人間は本当に存在するのか―存在するとは何になのか
【近くでも互いに存在しなくなった―老人は人間関係が切れてゆくこと】
その「私」という主体にとって友人や恋人などの他者が【存在】するのは、「なんらかの体験を元に思念・思考」しつづけているからです。
ある瞬間、他者のことを「思念・思考」しなかった場合には、「私」という主体から他者は【存在】しないことになる。
同様に、「私」という主体が「私」を「思念・思考」しなくなると、「私」も【存在】しないことになります
自分以外の人間は、存在するのでしょうか?
●近くでも互いの存在が認められなくなったこと
その人は中学の同級生だった。その人は確かに道の駅ではないが農協が経営する地元の野菜とか店にいて売る人だった。その人はそこで野菜など売る仕事をしていたということはわかる。
でも私が何をしているのかわからない。だからあなたは何をしているのですかと聞かれた。その前にその人は私に対して関係を断った。もともと関係していなかったのだがおそらく私が何をしているかわからないから私と言う人間を認められなかった
私は説明しようとしてもその人はその前に私との関係を断ったのである。それはほんのわずかの時間の出来事だった。何か私と会った時近くでも知らない人でも私を知っていた人がいたのである。それは私のプログを読んで知っていたのでは今はスマホをしているからスマホでネットの情報を得る得る人が多くなった
だから意外と地元でも自分のことを知っている人がいた。その若い女性は私の顔を見てプログに書いている人だとわかった
でも別に私はプログに自分の顔の写真を載せていないのである
だからどうして知ったのかと不思議でもあった。ただ今になると大概スマホをしているからインターネットにアクセスできる。そこから情報を得ている人も多くなった。でも70以上とかなると携帯はしているがスマホ見ている人は少ない。スマホはパソコンの延長だから結構面倒なものになる
その中学の同級生はマホなどしていない。だから私のプログをまったく読んでいないから私という人間は理解できないしそもそも私という人間が存在しないのだと思う。そこに確かに私という人間はいる私という人間はじかに会った
でもその人にとって私という人間が同じ狭い土地に生きているのに全く理解することがなかった。その人と何か語ろうとしたのだがその前にその人は私を何をしているか分からないと拒絶して会話もできなかった。
それは私が何であるかを実際は知ろうとしなかったのである。実際私が私自身を語ろうとした時それは相当に長くなる。とても簡単に語れるではない。でもその人は私が知ろうとする前に何もしてないとして拒絶したのである。
そのことは私という存在を無視して認めないということであった。私のことを知れば同じ土地に生きていてそれを知ることもできたはずである。でもその人私を何もしていないして知ることもないとして対話をは拒絶したのである
つまりその人は私自身の存在を認めず存在しないとしたと同じである
ところが私自身もその人と会話もできなかったから実はそのことは私自身にとって存在しないものとなってしまった。
そしておそらくすぐ近くに住んでいてとも合わないからその人とどちらにしても存在しなくなるのである。没交渉になり双方で関係もしないしその後に何があるかもわからないしそもそもが存在しないのである。それは存在を否定することになっている。
現実は狭い範囲で生活しているのだからそんなことはないともなるがその店で何も買わないとしたら会う事もないので没交渉になりもはや互いに存在しなくなるのである。
●牛乳配達員との関係も切れた
もう一人は私の家に牛乳などを配達していた人である。でもそれも十年前に断れたれることになった。それは親の介護とかで継続できなくなったからである。それを断りに行った時その人は私を何か蔑むように馬鹿にするようなこと直接面と向かって言ったのである。
なぜそんなことを言ったのかわからないよ何か私を馬鹿にしたいということがあったのだろう。別に私はその人と直接会ったりもしないし話したりもしなかったその人はただ牛乳配達するだけでありそこに何か会話とかはなかった。ヤクルトとかなると何らかそこに会話があったがその人は配達される箱に置くだけだったからで直接顔を合わすことはなかったからである
その人とはいつも牛乳を配達しているから自転車で行くとその車と出会うのである。でも牛乳を配達を停止してからは何も話していない。それも十年くらい過ぎてしまったのである。
つまり十年くらい没交渉だったのであるその人の販売店すぐ近くにあってすでに十年くらい牛乳配達を停止してから一言も話すこともなかったのである。その人は車で配達しているからその車と私の自転車とは合っているのである
でもその人と直接に話すすることをすでに十年もくなっていたのである。ただ私はその人に馬鹿にされたということでそのことは覚えている。
つまり何か物を買ったりするときそこに人間が介在するのだがではその人間をいちいち覚えているかというとその場限りになるのも多い。スーパーで買い物しても別にそこで売る人と必ずしも会話したり何かその人と直接語り合うこともない。ただものを買えばいいというだけである。
第一相手がどこに住んでどういう人なのかもわからないのでこの辺では原発事故で避難してきた人が多いので余計に地元の人でもないから分からなくなっている。ただ都会なら別にスーパーの人が売っていてもその人たちをいちいちどこに住んで何をしているの何を考えているのかなど思わない。
現在というのははものを売るにしても買うにしてもただそれは物の売買でありそこに何か人間関係が生まれるわけでもない。
だから物を買うにしてもそこに何らか人間関係が生まれるということはない。それが通信販売とかなるとまさに配達する人などただ物を運んでくる人でありそれ以外のことは何もわからないのであ。だから例えばその配達する人は誰でも良いし配達する人が変わっても別に気にすることもないのである。
何か現代っていうのはこうして人間の関係が持てない時代になっている。というのは向かいの人は何が特殊な技能があって工場で働いているらしい。でも何をしているのか分からないしその人の顔もめったに見ないのであだから私にとってその人は存在するのかどうかともなってしまう。他でもすぐ近くのだけどその人はこの土地で働いているのかどうかわからない。話したこともないし何の仕事をしているのかも分からないのであだから私にとってその人はすぐ近くに住んでいるのだけど存在しないとまでなってしまう。
●人間関係が持てない社会−車社会の影響
現在はこうして人間の関係がつながりが持てない時代ではないか。私の戦後まもなくの子供時代近くの人間関係が密だったように思う。近くでで何をしているのか仕事をしているのか分かったからである。農家の人がいて養蚕していたとか漆塗りをしていたとか石屋の人は石を毎日削っていたとかを見ていたまた竹で駕籠を作る人も見ていた、つまり説明するまでもなく一目でその人が何をしているか何の仕事をしているかわかったのである。大工もいたし建具屋もいたしとかそれは狭い土地で狭い中で村のような所で仕事をしていたからだろう。
また車がないから一地域の狭い場所で生活に必要な物をまかなっていた。だから隣近所で何をしているかわからないなどということがなかったと思う。
不思議なのはこの辺で原発避難区域になったところから移住してきた人が多いでもその人たちをこの土地で働いていないように見えるそもそも車があるから隣の市にとかに働きに行く。買い物でも必ず近くに4 5万の都市があるから買い物に行くのであそれとともに働く人もまた車で隣の市とかに行く人が多いのである
つまり車社会になった時その生活範囲は広くなったのである。車がない時代は本当に隣近所とかでまかなう他なかったのである。だからそこでいい面と悪い面があるが人間関係も密になっていたともなる
ともかく人間の生活が多様化したとき例えば私は自転車が欠かせないから一軒だけあった自転車屋とそれなりに関係して
でも車社会になればみんなが自転車と関わるわけではない。
そして車を持ってない人自転車に乗る人は何か別の存在ともなる。自転車に乗ってる人はよく会うはその人は障害者だったりまた引きこもりとかニートだったり何か劣ったとみられる人たちなのである
つまり現代では車を持たないということ異常でもだから常に警察のににらまれて職務質問されるのである何か自転車に乗ってるだけで不審者に見られてしまうのである
●SNS-ネット社会で起きていること
いずれにしろ今度はネット社会になる時逆にインターネットにアクセスできない人は取り残されるかもしれない。私のことはプログで読めばわかる。
でもスマホもしてないインターネットにもアクセスしない70以上の人となると私があった同級生のように私と言う人が存在しても何をしているか分からないとして関係は断った。それも10年30年なのか付き合いのブランクがありそれを語ることが簡単にはできなくなった。つまりこうしてまた付き合いのブランクがあると会話もできなくなってしまう
こうしてまた現代社会は広域化グローバル化するとき空間軸では世界まで広がっても時間軸でわ継続されるものはなくなったとも言える。昔の村だったら狭い範囲で代々続く家があり農家だからその土地に根付いて生活しているすると何か継続継続されるものがある。祭りなどでも継続されるのでで現代社会はそうした農民農業社会でないから何か代々長く継続されるということもなくなる。それで人間関係希薄化して行くのである
ともかく不思議なの人間の存在である。本当にその人間が存在すると認識するのか。またどうしてその人間が存在すると認識できるのだろうか。
ある瞬間、他者のことを「思念・思考」しなかった場合には、「私」という主体から他者は【存在】しないことになる。
確かに私はその人と会ってその人を考え思った時その人は存在したのである。でもその人は私の存在を否定したからその時点で私という存在はその人にとっては無くなった、また私のプログでも読まないのだから私については何も分からないし私のことについて知ることも拒否したのだからその人にとっても私は存在しないし私にとってもその人は存在しなくなった
別にその店に買い物に行かなければ困ることもないスーパーに行けばいくらでもものは買えるからだ。こうしてその人の存在は自分にとってもなくなり相手にとっても自分の存在はもはやなくなったのである。ただ狭い範囲に生きているのだから関係ないとは言えないが私自身のプログなども読まないのだからもはや知ることはできないということである
いずれにしろそもそもは存在するということは何なのかということになる人間に関してもそうであるが一つの石が存在するとして
その石を確かに認識したとしてももうしその石をただ一時的に見ただけなら忘れてしまう。でもその石に名前をつけてその石の存在する意味を書いたり詩にしたりすると時石に存在の意味を与えているのである。何らか名前を付けるときは石一つでも一つの存在の意味を与えているともなる。そうでなければ石は存在しても存在しなくなってしまうだろう
●人間は存在すると認められるのだろうか?
その人は確かに大学時代に頻繁に会った。でもそれから50年もすぎたらいったいその人は存在したのだろうかとなってしまう。
実際はもはや存在しなかったとなってしまう。その後その人は何をしているかもわからないし遠くに住んでいるのだからわからなくなるそもそもは東京に住んでいるのだが一体東京に1000万人いるとしてそこで人間は存在しているのだろうか?
確かに1000万人いたとしてその一人でも関係しているわけでないとしたらそこに人間は存在しないとまでなってしまうのではないか? 1000万人もいるとしたらその一人くらいと関係してもいいはずだがそれがないとしたら1000万人は本当に存在しているのだろうか?だから人間が存在しているということは何なのか不可解となってしまうのである。
現在とはまさに大衆社会でもあり大勢の人と交わる社会でもあるが実際は東京に1000万人いたとしてもそこに本当に人間が存在しているのかどうかとまでなるのも不可解だとなってしまう
関心領域という映画が話題になったが人間は隣でも関心をもたない、ナチスの収容所で人が殺されていても関心を持たない
こうしてすぐ近くの人でも関心をもたない、それが現代社会の特徴だともなる。そもそも家族のように直に接して関心を持ち続ける死んでからも関心を持ち続ける関係は何人いるのかとなる。
特にもう80歳近くになると人間の関係は切れやすい、それよりみんな死んでゆくのだからこの世から消えるのだからこの世の人間関係を切れるということである。
そして人間は別にある人との関係が切れても何も感じない、そして人間が関心を持っているのは利益になることでありそれ以外関心を持つことは少ない、だから金の切れ目が縁の切れ目でありさよならだけが人生だと最後はなってしまうのである。
買い物にしてもコンビニであれスーパーであれどこでも一人くらい来なくても関係ないのである。
特別その人が習慣的に多額の買い物するなら別である、だから何か高価なものを買ってくれる人になると特別待遇にもなる。
でも普通の買い物でそんなことにはならない、一人が来なくても何の影響もないとなるのが普通である
だから田舎の店では断られることがある、別に一人など来ても来なくても関係ないとなるからである。
でもその人は雇われた人だから一人でも客を失うようなことをしていいのかとなる
そんな事どうでもいいとなるのが普通である。何か客の対応が悪いとしてもそれで客を失っても一人などどうでもいいのである。
ともかくその人がいなくなっても別に関心をもたないということもある。この年になれば人が死んでもまた死んだかとなり次から次と死んでゆくから関心が持てなくなる。つまり余りに多くの人が死んでゆくからいちいち関心ももてなくなるのである。