2025年02月01日

AIの作る詩の謎ーでも完全ではない 【岩に刻まれた顔の詩−人間の顔の不思議ー天才の画家の顔】


AIの作る詩の謎ーでも完全ではない
【岩に刻まれた顔の詩−人間の顔の不思議ー天才の画家の顔】

 a human face carved in rock with digunity and storength

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ゴッホ
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ゴーギャン
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セザンヌ
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ピカソ


岩の表面に、ひとつの顔が刻まれる
時を越えて、変わらぬ岩に
冷たく硬いその姿は
ただ静かに立ち、永遠を見つめる

人の顔、その目には力が宿り
その額には誇りの跡が刻まれている
岩は語らぬ、だがその顔は語る
その口を閉ざして真実を見つめる

風が吹き、雨が降り、
時は変わりゆくも、この顔は変わらず
その沈黙の中に、
人間の威厳と魂の輝きが映る

岩よ、君は岩と一体化して
その堅実な胸に、力強く刻んだ
人の貫く意志、変えぬ信念
未来へと伝えるために

顔は語らずとも、自ずと語る
不屈の精神、揺るぎなき信念
内にに充実して口を閉ざす
強固な岩に刻まれて岩となる


AIの詩を変えて私が作った詩である。何か今AIの詩の方が読まれているという、返って人間の詩より読みやすいと好評なのである。ただ何かおかしな点がある。どうしてもそれを直すとか付加しないと一連のものとして読めないのである
でも8割くらいは確かに完成している。
確かなことはAIは別に詩とか理解していない、その意味を理解しているわけではない。言葉の連想のように作り出している
人間も実際は言葉から連想して文を書くからである。その言葉を通じて事物でも自然でも理解する
はじめに言葉があったというときもそれだけ人間にとって言葉が大事なのである。つまり自然でも言葉がなかったら人間は自然と一体化できないのである

だからピカートが現代社会がカオスとなりもはや言葉で表現できないアトム化した分裂した状態になりナチスが生まれあと分析した。今のカルト教団でもそうである。題目を唱えることはハイルヒットラーと大して変わりない。人間は常に数字として統計的存在でしかないのである。
つまり言葉でもはや表現できない世界である。東京であれ大都会を言葉でもはや表現できない
巨大なビルが乱立して人間はもはや群集として大衆としてあるだけになる。その人間は自然と遊離して言葉を喪失した
言葉で表現できないものの前で言葉を失うとなる

それはlosinng face ともなる。面子を失う意味にしてもそこに人間の顔など見え出せないからである。
要するにロボットであり言葉が機械語とか商業語になり本来の詩語としての機能を失ったのである。ということは言葉と精神が一体でありこの世界は言葉で表現できない異次元の異様な世界となる、逆に人間を自然と一体化した顔とかなるとそれはもはや別なものとなり返って異様なものともなる
現代社会は顔がない社会である。みんな同じ顔であり機械的数字となる。□とか〇とかに一様化されて万物の象徴としての人間の顔はないのである。
ただアウトサイダーとか言われる極わずかな人は確かに顔を持つ
天才的な人もやはり依然として顔を持つ、顔にその人の精神が刻印されている、でも後は凡庸な顔となる

原始人の顔は周りの自然が反映された顔になったというときもそうである。山とか岩とか光の影とか雲の落とす影とかが顔に反映されているとかピカートの〔人間の顔〕で考察している
原始人であれその後の人間の顔は時代によっても違っていた
縄文人は今の現代人とはまるで違った顔だっとなる

何かヨーロッパの中世とかなると女性でも室内にこもり日本でも深窓の令嬢とかなる、確かなことはは戦前と戦後の日本人でも顔が違っているかもしれない。まず江戸時代の人と明治になってからの人は顔でも違ってきた。

現代人の顔はより功利的になり何か機械的になっているかもしれない。それはアメリカに習ったからアメリカ人と似たものとなる。アメリカはすべて金を追求するから何か顔にも現れる、世界的に人間はビジネスマンの顔になる。絶えず金を計算しているとなる
何かグローバル化することは一様化することでありそれぞれの国の文化を失うことでもあった。精神の基は文化でありその土地土地をcultivate-耕すこととなるときその土地と切り離せず人間もあり顔も作られるとなる
グローバル化することは一様化規格化することでありそれぞれの国の個性も失われることになる。どこにい行っても都会は同じ景観になる。高層ビルがあり車の洪水であり騒音の世界になる。
つまりその土地土地に根ざす文化が失われたのである
それはlosinng faces その土地土地の顔も失われたとなる

これら天才の顔は簡単に説明されない、でも天才だから何か特別な個性が刻印されている。ただ読みとることはむずかしいとなる

ゴッホの神経質な灼熱の太陽に燃え上がる顔
ゴーギヤンの冷静な謎めいた微笑
セザンヌの円筒的幾何学的顔

何かその画風が顔に現れていないか?それを解き明かすことはむずかしい。上野霄里氏(うえの しょうり)の顔も天才だからそうなる
つまり天才は強烈な個性を持つからそれが画風となる。
いずれにしろ人間の顔は神秘的である。特に天才となればそうなる。それが画風に現れる。ただ自画像を描くのはやはり天才的な人だからだとなる

現代人の顔はまさにピカソの顔になる。顔まで分解して統一されない。現代社会がアトム化した分裂社会であることを象徴しているのである。





2025年01月31日

ローカル線の旅の詩−花輪線−米坂線ー陸羽西線ー羽越本線ー常磐線 【駅名が記憶に残るーでも廃線になる日が近い】


ローカル線の旅の詩−花輪線−米坂線ー陸羽西線ー羽越本線ー常磐線
【駅名が記憶に残るーでも廃線になる日が近い】

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花輪線

雪が積もり
扇田、兄畑、小屋の畑
扇の形をした畑
兄の畑なのか
畑に小屋あり小屋の畑
乗る人少なく
ただ駅名版を蛍光灯を照らす
その名のみ心に残りぬ
すずろに虫鳴くと
好摩の駅は啄木の歌で知られる

米坂線

小国町へと乗る人数人
がら空きの車両
線路に一本松
一本松駅ともあれ
見渡せば枯野
小国町に着くこそあわれ
しばし駅に休みぬ

陸羽西線【羽前前波駅】

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最上川や
雪に吹雪き
車窓に見て
トンネル抜けて
羽前前波駅
雪に埋もれる家数軒
一時より早すぎぬ

日本海側の駅

どこだったか
一時おりて
日本海沿いの駅
海からの冷たい風
剥き出しの岩
トンネルを前にした駅
そこは山形か新潟か
冬の駅が心に残る

常磐線−末次駅

海がすぐ近くに
わずかの畑
崖に浪が打ちつけて
あわれ末次駅におりる
そこの墓地は新妻の姓
新妻一族の住む村
一時より古い碑を見て去る
トンネルをぬけると
いわき市になる


これらの路線は本当に人が乗らない。陸羽西線とか不具合がありバスの代替い運転しているとかある
東北で残る線は東北本線とか幹線のみになるとされる
常磐線も仙台市ー南相馬市の原町間は一時間置きに来る。でも原発事故のあった浪江とか双葉とかいわき市方面は便数が少なくなる いわき市までは大きな市はない、原発事故で避難区域なり依然として復興しない

鉄道の旅は長い、ほとんどの路線を乗った。ここに紹介したのは廃線にになるような線である。とにかく便数が少なく不便である
一応常磐線は仙台市ー原町間は一時間置きである
一日4、5回とかの路線もある。だから廃止になるだろうとしている。その維持費がかかりすぎるからである



ローカル線の駅【AIが作る詩】


駅のホームに立つと
遠くで汽笛が響く
ひとしずくの雨が
足元の砂利をぬらす

誰もいない朝
古びた駅舎がひとり
静かに息をしている
時間がゆっくりと流れる

列車が来るのはまだ先
それまでのこの瞬間
遠くの山並みが
空と溶け合う

こぢんまりとした改札口
窓の外に広がる田んぼ道
ひとりまたひとり
降りてゆく人々

小さな駅に残された
ひとつひとつの足跡が
誰かの思い出を運ぶ
あの日の風景のように

小さな駅の名の中に
草の匂いと風の音
誰かの足音がひびき
時を越えて響いてゆく



AIが作った小国駅の詩

小国駅

小国の風が吹き抜ける
駅のホームに立てば
山の香りと土のぬくもり
心の奥に届いてくる

線路が伸びる先に
広がる枯野の世界
小さな駅には
ゆったりした時間が流れる

誰も急がず、
ただ静かに待つ人々
列車が来るのを待ちながら
目の前の景色を見つめる

木々の影が伸びて
夕暮れが駅を包む
踏切の音が響いて
遠くから列車が近づいてくる

小国の駅、
ここから始まる道がある
誰かの帰る場所があり
誰かが訪れる場所がある

静かな時間と
あたたかな人々
小国の駅が
今日もひとつ、物語を紡いでいる

直したの緑の色だけだがうまく作ると感心する
確かにこういうふうに感じる、それにしてもこうした路線が廃止されると旅の楽しみがなくなる。歩く旅が失われるたよう、こうしてローカル線が失われ旅もつまらないものとなる。鉄道は旅は道連れ世は情けでありが何かまだ人間的な所があった。今や駅には駅員いないし駅での交わりも失われる
ただ効率的のものを追求して人間的情とかが失われるのは淋しいとなる。












2025年01月30日

AIが作る枯野の詩【ほぼ完璧だが私が直し付け加える】

AIが作る枯野の詩【ほぼ完璧だが私が直し付け加える】

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AIの枯野の詩の私が改変付加した詩

枯野の詩

枯れた野原の風が吹き抜け、
ひときわ静かな、冷たさを帯びた空。
残るは枯葉だけが、地に舞い落ち、
踏みしめる足音が響くのみ。

古びた木々は身を縮め、
その枝は空を指し、無言の祈り。
しかし大地に根を強く張り
定めの場所を動かない

どこか遠くで鳥の声、
孤独の中で響き渡る。
枯れた野はただ広がり、
時間さえも忘れたかのように。

枯野に一つの石がある
人影も見ず石は黙して
風の音を聞き瞑想する
そこを乱す者はいない

その風景はかえって心安らぐ
都会の群衆の騒擾もない
平穏であり深い安らぎがある
存在するのは一つの石

けれども、ここには何かがある、
それは生命の影、残された証。
枯れたからこそ、美しいと知る、
空虚の中に生きる力を感じて。

生と死の間に広がるこの野は、
過去を抱き、未来を待つ場所。
枯れた草が次の命を育むように、
終わりは新たな始まりへと繋がる


Poem of a Withered Field

The wind blows through a withered field,
The clear sky is quiet and cold.
Only dead leaves remain, fluttering down to the ground,
and only the sound of footsteps echoes.

The old trees shrink back,
Their branches point to the sky in silent prayer.
But the roots are strong in the earth
They do not move from their predetermined place.

Somewhere in the distance, a bird's call
echoes in the solitude.
The withered field just spreads out,
as if even time has been forgotten.

There is a stone in the dry field
Not a soul to be seen, the stone is silent
It listens to the sound of the wind and meditates
No one disturbs it.

The scenery is rather peaceful
There is no disturbance of the city crowd
There is peace and deep serenity
There is only one stone

Yet there is something here,
It is a shadow of life, a sign of what is left.
I know it is beautiful because it is dead,
Feeling the power of life in the emptiness.

This field that stretches between life and death,
A place that embraces the past and waits for the future.
As withered grass nurtures the next life,
the end leads to a new beginning.

Translated with DeepL.com (free version)


AIの作る詩の原文

枯野の詩

枯れた野原の風が吹き抜け、
ひときわ静かな、冷たさを帯びた空。
残るは枯葉だけが、地に舞い落ち、
踏みしめる足音が響くのみ。

古びた木々は身を縮め、
その枝は空を指し、無言の祈り。
かつての緑は今、ひとひらの夢、
風に流れて、遠くへ消えた。

どこか遠くで鳥の声、
孤独の中で響き渡る。
枯れた野はただ広がり、
時間さえも忘れたかのように。

けれども、ここには何かがある、
それは生命の影、残された証。
枯れたからこそ、美しいと知る、
空虚の中に生きる力を感じて。

生と死の間に広がるこの野は、
過去を抱き、未来を待つ場所。
枯れた草が次の命を育むように、
終わりは新たな始まりへと繋がる


AIが作る詩はほぼ完璧である、でもやはり私は付け加えて作った。石は詩の中に入っていないが石を中心にもした
何故なら私を石をテーマともしているからである
つまりAIの詩は80パーセントくらい完璧でも20パーセントが足りないとなる、だからそれを人間が直したり手を加える部分が残る

それでも

主役はAIであり人間が補助役になっている!

翻訳とかでも今やこのように90パーセントくらいはAIがする、でもあとの一割は人間の手を加えることが残されている
でも主役はAIになるというのも不思議である。

ただこれが詩として英訳する韻を踏むとかなるとそこまではできない、それでもこの詩は英詩としても読めるだろう
つまり英語圏の人でも詩として読めるとなる
フェスブックにこの詩を載せれば理解する人がいるかもしれない
ただ写真と映像中心なのでわからない、ともかくあらゆる分野でAIは不可欠になる。それは進歩しているし進化し続けるからである。
ただどうして詩まで作れの不可解になる












2025年01月29日

継続は力なりーWORKするものを持て 【それぞれの分野で生涯追求するものを持つ】


継続は力なりーWORKするものを持て
【それぞれの分野で生涯追求するものを持つ】

●WORKする作品化する仕事を持て

人間は継続することが大事である。仕事でも何か転々として職を変えてもそれが本当の実りとならないだろう
自分がしてきた仕事を見て会社に採用されるならいい、同じような仕事になるからそれなら継続して仕事ができる
人間はworkいなる仕事となるのがいいとなる。つまりworkは作品でもある。自分なりの作品を仕上げる、それも継続して追求する
昔の職人はそうであり職人気質とか生まれた。つまり意固地であっても自分の作品を作ることにこだわりり継続して追求した
それで下駄でも何か手仕事で作ったものでも自分の名前を入れていた。近くで包丁を作る人がいてそこに名前を入れてあったとか今でもある、それは依然として大量生産ではなく個人的に昔の職人のようになり作っている

今時個人お名前をいれているとかはない、ただ規格化した大量生産でその仕事も流れ作業で作り出される。そこに個人の工夫が入る余地がなく人間はロボットになる
みんな工場で働き会社で働くから社畜だと自らが奴隷にするほかない。そこで誇りがもてないとなる
仕事というとき何か継続しないと実りとか成果がえられない、ただ時給いくらとか金のためだけに働く仕事は奴隷であり社畜だとなる。現実は大方はそうなり強いられている

自分の場合俳句短歌とか詩を作ることを追求してきた。才能がなかったけど若い時から一応五七五とか言葉を並べ作て来た
そおれは現在も続いている、この年になればやはり才能がたいしてなくてもそれなりに実るものがある。

●自然と同化するには田舎で沈黙することで学ぶ

とにかく才能の前に継続することである。詩などでも私は田舎で木とか石とか自然の事物と一体化するアイデンティティ化することをしてきた、そのために一人家に籠り禅僧のように座禅して沈黙する修行していたとなる、引きこもりになり一人修行していたとなる。
山でも木でも石でも沈黙しているからアイデンティティ化するには沈黙しないと一体化できないのである。これは社会から見れば異常になる、ただ不思議なのは僧はなぜそれが許されていたのかとなる。それも貧乏な時代であり民衆が布施して養っていたのも不思議だとなる

自然と同化するというときやはり田舎でないとできない、大都会となると自然がないのだから自然と一体化できない、高層ビルとか車の騒音の世界で自然を知ることはできない。
自然は山でも大地でも石でも岩でも沈黙しているからである。
ただそんな風に社会ではできない、それは異常な人と見られる
何か常にサービス業だと客に無理でも嫌でも歓迎する、顔でも無理に笑顔を作る。鏡を見たらその作り顔が映っていたというののもわかる。それが無理して習慣化して顔まで作り顔になっていたとなる
人間はこうして歪められる。

自然はありのままであり本然のままであり偽ることもない。それは動物でもそうである。何かこびるとかもない、餌をとるにしても人間のようにこびたりしない、食べるのも別にそれでいちいち媚びたりしない、ただ獲物を捕らえたというだけである。
人間社会では何か常に何するにも他者がいて食料でも金を媒介にして買うことになる。でもそれで何か自ら働いて得たものではないから本当に日々の食料を得るという感覚が得られない。もし自家生産していれば買うのとは全く違っ充実感が得られる
そして直接大地であれ自然と人間が結びつく体験をする

●継続は力なり

ともかく人間はそもそも継続して続けないと何でも物にならない
才能のあるなしでではなく何が一つでも継続して続けていればものになる。でもあらゆることに詳しくなることは不可能である。
そして人間に与えられた時間は短い。その短い人生にあれもこれもと手を出しても物にならない熟達することができないのである
たちまち時間は過ぎてしまうからである
たとえ大した才能がなくても継続していればそれなりに実りとなる
でもそれは限られたものでありあらゆることに通じることは不可能である

詩を作るにしても天才でない限りまず自然を知る同化することが必要である、俳句でも季語が基本にある時その季語自体を感覚的に理解するにはやはり自然を日々年々実感することが不可欠である
それは大都会だとしにくいのである。つまりまず自然と一体化することが必須なのである。それは悟りにも通じている
自然もロゴスでありやはり秩序がある法則ありそれは科学にもなるが詩でもロゴスを追求する

この世界を知ることでも何か身に着けるでも継続しないと身につかない、語学にしてもそうだし学問でも芸術でもそれぞれの分野で継続していないと成果は生まれない、陶芸作家でも何度も試行錯誤してその人なりの独自のものが作れるとなる
それは一朝一夕にはできない継続しないとできないのである
継続しなければ一芸に秀でることはできない。
そして老人になるとこれまで継続したものが結果となる、でも会社で社畜として自ら金のため奴隷化した人が何か継続するものがあるのかとなる。一貫して追求したものがないとその人なりの成果が現れないのである。

何か奇妙だけどAIが作る詩でもまず詩を作り詩を理解していなければ利用できない。それで足りないところとかを付け加えたり直したりした。それはやはり詩に通じていないとできないのである
それは他の分野でも同じなのである。だからみんがAIを効果的に利用できるわけではない、やはりその道に通じていないとAIでも利用できないのである。ただAIは人間の脳力を拡張することは確かである、人間の脳力は一個人ではたかがしれているだからこそその脳を拡張活性化するのがAIだとなる。

ともかくどんな分野でも継続してないと物にならない、そもそも人間に与えられた時間が短いからである。さから60以降とか確かにまだ学べるがどうしてもこれまで追求して来たものをさらに追及すると成果になる。とてもいろいろな分野に通じることは不可能である。だから一つの分野でも継続して探求することが大事になる
つまりworkすることその人なりの作品を仕上げることが大事なのである。

つまり最後に問われるもは何か?

あなたの継続して追求してきたものは何ですか?

それが必ず問われる。それがなければ価値がないともなる、老人になれば人生の結果が否が応でも現れるからである

AIが作る詩の不思議ー森の小径と小鳥のさえずり


AIが作る詩の不思議ー森の小径と小鳥のさえずり

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森の小径と鳥のさえずり

小径を歩けば、
足音ひとつ響かず
緑の葉がにつつまれ
空気は清らかで澄んでいる

遠くから聞こえるのは
鳥たちの歌声
一羽が歌い、また一羽が応える
そのメロディーに聞き入る

木々の間を風が流れ、
枝を揺らす音さえも
鳥の声と一体になって
心地よいリズムを刻む

歩みを進めるごとに
そのさえずりが近くなる
まるで森が私を歓迎するように
ささやくような歌声が響く

軽やかに枝々をゆらして
あちこちと渡り飛ぶ
四十雀のかわいい姿を
目ざとく見つける

どこからともなく、
鳥たちは歌い続け
その声に導かれるように
小径を辿る私の足も軽くなる

森の息吹とともに
鳥たちの声が織りなす
心地良く清流のひびき
自然の交響曲に包まれぬ

岩は互いに黙して
岩はその声を聴いている
その岩に鳥の声がひびく
そして岩はまた黙しぬ



私が見たのは四十雀である。このAIの詩と同じ経験をした
それをAIが表現した驚きである。私自身詩を作っていても表現されていないからだ。だからこのAIは不思議になる
全く脈絡もなく並べたものでもない、明確に一つの意味あるものとして作られている。

軽やかに枝々をゆらして
あちこちと渡り飛ぶ
四十雀のかわいい姿を
目ざとく見つける

岩は互いに黙して
岩はその声を聴いている
その岩に鳥の声がひびく
そして岩はまた黙しぬ


付け加えたのはこの部分だけである。私が近くの森で見たのは四十雀だからである。
それにしてもAIとは何なのか不思議になる。詩を作ることは高度なものでできないと思っていた。
でも実際は詩でも作れる。絵でも作れる。ただ四十雀は絵としては出てこなかった

いずれにしろ翻訳でもまずAIで翻訳して人間が訂正して付け加える作業になる
だから人間の役割がなくなることはない、それでも人間のすることでもかなり縮小されていく、
だから機械的な仕事は消失してゆく、事務作業でもそうである。
なぜなら詩は高度なものでAIにはつくれないとおもっていたができる、すると事務作業はさらにAIが得意な分野になり
代替えできるとなる。でも詩でも絵得でももともと理解できないものはやはりAIを効率的に利用できないとなる
どうしても芸術とかでは人間がまだ必要になる、それにしてもAIがますます進化したらどうなるのか、それに気ずかない人もいる。まず70以上とかなるともう無理である

私がプログでもSSNにしなかったりワードプレスにできないのもめんどうになったからである
何かいろいろと面倒になり付かれる。ただ近くで教えてくれる人がいるといいがそれもいない
そもそも教える方でも面倒であり手間なのである。だから70以上になると無理だとなる
そうなると時代に取り残される、老人はそうなりやすい、日進月歩で技術が発達するからである。
ともかくどうしても手間暇がかかる。プログでも毎日書くのが手間だけは省けないのである





2025年01月28日

AIの枯木の詩

AIの枯木の詩

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古い村の枯木、風に揺れ
ひび割れた幹が語る時の影
昔の人々の足音を覚え
長い歳月の中で静かに息をする

枯葉が舞い、土に溶け
その根は今も大地に深く
しっかりと根は張りつ
ここに根ずいて動かない

冬の寒さに耐えし枯木よ
その枯れ枝に星が煌めく
村の記憶が宿るように
今もひっそりと佇む

誰も知らぬ時の流れの中で
ただ一つ、変わらぬものとして
枯木はそこに立ち続け
過去と未来を見つめている

これもうまい詩である。相当に優れた詩である。
こういう詩を作れる人がいるのかとなる
だからAIは不思議になる、どういうメカニズムで作ているのか不思議なのである。
村と一体となった枯木を表現している

遥か昔、若葉を広げていた
あの頃の色を忘れずに

その根は今も大地に深く
しっかりと根は張りつ
ここに根ずいて動かない

これは何かそぐわない、それで直した。でも後は直すところがないのである
AIの衝撃は大きい、本当にこれは大きな人間の革命である
頭脳と深くかかわるから人間の最期にたどりついた技術革命だとなる ARTはそもそも広い範囲
をさしていた


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冬深むの俳句―【枯木、冬深むー寒烏ー写生俳句が基本】





冬深むの俳句―【枯木、冬深むー寒烏ー写生俳句が基本】 冬深むの俳句―【枯木、冬深むー寒烏ー写生俳句が基本】


冬深むの俳句―【枯木、冬深むー寒烏ー写生俳句が基本】

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大きな石が要石になる

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冬深む大地の底の硬きかな
石と石組て堅きや冬深む
家一軒土台の硬く冬深む
礎のここに定めて冬深む
要石庭に重きも冬深む
石重くそえて映えにし冬椿
読み返す分厚き本や冬深む
向き合いぬ枯木二本や田舎かな
寒烏一羽とまりて村の道
姉と母思い続けて冬深む

姉と母我が家をともに支えにつ60有余年その重みかな

枯木二本が田舎の道に向き合い立っている、それは何でもないありふれた風景である。でもそれに感じるのは田舎だからである。都会では感じにくい、その道はほとんど人が通らない、車でもあまり通らない、それで向き合い立っている、それは老人にも見える。それが何なのだとなるが写生俳句は説明するのではなく事物を通して語らせるのである。俳句は短いから説明できないからである

空家の庭はいい石を使っている。この庭の中核となるのが要となっているのが大きな石である。その石が全体の中心であり支えている。この庭は遺産として残せる、でも家の方は貧弱なのである、そこの家は毎日通っているし入れる 冬椿が咲く垣根もある
ともかく空家が本当に多い、だから誰も住まないことがもったいないとなる。ただ私は家より庭に注目している
石に興味があるからそうなる。

ともかく冬は田舎がいい、都会だと枯野もなく冬を感じにくい
それで江戸時代に枯野見があったというのもやはり季節を感じたいらそうなった。枯木でも村に調和してある。ただこの写真は街はずれのものであり本当の村ではない、そういう村は今は限界集落になっている。別にここは街内と変わりないのである。
冬深むとなる時今頃である。ただこの辺の冬は短い、雪も降らない、雪国の長い冬はないのである
でも雪国だと自転車で走れなくなるから困るともなる。それでも雪国の世界はこの辺では理解できないのである




2025年01月27日

事件でも空間軸と時間軸で見ないと理解できない 【関心領域の映画は現代社会の問題を鋭く指摘】


事件でも空間軸と時間軸で見ないと理解できない
【関心領域の映画は現代社会の問題を鋭く指摘】

●時間軸で理解するのが難しい

人間は何かを理解する時他人をを理解するのにも時間軸と空間軸が関係して理解する。問題は時間軸で理解することが難しいことである、空間ならその場に立てば直観的に理解する。
山に囲まれて住んでいるのか海に面して住んでいるなど教えられなくてもすぐにわかる。何か九州の旅館に泊まり老女の身の上話を聞いてもそれを理解できないしそんな余裕もなかった
旅というときいろいろな情報が自然でも入ってくるから処理できないのである、つまり時間軸で理解することが人間は苦手なのである。

でも一人の人間を理解するには時間軸で知らないと理解できない。だから人間を判断する時履歴書を見る、どういう経過をたどったかを見る。職歴を見る、途中で働かない時間が長いと採用されないとかなる。この人は仕事が長続きしないとか見られる
時間軸でその人を判断するのである。また地歴というときも空間軸と時間軸のことであり人間は場所と関係して時間軸からみないとと理解できない。でも2000年前とかなると理解するおが至難になる。空間軸で理解しても時間軸では簡単い出来ないからである。

ただ時間軸でも空間軸が関係していることは確かである。私の父親違いの兄は集団就職で静岡に行ってから交流はあっても何をしているかわからなくなった。妻と離婚して住む場もなく仕事探してトラック運転会社に就職した。そこで交通事故になり死んだ
そのとき中学生の娘をトラックに乗せていたらしい。その後児童保護施設に入れた。その時その施設から連絡が来てわかった
引き取ることができるとかたずねてきたらしい。
こうして何が起きているのか理解できなくなっていた。そして交通事故になり呼び出されて大変な目にあった。保険金のことでもめた。そこにトラック運転会社の人がかかわり骨を置いて行けとかしつこく言われた。墓をつくてやるかと言っていた。なぜそうしたのかというと保険金をもらいたくて身寄りがないと思ってそういったのである。

ともかく何が何だか分からなくなった。第一私は車を持っていないから自賠責とかもわからなかったからである。
もし近くに住んでいれば事情がわかるからこんあことにはならあかったのである。これは空間軸だけではない時間軸でも理解できなくなったためである。

●近くに住んでいても時間軸で理解できなくなる

ただ時間軸というとき空間軸で同じ場所に住んでいてもわからなくなる。その人と30年も40年も近くでも没交渉だと理解できなくなる。
その同級生は近くに住んでも私のことを全く理解できなくなっていたし私自身も没交渉なのだから理解できなくなっていた。
その人はスマホもしないから余計に自分のことも理解できず向こうから関係を断った。それは一瞬のできごとだった。私は自分のことを語ろうとしてもいろいろあり語れなかった。その人は簡単に私との関係を一瞬で断ってしまったのである。
お前は何もしてないというけどそもそも何も聞かないでそうなったのである。私のことはプログで膨大に書いているからそれを読めばわかる。でもスマホを持たないとしたら理解不可能になる
これも近くにいても時間軸で理解できなくなったから起きたことである。

ただ関心領域という映画が話題になったがすぐ隣で収容所で人が殺されていいても無関心だった。日常の生活が行われていた。
それは何か現代的社会の問題だった。それでおにぎり食いたいと言って死んだ人がいる。つまり隣にそういうふうに苦しんでいる人がいても今は無関心なのである。
何か子供のころ乞食が物乞いにきていた。農家でもおにぎりでもたくわんとかでもくれたという、そういう時代は乞食を認識してかわいそうだとなり恵んでいた。今は役所で相談しろとか無関心になったのである

何か職業も無数に分化して理解できなくなった。都会でなくても隣は何をする人ぞとなる。田舎でも同じなのである、なかなか何を仕事としているかわからないのである。
スーパーに行ってもほとんど知らない人である。たただこの辺は原発事故で避難区域から移住した人が三割くらいいるので余計にそうなった。その人達は何を仕事にしているのかわからない、おそらく地元では働いていない、車で避難区域になった所ではたらいているかもしえない、ただ本当に何をしているのかわからないのである。

●移動社会の現代で起きていること

いずれにしろ現代社会は広域化グローバル化している。すると昔のように同じ場所に長く住む人も少なくなる、移動社会にもなる。また会社中心の社会になると農民社会とは違って土地と関係なくなる。農民社会では三代住まないと仲間として認められないとか言う人がいる。それは土地を生活の基としていたからそうなった。
浪江に住んでいる人は会社が二本松に移動してそこに移住するようになった。つまり会社中心社会だとそうなるのである
何か子供のころ遊んだ人が東京に住んでいて岩沼の会社に移住したと聞く。これも会社中心の社会だからそうなった

ともかく空間軸と時間軸で理解する。でも現代社会移動社会でもある。原発避難区域の小高でで大工さんした人は原町に空家を買い住んだが病気になり息子のいる仙台市の病院に入院した
息子は不動産業であり原発事故後仙台市で仕事するようになったのである。
そして60代で熟年離婚した。だからこうした変遷を経験したのは原発事故のためである

私自身も時間軸では親の介護のため十年以上七転八倒して苦しんだ、その間に二回も入院しのであり手術もした。その時親も介護して一人は死んだとかか全部自分一人で背負うほかなかった
ただこうしたことは他の人にも起きている、ただわからないというだけなのである

とにかく人間のことは空間軸と時間軸で起きるが時間軸で起きることがわからないから他者を理解できないのである
小高の大工さんの場合は空間軸で時間軸でも理解したとなる
ただそれも十数年前からでありその前はわからないとなる

時事問題の深層というとき何か事件が起きてもその場所はすぐわかる、だから起きるとはtake place となる。起きた場所はすぐわかる、では時間軸で理解することは至難になる。
通り魔事件で残酷に殺した人は40代でありなぜそんなことしたのかそれも時間軸でみないと理解できない、その人の人生を見ないとわからない、何か積もり積もったものが鬱積したものがあり爆発したのかとなる。氷河期世代とかは恵まれないからこうした事件を起こしやすいのかともなる。また引きこもりも危険である
そもそも隠者となるには相当に優れた人しかなれないからである
それで小人閑居して不善を成すとなる。それは自分で経験しているからわかるのである。

●死者は時間軸でふりかえり思う

死者思う時それは明らかに空間軸も関係しているが時間軸の中に存在している。私は母を思うときその生い立ちを常に思うのである。それは継母に育てられたとか何か家が事業で失敗してそれが苦労の連続となった。それからどうしてなのか東京に女中に出たそこで結婚したのだが夫が事故で死んだ。そして私の家に嫁いだその時つれ子だった兄は私の家でよくしなかった。その兄も集団就職して交通事故で死んだのである

それから私の家で店を始めたとき暇なく働いていた。要するに若い時から一生働き詰めの人生だった原町紡績でも働いていたから本当に働き詰めであり何か他のことに興味を持たなかった。
持つ余裕もなかっただから花どにも興味もなく花はいらないとして豆を植えていたのである。やはり貧乏時代を生きたから食料が優先になっていた。それも何とも殺伐とした人生だったともなる。ただそれは強いられた結果であり一概に批判はできない。でも何とも悲しい人生だったともなる。

でもそのことを時間軸で人生を知っているから母はこの家に尽くし自分にも尽くしてくれたから感謝しているのである。
つまり死者となると空間軸で存在しているというより時間軸で存在しているこの人はこういう人生を送ってきたとか判断するである。その経験してきたことを聞いて時間軸で振り返ってその人思うのである。
だから死者という時確かに空間塾で存在してはいる。でもどちらかというと時間軸で死者を思うのである。普通なかなか死者でも理解できないのは墓を見てその人がどういう人生を送ってきたか分からないからである。
たしかにその場所に空間軸に墓があるということはわかる。でもその人がどういう人生を送ったのか皆目わからないの。だから墓というのは何かもう一つ物足りないのである。むしろ物語としてヒストリーとしてストーリーとして人間が存在するしそれで人間を理解するからそうなる。

posted by 天華 at 18:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年01月26日

『秘密の湖』―私の改変した詩 【AIは創作のヒントを与えるー完成したものとはならない】


『秘密の湖』―私の改変した詩
【AIは創作のヒントを与えるー完成したものとはならない】

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森の奥に隠れた湖
静けさに包まれ、誰も知らぬ
その水面は鏡のように
空を映し、心を映す。

昼も夜も変わらぬ顔
ただ時が流れるのみ
小さな波がささやき、
風がそっと耳打ちする。

誰も足を踏み入れぬ場所
その静寂に、ひとり佇む
湖の底に眠る秘密は
語られることなく、ひっそりと。

木々の影が揺れるとき
光が湖面を踊らせる
それはただの光の遊び
キラキラと光り戯れる

誰も知らぬその場所に
誰も探しに来ぬけれど
その湖が知っているのは
心の奥にひそむ願いだけ。

そこに森の奥に一つの石
それはいつも黙してある
誰も知らぬ隠された石

それは石の精なのか
ひそかに歩み来たりて立つ
その岸辺に湖を乱すことなく
そして森の奥に帰って行く

森は静まり風がそよぎなる
小鳥がさえずりその声がひびく
石は黙って聞いている
ここに踏み入る人はいない

湖は太陽を映し微笑む
雲が流れここを乱すものはいない
時に鹿が水を飲みに来る
湖はただ鏡のように静まる

そこは一つの神秘なる聖域
聞き耳をたて神がいる
そこを乱してはならない
森の石は深く静まりぬ




AIからヒントを受けて詩を作る、小説でも作る時代になる。なぜヒントになるのか、それは何か膨大な情報にアクセスしてそうなるのだろう
それにしてもただつなぎ合わせてできるものなのか
そのメカニズムがわからない、でも明らかに創作するヒントを与える
こうして改変すればAIだが作ったとはならない、自分の創作だとなる

AIの詩を改変したのは次の詩である、あきらかにこれがヒントになり作れた

【AIが作った詩】

『秘密の湖』

森の奥に隠れた湖
静けさに包まれ、誰も知らぬ
その水面は鏡のように
空を映し、心を映す。

昼も夜も変わらぬ顔
ただ時が流れるのみ
小さな波がささやき、
風がそっと耳打ちする。

誰も足を踏み入れぬ場所
その静寂に、ひとり佇む
湖の底に眠る秘密は
語られることなく、ひっそりと。

木々の影が揺れるとき
光が湖面を踊らせる
それはただの光の遊び
それとも、忘れられた物語の欠片か。

誰も知らぬその場所に
誰も探しに来ぬけれど
その湖が知っているのは
心の奥にひそむ願いだけ。


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2025年01月25日

旅が喪失した現代【価値の多様性−金にならない価値】


旅が喪失した現代【価値の多様性−金にならない価値】

価値というときあまりにも多様なのである。ただ価値は現代なら金で計られる。金になるものは何でも価値があるとなる
金にならないものは価値がないとされる。
でもすべて金で計れないし金にならなくても価値があるものはいくらでもある。例えば景観に価値がある、何か私は景観を気にする。喫茶店でも景観がいいと価値がある、そこにいるだけで気持ちいいとなる。新地のはあガーデンという所は海が全面に見えるから気持ちいし松川浦でも港が見えて船が見えていいとなる

でも磯部の喫茶店はただ道に面していて海も見えないから入る気にもなれない、道を車が通るだけではつまらないとなる。
海が見えれば価値がある。ただ価値はいろいろでありそこで料理がいいとか人がいいとかいろいろな要素で価値を作り出している
温泉でも都会の温泉より景色のいい何か秘湯とかをめぐる人がいる。ひなびた場所が人気がある。

つまり人間は場所に影響される、場所が変わると心も変わる
また人も関係する。もてなしがいいとかでいいとなる。
ただ一番の価値は立地になる。景観がいい場所は人と関係なく価値を作り出すのである

●場所〔景観〕
●歴史
●料理
●人のもてなしサービス

何か今は料理に一番価値を置く人が増えている、私は料理より場所でありまた旅をするときそこまで行く過程で見るもの感じるものがありそれで俳句や短歌を作る

草臥れて宿かる頃や藤の花 芭蕉

こういうことは歩いて旅した時代で感じたものであり今は車だからただ目的地に着き旨いものを食べることが目的になり旅は失われたのである。温泉地でもそこが高度成長時代は歓楽街のようにもなった。旅自体が現代では喪失したのである。旅は車ではできない思う、山頭火が時雨に感じたのは歩いて旅していたからである。
でも車だったら時雨でも風でも感じないのである
すると旅館でホテルで何かうまいものを食べたとかしか印象に残らなくなる、だから現代は旅がなくなりただ車で移動しているだけだとも感じる

何が価値があるかというときそれも様々であり時代によっても変わる。旅となると単なる移動ではない、歩きながら景色でもまた旅は道連れとなる。そうなるのは歩いていたから道連れになった。車は閉ざされた空間であり人と触れ合わないのである。ただ互いに通り過ぎてゆくだけである。

例えば東北〔福島自動車道〕ができたが前の道は旧道になり車が通らなくなった。でもサイクリングにはいいとなった。もし歩いたとしたらそれ以上にいいとなる。車が通らないからである
ただそのために店は人が入らずやめた。でもサイクリングするには良く途中に休む場があればいいとなる。
昔の街道のようになり茶屋があり休む。それが旅なのである

街道に秋の日さして松による道の辺あわれ草の花かな

歩いて感じるののは違っている。松でも違って見えるのである
浮世絵とかに残されている風景がそうである。何か松でも良く描かれている

松一本ここに立ちにし標かな旅人行くや秋の暮れかな

松は高くもないから人間に見えるのである。だから松に特別親しみを感じる。

とにかく街道には松が多かった。松並木があり松を絵にするのが多い。

旅人を地蔵の見るや街道を今日も行く人秋の日さしぬ

街道なら地蔵でも旅人見る、道祖伸とかもある。それは旅の安全を祈るとなる。つまり街道はこうして心を通わすものとしてあった。自転車で旅して雨が降ったとき夕立ちが来たとき御堂に雨宿りした。御堂は旅人が休む場所でもあった。雨宿するにいいし時代劇ではそこで寝ていた宿にもなっていたのである。そういう役割があったとなる。

夕立や御堂に休む燕飛ぶ

ともかく現代は旅が喪失した。車だと移動であり旅になりにくい、そこで何か移動するだけで記憶に残らないのである

冬籠り記憶の道をたどるかな

このように記憶が車だとたどれないのである。歩く旅なら記憶に残る。だから現代人はかえって失うものがあった。五感で感じるものが鳴く記憶されないのである。それが後で大きな損失だったと気づくのである

一歩一歩踏みしむ道や根ずく木の心に残る秋深むかな

posted by 天華 at 17:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅の記録

2025年01月24日

北海道讃歌の詩ー北海道は一つの新しい国


北海道讃歌の詩ー北海道は一つの新しい国

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函館

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羊蹄山は厳しく迫り聳える独立峰
山頂は氷雪に閉ざされぬ
その眼下広々と耕された大地
牧場に牛はどっしりと憩い
丘に花々は咲き満ち天を望む
摩周湖は底まで透き通り
不浄を拒絶する神域
原始の森なるエゾ松トド松
神殿の柱のように重厚に
森の主エゾフクロウの棲む
あわれアイヌコタンの点々と
その生業と伝説を語る
深々と針葉樹の荘厳な森
延齢草のここに咲き長寿なれ
ポプラの木は真すぐに天に伸び
湖の岸にシラネアオイの大輪の花
樽前山はなお煙吐きて
藪甘草の赤々と咲きぬ
北海道を打ち囲む海なれ
その原野の海岸線の長々と
鴎飛び波打ちひびき鳴る
知床半島崖は反り原始の貌
オホーツクの海は流氷に閉ざされぬ
轟々と流るアムール河よりしも流れ着く氷塊
我が宿にクマゲラの叩く音ひびく
函館はロシア正教のドームもの寂び
岩に十字架の外人墓地のロシア人の墓
その港に古し煉瓦の倉庫群
路面電車のものうくひびく都市も古りぬ
そのエキゾチシズムの街並
終点や立待岬に浪打ち付けて
白波は大森浜に打ち寄せてひびく
東海の小島の磯に蟹とたわむる
啄木の墓の雪に埋もれぬ
岩礁に浪うちつけ響き太陽の黄金の光
質実なるトラピスト修道院のありぬ
清楚静粛にして神への祈り
ああ 榎本武陽の蝦夷共和国の夢は砕かれ
そ開陽丸の残骸の海に沈みぬ
斬新なるオランダに学ぶ星形の要塞五稜郭
北海道は一つの新たな国なれ
清新の気の満ちて新天地なりしも


北海道の魅力は地理的に日本列島でも分離して風土も気候も違っている。九州四国も一つの島であっても気候は似ている
北海道は本州から分離して独立した一つの国となっている
だから北海道というとき風土が違った別の世界となるからそれが返って魅力になる。

東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる

東北の仙台市から船で苫小牧に着くと何か花でも北海道特有の花が咲いている。ルピナスとかそうである。空気ども違っている
苫小牧は都会でもちょっと離れると原野や湖でもある。東北とかとはなり違った雰囲気なのである。原始的状態の自然もあるとなる 宗谷岬にはハクサンチドリが咲きヒオウギアヤメがさきそれは高山に咲くものでもある。北海度は寒いからそうした花が平地に咲いているのも魅力である

北海道の歴史はアイヌから始まるがむしろ明治以降に職を失った侍が入植して拓いた土地である。新天地として北海道を目指したのである。そこクラークとから内村鑑三はキリスト教を習い薫陶を受けた。また榎本武陽は開陽丸をオランダで作り150日かけて日本にもたらした。でも函館で政府軍との戦いがあり海の底に嵐で沈んだ。五稜郭もオランダの城をまねて作った

北海道は歴史的にも明治から始まるから身近である。江戸時代となるとわかりにくいが明治は現代と連続している。
ともかく東北は古代から歴史がある。日高見の国があったにしろ西より先に統一国家がったという説もありそれだけ古い
でも北海道は東北とは異質なのである。原住民のアイヌが住んで歴史があるとしても北海道は明治以降の新しい国なのである
新天地として侍でも入植したのである。伊達市は亘理の武士が入植して伊達市となった。

明治に函館に港が開かて外国人もロシア人も入って来てロシア正教会が作られて外人墓地にその墓がある
函館は放浪して短歌を残したように異国情緒ががある。

函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花

こうした雰囲気はやはり明治時代に異国と触れたからそういう時代の雰囲気の中で生まれた、つまり時代の雰囲気はその時代を生きたものでないと実感できないのである
芭蕉の俳句でも江戸時代の社会があって生まれた。自然でもそのとき車もないし電気もないのだから沈黙と闇が深い、万葉時代だたらもっと闇が深くぬばたまの・・・という枕詞になった。

いずれにしろ明治時代は魅力がある。でも何か大正時代になるとデカダンスとか退廃的なものになり昭和となると戦前だが何か戦争に向かう暗いものを感じる
平成から昭和になると今や昭和でも歴史となりなつかしむとなる
それで当時のテレビドラマを見るとその時代の雰囲気がある
商店街に活気があり人々の生活も今とは違っていたのである。小さな店がたくさんあった。その頃は若い人が多く活気があったとなる。現代は少子高齢化で老人が多いから活気がないともなる



2025年01月23日

「沈黙する石」ー受容する器の石 "The Stone of Silence" – The Stone of the Vessel of Acceptance


「沈黙する石」ー受容する器の石

"The Stone of Silence" – The Stone of the Vessel of Acceptance

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AIの詩

静かなる石の声、 誰も聞かぬ無言の詩。
永遠の時を見つめて、 語らぬ言葉、揺るがぬ意志。
流れる時に身を委ね、 存在の意味を内に秘め。
その重み、その質感、 触れることなく感じ取る。
沈黙の中に宿る力、 言葉にせずとも響く魂。


自作の詩

石は受容の器
一か所に動かず
何かを感じる
風が囁き、雨が語る、
石はただ静かに受け止める。
女性的に何事も受容する
受け身になり相手と合わせる
それは一つの器
その器に記憶を留める
嵐に打たれることもあるが
石は静かに忍耐する
嵐が通り過ぎて石は感じる
やさしい光をそよ風を
そして石の側に一つの花が咲く
石は何かを受けとめる
受容の器の機能
一か所に動かずとも
様々のことを感じる器


A stone is a receptacle of acceptance
Not moving in one place
It feels something.
The wind whispers, the rain speaks,
 Stone just quietly accepts.
Feminine and receptive to everything
Passive and in tune with the other
It is a vessel
And in that vessel we keep our memories
It can be battered by storms, but
But the stone is quiet and patient
When the storm passes, the stone feels
A gentle light, a gentle breeze
And a flower blooms by the stone
The stone receives something
Functioning as a receptacle
Without moving in one place
It is a receptacle that senses many things


AIからインスピレーションを受けて詩を作る、これも不思議だとなる。詩は簡単い作れない、何か下手な詩をウェブに載せる、
別に誰かが審査するのでないから自由なのである
そうした下手の詩よりAIの詩は優れている、それが謎なのである

ただAIの詩は不完全である。それでもヒントをもらい私が作った
何かAIが他の分野でもヒントを与える作用があるのは確かである
いずれにしろAIが何なのか?それは社会全般に影響するときどうなるのか?ARTにも影響するとどうなるのか?
それでも依然としてこのように人間がかかわらないとARTの分野では通用しないだろう

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2025年01月22日

北海道の旅と人生 【十分に生きない者は死ぬこともできない―人生は連続している】


北海道の旅と人生
【十分に生きない者は死ぬこともできない―人生は連続している】

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北海道を走る

タンポポが一面に咲き満ち
雲雀が声のかぎりにさえずっていた
そのさえずる声が激しくひびきわたる
大空に大地にひびきわたる
人は見えず誰はばかることなく
雲雀は思い切り一心にさえずる
その声のみがひびきわたった
自由なる旅人よ
そは広大なる北海道を旅する
かなたへかなたへ
そはひたすら進む
ああ 人よ悔いなく生きよ
汝は奴隷のごとく生きるなかれ
隷属してただ服従するなかれ
汝を自ら縛るなかれ
人に使われる汲汲たる人生
それは果たして良きものや
幾ばくかの金で使役される
それが実りをもたらすや
人の生は短く儚い
汝の人生に何を残すや
金を貯めてもその生を失う
自由の旅人よ!
広大な北海道の大地よ
その最果ての地に来たり
ハクサンチドリの咲きぬ
美しきかな旅人は遠く来たり見ゆ
汝の生を謳歌せよ!
自ら奴隷となりて生きるなかれ
ただ不満の言い嘆くなかれ
生きる日は短くたちまち過ぎる
労働はすべて良きものにあらじ
そが生と時間を奪われるなかれ
また夏の日郭公は鳴いた
その声は広大な北海道にひびきわたる
遠くへ遠くへ旅人は行く
汝は何を見たのか何を得たのか
汝は金にとらわれ金を求め生きたのか
その人生に何を得たのか
誰も汝をを認め称賛しない
汝は金のための奴隷なれや
雲雀が郭公がキセキレイが激しく鳴く
その広大な花咲き満ちる湿原に
利尻岳が厳しく聳え迫り
碧々と北の海は深く静まり
旅人はひたすら走る
錚々と草原を吹きわたる風よ
鴎は飛び波打ちつける海岸線よ
かなたへかなたへと続く
海は轟きひびき鳴る
北海道我が心の故郷よ
雄大に大らかに健やかなれ
汝の生を全うせよ
自由の大地よ、汝は生きぬ
郭公の声はひびき木霊する
汝は大いなる歌いつつ去るべし
壮大な地球を歌いつつ
天地にひびき木霊する歌よ
天にも昇り歌いつつ去るべし
そして神に目見えるべし


生きることとは何なのか、何か老後のために金を貯えるとかいろいろ心配するけど、その前に本当に生きることである
生きなけらばあなたおの生を全うしなければ逆に安らかな老後も死もないのである。
老人になって後悔する時金を貯めなかったということがあっても本当に生きなかったということただ金のために働き使役されたことが後で後悔になる。私は自由が与えられていたが金はなかった
でも別に金が無くても旅はできた。自転車でテントを張り寝たそしたらホテル代はかからなかった。問題は自由な時間が必要だった。時間は十分に与えられていたのである。会社員になると自由な時間が得られないのである。

だからいくら金があっても時間がない、それで自由な旅はできない、また老後に退職して旅をするというとき体力がなく自転車で旅ができなくなる。つまり人間はすべて金だけで何でもできるわけではない、不平等を嘆くにしても時間はみんな平等に与えられている。金持ちでも貧乏人でも時間は平等に与えられて差別はないのである。問題は限られた時間をどう利用するかなのである

別に金があれば楽な旅はできる、でもその旅は印象に記憶に残るとは限らない、だから貧乏人でも旅はできる。海外旅行でも円高の時はフリターとか貧乏な若者が世界を回っていたのである
それは恵まれた時代だった。それが円安でできなくなるからその時旅しない人は大損だったとなる。私は辛うじて50歳以後バックパッカーになり外国を旅した、それはやはり時間があったからである。でも60才以降親の介護になったからその機会を逃すとできなくなっていたのである。つまりチャンスを逃がすと金あるなしでなく何でもできなくなる、そして60歳くらいになると病気になりやすく過酷な登山でも旅ができなくなる。
だから金が無いから何もできないということでもない、体力ある内に行いとなる。
北海道は十回くらい行っている。だから第二の故郷ともなる

ともかく老後の心配してもしょうがない、まず若いうちにやれることやれば後悔しない、それがあなたの血肉となる。
それでこそ安らかに死ねる成仏するとなる。そうして私は生きたのだということがないことが後悔になる、なぜならそうして生きるチャンスが失われて二度と戻ってこないからである。
そして嫌々ながら社畜だとしていくばくかの金をもらい自らを奴隷にする、それが老人になって後悔する。もちろん旅がすべての人にとって人生とはならない、その人なりの人生を生きたかということである。そうして生きなかった人は不満であり老人になってただ今度は死にたくないとなりただだらだらと延命するだけの老人なる。

つまり老人の問題は若い時から始まり継続した問題なのである。だから老人になって後悔しても時すでに遅しとなっている。老人の問題は老人になったから起きるのではない、若い時から始まっているのである、その生を全うすれば後悔することはないのである。

多数の者は他人の意志によって動かっされるだけである

時に適って生きなかった者がどうして時に適って死ぬことができよう

我々はもうあまりに疲れて死ぬことさえできない、それで我々は目覚めたままで生き続ける―墓穴のなかで
ニーチェー『ツァラトゥストラ』

人間は死を恐れる、なぜ恐れるのか、人間は十分に生きていないから恐れる。それぞれの生を全うしないからまた死ねないとなる
疲れて死ぬこともできないとなる。生と死は表裏一体であり十分にその生を全うした者は安らかに死ねるとなる
老人の問題はいろいろある、でもその生を十分に生きることこそ安らかな生があり成仏するとなる。
つまり十分にそれそれぞれの生を生きなかった者は死ぬにも死ねないとなる。人生とは一連のものとして継続していて突如老人になるわけではない。子供から青年壮年老人と継続したものであり
切り離すことができないのである

だから老人を語る時実際はその人の全人生が問題になる、どう生きたかが問題になる。死も生と関連してある。切り離せないのである。十分にその人なりに生きた人は後悔なく死ねるとなる
それは熟した果物ののようになり終わるともなる。
〔若い内神を知れ〕というときそれは老人まで影響する。神が存在する神に認められるということで安心がありそれは老人になっても継続して影響する、ともかく老人の問題は全体の人生と切り離してありえないのである。だからこそ十分にその人なりに生きない人は死ぬこともできないとなる。時期に適って死ねないとなる

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ベストセラー】「60歳からは、「これ」しかやらない 老後不安がたちまち消える
「我慢しない生き方」」を世界一わかりやすく要約してみた【本要約】













2025年01月21日

YOUTUBEは話すことと映像中心になり記憶に残りにくい 【文章化することで整理して記憶に残す】


YOUTUBEは話すことと映像中心になり記憶に残りにくい
【文章化することで整理して記憶に残す】

脳科学×心理学で読み解く人生のガイドライン

youtubeの情報とテキスト中心の文章中心のプログとかはかなり違っている。youtubeだとまず顔を見る、次に何かその人の体型を見たりする。そして話すことが中心になる。
でも何か記憶に残りにくい、養老氏のyoutubeを見たら何か常に寝そべりその姿が記憶に残る、その表情がまず目につき記憶される
でも何か話すことを聞いても何を言をうとしているのか明確にならない、だらだら独り言を言っている感じになる

養老孟司が「自衛隊のいる後ろめたさ」がなくなるのは危険だと
警鐘するワケ…中国に見る、規範を重視する伝統の重要さ

これを読んで私なりのレスを反応を書いたのはまず何を言いたいかをその要旨を即座に理解したからである
〔うしろめたいものを自衛隊員はもつべきだ〕このことに共鳴した
それで老子のことを引用して感想を書いた。
でも他でもyoutubeは何か記憶に残りにくい何を言いたいのかもそれを読み取ることが難しくなる。つまりかえってその人の顔とか表情と態度が頭に入る、肝心のその人が言いたいこと訴えたいことがわからない、あいまいになり記憶に残らない傾向がある
それで養老孟司氏の言っていることも良くわからなかった。

他でもyoutubeだと同じ傾向がある。顔が全面に出てその態度とか服装とかでも最初に注目する。そこに記憶が刻まれる。でも肝心のその人が言いたいこと訴えたことがあいまいになる
そして記憶に残りにくいのである。だから文章化することがその人の言いたいことの要旨を知り記憶に残すことで大事な作業になる
本だとその人のいいたいことがわかる。話すことは何か首尾一貫してない。断片的になる。

テレビとかでもそういう傾向はあった、youtubeも動画だから同じ傾向がある。ただ映像と動画のメデアでもそこにすべてを表現できない。情報とは映像だけでもすべて表現できないのである。もちろん言葉だけでも表現できない、実際はあることを知るには感じるにはその場に立たなければわからないのである。
外国でもその場に立たない限りいくら外国の本を読んでもまた映像をみてもわからない、何かドイツで見た秋の薔薇でもそれは日本で見る薔薇と違っていた、つまり同じ花でも外国で見る花は違っている
薔薇でもいつの時期に咲いているか写真だけではわからない場合がる。

youtubeは話すことが中心ではある。でもそれが記憶に残りにくいのと何を言いたいのかがわかりにくくなる。だから深いことを知るのがむずかしい。表面的なものとして次々に消えてゆく感じになる
そして映像中心になると想像力が働かないともなる。言葉だと文章だと必ず想像力を働かせるからである。そして何を言いたいのかわかりにくくなる。本だと文章でもこの人は何を言いたいのかいかなる思想を表現するのか一貫しているから理解する。ただ本にしても
理解すること自体がむずかしい。何事深く知ることはむずかしいとなる

人間とはともかく忘れやすいのである。私自身膨大なことをプログに書いているがその自分が書いたことを忘れていて読み返してみて感心していること自体不思議なのである
人間の問題は忘れるということにある。だからこそエジプト文明はヒエログリフを文字を発明したということが記録されたことでその文明の謎が解き明かされたのである。文字を残さない文明はマヤ文明とか謎になる。

ともかくyoutubeでも話したことを文章化すると記憶に定着しやすい、そして自分なりに考察する、するとその人の言っていることを本当に理解したとなる。そもそも何でも理解すること芸術でも鑑賞すること自体難しいのである。
確かなことはインターネットはSNSは対話的メデアなのである。これまでのテレビとかでも一方的であり対話的ではない、一方的洗脳メデアである。でもネットではニュースでも即座に答えることができる、ヤホーニュースは毎日読んでいる、ただそこにも問題がある
芸能関係とか様々なジャンルが混交していることである

またそれもテレビと同じように取捨選択するメデアである。誰もがそこに載せららない、選ぶ人がいて載せられる、でもインターネットでは誰でも一応表現は意見でもいうことができる
しかしほとんど読まれないという問題がある。重要な発言でも知られないし読まれないことがある。発言しても誰も読まない注目もしないことが普通にある。
とにかくyoutubeも表面的なことだけで深いことを知り得ないことはある。それでもメデアが万人のものとなった。個人でも様々な表現が可能になったのである



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【ひろゆき】奴隷労働…日本は植民地化する!

ニンニクの皮むいているのはウイグル人が刑務所でひたすら向いている、爪が削られて歯でむいている
これを深く考察すればなぜウイグル人が刑務所に入れられたのか、そしてひたすらニンニクの皮をむく仕事をする
それを考えた時これが中国人の人種差別でありそのために奴隷労働させられている。そこに中国の問題がある
こうしたことをウイグル人のことをニンニクから考える人はいない、他の商品でもそうである、ただ安いか高いか値段を見るだけである。だからグローバル化したとき商品でもどうして作られるかなど理解できない、それは日本国内でも起きている
奴隷労働も日本でも外国人を奴隷にしている側面がある、グローバル経済は勝者が他国を奴隷にするシステムだとまでなる

とにかくこうして文章化してyoutubeも理解する、対話することが本当に理解することになる




2025年01月20日

養老孟司が「自衛隊のいる後ろめたさ」がなくなるのは危険だと 警鐘するワケ…中国に見る、規範を重視する伝統の重要さ


養老孟司が「自衛隊のいる後ろめたさ」がなくなるのは危険だと
警鐘するワケ…中国に見る、規範を重視する伝統の重要さ

●兵は不祥の器にして、君子の器にあらず

夫(そ)れ兵は不祥(ふしょう)の器、物或(ある)いはこれを悪(にく)む、故(ゆえ)に有道者(ゆうどうしゃ)は処(お)らず。君子、居れば則(すなわ)ち左を貴(たっと)び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ。兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。已(や)むを得ずしてこれを用うれば、恬惔(てんたん)なるを上なす。勝ちて而(しか)も美ならず、而るにこれを美とする者は、これ人を殺すを楽しむなり。夫れ人を殺すを楽しむ者は、則ち以(も)って志を天下に得べからず。
軍隊は不吉な道具だ。物はこれを嫌うかもしれない。だから、道を修めた者はそういう場所にいない。

軍隊は災いの組織であって、補佐官のための組織ではないので、やむを得ずこれを使うなら、最低限にあっさりと使うのがよい。
勝ったとしても誇らしくはない。これを誇れば殺人を楽しんだことになる。こういう連中は人の上に立ってはいけない。

養老孟司氏が言うのはこのことになる。兵士が軍隊が全面的に出て来た時は戦争の時代である。戦争の時一番威張っていたのは軍人である。軍人が讃えられた、でも軍人は戦争の時人を殺す時必要になる。消極的なものとしてやむえざるものとしてあるべきということになる
だから軍人が讃えれる時危険になる、でも未だに上等兵だとか二等兵だとか軍隊の位を墓に記しているのには違和感を感じる
その時代なら誇りとなっていたし社会でその価値を認めていた
でも今になると何か違和感をもつ。軍人を讃えるものと見るからである。

君子の器にあらず。已(や)むを得ずしてこれを用うれば、恬惔(てんたん)なるを上なす。勝ちて而(しか)も美ならず、而るにこれを美とする者は、これ人を殺すを楽しむなり

だから戦争とか軍人を賛美することに抵抗がある。それを全否定できなくても消極的なものとしてやむをえない範囲に留めるのがいいとなる。そうなると日本の自衛隊はそういうものであり老子の思想にかなっている。
老子の思想は三国志の熾烈な権力闘争があったが老子の思想は何か宗教的でありキリスト教にも通じるのである
柔和なものが地を継ぐであろうといとき老子も剛より柔弱なものが強いとしている。剛は強いようで弱いとなる

キリストの柔和なものが地を継ぐだろうというのもそうである
兵士とか軍隊はなるべくならあってはならないものなのである。
ただそうなると日本は他国に攻められたらどうするのかとなる
無抵抗主義になりただ殺されるのかとなる。でもむしろ軍備を強化すれば他国も警戒する。だから本来は兵は不必要なものであり積極的軍備を拡大することは危険だとなる、剣を持つ者は剣で滅びるにも通じる。

●剣を持つ者は剣で滅びる

ともかく剣を持つ者は剣で滅び核を持つ者は核で滅びる、これは確かである。だから第三次世界大戦になったら確実に人類は滅びる。それがロシア中国アメリカの大国の衝突でなる。その時日本も巻き込まれる。老子の小国寡民というとき日本が江戸時代は世界と交わらない鎖国で戦争のない300年を維持した

でも世界に開国して戦争が3度あり太平洋戦争では3百万人が死んだのである。世界でも何千万人も死んだとなる、だからグローバル化というもものが本当にいいものであるのか疑問になる
ただ小国寡民というとき村のようなものではなく日本一国で小国寡民なのである。それは老子が生きた時代は一億人の人口だった
だからそんな時代でも中国は人口が多いし大国となっていたのである

何故世界でこれほど紛争があり戦争がなくならないのか、世界で人が交わる時グローバル化してかえってそれが世界大戦に発展して何千万人も死んだ。それは何故なのかとなる。世界の人が交わることが悪いものではない、でも一方で世界の人が交わることは対立も激化して戦争になっっということである。

グローバル化した世界は悪いとは見えない、でも貿易戦争にもなりそれが本当の戦争にも発展する。日本の太平洋戦争の切っ掛けとなったのも石油が輸入できない、アメリカの経済封鎖が原因だったともしているのもそうである。また戦争でも燃料になる石油がなく負けたとも言われる。特攻隊のゼロ戦でも片道の燃料しかなく帰ることのできないものとして突撃した
つまり石油がやはり重要なものだったのである

今でも常にアメリカに逆らうものは経済封鎖されて苦しくなる
本当に殺し合う戦争ん前に経済的に窮地に追い込み疲弊させる、そして耐えることができなくなり本当の殺し合いの戦争になる。
戦争は殺し合いの前に経済戦争がある。だからグローバル経済でも必ず経済戦争貿易戦争があり本当の戦争になる。平和な自由貿易などありえないのである。だから今度は中国がアメリカによって経済で締め付けられて不況になり苦しむ、それが米中の戦争にも発展するから怖いのである。

●老子の思想とキリスト教は似ている

いずれにしろ老子の思想とキリストの思想には共通したものがある。治めずして治めよとか聖書なら緑子に治めさせよというときもそうである。何の力もないものに欲のないものに治めよというのも共通しているのである。そこに平和の思想があった。
要するに老子の思想は仏教でも東洋の思想であり共通している
キリスト教もアジアのもであり欧米とは違う、だから欧米のキリスト教は本来のキリスト教ではないというときそうなる
そのオリジンは東洋にあったとなる。

野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

働きもせず、紡ぎもしません

これも無為自然の思想であり老子の思想と似ているのである
何か西欧的働くことを宗教の根本としたものと違っている
それでウェーバーの修道院から他者に尽くすものとして資本主義が始まったというときこうした思想とは反するものでありだから欧米のキリスト教は本来のキリスト教ではないと指摘する人がいる、内村鑑三などがそうである。東洋的思想だとなる。
何か欧米だと他者に尽くすことが強制される慈善活動でもそうである。寄付が強制される、でも内村鑑三などははそうした慈善活動は消極的であれとしているのである。
そうしたことより心の内面を重視した。確かになざ禅宗では何もせず座禅しているのかそういうことは否定される他者のために働けとなる。その相違が大きいものとなる。
ただ禅宗にしても一日作(な)さざれば一日食はずという思想がある、でもそこには他者に尽くすことではない、他者に頼らず自分のことは自分で賄うべしという思想である。

その相違がかなり大きい、それは資本主義が他者に尽くすための労働として発展したとなればそうである。労働の原動力が根本的に違っているとなるからである。でも実際は資本主義は今や他者に尽くすとかではない極わずかの人たちが莫大な富を手にするものとなった、かえって他者を働かせて暴利を得るものとなった。
だから他者に尽くすということがかえって他者を利用して働かせて暴利を貪るとなった皮肉がある。そこに矛盾があり資本主義が崩壊するともなる。それはキリスト教の理解が間違ていたからだともなる、欧米流のキリスト教は本来のキリスト教ではないといううのはそのことになる




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posted by 天華 at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年01月19日

冬の暮に周辺を回る【冬紅葉,枯葉−命長ければ恥多し】


冬の暮に周辺を回る【冬紅葉,枯葉−命長ければ恥多し】

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橲原の立目石
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冬紅葉そちこち農家石の倉
立目石ここに変わらず冬の暮
散りもせぬ数枚の枯葉窓に見ゆ

大原に生きにし人の墓ありぬ我がたずねて冬の暮かな
病院に共にありしもその人の死してあわれや家継ぐ人なし

今日はあたたかいので大原から橲原をまわった。大原は原町の公立病院で入院して同室だった。それで大原のことを語った。
それもたちまち過ぎてその人は死んだ。空家になった家のことと猫のことを心配していた。斎藤茂延(しげのぶ〕氏の墓は木立の中に隠れるようにある。だから最初気づかなかったのである。
それにしても歳月はたちまち過ぎる、十数年前になりその記憶も定かでなくなる。
とにかく人間は確かに苦しいこともあるがそれも時間が過ぎれば忘れるのである。そしてその記憶もあいまいになる。
今も空家としてあるがそこには住む人がいない、息子は街中に住んでいるからである。

橲原の立目石は目印となる、それは変わらずあったが空家も何軒かあり耕作地は荒れたままである。でも人が住んでいるのは別に農業だけで生活していない勤め人だとなる、あそこで土地も狭いから農業だけでは暮らせない、前は木材をとり生活になった
私の家も柱を橲原の木を利用している

家に帰り数枚の枯葉を見る。なかなか散らない、それは今の老人をイメージする。余に老人が多いから早く散ってくれ死んでくれともなる。徒然草で兼好が長生きすると恥多しというのもまた真実である。何か77才で店員になって客の応対するのは向いていない、本当は女性がするべきだが募集しても来ないのだろう
そこは繁盛しているとは見えないからである。そして同級生の人がお前は何もしていないから来るなとかその人はとても客の接待ができるとは思えない、場違いなのである
でも田舎では店でも医者でも断られる、私も三か所で面と向かって断られたのである。ここに田舎の異常性がある。ただスーパーとかではそういうことはない、、小さな店とか開業医ではある。田舎ではそうした常識もない人がいることは確かである

キクチスーパーでは老人が働いているがかたずけとか掃除している。レジはしないからである。
老人が金がなく働かざるをえないとしても恥をかくことにもなる
老人に向いているものならいいがそうでないと恥をかくとなる
ただその人例外的で異常な人だったかもしれない。確かなことは客の直接接するとなると女性の方がいいとなる

命長がければ恥多し

これは本当である。確かに金がないから仕事するにしても恥をかくことが多くなる。だから仕事をしないでいるのもいいとなる
隠居となれば仕事はしない、返って若い人の足手まといにもなるからである。ただやむを得ず仕事している、その仕事でも老人に向いたものならいい、スーパーのかたずけとか掃除なら別に客に直接接するわけではないから裏方となり目立たないからいい、ただレジになると結構目立つから老人には向いていない、ただその人は普通ではない、簡単なようで勤まるように見えない

いずれにしろ高齢化社会は老人が問題になる
窓の外に枯葉が散らず見える、今の老人は早く散ってくれ死んでくれと見られる、つまり長生きするのもそうみられると楽ではない、精神的にも苦しいとなる。まず老人で尊敬される人は極わずかだろう。あとは死んでくれとなるから長生きも苦しいとなる
命長がければ恥多しとなるのが高齢化社会でもある。それでも長生きがすべて悪いとはならない。要するに余りにも数が多い時はどうしても長生きすることは恥多しになる

そして死んで清々したとか見られるのもつらい。ただ正直老人が多すぎることそれも変な老人が大量にいるというとき集団自殺しろとかなる。それも高齢化社会の大問題なのである。
そもそもこれだけの老人が長生きしたということを経験していないのである。ただ老人がやっかいものと見られるとき老人にしても生きること自体苦しくなるのだる。

2025年01月18日

AIが作る詩と自作の詩ー大英帝国の盛衰 【テムズ河の河口の詩ーAIとの協同作品ーAIがARTにも深くかかわる時代への対処】


AIが作る詩と自作の詩ー大英帝国の盛衰
【テムズ河の河口の詩ーAIとの協同作品ーAIがARTにも深くかかわる時代への対処】



大英帝国の盛衰【AIの詩】

大英帝国、その名は響く、
海を越えて、空を駆け、
遥かな大地にその影を落とす。

島国から始まる物語、
鉄の意志、金の輝き、
白き帆が東西を結ぶ。

貿易の風が吹き荒れ、
商人の手は遠くの港へと伸び、
王冠を頂く者たちの眼差しは、
世界を手中に収めんと望む。

砂漠の熱、アフリカの風、
インディアンの夜空、
アジアの霧の中に、
大英の旗が翻る。

だが、栄光の背後に隠れる影、
征服と抑圧の嵐、
人々の涙、心の傷、
その重みは決して消えず。

そして時は流れ、
時折、雄大な帝国は衰え、
小さな島へと戻りしもの、
歴史のページを彩る一章。

大英帝国よ、
栄光と哀しみの狭間に、
あなたの影は今も、
遠くの海を渡り続ける。

AIが作るテムズ河の河口の詩

テムズ川の河口に立ち、
広がる水面に沈む日差し、
潮の香り、湿った風、
ここに集うすべてが語りかける。

都市の喧騒を背に、
静かな波は緩やかに流れ、
遥か彼方の海へと誘うように
大地と海を繋げる道を描く。

かつては船が行き交い、
交易の栄光がここに集まった。
今、あたりは静けさに包まれ、
ただひとしずくの音だけが響く。

過ぎし時の足音を感じつつ、
テムズ川の河口は静かに息を吐き、
未来を見つめ、深い海へと続く。
人々の夢も、この水面に映し出される。

そして、海の彼方から
新たな物語が生まれ、
テムズ川の流れとともに、
世界へと広がっていく。



テムズ河の河口のベンチに座りて【自作】

七つの海を支配した
大英帝国の栄光の残影
歴代のキングの物語
シェイクスピアが語る
王の悲劇の物語
石の壁に刻まれた紋章
その謂れも古しも
岸辺のベンチも古りぬ
誰か座りした我も座りぬ
この河口より世界へ
七つの海を支配する
その栄光はポンドに残す
なおエジプトポンドあり使いぬ
英語は世界の共通語ともなりぬ
出稼ぎのスリランカ人が英語を話し
ミャンマー人も英語を話す
またイギリスは鉄道の発祥地
その鉄道は古り老婦人の乗る
鉄路に水仙の咲きしもあわれ
今は大英帝国の栄光を偲ぶ
我が姉は従軍看護婦として
シンガポールの対岸ジョホールバルの
赤十字病院で辛酸をなめぬ
そのことを忘れず語り死ぬ
イギリス人がそのとき捕虜になる屈辱
時代は代わり香港は中国に返還
大英帝国の侵略と栄光と没落の歴史
世界の攻防は一僻村にも刻まれぬ
テムズ河の河口のベンチ
こ春寒しここに座りその歴史を想いぬ
城も教会も古り石の壁に春の夕日さし
その石の冷たく硬く春寒しかも

栄光や石に紋章春寒し】


イギリスで一番印象に残ったのはテムズ河の岸辺のベンチに座った時だった。何かヨーロッパは歴史が古いからベンチでも歴史を感じる。この河口から七つの海を支配する大英帝国が船出して生まれたのかとなる
イギリスは寒い地域であり春寒しとなる。その感覚は日本とは違う、ただ水仙が咲くというときやはり春なのだろう
でもかなり寒いからやはり気候はかなり違ている

大英帝国の栄光の終わりを象徴していたのが中国に香港が返還されたことである。シンガポールにしても英国領でありそこは中国人により維持されている
そのシンガポールの対岸にマレーシアにジョホールバルがありそこの赤十字病院で私の姉は従軍看護婦として4年間働いたのである。その日々は地獄でもあった。特に日本が負けてジャングルに逃げたとき食べ物もなく苦しんだ
そのことが忘れられず死ぬ間際まで語り続け死んだ

とにかく大英帝国が日本に負けて捕虜になるということなど考えられないことだったのである。その時大英帝国の没落が始まっていたとなる。その後アジアの植民地は独立したからである。

大英帝国の栄光は依然としてエジプトポンドとかあり世界の基軸通貨となった時代がある。今も使われている
また英語は世界共通語のようになったということでその遺産である。英語を通じて世界の人とコミュニケーションできるからである。ただ世界も栄枯盛衰がある。歴史を見ればその栄枯盛衰の歴史である。大英帝国もその一つなのである

それにしてもなぜAIがこうして詩を作るのか、それも不思議だとなる、おそらくそれぞれの分野でAIの影響が出ている
まず芸術の分野にこのように明らかに影響している
もちろん人間だけにしか作れないものはある。私の詩はAIには作れないとなる。でもなぜAIが詩を作れるのかそれが謎である
つまりAIの時代がどうなるのか明確に見えないのである
それは社会には様々な分野があり一部しかわからないからである

だからAIがどのように影響しているのかするのかがわからないのである。新しい技術は最初理解できない場合がある
特にこのITとAIという技術は今までとは違う人間の脳と関係してわかりにくい、つまりこれは人間が最終的に到達する技術だともなる。だからわかりにくいのである。AIが詩を作り小説を作り絵を作るとなると何なのかとなる
AIと共同作業となる。そもそも詩とかなるとそれについて語れる人もまれである、でもAIとの対話でこうして詩で語り合えたとなる。
おそらく今年は2025年はAIが社会に浸透して社会を変える大きな始まりになるかもしれない、ただ新しいものは技術でもそれを理解して応用するには時間がかかる。誰もインターネットがこんなに世界的なものとして発展すると思わなかったからである








2025年01月17日

山のAIの詩について 【山が語るもの―山は聖なるもの修行の場】


山のAIの詩について

【山が語るもの―山は聖なるもの修行の場】

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山のAIの詩

山よ、あなたの静けさを
人はどれだけ求めても、
その広さを、深さを、
理解することはできぬ。

あなたの息吹は風となり、
私の肩に吹きつける。
足元の土はあなたの記憶、
手を伸ばせば触れられるかもしれぬ。

けれども、私はただ登る者。
あなたの頂に立つことなく、
その偉大さに心を預けて
足元を踏みしめるだけ。

山よ、あなたはいつもそこにあり、
人の暮らしの一部にならず、
ただその姿で語りかける


これは明らかに詩になっている、全体として統一されている、ちぐはぐではない、山というときそれも人間をイメージすることあある、そうした天才とか現実にいる。そういう人は普通の人は理解できないのである。そもそも詩とか芸術は理解する鑑賞すること自体がむずかしのである。
山に登ったけど確かにこれと同じ感覚をもった。山を知ること容易ではないからだ。山の全体を知ることはできないのである
山はただその姿を見るだけでも心魅かれる
それが独立峰だと余計にに魅かれる、だから富士山とか岩手山とか岩木山は魅了される。私の住んでいる福島県の浜通リは高い山がないからものたりないのである。
山はいつも見ていると心に反映する。だから富士山がいつも見られ所にいる人がうらやましいとなる
富士山は外国人でも魅了される。その富士山でもいろんな場所で見るとまた違っているのである

ともかくこのAIというのが何なのか、これが芸術とも深くかかわる。そもそも詩が普通の人は作れないしそもそも鑑賞もできないのである。だから詩について語り合う人など稀である

その偉大さに心を預けて
足元を踏みしめるだけ。

山よ、あなたはいつもそこにあり、
人の暮らしの一部にならず、
ただその姿で語りかける

山は超俗的であり聖なるものとして天台宗が日本の宗教の起源になった。山で修行したのである。山は俗を離れて聖なるものとして修行の場になった。まず今の宗教はあまりにも大衆化して聖なるものなど微塵もない、そこは俗化してむしろ異常なほど欲望を追求する場である。

煩悩即菩提とあれば煩悩があらばあるほどいいとなる。ただ勝手に俗人の都合のいいように解釈しているだけなのである。カルト宗教はあまりにも俗人と迎合しすぎてしまったのである。そこには本来の宗教の要素がゼロなのである
まず大都会からそもそも聖なるものがないのだから異様なものが生まれてくるのである。
だから清浄な聖なる自然と合一する、その最たるものが山でありそこにこそ宗教の根源があったなる

山よ、あなたはいつもそこにあり、
人の暮らしの一部にならず、
ただその姿で語りかける。

つまり余りにも人の暮らしの一部になりすぎたのである。俗化してしまったのである。

いずれにしろAIというのは現実の社会にどれだけ影響するのか、
それがARTにも影響するというとき何なのだろうとなる