2006年08月05日

相馬市田町通り(煉瓦の郷愁−女学校)

tamachirengaend.JPG


田町通り

相馬の城跡の濁りし堀
相馬六万石の夢の跡
曲がりくねった
細き暗き路地裏
いぶせく相馬駒焼きの
技を伝えし老いた陶工
辻に塩地蔵一つ
田町の柳風にゆれ
通り新し若き人行く
眩い光はそそぎ
吹き抜ける涼しき風
青春の日はそこにありしや
時の過ぎるは早しかな
高等女学校に入られぬと
貧しき日を語るはいつぞ
悲しくも痴呆となりぬ女
蘇らぬ昔にあるかな


相馬高等女学校とか他にもあったがここに入れる人は当時まれだった。貧乏な人は入れない、尋常小学校までがたいがいの学歴だった。自分の時代、今の団塊の世代でも地方では高校に入る人すら学級で半分しかいない時代だった。集団就職で東京に送られたのだ。この世代では中卒が当たり前なのだ。この時代大学まで入れた人はかなり恵まれた人だったのだ。自分がそうだった。でも全然恵まれたとは思っていなかった。そもそも勉強が嫌いだし優秀でないということもあった。人間的に劣っていたからだ。人間もスポ−ツにたけて体力があり頭もいい人がいるが自分はどっちもだめだった。ただ確かに文学的才能があったがこれも伸ばせなかったのである。遅いが今になってこのように爛漫と華開いているのだ。才能はいづれ華開く時がくる。そのための蓄積は必要であるがあせる必要はない、賞なんかばかり若い内からもらうことばかり考えていたらだめである。純粋に文学そのものを追求すべきである。

相馬市というと城下町だからそれなりの風情があるのだが城跡だけで堀だけが残っていて当時の面影を忍ぶことがむずかしいのだ。城下町といって極めて貧弱なものだった。相馬藩では武士が城下町に君主の下に住んだものは少なく農家と武士の兼業だったらしい。在郷給人形式で相馬藩を維持ししていた。つまり在郷にいた侍、給料が支払われていた侍が支えていたのだ。だから野馬追いにでるのも農家が多いのである。街から出る人はかなり少ない、町中で出陣する姿をあまり見ないのだ。町中はあとから明治以降に入ってきた人が多い。自分の家もそうだった。商売をはじめた家はたいがいそうだった。農家は代々受け継がれるから古いが商売は何代もつづかないから新しいのである。

相馬市には目だったものはないが細部を見れば必ず何かある。我が一万に足らぬ町を行き来してこれだけ俳句短歌にしたことでもわかるように細部を見れば魅力が発見される。最初はマクロ的視点が必要だがあとはミクロ的視点になる。学問でもマクロ的な視点が必要であるがあとは細部なのである。

東京の女学校で古い煉瓦の塀を壊すなと騒動があった。煉瓦には郷愁がある。大正や古い昭和の面影を偲ぶことができる。当時の落ち着いた雰囲気、なんともいえぬ郷愁がにじみでてくる。喜多方がそうなように煉瓦はコンクリ−トと違い人間味あるものなのだ。現代はあまりにも嫌悪すべきものが多すぎるのだ。ルネサンスは古いものの復活であり古いものにこそ良きものがあったのだ。古いものを掘り起こす必要があるのだ。
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2006年08月19日

郷土史研究のテ−マ(水の問題)−町ではもらい水

水は人間の生活になくてはならないものだから水についての話はいくらでもある。小さな町では水はもらっていた。それも何軒からも頼んでもらっていた。その話を何度もする。認知症でも昔の話はできる。ただ百回も聞くことになるのは閉口する。今日はまた世話する人がきてくれたので水の話になった。町では水をもらうのには必ず頼んでいちいち礼を言って水をもらっていたのだ。あるところの金持ちの家は門が閉ざされて奥に井戸があり入りがたいところにあったのでそこにやっと入れてもらい水をもらった。そして丁寧にありがとうと礼をしなければならなかった。これは子供のときの話である。

一方阿武隈の山の方に暮らしていた人は水汲みは家が高いところにあり山の下にあり水をはこぶに苦労した言っていた。水汲みは今でも遅れた国では嫁の仕事でそれが重労働なのである。水なくして生きていけないのだから水にまつわる話は世界中にある。ここでの水の話は町では水をもらうのに人に礼をしてもらう、それも何軒も回り礼をして水をもらっていた苦労があった。山の人は水を運ぶ苦労として記憶されるが町では人に対して礼を言う苦労として語られる。どちらにしろ水を確保することは苦労だったのだ。私の小学生の時も水は近くの家からもらっていた。風呂に水を入れるためにバケツで水を運んだのである。風呂を満たすだけの水をバケツで運ぶことは大変だった。小学生までは水道がなかった時代だったのだ。洗濯物も近くを流れる堀でしていたのだ。

その頃井戸がいたるところにあり井戸は涼しさの象徴だった。冷たい水が湧き出て涼しかったのである。それが水道の時代になると自然の冷たい水の感覚がなくなった。最近は小川もなくなった。みんなコンクリ−トの堀になってしまった。現代は水のありがたさも感じられない時代である。水道の蛇口をひねれば水がでてくる。だから水を無駄にする。水を過剰に使いすぎる。確かに水は金をはらって使うものだからただでもらうのとは違い価値があるとなる。昔は水はそれぞれが山の方とか町では違っていても労働という対価によって得られた。町ではいちいち礼をしてもらうからこれも水は簡単にもらいないものとしてあったのだ。どっちにしろ水の貴重さは昔の方が体で知っていた。

朝顔や釣瓶とられてもらひ水」千代女−−−この句なども水とはもらひ水が多かった。町では特にそうだったのだ。なかなか昔の句でも背景がわからないと鑑賞できない、生活感覚は実感だから今になると理解できなくなるのだ。
郷土史研究として水に関して調べることも一つの手段である。

聞き書き 水とくらし (豊中市)
http://www.city.toyonaka.osaka.jp/toyonaka/kankyoshigen/

ここは本当に詳しいのには驚いた。農家の出でないから田の水の問題を知ることはむずかしい。でもここでは実体験から詳しく調べて研究している郷土史研究としては貴重な資料となっている。棚田の上田から下田へ水をひく苦労もそれなりにあることやなかなか農家の人でないとわからないことが詳しく研究されている。ここを読めば一地域の水のことがわかる。郷土史研究というのも一つの自分のテ−マとしてあったが万葉集が中心だったが卑近な水という問題をそれぞれが調べてインタ−ネットなどで書けば貴重な資料となる。これは市町村でやるべきものだろう。それに個々人の老人などの体験としてこのように調べればいろいろな水の事情がわかって郷土史研究の一つのテ−マとなる。

























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2006年09月03日

老人の話から活きた郷土史を学ぶ

 

老人の昔話は生きた歴史に直接ふれることだから小説とか教科書とかで知るより生々しい身近なものになる。郷土の歴史を知るとき老人から直接話を聞くと生きた歴史を学ぶことができる。これは認知症の人からも学ぶことができる、昔の話は覚えているからだ。そして個々に体験したことは同じ戦争でも違っていることに意味があるのだ。また棲む地域によっても人間というのはかなり違った意識を持つようになる。海に住んで漁業しているものと山で暮らしているものは生活が違っていて理解し合うことがむずかしく生活をともにすることが最初はできなかった。だから海彦と山彦とかの伝説が伝えられるようになる。

今日も家に来た女性は大変な苦労をしている。小学生くらいで母親を亡くしたことは余りにも過酷であった。田んぼの畦道を歩いて母親の墓に行って泣いていたのを近くの人が見ていてあわれんでいたという、あとから墓参りに行ったらあのとき墓で泣いていた子供だったとか言ったそうだ。その後結婚した相手が肺を半分とるような大手術をして長い間貧乏と介護に明け暮れた。そこで我が家のものが看護婦だったのでかかわったのである。その苦労は余りにも現代からみると過酷なのでなかなか実感として共感することはむずかしくなっている。そういう人から比べるとあんたの苦労なんかたいしたことがないと言われれば言葉ではなく実感としてそうなってしまう言葉の重みがある。その過酷な経験をふまえて言うからそうなるのだ。貧乏はその頃の人は等しく経験している。しかし子供で母親をなくしたり難病の病気の夫を若くして介護するという経験は余りに辛いとなる。

なんでも枯木をとって売ったというから山の生活だと枯木を薪を売ることは昔から行われていた。大原女とかは薪を頭に積んで京の町を売り歩いた。そんなこととにている。それがわずかでも現金収入になった。ともかく学校に行ってもオトノモリしているから教室に入れなかったというのも当時の学校だったのだ。学校に行けるのは恵まれていた。これは今の後進国では未だにそうだし子供は働かされている。ただ子供は山でも農家でも商家でも労働力としてあったのだ。子供は働かされていたし労働力として子供を生んだり育てることは今でも後進国では行われているのだ。

山の暮らしとかは水を運ぶにも大変だから重労働に耐える体力が女性でも必要になる。村に比べ石とかあって力自慢するのは力が必要だからだ。女性でもここの近くに一石坂(いちごくざか)とかあり一石の米を運ぶ力持ちの女性がいたというのもそういう女性が尊重されたからである。その山で生まれた女性も強きの力持ちだったともなる。一方町では水は前にも書いたように子供のとき何カ所もの家を回りいちいち礼をしてもらって歩いたというように人に気遣い生きることになる。人ととの関係で世渡り上手になることが要求されるのだ。本当の商人の暮らしはと大阪にありそこでは商人道なるものまで作り上げられ代々伝授されてきた。

郷土史というと教科書的に追求しても興味がわかない、一番いいのは老人の話をじかに聞く事である。なぜこれほど昔話が残っているのか、それは老人一人一人に違った物語があったからなのだ。町で暮らしたもの、山で暮らしたもの、海で暮らしたものの物語は違っている。これらの体験談を老人から聴くとそれは活きた歴史を学ぶ事ができる、直接聞く事でその体臭みたいなものから発せられるその人の人生をじかに感じるから貴重だとなる。これは認知症の回想法でも役に立つ、昔の話しになると覚えていて生き生きと話すからである。

幼きに母を亡くして墓に泣き薪売りにしとその女(ひと)もがな

老人の昔を聴くや虫の声
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2006年09月05日

町名など名前の変遷は歴史そのもの(双葉の新山−長塚駅の由来)

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常磐線の福島県内の長塚駅は消えてなくなった。戦後10年後くらいまで双葉駅は長塚駅だった。なぜ長塚駅がわかったかというとここに自分の父親がここの酒屋に勤めていて鹿島町に移り酒屋を始めたからである。暖簾分けをしたわけである。そこには一年くらい住んでいたことがありそこのことを語ったからわかったのだ。長塚駅におりて酒屋に行ったのである。昔は長塚村と新山村があり双葉町はなかった。のちに新山村が新山町となったのだ。その酒屋の近くに銀行がありそこで子供だから遊んでいた話をした。銀行というのも当時ではめずらしいものだったのだ。ここでわかることは長塚村と新山村は江戸時代からあった古い村であり双葉町はそのあと合併した名前である。江戸時代からつづく村が古いから郷土史では古い方が大事でありそこを基点に歴史を考察する必要があるのだ。

新山城に関する記述があり、常磐線の東西にあったことや東の館跡には新山神社があることなどが書かれている。元弘元年(1331)に標葉(しねは)左衛門尉隆連が築城したと伝えられ、明応元年(1492)標葉清隆・隆成父子が相馬盛胤に滅ぼされるに及んで標葉郡は相馬氏の支配下に入った。慶長16年(1611)以降廃城になっている。鬼木橋を渡ると長塚宿だ。さっきの新山宿とこの長塚宿は、合宿で、月のうち前半は長岡宿、後半は新山宿が勤めていた。

氷川橋の先の十字路で旧道は右折する。ここを左折して、踏切を渡ると長塚陣屋跡がある。享保年間、相馬昌胤が領内の宇多、行方(なめかた)、標葉(しねは)の三郡を分けて七郷とし、一郷に一陣屋を設けて統治に当たらせた際に設置された。長塚陣屋は、29村を掌管した。陣屋跡の見取図が掲示されている


安政の大火以降の浪江宿の東を通り、請戸川の手前で左折して高野(こうや)宿(のちに浪江宿)に入っていた。浪江宿は、以前高野宿と呼ばれていたのが、度重なる大火により寛政10年(1789)に火伏せとして水にちなんだ「浪江宿」と改名した。
http://hyakkaido.travel.coocan.jp/iwakisoumakaidou11tomiokanagatuka.htm

インタ−ネットを探してこのサイトに出会った。仙台から来てかなり丹念に調べているのには感心した。地元でもないのにこれだけ細かく関心を持つ人もいる。

左折してすぐ右に入って行くと常福寺がある。ここには戊辰の役で戦死した筑前藩士の墓と句碑がある。「的野」、「川庄」など福岡県に馴染みの名前があって懐しく、丁寧に合掌した


この人は福岡県出身なのか戊辰の役で死んだ官軍の人の墓が残っていることは知らなかった。中通りは二本松少年隊とかで有名で激烈な戦いがあったが浜通りにも規模は小さくても戦いがあったのである。

これで注目すべきは名前とか地名の変遷は歴史そのものなのだ。最近南相馬市が合併でできたように常に村とか町の名前は昔から変遷してきたのである。
興味深いのは「浪江宿は、以前高野宿と呼ばれていたのが、度重なる大火により寛政10年(1789)に火伏せとして水にちなんだ「浪江宿」と改名した。」これが史実だとするといかに江戸時代は火事に悩まされたかわかる。江戸の大火は有名だが地方でも火事のために名前まで変えていたのだから火事は大きな災難だったのだ。鹿島区でも火伏祭りがあるが火を伏せるとあるから火を消すではなくなんとか火を止めるというのが当時の消防だった。延焼を防ぐことしか方法がなかったのである。ともかく市町村合併で地名のことを書いてきたが名前の変遷は歴史そのものであり注意が必要である。
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2006年09月19日

飯館の秋のあわれ(田作り米に執着した日本人)


飯館の秋のあわれ−相馬郷土史の部に加筆して移動

http://www.musubu.jp/somaiidatemichi1.htm#aki

平とつく地名の意味や県(あがた)が国の起こりになったこと
米作りに執着した日本人の歴史を前の文などをまとめて書きました
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2006年09月26日

原町森林鉄道

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これはリサイクルショップで買ったもの

特に原町はその地形上の有利から電波塔や製糸工場が建設されたり、戦時中は陸軍が兵士訓練の為の飛行場を造りと、電気に対する需要があった。戦後、パルプ業の発達と産業の地域拡散により大量の電気を使う機械産業が台頭を始める。

http://dtm.fc2web.com/3.dtm/5.project-web/project-4/4.haramachi-sinrin-railway/hido_deta4haramachi-sin3.html

原町に森林鉄道があったというのはインタ−ネットではじめて知ったので驚きだった。私のホ−ムペ−ジにくるキ-ワ-ドからわかったのだ。

原町の無線塔は関東大地震の時、アメリカに無線で最初に知らせたとか有名である。今は取り壊されてしまった。あれは文明の最先端を示すものでありそれが東北の原町に作られたのだ。製糸工場もあった、そこで私の91才になる母が糸取りとして働いていた。野馬追いの神旗争奪戦が行われる雲雀が原は飛行場になっていた。それからパルプ産業もあったというのは丸三製紙のことでここにも私の叔父にあたる人が課長とかなって働いていたのだ。つまり原町市、今の南相馬市の原町区はかつて産業発展の要となっていた。だから原町機関区は上野−原町間を結ぶ動脈となっていた。その一つが原町に森林鉄道があったことなのだ。鉄道というのはたいがい資源を運ぶのに最初作られた。鉱山資源や森林資源を運ぶ目的で作られたのだ。本線からの枝線となっている。栗電や川俣線もそうだった。北海道の鉄道も石炭を運ぶために最初作られたのだ。鉄道は国鉄時代があったように大きな産業であった。かつて国鉄職員だった人が今もいい年金をもらい暮らしている。国鉄一家とかがあったのである。

原町森林鉄道で運ばれた森林資源は、建材として都市部のエネルギー源として、またパルプ業の登場と共に資材として求められ、鉄道は次々と支線を開発し総延長を稼ぎ出してゆく。戦前・戦中・戦後と、それはまさに原町という地域が相双郡内で突出して伸びる要因である。国鉄原町駅はこの為に機関区があったのではないか?と思う程だ。原町森林鉄道は昭和30年代まで時代の寵児だったのだ。

原町市は浜通り地方では昔の平、今の磐城市についで発展した地域だったのだ。そういう活気ある場所だったのである。ただ森林鉄道があったとは思いもよらなかった。世の中には物好きな人がいてここまで興味をもって調べていることに感心する。地元の人は報告していないからである。鉄道の旅が長いから鉄道には興味を持つのである。

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浜街道−新山宿(地図より偲ぶ昔)

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http://www.thr.mlit.go.jp/iwaki/rekishi/kou2nd/pdf/kouen0202.pdf#search=%22%E8%AC%9B%E6%BC%94%20%E6%B5%9C%E8%A1%97%E9%81%93%22


新山宿の地図が福島県教育委員会から出ていた。鍋屋とか染物屋、桶屋、医者、荷鞍作り精米屋(馬車引き)髪床、下駄屋、小学校の隣が提灯屋、団子屋となっているのも面白い。そして校庭の隣が水車小屋になっているのだ。その他うどん屋機屋鍛冶屋、豆腐屋がある。これは江戸時代からあったものの継続もある。現実に桶屋とか豆腐屋とか籠屋とかの屋号は生業であり戦後10年くらい存在していた。近くに豆腐屋があり朝早くから豆腐を作っていたし桶屋も籠屋もあり竹を編んで作っていた。提灯屋となるとこれは江戸時代のものだろう。

荷鞍  
馬の背中に取り付けてその取り付けた鞍に木炭や薪などをくくりつけ物を運ぶ
http://www.mco.ne.jp/~sawanoya/sawa/mco/data060507/09%20unpanyo-gu.htm

精米屋(馬車引き)

なぜ精米屋が馬車引きになっているのは米を馬車で運んだからだそうだ。精米屋と馬車引きは一体になっていたのだ。


実際にこれは馬が荷を運んでいた時代があり馬車屋は各地にあったのだ。この辺の近くにもあった。馬が交通を担っていたのはいたるところにある馬頭観音の碑があることでもわかる。下駄屋も下駄を直していたことが記憶にある。その当時燃料は炭だったのだ。インドに行った時は奇妙だった。未だに炭を使っているし川岸では牛の糞を干している。これも貧乏人が燃料に使うのだろう。狭い路地を堂々と牛が歩いている。しかしここはベナレスで都会の聖地だから文明は入ってきている。白黒テレビで子供がゲ−ムしていたりテレビを見ているのだ。アジアの遅れた国で興味深いのは日本の昔がタイムトラベルしたように残っていることに出会う不思議さである。掘っ建て小屋の三文店屋で菓子を買ったら新聞紙の袋に入れてよこした。これは自分の家も三文店屋から始まったから新聞紙で袋を作ってバラ売りをしていたのだ。ノリもご飯粒をつぶして作っていたときがあったのだ。インドでは子供が働いて稼いでいる。私の子供の頃もたいがい農家でも商家でも子供が働かせられていた。子供は遅れた国では未だに労働力としてみられているのだ。世界でも経済活動はにているのだ。

卵が貴重だというのはネパ−ル辺りでは未だにそうである。卵が不足してインドから輸入しているのだ。ネパ−ルの山地では満足に卵も食えていないのだ。では日本ではどうかとなると聞いた話では卵は病人が食うもので普通には食っていない、家族で父親が病人だったその子供は父親が卵が食えたのに子供は何故お父さんだけ卵食うのかと母親に言ったそうである。つまり卵は子供が食いたくても食えなかったのだ。あとは一つの卵を効率的に食うために少しづつかきまぜたものを分かち合ったとかいろいろ工夫している。卵すら満足に食えないことが日本でも普通だったのである。ネパ−ルのポカラでは両親をなくした青年が観光ガイドしてやるとか言っていた。その青年にインドの金は大きいからとくれてやった。ネパ−ルでは最貧国である。あの山の生活では豊かになりえようがないのだ。現金収入は観光客の荷物を山道を上り運ぶことなのである。

そしてなぜこの地図に注目したかというと酒屋の隣に小さく銀行とあった。とすると新山の酒屋は自分の家の暖簾分けされた本店の酒屋だったかもしれない、前にその銀行で私の家のものが子供の頃遊んだ話しを聞いたからだ。長塚駅からこの新山にやってきたのだ。長塚駅は今はない、双葉駅になった。確かにこの地図に描かれている通りで遊んだりしていたのである。他に板橋などあるがこれもまさにその頃は板橋がかかっている粗末なものだった。こういう地図から当時の人間模様などが再現されると非常に興味深いものとなる。これは当時そこに住んでいた人がいてその人から直接聞くと昔が浮かび上がってくる。民俗学とか歴史でも民衆の語りがあってはじめて生きてくるのだ。柳田国男でも宮本常一で民衆の語りから新しい学問を構築したのである。この語りは老人から直接聞くとリアルなものになる。これは認知症の人からも聞くことができるのだ。この地図から明らかに江戸時代まで浮かんでくる。

学問は「なぜ」からはじまる
(なぜ卵も食えなかったのか?)

http://www.musubu.jp/jijimondai26.htm#egg

追記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

地図の中に「五銭屋」とあったが何だろうと思い検索したら

「め組市場」の隣りと斜め向いに食堂があって、それぞれ「五銭屋」「十銭屋」と呼ばれていた。店の名はちゃんとあったのだろうが、店の名を云う人は少なかった。どちらが「五銭屋」でどちらが「十銭屋」か覚えていないが、何でも五銭、十銭の単価で食べさせていたのでその名が付いたと云われている。一説には店同士が張り合って、値段を安くしたのだとも云われた。氷水やアイスクリームなど、私も五銭玉を握って良く食べに行ったものである

http://homepage3.nifty.com/JN7FZE/noboru/kaiwai.htm

これは現代なら百円ショップみたいなものか当時は五銭だった。五円とか十円くらいしか子供はもらえない時があった。飴玉くらいは買えたのである。
posted by 天華 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2006年09月27日

記憶の断片(郷土史研究には過去の再現が必須)

記憶の断片

記憶は失われる
活動写真屋、映画館、炭屋という屋号
靴屋、時計屋、キャンディ屋、カフェ−
キャンディ−屋は青田の中を旗をひるがえし
キャンディ−を売りに自転車で
店屋では卵は農家からじかに買い
その頃ニワトリは放し飼い
店では新聞紙で袋を作り
バラ売りのお菓子など入れる
確かにそこは賑わった路地の通り
今は忘れられた通り
古町という地名は多い
そこはかつて栄えた町だ
種屋という屋号は残る
その女主人も死んだ
トタン屋、綿入れ、物差し、キセル、女給・・
トタン屋根の家に炭小屋に鉄砲風呂
言葉自体がみな過去のものだ


これは前に書いたものだけど続きとしてここに出す。過去の記憶は断片化している。断片として思いだすのだが連続したものとして思い出せない、今回の新山の古い町の通りの店でも一つの店屋のことは思い出しているかもしれないが全部は思い出せない、断片的にしか思い出せないのだ。昔になると人間の記憶もあいまいになるからだ。だからこうした資料から記憶をつなぎあわせてゆく必要がある。

そしてここで一つの疑問として魚屋とか野菜屋とかないのが不思議に思わないか?もちろん惣菜屋などもない、ないものがかなりある。魚屋は行商の人が浜でとったものを売りにきたのである。今でも烏浜とか松川浦から行商で売りにきている。前はリヤカ−などで運んでいた。今はバイクとか車であることが変わった。前は店屋は万屋(よろず)だった。何でも売っていた。今のス−パ−が万屋だった。山の奥ではまだ万屋があったりするが山の中でも今はス−パ−があり車で買いにきているから今はほとんどなくなった。店屋というのは近くの農家から野菜を買って売っていたのだ。市場などなかったのである。それで店屋をやっていた時、農家の人と交流があった。それで悲しいのはその農家の老人も脳梗塞とかになったり買う方も認知症になってしまった。その当時の経済は余り遠くとは関係していない、農家は自給自足が基本であった。

とにかく家では毎日、母が新聞紙で袋を作りノリはご飯粒をすりつぶしたものを使い菓子でも何でもバラ売りであり一個一個でも売っていた。計り売りでもあった。計り売りというと中国の路地でミカンを計り売りしていた老人がいた。なんとも貧しい感じで中国的に汚れていた。その手から受け取ったミカンのことを忘れられない、本当に貧しいなと感じたからだ。日本の昔を知りたければアジアの貧しい国に行けば実感としてわかるのだ。

昭和30年代のお菓子屋さんてガラスのふたの付いた枡が並んでいて、そこからガサガサすくって紙袋に入れてくれる計り売りがメインでした

こういう店が普通だったのだ。子供の頃、ばら売りしていたお菓子を自由に食っていた。それをうらやましがられたのはわかる。子供はその頃あまり小遣いをもらっていなかった。つまみぐいしたものなかでどういうわけかマコロンというのを覚えている。これは確かにいい味したのである。


ここにマコロンの由来と物語
http://www.makoron.co.jp/story/index.html

昔になると思い出だけが残りそれがマコロンの味のように甘美なものスウエ−トメモリ−になってしまうのが人間なのだろうか、老人は現在より過去に帰ってしまう。過去が甘美なものとして蘇ってくる。ということは自分も確かに老人化してしいるのだ。いづれにしろ郷土史の研究には遠い過去でも近い過去でも過去を再現することが基本なのだ。それぞれの過去の物語を再現することが必須なのである。

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2006年10月08日

幸田露伴 「遊行雑記」の相馬の部を読む

http://musubu.jp/somakoudarohan.html

郷土史研究とか昔を偲ぶには多角的な目が必要である。直接人から聞いたり小説を読んだり外部から来た旅行者の記録を読んだりすると昔のことが彷彿として浮かび上がってくる。この作業は資料をいろいろ集める必要があるのだ。今のところインタ−ネットには少ないがそれなりに役立っているのだ。
自分の場合、インタ−ネットで骨格を作りそれを本とかで補強してゆく、図書館ではめんどうすぎるし今その暇がないのだ。とにかく郷土史研究は別に才能とかでなくていろいろなものを資料を集めて見ていてそれを組み合わせるだけでもそれなりのものができるのだ。インタ−ネットで小説とかの読み方も変わった、全部は読めなくても相馬の部とか一部だけ読んで参考にするのだ。
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2006年11月02日

相馬焼の歴史(俳画をそえて)

http://www.musubu.jp/somayakimono1.html

昨日高瀬川から大堀の方に行って来ましたので「相馬焼」について調べたことを俳画とともに書いておきました。旅に行った時必ず焼き物の窯元をたずねていた。焼き物には必ず歴史があるからこれを知らないと興味が半減する。焼き物から探る歴史は様々な物があり興味深いのである。

調べるものが情報がもっと集まればもっと書けた、相馬焼に関する情報をどれだけ集まるかでその内容が充実するかしないかになる。情報はいろいろなところに分散しているからわかりにくいのだ。インタ−ネットだけではわからない、たまたま集めた本の一部にのっていたのを拾いだし編集したのである。
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2006年11月09日

陸奥真野草原考−補足

manokayahosoku1.JPG

陸奥の真野の草原遠ければ面影にして見ゆというものを(笠女郎)

東(あづま)の国に 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金有りと 申したまへれ 

すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に金(くがね)花咲く(18-4097)-大伴家持

「陸奥国小田郡(現在の遠田郡の東半分)」 小田なる山とは小田郡内にある山なのだろう。ここではそれでも小田郡となっていれば郷よりは広いのである。真野郷は行方郡内にあり草原(かやはら)がさらに真野郷の中の一地域名としたらいかに狭い地域がクロ−ズアップされたかとなる。ただ陸奥は最初の時は陸奥(みちのく)としての広大な未開発の荒野のようなイメ−ジとして中央から見られていた。そういう広大な未開の地域で何に脚光があびるかとなれば何かの資源がある、特に黄金となるとこれは注目される。だから小田は知られるようになった。鉱物資源はその鉱物がとれる所が小地域が重要になるからだ。では真野郷自体が郡より小地域であるとするとそんな小地域が奈良の都の人に知られるようになったのか?それが最大の謎だとなる。鉄がとれたからとなるがそれにしても黄金がとれる小田ならわかるが果たして鉄資源がとれるだけで奈良の都にこうした小地域が知られるものだろうかとなる。ヤマトとという地名さえ奈良の中の一小地域名でありそれが国の名までになったのだから一小地域でも重要な場合がある。

越の名の起こりは、越後国古志郡に由来すると考えられている。小地域の地名が拡大する例は多い。むしろその方が普通である。
和名抄に越後国頸城郡沼川郷が見える。沼川は万葉集には渟名(ぬな)川とある。渟名川は「瓊(に)(玉、赤色の玉のこと)の川」の意である。糸魚川市の西で日本海に注ぐ姫川の支流の小滝(こたき)川をさかのぼると、ヒスイの原石が出る。沼河比売は「瓊の川姫」すなわちヒスイのシンボルの女神にほかならなかった。

http://www2.hokurikutei.or.jp/backnum/99nov/ZH_Folder/ZH2.html

これもヒスイという資源の故に有名になった。ここでは越後国頸城郡沼川郷であり沼川郷は真野郷と同じくらいの地域である。しかしさらに草原(かやはら)が地名だとするとそんな狭い地域が奈良の都まで知られるものだろうか?そこがこの歌の最大の謎となる。つまりそんな小地域がなぜ奈良の都の人々に知られたのか、なぜ笠女郎が知るようになったのか、それは真野−草原が一般的に知られていたからそうなのか、ただ大伴家持を面影の人としたとき小田郡の山に黄金がとれたことを歌っていることは重要である。大伴家持と何か特別な産物がとれることがその土地を知らしめることは世界でも多いからそうした小地域の名が知れ渡ることになる。シルクロ−ドでもシルク−絹が通る道だから絹があってこそシルクロ−ドは世界に通じていたのである。

百済王敬福(くだらのこにきし・けいふく、697〜766)の孫娘・明信(みょうしん)を正妻としていますが、上の系図でもお分かりのように、大伴家持の妹も妻としているのです。そして、敬福が東大寺の大仏様のために、東北地方から産出したとされる大量の黄金を、誠に絶妙なタイミングで帝に捧げたとき、次の歌を詠んだ人が家持だったことを、皆さんは覚えておられることでしょう。

黄金のトライアングルhttp://www.ten-f.com/ougonno-torio.htm

大伴家持と百済王敬福は親戚関係にあったからこそ詳しい陸奥の情報が入ってきていたのである。その関係で陸奥の真野郷の情報も奈良の都に伝わったことは考えられる

黄金がとれたのは遠田郡の小田である。その小田に嶋田村があったということは泉廃寺跡の嶋□郷は嶋田かもしれない、その他遠田郡には真野公遠田郡で真野公営山47人が賜姓された。こう考えると嶋□郷は嶋田郷であり□□白人は高麗白人かもしれない、高麗福信という人がいたからだ。つまり製鉄や黄金をとる人々が渡来人中心にして移動してきたのだ

真野郷にいた産鉄の技術をもった一団が小田郡に移って行ったのだ。その指導をした百済王敬福と大伴家持は親戚関係だったから奈良に情報が伝わり真野が知られるようになった。ここでも渡来系の技術者集団が深くかかわっていたから草原(かやはら)がその百済の前の加耶国が地名となったかもしれない、草原はまた移動地名だから草原(かやはら)は萱の原だったというのはやはりありえないだろう。鉄資源とか黄金を求めたゴ−ルドロ−ドの一地点として真野の草原がありそれは小田郡へ通じていたし小田郡へ黄金を求めて真野−草原から移動して行ったのである。

詳しくはこちらへ

陸奥真野草原考−補足
http://www.musubu.jp/kashimamanotakuma1.htm
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2006年11月12日

草の花(新地の観海堂)

貧しさの観海堂や草の花

日本の伝統的な子守唄に歌われている世界というのは、貧しい家の娘が金持ちの家に行って子守りをするという、そういった設定がベースになっています。前近代的で封建的で、差別と貧しさにあふれていた日本の社会。そういう社会に生まれた歌が子守唄です

http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001841/0/kouza/section2.html

子守りした人が老人に多い、子守していて学校まで行っても教室に入れられず教室の外で授業を見ていたとかあり子守りで学校に行けない子供の学校も300くらいあったというから子守りは日常的風景としてあったのだ。

教育というと江戸時代から明治時代になったとき根本的に変わってしまった。江戸時代までは文字を読んだり書いたりできない人がかなりいた。私も知っているがその人は文字が書けないから頼むほかない、でもすでにほとんど文字は読み書きできていた。江戸時代の遊女なんかでも読み書きできないから客に文を書くのに頼んで書いてもらった。江戸時代の教育の基本は「読み、書き、そろばん」でありシンプルなものだった。明治になってもそれは受け継がれた。ただ明治になると根本的に教育の仕方が変わったのだ。工業化するため画一的規格品を作ることが目的となった。工業化には規格化することが必要であり人間も大量に規格化することが必要になった。その象徴が学校制であり座席の配置にあった。

座席配置の教育観の変容について
http://www.bukkyo-u.ac.jp/jssep5/pdf/KURODAyasufumi2.pdf

こんな論文が出ていたのには驚いた。江戸時代の寺子屋の机の配置はばらばらであり個別対応だったのだ。個別教育だった。江戸時代までは習うこととがシンプルだから知識の量が今と比べると少ないから教師とのスキンシップとか人情的になる。江戸時代の方が自由であり生徒にたいして鷹揚であった。もちろん受験教育もなかったのである。おそらく教育は徒弟制度とか親方とか弟子とかの関係や家の跡を継ぐのが多いから過程で行われていたのだ。だから教育が学校だけになったというのは工業化の結果であり地域社会とか社会そのものの変化の結果だからこれを学校だけで解決しようとしてもできるわけがない、人間の社会は過去はすべて遅れて良くないとかならないのだ。過去がまたすべて不幸だったともならない、時代によりいい面と悪い面がある。現代に失われたものが実は過去にあったのである。薬師堂のことについても書いたがこうした地域にあるものも昔は病人をいやしなぐさめるものとして必要なものだったのだ。これは時事問題の深層でも書いてきた。

観海堂で面白いのは近くに学校田を作りここでとれた米50石を換金して教育費にあてたことである。昔はなんでも米が貨幣の代わりをしていた。祭りをするための田だったら祭り田とか団子田とか仏供田とかいろいろあった。貧しいというとマイナス面ばかりと思えるが人間の情を育む点では貧しい方が育まれる。貧しい時こそ助け合う、協力し合うということもある。江戸時代から戦前までは日本人的義理人情が色濃く残っていた時代なのである。現代は豊かになったがあまりにも殺伐としている。いじめでも子殺しでも貧乏のためではなく人間の情が育まれない非人情の貨幣経済一辺倒の世界がそうさせているのだから根本的な解決法はないのである。

観海堂という名前は海が近いからこの名にしたのか?新地の海から牡鹿半島が見えたというのもあそこは電車の駅からも海が最も近いところにある。

新地の海から牡鹿半島が見えた
http://www.musubu.sblo.jp/article/895489.html
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2006年11月26日

冬の日(酒屋の通帳)

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父遺す酒屋の通帳何語る暮らしの痕(あと)や冬日さす室

浪江の葛尾の山から酒屋に働きに出てきた父が残したものはほとんどない、酒屋に勤めていたとき残した通帳がこれである。生酒とか焼酎とかタル酒とかある、明治生まれで字が書けた。それも筆でで書いていた。しかし学校に行っていたのだろうか?母は尋常小学校だから行っていた。父の話はほとんど聞かず終わったからわからない。山には働き口がなく町に出てきたことは確かである。それで酒作りをした。字が書けるので事務もした。その後暖簾分けして鹿島区に店を開いた。酒屋は当時どこでもあり勤め場所だったのである。酒屋は町の中心にあったのだ。

郷土史の一番わかりやすい、一番アプロ−チしやすいのは自分の家の歴史なのだ。これも個々に違っているから他者から見ると興味深いのである。インタ−ネットには結構でている。相馬でも出ていた。ただ生きているとだと個人情報があからさまされて詮索されることが問題なのだ。自分の場合は実名だから余計そうである。実名にしないと著作権すらインタ−ネットではなくなってしまうから丸損になってしまうから実名にしている。簡単にコピ−されて盗作されて自分の発見の功績すらなくなるというのがインタ−ネットの問題なのである。
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2006年11月27日

浪江町の川の名の由来

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陸奥の 高瀬の清水 来て見れば あほいのくきの 下にこそあれ  西行
                                      
その昔標葉郡高瀬村で詠んだと言う。現在の双葉郡浪江町である。承安4年(1174年)ごろである。あほいのくきとは葵岫と書くとの事(浪江町史料編纂室末永氏)。岫とは(みさき)であり出っぱった所の意味である
http://www7.plala.or.jp/t-aterui/fukushima/f-takasenosimizu.htm

高瀬川とは高い瀬の川故名づけられたと思っていた。それに地形的にぴったりだからだ。でも高瀬とは別に高い瀬でなくても地名化している。もともとここに高瀬村があった。西行が歌にしたとき高瀬村があったのだ。高瀬村があって高瀬川になった。地域名から川の名になった。この高瀬という地名は古いし高瀬川の名前も古い、請戸川は請戸村がある漁村から請戸川となった。。

この請戸川は泉田川ともいい今は室原川となっている。室原は上流の地域名である。高瀬川の方が名づけられたのが古い、日本の川は地域名が川の名になっているのが多い。請戸村の縄張りが川をさかのぼって名となっている。室原川からの勢力が強ければ室原川となっていた。名前を名づけることはここは俺たちの支配する領域だという意味もある。宇多川でも真野川でも木戸川でも一地域名である。日本の川は一地域によって分断されているのだ。外国のように一本の長大な川がないから長い一本の川の名がない。一本の長い川として生活の中で意識されなかったのだ。

地名「Sind」は、現在はカラチを州都とするインダス川下流域を占める州の名前で、その語源はサンスクリット語の「Sindhu(シンドフ=川)」。元はインダス川を意味していたものが、次第にこの地方を指す名称に、さらにはペルシャ側から見てインド全体を指す名称になっていきました
http://wedder.net/kotoba/india.html

川の名前が地域全体をさす名になったり国の名になったりしない、外国の川は長大だか国の名になっても不思議ではない、日本の国名ヤマトなのは山の国なのと同じである。日本は川が国の名になりえない風土なのだ。石川県、香川県、神奈川県と川のつく県は三つあるが肝心の川がないというから不思議である。川とついてもどの川なのかわからない、一本の大きな川が流れていないからだ。むしろ小さな川の地域名が起源になっている。山とつく名が大きな領域の国の名になることが多い。日本の山は無数にあり山の国なのだ。川は外国の川のように交通の道としての川ではなく越える川、川越とか川が側(がわ−かわ)からきているとか川向こうへの意識が強く、川を一本の長い川として生活的に意識することができなかったのだ。川はむしろ川留めとか交通の邪魔であり交通を阻むものとして意識されていたのである。
日本の川はまた瀬がつくのが多い、早く流れる瀬として意識されていた。日本の川は滝だと外国人が言うのもわかる。日本人からみると外国の川は運河に見える水路に見えるからだ。


 
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2006年12月12日

酒屋の通帳(続)

貧乏のしみつく痕(あと)や我が父の死にて遠しも年の暮かな

酒屋の丁稚をしていた父だったがその通帳にはやはり貧乏がしみついている。貧乏というと今では想像できない貧乏があった。一時我が家では家を間借りさせて貸していた。その家賃が日掛けだった。毎日家賃をとっていたのだ。なぜそんなめんどうなことをしていたのか?その頃はその日暮らしだった。一度に家賃を払いないから払えるとき払う、とれるときとっておくとなった。日銭稼ぎだった貯金などできなかったのだ。江戸っ子は宵越しの金をもたない・・・というとき威勢はいいが貯金ができない、貯えることができない、その日暮らしであった。

明治初期から半ばごろにかけての下層社会を調査した横山源之助(「日本の下層社会」)によれば、棟割長屋の家賃は日掛けで二銭五厘から四銭程度だった。そのころの住民一日の生活費用が三−四人家族で三十三銭以上四十五銭ほど。最大の支出項目は米代の二十銭前後だった。ところが収入のほうは、人力車夫などは一日四、五十銭になったようだが、ほとんどは一日に十銭にも満たないありさまで、これでは生活不可能なので、女性や子供が屑漁りという内職で補い、食費を残飯で浮かせたりした

米が一番大事で高いから貯えるのは米だった。郷倉とは飢饉に備えた村の倉も米や食料を貯えていた。それから日掛けだとすると毎日家賃をとり回るとしたら毎日貸している人と会うのだからなんらかの話をすることになる。大家さんと部屋を借りている人は毎日顔を合わせることになる。そういうふうに人と人が寄り合い親密に暮らしていた。今のアパ−トとはあまりにもちがいすぎる。隣に誰が住んでいるかもわからないのが現代だからだ。子供でも隣近所は親密な場所だった。田楽を売っていて焼けるのを見て何銭かで買ったとかうどん作りで小麦粉を踏むのを手伝ったとか近所が親密な生活の場所だった。そういう親密な場所で人情が育ったのである。それは商家で働くと家族の一員のようになるとか肌と肌で接しあう場だったからこそ自然とそうなったのだ。

物がないとき、不便な時の方が人間の交わりは親密になる。どうしても近くで人間同士が助け合わねば生きていけないからだ。最近格差社会が話題になっているけどアパ−トち一人取り残されて餓死寸前の人とか貧乏でも人が人と隔絶されてしまっている。昔だったら貧乏でも人と人でも顔を合わすから助け合うということがある。でも貧乏の悲惨さは人が親密に交わる世界でも残酷である。隣を借りていた人は燃やすものもなく家の一部を壊して燃やしていた。薪になるものがないと寺に助けを求めた者に寺の家の一部を板などをはがしてくさたというのも燃料になるものがないとそうなるのだ。火になる燃料は欠かせないのだ。そしてセンベイ布団に寝て餓死のように死んでいった。その頃生活保護がなかったのだ。こうしたことは各地にあった。貧乏の悲惨さも経験しないとわからないのだ。

前にも書いたけど卵すら病気のときしか食えなかったとか今では信じられない貧乏な世界があった。

巨人、大鵬、玉子焼き、と昭和37、8年から45、6年の当時、少年たちの心を占めていた大好きなものがあった。この言葉の意味は巨人が好き、という裏には巨人と拮抗する他球団との比較が存在するし、........

玉子焼きが好物となり卵が食えるようになった。その頃卵は放し飼いの鶏からとったものだった。私は子供のころ卵を農家から買わされた。自転車の後ろに糠を入れたの箱をつけて卵を買いにゆくのだ。必ず卵は壊れるのである。卵を入れる今のような型にしたものすらなかった。自転車だし道は舗装されていないから卵は壊れるのだ。でもそのあとすぐにバイクが普及してきた。ベトナムやカンボジアでバイクの洪水を経験したようにバイクの時代がきて車の時代になった。でも車の時代になるのが早かった。おそらく十年くらいで日本は急速に変わってしまったのだ。

大鵬は忘れられ巨人もかつての栄光はない、長島は脳梗塞になった。一時代は過ぎ去ってしまったのだ。貧乏も今は格差社会で変質した。同じ貧乏でも時代が違うと貧乏の様子も違ってくる。現代は豊かななかでの貧乏でありこれもかえって悲惨だとなるかもしれない・・・ともかく病気の父が死に際に言ったことが「さしみが食えるようになったのに食いたくなくなった」という悲しい言葉だった。病気で食欲もなくせっかくさしみを出しても食いたくないということだった。これも貧乏時代の悲しさを象徴するものだった。貧乏がしみつくとは貧乏が離れないということであり大正生まれの人がもったないもったないと食事の余りものをなげようとしないのはそのためである。貧乏が体にしみついてしまっているからだ。年の暮に昔の貧乏な暮らしをたどるのもまた必要なことである。飽食の時代の復讐がこれからくるかもしれないからだ。そんな無駄を自然が許すと思いないからだ。そのためにも昔を偲ぶことは意義あることなのだ。


酒屋の通帳(1)http://www.musubu.sblo.jp/article/1836589.html
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2006年12月19日

南相馬市鹿島区の海岸に小浜菊が咲いていた!


鹿島町の海老浜に小浜菊が八沢浦の海岸に群生して咲いていた写真があった。右田の松原に咲いて写真にとったのはやはり野路菊だと思う。あまりにもにすぎていて区別がつかない、葉っぱの形もあまりにもにている。多少違うからやはり松原に咲いていたのは野路菊であり海岸に咲いていたのは小浜菊となる。小浜菊は海岸に咲いているのがふさわしい。名前からしてそれにふさわしい。確かなことは小浜菊が群落で咲いていたことである。これは来年確かめてみよう。タブの木というのもあった。これは南国の木である。これも確かめていない、なかなか植物の分布はわかりにくい、浜菊の美しく咲く芭蕉は宮城県志津川町の湾である。ここの湾は本当に円形の湾になっているので湾らしい湾なのだ。その中に巌がありそこに浜菊が咲いていたのを思い出した。小浜菊は北方系の花である。浜菊と同類であり小さい浜菊だからである。花にも北方系と南方系があることを知っている必要がある。海老浜を南限としているマルハシャリンバイは奄美大島の方が原産地の南方系であり海老浜が南限の地となっている。温暖化しているからもっとも北でも咲いている。どうしてここで明確な線をひいたのかわからない。

郷土研究になると様々な分野があり郷土研究自体一人ではできない、それぞれ研究するものだから多様になるのだ。南相馬市鹿島区の小山田の池にミズアオイという花が咲いていた写真があった。これは神秘的だった。これは自然の沼とか池に咲くものだろう。伊豆沼辺りでは咲いている。そこは自然の沼だから自然の植生が残っている。自然の植生が残っているところは貴重である。自然はかなり破壊されているから貴重な植生は破壊されている。植生とか花の世界は奥深いし種類も無数にあるから極めることはむずかしい。知らない花がまだまだある。地元でもこんな花が咲いていたのかと驚くことがあるのだ。このペ−ジは評価できる。

日本:本州(青森県から茨城県までの太平洋岸)−浜菊は茨城県までしか咲かないから北方系である。ハマナスも北方系である。

ふくしま県教育情報デ−タ−ベ−スhttp://www.db.fks.ed.jp/

鹿島町の自然http://www.db.fks.ed.jp/bunrui/10078/10078.shizenfukei01.html
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2006年12月25日

南相馬市原町区のサンクチュアリ−(バ−ドウオッチング)

sssbirds2.JPG


冬の日やバ−ドウオッチングのおばあさん



南相馬市の原町区の新田川でバ−ドウオッチングしていたおばさんがいた。おばさんでも60才くらいかもしれん、おばあさんとはいえない年である。

「こんなところにいろいろ鳥くるんですか」
「草の実を食いににここには結構来るんですよ、アカゲラ、コゲラが来ましたね」
「胸が赤い、啄木鳥ですね、これはボクも見ましたよ、でもはじめてでした、啄木鳥はなかなかこの辺では見れませんよ・・・」
「ここは結構いろいろ鳥が見られるんですよ、ノスリがいましたよ」
「ノスリ?」
「ここは野鳥のサンクチュアリですよ」
「ここがですか?」
「ええ、ここでいつも観察していますから・・・・・」

ノスリは何だろうと家に帰りインタ−ネットで調べたら鳶とにているが鳶より小柄な鳶より精悍な鳥だった。これはだから鳶と間違いやすいし過去に見ていても鳶と思っていたのだ。鳥はなかなか見分けにくいしすぐ飛びたってしまうからゆっくり見れないから見分けることがむずかしいのだ。そのおばさんはかなり高価な望遠鏡をもっていたから本格的なバ−ドウオッチングをしていたのだ。それにしてもあのおばさんいい趣味をもっている。近くでもバ−ドウオッチングを楽しめるというのは意外だった。近くは六号線だから静かな野鳥が来る場所ではない、でも一時鳥が集まる場所があるのかもしれない、鳥にくわしくなるのはむずかしい。

何か知らないけれど百羽くらの見慣れぬ鳥が海から川へ飛んできたことがあった。海を渡ってきた鳥が一時川へさかのぼって飛んできたのだ。その鳥の群れ舞う姿は壮観だった。集団で渡りをする鳥がいる。夏にはアマサギはよくみかける。これは沖縄辺りではいつもいる鳥だろう。ヤマセミとかは実際は汚い川でもよくみかける。沖縄で一瞬だったがアカショウビンを見たのは感動だった。外国でも鳥を見たのだが鳥は一瞬しかみれないから記憶に留めることがむずかしい。外国は特にゆっくりみていられないからわかりにくかった。

アカゲラは啄木鳥はちょっとした森でも目につく、木をつついて虫をだして餌にしているのだ。その啄木鳥のたたく音だけが森閑とした森にひびいていた。そこは岩手山の見える小岩牧場の森だった。これからは退職した人でも趣味が必要である。でも趣味も一日してならずである。野鳥を知るにしてもかなり積み重ねが必要なのだ。遊びでも積み重ねがないとできないのである。八沢浦の海老の浜にコハマギクが咲いていたというのも発見であり今回がこんなところがサンクチュアリ−だというのも意外だった。近くの自然でもわからないことがまだまだある。自然も奥深いから近くでも楽しめることを知ったのである。最近狭い範囲が生活範囲になっているから狭い範囲で楽しむほかないのでここで変わった野鳥が見れるなら楽しいとなる。自然も郷土研究のテ−マとしてふくまれている。知られざる自然の探求が近くでもありうるということなのだ。

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2006年12月27日

語られざるものの墓(団塊の世代の教育の回顧)

我が兄の語られざるや墓一つ街中にありて年の暮れゆく

墓についてどういうわけかかなり書いてきた。墓はやはり歴史と関係しているから歴史に興味あれば墓にも興味がでてくる。私の兄といっても実の兄ではなかったしともにいた時間が短いから兄という感覚がでてこない。兄弟でも年が離れすぎたりすると兄弟という感覚にともしくなる。兄弟でもやはり一緒に育たないと情もわかないのかもしれない、これは親子でもそうである。実の親子でも4才までしか一緒でなかった母親が誰もめんどうみるものもなく娘が世話して施設に入れた。娘は迷惑で疲れたというのもわかる。ただ私の兄に関しては自分自身はめぐまれて兄は集団就職で金の卵として東京の方に出て行ったから苦労したということで私は常にうらやましがられていた。集団就職というとこれも過去のものになってしまった。汽車という言葉が過去のものとなって今は電車というとき言葉も過去のものとなった。集団就職で働きに行かねばならなかったということは一つの日本の高度成長期の歴史のなかで記憶されるべきことだった。15才くらいで親元を離れて働くということは大変なことだったからだ。その前は丁稚奉公とかもあるから別に15才で働きにでることはめずらしくはないが親元を離れることは大変なことだったのだ。私の兄は10数年前にすでに交通事故で死んだのだ。不幸な死であり若すぎる死でもあった。すでに同級でも死んでいる人がいる。

その当時、田舎の中学校で中卒というのが非常に多かった。半分くらい中卒だったのか、高校に行った人は三分の一くらいだったか、大学に入ったのは数人だった。でも大学はその頃実際は大衆化していたのだ。大学というとその頃何か昔の大学のイメ−ジをするが大衆化していた。駅弁大学とかも言われた。「急行の止まる駅に駅弁有り、駅弁あるところに新制大学あり」旧帝大が大学のイメ−ジとするとそこから大学が急増したのだ。それも私立大学ではない国立大学のことであった。それから私立大学の人数も膨張して増大した。マスプロ大学とか言われていた。千人も入る講堂で講義していたのだ。高校から大学の授業とはあまりにかけ離れていたのだ。その不満が学生運動の一つの原因になっていた。

つまりその頃から学生はエリ−トではなくなっていたのだ。知的教養を身につける学生なのかどうかわからない若者が多くなった。マ−ジャンを一日していたりバイトで学校に来ないとか授業に出るのは試験のときだけだとかただ遊ぶだけの学生が多かったのだ。特に文系はそうである。それでもトコロテンのように卒業できたのである。今でも大学は格付けされる。慶応早稲田とかいうとそれなりに一目おくとなる。私は三流大学となるから何か公にしたくない気持ちが働く。これでうまいことを言っていたものがいた。大学の名前は死ぬまでついてまわるからいい大学を出ないと損だ、まるで入れ墨と同じだと・・・この入れ墨というのが実感したのだ。履歴書にも何でも社会では最終学歴の大学名を書くことになるからだ。人の価値などわかりにくいから学歴で値踏みされることがある。芸術の分野などでは学歴は関係ない、実力の世界だし他にも実力の世界はいろいろある。ただ一般的に社会では学歴コンプレックスをもつ人は多い。それは実力ではなくまず学歴が会社の採用条件になったりするからである。

郷土史というとき一つの墓をたずねることからはじまることもあるし老人の昔話しを聞くことからもはじまるし誰かの文章を読んで興味をもちはじまることもある。そのきっかけはいろいろである。郷土史を研究する素材はいくらでもあるのだ。これは人によってみな違う、有利なのは旧家に生まれた人である。そこに古い家の歴史があるから自ずと郷土史に興味を持つのである。郷土史とか歴史というとみんな学者とか何か学問がわからないとかかわれないと思っているがそうではない、郷土史というのは実際もっとも身近なところにある。その一つがそれぞれの家の歴史なのである。そこから郷土史がはじまっているのだ。

年をとれば自分の人生をふりかえり語ればそれも一つの郷土史になる。インタ−ネットの有利な点は無料でそうした昔話を気楽に書いて残すことができることなのだ。これが本となるとめんどうすぎてできなくなってしまう。誰かに読んでもらうこともむずかしくなる。だからインタ−ネットで郷土の歴史が無数に語られることになった。ただ相馬郡内では一部確かに家の歴史を書いていた人がいたが書かれていないし語られてもいない、気楽に書けるのだからプログなどでもっと発信してほしい、ただ個人情報がもれるとか家のことが詮索されるとかで書けないということもあるかもしれない、全国的になり他からだと気にふることなくても身近だと書きにくい面はある。インタ−ネットはすでに郷土史の膨大な記録の倉庫となっているのだ。これはいくら書いても制限がない、だから自分なりに膨大なものを書き続けることができるメリットがある。そして全国の人にも読まれるという強みがある。普通郷土史は狭い地域でしか読まれないがインタ−ネットだと全国的に読まれることが大きな効果をうむのである。

ともかく語られないいうことは死んだ人も浮かばれないことなのだ。死んだ人でもその人について語る人がいれば死んだ人もこの世にまた生きることにもなるのだ。今についてあまりにも多く語られているが死んだ人についてはあまりにも語られないことが多すぎる。埋もれた墓など誰かに語られることを待っている忘れられた死者がいる。はっきり言って今の認知症の人の千回も語り聞くことには疲れた。でも語られない死者は郷土でも全国でも無数にありそれらは誰かに語られることを待っている。そして語られたとき霊が浮かばれたとなる。語られざるものは浮かばれないものとして霊が漂っているとなるかもしれない、誰かに語られることによって死者も生きる。年の暮−死者も生者と同じく一年をふりかえるとなる。

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2006年12月29日

相馬藩に関する本の紹介−「日本史再発見−板倉聖宣」


最近読んだ本で「日本史再発見−板倉聖宣」に相馬藩のことを詳しく分析している。半分が相馬藩について書かれている。人口問題で分析しているが少子化対策のために手当てもしている。明治維新で人口が増大したことは庶民にとって明治維新は明るい世の中を作り出したもので歓迎されていたというのは納得する。交通関係でもなぜ日本では駕籠が交通の手段で荷車が馬車が発達しなかったか、関東では大八車が使われ経済を活発にしたが関西では大八車は使われなかった。これは役人の既得権からの規制だったとか船奉行などが船を中心に交通の既得権を得ていたからだとか幕府が新しいものを規制したことに原因があるというのも規制緩和が叫ばれた現代とにている。

相馬焼の駒を描くことも庶民の相馬焼として普及した浪江の大堀で許可されなかった。特許権が相馬藩にあったのも既得権だった。明治維新以降は裁判で許可されたのだ。明治維新は庶民にとっては経済活動が自由になり活発になったから人口も飛躍的にふえたのである。
喜多方は城の会津若松市から北にあるからということで北方といっていたが当て字で喜多方となったのだ。城には侍が住んでいて城下町だが既得権の旧弊なものが残っていた自由な経済活動がしにくく喜多方が自由な商業活動の場として発展したのである。今で官僚の既得権とか旧弊なものの既得権は経済活動をはばむから同じ問題が過去にもあったのだ。明治維新が成功したのは西と東の経済力の差だったという説もわかりやすい、東北は商業力も工業力も弱かったのである。薩摩や長州は外国とじかに戦争してその力を知り武器を輸入したり工業も起こしている。商人の財力も大きくそれが味方したのだ。

この本はインタ−ネットでキ-ワ-ドで検索していて偶然見つけた。本の紹介で相馬藩のことを書いてあったからアマゾンで中古の本を即座に注文した。本を買うのは今やこうして買っているのだ。だから買う本もふえたのである。でもたいがい千円以下だから買えるのだ。


切実な農民の語りから学ぶ(インタ-ネットで新しい民俗学)
http://www.musubu.jp/jijimondai30.htm#kikin

この文は誰が書いたかわからないにしても現代と江戸時代の相馬藩が農家出身で具体的に結びついていたことで説得力があったのだ。飢饉の問題でも結びついていた。この文がインタ−ネットで発見した郷土史の語りとして貴重であった。やはり体験からにじみはでてくる語りは訴えるものがあるのだ。

これは虫に関しての掲示板に書かれてあったのだ。農作の虫の被害で話し合っていたのである。これも偶然に見つけたのだ。こういう語りが郷土史なのだ。
これは時事問題の深層に書いたがここでまた紹介しておこう。インタ−ネットの便利なのは前に書いたものをまた再検討して書き加えたりすることが簡単にできることなのだ。
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2007年01月11日

相馬の製鉄遺跡群(今村均)を読んで 南相馬市の金沢製鉄遺跡の土器にあった「今」の陰刻の謎


相馬の製鉄遺跡群(今村均)を読んで(相馬郷土史の部)
http://www.musubu.jp/manokayaharaima.html


かなりの発掘の成果がでた。やはり文字が記されていることが大きな手がかりとなる。史実と遺跡の照合一致をみることができるからだ。
ただ陸奥の真野の草原の歌は謎が深く未だに解明できない、でも草原を
萱の原としていたときよりは史実に迫ってきたのである。

高麗原という小地域が常陸にあったことでもわかる。間違いなく草原は萱の原ではない、地名なのである。ただ真野郷のどこが草原なのかとなるとこれまた確定はできない、高野新笠というのがまた謎なのである。これは平安京になってからの人でありわかりにくい、でもその足跡が史書に明確に知るされている。

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2007年03月04日

なぜ南相馬市になって違和感がつづくのか?(広域地名化は文化の破壊)


市町村合併名前の問題

http://musubu.jp/somagappeijiji.htm#iwakansoma

なんかここに一年ぶりくらいに書いた。これは毎日10人くらい二年間くらい読まれている。これはもしかしたらベストセラ−になっているかもしれん、これだけ長く一定数読まれているのはないからだ。

南相馬市になってもどうしてもなぜ以前として違和感があるのか?それはやはり原町市が明治以降近代化で一早く発展を遂げた栄えた活気ある場所だったためでありその歴史が原町市という名に記していたのである。つまり相馬市だと相馬藩の継続で江戸時代をイメ−ジするが原町市の特徴は無線塔に象徴されるように近代化した街としての原町市のイメ−ジがあったからだった。森林鉄道があったのもそのためだった。この近代化の歴史もまた歴史であり群馬の煉瓦作りの富岡製糸工場を世界遺産にするというのもそのためだった。日本の近代化もすでに歴史となっているのだ。外からみると南相馬市はわかりやすいのだが地元から見ると原町市には相馬市とは違った歴史を歩んだものがありそこに原町市という名があった。広域化した地名はこうした地域の中のさらに地域の文化を破壊することがあった。市町村合併で名前の変化だけでもかなり文化は破壊されてしったことがとりかえしつかないとなる結構大きな文化の問題だったことに気づいたのである。
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2007年03月12日

牛太郎の謎

牛太郎の謎

旅館のあったところに牛太郎さんという人のいい人がいた。夏休みになると旅館の一間を子供に解放して自由に使わせた。川が近いので川に裸になり泳いだ。あとで牛太郎さんは旅館から消えた。何かあって東京の方に出て行ってしまった。なつかいしのと親切にしてくれたからと仲間とその家を探し訪ねて行ったことがあったとか・・・・・

これだけの話なんだけどここから想像する郷土史とかもありうる、名前は意外と大事なんだよ、そもそも庶民で名前が歴史で残っているのはまれだ、万葉集でも名をなのらせからはじまるから名を知ることはその人を自分のものにする、名前を知れば結婚の約束までいたるような重要なことだった。名前も重要な歴史を知る手がかりなんだよ、牛太郎というのは一般的な名前だった。馬とか亀とかついたのも多い。馬がつくのはわかる、馬は日常的に農耕とか運搬で使われて人間と一体になって暮らしていた。牛も今のような肉牛ではない、農耕用や運搬用だった。でも今牛は牛肉として身近であっても牛と名づけたりしない、動物の名をつけたりしない、牛を飼っていても牛という名はつけない、もちろう太郎とか次郎という名もすたれた。私の親戚筋でトラさんという名前の女性がいた。この女性は勝気な人で本当にトラさんという名前がぴったりした女性だった。明治生まれで字も書けなかった。西山家のことで書いたけどこの女性は喜多方からきて機織工場していた家に後家として入った。そこでいろいろ複雑な問題を生んだがそれはさておき名は体を表すというように本当にそういうことが人間には多い、だから名前は大事なのだ。人間は名前から先にその人なりをイメ−ジするからな、トラさん、なんか怖いなとなるのが人間なんだよ、実際にこの女性の場合は名前と一致した性格の女性だった。

しかし牛太郎という名をグ−グルで調べたら

牛太郎は妓婦太郎(ぎふたろう)から変化した名前で、その遊郭に雇われている客引きの男の事でありまする

支払いの段階で客の財布の中身が足りなかった場合に店の使用人(牛太郎と呼ばれる)が“馬”とよばれる仕事をする、つまり牛が馬になるわけで家や金を借りる相手の家まで客にくっついていくのが“付き馬”の仕事なわけです

もともとこれが名の起こりだとすると確かにそこは旅館だったから何かそっちの方の仕事もしていたのか、でも田舎の旅館だからそうでもない、牛太郎は当時かなり多くの人の名になっていたようである。私はただ牛(丑)太郎という名を聞いたとき牛のうよな人というイメ−ジになった。そこにまつわるものはわからないが何か昔の人柄のいい人を想像してしまった。何も知らないで名前だけから想像すればそうなってしまう。名前にも時代を象徴したものがある。昔の生活は子供でも近隣で温かく見守る眼があった。それはやはり生活そのものが近隣を中心になりたっていたからでもある。今は近隣はかえって疎遠になってしまった。子供は近隣の家の仕事を手伝って駄賃をもらっていた。旅館の掃除を手伝ったりうどん粉を踏んでうどん作りを手伝ったり近くの仕事が身近にみていた。

私も近くに塗屋がありその仕事ぶりを一日中見ていたり石屋の仕事を見ていた。昔はどこでも近くでの仕事を子供はつぶさに見ていてそのまねをして育ったのが普通だったのだ。そこから将来の職業につながった。たいがい親の跡を継ぐ、職を継ぐ家業を継ぐのも多かったからだ。人間はやはり身近なものから学ぶのが理想的である。今の時代は余りにも情報が多すぎる。テレビとかばかり見て情報洪水のなかにさらされると子供は混乱して情緒不安定になる。それがキレルとかに通じている。ただこういう昔のことをとやかく言ってもどうにもならないがなにかこの牛太郎さんのことを聞いてこの人と名前が何か当時ののんびりしたというか人間のぬくもりを感じたのである。現代は豊かでも何か余りにも殺伐としているし子供に近寄るものは異常者に見られ近寄ることもできなくなっているからだ。遊具も危ないからと使わせなくなったりと厳重に管理した中でしか触ることもできなくなっている。隣近所で子供をあたたかく見守るというのではなく学校という檻の中で厳重に管理するしかないとなった。そこでいじめとかいろいろな子供の問題も起きてきたのだ。つまり近隣に牛太郎さんというような人に接することはもはやないのである。

ちなみに今はそもそも旅館という言葉自体が過去の歴史になりつつある。

私は旅館で客の靴磨きさせられていたことあったよ・・・嫌だったな・・・タクシ−で乗り付ける札束をもった競馬に来た金持ちだったよ・・・・・

競馬を見ていて語られたものだが旅館は確かに今もあるがその中味はかなり変わっている。女中などという言葉も差別用語とか言ってなくなった。旅館は昔の旅籠のように死語化してくる。汽車が電車となり過去のものになったように言葉自体が死語化してゆくのも歴史だった。

ともかく郷土史とか歴史というと何かむずかしい学問を知らないとわからないと思っているがこうした卑近なことからはじめるのがいいのだ。それはみんな身近に話を聞くからそこからそれぞれの郷土史がありうるのだ。庶民の名前からだけでも相当な歴史を掘り起こせるのだ。それでも名さえ残っていないのが庶民の歴史であるのも事実である。名前もない無縁化した墓や粗末な石くれの墓がそうである。こういうのは何なのか調べようがないのだ。郷土史の範囲は広い、それは一つの家々がそもそも郷土史になっているからである。ただ最近出た「鹿島町史」とか一般的に官制の通史はつまらないのである。その資料からその人なりの人間的に解説する人が必要なのだ。そこで柳田国男とか宮本常一のような人は貴重だったとなる。学問というものではない肌で感じた庶民の生活をわかりやすく語ったものを残したからである。 


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2007年03月21日

郷土史研究の基本(村の新旧を知る)

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郷土史研究の基本(村の新旧を知る)

郷土史研究の基本はその土地の新旧を知ることなのだ。これは意外とわかりにくいのだ。どこが古いのか新しいのか例えば古墳のある場所が古いとみるのが普通であるがその古い場所にも開拓に入植した人々が多いのである。金銅双魚杯が発見された南相馬市の鹿島区の寺内は確かに古い、でもその寺内→小池→じさ原となると小池には入植した人たちが多いのである。実際に私の父は双葉で酒屋に勤めて酒作りをしていた。その仲間が戦後小池に入植したのである。その人と偶然にあって親交を深めた。その上のじさばらになるとここも明治以降入植した人たちの村である。その証拠は何かというと墓の年号をみるとほとんど明治以降でありかなり古い粗末な石くれの墓でも明治以降である。よくみると明治の年号は刻まれていてもまず江戸時代の年号が刻まれているのは極めてまれなのだ。山の奥深くだからそこが古い村だとはほとんどならない、そういう不便なところはあとから入植した人たちが多いのだ。上萱(うえがや)などもあんな孤立した場所だから古いと思うと新しいのである。人間は戦後まもなくでも日本人の生活は農業は基本であり開拓で暮らす人が多かったのである。これは江戸時代からつづいている。隠町という地名が鹿島区で二つある。烏崎と小山田でありこれは隠田のことであり税を逃れるために隠れて作った田のことで地名化したとある。これは江戸時代の地名だから古いのだ。

今回磐城太田から太田川をさかのぼって横手ダムの方に行ったが文久(1864)元治(1865)と刻まれた墓があった。これは幕末であり古い、でも幕末だからすぐに明治になっているのだ。次にさらに奥に入ったところにも粗末な石くれの墓所があったがこれは全部明治時代のものだった。これでわかることは奥に入植した人たちの墓は新しいことがわかるのだ。磐城太田神社は最初に相馬氏が建てた神社だから相当古いことはわかる。でも村の新旧は入り乱れているからわかりにくいのだ。どこでも新旧はわかりやすいようで一番わかりにくいのだ。城のあったところは古いことは間違いないからわかりやすいが他は目安となるものがないからわかりにくいのである。なぜ村の新旧が大事かというと古くから開かれた所は住みやすい適地だった。だから水の便もよく水がきれいでいい米がとれる場所であった。鹿島区の栃窪などがそうである。水に恵まれているから米がうまいのである。一方右田とか原町区の萱浜などは海に近いし八沢浦にしても干拓された場所だから水がよくないから米もいい米はとれない場所である。古くから人が住んだ場所は住みよい場所だったのである。人は初めから住みにくい場所には住まないのだ。阿武隈高原なども昔から住んでいた人は少なくあとから入植した人たちが多いのである。山で暮らすには限られた人しか暮らせない、だから間引きとか子捨てが行われたし私の父のように町に出て丁稚奉公とかさせられた。四国の谷間に子捨という地名が残っていたのには驚いた。姥捨てはまれで間引きとか子捨てが多かったことは確かである。

郷土史の研究というとき何か学問的なこと知らないとできないということではない、郷土史研究は最も身近なものであり基本は家族の歴史だから誰でも関心をもち知るべきものなのだ。自分の家の祖父のことや家の歴史が基本なのである。家というのは少なくても二代はつづいているから百年以上の歴史がある。人間は明らかに歴史的に生きることが人間的なことなのだ。人間は歴史なくして人間たりえない、一代だけを考えて生きていたら人間は存在しえない、人間は長い歴史のなかで意味や価値を帯びてくるのでありそうしないと人間そのものが破壊されてしまう。今だけを生きる人はありえない、なぜなら親がいない人はいないということはすでに歴史を生きているのが人間なのである。最近親戚の人が実の親子なのだが実際は四才までしか一緒にいずあとは別な人生を歩んだ。ところが八五才とかになり誰もめんどうみれないから娘だからめんどうみてくれとなった。金はあったから施設に入れるだけだがそれでも何かとめんどうみなければならずいやになったという、血のつながった親子でも全く一緒に生活をしていない、生活を共にした時間を歴史を共有した時間をもっていないからそうなるのだ。共同の歴史を共有していないからめんどうみる気にもなれないのである。歴史とは長い時間を共有することにはじまっているのだ。民族の歴史となると最低でも千年単位になるからその長さの中で共有した時間が歴史なのである。
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2007年03月24日

縄屋と引き込み線

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縄屋と引き込み線

近くに縄屋という屋号の家がある、いや今やあったとなる。この縄屋と国鉄時代の引き込み線は一体だった。縄を引き込み線で運んだからだ。当時引き込み線は必ず鹿島区のような小さな町にも必ずあったのだ。国鉄時代は駅中心に街は動いていたのだ。江戸時代の街は街道沿いに作られたから駅前から真っ直ぐの通りではない、鹿島区では駅前から真っ直ぐな通りでなくて昔の街道沿いに通りがある。原町区、小高区は駅前から真っ直ぐな通りが長いから駅前を中心にして商店街が作られたことがわかる。これは当時新しい通りだったのである

鉄道はそもそも磐城でも炭田があり石炭を運ぶものとして作られたし北海道でも石炭を運ぶためだった。資源を運ぶためにまず作られたのだ。森林鉄道もだから各地にあり原町森林鉄道もあった。浪江とかにも通じていて木材を運んでいたのだ。木材は国産が主だから大量に運ばれていたのだ。飯館からも葛尾からも運んでいた。それで当時の人はトロッコ列車が通ったのを記憶しているのだ。この森林鉄道を探り歩いてインタ−ネットにのせている人がいたから熱心なマニアがいるのには驚いた。国鉄時代には駅前に国鉄専用の住宅地がありそこに移ってきた人が住んでいたのである。国鉄は国の主要な仕事だったのだ。

自転車は、町の自転車屋が注文すると、部品が鉄道の貨物として送られてきて、それを自転車屋の親父が組み立てて、末端の消費者に販売するのが基本だ。部品代はもちろん自転車の「定価」に比べれば安く、どのぐらいの割合だったかは(昔聞いたときは知っていたが忘れた)多分2〜3割ぐらいか? 町の自転車屋は、小型トラックが普及する以前は、駅の傍にあることが多かった。昭和30年代、40年代の半ば頃。昭和40年頃の自転車は、高かった。大人用が3〜5万ぐらいしただろうか。別に高級品というわけではなくて、鉄製で、(良い製品は亜鉛めっきされたもので、)重たかった。値段の高いものは、ステンレス製品が多くつかわれていた

自転車の今一番軽いのはカ−ボン製である。仙台の自転車屋で25万で買った人がいた。7キロしかないから驚きだ。自転車も鉄道で送られてきたのである。

当社は「縄屋」(なわや)だったんです今ではほとんど見かけなくなりましたが、農家から藁(わら)を購入し、それで縄作っていました。昔は、縄が重要な梱包材料で農業でも藁が大量に出る時代でしたから、各地に「縄屋」さんは存在していました。ところが、昭和30年代半ば頃になりますと、農業の機械化が進み稲刈り後の藁を細かくしてしまい、材料として入手するのが困難になりました。この業種の転換期を迎えていとのでしょう。
http://satte.yc1.co.jp/townpres/fr24/fr24.htm

縄は江戸時代から使われていて荷縄屋と言われと言われていたし「縄屋」という屋号の家も各地にありそれで財を成した人もかなりいた。縄屋九左衛門 縄屋長太夫とかいる。縄は生活に欠かせないものだった。

建設途中の城塞の脇では、鍛冶屋、石屋、縄屋など、それぞれの作業場で道具が作られています。例えば鍛冶屋では、鉄を熱して木を削るためのかんなやなたなどの刃を作る。もちろん木材を固定するために使う釘1本から鉄を打つため、気が遠くなるような作業です。石屋では、切り出してきた石を積み重ねやすいように、1個ずつ四角形に削り、縄屋では麻をよって丈夫な縄を作っています。

http://www.fe-mail.co.jp/travel/globalfemail/60928.cfm

これは外国でも同じだったのだ。外国でも生活自体似たものがかなりあるのだ。「縄屋」という屋号があったとするとそこから引き込み線とか輸送関係やら連結された歴史があったのである。江戸時代の街道沿いの街から鉄道の駅前通りから車時代になり郊外型のス−パ−になった。交通によって商店街が変わってゆくことがこれでわかる。グロ−バルに地方史でも結びつくと興味深いものとなる。一地方だけではないグロ−バルな視点が入ってくるからこれは世界史にも通じるようになる。郷土史は狭い限定されたものとして終わってはいけないということがこれでもわかる。ここにインタ−ネットで歴史を調べる意味があるのだ。

インタ−ネットでは編集することにより活きてくることがかなりある。インタ−ネットは編集して読むものであり断片でも編集すると意味を帯びてくるものなのだ。だから編集能力が必要なのだ。「縄屋」というキ-ワ-ドでこれくらいでてくれば編集できる。ただどこまで引用していいのか著作権の問題が残ることは確かである。郷土史に関しては資料は狭い地域でもいくらでもある。でもそれをいかに読み解くか編集するかが問題なのである。資料がいくらあっても出してもそれを活かすことができないと宝の持ち腐れで終わる。資料は材料なのだがそれを編集して意味あるものにすることで資料は活きてくる。これはそれぞれに興味が違うから創作でもあるのだ。

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2007年04月04日

郷土史研究のテ−マ−姓について

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郷土史研究のテ−マ−姓について

郷土史のテ−マは研究材料は多い。その中でテ−マをしぼると地名とか姓は興味あるし身近だからテ−マになりやすい。日本で地名研究が面白いのは余りにも多様だからである。地名から日本の様々なこと地形やら歴史やらいろいろなことがわかる。だから私が旅して最初に地名に興味をもったことから歴史に興味をもったのである。一つの地名が語ることはかなり大きな意味をもっていることがある。八坂村と生坂村(いくさか)とか坂の多い長野県の山中を自転車で旅して大町に出たがその大町は大田のことだった。大田とは小さな田を集約した大きな田のことで特別な田であり大田植えをする祭りをするから小さく別れた田が多い日本では特別なものだった。山深い坂の多い村ではこうした大田は作りえないが大町に出たときは平野が広がっていたからできたのである。これは旅してみると具体的にわかるのだ。
田はそもそも大きくすることがむずかしかった。田を作ることは大きな土木事業でもあったからだ。だから弥生時代の田が相馬から発見されたが小さな田を碁盤の目のように細分化した田だった。つまり大きな田は特別でありそこから大田という姓も生まれた。

日本の姓の特徴は数が多い、無数と言っていい、一方中国とか韓国とかモンゴルでもそうだろう、非常に姓の数が少ない、そして未だに一族意識が強く一つの姓で結ばれている。金という姓は金一族であり結婚も制限されている。これは日本でも昔は姓が少なかった。源氏とか平家とか大きく二つに分かれたように日本中がどちらかの一族に属するようになっていたからそうなる。日本に姓の種類が膨大なのは日本は地縁、村落共同体を基本にして生活を形成してきたからである。中国の村は日本の村とは相当違ったものである。村で共同作業をしたり村八分にする制裁とかもない、同じ村でも日本のような村ではないのだ。日本は社(やしろ)を中心にして村を作ってきた。この社(やしろ)はその土地の守り神であり一族の姓の守り神、祖先、血縁の神とは違うのである。だからこの土地を基にして村ができてそこを姓にしたのである。日本の姓の八割くらいは必ず土地の地名にゆきつく。つまり村の地名が姓の起こりなのである。だから一族というよりどこどこの村から出たというの日本の姓だったのである。

日本でも姓は一族を作るから山間部とか村では同じ姓の人が多くその人は親戚関係にあり一族なのである。葛尾(かつろう)村では松本姓が三分の一であることは松本一族が移住して作った村だからだ。葛尾という名も長野県に葛尾城がありその辺からもたらされた名前なのか、その土地から独自に生まれたわかけではない、山間部とか村ではそうした同じ姓が多く残る。鹿島区の栃窪でも大谷(おおがい)とかがそうである。それに比べて町になると大きな街になると移住者が多いから姓は混在してわかりにくくなるのだ。明治以降姓をもつことが許されたので余計数が膨大になりわかりにくくなったのだ。相馬では野馬追いに出る先祖の鎧とか旗が残っているのは武家の出だから古いとなる。

南相馬市の鹿島区で一番古いのは鎌倉から南北朝時代にさかのぼる「岩松」の姓なのだ。これは前に伝説として書いた。岩松とその一族が一番古い姓である。具体的な一族として鹿島区の歴史に姓を留めているのは岩松氏だけである。この岩松氏は家臣に裏切られて殺されたのだからその怨念がまだ残っているという歴史の真実があるのだ。つまり逆臣の家来の子孫は姓と共に残っている。一部祟りを恐れ姓を変えたことでも姓が歴史的な問題なのである。岩松氏の四天王と言われた姓が図のように残っている。郡(こおり)は姓を変えたから日里という姓は鹿島区には残っていないのだ。これも余り他から姓が混在しない小さい町だからわかりやすいのである。

沖縄の西表島で島に移住した人のことを言っていた。会津の君島のことをしきり言っていた。会津には君島の姓が多いとか二軒君島という家があるがそれは会津出身だと言っていた。
他に親が原町区出身の人がいたのには驚いた。東京に移り住んで沖縄の石垣島に移った。姓は人が移住するとこうしてとんでもない遠くまで移動するのだ。岩松氏も鎌倉から移住してきたのである。

岩松氏の伝説(南相馬市鹿島区)
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm
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2007年04月06日

相馬市を田の地名から考える

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相馬市を田の地名から考える

岩本由輝氏の分析で宇多川の前に梅川があった。梅川は埋めた川だから梅川となった。川を埋めた田にした所だった。今田、成田、坪田、新田、程田・・・などは中世の田となると古い。ここから新田開発が開始されたとなる。中村市→相馬市の成り立ちは梅川があったところが古く城下町になったところは新しいのだ。田の地名からして田町、大町、新町、曲田・・・・とあるが大町とか新町は大田、新田ともなる。大きな田であり新しい田であり曲田はたいがい正方形の四角の田を作れないから曲がった田になっていた。田は扇田とか三角田とか八角田とか円田とか車田・・・様々な形をしていたのは正方形の長方形の田を作れないからそうなった。相馬市の新旧を考えるとき今ある城のあったところが一番古いのではない、そこは小高の城から中村に城を移した時新しい町ができたのだ。その前はここも田が広がる村だったのである。川沼なども本来は田になるべきところだったのだろう。

ここに城が移されたのは伊達氏の進攻をくい止める防御のためだった。新地は一時伊達氏の領土になっていたのだ。方言でも宮城県の方言が残っているというのもここが伊達と相馬の境界になっていたからだ。今でも新地は宮城県の境だから歴史を引き継いでいる。そしてなぜ新地町なのだろうか?新地宿−黒木宿(相馬市)−鹿島宿−原町宿−高野宿−長塚(新山)宿があった。


(安政の大火以降の浪江宿の東を通り、請戸川の手前で左折して高野(こうや)宿(のちに浪江宿)に入っていた。浪江宿は、以前高野宿と呼ばれていたのが、度重なる大火により寛政10年(1789)に火伏せとして水にちなんだ「浪江宿」と改名した。


江戸だけではない、地方でもどこでも大火があった。木造の家だから火事は延焼しやすいから恐怖だったのだ。火伏祭りは火事をなくすための真剣な祈りであり祭りだったのだ。

江戸時代の宿場町が町(街)の名になるのが多い、新地というとき相馬氏が中村に移って城を作った時、新田を作る開く場所として新地となったのか?相馬氏にとっては新しく開く場所になるから新地となったのか?いづれにしろ新田などに由来していることは確かである。伊達氏からみて新地なのか相馬氏からみて新しい土地だったのかともかく新地はどっちにしろ両方にとって新しい土地、自らの領土とすべき土地だから新地なったのかもしれないのだ。新しい土地だから奪い合いになる場合があるからだ。

最初は中村大膳義房、中村式部直勝、相馬隆粛が城代となっいる。中村とは在地の名を姓としている。古代でも古代の郷名を姓とすると土地の土豪と化する。そして初代の城主は初代相馬大膳亮利胤 であるから中村大膳の系譜にあることがわかる。相馬氏には中村神社と相馬神社があるのは中村神社はもともと中村の社であり相馬氏は相馬一族が移ってきたからその氏神なのである。地名についていろいろ考察してきたけどこれは単なる物好きではない、地名には深い歴史的意味があるから郷土史研究の主要なテ−マとなるのだ。地名から見ると城が作られ昔は田だったところが田町となり大町(太田)だったところが大町となり新町(新田)だったところが新町となる。そこに武家の家や職人の家が立ち並ぶことになった。でも回りは池とか田とか沼に囲まれていたのだ。高池春雨−田中繁林−河沼落雁・・・など北山八景を読んだ漢詩が残されていることでもわかる。すぐ近くが池であり田であり沼の世界だったのだ。一般的に城下町といっても今のような大きな街ではない、すぐ近くが自然に覆われていたのだ。これは江戸すらそうだったのだ。それでも田町だけは最初の城下町が開けたとき繁華な街として人々の目に写ったのだ。

こういう漢詩が残っているのもそのためである。
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曲田について

なぜ耕地整理が必要だったかここに詳しく書いてある。曲田という地名が日本全国いたるところにある理由はこれだったのだ。もともと曲がった田が多かったのである。今のように真っ直ぐな田は少なかった。曲がった田が普通であった。なぜそうなるかというとまっすぐにするにはそれなりの土木事業が必要であり大変な労力がかかったから地形にそって曲がったものとなった。自然は真っ直ぐなものはない曲がっているのだ。真っ直ぐな道路でも都が碁盤の目のように作ったのもまさにこれは文明の力だった。

http://www.pref.akita.jp/fpd/meigi/meigi-01.htm
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2007年04月11日

相馬市の黒木田の地名の謎

相馬市の黒木田の地名の謎

●黒木田遺跡と関係あるのか?

この黒木田からは瓦葺きの寺が建てられたとすると古い場所である。

古墳時代の終わりごろに県内で最初に瓦葺きの寺が建てられた場所と考えられており、寺の中心建物の一つの講堂と考えられる建物が発見されています。

あをによし 奈良の山なる 黒木もち 造れる室は 座せど飽かぬかも

(意味:奈良の山でとれた黒い黐(もち)の木でつくった部屋は、ずっと座っていても飽きないものですよ)


そういう建物に由来するものなのか?とするとかなり由緒ある場所となるがこんなに古いものに由来する地名なのか?地名は実際思った以上に古い場合があることは確かである。でも私はこれには疑問をもっている。

●黒木はモチノキであり黒木が自生していた場では

モチノキ、クロガネモチなどの樹皮から取ったガム状の粘着性物質。5〜6月に樹皮をはぎ、これを秋まで水につけておいて、臼にいれて搗き、それを流水で洗う。これを3〜4回くりかえすとできる。捕鳥、捕虫に用いる。(引用:広辞苑 第五版)

黒木の自生するのは宮城県から山形県辺りまでである。これは南方系の木で沖縄では三味線に使われている。八重山黒木など地名が固有名詞化ししているからその土地独特の黒木があった。これはもともとここに黒木が自生していたのだ。そして黒木から鳥をとるトリモチがとれるから黒木がある所は鳥をとるためにここに住んでいた人が利用していた。トリモチで鳥をとっていたのを実際子供のころいたので思い出した。トリモチは最近まで実際に使われていたのだ。

そして黒木田−黒木−田とつくときは田の前の状態が黒木でありその黒木が切られて開墾されて田にされた所が黒木田なのである。後ろに田がついていれば間違いないのだ。田のつく地名は非常に多い、赤木田、白木田というのもある。

ヒノキをシラキ、ブナをシロキといい、ブナの多い付近を白木峰(しろきみね)と呼んだといいます。(越中の百山)

皮付きのままで使う木材を「黒木」と言い、磨き丸太のように皮をはいで使う木材を「赤木」、製材したものを「白木」と言います


また黒木−赤木−白木というものを関連して考えるとこの意味なのか?

黒木の鳥居どもさすがにかうがうしう(源氏賢木)

黒木がとりもちをとる黒木もちではなく黒木というものを利用した建物のことなのか?そういう建物のあったあとを田にしたから黒木田となったのか?この判断はむずかしいが黒木が自生していてそこを切って開墾したというのが一般的だからそうしたいがでは赤木田とか白木田の意味はどうなるのか?白木がヒノキやブナだったとするとそういう森を開墾して田にしたところが白木田となったのだろうか?

染料辞典によると昔から使われていたらしく、紅花や茜が貴重だったので一般にはウワミズザクラを赤として染めていて、通称「赤木」と言われていたそうです

赤木の解釈にもいろいろある、赤い紅葉の木のあるところ赤木沢となればそんな感じになる。実用的なものとしては染料の木として使われていた桜の木となるのか、柿木田とかもありそこに柿の木がたくさんあってそこを開墾したから柿木田となったのかとはいちがいに言えない、目印として柿の木や柳や松の木があって柿田とか松田とか柳田にもるからだ。地名は古ければ古いほど貴重であり実際に化石のような地名が結構多いのである。建物も何もなくなっても地名だけが歴史の証人のように残る場合が多いのである。

●新地の真弓の地名

昔、この木で弓を作ったので「真弓」に なった。真弓の樹質は硬いが、柔軟性がある。「檀」とも書く。

白檀弓(しらまゆみ) いま春山に 行く雲の 逝きや別れむ 恋しきものを 万葉集

天の原 ふりさけ見れば 白真弓 張りてかけたり 夜道はよけむ

南淵(みなぶち)の 細川山に 立つ壇 弓束(ゆづか)纏(ま)くまで 人に知らえじ


よそに見し真弓の岡も君ませば常(とこ)つ御門と待宿するかも

草壁皇子の死をいたむ舎人(とねり=護衛の下級役人)の歌が収められている


深山辺(みやまべ)や 真弓よりこき 色ぞなき 紅葉は秋の ならひなれども
土御門院(つちみかどいん)


陸奥の 安達太良真弓 弦著けて 引かばか人の 吾を言ひなさむ
陸奥の 安達太良真弓 はじきおきて 反らしめ置なば 弦著かめやも


この歌で注目すべきは鹿、猪に例えている妻問い婚の原初的世界があり狩猟時代の世界があった。真弓という弓がでてくるのは万葉集時代の蝦夷の武器は主に弓でありこれは狩猟のとき使っていたから武器として使いやすいから弓が常にでてくる。弓は日常的に使うものだった。

檀(まゆみ)の樹皮で作られた上質の紙。平安末期には楮(こうぞ)を原料とした陸奥(みちのく)紙が作られ、中世以後も同じ原料で備中の厚手の上質の紙が作られた。江戸末期より縮緬皺がつけられた。用途は、幕末まで宮廷や幕府の御用紙として、今は儀式・包装用に使われる

檀田というのもある。これも檀の木が自生したところを田にしたのだろうか?田になる前にいろいろな木が自生していたし蛭田や蛇田や蟹田は蛭や蛇や蟹がうじゃうじゃいた湿地帯だったのである。そこを田にしたからそういう名がついたのである。いづれにしろ黒木田が何に由来して名づけられたのか?そもそもわからない謎である。地名の詮索は深入りすると迷路に入るのが常である。ただ時代だけでもわかるといいのだがそれもできないのである。田町とか大町とか新田開発したところだし黒木田もそうなのかもしれない、どっちかというと田のつく地名はたいがい新しく開墾して作られた場所であるからその可能性が高いとなる。

●黒木氏の関係なのか

俊宗には義宗と晴親の男子があったが、義宗は斬られ晴親は相馬に逃れた。晴親は相馬氏一族の黒木氏の婿となり黒木を称し、のちに伊達氏に仕えたことが知られている

相馬周辺の宇多郡は、建武2年(1335)後醍醐天皇から白河の結城宗弘に与えられた。宗弘は相馬黒木に本城を構え、宇多郡全域を支配した。この時期に新地城に結城氏の家臣の黒木氏が入ったと思われる。

南朝方の結城氏に対して、隣接する行方郡は北朝方の相馬氏が支配した。南北朝の争いは北朝側の有利に推移したが、結城氏による宇多郡の実質的な支配は15世紀まで続いた。

天文13年(1544)に伊達に天文の乱が起き、相馬顕胤は黒木弾正信房を討ち、城代の黒木清定は丸森城に逃れ、宇多郡は相馬氏の支配下になった。相馬氏はさらに伊達領の伊具郡に侵攻し、伊達氏との争いが激化、伊達勢に備えて新地城を修築し蓑首城と名を改めた。


名 称 : 「福田古舘―黒木舘跡」
  所在地 : 福田字西大窪
 
 
白河の結城宗広の家臣黒木氏一族の築城によるものと伝えられている。築城年代は、建武から興国(1334〜1345)年間とも云われているが定かではない。
 安永8年の御用書上風土記に「諏訪古館、高十六丈五尺、東西五拾六間、南北三拾弐間」と記されている。

 本丸跡とされている所を中心に四囲に段丘があり、西側と東方の水田が一段低く帯状になっていて、常に湿地の状態になっていたので、外濠の可能性がある。
 また、北方に黒木氏の氏神といわれる諏訪神社があり、南西に八幡神社、南東に薬師堂が建っていて、舘との関係があったと伝えられている。


http://www.db.fks.ed.jp/txt/10077.001/html/00005.html

その後中村城は居住者の無かった時代もあり中村氏や黒木氏が居住したこともあり、小高城の相馬氏がここに城代を置いたこともあって変遷を繰り返した。1611

宗弘は相馬黒木に本城を構え、宇多郡全域を支配した。この時期に新地城に結城氏の家臣の黒木氏が入ったと思われる。


結城氏の家臣の黒木氏がとあるのだから明らかに黒木氏なる一族の移動がある。黒木町とあるのは黒木氏が住んだ跡なのか黒木田とは黒木氏と関係あるのか?黒木町とあってもそこは黒木(もち)の繁るマチ−一画ということもある。ただ黒木田と黒木町があることは黒木氏と関係しているのか?黒木という地名が先にあり黒木と名乗る人がでてくる。中村氏や大町氏はそうである。ただ黒木氏という一族が移って館の主となったとすると相馬の黒木はその黒木氏に由来するものなのか?この辺が非常にわかりにくいから詳しい検討が必要である。私はできないので誰か興味をもったらこの謎がとけるかもしれない、なかなか一族名が土地の地名化することはない、相馬一族が移ってきてもそこは中村であり相馬という地名にはならなかった。そしてかえって中村という在地の地名にしているのだ。だから黒木というのももともと黒木があり黒木田となった。偶然の一致として黒木氏が来たのかもしれない、黒木氏と黒木町と黒木田の因果関係が証明できればいいのだがこれもややこしいから困ったとなる。






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2007年04月13日

双葉の新山の富沢酒造店と夜の森の歴史

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双葉の新山の富沢酒造店と夜の森の歴史

●立派な富沢酒造店

富沢酒造店はこれは私の父が丁稚奉公していたときからあった。私の酒店は倒産したが暖簾分けして鹿島区に移りすんだ。そこには銀行もあった。銀行は当時かなりめずらしいもので庶民にはあまり縁のないものだったかもしれない、銀行に金を積むほど金をもっている庶民はなくその日暮らしの貧乏所帯が多かったからだ。だから酒でも一合とかバラ売りで樽から出して売っていて子供のとき買いにいかされたのだ。銀行の前進は「両替屋」「掛屋」「札差」「頼母子」などが江戸時代にあった。金貸し業も古くからあった。明治になって銀行の意味がわからないという問題がでてきた。銀行は資金を集める資本主義には基本的に必要なものだった。武士をやめた人に事業を起こさせるために資金を集めたとか営利的なものではなく援助的なものとしてもはじまった。

富沢という姓は代官だった富沢孫右(左)エ門がをりその系統のもので明治になり酒造りをはじめたのかもしれない。他にも酒造り店があり私の父は浪江の小出谷から丁稚奉公に出てきた。この小出谷は小出屋のことであり出小屋である。遠くに耕作地があり出小屋を作りそこで働いたからである。新潟の小出は大きな市の名になっている。山の暮らしでは暮らしていける人数は限られている。生活は農業が基本だからどうしても耕作地を広げねばならない、それで戦後も開墾が続けられていた。この開墾の歴史は弥生時代から戦後までつづいたから長いのである。太平洋戦争の一因も満州開拓だった。戦後のプラジル移住なども農地を求めての開墾の歴史の継続だったのだ。この新山で一緒に酒造りをした仲間と偶然に鹿島区であった。その人は兵隊から帰り小池の開拓地に入っていたのだ。小池とかじさ原など開拓地だった。夜ノ森も明治以降開拓した人が桜を植えた。鉄道が通ったところが森であり明治以降開墾されたのである。

●富沢酒造店の暖簾(のれん)分けの店

ともかく富沢酒造店は煉瓦の煙突も残り街中の大きな工場で立派なのに驚いた。相当数の人がここで働いていたのだ。そして暖簾分けされて鹿島区に移った私の父のように近くの富沢酒店もそうであった。富沢とは屋号なのである。暖簾分けとは支店だから会社名を名乗ることと同じである。今ではフランチャイズシステムの店である。

○富沢酒店
創業は昭和4年頃。初代が幼少のおり、丁稚奉公していた富沢酒造店(となり町にある酒蔵)から暖簾分けをしていただいて、この地に開業。


酒造店はどこでもそうだが街の中心的存在であり会社でありそこで働いていた人たちが多いのである。富沢酒造店は当時のままそっくり残っている。大きな蔵があり広いしなんといっても煉瓦の煙突が目立つ。これも原町区の無線塔のように町の象徴的なものだった。自分の親の生きた跡をたどるのが郷土史の基本になる。

街中に煉瓦の煙突堂々と酒屋の古し枝垂桜かな

浜街道−新山宿(地図より偲ぶ昔)
http://www.musubu.sblo.jp/article/1330221.html
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●夜の森(余の森)の由来

半谷清寿
まず、父の半谷清寿は安政5年(1858)に相馬藩小高郷大井の郷土の家に生まれ、幕末維新という激動期に育ち、福島の師範学校卒業後、小浜や二本松の小学校で教べんをとるその後、郷里小高に戻り21歳で酒造業を始める。
  明治26年、日本鉄道の磐城線(今の常磐線)の建設が始まると、世情に関心のうすい農民からの土地の買収が次々に行われ、これに義憤を感じた清寿は激しい抗議運動を展開、結果的には新価格での買収交渉が実現したが、反対派の告訴により8ヶ月も監獄生活を送ることになった。

http://www.futaba.ne.jp/~wasse/fumi/sakura004.htm

これと同じことが西部開拓でもあった。鉄道が来た時、鉄道会社に安く土地をかいたたかれるので銃で抵抗した牧場主の物語である。鉄道に関しても同じような歴史が外国でも起こり日本でも起こっていたのだ。

夜の森が余の森であり相馬藩主が余の森だということが名前の起こりである。ここに大きな森があった。その森はまだ開墾されていなったのだ。つまり日本にはこうして開墾されない森がまだ広がっていた。それが明治以降開墾されていった。夜の森(余の森)という地名はその証しである。この辺は相馬藩と磐城平藩との境で特に余の森と主張されたのである。

夜の森は開墾されて満開の桜に代わる街となりけり
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2007年04月16日

岩城(磐城)と相馬の境の地名

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岩城(磐城)と相馬の境の地名

磐城太田とあるのは磐城国になっていた名残りである。太田は太田神社があるごとく相馬氏が最初に移り住んだ所である。岩城氏と相馬氏の境の富岡辺りは空白地帯だった。

江戸時代、楢葉町には有力な藩がなかったので、磐城平藩の支配下に入りました。その後、江戸時代中ごろになると幕府支配となりますが、一部の地域では私領の支配を受けて明治期を迎えます

だからここで領地争いが起きたのである。明治まで夜ノ森は森であり新夜ノ森も富岡にあるので森が広がっていたのだ。まだ広い森が平地にもあった。黒々とした夜の森ようにあったのかもしれない、余の森は相馬藩主が言ったから余の森となり小良ケ浜はオラの浜ということで地元の漁民が言った。おらほうの浜だということで何か地元の人たちの間でも奪い合いがあったのかもしれない、双葉の新山でも新地でも新とつけばやはり新しい山、新しい土地として進出してきた人たちがいた。当時では新しい土地だからそうなるが今になれば新山でも古山になる。新町も古町になってしまう。ここに森が広がっていたということはつまり相馬から岩城平の城下までの道のりを考えるとこの森をぬけると繁華な岩城平藩の城下町に至るのである。鉄道も通っていない当時はこうした森のようなものが境になっていた。

これは外国でも同じだった。原始の森が広がっていたのである。森によって交通も阻まれていた。相馬藩の城と岩城平藩に城下町がありその間は繁華な街はない、農村地帯や森だったのである。この間はかなりの距離だから今の旅とは違って何倍も遠くへ行く感じになったのだ。旅でも昔を想像すると豊かな旅ができるのだ。本当に昔を偲ぶとなると歩く他ない、相馬から平まで歩いてみると実感するものがあるだろう。余りにも早すぎるから旅は消失したのである。昔を偲ぶことは時間が必要なのである。空間を今は世界の果まで瞬時に行くことができる。でも時間の旅、歴史の旅はできないのである。時間をかけないかぎりその場に流れている時間を歴史を知ることができないのだ。だから外国に行くことは簡単なのだが時間がないから印象が薄く歴史を知ることがむずかしいのである。

昔の旅は城下町に出ることが大きな区切りだった。遠くから城が見えたときなんともいえぬ喜びがあった。なぜなら歩いてきたし距離がさらに遠いからそうなるし関所をいくつも越えるから苦労するからそうなる。今は余りにも安易になり旅が喪失したのである。江戸まで往復で二週間以上かかるとするとこの時間の中で体験されるものと数時間で行き来する時間とは余りにも違いすぎるのだ。人間は空間を克服できても時間は克服できない、時間は限られているからそうなる。境というのも電車とか自動車、飛行機の時代は意識できない、ただ国境ではじめて意識するだけなのである。

みちのくの木奴見が浜に一夜寝て明日は拝まむ波立の寺−西行

久之浜は木奴見(きぬみ)の浜だった。きぬみというのが最も古い地名だった。何の意味かわからないが木をあてたのだから木と関係して木の間から見えた海かもしれない、絹見という地名はあるが絹とは関係ないだろう。ともかくここで一夜寝たからこそここが印象に残り歌も残ったのである。



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2007年04月18日

姓から探る郷土史(野馬追いの旗の謎)



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姓から探る郷土史
(野馬追いの旗の謎)


●地名から姓へ

この富岡、木戸城は大膳太夫盛胤が標葉を乗っ取られた時に一度御手にいれ再び岩城の地となったのをこのときまた取り返えされたもので、時の富岡城代は岩城一族の富岡玄蕃であった。

富岡は岩城と相馬の境で争いがあった。富岡は岩城一族の富岡玄番からきている。他に大膳町とあるのは相馬氏系統の大膳が領有していたためなのかこれも姓に由来している。

初代  相馬大膳亮利胤
二代  相馬大膳亮義胤
十二代 相馬大膳大夫充胤


姓に由来しているといってもその姓は土地の地名に由来していることが多い。富沢酒造店の富沢は双葉に地名としてもあった。この地名が先にあり姓となっている。そもそも相馬一族が移動してきても相馬という地名はつかなかった。中村が先にあり中村氏を名乗る人がでてくる。相馬藩内でも熊源兵衛、熊川清衛兵、富沢作衛兵、・・・の熊や熊川は地名を基にしている。もともとあった地元の地名を姓にしている人はそこに住んでいた有力者でそれが姓を名乗り武士となったのかもれない、一方外から来た武士はもともと持っていた姓を名乗る。姓は遠くから移動するのだ。岩松氏は鎌倉から鹿島区に移動して断絶したから残っていないのだ。他に岩城忠衛門とかもいるので岩城氏一族のものも相馬氏の中に入ってきていた。江戸時代でも姓をもっていたのは武士だけであるからその系統はわかりやすいとなる。松本氏となると葛尾に多いからこの系統のものではないかと推測できる。今ではありふれていても江戸時代には松本となのる人は限られているからだ。姓も歴史を探る大きな手がかりになる。江戸時代の武士の姓は由緒あるものだがらそれが継続している家は古い家となり野馬追いに出る家になっている。

会津の歴史関係で面白いサイトを発見した「桜狩り」のペ−ジである。

昔いつの頃にか、この地にさすらって来て、都に帰る事がなかった石川浄足という公卿がいた。子沢山で、その末は三家に別れ、一人は石堂を名乗りこの滝沢に住み(滝沢村の旧名が堂家村だった事の由来でもある)、一人は石塚と名乗って石塚観音のあたりに住み、一人は石部と名乗って石部桜のあたりに住んだとの事である。

会津の殿の桜狩り

石川が三つの姓になった。地元の地名を姓にしたとき地元に土着した一族があったのである。

● 野馬追いの旗の謎

双葉から岩城までは相馬と岩城の境界でありそこが夜ノ森(余の森)であれば森が大野や広野は大きな広い野、原野が広がっていた。ここはまだ開墾されていない土地だったのだ。今からみると鉄道の通る場所が未開の開墾されていない土地があったことは意外なのである。明治から戦後も開墾は延々と続いていたのである。だから栃窪の上萱(うえがや)とかにも開墾に入った。ここは孤立した山の上の相当不便な場所なのだ。それでも耕す土地を求めて人が住みついたのである。野馬追いの旗に鎌の旗があるがまさにあれは武士でももともと農民であり開墾する耕す農民の旗だったのである。野馬追いの旗にもいろいろ意味がある。なかなかあれを解読した本もでていないからわかりにくい、五輪塔の旗があれば先祖を同じくする一族一門の連帯を強調したのかもしれない、昔は一族意識が強かったからだ。六文銭の旗だと真田家であり武田系統から移動してきた武士の一門となる。竹に雀は伊達家だから伊達家から相馬氏に移り仕えた武士である。

不思議なのは冠木という漢字二字の旗があったことである。これは喜多方で冠木(蕪木)(かぶき−かぶらぎ)という姓の人にあって話しを聞いたからなぜここにこの漢字二字の旗があるのか謎である。姓を旗にしたのはないし冠木という姓の人も相馬氏の武家にいるのか?美濃に蕪木城があるから移動してきたのか。二本松と岩沼に冠木という地名がある。地名から由来して姓になったのか謎である。野馬追いは旗祭りというようにいろいろな謂われが旗にあるがこれを詳しく研究した人がいないのはどういうことなのか?めんどうということもあるが旗祭りだったら旗を研究する人がいてもいいが見つかっていないのも変なのだ。

参考

喜多方は新しい街だった(蕪木の姓の家)
http://www.musubu.jp/jijimondai18.htm#kitakata

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2007年05月01日

福島県の前は二本松県だった(絶頂の城頼もしき(蕪村)の意味するもの

福島県の前は二本松県だった
(絶頂の城頼もしき(蕪村)の意味するもの



絶頂の城たのもしき若葉かな 蕪村

二本松の城の本丸に登るとこれが実感される。当時いかに城が頼もしいものとして武士と一体化していた。二本松は一時は会津藩に入り一時は伊達藩に入っていた。ここは中通りの中枢としての位置にあったのだ。

若松・二本松・平県に統合された。その直後、二本松県は福島県に、平県は磐前県に改称された。9年(1876)8月21日

二本松県が独自のものとしてありそのあとに二本松県が福島県になたのであり先に福島県はなかったのだ。福島県のなかで相馬藩は磐前県に入っていた。二本松藩が少年隊などで薩長軍に抵抗したのは地理的なものともう一つは二本松城に頼むものがあった。この城は本丸に登るとわかるが凄く高い、絶頂の城なのである。だからこの城に頼むこともわかる。当時の城の意識は今の観光とは違う、その生活と一体化していたからこそ頼むものがあった。ここからは本当に見晴らしがいい、三春−相馬の方も一望できるのだ。江戸時代までは要所だったのだ。

二本松は相馬からの塩の道として通じていて塩が運ばれていたから相馬藩とのつながりがった。二本松は福島県では要所の場所でありそれが福島市に移った。その理由として平地が少ないこともあったかもしれない、福島市は平地が広がっていた。郡山市も平地が広がっている。二本松は山の地形である。ただその山なるがゆえに絶頂の城が頼もしという戦国時代−江戸時代では要所として守る城として存在感があったのだ。一般的に平和になれば山城から平城に移るのが普通である。会津は平城であり二本松城は山城として残った。仙台の伊達の青葉城も山城として残った。盛岡城は平城である。青葉城は広瀬川をめぐらして攻めにくいように配慮して作られた。長町から仙台に入るとき必ず広瀬川を渡らねばならないからだ。ともかく二本松城はいつきても見晴らしがいいから気持ちいいのである。

二本松城の跡かや蕎麦の花 子規

明治にこんな句を残しているのはなぜか?城も荒廃して蕎麦の畑になってしまったのか?明治のとき一時期城はかなり荒廃した。その後再建された城は立派だが本当はこのように信じられないほど寂れて荒廃していたのかもしれない、

春高楼(こうろう)の花の宴(えん) 巡(めぐ)る盃(さかずき)かげさして千代(ちよ)の松が枝(え)わけ出(い)でし昔の光いまいずこ

こういう歌もできたのもそのためである。今は再建された城が多いから一時期の荒廃した城の姿が見えないのである。江戸時代から明治への移行は想像を絶する変化だった。その最大の変化は頼もしいシンボルだった城が喪失したことだったのだ。建築は常に人心の拠り所となる。江戸時代は城は地方のシンボルであり現代の地方のシンボルは喪失してしまった。何か頼もしいというものがないのだ。鉄道が普及して駅がシンボルとなり今は車の発達で道の駅がシンボルとなるくらいである。


春二本松へ(塩の道)
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2007年05月11日

企業イメ−ジで(ひばり野市がいい)市町村が決められるのか? (市町村合併後の再考)

企業イメ−ジで(ひばり野市がいい)市町村名が決められるのか?
(市町村合併後の再考)


市町村合併−名前の問題
http://musubu.jp/somagappeijiji.htm#com

市町村合併の名前の問題一つにしてもグロ−バル化が関係していた。グロ−バル化とは企業社会化することであり世界も国家意識より企業社会としてグロ−バル化している。企業の利益は国花よりも優先される。だから当然企業社会、会社人間になっているのだから名前も企業イメ−ジにいいものがいいとなる人がでてくるのも当然だったのか?

それはまた文化の破壊、歴史の破壊に通じていたのだ。ともかく現代の問題はグロ−バル化というものが世界の隅々まで影響してそれからまねがれない時代だったのである。グロ−バル化は環境の破壊が急速に行われる。これに反して江戸時代は資源が制約されているから資源を無駄にしない制約社会だった。それは自由の制約にも通じて負の部分もあったが資源のリサイクルが徹底していたから環境は破壊されなかったのである。
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2007年05月19日

飯館の飯樋の店屋(塩の道の陣屋があった)

飯館の飯樋の店屋(塩の道の陣屋があった)

老鶯や村に残れる店一軒

飯樋(いいとい)に残れる店の一軒や近くの木陰に休み食しぬ


飯館の中心部にはス−パ−などはある、医者はない、一万の町で5軒の歯医者があるのに一軒もない、人口は8000だから医者があってもいいはずである。パチンコ屋もないのはいいにしてもやはりこれだけ何もないとなると不便になる。もちろん車なしでは買い物もできない、昔は万屋(よろずや)などがあった。昔のス−パ−だった。その万屋でご飯と味噌汁をごちそうになったことがあった。あんなことは今の村だってないだろう。よそ者を警戒している村もあるからだ。沖縄の島がそうだった。それでも村で暮らす人は今より多かった。いつの世の中でも不便な所で暮らす人はいた。一方でその村から離れられずあきらめて暮らす他ないという面もあった。目の病気になり目を直すために関所を越える書状が残っていた。目を直すために村から遠く行かねばならないのは今も同じである。ここに相馬藩の陣屋があった。山中郷として加えられ役所が置かれた。60人も働いていたというからやはり塩の通過点として重要な地点としてあった。ではその60人がどんな仕事をしていたのかわかりにくいがにぎわっていたことは確かである。

昔は人は自ずと人間的になった。ス−パ−ではないが貧弱な店で物を買ったらそれを食べるのに近くに一本の木がありその木陰で食べた。飯館の中心部よりさらに飯樋は不便な村なのである。飯館自体が相当広いから飯館の街になっている所まで来るのは大変なのである。ともかく相馬から飯館−飯樋−川俣−二本松・・・昔の塩の道を魅力がある。心なごむ道なのである。この道はなぜ魅力があるのか忘れられた道だからだ。本道からそれてしまった道になってしまったからだ。木陰にクザキイチゲが咲いていたがそこで休んでいたら車もめったに来なかった。車がひっきりなしに来ていたらこの道は魅力がなくなる。いづれにしろ相馬から二本松への塩の道は何度きても魅力を感じる。これを絵巻物のようにすれば観光ル−トになる。ただこれも歩くのは無理にしても自転車などで行けないかぎり魅力はわからないのである。

人間は塩がなければ生きていけない、それでも飯館には最も古い縄文時代の遺跡があるというのは山の幸が豊富だったためだろう。木の実などが豊富だったためだろう。それでも塩をどこから手に入れたのか疑問である。相馬の海までやってきたのか、その頃から人は歩いて飯館から相馬にやってきたのか?その頃から獣道のような道がありそれをたどってやってきたのかもしれない、飯館にはかなり深刻な飢饉があった。その供養の石碑がある。そちこちにそうした飢饉の記念碑の石碑がある。飯樋にも飢饉はあった。飯館は米作りしても高地で寒いから冷害があり深刻なことになった。作見の井戸などがあるのも当時の人は神妙にその年の作を見て祈ったのである。最近でも冷害になった。米作りには適していない高地なのである。

飢饉のときも塩はかかせなかった。木の葉や茎のあく抜きに塩が必要だった。塩は山の村では命綱だったのである。交通不便な時代は飢饉の被害は大きくなる。遠くから援助できないからである。今の時代飢饉というのは戦争と同じでなかなか想像しにくい、食料はありあまって外国からありとあらゆるものが入ってくるしみんな食いすぎて肥満になっている。飢饉の時代を実感できないのだ。貧乏すらわからない、ただ塩というのあるところでは外国では黄金より価値があったし今の感覚では推量できない価値があったのだ。砂漠で水一杯の価値は計れないように塩は貴重でありそれを運ぶ人は不可欠であり重大な任務を負っていたとなる。そこに塩の道の意義があったのである。
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2007年06月07日

会津の方角の不明(広い地域では方角地名が大事だった)

 
会津の方角の不明(広い地域では方角地名が大事だった
 
市町村合併で変わる名前の問題
http://musubu.jp/somagappeijiji.htm#aizuhokaku
 
方角が大事になるのは大陸のような広い所である。だから砂漠とか草原地帯とか遊牧民が生活している国は月と星が旗印となっている。会津のような山国でも皆目方向がわからなくなる。だから方角地名が大事になる。喜多方は北方でありこの意味も大事だったのだ。特に西会津となると何か会津のさらに辺鄙な地域をイメ−ジするから方角地名は大事だった。南相馬も方角地名にしたのだが相馬は会津のように広くなく必ずしも方角地名がいいとはならない、会津や国全体となると方角はかなり大きな意味をもっている。東京は東の京であり南京とか北京と同じように東が中心となった国の中心ということで意味があった。広くなると方角のもつ意味は大きくなっていたのだ。
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郷土史研究で誰でもできること(家系の調査)


郷土史研究で誰でもできること(家系の調査)

 

┌長女(病死)
├次女(餓死)
├長男(徴兵→消息不明)
├三女(病死)
├次男(結核)
├四女(病死)
├五女(行方知れず)
└六女(母の母の母→母の母→母→俺)

 
郷土史研究で一番入りやすいのが自分の家の歴史である。これはある東北人の家系のことである。餓死した人までいたことは驚きである。徴兵があり病死がありその中に必ず結核で死んでいる人がいるのが普通だし若くして死んでいる人が多い。それから子供のうちに幼くして死んでいる人も多い。それで大正生まれの女性はその子供を今も思い出し涙流して偲んだりしている。母の思いはそれだけ強いのである。昔は自然の法則に従い子だくさんだから半分くらい子供は幼くして死んだり若くして病死している。墓碑をみると一才くらいで死んだ子供の名が記されているからわかるのだ。豊かな現代からする信じられない悲惨な歴史が普通だったのである。

間引きは裕福な農民の方が事例が多く見られる
これは、多産になりすぎて土地相続が細分化されすぎるのを防ぐのが主目的

 
間引きというと貧乏でやむをえないというのが常識だが土地相続と関係していたというのは知らなかった。でもこれは現代でも兄弟で均等で土地まで分けると農業を継ぐこともできなくなる。土地が売られたら細分化されたら農業ができないからだ。これでもわかるように今問題になっていることは必ず過去にもあった。多産が原因だったことは察しがつく。だから兄弟は平等の権利があるという一見新しい思想も実はかえって不平等になってもいるのだ。権利がどこにあるかは歴史的なもので判断されることが大きな意味をもっていることがある。理由はなかなかわからないにしても長子権は世界中であり長子は特別なものとして優遇されたのは世界の歴史であり慣習である。民主主義という新しい思想が入ってもそれを理解することは血肉とすることは簡単にできないのである。
 

我が家は四男六女の十人兄弟姉妹。 母はいつもこぼしていた。 「あと二人産めば 『軍国の母』と呼ばれ、 国から奨励されたものを」 と。 男兄弟は全員亡くなり、 義姉が死んだことで我が家の家系は私ひとりとなった。 私が死ねば、 我が家は滅亡することになる。
http://www.tamagawa-np.co.jp/machinohi/01.html


これでわかることは子供たくさん生むことが奨励されたのは−『軍国の母』と呼ばれことだった。それが誇りとされたのだ。子供は兵隊として国に捧げることが良しとされた風潮である。まさにスパルタ国家と同じかもしれない、スパルタは弱者は切り捨てられ戦う兵士として国家で育てたからである。
 
我が家の祖先は郷原鉄介氏の祖先の三男にして、郷之原下部落の西に分家され、代々只一子ありて此を継続して来れり。一代目納右ヱ門は六、七人の子ありしも一番末子生ありたるのみで他は全部死去されしと。されど末子金之助も病體にして27歳の時、わずか2歳の子(南太郎)を見捨てながらついにこの世を去られしと傅え聞く。
http://www.geocities.jp/gcdxn039/simei.html
 
このうよに非常に幼くして死ぬもの若くして死ぬものが多いのである。人は生きたくても生きられず死ぬ人が多かった。出産も安全であり飢えがなく病気も治療ができこれだけ長生きできる時代はなかったのである。コケシは子消し(間引き)だとするとコケシには子を思う母の切ない思いがあったとなるとそこに深い悲劇性がこめられていることになる。介護でも実際は貧乏なので家族で放置して死んでいったらしい。今のような至れり尽くせりの介護などはなかったし病院で植物人間までして生かしていることは考えられない世界だったのだ。トイレに自力で行けないとか食事ができないという時点で放置され死んでいったのである。だから介護問題はなかったのである。姥捨山に捨てるまでもなく家のなかでそういう状態だったのである。
 
ともかく各自家系を調べればそれが歴史であり一番身近に感じられるから郷土史研究にはいいテ−マなのである。特に古い家系の人はより歴史に興味をもつことになるからいいのである。

 
生きんとして生きられざるものその霊の靄のかかりて墓所に漂う
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2007年06月26日

錯覚しやすい陸奥の真野の草原→真野の萱原


錯覚しやすい真野の草原→真野の萱原

原文]陸奥之 真野乃草原 雖遠 面影為而 所見云物乎
[訓読]陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを

まだみねば面影もなしなにしかも真野の萱原つゆみだるらん
-藤原顕朝[続古今])

   吾が勢子は 借廬作らす 草(かや)無くは 小松が下の 草を苅らさね (1/11,間人皇后)


   み吉野の 蜻(あきづ)の小野に 苅る草(かや)の念(おもひ)乱れて 宿(ぬ)る夜しそ多き

(12/3065,読人知らず)

   紅の 浅葉の野良に 苅る草の 束の間も 吾を忘らすな (11/2763,読人知らず)


インタ−ネットで検索すると原文は草原だったのに萱原と出てくるのが多い。草(かや)と言っていたから草原も萱原をイメ−ジするのはわかる。万葉の時代は草(かや)であったがのちに草(かや)は萱になった。かやは萱であり萱は萱場とか屋根をふく萱である。萱はどこにでも繁っているし萱とつく地名が多い。万葉集以後はかやを草ではなく萱として表現している。
 

天にあるやささらの小野に茅草刈り草刈りばかに鶉を立つも 3887

茅草という表現もある。日本語にはクサとカヤを区別していたが漢字が入ってきたときクサとカヤを草にあてたのである。後に草→くさ、萱→かやになったのである。萱は確実に今知っている萱である。万葉以後はだから萱を草と表現していない、古今集でも萱原だし奥の細道でも真野の萱原になっている。
 

真野の萱原(かやはら) 現在の石巻市真野字萱原付近。長谷寺があり、そこに「真野萱原伝説地」の標柱がある
 

ようよう貧しい小家で一夜を明かして、明ければまた知らぬ道を迷い行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などをよそ目に見て

陸奥真野萱原尾花」は「天明七丁巳十一月七日白非英二生ョリ送来ル」とあるという。菅江真澄は天明六年1786)九月十西日に真野宣原を訪ねているので、この時採取したものと推定できる
 


石巻市真野字萱原の地名がいつの時代のものなのか?万葉の時代にさかのぼる地名なら真野の草原に該当するのか?石巻に古代の真野郷は存在していない、古代に存在する萱原なら草原になっているのだ。萱という漢字は万葉以後のものだからである。ただ江戸時代では石巻が真野の草(萱)原となっていたのである。おそらく地名の影響が大きかったのかもしれない、地名的にはぴったりだからである。でも地名にはもともと根拠もないのに地名から勝手に解釈して伝説まで作っていることがあるから要注意である。管江真澄は実際に萱−尾花まで採集して送っている。これは石巻の萱である。これほどまでに真野の萱原は萱として一般化されていた故にその萱まで土産にしようとしたのである。


前にも書いたけれども草(かや)は一字で用いられ一般的には材料として使うカヤなのである。草原(かやはら)と用いられたのは万葉集にはないし萱が一面になびいているという景色を歌にすることはなかった。その後も萱は屋根をふくとか材料としてみていたのであり萱が一面になびいて美しいとか見ていないのだ。茅葺きの屋根を作るのには膨大な萱が必要なのである。実際の生活に欠かせないものとして萱があったのであり美的に鑑賞して美しいとかにはならなかったのだ。ところが人間は過去になると必ず間違った解釈が入ってくる。勝手に想像することができるからみんな詩人になってしまう。地名は実用的なものとしてつけられたのが多いし詩人がつけたのではない、生活者が必要から作り伝えてきたものである。それ故地名には無味乾燥なのが多いのだ。そこに錯覚が生じるのが歴史である。

確かに草原(かやはら)は以前として大きな謎である。真野の草原→真野の萱原としてイメ−ジ化された。これは漢字の作用が大きく働いたのだ。それで今回南相馬市の鹿島区に鹿島町の職員が退職記念に建立した源実朝の歌もやはり草原は萱原になっている。
 

みちのくの真野の萱原かりにだに来ぬ人をのみ待つが苦しさ 源実朝
 

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

これもまず草原を萱原としてイメ−ジされそのイメ−ジに基づいて実朝の歌も作られているのである。一面に萱原なびく辺境の淋しい陸奥の真野に想う人、恋しい人はかりにだも面影にも現れないという地元からの発想をしているのだ。笠女郎は奈良というと遠い世界から真野の草原を面影に見たのだが実朝は逆にみちのく真野に自分が在住するようなものとして歌っている。鎌倉だからその頃みちのくは古代より近い存在にもなっていたともいえる。鎌倉から来た岩松氏は鹿島区では一番古い姓でありその臣下の四天王といわれた人の姓が今日にもつづいている。船で来たことは確かでも鎌倉ではなく陸路を阻まれたため磐城辺りから船で上陸したらしい。これは岩松氏一族の歴史をたどるホ−ムペ−ジに詳しい。

ともかくこの歌も草原が萱原としてイメ−ジされるものとして定着していたからできた歌なのである。でも本当に草原→萱原なのか?これは大きな疑問であることはこれまで考察した通りである。

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2007年07月13日

子爵として東京に残った相馬藩主

子爵として東京に残った相馬藩主

1884年(明治17年)の華族令で法的身分に定められた。内容は新・旧華族に対し、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五等爵が与えられます


では明治維新で身分制がなくなったかというと身分制が残ったのである。軍隊手帳には平民と記されていたり貴族院などあり特権が残った。相馬藩の殿様は子爵として残っていたことをインタ−ネットで発見した。

一九八二年に創樹社からでた武田助雄の『御禁止山・私の落合町山川記』という本を読んで、はじめて私はその由来を知ることができた。本来、ここは徳川将軍家専用の狩猟地で、そのため「御禁止山」と呼ばれていた。それがのちに旗本酒井家の下屋敷となり、明治にはいって相馬子爵家のものになった。それゆえ「相馬さん」だったのだ


わたしの落合町誌


旧・相馬邸(現・おとめ山公園とその周辺)の「黒門」の写真を、もうずいぶん以前から探しつづけているのだが、「黒門」の精密で見事なイラストを、ついに手に入れることができた


http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-06-06-2

その後も相馬藩主の存在感は東京にあった。相馬事件というのもありこれは明治維新で武士が不満をもったための財産争いに起因していたらしい。西郷隆盛も士族を残そうとしたのもやはり旧弊な士族はかつての身分制や特権にこだわっていたのである。相馬焼も藩の特権として特許を許さなかったが藩の専売から民衆の大堀焼きとして認められたのである。明治維新は庶民の経済活動にとってはいいものだったのである。

戦後身分制はなくなったが相馬野馬追いは祭りとして残り以前として相馬の殿様が主役となっているのは他ではない、相馬藩主の直系の若者が殿様として出陣する。そして相馬野馬追いの行列のときはかつての身分制としての士族が復活しているのだ。相馬野馬追いは民衆の祭りではない、民衆の祭りは平民が町人が民衆が主体である。東北の祭りでもほとんどそうである。相馬野馬追いは武士の出しか参加できない、武士の復活の祭りなのである。この辺が外からみている人にはわかっていないのである。だから二階から行列を見ると怒鳴られたりした無礼だとなるからだ。かつて大名行列の再現が野馬追いの行列なのである。ここではまだ武士が活きていることになる。相馬藩が小藩でも伊達氏とかと対抗できたのは野馬追いの軍事訓練で強かったからだと言われる。武田の騎馬軍団のように野馬追いで鍛えたからだと言われる。


ここの落合町誌は詳しい、インタ−ネットではある土地のことを根ほり葉ほり詳しく書いている人がいる。その土地に長年住みついているから当然その土地に愛着が出てきてそうなる。東京の歴史は込み入っていてわかりにくい、歴史はビルの谷間と車の騒音に埋もれてしまっているからだ。インタ−ネットでは郷土史はかなり参考になる。そもそも郷土史は狭い限られたものであり読まれるのもそうである。しかしインタ−ネットに出すと全国で参照される。一郷土史でも今回のように相馬藩のことでも全国に及んで調べる必要がでてくる。それでインタ−ネットは郷土史の研究に向いていたのだ。一ペ−ジでも資料をおけば誰かが参考にするからだ。図書館は調べにくい、時間がないといちいち本をとりだしてはコピ−したりとめんどうなのである。インタ−ネット内で調べられるとこれは図書館が家にあるようなものになるから便利なのだ。

さらに詳しくはこちらへ

明治維新は何であったのか?(相馬藩のその後)(時事問題36)へ
http://musubu.jp/jijimondai36.html#soma

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2007年07月19日

伊達に抗して荒ぶる馬(相馬野馬追い迫る)

nagareougi1.jpg 


伊達に抗して荒ぶる馬


 

黄金の扇のそろい日に映え眩しも
竹に雀は仙台様の御紋、相馬六万石、九曜星


粛々と相馬流れ山の軍歌ひびけり

いななきて荒ぶる馬は伊達に抗す

相馬の武士(もののふ)の心意気

武田流法螺貝鳴りて先陣を切るは

誰が家の旗印、馬も勇み馳せるも

御使い番−若者一の旗走りゆく

中ノ郷、小高郷、標葉郷、北郷、宇多郷

雲雀が原に総結集して旗の列

かつては山中郷も一枚加わりしも

ここに鍛えて伊達を退ける昔の武勇

いななきて荒ぶる馬は伊達に抗す

緋の母衣大将の威風堂々と従者

先頭に藩主の旗、最後尾に藩公奥方旗

相馬藩主の若殿を守り列なす絵巻かな

本陣に勲し駆け上る旗印は誰が家そ 

雲雀が原に今し夏の雲湧きにけるかも
 

今や城より出て主君から厳しき命下る


馬上一せいに勇ましき法螺貝鳴りわたり

相馬の山々、大地、海にも木霊して

藩主の下に 集結して打ち揃う相馬の武士(もののふ)

先祖代々の旗印はなびきて華麗に練り歩く

相馬流山の軍歌の雄々しくひびき

藩内の社もここに総結集して雲雀が原へ

武田菱の旗の護衛に北郷の大将の紫の母衣鮮やかに

先導す一の旗の伝令の若者は駆けめぐる

雲雀が原に千の旗ゆれ御神旗を馬せりあいて奪い合う

主君の誉れを得むと馳せ上る若武者の馬よ

この時老将も勇みかつての武勲の蘇る

人馬一体、荒ぶる馬の鼻息荒しも

山中郷、中ノ郷、小高郷、標葉郷、北郷、宇多郷

代々の郷士、大地を耕し郷土を守る者たち

今雲雀が原に相馬藩の力は結集せり

夏の大空に法螺貝はひびきわたり

村々に土着して、代々の旗は眩しい光のなかにはためけり

相馬藩の隅々の力のここに総決起して伊達に立ち向かう

三百年つづきて変わらず君主をいただき

相馬の武士の誇らかに年に一度の祭りかな</span></span>

 
 

旗の役割
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/souma2.htm


 


相馬野馬追いの歴史的意義は何であったのか?祭りでも何でもそうだがちょっとしたことでも歴史がわからないとその意味もわからないのだ。相馬藩は会津をふくむ福島県の全領域が伊達藩になっていた。今でも福島県内に伊達郡があるのはそのためである。この広大な領域を治めた伊達政宗から始まる伊達藩に抗することに相馬藩は独立を保った。だから小藩ながら代々相馬藩が永続してつづいたのである。それが他から見るとわかりにくいのだ。スイスが小国でありながら独立国として維持されたことにも歴史的背景があり意義があった。韓国も中国が隣にありながら独立国として維持した歴史的背景がある。隋が迫った時も死守してそこが国境線となった。ベトナムも中国に何度も攻められたが独立国として維持された。
 
相馬にも伊達の国境に土手も作られていた。相馬野馬追いの行列では確かに当時の歴史が再現される。戦いのために神社も総結集して勝利を祈る。地蔵まで勝利を祈るから将軍地蔵の旗がある。相馬流山は民謡だがこれが軍歌ということも外からはわかりにくい、民謡は民衆のものだと思っているからだ。本来は平和のためにあるのだが戦争となると日本が太平洋戦争の時と同じようにあらゆるものが総動員されるのである。当時の戦争と今の戦争を比べることはできない、全然意味が違ったものであり今の時代の平和を唱えても意味がない、前にも書いたけど昔の戦いは人間的であったことなのだ。一つの絵巻物であり詩になっている。平家と源氏の戦いも那須与一とかが一時戦争を中止して殺し合いの戦争の中でも優雅にふるまう、人間的なのである。
 
戦争が人間的でありえたのは日露戦争までである。その後は余りにも凄惨な地獄絵図となってしまった。その最悪の象徴が原子爆弾だったのである。そして自爆テロなども全くそこには野蛮なものしか感じられない、人間的なものがない、戦争は人間にとって否定されるべきものにしても戦争はそれなりの一つの人間的ドラマであり祭りでもあった。だから昔の戦争は叙事詩として語られる詩となって残ったのである。
 
そちこちに出陣迫るほととぎす

帰り馬草深き道藪萱草
 
出陣が迫りそちこちで法螺貝が鳴りひびく、そして帰り馬とはこれは野馬追い独特のものである。雲雀が原の神旗争奪戦で旗をとって御札やご褒美をもらったものが帰る馬である。野馬追いで相馬藩の歴史は凝集されるからわかりやすいともなる。


花は相馬に実は伊達に
 
この意味は何なのか?実質的広大な支配権を得たのは伊達であった。相馬に花をという時、戦いで相馬は実質的に領土も拡大されないし何も得ていないが小藩としての独立の気風を残したということなのか?これは相馬藩と伊達藩が争いのあとに平和裡に和解して国造りをしたことを例えている。

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野馬追いの詩(雨天野馬追い行列)
http://musubu2.sblo.jp/article/30794378.html

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2007年08月04日

近くの箪笥職人の話


近くの箪笥職人の話

 
●職人は技を盗むため遍歴
 

近くに箪笥職人が住んでいた。川のベンチで休んでいて団子食えなどと呼ぶから行ってみたら俺は箪笥職人だったという話になった。80才の小柄な人だった。私の家の近くに住んでいたのだが私の家のことはわからなかった。その語ることがちょっと変わっていた。
「オレは東京辺りに行って技を盗むのに眼つきがおかしくなったんだよ
職人は技を盗むんだ、絶対に技を教えないから盗むんだよ・・・」
ええ、技を盗むことは聞いていたがそんなにしてまで盗むから目つきまでおかしくなる・・・泥棒のような目つきになってしまうのか?職人というと日本でも遍歴して技を磨くことはあった。同じものを作るのでも作り方が違うらしい。いろいろなやり方があると言っていた。建具屋とか職人は現代の大量規格生産で消えていった。箪笥というと仙台箪笥が有名で何でもその人は腕がいいのか特別呼ばれたとか言っていた。

 

ボクの義父はもう亡くなったけれど、いろいろ遍歴した後、晩年は本州の西端の辺鄙な村で椅子直しの職人をしていた。ボクが会ったときは、病気で、仕事もしていなかったけれど、いかにも職人的な、小柄だけれど頑固に自分を通すというタイプの人間だった
 

彼はドイツの大工さんで遍歴職人とかジャーニーマンとかいわれている職人さんで当時、マイスターの資格を取るため3年間、旅をしながら仕事をする修行を行っていた。 はるばるシベリア鉄道に乗って仕事をしながら、小樽まで野宿やヒッチハイクを繰り返しやってきたのだ。

ドイツの古い中世の市の中に靴職人の家があった。その家の屋根は低いから背が今よりはかなり低い人たちだったという、外人というと背が高いが昔は背が低かった。80才となるとやはり背が低い人が多い、職人は小柄な人が多かったのか、一般的に背が低いからそうともいえないだろう。職人は一般に頑固で気分しだいで作るときも作らないときもあったとその人もいう。近くには漆屋もいて日がな漆を塗っていたのを覚えている。漆塗りも箪笥とか昔の食器には不可欠だったからセットととして物作りに必要であり軒を並べていた。家具屋でも注文で作ることがあった。私の机はそうだった。家具屋は作られたものを売るのではなく自ら作って売っていたのだ。生産する場所でもあったのだ。商店街もいろいろな店屋が魚屋、豆腐屋、籠屋、下駄屋、炭屋・・・とかが軒を並べそこでは実際に竹で籠も作っていたのだ。
 
今はたいがい作られたものを売るの商売である。九州とか遠くから外国からも作られたものを食料品でも売るのが店屋だが作ることと売ることが一体になっていたのが昔は多かった。そのことは直接生産者と結びついていたのである。今はインタ−ネットで野菜と米を直接売るのとにている。生産者と直接結びつくから安心だという。中国産の食料でも日本産でもあまりにも遠くから運ばれ売られるものは安全が保証できなくなる。昔は職住一体であった。その住む場所が生産の場所であり仕事場でありまた使用される、消費される場所だった。今の消費されるというより使用される、使用価値としての経済だったのである。消費というと無駄なことが多い現代の感覚であり実際無駄が多いのである。
 
●会津との人的交流木挽き(こびき)渡世)


その人は桐を使用するために会津の方まで仕入れに行ったという。会津というと江戸時代にも出入りがあった。桐箪笥となると最高級品だった。
 

高平村今野喜右衛門方へ、会津領藤室村徳蔵と申すもの、木挽き(こびき)渡世にて二カ年以前より参り居り候ものに御座候処、兼ねて心実ものに候間、近々御当領の御百姓に相成り度(たき)心願の由、此度当分家抱えに仕り度段願申し上げ候
(相馬藩政史)

 
木挽きというと職人なのか?江戸時代は職人の遍歴は渡世と言っていた。これはヤクザの渡世と同じである。ある村の記録に
 
日雇い25戸、大工20戸、木挽渡世14戸、漁師10戸・・・・

同「村方明細帳」からは酒・しよう油・穀物類・質物・古着・履物などを扱う商人、大工・家作職・木挽・髪結などの職人(主に農間渡世)が60人以上もいたことがわかる
 
商売のはじまりは米経済から貨幣経済となり農間渡世からはじまった。
 

・村内需要:村内分業としての農間渡世が存在する
・村外需要:宿場や往還筋等の地域的特色により村外の人々の需要に対応る

http://www.fcronos.gsec.keio.ac.jp/wp2004/wp04-002.pdf(農間渡世)
 
江戸時代でも他国からの人の出入りがかなりふえてきたのだ。木挽きも一つの職人としての技が必要だったのか会津では木材の産地だから木挽きが多かったことは確かである。こういう他国から渡世したきた人は木挽きの新しい道具ももってきたから厚遇されたということもあるかもしれない。
 

天王寺鋸の名の由来は、江戸時代に大阪の天王寺の鋸鍛冶が新しく柄の曲がった鋸を作りました。土佐や三木・会津で多く作られ北海道向けに2尺の大きな物も作られたそうです
http://www9.ocn.ne.jp/~y.kanna/furukobiki.htm

 
そしてなぜこの人が定着するようになったのか、会津に帰らなかったのか?仕事の関係で今でも定着する人はいるから不思議ではない、ただ農業をすることで定着できる、木挽きだけでは定着できないのが江戸時代だったのか、江戸時代の経済は農業が基本でありそれで他の仕事が渡世とか流れ者的な言葉として使われていたのだ。
 
インタ−ネットでこれだけ連関して調べることができた。郷土史にはインタ−ネットはかなり役立つのである。相馬藩政史というのを資料として読んでいれば確かに郷土史に役にたつ、それが膨大だからキ-ワ-ドで調べられれば便利なのである。インタ−ネットはこうして次々とキ-ワ-ドで調べられるから便利なのだ。農間渡世ということで長い論文を書いていたりすることはキ-ワ-ドでしかわかりにくいからだ。
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2007年08月11日

蚕の話(郷土史は祖父母の話から興味をもつ)


蚕の話(郷土史は祖父母の話から興味をもつ)

 
糸取り10年くらいしていた母の話で冗談だと思ったのが昼休み遊びたくて早食いした人が病気で死んだという話である。30分くらいしか休みがないとしたら食事して終わりで休むことができない、もちろん遊ぶこともできない、これは今でも流れ作業などであるから冗談ではない、流れ作業は自分も何度もしたことがあり単調であり機械になることである。だから休み時間はロボットの時間から解放されることだった。今でも過労死があるのだから労働は過酷であり左翼からみると搾取になる。
 
彼女たちは、家へ金を持ち帰って親の喜ぶ顔をみて満足したものが多かった。(女工哀史)

母もそうであった。親のために働いたのである。現物で支給されたこともあった。米俵十俵とかで支払われた。やっぱり同じように親がそれで喜んだのである。今でも中国やインドの貧しい国では子供は労働力であり両親のために働かせられる。今は両親は子供のために働かされるのだから余りに違っている。そもそもこの蚕の業は延々とつづけられてきた。こんな漢詩を発見した。
ョ山陽は幼名:久太郎(ひさたろう)甲州道を回り広島に帰る時に作った。
 山驛蚕為業 山駅蚕を業となし。
無家不種桑 家として桑を種(う)えざるなし。
憐看襤褸女 憐れみ看る襤褸(らんる)の女。
績織為誰忙 績織、誰がために忙しきや。

家として桑を種(う)えざるなし・・・現金収入として不可欠だった。績織、誰がために忙しきや・・・これは家族のためであり明治になると国家のためになった。憐れみ看る襤褸(らんる)の女・・・自分で織った絹織物は着ることができず売るためのものである。貧しい国では今でもそうである。豊かな国に輸出するために作っている。
明治には富国強兵と殖産興業の殖産は製糸であり輸出の60パ−セントにもなっていた。これによって富国強兵の軍備をまかなうことができた。明治になると家族−国家が強力に結びつき天皇が家族国家の頂点としてモラルが形成された。江戸時代は国家は地方の藩であり国家とは結びつかなかった。

この蚕の歴史は製糸の歴史は長い、天皇家では今も蚕をしているのはそのためである。田植えもしている。米と蚕は古代から日本を支える産業だった。
 
斎藤茂吉の歌の
 
朝さむみ桑の木の葉に霜ふりて母にちかづく汽車はしるなり

桑の香の青くただよう朝明けに 堪えがたければ母呼びにけり
 
桑の葉は母をもイメ−ジしている、桑の葉を籠に刈り取る母の姿、桑の葉は単なる桑の葉ではない、そこにはいつも母の姿が浮かんで来る母の姿があった。鉄道ができて桑の葉が蒸気機関車の煙でだいなしにするというのは都市伝説であった。鉄道はそんな広範囲に煙をまきちらさない、工場の煙とは違っていた。鉄道に対する無知から起きた誇大妄想だった。鉄道が通っても蚕は続けられていたからだ。
 
郷土史はまず祖父とか祖母の話を聞くと興味をもつ、それが何かつまらないようなものええ、そんなことがあるのかと今では思うことがかなりある。製糸工場で働いて休み時間に遊びたくて早食いして死んだという話もその一つである。こういうことはいくらでもあるのだ。なぜそんなことで死ぬのかという疑問が今になるとでてくる。でも過酷な労働は今でも過労死としてあるようにつづいているから時代が変わっても同じことはあるから理解できる。
posted by 天華 at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)