2024年12月27日

時雨―年の瀬【鉢植えの花ー冬薔薇、サザンクロス、冬柳、、】


時雨―年の瀬【鉢植えの花ー冬薔薇、サザンクロス、冬柳、、】

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年の瀬や時雨ポタリと人は死ぬ
路地裏の道に時雨や枯れし菊
墓地一つ尋ねてあわれ年暮れぬ
村の道老婆の歩み冬柳
一人のみ駅舎に待つ人冬薔薇

寒木の十本しみぬ街中の公園に休む我が一人かな
残されし空家の庭に大石の二つ静かに冬の暮かな
家内に咲かせし小さき薔薇の花我が愛でにつつ冬の日暮れぬ


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紫のハイビスカスの高貴なる
小さき薔薇の二輪やサザンクロス
我が家にいて愛でるかな
ここに調和して咲きにけるかな

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紫の花はハイビスカスなのか、サザンクロスはわかりやすい
鉢植えの花は長持ちするからいい、生け花は今年の夏は暑すぎてしおれるからできなかった。鉢植えだと一か月とかでも咲いている。500円くらいの安いのでもいいとなる

路地裏の道を行くと時雨にあった、ぱらぱらと明らかに時雨だった。時雨は何か死をイメージする。山頭火は時雨の詩人だったが音は時雨かと時雨に注意していた。後ろ姿の時雨てゆく・・・
とか旅で終わった人である
詩でも人によってテーマとするものが違ってくる。

ともかく時雨は何か死をイメージする、年の瀬でもあり年の暮であっても遂には人は死ぬとなる。





2024年12月26日

年の暮短歌二十首−磐城太田駅―原町‐飯館村〔木戸木、長泥、津島〕【冬の暮、年の暮、冬椿、・・・】

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冬の暮の俳句−正岡子規の写生俳句について【寒木、冬椿、冬の暮・・】

我に向き百輪咲きぬ冬椿
冬椿石に向かいて咲きにけり
田舎なれ家のともしく冬木立
冬の暮空家に残る石二つ

松二本離れずここにありしかな変わらずあれや冬の日暮れぬ
松一本ここに年輪重ねつつ蔵二つあり冬の暮かな
墓地一つ年も終わるにまたたずぬ記せし名に昔を偲ぶ
無人駅磐城太田の淋しきや乗る人まれに冬の暮かな
年の暮空家多しも営みのありにし家の石も淋しも
北風の唸り吹きにつ黙す石人行くまれにこの道暮れぬ
北風の吹きて小高の道遠し我が引き返す年の暮かな

木戸木〔ことぎ〕にそ住む人あわれ畑荒れ老いの一人や年も暮れなむ
長泥や山に埋もれし墓なりき誰か参らむ冬の暮かな
荒れ果てし津島のあわれ人住まず祖〔おや〕も悲しむ年の暮かな
津島にそ診療所一のつありしもあわれ人は住まじも
飯館の峠の道の苦しかも年の暮また我が行かむ思いはせにき
年の暮ともしびあわれいくつかなか語ることなく今年も暮れむ

姉と母今は亡きしも我が家になお共にあれ年の暮れかな
我が母の嫁ぎて長し百歳を生きて眠るや年の暮かな
我が姉の家を作りし自慢かなお共にあらむ歳の暮かな
病み老いる女悲しも皺深く貧にも苦しむ年の暮れかな
男一人厨に立ちて年の暮母の苦労を偲ぶもあわれ
食器洗う水の冷たく我が母のしもやけになるそを思うかな


磐城太田駅から原町の六号線の方に向かった。
昨日の続きになるが松は目印になりやすい、松は何か高くもないから人間的でありだから目印となり地名化しやすい、二本松の写真はまさにそうだった。一本松の地名も近くにあった。後は五本松とかの地名があり親しみやすい、でも松が枯れやすいことが問題なのである。どうしても空家が必ずあり目立つ、広い庭があり蔵がある、そこに残された庭の石も淋しいとなる。ただそこは原町市街に近いから小高のように街全体が寂れるのとは違う
でもどうしても空家が気にかかるのである。空家が一千万軒になるとか日本の大きな問題なのである。

小高の方に行こうとしたが風が吹くのでやめた。自転車は風に弱いからである。そしてさびれた街に行くのも気が引けるともなる
また小高まで行くと疲れるともなる。
磐城太田駅の前の惣菜屋には人が並んでいた。あそこは辺鄙でもいい物を作るので売れる、距離は関係ない、みんな車で来るからである。
原町の市街に帰る途中墓地があった。そこの戒名が農とついて国に尽くすとかの漢字でありめずらしいと思った。写真とるのを忘れたのが失敗。

飯館村の木戸木には80過ぎた老人が一人住み畑を耕していた。
でもその畑も放置されていた。体が悪いと言っていたからつづかなくなったのだろう。その人は車もないのだからとてもあそこには住むことは無理と見た
また長泥で山の中に墓があり誰が埋まっているのか墓参りもできないかもしれない、住民がいなくなれば墓も放置されるのである。津島でも診療所があったがあそこは誰も住んでいない廃墟と化した。放射線量が山でも高いからとても除染しても住めるのかとなる、訴訟をしているがあそこが被害が一番大きかったのである。まるで秘境でもあった。

ともかくあのような辺鄙なとこれも人が住まないと荒れて来る
そういう場所に住むことは価値があった。大都会にビルの谷間の家に住んでもそこに魅力を感じないのである。
田舎でも農家となると大地に根付いて存在感がある、一軒一軒が存在感がある。その相違が大きいのである。

また私の家のことであるが何か人は思うとき存在するというときそうかもしれない。死んだ人でも生きている人が思うとき死者も存在する、全く思わなければ存在しなくなる、それは今生きている人でも近くでもその人を思わなければ存在しなくなる
それが最近近くで経験している。近くに住んでいても50年とか合わず暮らしていればまた思わなければ存在しなくなっていたのである。現代は一万とかの田舎でもそういうことが起きる
何か協働して働いていないとその人の存在がわからなくなる

家族がみんな死んで厨で食器とか洗う、その洗う水が冷たい、私の母は温水器を使わないとき霜焼けになり苦しんでいたのである。その後温水器を設置したので楽になったのである
ただ家を直してあたためる水は使用していないから冷たい、それで母のことを思い出したのである。
ともかく私は姉と母には特別良くされたので忘れられないのである。知っている人は脳梗塞で体が不自由なのに息子は助けない冷たいと嘆く、やはり子供の時からの関係があり良くしないとやはり良くされないカルマともなる。家族関係も親子関係も兄弟関係も様々でありそれがわかりにくいのである。

今年も暮れるが自転車で堀に落ちて死ぬところだった、夜であり危険であったが土手に落ちたので助かった、堀の水路に落ちたら確実に死んでいた。自転車では結局三四回確実に死ぬところだった
前歯二本をぬけたのもそうであった。自転車でも死ぬことは結構ある

今年はプログでコメント読んでいなかった・結局何か答えることはエネルギーが必要になる、家事を全部していて暇がなくなった
プログを書くだけで精一杯にもなった。またこれまで書いたものも多い、だから自分の書いたものでも他人が書いたように思えるのも不思議である。









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2024年12月25日

冬の暮の俳句−正岡子規の写生俳句について【寒木、冬椿、冬の暮・・】


冬の暮の俳句−正岡子規の写生俳句について【寒木、冬椿、冬の暮・・】


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鹿島厚生病院前の公園の木、整列しているから神殿の柱のように見える

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磐城太田へ行く道であるが閑散としている

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原町の公園の木


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この松はいい松である



十数本寒本今日も病院前
家継ぎて墓を守れや冬椿
誰が墓や落葉を踏みて我がたずぬ
松二本行く人まれに冬の暮
松一本蔵ある農家冬の暮
冬の暮根を露わに二本の木

俳句というとき正岡子規の写生俳句が明治になり主張された。
それはやはり明治になりヨーロッパの文明が入って来て影響した。絵画でもそうだし芸術にも影響した。だから写生俳句もその一環として主張された。というのは俳句が短すぎるから説明を省く、説明していたら五七五に収まらないからである。
それで短歌の方が説明することができるので短歌だとまだ現代でも通じるかもしれない、俳句は短すぎて表現の幅がなさ過ぎるから限界を感じる、ともかく感情的な言葉は省く
淋しい悲しいうれしいとか入れただけでもう表現する余地がなくなる。だから簡潔に見たままを五七五にまとめる。

十数本寒木今日も病院前

寒木が十数本ある、病院前にあるとかそこには説明も感情的なものもない写生なのである。事物をもって語らせるのである説明はしないのである。【鶏頭の十四五本ありぬべし】という子規の俳句が問題になった時これが俳句なのかという批判があった
私自身もこれが俳句になり芸術になるのかと思う
でもあくまでも子規の写生論は新しい俳句の創作方法であり見方だった。これまでそんな創作方法とか鑑賞方法もなかったからである。そこに子規の功績があった。

だからこの写生俳句というのは写真と相性がいいのである。写真はありのままをそのまま写すからである。それは絵画とも違うからである。それで写俳という分野ができたのもわかる。
だからカメラは常時携帯する必要がある。

また尋ねたのは墓地であった。ただ今や空家も多く墓も後継ぎがいなくなり守れない、立派な墓があっても守れない、近くの知っている人が最近死んだ。でも空家となり娘がいても隣の市に嫁いだからその墓は受け継げない、200百万かけて作った立派な墓でも受け継ぐ人がいないのである。だから墓などに金をかけるべきでなかったとなる。

ともかく今日は比較的あたたかいし原町まで出かけた。
自転車は風に弱いのと氷りが張ったりすると危ないからなかなか遠くには行けなくなる。それで運動不足になるので困る





2024年12月24日

なぜ人間は互いに理解できなくなるのか 【空間軸と時間軸の相互関係―時間は取り戻せない】


なぜ人間は互いに理解できなくなるのか
【空間軸と時間軸の相互関係―時間は取り戻せない】

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空間軸ならA地点からB地点に行けるが、時間軸となると戻ることができなくなる、時間は取り戻せない!

●距離が離れすぎて理解できなくなる

人間はなぜ理解し合えなくなるのか,それを空間軸と時間軸で見る時これは別々のものではなく相互作用がある
距離が離れていればやはり時間軸でも交わる機会が少なくなる。すると互いに理解するのは難しくなる。どうしても空間軸で離れてしまうと時間軸でも交わる機会が少なくなる・
するとそこに誤解が生まれる、私の父親違いの兄が交通事故で死んだとき何が何だかわからなくなった。離婚したとか中学生の娘を児童施設にあずえてと施設から連絡がありわかった。

でもそないろいろなことが一気に押し寄せてきても遠すぎて理解できなくなっていた。もし近くに住んでいたら事情がわかるから対処方法があった。静岡でありそこに行くことも大変なことに成っていたからである。
つまり空間軸で離れすぎていたことと時間軸でも空白がブランクがありわからなくなっていた。そこでいろいろなことが起きていても理解できなかったのである。

●同じ空間にいても時間軸で交わらず理解できなくなった

ただ空間軸でも狭い地域に住んでいても理解し合うかとなるとそうもならない、その中学の同級生とは何十年も没交渉であり何をしているのかもわからなかった。
たまたま地域で作った野菜など売る店にいた。でもその店にはほとんど行かずスーパーで買い物していた。だから接することもなかった。相手にしても私が何をしているのかわからなくなっていた。
それで直接会た時あなたは何をしているのですかと言われて自分は黙っていた。これまでのことを答えることが長くなり簡単にできなかったからだ。

そしたらあなたとはここに来る必要はないと断られた。何をしているかわからないとして無用の人と見てそうなったのかもしれない、ただ田舎だと客を断ることがある
それは隣の街の自転車でも修理でも断られた。何かその店の評判は他の自転車屋で悪口が言う客がいてわかった。また医者でも日ごろ日常的に行かないと断られる、特に開業医はそいうことがある。
ただ断られても何かそれで問題になることはない。そもそもその店にはほとんどいていないしその同級生とは50年とかも没交渉だったからである。これだけの時間軸で没交渉だったらそもそも互いに理解することあ不可能である。ただ狭い地域だから共有するものはある。
それをプログに書いたとしてもスマホをしていないとしたら私のことも郷土のこともわからないのである。もう一人の同級生はスマをしていて多少わたしのことがわかって郷土のことについて話できたとなる
現代はスマホでも使わない人は情報的に孤立するともなる。それは田舎の狭い範囲でもそうである

●現代社会は複雑で意志疎通ができないことが多い

そもそも現代社会で意志疎通が難しくなったのはあまりにも無数の職業に分化したためである。近くで何をしているのかわからないというのもそうである。工場で特殊な仕事をしていると聞いてわからないのである。他でも車で遠くに仕事に行くが何をしているかわからないのである。特にこの辺は原発事故で避難区域から移住した人が多いからこれおまたわからなくなった原因である。

いずれにしろ空間軸であれ時間軸であれ人間は理解しあえなくなる。そもそもこれだけ複雑な人が交わる世界で人と人が理解することが基本的に難しくなっている。都会に住む人と田舎に住む人と理解することがむずかしくなる。
それは今だけではない江戸時代であれ職業が違うとその人理解できないから神秘的な存在となった。
お椀を作る木地師でもやはり神秘化されたし鉄作りする人もこれも神秘化された・それは今の原発で働いていた人達と共通している。そこで何をしているのか理解できなかったのである。そして大事故になり様々なことが言われるようになった。
このように昔から職業が違うとその人理解することが難しくなることはあった。ただ基本は大方は農民だから職業が同じであり現代のような無数の職業もないか理解しあえたとなる。

共通に体験することが多かったからである。だから俳句となると季語があるというとき農民の仕事と関係していてきごでも言葉も生まれたとなる。冬が増えるであり野菜を作るにかえっていいからそうなった。つまり農耕と結びついて生まれた言葉が多いのである。だからcutureがcultivate〔耕す〕からきている。
農民同士は理解し合うことがあった。同じ職業だったら理解しやすい、侍は侍同士結婚して大工は大工と結婚してとか理解することができた。つまり結婚するにしても理解しやすかったとなる
今なら外国人と結婚する人もいるし無数の違った職業の人と結婚するから夫を理解することもむずかしくなる。

●様々の専門に分化して理解しあえない

つまり現代はどんな優れた人でも社会を理解できない。様々な専門家がいてどんな人でもあらゆる職業に通じる人はいないのである。必ず視野狭窄になる。いくら専門家でもそうなのである。
それで福島原発の吉田所長が復水器のこと私は材料関係専門だからしらなかったと言っていた。つまり社長でも会社のことでも全部わからないのである。肝心なこともわからなかったのである。

人間はさらに今度は一千万住む東京のような大都会であれ今度は海底に住む人とか地底に住む人とか二分離して意思疎通がさらにできなくなるというのもわかる。それだけ一万の街に住んでいても狭い範囲でも意思疎通ができなくなっている。それだけ複雑な社会であり狭いとしても物は外国から入ってくるからグローバル化もしている。そこでさらに意思疎通がむずかしくなっている。
そもそも外国など簡単に理解できないからである。結果としてどうしてもそこに誤解が生まれ衝突して最悪戦争もになる。
それが近代の戦争でありその死者の数が何千万人にもなったのである。

●空間軸は戻せても時間は戻せない

空間軸だったら別に外国でも今なら行ける、でも外国でも時間軸で見ることは理解することは最高にむずかしいのである
歴史を理解することは難し、別にその場に立つことはできてもそれを時間軸でみることは簡単にできない。ここで2000年前1000年前何があったのかを知るのはむずかしい。日本だって難しいのである。
人間は今でも空間軸でA地点からB地点に行ける。でも時間軸で10年前でももどることはむずかしくなる。
人間は同じ土地に住んで空間軸で確かに共有するものがある
でも時間軸で供することは限られている、何か家族でも一緒に暮らしていなければ家族にならないのである。別に他人でも子供のころから一緒に暮らしていれば家族のようになる

でも子供の時でも一緒に暮らす時間がなかったら家族にならないのであるつまりそれだけ時間はたちまち過ぎる、時間が貴重だというとき時間は失いやすいからである
何か一緒に協働して働くとかそうした時間が貴重だった
なぜならそうして共同する時間が消失してその時間を戻せなくなる。もっとあの時一緒にするべきことがあったとしても時間が戻せないのである。
一緒にここで苦労して働いたなとか言うときそうした共同の時間を持ったということである。でもすぐに時間が過ぎてその時間は取り戻せなくなる。

だから中学で同級生だったとしても50年以上過ぎたらそれも没交渉だったら近くに住んでいても相手を理解することは不可能である。それで近くにいてももう逢うこともなくなった。もはや互いにに理解することが不可能なった
それは実の親子関係でも起きる、距離が離れて時間軸でも交わらなければ疎遠になり理解することがむずかしくなる
でも突然遠くから電話であれスマホであれ金を貸してくれと言われてもその事情がのみこめなくなる。近くであれば常時行き来していれば事情は分かるから理解しやすいのである。

必ず距離的にも空間でも離れすぎると理解するのが難しくなる
また親子でも兄弟でも10年没交渉とかなると理解できなくなる。
同じ場所に住んでいても没交渉だとやはり時間軸で理解できなくなる。そして時間軸の空白が60以上とかなると取り戻せないのである。何か協働したり助け合ったりする時間を持たないと同じ場所に近くに住んでいても理解しあえなくなる。

時間は取り戻せない、もう一回人生をやり直したい!

それができないかことが深刻なのである。つまり時間は無情に過ぎて行く、何をするにしろ無情に過ぎて行く。
それを自覚するのが50過ぎてからであり60過ぎて否応なく自覚されるのである。



飯館は雪ー冬籠る雪国の短歌−雪国で育まれる情 【エアコンより石油ストーブであたたまるのがいいー囲炉裏がなつかしい】


飯館は雪ー冬籠る雪国の短歌−雪国で育まれる情
【エアコンより石油ストーブであたたまるのがいいー囲炉裏がなつかしい】

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飯館は結構雪が降った

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裏山の小径




北風に向かいて走る聳ゆ山
朝望む飯館の山残る雪
寒鳥や梢鋭く唸る風

裏山の小径静かに木の葉散る行く人今日我一人かな
ほのぼのとストーブの火にあたたまり我が一人しももの思ふかな
はらからと囲炉裏を囲み燃ゆる火や顔見合わせて冬の長しも
雪深く積もりてあわれ家々や火にあたたまり籠りけるかな
村一つ冬籠るかなしんしんと雪は降りにつ閉ざさる道かな
村一つ冬籠るかなしんしんと雪は降りにつ長き冬耐ゆ
村一つ積もれる雪やしんしんとともる灯あわれ長き冬かな

朝自転車で走ったら北風が唸り吹いた、そして飯館の方は雪が降ったことを山に雪が残っていたのでわかった
飯館は標高が400メートルくらい高いから寒く雪が降った。
でも南相馬市だと降らないのである。この辺では雪が積もるということはめったにない、まず雪国で雪に閉ざされることはないのである。でも会津の方ないなると雪に閉ざされる

会津若松市となれば何か雪に閉ざされるという感覚にはなれない、会津でも広いから村になると雪に閉ざされる
本当に雪国を知ろうとしたらそうした辺鄙な村でないとわからない。それはイメージにすることになるが実際住んでみれば雪など嫌だともなる。でも現代では交通が発達しているから物流があり
閉ざされることはないだろう、昔のように物流がない時代だったら閉ざされる。

ただ雪国の特徴として何か情が厚いというときやはら雪に閉ざされた冬が長く何か心情的にも自ずと助け合うとか長い冬を村人が共に耐えるということで一体感を持ったことは確かである
原発事故で新潟に避難した人がしきりに新潟の人は親切だったというのは雪国で育まれあものがあり情が篤くなったともみる
ただ正直雪国の感覚がわかりにくいのである。実際住んでみれば雪が嫌だとなるだろう。雪かきだけで大変な仕事になるからである。また自転車とかでも雪で走れないとかなる。
ただイメージで雪を見るのとは違うからである。

それでも囲炉裏を囲み薪をくべ家族があたたまるとき一体感がある。やはりみんなで密着する、ほのぼのと燃える火を囲み密着する。そこに他とは違った連帯感が生まれるとなるし情も自ずと厚くなるなる。ただ現実問題として今は辺鄙な村で生活することは厳しい。でも車があるから昔のように閉ざされるはないだろう。

確かなことはエアコンは夏でも冬でもいい感じがしない、石油ストーブは火でありエアコンと違いじかに火であたたまるから囲炉裏で薪を燃やしてあたたまるのと通じる
でも石油代が高くつく、何か街中でも薪ストーブにするのはやはり薪を燃やして体をあたためるのは違ったものになるから敢えて手間でも使っている。
とにかくは外は北風が唸り今日も寒い、本格的な冬になる

2024年12月23日

まだ新しい施設が建つ―大東建託のアパートも建つ 【南相馬市鹿島区の街の変化】


まだ新しい施設が建つ―大東建託のアパートも建つ
【南相馬市鹿島区の街の変化】

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これは障害者の施設なのか?8人くらいしか入れないとも見る
でもこじんまりしていいとも見る。最初大きな家と見ていた
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隣の新住宅地

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鹿島小学校に行く所踏切を渡ったすぐ近くに新しい施設が作られた。人数としては個室になり8人くらいなのか少ない
最初は一見の家とも見ていた。それにしては大きいと見た
障害者の施設だとか言っているがこんな小規模のものがあるのか、これだけのものを作るのにも相当金がかかる
他に大きな障害者の学校が鹿島区にできた

それから今日見たら鹿島厚生病院の脇に結構大きな建物が建つと見たら大東建託のアパートの建物をまた作る
何か大きく見えた。すでに十数軒建っている、まだ建てるのかそんなに入る人がいるのか?一万くらいの街にしては多すぎる
でも依然として原発事故の避難者が移り住んでいるのかもしれない、そんなにここに住む人がいると思いないからである

ともかく原発避難区になった所は南相馬市だったら小高区などでも復興はむずかしいとみる。それより浪江とか双葉とか大熊になればもっとむずかしい
原町や鹿島区などのように新しい家が建つこともないだろう
それより補償金もらったからそれで近くなら新しい家を建ててて住めばいいとなる、だから復興が難しいとも見る
それにしても大東建託のアパートが多すぎる。だからまだ原発避難区からの移住者があるのかと見る
posted by 天華 at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2024年12月22日

北九州市殺傷事件、平原容疑者は「娘を持つお父さんだった」…1年以上前に離婚  【同級生は人相がかわっていたという】


 【同級生は人相がかわっていたという】

何か引きこもりだと思ったそうでもないらしい。結婚して娘までいた。引きこもりとかニートとかは結婚していないしまして子供などもっていない、最初この人は車を持っていたということで引きこもりなのかと疑った。なぜなら引きこもりとかになると車を持っている人は見かけない。だから私が引きこもりとかは自転車に乗っている人が多いのである。

とにかくこの人は何なのかなぜ中学生殺したのか不可解だとなる。確かなことは

平原容疑者は1年以上前に離婚。逮捕後の映像を見た元同級生は「みんな『人相が変わった。別人だ』

つまり何らかの原因で人相まで変わって別人のようになってしまったということである。でも一年くらいでそんな風に変わるものだろうか?ただ人間を何らかの衝撃を受けて変わってしまうことがある。それはこの人はやはり離婚したということでその衝撃が大きく人相まで変わってしまったのだろうか。とにかく何か衝撃的な変化がありそれで急に一年ぐらいで人相まで変わってしまったのかそれがよくわからない。

ただ人間というのは何か大きな衝撃を受けるとまるで変わった人間になるということがありうる。私自身についても2人の親が死んで介護して苦しむだからそれで私自身の人間観などが変わってしまった。そこで誰も助けるものもなくかえって苦しめられたので人間不信感に陥ったのである。
だから人間というのは例えばアメリカでベトナム戦争とかイラク戦争を経験した人はそこでトラウマとなり何らかの精神異常になる人もいる
人を殺すという経験は人間の心理にどういうどいうふうに影響するかである。それは大変した人でなければわからないとなる。とにかく人間はその人の性格もある何らかの体験がその人を変えてしまう。まるで違った人間のようになってしまうこともありうるそれは戦争などを体験して人を殺した人はやはりその内面であり深刻なトラウマとなり人格まで変わるということもありうる
だから人相まで変わったというときそれは何か一年くらいで離婚したりして大きな衝撃があった。それにしてもなぜ中学生を殺害したのかというのは理解できない。

ともかく人間というのは衝撃的なことを経験して悪魔にでもなってしまうのかもしれない。一年でまるで人相が変わったというのもそうである。ともかく人相というのは一年ぐらいでそんなに変わるものだろうかなぜか私の場合は30頃ですでに老成していて60にも見えていた。

というのは私は何か20代頃家を出て東京の大学に行ったとき大きな変化を経験したのである。大学の運動部に入ったというのも陰のの性格の私を変えてしまった。
消極的な私が積極的な人間になったのである。だから人間というのは一年くらいでそうした激しい経験をすると変わるということである。それからも底辺を放浪して底辺の仕事をしていてそれもやはり自分を変えたということがある。だからなぜかすでに30くらいで60くらいの人相になっていたのである。
でもそのが家に引きこもり楽な生活をしたからこれまで生きたのだろう。余りにも厳しい生活を強いられると寿命も縮まる

ともかく何故そんなに人相まで変わるようになったのか?

それも一年くらいでそうなったのか。それが理解しにくいということである。別に資産家だとなれば金銭的には困っていなかった
その動機が不可解なのである。だからこれは引きこもりとかの犯行とも違う、だから何が動機の犯行なのかそれが問題だとなる。

私にしても十年くらいに二人の親の介護でまた自分自身の病気で変わった。でも人相まで変わることはなかった。つまり人相が変わるということは余ほどの衝撃を受けて変わったということである。ただそれほど変えるものは何であったのかは理解できないということである

何にしろ人間は付き合っていないとそれも十年とか付き合っていないと相手のことが理解できなくなる。私にしてもここ十年に起きたことは衝撃的であり変化させた。そしてこのことを知らない人は私のことを理解できない、何があったのかもしらないからである。それで人間は10年とか合わないとか付き合あないとかなれば近くでもその人について理解できななる。

でも相手は私が経験したことに関知しない、そして対話もなりたたなくなる。またこの辺で起きた津波とか原発事故でも他所の人は理解しにくいのである。近くでも別に津波の被害にあった人がいても合わない人はその被害を受けた人の気持ちがわからないともなる。それは私が介護で死ぬような苦しみを受けたことでも他人にとっては面白いとか他人の不幸は蜜の味となる
全然その本人の苦労を察しないからである。それで会話もなりたたなくなる。確かなことあ人間は継続的につきあっていないと近くでも理解できなくなる。
だから関心領域という映画が隣のナチスの収容所で殺人が行われていても無関心だったとなる。それは別に特殊なものでなく常に人間に起きていることなのである。
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posted by 天華 at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年12月21日

人間は本当に存在するのか―存在するとは何になのか 【近くでも互いに存在しなくなった―老人は人間関係が切れてゆくこと】


人間は本当に存在するのか―存在するとは何になのか
【近くでも互いに存在しなくなった―老人は人間関係が切れてゆくこと】

その「私」という主体にとって友人や恋人などの他者が【存在】するのは、「なんらかの体験を元に思念・思考」しつづけているからです。
ある瞬間、他者のことを「思念・思考」しなかった場合には、「私」という主体から他者は【存在】しないことになる。
同様に、「私」という主体が「私」を「思念・思考」しなくなると、「私」も【存在】しないことになります

自分以外の人間は、存在するのでしょうか?

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●近くでも互いの存在が認められなくなったこと

その人は中学の同級生だった。その人は確かに道の駅ではないが農協が経営する地元の野菜とか店にいて売る人だった。その人はそこで野菜など売る仕事をしていたということはわかる。
でも私が何をしているのかわからない。だからあなたは何をしているのですかと聞かれた。その前にその人は私に対して関係を断った。もともと関係していなかったのだがおそらく私が何をしているかわからないから私と言う人間を認められなかった

私は説明しようとしてもその人はその前に私との関係を断ったのである。それはほんのわずかの時間の出来事だった。何か私と会った時近くでも知らない人でも私を知っていた人がいたのである。それは私のプログを読んで知っていたのでは今はスマホをしているからスマホでネットの情報を得る得る人が多くなった
だから意外と地元でも自分のことを知っている人がいた。その若い女性は私の顔を見てプログに書いている人だとわかった
でも別に私はプログに自分の顔の写真を載せていないのである
だからどうして知ったのかと不思議でもあった。ただ今になると大概スマホをしているからインターネットにアクセスできる。そこから情報を得ている人も多くなった。でも70以上とかなると携帯はしているがスマホ見ている人は少ない。スマホはパソコンの延長だから結構面倒なものになる

その中学の同級生はマホなどしていない。だから私のプログをまったく読んでいないから私という人間は理解できないしそもそも私という人間が存在しないのだと思う。そこに確かに私という人間はいる私という人間はじかに会った
でもその人にとって私という人間が同じ狭い土地に生きているのに全く理解することがなかった。その人と何か語ろうとしたのだがその前にその人は私を何をしているか分からないと拒絶して会話もできなかった。

それは私が何であるかを実際は知ろうとしなかったのである。実際私が私自身を語ろうとした時それは相当に長くなる。とても簡単に語れるではない。でもその人は私が知ろうとする前に何もしてないとして拒絶したのである。
そのことは私という存在を無視して認めないということであった。私のことを知れば同じ土地に生きていてそれを知ることもできたはずである。でもその人私を何もしていないして知ることもないとして対話をは拒絶したのである

つまりその人は私自身の存在を認めず存在しないとしたと同じである
ところが私自身もその人と会話もできなかったから実はそのことは私自身にとって存在しないものとなってしまった。
そしておそらくすぐ近くに住んでいてとも合わないからその人とどちらにしても存在しなくなるのである。没交渉になり双方で関係もしないしその後に何があるかもわからないしそもそもが存在しないのである。それは存在を否定することになっている。
現実は狭い範囲で生活しているのだからそんなことはないともなるがその店で何も買わないとしたら会う事もないので没交渉になりもはや互いに存在しなくなるのである。

●牛乳配達員との関係も切れた

もう一人は私の家に牛乳などを配達していた人である。でもそれも十年前に断れたれることになった。それは親の介護とかで継続できなくなったからである。それを断りに行った時その人は私を何か蔑むように馬鹿にするようなこと直接面と向かって言ったのである。
なぜそんなことを言ったのかわからないよ何か私を馬鹿にしたいということがあったのだろう。別に私はその人と直接会ったりもしないし話したりもしなかったその人はただ牛乳配達するだけでありそこに何か会話とかはなかった。ヤクルトとかなると何らかそこに会話があったがその人は配達される箱に置くだけだったからで直接顔を合わすことはなかったからである

その人とはいつも牛乳を配達しているから自転車で行くとその車と出会うのである。でも牛乳を配達を停止してからは何も話していない。それも十年くらい過ぎてしまったのである。
つまり十年くらい没交渉だったのであるその人の販売店すぐ近くにあってすでに十年くらい牛乳配達を停止してから一言も話すこともなかったのである。その人は車で配達しているからその車と私の自転車とは合っているのである
でもその人と直接に話すすることをすでに十年もくなっていたのである。ただ私はその人に馬鹿にされたということでそのことは覚えている。

つまり何か物を買ったりするときそこに人間が介在するのだがではその人間をいちいち覚えているかというとその場限りになるのも多い。スーパーで買い物しても別にそこで売る人と必ずしも会話したり何かその人と直接語り合うこともない。ただものを買えばいいというだけである。
第一相手がどこに住んでどういう人なのかもわからないのでこの辺では原発事故で避難してきた人が多いので余計に地元の人でもないから分からなくなっている。ただ都会なら別にスーパーの人が売っていてもその人たちをいちいちどこに住んで何をしているの何を考えているのかなど思わない。
現在というのははものを売るにしても買うにしてもただそれは物の売買でありそこに何か人間関係が生まれるわけでもない。

だから物を買うにしてもそこに何らか人間関係が生まれるということはない。それが通信販売とかなるとまさに配達する人などただ物を運んでくる人でありそれ以外のことは何もわからないのであ。だから例えばその配達する人は誰でも良いし配達する人が変わっても別に気にすることもないのである。

何か現代っていうのはこうして人間の関係が持てない時代になっている。というのは向かいの人は何が特殊な技能があって工場で働いているらしい。でも何をしているのか分からないしその人の顔もめったに見ないのであだから私にとってその人は存在するのかどうかともなってしまう。他でもすぐ近くのだけどその人はこの土地で働いているのかどうかわからない。話したこともないし何の仕事をしているのかも分からないのであだから私にとってその人はすぐ近くに住んでいるのだけど存在しないとまでなってしまう。

●人間関係が持てない社会−車社会の影響

現在はこうして人間の関係がつながりが持てない時代ではないか。私の戦後まもなくの子供時代近くの人間関係が密だったように思う。近くでで何をしているのか仕事をしているのか分かったからである。農家の人がいて養蚕していたとか漆塗りをしていたとか石屋の人は石を毎日削っていたとかを見ていたまた竹で駕籠を作る人も見ていた、つまり説明するまでもなく一目でその人が何をしているか何の仕事をしているかわかったのである。大工もいたし建具屋もいたしとかそれは狭い土地で狭い中で村のような所で仕事をしていたからだろう。
また車がないから一地域の狭い場所で生活に必要な物をまかなっていた。だから隣近所で何をしているかわからないなどということがなかったと思う。

不思議なのはこの辺で原発避難区域になったところから移住してきた人が多いでもその人たちをこの土地で働いていないように見えるそもそも車があるから隣の市にとかに働きに行く。買い物でも必ず近くに4 5万の都市があるから買い物に行くのであそれとともに働く人もまた車で隣の市とかに行く人が多いのである
つまり車社会になった時その生活範囲は広くなったのである。車がない時代は本当に隣近所とかでまかなう他なかったのである。だからそこでいい面と悪い面があるが人間関係も密になっていたともなる

ともかく人間の生活が多様化したとき例えば私は自転車が欠かせないから一軒だけあった自転車屋とそれなりに関係して
でも車社会になればみんなが自転車と関わるわけではない。
そして車を持ってない人自転車に乗る人は何か別の存在ともなる。自転車に乗ってる人はよく会うはその人は障害者だったりまた引きこもりとかニートだったり何か劣ったとみられる人たちなのである
つまり現代では車を持たないということ異常でもだから常に警察のににらまれて職務質問されるのである何か自転車に乗ってるだけで不審者に見られてしまうのである

●SNS-ネット社会で起きていること

いずれにしろ今度はネット社会になる時逆にインターネットにアクセスできない人は取り残されるかもしれない。私のことはプログで読めばわかる。
でもスマホもしてないインターネットにもアクセスしない70以上の人となると私があった同級生のように私と言う人が存在しても何をしているか分からないとして関係は断った。それも10年30年なのか付き合いのブランクがありそれを語ることが簡単にはできなくなった。つまりこうしてまた付き合いのブランクがあると会話もできなくなってしまう

こうしてまた現代社会は広域化グローバル化するとき空間軸では世界まで広がっても時間軸でわ継続されるものはなくなったとも言える。昔の村だったら狭い範囲で代々続く家があり農家だからその土地に根付いて生活しているすると何か継続継続されるものがある。祭りなどでも継続されるのでで現代社会はそうした農民農業社会でないから何か代々長く継続されるということもなくなる。それで人間関係希薄化して行くのである

ともかく不思議なの人間の存在である。本当にその人間が存在すると認識するのか。またどうしてその人間が存在すると認識できるのだろうか。

ある瞬間、他者のことを「思念・思考」しなかった場合には、「私」という主体から他者は【存在】しないことになる。

確かに私はその人と会ってその人を考え思った時その人は存在したのである。でもその人は私の存在を否定したからその時点で私という存在はその人にとっては無くなった、また私のプログでも読まないのだから私については何も分からないし私のことについて知ることも拒否したのだからその人にとっても私は存在しないし私にとってもその人は存在しなくなった

別にその店に買い物に行かなければ困ることもないスーパーに行けばいくらでもものは買えるからだ。こうしてその人の存在は自分にとってもなくなり相手にとっても自分の存在はもはやなくなったのである。ただ狭い範囲に生きているのだから関係ないとは言えないが私自身のプログなども読まないのだからもはや知ることはできないということである

いずれにしろそもそもは存在するということは何なのかということになる人間に関してもそうであるが一つの石が存在するとして
その石を確かに認識したとしてももうしその石をただ一時的に見ただけなら忘れてしまう。でもその石に名前をつけてその石の存在する意味を書いたり詩にしたりすると時石に存在の意味を与えているのである。何らか名前を付けるときは石一つでも一つの存在の意味を与えているともなる。そうでなければ石は存在しても存在しなくなってしまうだろう

●人間は存在すると認められるのだろうか?

その人は確かに大学時代に頻繁に会った。でもそれから50年もすぎたらいったいその人は存在したのだろうかとなってしまう。
実際はもはや存在しなかったとなってしまう。その後その人は何をしているかもわからないし遠くに住んでいるのだからわからなくなるそもそもは東京に住んでいるのだが一体東京に1000万人いるとしてそこで人間は存在しているのだろうか?

確かに1000万人いたとしてその一人でも関係しているわけでないとしたらそこに人間は存在しないとまでなってしまうのではないか? 1000万人もいるとしたらその一人くらいと関係してもいいはずだがそれがないとしたら1000万人は本当に存在しているのだろうか?だから人間が存在しているということは何なのか不可解となってしまうのである。
現在とはまさに大衆社会でもあり大勢の人と交わる社会でもあるが実際は東京に1000万人いたとしてもそこに本当に人間が存在しているのかどうかとまでなるのも不可解だとなってしまう

関心領域という映画が話題になったが人間は隣でも関心をもたない、ナチスの収容所で人が殺されていても関心を持たない
こうしてすぐ近くの人でも関心をもたない、それが現代社会の特徴だともなる。そもそも家族のように直に接して関心を持ち続ける死んでからも関心を持ち続ける関係は何人いるのかとなる。
特にもう80歳近くになると人間の関係は切れやすい、それよりみんな死んでゆくのだからこの世から消えるのだからこの世の人間関係を切れるということである。

そして人間は別にある人との関係が切れても何も感じない、そして人間が関心を持っているのは利益になることでありそれ以外関心を持つことは少ない、だから金の切れ目が縁の切れ目でありさよならだけが人生だと最後はなってしまうのである。
買い物にしてもコンビニであれスーパーであれどこでも一人くらい来なくても関係ないのである。
特別その人が習慣的に多額の買い物するなら別である、だから何か高価なものを買ってくれる人になると特別待遇にもなる。
でも普通の買い物でそんなことにはならない、一人が来なくても何の影響もないとなるのが普通である
だから田舎の店では断られることがある、別に一人など来ても来なくても関係ないとなるからである。

でもその人は雇われた人だから一人でも客を失うようなことをしていいのかとなる
そんな事どうでもいいとなるのが普通である。何か客の対応が悪いとしてもそれで客を失っても一人などどうでもいいのである。
ともかくその人がいなくなっても別に関心をもたないということもある。この年になれば人が死んでもまた死んだかとなり次から次と死んでゆくから関心が持てなくなる。つまり余りに多くの人が死んでゆくからいちいち関心ももてなくなるのである。



2024年12月20日

文系の医療のかかわり 【社会〔共同体〕から見た病気の関わり―文理融合すべき問題】


文系の医療のかかわり
【社会〔共同体〕から見た病気の関わり―文理融合すべき問題】

病気を直す加持祈祷で宗教に頼った

病気というときそれは理系であり科学技術の分野に思える
人間の体を科学的科学的に分析する、細胞とか血液の成分と尿の成分とかを調べる。何か科学実験のようにみえる
病気になり小便が白くなったのは直った思ったが実際は小便は黄色の方がいいのである。だから化学反応を見る
つまり病気は体を化学的に見て物理的にも見る理系の分野なのである

ところが時代を遡れば上るほど病気の人間への対処は違っていた
なぜなら病気と宗教の関係は密接だった。つまりそれは病気になったら頼るのは医者ではない、宗教に頼る。神仏に頼る、というより頼るものがないからそうなった。

なぜ宗教が興隆して信者が増えたのか?それは病気を治すために神仏に頼ったからである。だからこそ僧であれ山伏であれ法印であれなぜ狭い村に必ずいたのかそれは加持祈祷のためである。病気になったら神仏に祈る他ない、それしか方法がなかった。
つまりその人達は地域の医者代わりだったのである。
人間の一番の問題は病気だからそうなった。病気にどう対処するかが村全体の問題になったからである。
だからキリスト教でもイエスは奇跡で病気を治した。それがきっかけで普及したともなる。病気が治るとなればみんな苦しんでいるから頼るとなるからである。それは仏教でもそういうことがある。

今でもなぜこんなにカルト宗教団体に入る人が多いのかとなると病気を治したいと一心に祈る、題目でも狂気のようになった唱える、それは病気を治したいということがある。そして病気が治ったとか体験発表して御利益があったと宣伝する、実際は悲惨な病気になり直らない人が多数なのである。
現代ではどうしても科学に頼る、それで宗教者の存在が何か用なき無駄なものに見えて衰退したとなる。護符などとそんな紙切れとか御札とかでそもそも病気など治らないとみんな思っている

つまり宗教者の権威が失墜したのは現実に医療技術に頼る
それで科学者であれ医者が昔の僧であれ法印であれ加持祈祷する者に頼らなくなったのである。そして科学者が医者が今でも一番お医者様として尊敬される、他は学校の先生でも尊敬されなくなったが医者は尊敬っされるのである

●医療は科学技術だけでの問題ではない

でも医療の問題は必ずしも科学技術の問題だけではない、体を細胞でも血液でも見るだけではないものがある。顕微鏡で見るだけではないそれだけが医療ではない、それで医療というのは文系でも関われるものだと気づいた。

その参考になった本がのちの文化人類学波平恵美子である
これは病気を社会的問題として考察している。今なら医療は医学の問題であり社会が関係していると見ない。でも病気に対して村で病人が出ると村人全員がかかわるものとして対処した
村人が一人の病人の為に祈ったのである。だから薬師堂は村の中心に必ずある。そこは村の診療所のようにもなる。

人祈祷【ニギントウ】はこの村では次のような事を指した。村の誰かが重い病気になり危篤状態になる。病院で大きな手術を受ける人がいる。あるいは突然錯乱状態に陥り激しく暴れまわる人がでいたような場合に村の全戸から一人ずつ代表が出て神社に集まりそこで病気の回復を祈願するそれが人【ニギントウ】である

中国山地のある地方ではかつて村の人が重病になると村内の若い男が7人揃って7人参りをしたという

これらは病気に対して周囲の人々は自分の持っている生命力少しずつ分け与える意味を持つ行為である。一方重い病気に苦しむ人はその病気を病気は一人で背負ってゆくものでは泣くいくらかでも人々にわけ持ってもらえるようなものであり進んでわけ持ってくれる人がいれば軽くなるそして癒されると考えるようなものであるらしい

つまり病気は個人の身体に現れる現象であるにもかかわらず常に集団や社会全体の問題とみなされのと同じく治療行為は極めて社会的な行為として認識されやすいのはそのためである

医療技術は社会や文化の枠の中でのみ人間足りえる存在を対象に実践されるものである。感情や情緒に支配され複雑な人間関係の中に生きておりそれによって支配される人間を対象とするのである

ここに医療というのは科学技術だけの問題ではない理系だけにかかわるものではない文系も関われるものだと認識した
普通はこうした病気を社会の問題として見ることは普通は無い

感情や情緒に支配され複雑な人間関係の中に生きており

正にこういうことが人間に作用する、近くの医者は見立てが良いとかで腕がいいとかで繁盛した
でも口が悪く性格がいいとはならなかった。それで私の母親は怒鳴られたりしたから優しい医者の方にかかった
その二つに医院ははなくなった。つまり確かに腕がいい医者であることは評価できるが何かやさしさには欠けていた
だから医者というのは医が仁術というときその医者の人格とかも関係したからそういわれたとなる

実は現代にかけているのは科学技術だけに頼るのではなく医療というのは社会的な問題としてもあることに注意すべきである。むしろこの点が医療に欠けるようになったのである。
なぜなら病気になっても関わるのは医者のみであり隣近所でも社会で関わらないからである。ただ制度として福祉関係の公務員とかが関わるがほかの人は一切関わらないともなる
村の人が一人でも病気になったとき村人が全員でかかわり薬師堂にでも集まり病気の平癒を祈る。それは医者にかかれないのだからただそうなったということにもなる
でもそのことは福祉関係とか専門家だけに任すのではなく村人は一人の病人に対して村人全体の問題として病気に関わり祈っていたということである、それは外国でも原始的部落でも共通していたのである。

●人とのつながりが消失した問題が医療にも反映

何か現代というのはそうした人とのつながりが消失した。むしろ病気になったりすると隣近所であれその病気に関わる人がいないしむしろ何かそうして不幸があると隣近所でわ喜んで見ているとまでなる。これそれは自分自身の家族の病気で死んだ事でいやというほど思い知らされたのである。
何か頼むにしても隣近所など何もしてくれないそれで福祉に頼めというだけなのである。だからこういう社会というのは何なのだろうと思う。科学技術は医療は進歩しても常に医療技術の発展は語られるはこうして病気が社会的問題だということ考える人は稀である。こういうことが病気だけではない現代の社会にあり何か殺伐としているのである。

もちろん神仏に頼るほかない時代というのも全ては良いというものではない。ただ現代の社会を見るとき昔がすべて遅れたというものではなく比較すると現在の問題が見えてくるということである。まさに現代に欠けているのは病気というものでもそれが周りの人にとって自分の身のごとく考えるということはないことが問題なのである
すべてが医者であれ福祉であれ頼ればいいということが問題なのである。その人たちは制度としてその中で働くがそこに心が欠けている場合がある。ただ医者にしても人間の体を一つの物体のように見ているかもしれない。人間の心が通うということがそこにはない。だからこそ実は人間は体と心は一体であり病気で心が影響する。

周りでその病気に関わり薬師堂にでも祈るということはそれは本当にどうせ病気など治なないということにもならない心の作用はありそれはなんらか影響してくる。だから仏教でも色心不二と説いた。色とは物であり物と心は一体ということである
それは切り離せないのである、ただ西洋の科学であれ医学でも体は物体であり心と分離したものとしてみる。だから臓器移植でも体を物体機械とも見れば可能だとなる

いずれにしろ病気が社会的問題でありすべて科学技術だけで解決しない、それは医療だけでないあらゆる問題が科学技術で解決しない、社会的問題としてあり自然的問題としてもあり理系だけではない文理融合が必要になる。ただこの文系的要素が現代では無視されるのである。むしろその無視されることが医療の問題にもなっていたのである。

2024年12月19日

北九州中学生2人殺傷 近くに住む43歳男を逮捕 【引きこもりなのか?時間軸で見ることが人間には必要−老人は思い出に生きる】


北九州中学生2人殺傷 近くに住む43歳男を逮捕
【引きこもりなのか?時間軸で見ることが人間には必要−老人は思い出に生きる】

●引きこもりのネットウヨなのか?

この事件は何なのか、動機は何なのか、何の目的で殺したのか
通り魔殺人なのか、今わかっていることは自宅で軍歌を流していた。軍歌がなぜなのか

ネットウヨだったのか

騒音で隣近所で問題になり警察も来ていた。つまり何らか日ごろから問題があり騒がせていた。
この43才の男子は引こもりでありネットウヨだったのか、第一その歳で軍歌など流さないだろう。

何か引きこもりとか危険になる。歳にしても43才くらいとなるとやはり危険かもしれない、引きこもりの問題は何か社会性がなくなり異常化する。これは自分自身が経験しているからわかる
社会から離脱して異常化する。優秀な社会から離脱したアウトサイダーの天才芸術家などが狂気となったようにである。その天才は社会に適合できない、でも普通の人とは違った抜きんでた才能を持っていたのである。
でも小人閑居して不善を成すが普通なのである。隠者とかになるのは特別優れた人しかなれないのである。

ただ現代の不思議は引きこもりが百万人いるとか常態化していることである。田舎で昼間仕事しなでうろついているのは奇妙だが障害者でありまた引きこもりだともなる。だから昼間仕事しないでうろついていると警察ににらまれて職務質問される
ただ家に引きこもっていても何か騒音をだして近所で迷惑であり警察も来ていた。何か異常性があり外にでも気づくものともなっていた。だから意外と早く逮捕できたとなる

●人間は時間軸で見ないとわからない

ともかく事件は突然起こるが人間というのは必ず時間軸で見ないとわからないのである。この人が43才までどいう生活をしてきたのかそれを知らないと理解できない。時間軸で見ないとわからない、人間は事件を起こすにしても何か前兆がある。
また人間はある期間を付き合い見ていないとその人のことを理解できない、近く同級生でも本当に十年三十年なのか没交渉だった

私がその人と会ったがもはや何か理解することがお互いに不可能だった。近くにいても何か付き合いがないとその人のことがわからなくなる。30年なのか40年とかのブランクがあったらもう理解し合うことは不可能である、その人はスマホもしていないから私がブログで日々発信していることも全く知らない、インターネットの場合70以上になるとスマホでもしないからわからなくなる

もう一人も30年間何の仕事をしていたかもわからない。語らないからその人理解できなくなる。ましてや遠くになると実の子供でも兄弟でもそれぞれの生活が別になり理解しにくくなる。
人間を理解することはやはり継続して付き合い共同するとかしていないとわからなくなる。すぐ近くでもそうなのである。
私のことはプログで書いた、でもスマホをしないとかインターネット利用しなければわからない、それでその人と切れた
この年になると人間関係は切れやすい、それで最後はさよならだけが人生だとなる。なぜならまもなく同世代でも死んでゆくからである。死は永遠に逢わなくなるということである

ともかく人間は時間軸で見ないとわからない

これは歴史だけでは人間の短い一生でも10年間とか会っていない話もしていないとなればもう理解しあうことは不可能である
そのブランクが致命的なのである。一体その人は人生で何を経験したのか、その経験を知らないと理解することは不可能である
その人の人生は一巻の本でもありそ一部を抜粋しても全体を知らなければその本を理解できないしその人となりも理解不可能になる。
とにかく現代は広域化グローバル化しているときどこかに事件が起きたとしても時間軸で見ることが至難なのである
個人的にも国家単位でもそうである。

●共に働き協働したことで語り老人は連帯する

その女性は私の家で店をしているとき豆腐を下ろしに来ていた
それは子供の時であり随分昔になるけで私の家族の事情を知っていたのである。それで何か親しみを覚えたのである。
何か経験を共にして分かち合っていたとなる。その思い出をか語る時連帯感を覚えたのである
だから原発避難区域でも共に苦労した人たちはそうして心が通じあうとなる。何か浪江の辺鄙な津島あたりでも戦後開拓に入って苦労した人たちがいる。するとそこに住み続ければ必ず共に苦労したことを語り連帯感が生まれる、そしてその土地に愛着が生まれる。でも一旦その土地を離れたらそうした思い出をかたることもできなくなり便利でも何か連帯感は持ちえないのである

つまり故郷にすめないということはそこで暮らした思い出も失うともなる。思い出を共有できなくなりそれは金銭的には恵まれても精神的には損失である。
でも思い出は本当は金に換えられない価値があったともなる
なぜなら何が人生に最後に残るかとしたら思い出だからである
そしてその思い出は老人ななるとなかなか作りにくい、若い人なら遠くに出てもその地で新たな思い出を作ることができるが老人にはできないあからである
posted by 天華 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

冬の城〔Winter Castles in Japan〕


冬の城〔Winter Castles in Japan

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冬彦根城

厳守城郭
雄壮威風
武士登城
大門閉鎖
守備万全
寒夜天守
三日月光
〔雄壮に城の構えや冬に入る〕







なぜ都会シニアはピンピンで地方シニアはヨボヨボなのか… 【整形外科医が勧める健康寿命を伸ばす意外な活動−生活習慣が影響】


なぜ都会シニアはピンピンで地方シニアはヨボヨボなのか…
【整形外科医が勧める健康寿命を伸ばす意外な活動−生活習慣が影響】

私の患者さんを見渡しても、都心在住の方は意外とよく歩いています。一見、運動とは縁遠いような高齢の女性が、実は買い物好きで、百貨店の中を3時間ぐらい平気で歩いているのです。

 地方在住の高齢者は、車社会の中で歳を重ねてしまったせいか、なかなか長時間は歩けないようです。学会で全国各地に行くと、地方では実年齢より老けて見える人が目立ちます。何より姿勢が悪いのです。背中が曲がっていたり、O脚になるなど、骨格に問題があると、どうしても老けて見えます。

なぜ都会シニアはピンピンで地方シニアはヨボヨボなのか…整形外科医が勧める健康寿命を伸ばす意外な活動

田舎では一人一台車を持っているのをみかける、老夫婦でも一人一台持っている、そんなに必要なのかとも見る
費用もかかるともみる。

都会から田舎に来て田舎の方が地方では実年齢より老けて見える人が目立ちます。何より姿勢が悪いのです。背中が曲がっていたり、O脚になるなど、骨格に問題があると、どうしても老けて見えます

これは意外である。田舎の方が車に乗る度合いが多い、買い物でも家族が車に乗せてくる。その老人が杖をついている人が多い、こんんなに杖を使っているのかとも見る、でもそれは高齢化社会だからであり仕方ないともみる。
ただそれが都会の人より目立つというときどうしてなのだろうとなる。つまり都会の人の足は電車であり東京ならそうである
すると移動するのにかなり歩く、駅の階段でも歩く、階段は結構きつい、何故なら私自身二階にあがるのに難儀しているからである。
ただ本当に田舎の老人の方が弱っているのか、その原因が車を使い歩かないからなのかそれもよくわからない、でも整形外科の人だから良く観察しているからそれを否定もできない

確かなことは人間は本当に生活習慣というのがどれだけ影響するかである。都会では車に乗らず歩くことが多いというとき日常化しいるときやはり筋肉が鍛えられているとなる
車だと確かに肌肉が鍛えられない、買い物でも遠くになるから歩かない、車に乗せられてくるとかなる。それで筋肉がつかず弱っているのか。正直本当にこれだけの車社会になればそれが何らか体にまで影響することは確かだろう。
それは体だけではない心に相当な影響がある。ただそれが自覚できなくなっている。騒音でも車がひっきりなしにゆくことでも気にしなくなっている。だから一時この辺が原発事故で車が通らなくなったとき不思議な感じになった。
私自身は家が密集して人が密集している東京などは返って精神的に落ち着かない。何か精神の錯乱状態のようにも見える
そういう場所にいたくないのである。車が多すぎるし人も多すぎる。車の影響は人間まで変えたことは確かである。

今でも避難区域になった小高などは車が本当に通らない。だから昼間でも静かなのである。そういう事で車というのはどれだけ影響したかを知るべきである。私自身は車を持っていないから車がどういうものか実感できないのである

ただ私は常に自転車に乗ってきた。長距離でも乗ってきた。今でも毎日自転車には乗っている。だからもしかしたら私がまだ足腰が丈夫なのはそのためのかもしれない特に自転車は腿〔もも〕の筋肉をうからそれが体全体に影響したかもしれない

ともかく運動することは体を活性化するから血流でもよくするから筋肉も使うからいいのである。車だとどうしてもほとんど筋肉も使わないし足腰もただ座っているだけで使わない。ただ一番使うのは目であり神経だとなり何かそこで身体的というより精神的に疲れるものかもしれない。
ただ今車なしでは仕事もできないのだからどうにもならない

でも確かに人間は生活習慣病があり習慣の力がなんでも大きいのである。勉強でも常に習慣的にしていることが進歩させるのである。才能にしても普通の人は積み重ねが必要であり習慣的に訓練していなければものにはならない上達はしないのである。

人間は習慣的に自らの意思でもって鍛えないと怠るとそれが習慣的になり怠け者になり身にに付かないということである
そしてその習慣的にしてきた積み重ねてきたことが必ず60以降に現象として現れてくる。 60以降は遺伝的な病気も出てくるが習慣としてしてきたことが現象として現れる。酒やタバコでも習慣的にしているとそれが必ず60以降に体にもあらわれてくるのである。それは食べ物でもそうであり何を習慣的に食べてきたか体に蓄積されてそれが現象となって現れてくる。最後でこれは避けることができないのである。

だから車ばかり乗っている人は60以降に何らかの現象が現れてくるかもしれない。体に筋肉がついていないから運動もしないからそれが積もり積もって体の現象として現れてくる。人間というのは本当に習慣というものが大事である。悪い習慣を持てばそれが必ず60以降とかなれば症状として出てくるのである。

私自身は32才で酒とタバコもやめた。それがよく作用したことは確かである。酒とタバコでも習慣化していることはやはりそれが積もり積もって60以降とか現象として必ず現れる
ただ人間は今はいいとなってその遠い先はみない。でも青春時代の不摂生とか不品行とか性の乱れとかが影響する。
若い時の放蕩とかは危険になる。人間は普通の人は節制が必要なのである。老人の問題はすでに若い時から始まっている
なぜなら人間も連続したものであり一人の人間が若い時と老人として別なものでもない分離できないからである。
ただ老人はもはや変えることができなくなる。老人は結果でありその結果を生み出すのはこれまでの人生だからそうなる
それでも健康に関しては60以上でもやるべきことがあり可能である。とにかく人間は60以上何であれ積り重なったものが結果となる。それは健康でもそうだし知的のものでもそうである。
何かを積み重ねているからである。

2024年12月18日

私の家族が語る明治以降の歴史 【それぞれの家族に歴史である】


私の家族が語る明治以降の歴史
【それぞれの家族に歴史である】

●明治からの私の家族の歴史

父親 葛尾村生まれで双葉で丁稚奉公
母親 原町紡績で糸取り―後に東京で女中
姉 従軍看護婦ー役所の保健婦
兄 集団就職―交通事故死
私 東京の三流私立大学卒―引きこもり、放浪

自分の家族は何か明治からの歴史を語る。父親が葛尾村生まれで双葉の酒屋丁稚奉公に出たというのも明治は丁稚奉公が江戸時代からつづいていたのである。
暖簾分けして酒屋をこの地で開いた。その土地が低い場所であり水害で二回被害にあった、一回目は小学生の時であり家が壊滅状態のようになった。トタン屋根の平屋で二回が逃げることができなかった。近くの旅館に逃げた
それで二階のある家を作ることを切望して早い時期に1967年頃作った。それは父親が死んだあとであり姉と母が建てたのである。女所帯でも立てることができた、気丈夫な姉がいて建てられたとなる。その時大工の賃金が相当に安かった、だから当時400万で建てたのは安かった、今なら3000万とかかかったであろう
その頃から急に大工の賃金でも何倍にも上がったからである。

そして姉は同級生ででもキコリの橲原の同級生から木材を買ったと言って自慢していた。姉の歴史は従軍看護婦で今のシンガポールの向かい側のマレーシアのジョホールバルで働いた
そこでの4年間は地獄であり戦争が負けてジャングルに逃げて食べるものもなく苦しんだ。
戦争経験した人が団塊の世代の親であり戦争は身近であった

母は原町紡績で十年間働いた。それが辛いことだとも見たが現金収入になるということで家計の足しになり喜ばれた
ただ母は継母に育てられて苦しんだ。ともかく明治以降の産業は生糸を作ることであり養蚕が盛んであった。だから今でも二階で養蚕していたから兜作りの家が多いのである。
日本を支えたのは養蚕だったのである、だから後ろの畑には桑がありまた麦も作られていた。子供のころはみんな麦御飯だったのである。

そして私の父親違いの兄は私の家で5年間住んだが母の実家で暮らして集団就職で静岡の方に行った。その頃クラスで集団就職する人が多かった。だからこれも歴史だった。その後兄は交通事故で40才で死んだのである

何か私の家族を見たら明治以降でもその後でもそれはみんながかかわる歴史だった。私の家族が特殊なのではなくみんながそうだったのである。ただ水害はみんなが経験したとっはならない、
その後も水害が床上浸水があったが河川改修して川幅を広くして土手を高くして水害にはなっていない

●団塊の世代は高度成長時代を経験する

それぞれの家族をみれば様々な歴史があり成り立つ、歴史は何か国の歴史となると大きすぎてわかりにくいが実感しにくいが家族だと身近になるから実感する。でもそれが全体の歴史にもなる
姉の戦争経験はみんなが経験したことだからである。
何か歴史というとき祖父母までは現実に直接接しているから身近である。父親が明治生まれだとなり明治まではまだ身近だともなる。

私の歴史となると引きこもりとなるがこれも団塊の世代ではありえなかった。みんな会社に就職して企業戦士として働き高度成長時代を築いたからである。何か小さな店であり小さな工場であれみんな成功する割合が大きかった。だからしょぼい店でも品物を置くだけで売れたとなる。たまたま角にあったから店も繁盛した。何故ならその時車がない時代だったからである。大概歩いて買い物していたからである。 道も舗装されていなかったからである
私の家族に商才などなかったが運があり繁盛したとなる
ただその頃は高度成長時代はみんな繁盛して成功する割合が高かったのである。

ともかく家族でもみんな死んで時間が過ぎて行けばそれが歴史となる。それぞれの家族に歴史がある。それは時代を反映していたのである。引きこもりとなると高度成長時代にはなかった
だから私は引きこもりだったというとき特殊だったとなるのである。ところが引きこもりが百万単位でいるとか信じられない時代になっている。車がない自分が会う人は引きこもりと障害者というのもやはり車を持たないということは今の時代では劣った人だとなってしまうのである。
それは侍の時代は馬に乗る人でありそこでただ歩く人は徒歩の人は一段身分が低い人達であった。それで馬を持たない人たちは
御徒町〔おかち〕に住んでいた
また足軽であり足が軽いということでそうなった。馬に乗れないからそうなったのである。
野馬追でも馬上から庶民を見下ろすから明らかに馬に乗る人と乗らない人は身分差があった。

ともかく家族でも死んで時間過ぎると歴史となりふりかえる
歴史として刻まれたものとなる。それはそれぞれの家族でもそうでありそれが全体の歴史にも通じている
父親が明治生まれであり母親は大正生まれであり姉もそうである
明治は遠いにしても大正は身近になる。内村鑑三は大正時代まで生きていた。江戸時代に生まれ大正時代まで生きていたのである。つまり江戸時代ー明治ー大正と生きたのである
この三時代を生きたことはやはり激動の時代であり今とは違いその時代の変化を生きたとなり違っている

●歴史に刻まれる本当の価値

ともかく歴史を刻んでゆくのは人間である。歴史の功績というというとき偉人だけではない庶民でも歴史を刻んでいる。それは無視できないのである。ただ戦争となると300百万人も死んだとしてそれが何を意味していたのかそれが功績として語られないとすると死んだ人は浮かばれないとなる。
ただ歴史に残るものが真に価値があったものとされる。それは長い時間の中で判定される。時代でいくら脚光浴びても時間が過ぎると語られなくなることはいくらでもある。

もし十年後であれ20年後でもさらに50年後でも語られればその人は価値があったとなる。ただその時代を一世風靡したとしてもはかなく消えて忘れられのも多い。中国で青史に残ることを望んだのもわかる
あれだけの歴史が長ければそこで真に価値あものが何かを明らかにされるからである。長い時間の尺度で見るということである。
それが日本には欠けているとなる。国家百年の大計とかもなく
ただ目の前のことに追われているだけだとなる

今年も終わるがやはり過去振り返り未来を望む、未来は過去を振り返ってあるともなる。だから歴史を知ることは大事である。
何か現代であれ太平洋戦争であれ元は明治時代の薩摩長州の横暴な政治の結果だった見る人もいる。
吉田松陰の「征韓論」がありそれが満洲進出となりアメリカとの戦争へと発展したともなる
それは西郷隆盛にもあった。つまり明治にすでに太平洋戦争の下地が作られていたとなる、何故なら歴史は連続したものだからである。明治にすでに太平洋戦争の種がまかれていたとなる
いずれにしろ明治維新は薩摩長州の権力奪取であり別に幕府で大政奉還したというとき武力で奪う必要もなかったのである。
何かそこに歴史観の過ちがあったともなる。

posted by 天華 at 17:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2024年12月17日

近江の地理の考察ー近江の詩 【地理が琵琶湖中心にあり歴史が古代あから地層のように残される】


近江の地理の考察ー近江の詩
【地理が琵琶湖中心にあり歴史が古代あから地層のように残される】

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近江の詩

東西の境関ケ原出て
近江の春や三上山
その姿のりりしくも良しも
蓮華の花や菜の花の野

朝日将軍眠る処
義仲寺や柳しだれて
野望はならず無念かな
春の恨みのここにあり

夏の雲比叡に湧き昇り
天台宗本山なれや
日蓮親鸞もここに学びぬ
ここより仏教の普及せし源

晩秋三井寺の鐘厳かに
その音は琵琶湖の湖底にもひびき
葦繁る岸辺の古りにし寺や
陽も比良の山に没りゆく

多賀大社もの寂び古りぬ
伊勢よりもさらに古しと
古木二本ここに立ち
我が参りて秋深む

さざなみの志賀の都のその跡や
昔の人にまた逢はめやも
旅にしあればしみじみと
深く心にひびくかな

華麗なる平安の時代や
石山寺にツツジの赤しも
源氏の間あり偲ぶかな
月見台もありゆかしかな

栄えたる堅田の松に寄り
波静か湖の岸に浮御堂
鴎あまた群れ飛び来て
大阪や海に通うぜむ

天下布武信長の城安土城
天守に望む琵琶湖なれ
高くもあれやその一時
野望は砕かれ夢の跡

冬なれや彦根城の威容かな
武士の心の城やその威風
天守に三日月輝き
その厳格なる城そ守りぬ

近江は京都に近くも
瀬田の唐橋長く往来繁し
大津に朧月や皇子山
古跡訪ねて日は暮れぬ

歴史を綴る近江なれ
東と西の境関ケ原
古より二つに分かれ戦う歴史
太陽は東より昇り湖西に没りぬ


近江の特徴は何かとなれば琵琶湖を中心にしてあり地理がわかりやすいのである。つまり琵琶湖を中心にして滋賀県全体が見える
俯瞰できる。日本の地理はわかりにくいのは山が多いからである
何か全体を俯瞰できない。福島県などもそうである。地理的に地形的に一つの県として見ることができない、ハマナカアイズとあってもそれぞれ違った風土であり地理である。
第一浜通リになると阿武隈山脈高原に遮られて福島市の方の中通リとか全く見えないのである。だから地理的一体感がないのである、ただこうして山にさえぎられて日本では地理がわかりにくいのである。

ただ地歴となると空間軸でまずみる、その後に時間軸で見る
でも地歴というとき空間軸と時間軸が一致する。地理があり時間軸の歴史がある。何故なら関ケ原は日本の東西の境であった
それは気候風土でも関ケ原は電車で行くと春でも雪が残っていた
まだ寒いとなる、それが関が原にでると平野が開けて蓮華と菜の花の平地が開け近江富士と言われる三上山が望まれたのである
山々も春の山となっていた。

そしてこの地理的境界が歴史的境界にもなっていた。なぜなら東西の争いが古代には兄弟の天皇をたてて争った壬申の乱があり天下分け目の関ケ原の戦いが戦国時代にあった
そして東というとき東はアズマなのである。
だから湖西から東を見て確かに陽が昇るのを見たのは感動だった

ともかく歴史を見るとき境界が大事である。そして境界と風土が一致する場合がある。みちのくの真野の草原の万葉の歌もそうである。南相馬市の鹿島区の真野郷をさした歌でありそれは地名だった考察した。
これも自然的境界であり歴史的境界でもあった。なぜならマルハシャリンバイが自生する南限の地となっていたからである
大和王権の支配下に入ったことを示す歌でもあった。
だだ境界を知ることは歴史を知るには大事である
ドイツのライン川がラテンのローマ帝国の侵入を阻んだ川でありゲルマン民族の領域でありそれこは異質な存在だったのである。

ともかく滋賀県は琵琶湖を中心として地理がわかりやすいのである。他の県では何か一つの県として見ることはできない。
地理的に見れないのである。また京都でも大阪でも大都会化すると地理は家が密集してビルがたちわかりにくくなる
京都の東山となると有名だけど家が密集しているからわかりにくいのである。
琵琶湖は大都会にならないから地理がわかりやすいのである。
そして古代からの歴史が地層のようにあるのも魅力的である。
古代から中世から江戸時代からと歴史的名所がある。そこで時間軸で見る歴史でも地理と一体化するからわかりやすいのである。
他の県ではこうして地歴で見れない、地理がわかりにくいからである。

「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」

これなどもそうである。伊勢より古いとなる、南相馬市にある多珂神社(たかじんじゃ)多賀だともなる

そして近江の魅力は近江に出れば千年の都の京都が近いことである。歩く旅では瀬田の唐橋を渡れば京都に来たともなるからである、こころもはずむとなる。
皇子山とかあったのもやはり奈良京都と歴史的に関係が深いからである。

朧月大津の一夜京近し



われは湖の子  さすらいの
旅にしあれば  しみじみと
のぼる狭霧や  さざなみの
志賀の都よ   いざさらば

琵琶湖周航の歌  作詞 小口 太郎

さざ波の志賀の都

さざ波の志賀の都の波の音
旅にしあればしみじみと
深く心にひびくかな
岸辺の砂浜の我が踏みて
秋の日暮れむあわれかな
古の人を訪ねるも逢えぬかも
歴代の天皇の都にあれも
荒れにし都の跡と歌われし
偲ぶ遠き日の形見は何そ
虚しく帰るもその後に
波の音のみ心に響き残りぬ
常無き人の世や一時の夢
残すものとて何かあらむや
ただ波音のみひびきけるかな
松に寄りにつ我が聴きぬ
その音のしみじみと我が心の
奥底にもひびけるかな
我は遠くもみちのくに去りぬ


琵琶湖に岸に寄せる波の音が何といえない響きだった
いつも太平洋に面して打ち寄せる波の音を聞いているが
それとは違った波の音であり心に沁みる波音だったのである。


kastkemoon.jpg


これは山城になっている。彦根城は平野の城であり冬田のなかにあった

冬彦根城

厳守城郭
雄壮威風
武士登城
大門閉鎖
守備万全
寒夜天守
三日月光
〔雄壮に城の構えや冬に入る〕


彦根城は城として見栄えする。日本の城はやはり武士の心を示していた、表現していた。ヨーロッパの城とは違っている。
天守が主君が存在して階層的になっているのは身分社会だったからとも見る。でもそこには武士の心が反映している
だから現代のビルとかにはただビジネスでありそこには人間の精神が心が感じられないのである。だからルネサンスのラファエロのアテネの学堂のように建築が人間に威厳を持たせることはない
城は人間に威厳をもたせる。だから武士が登城する時何か武士としての誇りを持った。天守は主君であり主君に仕える象徴である。山の頂上のようにも見えるからである

ともかく近江は歴史が地層のように積み重なっているのである
銅鐸も発見されているからその歴史は古代からである
つまりその風土と歴史が一体となり魅力を作り出している
そいう場所は日本では他に見られないのである。


あとがき

ネットで表現する時後からいくらで付け加えられる
それが簡単い出来る、本になればできないのである。
つまり完成しているからできない、プログではインターネットでは後からいくらでも変更したり付け加えることができる
つまりネットでは未完成であり完成することはない
この文でも詩でもそうである、あとから加筆するからである




2024年12月16日

役割がなくなる老人の問題 【ワーク〔仕事〕しないと認知症になる】


役割がなくなる老人の問題
【ワーク〔仕事〕しないと認知症になる】

「work」は「仕事」だけでなく、以下の意味でも使われます:
働く
作品
機能する
上手くいく
効果がある、効く


老人の問題はいろいろあるけど見逃されているのが老人が社会で役割がなくなってしまうことである。それは家族でも起きる。
家族内でも役割がなくなってしまう。
例えば嫁にばあちゃんはなにもしなくてもいいですからテレビでも見ていたくださいとか言われて家事でも何もしなくなることなどがある。一見それは家事などしなくてもいいのだからいいように見える。でももし何もすることがなく一日テレビを見ていたらボケるということがある。

人間は何か役割を持つことが大事なのである。それは家族内でもあるし地域内でもあるし社会でもある。
workという言葉はただ仕事という意味だけでなく社会で役割を持ち機能する作用するという意味がある。また作品という意味もある。だから作品を作るということは何であれ目的をもって行動することだからいいのである
それは家族内でworkすることでも家族内で機能することである

何もしなかったら家族内でも無用化する。それが危険なことになる。でも別になにもしなくていいのだからいい御身分ともされる
そのこと私の家族で二人の母親がいて一人は94才くらいまで家事をしていたのである。でも一人は役所で公務員だった家事もしなくてもいいのでそれでボケた。認知症になったのかもしれない、
何でも家事でも料理でもしてくれる人がいて何かいつもテレビを見ているだけだったのである、何か趣味のようなことをしていてもそれは向いていなかった。

だから認知症になった原因は55才で退職してその85才まで生きてその間に何か仕事をしなかった。家族での役割もなく三食用意されて後は何もせずテレビを見ているだけでもあった
それで腦が働かず認知症になったのかもしれない、家のことを何もしなかったからである。

だから奇妙なのは例えば奥様がいて仕えて働く女中のような人がいたとする、その女中は家事でも何でもしてくれて奥様は何もしないというとき奥さんがボケて認知症になるかもしれない
要するに何か家でも役割がなくなることが認知症になる危険がある。人間は常に体でも頭でも働かすWORKしていないと機能して作用しないとボケてくる、認知症にもなる

それで今老人に問題になっているのは退職した時老人が会社で働いて居てもそこでは何かワークして機能していたとしても一旦会社を退職すれば役割をなくなる。会社でワークしていた機能していたことでも退職すればそれもない。では地域社会に戻ったとしてもそこにその人の場もないし機能する場もないのである。
つまり地域社会でも今はそうした共同の場もなくなっている

会社中心の社会にもなっているからである。だからいったん会社を退職するとその人のワークする機能するばかなくなってしまうのである。そしてまたそういう人たちが高い地位にあった場合何か地域社会でも威張りたいとか上下関係を持ってくることで嫌われる。何か低姿勢になれないのである。
だから地域を掃除するとかでそうした仕事はしたくないとなる、ただ金のない人はスーパーで三時間とか働いている。それはワークしているからかもしれない、ただ威張りたいという人は地域でも用無しになる

ただ正直今地域で何か役割を持つことボランテアでも簡単にできない、でも威張りたいだけでは誰も受け入れず何もできないとなる。会社なら地位があれば部下がいて尽くしてくれるともなるが地域では地域の人は部下ではないしむしろ低姿勢であることが望まれる。するとなかなかワークがなく用無しとなりそれがボケに認知症になる可能性が高くなるかもしれない

でも一旦会社を退職するとその人のワークする場がなくなることが問題なのである。人間はその人なりに仕事を役割を持ちつづけているのが理想だとなる、問題があるにしろ90才でも医者を現役でしていたとかなればボケないとなる。そして理想は死ぬまで役割を持ちワークすることが大事なのである。
でも会社で地位があっった人はプライドがあり低姿勢になれない、ただ地域でも威張りたいとなれば嫌われる

ただ正直今や地域で何か役割を持つワークすることはむずかしい
だからそうして行き場のない老人が増えて問題を起こすことがある。それは江戸時代でも前から老人にあったことである
ただ余りにも老人が増えた結果それが認知症になり大迷惑になることが問題なのである。

だからこれは家族の問題でもあり社会の問題でもある。病気ならその一個人の問題であるともいえるが認知症の場合は家族関係とか社会の問題にもなる。その要因が家族関係とか社会の役割を喪失するとか何かそうした社会が影響してなるとも言える。

そこに他の病気とは違った要因がある。それが他の病気とは違っている。その認識が必要だともなる、つまり肉体の病気だけではない社会的要因があって認知症になる。だからその認知症の原因を知って対処すべきだとなる、そういっても難しいことは確かである。ただ他の病気とは違った特殊な要因があることも認識すべきである。

そしてなぜ公務員とか教師とか裁判官とかですら比較的認知症になりやすいのか?それは統計的にも確からしい。それはその仕事自体に問題がある、教師でも絵を教えるとかではなりにくい、それは創造的仕事だからである。つまり教師は意外と教えるにしても決まりきったことを教えるとなる、そこに創造性がないと頭が働かず認知症になるのか?

でも教師でも教えることはいろいろなお仕方がありみんな型にはまったものではない、だからどうしてなのだろうとなる。やはり型にはまったようなつも同じような教え方をしていると認知症になりやすいのか、本当に教師とか公務員は認知症になる確率が高いのだからそこには何か同一の原因があるともなる


2024年12月15日

冬の星の俳句ー英訳俳句−【冬の星宿、冬の月、・・・】


冬の星の俳句ー英訳俳句−【冬の星宿、冬の月、・・・】

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電線に椋鳥百羽師走かな
人対し抹茶を飲むや冬に入る
冬の灯や貧者の家知る日々の道
訪ぬ人なしや玄関冬の
家族無く一人籠るや冬の星
冬の星孤高の山頂引き締まる
山の上修行の僧や冬の星
明かに冬の星宿結ばれぬ
冬の星煌めき強く増え光る
隠されて大石黙す冬の星
絶壁の巌の反り冬の星


冬の星孤高の山頂引き締まる

winter come
one sparkling star
on the peak of the mountain
keen and severe

隠されて大石黙す冬の星

the big hidden rock
the sparkling star
the silenced one
in winter

明かに冬の星宿結ばれぬ

the clear stars in winter
delight united one
with no doubt

冬の澄んだ星
ひとつになる喜び
迷うことなく

人対し抹茶を飲むや冬に入る

man to man
Japanese tea ceremony
deep taste in winter

男同士
茶道
冬の深い味わい


deeple翻訳で訳した、これも合っていたのか?

寒き日に 
茶室の静寂 
湯気の立つ 
抹茶の香りに 

心も温まる 
雪の外
風の音さえも
消えゆく中 

茶碗に映る 
微笑む心 炎の灯 
薄き光に 影踊り

心の奥も ゆらりゆらりと
 手を伸ばし 温もりを感じ 
抹茶の味わい 冬の安らぎ

by chat GPT


英語でoneという表現がありこれが一つになるとか何かを指すのである。正直英語の感覚はネテブの人から習わないとわからないのである。
たまたま英語教育する先生がいてわかったのである。それも30とかになってからである。自分が勉強したのは大学を出てからなのである、英語でも英語のニュースとか聞いて音を覚えた
今ならなんでもyutubeとかで独習できるから有利である

大学では何か学ぶ場なのに学ぶ場が返って整備されていない、ただ学生の数だけが多い詰め込む場所だったとなる。
大学はただ自習する場で先生が教えないというのも変だったのである。だから英語はまずネテブの人に習うべきだったなる
今ならそうした環境があり無料でも学べるか有利である。

ともかく自分の場合学んだのは大学を出て独学になってからだったのである。だから何か何でも覚えることでも創作することでも理解することでも遅かったとなる。でも今は長生きの時代だからこうして成果が出て来たということである

いずれにしろこの年になっても学ぶことはあり学ぶことに終わりがない、でも死が近くなているのだから先がなくなってしまったということで【少年老い易く学成りがたし】であり無常迅速である、ただたゆまず学び追求していれば別に天才でなくてもそれなりのものになる。要するに人間は一生修行なのである。














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グローバル〔広域〕経済と原発事故 【魚も米も地元のもでなくていいー金で買えばいいだけ】 グローバル〔広域〕経済と原発事故 【魚も米も地元のもでなくていいー金で買えばいいだけ】


グローバル〔広域〕経済と原発事故
【魚も米も地元のもでなくていいー金で買えばいいだけ】

●石鰈から原発事故を考える

原発事故の原因を考えてきたけれどもまた漁業権を東電に売った漁業者のことを批判したけれどもそもそもなぜそうなったのかとなればグローバル〔広域〕経済が影響していた。
スーパーに行ったら石鰈が千円くらいで売っていたので安いと見た。石鰈はこの辺では正月に食べる贅沢なものである
でも原発事故で海が放射線に汚染されて一日魚もとることもできず地元の魚を食べることもできなくなった

でもそれで何か影響したのか

別に魚でも米でもいくらでも外から遠くからでも入ってきているのである。外国からでも金さえあれば何でも買えるし果物でも野菜でも買える。現実に外国から入ってきてスーパーに並んでいるのである。地元産のものも並んでいたがそこで品質価格競争があり地元のものより遠くから入ってきたものでも選ばれるのである。

そこで何が起きたかというとそもそもこの辺では漁業にしてもその生産高は宮城県からすると1/10にすぎなかった。零細なものであった。農業にしても今その経済に占める割合を1割くらいしかなかったので。何か田舎だと田んぼや畑が多いから農業に従事している人が多いように錯覚するのである。
実際はこのように別に農業で生計を立ててる人は1割にも満たないのである。やはり全国的に見てもみんな会社員になっているのである。それで浪江の人が原発事故でどうなったかというと二本松方の方に会社が移りその人も二本松に移住するようになったのである。でももし農業や漁業や一次産業だったらば他に簡単には移住できない。

●漁業でも農業も金にならない―原発は金になる

つまりグローバル〔広域〕経済とは地元密着型経済ではない。交通が発達して常に外部から物でも入ってくる。そうなるとどうなるかといえば第一農業であれ漁業であれ別に地元で取れるものを食べるわけでもない。そうなるとどうなるかとなれば地元に取れるものに頼ることもない。その結果としてどうなるかとなれば金さえあればいいとなる

それが極端な現象として現れたのが漁業者が漁業権を持っていてそのために原発を建てる前から多額の補償金をもらって原発御殿が建てたと回りで批判されていた
事故前にももらう権利があったとなる。それで浪江の請戸の漁業者が相馬市の病院に入院して特別室に入りまた新しい家を建てると豪語していたのである。

要するに漁業者がもし漁業だけをしていたら大した収入にならない。でも原発ができて金持ちになったということである
では地元の人はどうなるかというと別に魚などいくらでも外部から入ってくる。それで地元で魚がとれなくても他からいくらでも入ってくるのだから地元の漁業者のことなど関係ないとなるのである。何か戦後まもなくの子供の時代の時はそんなに外部からいろいろなものが入ってこない。だから正月に食べるイシガレイは地元で取れたものであり地元の漁業者に感謝して食べていたとなる。

それは農業でも同じでありたいがい地元の米でも野菜でも食べていた、私の家で店をしていたときは野菜でも地元のものを農家から仕入れて売っていたのである。外国のものなど滅多に入って来なかったからっである。
ここで何が起きてきたかというと地元のものを食べられなくても買えなくても別に外から外国からでもいくらでもものは食糧でも入ってくる。米さえでも今は外国産でもうまいものだできて安く買えるとなれば今米が値上がりしているから倍にもなっているとしたらみんな生活が苦しくなっているから外国産の米を買って食べればいいとなってしまう
そのときどうなってしまうのか?米まで外国産に頼り日本で自国で地元でコメなど作らなくてもいいとなってしまう
それより原発の補償金をもらって暮らした方が得だとなる

●漁業するより原発の補償金もらった方がいい

福島県の場合漁業の従事者はその生産高は宮城県からすると1/10にすぎないからであるだから別に魚でも米でも外部から買って食べる。それより原発を誘致してそれで金になってそれで外部から食糧でも買えばいいとなるのである。
実際にこの辺の港である烏崎で最初に火力発電所ができて次に原発が双葉にできて二重に補償金をもらっていたのである
それで早い時期にヨーロッパ旅行に行っていた聞いて驚いた
何故ならその頃飛行機代航空運賃でも50万くらいしていたからである。それで普通は海外旅行は高嶺の花となっていたのである
だからいかに火力発電所であり原発が漁業者を金持ちにしたかである。原発御殿も建ったのもわかる

その原因がグローバル〔広域〕経済にもあったとなる。零細な漁業や農業より金になる火力発電所であり原発が大きな経済力になったからである。それは漁業関係者だけではない原発で働く人も増える。原発で働くと給料が三倍とかになっていて飯館村で放射線の被害が大きいにしてもやはり原発で働いていた人がいたのである。だから原発の影響はどれだけ大きかったかということである。

そしてグローバル〔広域〕経済のなかに組み込まれた結果としても漁業者であれまた農業関係でも大きな影響を受けた
何より一番被害を受けたのは漁業関係者であり農業関係者だった
海が土地が放射線で汚染されたからである。その除染にしても6兆円もの金が使われたのである。この金の額にしてもイメージできないものだった。ただその除染費用は大手のゼネコンに流れた。地元でも補償金は入って来たが例えば相双リッテクとかでは
除染で幹部に何十億と入り銀座で豪遊していたとかで問題になった。また大熊町長の5億円入った金庫が津波で流されたとかも話題になった。

●グローバル〔広域〕経済の矛盾

ともかくとんでもない金が原発ができることでばらまからたのである。だから小高の人が津波の被害にあったが津波では補償金がでないが原発事故の補償金が多額でもらったので助かったとまで言っていたのである。だから東電などあまり批判しないのである。

ただ原発事故は地元破壊して再建できなくもさせた。その原因がまたグローバル〔広域〕経済にもあった。漁業など全体から見れば本当に経済に寄与していない。農業よりもっと零細である
だから別に漁業者などいらないとまでなっていた。その恩恵も地元でも感じないのである。別にいくらでも外から魚でも米でも入ってくる、それより大事になるのは金になるもの原発であるとなってしまっていたのである。

それは日本全体で見ても本当に米であれ食料であれ外国から入ってくる、それを買えばいいとなる。すると重要になるのは外国に売れるものであり自動車産業とかだとなる。
そうなるとどうなるのか?つまり今度は輸出するものがなくなると地元の米も生産しないから食べられないとまでなる

つまりグローバル〔広域〕経済がどれだけ影響したかである
貿易は必要でも何か根本的な所で破綻してしまう恐怖がある
それは日本だけではない世界的に起きていることである
一見グローバル経済は公平に見えてもその市場でも必ずしも公平ではない、ドルが基軸通貨になっているのも実際はアメリカに世界の富が財が集まるシステムなのである。だからロシアでも中国でもドル支配に反抗することはわかるのである


posted by 天華 at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2024年12月14日

雪の金沢の詩〔冬桜、雪、)


雪の金沢の詩〔冬桜、雪、)

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これは長寿の祝いにいい―金沢の菓子器

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雪の金沢

金沢にしんしんと雪はふりぬ
清らかにひびき流るる犀川
その木橋をわたる人のゆかしく
百万石の城下に伝えられるもの
しんしんと雪はふるかな
奥の一室に伝える技を磨く
漆黒の漆塗に金箔映えて
その器に老木の梅も描かれ良しも
茶菓子の味わい深くその時の貴重なれ
静かに一服の茶を所望飲むべしや
冬は長くも籠りたゆまず技を磨きぬ
しんしんと雪はふるかな・・・
心も浄められて金沢の街は暮れぬ
外は雪誰か行きしやその跡も雪に消ゆ
・・・・・・・・・・・

日本海側は冬は雪に埋もれる。会津もそうであり太平洋側では雪は一年に三回くらいしかふらない、だから雪に埋もれる長い冬がどいうものかわからないのである。

ただ長く雪に埋もれことは何かそこでまたその土地独自の文化が生まれる。金沢でも会津でもそうである。金沢は百万石だから金箔とかの技が発達した、それが金沢らしいとなる、何か冬桜というのも合う、兼六園で見たの十月桜だった。

でも冬になれば雪がふりつもる景色になる。それがその土地の文化を創り出す、ただ長い冬を行きに埋もれて暮らすのは難儀だとなる
そこに住む人の感覚はまた違ってくる、とにかく太平洋側と日本海側は正反対の風土にもなる



2024年12月13日

母の命日八周忌ー干し柿を捧げる―死者を語り生き続ける


母の命日八周忌ー干し柿を捧げる―死者を語り生き続ける

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忙しや母の命日8年忌師走に死にぬ母なりしかな
母死して8年過ぎぬ冬巡りなお我が語り家を継ぐかな
死者のなお我が家にあらむ遺影にそ語りて冬に一人かな
干し柿を母に捧げて8周忌なお我が家にともにあるべし
我が姉にはみかんをささげてそ争わざるやなお共ににあらむ

母が死んだのは2016年の12月12日だった。今日は13日でありすぎていた。8年はたちまちすぎた。でもやはり死者は家にあり生きている。人間は死んだからと終わりとはならない、何か死者を想いつでけている。特に私の家の場合特殊な事情でそうなった
父親は中学の時死んでその後姉と母が家を支えたからである
そういう事情があり二人のことは忘れられないとなり供養する
ただ争っていたこともあったが長く一緒にいればやはり家族となる、遠くに離れてしまうと疎遠になり情も通わなくなるからである。親子でも離れて暮らすと疎遠になる、去る者は日々に疎しとなる。確かに死者でも忘れられてゆくのだが家族の場合は供養が続きそれで存在しつづける。やはり死んだ人を思い出し死んだ人を語るのである

母のことは語って来た。継母に育てられたとかまた働きずめで花などいらないとか何か楽しみのない人だった。それは我が家に嫁いでも店を始めたので暇なく働いて楽しむことがなかった。
だから子供の時母と何か遊んだりした記憶もないのである
母の好物は干し柿だった。戦前だと果物でもいろいろ食べていない、だから干し柿を食べていた。だから遺影に干し柿を捧げた
でも姉は妬むということもあり姉にはミカンを捧げた
今でも争わないでくれとなる。

ともかく明らかなことは夫婦でも協力するとかしないと栄えない。これは確かである。私の家は父親が死んでも姉と母が争っても家を維持して栄えたとなる。この家を建てたのは姉と母であって父親ではないからである。
離婚などして母親だけで子供を育てることは容易ではない
それで二人はいたことで私は他の人より恩恵を受けたのである
だから姉と母とには感謝している、介護でも力たらずでも懸命にしたのである。

確かなことは人間は死んでも継続するものがある。肉体は消えても何かが残ってゆく。その一生を語ることでも活きてくる
親が苦労して育ててくれたとかなると余計に親のことを思うのである。でも家族でもいろいろありその差も大きいのである。
ともかく死んだ人を親でも語る時何か語る人自体も死んだ人と生かして自らも活かす、つまり死者と依然として存在しつづけるのである。

死者への問いかけは、生者がそうすること
をやめない限り、その生涯にわたり続きうる。生きながらえるほどに死者への問いかけは数を重ね、さらには問いかける死者も増えることだろう

それも自分と同じような生者とだけでなく、そうではない生者ともこの世界を分かちあうことができるようになるには、かつて生者であった者ともこの世界を分かちあうことができるのでなければならない。そのためになしうることは何か

「死者を想う」ということ―死生学についての覚え書
田中 智彦
file:///C:/Users/KOBAYASHI/Downloads/SN-N18_P191-212.pdf

母の命日〈冬紅葉忌ー三周忌)

後継者がいない、伝統が家が継がれない 【その失うものは何なのか-人間は歴史的存在】


後継者がいない、伝統が家が継がれない
【その失うものは何なのか-人間は歴史的存在】

●長男でも兄弟でも平等になり家は維持できなくなった

昔は家を継ぐということが重みがありそれで長男が家を継ぐ者として重んじられた。長子は昔から重んじっられた。江戸時代だと禄でも家が継続されること与えられていた。
でも家を継ぐことをできない次男三男とか冷や飯食いになった
その差が大きかった。ただ長男は家を背負うから責任が重かった
でも戦後は財産でも兄弟でも均等に与えられる権利をもつようになった。それは伝統的なものに反する、すると家を維持するということができなくなる。

家を維持するということは建物を受け継ぐというだけではない
何かその家々にある受け継がれるものがある。おふくろの味とかでもそうである。でもそういうものなくなり間に合わせでスーパーで買うとなる。便利ではあるが家々に伝えられるものが失われることにもなる。

農業とか菓子店が継続されるのはなぜか

ただ伝統的なものとして今でも伝えられるものはある。それは農業とか伝統の職人の技とかまたは菓子作りとか何かほかにもある。農業だと例えば梨づくりの農家はこの辺でも多い。磯部の梨などは有名である。その梨を作るにしても先祖がいかにうまいものにするかを苦労して作った。
そのノウハウが代々伝えられてきたのである。だから農業新しく一から始めることはなかなか難しい。特産物などもやはりその土地に見合ったものとして作ることが伝えられてきたからである。不思議なのは必ずどこの小さな町でもお菓子屋というのはある
それはスーパーとは関係なく小さな店でも継続しているのであるそれはなぜかとなればその店独自の味を作り出しているからである。あるお店でわカステラだけを作りその味がいいのでそのそのカステラだけを売って商売になっていたのである。

それはどこの菓子屋でもその菓子屋でしか作れない味を出すとその味は伝えられてその店は継続される。つまりノウハウ伝えられて継続される。それでそういう家は代々継続されるということである。その財産は金というものではなくノウハウを伝えられるから継続される。だから必ずしも財産というとき金だけではないのである。何か家訓とかもありそれも伝えられてその家の繁栄が続くともなる。確かなことは家でも一代だけでは栄えることは難しいと思う

ともかく現代で問題になっているのは後継者がいたる所でいなくなることである。それでも無縁仏が増えるというとき受け継がれる家というが消失してきたことにもある。長男は家を継いでいれば兄弟でも死ねば長男が引き取り供養するから無縁化はしないのである。だから必ずしも兄弟で財産を平等に分けるということがすべてが良いとはならなかったのである。なぜなら長男には家を受け継ぐ責任がありだからこそ財産も必要になるからある。
だからなんでも平等というものは良い方に作用する訳ではないのである。それは民主主義の平等を追求してかえって伝統的な貴重なものは失われるということにもなったのである

●明治がなぜ偉大な人物を産んだのか

これを大きく広く日本という国で考えるとき何か明治になったヨーロッパが入るものがすべていいものとして江戸時代まで伝えられてきたものが失われた。論語とかをモラルの基準としていたがそれも失われた。武士道など何かわからなくなった。でも内村鑑三が武士道キリスト教になったとき伝えれるいいものはあった
返って機械とか科学とかはヨーロッパは優れていても精神的なものでは日本が指導すべきものがあったということもあったのだ
それは福沢諭吉がそう言っていたのである。

つまり明治維新からの日本の混乱と失敗は江戸時代から伝えられたものを一切否定してしまったことにもあった。そこにはいいものがあったからである、だからこそ明治時代は偉大な時代だったというとき江戸時代から継続されるものが活きていて和魂洋才となったからである。和魂があったということである。
その和魂を失ったとき何があるのかとなってしまった。
すべてヨーロッパに習いアメリカに習い日本の伝統的なものが失われたのである。ただ過去にあったものがすべていいとはならない。江戸時代の厳しい身分制などはなくなったがそれは良かったとなる。でも受け継がれるべきものがありそれが消失したことが問題なのである。

つまり現代の混乱と不毛は日本的な伝統的なものが失われたことである。だからもともと日本にあったいいものを見直す必要がある。本居宣長が大和心と唐心を区別したようにである。何かもともとあったいいものを伝統的なものを復古させることである
すべて新しいものがいいというのではなくヨーロッパやアメリカにあるものがいいものではなかった。ただ戦争に負けて強制されたのである。日本はただただ金だけを求めるようになったのもアメリカに習ったからである。

明治時代になぜ内村鑑三があれほどアメリカを嫌ったのかというのもその時日本的良きものが継続されていてその比較でアメリカの悪い点が見え日本のいい点が見えたからである。今は日本の良い点が消失したとき喪失したとき何が日本の良い点かもわからずただアメリカを賛美したりヨーロッパがやはりすべて良いものとして見るようになった
もちろんそこにいいものはあるにしても日本にもともといいものがありそれは継続されるべきものだったのである。

いずれにしろ日本を建て直すとき日本にもともとあった伝統的なものを見直すことが必要である
つまり人間は歴史的存在であり歴史的に継承されるものがありそれを失う時荒廃してしまうのである
だから長男でも家を継ぐために責任を課せられていた。でもその家を継ぐということも失われ返って兄弟でも家に所属するものではなく死んでも無縁仏になってしまうということでもある。






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