2025年05月25日

相馬野馬追いー雲雀が原へー青葉に映える御行列 【不忘乱の旗の意味ー旗の由来がわからないのが問題】


相馬野馬追いー雲雀が原へー青葉に映える御行列
【不忘乱の旗の意味ー旗の由来がわからないのが問題】

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北郷から出ているけど移住した家である

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六文銭は武田の旗印
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いろはー小高郷
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小高大将
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総大将
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雲雀が原へ

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菊の紋は北郷(鹿島区)−南朝の天皇の旗印

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大将の激を飛ばして青葉映え馬いななきて打ち進むかな

法螺貝の青葉にひびき打ちそろふ相馬の武者の勲しきかな

様々の旗のなびきて青葉に映え雲雀が原に打ち進むかな

御行列いろはの旗は小高なれその家知りぬ誇りなるかな

旗一つ不忘乱なれ意味知るやそ戒め伝え相馬を守る




今回の野馬追いで二つの旗が気にかかった。いろはの旗は小高に行きその旗をかかげた家を見つけた。あそこの家から出たのかとなる。不忘乱は中ノ郷(原町)の六号線の道の駅から丸三製紙に入って行く道の家だった
何か野馬追という時どの地域から家から出たのかを知ることも必要なのである
原町は新しい街でありでも六号線沿いは田畑がもともと広がっていた農家が多いから野馬追に出る人がいた。

中ノ郷は160騎出たとなれば多い、それだけ原町は広いからである。
野馬追に出る家は江戸時代から代々存在した家であるから古いとなる
兜でも鎧でも陣羽織でも古く家宝のように伝えられたとなる。何かその陣羽織が売られて勝手に使われていたということで問題になった。つまり先祖伝来伝わるものだから勝手に使えないからである
でもそれで参加者が決まっているからどうしても出る人が減って行き維持できなくなるとも見る

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不忘乱の旗の意味は

「君子は、安全なときでも危険を忘れず、生き延びたときでも滅びることを忘れず、『治にして乱を忘れず(世の中が平和に治まっているときでも、戦乱のときのことを忘れない)』」とあります。 平和な世の中でも戦乱のときを忘れないで、力を蓄え、備えをおこたらない。 また、 平穏無事 のときも、万一のことを考えて油断しない。

これは意味がはっきりしている。これは戦争に備えよという意味であるがこの辺だと日本だと震災に自然災害に
備えて置けということであった。津波の被害は余りにも大きなものだった
それで相馬藩政記に400年前に生波(津波)で700人溺死したという記録が二行だけ記されていたのである
これを全く忘れられていたのである。学者でも知らなかったのである。津波の後に調べてわかったのである。
それでこの辺では津波が来ないと信じられていて逃げないで老人でも死んだ人がいる
つまり不忘乱というとき自然災害も日本では忘れてはいけないという警告なのである。

今日は曇っていたが雨は降らなかった、でも晴れていないからすっきりしなかった。やはり晴れるといい、ただ青葉の季節に行列が映えるとはなっていた。真夏の時は入道雲が必ず出てその時野馬追いがあるというのがこの辺だった
何か今日は寒かった、雲がどんより覆っていたのである、それで神旗争奪戦は見なかった

ともかく野馬追いというときなぜいろいろな旗がるのか?その由来がわからないのである。その由来を知れば何かさらに興味を持つことがある。今回は不忘乱の旗印の意味はわかった。それは現代にも生きる教訓ともなる。
歴史は何か必ず教訓を残している。相馬藩の歴史でもそうである。だから400年前に700人が津波で死んだということを忘れていたことが最大の問題だったのである。






posted by 天華 at 16:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2025年05月24日

相馬野馬追い始まるー北郷出陣−身分制社会の再現に意味があるのか? 【高齢化などで騎馬数が減少して維持できるのかー野馬追の武具が売られる問題】

相馬野馬追い始まるー北郷出陣−身分制社会の再現に意味があるのか?
【高齢化などで騎馬数が減少して維持できるのかー野馬追の武具が売られる問題】

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鹿島区【北郷】の右田から出陣

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御家とあるのは小高でありここでは海老原氏宅で宇多郷【相馬市】と合流する
小高郷は別なのである。




江戸時代末期における新発田藩の足軽長屋で、藩政当時のままの姿で現存する。当時の下級武士が住んでいた八軒長屋は、歴史的にも貴重な存在です。

無高の郷士も多かった(無高郷士)。郷士まで含めての武士の総数は、薩摩藩では人口の4分の1を占めていたため、これら全てに武士としての扶持を与える事は不可能であった。これらの郷士は、藩に許可されていた大工や内職で生計を立て、中には武士身分のままで上級郷士の小作人になる者もいた。

明治維新後は俸禄を失い没落した城下士に対し、郷士は農地を買い集め地主として成功した者が多く、西南戦争に対しても冷ややかな態度をとる郷士が多かったと言われ


野馬追で誤解しているのは侍が多かったと見えることである。でも野馬追に出る家は北郷(南相馬市鹿島区)だと20軒くらいだろう
そしたらかなり少ないのである、薩摩藩では人口の四分の一というのは多かった、当然扶持が与えられないから農業をするものそれも小作人までいた。職人もいた。実は城わ中心にして上級武士がいてその次に職人などがいてその他に下級武士が足軽などがいた。

つまり身分によって住む場所が違っていたのである。足軽長屋が新発田藩で残っている。それは長屋といっても一部屋であり窮屈である。上級武士は一軒の家を持ち庭を持っていた。その差が大きかった。だから下級武士は町人より貧乏だったともなる。
そこが誤解している。だから下級武士は相当に不満がありそれが明治維新が下級武士中心になり起こした階級闘争だったと言われる所以である。それを如実に示しているのが日本最初の首相の伊藤博文が足軽の出でありそれも足軽の家に養子になりその身分を得た。

足軽という時字のごとく足が軽い雑兵のことである。馬を持たない人達だったのである
馬を持つかどうかで身分差が生まれた。そもそも相馬氏が強かったのはこの地を支配できたのは馬を駆使する騎馬軍団を形成していたからである。それで雲雀が原で馬を使い軍事訓練をしていたのである
他の藩でも馬を持つ者が武士であり馬を持たない者が武士でも足軽とかであり下級武士だった
戦争では馬の威力が大きいからだった。馬を持つ武士が先頭の中心だったからである

モンゴルがあれほど世界帝国にまで拡大したのかそれは日常の生活が羊とともに移動する生活であり馬を羊を追うために使用していた。つまり日常生活の延長として軍隊化しやすかったのである
でもモンゴルの馬は小型なのである。足が地に着くのである。私が全く馬に乗れなくても乗れた。日本の馬は大きくて高いから乗っているだけで怖いのである。それで落馬があり競走馬で慣れた人でも落馬で死んでいる

ともかく江戸時代は身分社会であり生まれた時どういう家に生まれるかでその生涯も決められていた。徒町(かちまち)というとき馬を持たない人たちが足軽など住む場所だった。何か今では車を持たない人は下に見られる。それと似ていた
馬を持つか持たないかの差が大きかった。

馬に乗れば人を下に見て馬に乗った侍は上から見下ろすとなる。それだけで歴然として差が生まれる。だから野馬追は歴史の保存だというとき江戸時代が現実に再現される。ということは身分制社会が現実に復活する
実際に侍の家であり旗指しものでも鎧でも先祖代々伝いたものが使用される

そのことで政経東北で武具や馬具が売られることで問題が起きた

中ノ郷騎馬会は住民から不要になった武具や馬具の回収を進めている。出場者がいあなくなった家に眠っている甲冑など約50点をを集め16日に同市の太田神社に並べて初のオークションを開く
近年高齢化などで野馬追に出る騎馬数が減り祖父の代で途切れた家などがありその処分のためであった

骨董店の人が何か金目のものがあるかと回っている。こうしたものはかなり価値があるから高く売れる
ここでも少子高齢化問題が影響している。去年は350騎とかなり500騎出ていた時ではかなり差がありさらに御行列にでても
神旗争奪戦にはさらにでる人が少なく迫力に欠けた。なぜなら神旗争奪戦は馬に乗る訓練していないとできない
危険だからできない、だからこうして野馬追は維持できるのかとなる
市の方で20万援助しても一年間馬を駆っていることは費用もかかる
すると規模が縮小して祭りとしての活気がなくなる。その大きな要因が侍の出の家でないと野馬追いには出れないことにある
すると限られた人になりますます出る人が減少してゆき魅力がなくなる

だから歴史の保存という時それが維持できなくなる。果たして江戸時代の厳しい身分社会を再現保存することに意味あるのかとなる。現実に【御家】の旗印は小高の家ののものでありもう一つも他から移った侍の家の旗印だったのである
本来はその出る郷が決まっていて変えられない、でも原発事故で小高に住めなくなり鹿島に移った
それは他でも起きているからそういう点でも歴史が保存できなくなっているのである

サムライフェスタのように誰でも参加できるものなら違っている
ただ馬に乗るとなると費用も手間もかかる、だから出る方になると何のメリットがあるのかともなる
馬に乗り昔の侍のように庶民を下に見て威張れるということで出たいという人もいる
それだけの労力であれ金を使うからだとなる。

野馬追でも歴史の保存は無理になるのではないか、またそれを続ける意味があるのかともなる。
江戸時代の厳しい身分社会を再現して維持することが意味があるのかとなる
今になればそれはただ昔を偲ぶ楽しむ娯楽にもなる。京都の時代祭りなどはそうだし歴史の保存というより見世物であり楽しむというだけである。

屋根に雪足軽長屋のあわれかな寒さ答えぬ新潟の冬に

これは会津藩でも下級武士は炭さえ使えぬ貧乏な下級武士が存在した。会津なら相当に寒いのである、どうして暖房が無くてしのげるのかとなる。また薪が買えなくて暖房できないで苦しむ人たちがいた。つまり江戸時代は電気もないし一般的に相当な貧乏だったのである。歴史の保存という時この足軽長屋のようなものは昔を偲ぶのに効果的だとなる。

posted by 天華 at 15:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2025年05月23日

夏の日の小高から浪江までーいつまで空家にしておくのか? 【夏燕、夏菊、黄菖蒲、文目、老鶯、夏草・・】


夏の日の小高から浪江までーいつまで空家にしておくのか?
【夏燕、夏菊、黄菖蒲、文目、老鶯、夏草・・】

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小高に立った野馬追の旗印

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この石も不思議である、亀石ともなるのか、ここの家の岩は見ものである。ただ空家なんである

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街に出るというときその街が空家化して淋しいとなる。何か浪江だとイオンの店は賑わっていたが通りは
空地が多く閑散としていた、もともと通りの商店街はどこでも寂れていた、それがさらに空地化して寂れた
浪江はいまどれくらい人が住んでるのか?2万の人口だから5000人くらいは住んでいるのか
工事関係者はまだいる。




風を切り自転車走る夏つばめ

夏菊や六号線を走りゆく

夏は来ぬいろはの旗立つ小高かな

夏菊の黄色や明るく街に出る

黄菖蒲や道真直ぐに真昼かな

夏の日や古き碑いくつ見て回る

摩崖仏老鶯鳴くを聞き入りぬ


街道を木陰の覆い草深く文目の咲きて行く人もまれ

紫と白の菖蒲の大岩に映えて咲くかな心静まる

大杉の影深くして摩崖仏五体の座して鶯啼きぬ

高瀬川流れのひびき鶯の鳴く声巌にひびきて暮れぬ

人一人来たるも鶯甲高く鳴きにけるかな夏草しげる

十頭や夏草に伏す牛の群れなごむやなおここに人の住みなむ

ホトトギスまた鳴きにけり遠くへとなお明るしや走りゆくかな

久しくも人住まぬ家淋しきや灯もともらず今日も暮れゆく



小高に入るとやはり空家が目立つ、それも13年とか空家のままなのである。それは浪江に行ってもそうである
立派な家があり庭がある、それをみるともったいないあとみる。誰か住んでくれとなる
家が泣いているとか言う人もいたが本当に13年も人が住まなかったら本当に淋しい、家を壊していたがそもそももうそこに住むことがあるのか?ただ空家は小高浪江だと極端だが全国的に増える、その数も膨大なのである
だからもったいないとみる。誰か住んでkれと言っても町全体が衰退するとそこに住む価値がなくなり住む人もいなくなる
でも近くで浪江の人が家を建てたりしているから原町であれ鹿島であれ相馬市でも新しく家を建て移り住んでいる
それだけの補償金をもらったからである。

でもこの空家が気にかかる

久しくも空家に住まず冬芒

何かこんな感じである。人が住まない空家は一段と淋しくなる
ただ庭をみると立派なのがある。それで写真撮った,石や岩に興味がある、その石ももっったいないと見る
高瀬川は休憩所がある所までは行けるがその奥は通行止めである
浪江は放射能汚染でまだ住めない場がある。山側は高かった、大堀の陶芸の里は荒廃した
再起されることはないのだろう。それも残念である。場所的にはいい場所だったからである。

今日は曇っていたけど暑くなると紫外線が怖い、私は特に日ざしに弱い、すぐ暑いと疲れるのである
だから暑くなると自転車に乗れなくなるから困るのである、自転車に乗り気ままに遠くにゆく旅をするとき最高の気分になるからである












2025年05月22日

アワ、ヒエ、キビを食べていた―米高騰から飢饉になることも 【縄文人も食べていて国名ともなり救荒食物となった歴史を知るべき】

アワ、ヒエ、キビを食べていた―米高騰から飢饉になることも
【縄文人も食べていて国名ともなり救荒食物となった歴史を知るべき】

●日本人は米だけを食べていたのではない、粟、稗、吉備を食べていた


「阿波国」
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために粟国(あわのくに)、南の地域は長国(ながのくに)と呼ばれていたが、大化の改新の後に粟国に統一された。

「阿波」は「粟のよくできる国の意」であるようです。
淡路島については,同じく大辞典に第一に有力の語源として「阿波の国へ渡る途上の島であるから」

戦前までは米と並ぶほど国内で栽培されていました。近年次々に稲の品種改良がされ、稲が育てやすくなったことからアワやヒエなどの雑穀の需要は減少。ただ最近は、その栄養価の高さから改めてその価値が見直されています。

縄文時代から食べられている日本最古の穀物、ヒエ(稗)。ヒエ、アワ、キビなどの雑穀が見直されています。

縄文人が伝統的な狩猟採集を維持しながら、
水田稲作ではなく雑穀栽培を主体的に選択したと考えられます。伝統的な食料獲得と食料生産が併存した、

縄文時代晩期末の集団が渡来文化の一部である雑穀(アワ・キビ)を食べていたことも明らかにしました。縄文終末期に中部高地に伝来した渡来文化には水田稲作だけではなく雑穀栽培が含まれていましたが、それらの穀物を利用したのが縄文人だったのか、渡来人だったのか、また食生活における雑穀の重要性などの詳細は不明でした

黄河文明以来の主食は専らアワ(粟米、谷子)であり、「米」という漢字も本来はアワを示す文字であったといわれている。また、隋唐で採用された税制である租庸調においても、穀物を納付する「租」はアワで納付されるのが原則であった。

これに対して、華南では稲米は周から栽培が盛んになった

西域から小麦が伝わってきたこととも相まって、次第に主食の地位から転落することになった。しかし、現在でも中国ではアワ粥などにして、アワを食べる機会は多い。また、「鉄絲麺」という、最古の麺と同じような麺類を作る地方もある

アワは、ヒエ・麦・豆(ダイズ、アズキ)・イネと並んで、神代史上にも記録されている日本古来の五穀である。新嘗祭の供物としても米とともにアワが用いられ、養老律令にも義倉にアワを備蓄するように定められており[

濡れ手で粟 - ぬれた手でアワをつかめば、アワ粒がごっそり手についてくる。転じて労せずに多大な利益を得ること。

ひえの語源は「日得」で、日ごとに茂っていくことから「日得」となったといった説があります。

日本でひえが広がったのは、寒さに強く土質を選ばないためです。稲が不作になってしまった年に食料となる重要な穀物としても重宝されたそうです。東北地方や北海道をメインに栽培されており、水田や畑でも栽培できるなど場所を選びません。広く根を張るため、痩せた土壌でも育ちます。

稗田 阿礼 (ひえだ の あれ、生没年不詳)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての官人。『古事記』の編纂者の1人として知られる[1]。暗誦する役割をもつ人たちの集団とする説もある


●地名からアワ、ヒエ、キビを知る

桧枝(ひのえまたーひえ)

ヒエタ 【冷田】レベル3
約90人 , ヒエダ 【日永田】
約700人 , ヒエダ 【檜枝】
約300人 , ヒエダ 【桧枝】
約100人 , ヒエダ 【日枝】
約60人 , ヒエダ 【比枝】
約30人 , ヒエダ 【比延田】
約20人 , ヒタ 【飛田】
約21,600人 , ヒタ 【肥田】
約7,700人 , ヒタ 【日田】
約1,700人 , ヒタ 【桧田】
約600人 , ヒタ 【檜田】
約500人 , ヒダ 【飛田】
約21,600人 , ヒダ 【肥田】
約7,700人 , ヒダ 【樋田】
約6,100人 , ヒダ 【日田】
約1,700人 , ヒダ 【飛弾】
約1,600人 , ヒダ 【緋田】
約700人 , ヒダ 【桧田】
約600人 , ヒダ 【檜田】
約500人 , ヒダ 【陽田】
約400人 , ヒダ 【比田】
約300人 , ヒダ 【飛騨】
約300人 , ヒダ 【披田】
約60人 , ヒダ 【飛多】
約60人 , ヒダ 【氷田】
約30人 , ヒダ 【火田】
約30人 , ヒダ 【飛彈】
約20人 , ヒダ 【秘多】
約10人 , ヒダ 【肥多】
ごく少数 , ビタ 【尾田】
約10,100人 , ビダ 【尾田】


福島県の会津の尾瀬への入り口の桧枝(ひのえまたーひえ)村はひえの意味だった。稗を食べていたとなる
もともと米は食べられない地域であった。日本人は米だけを食べていたわけではない。それは戦後でも子供の時は麦ごはんであり麦もかなり栽培されていたのである。会津の山ではソバが主食のところがある。つまり米だけが日本人の主食ではなかった
何かそれが誤解されている。だから縄文人がヒエ、アワ、キビとか食べていたとなるとなぜなのかとなる

それでヒエ、アワ、キビなどでも縄文人が食べていたという時稲より古い歴史がある。それが見逃されていたのである。
そんな食べ物あったのとなる。粟饅頭などがありそれで粟(あわ)を意識した。でも日常生活で意識しないが雑穀が栄養があるとして見直されている。もともとなぜ江戸で脚気がふえたのかというと脚気が江戸煩い(えどわずらい)となったのか、江戸では白米を食べて雑穀類が食べなかった。でも地方では貧しいから雑穀類のアワ、ヒエ、キビでも食べていたのである
それが縄文人が食べていたとしたら長い歴史があるということでさらに見直す。

凶作や食糧難に陥る享保・天明・天保の三大飢饉があります。そんな飢饉時に、天候などにあまり影響を受けない山菜が人々の命を繋いだということです。中でも飢饉対策として有名なのが、江戸時代後期に米沢藩(山形県)で書かれた「かてもの」という救荒食マニュアルブックです

日本文化を探る
山菜〜山の恵みを食すということ〜

江戸中期にはすでに500種以上の植物が(その利用法なども含めて)古文書に記されている.日本では災害
が起きるたびに救荒植物が重視されてきたし,わずか半世紀前まで救荒書はまだ実用書であった

琵琶湖の港だった大津が粟のとれる場所だったのは意外である。粟津野と呼ばれていてが逢津になまった。
淡路島でも粟であり阿波国へ通じる道として国名になった。吉備は大きな国でありその由来が食物のキビでありキビダンゴが有名である。

江戸時代にきびを作っていたが、とても豊作だったためにきびを使って団子を作ったという説もある。たくさんのきびが収穫されたことから、団子にして食べたそうだ。そのときにきびを栽培していたのが吉備の国だったので、きびだんごと名付けられた

つまりキビが採れる国として吉備国があり粟が採れる国として阿波国があった。国名になるのはそれがいかに食べられていたかを示している。ただキビが主なものではなく米で作っていたという。でも起源はキビにあった
また稗(ひえ)は比叡でもあり比叡山はヒエが採れる場所だったから名ずけられた。

日枝神社は、大山咋神(おおやまびこのかみ)を主祭神とし、国常立神(くにとこたちのかみ)、伊奘冉尊(いざなみのみこと)、そして足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀っています

これは山王神社にも通じている。南相馬市の鹿島区の日吉神社もそうである。大山咋神(おおやまびこのかみ)を祭神としている。

日吉神社(ひえじんじゃ、ひよしじんじゃ)は、滋賀県大津市にある山王総本宮日吉大社(ひえたいしゃ、現在は、ひよしたいしゃ)を勧請して日本各地に建立された神社である。「日吉」は「日枝」とも書き、読みは「ひえ」が古調だが、「ひよし」という呼び方もされる。
つまりヒエという作物に由来している。そして漢字に稗となるとき卑しいが字になっているのは中国でも麦と米が普及した時
食べられなくなり卑しい植物とされたともなる。でもこれほどヒエ、アワ、キビが食べられていということを知るべきだとなる

また浪江の方の津島に行く所に下冷田という地名がある時冷えるは稗のことだとなる
もともと稗を作っていたから稗田とか冷田になったともなる。

●万葉集の山菜野草の歌

.古今集にも,君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ(あなたに差し上げるため,春の野原に出かけて若菜を摘んでいる私の着物の袖に,雪がしきりに降りかかってくることよ)と「菜摘み」の情景が詠まれ,万葉集にはメナ,クログワイ,ヒシ,コナギ,フユアオイ,オカノリ,オケラ,カタクリ,マコモ,セリ,タデ,ジュンサイ,ハス,ニラ,ヨモギ,ヤブカンゾウ,ワラビなどを食していたことが詠み込まれている 春の七草などがそうである

救荒植物を利用した食教育・環境教育・防災教育の可能性

人間は生きるために食べ物を確保することが第一になる。だから縄文人は山菜を野草でも食べる。何か食べられるものを野草から選別してきた。だから米を食べる前にそうして山に自生しているものを食べた。またそれがのちに救荒食物となった

君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ

これは古今集だけど若菜摘むとは食料を得るためであり風流ではない、雪がまだふるというとき春になっても寒いからだとなる

ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを

春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し恨めし

この歌は佐伯宿禰赤麿(さへきのすくねあかまろ)が娘子(をとめ)に贈った歌に、娘子が返した先の巻三(四〇四)の歌にさらに赤麿が返した一首。
「おそろしい神さまの社がなかったなら春日の野辺に粟を蒔くのですが…」と、社があることを理由に「粟蒔(あわま)く」と「逢わまく」を掛けて赤麿の求婚を断った娘子ですが、それに対して赤麿は「春日野に粟を蒔けば粟を食べにくる鹿を待つように何度でも逢いに行くのに、社を怨みます

足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを粟無くもあやし

左奈都良の岡に粟蒔き愛しきが駒は食ぐとも我はそとも追じ

「愛(かな)しきが駒」は「愛(いと)しい馬」のこと。「たぐとも」は「食ぶとも」の東国訛りと思われる。「そとも追(は)じ」は「しっ、しっと追い立てる」という意味である。
 「左奈都良(さなつら)岡に粟を蒔いて育てるけれど、あの愛しい馬(男の馬か)が食べるようにと、しっ、しっと追い立てたりしませんわ」という歌である

梨棗 黍に粟つぎ 延ふ葛の 後も逢はむと葵花咲く              

(なしなつめ きみにあわつぎ はうくずの のちも あわんと あういはなさく)

意味・・梨・棗・黍(きび)・粟と次々に実のっても、私は早々に離れた君と今は逢えないけれど、延び続け
    る葛のように後には逢えるよ、葵の花が咲く頃には。

ともかく粟が日常的なものとなっていたから恋の歌として利用された。それだけ身近だったからである
現代では粟とかは意識されのはまれだからである。

なしなつめ きみにあわつぎ はうくずの・・・とかを例えるのは当時はそれらが生活の中で欠かせない物であるからこそ歌われたとなる。つまり食料として日常的なものだからである。現代だとそれはただ買うものとしてあったが当時は買うというよりは常に自ら取りにいかなけなければ得られないものだった。今でもその一部はタラの芽とかは取りにゆくのである
セリでも取りに行く、でもこの辺では原発事故の放射線被害で飯館村は山菜のとれる村だったがとれなくなったのである

●グローバル経済の危険は食料でも輸入できなくなること

ともかく米一辺倒になってこうしたヒエ、アワ、キビとかは忘れられていたがそれも問題だとなる
要するに食料でも多様性が大事になる。米だけに頼ることで江戸では江戸煩い脚気になったように人間の体も多様な食物で成り立つからである。米がこんなに高騰するとき他の食料を見直すべきだというのも一理ある
また救荒食物として他の食べられる山菜野草でも知るべきだとなる。

食料でも歴史を知ることが大事になる。なぜなら本当に飢饉になることもありえる。それは天候不順もあるが外国から食料を買えなくなった飢饉にもなることが怖いのである。ただ今の時代は食料が多様だから代わるものを食べろとかなる
サツマイモももともと薩摩藩で作られて救荒食物として普及したのである、だから何でも多様性が大事でありそれが命にかかわることすらありえるからである、だから常に歴史的に見ることが大事になる
津波でも400年前に相馬藩内で700人が生波で津波で死んだということが全く忘れられて大被害になった
それは相馬藩世紀に二行記されいたが学者すら知らなかったのである。歴史でもこうして忘れられると危険なものになる
飢饉も同じである、外国から輸入すればいいと言っても金が無ければ売るものがなければ買えない、車でも売れなくなれば食料でも買えないからである。

これは【SDGs】持続可能な社会にみ通じている。持続可能な社会とは食の多様性を維持することでもある
多様な食料があって持続可能な社会がありうる。単一的なものにすることは食料の面でも危険なのである
グローバル経済の危険は何でも単一化する、どこでもハンバーグを食べるという時食の多様性が失われる
その食はその土地土地から風土から作られるものである。そこに文化の基がある。culrureとはcultivate-その土地土地を耕すから来ている。

だから多様性が生まれる。グローバル経済が極端化すると一国の多様性も失われて日本では車だけを作っていればいいとかなる、でも車でも技術競争に負けたら売れなくなり外国から食料も得られないとなる
世界的分業とか成り立たないのである。外国が食料を何かあれば保証してくれないのである、そうなれば国家を守ることもできなくなる、いくら武器で備えても食料がなくなれば負けるとなる
ゼロ戦でも燃料の石油がないので片道しか飛べず帰れなかったとかなる。食料も燃料と同じなのである。
食料が無ければ戦えないのである。

アメリカは土地が広いから米でもとれるから買いとなっても日本で売るものがなかったら買えないし無料で売らないからである。とても広大な土地を持つアメリカと農業では競争できないからである。食の確保は自由貿易グローバル経済に適合しないのである。日本国内ならありえるが世界となるとあり得ないのである。国家戦略としてかかわるものになる
でも米の高騰では国民が苦しむ。その補助的なものとして輸入があっても補助的なものに留めるほかないだろう
いずれにしろ米の高騰問題は様々な視点から再考しなければならない重要な課題である
自由競争原理だけでは成り立たないのである。

大井川線から井川線の無人駅(秘境駅)のNHKの番組 
(閑蔵駅で店を出している井川とついた野菜が地味豊か)

ここで山の幸がありヒエとかキビをとり生活していた
閑蔵とは萱草の花である








posted by 天華 at 10:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年05月20日

石神の夏の短歌−岩と菖蒲【紙漉きしていた農家】

石神の夏の短歌−岩と菖蒲【紙漉きしていた農家】

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重々し大岩すえて石神に菖蒲の咲くや代を重ねぬ

重々し大岩動かじ石神に菖蒲の咲くや生業ありぬ

水清く近くを流れ紙漉きの家あり古りぬ菖蒲咲くかな

明るさや農家の前畑一面に夏の真昼にポピーの咲きぬ

夕日さす蔵の白壁菖蒲の影映りて農家や古りにけるかな

道にそい夏菊白く咲き続きなお明るしや走りゆくかな



石神には紙漉きをしていた農家があった、紙漉き江戸時代からあり戦前の昭和まで続いていたのである
石神で紙漉きをしていたとなると川がないとできない、近くに新田川でない細い川が流れていた、そこで紙漉きをしていた
紙漉きはそれなりの収入があり相馬市の山上では紙漉き川がありそれで豊かな村だと見聞した人が記録を残している

石神村は今は原町の市街からの延長であり何か昔の農村という感じがしない、農家は少ないのである
農家を見るとき必ず蔵があり農家であり古いとなる。ただ石の蔵が多い、それは明治以降のものなのである
江戸時代となる土壁の蔵なのである。

石神という時地名から石をイメージする。それで畑に大きな岩があった。そこに菖蒲が文目が咲いていた
菖蒲と文目は違ている。そしてそのどっしりとして岩にそい文目が咲いていた
何かそれが石神にふさわしいとなる。それは家があるから庭だと見たがそうではなかった。となるとなぜあそこに岩があるんかとなる。もともとそこに岩があったのかとなる。庭の岩でなければそうなる。それはどっしりとしていい岩だと見た
石に岩に興味があるのでいい岩があると見た

今日は曇っていたが晴れて夕陽が大きく輝き沈んだ、それが蔵の壁に夕日がさしてそこの庭にも菖蒲が咲いていた
菖蒲の季節にもなる。まだ明るく夏菊が咲いて自転車で走った。

近くでも蔵がありそこに夕日がさして菖蒲が咲いていた。自転車も暑くなると紫外線を受けるから危険になる
今はまだいいが真夏になると自転車にも乗れなくなるから困るのである。

とにかく南相馬市であれそこに地域によって歴史がありその場の相違がある

石神村の八坂神社は古い感じだった。

石神の八坂神社の石段を上りて木の古り落葉を踏みぬ

何かここは古い木がある。神社にはどこでも古い木がある。とにかくなぜ八坂神社が多いのかも謎である、疫病から守る神だともしている。それも明確ではないのである。地域でもさらに村々がありそこを知る
そこに多様性がある。都会には一様化するのは自然が作り出す多様な場がないからつまらないとなる
だから日本が縮小して多様な場所で暮らしていた村などが消失してゆくとき何かが失われる

それを意識せずコンパクトシティーにすると多様な文化喪失する。そうなると何かみんな一様化してつまらないともなる。
石神は街の延長のようになっているから小学校もあり限界集落のようにはならない、農家は実際は少ないからである
何か農家で紙漉きしていた人の家は田があっても人に頼んでいる。だからその女性は農業のことを知らないのである
サラリーマンの妻なのである。根っからの農家に育った女性を知っているがその女性はサラリーマンの妻とかと違ているのである




2025年05月19日

日本語に日本の精神文化があるー大和心と唐心を分ける 【万葉集が日本精神神道の起源】

日本語に日本の精神文化があるー大和心と唐心を分ける
【万葉集が日本精神神道の起源】



とりどりの色に栄えぬ花の園心やはらぎなごみ癒さる

真直なる心に生きむ富士の嶺の姿美し大和に生きぬ

人はみな心歪みて悲しかな心正しく生きてこそあれ

真直なる木々の立ちにき烈成して神の宮をそ作るものなれ

大海の寄せては返す波洗ふ大和島根にいつく神かも



豊国の企救(きく)の浜辺の真砂土(まなごつち)真直にしあらば何か嘆かむ

今日の万葉集の一首 (美しい自然と真直なる心があれば嘆くことはなかった)

ここで書いたけど本居宣長が大和心と唐心を分けた時言葉の面から日本語の探求から大和心に帰るべきだとした。
つまり漢字ではないかなで表現されるのが日本語である
そこに日本の原精神がある。つまり日本人は日本語を使うことによって自ずと日本精神を体現しているのである

ヨハネ1:1−3をもう一度読みます。

始めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 【主】のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。ことばによって万物は創造されたのです。

この言葉をロゴスともしている。ロゴスとなると単なる言葉ではなくギリシャ語だからその背景にギリシャの文化文明の反映がある。哲学的広範囲な用語である。

ではなぜ言葉が重要なものとしてあったのか、それは人間はこの世界を理解するとき現実に現象化して物として現れたものembody化したものを見ることが基本にある。言葉の前に神が創造した現物があった。でもその現物を理解するにしてもその手掛かりとなるものが必要である。つまりそこに混沌としてしか見えないからである

だからロゴスの意味としてこれだけのものがある。

言葉、言語、話、真理、真実、理性、 概念、意味、論理、命題、事実、説明、理由、定義、理論、思想、議論、論証、整合、言論、言表、発言、説教、教義、教説、演説、普遍、不変、構造、質問、伝達、文字、文、口、声、ダイモーン、イデア、名声、理法(法則)、原因、根拠、秩序、原理、自然、物質、本性、事柄そのもの、人間精神、思考内容、思考能力、知性、分別、弁別、神、熱意、計算、比例、尺度、比率、類比、算定

計算、比例、尺度、比率、類比、算定とかあるのもそれは世界が数学的に秩序化され整然として見るのもロゴスだとなる。
それでこの世界の混沌をカオスを数学で解析するとき何か整然としたものとして心に反映して安定と安心感を与える
木がまるで神殿の柱のように大地に根づくととなる。
ただ鬱蒼とした森を見るときそこは暗黒の閉ざされた世界にもなる。そこに秩序が感じにくいからである

in order to ,,,,はためにであり
orderは「列」が原義で、「順序」「順」「列」のほか、「規律」「秩序」「体制」という意味で用いられ、「命令」「注文」という意味にも発展する名詞である。動詞では「命じる」という意味のほか、「注文する」、「整理する」という意味で用いられる。

・・・・・のためにするとは秩序を整然としたロゴスを求めてするとなる。 Principalという言葉も常に使われる
原理原則を重んじるからそうなる、つまりギリシャ語でも印欧語でもその言葉自体が論理的ロゴスで形成されている
それに比べて日本語は情緒的である、でも漢字はまた違っていてそこにやはり論理的ロゴス的思考が入ってきた
だからこそ明治維新の時ヨーロッパの言語を漢字で訳したのである、つまり日本語では訳せなかったからそうなった
その概念はロゴスだったとなる。

そして日本は明治維新で漢字で西洋の概念を世界を造語して新たに作ったのであり
それを中国人が利用していたのである。民主主義とかでも日本人が造語した漢字が相当にある。
つまり漢字には広範囲なロゴス的なものが存在していて造語できたとなる
だから本居宣長は漢字は理屈だとして大和心を分けたのである
つまり日本人の心を知るには日本本来の大和言葉を知るべきだとしたのである

実際に日本の歴史にしても縄文時代が一万年続いたとか縄文土器がその証拠として残されてもそこから縄文精神とか知りえない
日本人の精神を知るのは言葉として表現されてからである。それが万葉集になりそこに日本人の原点として表現されて日本精神を大和心を知るとなる

だから私が日本語でそれも大和言葉で表現してやはらぐ、なごむ、真直(まなお)とかはそうでありここに漢字は入っていないのである。大和言葉が上位の中国文明に駆逐されず残り合体したのである。もし中国のように漢字だけになったら日本精神大和心は消失してもいた。日本精神を探る術がなくなるからである。縄文時代がわからないのは当時のことが言葉で表現されなかったからだとなる。

豊国の企救(きく)の浜辺の真砂土(まなごつち)真直にしあらば何か嘆かむ

日本の精神は大和心は日本の自然から醸成されてたのである。その自然は特別美しかったからである
その自然に常時触れるとき心洗われるとなっていたのである。
とにかく真直ーまなおー今は使われないが素直は使われている。だから死語になった大和言葉もあるが今も使われている大和言葉に日本人の心があるとなり本居宣長のように見直されるのである。

またキリスト教の心の清い人は神をみるだろうというときでもこの心の清いとは大和心に訳せば真直なる心になる
そういう日本人が自然で感じたことの言葉がある、ただ日本人でも真直(まなお)なる心は失われた
まず真直にしあらば何か嘆かむとか日本人で思っている人などいなくなっている

金あらば何か嘆かむであり日本の自然の美すら感じなくなっている。そして日々金を求めているのが現実なのである
それより東京のような大都会であれ日本の自然の美が喪失している、そこは余りにも猥雑な場になってしまったのである
そんなところで物質的に豊かでも精神は貧しいものとなる。それで日々金がないということで嘆いている
真直にしあらば何か嘆かむ・・・こんなこと思っている人はほとんどいなとなる。そこにこそ日本の絶望があるのかもしれない、ただそれは世界全般にそうなっている、巨大都市化は世界共通だから似ているのである







posted by 天華 at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

2025年05月18日

大和心の復活と自然とのアイデンティティ化 【日本語にかなに短歌に伝統は受け継がれる】


大和心の復活と自然とのアイデンティティ化
【日本語にかなに短歌に伝統は受け継がれる】

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頂(いただき)に千歳の巌隠されて秘めにし花そ濃霧つつみぬ

俳句でも短歌でも凝縮して表現する、何かここに精神を象徴している
それはやはり万葉集以来の歌の道がある、つまり歌道がある
何か人間はその道を究める、それが人生だともなる。

ますらをの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを 三井 甲之

大和にそ生を受けにし根を下ろし直き心に生きるべしかな 

大和にそ継がれるものや尊しもあだに過ごせずつとむべきかな

歴史は継続されるものであり継続されて意味あるものとなる。その継続が喪失している。そうなると何か刹那的に生きることになりその生も一時的なものとして消耗される。何か継続しようとするものを失うと人間は浅薄になる
継続という時日本語はまさにその骨格としてあり日本語を使用していることはそこに日本の文化精神を自ずと受け継いでいるのである。だからこそ本居宣長が大和心と唐心を区別して日本の大和の心を見直したのである

万葉集には大和の国土と一体化した大和心がある。だから直(なお)き心というときそれは大和心なのである
何か今やそうした日本の心が失われたのである。それはやはり戦争で負けて日本の心まで否定するようになったことが大きい
何か戦後は日本の継がれるべき精神魂の喪失はあった、経済の優先で心が失われた
何かそれは欧米でも同じだった。プロテスタントシズムが失わてただ物質の欲望の追求と化したのが資本主義だと指摘される

精神を養うという時やはり自然が欠かせない、それで山を聖なるものとして修行した神から啓示を受けたのがもともと宗教だった。それが文明化して大都会化してそこから生まれたのがカルト宗教だったのである
そこには精神となるべきものはない、ただあらゆる欲望の肯定であれあとは頭数を集めて権力化する大衆迎合宗教となった。それはナチスとも似ている。そこには索漠と自然もない文明の人工的荒野と化したのである。

人間の心というとき自然とアイデンティティ化して形成される。日本なら日本の国土と一体化して心が形成される
でも東京のような大都会で巨大な高層ビルを見上げていかなる精神が醸成されるのかとなる
聖なる山を見上げて醸成される心はもてないのである。そこでは日々何をしているのか数の計算と金勘定なのかそこに大和心であれ精神は無関係である。

君が代は千代に八千代にさざれ石の巌(いはほ)となりて苔のむすまで

これは代々受け継がれるべきものとしての日本を象徴する,荘重なものがそこにある。それは継続されるものが尊いということである。ただ刹那的なもの求めて消耗するのではない。継続されるものがありそれが尊いのである
まず家にしても一代では豊かになれないしまた人も作れない、つみかさね つみかさねまもる ものが必要だとなる

千歳の巌がありそこに神秘の花が咲く、その巌は硬く精神の象徴となる。荘厳なものの表象である。
そこに花は秘められて咲くのである。



神の秘めし花

我が登る頂のそ心澄む
千歳の巌の硬く隠されて
秘めにし花そ咲きぬ
深き霧覆いにけるかな
穢れず咲きし花にあれ
人目を拒み霧に包まれ
神の御意にそかない
言をつつしみ自然に包まれて
硬き千歳の巌の下に咲く
その花を尋ねるもいづこや
濃霧に道は隠さる
神は知る秘めにし花かな




posted by 天華 at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

2025年05月17日

だまされたカネを取り戻せるはずが…弁護士着手金トラブル急増 【30年前私の家で関わった兄の交通事故死の悲惨な顛末−弁護士も不正な着手金をとった】


だまされたカネを取り戻せるはずが…弁護士着手金トラブル急増
【30年前私の家で関わった兄の交通事故死の悲惨な顛末−弁護士も不正な着手金をとった】

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「だまされたカネを取り戻せる」などとうたう弁護士事務所に着手金を支払ったものの、適切に対応してもらえず被害金も戻らないというトラブルが急増していることが分かりました。全国の消費生活センターに寄せられた相談は昨年度までの3年間で5倍に増えていて、弁護士会などが注意を呼びかけています。

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着手金では私の兄の交通事故で似たような経験した。静岡の方で事故で兄が死んだ。その時何が起きたのか理解できなかった
兄の死にかかわったのは雇った運送会社の社長であり私の母であり兄の離婚した妻であり中学生の一人娘だった
なぜ母が兄の遺骨を持っていこうとしたとき運送会社の社長が骨は置いておけ墓をつくってやるからと言ったのか
そのことがわからなかった。盛んに言ったのは乞食のように雇ってくれと来たので雇ってやったと恩着せがまがしに言った
その時母であれ兄には良くしなかったので何かそのことでも責められていた感じがした
雇い主の社長はそこをついて来た。私はめんどうだしわからないから三日くらいで帰ってきた。
私は車を持っていないので自賠責と任意責とか知らなかったのである
何かめんどうになったから関わりたくなくて帰った、その後に残されたのが親戚の人と母二人だった
親戚の人は車を持っていたから自賠責とにんいのことはわかっていた
とにかくもめたが母は骨を家にもってきた。そして実家の墓に葬った。

結果的に交通事故の賠償金は母が法律的に受け取ることになった。そしてその金で娘は妻の実家の兄の所に引き取られた
でも何かうまくいかず高校を出て東京に一人出た、それでその後も遺産の金を娘に送り続けた
そのあと妻は事故の一か月前くらいに離婚していたから実際は相続できない、もし離婚していなかったら賠償金はほとんど妻のものになった。妻は別な不倫した男と逃げた。妻と娘は兄の事故死のあとも関係していたらしい、その妻も病気になり金が無くて苦しんでいた、その遺産が欲しくて兄の死後一回私の家に来たことがある。
何かその後不倫した男は自殺したとか聞いた。何かその辺は詳しくわからなかった。そのわからない一番の原因は静岡であり離れすぎていわからなくなったのである。

ただ兄は交通事故になる前に一回仲間の運転士と家に来た、その時は確かに悪いということはなく仲間でも社長でもうまくいっていたみたいだ
ただなぜ社長が豹変したのか?それは兄には身寄りがないと思っていた。それで賠償金をもらう後見人になりたかったみたいだ。でも法律的には実の母がいて後見人になった。それで不満だったのである
つまり賠償金が入るとなり骨を置いておけ墓を作ってやるとなった。

その後何か賠償金を基礎収入日額 × 休業日数 = 休業損害の書類を運送会社の社長が保険会社の人が要求しても出さなかった
何かそこでもめて私の家では弁護士を頼むことにした
それを親戚の人が知っている弁護士がいるというので頼んだ
ところがその親戚の人も何か社会のことがわからない人だった

なぜなら相談しただけで百万とられた!

別に裁判になったわけでもない、要するに着手金として要求されたのである
普通ならそんな金を払わないのである、せいぜい数万だろう。そして現実に運送会社の社長と交渉して休業補償の書類をとれたのは保険会社の人であり弁護士は何も関わっていなかったのだ

つまり着手金詐欺だった!

何か弁護士も危険である、簡単に信用できない、弁護士が意外と推理ドラマでも遺産とかでも大きな金にかかわるから問題が起きる、つまりそういう遺産でもめる、親族でももめる、そのために弁護士も一役買いその弁護士が遺産をせしめるとなる
大きな金になるとそこで欲がでてきてもめることになる。

ただ私の家では連れ子の兄を良くしていないからそこに後ろめたいものがあり強く主張できなかったのである
その時すべてがみんな兄のことを思った人はいない、社長もやっと時は兄にとって悪い人ではなかったみたいだ
でも事故で賠償金が入るということで豹変してその金を得ようとしたのだと思う

いずれにしろこの問題にかかわった親戚の人も死んだ。母も死んだ。すでに事故から30年以上過ぎた
それで私は実家の兄の骨を埋めた墓から骨を取り出そうとしたが土になって兄の骨はわからなくなった
それで私の墓の隣に小さな墓を作り供養している、それで死んだ一人娘に墓参りしてくれと連絡したが電車賃もないから行けない金を送ってくれというので10万送った、でも墓参りには来なかった
その娘も父の兄には苦しめられたので兄を思う心がなくなったただ金だけが欲しいとなっていたのである

だから兄は本当に不幸だったとなる。それは良くされた自分とは雲泥の差があった。だから私は兄は常に悪いと思っていたのである。ただ兄についてすべてが私の家で責任があるとはならない、集団就職でもその当時別に結構な人がそうなっていたからである。また離婚したりとかも私の家の責任ではない、だからすべて責められるとはならない
でもあまりにも兄は不幸だった。離婚であれそれは本人の責任であり私の家の責任とはならない

それにしてもすべてが金、金、金でありその後の姉と母の介護でもそうだった。それはプログで書いてきた
何かこうした事件とは何がなんだかわからなくなる。でも30年以上過ぎるとそういうことかと自ずとわかることがある
つまり歴史でもその時起きたことが何なのかわからないのである、それでかなり時間が過ぎてからわかることがある
そういうことだったのかとわかることがある。

だから毎日のように事件があったとしてもそれを理解することは簡単にできないのである
ただ常に歴史でもそうだがこうした事件が常にありそこに教訓を残す、弁護士のも悪い人がいるし必ずしも信用できないということである。弁護士でも仕事がないと苦しくなり金のため人をだますことがある
弁護士は信用がありまた難しい法律を利用してだますから質が悪いのである

いずれにしろ地獄の沙汰も金次第であり金、金、金、、、であるのは現実である
ともかく兄も悲惨だったし継母に育てられた母も悲惨だったのである。何か人間は悲惨である
姉にしても最後は認知症になり結構ためていた金を銀行から下ろせなくなった。それも悲惨であり最後は【俺は優秀だった】と言って死んだのである、つまり馬鹿になったと見られたからである、それが悔しくて最後にそう言って死んだ
ここでみんな求めたのは金、金、金、、、であった。誰も兄でも思う人はいなかったのである

私の家族は姉と母のことは今でも思い続けていて供養している、でも兄は娘にお死んで捨てられたとなる
やはり事故であれその前に兄自身にも問題がありそうなったのかとなる、ただ何らかで金を使い市営住宅を追い出されたようである。それで娘を車に乗せて暮らしていたが自動相談所で引き取った。
その連絡が母に来ても何か遠くて事情が呑み込めなかった。
結局遠くなると何をしているのかもわからなくなり事情が呑み込めなくなる
近くても何十年と付き合わないと何か会っても通じなくなる。だから日頃交際していないと近くでも事情がわからなくなる

何か今こうした私的なことがプログで書きやすい、こんなことは記事にはならない、でも個々人で体験したことが無数にありそれは語られなかった。それがプログで公に語られることになった
そこに常に何らかの社会の問題があり教訓を残す、ただこうしたことは複雑だから他者にわかりにくいことは確かである
30年とか過ぎて冷静にふりかえりそうっだったのかとわかることがある。それでまた書いてみたのである

ただそうしてだまして不正の得た金はその人を幸福にするだろうか?

何かその金が呪いともならないか、一人の人間が死んでその金にハエイナのように死肉に群がる、そこに人間のおぞましさがある。それは今度は私自身の姉と母との介護でも経験した。人間の醜さ恐ろしさを経験した

基本的にいくら科学技術が発展してもこうして人間の醜さは罪でも消えることはない、だからこそ宗教でも諺でも現代でも通用している。その宗教もカルト宗教団体になると求めているの金だけだとなる。釈迦であれキリストのような人間などいないのである。あらゆる欲望を満たすためにさらに神仏に祈っているのである。結局のところそこも金、金、金しかないのである
宗教でもって人を騙す詐欺なのである、それが余りにも巨大化しているから余計だまされるとなる。
政治家でもいいことばかり言うが自分たちの利益のために国民をだますことがある。ただそれも巨大化するとわかりにくいのである。


人間も金の対象でしかない
死肉をあさる動物
この人から何を得られる
この人と何の関係がある
この人が死んで何を得られる
死者は何を与える
死者に何の価値もない
目ぼしいものを奪い取れ
死者には用はない
何の利益にもならない
残した財産金を奪い
死者は反抗できない
死者には用はない・・・

それが芥川龍之介の羅生門になるのが現実社会である、おぞましいとなるがそれが普通だという現実なのである。





posted by 天華 at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅の記録

2025年05月16日

近辺の夏の花を見る【牡丹、つつじ、菖蒲(あやめ)、車輪梅、夏菊】 【老人でも隠者になることはむずかしいー神が人間の生活を隠したの意味】


近辺の夏の花を見る【牡丹、つつじ、菖蒲(あやめ)、車輪梅、夏菊】
【老人でも隠者になることはむずかしいー神が人間の生活を隠したの意味】

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夏の山迫りて高し進むかな

事ならむ夏の満月輝きぬ

燃ゆるごとツツジの赤く牡丹かな

赤と白つつじの映えて小公園

老鶯やふとぶとし木根を張りぬ

隠れ棲む石に菖蒲や顔見せず

もの言わず石に菖蒲や籠るかな


つつじ咲く燃ゆるごとしも六七輪牡丹の咲きて車輪梅咲く

赤々とツツジの映えて飛び交いぬ燕の影や街中の道

夏菊の真白く映えて文目咲く根を張る木々や朝に歩みぬ

二種類の牡丹はや散るその後に力ぬけにき我が庭にをり

畑にそ働く人いて物言わず菖蒲の咲くや日は暮れゆきぬ


空家の庭にツツジが咲き牡丹が咲いた。よく見ると車輪梅が咲いていた、この花は南相馬市鹿島区海老浜が南限の地とされていた。でも海老村は津波で消失した。南限の地ということはあたたかいとなる

とにかく牡丹は私の庭に今年二種類咲いたが散るのも早かった。それで力が抜けた感じになった。
川の土手の道を行くと白い夏菊が今年も一面に咲いた、その中に文目が咲いている。これは菖蒲とは違う
文目は乾燥したところに咲く、菖蒲は本来は湿地帯に咲く、ここに咲いていたのは自生した文目(あやめ)である

ある家に菖蒲が岩の側に咲いている、でもその家には同年の女性が一人住んでいる
でも姿を見たこともない、前の隣にあった家の女性も妻も干し物をするときだけ見かけたのである
女性でも内気な人がいて顔を見せないことがある
それがかえって奥ゆかしいとなる

とにかく人間は老人になると隠居する隠れ棲むのがいい、でもこの隠者のようになることは難易度が高いのである
それで小人閑居して不善をなすとなる、それは自分のことでもあった。何か閑居して人に知られないように生きるのは難易度が高くよほど優れた人でないとできないのである

現代は高齢化社会でいろいろと問題になるのは何か隠れ棲むことができない、確かに経済的に苦しく働かざるをえないのだが
老人はでしゃばらないのがいいと思う、長生きすれば恥多しとなる
何か生きがいを求めて働くとなっても老人は向かないことが多くなる

近くの店に77才でまかせられたのは問題だった。裏方の掃除とかならいいが一番目立つ客と応対する場にいたからである
その人はそういう場に向いていない、やはり若い人が特に女性が客にじかに接するならいいのである
なぜそこで雇ったのか?おそらく人で不足でそうなった。そこは農協が経営す店でもあまり客が見かけない
前は女性が二人いたのである。

老人を雇いたくないという時何か若い人達とうまくやれないとか体力の問題とかいろいろある
老人はあまり社会で働くのが向いていないのである。本当は働くより隠者になるのが向いている
でもそれが難しい面がある。

老人だけではない実際この世ではいらない人でもでしゃばる、それで返って迷惑にもなる
それで神が人間の生活を隠したというとき人間は総じて醜いものだから本当はでしゃばるな、自然の中に隠されてあれ
つつましくあれということである。つつましくとは日本語では包むからきている、自然の中に包まれる包まれるから来ている
自然は美しいが人間は醜いからである
田舎の人間でも同じである、田舎だと露骨に醜さが現れる、蛇にもなるが蛇は隠れていればいいが出てくるのである
人間も自然の中に隠れていればいいが出てくる時醜いとなる

また長生きすると恥多しというのもそうである。まず隠者のように生きられない、どうしても出しゃばる、嫌われていても構わず出しゃばる。それに気がつかないこともある。だから老人でも今経済的問題もあるが長生きすれば恥多しとなっているのが多いのである。ただ本人は気づいていないことがある。
権力にしがみつき若い人を育てないこともある、つまりどうしても高齢化社会は老人の問題になる







2025年05月15日

伊勢(名古屋)から名張を通り飛鳥奈良への秋の旅の短歌 【奈良は大和であり日本建国の場ー京都は平安京は日本文化の場】

伊勢(名古屋)から名張を通り飛鳥奈良への秋の旅の短歌
【奈良は大和であり日本建国の場ー京都は平安京は日本文化の場】

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伊勢の海秋の朝日の昇りつつ奈良に向かいて我が旅たちぬ

名張にそあまた燕や秋の日に奈良へ向かいて旅行く人かな

名張にそ一時留まり秋の日や燕飛び交い奈良に急ぎぬ

はるけくも奈良に着きしを剣池謂れを語り秋に来にけり

飛鳥より二上山に秋の陽の没るや姉弟の離れざるかな

陵(みささぎ)に奈良の秋や誰が眠る大君ここに厳かなるかな

陵(みささぎ)の奈良に残して秋深む大和の歴史ここに始まる

代々の天皇(すめらぎ)継ぐや大和かな古思い秋深まりぬ

鴟尾(しび)光り大仏殿の厳かに大日如来鎮む秋かな

大仏殿大和一つと鎮めなむ蝦夷の恨みの知りしも治む

池古りぬ秋の柳や悲しけれ采女の恨み宿りけるかな

天皇に仕えて悲し采女かな報われざるや恨み残しぬ

薬師寺の堂塔古りぬ西の京秋の夕陽のかがよい没りぬ



隠野 (なばりの) と呼ばれる地名が出て来る。現在の三重県名張市のことだが、動詞のなばると地名のなばりとの間に語源的なつながりがあるかどうかはさておき、「縁達師」とだけ紹介されているある万葉の歌人は、音の同一性を利用して、次のような歌を詠んでいる。

宵に逢ひて朝面なみ名張野の萩は散りにき黄葉早継げ

よひにあひて あしたおもなみ なばりのの はぎはちりにき もみじはやつげ

「宵に逢ひて朝面なみなばる」は「夜にあって共寝したので、朝になってみると、はずかしくて見せる顔がない」といった意味に取れるが、この部分は名張野を導く為の序詞 (じょことば) で、ひとくちでいうなれば、言葉遊びであり、従って、この歌は本質的に「名張野の萩は散ってしまったので、もみじも早く続け」と叙述している詩にすぎない。奈良・平安の歌集にはこういった文学的技巧の歌がしばしば見出せる。(→われから)

「和名抄」の名張郡名張郷だが、現在の名前は近世から使われた。名張は「ナ(接頭語)」+「ハリ(開墾地)」か。【出典】

名張(なばり): 「隠れる」を意味する古語の「なばる」、または新たに開拓された土地を意味する「新墾(にいはり)」に由来する。また、これらの両者を合わせて「隠された土地(田畑)」に由来する可能性もある。【出典】

・ 名張(なばり): 「名張」の由来は、「隠(なば)り」という上代語に因むというのが定説。【出典】


地名の働きは結構大きい、なぜなら地名からイメージが喚起されるからである。それで相馬地域で伊達藩と相馬藩の境が新地でありその名が南相馬市相馬市からくると新しい地に来たと感じる、それはやはり距離が影響して感じた
旅人が感じるのとそこに長く住んでいる人が感じるのとは違ったものになるからである。

名張(なばり)「隠れる」を意味する古語の「なばる」と新たに開拓された土地を意味する「新墾(にいはり)は両方の意味があるかもしれない、隠されていた未知の地域が新たに開拓されたという意味になる

伊勢から名古屋からここを自転車で通ったことは覚えている。覚えているという時鉄道だと駅名が心に残る、記憶される
それで旅をして地名に興味を持つようになったのである。
アメリカ旅行で夜になり一人だけがおりた、そこはプリンスという名だった。そこは中西部辺りであり淋しい場所である
でもプリンスという駅名だけを覚えてたのである。あたりの景色もわからなかったのである
その名はイギリス系統である。王子様となればそうである。

旅という時記憶をたどることになる。その記憶が30年とか過ぎるとあいまいになる、それは深い霧につつまれたようになる
特に外国は風景があまりにも違っているから余計に記憶に残りにくいのである
日本だと後からでもイメージしやすいが外国はイメージしにくくなる。

私が飛鳥とか奈良に行ったのは30年前とか40年前である。それでもやはり日本だとイメージできるのである
ただ本当は何度も行けば自ずと心に定着する。それでもイメージできるから詩でも短歌でも作れるとなる
正直自転車の旅は辛い、旅館でも断られたり胡散臭いとみられる。だからテントで泊るとかなる

あの時は名古屋の伊勢湾にテントで泊った。だから海から朝日が昇るのを見たのである、ただその後の光景が定かではない
どういう経路を辿ったのか思い出せなくなった。それでも名張を通った時秋なのに盛んに燕が飛んだことが印象的だった
秋にこんなに燕が飛ぶのかと印象的だったのである

奈良に着いて剣池により飛鳥の方に行きそこから二上山が見えて秋の夕陽が没してゆくのが見えた
飛鳥からも見えるのだと感慨深いものがあった。奈良はと京都は相当に違っている、奈良は大和であり日本が建国された歴史の場である。また万葉集の故地である、でも京都となるとそこは日本文化の都市であり大和という統一国家とは違ったものになった。日本の文化都市である。平安京でも源氏物語の舞台であり女御がかなを発明したように女性的にもなる
そこでは奈良で意識される国家というのではなく貴族の文化の都市だとなる

葦辺(あしへ)行く鴨の羽(は)がひに霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ

巻一(六四)
-----------------------------------------------
葦べを泳ぐ鴨の背に霜の降る寒い夕べは大和のことが思われて仕方がないなあ。
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この歌は文武天皇が難波宮に行幸された時に従駕した志貴皇子(しきのみこ)が詠んだ一首

奈良は日本国家形成の地であり故地である。ここでは鴨の羽(は)がひに霜降りと夫婦であり妻を思っている
でも大和とあるとき奈良では国家を意識する。京都になれば国家意識は薄れてゆくからである。











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古代の都の変遷ー川が交通の道となり作られた 【恭仁京、長岡京など―木津川で運ばれた木材】

古代の都の変遷ー川が交通の道となり作られた
【恭仁京、長岡京など―木津川で運ばれた木材】

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長岡京の近くには桂川や宇治川など、3本の大きな川が淀川となる合流点があった。全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。長岡京にはこうした川が3本流れ、船で効率よく物資を運ぶことができ、陸路を使わざるを得なかった平城京の問題を解消できた。また、造営地の南東には当時巨椋池が存在し、ここも物流拠点として期待された。

冬十月、難波(なには)の宮に幸しし時に、笠朝臣金村の作れる歌一首并せて短歌

押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の 古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の 思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす 長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥 味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども


荒野(あらの)らに里はあれども大君(おほきみ)の敷きます時は都となりぬ

葦辺(あしへ)行く鴨の羽(は)がひに霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ

巻一(六四)
この歌は文武天皇が難波宮に行幸された時に従駕した志貴皇子(しきのみこ)が詠んだ一首。
志貴皇子は天智天皇の皇子でしたが、壬申の乱のときにはまだ幼かったために命を奪われずにすみました。

難波宮は現在の大阪市中央区にあり孝徳天皇のころに京のあった場所です。
志貴皇子たちが訪れたこの時期にはすでに京は大和の明日香を経て藤原京に遷っており、難波宮の宮室も六八六年の火災で全焼したあとでしたがかつての宮としての機能そのものはまだ残っていたのでしょうね。


歴史も地理がわからないと基本的にわからない、それで京都に流れ出るのは保津川であり木津川ではなかった。
木津川は木津川市がありその近くに恭仁京があった。川の側にあった。この木津川は長岡京へと結びつき淀川と結びつく
つまりこの川を通じて船の運搬があり木津川とは木を川で運んだから名ずけられた
長岡京は京都の前進であり三つの川が交わる要所にあった。つまり川が道となり交わる地点にあった。
ただ難波の宮は飛鳥の次の都であり川より海に面して外国の要人を迎える場として作られた。
その難波の宮が大阪城のすぐ近くにあったということは歴史的連続性がある。つまり海に面して淀川がありその淀川から大阪城に通じる水路もあった。やはり川が道となる要所にあったとなる

川というのが船で行き来した交通があり道であったことが理解できなくなった。それで川の役割が見えなくなった
淀川は江戸時代でも船の交通があった。なぜ京都が千年の都になったのか、それは奈良の平城宮から恭仁京へ長岡宮へと遷都する。その中間的位置にあり最終的に京都が千年の都となった。そこに川が関係していたのである
木津川とか淀川は比較的急流がないかもしれない、保津川は急流である。川でもいろいろあるから理解しにくい。
ヨーロッパだと川は運河のようになり都市を結ぶからわかりやすいのである、商人のハンザ同盟が成立したのも川で結ばれたからだとなる。川が道となり交通する道となりそこに都であれ都市ができる、これは世界的に共通している

ともかくまず地理から世界を歴史でも見る。でもこの地理がわかりにくい、いくら地図を見てもわからない、それで保津川と木津川を混同していたのである。たとえ実地にその場に行っても後からその場がわからなくなる
何度でも実地に行けばわかるが遠くなると行けないからわからなくなる。何か霧に隠されてあいまいなものとなる
だから外国になると地理がわからないから必ず錯覚する。中国であれアメリカであれ広すぎてまず地理が理解できないからである。そこで必ず地理がわからないから誤解するのである。

もののふの 八十やそ宇治川の 網代木あじろきに いさよふ波の ゆくへ知らずも 」(3−264)

(宇治川の網代木にしばし滞りいさよう波、この波はいったい何処へ流れて行くので  
 あろうか。(いく末が分からないのは、わが身も同じだが。

幾つもの川が合流し、多くの人や物が行き交う「宇治川」を連想させたかったのでしょう。また、近江からの木材が藤原京の建築材料として運ばれている昨今、都の建設に、大勢の官人が奮闘していることを暗示したのでしょうか。

奈良の都と木津川

川でも古代になればゆくへ知らずもとなる。川の奥川の先が見えないからである、川は今でも一つの川を知ることは下流から上流までしることはむずかしい、宇治川であれ木津川でもそうだろう、だから怖さを感じたとなる
ただ今になると川はただ水が流れているだけでそこが物でも運ぶ人が行き来する道と見えないのである
大きな川の全体像は見えない、阿武隈川とかでもそうである。長大であり一つの川として知ることがむずかしいのである。どうして吾妻山の高いところを阿武隈川が流れているのかそれも不思議だったとかなる。

とにかく平城宮の外港として木津川があり今の木津市がある。近くに木を伐り出した杣山があり現実に木津市がその出荷する基点となっていた。木津川とはまさに木を運ぶ津だったのである。
都作るとなれば相当な材木が必要になる、それを運ぶとなると何で運ぶのかとなる、すると川を利用して筏を組み運ぶのが便利だとなる。でも急流とかあると危険である。でも大量の木材を運ぶにはいいとなる。木津川市の近くに恭仁京が計画されたのもそn立地が良かったからである。

 木津と木津川



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2025年05月14日

初夏の新地の詩【伊達と相馬の境の歴史としての新地−宮城県福島県山形県と接する】

初夏の新地の詩【伊達と相馬の境の歴史としての新地−宮城県福島県山形県と接する】

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初夏やや白波よする新地かな
青葉に風吹き眩しく陽の光
丘に若草の覆い遠くを望む
燕飛び交い我がここに着く
かなた金華山に牡鹿半島見て
振り返り残雪の蔵王迫り見る
高台より海を望み貝塚あり
手の長い巨人の貝をとり食べる
伊達と相馬の戦いあり昔の境
城の跡あり訪ぬかな
新地の道や木陰の深く家々や
藤の花の長々と垂れぬ
畑に人あり暮らしかな
墓地一つ海を望みありぬ
この地に生きる人の眠りぬ
海は広々と開けて遠く船の見ゆ
六号線はなおかなたに続く
さらに遠くへ我が行かむ
東風(こち)は太平洋より吹きそよぐ


新地は別に地形的には境とはならない、山で遮られていないし川もない、ただ伊達藩と相馬藩で争った。
それで境界になった。だから新地に来てもそこが別な国という意識は持てない
不思議なのは新地の方言が語尾にだっちゃとつく、これで国の訛りで判断する
このだっちゃが仙台便でもありなにか押し付ける押しが強い言葉なのである
それと比べて相馬藩だとんだであり、これは何か口ごもる言葉で東北弁らしい

そこで丸森は相馬藩が金山の城の城主にもなっていた。だからその麓に住んでいる人がんだちゃと言った時
それは相馬地域のんだと仙台弁のだっちゃがごうせいされてそうなったのかと聞いたのである
これは明らかに文化の違いである、方言から文化の違いを知る

おそらく山形県と宮城県の方言も違っている、山形県の方言は濁音が強いように思う
何か地形的に山形県は離れているようで相馬地域からも蔵王がはっきり見えるし新地からさらに残雪の蔵王が迫って見えた
それから牡鹿半島でも金華山でも近くに見える。だから山形県でも宮城県でも近いと感じる

でも福島県だと阿武隈高地にさえぎられて全く福島市とか吾妻山とか見えないのである
それで地理的一体感を感じないのである。相馬地域からは蔵王も見えるし山に登ると牡鹿半島も見える
つまり地理的には宮城県と一体感を感じる。まして会津となると別世界にもなる
やはり地理の地形の影響は大きい、この地理とか地形は変えることができない、阿武隈山脈を平らにはできないからである。







2025年05月13日

初夏の夕暮れの道ー夫婦が手で田植えする(藤の花、菖蒲、月見草)


初夏の夕暮れの道ー夫婦が手で田植えする(藤の花、菖蒲、月見草)

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田植えする夫婦やあわれ夕暮れぬ

藤垂れぬ田の面に夕日細き道

日立木の街道細く菖蒲咲く


我が家に店営むとき豆腐売る老女は語る母のことかな

春の日や一時会うも雲隠れその去りて会わざりしかな

長々と柳の垂れて藤の花池に映して夕暮るるかも

この道に月見草や薄暗し田舎の暮れぬ我が家に帰る


珍しく手で田植えしている夫婦がいた。老夫婦だろう、何かそれを見て和む。何故なら今は田植えでもみんな機械でするからである、だから早乙女が田植えする祭りとかなくなった。その時村人が一体になった
奇妙なのは今田植えするとき機械でできない端の方する、また中国で小麦を刈るのコンバインでするが平地でない所はできないので手刈りする、どうしてもすべてを機械化できない

とにかく夫婦であれ村人全体で田植えとか稲刈りするときそこに連帯感が生まれる、それが機械化して個々にするとき連隊は失われるとなる。あらゆるものが機械化してロッボトでもやるようになるとどうなるのか?
その時人間の生きがいであれ連帯感は喪失する、それはAI化でも起きて来る
人間は何をするのかとなる。ロボットが仕事するのも見ているだけとなるのか?

藤の花の季節である。この時期田植えが始まる。季節の変化がある。日立木の街道の狭い道には菖蒲が咲いていた
月見草も咲き始めた、この花は夕暮れに咲く、そして行き慣れた道を家に帰る

私の家で店をしていた時豆腐を下ろした女性と話す、85才になり何か苦しい様子である
その人が母のことを語るので親しみを覚える、でも姉のことを語る人がいないのは淋しい
何か死んでも長く語られる人は生き続ける
不思議なのは近くの医者は常に話題になりその話で持ち切りだった。それがなぜ語られないにか不思議である
世代が変わると忘れられてゆく、直接かかわってぃとがいないと忘れられてゆく
ともかく死んでも語られ続けられる人は生きているとなる。ほとんどの人が死ぬとたちまち忘れられるからである






2025年05月12日

久迩(くに)の都を想像で訪ねる【遷都する都】

久迩(くに)の都を想像で訪ねる【遷都する都】

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今知らす久邇の京に妹に逢はず久しくなりぬ行きてはや見な(『万葉集』768)[5]
今造る久邇の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし(『万葉集』1037)[5]
三香(みか)の原久邇の京は荒れにけり大宮人の移ろひぬれば(『万葉集』1060)[6]
今造る久邇の京に秋の夜の長きに独り寝るが苦しさ(『万葉集』1631

この歌は大伴宿禰家持が、奈良の平城京から遷都されることになった山城(京都府)の久邇京を褒め讃え詠んだ一首です。

幻と久邇(くに)の京は成らざりき寺の礎石に偲ぶ秋かな(自作)

都がなぜ遷都したのかよくわからないという、いろいろ災害がありそれで何か縁起悪いとかなったのかもしれない、この辺で
相馬氏の小高の海岸の村上に城を作ろうとしたがそれも何か縁起が悪いとしてやめた。何か古代になるとそうして合理的には考えない、ただ遷都するにしても平城宮は大きいのだから残っていた
ただ交通の便が関係していた、近江の方へ遷都したのは地理が関係していた、川が交通路になっていて近江の方へも大津京が作られた。京都でもやはり交通が川が関係していた。その川が地理がわかりにくいのである。

なぜ飛鳥が日本の最初の都になったのかそれは平城宮の地はまだ湿地帯とかであり住めなかった、だからわざわざ遠回りして山側から都が生まれた、大阪辺りも大きな湾であり湿地帯だった。でも交通の便が良いから難波の宮がその後生まれた
京都でもやはり交通の要所として千年の都となった

東(ひむがし)の市(いち)の植木(うゑき)の木足(こだ)るまで逢(あ)はず久(ひさ)しみうべ恋ひにけり

門部王が東の市を詠んだ一首ですが、「東の市の植え木の枝が垂れ下がるまで長い間逢わず、寂しいことだなあ。」と、市に植えられている樹の枝が垂れ下がるまで長い間恋人に逢っていない寂しさを詠っています。
「東(ひむがし)の市(いち)」は、奈良の都の東(羅城門の東)にあった市で、現在の奈良市杏町のあたり。

この歌も何か市があり市では人が出会うからできた歌である。その時間感覚が古代では時計ではなく木の成長の変化で見ていた
時計がないということは日が昇るとか沈むとか月の満ち欠けで時間を計ることになる、でも木足(こだ)るまで逢(あ)はずとは相当に時間が長いと思う、その頃奈良としても距離が離れていればなかなか会えない事情があったかもしれない、それは戦前であれ車がないとき歩いて行くほかないから例え隣の村でも遠く感じるしなかなか会えないということがあった
それが奈良時代になればさらに不便だから人は簡単に会えないことがあった、だから恋人であれ会いたいという時切実なもになったいたことは想像できる

飛鳥なる礎残る寺の跡若草生えて古思ふ(自作)

百済寺に古き仏や微笑みぬ春の日たずね飛鳥を偲ぶ

藤原の都の跡ははや刈田名残りに飛びぬ黄色の蝶一つ

飛鳥にしても寺の礎石は残っている。それも一つではない何か所か残っている。だから国分寺跡が久邇(くに)の京に残っている
大きな礎石が残っている、でもそれは未完成の都として残された

今造る久邇の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし

幻と久邇(くに)の京は成らざりき寺の礎石に偲ぶ秋かな(自作)

都でもそこが山川のさやけき場だったのである。自然の美しい場所に都があるべき場所として選ばれたのである
その差が現代と余りにも違っている、現代はむしろ自然を必ず破壊してでも都を作るとなる
だから殺伐としているのである。

久邇(くに)というとき国造(クニノミヤッコ)から来ている

橿原考古学研究所の寺沢薫氏は、こうした小共同体が集合した小国家を「クニ」と表現し、この「クニグニ」が統合されたものを漢字で「国」と表現しています。

ともかく小国という地名が日本には多い、山の奥の閉ざされて地域でも小国となる。一つの自給自足のクニであり村だとなる
国となれば大きいがもともとそうした小国のようなものをまとめた統合したものが国家となった
ただ都となれば大きなものである。小国とは比べることもできない大きなものである
飛鳥でもその跡の遺跡が残っている、それは結構大きなものである、それでも飛鳥板葺宮となるとき藁葺から板葺となりやがて寺の瓦の屋根になった。それは規模としては相当に小さいものである。

今知らす久邇の京に妹に逢はず久しくなりぬ行きてはや見な(『万葉集』

今造る知らす久邇の都・・・というときそれは作りつつある都でありその臨場感がでている。そこに新しい都ができるのだという期待感が出ている。でもその都は成らずに終わった。だから幻の都ともなる

三香(みか)の原久邇の京は荒れにけり大宮人の移ろひぬれば

これはやはり一時的でも都として機能していたのか?何か良くまだ解明されていない、ここでは確かに大宮人は存在したとなる


「明神あきつかみ」の歌

  久邇くにの新あらたしき京みやこを讃ほむる歌二首 并あはせて短歌
 現あきつ神 わご大君の〔明津神吾皇之〕 天の下 八島のうちに 国はしも 多さはにあれども 里はしも 多にあれども 山並みの よろしき国と 川並みの 立ち合ふ里と 山背やましろの 鹿背山かせやまの際まに 宮柱 太敷ふとしき奉り 高知らす 布当ふたぎの宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥が音ね響とよむ 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺をかへも繁しじに 巌いはほには 花咲きををり あなおもしろ 布当の原 いと貴たふと 大宮所おほみやどころ うべしこそ わご大君は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮此処ここと 定めけらしも(万1050)

この歌でもいかに自然と調和して都が作ろうとしたのかわかる。

 川並みの 立ち合ふ里と 山背やましろの 鹿背山かせやまの際まに 宮柱 太敷ふとしき奉り 高知らす 布当ふたぎの宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 

この川は木津川でありこの川は京都に流れて淀川に合流して大阪に出る。久邇の都は川の側であり水運もありその水も清らかであった。

藤原京を除けば。これらの遷都先には少なくとも、水温の可能性があった。平城宮では泉川、木津川への近接性があったことはすでに述べた。造京遷都には瀬戸内海をはじめ淀川、木津川、宇治川などの河川や、琵琶湖、瀬田川などの水運をからんでいたことは明らかだ。少なくても集中した中枢の都城にとって、水運は重要な要件だったことは間違いない。
(地形で読む日本―都、城,町はなぜそこにできたのか 金田章祐)

川は古代では道だった。何か物を運ぶのでも川を利用した。ただ日本の川は大陸の川と違って急流とかあり難しい面はあった
木津川でも急流がある、京都の嵐山に流れる少し先でも急流がある。ただ淀川になる急流はなくなりそこは船が人でも物でも運んでいた。いずれにしろ久邇京は風光明媚な場所にあったことは確かである。


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アメリカメイクグレートアゲインとは第二次世界大戦の後の好景気の時代に帰ること 【アメリカは戦争でもうけてきた国で衰退する?−世界共和国はありえない】

アメリカメイクグレートアゲインとは第二次世界大戦の後の好景気の時代に帰ること
【アメリカは戦争でもうけてきた国で衰退する?−世界共和国はありえない】

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紙の爆弾ー5月号


アメリカのトランプ大統領のアメリカメイクグレートアゲインとはいつの時代なのか、それをアメリカ建国から見て考察したが
アメリカの好景気は第二次世界大戦後に起きていた、戦争の結果世界は荒廃してアメリカのみが工業製品でも売れていた
今のラストベルト地帯でも好景気になったいた。
hillbilly とは米国における侮辱的な用語である。「田舎者の無教育な白人男性」の意味である。その人達がトランプ大統領を支持している。つまり製造業が衰退したからである。ただアメリカ人の傾向としてもともと知識人と金融業とかを良く思わない人たちがいた。その人達がアメリカでも暴利を貪り中産階級が没落して窮している、その差が大きいことが問題なのである
そして今やアメリカンドリームは消失して貧富の格差が常態化して下層階級と極一部の大金持ちに分断される
それでアメリカメイクグレートアゲインとは戦争してアメリカの経済を立て直すことなのかそれも危険である

アメリカは戦争によってもうかる国、戦争は商売

戦争になるとアメリカで作る武器も売れる、軍産複合体の大企業がもうける、アメリカメイクグレートアゲインとは第二次世界大戦で好景気になった時代に戻れということだったのか?

アメリカは常に戦争を仕掛けて来た軍事大国である、日本との戦争も日本が仕掛けたというよりアメリカが経済封鎖とかで日本を戦争に追いやったとも見れる、その後もベトナム戦争イラク戦争アフガニスタン戦争と戦争がアメリカによって仕掛けられた
米ソの冷戦の場としてベトナムの悲惨な戦争となった。イラク戦争はアメリカが化学兵器を持っていると難癖をつけて戦争になった。アメリカは戦争国家である、そもそも何故日本であれベトナムであれイラクであれアメリカが関わり戦争になるのか、その必然性はないのである。アメリカが攻撃されるわけではないからである。

でもウクライナとかとなると現実にウクライナにロシア人が大勢住んでいるからロシア人を救出するという大義名分が一応成り立つ、またナトーに加盟されると攻められるということで防衛戦争にもなる
それはナポレオンの戦争でもナチスでも現実に攻められて一千万の死者が出たとかありそれがトラウマになっているからそうなる。

でもアメリカは他国に攻められて甚大な被害にあったことがないのである。安全圏内にあって遠くの国と戦争する
だからずるいともなる。戦争になれば双方とも死者でも甚大な被害がある。確かにアメリカ人も他国で戦争して相当数死んでいる
でもその数は少ないし自国が爆撃されたことはないのである。他の国のように焦土と化すこともなかったのである
だからアメリカは本当の戦争の悲惨さを自らの国土と国民で経験していないのである
ロシアであれ中国であれ日本であれ莫大な人が死に焦土と化して経験がある
だから日米安保条約はアメリカが日本を守っても日本は守らないから不公平だというのもおかしいのではないのか
そもそもアメリカは離れているのだから守れと言っても容易ではない、アメリカは他国が攻撃しにくいのである
国境を接するメキシコと建国当時戦争があったその後は国力の差が大きすぎてなくなった。
日本はアメリカを守れというのも地政学的には無理である

今アメリカが衰退するのはやはり何か道義的な問題があってそうなったのかとも見る。アメリカは強大な国家であり力があるからその力を行使するとき危険にもなる。だから日本に原子爆弾まで落としたとなる
何かそういうことが一方的な力の行使で世界の人達を苦しめてきたことがカルマにもなりアメリカは今覇権国を維持できなくなり衰退してゆく、そのあがきとしてトランプの関税問題がある。何かアメリカは窮地に追い詰められて無理なことを世界に押し付けているのかとなる、日本もそうだけどアメリカも実際は衰退国家になっているのか、アメリカは数パーセントの富裕層が富を独占しているとかある。その差が極端であり一つの国としてまとまることができず分裂する、だから今アメリカに起きていることはアメリカが世界の覇権国から脱落する。関税問題はそのための足掻きなのかとなる

ただアメリカの覇権が終わる時世界がどうなるのか、中国が覇権国になるのか、それも中国の混乱と不況で苦しんでいる。
世界は覇権無き群雄割拠になるのか、その狭間で日本も苦しむとなる。
確かなことはアメリカの覇権は終わりつつある。それは見えてきているのではないか、その後の世界がどうなるのか、そこに混乱が起きてまた戦争になるのか先が見えない、そしてどうしても中国が鍵になる、ウクライナ戦争でも中国がバックで応援しているとかパキスタン―インドの衝突でもカシミールが中国の国境として接していて武器の援助がパキスタンになされていた
パキスタンであれミャンマーであれ中国が海に出る通路として確保したいからそうなる
日本でも中国人の移住増加しているという時現実問題として身に迫っている。アメリカは覇権国でなるとき中国と日本一国では立ち向かうことはできない、だから日本はどうするのかとなる。アメリカだけに頼ることはもはやできないのである。

戦争を起こして武器を売り経済を復活させる、これは恐ろしいことである。アメリカに正義などない、デールが商売があるだけでありそのためには自ら戦争を起こす国なのかとなる、それはもはや許されないだろう。アメリカは今や世界から見放されつつある。その世界情勢を見るべきだとなる,いくら巨大国家でも世界政府にはなれない、世界から反発されればその覇権も失う
ただ世界は世界共和国とかは実現しない、それも悪夢になる。世界が一人の独裁者によって支配されることになる。
トランプ大統領もアメリカの独裁者になり世界の独裁者になる恐怖になる。それはバベルの塔になり神によって破壊されるのである。中国でも同じである、世界の覇権国になっても一帯一路でも反発される。中華帝国が世界帝国にはなりえないのである。
結局世界史で世界帝国は実現していない、ペルシャ帝国であれアレキサンダーの帝国であれローマ帝国であれモンゴル帝国であれ実現していないのである、世界史にも神の関与がありできないとなる、バベルの塔は崩壊するのである



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2025年05月11日

初夏の新地の俳句10句【新地の景観の魅力ー青葉風、初夏、タンポポ、若草、菖蒲、燕】


初夏の新地の俳句10句【新地の景観の魅力ー青葉風、初夏、タンポポ、若草、菖蒲、燕】

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青葉風六号線を走り行く

青葉風白波よする新地かな

青葉風新地に望む太平洋

一望に海や開けて夏は来ぬ

初夏や海の遠くに金華山

新地なれタンポポ咲きて広き海

新緑に海を望むや新地かな

初夏や沖に船行く新地かな

若草や新地に望む海広し

菖蒲咲く新地の高台望む海

波寄せてつばめの飛ぶや新地かな



新地は一番変わった、前の面影が全くない、漁村のあった所は一軒の家もなくなり公園になった
その変化は余りいも大きかった。今はただ広々とした海を見るだけである
それも景色としてはいい、とてもそこから前にあったものを想像すらできなくなった
これも何と言っていいかわからない

ただ新地という地名があっているのである。つまり景観でも新しくなった地だとなる
常磐線でも駅名からイメージすることがる。

磐城太田ー原町ー鹿島ー日立木ー相馬ー駒ヶ嶺ー新地

となり磐城太田は古代の磐城国であり原町は野馬追の原であった。原っぱであった。そこに馬が放牧されていた
それは牛越城まで伸びていたから相当に広いし今の街はなかったのである
原町は駅前通りから発展したのである。原町村がありそこから野馬追いに一騎だけ出ていた
小さな村に過ぎなかったのである

鹿島は鹿島御子神社があり鹿島となった。その駅舎は明治時代のもので古いのである。それで壊して新しくする計画がある
でもそれに反対する人もいて小学生が駅前で残そうということで何か集まっていた

相馬市は城のあった所でありわかりやすい、新地は実際は相馬藩ではなく伊達藩でありただ相馬郡になり福島県になったのである

駒ヶ嶺駅は駒は高麗であり渡来人関係から名づけられた。

新地という時原町鹿島からだと自転車で遠く感じる、それでそこに住んでいる人とは違い新鮮に見える
確かに新しという感覚になる、津波のために駅も新しく立派になり本当に新しくなったのである
新地は景観がいいが山元町になると景観的には魅力を感じない、新地の場合は海が接近しているから景観がいい
高台から海が望めてそこに貝塚がある。

手長明神はこの地の巨人伝説として有名で、この新地貝塚に住み、長い手を伸ばして2Km先の海から魚介類をとって暮らしていたと言われています。大量の貝類を見つけた村人たちが、どうしてこんな山の中にこんなにたくさん貝類があるのか、これは手の長い巨人様に違いない、と想像したのでしょうね。

そういう場所にあった。それはその場に立てば実感する。山元町には海からかなり離れているので地形が違っている
新地の魅力はそうした地形にある。



2025年05月10日

空家の庭に咲き続ける牡丹【短編小説と随筆】


空家の庭に咲き続ける牡丹【短編小説と随筆】

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空家になった庭に今年も赤いツツジが咲き牡丹が六七輪咲いた、その家には塀がなく道の側の家だからその花はいつでも見られる
その家には実は誰かか持ち主がいてそれを買った人がいた。それで子供を連れて若い母親が来たことがあった
でもその家族は住むことがないのも不思議だと隣に住む達雄は思っていた

「なぜ住まないのだろう」
「なんか事情があるのだろう」
「仕事か、それとも学校の転校などの問題か」
「わからないけどそんなことだろう」

ただ不思議なのは空家化している庭でも花は毎年咲く、それはなぜなのか、つまり野菜でもそうだが花でも一旦土地に根付けば
毎年土から栄養をとって咲きつづけるからである

隣の家の達雄はその牡丹を見て思った

「そういえば私の庭でも牡丹が咲き続けている、それも長いんだよ、三〇年前なのか本当に長く咲いている
四五輪は毎年咲くから不思議なんだ、肥料もやらないのに咲くんだよ」

花は毎年咲き続ける不思議がある、ただ肥料をやらないと咲かないこともある、でもなぜ肥料もやらないのに咲き続くのか
その土地にあって咲き続ける。風通しとか乾燥しているところでその牡丹は合っていて咲き続ける
それは野菜でも同じである。その土地に合っていれば野菜でもその土地独特のものが作られ特産物となったりする

こうして農業はその土地から作物を取り続けられて生活が代々成り立つ、でも今の時代様々な職業があってもそれが継続されることは時代の変化でむずかしい。農家が代々続くのは土地をもっていてそれで続くのである
農民が土着するというときまさに土に着くであり土に依存して生きることである。
つまり土がある限り野菜でも米でも取り続けることができるということである
花でも土があればそこから栄養をとるから咲き続ける。
だから空家になっても花は土地い土着しているから咲き続ける

そこの近くでも空家が壊されても庭に花が咲き庭にあった木は今でも生き続けている、何十年も生き続けている
それで達雄は嘆息する

「空家ふえて困る、この周りでも子供はいない遊ぶ声もしない、何か見かけるのは杖をついた老人であり、空家が放置されている、地震で屋根が壊れても直す者もいないな」

いつもその空家を見ている達雄は思う、そこは金持ちの医院があったのである。でももう一軒の開業医もなくなった
そこも毎日通るから気になる、そこは相当に広いのである。実はその隣も家があったが壊されて空地化したのである
なぜなら東京に住んでいた息子も死んで田舎に家も放置されたからだ
日本では四軒に一軒が空家化する、これは何か恐ろし数字である、村が維持できなくなり町も市も縮小する
そしてまた独り言を言う

「人間はみんな死んで消えてゆくのだな、近くの医者は腕がいいが口が悪いと評判だったな、母はその医者を嫌って
優しい医者に行っていた、でもその医院も更地になったな、こんなに変化するのは驚くよ、母は腰が九〇度に曲がっても手押し車を押して結構動いたな」

達雄の母親は百歳生きた。辛抱強く大正生まれだった。

「そうだな、土の命は長いけど人の命は短い」
「花の命は短いというけど毎年咲くから長いよ」
「土着するから長いんだよな」

 庭に咲き続ける牡丹よ
 我が家もかく栄えなむ
 空家になりしも
 花は土に根ざし咲きつづける
 人の命より土地の命は長い
 その土の力により花は咲きつづける

今年は別な牡丹がその家の狭い庭に咲いた、紫の濃い色の牡丹である。二輪咲いた。名前は麟鳳という名である
麟鳳亀竜からとっている。世の中が平和に治まっているときに現われるとされる、麒麟、鳳凰、亀、竜の四種類の伝説の霊獣とある。これらの動物は縁起ものである。確かに戦後は平和な時代を生きたからいい時代だったとなる。今になると日本は貧乏国家になり衰退国家になりそれが失われた。

その牡丹は二年なのか三年なのか葉っぱしか出なかったのである。その家の主人はその牡丹を見て言った
「すでに白い牡丹は散ったがまた新しい牡丹が庭に咲いた、赤紫の牡丹が映えて我が家は栄えたな、まだ私はここに生きる、ただ年も年だからどうなるか、でも私の母は百歳生きたからな、私は何歳まで生きるのかな」
そう達雄はまた独り言を言う、確かに達雄の母はやせていたけど百歳生きた。
長生きの時代だから百歳生きる人が増えてゆく、牡丹のように大輪の花を咲かせて死ぬという時代なのかもしれない
百歳元気で生きられればそうなる。亀は長生きの象徴でもある。つまりこれは高齢化社会に似合っているのである
鶴は千年亀は万年というからである。また人間は長生きすれば成長して竜にもなるということがある。
人間は成長し続けるからである
posted by 天華 at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 童話(短編小説、随筆)

2025年05月09日

五月晴れ6号線を行く【相馬市から新地へー青葉、夾竹桃、藤の花、つつじ、八重桜、東風(こち)】

五月晴れ6号線を行く【相馬市から新地へー青葉、夾竹桃、藤の花、つつじ、八重桜、東風(こち)】

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夾竹桃白にピンクや六号線

桜咲き大漁なれや船帰る

木陰なす道や新地に藤の花

セキレイの流れに飛び来て土手の道夏の小花や朝街に入る

6号線風にさゆれて藤の花しばし留まり我が進み行く

赤白とツツジの映えぬ6号線燕飛び交いかなたに進む

遠くへと心高鳴る五月晴れ6号線をひたすら進む

6号線遠くへ伸びて東風(こち)吹きぬ白波寄せて沖に船行く

6号線青葉光り新地かな白波寄せて沖に船行く

山高く海広々と五月晴れ青葉に光沖に船行く

残雪の蔵王の近くも望むかな心新たに新地に着きぬ

菜の花に松や街道夕暮れぬ点々と続く民の家かな

夕日さし月もい出なむ藤の花城の跡にそしばし佇む

城跡に八重桜散り夕日さし藤の花垂れ城下町暮る



相馬市により新地まで行った、何か風が毎日吹いていた、それで他から移住してきた人が風が吹くので困ると言っていた
確かに4月は毎日のように風が吹いていた、本当は相馬の空っ風というとき3月には吹いていたから季節がづれたのである
それでなかなか遠くに行けなかった。

昨日は五月晴れであり気持ちよかった、ただ桜は散っていて藤の花の盛りになっていた
夾竹桃は沖縄のジャングルで自生したのを見た、それは意外だった、白い夾竹桃だった。
花というのは原産地自生している場を知るのも大事である
カンボジアでノボタンという紫の花を見た、この花は日本でも奄美諸島とかで見られる。
暑いところで見られる、南相馬市のマルハシャリンバイは奄美諸島から種が流れ着いて自生した
南相馬市の鹿島区お海老浜が南限の地として有名だった。ただ海老浜の村も津波で壊滅した

新地という時蔵王でも近く見える、それと牡鹿半島と金華山も見える、ただ今回は晴れていたけど見えなかったのが残念
何か新地という名前が合っているのかまたは名前からイメージが喚起されるのか新地という地名がいいのである
風景でも新しいう感覚になる。だから地名と名前は結構影響する。

地形的に台地に貝塚があるからそこが縄文人の住居がった。というのは海岸の平地は津波で集落が壊滅したように危険だった
海岸の縄文遺跡を見ると小高辺りでも不思議に津波の来たところからは発見されないのである
だから津波を避けて住んでいたのかとなる。
とにかく新地でも相馬市の磯部でも津波で壊滅した、そもそも縄文人は津波の来る場所には住んでいなかった
磯部でも実は海を埋め立てて田にして稲作をはじめた結果住む場所が海岸になった
だから何かしら津波の危険を伝えるものがあり縄文人は住まなかったのかまた入江のようになっていた住めなかったともなる。
新地の海岸の集落は公園になった、小高い丘から見ると見晴らしがいいのである

ただ坂本から山下とかなるとそれほど景色は特別なものはない、でも蔵王は近くに見える
新地は高台にありそこから海が広く望める、その高台から貝を長い手を伸ばし食べていたという巨人伝説がある
地形から見るとそれが実感できる、だから歴史でも地理がわからないと実感できないのである
その場に立つと実感できる、それで推理小説でも警察官は現場に何度も行けというのはわかる、その場所から必ず手掛かりを見いだす、それは学問でも同じだとなる

相馬市で城跡に藤の棚がありそこに夕日がさし月も出ていた、八重桜が散っていた。季節の変化がある
相馬市は一応城下町なのだがそこに城があり侍が生活していたというものが感じられない、石垣でもたいしたものではない
それでも黒橋を上ると結構急であり要害の地だったのである。

八重桜が散って藤の花が咲く光景は城跡にふさわしいのかとなる、街道の松並木を行くと菜の花が咲き日立木に出る
菜の花はやはり民衆の花だとなる。

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2025年05月08日

深刻な空家の増大―4軒に一軒が空家化する―縮小衰退する日本の恐怖

深刻な空家の増大―4軒に一軒が空家化する―縮小衰退する日本の恐怖

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空家化した庭の花

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隣で4軒家がなくなり空地化した、一軒は農家であり広い、ただ二軒は別な場所に家を建ててそうなった
でも道をはさんで医者だった家が空家化していて屋根が壊れていても直さない、その息子は最近78才で死んだ
家族は東京に住んでいるから放置されている。

そして別な側の隣には子供と一時来て住むとされたがそこも空家化している。どうして住まないのかわからない
そこには塀がないので庭に牡丹が咲き赤いツツジが咲いた。それを私は見て写真を撮った
他でも私は家よりいい庭がありそこに花が咲いているのを見る
何か家より庭が価値あるとも見る、家というのは古くなると日本では価値がなくなる
外国では古くなった家でも長く住んでいて価値があり売れる、それで日本の空家を利用する人もふえているという
ただ空家はリホームするから金がかかるとして敬遠する人もいる

ともかく4軒に一軒が空家化するとなると100軒あれば25軒とか空家になる。これは相当に多い、私の家の周りを見ても
子供が見かけない、遊んでいる子供いない、老夫婦の所に子供を連れて横浜からきた人がいる、でもすぐに帰った
もう一人は74才くらいで何なのか病気になり大宮ナンバーの車があり息子が来て介護しているのかもしれない
ともかく夫婦がいても跡継ぎの子供がいないのである。
だから目に見えてこの近辺は空家化してゆく。ただこの辺は原発事故で避難民が移住して新しい家を建てた
広い住宅地として造成していたからである。だからそれほど人口は減らないのである

それにしても空家問題は深刻である。それは少子高齢化の人口減少の結果である。それは日本全体でそうなり東京の都市部でも団地自体が廃墟化している。この辺は新しく宅地造成で空地が広くありそこに外から来た人が家を建てた、それで人口は減少しない面があった、原発避難区域は空家だらけのゴーストタウン化したからである。

街内でもこれだけ空家が多い、街から離れても必ず空家が目立つ、ここも空家だったのかと見る
それと氷河期世代45才から50全般の人達は子供がいない、回りでもその人達が多い、4050代で結婚していないから子供見ないのである。また子供でも東京の方に出て帰らないということがある
だから日本全国で後継者不足になる。これも深刻なのである。

要するに少子高齢化の対策は氷河期世代の人口が多い人達の時対策するべきだった。でも時すでに遅しとなっていた
ともかくこれは10年後20年後の差し迫った問題である。日本全体が縮小することでありそこい相当な痛みがともなう
適正サイズになるまでそれが続くからである。その被害者になり割を食うのは氷河期世代だとなる
ただ団塊の世代も介護になり支える人達がいないから苦しむ。何か地方では介護が仕事になるという人もいる
それだけ介護される人が増えるからである、だから日本は衰退国家になる。老人と病人と介護される人の増大でありそんな社会が成り立つのかとなる。

そして日本はもう先進国ではないとされる。給料が外国と比べて上がらないから苦しいのである。中産階級が消失して下層階級と一部の富裕層に分断される。そうなると社会の分断であり治安も悪くなっている。明らかに犯罪が増えている
極端になると周りに家がない過疎地は人の目がないので狙われやすいから住めないという人がいる
それだけ治安が悪くなり田舎でも安心して暮らせなくなる、現実地方自体が生活困窮者も増えている
それで私自身も犯罪にあった。それは遠くから来た人達ではない、近くの人が犯罪者になる
それだけ人間は追い詰められると犯罪者が増えるから安心して暮らせなくなる



posted by 天華 at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年05月07日

春の京都の短歌−外国人観光客で失われる千年の都の情緒

春の京都の短歌−外国人観光客で失われる千年の都の情緒

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古の京の都や夕暮れて枝垂桜の色を深めぬ

御殿(みあらか)の大池映る桜かな飛び石踏みて古偲ぶ

京の道築地塀に春日さし人のゆかしくそぞろ行くかな

古の女御やあわれ殿籠り枝垂桜や池に映しぬ

春の月池に映してあわれかな女御の籠る簾の内に

塔古りて鐘鳴りひびくあわれかな古偲ぶ春の夕ぐれ

街中に水の流れて花も散り祇園を行きぬ舞子なるかな

街中を流るる水や行く人もゆかしや京の花に映えるも

しずしずと着物の女性しとやかに古の京の路地にそ春の日さしぬ

京の人集いしや塔も見え御室の桜我も交じりぬ

(八坂神社)

古木なる枝垂桜の優艶に古の京偲びて暮れぬ

京都なれ和紙に染まる桜色古偲び夕暮るるかも

辻々に古き碑あれや古を語りて尽きぬ京の暮れにき

一際に椿の赤く散りにしを花吹雪かな詩仙堂訪ふ



御室桜(おむろざくら)

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貝原益軒が書いた『京城勝覧』(けいじょうしょうらん)という京都の名所を巡覧できる案内書にも次の様に紹介されています。
「春はこの境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす、吉野の山桜に対すべし、…花見る人多くして日々群衆せり…」と記され、吉野の桜に比べて優るとも劣らないと絶賛されております。


御室桜(おむろざくら)は変わった種類の桜である。何か庶民的なのかもしれない、これは江戸時代に花見の名所となった
京都となると古都でありそれで趣が違ったものになる。千年の都の哀愁と美がある。それは他では作り出せないのである

兼好法師の時代(鎌倉末期)の仁和寺は都の近郊にあって圧倒的な規模を誇った大寺院で東西8km・南北4kmという広大な敷地の中に関連施設や70以上の子院があったといいます。

兼好が草庵を建てて『徒然草』を執筆したのは双ヶ丘(ならびがおか)の山麓と推定されていますが
この土地も仁和寺の寺領に含まれていたわけです。ここの寺は兼好が帰洛した延慶元年(1308年)は後二条院が崩御した年でもあり、天皇の生母・西華門院が追善供養のために兼好に読ませた以下の和歌が、制作年次の明らかな最古の作とされることがある[1小川説ではこれは年忌法要の際の作で、生前の後二条院と兼好の関係を示すものではないとする。

うちとけてまどろむとしもなきものを あふとみつるやうつゝなるらん
− 家集・57番


この歌は理解できる、死んだ姉のことで書いたがまさのこれだった。夢に見た姉はこんな状態であった
他の人でも必ず死んだ人の夢を見る。この短歌はその状態がまさにぴったりである
これは誰でも親しい人が死んだとき感じるものである。死んだ人が夢に現れるのだが幻となりうつつとなりて消えるのである
一時の春の夢ともなる。ただこうして死んでも夢に現れる人はいい、恨んで死んだ人もいるからそうなるとどうなるのか
悪夢にうなされるとなる。家族でもそういうことがあるから怖いとなる

いずれにしろ京都は千年の古都であり怨霊も出るとなる。ただやはり千年の古都だからそこを歩けば自ずとそうした歴史を感じるのである。そこに千年の都の重みがある。ただその情緒もオーバーツーリズムになり破壊される
何か落柿舎とかに行った時修学旅行の生徒が騒いでいて嫌だった。今ならそれが桁外れの観光客であり異常でありそれで金になっても何か日本の文化まで汚され破壊されるとおなる。そういう場所に行きたくないとなると日本人が日本の文化を知ることができないともなる。でも何でも経済優先だからどうにもならいとなる。すべて金が物いう社会だからである
金払っているんだからうるさく言うなとかなってしまうのである@そこにグローバル化の問題がある
ただ日本も外国でそういうことをしてきたからカルマだともなる
つまり外国でしてきたことが行為がカルマとなり今日本人にされている、安い安いとしてあらゆるものが買われるのである

京都に三回くらい行ったがそれも30年前なのか40年前なのかとなる、すると記憶がうすれてしまったのである
八坂神社の古木の枝垂桜は見ものである。かなり大きいからである。

平安時代の末期、第56代清和天皇の御世、京都では疫病が流行って多くの人々が死んだり、雷が落ちたりする災害がよく起こりました。
これらの原因は、災害で被害にあったり政治などで失脚した人々の祟りであり、その御霊を鎮める事によってその力を頂くと言う御霊(ごりょう)信仰がはやっていました。
そこで占いをし、姫路の広峰神社にまつられている素盞嗚尊(すさのおのみこと)がこれらの祟りを治めるのに力があるという事がわかりました

八坂神社はこの辺でもいくつかありなぜ多いのかが疑問になる。疫病と関係していたとなるととにかく疫病が恐れられていたことは確かである。人がバタバタと死ぬのを見たら恐怖となる。
京都を中心にして信仰も広まり神社も広まった。原点は京都にあった。相馬市の日立木にある北野神社もそうである

北野神社本殿は、相馬中村神社境内にあり、天満宮とも呼ばれています。学問の神様である菅原道真(すがわらのみちざね)を祭っています。

由来を尋ねると京都が原点になるのが多いとなる。

いつかまた春のみやこの花を見む 時うしなへる山がつにして(源氏・須磨183)

今や30年40年も京都に行っていないとなるとこの歌がふさわしいとなる。みちのくからは遠く山がつにもなる

「やまがつ」は、古典においては主に山の中で生活する猟師や木こり、炭焼きなどの人々を指すことが多く
桜は別にどこでも咲いている、山桜でも美しい、でも都の桜はまた違っていたとなる

桜の季節は終わった、今年は遠くに桜を見に行かなかった別に今なら航空機で大阪まで簡単に行くことができる
でも一度も航空機で行っていないので行けないと錯覚していたのである
ただ正直今の京都とか大阪には行きたくない、そもそも外国人観光客がふえて旅しずらくなったのである
ホテル代も高い、それが最大の問題である。
日本人が日本の文化に親しめないというのはやはり大きな問題になる、つまり日本文化しか知らないということは日本人でもないとなっていしまうからである。

何か服装でも京都では肌さらしてまたラフな格好で行くのが合わないともみる。やはり着物姿でしずしずと行く姿が合うとなる。それも今や別にどこでもなくなっている。要するに日本文化でも消失している。京都でも外国人に合わせると何か京都の日常が失われてもともとあった文化が失われると嘆くのもわかる
やはり今のインバウンドでも度が過ぎている、それが文化を破壊しているから問題なのである