この記事のつづきです http://musubu.sblo.jp/article/36170587.html#comment「人間は弱者となる体験を心底していないと人間のことはわかりません、それが老人になって誰でも自覚させられる。」
玉本様の発言
兄の訃報を聞いた時、自宅に一人でいたのですがパニックに陥り、母に連絡する前に、近所で可愛がってくれていた独居のお婆ちゃんのところに駆け込みました。相手が認知症だという事も忘れて膝元でワンワン泣き崩れてしまいました。
(そのお婆ちゃんは、私が認知症だと分かり御家族に介護サービスの利用を勧め、今は機嫌よくサービスを利用しています。)やはり弱者に立たれた方は、人の痛みを自分の痛みのように感じて下さって、御自分の御主人や御子息が亡くなった時の痛みを何度も話ながら、私の背中をさすって一緒に泣いてくれました。
私は、認知症の方でも一人の人として接しています。そのお婆ちゃんの魂と私の魂が調和した安心感を得たせいもあって、人前では泣かない私が涙腺が壊れてしまったように大声で泣き続けました。
>やはり弱者に立たれた方は、人の痛みを自分の痛みのように感じて下さって、御自分の御主人や>御子息が亡くなった時の痛みを何度も話ながら、私の背中をさすって一緒に泣いてくれました。
人間はみんな弱者だということを知らないのです。一生強者で終える人もいないでしょう。でも強者であるときは弱者になるということを自覚できない。それが突然病気で倒れたり老人になると体が弱り弱者だと自覚させられる。しかし弱者に本当に同情することはむずかしいです。
いろいろな団体があっても党派があってもそういうところでは勢力拡大が目的で会員にしたくて同情したふりしますが本当の同情はそうした弱い立場にあった人の個人的なものでしょう。
私も近くの人が「かわいそうだ」と姉に同情してくれ辻褄の合わない話にもつきあってくれた。姉はそれで機嫌がよかった。結局今まで親しい人でも相手にされなくなった。でもその人は相手にしてくれたし話をあわせてくれた。それで最期に近くの病院に入ったときその人とあってなぜか笑ったというのも不思議である。
鬱病とか認知症の人は普通は微笑んでも大きな声で笑ったりしない、最後に大声で笑いあとは意識不明になり二カ月後に死んでしまった。ともかくその老人はよほど気の許す人になっていた。あとは相手にされなくなった。その人は今思うと特別な人であり一般的には認知症になったり知的障害者は普通のようには相手にされないのはやむをえないとあきらめた面はあります。唯一同情してくれた老女も今は脳卒中で病院で一年寝たきりであり不思議なのは今もボケていない、認知症になっていない、脳卒中になっても認知症にならない人はならない、平凡な人であれ意識がはっいりしている。過去のことをはっきり覚えている。一方で意識が混濁して何言っているかわからない人も脳卒中だと出でくる。
ともかく人間は病気だけではなく弱い立場の人を理解するには自らも弱い立場にならないとわからないでしょう。後進国でも先進国は弱い立場の人を経済的差で売春とかいろいろ支配できますから、一時日本が強いから中国でも韓国でも日本に虐待されたと恨みをもていますし今度は日本より強くなるから日本が虐待されるようになる。つまり世界史でも強いものも必ず弱いものになるし弱いものもいつまでも弱いものでありえない、強いものなってくる。そういうことは人生の中で常に起きてきますからやはり人間は謙虚であるべきなんですが謙虚であることが一番むずかしいんです、有能な人は奢りがどうしてもでてくるしもちろん権力がある人は当然奢りがでる。
貧しき人が幸いである・・とキリストが言った時、経済的に貧しいのではない、精神的に心の中で自分には何もないということ、才能もない、何か自分でもっているものがない、空虚なことが貧しい意味だたった。だから貧乏でも奢りをもっている人はいますし、精神的なものとして心の貧しいことなんです、自分が何もない何ももっていないという人に神から良きものが与えられるのです。
正直弱者にどう対処するかは非常にむずかしいです。知的障害者など認知症など迷惑だから抹殺ししてしまいとか極論もあります。弱者に光をあてたのはやはり宗教である。人間は一生強者ではありえない、必ず弱者になる運命にある。だかこそ強者の時奢ることは危険なんです。でも実際は自分が弱者になるということは弱者になってみないと自覚できない、自分自身もそうでした。認知症とか知的障害者をかかえることはこんなひどいことなんだと自覚させられましたから、ということは知的障害者がなぜこの世にいるのか?知的障害者などこの世にいないにこしたことがない、病人もそうですよね、ではなぜいるのか?それは結局人間は認知症のように知的障害者にもなりうる、レ-ガン大統領でもサッチャ-首相でも優秀な人でもなりうるんだということ、それはもはや一部の特殊な人ではない、万人の問題として認知症によってつきつけられたのではないか?人間はいつまでも強者でありえない、どんな人でも認知症のような無惨な敗者になるということを神から示されたのかもしれない、人間の知能も体もあてにならないということです。そして結局、NHKでももう新薬が作れない、たいがいの新薬は作ってしまってもう作れないとか人間の病気に対する科学も限界にきているのかなとも思いました。人間の力だけではどうにもならないのか、努力は必要にしても人間にはやはり限界があるのだ。神が創造した人間を唯一知っているのは神しかありませんからそこに限界が生まれる。
金がもっているひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろっとやられる
あたまのいいものはあたまがよわい
あてにするものはみんなあてにならない
宮沢賢治となると能力に恵まれ金にも恵まれ様々なものに恵まれた人だった。しかしこういうことを書いているのだからやはり普通の人とは違っていた。からだの丈夫なひとはごろっとやられる。本当に突然に倒れる、
ごろっとやられるから病気は怖いのだ。あたまのいいものはあたまがよわい
あてにするものはみんなあてにならない
これが認知症だったのです。あれだけ頭のいい人がこういうことを言うんだからやはり並の人ではない、普通頭がいい人はこういうふうに謙虚になれませんから・・・・
時事問題の深層http://musubu.jp/jijimondai39.html#risk
「人間は苦労しすぎて性格が曲がったりしますから余り苦労を背負わされるのもその人によるでしょう。自分は老人でも正直人生の酸いも甘いも御存知な・・・とはなっていません」
玉本様の発言
性格が曲がった人も知っています。
自分が作った苦労なのに甘えが出過ぎて歪んでしまった人も。
生まれた時から親も兄弟もいない可哀想な人もいます。今にも飢え死にしそうな子供もいます。私には筋ジストロフィという先天性の病気で生まれた時から、普通に過ごす事が出来なかった友人もいます。
ですから、私の苦労も苦労の内には入らないと思っています。嫌な目に合わされて、少々、人に対して臆病になった事もあります。弱肉強食の時代ですから、確かに苦労をした人は性格が歪んでしまって、悪事を働いても強い立場に立とうとします。政治家にも似た事が言えるでしょうね。私にも自分に負けて歪みたくなった事は多多ありました。でも、いつも際で引き返すんです。歪めないのは、弱者の立場が分かるからなんです。目先のメリットに目がくらんで、神様の言い付けを守らずにリンゴをもぎ取ったエバにはなれないんです。いやしい人間は最終的には信用を無くしてしまい裁きを受けて、本当の孤独を一生味わう事になると思えるからです。ライブドアの堀江氏や音楽家の氷室氏のように頂点から坂を転がり落ちるような生きかたを見て思いました。損して得を得るといいますが、私は今の世の中を生きて行く上で必要な、温かい心をもった信用出来る人を見つける事が出来るだけで得を得たと喜んでいます。小さな幸せで良いんです。小さくて平凡な普通の幸せを築いて守れるだけで。
やはり、人の痛みが分かる方の口から出る言葉は、温かくて説得力や共感出来る事が多いです。占い師でも外れる事もあります。ノストラダムスの大予言も外れました。人は自分で計画していたことでも外れてしまう事もありますし、未来の事は確約できないのかもしれません。私も、若年性認知症にはなるまい!と予防していても絶対的な確約はしてもらえません。そして、初めての経験は誰でも戸惑い困惑してしまうと思います。小林様も、精一杯出来る事をされたのですから。ブログで文字に残すという事だけでも、お姉様や人を大事にされておられるお人柄が伺えます。そういう温かい御気持ちが持てるという事は、年齢的にも余裕がなければできない事だと思います。年をとっても、いつまでも自分の事しか考えられずに弱い者を食い潰し天国には行けないような生きかたをいている人もいます。
私は、私の事も気にかけてくださりながら、御自分の心も正直に語り謙遜されておられる小林様の存在にも感謝しております。世の中、捨てたものではありませんね。人を思いやりながら共存共栄できれば平和で穏やかな世界になるのに…自分の事しか考えられない横暴な人が減って、お互いを大切に出来る思いやりのある人達が増える事を願って止みません。
温かいお返事、有難うございました。感謝。
(訂正)音楽家の氷室氏ではなくて、「小室氏」の間違いでした。すみません。
プログ主(小林)の発言 >性格が曲がった人も知っています。
>自分が作った苦労なのに甘えが出過ぎて歪んでしまった人
>生まれた時から親も兄弟もいない可哀想な人もいます。今にも飢え死にしそうな子供もいます
>私には筋ジストロフィという先天性の病気で生まれた時から、普通に過ごす事が出来なかった>友人もいます。商売柄というのはなんですけどいろいろな人と接していられんですね、実際にそういう悲惨な人と接するのは辛いです、脳出血になった老人で泣くことと笑うことしかできなくなった女性がいました。本当にかわいそうでした。でも泣くことができて笑うことができることが人間であるということも認識しました。泣くことも笑うこともできなくなったら人間じゃないのかなとも思いますから、しゃべれなくても泣き微笑むということは人間が人間であることの最後の条件だったのかとも思います。 筋ジストロフィというのもテレビで見ていますからわかります、いろいろ悲惨な人がでてきます。そういう人と接することは本当にむずかしいです。生半可な同情でできないですから・・・看護婦(師)さんには頭が下がります、過労死になる看護婦さんもいたとか実感しました。病院にまかせきりにする人が今多いですから、最後は病院で死ぬのがほとんですからこれからは看護婦さんは最後の看取りの現場にいることで重要な役目をますます担うようになります。だから人手がたりないとか余裕がないと本当に大変だと思います。
>性格が曲がった人も知っています。
>自分が作った苦労なのに甘えが出過ぎて歪んでしまった人
人間やはりあまりにも過酷だと耐えられなくなる。その人によりますけど介護とかで若年性認知症の夫なり妻なりを介護したりするのは経験したから本当に大変です。まだ若いのに親の介護をさせられるのも大変です。十年とかしている人も今ではいますから、そしたら自分の人生が犠牲にさせられますから・・・本当にそれでいいのかどうか疑問にもちます。いくらかわいそうだとと言っても若ければ若いほど自分の人生がありますから、まあ、介護は60以上になると世話になったしいろいろなこともしたからしょうがないかなともなるが親のためでも30代とかなるときついですね・・・
性格が曲がった人というと若いとき夫が大病になりその夫がそれで性格が歪んでしまった、自分が障害者となり妻に頼るようになりプライドがそこなわれた、それで妻に背中を蹴飛ばしたりと何かと妻にあたるようになり妻の性格も歪んでしまった、一生その人は障害をもっていましたから・・テレビドラマでもやっていました。鬱病になった若い夫を若い妻が働いてめんどうみなければならなくなった、夫はうじうじオレはだめなんだとか妻に文句いい、暴れるだけであり妻も若いし耐えられない、これも悲惨です。これもどちらも性格が歪んでしまうんです。なぜなら夫婦でも家族でも一時的にも離れることができなくなる、そういう閉ざされた環境でいることは本当に良くない、必ず介護する人も鬱病になるんですね、自分もなっていましたから・・・これはどうにもならないです、これが長くなると本当に辛いです。
これは身をもって体験しないとわからないです。自分は2年くらいで限界になっていましたから・・・他の人はもっと大変な人はいくらでもいます。本当にとを慰めていいかとまどうでしょう。でもそういう時外部の人のちょっとした支えでも励みになる。それはささいなことでもそうなんです。一言元気かいとか認知症の人にでも声をかけてくれれば本当に支えとなります。でもそれがないんです、かえって偏見、差別になるんです。人間ってそういうものなんだということが身にしみてわかりました。弱者のことは自ら弱者にならないとわからないんです。だから弱者で心が歪んでいないとしたらそういう人を見たら救いでしょう。かえってそういう人に励まされることあるでしょう。これほどの障害をもっていても必死で生きているとなると健康な人は恵まれているとか・・・・・障害者にも教えられることがある。
そういう報告もインタ-ネットとかであります、看護婦さんだと日常的に接しておられるから障害者をいろいろ見ていられるからそこにもいろいろな人間がいることで何かかえって健常者のためになることもあるでしょう。障害者が全く社会にとって人間として役にたたない、邪魔者だということにはならない何かがやはり人間だからある。ただこれは口で言うのと実際に介護する人とでは温度差がかなりありますから軽々には言えませんが・・・・・
インタ-ネットは編集で活きてくる 変則的になるが自分がつづけてコメントできない、どうしようもないからまこ新しい記事としてアップするほかない、今のところ二人の対話だからいいかもしれない、でもこの対話を読んでいる人もいるこうして一対一で長い対話することはインタ-ネットではないが二人の対話だとできるこういう長い対話も必要なのである。その対話の中で明らかになるものがある。ただあまり議論みたいなものはしない方が良い、たがいに納得し合えることがいい。掲示板を作ればいいが今はできない、だから会話がつづくならこんなふうにするほかない・・・・読んでいる方はめんどうになるだろう。インタ-ネットは常に思っているんだけど常に会話でも編集するとわかりやすくなる、別な意味をもてくることがあるのだ。編集がないからただばらばらにまとまりがないものになってしまうのである。インタ-ネットの中の医療プログでも何でもそうである。いろいろあってもどこにあにがあり何が注目すべきなのかわからないのだ。誰かが編集すると意味を帯びてわかりやすくなるのである。
(そのお婆ちゃんは、私が認知症だと分かり御家族に介護サービスの利用を勧め、今は機嫌よくサービスを利用しています。)やはり弱者に立たれた方は、人の痛みを自分の痛みのように感じて下さって、御自分の御主人や御子息が亡くなった時の痛みを何度も話ながら、私の背中をさすって一緒に泣いてくれました。
私は、認知症の方でも一人の人として接しています。そのお婆ちゃんの魂と私の魂が調和した安心感を得たせいもあって、人前では泣かない私が涙腺が壊れてしまったように大声で泣き続けました。