2023年11月15日

冬に入る―俳句連作−神の手に万物が結ばれる


冬に入る―俳句連作−神の手に万物が結ばれる


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この部分に言葉をいれると何かつながりあり俳句にもなる


物言わず万物硬く冬に入る

深々と万物硬く根ずくかな

石と石組まれ重なり冬に入る

石一つ隠され黙し冬に入る

冬に入る万物硬く結ぶ合う

冬に入り万物整い神ましぬ

一段と山の厳しく冬に入る

日本なれ山遮りて冬に入る

人の業休ま無まむ時や冬に入る

神の手に万物一つに結ばれる

神の手に万物結び冬に入る

ポトリかな時雨一滴人は死ぬ



今年は秋がなくなったというは確かに晩秋とか秋深むとかがなくなり冬に入ったことになる。でも冬になっても紅葉がようやく色づいたともなる。でも気候的には急に冬になったのである。だから季節の感覚が狂ってしまったのである。日本人は季節の感覚に敏感であり季節が変わるたびにやはり心も変化する。それで俳句という芸術は生まれたのである

冬は万物は休むときである。でも人間の活動は休むことがない。田舎だと稲も刈られて刈田になり季節の変化を感じる。でも奇妙なのは風力発電の風車は風に回り続けているのである。それは休むことはないということである。文明活動に人は疲れる。東京のような人ごみの中にビルの乱立する中に生活できると思う

私自身は東京で大学生活をしたりアルバイトしたりしていたことがあったが東京を嫌悪してで引きこもり生活を実に30年もしてきたのである。その時旅もしていたが日常的には家にこもっていたのである。そしてそこには人は見えず人とは接しず自然と一体化することをアイデンティティ化することをしてきたのである。

そしてそのような俳句とか短歌とか詩を作り続けてきたのである。ただこれは本当に異常なことであり家族に恵まれた結果だったのである。なぜなら家族は私を攻めることもなかったからである。でもそういう生活が自分の性格に性分にあっていたのである。

今でも自分は人と付き合いたくないし冬のように荒野のようにそこに誰も人もいない時心は落ち着くのである。そもそも東京のようなところで生活している人は精神的に既に異常化してしまうのではないか。そこから生まれるのは何かカルト宗教とか異様なものだったのである。まず芸術というのは東京からは生まれないと思う。あの華やかなルネッサンスが生まれたのは5万くらいの都市でありフィレンツェだったからである。そんな小さな都市であれだけの芸術が生まれたということは本当に驚きである。

人間は文明社会はバラバラの世界でありそこはもはや人間の感覚で総合的に見ることができない。人間はただ無数のパーツとなり機械の部品となり日日奴隷化されているように見えるのである。何かそこで確かに経済的には効果があり豊かにはしているかもしれないが精神的には実りがあるのだろうかとなる。

神の手に万物一つに結ばれる

all united one by God hand in winter

自然は神の手によって一つに結ばれている。でも人間の社会は文明社会は何によって結ばれているのかばらばらになった部品の集まりでありそこ結び合わせるものがない。もはや誰もグローバル経済のことなど理解できる人などいないのである。だから株などは誰もわからない。そこは巨大な世界のギャンブル場でありだからこそ今覇権国であるアメリカの支配階級は世界の富を集めているという陰謀論にもなるのである。それはあまりにも巨大でありどのように繋がりがあり結ばれているのかも誰も知りえないからである。

ともかく私の性分はそこに人がいないことであり荒野が広がり自然と一体化するとき心が安らぐのである。そもそも人に何かまともな人間もいないのである。田舎では人からの刺激に欠けていることは言える。ともかく冬というのは自分は好きである。また老人になった結果まさに老人は冬なのである。冬が一番似合っているのである。

2023年11月14日

俳句が写生になるのはなぜなのか? (時雨は死を連想させる―確実に冬になった)


俳句が写生になるのはなぜなのか?

(時雨は死を連想させる―確実に冬になった)


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紫に橙に赤の木の実かな

寂として冬薔薇一輪に蕾かな

山茶花のあまた白しや人も来じ

はや暮れむ家の近くに時雨かな

人は生き何を残すや時雨かな

四五軒隣空地化時雨かな

老いの身に銀の雫の時雨かな

俳句というとき私は正岡子規の写生を基本に学んだ。なぜそれが俳句に適していたのか?俳句は短すぎるから悲しいとか淋しいとか感情的なものとか説明を加える表現の余地がないからである。
だから写生が短くてもそこから鑑賞する人がイメージさせるのである。だから写真と相性がいいのである。でもすべて写生でも表現ができない、つまり内面的なものになるとなかなか表現しにくい、写真でも絵でも表現しにくい、だから言葉になると内面的な物が表現できる。でも俳句では短くてできない。
そもそも芸術は鑑賞すること自体むずかしいのである。

午後から家を出たらすでにくれつつあった。まだ三時過ぎたとであり夕方にもなり風が冷たい、本当に冬になった。これまではまだ秋だった、ただ晩秋とか秋深しとか感じなかった
ただ確かに冬になった。家を出たら時雨であり秋時雨ではなかった。何か一日が暮れるのが早いと思った。人間は自然でも年齢によって感じ方が違う。老人は時間が早く過ぎるとなる。そして死が現実としてまじかなのである。

人間は死んで何を残すのだろうか?ぽつりと時雨一滴のように死んで何も残さない。時雨は死を連想させる。一滴の時雨が死に水のようにも思える、人間とはそれほど儚いものだったのである。
これは老人にならないとわからないのである。もうすでに回りでもあっけなく死んだ人が多い。そして誰もその人のこと語ることもないのである。これもわびしいとなる。人間はほとんど忘れられる。人間は一体何を死んで残すのだろうとなる。一滴の時雨は死を連想する

『 日の脚に 追はるる雲や はつしぐれ 』加賀千代女

これがふさわしい句だった。

『 ともし火の 一つ残りて 小夜時雨 』 正岡子規

おとはしぐれか 

私もしばしば庵を訪ねてその厠にしゃがんだことがあるが窓のない暗いところ。秋深む天地のささやきが、孤独な山頭火の体を竪に通って地に落ちる、そうしたしぐれではあるまいか。」と紹介している。(『別冊新評』山頭火の世界「俳僧山頭火の句」大山澄太)

この音はまさに死を告げる音でもあった。今の時代都会では時雨とか感じにくい。また車社会になると自然が感じにくくなる。
風も雨も感じないからである。そこに車によって人間の五感が喪失したのである

とにかく家をでて近くで時雨を感じる。隣も四五軒壊され空地化した。すでにそこに住んだ人も誰かもわからないし語る人いないのである。死んでまだ数年も過ぎたい無くてもそうなのである。
ただ無常を感じるだけである。

ともかくプログはその日その日のことを報告するのに向いている。なぜなら印象に残ることをすぐに書けるからである。一日でも過ぎるとまた印象での変わってしまうからである。
プログはリアルタイムの報告に向いているのである。
こうして報告表現する場は今までなかったのである。おそらく死ぬ間際まで力が残っていれば書きつずけることがありうる。それを読む人もまたリアルタイムでよむということはありえなかった。雑誌に投稿しても一か月先ともなっていたからである。

とにかく今が晩秋なのか秋深しなのか季節的に狂ってしまった。
ただ冬になたことは確かである。


20年後家族地方福祉国家崩壊が迫る (少子高齢化―未婚単身社会の老後)


20年後家族地方福祉国家崩壊が迫る

(少子高齢化―未婚単身社会の老後)



このまま結婚できない若者が増えていけば、'40年には日本の人口の半分を独身者が占めると推計されている。20年後の日本は、身寄りのない孤独な高齢者で溢れかえる。結婚というシステムの死によって、医療・福祉・社会インフラが連鎖的に麻痺、崩壊してゆく―。それこそが、待ち受ける「大独身時代」の日本の姿だ。

「これから結婚できるのは、高学歴、大都市在住、大企業勤務の人だけになる。反対に低学歴、地方在住、中小企業勤務、非正規雇用の人たちはますます結婚できなくなる。彼らを待ち受ける未来は悲惨です。対策を練る政治家や官僚は恵まれた環境で暮らす層ばかりですから、そういった人たちに向けた高等教育、結婚支援は視野に入っていないのです。
結婚が消えれば「地方」が消える

●20年後の恐るべき地獄社会

これは暗澹たる未来である。でも既に一部で現実化している。その家族はもう崩壊寸前である。一人は精神障害者であり息子は50歳くらいである。結婚はしていない仕事は工事現場である。母親は74歳くらいで脳梗塞になった。幸い軽い方ではあったがその後後遺症で足が悪くなり歩くのはやっとである。杖をついて私の家までくる。常に金がなく食べることもできないと嘆いている。生活保護を受けているとしても国民年金が4万くらいもらっているからそのためにほとんどもらえないのである。ただ介護度が一くらいになっているから援助は受けている。でも金銭的には常に足りないものとなっている。

頼りになるのはその50歳の息子なのだが最初は交通事故になりそれで車がないと仕事にならないとして50万を貸した。そのお金は返ってこない。次に階段から階段で足を挫いて仕事ができなくなった。そして今度は目を悪くして病院に行く。そこで工事現場で仕事に行けず収入が無い。精神障害者を一人かかえて独身でありもうすでに家族崩壊になっている。家族だけではもう家族を維持できないのである。

あたりを見回すと確かに1万の町でも近くで40代50代で結婚しない人が多いと見る。それは地方でもそうなのである。大概地方だと結婚しているのが普通だった。結婚していない人は変わり者であり社会から外れた人になっていた。また結婚しない人は大人として一人前に扱われないということもあった。自分の場合は結婚しないからそういうふうにもなっていた。

でも結婚しない人が普通であり変わりものでもなんでもないむしろ結婚しない人が多いのである。そうなればもう跡継ぎがなくなり地域でも社会でも維持できなくなる。その人たちはすぐに60代70代となり働けなくもない。そしたらその人たちは一人で生活して今のように福祉サービスを受けることも確かにできなくなる。
年金にしてももらえるかどうかわからなにのである。日本経済が弱体化して先進国にもなりえなくなっている。

その未来を予測すると暗澹たるものであり恐怖でもある。つまり社会そのものが崩壊してゆくことである。すでに自分の周りでも家が五六軒壊されて空地化した。子供を見かけるのは保育所くらいであり周りにみかけない。。だから地方からそもそも若い人もいなくなり社会自体を維持できなくなる。老人ばかり増えて病人も増えてもはや福祉サービスすら受けることはできなくなる。家族が崩壊し地域が崩壊し社会が崩壊してさらに国家すら崩壊してゆくのかとなる。戦争も危機であるこれも内部的に危機であり恐怖になる。ただそれを現実として受け止めることが社会でも政府でもできていない。でもこの未来は差し迫ったものであり現実化することは確かなのである

●介護を家族だけではできず家族が崩壊する

家族が崩壊するというとき私自身が経験した。親二人がいて自分自身が病気にもなって一人悪戦苦闘するほかなかった。私の家に来る人は助ける人ではなく助けてもらいたい人だったのである。事業に失敗して借金で苦しんでる人年金が少なく生活に苦しんでいる人そして自らも病気になり身寄りがないのだから病院で虐待されたり何かと責められて苦しめるだけだった。余裕のない人は人を助けることはできない。だから身寄りがないということは恐ろしいことなのである。結婚しない人はそおのことを自覚していないのである。

そして家族崩壊というときそれは誰でも経験することになるかもしれない。家族でもその単位が夫婦とか後は一人暮らしとかが多くなっているからである。すると介護とかになると限界になってくる。そこですでに親を殺すとかまでなっている。それは家族の単位が小さいから誰か一人に負担がかかってくる。その負担が背負いきれずそうなってしまうのである。近くで母親が認知症になり症状は重くその一人の息子が介護で苦しみ母親を殺してしまったのである。その人は50歳くらいだった。

私の二人の親の一人はやはり重い認知症になったからそのことがわかる。そしてまた一人が介護になり私自身も病気になりついには家族は崩壊するとまでなった。つまりこれは家族崩壊というのはこれから起きてくる。またさらに地域崩壊も起きてくる。福祉崩壊も起きてくる。それは今より深刻なものとなる。だからその未来を見るとき衝撃的だとなる。その対策をしないともう社会自体が維持できなくなり崩壊してゆくということである。

とにかく家族崩壊というとき日本の場合は家族中心であり家族頼りになっているのだがその家族の単位の数も少ないし介護となると限界になる。まだ大家族だったら人手があり誰かが世話する余裕があったかもしれない。でも家族の単位が人数は少ないと本当に誰か一人が全部背負うことになる。それを経験したのは自分である。家族だけで背負いきれないのである。その負担が大きいから家族崩壊になるのである。
ヨーロッパの場合すべて家族にがに負担させない国が負担して面倒みるのである。福祉は充実しているからできるのである。日本ではそれができないからすべてが家族に任せられる。でも家族の人数が少ないからとても介護とかなれば負担が大きくなる。誰か一人が負担を全部背負うことになり限界になる。そこで介護殺人が日常的にもなるのである。

●大家族ーファミリーの喪失で助け合うことができない

だから社会自体を見直さないと恐ろしい地獄社会になってしまう。家族中心の世界では社会ではもはや社会自体が成り立たなくなっている。その家族の単位が人数は少なすぎるのである。だからファミリーというとき外国では夫婦とか親子とかだけではない広い範囲がファミリーになっていたのである。スペインの教会のサクラダファミリーという時それは教会に集まる人数がファミリーだったともなる。外国ではそうして教会を中心にしてファミリーが形成されていたともなる。日本はそういうことがなくなった。ただ村が日本ではファミリーとなっていたようである。

なぜなら子供でも村の子供であり家族として育てていたからである。名付け親/取上げ乳付け親抱き親名付け親拾い親
守り親養い親、、、、明らかに家族に一員として育てられたんである。だから村は大きな家族、ファミリーだったとなる。
本当に村の子供家族の子供ではなく村の子供として見守り育てていたのである。それが現代のよう個々バラバラになり核家族になりそうしたファミリーというか共同体は喪失して核家族とかなりそれに代わるものとして福祉サービスが提供されるがそれも将来的にはできなくなる。

今はかろうじて維持しているだけであり今50代ぐらいの氷河期世代が60から70とかまあっていうこともはや福祉サービスでも受けられなくなる。予算的にも今や日本は貧困化して福祉の方に回せなくなるのである。だから少子高齢化というのは社会の崩壊にもなるということである。それが地方で深刻化する。すでにもうその前兆は明確に現れている。あらゆるところで跡継ぎはなく仕事も維持できなくなる。 1万の私の街でわ自転車屋は一軒もなくなった。小さい町ではサービスを受けられなくなるのである。

●地獄社会となる恐怖

もしかしたら残酷ではあるが地獄を生きることを覚悟するとかになるかもしれない。なぜならもはや福祉であれ医療であり様々なサービスが受けられなくなる。また貧困社会になり食うことさえままならぬものとなる。そういう社会になった時それは地獄社会である。地獄を生きる社会ともなる。その覚悟は必要になるのかとなる。なにか老人になるとそれなりに生きてきたから諦めもつくがこれから生きる人にとっては過酷すぎるともなる。

何か老人は生に執着しなくなり後何年か生きてこの世を去るだけであるとかなる。この世で嫌な人とも永遠に合わない様々な苦しみ嫌のことから解放されるとなり気持ちに返って楽なのである。若いと欲望が強く女性に対してもそうだからそれが焦燥感となり苦しむのである。生の執着が生まれ苦しむのである。そして先が長く感じられる。でも老人になると人生もあっというまに終わることに驚くのである。ただ何かと姓に執着する老人も多い。でも老人の心境は若い人に分かりにくいのである。とにかくさまざまなものが崩壊して地域であれ何であれ維持できなくなるということである。維持する人がいなくなるのである。

それを補うものは何なのかとなる。日本の出生数は減るだけであり減ることはない。日本で補うことは難しいのである
何か地域でも国でも崩壊するというとき外部からの侵略でまたは戦争で崩壊するということではないその前に内部から崩壊してゆくのである。日本は何かそういう状態になって行くということの恐怖である。それは確かにどこでも目に見えるものとなっているから単なる想像のことではないのである。具体的にその崩壊が目に見えているからこそ恐怖なのである


2023年11月13日

なぜ戦争がなくならないのか 【人間のカルマが解消されず繰り返されるから】

なぜ戦争がなくならないのか

【人間のカルマが解消されず繰り返されるから】

●人間の争いの原因―聖書から考える

●バベルの塔の崩壊で言葉が通じなくなる
●アベルとカインの争いの原因
●アブラハムの子のイシュマエルはアラブ人

なぜ人間に人類に争いがなくならなくならないのか?その原因は何なのか。その原因を聖書から探ればバベルの塔の崩壊で言葉が通じなくなった。言葉が通じなくなれば意思疎通ができなくなる。そこで必ず争いが生じる。言葉が通じなければ今でも外国人と意思疎通をすることが困難だからである。今でも外国人とうまくコミュニケーションができないのは言葉の障壁だからである。

その言葉が通じなくなったのはこれも実は人間と神と人間の関係の中に原因があった。天まで達するような塔を建てようとして神の怒りをかって言葉が通じなくなりその民族は世界中に拡散したのである。それは神の怒りをかったからである。神との関係から起きたことである。歴史に神など関係しないとなるが聖書では神と人間の関係の歴史でありそれが今日まで継続して続いているのである。なぜ今イスラエルでアラブ人と戦い悲惨な結果になっているのかも歴史をたどればアブラハムが不如意の子として生まれた子がイシュマエルでありそれは神に祝福されたものではなかったからである。

またアベルとカインの物語でもカインは兄弟のアベルを殺した。その原因もまた神が関係していたのである。アベルの捧げた羊は神に受け入れられて祝福された。でもカインの捧げたものは地のものの野菜であるそれを神は受け入れなかった。結果としてカインはアベルを殺害したのである。これもやはり殺人の始まりは兄弟殺しなのである。

不思議なのはなぜカインは神から祝福されなかったとかである。それは神と人間の関係で起きたことなのである。それは一つの最初の宗教戦争であったかもしれない。神に祝福されたものと祝福されないものは対立して殺人までに発展した。するとなぜ神は不公平なのかとなる。そもそも神はまず人を選びその人を祝福して全ての人を救うということなのである。旧約聖書ではヘブル人を神の民として選び神が直接関わり出エジプトとかを成し遂げさせた。それも神が関わりできたことなのである。

ともかく3000年前のことが現在に関係しているのかということである。でも今イスラエルで起きていることは3000年前からのことが根になりそれがカルマとなって現実化しているのである。だから歴史は継続であり3000年前であれそれは現実としてそのとき成された行為がカルマとなって繰り返されているのである。
そもそもなぜ人間は争うのか。戦争になるのか。その原因は何なのか。聖書では神に選ばれた者と選ばれないものは戦う争うとなる。ではなぜ神は平等に祝福を与えないのかともなる。それは不可解である。

●人間の争いは動物と同じ理由で争う

その他人間が争うのは人間が生まれてから変わりなくある。それは動物でもメスをめぐってオスは戦うということは人間でもある。女性をめぐって争いになったというのはトロイ戦争だったからである。一人の女性をめぐって国と国との大規模な戦争になったということである。でも現代でも女性をめぐって争いは絶えないのである。それは動物的本能であり人間も動物と変わらないということである。

戦争の原因が何なのか。それはやはり動物だったら餌を得るために争う。人間でも争うという時何か利益を得るために争う。モンゴルでわ食料がなくなると農耕民族の中国に定期的に侵略してきた。それは食糧を得るためであった。そのために中国では万里の長城を作ったのである。食料めぐる争いを深刻になる。食べ物はなくなれば他国に侵略して食料を得ようとする。それが戦争になる。それは現代まで継続しているから変わらないのである。

また土地をめぐって争いになるのも土地が食料を生み出すからである。イスラエルでもアラブ人が農業していた場所に入植した結果として争いが起きているのもそのためである。戦争の原因で一番多いの土地をめぐる争いだからである。
この争いはわかりやすいのである。でも神がかかわり起きた争いはわかりにくいとなる。でも確かに神が関わり争いがおきていたことも確かなのである、そもそもなぜへブル人(ユダヤ人)を神が選んだのか?そのこと自体が争いの原因となったからである。

要するになぜ戦争はなくならないのか。その原因は何なのか。それは3000年前までもさかのぼり人間の行った行為【カルマ】解消されないために現代までそのカルマをカルマによって苦しむともなる。
そもそも戦争の原因はアベルとカインのように兄弟殺しから始まった。つまり人類は兄弟でありその兄弟を殺すことから戦争が始まったともなる。そしてそのカルマが解消されないから2000年前にユダヤ人の国があったイスラエルにユダヤ人が戻り再建されたということそしてまたそこに神に選ばれた者と選ばれないものの争いが再び生じたということにもなる。


●キリストは民族を越えて異邦人でも万人への愛を説いた

ただキリストが生まれた時ユダヤ人しか神によって救われないとかではなくなった。キリストは民族主義者ではなかった。そのためにユダヤ人に拒否されて殺されたともいわれる。キリストは説いたのは万人の愛であり異邦人でも愛する愛でありということは異民族でも愛するということでありそこに平等に人類を平等に愛するということになった愛となった。だからこそ世界に普及したのである。ただユダヤ人は旧約聖書を元にしてユダヤ人のみが神に選ばれて救われるということに固執しているのである。だからこそユダヤ教となると世界に普及することがなかったのである。

いずれにしろなぜ人間は争うのかその争いが終わることなく続いているのか。その原因は何なのか。それは民族同士の争いでもあり利益をめぐる争いであり宗教をめぐる争いにもなる。それらは複雑に絡み合ってるともなる。でも神は最初に選んだ人周りそれがアブラハムであり次にヘブル人選んで神の民として。
その神のために逆らう者は神によって滅ぼされたとなっている。だから戦争の原因も神が関わっていたともなる。なぜならみんな平等であるべきであり選別するべきではないとなるからである。そうは言っても神は絶対であり神に逆らうことはできない。

戦争はなぜ人類からなくならないのか。戦争の原因が何なのか。その原因が3000年前の行為がカルマとなって現代にも継続されているからだともなる。つまり人類から争いはなくすことはできない戦争をなくすことはできない。個々人の争いもなくすことはできない。その個人の争いから国の争いにまでもなる。そして最終的に人類最終戦争のハルマゲドンによって終止符が打たれる。いつか平和な世界が作られると思うのは想像の世界であり現実にはない

●平和とは何なのかー争わない植物的世界に平和がある

平和というときどういうことかというとき植物は平和なのである。なぜなら植物は動物のように食いつ食われる世界ではない。例えば木が何本か立っているとしてその木は絶対に隣の木と争うことがないのである。それも当たり前のように見ているが絶えず争っている人間から見れば奇跡的に見えるのである。
また石でも争うことはない。石と石が互いにぶつかり合ってたたきつぶすようなことはしない。つまり植物はほかのものを傷つけることがないのである。ほかのものは絶えず人間でもほかのものを傷つける。たとえ殺さなくても言葉で傷つける。他にいろいろと傷つける方法はある。だから殺し合いしなくても人はある意味で人を傷つけ殺しているとまでなる
だから肉食動物はこの世から消えて草食動物が残るとされる。来世は新しい世界は肉食動物はいないのである。そこではまた肉食はしてない。野菜とか果実とかを食べているだけであるそれで充分に健康でありうるし平和な世界になるのである。

とにかくどうしたら戦争は争いが無くなるのか。それは不可能だと思う。人間のカルマが解消しないからそうなる。むしろ人間の罪が積もり積もって最終的に人類最終戦争のハルマゲドンに突入するとなる。だから一旦人間のなされた行為はカルマは3000年過ぎても消滅するわけではなかった。人間の争いも人間も生物の一種だからやはりオスメスの争いはあり雌を巡る雄の争いがあり食料をめぐる争いは続くのである。

でも植物的世界になると争いは消滅する。木と木は争わないし花と花も争わない動物でも争うということはないのである。自然界で実際は人間のような大量殺戮とか熾烈な争いはない。動物にしても他の生き物を殺すことは残酷に見えるがそれは自然の中で生きてゆくためにそうせざるを得ないからしているだけである。人間の争いはそういうものではなく過剰に殺さなくてもいいのに殺しているのである。

●人間は悲しみから深いもの学ぶ―戦争でも同じ

それは文明が発達してもその殺戮はさらに残酷となっているなぜなら原子爆弾を落とすということでもわかる。その殺戮の道具が発達してそうなったのである。問題はいくら技術が発達しても人間社会に平和がもたらせないということである。逆に殺戮する道具はさらに改良されて殺戮兵器が残酷に大量に人を殺すことができるようになることである。だから科学技術が平和をもたらすということがないのである。
結局人類の終末が来ているかもしれない。それを象徴しているのがイスラエルの国が2000年後に再建されたことである。でもそのことが人類最終戦争の危機にもなったいる。
でも人間の平和が実現するのは神の国でありこの世ではできない、人類の希望はそこにある。滅びもない永遠の命に生きる国である。そこで完全な平和は達成されるのである。

ただ人間は悲劇から必ず何かを学ぶのである。悲劇にこそ何か深いものを学ぶものがある。家族でも実際は悲劇で終わる。私自身の家族もそうだった。でもその悲劇から学ぶものはあった。たとえ争っていてもともに生活した時間が長いから愛が生じていたということもある。人間は悲しみから何かを学ぶのである。なぜこれほど血で血を争いがあるのか。それは悲劇である。とてもその悲劇を通じてなぜこんなに争わなければならないのかという疑問生じる。争う人たち同士で深刻なものとして感じるようになる。

だからキリストが言うように悲しむ者は幸いであるという時やはり人間は悲しむことによって深いものを学ぶ。でもただ幸福であれば人間の本当に深いものを知ることはできない。それでシェークスピアが不滅の作品ともなっているのは悲劇がテーマになっていたからである。戦争にしても互いに血で血で争いなぜこんなに争わればならないのかという悲しまねばならないのかということを痛切に感じて戦争などしても無駄だと思うのである。
でも現実に戦争はなくならないのである。人間の争いでもなくなることはないのである。その原因はやはり人間のカルマが解消されないからだとなる。そのカルマが解消した世界は神の国でありそこにしか平和がないともなる


posted by 天華 at 18:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年11月11日

キタムラの中古カメラ店の対応がいい不思議 【実店舗で説明してくれるからいい−商売でも安心感が大事】


キタムラの中古カメラ店の対応がいい不思議

【実店舗で説明してくれるからいい−商売でも安心感が大事】

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駅の中の喫茶店で中に鏡がある。でも鏡があることがわからない、奥に映っているのは前の店であり歩いている人も前を歩いている人が映っている、でも奥に部屋があるように錯覚するのである。鏡で遮られて奥には入れないのである。


●中古カメラ店の人はあえて売ろうとしない

安くて、品質良くて、実店舗でカメラやレンズのアドバイスまでもらえちゃう。

「神ってる。」というワードが、筆者の頭の中を巡りましたね。Twitter で「キタムラ 中古 〇〇」のワードで検索しましたが、悪いツイートはほとんど見かけない印象でした。

キタムラのネット中古はずいぶん利用しましたが、基本ハズレはなかった
キタムラでは銀塩3台、デジカメ3台を中古で買ってますが、ハズレはありませんでした。
キタムラの中古カメラ買ってみた!保証や取り寄せの評判はどう?って話


カメラはその本体も問題だがそれよりレンズの種類が多くてどのレンズを買ったらいいのかもわからない。。ソニーのα6000を買ったのは大当たりだった。なぜならアルファ6000シリーズの最初カメラであり画質はいいのである。そしてその上のカメラを買おうとしたがキタムラの店では画質は同じだから買う必要はないと言われた。私は主に使っているのは写真を撮ることであり動画はやっていないからである。場所が仙台駅前にあるので便利である。

そして2万円で買った中古のレンズはポケもでるし花を撮るのに最適なものだった。綺麗に花が撮れるのである。ただ問題は重いということである。でもレンズは重いほうがいいという。でも重すぎると携帯するのは面倒になる。
私は遠くで写真を撮る時車がないから自転車で行くから重いと困るのである。でもその2万のレンズは近くを取るのにもにも良いし遠くでもズームして撮る。だからこの一つがあれば間に合うのである。もう一つ広角レンズを買ったが何かこれが綺麗に映らない。でもそのレンズが悪いものではないとキタムラ店の人は言っていた。そうなのかと思ったの納得いかないものはあった。

ただ写真の撮り方がありそれがまずいということもあった。だからカメラだけではなく写真の撮り方に問題がありそのレンズのせいとも言えなかったのである。
ともかくキタムラではあえて買わせようとともしない。そして丁寧に説明してくれるからいいのである。だから何かキタムラというのは誠実な商売をしていると見る。普通だったら売るために良いことばかり言うがそういうこともない。このカメラとレンズで充分ですよと言われたのである。だから何か商売としては珍しいと思った。たいがい売るためにわいろいろいいことを言って売りつけるが普通だからである。

●銀行の商売は前と違って誠実なものでなくなった

特に商売でダメなのは悪質なのは銀行とか証券会社である。第一その商品を株でも投資信託でも説明されても理解できないのである。だから儲かると言って買う人が多い。そして今や銀行でも経営が苦しくなっているから投資信託やらその他の証券でも手数料を取るために必死になっているのである。
だから株でも上がった時売らなくていいのも売っていたり転売したりとしてそこで手数料は入れば銀行でわ儲かるとなる。だから銀行とは今まで硬い商売だと思っていたが今は全く違う。証券会社にもなっていて手数料商売になってしまったのである。

だからと言って資本主義社会で株の売買とかは悪いとはならない。ただ問題は銀行とかを仲介にすると必ず手数料が取られる。その額が大きいのである3%ぐらい取られてしまう。百万だと3万であり1000万だと30万にもなるのである。だからそれを転売すると銀行は必ず儲かることになっている。銀行自体が株を投資するわけでもないからである損したとしてもそれを客がその損を負うのだから絶対に損しないからである。これほどいい商売はないとなる。。だからこのような商売が何か詐欺のように思えてしまったのである。

銀行員はノルマを課されて課せられているからどうしても手数料を取るために転売したり投資信託を投資信託の仕組みは本当に分かりにくいそれでその仕組みを作ったハーバード大学の人がこれは詐欺であるとして良心の呵責に耐えられず会社をやめてしまったのである
株で素人でもできるのはインデックスでありこれを別に株が下がったら買い上がったら売ればいいだけなのである。でもどうでも銀行とかではインデックスを進めないのであるそれは手数料があんまり入らないからである。

●買いたいものがないがbeing imge ceatorは素晴らしい

ともかく商売という時何か口八丁で売るということもある。でも別に誠実に物を売るということもある。やはり物がいい物は高くても売れるとなるからである。だから物は正直であり嘘は言わないとなる。りんごでも安いもの買ったらまずかった。それははっきりと差が出ていた。だから安りんごになっていたのである。だからでもこのようにものとか食品とかではごまかせないのであ。それは誰でもその価値をわかるからである。

確かにカメラとなるとその価値を見分けにくい。レンズも高いのだがその価値もわかりにくい。でもキタムラでは説明してくれるし何か無理に売ろうとしないのである。それが不思議なのである。商売でもどうしても売りたいとなるからその商品がどうであれうる売ることが言葉優先される。キタムラではそういうことがないのである。だからキタムラで買うということは安心になる。中古商品でも悪いものはありそれを買ったりしたら損するからである。

ただレンズ選びは本当に難しい。失敗したらレンズだけで十万くらいのはいくらでもあるからである。でもなぜ2万のレンズで充分に良かったのか不思議になる。それでソニーのα6000でもこれは画質が良くていいものだった。新しいものになっても画質は変わらないということ何度も聞いたので新しいものを買わないことにした。

ただ動画をする人は新しいものを買った方がいい。おそらく自分くらいの素人に毛が生えたくらいのカメラ愛好家なんか高いの写真を撮るとしたらそんなに高いカメラもフレンズも要らないということである。だからカメラに関しては自分は金をかけていないのである。今あるもので充分だったということである。

何かこれが買いたいというものがなくなっている。パソコンでも別に安くても今では充分な機能がある。それよりパソコンで大事なのはソフトでありそのソフトにしても生成AIとかbingイメージクリエーターなどで言葉を文章を入れると絵を作る描くということには本当に感心した。つまり人間の才能は絵の才能がなくても絵を描けるということに関して。機械とはこれまで人間の肉体を使い人間の筋力で仕事をしていた。

それで村ではは比べ石を持ち上げて一男は一人前とされたのである。また女でも力仕事ができる人が農家ではいいとされたのである。でも今や機械で重いものを持ち上げるから別に力がなくても仕事ができるともなった。そして今や人間の頭脳の代わりをしてくれるコンピューターであり生成AIとか今で作ってくれる時代になったのである。
だからコンピューターとは人間の能力を補うものでありそれが今までの機械とは違っている。ただコンピューターが確かに小説を作ったりするとか実験が行われている。でも詩を作れるのかとなると疑問である。ただ確かなことは人間の頭脳と深く関わりその人間の能力才能補うものとなっているのである。

だから現代で何か買うものがないというとき実はこうしたコンピューターの絵を描くソフトとかそういうものが価値あるものとなっている。それは具体的な物ではなく人間の脳と深く関係したものとなのである。だからそれはコンピューターはプログラムを書きそのソフトを作る人が優れているとなる。だから生成AIの時代になるとそのソフトを作る人が重要になってくるのである。
それは金にもなる時代なのである。

漁業権は大きな権利だったー漁業者が反対すると原発は建てられなかった ー女川の原発の場合


漁業権は大きな権利だったー漁業者が反対すると原発は建てられなかった
ー女川の原発の場合

漁協は原発建設につながる漁業権の放棄を認めず、およそ10年にわたり着工は延期となりました。

しかし1978年、漁協と東北電力の間で漁業の補償協定が結ばれ、漁業権の一部消滅が決定。事実上、原発の建設が認められることになりました。

「機動隊が盾で殴るんだよね」“原発頼み”の町が強いられた50年前の分断と、迎える再稼働のとき

漁業権の問題を追求してきたが女川原発の場合は漁業権を盾に漁業者が原発を作ることに反対していた。つまり漁業者の許可がないと原発は作れなかったのである。だから漁業権というのは意外と大きな権利だったのである。それで原発を作るにしても漁業者の許可がないと作れないからそのためにこの辺では手厚い補償金を原発事故前ももらっていたのである。総額も大きく原発御殿建ったとか噂された。それは漁業者の周りの人が言っていたのである。

みんなが知っていたわけではない。自分自身も知らなかったのである。何か烏崎港からイシガレイとか売りに来る人がいた。金ににならないとか嘆いていたしインターネットでも生活が苦しいと業者の人は報告していた。だから漁業者も生活が苦しくて困っているという風に見ていた。
でも烏崎港となると原発ではなく火力発電所ができたときやはり補償金をもらっていたのである。それで高価な着物は売れていた。まだその当時ヨーロッパ旅行する人など相当な金持ちだった。なぜなら飛行機代だけで五十万くらいしていたからである。烏崎の人はヨーロッパ旅行に団体で行っていた。それだけの補償金が入ったということである。でも別に火力発電所の場合は原発事故とは違って被害もないのだから関心もなかったのである。

でもまた漁業者は原発建った時さらに補償金をもらっていたのである。から烏崎港になれば二重に補償金をもらったということにもなる。つまり漁業権というのは大きな権利だったのである。
だからここで女川で漁業者が漁業権を盾に反対したために十年間も延期されたのである。これはやはり漁業者でも危機感を持って対処していたからそのことはこの辺とは違っていた
なぜそうなったのかといえば宮城県とかは漁業が盛んであり水産業が盛んであり福島県の浜通りとかがと比べれば十倍もの漁獲高の違いがあった
それで原発で汚染されると相当な被害を受けるという危機感を持っていたから反対したとなる。

福島県の場合は漁業はお零細でありそれほど盛んではない。そのために原発に反対もしなかったともなる。補償金をもらって方が楽だとなった。
ただ問題なのは漁業権というのはそれだけ大きな権利があり権利があるということは逆に責任もあったということなのである。それを原発事故後に問われたのである。なぜならここで漁業者が漁業権を盾にして反対した結果十年も作ることは延期されたからである。漁業者が漁業権を盾にして反対すれば原発は作ることができなかったからだである。この辺で反対運動もなく建てられてしまったのである。
だから大きな権利があればそれだけ責任も比例して大きなものだったと言うことを自覚されたのである。ただ火力発電所の場合は別にそういう責任もなかったのである。だからそこで補償金をもらっても何も言う人もいなかったのである。そこに火力発電所と原発事故原発との大きな差があったのである。

今日のニュースでも相馬市の玉野村でキノコ栽培している人がようやく放射性物質を測っても食べられるということで市場に出した。 12年過ぎてようやくキノコを売ることができるようになった。キノコはは一番放射性物質に汚染されたからである。
ともかく原発事故の被害の影響が大きすぎたことである。そこで漁業権を持っていた漁業者の責任が大きく問われたのである。
ただ宮城県の場合漁業に占める海産物の割合が福島県の十倍もありそれも影響していたかもしれない。女川ではクジラを取っていた時もありその鯨を解体するの見たことがある。それだけ漁業に関わる係わる関わる割合が大きかったのである。そして女川の津波被害も大きかった女川原発でもギリギリで津波から逃れたのである。一部に被害もあり危機一髪であった。
それは東北電力の副社長の人がこの辺は津波が来るから5mを相手高くしたのである。それでギリギリで津波から生まれたのである。それも幸運だったのかもしれないでもあの辺りは津波の被害を経験しているから危機感があってそうなったのである。福島県側は津波の被害は400年前にあったとしても全く忘れられていたからである。その相違も大きかったのである

ともかく原発事故の被害は放射性物質に汚染されるということは簡単には解決しない。森であっても放射性物質が循環しているのだから除染すること自体も不可能なのである。ただ30年過ぎるとセシウムが半減するとか言われる。それだけの時間がかかるプルト二ウムトだと消えるのに1万年もかかるというからそもそも除染そのものは不可能なのである。結局原発の恐ろしさを認識できなかった。ただ女川では漁業者の漁業権を盾に反対してたということはこの辺とはだいぶ違っていた。いずれにしろ原発の問題は放射性物質の汚染はそれだけ被害が甚大だったということである。だから12年過ぎても解決していないのである



女川原発は高さを一五メートルにしてぎりぎりで助かった

その技術者は、平井弥之助氏です。東北電力・副社長を退任後、電力中央研究所に移り、そこで、女川原発の建設計画に直面しています。

平井氏の実家は宮城県岩沼市にあり、仙台藩に伝わる記録では、近所の神社に、慶長津波が到達した、とされるそうです。
東京帝大の後輩の大島達治氏によると、平井氏が「貞観津波くらいの大津波に備える必要がある」と言っていた、ということです。
1970年に国に提出された女川原発1号機の原子炉設置申請書では、周辺の最大津波高さの想定値は、3m だそうですが、平井氏は、敷地の高さを15m と主張したとのこと。


高くしてもそれもぎりぎりであり幸運だったとなる。


posted by 天華 at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年11月10日

社会的死の考察【失われた人間の存在意義】 【村でご先祖様となった社会との比較】

社会的死の考察【失われた人間の存在意義】

【村でご先祖様となった社会との比較】

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無数のマス目があり一つが消えても意識されない

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村の中で一人の人間は死ねば意識される、密接に村は一体化していたから

●村で働き死んだ者は御先祖様になる意味ーworkの意味

人間の死を考えるとき一つは生物的死がある。それは社会とは関係ない。誰しも生物であれば死ぬことは避けられないからである。その解決は社会ではできない。それは神との関係でしか解決できない。ここで問題にするのは社会的死である。
人間は社会の中で仲間の中で生きている。その最小限の単位が家族である。だから家族の中で人が死ぬと家族が最も悲しみ死んだ後でも供養する。 でももう一つ人は社会の中で生きているのだから社会的死というのがある。
例えば村という社会のなかで生きていれば人は死ぬと御先祖様になるという。そのご先祖様は山に行って春になると田植えの時期になると里にに下ってきて村人と一緒に田植えをするという田植えを手伝うという。それは何を意味しているのか。それは死んだ後でも村人と一緒に働いているということである。

英語のワークにはただ仕事をするという働くという意味だけではない。
「働く」や「機能する」から派生した表現で “work” は、
効果がある(薬やサプリなどが)効く

(機械やシステムが)機能する、動かない

workには何か様々な意味がある。作品という意味もある。機能するというとき社会に機能するということであり社会の中で働いていればその人は社会に機能する存在なのである。それで街に一軒しかなくなった自転車屋のことを死んだので語った。それは街の中で一軒しかないから貴重なものとなっていたのである。
つまり自転車を故障してもなおしてくれる人がいなくなったからである。だからこそ死んでその人が居なくなったことで社会が機能しなくなったともなる。その人は社会にとって不可欠なものだったことを認識したのである。

人は村社会で見れば村の中で共に働く仲間でありその一人でもかければ必ず意識したろう。そしてなぜ死んだら村のご先祖様になったのかということである。その人は死んでもやはりみんなが意識して村人が意識して存在していたのである。そして肝心なことは春になると山から降りてきて村人と一緒に田植えをする。それは村人と一緒にワークする働き機能するということである。
つまり人間は働くということはただ金を得るというだけではなかった。働くことは村人と一緒にあり村を支え合うものでありだからこそ死んでもまたご先祖様となり田植えの時期にわは緒に働いていたのである。ワークしていたのである。

●無数のパーツとなり存在意義が失われた

このことを考えると現在はどうなっているの現代の社会はどうなっているのか。無数のパーツに分かれて人は何をして働いているのかも見えない一人の人間が死んで消えたとしてもほとんど意識もしない。現実に小さな町であってもスーパーであれコンビニであれそこで働く人が変わってもまた死んだとしてもほとんど意識しないだろう。それよりそれは誰でも変わってやれるものであり極端になるとロボットにもなる。

現実に人間ではなく店も無人化してロボットがするようになる。それはすでに現実化しているところがある。ましてや都会になればさらに働いている人が何であれその人を意識するということはない。つまり今や無数のパーツとなってそれが一つ欠けからといって何か意識することもない。またそこを別なもの人でロボットでも埋め合わせすればいいとなっている。

とにかく働くということがただ金を稼ぐだけでありその価値とか意味を見い出せないのが現代なのである。だから一人の人間が死んだとしてもほとんど意識されない。ただなぜ自転車屋の人が死んでそれが死後も意識されたのか?。それは自転車屋が駅の前にあり駅と一体化していたためだった。なぜなら街の活性化のために駅を活性化するにはどうするかとか語ったことがあるからである。

だから不思議なことは電車に乗って無人駅になった駅に降りるとその前に自転車屋は今は閉じている。でもそこに仕事をしていた星淳一氏が迎えに来ているような感覚になったのである。なぜそうなったのかというと駅の前で長く自転車屋をしていて駅と一体化していたのである。それで死んでも自転車屋が星淳一氏が1迎えに来ているような感覚になったのである。つまり依然として街の中でワークして働いて機能していたとなる。
その自転車屋が記憶されたのはやはり個人ではなく社会の中で機能していたからだとなるワークしていたからだとなる

●文明社会で人間の繋がりがなくナチスやらカルト教団が生まれた

でも現代社会は無数のパーツになり個々の存在は希薄化して社会的死でも意識されない。ただ一つの部品が消えたというだけになってしまっている。それだけ存在感がなくなったのは現代社会だと思う。なぜなら人間の存在意義も希薄化してただ機械の部品のようになってしまったのである。
ただそのことからなぜナチスが生まれたりカルト教団が生まれたりしたのか。それはこうした現代社会の無数に部品化した人の集まりから何か一つの人間としてのつながりを求めて生まれたものかもしれない。

現代社会は大衆化社会でありそこに人のつながりはない。人間は本質的に人間のつながりを求める。だからこそ家族が不可欠になっているのである。でも社会では今やそうした繋がりを得ることはできない。それで擬似的つながりとしてカルト教団が興隆した原因である。それは本来の宗教とは何の関係もない。なぜなら欲望を抑えろとかそんなことを心を清めるとかそんなことは一切言わないからである。
ただ一票を集めるためにただ人を会員を増やすことを目的としてありあとは何も言わない。宗教だったらいろいろ制限がされるカルト教団にはそんなもの一切無いのである。ただ数が増えればいいだけだからである。それもやはり現代の抱えた現代の文明が生んだ病理的現象だったのである。

そして村社会など閉鎖された遅れた社会であり自由もなく逆らう者は村八分にされるという何か村というのは否定的なものとして見られたのである。
でも現在の比較でみるとそういう社会が現在より人の濃厚なつながりがありそれが自然とも通じていて死んでもご先祖様として意識される。すると村の中でやはり人間としての存在感があり生きる意味があったと思う。

ただそんな村社会など遅れた社会であり常に否定されるだけになったのである。でも本当にこの文明社会というのは人間にとって人間らしく生きられる社会とかとなればそうでもないのである。文明そのものが病んでいるからこそナチスとかが生まれたのである。人間は無数のパーツアトム化して人間社会的にその存在も機械の部品に過ぎず一人が死んでも歯車が一つ消えたというだけになってしまう。それでいまや人間の死というのは何か価値あるものでもないし社会にとっても意識されないのでまたそこに存在意義がない。ただの部品が消えただけだどうなっている。だから人間とはそんなものなのかとなるとあまりにもわびしいとなる。

●村社会と文明社会の相違―村社会は遅れていたのか?

だから奇妙なのは今山村などは限界集落化してそんなところに住むべきではないとしているが価値生きる価値とか意味を追求していけばそうはならない。人間の存在は意味は返って大きなものとなる巨大な機械の一部品でありそれが死んで消失しても誰も意識などしないのである。人間の意味とか価値を追求していけばでも山村でもそっちの方があるとなる。そこに逆説的なものがある。
つまり現代文明人が得たものは失われたものは昔の村にあったということである。それは今と昔を比較して理解できるのである。

だから歴史を知るということはそこに意味がある現代の矛盾とか問題を知りは過去はどうであったかということ知り比較すると明確になってくるのである。確かに物質的には現在は豊かになっても精神的には貧しいと自覚されるのである。
とにかく人間とは何かを得るものがあれば必ず何かを失っているのである。その失ったものがなかなか自覚できないのである。それは人の繋がりとか人間の生きる意味とか価値が失われてしまったということだから深刻なものでもある。でも日々の生活に追われて金に追われてそんなことを考える人は特殊な人だとなってしまう。

それで特別優れた天才などはアウトサイダーになった。ニーチェとか上野霄里(うえのしょうり )とかまたシュペングラーにしても西欧文明の没落数の面から指摘したのもまさに大衆化とは数の文明であり一人一人は数に過ぎないとなるからである。
そこに一人一人の存在意義などないのである。ただ票が集まると権力化してそれが社会に通用するとなる。一人一人の一票の中身などどうでもいいのである。いちいちその一人どうだとか心がどうだとか言っていたら票など集まらないからである。だから現在というのはナチスとかファシズムとかの危険が常にある。それは一人一人の存在意義が失われているからである。

それで村社会など遅れたものであり考察にも値しないとなるが精神的な面からすればそうでもなかったとなる。なぜなら現代では老人等尊敬する人は居ない。あまりにも数が多すぎてただ社会の負担とされているだけだからである。
でも村社会の中で死んだら御先祖様となるということはその村の中で尊敬されてそれも死後も生きつづける。そしたら人間の存在意義とかから見れば遅れたと言われる村社会の方が生きる存在意義があったとまでなるのである。
ただ物質的な面とか便利さを追求すれば現代社会は便利である。
でも老人は敬われないし長生きしてもいいことはないといくら医療が発達して長生きしても老人は幸福にはなれないのである。だから歴史を振り返り過去過去と比べると何が失われて確かに物質的には得るものがあったか失われたものもあったということである。それが今問題になっているのである。物質的には満たされている。

田舎ではみんな車一人一台もやはり持っている。パソコンだって今は6万くらいでいいものが買える。何かこれこれが欲しいというか買いたい物も無いのである。そして今人々が求めてるのはそういう物質的なものではなく老人として敬われたいとか価値あるものとされたいとか存在意義を持ちたいとかなっているのである。それを追求すると逆説的だけど村社会にあったなる。だから必ず人間社会は得るものがあれば失われるものがあるということである

2023年11月09日

鹿島駅舎は古いー駅前の星自転車屋は死んだが駅で待っている ー忠犬ハチ公のこと―残る柿、秋深む


鹿島駅舎は古いー駅前の星自転車屋は死んだが駅で待っている
ー忠犬ハチ公のこと―残る柿、秋深む

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晩菊や飲み屋のありて路地の裏
駅舎古り電車を待つや残り柿
主待つ忠犬ハチ公秋深む

秋の薔薇朝日をあびて我が庭に静かに咲きて散りにけるかな
自転車屋星氏の死にて淋しかな駅に待ちしや秋の夜帰る

久しぶりに仙台に行った。今年は暑くて仙台にも行けなかった。四ヶ月くらい行ってないかもしれない。ただ仙台に行っても駅の中を回って早めに帰ってきただけである
人間で最も不思議なことは不可解なことは人間が死ぬということである。昨日まで普通に話していた人でも死んでいるのである。でも人は死んで全く消えてしまうのかということである。
私の家族はみんな死んだ一人はもう十年以上過ぎている。だから月日が経つとともにどうしても人は忘れられる。そんな人いたのかとも存在していたのかと思う。家族ですらそうなるのだから赤の他人など全く忘れられてしまうのである。

ではなぜ自転車屋の星淳一氏のことをを思い出すのだろうか?別にそんなに親しいというものでもなかった。ただ自転車が好きで自転車で関わったのである。それよりなぜ自転車の星淳一氏が全く消えるというのではなく何かその存在が死んであとも残っている。駅から降りるとその前の自転車屋でありその自転車屋は駅とと一体化していたのである。だから電車で帰ってくる時駅に降りると自転車屋があり星淳一氏が待っているように思えるのである。

何かそもそも駅というのは鉄道でも相当100年以上とか古い歴史をもっているから鹿島駅の駅舎でも明治時代から作られたものであり古いのである。だから鉄道マニアの人が見に来た人がいたのである。何か鉄道というのは歴史は古いから本当に幽霊でものっているような感じもするし駅でも誰か幽霊となって待ってもいるとかなる。それくらい歴史の古いからそうなったのである。

それでなぜ忠犬ハチ公の物語が生まれたのか。それもやはり鉄道というのはそれだけ人間と関り古い歴史を持っているからである。何か忠犬ハチ公に惹かれるのは犬の方が人間を忘れないし忠実に仕えているということである。人間は人が他人が死んだらすぐに忘れる。人間がも他人に求めるのは利益がとっただけだとなるからである。つまり人間とは犬より非情なのである。
それで大金もちがネコに遺産を残すよ遺言したことでもわかる。人間はよくお金のことしか頭にないのである。それでその大金もちも人間に嫌悪してネコに財産を残すよ遺言の遺言を残したのである。その気持ちがわかる。

とにかく人間は利益しか金しか求めない。金の切れ目が縁の切れ目になるのはあたり前である。それほど人間の関係も薄情であり無情なのである。だからその点犬の方が人間よりましだとなる。それをつくづく介護とかで人間の非情を経験してから実感したのである。だから忠犬ハチを駅の前に置くことに意味があった。

鹿島駅は無人駅だが菊が咲いて秋のバラが咲いて残る柿が実っていた。ただ乗る人は4 5人とか少ないのである。それは相馬市になると30人くらい乗り降りしている感覚になるからである。その差も大きいのである。
ともかく仙台市から鹿島駅に帰ってきて誰もまず人は居ない。自転車屋は明かりもつかず閉じている。でも不思議なのは星淳一氏が幽霊のように待っている感覚になる。はまだ死んでから一年も過ぎていないからかもしれない。時間が過ぎればやはり忘れ忘れられてゆくのかもしれない。家族でも十年過ぎると忘れられてしまう。ただ忠犬ハチ公は記念として残りそれは語られ続けるということである。
それにしても十年間も待ちつづけたことには驚く、こんなこと人間には絶対にできない、家族ですらできないからである。

人間は死んでも長く語られ続けるものがあればそれは何か生きる価値があり意味がありそのために語られ続けるのである。だからそういう人になる必要がある。でもあまりにも都会化して大きくなると返って人間の存在感はなくなる。一軒の自転車屋でも店でもなくなっても他に行けばいいというだけになるからである。自転車屋は一軒しかなくなったということでその存在感が大きなものとなっていたのである





海と砂浜と花【sea and beach and flowers】

海と砂浜と花【sea and beach and flowers】

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海と砂浜と花

洋々と海が開けし所
広い砂浜に鳥のみが足跡を残しぬ
鳥は一時ここにあり飛び去りぬ
太陽は眩しく輝き上り
大輪の花が海に向かって悠々と咲く
海に魚が跳ね踊り河に押し寄せる
豊饒の海はふんだんに恵みを与える
森林に錚々と風鳴り騒ぎ
荘厳な神殿を形成する
清新の気は充ちてここは聖なる地なり
未来を担う若者よ、ここに生きよ
その体躯は躍動して力みなぎる
十分な糧は海から与えられる
貝をとり魚を取り糧は与えられる
夕陽は赤々と山に沈みゆく
一日は誠に充実して終わる
大輪の花は充ち足りて閉じる
明日またここにその花は喜び開く
海鳥はまたここに飛んでくる
浪は打ち寄せひびき高鳴り躍動する

The Sea, the Beach, and Flowers

Where the sea opens out to the open sea
Only birds leave their footprints on the wide sandy beach
The birds are here for a moment and then fly away
The sun shines brightly and rises
A great flower blooms majestically towards the sea
Fish leap in the sea and dance on the rivers
The fertility of the sea gives bounty in abundance
The forests are filled with the sound of the wind
Forming a majestic temple
The air is full of freshness, and this is a holy place
Young people, who bear the future, live here
Your bodies are dynamic and full of strength
Sufficient sustenance is provided by the sea
Take shellfish, take fish, your sustenance is given to you
The setting sun sinks redly into the mountains
The day ends with fullness
The great flower closes full and satisfied
Tomorrow it will rejoice and open here again
The sea birds will fly here again
The waves crash and crack and throb and dance

2023年11月08日

母なる山と実り【飯館村の詩】 【万葉集の三輪山とも似ていた風景】

母なる山と実り【飯館村の詩】

【万葉集の三輪山とも似ていた風景】

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母なる山

どっしりと前に山がある
大地に腰を据えて山がある
母のように頼もしく
山があり実りが蘇る
隠れて石があり草の花が咲く
いくつか寄り合う石がある
ここに暮らしがあり
ここに生きる喜びがあり
悲しみがある
こころはここにある
ここを離れて心はない
いつも母なる山があり
その山は動かず落ち着く
静かに日は没り山は暮れぬ


額田王の近江国(おふみのくに)に下りし時に作れる歌、井戸王(ゐのへのわふきみ)のすなはち和(こた)へたる歌

味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山 あをによし 奈良の山の 山際(ま)に い隠(かく)るまで 道の隈(くま) い積(つ)もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや

三輪山は低い山である。でもその山の高さが人間的なものとなった。人間的になる山は高く厳しくなるとなかなか人を寄せ付けないものとなり厳しいものとなるから人間的親しみを感じるというわけにはいかない。味酒(うまさけ)というときやはり山でも何か人間の暮らしを提供するものがある。酒作りにもきれいな水が必要だからである。だからまるで親しい人間のように別れを惜しんだのである。何か飯館村を離れ他に移り住んだ人たちも同じ心境になっているかもしれない、つまり山と人間が一体化してそうなったのである。

だから母山とかありまた祖母山とかある。ただ里から離れて高い山でもある。飯館村の山は里山であり低い山である。でも浜通りだとこうして身近に感じる山はない、阿武隈山脈でも遠くから眺めているからである。
飯館村になるとそういう遠くから眺めるものではなくすぐ身近に親しい山である。だからそれが母のようにも見えるのである
奈良の三輪山でも高い山ではなく飯館村で見たのと感じになる。だから奈良を去り近江に行くときその山が人間のように見えて別れてゆくのを惜しんだのである。それほどその山が人間が一体化していたのである。

飯館村でわ原発事故からようやく全部ではないにしろ田んぼが回復して実りの季節が来た。その稲穂の実りが山の前に広がる。それが何とも言えぬものを感じた。
飯館村はもう放射性物質で汚染されて農業はできないのではないかとされた。それで森林公園にしたらいいのではないかという提案もあった。それだけそこに住む人が激減してしまったからである。おそらくここに住んでいる子供が居るのかとも見る。なぜなら村外から学校があっても通っているからである。立派な学校を建ててもそもそもそこで学ぶ子供はいくなっているのである。

やはり何か人間はそこに暮らしがないと村でも生きてこない。実りがあり山がありそこに自然と人間と一体にるものがある。そこに暮らしがなくなれば村も活きてこない。
飯館村でも一時1万人近くの人が住んでいた。それはやはり炭焼きとか木材とかを石材でも東京に森林鉄道でまた蒸気機関車で貨物列車で東京まで運んでいたからである。戦後は引揚者が開拓に入ってきて農業をしたのである。だから今から1万人も近くいたということは相当ににぎわっていたとなる。でも1万人ででも飯館村は広いからそれでも少ないとなっていたのである。

とにかくその土地のことが意外と知らない。私自身はも飯館村には頻繁に行っていても新しい発見がある。それだけ飯舘村は広いということである。ただ飯館村でももう十年くらい田んぼは草ぼうぼうであり実りはなかった。でもそれが回復したのを見たときやはり暮らしがなければ村は生きてこない。現実にかなりの農家でも空家となり放置された。ただ必ずそこにこじんまりとした新しい家が建っていて住んでいるかと思ったら住んでいない。そこは別荘だという人もいた。軽井沢だったらわかるが飯館村ではそんなことはありえないと思った。ただ確かに相当数が飯館村から去ってしまった事は確かである。

でも稲穂の実りがあり花畑などがあり花などを作ってまでい館で道の駅で売っている。花は放射性物質に汚染されても関係ないからである。ただ依然として土は放射性物質に汚染されているということがありその影響は続いている。やはり土を取ったりしているから土の養分がなくなって野菜などでも米でもなかなか前のようには回復しないかもしれない。それだけ飯館村は放射性物質に汚染されてしまったのである。

秋になり飯館村に行く
【秋の風、秋の蝶、実り、秋晴れ、草の花、山津見神社】





posted by 天華 at 17:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2023年11月07日

イスラエルの問題の根はアブラハムまで遡る 【ガザの問題は解決していないから再発した】


イスラエルの問題の根はアブラハムまで遡る

【ガザの問題は解決していないから再発した】

●アブラハムの不如意の子のイシュマエルがアラブ人の祖

すでに75歳だったサラは自分には子は授からないと思って、若い奴隷ハガルを連れてきて、夫に床入りを勧め、高齢のアブラハムが奇跡的に身ごもらせた。しかし妊娠するとハガルはサラと不和になり、夫アブラハムは慣習に従い女主人に従うように命じたため、サラの辛い仕打ちに耐え切れなくなったハガルは身重の体で逃亡。神の使いの説得と加護を約束されて、ようやくハガルは帰還して出産することになるが、神の使いからは、息子はイシュマエル(「主は聞きいれる」の意)と名づけるように指示され(創世記. 16:11)、「彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」との預言を受けていた(創世記. 16:12)。

そこからヘブル人とアラブ人の争いの根がありそれがまた2000年も過ぎて再燃した。そんなことがあり得るのかとなる。そもそもユダヤ人がローマ帝国に滅ぼされて離散して2000年領土もなく存続しづけるということができたことが奇跡的だとなる。だからこそユダヤ人は神の民であり選ばれた民でありそれで神が存続させたという言われる。
でもそんなに長く歴史を見れるだろうかとなる。日本なら2000年前は縄文時代になってしまうからである。そのとき国というのはない。だからそれだけ長い時間で歴史を見るということはどういうことなのかとなる。
ただ何か問題となる根は必ずありそれがたとえ50年過ぎてもまた同じように深刻な結果を招いた。ただ問題を封じ込めていただけなのである。アラブ人はガザに閉じ込められてその不満が鬱積していたのである。常に小競り合いはあったがこんなに大規模な死者が出るということはなかった。でも根本的に問題の根は解決したわけでわなかった。だからやはりまた問題が起きたとなる。

要するに個々の家族でも例えば愛人に生まれた子供が家族の不和をもたらす。それはそもそもそこの出発点からして問題がありだから必ず後々に何か事件となったり家族に不和が起きてくる。そういうことは常に推理ドラマのテーマになっている。何か後々の事件となるね根がありそれがカルマとなり必ず争いとなり苦しみとなり現れるのである。悪しき種をまけばそれはやはりそのままではすまない。必ず問題が起きてくるのである。

でも2000年前のそれ以上前のアブラハムの時代のことが今回のアラブ人とユダヤ人との争いの根となっているとなるとそんなに長くも続くのかとなる。そもそも争いの根となるものは解決していなかった。ただ一時的にガザにアラブ人を天井のない監獄に閉じ込めていただけだったのである。その時はハマスは地下トンネルを作り戦闘の準備をしていたのである。
そして用意周到にしてユダヤ人など外国人もまきこんで千人も殺す虐殺に成功したのである。それはそもそもガザにアラブ人を閉じ込めてその自由とか未来を奪ってしまったからだともなる。その不満は鬱積していてそれがハマスを生んだのである。テロに同調するわけではないが問題の根があれそれが解決されていなかったのである。

●歴史は継続であり3000年前のことも現代に反映する

だから人間の問題は2000年以上でもさかのぼり現代に影響をしている。だからなぜ旧約聖書のことを現代に通じるのかとなる。それはやはり人間の歴史は継続しているからだとなる。2000年前3000年前でも現代に影響して歴史はこうして連続したものであり継続したものであり時代つながり断続したものではない。だからだから今回のイスラエルの問題にしても特に聖書と関係していてエゼキエル書のなどは今の問題として取り上げられたのである。

聖書とは予言の書であり未来に何が起きるかを示したものである。だから2000年後になぜエゼキエル書が取り上げられて語られるのかとなる。その予言でも現実化するからである。 2000年3000年前にどうして現代を予言できたのかともなそこに聖書はいかに人間の未来を予言して見通すものだということがわかる。それはアブラハムの不如意の子として生まれたアラブ人の祖先のイシュマエルの出生の事情が関係していたのである。すでにそんなに前から現在まで継続した問題だったということである。

でもそもそもアダムを神が造りそのアダムが神が禁止した知恵の実を食べて堕落した。神の意に逆らって人間はエデンの園から追放された。そのこと自体が既に人間の根本的な問題が解決しないことになる理由なのである。
それだけではないギリシャ神話でもそれが現代までも生々しく継続されていた問題だったのである。ゼウスから火を盗んで過酷な罰を受けた。それはこの辺で起きた原発事故だったのである。放射性物質に汚染されて故郷にも住めなくなったからである。その盗んだ人は核のことでもあり原発のことでもあった。だからここでも人間の問題というのは常に継続したものとして起きているのである。何か遠い昔の事だから関係ないとなっていないのである。

ともかく神に祝福されたものと祝福されないものとに人間は分別されてそこで争いも起きる。するとカインとアベルの物語もそうであるある。カインは神に祝福されずついには兄弟のアベルを殺してしまったからである。それはやはり神が祝福したものと祝福しないものの憎しみからそうなったともなる。アラブ人もアブラハムの不如意の子としてイシュマエルから始まっているからである。その祝福されないことが今日まで継続して呪いとなっているのかとなる。
でもそんなに長く争いが継続するのかともなる。別にイスラエルは2000年後に建国しなければ争いはなかった。でもユダヤ人が2000年も離散して迫害されたから国を持つことが悲願となったのである。

●なぜ長子が重んじられたのか?

なぜ家にしても長子が重んじられたのか。長子はやはり神より授かった第一子でありそのために家の中心となるものとして大事にされたのである。なぜなら家でも家族でもまとめることが難しいからである。中心になるものがないと人間はまとめられない。だから殿様がいて国でも一応まとめるとなる。何かまとめるものがないと人は争い分裂するだけになるからであるだから日本の天皇というのは何なのかよくわからないにしろ日本日本国民まとめるものとして長子のように存在したのであるその是非はあれそのために日本国民はまとめることができたとなる。
それで南北朝時代に日本全国が隅々まで二分されたのは天皇は二人いるために分裂して互いに熾烈な争いとなったのである。つまり国を治める者が二人人になれば争いとなる。殿様は一人でなければならないのである。家族でもやはり兄弟がいて争いば一つになれない。王が二人人いたらその国はまとまらないのである。

でも世界の国を融合してまとめるものは何なのかとなる。人種も違うし様々な人たちをまとめるものは何なのかとなる。国連で協議してもまとまることはない。結局武力で決着をつけるとほかはないとなっている。話し合いしても国連は何もできない。ただ一応発言をさせているというだけである。国と国の戦争になればそれを裁くことなど誰もできない。日本は東京裁判でアメリカは裁いたとしてもそれはただアメリカが武力にまさって勝ったたからであれ別に正義でもなんでもなかったのである。つまり力が正義でありそれ以外何か正しいとか関係ないのである。

とにかく人間は家族であるいたるところで争いがある。大きくは国と国が争うその争いの問題の根は何かということである。そしてどうしたら互いに争いをやめ平和に暮らせるのかということである。それはその問題の根が残り続けて解決してないからまた再燃してくる。それは宿業をカルマを取り去ることもできないのである。

つまり人間の問題はいつまでたっても解決できないとなる。そして最後は人類最終戦争のハルマゲドンとなり人類は滅亡してゆく絶望的なものとなるのである。
聖書のテーマがノアの箱舟により地上からの脱出であり出エジプトでありソドム、ゴモラからの脱出でありこの世の地獄からの脱出であり神によって救出されることが祈るということでもある。神はその愛したものを祝福したものを見捨てることはないからである。この世の地獄からの救出が聖書のテーマでもあるからである。つまりこの世から地獄はなくならないということである。

それで親鸞が言うよう地獄は一定の住処なりとなってしまうのである。現実になぜまた第二次世界大戦がありウクライナで戦争がありまたイスラエルでも争いがある。この世から戦争は無くなることもないのである。戦争こそ最大の地獄だからである。それは人間のカルマでありそのカルマは消えることはない。それは個人でも家族でも地域とかでも国家でもカルマがありそれが必ず苦しみとなって現れるのである。そのカルマが解消されることがないのである。その問題の根が実際は2000年前3000年前にもありその根は残り続けて現在にまで及んでいるのである



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2023年11月06日

人は死んで何が残るのか―愛は消えない 【姉と母は私にとって忘れられない―生き続けている】


人は死んで何が残るのか―愛は消えない

【姉と母は私にとって忘れられない―生き続けている】

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姉と母歳月過ぐも忘れえじ面影浮かび悲しかりけり

愛し合う人はなかなか消えざりき時に面影浮かび悲しも

姉と母死してのちも我が一人家を支えぬ見守りぬかも

愛あれば歳月すぐも通い合う心にあれや秋深むかも

人は死ぬ残すは何や愛にあれ目には見えずも通うものなれ


人は死んで何が残るのか。また何を残すのか。もう姉が死んでから十年以上過ぎた。母は7年は過ぎた。時間がは過ぎるのは早い。でも何もなくなったのか。死んだ人は灰となりただ消えるだけなのか。何も残すこともないのか。愛は消えずに残るとか本を読んだ。愛は消えないという。でも愛といってもそれはもう見えるものでもない。形もないのである。

でも確かに愛というのは簡単には消えない。依然として愛し合ったものは心が通い合っていると思う。でも親であれ兄弟であれそんなに長く死んでから思っている人がいるだろうか。たいがいやはり忘れてゆく。親でも全くは死んでから思わない人がいる。それは親に何かそんなに良くされず愛されなかったからともなる。だから必ずしも親子であれ兄弟であれそんなに長く死んでしまってから思う人は無いかもしれない。ただ家族もいろいろ事情が違うからわかりにくい。親を恨んでいる人さえいるからである

おそらく私の場合は特殊な事情で60年間も子供の時から一緒に生活していたことで忘れられないものとなった。やはり長く一緒に暮らしたということが影響していたのかもしれない。また特別私が一人であり一人っ子であり愛されたということもあった。それはただ特殊なことでありそこには問題があった。

ただ人間は何を残して死んでゆくのか。死んでしまったら何も残らないのかということである。このことをよく考えねばならない。ただ人間は死んで灰となり消えてゆくだけなのかとなるからである。そうなればただむなしいとなってしまうだけである。そしたら生きるとは何なのか分からなくなってしまう。

一方で死者を愛せよという。そして死者を愛するということはどういうことなのか。死者は目にも見えないし形もない話しかけても何の返答もない。そんな人を愛せるものだろうか?そもそも死者が存在しているのかどうかもわからないからである。だから死者を愛することは何の報いもないし返答もないしそんなことを続けられるのかとなる。

何か死んだ人を思うときそれは生きていた時のことを思い出して死んだ人のことを思っているのである生きている時愛されたことを思い出してその人をまた心に浮かび愛するともなる。だから全く知らない人を死者を愛することができるのかとなる。死者を愛す時やはり生きていた時の継続として愛する。愛されたから愛するとなる。愛されもしない人を死んでから愛すこてはむずかしい。その辺が理解しにくい、そもそも死者を愛することはどういうことなのか理解しにくいのである。
いずれにしろ生者と死者の関係は何になるのか不可解だとなる
ただ人が死んで形もなくなり何もなくなっても何も残らないのかそういうことにははならないことは確かではないか

愛が残っているというか依然として愛が通っているということを感じている人も多いだろう。ただそれは生前のそれぞれの生活や関係によるからみんなが死者を愛しているということはありえない。だから生と死は断続しているのではなく依然として連続している継続しているものだともなる。愛している人がいればまた愛されその関係は死んでも継続しているということである。やはり愛が通じ合っているともなる。でもそれは生前の関係の延長でありみんながそうなるともならない。

ただ神が愛だという時神は全く人間に無関心ではない。愛する者に対して無関心ではない。だから神が人に直接関わってきたのである。それは聖書に記されているそこに奇跡も生まれている。神は直接に人間に関わった事実は記されたのは聖書なのである。

ともかく秋になっても生ぬるい風が今日吹いてきた。季節感覚が何か狂ってしまった。もう冬なのに風は生ぬるいのである。だから今年は暖冬であり冬になるのは遅いのかもしれない。

2023年11月05日

大陸と日本の地理の相違―塔は外敵が攻めてくるのを見張るため 【歴史的トラウマを持つロシアでもユダヤ人のことでも知るべし】


大陸と日本の地理の相違―塔は外敵が攻めてくるのを見張るため

【歴史的トラウマを持つロシアでもユダヤ人のことでも知るべし】

●大陸国家では塔は外敵の攻めてくるのを見張る塔

大陸と日本の地勢的相違は日本は山が多く海に囲まれた島国である。でもヨーロッパとかロシアとか中央アジアは平原が砂漠地帯である。そこで共通しているのは必ず建築的に都市は城壁に囲まれ高い物見の塔が必ずある。それは敵が攻めてくるのを見張る塔ある。それは中国でも共通している。塔は日本のような優美な五重塔とかではない。敵が攻めてくるのを監視するウォッチングタワーである。それは都市には必ず必要な物だったのである。その塔に登れば本当に遥か遠くまで見渡すことができる。

それでケルンのドイツのケルンの塔に登った時それは相当に高い。だから頂上まで登ればオランダの方でも見渡せるしイギリスまでも見渡せる感覚になっている。日本だったら確かに韓半島が近いにしても九州から見えないのである。イギリスはヨーロッパ大陸と一体でありそれほど離れた感覚はないのである:

その下をライン川が流れオランダに通じ物資が船で運ばれている。つまり平坦な地ということは遠くまで高い塔に登れば見渡せるのである。でも日本になると必ず山に遮られて遠くは見えないのである。ヨーロッパとかロシアとかでは遮るものは広大な森であり山ではないのである。ただイタリアになると日本と似て山が多い。だからイタリアは特殊な地域だと思う。

いずれにしろ中国でも本当に塔が多い、大陸ではそこは共通している。遠くを見て外敵が侵入してくるの監視している。日本では五重塔があったとしてもそういう外敵を見守るという機能はないただ優美な塔なのである。そこに地理の相違から来る文化の相違があ。またバベルの塔などというとてつもない塔を作って神の怒りを買ったというのもそれが大陸の文化でもあったからである。

ともかく塔というのは大陸ではヨーロッパで大きな役割を担っていた。敵が攻めてくるという警戒の心が強くあり作られたのである。今回のイスラエルのガザで起きた事件でもイスラエルでは油断していたのである。ガザを塀で囲んで出れないようにしていたがそれが破られて千名以上の人が惨殺されてしまったのである。それはやはり警戒を怠ったということになる。つまり大陸国家でわ常にそうして外敵が侵入してくる恐怖がある。そのために塔が作られたのである。

●歴史的トラウマを知るべしーロシアとユダヤ人の歴史

プーチンにとって、第二次世界大戦でドイツの侵略と戦って勝利したソ連の歴史は大いなる誇りです。
「ロシアにおいて、国家という広域社会が建設されることが、人類の他の文明圏よりもはるかに遅れたという理由の一つは、強悍なアジア系遊牧民族が、東からつぎつぎにロシア平原にやってきては、わずかな農業社会の文化があるとそれを荒らしつづけた、ということがあります。文化も、他の生物学的組成と同様、しばしば遺伝します。ロシア人の成立は、外からの恐怖をのぞいて考えられない、といっていいでしょう」(司馬遼太郎『ロシアについて』)

 ドイツ軍とソ連軍の大規模な戦車戦は、現在のウクライナ東部の平原地帯で展開されました。ここでソ連軍を破ったドイツ軍は、レニングラードやスターリングラードを包囲。ソ連軍に多大な犠牲が出ました。

ドイツによる侵略で、ソ連は兵士や民間人など約2660万人の犠牲を出しました。日本の太平洋戦争の犠牲者は約310万人ですから、ソ連の犠牲は群を抜いていました。

女は拉致、残りは虐殺のモンゴル騎馬軍…プーチンの猜疑心の裏に「259年に及ぶロシア暗黒史」

ロシアは森林を除けば、侵略から身を守る自然の障壁を何ら持たない。最後の陸上帝国であるため残虐に征服されることの意味を深く身に刻み、領土を拡大維持するか少なくとも隣接する影のゾーンを支配しなければならないという強迫観念に囚われるようになった。


地政学の逆襲ーロバート・D・カプラン


歴史とは国家的トラウマである。個人的にも人生経験で必ずトラウマになる。私自身もここ十数年介護とか経験して他者から攻められて人間が信じられなくなった。人間とは相手が弱者と見れば弱体化すれば弱みを見つければそれを責めつける。それより相手が弱体化することを虎視眈々と狙っていたのである。そのように個々人の人生でもそうであり国家間では特にそうになる。それで必ず日本でもそうだな戦国時代があった。食うか食われるかの世界である。そして弱った動物が狙われるように人間でもまた同じなのである。ただ食う方にしても食わねば生きられないということでそうなっている。

でもそういう過酷な経験をしない人間はみんな人間をいい人だと見ているのである。でも現実は人間でも追いつめられればみんな弱肉強食の人間となるのである。だから人間の信じられなくなったしまた。人間ってこんなに酷いものかとトラウマになってしまったのである。つまり個人でもこうして何かひどい目にあうとそれがトラウマとなりの後の行動にに影響してくる。
それは国家間同士でもそうでありそれが歴史的トラウマとなったのである。だから歴史を見るときそこで何があって人間にどういう影響したのかを見るべきだとなる。ロシアはドイツと戦い2000万人以上が死傷したとかその被害があまりにも大きすぎたのである。そうなれば当然それがトラウマになってしまうのである。

●ユダヤ人の歴史的トラウマ―イスラエルは世界の中心

イスラエルにしてもユダヤ民族は離散して2000年間国も無く虐げられてきた。それがトラウマとなった。特にドイツナチスには大量虐殺されたことで大きなトラウマを持つようになったのである。だからどうしても自分たちの国を持たなければならないと今のイスラエル国家を建設したとなる。それはただそこはすでにアラブ人が住んでいて争いとなったのである。でもユダヤ人側に立てば歴史歴史的トラウマがあり自分たちで国を作り自分たちで国を守らない限り滅亡させられるという恐怖がありそのために外部の言うことを聞けないとなる。

ともかく一人の人間でも一つの国でも理解することが難しいのはそれがたどってきたそれぞれの歴史がありそれがなかなか理解できないからである。その歴史的経験がトラウマとなり恐怖心となりやらなやらなければこちらがやられるという感覚になっている。それはウクライナ戦争でありまたイスラエルの戦争でもある。何か今のイスラエルで起きている戦争の恐怖は世界最終戦争ハルマゲドンに通じているかなのかという恐怖である。世界の国がイスラエルに集結してハルマゲドンが起きる。そして人類が最終段階に入ってその時救世主はあらわれそうした予言が本当に現れるような実現するような感覚になっているからである

エゼキエル書のようにゴグとはロシアであり中国でありイランなのかもしれない。一方でイスラエルに味方するのはキリスト教国でありヨーロッパとかアメリカである。でもロシアもキリスト教国である。だから必ずしも宗教で分けられない。ただイスラエルを通じて世界が集結して最終戦争が起きてくる。それで世の終わりとなりそこに救世主が現われてくる。その予言があり何かそういう予感をさせるのもイスラエルユダヤ人起きているからである。

ともかくイスラエルというのもなぜ重要かというと地理的に神が定めた世界の中心だからである。その中心だからそれをめぐって世界中が関係して最終戦争になるともなる。だから世界史とは地理であり地理を知らなければ世界を知ることはできないのである。
でも地理を知るにしてもあまりにも広大で感覚的にそこで必ず誤解して見ているのである。確かに私はエジプトからシナイ半島からイスラエルに来た。イスラエルの地理的特徴は地中海に面してヨーロッパに向かっていることである。ガザとかでも貿易で栄えたというとき地中海に面して船で行き来していたからである。そこに地の利があったのである。確かなことはイスラエルのカナンは神が定めた国でありそこが世界の中心になっているからである。それは神が定めたものでありその位置が重要なのである。なぜなら今起きていることがイスラエルから見ると中東のアラブ人世界と地中海を面したヨーロッパとゴグと言われるロシアとかイランとかその背後に中国がいる。

そして日本の位置は不思議なのはロシアとか中国にも属していない。欧米に属していてもG7は共同でイスラエルを応援するようにした。でも日本はそこに入らなかったのである。つまり日本は東西の仲介役を担う位置にあるとなる。東西を結ぶものが日本なのである。それは内村鑑三などが指摘していたのである。つまり地理的にそういう役割を担っていた国だということである。となるともしかしたら日本の役割はかなり大きなものとなるかもしれない。つまり今仲介役になり得る最適の国なのかもしれない。ただそれもなかなか難しいだろう。下手して介入すると大怪我をするということである。でも今や高みの見物とはいかない。その争いの火粉が必ず飛んでくるからである。それだけ世界が狭くなっているからである。

日本国は世界の一半あ他の一半と結びつけるための偉大なる天職を帯びています。
日本国はアジアの門であります。日本によらずしてシナもインドもペルシャもトルコも救われません。人類の半数以上の運命は日本の肩にかかっています―内村鑑三

その使命があっても太平洋戦争は何であたのか、その犠牲は何であったのかアジアの為の犠牲だったのか?
ただ地理的にはそういう使命を担っていたことは確かである。



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2023年11月04日

国民国家とは近代に形成されたもので新しい概念である 【文明は民族人種を越えて共同するために作られた―ユダヤ民族主義宗教の問題】


国民国家とは近代に形成されたもので新しい概念である

【文明は民族人種を越えて共同するために作られた―ユダヤ民族主義宗教の問題】

●江戸時代まで日本では国民意識や国家意識がなかった

国民国家というのはどうして形成されたのか。日本の場合江戸時代に日本国民と言う意識をもっていない。日本では仲間と感じていたのは村単位である狭い社会である。そもそもこの社会というのは社(やしろ)に会すであり城を中心としたはいがその範囲は狭く一つの仲間意識を持つもの物としてあった。
社では現実に人々は集まり会合していた。そこで祭りを行ない共同で協議して何かをすることを決めていた。でも村単位となれば極めて狭い社会が仲間意識を形成したのである。そして仲間意識を形成するということは逆に仲間の掟がありそれに反するものは村8分になったのである。農民社会では土地を基本にして生活しているから村八分にされることは極めて厳しい罰だったのである。
だから村単位で生活しているとき境が大事になる。それで境となることを石碑やら何か村の境を示すものは必要になったのである。

ただいくら村の単位として生活していても江戸時代なら藩があり殿様が居るからその殿様のことを身近に知っているしその配下に侍がいて侍は役人であり村を支配していた。米を税として納めるとかきわめて身近なもの生活に直接かかわるものとしては藩主は存在した。つまり相馬藩だったら相馬藩に属しているということそこが国となっていたのである。でも相馬藩は意外になるとそこは別の国になっていたのである。だから関所があり今で言う国境ともなり簡単に出入りできなかったのである。藩ごとが別の国になっていたのである。そこで日本国民と言う意識は持てなかったのである。

●明治維新後ヨーロッパと接して国民意識を持つようになった

国民国家意識を持つようになったのはヨーロッパなどの外国人が入ってきてその外国と支配されるということで恐怖を感じて日本の国民国家意識が作られた。明治維新では地まだ日本国民国家意識はなく薩長とか長州とか藩の意識の中で生きていた
それは西郷隆盛の反乱で西南戦争が起こりその時侍に対して国民兵隊が組織され組織され侍の軍隊と戦ったのである。
その時確かに日本国民と言う意識が生まれたのである。
なぜならその西南戦争に薩摩長州に敗れた会津の藩士は国民軍として参加していたからである。つまりその時藩を越えたものとして日本国民の意識が芽生えて参戦したのである。
そしてその国民意識が日本の場合強烈なものとなり日清戦争から日露戦争から太平洋戦争とその規模が拡大して次には太平洋戦争で300万人も戦死したのである。それは第二次世界大戦でありその戦いが熾烈になったのは国民同士の戦いであり規模が大きかったからその犠牲者も大きいものとなったのである。

でも国民国家の問題は国民意識というのは近代化して起きたものであり新しいものだったのである。フランス国家でありドイツ国家であれイギリス国家であれもともとそうした意識は国民意識はなかったのである。国にしても細分化してそうした大きな国民として一体化することはなかった。中世だとそもそもそんな大きな国家国民国家はなく都市国家でありその都市はは城壁に囲まれてその中で共同意識が育まれた。それがシティズンシップである。その都市国家でも規模としてはとしては5万くらいであり小さなものだったのである。とても今に今ある国民国家というものからすれば極めて小規模なものだった。それでも都市国家同士で戦争をしていたのである。マキャヴェリの君主論はその都市国家同士の争いから生まれたのである。日本で言えば江戸時代の藩主があり別々の国だったともなる。

●都市国家を越えるものとして商業があった

ただその都市国家を超えるものとして商業連合としてハンザ同盟などができたのはヨーロッパでわ川が運河のようになっていてものでも人でもその川が道となり連携できたからである。それは都市国家を超えるものとして形成されたのであ。つまり商業というのは必ず遠くから物をが入ってきたりものを運んだり貿易があるから壁で囲んだ都市国家内でまかなうものとはなりえない。商業というのは一つの地域にとどまることがないからである。

だからこそアルファベットを発明したのは商業民族であるフェニキア人だったとなる。なぜなら共通の言語が文字がないと商業は成り立たないからである。必ず売買するには証文として文字が必要になってきたのである。まさに契約というとき神との契約というときそれは商業から発生したものなのである。砂漠の遊牧民は最初の商人だったからである。広い範囲を移動する人たちだから当然そのまま商人にもなったのである。

聖書の契約という思想は商人となった遊牧民から生まれたものであり農民ではなかったのである。商業とか貿易は一つの村とか狭い範囲から拡大してゆく。商業になれば相手が何であれ人種が違っていても互いに得すればいいということになる。だから商業というのは普遍的なものがある。民族が人種が違うから商売しないとなれば利益を得ることができないからである。だからヨーロッパでハンザ同盟とあればそれは都市国家を超えた一つの大きな商業共同体であり一つの文明を形成するともなる。

●文明とは民族人種でも越えて広い範囲で協力すること

つまり文明とは何かというときそれはより大きな共同を目指すものである。いろいろな民族がいてもそれらが争っていれば大きな協同性は生まれない。それで日本では村は中心の共同体であり商業になる時商人が来るとき神社の境内をて無縁の場として外部の人を入れたのである。もともと縁結びの場だったが商売のときは違ったものになった。それだけ日本では外部から来る人を警戒していたし交わらなかったのである。

だから商業とか貿易はより大きな範囲で互いに利益を上げることを目的としている。だからかえって文明を作ることになる。文明国民国家をとも違う。 大きな単位でありそこで人間がいかにして共同するかということである。だからそのために宗教がその協同性を得るために文明の基へにもなったともなる。なぜなら仏教文明とかキリスト教文明とかイスラム文明とかに大別されるからである。ただこの宗教でも民族宗教ではない。もし一つの民族だけの宗教だったらそれは文明化しない。日本の神道は戦争のときアジアで普及させようとしてもできなかった。そこに協同性がなかったからである。村の社が神となっているようなところではとても世界では通用しない。

ともかく世界では遊牧民が大きな役割を果たしている。その遊牧民のことを日本人は理解できないのである。でも例えば中国にしても遊牧民国家でもあり商業民族でもある。それはどうしてかというと中国は広大であれ巨大であり実際は人種もいろいろなのであ。中華民族が主体にあるとしても様々な人種が混交している。だから言葉もみんな違っていてテレビを見ていれば漢字のテロップとして流れている。音になればなかなか理解できないから漢字が共通なものとして理解するものとなる。だから漢字が共同性を培ったかということである。それは日本にも言えるわけである。文明とはまた文で明らかにするということだからである。

ともかく国民国家というのは当たり前のようにあると思っているがそれは近代になって作られたものであり新しい概念であり新しいものだったのである。その国民国家とか民族国家とかナショナリズムというのは新しい共同意識でありそのことが近代の歴史の根幹にもなっている。そして戦争はヨーロッパだったら都市国家間の戦争であり今のような国民国家の大規模な戦争にはなっていないのである。国民国家になったとき民族国家になったときその戦争は熾烈なものとなり莫大な犠牲が生まれたのである。何千万という人間が戦争で死んだのである。それだけの人間が死ぬということは近代以前はなかったのである。
だからこの国民国家というのはナショナリズムというのはどういうことなのか深く検討することが必要なのである。

●イスラエルで起きていることも民族主義国家の問題でもある

例えば今問題になっているユダヤ人のイスラエル国家建設のためにアラブ人の住んでいるガザで戦争があり悲惨なことになっている。それはなぜそうなったのか。ユダヤ人は第二次世界大戦でドイツのナチスに迫害されて虐殺された。それはドイツの国民国家意識ゲルマン民族が優れているということでユダヤ民族が排斥されたのである。その問題が起きたのは国民国家意識が近代に生まれた為だったのである。なぜならユダヤ人は確かに迫害されてきたがそれなりにそれぞれの国で受け入れられ適合してきたからである。オスマントルコ時代は今のイスラエルでのユダヤ人であれイスラム教のアラブ人であれキリスト教であり争うこともなく共存していたからである。

ではなぜ今イスラエルで争いが起きているのか問題が起きているのかその原因を問うと人は世界に分散していたがそれで迫害もされてきたが旧約聖書により今のイスラエルに2000年後にここは自分たちの土地だとしてイスラエル国家を作ったことである。それはユダヤ民族の国でありそれでもともと住んでいたパレスチナ人とかとアラブ人とかと争うようになったのである。

つまり一つの民族は平等を領土を持ち国民国家となったときそれは外に対して区別するものであり対抗するものとなる。その争いが国民国家と言うと規模が大きいから熾烈なものとなるのである。だからこの争いの根には近代に起きた国民国家意識というのは深く関係している。ユダヤ人の場合は旧約聖書から継続してその民族は系統は血統は持続しているということで特殊なのである。領土を持たなくてもユダヤ教で人々は共通のアイデンティティーを持ち国民として仲間として存在していたのである。だからそういうことは世界史でもまれなことだったのである。そのためにそこには神の意志が働いたとしているのも分かる。ユダヤ民族とはそれだけ普通の民族とは違って強固な優秀な民族だったとなる。だからこそ迫害に会ってきたのである。

でも一旦ユダヤ人でもイスラエルという土地を領土を持ち国家国民国家を形成するとき今度は逆にその国家を守るために他者をアラブ人排撃するようになったのである。ユダヤ人は迫害され続けてきたが次に今度は他民族迫害する立場にもなったのである。それもカルマなのかもしれない。ドイツ人はユダヤ人を大量殺害したからヨーロッパ自体がユダヤ人を迫害してきたからそのために贖罪としてイスラエルの味方となっているのである。

いずれにしろこの根に近代から起きた国民国家がありそれが争いの元になったことを知るべきである。なぜなら近代に国民国家が生まれたのでありその前には今のような国民国家はなかったのである。だから国民国家とは何なのかそのことを知らないとそもそも現代知ることはできないのである。
国民国家ナショナリズムというのは文明とは違う。人種とか民族を超えて共同を目指すものである。だからこそソ連である中国であれマルキシズムは共産主義がその基となった。そこで民族とか人種は関係なく労働者が最優先されたからである。そのために世界のプロレタリアートは団結せよとなったのであるそこに民族とか人種は関係ない資本家と労働者が居るだけだとなる。

またアメリカにしても多様な人種が入り混じっているのだから民族を民族国家ではありえない。さまざまな民族が共同するには民族主義でわできないからである。だからそこでどうして人々を共同させるまとめるのかどうなる。そこで法で持って治める法事国家になる。法律も民族によって差別するものではない。全ての民族に平等に適応されるものだからである。つまり商業であれ法律であれそれは民族を超えて通用するルールでありそれが文明を作ったともなる。

ともかく民族主義というのは国民国家というのは近代に生まれた概念であるそれは新しいものなのである。それまで国民国家というのはない。都市国家があっても国民国家はなかったからである。そこが誤解しやすいのである。だからなぜ近代国家になって国民国家が国家同士が熾烈な戦争になったかということである。それは今のイスラエルのアラブ国家とのアラブ人との対立にもあイスラエルの国の成り立ちもまずユダヤ人が迫害されたのでその土地を与え国民国家としてユダヤ人民族国家として成立させたことである。そこには宗教も関係していたがユダヤ人の宗教は一民族の宗教でありキリスト教のように世界化しなかった。救われるのは選ばれたヘブル人その後のユダヤ人だとなっていたからである。でもキリストが現れてユダヤ人にこだわらない愛こそ普遍的なものとして人々を結ぶものだとしたのである。だからこそキリストはユダヤ民族に受け入れられなかったのである。

だから今起きているイスラエルの問題も近代に起きた国民国家の争いの延長上にあるという認識が必要である。そこに根源的な問題がある。ユダヤ人だとかアラブ人だとかゲルマン人だとか何とかこだわって人種にこだわっていれば共同はできないからである。旧約時代だったら敵対する民族は殲滅された。それは神の意志となっていたのである。でもキリストが生まれて愛こそ最高のものであり愛でもって人は結ばれるべきだということを説いたのである。神はキリストを通じて人類に平等をもたらすものとなったのである。だからユダヤ民族主義国家というのはキリスト以前の旧約時代に戻ることになってしまったのである。

2023年11月03日

文化の日に近くの地蔵堂をたずねる 【菊、秋薔薇、残菊、柿、、、、】

文化の日に近くの地蔵堂をたずねる

【菊、秋薔薇、残菊、柿、、、、】

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南屋形村と北右田村の境だった?北右田と記していないから海老村の境だった?

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他者の家黄色に映えぬ秋薔薇
秋薔薇あわれ一輪散り残る
菊映えてや近くも遠く道しるべ
道しるべ境とありぬ秋の暮
菊畑村に一つの地蔵堂
柿なりて家二軒ほど地蔵堂
干しものや残菊哀れ住宅に

秋の薔薇山茶花と咲き我が庭や余生静かにここに送らむ
仲良くも地蔵六つの御堂中秋の日さして畑中にあり


そこはすぐ近くだった。でも見逃していた。灯台下暗しなのである。なぜそこに御堂が一つあり中を見たら地蔵が六体くらいあった。それはなんとも微笑ましく見えてなごんだ。なぜそこに地蔵が納められているのか。他にもそういう御堂はある。大概は六地蔵になっている。ここもその六地蔵なのかもしれない。

お地蔵様を道端でお見かけすることもあると思います。この場合は、日本の道祖神信仰とつながって地域を守る存在として建てられていることが多いです。

 道祖神とは、旅の安全や道の安全を守る神様、またはそれらを祈願して建てられた石碑や石塔、祠を指します。また、集落や村の入り口にある場合には、外からの災いを避けたいという願いが込められています。

六地蔵は境にある。そしてすぐ近くの交差点に道標がありそこに境と記してある。でもどの村との境なのだろうか。おそらく南屋形村とあるから隣の右田村との境となるのかもしれない。昔は江戸時代なら村単位で生活していたから境が大事になるのである。

今の感覚だとなぜこんなところに境の碑があるのか。そしてわざわざ方角を示しているのか分からなくなっている。歩くことが基本にある生活はやはり今のように車で行き来する社会とはまるで違っていた。それでやたら馬頭観音の碑がいたるところにある。それだけそれだけ馬で荷物を運んでいたからそうなったのである。

歴史を知る時調べるとき例えばここに二軒の家があるがそれはいつの時代からあるかということである。江戸時代からあればやはり相当に古いから価値がある。この御堂にしてもいつの時代に作られたかとなるとやはり江戸時代なのかもしれない。地名としては南屋形村であり大畑とある。まさにそこは畑であり家二軒しかないからである。他にも近くに一軒か二軒くらいしか家がない。ではなぜそこに御堂が一つたったのかとなる。それはやはり境になっていたからなのか何か理由があったことは確かである。

昔を知るということは歴史を知るということはどういう暮らしがあったのかそれを今と比べることで今の時代を知るということもある。なぜかその地蔵堂の中の六つの地蔵を見たとき子供のようにも見えて見えて心が和んだのである。つまり今の時代になると小さな村単位のつながりとか協同性は喪失した。だから村で協働する何かを社でも地蔵堂でも薬師堂でも作るということはない。村単位で生活していればそういうものが必要だから作られたのである。そのとき地蔵堂に中に見た六地蔵のように子供もそういう中で遊んでいたのかもしれない。村の子供としてみんなで育てられていたのかもしれない。ただそこは家の数が少ないから実際は南屋形村として広い村として生活があったのかもしれない。

とにかく人間今の社会と比べるとその変化があまりにも大きすぎたのである。車がない社会だったら街まで出るのも容易ではない。歩くことやり荷物でも馬車で運ぶことになるからである。すると近くでもかなり遠くなるのである。その感覚がわからなくなったのである。そして付き合うのは村人でありよそ者はほとんどいないかいないとなっていた。

今や一万の町でも何をしているかわからない人が普通にいてその交わりは希薄化した。別に地元で働いているというわけでもないし車で遠くへ働きに出ている人も多い。戦前ならやはり近くがで働く人が多かった。だからこそ前田とか前畑とかというという地名があり前田となるとそこがその土地の草分けの農家なのである。
なぜなら家の前の田が最初の生活の根拠となったからそうなったのである。でもそこから遠く離れたとこが遠田とかなって大原に残っている。ともかく前だとあればそこが村の中心だったのである。

いずれにしろ今日は文化の日だけども夏だった。異常気象である。だから俳句の季語が通用しなくなっているのである。これこそまさに文化の危機だともなでもこれは自然現象なのだからどうにもならないのである。今頃は秋の終わりであり晩秋であるがまたは秋深むとかなるわそれも感覚的になくなっている。
ただ虫の声は聞こえなくなっているからこれは晩秋から冬になっている。
文化というときは何か特別なものでもなく日常的なものにまたは卑近なところに文化はあるし。でもただそれが掘り出されていないのでだけなのである。その自分の住んでいるところはどういう歴史があるのかでも意外とわからないのである。




2023年11月02日

物価高に苦しむーデフレからインフレへ 【適正価格を知るべき】


物価高に苦しむーデフレからインフレへ

【適正価格を知るべき】


●デフレ時代長く物価が安すぎた反動が今出ている

一番身近に感じる物価高は食品である。なぜならそれは毎日買うし食べているからである。それが20円でも30円でも高いと感じてしまうのである。大判焼きが150円だったのは200円になっているのは高いと思って買えないと見た。
その他コンビニに行くと何でも20円とか30円は上がっているそしてお菓子でも中身が半分くらいに減っている。それは実質値上げなのである。ただ気づいたことは葡萄などはもはや高級品であり買えるものではないと思った。
でも安い葡萄が出ていてそれを買っている。私自身は貧乏だったので長い間贅沢をしたことがない。だから多少お金が入っても贅沢はしない。そもそも貧乏性が習慣になっていたのである。私は旅をしたとしてもいつでも最低の宿を探していた。私はただそこで寝るだけでいいと思っていた。私の目的は何か旨い物を食べるのではなく旅をすることだったからである。

人間は日頃の生活が習慣化して習性化してくる。それをなかなか変えることができないのである。貧乏性になるとそれもなかなか変えられない。また逆に裕福な生活をしてきた人もその生活を落とすことはできない。私は果物は好きで果物は一応それなりに買って食べていた。でも今年は梨が高いので買わなかった。それで安く売れ残ったものがあったのでそれを買ったらまずかった。得したと思って買ったが結果的には損だった。

そういうことは前にもあった。ただ梨一個250円とか300円までなっているので高いと思った。でもよくよく考えたら250円でも高いとは言えないものだったのかもしれない。今までの物価は本当は安すぎたのかもしれない。安いということは消費者にとってはいいことだが生産生産者にとっては苦しいことであり体。いかにして安くするかということで苦労するからである。

ただあまりに高いと葡萄などは本当に高級品であり金持ちしか手が出ないというふうに見た。それがまるで宝石のようにも見えたのである。でも果物が好きだから食べたいと思った。それで安い葡萄を買って我慢しているとなる。
とにかくあらゆるものは上がっている。でも年金生活は年金は上がらないし貯金はあっても利子もつかないだから物価高は年金生活者とか老人には余計に響くものとなる。でも人手不足だから働ける人は賃金が多少上がっているかもしれない。賃金が上がらない上がらなければこの物価高にもう対応できないからである。

最低限の生活のしてる人はまともなものは食べていない。するとそれは体に影響する。その体に影響するということはもっとも悪い影響なのである。老人にとっては健康が最も大事だからである。健康を喪失すると金があってどうにもならなくなっ。だからこそ健康に気をつけねばならないのだが物価高で果物でも野菜でも上がる時苦しくなる。
でもその健康の源の食品の選択を誤ると体にじかに影響する。だから多少高くても基本的に食品を安物には全部することはできない。ただお菓子などは贅沢品となったかもしれない。どこかで何かを減らさざるを得ないのである。

●回転寿司のネタはにせもの

原材料の粗悪化も進めていた。たとえば、回転寿司のネタはニセモノのオンパレードというのはよく知られるようになっているのだが、これらのニセモノは本物とはまったく違う「安い原料」を使って作られる。

*偽装、代用の例

ヒラメ→米国産アメリカナマズ
天然マダイ→ティラピア
キハダマグロ→赤マンボウ
カツオ→南半球産アロツナス
アナゴ→ウミヘビ科のマルアナゴ
ブリ→南半球産シルバーワレフ
ヒラメのエンガワ→オヒョウ
カンパチ→コバンザメ近隣種スギ
スズキ→ナイルパーチ、ブラックバス
アイナメ→深海魚のヒモダラ
アワビ→ロコ貝
赤貝→サルボウ貝
クルマエビ→養殖ブラックタイガー

レストランやスーパーで売っているカニ爪フライも、海老フライも、イカリングのフライも、今ではすべてニセモノの安い原材料を使って作ることができるし、実際ニセモノが堂々と売られている。

要するに本物を食べていない。本物を偽装したもの食べている。それが現実なのである。なぜなら安くするにはそれなりのものしか使えないからである.でも本当の本物の寿司を食べようとしたらばか高くなる。それは金持ちにしかできない食べられないものになっている.

ともかくデフレ時代が長かった。そこで安物志向が習性になってしまったのである。だから本当の価値あるものはどういうものかわからなくもなっている。葡萄などばかだ買い物があるがそれはもともとそれだけの価値あるものだったのである。価値あるものはやはり高くなる。それは市場の原理で当然である。でも安物志向が習慣化して物価でも何でも安くなければならないという感覚になっていたのである。でも庶民からすればそれは当然のことである。高いものを買うにしても買えないからである。今これだけ物価高になり年金も少ないとか収入も上がらないとすればさらに安物思考になってしまう。すると健康に影響して寿命でも縮まるとなってしまう。

そもそもやはり物には適正価格がありあまりにも安いとかあまりにも高いとなると問題になる。デフレ時代は安すぎたということはある。それで物の価値が歪められてきたのである。梨が一個200円にしろ250円にしろそれが適正価格なのである。それを高いと見るのは問題だったともなる。もはや安さには限界がありそれでは作る人が生産者がやっていけなくなっているのである。なぜなら肥料代とかでも上がり人件費でもあげねばならないからである。

そういうことを考慮すると100円くらい上がってもそれが適正価格だったということ認識したので。でもみんな金がないのだからそれが適正価格でも高いと思うし現実に買えない人が増えている。それだけ日本は総じて貧乏になっていて購買力も無くなっているのである。ただ確かなことはこれまで物価は安すぎたということである。そしてこれだけ円安になると金の価値は持っていても低下するだけである。だから年金とか貯金だけで暮らすということは厳しいものとなる。貯金があっても利子はつかない。その金の価値は目減りするだけだからである。

posted by 天華 at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年11月01日

日本の城と柳と紅葉の風景 Japanese Castle, Willow and Autumn Foliage Scenery


日本の城と柳と紅葉の風景

Japanese Castle, Willow and Autumn Foliage Scenery


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一時 being image creator が操作できなくなった、それで休んでいた
でも今日試してみたらできた。これはとにかく別に工夫も何も必要ないから楽なのである。前の他人の絵なり写真を変化させるのは手間だったからである。

2023年10月31日

学歴コンプレックスの異常さ 【大学を出ない人は大学を異常に誇大化している】


学歴コンプレックスの異常さ

【大学を出ない人は大学を異常に誇大化している】


バブル期に有名国立大学を卒業、一流と呼ばれる企業に就職した「かつては自慢だった息子(56歳)」と暮らす及川清子さん(仮名・84歳)の場合。息子さんが人生につまづいたきっかけは「学歴コンプレックスの上司によるパワハラ」だった。

 「入社当時から目をつけられていたようで、二言目には『●●大卒のくせに』とか『●●大卒だもんな』などと因縁をつけられていたようです

私が死んだら息子はどうなるの…解決しない「8050問題」のあまりに辛いリアル

そもそも大学を出ていない人は大学がどういう場所だか大学は何なのかわからないのである。何か大学というだけで偉いというふうに見ているのかもしれない。そして何度も理系と文系のことをわかりやすく説明しても同じ大学なのかと見ているのかもしれない。つまり大学というところはどういうところなのか理解できないのである。

そして高校出の人はとにかく大学出た人に対してコンプレックスを持っている。大学でもいろいろあるのピンからキリまである。私自身は三流の文系大学を出ていて何の勉強もしていない。だから文系大学のことはある程度理解する。文系にはそれほど差がないようにも見えるのである。ただ私は理系となれば評価している。私自身が化学式とかそういうものが苦手でありそういうことを知り得る人は特別な人がこと見ているからである。

でも文系となると何かそこに大きな差はない。だから文系の一流大学でも優れた人と思えないのである。そして文系は独学できるのである。本を読めばいいのである実験などしなくてもいいからである。私自身こうして色々書いているとしても殆ど独学であり大学を卒業してから興味を持ったものはあり勉強したことを書いているのである。

なぜ学歴コンプレックスが起きてくるのか。それは大学が出てない人が大学のことがわからないからである。文系だとそこが遊びの場だということも理解できない。だからなぜここでその上司が学歴コンプレックスになっていたのかよくわからない。その部下が一流大卒だったから余計にそうなった。でもそういう会社で上司が学歴コンプレックスになっていることが理解できない。
とにかく人間は何かしら劣等感を持っている。その劣等感も大学学歴コンプレックスというとき大学という名前だけなのにその名前に幻惑されてコンプレックスを持っているのである。三流文系大学の場合私など大学で何も学んでいない。むしろ職人として体力であれ植木職人であれその技を身につけた人の方が自分自身でわ優れていると思っているのである。
第一大学は出たからといってその人は何ができるのかもし私は大学の建築学部学部などが出て設計などができれば別である。それで大工さんでも一目置くということがありうる。でもそうでなければ何コンプレックスを持つのか理解できないのである。ただ大学という名前に幻惑されているだけなのである。

とにかく人間は何かしらコンプレックスを持つ。絵が上手い人を見れば羨ましい歌がうまい人がいればそれも羨ましいとなりまた体力でもある人は羨ましいとなる。人間はみんな何か不足しているのである。才能にしても極一部のことであり職人であれその才能もれっきとした才能でありそういうことができることは羨ましいとなるのである。そんなこと比べていたらこの世の中キリがない。

でもこの劣等感の怖さはこの上司が学歴コンプレックスを持っていたように相手を別に学歴が高いからといってイジメていたことなのである。ここに大きな問題がある。例えばヒットラーは画家になりたかった。その才能もあったが実らず政治家になってしまったのである。そして抽象画などは絵ではではないとして禁止したりしたのである。
このように劣等感というのは誰にでもありでもそれが極端になると恐ろしいものとなる。例えば創価の池田大作は大学が出ていないとかコンプレックスを持っていた。なぜならその部下が東大とか出ていた人が結構いたからである。それでコンプレックスを持ったのでそのために世界中の大学に金をばらまいて名誉博士をの称号を手に入れた。それが何十もであり異常な執念をもってそれを手に入れた。一応富士短期大学卒はなっていた。なぜそれほど学歴にこだわったのか?それはおそらく戦前とかなると大学は特別な所であり社会のエリートだったからである。
戦後は大学も大衆化したのである。

そもそもそんな劣等感を持つ必要もなかったのである。それなり文才もあり詩を書いたりまた政治的才能もありだからこそ会長にまでもなったのである。でもなぜか学歴コンプレックスに陥っていた。それはやはり大学というものはどういうところかわからないから過大に評価していたのだと思う。ほかの人でも大学を出ない人は大学はどういうところかわからないからかえって何か幻想を抱いているのだと思う。

確かに東大とか出ていれば劣等感を持つのもあり得る。でもそのほかそんなに劣等感を持って持つって相手ではない。社会に出ればわかるわ多様な才能の人はいくらでもいる。学歴とは所詮学校で学んだこと受験技術に優れたことでいい大学に入ったというだけかもしれない。要領は良いということもことがあるかもしれない。何か私が反省すれば学び方というのは問題だったのである。自分なりに興味を持ち探求する心があればおのずと勉強する受験のために強制されて勉強するのは勉強ではない。だから学問とは学び学ぶまるなのだがとうということがまた重要なのである。この世には様々な疑問がありその謎を解いていくことが学問なのである。だから学問は受験のためなのではないさまざまな自然現象とか社会のことを知るためでありそれは数限りなくどんなところにもある

大学で評価できるのは医者とか理系なら専門職業として就職できる。とても文系はそうゆう明確な知識を大学で身に着けていないのである。だからどうしても文系はたとえ一流でも大して差がないとみるのである。それで文系大学はいらないというのも理解できるのである。文系は独学できるからである。第一大学に行っても授業に出なくてもいいということが不思議だった。大学教授でも授業に出ないのである。休講というのは結構多いのである。大学の先生の仕事は研究であり学生に教えることでわなかったのである。だからゼミの教授と1 2回あったのあとは何も教えられてもいないだから奇妙だけでも私は大学の教授になりたかった。授業もするわけでもないただ自由な時間は与えられている身分なのかと見たからである。

結局人間はどんな人でも劣等感をもたない人はいない、なぜなら何かしら必ず欠けているからである。確かに頭がいいとしても体力がないとかがあり劣等感を持つ、あらゆることに優れた人などいないのである。要するに何か優れているというよりいろいろな色があり色が違うということである。花ならばみんな個性があり色も違っている。でもフラワーアレンジメントするときどんな花も必ず争うことなく調和するのである。人間にはそいうことがないのである。俺はお前より優れているとなり優劣を競っている
それが度を越していて危険なものにもなる。そして遂にヒットラーのように度を越したものになり一番偉いのは俺であれ従いとなる。そういう人が組織団体のトップななり人々を従い奴隷のようにされ崇めさせるようになるから怖いのである。
いずれにしろ人間は調和しない、常に争い競い熾烈な地位争いもあり平和そもそも戦争状態ではなくても人間界にはないのである。そこに絶望がある。この世から人間から劣等感をなくすことができないこと絶望なのである。






posted by 天華 at 08:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2023年10月30日

こころはここにある(詩)ー浪江町津島のNHKの放送の感想

こころはここにある(詩)ー浪江町津島のNHKの放送の感想

●こころの詩−場所の価値−自然のない大都会に価値がない

ここに糧ともしきも
田を作り土を耕し牛を飼い
苦しくも生きにし者よ
ここに生き心はここにある
残されし重々しい岩の墓
ここの大地に根ずきしように
そは離れざるかも
こころはここにある
ここを離れて心はない
汝の価値はここに生きしことにあり
その岩の墓がその重みを語る
かたや林の小径にあわれ
草深く隠され月見草咲きぬ
柏原村へ通じる道なりしも
我が祖父の育ちし所なれや
津島を後に葛尾村に我は行く

人間の価値は多様である。価値という時その住む場所が価値を持つ。自然は多様で自然も多様でありそこに住む人間の価値も多様になるのである。山に住む人と海側に住む人の感覚もまた違ってくる。山にしても一様でないからその地形の変化の中で価値が違ったものになる。そもそも価値を作り出しているのは自然である。その場所さえ自然が作ったものだからである。

だから自然が無い所に本当の価値は生まれない。それで東京とかの大都会には自然がないので価値が感じられないのである。でも経済的価値とか工業的価値とか商業的価値とかは比べにならないほどある。でも自然的価値がないので魅力が今は感じる感じられないのである。
ただ人とビルの谷間で混雑して疲れるだけだとなる。そういう場所に豪邸を建てても価値あると思えないのである。ビルの谷間に埋もれてただ家ばかり見ていたらそこ美もない。でもいつも富士山が見えるような場所に豪邸が立てばそれは価値あると見る。

ということはあばら屋であっても自然の中にあれば美しいものとさえなり得る。日々そこに自然の変化があり自然の美に映えるからである。だからこそ時代がさかのぼれば遡るほど実は自然は美しいものとなっていたのである。一番美しかったのは原始時代だったということになる。そこには人間の手が加わらないから自然そのものがあったからである。
その美しさは息をのむような美しさであった。何一つ人間の手は加えられないから自然そのものが手付かずでこの世のものとは思えないように美しいものだったのである。そういう時代を歌ったものが万葉集である。

豊国の企救の浜辺の真砂地真直にしあらば何か嘆かむ

このような感覚になるのはやはりそれほど美しい浜辺の浜が広がっていた。砂の浜が手つかずの白砂の浜が広がっていた。そこでその美に触れてその心も真直であれば何も嘆くことはないとなったのである。これは逆説的である。
現在ではそういうそうした自然の美よりさまざまな贅沢を物質的な贅沢を望むからである。自然の純粋な美に打たれてただそこで真直に生きられればあとは何もなくてもいいとはならない。それが現在との大きな相違である。それが現代人が失った大木きなものかもしれない。それは現代人というだけではない文明人が失ったものかもしれない。

●文明大都会に美がない

ただ逆に文明というものは大都会を見ればわかるようにそこには美はないのである。それだけ経済的に繁栄しても美は無い。その大都会から生まれるのもまた宗教でもカルト宗教のように醜悪なものになる。中国でもそうだが宗教は天台宗から始まっている。
天台宗とは山岳宗教であり天の台で山を聖としてそこで修行したからである。日本だと比叡山がその始まりであり日蓮もそこで学んだのである。山伏とかなると胡散臭いとも見るがやはり山を聖なるものとして修行の場としたから大都会から生まれた今のカルトとは違っている。今のカルト宗教は何か異様なほど御利益にとり付かれたものであり清浄な雰囲気はゼロである。だからなぜそれが宗教なのか全く理解できないのである。ぎらぎらとどぎつい欲望を持った人たちに占拠された場所である。

とにかく一体東京とか大都会に何か価値があるのかとなってしまう。ただ経済的物質的価値はとてつもなく大きいのである
美的観点から見ればその価値はゼロにもなってしまうのである。だからかちとはさまざまであり人によっても価値観は違ってくる。でもどうしても美的観点からすると大都会には自然がないので価値が生まれないのである。
逆説的に田舎でも山村でも何もないとしても自然の中に暮らしているからそれで価値が生まれている。大都会だと自然は消失して人工物に覆われてそこに美は無いのである。だからなぜ人間の作り出した文明のそんなものでしかないというとき何なのだろうとなる。それでもその文明都市をつくり出すは膨大なエネルギーを費やしているからである。

このように大都市化とともに逆に限界集落が多くなりなり消滅してゆく。この辺は原発事故でそうなったのだが全国的にも辺鄙な山村などは消滅してゆく。でもそれはそこにも価値があった。その場所に生きる価値があった。大都会のビルの谷間にうずもれているよりそこに生きている人は一人一人は自然の中で生きているという感覚になっていた。だからそこで生きることは価値あることなのである。それは都会にはない価値がある。
何か村の人が死の時私はこの村の先祖になるというときそれはその場所に生き続けることを望んだからである。その場所に価値あるものとして存在しし続けることはを望んだのである。
その一つが浪江のの津島の岩の墓なのである。それはその村の中に残り先祖として重みを持って存在し続けるということである。都会だったらそんなことはあり得ない。納骨堂の一室を買いそこでお参りする。それは死者の団地のようにも見える。遠く離れて墓地の一区画を買ったものもありもともとその土地とは何の関係もないのである。

でもそうした山村の墓地はそういうものとは違う。村の先祖として生き続ける者として墓地もある。その墓地がなくなったにしろ今度は先祖の霊は山に帰るとして山が先祖の山になるのである。つまり先祖はその村に何でやれ消失してしまうのでなくいち続けるのである。
いずれにしろ一つの村が失われ村が失われることは何を意味しているのか。それはやはり継続された村の価値が失われることになる。それとともに先祖も死んでゆくのである。墓地があっても墓参りする人もなく先祖の霊は容器と化して行くのである。それで確かに都会に移り住んだ人が多い。補償金も多額だからそれもできた。でもそこで失われたものがやはりある。それが今自分が語っていることである。それは精神的なものでもありなかなか自覚できないかもしれない。でも都会に出ていい暮らしをしても何か物足りないものを感じる。それが失われたものなのである。

●人間は失ってみて本当の価値がわかる‐故郷も同じ

ただ私自身がそうは言っても外部から理想化して見ているだけであり現実そこに暮らすことはあまりにも厳しいとなっていた。つまり直接そこに住んで苦しまないのだからただ理想的に見てしまうのである。要するにそこで働き苦しむ人がいるけ絵を描いている人にもなるがにもなる。だからそこにそこに住むことの本当の苦しさを表現できないのである。
ただエゴマを作っているというときやはりそのエゴマが放射性物質に汚染されないで売れるようになればその村の復興の手がかりとなる。農業の場合種を蒔きその種子が実となりなり花となることが希望だからである。でもそこにはすでに老人しかいないということが若い人もいない子供もいないということはもう村を維持できないとなっている。それは全国的に起きていることである。

エゴマの種を植える
エゴマが育ち実り
そこに希望がある
村は継続され先祖もここに安らふ

いずれにしろ心がここにあるというとき確かに補償金で都会で楽な暮らしはできている。でも心はない。その心のある場所はやはり苦しくても貧しくても育ったその村にあったからである。だからその村にともに働き仲間と死ぬのは幸いでありそしてその村の先祖になることが幸いだとなる。都会に出てももはやそういうことはありえないからである。すでに1万くらいの町でも人々のつながりは希薄化して存在感がなくなっている。千人くらいの村だったら人一人の存在感があり一軒一軒ので家でもそうであり自然の中で四季折々に映える。
だから人間は失って見ないとその本当の価値は分からないということでもある。そこが人間の盲点なのである。当たり前にあるものは実は希少なものだったということが失ってみて初めて分かるのである。それは家族も全部死んだ結果私自身も痛切に感じたことだったのである。
啄木がなぜあれほど望郷の詩人となったのかそれをふるさと離れて若くして故郷に帰れず死んだからである。別にそこに住んでいればそんなに感じることはなかったのである。故郷にしてもそれは当たり前にあるものでありその価値はわからない。ただ失った時痛切ににその価値を感じるたのである。

やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに 啄木

つまりそれだけふ故郷の景色が東京の都会の人混みのなかで心に浮かび帰れないふるさとお忍び泣けとごとくにだったのである。
こころは東京にはなかったのである。それまで故郷は忌避するものでもあり脱出する場でもあった。でもそれが痛切な望郷の人なったのはやはり故郷は遠きにありて思うものともなっていたからである毎日住んでいる故郷は平凡なものしか見えないのである。視点を変えれば自然の景観も違うようにその価値もまた変わってくるのである。

●三野混沌の詩の語るもの

ふしぎなコトリらがなく
花が咲いている
どういうものか ひとのうちにゆくものではない
ひろいはたけにいけ
きんぞくのねがいするヤマはたけにいけ
まっしろいはたけへいけ
そこでしぬまでととまれ
あせってはならない
きたひとにははなししろ
それでいい
クサをとりながらつちこにぬれろ
いきもはなもつかなくなれ
これはむずかしいことだが
たれにもできることだ
いちばんむずかしいことをのこしておけ
いちばんむずかしいなかでしね
(三野混沌)

ひろいはたけにいけ
きんぞくのねがいするヤマはたけにいけ
まっしろいはたけへいけ
そこでしぬまでととまれ
あせってはならない
きたひとにははなししろ

そこでしぬまでととまれ

とは畑で仕事しながら死ぬということか、それほどその場所に生きることにこだわっていたのである。というのは農業は土地と不可分に結びついているから一体となるからである
そして最後はその土地の土ともなるのである。そして御先祖様になるのである。農民は土から離れたありえない、土に生き土に死にその場に生きその場に死ぬとなる


三野混沌の土着的生活が現代に問うもの 
(原発事故で故郷まで失ったものへの教訓)


posted by 天華 at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連