2023年09月25日

ようやく秋になるー窓に月(朝露、稲穂、秋彼岸、酔芙蓉)


ようやく秋になるー窓に月(朝露、稲穂、秋彼岸、酔芙蓉)


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朝露の稲穂に光り玉と散る

街中に空地増えるや秋となる

秋彼岸なれ花挿し勤め墓守る

朝静かそよ風にゆる酔芙蓉

街中に畑の手入れやオクラの花

十字路や1万の街にカンナかな

窓に月一人思索の我が家かな

誰か見る心を見るや窓に月

一時や窓に移りて消えし月


ようやく秋になった。この辺では稲穂は順調にも実っている。。他では暑すぎて順調に実っていないところもある。朝露が稲穂に光り気持ちがいい。
私の住んでいる街は1万位である。だから街の中に畑もある。そこに働く人がいてオクラの花が咲いたりする。また畑に酔芙蓉が咲いている。秋彼岸で私の墓はすぐ近くにある。そういう点では便利である。この夏は暑すぎて自転車で遠くに行くこともできなかった。隣の市でも7キロくらいでも一回くらいしか言っていない。でも1万くらいの町でもスーパーが二軒ありツルハが二軒もある。足りないものもかなりあるが別にそんなに不自由でもないのである。贅沢を言ったら人間キリがないからである。

私の場合は都会には住めない。人混みがいやなのである。何か自分は人と会うことが疲れるのである。陰の性格でありそれで引きこもりにもなったのである。だから人がいないところで住んでいるのは合っているのである。
ただ正直山の中の飯館村のようなところには住めない。スーパーもないし足りないものは多い。この私が住んでいる町でも街内から離れると買い物だけでも手間になる。ななぜなら車がないと田舎では買い物すらまともにできなくなる。だからどうしても車が必要になってくる。でも1万の町でも街内に住んでいればなんとかなる。

そして今日は朝から駆けずり回っていた。一人だと家事があり食事の用意もするから何かと忙しいのであ。その合間をプログを毎日書いている。これも結構手間になる。だから一時動画の方を試しにやってみたがそれも結構手間でしていない。とても何でも一人ではできないことがわかった。
夜には月が出ていた。その月も窓の端に見えていたがまもなく消えた。そのように人も一時映り消えたとなる。月の特徴はこのように移ってゆくことである。
月は何を見ているのか?あなたの心見ている。あなたにやましいことがあると月も住んで輝ない。自然は心に反映しない、人間の心は鏡なのである。だから心がけがれると自然の美は心の鏡に映らなくなる。それも怖いことだがそんなことを気にすることまない、そこに人間の盲点がある。とにかくようやく秋になりほっとした。体調も悪くしたからである。

ともかくようやく秋らしくなったのである。秋になればやはり読書の秋でもあり運動するにも良い。本当に三か月くらい遠くには行っていない。でも家でやることはありプログでも家でやれるからいいのである。家事で時間を取られるとしてもプログはその合間で続けられるのである







2023年09月24日

インターネットで郷土史の研究ができる時代 (神は人の移動とともに移動するー南相馬市鹿島区秋葉神社(只野氏)の由来)


インターネットで郷土史の研究ができる時代

(神は人の移動とともに移動するー南相馬市鹿島区秋葉神社(只野氏)の由来)

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天明というとき飢饉のあった時代である。相馬藩では人口が三分の一に減った
だからここも古い土地である。国誉の戒名は何を意味しているのか?国の誉れになる人だったのか不明である。

「橋本郷土研究会資料」相模原市

郷土史研究というときその方法方法がある。私の場合は地名に興味を持って歴史でも郷土史にでも興味を持った。
でも学問というときそれをどういうふうに研究するのかそれが問題になる。今になると郷土史というのはインターネットの中にいろいろと発表する人が増えてきた。郷土史というのはその市町村でも数が多いからとても調べようがない。確かに本はいくらでも出てる。でもその本でもとても買うことも難しいし調べることも難しかった。インターネットだと学者の論文も出てるしその地域に住んでいる人が郷土史を発表すればそれが全国の人に読まれることがある。でも数が多いから何が重要なのか検索するのが難しいのでは

でも郷土史という時数が多いから調べにくい。でも郷土史でも必ず日本だったら共通性がある。それはなぜかというと神社でも必ず例えば日吉神社とか山王神社とか秋葉神社とかなどこにでもある。それはなぜかというと人が移動してきてもたらされた神だからである。例えば日吉神社とかは南北朝の争いで霊山から逃れてきた人たち落ち伸びてきた侍がその神も一緒にもたらしたからである。
それで南相馬市の鹿島区の日吉神社でもそうである。でも日吉神社となれば全国どこにでもある。ここにだけあるものではない。日吉神社の元は比叡山のあり比叡山は天台宗とかでもあり日本の仏教の総本山になっていたのである。だから鎌倉時代でも日蓮がそこで修業したり日本の仏教の比叡山から広まったのである。

近くの秋葉神社には郡山市の多田野村由来の只野氏の碑がある。それは最近作られたものである。神社を守っていた只野さんは死んでいる。だから祭りも途絶えるともなる。南北朝の争いの時霊山から逃れてきたのが只野氏である。。だから南相馬市鹿島区には只野という姓が50人くらいもいるのでは。只野一族の村でも街でもあった。
だから秋葉神社でも只野氏が移動してきてもたらされたのである。まず人が移動してその人が神も一緒にもたらして移動しているのである。秋葉神社というのは秋葉山がありそこで修験者がが山伏が修業した場所である。だから法院とかの墓がある。

郷土史でもその土地独特の神というのはほとんどない。たいがい日吉神社とこのように総本山があり京都とか奈良から神も移動してきたのである。だからいくら郷土史でもその土地独特のものというより神に関しては共通したものが多いのである。だからかえってどこの郷土誌でも研究していれば共通したものは必ずある。すると理解しやすいとなる。その土地だけにしかないものではないからである。ここにも日吉神社がある秋葉神社があり他にも共通したものがある。だから他の郷土史でも理解しやすいからである。まったく馴染みのない神社というのは少ないのである。

このPDFは一冊のの本のようにもなっていて何か郷土史を調べる基本のものとして優れていると思った。だからこれは読んでおいた方がいい。
posted by 天華 at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2023年09月23日

今地球に何が起きているのか―リビアの洪水被害 (自然災害も政治的なものが関係している)


今地球に何が起きているのか―リビアの洪水被害

(自然災害も政治的なものが関係している)

●リビアの洪水被害は政治の問題

地球で今何が起きているのか。リビアのダムが決壊して2万人も死んだということそれはなぜそうなったのか。

●自然的要因

●政治的要因

自然的要因としては地中海に何か異変があり大量の雨が降った。そして政治的要因としてはリビアは内戦状態にありのダムの点検を整備を怠っていた。結果的に2万人も死ぬとことになった。自然災害というのは必ずしも自然だけの影響ではない。そこに必ず人為的なもの政治などが関係してくる。

それは東北地方で起きた津波とでもそうだった。特に南相馬氏では相馬藩が支配していた。でも400年前に戦国時代であり相馬藩内でも激しい戦争があった。相馬藩を作ったのは千葉県の方から来た相馬氏でありその相馬氏がこの地方この地を支配するために争いがあった。在地の勢力と衝突して戦争となっていた。その時やはり津波が来ていたのである。

でもその津波のことより事細かく相馬藩政記には相馬氏がこの地を戦いによって支配したかをということである。その論功行賞が詳しく記されていた。でも津波で700人が溺死したというこたった二行しか記されちなかった。ほとんど700人も死んでも記されていなかったのである。それより相馬氏がこの地を在地の勢力と戦い支配することは優先されていたからである。

つまり自然災害でも政治などのにより無視されて何も対策もされない。それはリビアの状況とも似ている。内戦状態になっているのだからいかにして戦いに勝ち支配するということが第一になるからである。そのためにダムの点検整備をないがしろにしたのである。だから人間社会に起きることはすべて自然災害でもそのせいにすることはできない。必ず人間側にも問題がありそれが自然災害が起きて被害を増大させる。

●飢饉も政治的問題でもあった

他にも飢饉あるとしてもそれもすべて自然災害のせいにはできない。東北の米を江戸に送るために商品作物となりそれで米を送ったが地元では米を食べられず飢饉になったということもある。だからこれは経済政策が失敗したのであり必ずしもすべて自然災害ということでわ片付けられないものだった。

それは今でもクライナで戦争がになるとウクライナとロシアは穀倉地帯であり外国に輸出している。でも戦争でそれが止められると輸入している国は飢餓にもなる。
それは政治的要因なのである。今やグローバル化するとどこかで何が起きても世界中に影響するとなる。だから戦争はグローバルに影響してただ二国間の問題ではなくなる。だから政治的問題として世界で解決しようとしなければならない。また原発事故でも処理水を海に流して中国に批判されたように環境問題は地球がつながっているのだから世界の問題でありそもそもは中国でもトリチウムを流しているとか原発そのものが問題があり廃止するべきだとなる。

環境問題になるとそれは世界の問題であり例えば森と海は密接に結びついているというときそうである。森と海をつなぐのが川であり川から流れる森の腐植土とか栄養分が海に影響して海の魚やや海草や貝などに影響する。つまり森と海は別なものではない。一体化したものであり分離できないのである。

それは地球全体がそうであり密接に結びついている。地球を一つの体に例えればどこか一部分がおかしくなれば病気になれば全体も病気になってしまうのである。それで森や山の木を切ってそこをソーラーパネルにしてしまう。それも危険なので森には保水能力がありまた腐植土などを所蔵して栄養分を蓄えそれが川を通じて海に流れ海の生物を栄養分にもなり養うとなる。だから自然は切り離して見れないのである。

●恵みの意味

恵みとはめぐることであり地球全体がめぐるのである。それはその言葉はもしかしたら縄文時代の生活から出てきたしそうかもしれない。だから自然を別々のものしてそれぞれ部分的に考えることはできないのである。
今グローバル化して木材も外国から輸入する。そして日本の森は利用されなくなり間伐しないので森に栄養分が蓄えられないとかそこにいろいろな問題が出てきている。つまりグローバル化とはこうしてもともとあったその国土内での自然の循環を断ち切り自然を破壊してしまうともなる。貿易は必要でも生態系的経済を重んじれば制限をしなければならないのである。

原発事故の処理水で中国がホタテなどを輸入しなくなったことで日本は大打撃を受けている。それも政治的問題であり自然の問題ではない。グローバル化というのは常にそうした政治的リスクは増大することである。食料品でも政治的問題で外国から入ってこなくなることがある。このように政治的問題が人間社会には常にありそのために苦しむのである。それは自然とは関係ない。自然災害は避けようがないかもしれないが政治的問題は人為的なものであり政治的に解決できるものなのである。

●原発事故も自然災害が原因ではなかった

原発事故がなぜ起きたかということを追求してきたがこれを津波地震という自然災害のためだということになっているが実際は人為的なもの政治的なものも関係していた。まず原発が本当に必要なのかどうかそのような危険なものは必要なのかどうかということから検討されねばならなかった。電気は必要だとしても今年の異常な暑さでも電力は不足しなかった。だから原発なくても天気はまかない。ではなぜ原発が必要なのか。それは電気が必要だからだけではない。そこに何か軍事に利用するとか政治的な役割があって原発がある。

だから原発というのはただ電気が必要だからというだけではない政治的なものとしてまたは軍事にも関係して作られた。なぜなら人口がこれから日本で減少してゆけばそんなに電気など必要なくなるからだよ。もう人口は6000万人くらいになればそんなに電気は必要はなくなる。だから人口減少がすべてマイナスに働くともならないのである。やはり日本には日本の国土にあった適正人口がであればいいのである。
また東京周辺に人口が集中しているのだから地方に分散すればいいともなる。それも実は政治的問題でもある。だからこそ一時東京遷都が言われたのだがそれも今は何も言われなくなった。

とにかく自然災害は実は自然の影響で避けられないということにもなるが政治的な問題としてもある。政治的に解決できるものでもありそれを怠ったときリビアのような悲惨な結果になるのである。だから国が分裂するということは恐ろしいことになるのである。それは政治的問題であり自然災害とも違う。

自然災害はある程度洪水があるとしたら堤防を高くするとか津波でも防潮堤をを高くするとかで現実に防げたこともある。だから何らか対策することができる。とても政治的問題として国内が分裂したりするとその被害が増大するのである。それは世界でも世界大戦になればその被害は甚大なものとなる。それは自然災害以上に恐ろしいものとなるのである。だから人間社会における災いはすべて自然災害によるものではない。それは政治的に予防できるものであり解決できるものでもある。


松永勝彦. 森が消えれば海も死ぬ 第2版 陸と海を結ぶ生態学 (ブルーバックス) (Kindle の位置No.1567). 講談社. Kindle 版. 

posted by 天華 at 15:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月22日

ポルトガルで偽札の国家的詐欺をした犯人 (偽札をばらまいたいがアンゴラの経済危機を救った)


ポルトガルで偽札の国家的詐欺をした犯人

(偽札をばらまいたいがアンゴラの経済危機を救った)

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これは再放送がある

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この人の最初の詐欺はオックスフォード大学の卒業証書を偽造したことである。その卒業証書はあらゆる理系の学部を学び卒業したと書いてあった。まず最高の大学で理系だったら相当な価値がある。ここでも文系は価値がないことがわかる。
その卒業証書が見破られなかったのは公証役場で国家の認証を受けたからだった。その卒業証書を持っていたからポルトガルの植民地だったアンゴラで鉄道会社に就職できた。そこで実際に機関車の故障を直して評判になったのである。その人はすでに高校とかで専門学校で工学部に入っていて勉強していたから直すことができた。だから別に本当はオックスフォード大学の卒業証書がなくても仕事ができる人だったのである。

現実にオックスフォード大学を出た人は人もそこで働いていたがそういう現場の仕事はしてしないとなっていた。だからここでそうした卒業証書はすべてそれで判断することは間違っているということになる。ただオックスフォード大学の理系となればどうしても誰でも認める。まず今や大学などが50%以上の人が行っているのだから価値がない。計算も読み書きもまともに出来ない人まで言っている。そういう時代である。でもやたらと学歴にこだわる人もいる。

私は三流大学の経済学部を出ても何も勉強してない。だから高卒で銀行に勤めている人のほうが実務をしているから経済を知っているとなる。まず文系は社会に出て大学の勉強などほとんど役に立たない。文系とは実用とは関係ない教養にすぎないからである。それは無駄ではないにしろ独学できるものなのであるある。

その次は株を買い占めるための資金を得るために小切手の詐欺をしたことである。アメリカの銀行に金がないのにおろさせた。次に鉄道会社の株を買い占めて経営者になることなるために資金が必要であり銀行を通じて紙幣を作ることだった。そのその紙幣をばらまきアンゴラの経済を立て直すということがあった。だからこの人のやっていることはアンゴラのためでありその人自身の私利私欲というものでもなかった。実際に経済政策として紙幣を金を回して経済を活性化するということは国家レベルでもしているからである。

だからこの人のしてきたことは別に私利私欲というものでもなかった。これは別に国家レベルですることでありそれが一個人でしていたという違いである。そして別にオックスフォード大学の卒業証書がなくても実際の現場で仕事ができていたのである。だから会社側でも別にオックスフォード大学の卒業証書がなくてもその人は仕事ができる人だったのである。だから学歴にしてもそれですべてを判断することは間違っている
だからこの人の詐欺は何かすべて悪いものにも見えない。何かそういうことは会社でも国家レベルでも行っている。大掛かりな詐欺になってもいるかもしれない。あまりに大掛かりになるとかえってそれが見えないし信用するとなる。それで現実にグローバル経済とかではそういうことが実際に行われている。だからこそ陰謀論は常に言われるのである。
つまり国家自体とか大会社でも銀行でも詐欺していることがある。でもそれが巨大だからわからないとなる。つまりグローバル経済というのはそうした大掛かりな詐欺なのかもしれない。でもそれは罰せられることはないのである。国家レベルの詐欺ということもある。それは誰も罰することができないのである。

何かこの世はそうした騙しが詐欺が公然として行われる場でもある。それがカルト宗教団体でありそれを取り締まることもできない。税金も払うことがないビジネスなのか何かそれがあまりに大掛かりになると巨大になるとその悪夢は隠蔽されて見なくなるのである。
つまり大掛かりな詐欺はだましは簡単に見破れなくなる。原発事故でもそうだった。検察とかも天下りして官僚もかかわり国家的事業でありそのために安全神話が作られ誰もそこに立ち入ることもできない。アンタッチャブルとなりそこに危険があっても何も言うこともできなくなっていたのである。それは国家的犯罪でありでもそれを取り締まることはできない。だから国家自体が犯罪者になるということがある。でもそれを取り締まることはできなくなる。それで国民が大被害を受けることがある。

不思議なのは一人の個人がこのような大掛かりな詐欺作業したということである。でもそれは全て悪いものかというと国家に代わってアンゴラの経済を立て直すための方策として紙幣をばらまいたのでそれは結果的に効果があった。この人は確かに自分が英雄になりたいとか認められたいとかはあったがそれは私利私欲と言うものでもなかった。アンゴラの経済の立て直しのためにそうしていたのである。国家ができないことを個人で不正であったが防いであったが個人でしていたということである

ともかく国家的犯罪は犯罪にならない。戦争でも国家的犯罪であっても何百万人が死んでも犯罪にはならない。国家を罰するものはいないのである。また国家を罰することはできない。だから原発でも罰することができなかった。ただ津波が地震がその悪を暴いたのである。
だから何らか国家を罰するものは国家を超えたものでありそれは神にしかできないともなる。だからこそ最後の審判がありそれは個々人を罰するものだけでなく国家でも罰せられるのである。国家自体が犯罪を犯すものでありでも罰することはできないからである。
だからこの事件は個人の問題だけではない国家の問題として提起されたのである。国家は何もしてくれないから個人が大きな詐欺をして偽の紙幣をばら撒きアンゴラの経済を活性化させたということにもなる。でも結局は罰せられて悲惨な結果として終わったのである。

posted by 天華 at 09:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年09月20日

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?  父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?

 父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

母は毎日欠かさず三食を用意し、父に給仕していた。かれこれ60年にわたって続けてきた習慣で、父にとって食事とは「食べる」というより母の給仕を受けること。母の前に「座る」ことなのだ。

 この習慣こそ認知症の原因ではないだろうか。家事を一切せず、外でお金を稼ぐだけで、あとはすべて母任せ。いわゆる家父長制が認知症を招いている。父はアルツハイマー型というより家父長制型認知症といえるのではないだろうか。


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私の家族は複雑であった。二人のの母親がいて一人は実の親だけど百歳まで生きた。もう一人は母親違いの姉であり年齢は七歳しか違っていなかった。同じ大正生まれだったのである。そして母は私の父親の家に嫁いできて女中のように働くことだけだった。特に店をしてた時食事をしていても満足にゆっくり食べることができなかった。店にお客さんが来て食事中でも立っていたからである。
そして私の母親は実家でも継母が来ていじめられて苦しんだ。それで何かそこでも働き詰めであり趣味など持つこともなかった。だから花にも興味はなく花など買わなくてもいいといいとか花はいらないと言っていたのである。それも育ちが原因していて貧乏でありそうゆう余裕もなく習い事もさせられることもなくただ働くことだけだったのである。だから実際に東京に出て女中もしていた。だからその一生は女中ともなっていた。

一方姉の方は公務員であり役所に勤めていた。もともとは看護婦だった。 55歳まで勤めて退職した。早めの退職だったが勤めることが嫌になったからやめたと思う。でも55歳は早かった。なぜならそれから30年も生きていたからである。姉も何か趣味になるものもなかった。向いていたのは看護婦だったのである。だから役所を辞めてから何をしていたかというと何もしないのである。家事は94歳までしていたからである。一方の姉は55歳で退職して何もすることがなかった。家事すら全然してない。なぜなら母が全部していたからである。

ここで一見これは何でも食事でも用意されるから人いいと見る。でもそれが認知症の原因にもなっていたのである。役所を退職してから何もしない。趣味もない。向いていたのは看護婦だったがそれもやめていた。ただ保健婦の後は事務的なもので働いていた。でも役所を退職してからは何もしない。家事すらしない。ただ何をしていたのか、テレビとか見て家では何もしてない。それは認知症になった原因だったかもしれない。母は94歳まで家事を一人でしていた。姉は何もしないかったのである。

母は働きづめの一生だったけどそれがすべて悪いものとして作用はしなかった。 94歳まで家事をして働き家で掃除でも常にしていて役割があった。姉は家で役割が無く役所も辞めて何も役割がないものとなってしまった。そのことは認知症になる原因だったかもしれない。家事というのは男が馬鹿にすることもあるが結構頭を使うのである。頭だけでない手も足も使う。特に料理は相当に頭を使うし熟練しないとできない。だから家事をする料理をすることは給料をもらえなくてもそれは仕事なのである。

だから男が退職したりして妻が食事の用意でもなんでもしてくれる時男に役割がなくなりそれが認知症にもなる原因となる。一見何でもしてくれる身分であればいいと思うが実は違っている。人間は常に役割を持ち働いていないと頭も体も機能しなくなり退化してゆくのである。だからこれは何か人生の人間のパラドックスにもなる。

例えば主人がいて召使いがいて召使がなんでもしてくれたりするのはいい身分だと見ているが必ずしもそうではない。認知症になりやすいのは召使いがいて自ら何もせず何でもしてもらう主人の方なのである。
また姑が嫁にお母さんは何もしなくていいですよテレビでも見てくださいと言われると姑がボケるということはある。それは家事も何もしなくて張り合いもなく頭も働かないのでそうなるのである。だから男でも何もすることがなかったら家事をするべきだとなる。家事はそれなりに頭を働かせるし体も使うから全体的にいい作用をするのである。

そして人間は何らか役割がないとボケてしまうことがある。だから長生きの時代老後も長いから何か役割を持ち働き続けることが大事である。
ワーク(work)というとき作用するとか機能するとか作品などの意味がある。つまり人間は生涯ワークする。それが例え金にならないとしても何か役割を持ちワークすることが大事なのである。それが高齢化社会の大きな問題になっている。老人は引っ込んでろとかテレビテレビでも見てるとか何もするなとか若い人に言われたらその人はボケてゆく。すると社会に大迷惑をかけるのである。

ともかく認知症はもう90以上になったら半分はなりどうしてもそれは避けられない。でもそれを防ぐにはやはり役割を持ち何らかの生きがいを持ち働き続けることが大事なのである。理想的なのは働きながら死ぬことなのである。近くの自転車屋は癌になっていても十年間くらい働き3日前に行ったらもう仕事もできないかもしれないと言って3日後に死んだのである。
まさに仕事をしながら死んだのである。街に一軒しか自転車屋はなくなっていたから貴重な存在だったのである。他でも近くの医者も90まで仕事をしていて一週間間くらいであっけなく死んだのである。そういう死に方はいいと思う理想である。
そうはいっても肉体労働者だと働き続けることが難しい。どうしても体が弱りできなくなるからである。でも軽いこと家事くらいはできるからそれでもしていた方がいいとなる。
ただ何もせずボケーとしていることが一番悪いのである。

老後は長くなるというとき大きな問題が病気になること特に認知症になることは一番大きな問題である。それは周りに大迷惑をかけてしまうからである。介護するにも精神障害者になってしまうからその苦労が大きいからである。そして本人にしても馬鹿になったとか言われてその生きてきた人生の価値まで否定されてしまう。あの人は馬鹿になって死んだ。それだけの評価になってしまうことも怖いのである。そして死ぬ最後の言葉が[私は優秀だった〕と言って死んだのである。それも悲惨だったのである。
ただなんらか馬鹿になったこと自覚していた節があった。それで自分は馬鹿ではないということ言いたかったのかとなる。

ここで家父長制的認知症と言ってるが家事もしないでただ妻の何でもしてくれるということは危険なものとなる。
認知症になることが確率は大きくなるからである。ただ人間は高齢化社会を生きることは今の時代になって初めて経験することでありそれでみんなが対応できないとなっている。その最大の問題が認知症になることなのである。

2023年09月19日

特別暑い夏の詩(鷺、涼しい、雷、夏の雲、・・・)


特別暑い夏の詩(鷺、涼しい、雷、夏の雲、・・・)

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雲の台のようになっている

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川の浅瀬の流れが響く
鷺が一羽餌漁りしている
木陰に休み風が涼しい
鮎が跳ね鯉が流れに泳ぐ
夏の雲が依然として湧き上がり
今日も雷が鳴り轟いた
高く高く雲は湧き上がり崩れる
まだ家にのうぜんが咲いて
例年になない暑い夏が終わらない
何か何年分かの夏を生きたよう
夏を十分に生き秋を迎えよう
我が生きる日はそれほど長くないだろう
灼熱の夏を生きてこそ夏は体に刻まれる
暑い夏寒い冬があり地球を感じる
今年の稲の実りは豊かである
十分に強い直射日光をあびたから・・・

今日も暑かった。鷺は夏の季語である。だからまだ今年は夏であり夏の光景なのである。これを見ていると涼しいとなる。
夏の雲も依然として出ている。
今年の夏は十分に夏を味わった。暑い夏寒い冬が枕草子で書いているが京都はまさに盆地であり寒暖の差が激しいからである。
浜通りは海からの風が涼しいから福島市の盆地とは違っている。でも今年の暑さは異常だった。
すぐ近くに川も海もある。散歩するにはいい、でも陽射しが強いので隣の街に行けなかった。近くを自転車で走るだけだった。
今日も雷雨があり今夜風が涼しい。明らかにまだ夏である。

人間の失敗の原因 (自然は成さずしてなる。人間はなして失敗する)


人間の失敗の原因

(自然は成さずしてなる。人間はなして失敗する)

成さずして成るー老子

●しなくてもいい事業を起こして失敗

近くの人は事業を起こして失敗した。その人はもともとみんなが取れない一級の免許を持った電気技師だった。だから会社に勤めていても高級取りだった。でもそれで常に優秀だと他から言われて事業を始めたのである。その事業の始める動機も何か東京とかの人のための別荘建てるような仕事だった。ログハウスとかを建てて東京の人などを相手にして金を稼ごうとしたのである。

その動機はただ自分が優秀である会社の経営者にもなれるそれを示したかったとしている。それが動機だったのである。でもその人は別にほかの人より優秀だったのである。その人を蔑むような人は周りでいなかったのである。
でも常に優秀だと言われているから経営者になっても当然成功して優秀だということを示したかった。でも実際はその事業も失敗して大きな借金だけが残されたのである。それで周りのものは大迷惑となったのである。
私自身もその人と関係していたから介護とかで苦しんでいる人がその人がきてもその人は頭の中が借金のことで生他人のことなど気遣うこともなかったのでだから苦しい時借金の要求にもなったのである。

もう一人の人は腕のいい大工である。その大工の仕事で充分に家族でもでも養うことができたしそれで確かに足りない面はあっても普通の生活はできたはずである。でもそれで満足することはなかった。その人はいい面としては大工だけではない庭作りもできるし壁塗りもできるしいろいろな事ができるのである。社交性もあり営業などにも向いている。

でもこの人も大工だけではその収入だけでは満足しなかった。もともとこうして何でもできる人だからホテル事業に手を出した。ホテルはラブホテルでもあった。このホテルを作るにも資金が必要だった。ただ大工ということがあってその建物を建てるときは家を造ることをしていたから役だった。それでその人は成功して立派な家を建てた。でもその家も津波で被害を受けた。でも流されたわけではなかった。今そこに住んでいないのは原発事故で避難区域になり不便なので隣の町に移り住んだ。

そして60以上すぎて熟年離婚となり一人で住んでいる。家族もばらばらになってしまった。息子は仙台市の方で移って仕事しているからである。確かに原発事故も原因しているがそれだけではないこれまでしてきたことが原因して今がある。何か性格的なこととかその人の人なりのことが原因もしているみたいだ。

●カルマとはこれまでした行為が苦しみとなり現れること

この二つの例の失敗の原因は何なのか。 2人はそもそもやり手であり優秀なのである。だからそのことが悪いわけではない。そして共通しているのは上昇志向が強いことである。他人より他人に負けたくない他人より優秀なのだということを見せてやりたいその上昇思考が強くでもそれだけやれてたということである。それだけの能力もあるとななっていた。

では何故失敗に終わったのか。たしかにそこには大工さんの場合は原発事故の被害があり津波の被害があるとその人だけの責任ではない。でもその人の責任も何かあった。結局人間は60すぎるとこれまでしてきたことが積もり積もってカルマとなって苦しみとなって現れる。それだけは間違いない。

私自身がもそうである。仕事もせず家に引きこもり30年間自由に旅などをして思うがままに生きていた。どうしても陰の性格であり社会生活馴染めなかったからである。
でも家族に恵まれてそういうことが出来たのである。でもその結果として家族が病気になり介護になった時自分一人でそれを背負わされることになった。
そして社会常識もなくなっていたから一人助けもなく苦しんでいるだけだった。それも自分のカルマだったのである。つまり人間は60以上になるとカルマの清算が強いられるのである。だから他人のことをとやかくようこともできない。ただそれぞれになぜそうなったのかということを知ればほかの人もこれから生きる人も若い人も参考にはなる。
要するにそれぞれの人生をふりかえると必ず何かその人の行為が結果として現れる。それが60以上にその行為の総決算が起きてくるのがカルマの法則なのである。

この原因の失敗の原因はどこにあったか

要するにしなくてもいいことをした

カルマとはこれまでしてきた行為が苦しみとなり現れること

これなのである。一人は何も事業など始めなくても充分に収入もあり他からも優秀な人と認められていたのだから別に事業など始める必要もなかったのである。でもさらに自分は優秀だとしてその優秀さを認めてやる認めさせるとしてそんな動機で事業を始めたのである。それがそもそも失敗の元だったのである。

大工さんの場合ももともと優秀でありやり手であり稼ぐ力はありホテルなど経営する必要もなかったのである。でも自分は何か学校ではあまり優秀でなかったからとか優秀なことを見せてやりたいとして始めたので。 2人の共通点はとにかく上昇志向がある強い。
でも別にその人たちは優秀であり他人からも認められているからそんなにまたさらに優秀だと事業を起こしていることが失敗の元になったのである。
大工さんの場合は原発事故とか津波がありそれも原因していたがやはりその人自身の性格とかしてきたことが原因していて家族もバラバラになった。だから結局不幸になったとなる。

ただ共通していることは優秀だということにこだわる。他者と比べて負けたくない優秀だとこだわる。それで私の姉も最後に言った言葉が(俺は優秀だった)とのである。そこまで優秀さにこだわっていたのかと理解できなかった。優秀だったことは間違いないし知っている。でも認知症になり馬鹿になったともなりそれで優秀だったと言ったのかもしれない。最後にどんな優秀な人も人認知症になれば馬鹿になったとなるから悲惨である。そこに人間の限界がある

●してしなくてもいいことをして失敗した

それは別にこうした個人の例だけではない。そもそも原発事故自体が原発を作ったこと自体がしなくてもいい作らなくてももいいのに作ったことによって最悪の結果になったのである。
確かに原発は地元の要求もありお金を稼ぎたいということもあり作られた。でもそれが必ず必要なものというものでもなかった。電気がなくてもいいというわけではない。でもこの夏が異常に熱くなっても電気は不足しなかった。だから電気は原発なくてもなんとか賄えるものだったのである

そもそも原発を作ったということ自体が問題だったので。その事業自体が必ずしも必要ではなかったのである。でも金になるとか作る方でも利権が関わり作ったのである。要するに人間の成すことが全て必要だから実際は成さなくてもなさなくてもいいものでもあえて成す。そのことによってこの大きな禍が生まれるのである。
それを説いたのが老子でありまたキリストでもあり釈迦でもあり宗教は大概人間の行為がカルマとなるというときこうして何か必要ないものでも成さなくていいことでも成す。その結果として災いが生まれるのである。

日本の戦争などでもそうである。なぜ300万人も死ななければならなかったのか。そもそも本当に戦争する必要があったのかそれ自体が問題だったのである。やむを得ないとか色々言われるが戦争というのも事業であり二つの例のように事業そのものが必要だったかどうかはわからない。でもあえてその事業を実行したということが300万人も死ぬという結果になったのである。その300万人の死が何か讃えられるべきものなのかということもわからないのではある

結局人間の問題は成さなくてもいいことも成すてそのことから大きな災いが生まれてくる。戦争もその一つの例であり事業でもそうである。本当にその事業が必要なのかどうかはわからない。ただ橋一つは作ればそれでみんなが助かるということはある。でも事業自体が本当に必要なのかどうかは分からないものがある。でも相手それを実行すると成すことにより大きな禍ともなるのである


2023年09月18日

悪は権力によって隠蔽される (ジャニーズ事件の深層ー背後に権力を持つ官僚の人がいた)


悪は権力によって隠蔽される

(ジャニーズ事件の深層ー背後に権力を持つ官僚の人がいた)

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ジャニーズ不正加害事件の裏第二弾!ジャニー性加害隠蔽〜日本の巨大な力】#980の続き!得体の知れない驚異的な力が、この国を支配する。このシステムを壊さない限り、日本は持続できない!-masakazu kaji-
Kajiチャンネル -加治将一-

絶えず不具合、故障があっても隠せる。だからそれが習慣化していたのである。どうせ誰にも追求などできない、みんな金で抑えている。こうしてしそれが大事故につながったのである。-原発事故も隠蔽が原因


●その背後に総務省の要職の人が存在した

この事件については詳しくない。ただ必ず悪と言う時隠蔽される。それは一つの法則のようになっている。櫻井翔が芸能界で活躍でき有名になったのはその背後に櫻井パパがいてその人が政府の有力な官僚であり権力と地位を持っていた。だからなぜマスコミでも攻めせないのかとなったらその桜井パパに忖度したからだとしている。
この加治氏の説明はわかりやすい。なぜこの背後のことがわかるのかというと彼は直接そうした上層部の人と付き合っているからである。普通の人はそういう人と直接は話したり親しくなれない。だからなかなかそういう人たちのことは分からないのである。

総務省とはテレビとか通信関係など大きな力を持つものだった。だからこそマスコミはそのことで指摘できなかったし放送もしなかった。マスコミというのは常にその宣伝してくれる会社の会社があればその会社を批判はしない。つまりマスコミというのは権力に逆らうことはしない。そうすれば会社自体が維持できないからである。だから宣伝をしてくれる宣伝料をもらうくれる会社には忖度して批判はしない。それが福島県でも政経東北は相双レテックのことを裏表紙で宣伝していたことでもわかるそんなことはないと思っていたが意外だったのである。

マスコミとは既得権者であり権力を持っている側につく。その権力というとき必ずしも政府の権力とかだけではない。マスコミに何か利益を提供してくれる組織団体は批判しない。例えば創価の聖教新聞をすらせている新聞社が多い。福島民報などもそうであり大手の新聞社もほとんど聖教新聞を刷っているしそれを配達している新聞社もいる。そうしたら創価など批判しない。つまりマスコミでもテレビ放送するにも新聞を出すにも雑誌を出すにもお金をかかる金がかかるからその金を本来のテレビ放送でも新聞でも賄えないのである。それで必ず大きな組織団体とか政府にでも頼ることになる。そこからして既に自由な報道はマスコミには無いのである。

●権力で隠蔽される巨悪−原発事故も隠蔽が原因

絶えず不具合、故障があっても隠せる。だからそれが習慣化していたのである。どうせ誰にも追求などできない、みんな金で抑えている。こうしてしそれが大事故につながったのである。

そうして結局巨悪は隠される隠蔽される。それは原発事故でも同じだったのである。そもそも原発というのは放射性物質を出すのだがそれが常に隠蔽されていた。その放射性物質というのは毒にしても匂いも色もなく気づかない。だから隠蔽されやすいものだったのである。そこに政府の権力とかがかかわり御用学者が関わり危険は隠蔽されたのである。なぜなら東電には海上自衛隊から司法関係検察関係から警察まで関わり天下りしていたからである。そのために権力によって安全神話が作られたのである。

そして常に危険は隠蔽されたのである。そこでその現場で働く人はその危険に気づいて東電の上層部にその危険を忠告していたのだがそれも無視された。津波にしても十数メートルの津波が来ると学者集団が東電に警告していたのである。でもそれも無視されたのである。金がかかるとして安全には金をかけなかったのである。それがなぜできたかというとなるとそれだけの権力を持っていて隠蔽することができたからである。
今でも放射背物質を地下深く埋めて隠そうとしている。でもそれが安全なのか何か地震でもありやはり隠したものが災いとなるかもしれない、ともかく原発はこうして常に隠蔽するものだったのである。
だから悪と権力は密接に結びついているのである。そのために巨悪は隠され隠蔽されて表に出ない。だからこのジャニーズ事件でも同じだった。その悪の背後に櫻井翔のパパが総務省の要職についてその権力のゆえにマスコミでも忖度して追求しなかったのである。だからマスコミの言うことを鵜呑みにしていると危険になる。

●この世は変わらない悪も消えることはない

つまりこの世は何か変わったようで変わっていない。時代劇ではよく要職についている上級の侍が裏にいて例えば今回のように性加害あったとしても隠される。それは表に出ないのである。ただそれを追求されて切腹したとかもある。時代劇の場合は今と違ってその悪がわかりやすいのである。現代の悪は複雑であり分かりにくいのである。それは世界でも同じでありそれだけ広い世界になると世界はどうなっているかなど誰もわからないのである。
そうなると巨悪でもでも隠されて見えないのである。だからこそ常に陰謀論になってしまうのである。
グローバル社会というのは公正な社会でもない。やはり今ならアメリカが取り仕切る。覇権国が取り仕切り世界の富はアメリカの一部のものに上層階級に集まるのである。。ただそういうことは可視化されない。だから一般の人はその悪を知ることもできないのである。

とにかく人間の社会というのは進化したとか進歩したとかいうが本質的なところでわ変わっていない。ただ複雑化しているから悪というのは見えない可視化されない隠蔽されやすくなっただけである。
こうしてこの世からは悪はなくならない。それは人間の欲がなくならないからである。だから人間は欲によって滅びると聖書に書いてある。そしてこの世では悪を消滅させることはできない。別にこの世でこうして悪を働いたからといって罰せられることもない。原発事故では東電の幹部でも政府でも官僚でも天下りした検察関係でも罰せられることがなかったからである。

ではこうした人間の様々なな悪はただ放置されているしまうだけなのか?明らかにもされずに隠蔽されたままで終わるのか。それが不可解だとなる。ただ聖書で死後裁きがあるということはそうした悪でも死んでから明るみに出されて裁かれる。

ただそんな死後のことを気にしている人もあまりいないだろう。そのことを恐れたら悪をなすことはできない。権力を持ったものは大きな悪にかかわりやすい。でもそれがまたその人自身によって意識されにくいのである。だから自分が悪人になっているとか思わない。社会でも善人として見ているからである。でもしも白日のもとにその悪が暴かれる時どうなるのか。その人は依然として何も悪いことはしていませんということになる。そもそもその悪を意識できない気づかないからである。でも死後に裁かれるとなって裁かれたら怖いことになる。でも死後のことをそんなに恐れる人はいない。人は今目の前の現実を生きることで精一杯だからある

●人間は人間を裁けない

いずれにしろ人間は人間を裁けない。司法があったとしても検察が裁けるいったら裁けない。現実に検察関係者が東電に天下りしていたことでもわかる。その人たちは東電の幹部も裁けないのである。つまり検察関係でも警察で裁かれる立場にあるのだが権力を持っているから裁かれないとなる。そこに人間社会の限界がある。人間は人間を裁けない。だからこそその悪は隠蔽されて表に出ない。ただそれがその悪はそのままではない。必ず誰かがその悪によって被害を受ける。

日本でも戦争になって300万人が死んだとか原発事故では故郷に住めなくなったとか必ず責任が取らされる。その上層部は利益を得たものは罰せられなくても必ず誰かが被害を受ける責任を取らされる。それが悪の怖さである。悪はそのままで隠されたままで終わらない。必ずその悪は誰かに影響してその人たちが被害を受け苦しめられるのである。
だから悪は隠されたままであることありえない。いずれそれは表に出てきて大きな被害をもたらすのである。それはナチスでもそうだったし日本の戦争でも判断するのは難しいにしてもやはり300万人がなぜ死ななければならなかったのかというとそれも理解できないのである。それは日本だけの責任でないとしてもそれだけの被害があったということがやはりそこに悪がが隠されていたともなるのである。

結局この世は善と悪との戦いでありそれはこの世が終わるまで継続される。ただ何が善なのか悪なのか明確ではない。かえって大悪人が大善人ともされるのはこの世である。それを象徴しているのはカルト教団であるその教祖ははこの世の王となり支配することもある。それはまさにサタンだととなる。つまりこの世の王ははサタンなのである。それは人間から欲がなくなくならないからその欲によってサタンの王となるのである。だからこそこの世は滅びるとか神によって滅ぼされるとかこの世に理想の国などできないないからである。いくら科学技術が発達しても依然としてカルト教団がなどは巨大化して支配しよう支配することにもなる。

それを作り出しているものは何なのか。一人のの人間が作り出したものではなくその一人の教祖でもその教祖を祭り上げる人たちがいるそれでご利益を得ることがありそうしているのである。いずれにしろ人間の悪は消えないなくなることはない。だからこそこの世は一旦滅びそして裁きがある。この世で悪は隠されるても死後裁きにあう。そうしなければ公平にならないからである。そんな世界を見逃して許されるわけがない。この世はそもそもどんなことしても不平等なのである。

●裁けるのは神のみ

主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。

だからなぜ悲しむ者は幸いなりとか言うのだろうかとなる。つまりこの世で得する人たちたとえ巨悪でも隠されて楽をして良い目を見る。でおこの世では悲しむ人も多いのである。だからこの世では利益を得て得したものがあっても来世では裁かれてこの世で悲しんだものはその涙もぬぐわれて神に祝福される。この世とは逆転してこの世で苦しみ悲しんだものは来世では神の国では恵まれたものとして祝神されるともなる

でも現実は人間は今生きていることしか考えない。それで来世で裁かれなければならないのだとかなる。ただそんなことを恐れたり意識したりしないのである。それで奇妙なのは誰でも来世で裁かれる時こんなことになるなら現世で生きてきた時裁かれた方が良かったともなってしまう。それは現世しか考えないでで生きているからそうなるのである。この世とほんの一時的に生きるだけでありその生はあっという間に終わってしまう。でも来世とか神の国は永遠に続くのである。

そしてもし地獄があるとしたら永遠の地獄があるとしたらそれこそ最大の恐怖である。ただそういう恐怖のことを自覚したらすでにそのことでその人は救われるともなる。悪人は悪のことなど意識しない。だから悪を成したからと恐れることもない。来世のことなども考えない今は良ければいいだけである。だから何か悪を意識する人自分は悪人だと思う人こそ救われるというのはそのことである。普通は自分にしても悪人と思わないからである。
だからは自分は悪人だと思う人は本当は善人だとなる。どんな悪いことをしても悪いと思わない強盗して殺人までした人がたまたまを悪くて捕まったとこ全然反省していないのである。たまたま運が悪かったというだけにしか思ってないそれは人を殺してまでそうなのだからそもそも人間というのは悪を意識することことが難しいとなる。それで親鸞が人を千人殺してみろという言葉になったのであるそのくらいしないと人間は悪を意識できないのである。

そもそも主とか神を恐れるなどということはない。このように無神論者も多い。この世で恐れているのはこの世で権力を持っている人である。神は恐れている人はいない。この世で権力を持っている人は例えば会社であれば社長がいて首にされることが一番怖い。だから一番恐れているのは社長だとなる
その他でもマスコミがジャニーズ事件で攻められなかったのは総務省の要職の人が櫻井翔のパパだったためである。そのためにマスコミ全部が忖度したのである。ということはそれだけ総務省というのはマスコミに対してでもその上にあり権力で報道できなくもさせるのである。

何であれ神など恐れる人がそんなにいるのかとどこに神がいるんだとなってるのは普通である。実際は権力を持ってその権力を行使できる人は恐れるのである。でも本当は一番恐るべきものは神になる。神は見えない形がないでも確実に存在しているのである。人間の権力というのはあくまでも人間が作ったものであるその社会も人間が作ったものでありそれは完璧なものではない。だからこそ結局巨悪には無力だし様々な悪が隠蔽されてしまうのである
そのためにただ悪は常に隠蔽される。権力によっても隠蔽される。でもそれがそのままではありえない。その悪がその本人でなくても周りに次の代にも必ずカルマとなって影響してくる。だから悪そのものは隠蔽されるということはないのである。権力で隠蔽できると思ってもできないそれは必ず時間がたてば明るめに出されたりこの世で裁かれなくても来世で裁かれるのである
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posted by 天華 at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月17日

ハードからソフトに移行した時日本は遅れた (ソフトは文化を作る、これからは文化の時代になる)

ハードからソフトに移行した時日本は遅れた

(ソフトは文化を作る、これからは文化の時代になる)

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人間はハードの機械ではないソフトなのである 機械にソフトの人間が入って来たのである。
being image creatorがこうして表現できることが不思議なのである

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医師とプログラマーと地域創成の女性とかが討論する。でもなにか議論でもかみあわない、それぞれ違った立場でありかみ合わない、そこに現代の複雑さがある、異分野の人と話しても互いに理解すること自体むずかしいのである。



現在はあらゆるものが飽和状態になっている。電器製品でも車でもあらゆる機械道具類でも飽和状態である。それで新製品になると何を変えるのかとなるとデザインとかを変える。それはパソコンでもハードの面ではこれ以上の技術的進歩は得られない。今やパソコンはハードではなくソフトの面がの方が大事になっている。だからソフトというときそれはハードではない。ものづくりともう違う。

それで一番感心したのがbingイメージクリエーターである。なぜ簡単な言葉を入れただけで絵画は作られるのか写真が作られるのかそれもかなり優れたものなのである。それがどうして作られるのか不思議になる。それはパソコンというハードが作っているものではない。パソコンのハードは今やどこの会社でも個人でさえ作れる。となると何が売れるのかとなるととソフトなのである。
それはパソコンというハードを作ることではない。日本がなぜコンピューター分野で遅れたのか。それはハードの面だけでなくソフトは作れなかったということである。

日本はものづくりで優れていたとされていた。それで高度成長時代を築いた。でもコンピューター時代になった時なぜ遅れてしまったのか。コンピューターというのは確かに最初はハードが大事だった。でもコンピューターで大事なのはソフトだったのである。そこが理解されされていなかった。だから日本で世界に通用するソフトが作れていない。 bing イメージクリエーターというのもソフトの一つである。そういうものは日本で開発されていないのである。そして機械とか道具とか製品とかハードの面だと画一した大量生産して日本では電器製品などを売り高度成長時代があった。でもその後IT化とかコンピューターのソフトは大事になった時日本は遅れてしまった。

そしてものでも道具類でも機械でも飽和状態になったとき人々は何を求めるのか。人々それはハードの面ではなくソフトの面に人間の関心が移行していることなのである。
このソフトというとき何なのか。それは文化的なものにもなる。文化というときカルチャーはcultivateでありその土地土地から生まれる独自のものである。
なぜ独自になるかというと地理と風土がみんな違っているからである。福島県だったらハマナカアイズと違った風土であり景色だからである。そこでそこから生まれてくるものもまた違ってくるのである。感覚的に海側に住む者と山側に住む者は違ったものになる。そこで作られる世界観も違ったものになる。それが多様な文化になるのである。

だからこれからはハードではなくソフトが大事になる。コンピューターはハードが大事なのではないいかにソフトを作るかが大事になる。その一つがbing イメージクリエイターなのである。コンピューターは芸術の分野まで関係してコンピューターを通じて創作するという時代になっている。それはハードを通じて創作するのではなくあくまでもソフトを通じて創作するのである
だからイノベーションというときハードを作ることではないソフトを作ることなのである。プログラムとは物を作ることではないソフトを作ることである。

そして文化というとき一番食が文化になるというときその食の元になる材料がその土地土地から取れて独特のものになっているからである。その土地と風土によってその材料も違ってくるし味わいも違ってくる。それが文化なのである。
ハンバーグのように世界中どこでも同じようなものを食べるのは無味乾燥であり味わいもなく文化もないのである。ただ腹を満たすというだけである。人間は今文化を味わいたい。だから観光が盛んになるのはものを買うというより文化を味わいたいということでそうなったのである

なぜならそもそも地理は違うと景色もまるで違ったものとなりそこで食べるものも違ってくる。その魅力は尽きないし画一化して作られたものに魅力を感じなくなる。
だから文化というとき車に乗って旅することではない。むしろ昔の街道歩いたりすれば人間の五感が働き新鮮な感動をもたらすということである。車でただスピードを出して通りすぎても何も感じないとなるからである。だから文化を味わうというときは人間の五感を働かせるようにすることである。

大量規格品製品を作るという時代は終った。でも手作りの作品などがかえってそこに温かみがあり価値が出てくるかもしれない。それは高くても買う人が出てくるかもしれない。つまりそれが文化の時代なのである。外国に来てただハンバーグを食べてるだけなら何の感動もないのである。必ず土地土地には違った風景がまずありそこで生まれた食もあり何かそこにはその土地に育まれて作られたものはありまた料理もあるからそれが魅力となるのである。

この辺では福島県でわハマナカアイズとありそれぞれ違った風土になそこで育まれたものもまた違っている。会津だと食べ物として栃の実から作った栃餅などがある。そそれは結構作るのに難しいのででもそれを食べた時山国の会津を感じるのである。
そして狭い範囲でも同じ景色ではないし歴史も違っている。だから相馬藩内でも原町は機関区にもなり明治以降物流の拠点として新しく発展した街でだから駅前通りが繁栄したのである。

でも相馬市は城があり城下町である。だから雰囲気が違っている。ただそれが外から来た人には城もないので分かりにくいのでそれで最近分かったことは原町は白い夏菊があっている。鹿島区草深く咲いている藪甘草が合っている。相馬市は城跡に藤棚があるように藤が似合っているともなる。それが文化なのである。文化はそこに長く住んで発見されるものである。だからちょっと旅に寄ったからといってその土地のことは理解できないのである。文化を知る文化を作るということはやはり相当に時間がかかる。それはやはりその土地土地に違った風土があり地理がありそれを理解するにわ時間が必要だからそうなっているので

文化というものは何か物のように必ずしも金で買えないものなのかもしれない。その土地の風景などは確かに誰でも見れるがそれを深く感じるということは難しい。その土地と風土と一体化したものを感じることは時間が必要であり難しい。でも芭蕉の奥の細道とかなると別に長く住んでいるわけでもないのにみちのくというのを外から見て発見されたのである。なぜならみちのくというとき必ず奥の細道をイメージするからである。だから一人の詩人の力も大きかったとなる。

5月雨の降り残してや光堂 芭蕉

これは空間的なものと時間的なものは表面されている。みちのくという空間的なものと風雨にもめげずに残された光堂という時間軸での表現がありまさにこれが文化なのである。文化というときやはり空間軸地理的なものと時間で育まれるものがあ。時間は歴史で形成されたものは文化なのである

その味わいは深くその価値は返って400年過ぎても価値を増しているのである。文化というときなぜか大都会からは生まれない。東京とか1000万もの都会になるとそこは物流の世界であり物量の世界でありそこで歴史とか風土が感じられない。東京なら確かに江戸時代がありその風景は美しいものだった。でも今東京に行って美となるものを感じないのである。ただ巨大なビルを見上げて人間の小ささを知らしめられるだけである。
だからヨーロッパでも文化が生まれたのはフィレンツェなど5万くらいの都市国家だったのでそんな小さな年からでも文化は生まれる。むしろ小さいからそこで一つの独得のの世界を認識し文化が生まれたとなる。とても東京とかニューヨークとかからは文化は生まれない。巨大な物流の世界であり群衆の世界でありただ経済の場であり文化の場にはならないのである。

文化は地方から発信される。それがインターネットができて誰でも気軽に発信できるようになった。その土地のことを誰でもその場に住んで紹介できるのである。だから私のプログを読んだらどういう場所なのかある程度はわかる。これまではなかなか地方というのは紹介しにくかった。テレビとか紹介テレビとかで紹介しても地元の人がそこに住んで紹介するということができなかった。今ならユーチューブでも簡単に紹介できる。ただそのコンテンツを作る動画を作るスキルが問題になる。動画になると相当に手間なのである。するとそんなにいろいろなことを一人でやるのは無理だとなる。プログで一記事毎日出すのは結構な手間なのである。それに加えて動画を出そうとしたら面倒になったのである。今は家事も全部しているからその暇がなくなったのである。

2023年09月16日

小さきものの声(虫の声)


小さきものの声(虫の声)

深夜に数匹の虫が
懸命に鳴いている
更けゆく夜の静けさに
その声が響き合う
ここに共に生きるのだ
苦しくもここに生きるのだ
小さなるものの声が
ここに響きあう
その命は短くも
その鳴く声が響きあう
ここに生きるのだ
更けゆく田舎の夜の静けさに
その声に耳を傾ける
小さなるものの声が
ここでは大きく響いている

暦では秋になっているがまだ暑い。雲の峰がまだ高く必ず見える。でも確かにその声を聞けば秋なのである。ふけゆく夜の静けさに虫の声が響いている。田舎の夜にその声だけは大きく響いている。
何かこの辺では原発事故で避難区域などはふるさとにも住めなくなった。帰って住んでいる人はどれくらいいるのだろうか。 1割か2割とか小高では3割くらいしか戻っていないだろう。それもみんな老人なのだからいずれは町や村を維持できるのだろうかとなる。

虫の声というときそれが飯館村だとこのように昼間でも響いていた。そこはまさに街でもないし山の村だからそうなっていた
人間はやはり住む場を持つことが大事である。その場が生き死にの場となる。だからこころとはここにあり場を離れて人もありえないとなる。その場アイデンティティとなり人間を作るのである。ただ現代は移動する時代であり何かみんな遊牧民のようになっている。一つの場所に定着するということは拒否されている。

だからこそそこに生きている場というものに愛着がなく補償金をもらったらバラバラになったのかもしれない。つまり金というのはどこに行っても通じる時代であり外国でも金になれば住むという時代にもなっている。だから一つの場所に固執するのは嫌だとなる。でもやはり人間は一つの場に定着してアイデンティティ化する。
それはその土地に根付いて成長する木とかと似ているのである。人間には確かに移動するという習性もあるが定着するという習性もある。移動するのは動物であり鳥であり定着するのは植物的だともなる。でも最終的には人間はどこかの一定の場所に定着してそこでアイデンティティ化して死ぬ定めだとなる。

2023年09月15日

地獄の沙汰も金次第−墓の効用はなになのか? (金もなければ相手にされない老人)


地獄の沙汰も金次第−墓の効用はなになのか?

(金もなければ相手にされない老人)

100歳以上の高齢者 全国で9万2139人 53年連続で過去最多を更新 きょう「老人の日」


何か埼玉の方に兄さんとかいて具合が悪いから呼ばれて行った。ところがその人は女性は金がないからそのために金を要求する。一回だけだから良かったが今度もまた何か特別なことがあり呼ばれていった。でもその人は金がない。もう今回限りで終わりだと言っている。となると金がなかったら兄さんでも会うこともできない。ただ埼玉とかの方ではそれなりに遠いから簡単にはいけないのである。

何か特別の用事があるというとき金でもくれるのかと思ったらその人も福祉に世話になっているから何もないとなる。臨終の時に必ず呼ばれる。だからまた行くのは金もないのにどうなのかと思った。ただこれが最後となると金を惜しんでもいられない。だからこそこの世の中地獄の沙汰も金次第だとなる。つまり兄弟でも姉妹でも親子でも最後の別れを惜しむとなるとき離れていると交通費がかかり金がないとそれもできないとなるからだ

その人は親しい近くの人がと来てくれと言っても行かない。その人自身が日々の生活に事欠いてその人は援助してくれないからである。その人が失敗したのは一人娘に金を全部預けてしまったことである。自由にする金がないのだからその困った女性に援助はできないのである。ただ人間というのは本当に最後まで金のことがつきまとっている。それは誰でもそうでありその金の縛りから逃れることができないのである。でもやはり金に困っている女性を助けられないということは大きな問題になる。携帯電話で話ししているが直接にあって話すことはないようである。ただ一人で行ったり病院を出たり入ったりしているから話し相手が必要なのである。その女性は話がうまいからである。

とにかく人間は金から解放されるのは死んでからしかない。それはいくら金を持っていても金でもめたり遺産相続で争ったり家族でもいろいろと金から問題が起きてくる。だから人間は本当に死ない限り金から解放されないのでる。そこに人間の不幸がある。おそらく天国とか神の国では金など関係なく生活できるに違いない。だからこそ地獄の沙汰も金次第にな。金を与えれば確かにその人が好きでなくても老人でも何かしてくれる。話し相手にもなってくれる。現実に話し相手になるだけで金を払っているということもあるからだ。

だから老人は金をもっていればその金を目当てに相手にするということはある。老人がなぜ権力を手放さないかというと権力をもっていればそれによって人も寄ってくるし相手にもしてくれる。その老人が嫌でも金のためにそうなるのであ。女性でもその金のために寄ってくる人がいる。それは問題にしてもやはり人間は金から切り離されられないのである。

ただ別に金がなくても老人のこれまで生きたことを語れば興味を持つことはある。老人の価値はやはりこれまでの人生で経験したことを語ることである。ただ正直その人が本当に語るべきものを持っているかどうかが問題になる。例えばカルト教団など入って一生終わった人の話など何も興味あることはない。ただロボットとして何の個性も出さずにその人なりの生きたものは何もないのである。
そしてその教団や組織もいつかは消えてしまうのである。それは会社に入った会社で働いた人でもそれとは違っていてもやはり会社から退職するとその人の価値は相当に減少してしまうのである。でもそこで何か語るべきものがあればそれは価値あるものとなる。

要するに老人の価値というのはもちろんお金があれば金に寄ってくる。だから金があったほうがいいことは確かである。でも何か老人がその人生を語りその語ることに価値があればその老人の価値があるともなる。それは金なしでもその経験したことが価値あるのであり巨額の金を集めても残してもそれがすべての価値になるとは思えないのである。
やはりその人がどういう人生を送ったのかまた語るべきものがあるのかそれが問題になる。ただ芸術家などだったら何らか作品を残しそれでその人の価値も生まれる。でも別にそれが金になるとは限らない。芭蕉は奥の細道を書いたからといってそれで金になったかとなればない。でもその価値は400年でも過ぎても依然としてその価値は衰えないし価値が増しているのである。だから人生は短し芸術は長しなっていたのである。でもそれもごく一部の人せりあとは消えているのである。

いずれにしろ人間は最後に何を残すのか。骨を残すのか灰を残すのかそれも土となって消えた。 5人くらいは土に埋められて一つは骨も残らず灰になっていた。土になっていたので誰のものかもわからなくなっていた。だから人間というのは骨とか灰を残してもそれが誰のものなのかもわからなくなる。その人の人生がどういうものであったのかそれが最後に問われるのである。私の兄はこうしてただ灰になり土になり誰の物だかも分からなくなっていた。それで私は私の墓に隣に小さな墓を作作って供養している。そこには骨も何も埋まっていないのである。

だから骨とか灰は海にまけとか木の下にまけとかとかでも構わないとなる。ただ墓が必要なの何かドラマで常にその墓の前で死者と語り懺悔する人がいる。そして墓に向かってはお詫びしたりする。だからそこには墓の効用があるとなる。もし海にまいたりにしたりすると誰の墓だか誰の者だかわからなくなるからその人に向かって死んだ人に向かって懺悔したり語りかけることができなくなるからである。だから墓がいらないということではない。
墓もそれなりの人間として効用があるものだったのである。ただ墓もも儚くついには誰もお参りするもなく墓の墓場となってしまったのも無常だということである。人間は無常から逃れることができないのである。

また彼岸が来る。お盆から彼岸は近い。お盆とか彼岸はやはり死者を思い出し供養するということに意義がある。ただいまや墓も維持する跡継ぎもなくなり維持できなくなっている。だから墓じまいとかになり。それでは墓にに金をかけるべきではなかった後悔している。なぜなら跡継ぎがいないのだからは卒塔婆のように簡単なものでもよかったのである。立派なものにしてもその後継ぐ人がいないのだから無駄だとなっていたのである。

2023年09月14日

介護施設経営の人の犯罪は青森の人だった (青森の介護施設に南相馬市から送られたのはそのためだったー政経東北の記事より)


介護施設経営の人の犯罪は青森の人だった

(青森の介護施設に南相馬市から送られたのはそのためだったー政経東北の記事より)

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【吉田豊】ブローカー問題「借金踏み倒し」被害者の嘆き【南相馬市】
市内で南相馬ホームクリニックという医療機関を運営している。将来的には医療・介護施設を集約した大規模施設を整備する予定だ。一緒に働かないか」。吉田氏からそう誘われたAさんは、2021年5月から同クリニックで総務部長として勤めることになった。

青森県出身。4月現在、64歳。同県八戸市の光星学院高校(現八戸学院光星高校)卒。衆院議員の秘書を務めた後、同県上北町(現東北町)議員を2期務めた。その後、県議選に2度立候補し、2度とも公職選挙法違反で逮捕された。

 青森県では医師を招いてクリニックを開設し、その一部を母体とした医療法人グループを一族で運営していた。実質的なオーナーは吉田氏だ。

政経東北6月号



なぜこの記事に注目したのか私の知っている人がその息子の親は青森の施設に入ったということを知っているからである。なぜそんなに遠くの施設に入ったのか理由がわからなかった。
ただこの辺では原発事故があり混乱していた。それで介護の人材が不足していてそれで青森の方に移されたと思った。青森は仕事もないので介護とかな仕事になると何かで読んだ。だから青森にうつされたのかと思った。でも青森まで行くと時々その息子は呼び出されて車で青森まで行っていたのである。
施設に入るとそれで終わりではない。何かと施設から要求がありそのために施設に通うことがありそれの青森では遠うすぎたのである。だからなんで青森なのかと理解できなかった。
ただ今回政経東北のこの記事を読んでもしかしたらこのことのこのことと関係があったのかもしれない。つまり吉田と言う人が介護施設の運営をしていたからそこにうつされたのかと思った。

青森県では医師を招いてクリニックを開設し、その一部を母体とした医療法人グループを一族で運営していた。実質的なオーナーは吉田氏だ。

これをもしこの記事を読めば辻褄が合うのである。とにかく青森では遠すぎる。そこで息子でも全く放置するわけにはいかない。だから呼び出されてそんな青森まで行くのが大変なことになっていた。だから最近は地元の施設に入れることになった。でも父親はまもなく死んだのである。
それにしてもこんな人がいるのも驚きである。また飯館村でも強盗まで働いた議員だった人がいたのである。そんな人が議員になれることも驚きである。その人は前から悪事を働いていた。でもそれにしてもあまりにも凶悪だったとなる。そんな人が議員になれるということもあるのかと思った。

何か外から来る人にわ信用できないことがある。ただ南相馬市とかでは津波とか原発事故があり工事関係者の人が大量に入ってきた。その中にはヤクザもいて入れ墨をした人たちも入ってきた。それで治安が悪くなっていたのである。ただ介護施設でも暴力団関係が経営していたとかも他であった。そうなると介護施設でもそんなところに入ったら危険だとなる。やはり地元の人で知っている人だと安心だとなる。ただ地元の人だからといって今や信用はできない。そのことを自分も被害にあったのであいた書いた。

何か南相馬市とか原発事故周辺浪江でも大熊でも乱れてしまったのである。多額の補償金でもそれを遊びに使ったとか女に使ったとか復興のために使われたわけでもなかった。その生活も乱れた人も多かったのである。飯館村で強盗した人も娘と一緒に暮らしていたのだがそれが別々になりさみしくなりそれで事件を起こしたともなる。何か知っている人でも小高の人でも詳しいことは分からないにしても妻と離婚したりして一人になって何かそこで寂しくなったりして不安定になっている。原発事故とかで家族でもバラバラになったりしているからである。でも飯館村の議員は考えられない人であった。そんな人が議員になっていることが信じられないとなる。

飯館村でもおそらく他より補償金多くもらっているから金銭感覚が狂い乱れた人がいたかもしれない。それでNHKで津波の被害者と原発の被害者が同じ仮設に住んでいるとかビルに住んでいるとそこで争いがあった。原発被害者は補償金をもらっているが津波被害者は補償金をもらっていないからである。でもNHKでは原発被害者の方に立っていたのである。その報道は不公平なものだったのである。相馬市に避難して仮設に入った飯館村の人がハウスのトマトの栽培なのかそこで働きたいというとき相馬市の津波被害者は優先された。でもその事をNHKではその業者を冷たいとして批判していたのである。

でも津波被害者は補償金を多額の補償金をもらっていた。一方で津波の被害者は補償金はもらえなかったから津波被害者を優先して雇うのはそういう配慮もあってそうしたのだ。だから何も冷たいということはなかったのである。その報道がなぜ問題かというとNHKで報道したからそれも全国に報道されるするとなぜ原発事故の被害者の飯館村の人を雇わなかったのかということでそれが雇わない経営者に批判が全国からされることになったからである。。だからNHKというのは国民から信頼されているからNHKが報道するなら正しいとなるからそこに大きな報道の問題がある。

ただインターネットができてそうしたNHKでも盛んに批判する人たちが増えてきた。それからなかなか批判できない創価なども辞めた人がユーチューブで訴えている
今まではそういうことができなかった。なぜなら創価などは大手の新聞社は全部に聖教新聞を自社で刷らせて批判させないようにしているからだ。今やマスコミというのは常に批判の対象になっているのである。ユーチューブで簡単に放送局作り報道できるからである。創価でも批判できなかったが批判している

政経東北にしてもなぜ放射性物質の除染で大儲けした相双リテックの宣伝を裏表紙でしていたのか。その幹部たちが何億という金を山分けして銀座で遊んでいたという。
とにかく原発事故でわ補償金問題で巨額の金が流れてその金が必ずしも有効には使われていない

何か遊びで使いなくなった人もいる。それで南相馬市の鹿島区のコンビニでーで強盗した人がいた。その人は双葉の人だったと言うことをきいた。双葉だったら相当に補償金をもらったはずだからそんなことありいないと思った。でも大金が入ってギャンブルなのか女なのか何かわからないけど使った人がいたということかもしれない。それは他でも聞いているし高級車を買ったというのは相当数いるから間違いないだろう。

だから別に補償金の復興のためになったということはなかった。でも現在は金なくしてはありえない時代である。日々の生活に事欠く人が補償金が30万ほど入るからと金を貸してくれと言われて貸したからである。それは裁判で勝った結果の補償金である。ただこの補償金も南相馬市なら小高原町鹿島で差があった。原町区は鹿島区の3倍だった。小高は別格であり4人家族だったら一千万くらいになるというから驚く。ただ小高は原町区とか他に移り住んだ人が多い。だから小高はもう維持できるのかと思う。小高を復興とするというより補償金で他に移った方がいいとなっているからである。ともかく補償金が復興のためになったとはならなかったことは確かである。それで水俣病の公害訴訟でも同じことがあり地元の人が報告していた。いったん公害になると終りだと言っていたからである。


政経東北がweb化したことはいいことである。やはりより身近になるからである。ただ詳しくは本を買わないとわからないのである。

posted by 天華 at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

Heavenly and Japanese gardens.(天国の庭と日本の庭)

Heavenly and Japanese gardens.(天国の庭と日本の庭)


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石に座っている人は外国人であるのが不思議

Strange that the person sitting on the stone is a foreigner

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イメージクリエーターの著作権はやはりこのソフトを開発した会社にある。というのは文章を入れたとしてもそれが何か自分で創作したと思えないからである。
簡単な文を入れるだけでありそれが創作にはならない、私が前にしてきた他人の絵や写真を変化させたものは結構苦労があった
操作するにに苦労があった。でもこのイメージクリエーターではそんな苦労も感じない、つまり自分が苦労して創作する感覚がないのである。
だからこれを発明した人が会社が著作権でも持つとなる。商業利用するとなるとそうなる。
ともかく芸術の分野でもコンピューターがかかわっている。
だから絵の素材で金をとっていた人は失業するともなる、他でも人間よりすぐれているとなるとそうなる。

The copyright of Image Creator still belongs to the company that developed the software. This is because even if you put in a sentence, it doesn't seem as if you have created something yourself.
I had a lot of trouble with my previous work, in which I changed other people's pictures and photos.
It was difficult to manipulate. But with this image creator, I don't feel any such difficulty, in other words, I don't feel that I have to work hard to create.
So the person who invented this would be copyrighted by the company. This is the case when it comes to commercial use.
Anyway, computers are also involved in the field of art.
So people who have made money from drawing materials will lose their jobs, if they are superior to humans in other areas.

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)


画像生成AI “クリエーターの権利脅かされる” 法整備など提言
Image-generating AI "threatens creators' rights" Proposals include legislation.



他人の絵など変化させた私の抽象画も問題なのか。でもここには創作的なものがあった。でもイメージクリエーターには創作的なものを感じられない。
それは一体誰が創作しているのかとなる

Are my abstract paintings that have been altered, such as other people's paintings, also a problem? But there was something creative here. But I don't feel anything creative in the image creator.
It becomes, who the hell is being creative?


2023年09月13日

なぜ会津が古代から東北で大きな勢力となっていたのか (山側から発展した日本−地形から見る日本)


なぜ会津が古代から東北で大きな勢力となっていたのか

(山側から発展した日本−地形から見る日本)

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秀吉の文禄時代に日本全国で検地が行われた。新地にある文禄の碑は伊達藩で記念に建てた。




会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね (「万葉集」

秀吉の奥州仕置により
蒲生氏郷に広い与えられし会津の領土
七層の黒川城の威容映えぬれ
近江より来る才智優れた武将の氏郷
戦国の世悲しくも若くして花とちり
会津若松の栄の礎となる

東北歴史を見るときなぜ会津を古代でも大塚山古墳から三角神獣鏡は唯一発見されたのか?会津が古代でなぜ大きな勢力を持っていたのか。それはやはり縄文時代からの継続として日本では山の方が生活はしやすいからだった。
日本では平地の方が暮らしやすいと見えるは実際は平地は湿地帯であり暮らしにくかった。だからなぜ飛鳥が最初の日本の国の起こる場所だったのかとなる。

天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は

それはの歌のようにかもめが飛んでくるところでありその前は奈良盆地は湖になっていた。そして大阪湾でも広くそれが奈良盆地までも海として通じていた。
つまり平地あったとしてもそこは湿地帯であり住むことができなかった。するとどうしても生活する場所は山の方になるのである。そして山では焼き畑が行はれていた。
そのために秀吉の奥州仕置で厳しい検地が行はれた。会津ではそのとき焼き畑が行はれていてその焼畑にも検地があって税が課せられていたのである。それに反抗して一揆があり農民がかなり死んでいるのである。その焼畑に税をかけられることは非常に厳しいものとなるからそうなった。だから検地というのは歴史的に大きな出来事だったのである。その検地によって日本は戦国時代終はりにして日本を統一して一つの国家として形成されたともなる。そこには農民の犠牲の上に成り立っていたのである。

秀吉の時代はこうして奥州仕置きで検地が行はれた。それでなぜ伊達藩の領地であった新地に文禄の碑があるのか。文禄時代に秀吉によって厳しい検地が行はれたからである。その記念として文禄の日が遺されたのである。他にも全国隅々に検地が厳しく行はれて税がは徴集されたのである
ただその厳しい見地から逃れて税金を納めないようにと隠田が行くられた。日本は山が多いからそういう場所が隠れた田を作りやすかったのである。こんな所に田があるのかとあり隠田が多いのである。するとそこで検地から逃れた隠田にもなる。でもそれが見つけられると厳しい罰が課せられたと言うことがあった。
信長は武力によって天下布武を成し遂げた。秀吉は検地とかでて財政基盤を築き日本統一を成し遂げた。それは必ずしも武力だけではなく財政面での日本国家の統一を成し遂げた。そして朝鮮出兵するということは日本国家の統一をなしてそれだけの財政基盤ができたからそういうこともできた。

秀吉の時代に相馬藩と石田三成が関係して実際に相馬藩内にきていた。そこは自分の住んでいる近くだった田中城があった所である。

相馬 利胤 は、江戸時代前期の大名。相馬義胤(第16代)の長男。陸奥相馬中村藩初代藩主。初名は三胤、のち蜜胤、利胤

相馬藩主初代となる利胤は、天正9年(1581年)に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれた。
烏帽子親であった石田三成の一字を賜って初名を三胤といったが、これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、それ以来三成と昵懇であったためであった。

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野馬追いに出ていた石田三成の旗印


ともかく今から考えるとなぜあ山の国の会津は東北で最初に大きな国になったのかということである。それは群馬や栃木の毛野が大きな勢力を持ったこととも通じている。
南相馬市の鹿島区に浮田国造が置かれたのもそうである。それは毛野氏系統だったのである。だから会津でも毛野氏でも山を生活基盤としてそこが大きな力を持ったのである。それは日本は平地があったとしてもそこは湿地帯であり沼地であれ湖でもあり住むことができなかったからである。

福島市でも盆地があり平地が広いなそこは湖であったとされる。だから広い平地があってもそれを今のように田にして利用はできなかった。だから日本の地形からして田んぼでも山の斜面に棚田は作られた。それが県(あがた)となったのである。そして日本で野とは山の斜面のことであり平地のことではない。それが日本の地形の特徴なのである。飛鳥も広い平地ではない段々畑のような地形でもある。ただ藤原宮となると平地になってくる。そして平城宮となると国のまほろばになり広大な平地となる。

いずれにしろ会津は山また山が重なっているのでその地理が分かりにくい。山にしても2000m級の山もありこの辺の地形とはあまりにも違っているので。その奥に尾瀬のように湿地帯があり花々が咲いていたりする。また古い沼にはり神秘的な花が咲いている。そういう風景はこの辺では見られないのである。だから山が多くて地理がわかりにくいのである。会津の地理をしることはそれだけ難しいのである。

会津なる山々重なり奥深し秀麗なる一つ秋のくれかな

福島県というときその半分が氏郷の時代に会津量になっていた。ただ伊達政宗の領地が今の中通りに拡大した。それで伊達市となっている。そしてなぜ福島県になったのかそれも明確でないというのも不思議である。福島県になる前は会津県二本県磐城県が予定されていた。福島市は関係なかったのであるが福島に県庁が置かれた。その理由はやはり広い平野があり盆地になっていたからである。それもやはり地形的な理由だったともなる。なぜなら二本松の城は十万石であり山城でありそこに上ればその天守閣は高く一望すると安達太良吾妻山蔵王でも高い山々がつまりつらなりそこは一つの大きな国と地理的には意識する。だからこそ二本松県に予定されていたということが地理的に直感するのである。

二本松城の景

古風山城偲
天守一望景
桜椿錦染也
陸奥連峰観
安達太良迫
松寄信深情
太古重鎮成

磐城県は浜通りになるともともと古代から相馬まで磐城国だったのである。だからこそ南相馬市内に磐城太田という駅がある。それは古代からの延長としてその名が残ったのである。また浪江の高瀬川を上った葛尾村(かつらお)に磐城落合とかあり磐城とつく地名があるのは古代からので延長なのである。
浜道りは地形的には阿武隈山脈高原に遮られていて別な国となっている。ただ相馬藩と磐城藩に分かれている。新地が伊達藩でありそれも福島県になった。だからすべて地形によって国の作られるということはない。伊達政宗が支配したということで今でも伊達市がありそれは地形と必ずしも関係していないのである。

いずれにしろ福島県はもともと会津が国の始まりであり会津は一つの別個の大きな国だったのである。廃藩置県によってそうした地理的なもの地形的なもの歴史的に作られたものは一つにしたからそこに無理がありアイデンティティーが作れないということがある。やはり国の基本はその地形にあり形作られるからである。その地形を無視することはいくら科学技術が発達してもできない阿武隈山脈を取り除くことはできないからである。だから浜通りになるとどうしても太平洋側とつながり仙台の方位も交通が便利だからつながり福島市の方は交通の便も悪く電車もないから一つの国として意識しにくいのであ
ただ東北中央道が出来て車があれば福島市まで行きやすくなったから便利になったから今は違っているともなる。とにかく福島県は広すぎる。やはり国として意識するのはアイデンティ化するのは江戸時代の藩がそうしやすい。相馬6万石とかなると一体化しやす。でも伊達藩のように60万石となるとその範囲が広くなりい一体化しにくくなるのである。だからこそ日本では小国という地名が多いのは小さなせまい地域で人間でも一体化して住んでいたからそういう地名が生まれたのである。



posted by 天華 at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2023年09月11日

福島県の地理(会津)から韓半島の地理 (地理は現実にその場に立たない限り実感できない)


福島県の地理(会津)から韓半島の地理

(地理は現実にその場に立たない限り実感できない)

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●地理は基本的に変えられない

地理を分かるにはその場に立たない限り分からない。地理は地図をいくら見てもわからない。つまり地理はその場に一度でも立つとき実感する。ただ世界はあまりに広すぎるからとてもその場に立ったとしても実感することは本当に難しい。
例えば私の住んでいる福島県の浜通りは阿武隈山脈というか高原に遮られて福島市の方はまったく見えないのである。だから地理的一体感を持てないのである。むしろ男鹿半島とか金華山とか原町市からも鹿島区からも山に登ると見えるのである。
そして鹿島区の山に登ってみたとき近くに大きく男鹿半島は迫って見えたのである。すると男鹿半島とか金華山は身近なものと感じるのである。でも阿武隈山脈と高原に遮られてて福島市は見えない。だから吾妻山も見えないのである。するとどうなるかというと何か常に阿武隈高原に遮られて一体感が感じないのである一体感がもてないのである。
でも阿武隈山脈を取り除くことはできない。結果的に人間はいくら文明が発達しても地理は変えることができないのである。

地理的制約を克服できないのである。ただ山があればトンネルを掘り川があれば橋を渡しどこその地理的制約を克服することはできる。でも基本的に阿武隈山脈取り除くことはできないのでどうしても福島県とあっても地理的一体感を感じないのである。人間はやはり基本的にその土地と一体感を持つのはやはり狭い範囲なのである。だからこそ日本に小国という地名が多いのである。その狭い範囲が一つの国と認識していたのである。

どうしても範囲が広くなると地理的一体感は持てない。だから人間は基本的に地理的一体感を持つところが国となっていたことは確かである。だから福島県はハマナカアイズと三つ分かれている。でもそれが地理的一体感を持てないのである。そこで福島県は何か地理的に分断されて意識的にも一体感が持てない。それは明治維新で無理やりに行政区域として人工的に県を作ったからそうなったのである。

●会津は地理的歴史的にも別な国

だから会津はもともと一つの別な大きな国だった。だから会津県がありまた二本松県がありまた浜通りの磐城県があったということになる。それそれを無理やりに福島県にしたのである。だから福島県は広すぎて一体感を持てないのである。
福島県だけでなく明治維新後は県にしたがそれが地理的一体感など関係なく区切ったからそこに問題が起きた。ただ山形県とかなると面白山でトンネルをくぐると山形県に出る。山寺に出るがそこは山形県なのである。また山形市から峠駅ありりそこを下ると福島市福島盆地に出る。それは境としてわかりやすいのである。でも宮城県と岩手県の境はわかりにくくなる。平泉が岩手県になっても宮城県から平地になっているから境を感じないのであ
る。
地理で大事なのは境界である。なぜなら境界があって地理を認識するからである。それで大陸でわは川が境界となる。ローマ帝国はゲルマン民族の住んでいるドイツ侵攻したがそこにドイツの父なる川としてのライン川がありそこが境界となり遮られて侵略できなかった。そのことが現代のにも通じていた。クライナ戦争で理解した。
ドニエプル川を挟んで攻防があったからである。その川を渡り進行すれば支配地を拡大できる。でもその川を渡るのは難儀でありさえぎられるのである。それは現代の科学技術が発達しても同じだったのである。ドニエプル川を挟んでとロシアは対立してその川を越えて支配地をを広げる。川は境界となっていたのである

このように地理は戦争でもそうだが日々の生活でも地理から離れて人間の生活はないのである。例えば峠という漢字は日本の国字であり中国などにはないのである。というのは日本というのは山が多く当然そのために峠が多いからそれが国字となったのである。

●海がない山国の会津の地理の不利

例えば会津になるとなぜあそこに東北で最大の大塚山古墳があり三角縁神獣鏡金が唯一出土したとしたのかとなるとやはり日本海と関係ありまた山伝いで信州からの影響はあった。また毛野氏が大きな勢力を持ったのか。その毛野氏が私の住んでいる南相馬市の鹿島区浮田国造が置かれた場だったらである。だから常磐高速道の道路のSAにその神社はが祀られている。
でもなぜ毛野氏がこの地に関係したのか。なぜ毛野氏が大きな勢力を持ったのか。それは縄文時代は山の方が生活の根拠でありそれで勢力を持っていたとなる。飯館村に縄文中期の古い遺跡があるという時もそうである。山側のほうは日本では古い。
関東平野があっても湿地帯になっていてそこで米を作ることが最初できなかった。大概日本では平地は湿地帯になっていたからであうる。それで米作りでも山の斜面の県(あがた)で作っていたのである。
例えば会津と言う時山国であり明治維新になぜ薩摩長州に攻められて苦しめられたのか。それはやはり地理的要因が大きかったので。なぜなら明治維新は実際は七つの海を支配した大英帝国は深く関わっていてその後押しがあって明治維新がなされた加治将一氏は書いている。

明治維新はアメリカの黒船が来てイギリスは薩摩と海戦を行ないイギリスの船が日本列島回遊して行っていた。そして太平洋を回り函館に来てそれから新潟の方に回った。新潟も函館と同じく外国船が入る港になる予定だったのである。

1867年まず倒幕工作はし上がってゆく。起動させたのはやはり軍艦だった。イギリスの二隻の軍艦が宮城沖を北上しそこから東北の沿岸を丹念に睥睨しながら秋田沖を南下新潟港に入港した海洋新潟あたりをうろついたのは東北北陸諸藩に対するプレッシャーもさることながら新潟の背後に居る幕府の番犬会津藩をにらんでにことである。地方に軍艦お見せの庶民に衝撃が与えるのは一つだ(加治将一あやつられた龍馬)


会津は海に面していないからそのイギリスの船も観ていない。そのために時勢を知ることができなかったとなる。ただプロイセンと一体化して北海道で会津藩が防備することはあった。だから外国と関係しないということでわなかった。プロイセンはドイツであり陸の国ランドパワーの国だった。でも地理的要因で時勢を見ることは誤ったともなる。それは二本松藩とかでもそうだった。だから明治維新でも地理的要因が大きく作用したのである。だから歴史を見るとき地理を知らないと具体的に実感できないのである。

明治維新は最初に黒船が来たように海をめぐってのめぐって外国と戦い外国人を入れてそれで明治維新がなったのである。それを象徴しているのは船中八策とか船の中で坂本龍馬が考えた新しい日本の羅針盤となるものであった。つまり何か常に明治になっ海に囲まれた日本がその海は江戸時代は鎖国で閉ざされていたがその海を通じてまた外国開け外国人受け入れて明治維新がなったのである。

つまり大航海時代から既にシーパワーは世界を導くものとなりそのシーパワーの先導役の船だったのでだから薩摩でもイギリスの海軍と軍艦と戦ってイギリスの力を身をもって知ったのである。でも会津となると海もないし新潟までイギリスの船が来てもそれを見ることもできなかったのである。そして山に閉ざされた世界で日本から日本も外国も見ていたから遅れたとなる。だから地理的要因がそうさせたと思う。ただこれまで明治維新というのは日本人の力だけで成し遂げたとかして日本人はすごいということがここから始まっていた。でも実際はイギリスとかは深くかかわって成し遂げられたものだったのである。でもほかの国はみんな植民地化されたのだからやはり日本は外国の影響があっても独立していた唯一のアジアの国だったともなる

●済州島の漢拏山の位置

ともかく地理を実感として知るにはその場に立つことである。一回でもその場に立てば地理をある程度実感できる。そして地理を実感するというときその範囲は限られている。
旅してわかったことは日本だといかに韓半島があたかも日本国の延長のようにも感じた。例えば済州島の漢拏山は2000mもの高さがありそこには登れなかったがもしそこに登れば中国を望み韓半島を望み日本を望むことになる。その時意外と韓半島は日本の延長のように思うしまた韓半島から見れば日本は海に遮られても陸続きのようにも感じるのである。そこに韓半島の不思議があった。

済州島漢拏山より

済州島の漢拏山に春風吹き
その高き山を仰ぎ見る
中国を望み韓半島を望み
日本を望み一体となる
地理は神が創り歴史を作る
地理を知らずして世界を知り得ない
汝は今春風を受け海を望み
済州島に立ちアジア創世の地理を体得す
視界を広げよ世界に東西南北に
太陽は未だ知らざる所より昇り沈む

A spring breeze blows over Jeju's Hallasan
I look up at that lofty mountain
Looking toward China and the Korean peninsula
I look to Japan and become one with it
Geography is God's creation and history's making
You cannot know the world without knowing geography
You now catch the spring breeze and see the sea
Stand on Jeju Island and learn the geography of Asia's creation
Expand your vision to the world, east, west, south, north and south
The sun rises and sets from places yet unknown


●百済武寧王陵を訪ねる

「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」

と記され、王の生没年が判明する貴重な史料となっている。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキ(高野槙)と判明したことも大きな話題となった。このほか、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土し
武寧王は第25代の百済の王(在位501〜523年)。名前は斯麻、又は隆。
『三国史記』によると百済第24代東城王(479−501)の二男。
『日本書紀』によると、倭の加唐島生まれで東城王の異母兄。
異説では第21代蓋鹵(こうろ)王(455−475)の息子。
殺害された東城王の後を継ぎ40歳で即位。
高句麗に攻められて滅亡寸前の百済を建て直し、
民生安定、国力伸長の成果を挙げた百済中興の王です。

武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている[2]。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には百済の末多王(牟大、東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王としたとしている

春武寧王陵

日本征人来
武寧王陵立
大河岸春草
銀匙使優雅
煉瓦精緻組
中国南朝産
百済栄交流

武寧王陵は大きな河の岸辺にあった。その煉瓦造りであり銀製の匙とかが残っていた。武寧王と日本の関係は伝説化しているが事実である。その大河のの岸辺に立ったとき中国の方を望み地理的に通じ合っていること実感したのである。
それは中国が南朝の時であり中国の文化が入ってきて煉瓦造りの墓がここに作られていたのである。つまり韓半島というのは地理的にも日本と一体感を感じてそれが中国への通じている。だからいかに韓半島が日本にとっても中国にとってもそれが一つの橋のようになっていたのである。そこで日本と唐が争ったというのも理解できるしその後もなぜ韓半島が日本であれアメリカであり対立の場になったか地理的要因が大きいものだったのである。

地理というのはあくまでもその場に立ち実感することが大事なのである。ただ世界になるとあまりにも広すぎて実感することは不可能である。それゆえに地理に関しては常に誤解は生まれるのである。

2023年09月10日

秋になっても暑い(ノウゼン、白菊、涼しい、秋の蝉)


秋になっても暑い(ノウゼン、白菊、涼しい、秋の蝉)

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ノウゼンのここにも一軒なお咲きぬ

民宿にキュウリの花や今日も見る

竹一本白菊添えて主かな

川の音夜風涼しくひびきけり

蝉一つ屋形に鳴きてその声を聴きつつ暮れぬ秋となるらむ

灯ともらぬ家の淋しやその人のまた入院や秋となりしも


まだ暑くて秋がなくなったとかなる。昨日も暑かったのでぐったりした。今日もやはり蒸し暑くとても秋とはは思えない。ただ虫は鳴いている。だから虫が結構鳴いていることは虫はやはり秋を告げている。
でも実際はまだ夏である。だからノウゼンの花が依然として咲いている。ほかの家にも咲いていた。それが依然として夏だと感じる。やはりそれなりの家があって人々が住んでその花も映える。避難区域になったところでは空き家が増えたから花でも映えない。やはり人が住まないと花も映えないことがある。

暑いからすぐ近くの川の岸辺を散歩した。すると川の音が響き夜風が涼しい。それは依然として暑いからである。何か蒸し暑いのである。この暑さはいつまで続くのか。ただセミの声も少なくなっている。だから虫とか蝉はやはり秋をよ感じているのかもしれない。 屋形というときそこに生まれて今も同じ街に住んでいる女性を知っている。

暑いので自転車だと陽射しをまともに受けると熱中症にもなる。
だから今年は本当に原町でも相馬市にも行っていないのである。それだけ今年は暑かった。そしてまだ暑さは続いている。

ただ最近周りを歩くと本当に家は壊されたり空家が多い。遊ぶ子供の声も聞こえず跡継ぐ人もいなくなっている。それはどこでも同じである。八沢小学校廃校になった。そこに体育館もあり運動場もある。そこを何に使うのかとなる。廃校はすでに全国に増えて問題になっている。ただ矢沢小学校は廃校になってもすぐ近くに小学校があるから大して困らないのである。

近くの知っている人の家は灯が灯っていなかった。その人は糖尿病で病院に入ったり出たりしているからまた入院したのかと思う。何か老人は病気の話でありそれで盛り上がる。とにかくこうして老人と病気の人が増えてくるだけなのである。それと空き家も増えてくるだけなのである。それが日本の今の現状なのである

生け花というとき何かやはり工夫が必要である。それで竹一本を切ってきて花瓶に挿した。そして白菊挿した。それは秋にふさわしい。今家を守っているのは自分一人だけである。




日本語の謎ーわかる分け合う分かち合うの意味 (日本に小国の地名が多いのはなぜか)


日本語の謎ーわかる分け合う分かち合うの意味

(日本に小国の地名が多いのはなぜか)

●日本語はなぜ孤立語なのか

日本人の起源をいろいろ言われるが一番の謎は日本語なのである。日本語はどこの言葉とも共通性がない孤立語なのである。だからそもそも日本語というのは縄文時代からのものもあり古い起源のものでありそれがどこの国とも共通性がないということは日本語こそが日本人の独自性を語るものともなる。
なぜなら言語からその人種の国の起源を明らかにすれば印欧語とかはアーリア人の言葉であり共通しているからである。英語は明らかにドイツ語を起源にしている。だから習得しやすいのである。でも日本語はアジアでも共通性がないのである。
ただ漢字とかは中国から入って来たものでありその前に日本語があった。文字がなかったとしても日本語があった。つまり文字は文明が起きたところに必ずある。文で明らかにするということでそれが文明にもなっているからである。だから文字がないところは文明なのかとなる。ただマヤとか文明には文字はなかったが文字に類するものはあった。だからそこも文明があったとなる。

いずれにしろ日本は日本の文明は歴史は海に囲まれて大陸から切り離されて独自の世界を作ったということである。でもイギリスも島国であるがドーバー海峡は比較的大陸に近い。泳いで渡ったりした人もいた。今になると海底トンネルもできている。だからヨーロッパ大陸と海で隔てられても一つのように繋がっている。そしてヨーロッパの王様でもイギリスの王女と結婚したりしている。日本の天皇は韓半島であれ中国であれそこから女性を結婚させるということがなかった。

●韓国語と共通性がない日本語

そして言葉にしても韓半島の言葉との共通性がない。確かにオモニとなると母だから韓国と共通性がある。でもそれはほんの一部であり発音でもなんでも違っているのでは。だから韓国と共通性が言葉の面でもないのである。だから一体日本語というのはどこを起源しているのかわからない。それはその言葉が古く海に閉ざされた中で独自に発展したのかとなる。でもその手がかりとして日本語の意味を解読することになる。

ちはやふる神のみ坂に幣奉り斎ふ命はオモチチがため

このオモが韓国語のオモニと共通性がある。ただ韓半島でも南と北では相当に違っている。日本に影響したのは伽耶国があった南である。
オモから主なものとか面になり重いとなり共通性がある

●分ける分かち合うわかるの語源

例えば分けるということがある。分かつとなり分かち合うとなる。わかるということは分かち合うことでありそれで互いの人が理解し合い結びあうということにもなる。恵みというのもめぐるであり恵みはめぐるのである。
例えばインドネシアの方で鯨を捕る海の民がいてその鯨を山の民に持って行ってわかちあいお互いに結びあうということがあった。それがもともと商業の始まりであり山の幸と海の幸を互いに分かち合うということで一体化したのである。
それが儀礼となり祭りともなったのである。だから商売とは先に人間が友好を示す贈り物から始まったという説がある。
今のように利益だけを求めることではなかった
言葉はそもそも孤立してありいない、人間が共同するために生まれた。英語でも前に接頭語にcoとつけば共同することだからである。

そもそも縄文時代とかは狩猟採集であり生活している範囲が狭いから互いに獲ったものでも分かち合うことでわかり合うことだった。それは稲作社会でも弥生時代になっても生活する範囲が狭いので共に働き分かちあい暮らすほかないからそこに村の共同性が生まれたのである。
このように一つの言葉をとってその意味を読み解くとやはりそこに当時の暮らしがあってその言葉が生まれている。言葉もやはりその暮らした環境とかその風土とかと切り離してはありえない。だからその取れたものでも獲物でもともに分け合いわかちあい分かり合うということが生まれたのである。
逆に世界が拡大して行くと確かに外国から地球の裏側からも物が入ってくる。それは悪いこととは言えない。でもそこに共同性が生まれるからとなると生まれない。何か分かち合うという感覚もないからである。金があってただ買うという感覚しかない。そこで協同性は生まれにくく何か関係が悪くなると争いになり戦争になるのである。

さあ獲物がとれた
鹿が猪が取れた
魚がとれた
みんなで分かち合い食べよう
平等に分かち合い食べよう
ここに平和がある
人々は分かちあい分かりあう
そこがそれぞれの国となる

●小国という地名が多いのはなぜか

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なぜ日本に小国という地名が多いのか。それはやはりせまい地域で自給自足してわかちあい分け合い割合生きて生活していたかもだからだろう。

隠口の長谷小国に夜延ひせす吾が天皇よ・・・

この万葉集の歌でも隠口(こもりく)というとき入野でもそうだが山間の分け入る奥に長谷がありそこに小国がある。

とにかくなぜ日本に小国という言葉地名が多いのだろうか。それはやはり狭い地域が一つの国と待っていたからだろう。そのせまい地域で他とあまり交流がなく地球自足的生活をしていたからだろう。この辺でも霊山を越えたところに福島市の方に行くところに小国がとありそこのバス停で降りたことがあった。

バス降りて小国やあわれすみれかな

こんな風にもなる。やはり旅する時でもその地理でも地名というものからイメージするとわかりやすくなるのである。

雪閉ざすトンネルぬけて小国かな

青森県の黒石市から温川温泉(ぬるかわ)の宿に泊まった。トンネルをぬけて小国があった。それは相当に山の奥である。まさにこうして雪に閉ざされたところにも小国がある。隔絶した地域にも小国がある。
そこにどういう暮らしがあったのかやはり交通がなければ狭い地域で閉ざされて自給自足するほかなかったのである。

●グローバル経済では分かち合う分かり合う世界にならない

ただグローバル世界になるととてもそんな感覚は消失した。分かち合うというより奪いあうとなるそれは力づくでも奪い合う戦争となったのである。
なぜなら大航海時代というのがありそれで世界にヨーロッパが進出した時それは奪うということである支配するということでもある。世界中は植民地化されアフリカでは奴隷として売られたからである。
だからグローバル化というのは戦争の時代でもあった。それは基本的に他国を支配し奪うということがあったからである。確かに貿易はないものを補う会うということが基本にある。

でもその反面どうしても奪うということがあり支配するものと支配される。だから縄文時代が理想化すればそうゆう奪い合いというのが少ないから平和であったと理想化されるのである。そもそも縄文時代が1万年も続いたというのはやはり狭い世界でも争いがなかったからだともなる。その平和な時代に育まれたのが日本語かもしれない。だから日本語の意味を解読して行くとそこにその生活が反映されているから分け合うとか分かち合うとか分かり合うとかど言葉がそういう生活から生まれたということにもなる。

●印欧語にはもともと秋がなかった

ただ別に日本語だけでなく外国語でもやはり言葉の基になる生活があり例えばドイツ語に秋という言葉がないのは狩猟民族だからとしている。農耕民族だったら秋は収穫の季節であり秋がないということはありえないからである。狩猟民族だったら別にそういうのは関係ないのかもしれない。ただ主語が先にあり次に動詞があるのはやはり狩猟民族系統でありその生活が反映されてそういう文法になったともなる。
なぜなら常に主語があり動詞があるということは獲物を捕らえることが生活の基本としてあったからである。I catch a deerとなればそうである。どちらかというと言葉は狩猟民族由来のが多いことはは確かである。ただ日本は狩猟民族系統の言葉でもない。だから日本語自体がその起源が分かりにくいのである

1. Farmers usually harvest wheat in the summer.(農家は通常、夏に小麦を収穫する。)

(冬と春と夏は理解されていて、彼らはそれらの名称を持っている。秋の名称は、その実りと同様知られていない。)

ゲルマン語の四季の名称(文:下嵜正利)

harvestとはもともと収穫するであり秋という意味はなかった。なぜなら夏に小麦を収穫するとなれば秋ではないからである。ただドイツでは秋が短くすぐ冬に入るからだともしている。でもドイツに秋に行ったらやはり秋があり晩秋だった。そのとき赤いバラが散っていてなんとも言えない赤味を帯びていて心に沁みた

ドイツなれ色合い深く秋薔薇

別にドイツにも秋はありでもすぐに冬になる秋だとなる。国によって季節は違っている。最近日本でも暑くて秋がなくなったとかなるからである。





2023年09月08日

利から離れた場が教育には必要 (宗教も学問も学校も利と結びつき堕落した)


利から離れた場が教育には必要

(宗教も学問も学校も利と結びつき堕落した)

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青年の特権

青年は利を語るなかれ
これをやれば儲かる金になる得する
青年は利得を語るなかれ
青年は純粋たるべし
世俗の欲にまみれざるべし
青年は大いなる未来を語るべし
それは成らずとも語るべし
青臭くとも大言壮語でもよし
喧々諤々議論するもよし
とにかく利欲より離れてあるべし
純粋にその理想を語り目指すべし
それは別に成らずともよし
それが青年の特権なり
大げさなことと批判されても良し
確かに現実がすぐに突きつけられる
でも青年は未来を語るべし
なぜなら未来は青年によって作られるから
老人はただ過去を回想するだけになる
青年には大いなる未来がある
未来を創るのは青年であり老人ではない
だから青年の特権は未来を語ることにある
それが大げさでも非現実的でもいい
とにかく青年は未来を語り利得を求めない
ともかく青年は大望を抱くべし
それがならずとも抱くべし
それは青年の特権なり
いずれはその大望も挫折するとしても
青年は大いなる大望を抱き未来を語るべし
利得を離れてただ純粋に大いなる未来を目指すべし
それが青年の特権であり
神は青年に永遠の命の霊を与える
その時青年は神を知り神の子となる
その先の人生も挫けることはない
神は汝を導き天の国に引き上げる
神の懐は深く大きい過ちも赦す
紆余曲折があっても神は汝を神の国に導く
神に敗北はなく勝利のみがある
汝を再び神の天地創造の技を見る
全能の神の技は尽きることはない
その大自然が神殿でありさらに天にに真の神殿がある
そこに聖徒たちが集い天使が神を賛美する
さらに神は驚くべき技を行うだろう
新しい天と地を見る
人はかくて神を讃え神と共にあり永遠の都に住む
朽ちざる都がありその成すことは虚しくはならない
そこに誠の実りがありその実りを刈り取る
そして神にその実りはは奉げられる
神と結ばれて栄があり神を離れて栄はない
永遠に讃えられべきは一なる神なり
その光は闇を払い消えることはない
永遠の光明のなかにあり悪は見ない
神を見たものはその神々しさに倒れる
全知全能の神を畏るべし



●明治から立身出世も学問となった

教育でもなぜ歪められたのか。それはすでに明治時代から始まっていたのである福沢諭吉が学問のすすめを書いたけどもそれは学問でもって立身出世をする。それが学問の目的と化した。
そこからして学問というのが利益と結びつき一体化した。
学問とは立身出世のためであり何か真理とかを追求するとかではない。社会に出て立身出世するための学問である。
つまり学問と勉強とは社会で得する有利な地位に就く。そのための学問であり勉強である。だから慶応大学とかは学閥が強力であり社会を牛耳っている。それは利権団体として強固なのでそれで慶応大学に入ると就職するにも社会に出ても学閥が強力であり得するとなる。
こうしてその出発点からして歪められていたのである。ただ戦前の大学は全く今の大学とは違って本当に選ばれたエリートでありそれでそこに自由があり青春が謳歌できたのである。だから利だけではないデカンショデカンショとか世の中に出ても役に立たない哲学でも追求していたのである。つまり社会の利から離れた場として大学がありそこでエリートとして育てられていたのである

でも戦後は大学はそういうエリートではない。大衆化したとしたものとなっていた。講義をするにしても千人も入る講堂でするとか高校とはあまりにも違っていたので特に文系は暇つぶしの場であり遊びの場になっていたのである。
だからゼミに入っても教授とあったのは一二回しかなかったのである。教授とかでも何か教えないのである。だから大学というのは何だったのかと何かを教えられる場として入ってきたのだが教えることもないしただそこに自由な時間が与えられていただけなのである。
でももともと何かを追求するために大学に入ってはいない。大学に入れば何か得する社会に出ていいポジションを得る地位を得る。ただそういう利得を得るものとして大学にも入り受験戦争もあり本来の学問の目的など関係なくりの教育であり純粋に何か興味を持って追求するということもなかったであろう。
学生運動というのも戦前の特別なエリートは違った大学になった時起きた。大学は大衆化して起きた現象だったのである。つまり戦後はあらゆるものは大衆化してゆく。そこに今までの選ばれたエリートとか特権階級というものはなくなったからである。だから戦前の大学と戦後の大学はまるで変わったものとなったのである。

●戦後の民主主義は利を求めるだけ

そして戦後は民主主義となりその民主主義でもただ権利を主張して利を得ることが目的化したのである。そこに責任は無い。ただ利を追求することでありそのために教育もあり学校もあり大学もあるとなった。
とにかく人間というのは利と結びつくと歪められ金と結びつくと歪められる。でも子供の時は純粋に遊ぶということが仕事にもなる。それは利と結びつかないのである。だから遊ぶということはもともとは神聖なことであり神は遊ばされるとなる。つまり神は利から離れて遊ばせられる聖なる存在なのである。

神社でもそこは賽銭箱があって利を得る場所になった。そもそも宗教はこの世の利から離れる場所としてあった。でもこの世にある限りそれも不可能であり利と結びつきついにはただ御利益を追求するような場となったのである。
カルト宗教団体となるとむしろ信者を集めて組織団体化して利権団体となり政治団体となり権力を得るためのものとなり完全に利益を追求する団体となったのである。カルト宗教団体は共通しているのはその内部でも出世争いがあり権力争いがありしのぎを削っている。そこは世俗的な場よりさらに世俗的な場所になってしまったのである。ただ共通しているのは利求めることなのである。

大衆化した宗教であり大衆化するということは利益を第一にすることである。利益というのは誰でもすぐに理解する。発達障害の人が簡単な計算すらできないのに利に聡いのである。それは日々の生活の中でいかに金が大事なものか身をもって知っているから金のことを第一にして理解しているのである。
つまり面倒な理屈などなくても知らなくてもいい。どんな人で学がなくてもこの利益だけは理解する。得することは何かを理解する。だから今の宗教はすべて御利益宗教なので利益になる得すると吹き込む金になるとそういうことばかり指導しているのである。だからこそあれだけ人数が増えてくるのである。難しい理論は一切必要ない。ただ利を説くだけなのである。

●教育する場の喪失

要するに大衆化した社会ではもう教育する場というのはなくなった確かに学校はある。それも必ず利益と結びつき利益を得るための学問であり勉強なのである。学校では常に試験がある。その点数を上げるための勉強なのだがそれもただ利になるからそうしているのである。それから逃れられないのはその学生が悪いというのではなく第一親がそう強いてるからである。親もまた常に利を求めているから得したいから子供をそうした得する場に楽に稼げる場に地位を得ること望むからである。だからいくら利から離れた教育をしようとしてもできないのである。

ただ教育というときそうした一部のエリートがしているものではなかった。教育というのはそもそも実用的なものであり何か高等な哲学などは普通の人にとって関係ないものだったのである。職人だったらその技を身に付けるものでありそれはあくまでも社会に出て稼げる力をつけるためにそうしていたのである。だから私の父親は明治生まれであり酒屋で丁稚奉公していた。
それで私も家で店を始めたとき絶えず配達とかさせられていたのである。つまり父親は私を丁稚として見ていたのである。そしてそろばんを習っていたのもそのためである。それは丁稚には必ずそろばんが必要だったからである。でもそういう経験をしているから上の学校に上げたら楽だとして上の学校に上げてくれと言って中学のとき死んだのでは。だから教育ということ自体何か利益を得る社会でも有利な立場に立つそういう観点からしか観ていない。親も子供にそうした立場に立つことを望んでいるからである。

結局なぜ人間は教育でもなんでもゆがめられるのか。それは常に利がが優先され本来の目的がそれによってゆがめられるのである。子供の時に純粋に遊ぶという時そこにには関わっていない。でも大人になればそうして純粋に遊ぶということもない。遊ぶこと自体にも利が関わってくる。そこで本来の目的とは違ったものとなり弱められるのである。

カルト教団などは創価でもひたすら御利益であり後は社会的地位を上げることであり得することであり利益を得ることでありただそのために毎日祈っている。ほかの宗教でもやはり利と結びつき本来の宗教性は何もないのである。そこで語られるのはただ得することであり御利益を求めることだけなのである。だからそこで何か利を離れて未来を語ることなど何もないのである。

●子供と青年の特権は利を離れて未来を望むこと

子供の特権は青春の特権は利から離れて遊ぶことにあり青春の特権は利から離れて未来を語ることである。その未来を語るのは青年の特権なのである。もしかしたら荒唐無稽なことでもいいとても実現しない未来でもいいそのことを語ることが青年の特権なのである。
何か青臭くても良いし大言壮語でもいい。とても実現しない未来を語ってもそれが青春の青年の特権だとなる。そういう場があってもいいのだが今は必ず利と結びつきそういう場が失われたのである。なぜ青春は大事な時かというとそこが人生の出発点となり後々まで影響するからである。その出発点が間違うと人生そのものは間違ったものともなり得る。ただ青春の時はさまざまなことが一気におしいよせる。その性の欲望であれなんであれ一番膨れ上がりその欲望に圧倒されて肝心なものも見えなくなる。

でもなぜ若き時神を知れということが大事なのかそれは若い時しか聖霊を受けることはできないからである。なにか老人になれば悟りが得られる。れは確かである。理解できなかったこと何か自ずとと不思議に理解できるようになるのである。
でも青春の時最も血気盛んな時その時神を知らなければもはや神を知ることはできなくなる。神を知るということはやはり青年の時しかできない。だから青春時代に何か放蕩三昧にして節制しないと神を求めないとその後は得られなくなるし真善美の世界も見えなくなるのである。だからやはり人生の出発点が後々まで影響するのである。そしてあっという間に青年時代も過ぎてしまい老人になってしまうのである。

もう35になったら人生はあとは余禄だというのも分かる。40歳で白髪が生えてきたりするからである。それだけ人生は過ぎ去るのが早いのである。そして人生は夢のようになって終わる。「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」人生となってしまう。ただ今人生百年時代だから違っている。それでも人生は短いのである。それで職人であれ普通に働いている庶民であれなんで働いてきたかわからないという人が多いのである。何のために金をためたのかもわからないと言っているのである。別に知識人でなくても普通に現場で働いている人もそうなっているのである。空の空になてしまうのである。だからこそ若き時神を知れいうことが重要な教えとなるのである。出発点を間違うと一生も間違うとなるかっらである。

詭弁学者は自分の知識を営利の目的をもって諸都市を巡回し謝礼を得るためにさまざまな科学や芸術中でも雄弁修辞のの学問を売りさばいていた。彼らの学問の目的は純粋な真理追求ではなく実利を目的としていたそれは宗教にも言える宗教団体の勢力を伸ばそうとして政治的に経済的に実利を目指す芸術の分野でも思想書くというよりは本を書く制作するというよりは絵を描いて実利をものにする方に進む
離脱の思考ー上野霄里

つまり学問でも芸術でも宗教でもすべて利を求めるものとなった。そのことを厳しく批判している。それは批判とより激しい糾弾になっているのは上野氏の特徴である。それは原野に咆哮する野生の動物とも似ている。
とにかく社会は利によって歪められ本来の素心はなくなったのである。素朴なる心を失ってしまったのである。ただどこに行っても複雑に利益がー絡みあって利から離れられないのである。あらゆるものは利益を目的として社会は機能する。それは宗教でも同じである。宗教はすべてご利益宗教になっているのを見ればわかる。だからこそ宗教はカルト宗教になり大衆宗教になり堕落したのである。でも世俗で認めるのは本来の宗教などではないそうして堕落した利権化した利を求める宗教こそ大衆でもわかるからそれは巨大化してナチスのようにもなる。

つまり大衆がそうしたカルト宗教を作り出し利権化してただただ利益を得るためのものとなってしまったのである。だからそこに本来の宗教を目指すものは何もない。ただ利益を得ることであり権力や地位をあくことなく求めているのである。そして政治化した利権団体となれば批判もできなくなるのである。
現代は個人など認めない。それは拒否するべきものでありそもそもこの世に存在させられないのである。この世で大きな声になるのは必ず背後に利権団体があり宗教でも必ず組織団体がありその団体よ社会は認めたとえそうかのように完全な政教一致でも数が多ければ世間はそれに従う。なぜなら選挙はすべて数で決まるからである。そこに法律も何もないのである。そこから全体主義ファシズムとなったのはナチスだったのである。

●老人でも最後は神の国に向かって前進する

いずれにしろ人間の一生は不連続なものではなく連続している。だからすでに老人になったとしても老人の中に青春があり青年がある。それで青春でも老人の中によみがえる。青春の冒険精神お忘れるなという時人間の一生は連続しているからである。
ただどうしても若いときは無謀であり欲望が溢れて何か理解することにかけている。理解する悟るというのは老人になってからで。ただ私の場合は遅すぎたということである。 70以上になってからようやく理解するようになっているからである。すでに天才ならば若い時に芸術でも何でも理解しているからである。

自分の耳に目に芸術的なものまた美術的なものを触れ示いまだ多くの人が思いもかけない未発なもの蓄える力を養うということが大事です
老いゆけよ、我と共に  手島郁朗

そうして日々蓄えたものが老年になって実りとなる。とにかく人生は連続していてその出発点が青年でありだからこそ若き日に神を知れとなることが大事なのである。出発点を間違うと一生間違った方向に行ってしまうからである。
そういう人たちは集団組織の中に取り込まれて自らの個を失い硫一生ただ集団組織のために生きるロボットとなるのである。そして教祖を偶像化して教祖のコピー人間となり終わる。
ただそういう集団組織の中で利を追求するから利益にはなる。

でも最後にわ普通の人でもただがむしゃらに利益のために働き金を残しても何のために残したのかもわからないと言っている。それは別に集団組織のために尽くした人だけではない。それは最初の出発点が間違っていたからそうなったともなる。ただ利益しか求めていない。そして他者より優れているものとして這い上がろうとして必死になる。集団組織の中でも地位を求め激しく争うのそれはオウムでもそうだった。そこには理系の優秀な人たちがいてその人たちに負けたくないとして高卒の人がサリンを撒いたと言っていた。その内部でも熾烈な競争があり地位を得るために争っているのである。

とにかく人生は連続したものであり若き日のことは老人になっても連続している。別なものではないのである。人生はやはり日々生きたものはその人のものとなる。日日蓄えたものはやがて老年になって実りとなる。ただそれは天才の場合は別なので天才は別であり努力しなくても会得するものはあるからである。
私が参考にしたものは内村鑑三でありキリストの幕屋の手島郁郎であり直接学んだ上野 霄里氏となる。ただ上野 霄里氏は信仰者とは違う。天才思想家行動者哲学者でありキリストの信仰者ではないのである。だからそれのその思想を理解できるのはやはり天才だとなる。でも普通の人は天才でないのだから偶像崇拝化する危険がある。
そもそも師というのは問題がある。なぜならどうしても天才だともともと優れているものを持っていて努力しなくても備わっているからである。だからそれを真似ることは出来ないのである。でも普通の人でも神から聖霊を受けてそれによって神を知り神の国に入ることができる。主と共にそのその生は終わらないのである。その生はさらに天の国に向かって神の国に向かって進んでいるのである。だから真の成果は神の国にありこの世では成就しないのである。

離脱の思考 ー原生人間復権のための試論ー (現代神話シリーズ第4輯) 単行本(ソフトカバー) 上野霄里 (著),

老いゆけよ,我と共に: 手島郁郎英詩講話R.ブラウニング「ラビ・ベン・エズラ」に寄せて 文庫 – 手島 郁郎 (著)
posted by 天華 at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2023年09月07日

coffee shops in the forest by image creator (森の喫茶店)


coffee shops in the forest by image creator 

Bing Image Creatorの著作権
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商業利用を明示的に許可する文言は見受けられません。Microsoftに問い合わせるか、他の商業利用可能なジェネレーティブAIを活用した方が良いでしょう。

商業利用はできないのか? 何か著作権は商業利用する時問題になる。
何かこれは創作物とはならないように思える、なぜならただ言葉を入れて創作するのであり実際に創作しているのはコンピューターでプログラムを開発した人たちであり会社である。
私自身でもこれを使って絵を作り出してもそこに私自身が創作したという感覚がないからである。第一簡単な短文を書くことなど誰にでもできるからアである。
だから不思議であり一体創作しているのは誰なのかとなってしまうのである。

これまでの私の抽象画は誰かの作品を変化させて作っていた、それでも原画とかけ離れて見分けがつかなくなる。それも創作なのかとなる。でも原画から変化させたことがわかるとやはり著作権が問題になる。ただ私の場合商業利用はしていない、
一切プログを書いても金はもらっていないからである。広告もないからである。
いずれにしとchat gptでも著作権などどうなるのかわからなくなる。
創作しているのが誰なのかわからなくなる。人間なのかロッボトなのかわからなくなる。だからコンピューターは人間の頭脳と深く関係している。それが今までの道具と違ているのである。

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We do not see any language that explicitly permits commercial use; you would be better off contacting Microsoft or using other commercially available generative AI.

Can't I use it commercially? Copyright is an issue when you use something commercially.
It seems to me that it is not a creative work because it is only the creation of the words, and the real creator is the person or company that developed the computer program.
Even if I create a picture myself using this program, I do not feel that I created it myself. First of all, anyone can write a simple short sentence.
Therefore, it is a mystery to me, and I wonder who is the creator of the work.

My abstract paintings were created by changing someone else's work, but still they are so far from the original that they are indistinguishable from the original. I wonder if it is also a creation. However, if it is known that the work has been altered from the original, then copyright becomes an issue. In my case, however, I am not using them for commercial purposes,
I do not get paid for writing a blog. I don't even have ads.
In any case, I don't know what happens with copyrights in chat gpt.
I don't know who the author is. We will no longer know if it is a human or a robot. That is why computers are deeply related to the human brain. This is what makes them different from conventional tools.