2023年10月29日

NHKの放送-絹江さんと春江さん 浪江町津島をあきらめない 【地理がわからないと何でも実感できないー津島の岩の墓】


NHKの放送-絹江さんと春江さん 浪江町津島をあきらめない

【地理がわからないと何でも実感できないー津島の岩の墓】

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津島にあった岩の墓

●隔絶した孤島のような地域

人間は地理が実感としてわからないからそもそもがその土地について理解し得ないのである。一応地図を見る。でも浪江津島となると街から本当に相当に離れている辺鄙な場所である。私がそこでそこに自転車で浪江からも飯館村からも行っている。どっちにしろその距離が相当にあった。むしろそこは三春に近い場所だったのである。だから私は自転車で行けばその感覚で距離を見る。その津島から三春へさらに葛尾村へと通じている。
津島が1400人いたという、村の人口としては一応維持できる人口だったのか、そこは隔絶した村である。

不思議なのは津島から通じて隣の葛尾村の柏原村がありそこがどうも私の祖父が出た地域のようである。なぜなら戸籍に江戸時代のものが残っていて祖父の名はあったからである。私の父親は双葉の新山の酒屋に勤めていた。そして暖簾分けこの地域に移ってきたのである。
だから意外と何か津島に因縁を感じたのである。それにしてもそこはなぜ浪江町に属しているのかわかりにくい。むしろ三春藩へ
近い、津島は確かに古い場所であっても開拓に戦後開拓に入ってきた人があった。だから苦労したので村の人の連帯感が強いということを語られていた。相当に辺鄙な所だから人々はどうしても助け合わなければ生きていけないような場所だったからだろう。
だから地元に帰りエゴマを育てることを始めた女性がいた
ところが土地を除染した後に砂を入れたので育たなかった
その土地はもともと地味豊かな土地だったのである。だからそこで農業を復活するのは至難である。愛着ある家も壊されてゆく

●フィリピン人や中国人の嫁が農村地帯に入って来ていた時代

もう一つ印象に残っているのが中国人の嫁がこんなとこにいたくないと鉈で襲ってきた事件であった。確かにあのような辺鄙な所だとは思わなかったのだろう。今にしてみると補償金も額が大きいから街で暮らすに充分になっていた。とても津島となると復興自体が無理に思えるからである。確かに中国人の嫁も驚く山中でありそれでその嫁は都会で暮らしたいとして夫を襲ったのである。
この外国人の嫁というのはフィリピン人も多い。相馬市の玉野村で牛を飼っていた人が原発事故で自殺して死んだ。その嫁もまたフィリピン人だったのである。飯館村の大倉村を越えたところの木戸木【ことぎ】もやはりフィリピン人なのか外国人の嫁がいたのである。一時農村の嫁不足でそういう外国人の嫁が結構入ってきた時代があった。だからこんなところにもフィリピン人の妻がいたのかとなる。でもすでに40過ぎている。

とにかく人間社会というのは先が見通せない。福島の原発事故被害は大きかったがもし中国人の嫁がその時そこに住んでいたら大歓迎だとなっていたのである。その嫁のことをどうなったかはあとはは報告はない。もしかしたら補償金をもらって街に住んでいるのかもしれない。
現実問題としてそうした辺鄙な山の村は限界集落化している。だから維持すること自体もすでに難しくなっていたのである。それが原発事故となり消滅してゆくようにも思える。ただ補償金は特別多いからそれで困ることはないかもしれない。

●老人は住み慣れた地域を離れたくない

ただ老人は長く住み慣れた場所離れたくない愛着があるということはわかる。でもそのような場所でも生活は成り立たないだろう。飯館村の木戸木などもそうである。町の方に移り住んだ人も多いだろう。この辺では小高すら原町に移り住んだ人が多い。小高なら買い物でも車で原町にいける。でも津島となるとあまりにも遠すぎるのである。だから村を維持すること自体が難しくなっていたのである。

何か奇妙なのは津島で印象に残ったのは墓地を見てそこに岩の墓があったのである。それが何か重々しく貫禄あるものに見えた。それはその辺鄙な村でも土着した先祖の墓でありそれがその墓を残して岩の墓を残して語っているとなる昔を語っているとなる。つまりそうした小さな村では墓でも村を支えた人たちの者でありその村にとって重みがあるとなる。それはその土地と密着して土着していたためなのである。つまり村が消滅することは先祖も死ぬということである。それも意外と深刻なことになる。
墓は荒れ果て先祖も捨てられるとなる。そしたらその岩の墓も存在感を失うのである。
posted by 天華 at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年10月28日

カルマは自覚できないことが最大の問題 【でも必ず苦しみとなって現れ自覚させられる】

カルマは自覚できないことが最大の問題

【でも必ず苦しみとなって現れ自覚させられる】

●何も起こらなければカルマは自覚できない

カルマの問題は自覚できないことである。それが盲点になっているのである。何も起きないからさらに自覚できなくなる。でも苦しみとなって表れた時否応なく自覚させられるのである。
今回のガザのイスラエルのテロにしてもそうである。確かに大掛かりな衝突はなくなっていた。これまでにない平和が続いたということを言っていた。中東戦争から50年年大きな衝突はなくなっていたからである。
でも常に小競り合いがあり問題は解決せず先延ばしされただけであった。カルマは消滅したわけではなかった。
カルマの問題は何も起きなければ苦しみもなければ自覚しないのである。でもそうであってもそれは嵐の前の静けさのようなものでもあった。根本的な問題カルマは消滅していないからである。

何か地震のように何も起きていない時間が長くても必ず大きな地震が起きてくる。それは根本的に地殻変動というのは終わることがないからである。それが地球のカルマなのである。
カルマというときだから恵まれた人にもカルマはある。ただ恵まれているから自覚できないのである。でもいつか必ずカルマを自覚させられるのである。それは自分自身の事でもあった。あまりにも恵まれていたことがそれがカルマとなっていたのである

そして2人の親を介護するとき地獄を経験したのである。そういう不安はあったがそれほどの苦しみが与えられるとわ思わなかった。その時自分のカルマを明確に自覚したのである。
カルマは必ず苦しみとなって現れる。でもその最大の問題は自分のカルマが何なのか自覚できないことなのであろ。恵まれていれば別にこれでいいとなってしまうからである。おそらくガザの問題でもイスラエルでもその問題は何も解決していないのに目をつぶってしまっていた。それが突然を爆発したように見えるがそれは必然的だったのである。

要するに不遇な人でも恵まれた人でもそれぞれにカルマを背負っているのである。それが苦しみとなって現れないとカルマを自覚できないのである。でも地震でも津波でも定期的に規則的に襲ってくる。だから備えなければならなかったのである。でもこのカルマとなると分かりにくいし自覚できないのである。

●対人関係でもカルマを負っているが自覚できない

その女性は夫が若い時から病気になりそのために一生苦しんだのである。でも娘は優秀な技術者と結婚して何の問題も起きなかった。でも事業を始めて失敗して同じように夫で苦しむことになったのである。これなどもどうしてそうなったのかとなればやはりその家のカルマとして苦しみが現れたのかもしれない。それは私の家とかなり深く関わっていたから私自身も苦しめられたのである。そもそもその娘にしても自分のカルマが何なのかなど自覚しないのである自覚できないのである。相手が優秀な人ならいいとなるのは当然だからでる
そこにカルマの盲点がありカルマで苦しむことが終わらないのである。

ともかく自分のカルマが自覚できないという時それが最大の問題なのである。恵まれていれば何も起きなければ全くカルマは意識できない。でもいうことがあってもカルマが表面に現れていないというだけであり潜伏しているのである。それが表に必ず苦しみとなって現れてくるのである。

例えば体にしても必ず60過ぎ頃からどこかしら不調になり病気になってくる。それはそれまでは何が起きなくても体というのは老化もするしどうしても病気になりやすくなる。それは体自体が老化して弱ってくるからそうなるのである。ただ若いときはそれが自覚できないのとで似ているのである。人間は潜在的に病気になるようにできているのである。ただ若いうちはそれが表面化しないのである。

人間関係にしてもカルマを負うことがある。人に世話になるということもあある。でも必ずしもそれを自覚しない。良くされて得したということしかないかもしれない。でもその良くしてくれた人が病気になったりして助けてもらいたいとき助けないということもある。それは自分自身はカルマを背負ってるということ自覚しないからである。その親戚というわけでもないが私の家では世話したのである。でもその娘とかはほとんど自覚していない。だから私が家で困った時助けないというのではないが何かよそ事になっていたのである。それは自分自身のカルマのことを自覚できていないからそうなるのである。とはいうもののそうされるのもまた私自身のカルマだったのである

●人類はカルマで罪で最後は滅亡する

カルマの一番の問題はこうして自らのカルマを自覚しないことなのである。だからカルマを解消しようにもできないとなるのである。ただ苦しみのために藁をもつかむ思いでカルト教団などに頼る。そして餌食にされるだけである。そういうカルマは別にカルト教団に入ったからといって解消できない。それを個々人に違っているし政治的にも解決できないことがあるからである。また金銭的にでも解決できないことがある。

でもカルマを解消しようとしてそういう団体に頼る。そしてその団体の勢力拡張に利用されるだけだとなる。そもそもそういう団体は個々人のカルマの解消など関心もないからである。会員一人増やして勢力拡大を目指すだけでありそういう面倒なことにかかわらないのである。それよりそのカルト教団などは巨大なカルマを背負った場所なのである。だからいずれそのカルマが苦しみとなって現れる。分裂したり争いになったり積もり積もった団体のカルマがいずれカルマとなって噴出してくるのである

そもそも人類そのものはこれまでどれだけのカルマを積んできたか。歴史を振り返れば眩暈がしてくるだろう。だから最終的に人類がハルマゲドン戦争で滅亡するとかカルマが積もり積もってそうなるのである。カルマの解消は人類滅亡の最終戦争になってしまう。それほど人間はカルマを積む罪を積んでゆくものだと思う

人間はそもそも罪を犯すにしてもその罪を自覚しないのである。殺人犯でも何か悪いことがしたと反省しているのかとみたらしていない。たまたま運が悪かっただけだと思ってるだけである。カルマが自覚できないように罪も自覚できないのが普通なのである私が何か悪いことをしましたかとなっているのは普通である。みんな善人なのである。てもどこかで苦しみが生じてなんで自分はこんなに苦しむのだとなり初めてカルマであれ罪であれ自覚するのである。


2023年10月27日

夕陽が輝き秋の雷がひびき鳴る


夕陽が輝き秋の雷がひびき鳴る

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秋の雷夕陽輝き響き鳴る

夕方になり急に雷が鳴った、一回で終わるのかと思ったらそれから5,6回鳴った。そして多少雨が降った
この光景も不思議だった。おそらくまだ夏がつづいているのかおもしれない、第一もう秋もおわりだけど冬になるがそういう感覚がないからである。
だから秋がなくなり夏と冬になるというのもわかる。
カメラは常に持ち歩く必要がある、どんなシャッターチャンスがあるかもしれない、それを逃すと後は撮れないからである。
千変万化するからである。
プログは本来こうして毎日の気候変化とかを報告するのに向いている、リアルタイムの報告に向いているのである。
ともかく俳句は写生であり写真と相性がいいのである。

そして今日は田んぼに白鳥が来ていた!

これは季節通りなのか? 早いのか?
冬になることは確かである。

2023年10月26日

【田舎の秋の風景】ー秋薔薇、柿、秋柳など


【田舎の秋の風景】ーダリア、秋薔薇、柿、秋柳など

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相馬市城下町

玄関に大岩一つ秋薔薇
二輪咲く秋薔薇かなこもりけり
川岸にコスモスゆれてブナ跳ねる
秋の暮近くの畑で仕事かな

石の倉多しも農家に柿なりぬ
秋の雷一雷鳴りし余韻かな
秋の蚊の一匹唸り襲いけり
秋の蠅大きく部屋を飛び回る
相馬市の市街の鉄路秋柳

大輪の赤きダリヤを我が活けて黄色も白も共に映えにき
華やかにダリヤその色つくしダリヤ咲く我が部屋に飾り充ちたりぬ
秋の薔薇二輪挿しにき我が家に落ちつきあれや心休まる

秋バラの特徴は濃い色と豊かな香りです。気温が下がっていく時期に咲くため、ゆっくり開花し、花本来の模様や色味が出やすいようです。香りも深くなります。春バラと違い、シックな色合いの花を咲かせます。
秋バラは咲く花の数が少ないため、景色としては寂しく感じてしまうかもしれません。しかし、一輪一輪が美しいので見ごたえは十分です。

私の家の庭に四季バラが咲く。春のバラと秋のバラは違っている。そこまでは見ていなかった。でも秋バラだと春のバラとは違って何かもの寂しくその色合いを心にしみる。だから秋のバラは好きである。つまり秋のバラとは人間から見れば年配の人老人にもふさわしい花だとなる。やはり花でもそこに人間は人生と重ね合わせてみたりするのである。

何か変わり映えしない田舎の風景であるがそれなりに季節感はある。ただ正直今年は季節感が狂った。昨日にしても雲を見たら夏の雲のようであった。だから夏はまだ続いているということにもなる。秋がなくなりなり夏と冬になるというのも分かる。そうなると季語を中心に俳句があるとするときその文芸も成り立ちにくくなる

地震以後気づいたことは石の蔵が多いということであった。この石の蔵は明治以降に作られたものである。まず江戸時代に作られたものはまれである。それは木で作られ土壁で作られていたからである。これだけ石の壁が石の蔵が作られたということは農家がそれだけ裕福になったからかもしれない、蔵に柿が似合うのである

川に魚が跳ねているとみたら鮎と見ていたがそれはボラであった。鮭が昇るの捕らえる網を川に張っている人に漁業関係者に聞いたからである。ボラは大量に群れをなして上ってくることがある。鮭はは去年は200匹捕まえたという。今年はどうなるのか年によってまた違ってくる。

秋の蚊とか秋の蠅とかに苦しめられる。その秋にしてもやはり今年は晩秋という感覚はないまた秋深むという感覚もない。 11月を過ぎれば立冬になるのにそんな感覚はない。ただ一時寒くなるそのために私は体を壊した。

ダリアは飯館村の道の駅で買った。ダリアは今飯館村の名産品かもしれない。安く買えるからいい。原発事故以後ダリヤ畑にしたという花を売るようになったからである。ただ飯館村は自転車でゆくのには遠い。暑くて本当に行けなかった。
何かその土地にあったものが必ずあり産物がありそれがその土地の味わい深くする。相馬市は城下町であれ何か特徴はないにしろしんみりとして秋柳などは似合うのである。市街地を走る鉄路がありそこに秋柳が枝垂れているのである。

やはりなんの変哲もないようでその土地であっても歴史にあったものがある。それそれはなかなか分かりにくいのである。ただ確かなことは相馬市と南相馬の原町市はやはり相当に違っている。そのことは前に書いた。
いずれにしろ秋は深まってゆくのだがそういう感覚がもう一つ無い。やはり秋がなくなり夏と冬になってしまうのかとなそしたら日本の文化でも俳句でも失われてしまうということもある今年は一時的に寒くなったな担当になるらしい暖冬になるらしい。それはやはり暑すぎた夏の延長のためなのである







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2023年10月25日

今回のイスラエル問題は聖書の理解が不可欠 【神は活ける神であり人間にかかわり続けている】


今回のイスラエル問題は聖書の理解が不可欠

【神は活ける神であり人間にかかわり続けている】


●同じアブラハムの子でもアラブ人の祖のイシュマエルは祝福されなかった

聖書が何なのかということを知らないと今回のイスラエルとパレスチナの争いも理解できない。その歴史はアダムから始まりその後にアブラハムが信仰の祖となったのである

すでに75歳だったサラは自分には子は授からないと思って、若い女奴隷ハガルを連れてきて、夫に床入りを勧め、高齢のアブラハムが奇跡的に身ごもらせた。しかし妊娠するとハガルはサラと不和になり、夫アブラハムは慣習に従い女主人に従うように命じたため、サラの辛い仕打ちに耐え切れなくなったハガルは身重の体で逃亡。神の使いの説得と加護を約束されて、ようやくハガルは帰還して出産することになるが、神の使いからは、息子はイシュマエル(「主は聞きいれる」の意)と名づけるように指示され(創世記. 16:11)、「彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」との預言を受けていた(創世記. 16:12)。

こんな大昔のことが今と何の関係があるのかとなる。でも現実に関係している。アラブ人とは何かとなればアブラハムの息子であっても不如意なものとして生まれた子である。だから祝福されて生まれたとは言えない。ということはそれが現在までも通じているともなる。でも中東ではアラブ人が増えて繁栄したのである。

彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす

こういう傾向がアラブ人にあるかもしれない。好戦的であり常に争う人たちである。何かアラブ人には依然としてその始まりからして不如意なものとして生まれたものの宿命を背負ってそうなったのかもしれない。それにしてもそんなに長い間民族の歴史として宿命としてカルマを背負っていたのかとなる。つまりアラブ人はアブラハムの子であっても不如意なものとして生まれたのであり必ずしも神から祝福されたものではなかったのである。

つまり聖書は人間と神が直接関わる物語である。神は人間を作ったとしてもあとは何のかかわりもないということではない。神は人間にかかわりその行跡を記したのが聖書だと思う
だから常にあり得ないことは奇跡が起きているのである。アブラハムの正妻のサラが90歳でイサクを生んだということもそうである。そんなことがあり得るのかとなるからである。だから聖書とは神が関わって奇跡を起こした物語だとなる。その後もやはりこならず神が関わり奇跡を起こす物語は続いたので。
そういう物語は他ではない。そこで一番大事なことはアラブ人の祖となったイシュマイルは祝福されて生まれた子でわはなかった。だから神にも祝福されていないからその子孫もまた祝福され民族とはならなかった。

●神は活きる神であり人間にかかわりつづける

そうは言ってもではなぜ正当な神から祝福されたイスラエルのユダヤ民族はそのローマ帝国に滅ぼされて離散して常に迫害されてきたのだろうかとなる。それは神の子のキリストを十字架につけた呪いであったのかとなる。今でもユダヤ人はかたくなにキリスト神の子として認めていないのである。ただキリストもユダヤ人であり旧約につながるものとして存在しているのである。
ただ確かなことは神は人間を作ったがそのまま何の関係もないとして関わらないという存在ではない。神は人間にかかわり続けてきたのである。
それがどういう風に関わってきたかそれはいろいろありその関わり方も違っている。それを記したのは聖書である。

確かなことは神と人間は没交渉であり互いに関係ないということではない。神は人間に直接関与して働く。神は死んだ神ではなく現在でも生きている神なのである。だから生きている神が現在でも人間に関わってくるのである。だからこそ神というのは存在し続けこの世の終わりまで存在しつづけそして一番大事なことは神から祝福されることである。確かに人間でも智慧が働きいろいろなものを発明して文明を作る。でもそこに限界がありこの世に理想の国は作れない。何かしら問題が起きて原発事故のように破綻するのである。

それより大事なことは神に祝福されこの世から離脱して神が備える天の都に救出されることなのである。なぜこうして争いがやまず戦争も止むことなくあるのか。それも人間の力では止めることもできない。国連でもいろいろ議論しても止めることもできないのである。そこに人間の限界がある。そもそも議論してもまとまらないのである。
聖書のテーマはこの世からの救出であり脱出であノアの箱舟がそうであり出エジプトもそうでありソドムゴムラからの脱出がもまたそうである。
この世はこうして業火となりハルマゲドンとなり滅びるとなる。でも神はその後救出して天の国にに導くのである
ともかく神は人間にかかわり続けている。もし関わらなくなったら人間は終わりだと思う。人間はいろいろな問題を解決しようとしても解決できない。人間の力には限界があるからである。ではなぜ悲惨な戦争は終わることなくならないのか。それも人間のカルマが消滅しないからかもしれない。

●人類はもともと兄弟でありそれがなぜ争うようになったのか

アブラハムの子であってもアラブ人の祖となった不如意の子として生まれたイシュマエルのことがカルマとなりそれが今日まで続いているのはなぜなのか。その元をたどっていけば兄弟なのである。でもアベルとカインの物語のように兄弟が殺人の始まりだから人間は兄弟でも殺し合うということでそれが人間のカルマとして継続しているのかとな。確かなことは神から人が祝福されない時それはこの世の終わりかもしれない。神が関わらない世界はいくら人間が努力しても理想の世界など社会など作れないしバベルの塔のように崩壊するだけだともなる。

なぜ今回の問題がほかの問題と違って聖書と深くかかわっている。だから聖書のことをわからないとなかなか理解しにくい。アラブ人とユダヤ人は共に一神教でありどうして争うのかというのも分かりにくい。もともとはアブラハムを祖として兄弟の民族だったからである。そもそも元をたどれば人類は兄弟でありそれがなぜ争うようになったのかとなる。その争いの元の大きな問題が土地を巡る争いだったということである。だからこそ土地に執着しない遊牧民に神は現れたのである。この世は一時的に滞在する場であり異邦人であり本当の生きる場所は神の備えた新しい天と地にある。だからこの世はいくら人間が努力しても最終的に破綻してしまう。でも神は人間にかかわり救出するということである




posted by 天華 at 17:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年10月24日

イスラエル民族主義が問題の根源にある 【石を投げて戦うガザの人たちはゴリアテと戦っているのか】

イスラエル民族主義が問題の根源にある

【石を投げて戦うガザの人たちはゴリアテと戦っているのか】

●新約と旧約聖書の相違

旧約と旧約の相違はなになのか、それが今回のイスラエルの問題でも関係している。神の民としてのイスラエル民族主義がありそれを実行すれば異民族は滅ぼされるべきだとなる。現実に旧約聖書では神に逆らう者は滅ぼされてきたからである。それはその民族を根絶やしにする絶滅させるという徹底したものだったのである。

それが旧約聖書の記録なのである。 ヘブル人が神に選ばれた民である。だからこそ神の味方する。政教一致になるとそうなる。日本だって神国となって特別天皇を神として神の国だと戦争に負けないとかなって3百万にも死んだのである。それは75年前であり遠い昔ではないのである。何故そうなったかのかとなればそれは政教一致だからである。宗教というのは創価でも何でも政治と一体化するのである。神の民となり仏の民となり政教一致となり時の政権を奪取することに向かう。そして反対すると罰当たるとか地獄におちるとか言って批判は許されないのである。

政治とは妥協の産物である。でも宗教は妥協するということはない神は絶対であり仏も絶対でありそれに逆らうことはできない
逆らう者は徹底して攻撃して排除するとな。だから何か妥協するということはないのである。
要するに今回の問題の根源に民族主義があり選ばれた民としてのユダヤ人がありパレスチナ人は民族も違うしまたアラーの上神に祈っているとしてもそれをまた一神教としては同一だがエホバの神ともまた違っている。

つまり民族宗教となるときある民族が優秀でありその民族に支配されなければならない。それがナチスにもなった。アメリカでも白人が一番優れているから白人至上主義になり必ずある。でもどうして白人は皆優れているのか。確かにその中には優れている人もいるわみんなが優れているわけでもないのである。
ある民族が特別すぐれていて神に選ばれた民でありそれを尊ばねばならぬ。それがヘブル人の信仰であり思想である。キリストが現れて新約の時代になるとまた様相がかなり変わってしまった。実際は黒から白になったくらい変わってしまったのである。キリストの信仰は民族主義信仰ではない。ヘブル人が優秀だとして神に選ばれたということではな、なぜキリストが十字架についたのか。それは当時民族派がいてヘブル人の党派に属さないから殺されたとしている。

●キリスト教は人道を重んじる宗教

キリストを通じてヘブル人の宗教でも万人に普及したのである。

【心の清い者は神を見るだろう】

その前にどの民族とか誰かとか選ばない。白人か黒人かとも選ばない、それは人類個々人に当てはまるのであり民族とは関係ないのである
それはヘブル人に限定するものでないから普及したのである。例えば宗教の違った人がイスラム教でも苦しんでいる人を見ればかわいそうだと見て助ける。でも宗教が違っているからといって助けないということはどうなるのかとなる。
つまりキリスト教徒は人道的宗教なのである。人道を一番重んじているのである。その最たる言葉が教えが汝の敵を愛せよということであ。敵でも愛しなさいということを教えたのでだからある。ガザであれだけ苦しんでいる人たちがいるのに宗教的理由から肯定されるということはキリスト教徒だったらありえないと思う。
もちろんユダヤ人の被害も大きかったのだから恨むのはいやむを得ないと思う。それが旧約の時代ならば相手の民族殲滅するとなる。だからイスライルで起きていることは旧約時代の再現なのである

そして旧約聖書でも神は必ず弱い者の味方のなのであ。それが象徴されているのはダビデがゴリアテを石を投げて勝利したことである。相手は強力な敵だったのだが簡単に一つの石が当たって死んでしまったのである。それで思うにはガザではこれまでイスラエル軍にそうして抵抗してきた。それが若い人でも石を投げて抵抗していたのである。武器がないからそうしていたのである。ガザの人たちは弱い人たちなのである。

でもイスラエルは強力な武器があり軍隊を持っていたのである。ただ前の中東戦争でそうではなかった。周りがみんなアラブ人が敵と化してイスラエルに襲ってきたのである。でもイスラエルは勝利したのである。イスライルは四方をアラブ諸国に囲まれて弱い存在だったのであるでも勝つことが出来たのである。そこに神が加勢したともなる。

●日本民族主義と結びついた日蓮の信仰団体の危険

でもその後は強力な軍事国家となりアイアンドームとか鉄壁の守りを作り備えた。でもそれも破られたのである。その原因はあまりにもハイテクに頼った結果だと評している。ここに現代の盲点があったのである。とにかく今やイスラエルはゴリアテであり石を投げるガザの人たちがダビデなのかと見てしまう。だからイスラエルに神は味方するのかと疑うことにもなる。
いづれにしろ民族宗教というのは危険なのである。ナチスとかもゲルマン人が一番優秀だからとあれだけ悲惨な結果になった。日本民族主義でも日本は神国でありだから必ず勝つとなりそして300万人も死んだのである。民族宗教というとき日蓮主義は危険である

日本民族主義であり戦争の時もやはり日蓮主義があったからである。今でも日蓮系統は創価であり顕正会であり国粋主義であり民族主義であり政教一致だから危険なのである。それらどうしても過激になる。
だから政教一致というのは災いの元になる。それを見過ごしていると大惨事になるということである。宗教とならば妥協というのはない。絶対だから従うか従わないかになる。そこで政治的に妥協するということはなくなるから苛烈になり犠牲者も多くでる出るのである
いずれにしろ汝の敵を愛せよといったキリストと旧約の民族的宗教とは違ったものである。そこが混同しているのである。

とまかく世界のことでも力だけでは解決しない、一見解決したようでも怨恨が残りまた争いが再発するのである。
アメリカがしてきこたは力の解決でありそれで失敗したとして反省している。つまり力では平和は来ない、それはキリストがいていたことでありそれがキリスト教徒でも実行していないのである。
posted by 天華 at 17:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年10月23日

老人は病気の話 70才でも働く時代


老人は病気の話 70才でも働く時代

大工さんで庭師である人が70で若い人に混じって仕事した。でも若い人は動きが速いのでついてゆくのが大変だという。でも70歳でも働いている人がいるという。でも肉体労働となると70過ぎて働くのは相当に厳しいと思う。
その人は丈夫な人でもやはり病気になっている。それも何か複雑な病気でありそれを見てもらうのは福島市の方によくほかない。
福島医大に通う人がいた。それで福島中央道路できていないときは通うのが大変だったと言っていた。何か難しい病気になるとこの辺でわ診れないのである。それは目の病気でも仙台市に行かないと手術などできないという。それで面倒なのである。何しろ人間の病気の種類が多すぎるのである。そして老人が話題にするのは病気のことなのである。

私自身も急に寒くなり体が震えて全身が不調をきたし苦しんだ。
これも老化してなったのかもしれない。また気候の変化が激しいからそうなったのかもしれない。とにかく何らかの病気になる人が老人になれば増える。脳梗塞になった女性は買い物に行くにも自転車に乗れず歩いてゆくほかない。タクシーを利用するときもある。それだけ歩くだけでも大変だからである。ところがタクシーも一軒しかなくうまく利用できないという。全国的にタクシーの運転手不足になっている。一軒しかなかった自転車屋も死んでここには自転車屋もなくなった。

また田んぼのなかにある農家二軒も廃屋かしたみたいだ。地震の被害がこの辺では未だに続いていて壊れた家を直さないのをみかける。それで直さないで壊しているのかしれない。おそらく農家でも後継者がいないのでそうなっているのかもしれない。70くらいの人が農業しているが多く後継ぎもいなくなり食料が供給できなくなると問題にしといる。

とにかく老人の問題は病気になることである。病気になるとまた金もかかるし負担は増える。今金の余裕がある人は少ない。だから息子でも娘でも頼りにくいのであ。そして年金があまりにも少なすぎるのである。女性の場合4万くらいしかもらってない人が7割くらいいるとかそんなんでどうして生活できるのかとなる。厚生年金で15万くらい貰っている人がいるとしてもその15万でも足りないと思う。物価が上がっているからなんでも高くなっている。近くの大判焼きが150円だったのが50円上がって200円にもなっていた。他でもコンビニでも20円30円とか上がっている。何かそういうものが物価高をじかに感じるものになる。それは日々生活して買っているからそう感じるのである

人間は一番病気に弱い。病気になると気力もなくなる。だから一人暮らしは病気になると最悪になる。体のこと気にかけてくれる人がいなくなるからである。それで私の場合医者に行かないでいたら病気が悪化していて死ぬ寸前だったのである。
それで街の医院から直接市立病院に入院して一命を取り留めたのである。それも家の中で介護とかなり誰も自分を心配する人もいなくなったからである。だから一人暮らしは危険なことはある。それで孤独死になったりする。そして今は隣近所とか無関心であり日頃から付き合いとかない。だから不思議だったのは市営住宅の隣の人が死んでいて二ヶ月間もわからなかったという。それは1万くらいの町で起きたことである。そういう場所では互いに気遣うことがあると思ったがそういうこともなかったのである。

ただその人も自体にも問題があったのか近くに兄弟は住んでいたのである。ただその兄弟にしても付き合いのなくなっていたのかもしれない。でも二ヶ月間も死んでいたのはわからなかったというのも謎である。あまり話する人ではなかったらしい。でもそれにしても二ヶ月間も死んでいたのはわからなかったというのは何なのだろうとなる。電気がついていたので生きているとみていたともいう。また冬だったから匂いもしなかったからきずかなかった。でも二か月間だったら誰か人の出入りがあってもいいとなる。それも一番の田舎の町で起きたことなのである。だから田舎とはいえ都会化しているのである。人間の付き合いが希薄化して無関心になっているのである。
でも今の時代その人は金をもっていればその金目当てに寄ってくる人はいる。なぜその人は親しく近くの人に話し相手なっていたのに行かなくなったのか。金をもらえないからだともなる。また自分自身も病気になって相手を見る余裕もなくなったからだともなる。今は人の付き合いも金なくしてありえないともなっている。

ともかく老人は病気の話でありまた体調も崩しやすいとなる。それで自分自身も結構苦しんだのである。体全体が変調をきたすということはやはり今まであんまりない。だからやはり気候の変化とか影響してそうなったのだと思う。老人はいろんなことで体の変調をきたしやすいのかもしれない。ともかく急激に寒くなったことが体に応えたのである。それが体全体に影響して思った以上悪化したのである。

2023年10月21日

なぜ欧米はイスラエルよりになるのか。


なぜ欧米はイスラエルよりになるのか。

キリスト教徒は聖書を基本にしているためイスラム教のコーランは読んでいない


何か世界でイスラエルを人道的に見て批判するのが多い。でも欧米だとイスラエル寄りになる。それはなぜなのか。それはキリスト教はユダヤ人の旧約聖書がから不可分に結びついているからたとえ新約聖書でも必ず旧約聖書参考にしている。だからキリスト教徒は旧約聖書でも全く新約聖書と別物とは考えていない。ではイスラム教のコーラン読んでいる人は理解している人がどれくらいあるのか。ただ偶像崇拝の禁止ということで厳しく共通している。そもそも旧約聖書でも偶像崇拝との戦いの中からエホバの神を信じる宗教は生まれたのである。

だからその根源はオリジンは共通している。むしろ仏教などは仏像があり礼拝するから偶像崇拝となり過激派が破壊したりする。
でもこうして共通性があるのになぜ欧米でもキリスト教徒コーラン読まないし理解しないのである。私自身もコーランについてほとんど読んだこともないし理解していないのである。そうなるとどうしても旧約聖書を読んでいるからイスラエル側に寄るとなる。

なぜならキリスト教徒でも旧約聖書に通じていて常に引用しているからである。コーランの一節を変容する人などいないのである。そしてキリストを神の子とかだと認めない。イスラム教からすればキリストは神でも神の子でも何でも無いのである。むしろ偶像崇拝ともなる。普通の人間であり人間の像を礼拝することは偶像崇拝になるからである。でもキリスト教徒でもやはり偶像崇拝に関してはに関してはさまざまな禁止がされているのである。。それを調べればわかることである。

カトリック信徒としてキリスト教の神聖なる信仰を広めかつまたひろめマホメットの教義及び全ての偶像崇拝は敵とみなす。フェルナンドおよびイザベル両陛下の命により私は上記のインド諸国に派遣される運びとなった
上記の国の王族や民衆や土地を見聞し彼らの成功を見定めて我々の聖なる信仰に改宗させるべく適切な方策を探るのが目的であるクリストファーコロンブス。

ここにも偶像崇拝お敵とみなすという厳しい言葉がある。ただマホメットの競技に関しても敵とみなすとあれここにキリスト教のみを絶対として布教する目的がコロンブスにはあった。
フェルナンドという姓は日本に来た普通の労働者のスリランカの人にもいたしまたフィルナンドのを姓を持つ人は大航海時代に植民地化されて多いのである。
でもなぜ十字軍の時イスラム教徒とキリスト教徒が激しく戦った。その時イスラム教徒一緒に生活していたユダヤ人はキリスト教徒と一緒に戦ったのである。その時ユダヤ教徒であれ差別することはなかった。キリスト教徒でも啓典の民の民として必ずしも対立するということでもなかった。フォーンはあ

ともかくコーランのことはキリスト教国でわそれを読んだり理解することがない。日本人でも仏教のことはある程度歴史があるから読む人もあり理解することもある。たとえ仏像であれそれに価値を認める人はいる。でもコーランを読んだりそれを理解する人は極めて稀なのである。聖書だったら新約であれ旧約であれ何かしら知っているし身近なものとしてある。でもコーランのこと知る人は非常に少ない。でも宗教であれば本当はそれだけ多くの人が信仰しているのだから理解するべきだともなる。
むしろユダヤ教は旧約聖書から成り立つから理解するのである。そもそもイスラム教のコーランを理解する人がごくわずかだからそこに偏見が生まれ対立が生まれている。

旧約聖書となると新約とは違いヘブル人の民族宗教であり神がヘブル人を選び神の国をつくるものとした。だからユダヤ人以外はへブル人以外は信仰できないものともなっていた。
でもキリストが生まれて万人の宗教となったのである。それはヘブル人だけを選ばれた者としない。全人類に通じる愛を説いたのでありまた聖霊は万人に下る。ヘブル人だけを選ばれることはなくなったのである。だからユダヤ人のユダヤ教はキリストを信仰しないしユダヤ人は宗教的にもキリスト教徒から迫害され続けてきたのである。でもキリスト教徒も必ず旧約聖書を参考にするからユダヤ人を本当は尊ぶべきものとなる。でもキリストを殺したということで差別されてきたのである。
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2023年10月20日

イスラエルへのハマスのテロ 【宗教がからんで奇々怪々にインターネットで多角的に見る】


イスラエルへのハマスのテロ

【宗教がからんで奇々怪々にインターネットで多角的に見る】


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総資産6000億円 ハマスのトップ「5つ星豪華生活」 優雅な“安全圏”から攻撃見守る?

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イスラエル解体を目指すユダヤ教超正統派団体 ナトレイ・カルタ


●ハマスの幹部が巨額の金を貯えてカタールのホテルで贅沢

これほど複雑なものは無い。インターネットで多角的に見ても一色ではない。意外だったのはアメリカのユダヤ人の中でもシオニズムにイスラエルの建国に反対する人たちがいたことである。そのラビがユーチューブに映っていた
またイスラエルから脱出する人も増えている。そもそも最右翼のネタ二ヤ首相で政権に反対する人たちもかなりにいたのである。イスラエルでもユダヤ教でも一枚岩ではない。それも意外だった。
またハマスにしてもその最高幹部たちがカタールとかでホテル住まいをして贅沢をして暮らしている。その人たちは大金持ちだったのである。これも何なのかと見た。その手下たちは命がけで戦っているというのにその幹部は安全な場所で贅沢三昧としているまた巨額の金を貯えている。それもなんなのだろうと見る。まるで人間の善悪でもわけわからなくなる。

イスラム教のアラブ人側にしても金持ちなのだからガザが貧窮化しているのだから金を出して助けるとか移民として受け入れるとかすればいい。でもそういう面でも欠けているように見える
そもそも援助するにしてもその金が上の人に奪われたりまたテロ組織に流れているとか一番苦しんでいる下層の人たちに回らないとかなる。だからイスラエルではガザに援助してもハマスに回り武器を買う金に回され庶民には金が回らないともなる。

ハマスでも幹部には莫大な金が入っても一般人に入らないという矛盾がある。そういう幹部を見ていたら戦う気になるのかとなる。生きる死ぬかの戦いをしている時ホテルでテレビを見て観戦しているのかとなる。アラブ側にも相当な問題がある
そういうことは時代劇でも常に放送している。何か若者でも急進派がいてもその人たちの純粋な気持ちを利用して実際はその上の幹部達上級職の人たちが得するものとなっている。だからここでも同じようなことが起きているのかとなる。

●宗教戦争なのか

カルト宗教団体でもやはり善を正義を主張しても扇動しても実際はその幹部たちは得することになるそうした善とか正義とかには関係なく利益を得るのはその人たちだけだとなる。
ここでも宗教がからんで複雑怪奇になっているのである。だから人間というのは常に仮面を被っていて何が真実だかもわからなくなる。そして宗教が絡んでくるとわけわからなくなってしまう。イスラム教でも聖戦となりまたユダヤ教でもやはり聖戦となりそれで互いに譲り合うことはなくなる。でもアラーの神とエホバの神が戦うのかとなればそんなことはないのである。
ただ一神教なら偶像との戦いだったからそれはありえる。でもアラーの神でもエホバの神でも偶像を否定している神だからその神が争うということはありえないのである。

だからこの問題は宗教の相違から来て宗教戦争と言うのにも思えない。根本的な原因はやはり宗教というのではなくパレスチナ人をガザとかに隔離して閉じ込めて苦しめた事にある。もしそうそれがなければこんな争いにはならなかった。

イスラエルが聖地となっていることは分かる。でももその土地にはにはすでにパレスチナ人が住んでいてその土地を奪うということはいくら宗教であってもそれを主張できるのかとなる。ただイスラエルには三つの宗教の聖地としてありそれは三つの宗教は共同して管理できるものとするべきだった

ユダヤ人でもイスラエル建国に反対していた人たちがいたのである。またイスラエルから脱出する人たちも相当数いる。それはロシアでもウクライナ戦争に巻き込まれるのは嫌だとして脱出したのと似ている。つまり戦争というとき誰が起こしているのかとなる。国民全員が一致ということはないのである。賛成する人もいれば反対する人もいる。それはユダヤ人のラビでも反対する人がいたのである。だから強硬派がいて穏健派がいる。それが政治でもある。

同じユダヤ教だから最右翼の強硬派となっているかとみればそうでもなかったのである。ただどうしても少数派だから目立たないし取り上げない。でもインターネットだとそうした少数派も意見として一応目立たないにしろ報道もされるのである。それが今までのマスコミ中心の報道とは変わったのである。

●インターネット時代は多角的に見る

だから多角的に見ると言うことで一方的にはなりにくい。それを理解するのも難しいがとにかく一方的な報道にならないからそれで全員が黒一色のようにはならない。ファシズムにはならない利点がある。ただそうなるとさまざまな見方がありそれを個人で判断するということは難しい。だからこそ一方的な見方は席巻するのである。
難しいことを言わないで大衆を洗脳するのはそうした一方的な見方でありその内実がどうなっているかなど検討しないでナチスのようになってしまうのである
特に宗教が関わると複雑になり宗教は絶対だとなり創価などでもほかの宗教団体でもとにかく批判すれば仏敵となり罰あたる地獄に落ちるとかなんとかなり議論すらできないのである。

ここでも宗教が関わって本当に複雑である。ハマスはテロ集団だといってもその背後にはイランがいてロシアがいて中国がいるとなるとこれまた複雑なものになる。そのテロの根を断つとしたらその背後の国を断たない限り解決できない。そうなると国同士の戦争となりこれらの国は核を持っているとしたら人類滅亡の最終戦争になってしまうのである。だからこそ今度のイスラエルのハマスのテロは第三次世界大戦の導火線になるということで恐怖したのである。

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2023年10月19日

コスモスと川と魚 Cosmos and river and fish


コスモスと川と魚

Cosmos and river and fish by image creator



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コスモスは街に似合う花である
だから家もない所の原野とか山の奥とか似合わない
花でもやはりそれぞれに似合う場所がある
ともかくbing image creatorは言葉から絵を作り出すから不思議だとなる

Cosmos is a flower that suits the city
That's why they don't belong in the wilderness or deep in the mountains, where there are no houses.
Each flower has its own place
Anyway, bing image creators create pictures from words, so it is a wonder

国家は国土は土地をめぐって争いが終わらない 【アダムの意味は土ーー地から離れて天の国に行く】

家は国土は土地をめぐって争いが終わらない

【アダムの意味は土ーー地から離れて天の国に行く】

●姓から見た世界ー大陸国家と日本の姓の相違

エロヒムによって創られた最初の人間である。ヘブライ語「אדם(アダム)」の名の由来は「אדמה(土)」だが、右から読むヘブライ語としての末尾には語根の「דם(血)[1][2]」が位置する。
Adamという語は、ヘブライ語で「地面」を意味するadamah(アダーマー)という語の男性形である。この言葉は同時に「人間」(アーダーム)という意味も持つ

第2章7節ではこの言葉の起源が、「神は地面の土を使って人間を作った」と説明されている

アダムの意味が土だということは土から作られたということはそこに意味深長なものがある。前に人間の争いが土地をめぐって起きて戦争になったということを考察した。

右から読むヘブライ語としての末尾には語根の「דם(血)[1][2]」が位置する。

日本語でも地【ちー血】になっている。

そして国とは必ず領土があり土地があって国がある。国土のない国はない。そして国家とは領土がなければ国家にはならない。
土地から離れて国家は成立しない。でも民族というのは国家がなくても国土がなくてもありうる。その代表となるものはユダヤ人である。他にもクルド人など国土はない国家がないでも一民族として存在している。
それで人間の姓をみるとき大陸国家では父系である。

イングランドでは、父系の名前の後に「息子」を意味するson(ソン)をつけて苗字として用いられています。
たとえば、Peterson(ピーターソン)は「ピーターの息子」という意味になります。

英語の苗字(姓、ファミリーネーム)の意味や由来をタイプ別に解説

大陸で共通しているのは父系でありその名前でも父親のが誰であるか大事になる。親というとき誰が父親のでありその子供はその父親の息子として認識される。
でも日本はかなり大陸国家とは姓でも苗字でも違っている。
日本の姓は必ず村の地名か地名が姓になっている。だから必ずその元をたどると村の地名に行きあたるのである。大陸国家は村が姓になることはない。むしろ姓が村の名になったりまたは国家にすらなる。 李朝鮮という時そうである。李一族の国が朝鮮だともなる。そういうことは日本ではありえない。でも大陸国家では姓を共有することはその土地を共有することより大事であった。日本ではむしろ土地を共有することで村がありその村の地名が生となったのである。

だから遊牧民だとどこどこの土地に住んでいるとかでその人を判断するのではない。誰が父親でまたその父親の父系たどり判別する。それは遊牧民は土地を持たないで移動するからそうなる。だから遊牧民のことを知らないと大陸の歴史を理解できないとなる
日本が大陸を理解するのが難しいのは日本自体が世界から見ると特殊になっているからである。姓からして世界から見れば特殊なのである。日本の特徴は中国であれ中東であれ大陸国家から切り離されて島国になっていたことである。

●日本人は砂漠と遊牧民のことが理解できない

大陸には砂漠があり中東はイスラエルまで砂漠のである。その砂漠から一神教が生まれた。それはユダヤ教であれイスラム教であれキリスト教でも同じなのである。イスラエルは砂漠であり遊牧民は羊を飼う遊牧民の国家なのである。ただユダヤ人が入植して灌漑して豊かにしたのである。

ではなぜ遊牧民にエホバの神が現れたのか?。砂漠に現れたのか。
その砂漠というのがどういう場所なのか日本人にはそもそも砂漠がないので理解できないのである。砂漠にはさまざまな生物でも植物でもいないしモーゼは登ったシナイ山など岩石の山であり一本の木もなかった。それだけ厳しい荒涼とした場所だったのである。そういう場所に神が現れたと言うことである。
それはやはり偶像崇拝を禁止する宗教でありそれはイスラム教徒も共通している。一神教でありあらゆるものが神となった世界とは違ったものなので。

つまりこうして日本人のユダヤ教であれイスラム教であれキリスト教でも理解しにくいのは砂漠という風土を理解できないからである。そこにはまさに砂漠と岩石くらいしかなく非常に厳格な場所なのである。だから十戒とかでもモーゼが登ったシナイ山で神から授かった。そこは厳しい場所でありその戒律も厳格なものとなったのである

そしてなぜ砂漠に一神教の神が現れ遊牧民に現れたのか。そこに宗教を解くヒントがある。それは最初の人間アダムは土から生まれたということである。そのことで人間の争いが戦争は土地を巡るものだということを書いたがまさに人間は地の者であり天のものではない。
アダムとはまさに地のものであり天のものではない。人間がアダムが知恵の実を食べて神から離れたというときまさに地のものとなったのである。そしてなぜ人間が争うのか。その原因もまだ地のものであるから土地をめぐって戦争がやまないのである。

だからこそイスラエルがアブラハムに与えられたとしてもその地は争いの地となった。ユダヤ人が2000年をへてイスラエルを再び建国した。その時そこに住んでいたパレスチナ人とアラブ人と熾烈な争いとなってしまったのである。カナンの地をアブラハムに神が与えたとしてもそれはあくまでも天の国の神の国の象徴として与えたものであり本当の神の国は地から離れたものにしかないのである。つまり人間は土地をめぐって争いがやむことなくある。人間は地のものであり天のものにならないかぎり争いはやむことがない、それをイスラエルの争乱は示している。

●イスラエルでなぜまた争乱が起きているのか

アダムが土を意味しているようにその土から離れない限り争いはありそのために人類は滅亡する。そのカルマは消滅しないのである。だからこそ2000年も経てイスラエルを建国したということがそれが世界の災いともなる。大争乱となり第三次世界大戦にもなる。それはまさにアダムの土から生まれたの宿命だったともなる。この地から離脱しない限り永遠の平和はありえないともなる。

ユダヤ人はローマ帝国に滅ぼされてから離散して迫害され続けてきた。またキリストを殺したということでキリスト教はヨーロッパに普及したとき迫害されたのである。十字軍の時も相当に迫害されたのである。だからイスラエルで十字軍が攻めて来た時アラブ人と共に戦ったのである。それで国を持たないから国家を持たないから迫害されるとしてイスラエルに2000年後にその土地を得たのである。
でもそれが世界騒乱を生みみ出したというのは何なのかとなる。それはやはりアダムは土から生まれたように土地をめぐって人間は争う。そこから脱することができないからこの世に平和がないともなる。

そして逆にユダヤ人が迫害されてゲットーとかに隔離されたように今度はレスチナ人迫害してガザというゲットーに押し込めたというのも何なのかとなる。いじめられたものはまた他者をいじめる。迫害されたものはまた迫害する。そういうカルマが人間にはある。カルマの繰り返しが終わることなく続くともなる。そして最終的に人類は滅亡するのである。


●情報社会で実況中継されるから人道に反することしにくい

マクルハーンが予言していたように情報社会になった時

グローバル化して世界が一つの村のようになる。

だからいくらイスラエルが遠いとしても爆撃でガザで500人死んだということが衝撃になる。それも今は通信が発達してリアルタイムで映像でなまなましく放送されるから余計に遠いから関係ないとはならないのである。それだけ世界の事件が隣で起きたように感じる。それでマクルーハンは世界が村になると言ったのは慧眼だったのである。

つまり人道に反することをすると世界から責められるて不利になる。それでハマスのしたこともイスラエルでもガザを攻めて多くの犠牲者がでると世界の世論がアラブ人側につくとなる
それは時代がそうしている。世界にとって迷惑でありウクライナでも麦が輸入できないとか困っている。だから戦争をやめてくれとなる。それで情報社会とは世界中にリアルタイムで映像でも実況放送すらしているから世界中が注目しているから勝手にできないともなる。みんなで監視しているともなるからである。
だから人道に反することは世界を敵に回すとなる。

イスラエルの問題の複雑さーエゼキル書の予言 
【人間の業として土地争いが戦争の原因】





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2023年10月18日

イスラエルのカナンの地の重要性 【ロシアはカスピ海を通じてイランに接していた―空間軸と時間軸で見る世界情勢】


イスラエルのカナンの地の重要性

【ロシアはカスピ海を通じてイランに接していた―空間軸と時間軸で見る世界情勢】

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第27回 終末の中東大戦争 〜エゼキエル戦争への道〜


●イスラエルは砂漠であり遊牧民が住んでいた

世界情勢を見るときまず空間軸で地理を見る。それから時間軸で歴史を見る。ところが空間軸でも地球となると広いから必ず何か誤解している。それでグローバルとなると地理がわかったようで実際は分かっていないのである。
イスラエルは砂漠であり羊を飼う遊牧民の国でもあった。でもユダヤ人が入ってきてそこで農業を始めた。でもそこにはアラブ人が住んでいて暮らしていた。ただユダヤ人が入ってきて果実の栽培とか農業を始めた。そこで争いになったのである。

ただユダヤ人が入植した結果そこは豊かな土地にもなったのである。それまではそこは砂漠であり果樹園などはあまりなかったのかもしれない。それで灌漑などをして水が不足してその水を供給して豊かな土地にした。
それができたのはユダヤ人が入植して豊かな土地にしたのである。ただそのために前から住んでいたパレスチナのアラブ人と対立したのである。ユダヤ人は離散してか各地に住んでも土地を持てなかった。だから土地を持ち国を国土を持ちたいというのが悲願になった。
それでキリスト教では利子をとることを禁止していたがユダヤ人は利子をとる高利貸になった。それで嫌われる民族となった。金融業がユダヤ人の得意となりやはり今でもそうなのである。ロスチャイルドはユダヤ人であり巨万の富を築いたから常にそれで陰謀論に登場する

●神から与えられたカナンの地とは

地理的にイスラエルのイメージとしては地中海に面していて砂漠とは思えないのである。そもそもイスラエルでもなぜそこが目指してアブラハムそのカナンの地を目指した。
そこはカナンという名称は、フェニキア人が自分たちを”ケナアニ (カナン) “と呼んでいたことに由来すると言われています。

フェニキア人はアルファベットを発明した航海術にたけた民族でありレバノン辺りに住んでいて地中海を航海して貿易をしていた
レバノンとかイスラエルでも今のガザでも貿易で栄えた地域である。ガザにユダヤ人も住んでいて栄えていたのはそのためである。

カナン人は実際にはイスラエル人と混住し通婚した。ヘブライ語はカナン人から学んだものである
ヘブライ語がカナン人のものとなるとカナンという民族は何なのかとなる。フェニキア人だからアルファベットを発明した民族だからそれに由来する。カナンにはすでに先住民族がいてその言葉を受け継いだとなる。
水の流れる乳と蜜の流れる神の与えた理想の地とされていたのである。
だからこそそこがユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地となったのである。

●空間軸と時間軸で見る世界情勢

そして地理の盲点となっていたのはロシアとイランは隣同士だったということである。カスピ海を通じてロシアとイランは隣同士だったのである。カスピ海を通て行けばばロシアなのである。だから地理的にロシアとイランは一体化もする。何かロシアとイランは地理的に遠いと見ていたからである。
このように必ず地理を見るときは錯覚しているのである。それだけ地球は広いし外国になると余計に錯覚しやすいのである。そしてどうしても地理で誤解して正確に世界を見れないのである。

もう一つは時間軸でも見るのも難しい。すでにイスラエルでもアラブ諸国との中東で戦争はありアラブ諸国に囲まれて孤立無援のようになっていたが勝利したのである。
その時はイスラエルを応援する人がかなりいたことは確かである。でもそれから50年とかすぎるとまたそのことも忘れられて何なのか分からなくなってしまう。何でも時間が過ぎるとそこその時代時代に起きたことはリアルに意識できなくなるのである。
それがわかるのは日本でも70年前以上に300万人が死んだという戦争のことでもそれを明確にリアルに意識できないなくなっている。

●情報化社会では全世界が戦争でも映像で見て注目する

今ガザで病院が爆撃されて500人死んだというときその方はリアルに意識する。特に情報化されてテレビの映像で見る時生々しいものとなる。なんてひどいことをするのだということになる。。イスラエルには言い分があるにしろテレビの映像からはなんてひどいことをイスラエルはするんだと今度はなってしまうのである。
だから現代では映像の影響が同時間でリアルタイムにで報道されるから影響が大きいのである。それは別に悪いことでもない。そこでどうしても人権とか人道的なものが常に言われるからである。それは映像でなまなましく伝えられるからである。

ただ一方でイスラエル側からすればそうした人道的なことにあまりに配慮すると実ははますがそれを利用してテロのためにその援助を利用していたとされる。それもまた問題なのだけど何かテレビ映像で伝えられる時生々しいものとなりどうしてもイスラエルには不利になるのである。
もちろんイスラエルはも被害が大きかったからその言い分も分かる。でもどうしてもイスラエルは圧倒的に軍備でも力を持っているから世界から批判されやすいのである。そもそもガザのことなど何なのか世界で注目もあまりしなくなっていた。でもそこでは継続的に紛争があり人も殺されていたのである。でも世界的には注目しなかったのである。
それにしても地下要塞には驚く。そんなものを作っていたということ自体問題だった。それだけイスラエルと戦うために用意していたのである。

●聖なる場としてイスラエルがあること

とにかく世界でも空間軸と時間軸で見る。それが基本になる。でもどちらでも必ず見間違う錯覚するのである。時間軸になると前後もわからなくなる。江戸時代などでもいろいろ年号があっても順序が逆になったりもしている。
だから時間軸で見ることも難しい。空間軸でも実際は地球は相当に広い。その広さを実感することは簡単にできない。それは地図をみたくらいでわからないのであ現実にその地図すらよく見てないのである。カスピ海を通じてロシアとイランが隣同士だったということが見逃していた。
でもそれを地図をよく見ていれば普通にわかったことなのである。だから地図を見ても世界のことが錯覚しているのである。すると何か具体的に世界情勢というのは理解できなくなる。だから何かが起こるというときまずtake placeになる。でもその場所も世界が広すぎてリアルに把握できないのである。

ただ地理的にイスラエルはなぜ重要かというと神がイスラエルを世界の中心として定めたからである。またイスラム教ではメッカが中心となりそこにイスラム教徒が参拝する。イスラム教は何かか具体的な像などを礼拝しない。偶像崇拝を頑なに拒否しているからである。でもその方角がメッカが重要でありその方角に向かって礼拝するのである。つまり場所が重要であり場所は聖なるものとなっているのである。
だからこそイスラエルはなぜ重要かというと世界の中心として神が定めたからである。そのためにイスラエルを中心にして世界でも動乱が起きてくる。それで今回のハマスのテロとかが恐怖するものになったのである。
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2023年10月17日

なぜ今回のガザのハマスのテロは恐怖なのか 【第三次世界大戦を予兆されるからーロシアが背後で関わっていた】

なぜ今回のガザのハマスのテロは恐怖なのか

【第三次世界大戦を予兆されるからーロシアが背後で関わっていた】

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●キプロスの歴史

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ユーロになるまえのキプロスの貨幣―イギリスが支配していた

十字軍は、中世ヨーロッパのキリスト教徒による聖地エルサレム奪還遠征軍の総称です。第1回十字軍から第8回十字軍まで、多くの国々が参加しました。参加国には、フランス、イタリア、ドイツ、イングランド、スペインなどがあります1. ただし、十字軍に参加した国々は、各回の遠征によって異なります。
12世紀、キプロス島は十字軍の標的となり、1191年6月には最初の十字軍征服者・イングランド王にして獅子心王の異名を持つリチャード1世がキプロスの地に上陸し、軍はキプロスを占領した

古代から近代にかけローマ帝国・ヴェネツィア共和国・オスマン帝国・イギリスなどの支配を受け、長らく政治的独立を得られませんでしたが、1960年にようやくイギリス連邦内の自治国として独立し、キプロス共和国を成立させることができました
1914年、第一次世界大戦が始まって間もなく、イギリスはキプロスを併合し、1925年、オスマン帝国の解散とともに、キプロスはイギリスの植民地となった。 独立 1959年2月には、イギリス、ギリシャ、トルコがチューリッヒ・ロンドン協定に調印し、ギリシャ、トルコ、キプロスも連合条約に調印した。 1960年8月16日、独立が宣言され、キプロス共和国が成立した

●複雑な歴史の背景−十字軍に対してアラブ人と共同で戦っていた

11世紀〜20世紀 - ガザのユダヤ教徒社会が繁栄
1099年 - ユダヤ教徒、エルサレムの防衛に、アラブ人と共に参加
1100年 - ユダヤ教徒、十字軍の進攻に対しハイファの防衛に参加
1191年 - ユダヤ教徒、十字軍によって追放される

この歴史はユダヤ教徒が十字軍のキリスト教徒に対してアラブ人と一緒になり戦っていた。つまりキリスト教徒とユダヤ人は対立していた。なぜならユダヤ人はキリストを殺したものとして迫害されてきたからである。
ガザでユダヤ教徒が繁栄していたというのもむしろイスラム教徒のアラブ人と一体化していたとなる。だからこそキリスト教徒の十字軍と共通の敵として戦ったのである。もともと古くからそこで生活していたから侵略者と共同して戦ったとなる。
つまりガザにユダヤ人が住んでいて栄えていたのである。だからアラブ人と一体化したのである。

イスラエルから船でキプロスに寄った。 7時間くらいであったがそこでイギリスのが通貨が利用されている。キプロスポンドでありイギリスが七つの海を支配したことでそうなった。
そのイギリスが十字軍時代からキプロスに関わっていたのだからその歴史も古い。エジプトポンドでもそうである。ポンドはそのときドルと同じ役割を果たしていたのである。世界基軸通貨となっていたのである。でもトルコリラも使われる。オスマン帝国とかにもかかわりその使用される通貨も変わってくる。

イスラエルにしてもユダヤ人がローマ帝国に支配されて離散した。それからイスラム系のアラブ人が住んだしまたそこで十字軍のとイスラムの戦いがあった。その歴史の変遷を見るといかに複雑なものになっているかわかる。日本のような島国で他国から侵略されない国は珍しいのである。大陸の歴史は常に他国の侵略にあっている。陸続きなのだから当然侵略されやすいのである。それで国が縮小したり拡張したりしているのである。

だからそれを理解することは日本のような島国に生きていれば分かりにくいとなる。そこに宗教が関わりさらに複雑化してわかりにくくなる。そもそもなぜイスラム教徒とキリスト教徒が対立して戦うのかその原因がなのか理解しにくい。なぜならアブラハム祖として偶像崇拝を拒否する一神教でありその源は同じだからである。
そしてなぜアラーの神とキリスト教徒がユダヤ教徒でもキリスト教徒でも対立するのか。それらは同じアブラハムから出て偶像崇拝を拒否することで同一のものだからである。むしろ仏教徒となると仏像を作るから仏像はイスラム教徒によって破壊されたように対立することは理解できる。

だからこうして対立して争う時アラーの神であれエホバの神であれまたキリスト教であれそもそもその神が争うということがあるのか。そのこと自体不可解だとなる。アブラハムから出た同一の神なのだから宗教的に争うとも思えないのである。すると必ずしも宗教的対立が争いの原因とも思えないのである。

今回のパレスなどイスラエルの争いは宗教的争いなのか。それよりもやはり土地をめぐっての争いだとなる。もともとパレスティナに住んでいた人たちがいてそこにイギリスなどの政治的思惑でユダヤ人にその土地を与えたからである。そこがこの争いの元にもなっていた。ユダヤ人にイギリスがその土地を与えたから当然争いが起きたのである。でも十字軍だったらイスラム教とキリスト教の対立となるがユダヤ人なればユダヤ教なのである。

●ハマスをロシアが支援していた?

ただこの争いが局地的なものに留まらず世界的に波及する。第三次世界大戦になるという不安が生まれている。現実にパレスチナのハマスに対してロシアが支援していたという。またイランが関わりその背後に中国もいる。中国はやはり最近外交的に中東に力を入れて和平交渉イランとかサウジアラビアとかでも和平交渉をの仲介役をしていた。
だからエゼキエル書に記されたゴグのロシアでありまたペルシャもかかわりそれは今のイランなのである。つまりキリスト教側の欧米とイスラム側が争うとなる構図となる。でも旧約聖書の時代にイスラム教はなかった。またロシアはロシア正教でありやはりキリスト教などだから必ずしも宗教の対立でもないのである。

ただゴグといっても紀元前のことだからその時はそんな国はない、ただ位置が一致しているだけである。
第二次世界大戦でもなぜドイツとフランスでもイギリスでも争うのか?同じキリスト教徒の国だからである。
ただエゼキエル書の予言が現在2000年後以上の前の予言が現実化するということになるとそれはやはり聖書というのは予言の書だということは証明されるのである。
ただでも現代は宗教を重んじるというより人道人権主義になりそれで世界の人がテレビを見て注目している。なぜそんな残酷なことをするのか。イスラエルにしてもなぜそんな残酷な事を圧倒的な軍事力でするのかとなる。

●聖書は弱者が神の味方となり勝つ物語

そもそも聖書というのは弱者は強者に味方して勝つという歴史である。でも今のイスラエルは圧倒的な軍事力で攻めてくるイスラエルの後ろには巨大なアメリカは存在している。だから聖書の時代とは違っている。これまではイスラエルに同情的なことはあった。それはユダヤ人が2000年も迫害されてきたことである。だからおそらくそのことでナチスにも大量殺戮されたとかでヨーロッパ人が贖罪のためにイスラエル支援していたのかとなる。そして今こうして迫害されたユダヤ人がアラブ人をイスラム教徒を迫害するということはどいうことなのかとなる。

でも今は人道的な見地から世界を人間を見る。イスラム教だからどうのこうのでなくキリスト教だからイスラム教徒とキリスト教徒とか宗教で分けるのではなく人道的見地からどっちにしろ殺し合いになり子供まで犠牲になるということに対して共通してやめるべきだどんなそこでなんとか仲裁して戦争をやめさせるべきだとなる。ただハマスとはテロ集団でありテロは世界的に許されないとなる。

いずれにしろ世界第三次大戦の不安が高まっている。それはロシアの背後にゴグの背後に巨大化した中国が存在して米中対立がありそれが台湾侵略とかになり日本まで影響するとまさに第三次世界大戦になる。そこで日本の立ち位置がどこになるのか今は欧米側にある。旧約聖書の時代はへブル人はエジプトでも強大な国と戦ったとしてモーゼが杖一本で神に導かれ戦ったのである。
強大な軍備などなかったのである。だからイスラエルの背後に強大なアメリカの軍隊があるのとは違っていたのである。
そしてテレビの討論でイスラエルはアメリカの内政問題だと言っていた。アメリカにユダヤ人が多くいて重要な地位についている人も多いからである。イスラエルはイスラエルで独立国家ではなくアメリカの州とも言える、だから内政問題だとなる。

でももしかしたら日本がイスラム系でありキリスト教系の欧米側であれその中立的な立場にありそこで仲裁役になりうるかもしれない。でも今は日本の国力は減退しているからそれもなかなか難しいだろう。でも何か確かに二つの陣営に分かれて世界第三次大戦の予兆は感じられるから恐怖なのである。イランの後ろにはロシアがいてロシアの後ろには中国がいる。中国はアラブよりであり中国が介入してくれば台湾問題があり世界第三次戦争になる。中国が台湾に攻め入れば日本は欧米側につくことなになるからである。


機会主義者のプーチンはイスラエル・ハマス戦争が拡大し、米国の支援が分散するのを望んでいる。習氏は米長期国債の売却と台湾海峡という2つのカードでバイデン氏を揺さぶることができる。私たちは第三次世界大戦に向かうのか、それとも米中両大国が協力して安定化を図るのか。世界はまさに運命の分かれ道に立たされている。

われわれはいま世界大戦「一歩手前」に、そして米国と同盟国は著しく分が悪い



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2023年10月15日

茶道がなぜ日本から生まれたのか 【日本の日常生活から生まれたわびさびの世界―大陸ではgrandなものが好まれた】


茶道がなぜ日本から生まれたのか

【日本の日常生活から生まれたわびさびの世界―大陸ではgrandなものが好まれた】

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●薄茶と濃茶の違いって?

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密室に濃茶を飲みつ交わりぬ紅葉の色の赤さを増しぬ

お濃茶のお茶碗は、楽焼の楽茶碗のように柄が入っていない格式の高いお茶碗が使用されています。

一般的によく設けられているお茶席は大体がお薄なので、茶道を習っていない方は馴染みのある方がお薄だと思います

茶事では、招かれた客は座敷の寄付き(控えの間)で
身支度を整えて他の客が集まるのを待ちます。
客が揃うと、茶室の庭(露地)にある待合で待機します。

茶事では、招かれた客は座敷の寄付き(控えの間)で身支度を整えて他の客が集まるのを待ちます。

茶道というとき客をもてなすことから始まった。茶というとき別にお茶は食事の後に飲んでいた。何かご飯を食べた後に茶碗でお茶を飲む。だからその茶碗を特別のものとして作って飲んだのはお茶の始まりともなる。なぜ茶の湯のの茶碗が大きいかとなればやはりご飯を食べる茶碗が大きいからである。

だから風流にしても文化にしてもそれは日常の生活から生まれたのである。そもそも俳句でも基本は日本の四季という自然があり農業はあって俳句も生まれたのである。
だからカルチャーとはcultivate【耕す】ことにから始まっていたのである。アグリカルチャーのアグリとは土でありカルチャーは文化であるから農業そのものが文化だったのである。

●外国ではGRANDが好まれた

雄大な、壮大な、盛大な、豪奢な、華やかな、威厳のある、堂々とした、偉い、遠大な、崇高な

この言葉が好まれるのは外国の建築でもなんでも豪勢なものが多い。それはやはり大陸では王様がいてそこに富が集中する。だから中国のように始皇帝とか地下まで大宮殿を造りそこでなお生きようとしたのである。またヴェルサイユ宮殿など見ればわかるように贅を尽くしたものとなる。ただその対象として宮殿内に農家を作り豪華なものと対象的に質素なものを作った。それが日本のわびさびの世界となる
なにかベルサイユ宮殿を見ていると疲れるからである。
つまりそうした豪華なベルサイユ宮殿とは日本の文化は正反対である。その原因はまた日本自体がそうしたい大陸とは違って贅沢のできない王様でも富が集まらないためにそうにもなった。

日本はそもそもそうして質素な生活をしていた。またそれはそうならざるを得なかった事情がある。今でも庶民の家は狭いからである。つまりそもそもは日本人は茶室のような狭いところで住んでいたともなる。江戸時代の長屋などがそうである。また現在でも外国から見ると日本の家はうさぎ小屋だと言われるのもそうである。土地も狭いし豊かになれないからそうなったのである。でもそのために逆に質素な茶室を作るそれが一つの日本的文化となったのである。

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。  栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった

これにも通じているのが茶道でもある。そして人の出会いを演出する場を作ったのは茶室である。待合というのがありそこで茶室に入り出会う人出会う人とを待つ待っている。直接会うのではなこで待つということで何か出会いを演出する
●待合があり待つ時間が人間的時間を作る

奇妙ではあるがなぜ鉄道の駅というのに惹かれるのか。それはそこで待つ時間があるためなのである。そこで電車がくるのを待っている。親しい人が来るの期待をして待っている
その待つ時間が人間的時間になっていたのである。また別れる時もそうである。駅では別れを惜しむ時間になって時間を持つことになったのであるなっていたのである
意外と現代ではそうした待つ時間とかは無駄なとして価値無いものとして見られる。でも待つ時間が人間的な時間になっていたのである
だから待合というのがあるのはそこに人間的時間を作り出したとなる。
とにかく現代は効率的とか無駄をしないことが第一になる。そこで待つ時間というのは無駄な時間になってしまうのである。
茶の湯とはそもそも忙しい日々の生活から離れて人が出会い親交を深める。それは日々の日常の生活から遊離した場所だとなる。

面白いのは薄茶と濃茶があり薄茶は普通に飲むものだけどこちらは濃厚なものでありそれはまた密室の中で濃厚に人が交わるともなる。そこで使う茶碗も特別なものとなっていたのである。
いずれにしろやはり茶道は日本の文化であり知る必要がある。ただ現代でわは何か茶道というと日常生活から離れて特別なものとなった。第一本格的な茶道の世界となれば面倒になる。
そういう暇を持ってる人は少なくなった。私自身もそんな茶の湯をを楽しむという暇はない。今や家事に追われているからそんな面倒臭いことをできないのであ。何かまどろっこしくなっているのである。そんな手間暇をかけてそこに時間を費やすということがそういう時間の余裕が現代にはなくなったのである。

そのことはまさに現代の余裕のない生活となってしまっていることは確かである。日々時間に追われて待つ時間がない。
それは鉄道の駅でもそういうことが言える。もうそこで十分でも待つことは長く感じられるからである。それで高速道路のSAでは待つ時間がないのである。食事でもしてトイレでも用を足せば去るだけだとなってしまうのである。だから鉄道の駅で待つということはそこに人間的なものは生まれていたのである。

だからこそ車社会になったとき社会そのものが人間そのものはどれだけ変わってしまったかそれをこれまでも書いてきた。車には何かまず待つ時間とかない。ただ目的地にまっしぐらに行くだけである。途中は省かれるのである。旅は道連れ世は情けはなくなったのである。だから人間そのものが殺伐となってしまったのである。それは世界的に共通していることであり大都市ではどこでもビルが建ちと高層ビルが建ち似たような風景になっているのである。だから大都市には文化は無いのである。文化とはその土地土地を耕すということからきているのだからその土地土地の風土とか土から離れたら文化もないのである。

●現代社会では茶の湯を楽しむ時間の余裕がない―車社会の影響

だから現代では1000万の大都会とかあっても文化は生まれないのである。それは世界的に共通した現象なのである。それがもし車が走らないとこがあったらまるで江戸時代に戻ったのような不思議な感覚になる。それをこの辺でわ原発避難区域になった小高などで感じたのである。車がほとんど通らないからである。
でもそれが逆に街自体が寂れた間ものとなってしまったのである。でも今の車社会が日常的になったとき車が通らないということは逆にその社会までがまるで違ったものになる。
だからどっちにしろ車というのはどれだけ人間社会を変えたか分かるのである。そこにはプラス面もありでも必ずマイナス面もある。でもこれだけの車社会になったときそのマイナス面を感じるようになった人もあり見直すべきだとなるのである。

とにかく戦前でもさらに江戸時代でも時間の感覚が違ってくる。江戸時代のように寺の金が時報になっていればそれは自然のリズムに近いから時間の進むのが遅いのである。今のように1分刻みで時間は計られない。だから今感じている時間と当時の時間の感覚は相当に違っている。そして今のようにめまぐるしく車が行き来したり何か追われる感じはしない。時間はゆっくりと過ぎていたのである。時間を感じる時環境によって相当に違ってくる。だから車が通るのと通らないのでは時間が時間の感覚が違ってくるのである。
もし車が通らなければ時間はゆっくりとすぎて時間の感覚が違ってくる。だから時間の感覚というのは時計では測れない。その環境とか時代の影響を受けて時間の感覚というのは違ってくるのである

2023年10月13日

イスラエルの問題の複雑さーエゼキル書の予言 【人間の業として土地争いが戦争の原因】


イスラエルの問題の複雑さーエゼキル書の予言

【人間の業として土地争いが戦争の原因】

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●なぜ戦争になるのか―土地争いでなる

なぜ人間は殺し合う戦争が止むことなくあるのか。その一つの答えが土地争いにある。そもそも戦争はどうして起こるのか。それには確かにいろいろな原因はある。でも基本的に戦争はなぜ起きるのかというと土地を巡る争いから戦争になってきたのは人間の歴史だと思う。なぜならその土地を巡る争いというのは現代でも終わることなく続いているからである。それは国と国の争いだけではない。個々人の間でも家の間でも土地を巡る争いというのはありそれが揉め事の第一にあり土地を基本にして人間の生活があるからそうなる。

私の家でもわずかな土地でも奪われたことがありそれが私の代でも恨みとなっているのである。その恨みは一代で終わらず次の第代まで続くのである。国にしてもそれは土地を基本にして領土があって国がある。だから領土を持たない国はない。
そして戦争とはなぜ起きるのかそれは基本的には土地を巡る争いである。ここは私たちの国の土地だという時ほかの国の人たちが奪いに来れば当然戦争になるのである。
なぜロシアが北方領土を自国の領土としているのか。そこはもともと日本の領土なのである。でも日本は戦争に負けたからロシアの領土になったのである。それは理不尽なことなのである。それでロシアとは友好関係が保てないのである。
つまり日本の土地を奪ったのものはロシアだからである。またウクライナ戦争はなぜ起きているのかそれも土地を奪ったということで戦争が起きる。ただそこはもともとロシアだったという理屈で戦争にもなっている。
つまり人間の争いの起こりは土地を巡る争いになる。

日本の国にして日本にしてもやはり戦国時代がありそれは土地を巡る争いから始まっている。入会権の争いがありそれをめぐって山を所有する争いになりそれに大名は応援して戦争になったとかある。
また丸森の木材資源をめぐって米沢藩と伊達藩と相馬藩が争った。これはめぐる争いだったのである。土地もこうして常に争いの元としてあった。だから返って農業社会になったとき争いが熾烈なものとなったのである。なぜなら農業というのは土地なくしてあり得ないからである。

●太平洋戦争も満州に農業するため土地を求めたことが原因

それで例えばなぜ日本は太平洋戦争まで突入したのか。その原因もまた土地にあったのである。何故ならその時農業が主なる産業でありその農業のためには土地を必要としたので。それでその頃日本は島国であり土地が足りなそれで新田を作るために狭い領土をだんだん畑やら海側を干拓してた田にしたのである。それも限界がありその土地を求めて満州まで進出したのである。そこには広大な土地があり農業するにはその土地を手に入れればいいとなったのである。

だから農民は満州のような寒いところでも米を作るために努力したのである。それはそのとき農業が主な産業でありその農業をするためには土地を必要としたからそうなったのである。
結果的に日本はその土地を手に入れるために満州を領有したのだがそれがかえって災いとなり戦争で300万人も死んだという犠牲を払ったのである。太
太平洋戦争の原因は主なものはやはり満州に進出したことにあった。それが仇あだとなってついにはアメリカまで巻き込んで大敗北となり300万人も死んだのである。
そして今回のイスラエルの問題もやはり土地争いが原因になっているのである。イスラエルはすでにパレスチナ人がそこに住んでいたのだからそこにユダヤ民族が入ってきてそこが自分たちの国だだからパレスチナ人は邪魔だとなってしまったのである。
その理由は2000年前にイスラエルの国がローマ帝国に滅ぼされユダヤ人が離散したことである。そしてイスラエルはアブラハムは約束の神から約束の地として与えられたものである。そのアブラハムを祖とする宗教がイスラムキリスト教ユダヤ教でありキリスト教でありイスラム教なのである。その三つの宗教の聖地がイスラムなのである。

●なぜ遊牧民にエホバが現れたのかー土地をもたなかったから

神が現れたのは遊牧民だったのである。羊を飼って一定の国をもっていない遊牧民だったのである。遊牧民から生まれたのが一神教の信仰である。それでイスラエルに対しイスラエルに関して誤解しやすいのはイスラエルとは砂漠でありその生活の基本は羊を飼うことである。
またラクダなどが泊まる隊商宿代わり砂漠の中で生活できる人たちだったのである。
ではなぜ砂漠で生活する遊牧民に神が現れたのか
それは人間というのは土地を基本にして生活している。だからこそ土地が最も大事であり命ともなる。でもなぜ農業している農民には神が現れなかったのかとなる。

 カインは農耕を行い、アベルは羊を 放牧 するようになった。 ある日2人は各々の収穫物を ヤハウェ に捧げる。 カインは収穫物を、アベルは肥えた羊の初子を捧げたが、ヤハウェはアベルの供物に目を留めた
バウルは乾燥している地域では農業に携わる人々から豊穣神として崇められた

農業が一神教のエホバから嫌われたのか、そしてその神を偶像を神の敵対者にしたのか?
そこに共通しているものは何なのか。つまり農業は土地を元にして土地から離れることはできない。だからこそ土地にこだわらない羊を飼う遊牧民に一神教のエホバが現れたのである。

そしてキリスト教でもこの世にいることは異邦人であり一時仮の宿なのである。それは遊牧民なら生活上肌で理解する。この世は永住する場所ではない。本当に永住する永遠の都はこの世にはないのである。そのためにその教えを伝えるのは遊牧民が適していたのである。
だからなぜイスラエルに今また深刻な争いが生まれたのか。それはまさに2000年間も世界を流浪したユダヤ人が国を持たない為に起きた事件でもある。ユダヤ人にとっては国を持つことが悲願でありその国とは2000年前にあったイスラエルなのである。そのことに執着した結果としてそこにはすでにアラブ人が住んでいて土地をめぐって熾烈な争いにもなったのである。
ただユダヤ人というのはなぜ2000年も国も持たず流浪してそれなのに強い勢力を持っているのかということである。
そしてなぜユダヤ人は優秀なのかということである。ノーベル賞の2割がユダヤ人でありグーグルとかフェイスブックとかの創始者はユダヤ人でありまたメディアはユダヤ人が経営しているのである。

つまりユダヤ人は滅びていない。土地を領土がないのに国もないのに滅びていないのである。それはユダヤ人は神に選ばれた民族であり選民であるから神は保存して残したともいわれる。聖書での記録ではヘブル人は神に選ばれた人たちであり神に守られているとされる。聖書では必ず神に選ばれた預言者がいてそれは神の聖意お実行するものとして尊ばれたのである。キリストもうその預言者の一人なのである。
ただキリストが出現することによってエホバの信仰はユダヤ民族だけではない世界中の民族に平等にもたらされるようになったのである。だからユダヤ民族だけを特別な選民として神が助けるということは必ずしもなくなったのである。
そもそもは神はこの世に神の国を作らない。もし土地に根ざして神を作れば神の国を作ったとしてもその土地をめぐって国々は必ず争うようになるからである。イスラエルもカナンの地とはあくまでもそれは天の神の国を目指すものとして象徴として与えられたものであり本物の神の国はこの地球には作れないのである。だからこそこの世では必ず土地を巡った争いが終わることなく続いている。その土地から離脱しない限りおそらくこのように永遠の平和など来ないのである。

ただいずれにしろユダヤ人が2000年前にあった自らの土地に帰還するなどということは考えられないのでる。だからこそこれを契機に世界動乱にもなりハルマゲドンにもなるという恐怖にもなるのである。すなわち土地をめぐって争いがありそれがカルマとなり人類最終戦争ともなり人間が滅びてしまうという恐怖にもなるのである。
現代はそうした宗教より人権というのは宗教を超えて重要視されるようになった。宗教が違っても一番大事なのは人権だとなったのである。パレスチナ人が傷つきイスラエル人が傷つきそれを見た時どっちにしろ同情するとなる。それは宗教と関係ないのでそこに苦しみ傷ついた人があれば宗教と関係なく哀れと思い助けるということにことが人権なのである

●宗教の争いの背後に必ず利権争いがある

宗教は関わると例えば日本民族は優れていて天皇陛下は現人神だとかして他民族でも殺していいとかなる。つまりそこでも宗教がかかわるとナショナリズムとなり多民族を殺していいとなってしまう。
でももし人権主義だったらヒューマニズムなら宗教と関係なく他者が苦しみ傷つきそのときは助ける哀れと思い助けるべきだとなる。
だから宗教というのはカルト宗教でもそうだがとにかく自分たちは神仏に守られているとか助けられるとかなってそれがエキセントリックになり争いともなる。
そして土地を持つということはまた権力を持つということにもなる。何か宗教の争いのようにみえてて実際は権力を持つと宗教は必ず争いになる。例えばイギリスのアイルランドでカトリックとプロテスタントは争っていた。でもその原因が宗教の相違というよりカトリック系の人たちが有力な地位に就いているとか経済的に有利だとかってそれが争いの原因にもなっていたのである。そういうことも宗教には多い。

日本でも創価学会の公明党はなぜ国土交通大臣になっているのか?それは枢要な権力なのである。当然それに不満な人たちが出てくる。それは宗教に反対しているというのではなくなぜ得しているのかということだけである。人間はなんでも損得で考えるしそれが一番わかりやすいからである。それでもし宗教で得するとなればご利益があるとなればその宗教に属することにもなる。

だからこそ創価などはその目的は政権奪取であり日本を権力をもち支配することである。そこにまた宗教が関わってくるとややこしいことになるのである。つまり土地から離れて人間がありえないように人間は権力から離れてありえないともなる。もし宗教でも自分たちのにとって利益があり有利だとなればそっち側につくことになる。
つまり宗教にとって何らか権力を持つということは問題なのである。だからこそキリストでも釈迦でも無権力であり食べるものすらなく乞食して与えられたとかなる。それで布教していたとかなる。そこには何の権力もない家すらない食べるものもないそんな状態だからこそ一切権力とは関わらず争いとならないとなる。

だから本当は人間は宗教だったら権力を持つことは危険である。なぜなら人間は宗教というよりその権力に目を付けるからである。その権力を得たいと言うために宗教もあるとなってしまう。そうなっているのは今のカルト宗教である。そこで立派な神殿であれ聖堂であれそういうもので庶民を支配するともなる。だから宗教というのは一つの人民を支配する道具ともなるのである。カルト宗教は宗教を道具にして人民を支配するためにあるからである。

●なぜフランス革命で政教分離になり人権主義になったのか

いずれにしろなぜ宗教フランス革命で宗教は否定されて人権主義になったのかヒューマニズムになった。それはあまりにもカトリックとか宗教の弊害が大きくなったからである。そこで政教分離の法律も生まれた。そういう経過があり宗教は権力と一体化するほど危険なものがないのである。別に何の権力も持たなかった。キリストである釈迦ならそんなことはない。一旦権力を持つときそこに宗教は大きな弊害をもたらすのである。

現実に日本の太平洋戦争でも天皇は神でありその神のために死ぬなら本望だとして日本民族は滅びる瀬戸際でもあったのである。でも私は天皇ではないとして神ではないとして天皇はが宣言したことにより日本民族は生き残ることができたとまでなる。
でも今は人権主義になり国連とかで共同管理するような場所にすべきだと思うのは。ただユダヤ人にしてもシオニズムとかの民族主義が勢力を持つと問題が起きる。もう旧約聖書のように神に逆らう民族は抹殺しろとかなってしまう。それはあくまで旧約聖書時代のものであり今はやはり人権が重んじられることで共通認識を持ち時代である。

エホバは個々人にあらわれるものおであり一国に特別味方したりはしなくなったのである。だから依然として選民思想の宗教であるがある特定の民族とか国とかを関係なくエホバは現れ導くのである。内村鑑三はそのこと言っていた
宗教でも宗派があり対立してそれが利権で争うことになる。その弊害が余りにも大きすぎたからである。だからまたイスラエルでイスラム教徒と戦う十字軍の再現となる。ハマスはそれを狙って攻撃した。それに乗れば世界大戦になるから怖いのである。

●エゼキエル書予言の恐怖

だからイスラエルでも確かにその土地が2000年前に自分たちの土地だったということはわかる。でもそうして土地を持ち国となるときその土地をめぐって熾烈な争いになっているのである。それは個人でも土地を巡る争いというのは熾烈なものになるのである。だからこそイスラエルの国がまた建国したことは意味があるにしても問題だったのである。そこは確かにユダヤ人の聖地でもあるまたキリスト教でもイスラム教の聖地でもある。
宗教でも宗派があり対立してそれが利権で争うことになる。その弊害が余りにも大きすぎたからである。だからまたイスラエルでイスラム教徒と戦う十字軍の再現となる。ハマスはそれを狙って攻撃した。それに乗れば世界大戦になるから怖いのである。

メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。今、わたしは、あなたに立ち向かう。わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。
ペルシヤとクシュとプテも彼らとともにおり、みな盾とかぶとを着けている。
(エゼキエル38章1〜5節)

これを今の世界情勢から見るとはゴグとはロシアのことであり今そこでウクライナと戦争している。またペルシャとはイランのことであり今回のハマスを支援していたとされる。するとこの聖書の予言は今実現されるのかとなる。それも怖い話である。だから2000年後にイスラエルがわユダヤ人国家となることが世界に大きな影響をもたらす。人類滅亡ともなるともなる。だからこそこのイスラエルの問題はいくら日本は離れていても恐怖になるのである。

posted by 天華 at 17:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

秋になり飯館村に行く【秋の風、秋の蝶、実り、秋晴れ、草の花、山津見神社】


秋になり飯館村に行く【秋の風、秋の蝶、実り、秋晴れ、草の花、山津見神社】

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月舘の方へ行く道と迷う

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六本木

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佐須村ーここは実りがないが他ではわずかだが実りがあった

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吾妻嶺の連峰

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山津見神社に行く道にある松^−この松はいい松である


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これは城の原型となっていたのか、城にみえるからである

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家の前畑に老婆や秋の朝
六本木我がまた来たり秋の風
山の上のレストランや秋の蝶
不動なる山を前ににし実りかな

久々に吾妻嶺望む秋晴れや佐須の峠を我が越えてゆく
飯館に一本の松か変わらじや山津見神社へ秋の日行きぬ
この道の家もまれにし遠きかな石一つうもれ秋の暮れゆく
石一つ埋もれてあわれ遠き道我がまた来たらむ草の花咲く
秋の蝶あまた舞うかなこの道の行く人もまれにここはにぎわふ。
飯館の森の深き何鳥や鳴く声聞きて秋になりしも

家の前の畑なら老婆でも庭の延長のようになり仕事ができるとなる。
佐須の峠を久々に超えて吾妻嶺を望む。途中六本の木がある。だから六本木となずける。でも六本木となると東京の六本木をイメージする。ここは全く人もまれにしか通らない道である。
人間はこうしてイメージするとき何か頻繁に情報として入ってくるものをイメージしてしまうのである。

霊山の虹彩館で芋煮を食べ飯館村に向かう。とにかく飯館村は広い。今年は暑くて来れなかった。だからさすの峠を越えて吾妻嶺を見たとき気持ちよかった。
何か飯館村の道の辺に埋もれた石がありそこに草の花が咲いていた。森の中から何鳥なのか鳴く声が聞こえた。
人も石のようにうもれてゆくのかとなる。
それから黄金色に稲穂が実っていた。ただまだ全部ではない。もその実りがあって村も生きるとな。不動の山があり実りがあり人もそこに定着できるのである。ただ飯館村の状態が今どうなっているのかそれが分かりにくいのは飯館村は広すぎるのである。森の中に点々と家がありそこに人が住んでいるのかどうかもよくわからないのである。
立派な家があると見るとそこは電気関係の会社であった。つまりどうしも今の時代農業だけではゆたかになれないのである。ただ賑わっているのは道の駅となっているまあ時間である。そこでは必ずよって休むからである

それにしても栃窪村に熊が出没したのかその注意を呼びかける案内があった。栃窪村で熊が出没したということを今まで聞いたことがない。ただ今日テレビを見たら日本全国で熊が人間の住む場所に出てきている。その数が多いのである。今年の暑さも関係して餌不足で人里に出てきているのである。だからキノコ採りに行って被害にあった人がかなりいる。
だから今年は簡単に森の中とか山の中にはいれないともなるかもしれない。ただこの辺ではめったに熊が出るということはない。でも餌不足でやはり熊が出てきているのだと思う熊
とにかく久しぶりに運動して自転車で運動して気持ちよかった

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栃窪村に熊がでたというのは初めてである。もともとこの辺は熊が出ない場所である

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大倉から佐須村へ行くは橋ができたが車は依然として通れない




2023年10月11日

相馬市と元の南相馬市の原町の相違 【人間の営みと共に自然が映えるのが文化ー原発事故で営みが失われた町に村】


相馬市と元の南相馬市の原町の相違

【人間の営みと共に自然が映えるのが文化ー原発事故で営みが失われた町に村】

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相馬市は城下町 by bing image creator

水墨画が似合っている

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街中にとりどりの花や原町に賑わいのあり秋となり

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●南相馬市原町区は明治に鉄道の機関区となり発展した

地域でも福島県という大きい県の単位の広さの地域もある。でも狭い範囲でも例えば相馬藩内でも城下町だった相馬市と前の原町市とは雰囲気も違っていた。それはなぜなのか。それは外から来た人には分からない。相馬市に行くと何かしんみりとした感じになる。市庁舎とか入母屋風にして何か古風な感じになる街町全体の雰囲気が元の原町とは違っている。
原町がなぜ相馬市と違ったものになったのか。それは明治維新を原町は駅前通りから発展したからである。原町機関区と同じようにそこから森林鉄道が発展して木材とか石材とか資源を東京に貨物列車で送るようになったからである。
いわき市は元は平市であり常磐鍛錬で有名なように石炭を東京にやはり貨物列車で運ぶようになった。
だから相当に鉄道が街づくりに影響していたのである。

鉄道はそもそも北海道でもそうだが各地に石炭を運ぶものとして作られた。人を運ぶより物を運ぶことを鉄道はから始まったのである。鉄道は乗客として乗る時相当に贅沢なものだったらしい。運賃が高かったからである。だからそんなに乗客としては利用されていなかった。何か母に聞いた話では原町から昔の中村市今の相馬市まで行くに運賃が高くて簡単に行けなかったと聞いた。つまりその頃鉄道で旅はできたとしても金持ちしか利用していなかったかもしれない。
子供の時長い貨物列車を近くで見ていた。その頃はまだ鉄道で荷物を運ぶことが多かったのである。六号線にしてもまだできていらなかったからである。
そしてなぜ原町と相馬の相馬市の街の作りが違っているのか。相馬市は元は中村であり駅前通りというのは作られなかった。
城下町であり碁盤の目のように細い路地が作られていたのである。だから原町とは街の作りも違っていたのである。

●原町は原っぱだった

原町という名のようにもともとは街になっているところは原っぱだったのである。雲雀が原の原があるようにそこは野馬追の訓練所だったのである。それで原町村があり騎馬武者一騎が野馬追に出ている。村としても小さな村だったのである。原町が発展したのは明治以降鉄道は通るようになってからである。
だから城下町であった相馬市と元の南相馬の原町市は雰囲気が違っているのである。ただこれは外から来た人にわかりにくい。確かに相馬市は城下町でも城もないし外から来た人にわかりにくい。
でも長年住んでいれば相馬市と元の原町市は雰囲気は相当に違っている。それでその街の特徴を考えた時原町市という名を合併で消したことは失敗だったかもしれない。相馬市というのはここはもともと相馬氏が支配した場所だから合っているとなる。
でも原町市は何か南相馬市としたことが一見良いように見えてやはり街の特徴を考えた時その名前と合っていないのである。なぜなら明治以降を考えた時原町市は相馬市より原町機関区となり街が作られたからである。

それは今でもその影響は明らかにある。原町市に元の原町市に行くと何か相馬市と違って近代的というか街のにぎわいがある。それで不思議なのは例えば六号線沿いの写真を撮ったがそこにとりどりの花が咲いていた。それが原町に似合っていたのである。また原町の道の駅も賑わっていた。相馬市の道の駅は田んぼの中にあり人もあまり人が入らないのである。
だから原町市は街として活気があり生きているという感覚になる。確かに駅前通りは廃れて賑わいは消えたとなる。どちらかというと六号線沿いが活気がある。それは車社会が影響してそうなったのである。またイオンは町より外れたところにあるがそこで自転車を修理してもらった。鹿島区は自転車屋が一軒もなくなったからである。
だからイオンも街に欠かせないものとなっている。ただ相馬市ではイオンが撤退してそれがかなり影響している。いつもあそこで休んでいたからそれができないので困る。イオンはなくなったことで町全体がさびれた感じになったのである。

また中村喫茶店もまくなった。それはレンガ造りで古風な感じがして城下町に似合っていたのである。何か相馬市に合っているのは例えば茶室などを作ってそこで安らぐというのが似合っている。
やはりその街の特徴を活かす時歴史的なものは欠かせないのである。相馬焼の茶碗で茶室でもてなすという時城下町の雰囲気を味わうことができるのである。でも相馬藩は6万石でありそうした伝統的なものが必ずしも残ってはいない。
ただなぜ相馬野馬追があるのかというとそれは今の街とはそれほど関係しない。相馬藩内の村から郷士がいて農業しながら侍だった家から出るのがほとんどである。
会津あたりだとやはり大きな国だから城下町となりそこでは茶の湯も伝わりそういうもてなしができるのである。

●人間の営みがあり自然でも映えることが文化である

とにかくそれぞれの市町村でもその独自の雰囲気がある。飯館村となると森の村であり森に囲まれているから村でもある。夏は涼しく冬は寒いとなる。でも標高が高いからそこが別世界となっているのである。このように相馬藩内でも雰囲気は違ったものになる。ただ飯館村などは別の世界だからわかりやすい。相馬市とか南相馬市の元の原町市とかの区別は分かりにくいと思う。
それで一枚の写真を撮った。そこにいろいろな花が咲いていた秋になり菊もも咲いていたがひまわりも咲いていた。だから何か元の原町市にふさわしいと見た。
つまり花でも自然そのものというのではなく人間の営みがあり街が形成されてそれが花でも調和して見る。原町のいい点は新田川がありそれは浅瀬の川であり瀬音ゆかしきとか仙台の青葉上恋歌のようになる。浅瀬だから常に瀬音がせせらいで流れているからである。そしてその川が街のはずれで街中を流れている感じにもなる。だから街の特徴を作るのは街自体だけではなく自然も一体となって作られているのである。

それでこの辺で原発事故で南相馬市でわは小高区とかが避難区域になりそこに行ってみると車さえたまにしか通らない。だから街自体が死んだようにも感じるのである。確かに車が通らないから静かでいいともなるが空き家が多いし何か街が生きていないのである。
するとやはりそこに花も映えないということもある。つまり自然ですら人の営みと関連して生きるということがある。ただ高山植物とかは人は関わらず咲いているから美しいとなる。でもまた人間の営みがありそれで自然でも花でも生きるということがある。自然でもやはり人間がかかわりそこに文化が生まれる。それで京都とかは魅力あるものとなっているのである。
仙台市でも広瀬川がありまだ盛岡市でも二つの川が流れていて岩手山が間近にそびえるから外国人に人気があるというのもわかる。東京には全く自然というのが感じられない。でも江戸時代にはベネチアのように縦横にに水路があって舟が行き来していたのである。。だから江戸の町は魅力あるものであった。

やはり人の営みまた生業があり自然と調和しているときそこに美が生まれる。それで橲原村とかで村総出で田植えしていたとき時そこに赤々とつつじが映えていた。それは人の営みと自然が調和して美しい光景となっていたのである。だから農村の風景でも早乙女が田植えのとき華やかに見えたのである。浪江町の請戸の早乙女の田植え踊りは有名である。
そのとき村でも活きていたのである。それが津波原発事故以後寂れてしまった。その時代時代の雰囲気がある。でもこの辺の変化はあまりにも変化が大きすぎたのである。ただここだけではない昔からあった村でも人口減少で維持できなくなっちる。要するに景観でも人為的景観がありそれは人間の手が加わったものでありそれが文化なのである。そもそも農業とはそうした文化だったのである。だからcultureと土をcultivate【耕す】となっていたのである

ラテン語耕地耕すこと」の (agri‐ 「土地耕地」+cultūra 「耕作」); cf.culture

こうして歴史とかふりかえると南相馬市と合併したけど何か街の特徴でも無視して名付けた。ただ相馬藩が一つであるから歴史を考慮したものだけど明治以降の歴史をふりかえるとやはりそぐわないともなる。つまり相馬市が中心になる。でも今の中心地は原町なのである。南相馬市となると相馬市に付随したものに感じるからである。
posted by 天華 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2023年10月10日

日本の地理は山が多くわかりにくい 【廃藩置県で地形とか無視して県単位では地理はわからない―東海道の旅の詩】

日本の地理は山が多くわかりにくい

【廃藩置県で地形とか無視して県単位では地理はわからない―東海道の旅の詩】


●海に囲まれていても海に面しない県

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海に面していない県

世界を空間と時間軸で見る。空間軸は人間の時間感覚ででは変わらない。でも空間軸にしても例えば日本であっても地理というのは分かりにくい。おそらく日本の地理が分かりにくいのは山が多いからである。

白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重山 い行きさくみ 敵守る 筑紫に至り 山のそき 野のそき見よと 伴の部を 班ち遣はし 山彦の 答へむ極み たにぐくの さ渡る極み 国形を 見したまひて

万葉集 第6巻 971番歌/

五百重山【いほいやま】 越えて国形を見るとなる

だから不思議なのは意外と海に面している県はこれだけであり少ないと思った。これだけ山が多いのだからもっと海に面してない県が多いと思った。ただそれは県単位で見ているからである
なぜなら福島県はハマナカアイズと分かれている。でも会津になると山に囲まれていて海は見えない。福島市とか郡山市のある中通りでも山は見えないのである。だから県単位で見ると誤解が生じる。海に面してない海が見えない地域は日本では多いのである。

確かに福島県では私の住んでいる浜道りでもいつも海に面している。海を見ている。だからこうしていつも海を見ている地域と海を見えない山を見ている地域とは相当に心境的にも変わってくる。また海に面していても太平洋側と日本海側はまるで違った感覚になる。それが心に相当に影響している。
海にに面していれば広い海を見ていれば心も開放的になる。でも山に閉ざされていれば何か心も閉ざされた感じになる。でも日本は確かに海に囲まれているがまた山にも囲まれているのである。だから国のまほろばというときそこは奈良盆地であり山に囲まれた平地なのである。そういう地域もまだ多いのである。

大和は 国のまほろばたたなづく 青がき山ごもれる 大和し 美 (うるわ)し       古事記・中巻 倭建命

日本はこういう地形が多いのである。

●地理は錯覚することが多い

何か地理というとき必ず錯覚している。なぜこの辺で老人の施設に入っている人が青森に移されたというとき青森というときこれも地理的に東北の端でありそんな遠くに移されたことはなかなか行けないから面倒だと思った。
でも実際は青森でも八戸であり新幹線では2時間くらいである。でも2時間だと仙台から東京までは行かないとしても30分くらいの差で200キロくらいありそれなりに遠いと思った。
でも八戸というとき何か青森という感覚が持てなかった。青森というとき弘前市に城があった所としてイメージする。青森市でも海に面して函館に近いと見る。
だからそもそも県単位で見ることは間違っている。県単位になったのは明治以降であり馴染みがないからである。そこには無理があったからである。

福島県が明治になったとき会津県、二本松県、磐城県になる案があった。これは今のハマナカアイズである。。そして浜通りになると阿武隈山脈にさいぎられて中通りの福島市の吾妻山は見えないのである。だから福島県でも地理的一体感は無いのである。それはそもそも明治以降の廃藩置県で地理的にも歴史的にも無理があったからである。
ただ福島県と茨城県は地理的に分かれている。茨城県は平地が多いのである。でも福島県に入ると山が多いのである。茨城県はもともと関東平野の中に入っているからみちのくに入る白河の関を越えると山が多いということである。だから地理的にわかりやすい。

でも多くの県境でもそこが地形的に境界となっているわけではないのである。ただ東西を見るとき関ヶ原が地理的にも風土的にも分かれ目になっていることは分かる。関ヶ原には春でもなお雪が残っているからである。そして近江に出ると風景も穏やかで春らしくなっているのである。
明確に風土的にも地理的にも境となるところが認識できないのも多い。宮城県と山形県は面白山トンネルを境に風土も景色も違ってくる。春でも面白山トンネルを抜けると山は雪におおわれて雪が残っているからである。ただこうして県の単位でその境が認識されるのはなかなかない。宮城県と岩手県の境はどこなのか。一ノ関は岩手県でありでも平泉になるとでもその境はよくわからない。ただ平泉は一ノ関から近い。芭蕉は来たのは平泉までのである。その西行でも平泉までは来たのその奥までは行っていないのである。

とにかく日本は山が多くて地理が分かりにくい。群馬県とか栃木県とかは山だらけでありわかりにくい。栃木県だと那須は平野が広がっているからわかりやすい。でも栃木県になると会津から山続きでありどこが境なのかもわかりにくくなるのである。ただ群馬県と栃木県は関東であり関八州であり東京の延長としても見る。でも山が多くて関東平野とも違う。
ただ関東でも江戸から静岡県の方に出るには箱根の山があり箱根は天下の剣となっていた。箱根を超えると東海道になり海沿いに街道は続いている。だから山を越えると日本では別世界が開けるということにもなる。

●東海道の詩

箱根の山は 天下の険
函谷関(かんこくかん)も 物ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳え(そびえ) 後に(しりえに)支う(さそう


春の東海道

小田原城前は相模湾
後ろは天下の剣の箱根の山
反りて高く見上げつつ
明日は越えなむ旅路かな

三島の宿の賑わいや草鞋脱ぎ
旅の疲れを共に癒すかな
その先遠しも太平洋に沿い
浪は騒ぎて鴎飛ぶかな

箱根を越えてそ東海道
沖行く船見て春の日や
駿河湾に魚踊り富士の峰仰ぐ
街の家並や道は真直に燕来る

花の盛りや波ひびき
次なる宿を目指すかな
松並木その間に見える富士の峰
春光まぶし海は光りぬ

京に行く人江戸に行く人
飛脚も行き交わる宿や
それぞれの旅や身の上も語り
一時の出会いに別れけるかな

旅は道連れ世は情け
惜しむ分かれや分去
見送り遠く消えゆきぬ
その日は帰らず思い出残る

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この東海道でも静岡県があり愛知県があるとしてもその境がわからないのであ。浜名湖が静岡県であり愛知県ではなかった。そもそも県単位で見ることが難しいからである。
大井川とかはやはり日本でも境として意識しやすい。特に川留めとかあるとそこが境と意識する。

ともかく日本全国を旅したから最初は地名に興味を持ち地理に興味を持った。学校の勉強では何か特別興味を持ったこともなく暗記と試験勉強で勉強きらいになった。でも人間は必ずこの世に生きればその人なりに興味を持つことがある。一番興味を持ちやすいのは地理である。旅に憧れるのはやはりあまりにも見慣れた故郷ではなくさまざまな地球の景観を見たいとなるからである。

それで私は学校の勉強では興味を持つものもなくその後の仕事もまともな会社に就職はせず流れ作業とこばかりさせられたから仕事が嫌になり家族に恵まれてただ旅をするようになりそれが仕事にもなったのである。ただそれは特別恵まれたことでありほかの人は20代でまともな職に就かなければそのまま何も身に着かないとなってしまうのである。
そして時間の過ぎるのが早い。何かぶらぶらしているだけでも時間は過ぎてしまうのである。でも旅したことによりそれが記憶として残されているからこうして回想して書いているのである


東海道春の俳句二十句
(歴史は地歴だから地理の理解が不可欠)







2023年10月09日

秋からすぐ冬になるのか (花でも野菜でも果物でも普通と違うー白百合、木槿、ノウゼンカズラ 水澄む)


秋からすぐ冬になるのか

(花でも野菜でも果物でも普通と違うー白百合、木槿、ノウゼンカズラ 水澄む)

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新田川は浅瀬の川である、真野川は大きから深く流れるところがある。
宇多川は狭い川であり魅力がないが上流の山の方にゆくと何か荒々し川になっている、川の表情もみんな違っている

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原町の道の駅でダンスをしていた、あだたらとかあさかのとかありあさかのは郡山市でありあだたらは二本松である
福島県が合同した踊りだった

鮮明に見るにはクリック拡大!


料理する厨の窓に秋の蝶

農家なれ前畑広く蔵に柿

石の倉芙蓉にオクラ畑に咲く

新田川水澄み流れせせらぎぬ

蔵に柿バス停残り夕暮れぬ


白百合の我に向かいて咲きにしをそのあと添える花のとりどり

遅く咲く白き木槿や雨しとと10月となり寒くなりしも

ノウゼンの夏の名残りと咲きにしをようやく散りぬ10月になり

雨しとと石を濡らしてようやくに秋となれるや家にこもりぬ

今年の暑さは異常だった。その影響は米でも野菜でも花でもあった。陽射しが強くこの辺では米でも普通に実っていたから影響ないと思ったが実際は直射日光が強くて影響があった。
野菜でも水分不足で硬くなっているという。みずみずしさがないということである。それは農家育ちの女性が指摘した。そういうことにやはり敏感なのである。。
庭の白いムクゲがなぜ10月になって満開になっているのだろうか。そして今日しとしとと雨にぬれている。
この木槿は8月のお盆の頃にさく。その前にも咲き始めている今満開になっている。二ヶ月も遅れて咲いたとなる。それもなんなのだろうと思う。あまりに暑くて季節がずれてしまったのだろうか。またいつもの季節より早い時期に咲いた花があるかもしれない。何か花でも咲く時期が狂ってしまったとなる。

蝉の鳴く声を聞く期間も短かった。だから秋の蝉も聞いたとしてもたちまち聞こえなくなった。そして秋バテにもなり体も異常化した人も多い。 2日前は秋時雨を感じたというのもまた季節の異常である。秋時雨は10月末であり11月になると冬になり時雨になる。何かこうして季節感覚が狂ってしまったのである。だから季語というのがあわなくなったのである。
そして今日起きた伊豆諸島へなどの津波警報も地震もないのに津波が来たのである。そういうこともあまり聞かなかった経験もしていない。学者も分からないという。推測で海底火山が爆発してそれで津波が起こったのではないかとしている。ただこのように自然現象というのは多様であり実際はあらゆることはか解明はされていないのである。最近のこの暑さは何なのだろうということも明確には分からない。

でも心配しているのはこの辺で起きた津波地震の前の年の夏はやはりこのように非常に暑かったのである。だから来年になるとその影響が出てくるかもしれない。暑さが影響して地盤が緩んだりするかもしれない。そして地震が起きて津波が起きるかもしれない。地震でもやはり天候とかとも関係しているからである。ただそのメカニズムは解明されていないのである

料理は面倒でできない。その台所の窓から黄色の蝶が飛んで消えたのを見た。狭い庭だが庭があるとないでではやはり違っている。なぜ日本で家庭というのか。家と庭があって家庭となっている。だから庭が一体化しているのである。ただその庭というのは農家の庭広い庭のことでありそこで農作業だどうしたから家と庭が一体化したのだと思う。ただ風流にして庭を利用して庭を見ていたのではないのである。元々は何でも実用的なものから始まっているからである。家の基本は始まりはやはり農業と一体化して作られていたのである。

なぜなら前田とある時その村の中心地になりなるなる。その村の草分けの家が家の前が広い田がありそこが村の中心地になったからである。なぜなら家の前に田畑があれば家と一体化して便利になるからである。遠くに田畑があればそこに行くまで手間になってしまうからである。そのときは昔は車もないのだから歩いて行くほかないし荷物を運ぶにしても手間になるからである。

原町の新田橋を渡った高平にバス停がありそこが自動販売機が置いてあって人が休む。そこに蔵があり柿が実り金木犀が咲いていた。他にも蔵があればそこは農家だったということがわかる。
でもバスは今も通っているにしても一日二三回くらいしか通らない、それもいつもがら空きなのである。だから無駄にも思えるのである。