2022年09月23日

秋の松島ー俳句短歌−写真 (松島は浄土、修行の場) (半年ぶりに行った松島)


秋の松島ー俳句短歌−写真

(松島は浄土、修行の場)


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松島は海と牡丹が似合うのか、海とともに栄えた場所となる

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(観瀾亭)

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五大堂

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瑞巌寺

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走り行く電車に映える秋桜

山鳩飛ぶ実り広がる仙台へ

(瑞巌寺)

禅寺の門や松島初秋か

金地にそ紅白の牡丹大広間

殿の座に金地に梅や匂うかな

中庭に石の配置や秋に入る

(観瀾亭)

秋涼し観瀾亭に茶一服

太き根の露に見ゆや秋に入る

(五大堂)

波静か五大堂古る秋鴎

秋涼し松に囲まれ五大堂

波静か洞の仏や秋に入る

瞑目す石仏いくつ秋に入る

地に根付き太き根っ子や里の秋


(瑞巌寺)

青苔に秋の日さして石仏の瑞巌寺にそ古りにけるかな

一匹の虫の音聴くや石仏の瑞巌寺にそ古りにけるかな

門の外海の碧くも島見えて秋の日あわれ歩む人かな

(五大堂)

銀色に水面きらめき五大堂松古り囲み秋の日暮れぬ

常盤木の松の緑に五大堂秋の日さして島々暮れぬ

(観瀾亭)

秋の日や石に根を張る木の太し茶一服飲む観瀾亭かな

・・・・・・・

石仏の重なりここに祈りかな秋の日さして跡そあわれ

松の影濁らぬ海に映しつつ石の仏に秋の日さしぬ

雲晴れて島々見えるうれしかな秋の鴎も一羽飛びくる

松島の緑うるわし島の間の波に浮きゆる鴨の群れかな

名も知れぬ小島一つ松島の奥にそあれや秋の日

老夫婦たずねてあわれ松島に秋の日さしてはや暮れにけり

松島に芭蕉泊まると千金の値にあれや秋の日暮れぬ

久々に仙台に来て花を買う五色の花や我が家に映えぬ

みちのくに住みて長しも点々と秋の灯ともり電車に帰りぬ



久々に晴れたので松島に行ってきた、ちょうど松島に来て晴れた、天気予報は午後から晴れるとあったが曇っていたのでどうなるか心配だった
天気予報はあたっていた、午後から3時ころから晴れてきたからだ
松島だったらいつでも行ける日帰りコースである
これも他から見たら贅沢だとなる、ところが名所でもあまりに近くにあるとその感覚がなくなる、いつも見れるし当たり前だとかなる
松島は遠くでは常に憧れの地だった、だから芭蕉も期待して来た、でも俳句が作れなかった、その理由はわからない、場所の泊まったという宿がレストランになっていた
その三階からのながめが良かった

松島はもともと修行の場だった、修行者が僧がここに集まったのである
瑞巌寺とか寺がありその領域は広かった、他にはひなびた漁村であり漁師くらいしか住んでいなかった、でもそういう場所でも相当数の修行者が僧が集まった
それで不思議なのはどうしてそういう人達は洞にこもり修行できたのか?
必ず食べなければならない、誰かがその食事を用意しなければならない、
9年坐禅を続けたとされている達磨大師でも食事を運び人がいたのである
その食事を一人のために運ぶことも容易ではない、ここが何か見逃されている
近くの霊山でも山で修行した人達が相当数いた、でもそんなに多い僧が山の上でどうして食を得たのか?やはりあの山は岩山でありそこで食べるものがない、とすると山に誰かが食料をもっていかねばならない、それも大変な労力になる

ただ山を修行の場としてきたのが天台宗でありそれが寺の起りである
比叡山でも山に寺があり修行する場としてあったからだ、それを民間では山伏とかなり受け継いだのである、山形県の山寺でもそうである、山を聖なる場として修行したのであるだから今の都会化した完全に俗より俗化したカルト宗教団体などはまずそういうふうに
心を山で浄めるとかの志向が全くないのである
完全に政治化経済化した俗なる世界にひたり俗世界よりぎらぎらした欲望を追求しているだからこそ数もあれだけ集まる、欲をおさえよとか心を浄めるなどない
ただ煩悩即菩提であり煩悩があればあるほど救われるとまでなっている
だからそこにもう宗教が求めたものはなにもないのである

山には仙人が住んでいたとか老子が始祖の道教がもともとあってそれが仏教と混合して
修験道が生まれた、ただなぜ仏教が興隆したのかとなると山伏でも民間で山からおりて様々な人間の悩み苦しみに対して何らかの効用があり頼むものとなった
だから薬草を山でとり薬を処方したり病気には祈っていたとなる
つまりなぜ仏教が栄えたとなれば病気を直すために祈ったことによる
会津で8世紀にすでに仏教伽藍があったとか僧侶が相当数来たのは病気が治ることで祈ることからそうなったのである

ではなぜ松島が修行の場となったのか?、それもやはり山が聖なる場所であるように松島は風光明媚な浄土に見えたのである、ここで心を浄めるということで修行者が集まったのである、まず今のように大都会に人が集まりそこで生まれる宗教はたいがいカルトになる異様なものとなるのはやはり清浄な自然から遊離してしまったからそうなる
おそらく松島は海に面していて魚介類がとれるから貝とか他に魚でも食べたのかもしれない、海でとれるものがありそれを食べた、魚を食べないといっても魚もとれるのだから食べたかもしれない、どうしても今になると何を食べていたのだろうと疑問になるからだ
そもそも一般人でも食べることができなくなり乞食になったりした、そして乞食では布施されないとしてにわか僧にもなった、それは四国の遍路になったホームレスもそうだった乞食なのだが僧だとして経文を唱えて金をもらうになった、その人は全く宗教とは関係ないが食べるためにそうなったにわか僧でありペテン僧だとなる
それは昔もあったのである、ただ昔は食べることが切実だからそれを必ずしもとがめることはできないともなる、つまり乞食と僧の見分けがつかないのである
今でも僧は働く人からすると修行もしないし楽だとみられる、ただお経を唱えていればいいとなるからだ

鎌倉時代に東北にも天台宗から分かれた禅宗でも広まった、特に瑞巌寺は禅宗であり伊達政宗が禅宗だから重んじられた、武者の間とかもあり僧だけの寺ではなかった
伊達政宗の寺ともなっていたのである、禅宗と武士は相性が良かった、一方で真宗と日蓮宗は民衆化した宗教として普及した
豪華絢爛な安土桃山文化を象徴するのが黄金の襖の障壁画である
観瀾亭の障壁画模造品である、本物は瑞巌寺にある、秀吉が黄金の茶室を作ったように
黄金の時代にもなる、瑞巌寺の障壁画も見事である

東北だとやはり歴史的にも文化的にも仙台が中心になる、そこまで日帰りできることは
恵まれているともなる、福島市とかには歴史とか文化を感じないのである
二本松の城には感じる、景色もいい、東北だと私の住んでいる浜通りでも波が荒く打ちつける、荒寥としたものともなる
でも松島は入江であり島々があり穏やかなのである、こういう光景は東北にはあまりないのである、だからこそ修行する場としてはいいとなる

 松島で古人となる歟(か)年の暮

 松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり)

 「風流行脚の途次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とある
 
 http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_28.html
 
松島で死ぬ人もありというときここで修行して死んだ僧たちのことを思っていた
古人となるかもやはり死ぬことである、松島は風光明媚でありそこは死ぬにふさわしいともなる、浄土でもあり死に場所としてふさわしいとなる
江戸時代だったら松島でも一回としか来れないから余計にそうなる
いつでも行けるとなると何かえりがたみがなくなる
私はここ十年以上旅していない、今になると東京でも京都でも奈良でも大阪でも遠いとなる、別に行けるのだが何か行けないのである
家を留守にすることもあり行けることは行けても行けないのである
これだけ旅行したのだからもう悔いはないとなる
近間だけでもいいともなる、近くだと四季に行けるから別に遠くに行かなくても深化できる、松島でも春から夏でも冬でも行っていた、ただ秋には行っていなかったのである


古代における山林修行の資糧ー乞食ー蘇軾
http://renbutsuken.org/wp/wp-content/uploads/2011/04/Kobayashi3.pdf




2022年09月22日

抽象画の紋様の変化 Variation in the pattern of abstract paintings


抽象画の紋様の変化

Variation in the pattern of abstract paintings


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Cherry blossom

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2022年09月21日

医療費が国を破産させる? (でも簡単に医療費は減らせない矛盾)


医療費が国を破産させる?

(でも簡単に医療費は減らせない矛盾)



内視鏡検査機器やこれを使った治療機器、超音波診断装置、CTスキャン装置、MRI装置、PET装置などが医療で普通に使われるようになっていることに気付かれるでしょう。これらの新しい装置や機器は精密機器で大変に高価なものが少なくないのです。

病床数が多い、在院日数が長い
薬剤価格が高い、薬剤使用量が多い
医療材料価格が高い
検査が多い
受診回数が多い
https://www.ringe.jp/civic/medical/

厚生労働省は11月9日、2019年度の国民医療費の概況を発表した。国民医療費は44兆3895億円と前年度比9946億円(2.3%)増加、人口1人当たりの国民医療費も35万1800円と同8600円(2.5%)増加した

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暴利をむさぼるたとえ。薬の売値は原価よりはるかに高く、
儲(もう)けが大きいこと。薬は売値が非常に高く、原価の九倍もするという意から。


俺は十年前から高血圧治療の為に毎月通院しているが7月〜9月までの
暑い期間は血圧が上がらない事に気が付いたから、その間は通院と投薬を
止めても良いか医者に尋ねたら拒否された。俺のような患者は全国に大勢
いると思うが、医者がこう言う了見だから医療費が下がる訳が無い

一旦医者にかかったら患者は何も言えない、医者に従いとなる、それで無駄な治療があるとは言え自分の判断で病気を判断するのも危険なのである
私自身がなかなか病院に行く時間的余裕がなく勝手に判断して死ぬところだった
なぜなら腎不全になるところだった、そしてすぐに入院して一命をとりとめたのである
だから素人判断することは危険である
そこに病気の問題があり簡単に医者に自分の病気で勝手に判断できないのである
ただこの人は自分の病状をみてそう言ったからその判断が間違っているとは言えない
でも素人判断するのは危険なこともある

でも正直ここで言っているように無駄な治療も多すぎるし投薬も多すぎる
結果的にほとんど効かないとか副作用でかえって悪くなったりする
そもそもワクチンの効き目もわからない、ワクチンの金も膨大なものだった
でもこれが本当に効いたのかとなるとそれも科学的にもわかっていないのである
つまり病気にはそもそもこうして効くかどうかわからないものが実際は多いのである
でも素人判断は危険だし医者に命令されれば従う他ないのである

そこで問題になっているのはその金が国を破産させるほどの巨額な金となっていることである、これは国民全体にのしかかる問題であり国家的問題にもなっている

ある女性は目まいしたからと医者に行きMRI検査しろとなりした
でもそのMRI検査は実際は高価なのである、それも保険で負担するから安くなっているが
その検査の効用はあるのかとなるとほとんどない場合もある
認知症になった家族をMRIで見せたがそもそもそれは何の効用もない
認知症のことなどMRIではわからないからだ
ではなぜあえて検査したのかとなると金のためだったとなる
この検査はかなり金になるからである、だからその機械自体高いから医者では実際はわからないのに検査しろとなるのである
それも保険から出るからそうなる、もし十万するとなれば簡単には頼まない
そもそも検査してもわからないものもあるし相当に高いものでないと診れない
そうして脳の検査を本当にできるものは福島県には二台しかないとしている
となると普通の病院ではとても脳を精密に診れないとなる
でも何か検査しろと医者に命令されると断れないのである

ただ自分の場合は検査してすぐに医者に行かねば死ぬところだったのである
だから病気は緊急を要することがあり医者に逆らうことはできないとなる
自己判断では死ぬことがあるからだ、でも今問題なのは余りにも過剰診療が多いことなのである
そこに膨大な金がつぎこまれて国家破産にまでなる、その無駄を簡単に減らすことはできない、医者の権限が大きいからである、また現実に素人判断も危険になるからだ
ただ医が算術となっていることも確かである
外国ではあまり老人には手厚い医療はしないというときそうである
ただ最近は延命治療はしなくなっているという、どこで生きることをあきらめるほかないとなっている、ただその判断もむずかしいのである

この医療の無駄でもなくすことは簡単ではない、それは病気に人間は弱いからである
その弱さに医者がつけこむということもある、それで金を払わせられる
でもそうでない場合もあり何か無駄なのかなど判断できない、人間社会にはとにかく無駄が多すぎるのである、その無駄が膨大なものとなる
人間の無駄といえば軍事費でも無駄だといえばそうなる、兵士などいらないと言えばそうなる、つまり軍人とか警察とか医者とかは本来ない方がいいものなのである
軍人がいなければ戦争もないし警察がいなければ犯罪もないし医者がいなければ病気もないとなる

逆に軍人がいるから戦争が起り警察がいるから犯罪が起り医者がいるから病気もある
そういう逆説成立つ、天国には軍人とか警察とか医者すらいないからである
軍人とか警察とか医者とかは社会で権力を持つ職業である
逆らえない人達でもある、その人達は命令する権力を持っている
ただ軍人は自衛隊だと今は目立たない、むしろ自衛隊とかは表に余りでない、でも一旦戦争なったら主役になるのである、だから戦争の時は軍人が一番威張っていた
今でも墓には軍人の階級が一等兵だったとか記されているのは軍人がその時は価値あるものだったからである、威張ることができるものだったからである
でも今はそういう墓を見て軍人の位を見てその人がい偉いとか見ないのである

高齢化社会の問題は医療費の問題にもなる、その金を負担するのは現役で働いている人とかにもなる、ただ保険でも介護費用でも老人は年金からでも払っているのである
若い人だけが払っているわけでもないのである
でもその額が多すぎるから負担になる、社会が介護とか病気のためにあるのかとまでなる地方の仕事で眼につくのは確かに介護であり病院であり医者だとなる
60以上になると医者通い病院通いになっている人が多いからである
糖尿病は何か医療費の負担が多いことは確かである、金のかかる病気である
近くの人はそのために払う金が多い、それで親しい手伝ってくれる人に金を払えないとなっている、糖尿病は相当にやっかいな病気なのである


2022年09月20日

昭和33年の新聞記事(3) (ラジオからテレビへの過渡期だったー女中も募集されていた)


昭和33年の新聞記事(3)

(ラジオからテレビへの過渡期だったー女中も募集されていた)

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68500円は当時では相当に高い
女中の手取りが8000円とか5000円とかなっている
そしたらいかに高いかわかる
でも私の家は中学頃にテレビを買っていたのである
父親が病気になり買ったのである

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昭和33年は何か高度成長が始まる時だった、なぜならテレビが出たからである
そのテレビの前に人がわんさと集まった、その頃テレビはみんなない、だからテレビがある所に人が集まった、その熱気はすごかったのである

ただその時代の面白いのはラジオが依然として使われていた
テレビが出る前はラジオが主役だった、ラジオだと声だけでりその声に耳を澄ます
何か恐怖小説がありその犯人の足音がラジオから聞いた時怖かった
そしてラジオというメデアは音だけであり姿が見えない
それでラジオで人気だったアナウンサーがテレビがでた時用なしになったのである
なぜそうなったかというと姿とか顔が写ると見映えが悪いと拒否される
なぜなら映像だとまず姿とか顔を見るからである
youtubeでも顔が問題になる、顔をまずみる、その人の発言することの前に顔を見る
こんな顔なのかと拒否する人もいるだろう
プログでも文章だけだったら顔が見えないししゃべることが下手でもいいとなる
でもyoutubeはしゃべゃ方を相当に影響している、声でも姿でも顔でも影響しているのである

ただyoutubeはわかりやすい、図で説明もできるしいろいろテレビのように映像を出せるからである、この写真とか図を出せることはプログでもできるのである
だから誰でもできるプログで写真と図でも動画でも一部出せるとなるとその表現力は意外と大きいのである
それでこんなものでも表現力があるなと感心するのである
これは誰でも簡単にできるものだからである
そうなると一人一人がメデアを持ったともなる、だから私は膨大なものを書いている
それはいくらでも書けるし誰も止めるものもいない、自分なり自由に書けるのである
発言できるのである、youtubeでもそうである

テレビ局と同等にもなることでテレビは衰退したのである
今までは動画となるとテレビからしか知り得ようがなかったからである
今や個々人は新聞社に出版社に雑誌社にもなれる、それがプログのようなものでもできるこの変化は大きいものである
ただyoutubeでもプログでも見られること読まれることは至難である
結局大衆受けするものは視聴率を稼ぐのはテレビと同じだった
でも別に金もかからないのだから少数者でも成り立つのである
テレビは金がかかる少数者では成り立たなくなる、宣伝費も入らなくなっている

昭和33年の新聞記事ではマスコミのことを書いているが膨大な本や雑誌が出されていた活字メデアが全盛期に入りつつあった、そしてまだ戦前からのメデアであるラジオが結構聞いていた、天皇陛下の玉音放送がラジオで成されたようにラジオが戦前のメデアであり映像に触れることはまれだった、ラジオでも大きな力を持っていた
ラジオだと手作りした人もいたようである、それほどむずかいものではないからできたらしい、昭和33年は古いものもがまだ残り新しいものが出て来る時期だった

それで不思議なのは職業の募集欄に女中と結構ある
まだ女中を東京で募集していたのか、戦前は女中が多かった、火事が電化されていないのだから頼んでいた、普通の家でも女中を二人雇っていたとかある
それだけ家事が負担だったからである、別に金持ちでなくても雇っていたのである
今なら大金持ちしか手伝いさんは雇いない、専用だと雇いない
家政婦も募集していたがこれも女中が家政婦になる変わり目だったのか?
女中に興味があるのは私の母親は大正生まれで東京に女中で働いていたからである
それは戦前のことである、でも集団就職とかあり東京に女中ではないにしろ手伝いとして働いた中卒の人がいる、だから依然として女中は東京で必要なものとしてあった
だからこの昭和33年はこうした古いものと新しいものがまじりあった社会だったともなる

親の介護でもめる兄弟ーそして一人っ子の介護 (介護は死んで終わりにならない-恨まれて死んでゆくことの怖さ)


親の介護でもめる兄弟ーそして一人っ子の介護

(介護は死んで終わりにならない-恨まれて死んでゆくことの怖さ)


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一人っ子という時点であきらめがつくし、覚悟は決められるし、意見を求められることも求めることもなし、、、兄弟いる人はもうこの際一人っ子と思ってしまえばどうでしょう。いくら言っても何もやらない人はやってくれませんし、、、。介護のヘルプを頼むのも身内よりも他人(介護サービス)に頼む方がずっと気が楽ということが多いです。

脳梗塞で倒れた母。きょうだいが分担して母を支えたいけど、次女は母に兄と姉と比較され「お前はダメだ」といわれ続けてきたため、「私は手伝いたくない!」と介護を断固拒否。

介護から逃げる他の兄弟に親が金を使うからムカツク。

介護から逃げた他の兄弟が、下宿までさせてもらって、大学院まで行かせてもらったから、ムカツク。

介護から逃げた他の兄弟が、家を買うとき、大金をもらっていたから、ムカツク。

人間はとにかく必ずいい面と悪い面がある、一人ッ子は親になんでもしてもらえるからいいとかなるしでも兄弟がいないと人間関係がうまく築けないとか介護でも一人になって困るとかなる、でもここでも兄弟が協力してやることはなかなかない

その原因が

脳梗塞で倒れた母。きょうだいが分担して母を支えたいけど、次女は母に兄と姉と比較され「お前はダメだ」といわれ続けてきたため、「私は手伝いたくない!」と介護を断固拒否。

兄弟でも良くされた人とされない人がいてそれが後々まで尾を引いている
その確執が意外と大きいのである、また遺産分配でも必ず兄弟でもめる
だから一人ッ子も問題だが兄弟がいても人間にはもめごとがある

その人は一人ッ子の娘がいるが親ともめて親にもう来るなと言ったという
糖尿病でその治療にも金がかかる一人で暮らしている、でも今家事でも一人でしている
確かに娘は隣の市にいて一週間に一回くらい来ているようだ
でも金は娘が管理している、それで毎日親しい女性が行っていてその女性も金に困っているので金を工面してやりたいができないという
その娘は一人ッ子でありなんでも与えられたとかかわいがられたという
一人娘だったら余計にそうなっていたかもしれない
でも介護になったら親を嫌がり金を出すのも嫌がっている
そして世話する女性への配慮もないのである

一人っ子だと何でも親に良くされたのだからそうならないはずだがこの場合はそうではない、私の場合は親二人を必死になって介護した、それは特別良くされたからである
それは60才までもそうである、だから必死になって力足らずでも介護した
自分が病気になっても必死になって一人悪戦苦闘したのである
それは特別良くされたことによる、今でも二人の親のことは供養しつづけている
親のことが忘れられないのである
ということは親が死んでも自分の心の中に生き続けているとなる
それは特殊な事情でそうなったのである

介護で90パーセント以上も介護で兄弟でも親子でも仲が悪くなる、それは介護をしたくないからである、それが相当な負担になる、金銭的にもなる
その一人っ子の娘はケチなのである、親のために金を払いたくないのである
だから世話している女性がいたとしてもかえって必要ないともしている
何か財産をとられるのではないかと警戒しているみたいだ
こうなるといくら一人っ子でも親が来るなともなる、これは娘が悪いとなる
でも介護ではなにかしらもめる、その負担が負いたくないからそうなる
だから兄弟でも一人ッ子になった気分で介護しろというのもそうなのかと意外である

ともかく介護時代でもある、だからこれからますます介護でいろいろな問題が起きる
それで事件が起きるのも日常的になる、負担になり自殺者まででる
つまり介護はもう家族だけでは担いないものにもなる
でも逆に今だと核家族化して家族だけでは介護が負担しきれないことにもなっている
それで家族遺棄社会にもなる、親が子供に捨てられるとなる
でも捨てられるにしても誰かがめんどうみなければならないということにもなる
二カ月間も死んだのがわからなかった人がいたがそういう人は死んだ時迷惑をかけても
介護などしてもらわないで死んだから迷惑はかけていないからいいのかとまでなる
そもそも誰も介護してくれる人がいないからである

介護の問題で大きいのは意外と介護は死後まで継続されていることである
死んだら介護の負担は終わる、でも実際終わっていないのである
なぜならその後に供養の問題があり死者と向き合うことになるからだ
それで非情化した娘は育ての親を見捨てた
その人は「ひどい娘だわ」と自分に言い残して死んだ、病気になってすぐに死んだからいい、その娘は介護などできないからである
でもそうして死んだ親を供養できるのか?とてもできないと思う
別に死んだら墓参りとか供養などしなくてもいい、誰もとがめられない、でも何か良心がとがめられるかもしれない、誰も見ていないとしても死者が見ているからまともに墓参りとか供養ができないとなる
ただその娘は三人親が変わった、でもその人には親はいなかったとなる
父親は別として母親はいなかったとなる
ただそういうことはどうなるかというと必ずカルマとなって苦しみとなって現れる
つまり今度はまた子に捨てられるともなる、それはわからないにしてもカルマの法則がありそうなる

なんらか人間は必ずカルマを背負っている、その総決算が60以後に起きる
例えば若い時の不品業とかも若気の至りでもそれが悔いるものとなりカルマとなり苦しみとなって現れる、そしてカルマをもたいない人は一人もいないと思う
別に金持ちの家でも恵まれた家でも何らかカルマを持つのである
つまり恵まれたことがカルマともなるのである
兄弟でもお前は親に一番良くされたのだからお前が親の介護をしろとされるのそうである兄弟でもそうして親に持つ感情は違っているからである

結局人間は必ずいい面と悪い面がでてくる、一人っ子はいいと見られても介護で他より苦しむ、では兄弟がいればいいかなとなるとそれも必ずもめる、だからすべていいとはならない、自分の場合は本当に死ぬほどの苦しみを介護でしたからである
それもそれだけ良くされたから自分はその苦しみを甘受できた、気持として介護することは苦しくてもできたとなる、そういう気持ちがあったからである
でもみんなそんなふうにならないのである、だからもめるのである

でも介護の問題のむずかしいのは介護終わった後も終わらない!

これが意外と深刻なのかもしれない、別にもう介護もふる必要もないし迷惑もかけいなのだからいいじゃないかとなるがそうでもない
死者を供養するということがその後にある、その死者とまともに向き合えるかである
「あなたは私に冷たくしましたね、それを私は覚えていますよ」とかなると供養もできないとなる、良心がとがめられるとなる
死者は必ずしも完全にいなくなったわけでもない、死者は冷徹に生者を見ているのであるだから死者の前には偽ることができないのである
それで介護で苦しんでも早く死んでくれとなるのが普通だが死んでしまうとみんなもっと良くしてやればよかったと反省している
それはなぜなのか?死者とはもう二度と逢えなくなるからである、だから後悔するのである、今度は何かしてやりたくてもできなくなるからである、死んだ人には供物をささげるくらいしかなくるならからである、死者はもう答えないからである

でもは死者というのは依然として生者の中に生き続けている
もちろん全く忘却される人もいる、それは生前のことが関係している
生前死者とどういう関係にあったとか、愛されたのかとそれ以外にも様々な家庭の事情があり死者との関係があり他者からわかりにくい、でも死者は生者の中に生き続ける
もしそうして生きつづけるなら死者は死んでいないのである
でもそうなるかどうかは生前の死者との関係によるのである
死んだからとして急に死者を思ったりしないのである、生前から互いに愛し合うとかあればやはり死者は生者の中に生き続けるのである
ただそれぞれの家族は複雑であり他者からわかりにくいのである
それで簡単に家族のことを批判はできないとはなる


威厳ある死者

死者は石のように硬い
雨風に打たれて死者は耐えた
死者は苦しくも生き抜いた
死者は堅く口を閉ざす
その前に生者は偽ることができない
死者は冷徹に生者を見つめている
生者は常に卑しめられる
しかし死者は今威厳あるもの
それは宝石のように硬い
その前に偽ることはできない
死者は生者に金を求めない
何も求めない
死者はもう餓えることはない
ただ真の心を求めている
死者と向き合うことは
自らを正さねばできない
死者に偽ることはできない
その前に人は厳粛であらばならない
死者はすべて消えるにはあらじ
依然としてその生を継続している

2022年09月19日

昭和33年の新聞記事(2) (貯金が奨励されていた、−映画館のこと)


昭和33年の新聞記事(2)

(貯金が奨励されていた、−映画館のこと)

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福島市の相互銀行で十月二十日から一か月間を貯蓄増強運動期間として映画会などを行っているが農村での効果がない、全国規模の銀行の福島支店でも農協の進出には手がでない東邦銀行でも貯蓄宣伝映画会に一千人近い観客がおしかけた

高度成長前は農民が主役であり農民から銀行に貯金させるために銀行が映画会をもよおして宣伝していた
この映画会というのは何かというと映画自体がめずらいしものだったのである
映画というのは簡単に見れないものだったのである


中学、高校時代、映画が好きで、映画評論家になりたかった。
だから、中2〜高2の4年間は年間200本以上の映画(洋画)を観た。
いい映画もつまらないものを知って初めて、良さが解るという理屈で、手当たり次第
お金が出来れば、映画館に行った。
そのころ、1年で公開された洋画は250本くらいだったから、成人向き以外は
殆ど観た年もあった。

小遣いがたくさんもらえる訳も無いので、親から昼食代(パン代)を貰い
お昼を抜いて、お金を作った。
親の財布から千円札を拝借したこともあった。(金沢市の映画館)

満員で扉を開けたまま伸びをしながら見た覚えがある。あれだけ大きな劇場がいっぱいになった映画は「ポセイドン・アドベンチャー」でした。(東京の映画館)

映写スタッフの主な業務は、映画の上映作業でした。
人の身長ほどある映写機に、丁寧にフィルムをかけていき、定刻に上映を開始します。
映画のフィルムはとても一人では持てないくらい大きく、軽トラの荷台にやっと置けるくらいの大きさで、映画一本分となっています。

金沢市では映画館が多かった、でも原町区の朝日座とか鹿島にも駅前に映画館があった、そしてニュースは必ず普通のドラマが始まる前に放送された
そのフィルムは鉄道で運ばれたのである、その時蒸気機関車だったのである
鉄道で運ばれるということはリアルタイムではない、何日遅れて放送されていたとなる
無線の時代ではない情報でも何か物として運ばれていたのである

要するに映画とか映像でも動画となるとなかなか見れないものだったのである
貸本屋から漫画を借りて読んでいた、人間はやはり映像を求める、だからデジタルカメラ時代になった、まず動画となると見ること自体が簡単にできない時代だった
動く絵を見ることは驚きだったのである
だからこそ金がない時代なんとか工面して映画を見たいとなっていたのである

そのフィルムを運ぶのに蒸気機関車だとどれくらい時間がかかったのか?
上野からでも相当に時間がかかった、一日かかりだったかもしれない、その頃情報は新聞が担っていたのである、だから古い新聞は今になると価値があると見た
つまり歴史の記録として価値があるものと見た、その頃一体どうなっているのかわからなくなっているからだ、ただ今だとインタ−ネットからでも昔を語る人がいるから当時のことがわかる場合がある

ともかく貯金が奨励されていたということは日本の経済が高度成長時代に向かう時代でありいくら資金があっても足りない時代だったのである
資本主義は資金が必要である、それで私の家で戦後店を始めた時その開業資金がなくて困った、それも数万だったのである
それでその数万でも銀行は貸してくれず知人に頼んだ話を何回も聞かされた
銀行は借りたい人が多い時必要であり価値あるものであった、今価値がなくなったのは借りたい人が減ったからである
その店といっても簡単なものでありただ商品を並べたようなものだったのである
でも物がない時代だから物を置けば売れたのである
昭和33年代はまだ農業中心の経済だった、だから農民から貯金を集めようとしていたのである

何か個々人でも記憶は時間がたつにつれてあいまいな希薄なものになってゆく
だから個々人の記憶だけではないみんな記憶を集約することが必要になる
ある人はその当時こういう経験していたとか私はこういう経験したとかを語る
すると当時の時代的な全体像が浮かんでくる、イメージできるようになるのである
映画館一つにししてもいろいろだからである
ただ映画館に対する熱気は今と違っていた、立ち見して見ていた、それもかなり疲れる
でも映画を見たいとういことでそうなっていたのである

人間は情報を得たい何かを知りたいということは変わらない、それでテレビ時代となったのは何かテレビに動画が写るだけで驚きだったのである、映画でもそうだが次はこうしてテレビ時代になった、このテレビに対する熱気も異常だった
みんなテレビに釘づけになったのである、それは昭和33年頃テレビが出てきたのである
でもどうしても高校までオリッピックの時蒸気機関車がこの辺を走っていたことが不思議なのである、そんなころまで蒸気機関車だったのかということが不思議なのである
蒸気機関車だったら上野までどれだけ時間がかかったのかとなる
東京とか上野は遠い所だったのである、そして考えられないのは原町紡績の中に引き込み線があり鉄道で生糸を運んでいた、それを横浜まで運びアメリカに輸出したとなる

それは戦前だが蒸気機関車だったということが何か自分の場あい思い出せないのである
というのは高校までは蒸気機関車に乗ったけど蒸気機関車で遠くに旅したことがないからだったともなる、その後鉄道マニアのようになったのは鉄道で自由に旅した結果だとなる
人間は本当に一時代が過ぎると時代のことがわからなくなる、その雰囲気もわからなくなる、今なら貯金など奨励しない、貯金しても利子もつかないとかもう貯金してくれるなとまで銀行ではなっている、貯金しただけでもう今度は逆に財産税として税金をとられるとまでなる、それが時代の変化なのである
だから農協でも銀行でも昔とは感覚的に相当に違っている、農協、銀行、公務員は安定した就職先だったからである、地方だとエリートとなっていたからである
今は銀行員は投資信託とか株とか売る証券会社にもなったのかとなる
銀行に金はあっても投資先がないとなり金余りとなっている
そういう時代の雰囲気はなかなかわかりにくい、でも高度成長時代は日本では相当に恵まれた時代だったのである




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2022年09月18日

昭和33年の新聞を読む (字が小さい、記憶をたどるのには有効で貴重)


昭和33年の新聞を読む

(字が小さい、記憶をたどるのには有効で貴重)

oldnewspaper.jpg

昭和33年11月4日 福島毎日−写真を出すと著作違反になるーそれで暗くした
ここで囲炉裏を囲んで話し合っている
字は拡大してもこのくらい小さい、眼が悪くなるくらい小さいのである


昭和7年の新聞が出てきてびっくり。
87年前の新聞です。

内容は兎に角もフォントに注目。
現在の新聞のフォントよりも小さなフォントにも「仮名」が打ってあったり。
重要度によってフォントサイズを変更したり、当時は多分、鉛の活字だったと思われますがよくぞ紙面を構成しているなあ、と感嘆します。
https://blog.goo.ne.jp/n-ksgw/e/20c869c0d384975fe5dbef488cb9a290


古い新聞をもらった、昭和33年だから戦後13年後である
まず目についたのが余りにも字が小さくて読めないことである
こんなに小さいのかと驚いた、虫眼鏡がないと読めないくらいである
最近は老人が新聞を読むとかなり若い人は読まない、それで字を大きくしたのである
なぜこんなに小さく字なのか?おそらく紙面を充たすには字を小さくする必要があった
それと新聞を読む人は若い人が多いから小さくても読めたともみる
今ならこんな小さな字だったら読む気もなくなる
老人は今でも携帯を持っているが字を大きくできる携帯に代えたとかある
この字の大小は思った以上人間の脳に影響する
私がスマホとかしなかったのは小さい画面で字を読むと疲れるからである
パソコンは画面が大きいから俯瞰できる、スマホは画面が小さいからそれを見るのも疲れるのである、この差が意外と大きい、でも若い人は新しいものになれやすい
老人はなれにくい、それで老人は技術的に遅れのである

この記事で農家のことを書いている、「ふき変えに資金がかさむうえ火災で燃えやすい、かやぶきをトタンかカワラに直すこと
一袋生二百円もする化成肥料を使わないで単肥を自分で配合して土地にあった肥料をやることなど工夫する

農会の集まりで酒を一切ぬきにしてありあわせの菜のつけもので渋茶をすすりながらよもやま話しをする

そんなことを書いている、このころテレビが出始めた頃である、私の家でも囲炉裏であり炭を使っていた、この写真でも囲炉裏を囲んで話し合っている
戦後の経済は農家が六割でありまだ農民中心だった、ここで興味深いのは茅葺の家がまだありそれをトタンとか瓦にしようとして貯金していた
カヤ葺きの燃えやすいということも書いてある

私の家はトタンの家であった、それでいつもそのトタンから雨漏りして洗面器を置いたことを覚えている、その時トタンの家も多かった、家自体が粗末なものだったのである
むしろ農家の茅葺の家の方がどっしりとして貫禄があったともなる
何度も言っているが戦後13年くらいは戦前とか江戸時代のつづきの暮らしだったのである、それが急速にテレビが出たとか辺りからかなり変化したのである
でも不思議なのは原町の高校に通った時蒸気機関車であったことが信じられないとなる
なぜならその高校の時東京オリッピックが行われたからである
つまりその時まだ蒸気機関車の時代だったということである
だからこそその時はインフラを整えるとかオリッピックは必要だったから熱狂したのである

私の家で店をしたとき野菜とかは近くの農家から買って売っていた、今のように全国から入ることはなかった
狭い範囲の生活だったのである、それは車がなかったから歩く範囲で日常の生活をしていたからである
それはでただ自分の家は角にあったので繁盛したのである、今になると車もない老人とかは自転車で買い物するので近くに店がないということを常に訴えている、本当に近くの店は消失した、シャッター通りにもなったからである
それを市でも一応問題としてみている、街の活性化をどうするかでそれを問題とはしている
ともかく戦後十数年は農業中心の世界でありそれが急速に高度成長時代になり変化したのである
第一遠くから物などあまり来ない、近くでまかなうほかなかったからである

ともかく人間は忘れ安い、50年前とか60年前になるとその時何があったかわからなくなる、するとその過去をどうして思い出すのかとなる
その方法はいろいろあるが映像として残っているのは少ない、やはり文章として残っているのが多い、すると新聞が思い出すにはいいのかともみた
古い新聞の記事を検索できるが金がかかる
また引用でもめんどうになる、だからここで提供できない、著作権違反になる
それは新聞社でも警告している

ともたく人間の記憶はあいまいになる、するとやはりその時々に何があったのかを知るには記録をみる、新聞はやはり今になると有効である
もしかしたら新聞は今は読まないけどこうして記録したものが活用されるとなる
そこに新聞の価値があるのかとなる、また雑誌でも記録したものとして貴重になる
ただ問題は簡単に調べることができない、有料になると意外と高いのである
新聞は意外とこうして記録したことで価値がある、今の新聞は読まれなくなっても過去の新聞は歴史の記録として価値があるとなる

今はプログでも庶民が名もない人がプログとか書くと記録としてあとあと貴重になるかもしれない、ただインタ−ネットとかは消えやすいから問題なのである
でも印刷したものでも50年くらいするとぼろぼろになることがある
紙にしても保存には限界がある、でも電子化すると劣化しないのである
ただ電子空間でどうして保存するかとなるとむずかしい面があるのだ
ただインタ−ネットは庶民でもメデアをもったことであり何か記録として残すことができる、大きなメデアでなくても残すことができる、それで過去をふりかえることもできる
現実に老人でもプログだと簡単である、すると過去にあったことを書くとそういうことを経験していたなと共感する人がでてくる
また若い人にとってもそういう時代があったのかとなる

つまり過去というのは本当に記憶から消えてゆく、50年も過ぎてみるともうたとえ親しくあった人ても本当にその人と逢ったのかとまでなる、それくらい忘れるのである
一つ屋根の下に子供の時5年間暮らしていた人がそんな人いなかったと言っていたのには驚いた、その人は普通の人ではないからまた別だがそんなふうになってしまう、人間は忘れやすいのである
だからどうして記憶をたどるのかとなると自分だけの記憶だけではなく新聞とか何かに記録されたものを手掛かりにすることである
それは何千年前のものを発掘するのと似ている、そこで発掘されたものから何とか過去を呼び起こすのである、そういう作業が必要になる
一体その時何があったのかあいまいとなってしまうからである
そして個々人で経験したことも違っているからである、まず囲炉裏があったとか蒸気機関車だったとか今になると信じられない、それが生々しく浮かんでこないのである

また家族がみんな死んだ結果、その家族のことも死んだ時点で忘れてゆく
60年間とか一緒にいても忘れる、あいまいなものとなってゆく、でも死者は残されたもののなかに記憶として生きつづける、必ずしも何もなくなるということはない
その親にもよるが何か死んでもその人の記憶を反芻している感じになる
つまり過去を思い出すことが老人の役割でもある
だから認知症になると過去のことはありありと覚えている、特に若い時のことは覚えている、それで戦争のことを千回を聞かされたのでうんざりはしたのである

でもそれはやはり後世に伝える記憶であり記録であり貴重なものだったとなる
人間最後は記憶だけになる、記憶を生きることになるからだ
でもその記憶も忘れるので何から思い出す方法が必要だとなる
あの時代はこんなことがあってこんな状態だったのかと思い出すのである
そういう作業が郷土史とかでも必要になる
老人は過去に経験したこさと記憶したことを生きることになるからである

2022年09月17日

只野氏が語る家の歴史 (安積氏と平景政に連なる歴史ー安積は安曇(あづみ)なのか)


只野氏が語る家の歴史

(安積氏と平景政に連なる歴史ー安積は安曇(あづみ)なのか)

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福島県宮城県岩手県など只野氏が多い、東北地方に多い
ただ広島県とかに広がっているのはわかりにくい

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閏正月11日、聖武天皇の鹵簿(ろぼ)は恭仁京から難波へ向かった。天皇の皇子、県犬養広刀自(あがたいぬかいひろとじ)夫人を母とする安積(あさか)親王も扈従(こじゅう)したが、河内の桜井頓宮(現、東大阪市六万字)で脚の病のため恭仁京へ引き返した。翌々日、薨去する

祖父:文武天皇(母方の祖父は県犬養唐
父:聖武天皇
母:県犬養広刀自

安積親王という名に気がついてからこの作品に取り組んでみて、はじめて安積親王と葛城王との関係を知りました。葛城王は、のちに橘諸兄と名を変えますから、同一人物です。その上、安積という地名と郡山に伝わる采女伝説のなかの葛城王(橘諸兄)が、安積親王と深く関連する事実に驚かされました。

 郡山で葛城王と言えば、『安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに』
 
 https://plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/?ctgy=30
 
 天平十六年(744)、春二月に、安積皇子の死去に際して大伴家持が詠んだ歌(03/0475 )には、現在安積親王墓がある和束山を「和豆香山」としています。

さらに、古今集仮名序に、難波津の歌とともに「歌の父母のようにして、手習いする人の最初に習うもの」という安積山の歌では、「安積山」の原文が「安積香山」になっています。

木簡の両面が古今和歌集の序文の2首とまさに同じセット。
紀貫之は『古今和歌集』仮名序(延喜5年(905))で、
「・・・この二歌(ふたうた)は、歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける。」と、
初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。
2首をセットにしたのは貫之の独創とも思われていたものが、
実はその150年前からセットとして認識されていたことになるという。
難波津の歌はいわば公の歌。
宮廷の歌会に出席した人物が、この歌が書かれた木簡を持ち帰り、
裏に安積香山の歌を書き加えたのでは」と推測し、
「難波津の歌」と「安積香山の歌」がセットであると認識していた人が、少なくとも一人はいたことになる。
2首を手本とする考え方はその150年前から、いや、それ以前からずっと存在していて、
「子供の頃に手習いで書いたなぁ」ということで、持ち帰った木簡の裏に書いたのではないか。
とのこと。

出土した歌木簡の復元ー滋賀県甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、
万葉集と古今和歌集に収められている2つの和歌が記された木簡が見つか
 木簡の片面に書かれてあった上記の「安積山・・・」の万葉集の歌を万葉仮名に復元すると、
赤字部分が今回出土した部分。

阿    佐    可    夜    麻    加    氣    佐    閇    美    由    流    夜    真    乃    井    能    安    佐    伎    己    々    呂    乎    和    可    於    母    波    奈    久    尓
あ    さ    か    や    ま    か    げ    さ    へ    み    ゆ    る    や    ま    の    ゐ    の    あ    さ    き    こ    こ    ろ    を    わ    が    お    も    は    な    く    に

反対側の面

奈    迩    波    ツ    尓    佐    久    夜    己    能    波    奈    布    由    己    母    理    伊    麻    波    々    流    倍    等    佐    久    夜    己    乃    波    奈
な    に    は    つ    に    さ    く    や    こ    の    は    な    ふ    ゆ    ご    も    り    い    ま    は    は    る    べ    と    さ    く    や    こ    の    は    な
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/105.htm

アサカ 【浅香】5 , アサカ 【浅賀】5 , アサカ 【朝香】4 , アサカ 【朝賀】4 , アサカ 【安坂】4 , アサカ 【阿坂】3 , アサカ 【浅加】3 , アサカ 【朝加】3 , アサカ 【淺賀】2 , アサカ 【淺香】2 , アサカ 【阿阪】2 , アサカ 【浅積】2 , アサカ 【東日下】1 , アサカ 【朝下】1 , アザカ 【安坂】4 , アツミ 【渥美】5 , アツミ 【熱海】5 , アツミ 【厚見】4 , アツミ 【安海】4 , アツミ 【厚海】4 , アツミ 【渥見】3 , アツミ 【厚美】3 , アツミ 【厚味】3 , アツミ 【敦見】3 , アツミ 【渥実】2 , アツミ 【渥味】2 , アツミ 【渥海】2 , アツミ 【安津見】2 , アツミ 【熱見】2 , アツミ 【篤美】2 , アツミ 【渥實】1 , アツミ 【温海】1



桓武平氏の鎌倉氏、清和源氏の和賀氏などに見られる。

# 只の(普通の)野原という意味。また「只」には「一面の」とか「まっすぐな」という意味もあり、どこまでも野原が続いているさまを表す。

# 只野(ただの): 「普通(ただ)の野」。多田野や但野に転じた。

# 宮城県:177位、福島県:439位、岩手県:647位、北海道:814位など。

# 陸奥国安積郡只野村(福島県郡山市)をルーツとし、桓武平氏の鎌倉氏の支流。

鎌倉時代末期に下総国相馬郡から陸奥国行方郡へ移っていった相馬一族。南北朝時代は北朝=足利氏に属して南朝の北畠氏と合戦している。室町時代は行方郡内の領主として勢力をもち、奥州の群雄の一家に成長した。室町後期には伊達氏と交戦して互角の戦いを見せる

諸国に景政の後裔のだんだんに現れてきたことである
その中にめぼしきものは上州白井の長尾氏、これは系図にも景政景政の後と書いて熱心に御霊を祀っていた、信州南安曇の温(ゆたか)村にはその一派が居住し,後に越後に移って謙信を出したのである
奥州二本松領の多田野村に於いても御霊を祀ったのも長尾氏である、只野油井などの苗字に分かれて今も地方に栄えている
子孫五流ありという説なども彼らから出たのである
長州藩の名家香川氏もまた景政の後といい、その郷里安曇の沼田郡八木村く景政社があった

柳田国男全集5巻

師常の子孫は代々相馬氏を名乗り、相馬御厨を中心に発展していくこととなる。師常の子六郎常家は「矢木」を称し

鎌倉景政(景正とも)は桓武平氏の一族。相模南部の鎌倉郡一帯を治めていました。源頼朝から遡ること3代、武神と崇められる源義家に仕え、鎌倉武士の鑑とされる程勇敢な武士でした。鎌倉権五郎景政は鎌倉氏を最も興隆させた勇士として知られ、現在も鎌倉氏坂ノ下の御霊神社に祀られています

 16歳の頃、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年 - 1087年)に従軍した景政が、片目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている
 
只野氏は安積から出たというとき安積は郡山で古代に関係して古い、それで万葉集の歌にも残された、采女が饗応した歌が残っている
でも地名に安積山の安積は何なのか?これがわかりにくい、国造りのあしゃくから出ているという言うがそれもピンと来ない、それは地名を漢字にしたのは当て字だからである
そのために漢字からイメージするようになったから誤解が生まれた
安積を安曇ともしている人もいる、すると安曇族の後裔として安積氏があったのか
安積親王がいるということは安曇氏系統の人が安積親王になったのかとなる
私は南相馬市に特に原町区異常に綿津見神社が多いことを指摘した
山津見神社は松川浦の和田が綿津見でありそこに接して山津見という地名があり
松川浦から霊山の方に上ってゆき坂をおりると犬飼という地名のバス停がある
この犬飼は安曇氏の後裔なのである、あとは八木氏がそうである

祖父:文武天皇(母方の祖父は県犬養唐)
父:聖武天皇
母:県犬養広刀自

安積親王祖父に当たる文武天皇がをり母方の祖父は県犬養唐となっている
この名前が不思議なのである、犬養は犬飼でありこれは安曇氏の後裔なのである
また唐となっているときこれは中国の唐なのか朝鮮半島の唐なのか、普通は早い時期になると朝鮮半島が唐になっていた、加羅、とか韓なのである
鹿島区の唐神という地名はそうである、これは韓なのである、中国の唐ではないのであるただ只野という姓が安積から出たという時、安積は多田野村より古いからである
南北朝時代に多田野(只野)村があったとして万葉集に歌われたのは古代であり古いのである、それで安積から只野氏が出たというときそこが古いからだとなる

安積というのは安積親王時代から存在したのだから古い、奈良時代にさかのぼるからである、その安積の由来が安曇(あづみ)となれば安曇は海人族で有名であり古事記にもでてくる日本の国家形成で下支えした氏族なのである
そして地名をさかのぼると古代になるのが多い、だから安積山とか采女という地名は奈良時代になさかのぼるのである
ただ福島県の南相馬市の鹿島区だと浮田国造があったがその時はすでに浮田という地名があり国造(クニノミヤッコ)が中央から奈良から派遣されていたとなる
真野という地名も移動地名であるから安積も移動地名なのかとなる
真野の草原(かやはら)の歌がありまた安積の歌も有名である
なぜなら紫香楽宮で木簡として発見されたからである

安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

安積を浅きにかけたのか、葛城王を橘諸兄を饗応するのに采女が歌ったとされる
私の心は浅い心であなたを思っていませんよとかこの歌は歌を作りなれた人の作である
これは簡単には作れない歌である、つまり采女としても教養がある女性である
まず花魁(おいらん)とかでも教養があり歌を作ったとすればそれとも似ている
とてもこんなしゃれた歌を作れるとなると相当に教養を積んだ女性だとなるからだ
そういう女性が地元にいたということでもないかもしれない、これは何か儀礼的な歌としてもてはやされていた、だから手習いの歌として学んでいたのである

只野氏というのが多田野村から出たことは確かである、それで霊山で南北朝の争そいがあり落ち延びてきた、その中心人物が鹿島区の只野氏である
ただこの只野氏にも二つの系統があるという、相馬氏系統にも只野氏があるという
これもわかりにくくなる、平景政ー鎌倉景政にも系譜をたどるとたどりつく

諸国に景政の後裔のだんだんに現れてきたことである
その中にめぼしきものは上州白井の長尾氏、これは系図にも景政景政の後と書いて熱心に御霊を祀っていた、信州南安曇の温(ゆたか)村にはその一派が居住し,後に越後に移って謙信を出したのである
奥州二本松領の多田野村に於いても御霊を祀ったのも長尾氏である、只野油井などの苗字に分かれて今も地方に栄えている
子孫五流ありという説なども彼らから出たのである
長州藩の名家香川氏もまた景政の後といい、その郷里安曇の沼田郡八木村く景政社があった

柳田国男全集5巻)

ここに信州南北朝安曇のとありまた安曇の沼田郡八木村に景政神社がある
八木とは安曇氏の後継の八木氏なのである、飯館村には八木沢峠を越える、これも八木氏が地名化したのである、だからこれらの一連の引用からなぜか安曇族関係が色濃く出ているのが不思議だとなる、安曇氏は安曇だけではないその後裔の八木氏とか犬飼(犬養)を注目しないといけない、その氏族が地名化しているからである

同級生の只野氏が言うには南北朝争いがあり相馬氏が北朝側についたので隠れるようにして暮らしていたという、それは伝えられた話しだが南朝側だとすると相馬氏が北朝についたからそうなるのは当然だとなる
でも野馬追いの旗には菊の御紋を旗印としているのが出ているそれは菊池氏だとなる
菊池という姓は菊の御紋から生まれたのかともなる
その旗印は二騎ほど野馬追で鹿島から出陣したのを見ている
また鹿島街内でもその旗印を野馬追いに立つのを見ている

何でも只野氏の戸籍をたどると天保までたどれるという、天保というと江戸時代でも明治まで人は生きている、天保生まれて明治維新で活躍した人はいる、だから天保生れというとき明治も生きた人達だとなる
私の父親は葛尾村生れであり戸籍をたどると江戸時代までたどれる、でも姓はなく名前だけしか書かれていなかった
そして只野氏の墓は街中の陽山寺にありその墓に確かに安永と記されているという
安政だと鹿島神社のとなりの墓地に仏教関係の石碑がある
安永は天明の前だから古い、墓だとなかなかそれだけ古いものはない、墓ではなく碑としてはある

そして士族とは戸籍になっていないという、相馬氏に仕えて侍になったら士族になっている、只野氏は中心的家でも相馬氏に仕えないから平民となっていたのか?
南北朝の争いで肩身の狭い思いをしたということは本当だろう
北朝が相馬氏になっていたからである、でもこれも複雑であり相馬氏でも南朝に味方した人もいたとか南北朝の争そいは日本全国に村々にも及び伝説が残されている
それが南北朝でも完全に分かれて争ったというものでもなく入り交じり複雑だったのである、ただこの南北朝の争そいの傷痕はあとあとまで尾を引いたのである
それで明治天皇は南朝だったということを言うのもそのためである
今の天皇は南朝系統だったとなるのである

いづれにしろ直接人から歴史を語られ聞くと歴史も生々しいものになる
何かそして推理小説だと祖先の祟りだとかなることもある、それも問題だか生々しくなると怨念を残して死んだ人もいるからそうなるのである
ともかく二年ぶりとかで会った、病気になったと思ったがそうでもなかった
郷土史となると一軒一軒の家の歴史が基本になる
それで郷土史で大事なのは古い家をまず知ること新旧を知ることが大事になる
なぜなら古いと思っても新しい場合がある、例えば元の栃窪村の上萱(うえがや)は古いとみる、でも明治時代からだから古いともなるが江戸時代のものではない
江戸時代からつづいている家だと古いし墓でも江戸時代のものがあれば古いと見るのである、でも不便な場所に部落があってもそこが戦後の引揚者の部落だったりする
飯館村の木戸木など山に塞がれた不便な場所だがそこは新しいのである

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グロ−バリゼーションの終わり (経済も国内回帰―文化も国風文化の再興にー柿の詩)


 グロ−バリゼーションの終わり

 (経済も国内回帰―文化も国風文化の再興にー柿の詩)

 グロ−バリゼーションの崩壊ー文藝春秋(中野剛志)

 今インフレにより、激しく破裂するのではなく、着実に萎み始めているのである。そして、萎んだ後は、長期停滞、膨張しない経済、膨張しない時代が始まるのである。

 この「膨張しない時代」においては、日本経済と日本社会の安定性、効率性という強みが発揮されることになるのである。
 円安が進んでいてもついに「日本が独り勝ちする時代」がやってきた
 

  グロ−バリゼーションが始まったのは明治維新からまたは大英帝国が七つの海を支配した時だろう、そこで世界共通貨幣が基軸通過がボンドになったのである
次にアメリカが覇権国になりドルが基軸通貨となった
明治維新で日本が鎖国から開国してグロ−バリゼーションの中に組み入れられた
グロ−バリゼーションとはまた世界で対立が激化して世界戦争になった時代だったのである、その負の面も大きかった、何千万人の人間が戦争で死んだからである
世界大戦の時代がグロ−バリゼーションの時代だったのである
日本の太平洋戦争も日本が悪だとしているがそれはそういうグロ−バリゼーションの中で起きたことである、世界の覇権争いに巻き込まれたのである
大英帝国は日本の太平洋戦争で敗れて終わった、アジアから追放された
それは快挙だったのである、最初にアジアの覇権国になろうとしたのが日本だったのである、それは失敗に終わった,アメリカが台頭してきて次の覇権国になったからである

グロ−バリゼーションといっても覇権国があって成り立つ、無制限なものではない、統制する覇権国がありグロ−バリゼーションが成立する
無政府的グロ−バリゼーションはありえないのである
ヒト、モノ、情報でも金でも自由に流通するということではないのである
そこに自ずと限界があり人間はその定められた地理や風土や生態系に依存して生きる
それを越えられないのである、だから国境も必要だと認識した
コロナウィルスなどでやはり国境がないと境界がないとウィルスも自由に入ってくる
関所も必要でありそこで人の流れを止めるということも必要だとなる

グロ−バリゼーションは頂点に達して負の面が大きく認識されるようになったのである
経済面でもそうだが精神的にもそうなる、経済的には内需型になり文化的には国風文化の復興になる、日本は奈良時代は中国の唐から学び奈良時代に遣唐使を派遣して国造りをした、漢字なども取り入れた、でも平安時代になると国風文化になった
そして鎌倉時代になるとやはり中国から禅宗などを取り入れた、でも東(あづま)に政権を樹立して東が支配するようになった、そして戦国時代になり安土桃山文化になった
これはキリスト教などが入り国際化したグロ−バル化した
外国の文物でも技術でも文化でも積極的に取り入れた、その一つが信長が鉄砲を輸入したことである、その技術を取り入れたことである、それが戦争を変えた
そこで絢爛な安土桃山文化が生まれた

次に江戸時代の鎖国になった、国風文化になった、その300年で日本文化が歴史が培われた、ここは世界から遅れたものとして見られていたが実際は内需型であり日本国内で
経済を回す社会である、自給自足の社会が形成されたのである
この時世界から孤立していたとしても戦争のない平和な三〇〇年がつづいたのである
この三〇〇年があまり評価されていない、でも明治維新が成立したのはやはりこの三〇〇年に培ったものがあり成功したとなる
明治維新になぜ綺羅星のごとく偉人が生れたかでもわかる
それは侍がいたからである、明治維新は庶民の力ではない、真のエリートの侍がいたからできたのである、つまり侍が人材となり新しい日本を導いたとなる
侍とは武だけの人ではない全人格として全人間として優れた人達だったのである
それはその後の人間が劣った人達になったということでもわかる
侍はいなくなったのである
ただ世界的にも戦争していたのは貴族であり戦士として選ばれた人達だった
その後は国民となり大衆化したのが現代である、つまりエリートというのは世界的に消失したのである
戦争とはもう数であり機械の戦争となったのである、そこで何千万人もの人間が無惨に物のように殺戮されたのである、国民と国民、大衆戦争だったのである

そして太平洋戦争後から七五年は経済のグロ−バリゼーションの時代だった
それはアメリカ覇権のドル基軸通貨となったグロ−バリゼーションだった
でもこれも終わりになりつつある、中国の台頭とかで終わりになりつつある
アメリカの覇権は終わる、日本はどうなるのかとなるとアメリカが覇権国でなくなるとアメリカは守ってくれない、そこに台湾有事が大問題になるのである
アメリカは武器を与えても直接戦争にかかわらないというときウクライナを見ればわかるアメリカはもう直接兵士を派遣したり戦争にかかわらないとしている
トランプ大統領がアメリカファーストを言っているからである、国内第一になる
外国にかかわらない政策になってきたからである

そして日本もまた国内回帰になる、経済でも国内で極力回す、エネルギーでも石油でもガスでも何かあると輸入できないからである、ただ原子力発電を再稼働するのは問題であるあまりにもリスクが大きすぎるのである、一旦事故になったらこの辺のように住めなくなるからである、ただ国内自己完結する経済になる、だから鎖国時代にもなる
結局人口が縮小して日本が縮んでゆくのはこういう時代だからそうなった
日本がの人口は江戸時代で3000万人とかでありせいぜい6000万くらいの人口が適正規模なのかもしれない、そこで国内需要とまかなうとなるかもしれない
ただそうなると小国になるから中国に支配されることの恐怖になる
でもどうしても日本はもうかつての高度成長とかないし縮小をまねがれないのである
そのことはは文化にも影響する、思想的にも国内回帰であり国風文化の再興になる
世界的にも中世に戻るというときでもそうである
文化的なこと内面的なこと思想の深化とか学術的なこと芸術的なことそうした時代になるだから今なぜオリッピックでもするのかとかなぜインフラでもリニアなど必要なのか問われる、そんなもの本当に必要なのかどうか問われる
高度成長時代には道がないのだから道を作ることに疑問などなかった
でも鉄道でも整備されているし新幹線もあるしそれにリニアなど必要なのかとなる
何があらゆることで意義が問われる、哲学の時代になもなっているのである

いづれにしろ社会は内向きになる、コロナウィルスなどで在宅で家で仕事するリモート会議などしてするのもそうである、働き方も変わった、何か巣籠りというときそれも内向きになり外向きのグロ−バリゼーション時代の終わりを示唆している
世界でもそれぞれの国で国内経済中心となり国内で文化を育てる時代にもなる
自然はやはりそれぞれの地理があり風土がありその中で人間は育つ、それを無視して人間はありえない、自然をグロ−バル化などできないのである、それを多国籍企業がする自然破壊になる、生態系が破壊される、そこでウィルスがたちまち世界に感染するのである
そこに時間差もなくなったのが現代なのである
人間はそれぞれの地理と風土で育つのが自然である、食糧でもやはりその地理と風土の中で育つ、それを食べるのが体にもいいのである、そもそも体はその土地でとれたもので食べるのがいいのである、日本食はだから長寿食になったのである
牛肉とか外国のものをいろいろ食べることはいいことではない、またそれもできなくなる円安になりもう外国のものは高くなり買えなくなるからだ
すると日本にあるものでまかなうほかないとなる
日本がにあるものでもそれなりに豊かな食生活が今ならできる、別に葡萄でもとれているし前よりはいろいろなものがとれているからである
ハウス栽培で南国産のものも作れるとかなる、ともかく外国から輸入することは高くなるしむずかしくなる、そういう時代になったのだからそれに適応した生活をしなけぱればならないとなる


柿の詩

ここに柿なりぬ
今年も違わず柿なりぬ
その柿を食せよ
我が母は貧しく育ち
柿が好物なり
干し柿も好物なり
今あまたの果物あれども
昔はなしも貧しき
柿は日本の産物
それぞれの土地に実りあり
その実りを尊ぶべき
外に求めて欲は限りなしも
今年もここに柿はなれるも
その柿に感謝して
ここに住める良しとすべし

柿はkAKIとして外国に通じる、柿は日本の産物なのである、私の母は大正生れだから貧乏に育った、原町紡績で働いてその食事は一汁一菜である、沢庵とか味噌汁とかで良く働けたと思う、それでもそれが当時では現金収入になったから良かったと言っていた
その他は女中だったからである、女性の働く場がなかったのである
イギリスでも貴族に女性は下働きしていたから同じだったのである
ともかくいろいろな果物を食べれる時代が終わったのかもしれない、なぜなら円安で外国産は買えなくなっている
でも山形産のメロンが五〇〇円だった、それが大きなものであり得した感じになる
私は果物が好きであるから高いと買えないことは辛い、でも別に日本で果物はそれなりにとれている、でも昔は柿くらいしか後はミカンかくらいしか食べてないのである
リンゴも東北だと青森でとれるから食べていたのか果物はあまり食べていないだろう
ただ私は柿はあまり食べていない、母が好きだったので供養として買ってあげている

柿は、16世紀頃に南蛮貿易で日本と交易のあったポルトガル人によってヨーロッパに渡り、のちにアメリカ大陸に広まっていったという。またポルトガル領だったブラジルにも同様にして伝わったようだ。そのときに用いられたのは日本の品種である。そのため、前述したように世界でも「KAKI」とよばれるようになった。

日本における柿の歴史は古く、縄文時代や弥生時代の遺跡から柿の種の化石が発掘されています。奈良時代には日本の各所に柿が流通していたとされ、当時は祭祀に使われたり、冬場の大事な糖分補給源として食されていたとのこと。しかし当時流通していたのは、渋柿。人々は渋柿を熟柿や干柿にして食していました。

ポルトガルから鉄砲が入って逆に柿が輸出されていたのである
果物があまりないから柿は糖分をとるのに貴重だった
でも柿は今高い、干し柿でも高い、伊達市が特産物となっている
だから今は簡単に柿も食べられないとなる、今貧困化しているから果物には手が出ないという人もいる、でも一応日本産のものは輸入しないからまかなえるとはなる
外国産よりなんでも日本産のもの国内でまかなうようになるから貴重だとなる


柿の話ー俳句エッセイ

posted by 老鶯 at 10:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年09月16日

文系大学はいらない (職人なった方がましだーyoutubeで学んだ方がいい)


文系大学はいらない

(職人なった方がましだーyoutubeで学んだ方がいい)

アホ大なんかで数年潰してプライドだけ高くしちゃうより、高卒で頭柔らかいうちに技能を身につけるのもアリだと思う。
AIがなんちゃらとか言うけど、結局人が面倒見てやらないといけないんだし他にも人の手でしか回していけない仕事はたくさんある。
まだまだ職人は必要なんだよ。
アホ大入るくらいなら高卒で手に職つけたほうが賢いよね、みたいな風潮にすれば不必要な私大は潰せる

これはわかる、優秀な大工さんは15歳から大工修行していた
昔は18歳になると教えることはできないと職人になることは親方でも断ったという
つまり人間は何でも早い時期からスキルでも身につけないとできなくなる
それだけ時間が貴重なのである、時間はあっというまに過ぎてゆく、飛んでゆくのであるそして職業が人間を作るとういことがある、それでホイットマンは平民を職人をあらゆる働く人々を讃美していたのである
その大工さんも体でも仕事の中で作られていたのかとなる、もともと体の造りまで違っていたのかともみる、天性の職人なのかともみる

本当に文系大学よりほんの一部をのぞいて職人の方がましだとなる
理系だったら直接職業と結びつきやすいからである
文系はどんな職業と結びつくのか見えないからである
神学学んで牧師になるとかそんなのも変なのである、聖書でもそれをいくら読んでも実際はわからないからだ、経験しなければわからないからだ
だからプロテタントには牧師はいない、平民が直接神に結びつくのである
法学部とかると裁判官とか弁護士とか職業が見える、でも他はあいまいなのである

私は大学で何も身につかなかった、日東駒専だったからである
そもそも私は高校でもどうしてもなじめなかった、だから積極的に自ら勉強する気がなかった
それでかえって大学は勉強を強要されないので良かったのである
一日教室に閉じ込められることに耐えられなかった、また体でもそういう場所になじめないものだった、我がままといえばそうだが学校で勉強を強制されたから嫌だった
その後も会社とか団体生活でもなじめない、でも一時体育会に入った、それは体が弱っかたから強くしたいとういことで入った、それで何か積極的な姿勢が生まれたから良かったとなる、どうしても陰の性格だから積極性欠けていたからである
だからそういう点で大学に入ってすべては無駄とはなっていない

でも職業のスキルとか他に学問とかでもほとんど学ぶことがなかった
カルト教団に入ったがそこも教育などなかった、奴隷養成の場であり何の教育もない場所である、ただ正直今や大学でもそうだがカルト教団が増えたのはもう侍のようなエリート養成の場所がなくなった、教える場がなくなったのである
知識を教えるものがあっても全体的人格を陶冶する場は消失したのである
そして現代は必ず複雑な迷路に迷い込む、そこから抜け出せなくなる、そしてカルト教団のような所に迷い込む、それだけまともに学ぶがなくなった結果である

でもふりかえればただ貴重な時間を無駄にしたとなる

だからこそ職人の技を身に着けた方がましだったとなる、文系だと語学に熟達すれば仕事がある、ある人はドイツ人の技術者を火力発電所に案内していた
それは英語でしていた、つまり英語を流暢に話すことできれば仕事があるともなる
語学を身につけることは仕事になる、文系だとそこが専門職にもなる
でも大学では何か英語を習おうとしたができなかった
でも今はあらゆることで学ぶ環境ができたのである
youtubeの講義は解かりやすいと見ている、本だと文章を読むので疲れる
でも動画で図解で説明されるとわかりやすいのである
これは明らかに下手な大学の先生に教えられるより勉強になる
もう大学は知識教養を身につける場ではない、第一千人とか講堂に詰め込んで授業するより自宅でyoutubeでも何でも学んだ方がいいとなる
それはもう田舎でも可能なのである、どんな本でも手に入る、古本だったら自分の書庫もできる、どうしても一定の専門の本は揃えないと勉強はできないからだ

英語の勉強で失敗したのは

聞く能力を身につけることだった

それでテレビの英語放送でただ聞く練習を大学出てからしていた
それが意外と効果的だったのである、英語の音に慣れることが大事だったのである
つまり勉強の方法も大事だったのである、今なら無料でyoutubeで英語でも学べる
だから大学に行っても文系なら無駄だとも思った
ただ大学には大学の役目がある、何かそこで友達を作ったりとか人生を語るとかある
モラトリアムとの期間として与えられているとなる
でも正直そこに学ぶものがない、なぜ学生運動があったのかというともう大学はエリート養成の場所でもなくなっていた、つまり大衆化したのである
団塊の世代でもそこはエリートとして扱われない、無数の大衆の群衆の一人になっていたのである、文系ならまず授業すらまともに受けられない、教授とかなると何も教えない
時折顔みせるだけだとなる、だから大学は何する場なのだろうとなる

ただ4年間が遊びの場としてあり公認されているともなる
それも人生で意味がないとはなるが何かもったいなと思った
ともかく時間だけは容赦なく無情に過ぎてゆくのである
ただこうして大学が遊びの場になっているときそのまま遊びが人生になったという人がいるのもわかる、ギャンブルに興じてそのまま変な方向に行ってしまったというのもわかる私のようにカルト宗教にはまったとかにもなる
つまり大学の謎は教育する場所ではなかったのである
何か教育という機能が失われていたのだと思う
それより藩校とかが人格教育とが文武両道を教えていたからそこから明治維新でも人材がでてきていたとなる

なぜなら明治維新は民衆の革命ではなく侍が起こして成立していたからである
侍というのは江戸時代300年で培われて育てられた人達だったのである
真のエリートだったのである
でも明治にはその侍がいたが明治後期からはいなくなった
そして太平洋戦争になった、その戦争は国民化大衆戦争になった
それは外国でも同じである、ヒットラーのナチスがその最たるものだった
大衆ファシズムの時代になったのである
それまでは貴族がいて貴族が戦士であり戦争のプロでもあった、侍と似ていたのである
その貴族には城を館もっていて召使が大勢いたのと同じである
洗濯するものから食事を用意するものから婦人の身支度をするものとか分かれていたのである、まるで殿様だったのが貴族なのである
その貴族に使えていた人達もやがて別な職業につくようになった
侍と似ていることはその人達もエリートでありそこから国民を指導する人達が生まれたとなる、その階級制が今でもつづいているというのがヨ−ロッパだとしている
そこでは子供に家庭教師がついていた、そのためにやはり個性を伸ばすことができて天才が生まれたともなる
学校のようにな一律の教育ではないからである

いづれにしろ江戸時代には藩校がありエリートとして侍があった
明治になり学校化してエリート養成はなくなり教育でも大衆化した
現代ではもう教育する場所がないのである、そういう場が失ったのである
そうなるとどうなるのか?自ずと自分で自学しないと学べないとなる

そもそも強い学ぶ意志があればそういう環境がなくても道は開けるともなる
ただ受身的ではな何も身につかないのである
ともかく文系の大学はいらないとかそもそもなくなるともみる
youtubeとかででも無料で学べる時代になっているからである
大学の講義よりわかりやすいのである、これは本よりもわかりやすいのである
文系なら独学できる環境が整ったということである

教育はもう読み書きソロバンとかの時代ではない、思考脳、感性脳、遊戯脳、創造脳とかを育てることである、とても暗記脳とかでは何の役にもたたない、それはコンピュターが代わりにするからである
これも意外と天才でないかぎり訓練なのである
私自身は学問に興味がなかった、でも大学を出てから経験したり旅することによって地名に興味をもったりいろいろ興味をもってそれを育てていたのである
それは私は特別家族に恵まれていてそういうことをしていたのである
それは外から見れば遊んでいたとしかならない、でも今その成果を出しているのである







posted by 老鶯 at 10:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2022年09月15日

新田川で鮎釣りしている人がいた (でも真野川ではいないー鮎が上って来ない―原発事故のその後)


新田川で鮎釣りしている人がいた

(でも真野川ではいないー鮎が上って来ない―原発事故のその後)

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真野川では事故直後、国の放射性物質の基準濃度を超える1キロあたり2100〜3300ベクレルのアユやウグイ、ヤマメが見つかった。出荷制限と釣り自粛の呼びかけが続き、遠方からも訪れていた釣り客の姿は、今はみられない。同漁協理事で釣具店を営む森幸春さん(60)は11年近くにおよぶ出荷制限について、「『生きている間はもう釣りはできねえか』と言う人もいる」と明かす
https://www.asahi.com/articles/ASQ3651YGQ2HUGTB00L.html

冷水病が日本の河川に蔓延して以後は、これが極端に低下しており、場合によっては10%を切る事例も報告されているすべての河川でそのように悪いわけではないものの、平均的にみると40%程度まで落ちているのではないだろうか。つまり、生残率はかつての半分近くにまで低下しているのである。

この傾向は規模の大きい川ほど顕著である。つまり、容器の大きさからいうと1000匹必要な釣り場に実際は100匹しか放流されていないというようなことが普通に起きているのである。
https://hito-ayu.net/opinion_04.html


サケと違うのは母川回帰をしません。 その時に一番条件の良い川を選らで遡上を始めるそうです。

ヒトが作るダム、堰、コンクリート護岸、生活排水、工業廃水が、
アユの生活環境を脅かしていることは皆さんご存知の通り です。
この30年間、全国的に天然アユの遡上数は激減しています。
http://to-ayukebari.life.coocan.jp/ayu_seitai/ayu_seitai.html





全般的には海産魚の放射性セシウム濃度は順調に下がり、2017年に一部の出荷制限魚種を除くすべての魚介類に試験操業対象種が拡大され、漁業の再開に向けた取り組みも進められています。現在では郡山市内のスーパーなどでも、「常磐もの」として福島県産のカレイなどが並べられているのを見かけることもあります。一方で、淡水魚の放射性セシウム濃度は海水魚よりも高い値が続いており、比較的汚染の低い福島県中通りを流れる阿武隈川であっても、基準値を超えるヤマメ・イワナが2018年にも何検体か報告されています。淡水魚の放射性セシウム濃度は、流域内でも地域間、個体間で非常にばらつきが大きく、「安定的に100Bq/kgを下回る」と判断することが難しいことが、出荷制限や採捕自粛の解除が遅れる一つの原因になっています。このように、海水魚に比べ、淡水魚では放射性セシウムによる汚染の問題は今でも収束していません。今後、淡水魚の放射性セシウム濃度はどのように減少し、いつになれば心配なく食べられるようになるのでし
https://www.nies.go.jp/kanko/news/38/38-2/38-2-04.html


今日新田川で鮎釣りしている人がいた、鮎がとれるのかと聞いてみて
そしたら結構大きな鮎もとれたという、鮎は稚魚を放流しているが放流していないくてもとれたという、県庁の方で聞いて見たら毎年稚魚は放流しているという
私は毎日真野川を見ているけど鮎が跳ねたのを今年は見ていない、去年なのかその前なのかさらにその前の年なのか鮎の稚魚を放流したのを現実に見ている
県庁に聞いたら毎年放流しているという、となるとなぜ真野川だけに鮎が上ってこないのか?

この辺は県庁の方でも調べていない、ただ毎年鮎の稚魚を放流している普通だったら川を上ってくる、それが来ないとなると何なのだろうとなる
何が原因なのか?それがわからない、新田川は浅い川である、でも水が勢いよく流れていた、新田川には上にダムがない、真野川には飯館村の大倉に大きなダムがある
それで水質が違ってくるかもしれない、真野川でここに住んで放射線を計る人がいた
それはかなり長く川の放射線を計る仕事をしていた人がいた、専門家がいたのである

川の魚は一時食べるなと警告された、相当に放射性物質に汚染されているからとしてそうなった、海の魚より汚染が強かった、それは海は広いから拡散されるからである
川は狭いので拡散されないことが原因だった、狭い場所に滞留するということもあった
特に依然として真野ダムの泥には放射性物質が付着している
真野ダムの水は飲料水としても利用している、本当の除染は真野ダムの底の泥とりはらわなければならない、でもそれはできない、ただ溜池は除染した
でもそれも全部はできない、なぜなら回りの森からでも放射性物質は流れ出してたまるからである、つまり完全に放射性物質を取り除くことは不可能なのである

川で釣りする人とみると何か復興したのかともみる、でも真野川では見ない、それで淋しいとなる、もともと川には魚は見ない、子供の時カジカとかとっていたが今は子供も見かけない、そもそも地域でも子供が見かけない、子供が見かけるのは幼稚園としかないのである

ともかく鮎というとき私の父親は鮎釣りが好きでありその時結構大きな鮎をとっていいオカズになっていた、また田んぼの畔で鰻釣りもしていた
その鰻もうまかったのである、それを料理するのに家族みんなで大騒ぎだったことを覚えている、今は鰻もとれない、農薬で汚染されているとかなる
小川もなくなりメダカともいない、田んぼを流れる小川もなくなった、みんなコンクリートの堀になったからである
田んぼが回復して蛙が一斉に星空に向かって蛙の合唱になったとき復興を感じた
自然が復興したことを感じた、川でも鮎釣りする人でもいれば復興したとなる
ただ真野川では上流で蜆とる人は増えた、もともと真野川ではシジミはとれていたのである、それもいいシジミがとれていたのである
ただ貝類にも放射性物質はあるとされているからどうなるのか?

11年過ぎてもういいのだろうか、前の日常がもどるのはいいことである
とにかくこの辺の変化は余りにも大きかったのである
磯部でも海老村でも烏崎村でも根こそぎ津波で消失したことはショックだった
その傷痕はまだ消えない、ただ11年も過ぎると忘れて関心もなくなることはありえる
外部ではそうなっている、次々に新しいことが起きるので忘れられる

でも裁判では東電に賠償を言い渡された、

経営幹部が任務を怠ったことによる東電の損害として、廃炉について約1兆6150億円、被災者に対する損害賠償費用について計7兆834億円の支払い、除染・中間貯蔵対策費用計4兆6226億円を認定した。
https://www.bbc.com/japanese/62159103

これは当然だった、これもコストにこだわり失敗した、津波を科学者が警告していたのに対策をとらなかった、権力で安全神話を作ることには熱心であった
でも肝心の安全対策は金がかかるからしなかったのである
その代わりにその金は安全神話を強固にするため福島県の報道機関でも朝日新聞でも毎日でも読売でも創価系の潮にも回った、すべて宣伝費として安全神話を強固にする方になったのである
電事連でも800億円の金が注がれたのである、安全神話のために湯水のように金が注がれ
肝心の津浪であれ安全対策のためには金を使いたくないとなっていたのである
これは報道関係にも責任があったのである、金をもらえばいいとなって安全神話に加担したものとなったからである

10メートル以上の津浪が来る!

みんなこれを知ったら警戒していて逃げて助かった人達もいた
あらかじめ知っていれば警戒するからである、それは科学的根拠のあるものだったからである、それを東電の幹部でも無視したのである、だから当然責任をとれとなる
財産没収でもいいとなる、それだけの責任ある人達だったのである


posted by 老鶯 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2022年09月14日

なぜ医療費が増えるのか、病院、医者に頼りすぎる (生活保護は上客になる理由ー病院経営が苦しいから)


なぜ医療費が増えるのか、病院、医者に頼りすぎる

(生活保護は上客になる理由ー病院経営が苦しいから)

生活保護の総支給費は10年前の2004年度には2.5兆円だったのと比べると、10年間で1兆円以上も増えています。

内訳は2011年の例で見ると、医療費が全体の47%(1兆6000億円)

立行政法人福祉医療機構の調査「平成28年度 病院の経営状況について」によると、平成28年では一般病院の41.2%が赤字経営であることが報告されました。同データは平成24年に28.1%、平成25年に35.3%、平成26年に40.7%、平成27年に39.6%と推移しており、全体的に年々増加しています。

赤字経営!?今だからこそ病院経営の見直しを始めよう

この数字を見れば明確である、生活保護でも医療費の額が大きいのである
それは無料だから気軽に医者にかかる、まるで医者が友達のようにもなっている
それは生活保護者だけではない、普通の人でも病院が老人のサロン化しているとかある
老人の話の話題は病気になることが多いからである
何かしら病気を持っていてそれを通じて話しが合うのである
日本がは国民保険があるので気軽に医者でも病院でも行けるということでもそうなる
アメリカなら国民保険がないので民間だから病院に簡単に行けない、保険に入っていない人は診てもらえないのである

その女性は確かに生活保護であっても国民年金が四万とかもらっているから生活保護とも言えない、その金で暮らしていきなさいとなっているのである
でも医療費は無料となるとしているがならない、必ず足りない金を要求される
それが一万とか二万とか高いのである
だから本当はそんなに医者にかかれない、目まいが治るとか医者に薬を飲めとして
二万を要求されたとか言う、他でも脳の機械での検査では2万要求されたとかなる
その金は生活保護でも市では払わないのである
だからすべてが医療費無料だとかならないし何か生活保護でもとても10万などもらえない人がいる、その人は国民年金に加えて5000円しかもらっていない
医療費でも必ず数万の金を要求される
そして医者にそういわれると断ることもできない、でも金がないのだからと言って断ればいいのである、それでも医者に言われると直したいとなり金を工面する
その金を自分に要求されるのも困るのである
この前も埼玉の方まで行って特別の検査をして治療したとかなる
それは医者に紹介されて行ったとなる

「先生私は金がありませんので治療費を払いないのでできません」

こういっても医者はすすめる、これは医者の方で金が欲しいということも確実にある
なぜなら今の治療は高価な機械が必要でありそれを供えていないと患者でも来ない
するとその高価な機械代の元とるだけで多額の金が必要になる、するとどうにかしてその機械を使う患者が欲しいとなる
現実に近くの病院で認知症になった家族を連れて行って脳の写真を撮ったが実際は認知症は診れない、福島県だと郡山市とか大きな病院二台しか精密に見れる機械はない
でもあえて何もわからないのに機械で写真をとったのかというと金になるからである
医療にはこうして金が無駄にかかりとられることがある

それは病院でも経営の面から見れば苦しいからそうなっているのである
相当に無駄な治療があることは確かである、そもそも薬でも治療でも医者に診てもらったからみんな良くなるとは限らないのである
でも人間は病気に一番弱いから医者に頼り機械に頼りあらゆるものに頼る
宗教でもカルトでも頼る、それは病院もない江戸時代からそうたった
現代では科学技術に神のように頼る、お医者様となり神のようにもなる
今でも一番尊敬されているのは医者だからである
森喜朗元首相が一千万とかの癌の薬をオプジープを使用して寿命が延びたとされる
それだけ高価なものでも病気になれば服用するのである

病院の経営が4割で赤字経営だというときやはり設備費とかにかかるし医者の給料代とかも高いからかかる、おそらく医療というのは金をかければいくらでもかかるものなのかもしれない、治療でも切りがないからである
でも本当にその治療で治るのかはわからない、特に老人の病気は治らないのが多い
するといくら金をか治療しても無駄な金を使うともなる
そのことが医療費が増大してもう国を圧迫している、そしてその保険料を払う世代が若い世代だから不満がつのるとなり老人は早く死んでくれとなっているのだ

ともかくこの世は無駄がどこでもある、もしかしたら膨大な無駄に費やされるのが人間社会かもしれない、なぜカルト教団に一千万とか寄付するのかそこに何百億もの金が集まるのかともなる、それも無駄だとなる、無駄を言えばきりがなくなる
最大の無駄は戦争だとなる、何百万人も死ぬ、それも無駄なのか徒労だったのかともなるからだ
医療の問題は必ずしも治療しても高価な機械でも薬を使っても治らないことがある
それで糖尿病の人は病院に半年入院してかえって悪化した
でも家に帰って療養したら良くなったのである
家の方が回復力を持つものがあったとなる、それは肉体だけではない精神的なものが影響していたからである

だから病院経営でも在宅医療とかコミニュケーション重視とか介護との連携とかで病院経営を立て直したことでもわかる、高齢化社会の医療は今までも医療とは違ってくる
介護の人が増えるし需要が高まるからそうなる
つまり肉体の治療も必要なのだが精神的なもの心が大事になる
それに対応することが肉体の治療と同時に必要になっている
高齢化社会の医療はやはり今までのただ肉体を診ているだけではな成り立たない
心も診る必要がある、でもそれを医者にみんなできるかとなるとなかなかできない
だから礼文島の医者のように少ない人口の村とかではその土地のことでも人でもわかるからコミニュケーションを取り安い、全体の中に医者も医療もあるとなる
医療と福祉は不可分なものとしてある
それでスリランカでは誰か病気になったらみんな集まり治ることを祈る
そういう社会だと高価な機械とかなくても何か福祉がありそれが補完するともなる
医療の問題は体だけにはとどまらない、何でも実際は全体と関係しているのである

高齢化社会の問題はこれから深刻化する、知っている人は一人娘に金をあずけて自分で
自分の金を自由に使えない、それでもめた、その娘は一人娘であり良くされたのけど
親のことを思わない、それで怒って来なくてもいいと言ったという
こうして親子の間でももめる、親子でも近くにいても挨拶しない人もいる
それぞれ家庭の事情が違うからそうなる、なかなか他の家族のことが理解しにくいからである
もう子供でもあてにならない時代でもある、それで家族遺棄社会にもなる
それは非情になったというより介護の負担が金銭的にも精神的にも肉体的にもも大きいからそうなる、それを担える余裕がなくなった、貧困化でもそうである
だからこれから介護とかで悲惨な事件が日常化する、孤独死も日常化する
老人が多すぎて病人社会にもなるからだ、まず百才まで生きるとしてもほとんど病気になり健康には生きられないからである
高齢化社会はどうしてもプラスにはならない、一部ではなったとしても全体的にはなりにくいのである

2022年09月13日

全体的俯瞰的思考ができない現代文明社会 (部分化してアトム化した文明ー医療でも教育でも仕事でもなんでも)


全体的俯瞰的思考ができない現代文明社会

(部分化してアトム化した文明ー医療でも教育でも仕事でもなんでも)

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病気になるといろいろな科があり専門の医者がいる、ところが江戸時代とかなると専門の医者はいない、何でも見ていたのが医者である、様々な体の部分の専門家ではない、全部を見ていたのが医者でありさらに医は仁術というとき相手の心まで見ていた
生活状態まで見ていた、それは江戸時代とかなると専門家とかは限られているからかえって全体的に考える、村という小さな社会が社に中心にしてあった
でもそこでも困ったことが常にある、病気が一番困ったことなことは同じである
だから村の中心には必ず薬師堂があった、病気が治ることを祈るのである
でも地蔵でも腰が悪いと祈る地蔵とか目が悪いとか祈る地蔵とか今の病院の科のようになっていた、だからどうしてもこうして専門家してゆくのが人間社会てある

その人は常に金がない、頭がふらふらして目まいしてこまるとなり隣の市に脳をみる機械があるからそこでみてもらいと言われた、でも金が必要になるがない、そんなこと医者に言って金もめんどうまで見ないのである
でも江戸時代だったらその人が困っていたら後で金をはらってもいいとか安くするとかあったろう、それはその人全体を見ているからである
医は仁術にもなっていたからである、医者にみてもらう金がないというときそれを相談するのは役所の福祉に相談するとなる
不思議なのはスリランカなのか村の一人が病気になるとみんなで集まり病気が治ることを祈っていた、それは迷信的にもなるがそれにも効果があると見た
みんな治ってもらいたいというときそういう気が全体に働くからである
ただそれは医者もいないし病院もないからそうなったのである

でも今はそんなことはない、個々に人は分裂して金が唯一の頼りになっている
金がなければ医者にもかかれないし診てもらえないとなる、地獄の沙汰も金次第となる
森喜朗元首相が癌になりオプージプという薬を一千万とかかけて服用して寿命が延びたとか報道があった、そんな大金を払って普通は飲まない、でも金がある人はそこまでする
それで東京五輪で賄賂をもらっていたのかともなる
金で病気でも直すことができるが金がないものはできないともなる
ただ日本は国民保険があり公平である、アメリカは本当に医療費が馬鹿高いからその差がはっきりと現れる、医療費が高くて医者に貧乏人はかかれないのである、結果的に早く死ぬとなっている、日本はその点いいのだがもうこれだけ老人が増えて病人が増えるとそんなに医療費に回す金もなくなる、特に日本は貧困化しているから余計にそうなる

どうも医者というのは医は仁術というとき人間を患者を機械のように見れないだろう
機械の部品が悪くなったからその部品を交換するように患者を見れない
でも実際は人間の体でも部分化して見ている、専門家とはそうである、人間の体全体を診る人はいない、でも老人になると体だけで診るのではない、心まで診る必要がでてくる
それは老人はいづれまもなく死ぬということが避けられないからである
だから糖尿病で半年も入院した人が栄養がたりなくなりかえって病気が悪化したのであるでも家に帰ったら回復したのである、つまり医者でも病院でも体だけを診ている
その心を診ていない、そして老人になるとなかなか病気でも治らないから、心の問題が割合で大きくなる、だから延命治療はいらないとか自宅で死にたいとなる
それはもう体を看るだけではない、心の方が大事になるからである
家というのは何か安心する場所であり威厳を持てる場所でもある
その人は20代で一人倍以上働いて稼いだ金で立派な庭を作り家も建てたからである
それが自慢になりそれが人生の証しだまでなる
病院に入院したらその人はただ病気の人となるだけでありその人の人生とは関係ない無機質な病院に隔離されるだけなのである

人間というのはやはり体だけでを診てもわからない、心の問題があり老人になると特にそうなる、近いうちに死ぬのだから体より心の問題の方が重要になる
そしたら延命治療して廃人のように生きるより家で威厳をもって死んだ方が幸福だとなるどうして死ぬのかが重要になる
でも医者はそこまでは診ないのである
ただ礼文島の医者のことをNHKで放送したけど2000人とかの人口となるとその一人一人を知っている、何をしているのかどういう人なのかまでわかる
すると医者は体だけを診ているだけではない、その人間を全体を診るとなる
ただむずかしい病気になると稚内の病院と連絡して診てもらうようにしている
小さな島だったらその人の体だけではない、その生活や人なりを知っていて治療するとなる
礼文島は花の島であり花に癒されて死にたいとなる、稚内の病院とかで死にたくないとなるかもしれない、それは小さい島だともう全体につながりが明確に見えているからそうなる

とにかく現代は医療でもそうであるが何にしろ全体が見えない、部分化してアトム化している、一万の田舎町でもそうなのである、ただ大工さんを見たらその人は大工もできるし庭作りもできる、壁塗りまでできていた、それはその人の特別の才能からできたとなるがやはり田舎だと何でも屋になる、そういうことが強いられるからである
百姓とは百の仕事をできる人だとなる、それだけ農家でも多様な仕事があるからそうなった、また時代がさかのぼればのぼるほど人間は全体を生きていたのである
なんでも屋にならざるをえなかったのである、第一ケガするとしてそれでその傷に効く薬草などを知らなければならない、医者がいないのだから普通の人でも知って治療するほかないとなっていた、そういうことは農家とかでも薬草とかを知って備えていたとなる

村に鍛冶屋があるとする、するとその鍛冶屋は農民一人一人にあう農具を注文に合わせて作っていた、それは村で生きるとなるとそうして農民一人一人の要望に応えるためにそうなった、今のように規格品を買うことにはならない、道具でも職人でも様々なものが必要になるからである、その鍛冶屋にしても村全体の中で生きていたのである
ただ個々人に道具を売るというだけではない村全体のために働いていたとなる
現代はその全体のコミニュティが喪失したのである
田植えでも稲刈りでも人力だったら村全体でする、それで早乙女が田植えする、みんなでする、それが祭りになっていたのである、つまり祭りとは村全体でするものだからであるそれはみんなで協力しないとできないからそうなっていたのである
祭りがなくなるというときそうした共同性がコミニュティが喪失したことを示しているのである、今や農民が戦後まもなくでも6割とか戦前とかだと8割りの社会ではないからである

御民我れ 生ける験あり 天地の 栄ゆる時にあへらく思へば  犬養岡麻呂

こういうことで自然と人間が一体化していた、天地(あめつち)が栄えることが生活の基本である、でも今は科学技術とかがで栄えることであり天地とかは言わない
でも持続可能社会でそういうことが再び言われるようになった
天地がなければ人間の栄は基本的にないからである、天皇とはその栄を祈るものであり日本の祭司だったのである、だから皇居で田植えしたり蚕を飼っているのである
でも工業科学技術社会になればそれも現実と離れたものとなってしまった
日本がの高度成長は科学技術力で栄えたとなるからである

いづれにしろ人間は全体を見ないし見れないのである、無数に部分化してアトム化して分裂しているのである、原発でも吉田所長は復水器のことがわからなかったのである
それは肝心なものでもわからなかった、私は資材の専門家だからわからなかったと言っていた、原発でも余りにも複雑だから全部知っている人はいなかった
その前に原発が地域社会で生態系でどのように作用するかなど考えなかった
もし事故になったら生態系が汚染されて空気すら吸えなくなる恐怖になったからである
つまりこれも全体を生態系でも考えない全体を見れないということから起きたともなる
科学技術は巨大化して生態系すらも破壊してしまうのが現代である
気候変動も起きるとか全体に影響するのである
ただ人間は全体を見るのは苦手である、ただ一部分を見ているだけである
そこに人間の弱点があり今のような複雑怪奇な文明の全体を知る人などいないのである
それを総合する人もいない、それは神しかありえないだろう
文系理系とかあってもそれを総合的に見れる人などいないのである
そこに結局原発事故のように破滅的なことが起きて来る、そして文明は滅亡するともなるバベルの塔のように崩壊する運命になる

2022年09月12日

失われた歴史(鹿島区栃窪の上萱―写真) (なぜ過去が理解できなくなったのかー歩く感覚の世界がわからなくなった)


失われた歴史(鹿島区栃窪の上萱―写真)

(なぜ過去が理解できなくなったのかー歩く感覚の世界がわからなくなった)

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良くみると大根ほしているみたいだ
白いものが二つぶら下がっている
大根を干して沢庵にしたのか、飯館村だと凍み大根が有名になっていた

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この写真は上萱に人が住んでいたときの写真である、相当に古い、茅葺の家がここに残っていたからだ、ここに五六軒家があった
ここは元の原町市ではなく鹿島区の橲原村の領域である
もともと栃窪から塩の道として通じていた、それで塩を運んで休んだ地点の助の観音がここからそれほど遠くなくある
ただ塩の道は江戸時代のものである、この上萱の歴史は江戸時代からあったのか、明治時代にはすでにあった

ではなぜこんろ不便な地域に人は住んだのか?

それなりに暮らしが成り立っていたからだとなる、畑などもあった
というのは大原地域から発展したのだが八木沢峠に向かい細い道がある
そこの脇の森に隠れるように田があった、そこが遠田という地名になっている
なぜ遠田なのか?それは大原の草分けとなったのが前田地域である
前田と名がつくのはたいだいそこがその土地の草分けとなった家だからである
その前が前田となったのである、そこが村の中心なのである
そして私が南相馬市の病院で同じ部屋の人である斎藤氏がその草分けの家だった
でもその人は死んだ、実際は息子は街で暮らしていて一人で住んでいたのである
そうして死んだ結果そこは空家になっているのである
その人の墓が杉木立の中に隠れるようにあった
その墓を見たら刀自と名前の後についている、これはめずらいしと思った刀自は古代からある女性のことだからである
そこは確かにそうして古風なものを残していた古い家だったとなる
ただ大原より深野が古い、館とつく地名が二つもあるからである、これは中世のものであり相馬氏がこの地に入り支配する前からあったからだ

そしてなぜそうした不便な所に田を作ったのか?

不便な所に住んだのか?

それは当時は生きるためには農業するつ他なかった、すると土地が一番農業にとっては大事なのなる、土地があればそこでなんとか畑で野菜を作りわずかに平な所でも稲作をして米を食べる、それから桑畑を作り養蚕するとなっていた
他に山仕事があり木材とか炭焼きの仕事があった、特に炭焼きは現金収入になり山で暮らしていけたとなる

「遠野というのは、中心地から遠いところ、という意味で倭人(わじん)がつけたのではないかと思います」と自説を述べた。
 日本地名研究所の谷川健一所長(89)は、村崎説を支持した上で、平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。

なぜ遠野市となったのか?遠野となれば磐城に遠野がありいわき市街からかなり離れた場所である、ある土地の中心部から離れた所が遠野となる
でも遠野市はなぜそうなったのか?おそらくもともと遠野とは中心部から離れた場所だったがそこに住む人が多くなって地名化したのか?
原町市があるとして原町とは原っぱだったのである、野馬追が行われた雲雀が原があり
広い原っぱであり街などなかった、鉄道が開通して原町駅が機関区になり駅前通りができて今の街になった、でももともと原町村がありそこからは野馬追いに一騎しかでていない小村だった、江戸時代までは農業社会だから農家中心であり街中心ではなかった
そうして原っぱでも今のような街に発展することがある
とすると遠野というのも遠い野としてあったがそこに人が移り住んで広がったのかとなるいわき市の遠野は確かに中心部から遠い野にあたる
でも遠閉伊(ととのへい)からきたとすると遠野はそういう地理ではない、地理的にはこちらの説が合っている

なぜ過去がわかりにくくなるのか、それは今から過去を見るからわかりずらなくなる
例えば一番大事なことは当時は車がないということである
道を歩いて遠くに行っていたのである、この相違が大きいのである、歩く感覚で見なければ過去でも歴史は理解できないのである
現代とは近くが遠くなり遠くが近くなった時代なのである、外国でもニュースが絶え間なく入ってくる、かえって近くのことが見逃される時代である
ウクライナがどうだこうだとかウクライナが隣村のように情報社会ではグロ−バル化では身近になる、江戸時代ではそういうことはない、歩いて見て回る近くが生活の基本であるだから村社会でありみんな何をしているかすべてわかっている社会である
今は田舎でも何をしているのか何を仕事としているのかわからないのである
トラック運転手なども多い、とするとその人は東京とか遠くと関係している、中古の車を外国に売っている会社がある、それは外国の方が親しいのである
そういうことは田舎でも常にあり近くのことがわからないのである

とにかく大原からなぜ奥地へ人が住むようになったのか、それは農業社会だと土地が必要だからである、それでこの辺で人口の三分の一が天明の飢饉て消失したとき富山県とか石川県とか越中とかから移民が入ってきたのは土地が無料で与えられたからである
欠け地が広がりその土地を無料で与えられるということて農民が危険を犯して藩をでてこの地で荒地を開墾して住んだのである
またなぜ寒い満州に日本人が移民したのかとなるとそれは広大な土地が手に入るということで農民が移住したのである、それは農民社会では土地が一番大事だからである

ただこの辺で最初に移住してきたのは海人族の安曇族の後裔である、それが八木氏であり犬飼氏とかである、何故なら大原にも綿津見神社があったし本当に綿津見神社と山津見神社が多いからである、その人達は先進の技術を持った人達であり焼畑もできた
それで飯館村の山津見神社のある所が佐須であるがこれは焼畑地名なのである
そして八木沢峠があるがこの八木沢とは八木氏のことなのである、人名が地名化したのである
道としては今の車の道ではない一段高い所に細い道があった
なぜならそこに六地蔵が隠されるように残されていたからである
車社会になったとき昔の道は埋もれて隠されて見えなくなったのである

すると過去はわからなくなる、八木沢峠でもあそこを歩いて上ったらどれだけ大変な苦労になるかわかる、つまり飯館村には簡単に行けないのである
江戸時代でも明治以降でも車がないのだから歩くとなると容易ではない
何か天秤棒で鹿島区の屋形の人が鰻を売りに行ったということを聞いた
天秤棒というとき江戸時代の話になる、それを川俣で売ったというのも驚きである
そこまで天秤棒をかついで八木沢峠を上ること自体どれほど大変なのかとなる
そういんう苦労が車社会になったとき全くわからなくなったのである
六地蔵があったとしてこれは境にあることが多くそこで無事を祈ったともなる

私の姉は保健婦をしていて上萱に行った、そこは鹿島区の栃窪村内であり鹿島町に入っていたからである
そこで幻燈をもって説明していたとか言っていた、これはランプの光りで映していた
それから電気になった、でも上萱に電気が通っていたのかとなる
何か草鞋などを作っていたという、草鞋を買ってくれとなっていた、そういうとき買ってもらわないと困るからあえて買ってやったということもあった
戦後まもなくは街内でも電灯一つくらいしかなく山の方では電気が通るのが遅れた
葛尾村などでも相当に遅れて電気が通った
ネパールとかの山の暮らしをみるとそういう昔を偲ぶことができる、同じような生活をしていたからである

いづれにしろ何か歴史が消失してゆく、上萱で昔を語るものがなくなった、粗末な墓もあったが住民がいなくなりなくなった、もう何も語るものがないとなる
ただこの写真は貴重なものとなる

茅葺師に聞く〜 屋根だけにとどまらない 茅葺の魅力とその可能性とは
https://bit.ly/3RDkMUH

こういうことがあり茅葺のいい点があった、上萱とはこの萱のことであり萱がつくち地名が多い、会津の山間地域は一面萱が茂っていた、何か相馬地域にも会津から茅葺師が来たというとき茅葺の家が多いからそういう技術を持っていた人達が来たのかとなる
結局時代が余りにも変わりすぎて過去にあったものが理解できなくなったのである
でもそこにも何か学ぶものがあったのだがもう茅葺の家自体作れる人もいなくなったともなる





posted by 老鶯 at 10:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2022年09月11日

ハマニガナ、夏菊、秋の蝉 名月(晩夏、初秋の故郷)


ハマニガナ、夏菊、秋の蝉 名月(晩夏、初秋の故郷)

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ハマニガナ
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しじみとる場所が上流になった
今日は日曜日で人が多かった

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空家の大岩
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この車に夏菊が映えるとき確かに美があった

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写真で見たらこれが写っていた、肉眼ではわからなかった



雨しとと慣れにし道に秋の蝶

夏菊の白い車に映えにけり

ハマニガナ砂地に根はるも家はなし

尼蛙我部屋のぞき月の出る

名月のしばし映えしも雲隠れ


しじみとる人の増えしも真野川や土手草深く月見草咲く

朝静か街中にひびく秋の蝉その一匹の声に聞き入る

大きなる岩一つ残し空家かなその重みにそ秋は来にけり


朝曇っていた、雲に陽射しがさえぎられていても暑くなっている
昨日も陽射しが強かった、だから庭の剪定してもらっても暑いと思った
確かに秋になっているが今年は何か陽射しが強い、陽射しをあびると疲れる
そして私が恐れているのは熱中症なのである
だから陽射しが強い時は外には出ないようになった

今日は右田浜の方に行ったが釣りする人はいた、でも砂浜でも狭いし後見えるのは風車である、あまりにも変わりすぎたのである、家もなくなったし淋しい
ただそこにハマニガナが咲いていた、これは砂地でも根をはる、砂に栄養があるのかとなる、それも不思議である

真野川には日曜日でしじみとる人が増えた、結構しじみがとれるようになったのかもしれない、震災前は自分も良くしじみをとっていた、津浪以降はしじみとる人はなかった
でも三年前くらいからとる人が増えたようだ
真野川のしじみはいいしじみだった、大きな蜆もとれたのである
ここで良くなったのは土手にサイクリング道路ができたことである
これが意外といい、前は舗装されていなかった、舗装した結果自転車で走り安くなったのである
景色自体が人工的にも変わるし自然の影響でも変わる、常に変化してゆくのである
ただ山は変わらない、海は前から変わりやすかったのである

中秋の名月は昨日なのか確かに満月が見えた、その前は一時現れ雲に隠れた
街は静かであり秋の蝉の声が一匹ひびき聞き入る、一万くらいの町だと自然が色濃く反映するからいいのである、ただ足りないものがありそれで不便なのである
人間は住む場所に相当に影響される

空家に一つの大きな岩が残された、あの岩は貫禄がある、一応人が住まなくても地震があり手入れしていた、とにかく空家が多いしこれからも増える
一応大きな岩が残って依然として重くその家に残っている、つまりすぐにはそうして人がいなくなっても消えるわけではない、その岩は重く依然として残ってこの家を語っているともなる
家がなくなった跡地に一本の松が残った時もそうだった、その松が最後にその家があったことを示していたのである

近くの家の庭に白い車がありそこに夏菊が映えている、私は車は好きではないけど
これは美的なものがあると見た、俳句とは写生だというときありのままを写す写真と相性がいいのである、ここにむずかしく作るものはなくただそのありのままを写真のようにとるのが写生俳句なのである


2022年09月09日

福島県の歴史と地理 (福島県の境界の歴史-境界から見る歴史)


福島県の歴史と地理

(福島県の境界の歴史-境界から見る歴史)

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歴史人から地図を抜粋したが著作権の問題があるのか
引用として許可されるのか、こういうことはネットが普及して普通の人でも利用することがある
それはインタ−ネットは誰でも参加できるメデアだからである
それは共同作業にもっながるのである


戦国時代を見ても明らかに白河の関が変わらず境界になっていた、伊達政宗が会津を支配していても次に秀吉の仕置きで伊達正宗の会津が蒲生氏郷の所領になってもその境界は変わっていない、そして相馬藩とか岩城藩は変わっていない
その原因は阿武隈山脈がありさえぎられていたことである、地理的障害になっていた
それで玉野村には伊達と会津の境の桜がある

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に

こういう言い伝えがある、そして玉野村では丸森の木材をめぐって熾烈な資源争いがあった、伊達藩と米沢藩と相馬藩で木材資源の奪い合いがあった
それが藩の支配地図を見るとわかりやすい、米沢藩は新潟であり一時は勢力が拡大した
でも不思議なのは伊達との境が新地にあり新地は伊達藩の領地だった
だからその墓地を見ると相馬藩にはない姓がある、伊達藩は相馬藩と隣り合わせであり
そこで争いもあったが戦国時代が終わると協力もしたのである
でもなぜ新地となると平坦な地であり強力な伊達藩が一気に攻めて支配しなかったかである
それはやはり相馬藩が野馬追いがあるように相馬氏騎馬軍団が強力であり攻め入れることができなかったのかとなる

勢力争いとしては会津を支配した蒲生氏郷が意外と相馬藩と境を接していたのである
白河の小峰城の石垣に十字架が彫られていると地元の人に聞いた
氏郷は洗礼を受けてキリスト教徒になっていたからである
そして白河から三春から相馬の境まで一時領地があった、それは伊達政宗が欧州仕置きで秀吉によって叱責されて奪われた、蒲生氏郷に会津は与えられたからである

ここで境界を見る時、みちのくというき白河の関が古代からありそこが変わらず境界になっていた、ここの境界は福島県の今の境界としてつづいている
ここからみちのくに入る場所として継続していたのである
それはどうしてそうだったのか、地理的境界だったからか?確かに茨城県となると平坦な土地になっている、それで白河に入ると山がさえぎっていたとなる

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山頂は福島県東白川郡棚倉町と茨城県久慈郡大子町との境にあり、栃木県との境界から東へ1km未満の距離にある。八溝山地の主峰で北麓には久慈川の源流がある

八溝山は一部一キロくらい福島県に入っている、この山は結構深い、なぜかここを通って
白河の関跡に出た、その地理がわかりにくかった
もともとは久慈川の源流が八溝山になって久慈川をさかのぼって棚倉がありここの方が古い場所である、ヤマトタケルの伝説が残っていて水戸街道にも通じている
ここで蝦夷と戦った記録があるからだ、その時なぜか津軽の蝦夷まで応援して大和軍と戦っている、地理から見れば那須の原がありそこから白河の関所に入る、その平野は茨城県になるのである、那須の原だからである、ただ上野の領域にもなる

とにかくこの地理を知るのが意外とむずかしい、地図を見ただけでもわからない、私は
八溝山を自転車でぬけて白河の関跡に出てきたのである、そういう場所は古代なら通れない、久慈川の川をさかのぼる、川は道にもなっていたからである
森が覆っていたら道がないのだから古代では通れない、でも不思議なのは八溝山は奥深い森におおわれていて暗かった、だから閉ざされた感覚になった
そこから抜け出したいともなった、その山をぬけて白河の関跡に出てきたのである
でも大田原とから行けば平坦な地を行くことになる、芭蕉は日光からこの道をたどり白河の関所跡に出たのである

でも旅する時何かこうして山を越え森を抜け川をたどりとかしてゆくと本当に旅したことになる、その行程が何とも言えぬ不思議な感覚になる
もし古代とかだったら余計にそうである、深い森をぬけると開けた地があるとか未知との遭遇がある、そもそも古代となると旅することは命がけの冒険にもなっていたのである
山を越えて深い森をぬけて川をたどりその向こうに何があるかわからない世界がある
今のように何かすべてわかったような世界ではないのである
現代はもう旅する前かは行く先でも何でも情報があふれてわかっている、未知な世界がなくなったのである、道は未知だったのである
地理を知るということは鉄道の旅でもわからない、一番わかるのは歩く旅になる
なぜなら戦前でも江戸時代でも歩いて旅していたからである、するとその当時の人の心を知るには歩く旅をしなければわからないのである、私は自転車で旅したから歩く旅には通じていても歩く旅はしていないのである

深々と小暗き森を抜け出でて白河の関や秋になるかな

草の花道の辺に咲きあわれかな関所の跡やみちのくに入る

いづれにしろ伊達政宗であれ蒲生氏郷であれその物語に人間を見る
蒲生氏郷も伊達政宗も歌がうまかったのである、詩人でもあった
何か昔の武将は武だけではない、文にもたけていた、今の政治家にそういう人はいない
とういうことは現代人はかえって人間的にも劣化したのかともなる
侍というのはそれを育てる環境がありエリートととして育てる環境があり優れた人が育ったとなる、明治維新でも依然として侍がエリートとして指導者となり国造りしていたのである、それが明治の後半とか大正時代から戦争になるころは侍は存在しなくなった
国民は存在しても指導者になる侍はいなくなった、それは全世界的に言える
国民国家であり大衆社会となったのである、そこで人間を教育する環境は喪失した
ただ学校などで一様化規格化された人間を生み出すだけである
知識には優れていても人格的教育などないのである

侍とは武だけではない全人間として人格的に優れていたと人達だともなる
だから江戸時代までは侍を模範にしていたのである
現代は教育するというとき膨大な知識を教えられる、その知識の量が多すぎるのである
江戸時代なら限られているからその分人格教育とかが主になる
現代ではかえって教育となるともうAIとかが教えるとなる、知識の量が多すぎるからそうなった、ただそこではモラルとか人格教育はない、そしてなぜカルト宗教がこれほど増えたのか、それはもう教育する場がない、侍のようなエリート育む場もない
大学などでもそうである、大衆化して教育自体がなくなっていたのである
だから学生運動とかカルトにはまる人もでてくる、そこには教育する場所でもないのである、かえって藩校などが全人格的な教育をしていたとなる

氏郷の会津転封は、伊達政宗を牽制する意味と、秀吉が氏郷を都から遠ざけようとしたためだと思われます。氏郷の夢と激しい野心は、秀吉の側から見れば、ひどく危険だったのです。
 会津黒川城を居城としてからわずか五年後、氏郷は京都にて病死します。

 文禄の役の時、氏郷も兵を率いて、会津を出発、京都を経て、秀吉が朝鮮出兵の本営を置いた肥前名護屋(佐賀県鎮西町)に参じました。その道中の歌があります。

世の中にわれは何をか那須の原なすわざもなく年やへぬべき
 (我は何をなすためにこの世に生まれたのか。那須を通過しつつふと思われる。不本意なままに時間だけが過ぎて行っていいものか)

思ひきや人のゆくへぞ定めなき我がふるさとをよそに見むとは
(思いもよらなかった。人間の運命は不可解なものだ。生まれ故郷を旅しながら、無縁な場所のようにただ通り過ぎてゆくだけとは)

蒲生氏郷は朝鮮出兵のために九州の名古屋城に行ったがそこで病気になり京都で死んだ
40才だった、でも優れた人だったのである

かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風

ただ会津を治めたとしてもその期間は短かった、40才で死んだとなればそうなる
その息子も20代で次々に死んで受け継ぐことができなかった
一代で終わった不運の人だともなる、病気で早死にすることはその当時相当にあった
それにしてもこうして福島県の会津を治めたのでありその領地が実は相馬藩の境まであったというのも相馬とは無縁でもない、どうしても会津というと地理的に一体感を感じないのである、でも福島県としてすでに古代からその境界はみちのくに入る境界であり歴史的境界ともなっていて福島県というのが必ずしも歴史で作られた地理を無視しているわけではない、地歴を無視して福島県になったのではない、古代の歴史からさかのぼることができる、また伊達藩とか最上藩とか米沢藩との境もありそれもわかりにくい、境というとき実際にその場に立って実感することが必要なのである
それで宮城県と山形県の境はわかりやい、面白山でさえぎられトンネルを抜けると山寺になり山形県になるからである、トンネルをぬけると雪国だったともなる
山形県は春でも山が残雪で雪におおわれていたからである
そこが気候の境目にもなっていたからである

ともかく歴史を知るには地理を知らねばならない、時間軸になると歴だが空間となると地理になる、その両方をしらなければ歴史もわかほらない、でも地理となるとこれは福島県ずら広いからわかりにくいのである
どうしても会津は山国であり氏郷が治めていた時でも42万だったから広いのである
そこを自転車で旅しても本当に地理がわからなかったのである
福島県の地理はハマ、ナカ、アイヅがあり気候も違っている
だから二本松城に立ったときそこが福島県の中心をにも思えた
なぜなら二本松県となる構想もあったし磐城県となることも会津県ともなることがあったからだ
ただやはり地理があり歴史があり福島県になったのである、それは地理と歴史を基してそうなった
そこに多少無理してもやはり福島県は地歴として古代から形成されていたともなる
まず浜通りは中通りでも高い山があり会津ださらに山国であり広いのである
会津が一番歴史が古く唯一三角縁神獣鏡が東北で発見されている
会津が福島県では一番古い地域であり国があったとなる

会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね

この歌のようにすでに最初に国として意識されていた地域なのである
もう一つ南相馬市の鹿島区の万葉の歌も境界を示した歌だった

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを

笠女郎(かさのいらつめ)

この歌も境界の歌だった、それは地理的歴史的境界として真野の草原があった
浜通りから海沿いを大和の勢力が進出するには地理的に良かった
そして真野の草原の地点はこれまで考察したように気候的にも地層的にもシャリンバイが南限の地として鹿島区の海老が自生する地域であり温暖だからそこまで奄美大島から種が流れ着いて自生したともなる、しだ神社もありそれは南国産の樹なのである
みちのくの境界として白河の関があるとしてむしろ真野の草原が最初の境界ともなっていたのである、境界として意識されていたのである、つまり境界とは自然の境界があり歴史としての境界がある、新地などはさえぎる山などないのだから歴史的境界なのである
でも古くなればなるほど地理的境界が自然的境界にもなっていた
外国は川が長大で大きいからライン河がローマ帝国が侵入できない境界となっていた
ゲルマン人がそこに住んでいたのである
そしてウクライナの戦争でも川が依然として戦争で防衛線になっていたのである
だから橋を壊して渡れないようにするとなかなか川を渡れずに攻め入ることができないとなっていた、現代の戦争でも地理が依然として影響していたのである
現代でも戦争でもやはり地理が地勢が影響していた、これはなかなか克服できないものだったのである




政教一致の危険 (安倍前首相暗殺も宗教と安易にかかわっため起きた事件)


政教一致の危険

(安倍前首相暗殺も宗教と安易にかかわっため起きた事件)

山上の安倍首相の暗殺は私憤と公憤の問題になる、一面から見ると身の不遇を嘆く私憤に見える、でもまたそれが統一教会のカルトの被害者でありそれと政府が結託していたということで公憤に見える、私憤が公憤となったと見るのが妥当だろう
私情からの犯罪はある、特に男女間では常にある、でもそれは公憤にはならない5.15事件とかは政治テロであり公憤であった、もちろん底辺で苦しむからそ政治への不満となりテロとなった、私憤があり公憤にもなった
そして複雑なのは宗教がからんでいてそれが政治ともかかわっていたことである

だから政教分離ともかかわっていた、政治は宗教とかかわると危険になることを政治家は意識していなかった、なぜ政治と宗教がかかわると危険なのか?
カルト教団では世俗的なことに宗教をもちだすからである
何かというと罰当たるとか地獄に落ちるとか脅しそれでやめさせないようにする
でも逆に今度は世俗にそれを持ちだして言うとかえって創価の場合など地獄に落ちろとか罰当たるとか攻撃される、そこで統一教会に安倍首相が率先してかかわり政治的に票を得るために利用した、また統一教会でも利用したとなる

ここで問題なのは何なのか?

政治と宗教の一体化による危険である

宗教となると政治と違って絶対的になる、反論は許されない、でも政治となるといろいろな問題があり議論して決めたりする、宗教となると議論はできない、もし反対したりすると罰当たる地獄に落ちるとかなり反対が許されなくなる
だから戦争でも宗教がかかわると聖戦となり神が天皇が味方するのだから必ず勝つとなるそれでもう日本だったら一億総玉砕にもなるところだったのである
宗教には妥協がないからそうなる、政治とは賛成反対があり双方の言い分を一応聞いて判断する、そこで妥協するとなる、でも宗教だと絶対だから反対は仏敵となり許されないのである、だからこそ政教分離が生まれた
なぜならカトリックが政治と一体化して政治的に支配されたからである
その反発がありプロテスタントが生まれた、政教分離も生れたからである

そして政治と一体化した宗教は実はサタンが支配することになる、それはカトリックの歴史で証明している、政治と一体化して世と姦淫したサタンが支配するのである
聖俗が分離せずに一体化する、そして獣の印を押される、つまりそれがカルト教団なのである、宗教と政治が一体化するからである、それが統一教会であり創価でも他の団体でも同じなのである、つまり宗教が世俗化して政治化することは現実の社会を政治権力でも乗っ取りこの世の王となることである
そこでカトリックのように宗教が政治を支配するのである

日蓮の国立戒壇などでもそうである、それが政治的に実行されれば社会は宗教によって完全に支配される、何か逆らうものがあれば仏敵となり地獄に落ちる罰当たるとなり支配する、つまりそれはサタンに支配されることなのである
要するにカルト教団は異常にこの世の欲に執着している、この世の王になることに執着している、この世に天国を作るとしているがそれは実は自分たちが支配者になりこの世の王となり支配することであり地獄を作ることにもなる
心が清い者は神を見るだろうなど関係ない、この世で実質的に御利益を得て権力を得て
この世の王となり人民を支配することなのである、だからサタンなのである

ともかく私憤と公憤というとき今回の山上の安倍前首相の暗殺は宗教と政治がからんで複雑になった、それは宗教が政治にからむとそうなるのである
だから政治家は票になるからは政治にかかわることはつつしむべきであり危険なので悪
その火の粉が飛んできたのが今回の事件だったのである
一見統一教会に援助されるのは票になるからいいことである、そうしか見ないが宗教とかかわると危険だということを警告したのである
だからこそ政教分離が必要でありそれが軽視されていたのである

だから創価などは非常に危険な団体である、完全に政教一致だからである、そういう団体と自民党が一体化することはまた同じようなことが起きる、宗教の問題が政治に反映してまた逆に世俗的な政治の問題が宗教に反映して複雑になり事件が起きる
聖俗があり聖俗分離が必要にもなる、カルト教団になると聖俗もない、完全に聖なるものが俗化したものである、だから世俗的なものに支配される、すべて御利益であり金でありこの世の権力を得ることが第一になり目的化したのである
創価となればそれしかない、毎日選挙運動であり権力をとるために祈っているだけであるカルト教団はオウムでもそうだし幸福の科学でもそうだし統一教会でもこの世の権力を得て人民を支配することなのである、そのために宗教がある
宗教とは世俗を支配する道具にもなるからサタンなのである

でもなぜそれがなくならないのか?

それはいかにサタンが強力なものかということでもある

そのサタンと戦えるものはなにか?それはまたキリスト教でも仏教でもサタンに乗っ取られたことでもわかる、それはどうしてなのかとなると余りにも人間の欲望がこの世に執着して切り離すことができないからである、そこにサタンがつけいり支配するのである
老人になっても性の欲望が消えないとか人によるが欲に支配されるのである
だからこの世は欲で滅びるとされたのである
つまり獣の印をサタンに押されるのである、その人達は地獄に行くのである
それによって聖別される、カルト教団員は獣の印を押された人達なのである
要するに人間の欲が消失すれば自ずとこの世でも天国になるのである
子供ならそこに天国的なものを見ることができるのと似ている、でも大人になれば欲にふりまわされ欲にまみれ堕落してゆくのが普通だからである
そして兄弟でも遺産争いになり殺し合いまでなっているのも普通である

それは欲があってそうなる、なぜ創価であれカルト教団であれ根強くあり数を増やすのかといえば欲を否定しないからである、かえって教祖自体が欲望が強くこの世を支配したいとなっている、王とされたいとしている、だからカルト教団の教祖はサタンでもあるのだサタンを崇拝するということは人間で現世の欲をかなえてやるとしているからついてゆくのである、そこにだまされる人がいたとしても幹部などはみんなそうである
自分の欲望を実現するために運動するのである、他者を助ける気持などない
普通だったら金にそんなに執着しないからである、信者から金をとることなどないのである

だから何か宗教家というのは胡散臭い、社会にとって害になり無用なものに見える
かえって下々と汗して働いている人の方がまともであり上に見えるのである
宗教だけで糊口を得ている人は胡散臭いとなる
それで四国遍路でホームレスになった人がにわか僧侶となって御経を上げて金をもらうとなったのもそうである、もう追い詰められてそうなったのである
すると乞食でもない、俺は偉い僧なのだとなる、それと宗教にかかわるものは似ているのである、金を得る欲望を達成するための方便として宗教を利用するのである
宗教にかかわる者はカルトだけではないみんな何かいかかわしいは見れる
何かお経でも唱えていれば生活できるとなれば楽だともなるからだ
一方で働く人は汗して危険でも仕事しているからである、その方が立派だともなる

いづれにしろ政治と宗教の問題はそれが一体化すると危険だということである
そのために今回の事件が起きた、だから政治家もいくら票を得たいとしても深入りすることは危険である、自制が必要であり創価公明と連立政権を自民党を組むことは危険である何かしら今回のような事件が起きるかもしれない、でも票が喉から手をでるほど欲しいとなりそうなっているのである、だから民主主義とういのもそうしたカルト教団に支配されたりナチスのファシズムになりやいから問題なのである
数さええれば権力を得ることが危険なのである、結局それがナチスとなりファシズムとなったからである



posted by 老鶯 at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年09月08日

白百合、秋雨、竜胆(秋がようやく来たー空家の白百合)


白百合、秋雨、竜胆(秋がようやく来たー空家の白百合)

whitelily1111.jpg

雨しとと慣れにし道に秋の蝶

尼蛙我部屋のぞき月の出る


白百合の空家に咲きて我のみや見つつめでるや花も喜ぶ

白百合のそちこち咲きて人も見じ辺り静けく雨しととふる

白百合に竜胆さして我が一人部屋にし見つつ心静まる


白百合が空家の跡とかに多く咲いた、それを手折り花瓶にさした
隣が空家になりそこの庭に五六輪白百合が咲いた、不思議なのは人がいない所で咲く花は活きていない、花も何かに向かって咲いている
人に向かっても咲くし石に向かっても咲く、何か咲く相手が物でも必要だとなる

静けさや岩に沁み入る蝉の声 芭蕉

これもやはり蝉の声が岩にしみいる、岩や木があってそれに向かってひびくのである
岩はその蝉の声を吸収するのである
だから空家でもそこに奇妙だけど自分がその庭に入ってその花を見ているときその花を活きているとなる、ともかく空家が多いのである
何か今年はそちこちに白百合が咲いた
種が飛んだのかもしれない、白百合だと清楚とかになる
清純だとかなる、写真を撮らなかったのでこれは合成した写真である
私のしていることは抽象画でも合成である、パソコンのソフトげ変化させているだけである、それも創造ともなる、著作権違反にもなる場合があるが微妙である
もう原画とは違っているからである

白百合は散った、雨がしととふっている、黄色の秋の蝶がいつも行く道によこぎり飛んだ人はなるべく顔を出さない方がいいともなる
そこに醜いものが現れるからである
田舎だと人が住んでいるかどうかわからない感じになる、でも必ず誰か見ているのである誰も見ていないようで見ている、監視されているのである
何か人がでてくると蛇が出て来る感じにもなる、人は隠されていた方がいいともなる
人からどうしても何か醜いものがありその話にしても嫌なことが必ずある
私はだから本当は花だけでも見ていれば幸せだともなく

そして窓に尼蛙がでてきて今度はいつも来る猫が顔だした、餌をやっているからである
そんなものはいいとなる、蛇が出て来たら嫌だとなる
ともかく夏はいろいろ花が咲くからいい、でも夏も終わりである
今日は相当に温度が低くなった、明かに秋であり秋雨である
これからはそんなに暑くならないだろう、でも関東以西は暑い、暑さも苦手だから東京とか大阪方面には住みたくないとなる
この浜通りだけは気候的にはいいのである、暑からず寒からずとなっているからだ
体を考えるならとても会津とか北海道とかには老人は住めないと思う
気候の影響も大きい、同じ福島県でも福島市は夏は蒸し風呂になるから住みたくない
特に最近暑くなっているから耐えられないとなる




正しく向き合うもの

朝日に向かいひまわりが多数咲く
白百合が五六輪石に向かって咲く
天に向き純白のこぶしが咲く
花は花に向かって咲く
あなたは何に向かって咲くのか
あなたは神に向かって咲けるか
そうなるには心が清くなければならない
心を正さなければならない
そうでなければ神と向き合いない
あなたは眼をそむける
心がやましいことをしるから
山と山は向き合う
石と石は向き合う
正しき姿と心で向き合う
不純なものがなければ
人は神に向き合える
それがなければあなたを目をそむける
あなたはまともに見れない
あなたの心は神に見られている
偽ることはできない
あなたはアダムのように神から隠れる
それは罪を犯してやましいものとなったから


Things that face the right way

Numerous sunflowers bloom facing the morning sun
White lilies bloom toward the 56-ring stone
Pure white fists bloom facing the sky
Flowers bloom toward flowers
What do you bloom toward?
Can you bloom toward God?
To be so, your heart must be pure
Your heart must be righteous
Otherwise, you will not face God
You turn away
Because your heart knows what is wrong
Mountains face mountains
Stone and stone face each other
Face each other with righteousness and heart
Without impurity
Man can face God
Without that which turns you away
You cannot see properly
Your heart is seen by God
You cannot fake it
You hide from God like Adam
Because you have sinned and become a reproach

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)