2020年06月02日

権利と責任(カルマ) (過剰な権利の要求が民主主義になった弊害)


権利と責任(カルマ)

(過剰な権利の要求が民主主義になった弊害)

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今回のコロナウィルスでも政府からの給付金、支援金がもらいとなるとあらゆる人が要求した
こういうときもらわなければ損だとなり権利があるとして要求する
それで京都の寺でも拝観料をが入らなくなり政府から給付金を出してくれと訴えた
ところが寺では拝観料に税をかけようとしたとき寺の組合がみんなで反対してとめた
つまりもしここで税金を払っていればもらう権利が出ていたかもしれない
それを今さらまた拝観料が入らなくなったから支援してくれというのは虫がよすぎるとして政府の担当の政治家が怒ったのもわかる

芸能人でも給付金を要求した、芸能人は一応税金は払っている
でもネットでは批判が多い、収入が大きかったし芸能人は河原乞食でなくてもどうでもいいんだとして批判が大きいのには驚いた
なぜならち芸能人だとその批判している人でも見ているのかと思ったからである

そしてなぜ芸能人がこれほど批判されるのか?

それは収入が馬鹿高いとかもともとその仕事に一般の人も評価していなかったのである
ではなぜそうして批判があるのに認められるのかというと一般の人が批判してもやはり
一般向けに大衆向けに面白おかしく政治のことでも語り影響力があるからだとなる
それで政治家でもカルト宗教の団体でも芸能人を宣伝役に使うのである
それで影響力があるから政府でも芸能人を宣伝役として使う、また支援金を出すというのはそのためである

結局そうして影響力があることが政治家を動かし現代の民主主義となる
何か一人の人間が熟考したことを言っても無駄である
なぜなら民主主義は数で決められるからであり多数決だからである
すると政治家でもとにかく数を集めようとする、一人の人間よりどうしたら数を集めるのかとなる、これはマスコミでも視聴率をとることが宣伝費も入るからいかにみんなにみてもらうかで芸能人をテレビに出すのである
それがポピュリズムにもなりファシズムにもなってゆく、そこに民主主義の限界があってもそれに代わるものがないからそうなっているだけなのである

ともかくこの支援金問題は原発事故でも起きた、それは何度もしつこく追及して来た
つまり原発の補償金は避難区域で大きかったからである
それであらゆることに補償を要求したのである
それで一番矛盾したのが漁業権をもった漁業組合なのである
なぜなら漁業権が大きな権利でありそれを東電に売ったからである

そのことが何を意味していたのか?

その意味も何も考えない、漁業だけではやっていけないとなりそれなら金になればいいとしかなかった
つまり金になるなら何でもいいとなっていた、それは地元でもみんなそうである
金になればいいしかないのである、そのために権利を主張する
家の前の海でも権利あるとか日ごろ関心もない私道にも権利があるとありあらゆるものに補償を要求したのである
ただ東電でも仏壇とかいろいろな物に補償を与えたのである

それに対して何の疑問も感じなかった、つまり権利を法律的にも何でも主張できると思っていたからである、そこに悪びれることもなにもない、当然でありそれに後ろめたいものも何も感じなかったのである
つまりこれは民主主義がただ権利を主張するものとして受け入れた結果なのである
だから原発事故になり海が放射性物質で汚染されて魚がとれなくなった
でも事故前も事故後の十分な補償金をもらえるから困らないのである
いち早く立派な新しい家を建てたのは船主だということがわかった
その人たちは補償金で困ることがないからである

でもここでわかったことは権利を主張するのはいい、でも権利と責任は一体だったとういことである
寺で支援金を要求するのはいい、でもその権利には責任がともなっていた
拝観料に観光税を払うことを拒否した、税金を治めなかった
それなのに観光客が来ないから税金で補償してくれというのは虫が良すぎる
なぜなら市の行政でも観光客の便宜を図り税金を使っているからである
寺だけで観光客を呼べるもてなすこともできないからである
だからこそ京都市でも観光客があれだけ多いのだから税金をとろうとしたのは納得する
別に拝観料とることは宗教活動でもないからである

つまり権利を主張するのはいいとしてその権利に正当性があるのか?

これが問題になっていたがそれを深く検討などしない、金になればいいしかないのであるこのことはあらゆることにある
第一弁護士自体がなぜ相談に行ったら相談料として百万も最初にとったのか?
その正当性がどこにあうったのか?
その弁護士は詐欺だったのである、弁護士自体がそうして金のためなら法律に違反していることを平気でしているのである
だから弁護士自体が何かうさんくさいとされるのである
弁護士は何か法を守る番人でもない、金で動くこと自体弁護士という資格をもって利権を得て金を得るともなっている
今の世の中はあらゆるところでこうして金を得るために権利が主張されているのである

ところが怖いのは金をもらえばいいとなってもそこに何らかのカルマが付加されている
カルマとは責任なのである、金は具体的だからカルマがわかりやすく付加されている
10万の金には10万のカルマが付加され、百万には百万のカルマが付加され
一億には一億のカルマが付加されているのである
カルマとは責任のことなのである、だから金を得て良かったと普通はなるがそうなっていない、後でそのカルマがア苦しみとなって現れる
逆にみんなから責められるのもカルマだったとなる

そういうのは自分自身にもあったのだ、親の遺産問題でそうなった、ただ自分は懸命に介護したから遺産を受け継ぐ権利を得たともなる
親が認めてくれたからである、でももし肉親でも介護をしなかったどうなるのか?
それは確かに法律的に権利があったとてももし他人が介護したらやはりその人にも権利が生じる、それで法律でも遺産を得る権利があるとして認めるようになったのはわかる
つまり権利には何であれ責任がともなっているのである

つまり権利と責任は一体なものである、そして現代では金がすべてとなったとき権利ばかり主張する、それが民主主義であり当然だとしている
でもその権利を主張する責任のことが欠落しているのである
ドラマにしろヤクザが親分から5両でも金をもらった義理があるとかで人を殺した
つまり5両をもらっただけで人を殺してしまうという責任が課せられていたのである
こうなると怖いことである、そんな金をもらうこと自体普通だったらもう拒否する
そな責任は負えないとなるからだ、ドラマにしてもやはり金というのはそうして怖いものをもっているのだ
江戸時代は5両盗んだら死刑とかなったのもそうである、金の額で刑罰が決められる
しかしほとんど金を得られれば何でもいいしかないのが現実であり権利だけを主張するのが民主主義として受け入れた戦後があった

権利というとき不思議なのは法律ではあらゆることに権利が主張される
日本国民は労働の権利と義務があるというのもそうである
実際このことでも労働は権利だというのが理解しにくい、労働はやむをえざる強制となっているのが普通である、私に労働の権利があるから職を与えてくださいとか言わない
そんな権利など与えてくれない、職が得たかったら国が職を与えることなどないからである、ただ労働の義務は課せられているだけである

だからとにかく「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」こんな権利があるだろうか?日本貧困化してくるときどうしてそれが保証できるのか?
貧乏な国ではそういう保証は不可能である、なぜなら戦前は貧乏だから普通に乞食がいたそれを国で保証したりしなかったからである、国でできなかったからである
だから日本が画貧困化ししてくればそんな金を出すことができなくなる
つまり何でも国で保証できるわけがないのである
それで政府では紙幣をすればいくらでも金を作れるというのも疑問になることは確かである、そんな魔法のようなことができるのか、それなら誰もこんなに苦労しないだろう
紙切れの紙幣をすればいくらでも金が生れ解決するとかならないというのは小学生でもわかる、それでMMT理論はありえないとしているのもわかる

とにかく金を得ればいいというとき権利を主張するときその正当性が問題になる
なぜ漁業権を得たのか?資源保護のためにである、でも東電に売ることが資源保護になったのか?それが原発事故以後問われたのである
なぜ寺で拝観料から税金をとることを拒否したのに国に給付金を要求するのかとなる
権利を主張するのはいいとしてその正当性が問われたのである
だから日本は民主主義が何かを理解しないでただ権利だけを主張することを要求するものだとなったのである
そして権利というとき反対は利権になる、そこに漁業組合であれ宗教団体の組合であれ
その活動には税金をかけない、そういう権利を得ている
でも今回別に京都の寺で拝観料をとることが宗教活動でもない
また宗教団体でも給付金を要求して得られというのも理にあわない
もともと税金を宗教活動なら免除されているからである
でもまたなぜそういうことが通るかとなるとそれが団体化して数で影響して権力化して政治家を動かすからである、そこでまた政治が歪められるのである

とにかく様々な利権を主張することが民主主義でありそのために数を集める、それは宗教団体でもそうである、それで利権を得て金を得る、利権団体民主主義になったのが日本なのである、その問題は社会自体を歪めるから問題なのである
何も権利を主張するのがいいことだと悪びれることもなにもないのである
それが正義だとなっているからだ
ただ何かをしたら権利を主張できる、何も草取りを頼まないのに勝手に草取りした
だから金をくれと要求された、つまり勝手に草取りしてその権利を得たとなる
何もしないのに金をくれとは言えないからそうなった
これも変なのだけど一応権利を得たとはなっていたのである 

他にもマスコミでも六局に特別放送する権利が与えられた、その権利は大きいものだったそれでマスコミに左右される結果になった、つまりそれは特別の権利である
でもその権利がマスコミで勝手に解釈して公共の利益になるとはならなかった
NHKは特に国民から平均して金をとって放送しているから中立の立場で放送するべきである、それもしなかったので批判される
その影響が大きいから問題になる、それでインタ−ネットが出てきて万人に放送の権利を与えたことは民主主義の大きな進歩になった
テレビだけを見ていると社会がわからなくなるからだ
テレビ自体がいかに映像で操作できるものか知ったからである
それはネットから指摘されるようになったからである
テレビは大きな権利を与えられていた、でもその権利を悪用したということがあった
つまり権利が大きければ大きいほど責任も重くなっていたのである   

ところがまたインタ−ネットでも誰でも発言することができるようになった
するとそこに権利を得たとしてもまた責任が生じるようになった
それでネット上の発言で責められて自殺した女性のプロレスラーがいた
それはネットだと何でも発言できる、誰かわからないとか匿名だとかでそうなった
これまではネットで発言してもそんな影響がなかったのである
でもスマホであれ一般化すると何んでも発言していい環境でなくなったともなる
それが広まり安くなったからである、ただその発言がそれだけ影響するとは思わない
それがネットの盲点である、面と向かって言うわけではないからそういうことはこの通信世界には常にあった、顔も見えないからである
ただyoutubeは顔を出しているから責任が生れているとなる
ただインタ−ネットだとそれだけ読まれるとか見られるとかない、そこで責任が軽減されている、でもだんだん一般化してきたからそういうことが起きてきた
つまり権利を得ることは責任も生じるということである
権利を主張のはいいとして責任をとかその主張する正当性をrightを自覚して発言するべきだとなる
それが意外と後で大きな問題となる、得したと思ったことが大損にもなるから気をつけるべきだとなる、つまり重いカルマとなりのしかかることになるからだ


生活保護って何なの? (権利ばかり主張するようになった現代) 





posted by 老鶯 at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年06月01日

規格が統一されないと何でも使いにくい (カードでもケーブルでも数が多いと使いにくい)


規格が統一されないと何でも使いにくい

(カードでもケーブルでも数が多いと使いにくい)

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デジタルカメラのケーブル
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平均の規格を出す数式


一度スーパーキクチのカードを無くした、それが偶然見つけた、でもまたなくした
そうなったのはカードで買い物する場合、私はキチクスーパーとシシドスーパー両方に行く、それで一枚のカードで買えるビザカードだと便利でとなる
何か何枚もカードがあると使いにくいからなくしたりする
10枚くらいカードをサイフに入れている人もいる
そうなるといちいち選び使うからめんどうになってなくしたりする
一枚だったら楽なのである

だから金でも本当はグロ−バル化したらドルが世界貨幣として通用させた
でもそうなるとアメリカの金融支配となる
石油がドルでのみしか決済できないとなったからだ
それでイランの石油は世界で買えなくなった
ただイランと中国とは石油の取引を独自の銀行を通してしていた
中国はこうしたしアメリカの一局の金融支配に対抗して独自のデジタル貨幣を使用するように動いた

今日見た妙法でその仕組みが語られていた、SWIFTというブラットホームを通じて外国からの送金を仲裁している、そこはアメリカの手中にあり手数料がとれる
また銀行が日銀を通して金のやりとりしていることも説明した
つまり日銀を通してのみ銀行が金のやりとりができない
それと同じように世界でも仲介する銀行が必要でありそれがSWIFTだという
アメリカの強さは金融を支配してドルが世界貨幣になっているからである
それをつぶそうとするとアメリカはその国を許さない、だから中国を敵視する
イランでアメリカ軍に殺された人は軍人ではなくこうしてアメリカを通じて取引することを拒否した人だったという
とにかくここにも根深い対立が生れていた

たしかにユーロ―になる前にヨ−ロッパを旅行した時は不便だった、いちいち国が変わると両替しなければならなかった、ただそれで国が変わるということでコインを集めたりして楽しんだ思い出となった
その国に旅したという記念ともなった
でも人間社会はどうしても一つの規格になると何でも使いやすい、でも規格化することはその規格化をする国が力をもつことになる、今はアメリカなのである
ただ規格化しないと大量生産だってできないのである

それで困っているのはデジタルカメラのケーブルである
パソコンに取り入れるのにケーブルがみんな違っている、十個くらいケーブルがある
他にも使うからある、もしこれが一つで間に合うなら楽である
なぜメーカーごとに違っているのか?それが理解てきないのである
それで記録するusbメモリーカードでもカードリーダーを使うようになった
一部ソフトの具合でパソコンにケーブルを通じてとりこめなくなったからだ

ともかく規格化すれば日本の企業でもそれによって富を独占できる
日本の規格化だからである、そういうことで日本でデジタルコインの規格化しろというのもわかる、日本の円の方が世界で信用できるからだとしている
また香港が金融のハブでなくなるときシンガポールに移行するとか今度は日本に移行するようにするとか画策する
金融を握るだけで送金したときなど銀行のように手数料が入るからだ

ともかく紙幣とかコインはコロナウィルスで嫌われるようになった
だから余計にデジタル化とかIT化が進むようになる
ただカードでも一つになると使いやすい、それでカード会社もしのぎをけずった
つまり他者との競争でも一つのカードで使えるといいからである
その一つの規格が選ばれると利権を独り占めになるからである

ただ金融というのはわかりにくい、だからこそ国際資本家に莫大な金が流れて格差社会になる、その金は実際は汗水たらしてためた世界の人たちの金なのである
世界規模になると何かその不正すら見えない、そんなグロ−バル化経済とか市場とかは成り立たなくなる、それでグロ−バル資本主義は行き詰まり自壊してゆく
今こんなにコロナウィルスで困っているのに景気が落ち込んでいるのに株だけがあがる
ここにも株とか金融は実体経済と乖離している
いくら株が上がっても実質経済は巷では失業者が増えているのに株が上がる
そういうことは何かもうグロ−バル経済市場とかは作られた虚構の世界、イリュージョンなのである、つまり紙幣は紙きれになる、紙幣がいくら貯えられてもそれでもう経済は成長したり豊かになれないのである

金はこうして仲介業者により世界でもぬきとられている
                                                                          

 SWIFT(国際金融決済機関)

2020年05月31日

農業を知らなければ自然も田舎もわからない (今は田舎に住んでも農業を知らない人の方が多い)


農業を知らなければ自然も田舎もわからない

(今は田舎に住んでも農業を知らない人の方が多い)

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「鍬ハ国々にて三里を隔ずして違ふものなり」と述べ、各地の特色ある鍬を図示しているが、この中に「若州小浜辺之鍬」「越前敦賀ニ用ル中鍬」が含まれている。鍬は刃と柄の角度が大きく、頭上から打ち下ろして土中深く耕す「打ち鍬」、刃と柄の角度が小さく、土中深く打ち込むのではなく、土を浚え移動させるのに便利な「引き鍬」、その中間で、粘質土に適した「打引き鍬」の三つに分類される


乾田では土が硬くなっているので、まず深さ20cmくらいまでの土を細かく砕く「荒起こし」を行います。その後、深く耕すためには人力による鍬では対応できないため、牛や馬の力を用いる馬耕とセットで奨励されました。
「乾田馬耕」により、収量は倍近くになり、稲刈りの後に麦などを栽培する裏作が可能となりました。

明治後期に入ると馬耕用の犂が使われます。堆肥を田んぼ一面にまいてから、牛や馬に犂を引かせて土を起こします。


年内に全県の112万ムーの土地を「大きく生まれ変わらせる」計画であるという。そして、土地は深く耕すことにより、水と肥料の呼応化を充分に発揮させることができ、収穫量を数十%から100%、数百%も増加させることができると述べた。

これに対して毛沢東は、5月27日八期二中全会で以下のように述べて、全国に長葛県の経験を広めるように呼びかけた。

「一尺五寸の深耕は大きな発明である。長葛の経験は全ての各県に問題を投げかけている。もし長葛県が今年一年で全県の耕地112万ムーで深耕をおこなったとすると、別の県でできないということがあろうか?一年で無理なら二年、二年で無理なら三年、三年で無理なら四年、四年で無理でも五年ならできるだろう!」

《若干重大决策与事件的回~・t,薄一波著,中共党史出版社,2008-1 


今の機械では土は深く掘れない
牛馬で鋤で掘りおこしたとき深く掘れた
何か機械の方が深く掘れると思った、だから意外だった、土を耕す掘るということは土作りに不可欠である、土を掘ってまぜるとかで土作りになる
農業の基本は土作りである、それは花でもそうなのである、土が良くなかったら花すら咲かないのである
深耕という言葉が何かひびくものがある、文化がcultureでありcultivateが基である
つまり文化というのは農業から土を耕すことから生まれたのである
俳句の季語でも農業から生まれているからである
だから本当は農業を知らないと俳句すら理解できないとなる
つまりこうして文化の基は農業にあった、ところが肝心の農業を知ることは容易ではない田舎に住んでも今は農業している人は一割にもみたない
農業がいかに苦労が多く様々な技術も必要であり道具も必要であり知識の範囲も広いのである
だから農業の世界は奥深いし簡単に知ることはできないのである

ただ自然を知りたいなら農業を実地ですれば体で自然を知ることになる
私の場合はただそうして外から見ているだけであり実地に体で知りえないのである
ただ実地でわずかの畑で野菜作りしている女性から聞いた話で興味をもったのである
ただそこではほとんど何もとれなかった
そこで道具代から肥料代から苗代から薬から金ばかりかかっただけである
正直十倍の金はかかり収穫はほとんどなかった
ただ農業の苦労話を聞いただけである、ただそれでも農業とはどういうものか実地に知るということがあった、その知るために金を払ったともなる

私のように自然を実際の農業をするのではなく何か芸術的に精神的なものとして見る
それでは本当の自然がどういうものか体得することはできない
農業を実地にして実りを得ている人は実地に自然を体得している
ただ農業していたら何か文章書いたり知的なことはできなくなる
それだけ手間であり体力も使うからである、とても家事から何から一人ではできない
要するに人間はあらゆることに通じることができない

でも田舎に住んでいて農業を知らないということは肝心なことが欠けているのだ
それで浪江町の東電に電気関係で働いていた人が回りは草ぼうぼうでも何の関心もない
それで東電で働いて金を残したとか全く田舎に住んでいて農業に関心もない
それで周りが草ぼうぼうでもなんとも感じていない、東電の社員であり農業とは関係なく住んでいたからこの人は全くの都会人になっていたのである
だから田舎に住んでも今や仕事は農業ではないとしたら農業のことはわからない
戦前では8割が農民だったとかあり戦後も引揚者が農業するために開墾に入った
そういう場所がすぐ近くに残っていた、現実にそういう人を子供の時知っていた
つまり戦後焼野原になったとき仕事は農業するほかなかったのである
その後十年くらいして電器製品が売れて高度成長時代になったのである

例えば田んぼがあるとして田んぼに水を張ることで稲作が飛躍的に発展した
つまり田んぼに水を張るということが様々な効用があり稲をとるのに進化した形態だった水の効用でそうなった、その前は乾田であり陸田とか陸稲だったりしたからだ
つまり農業というのは道具でもそうだが絶えず進歩してきたのである
だから本当は人間は自然をしるためには農業を知ることが不可欠である
でも田舎に住んでいても田畑に囲まれていても実際に農業を知っている人は少ないのである、そもそも農業を仕事にしなくなったからである

毛沢東が農業を指導していたからこそ農民の心を知ったとなる
つまり農業の実地の指導者でなければまた国家の指導者でもありえなかったのである
そこに毛沢東の偉大さがあったがそれは農業をしていないと理解できなとなっていた
それは中国は農業国家だからそうなっていたのである
でもその後工業国家になったときやはり農業が軽んじられるようになった
それは世界的に共通している

とにかく深耕というとき何かこの言葉に魅かれる、深く耕すとはあるゆることに言える
あらゆるものは深く耕してその知識でも技術でも深めてゆく進歩させてゆくものだからである

富める者は、必ずといってもよいほど、その前から徳を積んだものである、もし麦を蒔かなかったら、来年は麦がまったく実らない。麦の実りは冬から力を入れてきたからである稲を仕つければ秋には実る。米の実りは、春から丹精して(心を込めて励んで)きたからである

こういう思考は農業を実地にしていなければ生まれないのである

音もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経(きょう)を繰り返しつつ(二宮尊徳)

二宮尊徳には芸術的に見ていない、自然には音もあり香もある、天地の経を読むということは天地を知ること土を知ること自然を知ることが農業だったからである
人間とは絶えざる努力なのである、今あるものは田んぼすら水を張るということが先人の工夫として生まれたのである、だからそうした歴史を知ることがあらゆることで人間を知ることなのである

おそらく江戸時代から明治維新でも工業化しても戦後十年でも依然として農業が基本でありそこから文化が生まれていたのである、工業でも道具を作ることで農業と結びついていたのである
だから現代が農業から心でも離れたという時、小高の人は親が農業していたが金にならないので農業だけはするなと殴られたという、つまりそのことはいかに農業というのが農家自身で苦労が多いだけとなって捨てたのである
でもその時何が起きたのか?原発に農業を捨てた子供は働くようになった
そのことで空気も水も土を汚染されて故郷に住めなくなったのである
自然を守るとういが実は実際に自然で生活している人がいて守られるということがある
狩猟でも動物をとるのは殺生だとするがそこで動物とも自然とも深く交わる術を学ぶのは農業と同じなのである、そういう生活から人間は都市人間は離れすぎてしまった
自然という時何か自分自身がそうなのだけど表面の美だけを見たりしている   

実際は自然の中で食料でもいろいろ自然を活用したとき自然を知るのである
自然を守るとういうが森林でも外材に頼り肝心の自国の木材を利用しないとき枝打ちとかしなくなり森林は荒れてしまったのである
だから自然を守れとか景観を守れというが自然と深く交わるには自然の中で生活して自然を利用して活用する時自然を知るとなる
そういうことが第一田舎に住んでいる人さえなくなっていたのである
それは自分のように表面的にだけ自然を風流として見ているものも同じである
何かそういうことから自然を知るといってもそれは観念的になる
ただ正直農業をするということは体力的にきついから知的な仕事をするとなると両方を兼ねることはむずかしくなるのである

posted by 老鶯 at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2020年05月30日

夏菊 菖蒲(菖蒲と蔵ある家)


夏菊 菖蒲(菖蒲と蔵ある家)
   
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下太田

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高速に遠くより来ぬ青葉かな

黄菖蒲やなお陽の明るし野良仕事                              


夏菊に矢車草の交じり咲きスーパーヒタチのここを行くかな

蛙鳴く植田の縁に萱草の咲きて白鷺の餌あさるかな

影なせる奥の家かな蔵ありて菖蒲の咲けり石の重しも

夏の日のなお輝くや一面に菊の白くも風にそよげり


鉄道でもスーパーヒタチが通るのと通らない差が大きいと思った
その車両に魅せられたとなる
普通の車両はかっこういいとならない、その差が大きい
夏の日に田園を走るのが気持ちいいし絵になっている
鉄道は何か自然と融合するからいいのである
ただ鉄道の問題はせっかくスーパーヒタチが通るようになったのに客がほとんど乗っていないのである、これはまだ当分つづく
まだ一回も乗っていないから乗ってみたいが出にくいのである

蛙が鳴き植田があり萱草が咲き鷺が餌をあさる、この光景は見慣れたものだけどこの辺ではずっとそういう光景が一時消えたのである
それから田が元にもどり蛙が鳴き鷺が来るようになった
田んぼは生態系に融合したものとして自然の一部となっているからそれがなくなると蛙でも鷺でもいなくなるのである
それで蛙が鳴き、鷺が戻って来た時復興したと思った
田舎だとこうして生態系とともに生きている
都会だったら街の復興というとき建物とか道路とかインフラの復興になる

でも浪江の人は回りが草ぼうぼうになっているのにそのことで何も感じていなかった
仕事は東電でしていたから田畑に関心がなくなっていたのである
つまり田舎でもそういう都会人になっている人が結構いる
第一田畑で仕事している人は一割くらいであり他の人は別な仕事をしているからである
だから自分もそうだったが意外と農業のことがわからないのである
自ら米作りしたり野菜作りしている人は少ないからである

ただ生態系とともに生きているということは田舎では普通は感じる
コロナウィルスでも生態系のことを言われた、何か不自然に人間が生態系に入り動物からウィルスを感染する、だから原発でも生態系を破壊されたからコロナウィルスでも共通していたのかとなる
地球規模で生態系の自然の破壊がもう限界に達していた、だからコロナウィルスが自然の逆襲として広がった、また自らの生態系を守るためにウィルスが出てきたのかともなる

柚木(ゆぬき)の家は隠れようにあり何か蔵がありその前に大きな岩がありどっしりとしている、この家を見たとき何かここで営まれた生活の重みを感じる
家構いからしてそうなのである、兜屋根でありたいがい養蚕した場所がある
だからどれだけ養蚕が盛んだったかわかる
今になると地元に根付いた生業というのが大きなものとなっていない
当時は外から何か物が入ることなくやはり自給自足的な生活を継続していたのである
ただ養蚕は絹織物は輸出するためのものだったのである

とにかく大都会には生活の重みを感じられない、家自体がなにか狭苦しくおしこまれたようになるからだ、この家はどっしりとしている、岩もいい岩である
ただ家を勝手に写真撮ったりすると見ている人がいる
実は庭に隠れて人がいたのである
それに気づかなかったのである、それでとがめられたことがある
田舎では人がいないようでいる、そして見ているのである
誰もいないと見てもいるし見ているとなる、やはりこういう場所に来ると目立つのであるあの辺は木陰が多いから自転車で行くと気持ちいい場所である

見えない貧困の問題―分断される社会 (ローマの奴隷の方が恵まれていた?)


見えない貧困の問題―分断される社会

(ローマの奴隷の方が恵まれていた?)

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絶望令和の貧困を語ります。(中村敦彦)

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クリック拡大、デュラント(世界の歴史)



あらゆることを考える時必ず歴史をふりかえり考えると見えてくるものがある
映画とかで見るとローマの奴隷など過酷だとみる
剣闘士にされて戦わせられたりただ残酷にしか見えない
でも現実はどうだったのか時代が過ぎるとわからなくなる
まず奴隷制度ができたのは人間の進歩だったとされる
なぜなら戦争に負ければ皆殺しにされた、でも奴隷として生かされたことは進歩だったとなる

だからこのデュラントの指摘も歴史の見方としてあるのかなと読んだ
なぜこのように主人と奴隷が同じ人間として遇されたのか?
そしてむしろ奴隷というより家族の一員のようになったのである
これに興味をもったのは人間の歴史では必ず富裕な者がいて貧しい者がいる
また地位の高いものがいて低いものがいる
強い者がいて弱い者がいる、今でも上級国民と下級国民がいる
それで上級国民のことを下級国民はうらやましがり責める
ただ社会が変化するとそうした差も変わるのでわかりにくくなる

現代では奴隷などいない、みんな自由であり差別はないとなりいい社会だとなる
ところがこのデュラントの奴隷について語ることにも共感するのである
それは人間というものがどういうものか?
いくらそこに金持ちとか身分の差があっても同じ屋根の下でまた家族のように生活していれば自ずと情愛が生まれる
それは別にローマだけではない、現代で不思議なのは江戸時代であれその前でもやはり身分差があって侍の家に仕える人たちがいた
また身分の高い者に仕える臣下がいた、でもそういう人たちでも一緒に生活することで
忠義の心が育まれていた、殿様の子供の乳母(めのと)となり家臣が育てることで家族のようになり忠義の心を育てることに役立った
そこには身分差があっても対立するだけではなかった
ここが現代で理解できなくなったのは現代というのはまずそうした協働性とか共同体が喪失したためだろう
それは封建制時代までであり日本でも明治維新からは資本主義になりそうした人間が情愛で結ばれるということが消失していった

ただ人間関係の歴史を外国でもヨ−ロッパでも貴族と召使階級があり召使が認められた仕事だった、それでチップ制が生れた、なぜチップを払わなければならないのか日本人に理解できないからである
ヨ−ロッパには明確な階級制がありそれが今日でもつづいているともなる
なぜこのことに興味をもつようになったのか?
それが自分の家に他人を入れて多少働いてもらうようになった経験からである
日本でも戦前は女中がいた、家事手伝いである
中産階級でも女中を二人も必要としていたと女中が女性の仕事であった
私の母は東京で女中の仕事をしていた
女中は女性の勤めさきとしてあった、そして今女中という言葉も死語となり差別語となった

今はお手伝いさんとかはいる、でもそもそも家の中で働くということはなくなった
その原因が家事が機械化したことである、それで私は全部家事も一人でしてこうして毎日プログに文を書いている
それを全部一人でできるのはパソコンとか通信の発達とか家事の機械化でできている
だから別に女中をお手伝いさんを雇う必要もないのである
ただ一人だから話し相手として来る女性がいる
それでその人が貧乏なので金だけ要求されるともなる
もし戦前のようだったらまず家事に追われて何もできない、勉強も文章書くことすらできない、家事に追われていた、第一米を炊くだけで洗濯するだけでどれだけの労力が必要だったかを知ればわかる
人間が電気を使いそういう労働から解放されたのである

ただではなぜ人間は必ずしもローマ時代の奴隷とかまた身分差があっても仕える人と比べて何か不幸なのか、かえって恵まれていないのか?
それは貧困とかが貧しい人が見えなくなったのである
それよりシステムで見えなくさせられたのである
だからこの貧困をテーマにして取材している作者でもそのことを言っている
つまり上層の人と下層の人は交わらなくなった
実は上層の人と下層の人はどうしてしも家事労働が重荷となっていたから下層の人を雇うことがあったが今は機械がするからなくなった
そこでかえって人間と人間のつながりが消失したのである
そこにかえって分断が生まれたのである

人間というのはいくら金持ちでも上層でも一緒に生活していれば必ず情愛が生まれる
その情愛があって忠義が生れたり奴隷でも家族のように扱われたとういことがある
現代はかえってな上層と下層は分離してそこに対立しかないともなる
そして貧困が見えない、貧しい人がいても見えない社会になった
生活保護者は生活保護者として区別されて分離されて隔離されて暮らしている
これは意外と危険なことになる、社会が分断されるとそこにかえって対立が露わになり
貧しい人たちが上層を襲う暴動が生れるとされるのもそうである
そして現代の価値観は金さえあればいいしかなくなった
だからたとえお手伝いさんとか雇ったとしても非常に危険なのである
戦前でも女中がいたし封建時代の江戸時代でも上の者と仕える者でも情愛で結ばれていたとかあり忠義の心があった、しかし今はない
それで金さえあればそんな上も下もない時代である
するとそうして家族の中に入ってくるとどうなるのか?
主人がいないとき金を盗むことしか頭になくなって屋探して盗むことしかないとなる
だから現代ではいかに家に入れることが危険なのかわかる
ただ裕福な家でももともとそうしてお手伝いさんを雇っていた金持ちの家はそうして家で働くことで信頼されていたからできる
それが普通の家ではできないのである

とにかく現代というのはまず情に欠けた社会である、そして貧乏が見えないという時、
機械が労働者となり奴隷というときシステム化された奴隷ともなる
いろいろな下働きでも時給いくらとかなるのは下働きでありでもシステム化してそういう人たちは奴隷ではない、でもその人たち現代の奴隷なのかもしれない
良く俺は社畜なんだよなとか言うのそうである
現代にも奴隷制があるがかえって過酷だともなる
なぜなら機械化ロボットのように扱われているからだ
むしろ戦前であれ江戸時代であれローマ時代であれ人間には情があるから情として通じるものがあり奴隷にも情愛が生れていたから奴隷が一概に不幸だったともならない
それはあくまでも比較でそうなる、ただ歴史の現実は今と比べてもわからない
むしろ現代の方が情が消失して過酷だともなっている

上層の人たちが下層の人たちと交わらない社会は社会が分断されることであり危険になる互いに人間として理解できなくなりそうしているうち対立が深まり不満が大きくなり暴動にもなる
そして現代は金が唯一の価値とするとき下層が成り上がるには株とかまたFXとかの博打のようなものにで一攫千金を試みほかないのである
でも株でも元金がないと資本主義ではもうけられない
意外と自分で株を投資信託でもしてわかったことは大きな金があれば増えやすいということである、失敗があるにしても大きな元手があると増える金も大きくなる
金が金を増やすのが資本主義のルールなのである
だから金持ちはより金持ちになり貧乏人はいつまでも貧乏から這い上がれないのである
それがいづれ限界にきて暴動が起きると予測できるので実は上層にとっても金持ちにとってもいいことではないのである
治安も悪くなり南米のように金持ちは子供が誘拐されて身代金を要求されるとか安心して暮らせなくなるのである

このyoutubeで貧困のことが実際の取材をして語っているからリアルである
何か不思議なのはyoutubeで語るのと本で読むのとは違っている
何かわかりやすくなる、だから本だけから人は理解できないと思った
その人の経験したことを語るには何かささいなことでもつまらないと見えることでもyoutubeでは語られるから身近になる
この人は本を相当だしている、でも読んだこともない、でもこうしてyoutubeで語ると身近になるのである
だからこれから本の作者もyoutubeで語る時代だとなる
ただそこで金をもらえるのかとなると相当数登録者を得ないと無理である
でも本だとなかなか読むことが抵抗があってもyoutubeだと気軽に見れるのである
ただ何か深く考察するには本を読むのがいい、私の場合は深く考察するから文章の方がいいししゃべるのが苦手なのでこうして毎日ブログで書いているのである

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2020年05月29日

原発事故での漁業権の問題と寺の給付金要求の共通性 (権利を与える目的が見失われていた)


原発事故での漁業権の問題と寺の給付金要求の共通性

(権利を与える目的が見失われていた)


原発事故のことを追及してきた、その原因は何なのか?それを現場なのだから追求し続ける立場にあった
そしたらコロナウィルス騒ぎになった、これも何なのだろうと原発事故の経験と比較して考察して来た、そこに共通の原因があった
するとなぜ社会自体が歪んでくるのか?そこに共通の原因がありそれを知るべきだとなる
再三漁業権を東電に売ったということで漁業組合を批判して来た
これはどういう経過で起きたのだろうか?

まず東電で原発を作る⇒漁業権をもつ漁業組合と交渉する

「ここに我が東電では原発を建てます、海は汚すことはありません
でももしもの場合として補償します、その金は払いますのでご了承願います」
「補償してもらえるならいいでしょう、漁業権を売ります、でも補償は十分にお願いしますよ」
「わかりました、補償は十分にさせていただきます」

なんかこんな交渉があった、でもここでおかしなのは漁業権の権利が与えられた目的はなんだったのか?

それは漁業資源の保護であり東電に漁業権を売って補償金をもらうために与えられたのではない、確かに漁業をするために海産物を汚されては困る
でも汚されるても補償金を払うから容認されたのである
だから漁業権を与えられた趣旨と違ったものとして利益を得るために漁業権を売ったのである

権利を与えるのはもともと権利はライトであり正しいから与えられる
また最初は権利は権理と訳されていた、何か権利を与えるには理に適うことで必要だからである
ところが権利は利権にもなる、最初から利権になれば金になればいいということがどこでも起きている、権利を与える目的がありその目的より金になればいいとなってしまう
そこであらゆるものが歪められるのである
それは漁業権だけではない、あらゆるものがまず金になればいいとしかなくなっている
それが社会全体を歪めているのである

今回のコロナウィルスでもそうである、給付金を寺にもしてくれと政府に要求する

ところがそもそも寺は何のためにあるのか?

僧侶はなんのためにあるのか、何の目的をもって社会に存在しているのか?
それが見失われている、それで観光客から金をとるときその金に税金を京都府でかけようとしたら仏教組合で反対して税金をかけさせなかったのである

観光はそもそも宗教活動なのか?

お布施とかありそれは何のために金を払うのかとともなる
つまり金を払う方でももらう方でもその金についての明確な理由があいまいなのである
そもそも寺が何のためにあるのかということもあいまいだから観光税をかけるというとき宗教行為だから税金をかけるなとしている
では宗教行為とは何かとなるとこれもあいまいなのである
別に外国人が寺に来るのは仏様を信仰するとか何の関係もないからである
主に寺の美術品とか庭を美の鑑賞とかになる
でせもともと寺は観光のためにあるのではなかった、その目的からは観光ははずれていたのである、そこで莫大な収入ともなるから京都府では税金をとりたいというのは自然なの事である

こういうことは常に社会にある、会社を経営するときでも何もを目的としているのか?
まずもうければいい、金になればいいとなる、利益にならなければどうにもならない
だからあくどいことでも客をだましてでも利益をあげることが優先される
銀行でも投資信託とかむずかしいものをすすめて手数料をとる
その目的は何か不明でもまず利益をあげればいいとかなる、客でも金になればいいとしかならない、第一投資するにもなんのために投資するかというより金になればいいとしかならないからである
だから投資する方でも目的がただ金になればいいとなりわからないのである

宗教というのがある、でも宗教活動とは何なのか?

これも不明でありあいまいなのである、神を仏を信じることだとなっても創価などは選挙を第一として政治の権力を得るための活動になる
だから選挙が最大の仏法の戦いだとして仏に祈り一軒一軒回って必死に一票を獲得に回るだからその目的が宗教活動ではない、政治活動になっている
教理にしても王仏冥合の思想が日蓮宗にあり王は政治であり仏と一体化する社会を作るということでもそうなる
でもそれは現代の法では政教分離で禁止されている、それは神道が国家神道となり戦争で三〇〇百万人死んだという反省で生まれた法律でもある
現実に創価の創始者の牧口常三郎は戦時中弾圧して獄死したとかあるからだ
これでもまた政教分離を主張することになるが政教一致祭政一致の集団となっているのも矛盾なのである

こういうことはこの世の中に常にある、宗教でも権利を主張する、でも宗教が権利を主張するとしてもともと宗教の勤めはなになのかとなる
宗教活動に税金をかけないのは宗教行為だからとしている
また国が援助しないのは国家権力が宗教に関与しないからだとしている
だから常に権利と利権{利益}と目的が相反するものとなり矛盾してきて社会をゆがめる
権利を与えることには責任がともなう、それで資本主義社会だと金がよりあるものが実は責任が重くなるということがある
金をもらうことは得ることはその金に責任がともなっている
それでヤクザが金をもらったから殺すんだとというときそのもらった金に責任をともなっていたからそうしたとなる
つまり何であれ金をもらうこと得ることでも責任が課せられているともなる

民主主義はただ個々人でも団体でも常に権利を要求してそれが利権になっていた
そこに責任があることを自覚しない、権利が与えられることは責任がともなっていた
漁業権は資源の保護であり東電に売って金を得ることに与えられていなかった
だから事故になってその責任が問われる、なんだあいつら東電から事故前も豊富な補償金をもらい事故後ももらっている
それは回りの者が事故後に気づいたことであり別に事故にならなければ責められることも気づくこともなかったのである
実際はそれは権利を与えられたとしても責任が重いものだったのである
だから何でも金になるからいいというのは相当に問題なのだけど現実は金になればそれでいいいとしかないのである

税金にしてもそれがどう使われているかも不明なのが多い、コロナウィルスの給付金でもそれが利権化して目的とは違って使われる、そのことは原発事故でも起きたからである
ただ金になればいいとしかなくなる
原発事故でも地元住民でも金になればいい、あとは関係ないとなっていた
ただ事故後にいろいろ考察すると原発を作るのはその土地に住めなくなるほどの被害を出すのだから相当に互いに検討して納得してから作るべきだったと今では思う
責任は必ず誰かがとらされる、地元で住めなくなったということで地元住民は責任をとらされたからである
でももし地元に住めなくなるということがイメージされてそれを納得の上に原発を建てさせたかとなると疑問になる
そういう例が近くになかったので真剣に地元の人たちも考えなかったのである
それよりまず金だ、金になればいいとしかなかったのである

ただ一般に人は今や金のことしか考えない、あとは考えることもめんどうになる
その人の前に金をが積まれればそれがなんであれ従うのが資本主義社会だともなる
でもそうして金と利益だけに目を奪われると矛盾してくるしまた原発事故のように地元に住むことさえできなくなる
そういう教訓を事故から得たということもある
ただ一般的に大衆となると金を積めばそれでたいがいは通る、それで本来の目的となるものが見失われる、それはどこでも常に起きている問題なのである

人間社会はともかく何か考えるより金だとなるのがわかりやすい、また何か理屈など考えずに宗教だったら題目を唱えるとか楽だからそれがポピュリズムとかファシズムになりやすい、何のために働いているのか行動しているのかも考えない
まず金になればいいとなり若者は上の人に年配者に権力者に使われるとなる
だからどうしても本当は若者は必ず何か不正を社会に感じる
それを感じないとしたらその若者も人間としておかしいとなる
つまりおかしいな、こんなことしていることは人間として許せないとか何か義憤を感じるそれを感じないとしたらもうすでに社会の悪にどっぷりとひたってしまったのかもしれない、そうなるともう改革はありえないのである

結局人間の社会は常に腐敗でありそれの絶えざる改革を迫られる、それは限りがないのである、その原因は人間社会をそもそも治めることができない、それで改革は永遠につづき人類が滅亡するまでつづくほかない、そして最後は滅びなのである
真の理想の国は天にしかなく神がその作られた国を与えることによって成る
人間に理想の国は作ることは不可能であり必ず何か不測の事故が起きたり混乱したりして右往左往したりとバブルの塔のようになる
それが人間の宿命であり人間が人間によって理想の社会を作ることは不可能だとなる




posted by 老鶯 at 20:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

寺でも政府に給付金を要求で怒られる (政教分離は重要でも検討されない)


寺でも政府に給付金を要求で怒られる

(政教分離は重要でも検討されない)

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週刊新潮6月号


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この記事でわかったことはコロナウィルスで観光業の影響が大きかった
するて京都などをみれば観光収入が減ったかというか入らなくなった
その打撃が大きいと思った
何か京都とかなると寺は美術館なのか博物館なのかわからなくなっている
そして宗教法人になっているとその観光収入が莫大でも税金を納めなくてもいいとなる
坊主丸儲けともなる、そういうことが昔からあったからそんな言葉が生まれた

それは宗教の場ではなくなっている、高い戒名料とったり何か本来の役割がなくなっている、江戸時代までは武士の菩提寺となりそこで死者を供養することであった
また戸籍係のような武士の政治の事務方のようなものにもなっていた
それで手厚く保護されていたのである
それで変なのは明治維新になったとき廃仏毀釈運動が起きて仏像など壊されたのは神社側が天皇が強力な力をもったことで国家神道となったことで力を得て積年の恨みを果たしたとなる、それはただこれも利益を得られない、利権の問題としてそうなったのである

もともと宗教と利権は深く結びついていたのである
宗教とはもう俗化したのであり利権の場と化していたのである
だから神社にしても完全に戦争の時国家権力として機能するようになった
地方の小さな神社でも必ず戦争に出征するとき神社にお参りして戦地に出されたからである、だから必ず神社に武運長久とか狛犬の台座とかに字が刻まれている
もともとそうした小さな神社は豊作を祈るとかであり国家神道化したものとは違っていたのである

ここで仏教団体にも金銭的に支援してくれ補助金を出してくれと頼んでしかられた
税金も免除されているのに金をくれというのは図々しいとなり担当した政府の人が怒ったというのもわかる                          

そもそも寺とか宗教はなんのためにあるのか?

観光のためになるのか?美術館なのか?博物館なのかわからなくなっていた
京都とかなればインパウンドで観光客が増大した、それがコロナウィルスでぱったりと来なくなった、確かにそうなると収入が激減したとなる
でもこれまでどれだけもうけていたのかともなる、それは京都だとそうなる
それで京都では白足袋族の人といって寺には逆らえないという事情があったという
なぜならそれだけ観光でも寺中心でありそれで京都でも恩恵がある
それはあくまでも観光としてであり何か本来の宗教とは関係なくなっている
観光自体にも問題があった、観光とは何か、その前に人々の日常生活がありそこを乱さないようにすることも必要だったのである
京都などは外国人観光者の街となってしまったからである

ただ寺というのは建物とか庭でも維持するだけでそれなりに金がかかる
だから観光収入に頼る、でもそれは本来の宗教の役割ではないが観光には不可欠だとなる第一宗教の始祖とかみればわかる、あばら家に住み乞食と変わりないような生活していたからである、キリストにいたっては住む家すらなかったのである
釈迦でもそうである、そしたらそうした教祖にならうのが宗教者になるがそうはならないかえって派手な衣装を来て土地の権力者となったり観光収入で豪華に寺を装い遊んでいるともされる

そして仏教界でも利権を守るためには一致している、反目しても政府から金をもらいために創価にも相談するかともなる、でももらう資格かないのであきらめた
宗教団体からも税金をとるべきだというとき宗教界では利権を守るために一致していた

とにかくこういう政府からの給付金とか出るとなるとみんな目の色を変える
それは原発事故の補償金でそうなったことを延々とプログで書いてきた
原発避難区域ではあらゆるものが補償されたからである
仏壇でもあらゆる物権もそうであり何か私道のようなものでも補償してくれとなった
それで自分の家の前の海にも権利があるとして補償を要求した
そもそも何か漁業権というのでも強力な権利となり東電から事故前も事故後も手厚い補償があった
なんでもこうして利権化して団体化してゆくのが現代である
宗教団体も利権団体なのである、創価はあからさまにそうであるが他の宗教団体でも政治力がそれなりにあり権利を要求する、だからこそ本来の宗教とは違うのだから税金を納めるべきだともなる
でも自民党は公明党に反対できないのである

これはそもそもヨ−ロッパのキリスト教でもそうだった、カトリックが権力をもち堕落した
その権力は強大なものでありローマ帝国と一体化して権力基盤を広げたのである
だからヨ−ロッパとかでもあれだけ大聖堂とかあるのだから宗教が盛んなのかと見るとそうでもなく無神論者が増えているのである
日本でも外国から来た人が寺が多いから仏教信者が多いのかとみるがそうではないのとにている面があるようだ

いづれにしろこのコロナウィルスの影響はこうして宗教界まで及んでいた
韓国で広がったのはカルト教団が密集して起きた、何かそうして集団化して祈ることが本来の宗教からはずれている、キリストは密室で一人祈りなさいと言っているからだ
だから集団化組織化した宗教は権力化した政治化した宗教なのである
それで仏教というとき私は禅宗にひかれるのである、日蓮宗とか念仏宗は集団化して一心に題目を唱える、それで騒々しいからである
ただそういうのは大衆に受ける、集団となり一体化をかもしだすからだ
それが結局ファシズムにも通じているのである
何か宗教というのは人を心から奴隷化するのにはいいのである
それはイスラム教でもそうである、なぜイスラムの世界では科学とかでも一時は先進国だったのに停滞したのか?
それは宗教と関係している、民主主義も受け入れないのは宗教のためである
政教分離ができないのもそうである

だから意外と政治と宗教の政教分離がヨ−ロッパで法制化したがイスラムではできなかった、それがヨ−ロッパに後れをとったとのかともなる
それは中国でもそうである、中国では宗教ではないにしろマルキシズムが共産主義が宗教のようになっている、そして一党独裁であり批判を許さない
それで周りの国でも中国に同調しにくいのである
政治体制が恐怖政治であり批判を許さない体制でありそれで受け入れられない
そこで香港の自由はなくなり次に台湾は占領されて沖縄が占領されて中国に支配されてゆく、だから中国と欧米が対立するとそうした宗教化したイデオロギーの対決ともなる
それはソビエト連邦の冷戦でもそうだったからである

本当は政教分離はこうして大きな課題である、でもそのことはあまり議論もされないのである、信長は徹底して政教分離を宗教より政治の優位を寺を破壊し僧侶を殺戮することで実行したから新しい時代を作ったとされる
だから政教分離はそれだけ人間社会にとって大きな問題である
なぜなら明治維新で今度は神道が国家神道化して太平洋戦争に日本が突入したからである国家神道というときそれは政教一致になったからである
それで戦後は反省して政教分離が法律になったのだが創価とかあるように他でもそれが守られていないのである、それは結局ファシズムになる危険があるからだ
また中国が受け入れられないという時、経済の恩恵はあっても政治体制が一党独裁のイデオロギー政党であり共産化をおしつけるともなるからだ

宗教がかかわると厄介なのはなにかというと批判すると罰当たる地獄に落ちるとか集団で恫喝する
そうなると批判一切許されなくなる、それが危険なのである、宗教ファシズムになりやすいのである
ただ共産主義とは何なのか?それはソビエト連邦が崩壊して過去の亡霊ではないのか?
でも巨大化した中国でまだそれが残っている、それでも資本主義社会の中にもある矛盾である
だから中国はこうしたことで内部矛盾をきたし自壊するとも言われる
だから政教分離とは大きな問題なのだけどあまり検討されていないのである



1985年、当時の今川京都市長は古都税を創設しました。目的は寺社などの古都遺産を守るためです。京都市内の寺社へ支払う拝観料に対して課税する


古都の掟は彼らが決める。京都の影の実力者「白足袋族」は何者か

こういうことがあった、拝観料に都では税金をかけられなかったのである
だから税金を都にも国にも払っていないのだから今度コロナウィルスで観光客が来ないからと給付金を政府で出してくれというのはあまりにも虫がよすぎるとなる
白足袋族というのも京都の強力な利権団体だったのである
だからあらゆるものが利権団体化すると社会を歪めるのである

本来の仕事はなになのか?本来すべきものが何なのか見えなくなる
ただ利権だけを金だけを追及するようになるからだ
それは原発事故でも起きた、漁業権でも本来は資源を守るものだったけど手厚い補償金を東電からもらう団体と化していたのである
それだけではない、そういう本来の仕事を目的があるとしても利権団体化して歪められるのである

お寺が持続化給付金と引き換えに失うもの

ここでは税金をまねがれていたが政府からの給付金をもらうことは今度は宗教法人でも団体でも税金をかけられてもしかたがないとなる
なぜなら拝観料でも税金をとるなと京都府に抗議してそれが認められたからだ
だからこそ今回給付金を払えないとなったのである
それで給付金を払いというのは法律的にも理屈に合わない身勝手なのである



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2020年05月28日

コロナ危機は「自然界の逆襲」人類がグローバル依存から脱却すべき理由 (原発事故も生態系を破壊して住めなくさせたのは自然の逆襲だった)


コロナ危機は「自然界の逆襲」人類がグローバル依存から脱却すべき理由

(原発事故も生態系を破壊して住めなくさせたのは自然の逆襲だった)

流行の背景にあるのは、人間による野生動物の世界の撹乱です。アフリカ、中南米、中国の奥地など未開の地において、土地開発や農耕地の拡大による自然破壊、動物の乱獲、密猟、売買などが繰り返されることによって、自然界に埋もれていたウイルスと人間が接触するチャンスが必然的に増えてしまいました。

江戸時代もまた、地域ごとに最も適応度の高い社会を作り、経済を分散させることによって全体の適応度を上げていました。ところが、いま世界中で進行しているのは、地方分散型社会とは真逆の、画一化としてのグローバル化社会です。

コロナ危機は「自然界の逆襲」人類がグローバル依存から脱却すべき理由

コロナウィルスで変わる世界 (生態系を無視して人は生きていけない)


人間の生活は生態系を基にして成り立っている、その生態系というとき人間はもともと一地域で自給自足でまかなっていた
村が単位の経済だったのである、江戸時代がまさにそうだし実際は明治になってもその延長だった、だから子供の時本当に自給自足の江戸時代の生活だったのである
水道も電気もない生活である、水は井戸でありまた燃料は炭であり薪でありトイレは外のトイレであり農家の人がくみ取りして肥料にしていた
そしてその土地土地にとれるものでおよそまかなっていた
交通が発達していないから運ぶにしても馬車とかなると運べないからである

この運ぶというき鉄道ができたとき確かに運ぶことが飛躍的に発達した
福島県ではもともと小名浜から船で運んでいたのが常磐炭田ができて蒸気機関車で東京まで運ぶようになった、その他網の目のように森林鉄道がはりめぐらされて木材とか石材とかを東京に運んだのである
つまり運ぶという時主に東京にこの辺では運んだのである
そして何か外から運ばれるものがまれだった、地方では地方でとれるもので地産地消していたのである

運ぶといっても海でとれた魚を運ぶだけで苦労である、短い距離でも運ぶのは労力なのである、自動車などないからである
だから魚を売るということから行商が始まったということがある
松川浦の魚を売る人がいたからである
運ぶという時どうしても海を交通路にして運ぶということが楽である、もちろん海は危険だったか陸を運ぶとなると自動車も鉄道もないと海を運んだ方が楽である
だから北前船が日本海を通じて運んだのである
明治になり鉄道ができて運ぶのは不便となり廃れたのである
運ぶということは簡単にできない、江戸時代なら余計にできないから自給自足になったのである、それで隣の村とさえ交渉がない、隣から麦踏みの若者が大蛇だったとかの伝説が残る、つまり隣の村でもそれは得たいの知れない人になっていたのである

そういう社会だったら人は交わらないからウィルスは広がらないとなる
それでもウィルスは広がり大きな被害があった、その時医学も発達しないから被害が大きくなった
とにかく人間の生活がある一定の地域に限定されて住んで他と交わらないというのが長い間歴史的にそうなっていた
日本人は外国のように陸続きでないから海に閉ざされていたから外国とも交わらない
特殊な環境にあった、大陸の歴史は民族の激烈な抗争でありその侵入を防ぐことができないのである、だからこそ万里の長城が作られたのである
今回のコロナウィルスでも大陸ではヨ−ロッパでも陸続きでありロシアにもたちまち拡散したとか陸続きになると侵入を抑えられないのだ
だからグロ−バル化は今回はコロナウィルスをたちまち拡散させたのである

人間は生きることに最も大事なのは本当は生態系である
その生態系でもその土地土地が一つのミクロコスモスの生態系として完結している
その生態系の基本となるのは空気と水と土と森林とかである
そこが基本としてありそれが損なわれると生きることもできなくなる
現実に原発事故では空気も水も土も森林も放射性物質に汚染されて住めなくなったのである、それだけ甚大な被害が生まれたのである
原発がミクロコスモスを破壊したのである

ではコロナウィルスとは何なのか?これも生態系を動物とか生きている場所に人間が無防備に入りこんだからだときされている、その動物からウィルスが人間にうつされたからである、つまり生態系の破壊なのである動物は地域地域の中の生態系で生きる
技術もないから自然状態では生態系を変えることはできないからその狭い生態系に適応して生きている、それでそのウィルスがでてもその外に広がらないようになっていた
コレラでもインドの風土病でありそれが人に感染してもその地域から広がらないものだったが人が移動することによって広がった

人間は生態系を破壊するというとき原発でもその一地域の生態系を破壊すると空気でも水でも土でも汚染されて住めなくなる、今でも放射性物質の廃棄場にその汚染物質が積まれている
コロナウィルスと原発事故を比べて考察してきたが何か共通性があった
自然破壊は生態系の破壊でありコロナウィルスでもそうした人間の暴力的な自然の侵入と関係していたからである
そこで自然から逆襲されたということにもなる
ミクロコスモスというときそこで生物が生きる基盤であり人間でもそうだったのである
空気と水と土がないと人間は生きていけないからである

ところが東京のような大都会になると生態系を感じない、生態系から遊離して一千万人もの人間が生きるようになった、ただ原発で感じたのは空気が汚染されたことである
でも水でも水源が放射性物質で汚染されることがありその水が危険になる場合があった
そして食料でも外国から入るからいいとかなりその土地の日本の風土の生態系を意識しなく何ていたのである
でも今回のように外国から食料を運べないとなると日本の地方に食料を依存するほかないのである

つまり運ぶ技術がこれだけ発達しても食料でも外国から入らなくなる
そうすると近くから日本国内から運ぶことになる、でもまたコロナウィルスではそうして運ぶことも危険になった、そうなると日本国内からも食料も運べないともなる
それだけ遠くと結びく経済はいいようでもその弱点と危険性を自覚したのである
だから人間は生態系とか国々の風土を無視してはありえない存在である
その土地土地に生態系に動植物のように適応するのがまさに自然だとなる
それを無視した結果としてのグロ−バル化とか広域化経済には無理があった

何かスーパーで大きなタマネギ十個くらいが150円とかで売られていた
それは何か安物でまずいものだから売られていると思い買わなかった
別にそうでもなかった、佐賀県でとれたものが大量にとれて廃棄するようになったからそんなに易く出回ったとなる、東北で九州のタマネギが入ってくる
それは今は当たり前にしても何か不自然なものを感じた
何か過剰にある地域で一種類の野菜が大量に作られているからそうなる
それは全国に売るためであり運ぶ交通が発達したからそうなったのである
だから日本でも世界でも運ぶ交通の発達がそういうふうにある場所で一種類の野菜でも大量に作るとなる                                                     

それでコーヒーばかり作っていたらコーヒーが安くなったりして食べることもできなくなったとか後進国であった、そこではいろいろな野菜を食料を作っていた
でもコーヒーだけを作っていたら安くなったり売れなくなったら他の食料がなくなって飢え死にするともなる、それは江戸時代の東北で起きた
米ばかり作っていた所で起きた、米は江戸に送る商品作物となっていて米を作りすぎていたのである、だから米が冷害とかでとれなくなったら他のものが食料がなく飢え死にしたとかなる、これもグロ−バル経済とかで広域経済で起きる

つまりタマネギが大量に作られて捨てるくらいになる、キャベツとかでもキャベツ農家がキャベツがとれすぎて安くなるからと捨てたことがあったからだ
何かこういうことは不自然なのである、その不自然なことは自然から復讐されるともなるもちろん一地域ですべてをまかなうことはできない、それがグロ−バル経済でも広域社会でも度を越したものとなっていた
そうなると金の力が大きくなる、遠くからそうしたこ食料でも買うということは金が必要になるからだ

そうして金だけが頼りになったのは土地をもてなかったユダヤ人でありそれで金融が発達したとなる、それが今のグロ−バル金融社会を作ったものともされる
そうなると金が万能になる、それで原発事故以後補償金をもらうことがこの辺では目的化してその補償金を基にして他に移り住むちようになり故郷は放置されて復興できなくなったのである
金さえあれば別に便利な場所に住んだ方がいいからである
そういうふうに移動社会になるとそうなる、一億円もらえば前ら故郷を出て都会に出たいという人が多いからだ、それで仙台市に移り住んだ人がこの辺でも多いのである

何か原発事故でもコロナウィルスでも人間の生活が自然に則らない、不自然なものになって自然から復讐されたのではないか?
人間にはそもそもそういう宿命があった、人間は自然を破壊するように宿命づけられていたからである、グロ−バル化とはグロ−バルに地球環境を破壊することに通じていたからである、だから逆に自然からコロナウィルスでも復讐されたとなる 



佐賀のタマネギ農家に打撃 外食自粛、給食中止で価格大幅下落 出荷量全国2位 

これもコロナウィルスでタマネギが売れなくなり余ってこうなった

東北地方の気候は米の栽培には向いていなかったため、米以外の作物もつくられていましたが、江戸期に米の増産を強いられて水田の割合をふやした結果、天候不順がすぐに飢饉をまねく体質となっていました。 

posted by 老鶯 at 16:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

abstract painting-Hokkaidou

  
abstract painting-Hokkaidou

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 iced palace

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2020年05月27日

なぜ人間は道を誤るのか? (先が読めないーそして二0代で方向が決まる


なぜ人間は道を誤るのか?

(先が読めないーそして二0代で方向が決まる

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同じ時間でもその重要な度合いが違っている
そんなはずがないとしても後でわかる
それで新卒一括採用が人生を決めるとされるのである

人間は道を誤る、その原因は何なのか?
オウムとかカルト宗教団体に入りそこで優秀な理系の人がテロ集団化して殺人集団になり殺人を宗教で正当化してそれで人生を棒にふる
そこか宗教を求める場ではない、なぜそんなことになったのか?
今でもカルト宗教団体は創価のように社会に宗教を看板にして大集団化して組織化している

それは何なのだろうとなる、それもカルトなのだけど別に社会では容認されている
別にオウムのようにテロ集団ではない、選挙で政権を奪うとかそうでなくても権力側につき利権を得たいとなる
それも巨大な御利益を得るための集団であり組織である
それは政教分離に違反していてもとがめられることもないのである

道を誤るという時、国家自体が道を誤る、それが戦争で3百万人死んだ
それは国家が道を誤ったからである、また原発事故でも国家が道を誤ったからである
これも故郷に住めなくなったとか甚大な被害を与えたのである
国家すら道を誤る、国家が道を誤ればその被害は3百万人死ぬとかになる
また原発事故で故郷に住めなくもなる
つまり個々人だけではない、国家自体が常に道を誤るものなのである
だから本当は政府とか国家の指導者を監視しなければならないのである
それは原発事故で証明された、安全神話を権力で国家が作って道を誤ったからである

個々人でも何かしら道を誤る、国家規模でも道を誤る、それはなぜなのかとなる
面白いのはFラン大学に入ったことで人生は失敗だったとすでに28才くらいで大後悔したとyoutubeで反面教師になっているのを見て共感した
自分もFランとさぼど変わりないからである

何か結局人間が20代で方向が決まる

これが意外というかそう自覚できる人はまれである、人生は若い時はとてつもなく長いものに感じる、でも老人になると40くらいになると白髪でてきたりしてあっというまに老人になっているのだ
老人になると人生はあっという間だとなってしまう
それでみんな後悔するようになる、すで28才でこの人は人生が終わったようになって後悔しているのだ
その歳で人生を悟ったともなるのだ

なぜ20代が大事なのかと言うとそこで人生の方向が決まってしまうからである
カルト教団に入ったものはそこから脱出しなければ一生そのままになってしまう

そしてなぜ新卒で人生が決まるとされるのか?

それは大学を出て新卒で大企業とかに入ればそれで一生が安泰となる
また公務員とかになるにもそこで人生の行路が決まるからだ
そこからはずれたものは一生底辺になってしまうのである
それを私も経験した、就職もしないで一時は底辺労働者となってうろついていた
そしたらそのまま老人になるまで無職であり社会からはずれたものになってしまった
つまり20代でまともな進路からはずれたものは一生まともになれないのである
社会からも認められないのである
Fラン大学などはまともな就職先もなくブラック会社で底辺で働き給料も少ないから結婚もできなとしている
一生底辺の人生を送る他ないとなる
私も大学出てもアルバイトであり肉体労働とか流れ作業とかしか仕事の経験がないのである、だからそういう底辺に共感するのである

正社員の経験がないと、中途採用にも応募できない。年齢的にもどんどん厳しくなり、30を過ぎると応募できる会社自体がなくなる。周りの視線も厳しくなっていきました。『落ちこぼれ』『負け組』などと、自業自得と言わんばかりのレッテルを貼られ、自己嫌悪に陥りました。

30才すぎるとこうなってしまうのである

ただまた何かこれは変なのだけど自分は宗教を求めていたのである
自分のテーマはなぜ人間は死ぬのだろうということだった
それを解決したくて宗教を求めていたのである
だからカルト宗教団体に入ったのである
そして私はキリスト教について教会に一回も行っていないし聖書などもほとんど読んでいないのである
ではなぜキリスト教徒になったのだろうとなる
それは本当に自分自身も不思議だとなるのだ

ただ言えることは「求めよ、さらば与えられむ」である
なんであれもしそこでカルト宗教団体であれ求めるものが正しければ道を誤らないだろう私が求めているのはなぜ人間が死ぬのだろうということであったとしたらなぜ毎日選挙のために運動するのか疑問になるからだ
他でもそういうことは必ずある、だから何を求めるかが大事である
そこさえはっきりしていれば道を誤ることは無いのである

だから自分の場合は別に20代で道をはずれて底辺になってしまってもかまわなかったとなる、ただ人間が社会からはずれることアウトサイダーになることは実際は過酷なことなのである、ニートとか働かなくて楽じゃないかとなるがそうではない
世間の目が厳しいしまともに扱ってもらえないこともある
それから必ずそうして社会からはずれると社会のことがわからなくなる
社会のことがわかるにはやはり社会生活をしなければわからないのである
それで芸能人であれ芸術家であれ社会からはずれたものは確かに常識もしらない異常化する、それは自分自身が何か変な方向に行ってしまったからである
必ず小人閑居して不善を成すからである
実際のアウトサイダーになった人は天才芸術家とかでありその人たち優れた作品を残した人たちである、でも社会からはずれた人だったのである
その数は百万人に1人くらいであった、でも狂気となったのも多い
それだけ社会からはずれるということは精神異常と隣り合わせにもなる

ただ人間が異常化するというときそうして公務員とか正規のルートを進んだ者でも異常化していた、まるで常識もないにも驚いた
それは東大出ても今回のマージャンしていた検事でもそうである
あれだけ地位があってもその地位の自覚もない異常だったのである
なんらか人間は異常化する、例えば学者がいるとする、これもまた象牙の塔とかにこもり社会を研究していても現実の社会を知らない人がいる
科学者でもある一部分を研究しているだけでありそこに詳しくても全部に詳しい人は今はいないのである、そうして人間は極小化された部分に通じても全体を知らないとなり何かそこで専門馬鹿とか異常化しやすいのである  
そしてナチスとかもそうであり国家自体が狂気のファシズムともなり道を誤る
国家レベルでも道を誤り悲惨な結果になったのである 
個人も狂うが集団も狂う、でも集団が狂う時正常だとされるのである
なぜならその集団に歩調を合わせない者は今度は異常とされて刑務所にも入れられたからである、これだけ複雑な社会になるともう社会全体のことなどわかりえようがない
だからこそカルト宗教にもなりナチスでもファシズムでも生れて当然だとなる

現実の社会はその現実で働いて見ないとわからない、本ばかり読んでいてもわからないからだ、経験が物言うのである
何か理解するには仕事でも職業でもちょっとでもいいから経験すると本当に理解できるのである、そして会社の人でも上の人が現場で働く人のことを知らない
現場の人が知っていたのである、原発でも配管のことなど老朽化していて危ないとか知っていたのは現場の人だったのである
幹部と現場の乖離がありまた東京の中央の幹部と福島の現場との乖離があった
そこで意思疎通ができなくなっていたのである
流れ作業ばかりしていたら自分はこんなロボットのようなことはしたくない、ではどうすればいいのか?必死で勉強すればよかったとなるのである
そういうふうに人間は経験からしか理解できないのである
だからFラン大学とは痛切に勉強しないことを後悔するようになる

ともかく20代でそうして正規の社会からはずれた結果として変な方向に行くようになったのは20代で人生の行路が決まっていたからである
例えば赤軍とかの人は日本航空機をハイジャックして北朝鮮に行った
そこで遂に一生を過ごすようになった、子供すらそこで育てていたのである
でも日本に帰りたいとなったのである
何か北朝鮮のスパイのような仕事をさせられていたのである
そこでもその時人生の方向が決まってしまったからである
だから20代で人生の行路が方向が決まる、そのことが自覚できない
別に人生は長いのだから道を誤ったらまた引き返せばいいとかなる
でも実際は引き返せない、方向がきまり誤った道でもそのまま行くほかなくなりたちまち老人になっていたのである

人間が道を誤るのはなぜなのか、それはそもそも目的とか動機が悪いからだともなる
事業に失敗した人は別に理系で優秀だったし一級の免許をもっていた
でも事業をはじめたのは自分は優秀でありその優秀さを示すために見せてやるためだったとなる、そんなことで事業をはじめたのかとなるとそれが失敗したとしても当然だとなるそれに同情もできないとなる
そんなことで事業などしたら他者の迷惑だとなる

人間の不可解なのはなぜそんな行動をするのか?

その動機は何なのか?

推理小説では動機をまず探る、なぜ殺したのか?その動機は何だったのかとなる
つまり事業でもそういう行動をしたのはなんのためだったのかとなる
もちろん金儲けしたいということはあってもその他の動機があってする
俺は億万長者になって優秀なところを見せたいから事業をする
そういう動機だとするとその時周りの人はなんとみるだろうか?
そこからして出発点からして間違っている

だから戦争でもそんな一大事を国家の運命を決めるの動機は何だったろうとなる
なぜなら3百万人も死んだら結果論してなぜそこまでしなければならなかったと問うようになっているからだ、でもなぜ戦争になったのかその戦争の原因は動機は何なのか70年過ぎてもわからないのである
ただ戦争終った後にいろいろ理由をつけているだけなのである

いづれろにしろ20代で人生が決まるとか言われるのはその方向が決まってしまうからである、そして誤っても引き返せないから怖いのである
それで「若い時神を覚えよ」となる、なぜなら神を知るのは20代とかまででありそれ以上になると知る機会がなくなるとしたらいかにその時を逃したらもう神を知るチャンスがないとしたらそうなる

つまりチャンスは二度と来ない、神を知るチャンスはその時を逃すと二度と来ない

これを知れば恐怖である
でも20代では様々な欲でも噴出する、性の欲望でも極大化してとめられない
他にも欲望があふれるように出て来る時でもある
結局そうした欲望に目がくらみ神を求めよと言ってもできない
そのうちあっというまに老人になっているのである
だからみんな人生は後悔なりとなっている
だから勉強することでもなぜしなかったとのかとあらゆることで後悔するのである
なぜ旅しなかったのかとか外国に行かなかったのかとその後悔することは老人になるといろいろある、でもみんなそうして後悔して死んでゆくだけなのである

求めよ、さらば与えられむ

そこに神を求めよとでありその外のものを求めすぎるのである、そこから人間は道を誤るのである 

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2020年05月26日

暮らしがあるのとないことの差の大きさ (原発避難区域と磐城太田駅で感じたこと)


暮らしがあるのとないことの差の大きさ

(原発避難区域と磐城太田駅で感じたこと) 

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菜の花畑があり隣は麦畑であり田植えで水張る田もあり鯉のぼりもなびいている
ここに暮らしがある、ただスーパーヒタチにはコロナウィルスで人がほとんど乗っていない
ただ写真をとる場所としては良かった


磐城太田駅でスーパーヒタチの写真をとった、そこは今の季節だと田んぼに水が張れている、菜の花畑がありそこでしきりに雲雀が揚がりさえづる
隣は麦畑であり麦の穂が風にそよぐ、それが気持ちがいい
五月だから駅前の家に鯉のぼりがなびいている
ということはそこに子供いるということになる
田んぼで農作業する人もいる、ただ磐城太田駅は無人駅であり人が乗るのが見えなかったあそこでどれくらい人が乗っているのか?
日立木でも一人二人くらいしか乗り降りしない
だから駅自体が成り立つのかという問題がある
またコロナウィルスでスーパーヒタチに一人しか乗ったのを見なかった
ただスーパーヒタチが走っている光景が絵になる
しかしただ写真をとるだけに走っているというわけではない
とにかくこの光景は暮らしがあって風景も自然も活きている

これと比べたとき原発避難区域は暮らしが失われている
田んぼは草ぼうぼうで荒地であり人が戻ったとしても子供はいない、だから鯉のぼりもないとなる、小高はある程度帰ってたとしても浪江町とか飯館村は子供が住んでいない
飯館村だと立派な学校を建てても村の外から通っている
町長自体も村に住んでいないのである
新しくこじんまりした家を建てていたので人が帰って住んでいるのかなと見た
でも住んでいないのである、補償金をもらったから援助があるから建てたらしい
それは別荘だというときときたま帰っては畑などで野菜を作っているらしい
だからそこには暮らしがないのである

そこで生業を返せと裁判に訴えて認められたした
つまり生業が暮らしが奪われたのである
その生業とは何なのか?それはそこにもとからあった暮らしなのである
田んぼがあり畑がありそこで仕事していることなのである
それはこうした風景を作っていたのである
それがなくなると草ぼうぼうになり子供もいないから鯉のぼりも見ないとかなる

例えば菜の花があるとする一面の菜の花畑があった時、その菜の花畑は菜種油の材料として菜の花があり暮らしがあって活きていたのである

菜の花や油乏しき小家がち 蕪村

菜の花は菜種油をとるものとして植えられていたのでありただ鑑賞するためではなかった油ともしきとうとき菜種油でもとるに手間だからそうなった、油は貴重だった、何でも貴重な時代だった、小家がちというとき小さな家が農家でも多かったということである、小家という表現が多いからである
菜の花はまさに生業としてありそれが風景を作っていた
それはただ菜の花が鑑賞用に見ているのとは違っていたのである
ただ小高でも菜の花を植えて菜種油作りしていても現代ではいくらでも油は作れるからそういう風景にならないのである
油を作るのに効率的ではないからである

いづれにしろ原発事故の避難区域になった所とのそうでない場所の差が大きいことを子の光景を見て感じた
第一磐城太田というけど隣はすぐ小高なのである、それで小高から原町に来る山側に田んぼだった所がソーラーパネルがしきつめられていた
海岸ではあまり感じなかったが狭い田んぼはソーラーパネルになった所が多い
もう誰もそうした田んぼでも跡継ぎもなくやる人がいなくなっていた
それで手間ばかりかかるからやめる、ソーラーパネルなら土地を貸すだけで収入になるからである、ただその時田舎の風景はなくなる
つまり生業がなくなったからである

ただ生業を返せというとき別にソーラーパネルになる前から農業は金にならないとして
その生業自体を放棄してやめたい人が多かったのである
だから耕作を放棄した耕作放棄地が日本全国てぬ膨大になったのである
でもそれなりにまだ磐城太田駅付近で農業が続けられているから耕作放棄地だらけにはなっていない
それで田に水を張り田植えがありと暮らしが続けられて田舎の風景が保たれているのである
それは原発避難区域と比べると一目瞭然なのである
風景は自然の風景と違って人間によって人間の暮らしによって何代にもわたり作られた風景がある、それで南相馬市の鹿島区の松原もそうして作られた風景である
米を潮の害から防ぐために作られた松原だった、それは江戸時代からあったらしく松が太かったのである、それが根こそぎ津波で消失したときはショックだった
今やその風景は全くなくなったからだ
白砂松原という風系は暮らしがあって作られた風景だったのである

posted by 老鶯 at 11:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2020年05月25日

牡丹の写真

 牡丹の写真

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朝の陽の光吸い込む牡丹かな


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これは大きくすると見栄えする、やはり牡丹は大きな花だからである

この写真は成功していた、私の庭の牡丹も毎年五六輪咲いていたが今年は一輪も咲かない
でも20年以上咲いていたのだから驚きである
やはり遂に土地の栄養分がなくなったのかもしれない
でも花を植えても三四年とかで消えたりするのが多い
ただ地下深く根を張る花は長く咲いている
やはり土地に栄養分がなくなると咲かなくなるようだ



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武田邦彦氏とし加治将一氏のyoutube発言の比較 (反するものがあるが共通するものもある)


武田邦彦氏とし加治将一氏のyoutube発言の比較

(反するものがあるが共通するものもある)

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武田邦彦 テレビじゃ言えないホントの話! 



武田邦彦氏と加治将一氏の日本論を比較すると私の場合どちらにも共感する
確かに武田邦彦氏は日本礼賛であり鍛冶将一氏は縦社会の日本階級社会の元凶は天皇を頂点とした既得権階級の利益のためにあるとしている
一方で武田邦彦氏は天皇は偉いというのではなく天皇を頂点にして後は平民はみんな平等にしたシステムだとしている
つまり日本はまれにみる平等社会だとしている

ヨ−ロッパ―とか大陸は王様がいて貴族がいて90パーセントは征服した異民族でありそれは奴隷だった、それでslaveがスラブになりそれが奴隷民族をさしていたとなる
つまり戦争で民族同士が戦いそれで優劣を決めて負けたのもが奴隷にされる
その過酷な世界が大陸一般に通じる社会だったのである
だから新種差別なども黒人奴隷なども未だに形が変わってもアメリカに継続されている
コロナウィルスでも白人とかより倍も感染して死んでいるからだ
アメリカは超富裕層と貧困層に二分化されている

要するに日本は世界でぱ特殊なのでありそうした奴隷が階級社会があるのが普通の社会なのである、人間は歴史的に優秀な貴族と奴隷になる人間とに分化していた
その優秀さを決めるのが戦争だったのである
だから大陸の歴史は戦争の歴史だったとなる
日本も戦国時代があったし戦争があったにしても大陸と比べると熾烈な民族絶滅させるような過酷な戦争はない、適当なところでおさめる、殿様が腹を切れば戦いは終わりその殿様に仕える家臣は助けられるというのが多い        

それでまた戦争しても敵味方塚など戦った敵味方でも供養している
それは東北に攻めてきた九州と薩摩長州の兵でもそうである、それは碑として残されているのである、なぜ敵を供養するのかということが中国から来た人には理解されない
なぜなら中国では敵の墓を暴いてもばっしているからである
つまり中国も大陸でありその歴史はヨ−ロッパとにている、絶えざる異民族との抗争が歴史である、日本には異民族はない、みんな日本人なのである
日本人の根底には同じ日本じゃないかということがある
それで勝海舟と西郷隆盛は江戸を戦場にしないことで合意した
それは同じ日本人として同じ武士として通じるものがあったからとしている

加治将一氏はアメリカ暮らしが長い、それもビジネスしていたのだからアメリカ人にもなっていた、もちろん武田邦彦氏も科学者としてじかに外国人と欧米でも一流の人とじかに接している、そこが日本だけにしか住んでいないものとの差が大きい
でも言うことは根底から違っていても共通したものがあるのが不思議である
加治将一氏はしきりにフラットな愛のある関係を説く、武田邦彦氏は日本人は平等だとしきりに言う、天皇がいたとしても天皇以外はみんな平等なのが日本人だとしている
そういう歴史を作ってきたのが日本人だとしている
これは一見違ったようにみえても両者とも共通したものがある
つまりアメリカが外国がフラットな社会ではなく日本こそがフラットな社会としている
両者の意見が違っているようでも加治氏が日本が縦社会の階級社会、既得権社会だとしているが日本はもともと平等社会だとしている

もともとアメリカは王様がいないところから始まった、リンカーン大統領は丸太小屋に住んだヨ−ロッパからきた開拓者であるからだ
だから当然平等社会になっていた、それでホイットマンの詩が生まれた
そこであらゆる人を詩にしている、アメリカに住む人はみな平等であり同胞だとしている確かにその時代はそういう社会がアメリカだった、今は途方もない格差社会になっている数ハパーセントの人が富を独占しているからである
だからアメリカこそ縦社会であり階級社会であり貧富の格差になっているフラットな社会でないのである、そこをなぜ加治将一氏は指摘しないのか批判しないのかわからない
それでアンテークコインに投資している、それもわからないがアンテークコインは富裕層の資産保全のために構築された場である
なぜロスチャイルドがそのアンテークコインで財産を築いてそれで世界を支配する富を手に入れたと陰謀論になるからだ

確かにホイットマンの詩はhuman flat relationになる、それに共感する
でも日本人こそが実は武田邦彦氏の言うようにhuman flat relationの社会だったとなる
同じように外国生活していても見方が違ってくる
内村鑑三はアメリカに留学してアメリカが拝金主義なことや様々な悪い点を見た
そして日本のいい点を見直した、だから外国の宣教師でもキリスト教でもそれは本来のキリスト教でぱないとして批判したのである

ただ奇妙なのは両方が対立しているうよで共通しているものがある
天皇を頂点とした縦社会既得権社会だということにも私は共感する
また天皇を頂点して天皇だけは別格として後は日本人は平等だったということにも共感する
ただ加治氏がアメリカを批判しないのは理解できない
つまり今をみればアメリカがむしろ最大のフラットな社会ではない、極端な格差社会でありそれを見習うことはできない、大国はどうしても中国でもそうなように一将なって万骨枯るになりやすいのである
あれだけ巨大な国を治めるとなればどうしても強権になり一党独裁になるからだ
それでコロナウィルスにしてももうそんな大きな国を統制できなくなるのである
それでかえって小国がコロナウィルスを封じ込めることができたのはそこで政治でも治めやすいからである、ガバナンスが行き届くからである
それでまた今回のコロナウィルス騒ぎでかえって地方自治体が大阪モデルなど適格な判断ができて指導できたとされる、これも異論があるが地方自治体の方が手の届く支援も支持もできたとなる
大陸だと歴史的にどうしても巨大化して大帝国化した、そこで大量の奴隷が生れ王を頂点とした階級制が生まれた
日本にはそういうことがなかったのは日本は島国でありそれも割と大きい島国であり特殊な環境にあったからである

とにかくyoutubeの発言は他にもいろいろある、そこでかえってマスコミには出ない人が自説を展開するのはいいことである
マスコミだとマスコミの意図にかなう人しか発言できないからである
だから武田邦彦氏などはテレビに出ていないのである
拒否されてしまうのである、医師会などあからさまに批判すればそうなる
なぜなら医師会とかなるとお医者様の団体となれば怖くて批判できない
庶民だと病気になったら診てもらえないのではないかという恐怖になる
それは原発ともにていた、電事連が800億円も宣伝費をマスコミに出していたからである、それに逆らったらマスコミ自体が成立たないなにっていたからである
医師会の言うことを自民党も無視できない、選挙の時は医者が頼りになる、たいがい地方の有力者だからである

ただここで両者ともなぜ熱があったとか体に異変があって医者に行っても診てもらえなかったとかそれで死んだとかありそれは医師会のためにそうなったともしている
病気になったら病院に行く医者にみてもらうのが当然だからである
そのために保険料を払っているからである
そこでもやはり共通して怒っている、これも医療のことでもわからないから国民は気づかないし専門家の言い訳があるからわからない
それも原発で核のことがわからないと同じだったのである
専門家の言うならば従うほかないとなる、知らない奴は口だすなとなる
それで原発事故では地元に故郷に住めなくなったのである

だから両者の意見は違っているのだがまた共通しているのがあるのも不思議である
ともかくyoutubeは個人が主体だからその個人の思想なり生活なりを診るのが違っているメデアである
マスコミはマスコミが主催してマスコミの意向を通すものでありそのために人選があるそれに反するものは拒否される
それはNHKでも同じなのである、そこで意見が言えるのはNHKの意向にそったものである
それで武田邦彦氏は温暖化はないというときもうNHKは温暖化をしつこく言ってキャンペーンまでしているからNHKからにらまれてテレビには出れなくなったのである
だから福島県のマスコミもそうである
原発を批判することなどなかった、なぜならやはり莫大な広告費の分け前を得ていたからである、この報道でも相当に日本は歪められたのであるフェクニュースでも惑わされた
だからこれからは常にマスコミは糾弾される対象なのである
それは日本の方向を歪めてしまい国民を誤った方向に導くからである
マスコミ自体が批判される時代になった、それはマスコミにはマスコミの意向がありその意向にそった編集をしている

そしてマスコミ自体がフェイクニュースを平気で流している
六本木なのか原宿なのか自粛が解除されて人でにぎわっている光景を写ししていたがその映像が古いものだったのである、他でも鉄道ファンが集まったとかも自粛より前の古い映像だったのである、こうして映像にもだまされるのである
それも気づきにくいのである、だからマスコミは今や常に批判的にみてネットからその真実を暴かれるようになった
六局独占の時代は終わったのである、新聞でももうもたない、旧メデアは報道するのに金がかかりすぎるのである
プログなどになると報道するのは無料なのである

ただやはりもう一つわかりやすい構成にしたくてワードプレスとかしようとしたがこれもなかなかできなくなった、つまり技術的にめんとうになった
それは歳とって技術についていけなくなったのである
ホームページでも作り直すのもなかなかできない、意外とこのインタ−ネットの作業が時間がかかるのである
ただテキストは親指シフトでなれているから早く打てるのでできている
でもプログを同じもの二つ作ったのが失敗だった
それが手間になっている、それを変えることもできなくなったのである
フェスブックも設置してみたが使い方がわからないから一度も発言も返事もしていない放置したままである
まずプログに文章や写真をアップすることが第一でありその外のことをする時間がないのである
なぜなら家事も全部一人でしているから時間がないからである

2020年05月24日

資本主義の起源−日本人の勤勉さはなぜ (草刈のように農業は勤勉さが要求される‐怠けることが悪になる)


資本主義の起源−日本人の勤勉さはなぜ

(草刈のように農業は勤勉さが要求される‐怠けることが悪になる)


田舎はいわば運命共同体
手入れが悪くて害虫を発生させた場合
当人だけではなく周りの田畑までまで影響が及ぶ
最善を尽くして被害が出たならばそれはたまたまその家が出ただけであって自分から出たかもしれないので地域全体でバックアップするし助け合う
ただ最善を尽くさずむしろ怠惰によって周りに被害をもたらしたものは許されない

この意見は面白い、どこに書かれたかわからなくなった

農業は毎日草刈が仕事である、草は刈っても刈っても生えて来る

怠けていると雑草が生えて来る、それで困るのは自分の畑を持っている人だけではない
隣でなまけて草を刈らないと困る、だから隣の人が怠けることが許されないのである
この辺では畑をやめてそこが荒地になると草が生え放題でありそれで困る
日本はヨ−ロッパとか違って乾燥していない、絶えず雑草が生えてくる
湿潤だから雑草が生えてくる、そういう風土である

農業は怠けられないのである、まず脱穀機ができたのは戦後まもなくであり精米するにも手間がかっていた、米を作ることは田植えからはじまり草取りがありまた手間がかかっていた、つまり米を作ることでも怠けられないのである
だからみんな勤勉でないと農業は成り立たない、それで一人でも怠けることは責められることになる

一方で狩猟とか牧畜は根本的に違ったものである、そこにあまり勤勉さを必要としていない、牧畜でも羊を放牧して自由にさせる、羊飼いは何かじっと見守っている
何か手を加えなくても羊は勝手に草を食べる、ただ草のある所に移動する時羊飼いは働くとなる、つまり移動することが働くことになる
それで馬を使用したりする、馬が不可欠になる

何か稲作とか畑で仕事するのとは農業は根本的に違っている、そこから形成される人間の感覚でも人間自体も違ったものとなる
狩猟とかなるとこれも何か勤勉に働くことではない、獲物を一発でとらえる
そこに必要なのはその獲物を捕らえる道具である
弓矢であり槍であり鉄砲とかでもある、そこで自ずと道具が発達したとなる
それが戦争の道具ともなった、何か稲作とかだとその道具が戦争になりにくい
そういう差が文化の差となり文明の差となった

それをなぜ知るべきかとなるとそもそも人間社会を導いたのは狩猟民族であり牧畜民族であり遊牧民だとなるからだ
ただエジプト文明は麦を栽培して農業文明だった、なぜならビールまで作っていたからである、ピラミッドを作ったのも農業の定着文明だからである
それはマヤやインカの文明にも通じている
とうもろこしを主食とすることは農業文明だったとなるからだ

なぜ日本人は一様に行動したり規律的になり村八分にしたりするのか?

それは稲作とか集団的に組織的一様化する労働からそうなった
そこで誰か一人が勝手な行動はできないし怠けることは許されないのである
それが草取りに現れていたのである
つまり一区画の田でも畑でも勝手にするわけにはいかない、それが草取りに現れていた

ここで詳しくは探求できないがこのことを思ったのはそもそも資本主義の精神というのがなになのかである
それう知るためにこうしたその基本となるものが資本主義の精神を形成した原動力は何かということである
それは勤勉な農業とも違う、何かそれは狩猟や牧畜、遊牧民から生まれた精神でないかと思った
ただその両方もある、何かを食料でも貯えるということは農業にあるからだ
資本主義にも資本を貯えるこということがあるからだ

ただ一発大きな獲物を捕らえるということは農業にはない、それで大航海とかを農民だったらしない、それはまるで違ったものだからである
航海はやはり海で魚をとっていた漁民から発展したのかとなる
どうしても船を操作することにたけねばならないからである
だから漁民が商人ともなる、遠くへ海をわたり品物を運ぶことになるからだ
つまり狩猟でも遊牧民でも移動することで共通している
農業文明は土地に定着して移動しないのである

つまり狩猟とか遊牧民だと狩猟は獲物を得るために弓矢とか道具が発達する
遊牧民は移動する、それで馬を使うようになる
どれだけ効果的に移動できるかが問題になる
それは何か資本主義に通じている、資本主義はグローバル化したがそれはその根底に移動するということがあった、移動して富を得ることがあったからだ
狩猟民でも獲物を求めて移動するからだ、
人間は人種より白人だとかアジア人だとかで区別するのではなくその生活形態で分けるべきである、アーリア人が残酷で世界を支配したというよりそもそも狩猟民であり遊牧民であるということが根底にありそうさせたとなる

ただ二つの生活形態で簡単に分けられないという面はある
なぜなら狩猟民とか遊牧民は大きな文明を作れなかった、大きな文明は四大文明でも農業文明であり定着文明だったからである
モンゴルとかは遊牧民の大帝国を一時作ったとしてもそれはただ拡散しただけであり何か文明を作ったとはならない、ローマは文明を作った、ローマ人は農民だったのである
質実な素朴な農民がローマを作ったのである
これも農業文明だったのである

ただ資本主義の謎はあらゆるものを資本とする、資本蓄積してそれで投資して富を増やしてゆく、物でも土地でも資源でも債権化して商品化して投資の対象にする
だから大航海時代に船の株主となりもし船が無事に荷物を積んで帰ってきたら株主は大きな利益を得た、しかし船が沈没したらゼロになったのである
そういう冒険的なギャンブル的なものがあるのが資本主義である
常に市場では株は上がり下がりしているからである、そこに必ずリスクがあるからだ

いづれにしろ何かコロナウィルスでこの移動が制限された
それはグローバル化が止められたとなる
グローバル化が限界にきてもうこれ以上拡散できない、縮小を余儀なくされたのである
それは自然環境にしてもグロ−バルの負荷が大きくなった
経済成長を追及してゆくと自然環境が破壊されて原発事故のように住めなくなるからだ
そのためにコロナウィルスが神がばらまいたのかとまでなる

資本主義が限界に来たという時、銀行がもう投資先がない、貸す会社もないということに現れている、銀行は金を貸して利子でもうける、でも何か設備投資して新しく商売する新しいものを作るということでも限界に来た
AIとかがもてはやされるのはそれは頭脳のことであり何か今までのものとは違っている
だから不思議なのはすでに2000年前に仏教であれキリスト教であれその後のイスラム教であれ宗教が興隆したのは何か文明がすでに発達した結果として内面化の精神文明が生まれたとなる第一僧侶とか牧師とかでも生産にたずさわらない、ただ瞑想しているということは生産に寄与しない人間だとなる
そんなことは日本だったら絶えず草取りしているのとはまるで違ったものだからである
瞑想して働かないということはその瞑想している人に食料を与える人がなければできないのである

いづれにしろ資本主義であれグロ−バル経済でありそれはコロナウィルスを契機として見直される、限りなく経済成長することは世界の自然環境を破壊することである
そもそもコロナウィルスはその土地の風土の自然環境を壊した結果としてそこからウィルスが生まれたということになるとまさに自然破壊がコロナウィルスでも産んだとなるからだ、自然からの警告だったともなるからだ

これから資本主義でももう投資先がない、それで銀行の役目もなくなる
そして宗教てあれ哲学であれ何か内面志向、物質ではない人間の精神を重視する文明に変わる、それはローマ帝国の後の中世時代とかにもなる、日本なら江戸時代の国風文化への回帰なのである、ただそれは同じものにならない、21世紀にふさわしい精神の内面化であり文化の創造となる
パソコンとかAIとかは何か物を作るというのではない、人間の脳とか心とか精神に働きかけるものをもっているからだ
通信というのもそうである、物の移動ではない、何か情報の移動であり物ではない
物の移動はもう限界にきていたのである

だからコロナウィルスで移動できなくなったことがそのことを象徴していた
移動から定着化とか縮小化とかステーホームとかは新しい生活様式だというときそうである、それは個々人が宗教のように内面化することにもなるからだ
コロナウィルスは三密を嫌う、集団的な行動を嫌うというのも不思議である
テレワークは何か個々人化するコミ二ケーションにもなる
なんらかコロナウィルスは世界を社会を変える作用したのも時代を変える作用をしたのもやはり人間社会は人間だけでは変えられないものがあり自然の作用で神が働きかけてそうなったきかと見たのである

posted by 老鶯 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

磐城太田駅で撮ったスーパーヒタチ(菜の花に映える)


磐城太田駅で撮ったスーパーヒタチ(菜の花に映える)

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菜の花の隣は麦畑になっている、麦を栽培するようなった
ここはもともと田んぼだった

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磐城太田駅は無人駅である、そこに菜の花が咲いていたので待って写真をとった
鯉のぼりも見えたから絵になっている
撮り鉄も面白い、その撮影ポイントを探すことからはじまる
乗り鉄から撮り鉄に変わった、とういのはここ十年以上旅していないからである
私は車窓から常に風景をながめていた
それは贅沢な時間だった、でも鉄道趣味でもいろいろある
模型を楽しむのもあるしメカもある、自分はメカには弱い
ただ鉄道は風景にとけこむから絵になり写真になるから好きなのである

菜の花や電車を待ちて写真とる

ただ写真を撮るのに待っている、乗るためではないのも変である
そしてコロナウィルス騒ぎで電車に人が乗っていなのである
これも奇妙だった
ただ自粛が解除されたのでこれから乗るようになるのか?
それでも東京まで行くのはまだ危険である
原町の食堂では幸楽苑とか狭い場所で密集してラーメンを食べていた
あれもあんなに密集してコロナウィルスにうつらないのか?
何かそうした不安もなくなっているようである


2020年05月23日

NHKの「福島の経済と暮らし」で放送 (相馬の水産業のコロナウィルスの影響ーその人は近くの人だった)


NHKの「福島の経済と暮らし」で放送

(相馬の水産業のコロナウィルスの影響ーその人は近くの人だった)

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震災から回復していた、でもコロナウィルスでまた減ったのはショック

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こういう食堂は濃厚接触になるから営業できなくなった


この放送ですぐ近くの人が映っていたので驚いた
松川浦の魚の仲卸業であり主に飲食店とか旅館とかに魚を卸す仕事をしていた
それはわかっていたがテレビに映ったので注目した

コロナウィルスで魚が売れないという時、東京の新宿の食堂で福島産の魚を食べるのを写していた、東京で自粛があり食堂などが閉鎖されたので売れなくなった
何か飲食業に卸している人がいる、それは農業でもそうなのである
それでコロナウィルスの影響があった
飲食業とかホテルとか観光業が一番影響があった

ただ原発事故で海が汚染されたけど漁業関係者は生活に困ることはない、特に船主は困らない、原発事故前も以後も補償金をもらっているからだ
これは前から書いてきた、その補償は手厚いのである
だからこれもおかしいと追求して来た

そしてやはり漁業関係者が津波で家なくして近くに家を建てた、だからこの辺では漁業関係で仕事している人がそれなりにいる、前は小高の人が松川浦の魚を売りにきていたのである
今回の魚の仲卸の人は漁業組合とは関係ない、補償がない
魚をとったものを売る商売だからである、だから三分の一とかなると苦しいとなる
回復しないというのもその商売をつづけられるのか?
その人は一つの会社として経営していた
事務の女性もいたからそれなりの収入がないとつづけられないともなる

ただ魚の需要はある、でも観光とか飲食業とか旅館でもホテルでもそれが回復しないからそう言ったのか?
売り上げが三分の一に減ったら苦しいだろう

何か田舎で何の仕事しているかわからないようになっている
この辺は原発事故以後に大熊とか双葉とか浪江とかから移住してきた人が多いから余計にそうなった、だから新しい街が三つくらいできた感じにもなる
今でもまだ建売の家が建っている

ともかくコロナウィルスの影響が身近にあった一例である
前はすぐ近くの人が東京のライブハウスに行って感染したというときも驚いた

新宿の食堂では淡路産の何かと陸奥産と磐城産とかメニューが全国的豊富である
何かそれを見てうらやましくなった、かえって地方はメニューが限られている
どうしても外食するからうらやまく見たのである
東京だとさらに食べ物だと金があれば外国のものでもなんでもあらゆる料理を楽しむことはできる
そこが都会の利点だとはなる、自分の住んでいる地区は弁当さえ売っていないからだ

とにかく食事にはこまる、いろいろなものを使うからめんどうすぎるのである
それでステーホームで三食用意するのが大変だと学校が休校になり母親が嘆くのもわかる
給食の方がいいとなるのだ

posted by 老鶯 at 19:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

南相馬市の介護殺人事件 (2025年問題が始まっている、認知症介護の困難)


南相馬市の介護殺人事件

(2025年問題が始まっている、認知症介護の困難)

南相馬市原町区のパート従業員、愛原正人容疑者46歳。
愛原容疑者は先月2日、自宅で、母親の隆子さん(当時70歳)の顔に布団をかぶせるなどして、死亡させた疑いが持たれている。

46歳では若いのに70歳の母親の介護で殺人事件になった
70代が介護される時代になった、それで2025年問題が言われる

2025年の日本は、団塊の世代が75歳を超えて後期高齢者となり、国民の3人に1人が65歳以上、5人に1人が75歳以上という、人類が経験したことのない『超・超高齢社会』を迎える。
現時点でも、軽度のものを含めれば、少なくとも820万人が認知症を患っているという厚労省のデータがあります
2025年には今の1・5倍、1200万人以上が認知症になっていてもおかしくありません」(国際医療福祉大学教授の高橋泰氏)

全国民の10人に1人がボケている。そんな国が成り立つのか、

この母親は認知症であり夜騒いでいたから布団をかぶせて黙らせていた、それで死ぬことになったとかニュースで聴いた
介護殺人はこれからもっと増えて来る、認知症の介護が一番つらい
そしてここでは男一人で介護していたようだ
それで手に負えなくなった、私も認知症の介護で四苦八苦したことをプログで書いてきたこの病気は何か理解できなかったから不安だった
狂気になったのかとも思った、それで怖かった

そして認知症は誰も相談できる人がいない

認知症について相談する人がいないのである、医者も相談してもわからないからだ
治療方法もない、するとどうするのか?
それは介護して自らその方法を見出すほかないのである
原町で民間の認知症相談をしている所がありそこに行ったが何の役にもたたないし助けられない、看板だけである
そこは女性だけであり男性の相談者は行っても相手にされない
つまり男性は介護で一番苦しい状況に追い詰められるのだ

認知症の介護に方法がていというとき認知症の症状で似たものがあってもそれが肉体の病気ではなく精神にかかわる面が多いから余計にめんどうなものとなっている
症状として直前のことが忘れる、その時ただ忘れたというのではなく盗んだと騒ぐ
その犯人になるのが一番身近にいる家族なのである
それは一種の狂気の症状なのである、この時その興奮を鎮めることが必要になる
盗まれたというときすごく興奮する、だからサイフでもなくなったものがありますよと落ち着かせるのである、それでいつも身近でその様子を見ていなければならないから何を置いたかなど知っておく必要がある、それで離れられなくなるのである

そして認知症の介護では広い家だったら狭い部屋で暮らさせる、狭い部屋だと看ている人もサイフがどこにあるとか通帳がどこにあるとかいろいろなものがどこにあるか管理しやすいからである
それで二階に着るものを置いていた、ところがそれを忘れたのである
その時なくなったと泣いていたのである、つまり一階と二階では離れているからそうなったのである
狭い部屋で生活していればそういうことはない、一階と二階と行き来することは管理しにくくなるのである
それは今自分は狭い部屋で仕事している、書き物をしている、狭い部屋にそのためのものを置いて整理するようになった、その方が管理しやすいことがわかった
ただ本が多すぎて狭い部屋に置けないのが問題なのである
常に身近に置いて見ていると管理しやすいのである
だから狭い部屋で認知症の人を介護して管理するのがいいのである

いづれにしろ認知症の介護は至難である、その方法は家族によっても個々人によって対処方法が違ってくるからだ、家族もいろいろであり他からわからないことがありそれで適切なアドバイスもできないのである
そして田舎でも近隣の付き合いが薄れている、するとかえって田舎では苦しんでいる人がいるとそれを話題として楽しみにもなるのである
だから自分の場合は何ら助けもなかった、相談する人もいない、まず認知症は相談できない、それが家族とか何か病気だけではない複雑に関連しているからである

ただ自分は特別良くされていたし世話になったとかあり必死に介護した
そのうち認知症について理解するようになった
認知症の不思議は確かに直前のことを忘れるとか狂気の面があるのだが何か人間としてわかったことがある、つまりこれまで経験したことを覚えていて何か人間として通じるものがある
最初は何なったのかわからなかった、だから怖かった
最も親しい人がそうなることは恐怖である
でも介護しているうちに何か今までのことがわかっていて心が通じあうことができるものがあった
それでだんだん安心するようになったのである
ただ正直何か騒ぐことがあった
だからこの人も騒ぐことがありそれを抑えるために布団をかぶせて抑えようとしたから死んだのかとなる
ただ詳しい事情はわからない、自分の場合は死ぬときに感謝してくれるように頭を下げたそのあとすぐ死んだのである、だから介護してくれたことに感謝してくれたのだと見て救われた、つまり認知症の謎は人間としてわかるものがある
だから全くの痴呆とも精神の狂気とも違う

そして認知症は時々正気になる!

これも恐怖である、何もわからないのではない、正気にかえることがある
それで死ぬとき孫に何百万やれと遺言を残して死んだ
これも驚きだった、第一金のことがわからなくなっていたからだ
でも実際は金のことでもわかっていた、その時正気になっていたのだ
孫のことに心をかけていてそう言ったのである

だから本当に認知症は不可解な病気なのである、わかることは正気の面があり人間としてわかることがありそうなるとどうなるのか?
もし冷たく扱うとそれがわかる、それで恨んで死んでゆく人もいる
その時後味悪いものとして死んでも残りつづけるのである
それが介護の大きな問題なのである、私の場合は介護できたのは特別に良くされたからである、それで苦しかったのだけど必死になって介護したのである
それは当然だったのである、だから家族というのはみんな違っているから介護になるとそうした事情がでてくる
それで兄弟でも一番世話になった良くされた人が介護しろというのもわかる
そうでないと介護もできないとなる

いづれにしろ2025年問題は深刻になる、介護された女性は70代だった
団塊の世代は75になると介護される人が増えて来るし10人に1人が認知症になるというのも恐怖である、私自身もそうであり体が弱っている
それが怖いのである、認知症は本当に一番怖い病気だと知ったからである
ただこれは何か人間として正気の面がありそれがわからないから厄介なのである
これは個々に事情が違うしなかなかアドバイスしてもできない面がある
ただ認知症特有の共通の症状かありそれはアドバイスできる
でも現実に相談できる人はいない、また身近にも助ける人がいないのである

そして介護殺人が増えて来る!

これは間違えないのである、介護される人が増えればそれに比例して増えてくるのである介護で国が崩壊するとまで言われる、それだけ深刻な問題になるのが2025年問題なのである、経済的にも日本が貧困化して団塊の世代が氷河期世代を子供の場合が多い
だから子供も貧困化しているから経済的にも介護できないとなる
国民保険4,5万でどうにもならない、その息子もまた独身なのが多いのである
だから子供がいても介護で窮する人が多いのである
この場合は母親を男性1人で介護していたので同じような状況だったなのかとなる

2020年05月22日

桐の花、、白藤の花、菖蒲(俳句短歌と写真を抽象画に)


桐の花、、白藤の花、菖蒲(俳句短歌と写真を抽象画に)

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ここは田んぼだった

そこに桐の花が咲くが田んぼがないから活きていない



石すえて白藤垂れぬ暮るる庭

この道を通りて猫や藤垂れぬ

藤垂れて猫じっとしてここにいる

雨しとと塵もつかずに桐の花


長々と白藤垂れてこの家に大きなる石すえて暮れにき

我が庭の木の実啄むヒヨドリの今日も来たりてつつがなきかも

ひそけくも桐の花散るこの道を今日も行きつつ災いなかれ

桐の花散りて静けき裏の道今日も行くかなひそかなるべし

なかなかに電車来たらじ黒揚羽線路をよぎり舞いさリ消えぬ

梅雨のようになった、桐の花がいつも行く道に咲いている
桐の花は会津の花である、桐のタンスとか有名だからである
桐の花でも田んぼに写すと映える、ところがこの辺で田んぼが荒地になっているのがまだ多い、ある程度は回復しても放置されて草ぼうぼうになっている
そこに桐の花が咲いていても何か活きていないのである
桐の花と田んぼが一体のものとしてあった
つまり景観とかは暮らしの中で作られてきたのである
だから原発事故以後そういう暮らしが失われて景観も失われたのである
自然は原始のままならいいが人が住んだとき人の暮らしと一体となり景観も作られてきたのである
それがこの草ぼうぼうの中に一本立っている桐の花が活きていないことに現れていた

写真の白藤の家は石を飾っている家として有名である
あそこは土手の道でいつも通っている
あの石は大きいし見ごたえがある、そこに白藤は垂れて咲いている
その土手の道に藤の花がたれる、そしていつもそこに猫がいる
猫と藤は似合っている、

写真をとりそれを絵にする、また抽象画にする、パソコンのソフトを使いこなせばそれができる、ただソフトを使いこなすことが容易ではないのだ
ただパソコンは人間の能力を頭脳を補うものとしてある
だから今までの機械とは違っている
AIが第二の脳となっていることが違っている
翻訳でも本当に人間より優れていることに驚く
現代はコロナウィルスでテレワークになったように家で個々人で仕事する時代になる、教育でも学校だけで習うものではなくなる
その時才能がかえって伸ばせて天才が相当数生まれるようなるかもしれない

そもそも才能はその人の資質もあるが環境の方が大事だからである
いくら才能あってもその才能を伸ばす環境がないと埋もれるのである
これから個々人が才能を伸ばす活かす社会になるのかもしれない
在宅が主になるということは集団ではなく個々人となり個々人の才能を育てるということに変わるのかもしれない
まず学校のような一様化した集団教育では才能は開発されないのである
自分は学校を卒業してから才能を開発してきた
それで何か絵の才能が全くなくても写真をとり抽象画にしたり加工して絵にしている
そのことが自分でも不思議なのである
だから人間の才能はこうして機械によっても開発されるものだと思った

ヒヨドリが毎日木の実を食べにくる、何であんな小さな実を食べて生きられるのか不思議である、飛ぶことには相当エネルギーが必要に思えるからだ
何か他にも食べているのか?
鳥は虫を食べている、虫はタンパク質があるからエネルギーになる
でも八つ手の木の実は小さいしそれがエネルギーとなるとは思えないのである
ともかく今は下の庭の見える部屋にいる
だから庭を見るからそこに自然があると安らぐとなる
自分の家は広いから知的作業をするには最適な環境である
大学生の時から書斎が自分にはあった、そういうふうに自分は恵まれていたのである

まず在宅で仕事するとなると広い家が必要である、そこで子供とか妻とかいれば仕事に集中できないからだ、それで問題が起きている
となると在宅のテレワークとなると大きな家が必要になる
ただ通勤とか車とかはあまり必要なくなる
その分大きな余裕がある家が必要になる、ただそうなると家は高いから問題である
何か邪魔されないように仕事をノートパソコンもって公園で仕事していたというがそれでは仕事に集中できないから問題である
そういうふうにコロナウィルス以後の仕事は変わりそれに備えることが必要になる
それは必ずしも悪いことばかりではないと思った
新しい時代の働き方でありまた学び方にもなるからだ

コロナウィルスで変わる世界 (生態系を無視して人は生きていけない)


コロナウィルスで変わる世界

(生態系を無視して人は生きていけない)



風土病に対する一般的な認識と同様です

すなわち、感染症の発生地域の人間・動物・植物には、何らかの耐性があるのに対して、遠く離れた地域の生物には免疫がないとするものです。

かつてのペストのように、元々はアジアの病気であったものがヨーロッパやアメリカに広ると、被害がより大きくなる傾向があります。

グロ−バル科学技術文明の批判 (生態系を破壊してコロナウィルスでも世界的災禍となる)


文明は滅び生態系は残る (原子力文明は生態系を破壊し滅びる)


人間は生物の一種である、その制約を受ける、その地域に風土に適合して生きざるをえない、その土地に合った食料がありその地域にあった暮らしをする
それが文化なのである
コロナウィルスでもウィルスは風土病だというときその土地に発生した病気でありそれはその土地だけに広まり世界に広まることはなかった
コレラでも江戸時代なら長崎から広まったのはそこが外国の玄関口となっていたからである
港からウィルスが入り安いから水際作戦が大事になる

人間は大航海時代からヨ−ロッパ中心の世界になった、ヨ−ロッパの侵略を受けてきた
アメリカにヨ−ロッパから人が入ったときその原住民のインデアンとか南米のインカとかメキシコのアステカとか古代文明人にウィルスがもたらされて大量に原住民が死んだ
それが呆気なく征服された原因だと見直されている
それだけウィルスの影響が大きかったのである、それは今回のコロナウィルスで証明された、社会を自体を世界を変えるような働きを目の当たりにしたからだ

大航海時代からヨ−ロッパ人が世界を席巻して侵略して征服した
それはいい面と悪い面をもたらした、悪い面は世界が交わることはかえって対立を産み出して戦争になった、第一次第二次世界大戦となり大量の人が死んだ
日本でも3百万人が死んだ、世界が交わることがいいように見えてそれが戦争になったのである、その惨禍はあまりにも悲惨だった
その負の面の大きさは何だったのだろうと世界史をふりかえる

例えばなぜ江戸時代三百年は日本が鎖国していても中国とも朝鮮とも平和な関係を結んでいた、それが欧米の侵略で対立関係になり戦争にもなった
それはヨ−ロッパの侵略が原因していたのである
ヨ−ロッパの侵略に対抗するためにアジアを守るための戦争ともなったのである

国と国が交わる時、その土地土地の生態系から国は長い年月をかけて作られている
だからヨ−ロッパ人だと肉食するために特別の酵素がでる、日本人は穀物を主に食べるから腸が長くなるとか体質的にも違ったものとして作られてきた
おそらく風土病というときまさにその風土から生まれた病気だとなる
だから世界が交わらなければその一地域の風土病として終わっていた
つまり世界に広まることはなかったのである

現代のようにグロ−バル化したとき世界中に瞬間的にも同時にウィルスも広まった
つまり悪いものも同時間で広まる、それを避けることができない
そして多国籍企業とかが世界を席巻する、それは国よりも大きな力をもち世界まで支配するようになる
そこでオラウータンの住んでいた広い森が破壊されてオランウータンが住めなくなったりする、そのことはそこに住んでいる人に影響する、森を破壊することはその土地の生態系を破壊することだからである
一地域は生態系に依存して住んできたからである

生態系とは空気とか水とか土と森林とか生物の基本的ベースとなる環境である
その環境が破壊されたら人は住めなくなる
それで原発事故が起きた周辺では空気も水も土も森林も海も放射性物質で汚染されて住めなくなったのである
東電とか原発はそうした一地域の生態系を根こそぎ破壊したのである
それだけ技術力が巨大化して簡単に一地域の生態系を破壊できる力を企業とか多国籍企業とかがもつようになったのである
東電は一地域の生態系を破壊した、それは世界でもそういうことが起きている、大企業がアフリカであれどこであれ未開の地に富を求めて進出する、するとそこに住んでいた原住民の生活が破壊されるのである、生態系を破壊するから住めなくもなる

江戸時代は生態系に依存して国内でも村ごとに自給自足の生活であり貿易があったとしても小規模であり基本的に村ごとの自給自足だったのである
隣の村人とすら交わらない、隣村すら異国でありそこの人は異人になっていたのである
確かに世界的交わることのいい面はある、でもそれが極限に達して限界になっていた
中国人が大量にインパウンドで日本に来る、それはまるで侵略だったのである
現実に北海道は中国領になるのかとまで見えたり京都は京都でもなくなる
外国人が押し寄せて悲鳴をあげていたのである

もちろん外国の文化とかにふれることは悪いことではない、そこで異文化と他国との理解が深まる、ただそれも限度だったのである、なぜならそのために自国の文化すら生態系でも環境も破壊されることになる、中国人があれだけの数がいると日本近海の魚でもとりにくる、魚がとりつくされるという恐怖にもなる
いなごの大群がおしよせて食い荒らすような恐怖になる
でも江戸時代三百年はそういう恐怖はなかったのである
中国側にすれば日本が戦争しかけてきたとか殺戮されたとか責める
それはもともとヨ−ロッパの侵略に対抗するためにそうなった一面があった
その元凶ヨ−ロッパのアジア侵略にあった、それに唯一対抗したのが日本だったのであるだから中国と日本の対立というより世界史的視野で見なければならない
現実に今度は米中対立となり戦争にもなるとなっているからである

だから何かこのコロナウィルスの不思議はそうした大航海時代からのヨ−ロッパの侵略やアメリカの世界支配を見直すものとなった
つまり世界が交わるグロ−バル経済とかの負の面が増大していたのである
もう限界に達していたのである、それはそれぞれの土地で長い時間でその風土に生態系に育んだ生活文化でも破壊するからである
その技術とかの巨大さが簡単に一地域の生態系でも破壊する
すると技術をなんでもいいものとして受け入れることも危険になる
何らか技術の制約とかまた巨大化する多国籍企業とか大企業とかを制約することが必要になる

つまりこれからは制約の時代になる

地理的に風土的に制約されない世界がグロ−バル社会だった、でもコロナウィルスであらゆる面で制約される社会になる、それがすべて悪い方に向くとはならない
人間とは何か制約されて生きる、その制約された中で文化を育む、アイディンティティを作ってゆく、それが人間本来の姿だとなる、なにか現代文明の制約なき社会はかえってアブノーマルであり異常だったのである
だからニューノーマルな新しい生活様式というときやはり基本は生態系を基本にしたものに帰らねばならない、復帰する復古するという傾向になる
国風文化の時代になる、日本の歴史は奈良時代は中国の文化をとりいれた、その時漢字を取り入れた、唐風文化の時代でありその後に平安時代になり宮廷の女御がかなを発明して国風文化になった、次に鎌倉時代になり武士の時代になった        

その時貴族の仏教から武士の仏教となり庶民の仏教となった、その後信長がでて安土桃山時代となりキリスト教も一時的に入り外来文化と日本文化の融合が起きた
戦国時代が終わると鎖国の江戸時代となりまた国風文化の時代になった
そして明治維新になり西欧化した、次にアメリカに負けてアメリカ化して次はまた江戸時代への復古が起こり国風文化の時代になる
そういうサイクルが日本の歴史にはあった
その時ちょうどコロナウィルスが世界に蔓延したというのも不思議である
コロナウィルスでこれだけの変化をもたらしていることが驚きである
人間だけの力では世界は変えられないことを見せつけられたのである




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2020年05月21日

黒川検事長は朝日新聞社員と産経新聞記者と賭けマージャンをしていた


黒川検事長は朝日新聞社員と産経新聞記者と賭けマージャンをしていた 


黒川検事長は今月1日と13日に緊急事態宣言が続く中、朝日新聞社員と産経新聞記者と賭けマージャンをしていたと『週刊文春デジタル』で報じられていた。

黒川弘務が懲戒免職まっしぐら!3密賭けマージャンで完全詰み状態

これも原発事故で起きたこととにてたいる、丁度福島原発が爆発したときマスコミの幹部が中国に招待されていたのである
それも右左関係ない、産経新聞でも朝日新聞でも招待されていたのである
こういう人たちがどうして原発の原子力村の「安全神話」に疑問すらさしはさまないことがわかる、つまりなぜなら「安全神話」に加担したのがマスコミだったからである
マスコミは権力と癒着しやすいのである
マスコミは報道は権力におもねるとしたら公正な報道ができない

なぜマスコミが堕落するのか?

それは権力とかかわりその権力にとりこまれるからである、そもそも権力とかかわるとき警察でも検察でも情報を得ること自体が権力におもねないと得られない
そして記者クラブとかがかえって権力のおかかえとなり権力者によって操作されるだけだとなる、そうしていれば楽だし利益の分配が受けられるからである

それからなぜマスコミが堕落するのかというとそもそもマスコミでも報道することに莫大な金がかかっていた、新聞をみればわかる、いちいち新聞を配るだけでその費用を大きすぎる、するとその金を工面するのにどうするのかとなりとても自力でまかなうことができない、それで宣伝費でまかなうとなる、その宣伝費でも会社から払ってもらうのだから
どうしても宣伝費を払う会社に忖度してその会社の悪があっても目をつぶるとなる

それげ福島民報などは創価の聖教新聞を刷っている、そうしたらそうした団体の悪口を言えないのである、そういうことは東電でもそうである、電事連から800億円の宣伝費が出ていた

原発再稼働政策を推し進める安倍政権と歩調を合わせるように、電力業界は広告費を増やし、再びマスコミを“カネ”で漬け込んで“原発タブー”を作り出しているのだ。

この電事連には右も左でも共産党でも組合員が入っているから強力である
第一電力無しで今の社会は成り立たない、電力で働く人も多いしまた電力を使う社会なのだからそうなる
だからこそ莫大な宣伝費がマスコミに支払われる、それで批判を封じることができる
つまり金でマスコミでも報道でも買われるとなる
福島県にも政経福島とか財界福島とか雑誌があっても一か月一回くらいだしてそれが賄えるのか?出版になると金がかかるからだ
だからなんらか会社とか他にも援助がないと出せないように思う
そこで何か必ずそうして金を出してくれる会社でも忖度するようになる
政経東北には渡部恒三がかかわっていたようだ
福島原発の推進のボスだった人である、だからそういう方面からも何か援助があったのかとなる

そしてマスコミの特徴としてマスコミ自体が一つの利益を共有する組織ともなっている
なぜなら他社を批判しないルールみたいなものがある
むしろ他社と競って真実を明らかにするようになった方がいいのである
でも互いに批判しないからみんな一様であり真実が見えないのである
かえって赤旗であり創価の聖教新聞であれそれが偏っていてもそういう党派のものとして見るからいいとなる
福島民報はあと半分は県で出資しているとなると官報と同じたとなる
そうなると真実を知らせることはありえないのである
でもマスコミの問題はテレビ局でもはNHKでも中立で公正を装っているから問題なのである、他社の記事でも互いに批判しないからかえって真実が見えなくなっている

それでなぜ福島原発が爆発したとき全マスコミの幹部が中国に東電に接待されていたのか?それは東電の宣伝費が大きいからである
それはほとんどのマスコミが報道がそうだったのである
創価関係の潮とか第三文明とかは全マスコミの二番目くらいに宣伝していて宣伝費をもらっていたのである
第一そこで雑誌を出す最初の仕事は宣伝費をもらうために会社に行くことである
そうなると東電が最も宣伝費を払うのだからお得様になり原発の原子力村の「安全神話」を支える強力なシンパとなる
それは朝日新聞でもそうでありみんなそうだったのである
福島県の報道関係でも全部そうである、だから「安全神話」を支えるものとしてあり
真実は県民に知らされなかった 

ともかく権力と癒着することは避けられない、何か情報を聞き出すにしても権力者が情報をもっているのだから記者はマスコミでも独自に調査できないのである
また権力と権力が癒着しやすい、検察と政治家が時の政権と癒着しやすいのである
今回はそれが露骨に現れた事件だった
マスコミでも報道が大事になるのは民主主義では何か知らされなければわからないとなるからだ、とすると知らされないのだから判断しようもない

それで福島原発でもそうだった、科学者の一団が十数メートルの津波が来る!

このことを自分は知らなかった、そもそも原発に関心がなかった
30キロ離れているし関係ないと思っていたのである
でもこのことを強く大々的に報道していたら違っていた
そんな津波来たらどうなるんだと注意するようになるし調べる人もでてくる

今になってそのことを知っていて科学者が警告していたのに東電は安全を計ることを怠ったから責任があるとされたのである、津波だけの原因ではない
十数メートルの津波が来るとして備えをしなかったとして裁判でも認められたのである
別にこのことは隠蔽する必要もなかった、かえってもし大々的に報道されて警告されていたら津波に警戒して助かった人もいた
すると東電に感謝されていたともなる

とにかく権力と報道でも癒着しやすい、第一権力がないものが取材すらできない
一ブロガーなど相手にされないだろう
ただインタ−ネットで一億総記者にもなった、今度はyoutubeで個々人がテレビ局にもなった、すると六局で独占したテレビ局でもマスコミでも対等化され水平化される
飛びぬけて力を持っていたマスコミの力がそがれるともなる
でも取材力となるとインタ−ネットでは力が劣る
だから何らか権力を監視するものが必要である
それで三権分立となった、権力を分散して監視する、行政を監視するのが検察だとなる

その検察を監視するのは何なのか? 

検察を監視するのはマスコミとか国民世論しかないというのが問題なのである
なぜなら東電にはこうした権力者が天下り先としてあった
検察でも警察でも自衛隊でも海上保安庁とかの官僚の天下り先となっていたのである
こうなっていたとても監視することはできない
だから権力の暴走をとめることができなくなる、そうしてその結果として国民が関係ないようで必ず誰かが責任をとらされる、戦争では暴走して300百万人が死んだように原発事故では故郷に住めなくなったように必ず誰かが責任をとらされるのである
でも東電の幹部は一人も責任をとっていない、政府でもそうである
だからこういいう構造自体がシステムを直さない限り同じことが起きる
それでまた電事連とかで宣伝費を増やして原発を推進しようとしている
まあれだけの事故が起きてもたりずにそうしているのである

おそらくそういうシステムとかを批判しても個々人のモラルの低下があり正せない
記者魂とかあったというときそうなのだろう、何か日本人自体魂(たましい)が喪失したそれは戦争に負けて大和魂も喪失した
何かうしろに魂がつくときそこに命を駆けるうなものが生まれる
職業倫理が日本では・・・魂だとなる、ただ利だけを追及するのではない
魂(たましい)を追及するのだとなるからだ
日本人は戦争に負けてその魂がぬかれたのかもしれない、ただ利益を求めるだけとなったそれは上らか下まで全部そうなのである、金になればいいしかない、その他のことは考慮しなくなったのである
金のために魂を売る、それが普通の状態でありそれに疑問すら感じないのである
そうしていると原発事故になって故郷にすら住めなくなったのである
だから上から下まで腐って日本自体が滅びに向かっているともなる

報道を考える時をどうしたら公正になれるのか?

金がかかりすぎる報道だとできない、インタ−ネットとかだと無料でもできる
ただ取材とかなるとむずかしくなる、だから何らか組織が必要になる
それも大きくなると金がかかりまかなえないのである
奇妙なのは公正になるには権勢家でもかかわらないことだとなる
どうしてもそこで忖度するらようになるからだ
それで引きこもりの隠者が向いているとかなるのも奇妙である
そういう人は人とかかわらないしかえって公正に見られるとなる
なぜなら人間は誰でも交際すると情実が生じやすい、そこで忖度するようになる
この問題でも権力者と記者の間で親しくなりすぎるとどうしても情実が生れて
秘密の情報でももれやいからである 

ただ引きこもりとか隠者になっていては社会をのこともわからなくなる
それも問題なのである、そのことは自分自身だった、ただ人間関係からはどうしても情実が生まれやすい
そこで必ず忖度するようになり不公正になる、だから検察とかは特定の人と記者でもあまり親しくなると今回の様な問題が起きるから戒めねばならないとなる

タダで情報を得るということは、事実上、タダ働きしている人がいるということだ。そんなビジネスモデルではジャーナリズムは維持できない。

このようにジャーナリズムを担う人が必要である、それが誰になるのか?
権力を監視するためには結局権力が必要になる、その権力をマスコミに与えられていたがそれで不公平になった、マスコミがかえって第3の権力となり社会を歪めた
その本来の使命を果たさなくなった、それは朝日新聞が戦争をあおったりマスコミが歪めることが多かった、今は新聞よりテレビ局が社会を歪める
それでyoutubeが生まれたがこれが権力を監視したりできるのか?
それだけの力を持つことができるのか?それにも無理がある
第一では権力者の取材ができるかとなるとできないからだ
常に陰謀論ばかり語られる、直接取材できないから陰で推測だけだともなってしまう
結局権力を監視するには権力が必要でありまた権力を与えると堕落するとなる
それで権力は絶対的に腐敗するとなるジレンマになる
そこに人間の限界があるともなる、人間を裁くとき人間に限界があるからだ
だから公正な裁きはシオンにより成されるとなる

民をさばく主権者はあくまでも神です。その「さばき」は「義と公正をもって」なされます

この世ではいくら三権分立で公正を実行しようとしてもできない、システムをいくら作ってもできない、そこに抜け穴があり不公平がある
それを実行できるのは神しかないとなる
人が人を裁けない、裁くなというときそれだけ裁くことは人智を越えているためである
人の心をみる神だけが裁けるとなるからだ
だから法の番人でも最高権力者の検事でも裁かれる方にもなる
裁く者が裁かれる者になるのである





posted by 老鶯 at 18:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層