2006年07月17日

吉野の桜(桜前線の短歌追加)

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夢になお吉野の花の散りやまじ

吉野なれ足下を埋む花の屑

朝風に吉野の桜流れ散る


桜前線の短歌

http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm

花は散り吉野を去るやみちのくの我と別れぬ都人かも

みちのくゆ訪ねし我や花散りし後にたたずむ西行庵に

さし昇る朝日に映えて暇もなく花吹き散りぬ吉野山かも

一陣の風に散れども尽きせぬは吉野の桜山を染めにき


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき(西行)

わきて見む老木は花もあはれなり今いくたびか春にあふべき

老づとに何をかせまし此春の花待ちつけぬわが身なりせば


(なお生きて吉野の桜見なむかも時のうつりのはやかりしかな−老鶯)

吉野山奧をも我ぞしりぬべき花ゆゑ深く入りならひつつ

(花にそい吉野の山の奥に入る古巣の跡に西行の影−老鶯)

旅を30年間してきて今や旅は思い出す旅となった。旅はありありと思い出せば旅していたのだ。でも団体の旅とかグルメの旅は旅ではないだろう。移動であり旅とは違った現代の観光旅行である。本当に旅している人は現代ではまれだし旅が昔のようにできなくなった。だから旅人も存在しえないのが現代なのである。

今旅を回想して10回も行ったのが北海道だから北海道はまた行きたいし次に京都とか奈良とか吉野もいい所である、というよりそこが日本の国が起こった歴史的な地点だからそうなる。吉野の桜はやはり特別である。咲く場所が特別にいいのだ。やはり桜で一番いいのは吉野である。そこにもまたもう一回行ってみたい、今や本当に私が行けるどうかになってしまったから旅のことを回想している。今や二度と見れなくなるということを考えたことがなかった。しかしそれが現実になることがあるのだと実感した。そうした特に美しい場所に行けず二度と見ることなく死んでゆくかもしれないということが現実となってきたのだ。そうすると吉野の桜を心置きなく見たことこれは貴重な時間だと思った。そうした美しい光景を二度と見れなくなる。病気になったり介護になったりしたら旅ができなくなる。するとそういう自由な時間がいかに貴重だったかを自覚したのだ。


ナポリを見て死ね
吉野の桜を見て死ね


もし死ぬ前に最後に見たいものは何か?あなたはこの質問に答えられるか?ええ 別にいつでもまだ若いし行けるからそんなこと真剣に考えないよ、若いのならそうなんだけどこれが老人になってゆくとそうならない、健康で自由に行ける人もいるがもし自分自身が病気になったり介護する方になったりと何かあったら行けなくなることがありうるのだ。そしたらもう一度富士山を拝みたいとかなる。文字通り見納めとして拝みたくさえなるのだ。それはもう二度と見れないということが現実になっているからなのだ。そして失われた時間はもどってこないのである。あなたに与えられた時間は消失してしまうのである。この世の濁世を迷宮をさまよっているうちあなたは白髪頭となりその迷宮を出た時、実は墓に入ってしまうのだ。だから濁世とかこの世の迷宮の中に入るべきではないのだ。カルト宗教とかわけのわからない世界に迷い込んだらそこからぬけでるだけで大変でありやっとぬけでたら白髪となり墓場に入っていたとなる。文明は巨大な迷宮である。出口がない迷宮なのだ。人間は巨大な文明の迷宮に飲み込まれ逃れ出られず虚しく朽ち果ててゆく恐怖の場所である。

西行のように桜に魅せられて死んで行ったのならそれはそれで幸せな人生だった。桜とともにあの世へへ旅立ったのか?予言通りに桜の咲く春に死んだとするとその生を美しく全うしたとなる。あのようには簡単には死ねない、みんな認知症のように濁世にどっぷりとひたりもがき死んでゆくのが普通だからそうした美しい死に方をできる人はよほどめぐまれた幸せな人だったのである。

2006年08月07日

夏燕(美瑛のライダ−宿)

干し物のはや乾いたり夏燕

北海道を自転車で回ったときライダ−宿に泊まった。納屋を改造したもので八〇〇円くらいだった。そこは美瑛だった。泊まったの春先であり一人だった。そこの主人が農業なんかやっていられないくどくわくどくわいやになった。中国の方がましだととか延々とくどくのだ。本当に北海道でも農業は大変なのだろう。ところどころ廃屋になっているのが多いから農業を捨てる人がかなり多いのだ。その農家の前に二軒小さな貸家が二軒がありそこも廃屋だった。が北海道は廃屋が多いことはまちがいない、庭にはきれいな花が咲いてそこが廃屋だと思わなかった。最近家を捨てたのだろう。それから赤い屋根に住んでいる写真家がいた。これも他の有名な写真家をくどいていた。芸術家は嫉妬する人が多いというのは確かだろう。私はそもそも高い宿に一万だとか泊まりたくない、グルメの旅は旅ではない、旅はうまいものを食ったり保養ではない、どこまでも自由に行く旅そのものにあるのだ。だから宿は安くて泊まるだけでいいのだ。江戸時代辺りは旅が長いから泊まるだけの旅だった。戦前も木賃宿などあったから木(薪)を借りる宿であり自炊する宿だったのだ。

一般の旅行者が宿泊するところには旅籠屋と木賃宿がありました。
旅籠屋と木賃宿との違いは、食事が付いているか付いていないかの違いです。旅籠屋では夕食と朝食を出し、店によっては昼食の弁当を出すところもありました。
一方、木賃宿は、旅人が米を持参し、薪代を払って自分で米を炊くかまたは炊いてもらいます。「木賃」とはこのときの薪の代金、つまり木銭(きせん)を意味しています。
江戸時代以前には木賃宿が宿泊の本来の姿でしたが、庶民の旅が盛んになるにしたがい、次第に旅籠屋が増え、宿代も天保年間(1830〜1844年)には旅籠屋は木賃宿の5倍以上もするということで、木賃宿は安宿の代名詞となってしまいました。場所も宿場のはずれなどにありました


現代の木賃宿の旅しようとするとライダ−がキャンプ道具一式、所帯道具を一式積んで一カ月くらい旅する若者である。それ以外日本では長い旅をする方法がないのである。

下着干しライダ−ハウスに蛙鳴く

ハエ唸るライダ−ハウスも面白し


北海道−夏の俳句 http://www.musubu.jp/hokkaidouhaiku.htm

旅は「蚤虱馬の尿する枕もと」であったりする方が一興なのである。豪華なホテルに泊まることは保養にはいいにしても旅にはならない、そもそもだから日本には旅の宿はなくなっている。保養の宿であり旅の宿ではないのだ。

ともかく干し物がすぐに乾く、汗だらけの下着も洗って干せばすぐかわく、そして夏燕が気持ちよく飛ぶ、こういうのが旅であり豪華なホテルや宿に泊まるのは旅ではない、つまり現代では旅は自ら演出するほか旅はできないのだ。
富良野と美瑛を間違いました、美瑛は丘の町で有名

2006年08月12日

ベトナムのフエの王宮跡(合歓の花と王宮跡)

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ベトナムのフエの王宮跡(合歓の花と王宮跡)

昔日の王宮の城壁にそい
合歓の花の木なべて散り
牛門入りて栄華の跡や
その殿舎の礎の残りて
あわれ白き椿や散る一輪
心にしみて寂しかな
我遠き外国の人なれ
その離宮、帝都の代々の王の墓
何故かことさらに侘しき
ここに土産とフランスの硬貨を買いぬ
ただ栄華も墓の中に入りて虚しき
合歓の花咲き宮廷の美女微笑む
その日は遠く堅固な長い城壁は古り
中国、フランスの支配重なり
ベトナム戦争の悲しき跡の癒えじ
傷兵のホテルを回り銭を乞う
日本のカメラ会社のここに建つと
案内されて小さき飛行場をたつ
ぬかりなく一ドルは案内料にとられ
土産はかのベトナム兵士のヘルメット
今もみなかぶりて往時の戦勝の誇り
ベトナム人はバイクで道にあふれ
旺盛な生活力を示し新たに前進するかな


象潟や雨に西施が合歓の花(芭蕉)

合歓の花のイメ−ジは美女である。合歓の花は南国の花であり南国の美女のイメ−ジなのである。蓮の花も暑い陽ざしのなかに明るい真昼に池の中に咲いているときにあっている南の花である。つまり花には南国系統が非常に多いし南国系統の花は暑いところにあっているのだ。北系統の花もある。北海道に咲くのはハクサンチドリとか高山に咲く花が平地に咲いていた。稚内まで行ったとき宗谷岬に雨に濡れて咲いていたのだ。南国系統と北系統の花はかなり違っているのだ。一般に花は南国系統が多いのである。インドの蓮がエジプトに移りロ−タスとなりオベリスクに刻まれた。その花はやはり砂漠の明るい空に向かって咲いている。日本では蓮が咲くときは梅雨の時期であっていない、泰山木も大陸の広い大地と空に咲くのにふさわしいのだ。花も咲くにふさわしい場所は原産地なのだ。ただ薔薇などは日本の四季に溶け込んだが本来は乾燥地帯に咲いていたのである。

ベトナムのフエは大河がゆったりと流れ遠くに青山を望む、息をのむような山水画の光景が広がっていた。見たこともない南国の美しい蝶が舞っていた。ただ王宮はなんともいえぬ寂寥感が漂っていた。長い王宮の城壁にそって合歓の花の木が街路樹のように連なっていたのだがすべて散っていたことから余計にそう感じたのかもしれない、牛門を入っても中ががらんとして記憶としては殿舎の礎の跡に立ったことを覚えている、それから離宮を回っても豪華な王朝の墓を回っても寂寥感が漂っていた。まさにそれは芭蕉が平泉を訪ねた時と同じように栄華も一睡の夢の跡のような風景だったのだ。そこでお土産として売っていたのがフランスの硬貨だった。あの長い城壁はフランス式で頑丈に作られていた。フランスの植民地になったから立派なカトリックの教会もあるのだ。

ベトナムは中国に支配されフランスの植民地にもなった。次にはアメリカとソ連中国の冷戦で国が二つに分断された。これは朝鮮と同じである。小国はみなこうした悲哀を味わう、日本もアメリカとソ連で分断されることが計画されていたのだ。もし分断されたら日本もベトナムや朝鮮と同じ運命の悲劇を味わうことになったのだ。日本が明治維新でとにかく植民地にならないよう努力したのは日本の歴史にとって偉大だったのである。明治が偉大というとき植民地にならないために最善の努力をしたということである。サムライスピリットが生きていたからできたともいえる。

ベトナム人もベトナム戦争ではサムライだった。その徴しがあのヘルメットなのである。今でも誇らしげにかぶってバイクにのって街を突っ走っているのだ。あれは日本刀のようなものなのだ。日本人も日本刀をふりまわしたが今や残虐の徴しとなってしまった。日本刀にはサムライスピリットの象徴ではなく残虐のただ人を切るだけの凶器となってしまった。ベトナム人はアメリカと戦い勝ったということで誇りをもっているが日本人はどうしても持てないから未だに靖国問題とかでもめているのだ。日本は大国たらんとして背伸びしすぎたのだ。それ相応の国として独立を維持していれば良かったのだが無謀な戦争を止めることかできなかったのだ。

ベトナムでも日本でも朝鮮でもどこでも戦争の傷痕は深い、合歓の花は安らぎの花であるがいたるところが戦場になってしまったのだ。合歓とか蓮は南国を象徴する花でありそれは南国に行ってみてはじめてその花は映えることがわかるのだ。花についても外国まで旅行しないとわからない、日本国内はほとんど旅したが外国はまだまだだったから惜しい、花の世界も広いからこれを知るだけで一生は費やされるから無駄に時間は使えないことを知るべきである。


時事問題の深層(バイクの洪水)
http://www.musubu.jp/jijimondai.htm#

ベトコンの墓
http://www.musubu.jp/jijimondai.htm#s

2006年08月18日

野辺地(青森)

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常夜灯一つ残して冬の海

常夜灯雪に埋もれて野辺地かな

沖に船野辺地や遠く冬の海


ただ、司馬遼太郎の「菜の花の沖」読んでくれると判りやすいと思うんだが、函館が蝦夷地開発と通商の中心になる以前は、野辺地や青森がその役割を担っていた。

野辺地には冬に行った、駅前が雪に埋まった常夜灯があった
江戸時代は野辺地が通商の拠点だった、これ意外とみんな知らないね
江戸時代は青森は北前船とか来て栄えていたんだよ
東北の宮古とか仙台とか相馬からも物産が運ばれていたらしい
明治になり函館に通商、貿易が移動してしまったんだね


野辺地と沖縄の辺野古が地名としてにているしどちらもかなりの果てにある辺境にある。

http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1155789068/l50
(【青森】落ち込む県人口、減少幅年々拡大…出生率急落だけでなく、若者の流出も止まらない )

野辺地と辺野古の違いは野辺地はかつて栄えた貿易港だったことである。辺野古は全くそうしたことがない山原のジャングルを抜け出ると最初にでて来る鄙びた町だった。ここは米軍の基地としてしか経済的に豊かになる方法がないのである。

北前船が野辺地までもきていた。その証として一つだけ常夜灯が残っているのもあわれである。津軽藩は野辺地の湊などから船で交易をしていた。津軽は遠いから船が便利だった。ここから歩いて江戸まで本当に遠い。荷物は運ぶこともできない、だから船での交易は重要だった。まあ、ここになぜ日本中央とかの碑が発見されて騒いだりするのは嘘ではなくここが縄文時代から古代にかけて日本の中央と自負する一つの大きな国を形成していた名残りがあるからだ。実際結構広い土地があることを実感したのである。狩場沢とかあるのもその名残か獣なども豊富でとれていたしなにより海の幸には恵まれていたのだ。東北は秋田、青森とまわると広いと実感した。東北という地域を知るだけでもなかなかむずかしいのだ。白神山地などもまったく知らない地域だった、これだけ旅をつづけても日本だけでもまわりきれないのが現実なのだ。

函館は明治に脚光をあびて外人も集まりモダンな建物や文化が入ってきたのだ。青森はそれと同時に忘れられてしまった。函館は本当に青森とは余りにも違ってモダンな西洋風の街になっていったのだ。野辺地から見えたのは船一艘だった。貨物船かなにかだったのか、北前船が行き来していた方がもっと船は出入りしていたのだろう。旅も俳句でもこの歴史的背景を知らないと深い鑑賞ができないのだ。函館を知るには青森を知る必要があったのだ。青森を知っては函館のモダンな西欧文化の街が際立って見えて来ると同時に江戸時代に栄えた古い港である野辺地が思い浮かぶのである。

旅の思い出として2ちゃんねるでヒントを得て簡単に回顧した。プログはこうして簡単なメモのように書いていくのが便利である。ただ記事が多くなりすぎるのだ。その記事もみんな短いし読みごたえがあるものでなくても一つの記事になっている。記事数だけがふえて中味は何行しか書いていないことが多いのが問題である。私の旅の記録は膨大だからそれらをまた回顧してまとめてゆくと新たなものとなっているのである。

2006年09月12日

飯館の秋のあわれ

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飯館の秋のあわれ

飯館の奥こそあわれ
三叉の松の立ちけり
稲架たてて夫婦のまた
そこにありしな
昔冷害で苦しむ高原の寒さ
飢餓で死すと碑もあれ
虫の音かそか我は去りしも


三叉の松や古りにき飯樋に稲架(はざ)をたてにし夫婦見ゆるも

飯館は山中郷で相馬に属していたが山中郷はなくなった。飯館はかなり標高が高い高原地帯なのだ。だからここで米を作ることは容易でなかったし冷害もあって飢餓で死んだ人もいてその供養の碑が建てられている。なかなか住むには厳しいところだった。ここの風景でこの稲架(はざ)を立っているところは山中でも広々としていた。山でもこんなに広いところがあるのかと思った。日本人はとにかくいたるところを田にしてしいる。山でもそうであり思わぬところが田になっている。阿武隈山中でも小川が流れていて板橋がありそこに細道が山の中に通じている。その道をたどると何があると思うと普通畑と思うがあるのは田なのである。日本人は田を作り米を糧にして生きてきた民族なことがわかる。またそういうところは隠田(かくした)にふさわしいのだ。だから平家の落人が逃れてきて住んだとか伝説が生まれる。自転車で山形の方を旅したとき案内板があってここは何だろうと上って行ったらそこは小さな城の跡だった。土手だけが残っていた出城のようなものがあった。その山の上も平であり田になっていたのだ。こんな山の上に田があるというのが意外なのだ。田はこうして山の中に隠されているのが多いのである。平(たいら)という地名が多いがこれは山国の日本で平なところが特別貴重でありそこは畑としてより田にすることで貴重な場所だから平とつく地名が多かったのである。

飯館のこの場所は飯館の奥深さを感じた。飯館は山でもその土地はかなり広い、山国の広さというのは山にさえぎられているからわからないのだ。平坦な土地なら広いとすぐわかるけど山国はそうした広さがわかりにくい、でも阿武隈山高原でもかなり広い土地なのである。ただ阿武隈山高原には特別注目すべきものがないから特徴がないから観光的には目立たないのである。ただこれも常磐高速道ができればそれなりにドライブなどで注目されるかもしれない、会津はいろいろ注目されるのはやはり登山とかに高い鋭い山があることなのだ。阿武隈山には高い鋭い山が欠けている、登山する山がないことが魅力ないものにしている。だから特徴がなく注目されないのである。

名所はいたるところにあり実際は発見されていないだけなのだ。どこでも身近にいくらでもある。最近デジカメで写真がとれるからええ、こんないい景色あったのかと発見する場所が地方から紹介されるようになっている。ここの場所はどこなんだと行きたい人もでてくるかもしれない、地元の人さえ発見していないことがかなりあるのだ。


飯館の秋
http://www.musubu.jp/iidateakikikouhaiku.htm

2006年10月06日

鬼百合(会津の激流)

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鬼百合や轟く激流奥会津

写真から構成して俳句を作った。写真から思い出して再構成したのだ。俳句より写真が先にあり写真を見直して俳句となった。伊南川にそって行った時だった。自分がとった写真に感心した。こういうふうにいい写真がとれているのがまれだからだ。デジカメの時代ではないのでいいのが残っていない。写真はやはり現代の最先端をゆく芸術なのだ。俳句より写真が先になる。俳句→絵となったりするが写真は俳句より先にあり俳句が写生だとすると写真が写生であり写真芸術に一番近いのが俳句とならないか?子規は写生というと絵で描いていたけど今はデジカメでいくらでも写生として記録できるから今の時代こそ写生の俳句が写真を通じて花開くのに適している。

福島県は会津の領域が広いのでここから新時代の激流がひびいてくる。なぜなら会津にはこうした雄大な自然がありそれが心に影響するからだ。こうした激流があるのも山国の自然があるからだ。会津からひびいてくるものはこの清冽なるひびきである。

2006年10月08日

柳田國男 「勢至堂峠から白河へ」

馬を育て馬と別るるあわれかな馬頭観世音に秋風の吹く

此辺の若駒は凡て婦人の手で育てられるので、優しい別離の場がこの日何回も演ぜられた

勢至菩薩は馬の守護神かと思はれる。奥州では処々にその石塔がある


http://www.kurikomanosato.jp/00x-10-44yk-kikou-05.htm

勢至堂峠は馬の守護神の勢至菩薩からきていたのか?猪苗代の方に汽車が通ってから白河から勢至峠−福良−会津への江戸時代からの街道はすたれてしまった。でもこちらの方が旅するのにはいい。取り残されたような鄙びた世界が残っている。この道を会津若松まで自転車で行ったがやはり遠かった。勢至峠には昔の面影はない、ここで書いたある馬のことを知って昔を偲ぶことができる。馬というものが昔は人間と一体となりまるで家族のようにして暮らしていたかを知る必要がある。曲屋では馬と一緒に住んでいたからだ。馬への思い入れが強いのである。だから育てた馬との別れは人間と同じように情を感じていたのだ。馬が交通の時代は人間的な情が通う時代だった。自動車の時代は無惨な交通事故の非情な時代である。

家族で交通事故の被害にあわない人はいない、鞭打ち症の重いのになった人は大変である。脊髄がやられてその治療のために保険がきかないので大学病院で200万以上かかるとか車は便利な物でもその代償も大きいのだ。そして自動車は人間の情を殺してしまうから人間の心を荒廃させてしまう面もあるからこれは文明の問題である。自動車文明でありそこから生まれる問題は教育でも解決しない、現代の文明から様々な問題が生まれるのだから教育もその一環としてあるとき教育だけを良くしようとすることはできないのだ。だから結局教育改革も徒労に終わりやすいのである。

2006年10月15日

酒泉(百羽の燕)

シルクロ−ド百羽の燕酒泉かな

朝、酒泉の塔の回りに百羽くらいの燕が飛んでいた。シルクロ−ドでにぎわった所だからふさわしい。中国とか外国は俳句にするのがむずかしかった。俳句は日本の風土でつちかったものだからである。中国に漢詩があっているというのは漢詩は一つ一つ独立した絵であり一つ一つの漢字が建物ののようにも見える。極めて絵画的なものでありその漢字を組み立てものが漢詩とかになる。中国に行くと漢詩を作ることができなくても風景が壮大だから漢詩的になるし漢詩にするとぴったりだとなるから風土から作られるのが文化なのだ。ただアルファベットには絵画的要素がないから音だけだからかなり違った文化となっている。

日本人は読書というと一ペ−ジでも絵画的に文章を読むということがある。それは漢字が中に入っているからなのだ。漢字は視覚としてイメ−ジされからなのだ。もしかなだけだったらアルファベットととにてくるのだ。視覚的にイメ−ジできなくなるからだ。この点が大きな違いである。英語はパソコンのプログラム言語としてし向いていたが漢字とかかなとなると向いていない、これも大きな文化の相違でありコンピュ−タ−文化が作れなかった原因であった。


中国夏紀行−俳句

http://www.musubu.jp/chinanatutabihaiku.htm

2006年10月24日

南国の時(沖縄−山原)

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南国の時

南国の花が馥郁と日がな芳香を放つ
明るく強烈な陽ざしが芳醇な果実をもたらす
海は果てなく広がり自由に風がそよぐ
冒険の船は大海原に出て行った
勇敢な若者は海に沈んだ
それを弔う墓はやはり海に向いて立つ
死んでも海に面して海に憧れる
砂浜の木陰に老人の漁師が休み
大魚との格闘の遠い日の思い出に耽る
人生は一編の詩として美しい自然に織り込まれる
南のきらめく海、珊瑚礁の海、熱帯魚の海
鮮やかな色にたわむれ、極彩色の夢に酔う
朝の光線が透き通った水辺に反射している
大きなでんでん虫が葉陰に隠れ
箱亀が歩みスロ−な時間が流れる
南の国の密林は影深く閉ざされ
キノボリトカゲがのっそりと現れ眠る
その奥深くユウナの花と月が語り
砂浜を満月が照らし夜風に涼み
素手と素足の裸の神がそこを歩む
イリオモテヤマネコの野生の眼が光り
ヤンバルクイナの変種が生き残り
語り継ぐ海の伝説が島にはまだ生きて残りぬ



沖縄の旅は一カ月だった。山原の方まで自転車で回ったからほとんど回った。今思い出すとかなり思い出になる旅だった。その一部は時事問題の深層に書いた。沖縄の部に詩も書いた。与那国島では監視されていたのには驚いたが今ではそれも一つの旅のエピソ−ドになった。旅は長くないとだめだ。それも一カ月は必要でありその中で滞在したり人に出会ったりいろいろあるとあとで記憶に残る。沖縄の旅は一冊の本にできるくらいホ−ムペ−ジで書いた。旅で大事なのは実は旅の終わったあとなのだ。旅は印象的に記憶され回想された旅は豊かな旅だったのだ。だから旅が終わってすぐに印象を書いておくことだし旅しているときも記憶して書いておくことが必要である。その記録から記憶を呼び出すのである。外国の旅はあとで思い出すことが少ないことがわかった。歴史的なことやいろいろわからないからあとで書くことがむずかしかったのである。日本だったらあとからいろいろ調べて書けるから様々に発展できるのだ。

ともかく沖縄の旅はそれで一冊の本にできる思い出となった。沖縄は日本にある南国であり別世界なのだ。北海道もそうなのだが北海道に確かにアイヌ文化はあるが沖縄には歴史がある。そこが大きな違いなのだ。旅は一カ月すると大きな旅をしたものとしてあとに残る。自分の幸運はこうして30年間自由であり旅できたことなのである。しかし今やその代償なのか?一日すら自由にならないという刑務所にいるらうな暮らしになった。たえず監視していなければならない、これも運命だったのか?これは考えられないことだった。・・・・

2006年10月30日

夕月(妻籠−馬篭−恵那)

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夕月や妻籠に泊まり明日馬篭

山道の棚田にレンゲ妻籠かな

旅路きてはるかなるかな恵那に月



距離は7kmですから約2里(1里は3.9キロ)ということでしょうか


馬篭までは確かに坂を上るけど短かった。夕月で俳句作ったので思い出して俳句作った。山間の妻籠に泊まったのは確かでありそこで夕月を見たのも本当である。中山道は自転車でも行っている。実際は中山道からはずれた御岳山の方への道があったからそっちの方が今では魅力あるかもしれない、意外と観光化されたところは魅力なくなっている。むしろ観光地からはずれた道がかえって今では魅力あるのだ。ただ自転車では遠くて行けなった。塩尻にでたあたりでふらふらになった。そこで自転車を送ってもらった。自転車は安いから古い自転車だったら捨てた方良かった。送ると一万以上かかるし損だったのだ。自転車旅行も自分にとっては大変だった。体力もないしとにかくへましすぎてだめなのだ。しかしどうも中山道についてあまり記憶がないんだよ、記憶もまた蘇る時がある。苦労した旅なら今まで書いたように蘇り文章に書けるのだ。

恵那にもいろいろ見どころがあったが通りすぎただけだった。ここは田んぼの畦道にテント張ったんだけど月がでていたのでそれが印象に残っていたのだ。自然を印象に残す旅はやはり野宿とかになるのかな、山頭火のようになるのか、今では無理だ、自分には無理だった、なんとか一カ月自転車で旅するのが精一杯だったな、妻籠で一泊して恵那に出たんだと思う、これも記録していないから今になるとわからなくなっているんだよ、ノ−トにでも簡単に記憶しておくことが大事だったんだけど自転車旅行は疲れるからな、書いたりすることができなくなるよ・・・そこが問題だった。中山道は一回は電車で二回目は自転車で行った。その思い出はもはや遠いとなった。

本当に思い出す旅があり思い出して何かしら書ければそれは確かに旅をしていたのであり旅の実りだったとなる。電車とかの旅はあっと言う間に通りすぎるから記憶から消えやすいのだ。駅名だけがなんか残って終わっているのが多いとなる。人間にとって記憶はやはり大事なんだな、認知症になったら話しても記憶に残らないとか話がのみこめないとか言っている。今話したことも忘れている。ただ昔のことばかり何度も百回も千回も話しているんだよ、その記憶が生きてきた証拠ともなっている。旅をいくらしても記録されていなければ意味がないのだ。みんな忘れたではそこに本当に行ったのかどうかもわからない、意外とそういう旅している人多いじゃないか、思い出すこと記憶されることこれは大事なことなんだよ、記憶が消えれば過去もないから生が消失したことになりかねない、旅ではなんらか記憶する方法を考えるべきだよ、あとで損するから、旅の時間は貴重だから二度とその場所に行けなくなる時がくる。だから車とかバイクだとあまりに早すぎてあとでふりかえり印象が残らず終わってどこに行ったかもわからなくなるかもしれない、これだけ旅しても記憶に残るのが少ないことでもわかる。読書だってどれだけ記憶に残るのがあるのか、認知症のようにみんな忘れたでは困るよ、人類の残した古典の一パ−セントでも読んで終わりになり貴重なものは遂に読まず終わってしまうのが人生だっていうことを若い人は肝に命じろよ、与えられた時間はみんな限られているんだからよくよく考えることだな、この秋の夜長に・・・・・

なんだかきっこの日記に書き方にてきたな、これは・・・あういう文章になりやすいんだよ、このプログは・・簡単に書けてしまうからあんなふうになるんだな・・・口語体と文語体が一緒になったようなものになる・・・ともかく書きやすいということがプログのいいところだ、これだけキ−を打って書き続けられるのもプログだからだな・・・プログだと気楽に書けるから量的にもすごいものが書けるよ、これが本を出すように書けとなると結局書かれずじまい、出版もされないで終わりだったよ、そもそも出版の世界は書かせない特権者の既得権者のものだった、書くものにとってはともかく自由に書けるなきゃ書く気もなくなるよ こうして日の目を見ないものもプログじゃ自由に書けるから新しい文化がプログでは起こっているんだろう・・・秋の夜長にいくら書いてもだれも文句も言わないしな、そんな駄文一文にもならない・・・お前の本は邪魔だから置けないとか言わないなから・・・・そういえばス−パ−内の小さな本屋がまたつぶれて消えたみたいだ、あんな小さな本屋なんの魅力もないよ、本屋は作家をしめだすところなんだよ、だから本屋は大きな都市に一つくらいになってしまうよ、あとはまたアマゾンで注文したよ、送料で500円くらいの何冊か・・・恨みつらみも書いたからそろそろ寝るよ・・・お休み・・・


書きたいだけプログに書いて夜長かな

2006年10月31日

菊とガラスの小瓶(函館)

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函館ゆ買い来しガラスの小瓶にそピンクの菊をさして華やぐ

旅のことを書き続けているけど旅は土産として記念になり記憶になるものも必要である。その土地にふさわしいものが記念になる。これはその一つだった。函館は明治時代は一番ハイカラな先進的街で栄いたのだ。函館は地形的にも変わっていて魅力がある。北海道と沖縄は日本にとっては外国である。気候風土は両方とも日本国内とは違っているからだ。ここに啄木が歌を残しているのもわかるのだ。
新しき心もとめて名もしらぬ街など今日もさまよいて来ぬ  啄木

明治時代を象徴するのがこの歌だった。新しき心が物心両面で入ってきた。だから絶えず新しいものを求めていた時代なのだ。それから百年−日本人は新しき心から古い心に回帰する−日本文化に回帰する−余りにも新しいものに満ちあふれ新しいものに疲れたのだ。新しい物によって日本の国土は変わりすぎて荒廃してしまったのである。

函館は郷愁の街http://www.musubu.jp/hakodate.htm

2006年11月24日

春の近江路を電車に行く

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春光や近江平野をひた走る

近江とは琵琶湖に近い故名付けられた。なるほどと思った。昔の国の名にはその土地柄にマッチしたものが比較的多い。京都は山城の国と呼ばれていた。京都は山に囲まれた山を背にした土地である。紀伊は木の国であり木津川などから木を運び出し大寺院などを作る
木を切り出したところであった。志摩は志摩の多いところであり確かにその地形は今も変わっていない。美濃はなんだろうかと思ったが私が今回の木曽の山奥深く旅してようやく馬籠に出た時かなたに開けてゆく思いがした。丁度そこからは美濃平野に出るところであったのだ。あのような深い山路から歩いてきた昔の旅人もあそこでほっとしたことは確かである。美しい野に出たのである。これは実感故あそこを歩いてみないと分からないことである。尾張というのもまた開拓された平野のことである。そこは天下を統一した信長の領土であった。人間の歴史はドラマは深くその土地と不可分に結びついている。あたかも神の予定のごとくにである。その物語は土地とともに織り成されている。木曽義仲、竹田信玄の悲劇も一重に山に閉ざされたところに生まれた結果であった。天の時、人の和はあったのだが地の利がなかった。故その野望は天の配剤により達せられなかったのである。

会津の悲劇もまたそうであった。山国は開けることが遅いのである。海に面していない故である。これはいかに優れし人の出ても同じ結果であり天の配剤に逆らうことはできない。地理的に見て尾張は正に日本の臍のようなところに位置している。人間のドラマは人間が先ず操作するのではなく神が操作し定めることがあるのだ。故英雄も奢るべきではない神の力働かずして歴史は動かない。そのことはもし神の力が働けば一個人は何もせずとも歴史は動くということでもある。歴史の動きまるで偶然の積み重ねのごとく見えるが必然の力も大きいのだ。何事かの事件も偶然のように見えて成るべくして成ったとも言えるのである。 

東海道は最初に開けた日本の幹線道路であり今もそうである。日本は川が多い国で知られている。それも急流であり東海道はこの川に行く手を阻まれた。三河とは三つの川の意である。雨の多い日本はまた川留めにあう日が多かった。それ故迂回路として木曽の山中が第二の街道となって行ったと思われる。

さて車窓より見れば一つの形良き山聳えるのを見ゆ。何山かと思って同乗のものに訪ねれば御上山という富士山ににているから近江富士ともいうそうだ。なるほどと思った。とにかく富士山の名のついた山は多い。御上山にも伝説がある。旅とはその土地の謂われを訪ね訪ねてゆくことであった。余りにも今の旅人は早く通り過ぎてゆく。これが新幹線であったら訪ねる間もなく過ぎ去っていってかの山のことも知らなかったあろう。事実新幹線でここを何回も通っていたがかの山を知らなかったのである。休耕田の所々一面にレンゲの花が咲いている。

 
レンゲ畑親しき山や近江富士

思えば我が里のなべかんむり山もいつも見る親しき山である。土地の人には珍しくないものでも旅人には実に新鮮なものとなる。旅の良さはありとあらゆるものちょっとした人の出会いも何か新鮮であり印象に残るものとなる。一時の出会いであるからこそであろう。
旅の目的それは日常からの脱出にあるからである。それなのに同郷の人とと何百人も連なってゆく町民号などは旅にならない。はっきり言って近隣の人にはうんざりしているのである。さてそれから汽車はなおも進み荒々しい高い山が迫ってきた。まことに牛の背のようである。これも初めて知ったのである。後で調べたらそれは確かに伊吹山である。今は田植えの季である。田植えする人が時折見える。黄菖蒲が群生して咲き汽車は次々に初夏の近江路の眩しい景色を後にする。

 
伊吹山背にして田植えや黄菖蒲の畦に映えつつ電車過ぎ行く

電車は一路進み伊吹き山を後にする途中ツツジの咲く駅ありやがて関ガ原にい出る。ここも日本の雌雄を決する一大古戦場である。ここにも様々なドラマがあった。敗れた三成はどこか夏草に埋もれているだろう。今回私の旅も五月にしては雨が多かった。奈良井宿は一日雨に降り込められたが雨も情緒があることを知った。京都辺りは雨にしっとりと濡れて一段と情緒を深める場であった。奇妙なことだが私はテレビで嵐山へ行く京福電車の駅「車折(くるまざき)」に謂われのある石の残っていることを知っていた。そこを折しも雨の日訪ねていった。その時感じたことはそんな古い謂われのある石がこの雨にうたれ又その長い歳月の中で風化してしまわないかということであった。これもまたはるかみちのくから京都まで旅して感じたことなのである。これと同じようなことを芭蕉も感じたのだなぁとつくづく思った。

 雨しとどぬれて残るや旅人の訪ね来たりし車折の石

この関が原も汽車でたちまち通り過ぎた。そこで一句ひねった。

 本陣に大将集い青葉かな

車窓からは尼さぎが見えた。尼さぎは渡り鳥で沖縄にはいつもいる。西表島で水牛とともにいた。それが夏には東北の方でも見かけた。青さぎも渡り鳥である。これは北海道の方にも渡る。 

尼鷺に黄菖蒲映えて汽車の行く


それからようやく名古屋に着いた。名古屋に泊まったのはぼろぼろの安旅館であった。椿町とあり鎮守の森があり椿神社があった。後で分かったのだがそこは旧市街であったようだ。中村区とあり古い街であることは確かである。そこに一軒古本屋があった。そこで古本を一冊買った。詩集であったがなかなかいい詩集でもあった。そこは確かに何とももの淋しい感じがした余り活気が感じられなかった。そんな所で旅情を感じていたのも奇妙であった。その訳は駅の下に巨大迷路のような地下街が広がっていたのである。そこが新町でありこちらは古町になっていたように思う。繁栄は移り大都市は変貌する。地下街が栄えやがて海底街が栄えるようになる。でも古町には古町の良さがある何となく人情的で落ち着くことである。奈良井宿とか妻籠宿などは昔をそっくり復元させて繁栄させるようになったのも皮肉である。旅にしても同じ旅はない時代により違い年令により感じ方も違う
。とにかく沖縄の人は北海道に憧れ逆に北海道の人は沖縄に憧れる。近くには旅情感じられない。最後に夏の夕日に輝く名古屋城の金の鯱を見て帰った

 
青葉の山々一面の青田の中汽車は行き
 名古屋に来たりて夏の日になおも輝き
 金の鯱天守に映えるを見て旅人はさらに
 船に乗り太平洋にい出行くものかも

 (大都会船に後にし夏の海)


こうして今度は船の旅となった。朝海原は眩しく輝き陸が見えた。そして我が故郷も見えるはずであった。操舵室に案内された。レ−ダ−があり丁度回りの水平線までがレ−ダ−内に映っていて船影も映り操縦は自動となっている。私は必死になって望遠鏡で烏浜の辺りを探した。確かに見えるはずだったのである。この船が行くのはいつも海岸から見えた。意外と近いところを行くのである。しかしついに我が故郷の海岸は見出せなかった。そのうち向こうから同じ航路を行く太平洋フェリ−が迫って来た。丁度出会った時一緒に汽笛を鳴らしたそれは夏の海一杯に響きわたった。
 
  夏の海出あいし船の汽笛かな

2006年12月14日

平戸(十字架の墓)

海望み十字架の墓や平戸かな春の夕暮旅人たたずむ

平戸に行ったのは30年前とかになるかもしれない、平戸が印象に残ったのは開けた海だった。九州の海は東北の海とは違う、中国とか東南アジアとかヨ−ロッパにも通じた海だったのだ。外国との人と物の出入りがあった海である。そこが根本的に東北の海とは違っている。このことはベトナムに行ったときメコン河の河口の島巡りしたときガイドがこの河は日本に通じていると笑って言っていたけどなるほどうまいこというなと思った。実際に海は交通路であり日本に本当に通じていたのだ。実感としてふりかえるとなるほどと思った。平戸はまさにヨ−ロッパ−まで通じていた日本の出入り口だった。その海の感覚が東北とは全然違っていたのだ。だから平戸は印象的な場所だったので覚えている。十字架の墓の写真をとったのがなくなっていた。なぜか九州でとった写真がなくなっている。写真と俳句短歌をそえるといきてくるがあとで見つかったらだしておこう。

冬は近くでは書くことが少なくなる。とにかく旅は30年もしてきたんだから思い出す旅が私にはできるのだ。これもふっと思い出してまた作ってみた。このプログもずいぶん書きつづけた。認知症の介護のなかでもこれだけ書き続けたのはやはりプログが書きやすくできていたからだ。ただ最近疲れてきた、書くことは結構疲れる。プログは毎日何かしら書かないとなると疲れる。旅の思い出を埋めるのがいいかもしれん、短い文ならなんとか毎日書けるかもしれない・・・・

2006年12月15日

鹿児島から大阪へ(船の旅)

長々と春の夕日に染まりつつ開聞岳や薩摩を去りぬ

船で鹿児島県を離れた。船のデッキによりつつ春の夕日に染まる開聞岳や離れゆく薩摩半島を見ていた。そこに長い時間があり記憶に留まった。船にはゆっくりとした時間があったのだ。だから船の旅はいいのである。港を離れてゆく時間が旅情を生むのだ。飛行機にはそれが全くないのだ。単なる空間の機械的移動になってしまう。旅が過程にあるというときその過程がまるっきりないのだ。新幹線でも飛行機よりは過程がある。飛行機にはまるっきり過程がないのだ。長々と春の夕日に染まる開聞岳から薩摩半島は心に残る。その長々とした旅の時間が私の心に残っている。早く過ぎ去った旅は心に残らない、一般的には残しにくい、旅の理想は一歩一歩歩くことが理想である。そうできるのは余程の変わり者となってしまった。

洋上に陽の昇りつつ難波へと船は入るかな春の朝ぼらけ


そこから大阪へと船は入って行った。船もほとんど乗った。それで海上交通に興味をもったのである

朝ぼらけはもともとは朝おぼろあけといって、「朝がおぼろに明ける」(そのままやん・笑)ということらしいです。おぼろっていうのは、おぼろ月夜(月がかすんで見える夜)というコトバもあるように、「うっすら」「ぼんやり」という意味。

大和へと船は帰りぬ難波津や海につながる夏の日の朝

中国と日本は韓国もそうだが海の道を通じて古代からつながっていたのだ。海は人と人を結ぶ交通路なのだ。陸地は山があり交通路としては海の方が先にあった。海は遠くまで外国まで結ぶ道なのである。今の大阪は大都会化したけど難波津は大きな湾になっていて八十島があったのだからその美しさは夢のようであった。この景観が失われたことが一番惜しいのだ。景観の喪失は再現できないからだ。ただ想像力で回想するほかなくなっているからだ。

2007年01月01日

瀬戸内海にそい走る(青春18切符の思い出)

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瀬戸内の海沿い走り島も見え春山尽きじ花盛りなり

青春18切符で東北から韓国までの旅はよかった。花盛りであり韓国も桜が咲いていた。やっぱり旅はある程度距離を行かないと醍醐味が味わえない、今でも頭の中で走っている。一日電車に乗りつづけたからである。これは思い出になる電車の旅だった。これが下関から船で韓国まで行ったことがさらによかった。韓国も山が多く春の山だったのだ。瀬戸内海は北よりは春らしい春になる。海と島と山とが一体になるし変化にとんでいて外国も近いとなるから東北の春とはかなり違ったものになる。

旅には行けないけど思い出の旅はつづいているんだよ、やはり思い出になるような旅をする工夫をした方がいい、あとに残らなくては旅のしがいもないしもったいないから・・・
もしあなたが旅ができなくなる日がきたら思い出す旅になってしまうからだ・・・・

今年もまたひたすら書き続けるのか・・・・
これだけ書き続けている自分にも驚いている。過去に蓄積していたものがあるから書けるのだろう。

今年もよろしく・・・

2007年01月03日

正月−蹴鞠のこと

蹴鞠は鹿の皮でできてるので、売ってない。
先祖代々伝わるものを大事に使っています。食事等も厳しく女性と男性では品数が違います。


家長が最初に箸をつけてそれから順番に箸をつけます(箸をつける順位は決まっております)家長が箸をおいたら全員が箸を置かなければいけません。
ちなみに女性に場合、月の汚れの時は同じ席につく事は出来ません。


これは相当な旧家の家だろう。それも江戸時代ではない、平安時代からかつづいている古い家である。有名な旧家だからそうなのかもしれない、男尊女卑がこんなにまであったことの驚きである。女人禁制の山もかなりあったし今でも残っている。天皇家もこういう伝統を受け継いでいることで貴重なのだろう。。東北では旧家というのは江戸時代のものでそれでも極めて少ないのだ。その辺の歴史の差が大きいのだ。

正月ということで正月にふさわしいものがないかと思っていたらたまたまこの文が掲示板にでていたのだ。それで蹴鞠は正月にふさわしいなと思ったのだ。この蹴鞠の歴史も古い、鹿の皮だというのも古い由来を語っている。

談山神社という名前はここからきているようですね。 あと、春と秋に行われる蹴鞠祭(けまりさい)は中大兄皇子、中臣鎌足が会い、大化の改新のきっかけとなった飛鳥法興寺の蹴鞠会(けまりえ)の故事によるものです

談山神社とは談合神社だったのだろうか、あそこに行ったが暗い山の陰だったから談合するにはいい場所だったのかな、歴史も地理と関係している、この地理がわかりにくいんだよ
ゴルフの接待とか政治家もしているからこういうところで政治的密談が行われたりしたのだろう。


京都市営地下鉄東西線
山科駅 - 御陵駅 - 蹴上駅


蹴上駅は蹴鞠からでている。地下鉄だから情緒がない、地下に化石化した地名みたいになる。奈良、京都には由緒あるところが多すぎるから地元の人も関心がなくなる。ありすぎて関心がなくなるということもある

近鉄の駅に待ちをり春の山

天皇の威陵(みづい)に来鳴く春の鳥 

陵(みささぎ)の駅近くあり春の暮


駅近くに大きな古墳があるのはめずらしくもない、それもいくらでもある。これは奈良だからそうなのであり他ではそんなにないから歴史を感じるのだ。 

2007年01月15日

白河城(春)

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白河城春の夕日のさしにつつ電車の窓辺に見つつ過ぎゆく

電車から見れる城はあまりない、城が駅になっているところもあった、福山城の福山駅は駅を降りたら城であり大きな城である。近畿には城が多いし大きな城が多い。白河城は小さい城である。ここが白河の関があるところだからみちのくの玄関口として印象に残るし東北では駅から電車から城が見えるのはほとんどない、そもそも残っている城が少ないからだ。亘理駅の城は作られたものであそこにはなかった。だから歴史的意味がない、城はやはり現実にあった場所に意味があるからだ。この城を見たのは韓国まで行く青春18切符に乗った時だった。ここから下関から韓国まで行ったのだからあの旅は思い出に残った。インタ−ネットでネットサ−フィンしていたら近江にオンドルの跡が発見されたとあった。いかに近畿が韓国と密接な関係があったかわかる。これは装飾品などではない生活レベルでも韓国の影響があったのだ。古代は韓国は技術の先進国だったからすべてそうなったのである。明治維新後欧米に習ったと同じであったのだ。
駅降りて花満開の福山城

駅と直結した城はここだけであり新幹線も通っているからこの城は印象的であった。

2007年01月17日

昔の旅(歌枕−地名の旅)

坂上り歩みの遅し日も落ちむこはいづこなれや標しなきかも

あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、・・宿からんとすれど、更宿かす人なし。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。 (おくのほそ道)

芭蕉の旅は歌枕を訪ねる旅だった。旅は何か標しになるものがなければ霧のなかを迷うようなものになってしまうともいえる。現代の旅は歌枕など関係ない、車でバイクでぶっとばす走る爽快感みたいなものしかない、旅ではなく移動になっている。旅をすることは現代では移動はできてもできていない、現代の旅とは移動と保養なのである。移動がこれほど楽になったのに旅がないということは実に皮肉である。昔の人は移動そのものがむずかしかったからかえって旅があったのだ。そして旅というのは容易にできるものでないから旅をするにも今のようにどこへでも突っ走るようなことはできなかった。歌枕が指標となり芭蕉でもそれを常に探っている旅だったのだ。ここの文にも地名がでてくることが多い、地名は単なる位置を確かめるものではない、旅の拠り所としてあったし地名には歴史的に蓄積された時間もあった。地名は長い時間の中で人々の指標となるものだった。

人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。

こういうことが旅ではよくある、迷って思わぬところにでてしまうのだ。芭蕉の旅は歌枕の旅であり歌枕を指標として歩いていた。もし歌枕がなければそこがどこだったのかどこを旅していたのかもわからなくなった。旅をふりかると電車の旅は駅名だけが記憶されていることがおおかったのもそのためであり地名に興味を持ったのもそのためである。地名は旅の大きな標しなのだ。その地名を手がかりにして過去を探り今の位置を確認しているのが人間なのである。
笠島はいづこさ月のぬかり道

これも笠島という歌枕の地を月明かりのなかで探している旅なのだ。もし歌枕とか地名なき地を旅していたら旅をふりかえっても自分がどこにいたのかも思い出せなくなる。外国の旅は印象に残りにくいのは歌枕と地名とか歴史的なものなどわかりにくかったためである。地名にしてもその意味も読むこともわからないからそこがどこだったかもわからずじまいになることが多かったのである。

満州への旅

満州に特急停まり夏燕

満州の村の淋しき馬車一つ帰りゆくかな夏の夕暮


日本海からウラジオストック→シベリア→満州の旅であったがこれも雄大なスケ−ルの旅立った。中国は前のように汽車が混んでいないし快適な旅ができるようになっている。三段のベットでなかもきれいである。乗務員が絶えず回り掃除しているし汚い中国とは違う。シベリア鉄道では便を垂れ流ししているから汚かった。ロシアとくらべると中国の方が進んでいるし発展しているから満州里にはロシア人が電気製品などを買いにきているのだ。店の看板もロシア語と中国語になっている。満州里は貿易で栄えているから木材の貿易商がトヨタをもっている金持ちだった。今や中国にはこうした金持ちがどこにでもいるのだろう。一億人が日本並になり金持ちになるとするとそれだけでもすごいとなる。ロシアとか中国は大きすぎてとらえどころがない国となる。その大きさに圧倒されるのである。

それにしてもトウモコシ畑が延々とつづくのにはあきあきした。車窓の風景も最初は遊牧民の草原があったがあとはトウモロコシ畑で見るべきものがなかった。変化がほとんどないのだ。この変化のなさうんざりしたのだ。そこに小さな村があり荷馬車が昔のままにのんびりと帰ってゆくのが見えた。北京までゆく家族も金持ちなのだろう。老人が日本人そっくりだったのが驚きである。漢人ではない、日本人の顔なのである。満州辺りからも日本に来たものがいた。アイヌは日本人と顔つきが違う、これはどこからきたのか意外と謎なのだ。これはもしかしたらヨ−ロッパ系統の人種がシベリア沿いにカラフトから北海道に流れついたともとれるかもしれない、日本人型ではないからだ。縄文人もアイヌとは違った顔つきをしていた。満州とかの人種とにた人たちだったかもしれない、縄文人とアイヌは別物ではないか?蝦夷というのがアイヌだという根拠はどこにもないのだ。むしろ満州の系統の人種に近いのが蝦夷だったのだ。ここがいつも混同しやすいのである。


阿倍引田臣比羅夫、粛慎(みせはしのくに)と戦ひて帰れり。
虜(とりこ)四十九人献(たてまつ)るといふ


大陸側に粛慎(みせはしのくに)があった。他にも蝦夷とは中国の異民族とだぶっていたのだ。中国でも異民族として蝦夷がいたし共通の異民族として蝦夷がいたのだ。だから朝廷の使いが唐に行ったときその異民族の蝦夷のことを聞いていたのである。

旅の思い出も限りないから書くことは尽きることがないかもしれない、記憶の糸をたぐりよせ編む作業をしている。旅は旅のあともつづいているのだ。だからどれだけ過去の記憶を蘇らせるかが問題になる。記憶が消えてしまいば書けないのである。旅はその記憶が宝だとなる。だから何かしら記憶に残るような旅を心がけないと旅の成果もなくなってしまうのだ。余りに急ぐ旅は記憶に残らないからあとで後悔することになるのだ。
ロシアでは満州のことをキタイと言っている。10世紀にはモンゴル高原から中国の北方にかけて複合的な大帝国を建国し、中華世界向けの国号を遼と号した契丹のことである。ロシア人がキタイと未だに言っていることは驚きである。この辺の歴史は余りにもスケ−ルが大きすぎてピンとこないのだ。中国自体の歴史も大きすぎて日本人的感覚ではとらえようがない世界だったのだ。

2007年02月26日

春の海(瀬戸内海)

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春の朝瀬戸の潮や旅たちぬ

島々に湧き立つ潮春の海

島一つまた浮かびいず春の瀬戸

大船の汽笛ひびくや瀬戸の島

船の行き春の夕日や明石城


伊耶那岐の命(イザナギのミコト)と伊耶那美の命(イザナミのミコト)はまだ渾沌とする地に矛(天の沼矛)を突き刺し、こおろこおろとかき回して引き上げると、矛の先からしたたる海水が積もり積もって出来上がったのがオノコロ島で、二人はその島に御殿を建てて夫婦の交わりをするが、最初に誘ったのが女性であるイザナミであったため生まれたのは蛭子(未熟児)でした。そのためその子を葦の葉で作った舟で海に流すと、今度は男性であるイザナギが誘い、次々と子供(島)を産みました。これが日本大陸の誕生です

淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま)(淡路島)
   伊予二名島(四国)粟国,讃岐国,伊予国,土佐国
   隠伎の三子島
   筑紫島(九州)筑紫国,豊国,肥国,熊曾国
   伊伎島(壱岐島)
   津島(対馬島)
   佐渡島
   大倭豊秋津島(畿内)


淡路島から国生み神話が始まった。最初の国は島だった。日本列島は島の意識だった。佐渡島まで入っているのは最初日本海は交通の便が良かったからである。日本海から東北などでも内陸部へ入ってきた。瀬戸内海は海でも地中海とにている。船の通う道としての海だった。温和な海であり一見湖のようにも見えるからだ。太平洋とかの海とは全然違う、矛の先からしたたる海水で島ができたということが実感できる海なのだ。特に春は一層春らしい海になる。太平洋は春といっても特別変わらない、ただ広いというだけで変わらないが瀬戸内海は違うのである。だから幻想のなかでも蜃気楼のように島一つが生まれる、「島一つまた浮かびいず春の瀬戸」となる。

旅してきたものは旅が終わっても旅をつづけているのだ。芭蕉も旅が終わっても枯野を駆けめぐっていたように旅は終わらない、思い出す旅、記憶の旅もつづくのだ。記憶の旅は旅の記憶を歴史的な背景と結びつけるとさらに豊かになる。芭蕉の奥の細道も旅を終えてから何度も遂行して創作したのである。

2007年02月27日

花影(吉野-漢詩)

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散る花にさらに花散り夕暮れて芳野のあわれ我にも染みぬ

敗将を吉野に偲ぶ花と月

知られざる径の花影踏みて行く(老鶯)
 

芳野懐古  <河野鐵兜>

山禽叫び斷えて 夜廖廖 さんきんさけびたえて  よるりょうりょう
限り無き春風 恨み未だ銷せず かぎりなきしゅんぷう うらみいまだしょうせず
露臥す延元 陵下の月 ろがすえんげん  りょうかのつき
滿身の花影 南朝を夢む まんしんのかえい なんちょうをゆめむ


梁川星巖

今來古往蹟茫茫。
石馬無聲抔土荒。
春入櫻花滿山白。
南朝天子御魂香。

 
馮延巳 

  長相思

紅滿枝,
緑満枝,
宿雨厭厭睡起遲。
閑庭花影移。


歌書よりも軍書に悲し吉野山 東花坊
 
 
 
この句は芭蕉十哲の一人各務支考(かがみしこう)の句で、東花坊というのは支考の別号です。支考の名を知らない人でも、南朝の悲しい歴史に思いを寄せた句として、広く知 られている名句です。

 吉野を詠んだ歌書はたくさんありますが、この場合は、南朝の悲歌を集めた『新葉和歌集』を思うべきでしょう。その悲愁の歌を集めた歌書よりも、やはり軍書『太平記』に描かれた南朝の哀史こそ、吉野山の歴史だというのが、支考の思いだったのでしょう。


この文を編んだのはキ-ワ-ドの「花影」であった。花影という言葉自体が詩語でありそこからイメ−ジされるものが広がるのだ。これをインタ−ネットで結びつけるのがインタ−ネットの読書なのである。俳句を上手になりたかったら漢詩をかなり読んでいた方がいい、漢詩からイメ−ジされた詩が日本の文華の始まりだった。だから漢詩ができる人は俳句を作る人より相当に詩をわかっている人に思える。俳句は詩がたいしてわからなくても一句くらいできるのだ。それで老人になって五七五をひねり出して俳人になったとか有頂天になって死んでいった人がかなりの数いるのだ。俳句は詩などほとんどわからない人でも作れるし俳人となってしまう文学なのである。でも漢詩はそうはいかない、かなりの詩として基礎教養を積まないと作れないのだ。その差はかなり大きいのである。だから漢詩を作れなくても理解だけはするように努力すると詩の世界も広がるのである。そしてその場には必ず歴史的背景があるから歴史を知らないとまた詩の世界もわからないのだ。吉野には悲運の将の歴史が積み重なっている。そこで自然もその歴史の影響を帯びて陰影を帯びるようになる。中国でもヨ−ロッパでも歴史がわからないと結局その城が何を意味しているのかもわからずじまいになって深い意味を読み取ることができなかったのである。

吉野の桜の写真
http://www.sakura.yoshino.jp/sakura2006/photo.htm




2007年03月01日

春潮瀬戸(漢詩もどき)

fishmany.jpg

春潮瀬戸

瀬戸島々
海峡潮早
大船航行
陽春流雲
飛燕帰還
魚群回遊
千舟密集
操舵自在
昔日興亡
水夫墓前
権不従者
満枝桜花
千里走行
遠来征人
雄飛大望
洋々遠方
・・・・
昔日栄枯
夕陽大島
古杉暮春
綿津見神


漢詩ではない漢詩もどきだけどそれなりに何か感じるものがないか?意味は日本人には通じる。中国人には通じない、中国の漢字は同じ漢字でも意味が違っているからだ。やはり折り畳み自転車で四国を回り瀬戸内海を回ったのが思い出となった。電車にものったが自転車で回ったのが記憶に残ったのである。旅は歩いたり自転車でないと旅にならない、今はあまりに便利すぎるからなるべく不便な旅を自ら演出しないとできない、これには日数もかかるし体力も必要だから現代ではかえって本当の旅はしにくくなっているのだ。遍路が退職したりした人がしたくなるのはやはり歩いてみたいということなのだ。歩くことが新鮮な経験になってしまったからである。

2007年03月09日

一度のみの月(中山道)



一度のみ旅路はるかや伊那に月

only just once
the moon at Ina
in the distance
on my traveling way

御岳へ分かれゆく道奥深き我が行けざりき夏の夕暮


中山道は有名だし電車も通っているから行くけど道を行く旅は違っている。自転車で中山道を行ってその脇道に御岳へ通じる道があった。ここからさらに御岳の道がある。自転車だと疲れるからまず脇道にはなかなか入って行けない、引き返すだけで大変になるからだ。五キロにしてもまた5キロ引き返さねばならないからだ。車だと容易でも自転車だと脇道に入ることは行程がさらに長くなるからなかなかできないのだ。目的地につけなくなるからだ。車だと近いとなるが自転車だとずいぶん遠く奥深い場所になる。これは昔の旅でもそうだろう。歩いてゆくときやはり分去(わかれさり)別れ道は特に印象に残る場所になる。道は延々とつづきこの道は分かれてゆく、その先に何があるのだろうとなる。道は未知になるのだ。
その先は神秘的な場所となる。一生訪ねえざる場所になる。車だとちょっと回り道とかなるが自転車や歩きではそこは何か遠い世界になってしまう。電車だとこういう道−未知の神秘性はなくなる。軌道化してル−ト化しているから神秘性がなくなる。道は無限であり道の先の先は何があるのか坂を峠を越えその先には何があるのかとなり旅の興味はつきないのである。旅とは本来そういうものだった。

これだけ旅をしても日本という狭い場所でも実際は知らない知り得ざる地は無数にありそして人は死んでゆく、一度のみ旅で見る月がある。月でも旅での月は一度限りのものが多くなる。同じ月でもその印象はその場によってみんな違っている。伊那の月が印象に残ったのは中山道をぬけてそこでテントで泊まったからだ。中山道の山の中をぬけたところが伊那だったのである。自転車の旅は中高年ではやはり辛いところがある。テントを張ったりするし汚れるし旅館の人に嫌われたり断られたりもする。実際一万の宿で自転車で来たから泊めてくれと言ったら断られた。自転車は尋常な普通の旅と思われない面がある。若い人が野宿するような旅人に見られるからだ。そういう旅のスタイルになってしまうからである。

現代では本当に昔の人のように旅をしていない、旅ができないのだ。泊まるなら安い木賃宿のようなものがあればいい、そういう方が旅に向いている。長い旅だったら金がかかるからそうなる。それができないから長い旅になるとキャンプ道具をもつ旅になってしまうのだ。

年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山 西行69歳

こう感じる昔の人こそ旅をしていた。旅に命をかけていた。また命をかけざるをえない旅だった。普通の人でも水盃をして別れたからだ。旅は余りにも安易になったとき旅はなくなった。今は私でも介護で旅に行けないとなると切実にそう思った。ええ、もう旅ができない!
これが自分にとって一番ショックだった。富士山もまだ見ていない日本の山々も訪ねていない場所も行けないのかとショックでありそして最後は確かに見るべきものは命なりけりなのだと実感した。60こえたら最後に見るものであり仰ぐものであり富士山でも見たら拝みたくなる。二度と見れなくなるということが現実となるからだ。そういう日が誰にでも来る。




2007年03月10日

郭公(関所のことなど)

郭公や難なく過ぎぬ関所跡

最近読んだ「きよのさんと歩く 江戸六百里」は面白い。これを読んでわかったことは江戸時代の旅は今の外国旅行と同じだったことなのだ。違いは言葉なのだが方言がありこれで通じなくなることでもにている。そして藩が違い別な藩に入ると絶えず両替しないといけない、いろいろな通貨があり通用する金が違っていた。これも外国とにている。ヨ−ロッパではいろいろ国があり国が変わるごとに両替してそのたびに手数料とられていた。藩が一つの国になっていたから江戸時代は外国を通り抜けると同じだった。藩札なども使われていたがこれはその藩でしか使えないものである。外国でもカンボジアとかの紙幣をもってきたがただ記念になるだけだった。

それから街道の宿場町は飯盛女の売春ロ−ドだった。とにかく江戸時代の女性の職業は売春だった。これも外国とにている。特にアジアの貧しい地域はまさにそうである。外国人が買春に来ているのが多い、買春ロ−ドになっていた。アジアでは旅とは買春なのである。東北でも郡山とか本宮とか街道はそうだった。江戸でも遊女が多かった。これは今の時代の感覚では計れない問題であった。貧乏の結果、女性の仕事がないからそうなっていた。

一つ家に遊女も寝たり萩と月 芭蕉

これは日本海側であり日本海には港が多いから港には遊女が多かった。芭蕉はここで遊女に接したことを書いているが他でも遊女は飯盛女は宿場で客引きしていたから出会っていた。
これはたまたま遊女とあったというのではない、必ず遊女は旅でも必ず合うものだった。ただこれが名句となっているのは日本海という風景とマッチしたからだろう。飯盛女が客引きしているようなところではこの旅情はでてこない、江戸時代の俳句は今の感覚で鑑賞していると別なものになっている。遊女は今の売春婦とは違う、社会に溶け込んだ遊女なのだ。それも貧しさ故になっている。他に仕事がないから遊女になっている。そこがやはりあわれだという感覚になる。だからこそ詩的なものとして見ることができた。遊女は社会の中の一つの風景でありそれが日本海という自然とマッチしてこの名句が残ったのである。

とにかく関所を通りぬけるのが厳しいとなると関所破りがありそれを案内する人がいたというのも日本などに来るために偽のパスポ−トを大金で作る業者がいたり案内する人までいるのは同じである。関所は国境と同じであった。関所はだから歴史を記す場にもなる。関所に関係する残された書類を調べるといろいろ当時のことがわかってくる。眼の治療のために関所を越えた資料も紹介されていた。江戸時代の研究に関所はかかせないしここで具体的なことがわかりやすい。ただ関所があっても関所破りも常習化していたからそれなりに自由な旅もできたのである。

郭公の心になおもひびきけれ自由なる日の北海道の旅

郭公がどこまでもひびいていたのが北海道を一カ月旅したときだった。
この時は本当に旅ゆく先々に郭公の明るい声が北海道の大地にひびきわたっていたのだ。

2007年03月19日

春の日(雪の会津、新潟から東海道へ)

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春の日山国から東海道へ

会津や新潟や雪深く雪に埋もれし墓所
めぐりて遠く長篠の古戦場
武田の騎馬軍団は敗れたり
木曽義仲朝日将軍、甲斐の武田は天下をとれず
無念をのみし歴史の跡かな
春の日や我東海道にいでにけり
春の満月の豊橋にいで縦横に電車行き交う
東海道の吉田の城やその橋や
東海道は日本の幹線、人の行き来の盛んに
春の日電車は一路東京へ
駿河湾波のひびきや伊豆半島の沖に島
富士の峰仰ぎ花のお江戸に我も参りぬ
東京いでて常陸の国も広しかな
春光の満ちわたりて勿来の関越え
我が陸奥の真野の里に帰りけるかな


人間の感覚は汽車や電車や自動車や飛行機など交通の便で変わってしまう。江戸時代の歩いて世界を感覚的にとらえた時代と今の時代はあまりにも違っている。一番の違いは時間と距離の感覚である。距離が極端に交通の便で短縮されているから地理というのものも電車の感覚となるし車の感覚となる。長篠という駅があるがこれもわずかに一両の電車が止まったことで自覚したのでありそうでないとわからずじまいになる。ここが信長と武田の衝突した地理的な重要な地点としての意味がわからない、歴史が地理だというとき地理がわかれば歴史がわかるのだがこの地理を知ることは容易ではないのだ。外国に行ってもわかりにくいのは地理であるし地理というのは本当にわかりにくいのだ。縦横に道があり山々があり川があり地理に通じることは一回くらい旅してもわからないのだ。

木曽義仲であれ武田であれ会津であれここは雪深い山国でありその地理的要因で遅れをとり天下をとれなかった。信長がいくら天才でもやはり歴史は地理であり地の利が味方しないと大事はならなかったのである。信長が鉄の船まで作ったことは驚きのように海にまで眼を向けていたのも地理的要因があったからなのだ。地理がわかれば歴史はわかる、だから旅が必要なのだ。現代の旅は距離を極端に短縮する、それでかえって世界を見えなくしてしまうことがある。一方でこの詩のように電車で行く旅はまた別な見方をすることにもなる。山国から一気に東海道へぬけてしまう爽快感のある旅ができるのも現代なのである。

山国ゆ一気にぬけて東海道花の盛りや海望むかな

ノ−トパソコンから旅の報告http://www.musubu.jp/notetrip.htm

前に書いた膨大なものが今では私の遺産でありここからまた枝葉を伸ばし付け加えてゆく、インタ−ネットの便利なのはいくらでも表現できることなのだ。これが出版となるとせいぜいやっと一冊出してそれも書店には飾ることもできず終わりになった。これだけ表現できたのはインタ−ネットがあったからだ。他は全く無視されて終わったからその怨念は消えることはないのだ。

2007年04月24日

伊豆の海(下田)

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伊豆の下田に行ったのもずいぶん時間がたってしまった。それでも極最近行ったような気がしている。旅の記憶も不思議である。検索すると次のような句がでてきた。

薊咲き下田通ひの船がゆく 臼田亜浪

伊豆の海や紅梅の上に波ながれ 水原秋櫻子

鎌倉の草庵春の嵐かな 高浜虚子


江戸時代、下田は諸国の運搬船の寄港地として栄えました。毎年、3千艘もの千石船が出入りしたといいます。

俳句でもなんてもそうだが生活として活きていたとき芸術もあり生活が喪失しなくなったとき芸術もないのだ。だから中山道で昔と同じ街道を再現してもリアリティがない、映画のセットのようなものになってしまい味気ないものになる。過去は実際は生活があって活きてくるのだからその生活がなくなれば死んでしまう。下田は船が通った時、活きていた。だから薊という平凡な花がここで活きてくる。薊についてかなり書いたからこれも加えればまた薊についての情報がインタ−ネット上で増すことになる。

伊豆の海と鎌倉は一体である。鎌倉時代はまたいろいろあったが海への交通がかなり活発になった時代でもあり海への視点が欠かせない、鎌倉に消えた和賀江島の港もそうだろう。南相馬市の鹿島区の烏崎に船で上陸したという岩松氏も鎌倉から来た。鎌倉時代はより海が身近になった時代だった。これで忘れられないのが韓国から船で福岡に帰りそこからさらに船で伊豆沖から東京に帰った船旅だった。そのとき秋であり朝の海が荒れて伊豆の七島が見えたのだ。この島をみた時鎌倉に帰ってきたと昔の人も思った。

鎌倉に我が帰るかな浪荒し伊豆の島々秋の朝見ゆ

下田というとまた明治に開港した港の歴史もあるから多彩である。伊豆の踊り子でも情緒を残した。日本は海で囲まれているから港は無数にあるし港の歴史でもある。船旅は好きで日本は90パ−セントは乗った。船旅はゆっくりしているからいいのだ。シニアに世界一周の船旅が人気なのはわかる。シニアに向いているからだ。

伊豆の沖春の浪路や富士の峰

船帰る伊豆七島や秋の海

大島へここよりたちぬ旅路来て下田の港春の夕暮

山頂に春風吹きて開国の下田の港真下に見ゆ

山頂に花吹き散りて風強し開国の港に春日落ち行く


伊豆と鎌倉は一体でありその風土のなかに作られた。鎌倉が山に囲まれ海に面していたというのも自然の要塞であり海に向かっていたのもそのときの都に必要だったからである。伊豆七島でも三宅島とかには行っていないしまだまだ行けない所があるし一二回でも地理とかその土地のことはつくづくわからないものだと思った。なんとか記憶を掘り起こしてこうして書いているのである。


 

2007年07月04日

 函館−旅路の港(詩)


函館は郷愁の街→函館−旅路の港(詩を付け加える)
http://musubu.jp/hakodate.htm#hakopoem2

 
前にここに函館の詩と短歌を書いていた。そこに付け加えたのがこの詩である。前に書いた写真とかからまたイメ−ジして書いているのだ。函館には何回も行ったから思い出深い。青函連絡船の時代から何回も行ったのだ。北海道には十回とか一番多く行っている。いかに自分が暇だったかわかる。暇でなければこれだけの旅行はできない、しかしそれも遠くなった。まだその時は船の旅立ったから良かった。今は海底トンネルで函館にくるから何か船の旅情に欠ける。私は汽車と船の旅が好きだった。そのあとは自転車だった。函館は船にあっている。ベネチアともにている。日本では都市としては自然環境でも美しい旅情のある港の都市である。すぐ近くに白波がよせているし明治の歴史を色濃く残している。日本ではヨ−ロッパのように都市の魅力に欠けているのだ。函館には都市の魅力がある。ここは明治という時代を記念する港でもあったのだ。

2008年03月08日

春の富士十句


波ひびき駿河に望む春の富士


春富士や波に踊れる魚かな

白砂に天女の松や春の富士

駿河湾向こうは伊豆や春の富士

早春の伊豆やまじかに春の富士

我が寄らじ雲見や遠く春の富士

ゆくらかに場所を変えつつ春の富士

静岡や新幹線に春の富士

旅長しその日は遠く春の富士

恵まれし旅の日長し春の富士

晴れやかに富士を見ゆかな春の日に
         なお生きてあれ日(ひ)の本(もと)の国に


松静か我がよりにつつ長々と春の富士見ゆ心おきなく


 


初富士へ荒濤船を押しあぐる
石田波郷


陸の富士海の富士見て年新た
太田嗟


  伊豆から駿河湾とかへ旅したのは相当前である。20年以上は前である。その時のことを思いだししてまた俳句を作った。その時は作っていない、作ったとしても記録のような俳句だった。その時作った俳句であまりいいものはないが記録としてはいい、旅とは何回も言ったように記録が大事なのである。ほんのちょっとしたことでも記録してあるとそこから旅の記憶が蘇るからだ。そしてこうしてまた俳句を作ったりしている。駿河湾に出たとき鮮明に記憶しているのは魚が波によって打ち上げられていたのだ。生きているような魚だったのだ。
 

相模国に至ったとき、倭建命たちは相模国造の放った火に取り囲まれてしまいました。そのとき、倭建命は、叔母の倭比売命から与えられていた草那藝剱で草を薙(な)ぎ、袋を開いて中の火打石で火をつけ相手側の火を押し返して野火から脱出し、逆に敵を焼き殺しました。
それゆえ、この地を焼遺というようになりました。
(日本書紀では駿河国の焼津とされます)
「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」

 
この歌も有名である。ここは劇的に海からのドラマが展開された場所なのだ。弟橘比売命が、これは海神の怒りを静め倭建命を救うために身を投げたというのも実際にただならぬことがおきて伝説化したのである。地形的に船で上陸するのに駿河湾は適していたからこそ焼津に上陸したのである。
 
この時撮った写真はない、でもその時の伊豆と駿河湾のことは脳裏に刻まれているインタ−ネットで写真を見るとその時の光景が蘇ってくる。西伊豆を回って駿河湾に出た。そして何度も雪の残る春の富士を十分に見たのである。その時時間は十分にあった。その時間こそ旅には最も必要なものだった。旅はまず勤め人のように時間が制限されたらできないのである。今になって介護で勤め人のようになったから実感としてわかった。一カ月くらい時間を気にせず旅ができないならまず旅はできないのだ。だからつくづく勤め人には保養はあっても休養の旅はあっても旅そのものはできないことがわかった。
雲見という地名は変わっていたので記憶していた。ここからの眺めは確かにいい、ここは地名だけが記憶された。雲を見ていて富士が見えるという何か浮世離れした感じでいい。早春というと伊豆がいい、海と山と富士が見えるからだ。新幹線だと静岡に入るとくっきりと富士が見える、でもたちまち去って見えなくなる。
短歌で日本(にほん)というと何かぴんとこない、やはり日(ひ)の本(もと)、日本(大和)−ヤマトとした方が大和言葉でしまってくる。ただ日の本と大和はまた感覚的に歴史的に違うのである。もともと日高見の国が日の本のくにとなったとか大和の前に日高見の国がありそこには蝦夷も含まれていた。大和は奈良の大和という一地域の名前でありその地域が日本の国の起こりとなるから大和となると奈良を強く意識するのだ。大和言葉があってこそ詩も生きるのであり漢字では日本は日本でありえないというのも真実である。
富士山に関するものは膨大である。富士の俳句だけでも膨大であり富士を常時ながめる場所に住んでいる人は幸せだとなる。
 

富士山の辞書
http://bungaku.fuji3776.net/cat7/

 

(雲見温泉)
http://www.d2.dion.ne.jp/~kumomi/
 

2008年03月09日

伊豆の旅(春−短歌) 


伊豆の旅(春−短歌) 

 
春の波打ちひびきつかもめ飛び旅人の行く早春の伊豆

寄する波白く砕けて丘の上に朝咲き開く椿の花かも

山頂に春風吹きて開国の下田の港真下に見ゆ

汽笛なり船の入り来ぬ下田港夕雲赤し春の日の暮る

山頂に花吹き散りて風強し開国の港に春日落ち行く

潮風に椿は赤く咲き揺れて真近に望める白き富士の嶺

今日もまた富士を望みて船い出る伊豆の港に椿の赤しも

伊豆の海に花吹きちらふかなたには富士を望みてひびく波かも
 
椿を歌っているけど椿自体が記憶にない、その時作ったものであり俳句のようにあとから作っていない、椿のことは記憶に残されていない、下田に強い春風が吹き、ケ−ブルカ−で高い山から下田の港を見下ろしたことは覚えている。変わった地形だったからだ。今ならデジカメがあるから次々にとっていれば思い出したかもしれない、デジカメは数をとることなのだ。そしてあとで思い出すために加工するためにとっておくのだ。その時はできなかったから残っていないのである。


 

2008年03月23日

近江俳句集(秋)


近江俳句集 
 

枯木一本近江塩津の駅淋し

柿熟りて若狭造の家古りぬ

近江路や若狭造に枯野かな

晩秋の朽木の村や月曇る

雪埋もる湖北の里の秘仏かな

菊大輪由緒正しき歴史かな 

柿なりて近江聖人の跡訪ぬ 

朧月古美術店や路地の裏

山科や京の人と歩み秋深む

秋の暮烏帰るも皇子山 

秋の暮古津とありし昔かな

幻住庵訪ねえざりき暮の秋   

近江国治めて広し秋の暮

紅葉映え琵琶湖を望む彦根城

鉢の菊表具師の住む彦根町

月い出て多賀大社や暮の秋

散紅葉近江の旅の幾日か

2008年04月10日

福山城の桜(瀬戸内海の船運と結びついていた城)


福山城の桜(瀬戸内海の船運と結びついていた城)


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福山城天守に人や花盛り

鞆ノ浦船の通い路春の星

(倉敷)
万能倉長者御門や春の街


曙町御船新涯春の旅

天女浜潮見東御所春の海

駅おりて福山城の桜かな瀬戸内海と通ず栄いなれ

ひた走る電車の窓に桜かな南の栄いこの一時に

海開け春山つづき桜咲き船も行き交い電車も走りぬ

(尾道)
船行きて三重塔や尾道に瀬戸内海の春の夕暮  


   福山城から南東に流れる運河「入川」は瀬戸内海まで通じる運河で明治時代に山陽鉄道が建設されるまで物流の中心となっていた。城下にはこの運河に接して藩の船を泊める「舟入」があり、城下を出た場所にも係留場があった
 

ここに詳しい地図
http://yagumo2.hp.infoseek.co.jp/fukuyamasiro.htm

 
伊沢蘭軒(森鴎外)
 

此辺堤上より福山城を松山の間に望む。城楼は林標に突兀たり。四里今津駅なり。高洲をへて示嶺(ばうしれい)にいたる。(一に坊寺(ばうじ)といひ一に牡牛といふ。)一本榎より此に至て我藩知に属す。土地清灑田野開闢溝渠相達して今年の旱(ひでり)に逢ふといへども田水乏きことなし。嶺を下て二里尾道駅なり。此駅海に浜して商賈富有諸州の船舸来て輻湊する地。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2084_17397.html

 

福山にとって鞆とは
http://pub.ne.jp/ANKO/?entry_id=1157975


福山城が印象に残ったのは新幹線の駅であり駅をおりてすぐ福山城を見れるからである。立派な石垣に沿って新幹線が走るのはめずらしい。現代の旅はまず汽車→電車からはじまる。だから駅が重要な旅の出口であり入口になる。江戸時代なら関所になるが現代は駅なのである。最近は車時代だから道の駅が旅の駅として重要になってきているのも交通で旅は変わる。そこで旅が昔と違い表面的な点な旅になってしまった。電車の駅から駅の旅であり新幹線になったらそれこそ普通車の駅から駅の旅もなくなっているのだ。福山城は立派な城であり桜が満開のとき見たから印象深い、大阪から南は大きな城が多い、その代表が姫路城でありこれも車窓から眺めたときは感激だった。瀬戸内海沿岸で盲点となっているのは電車の旅だといつも瀬戸内海が見えるわけではない。海が見えない場合も多い、福山城では海のことが全くわからなかった。城に上って海が見えれば海を視野にした感想があるのだが海が見えないと海と関係ないように思ってしまう。瀬戸内海や四国だとじかに海とつながっている城がかなりある。明石城や今治城や高松城は海がすぐ前であり実際に海から船が入る施設を備えていたのである。
 
東北にはこういう城がないから直観的ににわかりにくい、瀬戸内海の船運がバックボ−ンとなって城を支えていたことがわかりにくいのだ。尾道の三重塔も船を使いもうけた商人によって寄進されり船と関係することが多いのだ。これが船の旅だったらわかりやい。福山城には城に通じる運河があり城にじかに船が入るようになっていた。船町、船入町、御船町とかあるのもそのためである。船入寺もあり寺町に船で入っていたのである。そのあと運河は埋め立てられてわからなくなった。江戸城も運河で結ばれていたから船運は交通の主役だった。それが現代では実感としてわからないから歴史がわかりにくくなっているのだ。鞆ノ浦も福山と関係あることが旅してわからなかった。電車だと線と点の旅になり面の旅ができなくなるのだ。だから面の旅はあとから想像して旅する他ないのだ。インタ−ネットがその想像の旅をするのにいいのである。ただその前に実地に一回くらい現場に行っていないとこの想像の旅もむずかしいのである。旅とは旅する前−旅している時−旅をふりかえる−この三つがあって旅は完成する。その最後の完成をしている。それでインタ−ネットの情報が役に立つのである。

 
海よりの風に吹かれて満開の桜に人や福山城かな
 

海に出て瀬戸内海を見て海の風に吹かれて福山城を見れば感慨は違ったものとなっていたのだ。電車で来ておりたら海の視点がないからである。電車の旅は点(駅)と線(線路)だけになりやすいのである。だから面を理解することがぬけてしまうのだ。
 
地名的にも倉敷も船運で栄い運河の街なように「万能倉長者御門や春の街」その繁栄が地名からも想像できるのだ。他に入野とか海田駅とかあるのも瀬戸内海らしい、というのは海があり田があり入野も山を分け入る日本的な風景だからだ。だから万葉集にも入野の歌が残っている。ともかくみちのくから大阪であれ瀬戸内海となると実に遠いのだ。西とみちのくではこれも相当な経済力の差がある。豪商は西に集中している。みちのくではまれなのはやはり船運の交通の要衝にならなかったからである。

 


 

2008年05月25日

祖谷の俳句(春)



祖谷の山清流ひびき燕来る

燕来る祖谷の奥まで旅路かな

キセキレイ黄のあざやかに春の谷

さえづりつわたるや高きに祖谷の家

祖谷の家春日あたりて山の上

祖谷の奥花散り暮れぬ琵琶の滝


春の日や祖谷を下りて出合かな

祖谷を出て春田ひろがる城一つ

祖谷をいで平城一つ花見かな

祖谷の思い出は祖谷から出る時に出合という所があった。出合う場所だからこの名がついた。ここの霊山の麓にも行合道とあるから山国では山に閉ざされて暮らしているから山から出るところで出合とか名がついた。祖谷を出ると平地に出て電車にのり小さな城があった。その城が山深い祖谷を出て見たので新鮮だった。それほど祖谷は山に閉ざされた世界だった。その城では花見をしていた。城があるから平地があり米もとれる。それが日本では当たり前だが祖谷から見ると違っていた。つまり祖谷はそれだけ不便な場所だった。四国は山深いし山が高い、平地は少ない、山頭火の分け入っても分け入っても青い山とは四国の山々だった。しかしあの高い山々を上って歩いて行ったとすると大変である。今になればあそこまで行ったというのもずいぶん遠い、燕来るというとき稚内まで自転車で行った時も5月だったが燕が来る、燕がしきりとんでいた。北海道は夏でもまだ春だった。「燕来る稚内までも旅路かな」ともなった。

2008年05月28日

初つばめ−燕来る(旅の句一〇句)

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旅路来て赤絵の町に初つばめ 

帰化人の陶部(スエベ)の町や初つばめ

目敏くも子供見つけぬ初つばめ

瀬戸内の潮の速さや初つばめ

つばめ来る祖谷の奥まで旅路かな

つばめ来る稚内までも旅路かな

飯館に半年ぶりやつばめ来る

石増やし庭を作るやつばめ来る

つばめ来るパン食に変わる我が家かな

新しき花を植えたりつばめ来る

道の駅南相馬や初つばめ

停滞を破る速さや初つばめ
 
初つばめというとき一番印象に残っているのは赤絵町まで旅した時であった。みちのくから九州は実に遠い、そこで初つばめが飛んだので鮮明に印象として残っていた。それがこの一句だった。しかしそれも30年前とかなっているのだ。旅でも記憶でも時間と関係ない、鮮明な印象として残っていれば時間がたっても新鮮なのである。老人になると思い出が宝であり記憶に残ったものが珠玉のような価値となる。この世に残る一級の芸術品が時間とともに色あせないと同じである。
 
寛文十二年(一六七二)には赤絵屋の集落として赤絵町が既に存在している。
 
赤絵町がこんなに古い所であった。この時代から赤絵町という名はすでにここに存在した。九州は大陸との関係が深いのだ。
 
今日は締め切りの時間切れとなった。つづきは明日書いてみよう。インタ−ネットに興味深い有田焼の歴史が出ていたのでそこから引用して書けるだろう。俳句や短歌は短いから連作にすると一つの文芸となる。そしてやはりその俳句の作られた背景を歴史など読み解くことが不可欠なのだ。赤絵町というときそこにはヨ−ロッパまで広がる遠大な歴史があったからだ。
 

2008年07月09日

中仙道の俳句(月が友)

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中仙道の俳句(月が友)

旅行くや中仙道は月が友
 

宿いくつ中仙道や月の宿

夕月や妻籠の宿の物干し場

夕月や妻籠に泊まり明日馬篭

 中仙道ぬけて恵那にも月添いぬ

月あやし恵那に奇しくも野宿かな
 


俤や姥ひとり泣く月の友 
(おもかげや おばひとりなく つきのとも)


十六夜もまだ更科の郡かな 芭蕉

桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな 子規
 
馬籠下れば山間の田野照稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐蘇の峡中は寸地の隙あらばここに桑を植え一軒の家あらば必ず蚕を飼うを常とせしかば、今ここに至りて世界を別にするの感あり
 
中仙道と東海道は太陽と月のように対象的な街道だった。東海道は太平洋沿いの道であり山をぬうて行く中仙道とは余りにも違っていた。川止めがあり中仙道を通るようになった。中仙道は今でも江戸時代の面影が残っていることである。東海道は途切れ途切れにしか面影を偲ぶことができない、それより大都会を通るので昔のことがわかりにくいのだ。高速道路を通ったりしたら全然昔の東海道のことはわからない、中仙道は山深い道を行くから変わらない昔を偲ぶことができる。妻籠ではまるで映画のセットにでも使えるように昔の宿場町を再現した。中仙道は三、四回も行っている。夏には自転車でも行っている。旅はまず二三日の旅は旅にならない、それは保養と休養であり旅ではない、だから現代で旅することは勤め人にはむずかしいのだ。いくら新幹線で遠くに行っても旅ではない、それは移動なのである。物理的移動にすぎないのだ。昔の人は遠くに行くこと自体旅だった。歩いてゆくのだから隣の町に行くのも旅になる。行き帰りを計算すると時間がかかるからだ。旅は長くないと旅にならない、子規の書いたように妻籠を越えると馬篭になりここから山間の野が開けてくる。山深い中仙道をようやく出たという解放された感じになる。山の影なす暗い中仙道をぬけて明るい開けた野に出てくる。ここから名古屋へ東海にも通じている。美濃から尾張への道でもある。実際自転車では名古屋から太平洋フェリ−で仙台に帰る道だったからだ。妻籠から峠を越え馬篭まで歩きそこから見下ろしたたら道がなおつづいている。この道は国道ではない、細い道である。ここからさらに道がつづいている。それは確かに明るい穏やかな春の日だった。旅とは道をどこまでも行くことなのだ。道とは未知なのである。道を行く限り未知の世界は延々とつづいているのだ。
 
馬篭に出道なお遠し春の昼


I came out from Tumago to Magome
I am on my  travelling way in the distance
at noon in spring


 
この時ただこの道を見下ろしただけであり行くことはなかった。子規も自分と同じことを感じていた。穂麦の畑がつづいていた。その頃麦畑が多かったのである。
 
十六夜もまだ更科の郡かな 芭蕉
 
この句も歩く旅なら長い旅をした人なら実感としてわかる。江戸時代は特に関所がやたら多いのだから特にそうである。なかなか一郡を出ることができないのだ。しかしそのなかで十六夜の月を十分に味わうことができたのである。スロ−だからこそ自然のリズムともマッチできたのである。とにかく早い旅は印象に残らない旅となる。今は記憶をたどる旅をしている。するとどれだけ記憶に残った旅なのか、それによって書くことも左右される。馬篭から十曲峠を通り美濃に出て尾張に出てきた。馬篭から恵那に出てそこで野宿したことがあった。その時月が出ていた。それが印象に残っていた。月が中仙道からここまでついてきた感じだった。

送られつ別れつ果ては木曽の秋」でもあった。中仙道は月がにあう街道であったのだ。
 
数をつくし、おのがあやしと思ひし事ども*話しつづくるぞ、風情のさはりとなりて、何を言ひいづることもせず。とてもまぎれたる月影の*、壁の破れより木の間がくれにさし入りて、引板の音*、鹿追ふ声、ところどころに聞えける(更科紀行)

これは旅での出合いを語っている。旅で出合う人は語ることは何ともいえぬあやしさがある。特に江戸時代は旅であう人は現代であう人とは全然違っていた。異色の人と出合うことが多かったのだ。現代で出合う人はたいがいサラリ−マンでありビジネスマンであり仕事の人と出会うことが多い、まず旅している人とは出合わない、旅ではなく保養に来ている人である。バイクとかで旅している若者はいるがこれも一つ屋根の下でこのような話になることはない、つまり旅は常にせかされた早すぎるものになっている。バイクも早すぎるのである。若者も旅をしているというより移動している人が多いのである。江戸時代に旅の宿であったような経験をできないのである。まず旅で印象に残るような人とは合わないからだ。現代では人は簡単にあうことができるから一期一会の出合いもない、合うことが余りにも簡単だから人の貴重な出合いもなくなったという皮肉があるのだ。
 
旅行ける人影留む恵那にあれ月のあやしく野宿せしかな
 
なぜかここに私も月によって留められ一夜野宿したのである。これもバイクだったり車だとこうはならない、自転車だとなかなか先に行けないということがある。歩きだったらさらにそうである。バイクだったらどこかの宿を求めることは簡単である。留められることはないのである。ともかく旅でも記憶の旅となるといろいろ再構築する必要がでてくる。その時どれだけ印象に残る旅をしたかがわかる。インタ−ネット時代は写真は豊富だし簡単な説明はいくらでもでている。だからあの辺どうだったかなと調べてみるとその場所の写真は必ずでているし説明もでていて書きやすいのである。ただ恵那と伊那を混同していたように記憶はあいまいになってしまうのだ。
 

今回の中仙道は月をテ−マとしたが次回はまた別なテ−マで書いてみよう
プログはこまぎれに書くことになる。短いから書きやすいというのもある。ただ余りにも断片的になりやすいのが欠点である。

 
 

写真はとりあえずここに

 

2008年08月21日

心はレ−ルともに真っ直ぐに福山駅へ


心はレ−ルともに真っ直ぐに福山駅へ

 

私の心は真っ直ぐなレ−ルとともに伸びている

そこに福山の城の駅がある

そこはみちのくからははるかに遠い

しかし私の心はじかにレ−ルとともに伸びている

私の心の中で電車はそこを目指して走ってゆく

その時距離は感じない、障害物は見えない

真っ直ぐなレ−ルが伸びて電車はその駅を目指して走る

春の日、花盛りの福山城は駅になっている

その天守閣に花見の人々、私もそこにいる

次々に栄えた南の国々の城が連なる

距離はなく障害物もなく一直線に福山の駅と結びつく
 
福山駅となるとみちのくからは広島県だから相当な距離である。山あり川ありでありもし歩いて行ったら片道でも一カ月とかの距離である。でも汽車は電車は距離の感覚を無くしたのだ。汽車というと蒸気機関車の感覚がまだあった時代である。電車は通勤電車とかのイメ−ジである。電化してスピ−ド化したものである。この距離感が喪失した感覚は新幹線に一番当てはまる。目的地に一直線に飛行機かロケットのように走ってゆく。電車で相当旅したけどその中で印象に残っているのは福山駅なのである。そこには城があり花盛りの時に訪れた。駅が本当に城のすぐ近くというのは他にない、城が駅になっていると同じである。亘理駅も城の駅を作ったがあそこに城がもともとあったわけではない、城はたいがい駅より離れて作られている。だから駅と城が一体化することはありえないのだ。ここだけが例外的にそうなっていたのである。人間の心は交通によって変わる。近くても交通が不便なら遠いのである。福島県は浜通り、中通り、会津と別れて地理的に隔絶されている。だから一体感がもてないのだ。ただもし浜通り−中通り−会津を横断する鉄道、新幹線のようなものができれば一体感がもてる。浜通りは鉄道で仙台と結ばれているから仙台と一体感をもっているのだ。心の距離と実際の距離は違う、鉄道は技術は物理的な距離をなくしたのだ。それにより旅が過程であること旅することが喪失したのだが距離の感覚がなくすことにより遠くは心の中で真っ直ぐなレ−ルを通じてとなりにあるように結ばれてしまったのである。それが福山駅で象徴されていた。歴史と鉄道がじかに結ばれたことでより効果的なものとなった。そこが現代の近代的駅だったらまた別だったのだ。過去の栄いと今の栄いが結びついたことに意味があったのだ。

2008年09月15日

萩市の思い出(秋の短歌十首)

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萩の思い出(秋の十首)


秋の日や白壁の道萩の町歩みしあれや昔偲びつ

遠き日や我が旅せしは萩の町竹にそよぎし秋風すがし

萩の町白壁の内家古りぬ秋の日静か志操育む

街中に水の流れの清しかな秋の日静か旅人歩む

萩の城芒に淋し我がたずね天守もなしも残る石垣

松陰の風雲の旅はるかなり帰らざるかな秋の萩行く

萩の町壁の崩れて誰か棲む秋の日さしてあわれ深まる

萩の町曲がりし辻や白壁の塀のつづきや秋の日暮れぬ

萩の町思いば遠しみちのくやそのへだたりに秋深まりぬ

みちのくゆ京は遠しも会津藩虫の音しげく滅びけるかな



萩というと今になるとここもずいぶん遠い、地理的にここも不思議な一角だった。今や思い出す旅なのだが萩というと実際は京都からも遠い、この遠さ知って歴史もわかる。歴史は地理なのだ。会津は京都にあまりに遠すぎたのである。その距離感は今では推し量ることはできない、今でも思い出すと遠い町だったとなるからだ。そもそも萩の町からなぜ明治維新の志士が排出したかなどみちのくから考えるとわかりにくいのは地理的感覚がわからないからだ。人間の生活は江戸時代になれば地理的に分断されていた。京都や萩となると地の果てのように遠い感覚になる。そういうところで何が起こっているのか把握しにくいのだ。江戸とみちのく、京都とみちのく、そして萩とみちのくが結びつけて考えることは容易ではない、今も確かに一日で行けるとしてもやはりその間を想像すれば遠いのである。旅が思い出の中に想像の中にイメ−ジとして浮かび上がらせるとなると何かまた違ったものとなる。萩は日本海に面していることももの寂びた感覚になる。瀬戸内海なら違っている。ただ瀬戸内海に近いから距離的には問題なく瀬戸内海から九州の薩摩と結びつきやすかった。そうした距離感がみちのくからは具体的にイメ−ジできないのである。萩藩の歴史も戦国時代から考察しないとまた深部から理解できない、歴史が理解しにくいのは地理がありそこに刻まれた生活の時間がありそうした総合的なものとしてイメ−ジできないからである。萩の町が印象に残ったのは明治維新の志士が排出したとかではなかった。その街並みが江戸時代のままに残っていたことだった。そこが日本人の原風景のように心休まる空間だったのである。日本人の心はそうした日本人の原風景として形成された文化的なもののなかに育まれた。それは全体であり部分ではない、全体のなかから人物も育まれた。そういうものが萩には残っている。日本人の情緒が育まれたのはまさにあのうよなこじんまりした城下町だったのだ。

 

幽閉中の詩
「世のことは絶えてをぐらき山里にこころつくしの夜半のともし火」清水清太郎

この歌のようにかえって勇ましいのではないものが心に残る。維新というと何か大仰なものを想像するが人間の根底を形成するものは派手なものではなくこうした静かなものでありそれが不変的なものとして残るのである。ともかくみちのくとのへだたりが京都や萩を思い深いものとすることがある。そこはもう二度と行けない町かもしれないとしたら特にそうなるのである。人間はそんなに旅はできない、いづれはただ思い出の中に旅はめぐり終わってしまう。だから旅は思い出せる旅をしみじはとした旅をしておけとなる。ゆっくりと町を巡りふみしめる旅をしておけとなる。京都とか萩とかはみちのくと遠いへだたりのなかにある。これは別に電話で毎日話せるから遠い一度きりしか会えないとかではない、やはり距離はある、その土地を実際に踏むことは今でも遠いしなかなかできないのである。


みちのくゆ京は遠しも会津藩虫の音しげく滅びけるかな

まだ秋深まるではないが暑いから秋とも思わなかったが実際は秋は刻々深まっていたのだ。

塀の街−萩の不思議
http://www.musubu.jp/jijikyodoshi.htm 

2009年03月09日

春の山(遍路の思い出)

                
      (内子)
                                                     
庭広く蔵のいくつか春の山


街道を内子に来る春の山
 

街道の四国の辻や春の山

碑も古りて遍路交わる春の山

春の山旅は道連れ遍路かな


四国は春にふさわしい、内子の豪商の家の門を入ったら中は広々とした庭があり蔵がいくつかあった。四国は旅するには一番ふさわしいかもしれない、遍路がどこにでも歩いている風景はここしかない、歩いて旅している場所は日本では四国しかない、あとは歩いて旅していると異様なものとして見られるのだ。それだけ人間は歩かなくなった。すべて車だから歩いてあうということもない、歩く旅を経験するには四国に行くことである。自分も自転車だから歩く旅をしていないし、経験したことがないのだ。旅は道連れなどというのも遍路だとありうる。相当数の人が歩いて旅しているからだ。昔は江戸時代はあのようにして人は歩いて旅して交わっていた。遍路の装束の人に出会うとなんか本当に江戸時代にタイムスリップした感じがした。そこに江戸時代の継続を感じたのだ。山伏の格好をして街を歩いても今では異様である。四国ではそれがなお風景としてあっていることが不思議なのである。遍路の道には古い碑が多い、遍路で死んだ人も多い、碑が建てられたのは裕福な人であり建てられない人が多かった。遍路は東北の人がかなり行っている。どこにでも金比羅の碑がありこの南相馬市の鹿島区の栃窪村からも金比羅参りのための箸蔵寺への道標を寄付していたのである。金比羅講があり布教して金比羅へ導く人が東北にもかなりきていた。どこの村にも金比羅参りに行った記録が残っているからだ。この金比羅参りは江戸時代の後期から盛んになり明治までつづいていたのである。東北でも全国的に金比羅の碑が多いのである。遍路にまつわる話はいろいろあり今もつづいている。インタ-ネットに遍路の話は情報は豊富である。それを郷土史で書いた。


ずいぶん30年間も旅したけどこれでも本当に旅したのかというとそれほどでもない、いつのまにかに旅も終わってしまったのかと旅をそれほどつづけても人生はつくづく短い、何をしても何をしなくても人生は短いものである。あっというまに夢のように消えさってしまった。せめてこの世の生きた記念に四国を大地をふみしめて歩いてみるのもいいだろう。年をとると体力的にはきつくなるがそれもこの世に生きた最後の記念である。一番いい季節は春である。今やただ思い出す旅をしているのも不思議である。ここ三年以上は旅らしい旅をしていない,一日泊まる旅をしただけである。そして今や長い旅には行けそうにない、やはりこれだけ旅をしてきたとなると旅にこだわる。


鑑賞 
 
命二つの中に生きたる桜かな
 
 
これは芭蕉が俳句を教えた服部土芳にあったときの句である。20年ぶりに会ったのである。江戸時代には離れたら簡単に会えない、今なら新幹線でも飛行機でも合う気なら外国でも合える、そこが根本的に違っていたのだ。遠くの人と合うということはそれだけ貴重なことになっていた。一旦分かれたら二度と合えないとか普通である。しかし今は別れてもいつでも合う気があれば合えるのだ。だから人間が合うことの重みが薄れた。いつでも合えるじゃないか、どこにいても合えるじゃないかとか合う重みがないのである。ということはかえって人間はいまこうした句は作れないのである。自分もこれがそういう背景があるのを知らなかった。やはり俳句は背景をしらないと鑑賞できないのである。特に江戸時代はそうなる、今の感覚では鑑賞できないのだ。
命二つとは20ねんぶりにあってこの世に生きて桜をともに見たということなのだ。20年ぶりの歳月を知らずしてこの句は味わえないのである。

2012年06月15日

関所の俳句十句 (旅には関所も記憶する目印となっていた)


関所の俳句十句

(旅には関所も記憶する目印となっていた)

上り来て箱根の関所春の暮


関が原こえて春野の近江かな


伊吹山関が原にそ残る雪


関が原越えて近江や春の山


(中山道)

宿探す関所辺りや夏燕


秋の湖姫街道の関所かな


(市振)

秋日没る関所の跡や沖に船


月の出て関所の跡や松一本


旅人を関所に知れや秋の夜

白河の関やみちのく草の花


間道を幕末の武士月光る

 


関守の宿を水鶏にとはふもの


秋風や薮も畠も不破の関 芭蕉



旅がなぜ旅でなくなったのか?観光と旅は違っている。旅は車で行っても旅にはならない、旅人にもならない、通過するものになってしまう。旅は江戸時代のように歩いて旅したとき旅だった。旅人にもなれた。皮肉なことに不便であれば不便なほど旅になった。旅では関所は不便でもやはり今になるとその関所があってまた旅だったということがある。これは国境にこだわる人が今いまことでもわかる。国境を越えるということが一つの旅の難関でありビザもとらないとなると余計むずかしいからそこで情報交換をする。外国では国境があり国境を越えると別な国になる。貨幣も変わりりょうがいする。国境を越えることはかなり緊張することなのである。それが江戸時代では関所でありあとでは番所になった。江戸時代の方が土地土地で個性があったから旅は今の旅とは全然違う。次々に未知の世界を旅することだったのである。その未知への入り口が関所や番所であった。だから関所でも白河の関や勿来の関はすでに過去のものでありなくなっいるから関守がいたらな水鶏のように問うものにとなった。関守がいたころがなつかしいとなった。白河の関でも誰もいない関守もいない、ここが関所なのかとなる。そこは藪になり畑になっている。ただ秋風が吹いているだけである。


自分が旅してやはり記憶に残る関所となるとやはりそこに関所が再現された所だった。姫街道で有名な浜名湖の気賀関所や中山道の福島関所などがある。そこは再現されているから記憶されていた。
もう一つ関所があったがどこの関所かわからなくなった。日本海回りで江戸に通じる関所だから加賀百万石の大名行列が通ったということで有名だった。関所があれば文書としても通った人が記録される。逆に今の時代は旅しても余りにも簡単に行けるし関所がないから要所として記憶されないのである。旅が何度も記憶が大事だというときやはり記憶される要所となるポイントとなる場が必要だったのだ。それが現代にはいない、もちろん新幹線で日本を横断しても何も記憶に残らない。自分の場合、結構自転車で旅したことで記憶して思い出して書いている。もちろん電車で行ったのもそれなりに記憶されている。でも自転車の旅だと雨にぬれたとか風に吹かれたとかを覚えているのだ。北海道でやたら風の吹く所がある。そういう難儀なことが実は旅の記憶に残っているのだ。芭蕉の旅でもあれだけ難儀したから記憶として残り奥の細道を脚色して名文にしたのである。旅は記憶されること思い出されることがあとで大事になるのだ。ところが現代の旅はあまりにも便利すぎて思い出として残らない皮肉があるのだ。


旅人を関所に知れや秋の夜


ここは日本海を回り江戸の方にゆく所の関所だった。ここを通るときはもう日も暮れようとしていた。ここで通った人を記録される。それは一つの旅の記憶である。関守が誰が通ったか記憶してくれとか芭蕉の水鶏の句のようになる。なにもなくて通りすぎるのが淋しいともなるのだ。現代は余りにも人と人も悠長に接していられないからかえって旅の出会いもないのである。芭蕉の時代はそもそも純粋に旅だけしている人は芭蕉くらいだったろう。僧がいても本当に数があまりにも少ないのである。今はどこにいっても観光者だらけだけど旅人はいないのである。旅人は今や苦労して演技して自ら作らねば旅人になれない、自転車で一か月も旅すればなんとか旅人らしくはなる。それでも江戸時代の旅人にはなりえない。山尾三省のことを書いたけどこんなに豊かな時代に貧乏に生きることはかえって演技者のようになっているのと同じなのである。あえてそういうふうに無理して演出しないと昔に帰れないのである。

関が原は関があるからでありそこはちょうど東と西の分かれ目だった。伊吹山でヤマトタケルが死んだのは象徴的だった。山の上だから雪が残っているがそこを越えると近江の春の平野が広がっているのだ。ここからは近江であり西であり京都も近いとなる。そういう境目は意識され記憶に残る。
「トンネルをぬけると雪国だった・・・」というのもそうである。それは宮城県から山形県に入る
山寺に入る所が国境のトンネルである。そこは春でも雪が残っている。市振なども厳しい関所があった。でも沖を見ると船が通っていて関所がないとなる。あそこは平らだから境目として意識しにくい。何もそれらしいものもなくわからなかった。


関所というとき江戸時代の後半はかなりル-ズになっていたらしい。だから間道を金で案内する人もでてきた。間道をぬけても関所を番所を通ったという判子を記しをもっていないとまずい面があった。あとで取り締まられたら危険である。でも幕末の頃になるとかなりル-ズになり志士でも新撰組でも間道を通り抜けた。そういう変化のときは規制のものが破られやすい。関所なんかどうでもいい、命をかけて奔走しているからそうなる。旅には特に外国になると融通性が必要になる。言葉もわからないで自由に旅する若い人がいる。それは融通性があり臨機応変さがあるからつまり勘が働くからできるのである。言葉はそれほど関係ないのである。自分は融通性もないし勘も働かず外国ではひどいめにあったから行きたくないということがある。日本のように旅できないから嫌になった。


元治元年10月16日、前日に江戸を発って京都に向った伊東甲子太郎ら一行のうち、過去の横浜での攘夷活動が原因で幕府に追われていたという相馬藩出身の大村安宅は、神奈川の関所で、嫌疑を避けるために間道に入りました。
http://bakumatu.727.net/kyou/11/111464-oomuraataka.htm


相馬藩士に新撰組がいたのは意外だった。水戸系の天狗党は知られていた。新撰組に入ったというのはどういう経過だったのか?会津は新撰組と一体だったからわかるけどどうして新撰組に入った相馬藩士がいたのか?そういうのもまた一つの相馬藩の歴史だけどこれも誰か解明しないとわからない。


「相馬藩士と新徴組」
http://red.ap.teacup.com/hangui/1935.html


ここに詳しい、坂本龍馬も間道を通ったとかあるけどそういう浪人組とか志士とか新撰組はもう関所を無視して活動していたのかもしれない、それが時代の変わり目だったのである。

 


俳句と短歌は連作として読むとき一つのつながりを感じる、一句一首ではその背景などがわかりにくいから一連のものとして読みにくいのである。だから十句十首で連作として新たに創作しているのである。 

関所について
http://musubu.sblo.jp/article/3506731.html
 

2012年11月10日

山頭火の時雨の句の意味 (旅人になれない現代)


山頭火の時雨の句の意味

(旅人になれない現代)

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大樟も私も犬もしぐれつゝ 山頭火


老いて死す一年一年時雨かな

旅人も貧しや時雨石の屋根
旅人や小家をぬうて時雨かな
街道の細道あわれ時雨かな
山頭火時雨に気づき歩をとめる


これは大樟(おおくす)も大きいものもしぐれ犬もしぐれる。この犬は野良犬なのだろうか?その頃野良犬が多かったし野良犬をテ-マ二したものもあった。つまり山頭火は自分を野良犬のように見ていたところがあった。この犬もしぐれつつ・・というのはまず普通に暮らしている人には出てこない句である。そういうものが山頭火にはちりばめられているのだが駄句のうよなものが大量にあるからその見分け方がむずかしい。芭蕉とか蕪村はほとんど秀句になっているわかりやすいのだ。この犬という時何か山頭火を象徴していたのだ。昔の道はまず舗装されていないから埃りがたつ、子供のときも埃がたっていた。かなりの土埃に悩まされていたのである。だからそういう道を歩むと野良犬が歩むのとあっていた。今は道でもきれいすぎるのだ。土の道はほとんどなくなっているからだ。本当の旅は実際は一万とかするきれいな旅館に泊まってすることではない、山頭火のように木賃宿があっていたのであり場所でもばりするとか野趣があって良かったのである。旅は何か不如意なとき旅らしいはいうこともあった。「どしゃぶりの雨ぬれ泊まる中山道」夏だったけど中山道を自転車で旅したときどしゃぶりの雨にぬれた。
馬の尿する枕もと..こういうときすら旅には旅情が生まれる「このときまあに馬と共に暮らす農民の生活と一体化したのである。


そして宿にとまったりしたが実際は嫌われたことはまちがいない、泊めたくなかったのだろうけど金払うからしかたなく泊めたのである。これは昔だったら木賃宿であり汚れても安宿であり不自然でもなかったのである。現代は宿にすら気楽に泊まれるところがない、安宿の方が旅の情緒があった。豪華なホテルに泊まったらすでに旅ではない、自転車で旅したらそういう宿にとまりにくい。でも泊まる場所がない場合があるから野宿の用意が必要となりそうなるとゆっくり休めないということもあった。若い人ならいいが中年になると辛いということもあった。中年くらいになるとそんな旅している人は世間からはずれた人である。今はニ-トみたいなのが無職がいくらでもいるから不自然でないのかもしれない、外国に沈没している人などもいたからである。40、50でそんなことをしている人はまともでない。旅館に泊まるとき無職だというとそれは大地主とかで金持ちであり一番いい部屋に通されたという。旅館と木賃宿は違っていたのである。旅館は当時も贅沢なものであり温泉宿のように金がかかるところがあった。当時で無職とわざわざ言うとなると仕事しないでも暮らしていける人は特別の金持ちだったのである。だからずいぶん今の無職とは違っている。資産家がいてそういう人は別に仕事しなくても良かったのである。今は職業でその人を判断しているのだ。旅はそもそもそうして安宿を長く泊まり歩くことが旅なのである。江戸時代でもお伊勢参りなどでもそうである。そういう安宿がなければ一か月もの旅はつづかないのである。

自分はこの安宿を探すのに苦労していたのである。それが外国旅行までつづくとは思っていなかった。パリでも安宿を探したが断られた。外国では早く泊まらないと落ち着かないから日本のように探して歩いていられない、でも若い人はパリでも少しでも安い宿を探していたのである。50からの海外自由旅行は辛かったしうまくいかなかった。「パリに来て安宿探し落葉かな」「東駅安宿多し落葉かな」東駅は確かに安宿が多いところだったがうまく泊まれなかった。でもどこにも日本人がいたのには驚いたのである。今はどこにも日本人がいる。カンボジアではアンコ-ルワットで自転車旅行していた中高年の人がいたのには驚いた。カンボジアでは道は舗装されていない、土埃がたつし暑いからひどいのである。あんなところをあの年で良く自転車で走っていたこと自体驚きである。あそこに中高年の人はかなりたむろしていた。いかがわしい女が側にいたり嫌になった。


山頭火の旅はまさに犬もしぐれつつの旅だったのである。そういう旅ができたのは時代だったのである。今は遍路だってこぎれいだし楽な旅をしている。観光の一種にもなっている。山頭火のような野良犬のような旅はできないししている人はいないのである。戦前から戦後十年くらいまで非常に乞食が多かったからそういう人がいても特別変わったというものでもなかった。山頭火も乞食の一種であり見分けがつかなかったろう。今は乞食がいないからそういう旅もできない、もしかしたら警察に職務質問されて刑務所にさえ入れるからかもしれない、無職というだけ実際に捕まった人がいたからである。犬もしぐれつつというとき犬は野良犬であり野良犬も多い時代だったのである。乞食も野良犬とにていたのである。今は何かみんなこぎれいにして型にはまっていないといけない時代なのである。

ある一面今の時代は豊だけど窮屈だなとなる。自由もあるんだけど何か昔のような自由は失われている。車時代だから車に席巻される。車が相当贅沢なものであり動く家でもあるから土埃にまみれて乞食のように旅できた時代とは余りにも違っているのだ。歩いて旅する人がいても全部歩き通すことはない、途中で必ず電車なりバスなりを利用しているのである。ともかく人間が旅する風景はもうなくなった。ただ車だけが行き来する風景でありそこに歩く旅人などが入る余地はない、道は車が通るものであり人間が歩いて通る道ではない、辛うじて自転車が現代の旅らしい旅になるのかもしれない、バイクでも早すぎる。バイクの速さは車と変わりないのである。自転車で旅している人は若い人が多い、体力的にそうなる。


山頭火が時雨にこだわったとき時雨的日本的風景があったためである。それは石置き屋根とか貧しい家並みがありそういう風景に時雨があっていたのである。高層ビルとかそんなところに時雨も自然は合わない、高速道路とか国道とか車で埋めつくされた所にもあわない、辛うじて裏街道みたいなところだと時雨もあうのである。つまり今は相当に自ら旅を演出しないかぎり旅にならないのだ。ただ便利に移動するだけになるのだ。だから自分は自転車旅行した行程はある程度覚えている。坂が苦しかったとかあそこは遠かったなとか体に記憶が記されているのだ。これが便利な乗り物を利用したら残らない、ただ通りすぎて残らないのである。現代は旅人になることはできない、旅人を見ることもできない、団体などの観光客は旅人ではない、芭蕉の奥の細道のように旅人は本当に人生すら旅としている人なのだ。最も硬骨漢の旅人は西行だった。西行は武士の出であり相当に体力もあった。その点が芭蕉などと違っていた。芭蕉は自分のように体が弱かったし一般的に詩人などは体が弱い、西行は別だったのである。山頭火も体が強かったが無理をしたので60才くらいで死んだのである。やはり人間はどんなに丈夫でも無理をすれば早死になるし病気にもなるのである。

 


 

2013年11月12日

東京から六号線は水戸街道だと車で行った人が言う (江戸時代からの連続としての道)



東京から六号線は水戸街道だと車で行った人が言う


(江戸時代からの連続としての道)

水戸街道は、資料等では水戸海道、あるいは水戸道中、水戸道と記されている場合があり、時代によってはそう呼ばれていたのであろう。また、陸前浜街道という名前で親しまれているが、「陸前」とは陸前国(宮城県)のことで、「浜街道」とは沿岸沿いの道という意味である。つまり、千住駅より常陸国水戸を経て陸前国岩沼に至る道筋を陸前浜街道と称し、明治5年以後の公式名である。それ以前は、江戸から水戸迄を水戸街道と一般に呼び、それ以北を岩城相馬街道と呼んだ。


車を運転する人は道が大事になるから道を覚える。東京から六号線とは言わず水戸街道だという、東京の人は六号線を行くとは言わない、水戸街道を行くというのは江戸時代の連続として道を意識している。六号線というと長いから一つの道として意識しにくい、例えば川で長い川になると一つの名称として意識しにくいから川にもいくつもの名前があったりする。浪江の請戸川や室原川とかなるのもそうである。請戸川は請戸地域から見てそうなづけた。川は上流から流れてくるのだから請戸川というのは普通はなじみにくい。
請戸となると港を意識するからてある。

こういうことは陸前浜街道は仙台方面から名づけられた。仙台から江戸に行こうとすると陸前国(宮城県)が出発点になるからそうなる。これは請戸川とにている。出発点から意識される名づけかたである。逆に水戸街道と言う時は水戸へ行くことが意識される。目的地が意識される名前である。それは江戸と水戸は水戸黄門で知られるように御三家でありつながりが強いからである。日光街道も日光へ将軍が参拝すること徳川家の代々の菩提があるから名付けられた。つまり江戸から近いから江戸の領域である。単に地理的なものだけでなく水戸は徳川幕府の延長のような場所だったのである。

 

 あらたうと青葉若葉の日の光 芭蕉


まさにこういう幕府の威光の及ぶ地域だった。みちのくとなるとこれは江戸時代でも相当に辺境の地域だから奥の細道が生れた。ただ当時の距離感覚時間感覚が今は変わりすぎて理解しにくい。諺で遠くの親戚より近くの他人と言うけどこれは今だと嫁ぎ先が全国に散らばる。千葉県に妹が嫁いだとか聞いても千葉県ですか近いですとかなる。島根県だとかなると遠いですとかなる北海道でもそうである。でも全国的に嫁ぎ先は広がっている。
外国までも広がっっている。だから遠くの親戚とはそういう遠い地域を意識する。でも江戸時代は隣の村でも遠いのである。なぜならば歩いて移動しているのだからそれだけ遠いことになる。だから何かあっても緊急事態でもとても隣の村からでも歩いたら遠い,途中に坂道などがあると余計に一日かかりとかなる。鹿島から相馬市まででも歩いたら遠いのである。そういう距離の感覚があまりにも違いすぎるから昔をふりかえるとき必ず大きな錯覚をしているのだ。


陸前浜街道と言っても海が見える場所はまれだった。ただ浜吉田の駅まで津浪が来ていたのには驚いた。あそこが海が近いとは思わなかった。実際に写真で鉄道の線路の前が海になっていたのである。本当に浜吉田だったのである。鉄道でも海が見えるのは新地の所でありそれもわずかしか見えないから海を意識しなかったのである。山下駅もあんなに海が近いとは意識しなかった。海はもっとずっと遠いと思っていたのである。山元町のの水田が砂土が多いのは海岸の砂丘地帯のためであると書いてある本があった。あの辺はやはり砂ということは海が迫っていて海岸の砂地だったのである。だから被害が大きかった。

ただこの辺でも海から三キロ地点くらいまで津浪が来た。これだけは本当に驚いた。

三キロ地点でも低い波でも津浪の被害が大きくなる。いろいろなものが流れてくるから津浪は怖いのである。だから前に林や竹藪のようなものがあると津浪の勢いがやわらげられたのであく。鹿島区の御刀神社はそうだった。神社の林にさえぎられて漂流物をさけることができたのである。ただ海岸に接していれば根こそぎ流されたから海岸に接したところは壊滅したのである。街道が津浪が押し寄せた所を避けるように作られていたというのはやはり古代からの記憶がそうさせたのか、やはり人間は自然の歴史も無視して開発したり文明化すると危険なことになっていた。


旅するにしてももう関東地域は都市化が激しいからとても昔を偲ぶことはむずかしい。
イワキからでも水戸に通じているという感覚が湧いてこない、


棚倉町には奥州一ノ宮を称する馬場都々古別神社と八槻都々古別神社の2社があり、両社とも日本武尊や坂上田村麻呂が関与し延喜式神名帳に記載されている式内社です


棚倉町のこの古い神社から水戸の方に昔の街道が通じていてこちらの方が何か水戸を意識したのである。福島県では棚倉は意外と意識されにくくなっている。東北線や常磐線や主要道路からもずれているからそうなった。ある意味で地理的に忘れられたスポットととなっている。エアボケットのようになっているのだ。ただ古代の道は棚倉を通っていたということである。まず歴史か地理だという時、この地理の感覚は地図を見てもわからないのだ。立体地図を見ようがとてもわかるものではない、福島県にしても広大であり地図見ただけではわからないのである。地理がわからないことがやはり誤解を生むのである。
水郡線は一回だけ乗ったけどこれもかなり距離があった。止まる駅も多かった。一回だけだから記憶があまりない。やはり自転車で行った方が記憶に残っている。


都々古別(つつこわけ)神社の古りて水戸へ行く街道見つつ秋の日暮れぬ


現代は車などだと昔を偲ぶこともむずかしいだろう。確かに遠くまでは行けるのだが距離感覚が全く違ったものとなってしまっているからだ。宿場なども車では意識しにくいのである。その点、自分は自転車で相当に旅したから記憶に残っているものがあった。鉄道の旅でも記憶にのこりにくいのである。要するに現代は旅というものが消えた時代なのである。ただ早く目的地に移動するだけになってしまっているのだ。旅はどうしても道を延々とたどることにあったからである。