2019年03月22日

春の日に山元町までの旅の俳句と短歌

  
 春の日に山元町までの旅の俳句と短歌

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亘理まで5里中村へ三里とある

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この石はみ応えがある
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八重垣神社の松は残っていた、ここは海に相当近い
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津波の後に長い高架橋のレールになった

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ここは五本松だったが三本になった





朝雲雀六号線を遠くへと

我が家を遠く離れて春の山 

東風(こち)吹くや境を越えて遠くへと

草萌えて電車の来るや海望む

大石に一日におうや庭の梅

正宗の休みし石や落椿

春の闇三本松の浮かぶかな
                                    

新地なる道標(みちしるべ)古り春日さしその道のりや昔思いぬ

正宗の休みし石と吾も休む津波の後の春の磯山 

海霞み島の見えじも船影の二艘進みぬ春の昼かな  

椿咲き松によりにつ正宗の休みし石や沖行く船見ゆ

春の山霞て見えじ島の影二艘の船の沖に行く見ゆ 

(八重垣神社)

津浪にも神社の松の残りしを春の日さして我はやすらふ

山に没る春の夕日や海よりそ満月上る浜街道行く  

春の灯や電車の音に浜街道旅人の行く影のありしも

我がよりぬ坂本宿の古きかな春の満月夕べ昇りぬ 

鹿狼山見えて高きを我が還る6号線の春の夕ぐれ  

松川浦月影さして鷺一羽なお餌漁る春の夜かな  


五本松三本残り支え合う人のごとしも月影さしぬ

五本松三本松のなお残り我が還り来ぬ春の夜かな

三本松変わらずここにあるべしや我が待つ人のなしとて待たむ


相馬市を越えて新地に行くと道標がある、それで坂本まで何里とか記してある
それを見ると何か旅に来たなのという感じになる

大石の庭は前にも見た、あの石がいいのである、そこに梅が匂っていた
それから新地を越えて山元町に入った、ここは行ったことがなかったのである
何百回と仙台に通っていたがこの海岸沿いは行ったことがなかった
実は新地の海岸までは来ていた、でもそこから先は遠いなとなり行かなかった
つまり自転車だとなかなか遠くに行きにくいのである
ここから5キロで温泉かと遠くへ行ってあったが引き返すと10キロになるから遠くなるすると先を急ぐから行けないとなる
ただ電車の中から山下駅からいつか海の方に行ってみようとは思っていたのである
それがこの年までついに行かなかった
人間は近くでも行かない場がある、その間に月日が流れて津波の後に行くことになったのである
人間は意外と灯台下暗しで終わることがあるのだ

磯ア山でも津波が襲ったが辛うじて被害をまねがれた
そこに正宗が座ったという石があった
そこからの見晴らしはいいが港もあり船もあったが漁には出ていないという
その道はサイクリングにはいい、堤防の上を走ったら気持ちがいいとなる

八重垣神社とは何なのか?海に迫って神社がある、そのことはまた歴史の探求として書いてみよう、ここでは旅として山元町まで行ったことを書く

山元町の街の方に行くと夕暮れになっていた、郷土資料館によった
そこに坂元のことが記された木簡が発見された、坂元願とかの木簡であり古代のものである、坂元宿はそれだけ古いことに驚いた
山元町は古代の歴史として相馬の延長にあることがわかった
これも鉄道だけだと線だけの旅になりわからないと思った
鉄道の旅は日本全国を隈なく乗ったけどそれだけではわからないのである
第一そもそもすぐ近くの山元町のことを知らなかったからである
人間は交通が発達して便利になってもかえっていろいろなものを見逃しているのである
感じなくなっているのである

夕日は山に没しその時満月が出た、坂元駅辺りでかなり暗くなった
でも六号線をひたはしり鹿狼山が見えた、あれはこの辺では一番高いから目印になる
それから相馬市の方に行く道ではなくて松川浦に行く道路を進んだ
そして松川浦に出た、満月であり月の光りが入江に反射していた
写真をとったが夜でうまくとれなかった
鷺が一羽月明りのなかで餌漁っていた

そうして相馬市により食事して例の五本松の所にくる、今は三本松しかない
それも枯れるかもしれない、何か松は枯れやすいのである
春の夜の闇の中に三本松が影となり浮かぶ
その松は人間に見えるのである、松は一番人間に親しいものであり人間に見えるのであるだからこの松が還ってきた自分を待っているというふうに見えるのである
家には誰も待つ人がいなくても松が待っているとなる  

今回は介護とかで旅は10年くらいしていなかった
それで新しい電動自転車で旅した気分になった、やはり旅で見る時の自然でもなんでも違って見えるのである、旅人して見る景色は違って見えるのである
新鮮に見えるのである、だから旅人になる必要があるがそれが今ではしにくい
車でもバイクでも早すぎて旅人とはならない、通り過ぎるモノになっているからだ
電車でさえ旅人としての経験はできない、現実に何百回も仙台に通い山元町を通ったのにそこを知らなかったからだ

旅の問題は自転車だとしても六号線だけを通っていただけではその土地のことはほからないということである
海から山へと横の方面も旅しないとわからない、ただ六号線は遠くに行くにはどうしてしも便利だからそこだけを頼りに通りすぎてゆくのである
寄り道できないことが問題なのである、その時何か大事なものを知らずにただ通り過ぎてゆくだけだとなる
そういうことが現代では多すぎるのである

とにかく旅したな旅人のようにまたなったなとつくづく思った
でも山元町から越えると仙台の方に行くともう日帰りはできないと思った
やはり80キロ行くとして帰りもそうなるから行けない
泊まるとなると結構楽ではない、ただこうして動いていれば体力も筋肉もついてくるかもしれない、ただ一日とか休めば楽なのである、連続して自転車をこぎつづけることは苦しくなる、ただまたさらに遠くへ行ってみよう
そう思うのはどうも去年でも4月5月でも光線が紫外線の影響か日射病に熱中症になってひどいめにあったからまず光線には弱くなっているからだ
夏は全く旅は自転車ではできないと知ったからだ
すると3月から4月がいいとなるから今の内に行った方がいいとなる
ただこの自転車の弱点は荷物がのせられないことなのである
そしてスタンドがないからとめるのに苦労するのである
長距離になると荷物がのせらられないことは苦しい、そこが一番の問題だった












2019年03月21日

春彼岸(満月に梅匂う)


春彼岸(満月に梅匂う)

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今出ている月(19時14分)


家一軒ここに隠され匂う梅

朧月ひそかに棲みて匂う梅

花々や墓地賑いぬ春彼岸

落椿あまたや続々墓参り


誰が知らぬ人花挿して我が墓や死ににし人を一人偲びぬ

せわしなに時は過ぎゆく死す人の忘るは早し彼岸はめぐる

次々に人の変われるこの世かな今日ある人も明日なしかも

梅の花匂い放ちて夕べ散る満月照らし心おきなし

紅梅の匂いに満月美しき盛りの時や幸にめぐまる

月影に浮かびしもあれ死にしもその面影や彼岸となるかな 


彼岸だけは墓地はにぎわう、それにしても人の世は変わりやすい、人自体が次々に変わる
死ぬと忘れられるのも早い、そして時間が過ぎ去るのも早い
家族が二人死んだけど一人は8年過ぎたしこれも早い、一人は三年である
そして残された人もまた生活とかいろいろ追われる
それでこの辺は津波とか原発事故などがありめぐまぐるしく変わった
なにやかにやで自分も一人で暮らすのが3年すぎたのである 

年をとれば今日ある人は明日なしかもとかなる
同世代の人が次々に死んでゆく、有名人でも死んでゆく
するとその死者をいちいち偲ぶことすらできないのだ
なぜなら次々に死ぬ人が知っていても増えてくるからである

昨日は満月でありその後朧月になった
梅の花も十分ににおいを放ちそして満月に照らされる 
私の場合はめぐまれていたが不幸に死んだ人も多い
実家の墓では肺病で25歳で死んだとか記されていると墓参りすると何か苦しくなる、圧迫されるのだ
でも実家の墓には私はもう行かない、300万もらって墓を頼むと親戚が墓参りする
その人は地元に住んでいない、もう会うこともない
何か自分の親戚はもめていたし特に母方はそうである
でも親戚はもともとなかったしすべてその縁も切れたとなる、これも無常である

彼岸には死者を偲ぶことはいいことである、一年に二度でも人間は現実に存在しないと忘れるのである
日々の生活に追われ忘れるのである、死者でも生者でも「去る者は日々に疎し」になる
実際現実に逢わなければ死んでいるとも同じだともなる
この世とは無常の世である、それは老人になると否応なくただ事実として示されるのである
若い内はまだ親か元気だったりするからまた同世代で死ぬ人もいないから感じないのである

ともかく十分に梅のように匂いを放ちそして死ねば恨みは残さないだろう
でも人間はつくづくいくつになっても生に執着するのだ
それは生物の本能だからどうにもならないとなる
生きれるかぎりは生きるとなるからだ

昨日は月影の中をずっと自転車で走ってきた、そして今日は墓参りである
家族が待っているいるわけでもない、一人暮らしにもなれてくることは確かである
要するに人間は何でもなれるということなのは確かである
どんなことでも受け入れざるを得ない、それが現実を生きることなのである




原発避難民の補償金の使い方が間違っていた (小高の人が山元町で土地を買い農業はじめた矛盾)


原発避難民の補償金の使い方が間違っていた

(小高の人が山元町で土地を買い農業はじめた矛盾)


事情は詳しくわからないにしろ昨日山元町の不動産屋の人が言ったいたのは何を意味しているのか?
小高の人が山元町の土地を買いあさって農業をはじめている
その土地は津波の被害にあって売った方がいいと土地をもった人が考えた
津波の被害の土地は海老辺りでも国で買い上げるが安いと言っていた
国に売るよりは高く買ってくれる人に売ったのかもしれない

そこで山元町の土地を売る人の気持ちはどうなるのか?
「もうこの土地では農業はできない、土地をもっていても無駄だ、売る他ない
安くてもしょうがないな・・・・先祖代々受け継いだ土地だけどしょうがないな」
「ここで私たちは農業をはじめる、補償金があるから安くなった土地を買える
小高区はもう放射能汚染で土地は使えない、ここならまだ農業ができる」

こんなふうになったのかもしれない、これも矛盾なのである
だって小高区を復興するために補償金を与えられたのに実際はそうでとなかった

町全体の復興のために補償金は与えられない
個々人の復興のために与えられた
だからその補償金は個々人で自由に使えばいい

こうなっていたのである、だから避難した時点で他に土地を買い家を建てた人も近くにいる、それは個々人に補償金が与えられたからその補償金を使うのは個々人であり小高区とか南相馬市が決めるのではない、そうなれば今の世の中暮らしやすい場所を選ぶ
そういう場避難区域になったところよりいい場所はいくらでもありわざわざ放射能汚染で農業もできない、不便な所に住まなくてもいいとなる
これは時代でありどうにもならない

なぜなら十津川部落が水害で国から金をもらったときその金は北海道移住のために全員が一致して移住するために使われた、個々人の自由に使える金ではなかったのである
その時代は農業中心の時代だから北海道に土地があるから農業できるということで
みんな一致して移住したのである
そこでの暮らしは楽ではないにしろそれを受け入れざるを得なかったのである
それは相馬藩が飢饉のときも越中などの移民が荒廃した土地を与えられるということで
命がけで移住してきたのともにている

何かそういうこととにているのだ、一部が災害で大きな被害になるとかえって外部の人たちが入ってくることがあるのだ
ただここでは小高の人たちが農業をやるために資金があるから津波で安くなった土地を買いあさるとなる、小高の農業の復興のためにはその補償金は使われないのである
これも矛盾なのである、そういう矛盾は船主とか漁業関係者にも生じた
そのことは再三指摘してきた

なぜ復興できないのか?
それは補償金でもすべてが復興のために使われなかった
除染費用が何兆円とあるとしてもそれは東京のゼネコンに流れた
県でその金をもらい独自に除染をしたら良かったということがあったがそれもなかった
つまり金の使い方が悪いのでそうなったのである
そういうことを会社経営している人はしきりに言っていた
そういう人がまたなぜ会社経営に失敗したのかもわからない
ただ部下に仲間に裏切られたということは言っていた

そもそも小高と鹿島区も南相馬市で補償金でもめたからである
でもふりかえるとそのことを指摘すると小高の人は鹿島区の人たちはなんなのだ
かわいそうな俺たちをただ批判するだけなのか?そうして怒ることにもなる
でも内部でもそうした矛盾が生まれてそれも大きいのである
なぜみんな若い世代が出て行って帰らないのか?
それは多額の補償金をもらった結果としてそうなったのである
小高とか原発避難地域の復興には使われなかったのである
それは県単位でもそうだし市町村単位でもそうだったのである
そこになんら自治体の政治力も働かなかったし一体自分たちの住んでいる村でも町でも市でもどうするんだということを協議したこともないのである
ただ国の言うなりになり個々人の自由意志にまかされてそれなら補償金もらって外で生活しようとなってしまったのである

ともかく小高区を例にとればなぜきついことを言うかとなるとそれは南相馬市に住んでいれば当然予算とか税負担があり大きく影響するからである
つまり復興してもらなわないと南相馬市全体で困るからである
それは家族の一人が病気になったような状態になるからである
離れていればそうはならない、でもすでに外に出て家を建て仕事をもち子供も小中学校を高校でも外の学校に行った人は故郷と関係が薄れてしまった
いまさら戻るわけにもいかないととなる
既成事実化してしまったのである、でもそれでは親を残してその負担をどうするのか?
ただ金を払えばいいと言う問題でもない
現実にこの辺では立派な施設があっても働く人がいないから老人ホームでは介護を引き受けない、それで青森の施設に受け入れられた人もいる
それは全国的問題にしろこの辺では極端なものとしてなんでも現れたのである
                                                    

タグ:原発補償金
posted by 老鶯 at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年03月20日

山元町の津波の被害 (前にさえぎるものがないと被害が大きくなる)


山元町の津波の被害                         

(前にさえぎるものがないと被害が大きくなる)

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黒く盛り上がる波が怖い

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磯崎山

津波がぶつかってせりあがったようになった
辛うじて御堂は残った

ここしか高い所がない、だから被害が大きくなった

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中浜小学校に残った松
これも海が近いのだから枯れてもいいが枯れていない


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津波の後に残っている松と木

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八重垣神社の松、ここも海が近いから良く枯れずに残っている

山元町郷土資料館

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弥生時代は古い

でも・・・・千軒とか伝説が各地にありそれが消えた、それは津波とかのためだったこともある
南相馬市の鹿島区の海老千軒とかも言っているからである


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白いのが津波の砂の堆積

硝子に自分が映っていた




山元町の磯崎海岸に上ったら土地の人と話できた
その人は毎日散歩のために上っているという
それでいつも港に停泊している船を見ているが漁に出たのを見たことがないという
津浪はこの磯崎海岸も襲ってここも危ない所だった

なぜ山元町の被害が大きかったのか?
津浪は地形の影響が大きかった、山元町を見るとさえぎるものがない
その海岸近くにある家も多かったとすると被害が大きくなった
山下駅の海側にも家が結構建っていた、それをいつも電車から見ていた
仙台に近いから山元町は通勤圏にもなっていた

その人は何か不動産屋らしい、それで阿武隈川を越えて岩沼になると土地が一千万高くなると言っていた
建物の値段は変わらないが土地の値段が高くなると全体的に高くなると言っていた
一千万も高くなるとその差は大きい

それからなんでも小高の人が農業やるために移り住んだという
その人は土地を買いあさって農業をはじめたという
それは補償金を一杯もらったからだと言うとそうかとその人は言った
山元町の土地は安くなっているから買いやすくなっていたのである
ただこんなところにも小高の人が金があるから土地を買っていたとかなる
新地辺りにも小高の人は土地を買って住んでいる
一方で山元町では人口が減っている

死者 637人(遺体未発見の死亡届17人および震災関連死20人を含む)
家屋の被害(平成25年5月24日現在)
全壊 2,217棟(うち流出1,013棟)
大規模半壊 534棟
半壊 551棟
一 部 損 壊 1,138棟

この被害は凄い、全壊が2,217棟というのはそんなに家があったのかとなる
その辺を行ったことはなかったから残念だった、津波の前の状態がわからないからだ
なんでも磯崎山で聞いたのでは三方から津波が来たという
そういう話は聞く、そして渦巻いたりしたということ聞いたから恐ろしい
映像を見ても黒い波が盛り上がり瞬間的に高くなる
その光景は今さらながら空恐ろしいとなる

ただ不思議なのは山元町というとき山元だから山側を中心に発展した町かとも思った
そして山下町でもそうである、そもそも海側にはそんなに人が住んでいなかったのかもしれない、ただ漁港があり江戸時代の神社もあるからそれなりに古いのである
浜吉田だと浜が近いとなる地名なのになぜ山元町なのか?山下駅なのか?
それが不思議に思った、これも単純な疑問ではある
山寺とありそこが宿場町になっていたこの町名が生まれた

郷土資料館には古代のものが展示してあってわかりやすかった
弥生時代に津波が来てその地層で砂がある所が津波が来たためだという
貞観時代の津波も言われるがここでは弥生時代だから相当に古い
ただ津波がかなり奥まで来ていたという証拠である
そして不思議なのはここでも慶長津波については何も語っていないのである
何かこのことがわからないのである

山元町は電車で通り過ぎると海の方にも行ったことがなかった、それが失敗だった
ただ津波の跡は枯れずに残った松とか中浜小学校などに生々しく残っている
本当に海のすぐ側の小学校で屋上に逃れて助かったというのも判断が良かったからだったなぜなら地震から10分後に津波が来たというからだ
この辺では40分後だったのである、それ良くとっさに判断したと思う
やはりあれだけ海が側なのだからそれで判断できたのかもしれない
津浪でもあの小学校は流されないし屋上に逃げた助かったというのも津波の教訓である
ビルのような建物は流されないのである、だから高い所に逃げれば助かるのだ

山元町くらいまでは相馬の続きという感じになる、ただ山元町については調べていないのも失敗だった、ただ電車で通りすぎる町だったのである
ここは浜街道として連続したものとして知るべきだった
結局電車とかバスとかで交通を頼っていると本当にその土地のことがわからないなと思った、その土地に寄ったりもしない、ただ通り過ぎるだけだからそうなっていたのである
仙台には常に用事があって行ってもここには寄らなかったからだ
現代とは交通の便がいいから途中をぬかしてしてしまうのである

posted by 老鶯 at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2019年03月19日

無人駅の日立木駅の待合室が一部壊される (そこで会ったのは中国人の高校生だった)


無人駅の日立木駅の待合室が一部壊される

(そこで会ったのは中国人の高校生だった)

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ここには防犯カメラがなかった



相馬市の道の駅から駅にかかわったので日立木駅に来てみた
そしたら待合室が壊されていた、それは結構損傷が大きい
そしてそこにいたのは中国人の高校生だったのである
その高校生は4年間くらい日本にいたとか普通に日本語がしゃべれる
相馬市の東高校に入学して中退したとか言っていた
一年生でやめたらしい、母親は中国人である

そこで日立木駅の入り口の待合室が一部壊されていた
そのことで話し合っていたら見守り隊のパトロールが来た
それで高校生はスマホを貸してその見守り隊の人が警察に連絡した
私は警察に連絡しろと言ったからである
鹿島駅で落書きをされたとき警察に連絡したからである

とにかく無人駅は特に日立木のように日中だと一人二人くらいしか乗り降りがない
駅前にはなにもない、人の目が全くないとなると荒らされやすい
そしてそこには防犯カメラが一台もなかった
これも不思議である、鹿島駅には4台くらいあるからだ
なぜここはこうして見ている人もいないのに防犯カメラがないのが不思議だった
こういう場所にこそ防犯カメラが必要だからである
おそらく費用の面でとりつけないのかもしれない

まず日立木駅は乗り降りするにも一人か二人しか昼間は見ない
高校生の通学などでは三人四人とかなるかもしれない
それだけ少ないから駅でも人がいることはほとんどないともなる
そういう所は昼間でも誰も見てないから荒される
そういうことは予想していた
それを現実に目にしたのである
ただこれが昼間にしたのかどうかはわからない
鹿島駅ではまず昼間は人の目があるからできない
向かいの自転車屋の人はいつも見ているからである

ここも水戸管理局内で管理している
水戸管理局の人は水戸から来るのではない、ここに住んでいるのである
ただ管理局が水戸になっているだけなのである
しょちゅう水戸から来ていたらやはり大変だと思ったがそうではなかった

ともかくその中国人の高校生と駅で話してこんな人がいたのかと驚いた
中国人は良く見かける、女性が日本人と結婚した人も知っている
その高校生は日本語では困ることがない、第一高校生なら読み書きだってしているからである
しかしその人は相馬市の東高校に入ったがやめたという、その理由はわからない
それで今度は原町の高校を受験するとか言っていた
それで通うので駅に来たのだという、駅の近くに住んでいたのである
あれだけ日本語ができるということはもう日本人になれると思った

中国人で女性の人が裁縫会社のフクソウに来ているが日本語はしゃべれない
ただ昨日はコンビニで阿武隈信用金庫のカードで金を下ろせないと騒いでいた
それは本当に下せないものだから信用金庫に行って直接聞いてみないとわからないと教えた
中国人はそれなりにいる、ただ中国人は前と違ってそんなに貧乏ではない
むしろ中国人の方が日本人より金持ちが多くなっている時代である
だから日本に来るメリットがそんなにあるとは思えないのである

ハルビンから来たというがこの辺はその方面からの人が多い
名取の空港から飛行機で行くのかと思ったら行けないという
新潟から行くと言っていた、北京から三時間で成田に来た
中国は飛行機だと近いのである、ただ新潟まで行くとしたらちっょとめんどうだなと思った
ただ飛行機で直接ハルビンに行かなくても北京に行ってそれから電車を利用すれば行ける
とにかく今は中国は近いのである

いづれにしろ日立木駅で中国人の高校生と話しするとは思ってもみなかったがそういう時代だともなる、どこに外人がいるかもしれない時代だともなる
東京に行ったら外人だらけだとなる、田舎でもやはり外人がこうして普通にいるからである
あの人はもう日本人であり日本で暮らすのに困らない、でも何か学校でつまづいたのだろう
それは日本人だって学校でつまづち、不登校になる
自分自身も高校は嫌だった、そこで勉強嫌いになったのである
その人が東高校を中退した理由はほからないがやはり何か中国人だからなのか?
他でもそういう人がいたとかテレビで見たからそうなのか?
別に言葉に困らないのだからなしめないとは思えない
言葉が通じなくてなじめないとテレビでは放送していたからである

この人の場合はほとんど言葉では困らないのである
第一また原町の高校に行くということは日本語でもできるからそうなっているのである
中学とか高校で外国に来るとやはり外国に溶け込みやすい、言葉も覚えるのである
だから外国になれるには若い内なのである
人間は何でも時期がありそれを逃すとできなくなるのである
それで自分は50歳で外国旅行して大失敗したからである

綿津見神社と山津見神社 (松川浦からその跡をたどる)


綿津見神社と山津見神社

(松川浦からその跡をたどる)

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山津見神社と和田=綿=綿津見神社


大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」の異名をとる
大山祇(おおやまづみ)神である
この一帯の海賊衆の親分のような神様である                  
一六代仁徳天皇の時代、百済の国から渡ってきた、津の国の御島(大阪府高槻市三島江の式内社三島鴨神社)にはじめいたのだという

古事記にニニギは野間岬で美女に出会う、名を問いば木花之佐久夜毘目売(このはなさくやびめ)で、ニニギは結婚しようともちかけた
すると木花之佐久夜毘目売「父、大山津見神に相談します」
という、大山津見神は姉の岩長比売をそえて差し出したのだった

大阪の三島神社でもそうなのだが「大山祇神」には物部韓国連(ものべからくにのむらじ)が百済から大山祇神を奉斎してきたと伝えられる
東海地方では目を転じれば静岡県三島市には三嶋大社があり大山祇神社祭られている
この一帯の国造は昔物部系の人物が勤めていた
(消えた海洋王国ー吉備物部一族の正体ー関祐二)

飯館村の佐須にある神は狼ともされているが実はもっと古い古代にさかのぼるのである
その由来は古事記にも記されている神であり古いのである
ではなぜこういう神が遠くみちのくにもたらされたのか?
つまりその神を奉じていた祭っていた人たちが移動してきたから神様も一緒に移動してきたのである

なぜ松川浦に和田があるのか?これは綿津見の綿が和田になったのである
その源は大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」なのである
和多志とは渡しであり渡ることかきている、海を渡る人たちだからそうなったのである
渡部の姓でもそうである、渡るからきている、海であれ陸であり運送を生業とする人たちだったのである
三島神社というとき原町にもある、これは百済系なのかとなる
その基はここに記されたものにさかのぼるのである

この大山祇神社神社と綿津見神社は対になっている、瀬戸内海の三島では対になって祭られている、兄弟の神だともなる
大山祇神社というとき山がつくから山をイメージするがこれは海の民の神になっている
一方綿津見神社は海をイメージする、でも二つは海彦と山彦のように一体なのである
だから松川浦にこの二つの神が並んでいることがそれを象徴している
二つは対になりか一体だからこうして並んで痕跡を残している
一方は山津見神社であり一方は綿津見神社でありその綿が和田になったのである

そして神社は綿津見神社神社でも山津見神社でも海から移動してきた、海から入ってきたのである、それで玉野から霊山に行く途中にも山津見の社が岩場をよじのぼったところに祭られていた、それは小さな社であり隠されていてわからない所にあった
それはやはり松川浦から人が移動してきてそこに祭った
そして飯館村の佐須に祭られた、飯館村には綿津見神社もあるからだ 
錯覚しやすいのは佐須に山津見神社がありそこから海の方へ移動したように見ることである
南北朝時代だと霊山の城が炎上して海の方へ落ち延びてきたからその人たちが祭っていた神社も移動した
山王神社とか日吉神社である、でもそれは時代が違うのである

まず日本の国造りは海側からはじまっていたのである
例えば今回の津波で日下石(にっけし)という所まで海になった
ニッケシとはニは西でありそれは海から見たとき西の方向にあったからである
海から見た方向感覚で西となったのである、そこはそもそも山側ではない、海に近い場所なのに西となるのは不自然だからである、海の民は漁師でも船から山を目印とする、そこに山の信仰が起きる
山は海から見たものとして意味があり名付けられるとなる
そこに海の民が最初に日本を支配したともなる、それがヤマトタケルの伝説となったのである
そういう下地を安曇氏とか宗像氏(むなかた)とがが実際に船を操作して移動したからそれがヤマトタケルに受け継がれて神話化したのである 
それで瀬戸内海の要所を抑えて吉備がまたはそれと同系の物部氏が大きな勢力をもっていたというのは理解できるのである

日本武尊(やまとたけるのみこと)、すなわち上総(かみつふさ)よりうつりて、
陸奥(みちのく)の国に入りたまふ。

時に大きなる鏡を王船(みふね)に掛けて、海路(うみつぢ)より……
蝦夷(えみし=大和政権に従わない人々)の境に到る。

蝦夷(えみし)の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神(しまつかみ)、
国津神(くにつかみ)、竹水門(たかのみなと)に屯(たむろ)して、防がむとす。

しかるに、遥(はる)かに王船(みふね)を視(み)て、
予(あらかじ)め其(そ)の威勢(いきおい)を怖(お)じて、
心の裏(うち)に、え勝ちまつるまじきことを知りて、

悉(ふつく)に弓矢を捨てて、望み拝みて………
蝦夷(えみし)ども、悉(ふつく)に慄(かしこま)りて、

すなわち裳(きもの)をかかげ、浪を分けて、
自(みずか)ら王船(みふね)を扶(たす)けて岸に着く。

よりて面縛(ゆわ)いて服罪(したが)う。

その罪を免(ゆる)したまう。

よりて、その首師(ひとごのかみ)を俘(とりこ)にして、
従身(みともにつか)えまつらしむ。

蝦夷すでに平(む)けて日高見国より還(かえ)る。   

竹水門(たかのみなと)とは南相馬市の磐城大田地区の多珂神社神社のことなのである
そこから海が見えるしその当時海は深く山側に入っていたからである
相当奥深くまで海だった、それが津波で証明されたからだ
鹿島区の塩崎(しおのさき)の船着まで津波が来たのである、そこは低地だっからそんな奥まで来ていたのである
だから多珂神社のあるところは港のような場所だったともなる

そのヤマトタケルの伝説の基は綿津見神社と山津見神社があるように安曇氏とかは綿津見神社であり山津見神社もついにしてある
宗像氏とか海の民と深く関係していたのである、そういう人たちがここに最初に入ってきたのである
物部氏が吉備氏と一体だという時もそうである
瀬戸内海で交通の要所あり力をもったからである
南相馬市でも物部氏に由来しているものが多いのである、古代の郷では小高に吉名郷があるが物部吉名という人物名があるから具体的にその氏族名と名前があるということは物部氏がヤマトタケルの前にこの地を支配していたのである
それで原町の桜井古墳は物部氏系統のものである、なぜなら東海地方から出てくるものと同じものが古墳から出たとされるからだ
東海地方には物部氏が勢力を持ったところだからである

表からみても東海地方に静岡県に綿津見神社が50とかぬきんでて多いことでもわかる、そして相馬地域に20というのは本当に多い他は少ないからだ、この辺ではとにかく綿津見神社が目立つのである
ただでは安曇氏の痕跡が残っているかというとない、ただ神社だけがその跡を示して残っているとなる
伽耶(かや)とかもその痕跡が消されたように安曇氏の痕跡も大和王権成立して消されたとなる

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静岡に綿津見神社が50あり福島県に20あるがこのほとんどは相馬地域にある
ただこの数は正確なのかどうかわからない、綿津見神社神社はもっと多いように思うからだ



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2019年03月18日

春時雨(人間の五感が機械化で失われる―旅もなくなる)

                     
春時雨(人間の五感が機械化で失われる―旅もなくなる)

柔らかに白髪をぬらす春時雨


春時雨というのがある、それは二三日前だった、これもまた帽子をかぶっていると感じないことがある、でも顔をぬらす春時雨だったから感じた
まず車だとこういう自然の変化を感じない、季節感もなくなる
第一風を感じない、車は閉鎖された空間だからである
風を肌で感じられない、今どういう風が吹いているのか感じないのだ
俳句とかだとどうしても季節を感じなかったら作れない
だから今の車社会ではそうして俳句とか季節感をテーマにしたものは作りにくいとなる

最も自然を感じるのは歩くことである、でも私自身ほとんど歩かない、すると歩く感覚が消失しているのだ、歩くことは今や車社会になると最も新鮮な原初的な経験になったのである、だから文明が発達したから人間は進歩するわけでもない
かえって人間の五感は消失してゆく、そうして自然でも感じなくなることは貧しいともなる、物はあふれて機械で便利になっても五感で感じることが消失していることは貧しいとなる

それから便利になると距離感がなくなる、芭蕉が旅したみちのくでも平泉でも新幹線で二時間だとなると何の感懐もなくなるだろう
ただ旅は通り過ぎてゆくだけだとなる、そしたらもう俳句などでも作れない
作ったとしても別なものとなる、距離感を感じること遠いなと感じるかことも一つの人間的感覚である、それが新幹線や飛行機によって奪われるのである
それで千本桜を見に船岡とかに自転車で行ったことがあった
その時その桜はみな散っていたのである
あれだけの桜がもう散っていて残念だったとなるがそれも一つの感懐を生んだのである

はるけくも千本桜を訪ねればみな散りしあと我が帰るかな

あれだけの桜がみんな散ってしまったなと深い感懐が生まれた
それははるばる苦労して自転車で来たからだったのである
その距離の感覚が深い感懐を生んだのである、それは芭蕉でも同じである
はるばる平泉に来たら五月雨の中に光堂が朽ちずに残っていたとなる
それははるばると歩いてようやく訪ねた距離感にあったのだ
その距離感がなくなるとき人間の感懐もなくなる
二時間でみちのくに来たとかなればそこは隣の村に来たと同じである
説きおさの感覚がなくなったのである

だから現代では旅というのは消失している、旅人もいないのである
ただ旅館とかホテルは旅の宿というより何を食べるとかグルメとかなり保養の場なのである、今のホテルは江戸時代のようにまず旅人を受け入れる所ではない
そこで高い金をもらって保養させる場所なのである
江戸時代なら木賃宿であり旅人の宿だったからである、泊まることを優先した場だったのである、だから豪華な保養のホテルがあっても現代では旅人の宿はないのである
旅人は歓迎されない、まして自転車で旅するような人は汚いし受け入れにくいし歓迎されないのである、まず旅人を歓迎しないのがホテルであり観光旅館である
それで私は旅したとしてもそうしたホテルとか観光旅館が多いからそういうものが嫌いだったのである、そういう場所は金持ちしか歓迎しないからである
それはどこでもそうだが江戸時代ならそういうことはないのである
おんな貧乏だから安く旅人を泊めていたのである

結局時代によって失われるものがある、それは絶対に返ってこない、再現できない
時代は再現できない、芭蕉の時代を再現できないから芭蕉のような俳句はもう作れないのである、つまり人間社会は得るものがあっても必ず失うものがある
だから人間の幸不幸など計れないのである、縄文人が不幸だったともいえない
そこで自然に驚嘆して日々生きていたのかもしれない、もちろん苦しんでもいた
ただその時代時代に感じるものが違っていたのである

ともかく現代とは人間の五感が消失してゆく時代である
膨大な映像時代になっているのもそうである、でもその映像を見て本当に人間の五感で感じるものを得られるかとなると得られないのである
その壮大な空間をテレビの画面では4Kでも8Kでも再現できないからである
人間は原始的な感覚をかえって機械化で喪失している
何か写真をとればそれで自然を感じたように錯覚しているのである
それは参考になるにしても五感で感じるものとは違っているのである

そこで現代では俳句とか短歌とかそうした五感で感じるものが衰退している
膨大な映像時代でありそれに圧倒されているからである
映像によって自然でもなんでも感じたとなるからである
でも実際は感じていないのである、感じることができないのである

ただそうはいっても機械をすべて否定はできない、今度買ったE-BIKEは走り自体が違っていた、だから軽快にどこでもすいすい走れる、自転車だと風でも感じるし五感で感じるから世界が広がった感じになったのである
自転車でもやはり遅いとすいすい走らないと行動しにくいのである
でもバイクだとはやすぎるのである、ただ車と違ってバイクは風は感じる

それで霊山から相馬市の方に下ってくると海から吹いてくる東風を感じる
その時山から海に近づくのを肌で感じるのである

東風(こち)吹くや相馬市に向かい山下りぬ

霊山から下りくると東風(こち)を体で感じる、その時相馬市に帰ってきたとなる
海の方に向かっていると感じる、それはいつも海側に住んでいるから余計に感じるのである、海の見えない地域では東風(こち)でもまた違ったものになる

東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ

 右大臣菅原道真の歌でも東風(こち)は山から吹いてくるのである、京都は山に囲まれているからである、東山があるごとくその感覚は海側とはまるで違った感覚になるのである、それで会津は広いし方角がわからなくなった
 それは周りが山に囲まれているからそうなったのである
 ただ日本海になれば海に面していても風は違ってくる、だから風は場所によって違って感じる、だから風土だとなるのである、その土地の風土は土だけでなく風によって感じるのである


認知症は歯が原因でなる? (私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)


認知症は歯が原因でなる?

(私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)

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週刊新潮3月21日号

認知症に関する知見は信用できるのか?専門家でも信用できるのか?
ここでは入れ歯になって認知症になったというが
私の母親は60代総入れ歯になっていた
でも96歳くらいまで認知症になっていない
だから本当に歯が認知症になる原因なのか?
これも実際は実証されていないのである
それは例外だともなるが本当にそうなのか?
つまり認知症の原因がわからないからそうなっているのだ
いろいろなことを言う人が専門家でも多いとなる

例えば趣味も何もない人は頭の働きが悪くなって認知症になるとかもそうである
私の母親は趣味もなにもない、花を庭に植えると無駄だとか一切趣味もなにもない
ただ一生働きづめであり95歳くらいまで台所で仕事していたのである
その趣味もない人がなぜ認知症にならなかったのか?
それは台所で仕事を持ち役割があったということは影響している
そこで家の中で役割があったからである

一方もう一人は姉はひどい認知症になった、役所を退職して以降何もしない
台所仕事もしない、趣味をしたとしてもそれは何の才能もなくただ集まりに参加していたというだけである、もともとそういう方面の才能はなかった
看護婦だから別な方の仕事に向いていたけどそれもしなかった
そして結果的にひどい認知症になった

なぜ認知症になる人とならない人がいるのか?
ただもう90歳以上になると半分は認知症になる
だからこれは脳の老化と関係していることは確かである
95歳以上になると90パーセントはなると思うからだ

ただ認知症と歯の関係となるとそれが認知症の原因だだとはならない
確かに母は生真面目であり食べるのも良くかんでゆっくり食べていた
でも60代で総入れ歯だったのである
だからここで書いている記事には合わないのである
それで認知症に関しては専門家でもまだ解き明かされていないからいろいろなことを言う人がいる、でもそれをすべて鵜呑みにはできないのである
つまり認知症の原因は未だにわからないからそうなっているのだ

おそらくこうした記事をのせると歯医者に行く人が増える
それで歯医者がもうからかなのかともかんぐる
そうでないにしろ何か専門家の言うことを信じやすいからである
でも認知症に関しては原因がわからないのだから信じられないとなるのだ
それだけむずかしい病気だということである
だからまるで確信したように実証されたように言うのは問題である
それは認知症に関してはまだまだみんな仮説なのである
それで勝手にいろいろ言われてもそれを信じることはできない
もし妙薬が発見されたら誰でも信じるがそれができないのだから勝手にいろいろなことを言うと混乱するだけだとなるからだ

タグ:認知症と歯
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認知症は歯が原因でなる? (私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)


認知症は歯が原因でなる?

(私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)

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teethsick222.jpg

週刊新潮3月21日号

認知症に関する知見は信用できるのか?専門家でも信用できるのか?
ここでは入れ歯になって認知症になったというが
私の母親は60代総入れ歯になっていた
でも96歳くらいまで認知症になっていない
だから本当に歯が認知症になる原因なのか?
これも実際は実証されていないのである
それは例外だともなるが本当にそうなのか?
つまり認知症の原因がわからないからそうなっているのだ
いろいろなことを言う人が専門家でも多いとなる

例えば趣味も何もない人は頭の働きが悪くなって認知症になるとかもそうである
私の母親は趣味もなにもない、花を庭に植えると無駄だとか一切趣味もなにもない
ただ一生働きづめであり95歳くらいまで台所で仕事していたのである
その趣味もない人がなぜ認知症にならなかったのか?
それは台所で仕事を持ち役割があったということは影響している
そこで家の中で役割があったからである

一方一人はひどい認知症になった、役所を退職して以降何もしない
台所仕事もしない、趣味をしたとしてもそれは何の才能もなくただ集まりに参加していたというだけである、もともとそういう方面の才能はなかった
看護婦だから別な方の仕事に向いていたけどそれもしなかった
そして結果的にひどい認知症になった

なぜ認知症になる人とならない人がいるのか?
ただもう90歳以上になると半分は認知症になる
だからこれは脳の老化と関係していることは確かである
95歳以上になると90パーセントはなると思うからだ

ただ認知症と歯の関係となるとそれが認知症の原因だだとはならない
確かに母は生真面目であり食べるのも良くかんでゆっくり食べていた
でも60代で総入れ歯だったのである
だからここで書いている記事には合わないのである
それで認知症に関しては専門家でもまだ解き明かされていないからいろいろなことを言う人がいる、でもそれをすべて鵜呑みにはできないのである
つまり認知症の原因は未だにわからないからそうなっているのだ

おそらくこうした記事をのせると歯医者に行く人が増える
それで歯医者がもうからかなのかともかんぐる
そうでないにしろ何か専門家の言うことを信じやすいからである
でも認知症に関しては原因がわからないのだから信じられないとなるのだ
それだけむずかしい病気だということである
だからまるで確信したように実証されたように言うのは問題である
それは認知症に関してはまだまだみんな仮説なのである
それで勝手にいろいろ言われてもそれを信じることはできない
もし妙薬が発見されたら誰でも信じるがそれができないのだから勝手にいろいろなことを言うと混乱するだけだとなるからだ

タグ:認知症と歯
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2019年03月17日

人生はなぜ誤算が多いのか? (将来を誰も予測できないから―人生そのものがリスクだ)


人生はなぜ誤算が多いのか?

(将来を誰も予測できないから―人生そのものがリスクだ)


人間個々人でもそうだが社会でも誰も将来を予測できないから誤算になる
こんなはずじゃなかたとみんな人生を終える
そして後悔しない人生はない、誤算がない人生はない
いくら老後に備えても貯金しようがそれで安全にもならないし備えたとはならない
老後にやることなくなり生きがいもなくなり絶望したりする
それから老後にやりたいことをやろうとしてもできなくなる
金はあるが体力がなくなり病気になったとか親の介護で何もできなくなる
そうした誤算が誰にでもあり備えることができない

この辺で津波とか原発事故を誰が予想できたか?
こんなことが起きるなど誰も予測できなかったのである
そうししたことが個々の人生でも社会的にも起きてくる
70年くらいの単位で激変が起きてくる
それにいくら備えようが備えることは不可能なのである

自分の家族をみても一人は突然赤紙が来て4年間従軍看護婦としてシンガポールに行かされて地獄の苦しみの中で生きねばならなかった
それは全く突然なのである、ベ―トベンの運命なのである
一人は東京で結婚したが夫は若くして工場の事故で死んだ
またもう一人は40歳で交通事故で死んだ、そして私の身内は全部死んで残っているのは自分一人になった
なにかしら個々人でも社会的に予測しないことが起きる
もうそれに備えることは不可能である

だから老後を計画しても無駄だともなる、貯金していても病気になったりして何もできなくなる、なにかしたいことがあったら体力あるうちに若いうちに思い切ったことをしろとなる、体力がなくなったら金があっても何もできなくなるからだ
そして時間とたちまちすぎてかえってこないのである
青春はあっというまに過ぎる、そして若い内求道しないものは後はできない
いつでもできると思うができない、せいぜい慰めが宗教になる
だから若い内に神を覚えよとなっていたのである
そのショックは青春が過ぎてしまって後悔するだけだとなっているのである

人間何かいろいろ備えろとか言うがもう人間はリスクから逃れらられない
もう生きていること自体リスクなのだ、株でも何でもリスクがないものはない
私の母は安全志向で冒険などしない人だった
それでも水害にあい、水が来て炬燵の穴に米を運んでいる時落ちて大けがをしたのであるつまり家の中にいても安全はないのである、それは津波でも証明された
この世には安全な場所はどこにもないのだ

だから津波に備えてバカでかい堤防とか高台といろいろ対策したがそんなことでも何が起きるかわらないのである、そういう備えししても今度はそこに住む人がいないとか誤算になったりする、何かも災害でも備えることは不可能である
それで減災という思想が生まれた、なるべく被害を少なくなるする方法である
それは馬鹿でかい堤防とか高台を造成して住むのではなく津波が来たらなるべく早く逃げる算段を日ごろから心がけることである
それも自然災害に備えることであり莫大な金をかけて堤防とか高台を作っても無駄だともなる

要するに人間は何であれ絶対に危険から逃れられられない存在だということを知るべきである、いつの世も火宅の世に生きているのが人間なのだ
だからもう危険を覚悟してあきらめて生きるほかないとなる
運任せだともなる、その方がリスクをかえってさけるということもある
あまりにも戦々恐々として危険を避ける安全策をとっているとかえって危険だったりするかえって危険の中に飛び込んだ方が窮地を逃れることもある
だからといってあえて危険な所に行けというのではない
人間は危険から避けられない存在なのである
それは第一人間は生身の人間でありいつそうした体でも何か壊れやすいからである
つまり人間の体自体が最大のリスクなのである
もう誰でも老化するのが早い、するとみんな病人になるのである

だから人間は備えても必ず思わぬこと予測しないことが起きて誤算になる
でも良い誤算もある、こんな得があったなと良い誤算も起きたりする
どっちかというと普通は悪い誤算でありいくら備えても結局何もならなかったともなる
結局人間はどんなに備えても安全はありえない、リスクは必ずある
あまりにも安全志向の人はかえって危険にもなる
貯金ばかりしていても安全とはならない、現実に今の時代は貯金には利子がつかないから安全ではないからだ
言いたいことはリスクに備えることは不可能だということである

むしろどんな危険にでも備えるとなると信仰しかないのかもれない
あなたが若い内に神を知ればそれでいかなることにも対処できて満足だともなる
それはなぜかとなればどんなに財産があっても津波が来て一瞬にして流されるかもしれないからだ、津波は一瞬にしてすべてを奪い去ったから恐怖だったのだ
そういう人間の手に負えないものに備えること自体不可能だったのである
それは津波だけではないそういうことが何か別のことで起きるかもしれない
70年くらいの周期で時代が激変するからである
それで今頃になってAI化でベーシックインカムで生活するようになる
人間はみんなアーティストなになるとか言っているのか?
みんな日本人は真面目に働くのが勤めだと思っていたのにそんなこと言うこと自体なんなのだとなる、それはニートとか働かないことをすすめていることが信じられないとなるからだ

このように社会の価値観もがらりと変わる、なんで自分は馬鹿真面目に働くばかりだったのだ、その価値を今や否定される、あなたは自由にあなたのしたいことをしなさいと言われてもなにしていいかわからなよとか愕然とする
この社会はある時価値観ががらりと変わる、そして今までしていたことの価値観も否定される、戦争が唯一の国家が唯一の価値だとして命まで捧げたのに何の報奨もない
戦争自体が平和を乱したとか犯罪者のように言われる
戦後はそういう経験をした、そういうことがまた起きる

だから人間はあらゆることに備えることは不可能である
それで若い内に神を知れ永遠の命を知れとなる
そもそもだって死こそ最大のリスクであり別に津波や原発事故でなくてもみんな死んでゆく、人間は死ぬのである、そのことが最大のリスクであり逃れることもできないのであるその死に備えることはいくら財産を貯えてもできない
後は身一つで死んでゆくほかない、財産は何ももってゆこともできないのである
だから地上にいくら財を貯えても無駄だとなるのだ
津波のように一瞬にして流されて消えてしまうとなる
津浪で体育館で身一つで避難したひ人が命だけ助かってもうけものだったということを言っていた、財産に執着して家にもどった人は死んだりした
それもあれだけの災害でそう思ったのである
何もなくても命が助かったということで良かったとなってしまったのである

いづれにしろ人間はあらゆることに備えることは不可能である
必ず誤算に終わる、この世に生きることこそ最大のリスクなのである
壊れやすい体をもって生きていることこそ最大のリスクなのである
たちまち体が老化するということは病気になることでありそして死ぬだけだとなるからだ何もしなくてもどんなに安全を計っても備えても無駄なのである
だからあえて危険の中に飛び込んでゆく方が安全であったともなる
びくびく生きていてもいづれは死ぬからである
人間は死と背中合わせで生きているのである、また生きることを強いられているのであるだから危険を恐れても危険を備えることも無駄だとなる
無謀は良くないにしろ石橋たたいてわたっても無駄だともなる

人間は安全に生きるより命を何かに向かって全身で燃焼させることの方が大事だとなる
それは個々人で時代で何になるかわからない、どっちにしろ短い人生でありいづれはみんな老いて病気になり死ぬ
老人になると毎日死刑台に向かう日を数えているようなものだ
それで最後に大きなことをしたいとか犯罪でも恐れなくなる
有終の美を飾りたいと劇画的に切腹したりする有名人もでてくる
それは老いることを恐れたからである
その心も老人になるとわかる、残されたわずかの人生をどうするかとなるとなんか社会がどうだこうだとか批判などどうでもいい、どうせ死ぬんだからともなるのである



a train go

a train go


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snow wall in spring

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sea life

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star flower


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万葉集の「遠妻し、多珂にありせば・・」の歌から多珂神社の謎に迫る


万葉集の「遠妻し、多珂にありせば・・」の歌から多珂神社の謎に迫る

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「遠妻し、多珂にありせば、知らずとも、手綱の浜の尋ね来なまし」

 この歌の意味を訳すと、「遠くに居る妻が、せめてこの多珂の里の付近にでもおったならば、道はよく訣らないでも(知らなくても)、手綱の浜で、尋ねて来ようものを」(折口信夫訳)

 多珂にありせばの多珂である。奈良時代(723年頃)にできた「常陸風土記」によると、大化改新(645年)以前の常陸(現在の茨城)は、新治、筑波、茨城、那賀(伸)、久慈(久自)、多珂(高)の6つの国に分けられており、それぞれの国に、朝延から地方の国を統治する役人「国造」(くにのみやっこ)が配置されていた。

 また、これより古い書物「国造本記」に、大倭国に始まり、その後の約130の国造を任命した記録があり、国の設置年代が記されている。これによる今の茨城県の国は、下総、新治、筑波、茨城、仲、久自、高となっている。ここに出てくる国名の久慈(久自)は、現在の日立地方で、多珂(高)の国ば、現在の日立市北部から十王町、高萩市、北茨城市を含む範囲にあった。この多珂(高)の国の中に、「手綱」という地名のあるのは高萩市であり、他にない。

 
ここに多珂という字になっている、なぜこの字をあてたのか?
それがなぞなのだけど常陸の国から行方郡(なめかた)であり郡が移動している
真野里すらあった、この辺の古代で氏族名が明確なのは真野氏だけである
それで真野郷となった、それは石巻からも真野と記された木簡が発見されていて真野という地名があり北上川をさかのぼった登米にも行方と真野と記されたものが出ている
だから真野氏というのはこの辺では氏族名として残しているのである

高神社 
京都府綴喜郡井手町多賀天王山1

元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年(西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました

式内社である石勝神社は御朱印地を持った神社として
有名で、祭神は天石勝命である。社伝によると神亀二年
(七二五)に創建され、

社伝によると、聖武天皇神亀二年の創建。
上古、大和よりこの地に移住してきた春日族が
その祖神を祀ったものであるという。

染羽国造 Simefa   標葉郡  福島県双葉郡浪江町苅宿     標葉神社、標葉郷

染羽成務阿岐国造同祖10世孫足彦命(たらしひこのみこと)
陸奥標葉.志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に阿岐国造の先祖の十世の孫の足彦命を国造に定められた


多珂神社というのはもともとは多賀神社由来であったことは確かである
多賀神社は近江にあり伊勢神社より前には一番参拝客も多い神社だったのである
つまり多賀神社は伊勢神宮より古い神社である、伊勢神社は新興勢力なのである

浪江の染羽(標葉)はシメハでありここに連なっているのである

ともかく行方郡が置かれたのは常陸から軍団が移動したのである
郡とはもともと軍の意味だからである、軍が支配したからそうなる
その行方郡内に真野郷があり多珂郷があるということはこれも常陸から移動してきたからである
万葉集にも多珂郷があることでもわかる、遠くにいる妻とは奈良から移動してきた官人だとするとその妻をはるか離れた常陸の地で偲んでいることになる

では綿津見神社は何を語っているのか?
安曇氏が奉じた神だとしても安曇氏というのはこの辺にはほとんど浮かばない
地名化しているのは近江と長野県の安曇である、そこでは船の祭りが残っていて安曇氏が船を操作する海人だったことを伝えている
伽耶の王子のツノガノアラシトはツノとしてその地名を残している
津神社とは松川浦でも津(ツ)一字ではいわない、ツノミツ神社とかツノミヤ神社なのである、ツノガノアラシトのツノなのである
それから相馬地方に荒(あら)という姓が多いのかということを尋ねる人がいる
その荒とはツノガノアラシトのアラなのである
だから地名化しているとかなるとその痕跡は残している
でも安曇氏はただ綿津見神社というのがそうだとしてもそうした痕跡がないのである
ただ相馬地域でなぜこれほど綿津見神社が多いのか?
多珂神社の近くにもあるしこの神社が一番相馬地域では目立つのである

ウィキペディア(Wikipedia)の多珂神社の説明では多珂を鷹として伝説を伝えている
それは高倉でもそうである、でも鷹と何の関係があるのか?
これは地名伝説が後から創作が多いように作られたものが多いと同じでそうなったのか?多珂神社とは多賀神社に由来していて鷹とは関係ないからである
高倉も多珂郷がありそれが波及して名付けられたのだろうとなる

それにしても多珂神社は立派である、式内神社として指定されたことでもわかる
鹿島神社とかも立派だかそれに劣らず立派だし大きいのである
だからそこも何かこの地域で古代に中心的な役割を果たした場なのかとなる
磐城大田の駅の近くであり電車からいつもあの鳥居を見ていたのだがそこに多珂神社があることを知らなかったのである
灯台下暗しとなるのが郷土史でも多い、それと私は自転車だから坂を避けていて行かなかったということはある、最近買った電動自転車は坂でも上りやすいのと機動力があり行動範囲が広がったのである、ただ年で疲れるのは同じである
でもそれを補うものがこの電動自転車にはあったから行けたとなる

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2019年03月16日

春の日に多珂神社近辺をたずねる


春の日に多珂神社近辺をたずねる


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多珂神社

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紅梅の朝に匂いて鳥の来ぬ近くに椿赤く映えにき

日々ここを通りて匂う梅の花さらに匂いのましにけるかな

参道の苔むし静か春日さし狛犬久しく守りいぬかも

綿津見の神社のありて海望む春の日さしぬ丘の上を行く

羊歯生えてここに根ずきぬ古木かな南方の木なり春の日さしぬ

隠されて古き墓あり林中今日我たずね春の日暮れぬ

木の切られその根の残るこの家の古きにあれや椿の散りぬ


多珂神社の近くに綿津見神社がある、とにかくこの辺では綿津見神社がなぜこれほど多いのかというのが謎なのである
多珂神社は近江にある多賀神社由来だというのはわかる
綿津見神社は安曇氏の神だとしても安曇氏という名前も聞かないから不可解なのである

綿津見神社となれば海に望む場がふさわしい、でも飯館村にも綿津見神社はある
海から山へと移動している、神社とは移動するのである
例えば山の神社が海の方にも移動する、山津見という地名が松川浦にあるからだ

いづれにしろスダシイの森があったがそれも南限の地として南方系の木がここに繁茂していた、それは車輪梅が南限の地として海老村に自生していたことでもこの辺が気候的に南方系の植物が自生する限界の地だったのである
それで真野の草原(かやはら)はそうした境界線として奈良の都の人たちに意識された場所だったのである
                 
何かこの辺では放射能汚染の関係で木が切られている、それも大きな木が切られている
家の周りの木が切られている、何かそれも残念に思う
屋敷林ある家は古いからである 

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この説明の碑は何なのだろうか?こうなると記念碑である
看護婦になった動機がここに記されている
墓とは記念碑なのか?そもそも墓が何なのかわからないことがあるのだ
記念碑となればこうして記しておく、でも記念碑として残されるのは何か特別にその土地でもどこでも功績のあった人であり普通の人はこうして記念碑を建てない
そもそも墓が記念碑なのかとなるとこれもわからないからだ
記念碑となれば記念碑だらけになってしまうからだ
そもそも墓参りするのはその家のものとかその家系に連なるものである
一般の人は他人の墓参りなどしない、私が墓を見るのはそれは土地の歴史を知るためである、ここが江戸時代からあったのかと知るためなのである






2019年03月15日

綿津見神社の謎(言葉の起源の小話)


綿津見神社の謎(言葉の起源の小話)

神社を子供が訪ねてその由来をたずねる

「何かこの辺で綿津見神社が多いですがなぜですか」
「それは時代をずっとさかのぼる、日本の国がまだできていない時のことじゃ」
「綿は何の意味ですか、ただの綿なのかな」

こんな疑問を子供が思うのは当然である
綿とは綿のことではない、大洋をわたという、それでこういう話になった

「あなたはどこから来たのですか」
「わたしは渡ってきたものです」
「どこからですか」
「呉(くれ)の国からです」
「それはどこにあるのですか」
「その国は太陽の沈む方です」
「なるほど暮れる方角にある国ですか」
「そうです」

この渡ってきた人たちが来たのでその地に祭られたのが綿津見神社じんである
綿は渡ることである、わたしとは渡ってきた人が言った言葉である
つまり渡来人のことである

綿津見神社は多い、それは日本の国が成立する前に海を越えて渡ってきた人たちが多いからである、そしてその人たちがその土地の先祖となった故にその人たちを記念する神社が多い、綿津見神社とは大洋をおおわたというごとく海を現すがその海は渡る海として意識していたからそうなった

そして綿津見はワタツミでありワタのツミはツノガノアラシトという韓国系の渡来人のことである、津神社とあるがそれはツノミヤとかツノミツとか言い一字でツとは言わないからである
つまり中国の呉から渡ってきた安曇族とかと韓国系のツノガノアラシトが合体した神社なのだ

綿がなぜこの字になったのか?

沙弥満誓、綿を詠む歌一首

しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ(万3-336)

万葉集にあるように綿とは韓国からの輸入品だったのである、当時は韓国はカラの国と呼ばれていた、それは伽耶の国でもあった、半島の端の先の国だったのだ
そこは日本の国の一部でもあったのだ、つまり海を渡ってきたものだから綿になったのだ、わたる→綿(わた)となる

そういうことでこの疑問に答えたがまだまだ謎が多いのが歴史である
それはあまりにも古い時代のことだからである

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安曇族と綿津見神社 (真野の草原は南と北の境界線だった)

 安曇族と綿津見神社
(真野の草原は南と北の境界線だった)


●安曇族の浜通りへの進出

カヤナルミは出雲の大物主命(おおものぬしみこと)(ニギハヤ)と伽耶の宗像神の間にできた女人、出雲王朝にとってこの女性こそが南部伽耶との同盟関係を象徴する者だった
大国主の子の建御名方は出雲から追われ信州諏訪の地へ落ち延び二度と外に出ないことで助命された 

建御名方の正体はタケムナカタでありカヤナルミの母は宗像(むなかた)神である

建御名方「古事記」の中で越の国の人、沼河姫とこれに求婚した大国主との間にできた子と記されている越の国には伽耶国の王子ツノガノアラシトが来日したのもキ気比神社で建てられた

出雲に樋川(ひのかわ)

海流を考慮した領地の取り合いになっていることから海洋民族的とみなして安曇氏を呼んだことからも言える
南部伽耶族の神々が宗像住吉神として海の神であった 

苕野神社福島県双葉郡浪江町請戸東迎 38)

式内社(延喜式神名帳記載神社:927 年編纂)
祭神:闇淤加美(くらおかみ)神 、五十猛神 、大屋津姫命 、抓津姫命 ただし本来の祭神は不明
創建:養老元年(717 年)に荒氏が請戸小島に社を建てて奉齋したのに始まり、その後島が海没した
ため、これを現在地に遷座した(この島は現在海中に暗礁として残っている)。
縁起に関する伝承に、海から流れ着いた女神を祀ったという内容の話が幾つかある。近世において
は貴布根大明神と呼ばれていた。

鳥取県の神社(神社数 21社)

和名類聚抄によると米子市付近には伯耆国合見郡安曇郷があった。現在は上安曇と下安曇の二つの村
がある。これらは「あずま」と呼ぶがこれは住民が「あづみ」を訛ったことによるらしい。これらのことからこの地域は安曇族ゆかりの地といえる。

徳島県の神社では「綿」の代わりに「和田」、「和多」と表記する場合が多い。安曇氏族との関連を思わせる神社はない。

イザナキが行った禊で、イザナキから成った底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の3柱。海をつかさどる神としてはイザナキ、イザナミによる神生みで、すでに大綿津見神が生まれており、底津、中津、上津の3神で海を垂直に分けて治める意味があると考えられる。
 海幸山幸の神話では「綿津見大神」として登場。兄の釣り針をなくしたヤマサチビコのため、大小の魚を集め、タイののどに刺さった釣り針を見つけ出す。
阿曇氏の移住先の穂高神社(長野県安曇野市)などにも祭られている。


「秩父・仙台まほろばの道」九州とか瀬戸内海とかから海人族が渡ってきたという指摘は重要である
なぜなら安曇族は有名だけどそういう海人族が日本の国造りに深くかかわっていたからである
その証拠としてなぜこれほど南相馬市内でもやたらと綿津見神社が多いのだろうか?
こんなに多いということはそれが何を意味しているのか?
やはり海人族の一団が移動してきて移住してきた証拠なのである
安曇族は浜通りを北上してきている

安曇族と志賀島(9)呉から来た安曇族・九州王朝の場所を伝えていた

綿津見神社 (小倉南区) - 福岡県北九州市小倉南区石田鎮座
綿津見神社 (古賀市) - 福岡県古賀市庄鎮座
綿津見神社 (東区) - 福岡県福岡市東区三苫鎮座
綿津見神社 (糟屋郡) - 福岡県糟屋郡新宮町湊鎮座
綿津美神社 - 福岡県北九州市小倉北区萩崎町鎮座
綿積神社 - 福岡県糸島郡志摩町鎮座
大綿津見神社 - 新潟県佐渡市小木鎮座
吉田綿都美神社 - 福岡県北九州市小倉南区吉田鎮座
新田綿都美神社 - 福岡県北九州市小倉南区新田鎮座
手鎌綿積神社 - 福岡県大牟田市恵比須町鎮座
      

海とか和多都見(美)とか漢字の表現が違うのである
松川浦に和田がありかこれは綿津見と関係あるのかもしれない
四国では和田は綿津見と関係していたからである
あそこも地理的には松川浦の入江の奥にありそういう場所である
それから原釜にも津波で流されたがその津波記念館の前に龍神社があった
これも安曇系統の神社らしい、特に相馬藩地域には綿津見神社が多い


志賀神社内にもワタツミ神社が祭られているとか志賀との関係も深いのである
つまりこの辺に来たのは九州系の海人族だったのかとなる
綿の字で共通していたからである
ただではそんな遠くから来たのかとなるとそんな航海術があったのかとなると疑問になるただ船を操作するのににたけた一族だった、それは中国からわたってきた人たちだったからである、古代でも短い距離の航海だったら海でできたのである
いづれにしろ古代はその前でも国が確定していなければいろんな人たちが外国からでも入りやすいし日本の国をかえって移動したり移住しやすいのである
なぜならそこには確かに原住民が住んでいても広大な荒野が広がっていたからである
もしそこに強力な国家が形成されていたらできないからである、入り込めないからであるそれで日本の国が大和朝廷ができる前までは国というものも成立していなかったから渡来人が技術をもって入ってきたのである、無政府状態だったともなる

● 真野の草原は気候的に南と北の境界線だった

なぜこれほど渡来人が日本に来たのか?
それはまだその時統一国家がないから自由に出入りできたからである、パスポートがないとか何かそうした制限もないから自由に入って来た、ただ地方には地域の勢力がありそれでそうした人たちがその地に根を張って力をもっていた
それで多数の古墳が作られた、それは先祖を祭るものとして作られたがやがてそうした厚葬は禁止された
大和朝廷が成立したときそうして蝦夷が出雲と対立した
その蝦夷とはただ大和朝廷に対立するものでありそこに伽耶族のツノガノアラシトとか安曇族とか宗像族とか様々な人が群居していたのである、そこには原住民の縄文人の末裔も住んでいた
そういう様々な人は大和朝廷に統合されてはいなかったのである
それで海人の安曇族も日本に入ってきた
ただそういう人たちの勢力が衰えたとき歴史から消えたとなる
また隠されたとなる、それで地名がわずかに残っていてその時をイメージしている、地名というのは消えないからである

こういう古代史の流れを見ないと万葉集の真野の草原の歌が何を意味していたのかわからないのである
そして歴史は地理を見なければわからない、どうしてまずこの歌ができたのか?
それは地理と深くかかわっていたからだ
なぜ綿津見神社がこれほど相馬地域に多いのか?
それはこの辺までは気候的にまだあたたかいということも関係していた
それはここ二三日寒い、寒気がシベリアからおりてきた
その天気図を何回か見た、すると丁度浜通りのこの辺がその寒気のおりる境目になっていた
つまりここは海老村が車輪梅の南限の地としてあったようにそうした南と北の境目にあった
それ以北になるとさらに寒くなるから住むのに適した地とはならないからだ
それでこの辺までは安曇族も進出して稲作とかの技術をもってきて土着した

それは評価らでもわかる、綿津見神社が不和もある乃は本当に多いし現実にやたらこの辺では綿津見神社が目に付くのである
真野の草原の歌の意味しているのは真野の草原は地名でありこの地点までは安曇族でも進出して土着できた
たから気候的にみても石巻の万葉集の草原→萱原だとはありえない、それは遠すぎるからだ、現実問題として真野郷から以北は寒くなりさらに石巻だと遠いし寒くなる
ここが進出する限界点でありそれで真野の草原の歌が生まれたのである
だから綿津見神社がこの辺にふわもあることがそのことを示しているのである

●地図から見る境界線だった真野の草原

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福島県でも綿津見神社は相馬地域にほとんどある!

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須恵器の発見場所 森浩市

末続(すえつぐ)は須恵器のことである

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寒気は丁度真野の草原地域が境界になっておりてくる

クリック拡大

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植物の分布とか気候の関係で自然の影響で境界線が生まれる
国でもそうである、ライン河があれば境界線になる
そこは気候的にも南から寒い北国になるとかある
そうして歴史の始まりはそうた自然の影響が大きかった
なぜなら飛行機のように地理を克服できないからである
必ず地理とか気候によって制限されていたからである
だから真野の草原もそういう境界の地点としてあり古代に知られていたのである
だから真野の草原(かやはら)は萱(かや)ではない
大和朝廷国家が成立した時点でそこが境界線として記憶されていたのである






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2019年03月14日

南相馬市の古代史(高村にある多珂神社の由来の謎)



南相馬市の古代史(高村にある多珂神社の由来の謎)


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益田神社もありこれは一体なのである
つまり地名もこうして移住した人たちが名付けたものであることを証明している



高神社 
京都府綴喜郡井手町多賀天王山1

元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年(西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました

島根県益田市にある。
益田駅の東2Kmほどの染羽町鎮座。
益田川の北側、高校のグラウンドの横が参道。

北西に延びる参道の途中に鳥居が建ち、
鳥居の脇には、「式内 縣社 染羽天石勝神社」と刻まれた社号標。
参道の灯籠には、「瀧蔵大権現」と刻まれている。

式内社である石勝神社は御朱印地を持った神社として
有名で、祭神は天石勝命である。社伝によると神亀二年
(七二五)に創建され、瀧蔵権現と称して、承平元年(
九三一)には別当寺勝達寺を建立し、中世には益田氏の
庇護を受けて発展した

社伝によると、聖武天皇神亀二年の創建。
上古、大和よりこの地に移住してきた春日族が
その祖神を祀ったものであるという。

染羽国造 Simefa   標葉郡  福島県双葉郡浪江町苅宿     標葉神社、標葉郷

染羽成務阿岐国造同祖10世孫足彦命(たらしひこのみこと)
陸奥標葉.志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に阿岐国造の先祖の十世の孫の足彦命を国造に定められた

浮田成務崇神の五世孫賀我別王(かがわけのおおきみ)

陸奥宇田志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に瑞籬の帝(崇神天皇)の五世の孫の賀我別王を国造に定められた。

信夫成務阿岐国造同祖久志伊麻命孫久麻直陸奥国信夫郡

福島市志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に阿岐国造の同祖の久志伊麻命(くしいまのみこと)の孫の久麻直(くまのあたい)を国造に定められた。

 標葉が染羽を由来とし、志波(しは)と訓読みする。
続日本紀に標葉と記し、先代旧事本紀では、成務天皇(13代)阿岐(安岐)
国造の飽速玉男命(あきはや)を10世紀足彦命を国造に定めたと。
信夫国と同系、後に石城国となる。

広島は、阿岐(安岐)とよばれ宮島がある所。
厳島神社より格が上だったという!
ということで、標葉の祖は、鹿児島〜愛媛〜広島の水軍=海賊だったかもしれない

大和の蝦夷地へ政権として五国を治めていたのは、
阿尺国、思(太)国、伊久国、染羽国、信夫国。
これが鉄であり、九州から鉄を求めて開拓をした。

染羽の地を開いた春日族が、石神(いわがみ)として祀ったそうで、
やはり春日神なのだ。
春日神とは、藤原氏(中臣氏)の守護神である武甕槌命(鹿島神宮)と経津主命(香取神宮)、
祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって春日神と総称される。

秩父・仙台まほろばの道

インタ−ネットで調べたら詳しい
春日族には真野氏と小野氏が入っている

これらを総合的に連携している、この一帯にかかわった氏族がどういう人たちだったのかわかる

志賀高穴穂の帝(成務天皇)というのが染羽=標葉(しめは)にかかわっている
浮田国造とは南相馬市鹿島区にある

真野氏とかの製鉄族が渡来人とともに入ってきた、真野氏自体が渡来人ともされるからだそれから日本の国造には最初出雲が大きな勢力としてありその出雲の正体は蝦夷だったということもある、だから出雲がある島根県とか鳥取県が深く関係している
それで末続とか常磐線にある駅名は出雲大社とか島根県と関係していた
ともかくなんらかの技術者が製鉄関係でこの地にやってきて神社を建てた   

南相馬市小高区の奈良、平安時代の「横大道よこだいどう製鉄遺跡」(国史跡)にあった製鉄炉を復元し、当時の製法で鉄を作る実験が、考古学研究者らによって福島市で進んでいる。年内には、その鉄を使って刀鍛冶、藤安正博さん(67)(福島市)が古刀を再現する計画だ。

行方郡多珂郷(福島県)を今の高平にしているけど地理的に合わない
多珂神社があるところは磐城大田の地域なのである
高平は離れているのである、だからそれは間違いである
この多珂神社は海が見えるとしても高い丘にあるからだ
この近辺が多珂郷なのである

次回は綿津見神社がなぜ南相馬市に多いのか?(安曇族の謎)

posted by 老鶯 at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2019年03月13日

なぜ津浪で神社が被害をまねがれたのか? (もともと高い場所に建てられていたから)


 なぜ津浪で神社が被害をまねがれたのか?

 (もともと高い場所に建てられていたから)


 神社がなぜ津波からまねがれたのが多いのか、津波からすれすれで助かっているのも多い、それはもともと神社は高い所に建てられる傾向がある
高い所に神様が棲むとなるからだ
そしてもともと古いとなると海側だと湿地帯が多いから低い所に神社は建てないのである例えば八沢浦は明治以降に侍が開拓した土地である
もともと海だったのである、だから社も低い場所にあり流された

古い神社はたいがい高い所にある、相馬市でも津神社(つのみつ)がそうでありその下の・・神社もすれすれで助かっている
烏崎の八幡神社は奇跡的にすれすれで助かっている
それを見て不思議であり奇跡で神様が住んでいたからだとなる
でももともと高い所に神様を祭るからそうなっている

別に海側でなくても社は高い所にある、玉野村の神社でもそうだし山津見神社も岩をよじのぼり隠されるようにしてあった、それは佐須にある分社である
あれにくはそもそもそこに社があると気づかないのである
とにかく神社は高い所に祭るのが普通なのである
そして海側になると海とか湿地帯になっていて人は住んでいなかったからである
原町の萱浜でも住んでいない、照ア神社でもすれすれで助かったというときも低い場所はもともと海であり湿地帯だから神社は建てられないのである

そもそも縄文人が住んでいた場所などはまず津波の被害には合わない
縄文海進があり深く海が入り込んでいたからである
その縄文海進状態が津波で再現されたのには驚いたのである
ただ鹿島区の海老村でも烏崎でも実際は古い場所であり海老村は弥生時代の住居跡が出てきたという時、古い場所である
そういう場所では漁業をしていたから港としてそこに住んでいたとなる
それは便利だからそうなったともなる
三陸などでも明治にも大きな津浪で一万人とか死んでもやはり港がありそこが漁業に便利だからもどって住んでいたのである

神社というのは本当に9割近くは高い場所にある、古い神社は特にそうである
そしなれば津波の被害に会いにくいのである
だから神社に逃げて助かったという時別にそれは神社が守る神様が守るというのではない別に高い所に高台に逃れれば津波から助かるのである
それでことさら神社が助けたとはならないのである
日ごろから高い場所を避難場所としていれば助かるのである
だから神社が特別な神の力が宿っているとかにはならないのである

それにしても神社には謎が多い、なんの謂れであるのかわからないのも多いのである
それだけ古いからそうなっている、その古いことに意味があるとなる
郷土史でも村の新旧をまず知れというときもそうである
その土地でどの家が新しいのか古いのかを知ることである
それで戦後開墾に入った人たちが本当に矢までも多い
それでそこがもともと古くから住んだ人たちなのか錯覚する、まぎらわしていのである
それはどこでも日本ではそういう人たちが戦後職もなく開墾に入ったからである
そういう開墾者が入った場所ともともと古くから住んだ人たちは分けるべきなのである

神社とはパワースポットのように何か場所と関係している、なぜそこに神社があるのか?それは場所と関係してあるともなる、ただ神社にはその由来が不明なものが多すぎるのである、だからそれだけ古いから由来もわからなくなったとなる
それで津浪で神社に逃げたから助かったから神様のおかげだったというのも疑問なのである、別に高い所に高台に逃げれば助かるのが津波だからである
その高い所にちょうど神社があったとなる、だから目印にはなったのである
実際すれすれで助かっているからである
まあ、合理的に考えれば神社が津波から助かった理由がありそれを神様が守ってくれたとはならない、その辺は疑問なのである

タグ:津浪と神社
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2019年03月12日

小高には一年前より人が帰っていた (でも帰ったのは老人がほとんどだった)


小高には一年前より人が帰っていた

(でも帰ったのは老人がほとんどだった)

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六号線のキクチスーパーの近くのスポーツ店では何かはじまる
それで調査する人が何人か来ていた
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江井区とありここまでは原町区なのか?


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江井地区を越えると小高になりこんな家があった
やはり人が住まないで放置される家が増える
江井地区まではないからである、人は住んでいるからである

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新しく小高にできたカフェ


なんか小高の街に来て不思議だった、たか神社がある所、高村という所から丘を登り下りして小高の街に入った
家には車があり人が帰っていると見た、前はこんなふうではなかった
街中でも人が少なかった、それは一年前だった
だから帰る人が増えたと見た
それはおそらく仮設はもう住めないから終わりになったから家がある人はもどった来たと見た、ただ通りを歩く人はまれだし車も少ない
駅は高校生しか乗らないから淋しいのは同じである

でも街中にカフェができていた、それでそこに入った
そしてらそこは名古屋の方の女性がはじめたカフェだった、なんでも地元の人と結婚して開いたという、そこはカフェスタンドとなっているから座る場がない狭い場所だった
でも500円だったから高いとはなるがあの場所は貴重である

そこに秋田の東京の大学に行っている人が来ていた
やはりまだ原発事故のことで関心がある人が来ている
なんでもその人は二万人とかはいる武道館で卒業式だという
そこには親は入れないという、7万人くらい生徒がいるとか言っていた
それは良く聞かなかったが私の場合もとにかく3000人の前で講義するとか数の多さには驚いたのである
今でもそういうことがあるのかと思った

そういう学生は前も駅に来ていた、それで地元のことを教えた
今度会った学生はすでに新聞社に就職が決まっているという、つまり記者になると言っていた
そこでそういうことで調べに来る人の問題は案内人が大事だということである
知らない場所に来て案内人がないとういことは本当に皆目わからないとなる
それは外国旅行で自分は常に経験して大失敗していたからだ
外国だ余計に案内人、ガイドがないと皆目わからなかったからだ
でもガイドを雇う金がないからただ外国に来たというごけでいいと思っていたからそうなった、でもせっかく外国に来ても実際はただ来ただけだとなってしまう

それでフランスのリヨンでブション料理のことを紹介していた
それと貴族の料理を余した羊か豚か牛の内臓などを料理したものだったのである
ヨ−ロッパでは貴族と下層階級は明確に食べるものまで区別されていた
階級社会だったのである、そういう違いは食べ物にも残っていたのである
日本がでも郷土料理となると別に高価な材料ではない、その土地でとれるもので作っていたのである、つまり料理にもそういう歴史がある
ただ私はヨ−ロッパを旅してもそういう旅をしていないから全くわからない
それはテレビ放送のようにガイド付きではないからそういう場所には普通の人は行きにくいからである、なにか高価なレストランが目立つ所にありそういう場所はわかりにくいからである

日本国内だってとにかく地元の人は例えその人が学問がないにしても必ず詳しいのであるだからちょっとしたことがわからない、聞くとなるほどと思うのである
玉野村でもそうだった、古い屋並がありそこは宿場町だったとか聞くとそうだったのかと思う、地元なのだけどわからないのである
まして外から来るとなるとその土地のことを知ることは容易ではない
歴史もあるしそういうことは簡単にはわからないからである
それで案内人が必要になるのである

ともかくそこには大阪から来た人もいた、パソコンを教える部屋があって教えていた
そういう人がこの辺で前から来ていた
ただ最近そうしたボランティアは減っている
でも埼玉から夫婦が来たり外からまた興味があってきている人はいる
そういう人があのカフェに寄っている
小高になにもないからあそこに入るとなる

それから駅前の案内所でばあちゃんがいて話した

「大分人が帰ってきているように見えましたが」
「そんなことないよ、若い人は帰っていないよ」
「そういえば帰っているのは老人が多いのか」
「老人ばかりだよ、若い人が帰らないと活気がないよ」
「通りを通る人と車は少ないことは変わりないようです、駅だって乗るのは高校生だけのようです」
「老人は家にこもっているよ」
「車が家にあっても老人が多いのか」

確かに家には車がある家が多いとしても老人が多いということである
やはり人はあまり通らないようになっていも車は普通は通る
そこが違っていたのだとなる
ただ一年前と比べると人が帰っていると見た、街中でも人が住んでいる
それは仮設に住めなくなって帰って来たのかと思う
もう3月で仮説は終わりだからである

スーパーも小規模でもはじまった、ダイユーエイトも建物を修理してはじめるという
するとかなり復興してくるから人も帰ってくるのかと思う
でも実際は若い人は生活が別になったから帰らないと案内所のばあちゃんは言う
何かそのばあちゃんには私は親しみを感じたのである
前に知っていた女性と何か似ているのである

小高にそばあちゃん一人案内(あない)する通り淋しく春の日あわれ

そのばあちゃんのことが何か心に残る
それは私自身が家族をみんな失ったからである、それでたいがい子供を死んだとか親が死んだとか兄弟が死んだ人とか必ずそうして他人を親とか子供とかに兄弟でもそう思うようになるのである
だからあそこの駅前の案内所のばあちゃんにも私自身かそういうふうな感じになったのである
それはカフェの人は名古屋とか別である、やはり不思議なのは地元だと言葉とか何か暗黙に通じるものがあるのかと思った

いづれにしろいろいろ補償金とかで小高とはもめた、そこで険悪にもなった
それはやはり身内感覚だからそうなったのである
ただそういう時期も過ぎたともなる
小高はなんとか復興してもらいたいとなる、でも若い人が帰らないということが致命的なのである

学校の高低で子供が何人か遊んでいた、それが10人以下である
それは少ないと見た
なぜなら鹿島には保育所が二つありそこで運動会とか神輿を担ぐ祭りをしていた
親も参加してにぎわっていたからである
あの学校の子供は実際は小高に住んでいない、外から市で運営する車で来ているのであるそれは飯館村でもそうである、小高に住んでいないことが問題なのである
だから余計に老人だけの街になっているのである
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 小高区役所に置いてあった本に書いてあった

確かに子供がほとんどいないということは跡継ぎがいないということでありその街は老人だけになり死んでゆくとなる
限界集落化している、それが大きな町で起きている
でも子供を連れて新しいカフェに来た人がいた、それは本当にまれだとなる
校庭にいた子供は10人以下だったからである

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紅梅の貴船神社に咲きにしも夕暮れあわれ通り淋しき

こんなふうになる、

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椿咲く小高神社にたずねるも帰らぬ人や夕べ淋しき

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磐城大田駅に春の夕日没る
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望遠レンズで電車を撮る


望遠レンズで電車を撮る

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これは一眼レフの望遠レンズで撮った、これまで利用しなかったがやはり良く撮れている一眼レフは重くなり持ち運ぶのに不便なのである
特に自転車だと余計にそうなる、それでカメラを落として壊したがレンズ部分だったので本体は壊れずに助かった
一眼レフなにか構えて獲らないとまくいかないだろう
とっさに反応して撮ることはむずかしい
駅で待っていて撮った
撮り鉄がいるがそれはやはり電車というのは絵になるからである

今回でも望遠レンズだから紅梅が映っていたのである
電車は景色とマッチするからいいのである
あとは広角レンズをアマゾンの中古品で買うのもいい
そうなると持ち運ぶに大変になる
そして写真をとるために旅するようにもなるからかえって回りのものを人間の五感で見ないということがある
そこも問題だと思った、やはり人間の五感にまさるものはないからだ
そうはいっても紅梅が映っていたということでそこが新鮮だった
なかなか肉眼で見えないものが写真で見えるということもあるからだ
その兼ね合いむずかしいとなる
タグ:撮り鉄 紅梅

2019年03月11日

故郷に住まなければ復興はない (そのジレンマに苦しむ)


故郷に住まなければ復興はない

(そのジレンマに苦しむ)


復興という時、すでに避難区域に指定されたところをでて外で生活基盤を持った人復興とは関係ないだろう、なにかしらあるにしても関係は薄くなる
例えば浪江の人は東京に出てそこで中学高校とか出た人もいる、その人は東京で就職したしまたその祖母は東京に住むようになった、そして原町の復興団地に祖父が一人残されて住んでいる
小学生一年でも震災以後8年過ぎればも学校すら地元とは関係なく故郷とは関係なく生活してきたのだからその関係が薄れたのである

そうして外部に出やすかったの多額な補償金をもらえたことだったのである
宮城県とか岩手県だと原発関係は関係ないから補償金はもらえないから県から企業でも援助されても融資されても返さねばならないとかで今になって事業がうまくいかず苦しんでいる、仮設の商店でも資金繰りで今は苦しんでいる
旅館でも再建したのはいいとしてもやはり復興特需が終わったら客が来ないと苦しんでいる、福島県ごと補償金をもらっているから違っていた
そうはいっても放射線の被害は大きいのだからその後の風評被害などで苦しんだのだからそれは当然だとなる

復興というとき

●市町村の全体の復興 

●個々人の家族の復興

この二つに分かれている、もう8年もすぎて所属した市町村から外に出て生活している人は家を建てたり仕事をもったりしている人はもう帰らない、するとその人たちは復興に関係あるのかとなる
残されたのはその親や祖父母である、だから関係ないとは言えないが実質的に故郷との関係は薄れてしまって関心もなくなっているともなる
それより移住した土地での生活で精一杯だとなる
ただ南相馬市は小高が避難区域になっても南相馬市民だし現実に原町区とか鹿島区に多数移り住んでいる、家も建てた人も多いのである
そこが事情が違っている、でも小高区だと40パーセントはすでに帰還しているのである仮設に住んでいたが住めなくなって家があるから帰ったという人も多いだろう

南相馬市で浪江とか他からの人たちが流入して家を建てた人が多いのである
だから南相馬市ではかえって人口が増えているように見える
そういう人たちは南相馬市民となっていないからである
それで手続きで鹿島駅から浪江まで行く人がいた、それもめんどうなのである
でも浪江町民から南相馬市民に籍を移すことはできない、そうすると補償金とかが関係してくるからそうなる

いづれにしろ復興というとき市町村の復興と個々人の復興は分けて考える必要がある
そして復興、復興といっているとき実際は市町村の復興のことなのである
つまり全体をどうにかしてくれということなのである
それを一番切実に思っているのはそこに帰って住んでいる人たちなのである
他に移り住んだ人はもう復興といっても関係ないとはならないにしてもすでにないともなる、ただ復興住宅とか団地に住んで帰るのか帰らないのかどっちにしていいのかわからない人たちもいる、ただ外に出て家を建てて生活の基盤を持った人は帰らないから復興とは関係なくなっている、そうしてそういう人たちが多いのである

それで今日のテレビで大槌町で新しくしして自転車屋を始めた人がいる
もともとしていたのだが新装して始めた、カフェもやるとか家を新しく作ったのである
でも4000人くらいしかもともといなかったのにさらに人がいないのだから商売なるのか?。
ここでも一万くらいの人口でなんとか一軒の自転車屋がやっているからだ
その人の願っているのは子供もいるしなんとかみんな帰ってきてくれ、客も来てくれとき切実なのである
だからそういう場に住んでいる人はなんとか復興してくれ人も帰ってくれ住んでくれとか切実なものとして復興を願っているのである

でも外に出て家を建てて8年もすぎたらもう故郷とは疎遠なものになってゆく
ただ南相馬市とか事情が違っている、また浪江とかでも近くの復興住宅や団地に住んでいる人は時折様子見に行っているから違っている、なんらか故郷とつながりがあり帰る準備もしているのかとなる
とにかく人が住まなければその土地とは関係が薄れる、住んでいる人はその住む場所をなんとか良くしようとする、でも住まない人は無関心になってゆく
そこに住む切実さもうすれてゆく、原発事故だって津波だって遠くの人は切実なものとはならないからだ
つまり関心の度合いが根本的に違ってくるのだ、そこにやはり報道でも土着的なものが必要だという時、その土地に住んでいる人と住んでない人では切実さが違ってくるからである、その土地の水でも土地でも汚染されることは命の危険につながるから関心度が違うからそうなる

だから復興という時、そこに住まないかぎりないのではないか?
そこに住んでいるからこそ復興してくれと切実なものとして訴えることになる
大槌町の自転車屋にしても人が住んでくれないことには商売にもならないからである
そしてそこに住めないということが帰還しないことが最悪だとなる
それができていないから復興はすすまない、何か絶望的にもなるのである

その例が愛媛県と小高で農業をしている二重生活者である、その人は故郷を避難して別な場所に住んで復興にかかわれないことにうしろめたいものを感じているという、なにかしらそういうことがあっても帰りにくい
でも小高で米を作り愛媛でミカンを作っている、でも妻は南相馬市の実家には小高ではない所には帰るが小高には帰らないという
そういう人がまた多いのである、小高の人たちは原町とか鹿島と相馬市とか新地でも家を建てて移り住んでいるからである
ただやはりそれでもうしろめたいものを感じているのだなとは見た
なぜならもうそうして新しく家を建て移り住んだら小高との関係はあったとしてもうすれてゆく、関心がなくなるのである
それで農業している二重生活も限界だというのも理解できる
そしてあまりにも遠すぎるのである、いづれはどっちかを選ぶ決断が迫られる

ただこの放送で貯金をとりくずして生活していると言うが小高ではかなり補償金をもらっているからそんなに金に困るというのではないと思う、その辺がテレビでは放送しないから誤解が生まれる
いづれにしろこの二重生活とか南相馬市でも小高区以外に住むなら妻も賛成するという気持ちがわかる
現実にそうしたことがここで起きているのを見ているからである
ただ小高でそこに住まない限り復興はありえない、そういうことが他の避難区域でもできないから絶望的になっているのである



posted by 老鶯 at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連