2011年01月22日

未来への詩(2011)


未来への詩(2011)


Right appealed mountain


軽やかに未来の空は透き通っている

冬の真澄の空のようにどこまでも

力強く真直に樹々は立つ

塵も凍りて大気は澄みきひきしまる樹

風は寥々と梢に鳴りぬ

飛翔する鳥は喜々と彼方の未知なる世界へ

希望は高く天に達せむ

大地を踏みしめ牛のごとく歩め

力は大地よりわき上がり

大地の実りこそ真の実り

今の忍耐の一歩は未来に通ず一歩

人は今にはあらじ未来に向かって進む

大いなる未来こそ夢見て死すべし

今成らざるものが未来に成らむ

神の御意によりて成らむ

広々とした世界の大気を吸いこみ

その視界をさらに拡大せよ

新しき陽は赫燿と未来に向かって昇る

衰えざる光明の強さに新年は明けぬ

闇を払う光のますます強かれ

さらなる崇高なる峰を仰ぎ心高鳴る

厳しくも真を顕かに示現す大山岳

高らかに正義の詩を発揚すべし

この世に闇は深けれど神の力は全地に満ちむ

全地は神のものなり人のものにあらず

全権は神にあり人にあらじも

新しき天と地を望み成るべし

全能の神は成しえざることを成しぬ

海は割れエジプトの軛を脱して

新しき神の都、エレサレムを目指す

永久なる都よ、神に祝福されし都よ、闇なき都よ

朽ちざる命のそこにあるべし

posted by 老鶯 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など

2010年11月23日

急いで富を得ることはできない






急いで得た富は減る、少しづつたくわえる者はそれを増すことができる

はじめに急いで得た資産はその終わりが幸いではない-箴言-20-21


欲の深い人は急いで富を得ようとする、かえって欠乏が自分のところに来ることをしらない
箴言-28-22

 


急いで富を得ようとすることは他者から奪う、富者から奪うことが一番手っ取り早いのだ。富と財は一代では築けないだろう。今の時代は性急だから犯罪が多発しているのだろう。自分が生きる時代に富まねばなにもならないとなればやはり犯罪を犯しても富を得ようとする。
そんな悠長なことを言っていられないとなる。それで老人が一番性急になっているのかもしれない、金をたくわえるにしても時間がないからだ。余裕がないからだ。わずかの年金を60才から90才まで何にも使わず巨額の金をためた人がいる。その人は一か月3万ももらっていなかった。長い年月をかければ金はたまる。利子が高かったという幸運もあったが金も時間をかければたまる実例である。財産はギャンブルじゃないから簡単に築けないのである。貧者の危険は富者に対してその不満が高じて奪うことになる。それは殺人にもなり犯罪なのである。いづれにしろ手っ取り早く富もうとしたら金を得ようとしたらそれは危険なことになる。犯罪につながるのである。現代はそういう傾向が非常に強くなっているのだ。でも富を得る方法はこつこつ働きためるしか一般的に方法がないのである。だから富者がいたとしてもその人は一代で富者にはなっていないだろう。先祖が残した富があって富者になっている。つまり一代ではすでに富者にはなりえない、それだけすでに富者になるには時間がかかっているのである。

石の上に三年というけどそれすら現代人は耐えることがまんすることができないだろう。それは結局富がどこにでもありうる、みんなが富者になった時代、小金持ちになった時代だからかもしれない、いろいろなものがあふれている、いつもそれは金さえ出せば手に入れられる。その時金がないとなれば盗もうする、他者から奪おうともする、一方で不景気で昔のように金がたまらない、それなのにモノはあふれているし金があれば何でも買えるとか不満が高じている。
努力して耐えてがまんするということができない時代なのである。すぐに金を手に入れて欲望を達成しようとする。そういう性急な時代でありインスタント食品に象徴されるように人間もインスタント的になっているのだ。石の上にも三年とかも死語になっているのだ。富は偏在してあふれているから簡単に手にとれると思う。努力してその富を得ようとしない、だからこつこつ働くことができない、馬鹿らしいとなる。だから三年すらがまんできないのである。
タグ:
posted by 老鶯 at 22:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など

蛇への呪詛


蛇への呪詛



愚かなる者は自分の愚かなることを現す  箴言12-23


悪しき使者は人を災いにおとしいれる、忠実な使者は人を救う 箴言13-17


悪しき者の所得にはわずらいがある-箴言15-7

汚れしものよ、罪深き者よ、汝の手にて幼子に老人に花に樹にふれるな!その手は罪に汚れてしまった。そこに愛も信も誠実さもない、汝の手にふれるとき万物は枯れてしまう、恐るべき罪よ、汝は悪を成すにいかに狡猾なるや、汝はまことに蛇なり、蛇は万人に忌み嫌われる、汝はその醜き姿を現すな、暗き穴に入りて出てくるな、その醜悪なる姿を現すな、汝には暗き闇がふさわしい、闇の中に汝は閉ざされる、光はそこにささず闇が常におおっている。汝はいかに装うともその真実の姿は隠せないだろう。その醜悪なるものを隠すことはできない、汝は他者を欺き苦しむのを喜ぶ、ソドム、ゴモラの裔や、汝は罪故に神の業火に焼かれるだろう。愚者は愚者と交わり愚行を繰り返し下賤なる者は下賤なる者と交わりさらに下賤になる。かくして悪行はやむことがない、悪知恵は働きその狡猾さには驚く、汝は陽の光をもはや見ることはできない、陽の光に歓び咲く花を見ることはできない、暗い闇に閉ざされて出てこれない、その罰は恐ろしきものなりしを、エデンの園は汝の罪故にそこなわれた、その罪はあまりに大きい故に汝は最も醜悪なる蛇と化したのだ。

しかし一方で光は信と愛の光なり、樹々は立ち並び誠実の日々は変わらずそこにある。明るい光のなかにある。その陽光に欲して善なる人の心は晴れやかになる。小鳥は歌い清らかな流れはひびく、心の清いものは神を見るだろう。万物は心の象徴としてある。蛇はまさに最悪のものとしてその醜悪なる姿に化した。信と愛と望は永遠につづくだろう。信があり愛があり望がある。それがなければ失われればこの世は闇となる。信と愛があるところ光はますます明るくその日は終わることがない、例え地球が太陽が消えても信と愛は消えない、永続する。信と愛があるからこそ光もあるからだ。信と愛を喪失すればまた光もないからだ。決して人間は死をもってすべてが終わるわけではない、信と愛は永遠につづく、その他は一時的なものとして消失するだろう。この世の欲も終わるだろう。しかし信と愛は永遠につづく、来世でもそれはつづいている。


裏切りしものこそ不幸なり、人を泣かすものこそ不幸なり、信と愛を失いしものこそ不幸なり、汝は蛇のごとく陽の光に欲することができない、誠実の日はなく、悪徳にまみれ闇に生きる。いくばくの利得を得ようとその心は暗く決して明るいものとはならない、光のなかに咲き開く花の歓びを知ることはできない、人は軽く罪を犯す、罪にもいろいろあるが信と愛をそこなうもの故に許されない、大きな神の罰がある。罪のいかにその影響の甚大なるかを自覚しない、それぞれに不満があり公平ならざることは社会にある。しかしだからといって相手の信と愛をなみして利得を得ることは罪である。人はいつまでも貧者にあらじ、また富者にあらじ、貧者はいつか富者となり富者はまた貧者となる。貧者が富者をうらやむことはわかる、でもその富者から富を奪うことは犯罪だろう。富者は富を分かつ勤めがあることも確かである。貧者もいつまでも貧者ではない、必ず富者となるべき機会はある。そのために富者より一気に富を奪おうとするのは罪である。今は貧なれど一代二代になりて富者となる。悪徳をもって富者になるべきにあらじ。信と愛のなかに富者の富は分かたれることもあるだろう。ただ一方で呪われた富者もある、ただ富を貯えて分かつことなき富者は呪われるだろう。この世から貧者と富者はなくならないだろう。しかしいつまでも貧者は貧者ではない、必ず貧者は富者となり富者は貧者になる。おごれるもの久しからずはこの世の法則である。



 

posted by 老鶯 at 21:42| Comment(1) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など

2010年11月06日

邪心なきもの(野の一輪の花)-(詩)


邪心なきもの

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。マタイによる福音書 第6章25−34節 

美しき花に雀のよりくる

山帽子の実にヒヨドリのついばむ

何事もなけれど邪心なき姿

花は汚れなく咲き汚れなく散る

人は罪深く罪に汚れて死ぬ

エデンの園はアダムの罪の故に汚れた

人間の罪の大きさ

この世に悪と罪はなくならない

ただ自然はエデンの園のまま

邪心なき雀は花によりくる

何事のなけれど調和している

人間社会のみが調和しない

神の御意にかないて

罪なく汚れなく咲き散ること

それが幸いである

それがなければこの世の栄華も虚しい

この世の栄華も野に咲く一輪の花に及ばない

失われしエデンの園よ

来世では天国では回復して輝いているだろう

そこにのみ安住がありこの世にはない

この世は去るべきところなり

ただ来世の神の真の栄光を望むべし

タグ:エデンの園
posted by 老鶯 at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など

2010年04月03日

善を成すことではない悪を成さないことが善


善を成すことではない悪を成さないことが善

 
口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは悪い思い、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです(マタイー15−18)
 
人間の善行は何か寄付したり具体的に他者を援助したりすることだと思っている。何かを善を行動することだと思っている。善なすというより悪を成さないことの方が最高にむずかしいのだ。若いときに善を成すことはほとんど不可能である。何故なら必ず悪を成すように人間はできているからだ。若いときの性的な放埒とかそれもやはり罪だとすると人間は罪を犯さずにはいられない、罪を犯さない、悪を犯さないとしたらその人は奇跡的な人だとなる。子供の内は悪は罪はあったとししても無垢であるからないに等しい,しかし中学生、高校生となるとすでに悪を罪を犯すものになっている。精神的にも悪を犯さないということが至難なのだ。
 
口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは悪い思い、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです(マタイー15−18)
 
人間は悪い思いが先にあり良い思いをもつこと自体至難なのである。ではどうしてそういう人が善行ができるのか?ボランティアとか善行がただ人に良く見られたいとかほめられたいとか別な動機がありその心の中はわからない、だから神は行動より心を見ている。行動よりもその動機がどうなっているのかを見ている。心を見ているとしたら心を良くする必要がある。ではどうしたら心を良くできるのか、それはこの世の中で善行することではない、まず心が悪に染まらないようにすることなのだ。それは自らの内からも悪は生まれてくる、悪が生じないように訓練することでもある。現実社会なの中ではどうしても相手を蹴落としてでも勝つとか様々な競争を強いられるしそこで悪も強いられる。それに抵抗すると職を失ったりする。社会生活の中ですでに悪を成さないこと自体至難になっているのだ。
 
善は積極的に何かを成そうとする意識が強すぎるのだ。これは欧米流のキリスト教に多い。何が何でも善を成すのだというのが欧米のキリスト教である。一方精神的修養に重きを置くのが東洋なのである。宗教はむしろ東洋の方が深いのである。今のカルト宗教団体は欧米流であり政治そのものとなっているものもある。心の問題などは関係ない、社会的に利権や利益を得ればいいとなればそこにもはや宗教心信仰心の一かけらもないのだ。むしろ心を無視してこの世の利益を権力を得ることこそ信仰だとなっている。心などはどうでもいいこの世の実権、利得を得ることが先になる。宗教は仏教だって心の修養としてはじまったのである。それでなければ洞窟に樹の下に悟りを開くために何年も黙して座っている必要がないからだ。心の修養を第一としたからそうしたのである。沈黙することはやはり口から悪い言葉をはかないことであり修養だったのである。
それでつくづく掲示板でも書いたが人間はどんな人でも他者を傷つける、傷つけない人はいない、男女間でもそうであり親子間でもそうである。実際に調和しているのはまれなのだ。離婚がこれほどあることでもわかる。男女の間でも調和するのがむずかしいのだからましてやその他でも調和することは至難だとなる。
 
だから大きくは戦争はなくならないというのもそのためである。人を傷つけないのは樹や石くらいなのだ。だから樹や石は詩にも書いたが奇跡的なのである。樹は枝を交わして隣の樹を傷つけることはない、ののしったりすることは全くない、石も誰かにののしりの言葉を吐いたりしない、そんなこと当たり前じゃないかとなるがでも人間社会からするとそのこと自体奇跡的だしもし誰も傷つけることがないような悪を成さないような人がいたら奇跡的でありそんな人はこの世にいないとなるのだ。すでに悪を罪を犯すことが宿命づけられているのが人間だからである。罪なき人?それは誰なのか?主イエス・キリストしかいなかった、それはまさに奇跡だったとなる。その他は全部罪人だったとなるからだ。その罪犯さないということは何か特別な善行をすることではない、悪を成さないということでありそれは行動的にも精神面でもそうである。心の中で憎しみが一杯になって恨みをもつとしたらやはり罪になるとしたらいかに心でも罪を犯さないことが至難かわかるのだ。エデンの園には罪がない世界であった。罪が入ってきたとき人間はエデンの園から追われた。でもエデンの園は神が造った自然だから今もあるからエデンの園はイメ-ジできるのだ。ただ人間は余りにも悪にそまり罪だから見えなくなってしまっているのだ。
 
青春時代は何か善行を行うことではない、むしろ善行はできない、いかに悪に染まらないか、悪を成さないかの方が大事であり守るべきものか知っておくべきなのである。どんな人だって結婚すれば妻を傷つける、結婚はだから罪を重くするともいえる。悪に染まりやすくなるともいえる。でも結婚は悪いとはいえない、むしろ独身というのも罪であり全部いいとは言えないのである。これも人間としては変形したものとなるから全部がいいとは経験からは言えないのである。ただ僧侶など社会に深入りしなかったのはやはり世の毒に汚されないためにそうしたのである。でもこれが全部いいとは言えない、でも社会の中で悪に染まらないことがいかにむずかしいかを知っていたからそうしたのである。社会の中ではおべんちゃらとかごますりとかいろいろ口でも言いたくないことも言う、そういうことが普通でありさけられないのが社会である。とするとそういう社会から身をひいて心が悪に染まらないような場に身を置くことも必要なのである。
とにかく善を成すことではない、悪を成さないようにすることこそ心がけべきなのである。でも実際はそういうことをあまり心がけない、しゃにむに行動に突っ走るのが青春である。あとで悪を成さないことこそが善でありそれが石や樹を見ればわかるように奇跡的なことだったことがわかる。そんなことが善だったのかという意外なことに気づくがもはや時遅しとなっているのが普通なのである。
posted by 老鶯 at 00:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など

2010年01月05日

聖書の言葉の謎(善行を知るのは神のみ?)


天に宝を積め(マタイ)
http://nagosui.org/Toseisho/daily-words/97

 
●報酬ないのが本当の善行? 
 

昨日書いた義理人情に厚い老人のことのつづきだけどその人がしたことはそもそも善行をしようとしてしたのではない、オレはこれからあなたに善を愛をほどこすとかそんな大げさなことではない、ボランティアとかでも宗教団体でもそういうことが多すぎる。お前のためにしてやるのだから感謝しろとかだから俺たちの団体に入り支持しろとかなる。その人はたまたま善行をしたのであり意図したものではない、「右の手のしていることを左の手に知らせるな-マタイ6-3」この老人はそうした善行を成す意図もないしまた善行をしている意識もそれほどなかった。ただかわいそうだなと認知症になった姉のことをさけることはしなかった。おかしくなったけど話をあわせてくれた、というよりはそれは強制的なものでもなかった。例えは福祉関係となると介護関係でも実際は強制的であり金になるため、生活のために仕方ないとか、みんな強いられて福祉の仕事に就いているのだ。それは賃金労働でありだから当然報酬をもらうのが当然であり生きてゆく手段でもある。現実に福祉関係では福祉を口実に施設でモノを高く売りつけているとかいろいろもうけるための工作をしている。福祉でもそれがビジネスとなり仕事となれば誰だって報酬を追求しているのだ。そもそも仕事で報酬を追求しないこと自体ありえないし誰もしないだろう。
宗教団体でもあくなく報酬を追求している。現世利益を追求している。つまり天に宝を積むことではない、地に宝を積むことに毎日あくせくしているのだ。それが仕事であり生きることだから悪いとは言えないのである。それか普通の経済活動であり日々の仕事なのである。報酬を否定したら生きていけないからだ。医者だろうが福祉関係でも利益をよりよい報酬を追求している。だからこそ介護士は仕事がきついわりには報酬が少ないとやめる人が多いのもわかる。そんな過酷な仕事を無償でやれというのかと言ったら誰もしなくなる。そしたら誰も世話しない膨大な弱者が放置されることになる。だから聖書で言うような善行をやれとなど言えない、ただ本当に聖書の言葉はわかりにくい、天に宝を積めと言っても天に宝など積めるのか・・・となる。これは明らかに死んでも人は死なず天で生き続けることを想定しての発言なのだ。ところが人はこの世のことに執着して生きるのが普通であり天とはいかなるところか誰も知らない、そもそも人間は死んでも生き続けるのか、そのこと自体自覚しえないのが普通である。だからこそ人間はこの世がすべてだと思いこの世の価値観でもって日々生きているのだ。天に宝を積め神が報いて下さるということよりこの世での現実としての報酬を得たくてみんな日々あくせく働いている。


●善行を知るのは神であり人間ではない 

 

だからこの言葉一つとっても聖書は実際は全く不可解なものとなるのだ。聖書の言葉をわかりきって説いている人自体も本当にそれを実行しているのか定かではない、誰も報酬なしでは働かないし働くことが成り立たないからである。ただ善行したとか善行しろとか声高に言っているところでは善行はない、そもそも「右の手のしていることを左の手に知らせるな-マタイ6-3」
隠れた行為を神は見ている・・となると誰も人間の善行を知るものがないときそれが本当の善行となっているからだ。それは今生きている人間にはわからないし天でしか死んでのちしかそのことがわからないのである。それがこの世で善行と認められたとき善行でなくなっているからだ。昨日書いた私自身が経験した具体的な例からするとその人は無意識的に善行をした。報酬を得たとしてもわずかなものである。実際に私は他の人には多額の金を報酬として与えた。不思議な話はその人は借金までしてきたからその報酬がこの世で過分に得て借金だけが残ったという不思議があった。恩を返すからはじまって恩を着せる遂には最後は借金だけが残った。報酬を過分に受け取りさらに過分に受け取りそれが借金として残ったという不思議がある。むしろ人の弱みにつけこみ報酬を過分に得たとさえいえる。あなたを助けたんだからそれくらい当然でしょうとなる。こういうことは普通にあるしとがめることともならない、絶えず人間は報酬を要求されているしそれが仕事となっているのだ。ただその時そんなに過分の報酬を得たら天に宝を積めとか天で報いを得ることはありえない、この世ですべて報酬は支払われてすでに借金まで残してしまったからだ。いづれにしろ現実はそういうものであり神が認める善行などありえない、というよりはこの世では善行は明確化されない、知り得ないのが善行なのである。私が接した恩になった老人でもかえって報酬を得ないならその人の感謝はいつまでも残る、心の中に残る。いくらかの金を与えてこれで恩は返した報いは与えたのだからこれで貸し借りはないから終わりだ。それよりも報いを得なかったから感謝され続ける方がいいとなる。その感謝が天での報いににている。この世で金銭であれモノであれ報いを得たものはあの世では天では何も得られないとなる。

 
●来世に天に生が継続されてこそわかること
 

このように聖書の言葉わかりにくい、この世の価値観と全く異にするからだ。そこでは人間は死んでも天が確実に存在しない限り理解できないものである。その天のことが地上の生活から全く別の世界であり理解しにくい、全く見えないからそうなっているのだ。もし天のことがありありと見えればそういうことかならば死後の天に重きをおき地上の価値に重きおかない生活ができるのである。でも人間は決して生きている間は現実の価値観でしか生きられない、また人間が死ぬと全くその人の存在がどこで継続しているのか全く見えなくなる。そのつながりを求めることもできなくなる。そのギャップが大きいから人間は現世の価値観に左右されて生きている。ただ今回の実際の例からそういうことかと理解できるものはある。やはり現実の生活に聖書でも読み解くヒントはある。それは卑近な例でもそういうことかとわかる場合がある。
このようにもし無意識的にこの世の善行が報いられるなら逆に借金などをして返さないものはどうなるのか?たいがい借金も死んだら終わりだ、御破算だとなるのが普通である。でも天ではこの世で借金を返さないものは何十倍にして利子がついて返さなければなくなるかもしれない、借金を返すための労役を課せられるかもしれない、もちろん罪を犯した人も天で裁かれるとなるとその裁きは過酷なものとなる。もし人間が死んでも天で生が継続するならそうなる。でも普通はこの世の生は一旦死んだら御破算になると考えるのが普通である。天まで死んでまで生きることを具体的に考える人はいない、だからこそこの世から罪がなくならないのだ。神は天と地を創ったというとき人間には地しか具体的に見えない、天は仮想であり具体的に見えない自覚できないから聖書の言葉がわかりにくいのだ。ただこの世ですでに悪の報いを得て死んだ人も多い、子供からも縁を切られて無縁仏になり墓参りすらされくなった。またある常識もなにもい女性の顔を見たらなにか今になると奇怪だった。顔に現世の悪しき生活の痕跡が記されたのかもしれない、それが最初は良くわからなっかった。その人も一応親戚になっていたからいい人だと思っていたのである。でも何であんな変な顔になったのかと思う、別に悪人という顔ではないが奇怪な顔だなと今になると思うのである。すでに50年も生きているとその人のこの世での生活の履歴が顔に刻まれ記されるかもしれない、ただ顔をみぬくことは暴力団のような一見みてわかるような場合しかこの世ではわからないだろう。福祉関係の人も同じである。福祉の仕事をしても善行しているけではないのだ。あくまで日々の糧を得る報酬を得るための仕事でありビジネスでありそれは善行とは違ったものだから神から見れば評価できないとなる。

 

寝たきりでもボケない人-義理と人情の老人
http://musubu.sblo.jp/article/34558623.html

posted by 老鶯 at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など