2012年04月30日

大芦や地蔵木などは昔は秘境だった (不便な地域に分家して開拓に入るプロセス)


八木沢峠の麓の大芦や地蔵木などは昔は秘境だった

(不便な地域に分家して開拓に入るプロセス)

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郷土史でもやはり地形に通じないと見えてこないものがある。日本の地形は山あり谷あり川あり海ありと複雑なのである。海にそった浜通り側は比較的わかりやすい地形だった。でも山側になると複雑に入り組んでいるのだ。だから阿武隈高原でも地形的にはわかりにくい所だった。
飯館村の八木沢峠の麓の地帯は山間であり地形的に窮屈な所でありここに人が住んだの南相馬市の原町区や鹿島区の橲原村よりはあとである。分家した人たちが入植した。姓を見れば橲原村や大原村の人たちが入植したことがわかる。あそこでは田にする平地がない、それでもわずかに田を作っていた。大原から坂を上って遠田と地名があるから大原の草分けの前田から遠田に開拓地を広げた。それは分家して遠くに田を作り人が住み着くようになる。それが八木沢峠の麓の谷間に人が住むようになったプロセスである。ただ江戸時代からあそこに人が住んだかどうかはわかりにくい、真宗系の石塚の墓が一つあったが時代がわからない、橲原村でも明治時代ものしか残っていない、あそこの谷間から上萱(うえがや)へは戦後に開拓する人が入った。新しい村でありそれも消滅した。
江戸時代に人が住んでいたかどうかが村を見るには大事である。

橲原渓谷から大原への坂を下る所に六地蔵があった。これは埋もれていたのでわかりにくい、六地蔵は村と村の境界にある。とするとあそこが橲原村と大原村の境界だったのか?江戸時代は村単位で生活していたから境界が大事だった。一つの関所のようになっていて人々が簡単に他の村に出向くことはない、よそものとして隣同士の村でも扱われたのである。だから明治になり村が合併するとき常に民情が違うので合併しなかったとある。飯館村辺りでも大倉村と佐須村が民情が違うので合併しなかったとなる。民情が違うということはどういうことなのかわかりにくいけど村と村は交わらない一つの国と化していたためだろう。橲原村と大原村には新しい道ができたけどそれまでは地蔵木からなどの道が大原に行く道だった。今は車が頻繁に通るからあそこが不便な所などと意識しないのである。あそこは大原村よりも橲原村よりも不便な所だった。車のために本来は不便なところが便利な所のように見える錯覚を作り出しているのだ。
あそこの谷間の特徴は道を挟んで原町区の大原村と橲原村に分かれていた。どちらからも分家した人たちが開拓に入った。そこで混在することになったのだ。上萱は栃窪村に編入された。原町市と鹿島町が合併する前は行政的には統一されていなかった。


橲原村からであれ大原村からであれこの土地で暮らすとしたら土地が必要である。その土地がないとなるとあのような不便な土地を開拓して住むほかなかったのである。地形を見ればその村の古さがわかる。そして郷土史研究の基本が村の新旧を知ることがまずある。江戸時代から村があるのと明治以降開拓された村は分けるべきである。武家の出や野馬追いの出る家はそうした家にはない。なぜ上萱とかさらに不便な場所に開拓に入ったのか?それはもう土地がないからだ。それで戦後農業する人はプラジルに渡ったりしている。土地がないから土地を求めて渡ったのである。

あそこは自然的には魅力ある場所だった。橲原渓谷の上流であり不動滝の御堂があるところから太古林道を上るとその源流があり大きな岩があったりする。橲原村が鹿島区の奥座敷でありそこからさらに奥の秘境だったともなる。ただ今は車が頻繁に通るからあそこがかえってにぎやかな所だと錯覚しているのだ。昔だったら人も訪ねるもまれなる地域だった。橲原からも大原からも坂でありいかに辺鄙な場所だったかわかる。あそこには村の墓地があったのか?一つだけ家の墓があった。それも新しいものである。上萱には墓地があったがなくなった。いづれにしろ人間は地形にそって住む場を広げたことがわかる。

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2012年04月22日

コンビニの前で戦争の話しを聞く(2)


コンビニの前で戦争の話しを聞く(2)

コンビニ前でこの前話しした老人がまた酒を飲んでいた。
あの人は話しができる人だった。全然話しができない、聞けない人もいる。
88才まで生きていても体が小さい、肉体労働には向いていない、でも長生きするのは体力とは関係ないみたいである。最近力道山のような肉体派の有名な俳優が病気で死んだ。
その人は何にも負けるような人には見えない人だった。その人もここ十年は病気で苦しんでいたのである。息子から膵臓か肝臓かもらって移植していた。
60代なるとあのような体力ある人も病気になり死んでいる。
60代とか以降は金があるより地位があるよりも健康なことが第一なのである。
自分も痛切にそのことを感じた。


その人は前も書いたが東京で飛行機を作る工場にいた。それで東条秀樹が乗っている車を見たという。これはなかなか本物を見るということはない、映像で見ても本物を見るというのはない。
飛行機を作る工場でありその前を頻繁に軍用の車などが通っていたという。
その頃のトラックなどはしょっちゅう故障して修理していたという。
今の車とは大違いだから故障していたことがわかる。
それから自転車で物を運んでいたこともわかる。
車に乗っている人はまれだった時代である。


御所の職員は職業柄、そんな事はできず、御料(殿下のご食糧)
    にも事欠く状態であった。


     そこで御所の周辺の空き地を畑にして、食糧を自給自足でき
    るようにしようということになった。職員たちは勤務の余暇に
    にわか百姓となって、空き地の開墾を始めたが、草を刈り、根
    を掘り返す重労働に、手は豆だらけ、体はくたくたになってし
    まった。それでも手に包帯を巻きながら、作業を続けた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h21/jog624.html


天皇家でもこういうことがあったのだから宮家では買い出しをしていたのかもしれない、でも
「食べ物をゆずってください」と買い出しに出るとなればいかに日本全体が食糧に窮していたかわかる。


それから話しを聞いていると
「オ-ストラリアでは2000町の土地をもっている」
「飛行機で種まきしているからな」
「とても、かないっこないよ、日本と比べられないよ」
「この辺で38町もっている農家の人いて驚いたけどな、2000町は驚きだな
38町でもめったにいないよ、日本では・・15町の人がいたけどそれで大農家だよ
5町で平均よりも上になるのか、日本ではそんなもんだよ」


この会話で2000町と言ったことでその土地の広さを実感したのである。なぜならヘクタ-ルとかなるとわかりにくいのだ。2000町となったらとんでもいな広さだと即座に実感したのである。


「ものがないから日本は負けたんだよ」
「戦争するにも弾がないけりゃ、何もできない、竹槍で戦おうとしていたんだからな、日本は」
「朝鮮人は多かった、どこにでもいたよ、みんな金かせぐために日本に来たんだよ」
「朝鮮は日本の属国だからパスポ-トもなち入れただろう、入り安かったからなあの頃は」


物資の不足は日本では致命的だったのだ。それからその時朝鮮人が大量に入ってきた。それは強制的というより日本で仕事ができて金になったからである。原町の大原の発電所辺りでも働いていたという。全部が強制的ではない自主的に働きに来ていたのである。

80代くらいの人の話は60代の人はあわせられる。でも若くなるに連れてあわせられなくなる。
車もない時代も知っている。物がない時代も子供の時に経験している。だから話をあわせられる。
ものが豊に出回った世代になるとその辺のものがない時代がわかりにくいのである。

歴史というとき郷土史でもやはり直接に話しを聞くことがリアルに歴史を感じることになる。
話して何かわかることがある。そもそも人間の体験はみんな同じではない、だから戦争の体験もみんな同じではない、働いた場所も違うしそれぞれ違った体験をしている。その一人一人の体験を総合するとき何があったのか見えてくることがわかる。前に書いた戦後梅毒にかかった人は全国にいた。
だからそれは戦争のためだったということがわかる。数が多いからわかるのだ。


戦争の話しを老人に聞く(1)
http://musubu.sblo.jp/article/55380545.html

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2012年04月19日

怪しい地名の研究(島野氏)の解読


怪しい地名の研究(島野氏)の解読


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●日本のニは湿地帯の意味

「日新」「新田(にった)」など語尾はいろいろであるが、語頭が「ニッ」で始まる地名は縄文地帯の東日本に明白に偏在する。「にっぽん」「にほん」の「ニッ」あるいは小さな「ッ」が脱落した「ニ」は「湿地帯」「しめった」と解釈した。(怪しい地名の研究7)

日本(にほん)が二に注目するとニはそもそも湿地帯のことは明らかなようです、新田(にった)は地名では多いですから間違いないでしょう。
日本は湿地帯の国、豊葦原瑞穂国の国です、そこで邪馬台国とは台であり湿地帯の中で高台になっているところでしょう。湿地帯があり高台に国ができた。日本が最初は縄文時代は東が東北地方が人口が多く栄えていた。「日高見国」がもともと大和の前の国号だった。日本の地名は湿地帯が多いから湿地帯のニのつく地名と台のつく地名が対称的になって多い。台から低地の湿地帯と住む場所を広げた。海側でなくても奈良盆地でもとともと盆地の真ん中は湖であり湿地帯でありその山辺に日本最古の道ができた。飛鳥も前が海のような地形だから鴎が飛んでいる歌が万葉集にのっている。ヤマトとやはり山の戸(門)であり山口のことでしょう。
山の入り口は神社の入り口-鳥居のある場所で結界になっていた。奈良の三輪山は山自体が御神体ですから山そのものに対する信仰があったのです。


東日本の内陸盆地のみならず、奈良盆地にも多くの「いそ」「ふね」「おき」など海洋を思わせる地名が散在する。「くじら(櫛羅)」さえ居る


奈良盆地は海とつながっていたという説がありするとこの地名はその太古の状態をさしているとすると地名はそれだけ古いとなる。自分も今回の津浪でヒントを得て書きました。海になったときクジラが入って来たということになると地名がどれだけ古いかともなる。


太古の奈良盆地
http://musubu2.sblo.jp/article/45685693.html


「ほ」が「穂」であるという解釈を力づけてくれる


稲作は南から入ってきたとすると東から入った二(湿地帯)と南から入ってきた穂が合体して日本となったというのは理屈的にはあう。なぜならもともと縄文時代は東中心であり日高見国(ひだかみのくに)があったからである。


●川(かわ)沢(さわ)はわの人たち、東日本に多い

「沢」地名の、明確な東日本偏在を考えると、「わ」の人々は氷河期には陸続きであったサハリンから徒歩で南下してきた人々だと考えた。

カワ(川)のワがわの人たち、民族集団をさしていた、さわはさ-わでありわの住む人たちでありカワのワもそうである。この人たちは北から南下した人たちだというのはユニ-クな解釈である。
川と沢はにている。人間はもともと水のある川や沢の場所に住みはじめた。水がないことには生活できないからだ。南から来た人たちはネの人たちであるというのも独特の解釈である。島根とかそうでありネの人たちは日本海回りで来たのかもしれない、確かに倭人というのワの人たちのことですから一字が部族名であり一部族が拡大化して倭人になったとは言える。ただ日本語そのものがどこから来たか謎ですから言語学的にはいろいろ問題があるでしょう。

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船(ふね)米(よね)であり金(かね)はネ族のものがもたらした言葉である。言ってみれば外来語であり新しい文化をもたらした言葉だとなる。船も米も金も縄文人にとっては新しいものだったといえる。これなどからネ族が南方系の稲作文化をもたらした人たちだという推測はあたっているかもしれない。そもそも船は丸木舟でも縄文時代使っていたとしても金(かね)や米(よね)は縄文時代はないからだ。だから縄文人はその言葉を知らないとなる。そういう分け方はわかりやすい、中国から入った漢字と大和言葉を分けることはわかりやすいのである。


●ヒの謎

ヒについてはこれも謎が多い。干潟-干るというのは見ずが引いたからであり日をあてるのではなくもともとひあがる・・・水が引くことを意味していた。水が引いたり上がったりすることであり太陽のことではない、海に囲まれていたから潮の満ち引きには敏感である。潮が引いたらそこで干潟になり鳥も餌をついばみにくる、人もそこで貝をとったりするからヒは干上がるということが基本にありヒル(昼)は潮が干上がった時が昼であった。アサヒも浅く干上がった干潟のことである。太陽のことではないとなる。海辺に住んだ人たちの生活感覚から生まれた言葉だとなる。縄文人は貝塚があるように貝を主食としていたから干潟は大事だった。生活の根拠となる場だったからヒが生まれた。ヒは太陽と関係なく潮の満ち引きと関係しているとなるとヒが日になり太陽となったのか解せない、ヒは家族語だというのはどういう意味なのだろう。?家族語の意味がわからない。

干上がるということで干潟を中心に生活していたヒ族がいてサワとかカワとか川を中心にして生活していたワ族がいてヤマを中心に生活していたヤマト族いたのか?船(フネ)をあやつるネ族が南から入ってきて縄文人と交わったのか?一番の疑問はヒの解明でしょう。引く(ひく)は日本では引地とか引いたという地名が多い。それは水が引いたですから潮の満ち引きとにている。

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日高見国(ひだかみのくに)とは干潟(ひ-がた)-高見の国である。とすると干潟の高見にある国となる。干潟を見下ろす高台にあった国となる。干潟を中心として貝をとって暮らしていた縄文人なのだろうか?この辺の新地はそういう地形であり海が近く高台に貝塚があった。そして手長明神の伝説がある。貝をとって暮らしていた巨人がいたというから地形的にはあっている。
たた日高見の国でも内陸部にもあり北上は日高見だともいうし海岸とは限らない。
要するにヒが解読できないことに問題がある。

ヒラが平たいとからが複数形のようだとヒはやはり干潟のことなのか?
人(ヒト)とはなになのか?日がとまると解釈するが干潟(ひがた)に止まっている人なのか?
ヒトとは干潟にいつもいて貝をとっているからヒトになったのだろうか?
縄文時代は確かにそうだった。

百済や新羅から入ってきた地名

百済とか新羅とかから入った言葉が地名化したのはなかなか証明しにくい


みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを・・笠女郎


この歌の草原(かやはら)は地名だと解読した。草(かや)は伽耶のことでもあり入江のことを意味していると近江の人も言っている。草原(かやはら)を奈良から面影にして見るというものにはなりえない、地名のことだったと解釈した。現実に入江は塩崎まで入り込んでいて今回の津浪で船着という近くまで船が烏崎の港から流されてきたのには驚きました。

ともかく地名の解読はむずかしいです、どうしてもあてつけが多くなりますから・・・
では今回はこのくらいでまた暇があったら書いてみましょう
posted by 老鶯 at 19:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2012年04月16日

太陽も航海民にとっては方向として見ていた (東と西の方向感覚-海と陸(土)を分けた地点が日下石(にっけし)?)


太陽も航海民にとっては方向として見ていた

(東と西の方向感覚-海と陸(土)を分けた地点が日下石(にっけし)?)



「日(ひ)出(いず)る処(ところ)の天子(てんし)」
    「書(しょ)を」
    「日(ひ)没(ぼ)っする処の天子に致(いた)す」
    「恙(つつが)なきや。」

聖徳太子の小野妹子が隋に送った国書である。太陽は光として作物の実りをもたらすものと実はもう一つ重要な感覚があった。それは方向を示すものとして太陽があった。航海民は太陽を方向として意識した。太陽がどこから昇りどこへ沈むのかが大事だった。この方向感覚は平原とか砂漠とか遊牧民にとって生死を分けるものとなるから大事だった。砂漠でもどっちに水があるかないかで生死が別れる。だから星などが方向を知る目印として大事だった。北極星や北斗七星信仰が中国で起こったのは遊牧民の文化である。砂漠の民のイスラム教がメッカの方向をいかに大事にしているか?方向がまさに神であり信仰なのである。妙見信仰もそこから起こった。太陽は稲作民族だと天照大御神になるが航海民にとっては方向をみるものとして太陽があったのだ。だから太陽が昇る方向と沈む方向を注意深く見ていたのである。聖徳太子がこの国書に書いたのはまさに太陽の方向感覚であり航海民の文化を引き継いでいたからである。日本は南から船で渡ってきた人々が作った国だということは古事記などの神話で語られている。船でわたってきたということは常に方向が大事になるのだ。方向がまちがったらとんでもいな所に行って命まで落としてしまうからである。


海があり陸地がある。それを分けるのも大事になる。海から陸地が見えるところが重要になる。海を長く航海して陸地が土が見える所があったならその時そこは重要な地点になる。その陸地や土になっているところは航海民の上陸地点になるから大事なのである。「陸が土が見えたぞ」と海から見てなるのだ。西(にし)のニが土だということは海になっいる所と土になっている所を分けたのである。
だから日下石(にっけし)は津浪でわかったようにそのじき前は縄文時代は海だったのである。縄文海進時代は深く海がはいりこんでいた。でも縄文時代ではない万葉時代、奈良時代には海は深く陸に入り込んでいた。その地名の一つが万葉集の真野の草原(かやはら)の歌でありそこに船着とか市庭とかの地名が残っている。津浪が実際にあそこまで押し寄せたのは驚いた。日本全国であのように海が深くはいりこんでいた。縄文時代ではない、万葉時代でそうだったのである。だから別に縄文時代にさかのぼらなくても深く海がはいりこんでいた地域が海側には多い。今回津浪に襲われた地域は縄文時代ではない、万葉時代に海であったことが推測されるのだ。


だから太陽を方向としてみるとき日の昇る方向と日の沈む方向が大事になり東はひの岸(かし)になり西はニが土であり陸を示していたのである。地名をなづける場合、陸地から海を見れば海岸は東浜とか名づけられる。しかし海から見れば逆になり西が名づけられる。常識的には陸地から見て地名がつけられたと見ている。海から陸地をみて西と名づけることはなかなか気づかない、日下石(にっけし)は西という意味ではなく土(に)のある場所、陸地のことだった。海から来て土がある場所、陸地として別れる地点だったのである。だから今回の津浪で日下石(にっけし)まで海になったのである。
方向地名はどこを基点にしているから重要である。どこからみて西なのか東なのかである。陸地から見れば東になり海から見れば陸地は西になるのだ。西(にし)の二が土だというのは普通に気づかないから発見であった。


ではなぜそうした方向感覚が生まれたのか?それは日本にやってきた人たちが海からしか来れないし
航海民であり航海の技術がなかったら日本には来れない、海からやってきたのだから海からの視点で日本列島を見ていたとなる。それは日本の神話の基にもなっている。九州の異民族化されたハヤトなども南から渡ってきた人たちである。



竹にかかわる人々は海洋民族であったと言われています。かつて九州南部にいた隼人民族は南洋諸島の竹細工技術を身に付け、日本にたどり着いて土着民となりました。彼らは勇敢で強大な畿内政権に最後まで頑固に抵抗しましたが、ついに破れ畿内に連れて来られ、畿内隼人と呼ばれて竹器を作らされていたのだそうです
http://www.shinrin-instructor.org/ren08/02.htm


漢字で「東雲」と書くのは、東の空の意味からの当て字。
語源は「篠の目(しののめ)」であろう。
古代の住居では、明り取りの役目をしていた粗い網目の部分を「め(目)」といい、篠竹が材料として使われていたため
「篠の目」と呼ばれた。



竹の家がありそこから東雲(しののめ)の言葉が生まれた。日本では大和でも奈良でも竹はなかったとい。竹はもともと東南アジア辺りに多い。ベトナムなどに多い。竹の文化が伝わり東雲(しののめ)が生まれたというのもわかりにくい。どうしてもここに東は当て字である、ただ雲というとき東の空が曇っているように夜明けは暗いから雲をあてた。竹の文化では竹取物語もそうであり竹は外来のものでありその話なども東南アジア辺りから伝わったものとなる。原型はそこにある。梅すら中国から入ったものであり桜より梅が尊ばれた。

 さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君


さす竹が大宮人を導く枕詞となっていることはいかにすでに竹が日本の文化となり根付いていたか証明している。

隼人(ハヤト)族も海を渡ってきた航海民である。だから方向として太陽を見ていた。日の本(ひのもと)は日の下であり日本の国号になったがこれは日の出る処としての日の本である。ところが日本は(にほん)でありに(ニ)は土を示しているとなり西を意味しているとなると日の沈む土地ともなる。
ともかく方角地名が地名の基本であることはまちがいないのだ。



西原、西台とか柏崎にあるのは土があるところ陸になっているとして海から意識して名づけられたのか?瀬戸内海とか九州だと船の航海は具体的なものとなるのだが東北の海は荒く航海となると古代ではむずかしいからどういう感覚でつけられたのかわかりにくい面はある。ただ西原は一段低くそこに田んぼがあり辛うじて津浪の被害からまねがれた田があった。その下は津浪で浸水した。西台はもっと高くここでは津浪の被害がなかった。柏崎は津浪の被害はなかった。引沼はずっと奥だから津浪とは関係ないでしょう。それでも津浪を考える場合、海であった処がありそれと関係して名づけられている場合があるから注意する必要がある。南相馬市鹿島区の塩崎まで海であった。地名の通りそこまで万葉時代は奈良時代は海だったのである。そこに船着や市庭とかの地名が残っていた。


郷土史関係ではインタ-ネットは実際かなり役立つ、地名の研究なども全国のネットワ-クを作って研究すれば新しい発見もでてくる。地形とかに深く関係しているので地名も地元の人でないとわからないことがかなりある。そこが地名を知るむずかしさである。西原と西台は高さが違っていることなどわかりにくいのである。

地名は研究してきたので地名から学問に興味をもったので鳥野様の研究も暇があったらまた気づいたことを書いてみましょう

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2012年04月12日

相馬市の日下石(にっけし)の地名の謎(2)

 
相馬市の日下石(にっけし)の地名の謎(2)

東(ひがし)はひんがしは陽(日)向かう岸だろう。岸ということは海の岸になる。東を意識したのは海を望んだ時だった。でも陽が昇るのは海からとは限らない、山からも陸地からも昇る。日本海などは山から昇り陽は海に沈むのだ。海に陽が沈む所もある。日本語では大和言葉では東は海から昇るものと意識した。一方西はニに日をあてているごとくやはり陽でありニシのシは土とか陸だとするとニシは陸地の方であり陸地に沈む方を西と意識した。日本でも世界でもそういう方向感覚がユニバ-サルではない。それは一面一地域としてのロ-カルな方向感覚なのである。

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日(ひ)にちを数えるという言葉を分解するとヒ(陽)ニ(にし)ち(地)である。ヒはわかりやすいけど
ニチはわかりにくい、ニチはニも陽であり地と一体化している。つまり西は地と陸に一体化しているから西は陸地の方だという感覚なのである。日にちは日西(ヒニシ)であり日が昇り沈むことを数えることである。聖(ひじり)はまさにその日を数える人だったとなる。日を支配するものが王となるというのはマヤ文明を見ればわかる。エジプトなども天体学が発達していたことでもわかる。
天の岩戸の神話も日食に由来していたとか言われるから日と関係していたのである。もし日食を予言できたらその日を予言できたら絶大な権力をもちえるのである。それは科学の世界であり今日までつづいている。


ともかく東はひんがしは海から昇る日の方向であり、西は地や陸や山の方に沈む方向である。とするととは日下石(にっけし)とはいかなる方向なのか?今回の津浪でわかったように日下石(にっけし)近くまで津浪が押し寄せていたから日下石(にっけし)の前は海が入り込んでいたのである。そうなるとその海から日が昇るのだから日下石(にっけし)というのがわかりにくくなる。西の方角だとすると
海から見て陸地の方角だったとなる。海の岸の陸地でも海から見れば陸地であり西の方角になるのだ。実際に津浪で日下石(にっけし)近くまで海が湾のように入りこんだとき陽が陸地の方に日下石(にっけし)の方に沈むのを見たのである。湖のようになったので見えたときはなんともいえぬ驚きだった。それは一回しか見られない美しい光景だった。春の陽が広々とした湖と化した所に輝き陸地の方に沈んでいったのである。


方向地名はどこが基点となるかが問題になる。基点とする場所によって違ってくるのだ。海を基点とするということは常に海で暮らすような民の方向感覚だとなる。海から見て陸地の方に沈む方角が西となる。しかし日本海では海からみて山側が陽の昇る方角であり陽が沈む方角が海なのだから反対になる。世界的に日が昇る方向が東であり沈む方向は西である。どこから昇るかは問題にしない。日本は海に囲まれていたから海の意識が強いといかことで違っていた。


日の昇る場所が「日ケ子」で、日の没する場所のあるところの重要な地面が「土(に)子(し)」である。九州到達までは方位の定義としては適切である。


沖縄各地の「西原」は「城(ぐすく)跡」などの「北側の原」という意味とみられる、と述べている。なお「西原」は「にしはら」「にしばる」とよむとも言っている。
琉球音声データベースで確認しても「にし」とは祖先がやって来た(きた)方角、「北」のことである。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/unolab/timei4/timei4.htm


西と北は方角として混同しやすいのである。西風と北風はわかりにくい、風はいつも一定ではない、西風が北風に変わりやすいし北風は西風に変わりやすいのである。春になると東北の海側では北風から東風になる。これは春を告げる風だし全国的にそうである。だから沖縄で西が北と意識するのはわかるし九州の陸地を意識したというとき沖縄は西から北から移住した人々である。それは言葉などからも証明されている。沖縄の言葉は古い大和言葉が残っているからだ。青森などの辺境に古い大和言葉が残っているのと同じである。地名研究では方角地名が基本にある。南相馬市も城のあった相馬市の南だから合併してそうなったことでもわかる。

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津浪で大きな湖と化した磯部から日下石(にっけし)方面

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2012年04月08日

裸電球のキ-ワ-ド


裸電球のキ-ワ-ド


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焼け野が原の富山市清水町(音羽町)に掘立て小屋を建て、一家6人で雨露をしのぐ生活を強いられていたが、立山重工の捕虜収容所がアパートとして開放されたのを機にそこに移住。まぶしく光る裸電球の輝きが目に焼き付いてい


戦後も、闇市の裸電球に照らされた真っ赤なリンゴと、
「可愛リンゴに唇寄せて」並木路子さんの歌うリンゴの唄は、
荒廃した街の中の庶民に希望を与えてくれました。


裸電球の下に店を開く準備が始まり、時間とともに市場内は徐々に熱気をはらみ活気づき、威勢のいい売り声が飛び交います

土を固めた床とベニヤを貼った壁と天井から、裸電球がぶら下がっているだけの3坪の店舗。


昨秋改装した店内には、裸電球の下で職人らが道産小豆の生あんを練り、薄皮で包む古い写真

粗末な裸電球に照らされた研究室が人生の道程の光と陰を暗示していた。


まもなく校舎は現在の陣屋跡に移ったが、古い木造校舎の広い教室に100ワットの裸電球がたった4個という貧弱なものであった


戦後、暗い裸電球の下で家族が寄り添って過した日々を思い出しています。


裸電球は隙間風に揺れ・・・


子どもたちは裸電球やアセチレンランプが灯るころまで、路地から路地へと駆け巡り、鬼ごっこやかくれんぼを楽しんだ。

内部には裸電球や石油ランプを吊るし、買出し用のリュックなど当時の生活をしのぶ資料が展示されていました。
http://uenonorenkai.com/book201009-2.htm


戦後はバラックのような家を建てて暮らしていた人がいた。自分の父親が建てた風呂もそうだった。何にもないところからはじまった。だから裸電球が希望の灯のように見えたというのは考えられないけどそうだったのである。裸電球でも電気の灯であり明るい未来を示していたのである。


廃線の暗いトンネルの奥の記憶



真っ暗な廃線の中のトンネルの奥なのか

記憶をたどるということはそういうことか

そのトンネルの奥に記憶が残っている

北風が外で唸り吹いていた

平屋の古い家に風がふきつける

がらんとした広い家に裸電球だけが灯っている

そこに自分の昔の古い家があった

記憶をつなぎあわせるが定かではない

記憶もこうもはかないものなのか

父、母、姉・・・・二人はもう死んだ

日々記憶は遠ざかってゆく・・・

死んだ人とは記憶の中でしか会えない・・・

それも朧であり廃線の暗いトンネルの奥なのだ



記憶はまさに廃線である。その廃線の跡をたどるのが昔の記憶なのである。人間も終わって見れば最後に残ったのは記憶である。しかしその記憶も定かではない、真っ暗な冷たい廃線のトンネルの奥なのである。そのトンネルの奥には明るい光景は見えてこない、そこに廃線となった駅の跡がむなしくあるだけである。


キ-ワ-ドで読むのはインタ-ネットだからできる。本ではできない、これはインタ-ネットの中での新しい読書方法であり情報の使い方なのである。ここに引用したのはいちいちリンク先を入れなかったけど著作権違反にはならないだろう。新聞社のはなっていた。あまりにも著作権にこだわるとインタ-ネットは利用しにくいのである。こうしてキ-ワ-ドで引用して編集しているのは創造作業であるからそれも狭められると有効なインタ-ネットの活用はできなくなる。本にはできないことが今までの情報環境ではできないことができるときそれが革命となるからだ。

 
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団塊の世代-集団就職-金の卵の時代をふりかえる


団塊の世代-集団就職-金の卵の時代をふりかえる


一生貧乏
60代, 男性, 自営業

私は10歳で母親に捨てられました。(父親は私が3歳から肺結核の為に入院していて14歳の時に病死)兄嫁と母親が不仲で 10歳の時に出て行きました。1年に一回位日帰りで来るくらいです。当然兄嫁にいじめられて本当に辛い思いをしました。

ようやく中学校を卒業して、東京江東区清澄町の松本自動車という自動車修理工場に就職しました。これからが本当の地獄でした。仕事は住み込みです。最初の部屋は6畳間に二段ベッドが両脇に四つのところに7人住まわせられました。(工場の上に6畳間の部屋が3ツ有りましたが2ツの部屋は人に貸していました。)この状態が約半年です。仕事の時間は朝8時〜12時  午後は13時〜18時
残業は毎日19時〜23時 合計13時間毎日仕事です。

毎月の休みは5日と15日の2回だけです。それで給料は残業代も入れて1ヶ月1500円です。当時菓子パンが10円です。
休日と残業時間の食事は支給有りません。1500円は一週間の
食事代だけで消えました。
腹はいつでもぺこぺこです。お金が無くなると、コッペパンを3切りにして、1日分の食事です。後は水で我慢しました。
信じてもらえないかもしりませんが本当のことです。

半年後に1万円にしてくれましたが、それから入社してから、 18歳までにげだすまで変わりませんでした。(なぜすぐ逃げ出さなかったというかたもいるかもしれませんが、当時は15,6歳の田舎の子供です。無理です。)

その後遺症で17歳の時に顔に白癜という病気で顔の25%(皮膚が白くなる不治の病気です。)がこの病気の為に仕事は思うようにいかず、結婚も当然出来ませんでした。(気持ちが悪い、移されそうで怖いといわれました。)こんな辛い人生は何万人に何人いるんだろうかと思います。辛さは死ぬまで変わらないとと思います。
http://poor.life-taikenki.net/taikenki62.html



これも過酷な運命の下に生まれた人だった。老後というとき何が興味ある事になるかというとそれぞれの人生を読むことなのだ。こんな人生が送った人がいたのかと自分の人生と照らし合わせて比較すると興味深いのである。意外と隣に住んでいてもその人の人生がわからないのが現代である。
「秋深し隣は何をする人ぞ」なのが現代である。田舎でも隣近所は疎遠になっている。買い物だってすべてス-パ-だから小さい店は姿を消した。するとそれぞれの人生をなかなかしりえないのである。老後は何かをふりかえることであり思い出すことが仕事になる。本でも前に読んだものを読み返すと本当に理解することになる。新しい本は読みにくいし理解しにくい。そして本というものも積んどくが多く読んでいない、読んだと思っていたものも深く読んでいないし忘れているのだ。


この人の人生に興味をもったのは密接な身内でこれと同じような人生だったのを知ったからである。実にこの人の運命は過酷そのものだった。この人の恵まれていた点は東京で生活していたから金の卵のような集団就職をしていないことである。集団就職は15才くらいで親元を離れるのだからこれも過酷だったのである。自分は恵まれて勉強嫌いでも東京の私立大学に入れた。それもほとんど勉強はしなかった。もともと自分は今になると学問好きなことがわかった。いろいろなことに知的な興味が尽きない自分に気づいたのである。そして老後になるとむずかしい本でも理解できるようになった。

この人が何を言おうとしているのか本をぱらぱらとめくるとだいだい要旨がつかめる。古典でも深く理解できる。本でもそうだが他人の人生も見通せる、理解できる。若いときは人生にしても人間のことにしても社会についても五里霧中なのである。社会に翻弄されて生きるほかないのである。それで無駄なカルト宗教団体に入ったりといろいろ無駄が多すぎるのだ。


最初の部屋は6畳間に二段ベッドが両脇に四つのところに7人住まわせられました。


学生のとき町工場でアルバイトしていた。その時、集団就職したような人がそういう所だった。住環境は劣悪だったのだ。この人は食事も満足にできなかった。仕事は自動車修理工場というとき流れ作業ではなかった。自分がしたことは流れ作業が多かった。なぜ自分が仕事を嫌悪するようになり会社勤めを嫌ってそのまま幸運にも老後を迎えたのか、それはもともとの性格にもあった。学校という規則的な集団生活のときも適応できなかった。性格的に甘やかされたこともあった。自分は社会にも会社にも適応できない性格だった。だからまともに働いたのは20代前半だけである。それも流れ作業しかなかった。一日中機械でドリルで穴を空ける仕事とかであり嫌悪するようになったのはそのためである。何か創造的仕事があるなど考えようもなかった。仕事とはみんなそんなものかと思ってしまったのである。残業にしたって流れ作業になると本当に嫌になる。もう定時だけでうんざりしてしいるからだ。その後は全くこういうロボットのような仕事はまるで違って旅行に明け暮れたというのも恵まれていた結果だった。そんな仕事をしつづけたら生きることさえ嫌になったろう。


その後遺症で17歳の時に顔に白癜という病気で顔の25%(皮膚が白くなる不治の病気です)


身内の人も円形脱毛症になったからにていた。ストレスのためになったのだろう。集団就職した人は何かしらこういう苦労をししているだろう。でもその後それなりに自立して結婚して一家を構えて東京辺りで暮らし田舎には帰ってこない。不幸にも自分の身内は若くして交通事故で死んでしまった。その墓が原町にある。この人の人生とにていた。この頃集団就職の人生の人は苦労しているからそれなりの数がいた。この人は最初から不幸な星の下に生まれてしまったのである。ただいくら不幸でも集団就職しても今は高度成長期でありそれなりに自立生活している人も多いだろう。この人は結婚していないから家庭をもっていないから余計不幸を感じているのだ。ともかく人間の一生はいろいろある。団塊の世代こうして過去をふりかえる老後を迎えた。過去の苦労を語る時を迎えた。戦争時代は戦争のことを語りつづけて死んだ。団塊の世代を何を語るのか?たいして語ることもないのか?恵まれた時代だから語ることもないのか、集団就職したような人は語ることがあるだろう。一人一人の人生はみな違っている。一人一人の人生も実は郷土史の一こまである。それら一人一人の人生はすでに歴史となっているのだ。同じ世代でもそんな人生があったのかと驚くことがあるだろう。それは後世への教訓である。失敗の体験も後世の若い人への教訓である。自分が失敗したことと同じ様なことをしている人もいるからだ。


人間は他者を知るというとき自分の体験を基にしているのだ。だから自分が体験しないことはいくら聞いてもリアリティが伝わらない、戦争などあれほど悲惨なものでも戦争の体験をしていないからなかなか理解できないのである。自分は現実に下町の油臭い町工場でアルバイトしたから集団就職の人たちのこともそこからイメ-ジされた。しかしそれもしない人はわからない、アルバイトでも出版社とかでして興味を覚えてそこに就職したという人もいる。アルバイトでもやはり流れ作業でない仕事をして興味をもてばそういう仕事あるのかと就職しようとするだろう。ただそういうアルバイトはみんながなれるわけではない、底辺の大学ではなれなかったということがある。家庭教師にだってやはり底辺大学では無理である。結局自分はそんな油臭い、下町の流れ作業の工場などで働いたのは一時期にすぎない、あとは風のように自由に生きて今日に至ったのである。だから自分には会社も工場もなにもない、ただ自然の自由の風吹いている。心の中でも吹いている。それでそれを俳句や短歌や詩にしているのだ。こういうふうに自由に生きられたということ自体奇跡的なことかもしれない、他の人は営々と働いて会社勤めだったからである。


500坪程の工場は組立工場、機械工場、鉄板の切断・溶接工場となっていた。作業場ではこれからお世話になるであろう先輩たちが、裸電球の下でヤスリをかけ、装置を組み立て、油で真っ黒になって機械加工の仕事をしていた
http://www.takemori.co.jp/omoide.htm


この人は天草の農家の貧乏生活より食い物もいいし良かった書いてある。この人は仕事ができるので優遇されたのかもしれない、個々に事情が違ってくる。東京はその頃田舎とは全く違っていた。この人は東京だったが食べ物を違っていたし生活は金があれば豊かなものになっていた。この人は雇い主からの待遇が良かったのである。九州の田舎より東京の方がいい暮らしができると実感した。それなりに苦労したにしろ自分の会社をもつまでになった。集団就職でもこういう人もかなりいた。
経済が今とは違い右肩上がりの高度成長時代だから独立もできたのである。


裸電球の下でヤスリをかけ・・・・・


この時は裸電球であった。最近昔のテレビドラマを見ている。サスペンスなのだが昔と今の光景がどこが変わったのかというと映像を見ても30年前でも40年前でもさほど変わらない、変わったのは道具だった。裸電球のあるところで取り調べをしていた。車をみると旧式の型のものが多い。それでも普通に車走っているのでさほど今と変わらないように見える。40年前とか学生で車をもっていた人がいた。その人は恵まれていたのだ。まだまだ車は普及していない、ただその辺から急速に普及していった。携帯のないときは公衆電話を良く使っていた。刑事も連絡に公衆電話や家の電話を使っていた。コンピュ-タ-で仕事している人がいたけど20年前くらいでもコンピュ-タ-はあり仕事していた。ただそのコンピュ-タ-が大きな古いものであった。そこだけが今と明確に違っていたのだ。他の様子はテレビの画面からはわかりにくい、これを見ると人間の社会は変わったというとき道具が変わったというのが一番わかりやすい。なぜなら江戸時代には鉄道もない車もない、電話もないとかそうしたいろいろな道具がないことが一番違ったことなのでなである。人間そのものはそんなに変わらないということもある。


昭和は遠く成りにけり ・・・


64才の俳優が死んだ・・・60代でも俳優など結構死んでる、時代はすぐに変わる、昭和から平成、昭和も遠くなるということがまじかに迫っている。自分も70くらいで死ぬんじゃないかという不安がある。ただ癌ではなかったからその点は救いだ。普通に暮らせるから病気という感じもしない、酒とか煙草は30代でやめた。70くらいで死ぬのがいいとか思ったりするが作品を完成するにはいくら生きても完成しないだろう。いづれにしろ老後になるとそれぞれの人生も興味深いものとなる。なぜなら人間や人生を深くみる、理解できるからそうなる。そして人間の心は変わらないから人間はしょうこりもなく同じ犯罪、業をくりかえす、カルマをくりかえす、それはインド人が言ったことと同じである。職業が業としたとき原発事故だって一つの人間の業として開発があり事故につながっていたのである。人間の業(カルマ)はとめることができないからそうなるのだ。

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2012年03月31日

松川浦の貝殻地蔵


松川浦の貝殻地蔵


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松川浦名取の人の名を記す遭難の碑に春日さしあわれをとどむ


松川より原釜に至るには中村の方へと少し戻りて、高すか地藏といふ地藏堂のほとりより右に折れて入るなり。「ほつき」といふ貝の殻を幾個と無く尊前に捧げたるは、先刻に見し観音菩薩に瓠(ゆうがお)供へたるにも増してをかしく、貝の裏の白きが月の薄明りにも著く明らかなれば訝しみて土地のものに問ふに、耳遠くなりたるものども自己が年齢の数ほど貝殼を此の御佛に奉りて、復びもとの如く耳敏くならしめたまへと祈り申せぼ霊験(しるし)ある由を云ひ伝へて、然は爲るなりといふ。観音には瓠(ひさご)、地藏には貝殼、をかしきものをのみ供ずるところかなと打笑ひて過ぐ。


幸田露伴 「遊行雑記」の相馬の部を読む
http://www.musubu.jp/somakoudarohan.html


ふつう「柄杓」「杓」と書く)水を汲むための器具。2を縦半分に切って使ったところからいう。ひしゃく。
ヒョウタン・ユウガオ・トウガンなどの果実の総称


瓢箪は中国では、伝統的に薬屋の看板
日本 養老の滝「生命の水」である酒の容器
瓢箪は永遠の生命を象徴するもの
壺中天(壺=瓠)




わたしの耳は貝のから
海の響きをなつかしむ・・・ジャン・コクト-

貝は耳ににている、貝は何か音を聞いている感じに見える。この詩は詩人が特別に感じたことではない、一般人でも別に作家だったり詩人だったりする、そういう素質をそもそも人間は生まれもっていたのだ。民衆の残したものに無数の民話とかも名もなき人が作家になったいたし詩人になっていた。なぜ貝が耳が遠くなったとききくと考えたのかのかそういう詩的な発想があったからである。
そして前にも何回も述べたように人間今でもそうだが病気が一番の悩み事なのである。病気の苦しみは今も一番の問題なのである。耳が聞こえないとなると日常生活で相当不自由するからそうした地蔵ができる。民間信仰が生まれる所以である。貝殻が信仰になったのは海で漁業などを生業としていたからそうなった。瓠をささげたのは長寿を願ってかもしれない、瓠、瓢箪にはそういうことが伝えられている。

名取郡の東多賀村の人が原釜で遭難した。その碑に名前が記されている。橋浦とあるがこれは橋浦家の人が何人か遭難した。ただ明治時代だから碑としては古いとは言えない。


橋浦 陸奥国桃生郡橋浦村 宮城県桃生郡北上町橋浦 奥州千葉氏の流れ。女川城主千葉氏の一族か


橋浦氏は桃生郡に橋浦村があるからそこから移住したのか?千葉氏系統なのか、とにかく橋浦という姓は名取郡にまだあるだろうからその子孫も生きているだろう。明治時代だからまだ子孫が生きている。海では必ず遭難がありそれを記念した碑がある。ただ書類で見るのと碑に記された文字を見るのとは違っている。碑はその場から具体的にイメ-ジされるからリアリティが生まれてくる。これは墓でも同じである。墓の不思議は家はなくなっても墓だけが残っていることがある。そうすると墓が過去を伝えるものとなっている。自分の実家の墓は家がなくなり墓だけが残っている。本当は静岡の方に中卒で金の卵で働きに出て故郷には帰らないはずだった。ところが交通事故になり実家はなくても実家の墓に入ることになった。すると本来は帰らない人が墓に入っているからその人が死んでもいるように意識するのも不思議である。もし墓が静岡の方にあったら墓参りだけで大変だからもう意識すらしなかったかもしれない、墓があるだけその人の存在がなお意識される不思議があるのだ。
記念の碑もそうである。石に記されただけでやはり歴史を伝える重みがでてくる。だからこうした石碑とか墓が郷土史研究では欠かせない生きた資料となるのだ。

新沼観音の飢饉の碑は古い、「春日さし遠き昔や飢饉の碑」という句を作ったときやはり碑が一つの生き物のように見るからこういう句ができる。しかし飢饉であれ災害は遠い昔とはならなかった。災害は必ず再来する、現実に新沼観音の近くまで津浪が来ていた恐怖である。相馬藩では飢饉で三分の一の人口がへったことがあった。それは延々と語り継がれている。それは最大の危機だった。そして今回の津浪と原発事故も相馬藩はないにしろ最大の危機に直面した。こんなとき町長とか市長になっていた人は大変だと思った。その責任も重大となる。ただ市長だけではどうにもならない、全体の危機だからである。この辺の苦悩は本当に深い、海では遭難は時折あるが津浪ほどの被害はない、津浪は村全体が消失するような被害だった。原釜は地形的に被害が大きかった。
 
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2012年03月06日

戦後十年は江戸時代の生活の続きだった (老人は過去の思い出に生きる)

 

戦後十年は江戸時代の生活の続きだった

(老人は過去の思い出に生きる)

実家は昔、米麹取り扱いの鑑札ももっている店だったのですが、つぶれてしまい、祖父は酒米・麹の関係で町内の蔵本「やまだい」に丁稚奉公に出され、後に番頭をやっていました。


祖父は、今で言う仕事人間で、退職するまではあまり家にいない人だったらしいですが、何でも自分で作る器用な人だったそうです。
http://www.arainodendo.com/konjaku/01teppo.htm


鉄砲風呂で風呂をわかすのが仕事だった。父は製材所から端(バタ)材を安く買ってきて鉄砲風呂の燃料とした。新聞紙などを入れてそのバタを入れて風呂をわかす。風呂とトイレは外にあった。風呂の水は井戸がなかったので近くの井戸水をもらいバケツで運んでいた。その水を運ぶことも仕事だった。竈とかが外にあり炭小屋があった。家はトタン屋根でいつも雨がふるとあちらこちらに盥を置いて大騒ぎだった。隣の家は魚屋で五右衛門風呂だった。近くには豆腐屋があった。自分の家も店屋だった。
最初は酒屋だったが次に子供相手の三文店屋を開いた。いつもクジがありクジのついたもの当たりはずれがあるものが売れた。その頃わんさかと子供が多いからそんな小さな店でもはやったということがある。駄菓子屋のはしりである。戦後10年くらいまでは日本人の生活は江戸時代の延長だったのである。赤穂浪士に討たれた吉良上野介が炭小屋に隠れていたというのはどこの家にも炭が燃料だから炭小屋があったのだ。炭焼きはどこの山でもしていた。炭焼きで山の生活は成り立っていた。今の燃料店はガスとか石油になるけどそれまでは炭を売っていたのである。


だからこそ町とザイは密接に結ばれていたのである。どこでも一つの自給自足経済圏として生活していた。石油とかは使っていないし学校でスト-ブに石炭をくべるようになったのが進歩だった。石炭は工業用であり普通の家では使っていない、それで常磐炭鉱は石炭で栄えた。小名浜は石炭の積み出し港であった。北海道でも小樽をはじめ石炭の積み出し港であり鉄道そのものが最初は石炭を運ぶ貨物の鉄道として作られたのだ。だからこの辺でも長い貨物車両が通っていた。確かに電気は通じていた。家にあったのは裸電球一つであり電化製品は一つもない、燃料は炭であり炬燵すら炭だった。だから炉端がどこの家にもありそこで栗などを焼いていた。そういう生活は江戸時代と同じでありその生活は今になると貴重な経験になった。団塊の世代の子供時代までがそういう生活を経験している。あとは急速に高度成長時代に入り忘れられてしまった。思うに高度成長時代以降に日本人でも文明的生活になったのであり戦後十年まではいわば原始的生活だったのである。その変化が余りにも大きすぎたのである。葛尾(かつろう)村などでは電気すらなかなか通らなかった。これは日本全国で山の方は遅れたのである。今になると信じられないかもしれないが、裏の堀の小川で洗濯物を洗っていたのである。これはまさに原始的生活だった。パリでも洗濯物をセ-ヌ河で洗っていた。洗濯物は川で洗うことは原始時代からつづいていたのである。


芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞く夜哉  松尾芭蕉


夕顔の白く夜の後架に紙燭とりて 松尾芭蕉

http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/bashounowaki/bashounowaki.html


このサイトで説明されているように江戸時代の家と戦後十年の生活形態はにている。
後架はトイレは外にあった。だからこそこの句ができた。盥というものも今はないが昔は必ず雨漏りのために備えねばならなかったのだ。江戸時代のことが戦後十年の生活とさほど変わらないからこの句も実感できる。今はそういう生活を知らないから実感できないのである。もちろん紙燭というのは実感できない。懐中電灯は使っていたからである。夕顔の白い花が怪しく紙燭に照らされて仄かに浮かぶ、そういう皓々と電気に明るい世界とは違うからこそこの句ができた。風流は寒きものなりとか風流は不便な時に感じられる。今は余りにも便利になったから風流を感じない、車だったら外の風を感じないからそもそも風流を感じない、自転車だと風流を感じるし徒歩だったらさらに風流を感じる。そもそも歩く感覚を今や車時代で失った。歩いて見えるもの感じる感覚を失ったのである。これは江戸時代から綿々とつづいた人間の感覚の喪失なのである。それが意外と社会にも影響していることが大きいのである。


地に足がついた生活は戦後十年まではあったが高度成長時代から便利になり失われた。人間関係も大きく変わり金が大きな力を持つ社会に変貌したのである。つくづく地元で味噌や醤油を作っていても全国から味噌や醤油など入ってくる。米でもそうである。すると自分の好きなものいいものを選び買える、地元のものを買う必要がない、すると金が大きな力をもつようになる。戦後十年は地元のものを買うほかない、まだ今のように交通が発達していなかったからだ。豊になるには全国で売れるものを作らねばなれない、その土地の名産品を生み出せば通販でも全国に売れる。全国と世界とも競争するとなると並のものを作っていては売れないとなると売る苦労は大変なものになっているのだ。


自分の父は葛尾(かつろう)村から丁稚方向に双葉町の酒屋につとめ暖簾分けして移った。あまり商人向きではなかった。同じ酒屋で働いていた人がフィリンピンから戦争の引揚者で鹿島区の小池に入植した。戦後十年は働く場所がない、引揚者で人口が増えた。それで開拓に入った人たちが多かった。飯館村の大倉から草野にゆく所に「共栄橋」とあるのもあそこにあった二軒の家は開拓に入ったのである。一軒は廃屋となったが一軒は残っていた。ブラジルとかに移住したのも働く場所がなかったからである。働く場所がなければ人はブラジルまでにも移住するのだ。それは強いられた移住である。普通は人は移住はしない、住み慣れた所にいたいのである。人間の歴史は移住の歴史でもあった。アメリカ自体が移住民で作られたことでもわかる。いづれにしろ戦後十年は江戸時代からの生活の延長であり原始的生活の延長であったから今になると貴重な経験をしたとなる。生活の基本として原始的時代から江戸時代と変わらない生活だったのである。それが変わったのは高度成長時代からでありこの変化は余りにも大きすぎたのである。それゆえに人間の基本的となるものが破壊されたのである。家族でもコミニュティでも様々な基本となるものが喪失した。その変化は計り知れないのである。


ともかく老人は過去に生きている、過去を思い出すときあのとき生きていたなと実感するのだ。
思い出すことが仕事なのである。実際に家族も死んで失われたとき、本当に家族自体思い出すときあったとなる。人生はただ思い出としてあるだけになる。もう帰ってこない過去があるのみなのである。帰ってくるとしたら思い出として蘇った時だけなのである。現実に死んだ人はどんなことしても帰ってこない、ただ思い出の中にあるだけになってしまったのである。施設に入った老人が家に帰りたいというとき、帰宅願望は家族と共に暮らした過去の時間に帰りたいということであり実際はそうした家族はなくなっているからないのである。帰宅願望は過去の時間にもどりたいということでありもう実際にはそうした家族は思い出のなかにしかなくなったのである。父にしても中学生の時死んだから思い出すのも容易ではない、ただ鉄砲風呂の小屋を自分で作っていた。器用な人だった。昔の人は自給自足だとすると器用さが要求されたのかもしれない、その時ようやく水道が入り始めた時代でもあった。いづれにしろ人間の思い出は家を中心にしてその土地と密接に結びついている。もちろん戦後十年に住んだ家は新しくなり変わった。でもその家のことは思い出す、新しい家も築40年以上すぎてしまった。二つの家に住んだ。原発事故で故郷とか家を追われた人で老人にとって辛いものだった。老人が思い出に生きるとなったらその思い出となるものが土地でも家でもなくしたら思い出せないということがある。そして家には死んだ人がまだ生きている、長く住んでいたから家の中にまだいる感じがするのだ。そこに家の重みがあった。放浪に生きる人もいるが普通は家のなかで故郷の中で生きて死ぬ、それで老人になると家が大事になる。家で死にたいというのはそこが自分と一体化した場所だったからである。

我が手にて鍋料理して凍み豆腐入れて味わう母も介護して

過去を思い出すというとき今や家事全般を自分一人でやっている。料理を覚えるのは大変なことである。だからほとんど料理はしていない、でも鍋料理を食べたいと思い市販のものを買い作ってみる。そこにどうしても凍み豆腐を入れる必要があった。それを忘れていたのである。
この凍み豆腐がかみしめてその味が鍋料理の味だった。つまり料理の味すら思い出としてあるようになる。お袋の思い出が家庭料理にあるようにお袋の味にあるようにその味が思い出となっているのだ。そこにお袋の味がしみこんでいたのである。それがなくなったとき自分で作るときその凍み豆腐の味で過去を思い出す、料理も過去を思い出す作業だった。今はインスタントでいいものができているからお袋の味というのも消える。しかし人間が最後思い出だけになるときその思い出は淋しいものとなる。漬け物の味でもそうである。そこにお袋の味がしみこんでいたのである。老人になるとそうした思い出に生きるから思い出豊だった人生は豊かだったのである。現代は便利なのだけどそうした手作りの味とかが消えて金で買うだけのものになったから思い出に残るものが少なくなることは老人になってから思い出になるものが少ないとなる。それは豊かな人生だったとは言えないともなるのだ。

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2012年02月13日

相馬市日立木村の薬師堂の墓のことなど (薬師堂はどこでも村の中心にあった)



相馬市日立木村の薬師堂の墓のことなど

(薬師堂はどこでも村の中心にあった)

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無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E7%84%A1%E7%
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ここにあるのは江戸時代の僧侶の墓である。卵塔の墓(無縫塔)は僧侶の墓である。江戸時代の墓があることは昔からここに墓があった。墓所を見るとき江戸時代の墓がないと興味が薄れるのだ。ただ江戸時代でも明治時代になってからの継続がある。明治時代になって夫婦の墓があるのはそのためである。一家の墓になるのはそのあとに多かった。江戸時代の不思議は家族墓はなく個人墓である。武士は代々の墓が寺にある。一般的に庶民は墓が持てない、でも金がある人は個人墓を作ったのである。姓があったり名前だけのものもあり庶民だからといって姓がないということもなかった。墓所を見ることは郷土史研究に欠かせないのである。墓にしてももともと中国から入って来たものである。位牌というのも儒教から入って来た。仏教のように思うけどもともとは儒教なのである。神仏習合のように儒教とも習合したのである。ここの日立木村の墓所に岩崎という墓があったがこれは野馬追いにもでている武士として相馬市史に記されている。すると江戸時代からつづいている姓だとわかる。姓は新しいものも混在するからわかりにくくなる。谷津田とかあるとき近くにもあるから移動したのかもしれない、相馬藩内で姓が移動することが多かった。岩崎、谷津田は相馬市史にもでている。岩崎氏は二家族でているからやはり武士としてその土地に力を持っていた。
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不思議なのは相馬市史に記された立谷村の家族構成である。
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酒井藤左衛門の家族であるが戸主、養父が東光院となっているのは寺の住職か僧侶であり26才で死んでいる。実父は誰かわからないから確かに養父が僧侶であった。だからあそこの僧侶の墓は東光院関係の僧侶かもしれない、東光院はこの辺に結構多いのだ。妻は志のであり20才で死んでいる。
その次が酒井藤左衛門の伯母がかよでありそのかよの父が与五郎である。漢字は別になっている。
この伯母が越中国松木村の出生となっている不思議である。飢饉の時移住してきた越中の人であることはまちがいない、ではなぜ酒井藤左衛門の伯母になっているのか?日下石村の実父の姉か妹であったということはこの伯母は越中からきて酒井藤左衛門の父の姉妹と結婚したということである。
越中からの移った人で相馬藩内に住んでいた人と結婚した人がいても不思議ではない、なぜ酒井藤左衛門の一家となったかというと妻志のが20才で死んだからである。ただ文化となると弘化 嘉永より時代的に古くなる。
1806(文化 3)-1847(弘化 4)伯母は文化3年に生まれ酒井藤左衛門は弘化 4年に生まれた。酒井藤左衛門が生まれたとき,伯母は41才であった。妻志のが1853-嘉永 6年に出生して20才で死んだから明治7年に死んだ。酒井藤左衛門と妻は志のは六才違いである。6才のとき20才の妻が死んだということはありえないから何か間違っている。これは複雑でわからないが妻が20才で死んだことや僧侶が親戚にいたことや越中の人がかかわっていたことは確かである。墓所には必ず真宗系統の移民の墓がある。

薬師堂は村の中心に必ずあった。それはなぜかと言えば今もそうだが人間一番苦しんでいるのは病気だからである。法印でも山伏でも必ずそれぞれの村にいたのは加持祈祷のためである。病気を直すために祈っていたのである。宗教が昔は盛んだったのは病気のためである。医者も病院もないから神仏に祈る他なかったのである。だから地蔵さんでも眼に効く地蔵やら腰に効く地蔵やら分業化していた。それは今の病院の様々なお医者さんにかかると同じである。薬師堂が村の中心にあるのは病気祈願のためにである。薬師堂は近くにあってこそ意味がある。江戸時代は車もない、城のある相馬市内だって元の中村だって遠いのである。救急車もないから結局薬師堂に祈る他なかったのである。


会津でも早い時期に仏教が広められたのは病気祈願のためだった。磐梯山が病脳山とされていた。それで徳一が盆地の中央に位置する勝常寺を中央薬師とし、本寺を東方薬師、堤沢の野寺を南方薬師、漆峯を北方薬師として建立した。


仏教は最初は病気の治癒として受け入れられた。これはキリスト教でも同じである。病気を直すことが病気を直すために祈ることが宗教だったから広まったのである。今は医者を神様のように崇めていることと同じである。病院が大事なのも薬師堂の代わりになったからである。僧侶の力の衰退は正に葬式だけになったからである。ともかく日立木のまちば(まちば)橋のある所は昔の村の様子が残っている。旧街道沿いの感じが松並木とともに残っている。


薬師堂まちば橋かな街道の細道あわれ冬日さし暮る

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2012年01月11日

焼畑時代の名残りの万葉集の歌 (安達太良の雪形-粟蒔入道)

 

焼畑時代の名残りの万葉集の歌

(安達太良の雪形-粟蒔入道)

●春日野は焼畑だった


ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを


梨棗黍に粟次ぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く


あしがらの箱根山はこねのやま粟蒔きて実とは成れるを逢無くも怪し


よみ: 春日野(かすがの)に、粟(あは)蒔(ま)けりせば、鹿(しか)待ちに、継ぎて行(ゆ)かましを、社(やしろ)し恨(うら)めし

春日野とあるのも野は元は焼畑と考えた方がよい。焼畑があり鹿がいる。そういう光景があの春日野の光景だったのだ。今はあそこから巨大な大仏殿が見えるのだからいかにあそこが文明化したかわかる。

http://www.musubu.jp/chimeitouwa1.htm


この歌が何を意味してるのかわかりにくい、神の社とは何の社なのか?焼畑から稲作に移る過程でできた社なのか?稲作の神が祭られたのか?粟と鹿というとき焼畑時代のものだろう。鹿の血を畑に蒔くとか田んぼに蒔いて豊作を祈るという風習も焼畑時代のものである。月見の行事に芋や団子を供えるのも焼き畑時代のものである。太陽より月が信仰になっていたのが焼き畑時代だった。天照神になったのは太陽神になったのは稲作になってからである。ここに何か春日野辺りに大きな時代の変化が稲作への変化が起きてこの歌が生まれた。大仏殿ができたところだかちら社からさらにあれだけ巨大なものができたのだからあの辺は変化が激しかったのである。鹿待ちにということ鹿を待ち伏せるとは鹿を刈りしていた狩猟時代の感覚である。万葉集時代はまだ狩猟時代が継続されていた所がある。だから狩りの歌も残っている。生々してものとして残っている。稲作がはじまると焼畑は否定的に見られる傾向になりその神や風習も軽んじられる。天照神が第一位の神となった。ただ焼畑時代のものはその後も祭りとかでいろいろ残されているのだ。その一つは月見の行事である。焼畑の地名も全国的に多い。焼畑は稲作のように余り技術を擁しない粗放な原始的農業だった?だからいたるところで最初に焼畑が行われた。燃やして灰が肥料になるからだ。海辺の村でも漁港の後ろが焼畑地名になっいる。牡鹿半島辺りでも山が佐須とか焼畑地名があり飯館村にも佐須がありいかにも焼畑が行われていたという奥地なのでてある。


宮地の文章によれば、神饌御進供で、天皇はまず米飯を3箸、つぎに粟飯を3箸、枚手(ひらで)に盛り、陪膳の采女に返し、陪膳はこれを神食薦(かみのすごも)のうえに置きます。御飯の枚手は10枚、供せられます。

その後、4種の鮮物、4種の干物、海藻汁漬、鮑汁漬、4種の果物が供され、さらに白酒黒酒が供され、そのあとに米の御粥、粟の御粥が供されます
http://izasaito.iza.ne.jp/blog/entry/2543033/


日本では米を重点に語られるけ実際はこのように海の産物から粟とか雑穀から多様な食があった。それは戦前までつづいてきたのである。戦後十年後くらいから白米だけになった。雑穀は忘れられていったのである。


●安達太良山の雪形、「粟蒔入道」


これも何のことかと思った。山の中に分け入り粟をまいている姿が雪形として残る。それを目安として農作業をはじめた。
http://blogs.yahoo.co.jp/wmoth155/19417639.html


「種まき」「豆まき」「粟まき」「代掻き」「田打ち」などをしている人物や馬、牛、鳥など身近な動植物、文字、農具類等がある


雪形は農民の生活と密着していた。普通だったらこんなふうには見ない、日頃こういう仕事をしているから実感として自然になったのである。農民の命名の仕方は美的なもなどない、地名も便利なものとして生活に密着してつけられていたのだ。そこが勘違いしやすいのである。


 安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも
   我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね 」 
          巻14−3428 作者未詳


これなども狩猟時代を彷彿とさせるものである。鹿や猪の寝床になっている所を知っているというのは山を相当に知っていないとこのような歌は生まれない、熊を狩猟するのも春でありその冬眠している穴を知っているからできるし危険なことである。安達太良というとき飯館村との境の水鏡神社を越えると川俣に入ると安達太良山が見える。あそこを境にして中通りであり安達太良の見える領域になる。だから農作業をしながら安達太良山が見える。安達太良の大きな影が消えるのは川俣から水鏡神社を越えて飯館の方に入った時なのである。山というとき蔵王は南相馬市の鹿島区の八沢浦とか岩沼の海岸線とかからも見えた。阿武隈川が海に出る辺りにも残雪の蔵王が見えて美しかった。安達太良は浜通りからは飯館からも見えないのである。だから水鏡神社を越えたとき二本松を意識する。日本は山で峠で境界を意識するのである。


吾も休み農夫も休む道端に安達太良望む秋の夕暮


農作業しながら安達太良が見えるのが川俣だった。川俣は二本松の領域なのである。

 
 
posted by 老鶯 at 05:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2011年09月20日

南相馬市片倉村の由来


南相馬市片倉村の由来

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●片倉辺の神が由来

諏訪大社は2万5000以上の末社を持ち、起源も非常に古い。
信濃国の一宮であり、神位は正一位であり、信濃的には日本一の神社。
よく誤解されるが、諏訪大社は春宮・秋宮・上社・下社の4宮で構成され
場所としても諏訪〜茅野の広域に分散している、神社集合体。

祭神は大国主の子である建御名方神とその奥さん。

国譲りの段で天津神に敗れた建御名方神は諏訪に逃げ込んだ事になっているが
その際に、上記神々を率いたモレヤ神と戦争になり、勝利して現在の地位を得る。

建御名方神の氏族は諏訪氏で、代々大祝を担い
洩矢(モレヤ)神の氏族は守矢氏で、代々神長官を担う。
どちらも、神から続く家系図を持ち、諏訪では神として扱われていたが
既に大祝は途絶え、神長官についても守矢氏は生き残っているものの


洩矢神    →千鹿頭神 →児玉彦命
建御名方神 →片倉辺命 →児玉彦命

↑ここ

片倉辺命─(実子)→児玉彦命
         ↓
千鹿頭神─(養子)→児玉彦命

知名度としては落ちるものの、御頭祭も奇祭として有名。
狩りを行い鹿を得て、頭を切り落として捧げるが、その数が75頭とかそんなレベル。
(現在は非常に残念な事に剥製を使っています。神様怒るだろjk)
それ以外にも鹿の「脳和え」「生鹿」「生兎」「切兎」「兎煎る」鹿の五臓などが神饌として捧げられて居た。
ちなみに兎はまるごと一匹、下から串刺しにして立った状態。

諏訪で鎌を軒先(?)に飾るという風習があると聞いたのですが、
これについて詳しく知っている方がいたらいろいろお話を聴きたいです。
どのようないわれがあるのでしょうか?
諏訪大社と関係はあるのでしょうか?


2挺の鎌(男鎌・女鎌)を日室に迎え、同地の開祖の屋敷跡に2番奉斎する
http://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/minzoku/k2-4.html


鎌宮諏訪神社(鎌の宮) 石川県鹿島郡中能登町 15.11.23
http://genjin.cool.ne.jp/suwasya/kamanomiya.htm

 



この由来をみると狩猟時代が彷彿とする内容である。長野県となると山深いから狩猟が盛んだったのである。縄文時代にもさかのぼる古い謂われが祭りとなって伝えられているのである。


諏訪神社は古いから全国にあるし相馬藩にもある。相馬市の黒木の諏訪神社は立派である。神田として諏訪田という地名も残る。この諏訪神社は由来が非常に古い。出雲から天津神の建御雷之男神に追われ信州の山深く逃れた先祖になった。天文年間から室町時代に由来を持つとして文書もあるとかになるがここには相馬氏が移動してきたときもたらされたものだろう。

『奥相秘鑑』によれば、一族・家子郎従を率いて奥州行方郡太田に入った重胤は、下総から鳳輦に奉ってきた妙見・塩竃・鷲宮の三神をここに勧進したのち小高村に移り、城を築いて本拠としたという。

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相馬重胤
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/soryo14.htm#sigetane


この案内板と神社がある場所が問題である。ちょうど八重米坂をおりた所であり山を越えてここに休む場所としてふさわしい。片倉村の入り口だったのである。そこに片倉辺の神を祀ったからここが片倉村になったのだ。建御名方神 →片倉辺命が由来であった。各地にある片倉の地名はここに由来しているのが多いのだろう。伊達氏の片倉氏は有名でもそれが地名化したわけではない。氏族名は地名になるのがまれだからである。ここから下って旧陸前浜街道の交差点辺りに塩釜神社の案内があった。そこから先に行くと太田神社になるからその跡が裏付けられる。いづれにしろ戦乱があり相馬氏はここに逃れて新しい相馬氏の基礎を築いたのである。初発神社とはここから始めるという意味もあったのか、その場所が歴史を如実に示しているのである。


野馬追いの旗をみると渡辺氏があり今も渡辺氏の墓が分家となって並んでいる。旗も分家して新しい旗となった。もともと渡辺氏の旗は一つでありここにきて分家して新しい旗になった。その旗がもともと共通したものとしてあった。分家した旗はわかりやすい。そういう旗も多いことは確かである。そういう旗は分類しやすいのである。


鎌の旗は一つのと二つが組み合わせたものがあり男鎌と女鎌に由来するものだろう。鎌の由来も諏訪神社から由来したものでありそれが旗印になった。片倉村の由来は相馬重胤から始まっていることは間違いない、地名としてはすでに相馬氏が移住する前からあったものが多い。古代の地名が多いがこの片倉村は片倉辺の神を祭ったものであり相馬重胤に由来していた。だから一面新しい地名だとも言える。おそらく相馬氏がきたときは原野か森だった。そこを開墾したのである。その中心になったのが渡辺氏であった。

katakurahata123.bmp


南相馬市片倉村の謎
http://musubu2.sblo.jp/article/28478326.html

posted by 老鶯 at 16:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2011年08月28日

鎮魂の野馬追い (NHK-復興を願い今年も野馬追い)


鎮魂の野馬追い

(NHK-復興を願い今年も野馬追い)

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亡き妻に法螺貝鳴らしもののふの役目を終えて今年も帰りぬ

朗々と法螺貝鳴りぬあわれかなあの世の妻にひびく音なれ


養いし愛馬にも傷津浪にも助かりにつ出陣果たす


馬一頭津浪に流され野馬追いに今年はいでず無念なるかな

 


野馬追いは今年も開催されたけど6分の一だから迫力なかった。それでも特別の野馬追いになった。NHKで放送していたのは海老村だったようだ。あそこは高いのだけど村がほとんど壊滅した。墓所のあるところは高いから残った。高くても海に接していれば被害が大きかった。崖の上でも何人か死んだのには驚いた。


おくさんがいろいろ世話して毎年野馬追いに出ていた。それでおくさんへの思いが深かった。
墓であれ津浪に流された家の跡や村の跡で法螺貝を吹いた。それが今回は鎮魂の法螺貝なった。一段と思いのこもるものとなった。他でもなんとか祭りをしようしたり津浪の被害はいろいろでありとても語りつくせない、烏崎に水葵が咲いたのも驚きだった。津浪で上の土が流されてそれで下の土から水葵が咲いたというのも不思議である。これは自然現象だけど人間的なものとしてもいろいろなことがあった。馬まで流されて足に傷があった。一頭は助かったが一頭は死んだ。馬も無念だったとなる。


野馬追いは侍-武士(もののふ)の伝統を残すものだけど作法として残っているだけで侍の精神というのは何なのかわからなくなった。でも作法でも伝えられていればそこから侍とは何か学ぶものはある。武道などは型から入るし型を徹底的に教え込まれる。つまり精神より形から入るのが武道なのである。本当の戦になったら型など関係なくなる、でも平和時になれば戦闘でも型として教えることになる。だから野馬追いでもそれぞれの役目があって型があってだいたいその通りにする。いづれにしろ野馬追いでは侍の姿を見ることができるが侍とは何であったか今となるわかりにくい、武士道と言っても明治以降は別なものになっていたのだ。それでも実際の姿として侍を見るのは野馬追いであり貴重な祭りなのである。


いづれにしろ今回の野馬追いは津浪の被害を受けた人には特別なものとなった。何とも悲しいというか切ないとういかそういうものを見ただけで感じた。野馬追いは今や本当に雲雀が原で集結してやれるのかとなる。相馬藩というのが崩壊の危機にたたされた。もちろん相馬藩はなくなったのだけどその伝統の祭りの維持も危機にたたされたのだ。

ご冥福お祈りします


がれきから救出の馬も津波被害にあった南相馬市では、厩舎のがれきの下から3週間ぶりに馬が助け出だされ、出場を目指めざして練習に励んでいます。復興の願いを込めてつけられた名前は「日の出」を意味する「サンライズ」です。
http://mainichi.jp/life/edu/maishou/kousaten/archive/
news/2011/06/20110607kei00s00s009000c.html

posted by 老鶯 at 18:25| Comment(3) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2011年08月23日

コメント一つ削除(相馬郷土史のプログで)



要請がありましたので一つのコメント削除しました


メ-ルを読まないときあるので・・・コメントを削除してくださいと書いてください


メ-ルが読めないのは宣伝が多すぎて開いていないです


実名など出して困る人があると思いますから削除するときも実名は出しません


インタ-ネットはいつまでも残るので困る人がでてくるかもしれません

プログでは相手のことが良くわからないので最初は匿名で書き込みをして

あとでメ-ルなどで連絡するといいようです

連絡は匿名でコメントでしてメ-ルを出したよと書いてください

posted by 老鶯 at 12:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2011年08月10日

UNITED SOMA MAP(相馬藩内の市町村)


UNITED SOMA MAP(相馬藩内の市町村)

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相馬藩くらいが人間としてちょうど地理的ちも一体感をもてる世界だった。余りに広いと人間は地理的に把握できなくなる。これはあくまでも地図上ではなく人間のヒュ-マンサイズとしての感覚である。相馬藩くらいの地域がちょうど人間の感覚でとらえられるのである。ここには海もあり街もあり山ありと世界の縮図としての世界がある。飯館村も山中郷としてあったのはやはり山から水が流れてくるからである。そこで地理的にも一体感があった。放射能騒ぎでセシウムが流れてくるとか問題になったのもそのためである。水の供給地として飯館村があった。浪江も標葉郷としてあり葛尾村も飯館村と同じ山中郷としてあった。双葉町が相馬藩の境界だった。この辺までが一体感がもてる。歴史的にも地理的にもそうだった。ただ放射能を考えるとこんなに広範囲に影響するとは思わなかった。中通りはもともと地理的一体感をもてない、それが放射能でかえって影響が大きかった。風には境界はなかったためである。

ともかく相馬藩は山あり海あり平地ありといいところだった。気候的にも今年はそれほど暑くない、去年は本当にここも暑かった。でもここは海からの風が吹いてくるからそんなに暑くならない、気候的には恵まれた所であった。それだけはいい所だと思っていた。会津のように雪も降らない、松川浦などの浦ももあった。明治時代前は八沢浦は文字通り浦であった。それを津浪が再現したときは驚いた。いつもあそこが入江になっていることをイメ-ジしていた。しかしあの浦浪が奥によせてきた。、春の光にきらきら光りよせてきたことは想像できなかった。想像を越えているのが自然だった。一度しか見れないにしても現実に見たことは奇跡的だった。あそこは都の役人が歌ったようにそういう場所だった。松原はなくなったが津浪にも残った松は記念の松となった。右田浜は昔の湿地帯にもどった。


橲原は奥まった所であり南相馬市の鹿島区の奥座敷である。江戸時代は大原もそうだった。県道が通りそういう雰囲気に欠けるようになったが「大原山人」という人がいたことでもあそこはやはり橲原とにていた所だった。小高は縄文時代の遺跡が多いということは昔から貝などをはるのに適した場所だった。相馬藩でも山には山の役目があった。木材や馬の飼料となる草が多かった。だから馬を多く飼っていた。その馬は三春藩などにも売られた。葛尾村となると三春藩に近いから藩主が葛尾大臣が招待したというのもわかる。鉄作りでは鉄の素材となるものを請戸港から岩手県の宮古からも運んだ一大製鉄所として栄えた。製鉄となると大量の薪が必要になるから山の方がいいのである。

相馬藩は確かに海があるということが福島県の中で違っている。飯館村を通り塩の道があったというのもそのためである。原釜には塩田があり双葉町にも塩田があり塩を東京の方に売っていたということもあった。その塩田が東京の財閥に買われやがて原発が建てられたのである。



昭和38年には用地交渉中であったので、現地調査は東電の人とさとられないように若い女子社員を連れピクニックをする格好をして日曜日にサイト内を歩いた。5千分の一の航空写真化地形図を頼りに中央の沢を下って海岸に出ると、塩水を汲み上げていたパイプの配管が寸断されたまま沢の途中に残っていた。沢の上方に古ぼけた掘立小屋(若衆宿跡?)がありその北方に平坦で広大な塩田用地(元陸軍訓練所飛行場)があった。
http://tokyopastpresent.wordpress.com/2011/04/07/



そもそも夜ノ森は余の森であり相馬藩主が余の森として境界争いしたところである。だから原野の風景が明治以降も残っていた開墾されたのである。原発の位置としてはいわき市の昔の平からも離れているし相馬市からも離れているから適地だった。しかしこれほど相馬藩内が原発事故になり苦しむことは想像できなかった。それだけ原発問題は国民的にも県でも市町村でも隠されたものとして秘密のベ-ルのなかにありうかがい知れないものとしてあったのだ。それが今回の事故にもつながっていた。城のあった相馬市は辛うじて被害がまねがれたにしても相馬藩内はぐたぐたに傷ついた。回復されないほど傷ついてしまったのである。


橲原村と大原村の地想学(トポス)

http://musubu.sblo.jp/article/43639625.html

posted by 老鶯 at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2011年08月09日

家という建物の歴史 (土地や家に愛着するのはなぜか)


家という建物の歴史
(土地や家に愛着するのはなぜか)




家という建物の歴史


裸電球一つが灯っていた
北風がうなっていた
ヒュ-ヒュ-と北風が吹き込んだ
布団にくるまり寒い寒いと寝た
その頃暖房は炭だった


トタン屋根の古い家だった
雨漏りがして洗面器を家中に置いて大騒ぎ
道は舗装されていず砂ぼこりがあがる


この家は二度も水害にあった
土地が低く堤防がまだ安全ではなかった
家はめちゃくちゃにやられたが
辛うじて残った
子供のとき泣いた


その時どうしても二階がないので
ものを二階に運べず逃げられなかった
だから二階のある家を建てようとした
そして大きな二階のある家を建てた
それを姉は自慢していたが
その姉も死んだ


その家を自分が引き継いだが
今度の地震で瓦など壊れたが
40年過ぎてまだ使える
ただ大きな家だが住める
死ぬまでここに住めるだろう

水害はもうありえないだろう
安全な堤防ができたからだ

こうして家にも歴史がある
家には歴史の重みがある

もっと古い旧家なら大黒柱が黒光りして
江戸時代からの歴史を語るものもある
この頃の家は寿命が短い
それだけ家の歴史の重みが残らない


何事過去をふりかえって今がある
家一つにも歴史があり
家は実際は風雨に耐えて残っている
この家もがんばってくれたなとか
そういうことを思うのは家にも歴史があるからだ



最初住んだ家は平屋で古いトタン屋根のいかにもヤハな感じのする家だった。この家は最初、人に貸していたことがあった。長屋みたくなっていた。それでそのことを姉は語っていた。自分が生まれたときは長屋ではなくなっていた。子供のとき小学生頃までは燃料は炭だった。その頃生活は江戸時代とたいして変わりなかったのである。そういう生活体験があることは今になると貴重である。あまりにも変わりすぎたからである。家には裸電球しかなく、電気製品はなにもない、飯台一つを囲んで家族で食事していた。これは自分の家だけではない、他でもみんな同じだった。小学生から中学校になるころテレビがでてきてその頃から急速に変わりすぎたのである。水害は二度経験している。自分の土地は低くて一番被害が大きかった。よく流されないと思った。電柱があって流れたものがそこにひっかかり辛うじて残ったのである。その頃真野川は安全な堤防が作られていなかった。二度目の水害の時もそうだった。それから安全な広い川にして堤防も頑丈になり水害はなくなった。


家一つにもこうして歴史があるとき家そのものに愛着を覚えてくる。家にはそれぞれ歴史があり郷土史がその個々の家からはじまるというのはそのためである。特に祖父母から聞く話から郷土史がはじまるというのはそのためである。こうした歴史をふりかえるのは必ず今を見直す、今の価値を見直すことになる。原発事故があったけどこれもなぜそうなったのか、そこにはやはり40年くらいたっているからその歴史を見直すことからはじまる。何かを語る場合、批判するにしても歴史的に語らないと本質的なものが見えてこない。人間は歴史的な継続の中で生きているものでありその歴史が喪失すると現在のこともわからなくなる。津浪にしても貞観津浪の再来だったことがわかった。その歴史が見逃されていたのである。千年前に大きな津浪が来たということを東電に学者が言っていて注意をうながしていたのである。だけど東電では笑ってとりあわなかった。そこにやはり歴史的に思考することが欠けていたのである。


人間は目先の利益に眼を奪われるだけではなく、先の長い眼をもつ必要がある。そのためには過去のこと歴史的思考を身につけることである。ところが人間は目の前のことに心がすべて奪われる、すると過去のことは見えなくなる。過去が見えなくなることは実際は未来も見えなくなっているのである。過去と未来は一体なのである。現在と未来が一体なのではない、過去と未来が一体なのであり現在から未来は作れないのである。今の問題は過去を掘り下げることにもなる。地震の液状化になったところは昔は沼だったとか今回の津浪に襲われた所はほとんど開拓されたところでありそこは海だった。その海にもどったというのもその一つだったのである。どなん小さな村でも町でも日本では長い歴史がある。だから双葉町でも今回原発事故で避難した市町村の人達が故郷に帰りたいというとき、自分のような二代目くらいでもこうして歴史をふりかえるのに長い歴史をもって生きてきた人は愛着があり帰りたいというのはわかる。他に移ったらその土地と共にあった歴史が失われる。だから先祖代々の土地から離れたくないというとき、そこには自分の家よりも長い歴史、江戸時代から農家をつづけてきた同じ土地でしてきた人がいるからそうなるのである。

 
 
posted by 老鶯 at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2011年07月26日

日立木村の街道の細道


日立木村の街道の細道

城外の街道の松並木

相馬藩の名残りなれ

日立木の村の道の細しも

畑に埋もる碑のあわれ

社に飢饉の碑も忘らるや

つつましき昔の暮らし

近くに武士の墓そあれや

竹内の姓は何を語る

なお一本の松や残りぬ

夕日のさして蝉の声

微かにひびきて暮れぬ


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昔の街道の道は細い、だからこそ「奥の細道」だった。相馬市からイオンス-パ-の脇の道が街道だったけど実際本当に細い道である。昔を偲ぶというときこの細い道を行くことなのである。
車ではなかなか偲べない、相馬の道の駅から分かれて日立木村に入る道に忘れられたように小さな碑が傾き埋もれている。その道がいかにも細いのである。両脇に家が並んでいるから昔からあのように家が並んでいた。ただ数は少ないだろうし茅葺きの屋根だった。あそこは相馬から近いから宿場町ではない、それでも昔の名残というのは残るものである。これはなかなか地元の人でないと気づかない、人間が無常だというとき人間は過去のことは忘れやすい、人はが死ねば肉親すら遠いものとなりその存在も不確かなものになる。そして昔はただひっそりと埋もれてしまう。わずかに小さな碑に刻まれた文字、墓の文字でも昔を語ることになる。それしか昔を探る術がなくなる。それほど人間とははかない存在である。でも日立木村に昔の村のことを思い浮かんだ。何百回と通ってもなかなかそこを昔の村として意識することはなかなかないだろう。昔を偲ぶことは人間は簡単にできない、時間がかかることがこれでもわかる。旅をしても常に車が頻繁に行き来して現在の状態にすべて心が奪われる。それで過去はなかなか偲べないのである。
日立木(日下石+立谷+赤木)も合成地名である。赤木というところに太い松が斜めになって残っている。あそこも街道の名残りの松である。日立木の通りは江戸時代は立谷である。その名にもいわれがある。


旧相馬藩領では、獅子頭を被って舞う神楽(いわゆる獅子神楽)が今も数多く伝承されています。相馬地方は昔からヤマセ(夏季に吹く冷たい東風)による冷害のため、たびたび飢饉に見舞われ、多くの餓死者を出してきました。特に天明の飢饉では、藩内の人口が3分の1にまで減少したそうです。そのため人々の豊作への願いは切実で、こうしたことも神楽などの民俗芸能が盛んに行われてきた背景の一つとされています。
http://musubu.sblo.jp/article/14814569.html


薬師堂とあるのも医者にかかれない時代は薬師堂にお祈りするほかないからどこの村にも身近なものだった。一つの村があるときそれは今とは全然違っていた。一つの村として生活が完結するような所があった。それで日本では村のもっている意味が大きいのである。

イオンス-パ-の街道の近くに竹内姓の墓所がある。ここは相当古いから一見の価値がある。妻の実家の姓と夫の姓の二つが墓に明記されている。武士にとって実家は出自から離れられない,武家の場合には誇りがあった。それで実家の姓も墓に記した。昔を語るとき墓はその拠り所となる。
 
ここで越中とかからの真宗の移民は必ず交じっている。亘り(理)村から来ていた人もいた。伊達藩と相馬藩はつながりが深い、妙見神社が亘理まで多いことがそれを示している。相馬藩からも伊達に移った人が多い、後は妻を迎えるのに角河原とか北郷関係があり昔の婚姻は相馬藩内が一番多いのだ。今は大変な広域結婚である。今回の原発事故で避難した人は沖縄から北海道まで全国に及んだ。娘とかが結婚で遠くに嫁ぐのが普通となっているからだ。それでなるべくと遠くに離れた方がいいというとき助かったという面がある。さすがにこの辺で外国まで逃げた人はいない,東京ではいたみたいだ。外国に避難することは金持ちでは容易な時代だからである。

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しかし故郷とは何を意味しているのか?日本と何なのかというとき、それは過去と歴史と深く結びついて意味がもたらされている。それで今回
の原発事故で故郷を離れ避難した人が双葉町や浪江町でももし故郷を失うことになるとどうなるのか、こうした過去の記憶や記録が失われる。江戸時代からつづいた記憶が失われる。江戸時代は日本では大きな意味をもっていた。人間の存在も歴史的存在でありそういう歴史が失われたとき人間の存在の意味は現在だけとなってしまう。こうして過去を偲ぶこともできなくなる。アメリカ人のようになってしまう。何気なく忘れたように残されている歴史は確かに個々人が見出さないと浮かんでこない、しかしその忘れ去れるように残されているものさえ失われたら何をもって過去を思い出すのだろうか?故郷から土地から離れたらそうなってしまう。人間どこに住んでも変わりないということもいえるが過去との歴史とのつながりをもたないと人間の存在意義は希薄となる。人間は歴史的連続性に生きる、それがなくなれば人間には現在しかない動物と同じになるのだ。

 



相馬市(日立木の薬師堂の宝暦の碑−甲子塔の謎)
http://musubu.sblo.jp/article/14317961.html


相馬市成田冬の短歌十首(竹(武)内氏の墓-続編)

http://musubu.sblo.jp/article/34648790.html


相馬市成田の竹内氏の姓の由来

http://musubu2.sblo.jp/article/34390223.html


これらは連続して読むものである。プログは断片的に書いているがあとで編集してまとめる必要がある。日立木付近のことでこれだけ書けるのも積み重ねである。

 
posted by 老鶯 at 11:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連

2011年07月24日

野馬追いの旗の数から相馬藩内の人口増減を見る


野馬追いの旗の数から相馬藩内の人口増減を見る

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これは旗の数である。(相馬市士6)
この資料から見えるものは何なのか?野馬追いに出る数を見れば一番多いのは城下の侍である。810となると多い。でも野馬追いには馬が必要である。その馬を城下町の侍屋敷で飼えたのかとなるとそんな広い敷地は相馬の城の回りにあったとは思えない、一部の上級武士にあったかもしれないが800人も出る馬を用意はできない、でも馬は今の車と同じであり農家には馬が運搬用や農耕用に必ず飼っていて馬小屋があった。在郷給人で農民しながら武士だった家には馬は飼っていたから野馬追いの馬はあった。ただ市中になるとこれだけの馬を飼うことはできない、それでも馬は常に欠くべからずものとしてあった。
 


北山八景

田町晩煙      田町晩煙

秋気晴来市肆中   秋気 晴れ来たる 市肆の中、
連甍両両満西東   連甍 両両 西東に満つ。
人烟斜繞城湟外   人烟 斜めに繞ぐる 城湟の外、
士女縦横向晩風   士女 縦横 晩風に向かう。


《意味》
秋の気配が漂い、晴れ渡った商店街、

連なった家々が向かい合って軒を並べ東西に伸びている。
人も夕餉の烟りも城堀の外に繞ぐって流れている。
男も女も晩風に向かい忙しそうに行ったり来たりしている。
 *田町=地名
 *市肆(しし)=店、商店。
 *連甍=連なった屋根。沢山の家並み。
 *両両=二つずつ。二つながら。
 *城湟=城の周りの堀。
 *士女=男と女。男女。
 *中・東・風は上平声一東韻。
 *作:水慎君奉

《コメント》
 中里哲義
  道ひろき 御代になびきて 立ちそふや うまやつづきの 暮れのけぶりも



 うまやつづきの・・・厩がつづいていたのだから馬をその辺では飼っていたから野馬追いの馬は用意された。晩風が吹く時まで歩いていたとなるとその当時ではにぎわういをみせていた。連甍というと甍とあるが甍の屋根はそんなになかったろう。茅葺きの屋根が多かった。軒を並べることがあるから相馬では一番にぎわう通りだった。

この数字を見て小高が意外と少ない、もともと相馬藩の城は小高にあった。浮舟城である。浮舟とあるのはその当時回りは湿地帯だったのか?そこから村上とかに城を移し宇多に移った。
その時職人なども移動したから小高では少なくなったのか?北郷(鹿島区)が意外と多いのは宇多郷に隣接しているからなのか?宇多郷と北郷が合流して雲雀が原に出陣する。


今の原町の名の起こりはまさに原っぱであり野馬原であり今の市街もほとんど野馬原であり野馬土手が回りに築かれ多くの木戸があり出入りを管理していた。木戸守も置かれた。その地名の名残りとして大木戸村がある。今の原町区では大きい村である。これも江戸時代は牛越村のなかに大木戸村があり牛越が中心であった。原町市の由来となった原町村は小村であり一騎しか野馬追いに出ていない、原町は江戸時代は文字通り原っぱであり小村であり今のような家はなく城のあった相馬市より人口も少なかった。原町宿として発展した経緯があり町の規模は小さかった。明治以降近代化して発展した市だった。その象徴が無線塔だった。その前までは野馬原としてあるだけであった。



原町飛行場のあった場所は、かつては周囲を野馬土手で囲まれた中村藩の放牧地で、
牛越原と呼ばれ、一般には野馬原と称していました。
明治初年、放たれていた野馬は捕らえられ、広大な原野は民間に払い下げられました。
雲雀ヶ原(ひばりがはら)と名付けられた原野は町の権力者に買い取られたところが多く、

他町村から多くの入植者がやって来て、借地して耕作地に変えていったのでした。
「野馬原」が入植地として変化を遂げていく一方で、
1919年(大正8年)、原町議会では飛行場の誘致を試みています。


「墾心楽土」 碑文(全文)

この地区は 藩政時代は野馬の放牧地であったが 明治維新に官地編入となり 
其の後部落有志に払い下げられた処である
昭和十五年 原町飛行場が新設され 強制移転となった農家が 
この地に転住し林野を開畑したが戦事下の食糧難や物資不足の時代の開墾には
並々ならぬ困難を極めたのであった
漸く開畑を見たが幾多の被害に適作物も数少なく悩まされ続けたのであるが 
昭和三十五年頃より水稲が作付され 飯米の確保が出来安心を得たのである 
http://1901rjtt-to-roah.blog.so-net.ne.jp/archive/c2851-1

この歴史は双葉町とにている。あそこももともと陸軍の飛行場があったところと聞いた。その跡に原発が建てられた。公共事業のようなものとして必要だった。反対したのは軍関係の施設であったからであり危険なものでもあったからだ。事実戦争になり爆撃の対象とされる。そういう物騒なものだから反対した。それは双葉町の原発の誘致ともにていた。軍事施設ではなかったが危険なものだった。歴史はくりかえすとはつくづく今回の津浪や原発事故で思い知らされた
この大津波だって5百年前に相馬藩にあったらしいがその頃の記憶が丁度消失したとされている。貞観津浪では相馬氏奥まで実際に津浪は来ていたし証拠も科学的に土から発見された。
つまり今回の津浪や原発事故でも人間は同じことをくりかえすものだということを思い知らされた。歴史はくりかえす・・・は自然災害でもそうだし人間の事象でも同じことが起きてくる。浜通りがまるで戦争状態みたくなったことでもわかる。いろいろ変わったように見えても人間そのものは変わっていないから同じことが繰り返しが起こるのだ。

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2011年07月23日

今年も野馬追いは一部行われたが・・・

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相馬市(宇多郷)の行列

巫女が出ていたのは面白かった。




南相馬市鹿島区(北郷)で宇多郷と北郷が合流する

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宇多郷と北郷が合流して出陣の式



相馬より旗を追いつつ北郷に来たりてその旗我は知りにき

北郷の大将の家に陣を張りいざ出陣やひまわりの咲く


宇多郷と北郷の陣合流しいざ出陣や法螺貝鳴らす

 


今年は相馬市まで行列見に行ったけど数が少ないし盛り上がらない、野馬追いどころではない、野馬追いの楽しみ方というか見方が意外と地元に住んでいてもわからなかった。野馬追いは行列の前からすでにはじまっている。馬が出る家には前日から旗が立っていた。するこの村のこの家からこんな旗印が出ているとわかる。そこまで地元の人でも詳しく見れない、行列とか旗取りを見て終わりである。野馬追いに出る家はなかなかわかりにくい、一見相馬ならみんな野馬追いに出ると思っているが限られた武家の出の人しか出れない祭りなのである。500騎出たとしても人口からすると非常に家としては少ないのである。村から数軒しか野馬追いには出ない、祭りだとネブタ祭りのように誰でも参加するのが祭りだと思っているが野馬追いは違っている。選ばれた昔の武士の出の人だけが参加できる祭りなのである。わずかに自由参加を許される人はいるがそれもごくわずかであり参加できないのが野馬追いである。


今回は相馬市まで行ってはじめて行列を見た、そしてそこで旗を確認して旗を追って北郷(鹿島区)に来た。するとあれは相馬市(宇多郷)の行列に出て北郷(鹿島区)に来たということがわかる。そういう見方がなかなかできない、実際この年になるまで野馬追いの見方がわからない、結局地元でもわからないことはいくらでもあるのだ。灯台もと暗しなのである。旗の種類も多いしそのル-ツをたどることはもはやできない、それがもどかしいのだがどうにもならない、鹿島区には仮設住宅に小高区の人が多数入ったから鹿島区で見ることになった。小高区からは野馬追いに出ない、浪江や双葉まで相馬藩だけどここからも騎馬がでないと野馬追いは盛り上がらない、そうしたかつての相馬藩を再現して歴史的アイディンティティを確認するのが野馬追いの祭りだからでもある。雲雀が原の神旗争奪戦にそれが全部集る時壮観なものとなる。それができなくなったら野馬追いさえ危機にひんすることになる。小さな限界集落では祭りさえできなくなって跡継ぐものがなくなって消失する所もある。それはやはり歴史の消失だった。飯館村の大倉は古い村であり葉山の古い祭りがあったが今はダムに沈んで消失した。近くに「大倉ばっば」といわれる人が住んでいた。当時多額の補償金をもらったので大倉御殿といわれる所もあった。双葉の人で避難した人が相馬藩の武士の出だとかその系図を示したものもいた。
祭りはその土地のアイディンティティを確認することでありそれもその土地に残る理由にはなる。


ともかく今やこの辺は家族までばらばらになっている。松川浦で魚の行商に来ていた女性も母親と共に娘の元へ避難した。それで昨日自分の家に来て仕事がないかとか来ている。仕事がなくなって困っている人はたくさんいる。南相馬市から浪江,双葉は縮小して一部は消滅してしまう危機である。浪江焼きそばとか宣伝していたがそういうものでとても町民のつながりは保てないだろう。何をもって故郷に住み続ける理由となるのか?それは各自違っている。双葉などは悲惨である。未だに原発を増設して金をたかっている。原発に頼る意外、生活する道がなくなってしまっていた。麻薬を売って生活する他ないとアフガニスタンの部落と同じである。もはや回りの迷惑など考えない、自分たちの生活だけを優先する。でも回りにこれだけ迷惑をかけるものを許すわけにはいかない、双葉町の人にはその近くの回りの人も怒りを覚えるようになっている。原発はあまりにも危険すぎたのである。

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山中郷は今の飯館村と葛尾村であり江戸時代は野馬追いに参加していたが今は参加していない、標葉(しめは)は浪江であり双葉も入る、そこが参加しないと数的にはかなりへる。

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2011年03月03日

南相馬市鹿島区横手古墳群の謎

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南相馬市鹿島区横手古墳群の謎

横手古墳群は道の側にあるから目立つ。目立つものはそれが重要でないものでも意識するのだ。誰でも横手古墳群は鉄道からも見えるし車で行っても見えるから意識するのだ。でもこの古墳群は寺内の金銅双魚袋が発見された前方後円墳がある場所より重要ではない、でも寺内の前方後円墳は形もはっきりせず通っても何かあるかわからないから意識しないのである。桜井古墳は大きく作ったから意識するのだ。人間はそれが過去にいかに重要なものでも今に目立つものにしないと意識しない、重要なものと思わないのである。今の時代から常に過去もあるのが歴史なのだ。今重要視しなければ過去にいかに重要な地点でも意識すらされないということである。

横手古墳群の謎は鹿島区全体の歴史と地理の中で解明される。歴史も一地点を解明するには全体を視野に入れなければ解明できない。あらゆるものは全体の一部であり体ってそうである。郷土史研究がまず村の土地の新旧を知ることが第一だというときそれも地理は一体となって知るべきなのである。鹿島区の発展経路としては


浮田国造→寺内の前方後円墳(大和系)→屋形(鎌倉時代-岩松氏)→江垂中館(南北朝)→田中城


浮田国造(くにのみやっこ)が最初にありこれは毛野氏系統の支配下にあった。ではその場所はどこかというと地図を見るとわかるがそこはやはり鹿島区の中心地にふさわしい場所だったのである。比較的高台であり平地になっている場所だった。この高低は平地でもあり地図を見ただけではわからない、この高低差は実際にその土地を踏んでもわかりにくい、ともかく浮田は鹿島区の中心地にふさわしい場所だった。そこに最初のクニが国造があったことは納得がいく。そこで横手古墳群の謎は寺内に金銅双魚袋が発見された前方後円墳があるからそこに古墳文化がもたらされた。そこから波及して小池にも二つの古墳群がある。原町区の桜井古墳の前と後ろにも古墳群があった。つまり大きな前方後円墳から小さな円墳の群が作られた。一つの村の祭祀から氏族が文化していった。本家と分家ににている。横手古墳群なぜあの地域にあるのか?寺内の前方後円墳がある場所から離れているからだ。その謎は浮田国造にあったのだ。


「よ」の単語家族
「よ」が「水平方面の中でも近い周辺」であるとすれば「他所(よそ)」は「周辺部の背(そ)」と解釈できる。「寄る」「呼ぶ」は周辺部からの移動
の意味を含んでいる。
http://www.eonet.ne.jp/~unolab/timei5/timei5.htm


ヨの不思議はヨン(四)であり蓬(よもぎ)四方(ヨモ)に広がるとかあり横浜とか横手とか横のつく地名は多い。ここの怪しい地名研究は面白い。統計的に研究しているからそれなりの信憑性がでてくる。ここまで研究しているとなる学術的にも価値あるものとなっている。


ヨコはよけるでもあり浮田国造の勢力からよけるために横手となった。桜平山の下に第六天の祠がありそこで大和軍と蝦夷が争った地域とありそこから進軍して鹿島神社を建てた。鹿島神社は大和軍の軍事の神である。その鹿島神社から横へ伸びた所が横手古墳群なのである。それは浮田国造の勢力をよける、さけるようにして作られた。ということは大和軍が毛野氏系統の浮田国造の土着民と戦かったからである。蝦夷とは実際は何者なのかわからない、ただ大和朝廷に逆らった人たちという意味でありそれ意外わからない、でも浮田国造があったのだから明かに大和軍と衝突したのである。横手に古墳を作った人たちは古墳文化をまねたのだから大和系統に支配に組み入れられた人たちだろう。それが地理的にも実にマッチしているのだ。地理的には今の鹿島町と横手地域から海に向かう方は湿地帯が広がっていた。それを証明するのが田中城の回りは湿地帯だったことである。だから岩松氏は屋形に館を構え、南北朝時代に霊山から落ち延びた桑折氏などが江垂中館に拠点を置いたのがわかる。田中城は一番あとに作られて最後の攻防の地点の城となった。その歴史的経路が地理と一致しているのだ。このよううに何度も言うけど地理がわかれば歴史もわかるのだ。そしてこの地理がわかりにくいから狭い地方史はわかりにくいのである。鹿島区と原町区だって地理が違っているから詳細にはわかりにくい、地理が長年住んでいないとわからないのだ。

posted by 老鶯 at 20:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連