2023年01月31日

何の価値を追及しているのか?宗教が一番わかりにくい 古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ 芭蕉


何の価値を追及しているのか?宗教が一番わかりにくい

古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ 芭蕉

何かに価値があるとしてそれは必ずしも利益にはならない、価値と利益は即結びつかない
価値は多様であり何が価値あるのか意味があるのか決められない、ただ一般的な見方として金になれば利益になれば価値があるとなる、また価値と意味は違っている

なぜ価値があるのか

なぜ意味があるのか

それを問う時、利益になるから金になるから価値があり意味があるとならない
みんな金になる、利益になるとして働く、価値あるものが必ずしも金にならない
例えば芭蕉の俳句は価値があるというときその価値を知るとしたら相当に俳句に通じていないとその価値がわからないとなる、それは絵画でも音楽でも芸術分野になるとそうなるただ億の値段がつけば誰でも価値があるとなる、でもどうしてそんな価値があるのかとなるとその価値を知ることはみんなできない、そもそも芸術となると鑑賞自体がむずかしいからである、茶道とかなると古い茶碗に価値があるとしてどうしてそんなに価値があるのかとなる
ただ芸術でもわかりやすいのは長い時間の中で色あせないものも時間によって価値が減少しないでかえって価値が増してゆくものは本当に価値があるとなる

それは五月雨や降り残してや金色堂の芭蕉の句である、それはすでにその金色堂が建てられて400年とかすぎても五月雨のふりしきる中に朽ちずに残っていた
その価値を見出した、そこにみちのくの歴史が集約されていたともなる
それは江戸時代、それも今から400年前とかに作られたものでありその時代だからこそ作り得たものであり今になるとできない、感覚的に確かにみちのくは旅できるが江戸時代の感覚ではもはやできない、そこにその価値が衰えないのである
ある意味でかえって価値を増している、なぜならそれはその時代でしか作れないものだったからである、確かに正岡子規とかは写生俳句を提唱した功績があった
子規は芭蕉より蕪村に習ったのである、なぜなら蕪村は画家でもあり写生していたからである、でも蕪村よりも芭蕉の俳句の方が深さがある、また子規は写生俳句を唱えてもそれほどいい俳句を作ったとも見えない、それは早死にしたことも関係している
十分に熟成しないで死んだとなるからである

人間はこうして芸術的なものの価値は比較的わかりやすい、わかりにくいのは宗教的な価値である、キリスト教がありイスラム教があり仏教がある
そもそも文明というときキリスト教文明でありイスラム教文明であり仏教文明なのであるつまり文明の核に宗教がある、でもそもそもこの宗教の価値がみんな理解しているのかとなるとしていないのである
宗教の価値とは何なのか?それがわからなくなっている、でもカルト教団があり宗教は普及している、でも問題はその宗教の本来の価値を追求していない、ただ御利益となるとか福運がつくとかさらにこの世で高い地位につき金持ちになり豊かな暮らしができるとか
しかない、また病気でも治るとかとにかく何でも御利益があるしかないのである
でもそもそも宗教とは何になのか、宗教の価値とは何なのか知る人がいるのかとなる
なぜお釈迦さまが偉いのか、何の価値があって偉いのか、キリストがなぜ偉いのか何の価値があって偉いのか、それが本当にわかっている人がいるのかとなる
その価値がわかっている人がいるのかとなる
信者が何千万人何億人いたとしても一体どうしてそんなに崇められるのか、その価値は何なのかわかる人がいるのだろうか、カルト教団になればただ御利益追求でありまた神社にしても賽銭を投げて御利益を願うだけなのである
そうなると宗祖が説いた本来の価値とは何だったのか、それもわからないのである

古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ 芭蕉

キリストがシャカが何を求めたのかに重点を置く、そもそもシャカにしても王宮に住んでいた、そういう身分を捨てて一介の乞食となったのはなぜなのか?
今の宗教とかカルトとかなると王宮にいる王子でありたい、それが理想になっている
そうした生活をしたい身分になりたいとして毎日日蓮でありキリストであれ拝んでいる
その宗祖を見ればそんな境遇にない、日蓮だってあばら家に住んでいたのである
だから何でもこの世の欲がかなえられるとして御利益があるとしてひたすら日蓮であれキリストであれ祈っている、そんなこと宗祖に願ってもかなえるわけがないのである
そもそもキリストであれシャカであれ日蓮であれ親鸞であれ何を求めたのかが大事である王宮に住んでいて一介の乞食になる必要もないのである

ということは宗祖が求めたものと全然違ったものを求めている、それ宗祖が見てどう思うのか、もし宗祖が現れたらシャカでも日蓮でも何でもその宗祖こそ最も排斥するものとなる、なぜなら宗祖が求めたものとまるで違ったものを求めている、そしたら宗祖は私の弟子ではない、私が求めたものはそんなものではない、私はこの世からの解脱を求めた故に王宮を捨てたのだ、それがむしろみんな王宮に住みたいとなって王子となりたいとなって私に習わず拝んでいる、もし宗祖が現れたらその宗祖こそ最も排撃していてはならなんものとなってしまうのである、それはキリストでも同じである、荘厳な大聖堂があってもその宗祖が入れないともなる、その宗祖の教えたものを求めていないからである
だてから宗教に関しては何なのかわからないとなる、
宗教の本来の価値、宗祖が求めた価値がなんであったのかそれをまず知るべきである、でも全くこの世のものを求めて祈っているとしたら何なのだろうとなる
私の欲をかなえてください、私に王宮に住むような御利益福運を授けて下さいとひたすら祈っているとしたらそんな願いをかなえてくれるのかとなる
だからそもそもキリストでもシャカでも何を求めて何を説いたのか知るべきだとなる
その求めた価値が何であったのか知るべきだとなる

2023年01月30日

老舗の菓子屋を守るために犯罪者となったドラマ (なぜ命が尊いのかー仕事が天職が価値がありそれに献げる命が尊いとなる)


 老舗の菓子屋を守るために犯罪者となったドラマ

(なぜ命が尊いのかー仕事が天職が価値がありそれに献げる命が尊いとなる

●老舗を守るために犠牲にされたホームレス

葬儀屋松子の事件簿のドラマで老舗の菓子屋を受け継いだ男性が経営がおもわしくなく金に困っていた、それで自分自身に二億円の保険金をかけて偽装自殺した
本人が自殺したのではなく近くのホームレスが身代わりに殺されたのである
このドラマは何を意味しているのか?
その老舗の旦那は江戸時代からつづいた老舗の菓子屋を継続させることが最も大事なことだとしていた

ということはその老舗にはそれだけの価値があったから継続させようとしていた
ただ価値というとき本人が価値と思っても他者ではたいして価値を認めないことがある
いくら老舗の菓子屋でも認めないことがある
そもそも民間だととにかくたとえいくら価値があっても商売として経営として成り立たなければ維持できないのである

それで結局保険金二億円を得るためにホームレスが身代わりになったのである
そこでホームレスに何のか価値があるのかと見ていたかもしれない
こいつらは無駄飯喰らいだから何かの役にたたせるのがいいとまで見る
実際にそのホームレスは老舗を維持するために犠牲にされたとなる

そこに葬儀屋がかかわっているのも現代的である、孤独死した人もドラマになっていた
葬儀屋に死ぬ前に相談できる、どうしてほしいか相談できる
ただ葬儀屋でも客をとるためにいろいろと工作する、看護師に金を渡して死者を知らせて葬儀を請け負うとかある
葬儀屋というとき昔はなかった、地域で葬儀をしていた、村だったら村の人総出で葬式をしていた、それで村八分でも葬式だけは除外していたのである

●人間の命そのものが尊いのではない

ともかくこの年になると葬儀とか死がもう身近である、自分自身が後何年で死ぬのかとまでなる、ただ自分自身でも人間はいつ死ぬのかわからない、もちろん病気で弱ればなんとなく予想はつく、でもいつ死ぬかはわからないのである
だから自転車屋の人が私に死ぬ三日前ほどにいつまでやっていられるのかなと言っていたおそらく本人も確かに苦しかったがそんなに早く死ぬとは予想していなかった
癌の不思議は三日後に死ぬとしても仕事ができていたことである
寝た切りで何年もいて死ぬならいいがそんなふうに仕事ができるのかとなる
でも死に方としては良かった、仕事しながら迷惑もかけず死んだからである

人間の命と人間の価値とは何なのかという問題がある、人間の命は大事だよと言うのはわかる、でも人間の命が大事だとしたら尊ぶべきだとしたらただひたすら長く生きる生かさせることが大事だとなる、でも人間の命が大事だというときその命が何に費やされるかが問題になる、命そのものの価値より何のために命が与えられているのかとなる
天職を持ちその天職に価値がありその天職のために命を献げるということがある
仕事でもそうである、その仕事に天職に価値がありそのために命が献げられる
命が大事だというとき命そのものにあるのではなくその命を何に使うのかが問題になる
ただギャンブルとか無駄なものに命を使われればその命が大事だとはならないのである
命が何に使うか価値あるものに使うかで命が価値あるとなる

だから奇妙なのはロシアで犯罪者がウクライナと戦うめに釈放された、犯罪者でも国のために役だてばその命は尊いとなる、そして戦場だったら多くの敵を殺した人が英雄になるそれも不思議だけど犯罪者もそうなればその命は尊いものとなる
つまり命は何のためにあるのか?命そのものが大事というより何のためにあるのかが大事になる、黄熱病の細菌と戦い野口英世は死んだ、とするとその命は病気との戦いのために犠牲にされたということで尊いとなった
早く死んだとしてもそのことで功績があり讃えられることになったのである

●老舗の菓子屋を維持するために犠牲にされた人

だからそもそも人間の命が尊いとしても何のために命があるのかとなる
むしろ天職がありその天職が価値がありそのために命があるとなる
身近なことでも最近死んだ街一軒の自転車屋でも死んだがその人は自転車屋という仕事のために死んだ、それは一軒しかないのだからその仕事は他より価値あるものとなっていたただそれでその人が仕事をしていたということでもない、とにかく病気でありその治療費を払わねばならないとなり仕事をつづけていたともなる
でも死んでしまうと人間はもう金を稼ぐ必要はないのである
それで私が折り畳み自転車が売っていないのでナンバーをつけてくれと言ったが断れられた、それは自分の店で買わないから当然そうなったのである
でももう死ぬとわかっていたらもうけよりその仕事が重要であり無償でもしてやれば良かったとか勝手でも思う、もしかしたらあの世から別にたいして金にならなくてもしてやれば良かったとか反省しているかもしれない

つまり人間とはみんな利益を得るために金を得るために働かざるを得ない、でももともと仕事か天職は金を稼ぐだけのものではない、その仕事自体に価値がありその価値があって命が献げられるとなる、だから理想は金と関係なく仕事がありその天職に励むのがいいとなる、常に人間社会は金、金、金でありそれで歪められているのである
本当の価値を追求できないのである、そして無益なものに膨大な命が消費されることもある、戦争でもそうである、他にも無駄なことが膨大にあり命は費やされるのである

ともかくこのドラマでは老舗の菓子屋が価値がありその経営がおもわしくなっても維持しなければならないと事件が起きた、それは老舗の菓子屋が価値あるものでありそのために犯罪になった、そしてホームレスが身代わりになり犠牲にされた
このドラマの焦点は老舗の菓子屋が価値があるというドラマなのである
そのためにホームレスが犠牲になる、でも一人のホームレスより老舗の菓子屋が価値があるからホームレスの命はそのために使われるべきだともなっていたのである

でもその老舗の菓子屋がそれほど価値があるのか?それを誰が決めるのか、主人が決めたとしても回りでも価値があるとしなければ維持できないのである
そもそも価値が誰が決めるのかというのもわからない、大勢が価値あるとするものが価値がないともみる、でも大勢に価値がないものでも価値があるものはある
芸術品などはそうである、それは食べる物と違って価値がわかりにくいからである
だから金にならないことがあり誰も価値を認めないこともある
それで芸術家の悲劇が起きたのである

●無数の価値があり老舗の菓子屋の価値もその一つ

この世には無数の価値がありそれも発見されていない、身近な所でも発見されていない
学問的なことでもそうである、郷土史とかあっても発見されないものがいくらでもある
平凡な風景でも写真家でも画家でも優れていて個性的であればやはり美を発見する
そして価値あるものとなる、芭蕉がみちのくを旅して作って奥の細道の価値は衰えることがないのである、それだけのものを今も作れない、みちのくの価値を発見したのが芭蕉だったのである、それはどこでもまだ発見されていないものがある
新たな価値として再認識されるものがある、ただそれは食べ物と違ってなかなか見出しにくいとなる

江戸時代からつづく老舗の菓子屋を維持すること
それが価値あることだ
だから守らねばならぬ
たとえホームレスが一人死んでも犠牲にしても
老舗の菓子屋の価値のために死んだとなる
それは有意義なことだ
それだけ老舗の菓子屋に価値がある

こんなふうにもなる、それは勝手な見方にしてもそういうことがこの世にはある
人間が生きる価値とは命そのものにあるのではなくHuman life is precious when we live for something valuable...live forが大事なのである
その価値は多様であり時代ごとにも違っている、そしてまだ発見されていない価値があるここでは老舗の菓子屋の価値であるがこういうことは他でもあるだろう
伝統的なものの価値を守りつづけるということにもなる、そういう古来がつづく伝統的なるものの価値は民族的なものとしての価値でもある、日本文化としての価値がある
だから日本語をなくして英語にすればいいとかなると日本文化としての日本民族の価値は消失するのである、そこにグロ−バル化の問題がある
グロ−バル化とは国でも地域でも文化を破壊することが大きな問題なのである
貿易だけではすまない、物が入ってくるだけならいい、でも物とともに人間も関係してくる問題なのである、それが過剰になったのが現代のグロ−バル社会なのである

●医学の進歩のために犠牲にされた命

また医学の世界だと野口英世が黄熱病と戦い死んだ、犠牲になった、また華岡青洲の妻が麻酔薬の実験台にされた物語もそうである、それはフィクションでもそういうことは医学の世界にありえる、私の母の実家の継母は大学病院に献体した、医学の役に立ってもらいたいという人もいる、人間の命が尊いとしても命そのものが尊いのではなく医学が尊いともなる、医学が進歩する事は人類に貢献することにもなるからである
それで人間の命は戦争だったら国のためにと何千万人も死んだ、それは国を守ることが尊いもの価値あるものだからそうなったともなる
人間の命でも命そのものが尊いとはならない、何かのためになることが尊い、それは仕事に価値があり仕事が尊いともなる、だから価値とは何かというときその価値を決めるのは何かとなれば次の言葉があてはまる

もろもろの価値の根源は人間である、人間がおのれを維持するために、それらの価値を諸事物に付与したのである、人間が先でそれが諸事物に、意義、人間的意義を創り与えたのだ、それ故に彼みずからを「人間」すなわち「評価する者」と呼ぶのである
ニーチェーツアラストラ

神が世界創造した、でもその価値を評価することを与えられたのは人間なのである
神はイデアを創造した、様々なものを森羅万象を創造した、でもその価値を評価をするのは人間なのである、また価値を発見するのは人間である、その価値は無数にあり発見されていないのである
人間に与えられた仕事とはこうして万物に価値を与えることなのである
だから最初の仕事がエデンの園で名前をつけることだったのである
あらゆるものに果物でも名前をつけることだった、そのことによりその事物の価値を明らかにしたともなるからである、最初の学問が植物でも動物でも何でも名前つけて分類することになるからである
つまりそれが神が人間に与えた仕事だったのである、神が創造したとしても人間がその価値を評価するものとして造られたのでありまたそうした神が創造した世界わ賛美するものとして人間が創られたたのである

葬儀屋松子の事件簿

2023年01月29日

真野川の鉄橋の下の白鳥の写真


真野川の鉄橋の下の白鳥の写真

swanlight1.jpg

swanice11.jpg

swaniceb1.jpg

氷を割って泳いでいる
薄氷である


swansnow11.jpg


氷割り泳ぐ白鳥朝に見ゆ山は雪なり冷えにけるかも

朝の日の光り反射す川面かな白鳥群れて白に白映ゆ

目覚めれば地表は雪や白鳥の五六羽飛びぬ空澄みにけり

今日は真野川の鉄橋の下に白鳥が30羽くらい群れていた
白鳥のいる場所は変わる、田んぼにいるときもある
ここでこんなに数がいたのはめずらしい、ただここで餌をやっていないのである
白鳥はやはり特別寒い時美しく映える、この辺ではあまり寒くならない寒さの中の美は
感じない、でも白鳥はヨ−ロッパでもいる、ということは白鳥はロシアからシベリアから冬に渡ってくるとなる、でもロシアから来たのは攻めてきたのは残酷な軍隊だった
自然ならそこに美があるが人間は美を破壊するのである

写真はやはり場面とカメラの性能に左右される、私のカメラは高いものではない
またレンズにも左右される、レンズが何十万とカメラより高いのである
野馬追いの写真を撮りに来た人は50万とかのカメラをもっていたのである
カメラが趣味の人は多い、ただ写真もその場面に出合い、その一瞬をとらえることがむずかしい、近くだから撮れたが遠くになるとむずかしくなる

とにかく現代は映像の時代である、だから写俳というのが生まれた、そもそも正岡子規は写生の俳句で俳句の革新を計った、だから写真と相性がいいのである
でも俳句は短すぎるから限界を感じる、短歌だとまだ長いから表現の幅がある
俳句と短歌を作っていてもやはり俳句は限界を感じる
ただ芭蕉のような俳句を作れたのか不思議だとなる、芭蕉より優れた俳人は出ていない
またこれからも出ない、なぜなら時代が違っているからである
現代のような風景と時間感覚とかではとても芭蕉の時代とは余りにも違っている
でも不思議のなのは蕪村は絵画的であり現代にも通じている
だから正岡子規は蕪村を良しとして写生俳句を唱えて革新したのである

ともかく今日は寒い、今キーボードを打っていても手が冷たくなる
ただ白鳥は寒さに映える、冬の美の象徴である



雪の中の白鳥

純白の衣の朝日に輝き
光りは水面に跳ねぬ
雪の朝白さ白さの映えて
優雅に水の上に浮かぶ
乱れなくその純潔の美
その高潔なる貴族のごとし
鴨の群れは下々と従う
神は我が意を得たりと
そのイデアは地上に成りぬ
太陽は喜々として輝き
また朝にここに喜び輝きぬ
その翼を広げし飛翔の躍動
白鳥は凍れる夜に星座と輝く
田舎にそ何か見るもののあれ
北風の吹きつけ白鳥の鳴く声がひびく
その凍てる空に弦の音のように響く
ふの触れがたき聖なる鳥よ
神は自然の天然の美を与えぬ
純白の雪に覆われて人は見えず
白と白は互いに映えて美しさを増しぬ
ただ白鳥のみそ映えるべきかな
黙して自然の美を見よ
黙して自然の声を聴け
地も聖なるものとなるべし

2023年01月28日

みちのくに枯野が似合う(枯野の俳句十句)


みちのくに枯野が似合う(枯野の俳句十句)

touhokumap33344.jpg


みちのくや休みに入るや枯野かな
人死にて争い終わる枯野かな
みちのくや枯野に残る金色堂
みちのくの金色堂や雪覆う
凍てりつく池や映えにき金色堂
みちのくや線路遠くに枯野かな
青森は遠き果てなり枯野かな
みちのくや枯野の駅や二三人
みちのくや都の遠く老いにけり
争いし境も消えて枯野かな
みちのくに栄華もなしや枯野かな
みちのくや風の唸りて黙す石
みちのくや抹茶を飲みて冬深む
みちのくや木を深く張る木冬深む
みちのくや心にしみぬ冬景色
みちのくへ上野を離れ枯野かな

目覚めれば地表は雪や白鳥の五六羽飛びぬ空澄みにけり

その場所場所で役割というか特徴がありそれに見合った場所としてあるのが本来はいい
アイディンティティもそうして作られる、それぞれ違った地理と風土がありそこに文化が生まれる、みちのくというときもそうである、ただはちのくといっても広いのである
芭蕉がみちのくを旅したのは平泉までである、そこからみちのくは岩手県があり青森県がありと広いのである、ただみちのくというとき地理的に風土的に北であっても北海道とは風土とか地理でも相当に違っている
みちのくは古代史からすでに日本の歴史と深く関係していたからである
それで縄文時代となると東北地方が先進地域だった、礼文島に縄文人の骨が発見されて
アイヌとは縄文人の後裔だとDNAの研究で発表した学者がいる
アイヌが縄文人だったのかとなるがそれに疑問を持つ人もいる
アイヌとは比較的新しい民族だという人もいる、もしアイヌが縄文人の後裔だとしたらアイヌ語が原日本語の祖語となるから大きなも問題になる
それで日本全体の地名をアイヌ語にあてはめた時代があった、でもそれは無理だった

いづれにしろみちのくとなると地理的風土的歴史的にアイディンティティが作られた場所である、だから北海道とは違った世界である
そしてなぜかみちのくに合うのが枯野なのである、わび、さびの世界なのである
みちのくは経済一辺倒の世界とかは合わない、大坂だったら商人の街でありあいさつがもうかりまっかとかなる、仙台市だともともと商人の街であり普通は東北弁だとんだんだになるが語尾にだっちゃだっちゃとなりこれが異質なのである
んだんだというのは何か口籠る言葉であり北国的である
でもだっちゃだっちゃというのは感覚的に全然違っている、押しが強い言葉なのである
伊達藩から伊達政宗のような人が出たという時何か異質なのである
東北人であのような芝居めいたことができる人はいないだろう、くそ真面目という感覚になるからである、ただ相馬藩とかでも実際は千葉県とかから移住してきた相馬氏一族が支配した藩だから別に土着的な人達ではないものが入ってきている
でも方言からするとんだんだとだっちゃだっちゃは余りににも違っているのである

上野去り平野開けてみちのくに我が帰るかな秋の陽没りぬ

上野駅を離れると浦和辺りなのか平野が広がり枯野にもなる、その時地平線に秋の夕陽がかがやき沈みみちのくに帰ってゆく、電車からその赤々と燃える秋の陽を見る
そして常磐線でもいわきまでは昔の平駅までは東京からの通勤列車が出ている
いわき市まで通っているのであり東京は意外と近いとなる
福島県は東京と近いのである、だから東電の原発でも建てられたとなる
郡山市だったら東京から一時間くらいなのである、通勤していた人もいるのである
でも会津とかなると不便であり遠くなる、会津は福島県でも浜通りから遠い、東京よりも遠いという感じにもなっている

ともかくみちのくでも広い、芭蕉が旅したみちのくは平泉までである
そこから岩手県になり青森へともつづく、そこはまさに辺境の地なのである

常夜塔雪に埋もれて野辺地かな

野の辺というときそうなる、津軽鉄道の津軽中里から十三湖に行った時寥々とか湖に風が吹いていた、そこも本州の果てなるか所である、ただ昔栄えた港があった、何かそれも津波で流されたとか言われる、砂に埋もれてしまったとなる
青森はみちのくの果てである、でも函館に行くとそういう感覚はなくなる、函館は明治に反映した近代的なしゃれた街なのである、感覚的に全然違っている
北海道はアイヌの歴史であり日本の歴史の中に入っていない時期が長かったからである

それにしてもなぜ芭蕉は旅に病んで夢は枯野を駆け巡るとなったのか。。。。
みちのくを旅したのは夏だったからである、秋だったら枯野にもなるがみちのくの枯野をイメージしたのか
その辺がわかりにくいのである

江戸だと枯野見があった、わざわざ郊外に枯野を見に行った、それは江戸は人でやはり込み合って枯野がなくなっていたからである
それで風流を演出したのである、今の東京なら電車でも車でも相当遠くに行かないと枯野はないのである

2023年01月27日

犯罪もカルマが関係している (今回の強盗事件でも因果関係はあるのか?)


犯罪もカルマが関係している

(今回の強盗事件でも因果関係はあるのか?)

「なぜ私だけがこんな目に遭うのでしょうか」。犯罪の被害者は異口同音に同じようなことを言います。世間には多くの人がいるのに、なぜ自分だけが悲惨な目に遭わねばならないのか、それは誰でも考える理屈でしょう。

犯罪の被害者、加害者の運命を調べてきました。その結果わかったのは犯罪の背後には複雑に絡み込んだ運命の因果があるということでした。ただそれが全てではありません。犯罪のすべてが運命的な原因をもつわけではないのです
犯罪とカルマの相互作用がある

犯罪に合う人と犯罪を犯す人に何らか関係があるのか?
ただそれは偶然のこととして起きたことなのか?
そこに複雑な因果関係があるということを書いている
例えは昔だったら因業な金貸しが貸した相手に恨まれて殺される
そこに確かな因果関係がある、動機もある
でもなぜ毎日のように犯罪が起きる、今回の強盗事件でもそうである
90歳の女性が殺された、ではこの90歳の女性と殺した強盗と何か関係があるのかとなる
それは外からはただ偶然の出来事に見えるし知り得ようがないのである

でも犯罪は必ず起きるし自らでも犯罪を起こす、何かしら犯罪にかかわらない人はいない自分自身がそうである、なぜ私の家で次々に不幸があり犯罪者が入ってきたのか?
それも何かしら因果関係があってのことだったのか?
それはわかりにくいにしても犯罪者がただ偶然に来たとも思えないとも見た

なぜ母が積んでいた金が盗まれたのか、なぜその人が来たのか?

ここに因果関係があるのか?その人はここに前から住んでいた人ではない
ただ偶然でそうなったのである、そういう犯罪の機会が与えられたのである
でもよくよく考えてみるとその女性は金に窮していた、その生活はずっと金に窮していただから切実に金が欲しかった、その機会が偶然に私の家にきてめぐってきたのである
母が積んでいた金は実はその時積み立てていなくても国から支払われていた
月三万もらっていたのである、百才まで生きたのだからそれが結構な金になっていたのである
でもその金が盗まれた、これは何なのだろうと思った
結構な大金だった、私の母親は吝嗇でケチであった、何か無駄なことに金を使わない
それで花なんかいらない、買う必要がないと言って私を責めたのである

それは極端な貧乏を経験していて継母に育てられた金銭に余裕がないからそうなった
店をしているときも一円でも無駄にしない人だったのである
でもその年金は高度成長時代に国が豊なので無料でもらえた金だったのである
たとえ3万でも今の年金とは違い無償でもらえた金だった
それで後五年たつと5万もらえたとか悔しがっていたのである
その時代は国が豊でありそうなったのである、今でも年金が4万とか5万しかもらえない人がいる、その人達は一応積み立てていてそうなのである
年金制度が確立する前は積み立てていなくても無償でもらえた時期があった

でもその金は盗まれたというときそこに母と盗んだ人の因果関係があったのかとなる

あなたがもらえた金は国で支払った金と同じです

それは国のものであり国民の金です

だから私ももらう権利だある

それで盗んでいいのです

こんな論理も成り立つでのである、なぜなら私がそのことを責めたら私自身が警察からでもみんなからも責められたからである、御前は金を持っているから何も言うなとなっていたのである、その犯罪をとがめる人はいなかったのである

ただこうして犯罪者と犯罪を受けた人の相手とに全く何の関係もなく偶然にすぎなかったのかとなるとそうでもない、その金は盗まれても犯罪者を責められないものでもあったとなる、つまり犯罪の被害者の方にも何かしら犯罪を受けてもいいものだったとも見れる
でももし金がない人だとわずかの金でも盗まれたりしたら借金でも返さないとしたら殺人にまでなっている、だから犯罪者であゃ犯罪の被害者であれ双方に何の因果関係もないのかとなるとそうでもないとなる

そもそも犯罪でもそうだが何か偶然に起きる事がこの世にあるのか、偶然と見えるものも必然だったとかなる、金を不正にためこんだりしていると盗まれても当然だと外から見られる、二人も家政婦を雇っていた地主の人なのか家を貸している人なのか殺された
でも二人の家政婦は何の被害もなかった、ねらちわれたのは地主なのか金持ちだったのである
何か不正に貯えたとか本来はそんな金を得られないのに得たとかなりそれが盗まれたともなる、その金に正当性がなくて盗まれたとかにもなる

そうして犯罪が起きているのかもしれない、犯罪にカルマが関係している
そのカルマでも前世まで関係しているともなる、何からのカルマが双方にあってそうなったともなる、つまり全然関係がない因果関係はないとは言えないとなる

何らか人間はどこかでカルマを解消させるために事件が起きる、苦しみが生じる
それが過去に積んだカルマが原因だともなる、もしためこんだ金でも人のために使うとかしていればそうはならなかったとかなる
ただ私欲のためにため込んだ結果として盗まれたのかともなる
ただ盗んだことがいいことということではない、その盗んだ方もカルマを積んだとなり
いづれ苦しみとなって現れる

ともかく犯罪を犯す人と犯罪の被害者はただ偶然に出合ったことであり関係ないのか
それを日々のニュースを見てもわからない、ただ恐怖になる
でも犯罪を防ぐことはできないのではないか、いくら防備しても穴がありそこから犯罪者は入ってくる、もう鉄条網とか城のようにしないと防げない、それで回りのもの隣近所と連携しろということもわかる
隣近所で協力して犯罪者の侵入を防ぐとなる、ただ現代は隣近所は疎遠である
都会だと特にそうだし田舎でもそうなっている、それで犯罪に弱くなっている
まず江戸時代のような村だったら回りがみんな警備員のようになったいた
だからよそ者が簡単に侵入できない、関所もあり簡単に他藩に入れないからである
今は車で簡単にどこにでも行けるしすぐに遠くに去ってゆくから犯罪しやすい社会でもある、ただ自転車だと自転車に乗っているだけで犯罪者にも見られのである
これもおかしい、車に乗っている人が犯罪者になる、つかまりにくいからである

一回は内部の犯行

次は外部の犯行

次も外部の犯行?


一回は近くの人の犯行であり二回目は外部の人の犯行であった
なぜなら物色されたからである、それで二階まで来ていた、証書を盗まれたがそれは金にならないものだった、金庫も開けられたが金は入っていなかった
今は現金は置いていない、その次はジャンパーとその何か入っていた財布が盗まれた
クレジットカードが入っていたが金は一万くらいだった
でも未だにジャンパーが出てこないからやはり盗まれたのだろう
これはどうも内部ではなく外部の人だったらしい、通りすがりの犯行だったのかとなる
でも何か常に警戒しなければならないので困るのである
こうした犯罪の困ることは家でも安心できなくなる、また誰が盗んだのだろと疑心暗鬼になり近くの人でも疑うことになる、これも困ったことなのである

ともかく日本は貧困化して犯罪が増えて来る、回りをみると日々の暮らしで苦しんでいるそういう人は犯罪予備軍にもなる、そして犯罪でも今回の強盗事件のように凶悪化してくる、つまりアメリカのようになってくる、日本はアメリカに戦後まねたのだからアメリカのようになってくる、もちろん犯罪そのものはこのこの世から絶対になくならない
この世に罪を犯さない人などいないからである
例え現実に犯罪を犯さないにしても人間は心で悪意とかもっただけで犯罪なのである
心で悪い思いが生まれただけで実は罪なのである、それはそう心で想うことが必ず行為となるからである、相手を憎むということがありそこでは犯罪にならないとしてもそれがいつか行為となり最悪は殺人までなる、だから念というのも怖いのである

日本は貧困化してくると犯罪が増えてくる、これは防ぎようがない、それも今回の強盗事件のように凶悪化してくる、いくら防備しても侵入を防げない、だから謎のなのはどうしてその家がねらわれて殺されるまでなったのかということである
その因果関係がどうなっているのか謎だとなる
犯罪に合いにくい家があることは確かである、一軒屋はどうしてもどこかに隙があり犯罪を防げない、そこでいくら防せごうとしてもできないということになる
もう犯罪にあうのも宿命なのかカルマなのかとあきらめるほかないとなまでなる
犯罪者であれ犯罪の被害者でカルマがありそうなったのかとなりあきらめる他ないのかともなる、ただ正直その因果関係は外から見てもわからないとなる

posted by 天華 at 11:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年01月26日

2023年01月25日

ケチな人の問題−人間はみんな偏る (ケチな人は経営でも成功しないのではないか?)

ケチな人の問題-人間はみんな偏っている

(ケチな人は経営でも成功しないのではないか?)


財布からお金が出ていくときは、自分や家族、生活に必要なものを購入する時のみ。損得勘定で動くため、「この人や物にお金を使って元が取れるのか」「有益なのか」を常に考えているのです。
ケチな人は幼少のころから両親の倹約する姿を見て育った可能性も高く、それが当たり前の認識として備えられていることも。ケチな人の中にはお金を使うことに罪悪感を持ってしまい、過去に厳しい貧困を経験している人もいます。

印象4. 単純に器が小さいと感じてしまう

ケチな人は、割り勘にする時でも1円刻みまで細かく分け、社内でお祝いがある人にみんなでプレゼントをする時にも、「そんなに高くなくていいよね?」などといってしまいます。
ケチな人の行動や発言は、財布だけじゃなく心の狭さまでも浮き彫りにしてしまうのです。

●貧乏に苦しみケチになったことは同情する

その人は贅沢などできない、毎日かつかつの生活である、十円二十円でも安くないかと探している
ではその人がなぜサシミを買う時冷凍を買わないという、私はそんなことにこだわらないその女性は生きのい買うとなっていたのである
十円二十円節約しているのにそんなことをしていいのかと端から見ればおかしいとも見るでも私はそこに感心しているのも奇妙である
私の母親はもともと大正生れて貧乏だった、原町の紡績工場で働いていて食事はたくわんと味噌汁くらいだった、ずっと貧乏だったし戦後には食べるものがなくて苦しんだ
だから花に興味がないのである、花なんかいらないと言っていた
そして庭に豆を植えていたのである、それは極端な貧乏を経験してきたからである
何か花嫁修業などさせてもらえない、ただ働かせられるだけだった

それは戦前には子供は親に尽くすものとしてあったからだ、その親が継母だったのが最悪だったのである、そういう不幸な生い立ちでありケチになるのもわかる
正直私の場合母親は余り好きではなかった、もう一人の姉は鷹揚でありケチではない
でも姉にも問題があった、金があっても人を助けたりしない、他人には金に厳しかったのである

結局人間はなんらか性格にしろ何にしろ偏るのである
内向きな性格の人は本当に引きこもりになり異常化したりする、それを自分自身で経験しているからわかる、でも他の人達でも何か社会では力をもっていても異常だということを知った、第一カルト教団の教祖とかが性格的に異常化しているのが多いのである
オウムの麻原であり統一教会の教祖であり創価の教祖の池田大作であれ何か性格的におかしいのである、でも多数が認めているからおかしいとされないのである
それが極端化したのがヒットラーだったのである
つまり性格異常者が社会のトップに立ちそのために膨大な人間が死んで犠牲になったというのも信じられないとなる

ケチな性格というとき別に金がないからケチとは限らない、その女性は本当に明日食べるものがないくらい金がない、でもなぜサシミは冷凍のものを食べないのである
それは見れば贅沢だともみる、でも私の経験ではそういう人はケチではないとなる
金がありあまるほど持っていてもケチな人はいるのである
ケチというときだから貧乏人だけがケチとは限らないのである
ただやはり金がないとなればどうしてもケチになる、節約するしそうならざるをえない
だから大正生れの人でケチになるのはやむをえないともみる
金があれば余裕があれば自ずと余り金にこだわらないともなるからである
ケチな人は無償の行為はできない、ここに死にそうな人がいても助けないともなる、ケチとは金だけのことではない、あらゆることにケチであり出し惜しみする、簡単なことでもしないのである

●十円でも損しないと計算していたら経営者で成功するのか?

ケチな人は絶えずこの人と付き合って得になるか損になるか細かく厳しく計算しているかもしれない、だから自分が損するようなことは一切しない
何かしてやったら倍のものはもらうとなる、そうしないものとは付き合わないとなる
だから自分が苦しんでいたときまず金を問題にして金をくれたら助けてやるとかなる
商売としてみて相手が介護であれ苦しんでいる時そうなる
でも商売としてではなく相手が困っている時、緊急要する時それでいいのかとなる
医者でもなんとか助けてくれというとき金を出さないと看ないとかある、そこに問題がある、つまり医療には物の売買だけではないものがあるから医は仁術になったのである

でも今は医は算術となったのである
ケチな人は計算高く一切損することはわずかでもしないとなる、でもそうなると病気とか介護とか何か困った時そういう人が来たら恐怖にもなる
それを自分自身が経験してきた、人は世話になったとしても後で回復したら礼をするということはある、苦しんでいる時はそういう余裕がないのである
もうぎりぎりに追い詰められていて余裕がないのである
ただそうはいっても中国では病院では先払いになっている
払わな人がいるからそうなっている
保険で全部まかないない、半部以上払わなければならないからである
それは払わない人がいるからそうなっている

その人は経営者に向いていなかったのではないか?

経営でも十円でも損しないとか計算していたらできるのだろうかとなる
別に利益があげることは悪いことではない、でもケチな人が経営で成功するのかとなる
損してやれというのではない、何かケチるということは手抜きしたりいろいろ損することは絶対にしないとなる、そういう人に仕事を頼むのかともなる
ただ正直金がなければそうした余裕が生まれない、だからなかなか責められないとはなる

●人間はなんらかでみんな偏っている―社会でも国でも偏っている

いづれにしろ人間の性格はこうして誰でも偏るのである、それが異常化する、経営者でもサイコパスがいるとか異常性覚者が成功者にもなっているというときわからなとなる
まともな人格者が成功しているわけではないとすればそうなる
おそらく個々の家族でも何か偏る、異常化する、家族のことが良くyahooニュースででている、そこでは息子でが暴力をふるい大人になっても働かないとか家族がめちゃくちゃにされていることが語られている、引きこもりとかは普通にいる時代だからである
家族の異常性は意外と気づきにくいのである、それはやはり家族同士が付き合いがないと気づきにくいのである、人間は何でも相対的にみないと比較しないと自分でも家族でも地域でも国でも見えないのである、大きな石でも小さな石がないと大きいと気づかない
また黒い石どかりだったら黒いのが普通になる、そこに赤い石でも白い石があって黒い石を認識するのである、人間社会でも同じなのである

カルト教団の人達はみんな黒い石なのだけどそれが他と比べないから黒い石であることが認識できないのである、そしてナチスのように全員黒い石となり黒い石でないものは排斥もされるのである、それが人間社会の怖さである
そして何千万の国民が異常化しても偏ってもそれが正常となりそのために戦争ともなり何百万人も死ぬともなったのである、それが現代の大衆社会の怖さなのである
民主主義でも多数がすべて正しい通る社会だから大衆ファシズム社会になりやすいのが大衆民主主義社会なのである、ナチスは選挙で選ばれたからである

ケチな性格というのも一つの偏った性格である、偏るということは人間はそれだけ様々な要因で偏るのである、家族でも偏っていればそこで育つ人も偏るのである
育った家族が偏っている、一つの価値観とかに染まっているとそこで育つ子供も偏るとなる、カルト教団で育った子供は宗教二世はそうである
そういう家族で育てばそれが正常であり否定できないからである
そして家族とか家系でも何か偏っていてケチな家風とか生まれるのかもしれない
家風もそれぞれ違ったものになるからである

人間の問題はいろいろあるけどこの偏るよるということが大きな問題である
どうしてもその所属する所でも狭いからそうなる、実際に人間が日々生活する場は狭い
家族が日々生活する場としても狭すぎる、いくら国家を世界を語っても現実に日々接して生きる場は狭いからである、するとどうしても偏るのである
そもそもいかに偏らないことがむずかしいかである
二人が争う時必ずどららにも言い分がある、一方が完全に正しいということはない
だから一方のことだけを聞いていると必ず偏り公正ではなくなる
だから神は偏り見ないとなった、神だけが偏り見ないことができるからである
人間は必ず何らかで偏るのである、だから裁判でもみんな正しいとはなりえないのである

●ケチな性格もなかなか矯正できない

ともかくケチな性格も性格の偏りでそうなった、でもそもそも性格でもみんな偏る
内向的な性格の人は人嫌いになって引きこもりになったりして偏る、極端化するとそうなる、でもその人は禅のように寺で修行していれば別に変人にはならないのである
社会で生活していると変人になるのである
つまり人間はなんらかで偏る、性格でもそうである、ケチでもやはり偏った性格が形成されたとなる、そういう人と家族でも付き合うことは嫌だとなってしまうのである
でも正直人は何らか偏っている、だから自分はここが偏っていると気づくにはやはり対照的に視るために他の家族でも国だったら外国と比べるとその偏りに気づくのである
そうしないと自覚できないのである
ケチな人は別にその人自身はケチと思っていない、相手がケチだと思っているともなる
人間はとにかく自分の性格でも何でも自分自身もわからないのである

ただ人間の性格は変えられない、それでも何らかで偏っていることを気づくことは必要である、ではケチな性格を矯正できるかとなるとむずかしいのである
私の母親は花なんかいらないと異常化していたからである、そういうことは他の人にもある、貧乏で苦しんだ人は極端に節約して金があっても節約して絶対に損しないとかなる,私の母親はためることしか興味がなかった、そのためた金も盗まれたとなる
性格もやはり生来のものではなく過酷な人生とかなればそうなる
そこまで同情してみ見るのはまたむずかしいとなる、人間の性格とかも生来のものではなくその人が人生を生きる体験から作られるともなる
いづれにしろケチということはなかなか矯正できないだろう、偏ったことは矯正できない社会自体だってが何らかで偏る、そしてナチスにもなりファシズムにもなる
カルト教団とかこれほど社会を席巻するのもそうである、社会自体が偏ってそうなったのである






2023年01月24日

家族の限界,家族の崩壊がみんなに起きる (介護やその他の問題で起きる)


家族の限界,家族の崩壊がみんなに起きる

(介護やその他の問題で起きる)

●家族だけでは担いない問題

家族と言う時そこで人は育つしそこが拠り所となる、でも家族だけで何でもまかなえることはない、家族でも多様であり他者の家族のことはなかなか理解しにくいのである
確かなことは家族だけではこの世の中やっていけない
家族でも様々な問題をかかえている、だからそれを家族だけで解決できないのである
そして家族が崩壊する時がみんなに来る、家族を大事にして生きていてもいつか家族は崩壊する、そんなことありえないと思っても最後は家族は消失するともなる
なぜなら必ず親は死ぬし夫婦でもどちらかが死んで一人になってしまうのである
今一人所帯が多いというとき何らかで家族がいなくなり一人で暮らすようになった
老人の一人暮らしも多いのである、つまり家族がいなくなっている

そしていづれ最後は家族はいなくなる、家族というのも一時的なものだと思った
家族も永遠のものではない、この世での一時同じ屋根の下で暮らすがそれも永続はしないのである、だからどこかでいつかは家族は終焉する、崩壊して破綻したりする
別にそれは離婚が三分の一があるように家族自体が分離して分解するともなる
介護とかなると家族だけではやっていけないのである
でも日本の場合は家族にまかされる、そこで負担が大きく悲劇が事件が起きる
ヨ−ロッパでは家族ではなく国でめんどうをみるシステムである
だから家族に負担はかからない、それだけ福祉の歴史がありまたキリスト教の歴史があり社会の中で培ったものがありそうなった

日本ではそういう福祉というものがなく村とかの小さな共同体がその代わりをしていた
だから村の子供は村を支えるから村人全員で育てたのである
一つの家族のようになっていたのである

それで興味深いのは浅間山の火山が爆発して 

93人の中で、夫を亡くした妻と妻を亡くした 夫とを再婚させ、また子を亡くした老人に親を亡くした子を養子として養わせるなどして、93人全員を実際に一族としてまとめ直し、その門出を酒・肴を贈って祝った。誠に非常時における有力百姓の対応の仕方は興味深い。

身分も関係なく救済を優先にした、そうでなければ村を維持できなうなったからである、つまり被害が大きくそうなったのである、強いられたともなる。
そうしないと村が維持できなくなったからである

こういうことは今ならありえないのである、それだけ村は家族のようになっていたということである、そうしなければ生きていけない事情があった。一家族ではどうにもならないことが起きたのである

●家族は永続的なものではない

現代ではそういうことは福祉が担っているが何かそれはあくまでもシステムとしてあり心が通わない場合がある、事務的にもなっている、それは日ごろから村のようにみんなで村を維持する仕事を共にするという関係もないからだろう
ただ金をもらえるからしかたがないとしてやっている、その動機は金しかなくなっているのが現代である、小さな町でも金が力となり金がすべての社会になってしまった
でも金だけではやれいなこともある、それが福祉の分野に多いのである

とにかく今は何かあれば金で解決する、だから自分が介護で苦しんでいてもまず金をくれとなっていた、そして家に入って来た者に大金を盗まれたり借金している人はまず金をくれとなっていた、多少心つかいがあってもまずは金をくれとなっていたのである
ただ自分の場合はそういうカルマを背負っていたともなる
でも一般的になんでも金だとなる、でも福祉とか介護とか病気のときでも金だとなるとき殺伐としたものを感じた

とにかく家族でも崩壊する時がくる、これは別に特定の家族だけではない、みんなに起きてるのである、なぜなら両親でも必ず死ぬしまた夫婦でもどちらかが死ぬとそうなる
つまりいつか家族は崩壊する、家族はこの世ので一時的な交わりだったともなる
それを両親が死んだりすると痛切に感じる、家族でもはかないものだと感じる
結局人間は無常を生きている、この世の人間の交わりも無常なのである
永続するものがない、家族はそうではないとしてもやはりいつか死に別れるのだからそうなる、そもそもこの世に永続するものはない、人間関係でも常に変化なのである
特に現代社会は変わり安いのである、江戸時代の村社会とかなると余り変わりないだろうだから精神的には安定していたとなる、それも過去は理想化するからわからないにしても現代社会は変わり安いのである

そしてこの世を生きることは「地獄は一定の住処なり」と親鸞が言ったようにそうなのである、一定ということは変わりないということである、それは時代が変わってもやはり同じなのである、時代によって地獄の様相は違っていてもやはり地獄を生きるのである
現代には現代の地獄あり過去には過去の地獄があった、では地獄が消えるかと言えば消えていないのである、どんなに豊かになったとしてもこの世から地獄は消えないのである
それは何故なのかとなれば人間の欲は限りないし消えないからである
その欲が地獄を産むともなる、結局この世には安住の地などもともとなかったのである
家族が安住の地と思っていたがそれも崩壊した、家族も最終的には崩壊する
老人の一人暮らしが多いことがそれを語っている、家族は分散したり死んだりして維持できない、介護になるともう家族だけでできないのである、だから家族だけに負担をかけることが問題になる、でも福祉というときシステムとして備えてもそこに心が入らないとできないのである、それはシステムでも経済的にでも整えても心が入らないとできない
それは何でもそうだろう、心が入らないと活きたものとはならないのである

●なぜ家族を妻帯を宗教は否定したのか

そもそもなぜ宗教では仏教でもキリスト教でも出家するとか家族を否定したのだろうか
妻帯でも否定したのだろうか?それはそもそも肉の交わりそのものもを否定したからだろう、肉から生まれるものを否定した、ということは家族そのものを否定した
そこが宗教の出発点にもなっていた、男女の交わりは肉の交わりでありそれが家族を形成してもいつか破綻する、崩壊する、そして最後は一人になる
家族も無常だったとなる、永続しないのものでありそれを悟ったから妻帯しないとなった家族でもそれはエゴの団体であり自分の家族さえよければいいということにもなる
それが拡大化すると家と家の争そいになり平家と源氏が家と家が戦争の始まりだったともなる、そもそも江戸時代でも一つの有力な家が一つの団体となり勢力を権力を持ったとなる、そして徳川家が治めたともなる、家の拡大したものが国になっていたのである
天皇でも天皇家があって天皇の赤子が国民だったとなるのもそうである、国民は天皇を父として家族だとなったのである

いづれにしろ家族は最終的に崩壊する、介護とかになったりして維持できない、両親でも死んで維持できない、ということは家族だけには頼ることができないともなる
家族には限界がある、いくら家族を維持しようとしてもできない、家族だけで何でもできないのである、それが自覚されていなのである、でも最後に自覚させられる
家族がみんな死ぬということもあり家族だけでは介護できないとかなる
それはみんなに起きることであり例外がないともなる、家族は何らかで消失してゆく
それはみんな死ぬからそうなる、必ず両親でも結婚してもどちらかが死ぬ、すると一人になってしまうのである

そして宗教でもカルトになると一つの宗教共同を形成するように偽装する、それも結局幹部とかによって困った人を助けるふりをして搾取するとなる、献金させて得すること権力を得ることしか考えていないのである、でもそうして騙されるのは何故なのか
それは偽装されたものでも頼るのはそれだけ頼るものがいないからそうなっている
安倍首相を暗殺した山上でも母親が夫が自殺して統一教会に頼ったからである
カルト教団はそもそもが信仰などない、御利益を得るための利権団体なのである
そこではあらゆる欲が肯定される、むしろ強い欲望を持つことを奨励している
それは金もうけでも何でもいいのである、ただ欲望を実現するために祈るだけのなであるだからそこからも地獄が生れている、そこに集まるのはまた地獄的人間なのである
その地獄人間が罰当たるとか地獄に落ちるとか言っているのだから空いた口が塞がらないともなる、御前はどんな人間か知れとなる、地獄行きが決まっている人間が言っているのだから信じられないとなる

●この世の地獄から脱出することが宗教のテーマ

結局宗教とは何かとなると仏教でも出家するとかこの世間からの離脱である
この世に生きるのは地獄人間である、その地獄人間に交わって生きざるを得ない、だからこの世から脱することがテーマになる、一見聖書だと何かユダヤ民族の物語のようにみて個々人は関係ないようにみる、でもそのテーマも脱出だったのである
この世から脱出だったのである、ノワの箱舟でもそうである、悪に満ちているこの世からの脱出であり出エジプトも脱出である、ソドム、ゴムラからの脱出だったのである
それが集団的民族的になっているから別だと見ているが今は個々人の問題でありやはりこの世からの脱出こそ救いなのである
この世はいづれ神によって滅ぼされるとういことである
まさに地獄の炎となってこの世は滅びる、地獄の世の中が滅びて新たな天と地が神によって作られる、そこに安住の地がある

第一いくらこの世を変えようとしても変えられない、必ず地獄が生れ地獄に生きることになる、それはそもそも人間の欲が消えないからである、だからこの世は欲で滅びるとなっている、原発でも再稼働となるのはやはり人間の欲が関係している
電気がなくては便利な生活ができないとなりやめられないとなる、別にまた車でもなくても死にはしないし電気がなくても死にはしない、なぜならこれまで人間はそういうものがなくても継続して生きてきたからである、貧乏にしろ生きてきたことは確かなので在り電気がなくても死にはしないのである
電気がなくて暮らせないというとき原発事故になりこの辺では故郷にも住めなくなった
その代償は余りにも大きいものだったのである

宗教的な問題は別にしてどうしても介護とかなくと家族だけではやっていけなくなる
だから近くの人が一人娘でも親をめんどうみない、金にケチだとかなりいつも行っていて話相手とか介護を手伝っていた女性は不満だった
それで今度は自分自身が脳梗塞になり行けなくなった、見舞いもなかったとか不満であり切れた、それも結局家族だけでは介護ができないということである
もっと他人でも心つかいがあるべきだったとなる、何か他人が入ることを嫌っていたからである、娘は遺産とかの関係でそうしていたとか言っている
でも他人はその遺産をねらっているとか入れたくないということがあったらしい
これも問題だった、一人娘でも親をめんどうみたくないということがある
でも他人でもそこに考慮がなかったとなりうまくいかなくなった
つまりここでも家族だけでめんどうみるのは限界がある、家族が崩壊してはいないにしろ家族だけでは介護とかなるめんどうみきれないとなる、だから家族遺棄社会になったのである

●見知らぬ他人に冷たい日本人

新幹線のデッキで大泣きする娘をあやしていたところ、他の乗客に誘拐を疑われ、警察に通報されて取り調べを受けたとの一件があった。

誰かがなにかを疑問に思ったのなら、警察に通報する前にたった一声かければよかったのに、と思う。「どうしたの、大丈夫?」と。そして一緒にあやしてあげればよかったのに、と思うのだ

子供の命より「家族」を尊ぶ日本社会の異常性

現代社会はこういうことが多い、それは余りにも不特定多数の見知らぬ人と交わる社会だからそうなる、結局見知らぬ人だからそうなる
村社会のような所で生きていないからである
もう子供に声をかけることもできな、あやしいとなり警察に通報される
ということは村社会のように日ごろから交わりがないからである
日ごろから何か共同性がないとしたらそうなるのである
広域社会だとそうなりやすいのである

また日本では村社会がアイデンティティになっていた時代が長い
そのために広域的な人間と交わる歴史がない、外国だと常に陸続きであり他民族でも交わらざるを得ないがそこで戦争にもなるがまた他民族の理解も生まれる。法律でも日本のように腹でわかるとか話せばわかるとかでは通じない、それで契約とか法律が生まれたのである
つまりなぜ日本では家族中心になるのかとなれば村社会という狭い範囲でしか社会を共同体を作れなかったからだとなる
そこで内と外を分けた、外の見知らぬ人は信用しないのである
社会というものが日本ではなかった、明治以降に生まれた言葉である
社に会すとは村の社に集まるの人たちである、それ以外は社会に入らないない人たちなのである、そうなるとこれだけ広域化グローバル化した社会に適合できないとなる
その問題が日本が家族中心になっている、公共的なものパブリックなものが欠けている社会になっている、それが福祉とか介護で問題になるのである

日本は家族に負担がかかりすぎる

このために家族だけでは処理できない問題で苦しむ人が多いこと確かなのである


2023年01月23日

未来の年表が現実化した原発事故周辺 (街中も家が壊され空地が増えたーやめた店も増える)


未来の年表が現実化した原発事故周辺

(街中も家が壊され空地が増えたーやめた店も増える)

ツルハドラッグは拡大している、鹿島区でも二軒になった、原町でも増えた
それは目に見えてわかる、南相馬市原町区でも二軒くらい増えたと見る、イオンの近くと六号線のキクチスーパーのある所にもできた
なぜこんなに増えるのか確かに1000軒から二〇〇〇軒に増えたというのも近くを見ても実感する
一方で通りを見たら家が五六軒壊されて空地になっていた
それは最近のことである、回りもそうだったが街中も空地化しているのである
まず商売している店は何軒なのか、二三軒なのかとなっている
街の通の薬局もやめていた、もう一軒の薬局もやめた、それはツルハドラッグができたためである、そこに客も吸収されたのである
第一そんなに薬局も必要がない、でも新しい薬局が厚生病院の隣にできた
たから薬局は必ず病院の脇にできて薬を調達しているから成りたつ

それにしても店が消失してゆく、家も壊されて空地化してゆく、未来の年表はもう先のことではない、今の進行している、街一軒の自転車屋も主人が死んで今はなくなった
だから自転車持っている人達は困っている
パンクでも直せないとどうなるのかとなる、街でも空洞化してゆく、つまり個人商店は成り立たなくなっている
でも原町区だと新しい店が生まれている、通信できる喫茶店のようものもできている
他に無人の餃子を売る店とかできていたし他にも新しい店ができていた
原町には新しいものができる、でも相馬市となるとイオンが撤退したのは影響が大きかった、何かあの一帯が街の中心とも見ていたからである
あそこで休むのが習慣にもなっていたからである、何か今は街中で休むということがあまりない、あそこはやはり街の中心になっていたのである

外国だと旧市街とか歴史地区があり新市街がある、観光するのは歴史地区の旧市街であるそこに古い城があったりする、相馬市は城下町であり一応歴史地区であり趣きがある
だから入母屋の庁舎にもしたし高いビルもないから城下町の雰囲気があった
日本でも古町と新町があり街でも栄枯盛衰がある
でも現代の問題は新しい街ができないことである、真野川沿いでも場所がいいのに新しい道はできてもそこに店などはできなかった、むしろやめた店もあった、そこにも廃墟の家があり活用されていないのである
街が活きていない、何か死んだ街になって行く駅前の自転車屋も暗くなり灯が灯ってないのも淋しいとなる
相馬市の中村喫茶店などは新しくできたのに藤の花が似合っていたのにやめた
コロナウィルスの影響もあり人が集まりにくくなったこともある
でもやめたのが早すぎた、せっかくあれだけのものをレンガの建物を建てたのにもったいないとなる、それは城下町に合っていたのである
ビートルズの曲を流していたしそれは団塊の世代とかでも昔をなつかしんで集まっていたようである、でも若い人は集まらない、そもそも若い人は少ないし金もないので集まらないとかある、高校生などはマグドナルドとかに集まっている

本当に未来の年表の予想していることは遠い先のことではない、ただいま進行中なのである、この辺では原発事故で双葉とか浪江とか小高でも移住してきた人達がいて新しい住宅地に住んでいる、だから人口的にはそれほど減っていないのである
でも街の通りとかは寂れている、家でも歯がぬけるように壊され消えてゆく
それは最近目立ったことだった、十軒くらいの家が壊されて空地化した感じになる
だから驚きにもなった、街は衰退してゆく、何か商売でも成り立たない、増えたのはスーパーが一軒とツルハドラッグである、そういうチェーン店しか成り立たなくなっている
駅前に農協のスーパーがあったときはまた駅前もそれなりににぎわっていたとか思い出すでもその時小さな店はやれくなったのである
そういう変化が常に社会にはある、でも今度の変化は日本全国に及ぶから違っている

そもそも自転車屋でも街に一軒は必要である、自転車を持っている人でもこれから買う人でも必ず修理とかあるので欠かせないのである
だから自転車屋もいない街というのは生活してゆくのに困るとなる
でも民間だと利益をあげなければやっていけないのでつづかないのである
駅は無人駅だったが高校生の見守り役として市で金をだして人を配置することにした
その人達には金は払われている
つまりこれからは今までのように必要でも維持できないものが出て来る
するとみんなが困るのだから商売でも成り立つように援助しないと保てないとなる無医村のようになる、ここだとまだ近くに市があるからなんとかやってはいける
ただ自転車屋でも簡単にできない、だから自転車屋でも他から来てやる人がいれば歓迎してみんなで市でも支える、それは利益だけではない、必要なものとして維持する

良く自転車を使う人は近くに買い物できる場所があればいいとかしきりに言っていた
その人は老人であり今度は脳梗塞とかなり歩くのもままならなくなった
だから近くに店があれば簡単な買物はまだできた、一応短い距離なら歩けるからである
でもそんな店はない、自転車に乗れたらスーパーまで買い物できた
でも自転車に乗れなくなったらできない、すると昔のようにすぐ近くに店があれば買い物でもできるし頼まれたものを配達もできると奈々、配達でも近くのだから届けるという感覚になる、戦後まもなくは隣に店があり隣近所の人が買い物して成り立っていたのである私の家でも店をしていてそうだった、その時は何でも万屋(よやずや)のように置いていたのである、だから近くだったら例え足が弱っても買い物ができるとなる
また届けることもできるとなる、何かその頃配達もしていたし自分が子供の時配達させられていたからである

老人になると意外に近くが大事になる、知っている人は病気になり車にも乗れなくなり
自転車にのってよるかとか言っていた、それで元気な時、親しい女性が買い物してくれていた、でもその女性が脳梗塞になりできなくなった、また仲も悪くなった
隣の市に娘が住んでいても一週間に一回しかこない、だから困っている
つまり一見車があるが手間になる、介護とか病気になったときなど近くがすぐ行けるからいいのである、でも今は近くが遠くなり遠くが近くなっている時代なのである
でもこれは高齢化社会には向いていないと思った
近くで用を足せるのがいいのである、車に乗れなくなったら困る、買い物すらできなくなる、車社会になったのも高齢化社会になると向いていないとなる
脳梗塞になった女性はもう二三百メートルの距離にあっても来れない、今までは自転車で来ていた、自転車にものれない、歩くとなると相当な距離になり来れない、家内なら歩けても歩けなくなったからである
すると近くが頼りになるのが近くに頼る者がないとなる、人でも病気とか介護になると近くが便利なのである、でも車社会とか広域社会になり近くに何か頼りになるものがないのである

今になるとこうして車社会であり広域化社会の負の面が現れてきた
車社会でも負の面が現れてきた、そうは言っても歩けなくなっても息子の車で来れるのだから車があることはありがたいとはなる
車社会になったことで近辺の店が成り立たなくなり巨体中央資本のイオンとかチェー店が増えた、つまり車社会の影響がどれほど大きいものだったかわかる
シャッター通りになったのもそうである
なぜなら車だったら郊外でも簡単に行けるからである、かえって街中は車の駐車場もないので行きにくくなったからである、それで人が車に乗らなくなると街を歩く人達が増えると活性化するというのもわかる、極端な車社会が現代の状況を作ったからである
でもそれは簡単にはできない、そういう社会になったときその社会に適合せざるをえないからである、でも車社会も行きすぎたものだったということを反省すべき時期になったとも言える

これだけ少子高齢化になると社会自体もまた変わることが望まれる
その社会は車社会とか広域社会とはまた違ったものになる
近くで用が足せるとか昔の時代を取り戻すともなる、病気とか介護とか老人になるとそういう社会が良かったともなる、車が運転できなくなるともう足がなくなる、そして近くでも疎遠になり助ける人もいない、孤独死とかも増える、だから時代も逆戻りすることもある、これだけ老人が増えたら老人向きの社会にもしなければならない
そんなことはいいと言っても現実問題としてそうなる、若者向きにしても若者自体がいないからである、そしたら商売にもならないのである
まず子供とか若い男性でも女性でも中学高校生はいてもその上になるとなかなか見かけないとなる

原発事故で避難区域になった町や村はもう自治体が維持できない、それは未来の年表が現実化している場所である、飯館村にしても一割以上が村外から来た都会からの人達であるでもその人達も年の人が多い、つまり老人になる人でありそれはやがて病気になり介護される人にもなる、今特別養護老人とかが順番待ちで入れないのは別に建物があり部屋は余っている、でも肝心な働く人がいないのである
それは飯館村などでも公共の施設が学校でも多額の金を補償金使って建てても生徒が五六人とか子供がいないのである、ここでも介護する人がいないとかなり青森の施設に送られたことがあった、どこでも人材とか働く人が減ってゆく、そして社会自体を維持できなくなる、その未来の年表がここではすでに具体的なものとして現象化している
どこでも後継者がいなくなり何でも維持できなくなる、ここでは自転車屋がなくなったということで現実化したのである






posted by 天華 at 16:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年01月22日

俳句の英訳の試み (外国語でもその言葉を深く理解しないと詩は訳せない)

俳句の英訳の試み
(外国語でもその言葉を深く理解しないと詩は訳せない)

木一本真すぐに伸びて冬の空

one stretching tree
in the winter sky
the strength of rooted one

冬の日や日々歩みぬ並木道

many lined trees
deep rooted one
stedy walking road
day by day in winter

石黙しようやく開く冬薔薇

the silenced stone
one rose blooms open at length
in my garden in winter

石一つ千歳動かず冬の星

one big stone
stillness
in long time
one winter star

共有す一つの場に生く冬深む

one common life
identified place
deepend winter

独自性,主体性,本性; 帰属意識.
lose one's identity 本性を失くす

社一つ昔を語り冬桜

the one small shrine
recount the past
cherry blossoms
in winter

countとは
数える数えるものは,何かの役に立つなど重要なものという意味合いがあり,そこで「数に入れる」「重要である」などの意が出てくる

これらの英訳は正確ではないです、どうしても意訳になる
言葉の意味を伝えるから英訳すると写生にならない
でもこの詩を訳すことは外国の文化を学んでいることにもなる
直接話さなくても文化交流となる、文化的には豊かになる
外国との交流は何でも文化交流になる
貿易だけではない、文化的に豊かにする、でもまた文化の相違で争いにもなる
でも芸術とかの交流だったら争いににならないのである


俳句は外国人でも作っている、でもそこに文化の壁と言葉の壁があり理解しにくい
どうしても俳句が外国人に理解されているとは思えない
確かに俳句を作っている人はいる、でもそれがどれほど理解しているのか疑問である
なぜなら俳句でも日本の国の風土と深く関係しているから理解しにくい
まず季語を理解することは日本に一年住んでその変化を知らなければならない
日本の四季が独特だからである、文化となると理解するのがむずかしくなる
日本語があり漢字がありとむずかしい、中国人は漢字を使っているのだから理解するのにはいいと奈々、中国から漢字を取り入れたからである、中国の漢詩からでも俳句の季語を取り入れているからである

ただもう詩となると言葉の芸術でもある、言葉に精通しないと理解できない
それで中国の漢字と日本の漢字の意味することが違っている
するとなかなか漢字を発明した中国人でも日本の漢字を理解できなくなっている
同じ漢字でも違った意味になっている、それで明治以降日本人が西欧文明の概念を漢字化して取り入れた、訳した、その訳した言葉を中国人が使っている
ということは漢字にはもともと西欧文明的なものがあり漢字で表現できたともなる
かなだけではとても表現できないものだったからである

漢字はそもそも中国文化の基であった、文明とは文のことだからである
漢字で文にして字にしたことで文明となった、この漢字はアルファベットとは余りにも異質なのである,アルファベットはあくまでも音であれ漢字は絵なのである
その相違が大きいのである、なぜなら言葉は最初は音から生まれている
音で通じ合っている、だから動物の鳴き声でもそれは音の言葉なのである
それで最近鳥が鳴き声で話し合っていることがわかってきたのである
何か危険を知らせるとかいろいろなあいづとして鳴き声がある、鶯でも人が近づくと警戒音を出す、それは鳥の言葉なのである

人間は言葉でも絵のようにするとそれは万人に通じやすい、だからエジプトの神聖文字も絵である、でも文になると高度なものでそれが文明を作ったとなる
言葉は話し言葉が基であるがそれは意外と文章とか字とかより通じていた
それは鳥でも動物でも鳴き声がもともと言葉であるのとにている
でも文字となると文章で表現することは相当に高度なものであり文明を作ったとなる
中国人でも言葉は多様であり一つではない、だから音が同じではないので音では通じにくいが漢字だと共通となり広い国でも多様な民族がいても通じ合うものとなり一つの国意識を持つようにもなった、今でも中国ではテレビで声でアナウンサーが話すにしても漢字のテロップも出している、つまり中国では音だけでは通じていないのである
だから中国全土に通じるのは漢字になっている、ということは漢字があって多様な民族をまとめること意思疎通ができたともなる
中国を旅行しても漢字を書いて通うじあうことができる、筆談できる
この辺に働ききていたミャンマー人はしゃべることができる、でも漢字を書くことはむずかしいと言っていた、漢字はそれだけ高度なのものなのである

これだけグロ−バル化するとどうして世界の人達と意志疎通するのかとなる、英語は世界共通語のようになっている、でも英語だけではない、言葉は多様である
その言葉を理解することが根本的にむずかしい、結局言葉をものにするということは話すとでもそうだが読み書きできてこそものにしたとなる
では英語で文章を書けるかとなるとむずかしい、読むことはできなる、文章にするのはむずかしい、ただ機械翻訳である程度は文章化できる
でも詩となると相当に難易度が高い、そもそも日本でも詩を理解することはむずかしい
俳句でも詩だからむずかしいのである
ただ異文化交流すると文化交流になりそこで新たなものを発見する
ただ発音が違うというのではない、その言葉の持っている意味も表現も違ってくる
ただつくづく人間の発音は生来のものでありネティブなものであり変えられない
中国人の女性がコールセンターで働き説明していたが日本人ではないことはどうしてもわかる、中国人だとわかる、それは発音が違っているからである
それは国の訛りと同じなのである、その訛りを消すことはできないのである

俳句から世界との文化交流も起きる、日本語で表現するのと英語であれ他の言葉表現する時感覚的に違ったものになる、それは言葉の持っている意味が違っているからである
ただそこに共通なものがある、だからいくら国が違っても文化が違っていても理解できるものはある
でも言葉一つとってもその言葉の意味を深く知ることはむずかしい、その言葉でも背景に風土があり長い歴史があり作られてきたものがある
その背景を知ることがむずかしいのである、そもそも英語が成立した背景がある
英語はドイツ語が基礎として生まれている、だから英語とドイツ語は共通することが多いだからドイツ人は英語は方言のようなものになっているとなる
ヨ−ロッパ人は英語を話しやすい、それはロシアとかスラブ系でもそうである
ウクライナ人が結構英語を話していることでもわかる
日本人の問題は日本語のルーツもわからないし孤立語になっていることである
日本語と共通なものが世界にないのである、いろいろ探ってもわからないのである
でもヨ−ロッパなら共通な面があり理解しやすい、方言のようにもなってるからだ

いづれにしろ詩は言葉の芸術である、すると言葉を深く理解しないと作れない
その言葉の意味するものがヨ−ロッパの歴史であれ風土から生まれている
だから言葉だけからは理解できない、文化はcultivate-cultureからきているからだ
つまりその土地を耕す、深く耕すことから生まれている、言葉それぞれの土地から離れてありえないとなる、ただ日本語でも俳句でも英訳すると簡潔になる
何か無駄のない感覚になる、、もともと俳句は無駄を極力省いたものである
だから写生になった、悲しいとかうれしいとなるべく感情的な言葉を入れないのである
それだけ短いのだからそこにある実写したそのものも俳句にする写生俳句になったのである

石があり葉牡丹があり木の根っこがある、ただそこにあるものを実写してそれについてあまり語らない、説明しない、物そのものを通じて説明するとなる
それが写生俳句の真髄なのである、それは短いからそうなったのである












続きを読む

2023年01月21日

機械の操作に追われる時代ーパソコンなしで暮らせなくなった時代 (win8.1からwin.11移行の苦労)


機械の操作に追われる時代ーパソコンなしで暮らせなくなった時代

(win8.1からwin.11移行の苦労)

win8.1からwin.11へ移行することは苦労になる、アマゾンで登録しようとしたらできなかった、何回やってもパスワードを変えて登録するのもできなかった
そこでコールセンターに電話したがそれでもできなかった
コールセンターの人は二人の女性でありそれも中国人だったのである
だからこんな高度なものを指示できるのかとも思った
前はデルのパソコンの時も中国人の女性がコールセンターで説明した
アマゾンでもデルでも別にグロ−バル会社だから仕事ができればいいとなる社会である

でも結局パソコンなどでわからないことはいろいろな原因があるから結局自分自身で解決するほかないのである、それは前からそうだったのである
いろいろな外付けの器具でも合わないことがあり使いないとかめんどうなものだったのである、でも今回でもデルのパソコン自体に問題があったかもしれない
だからパソコンは自国のものがいいとかになるかもしれない、私は親指シフトを使っているからどうしても富士通を買っていたのである

結果的に前のパソコンでアマゾンに登録できた、何かメールを送られてもデルのwin11のノートパソコンで正確に表示されないともみた
それはわからないにしても何かパソコンが変わると不具合がやはり出るのだろうか?
パソコンは安全のために二台必要なことがわかった
win8.1が危険でも通信していなければ安全である、記録は保存できるからである
この記録が消えることがパソコンの最大の問題なのである

今度はビデオレコーダーが壊れた、そしたら記録したのものがとりだせない、全部消えたのである、前にもそういうことがあった、でももしデスクに記録していれば消えないのである、それはパソコンでも同じなのである
クラウドにしてもこれも何かわからない、これも雲をつかむようなものになる
意外とアマゾンでもそうだったようにパスワードが忘れてアクセスできなくなるのであるそれでオフィスとかにアクセスできなかったのである
このパスワードは自転車の番号を合わせる鍵でもそうだった
どうしても番号を忘れて結局百円ショップで10個くらい買ったからである
このパスワードは大きな問題である、それで顔認証とかがでてきたのである
パスワードの怖さはパスワードがわからなくなり部屋に閉じ込められて出れなくなったことである
フィクションにしてもそうして死ぬこともある、脱出できなくなるからである

今日はビデオレコダーが送られてくる、今度はこの後ろの配線もめんどうだったのである何かいろいろ電器製品でもいいものがあり買ったとしても操作が結構わからない
意外と簡単なものでもわからない、わかるまで時間がかかる
まずスマホなどでもそうである、これをしていたら暇なしスマホを見ていなければならない、だから私も買ったがほとんど利用していない、もう機械の操作で他に何もできなくなる
現代とは機械に頼り機械の操作に追われる、それは農業でもそうである、IT技術を利用したスマート農業とかでもそうである
今までは人を使ってしていたがみんな機械に頼る、今や家事でも機械化しているから家政婦とか家で働いていた女性はいらない、そして価値観が変わったのである。ただ料理だけが価値がある、これ女性でも簡単にできないからである

女性の価値はただ家事をすることではない、例えば話しがうまいとかは花に興味があって話しができるとか単に掃除とか皿洗いとかすることではない、だから現代ではそうした下働きは機械がするようになる、でもやはり女性でも女性として話しがうまいとか他に何か話すことが面白いとかで価値がある
それは男性でもそうである、みんなアーティストになれというときもそうである
それも不思議なのだけど機械が仕事する時代になると価値観が変わったのである
昔だったら戦前だったら一軒の普通の家でも女中二人を雇っていたときがあった
それは家事がそれでけ労力を必要としたからである

ともかくトイレが壊れて22万かかりその前に地震で壊れて修復して40万かかり
今度は家に来る人の女性の息子が交通事故になり中古車を買うのに金がないと50万やりさらに次はキッチンが壊れて直すとかなる、結構大きな金を使うのもいたい
この辺の地震の被害が意外と大きかった、今だに家を直している、まだ直されていない家もある
どうも今年は幸先が悪い、パソコンはもうないと仕事もできない、ただパソコンでできることは出版から販売から何から何まで一人でしているのである
もしカラーの本を出したりしたら相当な金がかかるから普通はできない
でもパソコンだと結局出版社であり製作者であり販売者であり全部一人でしているのである、印刷もしているからである
これだけのものをパソコンだと一人でできるのである
ただ記者は必要である、取材とか簡単にできないからである
そのコストはやはり払わなければならない、でもその後の放送とか出版は一人でもできる時代になったのである、youtubeだとテレビ局にもなっているからである

また本の整理にも苦労している、本の問題は千冊あるとして実際は読んだ事も忘れているびっしり線をつけているのにその文を忘れている、ということは読んでいたのかとなる
もしパソコンのようにインタ−ネットのように検索できると便利だかできない
だから本を大量に買っても利用されていないともなっていた
インタ−ネットの検索だと集団知となりそれらを編集するとまた別なものになる
それは自分がしている抽象画とも似ている、それは膨大にある映像を自分なりにソフトで加工して創造しているからである、でもそこに著作権の問題が出てきていることは言えるでもやはり創造になっているのである、だから今や知識はこうして検索して編集してまた新たなものとして創造することができる時代である
でも本当の内容があるものは本にある、その本が検索して活用できないのである
そこがもったいないと思う、いづれは著作権の期限が切れれば活用できるようにはなる

またニュースでもヤホーニュースの解説などでも私自身がそれを引用して批評したりできる、こういうことは今までできなかった、新聞の記事や解説に何か言うこともできない
テレビでもそうである、だから一方的洗脳機関にテレビはなっていたのである
youtubeだと放送局にもなっている、そこで教育番組も作れるからである
だから出版社でもそこで教育番組をコンテンツを作り売るとなる、現実にそれは個々人でしていて収入にもなっている、ただこれも娯楽番組は視聴率を稼げているが専門的なものはなかなか見ないからテレビと似ている、多数を相手にするとどこでもそうなるのであり質が低下するのである、ただインタ−ネットのいい点では小数者相手でも成り立つことである、極端な話一人で視聴者がいれば成り立つ、対話的にも成り立つのである
ではそれが意味がないかとなればある、それができるのはコストがかからない

ただ手間だけは省けない、つくづくプログに記事を出すのに半日かかる
これだけは省くことはできない、でも機械に頼る時代であり機械の操作に追われるのも
問題だと思った、だからスマホを手に取ってしょっちゅう見ていたらかえって頭が悪くなるとか研究されて言われるようになった
子供にとっても良くないのである、旅をしてもその場の雰囲気とか土地の人でも少しでも話すとかすることでわかるものがある、その場の風や光りでも違うから感じることが大事である、それが記憶されるからである
だからこんなに機械に頼ることは問題がある、でもどうしても時代でありそうしなければ現代の生活は成り立たなくなった、車を批判しても車無しでは仕事もできないからであるパソコンなしではスマホなしではもう生活もできなくなっているのである


2023年01月20日

冬薔薇、冬の灯、冬の空、枯木、冬の暮 (農家育ちの老女が昔を語る田舎の冬)


冬薔薇、冬の灯、冬の空、枯木、冬の暮

(農家育ちの老女が昔を語る田舎の冬)


treephoto111.jpg


依然として死者は家に取りついている、離れたくない
家はだから物だけとはならないのである

winterrose1234.jpg

winterrose22222.jpg

木一本真すぐに伸びて冬の空

門古りけ農家一軒冬菜かな

古井戸や昔を残し冬の暮

冬の灯や近くに親し家一軒

晩年に才の開くや冬薔薇

石静かようやく咲きぬ冬薔薇


玄関の曇り硝子に映りたる枯木の影や母をし想ふ

この家になお離れじと玄関の硝子に映る枯木一本

冬の薔薇一輪開き間をおきてまた一輪開くを待ちぬ

我が庭に冬の薔薇咲く一輪や静かに見つつ今日も暮れにき

冬あわれ農家生れの老女なれ昔を語り時は過ぎゆく


農家に育った女性は何か街で育った人とは違う、土着的なものを感じる
土地と一体となり生きたとうい感覚になる
農民的体質を感じる、なぜなら茅葺の家にも住んでいた、意外とあたたかいという
土間があたたかいというとき土だからあたたかいとなる
茅葺の家でもやはりそこに人間が培った技があり知恵があるとかなる
だから必ずしも古いものがすべて遅れたとか悪いものだともならない
ただ今になるとなかなかわかりにくくなった
ただ一軒の農家でも自給自足的な暮らしをしていた
まず農家だと買うということがあまりなかったろう
街だとやはり買うことがある、食糧自体買うからである、水さえ隣の井戸からもらっていたとかなるからだ、とにかく現代は買うことが多すぎる
そのために金がかかり結果的にすべて金で計られる時代になったのである
その女性は老女十ならない、72歳だから今ではならない、でも苦労して病気にもなり10歳老けてみえる

何か介護とかなると近くに親しい人がいると助かる
なぜなら隣であれすぐ近くだと毎日のように気軽に行ける、様子もたずねることができるでも隣の市でも8キロ離れたとしても遠くなる、車があっても手間なのである
だから相馬市まで15キロになると結構手間なのである
その人は一人で家にいる、糖尿病でもある、今までは100メートルくらいしかないから歩いて行って話し合い相手になったりしていた、でも脳梗塞で入院した結果そこまで歩いて行けなくなった
また何か不和になり行かなくなった、娘は一人娘でかわいがって育ても冷たいと言っている、金に厳しいとも言っている
その女性が来ても財産ねらいなのかと気にしていて病気になって入院してもお見舞いもないとか言って切れたともなる
ここでもういくら血縁であれ親族であれ近くでも疎遠になることがある
かえって他人が親しくなり助けることもある
それで家族遺棄社会が言われるようになったのである
ともかく介護になるとどうしてももう家族だけではやっていけないのである
負担が大きいからやっていけないのである

冬は昔を語るのにいい、昔を回顧するのにいい、そして人間は待つ時間が悠長に待つ時間も必要である、薔薇でも一輪咲くのも遅かった、それから蕾となりまたそれが開くのに時間がかかる、早く咲かせることはできない、そこに時間の作用が必要である
現代で失われたのはこの待つ時間である、待っている時間の余裕がないのである
駅でいいのはこの待つ時間があったということである
たとえ10分でも待っている時間が人間的だったのである
高速のSAで待つということがないからである
そして本当に待つ時間がないというとき人間が成長させるにも子供をみるにも時間の余裕がない、絶えず膨大な知識に追われじっくり何かを追及する時間がないのである
ただ正直自分の場合は才能にしても華開くのが遅すぎたとはなる
何か理解するのに何でも遅すぎたのである、勉強の方法も悪かったのである
何かやっと冬になって薔薇が咲いたとかなるのと似ている




2023年01月19日

発達障害者とか精神障害者でも社会からただ排除すべきものなのか (誰にでもなる認知症も排除できるのか)


発達障害者とか精神障害者でも社会からただ排除すべきものなのか

(誰にでもなる認知症も排除できるのか)


精神障害者の母

精神障害者も人なりと
老いたる母は強く言う
犬猫のように捨てられか
もし施設に入れるというなら
私は戦うと体張って言う
子を守るために母は強し
その愛は無償の愛なり
何か子を世間に誇る者なしも
ただその愛は無償にして注がれる
何の報いを得られじも
母の愛あり母は強し
動物も我が子を犠牲にして守る
その時小なるも大に挑む
精神障害者は無用なりしか
ただ意味無きものか
さにあらず真にの母の愛を
示すものとしてありぬ
そのことのありて無益にあらじ
この世に何か意味を定められじ
意味なきことにも意味がある
この世は何が有益無益かもわからじ
故に安易に人の価値を定むべからじ
無用と思う者にも用あり
その母の無償の愛を知るべし


●精神障害者に生きる意味があるのか?

●精神障害者を世話することに何か意味があるのか?


発達障害とか認知症のことをを追及して来たが人間というのは何が意味あるのか価値があるのかわからない定められないのである、精神障害者は何の役にもたたないごくつぶしでありただ迷惑者であり負担をかけるだけの存在だからと抹殺すべきだとして19人も殺害した人がいる
ただその人たちは重症の精神障害者だった、発達障害者は軽症の精神障害であるから違っている
でもやはり病気の一種である、先天的に脳の障害がありそうなった
精神障害者には先天的なものと後天的なものがある、何か誰にでも発症する危険はある
社会生活でストレスがたまりそうなることがある
また社会に適応しにくい性格もありそれは学校に適応しにくい人もいるのと似ている
私自身学校になじめず学習障害者のようになっていたからである
学校でどうしてもなじめず勉強嫌いになる人はいるし自分自身がそうだった
ではその人は無能でそうなったのかというと違う、その人なりの性格があり才能があっても発揮できない、伸ばせないとういことがありそうなったともなる
発達障害も何か絵が得意でそれで社会で認められることがあったとか得意な分野を伸ばせば社会でも認めるとなる

ともかく人間の問題は様々あるけど人間に起きることは人間が完全な存在でもないし
弱い存在でありそして生老病死があり人間には病気でも老いでもさけられないものとしてある、精神障害も先天的にも後天的にも起きてくる
それが健常者とも関係ないのかとなると関係ある
特別健康で頭もいい優秀な人でも認知症にかかる、それを目の当たりにしてショックだった、そして認知症は誰でもかかる、800万人が認知症になる時代というとき老いればかかるのである、それは精神障害者となるのである
つまり誰でも生涯の中で精神障害者になる確率が高いのである
誰でも老いるし老いをさけるここともできないからである
とういうことで精神障害者の問題、発達障害者の問題は関係ないものともならない
認知症でも精神障害者だからである、何か似ているのである
つまり人間に起きることは他人事ではない、精神障害でも認知症になると確実になる人が多いからである、そしたら精神障害者と同じでありそんな人は人間ではないとされたら恐怖である、それは親がなるからである、子が精神障害者の場合は親の愛がある
今度は精神障害をの親を子を看ることになる相違なのである

つくづく人間には本当に様々な生きるリスクがある、その最たるものが病気なのである
精神障害も病気である、いくら科学技術が発達しても意外と現代は精神疾患が増えてい
うつ病でも増えている、それは必ずしも先天的なものとは限らない、後天的に環境の影響でもなる、だから誰しもそのリスクはかかえている、もう認知症となれば誰にでもなるしさけられないとるでなる、なぜなら90歳以上になれば半分以上があるからである
老いも原因でありそうなると誰も避けれないとなる
だから精神障害というのも実は社会的問題でもある、うつ病などはそうである
個々人の問題より社会問題として引き起こされる、時代病かもしれない、何か今度は別な息子が交通事故になったとかもしかしたら交通事故のようなものかもしれない
不可抗力にもなるの精神の病だとなる、だから精神の病にかかるリスクは誰にでもあるとなる、無関心ではいられないとなる

その時発達障者をもった母のように犬猫ではない人間であると主張して捨てられるのかとなる、施設に入れることはすべて悪いとはならないにしても気持ちとして捨てる感覚になっていいのかとなる
ただ母はそう思っても兄弟姉妹となると愛がもちにくいので捨てるとなる
すべてではないにしろそうなりやすい、それだけ負担が大きいから必ずしも責められないことはある
つまり家族でも捨てる、特に親の介護となる捨てるのが当たり前にもなる、施設は現代の姥捨て山なのかともなる、それも捨てる方にすると経済的な問題が大きかった
なぜならみんな貧乏でありとても老人まで食べさせていけないという深刻なものがあり食い扶持を減らすためにそうしたともなる
でも現代はまだそこまでいっていない、なんとか最低限食べさせてめんどうみる余裕はある、でもやはり貧困化するとめんどうみきれないと全体的に国自体でもそうなりやすいことは確かである

2023年01月17日

精神障害者自身が生きる意味と世話する人のモチベーション (なぜ殺害が起きたのか?)


精神障害者自身が生きる意味と世話する人のモチベーション

(なぜ殺害が起きたのか?)

disorderman.jpg

神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年に入所者19人が刺殺された事件の裁判員裁判で、横浜地裁は16日、殺人などの罪に問われた元職員植松聖(さとし)被告(30)に死刑を言い渡した。
共同通信によると、植松被告は意思疎通が十分にできない障害者には人権がないなどと主張していた。
この事件は日本の犯罪史上最悪の、犠牲者が多数に上った殺人事件の1つとなった。凶悪事件が少ない国で、国民に衝撃を与えた。
これまで植松被告は毎日新聞の取材に対し、知的障害のある人は「生きる意味がない」とし、「社会のためにやらなければならなかった」などと述べていた。




精神障害者には生きる意味がないと施設に勤める人がそう言ったて十数人も殺害した
ここで問題になったのは精神障害者自身の問題と世話する人の問題があった

●精神障害者に生きる意味があるのか?

●精神障害者を世話することに何か意味があるのか?

これが問題になったのである、どうも発達障害者の兄弟でも兄弟の関係でも兄は障害者でも弟はそもそも世話したない、常に障害者の兄に厳しく接している
世間のことを理解できないくては困るとして従わせようとしている
相手が発達障害でも容赦がないのである、そこに相手が病気であり病気でも世間の常識を人間としての常識をわかってもらわないと困る、それで厳しく指導しているのである
それで弟は施設に入れたいのである、かかわりたくないとなっている
ここで関係してくるのが福祉関係の人たちなのである

でも発達障害者の人は施設に入りたくないとしている
そして母親は強い愛情があるので施設に入れたりするなら戦うと言っている
母親は強い母の愛がある、だからそう言っている、弟にはない、兄弟にはない、また姉妹でも母の愛を持つことできないのである
私はただ客観的な立場としてあり別にとっちにも組しないのである
精神障害者を責める弟にも兄弟にも組しないのである、ただ母のような強い愛は持つことはできない、だから病気になったが母が健在であるかぎり発達障害者でも施設に入れることはできない、だからそもそも精神障害者に人権があるのかどうかとか議論される
そんなものがないとして植松被告は殺害したのである

植松被告は重度の精神障害者と接してこんな人達は人間ではないと殺したのである
相手が人間でないとすれば相手の生きる意味も存在すら許されないとなる
そこに世話する者がいて甚大な労力がかけられるしコストもかかるからである
ただ母とかなれば母の愛がありそういう障害者でも母は愛しているし生きることに意味がある、それは何かむずかしい哲学でもない、ただ母の強い愛があり息子を生かしたいとなるからである
問題はそういう強い愛を兄弟でも姉妹でも持ちえないのである、その世話する労力も甚大になり人生するら犠牲になるからである、その相違は大きいのである

母は相手は人間なのだ、施設に入れることは反対する邪魔者として社会からとりのぞき施設に収容することはできないとしきりに言う、母にとって障害者でも息子であり人間として扱っているからである、でも兄弟でもそう扱いないからしきり文句言っている
つまり兄弟姉妹が精神障害者を世話することはなかなかしにくいということである
私は認知症にっなたは母でもあり姉を人間としてそれも健康な時と同じように扱い大事にしてたてることができたのは特別良くされたし家を作り家を支えた女性だったからであるだから苦しくても認知症になっても一家の主のようにしてたてていたのである
そういう立場にあったから継続してそうなったのである

でも相手がやはり認知症になりわからなくなっているのたからそれはおかしいとなった
だから私はうつ病になったのである、たいがい精神障害者が家族にいるとうつ病になるのである、いくら相手をたてるにしてもそうしていると自分自身がおかしくなってゆくのである、そんなふうにはならないと世話している弟は厳しくわかってもらないと困るとして対立する、だから精神障害者の兄はひどく嫌っているのである
そのことは私もわかった、発達障害者が接してはならない典型的な人だったのである

ともかく発達障害者でも精神障害者でもどう対処するかどう見るのかむずかしいと思った母が言うには相手は物でもないし犬畜生でもない人間だとしきりに言う、人間として扱わねばならないというのである、それは母としての強い愛をもっているからである
だから施設に入れることは強く反対しているし福祉関係の人とも戦うとしているのであるつまりここで問題になっているのは弟であり姉妹であれ兄弟であれ母の愛は持っていないやっかいものとして施設に入れた方がいいとしているのである
その相違が大きいのである、強い愛を持つ者と持たない者の差がここに大きく出ているのである

私にも姉とか母に愛があり介護ができた、というより特別60歳まで三食用意してくれたり世話してくれたからである、そのために強制されることもなく必死になって介護したのである、こんなに良くされた人はなかなかいないと思う、特殊の事情でそうなったのである、ただ家族が一人のできそこないというかいてめちゃくちゃになっていることもある
その息子は両親でも暴力をふるい一緒に住めなくなった、息子は本当に家族を崩壊させたのである、親もどうすることもなく家から脱出して住んだのである
これも悲劇だし一人のできそこないの息子を生んで育てたことにより何の報いもなかったとなる、それもあまりにひどいとみる
それで息子を殺した人もいたがここでは殺すこともできない、なんとかなだめようと必死になっているだけである
そういう家族もいるから子供をもってはずれたら恐怖にもなる

精神障害者とは何なのか、その人に人権があるのか、人間なのかともなりその答えはむずかしい、ただ母にとってはかけがえない人であり人間なのである
そうなるとその息子をただ社会の厄介者であり社会から抹殺すべきだともならない母にとってはかけがえないの愛する人間だからである

精神障害者に生きる意味があるのか、

また世話する意味があるのか

この二つの問いがある、現実にそれは精神障害者に対してみんな感じるのである
だから人間でもない精神障害者を次々に殺害する事件が起きたのである
母親にとっては息子が精神障害者でもやはりかわいい息子なのである
また兄弟でも姉妹でもそういう女性がいたからこの場合はみんなにはあてはまらないのである

ただ本当にこの問題はむずかしい、私は親が家族が認知症になっても病気の前と同じように接していた、だからうつ病にもなった、でも二年くらいで死んだので救われたともなるそのくらいなら苦しくてもなっていた
でも長くつづくとなると苦しいとなる、耐えられないともなる、とにかくこうして兄弟姉妹は世話しにくい、親子関係ならいろいろあっても愛情を注いでくれたし世話になったのだから苦しくても仕方がないとなる、また愛情は認知症の人でもわかるし通うのである
それで最後は感謝して死んだのである、認知症の場合は普通の人としてまた優秀な人として生きた人でありまた世話してくれた人だから粗末に扱いないのである
そこが生まれた時から発達障害者になって世話される人とは違っている
でも何か似ていることがあると見た、プライドがある、だから馬鹿にすると怒ることも似ていたのである、お前はは何もできないとか叱責すると怒るからである
そういう人は世話できないとなる、そこに認知症と違って介護でも世話でもむずかしいと見たのである

2023年01月16日

君子危うきに近かよらずー小人閑居して不善を成す (このことを人間は守れないのはなぜか?)


君子危うきに近かよらずー小人閑居して不善を成す

(このことを人間は守れないのはなぜか?)

「君子危うきに近寄らず」の意味とは? 使い方や類義語とともに解説

このことの解説をしていたが何か違っていると思った
この君子危うきに近寄らずとはその意味が奥深いのである
これがわかるのは相当に人生経験をしていないとわからない
あの時なぜ失敗したのかとふりかえるとそうだった
人間はほとんど君子危うきに近寄らずを守れない
それは何故かとなれば人間には欲があるからである
だからその欲のために危うきに近寄るのである
美人見たら性の欲望が抑えられないとなり過ちを犯すとなる
つまり人間の欲はその他いろいろありそのために君子危うきに近寄らずを守れないのである
だからこの格言を守ることは不可能に近いとなる
なぜこれほど事件が日々起きて来るのか、もめ事があるのか、それは誰しも欲があり
その欲のために危うきに近寄るのである
何か儲け話でもそうである、今や地銀とかでも経営が苦しいから投資信託を売りつける
投資は悪いものではないにしろそれもつくづく危険をともなっている
投資信託とか株でも知っていて自己責任ですれば問題はない
でも知らないですると君子危うきにかえって近ずいて大損するとなる
だから本当に君子危うきに近かずくことは不可能に近い
隠者になることは相当に難易度が高いのである

自分自身が引きこもりとなり隠者のような生活をしてきたがそのために社会性がなく肝心のことすら知らないことになり親の介護になり死ぬほどの苦労をしたともなる
つまり隠者というのも問題がある、社会を知らないことはそのことで必ず苦しむからである、君子危うきに近かよらずとはこの世には余りにも危ういことが多すぎる
何か事件があるとしたら何かやはり危うきものに近づいてそうなった
そうなるとまず女性というものにく近かずくものも危険だとなる
でも女性にあえて近づくのは男性の性欲があるからだとなる、ではそうならないのにはそもそもその性欲がなくならないとそうなるとなる
そのことから様々な問題が事件でも生まれているのである

ただこの世の中何が危険かわからないのである、男女関係だけではない、金銭関係でも危険がひそんでいる、だから何らかで危うき近かずき失敗する、それは自分自身でもそうである、何か危険かわからないのである、何かの調子で君子危うきに近かずいていることがあるからだ、つまりそれだけ君子危うきに近かよらずは守れないということである
だからこそ隠者になることなど相当に難易度が高いし誰もなれるものでもない
いづれ何か問題を起こすのである、だから小人閑居して不善を成すとういうのもそうである
これも自らの経験で理解した、小人が高等な隠者になることは至難だとなる
引きこもりであれニートであれその人達も必ず不善を成すのである
一見社会に迷惑をかけないからいいじゃないかともなるが何か問題を起こしやすいのである、それがいつか表面化するのである
そういうことができるのは特別選ばれたまさに君子しかいないとなる

「君子危うきに近かよらず」「小人閑居して不善を成す」これは本当にこれを実行できる人は本当にまれだと思う、余程優れた人でないとできないと思う
それは自分自身の経験で理解したのである、自分は小人だということを理解したのであるとにかく何かもめごとでも事件でも巻き込まれるのがこの世である
それから身を守ることは本当にむずかしい、どこでそういう災いが生まれてくるかわからないのである、でも知らずに巻き込まれ人もいる、でも基本的に人間の欲があるかぎりそうなるのである

カルト教団などもそうである、その人達に教団に近ずくことは危険である
でもいろいろ問題をかかえていて近づくことになる、その動機が人間の欲なのである
奇妙なのは宗教は欲を抑えるものとして禁欲から生まれたものだがカルト教団はむしろ人間の欲でそれを刺激させて会員を増やすのである
御利益がある地位とか金が得られるとか美人と出合えるとかあらゆるこの世の欲を刺激して会員を増やすのである、だから全く本来の宗教とは正反対のものとなっているのであるでも純粋な若い人だとそれがみぬけないことがある、でもなぜそんなに祈っているのか
選挙に勝つために祈っているのか、それはこの世の欲を実現させてくれるからだとなる
もちろん病気を直すためとかもある、もともとは病気が人間の一番の問題だったからそこから宗教が普及したのである、科学技術が病気を直すようになってからはそういうことがなくなったのである、でも依然としてカルト教団などが跋扈するのは科学技術でも解決しない問題が人間にはあるからである

人間はカルト教団でもあれどうしても危ういものに近づく、それが避けられないのであるだから老人になって人生をふりかえるといかにこの世が危ういもので満ちているかわかるそのために命を落とすものも多いのである、その原因は人間にはいろいろな欲があり欲を抑えられないからである、それで君子危うきに近かよらずを守れないし小人閑居して不善を成すとなるのである
だからこの格言は本当に短いにしろ深い意味がある、それは現代でも通用するのである
そういうことが普遍的真理なのである、時代が変わってもに人間の欲はなくなるわけでもいなから通用するのである、聖書でも人間は欲で滅びるというときそうである
それだけ人間の欲は消えることがないからである、それは科学技術がいくら発達してもそうなのである、人間の欲は消えることがない、消すこともできないのである
科学技術が発達しても理想の国など生まれないのである
とにかく人間が津波でも地震でも病気でも災いに満ちていることを痛感した、そして人間は人間関係でも必ず不和が生じる
結婚しても三分の一は離婚しているのである
この世はこうして災いが絶えないのである.
それで最後は神によって滅ぼされとなっているのである、そういう人間の不和は災いは消えることがないからである

文明と交通の発達は不可分に結びついている (現代文明は運送社会ーでもコロナウィルスとかで歯止がかかった)


文明と交通の発達は不可分に結びついている

(現代文明は運送社会ーでもコロナウィルスとかで歯止がかかった

carrycost.jpg


運送費用が大きい


●文明と交通

文明と交通は深い関係がある、なぜなら四大文明が起きた所は大河がある所だったからである、エジプト文明はナイル川がありインダス文明はインダス川がありメソポタミア文明はユーフラテス川がありと黄河文明は黄河がありまた揚子江がありと文明が起きた
なぜ川が文明を作ったのか、エジプトだと定期的に洪水がありその洪水が肥沃な大地を作った、川が養分をもたらして肥料となっていたのである
川にはそういう効果もあったが交通の道としてあり川は物資を運ぶもの人を運ぶものとして結びつけることで文明を作った、つまり商業が発達したのである
ともかく大陸の川は長大であり運河のようになっていて船の航行に向いていたのである
日本の川は滝だと外国人が言ったが大陸の川と比べるとそうなる、とても船が運行するには向いていないのである
それでも川がやはり原始時代には道になる、なぜなら森は道になりにくい、川ならなんとかたどっていけば上流へ行けるからである
ヨ−ロッパでも川が運河のようになっていてそれで川を通じてハンザ同盟とかができた
それは商人が国家を越えた同盟を結んだのである
つまりこの川を理解しないと外国の地理でも歴史でも理解できないのである

とにかく文明と交通は深く関係している、だから文明の一つの見方としていかに交通が発達したかを見ればわかる、草原地帯だと馬が交通の手段となりモンゴル帝国が生まれた
遊牧民は移動する民だから自ずとそうなった、馬が強力な武器となったのである
馬は日本の侍でも馬を持つ侍が偉いとなる、そのために馬を飼う専用の人を雇っていた
戦争でも馬を持っているものと馬を持たないものでは大きな差があるためである
相馬野馬追いがあるがこれも相馬氏が馬を操作することにたけていたのでこの地域の支配者になったのである、それが今でも継続されて祭りとして残されたのである
馬は強力な道具であり武器にもなった、今なら車と同じである、現代では車をもたないものは下等民ともなる、車も持たない運転できないのかとなれば劣った人間にみられる
車がない自転車に乗っているだけで怪しい奴だと警察に職務質問すらされる
そういうふうに馬を持っているもの馬に乗れる者と馬を持っていないものの差があった

文明を見る一視点として交通から見ることは欠かせない、日本でも汽笛一声新橋を・・
と蒸気機関車が横浜で通じたことで文明開化になったことでもわかる
その時日本国家は関所もなくなり統一国家として目覚めたとなる
それまで関所があり藩ごとに閉ざされた世界で生きていたからである
だから交通の発達が社会を変えたのである、そもそも江戸時代の不思議はなぜ駕籠のようなもので人を運んでいたのか?それが理解できないのである
そんな時代から蒸気機関車になったのだから驚きだとなる、船の運航は別に北前船などでもあった、でも陸路は歩くとかであり相当に遅れていたのである
戦前でも戦後まもなくでも交通は不便だった、鉄道は発達していても馬車とかリヤカーとかが運ぶ手段だった、それで鹿島の横手の梨農家の人が相馬市に前の中村市に梨を運び売っていたという、これも相馬市となると15キロあるから大変な労力である
でも梨でも数が多ければそうするほかなかったとなる
今ならいくらでも車で運ばれるからその差も大きいのである

●グロ−バル化広域化は運送社会になったため

社会が世界が広域化グロ−バル化したのも交通の発達があったからである
なぜなら大航海時代は船であり船だと軽く一か月とかヨ−ロッパに行くにしてもアメリカに行くにしてもかかった、でも船でもやはり世界を結びつけたのである
その当時は飛行機はない、今度は飛行機が世界を結びつけてグロ−バル化したのである
だから交通の発達がいかに世界を変えたかである、文明と交通は密接に関係している
現代文明とは運送社会でもある、田舎でも運送にたずさわる人が多い、トラック運転手が多い、でも最近トラック運転手の成りてがなくて困っているという、仕事が過酷でも給料が高くないということでまた高齢化もしていて若い人でも成り手がないとなっている
とにかくアマゾンでも成り立つの運送社会だからである、車社会だから運送できるから成り立っているのである

電熱ベストを買ったが二千円で安いし悪いものではなかった
それが二週間以上かかったのは中国で作ったものを運んだからである
その運ぶ過程がアマゾンに表示されていた、時間がかかったのは日本まで運ぶのに途中関税を払うと手間がかかっためである、これも輸送社会になっていることがわかる
また知っている人はトラック運転をしていて人の倍を運んでそれでもうけて二十代で立派な家と庭を作った、今は85歳とかなっている、それから私の兄はトラック運転手になり高速道路で41歳で事故で死んだのである、それだけ運送にかかわる人が多いということである

でもこの輸送社会がコロナウィルスとかで一時中断した、観光のインパウンドも喪失したこれらのことは何か時代の変化をもたらすものだったのだろうか、つまり運送社会というのに歯止めがかけられた、広域化グロ−バル化社会に歯止めがかけられた
現代の経済は運送することでも成り立っている
だからのそのコストは必ず運送費が運送する労力がかかっている、それがコストになる
第一リヤカーで15キロも隣の市まで運んでいたならその分をもらうとなるのは当然である、運送の労力があり運送社会が成り立っているのである
また運送するには危険が常にある、それでオランダでは船で外国と貿易するとき船が嵐などで沈没するとかのリスクがあり安全のために株式会社として投資させた
もし安全に航行すれば投資した人達は大きな利益を得たのである、また船には保険もかけられたとなる

グロ−バル化社会になったのも今度は飛行機が生れたからである、この変化も大きかった船で一か月かかったのと比べるば格段の違いだからである、8時間で行けるとなったからグロ−バル化が進展したのである、でも逆にウィルスでもたちまちこれだけグロ−バル化して人間が移動する時代に裏目に出たのである、世界に一気に拡散したのである
そのことも一つの時代の変化となってゆくのかもしれない、グロ−バル化に歯止がかかったのかもしれない、運送社会とは運送のコストがかかりまた外国とか外部からの輸入に頼っていたら肝心の国内であれ地域であれ成り立たなくなる
それが日本がの貧困化の原因にもなっている,電器製品が売れていたときは良かったが売れなくなり日本は貧困化しているからである、円安になり輸入するものが高くなっているからである

●グロ−バル社会運送社会の負の面が増大した

とにかく何か時代の変化が起きている、グロ−バル化の負の面が増大したのである
グロ−バル化とは何でもいいものではない、なぜ世界大戦が二度もあったのか?
これも世界がグロ−バル化して対立が激化したためである
ただ貿易で互いに豊かになればいいが実際は対立が激化する、そのことで外国人を入れることはこれも国内で対立が激化するから反対する人もいるしヨ−ロッパは移民を受け入れてそうなったとしているからだ
ただ何事必ずいい面と悪い面がでてくる、その悪い面が顕著になったのである
現代では近くが遠くなり遠くが近くなっている時代である、だから田舎でも一体何をしているのか仕事しているのかわからないのである、隣同士でも疎遠になっているのである
これも介護とかなると困るのである、介護は意外は隣の市とかでも8キロくらいしか離れていなくてもいちいち来るのが手間なのである、車があってもそうなのである
介護とかは近間だとすぐ行けるからやりやすいのである、現実に百メートルも離れていないのに病気になって歩けなくなった人は行けなくなったとかある

その人は車を持っていても運転できなくなっている、それで自転車に乗るかなどと言っていた、そこに毎日のように行っていた女性は脳梗塞になり歩いて百メートルもないのに行けなくなったのである
何か百メートルでも二百メートルでも遠いとなってしまったのである
それは私自身も感じた、例えば歩くとなるとスーパーまで二百メートルくらいしかないのに歩いて行くとなると遠く感じる、買い物で毎日行くとなると相当な手間になる
だから戦後まもなくは車で普及しないときは近所に店があり用をたしていた
私の家は角にあり店を始めて繁盛した、それは近所の人が買い物したからである
その時はみんな歩いて買い物していたし歩く範囲が生活の範囲だったのである
でも今は本当に歩かないと思う、私自身これだけ旅しても歩いた旅をしていない、自転車の旅はしても歩く旅はしていないのである

だから歩くことは本当に特別の経験ともなってしまったのである、歩いて感じる感覚が消失したのである、これも奇妙だといえばそうである
その時何を失ったかというと人間の感性が消失したということである
だから歩いて感じて作った俳句でも短歌でも他でも理解でなくなったともなる
歩いて感じることと自転車の乗って感じることと電車に乗って感じることと車に乗って感じることとみんな違っているからである、歩いて感じるものがなくなったということはかえって人間的なものを喪失したのである
それから鉄道だと必ず駅で待つ時間がありそれが人間的でありそこで感じるものが違っていた、でも高速とかのSAで待つ時間などないのである、用をたしたらすぐに車に乗って出て行くだけである、だから鉄道の駅とSAは相当に違っている

2023年01月15日

家族だけでは介護でも障害者でも看ることは無理 (家族遺棄社会になる背景)


家族だけでは介護でも障害者でも看ることは無理

(家族遺棄社会になる背景)

発達障害者の人は弟がいるのだがその人と合わない、私自身がじかに接してわかった
とにかく障害がある兄でも厳しいのである、母親のような愛情もない、だから自分のいいことを聞けとなり厳しく命令する、あなたは何もわからないのだから俺の命令を聞けと一点張りなのである、あなたは何もできないから命令に従い逆らうなとなる
そして厳しく叱責もする、お前は何もできないのだから俺がやってやっている
その苦労を自分にも語ったことは理解できる、やはり精神障害者で認知症の家族を介護したことがあるからわかる、でも発達障害者の兄は嫌がっている、付き合いたくないと言っている、頭がパニックになり苦しくなるから嫌だという強い拒否反応を示している
それで発達障害者がyoutubeで自ら語っているのを聞いた
それだと発達障害者が付き合っていい人と付き合っていけない人のことを言っていた
弟でもこの場合付き合っていい人ではない、付き合ってはならない人となっていることがじかに接してわかった
愛情もないしただやっかいものとして扱い強制して服従させるということになっているからである

私と接してはそういうことはない、私は厳しいことを言わないからである
弟の場合は強制的に服従させようとしている、でもできないことがあり弟が代わりにしている、弟も苦労しているそうなった、母親も脳梗塞になりそのめんどうも一手に引き受けることになったからである、だから弟でも責めることはできない、普通ならその苦労をわかってあげるとなるがそれができない、そういう余裕もないからである
確かなことはとても弟は世話するのが無理だと見た
何かわからないのだけど発達障害者と認知症でも似ている面があった
それはプライドを持っている、お前は何もできないから弟が俺が世話してやっている
だから俺に従いばいい、そういう態度が発達障害者の兄は嫌っている
自分ができないにしてもそれで責められるのに反発する

認知症の人の場合は親を介護することになり親だと人生経験も積んでいるし一方的に世話される関係ではない、親として子供に尽くしたということがあり簡単に親を馬鹿だとは扱いない、特に親でも特別良くされた人は粗末に馬鹿として扱えないのである
やはり親には親のプライドがありそれで子供に馬鹿にされると怒るのである
できないことがあっても親は親でありプライドを持っているからである
部下だったら上司はやはり上司でありまた社長だったら社長なのである
そこで社長は社長としてたてると気分良くなる、馬鹿になったから馬鹿として扱うと怒るのである、そこで演技が必要だとしている、あくまでも演技として認知症になってもたてると認知症の人も気分良くなるのである、そき気分良くなることは精神にいい影響を与えるのである、穏やかになるからである

ともかく認知症でも介護でももともと継続した人間関係がありそれを否定できない
親は親であた子供は子供である、それで兄弟姉妹関係になるとむずかしくなる
兄弟姉妹は親に良くされるために争うことがあり親の愛情を受けるの偏ることがある
それが大人になっても不満になっている、そのために親の介護になるとき一番良くされた人が兄弟でも親の介護しろとなる、つまりそうした人間関係は継続するのである
発達障害者の人は兄であり世話している人が弟である、すると何か親のように世話になった関係でもないからうまくいかない、兄弟姉妹で介護とかするのはむずかいしとなる
特に認知症でも発達障害でもそうである
発達障害者でも人間でありプライドを持っていることがわかった
実際にできないことがあってもプライドを持っているのである
それを傷つけられると不満になる、でも世話する側になればそんなブライドをもっていても実際はできないことが多いのだから認めることはできない
親だったら世話になったとういことがあり大目に見ても兄弟姉妹ではそうなりにくいのである

精神障害者の問題は発達障害者とかでもプライドを持っているということである
だからあなたは何もできない馬鹿だと扱うと怒る、そうなると介護でも世話もできないのである、それは身体が悪いならその補助をすればいい、でも精神となるとめんどうだとなる、でも盲目の人を駅で案内したが何か助けることをしたが自分で電車に乗れると嫌がっていたのである、やはり人間とは必ずしも何でも他者からしてもらうことに抵抗がある
それは無能だということありそれより自分でやれることはやる、その方がいいとなる
そこに人間のむずかしい問題がある、でもこの場合は兄弟関係であり世話になった親との関係でもないから問題が生まれた、私自身は親の介護でも認知症になっても特別世話になったし家でもそうである、家を作り支えてきたということを自覚していたから苦しいけど相手をたてて介護していたとなる、つまり親は親でありその関係は変わらないものだったのである、馬鹿としては扱いないかったのである

その弟はそういうことはない、だからその関係もうまくいかない、そこで感じることはそもそも介護とかなると家族だけ負担しきれないものがある
介護の負担は大きいので家族だけで背負いきれない問題がある
そのために介護で家族が崩壊する破綻することもでてくる
日本の場合は家族に介護の負担が全部負わされる、それが問題としている
ヨ−ロッパとかでは福祉が充実して家族だけで介護するということはないという
日本の問題は家族にすべてがまかされる、そこでその負担に耐え切れずに問題が起きる
発達障害者でもやはり家族だけではめんどうみきれないということがある
つまり弟でも合わないことがありその状態は発達障害者自身にとっても良くないのである

そこで介護になると家族がばらばらになったり崩壊したりする、もう家族だけでは見きれなくなるからである、近くで認知症の母親を介護していた息子が母親を殺してしまったということも起きている、それは息子だけに介護をまかされたからである
その負担の重圧でそうなった、私自身も一人だけであり自らも病気になり二人を介護して家族崩壊になったからである、だから介護となるともう家族だけでは無理になる
でも今外部からの助けを得られない、隣近所も疎遠であり無関心である
公的なものとして福祉があったとしてもそれも事務的なものとかにもなる
また金銭的なことも援助できない、特に今は福祉関係は厳しくなっている、日本が貧困化して福祉に金が回らない、すると介護でも家族にまかされてそこで悲劇が起きる
それは8050問題が深刻なものとなる、そこで事件が多発する、家族だけにまかせる介護は限界である、ここの問題も家族だけでは解決しない、むしろ家族が悪い方向に導いているのである、それがやっかいなのは精神障害者を扱うことのむずかしさがありそうなった
家族遺棄社会とは家族が必ずしも冷たいというのではなく家族だけで介護することが限界に来て家族を捨てるともなる、金銭的にも負担でありまた人手もかかるからそうなる
それで会社をやめて介護に専念することにもなりその負担も大きいからである

でもそういう家族に他人がかかわることはめんどうになる、負担が負わされることで敬遠して見放すともなる、かかわるにしても簡単にはできない、まず金銭的にも体力的にも時間的にも余裕がないとできない、まず事業が失敗して借金しているとかそういう人は助けることもできない、かえって負担になり介護される人でも苦しいものとなる
それは自分自身が経験してきたからである、人間はとにかく余裕がないと他者を助けることはできない、自分自身が借金に追われているとか金がないとか病気だったら他者のことを助けることなどできないのである、自分自身のことで精一杯だからである
現代は金銭的にも余裕がある人は少ない、だからみんながそういうふうに余裕がない社会は福祉の方にも手がまわならなくなる、そこで悲劇が起るのである

2023年01月13日

家と土地の歴史が郷土史の基本 (家を直したのは地元の人ではないー遠くの会社であるートイレは郡山の会社)


家と土地の歴史が郷土史の基本

(家を直したのは地元の人ではないー遠くの会社であるートイレは郡山の会社)


今日近くの人に聞いたら隣の空家化した家の土地はもともと借りた土地だという
家は古くなって住めなくなったのか、借りて住んんでいた人は同じ町内に新しい家も建てた、この辺の土地は地主がいてその家の土地が多く借りている
原町だったらかのう屋の土地が多いとかなる、戦前は地主がいて土地も借りて小作していた人が多い、それで常に地主に対する不満が多かったのである

地主の歴史とは? 土地持ちがお金持ちになった理由

農地は戦後農地改革で小作が土地を所有するようになり地主は没落した
でも農地ではない街中の土地は依然として地主が所有していた、だから街中の土地はそうして戦前からの地主が所有しているのが多いのである
また農家でも戦後土地を所有できるようになったが今度は農業するのではなく都会になると宅地とかとして売りまた広い土地があるとそこにビルとか賃貸のアパートか建てて金持ちになったのである、東京辺りではだから土地成金がいる
土地を持っているだけで金持ちであり一時はわずかな土地でも億の値段になり新しい家を建てた人がいた、株も土地もバブルになったのである
だからその時は小さな家でも土地が馬鹿高いものになっていた、土地が財産になっていたのである

狂乱の日本。山手線内側の土地価格で「米国全土」が買えた…!

私の家がなぜ街中の土地を所有したのか、私の父親は双葉町の新山で酒屋の丁稚をしていて暖簾分けしてここに店を開いた、酒屋となって土地を買う金を得て土地を買った
でもこの土地は街で一番低い土地であり水害に二回あった、水がどうしてか自分の家に集まる土地だったのである、今でも水が下水からあふれると集まり家の中に入ってくるのである、ただ土地として70坪くらいあり広い、戦前は家を貸していたくらいだからである家を貸して金にしていた、そして隣の家も戦後貸していた、その家では店をしていたが売れないのでやめた、そしてどうも餓死のようになって死んだ、5才くらいのことで記憶しているのだが事情がわからなかった、家貸していたことは確かなのである
ただ餓死したというとき別に息子がいたのだがその嫁が非情で助けなかったとかとも言われた、その辺のことは良くわからないが家を貸していたのである

ともかく家でもその土地でも一つの歴史であり郷土史になる、一軒一軒の家がそうなのである、ただ街内の歴史と農家の歴史は違っている、でも農家でも街内にあった、その中に商人とか職人が住みついたのである、家が壊された所を見るとそこは自分の家の土地より狭い、だから庭もない家だった、私の家は結構広いとなっていた
だから狭くても庭がある、その後二階建ての大きな家を50年前とか建てたのは私の家は街内で一番低い土地にあり水害の被害が一番ひどかったためである
二階に避難できない平屋だったからである、そこで二階を建てることが悲願になって建てたのである、それで姉はこの家をいつも自慢していたのである
父親はこの二階の家を建てたのではない、その後は姉と母がいて建てたのである

家と土地がありそれが歴史でありまた郷土史になっている、郷土史の基本は家と土地から始まっている、その家がどうして成立ちその土地がどういうものか知ることが歴史を知ることになる、どういうわけか今でもわずかのどこにあるのか知らない土地を所有していてわずかでも税金をとられていたのである、それは酒屋をしていたとき借りて酒を買った農家の人なのか土地を質にして酒を買っていたためだとなる
土地を担保にしていたからそうなった、金を借りる時土地を担保にすることが多いからである
つくづく家が壊されてその跡地を見ると狭いと感じた、だから庭がなかった、そういうことは街内ではある、そしてもともとこの土地に住んでいた人ではない、他所から来た人も多いのである、その人は確かに指物大工だった、仏壇を作った人だった、その後はタクシー運転手だった、隣は理髪店であった、ここは不幸な家で息子が早死にして次に母親も死んだのである、その家も土地を借りていたのである、その家も先日壊された
後は農家だった家は広いが今は空地になって不動産屋のものになっている

ともかく家と土地が郷土史の基本である、家の物語であり土地の物語なのである
家というとき建物としてあるがまたそこに家族の物語がある、家というのは家を建てる時でも普請といい一大事業にもなった、家を持つことが一家の主となることだった
喜多方では蔵を持つことが一家を構えることでありそれで競って立派な蔵を作ったのである、それで蔵の街になったのである
だから家一軒が壊れるということはやはりその歴史を語るものが壊されることになる、消えることにもなる、空家が増大するというとき何か日本の歴史すら失われるという感覚になる、それより原発事故で避難区域になった所は空家だらけであり市町村の歴史すら喪失するともなったのである、もう町民でも村民でもばらばらに離散して町や村が維持できなくなった、それは歴史も失われるとういことである

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

これまでは家は必ず土地の人がかかわり建てていた、それで私の家を50年前建てた時は地元の大工と材料で建てた、そのことを姉は自慢していた、同級生の橲原のキコリに木を選んでもらって建てたとか言っていた、外材など入らない時代だからそうなった
何でも地元にあるものでまかなう時代だったからである、第一これほど外国から何でも輸入して成り立つ経済ではなかったからである
燃料は炭であり山の木材を利用していたからである、電器は裸電球一つだったのである
部屋はがらんとして寒かったのである、北風がそのヤハな家に唸っていた
雨漏りもしていた、この雨漏りするというのは江戸時代からそうだった、時代劇で見たからである、つまり江戸時代からの継続が戦後十年くらいまであった
だから逆にこれほど便利になった時代は長い歴史のなかでなかったとなる
また豊かになった経験をしたこともなかったのである、長い歴史でみれば異常なことでもあった、その消費するエネルギーもとてつもないものとなっていたのである
だからこそ電気がたりないとなり原発が作られて事故になり住めなくなったともなる

とにかく変わったことと言えば経済が社会が広域化したことである、今回トイレが下の配管がひびがはいりもれていた、それを直して新しい便器にした、その人はクラシアンという郡山の会社の人である、そのために22万もかかった
前の3・11の東日本大震災の時に瓦を直したのはいわきの会社の人だった
ユニットバスは仙台市の会社の人だった、そして今回は郡山の会社の人である

瓦ーいわきの会社ー70万
ユニットバスー仙台市の会社ー100万
トイレの修繕と新しい便器を買うー郡山市の会社ー22万

そして今度は去年の大地震で一回家を直した、それで40万かかった、次にキッチンを直すのに新しいものにするから70万とかかかると言われた
水漏れもしていて全体的に直すとかかる、その大工さんは地元の人である
その人には前にも庭を作ってもらったり墓まで新しく作ってもらった、その人は大工だけではなく庭師でもあり墓まで作れたのである、その人は地元でありハウス業者のように家を建てた終わりとはならない、後のめんどうも見るし細かいことにこちらの要望にも応えてくれるから重宝だとなる、だからどうしても大工でも家というのはトイレを直すとかではなく全体を見る人が必要なのである、その人はそれができるから重宝だとなる
現代は仕事でも部分化しているからである、でもそんなにいろいろなことをできる人はまれだとなる

いづれにしろ家とか土地は郷土史の基本である、例えば最近死んだ駅前の自転車屋のことを語ったがこれも郷土史の一ページとして刻まれたのである
駅前にもう自転車屋がないということがなんとも淋しいのである、一軒しかないのにゼロになったからである、駅前の活性化のことを語った人自身が死んでしまって寂れてしまったのである
ただ家に関してもかかわるのは今や広域化している、だから地元の人がかかわるとういものでもない、そうなると地元の関係でも希薄化したのである
それが拡大したのがグロ−バル化経済であり社会なのである、外国とかかわるというときもうそこで郷土史とかとは関係ない世界である、ただ物だけが入ってくるというだけである、土地とは分離しているのである

ただユニットバスは安かった、ガス会社のイワタニでも二百万かかるといっていた
すると外だと地元でも三百万くらいかかったかもしれない、それが安かったのはやはり仙台市とかで競争が激しくでそうなったと言っていた、やはり値段で選ばれるからそうなるそして高速道路ができたことで車で仕事する範囲が広がったことにもよる
つまり車社会になったことで広域化社会になったのでありグロ−バル化でも飛行機とかで交通が便利になったからである、現代とは運送社会でもある、遠くからいくらでも物が運ばれてくる、アマゾンなどでもそうである、それは輸送会社にもなる
電熱ベストが来るのに二週間以上かかったのは中国から輸入するためだった
その輸送の経過が出ていて関税のことがでていた、関税を払ってようやく日本に輸入されたのである、それは2000円とか安いものでもいいものだったのである

現代とは輸送社会なのである、ということは地元にあるものでまにあわせるという社会ではない、絶えず遠くから物が運ばれる時代なのである
そのためには金を稼ぐ必要がある、金がなければいくらいいものがあっても遠くから何でも運ばれるにしても買えないからである
そして逆に遠く地元から物を売らなければならない、また遠くに自ら金になるなら働きに行かねばならない、だから青森とか今度九州の佐世保とかに建築土木関係の人が働きに行っている、そんな遠くに働きに行くのかとなるとそういう時代なのである
仕事が広域化している、とても地元だけで仕事は成り立たない時代なのである
鹿島の梨農家が相馬市までリヤカーで梨を運んだというのを聞いた
これも大変な労力だった、運ぶことは車もないのだからそれだけの労力がかかるから簡単に運ぶことはできなかった、今ならいくらでも車があれば運べるからその相違も大きいのである、それで広域化グロ−バル化社会になったのであ




posted by 天華 at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)