2019年09月19日

縄文の抽象画(abstract JYOMON culture)


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Jomon period

 縄文抽象画(abstract JYOMON culture)                 
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a road in the forest

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JYOMON CREST

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A JYOMON FLOWER   
                     

Japan is a forest country, 70% still covered with forest
The population of the Jomon period was 200000 people and the Jomon people lived in the forest
There was a dark world, there were people who lived on the beach, but lived mainly in the forest
What was nurtured there?
Since it was a dark world and asked for light, the eyes of the clay figure became larger
The Jomon period lasted 10,000 years in Japan
Even if the Jomon people are original Japanese, the substance is not clear

2019年09月18日

綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(2) (照葉樹林帯の南限の地だったから・・)


綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(2)

(照葉樹林帯の南限の地だったから・・)

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外来系と土器と称される喜納東海・北陸地方の土器、あるいはその影響受けた土器が関東や東北地方から発見されると政治社会体制の変革によって各地に古墳が出始めることは
極めて関連があって、場合によっては東北地方の古墳年代も関東地方の古墳年代とほとんど変化がないことがあるだろう
今や〈未開の地)(辺境の古墳)という意識では学問姿勢でぱ史実の古代史研究は進まないだろう 

東北における古墳文化の成立と展開)
大塚発重   

古墳時代の海洋民について 西川修一

豪族とは安曇族である
さて、新聞記事の中で西谷正氏は被葬者に関して
「この地域の有力者・宗像氏と並ぶ豪族」と指摘されています。

この地域の豪族って言ったら、安曇族ですよね。
新宮あたりを中心に、阿曇郷があったほどですし…。

Q その安曇族と宗像氏の関係は?
A 両族は共存共栄していました。

その証しとして、荒雄の遭難事件が今でも志賀島では語り継がれています。

荒雄らを 来むか来じかと 飯盛りて 門に出て立ち 待てど来まさじ 
ほか九首                           <山上憶良>
(略)
荒雄の遭難事件は、官から対馬向けの食糧の運搬を請負った宗像部津麿が老齢を理由に志賀村の荒雄に交替を頼んだことに端を発する。荒雄は現在の長崎の五島から対馬に向け出航したのであるが、途中嵐にあって遭難、帰らぬ人となったのである。

四世紀の初頭、「邪馬台国」の東遷によって、それまで河内、大和にわだかまっていた物部氏族の一派が、近江を経て東海地方に東進を余儀なくさせられたのではないかということです。物部氏の一部は、おそらくナガスネヒコに代表される蝦夷と共に東を目指したと考えられるのです。 

大和王権が成立する前に物部氏とかが大きな勢力でありその物部氏がナガスネヒコと結び大和王権と対立した、蝦夷とは物部氏とかまた海洋民の安曇族とかでも古い氏族でありそれが東北地方に居住していた
そこに渡来人も混じっていた、伽耶の国のカヤ族もいた、そういう様々な人たちの連合体が蝦夷だったのである
だから大和王権にとって強敵となったのである

ただ相馬地方では物部氏の伝承があるにても明確ではない、物部氏系の神社もわからない、わかっているのはとにかく綿津見神社と山祇(山津見)神社がやたら多いのである
となると明らかに相馬地方は安曇族とかの海洋民がやってきた開いた土地だとなる、これだけ綿津見神社が多いことが証拠なのである
桜井古墳はその海洋民と関係しているのか?東海地方と似た様式であるとか東海地方と同じものが何か遺物として発見されたとかあり東海地方に特に静岡県に安曇氏の痕跡を多く残しているからその辺から移住した
ただ船といっても当時の船は遠洋航海は無理だとしても航海民は海を通じて海岸線にネットワークを持ちやすいのである
今でも船は他の港を利用しているし人間として関係を築いている、ネットワークがある
遠くでも港を利用するから関係が生まれる、つまり海というのは航海する道であり港は一時的に休憩する場となりやすいのである

それでいわき市から途中に港がありそこを経由して移動することは可能である
それよりネットワークが生まれるというときその港々に住みついているからその住みついた人の援護があり新しく安曇族でも一族として連帯があり案内もされるから海岸線に広がったとなる
その基は九州にあったが何らか東北地方に移動せざるをえない状況が生まれたのかもしれない、物部氏は仏教派の蘇我氏と争ったりして東北地方に逃れた、物部氏が一時は日本を支配していたと言われるからその痕跡を日本全国に残している
ただ物部氏系の神社は残っていてもわからない、綿津見神社と山津見神社は飯館まで残っている
山津見とあっても山の神社とは限らない、飯館村には綿津見神社もあるからだ、これは対になった安曇族などの神社なのである

安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し(古代難波の入り江に、阿曇江(あずみのえ、または、あどのえ)との地名があったと続日本紀に記録される)、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。この他に「志賀」や「滋賀」を志賀島由来の地名として、安曇族との関連を指摘する説がある

渥美半島は知られている、それは安曇族が定住した場所だからその名がついた、宗像(むなかた)も出雲から逃れて来たタケミナカタだとされている、出雲で国譲りして東北に逃れて来た、東北のズーズー弁と似ているというとき同じ系統だったのかとなる
相馬地方に綿津見神社がこれだけあるということは安曇族など海洋民がここに移住して飯館村の山の中に入り住みついた
海洋民は船の操作にたけていただけでなく様々な技術を要していた
だから農耕にも従事で来たとなる、佐須は焼畑地名であり焼畑を行ったのも海洋民であり安曇族だったのかとなる
縄文人は焼畑をしていないからである、そうした技術がもっていなかったからである
これは重要である、焼畑、鉄の生産とか農耕から航海術とかは海洋民によってもたらされたものなのである

一方、耕地利用率の低い焼畑農耕は耕作適地の不足をもたらす。そこで、この水辺民集団は組織的な植民活動を思いついて行動計画を作った。今からおよそ一万三千年前にその計画は実行に移され、突出した二つの技術、すなわち焼畑農耕技術と製鉄技術を独占する植民集団が、ランナ型植民方式による東進を!   

宮崎氏は南部朝鮮と北部九州を往来していた漁労民は海人族である穂積・安積(阿曇)であるとしている。半農半漁からその一部が水稲栽培に専門化した海人族は、未開拓だった海岸線のデルタをほとんど利用しつくし、しだいに川をさかのぼり、耕作可能な地を求めて日本全土に散っていった。その歴史は、穂積・安積(阿曇)の全国的散らばり方や、諏訪湖畔までさかのぼっていった実例が物語っている。

稲作伝播以前の日本は、文化的にはマレー・ポリネシア文化圏とつながっていたのです。イネが伝播する以前から日本では焼畑農業を行なっていましたが、そこで重要な作物だったのは里芋(タロイモ)と山芋(ヤムイモ)だったはずです。
 タロイモもヤムイモも、その栽培種は東南アジアが原産のものです。東南アジアの熱帯林に入ると、野生のタロイモやヤムイモを見ることができます。稲作開始以前の日本の農業文化は、マレー・ポリネシア地域の作物と農業技術が伝わって形成されたものと思われます。
 ちなみにマレー・ポリネシアの文化圏では、ヤムイモのことを共通して「ウベ」とか「ウビ」などと呼んでいます。日本語の「イモ」という単語は、「ウベ」が「ウモ」になまって伝わり、さらにそれが「イモ」に変化したものと思われます

具体的には、根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業、陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆など発酵食品の利用、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾などが照葉樹林文化圏の特徴として挙げられる。照葉樹林文化論を肉付けする形で稲作文化や畑作文化なども考証されている。

日本の文化は照葉樹林帯から入ってきた人たちがいた、その人たちと密接な共通性がある、だから言葉でもそういう人達が住んだ地域と深く関係して伝えられた、朝鮮半島に榊(さかき)とか樒(しきみ)とかが生えていない、寒い地域だからオンドルが生れた
そして魚がいても魚をとることができないからと倭人が魚をとることを生業としているからわざわざ韓国で招いて魚をとらせたという記録がある、韓国は遊牧民系であり照葉樹林帯の文化とは根本的に相違しているのである 、今でも海苔を韓国で作っているがもともとその技術はない、日本からまねたものなのである、そして韓国由来のものより日本由来のものが多い、韓国の伽耶地域にある前方後円墳は日本由来なのである、ということは逆に伽耶地域は日本府の任那があったように日本の支店のような地域だったのである
確かに一部には製鉄技術者などが入ってきたとしてもそれにまつわる神社があるにしても相馬地方だとむしろ安曇族系の綿津見神社が圧倒的に多いのである、だからここに注目せざるをえないのである、
そしてなぜ相馬地域に綿津見神社が多いのか?それはここが照葉樹林帯の南限の地だったからだろう
車輪梅(マルハシャリンバイ)が自生していた、それは奄美大島に見られるものだったからである
原町の多珂神社のすぐ近くにスダシイがあり神社があるのもそうである、南方系の植生の南限の地だったからだともなる

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列島東部における古墳時代の海洋民文化の重層性

この図のように海洋民というときそれは漁業だけではな、鉄の生産にかかわったり、農耕にもかかわる一集団でありそれらの集団が大挙この辺に入って住みついたとしか思えないのである、その証拠が綿津見神社や山津見神社が多いからである
その神社があるのは先祖を祀るから多いのである
そして海を渡り海からやってきたのだから海岸に上陸するから海岸が重要な場所となる
それで海岸沿いにある古墳は安曇族のものかもしれない、それは海から見える目印となるからである
そして当時の海は海が深く入りこんでいた、今回の津波でわかったように相当に陸地の奥まで海だったのである
するとその海が生活の糧となる、魚や貝類を食べる、鹿島区の桜田山の下では魚の骨とか鹿の骨が発見されている
江垂とは海が迫っていた場所だったことがこれも津波で明らかにされたのである

横手古墳群でもそこに縄文時代や弥生時代の遺跡が密集していた、つまりもともと縄文人や弥生人が住んでその上に安曇族とか渡来人が来て住みついた場所だったとなる、そこは海が相当に入り込んでいた場所であり海岸でもあった
鹿島区にはまた本当に古墳が多いのである、古墳の町なのである、桜井古墳は大きいのはやはりそこで大きな集団をまとめるものがあった、それがどういう集団だったのか?海洋民の安曇族と物部氏だったとなる
二つの石棺はその首長となるものが和合するものとして桜井古墳が作られたともなる
大田神社のある奥の多珂神社は多賀神社とは違う系統でありヤマトタケルが東征した伝説のタケミナトである
それは安曇族の海洋民がベースとなって作られていたのである  

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鹿島区で前方後円墳は二つしかないというとき一つは金銅双魚佩が出た寺内でありもう一つは塩アの船着にあった
ここは重要な場所だったのである、交易がおこなわれた市庭という地名もあるからだ
この船着のすぐ近くまで鉄道のトンネルをくぐり津浪が来ていたのである
ただ前方後円墳のある正確な地点はわからないが近くにあったことは間違いないのである  

なぜ日本が最初海洋民が入ってきたのは

森林深く道路は禽鹿の道のごとし(魏志倭人伝)

こういう状態でありすると海が交通にはいいのである、確かに海は危険なのだけど海岸線には入江が多い、だから湊がありそこから内陸部に入ってくる、だからなぜ鹿島区の塩崎に船着がありそこまで船が通っていたのか?
それは頻繁に通っていたのである、なぜなら曽我舟という大内の地名は船が遡ってゆくという地名だったからである
その船はどこから来たかとなると鉄を生産していた今の東北電力がある場所なのである
すると余りにも近いとなるが近くても日本は道がない、うっそうとした森に覆われていた
それから海岸は湿地帯である、すると船が交通には便利なのである
それで泉官衙跡まで新田川があるのに運河を作っていた、それも今なら短い距離なのである
でも湿地帯になっているから船で行くほかないのである
だから日本は原始の状態だと山あり森ありで通行しにくい、閉ざされた世界になってしまう
森というけどそこは鬱蒼とした森であり真っ暗な闇だったのである
そこに縄文人が住んでいた、でも縄文人は海岸にも住んでいた、魚や貝がとれたからである
そこは森とは違って明るい場所だったのである

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遮光土器の謎は目が大きいのだから大きな目をして見ようとすることだったかもしれない他に目が大きくしたものが中国でも残っている
目はやはり人間の中心なのである、目に力がないものは目を直視できないものは心も直視できない、汚れているとなる
そしてうっそうとした暗い森では余計に大きな目をもって見ようとするからそれで目が大きくなったともとれる
ただそれは森の中である、海岸だと海が見えて見晴らしがいいからそういうことがないともみる
でも大きな目はやはり原始的人間が自然でも見ようとする、見ることが大事だから目が大きくなった

いづれにしろ古墳時代は福島県から宮城県辺りまで巨大化した、数も多い
古墳時代は弥生時代であり稲作も行われたから東北が今までの辺境だという観念は見直すべきだというのはわかる

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相馬市史3(民俗編)

富岡でも綿津見神社が四八社とかあるとか港は船を通じて遠くでも人を結ぶ
相州浦賀は横浜であり伊豆の伊東であり久慈浜とも関係していたことでもわかる

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みちのくの真野の草原(かやはら)は気候の境界線

(照葉樹林の南限の地点)

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2019年09月17日

綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(1) (海洋民族のネットワークができていて海岸沿いを渡り移住した)


綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(1)

(海洋民族のネットワークができていて海岸沿いを渡り移住した)

●ポリネシアの海洋民が安曇族のルーツか?
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水辺の古代史(小野寺公)より引用

陸奥(むつ)は古代ポリネシア語で陸地、岬、端をさす
これはマオリ族の言葉ででも同様で終点を示すという
むっは東北訛りで奈良朝にひどい訛りが移っていたことになる

安田徳太郎は安曇(アヅミ)族についてサンタル族から航海術を学んでチベットやベンガル地方と交易したモン族がこれにあたると説いている
彼らの日本列島進出は紀元前二世紀頃という
二世紀の朝鮮の書に「韓海に魚多ければトル術なく倭人は網漁を良くすると聞き二千戸を招きこれをとらしむ」とある

綿津見族を始めとする南方族は瀬戸内海から難波に入り拠点を作り黒潮沿岸沿いの椀に定着して鹿島、香取、住吉、宗像、墨江安波大杉などの神々を祀ったと言われる

大田地名に見られる特徴として第一に渡来人が関係が深い

第二に国内の主要通路に位置する

第3に背景に鉱山をひかえているのが多い

記紀の伝承で三輪氏や加茂氏の始祖とされく大田根子は彼らを統括する立場にあったと言われる

古事記では鹿島神宮の祭神タケミカズチミコトの子が意富多多泥古(オオタタネコ)とされている、それは多(おう)氏の始祖である

徳川政次郎教授は安曇族と隼人族は同族で(安曇隼人族は中国中南部の民族で紀元前二世紀頃、いわゆるトカラ馬やトカラ豚を携え、黒潮にのって日本に来た
鵜飼いは中国中南部に上陸したのが隼人族であり北部に上陸したのが安曇族である
日本古代に朝廷に仕えた猪甘部は豚を飼っていた人民であり鵜養部は鵜飼いをして朝廷に仕えた

◎先祖たちが海のかなたからやってきたという神話伝承をもつ
◎流し鄙灯篭流しを思わせる〈船葬)の民族儀礼をもつ
◎韓国済州島経由で伝播したと思われる南方海人系の石像文化が見られる

 飛鳥にある石像は南方系由来なのか、済州島にあるから経由してきたとなる

 船葬というとき真野の古墳に石棺に船型のものがあったが船に乗って遠くに去る考えた古代の観念だろう
(本邦祠の研究ー岩崎敏夫)  

 新地村の大戸浜の安波の現在の祭神は綿津見の神である

 安波というのも海洋民に由来したものであり綿津見と関係している、もともとは安曇族などと関係していてそれが祭りになった

 太田というのはまぎらわしいが大きい田ではない、多(おう)氏のことでありそこから太田となった、だからそこはもともと相馬氏が入って来た時古い場所だったのである,多(おう)氏はいわき市に勢力をもった大豪族であった、それは天皇とも関係していたのである

●古事記の国産み神話は安曇族とか海洋民族に由来している

日本武尊は上総かみつふさより転じて、陸奥国みちのくにに入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(あしのうら)を廻り、玉浦を横切って蝦夷(えみし)の支配地に入られた。蝦夷の首領島津神(しまつかみ)国津神くにつかみたちが、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、「君のお顔を拝見すると、人よりすぐれておられます。きっと神でありましょう。お名前を承りたいのですが」と申し上げた。皇子はお答えになって、「われは現人神(あらひとがみ)(天皇)の皇子である」と言われた。蝦夷らはすっかり畏かしこまって、着物をつまみあげ、波をかきわけて、王船を助けて岸に着けた。そして、自ら両手を後に縛って降伏した。そこで、日本武尊は、その罪を許された。こうして、その首領を俘とりことして、手下にされた。蝦夷を平らげられ、日高見国(ひたかみのくに)から帰り、常陸ひたちを経て、甲斐国(かいのくに)に至り、酒折宮さかおりのみや(甲府市酒折)においでになった。

竹水門(たけみなと)とは原町なのかもしれない、そこに多珂神社がありタケはタカなのかもしれない、そしてこの伝承の背景となったのは安曇族とかの海洋民が大量に移住したことが下敷きになっいている
それも前二世紀とかなると古いのである、日本列島には最初縄文人が住んだとしてその後に様々な民族が海を渡ってきて住みついたのである
だから日本語のルーツはポリネシアとかにもあるし中国にもあるし韓国にもある
ただそれが解き明かすことができないのは様々な民族が混交してしまったからだと思う
するとどうしても複雑に民族の言葉がまじりあい一つのルーツでないからわからなくなったのである

陸奥(ムツ)という言葉がポリネシア語として奈良朝廷に伝わったというときもそうである、奈良朝廷ではそこを陸奥(ムツ)として地名として意識したのである
身体語が頭とか鼻とか手とか足とかがポリネシア語に由来するとしたらその後の社会を表す語は中国系統とか韓国系統とかになるのもわかる
村とかは韓国語系統だとするとき後から韓国系統が日本列島に入って来たとなるからだ

原ポリネシア語を基幹祖語とする縄文語の上に古代朝鮮語またはアルタイ語系統の言語がかぶさって成立したと思われる弥生語または古代日本語で育ち、古代朝鮮語はある程度理解し、中国語および漢字文化に精通はしていたが、原ポリネシア語はほとんど理解することができなかった世代でしょう
   
ポリネシア語で解く日本語

何かポリネシア語説はアイヌ説より説得力がある感じにもなる、アイヌ語説は何かおしつけが多い、信用できないのである
アイヌ民族自体が謎でありそれほど古い民族でもない、新しい民族だとも見れるからである

それでそもそも日本では安曇族とか隼人族が九州に移住して魚をとっていた、その技術があった、それで韓国ではそれで魚がいるけどとれないとして招いたのである
そのことからもわかるように日本に渡ってきて漁労民となった安曇族とか隼人族がいて
その人たちが海洋民であり船を操作する技術をもっていたからそうなったとなる
韓国は遊牧民系統であり船を操作できなかったのである 
日本とはそもそも漁労民族が住みつくのに適していたから海洋民族が渡って住みついたとなる
それで古事記の国造りの神話も極めて海洋民族の国造りになっている  

イザナキ神とイザナミ神の男女二神に
「この漂っている国をつくり固めよ」と命じて、
天の沼矛(ぬほこ)を授けて、
国づくりをお任せになりました。

イザナキ神とイザナミ神は、
天の浮橋という空に浮かんだ橋に立って、
その沼矛を指し下ろしてかきまわしました。

潮をかき鳴らして、引き上げた時、
その矛からしたたり落ちた潮が
積もり重なって島になりました。
この島をオノゴロ島*1と言います。

初めに生んだのが淡路島、
次に生んだのが四国、
三番目に生んだのが隠岐。
そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、
ついに本州を生みました。
この八つの島を大八島国といいます 

こういう神話は海洋民族のポリネシアとかに由来することは確かである、島があるのは島を中継点として船で移住したということになるからだ

日本列島は今でもそうだが森が多い、そして海に囲まれているから湿地帯が多い、これが日本列島の風土の地理の特徴なのである
津浪で一時海が深く奥まで入り込んで湿地帯化した、それは釧路湿原と同じようになったのである
日本の海岸線は太古は釧路湿原のようになっていたのである
そして砂州が磯部の方にできていてそこに人が密集して住むようになったが津波で壊滅したのである 

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釧路湿原と同じく砂丘できたのが磯部だった














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2019年09月16日

神和(かんなぎ)神から荒ぶる神と化した海 (津波は神の祟りなのかー海への祭りが消失していた)


神和(かんなぎ)神から荒ぶる神と化した海

(津波は神の祟りなのかー海への祭りが消失していた)

●古来の祭りの消失がまねいた災厄

その起源は古神道などの日本の民間信仰にもあり、古くは神和ぎ(かんなぎ)といい「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり

「政り」については、日本は古代からの信仰や社会である、いわゆる古神道おいて、祭祀を司る者(まつり)と政治を司る者(まつり)は、同じ意味であり


相馬市史がインタ−ネット上にあった、これは有益である
そこに相馬地方の漁業のことが出ている
人間と自然とのかかわりは祭りとしてあった
また祀りは死者と交わる祀りでもあった、その二つが混交してあった
そして祭りは政り事であり政治だった
天皇とは日本の祭を担う祭祀を司る祭司だったのである
今ではもそれは継続されている、これだけ自然災害が多いから自然を和らげる神和(かんなぎ)を祈らなければならない、また戦没者の霊でもなだめねばならない

だから政治とはこうした祭りと分離されたがそれでこの世の中がすべてうまくいったのかとならなかった
戦争の場合は祭政一致となり天皇が神となり御真影とかなり戦争に利用された
天皇はまた軍神として祭り上げられてきた歴史も日本だったのである
それで南北朝時代は天皇が二人になり国の隅々まで二分されて争うことになったのである
おそらくしかし日本の天皇はもともと自然と関係してまつりごとを行う司祭だったのである、それはこれだけの災害がある日本だから当然だとなる
日本には本当に防災省が必要なのである

例えばなぜ津波の災害がもたらされたのか?これほど恐ろしい災いがもたらされたのか?それを考える時科学的に津波が来るものでありそれは神の祟りとかではないとなる
でもその災害があまりにも大きくその被害もこれだけ大きいと何か理性的に見れなくなるあらゆることを科学的解き明かしそれで納得するのが現代である
科学万能主義に陥っているのが現代である、それに逆らうものは科学を否定するものは現代人ではないとなる
だから祭りは消失したのである、日本では祭の数が多い、それだけ日本は自然に対する対処の仕方が違っていた、自然に対する畏敬が強い国だったのである

ただ世界的にも祭りが多い、その祭りは犠牲という言葉が牛であり牛を殺す動物を殺して神に捧げることが祭りとなる、豚を殺したり羊を殺すことが祭りでありそれが宗教の起源になる
つまり外国の場合は人間の代わりに動物を殺して犠牲にして神の許しをこうていたのである
だからその動物を殺される血を流すことを見ているから悪いことをしたとき罪の意識が深くなるのである、俺のために代わりに動物が血を流して死んだとなるからそうなる
それが植物になると野菜とかなるとそうした強い罪の意識は感じないのである
なぜかそうしてカインは野菜をささげて呪われたのである、動物をささげたアベルは神に喜ばれたのである
外国では神という時、万物が神なのではなく一神教的な神である
それは人格を持っている神でもあるから人間に近いとなる

ただそういう相違があるにしろ神へに対する畏れをもっていたことは共通している
科学時代にならない前は異常なほどそうして自然を畏れた結果として祭りが多かったのである、それが科学時代になったときそうした自然は科学で解き明かせるものとして科学信仰にまでなった、そして祭りは消えたとなる
ところがこうした民俗学的なものは科学からみると一段劣ったものであり祭りは継承されたとしても昔のように真剣に祈ったりしない
漁場だって今は機械で探したり海からの航行の目印となった山でも今は機械で地図を見ているから頼りにしていない、機械万能となっているから祭りは現実には漁師であれみんな真剣に祈るということはないのである

●科学を万能として神とする危険

ただなぜ津波が起こり原発事故が起きたのか?
その原因を追及してきたがそれがすべて科学として解明できない
むしろ人間は自然と折り合うとき祭りが生じたがそれがなくなった
それが何か災いをもたたらしたのだともみるようになった
例えば動物でも殺して食べる時どうしても何か神に祈り食べることを許してくださいとかなる、心情的にそうしないと食べられない、その命はやはり神から与えらたものでありそれで許しをこうのである 

今はそういうことはない、まるで物のように動物でも扱われなる、それが象徴されているのは鶏が工場で生産されるようになって鶏は卵を産む機械にされていることでもわかる
それで確かに玉子は安くなったのだがそこに経済合理性とかばかり追求していると何か神を冒涜しているということで人間に跳ね返ってくる怖さがある
つまり鶏でも動物でもそういうふうに扱うことは人間もそう扱われようになる
それがナチスとかの大量殺りくであり現代文明はなぜこれほど大量に人間が殺戮された時代なのか?
それは文明自体がもう人間は工場で大量生産する奴隷にロボットにされていると同じだったからだともなる
自然と文明とかかわるものはない、自然はただ材料であり森でもなんでもそこに祭りもなにもなく介入してゆく、それが機械が巨大化しているから容易に森も破壊されてゆく
そうしてグロ−バル経済になると世界の自然がブルドザーのように遠慮もなく容赦なく自然に入り込んで破壊するのである
もし森に神が住んでいるからとか畏れるとしたらそうはならない

まず文明は自然を畏れない、畏れるのは給料をもらえなくなることである
その給料を握っているのは多国籍大企業だとかなるのである
だからその命令の方が怖いのである
でももともと小規模で村単位とかで自然と関わっていたときは自然を畏れ敬っていた
それはどこでも同じだったのである

そもそもなぜ漁師が原発に東電に漁業権を売り渡したのか?
それは漁業では金にならないというのもわかる
跡継ぎいないとかもわかる、それは農業でも同じである
でもよくよく考えると海は漁師のものだ、漁業組合のものだというときだから東電に漁業権を売ってもいいとかならないだろう
経済的にはそれで事故前も多額の補償金をもらん原発御殿を建て事故後も継続的に補償されるから同じように立派な家を真っ先に建てた
これは何なのだろうと今になると思う

それは結局科学万能時代となり科学者が神のようになったからではないか?
科学者は神官であり原発は神なのである、だから海までその神殿なる原発に捧げて神官に従い漁業権を売り渡したのである
現代は漁師だけではない、科学万能社会であり科学者が神官であれ聖職者なのである
だから自然を畏れた祭りはただ形式的に継続されているだけでありそこに命は通っていないのである

原発事故は神を自然を畏れない祭りが消失したから起きた

そうも言えるのである、祭りは実利に合わないものだとなり軽んじられてきた
それをしていても豊漁とは関係ない、機械で漁場を探すことの方が重んじられてきたのである、そういう科学万能主義になったとき原発でも金になるからいいものだとなったのである、だが原発は科学は何か神への自然への畏れを欠くものを内在していたからこそ火を盗んだプロメテウスの神話が生まれたのである
結局エネルギーとは神から盗むものだったのである
火もそうだったし武田邦彦氏が言うように水力発電もそうだしソーラーパネルも風力発電も自然エネルギーだというけど違っていた
必ず神からエネルギーを盗んでいるから自然ではありえないのである
そこに必ず自然を破壊する作用がある、風力発電でも自然の風を奪うから辺りに何か自然の破壊がある、それは詳しく知りたければ調べられる
科学技術には必ず自然を破壊するものでありその業(カルマ)から逃れることができないそこで今回のような大災害の事故が起きたのである  

●グロ−バル経済の危険、国々の風土や歴史文化を無視するから

その他グロ−バル経済が危険だとして警告されるのは一見いいように見える
でも人間の生業はもともと自然と深く結びついて行われてきた長い歴史がある
その国の自然と深く結びついて行われてきたのである
だから風土から離れて技術もありえないのである
中東の砂漠では風が吹いているから風車が発明されたとか日本だと山が多いからトンネル技術が発達したとかある
それで今回の原発事故でアメリカの指導のもとに原発を導入したことが致命傷になったのである
なぜなら日本には日本の風土がありそれで古来から成り立つものがあったからである

アメリカでは竜巻があるから電源を地下に置いた、それで日本がでもアメリカの指示なのか地下に置いて津波で使えなくなった
高台に原発を作る予定がそれをわざわざ削って低くして津波の被害にあった

アメリカでは竜巻を重視した

日本では地震と津波を重視して造るべきだった

つまり外国と風土も歴史も違うのだから同じにしてはならないのである
数学の公式のようには世界はならないのである
だから風土とか地理があって国々がありその国に適した国造りが望まれる
グロ−バル経済の問題はその国々の風土とか文化を無視するから問題なのである

民俗学だと例えばクジラをとる漁民が海岸にいる、でもクジラをとれたとき山の民にそのクジラをもって祭リをしてもらう、山の民はクジラを食べることができる
海岸に住む者と山に住む者がそこで和合する
それもまた祭りなのである、グロ−バル経済ではそういうことは無視される
経済の前にそういう祭りがあったのである、人と人を結びつけるものがクジラを通じてあった、それは今の経済原理とは違っている
まず風土があり人がありそれを結びつけるものとてしクジラがあった
そのクジラにしても海からとれるのだから漁師は海へ祈りクジラをとっていた
それでクジラが大型船でとられるようになったときそれも破壊された
それがグロ−バル化した大企業のやり方なのである
そうして海から今度はクジラがいなくなるということにまでなり保護しなければならないとかなったのである

グロ−バル経済も国々の風土や歴史や文化を破壊するから問題なのである
もちろん国々の貿易を全部否定はできない、双方利するものがある
でもその国々の自然とか風土とか文化を無視して経済合理性だけを追求するグロ−バル化は危険なのである
ただそこでもうかればいいとか金があればいいとかが危険になる
現実に漁業権を東電に売り渡した漁業組合のことをみてもわかる
つまり海でも森でも大地でも川でも多国籍大企業に売り渡されてしまうということであるアマゾンが火事になって危機になってるのもそうである
地球の自然が文明によって破壊されてゆくのは世界共通なのである 

●アマゾン火災も人間の業から起きた、焼畑も農業も自然を破壊してきた

アマゾンでは、木材用に加えて、大豆畑や牛の放牧地を作るために、大量の木が伐採されている。手っ取り早く開拓するために、森を焼き払うことも少なくない。アマゾンの森林火災は、大半がこのように人間が火をつけ、その後制御不能に陥ったものなのだ。

アマゾン森林火災、原因は「過剰な伐採」と専門家

「ボルソナロは嫌いだけど、森林だけあってどうやって暮らせばいいんだ」と話す。ボルソナロと対立する左派政党を支持する彼女にとっても、経済活動を犠牲にして環境のために森林を守れという思想は受け入れられないものだ。

ボルソナロは「アマゾンには2000万人のブラジル人が住んでおり、彼らが発展できる機会を与えられなければならない」とも述べ、アマゾン開発を諦めたわけではないというメッセージを送った

アマゾン森林火災、くすぶる先進国への不信 現地ルポ

人間の業は自然を破壊しなければ生きていけないことである、エネルギーでも自然から神から奪わねば生きていけないことである
それが業(カルマ)でありそれで災いを逃れられないのである
つまりそれによってアマゾン火事でもわかるように焼畑自体が自然破壊だったのであり農業自体が自然破壊にもつながっていた
アマゾンという大森林が農地化されればそうなる
日本だって平地すら森がおおていたりしていたからである、そこが農地になったからである
そこで暮らす人にとっては世界でアマゾンを保護しろといっても通じないのである

人間が生きてゆく方が先決だ

こうなるから自然は破壊される、でもそのことが世界全体にもはねかえる、二酸化炭素が増えるとかあれだけ広大だから地球にも影響するのである、でも人間が増えてそこに住むとすればアマゾンでも破壊されるのである
そういうジレンマに陥っているのが人間である

人間は人間の業(カルマ)の故に滅びる、業とは職業の業でありあらゆる職業が業(カルマ)となっている
なぜあらゆる職業自体が業となりカルマとなって害を及ぼすのか?
それはまず金になることを優先される、そして金になればいいとしか今はない
何か自然と折り合う祈る祭りなど関係ないのである、それで漁師でも漁業権でも売り渡すし金にならないものは無駄だとなる
でもその無駄な無用なものに実は大きな効用がある、第一空気など最大に無駄なものであり金にならない
でもその無駄な空気が汚されたら原発事故のこの辺のように住めなくなるのである

ただ矛盾なのはアマゾンがあったとしてもその周辺で生活しようとするとなると森を切って畑地とか牧場にせざるをえないのである
そういう矛盾がありこの辺だって原発が金になるからいい、自然は金にならない、そのままにしていても金にならないとなる
そうして漁業権でも売り渡されるた、そして空気も水も土も森林も汚染されて住めなくなったのである
でも日本でももともとアマゾンのような森林におおわれていて縄文人が住んでいたのである
それが開墾されて田畑にして今日がある、だからアマゾンでもそうなることが悪いのかともなる
ただグロ−バル化したから先進国がそう言う、それならそこに住む2000万人の生活をなんとかしてくれともなるのである
結局森はエジプト時代でもレバノンにあったレバノン杉でもなくなるように消える運命にあるのかともなる
エジプトでも砂漠になっているけど森林があったからこそ神殿の柱はその木を象ったものだとなる
ドイツの森でもそうである、樅の木が黒い森が覆っていた、それでゴシックの大聖堂は森を模したものだとなる
自然破壊が人間の歴史でありそれによって文明化したのだからその業をやめることができないのが人間なのである 

このことは武田邦彦氏も言っている、フランスの製薬会社が薬になるのが原始林にあるからそれをとるためにアマゾンを保存すべきであり環境保護団体も金のために動いている、つまり文明が発展してゆけば文明の恩恵を受けるためには人間は必然的に自然を破壊せざるをえないのである
それが人間の歴史だったのである、それでブラジルの大統領もヨ−ロッパ人がアメリカがアマゾンを保護しろというのは勝手だとなる現実にアメリカでも森林におおわれていて木材を売ることが最初の仕事だったということでもわかる
それが一面のトウモロコシ畑だとか旅行鳩が食料に大量に殺されて絶滅したとか自然を破壊してきたのである
そういうことをしてきて豊かになった人たちがブラジルにはするなということは勝手だとなる

結局どこでも自然は人間がいる限り破壊し続けられる、インドでもそうだし中国でもそうなった
人間がどんな生物よりも獰猛なのである、機械を使うからたちまち自然は今や破壊される
機械がない時代は破壊のスピードが遅かった、今はまたたくまに破壊される、ブルドーザーが森の精霊だろうがなんだろうが神々でも無視して破壊してゆくのである
だからそれだけの科学技術の力を持った人間が怖いのである
どこでも自然は森でも破壊されたがそのスピードは数百年とかかる、今ではもう10年くらいで森林はなくなる
北海道でも開墾するのに道具がないから容易ではなかった      

100年でできることが1年ででできる

中国でも鉄道でも家畜のように人間が詰め込まれていたのがまたたくまに新幹線になった、そのスピードがグローバル経済では早いのである、千年かかることが10年とかに短縮されるのも怖い
アマゾンだってもう10年くらいで全部なくなることもありえるのである、放置していればそうなる
つまりそれが地球全体でどうなるるのか?地球の限界が急速にきて破綻状態になるということである
千年で消費するものを10年で消費したらそうなるのである

現代の問題は圧倒的な力をもった人間が自然に介入してくるからみるみるうちに自然は消失するのである
確かにヨ−ロッパでもアメリカでもどこでもそうして豊かな生活を築いてきたのだからそんなこと言えるのかとなる
それがわかるにしても現代文明の問題は余りにも科学技術の力が大きいから問題なのである
原発事故でも結果的に空気から土から水から森から汚染されて住めなくなったからである
そこまでの自然の破壊は科学技術文明がこれほど発達しなければ起きないのである
それでそれを容認するのは危険なことになってゆく、ブラジルの言い分があっても今度はブラジル全体に何か災いが及んでくるかもしれないのである、それはアマゾンがどういうものか本当に理解できないからである
自然というのは実際は人間にとってすべてわかったわけではない、未知の部分があるから思わぬ方向に展開することが怖いのである
科学技術は未来に何かわからないが大きな災厄をもたらす危険が原発のようにあるから怖いのである




これがただ一尾の魚を尊敬するかせぬかによってさういう恐ろしい結果を生じたざとつ伝えるのは考えて見れば不思議なことである。

漁業者が一尾の魚を尊敬するなど今は全くないだろう。一尾ばかりとったってなになるのだ。大量にとらなければ商売にならないとか常になっている。そして漁業では金にならない、だから跡継ぎもできない、これは農業でもそうである。一粒の米に感謝していた昔とは大違いである。

民間の津波の伝承の語るもの (津波はやはり天罰だったのか?)

この伝説はわかりにくいにしてもやはり一匹の魚を言うことを大事にするかしないか、そういうことがこの背景にあるのかもしれないもの言う魚ということは一匹の魚が津波を警告していたのである
今でも科学がこれだけ発達しても津浪を知らせることができない、とすると自然の中に前兆となるものがあるからそれを無視してはいけないとなる、一匹の魚を軽んじてはいけないともなる
   








posted by 老鶯 at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

千葉県の館山とかは風が強い場所だった (日本は災害が多いからその場所の特性を知るべき)


千葉県の館山とかは風が強い場所だった

(日本は災害が多いからその場所の特性を知るべき)

海にぐるっと囲まれた館山・南房総は「風」が生活と深く結びついています。
例えば洗濯。
私の家は海まで徒歩10分ほどの場所にあるのですが
天気予報は太陽が出るか出ないかの他に、風予報もチェックしなくてはいけません。
晴れていても風が強くて外に干せない日が頻繁にあり、
夏は海風だと乾きが良くないため風向きも気にしたり。
冬は西風が強く、夏の台風時期じゃなくても風がうるさくて眠れない日があります。

テレビの天気予報の特集で見たのですが、強風のトップ3は
羽田・千葉・銚子でした。順番はちょっとわすれました。
羽田と千葉は赤城おろしで銚子は筑波おろしだそうです。
かなり離れているのに影響があるんですね。ビックリしました。
私は千葉在住ですが、本当に風が強いです。

浜金谷はもともと倉波という村名をもっいたが、この大鏡鉄の発見により金谷村になったそこには大鏡鉄がこの地域に与えた衝撃の大きさをみることができる
大鏡鉄が「地獄の釜」を封じ込める「釜の蓋」だという根強い信仰においても
真里谷氏や金谷集団といった過去の人々に対する鎮魂の意味がこめられている

金谷神社大鏡鉄の由来について(井上孝夫)

館山に行ったとき強風だった、そこの岬の国民宿舎に泊まった
風がぼうぼう吹いていたがそこにやっと泊まれた
それで今回台風の被害にあったということでその時のことを思い出した
ここはそもそも風が強く吹く場所だったのである

何かニュースで災害のことなど報告されるとその土地をイメージする
でもそこに一回も行ったことがないと土地勘がないからイメージできない
例えば日高線とかあるがそこも高波で線路が破壊されて復旧していない
そこは様似(さまに)という所が終点であり何かもう廃線になるような線だった
そこに行ったのは様似は低い山がありそこが高山植物の宝庫になっていたからである
でもその終点の駅では酔っ払いが寝ていたというのがあってもう廃線になるような線だった、そういうのが北海道には多い、だからあそこはもう復旧できないともみた
もともと廃線になるような人が乗らない線だったからである
そういうニュースがあったとき一回行っていればイメージしやすいのである

今回の館山とか富津市でも一回行ったことがある、ただそれが余りにも遠い日になったから記憶もあいまいとなりほぼ消失したともなる
ただ風の強い日に館山の国民宿舎に泊まったということは覚えているのである
それはあまりにも風が強いからだったのである
そうして今回台風で風の被害を受けた
それが私の旅の記憶と通じるのである

何か災害でも場所と深く関係している、歴史でも場所と関係している
だからこそtake placeが起きるとなる、placeと災害でもなんでも深く関係しているのである、だからその場所を踏んでいないとテレビの画面だけではわかりにくいのである
例えば津波だと地形が深く関係していた、八沢浦とかはすぐ前が海なのに前に丘が連なってあったから津浪の波が来たのを見て裏山に逃げて命が助かった人がいた
それは裏山が家の後ろにあったからそうなったし前に丘があったから助かったのである
津浪対策で有効なのはそうして津波がおしよせるのを防ぐ高台とか丘とかがあることだったのである、それがないともの凄い圧力で押し寄せる
それで何も障害がないと遠くまで津波が押し寄せて萱浜の老人施設では相当数死んだのである

浜金谷や金谷町があるときそこは三浦半島から渡ってこれる場所であり交通の要所であった、それで大鏡が海中から発見された、それが伝説となって村の名前まで変わった
その金谷村にも泊まったことがあった、そこには鋸山があり日本寺の大仏がある
その辺の鐘とかこの伝説に関係していたという
その大鏡でも暴風のなかに嵐の中で発見されたというとき何か今回の台風と通じているものがある、そこは風が強く吹く場所だったのである
そういう場所に台風が来たのだから余計に強い風が吹き付けたとなる

とにかく何かを知るためには場所を知ることが大事である
人を知るのにもそうである、その人の住んでいる場所がどういう場所かを知る
そこからその人と語るとなる、すると通じるものが生まれる
日本は狭い国だけど海とか山が複雑に織りなす風土である
するとそこで多様なものが生まれる、また災害もその地形が多様であり複雑だからその土地特有のカルマをもっていて災害が起きる
それで地名には災害が起きることを示唆していると言われる
ただ地名となると複雑だからそれを読みとくことはむずかしい

ただ日本は本当に自然災害が多い国だった、津波でもなぜそういう国なのにこの辺では津波は来ないという確信までになっていたのか?
それは400年前に津波の被害があったとしても全く忘れていたのである
津浪となればその時間のスケールが違う、千年くらいの間隔で巨大な津波が来る
そうなると警戒しないのである、400年くらいでも確実に巨大な地震が津波が来る

南相馬市の八沢浦の湊に40軒くらい家があった、そこは津波の前に高波で被害があったその時危機感を感じて引っ越していれば今回のような津波の被害にあわなかった、そこは全滅になり村が消滅したからだ
高波と津波は違うがやはり海岸は危険な場所だったのである
それで相馬市の磯部で佐藤氏は高波の被害があり今の六号線の鬼越館に移った
それは慶長津波の前だったがそれほど前というほどでもないから謎である
そして今回の津波で磯部は全滅したから悲惨だった、それはあまりにも空恐ろしいものだったのである
何かそうした危険を察知しないと日本はどこでも災害が起きる国だったのである
それで防災相を造るべきだというのもわかる
日本はどこでもそうした災害が起きるカルマをもっていたのである
だから原発など絶対作るべきものではなかった、日本の風土には全く合わないものだったのである、これだけ地震があり災害が多い国に造るべきではなかったのである

そしてアメリカでは竜巻があるから地下に電源を作った   
それをまねてアメリカの指示なのか日本でも地下に電源を作ったのである
これは全く日本の風土を考慮しないで作ったものだったのである
アメリカと日本の地理と風土はまるで違っている
その風土を場所を考慮しないということがどれだけ危険か知るべきである
それは社会全般にあてはまる、日本の風土と地理とか歴史の特質を知ってこそ科学技術でもありうる、それを無視してはありえないのである
だから政治的に独立していないとアメリカに押し付けられて原発でも大事故になり日本に住めなくなるというまでになる恐怖だったのである
独立していないということは他国によって風土も歴史も無視して強制されるから危険なのである、外国ではそこまで考慮しないからである
そこでグロ−バル化経済は危険がある、やはり国というのは風土地理があり長い歴史で形成されているからそれを無視すると国土そのものを守れなくなるから怖いものとなったのである
posted by 老鶯 at 12:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年09月15日

故郷の秋に思う短歌十首 (ふるさとの我が家に交わる女(ヒト)

  
故郷の秋に思う短歌十首

(ふるさとの我が家に交わる女(ヒト)
                                                    
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ここは公民館である



コスモスに夏菊映えて人集ふ  
                                                          

蝶いくつ舞い入りあそぶ夏菊にコスモスとりどりは朝に映えにき

我が家にうから亡くしてその女(ひと)のなじむもあわれ秋となりにき

ふるさとの我が家になじむその女の近くに住みて満月照らしぬ

その女の何故かかわるふるさとに家族もなしも秋となるかな

病院にありて帰らぬ人のあり家は空家に秋となりしも

近ければ墓にもよりぬ姉死して命日近く秋となるかな

あわただし時はすぎゆくふるさとや家の柱によりし秋かな

ふるさとに家なお残り我一人月の照らして昔偲びぬ

母と姉今はあの世にやすらかに争わざれや秋の夜ふけぬ

人の世に嘆きはやまじいつ果てむ月日はすぎ秋のめぐりぬ

人の世の無情にもまれ傷つきし痛みは消えず秋となるかな

ふるさとに交わる人も争い去りもはやあわじも秋となるかな

人はみな金を求めてあくなきを悲しかりけり秋となるかな


家族が死んでなぜかその女性が自分の家とかかわった
それはただ偶然だった、誰もいないよりいいと思いかかわった
もう四五年くらいになる、この月日が過ぎるのも早い
姉が死んでからは八年とかすぎた
なぜ早く感じたかというといろいろなことがありすぎたからである
何かそうして追われた結果、早く過ぎたのである
その八年間は津波だ原発事故だ、プログで書いてきたようにいろいろなことが災難でもありすぎたのである、
結果的に追われる日々でありそうすると月日が過ぎるのが早いのである
だからここ十年間は倍速で月日が過ぎたのである
そして自分自身もかなり老いたとなってしまったのである

ふるさとが別にいい場所でもない、そこにいい人が住んでいるともならない
ただ家族がいるうちは自分の場合は故郷の人と交わっていなかったのである
そういう特殊な状態で生きていた、なぜなら家族がいてすべて家のことはしてくれたからである、
今は全部自分でやらざるをえない、家事でもそうである
だからまた家事で追われている、家事はきりなくあるからだ

ただようやく秋となってきた、涼しくなってきた、でも今日も外は晴れたが日ざしが強いから夏になっている、
一か月は夏が長引いている感じである

不思議なのは私の友というのではないがその女性の親しい人が男性が病気で三か月入院している、糖尿病である、
それでその人のことを思った
三か月も家が空家になっていることでその人のことを思ったのも不思議である
その人は娘がいても隣の市に住んで一緒に住んでいない、一人で住んでいたからである
だから三か月も空家になっている
その人がいない、空家になっていることでその人を思うというのも不思議である
何か深い関係ではないにしろそう感じるのはやはりわずかでも交流があれば人間はそうなる、その一番の理由が近くに故郷に住んでいるからだともなる

東京とかに住んでいる人はいくら親族でも忘れやすい、心が通わなくなるのである
近いということがやはり心が通うということなのである
故郷とは狭い場所であり本来は心が通う場所になる
原町でも遠いとなり近くがやはり人間が心を通う場所としてある
もちろん実際は心も通わないということも普通にある、必ず嫌な人がいるからである

正直その女性とかは問題がありいろいろ相談されるてこちらも苦しくなる
ただどうしても一人でいると誰かいて欲しいとなるのである
その女性はその男性に頼っている、だから帰ってこないと苦しい、
でも八〇歳とかなり病気なのだから頼りにもできないとなる
そこが老人の問題である、老人は老人に頼れないのである

何か理解できないのは夫婦でも嫁いだ先の墓には入りたくないという女性がほとんどだというのもそれだけ嫁と姑問題があり嫌だからそうなっている
でも長年一つ屋根の下に暮らしてそうなっているのは悲しいとなる
自分の家でもそういうことがあったがやはり最後は争っていても情が通っていたのだなと救われた、
それは六〇年も一緒にいたからそうなったのである
だから人間の交わりは長くないと情が通わないのである
長いといくらもめていてもいつしか憎しみでも愛に変わることがある
なぜなら憎しみの反面は愛だからである、普通は人間は他人は無関心だからである
無関心なことは憎しみより悪いともなってしまうのである
変なのだけど憎むということは愛にも通じてしいる、これも人間の不思議である

とにかく秋となると人間は感傷的になる、だからこんな短歌になったのである

2019年09月14日

日本の農業は成長産業! (兼業農家とかが補助金農業で農業をゆがめている)


日本の農業は成長産業!

(兼業農家とかが補助金農業で農業をゆがめている)   
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日本の農業の生産を支えているのは1000万以上の大規模農家

【誤解】農業人口激減で日本沈没?!新規就農するなら今でしょ 

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全農家対象の農業補助金はおかしい。農協利用の農家は、ほとんど兼業あるいは農地放棄農家、それに自家用栽培農家であり、単なるバラマキに過ぎない上、日本農業の再建にマイナス効果しかないように思う。補助金を配布するならば、低所得の専業農家に配るべきではないですか?

あいつら(農協のこと)は、税金も満足に払っていないのに、補助金を独り占めするのは絶対に許せん。こんな不平等を国が放置する限り、俺は税金を払いたくない。

補助金に頼らない理由は、まず第一に、農業者本来の「つとめ」を忘れてしまう心配があるからです。本来、生産者である私は、私のお客様に頭を下げるものですが、補助金に手を出すと行政に頭を下げることになり、自分の経営を見失うことになりそうです。

農業ビジネス


農業は誤解している、農業は日本の成長産業だった、なぜ銀行で農業に投資するようになったのか?それは農業が日本では唯一成長産業だったからである
なぜ農業がだめだ、だめだと言われていたのか?
それは兼業農家とか副業農家が多いからである
そこに税金を補助金を投入されているから非効率であり無駄なのである
それで民主党の政策は農業を復興させるためには

農家一軒ごとに補助金をだす

農協ではなく農家に一軒ごとに直接補助金を与える

農協が巨大な組織でありそこに補助金が注ぎ込まれ吸い上げられていたからである
でもこれは悪政だった、農業の生産高は兼業農家とか副業農家が背負っているのではない専業農家が生産の大部分をになっている、ただ兼業農家が数が多いから票になるから民主党ではそういう政策を打ち出したのである
何か民主党は経済政策とかでも不況にしたようにわかっていなかった面があった
もちろん自民党にも問題があった、ただ民主党がつづいていたらやはり日本の経済は危機的状態に今頃なっていた、なんとか持ちこたえているのは自民党になったからだともなる
ただどっちにしろ日本の経済は衰退して危機的状態になるのは遅かれ早かれなっていたのである
日本では今まで高度成長時代があり経済がいいときそうした補助金でも福祉とか無駄なことでも金を回すことを余力がまだあった
その金を回す余力がなくなり補助金政策はできなくなる

でも実は農業の場合は補助金政策が農業をだめにしていたのである
まもともに農業を考えて取り組んでいる人専業農家が農家の主役になっていた
でも兼業農家とか副業で農業している人たちは足かせとなる存在だったのである
例えば常に言われている農業の後継ぎがいないというとき68歳が農業している人の平均年齢だとか耕作放棄地のことを取り上げるがそれも違っていた
そういう人たちは兼業農家であり副業農家であり補助金農家だったのである
そこに農業に対する誤解があった、なぜそこだけが強調されているのかというと兼業農家の窮状を言うとき補助金を政府が投入されるからである
また数が多いから一票として計算できるからそうなる

また日本の自給率が低いとかはない、世界で5位の自給率であり狭い国土にしては高いのである、そして日本の農業は優れている、きめこまかい農業であり技術レベルが高いのである、だから輸出産業としてみこめる、果物はそうなっている
農業もグロ−バル化していて外国で日本人が農業している人がいる
そのグローバル化に日本の農業は競争力をもっているという

日本の経済は電機製品が売れて高度成長時代を築いたときは違って輸出するものがない
自動車産業がなんとかグロ−バル化で競争力をもっているとなる
だからこそインパウンドとか観光に力を入れたりして日本全体の経済が落ち込み貧乏化しているのである
そしてこれまで日本の農業の負の面が強調されすぎたのである
日本の農業はもともと五反百姓とか小農が多すぎたから貧乏なのである
また機械化もされていないから能率的ではなかった
機械化されて技術も向上して日本の農業はかえって成長産業となっていたのである
だから銀行で投資先がなく投資しようとしているのはそのためなのである

私が援助している趣味で農業している人はまず金がかかる、今は体が悪いとか暑いとか放っておいたから草ぼうぼうになっている
だからとれたものでキュウリ一本一万にもなるのは嘘ではない
ただそこで農業の話をじかにしてくれるからその情報に金を払っているとなる
まず肥料から種から道具からと農業は設備費と金がかかるものなのである
だから今では小農とか兼業農家では採算がとれないのである
ただそこに補助金が出るので老人が片手間にしているだけなのである

そして耕作放棄地が増えていると騒いでいるけどそれは新規参入者にとってチャンスだとしている、つまり土地が安く手に入るからである
もうそういう土地は無料でも貸しているからである
農業はまず土地が手に入らなければできない、土地が資本だからである
そして労働は機械がする時代である
農業が採算がとれないとか負の面が大きく語られたのは高度成長時代、工業化が進展してそれと比べると農業は時代に合わなくなっていたからである
今はかえって農業が成長産業として見直される時代になっている
ただ兼業農家と副業とか今までの小農では成り立たないだけなのである

私が農業について語る時は農業というそのものが持っている価値とか意味を追求したのである、農業は必ず自然と結びつくからそこが他の職業と違っていたからである
農業は生態系と密接に結びついているから共生の思想が自ずと生まれる
ただこれを経済合理性からビジネスとして見れば違ったものになる
農業を成長産業としてビジネスとして位置づけると違ったものになる
今や農業が有望な日本の成長産業になっている

だから趣味でしている畑と同級生が5人で組になっていしている畑を比べると趣味の小さな畑は肥料から種から道具から金がかかる、十倍をもかかる
でも広い畑でも専業農家がかかわりトラクターとか機械をもっているから草はいつも刈られている、生産する量も多くなる、それは専業農家が主導しているからそうなるのである趣味で畑で野菜を作るとかえって十倍とかの金がかかるのである
でも大規模にやれば農業の収入が少ないということはないし成長産業なのである

でもここでも同じだった、補助金農業になると国に頼り補助金をもらうことが主目的になる、補助金をもらえるから工夫もしない、ただ畑をもつということで補助金目当てになるでも補助金をもらわないで農業をするとなると工夫したりいろいろ自ら励むことになる
それは原発事故でも補償金だけをもらいそれで生活しようとすることとなったと同じである
結局人間は補助金とかが補償金でも必ずいい方面に向かわないのである
その補助金とか補償金でかえって人間は向上心を失う、そしてそこに税金を払うことは国民にとっても損になる、税金の無駄使いとなる、それで税金がたりないとなり消費税が政府であげたりしてまた国民の負担が増えて苦しむのである
そういう悪循環があったがもうそれもできない
なぜなら日本全体の経済か落ちこんできているのだからそんな無駄なことをしていられなくなったからである  

この支援のお金の出所はどこかというと、国や地方自治体です。日本は雇用維持という大義名分のもと、助け合いのシステムになっているため、国や地方自治体が助けているのです。現在、国や地方自治体からなんらかの支援を得ている職場で働いている人は、なんと全就業人口の約50%にも上っているそうです。

ただ農業というのは複雑でありそう簡単に効率的だからとか合理的だからとすすめられないのはそれが自然と密接に結びついているからである
農業は他の産業とそこが根本的に違っているから合理的効率的にすすめることが合わないというこもでてくる
でも現実問題としては効率的農業を目指さないともう成り立たなくなっている
農業は別に68歳平均の人たちがしているのではない、専業農家はそうではない、若い世代もしているし新規参入者も増えてくる成長産業なのである 

nagrilife111.JPG

都市型公害農業

大規模農業

中山間農業ライフ型

この中山間農業ライフというのは農業自体に価値と意味を求めるのにふさわしい
農業体験して民泊するとか農業ライフを追及する
この辺でも蔵を改造して観光に利用するとかするために学生が来ていた
他でもそういう観光的なことをしている人はいる
つまり農業と自然は密接に結びついているから農業というのは観光のように景色を見るだけではない、自然をどのように活用するのかと深く結びついたものだからそうなる

それは田舎に住んでいても意外と農家のことがわからない、農業のことがわからない
それで趣味でも畑をしている人に直接その苦労とか面白さを聞いている
それは農業ライフを趣味としてしているとなる
趣味でしていると金がかかるのである、ただ都会の人が農業を食料を得るものとしてだけ見ている、でも農業は自然と深く結びついているからその背景が広く奥深いのである
自然に通じるには本当は景色だけみていてはわからないのである
それでその女性に冬(ふゆ)はかえって作物が育つと聞いた時、冬(ふゆ)であり増えるという意味を理解したのである
つまり日本語の由来そのものが農業を実地にしないとわからないし文化すらわからないのである
要するに文化的にアプローチするのが中山間農業ライフ型である
一方で経済合理性を追求するのが大規模農業なのである
時代で農業も変わってきていてその辺が誤解しているのである

大規模農業で経済合理形を追求するにはかえって原発事故で他より耕作放棄地が増えたこの辺は放射能問題があっても新規参入しやすい場所である
第一小高を見ればわかる、田畑が一面草ぼうぼうとなっているからだ
それだけ広い耕作放棄地を新規参入者が自由に利用されるとなればそこに新しい農業が生まれる可能性がかえってあるとなる、そこで会社経営として農業をはじめた人もいるのもわかる、もう個々人の農家ではどうにもならなくなっているからだ

つまりこの辺で兼業農家とか副業農家とかは一掃して会社経営の大規模農業にならざるをえないともなる、それが強いられている場所である
ただ小農として農業ライフを追求する分野も生じている、農業は実際は文化的なものが基になっている、cultivate-cultureだからである
そういう面でも新しい農業として成長産業だともなる

とにかく外から新規参入するのにはここはチャンスとなる場所なのである
そういうふうにすでに農業の新規参入者が外から入っている
つまり何かこういうふうになると大きな改革がしやすいともなる
一挙に広い土地を自由に使えるということにもなるからだ
そこで農業の復興がありそこを基幹として復興がありうるともなる
ただ農業というのは実際にしてみないとわからないものがある
それが田舎にいてもわからないのである
田舎でも実際は多様化しているからである
農業に従事している人は一割にもみたないとかなっているからである

ともかく農業が成長産業だという時かえって田舎が見直され成長してゆくともなる
時代が変わると必ず価値観が変わるからである
農業がだめだ金にならないという時代は高度成長時代でありその時は会社に入ると金になる時代だったからである
でも日本自体が会社が大企業でもグロ−バル競争で倒産したり終身雇用がなくなっている、銀行でもゆうちょでも農協といった国に関係しているものも国で保証できなくなっている

常に時代が変わるからである、ただ余りにも農業に負のイメージが国からでも植え付けられすぎたのである、それは兼業農家でも数が多いと票になるからである
それで意図的に負のイメージが植え付けられた、それでソフトバンクが農業にビジネスとして参画するとかITを利用するとか現代の時代の変化に適合した農業を提案する人がいたとなる
それでこの辺が第一次産業や農業が放射能汚染されたことが致命的だったのである
それさそ農業を根本的に破壊するものだったからである
農業をするなと親に子供が殴られたりした時代もあった、でも農業はまた見直される、その価値が多様だからである
そして農業の価値は工業のように変わらないのである、普遍的であり不変なのである
それは自然と密接に深く関係しているからその価値は変わらない、かえって農業ライフとか生産物だけてはない農業を通じて自然と触れ合うような農業も生れるとなる

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2019年09月13日

凍天(しみてん)の木乃幡倒産も原発事故のせいだ (水俣公害、成田闘争と原発事故の相違)


凍天(しみてん)の木乃幡倒産も原発事故のせいだ

(水俣公害、成田闘争と原発事故の相違)

●すべて原発事故のせいにされる

当社は、1965年(昭和40年)創業、84年(昭和59年)インターネット販売、「もち処木乃幡」や「しみてん木乃幡」の店舗名による小売りも手がけ、2006年6月期には年売上高約3億8700万円を計上していた。

 ドーナツのような生地の中に凍餅が入っている主力商品の「凍天(しみてん)」は、全国ネットのテレビ番組で取り上げられるなど知名度を高めていたが、2011年3月の東日本大震災に伴い工場が被災したため外注依存の製造となったうえ、本店工場(福島県南相馬市)が福島第一原発事故による避難区域内であったこともあり風評被害から売り上げが落ち込み、震災以降は業績悪化を余儀なくされていた。

しみてんは高速のSAで売っていた、でもやめたのでどうしたのかと思った
高速のSAは場所がいいから売れるていると思ったからである
でも私がカレーパンを買ったら量が少ないのに高い思った、300円以上したみたいだ
それが特別なカレーパンだとも思えなかった

「政経東北」で事業を拡張したことも失敗の原因だとはしていた
でもその主な原因が原発による風評被害とかにされている
つまりこの辺ではみんなそうなっているのである

原発事故のせいだ、東電のせいだ、国のせいだ

これですべてが終わりである、そして地元にも責任があると言うとバッシングされる
お前は「傷に塩ぬって楽しいか」とか特に原発事故で避難した人たちに言われる
原発事故の被害が大きいしそのことも書いた
今度はすべてが悪いことがあれば原発のせいだとして補償金をどれだけ多くもらうことだけに力をそそぐようになった
それを批判すればお前は同情しないのか、お前は人間なのかとまで言われる
それで「政経東北」とがでも絶対に原発避難者とか被害者のことは批判しないのである
なぜなら読者であり本を買ってもらえるお客さんだからである

今でも原発被害者が何かしているのか?同じようにパチンコとかギャンブルで遊んでいる補償金暮らしなのであり浪江町住民でもさらに月の補償金を十数万上積みしろと要求しているのであるそういう権利があるとても何か納得がいかない  

何かこのしみ天の会社でもこれとにたものがあったともなる
すべて原発事故のせいだとなる、他でも旅館でも会社でもなんでも福島県ではそうなりやすいのである、本当はすべてがそうでなくてもそうしてしまえば経営責任は問われないからである、そしてマスコミも応援するからそうなる
それは原発避難者と津波被害者でも原発避難者側についたものそうである
そのことで原発避難者が思い上がったということはあった
ただそれはタブーとなっていたから言えなかったのである

●水俣病公害闘争、成田闘争との相違

例えば成田空港をめぐる三里塚闘争、水俣病公害があったがこれらは性格が違っている

三里塚空港反対同盟」が結成されたのは「新空港説明会」から僅か3日後の1966年6月28日のことである
1978年5月20日。今から39年前の今日、千葉県成田市に新東京国際空港(現・成田空港)が開港した。

1966年7月に千葉県三里塚に空港建設が閣議決定されてから12年かかっての開港だった。地元住民による反対運動が起こり、死者も出た。当時のようすを写真で振り返る。

なぜ成田空港に反対する強力な反対運動が起きたのか?

それは左翼が学生運動家が入ってきたためだった、左翼全盛時代だったからである
それは水俣公害でも左翼運動家が入ってきた、それで大がかりなものになった
ただこの時は時代が違う、農業というのが工業化するなかで衰退産業化しつつあった
でもこの時は農民が農の大事さを説いていて反抗していたのである

でもこれも原発とくらべると原発の方がその公害でも事故が起きれば今回のように住めなくなるというほど被害が大きくなる
でも原発に反対する激しい運動が起きなかったのはなぜなのだろうか?
その時の農業の環境が違っていたからなのだろうか?

むしろ原発は出稼ぎに行かなくても地元で働けると地元民から歓迎されたのだから反対運動も起きなかったのである
成田の闘争では空港になることで田畑が奪われるということで農民が前面に出て戦ったのである
だからなぜそこまでして戦ったのか?
空港では騒音とか公害があることはわかる、でも原発とかの被害とは違うのである
もちろん騒音で住みたくないというふうにもなる、騒音公害も深刻である
でも田畑をその時維持していても時代が変わりつつあり、金銭に変えた方がいいともなっていた農家もいたかもしれない、ただその時はとにかく農民が全面的に主役となってそこに全学連とかが左翼が加担したのである

その時も「森と里の思想」という本で対談していた知識人がいたがその人たちは農業というものが人間にとって別なものとしてアイディンティティとなるものとして見ていた
それには自分も書いてきたように共感するのである
この時はそうして農業に思入れある人が農民自身が農婦でも全面に立って抵抗していたのである、それが原発事故を起こしたこの辺とは違っている

現実に東北電力で原発ができるというとき小高で工事がはじまるというとき小高の大工さんは景気良くなるよと喜んでいたのである
おそらく農家の人も歓迎していたとなる
なぜなら小高の人から聞いたからである、親に農業は継ぐなと殴られたと
それだけ農業は金にならないと嫌っていたのである
そして20キロ圏内にも入る原町市でも何か反対運動は起こっていなかった
左翼の人たちもいても運動していなかった不思議である
小高には左が多く自民党の代議士になった人が住んでいられない原発事故の後に九州の方に住むようになったとも聞いた
それは定かではないがそれだけ左の人が力をもっていたのになぜ原発反対運動が起きなかったのか?それもわからないのである

ここでも原発事故の被害者と同じようなことが起きていた

私らが裁判に勝ったら、一任派の人たちも千八百万円もらいなすった。それはまだいいのやけど、お金が出たばっかりに、自分もそげんとじゃ(そういう症状だ)≠ニ言う人の出てきたとです。それも、以前は伝染病やとか言うとった人やら、あそこの家は貧乏やから、魚しか食うもんがなくて病気になった≠ニか、陰口叩いとった人に限って我も我もと申請ばするとです。ろくに魚も食べんのに水俣病になった人やら、四十年になった水俣に越してきた人やらが、水俣病や、水俣病や′セうて・・・・。絶対、焼酎飲みすぎてアル中になった人やら、中風やらの人が申請しとるとです

水俣の公害闘争は知らないまに子供に重篤な症状がでてそれが目だったので注目された
ただ当事者が補償金闘争になりだめになったと後で述懐している
原発事故でもそうだった、あとはどれだけ補償金を東電ても政府からでもとるかという闘争になったのである
だから公害になったらみんなだめになると反省していた 

●成田闘争は国民の感情から離れ終わる

ただこの辺で成田闘争とか水俣との相違はもともと原発によって地元の経済が成り立ち
恩恵を受けていたことである
その規模が大きいのである、成田闘争とか水俣との規模が全く違うものであった
いくら水俣病の被害でも百人くらいが実数の被害者だったのである
たしかにはそれは目だったがこの辺は十数万という規模で被害を受けた
そして住めなくなったということが被害だったのである
だから成田でも水俣でも被害はあるにしても規模が違っていたのである
だから死人が出なかったというけど住めなくななったことが最大の被害だったのである

でも何かこれらの公害問題は違ったものだった、原発事故では一時東北に住めなくなるという危機感をもたらしたほどである
でもそれがなぜ成田闘争や水俣公害闘争のようにもならないのだろうか?
第一原発が建つ前にそうならなかった、左翼が力をもっていた小高でもならなかった
その原因は明らかに地元の人たちの危機感の無さとか原発が金になるということでそうなった、その抵抗する動機がなかった
農業していても親が子を農業だけはするなと殴ったように農業自体を卑下してそこに価値を置かなかったのである
成田闘争では農民が前面に立って農業を守ろうとしていたのである

成田闘争では何か農業を守りたい農業をここで継続したいという意志があった
それで農婦までも全面に立って戦っていた、それは必ずしも左翼運動家に強制されたものにもみえないのである
その差がどうして生まれたのか?そこも追求する課題だとはなる 

京成電鉄を筆頭に地元の列車内では反対派が事実上占拠しており、車内では竹槍をかざしながら対立組織に対する「検問」が日常茶飯事に行われていた[9]。地元住民の生活の足である『京成電鉄へのテロ行為』は、もはや空港反対運動の枠を超えた地域の社会基盤そのものへの破壊活動であり、空港周辺部以外の京成線沿線の住民からの反対派への白眼視を招いたのみならず、この頃始まった新左翼そのものの衰退や、当初の目的である開港阻止が叶わなかったことで『成田空港粉砕』を唱え、より先鋭化の傾向を見せる反対派に対して、国民感情は加速度的に乖離していった。

左翼運動家は過激でありそれが国民感情とずれていたのは学生運動でもそうだった
何か青春のエネルギーそこで発散するために暴れていたのかともなる
だからどうしても農民が主体となっていてもこのとき左翼の力が強くそれによって大々的に社会問題化したとなる

1956年(昭和31年)5月1日に熊本県水俣市にて公式発見され、1957年(昭和32年)に発生地の名称から命名された。その後、類似の公害病にも命名されている。

1978年(昭和53年に開港した新東京国際空港(現・成田国際空港)を巡っては1960年代初め頃から候補地等の検討が進められていたが、その建設に当たり、開港を急ぐ政府の強硬姿勢と当時の世相と地域固有の事情が相俟って、空港用地内外の民有地取得問題や騒音問題をめぐって近隣住民らによる激しい反対運動が社会問題化した。

●なぜ原発では反対運動が起こらなかったのか?強力な電事連があったからか?

この闘争は長かった、1960年から始まっていた、ちょうど学生運動とだぶった時代だったのである、だから左翼運動家が問題を大きくした側面もあったのだ
でもなぜ原発に関してはこうした激しい反対運動が起きなかったのか?
左翼でもしなかったのか?

その原因の一つは電事連にあったのかもしれない、この電気連合体は強力なのである
800億円の宣伝費をマスコミに流していたからである
だからその組合は原発に反対はしない、飯の食い上げになるからだ
利権と一体化しているからできないのである
水俣病公害事件とか成田闘争はこうした強力な組合とは関係ない、学生がかかわっただけだったとなる、それでも何か大きな問題として取り上げられたのはなぜなのか?
1960年からはじまったとなるとまだ農業が衰退していない時代だったからなのだろうか、それで農婦でもただ左翼運動家に押されて前面に出て来たともならないのか?
そういう時代の差があってそうなったのか?

でも今度は原発だと双葉とか大熊地域は福島県のチベットとか言われた
出稼ぎ地帯であり地元で働きたいという意向が地元に強かったから積極的に誘致された事情がある、だから反対運動は起きなかった
ただ原発では左翼でもこれまでのような強力な反対運動は起きていないのである
それでも巻町と能登では原発を作らせなかった、それは左翼運動家がいて反対したからではない、地元民が協議して作らせなかったのである
だからそれほど強力な運動しなくても原発を作らせないことはできたとなる
全く地元民が無力だとはなっていない、ただ福島原発は日本では第一号原発でありアメリカの要請と政府の意向が強く働いたのでまた事情が違っていた
福島原発と他の原発ではまた事情が違っていたのである
そこに一千万都市の東京都民の圧力もあったのである、新潟県の柏崎原発でもそうである東電の原発でありその電力は東京都民が利用するからである、また原発第一号ということで政府が強く後押ししたからだともなる

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原発事故の処理にあたる従業員650人を退避させた (事故処理する人がいなくなっていた、保安院もいなくなっていた!)


原発事故の処理にあたる従業員650人を退避させた

(事故処理する人がいなくなっていた、保安院もいなくなっていた!)




証言によれば、吉田所長は福島第二への退避を指示してはいなかった。約650人の作業員の退避は、「伝達ミス」によって起こった、ということになる。それを、朝日新聞は「命令に違反した」と報じたわけだが、確かにその表現は正確ではないだろう

「事故対応にあたるべき人員までが現場から離れていたことの深刻な意味を、我々は振り返る必要がある」と強調した。

 「もし、(福島第二から)あのまま誰も戻らず、線量も下がらなかったら、東日本は壊滅状態になっていた。チェルノブイリでは、沢山の原発作業員が命を捨てて、鉛を投げ込んだことによって、最終的な破局を免れた。東電はそこまでやる気はなかったし、政府も覚悟はできていなかった。次に事故が起こったときに、そういう労働を命じられるのか、誰がやるのか

浪江町の東電で働いていた人が事故当時電気工事関係者が1000人働いていた
でも事故になり退避させた、それが悪かったと言っていた
そのことはこのことだったのである
あの人は現場にいたからわかっていた

事故対応にあたるべき人員までが現場から離れていたことの深刻な意味を、我々は振り返る必要がある」と強調した

事故に対応する人が650人もいなくなっていた、それは命令させられたのかその人は東電の命令が絶対で逆らえないから退避させられたとなる

事故になり吉田所長とか50人くらいは残った


最も大変な事態が進行しているときに、原発を操作できる唯一の組織である電力会社が収束作業態勢を著しく縮小し、作業にあたる義務のない者が自発的に重要な作業をし、現場に来ることが定められていた役人が来なかった。


外国メディアは残った数十人を「フクシマ・フィフティー」、すなわち福島第一原発に最後まで残った50人の英雄たち、と褒めたたえた。
 しかし、吉田自身も含め69人が福島第一原発にとどまったのは、所員らが所長の命令に反して指示とは別に福島第二原発に行ってしまった結果に過ぎないだった。
 所長が統率をとれず、要員が幹部社員も含めて一気に9割もいなくなった福島第一原発では、対応が難しい課題が次々と噴出した。

 「フクシマ・フィフティーの真相」朝日新聞〈吉田調書)


事故になった時、東電の所員の一番心配したのは原子炉だったという、周りの住民の安全とか命を考えない、住民を避難させることに頭が回らなかった
でも東電の事故に当たるべき所員は避難させることを第一にしていた
残った人はほめられたがそれはたまたまそうなったとここで報告している

チェルノブイリでは、沢山の原発作業員が命を捨てて、鉛を投げ込んだことによって、最終的な破局を免れた。東電はそこまでやる気はなかった


日本はチェルノブイリのことを批判していたけど日本の方が対処が悪かった
例え上からの命令でも命がけで事故を収めようとしていた、実際に20人以上死んだ
その時日本ではいかに避難させて従業員の安全を計るしか考えていなかったのである
保安院はいち早く避難していなくなった、政府の代表がいち早く逃げたともなる

つまり誰も事故を起こした原発を診る人がいなくなった!

混乱していたにしろ日本には英雄などいなかった、政府でも東電でも無責任だったとなる
ではなぜそうなったのか?

そもそもが福島に原発を作ったのはそうした危険を回避するものとして東京から300キロ離れた福島に造ったことにもあった

もしこれは東京に原発を作っていたらどうなるのか?

もう東京の人が危ないとなれば必死にならざるをえない、みんな騒ぐからである
そうしたらみんな作業員を退避させることなどでできない
一千万の東京都民が危険にさらされるとなれば真剣にならざるをえない
国でもそうである、国の機関も東京にあるからだ
そして東電でも福島とか離れた所ではないから直接指示できたのである
そこからして間違っていたのである
ただ東京に原発を作れなかった、みんな反対するからである
そして福島に造らせたのである
そこに東京都民も責任がありずるいともなる
福島に原発を作らせて自分たちの安全を計ったのである

原発がどういうものかどれだけ危険なものかその自覚がなかった
東電の人は専門家だから知っていた
それで浪江の人が津島に避難した時、そこに東電の社員がいて街の方に引き返した方がいいとしてみんな引き返した、津島だと今でも放射線量が高くて帰れない、もっとも高い場所になっていたのである
東電の社員は知っていたが対処しなかっただけである
専門家はやはり専門家である
一番関心したのは10メートル以上の津波が来ると東電では調査報告されていた
でもその対策を東電の幹部はコストがかかるからしなかった
その他電源を地下に置いて津波がきて使えなくしたとか不備があった
危険を考慮せずにわざわざ高台に建てる計画だったのに低くしたことも津波の被害にあった原因だったのである
それだけ原発の危険に備えていなかったのである

ただ東京には作れない、これだけは最初からの至上命令だった!

あとは福島だ、離れているからいいやとかなっていたのである
福島が事故になったら処理すればいいんだとしかならなかったのである
そうしして福島では事故のために住民が住めなくなったのである

これは本当かどうかわからないが前の南相馬市長の桜井氏が原発が爆発した時北海道に逃げたとか噂になった、それは本当かどうかわからない
それをしきりに言う人がいた、それも保安院が真っ先に逃げたというのとにている
ただ南相馬市では原町区は全員に避難命令が出て実際に避難したからだ
その隣の鹿島区でも半分は避難した
その時もうバスには乗れないとか騒いでいた、人数が多いから用意できないとしていた
そういう混乱状態のとき危機か感じる人は感じていた
そして南相馬市立病院の看護婦などもいち早く避難した
患者を置いて避難した、それはやはり危機感を他の人より医療関係者でもったからだとなる 

私は何が起きたわからなかった、だから危機感がなかった、それで20マイクロシーベルの放射線量がでていたとき外を出て歩いていたのである
外に出るなと警告されていたのにそうしていた
だからそれだけ放射能とか原発のことが日ごろから知識としてないからそうなった
津浪だってそもそも危機感がなかったからかえって老人がこの辺は津波は来ないよとして死んだ人が多いのである
つまりどうしても危機感をもって生きること備えることが人間は苦手なのである
今回の千葉県の停電でも一週間くらいの停電には各自備えておけというのもそうである
それは住民の責任だと言っている
要するに何でも政府が自治体でも他でもしてくれないからそう言っているのである
ただ原発だけはどういうものかわからないから備えることもできなかったのである


浪江町で原発の現場で長年働いていた人の発言の検証 
〈その指摘は現場の経験で的を得ていた)






posted by 老鶯 at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年09月12日

神秘の洞窟(Mysterious artificial cave)

神秘の洞窟(Mysterious artificial cave)



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Mysterious artificial cave

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dark vally

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a hidden lake

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crest of the earth

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train go into galaxy

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縁(えにし)とは海洋民族が縁を結んだ海岸のこと? (日本の海岸線が日本のアイディンティティを作った場所)


縁(えにし)とは海洋民族が縁を結んだ海岸のこと? 

(日本の海岸線が日本のアイディンティティを作った場所)

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津浪で海となった、その先が太陽の落ちる方向が日下石

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縄文時代を通じて切れ間なく大陸から人が漂着しており、そのいずれもが長い航海を経てたどり着いていることからして、列島に流れ着いた人は総じて航海技術に長けており、それらの技術を生かしてネットワーク形成を担った運輸集団になっていった可能性もあります。
その一つが縄文晩期に北九州に漂着してその後長野から東北に移動した安曇族であり、古墳時代を通じて日本中にネットワークを広げた物部氏です。


日本語の謎は深い、それを解き明かすことは不可能である
ただどういう人たちがその言葉を最初に創りだしたのか?
それは日本に渡って来た人たちがいてそれがもともとあった縄文語と混合した

海岸が西になることはありえない、でも今回の津波でわかったことは日下石(にっけし)という地名がにし(西)なのである
その近くまで津波が来ていたのである
そして津浪で海になった所をみたら日下石(にっけし)の方に輝き沈んでいった
そこから山は見えないのである海から見たとき海岸に太陽が沈むのである
そして日下石に古墳がありそこの近くまで津浪が迫った
その辺まで人が住んでいた

つまり船で来た海洋民族が安曇族などが上陸した海岸は日下石だったのである
それを名付けたのはアイヌなどではない、安曇族とか外来の民族である
なぜならこの辺に綿津見神社と山祇(山津見)神社がどれだけ多いか
特に相馬藩内に異常に多いのである、これは特筆すべきことでありこの辺の特徴なのである

それはなぜなのか?おそらくこの辺は今は海岸線に入江がないけれど奈良時代まで海が深く入っていたからである
その証拠となるのが鹿島区の塩アに船着という地名がありそこに船が来て交易をしていたそれで市庭という地名も残している
その船着のすぐ近くまで津波が来ていたからである
そこに今の東北電力の発電所があり鉄の一大生産基地でありそこから鉄などが運ばれていたのである

船で来て海から見れば海岸が西になるのである、そして東は陽{日}が上る岸になる
それは陸地から見たものであり海岸で見たものではないのである
海岸から見れば海の方から陽が上ることになるからだ
そしたら陽が上る岸とはならない、岸は陸地だからである
それは陸地から見て東として海から見たとき海岸は西だったのである

それで縁とは江西でもある、名古屋の愛西はエニシである、太陽は伊勢湾から昇る
その辺は海が入り込んでいた、だからそこも昔海岸であり西となったかもしれない
ただ方角はどこを中心にして東西南北を決めるか大事になる
その中心が変わると違ったものになるからめんどうなのである
南相馬市自体がそうである、相馬市の南相馬市になったからである
もし小高が中心だったら北相馬になっていた、現実鹿島は北郷となっていたのは小高に前に相馬氏が最初に城を築いたところだったのでそこから北ということ北郷になったからである  
また日本海とかでも瀬戸内海でも方角は変わる、太陽が海の方に落ちてゆくようにも見える
日本海になれば太陽は山から上り海に沈むから逆になる

いづれにしろこの辺で注意すべきは綿津見神社と山津見神社がやたら多いことなのである
それはここに海洋民族の安曇族とかが入植したために多いのである

私の魂は子の風景のもとに安んじて帰ってくるだろう、それはかつてこの島影にたどりついた民族の心象というものがあったからだろう
「海やまのあいだ」にある狭い土地ーそれを海岸線と言ってもいいだろうーにこそ我が民族の「ふるさと」があったのである
海岸線の歴史ー松本健一

日本は古来地理的に海に囲まれているから海岸線が重要だった、そこが生業の拠点ともなった
海老村で二日前に町があったところから坂を上っておりた崖の上に古墳が発見された、それも二も発見されたとなるとそれだけ海老村は人が弥生時代から人がかなり住んでいたからである
そこで魚や貝などをとって暮らしていたのである、また日本では海岸線は奈良時代とかその前になると入江になっているところが多いのである、津とつく地名はつづくからきていて海は陸地にはいりこみ海がつづいている場所だったのである
そこで交易も行われていたのである

だから海岸線は海岸は日本人が縁(えにし)となる場所だったのである、また入江が多いということはそこで魚とか貝をとりやすいのである、生活の場として適地なのである、それで新地の手の長い巨人が貝をとっていたというのはそのためである
松川浦のような入江がありそこで貝がとれたからである、そこが暮らすには適地だったからである
ただ海を海岸線を日本のアイディンティティとすることはなくなった、というよりは海というのはアイディンティティにしにくいのである、海と自己同一化するとしてもできない、海は固定していないからである、それは広大な平原とかともにている
また今回の津波のように恐ろしいものが海なのである

それよりアイディンティティ化しやすいのは固定しているもの山なのである、それに付随する木とか石なのである
だからこそ日本は大和(やまと)山が原点となり故郷となり国になったともなる
ただ最初は神話にもあるように海洋民族が安曇族のように日本の海岸線に上陸して山の方に入植したのである
だから松川浦に山津見という地名があり和田というのも綿津見であり地名化しているし栃窪にも山津見神社があり
その最終地点が飯館村の山津見神社であり綿津見神社なのである

ともかく津波は日本の海岸線が陸地の奥まで入り込んで入江になっていたことを証明した
それはわかっていたことでも驚きだったのである、入江は港でも生活の場にもなりやすいのである
だからみちのくの草原という万葉集の歌は草原(かやはら)は萱ではない、人が出入りして物が入る港だったのである
そういうふうに栄えた場所でありただ萱原が茂っている淋しい場所ではなかったのである
ただ原始の状態だったらその当時はそういう風景はありふれている、むしろ人と物が出入りする港だったとなる
みちのくの真野の草原遠けれどというとき遠いという場所の比喩となっていたのである
草原が茂っている場所ではなかった、ただそれが江戸時代まで石巻の萱原がその地だとされていた
それもまた地名として残されているからそうなった
そして真野の草原にきたとして萱をお土産のようにしてもっていったというのも記されている
それもなぞのなのだが考古学がない時代だからそうなっていたのである

ここには海洋民族の安曇族をはじめとしてツノガノアラシト系の鉄の生産技術をもった渡来人とか集中して来た場所だった
そういう背景があってみちのく真野の草原の万葉集の歌が生まれたのである



posted by 老鶯 at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

夏から秋の変化の短歌十首(海老の浜)


夏から秋の変化の短歌十首(海老の浜)

ebihamaship11.jpg

クリック拡大(沖に船が見える)

seashoreff1.jpg

クリック拡大ー白い花が何なのか、

浜木綿(はまゆう)とにている
でも違っているみたいだ
こういう花をここでは見たことがなかった
津浪の後の変化なのかもしれない、津波で生物でも植物で死んだり再生したりしているからだ

matushigeru1111.jpg

津浪にも残った松ーその下に松が茂っている


mushihama111.jpg

めずらしい虫、葉は何か、海老浜はマルハシャリンバイの南限の地として有名
つまり南国性の植物が生える場所だとなる



朝の蝉六号線を急ぐかな

夏の日に釣りする人や波しぶき

雷鳴りて後にすずやか月光る


大平洋波打ちしぶき沖に船揚羽のここに舞い去りにけり

珍しき虫の一つや海老の浜八年過ぎし津波の後かな

津波にもなおも残れる松ありて新しく育つ松も頼もし 

津浪より8年過ぎて育つ松繁げるや海老に秋の海見ゆ

鴎群れ大海原の波にゆれ沖に船行く秋の海老浜

ふるさとの小径にここに分かれけりいづくに行かむ秋の日暮れる

水無しの河原に露草あまた咲き今日清らかに水の流れぬ

(南朝語る)

只野氏の南朝語りしきり鳴く蝉の声かな故郷の暮る

南朝を語りし友や秋の蝉ひびきてあわれともに老いゆく

ひぐらしの森の奥よりひびきけり影なす道の行く人もなし

(月)

今日もまた月の窓のぞき我を母の見つつありなむいともは静かに

母もいて姉もありなむ争わず我が家にむつみあうなれ月の光りぬ

別れてもまた会う人や故郷の木陰の道や今日も行きにき

月満ちて明るさ増しておとろえぬ我が老ゆとも智は冴えにけり

山の端に月の傾き光るかな故郷に住み老いゆく我かな 




この三日くらいは天候が次々に変わった、日本の天候は本当に変わりやすい
最初は雨がふって夕べ虹がでた、それから台風がきて昨日は雷が鳴った
その雷もやんだと思ったからまた鳴った、秋の雷となるが昨日は暑かった

この天候の変化の中で海老の浜に行ったりした
そこで古墳が発見されたとか松が意外と高く茂っていたとか変化があった
あそこは風力発電の風車がないからいい、家もなくなったので見晴らしが良くなった
右田の松原はなくなったので鹿島区では海を見る場所としてはあそこが一番いいとなる
つまりビューポイントなのである

雄大な大海原(おおうなばら)に鴎の群れが波にゆれている、何かきもちいい
しかしふりかえると海は怖いものだったなとつくづく思う
その海が見える後ろでは避難して30人が死んだ
そこは高台だから津波の避難所として指定されていたからだ
これも悲劇だった、でもあそこは海を見るにはいい場所として残った

ふるさとで出会うのは同級生の人でありその人は本当に霊山を落ち延びた南朝の末裔の只野氏だったのである、とにかくこの辺は只野氏がやたら多いのである
只野氏一族の町だともなる
ただ南北朝の争いは日本全国にその傷痕を残した、どこでもその争いが伝えられているからだ、それは小さな村でもそうである
それだけこの南北朝の争いは日本の歴史にどれだけ影響したかわかる
天皇が二人になったときどれだけその影響が日本では大きいことを示した歴史だったのである

月は秋の季語である、月がだんだん満ちて明るく輝く、でも今は夏から秋になる時期である、そして夏と秋がある、最近は暑いから余計にそうなっている
何か何度も言っているが不思議なのは今になって知性が冴えている
本でも一か月に10冊とかアマゾンの古本で買っている
だから書評を私はできる、この本が何を言おうとしているから一読してわかるからだ
ただ残念だったのはこんなに本があっても知らなかったし読めなかったのである
本というのは自分の知的関心から買うものだからインタ−ネットのキーワードで関心あることを調べそこで深く知りたいとき本を調べ買う
また誰かの文を読んで紹介されて買うとういことが多くなった
そういう買い方が良かったのである、それが今まではできなかった

そこで田舎ではまず本を買うことができなかったのである
仙台まで行って買うにしてもそこでも本が少なかったのである
すると肝心の本が買えないから知の分野では本当に不利だった
今はインタ−ネットで学者の論文でも読めるから素人でも学者ともなれるとなる
なぜなら文献とか論文とか本を読まない限りプロにはなれないからである

老人は体力は衰えても知性はかえって冴えてくる、人間は死をまじかにすると精神でも相当に鋭敏になってゆく、末期の目で見るようになるからだ
だから老人は知的な世界では充実してくる、私がこれだけてプログで書いていることでもわかる,書くことがいくらでもある、その内容も深く濃いのである

月数(よ)めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか  万葉集4492

こういう感覚は万葉時代にもあった、明確に月を数えてもよんでも辺りの景色は冬と思っても春となっているし秋と思っても夏となっているとかある
今は季節が一か月くらいずれている
今日は秋なのかでもまだ日ざしは強い、ただ今日あたりからは秋らしくなってゆくようだ



2019年09月11日

敦賀の原発でも漁業権を売ったことと同じことが起きていた (ワカメが放射能に汚染された方がいい、補償金がもらえるからとなった)


敦賀の原発でも漁業権を売ったことと同じことが起きていた

(ワカメが放射能に汚染された方がいい、補償金がもらえるからとなった)

敦賀の原発が放射能漏れ事故を起こした
それで養殖しているワカメから放射能が検出されて出荷停止になった
すまと原電から補償金が入る、そうなると働かずにお金がもらえる
そこで〈敦賀の漁民たちはこういうことが年に一回くらいあればいいのにとみんな思っていると」言っているのです
(属国民主主義論ー白井 内田樹の対談)

この対談は面白かった、そこにこういうことを内田樹が言っていた
この人は原発避難者を前から批判していたのである
津波被害者と分けて批判していたのである

このことは漁業権を東電に売り渡した漁業組合のことを指摘してきた
ここが何か一番の原発事故を起こしたことの地元の矛盾が現れていたからである
そして最近放射性物質に汚染された汚染水を海に流すということを政府で決めたことに反対している
そうして反対すると補償金が水増しされたりする、海を汚して魚がとれない、売っても売れない、放射性物質に汚染されているのだから売れないからもんと補償金をよこせとなる
それは原発事故前からそうだったのである、船主は特に権利があり東電に漁業権を売り渡した、それで原発御殿を建てていて回りからうらやましがられていたのである
それは海を利権化した暴力団と変わりないと他の人たちも言っているのである
そもそも漁業権は資源保護のために与えられている
東電に漁業権を売った時点で資源保護は保証されなくなっていたのである

だからこの敦賀の原発でも同じことが起きていた
ワカメの養殖が金が入るより事故になって汚染されて補償金を出る方が金になるからそう正直に言っている
そもそも漁業でも金にならないとか跡継ぎがいないとかずっと不満を言っていた
それで原発ができることで実際は金になるということで地元では歓迎されていたのである反対運動もしていないし原町の隣の20キロ圏内に東北電力の原発が工事がはじまるときでも小高の大工さんが景気良くなるよと喜んでいたのである
でも事故になったら今度は原町まで住めなくなった、それも恐ろしいことだと思った

この対談では明治維新になったのも江戸幕府が腐敗してみんないやいやしていたから明治維新になって日本人は変わることができた
その体制そのものに嫌気をさして変わる方がいいとみんな心の中で思っていたからそうなったと言っている、戦争も実はやめたかった、でもしぶしぶ仕方なくしていたから戦争に負けたときかえってそうした不満が解消されたとか解放されたとか言っている
何かそういうことがあったことは確かである

生業を返せーという裁判があったとしても生業とは何なの、生業とは漁業であり農業であり林業である、こういうものはみんな金にならないと不満が大きかった
もう全体の一割くらいしか従事していないのである
そして農業している親に子供が農業だけはやるなと殴られたと言った子供は原発とか建築現場で働いたのである

生業を返せ、補償しろ、金を出せ

となるけど第一生業そのものを嫌いそれに価値を見出していない、金に価値を見出しているだけだったのである
今になってそういうことを主張するのが矛盾なのである
だから外から見ると金が欲しいからそういうことを理由にして訴える、金が欲しいだけだとなる

つまりもし生業そのものに本当に価値があるものとしてこれまであれば批判はしないのである、そういう人はいないのである
そうなると山尾三省のようにパンは贅沢だとかなりパンすら食べられない生活であり
まるで生業に捧げる殉教者のようになる
山尾三省はそうして生業そのものの価値に生きて早死にしたとなる
この辺でそんな人は一人もいないのである、生業を捨てて金をもらい楽して贅沢したいしかなかったのである

でも人間の価値とは何なのか?そうして生業を捨てて補償金をもらっていい車を買いギャンブルに興じる、それは仮設暮らしとか原発避難者がそうなったのである
その時むしろ生業の価値を知るべきだったとなる
生業に従事することこそ人間の価値だったとなる
別に金をもらえばそれも辛いから金だけもらって贅沢してギャンブルしていればいいとなる、でも外部の人からそうしていて顰蹙を買ったのである

つまり人間の価値とは何なのか?

漁業であれ農業であれ林業であれ・・生業に従事していることこそ価値だったのである
ただ補償金をもらって贅沢して消費者になりギャンブルしていることが人間の価値になるのか?
そういうことが問われたのだがそのことを深く考える人はいない
要するに金の社会になれば金さえあればいいんだ、金を持っている人が価値があり何しようが関係ないとなったのである
そのことは上級国民下級国民でも別に金さえあれば上級国民になれると言っている
それが例えば株でももうけようが何しようが金がある者が一挙に上級国民になる社会なのが資本主義の原理だとしている
人間の価値は金だけで計られる、それで年収とかが階級化して目安となる
金意外に何か価値づけるものがない
もともと生業とかは金にならないとなっていた、だから価値がないとなっていたからこういうことが起きているのである

ワカメを作っているより魚をとるより米や野菜を作るより原発から補償金もらった方がいいとなっていたのである
だから原発は莫大な金を生み出すからそうなったのである
事故後でも除染費用が7兆円とかになり飯館村でも一億円もらった方がいいとか言われたしそれなりにもらった人がいた
前の土地が田んぼから住宅地になった農家の人は新しい豪華な家を新築していた
その人も原発事故を喜んでいた一人だともなる
飯館村は山菜をとれるとしても貧乏だったからである
それが外部からみれば素朴ないい村だとなるが内部ではそうではない
やはり今の時代は金がものいうから巨額の補償金が入ることで村は分断されてしまったのである

要するに生業を返せといっても山尾三省のような田舎の本来の生活に価値をもともと否定していたのである、そうなると田舎の殉教者のようになるからである
そんなことができるのはよほどの変人だとなってしまったのである
車もない、パンも食べられない、囲炉裏で生活している、そういう生活が田舎だったのである、その貧乏から脱するために経済成長時代が築かれたのである
そこから原発か積極的に誘致されて事故になり住めなくなったのである

ただ不思議なのは山尾三省のような生活は特別なものではなくみんな田舎ではそういう生活をしていたのである
その時は変人でも奇人でもない、常人であった
それが時代が変わって変人、奇人にされるようになった
テレビ番組ではそうした貧乏の極限を生きる人が変わっているから放送して視聴率をとる
もしそれがみんながそういう生活していた時代にそんなことを放送しても話題にもならない
何にも変わったところがないからである、当たり前のありふれた人だから話題にもならない
だから時代が変わるとこれだけ価値とか物の見方が変わってしまうのである

posted by 老鶯 at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

千葉県で台風による停電がつづく (災害に弱い便利な文明社会―大都会は壊滅的被害になる)


千葉県で台風による停電がつづく

(災害に弱い便利な文明社会―大都会は壊滅的被害になる)

千葉県で停電三日とかなり水道が出ないとか物が買えないとかクーラーが使えないとか被害か出ている、電気がないとガソリンすら車に入れらないという
つまりあらゆるものが機能させているのが電気になっいるからだ
電気が復旧しないと何もできない状態になる、食べ物すら冷蔵庫も使えず食べることもできなくなる、そういうことは東日本大震災で経験した
でも私の住む場所では電気が使えたし水道も使えた
近くでは電気も水道も使えなくなっていた、千葉県の房総市では街全体が真っ暗になった
文明は便利てのだけど電気水道とかの基本のインフラを破壊されるとその影響が大きい
何もずることもできなくなる、電気が使えないということはガソリンも供給できなくなることでもわかる、電気とはまさに今のライフラインなのである

そして文明社会は災害に弱いのである
なぜなら電気に頼っているから一旦電気が使えなくなるとあらゆるものが使えなくなる
携帯まで使えなくなっている、すると連絡すらできない状態になっている
一見便利なものでも電気が使えないとその便利なものが使えなくなる
真っ暗闇で暑くてもクーラー使えない、食べ物もない、連絡もできないとなる

都会は東京とかなると災害に特に弱くなる、電気が使えなくてったらこうなる
東日本震災で津波の被害地では電気も水もなくなっても裏山から清水をくんで木を切って薪で米を炊いてしのんだということがあった 電気がなくてもそういうことができたのである、都会ではできないのである
その時道路も寸断されたから助けようもなかったのである

そして今の時代あらゆるものを交通とか通信に頼っている
すると電気が使えなくなると使用できなくなる            
つまり文明生活は便利でも一旦こうした災害にあうと弱い
原発事故ではさらに空気から水から土から木から汚染されたから最悪だった
空気も水も飲めなくなる恐怖だったのである
それは今でも継続されているのである
原発は便利でも一旦事故になったりすると最悪になり住めなくなる 

こういうことが東京に大地震が来たらもっとひどい最悪のことが起きる
それももうなかなか復旧できない、その間に死ぬこともある
クーラーが使いないで老人が熱中症で死んだたからである
外からも助けることができない、電気が使えないと今回のようにあらゆるものが使えなくなるからだ
何か備蓄していても米を備蓄していても電気がないから炊くこともできないとなる
冷蔵庫も使えないから食料も得られるなくなる

何か東日本大震災とか神戸大地震とかで考え方が変わった
日本は本当に災害国であり周期的に大地震でも津波でも来る
それにいかに対処するかが日本国土に生きる者に要求されていた課題であった
日本の自然災害がいかに多かったかふりかえるべきである

次の大地震は津波は南海トラフで日本は壊滅的状態になる
それは科学的にも証明されている、そしたらとても東京のような大都会に住んでいられない、恐怖で住んでいられない、高層ビルが倒れるとかイメージしたら恐怖である
それは津波で壊滅した海岸線に良く住んでいたなと今になるとみんな言う
そんな危険なところに住んでいられたなと今になると見る
それと同じことが起きるのである

そうして日本がこれだけ災害が多いというとき災害に備えることが必要なのだがそれが真剣にしていない、日本人は忘れやすいのである
台風一過だとかしかたがないとか自然の猛威をただ通り過ぎるのを待っているだけであるでも今は災いは人間の手で作り出されているのだ
巨大な東京のような大都会がどれだけ危険なのか?
なぜその恐怖におびえて対策をしないのか?

正直外からでも東京が大災害にあったら助けることはできない、自滅してゆくだけになるそれが悪いのは回りでもない、事前に備えないなかったからだ自己責任になる
津浪でもなぜあんなに危険な海岸線に住んでいたのは自己責任だとも言う人がいたからである 

東京だけではなく都市でも田舎でも電気に頼っているから災害に弱い
でも地方だとなんとか水を裏山からでも飲めるとか木を切って燃料にするとかできる
都会ではそれができない、すると自滅する他なくなるのだ

だから津波であれだけ死んだとき、なぜそんな海岸線に住んでいたのか?
そんな危険な場所に住んでいる人が悪いと地元でも言う人がいたのである
それで東京でもそんな危険な場所になぜ住んでいたのか?
そんな所に住んでいた人が悪いとなってしまうのである
それで死んでしょうがなかったともなる
そういう場所に住む人が悪かったのだとなる

そして災害にあった時だけ助けてくれというのは虫のいい話だとなる
またそういうとき金は役に立たない、いくらでも金を出すと言われてもできない
現実に電気を復旧するにも時間がかかる、そういう時は金の問題ではない
丁度救急車を呼ぶのとにている、命にかかわるからだ
その時金のことを言っていられないのである

日本人は東日本大震災で気づいたことは常にどこでも自然災害があり備えていなければならない国だったのである
それでおたがいさまとかあるのは災害のとき助け合わないと生きていけないからそういう言葉が残されたとなる
日ごろは今は金さえあればとなる、金の力が大きなものとなる
でも災害の時は困った時は金だけでは解決しなくなる
そこで日ごろから協力関係がないと災害の時も助け合うことができないとなる
災害の時だけ助けてくれと言ってもできない、それは災害だけではない、日ごろの生活で病気だとかいろいろ困った時助けてくれないとなる
それは虫のいい話だとなるからだ

だからグロ−バル化した時代は日本はどこも危険だとして外国に脱出するのがいいと実行している人もいるしそうしようとしている人もいるのがわかる
第一東京とかなると故郷意識もない、どこでも便利に過ごせるなら安全なら住んだ方がいいとなる、そういうことは地方でも起きている
だからこそ原発避難区域では若い人は流出してゴーストタウンになったのである
東京とかでも一部巨大なゴーストとタウン化するかもしれない
もう危険だから住まないとなる

そして東京に住むのは危険だとわかっていたことだから覚悟して住め 

外から助けることはできない、金で解決はしない

その時金の力はなくなる、物がなくなったりするから戦後で農家に食料を交換するために高価な着物とかも売ることになる、つまり一挙に弱者化するのである
この世では強者が一挙に弱者化することがある
いくら金もっていてもそうである、金は万能ではないからである
本当はだから金を貯えていても大きな災害には役立たない
むしろ米を備蓄しているとか物があることが大事になる
それでこの辺では古米を配られたとき助かったのである

東日本震災で経験したことは大きなカタストロフィー、全面的崩壊現象だった
それは文明の崩壊のようになったから恐怖だった
原発にたより空気も水も土も放射性物質に汚染されたら住めなくなるからだ
東日本が住めなくなるという恐怖だったのである
東京のような大都会は人口が密集しているからそこでカタストロフィー起きる
地方だと田舎だとそういう大きい崩壊は起きない、分散しているから一部が破壊されてもまだ分散していれば生き残る
でも都会は集中的に住んでいるから壊滅的被害になる、それは神戸地震で証明された
ただ原発事故は地方でも田舎でも全面的崩壊に直面した
空気も水も汚染されたからである、土も汚染され森も汚染されて住めなくなったからである、それだけ原発は怖いものだったのである
それでもそうした危機意識がなかったのである

災害に強いか弱いかというとき原発事故でないかぎり地震でも津波でも接続社会として維持してきた
三陸とか漁業でも成り立っていた
明治の津波でも一万人死んでも漁師は海岸沿いに住んで魚をとっていた
船をだして魚をとって生活を維持していたのである
つまり津波だったら別に魚がいなくてるわけでもないし食料がなければ生きていけないからそうなった、つまり住民が大量に死んでもやはりまた魚をとれることで人口が回復したのである、自然に依存して生活していれば確かに被害も大きいのだが貧乏でもなんとか生きることはできて持続社会になっていたのである

東京とか巨大都市になるとそうした接続社会とならない、維持できない、一挙に大崩壊がきて再生できないしゴーストタウン化する、外国から食料でも入り助けてくれるというが外国は本当にそういう時助けてくれるのか?
その時日本の円は暴落するから物を食料でも買うこともできなくなる
緊急の際は外国は役に立たない、運ぶのが容易でないからである
今回の停電でも電気が使えなくなっただけで外部との交通もたたれ連絡すらできない状態になったからである
グロ−バル化経済とかは意外と災害とかには機能しなくなる 

外国だから別に助け合うということで成り立っているわけではないからだ
それで韓国では日本が災害にあったとき喜んでいた
今でも放射能に汚染された魚とか食料のことで攻めて来る
そんな国と付き合えるのか?
むしろ災害に会い日本が弱体化したとき攻めてくるのが外国なのである
だからグロ−バル経済というのは一面大きな危険がひそんでいる
それは別に助け合いの経済でも何でもないからである
それより資本主義の非情な弱肉強食の経済なのである
それは外国だけではない日本国内にもありうる 

田舎と都会の問題にもある、日ごろ助け合わないものが災害とか緊急事態に助けない
それは親族でもそうである、離れて暮らしていると何か緊急事態になり困っても助けられない、その人は自分にも問題があるにしろ金の関係でしかない
祖母でも死んだとき財産をもらえとしか思っていなかった
それはそういう事情があるにしろ遠くになるとそうなりやすい、何かあったからとすぐに駆けつけることもできないからである
それぞれの生活があったからである
その人は介護関係で働いていたが自分の家が介護で四苦八苦しているとき何もしない
他人の介護の仕事で精一杯だったのである
だから遠くの親戚より近くの他人となったのである
つまり災害には緊急事態には近くでないと役立たないのである

posted by 老鶯 at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年09月10日

福島県の文化財課の人が海老の高台を調査して古墳を二つ発見!


福島県の文化財課の人が海老の高台を調査して古墳を二つ発見! 

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沖に船が行く

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津浪のあとに残された松がまだある

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松が密生してかなり高く伸びていた

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ここは避難所に指定されたが30人ほど死んだ

うしろの森に逃げて助かった人がいた



海老に行ったら福島県の文化財課の人が調査していて古墳を二つ発見したという
そこは高台であり津波の避難地域として指定されていた場所である
でもそこに逃げた結果30人くらいが死んだ場所なのである
高台であり避難場所に指定されていたからである
これも大失敗だった、なぜならちょっと歩くだけで津波の被害をまねがれたからである
別に海老の通りの道をまっすぐ山の方にちょっと歩けば助かったからである

ただ海老村は高い場所であり昔から弥生時代から人が住んでいた
その住居跡も津波で人が住まなくなり発見されたからである
ただなぜそれより高い崖の上に古墳があったのか?
そんなところまで人が住んでいたというのが意外だった
確かに屋形から海老の山沿いに古墳がある、だからその延長として古墳があっても不思議ではない

それにしても高台の崖の上となるとそんなところに人が住んでいたのが意外だった
おそらく海老村には相当に人が昔から住んでいた場所なのである
それは高台であり海老の家が密集したところは港でもあり魚もとっていた
右田村は江戸時代から人が住み始めた地域だからである
その江戸時代からあったといわれる松原は津波で全部なくなったのが残念だった

海老村が古いというきと海老はエヒでありまた恵比寿(エビス)からも来ている
蝦夷(エゾ、エミシ)のことだからである
そういう名がつくほどにここは集中的に人が住んでいたのである
それで外来の人がここに来たとき衝突があったとなる
それはかなりの人々がここに住んでいたから衝突した場だからとなる
それで海老(エヒ、エビス)の名がついたのである、蝦夷が集中して住んでいる場所だったのである
だからこそあの高台に崖の上に古墳が二つも発見されたとなる
そういう歴史的背景があって発見されたのである
だから確かに意外だがそういうこともありえたともなる

ただ海側に古墳があるといそこに人が住んでいたのは貝と魚とかとれるからである
食料になるものがとれるからこそ海側に住んだとなる
それで日下石にも古墳があった、それは今回の津波が迫って来た場所だったのである
ただそこまでは津波は来なかったがそれなりに近くに津波が迫ってきていたのである
ただ慶長津波とかの何か証拠となる痕跡が発見されていない
それが一番の問題なのである
貞観津波のことは相馬市のボーリング調査で発見されている
松川浦のかなり奥まで津波で運ばれた砂が発見されたからである
慶長津波ではそうして何か証拠となるものが発見されないのである
だからどうしても謎になり証明できないということである

ただ海老の家が密集した地点から坂を上った崖の上に古墳が発見されたということは
あの辺一体に相当数の人が住んでいたのである、それは弥生時代からそうであり古墳がそれを示している
第一古墳が二もあるとしたら一つではないのだから倍の人数が住んでいたと推測できるからである

南相馬市の鹿島区は古墳の町!

寺内から小池にも古墳が本当に多い、それで金銅双魚佩が寺内の前方後円墳から発見されたことで有名になった、今回も海老村の高台から発見されたことは意外だった
海老千軒とか言った人がいたけどそれも嘘ともいえない、それだけの人が昔から住んでいたからそう伝えられたのかもしれない、ただ・・・千軒というきは各地にある
でもなんらかで津波とかでも消えてしまったとなることはありうる
それこは今回の大津波で実感したのである

海老村にはマルハシャリンバイがまた自生していた、それから松も繁茂していた
津波から8年半とか過ぎているからそうなるが松は成長が早いと思った
あそこの高台は南相馬市では景色のいい場所である
一時は八沢浦の方が入江になったときは本当に驚いた
今日も沖に船が見えて釣りする人がいた
あそこは悲劇の場所たけど眺めのいい場所なのには変わりがない
ただあそこを何に利用するのかわからない、ゲートボール場にするにも人が住んでいないそれをどうするかはわからないが整地していた


posted by 老鶯 at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

南相馬市の財政の不安(震災復興の援助が10年で切られる) (震災以後に県支出金が5パーセントから50パーセントになっていた)


南相馬市の財政の不安(震災復興の援助が10年で切られる)

(震災以後に県支出金が5パーセントから50パーセントになっていた)

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南相馬市の予算(震災前と震災後の比較)

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市税が34パーセントであり震災後は5パーセント

citymoneyyy111122.JPG

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県支出金が5パーセントから47パーセントに

 この支援のお金の出所はどこかというと、国や地方自治体です。日本は雇用維持という大義名分のもと、助け合いのシステムになっているため、国や地方自治体が助けているのです。現在、国や地方自治体からなんらかの支援を得ている職場で働いている人は、なんと全就業人口の約50%にも上っているそうです。

インターネホットでこの記事に注目した
日本はなぜ会社中心になるのか?それは今回台風でも電車がとまるといっても出勤していた、まさに社畜だとことを証明した
その原因をここの記事で書いている
地方自治体だけではない会社でも国に依存てしいる、国から会社に金が回ってきて成り立っているという、それは地方でも同じである
地方自治体でもそうだし農協とか地銀とかでもそうである、そこには国からの資金が回っていて成り立っていたのである

国の依存体質がありそこで今までは会社が安定していた、特に大企業となるとそうであるこの辺で除染の事業でも請け負ったのは大手のゼネコンでありそこに7兆円の資金がつぎ込まれたのだからその収入は大き大きかったのである
そしてゼネコンでは自民党への献金が多くなったという、政権党になればそうした利権を得ることになる、利権構造ができあがっているからその利権構造の中にゼネコンでも大企業でも入るから会社に社員は依存していれば安泰だと分析している
それが今国全体が経済的に衰退してゆくときそうした今までの構造が維持できなくなったと書いている 

南相馬市で今みんな心配しているのが10年後は復興支援の金が国から出なくなることである
継続して金を国から出されない
まず県に金は入ってこなくなる、地方自治体の金は国から県経由で入ってきている

予算の約半分が国から入る復興資金である
それで南相馬市の震災前の平成22年の予算と震災以後の予算を比べるとこれも一目瞭然である

県の支出金が5パーセントから50パーセントにもなっている

つまりそれは国からの資金なのである、10倍になっている
だからもしこの県支出金が減らされると相当な南相馬市の財政の負担になりそれが福祉とかにも影響してくる
それは私だけが言っているのではない、みんな心配しているのである
これまでは苦しくても復興資金が国から入ってきたから市の財政状態は良かったのである
それが打ち切られるとき南相馬市は危機的状態になるのかと心配するのである

南相馬市の市が税金をとってまかなっていたのは35パーセントであったが震災以後は5パーセントになったのである
それだけ国からの援助資金に頼るようになっからである
しかしあと一年くらいでその復興資金が入らなくなると相当に苦しくなるのがこの数字からも明瞭である
それは南相馬市全体に福祉関係でも影響する、なぜならこの辺は他より若い世代が流出して経済活動が衰退したからである
そして小高のように老人ばかりが取り残されてシルバータウンのようになったりしている
それを維持することが大変になる、金もかかるからだ
つまり復興そのものの資金が入らなくなる、補償金をもらったとしてもそれだけで経済をまかなうことはできなくなる
個々人でも補償金でもいづれは底をつく、だからこそ霞が関の官僚は津波被害地の三陸にはジジババしかいないと金をつぎ込んでも無駄だと言ったのであくる、これには批判があってもこの辺でも老人が若い世代が流出して取り残されているから同じなのである
介護ても働き手がいないから青森に送られているのである
立派な施設があっても働く人がいない、飯館村でも立派な学校でも施設を作ってもそこに通う生徒がいない、子供は村外から通っているし親が住んでいないのである

ともかく日本の会社でも実際は国への依存体質があり金が回ってきて成り立っていから会社に依存して社畜に甘んじていたのである
そういうことでも成り立っていた社会だったのである、それが日本全体の経済が衰退する時成りたたなくなってきたのである
だから地方で安定していた公務員とか農協と地銀とか他でも国からの支えがなくなた窮地にたたされる未来がある
自治体が破産するということを言う人がいるのもわかる
それは国への依存によって成り立っていたからである

インタ−ネットで調べた表では依存と自立を分けていたのでわかりやすかった
今やこうした情報はインタ−ネットで得られる、すると弱小ではあるが何か市民に知らせたり追求できる
一個人でもできるのである、今まではマスメデアを通じてしかできなかったのである
今は南相馬市であれ相馬市であれ他の都市でも市町村でもこうして個々人でも問題点を指摘して市政に参加するべきだとなる
もうマスメデアにまかせる時代は終わった、ただそうなるとやはり相当な知識が必要になるのである
それは一個人では無理になる、でも情報化社会とは政治も変えるということはありうる
まず情報自体得るのもむずかしかったしもうそれを追及するとなるとマスメデアしかなかったからである
もしこうして追求することをしていれば原発でも誰か一個人でも地元で危険を指摘して報告していたかもしれない
民主主義には報道の役割が大きいのである、それができなかったがある程度は個人でも今はできる
それは民主主義を発展させる強力なツールともなる

posted by 老鶯 at 12:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年09月09日

平家伝説殺人事件ー故郷とは何かを問う (人の話を直接聞くのと本とかで読んだり間接的に知ることの相違)


平家伝説殺人事件ー故郷とは何かを問う

(人の話を直接聞くのと本とかで読んだり間接的に知ることの相違)

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昨日の平家殺人事件のテレビドラマで故郷を離れた人がその恋人に延々と故郷のことを聞かされた、その人は訳あって故郷を捨てて帰らなくなった
平家落人の里でありそこで旧弊な村で閉ざされた環境にあり14歳とかで東京に憧れて出て来た、それは無理にしろそういう人がいることは確かである
何か故郷というのは閉ざされた世界でありそこから脱出したいという願望が大人になると芽生える、その人はよほど故郷を嫌っていたが後で故郷の思いが強くなり金を寄付したいとまでなった、その金は悪さをした保険金の金だったのである
ただそれほど故郷を嫌った人が逆に故郷を異常に思うようになった
そういうことが普通にある

啄木がそうだった、啄木は故郷を追われたという恨みがあった、それで故郷を脱出した
でも最後死ぬときに故郷への思いが異常につのったのである
啄木の不思議はなぜあのように若いのに自然への感性が豊かで表現できたのかとなる
何か小説家タイプだったように思える、小説も書いていた
小説というとどうしても普通の人でも興味をもつゴシップとかスキャンダルとか下世話なものにもなる、啄木の謎はなぜ芸者とか遊んでいても自然を歌っていたという不思議である
自然にふれるには心がやはり清くないとできないのである
天才であったから凡人には理解できないことがある
ただあれほどの故郷への思慕が起きたというのも簡単に移動できない時代だったからかもしれない、新幹線で二時間くらいで帰れない

1908年(明治41年)5月 1等・2等・食堂車・寝台車を連結した上野 - 青森間東北本線経由急行201・202列車を新設。

201列車:上野7時25分→浦和8時→宇都宮10時5分→福島14時50分→仙台17時15分→盛岡21時54分→青森翌3時40分

1886年(明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)

啄木の生きた時代である、上野から盛岡まで15時間くらいかかっている、一日かかりである、朝に出て盛岡で夜中になっている、盛岡からでも東京につくのは夜中なのである
この距離感が今とは全然違っている、その心に影響するものも相当に違っている
その汽車の様子も人々もみんな違っている、それをイメージすることはむずかしくなる
東京には簡単には行けない、一旦行ったら帰れないという感覚になっていた
今でも仙台までは近い、距離的には相当に近い感覚である
東京はやはり新幹線で早いとしても遠くなる

そういう距離感覚が時代が違うと感覚的に違ったものになる、その感覚はその時代を生きたものしかわからないのである
芭蕉でも奥の細道は世界の果てに行くような感覚だったからである
その遠さの感覚が「五月雨のふりのこしてや光堂」になった
つまりこの句はその当時の距離感覚を体験しないと鑑賞できないのである
みちのくの果てに残されていた唯一の形見の金色堂でありそれがふりしきる五月雨に朽ちもしないで残っていたということなのである
江戸から平泉の距離感覚は今とは違っていた、そして二度と平泉には来ることが芭蕉はできなかった、そして奥の細道を旅して近江でまもなく死んだとなる
今なら東京から平泉には新幹線で何度でも行ける、今の時代一期一会の出会いはなくなったのである、連絡する気ならいつでもできるからである
啄木の望郷の短歌はこうした明治という時代が生んだものなのである
遂に帰ることのない故郷だからこそ泣けとごとくになったのである

ただこの推理小説でも故郷の思いが平家落人の里の思いがその人にあった
その人は狭い故郷のシキタリとかいろいろ嫌っていたが都会に出でそういうものも必要だったのだと回顧するようになったのである
結局故郷に住んでいて嫌なものが消えていいものだけが見えるようになったのである

私自身も故郷ではないが直接語り聞かされることとただ文書を本を読むとかのと語られることが違っていると思った
その経験は南相馬市立病院に一か月入院していたことで起きたのである
その時同じ病室に大原の人がいた、そして大原のことを直接何度も聞かされた
窓から大原の方がいつも見えた、そうして閉ざされた空間で暇だったし大原のことを延々と聞かされた、すると不思議なのは何かそこの場所に引き込まれるようになった
別に大原はそれほど親しい場所というものでもないが閉ざされた空間で大原のことを直接語り聞かされることでそこに自分がいるような感覚になったのである
だから何か人間に影響するのはそうした病院でもその場所であり位置である
大原の方を病院から望まれたからである

平家落人伝説殺人のドラマでもその恋人に故郷をのことを延々と語りきかされた結果、その女性がその恋人が殺されてその故郷をたずねる、そしてその故郷で殺されて死んだのである、これも何か故郷にあれほど帰りたいと言っていた恋人の代わりに死んだとなる
何かこれはそういうこともありうると経験から思った
また私は姉が千回も従軍看護婦としてシンガポールの向かい側のジョホールバルの赤十字病院での苦難を語った、それで何か自分もそこに引き込まれる、そこを訪ねてみたいと思った、ただタイのバンコクに行って行こうとしたが行けなかった、今になると海外旅行する気力もないとなってしまった

ただここで私が言いたいのは語ることと文章とかで読むのと何か違ってる
それは語るでも場の作用がある、病院という閉鎖されたところで語られたことが違っていたのである、どうしてもそのことに集中するようになったからである
その閉ざされた空間から出れずに延々と大原のことを語り聞かされていたからである
それもそこは知っているし病院の窓からいつも見えたからである

病室に大原語り死ににけるその思い深く我に残さる

大原に跡継ぎなしも淋しかな留守に気遣う猫一匹あわれ

その家は今は空家になっている、その家を継ぐ人はいないし農地も継がれない
そういうのが全国的に多い、空家も膨大になる、その大原の人はまもなく死んだ
墓は太原にある、最後に自分に大原のことを語って死んだのである

何か語ることと文章を読むとかとは違っている、語ることは感情がこもるからだともなる文章を読んでもそこに感情が出てこない、泣いたということを書いてあっても泣くとういことはしない、ただ映像だとか泣いているのを見るとこちらも悲しくなったりドラマでも涙を流す人はいるのである、そこでは感情移入しているからそうなる
文章だと感情移入しないから泣いたりしないとなるし怒ったりもしない何か冷静になっている

柳田国男が全国を旅行して実地にその場に立って土地のヒトと直接話を聞いて民俗学を起こした、それは直接語られること話されることから何か独特のものとして文章に書くことになった、だからあのように語れる人は書ける人はいないのである
それは本を読んで書いているのではない、その場に立ってその場で直接口から語られる言葉を口碑として重んじたことによってそうなったのである


故郷とは何かとなると一概には言えない、ただ故郷は記憶が一番集積したところだということは間違いない、その場とか家族でもいてアイディンティティ化したところだから説明できないものとして故郷がある、何か場のもっている磁力みたいなものがある
旅をしてもそこに一時いるだけだからその場の磁場を感じなくなるのである
つまり場の力とは磁石のように強く吸いつけるものがある場だとなる
それは家族でも死んだりしてもその死んだ場所にいるという感覚がつづく
それは具体的に残った家に以前としている感覚とにている
故郷にはやはり先祖がいて死者も依然としているんだという感覚になりそれがお盆とかいろいろな行事に祭りになったともなる 

ただアイディンティティ化するといとき故郷でも自然と一体化することは時間がかかる、老人になるまでかかるとなる
自然の中で木や石のようになることは時間がかかる、深くその土地に根を張ることは時間がかる
だから若い時だけ故郷にいたとしてもそこで故郷と一体化したアイディンティティ化したとはならないのである
啄木はそうして故郷に根付いたものとはならなかったのである

ただ故郷は遠きにありて思うものというとき故郷を離れたときその存在が強烈にクローズアップされる、磁石の力を感じる、故郷に吸いつけられるのである
だから故郷から離れられない老人の気持ちがわかる、原発避難者が東京の高層ビルに住んでも心の安らぎがないのである、ただ現代は故郷喪失の時代である
みんな都会人になり移動することが容易でありどこにでも移住することもできる 
そこで故郷の思いも薄れて若い世代は故郷を出て行ったともなる
大規模に故郷を喪失者が生まれた場所だともなる


山口連続殺人事件は“平家落人伝説の地”で起こった!

一夜にして5人の命が奪われた山口連続殺人・放火事件から間もなく1か月。逮捕された保見光成容疑者(63)は周囲との軋轢があったことをほのめかしながらも、いまだ多くを語っていない

他にもこういうことが限界集落のような所であった、そういう場所は逃げ場がない
追い詰められるとこうした悲惨な事件になるものも田舎なのである

無益な老人、無益なニートは数が多いから問題 (社会の負担となり圧迫するから問題)


無益な老人、無益なニートは数が多いから問題

(社会の負担となり圧迫するから問題)

無益な老人

その老人は何もしない
何もすることがない
体も悪いらしい
でもまだ体は普通に動いている
まだ70歳だ
何もすることがないのでパチンコ通い
病院にも通う
高齢化社会でただ病院に通うことだけの人が増える
そこで病人として認められて存在感をもつ
そして国の負担になる
その人は本一冊も読まない人
何か勉強もしない人
知的に存在感もない
毎日パチンコで勝った負けたと終わるのか
やるべきことがこの世に無数にある
でも何もしない、何もさせられない
そうしてただ飯くらいとだけになる
後は病人という特権になる
そういう老人を誰も良く見ない
そういう老人ばかり増える時
若い世代は老人に憎悪を抱く
その怖さを知るべきである
そういう老人は耕作放棄地となる
そこを耕すべきなのだが耕されない
無益に草ぼうぼうになっているだけ
社会をも荒廃させている


老人でも別に少数だったら何もしなくてもとがめたりしない
それはニートとか40くらいまででもいる、その人たちは無益な人たちとしてとがめられる、それは老人より厳しいものとなる
一応老人は体が弱っているからとか見られるからである
でもまだ若いとは何もしない無益な人であることは許されない
そして最大の問題は数が多いということなのである
ニートとか百万とかまた老人はさらに人数が多いから問題なのである

別に無職の人はいた、その人たちはアウトサイダーとかになり極わずかである
百万人に1人くらいになるとそういう人は社会にとって害でも無益でもないのである
そんな人いてもいなくても気づかないからだ
別に社会の圧力にもならない、むしろそういう人たちは何か社会の規範からはずれて独創的な人になるからいた方が良かったのである
それが高度成長時代の団塊の世代だった
みんな猛烈な企業戦士になっていた、そこから外れる人はほとんどいなかったからだ

今の問題は数が多いということで起きているのである
ロスジェネとかの数も多い、一千万単位でいる、するとそれが社会の圧力となる
老後になると生活保護になるとか国で心配する、負担が国民全体にかかるからだ
別にアウトサイダーなど数十人単位ならそんなこと社会問題にならないのである
そんな人いたのか、どうでもいいとなっているからだ

つまり膨大に増えた活用されない耕作放棄地が今のニートとかの問題なのである
こういう人は例えば農業するにも地主から土地を借りて農業するにしても信用されないという、それは農業をするという何か強い動機がないし明確な計画もない
ただ農業したいでは信用できない、また放棄されてしまう恐れがある
それは職につくにしろ信用されないから就職できないとなる
これが別に極わずかだったら全国で百人単位とかなれば関係ないのである
耕作放棄地でもこんなに増えなければ問題にならない
空家でもそうでありあまりもに増えすぎたから問題なのである

社会的に無益でも無用でも社会の求める価値とは別な価値を求める人はいる
それも価値なのである、でもそれが可能なのは極わずかなのである
そうなると無益な人とか無職の人とかは数が多いから社会問題化する
ともかく何らか農業でもいいから肥(こ)やしにでもなれとなるのだ
無用の用というとき障害者は戦争に行かなくてすんだとか反戦的思想とか政治的思想がありそういう思想が生まれた経緯があるからだ

この辺では原発事故で他より耕作放棄地が増えすぎたのである
だからそれをなんとかしなければならないとなるがここだけではない他でもできない
高齢化社会でできないのである
それでニートでもやればいいとなるがニートには農業すらできない、農地を借りるにしても信用がないからである
つまり新規に農業できる人はその人がそういう資質をもっているからできるとなる

そうして現代でニートであれ老人であれ人口の三分の一とかなる社会は異常である
それはもう国の衰退であり国力が減退して他国に攻められても戦いないとないとまでなるもうそういう国自体維持できるのかとまでなる
私が主張した無職のことは今のニートとかのかかえている問題とは違う
そこが混同されやすいのである、今のニートは数か多すぎる、そのことが社会の圧力となり社会を停滞させて衰退させるから問題なのである 
これだけ数が多いとやがて強制労働とかになるかもしれない、徴兵制とかにもなる
兵隊にされて国家の肥(こ)やしになれとまでなる
それが笑いごとではないのはそれだけ人数が多すぎるからなのである

新規就農に向けて農地を借りるときの交渉術

こういう人だったら農業できるとなるのかもしれない、農業だって誰でもできるわけではないのである




2019年09月08日

涼風ー月光る(木陰の道に故郷の畑を語る)


涼風ー月光る(木陰の道に故郷の畑を語る)


涼風や故郷に語る畑かな  

老年や山に傾き月光る

猫歩む路地裏の道月光る

月光る嵐の前の静けさに


いつも来ぬ木陰の道に故郷の畑を語りまた逢わんかな   


今日も私と同じ自転車でいつも走っている同級生にあった
その人が意外だったのはその土手の木陰のつづく道のすぐ近くで畑で野菜を作っていたことである
前から書いているように知っている女性が一人で小さな畑で野菜作りしている
そのすぐ裏側の土地だった
それは意外と広いのである、そこは5人で組んでやっているという
三人は原町の人だった、やはり同級生で専業農家の人がいてその人がトラクターとか道具をもっているので草刈機もあり草を刈ってくれる

今の農業はまず必ず機械がないとできないようになっている
すると道具がないと農業はできない、それで畑をうなってもらったりすると金がかかるのである、その知っている女性はそうして一人でしているから金がかかる
その負担を自分が払うようになるので困るのである
その広い畑で野菜を作っている同級生は五人で組になってやっている
一人3000円とか払って共同でしている
それでその同級生は一か月に一回しか畑で仕事はしないという

でも家の近くに畑がありそこでブルーベリーとか他に何か作っている
ブルーベリーはジュースにしているという、そこは家の裏側だからそこは良く行っているでも広い畑の方は一か月一回しか行かないというのも楽だと思った
なぜなら小さい畑をししている知人の女性はもう草むしりやキジに食われたとか道具が盗まれたとかなにかかにか問題があり騒いでいるからである
その割にはほとんど収穫がない、キュウリはとれた、それは売っているのは固いが柔らかくてうまかった
ともかく何のためにその人に金を出しているのか?
それはただ農業というものをどういうものか知るためだけだとなる
その苦労を聞いていると農業がいかに大変なものか実感としてわかるからである
田舎に住んでいても実際は農業のことはわからない

ただ不思議なのは原発事故以後田畑が荒地になり草ぼうぼうになって蛙が消えたということを三人くらいに語ったが反応しない、蛙の鳴き声を聞いて復興を感じたと私はそこで復興を感じた、なぜなら蛙が田んぼに住むようになると鷺も餌があり来る
鷺も一時消えたからである、そして鷺も戻ってきたのである
50羽くらい竹藪とかに巣を作ったからである
つまり田畑でもそれは自然の一部でありだからこそ蛙がいなくなることは自然が消失したと同じだったのである、鷺がいなくなることもそうである

いづれにしろ田舎に住んで農業のことをわからないことは基本的なところ、ベースとなるものを知らないということなのである
でも農業している人でも不思議なのは蛙がいなくなったということに注目していない
もともとあまり関心がなかったからかもしれない
何か赤とんぼが減ったり今は鮎も一匹もいなくなったり自然が消失していた
鮎は原発事故以後全く川に見ないのが淋しい、今までは小粒でも鮎がいたのである
ただこの鮎がいないということはここだけではない、全国的に鮎がいなくなっている
ただ鮎が川をきれいにして鮎が泳ぐようになったとか多摩川とかで写していた
でもなぜ鮎が全国的に減少したり全くいなくなっているのだろうか?
これも自然のなんらかの変化なのである、そういうことが人間に影響する場合がある
なぜなら人間も自然の一部だからそうなるのである

いづれにしろその同級生は話して面白いと思った、農業している知人の女性も畑のことを話するので興味をもった
その人はまた花も栽培している、ノボタンが好きなんですと言って語った
ノボタンは大きな花である、だからボタンとついた、それを確かにカンボジアの道で見た南国性の花である、ある人はクリスマスローズのことをしきり語った
原種も育てているとか言った、その人はクリスマスローズに詳しい人なのである
クリスマスローズ博士なのである、まず花でも育てるのがめんどうなのである
その知識も経験しないとわからないからである
ただその人はなぜそういうことができたかというと前に経験があったと言っていたからできたとなる

老人の趣味となると園芸とか畑での野菜作りとかが向いている
ただ畑となると結構労働がきつくなるから老人にとって辛くなる
知人の女性は腰が痛いとかいつも言っているからである
ともかくこの辺でも全国でも耕作放棄地が増えすぎたのである
後継いでやる人がいないのである
原発事故以後この辺は余計に荒地が増えた、無料で土地は借りられてもやる人がいないのである
それはわずかの畑でも草むしりでも労力がかかるからそうなる
でも荒地になっていると草ぼうぼうであり嫌になる、心まで荒れたようになる
それは原発避難区域の小高であれ浪江であれ飯館村であれ草ぼうぼうで荒れ果てているからである

そこを復興しないと復興できたと思えないのである
たとえ他で工場が店が復興しても復興したと私は思えないのである
だから田舎は田畑でも自然の一部であり田畑が死ぬと自然も死ぬとなる
もともと原始の自然だったらそのままでもいいが一旦人間が手を入れた土地は原野化すると荒れ果てた感じになるのである
だからこの荒地をなんとかしてもらいたいとなる、でも市とかでもそうした荒地を援助するということをしているのか?
NPOでも荒地を無くしてほしいとなる、ただその人が言うには五人は仲間としてうまくやっているからできると言っていた
つまり何か共同ですることが人間は本当に難しいからそうなる
でも農業は一人ではできないと思った、もともと村の共同作業があり農業が成り立っていたからである  

故郷という時一番愛着あるのは農業している人かもしれない、だから生業を返せと裁判を起こした
商業とか工業となるとその土地と密接に結びつかない、商業でも昔の店なら地元密着である
でも今の時代になるともう地元密着の店はなくなりシャ―ター通りになったからである
つまり今はその土地に根ざした生業とかがなくなり農業でも漁業でも林業でも衰退したから故郷に愛着がなくなり原発避難区域では
若い世代は帰らず出て行ったと書いたのである

晩方は涼しくなるから秋である、今日は台風の風が吹いて涼しかった
昼間は日ざしも暑かった、晩方に散歩したり自転車で走るのは気持ちいいのである  
今日は半月が傾き山の方に光っている、それで今その畑を見に行った
明日はこの辺は台風になる、本当に嵐の前の静けさである 
日本は天候がこうして静かに月が光っていても変わるのである
めまぐるしち変わるのである、そして災害も天災も多い国だったのである

とにかく自分が何か人と話すようになったのは家族がみんな死んでからである
話す相手もなくなったためである、それで一日誰かと話する
駅でもそのために行っていた、家だとがらんとして誰もいないからである
それが一人暮らしの問題だった、話し相手とか心配する人もいなくなることだった
外で話すると何か気持ちいいのである、話がはずむのである
それはそこに自然があり木陰とか涼しい風とか受けて気持ちいいからである
田舎はそういうところがいいのである、人ごみで話したりしたくないのである
車の騒音とかビルの谷間で話したりしても何か嫌なのである

幸せな老人よ、この土地はこれから君のものだ
それも広さも君に十分だ、たとえむきだしの石と
泥だらけの藺草の生えた沼が、牧場を一面に覆っていても
幸せな老人よ、君はこの慣れ親しんだ川や
聖なる泉の間に、涼しい木陰を求めるだろう
............ 
(農耕詩、牧歌ーウェルギリウス)

老人の幸せはここにある、でも農業は老人になると辛いのである
ただ自分のように花だけを見ていると楽なのである
だから自分は実地に耕作などしていない、草むしりもしていない
それをしていたらもう思索したり詩を書いたり観想することができなくなる
第一家事だけで相当な労力になっているからできないのである


老人は記憶に生きる(記憶の宮殿)


老人は記憶に生きる(記憶の宮殿)

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頭脳の中でこの宮殿の中を自在に歩き回り、その小部屋の一つ一つを訪問するだけで過去のどんな記憶も呼び起こすことができるばかりでなく、過去の記憶の中で生きることさえもできるのです。その描写はとても荘厳で、こんな記憶力をもっていたらどんなに良いだろうとあこがれをかき立てるものでした。

老人は記憶に生きる、自分自身が今やそうである、老人の強みは人生で経験したことを見聞したことを本を読んだ知識などを記憶したことを活かせることである
こうして文章を延々と書けるのもそうである
つまり人生は老人になっていろいろなことを深く理解できるようになる
だからつくづく評論に向くようになる、評論とはただ他者のもの読むだけではない
その人なりの見解を他者のものを通じて示すことなのである
だからその人独自のものが評論を通じて示すことができる
でもそれだけ深く読み自分なりの独自の見解を示すことはかなり高度なものになるから若い人に無理なのである
それで自分自身が本を大量に買っていたけど読んでいなかったのである
文の重要な所に線をひいていても実際はその中身を理解していなかったのである
でも買った本はアマゾンもないから高いものだったのである
それで今読み直して評論文を書く

ここで大事なのが記憶なのである、人生は最後につくづく記憶になってしまう
それで私の姉がシンガポールの向かい側のジョホールバルの赤十字病院で4年間従軍看護婦として働いたことを認知症になっても語りつづけた
それは死ぬ直前まで語っていたのである、それだけその経験が忘れられないものだったのである
ただこれも他者に語る時何かもう一つ語り伝えられていなかった、千回も聞かされても同じことを語るから嫌になっていた
姉には文学的才能がなかったこととその記憶していることを明確に伝えることができなかったのである、例えば文章とかでも伝えることができないから聞く方にしても何かわからないものとなっていた

戦傷者を看護したのだからそれがいかに悲惨だったかそれも良く語られていない
ただ窓から自殺する人がいたとかと聞くとおそらく余りにも苦しいからそういうことになった、かなりの日本兵は自殺したのである
そうして敗戦の後にジャングルに逃げて食料がなくなりその時最も苦しい状態に追い込まれた、そのことはフィッリンピンでもありNHKのテレビで見た
タイプライターをしていた若い女性が戦地に送られて看護婦ではなかったが看護をさせられた、そして敗戦になりジャングルに逃げて悲惨なことになったのである
何か語るにしても語ることがうまいとか文章で書くのがうまいということがあり語る人によって違ってくる、姉は語ることはうまい、しゃべることはうまいが文章では伝えられなかった、やはり文章で伝えられると違っていたとなる
そういう記録が三陸会の雑誌として残されてはいる
大量に実際の戦争の記録は残されているのである、それでそうした記録があり番組が作られている

最後に人生は記憶になる、また記録とか記憶は違っている、例えば記録していてもその記録したことを忘れている、私は相当な詩を書いている、プログでもその詩を書いた
でも忘れているのである、ええ、こんな詩を書いていたのかと改めて読んでいるのが不思議なのである、それだけ数が多くなると自分の書いたものを他でも俳句でも短歌でも文章でも忘れているのである

人間は忘れる、だから何でも記録しておけ

こうなる、記録しておけばそれをまたよみがえらせることができる、何も記録していないともう蘇らせることはできない、おそらく姉の場合日記とかメモをしていればその時のことを思い出してより詳しく語り伝えられたかもしれないのである
ただ正直そういう戦争の悲惨なことはあまり語りにくいことがあったことは確かである
18歳の志願兵はどうも人を殺すことを命じられて殺したらしいが言わなかった
何か人間には思い出してたくないことがある、だからそれは語られないのである
姉の場合は従軍看護婦であり別に人を殺めたりしない、戦地でも殺し合いなどしていなかった、だから語ったのである

ともかく老人は記憶に生きる、でもその記憶をどう活かすかとなるとむずかしい
それで記憶の宮殿を作るということは面白い発想である、それはインタ−ネットに出ていたのである
インタ−ネット自体が一つの巨大な記憶の宮殿なのである  
様々な人生の経験がそこで語られているからである
老後を豊かに生きることは記憶の宮殿に生きることでもある

記憶の宮殿というとき家自体がそうなのである、家には死んだ人でも記憶された具体的な場所なのである、そのことを書いてきたのは死んだら記憶にしかその人はいなくなるからである
でも不思議なのは死んだ人の面影が家に浮かぶことがある
何かこちらをじっと見ているという感じになるのも不思議である
つまり私の場合家族と子供の時から60年とかいればその歳月が長いからそうして死んでもまだ家にいるという感覚になるのだろう
そして自分は特別家族に良くされたから愛されたから余計に家族のことが忘れられないのである                                          

老人の生は新しく何かをする経験することではもうない、経験したことを積み重ねたことを表現することである、でも表現するにしても記憶されていないとできないのである
これが最大の問題だった、それで記憶の宮殿をもっていないと表現できない
記憶の宮殿があってその宮殿の様々な部屋から記憶を呼び出して表現するようになるからだ
記憶の宮殿というとき旅したことでもその住んでいる場所でも故郷でも記憶の場なのである、故郷とは一番記憶された場所のことである
なぜなら子供の時から住んでいて熟知しているからである
そして記憶は旅しても一旦そこから離れてその場を踏まないと記憶が消えてゆくのである私は京都でも四回くらい行ったが今になるともう何十年も行っていないから記憶が消えている、それも記憶が人生の中で何か急激な変化とか苦難とかに見舞われる
するとそのことに身も心も奪われて過去を忘れてゆく、人生では次々に変化に見舞われるから過去が忘れられてゆく、津波とか原発事故とか介護とか自分自身の病気とか災難でもうここ十年追われて月日がたち過去の記憶も消失したとまでなる
それだけの激しい変化が過去のことを余計に記憶されたものを消失させたともなる

なぜ故郷が故郷なのか?

それは故郷とは最も記憶された場所だからである、常にその場を行き来しているから記憶から消えない、記憶が積み重ねられる、また新たにされる
でも旅したところの記憶はそさを新たにしないと消えてゆく、でもまたその場を踏めば記憶が甦るのである、北海道など十回も行ったからまた行けば記憶が甦る
でも今になるとなかなか行けない、それは外国とかなると余計にそうである
記憶から消えやすいのである、それは日本とはまた大きく変わっているからそうなりやすいのである
それだけ記憶とは大事なものだったのである、人生はだから最後に記憶になる
記憶したものが人生だとなるのである

いづれにしろ老人は記憶の宮殿を各自持つべきである
また構築すべきだとなる、そうすると豊かな老後がありうる、それには別に金はかからない、具体的な建物ではなく心の中に記憶の宮殿をもつことだからである
ただ家とかは具体的な記憶となったものであり家はだからそこに死者も依然として記憶の中に生きる場となる

記憶の宮殿

記憶の宮殿は黄金に輝いている
様々な記憶の部屋があり日々めぐる
その時記憶は再び蘇えり
その時生きていたことが甦る
それがとてもなつかしく思う
そして記憶は無数にあり
時に記憶の迷宮に入ってゆく
それだけすでに記憶は不可解なものともなる
ただそうして記憶したものは宝である
記憶の宮殿には宝が詰まっている
そして黄金に輝ている 
あなたの豊かな人生が記憶の宮殿を形成していた
ただそこにも暗い部屋もある
それは入りたくない記憶の部屋である
でも全体的には黄金に輝いている

記憶というとき思い出したくない記憶がある、青春時代は自分にとってはいいものはあまりなかった、何か悪いことをしたりした思い出は実際は消えないのである
青春の問題は何かそういうことがまた多い、必ず若気のいたりがある
それが実は記憶を暗くするのである、他に何か自分には学校とかは嫌だったしいい思い出がない、だから学校とかのことを思い出したくないのである
だからこそいい思い出を作ることが大事なのである
高校野球とか甲子園とかに出れるだけでそれは最高の思い出となっている
私は学校とかにいい思い出がないから思い出したくないのである
そして性の快感とかも実際は記憶になる、そうした快感は脳に記録されているのでは肉体ではない、快感の記憶は脳に記憶されている、それでその快感を再び味わいたいとなる
その快感を記憶しているのは脳だからそうなるのである

いづれにしろ思い出とか記憶とか最後にいかに大事かわかる、そのこと自体が人生だったとなるからである、要するに人間は二度と人生を経験できなくなるからそうなる
今では旅もしていないし何かする気力もなくなっているからだ

かりそめに通りすぎて
十分に愛さなかった かずかずの場所への郷愁よ
それらの場所へ 遠方から 何と私は与えたいことか
しわすれていた身振りを つぐないの行いをもう一度ー今度は独りでーあの旅を
静かにやり直したい
あの泉のところにもっと永くとどまっていたい
あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい
(リルケ) 

何に時間を費やしたかが人生である (旅の時間も今行けなくなると貴重だった)

これも書いたの忘れている、そしてプログ内検索で呼び出した、自分で書いたものでも忘れている、それでプログとかで書いたものは一つの記憶の宮殿となっている
その記憶の小部屋からかいた記録を呼びたして記憶を蘇らすのである
甦るとなるとまさに生の更新なのである、常に記憶はまた更新されるて新たにもなる
それは歴史でも絶えず過去が固定しないでいろいろと解釈されるのと似ているのだ

60年、70年来もうこの世にはいない人々の姿と人々の顔が渡したの心に生きつづけ、私たちのものとなり、私たちの相手をし、生きた眼で私たちを見つめるのである
いつのまになくなってしまった、あるいはすっかり変わってしまった家や、庭や、町を
私たちは昔のままに完全な姿で見る
そして私たちが何十年前に旅の途上でみたはるかな山やまや海岸を、私たちは鮮やかに
色彩豊かに私たちの記憶の絵本の中に発見する
見ること観察すること瞑想することがしだいに習慣となり訓練となって気付かなうちに
観察者の気分と態度が私たちの行動全体に浸透してくる
(老齢について―ヘルマンヘッセ)

ただ旅したところは時間がたつと消えやすい、おぼろになり思い出せなくなる
つまり記憶するには絶えず記憶されるようにしていないと人間は忘れるのである
つくづく人間ほど忘れやすいものはない、だから歴史になると記録が大事になる
津波でもこの辺で400年前に700人溺死と記されていた史書があった
でも誰もそれに注目していなかったのである
結局記録していてもその記録すら忘れられていたのである
それは個々人でもそうである、私でも相当に詩とか書いて記録しているけど自分の書いたものを忘れているからだ、それでそうした書いたものをもう一度読むと何か新鮮なのである、こんなことを書いていたのかと改めて感心しているのも不思議なのである
それだけ人間は刻々時間がたち回りも変化忘れ安いのが人間の弱点だったのである