田町通り
相馬の城跡の濁りし堀
相馬六万石の夢の跡
曲がりくねった
細き暗き路地裏
いぶせく相馬駒焼きの
技を伝えし老いた陶工
辻に塩地蔵一つ
田町の柳風にゆれ
通り新し若き人行く
眩い光はそそぎ
吹き抜ける涼しき風
青春の日はそこにありしや
時の過ぎるは早しかな
高等女学校に入られぬと
貧しき日を語るはいつぞ
悲しくも痴呆となりぬ女
蘇らぬ昔にあるかな
相馬高等女学校とか他にもあったがここに入れる人は当時まれだった。貧乏な人は入れない、尋常小学校までがたいがいの学歴だった。自分の時代、今の団塊の世代でも地方では高校に入る人すら学級で半分しかいない時代だった。集団就職で東京に送られたのだ。この世代では中卒が当たり前なのだ。この時代大学まで入れた人はかなり恵まれた人だったのだ。自分がそうだった。でも全然恵まれたとは思っていなかった。そもそも勉強が嫌いだし優秀でないということもあった。人間的に劣っていたからだ。人間もスポ−ツにたけて体力があり頭もいい人がいるが自分はどっちもだめだった。ただ確かに文学的才能があったがこれも伸ばせなかったのである。遅いが今になってこのように爛漫と華開いているのだ。才能はいづれ華開く時がくる。そのための蓄積は必要であるがあせる必要はない、賞なんかばかり若い内からもらうことばかり考えていたらだめである。純粋に文学そのものを追求すべきである。
相馬市というと城下町だからそれなりの風情があるのだが城跡だけで堀だけが残っていて当時の面影を忍ぶことがむずかしいのだ。城下町といって極めて貧弱なものだった。相馬藩では武士が城下町に君主の下に住んだものは少なく農家と武士の兼業だったらしい。在郷給人形式で相馬藩を維持ししていた。つまり在郷にいた侍、給料が支払われていた侍が支えていたのだ。だから野馬追いにでるのも農家が多いのである。街から出る人はかなり少ない、町中で出陣する姿をあまり見ないのだ。町中はあとから明治以降に入ってきた人が多い。自分の家もそうだった。商売をはじめた家はたいがいそうだった。農家は代々受け継がれるから古いが商売は何代もつづかないから新しいのである。
相馬市には目だったものはないが細部を見れば必ず何かある。我が一万に足らぬ町を行き来してこれだけ俳句短歌にしたことでもわかるように細部を見れば魅力が発見される。最初はマクロ的視点が必要だがあとはミクロ的視点になる。学問でもマクロ的な視点が必要であるがあとは細部なのである。
東京の女学校で古い煉瓦の塀を壊すなと騒動があった。煉瓦には郷愁がある。大正や古い昭和の面影を偲ぶことができる。当時の落ち着いた雰囲気、なんともいえぬ郷愁がにじみでてくる。喜多方がそうなように煉瓦はコンクリ−トと違い人間味あるものなのだ。現代はあまりにも嫌悪すべきものが多すぎるのだ。ルネサンスは古いものの復活であり古いものにこそ良きものがあったのだ。古いものを掘り起こす必要があるのだ。