2025年10月02日

ヨーロパの河と歴史(詩)


ヨーロパの河と歴史(詩)

eumapriver.jpg

川はモノとヒトを運ぶ
川の岸に都市が生まれ
その都市と都市を結ぶ

船の操作にたけたバイキング
凶暴なノース人ノルマン人が
ヨーロッパに進出
ロシアを流れる川にも進出
異種なるものが交わり混血
スラブ人、ゲルマン人、ラテン民族
また川を境にして歴史の興亡がある
riverはライバルとなり
川と対峙して国と民族がせめぎ合う

ライン川の岸辺の都市、マインツ
古い教会の前の市が建つ
そこにとりどりの菊の花が売られる
岸辺のポプラに秋のさわやかな風が吹きそよぎ
その港の岸辺に船を待つ
そして次なる都市を目指す

ドイツの父なる川ラインかなたオランダまで流れる
岸辺の古城よその物語よ
ヨーロッパの千年の歴史は刻まれぬ
キリストの教会も川に結ばれぬ
祈りは一つとなりヨーロッパは形成されぬ
荘厳なる石の聖堂はヨーロッパの大地に根付く
そこにパイプオルガンは荘重に鳴り響く

ヨーロッパは分かれ争うも一つなり
川により結ばれ一つなり
旅人よ、路地裏の石畳みの道を歩み
古い教会の鐘の音を聞く
その音を聞き千年の歴史を偲ぶ
国々の興亡ありしも
ヨーロッパは一つなり
川によりキリスト教により結ばれ一つなり
切り離されず一つなり
しかしその争い流された血の上に築かれぬ

ヨーロッパを幾重にも流れる河よ
その川に沿い営みは続く
そして川の上を思い下を思う
川は人々を結ぶ










2025年10月01日

ロシアとウクライナの川の役割を知る

ロシアとウクライナの川の役割を知る

donepuluriver.jpg


これらのノース人たちは、ドニエプル川、ヴォルガ川、ドン川を水上交通路として利用した。
彼らの長船はバルト海と黒海を結び、スカンディナヴィア半島をビザンティン帝国やコンスタンティノープルといった繁栄した都市、そしてユーラシア大陸の市場へと繋いだ。

そのヴァイキングの影響
プーチンがウクライナはロシア領とすべきだと主張する理由、

なぜ外国がわかりにくいのか。つまり4大文明が大河の岸に生まれたということが物語るように大きな川の役割を見ないからである
そもそも日本にはそうした川がないのだからイメージもできないのである
何故川が大事になるかとなると川は道であり交通路になる。
外国の河は運河のようになっている。だから船で行き来しやすく自ずと通商が発達する
文明を作ったのは交通の便利な場所だともなる
そこでヒト、モノの交流が活発になり都市が生まれた

だからなぜノルウェーのノース人が当方のスラブ人と関わったかというとバイキングがいて船の操作にたけていて長船を作り川を行き来できたからである
だからウクライナのキエフの起源がノース人に由来するというのもそのためである
川が交通路となり結びつけたのである。川が道となり異民族と交わり結びつけたのである
だから4大文明が大河の側に生まれたのもそのためである

例えば日本でも最上川は長大な河である。それで紅花(べになば): 高品質で全国生産量の約4割を占める最上紅花は、酒田湊を通って上方に運ばれました。 
これも京都が消費地となり川を通じて運ばれた。これも最上川が交通路になったからなりたったのである。
また京都が大消費地になったからこそ紅花(べになば)の生産も増大して繁栄したとなる
それだけ川の交通路の役割が大きかったのである。

ともかく外国がわかりにくいのはそのベースとなる地理が川の役割がわからないからである
外国の河は運河のようになっている。道になっている。そこで異民族でも文化でも交わるのである
だからウクライナでも川を中心に見るとわかりやすくなる
またラインがローマ帝国のラテン民族とゲルマン民族の境になったということもそうである。
外国では川が国境となる。川を挟んで互いが争うライバルとなる。ライバルとはrever

英単語「river」の語源は、ラテン語「riparius」(川岸の)に由来します。それが古フランス語の「riviere」となり、英語の「river」に引き継がれました。この語源を通じて、「川」はもともと川岸に関連するものであり、水が流れる場所という意味が形成されました。
「ライバル」の語源は、ラテン語の「rivus」(小川)から派生した「rivalis」です。この言葉は「川を競い争っている者」や「川を共同で使う者」という意味で、水源の確保から生まれた言葉です。英語の「rival」は、競争相手や対抗馬を指し、特に「好敵手」という意味合いが強いです

川で重要なのは川岸でありそこが港にもなるからである
それは日本でも川とは側(がわ)であり岸を指していたのである
だから共通性がある左沢(あてらさわ)というとあちら側であり岸を意識して名ずけられた
それはあちら側に渡ることを意識すらから名ずけられた
河本体より岸の方方が大事だったとなる




2025年09月30日

地獄にも清浄の月は輝く―月涼し、新涼の月、・・・

地獄にも清浄の月は輝く―月涼し、新涼の月、・・・

無間地獄の苦しみと刑期
無間地獄の苦しみは、他の地獄と比べても桁違いに重く、罪人の寿命も長くなるとされています。無間地獄に堕ちる者は、死後に二千年間、たった一人で泣きながら真っ逆さまに堕ちていきます。この地獄にいる罪人は、地下深くにある阿鼻地獄まで、二千年間落下し続けて到達します。その間にも、地獄から聞こえてくる声を聞かされ続け、恐怖心を煽られます

脚が骨折したからその老女は立ち歩くの難儀する、そのことを毎日嘆く、それは地獄から聞こえる声でもある
それを聞かされる方もうんざりする。その嘆くことが生きることでもある
それは無間地獄なのかとも見る、その脚が直らない限りその嘆きはやむことが無いからである
地獄は来世にあるわけではなくこの世にある。なぜなら病気が地獄を作り出すからである
老人になると病気に成り安いからである
つまり確率的に人間は誰でもこうした地獄を経験しやすい
病気にもいろいろありそれで苦しみ嘆く、それは死なない限り終わりがなく無間地獄にもなる


我が部屋に嘆き聞こえず月涼し
この世の地獄を離れ月涼し
我が部屋をのぞける月や嘆き無し
新涼の月や地獄を離れ見る
地獄にも浄化の月や輝きぬ
一時や嘆きはやみぬ月清し

この世にそ生きるは苦し月見れば心静かに浄められるかな


この地獄の中に月が光る、今日もまだ暑かった、だから夏の季語の月涼しが生きているともなる
今に時期は新涼になる。でも暑さが残るから月涼しにもなる。
ともかくこの世こそ地獄である。でもその地獄を離れて月は涼しく輝いている
それが救いともなる、延々と嘆きを聞いていたら嫌になる
地獄にも風流があるともなる

世の中は 地獄の上の 花見かな 一茶

まさにこれである。
一茶的な物の見方になる。確かにこの世は地獄でも自然の美はあり慰める
地獄の上でも清浄な月は輝いている、それは汚れることはないのである



2025年09月29日

独身で終わっても家族を持っても人間は不満で終わる

独身で終わっても家族を持っても人間は不満で終わる

人間は何にしろ不足がある。結婚しない人は老年になり助け合う家族がいないとか嘆く
では結婚しても三分の一が離婚しているし子供にも老後が頼れないとかなる
つまり結婚しても子供を持っても不幸な人はいくらでもいる
昨今は家族の繋がりも希薄化しているからである
人間はどんな人でも満足な人はありえない、何かしら足りないし不満なのである
家族を持っても不満な人はあふれている。
だから独身で独身を嘆くのもわかるが家族を持っていても同じなのである
別に独身生活で終わってそれはそれでその人なりの人生だったとなり悪いとはならない
確かに老後は一人で苦しくなる。でも今は福祉の支援でも整っている
つまりそれだけ家族がいない人が増えれば対応せざるをえないのである。

いずれにしろ人間の不満が解消しない、人間は結局は死ぬということで不満になる
何やかにやあってもみんな死ぬのである。それで平等だとなる
人間は結局神の子に成らない限り不満である。神の子という時特別な人でもない
才能とか生まれつきものでなく神の子になれる

人間は神の子であり得ることが不満を無くすことである
全能の神の子であってこそ不満がなくなる。そうでないかぎり不満を無くすことができない
神の子だから死ぬこともない、また神の国に入る約束が得られる
そもそもこの世では満足はありえない、何かが足りないとか必ず不満がある
家族をもっても不満がある。結婚しても不満があり離婚する。老後を子供に頼れないとかある。
人間は何か必ず足りないのである。

もちろん自分自身が苦しんだように独身の老後は悲惨になる
でも家族がいても悲惨な人はいくらでもいる。
毎日息子のことで不満であり文句を言う女性もいる。結婚しても子供を持っても不満なのである
人間不満の無い人はいない。
人間は本当はあまり望まないのがいいとなる。限りなく不満があるからである
いくら望んでも自分のいいようにはならない、人間関係でもならない、満足することはない
はない。要するに人間はどこかで不満があっても諦める。
とにかく健康であればいいとしてあきらめる。そうしない限り幸福にはならない
だから欲望を抑えろとなる。欲望は限りないからである。そしてそこに満足はないのである。











励まし合う病人の家ー鳴き合う虫の声

励まし合う病人の家ー鳴き合う虫の声


盛んに鳴き合う虫や病人のともにしあれや励まし合うかな
苦しくも人は生きなむ我が家にはげまし合うかな
病人の慰め合い悲し虫の声我が家に響き合うかな
病人のなおも他者を思いやるその心の良しも人は悲しき
何故に人は苦しむ病なれ老いなり悲し秋の夜ふけぬ
我が庭にムラサキシキブ実るかな我が病も心なごみぬ
秋の雲山にとどまり流れざる我は病に家に伏せるも


なぜ人間はこうして苦しみ悲しむのか?何か十数年親の介護とかで苦しんできた
そして今度は自分の病気で苦しんでいる
人間の苦しみの最たるものが病気である
そもそも宗教は病気を治すものとして始まった。それは仏教でもキリスト教でも同じである
それでキリストが奇跡を起こして病を直したからである

とにかく病気が一番深刻なのである。私の父親は中学の時肺癌で死んだ、その苦しみを見ていた
姉は認知症になり苦しんだ、認知症も病気であったから苦しいのである。
その他に人間には様々な病気がある。そのために苦しむ人が膨大である。特に老人になると多くなる
病気に成りやすいのである
私も脳出血だが親しい女性は脳梗塞であり足が悪く歩けない、それでも気丈夫であり姉とかを励ましている
私の家は病気を慰め合う家にもなった。私自身が慰められているのである

そもそもなぜキリストが悲しむ者は幸いである・・・と言ったのか?
これがほんとうにわからない、ただここに人間の人間たる所以からからかもかしれない
自ら悲しむことはそれは他者の悲しみに通じることになる。
つまり悲しまない者は他者に同情できないとなる

ただ正直苦しみたくない、元気で暮らしたい。みんなそう思う
何か正岡子規でも肺病で苦しみ写生俳句短歌の創始者に成った
病気に成ると身近なものでもそれが貴重なものに見える
なぜならそれは常に病気でも寝ていても見れるからである
庭にムラサキシキブの実が成ったということで何か心がなごむ
ささいなことでも何か感じるようになる

人の涙は真珠ともなる
悲しむことで人間となる
その涙を神はぬぐってくださる
悲しむ者は幸いなり
その深き意味を知るべし











2025年09月28日

玉野村の秋【伊達と相馬の境】


玉野村の秋【伊達と相馬の境】

datesoumaborder.jpg

tamanomurahouse.jpg


玉野村の秋

伊達と相馬の境
空家に蔵と古い井戸
長い廊下や柿なりぬ
ここに生活のありしも
古い碑の並び
若木神社とかあり
秋の陽は伊達の方に輝き
ここに夕陽のさして
昔の日を偲ぶかな
一時よりぬ玉野村
かなた相馬の城は遠きかな


霊山から玉野村に来るとそこに村があり家がかたまりある
宿場町のようになっている、そこに一軒の空家がありそれが何とも言えず昔を語る
そこは伊達と相馬の境で有名である
若き神社は疱瘡など伝染病を防ぐ神で境にふさわしいとなる

病気になってもそれぞれ「人間の幸せ」を奪うべきではない

病気になってもそれぞれ「人間の幸せ」を奪うべきではない

「がんの根絶」ではなく、「人間の幸せ」こそが、これからも医療が追い求めるべき壮大な夢です。

「人間の幸せ」とは何なのか?それはそれぞれ違っている
私自身が病気になって一番がっかりしたことは自転車に乗るなと言われたことである
それは私の幸せを奪われたことである
でも自転車に乗れないことはない、それは老人が危険だから車に乗るなというのとも似ている
でも車に乗れないことは行動範囲が狭くなり幸せを奪うことになるから問題なのである

老人だから病人だからとあらゆることを制限して奪うことは返って生きる気力も奪うことになる
確かに病気が治らなければ何もできないとなるができることはありさせるべきだともなる
「がんの根絶」ではなく病気の根絶ではなく病気になっても「人間の幸せ」を追求する
その人の幸せ生きがいになるものを奪うことは問題である
そうなると死んだ方がいいともなる

人間が求めているのはそれぞれの幸せである。病気になってもそれはありえる
病気を治すことが先決でもそのためにその人の幸せを奪ことは医療ですべきではない
いずれにしろ病気は直すことはできない、なぜなら人間いつか死ぬからである
それはいくら医学が発達しても止めることはできない。その前に医療はあくまでも補助的役割になる

「がんの根絶」ではなく、「人間の幸せ」こそが、これからも医療が追い求めるべき

病気の根絶はできない、それより「人間の幸せ」を追求すべきだとなる
その幸せは各自違っている。それを大事にすべきだとなる


2025年09月27日

福島県浜通リの詩【福島県の地理】



福島県浜通リの詩

海は轟き鳴り
魚は跳ね飛び
朝雲雀が盛んに囀り
燕飛び交い
海岸線を鴎飛び来る
夏の雲が湧き上がり
大輪の花は海に向かい咲き
阿武隈山脈の青々と映えぬ
牡鹿半島に金華山も見え
躍動する生命をはぐくむ大いなる海よ
天地に轟く広大な海よ
天地創造の大いなる神の業は成りぬ
東風(こち)は涼しく吹きそよぐ
海にはなお知られざるものあり
海の底より打ち上げられた寄り物の怪
恐ろしい津波は村を飲み込み人をさらいぬ
自然の驚異を見せつけぬ
その家の跡や草に埋もれぬ無情
しかしまた逞しき漁師は魚とり漁船は帰り来ぬ
生きる力を与える大自然よ
天地に共鳴して生きよ、生命の海よ
汝は神の子なり
汝に与えられしはこの大自然なり
その天地と共鳴して生きよ
漁師は海に死ぬが本望
農民は田畑に死ぬが本望
画家は絵を描きつつ死ぬが本望
詩人は詩いつつ死ぬ
雲雀のように激しく命のかぎり
歌いつつ死にぬ
その声は亡き後も力強くひびきわたる
ただ長らえる命にあらじ
それぞれの生を生きる意味あり
神の御意に生きてそれぞれの命は尽きむ


何か病気になると病気を生きることになる。それもやむを得ないのだが本来は人間は病気に生きることではない
ただ病気になり死がまじかになると生を深刻に意識する
それぞれの生が何であったのか問うことになる
私は福島県の浜通りに生きた、ここは海と切り離せずある
でも福島県ハハマナカイズに分かれ風土が違う、特に会津は山国であり海に面した浜通リとは対象的である。
その感覚も相当に違っている。だから文化も違ってくる

ともかく私は浜通リを生きたとなる。ここは磐城国であり今のいわき市と通じる
磐城太田駅があり磐城という地名が残る
そして地理的には宮城県の方が一体感がある。なぜなら牡鹿半島でも金華山でも見えるからである
福島市があっても見えない、吾妻山も見えない、でも蔵王は見えるのである
だから山形県でも蔵王が見えれば視界に入れば身近になる
じかに見えるのと見えないのとでは大きな差がある
どうしても福島県は地理的一体感がもてないのである。だから県の詩を作りにくい
それはほかでもそうである。県が大きいからそうなる















続きを読む

2025年09月26日

老人とデジタル社会 【連絡用にスマホでなくてもガラケーでも必須】

老人とデジタル社会
【連絡用にスマホでなくてもガラケーでも必須】

老人とデジタル社会は相性が悪い、アナログ的にじかに合ってコミニケーションする
それで安心する。でも外に出ても福祉の人とか連絡を取る必要があり不可欠になっている
スマホでなくてもガラケーでもいい、固定電話はでは外出した時連絡できない
だからデジタル社会なれば適応せざるをえない、私が脳出血になってもプログを書き続けている
するとプログを読むとその人の消息がわかる。それが便利なのである

ただ手がしびれたからキーワードを打つのがうまくいかない
でも何とか打てる。これもデジタル時代だからできる
それで緊急用にはスマホであれガラケーでも携帯は必須なのである

そうでないと連絡できないから助けてもらえないとなる
それは結構深刻な問題になる。だから老人がこうしてデジタル社会に適合できないと命にもかかわる
そんなのめんどうだから必要ないとならないのである
いろいろあるが連絡用に必須なのである。
とにかくこうしてそんなものなくても暮らしていけると老人は成るがそうではないのである
それを日ごろから訓練している必要がある。ただ簡単に覚えられないから苦しいとなる
でもデジタル社会になると適合せざるを得なくなる
難しいことではなく連絡用に必要なのである

別に老人でもガラケーならメールでも使っている。ただ何でも日ごろ使っていないと使えないのである
何かスマホは電池が切れやすい、それで携帯用の小型のバッテリーをアマゾンで注文した
デジタル機器の問題はこういうところにもあった。
ともかくこういうことも備えていないと困ることになる
つまり連絡できないからである





老人の新しいファミリーが求められる時代


老人の新しいファミリーが求められる時代

newfamily.jpg
老後に一人になり、病気がちになってきたら、老人ホームには行かずにこのように暮らしてみてください | 介護の心配や子供の目を気にせず、

柳田国男に言わせるとファミリーはそれ自身労働組織であり親子という言い方ももともと血縁関係を意味するよりは労働の組織であったオヤコのコは家の子、ミヤツコ(造)などのコであり労働者を意味していた

ファミリーとは今の家族とは全然違っている、第一家族という言葉は明治になったできた言葉である
それは狭い血縁関係である。ともかく家族は人間の生活の基である。
だから聖書でも家族の歴史から始まっている。一家族が拡大して民族となり国家となったのである。
ただ家族の形態は時代によって変わる。
確かなことは家族は最近できた言葉でありそれが前からあったと錯覚する

なぜ今それを問題にするのかとなると時代が変わり家族の概念も変わり新しいファミリーを必要となったからである
特に高齢化社会になった時老人が狭い家族では面倒見切れないとなり、行き場を失う
それで老人の新しいファミリーが必要となる
その一つがこの老人が共同生活する施設になるがここは老人ホームとも違っている
自主的に老人が助け合い生活する場である。要するに新しいファミリーだとなる

でもこれまで共に生活しないのだから知らない人だから互いに相手を知ること自体難しい問題はある
たとえば遠野のデンデンラノとかで最後に村の老人が集まり暮らしたという時そこではすでに親密な関係があり共同しやすかった。
それが全然知らない人と共同生活するのは難しい面がある
それでも新しいファミリーが求められてる。それが模索される時代だとなる
会社でも一種のファミリーにもなる。でも退職すれば関係なくなる
するとやはり新しいファミリーを求めるようになる

とにかく高齢化社会に適合したものが求められる。その一つとしてこの高齢者用の共同住宅が生まれたとなる
これはこれまでの老人ホームとは違っている。新しい思想で作られている
だからそこで各自が自主的に暮らせる。金もあまりかからないのである
そもそも個人的にヘルパーを頼んで金がかかりすぎてここを選んだからである。
















2025年09月25日

「人としての基本が欠如」杖をつく高齢者を放置して走り去ったタクシー運転手にSNSで怒りの声

「人としての基本が欠如」杖をつく高齢者を放置して走り去ったタクシー運転手にSNSで怒りの声

これは介護タクシーではなかったのか、介護タクシーなら指導されているからこうはならない
南相馬市原町区ののぞみタクシーは介護タクシーでもある
何か老人について詳しい、倒れると困るとか注意している
その運転士自体が高齢者であり話を合わせることができる
何か忙しくて人手が足りないと言っていた。それだけ老人が多く病人が多いのである
でも老人は老人をしるころがあり若い運転手よりいいともなる
何でも若い人いいとはならない、老人に老人を理解するからである。
何か杖ついている老人が多いがその人達のことをなかなか理解しにくい
それは自分自身が経験していないことは理解しにくいからである
だから介護となると力仕事は若い人がいいが話し相手となると老人いいとなり
役割分担する
何でも若い人がいいとはならない、老人でも活用方法がある

いずれにしろ高齢化社会の問題は多い。それは今まで経験しないことだから対処できないとなる
ただ高齢社会でもすべてが悪く作用するとは限らない、老人でなくても社会全体が他者に気遣うことは住みやすくなる
何か車はいいものでも高齢化社会に合わない面がある。
第一杖ついて歩いていると車社会では危険になる。第一車にとって歩行者自体が目障りなのである
もし老人でも安全に歩ければ街でも買い物したり活気がうまれるかもしれない

老人に優しい街として活気をとりもどすこともありえる
車社会はどうしても老人に合わないのである








posted by 天華 at 10:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年09月24日

主観的判断と客観的判断【すべて数値だけでは判断できない】


主観的判断と客観的判断【すべて数値だけでは判断できない】

病気でも主観的判断と客観的判断がある、私の場合主観的に判断しやすい
何か元気だったから病気のはずがないと決め込む
でも客観的判断となるときは科学的判断にもなる、血液検査からレントゲン検査から血圧検査から人の体を科学的に検査して数値を出してみる
その人が元気だと言っても判断しない、常に数値を出して判断する

ではすべて数値で判断できるのかとなるとそれもできない、何か人間は数値で計れないものがある
人間には奇跡でも起こる。そんなもの迷信ともなるが医者でも何故なったとか回復したとか不可解なことを知る。
というのは医者でも体の部分を見る専門家であり人間全体を診れないからである
するとそこで判断を誤る。
だからいくら検査して数値を出してもそれで全部を判断できない
レントゲン写真でも全部判断できない、見逃すものがある

ただ主観的に判断することは危険である。俺は強いとか武術で言っても実際の剣の試合では負けたりする
現実の前でその主観的判断は打ち砕かれる。俺は強いと言っても他にももっと強い人がいる。
人間はそうして現実の場で試される。
なんか推理ドラマでも主婦の感とかで推理する。でも証拠をそろえろとなる
感など当てにならないとなる。でもその感が当たる時もある
人間の感も馬鹿にできない、機械だけに頼り失敗することもある
その辺の兼ね合いが難しい。すべて数値で判断することも失敗する
そこにはどうしても人間の判断が必要になる
でもそれが主観的になるとになると判断を誤る

血圧が高いからとその数値ばかり気にしていると判断を誤る
人間はすべて数値で計ることはできないからである。数値でわずかの差で判断すると判断を誤る
数値ですべてを割り出すことはできない
第一人間の心でも数値化できない、何か生きる意志が無くなる時治療しても効果がないととなる
心の持ちようが関係してくる,色心不二とは心と体と切り離されず一体ということである。

そこで祈りとかも効果がある。つまり心と体は一体だからである。医者が助からないと言っても助かることがある。
そこに人間の不思議がある












病院で検査したら脳出血だった。

病院で検査したら脳出血だった。

鹿島厚生病院から原町の脳卒中センターに救急車で運ばれた
だから大変だった。
その原因は高血圧だった。血圧が高くなるのは注意である

脳梗塞より脳出血が危険ともある、だから意外と軽いものではなかった。
何か脳梗塞とか脳出血は成り安いから注意である
左手がマヒしたのもその後遺症である。
とにかく老人は病気になりやすい、それげ急激に来るので怖いのである
こういう時一人だと本当に困る、地域包括センターの人が病院にきてくれたので安心した
南相馬市立病院には10年前とか一か月入院した
腎不全になると言われ緊急入院した、今回も腎臓も関係していた

老人はは日ごろから健康に注意していないと病気になりやすい、
ともかく大変な一日だった。帰りはのぞみタクシーで帰って来た。
介護タクシーでもあり忙しいというのもわかる
老人が多く病気になる人が多いからである。繁盛するのはそういう分野だとなる








2025年09月23日

南相馬市の詩−福祉の支援に助けられて・・・・


南相馬市の詩−福祉の支援に助けられて・・・・

南相馬市の詩

南相馬市に生きる歳月よ
苦しくも悲しくも
ここに生き死になむ命
福祉奉仕の人よそは我が助けなり
共に手を取り合い結び合う
今我が一人家族の無しも
そは我が支えなり
我ははここに安らかに眠らむ

一つ一つの墓標は何語るあわれ
美しき過去は蘇り
新しき未来は築かれむ
若竹は真直ぐに素直に伸び
清らかに流れる水よ
美しき花々に飾られぬ

石一つここに動かず夢を見る
木は強く根を張り
大地の育む豊かな黄金の実りよ
虹はかかり神の約束の日は成らむ

かなた海は広く波は打ち寄せ轟き
鳥は広き砂浜に群れて飛び来る
そしていずこかへ飛び去り消えぬ

ああ 自由なる鳥よ
憧れは強く海の彼方へと飛び去りぬ
かくて新しき世界は啓け見む
そこにまだ見ぬ花を見てまた飛び去りぬ
ああ 旅の日々よ、蘇るかな
ただ帰るべき故郷ありて旅もあれ

南相馬市は我が故郷なり
ここも理想の地にはあらじも
その暗黒よ、しかあれ
我が家族もここに眠りぬ
我はここにいつくしまれ育ちぬ
その家族の面影はここに宿りぬ
かの時は至福の時なりしを・・・


今回は全体の体の衰弱から軽い脳梗塞のようになったのかも知れない
暑さでも栄養を取らないからそれも影響した
一人はこういう時本当に苦しい、それで福祉の支援を知り現実に助けられた時うれしかった
別に故郷がいいとはならない、そこに暗黒があることを書いた
でもここで生まれ育ち生きてきたことそれも人生だった

何か死ぬとも思ったからである。それでも支援があることで多少安心した
助けてくれるんだと安心した。これは一人だからと感じたのである

ともかくなぜこれほど災難が続くのか、津波原発事故それほど私には影響なかった
でも親の介護自分の病気は辛かった。それは十年以上続いたから苦しかった
入院も自分自身二回もしたからである。
人間は苦しい時助け合う時連帯が生まれる、その時歌が詩も生まれる
南相馬市に生きた。それもかけがえのないことかもしれない
ただ故郷嫌い旅してきたのも自分の人生だった
だから故郷が特別いいとも思えない、でもここに長く生きたのだから思いが生まれる
それは誰であれ人生でそうした思いが生まれる
そこで共に生きたという思いが生まれる故郷でなくても長く生きれば誰しもそうなる
それが何であれ人生となるからである。
























2025年09月22日

一人暮らしの安全対策は不可欠 【自治体で整備されていても知らないから問題】

一人暮らしの安全対策は不可欠
【自治体で整備されていても知らないから問題】

今日は厚生病院の整形外科で診てもらった。腰のレントゲン写真とか撮った
でもここだけではわからないから内科でもみてもらいとなった。
地域包括センターの女性は看護師であり体も診る

水分をとらないと血流が悪くなるから寝る前に水を飲むと言いのもそうなのかと思った。
いろいろ支援があってもわからなかった。何故わからないかとなると日頃サービスを使っていないからである
そしてわかりにくい面があるのが問題なのである
サービスが一か月になるとかも問題である。書類を書き審査があるからそうなる
ただ直接話を聞いたので安心した。一人暮らしの人はこういうサービスがあることを知らないと危険である
一人暮らしの人に対するサービスがある。そうなれば一人暮らしでも安全だとなる
だから何でも知らないことが致命的になる。
緊急の場合の装置もつけることができる。ボタンを押せば連絡できる
一人暮らしには不可欠だとなる

つまり一人暮らしの人はこういうことを知っておくべきだとなる
助ける仕組みがある、かなりそういう点では整備されている
ただ盲点は知らないことなのである。日ごろ使わないものはわからないのである
人間は日常的に使うもの触れるものは利用しやすい、でも緊急の時となるとめったにないからパニックになる
こういうことは日頃の訓練も災害の時のように必要である

ともかく一人暮らしの安全対策は不可欠である。それは整備されているのである











2025年09月21日

この世は快楽や幸福を追求する場ではない 【災いをいかに避けるかを第一にせよーショーペンハウエルの人生観が正しかった】

この世は快楽や幸福を追求する場ではない
【災いをいかに避けるかを第一にせよーショーペンハウエルの人生観が正しかった】

私が一番読んだ本がショーペンハウエルの本だった
この世では災難が多いからその災難を避けることを第一にすべきであり幸福とはその災難ないことであり積極的に幸福を求めるべきではないと説いている
その中で健康が一番大事だと言っている
それを身をもって経験した、
親の介護から周りでで起きたことがそうである。人間最大の災難は病気である
どれだけ人間が病気で苦しんできたか、老いも一種の体が弱る病気である。
それは誰にでも老化すると病気になる。認知症も病気である。この老いによる体の問題は誰にでも起きる
避けようなく起きる。
それと災難は無数にある。自然災害であれ交通事故であれ技術でも起きる
原発事故でもそうでる。だから安易に科学技術でも頼るべきではない、その危険こそ見るべきだとなる

とにかく幸福は災いのないことであり何か積極的にもとめるべきものではないにましてや快楽など求めるべきでない
幸福とは苦痛なき事災い無き事である、本当の幸福は神の国にしかない、この世はどこであれ地獄が一定の住処であり逃れようがない
これほどの災いのあることで身をもって知った
自分だけではない、脳梗塞で歩けなく成る、糖尿病にもなり目が悪くなるとか三重の苦しみを生きる人もいる
そして同病相哀れむとなる。

とにかくこの世に幸福はありえない、この世とは災いの世であり災いを受ける地獄なのである
だから幸福を得られるとか期待すべきではない
災い無き事を祈るべきだとなる、そうなるとかえって幸福を求めて不幸にるから注意すべきである
災い無き事に感謝して幸福を求めるべきではない、そもそもこの世に幸福はない
この世は災いの国、火宅の世である、甘い幸福快楽など求める場ではない

それを戒めとしていないとかえって不幸になる、災いを受ける
つまり災いのないこと苦痛の無いことが幸福なのである

幸福とはとはきわめて消極的なものとしてしかありえないのである。それを認識していないとかえって不幸を招く
今日一日無事にすごせたことを神に感謝する。そういう心がけは必要である
それだけこの世には災いが多すぎるのである






悪いことは予想できる 【だから備えることができる】

悪いことは予想できる
【だから備えることができる】

今回の自分の失敗は悪いこと一人暮らしの危険にそなえなかったことである。
別に民生委員とか助ける仕組みはあっても知らなかったのである

人間は何であれ知らないことが致命的になる!

津波でも取この辺で予想できた400年前に700人溺死した記録が残っていても
しらなかった、
それでこの辺では津波は来ないと思っていたのである
そのことが知らないことが致命的になる!
何か悪いことは予想できる。良いことは意外と予想できない
自然災害でも予想して対策すれば助かる。
病気でも予想できることはある、検査して事前に予想すれば防げることがある。
血液検査などすると何が栄養がたりないかわかるという
私の場合は暑さで食べないから栄養不足で体が衰弱したのかもしれない

ともかく人間は悪いことは予想できる、意外と良いことは予想できない、だか思わぬ幸運だったとなる。
聖書の予言でも常に悪いことが起きるから備えろとなる
ノアの大洪水でもそうであり敵が攻めてくるでもそうである。そんなことありえないとして予言者は迫害された
別に悪いことは誰でも予想できる、だからいくらでも悪いことの予想にあふれているのである。
それだだけ悪いことは本当に起きるからである
だから自分自身でも一人暮らしがいかに危険かを予想していなかったことが失敗だったとなる
連絡先を知っていればこうはならなかったのである。

一応危機は脱したが衝撃が大きかった






続きを読む
posted by 天華 at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2025年09月19日

孤独死の恐怖【事前の対策が不可欠】


孤独死の恐怖【事前の対策が不可欠】

なぜ急に足が弱り立てなくった、その前の日まで元気で自転車で動いてたからである。立てなくなりなくなると歩けなくなるこてとは直ぐ近くの冷蔵庫にも行けなくなりそこに水と食べ物があってもそこまで行けなのがで餓死にもなる
つまり孤独死はそういことで死につながる。水でも食べ物あっても死ぬとなる。
一人暮らしはその危険がある
立つこと歩けなることでそうなる。それを自ら体験した
後は知っている人に助けてもらい買い物もしてもらい
窮地を脱した、一人暮らしの危険は突然なにかあっても見る人がいないし連絡しようがない・これは事前に対策しないと危険である
孤独死はこれから増えてくる、ニチイとかサービスがあり相談することにした
何とか歩くことはできるから助かっている
一人暮らしを甘く見ると危険である。何がおきるかわからにないからである

それにしても災難続きである。福祉のサービスも知って事前の対策が必要である。
なかなかわかりにくいが知らないと死に通じる










2025年09月12日

相馬野馬追いは江戸時代の身分制社会の再現 【商人は身分が低く馬を利用できなかった】


相馬野馬追いは江戸時代の身分制社会の再現
【商人は身分が低く馬を利用できなかった】

推理ドラマであれ時代劇であれ何に注目するのか
そこに単なる空想ではなくリイアリテイを感じることで共感する
でも江戸時代になると時代が違うからそこにリアリテイを感じるのがむずかしくなる。江戸時代は厳しい身分社会である。その生まれで決められてしまう社会である

そういう社会で生きる人は

常に身分を感じていた、その差別を感じていた



現在でもFXのように、為替相場は儲けることができます。また米の先物取引で儲けることもできます。この儲けのために頻繁に江戸-大坂間を証文がやり取りする必要があったので、飛脚が発達したのです。
しかしこれは階級社会から見れば士農工商の商、何の労働もしないで富をえるいちばん悪い儲け方だったので、当然ながら役人は馬の使用を許可しなかったのです

武士でも下級武士は馬に乗ることが許されなかった時代なのです。士農工商といいまして、農民は農作業用に馬を使うことは許されていました。しかし、それは手綱を引っ張るだけで農民が馬に乗ることが許されていませんでした。飛脚は商の一番下っ端という位置づけなので論外なのです。元禄赤穂事件で赤穂藩の江戸藩邸の下級武士が事件の急を地元に伝えるために江戸を出立したわけですが、それでも馬に乗ることは許されなかった。駕籠を乗り継いで帰郷したわけです。

東北地方東部は労働力として有用な、非常に力強い馬の産地でした。南部藩ではその馬を軍用で使用できないかと考え、藩で牧場を作り飼い始めました。それと同時


軍馬用にも使っていた。相馬藩では野馬追いのためだけに今でも馬を飼っている
農作業でも使われていた。
ただ商人は馬を使うことが許されなかった。

飛脚は商の一番下っ端という位置づけなので論外なのです

商人が馬を使わない、飛脚は身分的には最低だった、これが江戸時代の身分社会なのである。このことを前提にしないと江戸時代がわからないのである
江戸時代の窮屈さ閉鎖性がここにあった。
だから時代劇を見るときその背景に強固な身分社会があったことを知るべきである

住む場所も侍でも足軽となると徒町(かちまち)とかなり馬を持たない人々が住む場所だった。足軽長屋とか今でも新潟県の。。。残っている
そこは一間であり庶民の長屋である。侍屋敷に住んでいたのとは大違いとなる

つまりこの厳しい身分社会を常に頭に置かないと江戸時代でも時代劇でも理解できない、現代ではそんな厳しい差別がないからである

雀の子そこのけそこのけお馬が通る 一茶

大名行列であり雀の子と庶民のことである。これが野馬追いで再現される
御行列であり庶民は馬に乗る侍を見上げる。その時確かに明確にやはり馬に乗る人と乗らない人の差別を意識する、馬に乗った人は本当に偉く見えるのである

他でも時代祭りがあり行列があるがこうした身分社会を感じない
野馬追だけは今でも身分差を歴然として感じる祭りなのである
何故なら野馬追に出る人は侍の出の人であり一般からは出れないからである
つまり歴史の再現でありそれは架空のフィクションではないのである
だからこそ鎧兜でも旗印でも先祖伝来のものなのである

このことからなぜ明治維新になったか?その理由がわかる
この身分の差別に対して不満な下級武士(足軽)などが上級武士に対して反乱を起こしたものだった。それを象徴的に示していたのが伊藤博文である
彼の出自は足軽に養子に入り一応侍身分を得たものでありそれが後の初代の首相になったことでもわかる
明治維新とは侍の身分制打破を下級武士が行ったものである

「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」

福沢諭吉の言葉に象徴されているように身分制社会の打破が明治維新だったのである。ともかく江戸時代は人間を生まれつきの身分で判別して見ていた
侍の中でもそうである。足軽となれば下に見ていた。その差は大きいのである
何かこうした身分社会になると常に身分で人を見る
その人の能力とかは基準にならない、すると身分が低い者は相当に不満が常にありたまっていたがどうにもならなかった。
それが明治維新でその不満が一気に爆発したのである

野馬追いの見方はこの江戸時代が現実に再現される祭りである
だから他の祭りと違い気軽なもにならない、馬に乗る侍とそれを見上げる庶民とは厳然として差が明確になる。
ただそのために侍の出しか祭りに出れないから人数が減り将来的に規模が縮小して迫力が無くなり維持できないことにもなる
今年は女性でも参加が自由になり多少緩和された。でも将来的には維持するのもむずかしくなる。

この身分社会は人間の問題として常にある。なぜ江戸時代にエタヒニンとかの人達がいたのか?

それは身分制社会の不満のガス抜きだった。お前より下の者がいるとなるからである
何かその女性は貧乏であり常に人に頼むのが日常になる。でも何かその下の女性がいてその人を蔑む
その女性がエタヒニンにされていたのである。それはインドならカースト制になる
現代の差別は貧富の差で決まる。金が多寡で決まる
でも人間の習性として常に差別が生まれる。アメリカなら人種差別がある。
おれはお前より上だ下だと争う、これは人間の本質としてあるから変わらないとなる

明治になっても

官員、兵隊、華族、士族、卒、祠官、僧侶、農、工、高、雑業の11種に区分して集計するように定めています。
その後明治5年1月29日に卒が廃止され、士族か平民に編入されます。

士族は侍の身分は一応残っていたのである。



2025年09月11日

何故宗教が堕落して俗化するのか 【天使が堕落してサタンになった理由ー煩悩即菩提の意味−堕落したカトリックとプロテスタンティズム】


何故宗教が堕落して俗化するのか
【天使が堕落してサタンになった理由ー煩悩即菩提の意味−堕落したカトリック】

●煩悩即菩提の勝手な都合のいい解釈

これは世界共通である。仏教でもキリスト教でも堕落して俗化する
サタンとは何かとなるともともと天使だったのである
その天使がこの世のものに魅せられて堕落してサタンになったのである
それだけこの世の魅力が大きいからそうなった。
釈迦であれキリストであれとてもその真似などできない、その差が余りにも大きい過ぎるのである。そうなれば当然本来の教えと離れて俗化する
だから創価でも煩悩即菩提と教義にある。煩悩が欲が人間にあるけどそれがあっても菩提になる

原始仏教においては、煩悩を滅することに主題がおかれ、それにより覚りが得られるとされていた
しかし、時代を経て大乗仏教の概念が発展すると、すべての衆生は何かしら欲求を持って生活せざるを得ず、したがって煩悩を完全に滅することは不可能と考えられるようになった。また煩悩があるからこそ悟りを求めようとする心、つまり菩提心も生まれると考えられるようになった

なにかこういう教えでも常にこれはいい煩悩があればいい欲があってもいい返って煩悩があればあるほど欲があればあるほど菩提になる。それは実に都合にい解釈である。それなら万人に受ける。
そしてもっと煩悩をもて欲をもっと強く持てと指導する
要するにそれが俗化することである。その解釈が歪めたものになる

●プロテスタンシズムも奉仕の労働が我欲の利益追求の労働になる

何か別に仏教だけではないキリスト教でもそうである。カトリックでも堕落したのはそのためである。免罪符など売ったのもそのためである
それで反発してルターの宗教改革が起こりプロテスタントが生まれた
そこには牧師がいない万人が牧師になる。
ところがこれまた堕落したのである。資本主義がウェーバーの言うように他者への奉仕のためとして労働することから始まった
でもそれが俗化した堕落してたただ各自の欲を飽くなく追及するものとなった
プロテスタンシズムの堕落である。だからこれも煩悩即菩提と似ているのである

つまり人間の欲がそれだけ強いからそうなる。そして煩悩を欲をいくらでも追及することが是認され促進され強欲資本主義になった。それは全く他者に奉仕する労働でもなく資本蓄積でもない、ただ歯止めのない欲の追求が是認されたのである
だからこそ何百憶とか稼ぐアメリカの大富豪がいてそれが模範ともされる

釈迦とかキリストの教えとかは余りにも高等過ぎるから実行できない。その反動として煩悩即菩提とか強欲資本主義になった。それは天使が堕落してサタンになったことなのである。この世のものに魅せられて天使が堕落してサタンになった
だから本来聖なるものが極端な俗なるものとして利用されて一般化したとなる。
煩悩即菩提はあらゆる欲望が是認されるものだから一般に受け入れられたとなる
だからもっと欲を持てと仏に祈る。それも異常だが別に教義に反しないとなる
結局いくら高等なことを言っても実行できない、一般化するに人間の欲を肯定してむしろ欲を強く持てとまでなる。それが俗化することである

●人間は欲を無くすことができないから理想は実現しない

清廉潔白な忠実がみじめにも見捨てられ
金ピカの栄誉が浅ましくも場違いな奴に授けられ
純真可憐な美徳がむごくも淫売よばわりされ
正真の完璧が理不尽にも貶められ
力が足なえの権勢に動きを阻まれ
学芸が、時の権力に口を塞がれ
愚昧な学者ずらして才能に指図を与え
素朴な誠実が馬鹿という汚名を着せられ
囚われの善が横柄な邪悪に仕えるをみるなんて
こんな事にはまったくうんざり。だから、私らおさらばしたい。

シェイクスピア(ソネット集)

何かこれがこの世の現実になる。

力が足なえの権勢に動きを阻まれ
学芸が、時の権力に口を塞がれ

これあ原発事故であった。御用学者のことである。
宗教でもその理想は余りにも高いが現実は(正真の完璧が理不尽にも貶められ)
となる。高邁な思想はただ汚されて消失する。
つまりこの世の現実は釈迦とキリストが教えたものとかけ離れたものとなり汚される。それは世俗より異常に御利益を求めることでもわかる
不思議なのは発達障害の人でも利に聡い、利益になるものは即座に理解する
数字がわからなくても利益になるものは計算しているのである

この世で高い理想をかかげてもそれが実現しない、共産主義もマルクス主義も理想であったがそれも権力を得たものが莫大な富を得るとなり理想は実現しない
宗教でもそれは最高の理想だけどそれも実現しない。俗化して欲望を飽くなく追及するものとなる。プロテスタンシズムの堕落がある。他者のための奉仕の労働が自分の我欲を満たすだけのものになった。強欲資本主義になった。キリスト教でも俗化してそうなった。結局人間は欲で滅びるという時どうしても欲を無くすことができないからそうなる。それは来世の神の国でしか実現しないのである