2009年08月27日

鎌倉からみちのくへ


鎌倉からみちのくへ

鎌倉というときみちのくは京都よりはずっと身近である。なぜなら鎌倉時代の前に確かに東北を支配したのは平泉の藤原一族であっても東北が一つの国としてあったわけではない、平泉という地域だけが栄えたのでありみちのくを支配したわけではないからだ。鎌倉になるとはじめて東に政権ができた意義は大きいのだ。東北でもここでもはじめて一族の名前が歴史に記されるのは南相馬市鹿島区では岩松氏でありこの人は鎌倉から移住した人でありその伝説も残っている。船で来たというが磐城かららしい。鎌倉から直接ではなかった。ともかく岩松氏は未だに生々しい歴史上の人物なのである。その前の平安時代になると源義家になるがこれもほとんど伝説上の人物であり歴史的な実在性がともしいのである。岩松氏の悲劇は今でも地元の人にとっては単なる伝説とも違う、リアリティあるものとして今日に継続された伝説なのである。何故なら岩松という姓が断たれてここに存在しないことが如実に証明しているし岩松氏の子息まで殺したということで姓を変えたがその姓の子孫は今も存在しているから具体性があのだ。「陸奥の真野の草原・・・」の万葉集の歌が鹿島区に残されていたとしてもこれも明確に歴史上の人物としては存在しない、ここは岩松氏以降から歴史がはじまったと言えるのだ。ということで鎌倉はみちのくにとって身近であり鎌倉から移住してきた武士の子孫は各地にかなりいる。その系譜は明らかであり跡をたどれるのである。そもそも相馬氏自体が鎌倉、関東の武士の出であり鎌倉にその元をたどることができる。大倉というのも大倉御所があったところであり飯館村の大倉は鎌倉からとった地名かも知れないというのもそのためなのだ。
文化というときやはり関東から東北では鎌倉がはじまりである。その前に平泉があったとしてもそれは孤立的なものであり芭蕉の俳句のように平泉は夢として終わった都であり鎌倉のように具体性あるものとして一つの広範囲な関東武士のバックのある都としては形成されなかった。平泉が夢であることがかえって芭蕉の奥の細道としては良かったのである。詩人は夢と現実を生きるからだ。鎌倉は政治の都でもあり一睡の夢とはならない、日本の歴史を形成した土台となるし今日継続する都としての位置は変わらないのだ。平泉では人物にしてもそれほど明確なものとして浮かんでこない、鎌倉ではやはり日本の都として政治を担った武士の政権の歴史が明確なのである。平泉は金色堂の夢であったが鎌倉は現実の政治をになったのである。鎌倉から関東、東北の歴史ははじまりその系譜を明確にたどることができるのだ。夢として滅びるなかに義経も悲劇の英雄として組み入れられたのである。多分にそれもことさら悲劇的に物語的に作られてきたのである。その非は義経にもありいちがいに現実の政治をになう頼朝だけにあったとはならない、つまり平泉という夢として滅びるもののなかにふさわしいものとして作られてきたことが言えるのだ。
文化とはやはり政治的基盤、経済的基盤が大きく左右する。都はやはり政治、経済の中心地に起こる。それは不可分にしてある。そしてそこには重層的なものとして互いに競い合うものとして起こる。孤立的ではない、金閣があれば銀閣があり相対的なものとしてまた鎌倉には五山があったように一つではないいくつもの重厚な寺が新しい文化を作った。平泉には五山はない、孤立的一時の栄華の夢として消えたのである。二階堂大路などが鎌倉に残された、これは平泉にあった二階大堂がよほど印象的でありその二階堂をまねて作ったのでこの名が残った。この二階堂は永福寺でありここに詣でる路が二階大路となったのである。いかに平泉が孤立的であれ荘厳な都であったかわかる。鎌倉は後ろは山であり前は海であり天然の要塞としてふさわしい


極楽寺坂切通しの突破を困難と判断した義貞は、干潮に乗じて稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。北条高時の一族を北条氏菩提寺の東勝寺で自害させ、挙兵からわずか15日で鎌倉幕府を滅亡に導く。

わずかな崖淵からしか進入できない地だったのである。鎌倉はまた海に面していてここから中国まで船で行こうとして挫折した実朝の夢があったり海も欠かせないものとして都を形成した。


だから門前から海が見える寺があり鎌倉的風景となる。実朝のわれて砕けてさけてちる・・・という歌も極めて鎌倉的風土から出てきたものである。「山門より海を望むや初秋かな」というのも山門から海が見える写真を見て作った。現実にはこの寺がどこにあるかしらない、昔は鎌倉は、鰹の生産地として知られ、「目に青葉、山ホトトギス、初鰹」という山口素堂という人が江戸時代に作った句が有名になるほどでした。やはり鎌倉には山も欠かせない海も生活の糧として古くから一体としてあったのだ。ともかく鎌倉には五輪塔が多い、比企一族が滅ぼされたがその五輪塔も山陰に確かに見た。その滅亡した一族の姫の墓があることは知らなかった。鎌倉には史実に照らし合わせて訪ねるべき所がいくらでもあるだろう。暇があれば何度も訪ねて確かめることができることが魅力だろう。京都となると遠すぎるのだ。かえって関東や東北になると京都は夢の世界になってしまうのだ。遠すぎる世界は現実味を失わせるのだ。平泉には藤原氏しかいないが鎌倉には権力闘争する一族が跋扈してその滅びた一族の五輪塔が密集して今も残っているから生々しいのである。


  参考-(鎌倉百人一首)
実朝ほととぎすけるあたりとぞ懐かしみ通る二階堂大路  藤川忠治

東御門西御門など名に残れそもただ麦の青き畑のみ  窪田空穂

山といえば五山の一つ臨済のこの大き寺の夏(げ)に籠もる我は 北原白秋


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鎌倉秋の短歌十首
 http://musubu.sblo.jp/article/31638315.html

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2009年08月26日

鎌倉秋の短歌十首


鎌倉秋の短歌十首

 
鎌倉の山陰暗く五輪塔並べ武士(もののふ)名を記すかな

鎌倉の山門古く落葉踏み五山の一つ我が入りにけり

鎌倉に古語る源氏山紅葉に映えて我が歩みけり

鎌倉の門前に立ち鱗雲広がりにつつ夕暮れぬかも

鎌倉に秋風の吹き武士の拝す大仏姿厳しき

今小路古町今町世の移り鎌倉に残る昔の路かな

比企一族滅亡の跡に姫残るその後ひそか秋の夕暮

鎌倉に秋風の吹き五輪塔武士偲び海風の吹く

鎌倉に今し並びて五輪塔昔を語り夢ならじかも

平泉の栄を伝ゆ地名一つ二階堂大路秋の夕暮


波寄せて寺の門前鰯雲


山門に海を望むや初秋かな


鎌倉-秋-俳句
http://www.musubu.jp/kamakurahaiku.htm

 

比企一族の墓
http://www.ricky-aoyagi.com/myouhonji-100.html

 
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抽象画-鎌倉-夏

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鎌倉は山と海の都市だった。
 
 
 
 
 
 
 
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2008年05月06日

実朝の桜の歌


実朝の桜の歌

 
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たずねみるかひはまことに相坂(あふさか)の関路(せきじ)に匂ふ花にぞありける

あふ坂の嵐の風に散る花をしばしとどむる関守ぞなき

行きて見むと思いしほどに散りにけりあやなの花や風たたぬまに

春くれど人もすさめめぬ山桜風のたよりに我のみぞとふ

山風のさくら吹きまく音すなり吉野の瀧の岩もとどろに

山風のさくらふきまき散る花のみだれて見ゆる志賀の浦波

今年さえ訪われで暮れぬ桜花春もむなしき名にこそありけれ

春ふかみ嵐の山のさくら花咲くと見しまに散りにけるかな

春くれば糸鹿(いとか)の山の糸ざくら風にみだれて花そ散りける
 


関所の歌となるとこの歌が一番有名である。本歌取りとして関の歌だった。実朝の歌には本歌取りの歌が結構多いのだ。

 
吹く風をなこそのせきと思えども道もせに散る山桜かな 源義家
 
あふ坂の嵐の風に散る花をしばしとどむる関守ぞなき
 

足代(あて)過ぎて 糸鹿(いとか)の山の 桜花 散らず在らなむ 還り来るまで
(7/1212,読人知らず)

 
春くれば糸鹿(いとか)の山の糸ざくら風にみだれて花そ散りける

鎌倉時代も西行の時代だから花は山桜であり染井吉野ではない、山風ときて桜となれば山桜をさしている。
そもそも桜は日本の山に咲いていたものを品種改良したものである。八重桜もそうだった。
 
八重桜は奈良時代、聖武天皇(701〜756)が奈良の三笠山に出かけた折にとても美しい桜が咲いていたので一枝を採り光明皇后へのお土産にされたという、後に光明皇后はその桜を都に移植する事を望まれ、三笠山から掘り起こされて都に移植された。その桜は「霞桜」の変種で淡紅色でやや小型の八重桜であつた。
 八重桜は接木で増やされ、都の花として大切に育てられた
http://sakuramori.at.webry.info/200504/article_2.html
 
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほいひぬるかも(伊勢大輔)
 
八重桜も山に咲いていたのである。これも錯覚しやすいのである。染井吉野ののように品種改良したものだと
思っていた。霞桜というのも見分けるのがむずかしいだろう。山に咲いているから山桜になってしまう。糸ざくらは枝垂桜の別名である。糸ざくらのほうが詩的な名前かもしれない、それにしても実朝は28才で死んだのは驚いた。やはり啄木のような天才だった。独自の歌風をこの若さで作っていた。この歌の中でも実朝の短い生涯が反映されている。
 
山風のさくら吹きまく音すなり吉野の瀧の岩もとどろに
 
これなどは短い生涯の中で轟いている瀧に山桜が荒い風に散る、実朝の運命的な人生を反映しているのかもしれない、山風のなかに咲いている山桜を私も短歌にしたが山桜は荒々しい自然のなかに咲いているのにあっているからだ。最近発見したのは鎌倉時代は魅力ある時代だった。相馬郷土史関連でも書いたが鎌倉時代はわが町とも歴史的に関係していた。実朝の歌が残っていた。
 
みちのくの真野の萱原かりにだに来ぬ人をのみ待つが苦しさ
 
ここでは萱原となっているが草原が原文である。草原(かやはら)は常に萱原としてイメ−ジされていたのである。なぜ萱原にしたのか、原文を読んでいなかったのか?ただ草原を萱原とイメ−ジしたからこの歌になった。「茅原」は諸本「草原」を宛て「かやはら」と訓んでいる。考えてみるとこうして草原を萱原としてイメ−ジして歌われた古歌が実に多い、それが誤りだったのである。今回は実朝の桜の歌を抜粋して桜についての評論のつづきを書いた。実朝に関しては最近興味が出て本など買ったのでまた書いてみよう。実朝の歌は西行とは違い背景に鎌倉の重い歴史があるから別なのである。それが単なる短歌に留まらない歴史としての考証やらが関係してくる。いづれにしろ鎌倉時代は実朝の歌でもそうだが重厚な文化を作り上げた時代だった。奈良時代−鎌倉時代−明治時代が日本では画期的変革の時代だったのだ。だからここに日本のルネサンスがあった時代だったのである。


       

 
 
 
 
 
 


 

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2008年03月28日

鎌倉俳句短歌集(新)−鎌倉文化の重厚さはなぜ?


鎌倉俳句短歌集(新)−鎌倉文化の重厚さはなぜ?

 
夜桜や鎌倉偲ぶ月に海

切り通し行くやまじかに春の海

三艘と金沢に偲ぶ春の暮

海神を祀る鎌倉春の宮

鎌倉にとどろに寄せる春の波

紅梅や若宮大路の昔かな

鎌倉や緑濃くして五輪塔

鎌倉の武士の妻かも桔梗咲く

鎌倉に小菊あわれや静御前

タブの木に秋の日さして長谷観音

大仏の冬寂として内見つむ
 


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鎌倉に桜吹きちる都なれ浪路荒しも船のいでゆく

山を背に海に向かいし大仏の念じる船の無事につけるを

風にのり船のつくかな和賀江島海に沈みぬ春の夢なれ

鎌倉や地に足のつき海にしも開く力や春の風吹く

鎌倉へ切り通し越え馬馳せる海をし望み春潮ひびく

馬に馳せ船にゆられて鎌倉に集う武士に春の風吹く

鎌倉の禅寺の大門残りける積もる落葉を踏みしめ入りぬ

武士の五輪塔を並べつつ落葉に埋もる山の陰かな

鎌倉の秋や古りにき禅寺の大門残り喝のびびけり

誰か眠るまたここに一基やぐらの墓や木の葉散りけり

東慶寺籠もるやひそか冬桜荒き男の手のふれざるべし
 


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文化が華開くというとき必ずculture-cultivate(耕す)ということが一体にならないと文化はルネサンスは起こらない、「鎌倉や地に足のつき海にしも開く力や春の風吹く」鎌倉は一所懸命の土地に根ざした農民出の武士であり地に足がついていたのと馬の利用にたけていたことそして見逃しやすいのが海にも開けていたのである。大地に根ざし馬を駆使して船を駆使して関東からみちのくに一時代を築いた。ロ−マも大地に根ざしていたし鎌倉路もロ−マの道のように真っ直ぐに作っていたというのもにている。過去の文化はみな大地に根ざしているから重厚なのである。現代は文明であり文化ではない、文明というとき汽車から自動車、飛行機となるが汽車は文化になったがその他は文明であり文化にはならない、人とと物の交流が自由にグロ−バル化しても必ずしも文化は育たないのだ。なぜなら土地そのものは移動できないからだ。そして文化の源は土地を耕すcultureにあるとき、土地から離れてその土地の自然から歴史から離れて文化は育たないのである。現代は何日かで世界一周すらできる。でもそれで文化が育つかというと育たない、なぜ現代が文化の不毛になっているかといと文明があって文化がない、文化はその土地と歴史(時間)によってはぐくまれ育ってゆく。その土地と時間がない故に文化がルネサンスが生まれないのだ。地に足がついた生活がありさらに外来の風があり文化が興る、それが鎌倉時代に集約的に興ったのである。
 
現代は一見過去より進歩しているように見えるが文化的には不毛であり索漠とした時代である。宗教はほとんどカルトだしそれは文化ではない、地から離れた文明の異様な産物となっている。経済は異常なほど拡大化し豊かになっても文化的には不毛の時代なのだ。鎌倉時代には質実剛健な武士の文化と結合して宗教でも芸術でも一体化してルネサンスが興ったのである。過去の歴史からみるとかえって現代の繁栄の中の不毛が歪みが見える。明治時代までは文化があったがそれ以降文化不毛の時代になった。文化とは総合的なことであり一天才だけのものではないし一芸術家のものでもない、鎌倉時代のように総合的なものとして現れるのである。現代ではただ個々に分化したものとしてしか現れない不毛がある。科学が神のごとく異様に突出して君臨しているのもそのためである。宗教はカルトとなり芸術は一個人の中に閉ざされてつながりがない孤立している。総合的全体的な文化としてのルネサンスがないのである。現代は科学と経済の世界でありそこに文化がない、宗教もカルトとして科学と経済の世界にのみこまれている。だから宗教団体から何一つ文化が生まれない、創造もありえない、ただ経済的要求と権力の肥大化だけをおしすすめる。これは世界的なものであり現代はグロ−バル化しても文化がそだたない、文化はその土地に歴史に根ざすときそれぞれ個性的なものになっていた。仏教でも中国→韓国→日本に伝播されたときみんな違ったものとして個性化したのである。だからこそ文化としてその土地に根付いたのである。現代の文明はただ経済のグロ−バル化でありかえってその国の土地と歴史(時間)ではぐくまれたものを破壊する。中国のチベットの弾圧も文化の破壊としてのグロ−バル化があった。その前に必ず経済のグロ−バル化がある。チベット鉄道も経済のグロ−バル化としておしすすめられチベットに経済的恩恵をもたらしても文化は破壊される。その文化のその民族の血のようなところがあるから文化の破壊はその民族の言語を破壊するように致命的となる。
 
 
俳句でも過去に発表したものでも連作として編集し直すと連作として一まとまりとして読めるからまた別なものとなる。今こうして過去のばらばらな作品を編集し直して別なものとして作り直しているのである。
 
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2008年03月24日

鎌倉の海−実朝の歌の意味


鎌倉の海−実朝の歌の意味


鎌倉の沖の浪荒れ実朝の若くして死す春嵐かな

難破せし大船なれや実朝の望みを砕く荒き波音

実朝の心や春の風荒し鎌倉の沖に揺れし船かな
 
鎌倉と関東とみちのくとのつながりは深い、平泉を滅ぼしたのが鎌倉幕府だったし鎌倉時代は画期的な政治の変革期だったから文化も変革された。現代の宗教もほとんど鎌倉時代を基にしている。その前は平安仏教であり貴族の仏教だった。庶民の仏教となったのは鎌倉時代だった。なぜ平家が鎌倉武士団に敗れたのかというと和辻哲郎は関東武士の共同体の強固さにあったと言う見方に同調する。これはロ−マがゲルマン人を恐れたのと同じである。武士の主従関係とか強固な共同体があったからこそ平家と戦うことができた。平家の主従関係は関東武士より弱かったのである。共同体というとわかりにくいけど中国はあれだけの大国でもなぜあれほど太平洋戦争中がただ各国の食い物にされるだけだったのか、国としての共同体が崩壊していた。あまりにも大きい国ゆえ団結することができなくなっていた。今でも中国は大きすぎて強固な共同体を作ることがむずかしい国なのである。あまり同胞意識が育たない国である。だからいつ分裂国家になるかわからない危うさがある。
 
ここで注目したのは鎌倉の海であり鎌倉の海は瀬戸内海とは違う、やはり沖は太平洋の荒い海であり危険な海である。伊豆七島があってもそれは瀬戸内海の島とはあまりにも違う、瀬戸内海は内海であり鎌倉の沖は太平洋なのである。鎌倉で船を造って中国まで行こうとするとその頃まだ無理があり挫折したのである。船にはそうした挫折する物語が多いのだ。榎本艦隊も宮城県の松島の港により函館を目指したがその壮図はならず海の底に沈んでしまった。戦艦大和も巨船であったがそれはほとんど使用されず海の藻屑と沈んでしまった。日本の船の航路はほとんど乗った。九州から鎌倉に来たとき海は荒れていた。その時は秋であり伊豆七島の一部が見えたのは感激だった。鎌倉からみちのくへと近くなる。鎌倉とか海や船をテ−マにしたもの書こうとししていたのだがいろいろあって書けなくなっていた。
 
大海(おほうみ)の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも

箱根路を我が越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ
 
この二つの歌は有名だけど一方は自らの無念の死を暗示した暗いものであり一方は明るい感じがする。箱根路は急峻だからそこをやっと越えて沖の小島による白波にほっとした。しかしこれを実朝の全人生から解釈するとこうした平安の時は少なくこの時のみ心の平静があったのかもしれないとも解釈される。権力闘争の荒波に沈没させられたのが実朝だったからだ。なぜ「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」の大津皇子でも実朝でも啄木でも後世の人の心に訴えるのか、それは歌の力もあるのだがその実人生の波乱の一生にあった。それは大津皇子でも啄木でもあまりにも若い死が一層その歌をひきたたせているのである。実朝も37才で死んだ、そういう悲劇性がかえって後世のものに訴える。90まで幸福に生きましたとなったらその死をあまり惜しむ人は少ない、そこに人生の価値の逆説がある。高齢化の時代は逆にいつまでも惜しまれということは少ない、つまり人生の価値は年齢では計れない、若くして死んでもそれ故にいつまでも惜しまれ人はいる。なんだか訳のわからない戯言を言い続けている認知症の人は何なのか?その人の生きている価値を疑ってしまう。若くして死んだとき何か成しえざるものが大きく残されてそれが死んでしまったので一層無念となる。啄木は天才だから成したことが山ほどかかえてあえなく死んでいった。渡米もしたかったができなかった。今なら簡単なことでもできなかった。その成しえざることの重みが歌として残されているから訴えるのである。
 
今簡単に成しえることは過去には成しえなかったのである。だから若い人が何であれ自殺するのはもったいないと思う、せっかく命をもらい過去に成しえぬこと海外旅行だって簡単にできるのにそういう成しえず死んだ人から見たらなぜ死ぬのかとなる。戦争で死んだ若い人たちもなぜ死ぬのか俺たちは生きたくてしょうがなかったのにとなる。若いというだけで老人から見ればどれだけ価値あるものなのかも実感していない、若さを失った老人から見ると若いというだけでうらやましいかぎりなのである。いくら老人が金があっても若さをとりもどすこと青春を取り戻すことは不可能だからだ。だから命を無駄にすることはこうして無念に死んだ人たちをかえりみるとき罰当たりなことになるのだ。「俺はいきられなかった、お前は生きてくれ、やりたいことをやってくれ・・・」80才になって日本一周して死んだ自転車老人がいたのもそのためである。そんな歳になってまで死んだ戦友に励まされて自分のやりたいことを実行した驚きがある。無念にあまりにも若くして死んだ戦友のことが忘れられずにそんな歳になって実行した。ここに命に対する意識の相当な違いがある。若くして死んだ戦友を目の当たりにしているからこそ自らも命の価値も知りやりたいことをその歳で実行したのである。結局事故で死んだのだが成仏して俺はやったぜと戦友の元へ帰って行ったのかもしれないから満足だったとなる。

 
(鎌倉の海)
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