2023年02月11日

橲原で見たホオジロの群れの写真 (野鳥観察に向いている冬)


橲原で見たホオジロの群れの写真

(野鳥観察に向いている冬)

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前に出した写真はホオジロだた

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橲原で見たのは明らかにホオジロだった、近くで見たのもホオジロだった、十数羽は群れて電線に止まっていた
だから近くで見た鳥もホオジロだった、冬は野鳥観察に適している。野鳥でも枯木に止まったりしても目立つからである。
でも今年は知らな鳥を見た、というよりは注意して見てなかったからだとなる。
この年でも知らないことがこうしてある。要するに興味を持たないものはみないのである。ただ鳥はすぐ飛び立つからににくいのである。写真にもとりにくいのである。
でも今年は知らな鳥を見た、ウソという鳥もみたがあれはシメかもしれない、似たのいるからである。
ともかく写真撮ることを目的にして野鳥を観察するのはいい、でも撮りにくいのである。

ホオジロの十数羽群れて雪野かな
橲原や雪野に暮れて家数軒
風にゆれ小枝に止まるホオジロのしばし見れるはめずらしきかな

カルマは苦しまなければ解消しない (カルト教団は組織自体がカルマを積んでいる)


カルマは苦しまなければ解消しない

(カルト教団は組織自体がカルマを積んでいる)


カルマと言う時必ず個々人でも家族でも集団でも国家でも積んでいる、ただカルマを意識するのは苦しまない限り意識できないのである
それを自分自身の家族の介護で延々と述べてきた。
私自身がカルマを意識したのは塗炭の苦しみを受けたからそう思ったのである
まず個々人でも家族でもカルマを積まない人はいないのである
ただカルマというとき悪いカルマになるが良いカルマもある
積善の家には必ず余慶ありとかある、それは自分自身の家にあった。ただ必ず悪いカルマもありそのために苦しみとなって現れる。
なぜ自分自身がそういう苦しみを受けたのか?
それは明らかに家族のカルマだったのである、家族の家のカルマを引き受けるのが長男長女になりやすいのである

母は家事を94歳くらいまでしていて食事でもずっと提供してくれた。それを自分は当たり前だと思っていた。でも死んでから全部家事をしなければならなくなった。
皿洗いから掃除から洗濯から何から何まで一人でするほかなくなった。
それもカルマだったのである。母親にすれば私はあなたのためにこうして家事をしてきたその苦労を知るべきだとしてそれがカルマとなっていたのである
また姉は金があったが他人にあまり施すということはなく金に厳しく冷たい人だった
ただ私には本当に良くしてくれたのである。でもそのことが私へのカルマとなっていたのである。つまりもっと金があったのだから援助するべきだったし施しでもするべきだったとなる、なぜなら十万の金を貸しても必ず与えるのではなく返してもらうことを強く要求していたからである。貸した相手は本当に正直でいい人だったのである
だからその人だけは姉が認知症になってもかわいそうだとして相手にしてくれたのである他の人は認知症になってからは馬鹿になったとか相手にしなくなったからである

人間はこうして必ずカルマを持ちカルマ故に子孫でも苦しみ、親の因果が子に報いとなるのである、ただ家族でも親でも必ずいい面と悪い面をもっている、悪い面のカルマをその子供は引き受けるのである。それは苦しまなければ解消できないのである
だから統一教会でも創価でもカルマ教団はカルマの解消するこめに献金しろとか言う
でも実際はカルマは解消できない、カルマは苦しまない限り解消できないのである
第一カルマと言ってもいいことばかり起きていたから意識もできない、苦しむ時なぜ私はこんなに苦しむのだろうとなる
その時カルマであると明確に意識できるのである
だからカルマの法則は確実にある、ただ例外がありその理由はわからない、正直でいい親をもってもその子供が全くでたらめな人となっているのもある
その理由はわからないのである

そもそもカルマは確かにある、でも統一教会や創価のように献金してそのカルマを解消しろとういのは詐欺なのである。なぜなら献金してもカルマなど解消できないからである
苦しまない限り解消できないからである。
でも苦しむのを嫌だから献金して解消するというときその金は幹部に入るだけなのであるつまりカルマを利用して金儲けしている詐欺なのである
そうしてその集団的カルト教団は大きなカルマを作っているのである
それがそのカルト教団自体のカルマとなりそのカルト教団に属している人達のカルマとなりやがて自壊してそのカルト教団は巨大な災いとなって滅んでゆく
それもまた自業自得のカルマなのである、その子供たち大きな災いのカルマを残してゆくのである、そうして苦しみそのカルマを引き受けた子供たちでも親を呪い組織集団を呪うとういことにもなる。

このカルマは個々人でも必ずある、何か必ず個々人でも悪いカルマを積んでいる
だから推理ドラマでは若い時の若気の至りの過ちが後の苦しみとなることがテーマになる若い時はどうしてもそうした過ちを犯しやすいからである
そもそも個々人でも家族でもそうだが組織集団でもカルマを作る、原発事故でもやはり地元の人達にも責任がありカルマとなっていたのである
それもやはり利益になる金になるということで積極的に誘致したからである

人間の問題はどうしても利益から離れられないのである
日々の生活自体が利益になることを求めている、そうすると利益になることは悪でも是認されやすいのである。
利益となれば会社でも利益を追及しているのでありそれが悪いことであっても利益優先になるのである。カルト教団もまさに宗教を利用した御利益優先の団体である
カルマを解消してやるから献金しろとか言うのはまさに詐欺なのである
そんなことしてもカルマは解消できない、苦しまない限り解消できないからである
だからアメリカでも原爆を日本に落としたのだからアメリカにも核攻撃されて甚大な被害を受けない限り苦しまない限りそのカルマは解決できないとなる
アメリカが正義でなんでもない、世界史は覇権を争う熾烈な戦いの場であり正義とか関係ないからである、だから日本が戦争してもそれが全部悪だと言えないのである

要するにハルマゲドンで人類が滅びるというときそれもカルマが集積してそうなる
カルマがそれで解消して新しい世界が開けるとなる、でもその時は人類は絶滅している
新たな天と地が神によって作られるのでありこの世には作られないのである
そしていつか悪は暴かれる、この世で王となり崇めれるのはサタンである
ただサタンが崇められるのは人間には欲がありそれから脱せられない、そのためにサタンがこの世の主となっているのである。

カルトの信者でも欲を求めて御利益を求めて集まるからである。
カルト教団というとき宗教でも島原の乱でもキリスト教が関係していてもそこに集まったのは戦国時代であり浪人が集まっていた、それは徳川幕府を倒して権力を得よとした人達であり必ずしもキリスト教の信者でもなかったのである
カルト教団は特に創価などではそういう人達が集まってくる、権力を得たいという人達が野心家が集まってくる。目的は権力奪取となり選挙がその最大の戦いとなる
それは信長の時代でも比叡山でもそこが政治権力の及ばない独立自治国のようになっていた。だから信長は敵対するものとして絶滅しようとしたのである

ただ宗教といってもこの世にはどうしても不満な人達がいる、そういう人達はなぜこうして不幸なのか貧乏なのかとか不満がある、その不満な人達を集めて革命をしようとするのが人間社会である、それは中国でも起きた、盗賊の首領でも中国の帝王にもなったからである、また黄巾の乱とかも宗教が関係して不満分子を集めて権力を倒そうとしたからである、でも本来宗教というのはそういうものではない、なぜならシャカは王宮に生まれたのでありキリストは枕するところなしという乞食のような生活をしていたからである。

そしたらそんなものを見習と言ったら誰もついてこない、むしろ王宮に暮せるようになるから信じろとして人を集めているのである。だから何か広宣流布なのかわからない、正反対のものを追及しているからである
共産主義でもやはり不満分子を集めて革命を起こして政権奪取しようとする
だから意外と共産党と創価は似ている、そこに不満をかかえている人達が多いからであるただその不満な人達を利用して幹部は政権奪取していい暮らしをするということである

いづれにしろ人間はカルマから脱することはできない、カルト教団に入ってカルマなど解消できない、かえってさらなるカルマを積むことになる、それは必ずその子供たちに子孫に影響してくる、それはナチスともなり狂気的集団となり社会を席巻する
怖いのはナチスのうよにそうしたカルト教団でも一部の者達の狂気にとどまらずナチスのように国民的狂気大衆的狂気ファシズムとなり巻き込まれることである。

それは第一次第二次世界大戦で証明されているからである。
人間がカルマから脱することができないというときカルマによって滅びるとなる
だから聖書ではノワの洪水でもこの世からの脱出がテーマになっている。
そして動物でも箱舟にのりこの世から一緒に脱出して生き残ったとなる
それがノワ一人が義人を選んで神が救出したとなるのである
神は一人の人間を選び救出するが集団組織は救出しない、ただ旧約聖書ではユダヤ民族を選んだがキリストが現れてからは個々人を救出することになったのである

2023年02月10日

イギリスがなお金融を支配している訳 (タックスヘイブンはイギリスが操作している)


イギリスがなお金融を支配している訳

(タックスヘイブンはイギリスが操作している)

ここでアメリカは、年間約1000億ドル(約11兆円)の税収を、失っているという
もちろん、アメリカだけではなく、世界中の国々がタックスヘイブンの被害を受けている。
現在、世界の銀行資産の半分以上、多国籍企業の海外投資の3分の1が、タックスヘイブンを経由していると言われている。

国際経済において、イギリスが行ってきた「禁じ手」というのは、タックスヘイブンだけではない。現在、世界中で行われている「狡猾なマネーゲーム」の多くはイギリスが関与しているものである。

アメリカが最大の被害者に…世界中に害悪の"タックスヘイブン"が一掃されるどころか増え続けるワケ

タックスヘイブンを作ったのはイギリスだった。金融を支配しているのはアメリカではない、依然としてイギリスであるとしている、すると本当の世界経済の黒幕はイギリスだともなる。
大英帝国の支配体制がつづいていたのである。
国家自体がこうして盗賊の黒幕のようにもなっていたのである。
悪を無くすことができないのはなぜか、それはこうしてその黒幕国家となればイギリスという国家の利権を奪ないとできないとなる。
日本が最初に戦争したのがイギリスだった、その時の覇権国はイギリスだったからである、シンガポールとか向かいのマレーシアとかビルマでイギリスと日本が戦かったのである。
そこでイギリスを破ったことは快挙だったのである
でもアメリカが参戦して敗れたのである。
つまり覇権国になると金融を支配できる。今はアメリカが支配していると思っていた。世界の基軸通貨がドルだからである。
でもイギリスが金融の面で依然として支配していたのである。

世界を旅して面白かったのは貨幣が国ごとに違っていることである、ユーロ―になる前はヨ−ロッパでも必ず貨幣をりょうがいしなければならなかった
それがめんどうだったが別な国に入るということで興味を持つ、つまり国ごとに貨幣が違っていれば貨幣に興味を持つ、だから世界だと歴史が古いから貨幣そのものもにアンテー
コインの蒐集がある、それも現実にアンテークコインが実際に今通用している
高額な価かついて富裕層の資産確保として通用しているのもわかる
それだけ歴史が古いからアンテークコインが現実社会でも今も価値があるとなる
それは単なる趣味ではないのである
貨幣から外国の特にヨ−ロッパの歴史に興味を持つ、ギリシャの露店でドラクマを使う
その貨幣は紀元前から使われていたとなると古いのである

貨幣とは何かというと金融を支配することも世界の覇権国になる。だから大英帝国がありポンドが世界で通用したのである、ポンドは今のドルだったのである
そして意外なのは世界の金融の中心地はイギリスのシティでありニューヨークのウオール街ではない、タックスヘイブンで大きな損失を出していたのはアメリカだったのである
そもそもアメリカはイギリスの植民地から発展した、イギリスから独立したのである
イギリスが世界の覇権国になっていた、だからこそポンドが世界の基軸通貨になっていたドルが基軸通貨ということは世界で通用するのはドルである
ドルはか貨幣ではなく紙幣でも価値がある、だからエジプトの南の方でロバに乗った少年がワンドーラくれとなるのである、ドルはアフリカの果てまで通用しているのである
貨幣の価値は世界を支配する力を持った国が覇権国が持つ、貨幣その物に価値があるとはならない、ただ貨幣が黄金だったら貨幣そのものに価値がある、日本だったら小判がそうである

とにかく七つの海支配した大英帝国は消失した、でも依然として金融はイギリスが支配していたのかとなる、実質的力を失ってもタックスヘイブンを引き受けている国がイギリスの領土だったところである、そして大英帝国の繁栄の遺産が英語が国際語になっていることである、この二つがあってイギリスは力を失っても世界的なプレゼンスがある
だからアメリカもイギリスが所有するタックスヘイブンの島などで一番税金を損失しているとなっている
ニューヨークのウオール街が金融の支配地だとみていがそうではなかった
それでリーマンショックはイギリスのシティから始まったいたという
金融というのも大きな争いであり覇権国になっただけで巨額な富が集まるのである

その金融支配に抵抗してロシアとか中国では独自の世界通貨を作り通用させようとしている,ルーブルで取引しようとしたのである、結果的にルーブルの価値が下がらなかったのはロシアには石油とガスの資源がありその価値の裏付けがあって価値が下がらなかったのである、貨幣の価値はこうして資源とか軍事力とか技術力とかが関係している
そしてドラマではあるがオスマントルコが繁栄したときエジプトに赴任した部下が独自の通貨を作ったことで王が激怒して滅ぼされた、これはローマ帝国でもあった、地方に赴任した部下が独自の自分の肖像を彫った貨幣を流通させようとしていたからである
つまり貨幣とは支配の象徴なのである、イギリスが依然として金融を支配している時でもそうである、大英帝国の遺産があってそうなっていたのである

日本でも円が一時高かったのは高度成長時代がありその延長としてまだあったからである円が力を失ったのは日本の経済が低迷して成長しないからである、また売りとなるものが消失したからである。
要するに依然として大英帝国のイギリスは全部力を失ったわけではなかった、金融の面でやはり世界をリードしていたのである。でもそれは実質的力があるわけではない、そもそもタックスヘイブンとは国の税金を逃れるために作られた
それは明らかに公平なものではない、アメリカすら大損失になっていたからである
何か依然としてイギリスが黒幕として金融を牛耳っている、だからグロ−バル経済とはそもそも公平なものではないのである、覇権国に富が集まるシステムなのである
だから当然ロシアでも中国でも反発して自国の通貨を世界基軸通貨にしたいとなる
でもそうなるとオスマン帝国のエジプトに派遣されて支配した部下が滅ぼされたように
アメリカと戦争にもなるのである

いづれにしろ公平な市場などないのである、市場の公平な原理に基づいてグロ−バル経済があるわけではないのである。基本的に派遣争いになり軍事力とかがありそれで貨幣を強制的に通用されているのである。もし日本が戦争で勝っていたら日本円がアジアでも基軸通貨となり使われていたのである
日本はイギリスには勝ってもアメリカに負けたから公平な市場原理など通用しない、それで高度成長時代にアメリカの土地とかビルを買ったりして顰蹙を買い経済成長でも止められたとなる。グロ−バル化しても公平な市場原理は成立しない、アダムスミスの見えざる神の手などはないのである。必ず覇権国によって操作される覇権国が利益を得るようになっているのである
中国が覇権国になれば中国が利益を得るようになる、それに従わざるを得ないのである



posted by 天華 at 18:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年02月09日

悪はが可視化されないのでなくならない (グローバル化する犯罪)


悪が可視化されないのでなくならない

(グローバル化する犯罪)

この世の善悪は明確に見えない、何が悪なのか善なのかもわからない、偽善が多すぎるのである、そもそも宗教が一番偽善なのである、宗教が一番善を追及していると見ている
でもカルト教団が膨大な会員がいるのにその人達が善を追及しているのかとなるとしていない、天使を装ったサタンだともなる、ただそういうふうに善を装ってもその化けの皮はいつかはがされる、やかで赤日の下にさらされる、隠すことができなくなる
まずこの世では悪は隠される、かえって巨悪は隠されてわからないのである

そしてグロ−バル化経済では巨悪が何なのかもわからなくなる、それで常に陰謀論になるのである、今回のフィリピンに隠れて支持していた盗賊の一団でもそうである
警察でも賄賂をばらまきしたいほうだいになっていた。
ビルまで拠点として買っていた、相手が誰だろうが金があればなんでもできるとなる
国境を越えた犯罪集団になる、グロ−バル化社会で起きた犯罪である
そうなると悪人でもつかまえられなくなる、それで感じたことは必殺仕事人は架空の事だと見ていた今にもそれが成り立っていたとなる
なぜならルフィとか指示役の人がつかまったが実はその上にさらに支持する黒幕がいたとしているからだ、組織犯罪でありその黒幕がわからないとなっている
それは常に言われる陰謀論になるのである。

巨悪は暴かれないというときもそうである。それはなぜなのかというとき可視化されない見えないからである。隠されてしまうからである
悪が可視化されない、それは別にこうした犯罪集団だけではない様々な悪が隠されて見えないのである、常に隠ぺいされるからである。原発事故でもいろいろなことが隠ぺいされていたのである。危険なことがあっても隠ぺいされていた。
そこには素人とか誰も立ち入ることもできなかったからである。マスコミは巨額の電事連とかからの宣伝費が入るから巨悪を暴かないのである
創価とか統一教会でもそこに巨悪がある、でも福島民報では聖教新聞を刷っているので
その悪を暴くことはしない、巨大な権力に従い操作されることになる
原発事故ではそうして権力によって安全神話が形成されたのである
学者や研究者には研究費の名目で金を出したりしていた、そうしたら学者でも科学者でも危険でも目をつぶることになる

要するにこの世に悪があってもそれが可視化できない、特に巨悪は可視化しにくい、するとそこに悪が醸成される、警察も踏み入ることができないとかなる
特に原発は国家がかかわるから自衛隊でも警察でもかかわっていた
なぜなら天下りしていたからである、巨大な国家ぐるみの犯罪でもあったのだ
でも東電の幹部でも一人も罰せられないのである、そもそも検察も東電に天下りしていたからである。原発は金の成る木だったのである
そこにはだから地元の住民でも利益得ようとしていた、政府とか東電とかは地元に反対されないように金をはらまけばいいとなっていたのである
だからこの問題は科学技術の問題だけではなかったのである
隠される闇化して誰もその真実を言う者がいなかったとなる
そして大事故になり故郷にも住めなくなったのである

要するに問題は可視化できないことである。明確に見えるものとして悪が可視化されないのである。むしろ悪でも善とされる、特に団体組織となると権力があるから悪でも善として認められるのである、それを証明したのがナチスだとなる。民主主義の選挙で選ばれたのだから民主主義でも悪を抑えることはできなかった。
グロ−バル化社会では本当に何が善悪なのかもわからない、余りにも巨大化しているから悪も見えなくなる、つまり現代のグロ−バル化社会とは巨悪が隠ぺいされやすいのであるそれは悪が可視化できなからである。不正に莫大な金が使われてもわからないのである
そもそもアメリカ自体がそうした悪を隠す張本人かもしれない、なぜなら世界の覇権国だからそうする権力を持っているからである、だから世界の富を極ずかな数パーセントの人達によって集められている。それ自体巨悪なのである
そして巨悪は罰せられないのである
カルト教団になると宗教を隠れ蓑として善を装い搾取するとなる
でも巨大な集団で組織化して権力化したら悪は悪でなくなる、警察でもとりこむことができる、グロ−バル化社会だとフィリピンのような国に入り込んでそこで悪が見えなくさせていたのである
賄賂社会になっているのがフィリピンでありそういう国が世界にはある

本当は民主主義とは悪を可視化することが国民によって成されることに意義がある
でも実際はされなった、マスコミはその役割があってもやはり宣伝費などがなければ放送できないので巨大な権力に取り込まれたのである
一応三権分立で司法があるがこれも東電に検察の幹部が天下りしていたから東電の権力は絶大なものでありそれに対抗できるものはいなかったのである
ただその悪を暴いたのが津波だったのである
もうそんな巨悪を暴くことなどできなかったからである

とにかく可視化して悪を見えるようにするのが報道するものの役割だったができなかった悪を可視化することがマスコミの役割だった、でもできなかった、むしろ巨大な権力に悪に取り込まれたとなる。
コーヒーカップで透明なものがあった、それで汚れが可視化されていた
だから汚れると洗わなければならないと洗うようになった
他にもユニットバスも白いから汚れると目立つので洗っている、汚れた場所が白いので可視化されやすいのである。私自身はずぼらであり掃除を余りしていないがどうしてか汚れが白いので目立つなのである。
つまり汚れを消そうとする、それは可視化されているからだと見た。どうしても汚れているのが嫌だからである、でも可視化されないとそのつまにしているのである
だから絶えず汚れが目立つので洗ったり掃除したりすることになったのである

ただこの世では悪は隠れる、隠される、隠ぺいされる。その原因は悪が可視化できない
それで常に黒幕がいるとかなり陰謀論にもなる。その悪の張本人とか見えないからである今回フィリピンで逮捕された人達の上にさらに黒幕がいるとかなるとそうである
そして遂に黒幕の裏に黒幕がいるとかなってこの世の悪は暴かれないのである
デーブステートがあってそれは見えないのである、それが明確に見えるようになる、可視化さればわかるができないのである
グロ−バル化とは巨悪でも世界に散らばり隠ぺいされる隠されるともなる、タックスヘイブンなどでもそうである。税金逃れにしているとしてもそれを罰することもできない
そうなるとグロ−バル化というのは実は犯罪の温床にもなる。
だからこそフィリピンに詐欺グループが隠れて支持していたとなる
それはこうした悪と見えて逮捕されたものだけではない巨悪は見えないしそこに巨額な金が集まり世界を支配するともなる、それが世界中央銀行とかになる

とにかく悪でも汚れでも透明な器なら白いものだったらそこに明確に汚れを意識できる
でもそうでなければ意識できない、つまりもし真っ黒の器があるとしてそこに白い点がついたとするとその白は明確に意識できる、でも黒いものに茶色とか黒味帯びたものを灰色でもついたとしても明確に見分けられない、もし黒いものに黒がついたとしたら全く見分けがつかないのである、この世から悪をなくそうとしてもできない、そもそもこの世は黒で闇の世界だからである。悪は常に闇に隠されるからである。
とにかくもし白いもの透明な器でもそこに汚点がついたら意識する。そしてその汚れを落とそうとる。でも現実社会ではその悪がこのように意識できないから可視化できないから悪は依然として闇に隠れて存在しつづけているのである

posted by 天華 at 14:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年02月08日

近江の紀行文(地歴を知るべき)


近江の紀行文(地歴を知るべき)


関ケ原電車に越え行く残る雪
平地に出春光眩し近江かな

高島は西にあれや東より秋の朝日の昇るを見ゆ

歴史が地歴と言う時まず地理がわからないと歴史もわからない、この地理自体理解するのがむずかしい、まず一回でもその場に立たない限り理解できない
近江に行った時高島が西であり東(あづま)が関ケ原の方向になりなぜここで東西の覇権を決する戦いが起きたのかも地理と密接に結びついている
古代の壬申の乱でもやはり東軍と西軍の争いになったからである
近江を制する者は日本を制するともなっていた、だからこそ信長がここを重視して安土城を作ったのである
また木曽義仲が今の中山道の山中深く旗揚げして京に攻め上ったのである

これは東から見た歴史である、でも九州とか中国とか瀬戸内海とかから西から見るとその歴史はまた違ったものになる、大阪が難波の都となったのは遅いのである
そしてなぜ飛鳥が都になったかというとそれも地理的なものが影響していた
大阪湾は古代は大きな湿地帯であり住むにふさわしくない場所だったのである

日本の海岸線は湿地帯が多いのである、釧路湿原のようになっていた
だから津波で驚いたのは本当に海岸が湿地帯化したことである
そういう湿地帯を埋めて田にしてきたのが日本だった、それで田下駄とはそういう湿地帯で必要になった、また日本で下駄が作られたのは雨がふると下駄が必要だったのである
ぬかるみになり下駄が必要だったのである

なぜ飛鳥が最初の都になったのかというとその前が太古では奈良は湖になっていた
そこは海のようになっていた、だから万葉集でも

天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は 

巻一(二)

となっている、何か盆地になっている所はもともと湖になっていた、福島盆地でもそうらしいからでである。奈良盆地でもそうなっていたのである
さらに太古にさかのぼれば大阪湾から奈良盆地まで海が入りこんでいたともなる
そういう地理では飛鳥が高台にありそこが最初の都となったこともうなづける
つまり地理がそうさせたのである、地の利がそうさせたのである
そこから次に藤原宮が生れ奈良の平城宮が生まれたのである
ただわかりにくいのはなぜ京都が千年の都になったかである
やはり大阪の難波の方が湿地帯であり京都が盆地でありそこが都になった
そして近江が要衝の地となったのは琵琶湖があり交通の要衝になったからである

近江の不思議はヤマトタケルも伊吹山で死んでいる、近江で死んでいる
また芭蕉でも奥の細道でみちのくを旅して近江で死んでいる、風土的に近江は関ケ原を出ると何か春光がまぶしかった、関ケ原には雪が残っていても近江に出ると春らしくなったのである、何か開明的な感覚になった、そもそも近江商人とかが出ているから近江はそうした地域であり人流も活発になる地域なのである
だから信長が楽市楽座を作り自由な商売を奨励したのである

大津百町は、東海道五十三次の「宿場町」、琵琶湖水運の「港町」、三井寺(園城寺)の「門前町」という3つの町の顔を持ち、東海道最大の人口を誇る宿場町でした。その繁栄を示すのが「大津百町」という言葉です。実際、江戸時代中期には、ぴったり100の町を数え、湖と山にはさまれたコンパクトな場所に約1万5千人の人々が暮らしていたことがわかります。

近江は日本の歴史が地層のように重なっている、近江の魅力は琵琶湖があり風光明媚であり交通の要衝にもなった、近江八景がありこれはまさに魅了される、比良の暮雪というときそこは西になりいかにもふさわしい風景である
三井寺の晩鐘というのもそこで鐘のの音を聞いた、その金は相当に古いものである
その時は秋だったのである

三井寺の鐘なりひびく秋の暮

ただ春に行った時は大津は朧月であり大津は都会である,繁華な都市であり宿場町だったとなる

朧月大津の一夜京近し

大津だったら京都は近い、電車でも近い、でも京都と違うのは琵琶湖があり結構平野が開けている、それで彦根城は大きいし圧巻だったのである、その造りも雄壮な城である

天主より近江平野は刈田かな

雄壮に城の構えや冬に入る

春には蓮華が映えていた、そして三上山が見えたのである

蓮華田や三上山聳え近江かな

蓮華田があるということは都会というのではなく土臭いものがある、田舎でもある
京都には田んぼなどないからである、それでなごむということがある
ただ近江商人が生まれたようにここは大阪商人とか京都の公家とかそのつながりとして
近江商人が生まれたとなる、そういう人が出るのも地理であり歴史であったとなる
そして注意すべきはここは古代に韓国からの渡来人が住みついて技術を伝えた地域であるそれが私の住んでいる真野の地域とつながっていたのである
なぜなら栗東まで鉄を作る工人が行き来していたのである、鉄を加工する場があった
鉄そのもののとれなくても加工する技術があり真野の地域からでも工人が直接そこに通っていたのである、技術研修生ともなっていたのである
だから近江に真野という地域があり何かその真野というのは渡来系でありそれが鉄を求めてこの地域に来ていた

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

この歌を詠んだ笠女郎が近江出身だったという説もでてきたのも具体的に鉄作りで関係していたからだとなる
そして韓国で大津の人と合ったのも奇遇だったとなる、そこで韓国を案内してもらったのである、それを感謝している
鉄作りというとき葛尾大臣でも近江八景をまねて庭を作ったいた、なぜかというと近江の女性を連れてきて結婚していたからである、それで女性が故郷をなつかしみ近江八景を模して庭を作ったのである、それにしても余りにも近江とは違った場所であった
淋しくなるのもわかる、このように近江とは繋がりがある

秋鴎百羽集いぬ浮御堂

堅田に松や秋の日浮御堂

この鴎は大阪から淀川を上り琵琶湖に来た、つまりここでも海が関係している
飛鳥でもそうだがここでも鴎がこれほど飛んできていたということは海が近くだということになる
とにかく近江の魅力は琵琶湖にあり自然が依然として映えている、京都とか大阪は家が密集して自然が映えない、自然は作られた庭にある、でもそれは本当の自然ではない、人工的な自然である、そこに庭の限界がある
なぜ東京でも大阪でも魅力がないのかというともう自然が消失している、東京などでももう江戸時代に水路があったことなどイメージすらできない、自然の地形を説明してももうイメージできないのである、だから東京には魅力がないのである
京都は違っていてもやはり家が密集しているから押し込まれような感覚になる
ただ京都は文化都市だから千年の都だから他とは違っている
その延長として近江もある

昔のひとに出逢った、依然美しかった
だがそのひとは今は湖畔の城下町の
由緒ある宿屋の御寮さんであった
ゆくりなく近江の秋の日に浪漫的なものを
失われた簪(かんざし)のように拾った
(田中冬二)

この詩のようにまさに簪を拾ったというときまさに千年の都は工房があり技が伝えられてそういうものが落ちていたともなる、つまり自然があり千年の都の京都が近いということで魅力がある

これはやはり京都が近いということで作られた詩である、簪というのがそうである
それは京都の工房で作られたものであり貴重なものである、それが近江に拾ったというとき京都に近いからそうなったのである
ただ戦前とかの風景とは近江でも琵琶湖でも違っている、やはり繁華になり詩にしたようなひなびた感じは失われている、ただ田畑があり琵琶湖があり山々があり自然の風景がなお残っているから大坂とか京都とは違っているのである
なんとかなく近江に来るとほっとするのである














2023年02月07日

春めきて橲原と大原をめぐる (大原の歴史と前田の斎藤氏のこと)


春めきて橲原と大原をめぐる

(大原の歴史と前田の斎藤氏のこと)

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この老木に幼子と老人がいた、ただ村の子供というものでもない、なぜならここに新しく移り住んだ人の子供かもしれないからだ、今は村という感覚がないともなる
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ここの梅が開いた、墓も後継ぎがいないとかなる、橲原でも大原でもまだ田せも回復していないのが残念





一村や春光眩し石一つ
東風(こち)吹きぬ坂越え来る隣村
墓の二基跡継ぐ人あれ梅開く
老木や村の幼子と春来る


橲原に目印とあり立目石ここに動かず春の日さしぬ
大原の前田に住みし斎藤氏空き家淋しき春となりしも
病院に共にありし日遠きかな大原に眠る人そ偲びぬ
大原の柿の古木や望む山ここに根ずきて春の日さしぬ
大原の前田に古き家なりき遠田は遠く春となりしも
二本の木のますぐに墓守る街を離れし大原の冬



橲原から大原を回った、橲原は立目石が目印となる
そこから大原に向かう、その森の中の道は新しい道である
大原は深野より新しい、相馬氏が入り大原村ができた
何故なら深野には館とつく地名が二つあるからだ
これは中世の地名であり一地域の中心であった
もしかしたら大原をめぐって争いがあったのかもしれない、相馬氏が支配してゆく過程で在地の勢力と衝突した
その謎が

その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。
海老村の大工の善次が経験した怪異はやはり津波のことだったのか?

(津浪で死体を処理したー日下石のばあちゃんもショックで後で死んだ)

海老の宝蔵寺は古い、紅葉で有名になった、この伝説はなんであったのか、なぜ大工の善次が死んだのか?
この謎が解明されれば津波のこともわかるとなる
確かに中村に城が築かれるときのことであり津波がその時あった、慶長津波があったからである

これは相馬氏が中村に城を作るとき海老の大工がかかわり何かもめごとがあった
その時海老に津波があり大工が中村に今の相馬市に働かせられることを拒否したからかもしれない
ただその謎は解明できない、ただなぜ海老村と大原が関係していたのか、それは大原が深野より新しい地でありそこに相馬氏が支配することでもめたのかとなる。
大原村とか橲原村は江戸時代に開かれた村であり中世にはなかった、大原村の草分けとして前田に住んだ斎藤氏がいたのである。遠田とは前田からさらに離れた森の中の田である。日本ではこうして田を作ることで暮らすことができた。
ここにも越中などからの移民が入ってきた、それは墓をみればわかる、南無阿弥陀仏と刻まれている、そこに戒名はない、死者を供養することもない宗派なのである

ともかく今日は春だった、春光であり山が霞んでもいた
それで自転車で走り気持ち良かった
東風邪が山にも
吹くときこの辺ではどうしても原発事故を思い出すのである東風(こち)が今頃海からふくからである、その風によって放射性物質が運ばれて汚染されたからである
恨めしい風となってしまたのである

2023年02月06日

ケチな人とは付き合いたくない (人の気持ちは必ず行為となって現れる)


ケチな人とは付き合いたくない

(人の気持ちは必ず行為となって現れる)

「ベタニアの香油」で、
ベタニアという村の女が高価な香油をイエスに注
ぐ場面である。女の行為は無駄使いであるととが
められるが、イエスは女を賞賛した。


これもケチと関係していたイエスに対して高価な油を使うのは贅沢だとしたのである
イエスはすでに死を予感していただからこそ油を高価な油を使うのだと使う咎められたことを許さなかった
ケチということは常に問題にされるあいつはケチくさいやつだ
そんな奴とは付き合いたくない男女関係でもそういうことがある
その女性は80何歳かの男性と付き合い相手が病気なので介護のような事もしていたでも自分自身が病気になり何の心配もしてくれなかったとして別れることになった

その男性の一人娘がいたがその人もケチだとして非難していたその一人娘はすでに孫もいるような女性であるそれなりに金はあるみたいだでもその女性が来た時でもでも世話する女性がきた時金が奪われるのではないかと警戒していたしていた
その世話する年配の女性も常に金に困っている人だっただから金が欲しいということは確かである
でもそれは本当に金がないのだからそうなるのもやむをいないとなるよくわからないが確かに100万の軽トラを買ったり今度は4万のバックが必要だとか言って買うと言っている、だから金がそんなにはないとは言えないもちろんあまるほどはない、治療代にかかるからであるでも世話する女性からするとケチに見えたそして病気になり入院したのに何のお見舞いもなく心配もしてくれなかったそのことで切れてしまったずいぶん仲がいいと見ていたがケチの問題で切れたのである

ケチという問題は意外と深刻である貧乏で苦しんだ人はどうしてもケチになるでもケチというとき別に金が持っている富裕層でもケチな人はいる金があるのだけどけれど金を有効に使わないそのことがケチなのである
また金だけではない何かちょっと人を援助することでもしないのである。その人は軽いものでも持ち上げることを嫌がっていた私のために何もしたくなかったのであるでも借金しているから金はは欲しかったでも本心は何もしたくなかったのである
そういうことは必ず行為となって現れる身振りとなっても現れるし表情にも現れるただそれも自分自身のカルマだったのであるそうされても仕方ない面が私にはあったのである

実際ケチといってもいろいろな面があるケチと節約は違う別に節約は悪いことではない、いろいろなものを電気でもも水でもエネルギーを節約することは今の時勢悪いとは言えないそうせざるを得ないからである
でもケチなのと節約は違ったケチとは何か出し惜しみする金があっても出さないまた何かできることがあってもしない
ケチとは金だけのことではないでも節約とは違う節約は悪いとはならないでもケチというときそれはその人間の性格とか人間性を問題にしているのであるケチとは本当は出せる金があっても出さない何かしてやれることがあってもしない簡単な事すらしないのである出し惜しみするのである

ただ貧乏で苦しんだ人はどうしてもケチになるそういう生活をしてきたから無駄な事には使いたくないそういう、それが習性とになっている。
私の母は大正生まれで貧乏でありその生い立ちも継母に育てられて不幸だった、何か働き詰めの一生だった、そこに何か楽しむということがなかったそのために花には興味もないから花を買ったりすると自分に対して怒っていたのである。そして庭に豆を植えていたのである。要するにこのように偏るのではなく豆も必要だが花も必要となることがいいのである、でも人間はどうしてもかたよるのである。
それもその生い立ちがそうさせたのである、継母に育てられたから親がいろいろと花のことなどを教える人だったらそうはならなかった
そこに不幸があったでもそのあとは高度成長時代を経験して豊かな生活を送ったでもその時も働き詰めであれ余裕がなく花などは無駄だと思っていたのであるただ金になることがしか追求しなかったのである

そして奇妙だったのは死ぬ頃に相当貯めた金を盗まれた、でも笑っていたのである、一円でも無駄にしなかった母が大金を盗まれてても笑っていたのである。何か認知症にもなっていた、でも金にあれほどこだわっていた人が大金を盗まれて笑っていたのにはおどろいたのである。おそらく死に間際になり欲が消失したのかもしれない
ただ人間は死ぬと金はどうでもよくなる、だから金があるときもっとよくしていたらなとあの世でくいているかもしれない、
あの世からは人はこの世にいる人にも何もできないし逆に死んだ人にも生きている人はなにもできなきなくる。
だからこそ生きているうちに良くしておけやれることはやってやれとなるのである。

こうして私は母にばかり育てられたら私もケチになっていたかもしれないもうひとりの母なる姉がいたのでそういうことにはならなかったのである姉はおおらかでありでありケチではない。でも他者には冷たいところがあった
金には厳しかったのである、一般的にみんな金金金の時代になったからそれもなかなか責めるということはできない

「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを何とも思われないのですか。妹が私の手伝いをするように言ってやってください。」
イエスは答えて言われた。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。無くてはならないものは多くはないのです。いや、一つだけです。マリヤはそのよい方を選んだのです。それを彼女から取り去ってはなりません」(ルカ10:38〜42口語訳)

なぜそういわれたのか、イエスと共にありそして話を聞くことの方が大事だったのであるなぜならその機会はもう二度とないことになったからである家事はいつでもできるでもイエスの話を聞くことは二度とできないことだったからである
それはただ家事に追われ仕事に追われ花に価値もない金にもならないどうして無駄だとすることと似ている
この世の自然の美は色々あるそれをそれを感じないそれは動物と同じである、人間はやはり動物とは違って神の作られたその美を見て感心したたえることが人間なのであるガツガツと食うだけの人は人間ではない動物になってしまうのである

ただケチというとき金だけの問題ではない相手に対して豪華なものを贈るということでもないたとえ粗末なものを送っても何か相手にしてやりたいと言う気持ちがあればそれは粗末なものでも嬉しいとなるでもそもそも相手に何もしたくないという気持ちになっていればその与えるものに何か心がこもらないのである私の私が困っているとき弁当を持ってきたがそれもいやいや持ってきた普通のコンビニの弁当であるあとはすぐ帰ってゆくだけだった
まあ仕方がないから来たというだけである何か持って行かなければならないと思い安い弁当をただ持ってきただけであるそこには何ら心がこもっていない何も持って来たくなかったのである何も贅沢なものを要求しているのではないそもそもが何もしてやりたくなかったのである心があれは手料理などをしたのものを持ってくればそれは違ったものになる

母の与える料理はたとえいいものではないにしろ母の愛情がこもっているだから外食するのとは違ったものなのである貧しくても精一杯工夫して子供に与えるそこには愛がこもっているから違っているのである
とにかく人間には常に心が関係してくるそれはやはり介護とか病気になった時苦しい時感じやすくなるのであるだから本当に相手に対して愛もないし情もなければ何もしたくない何も与えたくないただしょうがないから普通のお弁当でも買って与えるあとは何もしたくないということだったのである

脉(みゃく)をとる看護婦(かんごふ)の手の、
あたたかき日あり、
つめたく堅(かた)き日もあり

病気の時は人の微妙な心を感じるのである
自分の場合は看護師に虐待されたようなことがあったからそのことが忘れられないのである。今看護師はそもそもみんな老人を嫌っている。多すぎるからである、戦前は若人が肺病になった
だから悲惨であり同情されたということがあった。今老人が病気になっても数が多すぎてかえって早く死でくれとかなる
そういう気持ちは必ず行為となって現実化するから怖いのである。

とにかくケチなの人が家は何か事業することで成功するものだろうか相手の為に客のために与えるにしても本当は与えたくないわずかのものを与えてそれより多くのものをもらいたいということになるそういう気持ちで事業を成功するものなのだろうかもちろんそれ相応の利益を得ることはあたり前である
でもそこにやはり人間には心が関係していて心が現れてくる
こういうことはやはり相手が病気だったり弱くなったり苦しい時より感じやすくなるのであるこの人は私のためには何もしてやりたくないただ金だけは欲しいそういうことが表情にも行為にも現れるのであるただ自分の場合はそうされても仕方がないという面があっただから批判ばかりもできないということはあるただケチだということは常に人間関係で問題にされることなのである。それでやがてそういうケチな人は避けられる傾向がある

ただそこで間違えやすいのはケチと節約は違うということである節約は悪いことではないケチというときその人間自体が問題にされているだからケチというのことが常に問題になるのである
ケチというとき金があるとかないとかだけではない、気持ちの問題にもなる、金があってもケチな人はいるからだ
でも金でも余裕がないとケチになる、それは自分でもそうだったからである、

人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を入れました。「レプトン」は、「レプタ」の複数形です。レプトン銅貨は当時パレスチナに流通していたギリシヤ銅貨の中で最小のものでした。

  旧約聖書に、夫に先立たれた「やもめ」や親を失った「孤児」の保護が命じられいることは、イスラエル社会の中で、この人たちが不安定な生活基盤で生きていたことを物語っています。「みなし子・やもめ・寄留の外国人」に対する神の顧(かえり)みの愛をいいあらわす旧約のことばがあります。
  イエスは、このやもめに目をとめ、弟子たちを呼び寄せて言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から自分の持っている生活費を全部入れたからである」と言われました

この比較で貧しい人でもわずかに与えても多く与えたことになるその人はケチではないのであるでも金持ちが与える金が多いとしてもそれは持っている金からすれば少ないともなる
なけなしの金を与えた人の方が多く与えたのである
だからケチというとき金持ちでもケチな人はいるのである貧しい人でもケチでない人はいる
ケチということは必ずしも金の量では測れないのである
ただ現実の生活ではどうしても余裕がないとケチになることは仕方がないともなる、
でも人はケチな人は付き合いたくない金があってもケチな人は付き合いたくないそれは確かである

白鳥の写真ー朝日が昇り満月が山に没す

白鳥の写真ー朝日が昇り満月が山に没す

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これはうそだろう、ウソという鳥など見たことがない、頭が黒いからそうだろう
確かに冬は野鳥観察にむいている
真野川の河口の方には白鳥がいつもいる


東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ

今日は今まで見たことない景色を見た
山の端に満月が出てたのである、それは6時半頃だったまだ暗いから満月が明るかった確かに朝に月を見るがこんな満月を見たことはない、マイ柿本人麿の歌はこの光景に似合っていた
朝日が雲を赤く染めて昇ってくる、雲が赤く染まる、それは陽炎(かぐろひ)ともなる、振り返ると満月が明るく山に映えて沈む
でも月傾く感覚とは違っている。
この意味は新しい太陽が昇り古いものは月のように傾き衰え消えてゆくそういう意味であるでも満月が明るいのでそういう感じはしなかった何か傾くというとき満月ではなく半月とか三日月が合っている、何か衰えて沈んでいくという感じになるからだ
でも今回はそういう感覚にはならなかった満月でも明るく輝いて沈んでいったのである
東に陽炎の見えて山に入る満月輝き冬の朝かな
これは冬の景色だが柿本人麻呂の歌は夏かもしれないでも今回の景色はそれとはそれと似ていたでも感覚的には相当に違っていた結局短歌でもしでもいろいろに鑑賞できるふそれで大阪上で見た
花の盛りに桜が散ってゆくその時夕日が赤々と輝き沈んでいったその夕日の赤さが何とも言えぬ赤さだったそれは歴史を反映したものであり自然そのものとも違っていたのであるそのことはエジプトを旅してナイル川の西に日が沈むのを見た時もそれを感じたのである
繁栄の時がありそしてその繁栄も一時であり落日となって輝き沈んでゆくそういう人間の興亡が反映したものなのである
それは太陽でもそうなのである、その色合いは説明できないものである。
写真は動くものは撮りずらい、でも必ず飛ぶ時がありシャッターチャンスを待つ、今回はそれで撮れた。

遅れじと白鳥飛ぶや陽の昇る


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2023年02月04日

冬深む俳句十句 (人間には共有する場が必要である)


冬深む俳句十句

(人間には共有する場が必要である)

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蝋梅や貧者を世話し家の主
街中の神社の古木に寒烏
冬の鴨身を寄せ合うや橋の下
庭の石場所を変えずに冬深む
家になお死者の生きむや冬深む
老人が老人世話す冬深む
我が一人墓を守るや冬深む
冬深む齢を重ね里に老ゆ
土地土地の生きにし場所や冬深む
大原の老木あわれ冬深む
松一本社を守り冬深む
土地土地の土とならんや冬深む
土地土地に年輪刻み冬深む
共に生く場を持ち死なむ冬深む
土地土地の古き家尋ね冬深む
老夫婦結ばれ離れず冬深む

共有す一つの場に生く冬深む

one common life
identified place
deepend winter
in my homeland

冬深むという時これは1月から2月だろう
今は2月4日でも春になったがまだまだ冬である
確かに春の兆しは出てきている蝋梅でも咲いたからである
季語としては西と東では季節感が違っている
西は早く暖かくなるみちのくはまだ冬が長い

北海道だとさらに冬は長いだから季語も違ってくる
何か冬深むというときそこに長年住んでいて一定の場所でその土地に根ずき共感して連帯を深めてゆく
それは老人にふさわしいとなる、人間はやはり一つの場所があってそこでい一体化してゆくアイデンティティ化してゆく、それが自然なのである木がに根付くように人間もそうなる。

ここで問題なのは時間軸と空間軸に人間は生きる
人間は一定の場所に生きざるを得ない
そして一定の場所で世代を受け継いで生きる時間軸で生きる木は長い時間をかけてその土地に根付く
何か冬深むというときそこに長年住んでいて一定の場所でその土地に根ずき共感して連帯を深めてゆく
それは老人にふさわしいとなる人間はやはり一つの場所があってそこで一体化してゆくアイデンティティ化してゆくそれが自然なのである木が根ずくようになる
ここで問題なのは時間軸と空間軸に人間は生きる

人間は一定の場所に生きざるを得ない
そして一定の場所で世代を受け継いで生きる時間軸で生きるきそして長い時間をかけてその土地に根付く
そういう場所が人間には必要なのである
そういう場所を奪ったのが原発だったのである
老人がそうしてなじんだ場所に住めないことは金銭的なものより精神的な衝撃が大きかったのであるでもそれもカルマであり責任は住んでいる人たちにもあったとなる

そもそもそうした精神的なものは自覚しにくいのである
それは失ってみて初めて分かるのである家族でも親子でも夫婦でも死んでみるとその貴重さが価値が分かるのである生きているときはわかりにくい感じにくいのである
だから故郷を失い家族がばらばらになった時痛切にそのことを感じたのである
いつも通る橋の下に鴨が数羽群れている身を寄せ合って群れている
それはありふれた景色であるでも俳句は写生である、ありのままを写すのである
橋というのは人間的なものなのであるそしてそこに鴨がいる
ということは鴨も人間的なものとしていることになる橋があることによってそうなったのであるつまり何でも人間化するのである動物もこうして人間化したものとして表現するのである

老夫婦となると冬深むにふさわしいとなる、でも熟年離婚が多いことにも驚くのであるもうそれも大きな損失である68とかにって離婚する人もいる
でもそもそも人間の時間は限られているそんな年になって人間関係を親密さでも信頼でも作ることは難しくなる
ただいかに男女関係でも人間が平和的にありえないということなのである常に不和が生じるのは人間の世界なのである

蝋梅が咲き始めたそれを母がいた部屋から見ているここで母は寝ていた私は介護したそれでこの部屋を百才の間とした
蝋梅という時これはやはり長寿の花かもしれない百歳まで生きれば充分であるでもその前に病気になるから人間は長生きするのも問題となるのである病気にならなければ別に長生きしてもいいのであるこの部屋から今日もウグイスを見た、その鶯が蝋梅にとまっていたのである
その取り合わせが良かった縁起が良いとなる
写真を撮れなかったがインターネットにでている、蠟梅ででてくる








福島6町村の復興再生計画、事業完了率10%台  (原発避難区域は復興できない)

福島6町村の復興再生計画、事業完了率10%台 
(原発避難区域は復興できない)

親の因果子に報いとなるのか、必ずカルマが人間は作るのである
外部から見ると税金の無駄だというその不満があまりにも大きい
それはやはり復興を見ていると一向に進まない、それは地元の人でも同じである
もう無理であると正直に思う第一人が帰らない帰っているのは老人だけである、ということはもう未来がないということである
立派な施設を建物を作ってもそこで働く人がいないとか学校でも地元に住んでいる、親がいないので外から通ってくるとかその数もわずかである

そもそもは少子高齢化でありそれが影響したのである
子供がいないということはもう自治体でも維持できないということである
それはやはり今の親の責任であり実際は今の老人の責任とも言えないなぜなら原発を作ったのは60代であれ70代であれその上の親が作ったのであるだから親のカルマが次世代に負わされたである
そしてまた今の親たちがその子供へカルマを負わせて負わせたのであるお

このようにカルマは受け継がれる回ってくるカルマは責任のことなのであるそれは逃れることができない
親の因果は子に報いなのである
とにかく現状を見てもとても復興できるとは思えない第一みんな外で新しい暮らしをはじめて始めており子供でもその新しい場所で生活しているからそこが故郷になっているただ老人はどうしても帰りたいその心情は痛いほどわかる
私自身も老人だからである老人は故郷で暮らした歳月が長いだから老人は例えば老木のようになりその土地に朽ちる人間も植物や生物の一種だから自然とそうなるただそれを奪ったのはが原発だったのである
その責任は実際は今の老人というだけではなくその上の親でもあったその親がカルマを作り出したのである
ただ老人が故郷に住めなくなったという原因は住めなくなったのは今の親世代にある
深刻なのは町とか村の歴史が消失するということである

ということはその住民は必ずしも今生きている人が作ったものではない父祖の先祖があり作られてきたのである
その先祖にしても江戸時代からでありさらにその前に遡るのであるそういう歴史が消失するということが何を意味しているのかよくそのことがよく理解されていないつまり先祖もそこに住めなくなるということである先祖も死んでもやはりその場に生き続けるのであるその継続が歴史なのである歴史が失われるということは何を意味しているのかそれをあまり考えない
だから因果応報となったのであるともかく莫大な金をつぎ込んでも復興できない現実問題としては原発避難区域になったところはもう維持できない南相馬市だったら移り住んでいるそれも原町鹿島相馬市新地どこかに新しく家を建てて住んでいる私の住む近くにも住宅地がありそこに四五件の新しいうちがまた立った家が建ったそれは原発避難区域から移住した人なのであるつまり原発避難区域にはもう復興する気がないのである住む気がないのである

だからこそもう住民には住む意志はない未来とはwillであり意志なのである、その意志が消失したらもう復興できない
だから外から見ても湯水のように税金を注ぎ込んでも復興できないそれはそこに住んでる人自体の問題でもあるその人たちに住む意志がないのである
そこに根本的な問題があるそれは心の問題でもありどうにもならないということであるいくら復興させてもらいたいしてもらいたいと思っても内部でも難しいとなる
どうしたらいいのかそれで飯館村などはもう村として維持できない村として
だから南相馬市と合併するべきだとなるいずれ補助金は打ち切られるからである

ただ問題は放射性廃棄物場になることは周りに影響する
何かあるとその放射性物質物質が流れ出してくる現実に飯館村でそういうことがあったからだ新田川でも山側でも放射性物質が流れ出してくるからである
そして河野放射性物質は減っていないなぜなら狭い範囲にありそこに残っているのであるもし海の方に流れだせばそういうことはなかった
放射性物質は風で海の方に流れたので海側放射線量が少なかったのである、山側は堆積したのである
いずれにしろとても復興することは難しい住民にもその意志が無くなっているでも老人は帰りたいという心情は痛いほど理解している故郷の土になりたい故郷で死にたいそれは生物として当然なのであるただそれそれすら原発は奪ったということである
その罪深さははかり知れないいくらよその土地でいい暮らしをしたとしてもその失ったものはあまりにも大きすぎたのである

posted by 天華 at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年02月03日

秋の七ヶ宿街道の旅


秋の七ヶ宿街道


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七ヶ宿ものさびしかも
数匹の虫の音幽か
我が休みて聞き入りぬ
昔の街道芒なびきて暮れんとす
鏡清水姫の面影映すかな
しばし留まり夕闇に
行く人もなし
ここを去り上山へ
街の灯あわれ
その一夜の宿や
旅の思い出に残るかな

(覆う鏡清水や姫の顔)


七ヶ宿はものさびしい場所だった、今の道からはずれたところであり車もあまり通っていなかった、自転車で通って鏡清水で休む頃暮れようとしていた。
旅は車だと旅にならない、通り過ぎてゆくことになり時間的にも記憶に残らないのである。
何度も言うが記憶に残る旅をしていないと後で思い出せないので旅をしたことにもならなくなる。
旅は旅をする前の準備から始まっている、そして意外と旅は旅をした後も続いているのである。
だから車の旅だとその行程が記憶に残らないから旅になりにくいのである。ただある場所で写真撮るとかの目的があるときはいいのである。

ともかくなぜここが記憶に残っていたかというとそこがあまりにも淋しい場所になっていたからである。
車で混雑しているような場所でわ記憶に残りにくいのである
だから大都会というのは記憶に残りにくいのである
本当に七ヶ宿は寂しい場所だった何か人気もない虫の音だけが響くところだったのである。だからこそ虫の音が心に残ったのである

上山藩に蒲生氏郷の子が藩主となる
慶長9年(1604年)、陸奥会津藩主・蒲生秀行の次男として生まれ、家臣・蒲生郷治によって養育される[2]。異父弟に浅野光晟がいる。
慶長17年(1612年)、松平姓を与えられる[3]。
慶長18年(1613年)頃に元服する[注釈 1]。三春城に置かれた(『氏郷記』)[注釈 2]とも、津川城に置かれた(『会津旧事雑考』)とも伝えられている[5][注釈 3]。元和9年(1623年)7月、従四位下に叙される(『氏郷記』・『御当家紀年録』)h[7]。
寛永3年(1626年)、出羽上山藩4万石の藩主となる。この時、守役であった蒲生郷治は上山について行くことが出来ない自分の代わりに一緒に忠知を見守ってきた自分の家臣団を忠知に差し出したという(『氏郷記』)[8]

蒲生氏郷の子が上山藩の殿になった、三春と津川城とも関係していた。津川は冬の日に行った。川湊があり栄えた場所である
そこは厚い根雪に閉ざされていた。
そこに城があったというのも意外だった、こうしてたいがいの場所に実地にその場を踏んでいることで思い出してこうして紀行文でも書けるのである。

馬場址といはるここは杉ばやし時くしげりてしゃが群れ咲けり


この歌はシャガの花を歌っているがこのシャガの花は城跡に群生して他でも咲いていた。城はもともと山城から始まった、自然が要害となり守ったからである。そのあと暮らしに便利な平城になったのである。
丸森の金山城にも咲いていた。相馬の城跡にも咲いていた。
山城には咲きやすいとなる。この花は独得であり城跡に咲いているのが似合っているともなる、それも山城だといいとなる

宮台氏を襲って自殺したのは引きこもり (引きこもりの危険と現代社会の問題)

宮台氏を襲って自殺したのは引きこもり
(引きこもりの危険と現代社会の問題)

宮台真司さん「(男の)年齢は、でている通りロスジェネ世代。無差別殺傷事件を起こす人が多く生まれている。容疑者がなくなったことはかなり残念。容疑者の襲撃の動機がわかるかな、というところに興味がある」
宮台さんは2022年11月、東京・八王子市の大学のキャンパスで男に切りつけられ重傷を負っていて、容疑者とみられる相模原市の無職の41歳の男が、事件からおよそ2週間後に、自宅で死亡していたことがわかった。
自殺とみられている

この犯人は引きこもりであった、家族と一緒に暮していたが別に部屋を借りて一人で暮らしていた、働かなくても暮していけていた、家族が援助していたからであ

ではなぜこんな殺傷事件までになったのか?

これが疑問である、宮台氏とのかかわりでそうなった、何か日ごろから宮台氏の発言に不満があった、思想的に反発するものがあった、それが引きこもりになってネットとかで発言していたのかもしれない、ネットウヨとかも言われた人達がいた
ただこの人がどういう発言をしてどういう思想の持主かはわからない
ただわかったことは引きこもりであり家族からも分離しても無職であった
そこで一日中何をしていたのか?なぜ宮台氏を殺したいほどになったのか?
その辺がわかりにくい、思想的に反発するものがあったからなのか?
でも相手刃物で襲うということは相当に何か宮台氏にかかわるものがあったとなる

私がこの事件に興味を持ったのはやはりこの人が引きこもりだったとういことである
そのことで自分自身の経験から前から述べてきた
ただ団塊の世代で引きこもりなどほとんどいない、ほとんどが企業戦士とかなり馬車馬のように働いた、そして高度成長時代を築いたのである
中卒も多く金の卵として都会で働いた時代である、その時代の差がある
私は特別恵まれて三流大学を出ても就職もしなかったのである
そういう人はまれだったのである、でもふりかえれば私は必ずしも引きこもりではなかった、なぜなら20代とかは底辺でも労働していたからである
そして大学は東京だったから親元を離れた生活をしていたからである
それが人間形成に良かったのである、かわいい子供には旅させろというのがわかる
親元を離れて人は一人前になる、でも社会になじめず引きこもりになったのである

こうして引きこもりの経験者だからその心情が理解できるのである
引きこもりは社会性が喪失してゆく、一人閉じこもっていると上から命令されるものもいない、別に上司にしかられることもない、ただ一人でありそうなると何か自分自身が偉いという感覚にもな実際は落ちこぼれでも誰かに雇われる使われるとかではない
自分が常に主人でいられるのである、ただ親がうるさければそれが問題とはなる
でも親が許していれば三食つきであり親は召使のようになっているからいい身分なのである、私は30歳からそうして引きこもりだったのである、それも30年間とか長いのである
だからそれをふりかえったとき異常だったとなる
ではその30年間何をしていたのか?それは自分の好きなことをしてきたのである
主に旅をしてきたことになる、それで地名に興味をもってその方面から歴史とかに興味をもったり詩歌を追及して来たのである

ただふりかえりこういう人生は危険なものでもあった、社会性が喪失して何か変な方向に向かうことになる、だからアウトサイダーとも似ている、でもそういう人は特別優れた天才とかなっていた、今はそれが普通の人でもなる普通のことになったのである
なぜなら本当に引きこもりというかニートというかそういう人達が田舎でもいる
なぜか自分はそういう人達と逢うのである、類は類を呼ぶということにもなる
そういう人を見ると何か体も貧弱であり劣っている、だから社会に適合できなかったのかと見る
一方でアウトサイダーとなると全然違っている、むしろ優れていて社会に適合できない天才が多いとなる
そしてそういう人は狂気になった、ニーチェでありヘルダーリンであれ文学の分野でそういう人がいる、そういう人達はむしろ特別優れていて社会に適合できなくなったのであるでも今の引きこもりは普通の人でありむしろ何か劣っていてそうなった人達である
ただその数が多すぎるから何なのかとなり社会問題になったのである

ただ何かアウトサイダーと似ているのである、ただこれだけ数が多いということ別な問題として引きこもりが生まれたとなる、引きこもりの効用としては社会から離脱して人と極力交わらないとういことで禅僧のようになる、沈黙業をすることになる
それは寺だったら許されるが社会ではそういうことは許されないのである
でもその効用はある、沈黙するということは自然と一体化するのにはいいのである
なぜなら大地であれ山であれ木であれ石であれ沈黙しているからである
だから自然と一体化するには沈黙をすることを学ばねばならないのである
でもそれは社会にいてはできないことである、また社会から離れて生活することは社会のことはわからなくなり危険にもなる、社会の常識から逸脱してゆくのである
だからインタ−ネットとかが生まれてネット空間だけで対話などしているとおかしくなるこの人はどういう状態でそうなったのかわからない、わかっているのは引きこもりだったということである、でもそれが危険なことは理解できる

つまり小人閑居して不善を成す・・・これなのである、また君子危うきに近寄らず・・なのである、一般的に小人はそうなる、隠者とかになり閑居することはハードルが高いのである、よほど優れた人でないとできないのである、だから若い時は社会人として働き社会的常識を身に着けた方がいいとなる、その後に引きこもりになってもそういう人はまた違ったものになるかもしれない、この人がなぜこんな犯罪を犯したのか、そしてまた自殺したのか・・・・・これは引きこもりした結果として起きたことである
それは私が経験したことで理解できるのである
これは現代的問題でもある、それだけ引きこもりが多いからである、もう一つの問題として社会に適応できないというとき社会で自分に合った職業などにつけないことがある
そんなこというのは贅沢だというのもわかる

でも現実問題として別に仕事が嫌ならやめても生活に困らなければ引きこもりになるのは当然だともなるのである、自分に合わない仕事をしてもまた精神が病んでくる
それで現代でぱうつ病が増えているのである、それは天職などにつける人が少ないからである、何か機械の歯車のようにされるのが現代社会である
私自身の仕事も流れ作業とかしかなかった、それで仕事自体に嫌悪を覚えるようになった別に自分に合った仕事があればそういうことがないのである
それは確かに甘えだともなるが別に生活できれば親でも援助してもらえるなら自然とそうなるのである

とにかく引きこもりは百万人一人くらいの天才的アウトサイダーとかは違うものである
でも似ているのである、社会から脱落したとしても別に生活できるなら社会で無理して働くこともないとういことである、いづれにしろ天職につける人などこの世にどれだけいるのか、社会に適合したとしてもただ社畜だとか自ら言っているように奴隷だと言っているように不本意なものとして働いているのが大多数にもなる社会である
そこに根本的問題がある、ただ引きこもりとはアウトサイダーとは違って何か能力的にも欠けている、体自体が何か貧弱な人が多いようにもみえる
すると力仕事ができないとういことで建築土木関係の仕事にもつけないのかとも見る
それは天才的アウトサイダーとは似ていても相当に違っているとなる

確かなことは人間は天職につける人はまれでありそんな仕事をなど与えられないのである社畜であり奴隷的仕事が多いということである、昔の職人だったらそういうことはない
自分の仕事に誇りをもっていた、だから下駄一つでも作った人の名前がついていたり
今でも近くで包丁を作っている人がいて名前がついたりしているのである
手仕事の時代はそうして自分の作ったものに誇りをもっていた、今は大量生産になればそういうことはない、みんな巨大の組織社会の部品化するのである
昔は徒弟制度などがありふそこで技を磨くだけではなく人間として教えられるものがあった,今はそういう場所がなくなった
学校は膨大な知識知識を詰め込む場所であり人間と人間が向き合うような教育はなくなった,本質的に人間を育てる場所がなくなったのである、それは社会自体の機能不全でもあるそこそこに教育というだけの問題ではない解決しないのである

そして大衆化してナチス化する、それは現代文明社会の病理的現象なのである
カルト宗教団体でもそうである、それはアウトサイダー化したものより最も社会に適合するものとして生まれたのである、なぜならその組織は軍隊化していて結局現代社会と適合するものとして生まれた、それが極端になるとナチス化するのである
そこに一切もともと宗教を追及しているものなどないのである

でも数が多いとういことは社会化して権力化するから正常として認められるのである
ということは現代文明社会事態が異常だともなる、そうして何が異常か正常かもわからないのが社会なのである、それで文明社会を極端に否定するアウトサイダーが生まれたのである、その人も異常にしろ社会も異常なのである
ただ確かなことは引きこもりとかは異常化して犯罪者にもなりやすいのである
また狂気化も異常化もしやすいのである、ただ個人も狂っているが集団組織も社会も狂っているとニーチェが言ったがまさにそうである、社会もナチスのように狂気化するし
それだけ現代文明は狂気的なものになっている、もはや誰も全体のことなど知り得るものがない、カオスでありそこで狂気が生まれる、ファシズムでも生まれる
そうなっても数が多ければそれが正しいとなり何でも通ってしまうのが現代でありナチス化するのである



金銭面では金の匙くわえて生まれてて勝ち組ぽいなのに、もったいないなあ
一度でも貧乏経験あればこんな仕上がりにはならなかったんだろうね

ひきこもりにはこうして恵まれた人がいるだろうなあ
この人は20代でも働くことなかったのかな何か苦労したこともなかったのかな
やはり人間若い時はなんであれ苦労することが大事だ家から離れることも大事だ
この人はそういうことがなかったのかなあ,貧乏の経験も大事だよな
そうすると無駄に金を使わないから

とにかくこの人の動機がなんであったのか動機が何であったのかその辺がわからないそしてなぜ死んだのかそれもわからないただ危険を感じて自殺したのか
引きこもりはこうして危険なのであるいくら恵まれていても危険なのである
もう40になったらどうにもならないともなるそして40になるのはすぐなのである人間はやはり社会的動物なのであるま普通はやっぱり社会的動物として生きることがいいのであるアウトサイダーとなるとハードルが高いのであるだから小人閑居して不善を成すになる

posted by 天華 at 10:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年02月01日

ダイユーエイトの敷地にある田母神の社 (冬に見えた珍しい鳥ーマミチャジナ?)

ダイユーエイトの敷地にある田母神の社

(冬に見えた珍しい鳥ーマミチャジナ?)

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めずらしやマミチャジナイ群れ飛びて枝にゆられつしばしとまりぬ

うぐいすの二羽庭に来て飛び去れりめずらしきかな冬にこもるも

松一本御田母神の守りけり何を語るや冬のくれかな


今日は朝に鶯が二羽庭に来た、冬になると餌がともしいから鳥が餌を探してくるのかもしれない、庭の木の実などを探しにくる、外に出たら頭に白い筋が入っていて腹がモズのような色をした鳥が群れて飛んできた、これはつぐみかと見たが違っている
腹の色が違っている、でも何かと調べたらマミチャジナイとかあった
これならそうらしい、でも聞いたこともない名なのでそうなのかと見た
名前自体がなじみがないからだ、でもツグミでないとするとそうなる
鳥はなかなか見分けにくい、ゆっくり見ていられないからである
写真をとるのもむずかしい、すぐ飛び去るからである
ただ偶然カメラに写っていた、だから間違いないのかとも見た
冬の鳥は葉陰とかに隠れないので見やすいということがある、写真にとるにはいいとしてもすぐ飛び去るからむずかしいのである

ダイユーエイトの入り口に「御田母神」がある、

田母神俊夫という自衛隊の幹部の人が一時有名になったけどこの人は郡山市田村町の出身だった、ここに田母神の地名がある

田母神村: 江戸時代から明治時代中頃まで陸奥国安積郡(田村郡)にみられた村名。当初は白河藩領、寛保元年幕府領、寛延2年常陸笠間藩領、安永6年幕府領、同7年磐城平藩領、寛政3年からは常陸笠間藩領と推移


ここが笠間藩に一時なっていた、笠間焼がありそこで絵付けとかして遊んだことがある、茨城県にはあまり藩はないし城もなかった、だから観光する場がなかった
ただ焼き物から見ると笠間焼とかあるのは江戸時代からあったとなる
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田母神{田母神}の発祥地はここであり田村というとき田村の姓が近くにもありそこから移住してきた人があったためだともなる
この田村は坂之上田村麻呂にも由来している古代からのものである
南相馬市の鹿島区の大内村に坂上田村麻呂に由来する御堂がある
つまり古代から田村とは関係していたのである
それは800年代だから古いのである

いづれにしろあそこはもともと田があり田母神が祭られた、でもその由来はここではない田村町の田母神の神も人ともに移動してきたのである
そういうふうに神も移動するのである、移動するとき人がいて移動する
御神体も人とも移動するのである

いづれにしろここに田があったとき田母神様が活きていた、でもダイユーエイトができたとき田がなくなりただ社だけが残ったとなる
こういうことはいくらでもある、そもそも神田とあれば神の田でありそれが東京のど真ん中にあってももう田をイメージなどできないからである
ただ小さな社でもビルの谷間に残っている、ということはその社でも残っていれば何かを昔を語りつづけけいるのである
でもそれが何かなのかは不明にもなる、何か伝えるために残っている
今この社を守っているのは松一本だとなる
前は六号線であり車が毎日往き来してもこの社に目を留める人はいない
私はダイユーエイトができる前からこれを知っていたらその変わりようを書いた
つまり郷土史として書いたとなる






2023年01月31日

何の価値を追及しているのか?宗教が一番わかりにくい 古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ 芭蕉


何の価値を追及しているのか?宗教が一番わかりにくい

古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ 芭蕉

何かに価値があるとしてそれは必ずしも利益にはならない、価値と利益は即結びつかない
価値は多様であり何が価値あるのか意味があるのか決められない、ただ一般的な見方として金になれば利益になれば価値があるとなる、また価値と意味は違っている

なぜ価値があるのか

なぜ意味があるのか

それを問う時、利益になるから金になるから価値があり意味があるとならない
みんな金になる、利益になるとして働く、価値あるものが必ずしも金にならない
例えば芭蕉の俳句は価値があるというときその価値を知るとしたら相当に俳句に通じていないとその価値がわからないとなる、それは絵画でも音楽でも芸術分野になるとそうなるただ億の値段がつけば誰でも価値があるとなる、でもどうしてそんな価値があるのかとなるとその価値を知ることはみんなできない、そもそも芸術となると鑑賞自体がむずかしいからである、茶道とかなると古い茶碗に価値があるとしてどうしてそんなに価値があるのかとなる
ただ芸術でもわかりやすいのは長い時間の中で色あせないものも時間によって価値が減少しないでかえって価値が増してゆくものは本当に価値があるとなる

それは五月雨や降り残してや金色堂の芭蕉の句である、それはすでにその金色堂が建てられて400年とかすぎても五月雨のふりしきる中に朽ちずに残っていた
その価値を見出した、そこにみちのくの歴史が集約されていたともなる
それは江戸時代、それも今から400年前とかに作られたものでありその時代だからこそ作り得たものであり今になるとできない、感覚的に確かにみちのくは旅できるが江戸時代の感覚ではもはやできない、そこにその価値が衰えないのである
ある意味でかえって価値を増している、なぜならそれはその時代でしか作れないものだったからである、確かに正岡子規とかは写生俳句を提唱した功績があった
子規は芭蕉より蕪村に習ったのである、なぜなら蕪村は画家でもあり写生していたからである、でも蕪村よりも芭蕉の俳句の方が深さがある、また子規は写生俳句を唱えてもそれほどいい俳句を作ったとも見えない、それは早死にしたことも関係している
十分に熟成しないで死んだとなるからである

人間はこうして芸術的なものの価値は比較的わかりやすい、わかりにくいのは宗教的な価値である、キリスト教がありイスラム教があり仏教がある
そもそも文明というときキリスト教文明でありイスラム教文明であり仏教文明なのであるつまり文明の核に宗教がある、でもそもそもこの宗教の価値がみんな理解しているのかとなるとしていないのである
宗教の価値とは何なのか?それがわからなくなっている、でもカルト教団があり宗教は普及している、でも問題はその宗教の本来の価値を追求していない、ただ御利益となるとか福運がつくとかさらにこの世で高い地位につき金持ちになり豊かな暮らしができるとか
しかない、また病気でも治るとかとにかく何でも御利益があるしかないのである
でもそもそも宗教とは何になのか、宗教の価値とは何なのか知る人がいるのかとなる
なぜお釈迦さまが偉いのか、何の価値があって偉いのか、キリストがなぜ偉いのか何の価値があって偉いのか、それが本当にわかっている人がいるのかとなる
その価値がわかっている人がいるのかとなる
信者が何千万人何億人いたとしても一体どうしてそんなに崇められるのか、その価値は何なのかわかる人がいるのだろうか、カルト教団になればただ御利益追求でありまた神社にしても賽銭を投げて御利益を願うだけなのである
そうなると宗祖が説いた本来の価値とは何だったのか、それもわからないのである

古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ 芭蕉

キリストがシャカが何を求めたのかに重点を置く、そもそもシャカにしても王宮に住んでいた、そういう身分を捨てて一介の乞食となったのはなぜなのか?
今の宗教とかカルトとかなると王宮にいる王子でありたい、それが理想になっている
そうした生活をしたい身分になりたいとして毎日日蓮でありキリストであれ拝んでいる
その宗祖を見ればそんな境遇にない、日蓮だってあばら家に住んでいたのである
だから何でもこの世の欲がかなえられるとして御利益があるとしてひたすら日蓮であれキリストであれ祈っている、そんなこと宗祖に願ってもかなえるわけがないのである
そもそもキリストであれシャカであれ日蓮であれ親鸞であれ何を求めたのかが大事である王宮に住んでいて一介の乞食になる必要もないのである

ということは宗祖が求めたものと全然違ったものを求めている、それ宗祖が見てどう思うのか、もし宗祖が現れたらシャカでも日蓮でも何でもその宗祖こそ最も排斥するものとなる、なぜなら宗祖が求めたものとまるで違ったものを求めている、そしたら宗祖は私の弟子ではない、私が求めたものはそんなものではない、私はこの世からの解脱を求めた故に王宮を捨てたのだ、それがむしろみんな王宮に住みたいとなって王子となりたいとなって私に習わず拝んでいる、もし宗祖が現れたらその宗祖こそ最も排撃していてはならなんものとなってしまうのである、それはキリストでも同じである、荘厳な大聖堂があってもその宗祖が入れないともなる、その宗祖の教えたものを求めていないからである
だてから宗教に関しては何なのかわからないとなる、
宗教の本来の価値、宗祖が求めた価値がなんであったのかそれをまず知るべきである、でも全くこの世のものを求めて祈っているとしたら何なのだろうとなる
私の欲をかなえてください、私に王宮に住むような御利益福運を授けて下さいとひたすら祈っているとしたらそんな願いをかなえてくれるのかとなる
だからそもそもキリストでもシャカでも何を求めて何を説いたのか知るべきだとなる
その求めた価値が何であったのか知るべきだとなる

2023年01月30日

老舗の菓子屋を守るために犯罪者となったドラマ (なぜ命が尊いのかー仕事が天職が価値がありそれに献げる命が尊いとなる)


 老舗の菓子屋を守るために犯罪者となったドラマ

(なぜ命が尊いのかー仕事が天職が価値がありそれに献げる命が尊いとなる

●老舗を守るために犠牲にされたホームレス

葬儀屋松子の事件簿のドラマで老舗の菓子屋を受け継いだ男性が経営がおもわしくなく金に困っていた、それで自分自身に二億円の保険金をかけて偽装自殺した
本人が自殺したのではなく近くのホームレスが身代わりに殺されたのである
このドラマは何を意味しているのか?
その老舗の旦那は江戸時代からつづいた老舗の菓子屋を継続させることが最も大事なことだとしていた

ということはその老舗にはそれだけの価値があったから継続させようとしていた
ただ価値というとき本人が価値と思っても他者ではたいして価値を認めないことがある
いくら老舗の菓子屋でも認めないことがある
そもそも民間だととにかくたとえいくら価値があっても商売として経営として成り立たなければ維持できないのである

それで結局保険金二億円を得るためにホームレスが身代わりになったのである
そこでホームレスに何のか価値があるのかと見ていたかもしれない
こいつらは無駄飯喰らいだから何かの役にたたせるのがいいとまで見る
実際にそのホームレスは老舗を維持するために犠牲にされたとなる

そこに葬儀屋がかかわっているのも現代的である、孤独死した人もドラマになっていた
葬儀屋に死ぬ前に相談できる、どうしてほしいか相談できる
ただ葬儀屋でも客をとるためにいろいろと工作する、看護師に金を渡して死者を知らせて葬儀を請け負うとかある
葬儀屋というとき昔はなかった、地域で葬儀をしていた、村だったら村の人総出で葬式をしていた、それで村八分でも葬式だけは除外していたのである

●人間の命そのものが尊いのではない

ともかくこの年になると葬儀とか死がもう身近である、自分自身が後何年で死ぬのかとまでなる、ただ自分自身でも人間はいつ死ぬのかわからない、もちろん病気で弱ればなんとなく予想はつく、でもいつ死ぬかはわからないのである
だから自転車屋の人が私に死ぬ三日前ほどにいつまでやっていられるのかなと言っていたおそらく本人も確かに苦しかったがそんなに早く死ぬとは予想していなかった
癌の不思議は三日後に死ぬとしても仕事ができていたことである
寝た切りで何年もいて死ぬならいいがそんなふうに仕事ができるのかとなる
でも死に方としては良かった、仕事しながら迷惑もかけず死んだからである

人間の命と人間の価値とは何なのかという問題がある、人間の命は大事だよと言うのはわかる、でも人間の命が大事だとしたら尊ぶべきだとしたらただひたすら長く生きる生かさせることが大事だとなる、でも人間の命が大事だというときその命が何に費やされるかが問題になる、命そのものの価値より何のために命が与えられているのかとなる
天職を持ちその天職に価値がありその天職のために命を献げるということがある
仕事でもそうである、その仕事に天職に価値がありそのために命が献げられる
命が大事だというとき命そのものにあるのではなくその命を何に使うのかが問題になる
ただギャンブルとか無駄なものに命を使われればその命が大事だとはならないのである
命が何に使うか価値あるものに使うかで命が価値あるとなる

だから奇妙なのはロシアで犯罪者がウクライナと戦うめに釈放された、犯罪者でも国のために役だてばその命は尊いとなる、そして戦場だったら多くの敵を殺した人が英雄になるそれも不思議だけど犯罪者もそうなればその命は尊いものとなる
つまり命は何のためにあるのか?命そのものが大事というより何のためにあるのかが大事になる、黄熱病の細菌と戦い野口英世は死んだ、とするとその命は病気との戦いのために犠牲にされたということで尊いとなった
早く死んだとしてもそのことで功績があり讃えられることになったのである

●老舗の菓子屋を維持するために犠牲にされた人

だからそもそも人間の命が尊いとしても何のために命があるのかとなる
むしろ天職がありその天職が価値がありそのために命があるとなる
身近なことでも最近死んだ街一軒の自転車屋でも死んだがその人は自転車屋という仕事のために死んだ、それは一軒しかないのだからその仕事は他より価値あるものとなっていたただそれでその人が仕事をしていたということでもない、とにかく病気でありその治療費を払わねばならないとなり仕事をつづけていたともなる
でも死んでしまうと人間はもう金を稼ぐ必要はないのである
それで私が折り畳み自転車が売っていないのでナンバーをつけてくれと言ったが断れられた、それは自分の店で買わないから当然そうなったのである
でももう死ぬとわかっていたらもうけよりその仕事が重要であり無償でもしてやれば良かったとか勝手でも思う、もしかしたらあの世から別にたいして金にならなくてもしてやれば良かったとか反省しているかもしれない

つまり人間とはみんな利益を得るために金を得るために働かざるを得ない、でももともと仕事か天職は金を稼ぐだけのものではない、その仕事自体に価値がありその価値があって命が献げられるとなる、だから理想は金と関係なく仕事がありその天職に励むのがいいとなる、常に人間社会は金、金、金でありそれで歪められているのである
本当の価値を追求できないのである、そして無益なものに膨大な命が消費されることもある、戦争でもそうである、他にも無駄なことが膨大にあり命は費やされるのである

ともかくこのドラマでは老舗の菓子屋が価値がありその経営がおもわしくなっても維持しなければならないと事件が起きた、それは老舗の菓子屋が価値あるものでありそのために犯罪になった、そしてホームレスが身代わりになり犠牲にされた
このドラマの焦点は老舗の菓子屋が価値があるというドラマなのである
そのためにホームレスが犠牲になる、でも一人のホームレスより老舗の菓子屋が価値があるからホームレスの命はそのために使われるべきだともなっていたのである

でもその老舗の菓子屋がそれほど価値があるのか?それを誰が決めるのか、主人が決めたとしても回りでも価値があるとしなければ維持できないのである
そもそも価値が誰が決めるのかというのもわからない、大勢が価値あるとするものが価値がないともみる、でも大勢に価値がないものでも価値があるものはある
芸術品などはそうである、それは食べる物と違って価値がわかりにくいからである
だから金にならないことがあり誰も価値を認めないこともある
それで芸術家の悲劇が起きたのである

●無数の価値があり老舗の菓子屋の価値もその一つ

この世には無数の価値がありそれも発見されていない、身近な所でも発見されていない
学問的なことでもそうである、郷土史とかあっても発見されないものがいくらでもある
平凡な風景でも写真家でも画家でも優れていて個性的であればやはり美を発見する
そして価値あるものとなる、芭蕉がみちのくを旅して作って奥の細道の価値は衰えることがないのである、それだけのものを今も作れない、みちのくの価値を発見したのが芭蕉だったのである、それはどこでもまだ発見されていないものがある
新たな価値として再認識されるものがある、ただそれは食べ物と違ってなかなか見出しにくいとなる

江戸時代からつづく老舗の菓子屋を維持すること
それが価値あることだ
だから守らねばならぬ
たとえホームレスが一人死んでも犠牲にしても
老舗の菓子屋の価値のために死んだとなる
それは有意義なことだ
それだけ老舗の菓子屋に価値がある

こんなふうにもなる、それは勝手な見方にしてもそういうことがこの世にはある
人間が生きる価値とは命そのものにあるのではなくHuman life is precious when we live for something valuable...live forが大事なのである
その価値は多様であり時代ごとにも違っている、そしてまだ発見されていない価値があるここでは老舗の菓子屋の価値であるがこういうことは他でもあるだろう
伝統的なものの価値を守りつづけるということにもなる、そういう古来がつづく伝統的なるものの価値は民族的なものとしての価値でもある、日本文化としての価値がある
だから日本語をなくして英語にすればいいとかなると日本文化としての日本民族の価値は消失するのである、そこにグロ−バル化の問題がある
グロ−バル化とは国でも地域でも文化を破壊することが大きな問題なのである
貿易だけではすまない、物が入ってくるだけならいい、でも物とともに人間も関係してくる問題なのである、それが過剰になったのが現代のグロ−バル社会なのである

●医学の進歩のために犠牲にされた命

また医学の世界だと野口英世が黄熱病と戦い死んだ、犠牲になった、また華岡青洲の妻が麻酔薬の実験台にされた物語もそうである、それはフィクションでもそういうことは医学の世界にありえる、私の母の実家の継母は大学病院に献体した、医学の役に立ってもらいたいという人もいる、人間の命が尊いとしても命そのものが尊いのではなく医学が尊いともなる、医学が進歩する事は人類に貢献することにもなるからである
それで人間の命は戦争だったら国のためにと何千万人も死んだ、それは国を守ることが尊いもの価値あるものだからそうなったともなる
人間の命でも命そのものが尊いとはならない、何かのためになることが尊い、それは仕事に価値があり仕事が尊いともなる、だから価値とは何かというときその価値を決めるのは何かとなれば次の言葉があてはまる

もろもろの価値の根源は人間である、人間がおのれを維持するために、それらの価値を諸事物に付与したのである、人間が先でそれが諸事物に、意義、人間的意義を創り与えたのだ、それ故に彼みずからを「人間」すなわち「評価する者」と呼ぶのである
ニーチェーツアラストラ

神が世界創造した、でもその価値を評価することを与えられたのは人間なのである
神はイデアを創造した、様々なものを森羅万象を創造した、でもその価値を評価をするのは人間なのである、また価値を発見するのは人間である、その価値は無数にあり発見されていないのである
人間に与えられた仕事とはこうして万物に価値を与えることなのである
だから最初の仕事がエデンの園で名前をつけることだったのである
あらゆるものに果物でも名前をつけることだった、そのことによりその事物の価値を明らかにしたともなるからである、最初の学問が植物でも動物でも何でも名前つけて分類することになるからである
つまりそれが神が人間に与えた仕事だったのである、神が創造したとしても人間がその価値を評価するものとして造られたのでありまたそうした神が創造した世界わ賛美するものとして人間が創られたたのである

葬儀屋松子の事件簿

2023年01月29日

真野川の鉄橋の下の白鳥の写真


真野川の鉄橋の下の白鳥の写真

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氷を割って泳いでいる
薄氷である


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氷割り泳ぐ白鳥朝に見ゆ山は雪なり冷えにけるかも

朝の日の光り反射す川面かな白鳥群れて白に白映ゆ

目覚めれば地表は雪や白鳥の五六羽飛びぬ空澄みにけり

今日は真野川の鉄橋の下に白鳥が30羽くらい群れていた
白鳥のいる場所は変わる、田んぼにいるときもある
ここでこんなに数がいたのはめずらしい、ただここで餌をやっていないのである
白鳥はやはり特別寒い時美しく映える、この辺ではあまり寒くならない寒さの中の美は
感じない、でも白鳥はヨ−ロッパでもいる、ということは白鳥はロシアからシベリアから冬に渡ってくるとなる、でもロシアから来たのは攻めてきたのは残酷な軍隊だった
自然ならそこに美があるが人間は美を破壊するのである

写真はやはり場面とカメラの性能に左右される、私のカメラは高いものではない
またレンズにも左右される、レンズが何十万とカメラより高いのである
野馬追いの写真を撮りに来た人は50万とかのカメラをもっていたのである
カメラが趣味の人は多い、ただ写真もその場面に出合い、その一瞬をとらえることがむずかしい、近くだから撮れたが遠くになるとむずかしくなる

とにかく現代は映像の時代である、だから写俳というのが生まれた、そもそも正岡子規は写生の俳句で俳句の革新を計った、だから写真と相性がいいのである
でも俳句は短すぎるから限界を感じる、短歌だとまだ長いから表現の幅がある
俳句と短歌を作っていてもやはり俳句は限界を感じる
ただ芭蕉のような俳句を作れたのか不思議だとなる、芭蕉より優れた俳人は出ていない
またこれからも出ない、なぜなら時代が違っているからである
現代のような風景と時間感覚とかではとても芭蕉の時代とは余りにも違っている
でも不思議のなのは蕪村は絵画的であり現代にも通じている
だから正岡子規は蕪村を良しとして写生俳句を唱えて革新したのである

ともかく今日は寒い、今キーボードを打っていても手が冷たくなる
ただ白鳥は寒さに映える、冬の美の象徴である



雪の中の白鳥

純白の衣の朝日に輝き
光りは水面に跳ねぬ
雪の朝白さ白さの映えて
優雅に水の上に浮かぶ
乱れなくその純潔の美
その高潔なる貴族のごとし
鴨の群れは下々と従う
神は我が意を得たりと
そのイデアは地上に成りぬ
太陽は喜々として輝き
また朝にここに喜び輝きぬ
その翼を広げし飛翔の躍動
白鳥は凍れる夜に星座と輝く
田舎にそ何か見るもののあれ
北風の吹きつけ白鳥の鳴く声がひびく
その凍てる空に弦の音のように響く
ふの触れがたき聖なる鳥よ
神は自然の天然の美を与えぬ
純白の雪に覆われて人は見えず
白と白は互いに映えて美しさを増しぬ
ただ白鳥のみそ映えるべきかな
黙して自然の美を見よ
黙して自然の声を聴け
地も聖なるものとなるべし

2023年01月28日

みちのくに枯野が似合う(枯野の俳句十句)


みちのくに枯野が似合う(枯野の俳句十句)

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みちのくや休みに入るや枯野かな
人死にて争い終わる枯野かな
みちのくや枯野に残る金色堂
みちのくの金色堂や雪覆う
凍てりつく池や映えにき金色堂
みちのくや線路遠くに枯野かな
青森は遠き果てなり枯野かな
みちのくや枯野の駅や二三人
みちのくや都の遠く老いにけり
争いし境も消えて枯野かな
みちのくに栄華もなしや枯野かな
みちのくや風の唸りて黙す石
みちのくや抹茶を飲みて冬深む
みちのくや木を深く張る木冬深む
みちのくや心にしみぬ冬景色
みちのくへ上野を離れ枯野かな

目覚めれば地表は雪や白鳥の五六羽飛びぬ空澄みにけり

その場所場所で役割というか特徴がありそれに見合った場所としてあるのが本来はいい
アイディンティティもそうして作られる、それぞれ違った地理と風土がありそこに文化が生まれる、みちのくというときもそうである、ただはちのくといっても広いのである
芭蕉がみちのくを旅したのは平泉までである、そこからみちのくは岩手県があり青森県がありと広いのである、ただみちのくというとき地理的に風土的に北であっても北海道とは風土とか地理でも相当に違っている
みちのくは古代史からすでに日本の歴史と深く関係していたからである
それで縄文時代となると東北地方が先進地域だった、礼文島に縄文人の骨が発見されて
アイヌとは縄文人の後裔だとDNAの研究で発表した学者がいる
アイヌが縄文人だったのかとなるがそれに疑問を持つ人もいる
アイヌとは比較的新しい民族だという人もいる、もしアイヌが縄文人の後裔だとしたらアイヌ語が原日本語の祖語となるから大きなも問題になる
それで日本全体の地名をアイヌ語にあてはめた時代があった、でもそれは無理だった

いづれにしろみちのくとなると地理的風土的歴史的にアイディンティティが作られた場所である、だから北海道とは違った世界である
そしてなぜかみちのくに合うのが枯野なのである、わび、さびの世界なのである
みちのくは経済一辺倒の世界とかは合わない、大坂だったら商人の街でありあいさつがもうかりまっかとかなる、仙台市だともともと商人の街であり普通は東北弁だとんだんだになるが語尾にだっちゃだっちゃとなりこれが異質なのである
んだんだというのは何か口籠る言葉であり北国的である
でもだっちゃだっちゃというのは感覚的に全然違っている、押しが強い言葉なのである
伊達藩から伊達政宗のような人が出たという時何か異質なのである
東北人であのような芝居めいたことができる人はいないだろう、くそ真面目という感覚になるからである、ただ相馬藩とかでも実際は千葉県とかから移住してきた相馬氏一族が支配した藩だから別に土着的な人達ではないものが入ってきている
でも方言からするとんだんだとだっちゃだっちゃは余りににも違っているのである

上野去り平野開けてみちのくに我が帰るかな秋の陽没りぬ

上野駅を離れると浦和辺りなのか平野が広がり枯野にもなる、その時地平線に秋の夕陽がかがやき沈みみちのくに帰ってゆく、電車からその赤々と燃える秋の陽を見る
そして常磐線でもいわきまでは昔の平駅までは東京からの通勤列車が出ている
いわき市まで通っているのであり東京は意外と近いとなる
福島県は東京と近いのである、だから東電の原発でも建てられたとなる
郡山市だったら東京から一時間くらいなのである、通勤していた人もいるのである
でも会津とかなると不便であり遠くなる、会津は福島県でも浜通りから遠い、東京よりも遠いという感じにもなっている

ともかくみちのくでも広い、芭蕉が旅したみちのくは平泉までである
そこから岩手県になり青森へともつづく、そこはまさに辺境の地なのである

常夜塔雪に埋もれて野辺地かな

野の辺というときそうなる、津軽鉄道の津軽中里から十三湖に行った時寥々とか湖に風が吹いていた、そこも本州の果てなるか所である、ただ昔栄えた港があった、何かそれも津波で流されたとか言われる、砂に埋もれてしまったとなる
青森はみちのくの果てである、でも函館に行くとそういう感覚はなくなる、函館は明治に反映した近代的なしゃれた街なのである、感覚的に全然違っている
北海道はアイヌの歴史であり日本の歴史の中に入っていない時期が長かったからである

それにしてもなぜ芭蕉は旅に病んで夢は枯野を駆け巡るとなったのか。。。。
みちのくを旅したのは夏だったからである、秋だったら枯野にもなるがみちのくの枯野をイメージしたのか
その辺がわかりにくいのである

江戸だと枯野見があった、わざわざ郊外に枯野を見に行った、それは江戸は人でやはり込み合って枯野がなくなっていたからである
それで風流を演出したのである、今の東京なら電車でも車でも相当遠くに行かないと枯野はないのである

2023年01月27日

犯罪もカルマが関係している (今回の強盗事件でも因果関係はあるのか?)


犯罪もカルマが関係している

(今回の強盗事件でも因果関係はあるのか?)

「なぜ私だけがこんな目に遭うのでしょうか」。犯罪の被害者は異口同音に同じようなことを言います。世間には多くの人がいるのに、なぜ自分だけが悲惨な目に遭わねばならないのか、それは誰でも考える理屈でしょう。

犯罪の被害者、加害者の運命を調べてきました。その結果わかったのは犯罪の背後には複雑に絡み込んだ運命の因果があるということでした。ただそれが全てではありません。犯罪のすべてが運命的な原因をもつわけではないのです
犯罪とカルマの相互作用がある

犯罪に合う人と犯罪を犯す人に何らか関係があるのか?
ただそれは偶然のこととして起きたことなのか?
そこに複雑な因果関係があるということを書いている
例えは昔だったら因業な金貸しが貸した相手に恨まれて殺される
そこに確かな因果関係がある、動機もある
でもなぜ毎日のように犯罪が起きる、今回の強盗事件でもそうである
90歳の女性が殺された、ではこの90歳の女性と殺した強盗と何か関係があるのかとなる
それは外からはただ偶然の出来事に見えるし知り得ようがないのである

でも犯罪は必ず起きるし自らでも犯罪を起こす、何かしら犯罪にかかわらない人はいない自分自身がそうである、なぜ私の家で次々に不幸があり犯罪者が入ってきたのか?
それも何かしら因果関係があってのことだったのか?
それはわかりにくいにしても犯罪者がただ偶然に来たとも思えないとも見た

なぜ母が積んでいた金が盗まれたのか、なぜその人が来たのか?

ここに因果関係があるのか?その人はここに前から住んでいた人ではない
ただ偶然でそうなったのである、そういう犯罪の機会が与えられたのである
でもよくよく考えてみるとその女性は金に窮していた、その生活はずっと金に窮していただから切実に金が欲しかった、その機会が偶然に私の家にきてめぐってきたのである
母が積んでいた金は実はその時積み立てていなくても国から支払われていた
月三万もらっていたのである、百才まで生きたのだからそれが結構な金になっていたのである
でもその金が盗まれた、これは何なのだろうと思った
結構な大金だった、私の母親は吝嗇でケチであった、何か無駄なことに金を使わない
それで花なんかいらない、買う必要がないと言って私を責めたのである

それは極端な貧乏を経験していて継母に育てられた金銭に余裕がないからそうなった
店をしているときも一円でも無駄にしない人だったのである
でもその年金は高度成長時代に国が豊なので無料でもらえた金だったのである
たとえ3万でも今の年金とは違い無償でもらえた金だった
それで後五年たつと5万もらえたとか悔しがっていたのである
その時代は国が豊でありそうなったのである、今でも年金が4万とか5万しかもらえない人がいる、その人達は一応積み立てていてそうなのである
年金制度が確立する前は積み立てていなくても無償でもらえた時期があった

でもその金は盗まれたというときそこに母と盗んだ人の因果関係があったのかとなる

あなたがもらえた金は国で支払った金と同じです

それは国のものであり国民の金です

だから私ももらう権利だある

それで盗んでいいのです

こんな論理も成り立つでのである、なぜなら私がそのことを責めたら私自身が警察からでもみんなからも責められたからである、御前は金を持っているから何も言うなとなっていたのである、その犯罪をとがめる人はいなかったのである

ただこうして犯罪者と犯罪を受けた人の相手とに全く何の関係もなく偶然にすぎなかったのかとなるとそうでもない、その金は盗まれても犯罪者を責められないものでもあったとなる、つまり犯罪の被害者の方にも何かしら犯罪を受けてもいいものだったとも見れる
でももし金がない人だとわずかの金でも盗まれたりしたら借金でも返さないとしたら殺人にまでなっている、だから犯罪者であゃ犯罪の被害者であれ双方に何の因果関係もないのかとなるとそうでもないとなる

そもそも犯罪でもそうだが何か偶然に起きる事がこの世にあるのか、偶然と見えるものも必然だったとかなる、金を不正にためこんだりしていると盗まれても当然だと外から見られる、二人も家政婦を雇っていた地主の人なのか家を貸している人なのか殺された
でも二人の家政婦は何の被害もなかった、ねらちわれたのは地主なのか金持ちだったのである
何か不正に貯えたとか本来はそんな金を得られないのに得たとかなりそれが盗まれたともなる、その金に正当性がなくて盗まれたとかにもなる

そうして犯罪が起きているのかもしれない、犯罪にカルマが関係している
そのカルマでも前世まで関係しているともなる、何からのカルマが双方にあってそうなったともなる、つまり全然関係がない因果関係はないとは言えないとなる

何らか人間はどこかでカルマを解消させるために事件が起きる、苦しみが生じる
それが過去に積んだカルマが原因だともなる、もしためこんだ金でも人のために使うとかしていればそうはならなかったとかなる
ただ私欲のためにため込んだ結果として盗まれたのかともなる
ただ盗んだことがいいことということではない、その盗んだ方もカルマを積んだとなり
いづれ苦しみとなって現れる

ともかく犯罪を犯す人と犯罪の被害者はただ偶然に出合ったことであり関係ないのか
それを日々のニュースを見てもわからない、ただ恐怖になる
でも犯罪を防ぐことはできないのではないか、いくら防備しても穴がありそこから犯罪者は入ってくる、もう鉄条網とか城のようにしないと防げない、それで回りのもの隣近所と連携しろということもわかる
隣近所で協力して犯罪者の侵入を防ぐとなる、ただ現代は隣近所は疎遠である
都会だと特にそうだし田舎でもそうなっている、それで犯罪に弱くなっている
まず江戸時代のような村だったら回りがみんな警備員のようになったいた
だからよそ者が簡単に侵入できない、関所もあり簡単に他藩に入れないからである
今は車で簡単にどこにでも行けるしすぐに遠くに去ってゆくから犯罪しやすい社会でもある、ただ自転車だと自転車に乗っているだけで犯罪者にも見られのである
これもおかしい、車に乗っている人が犯罪者になる、つかまりにくいからである

一回は内部の犯行

次は外部の犯行

次も外部の犯行?


一回は近くの人の犯行であり二回目は外部の人の犯行であった
なぜなら物色されたからである、それで二階まで来ていた、証書を盗まれたがそれは金にならないものだった、金庫も開けられたが金は入っていなかった
今は現金は置いていない、その次はジャンパーとその何か入っていた財布が盗まれた
クレジットカードが入っていたが金は一万くらいだった
でも未だにジャンパーが出てこないからやはり盗まれたのだろう
これはどうも内部ではなく外部の人だったらしい、通りすがりの犯行だったのかとなる
でも何か常に警戒しなければならないので困るのである
こうした犯罪の困ることは家でも安心できなくなる、また誰が盗んだのだろと疑心暗鬼になり近くの人でも疑うことになる、これも困ったことなのである

ともかく日本は貧困化して犯罪が増えて来る、回りをみると日々の暮らしで苦しんでいるそういう人は犯罪予備軍にもなる、そして犯罪でも今回の強盗事件のように凶悪化してくる、つまりアメリカのようになってくる、日本はアメリカに戦後まねたのだからアメリカのようになってくる、もちろん犯罪そのものはこのこの世から絶対になくならない
この世に罪を犯さない人などいないからである
例え現実に犯罪を犯さないにしても人間は心で悪意とかもっただけで犯罪なのである
心で悪い思いが生まれただけで実は罪なのである、それはそう心で想うことが必ず行為となるからである、相手を憎むということがありそこでは犯罪にならないとしてもそれがいつか行為となり最悪は殺人までなる、だから念というのも怖いのである

日本は貧困化してくると犯罪が増えてくる、これは防ぎようがない、それも今回の強盗事件のように凶悪化してくる、いくら防備しても侵入を防げない、だから謎のなのはどうしてその家がねらわれて殺されるまでなったのかということである
その因果関係がどうなっているのか謎だとなる
犯罪に合いにくい家があることは確かである、一軒屋はどうしてもどこかに隙があり犯罪を防げない、そこでいくら防せごうとしてもできないということになる
もう犯罪にあうのも宿命なのかカルマなのかとあきらめるほかないとなまでなる
犯罪者であれ犯罪の被害者でカルマがありそうなったのかとなりあきらめる他ないのかともなる、ただ正直その因果関係は外から見てもわからないとなる

posted by 天華 at 11:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層