2015年03月02日

何に時間を費やしたかが人生である (旅の時間も今行けなくなると貴重だった)


 
何に時間を費やしたかが人生である

 
(旅の時間も今行けなくなると貴重だった)


かりそめに通りすぎて
十分に愛さなかった かずかずの場所への郷愁よ
それらの場所へ 遠方から 何と私は与えたいことか
しわすれていた身振りを つぐないの行いをもう一度ー今度は独りでーあの旅を
静かにやり直したい
あの泉のところにもっと永くとどまっていたい
あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい
(リルケ)

つくづくこのことを旅ができなくなって思う。まさか遂に6キロくらいのしか往き来できなくなると思わなかった。
すでに一年は仙台にも行っていない、やっと原町とか相馬市に行くだけである。
それは外国まで自由に旅していた自分にしたら考えることもできないことだった。
そしてつくづく自分はこれだけ自由に旅できたから恵まれていたなとそのことに感謝した人間はいつしか旅すらできなくなる時が誰にでも来る
病気になったり老人になり体が弱くなるとできない
それから人間の時間は何するにしても限られているのだ
旅しているだけでも時間はたちまち過ぎてしまうのだ。

人間の一生をふりかえるときある人がガンになった。
その人は工場でフォークリフトで荷物を運ぶ仕事をしていた。
その人は余命何カ月とか言われた。その時何をしたいかと思ったらもう一度工場で働きたいと思った。仲間と一緒に仕事したいと思い実際にしたのである。
つまり何にその人が時間を費やしたのかが人生なのである。
その人はともかく何であれ工場で働いたの一生だからそこが人生であり一番愛着ある場所だった。それは理屈ではない、そこに人生の時間が費やされたからこそガンになっても
そこでもう一度働きたいとなったのである。
原発事故で避難した人が田植えをしたとき収穫したとき喜びがあった。
漁師だった人が津浪の後に仲間と漁をしたとき喜びに溢れていた。
つまりそこにその人の人生があった。
もちろん金のために生活の糧を得るためにも仕事はある
しかし人生の時間をそこに費やしたら単に金だけではなくなる
だからガンになった人がもう一度働きたいというとき金だけの問題でなくなっいたのである。
外から見るとそんな仕事がそれだけの意味があるのかとみる
でもその人にとってともかく人生の時間がそこに費やされたのだから
そこでもう一度働き死にたいとまでなっていたのである。

そういうことはなかなか若い内は理解できない、仕事なんかただ金のために働かせられているだけだというのが奴隷にされているだけだとしか不満しかないのが普通である。
漁業でも農業でも金にならないからやらないとかしかなかった。
でもあなたの人生とは何だったの?
補償金もらって遊んで暮らしていればいいの、それが人生でいいのともなる。
だから漁師が原発事故で確かに補償金をもらっているから暮らせる
でも何で自分はこの港にいるんだろうと言っていた。
もう漁師でもなんでもない、その人生はただ遊ぶだけなのかとなる。
遊び人の人生になってしまうのである
工場で働き生きた、漁師として農民として職人として生きた
何かそこに人間の人生の価値があったのである。

現代はすべて金をいくらもうけたかどれだけの収入を得るかですべてが決まる
では人生の最後に何が価値があるかとなるとどれだけ金を残したかで
人生が決まるともなる。もちろんそういう価値観も現代にはある。
金をすべて否定したりは現代はできないのである。
ただすべて金だけ計れるかというとそうはならない
老人になるともう金があっても使いこなせないのである。
自転車も何代かいいの買ったが乗る時間がないと利用できないとかなる
もう長い旅もできなくなったからである
他の自転車にとりつける動画をとるカメラも買ったがこれも利用できていない
何かをやろうとして物を買ってもできないことに気づいたのである。

老人になると何が残るかというとその人が何に時間を費やしたかなのである。
それが何であれその人の人生だったのである。
だから旅というのもあそこにいた時間がいかに貴重な時間だったか理解した。
自分が旅したのは故郷にいたくないということがあった。
故郷がいいというけど故郷はあまりにも見慣れていて感動しなくなっている。
それから田舎だと人間関係でも狭いから監視されているようでそこから解放されたいということがある。
四六時中ある老人の男性は女性が入って来たりするのを見張られている。
だから簡単に人を家に入れることもできないと言っていた。
だから故郷とか田舎はみんないいものではない、そこから解放されたいというのがある。ただ都会ではなく、旅は自然の美があるところに行きたいとなる
その時はそうした狭い嫌な人間から解放され、自然の美だけにひたっていられるということである。

ただふりかえるとこれだけ旅してもそこにいる時間が短すぎるのである。
だからなぜもっとそこに長くいなかったのかということが後悔になる
もっとその美にふれていなかったのかとなる。
今になるともっと富士山を堪能しておけばよかったとなる。
つまり旅でもその場にいる時間が貴重だった。
旅ではいつでもその景色が見られないからである。
日本の自然は今でも美しい所がいたるところにある。
それはいかに文明化してもそうである。
その美にふれる時間があまりにも短かかったのである。
それでも自分の場合はこれだけ旅したのだから旅の蓄積がある
それが記憶として蘇ってくるから俳句にしたり短歌にしたり詩にしりたする
現代は忙しいからかえって何か記憶に残ることが少ないのである。
だから浅薄な時間を人生を生きていることが後でわかるようになる

菜の花に長くもあれな春の冨士

菜の花に埋もれて長く春の冨士

そこに長くとどまっていたかった。しかしその日はもう帰らない、それは旅だけではない、人生の時間はすぎさる、その時あらゆるものがなつかしくなり価値を帯びてくる。
平凡な日常生活すらそうである。なぜなら家庭ですら喪失する。
老人ホームで家に帰りたいというとき今の家族ではなく昔あった自分が母親とかであったときの昔の家族に帰りたいということなのである。
この辺ではそもそも故郷すら消失してしまったから故郷自体がなくなったのだから
故郷にあったときのことを思うようになった。
普通は故郷など当たり前にあるものだから特別思ったりしない
でも今は故郷は特別なものになってしまったのである。
つまり人生とはあらゆることが過ぎ去ってゆく一こま一こまである。
その一こま一こまには実は意味があったがそういうふうにはその時は思わないのである。

人生で何を一番後悔しているかとなるとその喪失した帰らない人生の時間なのである。
それは巨万の金があっても取り返すことかできないのでてある。
自分は金があったから旅行していたのではない
時間があったから旅ができていたのである。
まず食べるものも宿泊代も節約していた。どうしてもそこしか節約できないからそうなっていた。
温泉宿に泊まったことはない、何か料理を楽しむ旅などしていない、それは外国でもそうだった。
自分は旅したいということが目的だったからそうなった。
だから旅を目的にすればさほど金がなくてもできるのである。
問題は時間だとなる、それで上に立つ人なのか収入があっても時間がない
時間に追われているというとき人間はつくづく二つ物を得られないようにできている
金があっても時間がない、時間があっても金がないとかなる

あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい

何か原発事故で故郷を離れた人もこういうことを思っているかもしれない
人間はもう死ぬんだとなると何か平凡なものでもいとおしくなる
旅をしている何か急いでいると旅では見逃すことが多すぎたのである。



2015年08月30日

世界情勢と旅行 (ホテルがとれない、日本国内も旅行しにくい)


世界情勢と旅行

(ホテルがとれない、日本国内も旅行しにくい)


団塊の世代は幸運だったのだろう。例えば30代頃、1970年代は貯金の利子が高かった。退職金一千万でも10年くらいおくと倍になっていたかもしれない。
それで今の老人は金をもっている、その頃貯金しない人はもっていない
家などローンで買っていても金は残らず老後難民が話題になる
高度成長時代は自営業でも金を残したから貯金をしているから金をもっている。
その高度成長時代が終わると非正規で働く人が増大して若者は金がない
だから時代的にみると今の若者は損だとなる
もちろん時代的にどの時代に生まれればいいのかとかはわからない
結局人間はその時代時代を懸命に生きる他ないからである。
戦争の時代は戦争を生きざるを得ない、嫌だといってもどうにもならないことがある。

ふりかえれば団塊の世代は幸運だったとなる。個々人によっても違うが平均的にはそうだろう。
旅行するにしてもそうである。金がなかったけど全国隈なく旅行した。
今になると日本の国内すら旅行しにくくなった。外人の旅行者がふえすぎたのである。
ホテルの空き室が都会ではなく部屋代が三倍くらいになっている
こうなると本当に旅行しにくいだろう。カプセルホテルすら外人が泊まっているという。何かゆったりと国内旅行すら楽しめない時代である。
京都にしろそこに外人があふれていると観光をゆっくり楽しめないだろう。
修学旅行生がうるさいので自分は京都で嫌だった。
今はそれ以上に外人がふえているからそれで日本人にとってはいいとはならない。

自分も旅行で苦労したのは安宿にとまることだった。これがなかなかできない
探すのがめんどうなのである。なんとか旅の経費を減らすのがホテルしかなかったからである。
自分はつくづく貧乏旅行者であり金持ちでもなんでもない、何か贅沢などしたことがなかった。
外からそんなふうに見られていないが自由な時間が与えられただけであり何か贅沢したことなどない
前にも書いたけど旅をすることは遊びでいいなと思われるがそうでもない
本当に旅人になるには旅に集中する必要がある
なにかうまいものか食べると旅で女性などに気をとられるとまず気が散るから自然や
観光にさしさわるのである。
観光というのもいろいろありやはり時間が限られているから見ることに集中することが意外とむずかしい
そこにいる時間が短いから良く見れないのである。
だから旅が遊びのようにみられるが何か集中しないと良くみれないし心の残るものとならない
するとあとで旅した所がどういう所だったか思い出せなくなる
旅は意外と何かを記憶していることが大事だったのである。
現代の旅は何かせわしい、そして電車とか車とかを利用するがそういう旅もなかなか記憶に残らないのである。

人間はその時その時することをしないとできなくなる。
最初は電車の旅を20年間くらいしていた。次ぎに40代から自転車の旅をした。
次ぎに50代から海外旅行をした。そしたら人生の終わりになってきた。
でもこの旅もふりかえると幸運だったとなる
今になると国内旅行すらホテルがとれないとかなるとゆっくりできない
海外旅行も円安でしにくい、一時円高で70円とかの時代があったのである。
そういうとき若者が外国で安宿で「沈没」とかい言って一年とか何もせず暮らしていたのである。それも今はないだろう。
今は中国の物価が日本より高く日本の買い物が安いと言っている時代である。
中国の爆買いはそのために起きている
あの頃の中国は十分の一とか馬鹿安の時代だったのである。
それも十年もたたないのにこんなに変わるものかと思う。

だから今や中国を旅行するのにも金がかかり簡単にできないとなる
旅行には向いていないとなる
自分としては今はバックハッカーのような旅行はしたくない
金持ちの旅行がしてみたいとなる。特に外国だったらそうである。
逆に一流ホテルに泊まってみたいとなる
つまりそれも経験であり今になと冥土の土産なると考えるようになった。
老人になると考えが変わるのである。
でも貧乏性は変わらないからそういう場所にとまることが不似合いになっている
まず服装からしてそうである。そういう場所になっていないのである。
ただ貧乏人ばかりに合っていると何か社会の見方が偏る
ハイクラスの人間も知らないと社会のことはわからないのである。

いづれにしろ今の時代は外人でこむ場所には行くのはあっていない
北海道すら外人が多くて泊まれないという
北海道は外人にとって人気の場所になっているからである。
ともかく今になると何か旅行すら国内でもしにくい時代になった。
一回だけネバールに言ってヒマラヤを見たけどあそこも地震で行きずらくなった。
当分はあそこも観光になるとむずかしいだろう。
中東でも危険でありいつテロの巻き添えになるかもしれない
こう考えると海外旅行も今は何か向いていない
でも人生は短いからその時々にやることをやっていないとあとは二度とできなくなる
これだけは肝に命じていた方がいい
いくら金がかかるとか言っても人間の時間は限られているからだ。
その限られた時間にやるべきことをやらないとあとは二度とできないのである

それは読書でもそうである。厚い本だとそうである。
まず厚い本を読む時間がなくなる、今は本はアマゾンで買っていても触りしか読まないからである。
結局人生は短いから時間との勝負だったのである。
何事すぐに時間切れになる、雑学すら物にできないのが人生だった
これだけ時間だけが与えられた自分が言うのだからまちがいない
一時楽器をやろとしていたがその時間もたちまち過ぎた
楽器の演奏でも直接するのとただ受け身で聞くのでは理解度が違ってくる
でも人間はつくづく何でもできない
その中に勉強でもロスが大きすぎたのである。
もちろん才能がないせいもあったが才能というのも実は開発しなければ生まれない
最近自分はパソコンで抽象画をはじめたのがまさにそれだった

自分でもこれだけは不思議だということを何度も書いてきた。
全く絵の才能がないものが抽象画なら描けるのかという不思議である。
それはパソコンのソフトの操作で開発されたものなのである。
つまり才能ではなく何かを開発してゆくということである。
educationがそもそもeducate(引き出す)というように引き出す能力が才能なのである。
そして個々人には何かしら開発されない能力が眠っているのである。
そして人間は天才でない限り日々の積み重ねたものがあとが必ず実る
それは雑学のレベルでもそうであり何かしら必ず実る
人生経験でもやはり老人は何かしら経験を積んでいるからその話が面白いとなる
人間の実際に経験する範囲はあまりにも狭すぎるからである。
だから他人が経験したことはやはり知らないことであり新鮮なものになるのである。

ともかく今になると富士山でも外人で混んでいるとかなんか嫌である。
今は自分には山をもっと見たいということがある
山についての詩を相当書いているからだ。
山は別に登ればいいが登らなくても遠くから見るだけでも荘厳である。
でも富士山でもきれいに見える場所がなかなかわからないし見れない
自分が山を見たいというとき自分の住んでいる場所に高い山がないからである。
福島県でも中通りになると1000メートルを越えた山がある。
会津には1000メートルを越えた山がひしめいているから福島県でも高い山が見れるのである。
ただ日常的には見れないから山を見たいとなるのだ。

自分の失敗はまず世界旅行とか自転車旅行が先でありあとで電車の旅行だったのである。
なぜならきついものは若い内にして楽なものは年取ってからするのが順序だからである。
50になって一人の海外旅行は辛いからである。
自転車旅行でもそうだった。あれは若い内にやれば良かったのである。
まず辛いこととか激しいことは若い内にやらないとあとはできない
若いとき楽なことはやるべきではないとなる
最も苦しいことをやるのに向いていたのである。
ともかく人間は必ず人生の終わりには後悔する
あうするべきだったこうするべきだったとか必ずなる
それはなかなか忠告しても聞かれない
そして結局最後になってわかるのである。
そのときは遅かったとなっているのが人生なのである。
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2017年11月07日

晩秋から冬(城の俳句十句) (城は季節でも周りの環境で印象が違ったものになる)


晩秋から冬(城の俳句十句)

(城は季節でも周りの環境で印象が違ったものになる)

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晩秋の熊本城や古木かな

和歌山城白壁に映ゆ朝の菊

晩秋にたずぬや大き彦根城

塩の道松本城や秋深む

足軽の長屋あわれや冬たずぬ

実りありここも一国秋田城

城外に虫の音あわれ会津かな

打ち曇り雪に暗しや鶴ヶ城

冬の日や老松残る盛岡城

二すじの冬の川流る盛岡城

弘前城雪に埋もれて門古りぬ

老梅の根を張り冬の弘前城

弘前の遠くや雪のしきり降る


長々と城の石段登りつつ白壁映ゆる秋の朝かな


標高約49mの虎伏山(とらふせやま)の上に建てられ白壁の天守閣の美しさから、別名「白亜(はくあ)城」、山の名前を取って「虎伏城」などとも呼ばれていました。

城は必ず旅したり観光すれば見る,その街の中心にある,城がわからないと歴史もわからないとなる,でも城がどういう印象が残るかというと城によって違う,それはその辺り景色とか季節によっても違う,今回は秋から冬の城である。

不思議なのはなぜ和歌山城が印象に一番残っていたのか?それは白亜の城というように白壁が映えることとその時季節が秋だったからである。秋に白壁が映えるからである。
それが鮮明な記憶となる,記憶として残っていた:それから石段が長く坂になっているのも記憶に残る,何か城というとき平城が多い,ここは平山城であり高い方の城だったからである。ただ城というのは全体を見るのがむずかしい,ここは天守閣が二つあったというのもわからなかった,事前にそうした知識がなかった
今はインターネットとかあるからそうした知識が得やすい

城といっても城だけではない周りの景色とか季節で印象が変わるのである。
熊本城をたずねたときは晩秋であり城の前の公園に太い古木があってそれが印象に残った彦根城はと大きな城だということが印象に残ったがここから琵琶湖が見えるのはわからなかった,ただここは関が原が近いから地理的に要衝だった

そんな松本城の特徴のひとつは、外壁に黒漆(くろうるし)を塗った「漆黒(しっこく)の城」であること。「これは、小笠原氏のあとに入城した石川数正・康長親子によるもので、豊臣秀吉の大阪城が黒で統一されていたことから、秀吉への忠誠のしるしと言われています」と林さん。それに対し、姫路城のように「白亜の城」は徳川家康の時代の城とされるそうです

そうなのか,秀吉時代の城だったのか?城というとたいがい白壁である。ここはだからめずらしい,松本は他に塩の道の終点として有名なのである。
相馬藩でも塩の道はあるがここは本当に日本海の糸魚川まで長いのであ。塩は牛で運ばれた,牛繋ぎ石などが市街に残っている,そういう観点からも松本を見ると違ってくる

新潟県の新発田城の足軽長屋は昔のままに残っている,これはまさに長屋である。長屋は庶民が暮らしていたのだからこれと同じだった,つまり長屋と武士の家の差が大きかったとなる,今はこの辺の市営住宅でも部屋数が三つとかあるがここでは一部屋くらいだったただこういうのは戦前でもあった。日本人はもともと狭い所で住んでいたのである。

会津の鶴が城は有名だが何か印象に残らない,平城だからかもしれない,何か特徴がない奇妙なのは城の外に田園風景が広がり晩秋に虫が鳴いていたことを記憶している
それは何を意味しているのか?会津だと白虎隊とかドラマ化されているけど庶民はそうした悲劇とは関係していないのである。かえって明治維新の時恨みをもっていた農民が一揆を起こしていたのである。会津の落城でも庶民には関係ないことでありそれで侍中心の
城があるところよりその北の喜多方が(きた)が商業で栄えたので蔵が多いのである。
どうしても旧来のものに縛られるから侍の街は新しい時代に適合できないからである。
ともかくただ冬になると毎日雪であり雪で暗かったという感じになる
雪国にはそういう暗さがどこにでもある

盛岡城は石垣だけであり中津川と北上川が流れて環境的にはいい,都会にしてはいい,
ただここの歴史は良くわからないが周りの環境がいいのである。
岩手山も見える,北上川がて流れているとか都会では景色に恵まれているのである。

建築年代を示す明確な資料はないが、いずれも江戸時代初期と考えられ、木部をあらわし古式を伝える遺構である。各門は、桝形ますがたを構成する土塁に囲まれ、雪を考慮してか下階の屋根をひときわ高く作るなど、配置や構造に工夫がなされている。

弘前城の城門は見るからに古い感じになる,雪を考慮していたというのも雪国らしい,弘前というとき青森は東北でもここからは東京より遠いという感覚になる
でも新幹線で近くなったこともある
青森は福島県からでも果ての国だという感覚になるのだ
弘前で見た雪は何か朝であり爽やかであり美しかった,雪の感覚は同じ雪でも相当に違っているのだ

心からしなのの雪に降られけり 一茶

この一句には一茶の深い思いがある,しなのの雪にふられるということはその土地に生まれて長く住んでその気候とともにあったからである。
そういう感想はその土地に住んだ人でないとわからないのである。気候の影響は人間には大きい,性格まで作る,雪国の人間が何か陰気になってしまうのもわかる
海に近いところは開放的になる,山国はどうしてもと閉ざされた感覚になるからだ
これは別に雪だけでなは,心からその土地になじめばそうなる,心(こころ)とはここのことでありここに長く住んだ人がもつのが心なのである。
それで原発事故で避難した人達はその心の場を失ったから悲劇だったのである。

しなのの雪に降られて一茶死ぬ

そこは終の住処でもあったからそうなる,人間は最後はみんなそうなってしまうのである。

青森の魅力は地の果てという感覚である。そこは冬には雪がしきりふり埋もれる,だから東北でも青森県は特殊の地理的環境にある,観光では魅力あるとなる
ともかく城というとき季節でも周りの環境でも違った印象をもつのである。
だから春とか秋とか二回くらい訪ねればいいとなる,たた全国になると城も多いからむずかしい,自分は恵まれたのでめぐり歩いていたのである。
今は何か旅行する気力がなくなったのである。

俳句という文芸は一句とかで鑑賞するのがむずかしい,短すぎるからだ,でもこうして城の俳句とかで十句とかを一つの作品として読むとそれなりに深い鑑賞ができる
これは一つのつながりがありそれで全国のつながりができるからである。
日本全国を一つのものとして見るのである。こういうことは現代はしやすいのである。
芭蕉の「奥の細道」が古典になったのはやはり一つのつながりとしたからでありその中に俳句があるからである。

今なら新幹線とかあれば何度も行けるということもある
だから季節ごとに行けばまた印象が変わるのである。
ただ問題は旅しても後で記憶に残るかが問題なのである。
自転車旅行を推奨したがこれもすべてだかいいとはならない,ともかく疲れるのでゆっくり鑑賞できないのである。電車で行けば体力的に余裕があるから見れるということもあるだから旅は電車でもいい,いろいろな手段ですればいい,でもそうなると自分のように一生が旅に費やされるとなってしまうのである。
それだけの時間が必要になるからである。そしてたちまちその旅も終わったとなる

2018年05月14日

中山道の旅初夏十句 (歩く旅は記憶している)


中山道の旅初夏十句

(歩く旅は記憶している)


奈良井宿奥にあわれや藤の花

山吹や中山道に分け入りぬ

武者幟山中行くやひびく川

山吹やしとどにぬれぬ山の道

山吹やしとどにぬれて山伏の碑

初夏や雨に煙りぬ木曽の森

山中に分け入る道や木下闇

岩の渕浦島伝説藤の花

(福島関所)

止められず関所越ゆるや夏燕

妻籠宿ひびき落つ水涼しかな

古りにける妻籠の宿や菖蒲かな

上り行く馬籠の宿や夏の山

確かに旅したのは山吹の咲いているときである。この時は電車の旅だったが途中歩いたりした,その歩いたところが記憶に残る
ただ記憶というのは不思議である。中山道は夏と秋に旅している
それが記憶の中で混乱する,秋に旅したのは自転車だったからである。
記憶たどるたびの不思議は時間的に順序が不明になる
それは例えば江戸時代の年号があってもその年号に何があったか不明であり
年号の順序を間違える,ただ元禄というとき何か目立っている時だからわかるがその他いろいろ年号があってどっちが先なのか後なのかわからなくなる
なにかそれとにていていつ旅したのかその時間の順序がわからなくなる
それは30年とかすぎてみるとわかるのである。

奈良井の宿に泊まったことは覚えている,その部屋の奥に庭があり藤の花が咲いていたことを覚えている,それから奈良井の宿から鳥居峠を上ったとき雨だった
それで深い木曽の杉林が森に煙る景色を覚えている,その時森が深いなと感じた
鳥居峠はさらに奥であり歩いていない
鳥居峠の入り口に山伏の碑があった,山伏の関するものはいろいろ残されている
山伏も旅する人でありその伝説が残されている

電車の旅だからとぎれとぎれに歩いた,最初は山吹が印象に残った
次に妻籠ではここも結構長い道を歩いた,それでその道に菖蒲が咲いていたことを思い出した,その紫の色が心に沁みた,それはなぜか、歩いていたからなのである。
このように歩くことは心に記憶されるのである。
だから旅はまず車だとかバイクだとか自転車ですら記憶に残りにくいのである。
歩くことで記憶に刻まれるのである。
現代の旅は何か電車だとか車だとかバイクだとを利用した旅である
すると記憶に残らないのである。何十年と過ぎたときさらに記憶に残らないのである。
だから旅すらなら歩くべきだと反省する,中山道は歩くにはいい道だからである。
まず東海道などは昔の面影がない,中山道だけは昔の面影が残っているからである。

歩くときはこの辺だと街道を歩くのはいいが六号線を歩いても記憶に残らない
それはどこでもそうである。街道を歩まないと記憶に残らない
何か車の洪水にまぎれ記憶に残らないのである。
現代はまず便利だからその便利な乗り物でも利用すると旅として記憶にも残らないのである。
一区間だけでも昔の旅人のように街道を歩くことである
その効果は意外と大きいのである。旅は計画することと旅を実行しているときとそして意外と後でふりかえる回想することが大事になる
でも記憶するには歩くかしていないと記憶に残らないのである。
芭蕉でもみちのくを歩いて旅したからこそ「奥の細道」ができたのである。

都会とかはほとんど記憶に残らないのはなぜか?
喧騒と雑踏にまぎれて人も景色も記憶に残らないのである。
何か大都会になると蜃気楼のように見えてしまうのである。
それは日々の生活でもそうである。都会の生活はあとでふりかえると記憶に残らないのである。回りの景色でもそうである。
そこに生の充実がありえようがないのである。
でも経済的観点から都会の方が便利でいいとしているのである。
ただ最近若い人が田舎で暮らしたいと移住しているのもわかる
人生を充実させるには田舎であり都会ではないからである。
もちろん田舎にもいろいろな問題がある,嫌なところも多い
ただ何か人生を生きるというとき都会に生きて何が記憶されるのか?
それを思うと都会だと車や雑踏や騒音の中に人生も記憶に残るものがなく消えてしまうともなる

いづれにしろ人間の基本は歩くことにある,武道でも空手でも歩くことを基本にして訓練していた人がいた,歩くことを文明人は奪われたのである。
それは実に脳に相当に影響している,外界を体で感じることができない
人工的空間で五感が衰退したのである。だから文明がいかに発達しても何か失われものは必ずある,ただ時代によって得るものも必ずあるとなるのが人間社会なのである。

俳句というとき一句だけではものたりないから自分は短歌でもそうだか十句十首として連作として作る,すると一句一首ではものたりないものが連作として読むと違ったものになる
奈良井宿辺りでは山吹が目についたが妻籠辺りでは紫の菖蒲が目にしみたとなる
その対象で一連の俳句を鑑賞できるともなる

2018年05月23日

城の俳句二十句(九州中国関西東海道)


城の俳句二十句(九州中国関西東海道)


(九州)

晩秋や古木に日さし熊本城

晩秋に古木数本熊本城

湾の望み春の松原唐津城

春光や海の近きに福岡城

(山陰)

芒枯れ萩の城跡大ならじ

茶をたてぬ柳あわれや松江城

(山陽)

隠れ咲く椿や山城岩国城

花見客天守に上る福山城

春爛漫天守望むや白鷺城

春夕日船の往来明石城

(四国)

(洲本城)

花に月淡路の城の一夜かな

春の暮伊達氏の治む宇和島城

花めぐり城下に三日松山城

春の川遍路と歩み大洲城

(滋賀県)

秋の暮関が原近く彦根城


(和歌山県)

朝日さし白壁映えて菊花かな

秋日和和歌山城をたずねけり

秋の朝石段上る和歌山城

(大阪)

千本の桜咲き散る大坂城

燃え落ちる春の夕日や大坂城


(長野県)

晩秋や黒々として松本城

(東海道)

優艷に枝垂桜や吉田城

金の鯱夏の日射しや名古屋城

一夜城鋭く光る月をみる

海望み小田原城や花盛り

門多し江戸城跡や秋の暮


正岡子規の「春や昔十五万石の城下町」は有名である。でもこれは明治になって城を偲んだものとして作られている,なぜなら昔すでになっているからだ
城というのは意外と城があるとき城を俳句でも短歌でも漢詩にしても触れられない
ただこれも調べればあるのかもしれない,それを調べるにも大変だが俳句に関しても城の俳句でも城についての俳句は極まれなのである。

絶頂の城たのもしき若葉かな(蕪村)

これくらいしか目立ったものとしてわからない,ただほかにあるにしても目立ったものがない,ただこれは一つの研究テーマなのである。
城をいろいろふりかえるようになったのは明治以降なのである。
城があるときは城のことはあまり語られなかった?
ただ不思議なのは城は一番目立つものだから城に関するものを残してもいいように今では思う

國破れて 山河在り 城春にして 草木深し 杜甫

城は中国などでは庶民と一体化してあった,日本ではこれだけ城があるのになぜ城について俳句にも短歌にもなっていないのか?何かそこが謎なのである。
城の謎は江戸城というとき確かにその跡は残っているが日本の中心の城が何か何もない,石垣だけだというのも淋しい,江戸城は日本の政治を担った中心だったのかと疑問になるだろう,外国の人が来てもそうである。
外国では城というとき城壁からしてローマ帝国時代のものでも残っているからだ
石造りだから残ったともなる,日本の城は戦後新しく再建されたものがほとんどなのである。実際江戸時代から残っている城は松江城くらいでありあと三つくらいしかないという明治になったとき城は廃墟化したのである。

春高楼の 花の宴(えん) 巡る盃(さかづき) 影さして千代の松が枝(え) 分け出でし昔の光 今いずこ(土井晩翆)

城が廃墟化したからこの詩と歌が作られた,でも城があるときは城について何か目立って俳句でも短歌でも漢詩にもしていないとみる,ただこれは研究テーマだから他にあるのかもしれない。

江戸時代とか明治時代でも過去の俳句や短歌は当時の生活を知るものとして自分は見ている,貴重な当時の生活の資料なのである。

池田より炭くれし春の寒さかな 蕪村

ここでも池田とあるときその炭を作る場所を意識していたのである。それが江戸時代である,なぜなら狭い範囲で生活しているから生活で使用しているものはみなその産地が明確だからである。地球の裏側から来るのとは違うからである。
そして池田よりというとき池田に住んで炭を作っている人を意識しているのである。
その暮らしもイメージしているのである。

ここで俳句にした城には自分は実際に全部行っている,ふりかえると良く旅して回ったなとなる、ただその記憶があいまいとなっている
城の印象はいろいろある,萩の城はもっと大きいのかと思った、

関ヶ原で西軍総大将に担ぎ上げられ敗北、周防・長門の2国に減封される。その後、居城としてここ萩の地に新たに萩城を築城した

ここで苦しい生活を強いられてあとで徳川幕府に恨みをもつ明治維新で長州がその先導役となったとも言われる,ここを訪れたときの第一印象が芒の中に石垣だけがあるという何か無常を感じた,明治維新の中心となったと藩だと思っているから城も立派だと思うが
意外と小さいとか萩自体が田舎町だという印象になる
常に時代は錯覚しているのである。特に現代はドラマ化しているから時代をリアルに見ない,歴史の現実をドラマから小説家ら見ると歴史を見間違うのである。
それで司馬遼太郎が竜馬を小説化して英雄にしたてたと今では見直されている

やはり歴史はとにかくいろぽすわからなくても現場を踏むことである。
そこで感じるものがまず大事だとなる,秀吉の一夜城まで自分は自転車で寄ったことがあった,その距離は結構あってここがそうなのかと実感する
その時三日月が出て光ったとなる

城でいい城だと思ったのは和歌山城である。その時は秋であり朝に長い石段を上った
それが記憶として残っている,白壁が美しい城だなと感じた,その下で菊花展を開かれていたので菊がにあう城だと印象に残り思い出すのである。
人間は城があるとして昔をたどるとしても今はむずかしい
例えば吉田城は東海道にあるがここには市電で行った,そこは何か淋しい城であり城内に枝垂桜が咲いていた、でもここは東海道であり浮世絵にもあるように橋が有名であり
大名行列も通り庶民をその橋をわたるにぎやかな所だったのである。
市電で行ったときその当時のにぎわう姿を全く感じなかった
それはやはり東海道を旅していれば歩いてでもしていれば感じるものがある
東海道は混んでいるからもうその往時を偲ぶことはできないのである。

城は明治以降廃墟化して無常を示していた,城が江戸時代の象徴としてあったからだ
ただそれも明治になったとき逆に城を回顧するようになり桜を植えたりして公園化したのである,江戸時代が300年あり明治からすでに150年の歳月が過ぎたのである。
ただ観光するというとき城があり城を中心に今でも見ている
城がないとそさには歴史がないと感じる,ただ城は石垣だけが残っているのも多い
木造建築だから残しにくい,だからたいがい城は新しく再建されたものである。
でもその再建された城を見るとき博物館のように見えてしまうのである。
石垣だけになっているとただ無常を感じるのである。
だから石垣だけ残ってるとかえって歴史を人間の無常を感じるともなる
会津の城でも新しく再建されたが何かかえってそれが作り物のように見えてしまう
石垣だけだったら薩摩長州に滅ぼされた無常を感じるともなる
つまり現代は余りにもドラマの影響が大きすぎるのである。
ドラマとして歴史を見ているから本当の歴史のリアルなものとして見ることができなくなっているのだ。

城について語ることは尽きない,この俳句でも前に同じものを出している
ただ俳句は一句だけでは鑑賞できない,連作になると一つの文学として鑑賞できるようになる
観光にしても城めぐりをして全国の城を制覇するということが現代ではできる
自分は鉄道なら私鉄をのぞいてほとんど全線を乗った
城にしてもふりかえればもう90パーセントは回ったとなる
ただ旅でも歴史を深く感じることはつくづくむずかしいなと思った

彦根城が琵琶湖に近いということがわからなかった,なかなかこうして旅というのは見ないで終わるものが多い,後でそうだったのかと見る,それがインターネットで旅をふりかえるのには便利になった
彦根城は関が原の合戦で井伊家の赤備えで有名になり井伊家が築いた城である
ここの升形の旗印は野馬追いの旗にもある,ただそのルーツは定かではない
はっきりしているのは石田三成の旗印がかつて江戸時代にあった
それは万万とかでありわかりやすい,石田三成は鹿島の田中城に来ていた
相馬藩で親交があり三成の一字をもらって名前にしている藩主もいた
それで徳川家康からは相馬藩は敵対視されたが取りつぶしにはならなかった歴史がある。

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タグ:城の俳句

2019年12月01日

記憶に残る境の旅の短歌十首


記憶に残る境の旅の短歌十首


面白山ぬければ山形春なれど残れる雪の心にしみぬ

区堺に電車とまりぬ雪厚くなほも残れり境なるかな

関ケ原なお雪残るここ越えて近江の春の山々望む


上野去り平野開けてみちのくに我が帰るかな秋の陽没りぬ

いわき駅(平駅)北の方へと鉄路見ゆ仙台近く秋の夕ぐれ

飯館の峠を越えむその手前常に休みぬ秋の蝉鳴く


国分けるライン河やオランダへ荷船の行くや秋の夕暮

ケルンの塔高く望みてオランダもイギリスも見むラインも流れて

ヒマラヤの峰々空より望むかなインド中国分けて聳え立つ

大陸や大河さえぎり向い岸望みて帰る秋のくれかな


旅をすると境が記憶に残る、関所がある時代はそこで止められるから必ず記憶に残る
今は関所がないから何か通り過ぎるだけになる
でも境は節目であり記憶に残り安いのである

だから旅を思い出すとき界が記憶になりこうして思い出して短歌にしたり詩にしたりできる
でも記憶していないと後だ思い出すことがないから書けないのである
だから旅というのは意外といかに記憶に残る旅をするかが問題になる
それで余りにも便利な車だとただ通り過ぎて記憶に残らないのである

第一旅という時どういう経路で行ったかが問題になる
ただ目的地につけばいいとなぱビジネスライクな旅でありそれは旅ではない、用事を果たすためだけだとなるからだ

だから新幹線で三時間くらいで平泉についたというだけでは何の感懐もないから芭蕉のような俳句は作れないのである

とにかく人間はその場所によって心も変わる、いわき駅というとき同じ福島県でも相馬も遠いし仙台もさらに遠いと感じた
でも相馬から仙台までは遠く感じられないのである
そのことでもいかに相馬地域が仙台に近いか宮城県に属しているようにもなる
なぜなら福島市は阿武隈高原に遮られて見えないからである 

常に何か旅をしても印象的なものが心に残る
上野からみちのくに向かう時、東京のビルの街から離れて平野が広がり秋の夕日が輝き落ちてゆく、その光景がいつも心に残り思い出すのである
その光景が心に刻まれている、だから忘れられないものとして何度でも心に浮かんでくるそういう場所が確かにある、ただ旅をした後にその場所が思い出すのである
でもいくら旅をしても忘れてしまうものがある

この差は何なのか?

やはり景観とかが印象に残り安いのと残りにくいのがあるのか?
それはいろいろな要素でそうなっている、それは旅の仕方によって決まる
だから思い出す旅も不思議なのである、全然記憶に残らない場所もある
本当に思い出せなくなるということはそこに行ったのかとまでなる
外国だと特に変わっているからそうなりやすいのである
日本だと何度も行けるし記憶がそこで蘇るからいい、外国だと一回行って終わりとなるのが多いから思い出せなくなるのである

外国でも川は長大だからそこが境界となる、父なるライン川がそうである
ケルンの塔に上った時、その川はオランダに流れさらにイギリスも見えるように思った
イギリスに海峡があっても30キロくらいだからである
今は海底トンネルが通っているから遠いというものでもないからだ
イメージのなかでイギリスはヨ−ロッパ大陸とつながっているという感じになる

スケールが大きくなるとヒマラヤ山脈はインドと中国を分ける
それは空からその頂上が見えた、ヒマラヤは空からしかその全貌は見えない高さである

2020年02月16日

日本のもてなしの起源 ( 歩いて疲れていた旅人だからもてなしがありえた


 日本のもてなしの起源

( 歩いて疲れていた旅人だからもてなしがありえた

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旅人が病気になった場合、ケアや看護もしたのでホスピスとなったという
何か巡礼とも関係していたから四国の遍路ともにている、そこに信仰で寺をめぐる人たちのもてなしをしたからである

そもそもなぜ病気になって旅ができなちなったらケアして介護したかというとその時病院とかもない、家に帰るのにも遠いとなると病気で動けなくなった場で癒すほかなかったともなる
つまり当時の旅は歩く旅だから簡単に遠距離を移動できないからである
それは日本でも同じだったのである
みんな歩いていたのである

歩いて移動していたから疲れる、病気になる人もいる!

こういう旅だったのである、旅はそれだけ体力を使い疲れるものであり病気にさえなる
だからこそホスピスが必要でありそれがホスピタルになった
病院の起源がこうした旅人を癒すものから始まったというのも興味深い

なぜこのことを私が関心をもったのはとにかく自転車で旅するとなかなか宿を探すのがむずかしい
そもそも自転車旅行する人は何か胡散臭いとか貧乏人とか見られ安いのである
普通の人ではないと見られやすい、また汚れてもいるら歓迎されないのである
だから私は旅館とかでも特にホテルとなると嫌いなのである

今の旅館もホテルも本当に旅する人はもてなしてくれない!

これも何か時代である、なぜならもし江戸時代なら街道を歩いてみんな旅ししている
旅というより移動するのは歩くのだから疲れる、一日40キロくらい歩いたというから
本当に疲れるのである
そしたら宿についたら疲れているのだからもてなしてもらいたい
苦労をねぎらって迎えてもらいたいとなる
それを迎える人もわかっていたから宿場町ではねぎらいがあった
それは人間の情として自然と生まれたおもてなしだったのである
相手が歩いて疲れたということがわかるからである

ところが現代ではみんな車と電車とかなると疲れるないのである
バイクでも疲れない、すると相手をお疲れでしたねとか迎えるということはない
車で来た人をお疲れでしたねとか迎えるということもないのである
運転は確かに神経的に疲れるから疲れることはある
でも40キロも歩いてきた人とは違うのである

草臥れて宿借る頃や藤の花ー芭蕉

まさに疲れて草臥れてやっと宿につくのである
こういうことから江戸時代には人情が篤い時代だった
現代は何でも便利なのでそうした情が失われたのである
駅でもそうである、何か待つ時間が人間的なものを作りだしていると何度も書いた
その待つ時間が現代には消失した、車は待たないのである
高速道路のSAだと何か待つということはない、買い物して用をたしたらすぐに車で去るだけなのである

とにかく今歩いて旅したり自転車で旅する人は世間の常識からはずれた人間になる
学生くらいならいいがそれ以上になると普通ではないとなる
だからこそ宿にとまりにくいからテントになるのである
宿で旅館でも歓迎されないからである
つまり肝心の旅して疲れている人をもてなさなくなったのである
そんな汚れた人や自転車の人はテントで泊まってくださいとなる
例え金があってもそうなる

だからこれほど交通が便利になってどこにでも行けるのに旅人がいないのである
ホテルとかに泊まる人は旅人ではない、グルメとか保養に来た人なのである
一時は高度成長時代は会社の人が慰安旅行に団体で来ていたようにホテルは旅人を泊める所ではないのである

それで奇妙だったのは古民家のある山形県の田麦俣から街道を行ったらホテルがあった
そんなところに泊まろうとしたができないと思った
でもたずねてみたら泊めてくれたのである、団体が来ていても泊めてくれたのである
何かそういう人にふさわしい部屋があり泊めてくれた
そこはホテルなのだからそんなことありえないことだったのである
そこはビジネスホテルとも違うからである
そこに泊めたのは女将がいて許可したのである
どこのホテルなのかわからなくなったがあれば例外的なものだった

人間は時代が変わると当たり前のことが失われていたのである
なぜもてなしが生まれたのか?

それは旅人が疲れるので癒すために生まれた

でも電車であれ車であれ来る人は疲れるとういこともないのである
神経的に運転は確かに疲れるが40キロも歩くとかとは違ったものである
自転車も歩くよりは楽でも疲れるのである
でももてなしてくれる宿は今はないのである
もちろん全部というのではないが確率的にはほとんどないとなる

要するに時代が変わるとこうして当たり前のことが当たり前でなくなる
もてなしとか盛んに言うけど本当に疲れた旅人を癒す宿はない
ヨ−ロッパですら巡礼の人たちをホスピスしていた
そして病人になったらそのまま看護してケアしていた
それがホスピタル〈病院)の起源だったのである
旅人を癒す介護することが病院の起源だったのである
それは交通が不便だからそうせざるをえないとなっていたのである

なにかどこでも人情がないというときそれはみんなあまりにも便利な生活に慣れているからそうなったのである
不便な時はかえって人を思いやるということがあった
私は無人駅で案内のボランティアのまねごとをした
その時、見ているのはスマホである
それでもわからないことがありその時教えることがある
でもスマホだとそういうことがほとんどないのである
そこに会話もないのである
だからこそ無人駅になりどこも無人化してゆくのである
情など必要ない、人はコストだとなりいらないとなる

そこから起きてくることは何なのか?
駅に駅員はいない、スーパーにレジがいない、コンビニもいない、車でも自動運転だとか人がいなくなる、自動化して人がいなくなるのである
機械がロボットが代わりになりAI化でどこにでも人がいなくなる、無人化する
その時人間の役目は何なのだろうとなる

でも考えてみるとスマホだと地図の代わりになり人に聞かなくてもわかるかもしれない
でも観光案内となるとその土地に住む人に案内されないとわからない
その案内を私はできる、それは機械にはできない、インタ−ネットに情報が出ていても
その場所で説明されるのとは違うからである

ともかく東北を最後に自転車で旅しようかと計画している
今度買った電動自転車は楽に走れるからである
でも荷物がのせらられないので困っている、新しいヤマハのがまた出たがJPYーTCはエンジンが同じものでありいいものである、それは荷物がのせられるのである
ただやはり30万以上で高いので問題である
だから今のマウテンバイクで行くかと準備している

正直もう10年は長い旅をしていない、ほとんど旅していなかった
だからまた自転車で旅するとなるときつい、でももう自分には時間がない
最後のチャンスなのでなんとか行きたいと準備している
テントももっていけないと泊まるのに苦労するが充電しなければならないのでどうしても泊まることになるから結構楽ではない旅になる
何かどうして自分の場合不器用で失敗が多いから困るのである  

今日も雨の中用があって相馬市に自転車で行ったら眼鏡の片方のレンズを雨滴を拭いたりして落とした、これも大失敗だった、なぜなら眼鏡は5万くらいしたからである
何かレンズがきつく入らずに落としやすいものだったのである
それが自転車の振動で落ちたのである
何か自転車というのはトラブルがある、この前は暗闇でライトがなくて転び危険だった
何か命にかかわる危険もある
また車に追い越される時なども危険である、後ろから急に車が来るからである
だから自転車では実際三回くらい死に目にあっている

何か80歳の人が日本一周してトンネルで死んだことがあった
トンネル一番危険なのである、自分もトンネルで死ぬ思いしたからである
東北は自分のアイディンティティの場だからどうしても最後に旅したいとはなる
どうしても体力的にももうできないと感じるからである

2020年12月07日

富士山が見える範囲 (四街道市に住む半杭氏へのコメントの一つ)


富士山が見える範囲

(四街道市に住む半杭氏へのコメントの一つ)


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富士山と筑波山

富士山の見える範囲



半杭氏のプログを見た、四街道市から富士山が見える写真がのっていた
茨城県から富士山が見える、冬だと空気が澄んでいるから見えやすい
他でも同じ写真がでていた、茨城県からなら見える
でも四街道市は千葉県なのである、千葉県からも冨士山が見える

富士山が見える範囲は実際は茨城県までである、福島県からも一部見えるがかなり小さくはっきりしない、茨城県だと写真で見るようにはっきり見える
ただ千葉県の四街道市からも見えるのか?茨城県から見えるとなると見える
富士見市とか富士見野市は埼玉県である
だから富士山の見える範囲は広いのである、東京からももちろん見える

第一埼玉県の富士見市とか富士見野市から富士山が見える、それもはっきり見えるからその名がついた、でも実際はかなり距離的に遠く感じる
ただ富士山が見える範囲は浜名湖辺りまであり静岡県は富士山が中心に常にある県だとなる   

千葉県から見える富士山

東京湾沿いに富津市とからも見える、この写真をみるとこんなに富士山が大きく見えるのかと驚く、遠くになると相当に空が住んで晴れていないと見えない

この辺では相馬地域になると蔵王が結構大きく見える、でも原町とかになると見えないのである、蔵王が見えるのは南相馬市だと鹿島区までだとなる
富士山の見える範囲は高いのだから相当に広いのである

それで筑波山と富士山にまつわる伝説が残っている、そういう伝説が残っても不思議ではない距離なのである、茨城県から富士山が見えるからだ

ただどうしても地理だけはわかりにくい、富士山を見た記憶としては伊豆半島を旅した時だった、それは本当にもう30年前とかそれ以上にもなっていた
その時西伊豆から富士山を見た、その時菜の花畑がありそこから富士山を見た
伊豆からは大きく富士山が見えた、距離的に近くなっているからだ

西伊豆や菜の花畑に富士の山

この伊豆は西伊豆であり西となるとまた趣が違っている、富士山は駿河湾から三保の松原から見るのは絵になっている

駿河湾魚打ち上げ春の富士

駿河湾で魚が波に打ち上げられたのを見た、何か富士山を見えてふさわしかった
ただ富士山はまだ良く見ていない、富士山を見るスポットがある
富士山が見えるのは冬である、空気が澄んでいる遠くからでも見える
この辺では阿武隈山脈と言ってもそれは阿武隈高原であり山という感じにもならない
やはり高い山があると心もひきしまる、それがここの物足りなさなのである

とにかく人間の住んでいる場所は多様である、ただその地理を理解することが本当にむずかしい、福島県を理解するにも第一会津とかなる全く違った山国でありハマ、ナカ、アイヅとなりその地勢が違っている
ただ茨城県だと山が少なく平野が多い、関東平野になっている
でも千葉県は結構山が多い、埼玉県になるとここも地理的にわかりにくい、何か東京の延長のようになっている、だから埼玉県に富士見市とか富士見野市があったのかとなる

いづれにしろ関東といっても広い、ただ富士山が見えるということが関東の特徴かともなる、千葉県でも茨城県でも埼玉県でも見えるからである
ただ四街道市とかにしてもその地理が良くわからないのである  

ただ今年の新年に富士山が見えた、写真が出ていた、そしてまた冬になり見えた
晴れた日に冬だと見えやすいとなる

富士見ゆる関東に住み冬日没る

富士を見て新年迎ゆ関東圏

こんなふうになるかもしれない、富士山には一回上っただけだった、失敗したのはヒマラヤにまた上って8000メートルの山を見たかった、フ富士山は見る場所で印象が違ってくる、それで良く見いない
ヒマラヤは一回だけ見てで終わった、結局人間は遂に旅もできなくなりその場に立つこともできなくなる、だからいかに旅でも一回限りでありそこにいたことが貴重だったかを知った
飛行機からヒマラヤの峰々を見た、まさに天空に聳える山だったのである
特に海外旅行は一回とかで終わることが多いたら今になると貴重な時間だった
これも結局後から気付くのである
早めに行っていればこうはならなかったのである


2023年07月04日

記憶をたどる旅(東菊(あずまぎく)の由来ー失われた人間の五感)


記憶をたどる旅(東菊(あずまぎく)の由来ー失われた人間の五感)


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岩と霧その名の良しや東菊


忠実な臣下や妻や東菊


霧晴れて様々の花現れぬ一時見しも霧また覆いぬ


●東菊(あずま菊)の由来


アポイ岳は花の山として有名である。様々な花が咲いている。高山植物を低山で見れるから貴重である。そこに登ったのだがその記憶も曖昧となってしまった。それでいかに記憶というものが大事なのか、これでもわかる。何を見て何が印象に残ったのかを記憶されていなければそこに行ったともならなくなる。なぜかアズマギクというのを見たのを覚えている。それがそれを覚えていたのは実は実物からだけではなく後から調べて東菊(アズマギク)というのはあるのを知ったからである。それは霧の中に紫色に咲いていた、小さな菊である。図鑑で調べてみてもそのアズマギクは色がもっと紫色で濃いものとして見ていた。


だから必ずしも写真で撮ったものと記憶が一致するということでもない。なぜならそれは名前から記憶されていたからである。だから意外と名前というのは大事なのである。名前から人でも植物でもいろいろなものが想起されるからである。エデンの園では人の仕事は様々な植物でも花でも名前を付ける事だったのである。他にも地名に興味を持ったがこれも地名という名前からその土地の状態を想起する。 そこに地名の効果がある。地名一つから様々なことが想起される場合があるからである。電車の旅だと駅名が記憶されるのである。 


最初、私は電車の旅をして地名に興味を持ってそこから地理とか地形とかに興味を持つようになったのである。 もし地名とかがなければ、その土地のことを記憶する手がかりがなくなる。 それで人間にとって名前が大事な物となる。人の名前でも名前からその人を記憶するからである。名は体を現わすなのである

それでアズマギクというときやはり東というのが印象的に残る。あずまというときそこから吾妻と言う地域を連想するからである。それは歴史的にも東というのは関ヶ原を境にして東になるからである。そこはまた古代では蝦夷の地域だったともなる。


あずまの語源は? 



この「あずま」という言葉は碓氷峠から東、群馬・関東の方を見て日本武尊が「吾嬬(あずま)はや……」と言ったのが語源だそうです。 「わが妻はもういないのか」と言う意味 日本武尊が関東を平定し、信濃に入ろうとしたとき、碓氷峠から関東平野をかえりみて愛する妻を偲んで言ったのだそうです。


東は我が妻のことなのか?それが地名化したのか?でも何か不自然なものにも思う。別な説として安曇族が東になったという説もある。あずみがあずまになった。なぜなら思った以上に安曇族の痕跡が多いからである自分の住んでいる場所にも綿津見神社と山津見神社が多い。それは安曇族の痕跡なのである。 最初、安曇族は東北地方に入り開拓したのである。それで吾妻山と言うのが福島県にあるともなる。ただここに妻をあてているからヤマトタケルの神話が影響している


とにかく、日本の歴史は西が最初に繁栄して次に東が繁栄したのである。 鎌倉時代に関東武者が鎌倉に幕府を置いた。その時から東が日本の中心になってきたのである。東を治めなければ。日本は治められなかったのである。 征夷大将軍の名は東を征服することだからである。その名は東を制服するということで家康の時代までそれは継続されていたのである。このように花の名一つでも地名でもその土地の歴史とか地形とか様々なものが想起されるのである。



●秀吉の一夜城に行った記憶



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走り来て三日月光る一夜城




長良川西岸の洲股(墨俣)[2]の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城である



旅の経験として秀吉の木下藤吉郎時代の美濃との戦い一夜城を築いたことは有名である。私はその一夜城に向かって自転車で走ったのである。実際に夕暮れになっていて一夜城に着いたときは三日月が光っていたのである。

一夜城とは夜をとうして城を作ったからそう名付けられた。まさに私自身がそこまで自転車で走ったということで一夜城と一体化したのである。それが車で行ったらそうともならないのである。藤吉郎もその時走っていたからである。

ただそこが流れ河の洲の俣ー墨俣にあるとわ思わなかった。細い小川のような水路に沿って走っていたからであるでる。長良川の岸辺の水路だったのである。このように地理というのも実際に行っても一回ぐらいでわわからないのである。でもそこを走ったということが体で記憶されていたからこうして思い出しているのである。


まずここを車で行ったりしたら、このように記憶されないのである。だから車は便利でも意外と記憶されない。旅の記憶とならないのである。要するに鉄道であれ車であれバイクであれ便利なものは旅をしても記憶されない。一番記憶されるのは歩いた旅なのである。私自身がこれほど旅をしても歩いた旅はしていないのである。つまり歩いて大地を踏みしめて人間の五感で感じる旅を今している人はいないのである。例えば西行小夜の中山の歌は歩いたからこそできた迫力ある歌だったのである。


年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山


この小夜の中山は万人に強い印象となって記憶されたのである。もう今になればそんなところ車で通り過ぎれば感じもしないのである。このように記憶されるということが大事なのか分かる。記憶されなければ後で振り返ることもないし印象に残ることもないし。何も残らないとなるからである。車のない時に歩いて。作られた歌でも俳句でも今になると作れないのである。今は車の騒音にかき消されて実際は旅しても何も残らないとなるのである。残ったのは騒音だけだったとなってしまう。つまり人間の五感が。活かされない時代になったなったのである。



2023年09月01日

私の花紀行(ハクサンチドリ、タカネツリガネニンジン、シャリンバイ、ノボタン)


私の花紀行(ハクサンチドリ、タカネツリガネニンジン、シャリンバイ、ノボタン)

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宗谷岬のハクサンチドリ

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岩手山で見たタカネツリガネニンジン

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カンボジアで見たノボタン




ハクサンシャジン (キキョウ科ツリガネニンジン属)【白山沙参】
(学名:Adenophora triphylla var. hakusanensis)
別名:タカネツリガネニンジン

「ツリガネニンジン」の高山型とされ、ツリガネニンジンよりも丈が低く、花が密につきます。

この仲間は個体ごとの変異が多く、地域変種も多いので、厳密には分類の判りにくい花です。

本州中部地方以北の高山や北海道には高山植物的になったものがあり、ハクサンシャジン、あるいはタカネツリガネニンジン(var. hakusanensis Kitam.)という。花茎の高さ30-60cm、花冠は広鐘状で花序の小枝が短く、密集した総状花序になる。
四国の一部の蛇紋岩地帯には背丈が低く、葉が線形で花冠の長さが1cmたらずと小柄なものがあり、オトメシャジン(var. puellaris Hara)と呼ばれる。


ツリガネニンジンは平地でも咲いている。私の岩手山の高い所で見たのは高嶺釣鐘人参だと思う。それは岩場に咲いていた。その時霧がおおっていた。だから神秘的だった。それは平地のツリガネニンジンより大きなものだった。その時写真を撮っていなかったのは失敗である。なぜなら今になるとそれが貴重なチャンスだったのである。つまり写真というのは写真を撮る技術もあるかもあるがどういう場面に出会うかが大事になる。そのシャッターチャンスというのは一度しかない場合がある。

なぜなら高山植物になるとそこには簡単に行けないからである。だから記録さするだけでも大事になる。旅を振り返るときでもそうである。人間ほど忘れやすいものはない。そして回想する旅を今しているが何か全く忘れてしまっているのである。特に外国旅行はそうだった。写真を見てそれを現実に見たという記憶もなくなっていたのである。だから外国の写真というのは貴重だった。でもその頃デジタルカメラがないからあまり記録できなかったのである。

いずれにしろ花の思い出として尾瀬があったがそこもよく記憶されていない。ただ異常なほどに疲れたという記憶がある。あそこは歩いてゆくだけで相当な距離があり疲れるのである。でも30代の頃3回ぐらい行ったがその後は行ったいないのである
一番行ってっているのは北海道でありそこで花を見た。
北海道には寒いから平地に高山植物が咲いているのである。

白山千鳥(ハクサンチドリ)は、北海道〜中部地方以北の高山帯の湿り気のある場所に自生する高山植物で、赤紫色の小さな花を10輪以上咲かせます。 白山で発見され、鳥の飛ぶ姿に似ていることから白山千鳥(ハクサンチドリ)と名づけられました。

雨しとと宗谷岬や旅路来てハクサンチドリを咲くを知りにき

あれは不思議だった。北海道には高山植物がが咲く、北海道は花を見るにはいい場所なのである。大雪山の残雪の踏みしめてハクサンコザクラを見た時は感動した。
何しろ私は北海道に10回ぐらい言っている。そうなったのは梅雨の時期に必ず北海道に行っていたからである。いかに自分が贅沢な暮らしをしていたかわかる。それができたのも家族に恵まれていたからである。何もすることもなくただ自分のしたいことをしていただけなのである。別に私は旅をするとか花に興味あるなどなかった。ただ若い時底辺で流れ作業などばかりさせられて仕事自体が嫌になる結果的に引きこもりになり家族に恵まれて自分のしたいことをしてきたのである。

別にそれまでは花など興味持たなかったのでそれが旅しているうちに花に興味を持つようになったのである。北海道には原生花園などがあり一面に花が覆われたところがありそれでは何興味を持ったということはただ振り返れば花の世界植物の世界もいかに多様多種でありその世界を極めることは至難である。別に私は植物学者ではない。私はただ花の美に触れるというだけであった。それにしても花の種類も多いということをつくづく感じた。

花というのは本当は原生種はありそれがどこに咲いていたのかな大事になる。白い夾竹桃が沖縄の西表島のジャングルに咲いていた。それはもともと南国性であり南国産でありジャングルに咲いていたのである。どちらかというと花は南国産が多いのである。南相馬市区の鹿島区の海老浜に咲いていたマルハシャリンバイは奄美大島の方から種が流れてきてここに根付いて自生した。ここはその南限の地ととなっていることでも有名である。

でも津波で海老村は消失した。結果的に今その説明板もなくなっている。笠女郎の残した万葉集の有名な歌は実はそうした気候と関係していたのである。つまりこの歌は気候の境目でありまた結果的に早めに早い時期から大和朝廷に服属するようになった蝦夷の地域だったのである。そのことは私のプログで追求してきた。

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを

真野の草原(かやはら)は萱のことではない、地名だと考察した。

花どうしても南国系統が多い、花はもともと咲いていた場所で見れば感動する。
例えばカンボジアで見たノボタンがそうである。それはの道に咲いていた。なぜボタンなのかと見たがやはボタンの原種なのだろう。チューリップの原種はトルコである。だからその花がもともとどういう気候と場所に適して咲いたかということを知るべきである。なぜならそれを育てるとなるとそういうそれに適した風土がありそれに合わせないと育てられないからである。

カンボジアの暑さ残れる夕暮れの道に野牡丹見ゆや遠く来りぬ

花と言う時飯館村の森にギンランが咲いているという。それを教えたのはあいの沢の飯館村の案内人である。でもその銀蘭は実際には見ることは出来ない。森にしても相当に深く広いしどこに咲いているか分からないからです。でもそういう花が咲いているということが飯館村がいかに深く広く神秘的な場所か分かるのである。

ともかく花についてはあまりにも種類が多く語り尽くせないものは私は植物学者でもなんでもない。でも花を探求してきたことは確かです。ただそれは花の美を見てきたのであり植物学者とは違う。花に興味を持てばやはり花の名前を覚えることが第一になそれは私が旅をして駅の名など地名に興味を持ったことでもわかる。
そしてエデンの園では人間の仕事がそうした花でも名をつけることであったという。その名前というのは大事なことになるかわかる。だからツリガネニンジンと言う時長すぎるし人参となっているのは何か美的に鑑賞するより薬草とか食料として見ていたからだとなる。。

若苗、若葉、花を食用にできる[4]。春の若い芽は、山菜のトトキとして食用にされ、あくやクセがない淡泊な味わいで素朴な風味で人気がある[トトキとは、ツリガネニンジンのことを指し、「山でうまいはオケラにトトキ…嫁に食わすは惜しうござる」と長野県の俚謡で歌われるほど、庶民のあいだで美味しいものの一つに例えられている[

根は沙参(しゃじん)または南沙参(なんしゃじん)と称し、生薬として利用される。秋(11月ごろ)の地上部が枯れたときに根を掘り出し、細根を取り除いたものを天日乾燥させたものが使われ、
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花でもまず最初は食料としてありまた薬として注目された。美としてだけ見るのはその後なのである。
ともかく意外と人生において盲点になっているのは。人間は忘れやすいということである。だから何度も言っているように旅するにも記憶に残るような旅をしろと書いた。それは人間というのは忘れやすいからである。
それで車の旅は便利なのだがその途中のことは何も記憶されないのである。また電車の旅でもそうなりやすい。ほう新幹線になったら途中は何もないのでだから飛行機の旅というのは何にも見えないからつまらないのでは何か記憶にとどめるにはやはりその場のその場に立ち歩き五感で感じる必要があるからである。
だから現代人というのはかえって五感が衰え自然でもなんでも感じ方が希薄になり自然でも深く見ることができなくなった。旅するにしても車が行き交うだけであり旅人はいなくなったのである。そこにやはり失うものはあったのである。

私は時間はいくらでもあった。金はなくても時間があった
だから最低限のもので間に合わせて旅をしたのである。だから時間というのがいかに貴重なものであったか最後に振り返れば分かるのである。あなたが何を見て何を経験したのかそれが人生の終わりに老人になって問われるのでは。
そしてその時間は戻ってこないし再び体験することもできなくなった。まず山に登るということは相当な体力が必要であり若いうちにしてないとなかなかできなくなる。ただ自転車の旅だったらもしかしたら老人でもできるかもしれないそれでもつらいものとなることは確かである。なぜなら介護になってから既に十数年もは旅していないからである。だから旅する時間というのも限られているし何でも限られている。時間は限られたものでありその中で体験したものが習得してきたものはあなたの人生だったとなるのである。