2008年03月24日

鎌倉の海−実朝の歌の意味


鎌倉の海−実朝の歌の意味


鎌倉の沖の浪荒れ実朝の若くして死す春嵐かな

難破せし大船なれや実朝の望みを砕く荒き波音

実朝の心や春の風荒し鎌倉の沖に揺れし船かな
 
鎌倉と関東とみちのくとのつながりは深い、平泉を滅ぼしたのが鎌倉幕府だったし鎌倉時代は画期的な政治の変革期だったから文化も変革された。現代の宗教もほとんど鎌倉時代を基にしている。その前は平安仏教であり貴族の仏教だった。庶民の仏教となったのは鎌倉時代だった。なぜ平家が鎌倉武士団に敗れたのかというと和辻哲郎は関東武士の共同体の強固さにあったと言う見方に同調する。これはロ−マがゲルマン人を恐れたのと同じである。武士の主従関係とか強固な共同体があったからこそ平家と戦うことができた。平家の主従関係は関東武士より弱かったのである。共同体というとわかりにくいけど中国はあれだけの大国でもなぜあれほど太平洋戦争中がただ各国の食い物にされるだけだったのか、国としての共同体が崩壊していた。あまりにも大きい国ゆえ団結することができなくなっていた。今でも中国は大きすぎて強固な共同体を作ることがむずかしい国なのである。あまり同胞意識が育たない国である。だからいつ分裂国家になるかわからない危うさがある。
 
ここで注目したのは鎌倉の海であり鎌倉の海は瀬戸内海とは違う、やはり沖は太平洋の荒い海であり危険な海である。伊豆七島があってもそれは瀬戸内海の島とはあまりにも違う、瀬戸内海は内海であり鎌倉の沖は太平洋なのである。鎌倉で船を造って中国まで行こうとするとその頃まだ無理があり挫折したのである。船にはそうした挫折する物語が多いのだ。榎本艦隊も宮城県の松島の港により函館を目指したがその壮図はならず海の底に沈んでしまった。戦艦大和も巨船であったがそれはほとんど使用されず海の藻屑と沈んでしまった。日本の船の航路はほとんど乗った。九州から鎌倉に来たとき海は荒れていた。その時は秋であり伊豆七島の一部が見えたのは感激だった。鎌倉からみちのくへと近くなる。鎌倉とか海や船をテ−マにしたもの書こうとししていたのだがいろいろあって書けなくなっていた。
 
大海(おほうみ)の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも

箱根路を我が越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ
 
この二つの歌は有名だけど一方は自らの無念の死を暗示した暗いものであり一方は明るい感じがする。箱根路は急峻だからそこをやっと越えて沖の小島による白波にほっとした。しかしこれを実朝の全人生から解釈するとこうした平安の時は少なくこの時のみ心の平静があったのかもしれないとも解釈される。権力闘争の荒波に沈没させられたのが実朝だったからだ。なぜ「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」の大津皇子でも実朝でも啄木でも後世の人の心に訴えるのか、それは歌の力もあるのだがその実人生の波乱の一生にあった。それは大津皇子でも啄木でもあまりにも若い死が一層その歌をひきたたせているのである。実朝も37才で死んだ、そういう悲劇性がかえって後世のものに訴える。90まで幸福に生きましたとなったらその死をあまり惜しむ人は少ない、そこに人生の価値の逆説がある。高齢化の時代は逆にいつまでも惜しまれということは少ない、つまり人生の価値は年齢では計れない、若くして死んでもそれ故にいつまでも惜しまれ人はいる。なんだか訳のわからない戯言を言い続けている認知症の人は何なのか?その人の生きている価値を疑ってしまう。若くして死んだとき何か成しえざるものが大きく残されてそれが死んでしまったので一層無念となる。啄木は天才だから成したことが山ほどかかえてあえなく死んでいった。渡米もしたかったができなかった。今なら簡単なことでもできなかった。その成しえざることの重みが歌として残されているから訴えるのである。
 
今簡単に成しえることは過去には成しえなかったのである。だから若い人が何であれ自殺するのはもったいないと思う、せっかく命をもらい過去に成しえぬこと海外旅行だって簡単にできるのにそういう成しえず死んだ人から見たらなぜ死ぬのかとなる。戦争で死んだ若い人たちもなぜ死ぬのか俺たちは生きたくてしょうがなかったのにとなる。若いというだけで老人から見ればどれだけ価値あるものなのかも実感していない、若さを失った老人から見ると若いというだけでうらやましいかぎりなのである。いくら老人が金があっても若さをとりもどすこと青春を取り戻すことは不可能だからだ。だから命を無駄にすることはこうして無念に死んだ人たちをかえりみるとき罰当たりなことになるのだ。「俺はいきられなかった、お前は生きてくれ、やりたいことをやってくれ・・・」80才になって日本一周して死んだ自転車老人がいたのもそのためである。そんな歳になってまで死んだ戦友に励まされて自分のやりたいことを実行した驚きがある。無念にあまりにも若くして死んだ戦友のことが忘れられずにそんな歳になって実行した。ここに命に対する意識の相当な違いがある。若くして死んだ戦友を目の当たりにしているからこそ自らも命の価値も知りやりたいことをその歳で実行したのである。結局事故で死んだのだが成仏して俺はやったぜと戦友の元へ帰って行ったのかもしれないから満足だったとなる。

 
(鎌倉の海)
http://www.musubu.sblo.jp/article/3831541.html
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2008年03月28日

鎌倉俳句短歌集(新)−鎌倉文化の重厚さはなぜ?


鎌倉俳句短歌集(新)−鎌倉文化の重厚さはなぜ?

 
夜桜や鎌倉偲ぶ月に海

切り通し行くやまじかに春の海

三艘と金沢に偲ぶ春の暮

海神を祀る鎌倉春の宮

鎌倉にとどろに寄せる春の波

紅梅や若宮大路の昔かな

鎌倉や緑濃くして五輪塔

鎌倉の武士の妻かも桔梗咲く

鎌倉に小菊あわれや静御前

タブの木に秋の日さして長谷観音

大仏の冬寂として内見つむ
 


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鎌倉に桜吹きちる都なれ浪路荒しも船のいでゆく

山を背に海に向かいし大仏の念じる船の無事につけるを

風にのり船のつくかな和賀江島海に沈みぬ春の夢なれ

鎌倉や地に足のつき海にしも開く力や春の風吹く

鎌倉へ切り通し越え馬馳せる海をし望み春潮ひびく

馬に馳せ船にゆられて鎌倉に集う武士に春の風吹く

鎌倉の禅寺の大門残りける積もる落葉を踏みしめ入りぬ

武士の五輪塔を並べつつ落葉に埋もる山の陰かな

鎌倉の秋や古りにき禅寺の大門残り喝のびびけり

誰か眠るまたここに一基やぐらの墓や木の葉散りけり

東慶寺籠もるやひそか冬桜荒き男の手のふれざるべし
 


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文化が華開くというとき必ずculture-cultivate(耕す)ということが一体にならないと文化はルネサンスは起こらない、「鎌倉や地に足のつき海にしも開く力や春の風吹く」鎌倉は一所懸命の土地に根ざした農民出の武士であり地に足がついていたのと馬の利用にたけていたことそして見逃しやすいのが海にも開けていたのである。大地に根ざし馬を駆使して船を駆使して関東からみちのくに一時代を築いた。ロ−マも大地に根ざしていたし鎌倉路もロ−マの道のように真っ直ぐに作っていたというのもにている。過去の文化はみな大地に根ざしているから重厚なのである。現代は文明であり文化ではない、文明というとき汽車から自動車、飛行機となるが汽車は文化になったがその他は文明であり文化にはならない、人とと物の交流が自由にグロ−バル化しても必ずしも文化は育たないのだ。なぜなら土地そのものは移動できないからだ。そして文化の源は土地を耕すcultureにあるとき、土地から離れてその土地の自然から歴史から離れて文化は育たないのである。現代は何日かで世界一周すらできる。でもそれで文化が育つかというと育たない、なぜ現代が文化の不毛になっているかといと文明があって文化がない、文化はその土地と歴史(時間)によってはぐくまれ育ってゆく。その土地と時間がない故に文化がルネサンスが生まれないのだ。地に足がついた生活がありさらに外来の風があり文化が興る、それが鎌倉時代に集約的に興ったのである。
 
現代は一見過去より進歩しているように見えるが文化的には不毛であり索漠とした時代である。宗教はほとんどカルトだしそれは文化ではない、地から離れた文明の異様な産物となっている。経済は異常なほど拡大化し豊かになっても文化的には不毛の時代なのだ。鎌倉時代には質実剛健な武士の文化と結合して宗教でも芸術でも一体化してルネサンスが興ったのである。過去の歴史からみるとかえって現代の繁栄の中の不毛が歪みが見える。明治時代までは文化があったがそれ以降文化不毛の時代になった。文化とは総合的なことであり一天才だけのものではないし一芸術家のものでもない、鎌倉時代のように総合的なものとして現れるのである。現代ではただ個々に分化したものとしてしか現れない不毛がある。科学が神のごとく異様に突出して君臨しているのもそのためである。宗教はカルトとなり芸術は一個人の中に閉ざされてつながりがない孤立している。総合的全体的な文化としてのルネサンスがないのである。現代は科学と経済の世界でありそこに文化がない、宗教もカルトとして科学と経済の世界にのみこまれている。だから宗教団体から何一つ文化が生まれない、創造もありえない、ただ経済的要求と権力の肥大化だけをおしすすめる。これは世界的なものであり現代はグロ−バル化しても文化がそだたない、文化はその土地に歴史に根ざすときそれぞれ個性的なものになっていた。仏教でも中国→韓国→日本に伝播されたときみんな違ったものとして個性化したのである。だからこそ文化としてその土地に根付いたのである。現代の文明はただ経済のグロ−バル化でありかえってその国の土地と歴史(時間)ではぐくまれたものを破壊する。中国のチベットの弾圧も文化の破壊としてのグロ−バル化があった。その前に必ず経済のグロ−バル化がある。チベット鉄道も経済のグロ−バル化としておしすすめられチベットに経済的恩恵をもたらしても文化は破壊される。その文化のその民族の血のようなところがあるから文化の破壊はその民族の言語を破壊するように致命的となる。
 
 
俳句でも過去に発表したものでも連作として編集し直すと連作として一まとまりとして読めるからまた別なものとなる。今こうして過去のばらばらな作品を編集し直して別なものとして作り直しているのである。
 
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2008年05月06日

実朝の桜の歌


実朝の桜の歌

 
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たずねみるかひはまことに相坂(あふさか)の関路(せきじ)に匂ふ花にぞありける

あふ坂の嵐の風に散る花をしばしとどむる関守ぞなき

行きて見むと思いしほどに散りにけりあやなの花や風たたぬまに

春くれど人もすさめめぬ山桜風のたよりに我のみぞとふ

山風のさくら吹きまく音すなり吉野の瀧の岩もとどろに

山風のさくらふきまき散る花のみだれて見ゆる志賀の浦波

今年さえ訪われで暮れぬ桜花春もむなしき名にこそありけれ

春ふかみ嵐の山のさくら花咲くと見しまに散りにけるかな

春くれば糸鹿(いとか)の山の糸ざくら風にみだれて花そ散りける
 


関所の歌となるとこの歌が一番有名である。本歌取りとして関の歌だった。実朝の歌には本歌取りの歌が結構多いのだ。

 
吹く風をなこそのせきと思えども道もせに散る山桜かな 源義家
 
あふ坂の嵐の風に散る花をしばしとどむる関守ぞなき
 

足代(あて)過ぎて 糸鹿(いとか)の山の 桜花 散らず在らなむ 還り来るまで
(7/1212,読人知らず)

 
春くれば糸鹿(いとか)の山の糸ざくら風にみだれて花そ散りける

鎌倉時代も西行の時代だから花は山桜であり染井吉野ではない、山風ときて桜となれば山桜をさしている。
そもそも桜は日本の山に咲いていたものを品種改良したものである。八重桜もそうだった。
 
八重桜は奈良時代、聖武天皇(701〜756)が奈良の三笠山に出かけた折にとても美しい桜が咲いていたので一枝を採り光明皇后へのお土産にされたという、後に光明皇后はその桜を都に移植する事を望まれ、三笠山から掘り起こされて都に移植された。その桜は「霞桜」の変種で淡紅色でやや小型の八重桜であつた。
 八重桜は接木で増やされ、都の花として大切に育てられた
http://sakuramori.at.webry.info/200504/article_2.html
 
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほいひぬるかも(伊勢大輔)
 
八重桜も山に咲いていたのである。これも錯覚しやすいのである。染井吉野ののように品種改良したものだと
思っていた。霞桜というのも見分けるのがむずかしいだろう。山に咲いているから山桜になってしまう。糸ざくらは枝垂桜の別名である。糸ざくらのほうが詩的な名前かもしれない、それにしても実朝は28才で死んだのは驚いた。やはり啄木のような天才だった。独自の歌風をこの若さで作っていた。この歌の中でも実朝の短い生涯が反映されている。
 
山風のさくら吹きまく音すなり吉野の瀧の岩もとどろに
 
これなどは短い生涯の中で轟いている瀧に山桜が荒い風に散る、実朝の運命的な人生を反映しているのかもしれない、山風のなかに咲いている山桜を私も短歌にしたが山桜は荒々しい自然のなかに咲いているのにあっているからだ。最近発見したのは鎌倉時代は魅力ある時代だった。相馬郷土史関連でも書いたが鎌倉時代はわが町とも歴史的に関係していた。実朝の歌が残っていた。
 
みちのくの真野の萱原かりにだに来ぬ人をのみ待つが苦しさ
 
ここでは萱原となっているが草原が原文である。草原(かやはら)は常に萱原としてイメ−ジされていたのである。なぜ萱原にしたのか、原文を読んでいなかったのか?ただ草原を萱原とイメ−ジしたからこの歌になった。「茅原」は諸本「草原」を宛て「かやはら」と訓んでいる。考えてみるとこうして草原を萱原としてイメ−ジして歌われた古歌が実に多い、それが誤りだったのである。今回は実朝の桜の歌を抜粋して桜についての評論のつづきを書いた。実朝に関しては最近興味が出て本など買ったのでまた書いてみよう。実朝の歌は西行とは違い背景に鎌倉の重い歴史があるから別なのである。それが単なる短歌に留まらない歴史としての考証やらが関係してくる。いづれにしろ鎌倉時代は実朝の歌でもそうだが重厚な文化を作り上げた時代だった。奈良時代−鎌倉時代−明治時代が日本では画期的変革の時代だったのだ。だからここに日本のルネサンスがあった時代だったのである。


       

 
 
 
 
 
 


 

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2009年08月26日

抽象画-鎌倉-夏

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鎌倉は山と海の都市だった。
 
 
 
 
 
 
 
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鎌倉秋の短歌十首


鎌倉秋の短歌十首

 
鎌倉の山陰暗く五輪塔並べ武士(もののふ)名を記すかな

鎌倉の山門古く落葉踏み五山の一つ我が入りにけり

鎌倉に古語る源氏山紅葉に映えて我が歩みけり

鎌倉の門前に立ち鱗雲広がりにつつ夕暮れぬかも

鎌倉に秋風の吹き武士の拝す大仏姿厳しき

今小路古町今町世の移り鎌倉に残る昔の路かな

比企一族滅亡の跡に姫残るその後ひそか秋の夕暮

鎌倉に秋風の吹き五輪塔武士偲び海風の吹く

鎌倉に今し並びて五輪塔昔を語り夢ならじかも

平泉の栄を伝ゆ地名一つ二階堂大路秋の夕暮


波寄せて寺の門前鰯雲


山門に海を望むや初秋かな


鎌倉-秋-俳句
http://www.musubu.jp/kamakurahaiku.htm

 

比企一族の墓
http://www.ricky-aoyagi.com/myouhonji-100.html

 
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2009年08月27日

鎌倉からみちのくへ


鎌倉からみちのくへ

鎌倉というときみちのくは京都よりはずっと身近である。なぜなら鎌倉時代の前に確かに東北を支配したのは平泉の藤原一族であっても東北が一つの国としてあったわけではない、平泉という地域だけが栄えたのでありみちのくを支配したわけではないからだ。鎌倉になるとはじめて東に政権ができた意義は大きいのだ。東北でもここでもはじめて一族の名前が歴史に記されるのは南相馬市鹿島区では岩松氏でありこの人は鎌倉から移住した人でありその伝説も残っている。船で来たというが磐城かららしい。鎌倉から直接ではなかった。ともかく岩松氏は未だに生々しい歴史上の人物なのである。その前の平安時代になると源義家になるがこれもほとんど伝説上の人物であり歴史的な実在性がともしいのである。岩松氏の悲劇は今でも地元の人にとっては単なる伝説とも違う、リアリティあるものとして今日に継続された伝説なのである。何故なら岩松という姓が断たれてここに存在しないことが如実に証明しているし岩松氏の子息まで殺したということで姓を変えたがその姓の子孫は今も存在しているから具体性があのだ。「陸奥の真野の草原・・・」の万葉集の歌が鹿島区に残されていたとしてもこれも明確に歴史上の人物としては存在しない、ここは岩松氏以降から歴史がはじまったと言えるのだ。ということで鎌倉はみちのくにとって身近であり鎌倉から移住してきた武士の子孫は各地にかなりいる。その系譜は明らかであり跡をたどれるのである。そもそも相馬氏自体が鎌倉、関東の武士の出であり鎌倉にその元をたどることができる。大倉というのも大倉御所があったところであり飯館村の大倉は鎌倉からとった地名かも知れないというのもそのためなのだ。
文化というときやはり関東から東北では鎌倉がはじまりである。その前に平泉があったとしてもそれは孤立的なものであり芭蕉の俳句のように平泉は夢として終わった都であり鎌倉のように具体性あるものとして一つの広範囲な関東武士のバックのある都としては形成されなかった。平泉が夢であることがかえって芭蕉の奥の細道としては良かったのである。詩人は夢と現実を生きるからだ。鎌倉は政治の都でもあり一睡の夢とはならない、日本の歴史を形成した土台となるし今日継続する都としての位置は変わらないのだ。平泉では人物にしてもそれほど明確なものとして浮かんでこない、鎌倉ではやはり日本の都として政治を担った武士の政権の歴史が明確なのである。平泉は金色堂の夢であったが鎌倉は現実の政治をになったのである。鎌倉から関東、東北の歴史ははじまりその系譜を明確にたどることができるのだ。夢として滅びるなかに義経も悲劇の英雄として組み入れられたのである。多分にそれもことさら悲劇的に物語的に作られてきたのである。その非は義経にもありいちがいに現実の政治をになう頼朝だけにあったとはならない、つまり平泉という夢として滅びるもののなかにふさわしいものとして作られてきたことが言えるのだ。
文化とはやはり政治的基盤、経済的基盤が大きく左右する。都はやはり政治、経済の中心地に起こる。それは不可分にしてある。そしてそこには重層的なものとして互いに競い合うものとして起こる。孤立的ではない、金閣があれば銀閣があり相対的なものとしてまた鎌倉には五山があったように一つではないいくつもの重厚な寺が新しい文化を作った。平泉には五山はない、孤立的一時の栄華の夢として消えたのである。二階堂大路などが鎌倉に残された、これは平泉にあった二階大堂がよほど印象的でありその二階堂をまねて作ったのでこの名が残った。この二階堂は永福寺でありここに詣でる路が二階大路となったのである。いかに平泉が孤立的であれ荘厳な都であったかわかる。鎌倉は後ろは山であり前は海であり天然の要塞としてふさわしい


極楽寺坂切通しの突破を困難と判断した義貞は、干潮に乗じて稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。北条高時の一族を北条氏菩提寺の東勝寺で自害させ、挙兵からわずか15日で鎌倉幕府を滅亡に導く。

わずかな崖淵からしか進入できない地だったのである。鎌倉はまた海に面していてここから中国まで船で行こうとして挫折した実朝の夢があったり海も欠かせないものとして都を形成した。


だから門前から海が見える寺があり鎌倉的風景となる。実朝のわれて砕けてさけてちる・・・という歌も極めて鎌倉的風土から出てきたものである。「山門より海を望むや初秋かな」というのも山門から海が見える写真を見て作った。現実にはこの寺がどこにあるかしらない、昔は鎌倉は、鰹の生産地として知られ、「目に青葉、山ホトトギス、初鰹」という山口素堂という人が江戸時代に作った句が有名になるほどでした。やはり鎌倉には山も欠かせない海も生活の糧として古くから一体としてあったのだ。ともかく鎌倉には五輪塔が多い、比企一族が滅ぼされたがその五輪塔も山陰に確かに見た。その滅亡した一族の姫の墓があることは知らなかった。鎌倉には史実に照らし合わせて訪ねるべき所がいくらでもあるだろう。暇があれば何度も訪ねて確かめることができることが魅力だろう。京都となると遠すぎるのだ。かえって関東や東北になると京都は夢の世界になってしまうのだ。遠すぎる世界は現実味を失わせるのだ。平泉には藤原氏しかいないが鎌倉には権力闘争する一族が跋扈してその滅びた一族の五輪塔が密集して今も残っているから生々しいのである。


  参考-(鎌倉百人一首)
実朝ほととぎすけるあたりとぞ懐かしみ通る二階堂大路  藤川忠治

東御門西御門など名に残れそもただ麦の青き畑のみ  窪田空穂

山といえば五山の一つ臨済のこの大き寺の夏(げ)に籠もる我は 北原白秋


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鎌倉秋の短歌十首
 http://musubu.sblo.jp/article/31638315.html

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2012年10月23日

鎌倉俳句(秋から冬の連句) (大仏殿は津波で流されていた)


鎌倉-俳句(秋から冬の連句)

(大仏殿は津波で流されていた)


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波にゆれ伊豆七島や秋の海

鎌倉に五山の門や秋深む
杉古りぬ八幡神社や秋深む
鎌倉や虫の音繁く五輪塔
また一つやぐらに散りぬ木の葉かな

五輪塔名だたるものや秋深む
・・・・・・
江ノ電に修道女乗る冬の暮

大仏は忍辱(にんにく)の相や冬深む
冬の雨打たれて大仏黙すかな
内に秘め大仏剛く冬の月
大仏の沈黙深し冬日没る
鎌倉に武士(もののふ)眠る冬の星
宋へ行く船の沈みぬ冬の海
鎌倉や血で血を争う冬の海
冬の灯や鎌倉彫の店屋かな
野ざらしに大仏残り冬の空
度々の災害にあう大仏や日本の国の柱ともなる
耐えてこそ喜びのあれ大仏のひたすら黙して秋深まりぬ


鎌倉というときどうしても歴史を知らないと俳句にも短歌にも詩にできない。鎌倉に残っているのもは意外と少ない、一番目立つのは大仏である。他にも五山の禅寺があり重厚な威厳のある門がその歴史の重みを伝えている。


鎌倉大仏の津波被害を忘れるな
http://www.slownet.ne.jp/note/detail/201104132353-3000000


日本における曹洞宗の開祖、道元が中国から帰朝して二六年目、建長寺が建って四年目、いよいよ禅宗が広まった。のちの高徳院は極楽寺に属してその寺の忍性菩薩によって供養されていた。


鎌倉の災害史
http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/archives/3046972.html


鎌倉は海に面しているから大きな津波の被害がありもともと屋内にあったものが露仏になってしまった。そのあとも度々地震や災害に見舞われた。日本はいかに災害の多い国なのか今回の津波でも再認識された。鎌倉は特に地形的に災害にあいやすい場所だったのである。日蓮が布教した時も日本は元寇があり国内では災害があり立正安国論が説かれた。それが今の時代とにていたのである。中国からは攻められる国内では津波の大災害で苦しむ、原発事故で苦しむとかにているのである。日本はともかく地震や津波の災害が絶え間なく襲ってくる国であった。このことが意外と見逃されていたのである。もし日本のこの災害史を歴史をふりかえればとても原発などつくりえようがないのである。大陸では地盤が安定してし地震が少ない、韓半島でも大陸とつながっていて地震が少ないのである。日本は世界でもいちばんの地震国であり海に囲まれているから津波国でもあった。そういう歴史が忘れていたのというのも日本人は忘れやすい民族だともなる。


鎌倉というとき生々しい歴史の舞台であり凄惨な権力争いの場所だった。熾烈な権力争いで死んだ武将が数限りない、その名前も氏も明確
である。和田一族などは有名であり他にも名だたる武将が五輪塔として残っている。だから歴史を探ればその名前も明らかになりたどれる。平泉は三代でその栄華も終わり何度訪ねてもどんな武将が生きていたのか明確に浮かんでこないのである。東北の子孫をたどれば鎌倉時代に陸奥に移住した鎌倉の武士が明確な氏として名前として残っている。南相馬市鹿島区の岩松氏の伝説は有名である。家来に一家惨殺されたので伝説として語り伝えられたのである。
その岩松氏も鎌倉の出なのである。その時の信仰もここにもたらされた。古代にはどんな人が住んだかわからないが鎌倉時代になると明確にその先祖の氏が歴史に記されているのである。


鎌倉で象徴的なのが大仏なのだけどこれはやはり奈良の鎮護国家の大仏とは違う、武士のスピリットから作られたものである。鎌倉時代は武士のスピリットから革命が起こり宗教でも質実剛健な文化が生まれた時代である。それは京都の平安仏教とは性格を異にしていた。丁度ゲルマン民族のゴシック聖堂を作った新たな宗教が起きたのである。武士の質実剛健な文化なのである。禅宗が座禅を重んじるときやはりこの大仏は座禅しているのであり沈黙している。これは阿弥陀如来とかいうがやはり禅宗系統の仏である。忍性菩薩の具現したものともいえる。鎌倉というと今や観光地であり何か騒々しいのが嫌である。浮ついた感じの場になってしまった。これはどこでもそうだが本来観光地ではない、厳しい修行の場所だった。それがどこでも失われて僧侶はただ観光のために見学料をとる人となりさがった。誰も厳しい修行などしていない、京都でも観光の場であり信仰の場所などではない、いくらでも金は入ってくるから堕落したのである。もともと江戸時代には武家の菩提寺となり武家に所属するものとなり戒名をさずけるだけのものとして堕落していたのである。寺でテラセンなどと博打場になっていたのだから押して知るべしである。観光となると遊興の場と化したとにている。


ただ時代的な文化遺産と大仏の姿は厳しく威厳を残している。露仏となった結果かえって自然を反映するようになったから不思議である。より自然を反映するものとしてふさわしい。それでこういう俳句なども作れたのである。大仏は正に忍辱(にんにく)の相であり忍性菩薩にふさわしい、そこには深い沈黙がある。だから冬にふさわしいのである。現代の雑音が観光という名目で押し寄せてくるが以前としてやはり鎌倉時代に作られた今にはない厳しさ、沈黙が大仏にはある。鎌倉の中心はまさにこの大仏であることには変わりがない、ただ鎌倉の歴史をふりかえるとき本当に権力争いの典型的な修羅場であり陰惨な暗さに満ちていたのだ。その象徴が実朝の若き死だったのである。まさに血を血で洗う、争う場所だった。歴史をたどればそこには生々したそうした凄惨な争い、殺戮の場所だった。だから鎌倉は暗い場所であり冬に訪ねるのにふさわしいのかもしれない、冬の海に象徴される場所でもあった。宋の国へ実朝が船で行こうとしたのも打ち砕かれた。港だった和賀江嶋は海に沈んだ。ただ跡形もなく冬の海が広がっている。鎌倉は海に面しているのだから海でも象徴される場所だったのである。自分は韓国の旅を終えて九州から鎌倉の海に帰り伊豆七島を望んだ。その時の海も荒れていたのである。


大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも


この歌に鎌倉が象徴されていたのだ。さけてちるかも・・・一族が引き裂かれる、家族が引き裂かれて北条氏に源氏の裔は断たれたのである。常に海に面していたからこの歌ができた。これは冬の海なのである。その後の争いも冬の海として象徴される。

やはり鎌倉となるとより東北でも歴史が身近になる。関西になるとどうしても遠すぎるのである。だからなかなか歴史をさぐるのがむずかしいのだ。歴史を知るには何度も訪ねないとわからないからだ。今や遂にどこにも行けない身になった。これも自分の人生の結果なのかもしれない、なぜなら自分ほど旅行しつづけたものもなかったからである。今や狭い郷里の牢獄に閉ざされたと同じである。
電車も二輌の電車であり交通も閉ざされてしまった。ただ思い出す旅があるだけなのである。


いづれにしろ津波で大仏殿が流されていたということをあの大仏を見て意識する人はあまりいなかった。多賀城市の末の松山の歌も今回のような巨大津波から生まれたものとして東北でも深く思っていなかった。今回の津波でつくづく津波のことを記念したものだったことを思い知らされたのである。

再びの大津波にみちのくの末の松山秋めぐりきぬ

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2015年03月02日

春の伊豆ー俳句十句


 
春の伊豆ー俳句十句

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春風や下田に望む沖の船
崖を打つ波や伊豆の寒緋桜
崖に波ひびきて伊豆や春の冨士
西伊豆や菜の花よそおい冨士望む
菜の花に長くもあれな春の冨士
西伊豆や水仙にさす夕日かな
春の星伊豆を巡るや波の音
大島や海の碧さに椿かな
大島や東京離れ春の月
春潮に魚(うお)打ち上げて冨士望む
駿河湾波打ちひびき春の冨士
羽衣の松や砂浜春の冨士
静岡や茶畑つづき春の冨士


伊豆の海に 立つ白波のありつつも 継ぎなむものを乱れしめめや(万葉集 東歌 )

伊豆を旅したのはこれも30年前以上とかそれ以上である。
これだけ時間がたつと思い出すのもむずかしくなる
でも何度も言うけど自分の場合、ゆっくり旅していたから記憶に残っているものがある。伊豆で印象的だったのは思い出しているのは菜の花が一面に咲き冨士が見えていたことである。
その菜の花がとにかく印象に残っている。
それでインターネットで写真を調べたらやはり西伊豆に菜の花の写真がでていた。
西伊豆から見た富士と菜の花が印象に残っていた。
西伊豆からの富士山はきれいだし絵のようである。
富士山は見る場所によって相当違った印象を与える。
だ。から富士山はまだ良く見ていないのである。
伊豆というとやはり波が切り立つ崖に打ち寄せる地形である。
だから万葉集にもその波のことが歌われている。

日本では海に囲まれているけどその海も場所によって印象が違ってくる。
大島から見た海の碧さは東北の海とも違う色である。
椿がその海に映える。東京から近くても大島は淋しい場所なのも不思議である。
あそこには東京の混雑したものはなにもないのである。

西伊豆から駿河湾に出た時、波がうちよせ魚がうちあげられていた。
あの辺は清水港とか何か豪快な感じがする所である。
いつも背後に富士山が見えるから富士と一体となっている
羽衣の松のある前は広々として砂浜があるから昔の日本の風景が残っている
静岡というとき茶畑があり冨士が望める
静岡とはまさに静かな岡であり茶畑をイメージする

下田は黒船が来た所だから歴史的な場所でもある。
下田まで電車が通じているが西伊豆になるとバスになる。
春にはあの辺が旅するにはいいかもしれない、富士山が見えることがいいのである。
あそこから見える富士山は遠景の冨士でありどこでも絵になっている
西伊豆は夕日でも有名である。写真とか絵もでている。
太平洋岸で夕日がさして見えるのは東北ではないからである
だから伊豆は西伊豆まで一周しないとその良さがわからないのである。

 

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2020年01月13日

鎌倉時代に東国の武士の時代になる(1) (鎌倉と隠岐島の後鳥羽院上皇の短歌十首)


 鎌倉時代に東国の武士の時代になる(1)

(鎌倉と隠岐島の後鳥羽院上皇の短歌十首) 



遠き世のすめらぎあわれ歌残し波の音ひびく隠岐の島かな

荒れ狂う波のひびきて上皇の都に帰れず島に死すかも

宍戸湖に秋の柳や常夜塔隠岐は遠しも旅人去りぬ 

浪荒れぬ誰か別れとたたずむや常夜灯古り秋の日入りぬ

世は移るその時争う鎌倉や武士の歌心にひびきぬ

武士(もののふ)の世にうつりける華やかな都はなしも五山の寺かな  

禅寺の門の重くも古りにけり落葉を踏みて五山をしのびぬ  

庭の石苔むしあわれ五輪塔戦いに敗れ冬の日さしぬ

武士の契りのかたし鎌倉に大仏まして冬の浪音

韓国の旅路を終えて鎌倉に伊豆の島々秋の海かな

浪音に実朝の無念こもりしや鎌倉暮れぬ冬の海かな 

無念かな宋へわたるとその船の砕けて沈むかなわざるかも      


NHKの番組で後鳥羽上皇と藤原定家のことをドラマ風に放送していた
百人一首とかのなりたち、新古今和歌集とか鎌倉の実朝などがかかわる時代だった
ただ実朝は写生として正岡子規とかが称賛していた
でも藤原定家とかなると古今集以後は作りすぎて評価していない
万葉集は写実主義であり平安時代になると何かイメージで詩のように作る
だから技巧になり真実が表現されていないとして評価ししていない
私はもともとアララギ派であり俳句も写生から出発した

この時代は平安時代から東国の武士の時代へ鎌倉時代に移る変わり目であった
それでしょうきゅうの乱があり後鳥羽上皇は隠岐島に流された
そしてそこで死んだのである
その時実朝生きていて定家が歌の師匠となっていた
でもその歌風は定家とは違っていた
定家は平安貴族の延長にあり武士とは違う、でも時代の変わり目にあって歌風も変わる
それを一番良く示したのが実朝だったのである

その定家の時代に後鳥羽上皇も実朝も死んだのである、それは同時代の人だったとなる
ここでは短歌の評価だが古今和歌集でも新古今和歌集でも評価できない
それは正岡子規の評価と同じである
ただ実朝の歌は評価できるのである

いづれにしろ何か海が関係している、鎌倉にも海に面して波がよせてくるし港もあった
一時中国から禅宗を伝えた僧が中国に渡る船を作るとか実朝がもくろんだ
それも挫折した、そして実朝の兄弟とかも権力争いで死んだ
ここで源氏の系統は切れて北条氏が支配する世となった

おほ海の磯もとどろによする浪 われてくだけてさけてちるかも  実朝

鎌倉時代というとき、みちのくと関係が深い、現実に私の住んでいる所にも鎌倉に住んでいた岩松氏が来て最初に支配した
東北では関東から最初は鎌倉から所領を与えられ先祖となった武士が多いのである
平泉の藤原氏を亡ぼされたがその頼朝がいてその後も鎌倉から関東から所領を与えられ武士が移り住んだ、相馬氏は千葉県とかから出た一族である
でも岩松氏は家臣に殺されて滅びた、それで相馬市内に岩松氏という姓が残っていないのである
これも厳粛な歴史の事実なのである、だから姓をたどる歴史も重要なのである

隠岐島には行かなかった、それは秋の日だった、宍道湖の岸辺に立っていてそこに常夜灯があった、柳がしだれて風に吹かれていた
その時、宍道湖が海に通じていると見ていたのである
だからここから隠岐島に行ったと思った、ただ宍道湖はもともと海に通じている潟湖だった、それがさえぎられて淡水湖になりシジミがとれるようになったのである  

承久3(1221)年、後鳥羽上皇の船は出雲国大浜湊(現在の美保関)を順風で出発し、隠岐国海士郡苅田の郷に向かいましたが、隠岐の島近くになると波風が荒くなり、大時化(おおしけ)となりました。その時化も次第におさまり、船をすすめていくと、一点の灯りが見え、その灯りをたよりにたどり着いた場所が崎だと言われています。

宍道湖と中海とは通じていてやはり海に通じていた、ただ方向が間違っていた
後鳥羽上皇が隠岐に渡ったのは美保関である  

浪間よりおきの湊に入る舟の我ぞこがるる絶えぬ思ひに

この湊に入る舟への思いは今では考えられないだろう、都も陸地も遠いとなる
だからこそその舟に乗れば帰れるのに帰れないとなったらその気持ちは計れないとなる
何か離れ孤島に波の音ばかりを聞いていたのかとなる

浪の音崖にひびきて上皇の都の思いたちきれぬかな

何かこんな感覚になったかもしれない、ただイメージして歌を作るといいものはできない現実その身になることができないからである
印象的だったのは韓国の旅をして吸収の宮崎から船で伊豆七島に来た時だった、それは秋だったのである
秋の海に伊豆七島が船から見えたのである

とにかく旅の記憶も消えてゆく、それでホームページに書いたものが貴重だった
そこに全国を旅して詩にしたものが未完成のまま残っていた
その時春だと思っていた、茶町とあるときそこは花街であり遊女の町だったとなる
それで春だと思ったが読み返したら秋だったのである
ただあそこが港となって隠岐島に渡ったのかと思って去ったのである


秋の松江

芒なびく日本海浪荒れて
松江に我は着きにき
街を歩みて茶町とあわれ
昔の賑わい思うかな
宍道湖に強風や波立ちて
大きなる常夜灯一つ古りて
柳しだれてそよぎけり
京橋に江戸町と偲ぶ都や
船のここに寄りて栄えし昔
今日は秋祭りや太鼓ひびきぬ 

この時宍道湖でも湖でも風が強く波が荒かったのである、ここに船は寄らないが船は寄る所だった
ともかくあの辺は情緒ある場所だったが思い出としては記憶が薄れてしまった
でもは日本の場合また行けるからその場所に立った時記憶が蘇るのである
またインタ−ネットとかでも写真を見たりして記憶が甦ってくるからこうして書けるのである、外国だと記憶は本当に消えてしまいどこにいたのかも定かでなくなっているのだ

松江と常夜灯
                           


posted by 老鶯 at 20:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉-俳句短歌-随筆