2009年03月09日

春の山(遍路の思い出)

                
      (内子)
                                                     
庭広く蔵のいくつか春の山


街道を内子に来る春の山
 

街道の四国の辻や春の山

碑も古りて遍路交わる春の山

春の山旅は道連れ遍路かな


四国は春にふさわしい、内子の豪商の家の門を入ったら中は広々とした庭があり蔵がいくつかあった。四国は旅するには一番ふさわしいかもしれない、遍路がどこにでも歩いている風景はここしかない、歩いて旅している場所は日本では四国しかない、あとは歩いて旅していると異様なものとして見られるのだ。それだけ人間は歩かなくなった。すべて車だから歩いてあうということもない、歩く旅を経験するには四国に行くことである。自分も自転車だから歩く旅をしていないし、経験したことがないのだ。旅は道連れなどというのも遍路だとありうる。相当数の人が歩いて旅しているからだ。昔は江戸時代はあのようにして人は歩いて旅して交わっていた。遍路の装束の人に出会うとなんか本当に江戸時代にタイムスリップした感じがした。そこに江戸時代の継続を感じたのだ。山伏の格好をして街を歩いても今では異様である。四国ではそれがなお風景としてあっていることが不思議なのである。遍路の道には古い碑が多い、遍路で死んだ人も多い、碑が建てられたのは裕福な人であり建てられない人が多かった。遍路は東北の人がかなり行っている。どこにでも金比羅の碑がありこの南相馬市の鹿島区の栃窪村からも金比羅参りのための箸蔵寺への道標を寄付していたのである。金比羅講があり布教して金比羅へ導く人が東北にもかなりきていた。どこの村にも金比羅参りに行った記録が残っているからだ。この金比羅参りは江戸時代の後期から盛んになり明治までつづいていたのである。東北でも全国的に金比羅の碑が多いのである。遍路にまつわる話はいろいろあり今もつづいている。インタ-ネットに遍路の話は情報は豊富である。それを郷土史で書いた。


ずいぶん30年間も旅したけどこれでも本当に旅したのかというとそれほどでもない、いつのまにかに旅も終わってしまったのかと旅をそれほどつづけても人生はつくづく短い、何をしても何をしなくても人生は短いものである。あっというまに夢のように消えさってしまった。せめてこの世の生きた記念に四国を大地をふみしめて歩いてみるのもいいだろう。年をとると体力的にはきつくなるがそれもこの世に生きた最後の記念である。一番いい季節は春である。今やただ思い出す旅をしているのも不思議である。ここ三年以上は旅らしい旅をしていない,一日泊まる旅をしただけである。そして今や長い旅には行けそうにない、やはりこれだけ旅をしてきたとなると旅にこだわる。


鑑賞 
 
命二つの中に生きたる桜かな
 
 
これは芭蕉が俳句を教えた服部土芳にあったときの句である。20年ぶりに会ったのである。江戸時代には離れたら簡単に会えない、今なら新幹線でも飛行機でも合う気なら外国でも合える、そこが根本的に違っていたのだ。遠くの人と合うということはそれだけ貴重なことになっていた。一旦分かれたら二度と合えないとか普通である。しかし今は別れてもいつでも合う気があれば合えるのだ。だから人間が合うことの重みが薄れた。いつでも合えるじゃないか、どこにいても合えるじゃないかとか合う重みがないのである。ということはかえって人間はいまこうした句は作れないのである。自分もこれがそういう背景があるのを知らなかった。やはり俳句は背景をしらないと鑑賞できないのである。特に江戸時代はそうなる、今の感覚では鑑賞できないのだ。
命二つとは20ねんぶりにあってこの世に生きて桜をともに見たということなのだ。20年ぶりの歳月を知らずしてこの句は味わえないのである。

2008年09月15日

萩市の思い出(秋の短歌十首)

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萩の思い出(秋の十首)


秋の日や白壁の道萩の町歩みしあれや昔偲びつ

遠き日や我が旅せしは萩の町竹にそよぎし秋風すがし

萩の町白壁の内家古りぬ秋の日静か志操育む

街中に水の流れの清しかな秋の日静か旅人歩む

萩の城芒に淋し我がたずね天守もなしも残る石垣

松陰の風雲の旅はるかなり帰らざるかな秋の萩行く

萩の町壁の崩れて誰か棲む秋の日さしてあわれ深まる

萩の町曲がりし辻や白壁の塀のつづきや秋の日暮れぬ

萩の町思いば遠しみちのくやそのへだたりに秋深まりぬ

みちのくゆ京は遠しも会津藩虫の音しげく滅びけるかな



萩というと今になるとここもずいぶん遠い、地理的にここも不思議な一角だった。今や思い出す旅なのだが萩というと実際は京都からも遠い、この遠さ知って歴史もわかる。歴史は地理なのだ。会津は京都にあまりに遠すぎたのである。その距離感は今では推し量ることはできない、今でも思い出すと遠い町だったとなるからだ。そもそも萩の町からなぜ明治維新の志士が排出したかなどみちのくから考えるとわかりにくいのは地理的感覚がわからないからだ。人間の生活は江戸時代になれば地理的に分断されていた。京都や萩となると地の果てのように遠い感覚になる。そういうところで何が起こっているのか把握しにくいのだ。江戸とみちのく、京都とみちのく、そして萩とみちのくが結びつけて考えることは容易ではない、今も確かに一日で行けるとしてもやはりその間を想像すれば遠いのである。旅が思い出の中に想像の中にイメ−ジとして浮かび上がらせるとなると何かまた違ったものとなる。萩は日本海に面していることももの寂びた感覚になる。瀬戸内海なら違っている。ただ瀬戸内海に近いから距離的には問題なく瀬戸内海から九州の薩摩と結びつきやすかった。そうした距離感がみちのくからは具体的にイメ−ジできないのである。萩藩の歴史も戦国時代から考察しないとまた深部から理解できない、歴史が理解しにくいのは地理がありそこに刻まれた生活の時間がありそうした総合的なものとしてイメ−ジできないからである。萩の町が印象に残ったのは明治維新の志士が排出したとかではなかった。その街並みが江戸時代のままに残っていたことだった。そこが日本人の原風景のように心休まる空間だったのである。日本人の心はそうした日本人の原風景として形成された文化的なもののなかに育まれた。それは全体であり部分ではない、全体のなかから人物も育まれた。そういうものが萩には残っている。日本人の情緒が育まれたのはまさにあのうよなこじんまりした城下町だったのだ。

 

幽閉中の詩
「世のことは絶えてをぐらき山里にこころつくしの夜半のともし火」清水清太郎

この歌のようにかえって勇ましいのではないものが心に残る。維新というと何か大仰なものを想像するが人間の根底を形成するものは派手なものではなくこうした静かなものでありそれが不変的なものとして残るのである。ともかくみちのくとのへだたりが京都や萩を思い深いものとすることがある。そこはもう二度と行けない町かもしれないとしたら特にそうなるのである。人間はそんなに旅はできない、いづれはただ思い出の中に旅はめぐり終わってしまう。だから旅は思い出せる旅をしみじはとした旅をしておけとなる。ゆっくりと町を巡りふみしめる旅をしておけとなる。京都とか萩とかはみちのくと遠いへだたりのなかにある。これは別に電話で毎日話せるから遠い一度きりしか会えないとかではない、やはり距離はある、その土地を実際に踏むことは今でも遠いしなかなかできないのである。


みちのくゆ京は遠しも会津藩虫の音しげく滅びけるかな

まだ秋深まるではないが暑いから秋とも思わなかったが実際は秋は刻々深まっていたのだ。

塀の街−萩の不思議
http://www.musubu.jp/jijikyodoshi.htm 

2008年08月21日

心はレ−ルともに真っ直ぐに福山駅へ


心はレ−ルともに真っ直ぐに福山駅へ

 

私の心は真っ直ぐなレ−ルとともに伸びている

そこに福山の城の駅がある

そこはみちのくからははるかに遠い

しかし私の心はじかにレ−ルとともに伸びている

私の心の中で電車はそこを目指して走ってゆく

その時距離は感じない、障害物は見えない

真っ直ぐなレ−ルが伸びて電車はその駅を目指して走る

春の日、花盛りの福山城は駅になっている

その天守閣に花見の人々、私もそこにいる

次々に栄えた南の国々の城が連なる

距離はなく障害物もなく一直線に福山の駅と結びつく
 
福山駅となるとみちのくからは広島県だから相当な距離である。山あり川ありでありもし歩いて行ったら片道でも一カ月とかの距離である。でも汽車は電車は距離の感覚を無くしたのだ。汽車というと蒸気機関車の感覚がまだあった時代である。電車は通勤電車とかのイメ−ジである。電化してスピ−ド化したものである。この距離感が喪失した感覚は新幹線に一番当てはまる。目的地に一直線に飛行機かロケットのように走ってゆく。電車で相当旅したけどその中で印象に残っているのは福山駅なのである。そこには城があり花盛りの時に訪れた。駅が本当に城のすぐ近くというのは他にない、城が駅になっていると同じである。亘理駅も城の駅を作ったがあそこに城がもともとあったわけではない、城はたいがい駅より離れて作られている。だから駅と城が一体化することはありえないのだ。ここだけが例外的にそうなっていたのである。人間の心は交通によって変わる。近くても交通が不便なら遠いのである。福島県は浜通り、中通り、会津と別れて地理的に隔絶されている。だから一体感がもてないのだ。ただもし浜通り−中通り−会津を横断する鉄道、新幹線のようなものができれば一体感がもてる。浜通りは鉄道で仙台と結ばれているから仙台と一体感をもっているのだ。心の距離と実際の距離は違う、鉄道は技術は物理的な距離をなくしたのだ。それにより旅が過程であること旅することが喪失したのだが距離の感覚がなくすことにより遠くは心の中で真っ直ぐなレ−ルを通じてとなりにあるように結ばれてしまったのである。それが福山駅で象徴されていた。歴史と鉄道がじかに結ばれたことでより効果的なものとなった。そこが現代の近代的駅だったらまた別だったのだ。過去の栄いと今の栄いが結びついたことに意味があったのだ。

2008年07月09日

中仙道の俳句(月が友)

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中仙道の俳句(月が友)

旅行くや中仙道は月が友
 

宿いくつ中仙道や月の宿

夕月や妻籠の宿の物干し場

夕月や妻籠に泊まり明日馬篭

 中仙道ぬけて恵那にも月添いぬ

月あやし恵那に奇しくも野宿かな
 


俤や姥ひとり泣く月の友 
(おもかげや おばひとりなく つきのとも)


十六夜もまだ更科の郡かな 芭蕉

桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな 子規
 
馬籠下れば山間の田野照稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐蘇の峡中は寸地の隙あらばここに桑を植え一軒の家あらば必ず蚕を飼うを常とせしかば、今ここに至りて世界を別にするの感あり
 
中仙道と東海道は太陽と月のように対象的な街道だった。東海道は太平洋沿いの道であり山をぬうて行く中仙道とは余りにも違っていた。川止めがあり中仙道を通るようになった。中仙道は今でも江戸時代の面影が残っていることである。東海道は途切れ途切れにしか面影を偲ぶことができない、それより大都会を通るので昔のことがわかりにくいのだ。高速道路を通ったりしたら全然昔の東海道のことはわからない、中仙道は山深い道を行くから変わらない昔を偲ぶことができる。妻籠ではまるで映画のセットにでも使えるように昔の宿場町を再現した。中仙道は三、四回も行っている。夏には自転車でも行っている。旅はまず二三日の旅は旅にならない、それは保養と休養であり旅ではない、だから現代で旅することは勤め人にはむずかしいのだ。いくら新幹線で遠くに行っても旅ではない、それは移動なのである。物理的移動にすぎないのだ。昔の人は遠くに行くこと自体旅だった。歩いてゆくのだから隣の町に行くのも旅になる。行き帰りを計算すると時間がかかるからだ。旅は長くないと旅にならない、子規の書いたように妻籠を越えると馬篭になりここから山間の野が開けてくる。山深い中仙道をようやく出たという解放された感じになる。山の影なす暗い中仙道をぬけて明るい開けた野に出てくる。ここから名古屋へ東海にも通じている。美濃から尾張への道でもある。実際自転車では名古屋から太平洋フェリ−で仙台に帰る道だったからだ。妻籠から峠を越え馬篭まで歩きそこから見下ろしたたら道がなおつづいている。この道は国道ではない、細い道である。ここからさらに道がつづいている。それは確かに明るい穏やかな春の日だった。旅とは道をどこまでも行くことなのだ。道とは未知なのである。道を行く限り未知の世界は延々とつづいているのだ。
 
馬篭に出道なお遠し春の昼


I came out from Tumago to Magome
I am on my  travelling way in the distance
at noon in spring


 
この時ただこの道を見下ろしただけであり行くことはなかった。子規も自分と同じことを感じていた。穂麦の畑がつづいていた。その頃麦畑が多かったのである。
 
十六夜もまだ更科の郡かな 芭蕉
 
この句も歩く旅なら長い旅をした人なら実感としてわかる。江戸時代は特に関所がやたら多いのだから特にそうである。なかなか一郡を出ることができないのだ。しかしそのなかで十六夜の月を十分に味わうことができたのである。スロ−だからこそ自然のリズムともマッチできたのである。とにかく早い旅は印象に残らない旅となる。今は記憶をたどる旅をしている。するとどれだけ記憶に残った旅なのか、それによって書くことも左右される。馬篭から十曲峠を通り美濃に出て尾張に出てきた。馬篭から恵那に出てそこで野宿したことがあった。その時月が出ていた。それが印象に残っていた。月が中仙道からここまでついてきた感じだった。

送られつ別れつ果ては木曽の秋」でもあった。中仙道は月がにあう街道であったのだ。
 
数をつくし、おのがあやしと思ひし事ども*話しつづくるぞ、風情のさはりとなりて、何を言ひいづることもせず。とてもまぎれたる月影の*、壁の破れより木の間がくれにさし入りて、引板の音*、鹿追ふ声、ところどころに聞えける(更科紀行)

これは旅での出合いを語っている。旅で出合う人は語ることは何ともいえぬあやしさがある。特に江戸時代は旅であう人は現代であう人とは全然違っていた。異色の人と出合うことが多かったのだ。現代で出合う人はたいがいサラリ−マンでありビジネスマンであり仕事の人と出会うことが多い、まず旅している人とは出合わない、旅ではなく保養に来ている人である。バイクとかで旅している若者はいるがこれも一つ屋根の下でこのような話になることはない、つまり旅は常にせかされた早すぎるものになっている。バイクも早すぎるのである。若者も旅をしているというより移動している人が多いのである。江戸時代に旅の宿であったような経験をできないのである。まず旅で印象に残るような人とは合わないからだ。現代では人は簡単にあうことができるから一期一会の出合いもない、合うことが余りにも簡単だから人の貴重な出合いもなくなったという皮肉があるのだ。
 
旅行ける人影留む恵那にあれ月のあやしく野宿せしかな
 
なぜかここに私も月によって留められ一夜野宿したのである。これもバイクだったり車だとこうはならない、自転車だとなかなか先に行けないということがある。歩きだったらさらにそうである。バイクだったらどこかの宿を求めることは簡単である。留められることはないのである。ともかく旅でも記憶の旅となるといろいろ再構築する必要がでてくる。その時どれだけ印象に残る旅をしたかがわかる。インタ−ネット時代は写真は豊富だし簡単な説明はいくらでもでている。だからあの辺どうだったかなと調べてみるとその場所の写真は必ずでているし説明もでていて書きやすいのである。ただ恵那と伊那を混同していたように記憶はあいまいになってしまうのだ。
 

今回の中仙道は月をテ−マとしたが次回はまた別なテ−マで書いてみよう
プログはこまぎれに書くことになる。短いから書きやすいというのもある。ただ余りにも断片的になりやすいのが欠点である。

 
 

写真はとりあえずここに

 

2008年05月28日

初つばめ−燕来る(旅の句一〇句)

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旅路来て赤絵の町に初つばめ 

帰化人の陶部(スエベ)の町や初つばめ

目敏くも子供見つけぬ初つばめ

瀬戸内の潮の速さや初つばめ

つばめ来る祖谷の奥まで旅路かな

つばめ来る稚内までも旅路かな

飯館に半年ぶりやつばめ来る

石増やし庭を作るやつばめ来る

つばめ来るパン食に変わる我が家かな

新しき花を植えたりつばめ来る

道の駅南相馬や初つばめ

停滞を破る速さや初つばめ
 
初つばめというとき一番印象に残っているのは赤絵町まで旅した時であった。みちのくから九州は実に遠い、そこで初つばめが飛んだので鮮明に印象として残っていた。それがこの一句だった。しかしそれも30年前とかなっているのだ。旅でも記憶でも時間と関係ない、鮮明な印象として残っていれば時間がたっても新鮮なのである。老人になると思い出が宝であり記憶に残ったものが珠玉のような価値となる。この世に残る一級の芸術品が時間とともに色あせないと同じである。
 
寛文十二年(一六七二)には赤絵屋の集落として赤絵町が既に存在している。
 
赤絵町がこんなに古い所であった。この時代から赤絵町という名はすでにここに存在した。九州は大陸との関係が深いのだ。
 
今日は締め切りの時間切れとなった。つづきは明日書いてみよう。インタ−ネットに興味深い有田焼の歴史が出ていたのでそこから引用して書けるだろう。俳句や短歌は短いから連作にすると一つの文芸となる。そしてやはりその俳句の作られた背景を歴史など読み解くことが不可欠なのだ。赤絵町というときそこにはヨ−ロッパまで広がる遠大な歴史があったからだ。
 

2008年05月25日

祖谷の俳句(春)



祖谷の山清流ひびき燕来る

燕来る祖谷の奥まで旅路かな

キセキレイ黄のあざやかに春の谷

さえづりつわたるや高きに祖谷の家

祖谷の家春日あたりて山の上

祖谷の奥花散り暮れぬ琵琶の滝


春の日や祖谷を下りて出合かな

祖谷を出て春田ひろがる城一つ

祖谷をいで平城一つ花見かな

祖谷の思い出は祖谷から出る時に出合という所があった。出合う場所だからこの名がついた。ここの霊山の麓にも行合道とあるから山国では山に閉ざされて暮らしているから山から出るところで出合とか名がついた。祖谷を出ると平地に出て電車にのり小さな城があった。その城が山深い祖谷を出て見たので新鮮だった。それほど祖谷は山に閉ざされた世界だった。その城では花見をしていた。城があるから平地があり米もとれる。それが日本では当たり前だが祖谷から見ると違っていた。つまり祖谷はそれだけ不便な場所だった。四国は山深いし山が高い、平地は少ない、山頭火の分け入っても分け入っても青い山とは四国の山々だった。しかしあの高い山々を上って歩いて行ったとすると大変である。今になればあそこまで行ったというのもずいぶん遠い、燕来るというとき稚内まで自転車で行った時も5月だったが燕が来る、燕がしきりとんでいた。北海道は夏でもまだ春だった。「燕来る稚内までも旅路かな」ともなった。

2008年04月10日

福山城の桜(瀬戸内海の船運と結びついていた城)


福山城の桜(瀬戸内海の船運と結びついていた城)


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福山城天守に人や花盛り

鞆ノ浦船の通い路春の星

(倉敷)
万能倉長者御門や春の街


曙町御船新涯春の旅

天女浜潮見東御所春の海

駅おりて福山城の桜かな瀬戸内海と通ず栄いなれ

ひた走る電車の窓に桜かな南の栄いこの一時に

海開け春山つづき桜咲き船も行き交い電車も走りぬ

(尾道)
船行きて三重塔や尾道に瀬戸内海の春の夕暮  


   福山城から南東に流れる運河「入川」は瀬戸内海まで通じる運河で明治時代に山陽鉄道が建設されるまで物流の中心となっていた。城下にはこの運河に接して藩の船を泊める「舟入」があり、城下を出た場所にも係留場があった
 

ここに詳しい地図
http://yagumo2.hp.infoseek.co.jp/fukuyamasiro.htm

 
伊沢蘭軒(森鴎外)
 

此辺堤上より福山城を松山の間に望む。城楼は林標に突兀たり。四里今津駅なり。高洲をへて示嶺(ばうしれい)にいたる。(一に坊寺(ばうじ)といひ一に牡牛といふ。)一本榎より此に至て我藩知に属す。土地清灑田野開闢溝渠相達して今年の旱(ひでり)に逢ふといへども田水乏きことなし。嶺を下て二里尾道駅なり。此駅海に浜して商賈富有諸州の船舸来て輻湊する地。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2084_17397.html

 

福山にとって鞆とは
http://pub.ne.jp/ANKO/?entry_id=1157975


福山城が印象に残ったのは新幹線の駅であり駅をおりてすぐ福山城を見れるからである。立派な石垣に沿って新幹線が走るのはめずらしい。現代の旅はまず汽車→電車からはじまる。だから駅が重要な旅の出口であり入口になる。江戸時代なら関所になるが現代は駅なのである。最近は車時代だから道の駅が旅の駅として重要になってきているのも交通で旅は変わる。そこで旅が昔と違い表面的な点な旅になってしまった。電車の駅から駅の旅であり新幹線になったらそれこそ普通車の駅から駅の旅もなくなっているのだ。福山城は立派な城であり桜が満開のとき見たから印象深い、大阪から南は大きな城が多い、その代表が姫路城でありこれも車窓から眺めたときは感激だった。瀬戸内海沿岸で盲点となっているのは電車の旅だといつも瀬戸内海が見えるわけではない。海が見えない場合も多い、福山城では海のことが全くわからなかった。城に上って海が見えれば海を視野にした感想があるのだが海が見えないと海と関係ないように思ってしまう。瀬戸内海や四国だとじかに海とつながっている城がかなりある。明石城や今治城や高松城は海がすぐ前であり実際に海から船が入る施設を備えていたのである。
 
東北にはこういう城がないから直観的ににわかりにくい、瀬戸内海の船運がバックボ−ンとなって城を支えていたことがわかりにくいのだ。尾道の三重塔も船を使いもうけた商人によって寄進されり船と関係することが多いのだ。これが船の旅だったらわかりやい。福山城には城に通じる運河があり城にじかに船が入るようになっていた。船町、船入町、御船町とかあるのもそのためである。船入寺もあり寺町に船で入っていたのである。そのあと運河は埋め立てられてわからなくなった。江戸城も運河で結ばれていたから船運は交通の主役だった。それが現代では実感としてわからないから歴史がわかりにくくなっているのだ。鞆ノ浦も福山と関係あることが旅してわからなかった。電車だと線と点の旅になり面の旅ができなくなるのだ。だから面の旅はあとから想像して旅する他ないのだ。インタ−ネットがその想像の旅をするのにいいのである。ただその前に実地に一回くらい現場に行っていないとこの想像の旅もむずかしいのである。旅とは旅する前−旅している時−旅をふりかえる−この三つがあって旅は完成する。その最後の完成をしている。それでインタ−ネットの情報が役に立つのである。

 
海よりの風に吹かれて満開の桜に人や福山城かな
 

海に出て瀬戸内海を見て海の風に吹かれて福山城を見れば感慨は違ったものとなっていたのだ。電車で来ておりたら海の視点がないからである。電車の旅は点(駅)と線(線路)だけになりやすいのである。だから面を理解することがぬけてしまうのだ。
 
地名的にも倉敷も船運で栄い運河の街なように「万能倉長者御門や春の街」その繁栄が地名からも想像できるのだ。他に入野とか海田駅とかあるのも瀬戸内海らしい、というのは海があり田があり入野も山を分け入る日本的な風景だからだ。だから万葉集にも入野の歌が残っている。ともかくみちのくから大阪であれ瀬戸内海となると実に遠いのだ。西とみちのくではこれも相当な経済力の差がある。豪商は西に集中している。みちのくではまれなのはやはり船運の交通の要衝にならなかったからである。

 


 

2008年03月23日

近江俳句集(秋)


近江俳句集 
 

枯木一本近江塩津の駅淋し

柿熟りて若狭造の家古りぬ

近江路や若狭造に枯野かな

晩秋の朽木の村や月曇る

雪埋もる湖北の里の秘仏かな

菊大輪由緒正しき歴史かな 

柿なりて近江聖人の跡訪ぬ 

朧月古美術店や路地の裏

山科や京の人と歩み秋深む

秋の暮烏帰るも皇子山 

秋の暮古津とありし昔かな

幻住庵訪ねえざりき暮の秋   

近江国治めて広し秋の暮

紅葉映え琵琶湖を望む彦根城

鉢の菊表具師の住む彦根町

月い出て多賀大社や暮の秋

散紅葉近江の旅の幾日か

2008年03月09日

伊豆の旅(春−短歌) 


伊豆の旅(春−短歌) 

 
春の波打ちひびきつかもめ飛び旅人の行く早春の伊豆

寄する波白く砕けて丘の上に朝咲き開く椿の花かも

山頂に春風吹きて開国の下田の港真下に見ゆ

汽笛なり船の入り来ぬ下田港夕雲赤し春の日の暮る

山頂に花吹き散りて風強し開国の港に春日落ち行く

潮風に椿は赤く咲き揺れて真近に望める白き富士の嶺

今日もまた富士を望みて船い出る伊豆の港に椿の赤しも

伊豆の海に花吹きちらふかなたには富士を望みてひびく波かも
 
椿を歌っているけど椿自体が記憶にない、その時作ったものであり俳句のようにあとから作っていない、椿のことは記憶に残されていない、下田に強い春風が吹き、ケ−ブルカ−で高い山から下田の港を見下ろしたことは覚えている。変わった地形だったからだ。今ならデジカメがあるから次々にとっていれば思い出したかもしれない、デジカメは数をとることなのだ。そしてあとで思い出すために加工するためにとっておくのだ。その時はできなかったから残っていないのである。


 

2008年03月08日

春の富士十句


波ひびき駿河に望む春の富士


春富士や波に踊れる魚かな

白砂に天女の松や春の富士

駿河湾向こうは伊豆や春の富士

早春の伊豆やまじかに春の富士

我が寄らじ雲見や遠く春の富士

ゆくらかに場所を変えつつ春の富士

静岡や新幹線に春の富士

旅長しその日は遠く春の富士

恵まれし旅の日長し春の富士

晴れやかに富士を見ゆかな春の日に
         なお生きてあれ日(ひ)の本(もと)の国に


松静か我がよりにつつ長々と春の富士見ゆ心おきなく


 


初富士へ荒濤船を押しあぐる
石田波郷


陸の富士海の富士見て年新た
太田嗟


  伊豆から駿河湾とかへ旅したのは相当前である。20年以上は前である。その時のことを思いだししてまた俳句を作った。その時は作っていない、作ったとしても記録のような俳句だった。その時作った俳句であまりいいものはないが記録としてはいい、旅とは何回も言ったように記録が大事なのである。ほんのちょっとしたことでも記録してあるとそこから旅の記憶が蘇るからだ。そしてこうしてまた俳句を作ったりしている。駿河湾に出たとき鮮明に記憶しているのは魚が波によって打ち上げられていたのだ。生きているような魚だったのだ。
 

相模国に至ったとき、倭建命たちは相模国造の放った火に取り囲まれてしまいました。そのとき、倭建命は、叔母の倭比売命から与えられていた草那藝剱で草を薙(な)ぎ、袋を開いて中の火打石で火をつけ相手側の火を押し返して野火から脱出し、逆に敵を焼き殺しました。
それゆえ、この地を焼遺というようになりました。
(日本書紀では駿河国の焼津とされます)
「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」

 
この歌も有名である。ここは劇的に海からのドラマが展開された場所なのだ。弟橘比売命が、これは海神の怒りを静め倭建命を救うために身を投げたというのも実際にただならぬことがおきて伝説化したのである。地形的に船で上陸するのに駿河湾は適していたからこそ焼津に上陸したのである。
 
この時撮った写真はない、でもその時の伊豆と駿河湾のことは脳裏に刻まれているインタ−ネットで写真を見るとその時の光景が蘇ってくる。西伊豆を回って駿河湾に出た。そして何度も雪の残る春の富士を十分に見たのである。その時時間は十分にあった。その時間こそ旅には最も必要なものだった。旅はまず勤め人のように時間が制限されたらできないのである。今になって介護で勤め人のようになったから実感としてわかった。一カ月くらい時間を気にせず旅ができないならまず旅はできないのだ。だからつくづく勤め人には保養はあっても休養の旅はあっても旅そのものはできないことがわかった。
雲見という地名は変わっていたので記憶していた。ここからの眺めは確かにいい、ここは地名だけが記憶された。雲を見ていて富士が見えるという何か浮世離れした感じでいい。早春というと伊豆がいい、海と山と富士が見えるからだ。新幹線だと静岡に入るとくっきりと富士が見える、でもたちまち去って見えなくなる。
短歌で日本(にほん)というと何かぴんとこない、やはり日(ひ)の本(もと)、日本(大和)−ヤマトとした方が大和言葉でしまってくる。ただ日の本と大和はまた感覚的に歴史的に違うのである。もともと日高見の国が日の本のくにとなったとか大和の前に日高見の国がありそこには蝦夷も含まれていた。大和は奈良の大和という一地域の名前でありその地域が日本の国の起こりとなるから大和となると奈良を強く意識するのだ。大和言葉があってこそ詩も生きるのであり漢字では日本は日本でありえないというのも真実である。
富士山に関するものは膨大である。富士の俳句だけでも膨大であり富士を常時ながめる場所に住んでいる人は幸せだとなる。
 

富士山の辞書
http://bungaku.fuji3776.net/cat7/

 

(雲見温泉)
http://www.d2.dion.ne.jp/~kumomi/
 

2007年10月10日

間宿(あいのしゅく)について


間宿(あいのしゅく)について

新酒くむ村と村の間(あい)の宿(蕪村)

虫の音や昔を偲ぶ間(あい)の宿(老鴬)

一山越えるに遠し虫の声

ようやくに飯館村をい出ゆくや虫かそか鳴き食事とりにき
間宿(あいのしゅく) 宿場と宿場の間が長い場合,その途中の街道沿いに休憩所として茶屋や立場が設けられたが,その立場が発達して大きな集落となったもの。多くの施設が立ち並んだが,宿場町を保護するため,宿泊は幕府によって厳しく制限された。
新酒の季節なのだ。冬から春にかけ、蔵人たちによって造られた酒は、樽に詰められ酒蔵の中で秋まで貯蔵される。

 ◆茂田井宿の入口に立つ道標。そばの立て札には、こう書いてある。
「江戸時代、茂田井は望月宿と芦田宿の中間に設けられた間の宿で、文久元年(1861)和宮御下向の際は、十二軒が御弁当宿となった。現在も豪壮な構えの家が立ち並ぶ古色豊かな集落である」
 
諏訪高島藩初代殿様『頼水』は上諏訪宿と金沢宿の間が長いため、
茅野村に宿場を造る(諸役免許)を作成しました。

半日の旅でも自転車や歩きだと旅になる。なぜ間(あい)の宿というのに興味をもったかというと一山越えると飯館から川俣に入るしもう一坂越えれば山木屋に出てそこにコンビニがありおにぎりも売っているからそこまで行けばいいのだがここでかなり疲れるから休む、いい具合に店があるのだ。前もここで休みパンやジュ−スを買って休んだのだ。ここは歩きとか自転車だったら必ず休息する場所になる。車だったらこういうことはない、必ず便利なところに行けるし距離も関係ないからだ。自転車は一山越えるのが大変なのである。私の場合は坂は歩いているからさらに遠くなるのだ。でもこれが旅なのである。不便なこと難儀なことが旅なのである。それがないから今は旅はない、半日でも歩いたり自転車なら旅になるのだ。
間(あい)の宿は十二軒が御弁当宿となったというように弁当を食う場所だった。私と同じ経験を昔もしていたのである。どうしても宿場と宿場の間は遠くなるからそこで弁当を食うことになる。だから御弁当宿となったのだ。これは今でも自転車で行けば同じ感覚であることが実感できる。つまり昔の人も同じことをしていたことが体でわかるのだ。車だと全く旅のことはわからなくなる。

2007年07月04日

 函館−旅路の港(詩)


函館は郷愁の街→函館−旅路の港(詩を付け加える)
http://musubu.jp/hakodate.htm#hakopoem2

 
前にここに函館の詩と短歌を書いていた。そこに付け加えたのがこの詩である。前に書いた写真とかからまたイメ−ジして書いているのだ。函館には何回も行ったから思い出深い。青函連絡船の時代から何回も行ったのだ。北海道には十回とか一番多く行っている。いかに自分が暇だったかわかる。暇でなければこれだけの旅行はできない、しかしそれも遠くなった。まだその時は船の旅立ったから良かった。今は海底トンネルで函館にくるから何か船の旅情に欠ける。私は汽車と船の旅が好きだった。そのあとは自転車だった。函館は船にあっている。ベネチアともにている。日本では都市としては自然環境でも美しい旅情のある港の都市である。すぐ近くに白波がよせているし明治の歴史を色濃く残している。日本ではヨ−ロッパのように都市の魅力に欠けているのだ。函館には都市の魅力がある。ここは明治という時代を記念する港でもあったのだ。

2007年04月24日

伊豆の海(下田)

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伊豆の下田に行ったのもずいぶん時間がたってしまった。それでも極最近行ったような気がしている。旅の記憶も不思議である。検索すると次のような句がでてきた。

薊咲き下田通ひの船がゆく 臼田亜浪

伊豆の海や紅梅の上に波ながれ 水原秋櫻子

鎌倉の草庵春の嵐かな 高浜虚子


江戸時代、下田は諸国の運搬船の寄港地として栄えました。毎年、3千艘もの千石船が出入りしたといいます。

俳句でもなんてもそうだが生活として活きていたとき芸術もあり生活が喪失しなくなったとき芸術もないのだ。だから中山道で昔と同じ街道を再現してもリアリティがない、映画のセットのようなものになってしまい味気ないものになる。過去は実際は生活があって活きてくるのだからその生活がなくなれば死んでしまう。下田は船が通った時、活きていた。だから薊という平凡な花がここで活きてくる。薊についてかなり書いたからこれも加えればまた薊についての情報がインタ−ネット上で増すことになる。

伊豆の海と鎌倉は一体である。鎌倉時代はまたいろいろあったが海への交通がかなり活発になった時代でもあり海への視点が欠かせない、鎌倉に消えた和賀江島の港もそうだろう。南相馬市の鹿島区の烏崎に船で上陸したという岩松氏も鎌倉から来た。鎌倉時代はより海が身近になった時代だった。これで忘れられないのが韓国から船で福岡に帰りそこからさらに船で伊豆沖から東京に帰った船旅だった。そのとき秋であり朝の海が荒れて伊豆の七島が見えたのだ。この島をみた時鎌倉に帰ってきたと昔の人も思った。

鎌倉に我が帰るかな浪荒し伊豆の島々秋の朝見ゆ

下田というとまた明治に開港した港の歴史もあるから多彩である。伊豆の踊り子でも情緒を残した。日本は海で囲まれているから港は無数にあるし港の歴史でもある。船旅は好きで日本は90パ−セントは乗った。船旅はゆっくりしているからいいのだ。シニアに世界一周の船旅が人気なのはわかる。シニアに向いているからだ。

伊豆の沖春の浪路や富士の峰

船帰る伊豆七島や秋の海

大島へここよりたちぬ旅路来て下田の港春の夕暮

山頂に春風吹きて開国の下田の港真下に見ゆ

山頂に花吹き散りて風強し開国の港に春日落ち行く


伊豆と鎌倉は一体でありその風土のなかに作られた。鎌倉が山に囲まれ海に面していたというのも自然の要塞であり海に向かっていたのもそのときの都に必要だったからである。伊豆七島でも三宅島とかには行っていないしまだまだ行けない所があるし一二回でも地理とかその土地のことはつくづくわからないものだと思った。なんとか記憶を掘り起こしてこうして書いているのである。


 

2007年03月19日

春の日(雪の会津、新潟から東海道へ)

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春の日山国から東海道へ

会津や新潟や雪深く雪に埋もれし墓所
めぐりて遠く長篠の古戦場
武田の騎馬軍団は敗れたり
木曽義仲朝日将軍、甲斐の武田は天下をとれず
無念をのみし歴史の跡かな
春の日や我東海道にいでにけり
春の満月の豊橋にいで縦横に電車行き交う
東海道の吉田の城やその橋や
東海道は日本の幹線、人の行き来の盛んに
春の日電車は一路東京へ
駿河湾波のひびきや伊豆半島の沖に島
富士の峰仰ぎ花のお江戸に我も参りぬ
東京いでて常陸の国も広しかな
春光の満ちわたりて勿来の関越え
我が陸奥の真野の里に帰りけるかな


人間の感覚は汽車や電車や自動車や飛行機など交通の便で変わってしまう。江戸時代の歩いて世界を感覚的にとらえた時代と今の時代はあまりにも違っている。一番の違いは時間と距離の感覚である。距離が極端に交通の便で短縮されているから地理というのものも電車の感覚となるし車の感覚となる。長篠という駅があるがこれもわずかに一両の電車が止まったことで自覚したのでありそうでないとわからずじまいになる。ここが信長と武田の衝突した地理的な重要な地点としての意味がわからない、歴史が地理だというとき地理がわかれば歴史がわかるのだがこの地理を知ることは容易ではないのだ。外国に行ってもわかりにくいのは地理であるし地理というのは本当にわかりにくいのだ。縦横に道があり山々があり川があり地理に通じることは一回くらい旅してもわからないのだ。

木曽義仲であれ武田であれ会津であれここは雪深い山国でありその地理的要因で遅れをとり天下をとれなかった。信長がいくら天才でもやはり歴史は地理であり地の利が味方しないと大事はならなかったのである。信長が鉄の船まで作ったことは驚きのように海にまで眼を向けていたのも地理的要因があったからなのだ。地理がわかれば歴史はわかる、だから旅が必要なのだ。現代の旅は距離を極端に短縮する、それでかえって世界を見えなくしてしまうことがある。一方でこの詩のように電車で行く旅はまた別な見方をすることにもなる。山国から一気に東海道へぬけてしまう爽快感のある旅ができるのも現代なのである。

山国ゆ一気にぬけて東海道花の盛りや海望むかな

ノ−トパソコンから旅の報告http://www.musubu.jp/notetrip.htm

前に書いた膨大なものが今では私の遺産でありここからまた枝葉を伸ばし付け加えてゆく、インタ−ネットの便利なのはいくらでも表現できることなのだ。これが出版となるとせいぜいやっと一冊出してそれも書店には飾ることもできず終わりになった。これだけ表現できたのはインタ−ネットがあったからだ。他は全く無視されて終わったからその怨念は消えることはないのだ。

2007年03月10日

郭公(関所のことなど)

郭公や難なく過ぎぬ関所跡

最近読んだ「きよのさんと歩く 江戸六百里」は面白い。これを読んでわかったことは江戸時代の旅は今の外国旅行と同じだったことなのだ。違いは言葉なのだが方言がありこれで通じなくなることでもにている。そして藩が違い別な藩に入ると絶えず両替しないといけない、いろいろな通貨があり通用する金が違っていた。これも外国とにている。ヨ−ロッパではいろいろ国があり国が変わるごとに両替してそのたびに手数料とられていた。藩が一つの国になっていたから江戸時代は外国を通り抜けると同じだった。藩札なども使われていたがこれはその藩でしか使えないものである。外国でもカンボジアとかの紙幣をもってきたがただ記念になるだけだった。

それから街道の宿場町は飯盛女の売春ロ−ドだった。とにかく江戸時代の女性の職業は売春だった。これも外国とにている。特にアジアの貧しい地域はまさにそうである。外国人が買春に来ているのが多い、買春ロ−ドになっていた。アジアでは旅とは買春なのである。東北でも郡山とか本宮とか街道はそうだった。江戸でも遊女が多かった。これは今の時代の感覚では計れない問題であった。貧乏の結果、女性の仕事がないからそうなっていた。

一つ家に遊女も寝たり萩と月 芭蕉

これは日本海側であり日本海には港が多いから港には遊女が多かった。芭蕉はここで遊女に接したことを書いているが他でも遊女は飯盛女は宿場で客引きしていたから出会っていた。
これはたまたま遊女とあったというのではない、必ず遊女は旅でも必ず合うものだった。ただこれが名句となっているのは日本海という風景とマッチしたからだろう。飯盛女が客引きしているようなところではこの旅情はでてこない、江戸時代の俳句は今の感覚で鑑賞していると別なものになっている。遊女は今の売春婦とは違う、社会に溶け込んだ遊女なのだ。それも貧しさ故になっている。他に仕事がないから遊女になっている。そこがやはりあわれだという感覚になる。だからこそ詩的なものとして見ることができた。遊女は社会の中の一つの風景でありそれが日本海という自然とマッチしてこの名句が残ったのである。

とにかく関所を通りぬけるのが厳しいとなると関所破りがありそれを案内する人がいたというのも日本などに来るために偽のパスポ−トを大金で作る業者がいたり案内する人までいるのは同じである。関所は国境と同じであった。関所はだから歴史を記す場にもなる。関所に関係する残された書類を調べるといろいろ当時のことがわかってくる。眼の治療のために関所を越えた資料も紹介されていた。江戸時代の研究に関所はかかせないしここで具体的なことがわかりやすい。ただ関所があっても関所破りも常習化していたからそれなりに自由な旅もできたのである。

郭公の心になおもひびきけれ自由なる日の北海道の旅

郭公がどこまでもひびいていたのが北海道を一カ月旅したときだった。
この時は本当に旅ゆく先々に郭公の明るい声が北海道の大地にひびきわたっていたのだ。

2007年03月09日

一度のみの月(中山道)



一度のみ旅路はるかや伊那に月

only just once
the moon at Ina
in the distance
on my traveling way

御岳へ分かれゆく道奥深き我が行けざりき夏の夕暮


中山道は有名だし電車も通っているから行くけど道を行く旅は違っている。自転車で中山道を行ってその脇道に御岳へ通じる道があった。ここからさらに御岳の道がある。自転車だと疲れるからまず脇道にはなかなか入って行けない、引き返すだけで大変になるからだ。五キロにしてもまた5キロ引き返さねばならないからだ。車だと容易でも自転車だと脇道に入ることは行程がさらに長くなるからなかなかできないのだ。目的地につけなくなるからだ。車だと近いとなるが自転車だとずいぶん遠く奥深い場所になる。これは昔の旅でもそうだろう。歩いてゆくときやはり分去(わかれさり)別れ道は特に印象に残る場所になる。道は延々とつづきこの道は分かれてゆく、その先に何があるのだろうとなる。道は未知になるのだ。
その先は神秘的な場所となる。一生訪ねえざる場所になる。車だとちょっと回り道とかなるが自転車や歩きではそこは何か遠い世界になってしまう。電車だとこういう道−未知の神秘性はなくなる。軌道化してル−ト化しているから神秘性がなくなる。道は無限であり道の先の先は何があるのか坂を峠を越えその先には何があるのかとなり旅の興味はつきないのである。旅とは本来そういうものだった。

これだけ旅をしても日本という狭い場所でも実際は知らない知り得ざる地は無数にありそして人は死んでゆく、一度のみ旅で見る月がある。月でも旅での月は一度限りのものが多くなる。同じ月でもその印象はその場によってみんな違っている。伊那の月が印象に残ったのは中山道をぬけてそこでテントで泊まったからだ。中山道の山の中をぬけたところが伊那だったのである。自転車の旅は中高年ではやはり辛いところがある。テントを張ったりするし汚れるし旅館の人に嫌われたり断られたりもする。実際一万の宿で自転車で来たから泊めてくれと言ったら断られた。自転車は尋常な普通の旅と思われない面がある。若い人が野宿するような旅人に見られるからだ。そういう旅のスタイルになってしまうからである。

現代では本当に昔の人のように旅をしていない、旅ができないのだ。泊まるなら安い木賃宿のようなものがあればいい、そういう方が旅に向いている。長い旅だったら金がかかるからそうなる。それができないから長い旅になるとキャンプ道具をもつ旅になってしまうのだ。

年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山 西行69歳

こう感じる昔の人こそ旅をしていた。旅に命をかけていた。また命をかけざるをえない旅だった。普通の人でも水盃をして別れたからだ。旅は余りにも安易になったとき旅はなくなった。今は私でも介護で旅に行けないとなると切実にそう思った。ええ、もう旅ができない!
これが自分にとって一番ショックだった。富士山もまだ見ていない日本の山々も訪ねていない場所も行けないのかとショックでありそして最後は確かに見るべきものは命なりけりなのだと実感した。60こえたら最後に見るものであり仰ぐものであり富士山でも見たら拝みたくなる。二度と見れなくなるということが現実となるからだ。そういう日が誰にでも来る。




2007年03月01日

春潮瀬戸(漢詩もどき)

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春潮瀬戸

瀬戸島々
海峡潮早
大船航行
陽春流雲
飛燕帰還
魚群回遊
千舟密集
操舵自在
昔日興亡
水夫墓前
権不従者
満枝桜花
千里走行
遠来征人
雄飛大望
洋々遠方
・・・・
昔日栄枯
夕陽大島
古杉暮春
綿津見神


漢詩ではない漢詩もどきだけどそれなりに何か感じるものがないか?意味は日本人には通じる。中国人には通じない、中国の漢字は同じ漢字でも意味が違っているからだ。やはり折り畳み自転車で四国を回り瀬戸内海を回ったのが思い出となった。電車にものったが自転車で回ったのが記憶に残ったのである。旅は歩いたり自転車でないと旅にならない、今はあまりに便利すぎるからなるべく不便な旅を自ら演出しないとできない、これには日数もかかるし体力も必要だから現代ではかえって本当の旅はしにくくなっているのだ。遍路が退職したりした人がしたくなるのはやはり歩いてみたいということなのだ。歩くことが新鮮な経験になってしまったからである。

2007年02月27日

花影(吉野-漢詩)

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散る花にさらに花散り夕暮れて芳野のあわれ我にも染みぬ

敗将を吉野に偲ぶ花と月

知られざる径の花影踏みて行く(老鶯)
 

芳野懐古  <河野鐵兜>

山禽叫び斷えて 夜廖廖 さんきんさけびたえて  よるりょうりょう
限り無き春風 恨み未だ銷せず かぎりなきしゅんぷう うらみいまだしょうせず
露臥す延元 陵下の月 ろがすえんげん  りょうかのつき
滿身の花影 南朝を夢む まんしんのかえい なんちょうをゆめむ


梁川星巖

今來古往蹟茫茫。
石馬無聲抔土荒。
春入櫻花滿山白。
南朝天子御魂香。

 
馮延巳 

  長相思

紅滿枝,
緑満枝,
宿雨厭厭睡起遲。
閑庭花影移。


歌書よりも軍書に悲し吉野山 東花坊
 
 
 
この句は芭蕉十哲の一人各務支考(かがみしこう)の句で、東花坊というのは支考の別号です。支考の名を知らない人でも、南朝の悲しい歴史に思いを寄せた句として、広く知 られている名句です。

 吉野を詠んだ歌書はたくさんありますが、この場合は、南朝の悲歌を集めた『新葉和歌集』を思うべきでしょう。その悲愁の歌を集めた歌書よりも、やはり軍書『太平記』に描かれた南朝の哀史こそ、吉野山の歴史だというのが、支考の思いだったのでしょう。


この文を編んだのはキ-ワ-ドの「花影」であった。花影という言葉自体が詩語でありそこからイメ−ジされるものが広がるのだ。これをインタ−ネットで結びつけるのがインタ−ネットの読書なのである。俳句を上手になりたかったら漢詩をかなり読んでいた方がいい、漢詩からイメ−ジされた詩が日本の文華の始まりだった。だから漢詩ができる人は俳句を作る人より相当に詩をわかっている人に思える。俳句は詩がたいしてわからなくても一句くらいできるのだ。それで老人になって五七五をひねり出して俳人になったとか有頂天になって死んでいった人がかなりの数いるのだ。俳句は詩などほとんどわからない人でも作れるし俳人となってしまう文学なのである。でも漢詩はそうはいかない、かなりの詩として基礎教養を積まないと作れないのだ。その差はかなり大きいのである。だから漢詩を作れなくても理解だけはするように努力すると詩の世界も広がるのである。そしてその場には必ず歴史的背景があるから歴史を知らないとまた詩の世界もわからないのだ。吉野には悲運の将の歴史が積み重なっている。そこで自然もその歴史の影響を帯びて陰影を帯びるようになる。中国でもヨ−ロッパでも歴史がわからないと結局その城が何を意味しているのかもわからずじまいになって深い意味を読み取ることができなかったのである。

吉野の桜の写真
http://www.sakura.yoshino.jp/sakura2006/photo.htm




2007年02月26日

春の海(瀬戸内海)

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春の朝瀬戸の潮や旅たちぬ

島々に湧き立つ潮春の海

島一つまた浮かびいず春の瀬戸

大船の汽笛ひびくや瀬戸の島

船の行き春の夕日や明石城


伊耶那岐の命(イザナギのミコト)と伊耶那美の命(イザナミのミコト)はまだ渾沌とする地に矛(天の沼矛)を突き刺し、こおろこおろとかき回して引き上げると、矛の先からしたたる海水が積もり積もって出来上がったのがオノコロ島で、二人はその島に御殿を建てて夫婦の交わりをするが、最初に誘ったのが女性であるイザナミであったため生まれたのは蛭子(未熟児)でした。そのためその子を葦の葉で作った舟で海に流すと、今度は男性であるイザナギが誘い、次々と子供(島)を産みました。これが日本大陸の誕生です

淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま)(淡路島)
   伊予二名島(四国)粟国,讃岐国,伊予国,土佐国
   隠伎の三子島
   筑紫島(九州)筑紫国,豊国,肥国,熊曾国
   伊伎島(壱岐島)
   津島(対馬島)
   佐渡島
   大倭豊秋津島(畿内)


淡路島から国生み神話が始まった。最初の国は島だった。日本列島は島の意識だった。佐渡島まで入っているのは最初日本海は交通の便が良かったからである。日本海から東北などでも内陸部へ入ってきた。瀬戸内海は海でも地中海とにている。船の通う道としての海だった。温和な海であり一見湖のようにも見えるからだ。太平洋とかの海とは全然違う、矛の先からしたたる海水で島ができたということが実感できる海なのだ。特に春は一層春らしい海になる。太平洋は春といっても特別変わらない、ただ広いというだけで変わらないが瀬戸内海は違うのである。だから幻想のなかでも蜃気楼のように島一つが生まれる、「島一つまた浮かびいず春の瀬戸」となる。

旅してきたものは旅が終わっても旅をつづけているのだ。芭蕉も旅が終わっても枯野を駆けめぐっていたように旅は終わらない、思い出す旅、記憶の旅もつづくのだ。記憶の旅は旅の記憶を歴史的な背景と結びつけるとさらに豊かになる。芭蕉の奥の細道も旅を終えてから何度も遂行して創作したのである。

2007年01月17日

満州への旅

満州に特急停まり夏燕

満州の村の淋しき馬車一つ帰りゆくかな夏の夕暮


日本海からウラジオストック→シベリア→満州の旅であったがこれも雄大なスケ−ルの旅立った。中国は前のように汽車が混んでいないし快適な旅ができるようになっている。三段のベットでなかもきれいである。乗務員が絶えず回り掃除しているし汚い中国とは違う。シベリア鉄道では便を垂れ流ししているから汚かった。ロシアとくらべると中国の方が進んでいるし発展しているから満州里にはロシア人が電気製品などを買いにきているのだ。店の看板もロシア語と中国語になっている。満州里は貿易で栄えているから木材の貿易商がトヨタをもっている金持ちだった。今や中国にはこうした金持ちがどこにでもいるのだろう。一億人が日本並になり金持ちになるとするとそれだけでもすごいとなる。ロシアとか中国は大きすぎてとらえどころがない国となる。その大きさに圧倒されるのである。

それにしてもトウモコシ畑が延々とつづくのにはあきあきした。車窓の風景も最初は遊牧民の草原があったがあとはトウモロコシ畑で見るべきものがなかった。変化がほとんどないのだ。この変化のなさうんざりしたのだ。そこに小さな村があり荷馬車が昔のままにのんびりと帰ってゆくのが見えた。北京までゆく家族も金持ちなのだろう。老人が日本人そっくりだったのが驚きである。漢人ではない、日本人の顔なのである。満州辺りからも日本に来たものがいた。アイヌは日本人と顔つきが違う、これはどこからきたのか意外と謎なのだ。これはもしかしたらヨ−ロッパ系統の人種がシベリア沿いにカラフトから北海道に流れついたともとれるかもしれない、日本人型ではないからだ。縄文人もアイヌとは違った顔つきをしていた。満州とかの人種とにた人たちだったかもしれない、縄文人とアイヌは別物ではないか?蝦夷というのがアイヌだという根拠はどこにもないのだ。むしろ満州の系統の人種に近いのが蝦夷だったのだ。ここがいつも混同しやすいのである。


阿倍引田臣比羅夫、粛慎(みせはしのくに)と戦ひて帰れり。
虜(とりこ)四十九人献(たてまつ)るといふ


大陸側に粛慎(みせはしのくに)があった。他にも蝦夷とは中国の異民族とだぶっていたのだ。中国でも異民族として蝦夷がいたし共通の異民族として蝦夷がいたのだ。だから朝廷の使いが唐に行ったときその異民族の蝦夷のことを聞いていたのである。

旅の思い出も限りないから書くことは尽きることがないかもしれない、記憶の糸をたぐりよせ編む作業をしている。旅は旅のあともつづいているのだ。だからどれだけ過去の記憶を蘇らせるかが問題になる。記憶が消えてしまいば書けないのである。旅はその記憶が宝だとなる。だから何かしら記憶に残るような旅を心がけないと旅の成果もなくなってしまうのだ。余りに急ぐ旅は記憶に残らないからあとで後悔することになるのだ。
ロシアでは満州のことをキタイと言っている。10世紀にはモンゴル高原から中国の北方にかけて複合的な大帝国を建国し、中華世界向けの国号を遼と号した契丹のことである。ロシア人がキタイと未だに言っていることは驚きである。この辺の歴史は余りにもスケ−ルが大きすぎてピンとこないのだ。中国自体の歴史も大きすぎて日本人的感覚ではとらえようがない世界だったのだ。