2008年06月05日

本はそれぞれ深刻な問題意識をもつことから選べ(「脳がさえる15の習慣」−築山節を読んで)


本はそれぞれ深刻な問題意識をもつことから選べ

(「脳がさえる15の習慣」−築山節を読んで)
 

●本を選ぶのはランキングに頼るな、問題意識をもって探せ
 
この本の要点はぱらぱらとめくっただけで即座にわかった。文庫くらいだとすぐに要点がつかめる。読書とはクロ−ズアップ現代でやっていたランキングに頼ることほど馬鹿げていることはない、それも結局マスコミの情報操作だった、みんな買っているから買う、何がいいかわからないから買う、そういうものはたいがい何も残らない、昔のベストセラ−と同じである。世の中はつくづく変わらない、要するにたまにしか本を買わない人に買わせるための本はその場しのぎに出版社がもうける本なのである。そういう姿勢だと出版社と書店はいづれは消える、事実売れないからエロ本だけ置いている中小書店があったりとそういうのにふさわしかったからそうなったのだろう。本の世界もインタ−ネットなどがでてきて変わりすぎた。情報分野は余りにも変わりすぎたのだ。私の本の買い方は私自身作る文章の文脈のなかでこんな本があったのかこれを読んでさらに深い洞察の文を書こうとしてアマゾンから買うようになった。その中には読んでいないのが多かった。何がいい本かというとき過去には調べようがなかったのだ。また即座にそうした本も地方では手に入れることができなかったのだ。でも本こうして買っているとまた本ばかりたまって困ってしまった。今や本を読むのも限界になった。過去に買った本も読んでいないのにもう読めないのである。
 
認知症にかかわってから脳のことをいろいろ考えるようになり書いてきた。認知症は何なのか?そういう問題意識が深刻に私のなかに提起されたのだ。本を読むという時、こうした深刻な問題意識をもつことである。その問題解決のために情報を集めるからだ。本もその一つである。病気になればその病気についての情報を集める、それぞれの問題意識から情報、本を集めればランキングに頼る必要はない、問題意識をもたない人はただ暇つぶしに漠然と情報の海をさまようだけになってしまうのだ。なぜこの本が即座に理解したかというと同じ問題意識から書いていたからである。なぜ認知症になるのか?それはわからないにしても一つの手がかりとして具体的に提起していたからだ。
 
●家事をしろ、怠けないで整理しろ、物の整理は思考の整理に通じている・・・
 
ここに盛んに整理しろ・・・整理しろ・・・・と書いてある。私が認知症と接して不思議だったのは認知症とは整理できなくなる病気なのである。極端な話がパンツを冷蔵庫に入れておくようなこともする。下駄箱に野菜を入れておくとか、金は十個くらいのサイフに分散していれるとか、箱と箱の隙間に札を隠しておくとか、普通の人はそんなことを絶対にしない、整理する思考が全くできなくなるのだ。それは前頭葉と関係している。ゴミ屋敷の人も認知症の場合がある。ただもったいなくて投げないのではなく頭の中で物を整理できなくなるからただ雑然とあらゆるものを積み重ねるだけになってしまうのだ。普通の人は下駄箱にリンゴを置いたりしない、下駄箱には靴をおくものであり下駄箱と靴は一体のものである。テ−ブルと椅子が一体としてあるのと同じである。前頭葉が働かなくなり思考の整理ができなくなるからそうなるのだ。だから家事をすることは自分もやってみて整理することが多いのが家事だった。食料でも分けて冷蔵庫に整理しなければならないし調味料から様々な細かいものを使いやすいように整理するのが仕事なのである。だから家事を一生懸命している人は認知症にならないかもしれない、事実、私の家では公務員をやめてから家事もしないから認知症になったのかもしれない、グ−タラぼけというのがあり公務員がボケになりやすいというとき退職すると簡単な整理すらめんどうくさくてしなくなる傾向がでてくるのだ。なぜならそれで仕事ができなくなるわけでもないからである。仕事している時やはりこまめにいやでも整理するからである。
 
認知症になるとまず整理ができなくなる、料理ができなくなる、金の計算ができなくなる、書類がわからず文章が書けない読めなくなる。つまり抽象的作業ができなくなるのだ。これはやはり前頭葉と関係している。不思議に洗濯と掃除と洗い物はできたのである。これは整理することも頭をそれほど使うこともないからである。洗濯は洗濯機が使えないから手で洗っていたのである。認知症になると機械の操作もできなくなるのだ。認知症は明らかに前頭葉が退化したようになり機能しなくなったことは言えるのだろう。ともかく趣味も何にもない、金の計算をして商売して家事を90まできっちりと毎日していた人は認知症にならなかった。いかに家事をきっちりできることが大事か家事がいかに頭を使う整理することが必要なものか自分で実際にしてみてわかったのである。なぜなら一つくらい用意するのを忘れる。全部を忘れずに整理してそろえることができない、今もできないのである。家事は特に料理は相当に頭を使うから料理はまず最初からできなくなる。ただ習慣的に魚をさばくことができてもそれを料理することはできない、いろいろな味付けとかとくにむずかしいのだ。油を使うことさえできないのだ。
 
●整理分類しただけで見えてくるものがある
 
人間は情報を整理すると分類したりすると思考しなくても創造しなくても自ずと見えてくるものがある。麦と米の問題で書いたようにまず麦という全国の地名を一覧化していた人がいた。次に芭蕉の麦の俳句を集めた。麦飯を食った体験もありこれだけで麦の世界が過去から今まで見えてきたものがあった。キ-ワ-ドで麦について調べることは分類したり整理することだけでわかることがかなりあるのだ。だから日頃から物を整理することを怠るなというのは一面の真理である。そういう自分は物を整理していないのも矛盾している。物の整理は本の整理でも絶えずしていないとだめである。本の重要性も変わってくるからである。情報にしても無限であり新たな問題も提起される。地名の探求をしているが学問も整理分類が基本になる。同じもの木がついている地名、土がついている地名、田がついている地名、麦がついている地名と・・・・無限に分類すればそれだけで学問になる。整理しただけでひらめくものもある。なぜ人は感情的なものに訴えると賛同者をふやすことができるのか?これも前頭葉を使わないで考えることがないので楽だからである。あいつが憎いとか悪いとかやっつけろというのはわかりやすいのである。でも現実はそう簡単なものはこの世にはない、理性的になれば真実はどこにあるのか、簡単に結論づけられない、後期高齢者の年金から税金とること許すな、自民党の悪政をたたきつぶせとかなるがこれも感情論だけでは解決つかないものがある。でも年金からとられることはみんないやなのでとにかく感情的に老人いじめはやめろで同調する。それが本当に悪いにしても人間は簡単なもの感情的なものに動かされやすいのである。

 
seirinou22.jpg
 
整理された脳
 


 

 

2008年06月20日

生きてるか生きていないかの判断 (泣き笑うだけでも生きている)


生きてるか生きていないかの判断
(泣き笑うだけでも生きている)

 
●しゃべれない笑いも泣きもしない人は死んでいる?
 
同じ病室のばあさんは骨と皮になり生きているか死んでいるのかわからない、しゃべることもできない、笑うことも泣くこともない、ポカ−ンと口あけて やっと呼吸しているだけだ、息子がきても誰だかもわからんらしい 、ただしゃべれずに泣くことと笑うことしかできない人がいた 。この人は表情があり話しかけると話は通じていた。、この人は全くなにも 通じることができない、この人は生きてるのだろうかと疑問に思った 。でも息子は50万の電気を通す機械を買い毎日体に電流を通している。それで長生きできているという、家族にとってはあんなになっても 生かしておきたいのだろうか?本人もただ息しているだけだから苦しいだけである 。その人のためには看護師もしょっちゅうきて見ているし医者も来る 。だから死なない、ただ生きているということはどういうことなのか? ただ息している人が生きているのだろうかという疑問をもった 。延命治療の是非や金がかかる問題を別にして人間が生きているということはどういうことなのか?その判定はむずかしい、笑い泣くことしかできない人でも人間は生きている、通じていると感じたからこの人は生きていると思った。不思議なのはその人は表情が良く笑っているとなごむのである。人間はしゃべれなくても心が通じ合わせることができることを実感した。
 
人間はしゃべるだけがコミニケ−ションすることではない、しゃべれなくてもできるのだ。動物はしゃべれない、鳴いたりしていてしゃべる代わりにはしているが動物は笑ったり泣いたりしない、そうした感情がないのだ。人間は悲しくて泣くおかしくて楽しくて笑うということができる。赤ん坊が最初に笑うことにより動物と区別できる。しゃべることで動物と区別できるのではない、笑ったり泣いたりすることで動物と区別できるのである。だから笑い泣くという感情も喪失したとき人間として死んでしまったのかもしれない、例え息をしていてもそうなのかもしれない、延命治療の問題は金の問題であるが人間が生きているかどうかの線引きをどうするのか?一生懸命生かそうとしている人には悪いのだが隣の老人は死人のように思えた。そういう人に金をかけるのは外からみて無駄なように思えた。ただ人間の価値は計りがたい、家族のなかでそれでも生かそうとしていることはそこに親に対する特別の思いがあるかもしれないからだ。外からみてわからないから医者が無難に延命をしているのが義務だとなる。その人の命の価値は簡単に判断できないからだ。客観的に判断するなら年齢で90才以上は救急は受け付けないとかなる、個々のの命の価値についてはあれこれ言わない、それを言ったらきりがないし外部では判断できないからだ。
 
●しゃべれなくても心を通じ合うなら生きている
 
ある老人は医者の重大なミスで簡単に死んでしまったが年だということで医者の責任を問わない、一般的にそういう傾向があるから人工呼吸器を誤ってはずしたままで看護婦が死なせたと訴えられるのは問題だという指摘もある。でも罪は軽減される。医者でも老人を相手にするのはいいという、あまり責任を問われないからだという、若い人だと緊張するというのもわかる。老人は死んでも年ですからねと家族もそんなに責任を問わないのである。むしろほっとしている家族さえいるかもしれないからだ。私がここで問題にしたのは人間が生きているということはどういうことなのだろうかということである。しゃべれなくても人間は生きている、生きているということは心が通じることである。認知症でも心は通じる、精神の病でも心が通じる・・・・人間はしゃべれなくても心を通じ合わすことができる、言葉も大事だがそれ以上に大事なものがある。愛があれば言葉なくても愛は通じる、言葉が通じなくても家族の愛でももって過酷な難病の人を介護している人がいる。老人問題は大きな問題として金がかかりすぎることなのだ。延命治療も金がかかりすぎる、それが全国民の負担になる。もしこの金の問題を考えないなら別に笑う泣くだけの人間でも心が通じるのだから生かしていても問題ないのである。
●介護は二人きりになると危険、事件を起しやすい
 
ともかく病院はどこも老人病院でありこれを支えるのは若い人の労力でありその人員も金も不足している。例え泣く笑うことしかない人でも生きていることはわかるのだがこれからそういうことは関係なく金のかかる老人は早く死んでもらいたいとなってしまうだろう。家族で介護して生かすなら生きているか死んでいるかわからない人でもいいのだが一旦税金がかかるとなると負担が全国民にかかってくるから問題になる。私も病院ではずいぶん家族は世話になった。こんなにまでしてくれてありがたいと心から思った。なぜなら自分の場合、認知症の介護は誰も助けてくれる人がいなかった。一部例外があったがほとんど二人きりだった。認知症になってから付き合いあった人もよりつかなりめんどうみるのはほとんど自分一人きりになった。隣近所は差別、偏見しかない冷たいものだった。病院に行ったら認知症のことではないが体のことでいろいろ世話をやくのをみてつくづく病院の方が本人はともかく自分にとってはいいと思った。家にいたときは誰も声かけるものもいなかった。認知症とか精神の病はそうなりやすいのだ。そして介護は二人きりになりやすい゛誰か一人におしつけられるのだ。この二人きりにされてしまうことが危険なのである。事件を起こしているのは二人きりになり外からの援助を受けられない人である。自分もそういう状態になっていたのだ。体は悪くなかったが認知症はやっかいでありやはり外部の助けが必要だったが得られなかったのである。だから認知症でも介護でも孤立してしまうと事件起しやすいのである。在宅介護は様々な外部からの援助があってできるものである。そういうものがないと事件になりやすい、現実には在宅介護の態勢はなく認知症なども何ら回りの理解がなく、放置されているのが多い、だから認知症でも一人でかかえないでグル−プホ−ムとかに入れてみんなでみるというのがいいと思った。在宅がいいとしてもそういう態勢がないと無理なのだ。

2008年07月05日

認知症の予防に効果的なことは (前頭葉の機能の特徴は物事を抽象化すること)


認知症の予防に効果的なことは
(前頭葉の機能の特徴は物事を抽象化すること)


●抽象化されたもの−金のことがわからない
 
認知症の予防に抽象画というのも奇妙かもしれんが認知症というのがそもそも謎なのは最初の驚きは銀行のことがわからなくなる、自分の預金を下ろせなくなる。これは普通の人には簡単なことである。ええ、そんな簡単なことがわからないのか?この金のことがわからなくなることがいちばんの問題だったからだ。人間金なしでは生活できない、買い物も金でするからだ。金のことがわからなくなったら致命的なのである。最後まで認知症の人は金にこだわるのは金が自分ものでも自分のものとして使えなくなるからだ。年金のことでも銀行のことでも金のことを毎日心配して言ったいた。今でも病院でも金のことを心配して言い続けている。金払ってるのか・・・金をやれとしきりに言っているのだ。これは認知症の人には共通している。金が人間にとって大事なものとわかっているから金にこだわりつづけるのだ。そうわかっていても金を自分のものにできないというもどかしさがありそれでわかんないわかんないと自分に腹たてていたことがあった。では何故そうなるのだろうか?前頭葉の機能が低下して破壊されて抽象化する能力を失ったためなのかもしれない、前頭葉の大きな働きに物事を抽象化する人間独特の機能がありこれが失われたからかもしれない、それだ金のことがわからなくなったのだ。銀行というのは金をあづけてあるのだが数字となっている、数字として金を処理する抽象的な存在だから銀行の意味がわからなくなるのだ。もし金の延べ棒としてあるなら私の金の延べ棒一本下さいとなりわかるのかもしれない、数字となっている金のことがわからなくなるのが特徴である。そして大人として生活したことは忘れていない、病院にいる認知症の人は毎日「お願いします、お願いします・・・」と大きな声を出して車椅子で廊下を回るから困る。すみません、すみませんとかも何度も言っている。まるで同じことを言うロボットが歩いている感じになる。でも看護師さんに世話になるからお願いしますと気を使って言っているのである。そういう大人として生活した記憶は忘れないからそう言っている。世話になっていることはわかっているから同じことを言っている。でもこの人は相当重症なのかもしれない、顔つきも違うしいろいろなことがわからなくなってしまったのかもしれない、でも大人として生きた記憶は忘れないから以前として看護婦さんに気を使っているのだ。
 
●人間は抽象化なしでは生活できない(漢字も抽象画)
 
最近随分抽象画に夢中になっている。絵にしようとすると全く才能がないのだがパソコンではソフトの作用で絵ができる。特に抽象画は具象画ができなくてもできる。人間の特徴は抽象化することである。そもそも言葉、文字は極めて抽象化したものである。言葉を話、文章を書くことは高度な抽象作業なのである。人間は生れたときから抽象化して物事をとらえているのだ。特に漢字は一つ一つが抽象画なのである。漢字を使うことは日々抽象画に接している、抽象画なしではありえないのが日常なのだ。日常的にそうなのだから抽象画は実際は身近なものなのである。数字そのものが抽象的なものであり数字を離れて一日もありえない、認知症はこの抽象化の能力を奪われてしまうことなのだ。漢字が書けない、計算ができない、銀行のことがわからない、つまり文章を書くことも高度な抽象化であり計算もそうであり物事を抽象化してとらえることができなくなるのだ。おそらく認知症の人の頭は認知する機能は子供の絵のようになっているかもしれない、ある人の顔とか姿が特別大きく描かれる、それは子供にとって大事な人、母親や父親だったりする。絵を描くことも抽象化なのだけど頭の中では優先順位が違ってくる。大きく見えるものが違ってくる。強調したいものを特別紙面一杯に大きく描くのである。認知症の人も人を認知できなくなる、わからなくなるが以前として頭の中では過去の死んだ人も死んでいない、その人は大事な人であり過去の記録に保存されて生きているのだ。現在のことが認知できないから過去のことにこだわり過去が現実となっているのだ。抽象画というと普通の人には関係ないように見えても人間の生活は抽象化なしでは日々生きていけないのだ。日々文章を読まずに暮らすことはできないからだ。だからパソコンで抽象画の訓練をすることは前頭葉刺激していいのかもしれない、簡単なものとしてダリヤを抽象化したものがこの絵である。花を四角にしただけである。そもそも花という漢字自体が図形であるから抽象画なのである。
 
 dariabutter1.jpg

ダリアと揚羽蝶 
 

抽象化は単純な図形化なのである。だからバソコンのソフトの作用で抽象画が図らずもできてしまうことがよくある。ソフトには具象を図形に変換するプログラムがしこまれている。ソフトに前頭葉的な機能があるともなる。
 
 
●整理分類することも前頭葉を働かせること
 
認知症の予防に簡単な計算とか文章の読み上げとか頭の訓練をすることがいいとか実際に実践している人もいる。認知症を防ぐには認知症にならないのにはどうしたらいいのか、その原因がわからないから多分これがいいのじゃないかとかでしている。その効果は実際は不明なのだ。ただ認知症特有の症状が共通したものがありならばこうしたらいいのではないかとか試している。まず年取ったから言って何もしなくなることはやはり認知症になる大きな要因なことはまちがいないだろう。例えば料理をすることは食事の用意をすることはかなり頭を使うことがわかった。特に料理をすることはその手順やら相当複雑なのである。それから台所を整理することは相当頭を使う、整理することは頭をかなり使うのである。自分がやっていて必ず一つ食事を用意するとき忘れるのである。だから認知症の人は整理できくなるのも分類できなくなるのが特徴である。そこに何が置くべきなのかわからなくなる。極端な話、下駄箱にリンゴとか平気で置くのである。それほどに整理ができなくなるのだ。下駄箱には靴を置くことがわからなくなる、そのことは整理、分類できなくなる。果物なら果物、魚なら魚、肉なら肉と分類整理できない、だからごちゃまぜになってしまう。台所の仕事は料理は最高に頭を使うものであり次にただ台所を整理するだけでも頭を使う、整理分類の仕事を日常的にしているからだ。この整理分類も前頭葉と関係しているのかもしれない、これも抽象化と関係しているのだ。だから四角、まる、三角とかあるとしたらそこに同じものを入れよと言ったら認知症の人はできないかもしれない、つまり四角のなかにまるを入れたり三角にまるを入れたりするようになる。前頭葉の機能が失われて極端な症状として現れたのかもしれない、整理分類することも相当に頭を使うことなのである。植物などでも整理分類だけでも学問になってしまうし学問の基本も整理分類にある。認知症になった私の家族は台所仕事すらししていなかった。仕事をやめてからは怠け者になっていたのだ。これはかなり認知症になる影響があった。台所仕事していた人は93才になっても認知症にならなかったからだ。
 
 
 skakumarunin.jpg
 
 同じものを分類しなさいというとき普通は下のようにはならないのだ。認知症は整理分類できないのは

抽象化した同じもの同類のものを整理できる機能が喪失してしまったからである。
 

2008年07月19日

退職してからは欲を出さない生活を (年金で満足する生活が望ましい)

 

退職してからは欲を出さない生活を
(年金で満足する生活が望ましい)

 
●年金が保証された人はそれ以上金を要求すべきではない
 
退職して退職金をもらいそれなりに年金をもらう生活になったら余り欲を出す生活はしない方がいい、退職しても働かなければならない人とか貧乏な人は別である。ここで問題にするのは平均レベル以上くらいもらえる人である。夫婦で20万以上とか年金をもらい貯えもある人である。団塊の世代で退職して企業してまた金儲けするのかと同じ世代の人にたしなめられた人がいたのもわかる。人間の欲は限りない、どこまでも限りない、退職して金の余裕があるならまた同じように利潤だけを追求する生活は見苦しいともなる。人間は欲をなかなか否定できない、金はいくらでもあっていいし、金だけが頼りだというのも現実である。でも退職したら欲を少なくするのがいいし他からもそう望まれるのが退職した人ではないか?年金でも少ない少ない、まだまだとれるとか結構もらっている人でもそういう人が多い、しかしそれは下の世代の過重な負担になっているのが現実である。そしたらますます若者に老人は嫌われる、そして老人を世話しているのは病院では若い看護婦のように若い人なのである。年金を保証するのは若い人であり若い人がかせがなければ年金も保証されない、その年金の額も莫大なものとなっているのだ。それが世界経済にも影響しているというから高齢化問題は世界的なのである。
 

高齢者が保有する年金資産等の余剰資金が、世界中の様々な物で運用されるため、
その余剰資金が投機資金として活用され、石油や穀物の値上げを促進するという結果に
つながっているのだ。


人間にはいろいろな欲があるけどそれらを全部否定できないけどここで問題にしているのは余りにも金を要求する欲である。退職したら年金で保証されたらあとはそんなに企業を起したりして金をもうけるというより今までの経験を活かし社会に役立てるというのがにあう。それは人によって違う、それを欲なしでやるのがいいのだ。それがある程度できる立場にある。それがまたふさわしいのだ。まだまだもうけねばならない、これでは金は少ないとか言っていたらきりがないからだ。退職してから老人になってからやはりなるべく金を使わない生活がにあう、でも旅行したいとなると金がかかるから金が欲しいとなるが金はある人はしたらいいが何か社会のためにやりたいというとき金をあまり要求するのはにつかわしくない、退職したとき考え方を変える必要がある。会社のいるときのように公務員でも何でも一旦退職したら年金で暮らすようになったら金は年金だけであり年金は下の世代が働いて出さない限り維持できない、その年金が莫大なものになるとき世界経済にも影響するようになる。金がある人は金を使ったらいいのだろう。でもまた金を稼ぐということはにつかわしくないのだ。年金が貯えがそれなりにあるならまたそれ以上稼ぐというときどこまでも欲を出してゆくとき問題である。金のある人はその金は使ってもいいがさらにもうけようとすることはあまりしない方がいい、適度に株などを投資をやるのはかまわないがこれも度を越して欲を出すと問題が起きる。他から見ると年金をあんなにもらっているのになぜまた金をもうけようとしているのだろうと見える。何を言っているのだ、年金すらまともにもらえない人はいくらでもいるのに・・・というのも現実だがそういう人のことではなく年金を20万以上とかもらえる人である。そういう人も年金がたりないとか要求するのは問題だと指摘しているのだ。
 
●老人は物質的価値より精神的価値の追求を
 
老人は物質的欲に生きるのを卒業してより精神的世界に生きるようになるのではないか?若いときはどうしても物質的価値を追求する。高度成長時代はそうだった。テレビが欲しい、車が欲しい、家が欲しい、マイホ−ム獲得するためにがむしゃらに企業戦士として働いた。しかしそれらの欲望はみんな達した。誰でも今はもっている。そういう物質的価値の追求が終わったときあとは精神的価値の追求に向かってゆく。例えば介護などで追求する価値は物質的利益、価値を生まない世界である。そこで追求されているのは優しさとか助け合いとか慰め合うとか競争社会とは全く違った世界なのである。こういうところでは一もうけしようとすることはあわないのである。利益を度外視してやれないことも確かだがそこで追求している価値観が違っているのだ。他に文化的な価値でもそうである。文化的なものはそもそもあまり金になるものではなかった。だから出版の世界ではベストセラ−ばかりを目指しているような出版社は文化に寄与するところがほとんどないのだ。文化的に価値が高いものでも本は売れないしまたインタ−ネットでアクセスがあるとは限らない、やはりここでも低俗なものがアクセスがあるのだ。そしたらそこで宣伝するもので金になるということがある。インタ−ネットでもあまり欲を出すのも問題だなとも思う。退職したら会社人間の価値観から別な価値観に生きることが強いられているのだ。でも実際は以前として会社人間としての価値観、利潤追求などの価値観にしばられる。なぜならそうした価値観で生きたものが別な価値観、今までの逆な価値観で生きることはむずかしいからだ。ボランティアしろと言ってもどうしていいのか皆目わからない場合も多いだろう。でも退職した人、年金生活者、老人は一般的にそういうことを要求されているしにつかわしいとなる。療養型病院に入っている90近い老人が「私は金をためていたからこうして病院で世話になることができた」というが実際は療養型病院でも月7万くらいで安いのである。しかし実質は月30万かかっている。とするとその人だけの収入では病院にも入れないのだ。その金は全国民の特に若い人の負担になる場合が多いのである。現実世話しているのは若い看護婦や介護士なのである。そして認知症の人がその看護婦に毎日毎日大きな声で「お願いします、お願いします」と言っていることでもわかる。若い人に世話になるから認知症になってもそう言っているのだ。俺は金が年金がある財産があると威張っていられなくなるのが老人である。それはリア王と同じである。権力に固執して権力で支配できることはできないのだ。そういう老人は嫌われるのである。だから老人は欲を出しすぎることは良くないのである。

 
●注意

20万以上とかは田舎のことであり都会ではまた事情が違う
これはあくまでも目安です、どのくらいが欲が出しすぎるかは
違ってくる。平均がどのくらいになるかでも違ってくる。
田舎では20万以上だと多い額になるから
 

2008年07月21日

なけなしの年金からひかれる(後期高齢者医療制度の問題)


なけなしの年金からひかれる

(後期高齢者医療制度の問題)

国民年金が二カ月で5万くらいしかもらえないのに5千円ひかれるのは大きい。一方10万以上もらっている公務員の年金からは6千円というのは少ない、ただ他に二万とかひかれるようになった。でもどういう計算なのかわかりにくい、年金を多くもらっている人はもっとひかれてもしょうがないが少ない人も相当ひかれる。そこがこの制度の大きな問題、どこが公平なのかわかりにくいのだ。
 

基礎年金80万で暮らしている老人が、
12万円の保険料を天引きされたあげく、
自己負担分が払えずに、
病院にも行けず、
介護も受けられないという皮肉。
なんのための保険料。

 

高齢者は国ではなく、まず自分の子供を頼るべき。そして次には近所の人を頼るべき。昔の人は人間関係を大事にしなければ生きていけなかった。
それが昔の日本を健全な社会にしていたと思う。

 
自分の子供に見捨てられ、近隣社会にも無視されて、国だけが命綱になってる老人ってキモイ。終わってる。個人が団結できずにバラバラになり、国とだけ繋がっていると都合がいいのは誰か。そうなるように仕向けてきたのはどの国なのかを考えていかないと。

年金生活保護の現金給付は原則廃止にして、
集合住宅で集団生活・炊き出し・当番制掃除になると思う。
収容に当たって私有財産は預託・没収。
正当な理由無く収容を拒む人には親族の支援や財産が十分あるものとして公的支援なし収容者には中高校生小遣い銭ぐらいは出してもいいんじゃね?
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2008/05/post_d3eb.html

 

わかりやすくいうと持っている資産を
自治体に預ける変わりに生活費を援助してもらう
死んだら自治体が資産をもらうという形。
この形が良いんでしょうね。まあ、自営業の人は
資産を持っておく必要がありますが・

 
この意見は現実的だ。国でもはや何でもできないのだ。国ですると金がかかる。老人は何らか助け合うべきである。ただこうした近所の助け合いや家族で老人をめんどうみるとなると大家族制が喪失したことなどで無理な人がふえている。老人は買い物すらできなくなるがでは買い物をしてやるとなるとそれが個々に一人一人だと大変な労力になる。ヘルパ−を頼むにしても一人暮らしの人にするとなると労力が大変だし国でやるとなると金もかかりすぎる。だから老人はまとめて集団生活させて助け合い、援助すれば負担を少なくできる。大家族制度的なものがいいのだ。ただこうした集団生活は昔の村のような親密な社会だとしやすいが今の社会ではむずかしくなっている。蓮台野へ行けというときすでに昔はそういう考えが自然に老人の間にあり若い世代にも暗黙の了解があった。全部国にまかせるということは金がかかりすぎる。国で何でもできるわけがないことは確かなのだ。同じ病室に子供がいない人がいたりキ-ワ-ドで「遺産相続者が認知症の妻 子なし」という人がいたり頼る人もいない人もいる。そういう人も集団生活させてめんどうみれば援助しやすいのだ。
 

わかりやすくいうと持っている資産を
自治体に預ける変わりに生活費を援助してもらう
死んだら自治体が資産をもらうという形


自治体とは昔なら村のことなのだ。私も市立病院から町の病院で世話になった。そこで一番世話になったのは看護師なのである。何故なら下の世話から具体的に嫌なことをしてくれるのは看護師や介護士などである。親戚でも隣近所でも多少の援助があってもでは下の世話までするとなるとできない、病院で一番世話になったというのが実感だったからだ。昔は村の一員であり共同体の一員である自覚が強いしそうでないと生きられなかった。堅苦しい因襲的世界でもあった。そこが問題であり冠婚葬祭も簡素化された。それは良いことだったが村とか町とか市の一員となるという自覚は少ない、なぜなら規模的にも村も昔の江戸時代のような村の規模と今の規模は相当違っている。財政的にも国から半分援助されているとか自治体といっても具体的な一員として自覚したことがない、やはり市民とかの感覚がない、私の場合は特にそうなのかもしれないが国に頼る、国で何でもしてくれるということはできないのである。だから資産を自治体にあづけるというのは市であれ町であれ村であれ具体的に一体として生活する一員だという自覚をもつことになる。いづれにしろ高齢化社会は国だけに頼って解決するものではない、相互の助け合いが必要になる、強いられる社会である。でも日頃助け合いのない所に助け合いと言っても無理がでてくる。金だけに頼ってもできないのが高齢者の介護などの問題であった。ただ人は困ったとき困った人同志は助け合いがしやすくなる。これはみんなの問題なのだから自分は関係ないとはならないから考えるべきなのだ。
 
蓮台野(れんだいの)
 
蓮台野という地ありき、昔60を越えた老人はすべてこの蓮台野へ追いやる習いありき、老人はいたずらに死んでしまうこともならず、日中は里へ下りて農作して口に糊(のり)したり(遠野物語)


●特養などの施設は実質入れないから別な施策が必要だ

実質入れない特養などの施設は役に立たない、これからますます困る人が増えるのに
施設に入れる人だけがサ−ビスを受け税金を使う、選ばれた人だけに金を使う
それより大勢の人が困るのだから大勢の人にサ−ビスを受けられる方法を考えるべきだ
それは自治体だけでもできないから市民と自治体が相互に協力する方法を考えるべきだ
施設は一部の人だけのものであり大勢の市民のものではない
そこにだけ金を使うのは公平ではない!!!!!
 


 

2008年07月25日

インドネシア介護士を受け入れへ


インドネシア介護士受け入れへ
<看護・介護>外国人受け入れ 現場は歓迎と不安
http://www.f-welfare.net/2008/05/3981/

 
グロ−バル化とは物、人が自由に移動することである。、企業も利潤追求で国に拘束されない、世界企業となる、安い労働力を求めて世界に工場を作り生産する、日本でも労働力のグロ−バル化が起こる。低賃金の労働力が求められ違法でも外国人は働いている。熾烈な世界の競争に勝つためにそうせざるをえない、それが過酷なグロ−バル経済の現実である。それが医療現場にも起きる。
 
インドネシア看護師協会のヤニ・ハミド委員長は「国内の医療現場で、看護師は過酷な労働環境と低賃金を強いられている。その中のごく一部が日本で好条件の職を得ても、看護師全体にとってはプラスになるわけではない」と訴える。
 
金のためなら自国の同胞より金持ちの外国人を世話して金もらった方がいいとなる。医療とか福祉の現場にもグロ−バル化経済の現実が働いている。それは農業の分野でもそうだった。過疎化の原因は農産物の自由化によっていた。グロ−バル化は人間の基本的な生活、文化を破壊する傾向がある。それが医療にも現れてきた。インドネシアの賃金の格差が大きすぎるのだ。10倍の金が入るとなると心を動かされない人はいないだろう。そこで医療、福祉は金だけなのか?農業は他国に頼っていたらどうなるのだ。もし国と国が戦争になったら食料が入って来ない、飢え死にするぞ、現実ハイチでは米を外国からの輸入に頼ってドロのクッキ−を食うはめになった。人間は経済的論理だけ利潤追求の論理だけでは割り切れないものが常にある。物、人が自由に移動できても見落とされているのが文化は移動できない、文化はその土地に根付き長い時間のなかで作られてきたものだからである。移民一千万の恐怖は日本の文化が根底から破壊されるという恐怖である。文化などむずかしくてわかりにくいどうでもいいとなるがイスラム教が日本に根付くときやはり摩擦がある。仏教は歴史のなかで日本の仏教として文化として根付いた。イスラム教、キリスト教は根付いていない、ただ武士道キリスト教として内村鏡三が外国の宣教師に頼らず日本文化を基にしたキリスト教はあった。つまりそういう日本の伝統に基づいた文化に基づいたものが文化創造には常に必要なのである。それは元からあった文化を破壊するのではなく融合して新しいものになるのだ。
 
インドネシア人すらグロ−バル化経済の利益と不利益を受ける。自国の人のめんどうを見ず金のために外国人の看護が優先される。金のために自国の人の看護はなおざりにされる。外国人は金で貧乏人の医療や命まで奪うのかとうことにもなる。福祉、医療、農業・・・グロ−バル化に適さない職種があり文化に根付いたものがありこれらをグロ−バル化すると日本人でなくなる。地球人とか無国籍人間とかなるがそれは文化を身につけていないから得たいの知れない宇宙人になってしまう。医療や福祉に関しては人手不足は深刻である。助けてくれる人間なら外国人でもいいというの身をもって苦労したからわかる。助ける人は外国人でもありがたいのである。日本人でも薄情で助けてくれないとなると日本人である意味がないとかなる。グロ−バル化が助け合う社会とも反面なっているのだから外国人でもいいじゃないかという論理もわかる。でも医療や福祉、介護は身近なところで助け合うことが基本ではないか、介護などは在宅だったら身近な隣近所が助け合うと補うことができるのだ。そういう地域の助け合いがあれば外国からわざわざ介護の人を入れるまでにならない、日本でもニ−トや働かない若者が百万単位でいる。そういう若者も今は集団で多数を形成しているから労働への圧力が高まる。おまえらが働かないから外国人移民に頼らざるをえないのだとかなるのだ。少数だったらそんなことは言われない、変わり者としてアウトサイダ−として無視されて終わる。数が多いから社会から敵視されるのだ。
 
ともかく企業の利潤追求のみのグロ−バル化は総合的な国としての文化の破壊に通じる。国でも地域でも一企業だけでは成り立たない一つの総合的世界を形成している。医療や福祉や介護などもそうなのである。昔の村のように村で暮らしてきたものは親密な人間関係のなかで助け合いが行われやすい、介護だってその村に生きてきた人なら親しみを感じて自分の親みたいに接することもある。村が大家族のようになっていればである。インドネシアではそもそも介護という言葉を理解できなかった。大家族であり家族で年寄りをめんどうみているのが普通であり社会では介護していなかったからである。介護とは本来そういうものであり介護が金になるということはあええなかった。インドネシアでは看護婦はいても介護士はいなかったのである。

2008年08月05日

認知症老人より劣る普通の老人? (人間の価値は誰もわからない、神のみぞ知る)

認知症老人より劣る普通の老人?
(人間の価値は誰もわからない、神のみぞ知る)
http://www.musubu.jp/jijimondai38.html#robot

 

プログは長い文になると向いていない、どうしても短文でこまぎれになってしまう。
時事問題の深層で私は書いてきたので連続してまた書いている。最近はプログ中心だった。プログのいい面はどの記事が読まれているかわかることである。またこの記事が読まれているのかとわかる。本サイトはホ−ムペ−ジは一ペ-ジにいろいろ書きすぎるから何が読まれているかもわからないのだ。ただ前に書いたものと連続している。

認知症についてはいろいろ書いてきた。今回もまた病院で新たに見聞したものを書いた。認知症はあまりにも謎めいたものでありこれは単に医学的な問題なのか、薬とかで治る問題なのか、これは人間の深い病理と関係している。脳の病気もあっても老人一般に起こり人間一般の問題として認知症がある。宗教、聖書の不思議は一般的な価値観と違っているから不思議であり理解しかねる。それはなぜなら神の見方が入ってきているからである。世間的見方だったら障害者だとか弱いものは何の価値もない人間である。認知症でもロボットのような人がいたからこれはロボットなのかと思ったらそうではなかった。やはり人間だったし一方普通の老人は回りの人をうらやむばかりだからかえって素直な認知症の人より劣っているのかとさえ思うようになった。泣き笑うだけの人についても書いたがこの人も邪気がない、子供のようでありこの人が人間的に劣っているとか勝手に価値判断できない、人間は人間の価値を判断できないことがわかった。人間はそれほど複雑なものであり一つの価値観では見れないのである。
 

2008年08月22日

認知症と生まれつきの知的障害者の相違 (知的障害者を虐待は老人の虐待に通じる)

 

認知症と生まれつきの知的障害者の相違
(知的障害者を虐待は老人の虐待に通じる)
http://musubu.jp/jijimondai38.html#gyakutai(時事問題の深層38へ)

 

いずれも東京都青梅市の無職少年(16)や中学3年の少年(14)ら14〜16歳の少年8人を逮捕、 13歳の少年を児童相談所に送致した。

調べでは、少年らは今年1月12日午後1時ごろから約1時間にわたり、
たまたま道で出会った青梅市の知的障害の男性(20)に、「タイマンしろ」などと因縁をつけ、
顔や腹を殴るなど暴行を加えた上、バッグから現金8万円を盗んだ疑い。
中学3年の少年は、「自分より弱そうな相手を選んだ」と容疑を認めているが、
「身体(障害者)をいじめて何が悪い」と反省の態度はないという。

産経新聞 2008.8.22 12:00

 
社会から見たくないもの汚れたものを見ないように隔離することにいじめや虐待が生れることになる。精神障害でもそれらが現代では差別されるのは隔離されるのはそれが何なのかわかないからである。身近に接する人ではない、隔離されているからだ。死も現代では病院に隔離されている。死がないもののように隔離されているが死は日常的にあり中世では死体が道端にごろごろ捨てられてあった。それで無常を感じ仏に帰依する人がふえた。
 
現在いわれている優生思想として定着していったようです。近代以前は、基本的には障害者、病者は「放置されて」いました。厳しい差別はあったにせよ、社会から意図的に隔離・収容はされていなかったようです。ましてや、「新・旧らい予防法」や「優生保護法」の示しているような「撲滅」の対象ではなかったのです。近代での優生学・優生思想がそれを可能にしたのです
 

ハンセン、障害、優生思想
http://www.arsvi.com/2000/0803ak.htm

 

ちなみに日本では、戦時中に国民優生法という法律が成立しており、戦後一九四八年に優生保護法という法律が制定された。これは、「不良な子孫の出生を防止する」ための優生手術(子どもを産めないようにする手術)などを規定し、それと同時に女性の人工妊娠中絶を規定するための法律である。優生保護法というあからさまな優生思想にもとづいた法律が、日本では一九九六年九月まで堂々と存在していたのである。
http://www.lifestudies.org/jp/yusei01.htm

穢れたもの、見たくないものを隔離すると今度は本当に社会から抹殺される。老人問題もそうなのだ。老人も醜いものでありあまり接したくないものである。でも老人問題と認知症は特殊な障害者の問題ではない、誰でも年取るのだからみんなの問題なのである。認知症だって差別した本人がなる確率も高いし家族が認知症をかかえることもふえてくるのだ。その時みんな老人は隔離して見えなくして社会から消すことができるのか?それが現実化したのがナチスの優生法だったのである。戦争という非人間的な最たるものが優生法を生み出すことでは世界で共通していた。スパルタもそうだった。日本でも何かと戦争を賛美している人もいるがこういう観点からも戦争を考えるべきなのだ。日本が悪い、アメリカが悪いというより戦争そのものを否定することが必要なのである。
 

中学3年の少年は、「自分より弱そうな相手を選んだ」と容疑を認めているが、
「身体(障害者)をいじめて何が悪い」と反省の態度はないという

 
これがナチスで大人が実行したのだから少年も弱肉強食の世界で理屈ではなく感覚的に直観的に行動したのである。大人社会の風潮の延長として子供もそんな感覚になっていたのである。

2008年09月02日

平和なる時はありにし(認知症により破壊された家族−詩)


平和なる時はありにし(認知症により破壊された家族−詩)


平和なる時はありにし
その女は賢くありぬ
その女は優しくありぬ
その女思慮深くありぬ
その女はみなに慕われありぬ
平和なる時はありにし
一転して平和は乱れぬ
脳は壊れ狂気の席巻せり
家族は破壊され元にもどらず
その女の賢さはすべて崩れぬ
ただ異常なる狂乱の女と化せり
何故か知らず未だに知りえず
平和なる時はありにし
家族は和やかに睦みあいぬ
我はその中にありて育まれぬ
普通の家族にはあらじも
それなりに平和はありにし
常なる平和はこの世にあらじ
世は乱れ戦争の犠牲となりしもの
その時狂乱は世を席巻す
あまたの生贄をサタンは飲み込む
何故の犠牲か未だ知り得じ
平和なる時はありにし
その女は賢く家の要なり
欠点はあれども賢さのあり
しかし脳は破壊され狂乱の女と化せり
知能は童と化して感情は肥大化して
嵐のように自ら翻弄されるのみ
回りも狂乱に巻き込まれ平和はなし
ただ人に嫌悪され愚弄され排斥されぬ
あたかも神に呪われしもののごときなり
今に知る平和なるときの尊きを
ああ その日は帰らずただ回想するのみ
賢さの平和のいかに尊きや今にして知る
平和は常にあらざり、平和は神の恵みなり
賢く治められしは常にあらじ
世は乱れ平和なる時は永続するにあらじ
賢く平和なるときのいかに尊きかをしる

 
認知症の家族をかかえて翻弄されてきた。なぜこんなことになったのか、なぜこんな病気があるのか、認知症とは何なのだというときただ今も不可解な謎である。でもふりかえって平和なときの家族、賢い時の家族の姿を思い浮かべて、賢いと言っても欠点はあったし特別な女性ではない、そういう普通の家族関係が全く破壊されてしまった。そもそも記憶障害が極端であり銀行のことがわからない、金がおろせないなどその症状が極端だった。その衝撃は本人にも回りの人もそうである。そんなことがありうるのかと衝撃を書いてきた。賢さと言ってもそれは普通にあることができなくなった。賢いというと特別な賢さではない、極あたりまえの普通の人間でありえないという驚愕だったのだ。でも今になるとその極あたりまえの賢さが平和なことだったとつくづく思うようになった。複雑な家庭の事情にあったがそれなりの賢さで平和は維持されていたのだ。それが崩壊したのはやはり認知症という極端な脳の異変、破壊のためだった。だからその当たり前のことが今や何か貴重な尊い時間だったと思うようになった。平和というのは常にあるものではないと思った。戦争も狂乱でありそれに巻き込まれ死んだ人は無数にありそれもそんなに時間はたっていないのである。その時平和は全くなかったのだ。狂乱に巻き込まれて死んでいった。その人たちは戦争の中でどれほど平和を願い平和に生きられたらなと思ったに違いない、戦争がなくても必ずしも平和があるとは限らない、病気になればやはり平和はない、安らぎはない、一つの戦争状態になってしまう、自分が病気になっても家族が病気になっても家族が戦争状態になる。ともかく賢さがあり平和があった日を回想しているのも不思議である。平和は当たり前のように今あるが平和も常にあるものではない、社会的にも混乱があり狂乱がありそれに巻き込まれ犠牲になることは今までにも歴史上でもいくらでもあったのである。戦後五十年の平和は貴重な時間だった。その平和がこれからもつづくとは限らない、それが人生だった。戦争がなくても人生に平和が維持されることはないのだ。どこかで平和が破綻してしまうことがある。それを自ら体験したのが認知症の恐怖であった。

2008年09月06日

行き場のない老人の社会的入院の問題


行き場のない老人の社会的入院の問題

 
●社会的入院の典型的タイプ
 
高齢化社会の問題はこれからますます深刻になる。病院が施設代わりになる社会的入院の典型的タイプの老人が同じ病室にいる。退院できるのだけど退院しない、一人暮らしであり世話する人がいないからだ。もうすでに歩けるし自立できる、でもやはり誰か世話しないと一人では生活できない、ヘルパ−は頼んでいるがそれでも家に常時世話する人がいないと自立は無理である。甥の嫁が来ているがそれもみてくれても一緒に世話しないと無理である。だから病院にいる、認知症の人も三四人いる。他の病院もこうした社会的入院、施設に入れないとか家で世話できないとかで病院にいる人が多いのだ。病院におくと家族も楽だからである。隣の人も夫は82才であり家でなど介護できない、そもそもその能力がない、ボケていないにしても何か言うことがわからないのだ。あれでは介護できない、病院にいればいいとか早く家に帰ろうとか事情がほとんどわかっていない、鼻から管で栄養をとっているのだからそんな簡単に退院できない、口から氷とか食わせているけど口から栄養とれるようになるのは容易ではない、老人は口から栄養がとれなくなったとき昔なら死に直結していたのだ。今はそこから生きる技術ができたから長生きする。結果として介護する人が必要であり負担がふえたのである。

 

認知症は診療報酬を下げて追い出すべき
犯罪傾向のある精神病患者さんが万床で入院できなくなる

一般の病棟も精神科の閉鎖病棟もあんまり大きな違いはないと思った。
だって、どちらにせよ病院て老人がたくさんいる所だよ。
一般病棟には内科疾患を抱えた認知症の老人がたくさんいる。

私は空きベットがなくて、精神科閉鎖病棟に入った経験のあるうつ病患者。
閉鎖病棟にもランクがある。私の入ったライト級だとそんな感想。


ヘルパーさんやナースさんの働きぶりには感服した。
「どうしたら少しでも楽しく過ごせてもらえるかな」尊い。


認知症の人も施設に入れない人が多いから精神病院を占拠してしまっている。二年間相談するところなく地域では差別、偏見であり孤立して苦慮した。ともかく病院に入れると楽なのだ。その他何の援助もないことがわかった。家族におしつけられその家族のなかでも一人に介護はおしつけられる場合があり事件が起きるのだ。いづれにしろ高齢化の問題が凝縮して現れていたのは病院だったのである。でもベッド数を大幅に減らすとか施設もふやさないことはさらに深刻な問題をうむ。行き場のない介護難民があふれることなのだ。延々と愚痴を言われるのもいやにある。病院の中は愚痴を言い続ける老人やボケた老人がいる。そこで感心するのは看護婦であり介護士さんが一生懸命世話していることである。でも実際はいやいやながらやっている。これはしかたがない、社会の負の部分を背負っていたのが看護婦や介護士さんだったのである。看護師は資格があり収入がいいから騒がないがこれも不足しているし介護士も給料が安いからやめる人が多い、それでインドネシアから介護する人を受けいれることになった。日本では汚い、きつい、安い、底辺労働を引き受ける人がいない、それで外国人にやらせようとしているがこれも犯罪がふえるとかいろいろ問題がある。だからニ−トがいるならニ−トにやらせろともなる。自分もそう思ってしまう。でも自分は遊んだ方だからそんなには言えない、ただ若いときは底辺労働に従事していたのだ。ニ−トの問題は底辺労働に従事しなくても食えるという社会的事情があり介護士としても働かないのだろう。この仕事もかなりきついからである。
 
●病人の老人の安楽死を望む風潮が広がる危険
 
高齢化の問題はこれからますます負の部分、暗黒の部分が拡大化してゆく不安である。いろいろいい面を求めてきたが数が増大してゆくことでいい面も支えきれなくなる。その圧迫が社会的入院に象徴されるように強大化してゆくのだ。家族で耐えられないときは介護殺人になり社会的に耐えられなくなったどうなるのか?そういうとき、盛んに安楽死だという危険なものが是認されてゆくかもしれない、安楽死は簡単にできないものである。安楽死は安楽に死なせることでとはなく、安楽にするように治療することだった。今になると安楽死の死が優先させられる言葉使いになっている。老人で苦労するから安楽に死なせたいという社会の意志が強く働きはじめているのだ。そこに危険性を感じる医者が警告している。
 
私の家族はすでに反応ない状態で二カ月とかなっている。意識がないから脳が反応しないのだから介護しても張り合いがない、でも不思議なのは顔は普通のときの顔とさほど変わりないのだ。尿毒症で腫れてそうなっていた面もあった。顔は太った人だったからふっくらとしているから顔だけが生きているという不思議もある。植物人間に近いのだが顔をゆがめたりするからそれだけが反応しているから全然反応ないのとは違うのだろう。でも熱は出ているとすると体がかなり衰弱しているはずだからそんなに生きられるようには見えないのだ。太ったタイプの人は顔もやせずに死んだと聞いたからこんな顔でも死ぬのかと思った。一見これでは死んでいるように見えたが実際は顔は普通のときのままの顔だからやはり生きている、顔を通じてコミニケ−ションができる。顔は死んでいないのだ。顔はこうして大事なものだから顔が壊れてしまったハンセンシ病は深刻なものとなったのだろう。人間がどこで生きているのか死んでいるのかは以前として判断がつきにくいのだ。顔が普通とさほどかわりないからその顔を見ているとやはりまだ生きていると感じる。自分がきたこともわからない、意識もないのだがそう感じる不思議があったのだ。
 

社会的入院
http://www.inetmie.or.jp/~kasamie/SyakaitekiNyuuinnMT.shtml

2008年09月11日

無意識、無言化、幽冥界に入る(あの世から見たこの世の不思議)


無意識、無言化、幽冥界に入る(あの世から見たこの世の不思議)


●無意識,無言化により愚かさが消える不思議
 
姉はこの二カ月くらい何の反応もない、目をあかせても誰かいるのかわからない、目が死んでる、ちょうど死んだ魚の目のようである。ただまだ顔はふっくらとしているからやはり生きている不思議がある。ただこのベッドは死んでいるみている感じになる。そして現実死が近いとなると無言の反応ない人をみていると回りの人が生きている人が何か愚かに見える、何でこんな人が生きていくのだろうか?隣の友達らしい人は知的障害者みたいな気がする。それでなくても無言の内に死にゆく人をみていたらつくづく何でこんな人が生きているのか?なぜ愚かなつまらない人が生きているのか?そのうちに自分も入る。生きている人はどんな人でも賢くありえない、愚かさを生きる。それが人間の日常なのである。しかし死にゆく人、無言なる人と二カ月くらいすごしてかえってここに賢さがあるように見えた。もし元のようにしゃべったりしていたらやはり認知症だから笑われたりしてこの人はなんなのだとうとまれたりしたかもしれない、しかししゃべらないから馬鹿には見えないのだ。人間が生きていることは不平、愚痴、欲望、・・・様々な喧騒のなかに雑踏のなかに混濁している。一方死にゆく人はもはやこの世について何も語らない、何か瞑目して語らない、病気でいやおうなくこうなっているのだけど瞑目しているから死にゆく人はこの世のことはもはやかかわらず賢いように見えるのだ。いづれにしろこの二年間半は認知症から病院の入院から遂には無意識への反応なき人間と様々な変化にみまわれて翻弄された。それはまだつづいている。
 
おそらく姉は今−幽冥界に入っている・・・・この世からは離れてしまっている。ただ体はこの世に留まっているだけなのかもしれない、この世とはいつも変わらない、愚かなるもの、有象無象の人が生きる世界である。なんでこんなつまらない人がこの世には生きているのだろうか?あの世から見えるこの世はあまりにも違っている。この世はかえって悪人であれ愚かなもの、罪なるもの、多種多様なつまらない有象無象のものが生きている世界に見えるのだ。認知症になった人も知的障害者もまたそうでないものもそこになぜこんなにいろいろな愚かなくだらない人々が混濁して騒ぎ生きているのだろうか?それがあの世、異次元の世界から見ると異様なのである。この世のことがなぜわかりにくいのか?それはこの世に交じりこの世にばかり生きているからわかりにくい、見えにくい、これが別な次元から他界から見るときなぜこんな人がいかしめるこの世が奇妙に見えてくるのだ。もし天国からこの世を見たらなぜこの世はこんなに混濁しておかしなつまらない、罪に汚れた人々が生きているのだろうかと不思議に思う、天国はあまりに清浄な世界だからだろう。その清浄な世界から比べるとこの世はなんと奇怪な愚かな何を目的にして生きているのかわからない人々が日ごとに愚かなお祭りをしているのだろうか?この世とはいつもそういうものだった。生きている限り人は賢くはなりえない、愚かさの中に生きる。それ故にいつの世も人は愚かさの中にたぶらかされて生きている。
 
●あの世で人は継続して賢さのなかにいる
 
幽冥界に入った人はもはや何も言わない、何も語らないから賢さのなかにある。賢さの中に不動なのだ。この世にいる限り絶えず変動する世界に生きているからどんなに賢くしようとしてもできない、この世に人は常にまどわされるからだ。この世の人の愚かさ、有象無象は消えることがない、次から次と消えてはまた泡のように生れて消えてゆく。この世が賢い人で満たされることはないのだ。つまりこの世はそういう人を養う許容する場なのである。泡沫のよう人は生れ愚かさの中に消えてゆく、そして死者は最も深い沈黙の中にある。その沈黙は海の底のように深い、彼は深く瞑目して語らない、この世の波風に翻弄されることがないのだ。神は賢さを与えるのは死者だけでありこれは生前愚かなものでも死者となれば賢さに留まる。だから死ぬことが死者がすべて悪いものとは言えないのだ。いづれにしろこの二年半は不思議な経験の連続だった。人は墓に治まってはじめて賢いものとなり手を合わせられるものとなる。それまではこの世に翻弄されるだけである。賢い人とはなりえないのだ。認知症は極端にしてもその他の人にしても愚痴不平は絶えることなく愚かさの中に生きている。そういう種々の人々が混濁して生きるこの世は幽冥界から他界からあの世から見たとき異常なのである。ただそれがこの世があまりにも現実になりすぎているがゆえにこの世が見えなくなる。この世があまりにも当たり前のものであり自明のものであるからかえってこの世が見えなくなっているのだ。この世で力を得て一番目立っているものが最も罪に汚れたものであるのも不思議である。それを崇めているのもまたこの世である。
 
サタンを崇めているのがこの世なのだ。天国から見たとき幽冥界から見たこの世はかえってなぜこのような様々な愚かさにつまらなさに充たされるているのか、もしかしたらサタンはそれら気人々を操り楽しんでいるのかもしれない、そういう人々がこの世では必要だから生かしめられている。賢さによりこの世は治められない、愚かな人々に満ちてその人々が主役なのがこの世であり賢き人は隠される。幽冥界に本当の賢き人がいるようにそれはこの世ではありえないのだ。この世は一見科学の発達で社会そのものが変わって人間も変わったように錯覚する。ところが人間の本質は変わっていない、人間そのものは科学や社会の変化で変わらない、だから理想の社会が歴史的に時代が変われば形成されることにはならない。人間自体は変わらないからいくら環境を変えても変わらない、政治は誰がやっても同じだというのとにている。この世に天国が成ることはは永遠にない、人間の愚かさはこの世が滅ぶまでつづくのだ。賭博の歴史も古代からあり江戸時代でも賭博を禁止したが現代でも禁止することはできない、賭博は延々とつづくのと同じである。ただこの世界がすべてでなくこの世の愚かさと離れた別の世界がある。そうでないと釣り合いがとれないのだ。実際この世ばかり見ていてもこの世のことはわからないからだ。この世の異常さは見えにくい、この世で当たり前のことがあの世ではありえないことになる。

  


この世は愚者の楽園


この世はサタンが愚者を操り楽しむ所
その愚者にことかくことはない
病気の愚者もいるがこの世は愚者にあふれている
愚者の馬鹿騒ぎ祭りは終わることなくつづく
愚者は尽きることなく大量生産される
この世は愚者にとって住みよい場所
愚者と愚者は仲間となりつるみ一団化する
この世は乱れ騒擾はやむことがない
賢い人の居場所はこの世にはない
この世は愚者の楽園
この世では賢くなることはできない
愚者に圧倒されて席巻される
すでに理性が失われているから
認知症の人のように諭しても聞きようがない
それは愚者にも同じ何度言っても同じ
故にこの世は永遠に改善されることがない

馬鹿は死ななきゃ直らない
死んではじめて愚者も賢い人となる
生きている限りは愚かな人としてとどまり
その騒ぎは収まることがない
この世は愚者の楽園

2008年09月16日

認知症に対処する方法なんてあるの?


認知症に対処する方法なんてあるの?

 
●もの盗られ妄想は消えた
 
私だけの経験だけどずいぶん認知症について書いてきたけど認知症にどう対処していいか困っている人がキ-ワ-ドで私のプログにきている。自分も苦しんできたので多少の助けにならないかと書いてきた。他のプログも読んで参考にした。認知症に対処する方法はある。もの盗られ妄想で苦しんできた、一年間以上騒いでいた。最初はショックだった。直前のことを忘れるというのは例えば今何か置いたものを置いたと忘れる、するとそのモノはどこへ行ったかといぶかる。すると突然パニックになる。自分が置いてしまった衣服がなくなっている・・・一体どうしたのだ・・・ここに置いたはずのものが・・それは自分でかたづけたものだった。一体誰が私の置いたものを盗ったのだとなる。その時狂気になるのだ。二階で自分の衣服をタンスにしまったことを下におりてきたとき忘れている。そしてまた二階に行く・・自分の衣服がないと大騒ぎになる。涙を流してまで誰が盗ったのだ、言えばくれてやるのにとか大騒ぎでありその後もっとも身近なものに暴力になる。これも馬鹿げた話だけど認知症の最も特徴的な症状である。サイフを何個も用意して金をしまい金をなくしては騒いでいる。これは神に愚弄されている、悪魔がこの病気にして人間をもてあそんでいる気がした。でもそばにいる人もたまらない、これに対処方法があるのか、それは興奮しているのだから興奮を静めることが先になる。時間を置くと静まる、でも一時的に狂気になるのでその間を保つことがつらい、襲いかかるようで怖かった。なぜなら狂気の人間と接することがないから理解を越えていたから怖かったのである。こういうことが一年以上つづいた。その間にいろいろあった。このもの盗られ妄想は防ぎようがなかった。でも一年半くらいしてかもの盗られ妄想は消えた。誰かが盗ったともいわなくなり顔も穏やかになった。もの盗られ妄想は対処しだいで消えることがわかった。ではどう対処したらいいのかそれは家庭の事情で違ってくるし個々にも違ってくるからむずかしいのだ。
 
●全面的にご機嫌をとることしかない
 

認知症の対処方法はその人が何であれご機嫌をとる方法かしかない、相手が馬鹿になってもプライドがあるからそのプライドを保つ、ご機嫌とりをする、いろいろ昔のことを話したら「苦労したんだね、わかるよ、・・・・」「この家は苦労して私が建てたんだよ、私は本当に働いたんだよ・・・・」「わかるよ、働いてくれたからね、・・・」
こんなふうにただ相手の言うことを肯定して認めてゆく他ない、でも千回同じことを言い続ける、それに耐えられるか?となる。一人では無理になる、認知症の対処方法は一人で限界に来る。病院で接した認知症の人は重症なんだけど三人がかりで対処していた。それも孫に娘に親戚の女性の三人がかりで交代で一日認知症の人を見守っていた。何度同じことを言っても辻褄あわないこと言ってもそうかいそうかいと慰めていたのだ。三人も女性が交代で見守れるなら認知症でも対処は楽になるのだ。自分は男で一人だったのだ。これは非常に辛くなる。そして誰か相手にする人もいなくなったからいつも一人だった。認知症の人は不安だから一人でいられない、誰かそばにいる必要があるのだ。三人も交代する人がいたなら楽だった。一人でいると不安になるしそれで家を出て行くとか言うのも変だった。一緒にいないから不満で言ったのだ。要するにともかく相手の言うことがちぐはぐでも何でも聞いてやりご機嫌をとることなのだ。千回も同じことを言っても聞いてやることなのだ。それができるか?できないから何度も怒り虐待になる。そうなると病気も悪化するのだ。だから認知症の対処はやっかいなのである。認知症の人はどんなにわがままでもそれを聞き入れていくほかないのだ。聞き分けはもうできないからだ。それに対処できる家族ならいい、三人も交代で見れる家族ならいい、そうでなかったら見切れないだろう。そうすると悪化してしまうかもしれない、脳が破損したとしてもやはり薬でなくて人間力が認知症の対処には効果があるのだ。

 
●昔からの付き合いを断たれることは不安定にする
 
機嫌をとり気分をよくさせるほか対処方法がない、そんなことできないのが普通である。でもそれしか対処方法がないのだ。もし暴力になるならその暴力を受ける人を離す他ない、そして認知症本人にとって感情的に好感をもっている人が常にそばにいることが気分よくさせるから愛情込めて接してご機嫌とっていればやがて穏やかになりもの盗られ妄想も消えたのである。馬鹿になったのに今までのようにプライドを保たせる、何かやれることをやらせる、洗濯と食器荒いと庭掃除とかやっていてそれで自分は何かやっている役に立っていると自信をもった、それまではそうした家事すらしていなかったのだ。作業療法は認知症にはいいのだ。認知症には家庭の事情が相当に左右する。家族が多いと孫でも息子でも娘でも多いと交代してめんどうみれるから対処しやすいのだ。そうでないと認知症には対処しきれない、だから他人の援助を借りたいのだがこれも認知症になると偏見、差別になりよりつかなくなる。親しい人も離れてゆくからいなくなるのだ。認知症でもやはり昔のようにつきあっていた人と形だけでも接していたいのだ。特に昔からの友達は大事である。昔のことは鮮明に覚えているから昔の人とのつながりは大事なのである。それが断たれるから認知症は悲劇なのだ。現実幼なじみとも付き合い断たれたし他もよりつかなくなった。これは認知症の人にとって心を不安定にしてしまう、それがどうしてなのか自分では理解できないから余計そうなのである。そういう人は冷たいなと思った。全然わからなくなったわけではないのに全くよりつかない、拒否する態度は冷たい、なぜなら病院に6カ月いる間も一回も見舞いに来なかった。名前を読んでいたのだから一回くらい来てもいいように思ったが来なかった。そして今や無意識無言化になったからもはや永遠に会えなくなったからだ。それでも悲しいとか思わないのは情がなかったためなのだろうか?人間なんてつくづく冷たいものだと思ってしまった。ともかく認知症は悲しい病気である。対処方法はただひたすら機嫌をとるしかない、それは普通できないから問題なのだ。親しい家族はできてもそんなご機嫌とりを普通の人はできないから認知症の対処方法は困難を極めるのだ。認知症についてずいぶん書いてきたけどこれからも困って来る人はいる。私自身の経験を何らかの助けになればと書いてきた。インタ−ネットは情報のボランティア発信がもともと主要だった。だから医療関係では役に立つことが多いのである。対話はなかったがなんらか役に立ったらならうれしいとなる。

2008年09月29日

認知症は死んで尊厳が回復した (高齢化社会の生きる目的はボケないこと)


認知症は死んで尊厳が回復した
(高齢化社会の生きる目的はボケないこと)


●高齢化社会の生きる目的はボケないこと
 
認知症の尊厳とか尊厳死とかキ-ワ-ドできている人がいる。認知症にはそもそも人間の普通の尊厳が極端に失われることであり認知症になった時点でその人の尊厳は消失する。社会的な脱落者であり知的障害者であり偏見、差別の対象ともなる。認知症になることは人間失格の烙印を押されることでありこれは相当な恐怖である。だから認知症にだけはなりたくないボケたくないと思いつづけていた学者がそのストレスで認知症になったという笑いない話もでてくる。認知症になることはそれまでの功績がいくらあっても人生の失敗者、脱落者の烙印を押されることなのだ。別に特別の功績ある人でなくても普通の人でも普通でありえないことに大きな差になる。お悔やみに供養に来た近くの老人を見ていたらそれらの人は特別優れた人ではない、それでもその人たちの顔はボケていないし普通なのである。そのことがその当たり前のことが何か特別なこと特別優れた人のように見えたのである。85以上の人が多く足は弱っている体は弱っていても頭は正常である。極端な話、八五才以上になってボケない人はそれだけで人生の成功者であるというのは本当である。何も功績がなくてもボケないというだけで成功者なのである。ボケた人はどんなにそれまで成功者であっても失敗者、脱落者とされてしまうのだ。ということは人生の目的は長寿社会の生きる目的は価値観は変わってくる。85以上も生きるとなるとボケず生きて死ぬということが最大の生きる目的であり生きる価値観にすらなってしまうのだ。それだけで相当な意義あることである。なぜならボケほど悲惨なことはないからだ。
 
●死んで認知症の人の尊厳は回復する
 
家族で認知症の人をかかえたらろくなことはない、偏見、差別であり危険視されたり長年交際あった人もよりつかなくなるし家庭では地獄の苦しみを味わう、何よりも社会の人生の脱落者になってしまうことが辛いのである。認知症になったら尊厳は根こそぎ失われる。人間失格者になるという恐怖なのである。認知症の人はこれまで立派に生きたとか頭がよかったとか功績があったとか社会につくしたとか家族に尽くしたとか普通の人より立派な人も多い、でもそういう人が認知症になったらその功績も無になる危険性があった。ボケることは人間失格者になることだからだ。でもこれも一旦死ぬと違ってきた。死者は誰でも敬い畏れられるものとなる。もはや認知症という病気は消えて病気の前の人に戻ったとか言うようになる。そしてお悔やみに供養にきた人が「立派な人だった、頭が良い人だった・・」とか賛辞の言葉を述べて帰って行った。さらには今までボケたからとよりつかなくなった人も死んだ時は畏れお悔やみに供養に来るということがある。その人は冷たくした人であったがそのことを後悔する。たいがい家族でも認知症になった人でも死ぬともっといい介護をしていれば良かったと後悔するのが常である。介護でも辛かったのだが死ぬともっと優しくしていればよかったとかもっといい介護をしていれば良かったとか悔やむことになる。なぜなら死ぬともう二度と会いないからである。そのこととあいまって死者に対して自責の年が強くでてくるのである。
 
●介護問題は死後まで尾をひく
 
だから認知症の人にとって家族にとって死はすべて悪いものではなかった。認知症の家族を社会からも偏見、差別の目で見られるからである。認知症の家族も尊厳を失うのである。それぞれの家に立派な人がいるとなれば社会の見方も違うがボケをだしとなるとその家族の評価も下がるからだ。冗談になるかもしれないが「オマエラはずいぶん馬鹿にしたりうとんじたが今度はそうはいかないぞ、死者を敬い、そうでないと祟りがある畏れ多い存在だぞ」とか言えるのも奇妙である。認知症の人でも死者になれば最後の一時期ボケて人間失格者となってもそれまでは普通でありまた優れた人であり功績もあったのだから最後にボケたとしても人生全体で考える時それらの功績を全部失うわけではなかったのである。だからこそ生きている時認知症の人と接するのはむずかしいのだ。ボケたと言ってもこれまではそうでなかった、いろいろ家族のために尽くした人でもあるしそこで粗末に扱いないからだ。その尊厳は死んで回復する。みなその時自責の念がでてくる。つまり認知症という病気にどう対処していいか接していいかこれは死後までの問題としてあるしまた普通の介護でも死後まで問題になるからわずかしいのである。
 

2008年10月08日

愛するものを失う悲しみの大きさ (人間はモノで代替できない)


愛するものを失う悲しみの大きさ
(人間はモノで代替できない)

 
しろがねもこがねも玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも 山上憶良
 

愛するものを失った悲しみはあまりにも大きい
永遠にもはや会うことができないから
モノならばモノを満たせばたりる
腹が減っても食べれば腹は満たせる
死別の悲しみは充たされることがない
愛する人がもはや永遠に帰ってこないから
モノがなくなってもまたモノで充たせば足りる
人間を失ったら充たすことはもはやできない
その人のみもつ人格と個性は充たせない
永遠の欠乏のみがそこに残る
そして人間にとって何が貴重だったのか問われる
モノは金で買える、モノは充たすことができる
失った人間は充たすことはできない
その人間の何が貴重だったのか
それは人間そのものだった
モノや機械で代替できないもの
人間全体を構成するもの
子供ならその愛らしい姿全体であり
それは決してモノで代替できない
人間は今やあくことなくモノを求めている
モノを得るために金を得るためにあくせくする
しかし何が一番大事なものなのか?
モノではない、モノは代替ができる
愛する人を失う悲しみはあまりに大きすぎる
それは代替できないもの
ダイヤモンドより黄金より貴重なもの
それは愛する人を失うこと
死んだ人は永遠に帰って来ない
本当に貴重なものは失ってはじめてわかる
いかにモノに充たされていても人は幸福になれない
愛する人とともにいることこそが最大の幸福であり
それはモノで代替できないから
モノだけで金だけで充たされないものがある
それこそが貴重なものであり金に換算することもできない
人は失ってはじめてその貴重さを知る
モノを充たしても幸福になれない
車があり便利な道具に充たされても幸福になれない
最も大事なものは人間そのものである

 
よく子供を失った悲しみをそれも80になっても母親が言うことがわからなかった。こうした喪失感は消えることなく残っているのだ。それがもはや代替できないものだからそうなる。モノだったらしろがねでもこがねでも現実にあり買うこともできる、しかし一旦失った人は買うことはできない、永遠に会うこともできない、そこにその空白を埋める悲しみを充たすものがないのである。だから死別の悲しみはあまりにも大きくなる。そして現代文明は異常なほどモノを充たすためにあくせくして過労死するまで働きつづけている。モノにこれほど執着してモノののために働いた時代はないだろう。だからすべてがモノで充たされて隙間もない、人間が死ぬと残したモノはあまり意味がなくなる。高価な着物を一杯残してもそれを分ける人もいない、つまり残したモノは投げる他なくなっている。では何が貴重だったのかというとその人間全体を構成していた個性であり人格など金に換算できないものだった。つまり人間そのものでありその人間全体を構成しているものは機械やモノで代替できないから貴重だった。しかし今そうした人間そのものに価値をおくことより現実生活をモノ中心の生活である。これほどモノを求めて生きた時代はない、便利なモノを追求した時代はない、だからあらゆるモノにあふれそのモノを求めて過労死するまで働かされる。モノの洪水に翻弄されて生きている。


しかし人間にとってもっとも貴重なものはモノではない、人間そのものである。愛するものを失うことがあまりにも大きな悲しみとなっているのは代替できないからである。つまり便利さを追求するものによる文明だけでは人間の根本問題は解決できない、死別の悲しみも癒されることがない、そこに宗教が信仰が必要になってくるのだ。現代の宗教もほとんど物欲カルト宗教になっているから宗教団体に入ったら文明の物欲追求の一旦をになうだけだからここもモノの追求なのである。つまり物質文明の騒擾に巻き込まれない価値観の追求が必要なのである。それは愛する人を失うことがモノで埋められない、代替できないということで一般の人にもむずかしく考えなくても納得できるものなのだ。

2008年10月17日

過度な延命治療の疑問 (死は救いであり肉体の束縛からの解放だった)


過度な延命治療の疑問
(死は救いであり肉体の束縛からの解放だった)-時事問題38
http://www.musubu.jp/jijimondai38.html#enmei

 
姉が認知症になり二年間一緒にいた。そして何度もなぜこんな酷い病気があるのか、これは悪魔がいたずらして人間をもてあそんでいるとしか思えないものだった。だから死んだ方がいいとも思った。人間の尊厳は全く失われてしまうからだ。サッチャ−首相も認知症になったのだから驚く、その時娘がその体験談を書くのは名誉を傷つけるというのもわかる。認知症はあまりにも無惨な姿を露呈するからだ。あんなにぴりっとして聡明な姿が見る影もなくなる。人間はこんなにも無惨な状態になるのかとショックが大きすぎるのだ。そして姉は死んだけど今度はまだ日が浅いにしても死後のことを考えるようになった。そしたら死後は肉体に束縛された苦痛からも精神の病からも解放された姿に見えた。それは自在な霊となりかえって輝いている姿に見えた。生は死より悪いということがある。生がすべて本当にいいものなのだろうかという根本的疑問をもつようになった。認知症になったらそう思うのが自然である。この世でのそうした苦の経験も意味があることは確かである。でもそれも死なくして解決方法がなかったのである。死によって救われ魂が変容したということも感じた。死は一つの犠牲であり浄罪ではないか、認知症になり延命治療で苦しむ姿をみて延命治療にも疑問をもった。それがこの世での苦しみであり意味あるものとしてもあまりにも残酷すぎた刑罰のように見えたのである。

2008年11月04日

認知症ほど人間の無常を示すものはない


認知症ほど人間の無常を示すものはない
     
無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、
身己に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、
紅顔いずこへか去りし、尋ねんとするに蹤跡なし、
熟観ずる往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは
国王大臣親従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり
                            −修証義

寄言全盛紅顔子 言を寄す全盛の紅顔子
應憐半死白頭翁 まさに憐れむべし半死の白頭翁
此翁白頭眞可憐 此の翁の白頭真に憐むべし
伊昔紅顔美少年 伊れ昔紅顔の美少年

 

李白
http://www5a.biglobe.ne.jp/~netboki/kansi.htm

 
南田洋子さんの認知症になった姿は悲惨であった。認知症という病気はこの世の無常を一番痛切に示すものだということを自ら介護して知った。そのことをづっと書いてきた。この世が無常だという時、死はまさに最大の無常である。しかし死の前に認知症になることは最も無常なことを痛切に生きながら人間が示す病気だった。老いはみんなそうだというが認知症になることは人間にとってもっとも無常を感じさせるものだと思った。往年活躍した人でも美貌も才能もある人でも人間の最後は認知症になったら無惨に崩れさる。ええ、これが人間なのか?・・・ということを何度も書いてきた。
 
人間の無常を示すもので認知症ほどそれを示したものがあるだろうか?人間とはこんなにもろくこんなにみじめにこんなにおとしめられてこんなに無惨に死んでゆくのかとあまりにもショックが大きすぎるのが認知症なのだ。確かに老いは古来みんな無常であるが認知症の無常はまた特別なのだ。単に紅顔の美少年が白髪の老人となることとは違う、人間の尊厳が失われる、馬鹿にされてしまうという衝撃なのだ。いたずらに悪魔にでももてあそばれてしまうような人間のあまりの無力が示される。直前のことが記憶できない、目の前のものが消えてなくなる・・・盗られたとか泣いて騒いでいること自体余りにも悲しい姿だった。南田洋子さんも本当に悲しい姿になった。それが認知症の真実なのだ。認知症は多少改善しても直らない、老化と深く関係しているから体が弱ることに比例して認知症になる人が多くなることでもわかる。老いはそもそも直らない病気なのだから、死にいたる病気なのだから・・・宗教的にもどうにもならないだろう。老化は止めることもできないし死もまねがれることはできない、
 

紅顔いずこへか去りし、尋ねんとするに蹤跡なし、
熟観ずる往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは
国王大臣親従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり

 
本当にあの笑顔がどこへ行ってしまったのか、60年も一緒にいたのにどこへ行ってしまったのか・・あまりにもはかない最後だった。本当に終わって見れば人間の命は露と消えるだけである。80年生きても同じだろう。死んでみればただはかない夢幻を生きたにすぎない、国王大臣親従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり・・・死をまねがれることは誰もできない、死を脱することはできない、ただその時仏に主・キリストに祈る他ないのだ。死んでまた人はすぐ忘れ去れる。老人はその人自身を思うことよりその人のもっている財産の方に関心が向きやすい、衰えゆく老人には関心がない、実の子でも金をやらないとよりつかないとかすぐ死んだら相続問題が起きたりとその人間より財産の方に関心が移ってしまうし生きている時でも老いてゆく人よりその人の持っている財産の方が大事になるのも普通である。これも人間の無常を示していないか?おいぼれなど興味がないよ、昔は美人でも今はまとも見てもいられない姿だ、老人はそばにいるだけでも嫌だとかなる。財産だけは関心あるよ・・これも無常だ。老人そのものが無常を示しているし認知症になったら最悪の人間の無常を晒すことになるのだ。
 
仏のようになるとかはない、人間を人間たらしめているのは理性である。理性を失うことは人間ですらなくなるという恐怖がある。人格が変わるという恐怖がある。もの盗られ妄想から猜疑心が強くなり人を信じなくなるのもこれも理性が壊されるからである。嫌なことは嫌だとみんな言ったらこの世はなりたたなくなる。だから離婚ばかりふえてみんなかえって不幸になっているし子供も不幸にしているのだ。人間は嫌でも理性でなんとか仲良くしていこうとしなければみんなばらばらになってしまう。理性は賢さであり前頭葉の働きなのである。そこが壊れるから理性が壊されるから認知症になれば自分本位の感情だけのエゴの人になってしまう。認知症はわがままな駄々っ子のようになってしまうのだ。仏のようになどなりえようがないのだ。認知症の人は悪くなると病識がなくなる。自分がどこが馬鹿なのかわからなくなる。南田洋子さんも自分がどこが馬鹿なのかわからない、自分がどんな醜態を晒しているかもわからない、もし理性が働いていたらこんなみじめな自分を人前に晒したくないとなるだろう。そういう自覚がなくなるのが認知症なのだ。自分がこんなに物忘れするのはどうしてなのだろうと不安をノ-トに書いていたがその時はまだ認知症の初期であり自分が何かおかしいと自覚していた。そのあとは自分を自覚できない、自分が何かおかしいとも思わなくなった。その時病気は進んでいたのだ。こんなになぜ自分は忘れるんだろう・・・不安だ・・・という時やはり自覚しているから正常でありこのときなんらかの対応をしていれば認知症はすすまないというのは本当かもしれない、つまり認知症の症状として必ずそういう経過をたどっている。最初に物忘れがひどいことを自覚して不安になっているのだ。そこから認知症が進んできていたのである。

2008年11月06日

認知症は前頭葉の機能が極端に低下した病気 (南田洋子さんで認知症関係のアクセスふえる)

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認知症は前頭葉の機能が極端に低下した病気
(南田洋子さんで認知症関係のアクセスふえる)

 
海馬 血流 悪い 認知症

認知症 顔つき

認知症と聖書

認知症食べ物

認知症 暴力の原因

南田洋子さんの認知症の放送でいろいろな感想を書いている。認知症関係で私のプログにもアクセスちょっと増えた。認知症関係で書くとアクセスがふえる。前は300あったがこれは認知症関係のアクセスが3分の2くらいあったためである。その後も認知症に関してアクセスはあったが少なくなってアクセスが減ったのである。
南田洋子さんの関係でここにあげたキ-ワ-ドがあった。「認知症と聖書」とか探っているのはこれも書いた。認知症と食べ物でも納豆がいいとか書いた。顔つきはたいがい認知症になると変わるからわかりやすいが私の家族の場合は変わらなかった。だから外から見てわからない人が多かったのである。


認知症のことで面白いと思ったのはテレビの鼠の実験で本当に扁桃体から記憶されたものが海馬を通じて血流となって入ってゆくことが映像としてとらえられたのを写していたことだった。好感情をもっているとき扁桃体を通じて記憶が海馬を通じ入り記憶として定着しやすいことが証明された。扁桃体は感情つかさどり感情的に好感をもっていると記憶が海馬が流れて記憶されやすいとなる。感情的に嫌悪感をもっていると記憶は海馬に流れにくい、これもわかる。興味があるものは記憶されやすいのも扁桃体でその人の好みを判断するからだろう。また人が好きとか嫌いも扁桃体で判断している。だから認知症になっても一緒に長年暮らしていた親密な好感をもてる人はいい影響を及ぼすし常に頼って一緒にいてもらいたくなるのである。血流も関係している。散歩すると血流がよくなるか爽快になるから頭の働きも良くなるからいいのである。本人も認知症になってもそれを自覚していたから毎日散歩していたのである。頭が何かボ−とする、散歩に行ってくるとやはり血流が良くなり気分よくなって頭の働きも良くなっていたのだ。

一方いくら長年一緒にいても好感をもっていないとそうはならない、嫁と姑なら嫁の子供には姑は好感をもつが嫁は嫌悪する、その感情はなかなか変わらない、それで認知症になると孫はかわいいし息子の嫁だから仲良くせねばならないと理性で思っても認知症になるとその前頭葉で理性でおさえることができなくなるのだ。それで感情が爆発して暴力になるのだ。つまり人間を人間たらしめているのは前頭葉であり理性なのである。人間の賢さは理性をつかさどる前頭葉にあるのだ。これがなくなったら人間は正常な人間社会を形成できない、人間社会は破壊される。平和はもう維持できない、なぜなら嫌だ、がまんできない、みんながそうなったらどうなるのか?国同士なら常時戦争状態になるし家族や社会なら家族も社会も平和はもはや維持できない、嫌だ、がまんならない、・・・そのつど暴力なになっていたら家族も社会も平和は維持できない、認知症は前頭葉の理性のブレ−キがなくなった状態なのだ。だから怒りっぽくなるしそれが高じると暴力なになるのだ。南田洋子さんがあどけなく笑っている時はいいが実際は怒りわぽくなり怖い顔になるときがある。顔見たらそういう面も見えた。あどけなく笑っているときは気分のいいときなのである。
 

アメリカでの調査結果によると衝動殺人の犯人の脳を調べてみると
、皆前頭葉機能が落ちていた。つまり脳からみて抑制がきいていない。我慢できない人である。扁桃体は社会活動に対するアクセルで前頭葉はブレーキになる。
http://takefune.blog114.fc2.com/blog-entry-78.html

 
認知症は扁桃体だけの感情だけの動物的人間になる。自分にいいこと好感をもつことのみを受けいれて嫌悪するものは受けいれないしそれを強いれば暴力にさえなる。これは子供と同じではないか、子供はがまんがないからおさえつけるほかないのだ。認知症の人も我慢がなくなるから我が傲慢になるから押さえつけねばならなくなる。自ら我慢できないから他者によって強制的に押さえつけねばならなくなる。セルフコントロ−ルがなくなるのだ。セルフコント−ルするのは前頭葉であた理性の働きなのだ。
 
「オマエ馬鹿だ、こんなこともできないのか、バカヤロウ、ぐず、ノウタリン、・・・・」
 
様々に罵倒されてついに頭にきて暴力になる人は普通にある。でもここはじっとがまんだ、がまんだと耐える人もある。その耐えることが前頭葉の理性の働きなのである。そこでがまんできず何をとムキになったら暴力となり相手を殺したりまでするようになるのだ。いづれにしろ人間社会でこうしたことは日常的にあるのだからそれでいちいちキレていたら社会そのものが成り立たなくなる。無数の我慢によって人間社会は成り立っているのだ。だから人間にとって前頭葉は人間たらしめるものであり前頭葉の機能が破壊されることは致命的なのである。
 

2008年11月25日

古代からあった精神障害者の問題 (死んでも認知症の問題はつづいていた。)

 
古代からあった精神障害者の問題
(死んでも認知症の問題はつづいていた。)

西暦六一四年作られた養老律令では、 ? 一眼の視力障害の「一目盲(ひとつめみず)」、聴覚障害の「両耳聾(ふたつみみきかず)」などの「残疾(ぜんしち)」、 ? 重度の精神障害・精神病と思われる「癡(おろかひと)」、言語障害をもった「(おうし)」、小人症(?漢字が子どもを意味しているので…)の「朱儒(ひきひと)」、腕や足のうちの一肢に障害ある「一支癈(ひとつえだすたれたらん)」などの「癈疾(はいしつ」、 ? てんかんや精神障害の「癲狂(てんおう)」、二肢に障害のある「二支癈(ふたつえだすたれたらん)」などの「篤疾(とくしち)」、と、障害の度合いを「三疾」に分け、これらの者に徴兵、労役を免除している。「残疾」は租税を軽減、「癈疾」と「篤疾」は租税すべてを免除した。また「篤疾」には付添い人をつけると規定している。
 
山たずねとは、山に魂を呼び尋ねる意であった。そうしてその魂が迎えられて還ってその人の身に入ると呆人(はうじん)は元の知覚を取り戻し、記憶を取り戻し篤疾(とくしち)者は平癒し死人はよみがえるわけであった。これが魂ごい(たまごい)であり恋(こひ)であった。(折口信夫)

認知症などといふ不可解な病気に接するとこんな病気があるのかと未だに不思議である。だから認知症 憑依とかのキ−ワ−ドでそういう関係のものを知りたくなる人もいるし自分もそうだった。どうしても医学的に科学的に合理的に理解できない、わけわからないからそうなる。医者すらほとんど認知症についてはわからない、ではこんな病気が昔からあったのかと調べてみると実際は古代からあった。これだけ障害者を分類しているから明確に障害者を意識していたし付添人まで必要だと認識していたのだから障害者の歴史も古いのである。癡(おろかひと)というのは認知症にもあてはまるかもしれない、若くてもそういう人はいた。そして折口信夫の文を読んでこういうことありえると自らの経験で思った。今でもあのような精神障害の病気になったので死んでからも直れと祈っている。それは継続した願いとなっている。誰でもあのような精神、知覚障害のままで死んでいったことが納得いかない、だから正常になってほしいとこうのである。古代人は遅れているとか科学的精神に欠けているとか今ではなるがしかしこの一文を読むとこれが私自身のこいねがうことになっいる。精神知覚障害が直って元の正常な状態の姉に戻ってくれというのが死んでも願うことになる。もしもう一度あうなら誰も認知症になった無惨な人とは会いたくないのである。だから死んでからもこいねがい祈っているのだ。恋とは乞うでありそれは男女間の恋愛ではなく最も深刻なのは死んだ人をこう(こい)ことだった。死んだら二度と会いないからこそその乞うことは深刻になり切実なものとなりこのような不思議な感覚をもたらすようになったのだ。死別した人は何らかそうした不思議な経験をしているし書いている人もいる。死んだ人を取り戻そうとしてこうした原始的信仰のようなものが生まれたし歌はもともと祝詞であり祝術的なものだった。万葉集を今の感覚の恋愛の歌とみんなみていることは深刻さに欠ける。万葉集には今では考えられない深刻な背景がありその背景を読まないと理解できないのだ。その最も深刻なものが死別であり死別をうめあわせるための祝術的なものが歌だったのである。
 
つまり認知症のような障害は古代からもあり江戸時代にもあり戦前もあったが数が少ないから目立たないので記録にも残らなかった。これが百万人とかなると一つの病気として社会的に認定されることになる。認知症は別に現代特有の病気ではない、昔からあったが単に耄碌したとかで社会的問題にもならなかった。数が少ないからただ特殊なものとして例外的なものとして見過ごされてきたのである。一般的な精神疾患とも混同されていたかもしれない、精神疾患は古代からもあった。現代になってから鬱病などは増えたが精神疾患はあった。それがなかなか病気とは認めにくいから狐がついたとか憑依したとかされた。現実精神病になると最初人格が変貌したようにそう思いることも不思議ではないのだ。記憶障害から何らかの人格障害にもおちいる。猜疑心が強くなるのもそのためである。いづれにしろ介護とか認知症の問題は死後もつづいている。どうしてあんな病気になったということが解せないからである。そして死んだ後も直ってもう一度会いたいとなる。それで折口信夫の解説した古代人の心情と一致したからやはり人間の心というものは古代から変わっていないことがわかる。これほど科学が発達して文明化しても心自体は変わらない、愛する人を失いば現代人でも古代人でもその悲しみは同じである。これほどモノが豊かでもやはり死別を癒すものはモノにはない、かえって古代人の方がその悲しみを癒す方法を見いだしていたとなる。そんなことはありえないとか迷信だとかとは深刻な死別を経験したものには言えないのである。
 
その魂が迎えられて還ってその人の身に入ると呆人(はうじん)は元の知覚を取り戻し、記憶を取り戻し篤疾(とくしち)者は平癒し死人はよみがえるわけであった。これが魂ごい(たまごい)であり恋(こひ)であった。
 
元の知覚を取り戻し、記憶を取り戻し篤疾(とくしち)者は平癒し・・・とあるのはまさに認知症のことである。知覚の記憶の異常からこの病気がはじまっているからだ。それを取り戻すことが直ることだったからである。そうこい願うのが魂ごいだったとなる。魂が正常になり戻ってこいともなる。それは死んでも切実に乞うことになっているのだ。死んでも認知症の問題は終わったわけではなかったのである。

2008年12月17日

多様な才能が開花しやすい高齢化社会


宮沢賢治というと万能の天才のレオナルド・ダビンチとにていた。それにしてもフィレンツというルネサンス文化を作った天才が集合したなかで生まれたのである。賢治の場合は東北の文化的にも孤立した中で一人異才を発揮したのである。それが大正時代とかであり科学は発達してきたにしろ現代から比べるとその差は大きい。鉄道にしても岩手軽便鉄道とかまだまだ整備されていない時代である。それでも銀河鉄道とかの童話やその他、詩にしても時代を越えていたし現代にも通じてさらに二十一世紀にも通じているものを作り出していたイメ-ジ化していたのである。すでに理系と文系の両方の才能あること自体まれである。たいがい文学に通じていれば理数系はだめなのが普通なのだ。自分にしても俳句とか短歌が出発点でありそれも若いときはやっと定型のなかに嵌まるように文字を並べていただけである。アララギ派とかは地味でありその出発点からして違っているしそうした伝統的を枠を越えて創作していたのである。つまり今の時点なら賢治のような文学は現実のものとして創作できる。自分自身も現実に最先端の新幹線に乗ったから この詩をまねて賢治風にアレンジできた。でも賢治なら頭の中で百年前にイメ-ジされていたのである。
 

 
正岡子規とか啄木にしても文学に新しい価値観を作り出したことで評価がある。写生という西洋美術の価値観を取り入れ啄木は短歌に今までにない独自の観点を作り出したことで文学の伝統を革新した。それも啄木は26歳とか子規は35歳とか賢治は37歳とかでみんな肺病で死んでいるのだ。そういう早熟の天才でしか才能は実らすことはできない時代だったのである。現代のような信じられないような長生きの時代は才能を実らす人は相当でてくる。そもそも学問にしても「少年老いやすく学なりがたし・・・」である。学問も相当時間をかけないと理解できないものである。天才でなくてもグロ-バル化の時代にある一国を詳しくなることができる。でもすべての国に詳しくなることはどんな天才でもできないのだ。知識は膨大であり一人が知るには限りがあるからだ。だから長生きの時代は天才でなくても積み重ねでそれぞれの才能を実らすことができるのだ。60年も生きればすでに賢治の倍も生きるから理解力がでてくる。雑学ですら一つの分野に詳しくなることはむずかしいのだ。地名学を創設したがこれにしても膨大な知識が必要であり今インタ-ネットでは郷土史の分野でルネサンスが起きていることは確かである。何故なら地名はどこの村でも町でも紹介しているからである。
 
現代はレオナルド・ダビンチがイメ-ジした科学の世界が現実化している。そして世界旅行も当たり前の事であり知識は無限大に広がりそれも現実に実地を踏んでいる時代である。賢治は高等遊民ともなる特別の余裕がある家で才能を開花できた。今はフリ-タ-とかニ-トとかそうした余裕のある青年がいることが当たり前の時代になったから問題になっているのだ。団塊の高度成長の時代ですらその数は今の百万とかの数などはいない、極めて少数でありそれは変わり者のアウトサイダ-になった。今は平気で高等遊民を目指すとか言っても誰も特別とがめるということもない時代である。もちろん数が余りに多すぎて社会的問題になっている。それだけ当たり前になっているから社会問題になるのである。今の時代は科学にしても過去にイメ-ジ化したこと現実化している。それが当たり前の経験となり驚くこともない時代である。だからルネサンスが起きる下地は広範囲にできているのだ。インタ-ネットなどもその一つであり賢治ならエスペラントなどをもしていたのだから世界から知識をとりいれことができた。なぜなら百年前にあれだけのことを東北で孤立してイメ-ジできたのだから今ならそれは現実だからである。つまり長生きの時代は多様な才能が開花することが一面プラスの面としてあるのだ。その反対の暗黒面として認知症があったのだ。余りにも長生きが多くなったせいで脳の老化が一般化して知能が低下する病気がふえたのである。何でも言い面と悪い面が生まれる。高齢化のいい面としては多様な才能が開花しやすいことである。そういうお膳建てすでにあり高齢化になるとさらに成熟化してくるし早熟の天才でなくても才能もこつこつ積み重ねてゆけばそれなりのものとして開花してゆくのである。30年の旅でもあとでその見聞や経験が生きてくるからだ。世界旅行も当たり前の時代でありそうしたものも後年活きてくるからだ。高齢化社会の暗黒面だけをとりあげてきたが明るい面としては明らかに多様な才能が開花しやすいことは確かなのである。  

新幹線にケンジ(賢治)が乗っている!
http://musubu.sblo.jp/article/24461576.html

2009年01月16日

死者を愛しつづけることができるのか?


死者を愛しつづけることができるのか?
わたしたちは愛においていかに死者を憶うか(キケルゴ-ルを読む) (時事問題の深層39)
http://www.musubu.jp/jijimondai39.html#death

 
人間死んでみるとどんな人も実にあっけない、それまでどれほど迷惑かけたり嫌がられた人でもあっけない、こんなにあっけないのかとあきれるほどである。一旦死ぬと何の反応もない、二度と会えない、どんなに会おうとしても会えない、死者はそして何の反応もなくなる、呼びかけても何の反応もない、墓参りしたところで相手に通じているかどうかも全くわからない、死者をいくら想っても供え物しようが死者からの反応をもはや得ることができないのだ。だからそんな死者を愛せるものなのだろうかとなる。キケルゴ-ルが言っている死者は特定の死者のことではない、共通した死者のことである。死者はやはりあなたを見ている、生者を見ている、死者に偽りを言うことはできない、死者は見通しだからというとき死者に対する畏れがでてくる。神が外見ではなく心を見ているというとき死者も心を見ているとなるとそこに畏れがでてくる。そうでなくても死者とは民間信仰でもやはり畏れものとなってゆく、死者を嘲笑したりできない、認知症だったりしたら生きていても笑い物にしかならないし軽蔑と差別の対象でしかありえなかった。いくらなんだかんだ言ってもどうしても生きていればそうなってしまうことは避けられないし他者にもまともな人と同じように接してくれと言っても無理な相談だった。でもそういう人も一旦死ぬとどうなるのか死者はどうしても畏敬の対象となってしまうのだ。そこに靖国の英霊問題とか共通したものがあった。死者は霊と化して畏敬の対象になってゆく、いづれにしろ認知症の介護から死へそして死後の問題へとつづいている。
 
しかし死後の問題は一番むずかしい、生者と死者の間にはあまりにも大きな壁があり深淵がある。死者の世界とは交流できない、死後の世界をいろいろ言ってみても謎になってくる。ただ介護から死-死後の問題は別々のものではなく連続したものとしてあったことがわかった。例えばホスピスなどは生から死への一つの段階として設定される。それはもはや肉体を治療するというのではなく、生から死への一つの段階を設定してそこでこの世から離れ来世と向かう準備をするのだ。蓮台野というのは良くわからないにしてもそういう場所の意味もあった。単なる姥捨山とは違う、生から死へ向かう一つのホスピスとしての場所の意味もあった。捨てられたというだけではない、生から死へ向かう場所であり今は病院になっているがそういう場所があるのはやはり人間的なのかもしれない、ただ資料がないし過去のことはわかりにくい、ただ生から死へ向かう一つの場が必要なことは確かである。それが病院ではなく村の中にあったということが違っていたのだ。そこは土に帰るとか自然の中にあったのである。病院という無機質な空間ではない、自然の中にあったことも違っていた。

2009年01月31日

臨終の相にこだわる疑問

 
仏法においては、「臨終は、生と死の境、死後への第一歩であるから、臨終の姿は、その人の死後の状態を如実に顕している

@ 集まった自分の身内に対しても、険しく猛々しい目つきで睨む。
A 手で空をつかんで、もがき苦しむ。
B 筋道の通った思考を失う。
C 恐怖のあまり、涙を流して泣き叫ぶ。
D 大小便が垂れ流しとなる。
E 苦しみのあまり、目を固く閉じてしまう。
F 苦しみのあまり、手で顔面を覆って悶絶する。
G 異常な食欲が出て、狂ったように飲み食らう。
H 身体や口から腐敗臭が漂い出る。
I 恐怖のあまり、手足を震わせて怖れおののく。
J 鼻筋が曲がって、凄まじい形相となる。
K 白目を剥きだしてしまう。
L 目が血走って真っ赤に変色する。
M 顔面を伏せて、苦しみ、うめく。
N 苦しみのあまり、身体を屈めて悶絶する。
(守護国界主陀羅尼経)


  B筋道の通った思考を失う。
そもそも認知症なったら筋道通った思考をなくしている。
D大小便が垂れ流しになる
そもそも臨終の頃になったら大小便は自分でできない、垂れ流しになる。これはほとんどの人がそうであり始
末は看護師がしている。
E 苦しみのあまり、目を固く閉じてしまう。
尿毒症になって2カ月間意識なくなったのだから目を開いても魚のような死んだ目となり反応がなかった。でも苦しんでいる様子はなかった。意識がなくなっているから苦しまないのである。
G 異常な食欲が出て、狂ったように飲み食らう。
点滴だからこういうことはなかった、胃ろうのとき飲みたいとか食いたいとか餓鬼のようになった
I 恐怖のあまり、手足を震わせて怖れおののく。
恐怖はなくなっていた。そもそも認知症になると死ぬということがわからなくなるのか恐怖がないのだ。死ぬことに恐怖しないので認知症はいいという人もいるが本当だと思った。
L 目が血走って真っ赤に変色する。
これはまだ元気なとき怒った時そうなった。激情的な人だったからそうなった。怒りは体に良くないのだ。


●みんな苦しんで死ぬ 
 
姉の死の状態をふりかえるとそんなに悪いものではなかった。ただ胃ろうとかなっていたときの方がひどかった。まるで餓鬼地獄であり刑罰を受けているような状態だった。これは胃ろうになった人に共通している。死の状態が悪いから成仏しなかった、仏法に逆らったからだとかにはならないだろう。ただ死ぬとき形相が変わって「スシもってこいい」と叫んで死んだ人がいた。それは確かに死ぬとき餓鬼が現れたから餓鬼になって死んだといえるかもしれない、死んでゆくときの姿はみな違っている。死ぬときは楽に死んでいった。数分呼吸困難になったがス-と息をひきとり死んだことがわからなかった。すでに意識不明で死んでいたのだから死ぬときは楽だった。意識不明になっていたら苦しまないのである。死ぬことは一般的に楽になることだし生きていることと死んでいることの分かれ目は意識できない、無意識のうちに死に向かい死んだときはもう意識がないから何もわからないのだ。死ぬまではいろいろあり苦しんだとしても死んだら人は楽になることはまちがいない、二カ月間意識を失ってから半場死んでいたのだからかえって楽だったのである。


一般的に死んでゆくときはこんな状態になりやすい、癌で死ぬ人も耐えられない痛みに悶絶したりこれは普通誰にでも起きていることだからこれを仏教の法から死ぬときの相が悪いから地獄行きだとかならない、安らかに死ねる人はまれである。こういうことを言って仏法を信じなさいというのは脅すのは間違っている。なぜなら認知症などは全く生きているときから悲惨な病気であり罰あったとかなるが死ぬときはそうでもないからだ。また馬鹿になることは自分を責めないから鬱病より楽なのである。他者が悪いと思い自分は悪いと思わないし自分も馬鹿だと思っていない、だから自分を責めることがないから楽なのである。だから認知症の人は自殺したりしないのである。ただ自分だけに気分のいいことだけを他者に要求するだけである。わがままといえばわがままなのだけど本人は苦しまないのである。


 
●何かと因縁つけて脅す宗教の不純さ 
 
いづれにしろ宗教はこういうことで脅すのが良くないのである。どんなに信仰しても正しい人でも死ぬときはみんな相当苦しむのが普通である。この項目にあてはまらない人はいない、死ぬときは必ずこの項目の中に一つくらいあてはまるからだ。もしこの項目に一つもあてはまらず死んだ人がいたら本当に奇跡だとなるがそんな人見ることはできないだろう。おそらくこれを言っている本人もそうである。みなん死んだときの姿は知りにくいからだ。また本当のことは言わないからだ。死はやはり60前くらいで死ぬのは寿命を全うしないことであり悔いが残るし80以上も生きたら天寿を全うしたとなる。死に方が仏法の罰だとかにはならない、60前とか死ねばやはり人生を全うしない呪われた人生だったとかなる。その他、死の相がそんなに重大事するものとはならないと思う。ただこれも不確かなものだから脅すのにはいい材料なのである。これを言っている僧がこの項目にあてはまらず死ぬ自身があるのか?それを確かめるから死ぬとき呼んで下さいと言ったら自信をもっていえるのか?創価の信者でもそうである。仏教関係者が自信をもっていえるのかとなる。仏教関係者自体が責め合っているのもおかしいのである。
医者だったらともかく差別なく体を直そうとしている。その病気の原因を極めて直そうとしている。これは仏教を他の宗教でも信じる信じないに関係ない、なんとか病気を直そうと努力しているのだ。その方が公正である。病気になるのは不幸があるのを宗教で脅したり宗教に因縁づけるのはおかしい。肺病になったりした人が今では全部直っている。直らないときは呪いだとかいろいろ言われたかもしれない、でもそれは伝染病であり特定の人がなるのではなく今ではみんな直る病気になっている。宗教からしたら罰であり因業だとか永遠に直らない病気になっていた。癌でもこれも宗教からすると因業だから直らないとなってしまう。すべて科学では解決しないにしろ病気に関してはいろいろ問題あるにしろともかく誰が悪いとか罪だとか罰だとか言わず病気そのものを直そうとしているのが公平であり病気に対する正しい態度ではないか、心正しい人でもヨブのようになる人もいる。確実に誰でも老化して病気になる。だからそういう面からみると宗教で脅すようなことは言えない、そして医者も言っているように死んだらみんな楽になる。成仏しているのだ。苦悶の表情もなくなるし安らかな顔になる。ただ死ぬまでが苦しむのは平等なのである。
 

 

●死後のこともわからない 
 

死後のことについてもいろいろ言うけどでは地獄に落ちるとかなんとか言う人が本当にあなたは死後のことがわかるのですか?そんな自信ありますか?だからやたら地獄に落ちるとか言うべきではない、それは神仏の領域でありどんな人もわからないのである。神のみぞ知るである。
そこではこの世の善人は悪人とされ悪人が善人とされることもありうる。つまりこの世とあの世の価値観は逆転するからそうなるのである。いづれにしろ死後のことで脅すこともその脅す本人が神でもない仏でもない、凡夫であり罪多き人間なのである。だから親鸞のような人に見習いとなる。

 
 「いづれの行もおよびがたき身なれば、 とても地獄は一定すみかぞかし。」
 

いくら善行を修行しても行く先は地獄だということはどういうことなのか?これこそ真実である。
人を救うためには地獄まで行くという人もいたから地獄に一緒に同行しようというのが宗教者でありオマエは罪深い、罰あたるなどと言っている人こそ最大の罰当たりであり罪深い人であることは確実である。そういうことを余りにも軽々しくいいすぎるようになったのが宗教の大衆化の弊害だったのである。創価の場合はカルトだから常軌を謁している。政敵であろうが創価に一言でも批判すれば仏教を責めるやつは地獄行きだと公然と脅し集団の権力で通すことができる。このような異常なカルトが日本を支配したらどうなるのか?

創価を一言でも批判した人は刑務所行きであり現実社会で地獄行きにされるのだ。暴力団がオマエラ俺たちに逆らったら地獄行きだぜ、あの世行きだぜ・・・こうしてすごまれていると同じなのである。現実そうなっているのだからあまりにも宗教というのが大衆化した結果、ただ世俗の脅しの道具になってしまったという異常性に気付いてない、つまり親鸞のように言う人は一人もいないのだ。ただ成仏の相が大事だとかそんなことばかりなのだ。ほとんどの宗教は恐怖のみを与えるものとなってしまったのだ。恐怖の故に奴隷にされるのである。


 


[ 臨終観察、その6 ]

臨終の際の表情を観察した記録がありますが、社会保障研究所の井上氏が 1,175 名の老人の臨終を観察したものです。それによると
 
1:安らか     71 % 2:無表情     14 %
3:苦痛      11 %
4:興奮/緊張    4 %

でした。上記の死因については 老衰が20 % であり、苦痛の多い ガン患者の場合も、その 69 % は臨終に際して安らかな表情であったとのことでした
 

仏教関係者は脅すためであり根も葉もないことを言っている、現実にどれだけの臨終の相を見たのか?死人に一番接しているのは今では医者と看護なのである。
だからこの報告は信じられるのである。仏教関係者はやたらむずかしい経文などをもちだして恐怖心を与えるだけなのである。科学が万能でないにしろ今の時代は科学的判断を基調にせざるをえない、そうでないと社会自体に信用してもらえないのだ。そこにカルト宗教団体の判断が入ると科学の否定になる。それが盲信となり社会自体をカルト化してしまうから危険なのである。個々に祈ることと信仰することと集団で祈ること信仰することは違っているのだ。集団で祈ることはすでに他者に圧力をかけることになる。みんなで罰あたる罰あたると祈られることは恐怖になる。幸福になってくれと他宗の人へでも祈ってくれるのなら別だけど集団化したら他のものは排除され敵対するものとなりやすいのである。だから同じ日蓮宗でも互いに呪いあって祈っている異常があるのだ。 
 

2009年02月17日

NHK-クロ-ズアップ現代-認知症 広がる「本人が決めるケア


 

●認知症を理解すること自体むずかしい
 

認知症の人を理解するのは相当むずかしいだろう。これは実際に家族でかかえた人でしか理解できないだろう。今日のNHKでは若年性の認知症をとりあげていた。これも若年性と老人性の認知症はどう違うのだろう?とかまた疑問になる。認知症をテレビから見ただけではわからない、ええ、どこが悪いのだろうか?普通に見えるけどなとなる。でもよくよく表情を見ているとどこかおかしいのだ。認知症は知恵遅れになっている。知恵遅れの人とよくみているとにたところがある。社会のことが理解できなくなる。それはいろんな症状となって現れてくる。だから今まで簡単にできたことができない、人付き合いは特にそうである。社会のことがどういうことかわからなくなるからだ。ある人は施設に入ったらそこは会社で介護士は部下だと思っているという。そこがどういう場所なのか理解できない、会社だと思っているからが部下だとすると介護士は部下の役割をしなければならなくなる。「部長、ごきげんはどうですか」「まあまあだよ、お前はあわてて失敗するから気をつけろよ、時間を守れよ・・・」「部長わかりました、ありがとうございます」
こんな会話を嘘でもしていなければならなくなるのが認知症なのである。つまり認知症には演技力が必要になる。

 
例えばお手伝いさんとお手伝いさんを使っていた女性が二人認知症になったらやはり関係は変わらず使う者と使われものとして施設ですごししていたという、それだからこそうまくいく、一方が認知症になったから馬鹿になったから使われている人があなたは馬鹿になったのだから私の言うことを聞きなさいとかいちいちわからなくなったことを指摘したら怒るのだ。今までの人間関係は継続する、でも実際相手が馬鹿になったのだから継続できない、そこに問題が起きるのだ。認知症とは相手をたてることが相手を気分よくさせることが治療であり介護なのである。それをできる人は家族でもできない場合があるし他の人でもまれである。だから今まで長年つきあっていた人も来なくなった。相手できないのである。一人だけうまく相手してくれた人がいた。その人はうまくちぐはぐな話をしてもそれに合わせてくれたのである。その人とは前はそんなにつきあいはなかったが相手が馬鹿になってもかわいそうだからなとか同情していたのだ。その人は今までは馬鹿のように思われていた人だった。何か言うことが良くわからない人だった。でも実際は認知症になり馬鹿になったことをわかっていてつきあってくれていたのである。
 
●認知症の人にとって作業療法は効果ある
 

認知症の人が幼稚園とかに行って掃除などをしていた。それで自分たちも社会とかかわれて何かしら役立っているという意識をもつ、子供たちとも接することができると生きがいをもてる。
認知症の人は役に立たないということを意外と気にしている。私の家では家事をほとんどしていなかった。でも認知症になってから洗濯、掃除、食器洗い、風呂の掃除などをするようになった。そしたら自分は役立っているということで何か自信がついたのか前向きになった。認知症でも役に立ちたいという意識がある。体は丈夫だったからそれがまだできた。それでこちらも助かった。庭いじりなどもしていた。認知症の人にとって作業療法がかなり効果を現す、でも家庭でやるならいいが社会でやるとなるとテレビでも補佐する人が4人必要だとか金もかかるとか簡単にはできない、つまり社会の役に立つからといって自分たちではできないのである。だから自分たちで病気を知ってもらいいい介護を国に要求することができるのかと理解できなかった。ともかく認知症は理解がむずかしいから家族でも孤立しやすいのである。だから施設に入るほか地域で介護することはまわりの理解がないのでむずかしい、実際は自分は一人で介護して何の援助もえられなかった。病院に入院したときは認知症の介護ではない、体の介護だが援助されたので病院に入れたとき楽だなとつくづく思った。ともかくはじめて外部の人が体の事でもいろいろ気づかってくれたからである。ただ別に認知症だからと気づかったわけではない、認知症だからと気づかってくれる人はいない、むしろ地域では差別、偏見になりやすいのである。


認知症は今日のNHKのテレビ見てええ、普通の人とどこが違うのか?と見る人が多いだろう。若年性の認知症は自分もわかりにくいがやはり痴呆であり明らかに知恵遅れの人のように社会のことがわからなくなる。でも依然として今までの大人としてつちかったことは記憶にあるから施設に入ったらそこが会社だと思ったりする。認知症はオ-ストラリアのようにまだ日本では認知症そのものが認知されていないのだ。何なのか社会でも理解していない、身体介護としてしか外部の介護はない、心の領域まで踏み入れ介護はめんどうだからできないのである。つまり日本では本人が決めるケアはほど遠いのが現実でありNHKの今日の放送はほんの一握りの例外的な人の報告にすぎなかったのである。

 
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認知症は社会で長年暮らして家族や社会で仕事してきた人だからその記憶が残っていて
自分は有用な有能な人間だったというプライドを認知症になっても持ち続けているのだ
そこが先天的知恵遅れの人との根本的そうである。

2009年03月03日

NHK=認認介護なんて可能なのか?

 
 

主治医(もっとかかわればよかったのかな)

地域包括センタ-(連携をとり一人を全部でみる体制を)

近所(夫婦(家族)のことだし中に入れない)

ケアマネジャ-、ヘルパ-(気づいていたんですけど・・・・)
 
認知症に対応できる医者はほとんどいない、遠くでかかることはできない、そもそも認知症の人が認知症の人をめんどうみれるのか、それが不思議、食事の用意もできない、軽くてもやっと掃除、洗濯、食器洗いはできた、でも機械は操作できないから洗濯機使えない、炊飯器使えない、ガスも使えない、そんな人がどうして認知症の人をそれも重度の人を世話できるのだろうか?これこそ地獄ではないか、認知症は軽いと外から見てきづかないことが多い、それで放置されることが多い、認知症は介護がいいと多少回復する、もの盗られ妄想は消えたし穏やかになった、扱いやすくなった。あつかいやすくなると介護者は楽になる。ただそのために介護の環境が問題なのだ。その要が家族であり介護する家族に恵まれないと回復は無理、認知症の人が認知症の人を介護するのは最悪だ、というよりできるはずがない、まず食事の用意ができないからだ。認知症の人は感情をおさえられない、怒りをおさえられない、爆発して暴力になりやすい、下の世話まですることは不可能、正常の人でも信じられないような忍耐力が必要になってくる。認知症はいろんな面で忍耐力がなくなる。他人に気をまわして世話できることは考えられない、子供がいなかったのか、家族がかかわっていなかったのか、それが悲劇を生んだ最大の原因なのか、なかなか介護とかは事情がわかりにくい、介護は家族に恵まれないと最悪になる。今は隣近所も無関心、公的援助もままならない、医者も全く頼りにならない、施設は特養だと1400番目だとか都会では普通なのかもしれない、つまり特養には事実上入れない、地域包括センタ-も実は在宅にさせて政府の負担を減らすため、総合的に機能していない、そして最悪の認認介護になり放置されて悲劇が起こった。認知症は社会に何を問いかけているのか?大家族の崩壊、地域の崩壊、高齢化の暗黒面が認知症に象徴的に現れた。社会は高齢化にも認知症にも対応していない、悲劇はこれからも起こる。

 

●認知症になりやすい夫婦の組み合わせ? 
 

一つ気になったことがあった。どうも認知症なる人は実直な人だったとか、真面目でいい人だったとか夫婦円満だったとか言っている。夫婦の夫は真面目な職人だったという、認知症の人を扱った医者が認知症は夫婦でなりやすいという、それはあぜなのか?何か原因があるのか。
一方の妻の方は気さくなほがらかな人だったとかある。一方が真面目で実直で一方は気さくでほがらかであった。こういう夫婦も意外と悪いのかな?意外とこういう人は会話があまりないのかもしれない、実直な職人だと仕事を一すじで何か趣味がなかったりして人生を楽しむことに欠けているかもしれない、相手があまりにも真面目で趣味がない、実直だというのも問題かもしれない、自分の家では夫婦ではないにしろそういうことがあった。何か趣味を楽しむ会話がなかったのである。自分の家族はあまりに特殊だからあてはまらない、でも夫婦の関係のなかにも認知症になりやすい組があるのか?仕事をやめてから趣味もなく二人きりで過ごすというのは良くなかったのか?認知症はそもそもなぜなるのかわからない、家族関係が良くてもなるし優秀な人もなるし公式的に決められないからだ。だから謎でありただ介護の方法はある。多少は改善するのが認知症であることがわかった。でもその介護は家族により個人により違っているから相当困難な問題なのである。

 
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夫婦のどちらかが黒く真面目すぎてもどっちかに影響する、こういうとりあわせも多い、すると一方が認知症になりやすいのか、どちらも趣味があり人生を楽しむ術を知っているものは認知症ならないのか?
いろんな人がいるから何かこういうところにも認知症にならない予防方法があるのだろうか? 
 
今の年寄りには働きづめで真面目な人が多い、粗食にたえて仕事だけが価値と見なしている人が多い、遊ぶことを知らない世代である。遊ぶことに価値を認めない世代である。だから金と仕事が価値観になっている人が多い、こういう夫婦は認知症になりやすいと指摘する医者もいる。これは一方が趣味があり陽気で気さくでも一方が真面目一方だと会話もなく一見夫婦円満でもその中味は趣味で通じ合うこともなく会話もないから脳の活動も停滞するかもしれない、でも今の80以上の人はこういう夫婦が多いのだ。仕事一方であり趣味や金にならないものに価値を見いださない、一方団塊の世代は違っている、遊びを覚えた世代だからである。人間は真面目一方で人生を楽しまないという価値観もかたよっている。かたよった人間を作る。貧乏の時代の人はこうなりやすいのだ。遊ぶことに価値を見いださないのだ。金を数えるのが最大の生きがいとなっている人が多いのだ。だから団塊の世代などは悪い面が指摘されるが今の80以上の世代とはかなり違った老人になるのではないか?同じ老人でも違ってくることは確かなのである。そんな老人など若者は尊敬しないとなるが老人も時代によって生み出されるものだからそれをすべて否定できないしいい面もある。悪い面もある。今の老人がすべていいとは言えないのである。
 

2009年03月24日

認知症でも最後まで人とのつながりを求める(2)


認知症でも最後まで人とのつながりを求める(2)
(人間より犬猫の方が正直で親愛の情は変わらない)

 
 ●人間より金が大事
 
なぜ現代はこれほどまでにペットブ-ムなのか、ペットを介護して墓まで作る。ホ-ムレスの人は人間よりペットの方が大事にされるとひがんでいた。ペットに猫に金持ちが財産まで残して子供が怒っていた。これは単に金持ちの一人よがりなのか?豊かな時代のゆがんだ愛情なのか?最初は私もそう思っていた。それが家族で認知症の老人をかかえ介護したことにより考え方が変わった。今の時代、かえって家族のなかですら愛情がもてない、娘、息子でも親のめんどうはみない、金だけはくれとか子供でも金をやらないとよりつかないとか、金を第一にして金にとらわれて金から人間はもはや離れられない、認知症の人も金のことを最後まで忘れない、金を銀行からおろせない、認知症の人は金を一億円、財産をいくらもっていても自分で自由にできない、では金のことがまったくわからないかというと金がこの世で一番大事なことを知っている。だから金には最後までこだわっている。年金のことには最後までこだわり問い詰めていた。自分でも金のことを銀行のことや年金のことをわかろうと必死だった、理解できないことを悔しがっていたのだ。病院に入っても看護婦に医者に金やれとかそういう気遣いをしている。金で良くしてもらうということはわかっているのである。認知症の人は金が大事なことはわかっているがその金が自分の自由にならないという信じられないことが起きてしまうのだ。だから金のことで金を盗ったとか常にいう、極親しい人にも言い問い詰めたりする。人間より金が大事であり金で人間を動かせる、そういう経験をしてきたから金にこだわるのである。 娘、息子のことまで忘れても金のことは忘れないということである。
 
●人間より犬猫の方が忠実
 
なぜ犬をそんなにかわいがるのですか?と老人に聞いたら犬は正直だ、報酬を求めないと答えていた。子供でも孫でもいろいろなにくれとか言うので嫌だと言っていた。犬猫は人間より正直であり裏表ない、自然界には偽善とか裏表はない、人間はたとえ親切にしたとしても必ず報酬を求めている。だから人に世話になることは大変なことなのだ。病院であれ何であれ人に世話になることがどれほど大変か今回ほど感じたことはなかった。だからもう金で割り切って世話してもらう方が楽だと思った。病院でも看護婦に世話になっている老人は本当に気を使い礼を言っている。それも疲れることなのだ。犬猫が求めているのはその日の食事くらいでありあと何も求めていない、人間の問題は求めることが多すぎるのだ。だから相当な財産をもっているかぎり皮肉なことだがその財産故に気をゆるせなくなる。家族でも子供でも財産が欲しいから上辺だけは親切にしているとかなってしまう。現実世話する人もそうなりやすいのである。そして人間の親愛の情は変わる、いかにも義兄弟だとか言っても真実ではない、人間の関係は戦国時代でないにしろその時の状況で変わってしまう。それも金で変わってしまうことがある。兄弟でも親が巨額の財産を残せば奪い合いになり殺し合いにもなる。それまでは仲のいい兄弟でも友達でもそうなる。仲のいい友達でも金がからむと殺し合いにもなる。犬猫は求めるものが極めて少ないから争うことはない、せいぜいその日の食うことで争うくらいである。人間の欲は限りないから争うことも限りないとなるのだ。
 
●認知症の介護にはアニマルセラピ-がいい、犬猫の方がいい
 
認知症になっても人間とのつながりをもとめるという記事に今でもアクセスがつづいていた。これ読まれているなとその続きを書くことにした。認知症になった最初、今まで親しかった人に迷惑かけた。それで来るのを拒絶された所もあった。これは迷惑かけたのだからしょうがない、でも拒絶されたときそのことを理解していた。嫌がっていることがわかったから行かなくなった。それ以後二年間も行かないのだからなんの迷惑もかけていない、でも電話で連絡したりしていた。何らかまだつながりを求めていたのだ。認知症の人は今までつきあっていた人の関係をつづけたい、でもつづけられない、では相手はどうすればいいのか、今までのようにいかないにしても「私とあなたは前と同じように友達なんだよ」という関係を保つことつながりを保つことなのだ。そう配慮してくれればいい人だなと思う。会話できないにしろいろいろわからなくなったにしろちょっとだけでもたまにどうだい、元気かいとか声かけてくれるとうれしいのである。べつにそのときあとはなにもしゃべらなくてもいい、それだけでうれしいのである。認知症になるとそういうことすらしてもらえない、今までのようなかかわりかたではない、相手が病気なのだから頭の病気なのだからそれを考慮してもらう、まだ人間としてすべてがわからなくなったのではない、あなたとはまだ友達なんだよというつながりが保たれると精神的にいい、安定する。それがなかなかできないのである。
 
認知症の人とどうつきあっていいかわからないというのもある。自分にしたってあんなに優れた人が知的障害者としてかわいそうな人としてめんどうみるようになるとは思っても見なかったからである。そのギャップが大きすぎるから認知症の付き合いはむずかしいのである。でも病院に入院している時も一度来ないし死んでから何度か供養してもらっても釈然としないのである。せめて生きているときちょっとだけでも声かけて来てくれたら喜んだろうなと思ってしまう。だから人間より認知症の人には犬猫の方良かったろう。もし犬猫だったら認知症になっても親愛の情は変わらない、相手が馬鹿になったこともわからない、頭をなでればうれしそにしているし本人もなごむ、犬猫の方が親愛の情が変わらないのだから人間よりいいとなるのも悲しい、でもそれが人間社会の現実だったのだ。別に認知症なったからというのではなく一般的に人間は裏表があり報酬を求めるからすんなりと犬猫のように親愛の情を保ちつづけられないのである。
 

2009年04月20日

介護で切れる親戚関係 (介護では本心本根が隠せず現れる)


介護で切れる親戚関係
(介護では本心本根が隠せず現れる)

 
自分の家の場合、兄弟がいないのだから親戚関係はないと同じである。ここを前提にして読んでもらう必要がある。つまりそもそも親戚関係は薄いから切れても当然の関係だった。だからそのことにこだわる、恨むとかはない、ああそうなんだくらいであり別に恨んだりしない、当然の結果だと今では思っている。
 
@ 最初からかかわらぬことを決めて切れた親戚
 
これは介護になってから最初からかかわらないことを決めた親戚だった。ここも代が変わっているし姪とかであり年も八五歳とか本人では何もできないし息子や娘達は何もやる気はないから切れて当然だった。ただ特養に勤めている人がいたのでどうしたらいいか認知症の対処の方法など知りたかった。でもこれもめんどうだからしたくなっかったのだろう、何もできないしたくなかったら介護になったらこの方がわかりやすくてすっきりして良かった。別にこれで恨んだりしない、そもそも本人はできないんだからしょうがないことだった。
 
A無理をして協力して絶縁して来た親戚
 
この親戚も姪とかでありその間に交流も薄いし何かしてくれるとは期待してなかった。だから介護自体は何もしてないにしろ親切に手伝ってくれるものだ不思議に思っていた。そのなぜかがわかった。金をやっていたのだ。でもその金のことで今度は絶縁状態になった。なぜならその人はそもそも金持ちでありやたら財産が入ってくる人だった。金などいらないのに金をやったからその金はそれなりに大きいとしても金持ちだからはした金になる。もし貧乏な人だったらありがたいと思うが全然思わないのだ。金でも一万やってありがたいと思う人百万やってもそんな金も金のうちに入らないはした金と思う人もいるのだ。そういう人に金をやっても何の意味もない、だからこんなはした金で介護に使う気かとどなりこんできたのである。もともとやる気がなかったのに金をやったため切れてしまった。金がいい作用をすべてするわけではない、金持ちは金では動かないのだ。金ですべて解決するけではない、だからあんた金があるんだから金でヘルパ-雇いとなり絶縁してしまった。もし金がない人だったらこうはならなかった。打算でも金が欲しいからやりたくなくてもやることはやる。介護関係の仕事でも他の仕事でも金のため嫌でもやらざるをえないからやっている。それが全部悪いとは言えないのだ。金があるからといって金が万能ではない、かえって悪く作用して人間関係を壊ししてしまうことがあるのだ。ただこの人は相当に冷たい人だったから本心と本音が極端に現れて絶縁してしまった。そうでなければこんな絶縁の仕方をする必要がなかったからだ。あれほと怒り狂うということが理解できないからだ。あなたのためにはそもそも何一つやりたくなかったのだが成り行きで一時的に協力していたのである。
 
B世話になったという理由で協力した親戚
 
ここも親戚といっても親戚にもならない関係だった。ただ世話になったということで協力してくれた。これはAとは比べ物にならないくらい協力してくれた。その言っていることもしたことも本当だった。ただすでに80すぎて協力するにしても自分一人ではできない、代が変わっているし娘や息子はやる気がなかった。でも母親がそういうのでしかたなくしていた。だからこっちの方には金を最初からやるべきだったが金があるということや金を受け取られないとうことでやらなかった。金を払ってもこっちにしてやってもらった方が助かるからだ。でも実際は金はなかった。あとで借金しに来たからだ。それを断ることもできなかった。これはAとは逆の立場だった。金がなければ金はやったのだからもっと協力してもらうことができた。でも金があると言われれば金やるからといったってしてくれない、Aではそもそも金は必要なかったから金で使われることに激怒したのである。こっちは別に絶縁状態ではない、ただ借金だけが残っただけである。借金を返せばもとの状態にもどるだけである。ただ何か手伝ってもらうことはあとあと考えるとむずかしいというだけである。
 
●介護には本心、本音が隠せず現れる
 
介護となると金の問題でももめて兄弟間でも財産のことでもめたりして絶縁状態になる。私の家はそもそも兄弟関係ではないから介護とか深刻な状態になればそんなことする義理も何もないのだから切れても普通のことである。だからとやかく言うことではないのだ。だから結局最後は金の問題になっていたのだ。介護も金の問題としての側面も大きい、介護士の不満も給料が低すぎることでありそれが解消すれば介護に従事する人はふえてくる。労苦の割りには給料が少なすぎるから不満が大きくなるからやめる人も多いのである。
介護になるとなぜこんなに兄弟でももめて絶縁状態になるのか?介護が大変だからそんなものにかかわりたくない、財産だけはもらいたいとかその人の本心がでてくるからだろう。介護になるとその人の本心がでてくる。その本心にまともに接して仰天した。こういうことは介護を職業として接している人にもある。金持ちの施設には横柄な人が多いという。

「オ-イ、高額な金を払っているんだからもっと親切に丁寧に尽くせよ、その態度は気にくわんな、もっとオレを敬い尽くせよ・・・・」
こんなことを金のために奴隷のように使われるとしたら介護士も嫌になるだろう。実際嫌になっいる人が多い。ここに介護は普通の職業とは違う問題としてあることに気づく、だから今回のような本心、本音がでてくると驚愕することにもなる。
「あんたなんかもう世話しねえよ、金のためにへいこらしていたけどオメエなんかもう顔も見たくねえ、オレは金が入ったからうすぎたねえ、オメエみたえな金持ちとはお別れだよ、顔も見たくなかったんだよ・・・・オマエなんかぶん殴りたかったんだよ・・・」

こんなふうに本心、本音がでてくる。介護では親子のなかでもこういうことがありうるのだ。介護でなくても絶縁したい人が掲示板で話している。そういう人は親の介護などしようにもできないのである。介護は辛いから本心、本音がでてくるからできない、最初は世間体とかとりつくろってもできなくなる。長いとさらにできなくなる。それだけ介護は負担が大きいからそうなっているのだ。これはだから介護する人を全面的には責められないのである。そんなにしてまで介護させられること自体、今まで人間としてありえなかったことである。高齢化社会と豊さから介護社会が生まれたこれは新しい問題なのである。 親孝行しろとかの次元とは違う負担の大きさが介護にあるからだ。余りにも重くなれば自分だってのんきにしていられない、耐えられなくなるからだ。


 

2009年04月22日

家族の因縁の不思議(分裂不和の家の因縁のための事件か)


 

家族の因縁の不思議は外から見るとわかりにくい、でも家系とか家族には明らかに因縁がある。別にそれは血縁というだけではない、自分の家系の場合、血縁でないことから生じた問題が多かった。なぜこのことを強く意識するようになったか、今回起きた事件のことが理解できない、なぜそれほどまで烈火のごとく起こって親戚と絶縁状態になったのか理解できないからだ。
その女性はまるで憑依されたような表情だった。それが普通ではない、異様なほどの表情であった。もちろん認知症に接して憑依されたようなことを経験している。それは本当に病気のためだった。認知症 憑依とか精神の病には憑依していることが関係していると探っている人がいる。これもせあながち否定できない、それが余りにも不可解なものだからである。なぜ自分の家にこのうようなことがふりかかったのかも不思議であり理解できないからだ。それで祖父母の家に起こったことをふりかえり考えてみた。すると祖父母の家は相当複雑である。家が常に分裂騒動ばかりだった。それは私の祖母にあたる女性が50歳くらいで脳梗塞になり寝たきりになった。その時祖父にあたる人がメカケにした女性を家に入れたのだ。その女性はものすごく気の強い人であった。実の母親は病気になり子供のめんどうはみれず私の親はそのメカケであった女性に育てられた。他の子供もそうである。でもその女性が入ってきてから私の母の姉は東京の方に出て行ったし事実上長男であった人も事情があり家から追い出された。それだけではない、かわいがった五男の人が結婚したのだが最初の女性も追い出した。次に結婚した女性とも喧嘩して今度は自分自身が家から出て養老院に入ったのである。この女性はものすごく気の強い人だったからこうなった。

 
ではその女性がすべて悪いのかとなるとそうでもない、なぜならそのくらいの人だからその家でまず肺病になった私の母の兄のめんどうをみたり母の親のめんどう、看護もしたのである。家の切り盛りをした女性でありその女性がいなければ家がなりたたなかったのである。ところが常にこうして次々に分裂してゆくの家族だった。その女性がすべて悪いというのではない、明らかに追い出されたり喧嘩別れした女性にも非がありあとで反省していた。今回問題が起きたのは一番かわいがった五男の二回目に結婚して別れて住んだ女性(育ての親)の娘である。その娘も一時子供のときはメカケであった女性にかわいがられていたのである。その娘が今回の事件を起こした。この娘も親とはうまくいかず別れて別居した。最後までうまくいかなかった。常に祖父母の家は分裂状態になっていたのだ。そして不思議なのは本当は中村家とあればその娘の父がその跡を継ぐものであったが姓が変わって山田家とかなっていた。なぜか姓が変わっていて墓は別々になっていた。墓も分裂していたのだ。この家には家系には分裂に継ぐ分裂の家だった。今回分裂したのものためかとふりかえった。どうしてこんなになるのだろうと不思議に思ったからだ。そこにその本人の問題もあるがわかりにくいからだ。それが普通ではない、何か憑依されたようなものを感じてしまったからだ。するとどうしてもこれだけ分裂騒ぎの家系がこうした結果をまた生んだのかふりかえってこれは家族の因縁なのかと思ってしまった。


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赤いバッテン印は家を出されたり出たりした人である。これほど分裂してゆく家はやはり分裂、不和の因縁が深くあるのかもしれない、それが継続して今回の事件になったのかもしれない、すべてではないにしろこうした家族の因縁が継続されることはあるのかもしれない、かといってすべて第二の祖父母が悪いとはならないのだ。出て行ったり追い出された人にも非があったことは確かだからである。最後にはA子の育ての親と一緒にいたのだがそれも結婚して分裂して別々に暮らすことになり母はひどい娘だと恨んで死んだ。明らかに娘は育ての親に対して相当に冷たいしうちをした。その娘が今回介護のことがあったにしろ事件を起こした。どうしてもこうした分裂の家族の因縁の結果としてまた分裂騒ぎが起きたように思えてしまった。ただ本人自体の問題もあるからわからない、ただその怒った表情は尋常じゃない、憑依されたようにさえ思える異様なものだったからどうしてだろうと考え込んでしまったのである。老人を手伝うのが嫌だというのが原因にしてもそれだけではない、これまでの家族関係に問題があったのかもしれない、他にも何かあったのかもしれない、自分自身にもあった。娘の父親は早く亡くなっていてその時自分は何ら援助していない、でも育ての親は本当の親でありその人に冷たくしたのは納得いかない、性格がわがままなのかその人自体の問題もからんでいる。
 
墓参りするときは一人ではなく家族や親戚とかそろってとか何人かでゆくのがいいというのは本当だろう。
そういうことができなくなってしまうことは死んだ後も分裂していることを示しているからだ。

注意-図で生きているのは母と@子だけである。あとは全部死亡している
 

2009年04月27日

老人は価値なのないものなのか-NHK-無届け老人施設の闇を見て


高齢化社会は人間の価値観を変える
(老人は価値なのないものなのか-NHK-無届け老人施設の闇を見て)

 
NHKで無届け老人ホ-ムの闇とか介護保険が使えないことを特集していた。無届け老人ホ-ムは山の中に孤立してあるから本当に現代版姥捨山だった。食事がひどい、朝が牛乳とパン一切れだった。でも母とほとんど変わりなかった。食が細り朝は果物を食べているが二食でありあんなに食べていない、でもまだ食べられる人だとしたら辛いだろう。山の中に街から離れて孤立していある施設は良くないというのは本当である。街の中にあれば街の空気にふれられるし街の人の眼もある。徘徊するからと鍵をしていて火事になり死んだ。徘徊などにつきあう介護士などもいない、ただメシと寝床を用意しているだけでありあとは死を待つだけの施設だった。本当に姥捨山だったことに驚いた。金のない老人は捨てられる時代になったのだ。もちろん中世辺りは野垂れ死にが当たり前であり死体が道端にごろごろしていた。その死体を集めて供養したのが化野の念仏寺だった。それから比べればいいとも言う人はいる。
 
現代は老人受難の時代である。それは老人に親切でないとかとは違う、老人がふえることにより老人受難の時代になったのだ。老人は生産的でないし老人とつきあうことはだれもあまりしたくない、特に認知症の介護はだれもしたくない、家族でもしたくない、江戸時代は養う人口が限られていたから子供が間引かれた。姥捨山は作られた伝説でありほとんどなかった。あったのは子供の間引きだった。現代はこれから老人の間引きが公然と行われる時代になった。いくら福祉だ愛だと言ってもこれだけ増えれば限界がでてくる。老人に社会がおしつぶされてしまう。現実自分も老人二人かかえていたら今頃つぶされていた。一人は認知症でありもう一人も歩けなくなった。その二人をめんどうみることはできない、車椅子でパ-キソン病の夫をめんどうみている70くらいの妻もいづれ限界がくる。共倒れになる。そういう人々がふえてくる。正直自分は一人認知症であったが死んで救われた。次にまた介護だったし二人も介護できない、今老人はやたら死ぬ時期を伸ばしすぎたのだろう。人間は死ぬ時期がある。ただこの死ぬ時期は個々に違っている。個々の家庭で違っている。家庭の中で老人の価値は決められる場合がある。93歳まで生きてももっと生きてほしいという家庭もあるしもう介護になったら死んでくれという家庭もある。つまり老人の価値はみんな一様ではない、別に家庭でめんどうみれればいつまで生きてもいいのである。社会に迷惑かけないからだ。一旦社会に他人に世話になるとき金とかで問題が出てくる。社会ですでにこれだけの老人の介護に金が使えないのである。その労力をまかなえない、職をやめるというのも辛いし社会的損失になる。では老人は捨ててしまいばいいのか、老人には何の価値もないのか、単なる障害者なのか、高齢化社会というものが本格的になりその価値観が問われている。
 
人類はこれだけ長生きする時代を経験していない、だから様々な意見もでてくる。老人は無用だから金ばかり使うからいらない、始末すべきだというときこれは経済的側面がら言っている。老人は何の役に立たないというとき精神的にも無用だとかなる。無駄なものだから社会にいらないから捨ててしまいとなる。これは障害者にも通じている。特に知的障害者はひどいから始末してしまいとかなる。そのことは認知症の人にも言われる。今までは障害者は家族にいなければ無関心だった。でも高齢化社会は地域でも社会でも障害者社会になるのだ。障害者をかかえることは社会的弱者になる。障害者をかかえたと同じになるのだ。そこで今まで経験しないことを多くの人が経験する、弱者とはこういうものか、弱者になることはこんなに辛いことなのかと肌身じ知るようになるのだ。高齢化社会は良い面を探せば弱者への同情が一般的になることでありその点では今までにないことを経験する社会なのだ。弱者への同情心が養われる。自分も年とればこんな弱者になるのだと目の当たりにすることである。人間こんてに弱いものだと実感する。だから福祉の精神や同情心が養われる。そういうことは言われてきたがこれほど広範囲に弱者に接する時代が高齢化社会なのである。もちろんこれに反発する価値観もある。そんな老人ばかりはいらない、早く死んでくれというのも否定できない、自分自身もそうだった。要するにそういうこともまさに高齢化社会が人類ではじめて経験するから賛否両論が出てくる、高齢化社会は価値観を変えてしまうためにそうした議論が起きてきているのだ。

2009年05月15日

笑いの消えた家(呪われた家?)


●雰囲気が暗いと人は近づかない

ここ4年近く我が家に起こったことは何なのか未だにわからない、それは姉の認知症とともにはじまった。この病気自体もわけのわからないものである。老人特有の精神の病だともなる。まずどんな家でも病人をかかえればその家は確実に暗くなる。雰囲気的に沈んだ家になる。だから一般的にそういう家には人はよりつかなくなる。これは周りの人が冷たいとかだけではない、どうしても入りにくくなるから批判はしにくいのだ。それは自分の家だけではない、他の家でも病人をかかえるとそうなるし同じだからだ。一般的に雰囲気の暗いところには人は近づかない、店でもそうである。今不幸なのは街の商店街がシャ-タ-通りになって暗くなっている。それが街全体を暗くしているのだ。そのシャ-タ-通りの廃業した店に公明党のポスタ-などが貼ってある。これもここは不幸の家ですという表現のような気が今ではしてしまうのだ。宗教団体などもどっちかというと問題ある人が入るから雰囲気的に暗い人や家の人が集るから陰気なのだ。そういう所に入れば仲間できていいとかなるが実際は悪い仲間とまた合うことになるのだ。陰気な人と陰気な人がむすびつき陰気な集団ができてしまう。ともかく自分の家もこのように呪われた家になったとしかいいようがない、だからこういう家になると先祖霊の祟りだとかいろいろい言う人がでてくる。実際自分もこれは一体何なのだろうとその方面も調べた。いろいろ悪いことがつづいて起こりすぎたからである。そういうことも関係していたことはありうる。でもそれがすべて原因とはならない、なぜなら人間の不幸は要するに誰にでも起こる、どの家でも起こることなのだ。必ず人間には生老病死があるからそうなるしどこの家でもだから病人をかかえることになるから不幸はどの家でも平等にやってくるのだ。宗教団体に入っても何を信仰していても不幸の来ない人も家もない、かえって宗教団体は不幸な人の集まりだから陰気な暗いものがおおっている。そういう所に入るとかえって悪影響を受けることになるのだ。
 

●笑いが消える精神の病


家を一番くらくするものは精神の病をかかえた家である。鬱病でもそうである。認知症もそうである。もちろん体の病人もそうであるが精神の病の人をかかえると一番家が暗くなる。なぜならここ四年近く私の家からは笑いが消えていた。私の家に姉がいたとき姉は快活な人であり笑いが家にひびいていた。変わった家族にしろ正常な時は普通の家族だったのである。精神の病気になると鬱病でも笑いが消える、ただ笑いそのものがなくなるわけではない、微笑むことはできるのだ。ただはっはっはっと笑い声なくなる、笑うことができなくなる。おそらく精神の病はみなそうなる。笑うことなど当たり前のことだけどその笑い声が家から消えるから陰気になるし人もよりつかなくなる。そして鬱病の人でも認知症の人を介護していると介護している人も何かしらおかしくなる。みんな鬱病的になってしまうのだ。自分もそうなりつつあった。気はやはり伝播するのだ。そういう暗い家には人もよりつかなくなるのはどうにもならない、ヘルパ-などは仕事だからやむをえず来るということになる。親戚だって来たくなくなるのだ。なぜそして今笑いの消えた家のことを今さらながら自覚したかというと一人の掃除のお手伝いさんが来たことによってそのことを再認識した。その人は姉とにて小太りで陽気な性格の女性でタイプがにていたのだ。その女性が私の家に何回か来て姉のいつもいる場所に座り笑ったのだ。その笑い声が大きな家の室にひびいた。その時、はっと思った。あれ、姉が帰ってきて笑ったのかと思った。姉はこの家を建てたといつも自慢していた家に笑い声がひびいた。しかし今考えると六〇年間一緒に生活してそれは当たり前に家にあったことである。それはどこの家でも笑っていることは当たり前である。だからあまりに当たり前だから意識もしないのである。でも一旦笑いが消えたら人間が笑うことはこんなに気持ちいいことなのだと今やっとわかった。人間は当たり前なことの幸福を誰も自覚しない、人間は不幸を経験しない限り当たり前の幸福を心底からわかることはないのである。不思議な話はその女性が笑ったことにより家まで血液が流れて元気になったような気がした。そんなことがあるのか、やはり家も人間があって活きていた。家に笑いがひびいたとき家も元気になった。家も生き物なのである。だから廃墟となった家はあまりにも淋しいものとなる。
 

●人間は人間でしか代替できない(人間の価値)
人間はそもそも当たり前の価値を誰も意識しない、例えば歩くことはあまりにも当たり前であり当然でありそのありがたみを意識して歩いている人などいない、でも一旦事故であれ病気であれ歩けなくなると歩けることがどれほど価値あるものか認識することになる。病院で歩けなくなった老人は歩ける老人をどれほどうらやましがっているか見ればわかる。老人になってはじめて青春の価値を理解できるように人間は失ってみて本当の価値を自覚できる。六〇年間一緒に住んで笑うことは余りにも当たり前だからそれが特別のことなのだと自覚しえようがない、しかしそれが一旦失われたときこんなに笑いとは気持ちいいものかとわかった。しかしそれはすでに六〇年一緒に生活していたからあったのだが忘れてしまっていたのだ。四年近くないとその笑いがないことが当たり前に逆になっていたのである。「愛するものを失う悲しみの大きさ(人間はモノで代替できない)」という詩で書いた。八〇才になっても幼くして死んだ子供のことを思いつづけているのも何かモノで代替できないからそうなる。つまり人間は人間でしか代替できない、車がなくなってもその代わりはある。またバスにすればいいとかありうる。でも人間は人間でしか代替できない、それが死別によってわかる。一旦人が死んだらその代わりがない、埋め合わせるものがない、だからいつまでも悲しみがつづくのである。だからその疑似代替として別な人間がその代わりとなってしまう。実際はその人ではないにしろ何かにているとそう錯覚してしまうのだ。今回の経験でわかったのである。どこに本当の人間の価値があるのか、それは家族の中ではやはり家もあるがモノもあるが一番価値あるものは人間そのものだった。これは人間でしか代替できない、つまり笑うということは極当たり前のことだがいくら精巧なロボットでも笑うことはできない、もちろん泣くこともできない、人間だがら笑うことができる。その価値は実に大きなものである。ええ、笑うことがそんなに価値あるの?みんていつも笑っているではないか?それは精神の病になったり一緒にそういう人と暮らしてみないとわからないのだ。笑いの消えた家がどれほど陰気になってしまうか、そのことは経験した人でないとわからないものだった。
 

愛するものを失う悲しみモノで代替できない
 http://musubu.sblo.jp/article/20792247.html

2009年06月26日

弱者は常に食い物にされる(認知症(アルツハイマ-)の家族の悲劇)


 

●弱者は必ずその弱みにつけ込まれる

今回の姉の介護から死-死後とそこで経験したことは人間の根源にかかわることであり未だにその意味は探求中である。介護のことでは人間が弱者になるということはどういうことか痛切に経験した。姉は病気にもなったこともないし人にあわれまれるような弱者になったことがない、それが認知症になり見るも無惨なあわれな弱者になったことを延々と書いてきた。一転して人間はどんな強者も弱者に転落することをまざまざと見たのである。そして弱者になるとどういうことになるのか、弱者は同情されるかというとそうではない、むしろ弱みにつけこまれるということをつくづく感じた。特に認知症など精神的に病は社会的な偏見、差別になる。地域でもそうだし同情などされない、一人だけかわいそうだとあわれれんでくれた人がいたけどそのような人は例外的存在だった。むしろ弱者は食い物にされるということがかえって露骨にある。その一番いい例がそういう弱者を食い物にする宗教団体なのである。そういう弱者になると誰も相手にしないからそういう人たちが助けの神のように見えてしまうのである。宗教団体はこういう人たちを引き入れて勢力の拡大化を図る。別に同情などしていなのである。そもそも団体的にかかわるものはあわれみとか同情で動くことはないのである。一般的に人は必ずしも弱者に同情はしない、人は弱者に対しても優位に立つからあたかも福祉やボランティアでも同情して助けるように見えても内実は違っている。弱者、障害者とかかかわる人は必ず傲慢なものになっている。
どんなに謙虚な人でも弱者とかかわることは傲慢になる。

 
●弱者に対して謙虚になることは不可能に近い
 
「人に注目されようとして自分の義を人の前で行なうことがないようによく注意しなさい。そうでないと,天におられるあなた方の父のもとであなた方に報いはありません。ゆえに,憐れみの施しをするときには,偽善者たちが人から栄光を受けようとして会堂や街路でするように,自分の前にラッパを吹いてはなりません。あなた方に真実に言いますが,彼らは自分の報いを全部受けているのです。しかしあなたは,憐れみの施しをする際,あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたの憐れみの施しがひそかになされるためです。そうすれば,ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう。(マタイ福音書 6章4節)
 
こういうことはほとんどない、オレがオマエを助けているんだよ、オレに感謝しろよ、オレはこうしてオマエのために尽くしているんだよ、何もできないオマエのために・・・
こういうことが露骨になる。一見そう意識しなくても弱者に対する場合そうなってしまうのである。ボランティアが実際はほとんど偽善事業になっているのもそのためである。
 
私はあなたのような弱者、障害者の役にたってうれしい、何もできない自分だったけど役に立っている、だから私はあなたに対して傲慢になったりしない、あなたを私の力で助けるのではない、私が助けるのはただ無心な心で助ける、だからあえて報酬すら求めない・・・私があなたのような無力な弱者を助けることで強者となったりしない、・・・・
 
こんなふうにへりくだる人など皆無だろう。弱者に対して常に何かしてやっている、助けているという意識が知らず働いてしまうのだ。人間は弱者に接するとき必ず傲慢になってくる。医者が傲慢なのは弱者と常に接して崇められるからである。つまり弱者に対して謙虚になることは最高にむずかしいし不可能に近いことなのである。世話になった、恩になったということで助けた人も知らず傲慢になっていた。逆転してオレは助けてやっているという傲慢さがでてきてしまった。それでいろいろあとから要求して当然だとかなった。弱者に対して要求することが多くなりすぎたのである。
私はもともと何もできないものだったが今回何か助けになることでうれしいとかはならない、オレはオマエを今度はたすけてやったその見返りは求める、その貸しは大きいとなる。それは口に出さなくてもそうなっているのだ。そして助けられた人の負担は実際は信じられないほど大きいものになっていた。
 
●アルツハイマ-の家族をかかえて親戚にふりまわされた青年の悲劇
 
親がアルツハイマ-になり親戚に頼ったその子供がその親戚を恨んだことが自分にもわかった。その親戚に頼った結果、家族がふりまわされてしまったのだ。その子供はまだ20代だったから悲惨だった。こういうことがつくづく自分も経験して実感した。弱者は食い物にされる。誰も本当に同情したり謙虚になり助ける人などいないなのである。むしろ金で割り切り助けてくれるヘルパ-の方がどれほどいいかということを実感した。ただより高いものはない、ただで助けるというのはその負担はあとで何十倍にもなるからだ。私の所に最後に怒鳴り込んできた親戚は常識的に理解できない、弱者を踏みつぶして弱者を奴隷のようにしてその上に立つことで権力をふるう異常な人だった。それで今度世話にならないと言ってこちらで怒鳴りつけたら向こうから縁を切ると言って縁が切れた。しかし世話になるからと与えた金は今だ返ってこないからあの人は常識外の人であるから別問題になる。ただ今回弱者をかかえて経験したことはいかに人間はし弱者に対しては傲慢になるかを身をもって体験したのである。だから自らが弱者になり家族に弱者をかかえてみないとわからないことだったのだ。このことは別に私だけではない、世間に普通にあることでありめずらしくもないのだ。ただ弱者になることを経験していなかったからとりたてて言っているだけでありこれは人間の真実である。
 
人間は弱肉強食であり世界の歴史を見ればそれを証明している。弱者は強者に奴隷にされ食い物にされている。貧乏な国は富者の奴隷にされる。信じられない安い金で売春させられたり食い物にされるのである。キリスト教国である欧米自体が奴隷を容認していたことでもその矛盾を証明しているのだ。しかしここで注意しなければならないのは弱者はいつまでも弱者ではない、弱者は強者となり強者は弱者となるのも歴史であった。例えばイスラム圏は今は貧しいがヨ-ロッパの方が貧しくて今のアジアの女性のように信じられない値段で安く売られていた時代があった。それが逆転したのである。今は変化が激しいから一代で弱者(貧乏人)が強者(富者)になったりすることが見られる。つまり強者もすくに弱者になり弱者もいつまでも弱者ではない、強者になるのが神の摂理である。だからこそ強者は謙虚にならねばならないのだが謙虚になることが一番人間はむずかしいのだ。自分自体そうだった、かえって自分は弱者になり今回のことで謙遜になったから徳を積んだのは自分であり助けた方ではない、助けた方は傲慢になっていたのである。傲慢になった方はかえって徳の面では後退したというのも不思議だった。私は助けたんだからそんなことはないというがそのこと助けたということを意識して傲慢になったことが徳としてはマイナスとなり人格に影響したのである。それは神によみされることでも善行でもなんでもないのである。神側からみればかえって傲慢の罪が記されたということになる。だからいかに善行がむずかしいかこれでもわかるのだ。人が善行と思っているものはほとんど善行ではない、だからこそ神は行為に重きをおかなっかた。神は心を見ているというとき善行を慈善などに重きをおかないのである。なぜならそうではないか,善行したと言って傲慢な心にになったら結果的に神はその人を罰するとまでなっているのだ。ここまで考慮してボランティアとか善行を考える人はいない、ある意味で弱者に接することは傲慢の罪に陥るから危険だともなる。細心の注意深さが必要ともなるか実際は弱者にづけづけ踏み入ってくのが宗教団体のように普通なのである。それは個々人でもそうなのである。

だめだめ家庭
http://renewalmmbacknumber.hp.infoseek.co.jp/mokuji/sougoumokuji.htm

 
このサイトは不思議だった。こんなふうに考える人もいるのかと何回も読んだ。ここでボランティアはただ序列意識を作る、弱者を支配するためのものであり全く価値を認めていない、その一面は確かにある。弱者を支配するためにボランティアはだめだめ家庭の人間にとっては一番いい居場所を提供していたとなる。普通の常識的に人間はだめため家庭の人間を相手にしないからである。
 

障害者施設放火で家主の志村容疑者「入居者と折り合い悪かった」
(ボランティアは偽善になりやすい)
http://musubu.jp/jijimondai38.html#fire

2009年07月10日

凶運のあとには幸運が・・


 

ここ四年間くらいに自分に起こったことは全く信じられない不運の連続だった。親戚の一人は強盗まがいの人であり金は持ち逃げされたから実際そうだった。もう一人もうまくいかなくなった。それもすべては姉が認知症になったことに起因していた。そこからすべてが変わってしまった。それが何であったのか未だに不可解である。姉は自分の家にとっては福の神がだったが最大の災いの人となってしまった。そして今までの人はよりつかなくなり来た人もどういうわけかしらないが縁が切れた。一旦災いの家になるとやはり人はよりつかないし来る人も災いの人となっていた不思議である。どうしてなのか不明であり不可解である。
 
「いったいぜんたい、どうしてしまったの!?」と、自分でも信じられないくらい、突然にツキを失うことがありますよね。何をやってもうまくいかず、次から次へと悪いことが重なって、どうしていいかわからなくなる……。まだそうした辛い経験がない方もいらっしゃるかもしれませんが、それでも長い人生、そういう急激にツキを失う凶運期は必ずと言っていいくらい訪れると思います。

その凶運期を乗り越えると、必ず運気が好転します。しかも、ほとんどの場合、急速に運気が上昇して、今度はびっくりするくらい良いことが重なるようになるのです。つまり「突然の凶運は運気急上昇の前触れ」なのです。
http://jisin.jp/serial/

 
人間の歴史でもあの悲惨な戦争は最大の凶運だった。その凶運のあとに平和と繁栄が訪れたことでもわかる。なぜそうだったのか、戦争がいいにしろ悪いにしろ事実としては最大の凶運でありそのあとに平和と繁栄が訪れ団塊の世代は一番恩恵に欲したことでもわかる。そして今は日本はまた凶運の時代に突入したのかもしれない、運勢が全般的に衰退している。すべての活動についてそう見えるのだ。占いなど信じないが人間の歴史でも一生でもそういうことが起きる。凶運はどうしようもない、人間の力ではどうしようもないものとして襲いかかってくるのかもしれない、そういう凶運の家には人はよりつかなくなる。なぜか、もしかしたら近づく人も凶運を受けてしまうかもしれないと直観的に思うかもしれない、実際はもし凶運の人でも誠実にその人に接しれば幸運を得るかもしれないのだ。でも凶運の人に弱者になった人に接することは注意が必要だ。そういう人に近づくとき生半可なことで近づくとかえって凶運を受ける。生半可な同情で自分はいいことをしているとかで近づくと凶運を受ける。本当にその人と一緒になって凶運と戦う人でないとかえってその身に凶運を受ける。
 
現実自分の家ではそうだった。同情でも生半可であり傍観者にすぎない、たいがいはそうなってしまうからしかたがないし批判はできない、つまり凶運の人に近づくことは本当に同情して凶運と戦う人でないとかえってその人は凶運を受けてしまうリスクがあることがわかった。かえって近づかない方がいいということもあった。ボランティアも自己満足であり効果がないのはそのためである。結局生半可だとかえって悪い結果を生んでしまうからである。そういう人に物見遊山的にゆく人が結構いる。からかいにゆく人さえある。そういう人は迷惑にしかならないのだ。凶運の人に宗教団体の人が近づくがその人たち本当に凶運と一緒になり戦う人ではない、自分たちの団体の勢力拡大であり団体の私的利益のためにそうしている。だから宗教団体にむしろ凶運の人の巣窟になっているのだ。その凶運は払われず幸運の訪れ場所ではないのだ。だから凶運であっても
そういう場所に入ることはますます凶運を受けることになる。凶運から脱することができなくなる。
 
凶運のあと幸運は確かに来た、庭作りをしていい庭を造ってもらったり来る人も変わった。人の縁もこれまでの縁は変わってしまった。その縁は長いとしても悪い縁となっていたのだ。人の縁も長いからといっていいとは限らなかった。悪い縁となったものはかえって切れた方がいい、そこには悪い因縁がつきまとっている。その悪い因縁というのは断ち難いほど強いものなのである。親子の間でも悪い因縁と化しているものが多々あるのだ。親族の間でもそうである。そういうものは相当に始末の悪いものとなっているのだ。そういう因縁は後の代までつきまとっているからだ。その悪い因縁の故にこの世には延々と忌まわしい事件が置き続けているのだ。介護なんかも凶運であり苦しい、でも介護のあとに幸運が来るかもしれない、幸福が来るかもしれない、よく介護してくれたなと死んだ人が幸運をもたらすかもしれない、いづれにしろ凶運のようなあまりにも酷い運命を背負わされた人はやはりそれ以上の幸運を神はもたらすかもしれない、一方で今幸運に見える人もやがて不幸と凶運がやってくる。これが人間の運命なのである。人間の体はすでに凶運をかかえこんでいる。必ず病気になり死ぬのだからそれを防ぐことができないのだから人間の一生を全部幸運に生きる人などいなのである。

2009年07月31日

身近な話(老人が買うもの、老人をサ−ビスする仕事はふえる)


身近な話(老人が買うもの、老人をサ−ビスする仕事はふえる)

 
●自動販売機の場所による値段の差
 
鹿島区の自動販売機でダイユ−は10円高かった。農協の脇は同じ商品でも10円安い、ダイユ−は外部の人も来るし目立つ、目立つところは高い、高くても売れる、農協の脇の自動販売機を利用する人はどんな人なのだろう、まず通りすがりの人は利用しないだろう。あんなところにあること自体知らなかった。目立つところ人の集まるところでは高くても売れる、でも地元だったら安い所を探すだろう。あそこは地元すらわかりにくい、最近わかったのである。商売というのは人の集まるところだったらその商品が同じでも高く売れたり多少まずくても売れたりする。でも地元ではそうはいかない、味を吟味するようになるからだ。それで・・・の店の菓子はうまいとなり日常的に売れることになる。つまり地元の商売はごまかすことができないのだ。通りすがりの人は観光客だと一過性でありわからないからお土産でも中味が悪くても高くても売れることがある。しかし地元では何がうまいかいいものか知っているからそういうものを買わないのである。つまり地元に密着しないとわからないことがかなりある。地元密着型になるのは介護や福祉もそうだろう。介護や福祉は人の性格が大きく左右する。お手伝いさんでもあの人は性格がいいからと気にいられて仕事を頼まれる、仕事自体はむずかしくないが性格が良くないと性格があわないと家庭で仕事をすることがむずかしいからだ。そういう人は地元でも価値が高まりうまい菓子のように売れるというのも変だが仕事に困ることはないように思う。
 
●ヘルパ−やお手伝いさんに向いている人
 
古い住宅にしろ二間で3400円の市営住宅があったことには驚く、3万の民間の住宅の十分の一になっているから驚く、これなら田舎でも貧乏人でも暮らせる。田舎の住宅は格安なのである。要するに東京の六万の家賃で田舎では暮らせるのだ。その差は大きい。人間は意外と身近なところがわからないというのが盲点である。灯台下暮らしなのである。家に来るお手伝いさんは性格がいい、陽気で快活である。貧乏暮らししてもそんなこと引け目になっていない、生まれつきなのか、あういう性格だと人に好かれる。それで気にいられた所から仕事を頼まれたとかなる。お手伝いさんとかヘルパ−は性格が大きく左右する、レジとかの仕事はその人の性格はそんなに関係しないだろう。機械的にしているだけでありその人の性格をどうこういう人はいないだろう。でもお手伝いさんとかヘルパ−は雇う家の人に気にいってもらわないとつづかない、それでうまくいかない人が多いのだ。気が合わない人もいるし性格が問題になるのだ。今どき仕事がないと日々騒いでいるが企業とか会社からの仕事はなくても老人は結構金をもっている。だから老人を助ける仕事は個々にあるかもしれない、介護の仕事がいつもあるのはそのためである。ただこれは向き不向きがかなりある。誰でもできるわけではないのだ。仕事自体は掃除とか介助とか楽なのだが性格が大きく左右する。人にじかに接する仕事だからそうなる。
 
●老人をサ−ビスする仕事はふえる
 

今の時代、仕事がない時代だがかえって個々に対応した仕事はある、だからあのお手伝いさんは性格もいいし仕事には困らないしそれなりに稼げるとみた。会社に正式に入社して正社員となることはむずかしい。でもこうした仕事はかえって増えていくかもしれない、高齢化社会は老人を助ける仕事がふえるし老人は金をもっている、その老人が使う金はモノを買う金ではない、老人にじかに接して介助してくれる仕事なのである。
仕事がないないと言うが仕事は常にあるし需要もある。ただこうした個々に対応する仕事となるとトヨタが大量に派遣を雇うというわけにいかないから仕事として認められていない、手間仕事くらいにしかならないからだ。リホ−ムしてもらったがこれも個々に対応した仕事であり老人相手の仕事が多いのだ。老人が住む家は古くなっているからそうなる。家が古くなるだけでなく人間も古くなる。人間のリホ−ムができれば一番いいとなる。仕事は常に新しく開拓されていく必要がある。老人が金を使わないという時、老人が金を使うようにさせていないということもある。老人はあまりモノは買わない、ただ老人を直接介助する仕事には金を払う、それは極めてメカニカルなものではなくヒュ−マンなものでありだからお手伝いさんやヘルパ−のようにその人の性格が問題にされる。介護の現場でも老人にまず気にいられるような性格の人でないと勤まらないというのもそのためである。だからこれもだれもかれもできる仕事ではない、モノ作りとは違っているからだ。福祉施設を作ってもその中でサ−ビスする人は簡単に作れないのだ。

2009年09月08日

老人に死者に敬意もてないことの不幸


老人に死者に敬意もてないことの不幸


●家に入る労働はまず祀られている人に敬意を払う

 
人間敬意を持つというとはどういうことなのか?老人に敬意をもって接しなさい、老人を敬いなさいとう言われても若者は敬意をもちえない、むしろ老人を軽蔑するさげすむ心でみちみちている。「こんな老人何が価値があるのだ、生きている価値がない、死んだ方が世のため」とか思っている若者が多い、老人に対する敬意はもはや喪失した。ましてや認知症の人への敬意となるとほんとんどもちえないだろう。相手は単なる痴呆であり馬鹿でしかない、そんなものに敬意がはらえるのかとなる。老人へ敬意は今もあるが過去に根ざしている。過去に何をしたかにある。それで価値が決められる。だから認知症の人にも過去に価値があるとすれば過去に社会のために尽くした人ですよと言われれば価値ある人と認識するだろう。過去が価値であるとするときそれは歴史が個々人にありその歴史的価値を認識することなのだ。そして気づいたことは家族には必ず死んだ人がいる。仏壇に死んだ人が祀られている。最近死んだ人もあり遠い過去に死んだ人もいる。その人たちへの敬意をはらうことが家族で行われているか、仏壇に花をささげ供え物をささげることもそうだがその祀られている死者を語る、死者が何をした人なのか、ただ死者なるが故に祀られのか?死者だから誰でもおそれられ敬意がはらわれるのか?そうはならない、死者もみんな敬われるとは限らない、家族でも何ら家族に貢献しない、迷惑ばかりかけた人を親や祖先を敬うことはできない、そして家族には必ず親がいて祖父母がいて先祖がいる。家族とは今だけではない歴史的継続としての価値をになっているのだ。だから死んだ人に敬意をはらえないとしたらやはりその家族は大きなもの欠けたことになる。それは日本の歴史にも言える。日本の歴史を否定的にばかりとらえたら日本人としての誇りも失いアイディンティティも失い愛国心もなくなり日本国自体なりたたなくなる。


●家族も死んだ人、祀られた人の敬意がないと成り立たない

家族もそうだった。まず親への祖父母への敬意がないとしたら家族というのは成り立たない、死んだとしてもそうである。それで手伝いさんとか家に入ってきたとき、他の仕事の人でも家に入るとき仏壇に霊前に祈り仕事をする、それはとりもなおさずその家の死んだ人に敬意をはらい仕事をする、敬意は意外と大事なものである。敬意がないと仕事として成り立たないかもしれない、現実は賃金労働者でありお手伝いさんでも掃除であれ、洗濯であれ、これをしたからいくらもらえる、金をもらえればいいとして働いているのが普通かもしれない、ところが家のことになると仏壇に花をささげることをしてもらうことがある。その時ただ花をささげることを命じられたからやる、金をもらっているからやるというだけではその労働の価値はでてこない、つまりその死んだ人の遺影に花をささげているのだから死んだ人に多少知らないと敬意をはらわないとできない、それで死んだ人は父母を特別思っている女性でしたとか何かその人の話をする、それで多少その死んだ人につい知り敬意を払うかもしれない、それはまず今生きている家族が死んだ人に対して敬意を払っていなければできない、でもお手伝いさんがその家の祖先とかに敬意を払うのはむずかしいかもしれない、でもお手伝いさんの仕事はその家の中に入ってくる仕事は他の仕事と違ってくる。遺影に花をささげてもらうこと自体、死んだ人に敬意を示す供養することになるからだ。
 

●死者に敬意がもてないことは深刻
仕事というとき金になればいい、それも高ければ価値があるというのが一般的だが介護分野などでは世話をする介護する老人に敬意をもてないとその労働自体苦痛になるだろう。そのことがまた普通の労働とは違う、直接人と人が向き合う仕事だからそうなる。一般的に労働は金になればいい、金が多く得られれば価値があり少なければ価値がない、敬意などと関係していない、でも天皇に使える人々がいる、その人たちが天皇に対して敬意をもっていないとしたらその仕事に精をだせるだろうか?金が高いというだけでモチベ-ションが保てるだろうか、ここに仕事のむずかしさがある、自分は死んだ人に対して家族でも敬意をもっている、最後は認知症という無惨な結果になったが家に尽くしてくれた女性だったことは変わらないしその価値は死んでも継続されるから他人にも語る。死んだ人に対して敬意をもてないことはかなり深刻なのである。それが戦死者、靖国問題として解決しない問題としてある。一方では無駄死にとか言え、一方では英霊となりその価値観が極端すぎるからだ。一方ではただ迷惑かけただけの祖先となり一方は神ともなる英霊となるのだからこの価値観は余りにも極端だからまたとまどうのである。つまり日本人が戦死者に対して心からの敬意をはらえないことに最大の問題があるのだ。敬意をもてないことが根本的な問題としてある。それほど敬意というのは人間を左右する。人間がただ金という実利だけで動かされるときそこに価値を見いだすことはできない、先に金でありあとにそうした精神的価値がでてくるものだともなるが最初にそうした敬意がなければ実利もともなわない、人間があることにたいして人に対して敬意をもちえないことは精神的価値も受け継がないことになる。精神的価値は過去の人々によって作られたのでありそれが歴史だからである。現代の深刻な問題は老人に対して敬意がもてないことにあったのだ。だから老人はただ金だけもっていて若者は損しているとか老人に対して金だけで価値が計られる。逆に老人も金をもっていなけれは若者に全く相手にされない、弱者とされて虐待もされるとかいう時代になっているのである。老人に対して敬意など微塵もありません、ただ老人の遺産は金は欲しいですとだけなっているとしたらこれは老人にとって最高に不幸なことである。でも実際そう扱われている老人が多いのである。無益な老人は早く死んでくれ、金だけは残して死んでくれと親でも接しているのが多いのが現状なのである。

2009年09月21日

認知症は何だったのか?(姉の一周忌に思う)


認知症は何だったのか?(姉の一周忌に思う)

 
●認知症と脳卒中の関係


近くに姉と同級生だった人が脳卒中になって病院に入院した女性がいた。その人のところに姉は一度認知症になって泊まったことがあった。その人が脳卒中になってひどい認知症になっているという、顔まで変わり怖いからみんな見舞いに行くなと言うのはやはり相当ひどい認知症になった。姉の最初の暴れた時期、妄想が激しい時がそうだった。それで最初は別な人のようになったかと思い怖かった。でも一年くらいたって介護していたら穏やかになり妄想とかは消えて顔も普通の人と変わらないから認知症になったことを気づかない人がかなりいた。最初の時期は本当にひどかったのだ。認知症も介護の仕方で穏やかになると扱いやすくなる、介護する人も楽になるのだ。認知症とはいかなる病気なのか不可解である。脳卒中になれば認知症になるかと思いばそうではない、近くの人も二人脳卒中になり病院で寝たきりのようになっていても認知症になっていない、頭ははっきりしていると言っている。ただ一人は話すことはよくわからないが認知症にはなっていない、認知症になるとやはり顔が変わり暴れたりするからわかる。姉の場合は入院してもそんなふうにならなかった。妄想はひどくなったが暴れたりしなかった。ただ体のことで胃ろうになり体のことが苦しみ泣いていた。体のことで精一杯だったとも言える。脳卒中と同時にそれだけひどい認知症になったのはやはり脳血管が関係した認知症なのか?姉は脳卒中なる前に明らかに典型的な認知症になっていた。これは老化とかは違い急速に症状が顕在化する病気であった。つまり脳卒中と認知症の因果関係は良くわからない、脳卒中になった人がすぐに認知症になることはない、何年たってもならない人はならない、もし認知症と脳卒中が因果関係があればその病気も解明しやすいのではないか、脳卒中はかなり研究されているからそこから波及した病気だから脳卒中になる原因が認知症になる原因だともなるからだ。その因果関係はわからないからその治療方法もわからないのだ。
 

●最後の時に大声で笑った不思議(気分よくさせると記憶障害も忘れる)


 

すぐ近くの病院に移り毎日のように夕方になると行っていた最後までつきあってくれた人が見舞いに行った。その時近くの山の名前を言い、その山に行くべなと言うとあっはっはっと大きな声で笑ったというのだ。これは不思議である。何故なら認知症になってからあっはっはなど笑わない、微笑んではいたがそんな笑い声聞いたことがないからだ。それは意識不明になる二カ月前だった。その話を聞いてなんか救われた気分にもなった。そんなふうにして笑ったことが不思議なのである。なぜなら苦しむ姿ばかり見ていたからである。最後に笑って死んだとなればなんか気も楽になるからだ。最後はみんな七転八倒して死んでゆくのが普通だからである。姉の場合は意識不明になった時点で死んでいたしその後はそれほど苦しまず死んだのである。死ぬときあるものは餓鬼地獄になり「スシもってこい」と形相が変わり言いスシをパクパク食い死んだという人がいる、スシを食いたいという餓鬼の心が露骨にでてきた。生きている人間でも極端に腹が減ったりすると食い物だけも妄想するからふつうにありうることだが死ぬ時期になるとやはり異常なのかもしれない、いづれにしろ認知症は何だったのかというと未だに不可解としか言いようがない、極端な記憶障害から感情的なものに影響する。感情が乱れてしまうのである。だから錯乱状態になる。だから感情が穏やかになると記憶障害があっても暴れたりしない、騒いだりしなくなる。感情的に気分がいいと穏やかになり扱いやすくなる。脳卒中になる前の何カ月は本当に普通の人と変わりないくらい穏やかな人になっていた。自分にとっていい気分だから暴れることもないのだ。つまり認知症の介護はその人にとっていい気分にさせることなのだ。それはその人のわがままを全面的に許すことだから誰かが家族の中で犠牲にさせられるのである。わがまま病だというのも確かである。
ninbouchi12.jpg
この図のように極端な記憶障害として錯乱、暴力状態になるが感情面で穏やかになると記憶障害は直らないにしても妄想は消えるし穏やかになっているから記憶障害があってもそこに固執してそこから暴力にはならないのである。だから感情面でその人を良くする方法が必要になってくるのだ。馬鹿になっていてもあなたは過去にいいことをしたとかいろいろ有能な人だったとかそうしたことを言うとおだてるといい気分になって記憶障害があっても馬鹿になっても自分は優秀だったとプライドをもてて気分がいいから暴れたりしなくなるのだ。
 

●認知症の対処方法


認知症の対処方法は前にも書いたけど何か自分が役に立つことをしているとプライドと自信を取り戻せて効果的である。これまで家事などしていなかったが簡単なこと風呂を洗うとか洗濯も洗濯機でできなくて手で洗ってしていた。それから洗い物はしていたし料理でも魚をさばくことなどは前からしていたのでできた。そうして簡単なことでもできることをしていると自信がつき自分でも役に立っている何かしているという気分になり気分よくなるのだ。だから何もさせないことは一番良くないとなる。とにかくできることを見いだしてやらせることである。また昔のことを話すと気分よくなるので気分よくなることをさせることが治療なのである。でもそれはなかなか簡単にできないから嫌になるから認知症の対処方法はあってもできないのである。ないというが実際はあるのだ。それが実行することが困難だからやらないだけなのである。自分でもそれができなかった。よほど恵まれた家族でないとできないと思う。そんなにかかりきりでかまうことなどできない、むしろ嫌気がさして介護する人が暴力になるのだ。だからいかに認知症を介護することがむずかしいことかわかる。介護する方法があってもそれをすることは家族でもむずかしいとしたら施設ではさらにむずかしいだろう。認知症は一番親しい人は常時密着してついていなければならなくなる。そういう人がいないと認知症の人は不安になる。ちょっと離れただけでも不安になっていた。どこかに消えて帰ってこないという不安に襲われていた。だから夕方についていないとそわそわしてどこに行ったかと隣の人に聞きに言っていたのだ。こうなると代わりがいないのだから離れられないのだから牢獄に閉ざされたと同じになる。ちょっと息抜きも遊びにも行けなくなるショックがあった。現実このままつづいたら牢獄に閉ざされて身動きがとれない、その出口も解決方法も見つからないのでショックだった。そのうち死んでくれたので解決したとはなる。ともかく一周忌は終えた。これで一区切りである。でも死んだ人は帰ってこない、永遠に帰って来ない淋しさはある。それにしても認知症は直せるのか?これは21世紀の大きな課題である。何故なら高齢化社会の問題はまさに認知症問題なのかもしれないからだ。高齢者が増えれば比例して認知症も増えて高齢化社会は呪われた社会だとなってしまうからである。

2009年09月27日

頼られるうちが花(弱者への傲慢)


頼られるうちが花


頼られる時頼りがいのある人
その人はさらに信頼される
あなたは何もできないと揶揄された人
しかし相手が弱り何かしら尽くすことができた
病人に対して頼られる人になった
でもあなたは頼られる人になったとき
強者となったとき傲慢になった
謙遜さを失った
私は強くできる人
あなたは弱く私に頼る人
頼りにされる人は知らず傲慢になっていた
あなたはかつてその人に大きく頼っていたはず
それほどのことをしなくても
いかにも大きなことをしたと傲慢になり
要求が高くなりすぎた
謙遜さを失った
今度はもうその人に頼ることはしない
その要求が見返りが余りにも大きなものとなっていたから
頼られるうちが花
あなたは弱者に謙遜に尽くしていれば良かった
しかし人はみなそれができない
謙遜であることは本当にむずかしい
私のようなものでも何か人のために尽くすことができる
そのように謙遜になる人はまれ
その成したことはさほどのないことでも
人は弱者に対して傲慢になる
頼られるうちが花
もうその人を頼ることはない
永遠にない
何か尽くすことはその人にはできない
それでなんだか淋しいとかなるのかも
頼られて尽くしているときは幸せだった
今は誰も頼るものがない
子供でも頼られる時親は良かった
子供は自立してもう親を頼らない
頼られるうちが花
もうあなたは誰にも頼られて何かすることができない
残酷な老化が襲いもはや人の世話になるだけ
そういう日がみなやってくる
頼られたとき傲慢になってはいけない
謙遜に尽くすがよい
やがてあなたは何もできなくなる
頼れるものではなくなる
老いさらばいて何もできない
ただ人を頼るだけになってしまう
頼られるうちが花
力を尽くして頼られる人に尽くすがよい
その日はいつまでもつづかない
あなたはもう誰にも頼られない
ああ 少しでも何かできていれば人のために
前のようにささいなことでもできていれば
ああ 今は何もできない・・・・・
確かに人のやれることには限界がある
でももっとやれたことはあった
頼る人はなく少しでも他人のために尽くしえた時
その日が貴重なる時だったことをしる
それに多くの見返りを望むべきではなく
少しでも尽くし得たことを喜びとすべきだった
金にならないからやらない
今金をくれないからやらない
多少金にならなくてもやる
ともかく自分のやれることをやる
その後に金がついてくるかもしれない
先に金を計算していたら何もできない
頼られるうちが花
その時もまた人は見逃し失い後悔する
人は尽くすことに出し惜しみをし
高い報酬のみを求める
やれることがあってもしない
報酬がたりない、たりないと
日はただ浪費されてゆく
ついに老人になり何もできない
そして何もしてくれないしてくれないと嘆くのかも
そのように人は勝手なるもの
それは自分の人生でもそうであり非難できない
人は謙遜になりえず報酬の低きのみを嘆いている
こんな金でやれるか、やらない
結果的にやれることもやれなくなる
もっとできること成し得たことがあったのに・・・

  

上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には誰にでも与えよ。
あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 聖書のルカの福音書6:29

「上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。
奪い取る者からは取り戻してはいけません。」とありますが、
私の友人のクリスチャンは、元彼にお金を騙し取られて、この御言のゆえに訴えるかどうか迷っています。どうすれば良いでしょうか?

貴方の友人が、彼に騙されたと思っているなら
遠慮なく法的措置を取るべきでしょう。
ついでにクリスチャンも辞めた方が良いかもしれません。
聖書の教えにこだわっていると、世の中生きていけませんよ。
私は信仰を捨てたら気が楽になりました。
もう聖書の言葉にこだわらなくて済むのですから。


  理想と現実のギャップは大きい、上着を盗るものに下着を拒んではならないというときそんなこと実行できるのかとなる。訳もわからなく通り魔殺人などあるけどそんな人許せるのか?誰だって死刑にしろとか呪うのは当然ではないか?そうされてみなければわからないのだ。キリストであれ仏陀であれそのまま実行できた人は実はその教えを説いた人しかいないとなる。


現実の場面でどう対処するかはむずかしい。特に金の問題となるとむずかしい。
この言葉にしろ財布に10万盗られた、財布に20万あった、だからさらに10万与えろともなるのだ。それができるか?それは上着とかより実際できない問題になる。10万盗られた、まだ20万あるからしかたないとくらいになはなるが10万盗られたじゃもう十万あるからやろうとする人はいない、実際私に今回ふりかかった問題でもそうだった。どうししてもその人を許せないのだ。


あまりにもひどすぎる、人間の心もないような人がいた。10万盗られたと言ってももしその人がよほど困窮していたら別だがその人はそういう人ではない、金持ちであたその人に10万盗られてまた10万与えるとしたらどうなるのか?そんなことしたらその人をつけあがらせるだけであり何の慈悲の行為でもない、むしろ金を取り返し戒めるべきだろう。つまり個々の実際の問題に直面したときどう対処するのか、それがむずかしいのだ。

人間は謙遜になることが一番むずかしい、弱い人を助けている人は謙虚になりにくい、私は何の能力もないものだがこうして弱者のために役立ったうれしいなどと思う人はまれだろう。


「私はあんたのような無力な人を助けてやっているんだよ、礼をしろよ、金もくれよ、・・・こんな額ではやっていられない・・・・」とかなるのが本音だろう。現実人に援助してもらった結果、要求ばかり大きくなりすぎた、最後には大きな金を貸すことになりその借金が残った。そして現実、それほど援助していなくても援助したと言うのが人間である。報酬がたりない、もっとくれというのが普通である。私はたいしたことはしていませんとなど謙虚になっている人はいない、もっと何かできたのにしない、もっと金くれないからできない、しない、そうしているうちその人自身が病気になったり老齢化して何もできなくなっている、世話されるだけになってしまった。人間は必ず何かできても力の出し惜しみをしてしいる。人間は要求ばかり大きく何かもっとできたのに力の出し惜しみをする。お前もそうじゃないかとなるがただ今回の家族の介護のことで感じたことを正直に書いている。力の出し惜しみするなって言うが医者や看護師も過労だしそんなことししていたら過労死になっているというのも現実である。そんなに人に尽くしていたら死んでしまうというのも本当である。そんなにまでする必要があるのかともなる。そのへんの兼ね合いがむずかしい。ただあの時もっとやれたことがあったのにな、それはたいしたことではなかったのにと思ったからそう言っているだけでありそんな過酷なことを私自身は要求していない、人間は実際たいしたことでないことすら力の出し惜しみをしている。それを言いたかっただけである。

クリスチャンだと確かに法にも訴えられなくなる、なぜならすべてを許せとなったら突然誰か知らない人に殺されても許せとなる。そんなことができるのかとなる。絶対にできないとなる。そんなことできないのが当然でありそんなこと実行できる人はいない、ただそのあとになんらか心境が変化してきて徐々に許しの心が生じてくるかもしれない、それには長い時間が必要なのである。もし相手が反省も悔い改めもしないなら許すことなどできない、そういう人にはどう対処していいのか、許し得ようもないのである。だから聖書の言葉をそのまま実行すること個々の場面で違ったものとなるのだ。人間はとにかく金にはシビアになる。だからだまし取られてそれを許せるのか?そこから殺意も生まれし現実殺人も起きている。そうなるなら法的に訴えた方がいいとなる。法的に制裁を加えることがすべて悪いとはならない、その本人にとってもいい場合がある。結局こういう問題はすべてケ-スバイケ-スであり数学の方程式のように解決できないのである。
私は主キリストの御言葉を実行できない、でも実行しようとしてきた。実行しようとして実行できなと悩んでいるだけで普通の人よりモラル的に優れているのだ。そんなこと全然感じない人が多数だからである。

悪いことをしても悪いと自覚できないとしたらそもそも許しえようがないのだ。そういう人は法律で刑務所で悪いということを自覚させる他ないのだ。そのあとに許しがありえる。やっと自分の悪いことを自覚した。
自分は死刑になって当然だとかなったとき許しはありえる、神からの許しもありえるのだ。
どんな悪いことをしても私は悪いことはしていないという罪を自覚できない人間に許しはないのである。


例えば通り魔事件などでも
「あなたは全然知らない人を無差別に殺しましたね、反省していますか?」
「社会が悪いんだ、私は悪くない、殺された方も社会が悪いんだからしょうがない」
「あなたは全然反省していませんね、悔やむこともないですね」
「まあ、やったことはやったことだ、早く死刑にしてくれ、それでケリがつくだろう
反省なんかしてどうなる、オレは別に悪いことなどしていない、悪いのは社会だ、他人だよ」

こんな人が現実いることはニュ-スで報道しているからしっている。殺人を犯しても悪いと思わない、かえって他者が悪いという人さえいるのが現実なのである。そういう人は何ら罪の自覚なくただ刑が執行されても以前として罪の自覚がなく死んでゆくのである。こういう人は許しえようもないのだ。
 

そもそも親鸞が千人殺してみよと言ったのは千人くらい殺さないと人間は自らの罪を自覚できない、
別に特殊な人でなくても人間はみんな自分を善人だと思っている。自ら罪人だなどと思っている人はまれなのである。優れた宗教者は罪を犯していないのに罪人だと言っていることでもわかる。

一般人は罪を犯しても罪を自覚しない、その差が大きいのである。
 


 


 

2009年10月26日

認知症に寛容になることのむずかしさ(敵味方塚のコメントから)


認知症に寛容になることのむずかしさ(敵味方塚のコメントから)

 
●信じられない忍耐が要求される認知症の介護
 
認知症の人に対して寛容になることは一番むずかしいことではないか?まず同じことを千回も言いつづける。金のことにこだわっていたから年金の通知のハガキが来たとき必ずそのことを聞くのである。他にも同じことを延々と言いつづける。結局銀行や金のことがわからなくなるからそれを知りたいために問いつづける。金が重要なものだということは知っている。でも銀行から自分で金をおろせない、金を自分でもつことができないことが不満だからしつように問いつづける。それで堪忍袋の尾がきれて怒った。他でもおそらくそうして執拗に詰問のように責めつづけられる。電話でも息子の会社に何十回も電話する、同じことを言っているのだろう。電話してもその度に忘れているのだ。電話したことを忘れるからまた電話する。こちらから電話しても忘れていて電話したことを覚えていなかったのだ。それを止めさせる方法がないのだ。これは認知症のやっかいな一つの話であり他に苦しめられることはいろいろあるし自分はそんなに苦しんだ方ではなかったかもしれない、徘徊などや便の始末などはしていないからだ。でも盗ったということを一年は言いつづけていた。その時は頭が変になりそうになっていた。でもあとで感情的に穏やかになったとき盗ったとか妄想とかが消えたのである。感情的に穏やかになったことがやはりいい効果を生んだのである。認知症は痴呆になった馬鹿になったのだがプライドは以前として持っているのだ。だから若いときの元気だった頃の昔の話を聞くと喜んでいる、馬鹿になってもあなたはかつてとても優秀だった、活躍した人だったとかほめると喜び感情的にいい方向に向くからそれが結果的に悪い妄想とかを見ないようになる。そうすると介護する方も楽になるのだ。だから入院する前の何カ月は介護することが楽になった。ただ同じことを言って問い詰めることはつづいていた。なぜ認知症の人が暴力になるのか?それは自分の不満が自分が馬鹿になったということに対して扱いが変わることや自分が馬鹿になってしまった憤りがあり弱者になった憤りが暴力になってゆくのだ。実際、長年親しんでいた人から付き合いを断られたとき家族の一人にお前のせいだと暴力になった。その暴力を受ける家族は一番親しい人になるのである。もしこれが感情的に穏やかになっていれば暴力にはならないのだ。
 

いづれにしろ認知症の人に寛容になることは本当にむずかしい、仲のいい親子ですらうまくいかない、でもボケは甘やかしてはだめだと母親に言っていた息子がいて認知症の母親は(怖いな・・)とか言っていたから認知症の人には甘やかしてだめだとか力でおとなしくさせようとすることは逆効果になる。おそらくこれは精神病には一般的に通じるのかもしれない、暴力や監禁したりしてもやむをえないにしても逆効果になる。つまりこうした精神病や認知症とかに介護するには信じられない寛容とか忍耐が必要とされる。その寛容と忍耐もそれぞれの個々の家庭の事情があり違ったものになるからその度合いも違ってくる。そして精神病とか認知症の人と二人きりでいると何らか介護する人もおかしくなってくる。鬱病になってしまうのである。自分も知らずに二人きりだったからそうなっていたのである。認知症でも介護には実際は二人必要なのである。正常な人が二人いればなんとか正常な人と異常な人2:1で正常でいられるのだ。これが
1:1だったら正常が保てなくなるのだ。これは普通の介護でもそうである、一人だと交代するものがないと介護も追い詰められてゆく、でも実際は一人に押しつけられることが多いのだ。
特に認知症に無知な人が多いし理解されにくいから余計そうなのである。

 
●敵味方塚へのコメント
 
貴方様のブログを時々拝見させていただいてますが、人生の重さに比例しているように、大変重みのある文章で、いつも関心させられています。特にこの敵味方塚には、自分のことを言われているようで、思わず笑わせてもらいました。

自分語りで申し訳ありません。我が家にも認知症に罹患した70代の姑がいましたが、8月に脳出血で完全に植物状態となり、以来、ウイルス性肺炎と誤嚥性肺炎を繰り返しています。今までの認知症故の問題行動と、一人でする介護の負担でで心底、怒りと憎しみが私の心にありましたが、落ち着いたら姑を家に連れて帰ろうと思っています。今まであった、怒りも憎しみも、いつの間にか消えてなくなってしまいました。私は30代ですので体力も少しはあります。だから、姑の命ある限りは家で介護する覚悟です。

…そして、何十年か先に、は私は姑の待つ、敵味方塚(家の墓ですが)に入るのでしょうね。

 
このコメントをよくよく読んでみたらなるほどなと自分の体験と重ねと思った。認知症になってから脳出血になる人が多いのか?南田洋子さんもなったし姉も結局脳出血で死んだのである。心療内科で血のめぐりのよくなる薬をもらっていたから血のめぐりも悪くなる病気なのだろう。散歩を欠かさなかったのは散歩すると血のめぐりが良くなり気分が良くなっていたからだ。でも脳出血になってもみんな認知症になるわけではない、その辺がわからないのだ。でもこのコメント主様の姑は相当重症である。姉も何回か危篤状態になり植物状態にもなった。だからとても自宅では介護できない状態だった。そういう人を介護できるのかという疑問はある。30代でこれだけ寛容になっているのは認知症に対して理解ができたためだろう。60代くらいならわかるが30代くらいでは辛いと思うからだ。認知症でも介護する人と介護される人の関係が一番問題になる。それかうまくいけば改善はありうる、でもこれは個々に違っているからむずかしいのだ。
>そして、何十年か先に、は私は姑の待つ、敵味方塚(家の墓ですが)に入るのでしょうね
 
嫁と姑は同じ墓に入ることはやはりそれだけ血縁でないにしろ縁が深いものとなっているのだ。ただ30代ではまだ年数が短いからそう達観できるのか?60代くらいになるわかるがむずかしいと思ったからだ。ともかく認知症の介護でも介護は介護する人が死ぬとたいがい何かしら悔やんでいるのも事実なのである。もう少し良くしてやれたのになとか後悔しているのだ。やはりそれは死んだらその人と二度と会えないということがそう思わせるのだ。自分ももう二度と会えないということがどういうことなのか思い知らされたのである。その人をどんなに憎んでも死んでしまうと会えないということはやはり悲しいことになる。憎しみも愛情の裏返しの場合があるからだ。長年いた夫婦とか親子はそうなりやすい、でも死んだら二度と会えないということは憎しみは消えさせてしまうことがあるのだ。
 

敵味方塚の意味
http://musubu.sblo.jp/article/33007946.html

 
●南田洋子さんの死亡
 
南田洋子さんが三年前のテレビに出ていたのを放映していた。やはり顔もちょっとキョトンとして認知症の初期だったのだろう。顔に現れる人と顔に出ない人もいる。姉は太っていて最後までその人らしい人格は保持していた。死ぬまで顔が太っていたのだ。それで夫の長門さんが最後に南田洋子の記憶を刻んでおきたいと顔や体に何回も触れたとかいうのは実感としてわかった。やはり愛していたことはわかる。認知症の人は個々人でも違うが認知症の症状が現れて平均では4年くらいで死ぬというがそうなのだろう。南田洋子さんも意外と早かった。姉も意外と早かった。同じ様に脳出血で死んだ。やはり脳機能の一部が故障するのだから体の病気でもあったのだ。体が弱ってゆく、南田洋子さんも体が急速に弱ってしまったのだ。結果的に不幸であれ認知症の人は早めに死んだ方が介護する方でもされる方でもいい、これは個々の事情で違うにしろ一般的には早めに死んだ方が救われる。何故なら余りにも悲惨な病気だからだ。あんなにきれいな優秀だった人が痴呆になる馬鹿になるとなると実際差別や偏見がでてきたりもする。実際知的障害者になったのであり笑いものにされる。実際笑いものにされていたこともあった。知的障害者が仲間となる。スタ-であった人が大統領であった人も相当優秀な人も知的障害者となるから悲惨なのである。悲しいにしろだから早めに死んだ方がその本人にとってもいいともなる。そして早めに死ぬとその人が馬鹿になったということがわからずじまいになる。あの人の亡くなったの知らなかったとかなり思い出すのは生前の元気な時の姿だけなのである。南田洋子さんだったらスタ-の時の姿だけである。だから長門さんが南田洋子さんを晒者にしたとか批判があるのだ。そもそも二人もヘルパ-を雇えること自体他の人にはありえないからだ。二人も雇えるなら楽だとなる。その二人を雇うために俳優として働いていたというのも納得がいかない、つまり晒者としてテレビに出して金をもうけたことや何ら他の認知症の介護には役立っていないとか批判があった。ただ認知症とはこういう悲惨な病気ですよという宣伝効果はあった。でも他の認知症の介護に苦しんでいる人の参考にはならなかった。もちろん長門さんにはそういう考えはない、自分だけが苦しんでいるドラマで悲劇のの人に仕立ててしまったのである。他にも一杯認知症の介護で苦しんでいる人はいるから不公平だとなったのである。
 

自分のプログで反応があったのは一番アクセスがあったのは認知症関係だったかもしれない、
二年以上書きつづけたらかである。南田洋子さんの関係でもアクセスが多くつづいている。
結局認知症で悩んでいる人はなんとかいい介護の方法がないとか探しているからである。
でも個々に事情が違ったりなかなかいい方法が見いだせないのが認知症なのである。これはやはり単に体が悪くなったというだけではない精神面が深く関係しているから個々に家庭事情が違うからむずかしいのである。

2009年11月07日

老いをともにする人は誰?


寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里   西行

故郷に老いてともにし過ごす人誰なるべしや秋深まりぬ


本歌とりではないがこの二つを相通じるものがあった。 「庵ならべむ冬の山里 」とは老いてともに過ごす人だった。60すぎると今までとは違ってともに老いゆく友が必要になることがわかった。もちろん、夫婦であればそのまま老いをともにする、でもこれからの老いは子供と一緒に過ごすとは限らないしむしろ離れて住む人が多くなる。孤立している老人も増えてくる。
そこで問題になるのは 「庵ならべむ冬の山里 」誰と庵を並べるのか、そこが一番の問題になるのだ。一人暮らしの人にそんな人がいるのか、長年つきあっている人でないと無理かもしれない、一方で老い共に過ごす人を新たに探す人も増えてくるし現に共同で住宅を作り暮らしている女性もいた。団塊の世代というと競走に明け暮れ他者を出し抜くことが生きることだった。人数が多いから必ず席取り競走になるのだ。でも今や老いに入ると逆に共同することが求められる年代になったのである。もはや争うのではない、心から老いをともにする人が必要になった世代なのである。ただ庵を並べむというとき住宅としては別個であり独立しているから施設などで暮らすのとはこれは違っている。施設だとどうしてもフライバシ-がなくなる。窮屈になり嫌だという人もでてくる。そういう老いをともにする人がいなくても金持ちだと老いは豊になる。

 
自分の理想では庭師を雇いお手伝いさんを雇い広い庭の手入れをしてもらい、食事の用意もお手伝いさんにしてもらう、これだと別に老いをともにする人がいなくてもいいかもしれない、昔の金持ちは大工や庭師でも雇っていた家があった。それでそこでゆっくりと仕事させてもらうので職人は腕を磨くことができたという話をきく、今はそういうふうに仕事をさせてもらいないから腕をみがけないというのもうなづけるのだ。切り売り的な仕事しかできないというのが今の時代である。
 
老人問題を追求してきたがこれは実際は人人類史ではじめて直面する問題である。確かに老いの問題は今までもあった。でもそれは極少数の問題であったのだ。今は全員の問題でありそれも数が多いから老いというのが社会の重圧ともなり老人は安楽死させるべきだとかの極論もでてくる。最近の35歳の小太りの女性にだまされて大金をとられ殺された老人などがいたがそういう事件も現代を象徴している。ヘルパ-とかで金のある老人の家に入ってくるから家族の一員のようになるからそういう事件も起きてくる。孤独な老人とか一人暮らしが増えてくるのだ。自分もそうなりつつある。小太りとか太った女性にはあたたかみを感じるから顔はまずくてもかえって安心感があったからそうなった。老人になるとあんまり容姿とかは問題にならない、性格の良さとかかえって性をぬきにした人間的魅力が大事になる。だから老いをともにするのは若いときとは違った条件になる。ただ本当に老いをともにする人が誰になるのか、誰にすべきなのか、そんないい人がいるのかとなるとなかなかいない、でも団塊の世代はそういう老いをともにする人を求めるようになっている。だからいろいろな形態でそういう仲間作りがはじまるかもしれない、それは今までの家族とか夫婦とかの単位になるとは限らない、なぜなら高齢化社会は今までの伝統的な関係だけでは解決しない様々な問題をかかえこんでいるからだ。ただ老いをともにすることはもはや争うことではない、人生の争いは終わり、色恋沙汰や出世争いとかも終わった、枯れたなかでの共同を追求することになる。しかしまた以前として老人もいろいろであり老人ホ-ムでも色恋沙汰で争いなどがあるから自分が求めるのとは違っているのでなんともいえない、ただ老いをともにする人を求めていることはそれぞれ間違いないだろう。

2009年11月24日

病名は帯状湿疹-ヘルペスだった


 病名は帯状湿疹-ヘルペスだった

 
●原因は高齢のための体力低下
 
病名は帯状湿疹-ヘルペスだった。93才となれば体力が弱りこうした細菌、ウィルス感染で死ぬ人も多い、ヘルペスというウィルスも相当怖いものがあるらしい、ヘルペス脳炎になったりするものがある。脳にウィルスが侵入してそうなる。母の場合は頭痛とか吐き気とか高熱にはなっていない、体力の低下が原因なことはまちがいない、下半身の左足が広範囲にただれたようになった。それも突然になったのである。悪性ではないとしても93才という高齢が影響する。ウィルスで死ぬ老人も多い、抵抗力がなくなっているからだ。これはよく知られた病気で昔からツヅラゴとしてあった病気である。かなり広範囲に腫れているから心配である。医者が言うにはそれほど重傷ではない、他の内臓とかは悪くなっていないというからそもそも細身で弱い体なのに骨と皮になっているのに弱らないのは内臓が強いためなのだろうか?自分の体にもにているからそうは思えないのである。いづれにしろこう高齢になると何かの調子でウィルスでも死にいたるかもしれない、そうなっても不思議ではない、そうして生きていること自体不思議なのである。
●ヘルペスのウィルスがアルツハイマ-と関係していた?
 
それにしてもウィルスとは何なのか、ええ、これがアルツハイマ-と関係している。ヘルペスのウィルスがアルツハイマ-の脳を変化させているというのも恐怖である。アルツハイマ-、認知症についてはいろいろ書いてきたけどその真の原因は何なのか不明である。だから自分もそうだがいろいろ言う人がでてくる。もしこれがウィルスと関係していたらこれはそのウィルスを解明すればアルツハイマ-を直せる切っ掛けを作ることになる。これは早期治療が大事である。ウィルス、細菌だから早めに手を打つことが大事になる。ウィルスに完全に犯されない内に手を打つ必要がある。ともかく人間には病気の種類が多くてこまる。インタ-ネットは病気には詳しい、その症例がいくらでもでているしその対応策も出ているし薬や治療の方法もでている。私は姉が認知症になったとき即座にインタ-ネットを見た。アルツハイマ-とか認知症を調べた。そこで対処方法として相手の目を見て落ち着かせることだとかありそれを即実行した。突然の暴力になりどうしていいかわからなかったからだ。 でも全くわからい狂気になったとか人格変貌したとか本当にそう思い怖かった。でも相手の目からそらすことがなかった。これは最後までそうだった。意外とこれは大事なことだった。顔を見たくなくなるからだ。それで顔背けると顔を見ろといっていた。顔をそむける人は認知症の介護や精神病の介護はできないかもしれない、目というのが意外と大事なのである。目をそらすことは対話する場合もまずい、生き物にとって目の働きは大きいのである。目をそらさず向かい合いしているうちだんだん症状が和らぎ落ち着き妄想は消えていったのである。

口唇ヘルペスを引き起こすウイルスと、アルツハイマー病による脳変化に関連性があることが
分かった。このウイルスが原因と判断するのは早計だが、今後口唇ヘルペスの標準抗ウイルス薬 をアルツハイマー病の治療や予防のために使用できる可能性が浮上したと研究者たちは語る。


これまでの研究でHSV−1ウイルス(単純ヘルペスウイルス)に感染させた細胞内にアルツハイマー症の原因物質であるAβの蓄積が起こることや、マウスを使った動物実験でHSV−1ウイルスに感染させるとアルツハイマー症のリスクが高まることが報告されているマスが、今回の発表では、実際のアルツハイマー症の脳内の老人斑の90%にHSV−1ウイルスのDNAが含まれてていることが発見されました。
http://amrit-lab.com/c/cancerbyvirus_3.html

 
 

2009年11月29日

老人の価値(家族内価値から社会的価値の問題に)


老人の価値(家族内価値から社会的価値の問題に)

●家族から見捨てられた人は施設でも価値を認めるのはむずかしい

老人の価値を見出すのは施設などではむずかしいだろう。老人の価値は過去にありその過去を良く知らないと価値が見出せない、だから介護でもモチベ-ションがないから嫌になる。単に介護の給料が安いというだけではない、こんな役たたない老人を世話して使役されて何の意味があるのかとなるのも当然である。現実、子供からも見捨てられた不倫とか迷惑かけただけの女性が最近死んだけど娘は死んでも行くことがなかった。でもそういう人を国では世話しつづけていた。事情を知らなければかわいそうな人となるが実際は大変な迷惑をかけただけの人だったとなる。やはり家族からも見捨てられる人は家族内でも価値あることをしていなかったのだ。老人は社会的に価値あることをした人でなくても家族内で価値を見出すことができる。
男性の場合は社会的価値ある仕事をしたかで判断されるかもしれないが女性は家庭内で価値あるものと認められる。自分にしても家族内で家族を支えてきた過去があるから認知症になっても世話していた。他にも世話になったという人が認知症になっても正常なときと同じ様に接してくれたのはそのためである。老人の今を見れば無惨な姿でも過去をみれば立派であり社会に家族に尽くしてきたとなれば簡単に捨てられない、価値がないものとは見れないのだ。

問題は一旦病院とか施設に入るとその人がどういう価値があるのか見出せなくなる。社会的に価値あるといってもそれを判断することは簡単にできない、だから福祉の観点からただかわいそうだからめんどうみるとかなる。そうなればその人の過去は関係なくなるのだ。でも自業自得でかわいそうな人になっている人もいる。生活保護なども今やかわいそうとは限らない、本当に自活の道を探す前に簡単に受けられるから受ける人も多い、親戚に頭を下げるのが嫌だとかもあり身勝手なことも多い、個々に違っているにしろそういう人も今や相当多い時代なのだ。
個々の事情から人の価値を見分けることはむずかしすぎるのだ。家族だったらそういう価値判断は容易にできる。子供のときから一緒に生活しているし親のことを知り尽くしている。前の例のように子供にただ迷惑ばかりかけた親も普通にいる。そういう人を社会的にめんどうみるとき
「なぜ家族は施設にも来ないとか病院に来ないのか、赤の他人がこれだけめんどうみているのに・・・」となってしまうのはわかる。子供に問題がある場合もあるが大方は親に問題があったからそうなっているのだ。

●高齢者の価値判断は新しい問題
普通老人は必ず社会的に価値は認められない人でも家族の中では何らか価値を認められるからである。第一社会的に価値ある人と認めることはかなりむずかしい、何が社会的に価値あることなのか?例えば戦争を経験した老人80代でまだいる。「俺たち死ぬほど苦労して戦争して日本のために尽くしてきた」と言われてもその戦争は無駄だったとか、かえって日本のためにならなかったとか価値判断する人もいるからだ。では「俺は社長だった、議員だった、弁護士だった、教師だった・・・」いろいろな職業に従事した人もいる。そういう人は金をもっていても本当に尊敬に値する人なのか、価値ある人なのかと老人になって価値判断することはむずかしいのだ。むしろ下働き薄給で掃除婦や農民や職人での方が価値あると判断することもあるからだ。人間を社会的に価値判断することはそれだけむずかしいのである。家族内だと容易になるが社会的価値判断はむずかしいのである。
だから福祉の場合、施設などでは病院などではともかくそうした個々の事情を考慮せずにとにかく患者なのだから病人なのだから弱い人なのだから愛の心をもって分け隔てなく接する、看護する、介護するべきだとなる。例えその人は悪人でも病人だからいたわり介護しなければならないとなる。しかし今問題になっているのは老人は価値がない、そんな価値がないものを若い人が世話してどうなるという問題が高齢化で極端にクロ-ズアップされそれが行き着く先は安楽死させろということまでなる。老人が家族内では価値あるものでも一旦施設などに入ると家族がめんどうみないような人をなぜ赤の他人が苦しい思いして面倒みなければならないかという問題になっているのだ。介護過剰の問題もある。寿命の限界を越えて科学の力で生かし金ばかりくうのが老人だという社会的批判もでてきている。生命はただ伸ばすだけに意味があるのかとか社会的価値判断として老人が問題になっているのだ。昔なら老人は家族なの中で介護されて死んでいったから社会的問題になることは少ない、そんなに高齢で死ぬ人もまれだった。社会的問題としての高齢化問題は存在しなかったのである。老人問題は昔からあったにしろ今のような高齢化社会としての問題はなかったのである。要するに高齢化社会の問題は新しい問題でありだから価値判断もできていない、ただ若い人にとっては負担ばかりふえるから経済的問題として高齢化の問題がクロ-ズアップされているのだ。老人が価値ないというとき、老人に社会の金を税金をそんなに使うべきではないということなのだ。そもそも豊だからこそ介護問題が生まれた。貧乏な時代だったらこんなに長生きもないし老人は早く死んでいたから問題は起こらなかったのである。

2009年12月14日

田舎では医者は選べない、一番不便なのが病気になったとき

田舎では医者は選べない、一番不便なのが病気になったとき
病院に行って疲れた。前もそうだったが病院はいるだけで疲れる。車椅子を押したりするのも疲れる。帯状疱疹で三カ所で医者に診てもらった。でも実際診てもらったのは原町の皮膚科だけだった。ここもここでは治療できないということで市立病院の麻酔科に行けと言われて今日行った。すでにウィルスに犯された傷は黒くなり細菌は死んでいる。でも痛みがあるからその痛みをとるために麻酔科で診てもらうことにした。神経ブロックという傷そのものに注射して痛みをとるのは入院しないとできないという。この病気は入院した方が治療がしやすかった。緊急の措置も大事だからである。それも麻酔科のあるところが良かったのである。鹿島区にはそうした大きな病院がないから不便なのである。
三カ所でみてもらったけど一カ所はいつも研修生でありまともにみていない、研修生自体、専門の皮膚科でみてもらった方がいいですよと言っているのだから当然である。今回はむずかしい病気ではないからすぐに傷をみて病名がわかった。それで応急措置ができた。これは研修生でも誰でもわかりできるものである。でも近くの・・・・医院はこれはわからないから皮膚科でみてもらいというのは疑問だった。なぜならこの病気はわかりやすい病気であり専門外でもない、その科で治療している人もいる。だからなぜそこで病名を言い応急措置してくれなかったのか不明である。これは医者の常識として知っておくべきものだからである。専門とは関係ないもののように思える。この結果は医者に行くのが二三日遅れたからである。そして近くに皮膚科がないので週二回ほどくる研修生にみてもらうほかなかった。

田舎は医者に関しては相当不便である。また田舎でも5万の都市に住むものと一万とかの町に住むものと山村の村に住むものとではまた不便の度合いが違っている。医者は通わねばならないのでかなりの手間である。いづれにしろこのように最初からいい医者を田舎では選ぶこともできない、医者そのものがいないのである。麻酔科は原町区で二つしかないからもちろん選ぶこともできない、ここも今日みてもらったがやはり研修生が来ていたのか?でも薬について良く説明していたから一番良かったように思える。副作用について良く説明していた。普通薬の副作用について詳しく説明する医者はまれである。ただ薬をたくさんよこして副作用の説明はしない、そしてわかったことは医者はそれぞれみな診断を違っている。これまでの薬は良くきかいない、この薬が一番きくんですよと言われた。その説明をきいてそうなのかもしれないと思った。
こんなに薬の説明をした人がいない、薬飲んで食欲なくなったんですよというとそのことも説明した。高齢だから薬の量を減らして飲ませますから言われて一種類の薬をもらった。眠くなるとか副作用のことも説明してくれた。こういう医者はやはり一番いい医者だったのかな?薬の知識については医者もまちまちでありわからない医者もかなりいるから薬の副作用などをインタ-ネットで調べている人がかなりある。

いづれにしろ医者がどういう医者なのかみるのもむずかしいし医者と応対するのもやっかいである。まず質問されることが嫌がったりこうじゃないですかなどと患者が言うとお前みたいな素人に言われることがないとあるものは怒り嫌がられるだろう。質問しただけで怒られて手術すらしないと言われたことを前に書いた。手術の失敗を責任をとられることを極端に恐れていたのだ。だから私たちは責任をとりません、とりませんということの契約をさせられたと同じだった。
そして老人は甘くみられる、年ですよということで直りませんとかなる。それも90以上になるといたしかたないとなる、そして病気は薬で治らない、薬をなるべく使わないようにして直せともある。今は薬を余りにも多く多用しすぎるからである。ともかく医者に関しては田舎は不便である。
名医など探すようべくもないしそもそも専門の医者にかかること自体容易でない、ただ医者にも力量の相違がある、でもいい医者がまれだとすると田舎では医者の力量は都会よりかなり劣っていることはまちがいない、都会なら切磋琢磨があるが田舎ではない、田舎では互いに才能でも競い合うとか切磋琢磨する場に欠けているから若い医者は都会にいることを望む。

結局「遠くの名医より近くの藪」とか言われようにどんな医者でも近くの医者の方が役に立つ、そして医者は命にかかわるから大事なのである。応急措置をとらないと致命傷になる場合もある。帯状疱疹は一週間以内に治療しないと薬も一週間以内でないときかなくなるなるものがある。いろいろ医者では苦労した。近くで不親切な医者がいても他でみてもらえばいいとかもならない、ここでは二軒しかない、つまり医者がいないよりいいとかなる。それだけ医者は必要だから医者とは仲良くしておけとなるがこれもむずかしい。いづれにしろ医者の不満も田舎では言えないのである。あいつは医者に文句を言う生意気なやつだとか目をつけられたりしたら医者にもかかれないようになる。それだけ医者に関しては田舎は不利なのだ。

注意-自分は車をもっていない

2010年01月06日

「名医のうそ」児玉知之を読んで・・・自分の経験から納得


「名医のうそ」児玉知之を読んで・・・自分の経験から納得

 
「名医」のウソ・・という本を読んだけどいかに医者に対応することがむずかしいか実感したからわかる。それなりに症状とか正確に伝えないといけないとか質問してもいいとか書いてあるけど医者に下手に質問すると嫌がられるし相当にうまく聞かないと気分を害される。医者とはそもそも対等に話せない、気を使いすぎる。ここには確かにその方法が具体的に書いてあるからわかりやすかった。薬も医者がわからない薬剤師もわからないとかめんどうなものなのだ。でも勝手に素人判断で薬を飲むことを中断することはまずい、実際に血のめぐりがよくなる薬を原町の心療内科からもらっていた。それをやめたのがまずかった。脳出血になったのはそのためだったかもしれない、薬はやはり大事なのである。それから紹介状を書くことでその医者のことがわかるというのも本当だろう。原町の皮膚科専門医では南相馬市立病院の麻酔科に紹介状を書いてくれた。神経ブロックの治療はそこでしかできないからだった。そこではもう治療できなかったからである。でもそれは入院しないとできないものだった。だから救急車で麻酔科のあるところに帯状疱疹は入院しないとだめなことがわかった。その南市立病院の麻酔科では薬の副作用を良く説明してくれた。他の薬ではだめだからこの薬を飲めというのも説得力があった。薬の副作用のことを詳しく説明する医者はいい医者なのだろう。その人は研修医らしいが研修医がすべて頼りにならないということではない、研修医は若いから情熱があり一生懸命みるというのも本当だろう。麻酔科の研修医はそうだった。だから副作用について熱心に説明したのかもしれない、年寄りの医者はそういう患者への病気を直すことへの熱情が薄れてしまっているかもしれない、適当にみるということもできる。若い人はどこの分野でも最初は仕事に熱心なのである。
 
それから胃ろうの手術のとき南市立病院で合併症のことを詳しく説明していた。私たちは万全を期してやりますが万が一失敗あります、合併症は万が一生じますと説明していたから手術について詳しく説明する医者は病院はいい病院だというのも本当だろう。でもその医者は一言質問したら「では手術をしない」とにらめつけて言った。その時こちらも医者は怖いと思った。一言だけ質問することはこのように怖いことなのである。だから医者に何かを聞くことは細心の注意が必要である。実際はこの本に書いたように気軽には聞けない、かなりの危険性をともなうものなのだ。「手術をしない」ええ、医者にそんな権限があるのかというのにも驚いた。危険だからやめてくれというのでもない、年だから失敗してもしょうがないとか思っていた。老人は医療ミスししてもあまり責任を問われないから医者は楽だと書いている人もある。一言質問しただけで「じゃ、手術はしない」と怒鳴られたときはびっくりした。そんな権限が医者にあり患者はその時手術をしてくださいともいえないのか?だから医者は怖い存在であり簡単に質問などできないと思った。そんな権力を権限ももっているのかとそれで病院の事務に不満を言ったら名前と住所を言いなさいとさらに脅されたのである。つまり病院には一言も不満など言えない仕組みになっているのだ。権限はすべて病院側にありそこでにらまれたら診療すら受けられないというのが現実である。
 
ただここで私が言っていることはかたよった見方ではない、この本を読んで確かに合併症のことをあれだけ説明していたのだからそれは信頼できると納得したのである。私自身別に他の人でもいい面は誰でも認めるのである。故意に中傷しているのではない、ともかくいくら医者とうまくやれと言っても本当にこれはむずかしすぎる。そこがやはり患者側としては納得いかない、ともかく医者とは仲良くしておけというのは本当である。相手も人間だから好感をもっていればいろいろ良くしてくれるからである。ただ自分はそういうことが苦手だからなかなか医者とは打つくつきあえないだろう。医者だけではないそうしたコミニケ-ションがへただからだめだとなる。