2025年09月09日

老人ホームは死の工場、姥捨て山−高齢化社会の地獄 【尊厳を持ち死ぬことの困難ー仕事しながら死ぬのが理想】


老人ホームは死の工場、姥捨て山−高齢化社会の地獄
【尊厳を持ち死ぬことの困難ー仕事しながら死ぬのが理想】

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これはフィクションでも似たようなことが現実に起きている

●老人ホームは死の工場ー姥捨て山の地獄



認知症を患っていた入所者の女性(当時85歳)に対して、今井とは別の男性職員4人が「死ね」と暴言を吐いたり、頭をたたいたりするなどの虐待を日常的に働いていたことが、家族が隠し撮りした映像からわかった。

「死んじゃうよ」“女性の首を2秒絞める職員の姿”も…高齢者3人が転落死しただけじゃなかった「川崎の老人ホーム」の“地獄絵図”(2014年の事件)

川崎市幸区の老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で、入所者の男女3人が相次いで転落死した事件で、殺人容疑で逮捕された同施設の元職員の男は、

「(介護に)手がかかる人だった」
「ベランダまで誘導し、男性を抱きかかえて投げ落とした」
といった供述をしているそうだ。

ここはまさしく姥捨山です。入居者たちはみんなそういっています。

90歳の入居者が激白!介護ホームの“悲惨なる日常”

【速報】埼玉・宮代町の特別養護老人ホームで入所者の男性に暴行を加え死亡させたか 元施設職員の男(48)を逮捕 埼玉県警



検索すると老人虐待の事件が次々に出てくる。これを知ると老人ホームも恐ろしいとなる。終の棲家が殺人工場の姥捨て山になる。まさに地獄である
つまりこの世には安楽な場はない、最後まで地獄なのである
それも余りにも老人が多く介護でも人材が足りなくて劣悪になる
だからフィクションではなく殺人工場が現実化している

●実の親子も金をとる対象になる怖さ

高齢化社会で問題になることがいろいろある。高齢者の尊厳が守れないこととが重要なものになる。それはこの物語がフィクションにしても子供が死の工場に親をあずけて注射を打ち安楽死させていた。そういう専門の老人ホームであった
それはフィクションにしてもありえるとも思うのは家族でも介護の負担が大きすぎるからである。それは自分でも経験した
私の場合は親に特別良くされたから必死で介護した
でも家族はみんな違っていて毒親に苦しめられたから介護したくないとなる人もいる。つまり介護にはそうした家族の事情がありそれがきれいごとに処理できなくなる

ここのドラマでは息子が老人ホームに入れたのはまた保険にかけたのは親の持っている財産を奪うためだった。何故なら息子が事業で借金をしていた親の金を当てにしていたからである。これもありえる話だと思った。なぜなら介護しているとき親戚の人がやはり事業で失敗して助けるからと私の金を当てにしていた
高額な機械を買ってくれとか相談してきた。

だからこの物語と通じるものがあった。ただ実の親子でも金がかかわり親の金を当てにして老人ホームに入れて金を奪おうとした
それも怖い話だが今の社会ではありうると思った。
問題は借金していること自体がモラルが消失する、それが家族であってもそうなる
ただ金が欲しいとなり親でも金を奪おうとする。そこに借金の恐ろしさがある
借金で犯罪でも犯すようになる。それが常に推理ドラマのテーマになる

そして息子娘からそうして安楽死させる老人ホームに預けられる
そこで何十人も注射を打たれ殺される、死の工場となる、老人を安楽死させることがビジネスとなる。そこで起きていることは親でも金のため殺すことを依頼するとなる。それも恐ろしいことでも今の高齢化社会ではありえる
親子関係でも金だけになる。金を得るために親を安楽死させて金を得るとなる
それが実の親子で起きていることが異常なのである
それだけ金を持っていることも危険になる。

こいうことは極端であれ現実にあり得る、全くの空想ではないことが問題なんのである。それだけ高齢化社会で介護で苦しむ人達がいるからそれをフィクションとしてかたずけられないのである。何かそういうことが自分にも起きると戦慄する
それと似たようなことを親の介護で経験しているからである
要するに金しか見えない、金によってモラルも消失しているからである
もちろん様々の犯罪で多いのは金にまつわることである
老人は特に弱者化するからその標的になりやすい、だから実の親子でも金をめぐり修羅場になる

それにしてもこうなると老人が長生きすることは余りにも恐ろしいとなる
老人が弱者化するとそこに人間の本性が現れる。他者は今や金を得るものでしかない、それが実の親子でも普通に起きている
無用な老人は何の役にも立たない迷惑なだけだとなりただ金を持っているならそれだけが価値あるから奪えばいいとなる
正に老人は苛烈な地獄を生きることになる。

●尊厳ある死はありえるのかー仕事しながら死ぬのが理想的

だから高齢化社会で老人はいかに尊厳ある生き方ができるか、また尊厳をもって死ねるかとなる。それが実の親子でも難しいとなる。
そもそも人間の尊厳とは何なのかとなる。老人が尊厳がなくなるのは病気で体が不自由になる。杖をついてやっと歩くとかもちろん寝たきりとかなればそのこと自体が人間としての尊厳を失う、身体障害者になるからである
また認知症になれば普通に持っている人間としての権利を失う

禁治産者という名称は、「財産を治めることを禁じられた者」という意味があります

これになる。

ともかく人間が最後まで尊厳をもって存在しうるのか、それが問題になる
最後に過度な延命治療をされるのも尊厳を失うことになる
でもどうしても体が自由になるず勝手にそうさられる。それは尊厳ある死に方ではない、人間はそもそも死ぬときだけが問題ではない、これまで生きて来たことがありそれが最後の死で終結する。だからまともに生きない人には尊厳ある死はないとなる。死とは人生の総決算になる。その全人生と切り離して死があるわけではない。だから死だけを切り離して考えられない。
十分にその人なりの人生を生きれば満足して死ねるとなる
でもその生を全うしないものは安らかに死ねないとなる。

モーゼは神の命により大業を成し遂げて砂漠に消えた。何か病気になり介護されることなどなかった。何か延々と介護されて生きることは人間の本望ではない。
ただ仕事を最後まで続けて死ぬのが本望だとなる
つまり生と死が分離していない、また若者と老人も分離していない個々別々のものではない、人生は分断できない一連のものとして一体なのである
だからこ若いことと老人は別のものではない、若い時は若いなりに生きて老人は最後にやはり人生の実りとして老後を生きる
誤解しているのは人生は連続していて若い時と老人になって分離していないのである、確かなことはこれまで生きたことが老人なっても反映される
老人に青春が生きているともなる、反映されているともなる

死に方の理想は仕事しながら死ぬことである。そういう人を近くで三人くらいしている。自転車屋の人は死ぬ三日前まで仕事していた
癌だったけど仕事できていた不思議である。もう仕事できなくなるかなと私に言ってその後三日くらいで死んだのである。
もう一人も自転車屋の人だがその人も何か調子が悪いとなり入院したけど一か月くらいで死んだのである、それまでは仕事していたのである
また近くの医者90才になっても仕事していた。それも一週間くらいで死んだ
農家の人だと良く畑で死んでいたとあるがそれも仕事しながら死んだとなる
だから仕事しながら往生したのかとなる。

●結局人間は動物でも死があり敗北する―空の空になる

ともかくこういう死に方がいいとなる。寝たきりで何年とか苦痛であり家族の負担も大きい。それが今の大きな問題となる。そして何かそうなると人間の尊厳が失われてゆく、やっと厄介な人が死んでくれたとかなる
認知症とかなると負担が大きいから余計にそうなる
でも現代とはなかなか死ねない社会である。医療を手厚くするからである
何か生にしがみつき生きることが恥ににもなる。
となるとある所で尊厳をもって死ぬ方がいいとなる
ただそれが自分では決められないことに問題がある
要するに現代は死ねない時代だともなる

それでニーチェのような思想が生まれた。あまりにも人間に尊厳がない
それは尊厳をもって死ねないということにもなる
ニーチェの場合英雄的に生きる死もまた英雄的死を望んだとなる
そして結局は人間は死がある限るどんな人もこの世で栄華を極めた人でも王様でも
死によって敗北する。空の空になってしまう。
この世のことはすべて無と化してしまう。そこに人間の尊厳はないのである
強いと見えるものも弱いのである。動物でもライオンであれ強いと見えても何か他の動物に負ける、象にでも踏みつぶされる、それを見るとあわれだとなる

つまり強いものも弱いとなる。そして動物でも死をまねがれない。
人間も強いと見えても弱いのである。それはやはり死ぬからである
要するに絶対的に強いものはこの世にありえない、それは死ぬからである
だから永遠の命を持つ与える神が絶対的強者になる。後は死があれば弱いとなる。

いづれにしろ尊厳を言っても生あるものは尊厳を保てない、それは死があるからである。死を克服しない限り勝利はなくみんな敗北する。結局死んで無となるだけではないかとなる。そういうものに尊厳もないとなる。偶像でもそれがいかに巨大でも崩れ落ちる。永遠に存在できないのである、そこに無常がある
死があればそもそも尊厳が保てない、結局は灰となり塵となる無になるだけだとなる。この世に固執しても無駄だとなる



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2025年09月08日

老後が長いが愚痴ばかり言い合う場にいるべきではない 【人間は最後まで向上心を持ち生産的であるべき―増える認知症老人も大問題】


老後が長いが愚痴ばかり言い合う場にいるべきではない
【人間は最後まで向上心を持ち生産的であるべき―増える認知症老人も大問題】

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【老後貧乏】定年後、どこに行っても同じ様なシニアばっかり<老後・シニアライフ>

人間は何か交際でも愚痴を言い合うとか人の悪口を言い合うとか何かそういう集まりになる時そこには不満のガスが充満してそこにいること自体精神に悪い影響を受ける
何か老人がそういう人が多い、また何か人格の歪んだ人も多い
何もすることがないとか暇な人も多い
それが目立つのは老後が長くなったためである。定年退職してもそれから平均寿命を生きると20年30年生きる、これは結構長いのである
これまでの人生は70才までに死んでいたとすると何か老後をどうするかとなる前に死んでいたのである。だからそんな心配もする必要がなかった

私の家族の一人は公務員を退職したのが55才でありそれから30年生きた
これも長かった。でも最後は認知症になり死んだ。そもそも何故認知症になったのか、退職してから家事も何もしない、怠け者になっていた
保健婦でもあったが最後は年金係りだった。性格は外交的であり活発な女性だった
でも認知症になり悲惨に死んだ。最後の言葉が『俺は優秀だった』と言って死んだのである。それだけ優秀ということにこだわっていた。それで認知症になり馬鹿になったということで誰とも付き合えなくそれが悔しかった。
何故なら外交的で人と話すことが好きな女性だったからである
明かに認知症になった原因は退職して何かやる気がなくなり怠惰になりそれが認知症になる大きな原因だったと見る
もちろん認知症の原因は何か明確ではない、でも何か一般的にやる気を失うことが
認知症になる原因かもしれない。

そもそも人間のやる気がどこから生まれるのか、金になるとか試験のために強制されるとかではやる気がなくなる
それで内発的動機と外発的動機があり内発的動機があれば継続しやすい
金になるとか試験に受かるためとかだとそれだと学ぶことが継続しないのである
好きこそものの上手なれというように内発的動機でないと続かないのである
つまり老後は何か金をかせぐためにするというのではなく自分の内発的動機でする仕事ならいいとなる。
芸術家などは本来は内発的動機で作品作りに励む。自分の納得する絵でも描きたいとなる。それが売れるか売れないかではなく自分の納得するものを作りたいという強い内発的動機があり創作に励むのである

だから老後は内発的動機で励むものを持つべきだとなる。でも会社人間だとそうして個人的に内発的動機をもって仕事をすることがしにくい、それで会社を退職すると何もすることがなくなるとなる
ただ会社でしてきたことが無駄ではなく生かされることもある。それが少ないから何もすることがないとなる。
つまり高齢化社会は若い時からライフワークを持てとなる。でもそれが
会社で勤めているだけでは持てないということが問題になる

ともかく老人が暇をもてあまして愚痴の言い合いをしていることはますますその場が暗いものになる。
人間は何であれ生産的になることが必要である。会話でも愚痴ばかり言うのではなく互いに生産的会話になるといいのである。業種が違っていても何かそこに学び知ることがありそれは生産的になる。
要するに人間は死ぬまで向上心を持ち生産的であり学び続け創造し続ける
それはお互いにそうであり愚痴とかばかり言い合うと何ら生産性がなく精神的に共に退廃してゆく。ただそういう人達が集まる場には入るべきではないとなる

人間は老人になろうが常に新しい発見があり創造がある。それは死ぬまで終わらないのである。それは別に大芸術家だからあるともならない、普通の人でもありうる
何か芸術作品とか偉大な思想家でもそれを理解することが本当にむずかしいのである。でも時間をかけて追及していけば理解する、鑑賞できることがある
それはやはり時間の効果であり高齢化社会はあらゆることにそれぞれの分野で理解を深める利点がある
つまり天才でなくても凡人でも何かのことで理解を深めて認められることがありうる。それがライフワークなのである。

ともかく愚痴ばかりとかただ他人の悪口批判ばかりしていると生産的になれない
そういう仲間といると精神も退廃してゆく、そういう仲間が生産的向上的になれないのである。人間はどこまでも向上心を持ち続けねばならない。それがなくなるとき人間は終わりだとなる。病気になっても苦しいが花の美をみるとか何か生産的なことがある。最後に美しい花を見て幸せだったとなる。そう思う時それは生産的であり苦しいけど生きる価値があったともなる。ただこれはかなり難易度が高い
どうしても病気になるとマイナス志向になる。
ただ最後までこの世の良きものに目を向ける。それが生きることである

ともかく老後の時間が長いとしても短いから時間が貴重になる
この世のものでもその美でも見納めになる。末期の目で見ることになる
また人とも別れ永遠に会わなくなる。それで何で人と会うのか?
愚痴をいうだけにただ時間を浪費するだけに会うのかとなる
ただ正直老人でまともな人はまれであるから過去の偉人の残した作品であれ人生であれ探求した方がいいとなるのが現実である

限りある命や鳴きぬ虫の声
幾ばくの命にあらむ虫の声

何か70も終わるとなると虫でも切羽詰まって懸命に鳴いているともなる
また聞くともなる。年により感じ方が変わってくる

いづれにしろ何か老人であれ一般人であれ高望みはできない、命長ければ恥多しというのは別に寿命が50才くらいの時でも言われていたのである。だから80以上も90以上まで生きるとなると数が多いのだから比例して変な老人が多くなる
つまりもともと優れた人は昔もまれであり今でも同じである。それが人数が多いのと長生きになり目立つようになったのである
それより認知症になる人が800百万人になるというのが大問題である。それは老人を嫌悪するというのではなく社会の大きな負担になる。これこそ悪夢なのである。それは変な老人どころではない大変な迷惑老人になりその介護が大変な負担になる
その方が高齢化社会に大問題なのである

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これは恐ろしい数字である年々認知症が増えて行く、それは変な老人が増えるというより精神疾患の老人が増える
それは明らかに病気でありその数が多いということは社会を破壊するとまでになるから怖いのである













2025年09月07日

夏から秋へ【夏菊、夕鷺、夕蝉、満月、涼し】


夏から秋へ【夏菊、夕鷺、夕蝉、満月、涼し】

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夏菊の切られてすぐに咲き覆ふ
夕鷺や流れのひびき一日暮る
夕蝉や今日も一日忙しく
満月に実りの平野広がりぬ
家ニ三消えて涼しき夜風かな

真直なる竹の伸びにき早きかな燕飛び交い流れ清しも
夏菊に朝顔咲きてなお暑し今日もこの道通りけるかな


昨日は涼しかったが今日は蒸し暑かった、まだ暑さがつづく
だから夏菊が切られてまた咲き覆う、そこは喫茶店があるがやめた
その夏菊に朝顔が咲いているから季節の変化がある

鷺は水辺にあり流れがひびく、毎日買い物が結構仕事になる
昨日は満月が出た、それは実りの平野に出たから秋を感じる

隣で三軒くらい家が消えて更地になった。それは結構広い
夜それで風は涼しい、そこにあった家の人とはもめたりした
その家の人にはいい感じをもてない、でも関わった人は死んでいる
もう一軒の家の人も何か嫌われた人だった

奇妙だけど家がなくなり嫌な人もいなくなり何か涼し風が吹いてきて気持ちいい
つまり人間は何らか嫌悪するものがある
だからその人が死んで家もなくなりかえって気持ちいいともなる
東京などでもそこに涼しさはない、家が密集して暑くなる
それでクーラーがある所がいいとなる、ただ自然の涼しさはなくなる

結局人間はいるだけで暑い、消えた方が涼しいとなる
でも空家空地耕作放棄地が増えるのは問題である

豊国の企救(きく)の浜辺の真砂土(まなごつち)真直にしあらば何か嘆かむ

この真直という言葉がいいのである。ただこれは今では死語になっている
自然の美があり人も自然と調和して真直であれとなる
その自然も消失して日本人の心も失うとなる。文明化してその心は失われたとなる


2025年09月06日

一万くらいの街に未だに村八分がある 【そこでは選択ができないから買い物でも自由にできない】


一万くらいの街に未だに村八分がある
【そこでは選択ができないから買い物でも自由にできない】

私は何もしていないと近くの農協の店とか何か無用のものとしてさげすまれる
社会にとって不必要なものとして買い物まで断られた
でもその農協の店が必要なのかとなれば私にとって必要ではない
別に野菜はスーパーで買えばいいだけである
でもそこで仕事している人は重要なことをしている、だから仕事していない人は買う権利までないとなり売らないとなった。

つまり何かこのように人間は自分のしていることが社会にとって欠かせないであり重要なものと思い込む。特に狭い一万くらいの街だとそういう傾向がある
現実に村なような所でスーパーがなくなり地元の人がボランテアで働くようになった。それだけ狭い地域ではスーパーがなくなることは死活問題にもなる
村を支えるために必要だとなる。都会ではそんなことがありえない、一つの店がつぶれたとしても他にいくらでもある。隣の原町だと大きなスーパーが5つつくらいある。惣菜などを売る中規模の店もある。そういう所ではむしろ競争が強いられるから他店との差別化が必要になる

村に一つの店だったら競争はない、だから売る方が力を持つともなる
店を選ぶことができないからである。だからそこで村八分になればスーパーでも売らないとなり生活もできなくなる
都会だったらいくらでも選択できる、村のような所では診療所が一軒とかなり選ぶことができない、それで仙台市に眼科専門の医院がありそこで高度な機械があり手術するにはいいとなる。ただそこまで行くのが手間になる

ともかく地方の問題は選別がしにくい、選択する範囲は限られているから何か個人経営の医者でも店でも威張るとまでなる。それは教育でもそうである。
都会だとと私立も多いから選択する範囲が広いから自分に合った学校が選べると言うことがある。
つまり何でも選択することがしにくい、だから近くの農協の店でお前には売らないとかなる。何か仲間になるかとかその部落であれ一員にならないと買うこともできないとなる
ただそれは今や例外的なものかもしれないが現実にそういう場があった
原町だと人口が多いし規模が大きいから選別することができる

田舎暮らしに憧れる人は5万以上くらいの市に住め!

現実に村人間とか住んでいる。それは江戸時代の人間かと思った
仲間だけで仕事してよそ者は受け付けない、おそらくもしかしたら売る人も買う人も仲間内でしているのかもしれない、人の出入りを余りみないからである。
それでつくづく昔の村では商人が来ると神社を市場として許可して商売させた
つまり村の中に自由な商売はできなかったとなる
よそ者が入ると村の和が壊されるとなりそうなった
それは確かに言える。外から入る人は信用できないとかなる
でも現代でもそういう場があることは例外的かとも見た
一万の街でも地元だけで働いている人はいない、ここでは原発事故で他から入って家を建てた人が多い、そしてもともと職業でもわからない人が多いのである
車で職場に行くから地元では働いていないのである

いづれにしろ現代でも村(部落)人間がいる。ただ5万以上とになるとそこは多様化して選択できる。だから田舎に憧れて農業するとかなると仲間になることが第一になるからむずかしくなる。農民が結束が強いのはその土地に代々住んでまた仕事も共同でしているからである。そこで苦労を共にしているから団結する
ただ田舎でも農業のしめる割合は一割にもみたない、田畑が広いから農業で生活していると見える。実体は田舎でもほとんど会社員なのである
この辺で藤倉ゴムではゴルフ用品を作り世界に売っている
その駐車場を見たら車が50台くらいあった。その人達は田舎に住んでも別に農業とは関係ないのである。農業と直接関係している人は少ないのである

いづれにしろ限界集落のような場には外からの人は住めないともなる
ただこの辺は原発事故でもともと住んでいた人が外に出て行って人がいなくなったから外からの人が入り安くなったのである。そもそも人が外部から入らないとすると村でも町でも維持できなくなったからである
だから返ってこの辺は外から来る人は入り安くなったのである
特に原発事故の避難区域はそうなった。

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最近はここで買い物している。惣菜類とか焼き立てのパンとか売っている
そこで弁当も売っていて一応用が足せる。だから中規模の店でも5万くらいの市だと成り立つ
スーパーとなると大きすぎることがかえって選びにくくしている
だから中規模の店でも成り立つとなる












posted by 天華 at 11:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年09月05日

真夏の烏浜にて(詩)ー烏浜は砂浜が広く残っているー休むのにいい


真夏の烏浜にて(詩)ー烏浜は砂浜が広く残っているー休むのにいい

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白波寄せて
砂浜広く
夏の雲湧き
沖に船見え
漁船に漁師
サーファーの波に乗り
その肌焼けて黒し
何鳥や群れて飛び来ぬ
広々とした海よ
その彼方を望む
心よ、大きく広かれ
錚々と風は吹きそよぎ涼し
鴎は水面を飛び
浜昼顔は咲き微笑み
釣り人は魚を獲らむ
季節によりその魚は違い
海より漁船は帰りぬ
海を渡ると古墳にそ
10人ほど船漕ぐ板の線刻画
海を渡る掛け声やひびき
真野の地に来たりけるかな
その社も古りぬ
砂浜にニガナの花咲き
東風(こち)吹きて砂の紋残り
烏崎村津波にのまれ消えぬ
海は恐ろしも
その歴史の刻まれぬ
その傷痕のここに残りあれ
年輪刻む木の根っこ一つ
我はここに座りぬ
何か見知らぬ大きな鳥数羽
群れなし飛び来て去りぬ



烏崎村は歴史的には鎌倉時代から始まるからそれなりに古い。
津波に残った八竜神社は不思議だった、高台にありすれすれで津波い流されず残ったのである。
鎌倉から岩松氏が家来を引き連れて烏浜に上陸した伝説がある
岩松氏は家来に謀反で殺されたことで有名である。稚児も殺されたとして伝説化した。

ともかく古代では真野の古墳から10人ほどが船を漕ぐ絵が発見された
それが古墳から発見されたことはその船を操作した人達は誰なのかとなる
綿津見神社や山津見神社が相馬地域には本当に多い。その人達は安曇系統の人達であり海人族である。でもそれが古代にさかのぼるのは無理になる
でも確かなことは安曇系統の八木氏がその後を残している
相馬氏に八木氏がいた。八木沢峠とか霊山の方に犬飼(犬養)という地名がありそれは安曇氏系統なのである。ただ時代的にいつになるのかわからない。でも地名化することは古いとなる

右田浜は景観的には失われたが烏浜は砂浜が広い、ベンチなども置いてある
だからここの方がいいとなる。波乗りしている若者がいるが大きな波は来ない
ただこっちの方が砂浜があり休むにはいいと見た
津波で砂浜自体が消えたとかある。右田浜はそうだった。昔の面影が消失してしまったのである。

今日は雨降って涼しいけど暑かった。暑いと山の方に行きたくない、海の方が涼しいからいいのである。その点浜通リは恵まれている
どうしても涼しい場所を求めるからである






2025年09月04日

なぜ半農半漁になったのかー漁業だけでは生活できないから 【原発であれ火力発電所でもその経済効果大きから反対できなかった】


なぜ半農半漁になったのかー漁業だけでは生活できないから
【原発であれ火力発電所でもその経済効果大きから反対できなかった】

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東北電力の火力発電所

ここは石炭を外国から運ぶ港にもなる

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津波の前の磯部村

●半農半漁になった原因

南相馬市で津波の後右田浜には家がなくなり砂浜もわずかになった
でも河口では釣りをする人が常時いる。釣りするにはいいとなる
でも砂浜が狭いし何か海の景観としてはみすぼらしくなった

一方烏崎の砂浜は結構広いと見た。津波の被害が大きく家が集中してあったところは何も無くなった。草茫々になっている。そこは狭い土地であり後ろは小高い丘になり土地が狭いのである。

なぜそうした狭い場所に家が密集したのか?港のあるところは海に面して密集している。それは漁業に便利だからとなる。すぐ海でありその港が仕事場になる
だから三陸とか他でも海に接した場所に津波の被害の後にも戻っていたのである
要するに三陸とか明治にも一万人も死ぬ被害があった。
それなのにやはり海に接した便利な場所に移っていたのである

もう一つの原因が漁業でも半農半漁であり海岸に接して狭い場所でも住んでその後背地は田畑として利用する。つまり農業するための土地を確保するために狭い場所に住んだ。それは磯部村でも海岸に接して密集して家がありそれが津波で消失した。250人とか死んだからその被害が大きかった。
そこは原始状態は砂州のようになっていた。

農業と漁業の両方を営むことが、漁業の安定性を高めるために必要であるという認識が広がったこと。
持続可能な漁業を営むために、農業も必要であるという考え方が普及したこと。
漁業の進歩により、漁業権を持つことが重要視されるようになったこと。

これらの要因が相まって、漁業の安定性を高めるために、農業と漁業の両方を営むことが求められるようになったのです。

ホッキガイの資源管理型漁業を実施している福島県磯部地区(現在の相馬市南東部)の漁業者は果樹栽培(ナシ)を、静岡県駿河湾のサクラエビ漁業者は茶栽培を兼業しています。

また三重県では、漁船漁業と果樹栽培(ミカン)、養殖業(真珠・魚類)との三種を兼業している地区もあります。一業種だけでも十分生活できますが、三業種全部が当たった年は笑いが止まらないという話を聞いたことがあります。

半農半漁が「資源管理型漁業」のために重要な理由

磯部では丘陵地帯で梨を栽培しているので有名である。磯部だと何か松川浦と違い
大きな漁港がない、松川浦の船溜地区に港があったが小さい

●磯部はメガソラー地帯にその会社のこと

 磯部地区は、300戸以上あった住宅が、すべて津波で流されたり壊れたりした地域だった。「特定被災区域」となり、さまざまな減免や特例措置を受ける一方、新たな施設や建物の建設には制約が課されていた

地元密着に徹する、相馬市の津波被災地のメガソーラー

メガソーラーとかは景観的には好ましくない、ただ相馬市の玉野村とかの山全体をメガソーラーにするのは問題である。災害も起こりうる
だから海岸地帯のメガソーラーは経済的理由でやむをえないのかとなる

なぜか私は景観が気にする。まず景観が悪いと嫌なのである
それで磯部村にある喫茶店がメガソーラーの会社が経営していた
でもそこは海も見えないし道路が見えるだけだから魅力がない
つまり喫茶店とレストランでも景観が良ければ価値がある
価値が総合的だからである。もちろん料理も大事だが海を見て食事をすると最高だとなる

●南相馬市の烏崎の漁業者は火力発電所と原発の補償金で金持ちになった

ともかく漁業だけではもともと生活すことが困難だった。だから半農半漁になったことが理解できる。漁業はいつも定期的に魚を獲れるわけではないからである
つまり漁業は零細なものが多い、特に福島県ではそうである。宮城県から比べると
その規模は十分の一に過ぎない。
だから福島県の浜通リが原発が建てられ火力発電所が建てられ電源供給地帯となった。零細な業者はそれで原発事故前も補償金をもらい原発御殿が建ったとかうらやましがられていたのである。それは港に住んでもみんなが漁業者ではないからである。

烏崎となると東北電力の火力発電所ができてその後に双葉に原発ができた
火力発電所ができたときも補償金をもらい原発でも漁業者はもらっていた
それで津波で家を流された人が街の方の復興住宅に住んだ
その人は海外旅行にヨーロッパに行っていたという。

ハワイ7泊9日間の旅で料金は36万4000円だった。大卒の国家公務員の初任給が1万9000円の時代、現在の物価では約400万円になる。庶民には高根の花だった。

ヨーロッパ旅行はもっと高かった。だから私は海外旅行は行けないと思っていた。それが先入観になっていたのである。それにしても

公務員の初任給が1万9000円の時代、現在の物価では約400万円になる

これだけ高額なもなものだったのである。烏崎で呉服屋が高額な着物が売れたというのもそのためである。

要するに漁業は電力会社から補償金をもらうためにあったのかとまでなる
漁業権は大きな権利であり漁業者から許可されなければ火力発電所でも原発でも建てられないのである。
ただ別に火力発電所なら事故もないし問題にされなかった。それでもなぜ漁業者だけが特別恩恵を受けたのかとはなる
発電所の経済効果は大きい、働く場を供給するし税金も入るしそのために地元でも反対はしなかった。

●火力発電、原発の利権が巨大すぎて反対できなかった

この辺では原発に反対はできなかったことを身に染みて理解できる
そもそも補償金とかの金が大きいからである。また経済効果も大きい、するともし反対したらそういう金を得ている人であれその利権にかかわる人たちがいて暴力団も関係して怖いとなる。検察とか警察まで関係している。なぜならそこに天下りしている官僚がいたからである。そうなるともう反対することは不可能だった

地元でも建築土木関係でもかかわるからそういう人達の中に荒っぽい人もいるから
怖いとなり反対できない、事故後はこうして言うことができるが事故前は言えなかった。それは地元の人でも賛成であり反対することは命がけにもなり住めなくもなる。そういうことを事故後でもひしひしと感じた
ただわからないのは新潟県の巻町で原発に反対して建てさせなかったことである
これはどうしてそんなのことが小さい町でできたのかと不思議になる

いづれにしろ原発の問題は地元すら賛成なのだからとても反対できなかった
それは国策であり戦争でもそうであり戦争に反対すれば特高がきて刑務所に入れられる。それと同じだったのである
そして金になるとなれば目の色を変えるのが人間である。そこで殺人まで起きるのが普通にある。今でも原発事故の被害者でも東電でも政府でもそれほど責めない
ただもっと補償金をくれとなっている。









posted by 天華 at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2025年09月03日

50%以上の会社が後継者不足ー人材不足で文明が崩壊? 【何が本当に必要なのか問題になる】


50%以上の会社が後継者不足ー人材不足で文明が崩壊?
【何が本当に必要なのか問題になる】


日本経済を支える多くの業界で、後継者不足が顕著な問題となっています。地方の医療施設から都市の小売店まで、多様な業種で後継者が見つからず、事業の継続が困難になっているのが現状です。この問題は、単に個々の事業者にとっての課題に留まらず、地域社会や国全体の経済活動にも大きな影響を及ぼしています。

原子力発電所は極めて高レベルの放射性物質を扱う上、構造も複雑なことから、知識や技能の継承が進まなければ、安全に運用することが難しくなる。廃炉完遂にも人材確保は欠かせない。

原子力人材「10年以内に継承困難に」…産学官連携で人材確保へ協議会、政府が月内にも発足コピーライトマーク 読売新聞


これはいいことかもしれない、なぜなら原発事故も14年過ぎて忘れられてきたからである。原発には本当に高度な人材が不可欠である。その人材を確保できなければもはや原発を増設することは無理である。ということは原発に反対しなくても作れないとなる

何かいろいろな分野で人材確保がむずかしくなる。また後継者がいなくなり事業が維持できなくなり会社が倒産するとかなる
この辺では一軒の自転車屋の人が死んで一軒もなくなった
原町のサイクルショップ湯原はロードを扱っているから高度な技術がある
息子が手伝っていても会社に勤めていて後を継ぐわけでもない、そもそも自転車自体が修理でも簡単にできないのである
経済的に成り立たないとか後継者になるとは限らない
今は店は開いていないが連絡すれば相談にのりやめたわけではないが店が開いていないことは困ることがある
それからもう77才とかになり病気であり仕事でも継続できない
つまりあらゆる場所で後継者がいなくなる。その兆候がすでに現れている

ただ原発が後継者不足で継続できないとなるときそれはいいことにもなる
そもそも有能な科学者とかは核とかを操作するから危険な面があった。
でもそうした高度な知能を持った人が不足して原発を作れない運転できないとなるのはいいことかもしれない、そもそも核兵器をかかえていることはそれ自体が危険である。その操作できるのは科学者でありその科学者が確保できないことは原発も維持できない、もちろん増設もできない、また核兵器でも作れないとなる

そうした高度な人材だけではなく少子高齢化でエッセンシャルワーカーも不足する
大工がいないから家を建てられないとまでなる。カナダとかではそうなって住宅不足で苦しんでいる。大工もやはり高度人材にもなる。それは修行が必要であり簡単いなれない、でもすべてを機械化することは不可能である
ロボットが機械がすべて人間の代わりをするとかはそういう人間の願望であり不可能なのである。人間の仕事がAIが代わりにしてくれるというのも幻想なのである

ともかく少子高齢化で空家と耕作放棄地が増大している、そして市町村でも後継者がいないとなる。だから限界集落など維持できなくなる。現実に祭りなども若い人がいないので維持できないとなる。だからこれは相当に深刻である
ただこの世には本当に別にその仕事はなくてもいい、そんな所で働かなくてもいいということも多い

例えばヤクルトの仕事はなに何なのだろうとなる
一週間に一回ヤクルトを配達する。それで一人暮らしの人が頼る人がなくてヤクルトの人に頼ったということがある。確かに区長が見回りしているが一年にニ三回とかであり一週間に一回など来ないからである。
すると自治体で福祉の役割をさせる、その金は支給する。つまりヤクルトを配るより福祉関係の仕事に適しているともなる。ただそこまでする義務はない
でもそういう役割をもたせる、そのために役所で金を払う。
人材が不足するから何らか役割を担うことが求められるとなる

少子高齢化では無駄な仕事は事業はしないことも必要である
その仕事が本当に地域であれ社会で必要なものかどうかが問題になる
人材を割り当てるのは本当に必要なものだとなる。それを選別するのはむずかしい
そもそも何が無駄で有用なのか簡単に判断できないからである
水商売を無駄だからなくせとも言えない、それも社会の潤滑油的働きをしているとかなる。

ただ確かにこの世に無駄なものが多すぎる。例えば創価とかカルト教団が高齢化して後継者がいなくて維持できなくなるとかもいいことである
そんなもの元々必要ないものだったからである。だからそれはいいことだとなる
近くの農協の店も必要がない、無くても困る人がいないようにも思う
ただスーパーがなくなったら大変なことになる。それで村でスーパーがなくなると村の人がスーパーで働くようになったことでもわかる

だから少子高齢化社会では本当に必要なものは何かと問われる。無駄なものに費やすことができなくなる。でも何が無駄なのかは簡単には判断できない
それを誰が決めるのかとなるからである。何であれ社会に害があるようなものでも民主主義社会では数で決まるともなる。みんなが必要な物ならそれが一部の人が必要ないとしても数が多い方、投票で決まるともなる

とにかくあらゆる分野で人材不足になる。特に原子力とかIT関係とか高度なものは余計にそうなる。その人達が不足すると文明自体維持できなくなる
原始時代に戻るとまでなる。電気を作れないから炭で暖房とれとか時代が逆戻りする。それが人材不足で起こり得る。
自転車でも修理するのが大変である。今回のパンクでタイヤを直してもらったが
それが意外と苦労したと言っていた。何かメーカーと連絡をとらないと直せないことがある。星さんでは道具をヤマハの製造所から送ってもらってやっと修理できたとかある。

だか自転車でも人材がいなくなれば修理もできず乗れなくなる恐怖になる。何でもサイクルショップ湯原ではいわき市の方からロードの修理を頼まれたという、いわき市なら大きいから直せる自転車屋があると思ったがないのかとなる
今回のタイヤ交換も特殊なもので苦労したと言っていた
何らかで全国的に後継者不足になりそれが深刻なのである
自動車でも修理できないとかある。あらゆる所で人材不足になる
それは簡単に埋められないのである。
何かローマ帝国の煉瓦の水道管が修理できなくなりローマが滅びたという説を放送していた。つまり水道でも老朽化して水漏れが起こりそれも修理できないとかなる
トンネルでもそういうことが起きたとかある

そういうことが全国で起きてきて文明が機能しなくなる恐怖がある
どうしても高度化しているからそうした方面の人材は不足するからである
だから人材不足は軽く見れない深刻な問題になる
やはり少子高齢化の影響は大きい。人材が供給できなくなる
そもそも周りを見ても子供などいない、私の組では一人もいない、みんな老人なのである。

つまりローマ帝国が煉瓦の水道管が修理できなくなり崩壊した説が出て来た
それが何か現代にも当てはまるのかとなる。ローマ帝国より現代文明は複雑であり高度になっているからあらゆる分野で継承することが難しい
それで人材不足で文明が崩壊するというのも空想ともならない、
つまり少子高齢化の影響はそれだけ大きいのだがなかなか危機感を感じないのが問題なのである

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2025年09月02日

老人になり問われるものーその人なりの価値が人格が問われる 【社会でも会社でも人格形成を目的にしない】


老人になり問われるものーその人なりの価値が人格が問われる
【社会でも会社でも人格形成を目的にしない】

● 長生きしてもそれだけで価値は作れない

老人の問題は突然に老人になったから起きることではない、人生は連続している。
老人は人生の最終として誰にでもなる。でもその前の人生と切り離してありえない、
人生は連続しているからである。だから老人の問題が老人になり起きるわけではない
だから別に老人になったからとか年をとったからと老人が人格者になるとか特別な人になるわけではない。何か老人を敬いというときそういう時代は老人が長生きする老人がまれだから貴重になった。今はこの人は長生きしたから偉いとはならない。ただ百歳元気でいれば注目はされる

何か老人の問題が老人になって共通して起きてくるとみる
でも老人の問題は確かに病気になるとか体力がなくなるとかは共通している
でも老人の問題はその前に起きている。人間がただ年をとるだけで偉くなり優れた者とはならない。老人の数が少ない時はそういうことがありえた。
今はただ年をとったから価値あるとはならない。

なぜ老人が価値がなくなったのか?

これを問うべきである。老人の価値とは何なのか人間の価値は何なのかが問われる
老人は無駄だとか老人を嫌悪するとき老人の価値を認めないからである。
でもまた老人でも個々に違っているから老人全般ではなく老人の個々の価値を認めないからだとなる。
老人でも何か一芸に優れている人だったら一目を置く、何かその人の特有の価値を認めれば老人でも価値あるものとなる
でもただ年をとっているだけでは価値は認められない、それが高齢化社会で問題になっている。別に60代くらいで死んでいればそんな個々人の価値を求めることもなく家族であれ地域社会であれ会社であれその中で価値があり死んでいたとなる
あえて個々人の価値を問うこともなかったのである

だから老人が無駄だとか無価値だとかあまり言われない、ただどうしても老人は無駄だと言われていたことはあった。それは貧しい時代だから働き手になれないことでそうなった。その時老人の性格がどうだとか何かその人の人格的なことは言わなかったかもしれない。
でも今になるとそうした老人の人格的なことを言われ指摘されるのはなぜかとなる
それは長生きしているから何か老人が目立ちそれで変な老人が増えて目立つからそうなる。少なければそもそも老人のことをそんなに話題にもしないだろう
何であれ老人が多すぎるからどうしてもその中には変な老人がいて目立ち嫌悪される。ただ長生きすれば恥多しということは言われていた。だから昔でもそういうことはあった。

●老人が多すぎて負担になり価値がなくなった

ただ現代は余りにも老人が増えすぎたことで老人が目立ち老人の価値が低下したのである。そもそもいつの時代でも優れた人はまれだった
それで現代のように老人が増えれば変な老人が目立ち嫌悪されるとなる
何でも数が多ければ価値がなくなる。美人でも多ければ価値がなくなる
醜い女性がいて美人の価値があがる。でも美人ばかりっだったらその美人も価値がなくなる。老人が少ない時代は老人であるだけで価値があったとなる
現代では百歳になる人はまれだから価値ある。でも百歳が増えてありふれたものとなれば価値がなくなる。

いづれにしろ老人の問題は老人になって起きることでもない、老人だけを切り離して見れない、人生の最後の結果として老人問題がある
むしろ老人になってその人の真価が現れるとなる。何であれ人生で積み重ねてきたものがありその集大成が老人になり結実するとなる
だからなぜこれほど老人が尊敬されず嫌悪され無駄なものとされるのか、それを問うべきだとなる。それは老人になって突然現れたものではない、人生は連続していたのだからもしかしたら青年時代にも問題があり老人になりその問題が現実として現れたのかとなる。

確かにカルト教団に子供の時から家族で洗脳されてそれが遂に老人まで変わらなかったらどうなるのか、その人は異常でもいつも接する人は同じ人達だから異常でもない、むしろその中でかえって先鋭的になり認められる
別に外界で価値がない異常だとみられてもその内部では賞賛される
それは組織団体化した所ではそうなりやすい、その団体組織の中での価値観がありそれが異常で気づかないのである。
それは近くの村人間でもそうである。十数人かの村(部落)が社会でありそれ以外は通じあわなくてもいいとなり、返ってその仲間が第一であり村八分がありそれを一番恐れるとなる。

●人格形成を社会では目的にしないーでも老人になると問われる

要するに人間は常に価値を問われる存在である。老人は特に長く生きて来たのだから何らかの価値を作って来たはずだとなる。でも人格形成がどうのこうのとかそんなことを目的にして生きるわけではない、会社だったら利益を出す金儲けることが第一になる、そもそもあなたたちはこのの会社に入ったら人格形成を第一にして勤めなさいなど言わないだろう。いかに利益をあげるかが第一になる
そこで何か相手をだましてでも利益を出す者が優秀だとして会社では優遇するとなる。たとえ人格が歪んでも利益を出すことが第一になる。

それでも老人になった時何かそうして人をだましたりして利益をだして会社では褒められてもその人の人格は歪むとなる
でも別に会社ではそんなことを気にしない、それでも老人になったとき何か歪んだ人となる。ただその人は社会での成功者にもなる。
いずれにしろ社会であれ会社であれ人格形成どうのこうのとか目的にしていないのである。だからなぜ職業が業になっているのか、カルマにもなるのか、世俗の職業自体に問題がありそこで利益が第一となり心は無視されて心が歪むとなる
会社であれ社会であれ人間は二律背反になる、ジキルとハイドにもなる

ただ変な歪んだ老人が多いというときその原因は何なのか?
そもそも社会であれ会社であれ人格形成がどうのこうのとか関係しない
もちろん嘘をついて取引しろとは言わないけど利益になるなら上の人でも目をつぶるということはありえる。それは政治家ではあり批判される
政治でも別に人格がどうのこうのとか余り問題にしないだろう
要するに社会では人格形成を目的にしていない、それでも不正なことをすれば法律に触れるからと注意する。それは罰せられるからそれを恐れてしないとなる

でも老人になり変な人人格が歪んだ人が多いのか?
それは何らかで社会を生きているうちに例えばまず利益を上げることだとして
嘘をついたりだましたりすることをしてきた。それが老人にあり顔つきにも心も歪んだものになったかもしれない、なぜなら会社であれ利益第一であり社員の人格が心がどのこうのと言わない、何か寺であれ修道院なら人格形成を第一にしている
社会では利益が第一でありそんなことを問わないのである

●不本意でも社畜とならざるをえないーでも責任は問われる

ただ老人から人生でも社会を見ると違って見える、もしかしたら何で私は会社の命令を第一にして社畜になったのかとか後悔するともなる

不本意であっても金になる、利益になる

そういうことが人生には多い、カルト宗教教団も宗教を看板にするのだから人格形成を第一にする場なのかとなれば全然違っている
むしろ強欲になり御利益を狂気のように追求して仏に祈る。人格などどうでもいのである。ではその人達が老人になったときどうなるのか?
何か歪んだ人格が形成されて経済的には成功しても人格形成では失敗したとなる

ただ人格形成を目的にしている会社などない、それなら僧院に入れとなる
社会でどうしても職業に就くことは業(カルマ)を積むことになる
それで世俗社会と分離して精神修行をしたとなる
何か引きこもりとかは社会に適応できないという時純な心と内面を追求するのでそういう場が僧院でも入るのにはいいとなる。ただそういう場が現代では喪失したので家に籠るようになったのかとなる。私の場合はそうだったのである
何か嫌なことを強制されることがなかったのである。それは特別に家族に恵まれた結果だったのである。でも社会は過酷であり甘えは許されない、それが意に沿わないものでもやらざるを得ない、そこで人格形成とは関係ない場所だからである

とにかく老人は何であれ人生の結果として現れる。それは顔にもその悪しき行為でも刻印される。だからその形成された心が人格がそのまま来世にもたらされる。そこが地獄であるがすでにこの世自体が地獄なのであるり地獄に入るための場だとまでなる。
神はその人の心を見るというときいくら人格が歪んだのも会社のせいだとか社会のせいだとしてもあなたの責任でそうさせたのだとされる
40過ぎたら自分の顔に責任を持てというのはそのことだとなる

あなたの心が歪んだのはあなた自身の責任だともなる、社会であれ会社であれそこに責任はない、結果的にあなた自身の責任として問われる。確かなことはこの世に義人は一人もいないというときそれだけ義に生きることはほとんど不可能に近い
何らかこの世の不正と悪に妥協して生きるほかないことを示している
だから悪に染まっても別にみんなそうであり感じないとなる。だから自分が悪人だとか罪人だという人は返って救われるという逆説になる。何らか悪でも罪でも意識できたからである。普通は殺人を犯した人でも反省していない、たまたま運が悪かったと刑務所に入った人が言っていたからである。自分が人を殺しても悪いと思っていないのである
要するに人間はそれほど悪を意識できない、だから親鸞が千人人を殺してみろと言ったのである
そうすれば悪人と自覚するからだとなる。







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2025年08月31日

長生きすれば恥多しー高齢化社会の暗黒 【人格的にまともな老人がいないー歪んだ変な老人が多すぎる】


長生きすれば恥多しー高齢化社会の暗黒
【人格的にまともな老人がいないー歪んだ変な老人が多すぎる】


営業をやっていますが、70歳前後の男の人が特に厄介と感じています。
意固地で、独りよがりで、人の話に聞く耳を持ちません。横柄なものの言い方をしますし、他人に対する配慮など微塵もないです。

これは客の方に問題がある。でもまた店の方の接客にも老人は適さないことがある
何か自分でも低姿勢になれないことがある。

人間は長く生きれば経験を積み人間ができて来ると普通は思う
でも周りの老人を見てそういう人がいるのか?
何かこの老人は人間としてできているとかそんな人はまれではないか?
何か変な老人が多くはないか、その人は何か子供みたいであり老人でも何ら変化していない、何か幼稚なのである、だから老人であり幼稚な子供に見える
その人は結婚していないのだろう。同級でも何ら変化していない不思議である
幼稚な老人でありそれが戯画的になっている。老人の子供なのである
全般的に日本人が幼稚化したというのはある。戦前の人間は大人であり今の人とは違っていた。

では何がそうさせたのか?もともと別にこれまでも老人がいたとしてその人達が全部人格者とかできた人とではなかった。それが高齢化社会で統計的に見れば当然それだけ多いということは変な老人が多いということである
何故ならこれまでは60代くらいで死んでいれば何かおかしいなと見えたとしても間もなく死んでいたから目立たなかったのである
それでもその多い老人が別に成熟して人間的に魅力あるならいい、でもそうなっている老人は少ないのではないか?

命長ければ恥多し

これが今の時代を象徴している。ただ老人はその恥を自覚していない、そんな年になって恥ずかしいとも思っていない、つまり人間は自分のことがわからず自覚できないのである。老人が恥多しというとき時代に取り残される、技術的にも現代から取り残される、なぜならスマホも70代以上になるとできないとかありネットで起きていることがまるでわからなくなる。それでオールドメデアのテレビから情報ばかりに接していると実は時代から取り残されることになる
老人はどうしてもこうして時代から取り残されることが起きる
また回りに若い人がいないと余計にそうなる。

何か前時代の遺物のようになる、鉄の時代なのに石器時代の人間とかになる
浦島太郎のようにもなる。ただそれが自覚できないのである
私のことはスマホがあれば読めばわかるがそれもスマホができないのだからできない、それを説明するのもめんどうになるから交際できない
そして私のことを貶めて喜んでいる。

78才になって何か店をまかせられて売り方をしているのが似合わないのである
でもスーパーでは年配の人が裏方にまわり仕事している
ただレジは若い女性がしている。レジに老人は似合わないのである
ただその人はそれを自覚していない、そこで自分は散々な目に合った
自分のことを何やかにやいいお前なような者には売らないとかなんとか言いたい放題だった。それも普通なら異常なのだけでそこは農協が主催する売り場でありその人にまかせられたからそうなったのである

つまりそこは似合わない場だった。別に老人が仕事するなというのではなく老人に似合わない仕事は恥にもなる。
老人は本来江戸時代では40代で隠居したとかありその年ですでに表に出なかったのである。老人の生き方としてはそれがふさわしかったともなる
どうしても若い人と合わなくなり恥多しとなる
何か仕事でも若い人と合わせてやるのもむずかしくなる
第一スマホもできないとなると連絡もできないとかなる

どうしても老人は恥多しとなることが避けられない、本来は隠居して隠者になるのがふさわしいのだが今は老人でもしゃしゃり出てくる
要するに恥も感じなくなるのかもしれない、
そもそも老人になっても78才になっても何か子供のように幼稚なのである
一般的に日本人は幼稚になったと言われるが確かにそうである
その人は老人でも特殊なのかもしれない、ただその人出会わなければその人について言うことはなかった。それが出会ったことでその人のことをおかしな老人だと見た。だから別に店であわなければその人のことを批判することもなかったのである。

だからこそ老人は社会に出るのも問題だとなる

店で出会わなければその人について何も思わなかった。言うこともなかった
だからそんな所にに出てきたこと自体が失敗だったもなる
そうでなければ自分は何も意識もしなかったからである
そこでどうしても老人は恥多しとなる。蛇でも出てこなければ意識しない、でも出てくれば意識する、そこにはまた蛇が出ると意識する
老人は恥をさらして生にしがみついている。ただ本人は自覚できないのである
ただ女性の場合はあまり人格がそうのこうのとか言われない、女性は本能的に生きる。でも男性は何か別であり高等なものが望まれる。でも高等になりえないのである

現代の高齢化の問題はどうしても醜い老人でも社会に出てくるから嫌われるとなる。でも老人自身は意識していない自覚できないのである
まず恥だと自覚できないのである。それが余りにもづうづうしいとなる
老人は恥ずかしいとう感覚が鈍感になる。それは自分が若い人であれどう思われているか意識できないわからないからだともなる

ともかく人間は自然界にあること自体何か醜いもの自然と調和しないものとしてある。鳥をみればわかる。いかに自然に調和して美しいのだろうとなる
別の高価な衣服を着なくても白鷺は輝いている、その白い衣は輝いている
カワセミでもそうである。自然に調和してなんと美しいのだろうとなる
なぜ人間は自然と調和しないのだろうとなる。だからこそその暮らしを隠せとなったのである。別に田畑に仕事していればその人は自然と調和している
でも面と向かった離せばいろいろと不満があり醜いものが現れる
鳥にはそうしたことがないのである。何か足りないものがありますか、いいえ何もありませんとなる。人間は常に足りないと嘆く、その不平不満は大気を汚すのである。大都会になればそれがスモッグのようになる。

人間の存在自体がなぜ自然界で汚点のようになっているのか?

ただそのことを感じる人も別にいないともなる。そもそも美を感じない見ないとなるからである。ともかく老人であれ人間は自然界に隠れているとき自然の美は映える。だから老人であれ人間はつつましく自然の中に隠れていればいいとなる
つつましいとは自然に包まれることなのである、神道では罪を包むのが自然だとなる

人間の生は死より悪い・・・というのは老人に言える。どんな人間でも死ねば災いをもたらさないからである。死んだ人を悪くは余り言わないからである
つまり高齢化社会が暗黒なのは病人が増えるとか介護とか負担が増えることもあるが人間が歪んでいる何か変な老人が多いからだとなる

そういう老人が何か社会を暗くする、明るくしない、花咲か爺になる老人はまれだろう。意地悪爺さんになる人の方が相当に多い、つまり高齢化社会の問題は人間が
人格的にでも別に老人になったから自然と人格者になるわけでもない、むしろ変な人間の品評会のようにならないか?それが人生の結果だとしたら何なのだろうとなる。老人が仕事するからいいとか悪いとかではない、老人の人格がまともでないことが問題なのである。だから人生が長生きすることは恥多しとなりいいものとはならない
それは死より悪いとなる、でもそれを当の本人は自覚できないのである






2025年08月30日

自然はすべて解明されていない 【熊だけを駆除することは危険ー自然は依然として神秘−アイヌの熊祭りを知る】


自然はすべて解明されていない
【熊だけを駆除することは危険ー自然は依然として神秘−アイヌの熊祭りを知る】

森林伐採により餌となる木の実が減少
生息域が分断され、熊の移動ルートが狭まる
山と人里の境界が崩れ、出没リスクが高まる
つまり、メガソーラーは熊を「人里に追いやる」間接的な要因となりうるのです。

なぜ熊が人里に出没するのか?その要因と冬眠の驚きの仕組み

自然を人間は何でもわかっているわけではない、でも科学が発達して何でもわかるという感覚になった。熊のことも実際はわからない、熊が冬眠してその間に子育てもする。なぜそんなことができるのか?それも実際は解明されていない、つまり自然には必ず神秘の領域が残される。科学ですべて解明されて説明されない。
それで気候変動も温暖化も解明されない、様々なことを科学者が言ってもすべてわかるわけではない。
そして自然を知る時その時間感覚が長すぎて実感できない。
何億年前がどうだとか実感できない、その間に温暖化もあり氷河期もありそれは自然の作用としてあった。ただその時間間隔が長いので理解しにくい

それで自然は人間にはすべてわからない
自然に必ず神秘の領域が残る

それはどんなに科学が発達しても解明できないものが残る
それで自然は不可思議神秘があるとして謙虚に接することも人間にとって必要である。熊の問題でもそうである。熊が自然でどういう働きをするのかも良くわからない。だから熊は危険だから駆除すべきだとはならない
つまり自然を見る場合熊という一動物を見ることではない
熊が生きる山とか森全体を見ることが欠かせないのである

生命は必ず連関しているからである。相互作用のなかで生きているからである
それで宇宙でも月が地球に影響しているとかなる
また太陽の活動にも周期性があり温暖化でも寒冷化でも起きる
ただその期間が長すぎるから理解できなくなる
人間の視野は狭いし時間的にも人間の一生が短いからそこで自然の対処が誤る

それで相馬地域で400年前に生波(津波)で700人溺死したという記録が相馬藩世紀に二行だけ記されてたけど学者すら知らなかったのである
だからこの辺では津波は来ないとなり老人でも逃げないで死んだ人がいる
400年も津波が来なければそうなってしまうのである
つまり自然の時間のスケールが人間の時間のスケールと違いすぎるのである
だからこそ天災は忘れた頃にやってくるとなる。
でも自然の時間間隔にしたら周期的に来ている。300年間隔であれ一千年間隔であれ周期的に来ている。ただ自然の時間感覚長すぎて人間は合わせられないのである。

人間は自然でもすべて解明されないし必ず神秘的なものが残る
すると人間は自然に対して謙虚になり畏敬の念を持つことも大事だとなる
昔なら海の神、山の神が存在してそれを畏敬する、現代ではすべて科学になり
科学で自然を操作できるものとなった。でも実際はできていない、地震でも津波でも温暖化でも気候変動でも実際はわかっていない。太陽の影響もわかっていない
ただ科学者がわかったようなことを常に言うからそうなのかとなるが実際はわかっていない。

要するに自然のことは部分的にしか見れない全部はわからない、だから熊の問題にしても熊が自然でどういう働きをしているか良くわからないから人間側で簡単に操作することが危険になる。原発でも科学者が核のことを全部わかっていた訳ではない、でもわかったように思わせていた。それで現代は科学者が神のようになる
でも科学者もわからないのである。自然は神秘でありすべて解明することはできない。だからこそ自然に対して畏れ抱くべきだとなる

昔なら熊も神であり畏れを抱いていた。そこには生命の神秘があり自然の神秘がある。その神秘を科学で解明されるとなったのが現代である
でも実際はすべて解明できないのである、熊は危険だからが害獣だから駆除すべきだとなるのは人間側で自然をコントロールできるという傲慢なものなのである。

熊を神に還す「イオマンテ(熊送り)」とは「イオマンテ」は、捕えた子熊を一定期間人間の手で育て、その後感謝と祈りを捧げて神の世界へ送り返すという、アイヌ独自の送神儀式です

この儀式は単なる祭礼ではなく、熊の霊魂を喜ばせ、人間界に恩恵をもたらしてもらうという信仰に基づいています。

自然界と人間の交流が祭りとなった。動物の肉でも殺すのだから痛みがありそれでただ物のように殺すのではなく神からいただくものとして祭りがあった
現代では動物でもただ肉を食べる物として機械的に効率的に殺すとなった。
そこに動物、生物に対する畏敬が喪失したのである
だから人間にとって危険な邪魔なもの殺して排除すればいいとなった
そこに生態系を破壊する危険なものがある
何か祭りとなると科学的ではないとなったが先人の知恵がそこにがあり継承されるべきものがある。確かなことは自然界でもすべて科学で解明されているわけではないことである。だから科学万能主義に陥ることは危険である。

だから橅(ブナ)の木が建築材料に適さないからと人工林の杉にしたことも問題があった
津波で根こそぎ松原が流され喪失したことには驚いた
それは自然のものではなく人工林だから根こそぎ流された
自然の森だったら多様な木があり全部流されるようなことはなかったかもしれない
つまり人間側の都合だけで自然に対処することは危険だった
何故なら縄文人は遺跡でも津波の来る場所にはなかったのである
本来津波の来る場所に住むべきではなかったのである。
それで老子とか荘子の無用の思想が生まれた
自然界に無用なものはない、人間の都合で有用なものだけにすれば人工林となり森全体が損なわれるとして警告したのである

「橅」は、材木として使い物にならない、つまり木では無いということにある。ブナ材は稀にパルプ、床柱、家具(椅子など)、玩具、杓子などに使うが、水分が多くて腐りやすいことや乾燥によって材が乱れやすいこと、変色しやすいことから扱いが難しく、火持ちが悪いため炭としての価値も低い

戦後の拡大造林政策による人工林の放置によってナラ枯れの大発生や荒廃を引き起こし、奥山の深刻な劣化を招いたのは紛れもない人間です 。

日本のクマを絶滅させたらどうなるのか?

人間は自然でも一部分は見る、でも全体は見れないのである。そこに盲点があり限界がある。だから視野狭窄に陥るのである。つまり自然は神秘的なものであり畏敬すべきだという感覚が科学時代になり喪失したのである
そこから様々な問題が起きてくる、原発事故であれ津波であれウイルスであれわからないことが起きてくる。それらをすべて人間が解明したわけでもないのである

熊の問題でも熊が危険だから駆除すべきだというとき熊が自然全体の中に生きていることを無視する。熊という単体を駆除すればいいとなる
それは全体を見ないから見れないからそうなる
要するに熊は神秘的なものであり熊が自然のなかでどういう働きをしているのかわからない、だから単純に駆除すれば解決するとはならない。
ともかくいくら科学が発達してもすべては解明できない、それで自然に対して畏敬の念を持つ、そこには全能なる神の働きがある
そして人間は全能の神になることはできない、いくら科学が発達してもである
その全権を握っているのは神なのである。だからその神を畏れなければならない、
人間の力ではどうにもならないからである。

神には科学を自然越えた奇跡が働く、自然は一定して決められたものではない、
神は新しい天と地を創る。つまりなぜこれほどの災い災害でもあるのか、それは
天と地が完全ではないからである。新しい天と地が造られて完全になる
そこではこんなに自然災害はなくなる。海が無くなるという時海は危険なものでありそこから津波など大災害が起きて来るからだとなる
ただ海が無くなるという世界もイメージできない、確かなことはこの世界は自然でも不完全なものとしてある。完全なものは神の国で実現するとなる



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2025年08月29日

阿武隈山地にも熊が出る

阿武隈山地にも熊が出る

【クマ出没情報】国道を横断する70センチのクマ…相馬市山上 27日午後7時すぎ 福島

警察によりますと、29日午前6時半ごろ、福島県南相馬市原町区萱浜で、70センチメートルほどのクマのような動物が目撃されました。

萱浜は海の方であり原町は大きな街である。そんな所に熊が出たことは何故なのか?
山の方ではないからかなり広範囲にうろついている。何か出くわす危険がある

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八木沢峠へ行くー薔薇坂ー原発事故の後にカモシカを見た

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ここに蝉が多く鳴いている


熊が南相馬市鹿島区栃窪村にも出たと注意をうながす看板を見た
それは集落のある所である。それがいつかわからないが相馬市の山上にも目撃されたことはこの辺でもうろついているのか?
阿武隈山地には熊は元々出なかった。最近出るようになったのはなぜか?
それは全国的にもともと熊が出ない所に出ている
いわき市でも目撃されている。

現時点では,中山間地域の過疎化・高齢化による人間生産活動の低下が,クマをはじめとする野生動物の進出を容易にしているという構図がひとつ考えられる

このことがあるのか、それは原町から八木沢峠に行く薔薇坂という所で原発事故で農家が廃墟となりそこにカモシカを見たのである
カモシカはこの辺では見られない、でも原発事故で廃屋かして人気がなくなると野生動物が活動しやすくなる。
猿でも人恐れず町に出てくる。それが全国的に過疎化して起きているのかとなる
それは一季節の問題ではなく最近は関係なく持続的に出てくる

山上に出たということは隣り合う栃窪にも飯館村にも出るとなる
特に飯館村は原発事故以後人口が6000人が1000人になり廃屋が多く耕作放棄地も多い、だから野生動物にとっては活動しやすくなっている
山間地域が過疎化することはこれからも野生動物にとっては生息しやすい
ただ原因は他にもあり熊の問題はわかりにくい、確かなことはカモシカがこの辺では見たこともないのに見たということは人が住まなくなると野生動物が生息しやすくなる。飯館村ではイノシシでも耕作放棄地の田んぼを掘り起こしていた
熊は全国的に生息領域を広げている。

いずれにしろ山上で目撃されて栃窪村で目撃されたことはこの辺りに生息しているのかとなる。だから山に入ることは危険にもなる
何かこれも人間の生活の変化と関係して起きたことであり人間と野生動物を分離して考えられない。人間に異変があり野生動物にも異変が起きる

何か今年は揚羽蝶などが少ないとか蝉が少ないとかある。一応この辺では蝉は鳴いている、でも例年と比べると少ないだろう。屋敷林があり蝉しぐれを聞いたがそれも聞かない、ただ南相馬市原町区の大原村から橲原村に通じる新しい森の中を行く道には蝉が盛んに鳴き響いていた、そこは今まで人の入らない森だった
だから街とか人家の近くで蝉が減ったのかもしれない
それも人間と人との関係で起きたともなる
つまり街と離れた深い森では蝉は減っていないのである

ともかく自然に異変があると人間にも異変がある、相互に関係している
だから野性動物でも熊でも出ない所に出るというのはどちらにも異変が起きてそうなった。


荒地化して羚羊がでて猿が増えた原発避難地域 
(橲原渓谷からバラ坂、大葦、大古林道から大原へ)

「阿武隈川より東側にクマはいない」とかつては言われていたが、中通り地方を流れる阿武隈川以東の福島県双葉町新山で8日午前8時50分ごろ、クマ2頭が目撃された。専門家は「エサ不足の影響では」と指摘する。

 双葉署によると、クマは体長1・5メートルと0・5メートルほどで親子とみられ、人的被害は確認されていないという。現場は震災前まで使われていた旧町役場の近く。

 県によると、クマのエサとなるドングリが育ちにくい阿武隈川以東はクマの生息に適さないとされている。ただ、ここ数年、年間数件程度の目撃情報が寄せられているという。

「阿武隈川以東にはクマがいない」はずが…双葉町で目撃情報

大熊町で初めてツキノワグマを捕獲 福島県が全域に注意報発令






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2025年08月28日

日本人もアメリカ化して金しか見なくなった 【庶民レベルでモラルがなくなったとき国家は滅亡する】


日本人もアメリカ化して金しか見なくなった
【庶民レベルでモラルがなくなったとき国家は滅亡する】

現代では、他人に尽くすことで感謝されるどころか、逆に「この人は自分より下だ」と見下されることがある。尽くすことは弱さの証とされ、利用される対象に変わる。さらには、手を差し伸べるとその手を引きずり下ろされるような経験もある。昭和の頃なら「徳の高い人だ」と評価された行動が、現代では逆の解釈をされてしまうのだ

昭和の時代は、隣人は友であり、社会は助け合いの精神で成り立っていた。しかし今や、多くの人々が他人を敵とみなし、少しでも隙を見せれば奪われる時代になってしまった。こんな社会では生きる喜びや希望を見出すことは難しい。
現代日本人の「嘘つき村」化に見る失われた美徳

このことを嫌というほど親の介護で経験した。そこで家自体が弱体化したから金を奪おうとする人たちが入って来た
現実に『金をくれ』と来て私が入院して留守になった時たまたま家に置いてあった金を盗まれた。その人は最近移り住んだ女性だった
ただ場所はそんなに遠くはない、でも最初から『金をくれ』とか言うのが冗談のようにも思った。その人は本当にそう思って家に来たのである
私は近くであり信用してしまったのである

金をくれと来て本当に私がいないとき家探ししていたのである

これが今の庶民レベルの人間なのである。そこに遠慮も何もない
ただ欲しいのか金である、その人が金に困っていたことはわかる、かなり金に困る生活だった。ただそれでもそこまであからさまに言ってその通りに実行したことに驚いたのである
今や庶民レベルでもかつての日本人は存在しないのだろう。他者は金になるかどうかしか見ていない、だから金を奪う機会があれば奪うとなる。そこに罪の呵責もないのである。金を持っている人は奪われてしょうがないということになる

何か問題はこうして庶民レベルでモラルが消失したことである。ただ金になればいいというだけである。だから金を奪うということになる。それが一部の人ではない。日本人全体に起きているから深刻なのである。すべては金であり他者は金になるかならないかしかない、だからその人でも弱者化すると好機になる。金を奪うチャンスになる。つまり今や日本人的良さは消失した
食うか食われるかの弱肉強食の世界である。相手が弱体化すれば襲ってくる好機となる

それがなぜ深刻かといえば庶民レベルで起きているからである。日本人的モラルが消失しているからである、もしそれが一部の上層階級とかに起きているなら矯正することはありえる。でも庶民レベルに共通して起きていることは深刻であり簡単に矯正できない。その国を作るのは上層部ではなく一般庶民である、その人達が正常なモラルを持っていれば国でも維持できるがその庶民のモラルが崩壊した時もはや国家は維持できない、他者は金を得るためにあり金の関係でしかない、そして金の切れ目が縁の切れ目になる。何だ金にならないのかおさらばだとなる

ただ昭和の時代に助け合ったということはそうでもない、でも戦後生まれた人は物がないときわずかのものでも醤油がないから分けてくれとか何か物がないのだけで助け合ったいたと良く言うのである。全部ではないにしろそういうことが確かにあったとなる。それは戦前にもあった。戦争中でも日本人が一つとなり助け合ったとかある。戦争というと負のものとして見ないが日本人が一致協力した面がありそれを懐かしむ人もいたのである

今の社会は物がなければ分けてくれとか言えない、それは怠け者であり働かないからそうなったとして突き放されるだろう
それでおにぎり食べたいと言って死んだ人がいた、確かに戦後まもなくであれ貧しいからおにぎりをくれと言えばくれた人はいた。でも今はそういう人は怠けていて働かないからだとか自己責任になる。

では何故こうなったのか?

それは戦争でアメリカの負けた結果、本来善きものとしてあったものまで否定されたからでもある。あらゆるものがアメリカに習ったからだとなる
だからすべては金でありデールだとなる。

そのことが実は重大なことでありモラルなき日本人社会となった
つまりその国のレベルは地位ある人達を特権階級を見てもわからない、その国を支えるのは一般庶民でありその庶民がモラルも情もなくなる時その国はもう維持できなくなるから深刻なのである、上層部が腐敗するなら入れ替えればいいとなるが庶民が荒廃すれば国を立て直すことは簡単にはできない、だから今の危機は深刻であり日本人自体が国家を維持できなくなり崩壊するとまでなる

要するに自分さえよければ同じ日本人でも金を得る対象でしかないとなる
日本という国は庶民レベルでお互い様とか助け合うことがあったが今はなくなった
むしろ金を得る対象であり金を奪いばいとまでなる。だから今の日本人は何か助けても感謝しない、その感謝は金を払えばいいとなりむしろ金を払った方が感謝すべきだとなる

このことこそが日本だけではない人類の危機となる。国と国も信用できずにまた国のなかでも同じ国民でも金を得る対象としてしかなくそれが奪いばいいとなる
だからあそうなると日本人は外国人でも盗んだりしないとなるが実際は国内で日本人同士でそういう感覚になっているのが実情である

すべてのことが金に還元される、それは地獄の沙汰も金次第とあったがそれが庶民レベルでそうなればもはや他国に攻められる前に自壊するともなる、そういう社会で安心して暮らせるのかとなる
国内で助け合わない国民が他国に対して一致協力して戦えないからである
実際自衛隊だけでは国が守れないからである。国民が一致協力しなければ守れないからである。そのことが危機であり核武装するとかではなく国民が一致協力できず外国に攻められる前に自壊するとなる

トランプ大統領がデールという時取引という時ただ損得で動く
利益になれば金になればで決める、そんな国が世界の指導国になれるのか
だからアメリカさえ良ければ繁栄すればいいとアメリカフアーストになる
そこに何らか正義とは追求しない、金になればかかわりもうけることだけを目的化する。それが世界の指導者としたら世界の国がついてゆくのかとなる
この国は金にならないとなれば切り捨てられる。金だけで計算して非情化する
そういう国に世界の人々がついてゆくだろうか?

いづれにしろ日本人も実はアメリカ化したのだから眼中にあるのは金だけだとなる
それでかつての日本人的良さは消失したとなる
ただ過去は美化されるからすべてはそうではない、でも今の世界は何か金だけの世界であり異常である。そういう社会はどうなるのか、それは自然災害より怖いものとなるかもしれない、弱肉強食の地獄になるしなっている。


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2025年08月27日

中国は遊牧民が入り商業民族でもある 【中華思想はランドパワー故に生まれた―日本はシーパワーの国でなかった?】


中国は遊牧民が入り商業民族でもある
【中華思想はランドパワー故に生まれた―日本はシーパワーの国でなかった?】

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華北平原が漢族でありそこが中国だった

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胡とつくのは遊牧民―異民族である。

胡弓 - こきゅう
胡瓜 - きゅうり
胡桃 - くるみ
胡椒 - こしょう
胡麻 - ごま
胡坐 - あぐら

これは遊牧民地帯−西域からから入って来た。


●乾燥地帯に文明が生まれた

中国となると広大でわかりにくい、今の中国を一つと見ることは誤解することになる
中国の基はどこにあるのか?それが乾燥地帯の黄河文明にあった
何故長江周辺になかったのか、そこは南であり産物も豊かである
湿潤気候だから水も豊富であり稲作が発達した
だから食べ物でも豊富なのである。だから黄河文明が乾燥地帯に生まれたのは何故なのかとなる。

そもそも四大文明はエジプトであれメソポタミアであれインダス文明であれ乾燥地帯に生まれた。ただ共通しているのが大河がある交通の便がいい場所である
そしてそこでは米はとれない、麦が主食になる地帯である。それは乾燥地帯だからである。満州になると一面のトウモロコシ畑がつづく、黄河でもむき出しの土の高原であり人々はヤオトンと洞穴を住居としている
だから貧しく感じる。

でも文明は生まれ都市が生まれたのは乾燥地帯である。乾燥地帯の特徴は森とかがないから見通しがきく地形である。だからこそエジプトのように何も無いからこそ
山も無いからこそ指標となるピラミッドが建設された。何か森があり山がある日本とかの地形とは違う、何もない平原平地だからこそそこに計画的に人工的に構築するピラミッドが自ずと生まれたとなる。
それは一つの目印であり人工物であり人間の技術でクリエイトされたものである
人間が作り出した人工的山だとなる。その山も正三角形の立体ではない
何か未だに解明されない、今の幾何学では解明されない神秘的な構築物なのである

ともかくこうして乾燥地帯であり大河がある所に4大文明は生まれた
それが産物と食料が豊富な所に生まれていないのである
そして長安(西安)は最初の始皇帝の都となった。それは乾燥地帯の西域と砂漠地帯と通じている。中央アジアとか中東の砂漠地帯と通じている
そもそも砂漠とかから何か生み出すものがあるのかとなる

●乾燥地帯の遊牧民を知る

その砂漠地帯が中央アジアからイスラエルまで続いているのである
イスラエルで誤解するのは砂漠地帯の延長にある。だからラクダが泊る隊商宿がある。つまり羊を飼う遊牧民が基になっている
そもそもアブラハムが遊牧民でありカナンの地に神に命令されて移住したのである
だからイスラエルの民は遊牧民であり農耕民ではないのである
だから中東の広大な地域は遊牧民の地帯である

そこは一神教が生まれた地帯なのである。湿潤で米がとれる地帯ではないのである
それで米と麦地帯に分けて世界を見るのも一つの方法である
麦がとれる地帯はビールが作られた。それでエジプト文明でもビールを作っていたのである。あとは満州となると一面のトウモロコシ畑になる、それが主食にもなる
つまり米が主食になる地帯はそれほど広くないしむしろ乾燥地帯で麦を作りそこに文明が生まれたとなる。

世界を地形風土から見ると見通しのきく平原砂漠とかそこに大河ある地帯から生まれた。大河は交通路になり商業が発達させた。また砂漠へ平原地帯は交通路になる
山は人々を閉ざしてしまうのである。砂漠とか平原は何か人間の人工的作用が自ずと生まれる。平坦であり何もないからそこに計画的に土地を利用してピラミッドのような人工物を構築するのに向いていたのである
大河であれ砂漠であれ平原であれ交通路になりやすい、それで商業が発達する
商業民族が形成される、中国はこの遊牧民との抗争の歴史だという時商業民族でもあり商売上手だとなる。

●遊牧民は商業民族になった

聖書で神との契約というときこれは商業民族だからこそ生まれたものである
商業では契約が一番大事だからである。何か農業からは生まれにくいものであった
要するに文明とは砂漠とか大河がある見晴らしのいいい交通の便がいい場所に生まれた。ナイル川が道となりその河岸からピラミッドに通じていたといのもそうである。それは港でもあったとなる
何か農業が文明の起こりであり基本だという先入観がある。乾燥地帯は農業に向いていない、むしろ砂漠でも平原でも交通路としてあり商業に向いていたとなる

中国は遊牧民が入り文化も入り農業民族だが商業民族でもある、商業民族と農業民族は相当に文化の相違がある。遊牧民は土地に縛られず移動するから商業民族になりやすい、何か文明という時農業をベースにして生まれたと見るが意外と商業から生まれたともなる。つまり砂漠であれ平坦な土地だと人間がそこに人工的な物を建築物でもイメージしてクリエイトする。
第一都市自体が平坦な広い土地がないと作れない計画して作れない
そして都市とは商業が主な仕事になる。多様な人々が集まりそこで人工的なものが構築する。創意工夫が都市から生まれる

●中国は遊牧民(異民族)の抗争の歴史

いづれにしろ中国を理解することは至難である、余りにも広すぎるからである
まずその基本となる地理が理解できない、それはロシアとかアメリカでもそうである。だから地理がわからないと世界はそもそも理解できないとなる
中国という時中華というようにどうしても世界の中心という意識が生まれる
世界的視野をもち外交でもする。それは広大な大陸志向でありそれを日本の島国では持てない志向である。中国は常にそういう志向をもっている。
世界の中心に中華があるとなる。そして日本は小日本だと見る

要するに日本は中国の派生したものでありその一部と見る
また中国の歴史は異民族との抗争と統合の歴史である
それは日本では蝦夷は異民族でありそれで大和王権と長く対立した歴史と似ている
何故なら征夷大将軍とは蝦夷を治める称号だったからである
歴代の将軍はそれを継承した。中国でも遊牧民と戦い治める者がその地位にあり似ているのである

遣唐使「3つの種族からなります。ここには熟蝦夷(にぎえみし)がまいりました。毎年、朝廷に貢物をもってまいります」

 皇帝「その国に五穀が実るのか」
 遣唐使「ございません。獣の肉を食べて生活しております」
 皇帝「これらの者が住む家があるのか」
 遣唐使「ございません。山深いところで、樹木の下で住まいしております

人間は基本的に何を食べていたかが最大の関心事になる、五穀が実るのかと聞いたことがわかる。これは極端であり実際は縄文人でも木の実などを採集して食べていた。

●中華思想はランドパワーの思想

大陸は空間軸と時間軸のスケールが違う、中華思想がその中に変わらずある。
でも中国は一つではない、分裂するものが内在している。その文化も民族も多様だからである。だから日本では中華思想のようなものは生まれにくい
大日本帝国の戦争でもまず統合する思想もない、生まれようがなかった
中国は絶えず三国志のように分裂しては統合してきた歴史がある

ただ中華思想とはランドパワーの思想でありそれが大航海時代から世界がシーパワーの時代になり遅れたのである。今でも中国はランドパワーの国である
ロシアもそうである。でも七つの海を支配したイギリスやアメリカはシーパワーの国である、日本が満州とか中国に進出したのはランドパワーを得るためだたもなる
何故なら満州は寒冷地帯であり稲作に適していない、でもあえて稲作をしたのである。それは農業国の発想である。農業は土地を得ることが第一になるからである
そこに商業的発想はなかった、また海に囲まれていてもシーパワーの発想がなかった。そこを見誤ったのかとなる。

文明を商業と交通から考える(文明論2) (商業と交通の発達が国家を作った)

満州の歴史をふりかえる
--蝦夷(エミシ)・ 粛慎(ミセハシ)靺鞨(まっかつ)の謎--

遊牧民の系譜ーベドウィンのテント






2025年08月26日

ロシアと中国は領土で対立もしている 【ロシア、中国、アメリカ、日本の関係を見る】


ロシアと中国は領土で対立もしている
【ロシア、中国、アメリカ、日本の関係を見る

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中露の友情は偽物だった!ロシア人が怒り、中国人労働者と殴り合いに!

中国とロシアがもめている、対立している。ウラジオスットクはもともと中国領土であり今でも中国人が相当数住んでいる
中国人労働者がロシアの開発で安く使われているとか不満がありロシア人と暴力沙汰にもなっていることが報告された。
ロシアという国は何かモスクワからウラジオスットクまであるとか日本の北方領土を領有しているのは不自然なのである。
それは中国でも感じている、それで満州里にロシア人の女性が電気製品を買いに来てひどく怒っていた。何か不満なことがあったのだろう
外国を知るという時大きなことではなくそうした子細なことからでもわかることがある。

アメリカに行って博物館に入るのに何か差別された。日本人ということで差別された。するとそういう公共の場所でも差別があることを知る、つまりアメリカは人種差別の国だということを実感する。何か国際情勢とか知るにはそうした実体験があり肌で知るとなる。本ばかり読んでいてはわからないのである
つまりそれが何か取るに足らないことでもやはり外国だと肌で感じるとなる

確かに外交的には政府では友好を演出するが中国人とロシア人は対立する
ロシアの領土はウラジオストックはもとも中国領であり北方領土は日本領である
それで中国が国力を回復して強くなるともともと領土であったウラジオストックでも返還してもらいたいとなる。
そもそもモスクワから遠すぎる。シベリアの人達はロシア人ではない、別な民族なのである。変だけどウラジオストックは中国に返して日本は北方領土を変化してもらうことで共同できるともなる。

ともかくロシアと中国と日本は太平洋戦争で複雑にからみあったのである
その時中国は弱体化して日本が進出したとなる。また日本が弱体化して敗戦となるとロシアが襲ってきたのである、ロシアはライオンであれ殺したものを奪うハイエナかとなる。世界史は弱肉強食の世界である
どうしてもロシアと中国と日本は国境接するから領土で争うようになる

こうした世界の外交で漁夫の利を得るのは今はウクライナ戦争で中国だとなる
ロシアは相当にウクライナ戦争で疲弊している、そこに一枚アメリカが加わる
何かまるでyoutubeで動物の食い合う熾烈な戦いを見る感じになる
獲物を得るために様々な動物の死闘がある。その獲物を狙う鷲とかもいる。
国際関係もそれと似ているのだろうか、弱肉強食の世界である
それぞれの思惑があり油断できないし信用できない、そういう駆け引きが行われる

いずれにしろロシアでも中国でも広すぎる、そのために理解できなくなる
領土の確定はどうして決められるのかとなる。日本は海が障壁になるので熾烈な領土争いには巻き込まれなかった。でも第二次世界大戦では満州に進出して東南アジアに進出して300万人が死んだのである
ロシア中国日本はじかに接しているから領土争いが深刻になる、領土得るために血を流すとなる。

ウラジオストックについては中国の主張に正当性がある。それは北方領土が日本領だと同じなのである。だからこの点で中国とは協力できるとなる
ともかくロシア中国日本とアメリカ、ヨーロッパと三つ巴四つ巴の争いになる
必ずしもロシアと中国は組むともならない、領土であれ民族的にも友好ともならない。中国が今はロシアを利用している。アメリカとは直接戦わないが援助する
そして虎視眈々と台湾を狙っている。それらの国々の思惑が入り乱れている。
だから動物の弱肉強食になる

ロシアの‘裏庭’中央アジアに中国は進出を加速している。
これは「ウクライナに忙殺されるロシアに代わって中央アジアの結束を固めるため」というより、ロシアの縄張りに本格的に切り込むためとみられる。
この地域は中国にとって死活的な重要性を増しており、米ロが身動きしにくい間隙をついてアクションを起こすのは中国の常套手段でもある

中国はロシアに協力するふりをしつつ裏切るか――中央アジア争奪をめぐる暗闘

ロシアと中国にはこうして争いの火種がある。中東地域をめぐり綱引きがある
こうして三者三様の思惑があり複雑に交錯する。権謀術数がある。その本音は何なのか、外交も戦争にもなる。でも互いに譲らないとなると戦争は終わらない
その裁定をするのは何なのかとなる、日本でもそういう大国同士の駆け引きがありどう対処するのかそれが問われる。
ただロシアと中国の領土争いがあるとき北方領土を返還させるチャンスにはなる
それより狡猾なればヨーロッパとアメリカが共同してロシアを敗北させて領土を奪うとなる。中国もロシアの弱体化で中央アジアに進出する

それからウラジオストックは返還させる。つまりロシアは食い物にされる
それはウクライナに侵略したためだとなる。それをアメリカが狙った節もある
トランプ大統領自体がデール外交だとしているからである
でも結果的どこの国の思惑も外れるかもしれない。どこの国が得するのか意外な結果にもなる。どの国も思惑通りにはならないで終わるかもしれない、いずれにしろ国際情勢も常に変化するから先が読めないのである

結局ロシアでもウクライナでも相当数の人が死んで犠牲になった。その代償を得たいとなり譲歩しにくい、それを国民も許さないとなる。それで譲れない妥協できないとなる。アメリカでも中国でも死ぬ人はいないしかえって得するとかなる
当事者ともならない。だからどうして決着するのだろうと見る
アメリカと中国でも傍観的で得をすればいいとかなる。トランプ大統領は外交はデールであり得になればいいとしているからである。犠牲になるのはウクライナとロシアだとなる。

つまり国民と関係なく指導者の思惑で動くとまなる。国民はウクライナでもロシアでも戦争をやめたい
でも指導者はやめない、メンツがたたないとか自らの指導者の自尊心がありそれでできない
戦争は必ずしも国民同士の戦争ではなく指導者同士の戦争だともいうのもわかる
双方の国民は戦争をやめてもらいたくても指導者がやめたくないとなる、そこに問題の根がある
日本の戦争も指導者の間違いから300万人が犠牲になったともなる

だから指導者の責任は重いとなる。でもその責任がいろいろ言われてわからなくなる
それは国民の責任だったともなる。そうなると誰も責任を取らない、結果的に誰かが責任を取らされる
それが日本なら300万人死んだとか死んだ人が責任を取らされる
それは原発事故でもそうであり東電でも政府でも指導者は責任をとらない、でも地元では故郷に住めなくなるとか責任をとらされた。でも指導者は責任をとらない、でも確かなことは必ず誰かが責任を取らされるのである
つまり人間は責任から逃れられないようにできているのである



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2025年08月25日

ひたすらー直土(ひたつち)の意味−日高見の国のこと 【気候変動の暑さは自然から遊離した文明から起きているから危険】


ひたすらー直土(ひたつち)の意味−日高見の国のこと
【気候変動の暑さは自然から遊離した文明から起きているから危険】



伏せ廬いほの曲げ廬の内に直土に藁わら解き敷きて」〈万・八九二〉

うちひさつ 三宅(みやけ)の原ゆ 直土(ひたつち)に 足踏み貫(ぬ)き 夏草(なつくさ)を 腰になづみ いかなるや 人の子ゆゑぞ 通(かよ)はすも我子(あご)

広く東北地方を「日高見国」とよびそこへ通う路、つまり日高見路が「ひたち」となり、常陸の字が当てられたとする説が有力視されている。「常陸国風土記」はさらに「それ常陸の国は、堺は是広大く、地も亦緬はろかにして、土壌も沃墳え、原野も肥衍えて、墾発く処なり。海山の利ありて、人々自得に、家々足饒へり」などと、国土について賛美する。

飛騨は稗田、飛田、日田、日高、比田、慕田、肥田、斐太、疋田、日多、飛駄、脛田、飛弾などと書かれて奈良や、伊勢に降りた人々が地名にその名を残しています。

斐太(ヒダ): 岐阜県高山市
・ 飛騨(ヒダ): 富山県黒部市飛騨
・ 飛騨国(ヒダノクニ): 
・ 美守(ヒダモリ): 新潟県妙高市美守
・ 日高(ヒダカ): 埼玉県日高市
・ 火高(ヒダカ): 確認できず。
・ 檜高山(ヒダカヤマ): 福島県の尾瀬


日高見の国は東北にあったというけど日高見はヒターカミであり高が出ているけど
高いと関係ない、ヒタなのである。
ヒタとは何なのか?ひたすらとかあり浸(ひた)るとかの動詞になる
そして日立ーヒタチとはヒタツチに直土に通じる

広く東北地方を「日高見国」とよびそこへ通う路、つまり日高見路が「ひたち」となり、常陸の字が当てられたとする説が有力視されている

そもそも直土(ひたつち)という表現は土と一体化して生きていた人たちの理屈抜きの表現である。ヒタスラとかはヒタツチのように土と一体化して生きることから生まれた。

なぜヒタが浸るでありひたすらになるのか?それは水と関係していた
田植えでも水に浸るであるから弥生時代の稲作に関係して生まれたのか
右左ー右は水際(みぎわ)であり左(ひだり)も浸ると水と関係していた
だからヒダというとき浸ると関係している

ともかく日本語自体が謎である。でも言葉はその土地と一体化して生まれる
ひたつちというのはまさに土と一体化して生まれた言葉である
土と一体化してひたすらに生きる姿がある

伏せ廬いほの曲げ廬の内に直土(ひたつち)に藁わら解き敷きて」〈万・八九二〉

というとき農家に土間がありそこは土でありその土間は夏は涼しく冬はあたたかくする。土の効果でそうなる。天然のエアコンだったのである
打ち水でも土にまけば冷房効果がある。アサファルトは熱くなる
それが都会を田舎でも暑くしている。文明化して生きることはどうしても自然から遊離する。それで都会がヒートアイランドになる。異常に熱がこもり暑くなる
ここは海に面しているから自然の冷房効果がある、だから35度にはならなかった

気候変動が自然の作用によって起きるならそれは避けようがないし自然だとなる
そういうことは長い時間で見れば起きていた
問題は人工的人為的文明の作用で起きるとしたら危険なのである
それは自然の作用が人為的に人工的に歪められるからである。

それで直土(ひたつち)にという古語が何か心惹かれた
つまり余りにも機械化人工化文明化したときそこに大きな歪が生まれる
東京であれ大都会は暑さが倍加する。それは自然から遊離した結果である
それをエアコンを使うとしてもそれがまた熱を作り出す、ソーラーパネルでもやはり自然なものではない、二酸化炭素を出すとか熱を作り出すのである。
気候変動ももし自然の作用であれば問題ない、それが人工的人為的に作り出されるとき問題になる、どうみても東京ともなれば熱が出て熱が籠る

東京湾があっても巨大都市となり冷房効果がない、だから逆に人工的に何らかと都市を涼しくする方法を考える。そうでなければもう都市には住めないとまでなる
人工水路とか何か都市全体を冷やす方法を考える
ただそうなるとその費用も莫大になるから簡単にはできない
でもこれだけ暑さが続くと住むこともできない、熱中症になり死ぬともなる危機になる

私は今年はクーラーの調子が悪く使わなかった、それでも卓上扇風機はいいものだった。電気もくわないし安上がりで体にも良いものだった
だから別に私は原始時代に戻れとかというのではない、それは不可能である
ただ確かに大都会がヒートアイランドとなり異常に暑くなることは危険になっている、それをクーラーで防ぐのも問題になる
また日本が貧困化して電気代も払えない人も増えている、そんなに電気を無制限に使うことも問題なのである。そうなると原発を再稼働だけではない増やせとなる
それが参政党も参政することは危険だと見た
意外と福島原発事故は14年過ぎて忘れられている。ともかく日本人は忘れやすいのである。原発事故も大したことなかったとなる。そこでまた大きな事故が起きる








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2025年08月24日

老人が嫌悪される時代 【偏屈な老人が多く長生きすることが恥になる】


老人が嫌悪される時代
【偏屈な老人が多く長生きすることが恥になる】

なぜ高齢化社会が問題になるのか、それはこんなに人間が長生きすることを経験していないからである、すると老人の問題はこれまでもあったにしろ60くらいで死んでいれば目立たないのである、その人を何やかにや言う前に死んでいるからである

命長ければ恥多し。長くとも四十に足らぬ程にて死なんこそめやすかるべけれ。

徒然草を書いた吉田兼行が生きた鎌倉時代では40となると老人だったのかとなる
だから今の時代とは比べようがない、そんな時代でも命長ければ恥多しであったのである。とにかく高齢化社会は老人がどうしても問題になる
でも老人でまともな人がいるのかともなる。何か変な老人が偏屈になった老人が多くないか、ただそう見えるのは老人が多すぎるから目立つとなる
それにしても40才くらいで死ぬのがいいと見た時長生きすることをいいものとみていなかったのである

何か老人は歪んだ偏屈になった人が多くないか、それは数が老いからそれに比例してそういう老人が目立つからだともなる
40才で死ぬような時代はそもそも今のように70以上が普通に生きる時代とは相当にに違っている。だから老人がそれほど問題にならなかった

人間はもとと長く生きれば経験も積むから賢くなるとみる。確かに老人は悟ったようになる。でも現実は変な老人が歪んだ老人が多いという時目に付くというとき
その数が多いからそうなる。数に比例してやはり変な老人が増える
例えば団塊の世代は子供の数が多くてもそれが社会でマイナスとは見ていなかった
子供は数が多くても老人とは違い誰でも未来があるものと見られていたのである

でも老人が多いことは社会にとって歓迎されない、人間は経験を積めばそれなりに
何か賢くなる。でも現実にはそうなっていない、何か歪んでダンテの地獄編の人間を見る感じになる。体も歪むが心も歪むのである
そういう老人が大量にいるときこの世が地獄だともなる。それも死ぬこともできずに亡霊のようにさまよっているのを見るときまさにそうである
ニーチェが言ったように生にしがみつき死ぬことできずに恥さらして生きている
そういう老人社会は地獄社会にもなる

でもそもそも人間は何か特別優れた人自体がまれだった。だからその人達が老人になっても年を取っただけで馬齢を重ねるだけだとなる。要するに長生きしても賢くならない、人間的に成長しない、むしろ歪んでいる。でも昔なら早く死んでいるから目だたなかったのである。それでも長生きすれば恥多しとなっていたのである
ただ老人はその恥を自覚していない、それでこの世に未練たらしく生にしがみつき生きているとなる、老人は生産性がないのである。

何かだらだらと無目的に生にしがみつき生きて恥さらしているがそれも自分では恥ともみない、迷惑だとも見ない、だから何か傲慢であり嫌われていてもそれを感じないのである、また老人はそうなると権力を持つことが頼りになる
地位であり金でありそれに頼る。それもまた若い人には嫌われることにもなる
でも権力には逆らえないから従う、でも高級老人ホームでそういう傲慢な老人がいても実際は嫌われて表面上は従うが冷たくもされる
でもまた権力(金)も地位もない人間はなおさら無視されるのがこの世の現実である
だからこそ老人が権力でも地位でも手放したくないとなる

いずれにしろ確かなことは人間は長生きに足る人が本当は非常に少ないのではないか、だから変な老人が目立つのである。つまり膨大な老人が恥さらして生きている
今老人を敬まわないというときそんな尊敬する老人がいるのかともなる
人間は長生きに足る人はまれでありそこまで進化していないともなる
そもそも人格を形成するとかまた芸術作品を作るとか目的にしている人はまれである。ただ明確なのは金を稼ぐことが目的化している、その金に寄る人はいてもその人自身を敬うとか子供にすらないのである。金を持ているから親を利用するとなる、そういう下心があり親もそれで子供を嫌悪するとなる


人間は生にしがみつく
とにかく長く生きようとする
長く生きることが目的にもなる
でも長く生きても尊敬もされない
厄介者として生かされる
そして恥多しとなる
でも人間は簡単に死ねなくなった
それが幸福なのか不幸なのか
人間の尊厳とは何か
ただひたすら生を伸ばすこと
それがいいことなのか
人間は嵐の中を生き抜く
その中でこそ生の意味が現れる
だらだら長く生きても
そこにかえって生は無意味と化してゆく
生きていること自体が嫌悪される
早く死んでくれとなる
それが生の逆説である








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2025年08月23日

参政党は原発は賛成−最右翼と通じる 【既製の政党への不信があり政治でも改革を望む無党派層が支持】


参政党は原発は賛成−最右翼と通じる
【既製の政党への不信があり政治でも改革を望む無党派層が支持

参政党は国民に対して嘘やデマを駆使し、大衆の怨みや不満を煽って力を付けていく大衆迎合型の政党です。

ー文化的な不安、科学不信、そしてグローバリズムへの拒絶だ。

大樹総研という、自民党の浪人議員の面倒を見ているマル暴企業がありまして、そこが仕事にあぶれた自民党の浪人議員を寄せ集め、表向きは反・自民党を装わせ、裏では自民党のすすめる憲法改悪や原発推進に誘導するためにつくった党が参政党です。

自民党のすすめる憲法改悪や原発推進に誘導するためにつくった党

右でも極右でも原発推進なのである。自民党でも最も右寄りなのが参政党になる
それが原発で被害にあった地域に住んでいると理解できない
つまり自民党の最右翼が参政党であり自民党の浪人議員を集めているというのでもわかる。元自民党の議員だった人が入って来ている
だから令和新選組とかも違う、自民党の最右翼が参政党なのかとなる

何か自民党はリベラルになり平均化し中道化して特色をなくした
それで最右翼の人達の不満票が参政党に入れたとなる
そして自民党は公明党と一体化して票でも下支えされて維持された
でも創価も弱体化して公明も弱体化する、公明は創価の会員が減れば票も減るからである。それで自民党は危機になる。そこを参政党につけ入れられたとなる

立憲も伸びないのは電事連とか労働組合を票田として頼っていたからだとなる
それは規制の古い労働組合である。でも無党派となると利権にもならないから
参政党に入れたとなる。
つまり既製の政党は伸びないのはこれまで利権を得ていた人達ではない、無党派であり利権団体に入っていない人達だとなる

それをインターネットを通じて票として集めた、積極的支持というより不満票を集めたとなる。原発推進なのは自民党最右翼と労働組合の電事連とかが票田になる。
不思議なのは自民党と立憲が共同しやすいというと立憲も電事連を票田にする
また自民党も原発推進で政策的に組みやすいから連合政府ができると言われる
財政でも消費税に反対しないし税を増やす財務省と合同しやすいとなる
そこに大きな利権がありその利権が一致するからである

なぜ参政党現象が起きたのか?

文化的な不安、科学不信、そしてグローバリズムへの拒絶だ

文化的な不安というとき外国人労働者に対して不満があり科学不振という時、コロナウィルスなどのワクチンの疑問があった。コロナは何なのか解明されていない
でもそのために使われた金は莫大だった。そこに陰謀論が生まれた
私自身もワクチンは打たなかった、そのワクチンでかえって何らかに体の影響があり後遺症に苦しむ人たちがいる、でもその因果関係は明確にされていない

またグローバリズムへの拒絶というとき世界的に起きている、移民により自国の文化破壊される危機を感じる人が増えたからである。アメリカファーストになる。日本でも同じ傾向があり世界的にも起きている
アメリカが世界に関税を高くして自国の経済を守ろうとするのもそうである
グローバル経済でアメリカが一番得したと見ていたがそうではなかった
要するにグローバル経済が世界的歪みとなりそうなった。
グローバル経済を進めると日本は車だけを作りその代わり食料は米でもアメリカから買いとなる。そんな世界的分業は成り立たない、食料が自国でまかなえないとしたら何かあれば自国に食べる物がないとなる。グローバル経済を進めて行くと極端化するとそうなる。だからアメリカすら拒否するようになった。

いずれにしろ参政党はまだ理解にくい、でも原発は賛成でありそれは右翼でもそうだし立憲の票田の電事連でも賛成であり意外と福島原発事故でも本当に原発反対が少ない、それは何故なのか、それは電気文明となっていてその中に原発が組み込まれている。だから自民党と立憲の政策は共通していて合同できるともなる
自民党はただ政権を維持したい権力を維持したいという政党である
だから権力を維持するなら妥協する、一時は社会党とも組んだからである
原発は自民でも賛成だし立憲も参政だし右は賛成である。そうなるともう原発は止められないとなる。福島原発事故でも14年過ぎて忘れられてゆくとなる
そこに危険がある、それは別に自民党のせいでもない、立憲のせいでもない
電力事業に携わる人たちがその背後にいてその人達の生活利権が関わっている辞めさせることはできないのである、電気文明をそもそもやめることができないからである

それにしてもワクチンは反対だが原発は賛成となるのも理解しにくい
科学不信なら原発の御用学者も批判の対象となるがそうなっていないのは何故だろうとなる。その辺は新しい党なのでわかりにくいのである
ただ規制の政党は背後の利権団体と強固に結びついている
だから参政党に無党派層は入れたとなる。ただこの無党派層は流動的であり安定しない気まぐれでもある。だから参政党も一過性で終わるかもしれない。ただ失われた日本経済の30年とか既製の政党が対処できずに変革を望む人たちが参政党を支持したとなる。やはり政治でも時代の変革を望むからそうなった。








posted by 天華 at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年08月22日

学歴を死んでみる人はいない 【文系の学歴は価値がないー価値はそれぞれ生涯で作るもの】


学歴を死んでみる人はいない
【文系の学歴は価値がないー価値はそれぞれ生涯で作るもの】

学歴を話題にするけどそもそも学歴がその人の価値になるのか?
確かに大企業とかで選別するとき学歴を見て振り分ける
だからそこで大学で選別するからそれで価値あると見る
でも大学入試でも一回限りでありそんなことでその人の価値が決まるわけではない
受験テクニックにたけた人が受かることもある

そもそも学歴を言うけど人間が死んだときこの人は東大出た人とかで価値が決められない、何々大学出た人ですよとかで価値を見ないのである
その人の価値が何なのか多様なのである。その人の価値は一生かけて作られたものである。例えば大工でも庭師にもなり壁塗りもできてとかいろいろなことをできる人は価値あるとなる。それは仕事できるということで価値がある

いくら一流大学でも会社に入り仕事できなければ価値がなくなる。つまり社会での価値がなくなる、学歴だけでは価値は作れないのである
ただ理系とかは試験で判断されることがある程度できるから評価される
それで戦争中学徒出陣があり戦争に行かされたのは文系であり理系は行かされなかったのである。その頃からすでに理系の価値は大きかったのである
理系と文系の価値はそれだけ違っていた、文系は戦場であえなく死んだともなる
実際大学の価値を見るとき理系と文系は格段の相違がある
だから大学と言ってもその人が理系なのか文系なのかで判断することは正しいとなる。その差が非常に大きいからである

そもそも人間の価値は何なのかとなる。それはとても学歴など見れない、余りにも多様である。芸術家だとその人の作品で見るからわかりやすいのである
その人の学歴は関係ない、別に美術大学を出ていなくてもその作品で判断される
その価値を作り出しているのは絵を描き創造できることである
学歴など何の意味もない別に中卒でも同じである
ただ大学出て教養を身に着けるということはある。それも文系の場合自力でできる
今ならインターネットでいくらでも独学自習ができる、だから文系の大学は実際相当価値がなくなっている

何か学歴コンプレックスに陥っている人が多い、大工さんであれ優秀だからそれは実用となり金を稼げるのだから文系大学出より価値があると見る
でもその人は何か大学が何かわからないから劣等感をもつ、何か大学が特別なものと見ているのである。文系大学は職人より価値がないと見る
私自身何も勉強していないからである、私が勉強始めたのは大学出てからだったからである。プログに書いていることでもそれは大学出て旅をして地名に興味を持ったことから始まりそれを発表しているとなる
大学で何か興味をもって勉強していないのである

ともかく理系は別にして学歴コンプレックスをもつのはおかしい
それは大学という場が何なのかわからないためにイメージできないためにそうなる
本当にこれだけ大学が多くなり文系となると基本的なもの数学でも英語でもできていないとなる。ただ大学という名前だけで中身はカラッポなのである。
だから文系に関して劣等感を持つのはおかしいとなる。
ただ大工さんでもルートとの計算で苦労したという時大工でも斜線を計算するのに必要だったとなる。その人は学校では勉強はできなくて劣等感をもっていた
でもその他は別として大工としては優秀だっとなり価値があり誇れる人だったのである

年代があがると大学が特別なものと見る傾向がある。でも5割が大学に行く時代はもう特別ではないのである、それはすでに戦後の団塊の世代からそうなっていたのである。それは余りにも数が多くて大衆化してエリートでも何でもなくなっていた
だから文系なら手に職をつけて稼げる方がましだとなる
文系は教養だから独学できるからである

ともかく大学名学歴こだわるのはおかしい、その人の価値はそれで決まらないからである。死んだとき大学名を記すことはない、その人の人生の価値は大学を出てから培ったものになる。
何かその人は中卒でも学が無くても社会のことがわかっている
コミニケション能力が高いのである。するとそれで学歴など関係なく価値があり
もし営業とかすれば成績をあげて裕福になっていたかもしれない、コミニケション能力は生来のものがありただその能力が活かされなかったというだけなのである

この世の中こうしてその人なりの能力が活かされないことが多すぎるのである
そこで膨大な人が能力を発揮せず埋もれて死んでいるのである
その能力を見抜いてその人に合った職に就かせればそうはならなかったとなる
人間にはこういうことが余りにもありすぎるのである
人間のの能力は多様でありそれが活かされないのである

ともかく学歴ではその人の価値は決まらない、この人は・・・大学出ましたとか
死んでそれで価値あるとはならない、その一生で培ったものが価値を作り出す
その価値も多様なのである。確かなことは学歴がその人の価値になることはない
文系なら受験テクニックが優れていて一流大学に入ったとかあり決められない
やはり社会に出れば本当にその人の実力がないと評価されない
だから有名大学出ても没落する人はいくらでもいるとなる

確かなことはその人の価値は一生で培い作るものであり学歴では作れない
だから採用する場合職歴の方が大事になる、どういう経験をしたかが大事になる
学歴ではないのである。学校は知識だけであるが社会に出るとその知識を試験の点数をとるためではなく現実の場で試されるからである
むしろ農家であれば米でも野菜でも果物でもいいものを作る人が評価される
それが学歴とは関係ない、そこで培ったものが価値を決める、むしろ親から実地に学ぶことのほうがいいとなる

大学は増えすぎた、でもそこで学ばないしむしろ実業を学ぶ、仕事に直結することを学ぶ、それで理系は価値がある。文系は実業と結びつかないのである
教養ならば今はインターネットあり独学自習できる時代である
だからマンモス大学で学ぶより効果的だとなる。つまり学校そのものを見直す時代になったとなる。

いずれにしろ人間の価値は学歴では決められない、一生かかってそれぞれが培い作り上げるのである。誰も死んだら学歴など見ないからである
ただその価値が多様だから価値を見ることはむずかしいのである
そしてその価値が見いだされず埋もれる人が膨大なのである











posted by 天華 at 14:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2025年08月21日

真夏の賛歌(詩)ー自然と調和する様々な鳥 【山鳩、カワセミ、白鷺、鴎、燕など】


真夏の賛歌(詩)ー自然と調和する様々な鳥
【山鳩、カワセミ、白鷺、鴎、燕など】

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真夏の賛歌(詩)

清流に沿い山の奥から
カワセミの飛び来る
その美しき羽根
たまゆら見えて消えぬ
楚々として白鷺は
川の中を田の中を歩む
その細い脚は優雅に
辺りを乱さずに餌を漁る
鮎は跳ね光りそを捕らむ
今実りそむ平野に
大らかに芙蓉は咲き
山鳩の幾羽か来たりぬ
その河口に鴎飛び来て
白波寄せて沖に船見ゆ
その長い海岸線よ
遠くからの便りをもたらせ!
広々とした海に燕は飛び交い
それぞれに自然に調和する
なお夏の雲は湧き昇り
夕陽は赤々と山に沈みゆく
波は天にも轟き鳴りひびき
深い森の中に一心に蝉は鳴き響き合う
夏にこそ自然の命燃え輝きぬ
太平洋の沖に船は行き漁船は港に帰る
その甲板に魚踊り得て喜び帰る
海の幸山の幸ありその恵みに感謝
人の営みも自然と調和する時
神はそれを良しとして恵みを与える
しかし津波の災いは何故なるや
その傷痕はなお消えざりしも
ただ14年過ぎて成長したる松の影
涼しき風吹き我はここに安らふ
災いの無きしを祈りつつ・・・


詩でもそうだが何の芸術でも基本は写生である。正岡子規の写生俳句もそうである
つまり自然をそのまま写すことが美である。自然は見事に過不足なく調和している
人間のみがなぜか自然と調和しないのである

人間が出てくるとそれが醜悪なものになる。田舎の自然は美しいにしても人間は醜悪なのである、かえって田舎の方が醜悪さが目立つのである。
都会だと人間が醜悪でも数が多いから紛れてしまう、田舎ではその醜悪さが露骨に現れるのである。
だからその暮らしを隠せというとき人間は田であれ畑であれそこにあるとき自然と調和する。でもその人でも向き合えば醜いものが現れる
何かかにか不満があり醜いものが現れるのである。

飯館村などでは前に畑があり庭が広くそこに花々が映えていた
それを天から神が見ていたともなる、でもそこに人間が現れると何か汚点のようになる。それはどこでも同じである、だから人間は隠れていた方がいいとなる

何か私は別に才能があるともならない、ただ子供の頃から近くの神社とかで祭りがあり何か踊りがあったときおんぶされてじっと見ていたという
何かじっと見ている観察するのに向いていたとなる
三つ子の魂百までとなる、この詩でもただありのままを見て詩にしていうるのである。そこに鳥とかいても人間はいない世界なのである
そもそも鳥の不思議はその糧を日々得ている、貯えることもしないで日々か糧を得ている。それが何でもないようで不思議なのである
例えば鳥の場合別のこの土地に餌がなかれば別な土地に行けばいいだけだとなる

 空の鳥をよく見なさい。 種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。 だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。 あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。 野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。 働きもせず、紡ぎもしない。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。

この聖書の言葉が鳥を見ているとある。何を食べているのかも不思議にもなる
でも日々糧を得て生きているのである、そして自然と調和するから美しいのである
人間は膨大な労働をしている、でもそれで何が作られたのかとなると東京のような一千万の住む世界でありそこに美はないのである。
田舎には何もないというけど何も見ていいないからだとなる

この見ることに特別な才能は必要ない、ありのままを見ればいいとなる
ただ絵にするとかなると才能がないとできない、でも自然には美がある、美しく装われている、カワセミは宝石のように美しい、山鳩はなんとも愛らしいとか白鷺は楚々として辺りを乱さずその細い脚で音もなく歩む、その衣は純白に野に光る
それは自然と調和するから美しいのである。

いずれにしろ田舎に何もないと言うがそれは良く見ていないからなのである
だから毎日大都会で高層ビルとか車の洪水とか見ているときその心はどうなるのか、何かおかしくなってしまう。おそらく美に対する感覚が消失するともなる
ただ田舎の人間は都会であれ同じである。それが都会より目立つから醜悪さあ露骨に現れる。つまりどこであれ人間は自然を汚して自然の汚点になっているのである
第一田舎に素朴な人達がいるとか全くない、むしろ都会人より醜悪な非常識な人達が普通にいてのさばっている。だだの暮らしを隠せというとき人間が自然の中で隠されるとき自然の美のみが映えるとなる





2025年08月20日

現代文明社会が互いに意思疎通できなくなった 【互いの職業が理解できなくなったー今でも田舎には江戸時代の村人間がいる】


現代文明社会が互いに意思疎通できなくなった
【互いの職業が理解できなくなったー今でも田舎には江戸時代の村人間がいる】

●刑務所の看守をして30年務めた人

現代は何故他者が理解するのがむずかしいのか、それはまずその人の職業を理解することがむずかしいからである。職業は実際に経験してみないとわからない
推理ドラマを見て看守の仕事を30年していたとか放送していた
看守の仕事は犯罪者を刑務所で見守る仕事である
それを長く閉じ込められた犯罪者を見ているから何か感で理解する
人間はやはり長く密接に接していればその人を理解する
それでその人が冤罪だということを知る、そしてその人は刑事ともなり一人で捜査する。そういう仕事をもともとしたいということがあり定年になるということで真犯人を一人で探す刑事になった

そもそも刑務所で毎日閉じ込められた密室で犯罪者を毎日見ている
それはその人自体も刑務所に閉じ込められているともなる
そういう仕事を30年間もしていたらどうなるのかとなる
何か仕事というのはそうして狭い閉ざされた所でしている人が多いだろう
するとその他の仕事のことがわからなくなる。
つまり人間が互いに理解できなくなったのはそもそも毎日している仕事が職業のことがわからないからである、そこから問題が起きてくる

●鉄を作る人と農民の関係(田を汚染する公害があった)

それは鉄を作る人達が米でも作る人を理解できなかった。それで神秘化する
あの人たちは何をしているのだろうとなる。農民は鉄を作る人達を理解できなかったからである。

合流した付近は川砂鉄が最も溜まりやすい所で、何千年の間に相当な量の砂鉄が溜まったものと考えられます。
 その地がサナと命名されたのは長期間採取されたためと思います。

 時々カナクソが採取されていますのでカナクソの捨て場であったようです。
 金黒の金は鉄の意ですが、黒は畔(くろ)の当て字で盛り上がった所と考えられます。

岡山県内の製鉄(たたら)地名

ともかく田に関する地名は膨大である。こじつけがあるにしても多すぎる
田が鉄作りで汚染されて黒田となった。寒田とかはサビタのことであり
田が鉄作りでその屑が流れてきて赤茶けたり黒くなった
つまり汚染された公害だったのである

こうして鉄作りする人と田を作る人達はすでの公害をもたらすものとして対立した
ただ農業と鉄は不可分である、なぜなら農具が鉄から作るからである
それで稲荷神社が稲の神と見るが稲荷(いなり)とは鋳成りであり鉄を鋳る―鉄を作り鎌や鍬でも作ることから祭られたともなる

人間が農民が鉄作りのことが理解できなかったように現代でも継続されている
原発事故でも電気を作るにしても東電のことを理解できなかった
またそこは立ち入り禁止にもなりそれをその土地に住む人でも秘密のベールにつつまれていてブラックボックスになっていたのである
そしてやはり事故で田畑であれ森林であれあらゆる場所は放射性物質で汚染されたのである。その原因が原発のことをそもそも地元の人達もわからない、立ち入ることもできな、アンタッチャブルの領域になっていたからである

●様々な専門家も理解できない

つまり職業が違うとその人のことも理解できなくなる。その職業の種類が現代では膨大に増えた、するとますます職業が違うとわからなくなる
その人を知るには日々従事している職業を知らなければ知りえようがないのである。だから現代では職業が無数に分化してますます他者を理解できなくなったのである。『秋深し隣は何をする人ぞー芭蕉』江戸時代でも都会化しているからそうなった。でも江戸時代ならその職業が今と違ってわかりやすいとなる

いぜれにしろ様々な問題が起きる、外国のことも常に報道される
でもその人を理解する職業のことがわかりにくいから意思疎通ができなくなっている。あの人は何をしているのだろうとなる。職業のことがわからないとなるとその人が何に悩み苦しんでいるかなどもわからないのである
専門家がいてその人達のこともわからない、ウイルスでも研究している人でも理解できない、核を研究している人でも理解できないのである
経済でも株のことを言われてもそれもわからないのである。
グローバル化してますますわからなくなる。それで陰謀論が盛んになるのはそもそそわからないからそうなってしまう。その規模が余りにも巨大すぎるのである

●村(部落)人間も今でも存在する

村人間となると数十人が東北だと部落(村)を形成する。
そんな狭い範囲で生きた来た人がいてそれが江戸時代の人間になっていた
よそ者を入れない、農協の店で売らないとかなっている
江戸時代は村に商人が来た時神社の境内でで特別許可されて商売をしたのである
それと同じようなことがまだ一万の街では行われていたことに驚いたのである
だから気に食わない人には売らないと拒否したのである
ただスーパーとかチェーン店ではそういうことはない、逆に江戸時代は極端に狭い場で生活していたのである。

それにしてもグローバル社会なののそうした江戸時代の村社会が今も残っていることに驚く、その人は一生狭い土地で狭い限られた人達としかつきあわなかったのである。だからそれ以外の人は物を売るにしても拒否したのである
仲間を優先して結束する。商売となると広く見知らぬ人も相手にしなければならない、だからそんな人が老人がいたことに驚いたのである

とにかく人間を他者を理解するにはその職業を理解しないとわからない、でもその職業でも多様化したからわかりにくい、ということは現代文明社会で他者を理解することは難しくなる、そこで何が起きるのか、バベルの塔のようになる
言葉が通じなくなる、その言葉とは専門用語使うことである
科学でも法律でもいろんな分野で専門語が使われる、でも他者には理解できないとなる

●ナチスやカルト教団が生まれた理由

そしてどうなるかとなると人をまとめる統治するにはナチスがファッシズムが生まれたとなる。何かその時我々は一体であるということで酔ったのかもしれない
一体化したいということで熱狂したとなる、それはカルト教団でもそうである
教祖を神のように祭り上げて一体感を持つ、それは現代社会の特徴だとなる
それは本来の宗教とは関係ないのである、ファッシズムなのである
題目を唱えるときそれがはハイルヒットラーにもなる
ただその時偽装であれ人は一体感を覚えるのである。つまり現代文明の病理的現象として生まれたのである。それは狂気でもあるが数が多いから容認されたのである

現代とは意志疎通できなくなった社会である。それはバベルの塔と似ている
だから文明は原発事故のように崩壊するともなる
とても複雑多様化分化した世界を知り得ようがない、一つにまとめることは不可能になっているからである。だから文明自体が自壊するともなる。
だから人間は経済規模を拡大してもそこでアイデンティティを持てないなのである
でもまたグローバル化が全部悪いとはならない、今の時代部落(村)人間がいたことに驚く、そんな人とももはや通じ合うことはできないのである
だから5万以上とか十万とかの規模の都市なら住んでもいい、それ以外は江戸時代の村に戻り村八分が公然と今でもある。そんな所で生活はできないのである。

グローバル化した世界でもそういう江戸時代と変わらない村があり村人間がいる
でもそういう村人間は田舎でも特殊かもしれない、ただ現実にそういう人間がいたのである。とてもそうした村人間がいる所には住めない、まず最低条件として5万くらい以上でないと住めない、それでないと江戸時代い逆戻りになる。…村では住めない、だからそういう村は限界集落となり消失してゆくはどうにもならない、そういう場所に住んでいたのはやむを得ず住んでいたのである
人間はどうしてもやむを得ず住むことになる。そんな簡単に移り住めない。
特に老人は移り住めないのである。ただこの辺では原発事故になりやむをえず移り住んだのである。