2010年01月05日

聖書の言葉の謎(善行を知るのは神のみ?)


天に宝を積め(マタイ)
http://nagosui.org/Toseisho/daily-words/97

 
●報酬ないのが本当の善行? 
 

昨日書いた義理人情に厚い老人のことのつづきだけどその人がしたことはそもそも善行をしようとしてしたのではない、オレはこれからあなたに善を愛をほどこすとかそんな大げさなことではない、ボランティアとかでも宗教団体でもそういうことが多すぎる。お前のためにしてやるのだから感謝しろとかだから俺たちの団体に入り支持しろとかなる。その人はたまたま善行をしたのであり意図したものではない、「右の手のしていることを左の手に知らせるな-マタイ6-3」この老人はそうした善行を成す意図もないしまた善行をしている意識もそれほどなかった。ただかわいそうだなと認知症になった姉のことをさけることはしなかった。おかしくなったけど話をあわせてくれた、というよりはそれは強制的なものでもなかった。例えは福祉関係となると介護関係でも実際は強制的であり金になるため、生活のために仕方ないとか、みんな強いられて福祉の仕事に就いているのだ。それは賃金労働でありだから当然報酬をもらうのが当然であり生きてゆく手段でもある。現実に福祉関係では福祉を口実に施設でモノを高く売りつけているとかいろいろもうけるための工作をしている。福祉でもそれがビジネスとなり仕事となれば誰だって報酬を追求しているのだ。そもそも仕事で報酬を追求しないこと自体ありえないし誰もしないだろう。
宗教団体でもあくなく報酬を追求している。現世利益を追求している。つまり天に宝を積むことではない、地に宝を積むことに毎日あくせくしているのだ。それが仕事であり生きることだから悪いとは言えないのである。それか普通の経済活動であり日々の仕事なのである。報酬を否定したら生きていけないからだ。医者だろうが福祉関係でも利益をよりよい報酬を追求している。だからこそ介護士は仕事がきついわりには報酬が少ないとやめる人が多いのもわかる。そんな過酷な仕事を無償でやれというのかと言ったら誰もしなくなる。そしたら誰も世話しない膨大な弱者が放置されることになる。だから聖書で言うような善行をやれとなど言えない、ただ本当に聖書の言葉はわかりにくい、天に宝を積めと言っても天に宝など積めるのか・・・となる。これは明らかに死んでも人は死なず天で生き続けることを想定しての発言なのだ。ところが人はこの世のことに執着して生きるのが普通であり天とはいかなるところか誰も知らない、そもそも人間は死んでも生き続けるのか、そのこと自体自覚しえないのが普通である。だからこそ人間はこの世がすべてだと思いこの世の価値観でもって日々生きているのだ。天に宝を積め神が報いて下さるということよりこの世での現実としての報酬を得たくてみんな日々あくせく働いている。


●善行を知るのは神であり人間ではない 

 

だからこの言葉一つとっても聖書は実際は全く不可解なものとなるのだ。聖書の言葉をわかりきって説いている人自体も本当にそれを実行しているのか定かではない、誰も報酬なしでは働かないし働くことが成り立たないからである。ただ善行したとか善行しろとか声高に言っているところでは善行はない、そもそも「右の手のしていることを左の手に知らせるな-マタイ6-3」
隠れた行為を神は見ている・・となると誰も人間の善行を知るものがないときそれが本当の善行となっているからだ。それは今生きている人間にはわからないし天でしか死んでのちしかそのことがわからないのである。それがこの世で善行と認められたとき善行でなくなっているからだ。昨日書いた私自身が経験した具体的な例からするとその人は無意識的に善行をした。報酬を得たとしてもわずかなものである。実際に私は他の人には多額の金を報酬として与えた。不思議な話はその人は借金までしてきたからその報酬がこの世で過分に得て借金だけが残ったという不思議があった。恩を返すからはじまって恩を着せる遂には最後は借金だけが残った。報酬を過分に受け取りさらに過分に受け取りそれが借金として残ったという不思議がある。むしろ人の弱みにつけこみ報酬を過分に得たとさえいえる。あなたを助けたんだからそれくらい当然でしょうとなる。こういうことは普通にあるしとがめることともならない、絶えず人間は報酬を要求されているしそれが仕事となっているのだ。ただその時そんなに過分の報酬を得たら天に宝を積めとか天で報いを得ることはありえない、この世ですべて報酬は支払われてすでに借金まで残してしまったからだ。いづれにしろ現実はそういうものであり神が認める善行などありえない、というよりはこの世では善行は明確化されない、知り得ないのが善行なのである。私が接した恩になった老人でもかえって報酬を得ないならその人の感謝はいつまでも残る、心の中に残る。いくらかの金を与えてこれで恩は返した報いは与えたのだからこれで貸し借りはないから終わりだ。それよりも報いを得なかったから感謝され続ける方がいいとなる。その感謝が天での報いににている。この世で金銭であれモノであれ報いを得たものはあの世では天では何も得られないとなる。

 
●来世に天に生が継続されてこそわかること
 

このように聖書の言葉わかりにくい、この世の価値観と全く異にするからだ。そこでは人間は死んでも天が確実に存在しない限り理解できないものである。その天のことが地上の生活から全く別の世界であり理解しにくい、全く見えないからそうなっているのだ。もし天のことがありありと見えればそういうことかならば死後の天に重きをおき地上の価値に重きおかない生活ができるのである。でも人間は決して生きている間は現実の価値観でしか生きられない、また人間が死ぬと全くその人の存在がどこで継続しているのか全く見えなくなる。そのつながりを求めることもできなくなる。そのギャップが大きいから人間は現世の価値観に左右されて生きている。ただ今回の実際の例からそういうことかと理解できるものはある。やはり現実の生活に聖書でも読み解くヒントはある。それは卑近な例でもそういうことかとわかる場合がある。
このようにもし無意識的にこの世の善行が報いられるなら逆に借金などをして返さないものはどうなるのか?たいがい借金も死んだら終わりだ、御破算だとなるのが普通である。でも天ではこの世で借金を返さないものは何十倍にして利子がついて返さなければなくなるかもしれない、借金を返すための労役を課せられるかもしれない、もちろん罪を犯した人も天で裁かれるとなるとその裁きは過酷なものとなる。もし人間が死んでも天で生が継続するならそうなる。でも普通はこの世の生は一旦死んだら御破算になると考えるのが普通である。天まで死んでまで生きることを具体的に考える人はいない、だからこそこの世から罪がなくならないのだ。神は天と地を創ったというとき人間には地しか具体的に見えない、天は仮想であり具体的に見えない自覚できないから聖書の言葉がわかりにくいのだ。ただこの世ですでに悪の報いを得て死んだ人も多い、子供からも縁を切られて無縁仏になり墓参りすらされくなった。またある常識もなにもい女性の顔を見たらなにか今になると奇怪だった。顔に現世の悪しき生活の痕跡が記されたのかもしれない、それが最初は良くわからなっかった。その人も一応親戚になっていたからいい人だと思っていたのである。でも何であんな変な顔になったのかと思う、別に悪人という顔ではないが奇怪な顔だなと今になると思うのである。すでに50年も生きているとその人のこの世での生活の履歴が顔に刻まれ記されるかもしれない、ただ顔をみぬくことは暴力団のような一見みてわかるような場合しかこの世ではわからないだろう。福祉関係の人も同じである。福祉の仕事をしても善行しているけではないのだ。あくまで日々の糧を得る報酬を得るための仕事でありビジネスでありそれは善行とは違ったものだから神から見れば評価できないとなる。

 

寝たきりでもボケない人-義理と人情の老人
http://musubu.sblo.jp/article/34558623.html

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2010年04月03日

善を成すことではない悪を成さないことが善


善を成すことではない悪を成さないことが善

 
口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは悪い思い、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです(マタイー15−18)
 
人間の善行は何か寄付したり具体的に他者を援助したりすることだと思っている。何かを善を行動することだと思っている。善なすというより悪を成さないことの方が最高にむずかしいのだ。若いときに善を成すことはほとんど不可能である。何故なら必ず悪を成すように人間はできているからだ。若いときの性的な放埒とかそれもやはり罪だとすると人間は罪を犯さずにはいられない、罪を犯さない、悪を犯さないとしたらその人は奇跡的な人だとなる。子供の内は悪は罪はあったとししても無垢であるからないに等しい,しかし中学生、高校生となるとすでに悪を罪を犯すものになっている。精神的にも悪を犯さないということが至難なのだ。
 
口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは悪い思い、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです(マタイー15−18)
 
人間は悪い思いが先にあり良い思いをもつこと自体至難なのである。ではどうしてそういう人が善行ができるのか?ボランティアとか善行がただ人に良く見られたいとかほめられたいとか別な動機がありその心の中はわからない、だから神は行動より心を見ている。行動よりもその動機がどうなっているのかを見ている。心を見ているとしたら心を良くする必要がある。ではどうしたら心を良くできるのか、それはこの世の中で善行することではない、まず心が悪に染まらないようにすることなのだ。それは自らの内からも悪は生まれてくる、悪が生じないように訓練することでもある。現実社会なの中ではどうしても相手を蹴落としてでも勝つとか様々な競争を強いられるしそこで悪も強いられる。それに抵抗すると職を失ったりする。社会生活の中ですでに悪を成さないこと自体至難になっているのだ。
 
善は積極的に何かを成そうとする意識が強すぎるのだ。これは欧米流のキリスト教に多い。何が何でも善を成すのだというのが欧米のキリスト教である。一方精神的修養に重きを置くのが東洋なのである。宗教はむしろ東洋の方が深いのである。今のカルト宗教団体は欧米流であり政治そのものとなっているものもある。心の問題などは関係ない、社会的に利権や利益を得ればいいとなればそこにもはや宗教心信仰心の一かけらもないのだ。むしろ心を無視してこの世の利益を権力を得ることこそ信仰だとなっている。心などはどうでもいいこの世の実権、利得を得ることが先になる。宗教は仏教だって心の修養としてはじまったのである。それでなければ洞窟に樹の下に悟りを開くために何年も黙して座っている必要がないからだ。心の修養を第一としたからそうしたのである。沈黙することはやはり口から悪い言葉をはかないことであり修養だったのである。
それでつくづく掲示板でも書いたが人間はどんな人でも他者を傷つける、傷つけない人はいない、男女間でもそうであり親子間でもそうである。実際に調和しているのはまれなのだ。離婚がこれほどあることでもわかる。男女の間でも調和するのがむずかしいのだからましてやその他でも調和することは至難だとなる。
 
だから大きくは戦争はなくならないというのもそのためである。人を傷つけないのは樹や石くらいなのだ。だから樹や石は詩にも書いたが奇跡的なのである。樹は枝を交わして隣の樹を傷つけることはない、ののしったりすることは全くない、石も誰かにののしりの言葉を吐いたりしない、そんなこと当たり前じゃないかとなるがでも人間社会からするとそのこと自体奇跡的だしもし誰も傷つけることがないような悪を成さないような人がいたら奇跡的でありそんな人はこの世にいないとなるのだ。すでに悪を罪を犯すことが宿命づけられているのが人間だからである。罪なき人?それは誰なのか?主イエス・キリストしかいなかった、それはまさに奇跡だったとなる。その他は全部罪人だったとなるからだ。その罪犯さないということは何か特別な善行をすることではない、悪を成さないということでありそれは行動的にも精神面でもそうである。心の中で憎しみが一杯になって恨みをもつとしたらやはり罪になるとしたらいかに心でも罪を犯さないことが至難かわかるのだ。エデンの園には罪がない世界であった。罪が入ってきたとき人間はエデンの園から追われた。でもエデンの園は神が造った自然だから今もあるからエデンの園はイメ-ジできるのだ。ただ人間は余りにも悪にそまり罪だから見えなくなってしまっているのだ。
 
青春時代は何か善行を行うことではない、むしろ善行はできない、いかに悪に染まらないか、悪を成さないかの方が大事であり守るべきものか知っておくべきなのである。どんな人だって結婚すれば妻を傷つける、結婚はだから罪を重くするともいえる。悪に染まりやすくなるともいえる。でも結婚は悪いとはいえない、むしろ独身というのも罪であり全部いいとは言えないのである。これも人間としては変形したものとなるから全部がいいとは経験からは言えないのである。ただ僧侶など社会に深入りしなかったのはやはり世の毒に汚されないためにそうしたのである。でもこれが全部いいとは言えない、でも社会の中で悪に染まらないことがいかにむずかしいかを知っていたからそうしたのである。社会の中ではおべんちゃらとかごますりとかいろいろ口でも言いたくないことも言う、そういうことが普通でありさけられないのが社会である。とするとそういう社会から身をひいて心が悪に染まらないような場に身を置くことも必要なのである。
とにかく善を成すことではない、悪を成さないようにすることこそ心がけべきなのである。でも実際はそういうことをあまり心がけない、しゃにむに行動に突っ走るのが青春である。あとで悪を成さないことこそが善でありそれが石や樹を見ればわかるように奇跡的なことだったことがわかる。そんなことが善だったのかという意外なことに気づくがもはや時遅しとなっているのが普通なのである。
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2010年11月06日

邪心なきもの(野の一輪の花)-(詩)


邪心なきもの

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。マタイによる福音書 第6章25−34節 

美しき花に雀のよりくる

山帽子の実にヒヨドリのついばむ

何事もなけれど邪心なき姿

花は汚れなく咲き汚れなく散る

人は罪深く罪に汚れて死ぬ

エデンの園はアダムの罪の故に汚れた

人間の罪の大きさ

この世に悪と罪はなくならない

ただ自然はエデンの園のまま

邪心なき雀は花によりくる

何事のなけれど調和している

人間社会のみが調和しない

神の御意にかないて

罪なく汚れなく咲き散ること

それが幸いである

それがなければこの世の栄華も虚しい

この世の栄華も野に咲く一輪の花に及ばない

失われしエデンの園よ

来世では天国では回復して輝いているだろう

そこにのみ安住がありこの世にはない

この世は去るべきところなり

ただ来世の神の真の栄光を望むべし

タグ:エデンの園
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2010年11月23日

蛇への呪詛


蛇への呪詛



愚かなる者は自分の愚かなることを現す  箴言12-23


悪しき使者は人を災いにおとしいれる、忠実な使者は人を救う 箴言13-17


悪しき者の所得にはわずらいがある-箴言15-7

汚れしものよ、罪深き者よ、汝の手にて幼子に老人に花に樹にふれるな!その手は罪に汚れてしまった。そこに愛も信も誠実さもない、汝の手にふれるとき万物は枯れてしまう、恐るべき罪よ、汝は悪を成すにいかに狡猾なるや、汝はまことに蛇なり、蛇は万人に忌み嫌われる、汝はその醜き姿を現すな、暗き穴に入りて出てくるな、その醜悪なる姿を現すな、汝には暗き闇がふさわしい、闇の中に汝は閉ざされる、光はそこにささず闇が常におおっている。汝はいかに装うともその真実の姿は隠せないだろう。その醜悪なるものを隠すことはできない、汝は他者を欺き苦しむのを喜ぶ、ソドム、ゴモラの裔や、汝は罪故に神の業火に焼かれるだろう。愚者は愚者と交わり愚行を繰り返し下賤なる者は下賤なる者と交わりさらに下賤になる。かくして悪行はやむことがない、悪知恵は働きその狡猾さには驚く、汝は陽の光をもはや見ることはできない、陽の光に歓び咲く花を見ることはできない、暗い闇に閉ざされて出てこれない、その罰は恐ろしきものなりしを、エデンの園は汝の罪故にそこなわれた、その罪はあまりに大きい故に汝は最も醜悪なる蛇と化したのだ。

しかし一方で光は信と愛の光なり、樹々は立ち並び誠実の日々は変わらずそこにある。明るい光のなかにある。その陽光に欲して善なる人の心は晴れやかになる。小鳥は歌い清らかな流れはひびく、心の清いものは神を見るだろう。万物は心の象徴としてある。蛇はまさに最悪のものとしてその醜悪なる姿に化した。信と愛と望は永遠につづくだろう。信があり愛があり望がある。それがなければ失われればこの世は闇となる。信と愛があるところ光はますます明るくその日は終わることがない、例え地球が太陽が消えても信と愛は消えない、永続する。信と愛があるからこそ光もあるからだ。信と愛を喪失すればまた光もないからだ。決して人間は死をもってすべてが終わるわけではない、信と愛は永遠につづく、その他は一時的なものとして消失するだろう。この世の欲も終わるだろう。しかし信と愛は永遠につづく、来世でもそれはつづいている。


裏切りしものこそ不幸なり、人を泣かすものこそ不幸なり、信と愛を失いしものこそ不幸なり、汝は蛇のごとく陽の光に欲することができない、誠実の日はなく、悪徳にまみれ闇に生きる。いくばくの利得を得ようとその心は暗く決して明るいものとはならない、光のなかに咲き開く花の歓びを知ることはできない、人は軽く罪を犯す、罪にもいろいろあるが信と愛をそこなうもの故に許されない、大きな神の罰がある。罪のいかにその影響の甚大なるかを自覚しない、それぞれに不満があり公平ならざることは社会にある。しかしだからといって相手の信と愛をなみして利得を得ることは罪である。人はいつまでも貧者にあらじ、また富者にあらじ、貧者はいつか富者となり富者はまた貧者となる。貧者が富者をうらやむことはわかる、でもその富者から富を奪うことは犯罪だろう。富者は富を分かつ勤めがあることも確かである。貧者もいつまでも貧者ではない、必ず富者となるべき機会はある。そのために富者より一気に富を奪おうとするのは罪である。今は貧なれど一代二代になりて富者となる。悪徳をもって富者になるべきにあらじ。信と愛のなかに富者の富は分かたれることもあるだろう。ただ一方で呪われた富者もある、ただ富を貯えて分かつことなき富者は呪われるだろう。この世から貧者と富者はなくならないだろう。しかしいつまでも貧者は貧者ではない、必ず貧者は富者となり富者は貧者になる。おごれるもの久しからずはこの世の法則である。



 

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急いで富を得ることはできない






急いで得た富は減る、少しづつたくわえる者はそれを増すことができる

はじめに急いで得た資産はその終わりが幸いではない-箴言-20-21


欲の深い人は急いで富を得ようとする、かえって欠乏が自分のところに来ることをしらない
箴言-28-22

 


急いで富を得ようとすることは他者から奪う、富者から奪うことが一番手っ取り早いのだ。富と財は一代では築けないだろう。今の時代は性急だから犯罪が多発しているのだろう。自分が生きる時代に富まねばなにもならないとなればやはり犯罪を犯しても富を得ようとする。
そんな悠長なことを言っていられないとなる。それで老人が一番性急になっているのかもしれない、金をたくわえるにしても時間がないからだ。余裕がないからだ。わずかの年金を60才から90才まで何にも使わず巨額の金をためた人がいる。その人は一か月3万ももらっていなかった。長い年月をかければ金はたまる。利子が高かったという幸運もあったが金も時間をかければたまる実例である。財産はギャンブルじゃないから簡単に築けないのである。貧者の危険は富者に対してその不満が高じて奪うことになる。それは殺人にもなり犯罪なのである。いづれにしろ手っ取り早く富もうとしたら金を得ようとしたらそれは危険なことになる。犯罪につながるのである。現代はそういう傾向が非常に強くなっているのだ。でも富を得る方法はこつこつ働きためるしか一般的に方法がないのである。だから富者がいたとしてもその人は一代で富者にはなっていないだろう。先祖が残した富があって富者になっている。つまり一代ではすでに富者にはなりえない、それだけすでに富者になるには時間がかかっているのである。

石の上に三年というけどそれすら現代人は耐えることがまんすることができないだろう。それは結局富がどこにでもありうる、みんなが富者になった時代、小金持ちになった時代だからかもしれない、いろいろなものがあふれている、いつもそれは金さえ出せば手に入れられる。その時金がないとなれば盗もうする、他者から奪おうともする、一方で不景気で昔のように金がたまらない、それなのにモノはあふれているし金があれば何でも買えるとか不満が高じている。
努力して耐えてがまんするということができない時代なのである。すぐに金を手に入れて欲望を達成しようとする。そういう性急な時代でありインスタント食品に象徴されるように人間もインスタント的になっているのだ。石の上にも三年とかも死語になっているのだ。富は偏在してあふれているから簡単に手にとれると思う。努力してその富を得ようとしない、だからこつこつ働くことができない、馬鹿らしいとなる。だから三年すらがまんできないのである。
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2011年01月22日

未来への詩(2011)


未来への詩(2011)


Right appealed mountain


軽やかに未来の空は透き通っている

冬の真澄の空のようにどこまでも

力強く真直に樹々は立つ

塵も凍りて大気は澄みきひきしまる樹

風は寥々と梢に鳴りぬ

飛翔する鳥は喜々と彼方の未知なる世界へ

希望は高く天に達せむ

大地を踏みしめ牛のごとく歩め

力は大地よりわき上がり

大地の実りこそ真の実り

今の忍耐の一歩は未来に通ず一歩

人は今にはあらじ未来に向かって進む

大いなる未来こそ夢見て死すべし

今成らざるものが未来に成らむ

神の御意によりて成らむ

広々とした世界の大気を吸いこみ

その視界をさらに拡大せよ

新しき陽は赫燿と未来に向かって昇る

衰えざる光明の強さに新年は明けぬ

闇を払う光のますます強かれ

さらなる崇高なる峰を仰ぎ心高鳴る

厳しくも真を顕かに示現す大山岳

高らかに正義の詩を発揚すべし

この世に闇は深けれど神の力は全地に満ちむ

全地は神のものなり人のものにあらず

全権は神にあり人にあらじも

新しき天と地を望み成るべし

全能の神は成しえざることを成しぬ

海は割れエジプトの軛を脱して

新しき神の都、エレサレムを目指す

永久なる都よ、神に祝福されし都よ、闇なき都よ

朽ちざる命のそこにあるべし

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2015年12月02日

宗教の危険性は心を支配されこと (師すら従うことは心が奴隷化される)


宗教の危険性は心を支配されこと


(師すら従うことは心が奴隷化される)


あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。(詩篇51篇)

 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。(ローマの信徒への手紙)


現代の宗教ではこれを守ることが大事になっている、宗教の最大の危険は必ず奴隷の霊を受けることになっているからだ。
人間は経済的に困窮すれば借金などすると奴隷のように働かされる、昔だったら借金のカタとして遊女にされたとかなる
もうその時有意義に働くなど考えることもできない、身は奴隷にされる
もちろんそうでなくても今は金の力で俺たちは奴隷なんだよと働いている人が多数になった。それは望んでいない働き方だからである。


そして意外と軽く考えているのが霊的に奴隷になることである。霊的だとかあまり重大に普通は考えない、日々の生活では日々のパンを得ることの方が大事でありそうして毎日働いているのが現実である
だから人間は容易に霊的な奴隷になってゆく、例えばなぜこれほどカルト宗教団体に入る人が多いのかということである。
それは何か利得があり利益があるということで入る、でもそこは宗教が関係しているから精神まで奴隷化されるのである。
宗教になるとあらゆることに宗教をあてはめる、お前が貧乏なのは信心がたりないだとかお前が病気なのも信心がたりないのだとか、相手に対しても罰が当たるだとかなんだとか宗教を利用する、それがカルトである。
カルトが怖いのは精神が支配されるからである。
オウムが最もその宗教の怖さを現実化した、殺人することも宗教で肯定された、イスラム教でも殺人も神のために肯定されてテロになる
宗教の怖さは殺人でも肯定されて正しいことをしているとなるから怖い
そういうふうに心が支配されることが怖いのである。
そして心が支配されるからたえずおびえるようになるのだ。
罰あたるとか地獄に落ちるとかそういうことを頻繁に言うようになりおびえるようになるそれは心が支配されるからである。


そういうことを別にカルト団体だけではない、個人でもあったのである。
自分が病気で苦しんでいる時、借金している人が脅迫してきたりそうした不安状態につけこんで支配しようとしてきた。
つまり弱者化すると容易にそうされやすいのである。様々な困難に直面して苦しんでいるときカルト宗教団体の餌食になりやすいのである。
そういうことはまた団体だけではない、個々人にもあるのだ
四国の遍路で出会った人はホームレス化して遍路している人だった。
その人に金が余っていたので一万とかくれることにした。
そしたら簡単には受け取らない、何か人間はくれるとなると素直に受け取れない心理がある、貸してくれというときは返すから貸してくれと言っているのである。
でも実際は貸してくれと言ってまともに返す人はほとんどいないのである。
でも自分は返すから貸してくれと言っている。金をくれろとは言えないのである。
でも借りることは金をくれろとほとんど同じなのである。


そのホームレス遍路はそうなってからまもない人だった、そしてその金をもらうと言う
そしてお経のようなものを唱えたのである。
それはお返しのためであり、それは一つの御布施のようにしてもらったとなる
となるとただもらったのではない、御布施として与えられたとなるからである
それもその人は何かでホームレスになったのであり宗教など何の関係もないのである。
ただ切羽詰まって宗教を遍路している内覚えて唱えるようになった
これも実際危険なことである。その人はそうして信仰など関係ないのに何か与えられたらもらい信仰もないのに相手にお経を唱える
その相手はかえってそのために感謝までしてければならなくなってしまうだろう
そして何よりそうしたなら心がお経を唱えられることによって支配されることになのである。
何か昔から僧となり行脚する人にはそういう人たちが相当いたことは確かである。
修行僧とか禅宗にはそうして全国を歩き回る人たちがいた。


でも別にその家々で個々人でもそんな信仰もないとしたらお経を勝手にあげられることも迷惑だとなる
そういう人は宗教とは何ら関係なく日々の糧を得るためにそうして乞食ではない、自分は尊敬される僧であり布施をもらうのが当然だとなっていたのである。
そして何か布施しないものの家は悪いことが起こるとか呪うようなこともしていたのである。
とにかく何か宗教というのは何が真の宗教なのかわかりにくい、何かうさん臭いの宗教である宗教者になる
戒名などでもうける檀家宗教もそうである。それもそれなりに有効なのは宗教は来世でも何かわからないからおびえるからそうなる、その不安につけ込んで商売している
そういうことは先祖の霊が悪さしているとか先祖供養しろとか除霊だとかいうのも心を支配して商売にならかである
人間は弱いものだし様々な不安をかかえるから心まで支配される


そして宗教というとき必ず師についてまず学ぶ、これもまた現代では危険になる
師が絶対化して服従するだけになる、師弟不二とか言うことになりそれは師のためなら命までささげることになるから怖いのである。
池田大作とかオウムの浅原のような異形の妖怪のような人間を仏とか神とかまで祭り上げる、つまり偶像崇拝になることが宗教では一番危険なのである。
イスラムで絶えず偶像を否定しているのはそれなりに宗教の本筋をついているのである。師というとき師と同じになることではない、師はあくまでも今は一つの指標であり越えてゆくべきものである。
師に学ぶべきものがあってもそれは一つの一時的な過程にあるものであり絶対化はできない、師はむしろ弟子によって否定されて弟子が新たなものを作りだすことである
それは教会とかの牧師でもそうでありそういうふうに何であれ師にすることは危険なのである。
奴隷の霊を受けることになるからだ。だから教会にもゆくべきではないとなる
だから自分は一回も教会に行ったこともないし説教を聞いたこともないし聖書すらまともに読んでいないのである
何かの団体の会員になること自体が奴隷化しているのだ。会員だということはもうそこには個はない、同じユニホームを来た団体化したロボット化した会員である
そういうものにはもう誇りもなにもないだろう。ただ右向けといえば右むくだけであり
それがボアしろとか言われて殺人までになるから怖いのである。


一方で現代はもう師など求めない時代でもある。水平化の時代でありみんな同等だ同じだという社会でありそれが民主主義だとなる、それはキケルゴールが言ったことである。
しかし大衆とか優れていない普通の人が師なくして自立することは相当にむずかしい
どうしても何かに人でも頼らざるを得ないから結局カルト宗教団体がなくならないのである。
宗教の怖さは何であれ間違っているにしろそれが人間の心を支配するからである。
ホームレス遍路でも食いつなぐためにお経を唱えて糊口をしのぐことをしている
そんなものでも唱えられることによって心が支配される
だから宗教は金をとることによって成り立つこと自体が邪道だともなる
それで平民宗教を内村鑑三などが唱えた、牧師とかではない僧侶ではない、普通に社会で働いて信仰することが推奨されたのである。


ともかく人間は切羽詰まってくると危険なものとなる、たいがい推理小説のドラマで借金に追い詰められて犯罪になっている。
借金に追われた人間は何でもするようになる、モラルも何も喪失してしまうから怖いのである。
追い詰められて信仰心もなにもないのに他人にお経を唱えること時代相当な宗教的罪だろう。この罪も相当に大きいかもしれないがあまり問題にされない
宗教が悪とか犯罪にかかわると何かややこしくなる、それは戦争でも宗教戦争になるとややこしくなると同じである。
日本の戦争にしても天皇を神とする宗教的なものがあった、御国のために死ぬものは英霊になる、神になるといういのも信仰である。
成仏するとか創価がこだわるのもそうである。アラーアクバルとなかて自爆するものそうである。
宗教の誤謬が謝った信仰が看過できないのは非常に危険な要素をはらんでいるからであるつまり誤ったものでもそれが大きな力ももつことができるから怖いのである。

だからフランスの革命は宗教色を払拭しようとした、「博愛、自由、平等」には宗教色がないのである。
それは二千年のヨーロッバの歴史がカトリックの政治化で宗教支配にこりたしその悪弊があまりにも大きかったからである。
本当は間違った宗教は禁止されなければならないのかもしれない、そうなると信教の自由の弾圧だとなるがそれもまた逆にカルト宗教団体は相手の信教の自由など認めない
思想的宗教的にもかえって弾圧する方になっている、第一何百万の会員の圧力がすでにそうなっているのである。
それが政治的圧力ならいい、宗教的圧力となっているから心まで支配しようとしているから近代の社会に適合しないのである。
宗教と政治と経済でも分離すべきものなのだろう。
政治的権力を得て経済的権力を得てカルト教団に入れとか就職斡旋するから入れとかそうした強要は信教の自由に反している
信教の自由が保証されているというときなぜかるとカルト教団が信教の自由の故に公認されているかを知るべきである。
本当はそうした政治的権力や経済的権力を行使できるものは信教の自由に反するのである。
民主主義だからといって何でも自由ということではないのである。
それがなぜ言うかとなると必ず後の災いとなるから守らねばならないのである。



タグ:宗教の危険
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2015年12月20日

この世の最大の無常は死 (死を克服するには信仰しかないーそれもキリスト教しかない)


この世の最大の無常は死

(死を克服するには信仰しかないーそれもキリスト教しかない)


今回の母の死もショックだった。すでに家族で三人の死を経験した。一番のショックは自分が中学生のとき死んだ父の時だった。それが野辺送りであり薪を積んで焼いたからすさまじかった。それ以来自分は死の恐怖にとりつかれた
それが求道のはじまりだった。もちろんどう求道していいかもわからなかった
死の解決方法がわからなかった。それで失敗したのはカルト宗教団体に入ったことであるそういう所は政治団体でありそうした死の問題は関係ないのである。
つまりこの世のパンの問題が最大の問題でありそのために政治的便宜を提供するものとしてあれだけ数を獲得したのである。
どうししても集団化すればたいがい共通しているのは利害で団体化する、それは宗教とは関係ないのである。
天草四郎とかキリシタンの反乱なども政治的なものであり権力争いであり浪人がそこに集結して徳川幕府の転覆を計った。だからこそ徳川幕府は敵対したのでありり信長も比叡山を敵対したのはそれは権力に敵対するものとして団体化していたからである。
別に予言者のように日蓮のように一人戦うものならそんなことはない、その一人が迫害にあうだけど団体化組織化した宗教団体は政治団体化して時の政権奪取を目指すのだから争うことになる


そして本当は人間の最大の問題は何かという問うとき、それこそ人間には無数の問題をかかえている、第一問題がないということがまた問題になっているのだ。
問題がないということはそれだけ恵まれているということはのちのちまた災いになるのである。何か苦難の時が来たらばあまりにも恵まれた人間は対処できないのである。
それで資産家の姉妹が餓死したというのもそのためなのである。
つまり恵まれすぎたことが後の災いを生んだのである。
いづれにしろ人間が死ぬということが最大の問題として宗教がある
一番のショックは人間が死んで骨になり灰となり形も何もなくなってしまうことなのである
だから骨を拾うとかは本当に酷だと思う、いちいち骨がどうだったとかこの骨はどうだとか説明されるのが何か嫌なのである。これは太い骨ですねとか太った人だと言われるだろう。そんなことを想像するだけでも嫌だろう。
何か人間の解剖に立ち会っているようで嫌なのである。実際の解剖なら医学に役たつのだからいい、骨を拾うというのはそんなこともないのである。
だから骨壺に入れて渡された方がいいともなる、ただ無常観を感じさせるには骨を拾うことは一番効果あることは言える。
人間は結局は骨となり灰となるものであるとういうことをまざまざと見るからである。
それが人間として生きてきた最大のショックなのである。
要するに人間の壊滅状態を見るのである。何もなくなってしまう無をまざまざとみる
それでショックになり何か食欲までなくなり気力も喪失して立ち直れなくもなる


この死のショックはいかに慰められようと慰めることは人間にはできない、そして死に関しても平等である。どんな金持ちでも権力者でも有能な人でも必ず死に骨となり灰となるこの世にいかに権勢を誇っても行き着く先は骨であり灰になるという現実が死である。
それは美人でも女性でも最後は同じである。その前に皺くちゃになり醜悪な顔にもなる
それが女性の現実でもある。
そうした老人とか死の時点から人生を考えるときこの世の様々なことが虚しくなるだろうこの世のことに人はみんな必死で追われている姿が虚しいとなる
文学者でも感受性の強い人は芥川でも川端康成でも太宰でも他にも自殺している
それは死を克服できないからである。どんなに栄誉栄華を誇っても死があるだけであり
骨となり灰となるだけだとなる、死とは人間の壊滅状態なのである。


死はまた宗教でも仏教でもイスラム教でも克服できない、お釈迦様も死んだからである。死ななかったのはキリストだけだとなる、その前に聖書には人が骨から蘇るとかそうした奇跡が記されていることは人間の死に関して特別な見方をもっていた。
すでにエホバというときそれは見えないが神と認識されていて人を蘇らせる神としてみていた。だからそういう宗教は他にないのである。
でも実際は蘇ったのキリストだけでありその後にいかなる偉大な聖人も蘇っていない、みんなやはり死んでいるのである。では死を克服されてはいないではないかとなる
やっばりみんな死ぬには変わりないとなると言われるのもわかる。
でも聖霊は死なない霊でありこれは肉体を越えたものとして授けられる
聖霊は永遠の命であり死なない霊なのである。でも実際は聖人でも人間は死んで骨になり灰になっている。
でも来世では生命の書に記されたものは蘇るということは確かである。それは契約であり今世では確かに骨となり灰となる無惨がある。だからこの世での肉体をもった姿は仮の姿だともなる
永遠の命があることこれを信じる意外救いがない、
そうでない限りどんな栄光かあるのか?結局は骨となり灰となるだけだとなってしまう。
キリストに栄光があるというとき死なないからであり死んだら栄光はない
死ぬものに栄光はない、神がいたとしても死があるなら神の力もないとなる
医者でも結局死に対しては無力である。どんなに科学技術が発達しても死を克服できないそれは神にしかできないのである。科学技術の栄光も限界があり死は克服できない
どんなに文明が栄えても死は克服できない、それが人間の限界なのである。


いづれにしろこの世のいかなる力をもってしても死は克服できない、この世のことならできる、貧乏でも克服できるときはくるだろう。無数の問題があるがそれも克服できるだろう。しかし死だげは人間の力では解決できない、ただこの世では死がどうのこうのというより日々のパンのことの方が大事でありそのためにあらゆる労力は費やされているのである。カルト宗教団体でもそうであり団体となればみんなそうである。
死の問題は普遍的であっても個別的なのである。
それは団体に頼っても友人に頼っても親族に頼っても科学技術に頼っても解決できない
だから教会に行っても解決できない、団体に入ることではない、個々人の問題として死があるからだ。その個が神と結びついて解決される問題であり団体化しても解決しない
だから団体とは肉でありパンのことである。
bodyは団体[人],統一体,組織体,法人でもある
ところが聖霊は個々人に授けられるのであり団体には授けられない、bodyには授けられない、教会もbodyでありその団体には授けられないのである。
別に教会に行かなくても授けられるのである。教会は否定できないとしても信仰は別である。


むしろ個々人の求道のなかで人生の中で紆余曲折して神の信仰にいたる、そして教会で説教を聞いてもそれはヒントみたいなものを得るだけである。
そして前にも書いたが誰であれ牧師であれ誰であれ教えられるもの説教するものによって奴隷の霊を与えられることが危険なのである。
四国の遍路であった人は金をやると言ったら経文を唱えた、あれも何なのかわからないで接していたが危険だった。あの人はただホームレス化した遍路でありそれが遍路だからお経を唱えた、それは食う手段として宗教をまねる人物となった。
そうなれば乞食ではない、尊敬される師ともなるからである。
そういうものにお経をとなえてもらったら心も支配されるのである。
何か今は僧侶とかは誰も尊敬していない、そして自分でお経を習って唱えるような時代になっている。
それも時代でも危険だなと思った。でもまたそれがキケルゴールの言う民主主義であり水平化の時代なのである。すべての面で精神的なもの宗教でも個々に追及して平等化してくる、もう師など従う人などいない、従うとしたらカルト宗教団体に入りそこで利害を一致させて政治運動することになる
要するに宗教も自己責任の時代となる、何を信じてもいい、唱えてもいい、しかし他人にそれをおしつけるなとなる、その教える人が師となれば弟子となる人がいて支配されるからである。師はまた偶像崇拝化されるのである。
だから民主主義とは何でも自己責任になる。あなたが何を信じようがいい、それは自己責任でありあなたの自己責任で解決して他者にそれをおしつけてはならないとなる
団体化したものはすでに宗教をその数で団体化して権力でおしつけているから危険なのである。



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2016年01月15日

人間の奢りにはなんらかの罰が課せられる (個々人でも原発事故も認知症もそういう面があった)


人間の奢りにはなんらかの罰が課せられる

(個々人でも原発事故も認知症もそういう面があった)

「高い者は低くされ、低い者は高くされる」エゼキル

「貧しきは高められ、富む者は低められる」(ヤコブ1章9−11節)

そもそも人間が堕落したのはエデンの園から追放されたのはなぜなのか?
知恵の実なるリンゴを食べたからだとある。
それで善悪を知るものとなったと聖書にある。
神が全能で知恵を司るものだったが人間が神をしのいで自分で知恵あるものとなったことが奢りでありそれでエデンの園から追放されたのである。

人間が神をしのいで知恵あるものとなったというときそれが文明を作り出したのである。それは最初から神しか全能でないのに人間が全能を目指しているのが文明なのである。
その一つが科学技術なのである。科学技術は万能であるということが信仰にまでなっている、科学技術がすべてを解決するというふうに現実に信仰までなっているからである。
癌が直らないとしても新薬が発明されて直るようになるというとみんな信じるだろう。
そんなことを宗教では今はできないから科学技術が万能として宗教になっているのが現代である。

つまりそれこそが人間の奢りでありその奢りが神によって打ち砕かれる
原発事故もそうだった。原子力はまさに人間の知恵が科学技術が作り出したものであり
原子力文明となるものだったのである。それが事故になり打ち砕かれてそこに住めなくなったというのもそうである。それは明らかに人間に対する罰だったのである。
人間の奢りに対する罰だったのである。
ギリシャ神話のプロメテウスが火をゼウスから盗んだというのもそうであり何かしら人間は人間が生れ時から罰がある、その罰からは逃れられない、仏教で言えばカルマになる。人間は生きている限りカルマを積んでいる、カルマを積まないで生きられるものはいないのである。日々食べることでも肉食すれば動物を犠牲にしているのだからカルマを積んでいる。
何かしらカルマを積まない人間などいないのである。


そして大きく人類史的にもそうなのだが身近な個々人でも奢りは罰せられる
姉はいつも自分は優秀だと最後まで死ぬ間際まで言っていた。
そのことにこだわったのはやはり自分が認知症になり馬鹿になったということがあり自分が優秀だったということにこだわったからそういいつづけたのかもしれない
でも優秀だったということが全く認知症になってもろくも崩れ去った驚きである。
銀行からは金をおろせない、財布を隠してわからなくなり泣いている。
今ふりかえると本当に悲惨でありこんなことをなぜ神がするのかと自分はいきどおりを感じた
それは津波の犠牲にも感じた、神も仏もあるものかと呪う人もいたがそれもわかる。
なぜこんな酷いことを神はするのだろうかということが解せなかったのである。
それはやはり人間の奢りに対する厳しい罰だったのである。

ただ認知症とは何なのか未だわからない、それは病気であり罰とは関係ないということもある
ただ姉の場合は一面そうした奢りがあったことは確かなのである。
だからといって姉は自分に一番良くしたのだから必死になって介護したのである。
それはプログでその経過を書いてきた。自分は姉を愛していたからそうしたのである。
人間は必ずいい面と悪い面があるから姉を奢りがあったとしても責められないのである。

第一優秀なことが悪いことがないのである。誰でも優秀な人に頼るだろう、医者でも大工さんでも看護師でも何でも優秀な人に仕事をまかせる、だから優秀なことが悪いはずはない、みんな必死になって優秀な人になるために勉強もしているし努力をもしているのである。
だから優秀な人がいなかったらこの社会は成り立たないのである。
ただ優秀な人は普通の人でも大工さんでも看護師でも他でもいる。それは特別な人ではないのである。
そういう優秀な人は奢りに陥りやすいのである。
事業に失敗した人も一級の免許をもっていて常にみんなに優秀だと言われてきた。
そして事業に失敗しても自分は成功していると装っていたのである。
その人も相当に奢りがあったのである。
でも実際にそういう優秀な人には何か奢りが生れる、そして優秀でない人を見下すのである。
自分はそういう人たちをみて常にうらやましく思っていたのである。
自分には優秀なものがないと思っていたからである。

優秀な人は何か冷たい人多い、自分は優秀なんだというとき他者を見下してしまうからだでもその優秀なことが悪いわけではないのだ。
どうしてもそこに奢りが生れるから危険になる。だから何か優秀でないというか平凡でも愛のある正直な人間はいる。
そういう人は優秀な人ではない、姉の場合は優秀なのだけど見下していたことそのことが罰せられたのかもしれない、ただ認知症にな人は多いのだからみんながそうとはいえない自分にとってはどうあれ姉は家に尽くした人だから懸命に認知症でも介護したのである。

人間でいましむべきは奢りと偶像崇拝である。だから若いとき裕福で何も苦労をしらないとか地位があるとかなると危険である。
自分も一時はそうだった。それが打ち砕かれたから謙遜になった。
ただその後30才以降は楽していたのである。
若いとき頭がいいとかなんとかほめられるばかりだった人はどうしても奢りになる。
若いときから社会でほめられる人間は危険である。
有名になることも金持ちになることも地位があったりしたら余計危険である。
その気になっていると神が罰を与えることになる


ネブカドネザル大王が王がエホバの言によって「人から離れて牛のように草を食い、 髪の毛が鷲のように、爪は馬のようになって」はじめて神を認めたという。 

これとなにか認知症とがにている、本当にこれは神の刑罰だった。認知症は多くの人がなるからこれとも違っているだろう。でも王として傲慢になった結果の刑罰だったのである聖書では人間の力で成したというとき何でも危険なことになる、すべては神が成したのであり人間ではない、人間が成した誇るとき厳しい罰が課せられているのだ。
奇跡でもそれは人間が成すことではなく神が成したことなのである。
文明の危険性は原発でもそうだが人間が人間の力で成したことを栄光としているからである。だから今回の原発事故のように明らかにこれは神からの罰だったのである。

いづれにしろ強い者が強いとは限らない、アメリカだって今は強いとしてもいつまでもそうではない、強いものも神の前にもろくもくずれさるときがくる
高いものは必ず卑くくされる、だから高い地位にあるもの、強いものは、権力をもち奢るものは危険なのである。
そして逆に卑(ひく)いものが高くされる、それで天国には平凡でも愛のある正直な人たちがいるというのはそのことなのだろう。

聖書の言葉でもこれは誰でも言うことは簡単なのである。では実行するとなると本当にむずかしい、高い地位をもとめ金持ちになることを求めて日々懸命に働いているのが現実である。
だから「悲しむ者は幸いなり」と大金持ちが貧乏や低い地位のものに語るほど矛盾したことはない、あなたたちが貧しいのは幸いなのだ、あなたたちが悲しむのは幸いなのだと言っていたらこれほど矛盾したことはない
あなたたちは貧乏でいい、苦しんでいなさい、それが神に従うことだ、そんなことを金持ちが地位ある人が言っていたらこれほどのブラックユーモアはないのである。
現実にそういうことをアメリカでは黒人奴隷にたいしてしてきたのである。
またそういうことがこの社会では普通にあるから矛盾なのである。
ともかくこの世の中で何か人に教えようとするときその人自身が矛盾してこない人はいない、悔い改めなさいとか牧師が言ったとしてその牧師が罪がないとはいえないからであるそういう人が罪を問うこと自体矛盾である。だから牧師ではなく神に直接対して懺悔せよとしたのがプロテスタントだったのである。
そしてまた自分が悪いことをしていないと威張って言う人も多い、おそらく悪いことをしてきたからそれを認めたくないからそう言っている。
継母だった女性が最後に目が見えなくなりそのことを反省した。
目が見えなくなることも罰だったのである。
人間には必ずカルマがあり罰がある、それは悪いことではない、その罰がなければ神があることも知ることがない、ネブカドネザル大王は罰を受けて神を認めたとあるからである。



タグ:神の罰
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2019年08月23日

「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった (石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった

(石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


家を建てる者たちが捨てた石。それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ』

家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった
(マタイ21:44)

イザヤ書28章・・・・・・尊い隅の石
「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ。7」28:16
 
 石の涙 

石が涙を流す
じっと耐えていた
石から涙が流れる
私の中にその石をかかえている
それは死んだ私の母だった
苦労して生きた母だった
目立たぬ母だった
私の中にその母が生きている
百歳まで生きた母だった
人は死んで何を残すのか?
その人生を残す
骨や灰にその人はない
その生きた人生にその人がある
その生はまた誰かの生となる
その人生があなたの力となる
死者は生者の中に生き続ける
死者はあなたを見ている
かくて人はその生をおろそかにできない
人生はあなただけのものではない
必ず周りに後の人に影響する
カルマともなる
あなたは今苦しい
あなたは今悲しい
でも耐えねばならない
ああ 石は涙を流す
しかしその涙は真珠ともなる
「悲しむ者は幸いである」
汝は生きねばならぬ
耐えねばならぬ
苦しみ悲しみ生きた者がいる
その死者があなたを見ている
あなたの生は人生はあなただけのものではない
後の世の人にも影響する
隅の石が後の世の柱となる人生
そして死者はあなたをじっと見ている
安易な生をおくるなかれ
その生はむなしく消える
あなたは恨んではいけない
苦しみと悲しみに生きる生
石の涙を流す人生
その涙が真珠となる人生
そしてあなたは死んでも同じように生き続ける


これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ

試みを経た石とは人生を悲しみ苦しみ生きた人のことだろう、この世とは楽しむ場所ではなく苦しむ悲しむ場所なのである
だから「悲しむ者は幸いである」という意味を理解できないのである
どうして悲しむ者が幸いなのか?誰もこういうことを望んでいないのである
それは別にキリスト教徒でなくても人生は不可解である、ただ人間は必ずこの世ではいろいろなことで苦しみ悲しむ者としてある
そういうことがさけられないのである
私は楽しみ笑い暮らして人生を終えた、何の苦しみもない悲しみもないという人生があったならどうだろうか?
そういう人生を望むし誰も苦しみ悲しむ人生を送りたくないのである
貧乏な人生だって送りたくないのである

でもこの謎は尊い隅の石だということにある、中心の石ではない、目立つ石ではない、忘れられた石でもある
それがなぜ柱の石となるのか?
つまりこの世では中心となるのは偉い人達であり地位ある人達だと思っている
この世を動かしているのは決して隅の石ではないのである
ところがこの世は実際は大勢の庶民から平民から成り立っている
一部の人ではない、そういう庶民がいてこの社会がありうるのである
だからこそその隅の石が尊い石だとなる、でも現実に常に上級国民がいて下級国民がいて下級国民はただ虐げられるだけだとして不満が大きくなっている。 

高きものが卑(ひく)くされ、卑(ひく)き者が高くされる

これも原発事故であった、「安全神話」を作ったのはみんな高き人たちだったのである
政治家から官僚から科学者から学者からマスコミとか現代社会で権力をもつ人たちだったのである、高級国民だったのである、それが事故でその権威を喪失して卑いものとされたのである、だからこの言葉が現実化したのである

しかしこの世を社会を支えているのは隅の石であり目立たないものでありそれなくして社会はありえないのである
医者がいたとして医者は優遇されているとなるがその下に看護師がいて医者でもありうる
医者だけでは何もできないのである、すると隅の石とは看護師になる
隅の石となって働く人々がいて病院でも成り立つ、病院で掃除する人でもそうである、医者が高級な仕事としてあり掃除などは下級の仕事だとなる、でもやはり病院を支えていることには変わりないのである

明らかなことは経営者とかなるとそうしてただ上に立ち威張るだけではできない、その人は事業を起こしても経営者になっても他者のために物一つを持ちたくない人だったのである
ただ上に立ち威張っていたいだけだった、他者のためにするというより他者より上に立つ優秀なものとして見せたいために事業を起こしたとなる、技術者でもそのこと自体に動機に問題があった
原発事故でもおかしなのは原発が爆発したとき技術者が心配していたのは原子炉でありそこに生活していた人たちではなかった
その時率先してすべきことはそこに住んでいる人たちの安全をすみやかに計ることだったのである
でもそこに住んでいる人たちのことは眼中になかったのである

この世を支える者は隅の石だ

悲しむ者は幸いである

この言葉は理解しにくい、なぜならみんなそんなこと望んでいないからである、ただそういう例が死んだ私の母には言える
それでも母が理想的な人だったかとなるとそうではなかった
苦しみ悲しむ人だったが庭が無駄だと花が無駄だとか一切金にならないものは否定していたのである、そういう生い立ちがありそうなったともなる
働かされつづけていたからである、何か余裕があることをできなかったからである
趣味なども一切ない人だったからである
それも異常化していた、そういう親のもとで育ったらどうなるのか?
この世の美とは関係ない索漠なものとなっていた、だからどうしても苦しみ悲しむだけの人生が肯定できないのである
確実に楽しみ笑う人生も不可欠なのである、もし毎日苦しみと悲しみの人生だったらもう地獄になる
快楽しろというのではない、なんらか健全な楽しみがなかったら人生は息詰まるようなものになる
飲めや歌いやではない、苦しみ悲しむばかりの人生は肯定できないのである 

ただもし苦しみ悲しむこともなければ人間は浅薄になる、だから必ず苦しみと悲しみは人間には必要なのである
だから悲しむことが私にはなかったという人がいたらその人は人生をについて人間について何も知らず終わるとなってしまうのであるそしたらどんな宗教でも理解することは不可能だとなる
飲めや歌いやで何の苦しみ悲しみもない人生だったらそれはかえってむなしく消える
家族でも何か苦しみがあり協力するとき家族になる、それは血縁だからともならない
家族の結びつきは夫婦でもそうして苦しい時があり結ばれ真の家族となる
もしそれがないと家族でも強く結ばれない、夫婦でもそうである、それは家族だけではない、何か苦難があった時、そこで協力したとき強い結びつきが生まれる、だから津波や原発事故でもそうである
苦難がありそこで協力して立ち向かう、そこに強い結びつきが生まれる
でも現実はばらばらになって結びつきが破壊されたともなる
こんなところには住みたくない、補償金をもらって楽した方がいいとなったのが大半でありゴートタウン化したのである
結局自分でもそうだが口では言うのは楽でも現実になるとそれだけ厳しいということなのである

夜のふけて虫の音聴きぬ隅の石


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2024年06月08日

我が神我が父であり組織集団化多数の中に神は現れない 【密室で一人祈りなさい】


我が神我が父であり組織集団化多数の中に神は現れない

【密室で一人祈りなさい】


我が子よ、私は我が子を守り導く
我が子よ、私はあなたを離さない
父なる神の声がじかに力強くひびく
父なる神はまことにおわします
災いの世から救出する万能の神が働く
汝は神の国へ導かれ神と共に生きる
そこに死のない永遠の都に生きる
その栄光は朽ちることなく輝く
主よ、我は神の御手のなかにあります
我は成しえず神の成すを知るべし


「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。詩編

イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。)」この見捨てると言う言葉が、詩篇ではヘブル語の「アーザブ」と言う言葉。イエス様が使われたのは(アラム語の)「サバクタニ」この「シェバク」という言葉は「離れていなくなる」と言う意味ではなく、手を出さない、助けないという意味だそうだ。


●集団に現れない神

信仰というときそれが神と我との関係である。宗教団体化したとき教会化したとき神と我々の関係になってしまった。つまりみんな我々の神として神を礼拝しているのである
イスラム教でも我々の全員の神でありわが神として神を見ている。何かそれも理解できない面がある。それは確かに偶像崇拝の拒否ということでありそれは信仰として正しいことである。
でも何かイスラム教からは個人としての信仰者は存在しないのかもしれない。なぜなら常に集団で礼拝しているからである

でも旧約聖書って神が現れたというときある特定の個人に現れたのであり我々という2人以上の人に現れていない。だからそもそも神が現れたの特定の個人であり我々というか2人上には現れていないのである。
ただ神というとき日本人だったら天皇現人神とした時それは日本人全員が神とする人となっていた。日本民族の神でありほかの民族の神として礼拝することはできなかった。そもそも我々の神となるとき集団の神となるときそこには集団以外の人排除する傾向がある。

その集団に組織に入らなければその人は認められることもないのである。それはキリスト教の教会にしてもそこに集団化して組織化して小規模であるにしろその中には入らない限り神と接しられないとまでなる。その教会内で我々の神として集団で礼拝するのである
でもその集団の中に入らない人は神を礼拝することもできないのである。その神を礼拝する牧師がいてまたカトリック教だったら司教が取次をしていたのである。プロテスタントになると直接神と個人が我が結びつくことになり仲介役の教会とか司教とか牧師は必要ないとされたのである

確かなことは原始キリスト教時代という時何か集団神が現れたらしい。でもそれは一時期でありその後は集団に集団化して形式化してただ社会化して神と個人が旧約聖書のように神と預言者が結びついて神がその預言者を通じて奇跡を起こしたり民を導くということはなくなった。
ただ集団で神を礼拝してその集団に属さなければその中には入れないし神を礼拝することもできない。つまり宗教とは組織か集団化したとき我々の神でありわが神というのは存在しなくなった。そして我々の神というとき社会でもそこに集団化組織化したときその神を認めるということになる。あれだけの人数が神として礼拝しているのだがいるのだから神であるとなったのである
でも一人の個人が神が現れたとしてといてその個人は社会では認めないのである。ただ一人に現れる神とかを社会では認めないのである。では神というときそれは神は我が父であり神にとってその子であり我が子なのである。それは個人と集団の関係ではなく個人と個人の関係だとなってしまう。

●キリストが十字架で最後に読んだのも我が神我が父である

十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか

だからキリストでも我が神が神見捨てのかと訴えられた
その時キリストは父なる神に訴えたのでありそれを我が神のことである。我々の神ではなかったのである。キリストとは神の一人子でありそれは一人なのである。

でも宗教は我々の神組織化されて集団化された神になる時それは社会でも認めるし社会でもその組織集団を恐れるのである。別にその組織集団が礼拝している神を恐れるわけではない。何百万人のもの人が礼拝している時その数に恐れ従うのである。要するにその神は何でもいいあくまでも神ともなる。問題を数が多いということでそ神になりそれはサターンだともなる。それはナチスせありハイルヒットラーにもなる

だから宗教が組織か集団化して行ったとき権力化して社会へ圧力をかける。またその人たちの礼拝する神を強制することができる。もし一人だったら誰も恐れもしないし相手にもしないということである。
ただ神とはあくまでもわが父でありわが神であるそして神から見たときわが子でありそのわが子を神は見捨てはしない
でもなぜキリストが最後に問うたのはそれはまさにわが父にわが神に最後に死ぬときに訴えたのである。でも我が神わが父は決してその子を見捨てることはない
その愛するわが子を見捨てることはない。ただ組織化集団化した人たちを救うかとなれば救わない。それはわが子ではないからである。わが子というとき特定の個人でありわが神でりわが父の一人子となっているからである。

我と汝の関係をフーバーなどが説いたがまさに神と我の関係であった。神と我々の關係の中に神は存在しないのである。とても人間社会を見ればみんな我々と神の関係である我々が神によって救われるとか助けてくれるとか見ているのである。だから社会ではそこに数が多いほどそれが神を恐れる
だから神自体を恐れる人は殆どいない。その組織化集団した人たちを恐れるのである。その人たちにとって神などは存在しなくてもいい。問題は数を集めてこの世の勢力となりそこに集団の組織の神として強制してこの世の王となることが目的なのである。

ただノアの方舟のように誰も神のことなど信じないし笑って言っただけである。でも確かにノアは神の声を聞いて方舟をひたすら作っていたのである。そしてノアは神によって救出されたがその他の人は洪水に呑まれて死んだのである。
つまりそこにいた大勢の人は死に神に選ばれた個人が家族が救出されたということである。だから組織か集団化した人たちが神からの救いがあるのかというとないのであるつまり宗教でも組織か集団化して数が増えれば増えるほど神であれ仏であれ力を増してくる。

●人間が恐れるのはこの世の勢力である、神は恐れない

そして神とか仏とかを別に恐れるわけでもない社会が恐れるのはその組織化集団化した人たちは威圧してくるから恐れるのである。ただそこには真の神は決して現れることはないのである。我々の神というのは存在しない
わが神でありわが父なのであるそれは一人の人と結びついたものであり我々というものをそこに存在しないのである。だからいくら組織集団化して人を集めてもそれでその人たちが救われるということはないのである
神が投票によって決められるようなものではない。神自身が選ぶ人が神の子なり救われるのである。投票によって決められるようなものではありえないのである。ただ組織化集団化するときその人たちは神を求めていない仏でも求めていない。
そうして数を集めて権力化して社会を威圧してこの世の権力を力をこの世に力を持ち支配するためなのである。だからそもそも宗教というのが組織化集団化して人を集めるということ自体が間違っていたのである

それはもはや宗教ではない巨大な権力集団であり利権集団でありそこに宗教とは何の関係もない政治団体となってしまったのである。だからイスラム教にしても政治団体だからレバノンでも四つぐらいの宗派があって宗派争いがありそれは政治的争いであり権力闘争にもなっている。そんなことが宗教ではあれ得なかったのである。
つまり宗教は政治化すれば同じ宗教でも派閥がありその派閥同士で争っている。特に日蓮宗をそういう傾向が強い政治的団体化して互いに宗派で争うということである。

そもそも組織か集団化したということは政治化したことでありそこに神というものはなく数を集めて社会を威圧して社会を支配してゆく。
特に民主主義社会ではすべてが数で決まるというなった時いかに数を集めるかということに奔走する。それはただこの世の力を得るためである。民主主義社会になれば数が第一である数を集めれば権力化するからであるその数を集めるというとその人はどんな人かどんな人か性格的にどうとか心がどうとかどうとかそんなことは一切問うことはない。

その人を会員にしたときその人はその組織集団に属して権力集団権力を形成して行くのである
だから不思議なのはそうしてこの世の力によって神であれ仏であれそれが力を持っているということを示される
そんなことありえないことだがそうなってしまったのである。もともと釈迦にしても無一物である洞窟で修行していた
キリストでも家もなく寝る処もない何の権力もなかったのである。つまり宗教とはもともと無権力であり何か社会を組織集団化して威圧するようなものでわなかった。

それが逆に組織か集団化したとき社会を威圧するものとなりその組織集団が礼拝する神であれ仏であれそれを強制されるようにもなった。イスラム教の剣とコーランにもなる。
だからそもそも宗教組織集団化すること自体が間違っていた。それでニ三人で集まり祈りなさいというときせいぜいニ三人くらいは神を祈る人数として認められていたともなる
それが何百人何千人何万人何百万人となること自体が異常なことだったのである。そんなところに神は現れないからである我が神は決してわが父はそんな大集団に現れることはない。だから組織化集団化する宗教は宗教ではない
この世の権力化したものでありその権力でもって人々を支配するものでありそのために神でも仏でもただその現世の権力御利益のためにただ利用されているだけだとなってしまう。

●この世の力を求めて宗教団体は権力化した

要するになぜ宗教団体がどうして社会を席巻したのか。それは宗教を求めるだからではなくこの世のものを欲望を叶えられる御利益を得られるこの世の権力を得られるこの世の栄誉栄華を得られるものとして求めたのである。そこに本来の宗教などなく求める人は一人もいなかったのである
要するにサタンを拝してこの世の力を得るために拝んでいたというだけである。だからよくカトリックでも実際はサタンに乗っ取られたというときそのことになる。

ただ小集団であればまだ許されるそれが何千人何百何万人何百万人となるとそれはもはや宗教とは何の関係もない
社会を支配する権力集団となってしまう。だから内村鑑三であり無教会であり手島郁郎幕屋でもあれせいぜい集まった人が500人とかそんなものだったのでそこではとても権力化することは無理である。
それでも多いことで自慢していたのである。そういう団体は別に社会を数で威圧したりしない。だからそういう集団まで否定することはなかなかできない。

ただ神とは我が神でありわが父であり神からみれば我が子でありそこに我々という言葉は入ってこないのである
我々となった時それは組織集団化してこの世の力を頼るものであり神を恐れたり神を頼ったりすることではないのである
だからその組織集団に神の力は働かない。ただ権力この世の権力集団として社会を威圧してこの世を支配するためのものでありそれはサタンのか支配するということにもなる。

サバクタニ」この「シェバク」という言葉は「離れていなくなる」と言う意味ではなく、手を出さない、助けないという意味だそうだ。

キリストが訴えたのはまさにわが父に我が神に手を出さない助けないのかということを訴えたのである。このことこそ最も恐ろしいことではないか?
でも組織集団化した宗教はその組織集団の中にあってこそ存在感がありすべてをその人間の組織集団頼っているのである
そこに神である仏に祈ったとしても頼っている人はいない。つまりこの世とは人間が一番恐れているのは仲間はずれになるとか集団から排除されるとかこの世に頼るべきものはなくなる。そこに神とか仏は存在しない。実はそうした人に頼っているのである。その人の数が多ければ多いほど頼りになると思っているのである。

でもわが父に頼る人は一人もいないとなってしまうだから神は我々の神ではなく決してその多数の人を助けることはない救出することはない
それがノアの方舟とかで旧約聖書記されたことなのである。だからもしノアを馬鹿にしないでもしノアに従えばノアに従って箱船に乗っている乗った人は助かったとたるのである。宗教から見れば数が多いということは何の力にもならない
ただそこにそこに救いはない。神の力は働くことはないむしろその組織集団は確実に滅び消えていくのである
神は個々人が密室で祈る時現れるが集団で祈る時は現れない。なぜなら我が子よ求めてくるのでありそれは一人のことだからである。集団は我が子になりえないのである。だからいくら大勢で神を礼拝しても神は現れないとなる




posted by 天華 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など