家が多いように見えるが実際は野馬追に出る家を探すこと自体むずかしいとなる

そして野馬追いの旗は種類が多いし数が多いし分類できない
家に立つ旗でも他の村の旗が混じっている、だからわかりにくい、何本か立っていてせ他の村の旗の場合もある、原町では「八」の旗は大内村にもあったからどこの村なのかわからなくなる、津波や原発事故で家自体が移動していてまたわかりにくくなった
小高の人の旗が鹿島に家を建ててそこに旗が立っていたからである

いづれにしろ野馬追いは行列の前に家に旗がたったときからはじまっている
でもその家を見て歩くことはできない、広いしできない、みんな旗を立てているわげでもないからだ
とにかく野馬追いの旗はどこの家から村から出るのかわかりにくい、神旗争奪戦が終わって帰り馬を追って行けばわかる、でもみんなそれぞれ違った方向に行くのだからわからなくなる

鹿島では街中に三軒くらい立った、わかりやすいのは只野氏は霊山から南北朝の争いで逃れた武士の末裔である、只野氏は郡山の多田野村が由来であり杉の紋が旗印である
あとは菊の紋は天皇に由来するから南北朝時代のものである
それはわかりやすいのである。後は本当にわかりにくいのである。

小高の鳩原村には牧場があり馬が四頭いた、白い馬もいた、神馬なのかもしれない。
鳩原村には何軒かで人が住んでいた、前よりは人が住んでいる、もう三年くらい行っていなかった、今日は涼しいので行くことができた

野馬追いは旗祭りなのだけどその旗の由来がわからない、どこの家から出てくるのか?
どこの村から出てくるのがわからない、広いしわからない、それも一年に一回だからほんの一部しかわからない、それが問題なのである。
posted by 老鶯 at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

頼む人によって損したり得したりする (頼んだ大工は修理しても直っていなかった)

頼む人によって損したり得したりする

(頼んだ大工は修理しても直っていなかった)

雨漏りして大工に頼んだ、その大工を紹介した女性がいた
結果はどうなったか?
あとから何度も金をとられた、請求された
ちょっとした仕事でも金がかかった
高い所だから危険だからと金を請求した
そんなふうに後から後から金を請求されるのも困る
普通は見積もりを出して引き受けるのが普通である
ただ今回はそうしたまとまった仕事ではない、一部を直すものである
それで頼む人がいなくて頼んだ
結果はこの前雨になり同じようにだらだら雨もりして水浸しになった
何にも直っていなかったのである

するとそれで金を払ったのが損だったとなる
その大工は直すことができなかったのである
また交渉もできない、ただ金をとるだけだったともなる
そうなったら半分くらいこちらでもらいたいともなる
実際に直っていないのだから仕事はできていないからである

そして頼んだ女性にも問題があった、そういう人を頼んだからである
頼む人でも中継ぎになると連帯保証にもなる、その中継ぎになって頼んだ人にも責任がある、なぜそんな人を紹介したのだともなるからだ
大工にも相当に腕の差があるのかもしれない
とにかく人に仕事を頼むときその頼む人によって損したり得したりする

事業は人なり」と言われるが、これは全くその通りである。どんな経営でも適切な人を得てはじめて発展していくものである。いかに立派な歴史、伝統を持つ企業でも、その伝統を正しく受けついでいく人を得なければ、だんだんに衰微していってしまう。経営の組織とか手法とかももちろん大切であるが、それを生かすのはやはり人である。

いくら会社でも人が仕事するのだから人による、AIとか機械はあくまでも人間の補助にしかならないだろう、それを利用するのも活かすのも人だからである。

庭作りした小高の大工さんは一人親方もできるから優秀だった、まず話がうまいし交渉もできる
大工の腕もいい、そういう人はめずらしい、職人気質でとりつきにくい人もいるからだ
ただ小高と鹿島がうまくいかなくなりつきあわなくなった
近くの一軒だけの自転車屋の人も交渉がうまい、そして他で買ったものでも差別なく修理してくれる
原町の自転車屋はとそういうことが全くなくな断った
これも人である、だから人によって医者でもそうだが何でも損したり得したりする
ただ田舎だと選ぶことができないのである。
都会だとすでに原町辺りだと何でも選べるからいいのである。
選べないということはその人がどうのこうのとか文句も言えなくなるのである。

銀行でも自分は投資のことがわからないから銀行員に頼んだ、まかせた
そんなに時間をさけないからである。
つまり投資のプロだと思い頼んだのである。
ところが銀行や銀行員は投資は素人並みだったのである
何もわからないにしろ投資なら株なら安い時に売り高い時に売ればいいとなる
それから基本は分散投資していればいいのである。
それを株が上がっていたのに投資信託に回したのは手数料がとれるということで回した
それで損した、それは銀行では今稼ぐことに苦労しているから投資信託を売りつける
投資信託は銀行にとってはいいものなのである。絶対に損することがなく手数料がとれるからである
これも銀行という組織であれ個人であれ頼んだのが失敗だった
銀行員はノルマが課せられているからとにかく銀行にとってもうかるものをすすめるからである

人間は何か頼むときその人にも組織にもよる、それで損したり得したりする
ただ人でも銀行でも選定がむずかしい、信用して雇った人も泥棒だったとかなる
家に入る人は本当に危険である、それも結局頼んだ人が悪いからである。
不用心に頼んだからである。
おそらく会社運営でもまずそうして社長一人ではできない、社長を支える信頼できる人材を集めなければならない、頼まねばならないのだ
その頼む人が悪いとうまくいかずに倒産したりする

自分の場合なんでも頼んだ人が悪いからあらゆることで損したのである。
病気で介護の時もそうである、そこに来たのは悪い人ばかりだったから損して苦しんだのである。
だから頼む人がどう選ぶか会社でもどう選ぶかが大事である
ただ田舎では銀行でも数少ないし選びようがないのだ
東京辺りだと大手の銀行とか証券会社があり頼める、聞くこともできるだろう
それがないから選びようがないからそうなる
医者でも町でも三軒くらいしかない、ただ原町には眼科医でも三軒くらいある
だから原町だと医者を選べるのである。それび評判のいいところは繁盛している
でも糖尿病で白内障の手術した人は仙台の医者にかかった
糖尿病で手術できるのは仙台にしかないというからだ
難しい病気になるとここではお手上げになる、それが田舎の一番の問題なのである。

posted by 老鶯 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年07月26日

目を強く押したら角膜損傷 (薬は節約できない)


目を強く押したら角膜損傷

(薬は節約できない)

roteeye1.jpg

朝に顔を洗ってタオルで押したら目を悪くした、涙がでてくる、こういうときいつもインタ−ネットんでまず調べる、何か涙腺とか難しい説明がでてくる
全然わからないよりはいい、ただ前はインタ−ネットで病気のことを調べて自分なり判断して失敗した、その時死ぬ場合があった
胃腸が悪いと思って胃腸の開業医にみてもらったら腎臓だった
胃カメラで調べて腎臓が悪いことがわかってすぐに入院した
腎不全になるところだった、その時暑い時で塩分が不足しているとかで食欲もなく
塩分を多くとっていた、それも悪かった

またその時庭を作るとか大工さんが来ていて忙しかった
何か家族が年をとり弱るようになり一人は死んだり自分の体をみる人がいなくなった
誰も心配してくれない、それより家族のことを心配するのだから自分のことすらかまっていられない、医者に行くのがめんどうになっていたのだ
それで自分で調べていたのが命取りになるところだった

病気は軽いのならいいが自分で調べて判断するのは危険である
インタ−ネットは参考にはなるがそれで判断はできない
ただ医者にかかるのがここだと原町まで行かねばならないので不便である
タクシーも利用するようになる
それで時々ドラッグストアーに行って一応聞いてみる

「目を洗うとき強くおしてつけて涙が出てとまらないのですが」
「これは角膜損傷ですね、ほおっておくとまずいですよ、角膜が修復しないと危険ですよ」                                    

なにかこんなことを言われると怖いとなる、この薬がいいですとして紹介された
それは1500円で高かった、でも買わざるをえなくなった
放っとおくと修復しずらくなりますよと言われたので怖くなった
たいしたことがないから自然に修復するものだと思ったがそれを聞いて薬を買わざるを得なくなったのである。
だからこの薬とか医療の問題はどうしても金がかかっても薬でも飲まざるを得ないし医者にかからざるをえないのである

別に自分の場合、目が悪くなっていない、ただ強く眼球を顔を洗うとき押してそうなったのである。たいしたことがないから日にちを置けば直ると思ったが薬屋でそういわれたから薬を買わざるを得なくなったのである。
つつり薬は節約できないのである、医療でもそうである
ここが人間の一番の弱点なのである、命にかかわるとかあるし目が悪くなることは怖い
その薬屋の人は脅すようなことを言った

「目が悪くなると困ることになりますよ、薬は飲んでいた方がいいですよ」

確かにそういうことが前にあったから買わざるを得なかったのである。
ドラッグストアーは医者の代わりになる場合があるからどこでも必要である
二つも一万くらいの町にある、なにかこの辺は外から入ってくる人が増えたからだろう
浪江の人が家をたてた、それは姓を見ればわかるからである
この辺にはない姓であり浪江でそういう姓の墓を見たことがあるからだ

いづれにくしろ人間一番弱いのは病気である、病気になって気丈夫でいられる人はいない老人はなにかと故障が多くなるから困る、ただこれは年とは関係ない
白内障とかではないからだ、ただ目の病気が老人で多くなると書いて自分が角膜損傷とかなるのも因果だったとなる