2019年12月07日

中村哲氏の殺害と原発事故周辺の事情とはにていた (マスコミの一方的報道も危険)


中村哲氏の殺害と原発事故周辺の事情とはにていた

(マスコミの一方的報道も危険)

この事件を見ても人間に起きることがいかに複雑なのかわかる
例えば毎日起きている事件でもニュースでも本当は複雑怪奇になる
その事情に通じることは事件が起きたらとしてもわかりえようがないのだ
だからマスコミでもただ事実を報道することはいいとして
何かわかったような解説はしない方がいいともなる

何かマスコミは必ず裁判官のように価値づけして格付けして事の善悪を判断する
それが何百万とか一千万単位で見ていたらそれをそのまま脳裏に刻まれる
何も考えないとそのままマスコミに誘導されてそのまま受け取るのである

マスコミの危険性はそうして一方的に報道することである
何をどのように報道するかをまず決めて報道する
そこでNHKの幹部が決める

原発避難者側にまずつくということでこの辺でも放送した
原発避難者様としてあつかった、ある意味で原発避難者に逆らうことは非人間だとまで言われた、そうしむけたのはマスコミである、NHKでもそうである
でもそこには複雑な事情があった
津浪の被害者も同じ場所に仮設に入っていたけど補償金がもらえなかった
そこで補償金を高くもらった津波避難者とは口をきかなかったとも言っていた

でもNHKではまず方針を決めていたのである
それで飯館村の人がトマト農家に採用してくれというとき断った
その時、NHKの放送を見ている人は全国の人でもどう思ったのか?
なんという冷たい農家だと見たのである
でも別に冷たくも何もなかった
津波の被害者は補償金ももらえないから苦しかったから当然だったのである
でもそこでNHKによってそのテレビを見る人は頭にすりこまれたのである
それがもしネットのように何も津波の被害者が優先するのは当然ではないですか
そういうコメントもあったらまた別だがマスコミは一方的なのである
その価値判断を優劣とか善悪をマスコミが決めているのである
ここにマスコミの危険があった、それは一千万との人間見ているからそれによって
その見ている人もそのように見るからである

だからなぜ中村哲氏があれほど命がけで貢献したのにアフガニスタンで殺されたのか?
それは中村氏本人を狙って銃撃していたのである
その解説がここでしていた
nakamuratetu1.JPG


不毛の砂漠で灌漑事業して作物がとれるようになった
そこでその利益配分をなのかで土地のものが争うようになったという
それがこの辺の事情と似ていたのである
中村哲氏が外部の者でありそれも外国人である
その人が善意でしたことは受け入れられると思った
だから実際に地元の人に英雄のように讃えられていた

ではなぜ狙われて殺されたのか?

これが本当に外部からするとわかりにくくなるのである
そこにボランティアでもそうだが複雑なものが地元の事情があった
ただこれは本当に外部からでは理解できないものである
ただ作物が取れるようになりそれでかえって争いになったというのも何かそこにアフガニスタン特有の貧困からそんなふうになった
それだけ貧乏だとなると少しの利益でも争うことになる
それは遺産相続でもわずかでも争っている時代になっているのとにている

とにかく人間の世界は善意がそのまま何でも受け入れられることはない
かえって反発する人も内部の事情でそうなる
だから外部の人がいくら善意でもかかわることは慎重さが要求される
マスコミにはそういう慎重さが欠けているのである
その影響力が大きすぎたのである

マスコミは価値づけとか格付けとか善悪とかを判断するべきではない

事実を報道するのはいいとして何かそれを意図的に操作している
だから番組を作る前に方針を事前に幹部で決めているのである
ただそれがわからないように巧妙にしている場合がある
つまりマスコミは何らか必ずマスコミの報道方針を決めていて報道しているのである

今回の事件は果たしてそんな危険な複雑な場所に善意であれ援助するということが正しかったのか?
それが判断しにくい、それはなぜこんな目に合わねばならなかったのかということであるそれは自分自身が駅でボランティアしていて怪しいとして警察に通報されて人前で職務質問されたことである
それであいつは怪しいとなりそこで駅にいることもできなくなったこととにている
自分のしていることはそんなものであったし中村哲氏の命がけの貢献とはまるで違っていた
ただ善意がすべて受け入れられるとは限らないことである
それが人間の世界なのである
だからなぜキリストが十字架になったのかもそういうことがある
愛を実行してもそれは受け入れられないことがあるし何でもいいことが受け入れられる
訳ではないのである

家の中を見ると、土間に栗が、かためておいてあるのが目につきました。
「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。
「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」
 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
 兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました
ごん狐ー新美南吉  

善意でししていたことだったが殺されてしまった
そういう悲劇を中村哲氏の事件で感じた
善意は必ずしも通らないしその逆にもなる、それが悲劇となる
何かそういうことがここにもあった、地元の複雑な知りえない事情があった
それほどもしかしたら深刻な貧困があり争いがあり荒れ果てた世界がアフガニスタンなのかとなる
絶望的地獄になっているのかもしれない、ただ日本では安逸に暮らしている時そうした
深刻な事情を察することができないのである
本当になぜそんなことをとこれは簡単に理解できないからである

今回の問題もいろいろ考えさせられる事件だった
それはこういうことを地元で経験したから外国でも同じようなことが起きるのかと思った
ただまずアフガニスタンとかシリアとかのことを理解することは不可能である
そこは奇奇怪怪な世界であり理解不可能になってしまうのである
だからそういうところに安易に入り何かをしようとすることは善意でもできない
善意が善意として通るような世界ではない
そのために敵に味方したとか殺されることもある
それだけ人間社会は複雑なのである
善意が善意としてそのまま通るような世界ではないのである
だからといって中村哲氏を批判するというのではない
そういうことを批判はできない

ただなぜ地元の人に殺されねばならなかったのか・・・・

これが本当に理解できない、そのことがやはりここがどれだけ複雑で深刻な事情をかかえているかわかる
そういうことを示した事件ではなかったか?
お前らは俺たちの本当の窮状を知っているのか?
そういうことを示した事件だったのかもはしれない、そんなことをとてもアフガニスタンの内部から起きるとは思えなかったからである
それは謎であるが自分の経験と照らし合わせてもそういうことが推理できるのである



 今回の件に関してはアフガン当局も日本政府も事前に“襲撃計画”を把握しており、
それを本人に伝達して注意喚起をしている訳だからね。
紛争地域で偶然に出会して襲撃を受けるのとでは、全く意味が違うんだよ。
だから、犬死とは言わないが… って書いたんだよ。
謂わば、周りが身の危険を案じ、忠告をしてくれている訳だから
理解をしていれば、死ななくて済んだ。

とあるイスラム学者が言ってたけどアラブの争いは基本的に水なんだと

この人がお花畑の9条信者じゃなくてもう少しリアリストだったら、

周囲にいたボディガードも死ななくて良かったかもな。
いくら仕事とはいえアフガン側の犠牲者の家族とかマジでかわいそうだよな。

こういう見方もあるのはわかる
水の利権争いは砂漠では一番深刻になる

そしてここで中村哲氏の死を大々的に日本では報道しているが
そこで巻き添えをくって死んだ5人とかはどうなるのか?
無謀な行動で六人を死に追いやった
ということは中村哲氏は軍隊なら上官だった
その部下のことをきづかな分ければならない
もし襲われたら部下も死ぬからである

自分自身だけではない、その人たちの命もあづかっていたとなる
そこで独りよがりな行動はつつしむべきだったとなるのか

だから独りよがりの行動が周りにも犠牲者を出した
もし一人だけで死んだらそうは言われなかった
ただ危険の中で行動して来たのだからそれに慣れていたのかもしれない
でもやっぱり慎重さを欠いていたのか?

俺はアフガン人にはアフガンでぱ襲われない

そういう自身が今までの活動で生まれていたのか?

そういう奢りが油断がまねいた事件だったのか?

これはいろいろと議論をになる事件だった






posted by 老鶯 at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

グロ−バル化広域社会化で失われた絆と連帯 (原発事故が家族や地域の分断をもたらした訳ー真宗移民と比べて)


グロ−バル化広域社会化で失われた絆と連帯

(原発事故が家族や地域の分断をもたらした訳ー真宗移民と比べて)

現在の居住地が 5 年前の居住地と異なる人は 24.7% であり,
居住地が,出生時からずっと同じ人の割合は約 1 割にしか過ぎない(国立社会保障・人口問題研究所 2013).

風雪帯びた樹々の連帯

大地に根付く樹々は
風雪を帯びて定着する
そのためには長い時間がかかる
木の生長が50年とかかかるように
一代でその実りを見ることはできない
そして人々が連帯するということは
風雪を帯びた樹々のように
大地に深く根を張り
その土地に連帯を深める
そこに一つの連帯の殿堂が生まれる
それがその土地の歴史である

盛んに震災以後絆のことが言われた、その絆とは何であったのか?
それは外部がそういって外部との絆が生まれたのである
なぜなら実際に復興させたのは外部から来た人だったからである
そこにはいろんな職業の人たちがいた
その時内部の人は何をしていたかというと何もしない
ただ仮設に住んでギャンブルに興じていただけである
だから奇妙なのは外部との絆が生まれても内部ではかえって分断したのである

その分断は市町村内部でもそうだが家族だと若い世代が流出して親子とかでも分断されたのである

外部とは絆が生まれる

内部は分断した

それは地区によって状況が違っている、ただ原発事故は放射能汚染は人を住めなくさせるから分断される
それと多額な補償金をもらったことでも深刻な分断が起きたのである
それは飯館村などは牛を飼っていると軽く億の金をもらったとされている
大熊では牧場経営者が5億円もらったとか噂が飛んだのである

そして南相馬市だと鹿島地区と小高地区は分断された
鹿島の仮設に小高の人たちが住んだとき補償金を小高の人は多くもらっているとして分断された、小高の人たちはそういうことは避難したのだから当然だと思っていたから
なぜ苦しんでいる時そんなことを言うのかと分断されたのである
そして毎日のように仮設には外部から応援に来る人がいたのである
つまり外部との絆は生まれたのである
外部の人にとってまず仮設に住んでいる人が援助の対象になったがその他の人は関係ないからである

でも連帯とか絆を考える時それがどうして生まれるのだろうか?
農業社会だったら村中心の自給自足経済だからそこで自ずと助け合うとなるしそうしなければ生きていけない事情あったろう
でもグロ−バル経済広域社会になるとその経済交流の範囲は地球全体になる
その差がまた大きかったのである
だから南相馬市で一番問題だったのは外部から放射能汚染を怖がり物が運ばれなくなったことだったのである
つまり外部からの流通が断たれるともう生きていけなくなるのが現代である
それで三陸なのか裏山の清水を汲んで薪を用意して米を炊いてしのいだ部落があった
それは交通が遮断されたからそうなったのである
そこでまだ水があり裏山から木材をとり燃やして燃料にできたから生き延びた
でも都会だとそういうことはできないからお手上げになるということがある
グロ−バル社会が広域社会がいい悪いという前に今はみんなそうした中で生活しているのである、だから流通を断たれると生きていけなくなる
そういう社会だから外部との絆の方がここで生まれたというのはそういう社会だったからである

一方で絆とか連帯はどうして生まれるのだろうか?
内部的にはとうしても樹々のように大地に根を張りそこで風雪に耐えて成長するとき連帯がありうる、それで浪江の奥山の津島に開墾に入った人はともに苦労したので連帯が絆があったということになる
しかし今の社会は移動が自由だし農業社会ではないからそうした絆とか連帯は希薄化している
つまりコミニュティはつながりは希薄である
第一家を建てるにしても地元の大工はもう関係ない、大手のハウス会社にみんな頼む
それで大手のハウスは部品を組み立てるように一二週刊で家を建てるのである
すると地元の人に世話になったという感覚もないのである
そして人は別にどこに住んでも金さえあればできる
故郷でもこだわる必要はないとなる、結果的にそうして若い世代は流出したとなる

ただ人間の絆とか連帯は簡単に生まれない、それで農民は三代つづかないと仲間になれないというのもわかる
農業は共同作業なのである、それで限界集落に入った都会の人はうまく協同できずに去って行ったのはそのためである、そうした狭い世界の村社会に耐えられなかったのである
でも相馬地域だと天明の飢饉からさらにその後でも飢饉があり三分の一が流出したのである、その後の欠け地に越中の真宗移民などが入ってきて開墾して住んだ
なぜそんな厳しい場所に来たのかというと土地をもらえるからだった
越中などではもう生活が成り立たなくなっていたためでもある

ただどうしてそこで相馬地域に根付くことができたのか?
それは地元の農家に指導を仰ぎそこで耐えて土着するようになった
それは苦しいものであり加賀泣きということが伝わっているからだ
つまり地元の人たちに泣かされたとういことである
でも都会から限界集落に来た人はそういういじめにもあってすぐにやめて都会に去ったのである
でもそうした移民は帰る場がないから必死でこの土地に生きようとして土着したのであるそういう移民は大熊とかにもいたという
広範囲に相馬地域に土着した、三分の一はその人たちの子孫なのである
これは他の土地とは違うこの相馬地域の特殊な成り立ちであり歴史である

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移民はここでは地元の人に指導されて従った


これと比べると現代は移動社会であり条件のいいところに住めばいいとなる
それは中国でも起きている、移動が楽になると人は住みよい場所に住む
海南島などはいつもあたたかいから北方の寒い所に住んでいる人は移り住んでいるというそれは日本だんたら沖縄に移り住むとにている

ただ人間は本質的に絆とか連帯はただ楽をしたいかとして楽しみたいからと連帯が生まれるだろうか?
樹々が風雪がありそこで大地に強く根を張る、そういうことがないと連帯は育まれない
それは家族だってそうである、家族は共に助け合うからこそ連帯が生まれているからである、そうでなければ家族ではないとなるからだ
だから移動が自由でありどこに住んでもいいとしてもそれで連帯をかえってつくりにくいコミニュティを作りにくいからこそ孤立人間が増えているとなる
人間が家族でもばらばらになっているとか地域社会もないとかなる
つまりグロ−バル社会の負の面が増大してきたのである

そして金といかのも人間を分断してばらばらにする、遺産相続のように兄弟でも醜い争いになる、それと同じようなことが原発事故の補償金で起きたのである
金に目がくらみ他のことは見えなくなる、もう絆も連帯もない
ただ金さえもらえばいいしかなくなっていたのである
そうして若い人は親世代を置いて流出した、若い世代は故郷に戻ってこないのである
何かそこにグロ−バル社会の広域社会の資本主義の矛盾が露骨に現れたともなる
街すら仮りの街だったのかとも思えるほどあっけなく人がいなくなり回復しなくなった
それは今でも避難区域ではつづいているのである 

話は変わるが中村哲氏がなぜあれほど貢献したのに殺されたのか?
それはニュース解説では灌漑事業で何もとれない砂漠に作物がとれるようになって
そこで利益を生んだので争いが起きたと解説している
何かこれもわかりにくいがこの辺で起きたことと似ている面があると思った
何もない砂漠で作物がとれた、利益を生んだ、それで何かその利益をめぐって土地の人が争いになった
ここでも補償金でももめたのとにている、何か善だと思ってもそれが必ずしもその土地の人にとって全面的に受け入れられないのである

つまりその土地のことは外部の人にわかりにくいということである
だからそういうことに手をつっこむと意外なことが起きてくる
ここでもなぜ原発避難者の仮設に住んでいる人ばかりに注目して援助したのかとなる
外部から見ればそういうことは全面的に受け入れられると思ってそうしていたのである
でも地元にすると複雑なものがあった、それが無視されたのである
NHKでもそういうことで私は批判した
マスコミでも地元の事情がわからずに介入してくることは一面危険なのである
見方が一方的になっていた、原発避難者側に完全になっていたからである
利害争いがあるとやはりそこで公平に見れないのである
その是非をマスコミが判断してしまうことが危険なのである
なぜならそのためにそれが全国で放送されて正しいとなるからである
今はその反論をネットでなんとかできるがマスコミの影響が強すぎるからそうなっていたのである
マスコミによって格付けされたり価値づけされる、それが一方的になる
なぜならそれを何百万人とか千万人でも見るからである
ネットだと百万見るようなyoutubeはほとんどゼロだからである

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ともかくその土地土地にはこうして歴史がありそれがその土地から離れればその歴史が失われる
私の家は真宗移民でありこの土地に苦労して根付いた暮らしてきた
そういう先祖をもっている、でもその土地を離れたらそういう歴史は消失する
この土地に生きてこそその歴史が意味をもつからである
先祖が苦しくても頑張ったからここに根付いて暮らすことができたということがなくなるつまり歴史を失うということはそういうことである
その根となるものを失うことである
ただなぜこんなにもいくら原発事故であり放射能被害があるにしても崩壊したのかは解せないことがある

言えることはいろいろな社会の変化でそういうことになりやすかったとは言える
でもそんなに簡単に町や村から人がいなくなるということが意外だったのである
それは金の唯一の力となった社会だからこそともなる
つまり人々の結びつき希薄化している、だから何か事があったら今回のように連帯することもなくばらばらになり市町村でも消失してゆくという不安も他でも感じるだろう
内部での絆がむしろなくなっている
いくら外部の絆が生まれたとしてもそれは一過性である、長くは継続しないからである
現代は孤立社会孤絶社会無縁社会ににもなっているのはとそのためなのである








posted by 老鶯 at 16:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

地理の不思議 (平面的ではなく立体であるから地図にできない―南相馬市の位置)


地理の不思議

(平面的ではなく立体であるから地図にできない―南相馬市の位置)

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南相馬市の位置

南相馬市の丘から冬晴れの日に
牡鹿半島と金華山が見えた
すると心はそっちに向き
心は海に向かって開ける
でも太平洋は広く荒い
いつも波が荒く打ちよせる
そして津波の記憶がまだ生々しい
多くの命が無情に奪われた
心はまた海に開けても
心は閉ざされる
阿武隈高原に視界が閉ざされる
福島市の方は見えず
心はそっちの方に向かない
心は常に海の方に向く
伊達政宗が太平洋を渡るべく
メキシコを経由してはるか
ヨ−ロッパに視界を広げた  
それは東北ではありえぬ快挙なり
常に海に向かう土地がそうさせたのか
ただ太平洋は荒々しく
冬の海に鴎が一羽とんでゆく
そして東北の海は閉ざされている


人間はその人の住んでいる位置が大事である、そこをベースとして起点として世界を見るからである、だから同じ地域でも山側から見るのと海側に住んでいる人とはかなり感覚が違ってくる、その地理からアイディンティティが作られてゆく
人間はまず初対面ならどこに住んでいるかを聞く、どこの出身かを聞く、そこからその人のことを推察する、私の場合は日本だと全国を旅したからだいたいどんなところか推察できる、外国になるとまだまだわからないが一応主な所を回った
外国にうとかったがそこで見聞を広めることが50からでもできたので良かった

まず自分の住んでいる所はどうしても一番影響しているのが阿武隈山脈というより高原となっている、ここで中通りと福島市とさえぎられている、視界に入らない
すると福島県は横に広く地理的一体感を感じないのである
詩にしたようにむしろ仙台の方に視界が開けているし交通でも常磐線があり仙台に通じている
そして津波でわかったように石巻辺りが震源地になっていた
その石巻の牡鹿半島と金華山が片倉のフラワーランドから見えたのは意外だった
新地から見えていたがあそこから見えるとは思わなかったからである
そこまで見えるということは地理的一体感を福島県より宮城県に感じることになる

そして宮城県に津浪伝説があり津浪が来ると警告していた市井の学者がいたことでもわかる、海に面していて地理として一体感があったのは宮城県の方だったのである
でも行政区分としては宮城県と福島県は歴史的に相馬藩と伊達藩に分かれて争っていて継続して相馬藩は福島県に属した
ただそれはあくまでも廃藩置県で無理やりに分けたから不自然なのである
地理的な自然境界がありそういうものを考慮していなかったからである

宮城県だと本当に海に面している面積が大きい、そしてそこは海産物が豊富であり縄文人が前期には多く住んでいたことが理解できる、海の方が住みやすかったとなるからだ
ただそこは津波などが来る場所だったのである

いづれにしろいつも海を見ている人と山に囲まれて毎日過ごしている人では相当に感覚的に違ってくる、海は何か心を解放する気分になるが山だとどうしても閉ざされた感覚になる、だから阿武隈高原によって浜通りは閉ざされるのである
おそらく双葉や大熊辺りに原発が建っていても見えないし無関心だったのかもしれない
全く見えないし阿武隈高原に閉ざされているから見えないし危機感を感じなかった
これは別に浜通りでも30キロ離れた私の住んでいる場所でも危機感がなかった
そういうふうに何でも地理が影響するのが人間なのである

ただ一方で太平洋は荒々しいから何かここを渡って行けるその向こうに国があるとなど思えない
だから伊達政宗がヨ−ロッパまで船を作って送り出したのは快挙だった
そんな視界を普通はもていない、海もまたこの辺では閉ざす世界である
津浪でもわかったように海は本当に恐ろしいものだったからである
太平洋は心を閉ざす海なのである、日本海は比較的冬以外は穏やかだから青森の方まで縄文時代でも行き来があったことでもわかる、太平洋だととてもありえない海であり閉ざされていたのである

そして地理で不思議なのは地理が平面ではない、立体だということである
だからどんなにしてもこの立体感覚は地図では経験できない
なぜなら土地の高低を実感できないからである
だから自転車で狭い地域を回る時、一つの球体を上ったり下りたりして回っている感じになる
それは原町でも鹿島でも相馬市でもそこが一つの球体に感じるミクロコスモスに感じる
それはとても地図を見てもわからないのである
地理はまずこの高低とか隈なくその土地を行き来しないと実感できない、体得できないのである、だから未だに故郷でも狭くてもわからない所がある
そして車だと乗っていないからわからないが土地の高低など坂を上る感覚もなくなるからわからなくなる
鉄道でも坂の感覚がわからないのである

結局学問というときなぜ面白くないのか、それは学校だと記号の勉強でありただ地理でも紙の上でしか見れないからである、あとは受験勉強になる
現実世界から隔離された記号だけの世界で学ぶから興味がなくなる
まず地域でも回っていたら地理に興味をもつ
第一今になってやっと片倉のフラワーランドから牡鹿半島と金華山が見えたことを発見したからである
それだけ地元に住んでいても地理のことがわからないのである
丸森の絶景ポイントも最近発見した
そこからは大平洋を一望にできるし蔵王を見えたのである
阿武隈川も流れているから丸森は景観が一番いい場所である

地理がわからないというとき世界が理解できないのはまず広すぎて地理がわからない
中国なども理解できないのは地理がまずわからない
それであるゆる世界のことでも基本がわからないから理解しにくい
それでなぜ香港であのような激しいデモが起きたのか?
その説明で面白かったのはそもそも中国は南と北では違った国であり北は軍事力の騎馬民族が支配して南はその北京などの騎馬民族に支配されて搾取されつづけてきたという
また言葉も違っていて別な世界を形成していたという
それを読んでなるほどなと思った
南船北馬というのは聞いていたけど北は馬であり騎馬民族が支配した国だとなる
そういうことが根底にあり中国は対立しているのかとなる
そして北に黄河あるとしてもそこは不毛の地だという、ヤオトンとか洞窟の中に住んでいるとか貧しいのである、第一木もない黄土高原を見たらとても豊かになれないと見る
でも南は揚子江はそれとは別な世界である
それで世界でもtake place(起きる)は場所が大事なのである

いづれにしろ地理を知るには机上の学問では不可能である
旅しない限り実感して知ることはできないのである
だから世界旅行は必ずしないと何もわからないままで終わる
ただ一回くらいしてもまた地理はわからない、それだけ地理を理解することはむずかしいのである
それがわかるのは狭い地元すらわからなかった、それが如実に示しているのである

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原町でも鹿島でも相馬市でもそこは一つの別々の球体という感じになる






2019年12月06日

中村哲氏はなぜそこまで行動できたのか? (ボランティアの行動とその動機、心の謎ー時にかなった死だった)

  
中村哲氏はなぜそこまで行動できたのか?

(ボランティアの行動とその動機、心の謎ー時にかなった死だった)

今回の中村哲氏の死にしてもそうである
まずその行動に注目している、アフガニスタンでなぜそんなに尽くすのか?
それは度がはずれている
なぜならすでに若い医師は死んでいるからである、殺されているからである
すると普通だったらその時点で危険だからとやめるのが普通である
ペシャワール会でももうこれではやれないとなり協議してやめるようになるのが普通である、そこまでアフガニスタンで働く必要があるのかとなるからだ
日本人の命をそれも医者の命を犠牲にしてまで尽くす理由があるのか?
何かそれが問題になったはずであり議論もしたのだろうがその後も続行したのである
それはペシャワール会の意志として一致して続行したのである

そこまでして続行する理由があったのか?

その行動からみれば感嘆することであり称賛されることである
ただすでに日本人が一人殺されている、そして中村哲氏だけでなくガードマンとかも六人とか射殺されている、その人たちはただガードマンとして金で雇われた人かもしれない
その人たちはアフガン二スタン人でもただ金のために働いたとなる
そういう場では生活が苦しいのだから金になればなんでもやるとなる
第一大麻を作っていたというのは貧しく売るものがないからそうなった
それからイスラム国のテロになったのは若い人でまともに働く場所がないから兵士となり金をもらうとなっていた
テロが生まれるのはそうした貧乏が原因になっている
それで中村哲氏がそういう人達のために水路をひいて自らその工事にたずさわっていた
医者だけでなく土木工事も指導していたとなる

ただその一人の行動は一人だけではできないから回りをまきこんでゆく、日本人でも寄付したり応援している、アフガニスタンでも犠牲者が出たのである
だからそこまでやるべきなのか?
それが疑問として残った、別にそういうことが悪いというのではない
つまりその動機とか理由がわからないのでそうなる

それは三島由紀夫の死でもそうだった
なぜそんな過激な行動をして自ら自死したのか?それが良くわからなかった
ただあの時三島由紀夫は老いることの恐怖を語っていた
それで肉体を鍛えてボデービルダーのような肉体を見せていた
そして老いる前に死にたいと思っていたことは間違えない
老いるということに耐えられなかった

つまりそれが自ら死ぬという決断になった

でもそんな理由であんな事件を起こして巻き込まれるのは大迷惑だとなる
外に向かっては確かに右翼で日本を守るべきだとか言うが現実問題として老いることの恐怖がありまた最後に有終の美を飾りたいということがあった
それは利己的な動機だったとなる、そんな個人的理由で華々しく死にたいということで
そんなことをするとなると大迷惑だとなる
だから彼に関しては独りよがりな行動であり評価できない
それがどんなに過激な行動でも評価できないのである

ただ正直人間は老人になるとわかる、そういう心境になるのである
もう生きる時間も限られている、そして病気で寝たきりとかになったら怖いとか介護状態になるのが怖いとかなる
その前に元気なうちに華々しく死んで生を全うしたと思う
ただそういう動機は社会にとって迷惑だとなる
それなら自殺がいいとなる、それが社会をまきこんでその死を日本の愛国心からであり
日本の国のために犠牲になったとはならない
何かだから独りよがりでありみんな演技だったのかと見たのである
それは三島由紀夫はテレビにしょっちゅうでていた有名人だったから余計にそう見えたのである、盾の会とかも演技なのかとも見ていた
何か滑稽で笑っている人が多かったのである
でもオウムでもそういうことがあった、何か漫画などで宣伝していたから何かあんなに怖いものだとは誰も最初の内は見ていなかったのである
でも殺人集団だったのである、そして優秀な理系の若者が浅原にだまされたとして叫び死刑になったのも重い事実だったのである

人間はなぜあんな行動したのだろうか?

それを問うときそれがわかりにくいのである、だから常にボランティアが偽善だと糾弾されている、それは何か純粋ではなく何か意図があるとかなる
それは善意であってもあからさまに表に現れてそれをまた強制するように見えるからかもしれない、なんだ善人ぶってとかなる
現実問題としてボランティアより自衛隊とかの方が金をもらっていても奉仕しているし役にたっている、震災で一番役に立ったのは自衛隊だったとみんな言っている
ボランティアはあくまでも脇役なのである
でも自衛隊を賛美する人はいないのである、税金もらっているんだからこんなときくらい働けよとか言われるだけである
おそらく戦争になったら真っ先になって死んでこいとか言われる、それが当然でありお前らの仕事なんだよなとる、今でそめういうことを言っているからだ

これと同じようになぜ中村哲氏でも自衛隊のように他国で援助している場合もある
でも自衛隊の人はその国の人に感謝されたり日本人からも称賛されないのである
それが税金で食っている、お前らの仕事なんだよで終わりである
だからなぜボランティアだけがそんなに称賛されるのか?
それで嫌われるということがある、、善人ぶってたいしたこともしないのにほめられたいのかとなる

ただ中村哲氏とかペシャワール会はすでに若い医師が一人殺されていたからボランティアにしても厳しいものだったのである
ボランティアでも命がけになったらやるのか?
第一建築現場とかでは仕事は命がけにもなる、そんなところで仕事できるのかとなる
安全な仕事の補助はできてもそういう危険な仕事は普通はできないのである

そしてなぜあのように称賛されたかというと外国で仕事したからである
日本でもいくらでも困っている人が苦しんでいる人がいるが日本でボランティアしても
称賛されることはない、だからノーベル賞をもらえる人だとなっていたのである
いろいろな賞をもらっていたのである
だから日本でボランティアしていたらそんなことはなにもないのである
だからこそ外国でボランティアをしたのかともなる

こんなふうに考えるのはその行動はあまりにも目立つものでありそんなことまでしてやれるのかという疑問になったからである
その人の心は動機がどういうことでそんなことまでできたのかと問うようになる
人間は行動は目立つし見えるからそれに衝撃を受ける
でもその人の心は見えないのである、だから心とか思想とかはどうだったのか?
それを理解することができない、ただそれだけの行動したということで称賛されるのである

いづれにしろ中村哲氏の行動はボランティアとかでもない、もう医者としてもそうだしプロとしての活動である、現実に医者が一人殺されてやめることもできたのに継続していたそれはもう国連の一員のように仕事として働いていたともみる
ただそうなると保証が必要になる、ボランティアも危険があるから保険に入ることが義務化されている
政府でも外国に阿部首相は特に援助している、それも莫大な金になっていた
それは政府主導でありそれは国民の税金なのである
それでダークネスでは貧乏人に援助する必要はない、税金を払っているのだからそこで
支援しているのだから何か援助する必要はないとしている

いづれにしろボランティアというのが何なのだろうというとき

俺たちは善意の人間であり俺たちはほめられるべきだ

ますこうなってはじめている、何も金を払って仕事するならそんな気持ちにならないのである、家建てるとか土木工事をするにしてもそれは金をもらってしていから誰も危険な仕事でも称賛したりしないのである
別に何も特別なことなどしていないのである、社会では金を払って終わりでありそれ以上のことを求めないのである
でもボランティアは最初から善人として認め称賛されるべきだとなっているのである
ボランティアでも社会が認めない限りまず続けることもできない
現実に自分の駅での経験ではそうだった、怪しい奴として警察に通報されただけなのである
そんな仕事であれそこまでされたら継続できないのである
あいつは何をしているんだ、必要ないことをしているとなったら続かないのである
それも中村哲氏のように命がけとはならない
そこに何かボランティアのむずかしさがある 
中村哲氏の場合はボランティアの域を越えていた  
ただ賞をあれだけもらい天皇とも合いとか並外れて認められたということは大きかった
そういうことがないならそんな命がけのことはできないのである
それだけの大きな仕事をしていたからそうなった
それが生きがいにもなったのである

だから危険な場所にあえて若者は行って殺されたりとか戦争に憧れるとかある
死地に生を求める、またその人生を命を有意義なものにしたいとして
73歳までも過酷な現場で働いたとなる
それが生きがいになっていたのかもしれない
高齢化の深刻な問題として金の問題もあるが生きがいの喪失がある
老人は無用だとか邪魔だから早く死んでくれとか現代では普通にある
それだけ老人が増えすぎたからである
それで死ねない人間が増えたのである、延命治療とかもそうである
そんなことに労力を医者でも費やす方でも嫌なものになるだろう
でもアフガニスタンで中村哲氏のように働けばアフガンの星となりたたえられるしその生が輝かしいものとなる、そうなるとそういう生を求めて選んだ死んだのかとなる

ともかく同じ年代なのでこんなことを考える
老人は死が身近だからである
では退職したからすぐにそんなものを見つけられないのである
中村哲氏の場合は継続してやっていたからそれができたとなる
第一73歳から始めたからできないからである
つまりそういう継続の中でできた行動だったとなる
だから不自然さはあまりないのである、そう望んでいて望み通りの死となったのではとないか?とすると何か後悔とかもなかったとなる
それはかなった死だったともなる
何かそういう死をなかなか今はできない、だらだらと長生きして後は介護でめんどうをかけ延命治療してようやく死ぬとかなっているからだ
そういう面から見れば時にかなった死だったともみる
そうなったのはそういう人生を送ってきたからだとなる

旅ばかりしていた自分などは旅で死ぬのがいいとかなる

ただ現代はそうして死ねる人はまれになっている、何か不本意に生かされる
もう生きなくてもいいのに生かされる、そういう死をニーチェは批判していた
                                                                        
時にかなって生きなかった者がどうして時に適って死ぬことができよう

われわれはもうあまりに疲れて、死ぬことさえできない、それでわれわれは目覚めたままで生きつづける
ー墓穴のなかでーツアストラ

現代の死はそうなっている、高齢化の膨大な死がそうなのである
本当に病院に入ったら入院したら死ぬことすらできなくなる、延命治療でそうなる
それを治療する医者よりアフガンの星となる医者の方がいいとなったことは確かである
ともかく高齢化社会というのは金もあるがこの生きがいが大事である
そして認知症になる原因が社会的役割の喪失が原因していることを書いた
家でも無用となり何も生きがいもなく脳も働かず痴呆化してくる
それも怖いのである、それが生きながらの死のようになるのがまた多いのである
でも継続したことができるが新たなことを退職したからとして簡単にできないのである
だから長生きはマイナス面として生き地獄のようにもなる時代なのである






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2019年12月05日

中村哲、アフガンで死すー「死地に生を求める人だったのか」 (アフガンの星となる?)


 中村哲、アフガンで死すー「死地に生を求める人だったのか」

 (アフガンの星となる?) 


 この人についてはわからないので語れない、でもこれだけのことをできたのはなぜなのか?
 よほどの動機がないと普通はできない、でも語っていることでぱパキスタンで貧民の医療活動をしていてそこから成り行きでそこまでなったらしい。
 だから何か強力な動機があるというものはなかったのかもしれない

でも感心するのは73歳で砂漠の暑いところで活動していたことである
73歳になったら苦しい、私は情けないけど海外経験がないからもう介護を十年とかしたら気力なくなったからだ
だからこの人の行動を見たら超人的にすら思える
なぜこんなことまで命が危険な所まで行って活動できたのだろうか?
その動機は何だったのだろうか?
それを知りたくても知り得ないからいろいろ言えない

そういうのは中村哲氏はアフガンで死にたいと自ら言って死んだからだ
そこまでアフガンへの思入れが生まれたのだろうか?
その動機がイマイチわからないのである
例えばあまり行動を評価するなということが宗教では言われる
なぜなら神はその心を見ているというとき実際の行動より心を重んじているからである

人間には善を成すにしても偽善的に必ずなっているのである
だからこその善の成したことを誇ったりしない、隠せとなる
ボランティアが問題になるのはそこにある
俺は善を成していると行動でも見せる、それで称賛される、称賛してもらいたいともなるからだ

この人は立派な人と言われてるが
日本にも困っている人はたくさんいるのに
何でよその国まで行って余計なお節介してるのかわからん
それほど立派なことなんだろうか? 

今はどんな人でもどんな立派なことをしても必ず難癖がつけられる
何でも一言でも言えるからである、つまりキケルゴールの言うように水平化するのであるもう生きている限り必ず批判がある、それは抑えることはできないのである
ネット時代になるとますますそうなった、youtubeで若い人が一言言って得意になっている
何か内容無くても批判したりして注目をあびようとしているのである

この批判となるとやはりなぜそんな危険な所に行くのか
身近でも困っている人はいくらでもいる

それは注目されたいためなのか?

イラク戦争まえにイラクとかに行って首切られて無惨に殺された人もそうだった
その人については批判しかなかった、なんでそんな危険な所に行くのだと自己責任だ迷惑だとして批判されるだけだったのである

でも中村哲氏の場合はこれとは全然違う、称賛のみがあるとなる
だからそこに疑問を感じている人がいないかとネットを調べたがあまりなかった
前にどこかで死んだ都筑詠一氏がやはり批判していたようだが死んでログも残らずわからなくなった

人間が行動するときどういう動機でしているのか?
それを追及して来た、仕事でもどういう動機でしているのか?
結局金だけなのが多いからそれが世の中の現実である、金を得ればあとは何でもいいとまでなっているのが今の社会である
でも中村哲氏はそうではない、なぜなら死ぬ危険をがあったからである
前にもペシャワール会の若い医者が死んでいるのである
すでに犠牲者が出ていたのである、それでもアフガンに支援に行っていたのである
すると命がけの仕事なのである

それはよほどのミッションがないとできない、使命感がないとできない
ただその行動に目を奪われる、ではどういう動機でそこまでできたのか?
それが謎なのである
ただアフガンでは英雄的存在であり讃えられる、でもそんな人をなぜアフガン人なのか殺したのかとなるのも解せないのである
そうしたらアフガン人全員に恨みに思われるからいいことがないからである
そして同行の六人とかも死んだことも犠牲になったとなる
犠牲に巻き込んだのかとなる、なぜなら外国人を標的にしたみたいだからである

ただアフガン人からすると

アフガンの星となり永遠に輝く
その命はアフガンに捧げられたり
その日本人は長く記憶にとどめられる
医者の鏡なれや、日本人の誇りでもある

なんかそうなふうにもなる
ただ一人の人間を知ることは容易ではない、だから知らないで人を語ることは危険である行動ばかり見ていてその動機を知らないと危険である

例えば三島由紀夫の行動は衝撃的であった、でもそれが本当に評価できるのか?
その動機は何であったのかわかりにくい、三島由紀夫は老いることを異常に恐れていた
それて肉体を異常に鍛えていた、自分も若い時体が弱いからそういうことをしていた
彼の行動を目立ち衝撃的だけど本当にどういう動機で行動を起こしたのかわかりにくい
だから人間は行動だけから判断できるのか?
でも人間は行動に目を奪われるのである

ただ人生は本当は行動した方がなんであれ勝ちだと思った
自分は何か旅したが外国を50歳でバックパッカーになり行動したことがひどい目にあったが良かったとなる、なぜなら今になるとできないからだ
親の介護になってからできなくなったのである
そしてその気力もなくなったから中村哲氏のような行動力には感嘆したのである

とにかくなにかにやと理屈とか言って行動しない人は後で損する、なぜなら肝心の行動ができなくなるからだ、だから間違っていても行動していた方がいいとなる
というのは人間の行動は経験は個人的にはわずかしかできないのである
そうして結局超緒していたら何もせずに終わったとなってしまうことが怖いのである
もう老人になると体力もなくなるし気力もなくなる、でも若い時には絶対にもどることができないからである
すると何であれ行動した方が勝ちだったとなるのである

ただ人間の評価とか判断は本当にに難しい
特に行動を評価することが一番むずかしい、例えば芸術作品だと絵画にしろ小説にしろ詩にしろその人の作った作品で評価できる、でも行動はどうしてそういう行動になったのかとか動機がわかりにくいし評価することがむずかしいのである
それで歴史上の人物でも評価が分かれるのである  

死の風に吹かれて (ハンス カロッサ)

鎮火半ばの煙の前に
兵隊たちは立ち尽くし
農婦は納屋の戸を開けて
耳に手をあてて外を窺う

窓は鳴り壁は震う
我らの立場いかなるか
今や君らにも知られよう
死の風に吹かれれば
おと 命の力いかばかりか増さむ!

理解されなかった存在の
あらゆる時が、聖なる愉悦 聖なる傷とともに
力強く輝き出るーーー
友よ 我らに役立つのはただ一つの事

われらは夢見つつ始めたことを
目覚めつつ築き上げねばならぬ
その勤め大いなれば
恐れが我らの勇気を殺(そ)ぐことなし


何かこの詩が中村哲氏にささげるのにふさわしい
なぜならハンス カロッサは戦場で働いた医者だったからである
それでそういう深刻な経験から詩を書いたからひびくものがある

つまり中村哲氏も死の風に吹かれればといいう状態で活動していた
それも73歳でも砂漠の不毛の地帯で働いていた、それも命をかけて働いていたとなる
ただそれだからこそ命の大切をその過酷な世界で感じることがある

今の日本はそうした惰弱な安悦をむさぼる社会である、でも日本でも戦争の時は若者はそうした生きる死ぬかのなかで戦場の露と消えたのである
だからかえって戦場に命のかがやきが瞬間的にも強烈に輝くことがあった
その負傷した傷でも聖なる愉悦ともなるということは逆説である
それだけ大いなるものに命を捧げる時そうなったのである

「死地に生を求める 」  

窮地に追い込まれたからこそ、そこに生きる意義を見つけ、経営者として本来やるべきことは何だろうか?と考える、

今はただ個々人の利益を追求するだけの社会である、あらゆることに金しかない
金を得て贅沢して安悦をむさぼるしかないのである
そこにかえって生が輝きを失っているのも逆説である
だから中村哲氏の死はそうして安悦をむさぼる死ではなく、輝ける死ともなった
そしてアフガンの星となり永遠に輝くとなる
ただその動機はイマイチまだわからないから称賛するのはまだ憚れるということがある
前らその人物に傾倒して追っていれば書けるがわからないからそこに正当な評価ができないのである

いづれにしろ現代は原発事故でもそうだった、ただみんな安易な道を求めている
だから多額の補償金をもらったら若い人は故郷を捨てた
そこで苦しむことが嫌だからである、他に移って楽に暮らしたいしかなかったのである
苦難の道をともに行くことはなかった、そして街は廃墟化したともなる
別な見方があるにしろ現代は何かそうして苦難をさける
日本人は戦後は特にそうだった、ただ経済の追求であり安楽の追求であった
だから中村哲氏は何なのだろうと理解できなくなったのである
そこまでなぜするのだとなるからだ、でもこの詩のような感覚があったのかもしれない
そこに生きがいを見出していたのかもしれない、また称賛されることもありあえて医者ということを活かしてそうしたとなる
実際73歳でもとにかくそんな過酷の世界に行くことは尋常な精神では行けないと思うからだ、自分の場合はとても行けないと思ったからだ










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中村哲、アフガンで死す (アフガンの星となる?その人物評価のむずかしさ)


 中村哲、アフガンで死す

 (アフガンの星となる?その人物評価のむずかしさ) 

 この人は立派な人と言われてるが
日本にも困っている人はたくさんいるのに
何でよその国まで行って余計なお節介してるのかわからん
それほど立派なことなんだろうか?

 この人についてはわからないので語れない、でもこれだけのことをできたのはなぜなのか?
 よほどの動機がないと普通はできない、でも語っていることでぱパキスタンで貧民の医療活動をしていてそこから成り行きでそこまでなったらしい。
 だから何か強力な動機があるというものはなかったのかもしれない

でも感心するのは73歳で砂漠の暑いところで活動していたことである
73歳になったら苦しい、私は情けないけど海外経験がないからもう介護を十年とかしたら気力なくなったからだ
だからこの人の行動を見たら超人的にすら思える
なぜこんなことまで命が危険な所まで行って活動できたのだろうか?
その動機は何だったのだろうか?
それを知りたくても知り得ないからいろいろ言えない

そういうのは中村哲氏はアフガンで死にたいと自ら言って死んだからだ
そこまでアフガンへの思入れが生まれたのだろうか?
その動機がイマイチわからないのである
例えばあまり行動を評価するなということが宗教では言われる
なぜなら神はその心を見ているというとき実際の行動より心を重んじているからである

人間には善を成すにしても偽善的に必ずなっているのである
だからこその善の成したことを誇ったりしない、隠せとなる
ボランティアが問題になるのはそこにある
俺は善を成していると行動でも見せる、それで称賛される、称賛してもらいたいともなるからだ
またキリスト教徒でもイスラム教の世界で親身になり貢献した、そこに宗教的動機があったのか?
宗教を越えたものとしてヒューマニズムからそうしたとなる
ヨ−ロッパとかアメリカ人だとここまでしないだろう

この人は立派な人と言われてるが
日本にも困っている人はたくさんいるのに
何でよその国まで行って余計なお節介してるのかわからん
それほど立派なことなんだろうか? 

今はどんな人でもどんな立派なことをしても必ず難癖がつけられる
何でも一言でも言えるからである、つまりキケルゴールの言うように水平化するのであるもう生きている限り必ず批判がある、それは抑えることはできないのである
ネット時代になるとますますそうなった、youtubeで若い人が一言言って得意になっている
何か内容無くても批判したりして注目をあびようとしているのである

この批判となるとやはりなぜそんな危険な所に行くのか
身近でも困っている人はいくらでもいる

それは注目されたいためなのか?

イラク戦争まえにイラクとかに行って首切られて無惨に殺された人もそうだった
その人については批判しかなかった、なんでそんな危険な所に行くのだと自己責任だ迷惑だとして批判されるだけだったのである

でも中村哲氏の場合はこれとは全然違う、称賛のみがあるとなる
だからそこに疑問を感じている人がいないかとネットを調べたがあまりなかった
前にどこかで死んだ都筑詠一氏がやはり批判していたようだが死んでログも残らずわからなくなった

人間が行動するときどういう動機でしているのか?
それを追及して来た、仕事でもどういう動機でしているのか?
結局金だけなのが多いからそれが世の中の現実である、金を得ればあとは何でもいいとまでなっているのが今の社会である
でも中村哲氏はそうではない、なぜなら死ぬ危険をがあったからである
前にもペシャワール会の若い医者が死んでいるのである
すでに犠牲者が出ていたのである、それでもアフガンに支援に行っていたのである
すると命がけの仕事なのである
それはよほどのミッションがないとできない、使命感がないとできない
ただその行動に目を奪われる、ではどういう動機でそこまでできたのか?
それが謎なのである
ただアフガンでは英雄的存在であり讃えられる、でもそんな人をなぜアフガン人なのか殺したのかとなるのも解せないのである
そうしたらアフガン人全員に恨みに思われるからいいことがないからである
そして同行の六人とかも死んだことも犠牲になったとなる
犠牲に巻き込んだのかとなる、なぜなら外国人を標的にしたみたいだからである

ただアフガン人からすると

アフガンの星となり永遠に輝く
その命はアフガンに捧げられたり
その日本人は長く記憶にとどめられる
医者の鏡なれや、日本人の誇りでもある

なんかそうなふうにもなる
ただ一人の人間を知ることは容易ではない、だから知らないで人を語ることは危険である行動ばかり見ていてその動機を知らないと危険である

例えば三島由紀夫の行動は衝撃的であった、でもそれが本当に評価できるのか?
その動機は何であったのかわかりにくい、三島由紀夫は老いることを異常に恐れていた
それて肉体を異常に鍛えていた、自分も若い時体が弱いからそういうことをしていた
彼の行動を目立ち衝撃的だけど本当にどういう動機で行動を起こしたのかわかりにくい
だから人間は行動だけから判断できるのか?
でも人間は行動に目を奪われるのである

ただ人生は本当は行動した方がなんであれ勝ちだと思った
自分は何か旅したが外国を50歳でバックパッカーになり行動したことがひどい目にあったが良かったとなる、なぜなら今になるとできないからだ
親の介護になってからできなくなったのである
そしてその気力もなくなったから中村哲氏のような行動力には感嘆したのである

とにかくなにかにやと理屈とか言って行動しない人は後で損する、なぜなら肝心の行動ができなくなるからだ、だから間違っていても行動していた方がいいとなる
というのは人間の行動は経験は個人的にはわずかしかできないのである
そうして結局超緒していたら何もせずに終わったとなってしまうことが怖いのである
もう老人になると体力もなくなるし気力もなくなる、でも若い時には絶対にもどることができないからである
すると何であれ行動した方が勝ちだったとなるのである

ただ人間の評価とか判断は本当にに難しい
特に行動を評価することが一番むずかしい、例えば芸術作品だと絵画にしろ小説にしろ詩にしろその人の作った作品で評価できる、でも行動はどうしてそういう行動になったのかとか動機がわかりにくいし評価することがむずかしいのである
それで歴史上の人物でも評価が分かれるのである  


死の風に吹かれて (ハンス カロッサ)

鎮火半ばの煙の前に
兵隊たちは立ち尽くし
農婦は納屋の戸を開けて
耳に手をあてて外を窺う

窓は鳴り壁は震う
我らの立場いかなるか
今や君らにも知られよう
死の風に吹かれれば
おと 命の力いかばかりか増さむ!

理解されなかった存在の
あらゆる時が、聖なる愉悦 聖なる傷とともに
力強く輝き出るーーー
友よ 我らに役立つのはただ一つの事

われらは夢見つつ始めたことを
目覚めつつ築き上げねばならぬ
その勤め大いなれば
恐れが我らの勇気を殺(そ)ぐことなし

何かこの詩が中村哲氏にささげるのにふさわしい
なぜならハンス カロッサは戦場で働いた医者だったからである
それでそういう深刻な経験から詩を書いたからひびくものがある

つまり中村哲氏も死の風に吹かれればといいう状態で活動していた
それも73歳でも砂漠の不毛の地帯で働いていた、それも命をかけて働いていたとなる
ただそれだからこそ命の大切をその過酷な世界で感じることがある

今の日本はそうした惰弱な安悦をむさぼる社会である、でも日本でも戦争の時は若者はそうした生きる死ぬかのなかで戦場の露と消えたのである
だからかえって戦場に命のかがやきが瞬間的にも強烈に輝くことがあった
その負傷した傷でも聖なる愉悦ともなるということは逆説である
それだけ大いなるものに命を捧げる時そうなったのである

今はただ個々人の利益を追求するだけの社会である、あらゆることに金しかない
金を得て贅沢して安悦をむさぼるしかないのである
そこにかえって生が輝きを失っているのも逆説である
だから中村哲氏の死はそうして安悦をむさぼる死ではなく、輝ける死ともなった
そしてアフガンの星となり永遠に輝くとなる
ただその動機はイマイチまだわからないから称賛するのはまだ憚れるということがある
前らその人物に傾倒して追っていれば書けるがわからないからそこに正当な評価ができないのである

いづれにしろ現代は原発事故でもそうだった、ただみんな安易な道を求めている
だから多額の補償金をもらったら若い人は故郷を捨てた
そこで苦しむことが嫌だからである、他に移って楽に暮らしたいしかなかったのである
苦難の道をともに行くことはなかった、そして街は廃墟化したともなる
別な見方があるにしろ現代は何かそうして苦難をさける
日本人は戦後は特にそうだった、ただ経済の追求であり安楽の追求であった
だから中村哲氏は何なのだろうと理解できなくなったのである
そこまでなぜするのだとなるからだ、でもこの詩のような感覚があったのかもしれない
そこに生きがいを見出していたのかもしれない、また称賛されることもありあえて医者ということを活かしてそうしたとなる
実際73歳でもとにかくそんな過酷の世界に行くことは尋常な精神では行けないと思うからだ、自分の場合はとても行けないと思ったからだ











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店が見せる(魅せる)になっている (常に新しい価値を提供しないと生き残れない)


店が見せる(魅せる)になっている

(常に新しい価値を提供しないと生き残れない)


店というのは見せるからきている、売る物をまず集めて並べる、そしてまず見てもらうことが売ることに通じている
だから店(みせ)がもともと見せるから来ていたのである
棚というときはそこに在庫があるということである

でも最近ただ店で買うのではなく見るということが多くなったのだろうか?
原町のスポーツ関連の商品を売っていた大きなチェーン店がようやく原発事故から8年も過ぎて開店した、それにニトリの家具店だった
だからそこでまず商品を見る、店に入って見る、買うとういのではなくまず見る
ここから商売がはじまる、だからこそ店は見せるだったのである

そして街全体を考えるとそうして大きな店が廃墟になっているようなことが何か街がさびれた感じであの前を通ると嫌だったのである
それが8年もつづいたかからである、でも新しい店ができてそういう感じはなくなったから良かったと思い入って見たのである
でも買ったものは意外と高かった、あそこは高いと思った

ダイユーとかの方が安いし品物も同じでありかえって買った短い絨毯はいいものではなかった、それが長いと思って買ったが失敗だった
ふりかえれば通販だったらそこで寸法が出ているから自分の家で長さがわかったのであるすると通販の方がいいとなる
とにかく通販が多くなった、特に私が通販になるのは車がないからである
原町の店で運送費がとられるから損なのである
この辺も変だなと思って量販店でそのことを言ったら無料で配達してくれた

ただ初めてできたから最初はものめずらしくて入る、買う人もいる、何か多少高くても買っている人はいるだろう
それは悪いことではない、どうも通販だけだと街自体がさびれてしまう
シャッター通りになってしまうのが嫌なのである
原町も駅前通りはそうなっている、だから店はあった方がいい、街自体が活気が出てくるからだ

ただ問題は

店が本当に見せるだけになったこと

売る側にしたらただ見せるだけでは商売にならないのだ
買ってもらわなければ店を維持できないのである
書店にしても今はただ見るだけである、専門書は置いていないからである
本というのは天文学的量があることに驚いた
こんな本があるのととても読み切れない買い切れないのである
ただ安いものを古本化したものを買っている、それで十分だともなる
要するに本でもただ見るために店に入っているとなる

その店で見るにしてもその量が通販と比べると比べようがなく少なすぎる
だからとても通販にはかなわない
そして本当に東京辺りで店が見せるだけになり後は通販で買ってもらうようになった店がある、これまでの店というのがデジタル化で通販と結びついたのである
一応それで商売が成り立つ、そこで買ってもらわなくても通販と結びついて買ってもらうとなる

まさに店は本当に見せるだけで魅せられて買う場となった

ウィンドウショッピングとかあったからそうなったともなる
店は見せるであり街はそうして商品を見せることだともなってしまう
見せることは現物を見るのと通販のように写真で見るのとは違う
手触りとか何か大きさとか現物にふれる魅力がある
だから現物を見るということはそれなりの価値を提供している
つまり通販だけではすべての価値は提供できないのである

とにかく価値は様々なものがあり多様化したのである
だから今までの小さな商店でも勝機はある、街の電気店でも高い値段でもその操作とかアフターサービスを充実した結果成り立っているとかある
何か老人になると簡単なことでも操作できないのである
その操作することを教えてくれるのは助かるからそのサービスに対して金を払うのであるそれも大きな価値なのである
価値というのは本当に多様でありあらゆる価値を提供はできない
いくら通販でも提供できない、だから小さな商店でも勝機がでてくる
それを島倉とかのyoutubeでしきりに訴えている、あれも説得力がある
そもそもyoutubeは新たな価値を提供するツールとなっているからそれ自体新しい価値を提供している、それはテレビとかマスコミではできないものの価値を提供して金をもらっているのである

レストランでも食堂でもそこに料理だけの価値ではない、その食堂であれレストランでも何か店によって雰囲気がある
そこに仲間が集う場になって価値があるとか内装がいいとか広いとかある
私の気に入っているのは原町の高見ホテルの高見食堂である
それはホテル内にある、そこは広々して広いという価値がある、そこでは広いからゆったりできるのである
料理としてはいまいちだというとき何か決まりきっているからである
ても味噌汁はいつも同じではない、魚のアラとかアサリ貝とか蟹とかの味噌汁を大鍋で提供している
自分が一番気にいっているのは広いから気持ちいいとういことである
その広さが私が一番価値を認めているのである
ただ料理は決まっていてイマイチである、ただサシミ料理などはお得な感じがする
ただ料理は決まっているのであきるのである、それで日替わりでカレーを出している所が繁盛しているのもわかる
あきるから毎日変わるものを出すことが価値を提供していたのである
ただそうなるとそれだけのものを毎日提供するとなると大変な労力が必要になる
でもそれが新しい価値を提供することなのである

まず価値は無数にあり価値はいくらでもあり見出されていないのである
故郷にしても田舎にしてもその価値と魅力をそこに住んでいる人すら知らないのである
最近秘密の小径を発見した、それは地元の人もほとんど通らない場所でそこは魅力ある場所だった、しかしその価値を発見して見出している人はいない
それを私は詩にしたりしている
美的な詩的な芸術的価値も無数にあり近くの平凡な場にもある
しかし地元の人すら発見していないしその価値を認めていないのである

いづれにしろIT化して多様な価値がまた発見される、でも旧来の価値もまた活きてくる
それは店が見せるからきて魅せるになることでもわかる
その言葉の成り立ちをみれば昔に帰ったともなるからだ
つまり見せるということ店はそれなりに価値を持っているのである
でもただ見せるだけでは商売にならない、そこでデジタル化した通販と結びついたのである

ただあまりにも商品の種類が増えすぎた、とても店だけでは展示できない
そうなると通販はどうしても有利になる、でもまだ小さい店でも勝機はあるとなる
第一チェーン店でも商品を展示するには限られる、ニトリでもそうである
そこでは通販もしている、通販でも買えるとなる
通販だと大量の商品から選べるとなる、どうしても通販なしでは成り立たなくったのである
でも旧来のものがすべてだめかというとそうではない、何かそこに勝機がかえって逆に出て来る


この人の説明は説得力がある



starcicle111122.jpg

鹿島駅前の星自転車屋は他店で買った自転車でも修理を受け付けている
そういう表示を店前にしている
今日は休みで写真がとれなかった
必ず病院に行くとき休みなのである

原町の自転車屋では自分だけではないそこで買わないと修理を受け付けないのである
だから自転車屋は困る、また近くにないと困るのである
今は鹿島には一軒しか自転車屋がないからなくなると困るのである
でもいづれはなくなる、なぜなら跡継ぎがいないからである
何かこうして高齢化と少子化で跡継ぎがいなくなり中小企業でも大量に廃業化してゆくのもまた耕作放棄地とかと同じように問題なのである

ここはヤマハの販売店でありヤマハだと買いやすい
そしておすすめが老人向きでもあるYPJ-XCなのである
ただ高いから買うとなるとむずかしい、でも同級生がすすめたから買ったのである
そして喜んでいた、なぜなら脳卒中になり一命をとりとめて運動のために自転車にのるようになったからである
つまり走した人でも乗り安い自転車だったのである







posted by 老鶯 at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年12月04日

経済活動には本当は動機が大事になるのでは? (目先の利益にふりまわされている、老人になってみんな人相まで悪くなる)


経済活動には本当は動機が大事になるのでは?

(目先の利益にふりまわされている、老人になってみんな人相まで悪くなる)

●まずは利益だ

経済活動は金を得るためである、仕事も金を得るためである、会社も金を得るためであるだから最優先課題はいかに利益を出してもうけを出すかであり
そもそも儲けがなかったら利益がなかったち社員に給料すら払われないからだ
社長でもそして第一に利益を出すことを考える
会社は利益を出さなかったらつづけられない、社員にも給料も払われないからである
福祉事業でもないのだからまず利益を出すことだとなる

でもそこから何か経済活動が歪んたものになっている
それがあらゆる職業に及んでいるのだ、それは一番尊敬されている医療関係者、特に高給取りの医者でもそうである
今の社会で…様と言われるのはお医者様くらいだろう
そのくらい尊敬されているのに医者も金になっている
患者にとって有害な薬を出しているのは金になるからである
そして製薬会社と結びつき金が入る仕組みになっている
そういうことが慣習にもなる
ところが江戸時代は医療技術も貧弱だから医は仁術になっていた
医者に望まれたのは人徳であった、だから貧乏人からは金をとらないということもあったそれで医者はやはり尊敬されていた

そもそも医者になる動機はなんなのだろうか?
給料がいいとかが第一になる、それはみんなそうである、また医者だけは尊敬されるということもある
まず現代では尊敬されるということはほとんどない、平等社会だからである
ただ給料が高いということが一番の目的になる
それがみんなそうなっているとき社会自体が歪んでくる
もう頭の中が金しかないのが現代である

まず利益だ、金だ

これしかない、でもそれで社会の賛同が得らるのか?
利益があって当然でありそうしなければ会社が成り立たない
でも社会的有効性とか利益を得るにしてもそういうものがなければ果たして消費者が支持するだろうか?
何かその人が例えば経営者であり社長だとする、するとその人の頭の中が利益だけなのか、金だけを考えているのか?それがその会社全体に影響する
学習塾を経営するにしても経営者は何か蘊蓄を言っていたけどその人の中には金のことしかない、教育自体に何の興味もなかったのである
だから生徒を獲得させるばいいと思っていたのである
それで営業をさせてただ生徒を獲得して金になればいいと思っていた
そういう人に教育者となる資格があったのだろうか? 

●会社はただ金儲けの手段

もちろん自分自身は仕事も会社に勤める経験もないのだからたいしたことは言えない
でも私が教育に関心をもったのはもちろん金が欲しいということがあった
それは同じである、でも何か面白い教育をしたい、何か子供に創造的なものを喚起したということがあった、それも実際は頓挫していたし経営能力もなにもなかった
それで失敗して終わった
でも何か多少はそういう動機があったことは確かである
じも経営者でも社長でも教育自体になんら興味がない、ただ教育というのは金儲けの手段とういう人も多いのである

会社は仕事は金儲けの手段である

何かそういう人が現実に多いのではないか?
それが何か社員でもそうなる、まずは売ることであり銀行なら貯金を増やすことであり
今なら投資信託を売りつけることだとなる
それはゆうちょでは保険だったのである
ゆうちょまでそんなことしているのかと社会の顰蹙をかった
でもそれもまた利益を出せない時代だから追い詰められているからそうなったのである
本来の仕事とは関係なくなっていたのである
銀行とか金融関係がもうけを出る会社に金を貸せないからそうなったのである

地銀とかは元来地域の会社を育てる、地域に貢献することを第一として仕事があった
でも地域に金を貸して利益を出せなくなり投資信託とか売りつけるようになった
社員はそのためにノルマを課せられて顧客のことなど関係なくなった
もはや銀行は客から金を奪うことを目的にしているとまでなる
それも高度成長時代は恵まれていたのである
顧客に貯金するだけで利子をつけられていたからである
今は顧客から投資信託などをすすめられて手数料という利子をとられる時代になったのである、だからめうう時代だからいちがいに責めるということもできないことある

でも頭の中がとにかく金をとれば利益をだせばいいんだということしかなくなることは異常ではないか?
何か個人でも会社でも社会の役割があり仕事する動機がある
それか金だけになって頭の中が社会的役割社会に貢献するとか全くなくなり金を引き出し奪うという感覚にすらなっている
医者でも地銀でも他の会社でもそういうことが多くなる
でも利益を出さなければどうにもならない、給料を支払えないとなっているのだからしょうがないとしてあきらめ働くとなる
それはでも社会にとって有害になり社会の人々に損害を害を与えるものにならないか?
医療関係でもいらない薬を与えてかえって病気が悪くなり薬を減らしたら良くなったというのが結構あるからだ
そこに金しか動機がなくなったらもう社会の害毒になっている
そういう人たちを容認していたら害毒がありいつかみんな被害者になる

●人間の日々の仕事や生活がその人を作る

資本主義社会がウェバーの言うようにキリスト教の精神から修道院ではじまったという分析がある、つまりキリスト教の愛の精神で他者に尽くすということから始まったのが資本主義だとしている、でも今はそんなことは全くない、ただ強欲資本主義になった
金さえ得ればいいという資本主義である、株式でも何か本来の投資ではない
ただ投機なのである、FXとにている
株が上がったり下がったりする、だから巨額の金があればそこで買ったり売ったりしていればもうかるのである、その上下しているから必ず上がったら利益確定すればいい
そしてまた上下するらか安い時に買い高い時に売ればいい 

これは単純なのである、だから資金がある人はそうしてこまめに株の上下を利用すればもうかるのである、ただ一億以上とかの資金がないとたいしてもうからないのである
まず素人はそういう株の世界にはのれない、一日パソコンを見ていなければならなとなるからだ、一億でもたりない、会社だったら百億とかで売り買いして利益をあげている
それでも投資信託でアメリカのゴールドマンサックスのような世界銀行に投資信託をうまくうりつけられてゆうちょでも農協でも地銀でも投資して大損しているというから
普通は株では素人はもうけられないのである

いづれにしろ経済活動には動機が必要だけどそれが失われた
その時この社会の根底が成り立たなくなっているのではないか?
もうあらゆる人が頭の中が金しかない、他所でも別なものが動機があればいいのだが全部金が動機になっているのである
そこに現代の資本主義の退廃が極点に達しているともなる

それで面白かったのは「安曇の白い庭」で丸山健一が言っている

彼は間違いなく肉体は若者のようにひきしまり、贅肉などかけらもなく、肌にしみひとつなく、黒髪でふさふさしててその目はきらきらとかがやいていた
それより、何より、精神が全く穢れていないことに驚いたという

その人は蜂家でミツバチとともに花を求めて北から南まで移動する日々を送っているという
同級会で集まった人はみんな肉体も老いていた、それより心がみんなけがれて人相に現れていたという
丸山健一と私は年齢的さほど差がないのである

これは何を意味しているのか?その日々の性格の結果が肉体に心にも集積して現れたということである
だから人間とは何でも日頃の日々の生活が体でも心でも作ってゆく
だからこそ職業とは大事なのである、職業によって人間はかえって作られてゆくからだ
しかしみんなおかしくなっていたというときそれだけ現代の社会は体でも心でも歪めてしまう社会なのである、それが何か恐ろしいとも思った
第一株でも一日パソコンで株のことを見ていて億万長者になってもその人がどんな人になってゆくのか?何か人格的におかしくなってゆく、そしてその結果が老人になると現れる本当に老人になるとあらゆる結果が現れてくることが怖いのである
つまらないことでも老人になると結果として現れるのである
でも資本主義社会ではどんなことしても金にけがされる人が多いのである

つまりみなんその顔が金だけを追求する社会では悪相になっているというのだ
それこそが今の社会を如実に示していると思った
そういう会社で働いていたら自ずと悪相になってゆくのである
それが社会全体がそうだというとき生き苦しいものとなってくる
そういう社会ではモラルが失われていてもうまともにも生きられくなる  

ただお前の言っていることは甘いだよ
世の中そんなものじゃない、食うか食われかなんだよ
そうしなければ生きていけないんだよ

そういう反論になる、でもそうした社会がどうなってゆくのか?
社会が結局そうして金ばかりの悪相の人間を増やしてゆく

それは地獄社会になってゆくのではないか? 

●みんなが善人だと思っていることが間違いを産む

ただこの世はそもそも地獄だという人も普通にいた、親鸞などがそう言っていた
「地獄は一定すみかぞかし」と言っていた
人間はみんな悪人だとも言っていた、それが世の中の変わらぬ真相である
資本主義がもともとキリスト教の奉仕の精神で始まったのだが結局金だけを追及する
強欲資本主義になったり共産主義が大格差を産んだりとなっている
だから社会は変わらない、世の中は変わらない、変えられないとなり無常だとなる
みんな悪人だというときそうだとなる、ただ悪人だと自覚していないのである
親鸞は悪人だと自覚していたし他の優れた宗教者も自覚していた
その差が大きいのである                
たいがい善人だと思ってしているのである、だからかえって扱いにくいのである
カルト教団とか宗教関係者がかえってそういうのが多い
善人だと思ってすすめているけどそのすすめている人間が大悪人なのである
だからこそ善人は扱いにくいのである
俺たちは善人だ、全部善人だ、だから善人の言うことを聞けとなるからだ

地獄への道は善意で舗装されている

内的な確信が、間違った政策や行動によってなされた危害を正当化することがある。善意あるものは、その行いが集団に対して良いと信じている。それはかれらにとっては自明である。かれらはよりよい善をなしたためと信じた結果の巻き添え被害を正当化する。

善意だいうことで善人だとなりそれが災いとなる、善意なら通るべきだと従うべきだとなり強制される、そういうことが歴史上に常に人間には起きて来ていたのである
カルト教団になるとナチスもそうだけど善意が強制されて人殺しまでさせられるのである俺たちは善人で正しいから反対するならボアしてもいい殺してもいいとなるからだ
それはまず人間は親鸞の言うように悪人だとしないからである
そういう個々人で反省がないからである、そして集団の善意は一番恐ろしいものとなったのである、善意だから相手を殺ししてもいいとまでなったからである 
結局この世自体がダンテの地獄編だったのである
地獄人間の中に生きているということである
そういうことは人生をふりかえり老人になると不思議にわかるのである 

動機が大事だという時そもそも宗教というとき動機を一番重んじている、それはキリスト教でも仏教でも同じである
「神はあなたの心を見ている」とかいう時その動機を見ているのである
「心の清い者は神を見るだろう」というときもそうである
だから資本主義が修道院から始まったとしてもその逆になってしまったのである
共産主義でも同じだったのである

例えば宗教というときどうして生まれたかというと法華経になると飢えた虎にその身を与えたという故事がある、それは親のトラが植えて子供を殺そうとしたからだとされているその生まれ変わりが釈迦だとしている
なぜそういうことになったのか?それはインドでは動物を大事にする、動物を人間のように見ている、今でも牛でも猿でも大事にする
それから牧畜社会では動物を扱う、羊でも牛で豚でも飼っていて食べることがある
すると動物を殺して食べることに罪悪感をもつ、血を流して殺されてゆく動物を見る
そこで動物に対しての罪悪感を自ずともつ、動物を殺して自分は生きているのだという
ことになりそこで動物に悪い感じがする、動物の命を殺して自分は生きている

だから動物に感謝しなければならないとかなる、ただ植物だと野菜だけならそういう感情をもたないのである、魚でもやはり多少はもつが動物だと羊とかなるとより人間に近い感情になるからである
だから罪の意識が牧畜民族からより強く生まれて宗教になったともなる
現代の人間はそういう感情をもたない、ただ肉を貪り食うだけなのである
その動物を殺している現場を知ったらそうはならないのである
何か動物の接点がなくなる、するとただ肉の断片を買って食うだけになりそめういうことを感じないのである、命がどうして維持できるのかをやはり知ることが必要なのである

結局この世はダンテの地獄編なのである、そこにいるのは地獄人間だった
その地獄がこの世で現実にあるのだ、地獄編の人間のようにみんななってゆくことが怖いのである、でも本人はそういうことを自覚しないのである
そして老人にてったときみんな地獄人間となりその人相がダンテの地獄編にいる人と同じになっていたのである、宗教にかかわっている人もそうだったのである
だから日々生活する仕事が大事になる、それが結果的にその人を作ってゆくからである
でもそういう職業が資本主義では汚されているから大問題なのである






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2019年12月03日

時間とイデア論(時間とはエネルギ―のことである)

  
時間とイデア論(時間とはエネルギ―のことである)

●時間論

ヒンドゥー教では、1劫(カルパ) = 1000マハーユガ (mahayuga)、1マハーユガ = 4ユガ (yuga) = 神々の12000年(4つのユガは不等長で、1ユガ =神々の4800、3600、2400、1200年)、神々の1年 = 360太陽年とされている[1]。

つまり、1劫 = 43億2000万年である。

日常的に使われる億劫(おっくう)や永劫(えいごう)などの言葉は、この「劫」に由来する。億劫は本来「おくこう」と読むが、「おっこう」を経て「おっくう」に転訛したものである。これは百千万億劫の略語で、数式にすると100×1千×1万×1億となる     

星は、生まれたときの重さでほぼその一生が決まります。例えば、太陽の場合には、今45億才くらいですが、あと50億年くらいもすると、水素がたりなくなって、その一生を終えます。


時間は何かというときこれも不可解なのである
つまり決まった答えがなのが時間なのである
その人の考え方で決まるのが時間だとなる
ただ共通なのものとして一年を360日にしている、それは太陽の運行で決めているのである
一日とは太陽が昇り沈むことで一日である
でもその前に太陰歴があり月の変化で時間を決めていた
共通しているのは時間は何かの変化なのである
月が満ち欠けがあり変化があるから時間がある、もしいつも満月が出ていたら変化がないから時間もなくなる

例えば石があるとするとそれは千年とかでも動かないから時間を感じられないのである
植物でも花になっり実になったり20日大根とか40日大根とか時間で計る
それは変化して大きくなるからである、変化しているからなのである
木が成長したりするのもそうである、木が成長するのに50年とかかかるというとき
そうである、でも一年で木が成長したらどうなるのか?
熱帯では木が早く成長するから木の時間の考え方が変わる
いづれにしろ何かしら変化することで時間を感じている
石は変化しないから時間が感じられないのである
だけど君が代のように石も変化すれば苔むす磐となるように変化すれば時間を感じる
それは長い時間をかけて大きくなって苔むしたとなる変化があるからである  

君が代は 千代に八千代に. さざれ石の 巌となりて. 苔のむすまで

さざれ石から巌となり苔むすというまでの変化で長い時間を現しているのである

ピラミッドも一部が崩れているとかで時間を感じる
でも何かそれは4千年前のものでもそんな時間を感じないのである
作られたときとたいして変わらないからである、それは固定して動かないからである
変化がないから時間が感じられない、でも崩れているから時間を感じるのである

いづれにしろなぜインドではそんなにとてつもない長い時間を考えたのか?
そんな時間をまず思いつかない、宇宙的時間を思いつかないのである
それも不思議だとなる
宇宙でも変化するから時間がある、でも宇宙の変化を地球から見えるのか?
星がなくなることなど見えないのである、今なら星が一つ消滅したなど観察できたとかなるけど当時ではできない、でも宇宙の変化から時間を計っているのはなぜだろうとなる

日本に仏教が入ってきているのだからインドの思想が入っているけどわからなくなっている、億劫(おっくう)はこうした時間の長さから日本語化していたのである
他にも仏教が日本語化したのはある
でもその思想内容を深く考察していないのである
何か明治以降は西洋の学問しか検討しなくなったのである
そしてたいがい仏教でも現代では宗教はカルト団体宗教となり組織化政治化してその内容など関係なくなったのである

わかりやすいのは一つの星が生まれて消失する時間が一劫かもしれない
すると無数の星が生まれてまた燃え尽きて消失する、すると一つの星が生まれて消滅するのには一億年なのか十億年なのかとなりわかりやすい、太陽も一つの星だからである
すると宇宙には無数の太陽があり生まれては消えてゆく
そしたらその時間は永劫だともなってしまう     

核融合してもエネルギーを放出できない鉄が生成され、鉄や鉄に近い質量を持つ原子核のみが存在することになり、太陽は燃えなくなります

鉄が残るということは変化しないことかもしれない、鉄が錆びるのは酸素があるからである、でも酸素がない世界だと錆びない、すると石すら変化するが鉄は変化しないから時間を感じないとなる、科学はわからないにしろ常に化学反応でも変化するということが時間を作り出している、変化しない物には時間が感じられないのである
無常だというとき常なきもの、変化する世界だから無常だとなった、科学的にも世界は化学反応であれ物理反応であれ変化するから無常の世界だとなる

そして不思議なのはその星が太陽がなくならない限り時間があるとなる

最初に時間ありきではない、最初に星が太陽がありき

「光あれ」が最初であり時間が生まれた

ここが勘違いしているのである、太陽が変化を産んでいるから時間を感じている
時間を作り出しているのはそうした変化である、物質の変化でもある
そうして時間を考える時、

時間とはエネルギーだともなる

つまり宇宙であれ地球であれエネルギーがあれば時間が生じる

星は太陽は巨大なエネルギーである、でもいつか消滅する
でも宇宙には星がいくつもの太陽があるとするとエネルギーは消滅しないのである
死ぬとは時間が消滅することである、生きられる時間がないということは生きるエネルギーが消滅するからである
もし人間が老いることもなく活動できればエネルギーがあれば時間もなくなるのである
だから永遠の命というときそういう状態になるから人間から時間が消滅するのである
神の世界では時間がないのである、天国でぱみんないつも若いという時そうである
年取らないのが天国になっている、だからそこに無常もなくなる

●イデア論

また不思議なのはイデア論である
人間は花を見ている時花だって咲いて枯れて死ぬ
でもイデア論から花を見る時、花のイデアは永遠なのである
神がそれを地球に作りだしたけど神が示したかったのは具体的に地球に現れる前にイデアとして頭にイメージしたものを地球で現実化したのである
だからその頭に浮かんだものイメージしたものは神であり神はそのイメージを地球が滅んでもまた再現できるともなる
どうして多様な生物でも植物でもあるのかとなる、それはもともと神がイメージしてそれが地球で現実化したからだとなる

例えば何でも何かイメージしたこと想像したことは現実化できる
創造することは想像することと同じである
考えてみたまえ、動物でも象であれタコとかであれ
どうしてそんなものを創造できたのか?
それは神が想像して現実化したのである
どんなことしたって人間の頭では想像できるものではないからだ
そして人間の想像力(創造力)はすべて神に由来している
全くあらたな生物を現実にありえないものを想像することができない
たいがい現実にあったものから二次製作として創造しているだけなのである 
変なのは自分の製作している抽象画も二次製作である
写真であれ絵であれそれをパソコンのソフトで加工しているだけであり自分がイメージしたものではないのである 
でもそれなりりアートになっているのが不思議だとなる

人間は新たな生物の種を作り出していない!

確かに人間はいろいろなものを作り出した、でもそれはあくまでも神が作ったものでありその二次製作である、全く新しい種を作っていない、作れないのである
カーネーションでもいろいろな色のものを作り出したとしてもその種には変化ないのである、果実でも全く新しい種類の果実は作れない、種は作れないのである
果実を大きくするとかうまくするとかはできても全く新しい果実は作れないのである
そこに人間の限界がある

とにかく星が太陽があれば時間は消滅しない、時間とはエネルギーなのである
エネルギーが消滅したとき星が死に宇宙が死ぬということはエネルギーが消失することである
でもまた星が太陽が突然その暗闇の宇宙に生まれる時時間が始まるのである、時間が生じるのである       
つまりエネルギーが永遠であり時間が永遠だともなるのである 

例えば人間はみんな死ぬとしてもそもそも宇宙が消滅しない限り命がありエネルギーがあり時間があるとなる、でももし宇宙が消滅して時間がなくなれば命もありえないとなる
でも命がなくなることはない、永遠の命があり命は消えることはない
エネルギーが消失することはない、だから神の世界は永遠にありうる
そしてイデアが不滅だという時、それは時間と関係ないからである
確かに地球の生物は植物でも花でも枯れる死ぬということがあるがやはりまた同じように咲いているし見ることができる
そこで示しているのは現実の花ではなく神が創造したイデアなのである
そのイデアは消えない、だから地球が滅びてもそのイデアは再現される
イデアか不滅だということはそのことなのである
人間も一種の神が想像(創造)したイデアなのかもしれない、それが地球で現実化したのである

でも人間はイデアを見ない、毎日思うことはそんなことではない、食べることであり生殖でありショーペンハウエルの言うように生きんとする意志の世界に生きている
それが現代の資本主義になると金に転換されている
生きんとする意志は普遍的なものとして金になったのである
イデアを見るより花より団子になっているのである、神の目的は本来はそうして食べることではない、イデアを見ることなのである
それは人間にしかできない、動物にはできない、動物は神のイデアを見ることはできない花を見てもただ食料となっているだけだからである
だから神のイデアを見ない者はある意味で動物の生を生きているだけだともなる





冬菜(冬の田舎の風景)

                        
冬菜(冬の田舎の風景)

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貧思うここに生きなむ冬菜かな

寒烏誰か見ている田舎かな

残菊の通りにあわれ店閉める

カーネーション無垢の白さにそえる花

冬薔薇一匹虫や無人駅

冬の海沖に漁船や港かな  
                                              

烏崎枯野となりて人住まず防波堤のみ高くなるかな


田舎でも現代は別に土地のものを食べていないのである
みんな外から入ってくるもの食べている
知っている女性の畑では結局何もとれない
ただその畑で仕事することを聞いているだけだった
でもそれだけでも直接聞いたので多少農業に詳しくなったとなる

ただ本当に昔のように生活している場でしか食料が得られなかったらどうなるのか?
それはもう生き死にかかわってくる、だから真剣になる
なぜならその生活している場で食料が得られなかったら江戸時代では餓死して死んでいたからである、他藩でも助けないからである
だから自給自足社会と広域社会では農業自体が相当に違ったものになっている
第一貧思うなど客観的に見ていられないからである

そうなるとここに冬菜がとれてここで生きていけるんだとと切実に思うからである
そこで農業していなくてもそこに住んでいればそうなる
それで農民が多いときは何か天候のことでも切実になる
何か農民にそういうことで天候が悪くて不作になるということでしかられたことがある
今は別にここでとれなくても他から外国からでも食料が入ればいいじゃないかとなる
だからこそ都会では日本の地方のことを重要と思わないのである
食料だったら外国から安いのが入る、日本は高いとかなってしまうのである
そして日本の地方は軽んじられるのがグロ−バル化社会なのである
このことマイナス面は結局人間どこに住んでもいいとなり金が異常に大事になる
金さえあればいい、ここで食料が得られなければ他に移ればいいという気持ちになっていた
だから原発事故になり多額の補償金をもらったとき他に移り住む人が多かったのである
それもまた問題だったのである

寒烏が一羽とまっている、これがただとまっているのではなく誰かを見ている監視していると見るのが田舎である
見ていないようで田舎では本当に見ているのである、誰もいないようで見ているのであるまず一万くらいの町となると誰かが見ている,監視しているのである
近くの人はまわりの人が家に入るの監視している、だから女性など入ると問題になる

新しい通りのクリーニング店が閉店になっていた
ただ新しい通りでもそこは店はなかった、理髪店とか薬屋とか二三軒あるのみだった
でもそこに残菊が咲いていた
どうしても小さな店はなくなりやすい、ただ理髪店とか美容店はどこでも多い
過剰だとされている、コンビニより相当に多いから全国的に過剰なのである

カーネーションの白いのがある、何か白もすきである、純白であり穢れないとなる
それでそこにまた花を添える、その純白な花にはやはり穢れない花をそえる
フラワーアレンジメントはそうした無垢な花とふれるとういことが楽しみになる
ただ最近あまりフラワーアレンジメントをしていない
何か私は家事がいろいろあって忙しくてできないのである
まず食べることが優先されるからである、こういうのもつくづく暇がないとできないと思った

冬薔薇は無人駅に咲いている、そこに虫一匹がとんでくる
それだけしかない、人は一人とか二人くらいしか駅にはいない
そういう田舎がかえって自分にはあっている、、淋しいともなるが遂に今年は仙台に一回しか行ってないような気がする
こんなこときありえなかった、少なくとも一か月一回は行っていた
なぜそうなったのか?それは本を買う必要がなくなったことである
アマゾンでいくらでも本を買える、古本が安いから買って本屋にまでなれると思う
だから仙台に行く用事がなくなったためである
何か余計に人ごみが嫌になったということもある
結局老人になると人ごみとかが嫌になる、自分にはそういう性格があった
人がいないような場所を好んでいた、せいぜい人と接しても一人か二人くらいとかになる現実に家族がいたときはほとんど他人と接していなかったのである
なぜなら家族がいたからそうなっていたのである 

烏崎はもう家はない、ただ港が残り漁にででいるらしい
でも枯野であり家は全くなくなった、無惨である
そしてコンクリートの防波堤のみが高くなって完成していた
あんなに変わりはてるとは思いもよらなかった
まずあそこに家があったという記憶すらなくなってしまう
ただ防波堤のみが高くなったて見上げるようになっている



2019年12月02日

みちのくの真野の草原(かやはら)の境界地図 (なぜ北と南の境界になっているのかの謎)


みちのくの真野の草原(かやはら)の境界地図

(なぜ北と南の境界になっているのかの謎)

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この図もちょうど真野の草原の地点が縄文時代前期で境界の地点になっている
それは前は気候でもそうだった、ここが気候的に南と北の分かれ目になっていた
シベリアから寒さがこの地点までおりてくる
そしてマルハシャリンバイが奄美大島から種が流れ着いて根付いたとかされる
南限の地としてあるとされる、それが海老村だった
そして海老とはエヒであり蝦夷のことだった
そこは古くから人が住んでいた、それでその先端に最近古墳が発見されたのである
だから弥生時代から人は住んでいたのである

ではなぜこの図を見たとき北の方に縄文時代前期に人がかえって多く住んでいたのか?
宮城県の海岸線の方に人が多く住んでいたのは海産物がとれたからだろう
それで新地の手長明神の伝説が残された
長い手を伸ばして貝をとっていたという伝説である
その伝説は全く架空のものではない、高台に貝塚があり貝を食べていた
貝を主食としていたのである、海産物が豊富にとれていたのである
そこは高台であり新地の地形は海に近くても高台になっている
だから何か津波とかでもその高台に住んでいれば被害にあわないのである
松川浦はその頃海とか湿地帯とになっていて広い地域である
だから住みにくいことがあったかもしれない、その頃海が深く陸に入りこんでいたからである

この図からみたとき明らかに新地辺りまではかえって人が多く住んでいた
宮城県の海岸線は人が住みやすい地域だった
ただなぜ寒い地域に人が多く住み始めたのか?それが良くわからないがなんらか食料でもかえって多くあったのかとなる
とにかく日本列島は最初は北の方に人口が多く西は空白地帯だった
それで青森に三内丸山遺跡がありそこが縄文時代の国として認識された
そこから日高見の国があった、荒脛(アラハバキ)の国があった

「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権によって東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とするもの。荒脛巾神(あらはばきがみ)ではなく「アラハバキカムイ」といい、遮光器土偶の絵が付されている(遮光器土偶は、『東日流外三郡誌』の地元である津軽の亀ヶ岡遺跡のそれが特に有名である)。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%90%E3%82%AD

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本来のご祀神は、アラハバキノ大神威。

大宮氷川神社の、門客人神社
(大宮)中山神社の、荒脛(アラハバキ)神社
の、ご祀神と同一。

出雲が本来の場所なのに、
天孫族から追われた、東北の土着神…国津神。
西アジア発生の、製鉄の一族とも
いわれている。

この神社は猪苗代湖畔にある、これが神社として残っているのはまれである
ただ氷川神社は多い、その元は荒脛(アラハバキ)神だとされる
その氷川神社は南相馬市の原町区の高平にもある
氷川神社は相当に多い、荒脛(アラハバキ)神はあるにしてもまれである
それは多賀城跡にもあり何かしらこれは蝦夷が祀っていた神である
つまりこの神は関東にも残されていて伝えられていたから関東まで広がりがある
実は出雲と蝦夷は同盟関係にあったとか蝦夷は出雲であったとか言われる
東北弁と島根とかの言葉がズーズー弁として共通性があるとかも言われる
その出雲からなぜ渡来人が関係しているのか?
そこは新羅とか韓半島に近かったからである
それで伽耶の王子のツノガノアラシトがやってきた
その渡来人は製鉄の技術もっていて東北にやってきたのである
末続(すえつぐ)という駅があるがそこも出雲系統のものである
小高の角部(つのべ)というのもツノガノアラシトのツノなのである
浪江の苕野神社(くさの神社)の起こりもツノガノアラシトなのである

元禄年間に藤橋月船という者が記した「標葉記」によれば、古老の話では、苕野の神は新羅国からやってきて請戸の小島に現れた女神であるという。この時初めて、阿部氏と荒氏はこの女神を信仰し、阿部氏は特に何もしなかったが、荒氏は小島に社を設けて女神を祀った

つまり蝦夷とは(出雲+渡来人+物部系統+東北の原住民(縄文人)+アイヌ・・・)とかの連合体だったのである
だから大和朝廷に対抗する強力なものとなっていたのである、鉄製の武器も作れていたからである、蕨刀とか自前で作っていたのである
それは製鉄技術のある渡来人が連合体の中にいたからである

棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という 

福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)

8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した

つまり津軽の蝦夷とあり蝦夷連合が津軽までありだから日高見の国とか荒脛(アラハバキ)国があったとされる、、そうでなければそんな遠くから援軍が来るのか?
道のない時代にどうしてそんなところまで来れたのかとなるからだ
この意味しているのは広範囲な連合体があった、日高見の国、荒脛(アラハバキ)の国があったからできたとなる
そして津軽(つがる)はツノガノアラシトのなまった言葉だとも推測した
ツノガノアラシトはこうして広範囲にその跡を残している
ただそれは伽耶というのが必ずしも外国というのではなく日本と一体化した国だったからそうなった、その主導権はむしろ日本の方にあったともされるからだ
日本府の任那があったとされるからだ
蝦夷が強敵だったのはそうした連合がすでにできあがっていたからである

そして真野の草原(かやはら)の地点がその境目であり大和朝廷下に服属する北の境目となっていたのである
なぜなら地図を見れば宮城県まで縄文人がすでに多く住んでいて真野の草原から南に人が住まない空白地帯になっている
とすると空白地帯だから大和朝廷でもそこに入りやすいとなる
宮城県のように先住民が多く住んでいれば簡単には入りこめないからである

とにかく真野の草原の地点はそうした境目であることで奈良の人たちに知られていたのである、そして多賀城の周辺はもともと縄文人が住みやすい場所として多数住んでいたのである、それは海産物が豊富にとれるから住んでいたのである
ただ岩手県の方は北上山地辺りに多く住んでいたのかその辺は良くわからない
ただ北の方に栗とかどんぐりとか何か木の実でも豊富にとれていたからだともなる
西が優勢になったのは稲作が導入されてからである、それは気候があたたかいから向いていたからである、ただ北は稲作と関係しないからその時代はかえって北が狩猟でも動物が多いとか鹿でもなんでも食料になるものが多かったためだと推測する
ただこの辺はまだよくわからないことがある

南相馬市教育委員会は、線刻で「船」を描いた古墳時代前期(4世紀)の土器が同市鹿島区八幡林で出土したことを明らかにした。同時代の線刻絵画土器の出土は西日本中心で、船の絵は東北で初めて

これは男山八幡神社の辺りとなる、そこは寺内であり古墳が多い地域として知られている
でも4世紀となると古い、そんな時代にこうした船の絵が描かれたものが発見されたことは貴重であり驚く
この辺は前から海が深く入り込んでいて船の行き来があった
それは塩崎の方であり船着の地名が残っていて船が頻繁に行き来していたのである
それは入江内で今の東北電力のある所に大規模な製鉄遺跡があり鉄を運んでいたらしい
だからそうした船の絵がそんなに前にあったということは早くから技術が伝わった地域だったのである
それだけ古いということはここにすでに文化の積み重ねがあったとなる
それも真野の草原として万葉集に歌われた証拠ともなりうるのである
それは寺内の前方後円墳から金銅双魚佩が発見されたと同じである
なかなかこうした船の線刻画のようなものは東北では発見されないからである


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ここはやはり古代の先進地域であった
前方後円墳がありそこに金銅双魚佩が発見されてその隣り合う地域に船の線刻画が発見された
棒状の線は(かい)のようでありそうだとすると数が8くらい見えるからそれだけの人数が乗れた船となれば
それなりに大きい船だとなる

真野明神は古代のものであり古い謂れがある、この三つとなり合う地区にあったからここが最初に開かれた場所であった
とにかく寺内から小池には古墳が多いのである、だからここは古墳の町になっている




posted by 老鶯 at 09:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2019年12月01日

無人駅でまだ案内があった (人が少ないと人間的になる逆説)


無人駅でまだ案内があった

(人が少ないと人間的になる逆説)

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sttaxno1.jpg

ここがわかりにくい

railopen11.jpg

こんな電車が走るのか・
スーパーヒタチが走るのか


昨日はばあちゃんが障害者用のトイレの前に立っていた

でもドアが開かない、そこは手で押しても開かない

手をかざすと開く

これも意外とわかりにくい、普通は押すからである
その隣に普通の人が使うトイレがある
そこの女性用のトイレは小さいのである
この障害者用のトイレは中が広々としている
それは車椅子でもはいれるからである
でも車椅子で入っている人も見たことがないのである
これも考えてみると矛盾である
普通の人のトイレをもっと良くしているべきだともなる
ただ車椅子利用のためにそうなった
そこを毎日掃除しているのがあさがおという障害者の人たちなのである
こうしたちょっとしたことでもはじめての人はわからないのである

その人は何かを探していた、駅の前うろうろしていた、それで聞いてみた
そしたらまずタクシーに乗りたいが乗る方法がわからなかった
普通はスマホを見て呼ぶ、その人はスマホをもっていなかった
それでタクシーの番号を教えた
それが駅を出た前にありわかりにくかったのである
それは前から知っていた、それをタクシー会社に言って中に案内を羽ってけといったがしていない

その人はどこに行くのかと聞いたら「香の蔵」でお土産を買いたいと言ってタクシーを呼んだのである、そこまでは結構遠いのである
前にもお土産を欲しいという人がいた
駅ではどうしてもお土産が欲しくなる買いたい場所なのである
でも原町には多少お土産を売っているが駅では売っていない、そもそも無人駅だからである、駅前にはお菓子屋があるが店はない
その人は食堂のことも聞いた
それですぐ前の鈴木食堂があると案内した、そういうこともはじめての人はわからないのである

ただ今はスマホを見ている、それも無人駅だったら当然そうなる
今日は日曜日で高校生の見守りがいない、昼間はいない
その人たちはそんな案内をしない、ただ高校生の見守りとして仕事を限定しているのである
でもこの前盲人の音楽家が来たときは荷物などをもって送った
だから今は駅の案内も多少はしている

お土産だったらまず常磐高速のサービスエリアまで行くのが一番いい
そこには何でもある、相馬地域のお土産もあるし食堂もあるし休む場所もある
その相違が大きいのである
もし駅でも客が高速のように来れば必ず店でもなんでもできる
でも無人駅なのだから何もできない

ただ奇妙なのはそうして人が少ないこということはかえって人間的になる
そもそもサービスエリアでは話することがほとんどない
ただ人が流れてゆくだけだからである
ちょっとしたことでも話すことはできないからである
だから時々無人駅でどんな人が来るのかちょっと立ち寄っている
でも最近は高校生の見守り役がいるから買い物帰りちょっとよるだけである

駅前には冬薔薇が咲いている、そこに虫一匹が飛んでいた
なにかのどかなだなとなる、でもこれでは商売にはならないのである

無人駅虫一匹飛び冬薔薇

記憶に残る境の旅の短歌十首


記憶に残る境の旅の短歌十首


面白山ぬければ山形春なれど残れる雪の心にしみぬ

区堺に電車とまりぬ雪厚くなほも残れり境なるかな

関ケ原なお雪残るここ越えて近江の春の山々望む


上野去り平野開けてみちのくに我が帰るかな秋の陽没りぬ

いわき駅(平駅)北の方へと鉄路見ゆ仙台近く秋の夕ぐれ

飯館の峠を越えむその手前常に休みぬ秋の蝉鳴く


国分けるライン河やオランダへ荷船の行くや秋の夕暮

ケルンの塔高く望みてオランダもイギリスも見むラインも流れて

ヒマラヤの峰々空より望むかなインド中国分けて聳え立つ

大陸や大河さえぎり向い岸望みて帰る秋のくれかな


旅をすると境が記憶に残る、関所がある時代はそこで止められるから必ず記憶に残る
今は関所がないから何か通り過ぎるだけになる
でも境は節目であり記憶に残り安いのである

だから旅を思い出すとき界が記憶になりこうして思い出して短歌にしたり詩にしたりできる
でも記憶していないと後だ思い出すことがないから書けないのである
だから旅というのは意外といかに記憶に残る旅をするかが問題になる
それで余りにも便利な車だとただ通り過ぎて記憶に残らないのである

第一旅という時どういう経路で行ったかが問題になる
ただ目的地につけばいいとなぱビジネスライクな旅でありそれは旅ではない、用事を果たすためだけだとなるからだ

だから新幹線で三時間くらいで平泉についたというだけでは何の感懐もないから芭蕉のような俳句は作れないのである

とにかく人間はその場所によって心も変わる、いわき駅というとき同じ福島県でも相馬も遠いし仙台もさらに遠いと感じた
でも相馬から仙台までは遠く感じられないのである
そのことでもいかに相馬地域が仙台に近いか宮城県に属しているようにもなる
なぜなら福島市は阿武隈高原に遮られて見えないからである 

常に何か旅をしても印象的なものが心に残る
上野からみちのくに向かう時、東京のビルの街から離れて平野が広がり秋の夕日が輝き落ちてゆく、その光景がいつも心に残り思い出すのである
その光景が心に刻まれている、だから忘れられないものとして何度でも心に浮かんでくるそういう場所が確かにある、ただ旅をした後にその場所が思い出すのである
でもいくら旅をしても忘れてしまうものがある

この差は何なのか?

やはり景観とかが印象に残り安いのと残りにくいのがあるのか?
それはいろいろな要素でそうなっている、それは旅の仕方によって決まる
だから思い出す旅も不思議なのである、全然記憶に残らない場所もある
本当に思い出せなくなるということはそこに行ったのかとまでなる
外国だと特に変わっているからそうなりやすいのである
日本だと何度も行けるし記憶がそこで蘇るからいい、外国だと一回行って終わりとなるのが多いから思い出せなくなるのである

外国でも川は長大だからそこが境界となる、父なるライン川がそうである
ケルンの塔に上った時、その川はオランダに流れさらにイギリスも見えるように思った
イギリスに海峡があっても30キロくらいだからである
今は海底トンネルが通っているから遠いというものでもないからだ
イメージのなかでイギリスはヨ−ロッパ大陸とつながっているという感じになる

スケールが大きくなるとヒマラヤ山脈はインドと中国を分ける
それは空からその頂上が見えた、ヒマラヤは空からしかその全貌は見えない高さである

2019年11月30日

地理のテーマになる境の考察


地理のテーマになる境の考察

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 境界民族,境界線, 境界帯,  国境, 国境貿易, 国境都市, 政治的境界, 
 自然的境界, 人為的境界, 人為的荒廃境界, 障害境界, 海洋境界, 河川境界, 山脈境界, 山狭境界

自然的境界というとき山川海でさえぎられる、そこで例え同じ国でも別な意識をもつのである、それに人為的境界がある、それは例えば相馬藩と伊達藩の境は新地になるけど歴史的人為的境界であり自然的境界ではない
なぜなら平坦な土地だからである、関所でも人為的境界であり自然的境界と一致しない

ただ日本は山が多いから峠が国字となったことでもわかる
峠を越えると別世界が開けるのである、そして山に囲まれてそこは小国となる
そこが一つの国となっているのが日本なのである

白河の関は必ずしも自然境界ではない、人為的境界である
ただ山をぬけるので確かにその山を越えるとみちのくだという意識はもつ
でもそれほどの高い山でもないからそんなに境界だと感じない
ではなぜあそこがみちのくの入り口になったのか?
それはやはり自然的境界より人為的境界だった、大和王権が支配できない地域として大和朝廷に認識されていたからそうなった
それは政治的境界でもあった

境界というとき実際はいろいろある、まず国というものを意識する前に人間は自然を地理を地勢を意識させられて生活する、村でも自然村として発展する
都市だとこの成り立ちもいろいろあるが商業都市として発展するのが多い
オワシスが都市になったのはそのためである
ただ村とかなると自然村が発展して村になった
不思議なのはヨ−ロッパでは城壁内の都市とその外は別な世界である
農民は都市民ではない、異民族とかに攻められるから城壁で囲みその中で戦うのが市民なのである、農民は異民族でも攻めてきたら他国が攻めてきたら城壁内に入らなければ助からないのだ
だから中国も都市国家的側面があり城壁の内と外でぱ分かれている
都市籍がないと都市には農民は住めないのである
城壁も境であり人を分けるのである

人工的人為的境界というとき明治以降の県単位の境界は自然境界とは関係ない、人為的に上から行政の範囲として強制的に決められたのである
だから境界が不自然なのである、みちのくの入り口として白河があり関所があったから一応茨城県とは別れる地域として福島県がある
でも福島県は広いから地理的一体感をもてないのである
磐梯山とかあってもそれが福島県を象徴する山でもない、なぜなら浜通りからは全く見えないからである、ただ霊山に来ると見えるのである

浜通りからすると相馬地域だと飯館とかに行くには峠を越えなければならない
標高が高いからである、それで自転車だと難儀するのである
八木沢峠をみればわかるその高さだと越えるのにいかに障害になっているかわかる
日本にはそういうふうに山で別々に分かれて隔離されている感じの場所が多いのである

外国だと大河がありそこが境界になる、父なる川のライン川がそうである
その大河がドイツを作ったともなるからだ
とにかく大陸には長大な川がありそれが境になるのは当然だとなる、自然境界になる
平原でも川があればそれが境界になりやすい、シーザーがルビコン川を渡ったという故事はそのために生まれた、そこは越えてはならない異郷の世界へ入る川だったのである
みちのくの白河の関ともにていたのである
それは自然境界でもありそれが川になっていたのはいかにも大陸国家らしいとなる

見たまえ、地球が回転するさまを
先祖の大陸たちは遙かかなたに集い
現在と未来の大陸は地峡をはさんで南と北に
ホイットマン(草の葉)

こうなると日本がにそんな巨大な地峡などないから理解できなくなる
ホイットマンの詩はアメリカ大陸を謳っているからスケールが大きすぎて理解できなくなる、グランドキャニオンなどがまさにそうである
アメリカにはインデアンが住んでいても歴史的境界というのがない
アメリカの歴史はそれだけ短いからそうなっている   

また現代で見逃しているのが森である、中世とかまでヨ−ロッパでは広大な森があった、ドイツの黒い森は有名である
それは人も入れない森でありそこに逃れれば追っても入り込めないほどの広大な森だった、そこにイギリスのロビンフッド伝説
生れた、イギリスにも広大な森がかつてあった、そこに逃れればもう入り込めない自由の場となっていたのである

相馬藩では原発事故のあった地点、双葉とか大熊とかは磐城との境目であり森に覆われていた、そこで夜の森とは相馬藩の殿様の余の森のことだったのである、相馬藩の殿様の森だったとなる、ただ境目だから領有権を主張するためにその名がついたとなる
土地に名前をつけるのはそこが自分の土地だという証でもあるからだ

森はしたがって、見える国境というより、緑の海であった。ひとつづきの村や畑、未耕地、そして町は、森の海に囲まれた島であり、島国であった。
当時の西洋人にとっての「森」のイメージは、ちょうど、日本人にとっての「山」のイメージと同じです。山なかには山姥や、妖怪がいます。また、アジール(法喪失者の避難場所)としての機能も共通しています

いづれにしろこの境界は一つの探求するテーマである
地理のテーマである、ただこれは世界は広いから探求することは困難になる
例えばインドと分けるのがヒマラヤ山脈だとなるときそうなる
空からしかその全貌は見えない、わずかに空からその頂上を見たことがあった
これもあまりにもスケールが大きくなって理解できなくなる
日本に住んでいただけではこうして世界の地理は理解できないのである

ただ境は何か節目として記憶する場所になる、江戸時代だったらどうしても関所を通るからそのことを意識した、今は関所がないからその境が意識できない
でもやはり一連の短歌にしたように何か境は意識しやすいのである
歩いて旅したときは常にこうして境となる地点を意識させられた
坂でも峠でもそこで歩いて上ればそれが体に記憶されるからである
今はただ便利に楽に通り過ぎてゆくだけなのである

それで今は何か旅でも記憶に残らないものとなる、まず現代では旅人になるにはかえって歩いたり自転車で行くとか時間で手間暇をかけないとなれない
たいがい旅行でも保養であり旅にならない、旅人は現代ではいなくなったのである
旅人でありえないのである
結局私は暇だから時間があったからこれだけ旅できたとなる
旅するには必ずしも金はかからない、時間はかかる
自転車旅行ならテントで寝れば無料になる、温泉旅館は高いから泊まったことがない
でも日本では安宿は本当に少ない、ヨ−ロッパのようなゲストハウスやユースホステルがないのである
別にユースホステルでも老人でも普通にとまっているから安いのである

私は大学の卒業旅行で資金30万円で3週間のヨーロッパ旅行を計画し、無事実施することができました。
もちろん往復の航空券代や諸経費も全て含めて30万円です。

私もこんなものだった、ただ食べるのはハンバーグとかだけだった
日本と違いここが不便だった、レストランは日本の食堂とは違っている
何倍もする社交の場のようになっていて高いからバックパッカーは入れない
庶民の食堂はわからないし言葉の障害で入れないから困ったのである
グルメの旅などに自分は興味なかった、ただ旅できればいいと思っていたから気にしなかったのである

いづれにしろ境界というのを知るにもそもそも実際に旅しなければわかりえようがないのである
そういうテーマをもって旅すれば論文でも書ける、まず本だけ読んでいても地理はかわらないのである
そして地理の見方がいろいろある、角度をちょっと変えただけで別な風に見えるのであるそれで地理だと地図が必須になるがでもその地図通りではない
その人の旅した経験からか地図を描けばみんな違ったものになっているのだ
だから地図は主観が入ると本当に個人個人によって違ったものになるのである
ただこんなことしいるだけでたちまち時間が過ぎて人生も終わる
それが自分だったのである、旅に終わったとまでなる
それでも外国になるとまだまだ旅は未完に終わったのである、それだけ地球がとてつもなく広いということだったのである

2019年11月29日

(SBI)が福島銀行を買収。地銀の預金がまとめて外資に盗まれる。 JAバンク倒産、ゆうちょの貯金も奪われる


(SBI)が福島銀行を買収。地銀の預金がまとめて外資に盗まれる。
JAバンク倒産、ゆうちょの貯金も奪われる

オリーブの木

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福島銀行と出ているので何だろうとこのyoutubeを見た、何か金融というとわかりにくい
でもこの人はこういう所で仕事していたからわかりやすく説明している
金融の諸悪の根源は大本はアメリカの証券会社のゴールドマンサックスだとしている
その会社が日本の貯金を奪おうとはして訳のわからない証券を売っているという

それを地銀とかゆうちょとか農協中金で知らないのに買っているという
その額も大きいから倒産するようになり外資のSBIに貯金が奪われる

ゼロ金利で地銀は利子とれない、貸付先もない、やむをえずそうした外資の証券を買わされているという、地銀とかゆうちょとか農協はまるで証券のことを知らないから鴨だという
これも何なのだろうと思った、一応地銀でもゆうちょでも農協中金でもプロと見ている
でもそこは素人並みの知識しかないという
それでアメリカの外資は鴨にしているという、ゴールドマンサックスとかの証券会社にはハーバード大卒業生が入っているがその人たちが主導してそうした訳のわからない証券を作りだしているという

本当に一時的に投資信託で月ごとにとか分配金出るのを買った、それはアメリカのものだった、その仕組みは本当にわかりにくいのだ
そしてわかったことは地銀とかゆうちょとか農協とかもそのアメリカの外資のカモにされて莫大な日本の貯金が奪われているというのは驚きである
ゆうちょが民営化したのはそのためである、民営化すればアメリカの証券会社が奪いやすくなるからである

つまり私自身が福島銀行ではないが次に危ない大東銀行にすすめられて投資信託を買ったのである
その売る人が営業の人は東京の証券市場で働いていたと言っていたから何か証券のプロだと思いまかせたのである
自分自身は株の取引きとかにいちいちかかわっていられない、その時間がないからだ
だからプロだと思いまかせたのである
人間は何でもできない、家事するだけて時間が今もとられているし前は介護だったから
いろいろなことに時間をさけないのである

このyoutubeを見てわかったのは

地銀とかゆうちょとか農林中金とかの金融機関もだまされている
金を奪われて併合されて根こそぎ貯金が外資に奪われる

そうなったのはゼロ金利になったからである、金利をゼロにしても投資先がない
だから有価証券を買う、グローバル株式で投資する
それができないのにしている

それは自分自身が地銀にだまされて投資信託を買ったと同じだった

地銀自体がそうして証券会社化して大損して福島銀行はSBIに買い取られたとなっている
すると次は大東銀行などのなのか?
とにかく金融はグロ−バル経済で巨大な詐欺となっている
金融の操作で巨額の金が流れる、それは実質経済をもう反映していないのである

でもなぜそういうことに日本の金が奪われるのに政府ではそれをすすめているのか?

それはアメリカが経済でも世界でも支配していてアメリカに金を貢がねばならない

そのことはアメリカで戦争に負けた結果である、敗戦国でありそのために金を払っているこれが中国が覇権国になったら同じことが起きる、まさに中華帝国に朝貢貿易となる
今はアメリカがそれを行っているのである

地銀などでも顧客から集めた貯金を原資が保たれない元金割れする証券に投資している
それは危険だと警告している
そしてこうした金融操作をしていてまたリーマンショックのようなものが倍加して起きて来るという、
つまりグロ−バル経済とは金融とはこうしてアメリカが他国から富を奪う仕組みなのである、第一世界の富が数パーセントのアメリカの富裕者に流れていること自体がそうなのである
世界の富の収奪がこうした人によって仕組まれているのである
だから株式などは公正なものではない、素人は絶対にもうからない仕組みになっている

ただそうは言っても分散投資の手法は正しかった

株とかリートとか国債とかに分散して投資することは正しい手法だった
その分散投資を言っていたのに地銀の営業マンは守らなかった
リーマンショックの時の株が元にもどり上がったて来たのにそれをJ-リートに回したのである

それはなんのためか?

そこでJーreityに回すと営業の成績が上がるからである

ノルマを課せられているからである

顧客のことより自分自身のノルマを果たすことだ

こうして自分は投資でも損したのである、結局遺産の金は出て行くだけだっ

地銀でももうもたない、もういつ福島銀行のようにアメリカの大手の証券会社などに買収されるかもしれない、島根銀行もそうなったから地銀はもう地域の会社を育てる地域経済に貢献する役割を喪失している
金を貸す先が地域にないのである、金利もゼロとかなったら収益をあげられないのであるそこで地銀はアメリカの証券会社にだまされて大金を投資して奪われているのである
その貯金は顧客の地元の人たちのものである
それは自分自身のものでもあったのだ
だからこうして金の流れが眼に見えてくるときそうだったのかと納得する
その説明がわかりやすかったからである

政府では何もしない、かえって見逃している

なぜなら竹中平蔵とかSBIの顧問であり外資と深くかかわりもうけているから
政府でもゆうちょを民営化したのは日本の金を外資にアメリカに貢ぐためだからだともなる
日本は独立国ではない、政治的に経済的にアメリカの植民地のようになっている
それが敗戦国になった日本だからそうなった
ただでは中国はどうなるのかとなるとアメリカより悪くなる、まさに昔の朝貢国になりさらに過酷な搾取になる、それは香港であれウイグルを見てもわかる
つまり日本はそうしてアメリカと中国の狭間でまた自主独立をすれば戦争にもなる
ただ習近平がアメリカとの対立で日本におもねるとかもありアメリカでもまた日本は中国と戦うには日本が大事になる
そういう駆け引きの中に日本がまたたたされるとなる
政治でも経済でも一体であり切り離せないのである
公平な資本主義の経済などないのである、そこに不公平なものでも力でもって通るのが世界政治だとなる

いづれにしろハーバード大学とかはアメリカのエージェントを育てる場所なのかもしれない、なぜハーバード大学に入った日本人が自分の所に来たのか?
それも謎である、何かの目論見があってきたのか?
ただ何か津波とか原発事故を研究するためだけではなかったとなるのかもしれない
あの人については謎であり不明になった
ただハーバード大学の卒業生がゴールドマンサックスで働いてそんなことしているのかとなるとアメリカのエスタブリッシュメントは世界的詐欺的金融で株式で証券でもうけている、それで金持ちになっている
またグロ−バル株式市場自体が世界の経済の実体を反映していない

日本のようにその貯金が奪われるし世界的搾取の構造がある
それは超大国のアメリカだからこそできるのである
でもアメリカですら極一部の超金持ちにしか金が回らない、だからアメリカ自体がそうして貧困層が増えて不安定になり暴動でも起きて来る
そして資本主義自体が機能しなくなり崩壊してゆくのかもしれない
そういうことからまたリーマンショックのようなことがさらに倍加して大規模に起きて
グロ−バル資本主義経済が機能しなくなってくる
そうなることがやはりかえって世界のためだとなる
そして新しいシステムが経済活動が生まれてくるのかとなる

カンボジアは中国人の植民地になった (それは十年前以上にも予測されていたー私の経験から)


カンボジアは中国人の植民地になった

(それは十年前以上にも予測されていたー私の経験から)

中国人の「ギャンブル」「詐欺」産業が集中するカンボジアのシアヌークビルに潜入したhttps://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191129-00016196-bunshun-int&p=1 

アンコールワットに行くなら覚悟したほうがいい。完全に「中国人の観光地」となり全然楽しめない。


これに共感したのは観光のバイクを経営していたのが中国人だった
そのバイクはホンダのものだった
5ドルとかで貸ししているとかバイクを地元でそろえられないから資本がないから中国人がバイクを貸してカンボジア人を雇っている
その時、ビジネスなど知らない自分ですらバイクを十台くらい買って貸せば経営者になるなと思った
つまり資本があればできる、でもその資本が金がカンボジア人にはない、それで中国人がバイクをそろえて貸して経営者になっている

それを見たとき私は外国旅行したのが50歳以後で遅かった
でもその時実感したのだ

中国人に支配されてしまうと・・・・・

それが現実化したのである、その後十年以上も過ぎるとめざましく中国が発展したからである、新幹線まで走っているのは信じられないとなる
その時鉄道では車両に中国人が家畜のように詰め込まれていたのである
現実に鞭で打たれていたというからまさに家畜扱いである
その時から出稼ぎ者が大量に移動していたからである

カンボジアは相当に貧しい、私自身関係していないが女性が5ドルで買えるとか言っていた、5ドルというと500円から600円だとなる
そんな値段なのである、カンボジアはそれだけ安いし後進国になる
内戦で二百万死んだとか骸骨が積み上げられた博物館もあった
そういうことで疲弊していたからである

こういう場所に次に中国人のカジノが作られる、それだけ金持ちも増えているから中国人が進出してくる、カンボジアなどは簡単に中国人に席巻されてしまう
何か奇妙なのはアンコールワットの壁画に中国人の兵士が描かれていた
するとカンボジア時代に栄えたとき中国人もここに来ていたとなる
タイとか周辺の国もここに集まり栄えたときがあった
でもカンボジアではアンコールワットだけが過去の栄光を伝えて森に埋もれてしまっていたのである

メコン川、トンレサップ川とバサック川の合流する地点に“ダイアモンド・アイランド”と呼ばれるコーピッチ地区があるが、ここは完全に“チャイナ・アイランド”。商業施設、ホテル、マンション、高級住宅など、ほぼすべてが中国資本により開発され、街中には簡体字があふれている。
 また、トンレサップ川対岸のチョロイチャンバー地区も高層ビル建設が進んでいるが、これもほとんどが中国資本が建てている。

アンコールワットは中国人が席巻しているというとき私が感じたことと同じになった
日本橋というのを日本で作ったがそれも中国橋が新しくできて目立たなくなったとかあるカンボジアには変な日本人の中高年がたむろししていた
何かそこで仕事を見つけようとしていたらしい、またそこが後進国でまだその時日本円が強かったとかあり優位にたつからそこに何しているのかわからないけどいたのである
日本では仕事ができない人がそこで何かしようとしていたのかもしれない

しかしそんな時代は終わった、そんなところで日本人は何もできない、中国人に席巻されてそこはもう中国人の街になり形見が狭くなるというのもわかる
カンボジアだったら優位になり日本人として友好もありうるが今はない
中国人の下でしか付き合えなくなったのである
日本は後進国になったとかなるとカンボジアまでいかなくても同じように中国人とかにいろいろおもてなしされる側になる
それもつくづくカルマだった、日本人が海外で威張っていた、それもできない、今度日本人が俺たちをもてなす番だとされる
それがグロ−バル社会の弱肉強食の世界なのである
経済でも技術でも負ければグロ−バル化の経済ではそうなるのである

2人が裁判で語った犯行動機や事件の詳細は次の通りだ 。中茎被告は銀行に借金があり、お金に困っていた。石田被告は借金はなかったが、「これから先何があるかわからないので、お金が欲しかった 」と話した

カンボジアのタクシー運転手殺害で、日本人の男2人を逮捕・起訴

これも信じられない、カンボジアで月収3万だというとき一応アルバイトでも20万収入があったという、だからなぜ殺すことになったのか?
殺す気でなくても暴れたので殺したとしているが強盗までするとは信じられないとなる
ただ日本の若者自体が貧乏になったというときこれもありえるのかと思った
かつての日本人ではない、貧乏な日本人であり海外で遊べる日本人でなくなっている
かえってインバウンドでは東南アジアからでも中国からでも大挙日本に観光に来て日本人がもてなす時代である

それにしてもこれほどまでに日本が落ちぶれたのか?

それを感じざるを得ない、中国は破竹の勢いであり日本は衰退の一途をたどるのかとなるただ反面中国も経済的には衰退局面に入り破局するとか言う人も多い
それは日本ともにている

いづれにしろカンボジアという国はもうカンボジアではない、首相からして中国の傀儡政権である、そして汚職にまみれている、金にまみれているという
ただこのことは日本にも波及してくる恐怖がある
アメリカ軍が撤退した時中国人が日本に戦争ではないにしろ中国人の金で様々なものが買われる、今は土地が買われている、水資源がねらわれている
アメリカと中国が対立してもアメリカ自体の力をも弱っている
だから日本がウイグル弾圧とかまたカンボジアのように中国人の植民地のようにされる恐怖がある、中国は日本から近いから大挙して中国人が移動できるからである
それは庶民レベルでできるし一部はそうなっている

だから何か不思議なのだけど日本が連帯するのは東南アジアとかインドだというときそれは巨大な中国に対抗するにはそれしかないからである
日本は中国とは戦争するべきではなかった、ただ東南アジアを占領してインドとも協力して戦ったように太平洋戦争の繰り返しなのかとなる
そういきう地理にあるともなる

とにかく旅行は介護になってから国内でもしていないし海外でもできなくなった
だから50歳でも海外旅行していなかったら自分はできなくなっていた
つまりこのように何かすべきときしないと後はできなくなる
体力もなくなるし気力もなくなったからである
だから何かすべきことはしておかないと後で後悔することになる
結局人間は何であれ失敗しても行動した方が得だとなる
なぜなら行動でも病気になったり何か介護とかなったりと不測の事が起きてできなくなるのである
海外旅行してなんとか国際性がわずかに身についたということで笑われるようなことを書かずにすんだ、今の時代海外旅行とか海外を知らないと知識人にはなれない
それでカンボジアのことを思い出したのである
posted by 老鶯 at 14:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

南相馬市右田浜から今日の朝に見えた雪の蔵王の写真


南相馬市右田浜から今日の朝に見えた雪の蔵王の写真

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これはヒヨドリなのか、海鳥ではないみたいだ
イソヒヨドリは見たけど色が鮮やかだから違っている
ただ海にいると海鳥に見える





日のさして塵もつかざれ冬の菊

誰が家や冬薔薇二輪行く人なし

冬薔薇田舎に籠りい出じかも


朝望む蔵王に雪や白鳥も鳴きつつ飛びて北風の吹く

蔵王見ゆ右田浜かな変わりたる景色や冬の朝の明けにき

冬の海朝日のさして沖に見ゆ漁の船かな鴎飛びゆく  


右田浜の端の方から蔵王が見えるようになった、今日は雪になっていた
ただ端の方に行かないと見えない、もともと蔵王はあそから見えていた
八沢浦からは見えていたが右田浜から見えなかったのは松原にさえぎられ見えなかった
そしてまるで景色が変わってしまった

風力発電の風車はまだとまっている、台風来てから一か月以上過ぎている
だからこれもあてにならないと思った
そんなに長く止まるとしたら日常生活ができなくなるからだ
ソーラーパネルも緊急の場合は役にたたないと思う

沖には小さく漁師の船が見える、何か海でも生業として船が見えないと海も活きてこないのである、ただ漁業の問題は生業だけでは成り立たないから原発に頼っていたことである漁業権も東電に売り渡していた
漁業でも農業でも林業でも自然と直結するのがグロ−バル経済などでだめにしたためである、ただ烏浜などは二回補償金をもらったのである
火力発電所が作られたときももらったし漁業関係者は原発で手厚い補償金が事故前もらっていたのである、だから相当に裕福だったとなる
だから漁業でも農業でも生業を返せというとき矛盾しているのである
その生業が成り立たなくなったから原発を誘致したからである

とにかく昨日は寒かった、今日も朝は寒い、ストーブが必要になる

  



2019年11月28日

現代文明批判ー無職であることは全人間になること (職につくことは専門家になり部品になること)


現代文明批判ー無職であることは全人間になること

(職につくことは専門家になり部品になること)

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もう歯車は嫌だ

無職というとき批判の的になるし誰も推奨できない、しかしなぜこれほど無業者の時代になっているのか?これも謎である、無業者でありえることが働かなくてもそれなりに生活できるからそうなっている
貧乏な時代だったらそんなことありえないからである
みんなあくせく働いている時のうのうとしていられないからである
それだけ今の社会には余裕があるからそうなっている

団塊の世代はみんな猛烈な企業戦士であり無職の人は極まれである、つまり何百万人も無業者が無職がいるということ自体ありえない社会だったのである
学生運動とかヒッピーとかはやったこともあったがほとんどが会社に就職して猛烈社員となり高度成長時代を生きた
それがなぜこんなに無業者とかニートとかフリーターとか非正規が増えたのか、それも数百人とかの数ではない数百万の数である、まず数百人だったら誰も問題にしないからである、そんな人いたのとなっている

ただ無職であることの効用がある、マイナス面が大きいにしても無職になる効用がある
現代社会ではまず全人間とかになりえない
とにかくまず職につくことはどんな優秀な人でも科学者でも技術者でも専門家となり部品化することだからである
専門家というとき何かそうではない、特別の人のように見えてもそうではない
全体社会の中でわずかな一部分に関して専門家になることである
それで面白いのはトインビーが言っている

王や魔術師や鍛冶屋や吟遊詩人はいづれも「専門家」である
そして鍛冶屋がびっこであったり詩人ホメロスがめくらである事実は未開社会では専門家は変則てあり「万能人」もしくは何でも屋になる資格を欠いた人間になる

王とか吟遊詩人がなぜ専門家のなのか?この辺はわかりにくい、ただ吟遊詩人は職業化したからこそ専門家になったからこそそう言っている
ただ王となると国全体を見る人だから専門家とはなりにくいと思う
市町村長となると専門家では勤まらないだろう、その全体を見る人になるからである

ただ言えることは職業につくこと自体がもう専門家になっている、なぜならそれはささいなことでも一部分を担当して仕事することになるからである
それでまず何々の職業につくこと自体が巨大な複雑なの社会の一部品化したことなのである
それで農業というというとき農民というとき百姓と言っていたのは百の生であり百の仕事をこなしていた人なのである、農業にはそれだけ広範囲な知識でも業でも必要になっていたのである、だから農民というのではない百姓だったのである

それで天才のニーチェとか上野霄里とかヘンリミラーとかアウトサイダーと言われる人はそういう専門家になることを拒否したのである
第一ニーチェを超人をある職業についている姿をイメージできない
会社員であれ公務員であれ銀行員であれ何か員とつくものに従事している姿をイメージできない、完全にアウトサイダーとして社会から逸脱しているのである
結果的に狂気になったともなる
ただイメージすると自然の中の半神半獣とか神話的な英雄とか神になってしまうのであるつまりそういう天才的な人はとても何かの員とつくようなものに適応できないのである
今ではそういう人は天才的芸術家とかになっている
それで社会の中で悲劇的に人生を終わる

ただなぜそういう無業者が無職は実際社会では何も役立たない無能とされる
そしてなぜかブライドが高い、自分は何かできる、ただ活かされないだけだとか不満をもっている、つまり無職となると職につかないから専門家になっていない
無職の世界に開けているのは自然でありまた無限の時間なのである
そこでニーチェのような超人的志向になってゆく、部品として職についていない、すると何か社会は視界から消えて広大な自然が広がることになる
そこで自然と同一化すしようとする、アイディンティティ化しようとする
まず一つの職についたらその職に追われ他はかえって見えなくなるからだ
職義をもつことは専門家になることだからである
つまり社会に超人を受け入れるものはないのである、だから最後は狂気になる宿命だともなる
それほど社会を忌避するのは全人間として生きる天才的資質のエネルギーのある人は耐えられないとういことである

それほど現代文明では人間は無数の部品となり構成されているからである
その時人間は全人間たろうとするときナチスのようなファシズムに陥ってゆく
何かそうした無数の部品が一つになるためにハイルヒットラーと叫ぶようになる
ナチスの原因は文明自体にあった、それは今でもカルト宗教団体がそうである
何かばらばらになった人間が一体感を求めてそういう組織に入る
そこで何か存在感を得ようとしてそうなる、それが現代文明の危険なのである

原発事故でも本当はこれは事故後にわかったことだが自然でもその市町村でも全体にかかわることだったのである
結果的には全体が自然でも市町村でも破壊されたからである
でもその時全体を考慮して作られていない、議論すらしていない、それで今になってこんなに広範囲に被害あることで騒いでいる
例えば宮城県のホヤが風評被害で今でも売れないというときそうである
福島県は漁業組合には原発事故前も後も手厚い補償がある
宮城県には一切なかったのである、つまりそれだけ広範囲に原発は影響あるものとして全体を見ていなかったからである
つまり全体的に見れないことが考慮できないことが致命的な結果になったのである
第一吉田所長がトップにいても復水器のことがわからなかったのである
トップでも全部知る人などいなかったのである
むしろ配管を見ていた人はその配管が古くなって危ないと見ていた
その部分をいつも見ているからそう見ていた、でもトップの人はそのことを知らないのである、それで結局破綻したのである

そして現代文明ではみんな無数の職業につき専門家でありそのことは部品化することなのである、そうなるとどんな優秀な人でも歯車にすぎないとなる
複雑巨大な文明の歯車となるだけだとなる
社畜だというときもそうである、会社の歯車として働くほかない、それ以外生きる道はないとなるからだ
それでそういう巨大な社会の歯車から逃れるのがニートとかフリーターとかになっていたでもそれはロスジェネ世代が氷河期世代がまともに就職できないということでそうなっていたのである
私の言う全人間志向とかではない、そう強いられた世代だとなる

時代をさかのぼればのぼるほど原始人でも全人間だった、一つの職業についているという感覚はなかったのである、それは家事なども仕事が実際は多様だから女性でも全人間的に仕事していた,経済でもその起源が

Economy"というのは「家計の学問」という意味であり、いわゆる「家計のやりくり」から発展して今日の「経済」という意味になったものと思われます。

つまり経済という時家計が始まりだった、それがグローバル経済になったとき世界経済になったのである、そのギャップがあまりにも大きすぎるのである
家計だったら日常的な生活から推し量れるせかいである、グロ−バル経済になったらもう天文学的数字にもなりもう見えない世界になっている

人間は文明社会で不適合を起こすのは当然なのである、それでこそ人間としては正常だとなる、文明社会に抵抗なく適合ししている人は人間ではないとなる
機械かロボットなのかとなる
たからこれだけ働かない人がいるということは文明を否定している人たちなのかとなる
それは異常でもあるがまた今の文明社会に適合している人は異常だともなるのである
ただアウトサイダーというとき世界でも天才的な人でありまさに例外的な人である、だからまた今の無業者とは違ったものである
そんなアウトサイダーが増えたらそれも異常だとなってしまうからである

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現代文明は図のように全体に生きられない、結果的そうした無数の人間が部品化する、そのパーツが一体化しようとして全体主義がファシズムが必然的に生まれる、民主主義の弊害は意外と全体主義に通じている
ナチスは民主主義から生まれたからである、民主主義がナチスを生んだ、それは合法的なものだったのである
民主主義は数のなのだからその数を無数の部品を一体化するためにヒットラーとかの偶像を必然的に産む
その対極にアウトサイダーが生まれる、それが巨大化するのである
それが天才的な人であり偶像化する、これはどっちにしろ現代文明が生んだものであり怪物化したのである
一人の人間が異常に巨大化するのはナチスが巨大化したものとまた違っていても対照的に生まれたのだとは思う
ただ全体主義の方が恐ろしいものとなったのである
現代の宗教は宗教ではない、ファシズムになりやすいのだ、仏教ファシズムになったことでもわかる
宗教自体が現代文明にとりこまれて変質してそうなった、本来の宗教とは何の関係もないものとなってしまった
国家でも巨大化するとファシズムになりやすい、ポピュリズムもファシズムだからである
大衆というもの自体が統制できないものとなりファシズムになってゆく
要するに標語をみたいなものを一切に叫ぶだけなのである、それで一体感を感じるのである

つまり現代文明が生んだものであり文明そのもの災厄だったのである
それは原発でも同じである、文明の巨大災厄だったのである
文明自体がそうした災厄を必然的に産むものだったのである
だからグロ−バル経済とか資本主義でも社会主義でもそういうものも異常な格差を生んだり人間的なものでは計れないから富の極端な偏向があり自壊してゆく
必ず大恐慌とか経済破綻が生じて来る、巨大なるがゆえに誰もしることができなし操作できない
何かに常に操作されている、それで陰謀論になって終わっているのである

私が郷土史とか郷土学を追及してわかったことはこれは狭い範囲にしろそこにヒューマニズムとかアイディンティティを回復しようとする試みだった、人間性の回復とかはとてもグロ−バル経済とか東京のような都会とかではありえないのである
大組織でもありえない、それはファシズムになる、それは宗教も今は組織化したらみんなファシズムになっている
そこに本来の人間性の回復はない、巨大な文明にとりこまれてただその中で操作されるだけになる
そしてナチスのようになり偶像崇拝になる、そうしてしか全体に帰属するとか一体感をもてないからだ
でも場の現象学を追及したように人間性の回復は一つの共有の場をもってアイディンティティを造りだすことなのである
そこにこそ人間性の回復がある、だから地方に住む、田舎に住む意義はそこにある
それはグロ−バル経済とか金だけを追求する世界とは違ったもの精神的価値を追求している
グロ−バル経済とか資本主義が行き詰まっているのはそういう時代が終わって別な価値観を求めてるようになっているからである
多少金がないにしろ精神的に落ち着く場所で暮らしたいとか金だけではない物質だけではない
精神的安らぎのもてる場を価値を求めるようになったためだと思う




abstract desert

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a desert ruin

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desert crest

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desert mountain


風が砂漠に紋様描き遊んでいる
そこは誰も通らない
廃墟が砂に埋もれている
ただ風が砂漠を唸り吹き
紋様を描き遊んでいる
そこに人の足跡は印せない
風が消し去り砂が消し去る
そういう場所に神が住んでいる

The wind is playing around in the desert
No one can pass there
Ruins buried in sand
The wind just blows through the desert
Playing with a pattern
I can't mark human footprints there
The wind wipe out and the sand erase
God lives the place in the distance