2019年04月01日

なぜ南相馬市から青森の老人施設に入れられたのか? (青森は月額利用料金が全国で最低だった)


 なぜ南相馬市から青森の老人施設に入れられたのか?

 (青森は月額利用料金が全国で最低だった)

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 週刊現代2019年4月13日号
 

福島県は一か月の入居費が13万だからそれなりに高い
東北では宮城県についで高い、13万くらいが全国平均になるのか?
東京となると20万とか格別になる、入居費用も高い
最低は宮崎県だった、ここも青森と似ているし九州は10万以下であり
東北より低いのはなぜだろうとなる
北海道は12万でそれより高いからである

この図は日本全国の経済状況を反映しているとなる
青森が下から二番目で安いから今南相馬市では青森に介護される人が送られているという福島県でも南相馬市でも人手不足であり施設という建物があっても介護士とかそこで働く人が不足しているからそうなる
ではどこでめんどうみてくれるのかとなると青森が費用が安いからとなり送られている
青森はもともと仕事がない地域だったからである
九州でも福岡を除いてそういう傾向があった、福岡市とかに人口が集中しているのである

老人になるとこういうことに興味をもつ、明日は我が身とかなるからだ
でも8万とかなると安い、何か身元保証人すらなくても入れる施設があるという
そこは劣悪でもそういうのもあるのかと知る
そこでなぜ経営破たんして倒産しているのか?
それは長生きしすぎると新しく人を入れられないのでそこで収入が減るとかのためだと書いてある、これも経営するためには金のことを考慮すればそうなるのか?
そういう施設では経営が苦しいから何を使うのにも金を要求される
細かく要求されるという  

青森の施設に入った人も貧乏でありぎりぎりしか払えない、でも入って終わりかとなるとそうではない、何かその他にかかる費用があり食費でも別に払う
その金がないので息子が働いて払うという
その息子もまた苦しいのである、建築関係で働いていて給料の高い所に行っているという飯館村でまだ除染の仕事とかしてもいた、今度は宮城県の方に行くとかしている
それで家族が青森まで呼ばれて行った
その時その人は新幹線で行くとしてその金がないとかなり援助してくれとかなる
帰りはバスで帰ってこといと言った

2025年になると団塊の世代で介護される人が増大する
その時どうなるのか?みんな安い青森に送られるのか?
青森がそうした老人の引き受け場所となるのか?

ともかく施設でもなかなかそこは終の住処にはなりにくい、家族でも世話できないとかなり介護難民があふれとか認知症になった人が日本中でうろうろする時代が来るとか言われる、認知症の介護となると自分も経験したからその労力は生半可なものではない
心身ともに衰弱してしまうのである
そういう人を介護する家族は自分もそうだったが鬱病になるのである

新元号が令和になったけど何かこれもいい面もあるが令は冷たいにも通じている
老人がこれだけ増えるということはいい時代にはならない
青森が姥捨て山になるのか?そう前にも書いたが安い料金の身元保証人もいらない所はそうなる、そういう施設でも無許可でも需要があるから増えてくる
それも老人にとっては地獄かもしれない、だてから長生きしすぎるとそれも不幸になるなと予想する、でもどうしても手当したりするから長生きするのである
長生きすると施設でも新しい人を入れられず収入が得られないというのも矛盾なのである


posted by 老鶯 at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

新元号は「令和」 (意外と時代に合った良い元号なのかも)


新元号は「令和」

(意外と時代に合った良い元号なのかも)

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「初春の令月にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす」から引用したものであります。

鏡前の粉…女人が鏡の前でよそう白粉。梅花の白さをいう。
蘭…蘭はフジバカマだが、広くキク科の香草をいう。ここでは梅と対にして香草をあげた文飾で実在のものではない。
珮後…珮は本来帯の飾り玉。ここでは身におびる程度の意。

蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす...実景ではない、詩的創作である

梅の花がふんぷんと匂い、珮後に蘭が咲きとか花が咲き交じりそこに花の匂いに満たされる、阿部首相がそれぞれの花を咲かせる平和な時代であって欲しいということを記者会見で言っていた
やはり時代としてはそれぞれの花を個性を活かす文化の時代を言ったともなる
それで文和というのを私は挙げた、文化の時代になると思うからである
ただこの令は予想外だったし誰も予想してなかったから意外だった
何か最初違和感を感じたのである

でもそれなりに調べてみるとなるほどと思うこともあった

嘉辰令月歓 無極 万歳千秋楽 未央」の詠み

「嘉辰(かしん)令月歓(よろこ)び極まり無く

   万歳千秋楽しみ未だ央(なか)ばならず」

★「かしんれいげつ よろこび きはまりなし、
  ばんざいせんしうたのしみ いまだなかばならず」 
  
  1 何事をするにもよい月。めでたい月。「嘉辰(かしん)令月」
2 陰暦2月の異称。

大辞林 第三版の解説

れいげつ【令月】

@ 何事をするのにもよい月。めでたい月。よい月。
A 陰暦二月の異名。

精選版 日本国語大辞典の解説
れい‐げつ【令月】

  
  
  
禮記卷六 月令 東風解凍

東風解凍、蟄蟲始振、魚上冰、獺祭魚、鴻鴈來。

東風凍とうを解き、蟄虫ちつちゆう始めて振うごき、魚冰こほりに上のぼり、獺だつ魚を祭り、鴻雁こうがん来きたる。

【通釈】正月には東風が氷を解かし、土にもぐっていた虫が動き出し、魚は氷の上に姿をあらわし、かわうそは魚を岸に並べて祭をし、鴻おおとりや雁が飛来する。

「月令」(「がつりょう」または「げつれい」と読む)は一年間の暦や恒例行事、季節の変化を月順に述べたもの。『呂氏春秋』の十二紀とほぼ同じ記述である。引用部分はその冒頭、孟春之月(旧暦正月)における自然の変化の特徴を述べた部分である。「東風解凍」を踏まえた和歌は夥しい数に上る

凍りゐし志賀の唐崎うちとけてさざ波よする春風ぞ吹く(大江匡房『詞花集』)

「月令」があるから例がないというわけではなかった
ここでも月のことだった、最初なじめなかった、意味もわからなかった
ただクールムーンなのかと思った
これが国民になじめるのかと思った

ただ新年になりずっと月をみているとなごんだ、それが満月となり穏やかに感じた
それは津波原発事故から8年すぎたからである
その時間がすぎてようやく何か月を見て平和を感じたのである
それで俳句にしたりした、その月を満月を見た感じは 

凍りゐし志賀の唐崎うちとけてさざ波よする春風ぞ吹く(大江匡房『詞花集』)

この感じである、凍てりついた風景も心の傷も何か穏やかになり癒されるという感じになったのである、それは歳月がそうさせたのである
それでこの元号もいいのかなと思い直した

平成とは全く平成でなかった、もう津波原発事故で大災難の時代になったのである
平成の記憶はもう悲惨な戦争の時代と同じだった、それからバブルの崩壊とかもあり日本は停滞した失われた20年と2になっていた氷河期世代も平成である 一身上でも平成の三〇年の後の一〇年間は介護や病気で惨憺なる状態だった
もう責められるだけの地獄の世界を経験したのである

ともかく人間は世代によってどういうふうに生きるのかどういう時代になるのか違っている、まず明治とか大正とか戦前の戦争から戦後の生きた人たちは激動を生きたのである
だから昭和でも戦後生まれは平和の時代を豊かな時代を生きたとなる
特に団塊の世代は高度成長時代を生きたので余計にそうなっていたのである

梅の花匂い放ちて夕べ散る満月照らし心おきなし

紅梅の匂いに満月美しき盛りの時や幸にめぐまる

月影に浮かびしもあれ死にしもその面影や彼岸となるかな  


こんな歌を今年は作った、やはり令月の気分が出ている、令和にふさわしい気分である、だから最初はこれは何と思ったが意外といいものなのかもしれない、自分にもあったものなのかもしれないと思った
ただこれは賛否両論がかなりある元号だと思う、何か最初違和感を感じたからである
ただ自分の心境に照らし合わせると意外と合っているなと見直したのである

posted by 老鶯 at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

一世一元制は明治からはじまった (日本の長い歴史にはなかったことでかえって伝統に反していた)


世一元制は明治からはじまった

(日本の長い歴史にはなかったことでかえって伝統に反していた)


年号(元号)は、漢の武帝の即位した紀元前141年の建元元年に始まる。それ以後、各王朝の皇帝は、祥瑞(めでたいしるし)や天災を機会に年号を代えてきた(改元)。改元は皇帝の権限であった。明を建国した朱元璋は、洪武という年号を立て、皇帝一代一元として絶対に改元をしてはならないと定めた。皇帝は死後、廟号として太祖といわれるとともに、元号によって洪武帝と呼ぶ習慣ができた。これ以来明、清の皇帝はいずれも一世一元の制を守っていく。

日本でも明治になって一世一元とされた。一世一元制はまさに皇帝の絶対権力の成立とともに始まったもので、

 彗星が接近したら改元(例:久安・宝徳など)

・戦乱が起きたら改元(例:応仁・享禄・天正など)

・火事や大噴火が起こったら改元(例:明暦・宝永など)

・他にも将軍の改元、江戸城が燃えたから改元、山崩れのため改元、などなど


元号というとき常に私は郷土史を知るために墓地とか石碑でもまずいつの時代かをみる
江戸時代だったら必ずマークしてここは古いなとかみる
でも元号をみて天皇を意識したことはないのである
元号で意識するのはその元号の時代に何が起きてどういう時代だったのかを知りたいとなるが容易ではない
例えば大同というのは東北では重要な元号である
それはその時代に蝦夷征服を大和朝廷で推し進めていて坂上田村麿が活躍した時代だからである、それで田村市とあるとそこから市の名前になっている
相馬市も南相馬市も相馬市一族が千葉方面から移住して支配したからその名になったとにている

また文明となるとこの時飢饉があり相馬藩で三分の一の所帯が減ったから常にマークされる、それは文明という元号が大事なのではなくその時起きた大惨事故に記憶されているのである
明治以降でも太平洋戦争だと昭和になる、でも戦後の昭和は高度成長の時代であり平和の時代を享受したのである、だから戦後はもし江戸時代だったら改元している
ところが一世一元になっていたから変えられなかったのである
そうなると元号から時代を見ることがむずかしてなる、なぜなら戦前と戦後とはまるで違った社会となっていたからである
アメリカの民主主義を全面的に取り入れた社会になったからである

歴とは元号とはその時代に何が起きたかどういう時代の特徴があるのかが肝要なものとなる、それの目安としてある
それで天変地異があったり戦争があったり何か大きな事件があったりすると改元したというのはその方が歴史にとって重大なことだからである
つまり歴史にとって元号とはあくまでも時代の目安となるものであり何か明治以降は強力な天皇制が全面に出たから時代が逆戻りしたのかともみる
古代では天皇は現実に神になった、でもその後は江戸時代などは天皇の名前すら知らないとか京都で貧乏暮らししていたとかなる、実質の権力は政治は武家によって行われていたからである

だから明治以降は日本の歴史は古代に返ったとなる、尊王攘夷思想でも天皇を前面に押し出すものとなりそれが西欧化による対抗手段として用いられたのである
そのことが尾をひいて太平洋戦争に天皇を御真影として神として300百万人が死ぬ犠牲を払うことになった
これは実は歴史の逆戻りだったのである
明治といえば明治天皇時代であり大正でも昭和でもそうである

一世一代の元号の利点は江戸時代の年号をみればわかる、5年で改元されたとかあまりにもその年数が短すぎるから元号で歴史をたどると細分化されているのでわかりにくくなる特に幕末は変わりすぎたのである
だからなぜもし元号が日本の歴史に必要だというのはわかるとして一世一元の元号にするのくだろうか?
それは天皇の権威を保つためだともなる、そうしないと天皇の権威が失われるからだともなる

元号より西暦でもその数字よりその時代に何が起きたのかどういう時代なのか知るか事が重要である、それによってその時代をしる、西暦でも元号でもそうである
キリストが生まれたときから西暦が始まるのだからキリストが生まれたという大事件がそうさせたのでありイスラム教になるとモハメッドが生まれた年だとか釈迦が生まれた年をはじめとするのもそのためである
一世一元の元号にも利点がある、天皇と同時代を生きる感覚が生まれる
それでそのことを書いた、明治とか大正という時代になると私の父が明治生まれで母と姉は大正生まれでありそれでその時代に親しみを覚えているからだ
でも元号で天皇を呼ばない、明治以降だけ元号を天皇が生きた時代として現すようになったのである

ただ昭和となると何か親しみがないというか時代が長すぎるとなったのである
つまり頻繁に改元するのも良くないが戦後は改元するべきだったとなる
なぜなら江戸時代まではそうしてきたからである
古代の神のような天皇を継続させる時代ではなかったけど日本が西欧列強に植民地されるとかの危機感から古代の天皇に逆戻りしたとなる
何か日本を統一するのに天皇はどうしても必要になったからである
天皇とは何かとなるともともと政治的道具として権威として利用されてきた経緯がある

ともかく元号を継続するのか?天皇制を継続するのか?
これも曲がり角に来ているとなる、でも二千年つづいた元号を簡単に廃止はできない
それが日本の文化だという時、天皇制ともまた違って元号の意味を考える時なのかもしれない、天皇とあまりにも深く結びつくことは象徴天皇制の時代に合わないのである
なぜなら明治天皇とか大正天皇とか昭和天皇の時代となり天皇が中心となる歴史に逆戻りするからである
つまり歴史を作るのは天皇ではない、その時代を作るのは天皇ではないからだ
だからこそその時代に起きた天変地異とか戦争でも大事件でもそうである
この辺では東日本大震災と大津波と原発事故により時代がまるで変ってしまった
だから津波前と原発事故前と後で時代が変わったから元号も変わってもいいとなる
ただ江戸時代のようにそうして頻繁に元号を変えるのも問題だとなる
そうなると西暦の方がいいともなる

だからこそ戦前の昭和と戦後の昭和はまるで違ったものだから元号を変えてもうたいして事件も起きなかったのだから元号を変えない方が歴史をみるには良かったのである
天皇が時代を作るわけでもないからである、そして元号を秘密裏に決めるとかも何か民主主義にかなっていないのである
この権限は政府にあり天皇になるとかなる、ただ天皇は元号を決められない時代になったすると誰が元号を決めるのか今の政府が秘密裏に決める、そして何か今の政府の権威を高めるイベントにするともなる
もちろん私は日本古来の伝統文化を維持し復古させるべきだという立場にある
でも天皇制を今のように維持するのかとてるとそれは別な問題になる
元号にしても歴史的に一世一元ではないしそういう趣旨でつけられた元号は今までなかったからである、そうしたら二千年の歴史的伝統に反していたとなるからだ

それで思い出すのは都築詠一氏があれほど昭和天皇を批判していたのか?
強力な武闘派の極右とも見えたのになぜなのか?

「心に青雲」の都築詠一氏が誉めていた光厳天皇の跡をたどる(キーワードー都築詠一) 

なぜこれほど光厳天皇をほめていたのか?それは南北朝の争いで光厳天皇が自ら蟄居して深く反省したからだとしている
それに反して昭和天皇は自分の命が助かりたくてGHQに命乞いしたとか痛烈に批判していたのである
それが極右なのになぜだろうと良く理解できなかったのである
普通は極右だったら天皇は批判しないからである、だから一世一元制にも反対したともなる
ただ今や日本人にとって天皇とは何なのか?それも問い直されている
それはマスコミとかでは表立って言わない、だからまともな議論にもならない、何か日本が危機になる時天皇が問題になる
南北朝時代がそうでありまた明治維新の時もそうだった、錦の御旗が強力なものとして勝敗を分ける
官軍と賊軍に分断されてしまうのである、それが日本の歴史だったともなる

でもそれが今後適応されるのか?日本は混乱が生じると天皇を担ぎ出す、それが権威となるからだ
だから今は自民党がそうである、これはいい機会だとして政権を強化するものとして利用する政治的意図が働くとなる
かといって元号は日本の歴史そのものであり文化だというとき否定するのもむずかしいしメリットもある
そういうことで元号は日本の歴史とかをふりかえる話題として良かったとなる
そして元号がなぜ維持されているのか?
それは日本が漢字圏であり漢字を使用していることにあった、漢字二字で深い意味をもたらす、漢字一字一字にも深い意味があるからだ、でも中国では元号は廃止された、それは共産主義国家になったからである
王朝を否定するものだからそうなった、日本では天皇を象徴制として維持するのはやはり日本の歴史と文化の継続のためとしてあるからだともなる



posted by 老鶯 at 10:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年03月31日

新元号は何になるのか (元号の意味とは何なのか)


新元号は何になるのか

(元号の意味とは何なのか)

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日本の元号の意味は何なのか?その歴史は天皇の歴史とともに始まっている
だから日本の歴史は万世一系の天皇の歴史だとなり特殊だとなる
元号というとき私は郷土史を知るために必ず墓を見て歩いてきた
今日も大内村の隠された墓地を発見した
そこに墓誌があり元禄からの先祖が記されていたのである
元禄までたどることはなかなかこの辺ではむずかしいし記されていない
だから墓でも必ず江戸時代のものがあるのか、古い碑でも江戸時代のものがあるのか
必ず見ている、ただその元号でもわからなくなっているのがある
一番多いのは天保から明治にかけての幕末である
その辺の元号は細分化されている、だから元号というのはわかりにくいのである
元号からその時代をイメージすることがむずかしい

ただ何か元号でもその時代に特筆するものがあれば覚えやすい
元禄というとき何か日本が新田開拓で米が多くとれるようになって豊かになった時代になったとかある
その時代の代表的人物として芭蕉が存在した、俳句が庶民のものとなるとき裕福になった商人がいて俳句を作るようになった、芭蕉はそうした俳句をたしなむ裕福な商人の家に泊めてもらったりしていた、そこで俳句を指導していたのである
元禄というとそうした華やかな時代をイメージはする
ところが葛尾村の落合という所に墓が夏草に埋もれてあった
そこは山の中でありこんなところになぜ元禄の碑があるのかと不思議だった
そこには明暦とも刻まれていた、それは新田開発した記念の碑だったかもしれない
そんな山の中に元禄の碑があるのかとなる
それから相馬市の松川浦に近い新田にも元禄の碑があった
そこは津波が来た所である、それほど被害はなかったが津波の被害があった

その他で何か元号はわかりにくい、でも元禄の前なのか後なのかで区切りがある
それから天明は飢饉の時代だからその前と後では区別する
そして最近では良く津波があって慶長地震のことが盛んに言われ津波のことも言われるから慶長時代で区切ることになった
ただ文禄慶長の役があり朝鮮征伐とかが秀吉の時代にありその文禄の碑を新地の神社で発見されたことは新鮮だった、なぜなら相馬藩より伊達藩の歴史が古いから文禄が発見された、でも相馬藩では文禄の碑を見たことがないからだ
そしてただその碑には文禄とだけ記されていた
何か葛尾村の元禄の碑も検地がありその記念でありこの文禄の碑も検地が行われてその記念として建てたのかもしれない。

文化ぶんか1804/02/111818/04/21
文政ぶんせい1818/04/221830/12/09
天保てんぽう1830/12/101844/12/01天保の改革
弘化こうか1844/12/021848/02/27
嘉永かえい1848/02/281854/11/26
安政あんせい1854/11/271860/03/17安政の大獄、安政の大地震
万延まんえん1860/03/181861/02/18
文久ぶんきゅう1861/02/191864/02/19
元治げんじ1864/02/201865/04/06
慶応けいおう1865/04/071868/09/07慶応の改革  

この辺は一括して幕末になる、なぜなら天保というとき明治になって新島襄などが天保生まれだからである、幕末がこのように細分化された元号になっていることがわかりにくくしている
この時代は昭和のように幕末として一つの元号にした方がわかりやすかったとなる
それで昭和になって天皇一代で一つの元号化することが法制化された

年号とは何なのかとなるとめんどうになる、ただ年号のいい面がある
西暦にすると数字化すると無機質的になる、ただその方が世界史を学ぶとすると世界共通になるからわかりやすいのである
元号とは日本が天皇の歴史を国の歴史としているからありえた
でもそれがグローバル化した世界で通じるのかとなる

ただベトナムが越南と呼ばれて大正という元号が使用されていたことはベトナムが一時
中国の漢字圏にあり日本と共通していた、中国周辺国家として歴史を共有していたことになる、それでベトナムに親近感を覚える、韓国は漢字がないことで何か共通の歴史と文化を継いでいるという感じがなくなる、今はベトナムはもう漢字は全く使っていない
漢字は中国と日本でしか使っていないのである

元号というとき明治があるがこれは明確に時代を画したので明治というときその時代を彷彿とするものがイメージできる
それで「降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男」がありえた
そして大正はあまりに短かった、でも私にとっては大正はなじみがある

明治 父親が酒屋で丁稚奉公
大正 母と姉が生まれる
昭和(前)母は原町紡績で糸取り 姉は従軍看護婦でシンガポールに四年
昭和(後)高度成長時代
平成 バブル崩壊 停滞の時代

私にとって明治とか大正でもなじみがある、それは家族が両親がその時代の生まれだからである、まず祖父の時代までは一つの時代を生きた感じになるからだ
そして明治の前になると江戸時代になるともう時代を共有していない
それで元号の不思議は幕末の安政があるとする、でも慶安(けいあん)1648/02/15とかありそれより前だったのかとか勘違いする
つまり元号は江戸時代になるとその順序を間違うのである、だから変なのことになるのである
それは明治と大正を逆にして時代を間違うことは今ならありえないからである
大正―明治とみる人はいない、でも江戸時代だとそれがあいまいとなり間違うのである
するとその時代に起きたことでも何か時代を間違えてみることになる、そうすると歴史が混乱するのである

昭和にしても昭和前と後では全く時代が変わっているのに同じ昭和ということで違和感を感じる
いづれにしろ元号とは何なのか?それがやはりこれだけグローバル化しているから問われる  
戦後30年くらいまではやはり高度成長の時代であり活気があった時代として見る
でもその後は何かバブル崩壊とか日本の経済は停滞に入った
それが平成の時代だったとなる
ではその次の時代は何になるのか?
どのような元号になるのかいいのか?
これもむずかしい、それは合併して市町村の名前が変わった時そうだった、何か美里というありふれた名前にしたのもいいとは思えなかった、この辺は南相馬市になったがこれは単なる方角地名で良かったのか今でも問われる
結局南相馬市と相馬市が合併して相馬市になるための布石だったという人もいる

江戸時代の元号をみるとなぜ文とつくのが多いのだろうか?
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これも新地にあり伊達藩内だった


            
あや
【文・綾】

物の表面に現れたいろいろの形・色彩。模様。特に、線が斜めに交わった模様。 「―織」

文化とはなぜつけられたのか?これも文字通り文化なのか?文化興隆の時代だからか?
文の意味は文化の時代だからか?その意味が良くわからない

人気のものとして 

 明治、大正、昭和、平成の頭文字をアルファベットにしたM・T・S・Hと重ならないよう配慮したのか、「安」「永」「和」などの漢字の人気が高い 

この三文字が使われるのか? ただ次の時代を象徴するものとして何がいいのか?
私は文和とか啓和をあげた、これはまだ使用されていないし前の明治大正昭和とも重ならない
安と永は江戸時代の年号に良く使われている、でも今の時代にふさわしいのか?
何かどうしても元号は古臭いものとして古典に基づくからそうなりやすい、斬新なものが作れないのである
  
文和とするとき文は文化交流の時代であり文化でもって世界的に和を結ぶとなる  

啓和とすると 


閉じたものをあける。未知のものを明らかにする。教えみちびく。みちびく。 「啓示・啓発・啓蒙(けいもう)・啓開」

これだと現代に合っているかもしれない、つまりこれからの時代はインタ−ネットの社会が成熟してくる
ネット社会でグローバル化することはさけられない、つまり知識の時代が加速して成熟してくる
それはグローバルインテリジェンスの時代になる、知識は庶民にまで拡大浸透してくるのである
それは文化の時代にもなる、ハードの物の生産からソフトなネットワークの知識社会になる
日本はそれに乗り遅れたのである、中国の方に先を越されたのである
それは日本人はどうしても何かインタ−ネットのことがその世界のことが何を意味しているかわからなかったからだろう
それは良質な物を作るというのと次元が違ったものでありそれが理解できないためだったともなる

日本人には苦手な分野だったともなる、そういう時代に適応できなかったためだともなる
それで銀行もなくなるとか何かこれまで安定したものが崩壊してゆく危機にさらされている
それはインタ−ネットというもののコンセプトが何なのか理解できなかったからだともなる
それは新しいネットワークを世界的に結ぶものだったということが理解できなかったからだとなる
そうしてブロックチェーンとかの技術が生まれたりするともう貨幣はなくなる
インタ−ネットの中で世界中でビットコインのように流通して金が直接支払われる、銀行を介さなくてもいいのである
それは私にはわからないにしても何かそうしたネットワークがインタ−ネットの技術にあることが理解できないのである

まさに閉じたものをあける、未知のものを明らかにする、それがたりなかったとなる
だから啓和というのがふさわしいともなりまた文和もこれからの時代にあったとものとなる
そして国風文化が日本にまた起こるということを私は言ってきたのは奈良時代の漢字化した中国文化した時代から平安時代になりかなが発明された時代とにているからだ
西欧文明とかアメリカ文明の時代は終焉して新しい時代の啓和の時代が来るともなる
ただ昭和とか平成の元号が時代にあっていたかどうかは疑問である
明治とかは明確に一時代をイメージする、大正でも短くても親が生まれた時代だからなじみが団塊の世代にはある
でも昭和というのは和の時代でもない戦争があったから何か合っていない
平成でも何か平凡でありどういう時代だったのかただ平凡であり日本の停滞の時代だったとなる

でもこれからどういう時代になるのか、また作っていくのか?
元号は次の時代を現すまたは象徴するものとなるのか?ただ私自身はもう団塊の世代でありその時代を生きることはむずかしい
それでも人生百年時代となるとまだまだともなる
第一次の天皇になる人が59になっていることに驚くのだ
それはたいして自分とも変わりないのかとも思ってしまうからである
現代の年齢感覚はかなり違っている、人生百年となると60は50前であり10年以上差し引く必要があるからだ
60代はみんな現役として生きる時代だからである
長生きの時代として永の字を使うのもありかなとも思う、永和とかなると何か平凡なのである
これは明日のお楽しみではある

我が父は明治生まれや母姉は大正生まれ死にてふりかえる

ともかくまだ平成となるとこうした歴史とはならない、昭和はなりつつある、戦前はの昭和は歴史であるしすでに戦後の昭和も高度成長も過去のものとなり歴史となりつつある、元号というのはやはりそうした歴史として重みをもつかどうかにある
西暦の数字だと無機質であり無味乾燥ともなる、元号は天皇に由来するから人間を基準にしているから人間味があるともなる
ただ天皇象徴制が日本でいつまでつづくのか?
政党名でも民が多い、福島民報とか民友でもそうである、民主主義の時代だからそうなったのである
だから民という字は必要だともなるがなかなか江戸時代の過去の年号をみると入れにくいのである
とにかく元号でも地名でも市町村名でもそれが長く使用するから変な合わないものをつけるといつまでも影響することが問題なのである、美里などどこにでもありあまりにも特徴がなさすぎるのである、でもそれを使用つづけなければならないことに問題がある
まず地名は古代からあり変えられないからである
元号は変えられるが地名は変えられないものだからである、そこに元号と地名の相違がある

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春の雷ー燕来る (原町ー川子ー大内を回る―川子の溜池で釣り、大内の隠された墓地)


春の雷ー燕来る
(原町ー川子ー大内を回る―川子の溜池で釣り、大内の隠された墓地)


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原町の街中の畑

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家の跡の池と墓地への道

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元禄までたどる先祖

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春の雷蘇えるかななお生きむ

十羽ほど交差し群れてつばめ来る

三色の花活け外に燕来る

隠されし墓地を見つぬけ落椿

さえづりや姿を隠し林中


街中の畑やピンクのチューリップあまたふくらむ原町に来る


今日は晴れ間が見えたので原町まで行った、道の駅の食堂は200人は昼間来ていた
十人が働いていたからそれでも人件費にかかる  
日曜日は稼ぎ時である、結局人件費が一番かかるから経営する方にしては機械化したりAI化したりするのである、とにかく人間を働かせるほど難儀なことないのである
雇う方が雇われるより凄いエネルギーが必要なことは確かである
雇うとなるとその家族のことや必ず人間は病気とかにもなるしさまざまなことを考慮すると人間を雇うコストは高くつくのである
だから一見外国人労働者を入れるのはいいがそのコストがかえって高くつく場合がある

今日は鹿島にも燕が川の上を10羽飛んだ、燕が来たから本格的に春になる
雲って寒いが燕を見たら何か本当に春が来たなと感じた
それで新しい自転車で遠くに行きたくなった
今度の自転車は快速である、平坦な地でも坂でも楽なのである
だからこれは本当に半分バイクに乗っている感じなのだ
それで今日もいろんな方面に行った
                                        
川子の溜池で釣りをする人がいた、あそこではいつも釣りする人がいた釣れるのは何かと言ったらブラックバスだという、それから鯉とかだという、

ブラックバスは、北米原産の淡水魚で、全長50センチ(最大70センチ)にも達し、、魚はもちろん、エビ、カニ、カエル、イモリ、ネズミ、鳥など、動くものなら何でも食べる肉食魚だ。バス釣りのマニュアル本には、「大きなバケツのような口は、小魚を追い、食いまくるフィッシュ・イーター」と書かれている。さらに、外敵からオスが卵を守るなど、極めて繁殖力も強い。

5月の連休ともなれば、県外のバスファンで連日満員御礼の盛況ぶり。右は、夫婦、子供、家族そろってバス釣りを楽しむバス釣り風景。今やバス釣り人口は300万人に膨れ上がった。八郎湖には、ボートが飛び交い、バシャ、バシャとヨシの中で騒いでいるのは全てバスばかり。この変わり果てた八郎湖に、かつての生態系は確実に破壊されている現実があった。                        

ブラックバスブームにのって大繁殖

ブラックバスは日本で繁殖した、それが釣りする人には人気になった
釣り道具やではわざと放したとかも言っている
これも釣り道具屋にすると今や遊びとしての釣りでありブラックバスでも釣れるとなると釣り道具やも繁盛するとなる
何かこうした歪みが現代文明には多いのである
いらない薬でも飲まされるしいらないものでも買わされる、でも商売だからと金儲けのためにそうなる、それが釣り商売の人にも起きていたのである
私は釣りをしないが釣りに興味があるのはそれが自然と深く関係しているからである
だからパチンコとかギャンブルやるよりいいと見ている

原町の蔵をる家の畑は広い、そこにチャーリップが飢えてった、ピンクのチャーリップだった、街中の家でありまだ農家だった所である
そこから大内の方へ回った
大内の坂を上るとそこは家の跡でありそこに池があった
これは自然の池ではない、この家の池だったのである
その家がなくなったことで墓地への道が見えた
その墓地は隠されていたのでわからなかった
意外と墓地はこうして隠された場所にあるからわからないのである
そこに大内という姓の墓誌には元禄までたどれる祖先を記されていた
元禄までたどるとなると相当に古いのである

大内村は後ろの高い所に住んだ人たちが古い、下の平地に住んだ人は後から住んだ人たちであり津波の被害にあった
だからもともと高い所に住んだ人たちは古い家であり津波の被害にあわなかったのである湿地帯を田にしても高台に住んでいたのである
そこは急な高台ではなく人が住める場所だったのである
そこから海が見えて沖に船が行くのが見えた
おそらく松原が津波で流されて遠くからもこの辺では海が見えるようになった
それは新しい景観であり悪いともいえない
松原にさえぎられて海が見えないから浜通りでも海が鉄道に乗っても見えなかったのである

とにかくに三日前には春の雷が鳴った、春の雷は二回くらいしか鳴らない
そして今日は燕が群れをなして飛んできた
今年もこれで春が本格して何か新しく始動する感じになる
ただ今日も寒いのである、すでに磐城では桜が咲いている
この辺はまだまだなのか?後一週間くらい後に開花になるのか?
いよいよまた桜の季節になる

AIは芸術でも俳句でも短歌でも抽象画を創作しても選ぶことができない


AIは芸術でも俳句でも短歌でも抽象画を創作しても選ぶことができない

AI can not select art, haiku, tanka, or create abstracts

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今テレビでAIは俳句でも短歌でも何千と作れる、でもどれがいい俳句なのか短歌なのか選べない、その能力がないと数学者が言った
それも本当なのか?俳句と短歌となると短いからそういうことができる、AIが小説まで作った、だからできないことはないのだろう

そして私のしている抽象画も全くこれと同じだった
無数の抽象画を作っているのは実際はAIである、コンピュターのソフトである
ではその中から選ぶ能力はこれが森だとか川だと選ぶ能力はコンピュターにはAIにはないのである

だからAIには芸術を鑑賞する能力がないのである、またAIには感情がない、人が死んで悲しいとか別れて悲しいとか様々な情緒をもたらしている感情がない
人間は悲しむ者が幸いだとキリストが言う時、感情をもつことによって人間になるということがある、赤ん坊は泣いて生まれてくるのもそうしてすでに感情をもっているからだともなる

そして無人駅のことを書いてきたが確かに人はいなくても機能する、でもそこに何か欠けている、人間の情が欠けている、情が通わない駅になる
でも駅には出会いと別れがあり人間が生きる場を演出する場でもある
それは病院とかでもそうである、そこにはただ病院という建物と機械だけに囲まれてそして死ぬ、その時機械は何の感情もない、人が死んだとしても機械はAIはそれが何か理解できないからだ

ただ現実に今や社会はそうして自動化機械化している、病院だってそこは無機質的空間である人が死んでも早くかたづけてくださいとか物扱いなのである
だから病因では誰も死にたくないのである
そういうAIとか機械化自動化の社会が果たして人間を幸せにするのか?
人間は便利なものをどこまでも追求してきた
しかしそれで人間が幸福になったのか?
原発事故は最先端の技術で最悪の結果を最大の不幸を人間にもたらしたからだ
それは原爆ですでに経験済みだったのである


AI can not select art, haiku, tanka, or create abstracts


Now that AI can make thousands of haiku and tanka on TV, but he can not choose which haiku or tanka is good, said mathematicians without that ability

Is that true? Haiku and tanka can do such things because it is short, AI made even novels, so there is nothing we can not do

And the abstract I'm doing was exactly the same as this
It is the software of the computer that is actually AI that is making innumerable abstracts
Then there is no ability in AI to choose the ability to choose among them that this is a forest or a river

So AI has no ability to appreciate art, AI has no emotions, there are no emotions that cause people to die and be sad or break away and bring sadness or various emotions
When Christ says that human beings are fortunate to be blessed with emotions they are to become human beings, because babies are born crying and thus are already feeling.

And I wrote about the unmanned station, but it certainly works even if there are no people, but there is something missing, there is a lack of human feeling, it becomes an unfriendly station
But there are encounters and partings at the station, and it is also a place where people live.
It's a hospital and so on, there is only a hospital building and a machine, and it's surrounded by the machine and dies, when the machine has no emotion, even if a person dies, the machine can't understand what it is Body

However, in reality, society is now doing automation in that way, even in hospitals, there are mineral spaces where people should die quickly, even if they die.
So no one wants to die in etiology
Does a society of such AI or mechanized automation make people happy?
Humans have pursued anything useful
But has it made people happy?
The nuclear accident is the most advanced technology that brings the worst results to people with the greatest misery
It was already experienced at the atomic bomb
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2019年03月30日

万葉集の真野の草原の草は鉄の意味だった! (松川浦の飯豊と津(つのみつ)神社の関係)


万葉集の真野の草原の草は鉄の意味だった!

(松川浦の飯豊と津(つのみつ)神社の関係)

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福島県白河市に「飯豊比売神社」があり、御祭神が飯豊比売神である。
福井県大飯郡高浜町の「青海神社」には、飯豊女王が禊をしたという池があり、伝承にまつわる神事が伝わる。

奈良県葛城市の「角刺神社」は飯豊女王の跡と伝えられ境内に飯豊王女が鏡として使ったという池がある。

上記の福島県の飯豊山には「飯豊山神社」がある。
宮城県加美郡加美町の「飯豊神社」は巨石を御神体とする。
福島県田村郡小野町の「飯豊神社」は秋祭の11月3日に獅子舞が奉納される。

関連項目
        
 卑弥呼・・・神功皇后
 壱与・・・飯豊皇女

 卑弥呼の後を継いで邪馬台国の女王となった壱与(いよ)については台与(とよ)という説

つまり邪馬台国までさかのぼる歴史が東北にも伝播したのである、「角刺宮」とは伽耶国の王子のツノガノアラシトを祭ったものなのである、確かにそこは新羅の渡来人のことが記されているがその前に伽耶国の王子のツノガノアラシトが最初に来たからこそその宮が生まれた、そして飛鳥には伽耶国の人たちがほとんどだったというときそこは伽耶国でもあったとなるのである
ただこの伽耶国は日本と一体化していて日本でもあったというとき天皇が伽耶国から出たというとき鉄の生産があり鉄によって力をもち権力をもち日本国が誕生したともなる、その時綿津見神を奉じる
安曇氏とか海洋民が国造りに深くかかわっていたのである 

松川浦の津波をまねがれた津神社はツノミツ神社でありツ一字では言わない、他でも津神社とあればツ一字では呼ばない、つの神社なのである
それはツノガノアラシトのことなのである、ここがまぎらわしいのである、なぜなら伽耶国とか安曇氏とか物部氏は大和王権が生まれたとき消されたからである、でもそれが地名とか神社に残されている、その地名にしても何か伽耶国とかをイメージできないものになっていたのであ

 
 「大泊瀬皇子(後の雄略)は、10月に押磐皇子を近江の蚊屋野
かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)へ狩猟に誘い出し、
「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。」

「蚊屋野」は、萱の鹿野姫でね?
「猪がいる」は、白猪にのった鹿野姫が想像される。

つまり、封じられてきた勿来とは、物部氏、葛城氏、刑部氏や佐伯部(忌部氏も?)
などの、部民の人達である。その中心にいた女性は、母系社会として位置づけられ、
「草」を用いた祈祷(たすきのようにして祈祷していた)「トベ」たちの風習による。  

タタラ場が流行り草から鉄へ。

その鉄のたすきを金連注(かなじめ)というが、それを体中に巻きつけて、
祈祷をしたのは、名取老女だった。

鹿野姫は、草や野の精霊というのは、その意味があって。
要するに、絹の養蚕ではなく、麻の植物。
だから、青麻神社の青は、飯豊青皇女の青と同じ意味があると思う。

 秩父、仙台、まほろばの道

ここのサイトは相当に東北の神社巡りをして詳しい、参考になる  

「草」を用いた祈祷(たすきのようにして祈祷していた)「トベ」たちの風習による。
タタラ場が流行り草から鉄へ。
その鉄のたすきを金連注(かなじめ)というが、それを体中に巻きつけて、
祈祷をしたのは、名取老女だった。

砂鉄を中心とした鉄の生産は古代真野郷で盛んであった、今の東北電力のある所で一大鉄の生産地が発掘された 
                                                                                      
真金吹く 丹生の真朱の 色に出て 言はなくのみそ 吾が恋ふらくは   万葉集14-3560

謎の真吹郷の所在地が初めて明らかになったのは昭和63年である。南相馬市原町区(古代行方郡)新田川 鹿島真野川の間にあるその名も金沢地区の小高い丘陵地一帯が当時日本一の製鉄所群があったのです。なんとその数発見されてだけで製鉄炉123基、木炭窯149基、竪穴式住居133軒、掘立柱建物29棟の一大製鉄工場群なのです。
恐らくその夜空をを焦がす真っ赤な炎は大化の改新頃から約200年に渡り燃えつずけたのでしょう。つまり古代製鉄のメッカだったのです。それが都でも噂になったのは ここに行方郡衙(泉廃寺跡)とゆう国の役所がおかれ、且つ行方軍団なる当時約1000名の駐屯地まであったからだ。その為都との人的往来は相当ありその燃える炎と灼熱の色が噂の種になってもおかしくない。だからこそ言いたくても言いだせない灼熱の恋の炎でわが胸を焦がすこの恋の歌に詠まれたのも至極当然な事なのである。でき、生かす人が少ないのは残念なことではある。
 (平成14年4月1日)(参考 東北電力パンフ・白河市史資料編・ 律令国家の対蝦夷政策相馬の製鉄遺跡群 新泉社 相馬双葉の歴史株文泉閣)    

  蝦夷陸奥歌枕

真野郷というこういう場所だったというときとても真野の草原が萱が茂っている場とはイメージすらできないのである
そこは萱が茂っている北海道のような淋しい場所ではないのである、それで錯覚していたのである 

岩手県一関の舞草(もうくさ)は古鍛冶の舞草刀の発祥地として
知られているが舞草の「草」は砂鉄を意味する

真野の草原に萱ではなく草をあてたのはなぜだろうか?
他でも大草郷とかがある、草とは砂鉄のことなのである、自然の草とか萱ではないのだ
だから石巻が真野の萱原だというのは疑問なのである
なぜなら万葉集では草原となっいるからだ、それがまぎらわしいのである

ただ石巻はその背景となるものが残っている
鰐山があるとすると鰐は和邇であり和邇氏一族に小野真野氏がいたからである
石巻には真野と記された木簡もと発見されたからである
さらに真野氏一族は鉄を求めて北上川を渡り登米にまで移動していた
そこに行方(なめかた)という木簡が発見されたからである
行方とは相馬地方の古代の郡である、行方郡である  

この草原(かやはら)は何か錯覚しやすいのである、カヤをどう発音していたのか?
その当時の発音はわからない、だからそこに漢字をあてたとき北海道のようなアイヌ語地名のようになる
それで漢字というのには音だけではない、意味がある
草とあてれば草をイメージする、萱をあてれば萱草をイメージする、

 諫早市多良見町(喜々津村、大草村、伊木力村が合併)の喜々津には面白い地名の字(あざ)が存在する。多良見町で最も人口の多い地区である「化屋」である。最初から「ケヤ」と正確に読める人は稀有であり、大方は「バケヤ」と読んでしまう

化屋の由来について

カヤはケヤとかにもなる、草とか萱は漢字をあてたものでありこの化屋もそうである、だから真野の草原(かやはら)をどう発音していたかは不明なのである
ここのサイトでは安曇氏などの海人族の綿津見神についても考察している、九州の安曇族が伽耶国の王子のツノガノアラシトと関係して東北に移住してきたのである、つまりそういう渡来人の移住が相当数あったから綿津見神社が多いのである



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2019年03月29日

死者が残した物 (残された物から昔を偲ぶー詩)


死者が残した物  (残された物から昔を偲ぶ)

家には何かここに生きた者のの
記憶が隠されている
死者はもう何も語らない
その代りに残された物が語る
なぜ手鏡が二つ棚の奥から出て来たのか?
ここに住んだ女性は死んで歳月がすぎた
でもその鏡を手に取って見ていた時があった
でもその鏡にはもう顔は映らない
人は死ぬと忘れられるのが早い
死んだ後に家や物や墓が残る
なぜずいぶん死んでから月日が過ぎて
何かその人が愛用したものがひょっこり出てくる
それはなぜだろう
それは死者がその物に霊のように憑いているからなのか
だから物が憑くとなる
何か私を忘れないでねと
その物を通じて語っているのかもしれない
忘れな草は春に咲いている
その忘れな草のように忘れないでねと今は言う
でも死者を訪ねてくる人もいない
人はたちまち死ぬと忘れられる
その人がいたのかどうかすら不明にすらなる
それでも忘れないで思い出してと
家の中の奥からその人の愛用したものが出てきたりする
それでまた故人を偲ぶのである  


 

誰かの煙草入れ

山の中のなのか
どこなのか
一服して仕事を休む
この煙草入れはずいぶん使った
これをもっていた人は
ずいぶんと働いた
何かそれがこの煙草入れからにじみでている
ぷかぷかとタバコをキセルで吸う
その時一時安堵がある
一休みしたからまた働くか
そしてこの煙草入れを下げて働きはじめる
それは山の中なのか
山の中で腰をおろして吸っていたのか
何かそこに男の体臭を感じる
それはすりきれるほど使ったもの
人は死んでも何かを残す
この煙草入れでもその人の体臭が染みついている
この物に人の記憶がしみついている
だからただの物ではない
人間の残すものには心が宿る
物は物ではない、物と心は一体なのである  

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人間は何か物を残す、その物が何かを語る、この煙草入れはリサイクル店で買った、一万以上したから高かったとなる
銅製か鉄製で錆びたりして鏡として顔を映すのは結構むずかしかったとある
ここから何か江戸時代のことがイメージできる、旅するとなると明かりが必要である、火も必要である、蝋燭も必要である
そして火打石のようなものも持ち運びしていた、何かこの物から江戸時代がイメージされる
時代劇だと現実のものではない、この物は江戸時代の人が確かに使っていたものなのである
こんなふうにして旅していたのである、これらのものは結構高いもので誰ももてるものでもなかった
  
江戸時代の旅の小道具

携帯用に工夫された燭台とかもあり手鏡もあるがガラスではない、 何かこういうものを使っていたのが不思議である
真っ暗闇のなかで携帯用の蝋燭がゆらゆらと燃えてその明かりで矢立で字を書いている
その時江戸時代だから車の音もなにもしないのである、不気味なほど静かなのである
何か東京とか都会に興味がもてなくなったし人ごみの中に入るのも嫌になった
まず今は旅に向いていない、外人ばかりが多いからである、日本人がゆっくり旅できなくなったのである
それはなぜか?日本人が観光で稼ぐほかなくなった貧乏になったのである  

日本がすでに安価な旅先として選ばれているというようになった
そして日本人がのんびり旅すらできないとなったのである
それは外国の貧乏な国ではそうだったのである、観光立国などとなればそれは貧乏な国が目指すことである
カジノなどでもそうである、金持ち呼び込んで金を得る
つまり日本はすでにかなり落ちぶれた国になっているのである
そしてますますその傾向は強くなってゆく
だから観光客が何千万とか増えたからと喜んでいいものかとなる  

京都辺りでは観光客のためにバスさえ乗ることに難儀していることでもわかる
それでも観光客を来るなとは言えない、それは貧乏になったからである
白馬村でも旅館のおばちゃんが外人にまた来てくれと抱きついているのを見たらそうなる
それが嫌でも外国人観光客に媚びなければならないのである
そういう国はもう発展途上国並みになっているとも見れるのである
ともかく私は旅を60までしてきたけど何かしたくない、私はいい時代に旅したとなる
日本人がゆっくり旅できない、泊まる所もないというのはなんかがっかりする
それでも貧乏国になればそれをやめることはできないのである



posted by 老鶯 at 20:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

家は記憶の貯蔵庫 (何か隠れたものが出てくる)


家は記憶の貯蔵庫

(何か隠れたものが出てくる)

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家の棚の奥にあったもの



家の不思議を追求してきた、家は何かというとそれはただの寝起きするとか食事するとかだけではない、そこにはその家族の記憶が貯蔵されている場所なのである
それでいろいろなものが捨てられないという時、その物には思い出が染みついている場合があるからだ
ただそれは他人にとっては何の価値もないものとなる
別にその人にとっては便利に使うだけものだからである

よく蔵に何があるとか番組があるけど古い家だと江戸時代のものでもさらに古い物でも貯蔵してある、それは忘れられていたものである
だから蔵の機能はそうして記憶の貯蔵庫ともなっていたのである
人間は死ぬとその人間自体が消えるのだから思い出すにしてもできなくなる
遺影を見たりして思い出したりするが残された物からも思い出す、記憶するのである

歴史でも考古学がありそれは人間は骨となって消えるし骨すら残っていない
古墳が墓だとするときそこにモノが残っていてそれでその歴史をたどる
それから物語が残っていてそこからも過去をたどってゆく
それは個々人でも同じなのである、家があるときはその家が継続していればそれは生きたその家の記憶の貯蔵庫となっているのだ

物には単なる物ではなく物語がある、物語がヒストリーが歴史である
ただモノにしてもいつまでもあるわけではない、モノでもいつまでも残されない
やがては埋もれ消えてゆく、人間が死ぬと去る者は日々に疎しとなる
それは家族でもどうにもならない、この世は無常なのである
常なき世の中なのであるそれは変わっていない、死んでしまうと日にちがすぎてそんな人がいたのかとすらなる

とにかく不思議なのは死んでから何かその人の思い出になるものが家から出やすいのである、それは忘れられていたがふいと家をかたづけていると掃除していると出てきたりするそれはつまらないものであってもそこにその家の記憶が家族の記憶がその人の生の思い出が残っている
認知症になると何かつまらないものを肌身離さず持ち歩いていた
それを私の家でも経験した、戦争で生死をともにした戦友が送ってくれた手作りのバッグを宝物ののように大事にしていたのである
それは映画でも放送していたから同じだった
つまり何かつまらないものでもそこには人生の思いでがしみついているからそうなったのである

だからなかなか捨てようとしても捨てられない、それも困るのだがそうなる
家には記憶の貯蔵庫なのである、だから家がなくなると個々人とかでも家族とかでもその記憶が失われるのである
例えば老人ホームに入った老人が「家に帰りたい、帰りたい」というときその家が実はなくなっているのである、ただ家族と一緒に暮らした昔にもどりたいということなのであるつまりもうその人にとって記憶の中の家であり家族になっているのである
老人は思い出と記憶の中に生きているのである
だからなかなか断捨離とかあっても老人は物を捨てきれないのである
そのモノには人生の記憶がしみついている、それを捨てることは何か人生そのものを捨てる感じにもなるからである  

手鏡の隠され残るあわれかなその面影を映すことなし

この手鏡は何なのか?何か使ったようには見えない、ただ買っただけなのか?
そういうものもある、ただ女性ということで残していたとなる

posted by 老鶯 at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

2019年03月28日

鹿島駅の高校生のNPOの見守りは三人交代でしている (一人は相馬市の人だった―情報には知的なものと情的なものがある)


鹿島駅の高校生のNPOの見守りは三人交代でしている

(一人は相馬市の人だった―情報には知的なものと情的なものがある)

その人がなぜ昼間に駅にいたのか?
制服を着ているからすぐにわかる
昼間も何かあるから見てこいと言われたという
でも奇妙なのは駅の業務にかかわらないという契約で南相馬市でNPOに頼んで人を置いたのである

そこの人はなるべく乗客とはかかわらないと言っていた
めんどうなことになると嫌だからとかかわらないとしている
それは私自身が何かおせっかいでかかわりそんなこと知っているとか地元の人に言われたからである、迷惑がられたし警察がきて怪しいと職務質問もされた
それからJRの人にもかかわるなとか何か嫌がられている

でも何か変なのである、駅の業務にかかわらないとしたらそこになぜいるのか?
ただ高校生の見守りだけ何もしないのである
だからそこにいる人は携帯用のテレビを見ているだけだとなる
それはいるだけでも安心感はある
だから無駄だとはならない、でもいくらもらっているのか?
南相馬市から金は出ているからあそこでその役割がある
つまりもし無料でしいているなら何も市民でも文句など言わない
そこに南相馬市民の税金で多少でも払っているとなるとまた別になるかもしれない
そして相馬市民にも金を払っているということもある

ただ駅で何か案内といってもそんなにはない
地元の人は自動化していることでわかっているからである
それでも遠くから地元の人でないと自動化してもわからないということを書いてきた
そもそも駅の業務にかかわらないとしてJRと南相馬市が契約してはじまった
その理由は何なのか?そのことも理解しかねるがそれを疑問に思う人もいない
それだけ今は駅に関心がないのである

人間はただ何でも機械化自動化してどうなるのか?何かそこに欠けるものが生まれてこないか?
実際はスマホとかばかりみているとかSNSでコミ二ケーションしているがそれだけで人間社会が成り立つのかとなると疑問になる
それは自分自身がパソコンで発信しているから否定はできない
ただ今の社会に欠けているのは何か人間が失っているものがある

家庭に、学校に、会社に、社会に、街中に会話をする声が耳に聞こえる事がない。まあ、考えが無いんだよなあ。だから話す事がないんだ。笑ってしまう。 まあ、岐路に来たんだ。欧米の真似をしてきたんで考える必要がなかったんだ。もう、自分で考えなければならないんだ。根底からさ。信じるものまで届くまで考える必要があるんだろうなあ。だから、揺さぶられてしまう。根が深くなければ、ちょっとした風でも倒れてしまう。

これは何を言っているのかわからないけど

家庭に、学校に、会社に、社会に、街中に会話をする声が耳に聞こえる事がない。

これは言える、みんな駅でもスマホを見て人がいても関係ないとなっている
人がうざいのである、だから何か話しかけると嫌がある人が多くなる
でも結構駅ではちょっとでも自分は話したから話するのがみんな嫌だとも見れない
それは人による、でも一般的に現代は会話がない社会である
だからこそ自動化無人化がすすめられる、人がいなくてもいいとみんなが思っているからである、特に駅に鉄道を利用しないから関心がないからである

江戸時代とか戦前とかは何か会話が多い社会だったろう、それは狭い地域で暮らしていたからである、それで田舎ではかえって根掘り葉掘り聞かれて嫌になることがあった
ただ逆に現代は生の面と向かった会話が少ない社会である
そこで一見情報社会で膨大な情報にふれていても何かそれで心が豊かになったとも思えないともなる

情報という感じは情に報えると訳した時何かここに日本人でもそこにただのインホメーションでないものを伝統的にもっていたからこの訳になったのかもしれない
インテリジェンスでも情と訳されていない、インテリジェンスは分析加工とかの意味があり情報にはただ知るだけではないそうした作業が不可欠である、それをテレビではしているがその加工された編集されたものによって偏ったものに必ずなっているのである、インテリジェンスは自分の頭でするものであり他人の頭でするものではないとなる

情報に知的なものがあっても情があって情報があるとなっていないのである
人間が直接かかわるとやはりそこに必ず自ずと情が働くのである
スマホの方が今でも便利である、知的にはそうである
ただそこには情が欠けた空間なのである
一方で情だけでは知的なものではたりなくなる、なぜなら知らない場所に行ってまず正確に丁寧に道を教えたり目的の場所を教える人はいないからである
そうなるとスマホの方が知的にはいいとなり地元の人に聞いたりしないのである
それがただ一方的に今は知的なものだけになっているのが問題だとなる



南相馬市の給料の相馬市との比較 (ラスパイラル指数が低いと福祉とかのサービスが低下)


南相馬市の給料の相馬市との比較

(ラスパイラル指数が低いと福祉とかのサービスが低下)

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ラスパイラル比較




ラスパイラルというのがわからないにしても公務員の給料の比較する目安である
全国平均では99である、南相馬市は意外と低い、94となると低い
その差はどこから生まれているのか?

相馬市の津波の被害が大きかった、だから財政的にも苦しいのかと思った
でもそうではない、あれだけの津波の被害でも全国平均よりうわまっているのはなぜだろうか?
何か津波以後に復興がうまくいったためなのか?
なぜなら松川浦などは港も再整備されて天然ガスのビルが建ったりしている
何かそういう面で税収が増えているからかもしれない
税収が増えなければ給料も上がらないし市全体でサービスも落ちる

南相馬市の財政が相馬市より厳しいのは津浪とか原発事故でそうなったがかえって国からの復興のための支援金が入ってきているから財政的にはいいと思っていた
その補助金も莫大なものだったからである
でも結果的に除染に何兆円も使ったとしてもその費用は東京のゼネコンに流れただけだった、自治体指導でやればその金が入ってきたとも言われる

そして南相馬市のアキレス腱は小高が避難区域となったことで人口が急激に減りそこが老人だけが帰って生産機能が消失したことである
そうなれば税収も入らないからである
そして福祉の予算だけがふくらみそのサービスも落ちる
もともと福祉関係は自治体によって相当に差がある
裕福な自治体は福祉のサービスもいいから東京の人などはそういう都市に移住しようとしているしすでにしている人たちもいる
その差も大きいのである
だから小高の問題は小高だけの問題ではない、それで若い世代が流出して老人だけを残したということが問題なのである
南相馬市全体からすると負担になるからである

それを象徴していたのが小高病院の再開である、入院もさせるということで医師が反対して辞職した、入院はしないで訪問して治療するのがいいとやめた
そう主張したのは入院するとそれだけ負担が増える、その負担をしきれない、看護婦だって不足しているのだからできない
それは財政的にもそうなのである、ただ新しい市長は公約だったからとこだわり小高病院の再開をしようとしている
南相馬市では原町区でも小高では特に補償金がかなり入った
それで何か財政的にはいいのかなと見ていたがそれも一時的なものである
年金のように定期的に入るものではない、でも結果的に補償金頼りであり小高では老人が多いのだから生産しないし税収にもならない
すると南相馬市の財政が苦しいから公務員の給料も減る
福祉とか介護サービスも落ちる
それで葛尾村では馬鹿高い介護保険料を払う羽目になったのである

また福祉施設は立派なものがあるとしてそこで働く介護士とかが不足している
それは福島県全体に言える、それで今は青森県でそういう人たちを引き受けている
青森県では仕事がないから介護関係の仕事をする人が多いからである
そして生活保護でもこの辺は支給するにしても減額される
医療費は補助されても一万しかもらえないとかそれは苦しいとなる
年金だって4万だからそれでは生活できないのである
何かそうして福祉の方にしわ寄せが来ているのである
公務員給料だって低く抑えられるのである

いづれにしろこの辺では浪江町とかでも公務員は過酷になったのである
仕事もそうだし自治体が崩壊するような状態になったら公務員だって今までのような恵まれたものにはならない
ただ日本全体の経済も停滞して低下してゆくとき公務員だって全国的にそうなる
公務員はAIで職を失うとかもいわれる地銀などもそうである
公務員とか地銀とか農協とかは地方では安定して就職先であり地方に生活するならそういう場所しか大卒とかなると就職先がなかったのである
でも時代が変わりこういう職業も安定はなくなった

それより10年で復興の補助金は国から打ち切られるそれも後二年なのである
そうなると南相馬市はさらに財政的に苦しくなりいろんなサービスが削られる
第一小高なら老人だけの街とか福祉を受けるだけの人たちになる
それから隣の浪江町でも双葉町でも大熊町でも広域的社会では経済的影響が大きいのである、自給自足社会で最低のミニマム社会なら影響がないが必ず全体的に影響しあっているから落ち込むのである

そういう社会になるとその中で田舎だと特定のものが金があるとしても豊かには暮らせない、回りが困窮しているとそれがじかに感じるし影響してくるからである
離れていれば別だか常に隣り合い暮らしていればそれが眼に見えて影響してくる
もうそうなると安穏としては暮らしていけなくなるのである
だから南相馬市から南はこれからさらに苦しい状態においこまれとなる
ただ相馬市が財政状況がいいのか?それは救いだともなる
相馬市も南相馬市の隣なのだから影響するからである  




福島県所得ランキング

1位 大熊町 515万5534円
2位 葛尾村 407万5632円
3位 双葉町 369万2776円
4位 富岡町 363万4576円
5位 楢葉町 332万6625円
6位 浪江町 323万8755円
7位 広野町 320万6765円
8位 飯舘村 313万8824円
9位 福島市 310万1910円
10位 南相馬市 310万1328円
11位 郡山市 307万6066円
12位 相馬市 303万2661円
13位 いわき市 302万4302円

一時的に補償金で上がったのである、ただこれが税収となったのか?
それは持続的な税収とはなりえないのである

課税所得

2017371福島県南相馬市854億6332万円310万1328円
2016315福島県南相馬市862億5797万1000円314万7411円
2015361福島県南相馬市816億3359万9000円307万1588円
2014453福島県南相馬市755億5567万8000円293万8080円
2013775福島県南相馬市678億5941万6000円271万3616円
2012995福島県南相馬市555億1948万9000円260万5570円
20111158福島県南相馬市694億5037万1000円253万7648円
20101190福島県南相馬市712億6074万9000円252万5543円

震災前より課税所得も上がっている、平均年収も上がっている
すると税収も増えているはずなのだがどうなっているのか?
ただこの課税所得があったのが震災関係の復興事業のためである
特に建築土木関係は特需になり息を吹き返したのである
でせ復興関係の仕事が減るとまた停滞して低下してゆく

すでに2017年で減り始めている






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2019年03月27日

初燕(近辺の春)


初燕(近辺の春)

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巣箱が二つあった



初つばめ原町に見て電車行く

耕しの婦人二人や春の暮 

若草や新しき家の増えにけり

我が町や古墳の上に草萌ゆる

何を置く巣箱二つや春の暮


昨日に原町で見たのは初燕だった、この初燕はどこで見るかが大事である
その場所が印象的なものになる、原町はふさわしかった
原町はこの辺では相馬市は城下町で古いが新興都市でもあるからだ
明治以降に原ノ町駅が機関区となりそれで発展したのである

旅路来て赤絵町かな初燕

赤絵とか柿右衛門の赤絵は有名であり海外に売り出された、それは伊万里から外国に輸出されたか伊万里焼になった、それが海外でもヨ−ロッパでも珍重されたのである
それが古いヨ−ロッパの城に残されたのを最近発見されたというのもそれだけ輸出された品だったのである

その時九州を旅していたが遠かった、九州は東北からだと一番遠く感じる
北海道より遠い、そこに初燕が飛んだのを見たのは新鮮で印象に残っている
ただあまりにも時間がたちすぎたのである
旅は実際60歳までつづいた、そして介護になり十年はしていない
30年間くらい旅に費やしたのである 

私の住んでいる所は本当に家が増えた、それも新しい家が多いし一つの新しい街ができた感じになる、それは津波と原発事故が重なり移ってきて家を建てた人が多いからである
新しい家が本当に多い、古い農家の家はもう少ないのである

女性が年配の婦人が二人耕している、そこは荒地が多いのである、人間はやはり営みがなくなると荒廃してゆく
でも知っている人の畑の前と隣はやめた、一人は這ってきて車にのせられてきて畑で仕事していたが遂に続かなくなりやめた
もう一人は病気になり死んだ、それでまた荒地になってくる、荒地がこうしてどうしても原発事故以後増えるのである
ただ新しい家は増えたのである

南相馬市の鹿島区で見るとなると古墳なのである、小池に多い、それも隠された場所ちるありわかりにくい、これが古墳なのかと見分けがつかないものもある
なぜ小池にこれだけ多いのか?それはやはりここが古代に人が多く住んだ場所だからとなる
ただ古墳となると原町区の桜井古墳は大きいから目立つしそこが中心だったと外から来た人たちも見る、つまり外から来る人たちに目立つものがないと観光として受けないのである
古墳に草萌えるというのも何かここらしいとはなる
古墳は墓であるがその祖先の墓の上に草萌えて春がやってくるというのも人間の営みである、人間は祖先がいてその祖先の上にまた生活を重ねてゆく
死者を養分として代を重ねて栄えてゆくのがどこでも人間の営みだからである
それが人間の歴史でもある、必ず過去が歴史はそうして代々つづいてきたからである

ゆっさの湯の食堂は奥の方に新しく変えた、そこの方が前よりいい感じになった
食事するにもどうしても環境が影響する、その味も価値なのだが価値にはいろいろな価値がある、景色のいい場所で食事するとやはりうまく感じるからだ
狭いごちゃごちゃしたところで食べたくないのである
だからゆっさの湯は場所としてはいいのである、ただ庭が貧弱なのである
あそこは近いから時々行ける距離にある
気分転換にいろいろな場所で食事したりコーヒー飲んだりするのがいい
場所を変えると気分も変わるからである



タグ:初燕

2019年03月26日

原発事故でも天の時、地の利、人の和が関係していた (避難して失われた時間はもどってこない)


原発事故でも天の時、地の利、人の和が関係していた

(避難して失われた時間はもどってこない)


津浪と原発事故はいろいろな教訓を残した考えさせるものがあった
それを私は探求してきた
今ふりかえると一番の問題は人生でも天の時だと考察した
それも原発事故で起きていたのである

それはどういうことかというと今になりなんで復興できなくなったきか?
その一番の問題が復興する時を失ったということである
原発事故で避難した人たちは最低で5年とかもう8年過ぎてしまった
その間に何が起こったのか?
復興する時間を失ったということである

例えば時間というのは子供時代とか少年時代とか青春時代とかでその時間の価値が違ってくる
母親でも幼児から子供の時一緒に過ごさないと母親を母親としてみないことが普通に起きている
親戚の人は5歳ころまで母親と一緒にいたがその後は別な母親になった
それでその実の母親が年取って私が実の親だとして合わせてくれとかなった
でももう実際はその子供は大人になっていてその子供すら大人になっている年である
だから今さら私が実の母親ですと言ってもそうはならなくなっていたのだ
ただ不幸なのはその母親が認知症になったことである
金をもっていたからその実の娘はただ施設にあづけている保証人になっているだけなのである、それは金が欲しいだけでそうしているのである
つまり自分の母親だという感覚がないのである
つまりその女性は母親であるべき時間を失っていたのである

これと同じようなことが原発事故で起きた
若い世代は子供と一緒に故郷を出て避難して生活をはじめた
すると8年もたつとどうなるのか?
子供時代の8年間を別な土地で暮らしたのである
小学校でも中学校でも高校でも故郷ではない外で暮らした
そういう子供の時故郷で暮らしていないとどうなるのか?
かえってその8年間でも故郷の外で暮らしたのだからそこが故郷だともなる

つまりその時の時間はとりもどせないのである
その子供たちが過ごした時間は故郷の外で暮らしたから故郷と疎遠になる
そうしてもう故郷にはもどってこないとなり復興できなくなった
残されたのは思い出があるから故郷に残った老人がほとんどだとなった
老人だけでは復興はできないのである

だから失われた時間の問題はそれがとりもどせないのである
空間は別に故郷でもある、荒廃しているが故郷はなくなっていない
それで今度は浪江の高瀬川渓谷に行ってみようかなとなる
確かにそこにあった大堀焼の窯元が軒を連ねた場はなくなった
でも高瀬川自体はやはりこの辺では渓谷として景勝の地としてある
空間は失われていないのである
ただそういう故郷であれ場で過ごした時間が失われたのである

そして不思議なのは地の利でも人の和でも関係していた
地の利というとき原発事故から距離に比例して被害の度合いが大きかったのである
原発立地の町の大熊町とか双葉町は8年過ぎても住めない
浪江でも隣でありほとんど人が住んでいないのである
ただ距離に比例し補償金が配分されたのも地の利が関係していた
30キロ以内は手厚い補償金がもらいたからである

そしてまた人の和も関係していたのである
人の和が内部でも家族でも分断されたのである、家族がばらばらになってしまったのである、若い世代は外部に流出して老人だけが故郷に残された
それから補償金でもめて南相馬市では分断された
人の和が壊されるとこれも復興することがむずかしいのである
人の和がもっとも大事だということも言われるからだ
時を失い人の和も失われたのがこの辺なのである
それが深刻なのは失った時間は特にとりもどせないことなのである

それぞれこがすでに別な土地で過ごしている時間が8年とかなりもう十年とかなる
すると十年一昔とかまでなってしまうのである
その人たちは故郷にもどらない、疎遠となり子供たちでも故郷はその土地で時間を費やした場所だともなるからだ
つまり生まれた場所が故郷ではない、そこで育った時間を過ごした所が故郷なのである
また別に血のつながりがなくても実の母親でなくても一緒に過ごした時間があれば家族であり母親だという感覚をもつのである
ただ親戚の人は育ての親すら捨てた異常人格になっていた
それは何か確執があり異常化したから恐ろしいと思った
近づくのも怖いとなって縁は切れた
こういうことは長年一緒に暮らしていても熟年離婚があるからありうる
でもその一緒に過ごした時間が無駄に帰するのはもったいないとなる
なぜならもうその後に一緒に過ごす時間がないからである
他の人と一緒になっても時間が無くなっているから思い出でも作るのはむずかしくなる
失われた時間は取り戻せないことが深刻なのである

いづれにしろなぜ復興できなくなったのか?それは津波の被害地域でも同じようなことが起きている、被害地の故郷から若い世代が流出したからである
それで復興するのに高台を作るのに土地造成するのに時間がかかり待てないとして別の場所に家を建てたり流出したりしたのである
だから時間がいかに影響していたかふりかえるとわかる
それは個々人の人生でも同じだと書いた
時間が失われると取り戻せないことが深刻なのである
別に故郷という地は空間は荒れても残っているが時間は帰ってこない、とりもどせないから復興でもできないとなったのである   

 天の時 地の利 人の和 (天の時が一番大事だとも思う所以)

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天の時 地の利 人の和 (天の時が一番大事だとも思う所以)


天の時 地の利 人の和

(天の時が一番大事だとも思う所以)

1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 
4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、 
5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 
6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 

聖書の言葉


天の時 地の利 人の和はどこでも働く、季節があるとしてその季節にかなったとものとして種を植えそれを育つのを待つ、その時期が問題なのである
種蒔桜があるとして桜の時期に種をまくとか時節にかなって農業がある
そして実りの時を待たねばならない、実りの時もある
実りを急がすことはできないのである、そうすれば失敗する

天の時というときそれは本当にあらゆる所に人にあてはまるのである
天の時というときその時代があり時代が実はその人の力量に関係なく決める
どんなに才能があっても天才でも時代に恵まれなければ変人で終わる
平賀源内などがそうである、また凡才でも時代に恵まれれば英雄にもなる
吉田松陰などでも志士と言われた人たちもあのように若くて英雄になれたのはただ時代がそうさせたのである
それは江戸時代のような平和な時期にはそうした人が生まれないからである

ただそれは何か歴史的な大きなものでも個々の人生に常に起きている
天の時というときそれは何なのか?
少年時代があり青春時代があり壮年時代があり老年時代がある
そこに人の出会いがありいろいろなことを経験する
ところがこの出会いに一番天の時が関係しているのだ
恋愛であれこれも時節がありそれを逃すと2度とできなくなる
つまり誰と会い恋愛するとか結婚するとかではない
そういう時節がありその時節を逃すとそういう機会はは二度とめぐってこないのである
それはその人の時が時節が決めているのであり人が決めているともならないのである
男女ともそういう時節がありその時を逃すと二度とそういう時はめぐってこないのである
地の利も大事だが天の時もつくづく大事である、だから天の時の方が地の利より大事かもしれない、そして時代は常に変わってゆくからだ

私の家は最初は子供相手の小さな駄菓子屋のようなものだった
でもその時は時代が高度成長に向かって進んでいる時代だったのである
物が置けば売れたのである、別に商才があるとかではない、その時は日本では小さな事業主でも店屋でも成功する確率が高かったのである
つまり天の時があったとなる、その小さな店をするのに資金が必要だったがそれも50万だったか5万だったかわずかな金だったが工面するのに苦労したというだけである
その店で別に商才とか商売に向いていたか成功したのではないのである
ただ地の利があったことは確かである
小さな町でも角にあり地の利があった、人が集まり安い場にあったのである
今でも人が集まり安い場所だと売る物が中味はどうあれ売れることがあるからだ
だから経営でも天の時と地の利と人の和が常に影響しているのである

つくづく人生は時をチャンスを逃したら二度ともどってこない
天の時を逃したら二度とチャンスはもどってこない、何回もチャンスは来ないのである
人生は長いから何度も挑戦するチャンスがあるとはならないのである
求道でも若い時を逃すとできない、老人の宗教は慰めとか別なのである
だから青春時代は大事だとなる、そこで人間の基礎が作られるからである
その時放蕩していたりしたら決して老年になって実りとはならないのである

ただ実りというときこれも人生で急ぐと失敗する、どんな人にも実り時がかならやってくる、それは現代では人生百年という時遅くなるのである
大器晩成というのではなく実りは凡人にでもその時になれば実りの時がくる
それは学問でも芸術でも他の仕事でもそうである
たゆまず精進していれば実りの時が来る
でもその時を急がすことはできないのである、何か私は本を読んでもわからなかった
ただ本を買っただけだとなる、でも今はその本の内容を即座に理解して自分なりに消化できる、これも不思議だと思う
理解できないものが理解できるようになるのはやはり老人になってからだとなる
深い読みができるのは老人だとなる

とにかく人間は時代の子なのである、その時代から脱して生きることはできないのであるだから天の時こそ一番大事だともなる、天の時とはやはり季節とも関係しているからだ
春夏秋冬で第一心でも体も変わるからである
そして天の時の最も大事だという時、その時が時代を生きる時でも個々人でも二度と逃すと戻ってこないということなのである
それが老人になると必ず後悔となり否応なくつきつけられるのである
人生は二度ないということもそうである、そこが天の時が最も大事な所以なのである

学問にしても何か身につけるにしてもそうなのである
若い時から職人として修行したりまた勉強でも留学するのは若い時がいいし海外旅行でもそうである、若い時に見聞を広めた方がいいとなる
またそういう時代に恵まれないとできないこともある
今ならそんなに金がなくても海外旅行でも留学さえできるからだ
だから中国人の高校生が日本人と同じようにしゃべれるということに驚いた
中学から4年くらい日本で暮らしていたからそうなった
若い時は柔軟性があり適応力があるからそうなった
でも語学でも30以上とかになると覚えられなくなるのだ
だからこれも時が大事だとなる 

また時というとき人の出会いでもその人がどういう時にあるのかが問題になる
もしその人が健康で金にも余裕があるというとき困ったら頼めば助けられることがある
でもその人が健康を害していたり金に余裕がない、時間にも余裕がないとなればいくら自分が苦しいから助けてくれと頼んでできない相談なのである
でも私の経験では私が健康的にも介護とかで一番苦しい時、事業に失敗した人が来たり金銭に困る人がづけづけと頼みに来たりまた弱者と化した時、恐喝まがいのことをされたりした、大金を盗まれたりもした
それは確かに弱者化したからそうされやすい時だが自分自身にとっては家族と自分自身の体のことで精一杯なのだから他人の相談にのるとか助けることなどできないのである
今は体にも家族の介護もしていないから余裕ができたから助けることができる
でもそういう時に来たら自分自身が困っているのだから助けてもらいたいのに逆に弱者と化したことをいいことに苦しめられただけだったのである
つまりその人がどいう時なのか?状態なのかで接することが必要なのである
でもそんなことを全く考慮しない、その人も助ける余裕がないからそうなっていたのであるもし余裕ある時だったらこうはならなかったのである

いづれにしろ人間にとって人生でもその時が一番大事なのである
もし人生が永遠につづくならいい、それが余りにも短いからその時が大事になる

老人になって何をみんな後悔しているのか?

なすべき時を逃した!

これなのである、なぜならその時が永遠に戻ってこないからである、やり直すこともできないからである、そのことが否応なく気づかされるのである
そして人生は百年時代でも短いのである
だからこそ時の方が大事だとなるのだ

2019年03月25日

津波が残した教訓 (車が障害物となったのはなぜ?)


津波が残した教訓

(車が障害物となったのはなぜ?)

津浪は早く来るから地震が来たら早く逃げないと助からない、時間の余裕がないのだ
それで山元町の中の浜小学校では地震がきて即座に屋上にみんな避難して助かった
その時校長がとっさに判断したのである
10分後に津波が来たからである、3階まであるとしても3階まで津波が来たのだから助からなかった、屋上に逃げて全員助かったのである
それも危機一発だったのである

そう判断したのはすぐ近くが海であり海が見えるからそうしたともなる
そこに危機感があったともなる
ただ人間即座に判断することはむずかしい
だからこそこれだけの被害があったのである

津波には津波でんでことかとにかくそれぞれがばらばらになっていち早く高台に逃げろというのが教訓になっていた
それは車のない時代だったのである                                   
車社会になったときまた対応が違ったものとなっていた
車だと日ごろ乗っているからそして早いから津波から逃げるのにはいいと思うだろう
でも意外と車というものがどういうものか知らなかったのである

車を見ているとどういうものか日ごろ知る人は少ない考える人も少ない
車の性質を乗っている人がわからないのである
車を見ていると一台一台でありその一台一台が個々人で二三人とかのって走る
車というのは個体なのである、私的個人として占有しているものなのである
車を運転するとき人間は自由を感じる、自分自身が思いのままに操作して運転して自由になる、それが車だという、そこに現代の車の魅力があるという
人間は組織の中で縛られて生きているから余計にそうなるという

例えば鉄道と比べると鉄道は決まったレールの上を忠実に走っている、横路にそれたりすることができないのである
そして電車は一つの車でありその車を運転するのは運転手ではないのである
つまりそこに乗客の自由はない、ただ運転手がいてそれに乗せられるままに決まった所に運んでもらうというだけである
鉄道には意外と自由がないのである

でも津波の時新地では車掌が誘導して全員助かった、そして津波で駅も車両ものみこまれたのである
そうして助かったのは電車は自分で勝手に運転できない、それは鉄道会社が乗客の安全を計り運転している、だから常にレールの安全とか電気系統の安全点検を怠らないのであるそして安全の責任は鉄道会社にある
すると津波の時も安全を計ったというときそこに乗っている人たちではない
津浪だからと勝手に行動しない、車掌の誘導でみんな整然と避難したとなる
山元町の中浜小学校でもそうである、校長が安全を計り全員を避難させたのである

一方で津波との教訓としては津波でんでこというときとにかくてんでんばらばらでもいいからいち早く高台に逃げろということが言われた
そいうことで石巻の大川小学校では一部の生徒が勝手に裏山に避難して間一髪で助かったのである、そしてすぐに避難しないでいた人たちは津波に飲まれたのである
最も津波でも危険な河岸に誘導したりしていた
そして生徒も先生も死んだのである
これは山元町の中浜小学校と対象的になった
もし中浜小学校のように校長がすぐに高い裏山に全員を避難させていたら助かったからである
ただ津波にはいろいろな場面があり違っている、だから一様に考えるわけにはいかない

そして車というのが意外と障害物となったのはなぜなのか?
それは津波でんでこというときそれは個々人が早く歩いてでも走ってでも高台に避難しろということだった、そうして小学生でも助かった人たちがいた
でも津波で車の場合渋滞になって動けなくなり車ごと津波に飲まれて死んだ人も多いのである
それは何を意味しているのか?  

それは車というものがどういうものか日ごろ考えていないしこうした災害のときどうなるかも考えていない、むしろ津波でんでこなら車一台だけでもそれぞれが勝手に運転していち早く高台に逃げれば助かるとなる
それがうまくいかなかったのはなぜなのか?
車は一台一台が面積をとる、百人が車に乗るとして百台が連なることになる
そこで渋滞になる、電車だったら百人のっていても車両としては面積をとらないのであるまたそこで人間がまとまって集中して乗っり合わせているからその人たちを全員うまく誘導すれば助かったとなる
ただうまく誘導しなければ全員死ぬということもあった

とにかく車というのは運転手が自由に操作してどこにでも行けるということで現代人が最も車に乗ると組織で頭をおさえつけられることなく自由を感じるというのはそうかもしれない、現代では人間はなんでも操作されていと感じるからだという、私の場合は運転もしていないのだからその辺の実感がないのでわからない
自転車だってやはりどこにでも運転して行けるとなるからにているからだ
車の場合はどうしてもマイカーになる、私的なものとして自由にできるとなる
でも津波とか災害の場合はそれが渋滞となり車ごと津波に飲まれて死んだ
車だともうそれを誰かが統制したり命令できないものとなっていた

その最大の問題が個々ばらばらであり一台一台が運転手の自由になっていたからだともなる、車というのはそれだけ私的な自由を空間でも主張する道具だったとなる
車は確かに道路の上も猛スピードで走ってくる
それは個々人が私的に所有するものであり交通ルールはあってもそこにいるのは個々人であり個人の自由のままに走る
だから時々横断する自転車は目障りな存在であり危険だからどなりつけられる
つまり自転車は車の運転手にとっては邪魔なのものなのである
歩行者だってそうである、それが車社会なのである
その車社会が裏目に出たのが津波の渋滞による死者だったのである
電車にのって津波の被害にあった人はほとんど聞いていないからだ

それから車の問題はガソリンがこの辺では原発事故で入らなくなり長い行列ができた
ガソリンがないと車は何の役にもたたないのである
それで私は相馬市でスーパーを開いた時、自転車で買い物に行ったのである
その時車はガソリンがないのだから役に立たないのである
そのガソリンを運んだのは鉄道だったのである
それも遠回りして貨車で運んだのである
車の弱点はガソリンが入らなければ何の役にもたたなくなる
ただでは鉄道はどうかとなればこれも短所と長所があるから車が全部悪いとはならない
ただ何か便利なものが凶器にもなる、日常的に使っているものが凶器になる
それが戦争でもそうだが災害でも起きてくるということになる
そして人間は便利なものでもそれがえって命取りになる

それは車だけではない,例えば電気がなくなったら水道がなくなったらどうなるのか?
現実にその時裏山の清水を飲み裏山の木を切って燃料にして米を炊くとした人がいて助かった、だから何か災害があったときガソリンでも水でも電気でもガスでもなくなればお手上げになるのである
放射性物質お汚染で水も飲めないとかなったらもう裏山の清水すら利用できない状態になった、そうなるともう避難する他なくなっていたのである
文明化した便利なものにはそうした危険がつきまとっているけどそれを深く意識したり考えたりしないのである 

だから東京とかで直下型地震とか何か大災害があったら大被害になる
もうそこからいち早く脱出しないと生き延びることができなくなる
しかしその時頼りになる車では脱出できない
なぜなら道が破壊されるしガソリンだって供給されないからである
その時今度ははじめて首都移転とか地方に分散して住むとかを真剣に考えるようになる
でも人間はそうならない限り危機感がないからそこに住んでいるのである
やはり津波であれ災害は必ず教訓を残す、でも人間はまた歳月が過ぎると忘れる
そして問題は何が幸いするのかしないのかわからないのである
車はむしろ早いのだから津浪から早く逃げられると思っていたからである
それが思わぬ渋滞になり死んだのである
それは他のことでも同じ事がおこるのである、それはそうなってみないとわからないからそうなるのである、今回の津波ではそれが示されたということである
posted by 老鶯 at 21:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

春の日に原町まで自転車で(俳句十句)


春の日に原町まで自転車で(俳句十句)

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新しい高台に墓地ができる
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黄色のはマンサクてはなく蠟梅だったろう

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これは紅梅ではなく桜だろう
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坂越えて隣の市へ春の雲

公園に子供遊ぶや草萌える

東風(こち)吹きて浜街道を旅行かむ

さえづりや春街道の細き道

春の丘新しき視界開きけり

春の日や黄金神社を見つけけり

風そよぎ伸びゆく竹や蕗の薹

広き野や鳴きあいやまぬ夕雲雀

若草や電車の音のひびくかな

近くにそ夕べに濃くも梅にほふ  

風そよぎ流るる水に春の日の反射し光り芽吹きけるかな


原町まで天気がいいので行った、石神の方をぐるっとまわってきた
東風が吹くと春らしい、それは浜街道にふさわしいのである
さえづりもひびき何かまた旅したくなった
相当に10年とか旅していないからだ
今度の電動自転車だと何かスイスイ行けるから気持ちいいのである
前だとこうはならない、やはり機械の影響もつくづく大きい
それで車に乗った人はもう手放すことができなくなる気持ちがわかる

途中に黄金神社が山の中にあった、これは金華山神社だろう
この神社を他にも見たからである
これは比較的新しい、明治以降のもあるからだ

それから石神の方に出たが石神は広いと思う、もともと原町は広い地域である
新しく高台が造成されたのは雲雀が原の近くでそこは墓地だった
相当に広い墓地であり区画して市で売りに出している
おそらく津波の被害で墓を失った人が新しい墓を建てているとも言う
でも津波の被害地でも萱浜でもそうだし海老村でもそうだし烏崎村でもそうだし新地とかでも不思議に墓地だけ残っている不思議があるのだ
それでそこに今も墓参りしているのであるただ流された墓地もあるからどうなのかわからない
墓地は江戸時代の墓があると興味があるが新しい墓には私は興味がない

それから石神のどこなのか?イオンの近くである
これは桜であり梅ではない、それから万作である、なんとも春らしい
梅はこんなふうには咲かないだろう

それから新田川の高松の方に行く所で電車の写真をとった
若草が生えて春らしいとなる、電車はまず待ち構えてとらないといい写真はとれない
大きなカメラだと即座にとるのはむずかしい
だからここが写真をとるにいい場所だとして狙ってとらないといい写真はとれない
でもそうなると自転車ではむずかしいのである
なぜ撮り鉄がいるのかとなるとそれは電車は景色にとけこむのである
車は景色に溶け込まないのである
電車は絵になるのである、それで電車が走らない地域は何か淋しくなるのである

鉄道の効用は歴史が長いのとそこでただ人を乗せるだけではない、人間の生活と景色と一体化している
それで四季の中に鉄道は電車は映える、それで採算がとれないローカル線でも残してほしいというのは何か乗り物としてだけ見ていない、一つのあるべき日常の景色とっなっているからそうなる
だから鉄道がなくなると一段とさびれた地域に見えてしまうのである

とにかく今日は春らしい一日だった、どうしても春になるとぶらぶらしたくなる
そのポタリングでもサイクリングでもこの電動自転車は快適なのである
だからもっと遠くへ行きたいとなったのである
旅もまたできるのかと動いているうちに思った
山元町までは相当に遠かったがそれでも何かまだ行けるなと感じたからである
それだけ乗りやすいのである、だからこの自転車だけは今まで買った自転車で最もいいものだった、やはり楽に走れるからいいのである
今までのどうしても疲れる、そういう走りしかできなかったのである
それで自ずと行動範囲が広がったのである






2019年03月24日

人間の生業から作られていた景観 (それを津波が破壊したのはなぜなのか?)


人間の生業から作られていた景観

(それを津波が破壊したのはなぜなのか?)


松原遠く消ゆるところ
白帆(しらほ)の影は浮かぶ
干網(ほしあみ)浜に高くして
かもめは低く波に飛ぶ

この歌にしても松原とか白帆の船とか干網(ほしあみ)とかは人間の生業から生まれていた、純粋な原始の自然ではないのである
松原は田を海側に干拓して作るようになりその塩害を防ぐために日本の海岸に松が植えられた、それは人工林だったし田んぼも人間の手によって作られた人工のものである

その人工林が故に松は津波で根こそぎ流された、松は根が強く張らないので津波には弱かったのである、そもそも土地だって砂地なのだから根を土のように強く張れないことがある、それで根こそぎ津波で流された光景はショックだった

もし海岸に松だけではない自然林だったら強く根を張る混成林が形成されていた
自然の林でも森でももともと一種類の木で構成されている所はないのである
人工化することは単一化することなのである
杉林でもそうである、それは木材として利用するために単一化するのである

ブナの木は非常に重く川を流して搬出することが困難なことから、商取引には向かない資材だった[5]。その上、腐りやすい、加工後に曲がって狂いやすいという性質があり、20世紀の後半まで用材としては好まれなかったが、薪のほか、下等品のための需要はあった

橅(ぶな)は無用の木という字があてられた、本当は自然には無駄なものがない、荘子の無用の木のように自然から見れば無駄ではない、でも人間は常に効用から見るから無駄だとなる

松原を自然の景観のように見ていた、それが違っていたことを津波は示したのである
それは人間が作った景観でありでも自然の景観に見えたのである

だから人間というのは必ず自然に逆らうものとしてある
農業自体が実際は大規模な自然破壊になる
焼畑農業が最初の農業になったのは肥料を作るために森を焼き払い灰を作り出したからである
ともかく農業は肥料をどうするかというのが最大の問題だったからである
まず自然状態では野菜でも果物でも大きなものはとれないからである
人間の宿命は自然を破壊しなければ生きていけないのである
もし人間がいなければ大規模な自然破壊は起きないからそれは原始の自然でありそこに荘厳な美がそのまま維持されていたのである

津浪で驚いたのは田になる前の自然状態が再現されたことなのである、縄文海進が再現された、縄文時代の海が再現されたことなのである
海を干拓して田にして塩害を防ぐために防風林として松原を作ったがそれが津波で根こそぎ流されて元の原始状態の海にもどったのである

そもそも松原ができたのと漁業のためではない、農業のためである、稲作で田を作るために人工的に作られたのである
つまり農業の拡大のために松原が作られたのであり漁業関係者にとって松原は別に必要ないものだったのである

文明は人間の技である、その技(わざ)は災い(わざわい)をもたらす宿命にありそれで文明は最後は滅びる運命にある、人間の業(カルマ)だとなる
職業自体が業(カルマ)だというときそうである
人間にはいろいろな職業があるとして必ずそれがいいものとして働くわけではない、何か必ず悪いものとして働くことがある
それはあらゆる職業に言えるのである
別に農業などは悪いものでなくてもそこにも業(カルマ)がある
人間は悪いと思っても食べるために職業をやめるわけにはいかない、それでインドでは仕事をしないことがカルマから脱する道だとなったのかもしれないのである

津波が人間に示したことは何なのか?
なんでこんな非情なことを自然はするのか?
それで天を神を呪った人もいることがわかる
ただそれは人間の業としてカルマとして必然的にそうなったともみる
例えば仙台の若林地区などは仙台市街から住宅地が拡大して無理があった、そこで不動産屋が学者が津波が来るとか警告したとき怒っていたという、地価が下がるからだという
現実に阿武隈川をはさんで岩沼になると一千万地価が高くなるという、それだけの差があったのである

都市化も文明化の拡大であり海側に無防備に住宅地を広げた
それで不思議なのは遠見塚古墳と波分神社があったけどそこまでは津波は来なかった
それも何か人間は自然に逆らって無防備に米を作るために海側を開拓したからだとなる
でもそれは人間の業(カルマ)でありどうにもならないという面があったのだ
人間の業(カルマ)はとめることができない、それで文明も必然的に滅びてゆくとなる
そういうことを津波は人間に示したのかもしれない
それだけ自然の力は人間の技よりはるかにしのぐ想像を絶する強大なものだったのである

つまり今回の津波よりさらに大きな津波が来ないとも限らない
一千年とか二千年とかの単位で見ればそうした巨大な津波が起きているからである
人間の時間単位はあまりにも短すぎるからである
だから人間は自然でも宇宙でも計ることはできない
逆に計られている存在なのである、その小ささを意識すべきだがそれができない、科学技術でもそうである
その力を過信して逆に原発事故のように想定外のことが起きて取り返しのつかないことになった
それはやはり神の力に人間の力が砕かれたとなるのである
科学技術によって人間は神のようになると信仰にもなっているがそれがもろくも砕かれたのである


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遠見塚古墳があり波分神社まで津波は来なかった
海岸深くもともと海が入り込んでいたのである
ただ高速道路が壁となり津波をさえぎったのである
だから高速道路などが津波には効果的だったとなる

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a train go


a train go


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電車がいろいろな風景の中を行く
それは決まったソフトの機能で作られる
そこにはなんら創造的なものがない
ただ機械的作業でできるのである
それはソフトウェア―が AIが作りそれを選んでいると同じである

結果的に写真や絵のビッグデーターがありそれを変化させることによりできる
だから創造するというものではないから変化させるだけだから無限に抽象画できるともなる、頭の中にイメージとして浮かぶのではない
ただ機械がコンピュターのAIが作り出しているからである


The train goes in various landscapes
It is made with fixed software functions
There is nothing creative there
It can only be done by mechanical work
It's the same as software makes and chooses AI

As a result, there is big data of photograph and picture and it can be done by changing it
So it's not something to create, so just changing it makes it possible to abstract infinitely, not as an image in your brain
Just because the machine is AI of computer
タグ:train go

2019年03月23日

慶長奥州地震と相馬中村藩の復興(岡田清一)を読む (石高の極端な変化が数字で示された有力な証拠となる?)


慶長奥州地震と相馬中村藩の復興(岡田清一)を読む   
(石高の極端な変化が数字で示された有力な証拠となる?)


この題名でインタ−ネットでPDFて論文が出ます

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慶長津波の有力な証拠となるとこれだったのか?
宇多郷がなぜこれほど甚大な被害だたのか?
これは石高だから米の被害である
すると宇多郷では今の相馬市ではそれだけの収穫量があったのか?

なぜなら海側だと田は少なくなる、ただ海側に向かって開拓されていたのか?
新田は松川浦に近く開拓された場であり元禄の碑があった
でも元禄時代に広く日本では開拓開墾されて田が増えて米の収穫量も増えた
元禄時代は芭蕉が活躍した時代であった
華やかな時代になった

でもその前となると元和が1620年で終わり元禄時代は1688年にはじまる
その間に60年以上の年月の差がある
ただ慶長時代からすでに開拓開墾は行われていた
でも不思議なのは津波の被害となるのは海側である
つまり海側はそれほど収穫高が高いとも思えないのである
それでも開拓されれば田の面積は広くなるのである

例えば八沢浦とか明治になって開拓されたし小高の井田川浦は大正になって開拓された
そういうふうに海側が開拓されるのには時間がかかっていたのである
北郷が南相馬市の鹿島区が被害が少なかったのか?
それは海側にまだ田が広がらない、開拓されていなかったからなのかとなる
現実に右田となるとそこは人は住んでいなかった、港でもなかった
ただ海老村には弥生時代から人が人が住んでいた
そこは高台になっていたからである
でも今回の津波では壊滅的被害を受けた
そこには港の機能があり漁業もしていたことはわかっている

わからないのは宇多郷の今の相馬市とか松川浦の被害がなぜこれだけ多いのか?
そんなに田があり米が収穫されていたのか?
ただ宇多郷は磯部なども入っていてすでに佐藤氏が支配していて港機能もあった
そして慶長津波の前に波に浸食されたとかで鬼越館に移った
その手前の日下石まで津波は来たのである
そして本当に磯部は村ごと今回の津浪で消滅したのである
つまり田の面積が広いということは相馬氏が支配する前からすでに開拓されて広かったともなる
それと宇多郷は今の相馬市地域は伊達藩の領域となっていた
だから伊達藩のときから開拓されて田の面積が広がっていたともみる
伊達藩の方が相馬藩より古く地力があり技術的にも進んでいたからである
そうでなければなぜ宇多郷だけこんなに石高が減っているのか解せないのである

そして中の郷も南相馬市の原町区の被害も大きい、でもこれもそんなに海側に田が作られていたのか?萱浜(かいはま)などは低湿地帯であり越中などの移民が入って開拓したとあるからその時に田にはなっていないはずである
ただ北泉とか高いと見ていても被害が大きかったからその影響なのか?
それも良くわからない

小高についてはこれも鎌倉時代辺りに今の城のある鉄道の通っている前まで海であり港の機能があったことは知られているし地名でも残っている
それもまた田ではないのだからそれほどの被害があったとは思えない
ただこの数字はやはり被害としては妥当なのかともなる

つまり慶長津波があった時代の田がどの辺まであったのかという研究が必要になる
この数字はやはり有力な証拠になるからだ
この数字からはすでに広く海側に開拓がすすんでいたのだということになる
でも資料があまりにも少ないということで実証できないということは確かである
それで現実に慶長津波が本当にあったのかどうか確証がもてないのである

そしてこの表で最も注意すべきは

宇多郷で慶長津波があったとしてそのあとの元和で6パーセントの石高になったのに
その後の寛永(1639)で二倍にもなっている

北郷では南相馬市の鹿島区では5倍ちかくになっている  

他は津波前の現状回復になっている

つまり北郷では南相馬市鹿島区では慶長津波があったとしてそれほど被害がなかった、そしてその後に飛躍的海側の開拓が進んで石高が5倍近くになっているのだ、それだけ右田などとか大内辺りとか海側に開拓がすすんだとなる
ただ海側だけではない、山側でも開墾されて田が増えたのである
ただ津波があったとして影響を考えると海側への開拓が進んだ結果として石高が増大したとなる

それで小高から相馬氏の城を今の相馬氏の中村へ移転したというのも何か津波と関係していて宇多郷の石高が倍以上に増大したのかもしれない、それで復興のために移転した説が生まれたのかもしれない
城が移転したということは行政の中心が移転したとなるから力が入るからである
ともかくの資料はかなり津波の証拠の資料となるかもしれない
ただその他に資料となるのものがあまりもに少ないから不確定要素が大きすぎるから未だに証明できないのである

ただ今回の津波は相馬藩だけではない伊達藩のことについてもかなり知る必要がある
相馬藩の歴史は伊達と敵対したとしても一体化していることもあるからだ
それは山元町に今回自転車で行って回りわかったのである
古代でも浜通りと相馬藩内の延長としての歴史が記されていたからである

またわからないのはボーリング調査でも不思議に800年代の貞観津波の砂は出てくる
松川浦の奥でボーリング調査したのは今回の津波の7年前でありそこでも出てきた砂は
貞観津波のものだったのである、それから山元町のボーリング調査では弥生時代の津波の砂がでてきた
不思議に慶長津波の砂はボーリング調査ではでてこない
これはなぜだろうともなる、まだ調べ方が足りないからだとなるのか謎である

いづれにしろ私自身も今回の津波を追求しても資料がないということで調べようもないのである
ただここでの石高のこれだけの変化があるということはやはり大きな証拠になる
これはやはり津波の影響だったしか思えないのである

ただ相馬藩政記には生波で700人溺死と二行しか記されていない
その他一切記されていなのはなぜか?
そして戦国時代でありその戦いのことは事細かに記されていた跡継ぎ問題とかも記されている、そして江戸幕府が開設されたとして時代は戦国時代であり政治は安定していなかったのである
相馬藩でも相馬氏が支配したとしても安定していない、いつ反撃があるからわからない時代だったのである、そういう政治状況も影響していて津波のことは詳しく記されなかったとなる
でも依然としてなぜこれだけの被害があったのに資料も残らない、語られないということは謎として残るのである

posted by 老鶯 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

原発事故の原因として全体を見れない社会があった (ただ個々人の利益追求と私的権利の追求になった)


原発事故の原因として全体を見れない社会があった

(ただ個々人の利益追求と私的権利の追求になった)


原発事故で起きたことは何なのか?その原因は何なのか?
それは複合的だからそれを解決することは簡単にできない
様々な現代社会の矛盾もそこに現れたからである

現代社会の特徴は何か?それは全体を見れない社会、全体を把握できない社会である
無数のパーツになって社会を構成している、その全体を見れる人は理解する人は一人もいない、そんな人はスーパーマンしかいないのだろう
だから原発でもその全部を知る人などいなかったのである

第一吉田所長が復水器のことを知らなかったのである
それは一番所長ともなればわからなければしもそも所長になれない
トップになれないはずである、でも私は資材の専門であり専門でないからわからないといっていた
他の会社でも私は…専門であり私には会社のことでもその分野はわからないとか社長が言っていた
それは今の社会でどこでも起きていることである

原発でもそうして巨大な複雑化したものでありそれを全部知る人は誰もいない
その時何が起きるのか?
今回の事故のようになったときもう手をつけることもできない
メルトダウンして全体が崩壊してしまうことになる
それはあまりにも巨大であり複雑だからである

そういうことは別に原発だけではない、あらゆるところに起きている
医療関係でも体でも体の一部分の専門家がいる、医者がいる、でも体全体を診れる人は一人もいないのである
でも人間は死ぬとき必ず合併症で死ぬのである、一つの臓器がだめになりそれから他の臓器も悪くなり死に至る、それは人間の体ももともと一つのものとして機能しているからそうなる、でも全体を見れる人は一人もいないのである

そうして現代では江戸時代から明治に変わる時、私的所有権とか私的権利とかを過剰に認めた、結果的に山でも無数に分割されて全体として管理できなくなった
いちいち土地の所有者を確定して管理しなければならないからである
それは他でも津波の後に土地を利用するにも遠くに住んでいたり細分化されて土地の所有者すらわからないとして利用できないのである

それは村が山を共同で入会権として利用していた時代とまるで違った社会になったのである、そういう弊害はいろいろな歪みとして現れたのである
原発事故後の補償金問題でもそうである
みんな個々人が金をもらい個々人が勝手にその金を使い個々人が復興すればいいとなっていたからである
江戸時代なら村全体という志向がある、まず村全体をどうしようかとなる
それは村が一つの自然共同体になっていたからである
個々人だけでは生きられない社会だったからである
入会権でもそこでみんな燃料となる薪でも分け合うということをしなければ生きていけないからである、そこに共同が自ずと生まれていた
全体があって個々人がありえたのである
それはまた自然の生態系に依存していたから小さな村で自給自足していたからそうなったともなる

なぜ原発事故で村でも町でもコミニュティが簡単に崩壊したのか?
それは放射性物質の汚染でそこに住めないからしかたがないとなる
でもそれだけではなく現代社会のコミニュティの脆弱性がありそうなったともみれる
資本主義社会とグローバル社会とかも深く影響している

人は自分自身の安全と利益だけを求めようとする。人が全く意図していなかった目的を達成させようとする見えざる手によって導かれた結果なのである

見えざる手で利己心がかえって社会全体の富をふやしてゆくというアダムスミスの考え方である
つまり利己心は資本主義では奨励されているし競争でも奨励されている

でもそうなると全体というのはコミニュティとかは本当に見えざる手で維持できるのか?それがこの辺で起きた問題である
補償金をもらって個々人で復興すればいい、市町村のことなどどうでもいい、別に金さえあればどこにでも住める、こうして簡単に村でも町でも崩壊したとなる

そもそも日ごろ人間は協力していなければ共同していなければ何か事があったとき協力するだろうか?江戸時代のような村であれば個々人の勝手は許されない社会である
その負の部分は自由がないということである
でも明治以降は自由を与えられてもそれは私的利益と権利の追求になった
個々人が良ければいいのではあり他人は個々人の利益のために犠牲になってもいい蹴落としてもいいという社会になった
そこで全体の志向は失われたのである、だから小高の農家の人は山元町で津波の被害地を安く買って農業をはじめたとなることでもそうである
小高では放射能被害で農業をできないから補償金で山元町の土地を買ってするとなった
肝心の小高では農業をする人もいなくなり老人ばかり残されたのである
何か事あれば今のコミニュティは簡単に崩壊する実例を作ったともなる

十津川部落では政府から援助金をもらったけどそれは村全体のためにもらったのであり
村全体が一致して北海道に移住したのである、それは個々人が勝手にできる金ではなかったのである
だから現代社会には全体という志向がない、個々人の利益と権利の追求がかえって奨励されているのだから今回のようなことがあってもまず個々人の利益や権利が優先される
そして回りでは同じようにいい暮らしをしているとなれば誰も崩壊した村や町に住まないとなるし復興もできないともなる
もちろん原発事故がそうしうたのだともなるが何かそれだけではない現代社会の歪がそうしたのだということもあると思った
現代社会は全体が見えないからいざこのような大事故が起きると市町村自体でも簡単に解体してしまう、全体をどうしようかとか働かないからである

まず自分が自分の家族をどうしよう

これが優先されるのである、ただ不思議なのは戦前だと国家の方がこうした個々人の利益や権利より優先された、それで国家のために3百万人が死んで犠牲になったのである
戦後はそうした国家すらない、ただ個々人の利益と権利のみが過剰に追求されてきたのである、原発事故ではそうした現代社会の矛盾とか脆弱性が露骨に現れたとも見れるのである
posted by 老鶯 at 09:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連