2025年11月18日

津浪から原発事故からコロナウィルスから熊騒動 【自然と人間の関係から起きたことで共通するもの】


津浪から原発事故からコロナウィルスから熊騒動
【自然と人間の関係から起きたことで共通するもの】

●自然と人間の生活の乖離

これら一連の問題は関係あるのか?何か自然と人間の関係で生まれた
津波も巨大な自然から定期的に起きていた。その周期が何百年とかの間隔だと初めて起きたように見る、でも津波でも地震でも定期的に周期的に起きている。ただその時間間隔が長いから初めて起きたように見える
コロナウィルスでもウイルスの被害は過去に繰り返し起きている
だからこうした災難は人類から無くならない、でも時間の間隔が長いから初めて起きたように見る。それで災害は忘れた頃にやってくるとなる
人間の一生が百年になっても短い。その間で経験することは限られている
でもここ十数年でこれだけのことを経験した
いづれにしろこうした災難はカルマのように繰り返し起きる

人間と自然の関係から起きて来た災難である。津波でも甚大な被害となったのはそもそも人間側の自然に関わり方に問題があった
もともと海であった所を干拓して田んぼにした。その田んぼが津波で元の海になったことには驚嘆した。でも自然から見ればそれはただ海だったから海に戻したとなる、自然の再生回復だった。人間が自然を無視して田にしたことが問題だった。縄文人は津波の来る場所には住んでいなかったからである。だから縄文人は津波が来ても被害はなかった
その時代は自然に則って生きるほかなかった、その後人間側の力が増大して自然を改良するようになり問題が起きるようになった。
コロナウィルス、ウィルスもももと風土病としてあり一地域にしか広まらなかった。それが交通が発達してグローバル化すると世界に拡散されるようになった。交通がが発達して文明化した結果なのである
文明というのは自然に逆らうものでありそれが災いを産むのである

熊騒動でも人間と自然のバランスが崩れて本来は人間の生活圏には出てこない熊が出るようになった。これも自然側ではなく人間側の問題にもなる。自然に異変が起きるとき人間側の異変もあり起こる
熊の生息圏と人間の生息圏のバランスが崩れ起きる
それで森に餌がドングリが足りないからクヌギの木を森に植える

●くぬぎはドングリの木

「くぬぎ」は、広葉樹の一種であり、その実(どんぐり)は、熊が好んで食べるものの一つです。くぬぎのどんぐりは、比較的大きくて食べ応えがあり、栄養価も高いです。これらの実は秋に落ち、熊はその栄養を求めて積極的に集めます。

橡とは、ブナ科クヌギ(櫟)の古名。染め色に使われていたドングリ一種であるクヌギの実の色で、一般的には黒味がかった茶を指します。橡と一言で表しても、灰汁やアルミで媒染した黄橡や鉄で媒染された黒橡などがあり、昔から日本人と関わりが深い色として知られています。

 紅はうつろふものぞ橡(つるばみ)のなれにし来ぬになほしかめやも

「紅は 色あせるもの 橡(つるばみ)染めでも 着なれた衣に やはり及ぼうか」です。そしてこの歌の眼目は、紅と橡の染色の色合いと色持ちの違いです。

 クヌギ、またはその実のどんぐりの古名。〈和名抄〉
2 1の実またはその梂かさを煮た汁で染めた色。灰汁あく媒染して薄茶色、鉄媒染して焦げ茶色や黒色に染める。また、その色の衣服。
㋐奈良時代、家人・奴婢ぬひの着る衣服の色


明確に着る衣服の色も身分でも違っていた。ともかく自然のことがわからなくなった。自然からとれるものを自覚できない
日常的に自覚できない、ただ買うものとなったから自覚できない
それだけ人間は自然から遊離して生きるようになったためである
そこで自然と人間の乖離が生まれて様々な問題が生まれる

熊騒動ももその一つである、熊とは何者なのかわからないからである。
だから害になるものは駆除すればいいということにしかならない、
でも森に熊がいなくなったらどうなるのか?それが未知だから問題なのである。何か未知の領域がまだある。原発事故でも核を操作してエネルギーを作り出してもそこに危険があった。そこに依然として未知がありそれが災いを産んだのである
つまり自然であれ人間の体でも未知が残されていてわからないから問題が起きる。

posted by 天華 at 17:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年11月16日

冬薔薇、寒菊、山茶花の俳句

冬薔薇、寒菊、山茶花の俳句

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原町に映える三色の冬薔薇
散り残る花びら赤く冬薔薇
誰か知る月影さして冬薔薇
我が庭に愛しむむあわれ冬薔薇

前畑に朝働くや冬の菊
寒菊に日のさし農家に石の倉
寒菊や今日も生きなむ一人かな

ほの赤く山茶花ひそとはや暮れぬ


原町は原町の個性がある。やはり都市でありそこに映える花も違って見える。石の倉には寒菊が映える。山茶花のほの赤く咲くのも冬らしい
冬は深く見るのがいい、なぜなら外が寒く出にくいからである


2025年11月15日

南相馬市が原発事故で分断させた補償金 【鹿島町、原町市、小高町の歴史は長いが南相馬市は短いので一体感がない】

南相馬市が原発事故で分断させた補償金
【鹿島町、原町市、小高町の歴史は長いが南相馬市は短いので一体感がない】

原発事故で問題になったのは一つの問題ではない、複合的に起きた
第一に科学技術の核の問題があったがそれだけではない、あらゆる問題が噴出した。
その要因として南相馬市が合併してまだ月日が浅い

2006年(平成18年)1月1日、原町市と相馬郡小高町および鹿島町が合併して誕生した。旧市町の区域ごとに地域自治区となっており、各々「原町区」「小高区」「鹿島区」に移行して住所に名称をほぼ残している

それでも合併して20年くらいすでに過ぎたのである
それでもどうしても「原町区」「小高区」「鹿島区」がありその歴史が長いから南相馬市民という意識が醸成されない。
原町区はもともと5万くらいの都市でありそこでは原町市民意識があった
南相馬市になってもやはり原町区が中心になっている
でも小高町民とか鹿島町民としての歴史が長いから南相馬市民という意識が育たない、つまり簡単に共同性は作れないのである
南相馬市という命名も問題があった。相馬市の南となり相馬市に付属する感覚になった。何か市としての特性が感じられなかった
つまり簡単に名前を変えただけでは共同性は作れない
ヨーロッパの市民意識は中世から作られてきたものである
それでパスポートに国だけではない市の名前が記される
あなたどこの国のものですかだけではないどこの市の出身ですかが問われる、このことに違和感を感じるのはそもそも市民意識、シテズンシップが持てないからである
それはヨーロッパの歴史から生まれたものであり日本は村が共同の単位だったからなじみがないのである
そもそも村意識があっても町民意識すら明治以降に作られたものである
ましてや市民意識など持ちようがなかった
また国民意識すらもっていなかったのである。江戸時代は藩に属していて藩民意識はあっても国民意識はなかった。相馬藩があり伊達藩があり藩に属する意識が基本にあった。

明治以降はその藩がなくなり天皇の臣民とされ過剰に国民意識が上から強制されたのである。それは日本が国際社会の一員となるとき強制的に国民意識を持たされたのである。
それまで天皇のことなど意識されない、藩中心だから殿様は日常的に意識しても天皇のことなど知らなかったのである

そもそもこうした共同性は簡単に作れない、だから南相馬市と名前を変えても実質が伴わないのであ南相馬市の一体感が持てない
何かそこで原発事故でその不自然な状態の矛盾が表面化したのである

小高区は避難区域となったが補償金の額が大きい。それで他の土地に移住したとしても新築の家を建てた。それでいわき市とかではその移住した人達が多かったので問題が起きた
地元の人達は家を建てられないのに次々と家を建てた。補償金で建てたのである。だから反発されて暴力沙汰にもなった。
つまりもともと住んでいる人達が家を建てられないのに原発避難民は補償金で家を建てるというのは何かおかしいことにもなった
もともと住んでいた人たちは羨ましいとなったのである
そのことは南相馬市内でも起きている

補償金が30キロ圏外だと同じ南相馬市でも鹿島区は原町区の三分の一しかもらえなかった。この補償金の多寡で南相馬市は分断されたのである。だから小高であれ避難区域になった所では返って原発事故で得したとなる。それでその他の地域では羨ましいとなった
だから小高の人でも原発はいいものであり別に被害があったとも見てないのである

いづれにしろ南相馬市自体が合併して日が浅いのに原発事故で分断された。ただ小高区と原町区はうまくいっている。補償金で不満がないからである。鹿島区でも相馬市でも30キロ圏外になるとわずかしか補償金がもらえないから不満になる
たしかに小高の人でも原発は言いものだったあからさまに言う。でも30キロ圏外の人達はそう思っていない。
何か原発事故では避難区域になった地域では荒廃したので同情されるが現実はそこに住む人たちは返って良かったとまでなる
それは全部でないにしろそれもまた事実である

ともかく南相馬市として合併しても共同するには長い時間がかかる
そこに原発事故が起きて南相馬市の試練となったのである
これにどう対処するかはむずかしい。そこに利益利権が金がかかわり分断された。骨肉の遺産争いのようにもなったからめんどうなのである。
posted by 天華 at 17:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2025年11月14日

原発事故と民主主義 【原発を作るにも十分な議論はされなかった】

原発事故と民主主義
【原発を作るにも十分な議論はされなかった】

市民とは政治的な主体だ。 身の周りの世界が同組織されているかに、自分たちの生活がかかっていると折にふれ自ら言い聞かせる人間だ。使命は、常に、社会における自分たちの運命についても。 もっと理解を深めようと努める。 
時に不正に対して憤り自分で何とかしたと思い立って 社会問題に自ら深く関わっていく。 消極性は市民の立場の死を意味するのだ。
(カレルバアン ウオルブレンー 人間を幸福にしない日本というシステム) 



民主主義とは何なのか、まだわかっていない、それは別に知識人だけのものだはない、庶民レベルで民主主義が実践されることである
例えば原発でも何かこれが地元でその是非が議論されただろうか?
それがほとんどなかったように見える
原発事故になり庶民でも主張するようになった。
ただ主張したのは原発事故の補償金のことである
補償金をもっとくれということで主張するようになった。
原発が建つときはそれが危険だからとか地元でも議論はされていない
ただ金になるということで批判はしなかった

つまり人間は一番敏感なのは利益になる金になることである
だから避難区域になった南相馬市の小高区の人でも事故後も反対しないし東電であれ批判しない、ただ避難区域の人がみんなそう思っているのかどうかわからない、その人は特殊なのかそれとも原発事故は補償金をもらったから別に悪いものではなかったと見ているのかわからない
ただ極端にしろ民主主義ではそれぞれ主張することはできる

原発はいいものだった、補償金をもらって事故後悪いものではなかった。それで自分に対して原発のことで反対するとそんなこというなと食ってかかってくる。そして自分を責めてくる。
これは意外なのだがそうした主張は原発避難区域で一定数いることは確かである。浪江町でもまわりの田んぼでも草茫々でもその人は電気関係で原発でも働いていたから何か年金のように補償金をもらって良かったと言っていた

何か外から見ると常に原発の被害が放送されるが地元では極端にしろ原発はいいものであり批判しない、だから地元でも原発に反対すると怖いとなる。
ただ民主主義は誰でも意見は言える。だから別に原発はいいものだったとかでも主張できる
第一小高であれ浪江であれ原発はいいものだったというとき外部の者がとやかく言えるだろうか?
何か外部から見ると常に被害者として見ている。でもその地元の人は補償金をもらって良かったとなっている。
だから地元でも原発に事故後も反対できないとなる
すべての人がそうなのかどうかはわからない、でもそれがまた現実でもある。
それを主張するとき原発をもっと増設しろということでも原発は事故になっても十分な補償金が出ますから困ることはありません
それは福島の原発事故でも避難区域の人達が証言してくれますとかなる

でも原発避難区域の人達がみんなそう思っているのかどうかはわからない、ただ私に対して強くそういい私に食ってかかってくる
それは民主主義なのだから一人一人意見を言うことはできる
極端であれできる。それをとめることはできない。
それでもその自分の言っていることに責任を持てるのか
いくら一個人でも小高であれ浪江であれ何か代表して強く主張したのかと感じた。民主主義は何であれ誰であれ意見を言い主張できる

原発はいいものだった
原発には反対するな
補償金をもらってみんな喜んでいる

ただこの喜んでいるのは南相馬市なら小高区であり原町区である。鹿島区とか30キロ圏外は補償金では不満である。それで私は30キロ圏外だから原発に反対できた。もし補償金をもっともらっていたら反対を東電でも批判できなかった。人間はこうして金が利益が第一となり左右される
それはあらゆることでそうでありいくら正論のようなことを言っても利益になる金になることが優先される。

民主主義でも利益が優先される。それはそれで主張できる
金になるからいいじゃないかというこを主張できる
でもこの辺では何か原発に関して議論すらされなかった
だから何故新潟の巻町で原発を拒否できたのか、原発推進派の方が多かったも見るからである。そこでは議論もされた。それにしても反対できたのはどうしてだろうとなる。そこでは民主主義が機能していたからなのか、反対派が多く原発が建てられなかった。全国的に見るとそれは例外的なことである。どうしても利益第一になる、金になるとなれば反対できないのが普通である。

確かなことは原発問題でも民主主義が試されたのである。地方自治の方が何か民主主義でも身近になる。それぞれ住んでいる場所であり原発事故なら住めなくなることにもなったからである
それでギリシャの一万くらいのポリスで民主主義が生まれたことが理解できる。国単位となると大きすぎて身近にならないからである、それくらいだと一票の重みがある。そして責任も自覚する
国家レベルとなると責任も自覚できない。だから原発は言いもものだったと言うことはできる
でも責任は課せられる。狭い範囲だと反対であれ賛成であれ熾烈なものとなり昔だったら戦争にもなる
そもそも戦争が戦国時代であれ起きたのはやはり土地争いとか水の利権とか利益をめぐる争いだった
それは今の時代でも変わらない、血で血を争うのは利益利権をめぐってそうなる。

いずれにしろ民主主義と言っても利益第一主義になる。利益になるとなれば危険は無視される。そのことはあらゆる分野でそうでありカルト教団でも御利益追求しかないことでもわかる、つまり人間は利益になる金になるというとき反対はできなくなる。それは原発は危険だとしても目の前の利益が優先される。これは人間社会に共通している。









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posted by 天華 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2025年11月13日

 家を一人で切り盛りする負担 【掃除から金の管理からその他あり苦しく疲れた】

 家を一人で切り盛りする負担
【掃除から金の管理からその他あり苦しく疲れた】

今日は朝から農協のヘルパーが4人くらい来て掃除した
一時は脳出血で倒れたからゴミ屋敷のようになった
その後整理したが全部は整理できなかった。4人かかりでも掃除が結構大変だった。
親の介護から私は家を一人で切り盛りするのに四苦八苦してきた
今までは二人のの母親がいて世話しててくれたから楽だった
それは極楽であったが一転して地獄と化した
全部一人で切り盛りするほかない。それもカルマだった
人間は楽してもかならずその楽が苦に変わる

「苦は楽の種」とは、現在の苦労が将来の楽を生むという教訓を示す言葉です。具体的には、現在の苦労は将来の幸福のための種まきであり、逆に現在の楽な状態は将来の苦労の原因となることを意味します。このことわざは、徳川光圀によって残されたもので、人生の因果応報の考え方に基づいています

これは本当である。そもそも苦しんでいればその苦が楽を作り出す
貧乏で苦しめば贅沢しなくても食べれるだけで幸福だともなる
ホームレスのように寝る場所も無かったら雨露をしの場所があることだけで幸福だとなってしまう
だから「苦は楽の種」になる。でも贅沢な生活をしていた人は様々なことで苦しくなると耐えられなくなる。楽な生活をしていた時と比べるとからそうなる。だから零落するのが一番つらいとなる
そのことは60以降自分が身を持って経験した。食事の用意から何でも自分一人でやるほかない、それも病気でもそうだった。誰も代わりにしてくれないからである。

何か一人暮らしが増えたとしてそのリスクも困難もあまり考慮しない
一人がどれだけ大変になるか考慮しない、それがわかるのは病気になった時である。もうお手上げになってしまう。親の介護でも一人であり私は病気でも介護した。誰もしてくれないから自分がするほかなかった
それも自分一人が特別良くされたから楽したカルマとして苦しむようになったのである。

一人暮らしは様々なリスクがある。金の管理にしてもそうである
盗まれたことがあり大東銀行の貸金庫を利用したが使わないので解約しようとしたら鍵を返してもらいたいとかできなければ4万もらうとか言われた。何か他でも解約がむずかしいのである。それは手続きをめんどうにして継続させるためにそうしている

契約は容易にしても解約はむずかしくする

それでまたハンコをなくしたので新しく登録するので手間になる
何か銀行とかの役割は何なのか、前は投資信託の勧誘があり私は大東銀行でしていた。それで儲けたことがない。銀行でも何かかかわると金だけをとられるのかとなる。大東銀行で便利なのはビザカード作れたことである。普通は無職だと作りにくいが作れた。それは重宝したが後は投資信託でも損だったとか何か金をとられるだけだったともなる
貯金でも利子はつかない、でも貯金すると金があると銀行では証券会社と組んで投資信託を奨める。そこで必ず手数料入るし銀行では株でも下がって絶対損しない、損するのは客なのである
株は上がったり下がったりしますからと言えばいいだけである
今や銀行に金を預けるメリットがなくなった
むしろ客の金を奪うのが銀行だともなる
貸金庫でも銀行員がその金を盗んでいた事件があった。
つまり銀行に金をあずけても奪われるとまでなる

今回は前のハンコをなくしたので新しくまたハンコを登録する
農協のヘルパーが口座から引き落とすのにハンコがあわずできなかった
それで再登録するのに手間になる
ハンコは本当に面倒である、アメリカなどではハンコなどない、署名だけでだけでいいのである。ハンコの本場の中国でもハンコは使わずデジタル化している。日本は依然としてハンコなのである
何か日本が世界から遅れた原因がこういう所にもある

また日本では部屋を借りるにも入院するのにも保証人が必要であり
一人暮らしの人は困る。アメリカでは保証人は必要ない
なぜ日本だけ保証人が必要なのか?
それは村人が米を税金として納めるとか五人組が形成されて村人が連帯責任を負うことに由来しているかもしれない。
個人に対する契約ではないからである。契約という時個人間の契約が基本である。この契約というのも日本人にはなじめないものだった

だから神と人間の契約するという聖書の教えもなかなか理解できないものだった。神が契約するのは集団ではなく個々人と契約する
そもそも契約は個々人間での契約である、これもなかなか理解できないものだった。そもそも神と契約するとか思いもつかない、そこに文化の相違がある。ただ日本では契り(ちぎり)となるが

「契約」は法律的・ビジネス的な合意を指し、形式的な意味合いが強いのに対し、「契り」は感情的で人間関係の深さを伴う約束を指します。

ここに法律と感情的で人間関係の深さを伴う約束とは違う、法の精神がある。法治国家というときこれも日本人には理解できないものがあった。法律という時感情的なものを返って否定する、情的になると公正な裁きができなくなる。一方で情状酌量とかもあり情を無視することでもない。

ともかく一人ですべてを担うことは負担が大きい、人間は家族であれ共同する。人間は何か共同して生きる。それが家族なのだがその家族でも数人単位であり何か介護とか病気になると足りなくなる
それで家族の崩壊が起きてくる。

posted by 天華 at 17:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年11月11日

自然の効用と人間の効用の対立−無用の用の老荘思想から見る 【人間は文明化して自然のことがわからなくなった―熊とは何なのか】


自然の効用と人間の効用の対立−無用の用の老荘思想から見る
【人間は文明化して自然のことがわからなくなった-熊とはなになのか】

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熊の害を問題になる時熊を駆除すればいいとなる。それは人間側から見た対処方法である。害になるものは排除しろとなる。
この問題でも大きな自然の作用とか効用を無視する人間側の論理で解釈するから問題になる。ブナの木を橅としたのはこれも人間側からみれば木材として使用しにくいから無用の木となった。
自然からすればブナの木は必要なものである。何でも人間側の都合で効用で見るとその反作用が生まれる
熊問題もそういう面があるだろう。害獣でしかないとなる。だから駆除すればいいとなる。それは人間側からだけの論理でありそれが自然全体か見た時生態系のバランスを崩すものともなる。

養老孟司氏は、サルやイノシシが畑を荒らす理由は、野犬の不在に起因していると考えています

野犬狩りである。野犬がいなくなったから、役所は野犬狩りをしない。同様にして、野犬がいなくなったから、サルだのイノシシだのの天下になった。まさに納得。

野犬というのは、里の近所をウロウロしているもので、そんなものがいたら、私がサルなら人里近くには出ない。なにしろ犬猿の仲、私がかつて飼っていたサルはイヌに尻尾を噛み切られたことがあった。

野犬など邪魔で有害と見たがそれもそうでもなかった。これも何が有用なのか無用なのかがわからないからそうなった。
野犬は今でもインドとかネパールとかに多い、それで怖かった。その野犬が役に立っているということも意外だとなる。

なぜ熊は犬に負けるのか?


狼が熊の天敵であり犬がそれを受け継ぎ天敵となった。つまり自然界では天敵が必要でありそうしないとバランスがとれない、狼でもいなくなったことが熊が増えた理由にもなるのはそのためである。
人間は人間側の論理で都合で自然を計るけで計り得ないのが自然である
むしろ神であれ自然に計られる方が人間なのである
だから何か人間が自然を征服して自然を計る操作するという時自然からの反作用があり災いが生まれる
人間の業(わざ―技)が災いを産む、それは科学技術文明でもその科学技術が災いを産む、それが原発事故でもあった

それで無用の用の老荘思想が生まれたのも東洋が自然を深く見ていた。
なぜなら西欧には用の思想しかない。無用の用などありえない、そういう発想が生まれないのである。
とにかく熊の問題でも大きな自然全体が関係しているから簡単に熊を排除すればいいとはならない、それはあくまでも人間側の論理である
そうして人間側の論理や都合で自然に対処するとき必ず災いが生まれる
熊でも狼とか天敵がいなくなり増えた。自然のバランスが崩れて天敵がいなくなり増えた。

ともかく人間側の論理で都合だけで自然に対処するとそこに自然からの反作用があり危険になる。つまり人間の知恵は神の自然の知恵には及ばないからである。人間は自然を操作することはできない、操作される方だからである。人間が作った文明でもか科学技術でもそれがバベルの塔のように崩壊するというときそうである。自然は依然として未知であり
熊問題でもそうである。第一熊など見たこともないし熊のことがわからない、熊は何なのだろうとなる。ただ熊でも自然の一部だから熊を意識するようになった。それは津波でもそうである

津波でも何百年に一度くらいに起きないとそれを常に意識することがむずかしいのである。その時間のスケールが幅が人間の寿命が百年でも短いからである。自然の時間のスケールも人間の時間感覚と余りにも違うからそこで自然を見誤る。400年前にこの辺でも津波の被害があっても全く忘れられていたこでもわかる。

どうしても人間は自然のスケールと違いすぎるか対処できない、熊問題にしてもそうなのである。熊がいたの熊は何なのとなる。
今根掘り葉掘りいろいろな人が言うのもやはり人間が自然から離れて生活していう結果だとなる。自然のことがわからなくなっているからだとなる。ただ驚くのは東京の都心部まで熊が出ていることである
その熊はやはり自然の何らかの異変を伝えるものでありそれが東京でも意識されたとなる。東京でも自然の一部だからそうなったともなる。



posted by 天華 at 15:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年11月10日

今年の冬は早く寒い【冬タンポポ。寒菊、冬薔薇。残る虫。木の葉散る、柿】

今年の冬は早く寒い【冬タンポポ。寒菊、冬薔薇。残る虫。木の葉散る、柿】

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浜通り冬タンポポや癒されむ
寒菊のかたまり咲きて日のさしぬ
冬薔薇今日も見につつ家籠る
今日も来ぬ路地裏散りぬ木の葉かな
路地裏に営みあれや残る虫
何残す空家に岩や柿なりぬ
狭き庭朝の時雨や薔薇あわれ
寒菊の赤紫の色沁みぬ
寒菊の塊り咲くや日のさしぬ

人なれば命を惜しむ誰にしもなおこの世にそ見知るものあれ
我が家に北風唸るこの家と共に過ごせし歳月思ふ


11月にしては寒いのか、今日は風が強く木枯らしだったもだろう。
何か外に出ると時雨でもあった。その時雨に薔薇の花が濡れた
今の時期まだ寒菊ではなく冬の菊になる。
何か赤紫の冬の菊が温かみを感じる、この辺は冬でも暖かいから冬タンポポが咲く。でも今日は風も吹き寒く本格的な冬である
私の家は昔風の家で大きいが寒いのが問題である。老人とか病人は良くない、ともかくこうなると外には出にくい、冬籠りにもなる。
いずれにしろ11月にしては寒い、秋は早く過ぎて急に冬になった。

家というのは単なる物ではない、そこに生きた人がいて思い出が刻まれている
大きくなれば家に歴史が刻まれている。そこに苦しみ悲しむまた喜びの生が刻まれている
だから家は単なる物ではない、でも空家が多くなるとわびしいとなる
一つの家の歴史でも失われるとなるからである

2025年11月09日

津軽の雪−弘前城の古風な門【信濃の雪、会津の雪、冬の暮】

津軽の雪−弘前城の古風な門【信濃の雪、会津の雪、冬の暮】

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古風なる城の門入り冬の暮

古風なる城の門入り冬の暮岩木山見て威を正すかな


津軽の雪

雪は降りぬ
やむことなく降りぬ
白い雪は浄めとふりぬ
その新雪の積もり我が踏み
遠く辺境の青森の心知りぬ
雪は霏霏とふりぬ
その雪に浄められる心かな
弘前城の古風なる門かな
ここに江戸より遠く華美の無く
質実なる心養うものなれ
寒々として雪はおやみなく降りぬ
しんしんと新雪は積もりぬ
その雪は心の中に降り
心の中に積もりぬ


弘前城の門

ここの門は古い形式の古風な門でありそれが特徴になる

津軽弁も日本の古語が残存しているという時かえって古いものがそうした辺境に残される、沖縄でもそうである。

心から信濃の雪に降られけり 一茶

雪は土地によって違っている。信濃の雪というとわかりにくいがやはり特徴がある。津軽の雪は何か明るく感じたのも不思議である
それは新雪だからだったかもしれない。
会津の雪もまた違っている。何かどんよりとした空から降ってくる

会津の雪踏み深し家古りぬ 自作

奥会津墓地も雪埋もれ閉ざされぬ

会津とかでも雪を知らないとその土地のことはわからない、この辺では浜通リでは雪が降らないので雪のことがわからないのである
雪もその土地土地で違っていてわからないのである
いづれにしろこれから寒く雪の季節になる。何か今年は秋が短く急に冬になった感じである。











2025年11月08日

盛岡城の秋と冬の俳句【秋薔薇、紅葉、凍る池、冬の月、冬の暮、冬柳】

盛岡城の秋と冬の俳句【秋薔薇、紅葉、凍る池、冬の月、冬の暮、冬柳】

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【春】

街中に若草匂う盛岡城

【秋】

プラタナスの通りに散りぬ街歩む

盛岡の街中に咲く秋薔薇

色違う街中に咲く秋薔薇

石垣に松に紅葉や盛岡城

石垣に沿いて歩むや紅葉映ゆ

黄金色銀杏に紅葉映え盛岡城

【冬】

岩手山迫り見ゆかな冬の城

池凍り石垣硬く盛岡城

石垣の間を歩み冬の暮

登城する侍寒し盛岡城

厳然と残る石垣冬の月

冬の暮北上川や盛岡城

川二つ街中流れ冬の暮

盛岡の街の古りにき冬柳

盛岡や街灯ともり池凍てる




AIの城と紅葉の詩


城影を抱くもみじ葉(は) 
風に舞いて錦織りなす 
石垣の冷え、白壁の静けさ 
紅(くれない)の襲(かさ)ね 時を語る

天守を仰げば 秋陽(あきび)に映えて
千年の声 木霊(こだま)せり 
一葉落ちて 城下に波紋を広げ
旅人の心も ひそやかに揺る

夕暮れに灯る灯(あか)りの中 
門をくぐる音 遠く 
紅(あか)き並木のトンネルを抜け
歴史と風が 肩寄せるひととき

城は今も待つ 紅葉の宴を 
訪(おとず)れる者に ひらかれた詩を 
石の静寂に 葉の囁(ささや)きとともに 
秋の訪れを 刻み込みて。



盛岡城は石垣を見る、石垣が立派なのである。そこに城をイメージできない、外国人にも人気があり集まることもわかる
岩手山が聳え街中を二つの川が流れていることで清涼感が出る
歴史があり自然があることで魅力がある。

でも物語は感じられない、会津になれば必ずその悲劇が語られるからである。仙台の青葉城は伊達政宗が常に語られる
盛岡城は石垣だけが印象として残る。

街中にある城でありそこが中心として意識しやすい、それから岩手山が迫って見えるから心も引き締まる
春夏もいいが秋冬が東北の城下町として趣が深くなる






2025年11月07日

考えない日本人 【理を追求しない日本人を批判した林秀彦】

考えない日本人
【理を追求しない日本人を批判した林秀彦】

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考える」の語原は、古い表現「かむがふ」に由来しています。この表現は、二つの物事を対比して思いめぐらすことから来ていると考えられています。具体的には、「か」は「すみか(住処)」や「かなた(彼方)」を示し、「むがふ」は「むかう(向かう・対)」という意味を持ちます。このように、考えることは二つの物事や概念を向き合わせ、その相互関係を深く探求するプロセスであることが示されています

林秀彦が日本人は考えない民族である。思うことはあっても考えることがない、相手を思うこと何かを思うことは考えるとは違う
思うことは恋にもなり日本人は思うことはあっても考えることをしないとしている。

考えることは二つの物事や概念を向き合わせ、その相互関係を深く探求するプロセスであることが示されています

人間が考えるというとき違った意見を言う時考える、なぜそんなことを言うのかとなり考えさせられるからである
ただ同調するだけなら考えないからである。
それで欧米でデベートが発達した。議論して勝負を決める
その公開の議論の中で納得させられれば勝ちになる。
議論して気づかなかったことに気づかさせられることがある
だから議論自体が効果がありそれが民主主義の基となった

それはギリシャのソクラテスから始まった。その伝統が欧米に受け継がれたのである。日本は考えることが拒否する民族である
理を極めるのではなく情緒的美的になる。そこに理は欠落する
理屈を言う人は嫌われる。そのことが日本人は世界的に終わっていると林秀彦は言う。海外の生活が長いからその対比で日本を深く考えるようになったからである。つまり外国と比べて些細なことでも考えさせられるからそうなった。日本の中で日本人とだけ付き合っていれば考えるということがない。日本人が考えない民族だという時島国で異質なものと交わらない歴史が長いからだとなる。

民主主義でもそのベースになるものがありすべて多数決の原理で決められるわけではない。そこに正当な理がが必要になる
rightを権利と訳したがもともとは権理だった。権は権力の権であり利は利益の追求だとなる。すると利を追求することが第一になりそれに権なのだから権力で利を得ることが正当化される。現実社会はそうなってもいる。権理となればそこに理がリーズンが必要になる
それが法律でもある。法律ができたのは人が争う時暴力ではなく理で法律で決めるためである。平和的に公正に判断して決めるためである
それは理を優先する。理でもって互いに納得するということである
それは暴力ではなく理でもって互いに納得するのである。ただその理も法律となると複雑になり問題になる。日本人は情緒的民族であり理を嫌うからである。

いづれにしろ日本で民主主義が機能しないのは理を嫌い追求しないからだとなる、腹でわかるとか理を拒否する民族である
それを林秀彦は再三指摘している。日本人は確かに西欧文明を取り入れてもそのベースとなるものを理解して取り入れてなかった。
だから民主主義でも実際は機能していない、rightとでも権利となり利が強調された。だから権利ではなく権理と訳した方がよかったとなる

常に利だけが追求されることになったからっである。利は誰でも即座に理解する、それで利になればいいとなり金になればいいとなり社会になった。それはアメリカ的価値観でもあった。戦後はアメリカに従属したのだから当然そうなったことは理解できる。でもアメリカでも理は重んじる。日本は返って理を重んじない。そのことが日本が終わりだととして批判したのが林英彦だった。






2025年11月06日

最後に持っているものが家でも負担になる 【家でも何でも持っているものが重荷と化す―無常が現実になる】


最後に持っているものが家でも負担になる
【家でも何でも持っているものが重荷と化す―無常が現実になる】

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わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ

家というのはみんな最も欲しいものでもあった。それが重荷となり負担になる。家などない方がいいとまでなる。これは何なのだろうとなる
要するに人間は何かをこの世で所有しようとする
土地でも家でもそうである。そのために働く、でもその家を持ったのはいいとして最後に老いると負担であり重荷になる

広い家がいいとなっていたが子供も育った時そんな広い家は必要なくなる掃除するだけで負担になる。何かと家を維持することが負担になる
そしてつくづく人間はそもそも何かを所有することができないものだと悟る。土地でも家でも所有しても実際は負担になる
今は家など売れないからである。古い家は冷暖房に不利である
古い大きな家は隙間風が入るしかえって住みにくいのである
また古い家は段差があったりと老人には危険にもなる

何かみんな家が負担になるとか思わなかったろう。でも今や家は跡継ぐ人もなく空家が増える。その数も余りにも多い。それで空家をどうするのかと全国で問題になる。壊すにも何百万かかるとかなり簡単にできない、とにかくこれはな何なのだろうとなる
人間は実際は何もこの世で所有できない、なぜならこの世のものは神が創り神のものだからである。
人間は神から一時的に土地であれ借りて住んでいるに過ぎない、所有できないのである。住まいでも仮の住まいであり一時的に滞在するにすぎない、それは遊牧民だと移動してテントを張り暮らす、一か所にとどまらない、そこに定着することがない。
そういう生活は一か所に留まり生活するのとは根本的に違ったものになる

要するにこうして老人になると無常が現実化する。死もまじかであり無常を切実に感じる。

人間は何かを所有できない、ただ借りるだけである

この世のものは神のものであり神から一時的に借りて利用しているのである。土地でもそうである。人間はそもそも所有できないのである
所有しようとするが所有できない、それが現実だった。
つまり一時的に神から借りているだけであり所有はできない。
だから住まいでも家でも仮の住まいになる。旅人でもあり一夜の宿とかにもなる。そして異邦人だというとき一時的に滞在するに過ぎないからである。故郷にしてもそうなのである。
何かそれが実感できなかったが老人になると否が応でもそれが現実として突きつけられる。この世に一時旅人のように滞在するに過ぎないとなる。

この世が無常だということはなかなか実感できないが老人になるとそれが家が負担になるとか何か持つことが生きがいでもあったが何か持つことはかえって負担になり重荷となる。それで裸で生まれ裸で死んでゆくとなる、何かを持つこともできないのである
赤子は何かを握るしめようとする、でも死者は手を開き何かを得ようとはしない。人間はこの世で何かを得ようして所有しようとするがそれができないのである。

若い時にそいうことを宗教でも学ぶがそれを実感できない、でも老人になると現実の問題として突きつけられる。苦労して手に入れた家が重荷になりいろいろなものを買ったがそれも捨てるだけだとかなる
(無常)が現実として突きつけられる。




2025年11月05日

原発に何故反対できないのか? 【地元でも国民でも原発推進になっているから】

原発に何故反対できないのか?
【地元でも国民でも原発推進になっているから】

原発事故の議論で誤解しやすいのが電気なしでやっていけるのかという極端な主張である。電気自体を否定はしなくても原発に反対するとそう見られる。電気でも石炭石油で発電できる。水力発電もあり今ならソーラーパネルも風力発電もある
でも電気という時原発が拒否されるのは福島の事故のように危険だからである。別に電気を必要ないとは誰も言わないのである
でも原発に反対する人は電気はいらないのかお前は電気なしで暮らせとかなる

そしてなぜ原発が反対できないのか?

それはそれを支持する勢力がありそれが圧倒的に多いのである
事故を起こした地元ですら事故前でも事故後原発反対にならない
むしろあからさまに原発はいいものだという人達もいる
故郷にすめなくなった被害でもそうなのである
その理由は補償金が手厚いから東電でも政府でもあまり批判しない
地元でもその事故のことより補償金を追加してもらうことが最優先課題である。
だから小高の人でもこれだけの被害があり本人も小高に住めなくなっても家族がばらばらになっても東電とか政府を恨んだりしない、ただ補償金をもっとくれとなっていた。
浪江の人も周りの田んぼが草茫々でも補償金をもらって老後の足しになるから喜んでいるともいう。あれだけ街が荒廃してもそうなのである

それは国民でも原発反対かというとそうではない、むしろ原発の再開どころではない、原発の増設しろとなっている
それは野党でも同じである。なぜなら電気組合の電事連は強力な団体であり選挙では野党も頼る。だから参政党でも原発推進派なのである。
選挙の票田になるからそうなる。
つまり国民でも9割くらいは原発推進派であり反対は一割くらいだろう
それは事故を起こした地元でもそうである。
そうなるととても原発に反対できない、故郷に住めなくなった地元の人すら原発に賛成だとしたら誰が反対するのかとなる
だから原発事故で人がばたばた死ぬようなことにならないと国民も深刻にならないからたいしたことないとして原発を容認するだけではない推進派にもなる。

ともかく原発の利権は余りにも大きなものだった。何兆円という国の予算がつぎ込まれた。その金に群がる人達も多かった。
地元でもその金に目がくらんだ。危険は無視され金になればいいとなった。それで地元でも原発反対はなかった。むしろ原発に反対すると周りが賛成なのだからこの土地に住めなくなったかもしれない。それほど原発は金になるからそうなったのである。
別に地元でもこれだけ被害があっても原発に反対しないのである
そうなれば国民でも大した被害でないとして原発を増設しろとなることに抵抗がないのである。民主主義は多数決で決まる。9割が賛成なら一割の反対は無視できる。それは地元でもそうなのである。

この辺では原発事故で大被害を受けたとか言わない、ただ補償金をもっとくれと言うだけである。原発自体に反対しない。だからこそ国民でも同じであり野党が参政党でも原発増設しろとなっている。
つまり原発は止めようがないのである。一割が反対しても全く無視されるのが民主主義である。そこに民主主義の大きな問題がある
肝心な被害にあった地元でも原発賛成となれば反対しにくい、原発事故になっても困りませんよと言えるからである。

ただ誤解しやすいのが原発に反対すると電気無しでいいのかと言われることである。その議論が間違っているのである。電気をいらないとは言っていないのである。なにか議論になると感情的になる
だから暴力にもなり議論することもできないとなる
荒っぽい人がいてそういう人は正論でも言論を無視する。理屈を言うなとかなり力づくで暴力で解決しようとする。それで民主主義は破壊されるのである。
ともかく発言は自由である。でも自分だけに言うのではなく地元であれ国民に向かって言いそれで判断させるのが民主主義である
目の敵のように自分にだけ言われるのが納得できないのである






posted by 天華 at 11:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2025年11月04日

冬になる【残る虫、冬薔薇、刈田、冬満月、日短き】

冬になる【残る虫、冬薔薇、刈田、冬満月、日短き】

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誰か知る月影さして冬薔薇
隣り合う家々暮れぬ残る虫
家数軒刈田に月や烏かな
この道や日短きも我が知りぬ
短日や老いの身あわれ一人かな
今日も窓に月の見えしも雲隠る
田舎町冬満月やなごむかな
我が家の二階の広く冬満月
窓に月雲に隠れてすぐ消える

朝明けて真青の空を白鳥の翔けりゆくかな海も広しも


日がかなり短くなった。満月が出ていた。満月は心にも体にも影響するかもしれない、自然のリズムがありそれが人間にも影響する

「tide」の語源は古英語の「tīd」に遡り、元々は「時間」や「季節」を意味していました。この言葉はゲルマン祖語の「*tīdiz」から派生しており、時間の経過や区切りを表す概念でした。中世になると、特に海の満ち引きという時間的に規則的な現象を指すようになり、現代の「潮」の意味が確立されました。面白いことに、「tide」は「time」と同じ語源を持っており、両方とも時間の概念から発展した言葉なのです。

月は満ち欠けして変化する、それで太陰歴が最初にあった。月の満ち欠けの方が月は身近でり変化するから歴になったことは理解できる
潮の満ち引きとなると海側に住む人は注意するが海が見えない所ではわからない、でも月ならどこでも見れるから歴になった
自分は蟹座生まれであり何か潮の満ち引きとか月と関係しているかもしれない、

癌はどうして英語でCancer (カニ)なの?
癌が英語で「cancer」と呼ばれる理由は、古代ギリシアの医師ヒポクラテスが癌の形状をカニに例えたことに由来しています。癌の進行がカニの足を広げていく様子に似ているとされ、

私が蟹座でありガンになったことも関係しているのか謎である、星座で人間を見る占星術がありそれも不思議だとなる
確かなことは潮の満ち引きと月は関係して起きる。だから蟹座は月と関係する。蟹は敏感に潮の満ち引きを感じる場に生きているからである

月となれば秋の季語である。今年は窓から月が見えるのだがすぐに雲に隠れて消える。これも不思議な感じになる。

残る虫が鳴いている、その声が田舎だとひびく、静かだから響く、都会だと騒音の世界になりひびきにくい、今日は寒かったから冬であった。
朝に白鳥の飛ぶのを見るのは気持ちいい、ただ数羽だからものたりない
ともかく冬になった。何か時間が過ぎるのが早い、あっという間に一日が終わる。

2025年11月03日

今の医者はパソコンの画面ばかり見て判断する 【メデアを通して知る社会の問題―そこに誤解が生まれる】


今の医者はパソコンの画面ばかり見て判断する
【メデアを通して知る社会の問題―そこに誤解が生まれる】

いまどきの医者はパソコンの画面ばかり見ている、この根本的な問題は、医者が診療に必要な情報は我々が見たり聞いたり触ったりできる患者本体ではなく、パソコンの中の画像や数字にあると考えていることである

ガンでもパソコンの画像で判断する。医者は常にパソコンを見て説明する
でもそれで本当にわかるのかという疑問がある
患者本体が目の前にいるのにパソコンを通して診断して説明する
それは役所でもどこでもその本人を確認するのに必ず車の免許証とか身分を証明するものを提示せる。それで本人がいるよりそうした書類であり見ないと本人と認定されないのも変だというのもわかる

ともかく現代はあらゆることでメデアを通じて認識する
情報でもテレビであれインターネットであれ直接知ることはできない
人間にしても直接面と向かって会って知るのではなくメデアを通して知る。するとそこに必ず誤解が生まれる
テレビで見るのと写真で見るのでは印象が違うとなる。
メデアを通して見るとき錯覚が生じる。
何かテレビであれ映像時代になると本物に接するよりメデアの映像から接する、でもテレビであれ写真であれ人間であれその場のことを伝えることはむずかしい。

それでイラク戦争で油まみれの海鳥がテレビを通じて放映されてイラクはひどいことすると全世界の人達がイラクに対する印象を悪くしたのである。その効果は余りにも大きかったのである。
でもその映像は一部分でありその回りは油に汚染されていなかったのである。だからテレビの映像でも全体を知る。その場のことを知りえないのである。本当に知るにはその場に立ち人間の五感を働かせないと知ることができない。現代はメデアによって現実が歪められる時代である
本人が目の前にいても写真であれ書類で本人確認をする

だから医療でも医者が患者が目の前にいてもパソコンの映像を見て説明して判断する。そうなると膨大な映像を分析するAIの方現物の医者より優れているとなる。医者がAIに教えられて患者に伝えるとまでなる
それは現代社会に全般的に起きている
メデアを通じて何でも知るのであり人間でもメデアを通じて知る。
不思議なのはテレビだとまず顔を見る。顔の印象が第一になる
それでラジオの人気のアナンサーが見栄えが良くないとしてテレビでは採用されなくなった。でもラジオの声だけでの時代は人気だったのである。

いずれにしろ映像だけから知ることはできない。その土地土地でもその場に立たないと実感できない、人間の体で五感で知る時本当に知ったとなる。だから確かに世界の映像があふれていてもそれで知ったとはならないのである。
目の前に患者本人がいるのに医者でもパソコンの映像の方が本人より実体のように見ているのも変だとなる
その目の前にいる本人から得る情報の方が本物だとなる
ただそいうことがあらゆる分野で多い時代である。そこでどうしてもフェクニュースとかを真実と見る。最近ではAIが進歩して動画まで作れる。それで問題になる。AIの画像を本物と見る。そしてそうした偽物の情報により操作されることが危険になる
だから医者でもパソコンの映像だけに頼ることでいいのか信用できるのかとなる。それで生検で実物を検査する。映像だけではわからないからそうなる。

ともかく現代社会はメデアを介して知る時代である。銀行もメデアだというとき金融もむずかしいから銀行であれ証券会社に頼らないとできない、人と人が直接やり取りする社会ではない、またデジタル社会でも対面的にやり取りしない、だから人間そのものメデアを通してしか認識できない、そして人間は抽象化されて数値化される
人間の体は個々に違っているからその対処する治療も違うという
ガンの場合特にそうであり複雑になる。そのために伝染病のワクチンのようなものを作れない、個々に対応する治療が必要になる
そのためにガンの治療は難しいとなる


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2025年11月02日

老化した細胞がガン細胞を抑える不思議 【人間が死ななくなるのも社会的に問題ー医療の理系文系の対処方法】

老化した細胞がガン細胞を抑える不思議
【人間が死ななくなるのも社会的に問題ー医療の理系文系の対処方法】

老化細胞は、異常な増殖を繰り返すがん細胞を、その周囲の細胞とともに老化させて、増殖を抑え込むという役割も果たしているからです。繰り返しになりますが、老化細胞はもう細胞分裂しません。増殖しない細胞です。がん細胞を老化させることによって、その異常増殖を防ぐ、つまりがんを防ぐことが老化細胞のプログラムのひとつであると考えられるのです。

老化とがんは関係しているのか」東大教授の最新研究で分かってきた"老いの正体

素人的には成長するこどもや若い人は細胞分裂が盛んになることは理解できる。どんどん成長するのだからそうなる。

老化細胞はもう細胞分裂しません。増殖しない細胞です。がん細胞を老化させることによって、その異常増殖を防ぐ、つまりがんを防ぐことが老化細胞のプログラムのひとつであると考えられるのです。

癌細胞を老化させることで異常増殖を防ぐというのも老人は若い人より細胞分裂もしなくなりそれで進行が遅くなるのか?
それも不思議である。何故なら素人的には老化が原因で癌になると見ていたからである。実際に60過ぎると癌になる人が激増するからである

だからこれは一体何なのだろうとなる。ともかく癌を理解することはむずかしすぎる。どう対処していいかわからなくなる
それで気の持ちようが影響すると医者でもいう。それは精神論であり理系ではなく文系的対処になる。また祈ることも効果があるというのもそうである。つまり理系でも研究中であり解決できないからそうなる
何かいろいろな分野で理系と文系が問題になる
それは原発事故でもそうなり追求してきた

医学でも今や科学であり理系が実際に主導する。でもまた精神論とか言う時文系にもなる。理系で主導しても現実に対処できない。
理系だと医学だと将来的に老化も直せるという。そのときどうなるのか?人間が死ななくなると社会的にどうなるのか?人間が死なない社会がどうなるのかという問題が生まれる
もし老人が若返るならいいが老人が死なないで増え続ける社会がどうなるのだろうとなる。それは現実に少子高齢化で起きている今の問題である

いづれにしろ人間が死ななくなることはありえない、そして老人になり病気になり歩くもままならないような体で長生きしたくない
神の国では永遠の命が与えられみんな病気もなく若いというならいい
誰もよぼよぼの老人として生きたくないのである。
だから癌は人間を死なせるために生まれ新陳代謝を世代交代を推進させるための自然の摂理だとも見る。それに逆らうことはできないともなる




2025年10月31日

病院の科が多くてわかりにくい 【老人には総合的に見る医者が必要−部分化専門化した文明は迷路化する】

病院の科が多くてわかりにくい
【老人には総合的に見る医者が必要−部分化専門化した文明は迷路化する】

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病院内を三つの科でみてもらう、泌尿器科、腎臓高血圧科、第一内科、第二内科・・・
病院内で迷ってしまう、とにかく何度も検査する
検査漬けになる。またそれで理解できなくなる。腎臓と血圧とどう関係するのかとかその関係が理解できない
それぞれの科に専門家がいて検査する。

これは現代社会ではいろいろな分野で起きている現象である
人間の体でも臓器ごとに専門家がいて判断する
でも体を総合的に診れる医者はいない
【その分野は私の専門ではないのでわかりません・・・】となる
それはどこでも起きている
福島の原発でも吉田所長は私は材料が専門なのでわかりませんと言っていた。復水器のことがわからないと言っていた。でも復水器が大事な機能があった。だから事故の時それを知らないことは致命的にもなった

とにかく現代はこうして何でも専門化して細分化してゆく
そして全体を知る人はいないとなる。老人の医療では必ずいくつかの疾患を抱えている。一つだけではないから総合診療が必要だとなる
その75才の老女でも糖尿病で脳梗塞になり脚が悪くなり立つことも歩くのも苦しい。目も悪いとかなっている

この世界でも自然でも有機的に関連して生態系を維持する
それを様々な部分に専門化すると理解できなくなる
人間の体は機械のように部品を集めたものではない
有機的に自然のように関連している
だから一つの部分、パーツをみてもわからない
その部分は全体があって機能する、自然でも細分化して見れない
だから地球という惑星でも宇宙全体と関係しているとなる

ただこれ以上分化できないものとして原子を発見した。
それが西洋科学であり医学でも臓器ごとに見るとか人間の体を一つの体というより部品化して診る。それは西洋的手法だとなる
臓器移植でも人間を機械のように見て部品化して見るからできるとなる
でも人間の体は個々人によって違うという時簡単に人間を機械のようにはできない。
いづれにしろ老人はいくつかの疾患を抱えている、一つではない
それは総合的に体が老化して弱っているとなる
人間が死ぬときは一つの疾患ではなく合併症で死ぬ
一つの臓器が他の臓器にも影響する。だから一つの臓器だけを診ていても直せないとなる。

学問でも地名一つを知るにも地質学から地形から歴史から多様なアプローチが必要になる。つまり何でも一部分でも必ず全体と関係してくる
ともかく現代の問題は無数に部分化細分化して専門化して全体がわからない迷路化する。その迷路から抜け出せなくなる

病院でもいろいろな科を回らせられて患者でもどう理解していいのかわからなくなる、それはどこでも起きている
私はその部門の専門家ではありません、他の専門家に診てもらってくださいとなる。そういえば責任から逃れられる。私はその部門の専門家ではありませんから責任は持てませんとなる
学問でも学校でも様々な教科に分かれて専門の先生がいる
それで総合的に全体を見て教えられる先生はいないとなる
宗教が宗が旨なるものとして統合するものとしてあった
それは古代でも人間は早い時期から様々に分化部品化専門化していたから宗なるもの旨なるものを求めた

自然でも海があり大地があり山があり宇宙がある、それらは別々のものではない一体のものとして働いている
文明人はあまりにも部分化して専門化して迷路化する
A−B−C−Dと回りまたB−A−D−Cと回り訳わからなくなる
それは文明社会でどの分野でも起きている
そもそもあらゆる分野に通じる人などいない。大都会が迷路だというとき誰もその全体を知る人はいないからである。
こうして互いに意思疎通できないのが現代文明なのである

















posted by 天華 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年10月29日

癌になる原因【私の場合は遺伝と老化が有力―紫外線も影響】

癌になる原因【私の場合は遺伝と老化が有力―紫外線も影響】

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癌になる原因は今でもわからない、肺結核もわからなかったが伝染病とわかり予防できるようになった。だから癌がなぜ防げず直せないのかとみんな言うのもわかる。

紫外線を浴びると、皮膚細胞のDNAは傷をつけられます。
細胞にはつけられた傷を修復する機能がありますから、すぐに問題が起こるわけではありません。
ですが、長いあいだ紫外線を浴び続けていると、くり返し傷をつけられるうちに間違いが起こり、突然変異につながることがあります。
そしてその突然変異が、がんの発生に関わる遺伝子に起こった場合、次々とがん細胞が増殖し、がんになる可能性が高くなってしまうのです。

共同推計によると、2019年に 16 億人の労働年齢人口 ( 15 歳以上 ) が屋外で作業中に太陽紫外線にさらされ、これは全労働年齢人口の 28 % に相当します。 2019年だけでも、183 カ国で 19,000 人近くが、屋外で太陽の下で働いたことが原因で、非黒色腫皮膚がんで死亡しています

過度な日焼けに要注意。紫外線とがんの関係

紫外線: 紫外線は皮膚がんの一種である悪性黒色腫の発症リスクを高めます。オーストラリアのように紫外線が強い地域では、皮膚がんの発生率が高くなります

癌になる原因は一つではない、複合的な原因で起きる。病気でも体全体が関係して起きる。わかりやすいは皮膚がんかもしれない、肌に直にし紫外線を受けるからだ。肌が黒くなることはそれだけ紫外線の影響が大きいとなる
私自身を振り返るとが外国旅行して顔などがかなり黒くなり驚いた
外国は大陸はカラッと晴れる日が続く、じめじめしてない。
それで紫外線でも受けやすいとなり皮膚がんも多いのか?
また私は自転車旅行してかなり紫外線を受けた
推測として私の場合は遺伝と老化が原因とみる
父親が肺癌で死んだからである。それと老化も確実に原因になっている
60以上になると癌になる人が急に増大するからである

とにかく癌になる原因はわかりにくい、一つの老化現象となれば直しようがないともなる。
原発事故の放射性物質とか大気汚染は関係している。
事故後の10年後20年後に症状が現れるとしているからである
中国では大気汚染が工業化経済成長でひどくなり癌が増えた
大気汚染は確実に影響している。ただ危機感を感じないのが問題である
特に原発事故の放射性物質の被害は表面化しにくい
それで見逃されやすいのである、因果関係を知るのが難しい、十年二十年後となると余計にわかりにくくなる。事件なら時効にもなるからだ
でもまたそのことが原発の危険を隠蔽しやすいものとする

癌は将来的には解明されるのだろうか?
科学者は研究している。認知症も治るのだろうか、これも難題である
ともかく病気との戦いは終わらない、新しい病気も出てくるから終わらない、そもそも老化による病気は直せない。人間は老化して死ぬ。
それでその老化の過程で癌になるとしたら直せない、人間を死なせるために癌にする、そうしたことは自然なことであり止めることはできない
でもいつか癌でも直せるという期待を持つ、科学が医学が進歩して直せると見る。でも人間が死ななくなるの問題になる
世代交代もなくなり社会が進歩しなくなる





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posted by 天華 at 18:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

秋から冬へ【枯蟷螂、柿、朝顔、白鳥、秋時雨、残る虫】

秋から冬へ【枯蟷螂、柿、朝顔、白鳥、秋時雨、残る虫

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家の前枯蟷螂のあわれかな
石倉に松に柿なる農家かな
朝翔けぬ白鳥清しなお生きむ
遠山に日当たりあわれ秋時雨
北風やしきりに鳴きぬ残る虫
しきり鳴く余命数年残る虫

目覚むれば朝顔を見ゆ我が家に常にありにし母を想いぬ


俳句は基本は写生である。写生だから何か説明しない、俳句は短いから説明できない、母は目立たない女性でありいつも食事の用意をしてくれた。
でも今は一人でするほかない、朝顔は母であれ妻とかに似合う

死が近いとなると見るものでも違って見える
白鳥が朝飛んでゆくのを見た時私もまだ生きていると見る生きるんだと見る、朝は必ず自転車に乗り外に出る、足は脳出血でも麻痺しなかったのが
幸いだった、もう外は風が冷たく冬になっている。

遠山に日の当たりたる枯野かな 高浜虚子

枯野ではなく秋時雨だった。それは昨日の天候だった
今年は季節感が変調である。晩秋とか秋深むとかの感じがない
朝北風が吹きしきりに残る虫が鳴いていた。それは自分と重なる
余命いくらとかなり残る虫が鳴く・・・

2025年10月28日

癌が増えている原因の謎−大気汚染は確実に影響している 【福島原発事故の大気汚染も影響している?】

癌が増えている原因の謎−大気汚染は確実に影響している
【福島原発事故の大気汚染も影響している?】

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肺癌だけがそもそも増え続けている

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中国でも癌が相当に増えて死者が増加している
その原因が喫煙であり大気汚染であり公衆衛生が悪いためだと推察する
何かそういう国であり納得する。
大気汚染は急激な工業化経済成長で起きた
黄沙なども飛んでくるので中国は汚れやすい、汚れることに関心がない
ただ大気汚染という時、日本でもあり日本だと東京と神奈川県に癌が増えているのが関係している。特に肺がんは汚染した空気を吸うのだから影響しやすい、また福島原発事故の影響も考えられる
ただこの因果関係を見極めるのはむずかしい
そもそも何故癌になるのか医学でも明確ではないからである

●遺伝
●老化
●環境(大気汚染)−原発事故の放射線の影響

子の原因があるとすると私の父親は肺癌で死んだから遺伝の要素がある
でもまた老化の影響もある。老人は老化して癌になりやすい
だから死んだ人を解剖すると必ず癌が見つかる、何らかで人間は癌になる。それは老化と関係している。
次に大気汚染も関係する。問題は福島原発事故の放射線被曝が関係しているのか?それはわかりいくい、なぜなら原発関係は常に真実が隠蔽されてきたからである。

ただ私は福島原発が爆発した時外を歩いていた。家から出るなというのに外を歩いていた。もしかしたらその時被曝したかもしれない
そしてその症状は10年後に出るとか言われた。するとすでに14年も過ぎて影響が出ているかもしれない、甲状腺が出やすいと言われたこれは若い人でもなる。でもこれは因果関係があるのかどうかむずかしい
問題は原発関係は常に隠蔽されてきたことである

確かなことは大気汚染は関係している、肺に空気を吸うから肺癌になりやすいというのは何か素人でも納得がいく。つまり大気が原発事故で放射性物質で汚染されてそれを毎日吸っているのだから体に放射性物質が蓄積されたとなる。十年以上汚染された空気を吸っていたからである
それで十年後と20年後だともう生きていないと見ていたからあまり注意しなかった。そんな後のことを考えられなかった
それより女性の場合子供産むと遺伝子の異常で奇形児が生まれるのかと騒いだ。つまり10年後20年後でもさらに子孫にも影響するということで恐怖した。でも時間がたつと忘れる。

ともかく癌が中国でも増えているという時大気汚染は確実に影響している。それは世界的な問題でる。

核燃料が核分裂を起こす。つまり、1日約3kgの核分裂生成物、いわゆる死の灰が生まれるので、
1 年365日では約1000kgの核分裂生成物が蓄積される。一方、広島・長崎の原爆で生じた核分裂は約1kgである

約1000kgの核分裂生成物となると広島の原爆の比ではない。だからその影響は甚大である。でも目に見えて可視化されないので恐怖にならないのが問題なのである。バタバタ人が死んだりしないからである
10年後に10年後に影響があるとしても忘れるからである。

水にも熱にも酸にも溶けないガラス化した不溶性セシウムは(食べた場合には排泄されるが)肺胞に入った場合には半永久的に出て行かず、極めて有害なベータ線を出し続けるのである。

セシウムは水に溶ける溶けないの問題 (飲料水は安全なのか?)


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2025年10月27日

会津の詩【会津の花、鬼百合、会津嶺の国、】

会津の詩【会津の花、鬼百合、会津嶺の国、】

会津嶺の高く厳しく迫るかな
激流は巌を打ちて轟き
鬼百合のここに咲く
囲む会津嶺育む武士道
山を仰ぎ水は清く流れ
その心も澄みぬ
千年の古木の根を張り
代々受け継がれしものよ
ソバの花咲き曲がり家や
社は古り暮らしは続きぬ
静かに積もる落葉を踏みて
会津の地と一体となりぬれ
会津の山々は重なり暮れぬ

会津嶺(あひづね)の 国をさ遠(どほ)み 逢(あ)はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐(ひも)結ばさね


この会津嶺は複数である。会津は2000メートル級の山が重なり合っているからである。
会津を象徴する花は鬼百合になるのか、また桐の花も似合ている
桐箪笥でも有名であり桐の産地でもある
あとはソバの花が咲きソバの産地でもある
桧枝岐は秘境であり米が食べられず蕎麦が主食だった。ヤモリの燻製なども食べていた。そもそも街から相当に離れているからそんなところでどうして暮らしたのかとなる。今は尾瀬の観光があるから現金収入があるので違っている。それでもそんな場所で暮らすとなると容易ではない
でも日本ではそういう場所が山が多いからかなりあった。
そこは隔絶して相当に不便である。平家落人の里となるのもわかる。
そんなところだから隠れ棲んだと見える。

いずれにしろ会津は古代から一つの国を形成していた。会津は風土と一体となるのが魅力である。ただ浜通りから見ると山が多くそれも高いからその地理がわかりにくいのである
出も風土と歴史が地歴が一体となるから魅力があるとなる
ただその山が多くてわかりにくいのである
ともかく旅でもその地を自ら踏むときその土地のことをじかに感じる
それは映像をいくら見ても感じない。会津には自転車で三回くらい行った。会津は雪の時も行った。雪国を感じるには冬も行くべきだとなる
そうしないとその土地のことはわからないのである
現代は何度でも行けることでその土地の事の理解を深めることができる
四季を通じてその土地を知る。でも会津は山が多くわかりにくいのである

会津の心(詩)ー【風土と地理から見る会津−会津は古代から一つの国だった】