アワ、ヒエ、キビを食べていた―米高騰から飢饉になることも
【縄文人も食べていて国名ともなり救荒食物となった歴史を知るべき】
●日本人は米だけを食べていたのではない、粟、稗、吉備を食べていた
「阿波国」
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために粟国(あわのくに)、南の地域は長国(ながのくに)と呼ばれていたが、大化の改新の後に粟国に統一された。
「阿波」は「粟のよくできる国の意」であるようです。
淡路島については,同じく大辞典に第一に有力の語源として「阿波の国へ渡る途上の島であるから」
戦前までは米と並ぶほど国内で栽培されていました。近年次々に稲の品種改良がされ、稲が育てやすくなったことからアワやヒエなどの雑穀の需要は減少。ただ最近は、その栄養価の高さから改めてその価値が見直されています。
縄文時代から食べられている日本最古の穀物、ヒエ(稗)。ヒエ、アワ、キビなどの雑穀が見直されています。
縄文人が伝統的な狩猟採集を維持しながら、
水田稲作ではなく雑穀栽培を主体的に選択したと考えられます。伝統的な食料獲得と食料生産が併存した、
縄文時代晩期末の集団が渡来文化の一部である雑穀(アワ・キビ)を食べていたことも明らかにしました。縄文終末期に中部高地に伝来した渡来文化には水田稲作だけではなく雑穀栽培が含まれていましたが、それらの穀物を利用したのが縄文人だったのか、渡来人だったのか、また食生活における雑穀の重要性などの詳細は不明でした
黄河文明以来の主食は専らアワ(粟米、谷子)であり、「米」という漢字も本来はアワを示す文字であったといわれている。また、隋唐で採用された税制である租庸調においても、穀物を納付する「租」はアワで納付されるのが原則であった。
これに対して、華南では稲米は周から栽培が盛んになった
西域から小麦が伝わってきたこととも相まって、次第に主食の地位から転落することになった。しかし、現在でも中国ではアワ粥などにして、アワを食べる機会は多い。また、「鉄絲麺」という、最古の麺と同じような麺類を作る地方もある
アワは、ヒエ・麦・豆(ダイズ、アズキ)・イネと並んで、神代史上にも記録されている日本古来の五穀である。新嘗祭の供物としても米とともにアワが用いられ、養老律令にも義倉にアワを備蓄するように定められており[
濡れ手で粟 - ぬれた手でアワをつかめば、アワ粒がごっそり手についてくる。転じて労せずに多大な利益を得ること。
ひえの語源は「日得」で、日ごとに茂っていくことから「日得」となったといった説があります。
日本でひえが広がったのは、寒さに強く土質を選ばないためです。稲が不作になってしまった年に食料となる重要な穀物としても重宝されたそうです。東北地方や北海道をメインに栽培されており、水田や畑でも栽培できるなど場所を選びません。広く根を張るため、痩せた土壌でも育ちます。
稗田 阿礼 (ひえだ の あれ、生没年不詳)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての官人。『古事記』の編纂者の1人として知られる[1]。暗誦する役割をもつ人たちの集団とする説もある
●地名からアワ、ヒエ、キビを知る
桧枝(ひのえまたーひえ)
ヒエタ 【冷田】レベル3
約90人 , ヒエダ 【日永田】
約700人 , ヒエダ 【檜枝】
約300人 , ヒエダ 【桧枝】
約100人 , ヒエダ 【日枝】
約60人 , ヒエダ 【比枝】
約30人 , ヒエダ 【比延田】
約20人 , ヒタ 【飛田】
約21,600人 , ヒタ 【肥田】
約7,700人 , ヒタ 【日田】
約1,700人 , ヒタ 【桧田】
約600人 , ヒタ 【檜田】
約500人 , ヒダ 【飛田】
約21,600人 , ヒダ 【肥田】
約7,700人 , ヒダ 【樋田】
約6,100人 , ヒダ 【日田】
約1,700人 , ヒダ 【飛弾】
約1,600人 , ヒダ 【緋田】
約700人 , ヒダ 【桧田】
約600人 , ヒダ 【檜田】
約500人 , ヒダ 【陽田】
約400人 , ヒダ 【比田】
約300人 , ヒダ 【飛騨】
約300人 , ヒダ 【披田】
約60人 , ヒダ 【飛多】
約60人 , ヒダ 【氷田】
約30人 , ヒダ 【火田】
約30人 , ヒダ 【飛彈】
約20人 , ヒダ 【秘多】
約10人 , ヒダ 【肥多】
ごく少数 , ビタ 【尾田】
約10,100人 , ビダ 【尾田】
福島県の会津の尾瀬への入り口の桧枝(ひのえまたーひえ)村はひえの意味だった。稗を食べていたとなる
もともと米は食べられない地域であった。日本人は米だけを食べていたわけではない。それは戦後でも子供の時は麦ごはんであり麦もかなり栽培されていたのである。会津の山ではソバが主食のところがある。つまり米だけが日本人の主食ではなかった
何かそれが誤解されている。だから縄文人がヒエ、アワ、キビとか食べていたとなるとなぜなのかとなる
それでヒエ、アワ、キビなどでも縄文人が食べていたという時稲より古い歴史がある。それが見逃されていたのである。
そんな食べ物あったのとなる。粟饅頭などがありそれで粟(あわ)を意識した。でも日常生活で意識しないが雑穀が栄養があるとして見直されている。もともとなぜ江戸で脚気がふえたのかというと脚気が江戸煩い(えどわずらい)となったのか、江戸では白米を食べて雑穀類が食べなかった。でも地方では貧しいから雑穀類のアワ、ヒエ、キビでも食べていたのである
それが縄文人が食べていたとしたら長い歴史があるということでさらに見直す。
凶作や食糧難に陥る享保・天明・天保の三大飢饉があります。そんな飢饉時に、天候などにあまり影響を受けない山菜が人々の命を繋いだということです。中でも飢饉対策として有名なのが、江戸時代後期に米沢藩(山形県)で書かれた「かてもの」という救荒食マニュアルブックです
日本文化を探る
山菜〜山の恵みを食すということ〜
江戸中期にはすでに500種以上の植物が(その利用法なども含めて)古文書に記されている.日本では災害
が起きるたびに救荒植物が重視されてきたし,わずか半世紀前まで救荒書はまだ実用書であった
琵琶湖の港だった大津が粟のとれる場所だったのは意外である。粟津野と呼ばれていてが逢津になまった。
淡路島でも粟であり阿波国へ通じる道として国名になった。吉備は大きな国でありその由来が食物のキビでありキビダンゴが有名である。
江戸時代にきびを作っていたが、とても豊作だったためにきびを使って団子を作ったという説もある。たくさんのきびが収穫されたことから、団子にして食べたそうだ。そのときにきびを栽培していたのが吉備の国だったので、きびだんごと名付けられた
つまりキビが採れる国として吉備国があり粟が採れる国として阿波国があった。国名になるのはそれがいかに食べられていたかを示している。ただキビが主なものではなく米で作っていたという。でも起源はキビにあった
また稗(ひえ)は比叡でもあり比叡山はヒエが採れる場所だったから名ずけられた。
日枝神社は、大山咋神(おおやまびこのかみ)を主祭神とし、国常立神(くにとこたちのかみ)、伊奘冉尊(いざなみのみこと)、そして足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀っています
これは山王神社にも通じている。南相馬市の鹿島区の日吉神社もそうである。大山咋神(おおやまびこのかみ)を祭神としている。
日吉神社(ひえじんじゃ、ひよしじんじゃ)は、滋賀県大津市にある山王総本宮日吉大社(ひえたいしゃ、現在は、ひよしたいしゃ)を勧請して日本各地に建立された神社である。「日吉」は「日枝」とも書き、読みは「ひえ」が古調だが、「ひよし」という呼び方もされる。
つまりヒエという作物に由来している。そして漢字に稗となるとき卑しいが字になっているのは中国でも麦と米が普及した時
食べられなくなり卑しい植物とされたともなる。でもこれほどヒエ、アワ、キビが食べられていということを知るべきだとなる
また浪江の方の津島に行く所に下冷田という地名がある時冷えるは稗のことだとなる
もともと稗を作っていたから稗田とか冷田になったともなる。
●万葉集の山菜野草の歌
.古今集にも,君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ(あなたに差し上げるため,春の野原に出かけて若菜を摘んでいる私の着物の袖に,雪がしきりに降りかかってくることよ)と「菜摘み」の情景が詠まれ,万葉集にはメナ,クログワイ,ヒシ,コナギ,フユアオイ,オカノリ,オケラ,カタクリ,マコモ,セリ,タデ,ジュンサイ,ハス,ニラ,ヨモギ,ヤブカンゾウ,ワラビなどを食していたことが詠み込まれている 春の七草などがそうである
救荒植物を利用した食教育・環境教育・防災教育の可能性
人間は生きるために食べ物を確保することが第一になる。だから縄文人は山菜を野草でも食べる。何か食べられるものを野草から選別してきた。だから米を食べる前にそうして山に自生しているものを食べた。またそれがのちに救荒食物となった
君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ
これは古今集だけど若菜摘むとは食料を得るためであり風流ではない、雪がまだふるというとき春になっても寒いからだとなる
ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを
春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し恨めし
この歌は佐伯宿禰赤麿(さへきのすくねあかまろ)が娘子(をとめ)に贈った歌に、娘子が返した先の巻三(四〇四)の歌にさらに赤麿が返した一首。
「おそろしい神さまの社がなかったなら春日の野辺に粟を蒔くのですが…」と、社があることを理由に「粟蒔(あわま)く」と「逢わまく」を掛けて赤麿の求婚を断った娘子ですが、それに対して赤麿は「春日野に粟を蒔けば粟を食べにくる鹿を待つように何度でも逢いに行くのに、社を怨みます
足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを粟無くもあやし
左奈都良の岡に粟蒔き愛しきが駒は食ぐとも我はそとも追じ
「愛(かな)しきが駒」は「愛(いと)しい馬」のこと。「たぐとも」は「食ぶとも」の東国訛りと思われる。「そとも追(は)じ」は「しっ、しっと追い立てる」という意味である。
「左奈都良(さなつら)岡に粟を蒔いて育てるけれど、あの愛しい馬(男の馬か)が食べるようにと、しっ、しっと追い立てたりしませんわ」という歌である
梨棗 黍に粟つぎ 延ふ葛の 後も逢はむと葵花咲く
(なしなつめ きみにあわつぎ はうくずの のちも あわんと あういはなさく)
意味・・梨・棗・黍(きび)・粟と次々に実のっても、私は早々に離れた君と今は逢えないけれど、延び続け
る葛のように後には逢えるよ、葵の花が咲く頃には。
ともかく粟が日常的なものとなっていたから恋の歌として利用された。それだけ身近だったからである
現代では粟とかは意識されのはまれだからである。
なしなつめ きみにあわつぎ はうくずの・・・とかを例えるのは当時はそれらが生活の中で欠かせない物であるからこそ歌われたとなる。つまり食料として日常的なものだからである。現代だとそれはただ買うものとしてあったが当時は買うというよりは常に自ら取りにいかなけなければ得られないものだった。今でもその一部はタラの芽とかは取りにゆくのである
セリでも取りに行く、でもこの辺では原発事故の放射線被害で飯館村は山菜のとれる村だったがとれなくなったのである
●グローバル経済の危険は食料でも輸入できなくなること
ともかく米一辺倒になってこうしたヒエ、アワ、キビとかは忘れられていたがそれも問題だとなる
要するに食料でも多様性が大事になる。米だけに頼ることで江戸では江戸煩い脚気になったように人間の体も多様な食物で成り立つからである。米がこんなに高騰するとき他の食料を見直すべきだというのも一理ある
また救荒食物として他の食べられる山菜野草でも知るべきだとなる。
食料でも歴史を知ることが大事になる。なぜなら本当に飢饉になることもありえる。それは天候不順もあるが外国から食料を買えなくなった飢饉にもなることが怖いのである。ただ今の時代は食料が多様だから代わるものを食べろとかなる
サツマイモももともと薩摩藩で作られて救荒食物として普及したのである、だから何でも多様性が大事でありそれが命にかかわることすらありえるからである、だから常に歴史的に見ることが大事になる
津波でも400年前に相馬藩内で700人が生波で津波で死んだということが全く忘れられて大被害になった
それは相馬藩世紀に二行記されいたが学者すら知らなかったのである。歴史でもこうして忘れられると危険なものになる
飢饉も同じである、外国から輸入すればいいと言っても金が無ければ売るものがなければ買えない、車でも売れなくなれば食料でも買えないからである。
これは【SDGs】持続可能な社会にみ通じている。持続可能な社会とは食の多様性を維持することでもある
多様な食料があって持続可能な社会がありうる。単一的なものにすることは食料の面でも危険なのである
グローバル経済の危険は何でも単一化する、どこでもハンバーグを食べるという時食の多様性が失われる
その食はその土地土地から風土から作られるものである。そこに文化の基がある。culrureとはcultivate-その土地土地を耕すから来ている。
だから多様性が生まれる。グローバル経済が極端化すると一国の多様性も失われて日本では車だけを作っていればいいとかなる、でも車でも技術競争に負けたら売れなくなり外国から食料も得られないとなる
世界的分業とか成り立たないのである。外国が食料を何かあれば保証してくれないのである、そうなれば国家を守ることもできなくなる、いくら武器で備えても食料がなくなれば負けるとなる
ゼロ戦でも燃料の石油がないので片道しか飛べず帰れなかったとかなる。食料も燃料と同じなのである。
食料が無ければ戦えないのである。
アメリカは土地が広いから米でもとれるから買いとなっても日本で売るものがなかったら買えないし無料で売らないからである。とても広大な土地を持つアメリカと農業では競争できないからである。食の確保は自由貿易グローバル経済に適合しないのである。日本国内ならありえるが世界となるとあり得ないのである。国家戦略としてかかわるものになる
でも米の高騰では国民が苦しむ。その補助的なものとして輸入があっても補助的なものに留めるほかないだろう
いずれにしろ米の高騰問題は様々な視点から再考しなければならない重要な課題である
自由競争原理だけでは成り立たないのである。
大井川線から井川線の無人駅(秘境駅)のNHKの番組
(閑蔵駅で店を出している井川とついた野菜が地味豊か)
ここで山の幸がありヒエとかキビをとり生活していた
閑蔵とは萱草の花である