2014年11月18日

人間は何に労力を費やしたかで見る文明論 (超高齢化社会は寿命を伸ばすために労力が費やされる文明)


人間は何に労力を費やしたかで見る文明論


(超高齢化社会は寿命を伸ばすために労力が費やされる文明)

●技術から見る歴史はわかりやすい

歴史の見方はいろいろある。一つの見方などない。だからそれぞれの分野で異なった見方をしている。人間は道具を作るものであるとか言うのも一面の見方である。それは技術の発展が深く関係しているから理系的に科学的なものとして見る。
例えば弥生時代から古墳時代とか奈良時代でもノコギリが確かにあったのだが一般には使用されていない。
石斧とかは縄文時代からあるし石刀とかもあるがノコギリがなかった。
ノコギリがないということは同じ寸法に木が切れないのだから家も建てられない。
奈良時代は法隆寺とか五重の塔をすでに建てていたのだからノコギリも使用したていた。ただ一般的には使用されていなかった。ノコギリが普及したのはかなり後の時代だった。そういう技術的な面から歴史を見るのも歴史の大きな見方である。
中世で城壁が無用となったのは大砲が発明されたとかが原因であった。
信長が鉄砲を利用して天下を制したとか技術的側面から歴史を見るのは何かわかりやすい一方で歴史は複雑であり様々な要素がからみあっていて歴史とは何かは一つの答えはない
歴史はその人の専門家でもみんな見方が違う、それぞれの個々人の関心から歴史を見るとしたら無数の見方があることになる。
歴史は絶対に決まった見方はない、マルクス主義がもてはされたのは経済を階級という視点から見たものでありそれが歴史を明確に説くものとしてわかりやすいからもてはやされた。でもそれも一つの見方に過ぎなかったのである。
歴史はあまりにも多様であり人間の過去に生きた集積だとしたらそれを一つの見方として解析などできないのである。
ただあらゆるものに歴史がある。

例えば墓にも歴史がありこれも不思議なのである。
江戸時代には個人墓であり夫婦墓が主である。それが明治時代になると一家の家族の墓になる。それは江戸時代前まではなかった。
ではなぜそうなったのか?それは明治になり国家から強制されたものであった。
だから家族墓というのは歴史的に見たら新しく不自然なものだとさえなる。
個人墓とか夫婦墓はかえって理解しやすい、自分の名前を墓に刻むことは残すことは庶民にとって誇らしいことだったからである。侍は苗字があっても庶民にはなかったからである。夫婦墓というのもその結合の深さから理解できる。
ただ家族墓となるのこれは明治以降であり新しいものだから本当は理解しにくい。
また家族墓になる必然性もなかったのである。
何でもこうして歴史的にふりかえると見えてくるものがあるから歴史の研究は欠かせないのである。

●歴史を建造物から見るのもわかり安い

今回歴史の一つの見方として人間は何に時代時代に労力を費やしたかで見るのもかりやすい。ピラミッドをなぜ作ったのか?あんな巨大なものを膨大な労力を費やして作ったのか?それが今になると不明になっている。王の墓だというのは近年否定されている。
つまり王の権力の象徴として作られたのではなく庶民も積極的に参加して作り上げた。
自主的な民衆の支持があって作られたという説も有力になっている。
一つの宗教的建造物だったという説もある。何か信仰の対象だったというのも理解しやすい。あれだけのものに費やした労力はやはり王の権力だけでは作れないからそう見るようになるのも理解できるのである。
明確な理由はわからないにしろエジプト文明はピラミッド建設にその労力を費やされた文明だったともなる。
そういう建造物、建築関係から歴史を見るのもわかりやすいのである。


ローマは公共の建築に力を入れた。またコロッセウムとか競技場にその労力を費やした。未だにそうした建築物はヨーロッパに石の建造物だから残っている。
もう一つは道を作ることにその労力が費やされたともなる。それは道によってローマ帝国の支配権を確立するためたったのである。
次に中世はキリスト教の聖堂に民衆の労力が費やされた。それはヨーロッパ行けばいたるところ大聖堂が残っている。それは荘厳な立派なものであり石で作ったから残っている。それだけ宗教の時代だったともなる。宗教というとき、インドでも中国でも韓国でも日本でも宗教の時代があり仏教の仏像や伽藍の建築に労力が費やされた。
だから仏教文明だったと中国でも韓国でも日本でもなる。
なぜそれだけのものに労力が費やされたかとなるからだ。
奈良の大仏がその象徴でありあのように巨大なものはピラミッドに匹敵する。
それから古墳時代は仁徳天皇の巨大古墳がいくつも奈良に作られた。
古墳を造ることに民衆の労力が費やされたのである。だから古墳時代とされる。
それはなぜなのか?となるとこれも良くわからなくなっているのだ。
ただ歴史として見れば仏教に民衆の力でもその労力が費やされた時代だとなる。
つまりこれも科学や技術から見ると同じく残された物として歴史を見るからわかりやすいマヤ文明でもなぜあのようなピラミッドのようなものが作られたのかとなるとそれは天文を知ることにその労力が費やされたためである。天文台がマヤ文明を象徴していた。
文明は建築物から見るとわかりやすいのである。

●江戸時代は米を作るための開墾に労力が費やされる

ただ建築物だけではない、人間の労力が費やされるのは江戸時代なら開墾して開拓して米を生産することに労力が費やされ続けてきたのである。米を食べることのためにいたるところに海側は埋め立てて開拓して山側は棚田のようにわずかの土地でも米を食べたいから作られてきたのであり米を作ることに労力が費やされた文明だとなる。
これは古墳とかピラミッドとか仏像とか天文台とかとは違いわかりやすい。
米を食べたいということはうまいものを食べたいということでありこれは今でも本能としてあるから変わりない。でもピラミッドはそうした食べるものとは違う、古墳にしてもなぜそこにそんな労力を費やしたのか今になるとわかりにくい、それは食料生産のためではない、ただマヤ文明は天文を知り豊作を祈ったのだから実用として天文台のピラミッドを作った。ただ古墳にしても仏像にしても聖堂にしても精神的なものとして作られている。ローマの建造物や道も実用的なものとして作ったから現代でもわかりやしすい。
でも古墳でもピラミッドでも宗教的建造物になるとなぜそれだけの労力を費やしたかわかりにくくなる。
なぜなら近代化したときヨーロッパでも宗教への情熱は失い現実の利得一辺倒になったからである。
世界へ船で未知の大陸に向かったのも黄金を求めて求めてとか一攫千金を得るためとか何か実利的なものとして大航海時代生まれた。
そのエネルギーは実利的なものを求めてでありアメリカ大陸発見はまさに実利の大陸となったことでもわかる。
アメリカには精神文明はない、物質文明しかないことでもわかる。
アメリカが何に労力が費やされているか見ればわかる。科学があったとしてもそれは実利であり軍事力の強化でありエジソンの発明でもすべて実利のためであった。
だからローマとにているというのもわかる。
科学のために労力が費やされているというときそれは実利に結びつくからであり金となるからである。機械を発明することに労力が費やされるのもそのためである。

世界的にみてもそうだが日本でも何に労力が費やされたかを見れば時代が見える。
江戸時代は開墾開拓新田開発に労力が費やされた。それは米を食いたいということのためでありわかりやすい。
でも明治維新からは人間の労力は米を作ることも継続されていたが養蚕に労力が費やされた。いたるところに今でも養蚕した農家が全国に残っている。
明治維新後も日本は八割が農民であり農業が主体であった。養蚕は絹を作りそれを外国に売る外貨を稼ぐためだった。それで富岡工場が世界遺産になったのである。
その絹で稼ぎ軍事力を強化して富国強兵の政策がつづいていたのである。
つまり養蚕に労力が費やされた文明だったともなりうるほど養蚕が盛んだったのである。それから仕事としては家事に多大な労力が費やされていた。
それは世界的にそうである。セーヌ川が洗濯する女性でうまっていたという絵もある。
洗濯すること自体その労力が膨大なものとなる。
日本でも戦前の女性の仕事が家事であった。中産階級すら女中を二人も雇っていた。
それほど家事というのが機械化かされていないから労力がかかるものだったのである。
自分は今一人で家事とか介護をしているがこれも機械化したからできているのである。
そうでないと本当に二人も女中が必要となっていたろう。
今どき女中という言葉すら死語となってしまった。
女性の労力は今や別な方に費やされているのだ。

●超高齢化社会は老人の寿命を伸ばすために労力が費やされる

そして戦後という高度成長時代とは何に労力が費やされたのかとなる。
社会全体から見れば電化製品などメイドインジャパンが世界を席巻した時代だからそこに労力が費やされた時代にもみえる。車も輸出品になっているから車を作ることと利用することに労力が費やされた時代、車社会の時代だともなる。
それは技術的な面から見ればわかりやすいとなる。
一方で明治から大正から太平洋戦争があり戦争の時代、戦争に労力が費やされた時代だとも見える。太平洋戦争では3百万人も死んだということはまさに人命まで費やされたからてある。
ではなぜそんなに人命まで費やさねばならなかったのか?そもまた良くわからないとなってしまっている。何故に人命までそんなに費やさねばならなかったのか?
それすら一つの歴史の謎になってしまうだろう。
それは明治維新から西欧列強に伍するための結果でありそれが太平洋戦争で終結した。
そして次の労力はエコノミックアニマルとして企業戦士となり物作りに励み電化製品などで世界を席巻した時代だったとなる。
何に労力が費やされたから見ればそうなる。

そして今何に最も労力が費やされているのか?それは奇妙だけど超高齢化社会になり寿命を伸ばすこととか健康であり介護や医療に労力がついされている時代である。
この分野でどれほどの労力と金が費やされているか、それは自分の住んでいる田舎で一番立派なのが病院と老人ホームとか介護施設であることでもわかる。
それはまるで神殿のようになっているのだ。なぜなら田舎では高いビルディングがないから一番目立つのは病院であり老人をホームであり介護施設だとなってしまう。
この老人のためにどれだけの労力が費やされているのか?病院だってほとんと老人であることを見ればわかる。若い人などほとんどいないのである。
老人のためにみんな労力を費やして何十兆円が老人のために使われている時代なのであるつまりそれこそが超高齢化社会であり介護施設には90歳以上の人が多いのである。
現代を象徴するのはまさに百歳の人は百万くらいになるかもしれないとんいう超高齢化社会なのである。
そんなことに金を使うのは無益だというのもわかるが現実にそれだけの使う金が労力があるからそうなっている。それが仕事を造り出しているからそうなる。
あとの仕事は機械がしているのかもしれないからそうなっている。

こんな無用な老人に労力を費やしてどうなるんだともなる。
それは大古墳にピラミッド建設に膨大な労力う費やしたのはなぜかと問うのと同じである超高齢化社会とは老人に労力が費やされる時代なのである。
そんなこと必要ないつづかないということもこれからありうるが現代の文明の特徴がそうなっているしこれは自分の地域だけの問題ではない、世界的なものとして特に先進国では長寿をあくことなく求める社会になっているのである。
ただそういう余力があるからそういう文明にもなるということである。
江戸時代だったら米を作ることにその労力が費やされていたからである。
米など今は余っていて困っていることでもわかる。
時代によって何に労力が費やされるかとみれば現代は超高齢化社会であり老人の寿命を伸ばすことに労力が費やされた時代だとるでなる。
これも一つの見方としてありうるのである。


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2014年12月18日

鍋一つもったいなということを家事して思った (労働通じてしかモラルなども身につかない)



鍋一つもったいなということを家事して思った


(労働通じてしかモラルなども身につかない)


この鍋を幾度洗ふ大切に捨てずに使う年の暮かな


人間の不思議は鍋でも物でもそれに愛着というか愛情を感じてくることがある。
物なんか使って捨てるだけではないかというのが大量消費時代の感覚になった。
毎日大量のゴミが捨てられている。食料も膨大な量が捨てられている。
一方で世界では子供でも飢えてまとも食がとれない人達も何千万といる。
だからそういう人達から見れば豊かな国は罰当たりだとなる。
日本でも戦前から千五十年くらいまでは「もったいな」とか物を大切にすることがあったそれは一重に貧乏故にそう強いられていたのである。
貧乏だったら物を粗末にしていたら生きられないからである。

そして意外なのは大正時代が六千万人くらいの人口だったとういことである。
明治になって3千万とか4千万とかになっていった。
ずいぶん日本は人口が少ないと思った。だから明治時代は日本の自然が残っていて景色的には江戸時代のつづきがあった。都会すら東京でも高層ビルなとないのだから
景観的には今よりいいものがあった。
日本が4千万くらいだったら田園風景がいたるところにあったのである。
その相違はあまりにも大きすぎる。
それじても啄木は故郷の自然を望郷する短歌を作ったから東京はやはり自然景観は消失していた。

「もったいない」というとき人口が多くなると人間の価値も減退する。
だから群衆とか大衆という感覚が生まれたのは明治以降だろう。
それまでも人間をそんなふうに物ののようには見ていないのである
だから明治になって鉄道ができたとき見知らぬ人と乗り合わせたときすら違和感を感じていたのである。
見知らぬ人同士が一つの車両に一緒にいるということになじめなかったのである。
鉄道ができたとき関所もなくなり切符が手形代わりになったというのもわかる。
切符さえあれば日本全国どこでも行けたということの変化は大きかった。
江戸時代は藩内とか村内の狭い範囲でしか生活していなかったからである。
鉄道ができたことで日本人は別な藩の人でも自由に交わることが飛躍的に増えたのである


自分の使った鍋はIH用でもあるから3000円以上しているから簡単に捨てられない事情もあった。それがなぜ汚れるかというとガスでつけっぱなしにすることが多いためだった。
台所と食事する場所が離れているからどうしてもガスを消すのが忘れるのである。
それで何度もこがしてしまっていたのである。
だからすでに十回くらいこがしてごしごし洗って落とした。普通だったら買い換えているだろう。千円くらいだったらそうした。
でも不思議なのはそれを捨てないで何度も洗うことは「もったいない」に通じていた。
何かその鍋が貴重に思えたし愛着を覚えた。
職人でも物や道具に愛着を覚えることがあるだろう。そういう感覚を経験したのである。人間は物を道具でも大事にしろと何度言っても現代では通じない、そもそもモラルとかはいくら説いても通じないのは経験から学ばないからである。
人間は本を読んだり人に教えられたりしてモラルが身に帯びることはなかなかないだろうモラルは日々の生活の中で身につけていたのである。
だから侍でも侍のモラルは日々の生活で身についていたからこそ本物だったとなる。

ただ現代でも仕事の中で身につくものが本物だということはありうる。例えば農業なとは趣味の範囲でもこれは自ら畑を耕して肥料をやり種をまきとかして経験しないと本当はわからない、そこに自然と深くかかわり多様な経験を体で覚えることになるからだ。
だからそうしてとれた地元の野菜もらってたべたとき単にスーパーで買うものとは違ったものとなる。そのものには人間の情がこもっていたのである。スーパーで買うものは確かに味はあっても何か情がこもっていない、冷たいものに感じた。
それは家族で食べるものが料理されるものが母親の愛情がこもっているとにていたのである。単に買うものには愛情が情がこもっていないのである。
だから江戸時代は自給自足の時代、その土地土地でとれるものを食べていたのだからその土地と人間に密着して情がこもっていたのである。
ただそうはいっても極端な貧乏もあったからそれも一面の見方ということはいえる

家事というのも実際は一つの仕事である。刀自(とじ)というのが女性であり家全部をきりもりするから力をもっていたのである。今でも刀自と墓に刻まれていることでもわかる。昔は家事が大仕事だったのである。機械がないから洗濯するだって大変な労力を必要とした。寒い時など水も冷たく辛かったろとなる。食器を洗うにしても自分の母親はいつも霜焼けになっていたのである。温水になってからはそうならなくった。
家事は中流の家庭でも女中を二人雇っていたとかそれだけの手間が必要だったのである。機械化したときその手間がはぶかれたのである。
だから自分でも何とか介護まで一人でやれるのである。
ただすべてが機械化するとき鍋洗うのも機械化するとき今回感じたような鍋一つに愛着を情がこめられるということはなくなる。

つまり人間は自らの手で子供でも育てたとき愛情を覚えるように自ら何でも経験して感じる覚えるものが本物なのである。職人でも体で覚えるということを師弟でもしてきた。
以心伝心などもそうだろう。今は何かそうして人間と人間でもその間に機械などコンピューターなど入ると人間から学ぶものはないとかなる。
するとそこには情が欠けてしまうのである。
それは鉄道が普及したとき見知らぬ人同士が膨大に交わるようになったのともにていたのである。機械化するということは人間の情的なものを希薄化して非情にしてしまう。
人間がしたのではなく機械がしたとなると仕事したとなると人間は重んじられなくなるのである。
例えば一つの石を苦労して運んだり積んだりするときその労働は人間しているのであり
ここまで自分がもってきたなとその労苦がその石に残る。
でも車で機械で運んだり設置するとしているのは機械だとなる。
その機械を使うことの方にエネルギーがそそがれるのが現代であり人間的なものがはぶかれてしまうのである。
現代は全般的に情には欠けた冷たい社会になってしまった。それは便利さを追求したり機械化したりグローバル経済になったとき必然的にそうなってしまったのである。

 
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2014年12月23日

この世はみんなブラックじゃねえか? (回りも見ても自分もその一人だった)


この世はみんなブラックじゃねえか?


(回りも見ても自分もその一人だった)


みんなそうだよ。この世は超ブラックですから。でも逆説的なんだけど、それでも努力しないよりはしたほうがマシな方向に行くというのも事実です。

そして、大企業で働いたことがあるなら誰でも知っている。
一定の規模の会社になると、なぜかなーんにも仕事をしないのにただそこにいるってだけでべらぼーに高い給料をもらってる人がゴロゴロしてる。
http://tokunoriben.hatenablog.com/entry/2014/08/02/164000

プロレタリア革命といいつつ国民総奴隷化が現実だった共産主義なんだから
別におかしくもなんともないだろ
共産主義が労働者のためとか笑わせてくれるわ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1383967037/



ブラックというときただ安い賃金でこき使われて奴隷のように働かせられる人のことを言っている。それもブラックなのだがそのブラックを指摘する側もブラックなのである
共産党がブラック会社を追求してやめさせるというとき共産党が一番ブラックじゃないかというときそうなのである。
幹部は貴族になって下で支える人は奴隷のような扱いしかない、たた同然で働かせられている。
結局共産主義とかカルト宗教団体なども最大のブラック団体である。
どっちもイデオロギーを基にしているからにている。
これらの団体が世界平和を達成するとか平等な社会にするというがそもそもその組織内で極端な階級制がしかれているのである。
宗教を看板にしていてもそのその内実は全く正反対の団体である。
共産主義でもカルト宗教団体でもそもそも人間の欲望を否定的できない
「おまえら、拝んだら金持ちになれるぞ、議員様にもなれるぞ、勲章も山ほどもらえるぞ、俺を見ろ(池田大作)」と見本を示しているのになぜ疑問を感じないのか?
結局みんなも池田大作のようになりたいということしかありえないのである。

そんな宗教やイデオロギーなどを掲げて運動している奴らほど危険なものこの世にいないそいつらがこの世を支配したらまさにこの世はブラックになり共産主義国家で大粛清殺戮になったようになる。カルト宗教団体でも同じである。
むしろ戦国時代や侍の時代が正直な時代だった。
つまり強いものが勝つのであり弱肉強食がこの世の現実だったのである。
侍は平和だとか宗教のようなきれいごとを言わない、人間の欲望を否定したりしないのである。だから敵の首を多くとったものに報酬を与えて出世させているのである。
これが現実であり正直なこの世のありさまだったのである。
だからイデオロギーとか宗教は偽装にしかすぎない、そこには最も俗悪な人間が跋扈しているのである。
信長はそれを見抜いていたから僧侶を敵とみなして殺戮したのである。
だから政治でもきれいごとを言う人は信じられない、政治家になるには大衆をだますことであり嘘をつかないではなれないと議員本人が言っている。

ブラックだというときこの世の中あらゆるものがブラックなのである。
個々人でもあの人はな腕のいい大工なのにまた別なブラックな仕事を手を出すのか?
あの人はなぜ事業に成功していたというけど借金で首が回らなくなっていた
なせこんなに生活保護者が多いのだろうか
何か個々人を問うてみても人間の生活はブラックなのである。
原発事故が起きていた浜通りは他より欲が深くブラック的だったかもしれない。
だからこそ小高でも東北電力で原発が作られすでに工事がはじまるところだったのであるだから大工さんは原発できれば景気が良くなると言っていた。
そして今の個々人を見るとアメリカのリーマンショックは住宅をローンで借りたり金もないのに買っていたから起きたのである。
それが何かそういう人が日本にも多い。
知っている人も立派な家を借金で建てたから金が欲しい欲しいとなっていたのである。
現代では身の丈にあった生活をしている人はまれなのである。
だから8人に一人は危ない金融機関から借金していることでもわかる。
最近はローンで買った家を老後になり払えなくなり手放すとか苦しむ人が増えているのもそのためである。

この世がブラックだというとき個々人でもそうだが社会そのものがブラックなのである。賃金を払わない飲食業の人がいたがあれは明らかなブラックだった。
賃金未払いというのも常にある。
それだけではない、そもそもブラックというとき例えば公務員というのも官僚も犯罪人だというときこれもブラックなのだ。
公務員になればたいして努力しなくても得なことが多いのである。
国民から税金をとりその莫大な税金を操作して天下り先とかを確保するために働いているそういう金が集まる操作するとるなとブラックになりやすい。
銀行も実際はブラックだというとき金が集まっているからである。
サラ金の資金源になっていたのは銀行だったことでもわかる。
そういう職業がこの世にはまた結構あるしなんらかブラックになんているのが多いのである。

一定の規模の会社になると、なぜかなーんにも仕事をしないのにただそこにいるってだけでべらぼーに高い給料をもらってる人がゴロゴロしてる。

こういう人も結構この世には多い。福祉事業もまたブラックなのである。もうけているのは経営者でありその下で介護士などが過酷な労働を強いられているし薄給である。福祉の名によってもうけいるのは幹部であり経営者であるからこれもカルト宗教団体とか他のイデオロギー団体とも組織ともにているのである。福祉の名のもとで搾取される人立ちかいるということである。
ぎりぎりで働かされ過労死したりする人達もいる。ブラック企業にこき使われている人達である。
そもそも会社というのもまたブラックなものがある。
グローバル経済でそうした会社が巨大化して国のようになりやりたいことをやる。
そのグローバル経済で低賃金で働かせられている人達が世界にはいる。
グローバル経済では必ずそうしたブラックな会社が他国のものを搾取するようにシステム的にできているのである。

要するにこの世の構図はブラックになることをいつの時代でもまねがれない、ただ戦国時代などはそれが正直に行われ殺し合いが正当化されていただけである。
現代ではブラックなものが法律で守られていたりするからまたわかりにくくなる。
そもそも法律自体が会社を罰することができないというのも何なのだろうとなる。
東電の社長や幹部は海外の子会社で優雅な暮らしをしていると言われのもそのためである会社そものがブラックなところがかなりある。それが法律で守られている。
資本主義自体がこれもブラックなのである。そのシステム自体がブラックである。
なぜなら資本を金でももっている人は金が金を生む、資本が資本を生むで金を持っているだけで働かなくても金が入るシステムなのである。

だから貧乏人はいくら働いても働いても豊かにはなれないシステムなのである。
なぜ今アメリカが景気が良くて一千万を投資して配当金が一月40万入っている人がいるという。それも実感として理解した。
株で今までもうけたことがないからそんなことありえないと思っていたのである。
でもグローバル経済になるとそういうことがありうる世界なのである。
金が金を生む、資本が資本を生むというのが資本主義なのである。
だから資本主義自体がブラックなシステムだともなる。
いくら汗水たらして働いても資本主義社会では豊かになれないのである。
結局自分も他人をブラックな奴だとかブラックな会社だとか批判しているけど
自分自身も資本主義社会のシステムで甘い汁を吸っているのだから自分自身もブラックだとなっていることに気づいた。
遺産とか土地持ちとか金融で生活している人はブラックである。

ただブラックについて考えるとフラックでない人がいるのか?
それはいることはいた、それは例えば職人だったら職人で農民だったら農民で自力で暮らしていた人達がそうだったかもしれない、でも今の農家がブラックでないかというとそうでもない、補助金を国からもらっていて減反してももらえるしなぜ田舎がわずかの田をもっていて生活がなりたつかといえば補助金かもらえるからだとなるとこれもブラックな面があるのが現代である。
フリーターとか派遣とか時給で暮らしている人は現代のフラック社会の奴隷であり犠牲者なのかもしれない。
ただ昔から働くことだけで豊かになるとは考えていなかった。

三年寝太朗の伝説はなまけものでも豊かになれる言い伝えである。
なまけていても何らかの才覚と知恵があってそれを機会に豊かになった。
金持ちの家に婿入りしたりしたらそうなる。
それも才覚であり三年寝ていても何か才覚があれば豊かになれる。
資本主義でもその才覚があれば金持ちになれるということじ通じている。
こつこつ働いてもなかなか金持ちになれないということは昔もあったのである。
だから資本主義社会はもともと勤勉からはじまったとしても今では消費が優先されているし働くことが馬鹿らしいということになっている。
働くの機械にさせろロボットにさせろともなっている
だから資本主義社会は何らかのきっかけで限界に達して世界恐慌となり終了すると言われている。それは資本主義自体がブラックになりすぎたからだろう。
共産主義もブラックでありでは何かいいのかとなると結局人間社会は決してブラックがなくならない、この世はそうできている、もしブラックでなかったらこの世が天国になっているからである、カルト宗教団体なども最悪のブラックな団体なのである。
だからこの世はサタンが支配するブラック社会なのは人間が生まれてから変わらなかったのである。

 
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2015年05月13日

資本主義の労働倫理の頽廃


資本主義の労働倫理の頽廃


(介護から考える労働とは何なのか)


●資本主義は修道院からはじまり他者を助けるのが労働

人間を人間たらしめているのは労働だろう。労働なくして社会も成り立たない、生活もできないからである。
ただすべての労働が肯定されるものではない
別にパチンコ屋とかその他の娯楽は息抜きに否定はできないだろう。
低俗なのものでもこの世の中需要があれば否定できない
ただそうしたパチンコ屋でもギャンブルでもそれが労働とはならないだろう。
現実にこの辺で原発事故で避難民であふれ仮設に住んだ人たちが補償金ですることがなく遊び暮らすようになったとき何か起こったのか
パチンコ屋に働く人がいなくなるとかまで人手不足になったのである。
ところが他でも介護関係でもコンビニでもスーパーでもあらゆる所が人手不足になった。そんなときパチンコ屋が人手不足だなどと言っているのも異常だったのである。
別に普通の時だったらいいが働く人がいなくて困っているとき遊ぶ人が増えてその世話する人が人手不足で困っているというのは異常なことである。
その時は津波の被害もあり外からの人が懸命に瓦礫をかたずけるとか働いていたのであるそんなとき地元の人は遊んでいたから飲み屋で地元の人がもっと働けと怒ったというのも当然だとなる

労働とはもともと仕事そのもの価値のことを言っていた。
なぜなら修道院から資本主義がはじまったというとき修道士修道女が神の奉仕として働くこと自体が信仰になっていたからである。
その人たちは消費はしない、贅沢はしなかったのである。
ただ真面目に働いて他者に与える労働をしていたのである。
その労働が人助けとしての労働だったから神の意にかなうものとされていたのである。
資本主義もそういうまさに宗教からはじまったから主義なのである。
民主主義も主義でありそれはその根底に信仰のようなものがある。

資本主義はそもそも人助けのキリスト教から生まれたというとき今は全く違ったものとなってしまった。
そうした人助けの労働という観念が全く消失した。
つまり労働自体に価値を置かないのである。むしろ消費の方に価値を置いているのが現実である。
労働自体の価値より労働で得た金によって何か買う消費するということで働いている。
それが人助けだとかなんだとか関係ないのである。
コンビニであれスーパーであれ農家であれ会社であれそこで働いている人が労働自体に価値を見いだして働いている人はまれだろう。
ただ医療関係とか福祉関係は直接その個人に対しての労働だから奉仕的になり労働自体の価値を感じる、だから一番感謝される労働になっている
医者とか看護師の労働はその代わりきついけど直接今の社会で感謝されるのはまれだろう家を建てたから道路を作ったから電気を供給しているからとか感謝してくれる人はいるのか?。
現代社会は直接感謝してくれる労働はまれになっている。
ただ金をもらい消費するということが働く動機になっている。

そして資本主義の最大の矛盾が本質から全くそれてしまったのは労働倫理の喪失であった世界的マネーゲームで巨万の富を得るというのもそうである。
働かずして信じられない巨万の富を得る人がいる。
それが資本主義だと言えば否定はできない、そういうシステムで世界は動いているからだ現実に自分もそれで得した方だから矛盾している。
働かずして金を得ているというのは全く資本主義の発生した倫理が消失してしまったからである。
第一そういう人たちを見たら真面目に働くのが嫌になるだろう
若い金融関係の仕事している人が自分の給料より株でもうけている人のもうけが高いと言っていたのも矛盾である。
そういう格差が生まれているのが現代の資本主義なのである。

それは世界的にモラルの頽廃を生んでいる、それで資本主義は崩壊すると言われる
資本主義によって戦前からあった日本人のモラルも義理人情なども今はない、
ただ金だけがすべての基準になってしまったのである。
人間と人間の関係はすべて金になるとき「金の切れ目が縁の切れ目」となり自分の場合もたいして関係でなかったから切れたとなるけど他でそうなりやすいのが現代なのである。あらゆる価値を金で計算すればそうなってしまう。
いくら労働したからといって金で価値が計られるとしたら金の多少ですべての価値は決まることになる。
一千万稼ぐ人と500万稼ぐ人と300百万稼ぐ人がいてすべて収入で計られる
あの人はこういう労働していてその労働が価値あるとか見ている人はいない
金の多寡でその価値は決められているのである。
その労働自体の価値が見えにくいからそうなるということもある。

●介護も新しく生まれた仕事であり労働

労働についても探求してきたが正直自分は20代は結構アルバイトとか労働したけど流れ作業とか単純作業が嫌になりそのあとは30年間労働していていない
お前自体が遊んでいたのに労働のことが語られるのかといえばそうである。
今でも株などてしいるからお前も資本主義で得しているからそんなこと語られるのかとなる
ただこの七年間は何をしてきたのか?
このことはプログでも書いてきた。毎日親の介護であり家事である。
これは求めてしたのもではなく強いられたのである。
毎日三食出すことや家事が介護が加わると結構な労働になる。
その間に病気にもなっても誰も助けるものもいず自分一人でなんとかしてきた。
今や介護も一つの労働となっている。昔は介護という仕事はなかった。
介護は金の面でもいろいろな面で無駄だというのもわかる。
介護という労働に何の意味があるのだろうかとなる
ただ介護も病人の看病の延長として介護というのが生まれた。
もともと看護と介護は一体なものとして切り離されずあった。
介護は確かに看病の延長としても高齢化になって生まれ仕事なのである。
どうしても90才になると体力の限界になり介護状態に陥る人が多いのである。
自力で自分のことができなくなるのである。
だからその労働は人助けになる。労働自体が人助けなのである。
そういう点からする労働自体に価値があるとなる。

七年間というと結構長い、なぜならその間ほとんど息抜きもできなかったからである。
家事と介護に休みはないのである。医者が休みをとりにくいのともにている。
それは奉仕的なものとしての仕事だから命にかかわる仕事だからそうなっている
ただその見返りとして医者の地位は高いし給料もいい、感謝もされるから仕事自体としての価値は現代では一番高いように思う。
それでNHKのクローズアップ現代で献体するものが増えたというとき医者に直してもらったことがあり献体で医療に役立ててもらいたいという人が増えたのである。
それだけ医者の仕事の価値は今では一番高いからそうなる。
医者とコンビニの店員を比べれば一目瞭然である。
コンビニの店員に感謝する人など一人もいない、店員の方が客にありがとうと感謝しているだけなのである。つまりそれだけコンビニの店員の仕事自体の価値は低いのである。
その価値の低さは時給で計られ安いことでもわかる。
こういう仕事は機械化されて消失しやすい、一部スーパーのレジが機械化していることでもわかる。
コンビニの店員より介護士の方の労働自体の価値はある。やはり感謝されることでわかるただまだ介護士という職業は看護師のように認知されていないのは高齢化で新しく生まれた仕事だからそうなっているのである。

結局人間は労働してみなければ労働の価値はわからない。何でも金を払えば買えるじゃないかとなる。でも買うものには労働して売られている。
その労働の結果としての商品のことが労働してみない限りわからないのである。
もし一つの物を生産してそれを売るとなると運ぶことが必要でありまた店に並べて売るとなる。
もしその過程を一人で労働してみたらその物の価値がわかるのである。
例えば外国旅行して買ったものをもってくるとなると運ぶだけでも苦労である。
するとその運んだものには価値があるとなる
そういう労働をしてみないと物の価値もわからないのである。

自分が家事とか介護して思ったことは一日でも三食用意してくれる旅館で休んでみたいとなる。お前は自由に旅行していたではないか?
確かに旅行はしていたけどそれはあくまでも旅であり温泉旅館とかで料理を楽しむ休息するのとは違う。
自分は宿はとまるだけの場であり料理を楽しむ所ではなかった。
だから料理は金がかかるから最低で外でしていたのである。
最低の料理しか食べていない、長く旅すると料理に金がかけられないのである。
ホテル代だけで日本は高くつくからである。
自転車旅行になると野宿だから宿は無料だったとなる。

つまり毎日三食用意して出していたらその食を出してくれ人に感謝の気持をもつということである。
料理してくれて出してくれる人の労働の価値がわかるということになる。
つまりこういう単純なことでも実際に労働してみないと価値がわからないのである。
「七年間自分は三食を作り出しつづけてきました、一回だけでもいいから三食出してもらい、のんびりしたいです、それをしてくれる人には感謝します」となる
これは別に旅館とかではない、誰かそうしてくれれば同じである。
今まではそう思ったことがなかったからである。
妻が死んだときそういうことを痛切に感じるのと同じである。
妻が死んで妻の家事の労働のありがたみがわかると同じである。

●労働とは誰のために働いているかも問題

ともかく資本主義の労働が労働倫理がありそれはキリスト教に基づいていたのである。
なぜイスラム圏に資本主義が根付かないのか民主主義と相いれないのかは宗教の相違によるということもあった。
イスラム教の倫理はまた別なものとしてありそれはそれの違った倫理観がある。
それをいちがいに否定はできないわけである。
日本でも義理人情だって日本的倫理観になるからである。
日本でもどこの国でもそうした倫理観は必ずあるから否定できないのである。
そうしたその国独自の倫理観があって外来の倫理もモラルも道徳も根付つくのである。
だから武士道とキリスト教は結びつけられたのである。

こうした資本主義の発生したときの倫理観の喪失はやがて深刻なものとなってゆく、実際にもうなっている。
つまり働くの馬鹿らしいという感覚である。泡銭のように金が入る人といくら働いても働いても安月給で時給しかもらえないとなるとなるべく働かない方が得だともなってしまうそしてもうけさせるのはブラック企業の幹部になり得しているのは公務員だとか俺たちはそういう人たちの奴隷にすぎないとなり労働意欲が減退して遂にみんな働かないとなってしまうかもしれない
現実にそういう働かない人が若者にも増えている,それが別な理由にしろ労働することが馬鹿らしいということが起きているのである。
要するに一体誰のために働いているのか、奉仕しているのか?
結局社会の支配的地位の人のために働かせられているという感覚が強くなった。
もし医者や看護師ならはやはり患者のために働いているという労働倫理かある。
介護士の場合は安月給で上役や他のものに金がゆくが実際現場で働く人には回らないという不満がある。

労働というとき誰のために働いているのかというのも問題になる。
社会のためだと言ってもわかりにくいし結局上の人のために働いているとてり馬鹿らしいともなる。
介護の仕事だって金持ちに使われるのは嫌だというとき金持ちだけが優遇されることの不満がある。
「俺は巨万の富を持ち主だ、金はやるから俺のために働け、奉仕しろ」
そういわれたとき金をもらっても働く気力がそがれる
金のためにしかたないんだよなとなることでモラルの荒廃をうむ
金の多寡とは違うところに本来の労働倫理があったからである。
ただそうはいっても常にこの世は矛盾である。
薬とか買えないとか医者にも行けず早死にした人もいる。
そうなると金がないから早く死んだとなるからどうしても金が欲しいとなる。
嫌でも金になる仕事をしている人ではこの世にはいくらでもいる。
修道院からはじまった資本主義ならそんなことありえないのである。
困った人たちを助けるために働いているのだから自分たちのために働かせるなどありえないわけである。

カルト宗教団体とか政治運動でも創価などはすべてが一票とるための活動であり誰のために活動しているのかとなると議員になる人とか幹部のために働いているとなるから馬鹿らしいと気付くだろう。それはどこの政党でも組織でも似たものである。
要するに中国でも格差が極端だから一体誰のために働いているのか?
共産党幹部が王様のようになりぜいたくさけるためなのかともなる。
そういうことは他にもある。大企業でもたいしたことをしないでもある年齢になると高額の給料をもらっていると若者は不満になる。
一体自分は誰のために働いているのかということがそこで問われているのである。
働くということはそもそも自分のために働いているのではない。
コンビニの店員でも買いに来る人のために働いているのである。
他者のためにサービスして金をもらっている。

働くが端を楽にするというときもそうである。それは苦労している身近な人を見て助けたいうのが働く動機だったのである。
自分が助けてもらえたもらいたいとき、事情があるにしろパチンコ屋で働くのが忙しい、パチンコ屋で遊ぶのが忙しい、他でも仕事かあるのでエステなのか知らないけどそんな人たちのためにサービスして自分のことは何に関心もなかったのである。
そして金だけは要求していた、自分の母親に一杯の水も出さないのに金だけは要求してきた。
それで義理の母を介護している嫁にも遺産を分けるべきだというときそれだけの労働をしたのに他の兄弟はしていないのにすべての権利があるのかとなる。
何かしら労働したとき権利が生まれているのである。
だからこの点は法律も変えるべきなのである。


 
タグ:介護
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2015年06月12日

貧乏が賛美されていた明治から戦前のこと (山村暮鳥の詩の不思議)


貧乏が賛美されていた明治から戦前のこと

(山村暮鳥の詩の不思議)


現代の生活は定着的農耕民的生活から離れている。江戸時代なら8割が農民であり生活も回りにあるものでまかなったからそんなに移動はしない
隣村にゆくのにも見知らぬものとして警戒されていたし民情が一致しないと飯館村大倉村と佐須村は明治以降になっても合併しなかった。
現代の生活からするとどうしてそういうことができたのか不思議である。
地球の裏側から物が入ってきてその物が入らないことを心配しているグローバル経済の時代である。
現代とは空間感覚が急速に拡大した。
文明とは空間を技術でもって交通でもって縮小することでもあった。
だから明治維新の象徴が鉄道になったのである。
鉄道によって日本という関所で閉ざされた空間が敗られ一挙に日本の国土意識をもったとなる。
切符一枚で日本全国に関所も通らず行けることがなくなったからである。
その江戸時代から明治の変化も大きかった
だから東京で鉄道でも見知らぬ人たちが乗り合わせることに違和感をもった
つまり見知らぬ人がそんなに一緒にいるということがありえてかったのである。
人間は常に見知った人たちと生活していた。
それが江戸でも長屋でもそうである。長屋でも人は移動しなかったのである。

江戸時代から明治に変わるとき空間意識も時間意識もまるで変わってしまったのである。ただ明治昭和戦前戦後十年とかとまだ生活的には江戸時代の延長ということがあった。
なぜなら燃料も炭とか薪であり時給自足的な生活だったからである。
そして農民的社会であり工業社会でも情報社会でもない、その土地土地に根ざした生活だった
一番驚くのは大正時代でも人口が6000万だったということである。
これくらいの人口だと日本の自然は十分に今より余裕があり残されていたのである。
それでけ山村暮鳥はホイットマンのように都会までありあらゆるものを賛美していた。
機械文明もその時は新しいものとしていいものだったのである。
そこに否定するものはなにもなかった不思議である。ガスタンクまで賛美している
その時文明は全面的に賛美するものとしてあった。
科学とか技術が新しいもの作り出してゆく未来と感じられていたのである。
明治から大正時代でもその時は日本の新しい文明の発展時代でありそれは何でも良いものとして受け入れられていたのである。
アメリカでも日本と同じように農民主体であり農本主義でありそこを基盤にして機械文明が発展してゆくはじめでありホイットマンも何でも賛美していたことは同じだった。
その時ソーローのように文明を批判していたのは例外的だったのである。
そういう田園を破壊する予感はあっても全体的にはそうはなっていなかったのである。

そして山村暮鳥の詩の特徴はまたその当時の詩の特徴は貧しさを賛美していることである貧しさの中になにか人間として尊いものを感じている。
現代は貧しさは最も嫌われるものでありふれたくないものであり貧しさ隠す時代である。だからボロを着ている人もいないし何か飢えている人などみかけない
生活保護制度もありそこまでにはならない時代である。
ただ現代の精神的貧困さはかえって車がないとか立派な家がないとか教育でもいい大学に入っていないとかそういうことで競っている
いい車をもっていない人は見すぼらしく見えるから借金してもいい車をもとうとする。
現実に前の親戚は事業を起こして失敗したがそういう見栄を維持するために借金していた他でも借金していい家を建てた人が多いのである。
だからいい車をもっていないとかいい家がないとかそうしたもので差別化される
教育でもいい大学に入っていないと馬鹿にされるとかなる
貧しい時代は食べるのが精一杯な時代はそういうことがなかったろう。
要するに江戸時代でもその後明治から戦後でも十年くらいは大方はその日暮らしではなかったか?

自分の家では一時部屋を貸していたみたいだ。その時毎日のように家賃をとりにいったと聞いた。これもありえないことである。一カ月に一回が普通である。
毎日となると手間になるからめんどうになる。
ではどうしてそうなったのか?それは日銭稼ぎでありその日暮らしが多かったからだろう酒でも升で子供のとき買わされたことがありその頃買い置きというのはできなかったのだろう。
そんな金をもっていなかったのである。
つまりその日暮らすのが精一杯だったのである。
今の時代は貧乏でも何かしら貯えのない人はいないだすろう。
ただ貧乏な人はその日その日を暮らせばいいとしている人はまだいる
蔵がある家はその時金持ちだったのだろう。
何かしら米でも貯えておけたからである。何も貯えられない人がほとんどだったのである病気になったらどうするのかといったらろくに医者にかからず死ぬ他なかったのである。今のような手厚い医療も介護もないのである。そんなことにかける余裕もなかったのである。
だから今の生活と比べるとその相違があまりに大きいのでそういう生活が理解できなくなっているのだ。

今の生活は今を見てもわからない、過去と比べると見えてくるのである。
今の当たり前のことは昔は当たり前ではない、特別恵まれたことだった
昔は三食食べられて眠る場所があればいいとか考えていたのだろう。
それ以上の贅沢は望みえようがなかったともなる
母が紡績工場で働いていて30分の休みに遊びたくてはや食いした女性が体を壊して死んだというのは信じられない、でも30分は短いから食べる暇もなかったのかもしれてない
そういう労働環境だったともなる
昔はなんらかどこでも働きづめの一生だったのが多かったことは確かである。
現代のように三分の一が働かない時代だとなるとこれは天国かもしれないとなる
自分などは恵まれてその天国を生きたのかともなる。
だから現代人の若者でも不満は過去に比べるとかわいいものなのかもしれない
もちろん時代時代によって苦しいことも楽しいことも変わっているから一がいにははかりえない
でも過去と比べれば現代は恵まれた時代なことは確かなのである。
ただそこで失ったものがは確実にある

なぜ貧乏がその時代に賛美されていたのかということである。一種の清貧というものがあった。清貧というのもは貧しさのなかでも何か精神的には美しいものを維持しようとすることである。
現代ではそういうことはない、貧しいということは落伍者でしかないのである。
現実に水道でも電気がなければ生活できないというときその最低限の出費でも金がかかるのだから金がないということは生活できないということに通じているからである
山の清水を井戸の水を飲んで暮らせばいいとはならないからである。
だから清貧などという暮らし自体が成り立たないのである。
それで人間はかえって文明的便利な生活の結果として精神的には貧しくなったともなる
貧しさの中に人間的精神的な高貴さを維持できるものがありえたが今はありえないからである。
上野霄里氏は戦前生まれだから「貧乏の哲学」をもっていた。
だから貧乏な生活でも精神の高貴性を維持できていた。
でもあのような貧乏をもう強いることはできないのである。
旅をしても一杯の水を飲むにも金がかかるからである。
自分は別に車がなくても今は生活できるし車がなくても貧しさは感じない
そもそも車は自然を感じないから嫌なのである。風も感じないし日影をゆく自然も感じない、だから自然を感じるために自転車に乗っている
ただそれも車社会では贅沢なことをなのである。
日常生活では車をもたなくても車の恩恵で暮らしているからである。
ただ車をもっていないとなると現代では一段と低く見られる
車ももてない貧乏なのかと見られのである。
むしろ自転車で生活していること自体豊かなことだと自分では思っている

軽快にロードで走る夏雲雀

やはりロードだと電動自転車と違い早し気持いいとなる。電動自転車ばスピードは出せないからである。
ともかく山村暮鳥の詩はその時代を反映したものであり今ではありえないことを詩にしている、それはまた現代で失ったものがいくら貧しくてもあったのである。
だからそういう昔にあったものを見直す作業も必要である。
それより今の時代はかえってそうした昔のことをもっと知るべきだと思う。
何を得て何を失ったかを知るべきである。
それは原発事故などで故郷まで失った悲劇を考える手助けになるのである。
昔の詩歌は貧しさを歌っていてもそれは現実から生まれていた。
山尾三省は作られた文明という豊かさの中に作られた貧しさであり
本物の貧しさではない、パンも食べられないというのは故意に作られた貧しさなのであるテレビで放送するのも貧しさがものめずらしいものとしてとりあげている
本当の貧しさがわからなくなったからそうなったのである。
だから山尾三省の詩はそんなに価値がないかもしれない
つまり芸術はその時代時代でしか作り得ないものがある
芭蕉の俳句もその時代だから作れたのであり今でもこれほど俳句が盛んでも俳句が作れるの芭蕉以上の人は出てこないことでもわかる
その時代に作り出した価値はいくら文明が発達しても豊かになっても作れないのである。


ボロを来て野良仕事している人間
車も機械もなにもない時代
家もボロ家でみんな貧しい時代
そこにも人間の美しさがあったのか?
その心は正直で飾るものがなかった?
今人間はいろいろなもので飾る
その着るものでその持つもので
家や車や機械や道具で飾る
でもその心は貧しい
ただ毎日たりないたりないと嘆き
不満が絶え間なく起こり
何にかがないと嘆く人ばかり
一人も感謝するものはいない
多額の借金までして身を飾る
自然の美もその人たちには映えない
車のない人たちは失格者となり
見下して車を吹っ飛ばしてさる
人間同士いたわることもなくなった
ただ金を求める声のみがある
・・・・・・・・

つきあいが悪くなり親密さがうすれてきたことが現代経済の特徴だという
親密さには時間かかる
社会的に物質的に豊かになりますます時間に追われると人間同士の親密さや思いやりが少なくなってゆく

我々が成長と生産性を重視するのは「根」の感覚が薄れていることと密接な関係がある
自分を確かにつつんでいた共同体が失われ自分の孤独ともろさを思いしらされたとき我々はそれを所有で埋め合わせようとするのだ。
捨てな新しいものを買う時、家の中を見回して新しいして物を買うとき力を感じるのである。

「アメリカ人の来世はショッピング・センターにある。彼の勤勉はそこで報いられるのである」
(豊かさの貧困)ーポール、L ワクテル

自分も毎日が買い物であり買い物が一仕事なのである。
なぜこんなに買い物があるのかと思う、だから毎日行っているのはスーパーなのである。
ただそこは買う場所であり何か人間が親しくなる場所でもなんでもないのである。

この本も前に読んだが忘れていた、前に読んだ本を自分なりに活用してくるとき本も生きてくる
これをもう一度読んで評論してみよう



山村暮鳥の詩はいろいろあるが今ここでは紹介できない
山村暮鳥全詩集がでているのでそれを読む他ない
あとで詩の解説はするようになる



 
タグ:山村暮鳥
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今日一日の実り(詩) (労働に充実感をもちえない時代)


今日一日の実り(詩)

(労働に充実感がもち得ない時代)



父の手は手というよりもむしろ大きな馬鋤だ
合掌することもなければ
無論他人のものをかすめとることも知らない手
生まれたままの百姓の手
まるで地べたの中からでも掘り出した木の根っこのような手だ
・・・・
いまもその手は骨と皮ばかりになって
なおもこの寒天のやせた畑地を耕している
ああ 自分は何も言わない
自分はその土だらけの手をとっておしいただき
このところではるかにその手に熱い接吻をする
山村暮鳥(父上のおん手の詩)



今日一日の実り

今日一日実りのあれや
多くのものがあふれ
今日も我はスーパーに買う
金があれば何でも手に入る
物なら何でも買える
しかし何か実りなきは
何か充たされるものなきは何故や
食べれば確かにうまく腹を充たす
とはいえ何か充たされぬは何か
ただ買いて腹を充たす
今日一日の実りのあれや
田畑に労して実りしもの
その住む大地から実りしもの
それを食べてこそ実りのあれや
今日一日腹は充たせど心は虚し
そのもののいづこよりきて
いかにして作られしものか知らじ
パートに働きて時給をもらいて
そは充たされしや
どこに働いても賃金のみで計られ
金が実りのすべての基準
今日一日いくら稼いだか
それが今日の実り
現代の仕事は無数あっても充たされない
ただ消費されることで充たされる
腹を充たしても心は充たされない
それでみんな仕事が嫌になっている
しかたなく金を得るために仕事している
金がたりない、金がたりないと
毎日不満を言っているのが現代
これほど物があふれても豊かにならないのはなぜ
そこに現代の心の貧困がある
いかなる仕事も本当に今日一日の誠の実り
それがなければ虚しいとなる



おそらく「豊かさの貧困」でも様々なことで現代文明は批判されてきた。人間はアトム化されるとか人間が数化されるとか人間が人間でなくなる、それでアウトサイダーとなり人間回生を目指したのかニーチェとかミラーとか上野霄里とか他の思想家でもそうなった。それは過激となったのは天才だったからそうなった。
天才は普通の人より生きるエネルギーが大きいからそうなる。
静かな思想家でもピカートなどはろはりアトム化した文明を「沈黙の世界」で示した。
それはそうした高度の思想とか文学でなくてもいろんな方面からの批判があった。
経済思想からもあったのが「豊かさの貧困」であったり他にそういうこと様々に語られてきたのである。その本も膨大になるから読みきれないのである。
結局本はいくち買っても読んでも自分のものとして書かなければ読んだともならなかったのである。
現代の消費社会はまさに消費するというときただ費やすという消極的なものとなったからだろう。
今でも生産するというときは積極的なものとしてある。
人間はただ消費しているばかりだったら何ら生産性がなかったらあらゆるものが虚しいとなる。
この世の中今はあらゆるものがそれは物だけではない、情報でも一方的に消費するだけなら虚しい、自分なりに考え自分で評価すれば生きたものとなる
だから何でも受け身では精神は充たされないし虚しいとなる
テレビの情報の奴隷になっている人たちもそうであり自ら考えないで生きている人たちも奴隷になりやすい。

いづれにしろ現代は何か労働そのものが拒否される、それはなぜなのか?
労働は嫌悪されているしなるべくしない方がいいとなる。
それが生まれたのがフリ-ターでありニートとかである。
労働はその場しのぎであり一時の賃金をえるだけのものとなる
労働の形態がそうなってしまった。労働はWORK(作品)ではない
JOBでありその場しのぎの一時的賃金を得るものにすぎないのである。
そういうふうに労働があるとき社会全般も荒廃してしまうのではないか?
なぜなら社会の基本は労働にあるときその労働が嫌われ労働しないことこそが一番いいことだとなっているからである。

現実に労働は機械にさせるべきで人間は労働しない方がいいという社会になっている
だからあらゆるものが機械化して雇用すらなくなってくる
その時人間は不用なものとなってしまう。
その時人間を山村暮鳥の詩のように讃歌することなとなくなる
(父上のおん手の詩)のようにその手はもうない
それは機械に置き換えられてしまったのである。
もはや働くの機械であり人間ではないからである。
そういう社会はまたどうなってしまうのか?
人間の生きる充実感はどうなってしまうのか?
人間はお払い箱となり頽廃してしまうのではないか?
それとも労働から解放されてパラダイスになるのか?
この辺では補償金で毎日パチンコだとか遊び暮らすようになった。
飯館村の人がギャンブラーになったとかもそうである。
みんなか知識人でもないから本など読まないのが普通だからである。

お前はどうなんだというとき、自分は旅に時間を費やした。その他学問とか芸術に費やした。その追及したものをプログなどで発表している
自分自身が流れ作業ばかりして日銭をかせぐ仕事ばかりだから労働を嫌悪して環境に恵まれていまになるまでせずにすんだのである。
そこに何でもそうだがプラスマイナスがあった。
いろいろな欠如したものも生まれてこの七年間は介護や自分の病気で苦労してきたのである。
現代の文明の問題は「今日一日の実りがない」ことではないか?
仕事をしてもそれを感じられないことではないか?
地球の裏側の人のために働いてもそういう労働自体に喜びを充たされたものがあるのか?
そういうグローバル経済というのももはや矛盾が大きくなり限界に達しているのではないか?
そんな遠くの人は何か困っても助けには来てくれない、確かに物は来ても助けてはくれない、実際に原町でも何かあったら家にきてもらいたいができなかった。
「遠くの親戚より近くの他人」は車社会になっても通用している。
車で原町かち来るのも手間なのである。グローバル経済の弱点は肝心なとき近くのものに助けてもらえないということにもあった。
それがアキレス腱なのだがまた反面この辺で津波や原発事故で働き助けたのは外部の人であり内部の人は遊んでいたという矛盾がある。
それは広域社会化しているからそうなった。
だからまたすべてが広域社会化したから悪いというものでもなかった。
すでに自給自足の村社会にはもどれないからである。

とにかく何か仕事の充実感が得られないというときそこに現代特有の問題がある
消費社会であり生産社会ではない、生産しても働いても充実感がない
例えば農家なら自給自足でもその働いたものは直接に家族とかが食べていた。
売るために働いて作っていないということが労働の充実感をもたらしていた。
そして父上のおん手の詩のように感謝していたのである。
いまスーバーに行って物を買って感謝している人などいない
ただ高いか安いのかうまいのかとかみているだけである。

でも名取の閖上(ゆりあげ)から来たシジミを売っていた。
あそこも津波で大被害を受けたからシジミもとれるようになって復興しているのかと感じた。他のシジミはどこから来るのかもわからなかった。
前はこの辺でも川でシジミがとれたし自分もとって家族に食べさせた。
それは大きなシジミだった。売っているのはみんな小さなシジミなのである。
そのシジミをとっていたとき何ら苦痛はなかった。

閖上(ゆりあげにとれるシジミをスーパーに買いて思いぬ津波の後に

それよりそれは楽しみだったのである。今では野菜でも米でも作るのは家族のために作るだけなら楽しみになる。機械でするしそんなに苦労ではないからである
それでもほんのわすかの野菜しか作らない人は毎日草取りだ肥料だ気候がどうだこうだと言っている。
だから農業というのは本当に手間でありかえって肥料だとかその他種でも金がかかるものなのである。
だから趣味としてやるのはいいがとても売るとなると全く違った労働となるのである。

結局変だが自分の今日一日の実りは風を切って軽快にロードで走ったことだった。
それは自分の一生すらそうだったとなる。何か仕事して充実感を得た経験がないのである仕事が多岐にわたりパーツ化すると仕事で充実感をもっているのは一パーセントくらいにしかならないのでないか?
そのことが現代文明の頽廃であり深刻な問題なのである。
ホイットマンであれ山村暮鳥であれあれほどすべてを賛美できたのはやはり時代だった。人間の労働が活きていて消費社会ではない自ら働いて労働自体が充実感をもたらしていたのである。だから現代は労働より遊びに重点が置かれる社会でもある。
ギャンブルとかでなくてもレジャーが盛んになったのもそのためなのである。



タグ:仕事
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2015年06月21日

全国賃金時給分布からみる差 (データーを素人でも見るインターネット時代)


 全国賃金時給分布からみる差

 (データーを素人でも見るインターネット時代)


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平均賃金

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時給



鹿児島なんて最低賃金時給600円台半ばチョイくらいだよ。
で、地元じゃわりと大手の企業でも平気で最低賃金、サービス残業とかまかり通ってるよ。
 本当に生活保護が勝ち組みたいなレベル。
こんなんだから、鹿児島はパチンコ屋が異常に多い。
 市内中心部の一等地も立体駐車場完備の大型パチンコ店が多数進出していて、観光も多い県なのに本当に恥ずかしい、情けない景観。
 所得低いから金を安易に増やそうとパチンコ屋に入り浸る人が多い。
もちろん、ちょっと暇つぶし、気晴らし程度で2、3千円程度楽しむだけの人もいるけど、老若男女問わずパチンコ人口多いのは鹿児島の最大の恥。

中国人が「日本製品やっす!」「日本女やっす!」と爆買いするのを
「爆買い有りがたや ありがたや」と揉み手で迎える。
 戦後、米軍トラックを「ギブミー!」言いながら追いかけてた時代に逆戻り。
アベノミクスで見事に日本は三等国堕ちw
台湾、上海あたりの最低賃金っていくらなんだろ
地元民が食べる屋台のランチのヌードルですら一食日本円で1200円くらいだよね
日本は貧乏くせえわなあ、最賃、700円とかだろ?
 人の価値が安い国。


 中国人も逃げ出す日本の低賃金
 中国人の研修生はどんどん数を減らして東南アジアの研修生が増えている
彼らもご存知の通り日本の低賃金にすっかり騙されたと
失踪したり訴訟をしたり散々な状況



インターネットで変わるものは相当あった。ただそれが個々人ではなかなかインターネットは意識されない。
そもそもも物の値段だとわかりやすい、毎日買い物しているから物価には敏感になる。
アスパラガスは好きだから毎日買っている、国内産だと三〇〇円とかなると高い
今日は外国産が置いていなかった、メキシコ産など国内産の半分とかだった
この値段の差がどこから出てくるのか?
それはグローバル経済だからこそでてくる値段なんだよ
最近は外国産は円安で食料でも高くなっているから前のように買いずらくなった
輸入品が高くなり食料品も高くなる、これもまた当然なのかもしれない

そもそもグローバル経済では外国産は安くなりすぎていたのだろう
日本だったら食料でも人件費やなにやらで高くつく、種が上がったとかで農家の人も嘆いている 肥料だって輸入していれば高くなる
ただ食料品が高くなることは国内産にとって農家などにとっては有利になるだろう。
それは外国産が半分の値段とかなっていれば競争できないからだ
もし外国産と国内産がさほど変わらないとなれば日本産を買うようになる
つまり日本の農業にとっては円安は歓迎だとなる、それは生産者にとってである
まず経済とか景気感とかは個々人によって地域によってみんな違っている
アメリカで時給を一八〇〇円にするとなるとこれは高いなと思う
でもこさを日本と簡単には比べられないみたいだ
それでもアメリカが景気がいいというときアメリカに投資してなぜ分配金が高いのか驚いた
そういう株とかでもうけたことがないからである
だから資本主義とは元金が資本があるともうけられんだなと実感した
時給とかで働いても今や正社員でも賃金が高くならないからである。

その資本とは国内だけではないグローバル経済の中で活かさないともうけられないのである。
グローバル経済がいいの悪いのという前に世界の現実がそうなってしまっているのであるだから会社で時給で働くより株主になって配当金をもらった方が資本主義では得なのである。だから資本主義はとにかく元金がないと資本がないと得しない仕組みだとなる
賃金とか時給の差をみるとやはりその県の経済事情が反映している。
東北だと経済力は宮城県が一番であり次に福島県がいいのである。
ただ福島県は前は浜通りとか中通りと会津には差があった。
だからその県内でも差がある
一番ひどいのは青森県とか常に言われてきた。
それは全国の賃金差でも時給でも同じである
東京近辺は神奈川とか千葉とかはやはり高い
大阪近辺でもそうである。なぜか近江では賃金は高くても時給が740円では安いと思った
やっぱり大阪や京都から離れているのが影響している?

福島県が賃金で88は九州や四国より高い、原発事故後はこの辺は人手不足で飲食店では1000円を越えているがコンビニではそれほどでもない、飲食店は結構仕事がきついということがあるからだろう。
富山石川福井長野は賃金は福島県より高い、茨城、群馬、栃木なども高い
これは関東圏は高くなっているということだろう。
全国を地域別に見るのは別に経済力だけではない、いろいろなものに県別や地域差はあるただこれも全国を旅してその土地柄を地形など知らないとわかりにくいだろう。
まず神奈川などは本当にわかりにくいし他にも福島県なども広くて福島県に住んでもわかりにくい。
全国を旅したらその土地が歴史的文化的にどういう土地なのか興味をもつ
一回でもあそに行ったなとなると興味をもつ、それは外国でも同じである。

日本は相当におちぶれて衰退してきている、なぜなのか?
日本には何か欧米のような独創性がないからかもしれない
でもアジアはアメリカでも留学生でも成績がいい
特に数学の成績がいい、その理由は稲作と関係していたというのも面白い
農耕民は努力型であり欧米のような狩猟牧畜民、遊牧民と違っている。
そのメンタリティはなかなかわからないのだ。
なぜ欧米が主導権を握ったかというと何か新しいものを発明して作り出す能力は欧米人が優れているからではないか?
こつこつ努力型には何か天才的ひらめきで新しいものを作り出す能力に欠けている
それでITなどでも遅れをとった
今やロボットがニュースの記事を編集して書くということすらコンピュターでできるという。人工知能の進化は進んでいる
人間はやはりデーターが手元にあれば素人でも分析しやすくなる
こんなことを書けるのもインターネットの情報の流通によって書ける

ネットで面白いのは地域差があって地域から地方から発信されることにもある
マスコミだと中央よりだし取捨選択も何か視聴率にだけこだわるからかたよる
そしてマスコミは権力機関の政府でも団体でも宗教でも大企業でも広報機関なのである。宣伝費をそうした大きな団体からもらっているからそうした大きな団体はたたかないのである。
だからマスコミからだけでは真実はわからないのである。
ともかく情報は無限大でありそれをどう見るからはやはり個々人で判断するほかない
そのためには資料が必要でありネットでも交流が必要になる
ただネットでの交流は会話になるとめんどうだし若い人に老人はついていけない
自分は前もそうだったが今や会話することが一番労力を使う
相手となんらか合わせなければならないしめんどうになる
だから今は家事から介護からで毎日追われているからその余裕がないからいちいち答えられない、その時間の余裕がないのである。
ただプログだと時間をみて書きづづけている、発信できることを主体にしてそこにエネルギーをそそいでいるのである

とにかく日本は衰退してゆくとき、海外旅行でも中国でさえ高くなっている
カンボジアやミャンマーなどが残された安い国になるが海外旅行すら自由にできない時代になっている。
それで逆現象が起きている
日本人が中国人でももてなす時代になる、女性も安く中国人に遊ばれとかなる
それは日本人かさんざんしたことだから自業自得でありカルマである。
国にもカルマがあり必ずカルマが厳しくのそのツケが支払わせられるのである。
すでに日本人のいい時代は終わったということかもしれない
なんとか安いとき海外旅行に行ったのが良かったともなる
人間はチャンスを逃したら二度ともどってこない
その時にやるべきことをやらないと絶対にはもうできなくなる
このことは若い人は肝に命ずるべきだ
例え金になるしとてもそこに時間を費やして後で後悔する人も多い
結局人間の最後は結末は想定外、計算外のことが必ず起きる
今度の津波や原発事故もそうである。
何か計画していたものが一挙に破綻したりして計画通りにならないのが人生である。
世界情勢なども今後どうなるかわからない、結構若い人にとって厳しいものになってゆくのかもしれない,徴兵とかなるのかもしれない
国が破産状態になったりとこれからは日本は厳しい局面にたたされる
団塊の世代は特別恵まれていた時代に生まれたともなる
自分も特別私的にも恵まれていた、ただ二十代は危険だった
底辺労働で危険な死に目にもあっているから危険だった
それも別にそこに追い込まれたというのでもなく自らそういう場所に飛び込んだのであるそれも経験だったということである。




タグ:時給
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2015年06月30日

物は移動できても人間は簡単に移動して住めない (移民は日本の家族のように受け入れないと不可能)


物は移動できても人間は簡単に移動して住めない


(移民は日本の家族のように受け入れないと不可能)


物が移動するのと人が移動するのは全く違ったものになる。
人が他国に移動するとどうなるのか?
家族であれその国のことであれまたは宗教であれその人ともにもたらされる
だから移民したヨーロッパではイスラム教が増えてそこが別な国のようになってしまう。日本でも移民を入れるとなると単に人間を部品のように働かせることはできない
つまり人間は物でもないし機械でもない、人間に付随するものは全体だから
この一部門で働く人がいないからと機械のように部品のように人を外国から臨時的に入れて働かせることは問題が起きてくる
そういう働かせ自体に問題がありもめごとが起きたしこれからも起きてくる。
それは人間は機械でもないし機械の部品でもないからである。
ただ文明の仕事は移民を入れるにしろ入れないにしろ仕事自体が機械化して効率化を計ってきた。

つくづく文明とは膨大な分業であり部品化だったのである。
人間の仕事はもはや無数に細分化された部品の集合なのである。
それは車を生産して使うとういことで象徴されている。
国がトヨタの会社でありその車を使うために人間が部品化され配置されているとかなる
車は部品の集合からてりその部品を請け負い作る中小企業がいて従業員がいるからである文明そのものがそうして生産を機械化して効率化してきた。
ただそれが外国人でも何でもいい、その機械化部品化として人間があるからいいとはならない。
障害者が最近雇用を会社でもしなければならなくなった。
でも意外と障害者でも流れ作業とか部品化した分業化した仕事ができる
てもそもそも人間の仕事は普通の人でも分業化して細分化して部品化していたのである。そういう仕事はかえって障害者にもできる、向いていたとさえなる

まず全人間的仕事をしている人は文明社会では極少数である。
文明の全体を知る人など誰もいないだろう。
第一次産業は自然の中で仕事していたから全人間的である。
工業化すると機械も部品の集合であり人間も機械化され部品化される
一人の人間が一つのものを作るとういことはない
江戸時代ならほとんど職人であれ一人の職人の手仕事だったのである。
職人一人が製品を全部仕上げていたのである。
田から職人も全人間的に生きていたとなる
医者でも現代のようないろいろな科はない、人間の全部の体をみていた。
人間の体の部品化はないしできなかった。

でも移民が問題になるのはなぜなのか?
人手がたりないから国内のように人間を機械のように部品のように使えないからである。移民とともにもってくるものは家族であれ国であれ宗教であれ一人の外国人はその国を代表してもってくるものがある。
移民の一人でも何かその国を代表したように国自体を外国にもってくることにもなる
だから移民は文化的衝突することになる
つまり国の中にもう一つの国ができることになってしまう。
でも外国から物だけを取り入れていればそういうことはないのである。
別にバナナが入ってくるからとフィリッピン人がメキシコ人がどうのこうのとかにはならない゛フィリッピン人が風俗であれ嫁になるのであれ人間そのものが入れば必ず全人間的なものとして問題になる

人を雇うにしても自分でもちょっとした時間でもいかに人を雇うことが特に家で働いてもらうとなると大変なのもになるか身をもって経験した。
そこには常に露に人間的な問題が露骨に現れる
もちろん普通の会社でも経理でごまかすとかあるから人間にはそうした信用問題がつきまとっているのだ。特に家に入るものは一番危険なのである。
そして時給一時間いくらはらえばいいとはならない、なにやかにやとその家の問題がありそれまでめんどうみなければなちらなかった。
家族の一員のようにしてめんどうみなければならなかった。
だから人間を雇うをほどめんどうなものはないと思った。
ただ時給いくらで雇うというときコンビニなどでもそうした家の事情とかには立ち入らないシステムになっている。
いちいちそんなことを聞いていたらもうもうけることもなにもできない
社会福祉事業になってしまう。
移民でも人間が入ってくれば現実に日本人の家族として受け入れるようでないとうまくいかない。
機械のように便利に使っては使い捨てというわけにはいかないのである。

いづれにしろ原発事故で避難した人たちも人間が各地に移動したから問題になった。
人間はそもそも物ではないのだから移動するとなると移り住むとなると簡単にはできない、移った場所に簡単になじむことはできないのである。
ただ旅するなら別である。旅人になる別に移動することが目的だし一所にとどまらない事か旅だから別である。
でも人間は長年住み慣れた場所から他の場所へ移り住むのは様々な問題をうむ
確かに第一次産業の自給自足の生活ではないからその土地に愛着するというこはそれほどなくなった。
でもやはり長年住んでいる場所と人間は一体化する
それは自然でも人でも他にもその場所に長年住むということは石のようになることでもある
その本が見つからないが会津の民話では村の欅が一緒にお伊勢参りしていたとかあり
それだけその村の古い木とか石は単なる自然の物ではない人間と一体化していたのであるだから浪江の女性が60代の人は田舎の淋しい場所に住んでいた。
それが高層ビルに住むようになったから相当な違和感がある
都会の灯の海を見て暮らすのとはあまりにも違っていたのである。
物だったら例えはみかんであれリンゴであれ野菜でも移動してもその味は変わらないのである。
ところが人間そのものが移動するということは物ではないから機械の部品でもないから簡単に移動できないものなのである。
人間は一つの部品ではない、全体に生きているからそうなる。
人間はその土地に根付く植物や樹とかともにている。結局人間の自然の中の生態系に生きる生物の一種だからそうなるのである。


タグ:移民問題
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2015年07月17日

経済学とは経世済民(日々の生活のであり一番身近なもの)


経済学とは経世済民

(日々の生活であり一番身近なもの)


「経世済民」

 経世というのは「世を治める」の意味です。「済民」は「民を救う」という意味です。世を治め民を救う、この4文字の言葉から「エコノミー」は「経済」と訳したらどうかということになり、そのまま経済という言葉として定着しました。

大学で経済学部を専攻した。でも自分はそもそも勉強が嫌いであり学校に適応できなかった。受験の勉強であり勉強が好きになれなかった。
だから勉強とは常に試験とかで強いられたものであり暗記であり高校まで自分で考えたことがない、ところが学問とはそもそも学び問うというように何かの問いがありそれを解決するものとして生まれた。
この世に生きる限り様々な疑問が生まれてくるからである。
今や文明生活は複雑であり疑問だらけでありその全容を知ることはできない
「なぜ3百万人も死んだ戦争があったのか?」
これも深刻な問いでありその明確な解答などないのである。
「なぜ人間は死ぬのか」
これも人間にとって個々人にとって最大の問いになる。
それで求道になりその問いをの答えを求めるのが人間である。
そしてその問いの答えは必ずある
だから真剣な問いがあることが学問のはじまりである。
学問というとき問い学ぶとあるが学ぶはまねるでありそのまねる、暗記だけだと学問は嫌になる。
簡単な算数でも今になると暗記でありそれをいろいろ考えて学習すると勉強好きになった算数を数字だけで抽象的に考えているとわかりにくいのである。
子供の学習で像から考えろというとき、一、二、三・・・と数があるときそれを具体的なものとして一個二個三個として図形として数字をとらえるとわかりやすくなる
数字は極めて抽象的なものだからとらえにくいからである。

そしてでは経済学とは何なのだろうとなる。学問は現代では様々な分野に分化してしまった。学問は学び問うが基本であり問うとはやはり哲学でありギリシャの学問が哲学であり問答形式になっていたことでもわかる。
経済学にしても商学部とか経営学部もあり分化している。
ただ経済となるとより一般的になり総合的になるから哲学的にもなる
商学部とか経営学部は実用的なものとしてある。
経済学部とは何か宗教にも通じている。世を治めるというとき宗教もそうだからである。資本主義がそもそも修道院から生まれたキリスト教のモラルから生まれたというのもそのためである。
仏教でも勤めというのはまさに仏に勤行をあげるとかが勤めでありそれが一般社会にも勤めるとなり働くとなった。
自分は今になると学問好きだったと思うようになった。
ともかく自分は考えることが好きなのである。何か実践することは苦手である。
だから実業家とか政治家とか現実社会で何か事業をしたりすることは向いていない
だから学者タイプだったのである。

経済学とはあらゆる分野に必要になる。根本的には経済とは何か、それはコストの問題があらゆることに最初に問題になるからそれが経済学なのである。

「エコロジー幻想ー武田邦彦)という本を例にすると

鉄道とバスと自動車を比べた場合、一人を一キロ運ぶエネルギーが鉄道は100、バスは178、自動車は595になるという。こんなに違うのかというのも意外である。
自動車は一人でも使うから効率的ではない、多人数を運べばバスの方が効率的になる

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田舎では一人一台車をもっているのが普通である。それは大量にエネルギー消費しているから都会より田舎の方がエネルギーを無駄にしているとなる。
それでコンパクトシティがいいというとき現代の便利な生活を維持するにはエネルギーでもコストがかかりすぎるからそうなる。
料理するとき湯で卵にするためにガスとか電気を使う、ガスだと5分とかであり電気だと10分とかになる。その時常に自分は無駄を感じていた。
つまり卵二個だけゆで卵することにそれだけのエネルギーを使うのかという実感である。なぜなら5個でも使うエネルギーは同じでありさらに十個でもほとんど変わらないからである。何かこれが田舎の生活がかえってエネルギーを消費しているというのとにている。都会だと人が集まっているから人間を卵に例えると百個でもゆで卵にできるとなる
それが毎日のことだから実感としてエネルギー消費を考える。
それは水道などでも同じである。一人風呂に入るのと五人風呂に入る水道の料は同じなのである。そこに水の無駄が生まれているのである。
現代は個々の暮らしが多くなったからこういうエネルギーの無駄が多いのである。
つまり車がエネルギーをそれだけ消費するのはゆで卵を一個を同じエネルギーで消費しているからである。バスだったら十人のせるが車は一人だからである。

それから太陽電池発電がこの辺でも原発事故以降いたるところに見られる
これも自然エネルギーだからすべてがいいというわけではないという。
それもコストの問題なのである。税金を投入しているから安いものではない、その設備投資でも保守するのにも金がかかる、これもコストの問題があり経済学なのである。
科学が技術だけの問題ではない経済学が関係しているのである。
つまりあらゆるものにコストがどれだけかかるということが常に問題になるからである。だから゛あらゆる分野で経済学が問題になる。
それはコストの問題が最初にあるからである。物を買うにしてもこれが買う価値があるのか、これだけの金を払う価値があるのかとかこの人を雇って価値があるのかとかコストの問題になる。それが経済学なのである。
オリンピンクの国立競技場問題もそうである。そんな大金をつぎこむ価値があるのか?
コストの問題がありそれでもめているのである。


原発事故でも経済学が関係していた。原発を建てるにば金がかかる、それだけの金を使う価値があるのかとなる。なぜそんな危険なものを作る必要が日本にあるのかとなる。
それはコストだけではない、アメリカの要請とか核兵器にするという裏の目的もあったのかとなる。
ただ東電の社長がコストカッターとして資材部から社長にのしあがったということでやはりコストが関係していた。
最初は高い所に原発を建てる計画だったのを低くしたのもコストのためだったのである。つまり安全を計ればコストがかかるからであり現実に津波の予想を東電ではしていたのである。
それをあえて津波対策の工事をしなかったのはコストがかかるためである。
これも経済的問題であり経済学だった。
この経済的問題はあらゆるところに生じる
日々の主婦のやりくりも経済学なのである。


介護問題にしてもこれも経済学の問題である。そもそも介護保険があるとしてそれは税金からでている。その金も膨大なのである。
確かに一日ディサービスでとまると5000円くらいとられる、でも現実は介護保険からその8倍くらいは出ているのである。もしその分をはらったら一日8万とかなると高級ホテルに泊まることと同じ料金がかかることになる
それで一カ月部屋が空いているから泊めたらどうかとケアマネジャーに言われた。
これまでは空いた部屋がないと思っていた。この辺では人手不足でもあるから実際そうだった
でも一カ月泊まりませんかというと空いているのだろう。
空いたままではホテルと同じように金にならないからすすめられた
一カ月15万は別に高くないのである。
ところがその15万は介護保険から出ると7倍8倍となったら百万にもなってしまう。
そういう計算をすると空恐ろしくなるのである。


別に介護保険から出るからいいじゃないかとなるがコスト的にはどうかなと疑問になる
なぜならその一カ月百万の金は税金だとすると個々人でも介護保険から払っているから実際は無料ではない、みんなして税金とて払っているものである
それで若い人にこうした保険料でも負担が多すぎるから健康保険でもコスト面で問題になる。国民年金でも若い人に税金の負担をかけているから問題になる。
税金をとったり払ったりすること使ったりすることも経済学なのである。
それが額が大きすぎるから何か実感しないが個々人でも月給からも税金としてひかれているのである。
高齢化社会とか介護とか医療には金がかけすぎるから政府でも何とか減らそうとするのはわかるのである。
それは自分の家の問題でもあるからよそ事としてではなく自分の問題として経済学がある経済学とは日々の生活のことであり学問としてむずかしいことではない
経済学は今ではグローバル経済になるとますます世界的なことも経済学としてみるようになる。
世界のことは関係ないとしていられないのである。アメリカに投資したらアメリカの動向や世界のことが常に気になってくるのである。
それは自分にも直接影響するからである。
経済学はまた倫理学である。昔だったら物を大切に使う、使い捨てなどしない、自転車でも高いから一生磨いて使うものだった。新しいものを買う金がないからである。
そういう貧乏な時代は何でも物でも大切に使っていた。

経済学はモラルの問題でもあるから「経世済民」になった。
医療とか介護とかも科学だけの医療技術の進歩だけでも解決しない
コストの問題がありそんなに保険を税金をつぎこんでいいのかとなる
それですでに国がつぶれるとまでなる、
ともかく物を今のように消費して使い捨てるとかの経済は成り立たなくなる
そんなに資源を無駄にするほど地球は人間に与えない
物を大切にするということはやはり経済学の基本でありモラルの基本なのである。
何でも新しいもの新しいものを求めるのも問題なのである。
今あるものを大事に使うというのも長く使うというのもコストの面でモラルの面でも必要なのである。結局そうならざるをえなくなる。
現代の消費生活はギリシャのように借金してまで贅沢するよう生活は経済学的にも破綻するということである。
医療とか介護分野でもそんなに金を使うことは経済の破綻になる。
何も介護など金をかけないでもできる。金を使えば個々人にも全体にも負担が大きくなり経済にコスト面で破綻してしまうのである。
やはり経世済民とは経済は世を治めることなのである。
何でもコストの問題が最初にありそれに納得してもらえれば世は治まるとなるからである現代とは税金の無駄が多すぎるからである。その税金が公務員に使われているとか不満が多いから世が治まらないのである。



タグ:経済学とは
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2015年07月22日

アメリカに投資してもうけている自分の矛盾 (アメリカ人は日本より貧困層の問題が深刻)


アメリカに投資してもうけている自分の矛盾

(アメリカ人は日本より貧困層の問題が深刻)


●アメリカは貧困社会?



アメリカは「特権階級」「プロフェッショナル階級」「貧困層」「落ちこぼれ」という4つの階層に分かれ、「特権階級」「プロフェッショナル階級」の上位二階層を合わせた500万世帯前後、総世帯の5%未満に、全米の60%の富が集中しており、トップ20%が84.4%の富を握っているそうです。そして、経済的に安心して暮らしていけるのは、この5%の金持ちだけだとのことです。

「他人の子供の世話をするために、自分の子供の世話をおろそかにする。自分は標準以下の家に住んで、人さまの家を完璧に磨き上げる」ワーキングプアは「ひたすら与えるばかりの人たちなのだ」とエーレンライクは言います。

小林由美『超・格差社会 アメリカの真実』



日本だとプロフェショナルが何ですかとか言わない、職業より会社名などを言うだろう。プロとはあなたの専門は何ですか?となる
何か専門的な知識やスキルを基にして働くものは収入が大きい。
「特権階級」は親の資産とかを受け継いだ人とかであるがアメリカでは金持ちでも桁はずれるになる。
日本はアメリカを戦後手本にしているのだから当然アメリカ社会に何でもにてくる。
それより世界が資本主義というグローバル経済のシステムに組み入れられているから資本主義経済の影響が大きい。
それでどこの国でも格差が生まれる、それはアメリカだけでなくて世界中で起きていることである。
だからこそアメリカだけの問題ではなのである。
ただアメリカとか中国とかなると国が大きいから極端になるのである。

なぜ貧しい人と裕福な人がいるのかとなるとこれもまた今だけの問題ではないし歴史的にもう人類がはじまってからあるだろう。
だからこの格差の問題は今だけではない、根の深い問題なのである。
貧乏の原因を考えるとまずそうした社会的問題としてとらえるのではなく個々人が原因になって起きることが必ずあり自己責任だとして批判されることはやむをえないことである貧困は今は目に見えないしまたそもそも人間の直接に接する人は少ない、10人くらいかもしれない、するとそこから見えてくるもので判断しやすい
良くシングルマザーとかの悲惨な貧困が増えているということを話題にするけどそれもマスコミでは極端なものしか取り上げられないからその内容が本当かどうかもわからない。つまり最低の極端なものが話題にされやすいのである。
普通に生活している人は話題にしても面白くないから極端な貧乏を話題にするのである。だからそういう記事が本当なのかどうかという疑問がわく
ただ全般的に現代が格差社会だということは否定できないだろう。

●貧困の原因

個人的な貧困の原因としては

●親の資産を受け継いでいない
●離婚している
●プロフェシャナルになれない

なぜ親の資産を受け継がないと貧困に落ちるれのかというとこれはまず土地とか家がないということをイメージすればわかる。
何もないところから一から結婚して始めるとなるとその労力は何倍にもなってしまう。
10万とか家のローンを払うとなると月給からその分30十年とかひかれていくのだから辛いそれで老後に破産しているとかが起きている。
でも能力ある人は一からはじめて財産を残している、土地を買い、家を建て、子供を教育して育てている。
農家だって三代しないと農家とは認められないという。
それだけの積み重ねがないと農家にもなれないからそうなる。
「草分け」というのはまさにその名からわかる。
つまり草茫々の原野に入り開拓した家である。
その後から入ってくる人はそうした草分けの家をまず頼りにして働きやがて代を経て財を築いてゆくのが順序である。
だから誰もいつまでも貧乏にとどまるとは限らないのである。
そういう人がなぜ今貧乏なのだ、草分けはうらやましいとか言って盗んだりすることはゆるささないことである。その家は最初は同じように苦労してきたからである。

子孫はその恩恵を受けている、でも恩恵を受けた子孫も零落することはある。
あとからの人がかえってけ苦労して豊かになってゆくということも昔からあったのであるその人は電工であり普通の労働者だけどトラック運転もして人より歩合制で一台いくらで勘定するけど人より運んだから収入になったという。それだけ努力したということである別に特別なスキルがなくても貧乏にならないし土地も家もあり普通の暮らしをできた人も多い。高度成長時代ということもありそういう人はが中産階級になった。
派遣とかフリーターとかはその時代ほとんどいないし正社員の時代だったことは今とは違う。
それから貧乏している人は必ず離婚している、離婚している人は二人分の収入があるのに一人分になるのだから当然貧乏になるのは目に見えている、現代はあまりにも簡単に離婚しすぎるのである。シングルマザーの問題もそこから起きてくる。
夫に問題があっても収入があれば昔ならがまんしていた。現代ではがまんしないから収入が減ってその後の暮らしのことを考えないで離婚する
すぐに生活保護になった人も知っている。
貧乏にはかならず自己責任の部分はあるし否定できないのである。


現代の格差社会を問題にするときそうした個々人の問題に原因があるというのではなく
社会のシステムの影響で貧困から脱することができない問題である。
いくら働いて働いても豊かになれないのはなぜなのか?
それはその本人ではなく社会のシステムで資本主義社会が悪いからそうなっている
それも確実にある。それでピケティの資本の不公平を指摘したのが世界的話題になった。つまり資本主義はもともと資本が元金がないと豊かになるチャンスが与えられないのである。
それは一億円の元金がたまれば株に投資すれば今でもその元金が増える、でもそのまとまった元金が増えなければ増えない、だから一億円あれば働かなくても暮らせるなとためる人もいる。
その一億円の金も資産家なら簡単にもてることができるから格差になる。
だから親の資産を受け継がない人は元金がないから投資もできず細々と働いているほかないのである。
だから資産というのはどうしても一代で築くことはむずかしいと思う。
それは特別能力があるプロフェショナルな人にはできるが普通は苦しくなる。
自分の場合はただ親に恵まれたので今は金には困っていない
でも自分が金持ちだったという気分になったことは一度もないのである。
旅ばかりしていたといっても最低限の旅でありまず外食で千円以上使ったなかったし宿も最低限の宿を探すのに苦労していたのである。
だから贅沢な旅などしたことがない、温泉旅館などに一度も泊まったことがないのであるあと使ったのは本代であり何か贅沢などしたことがないのである。

●毎日家事に追われている自分は金持ちではない

今でも自分が金持ちなのだろうかというとそうではない、実際に毎日家事と介護に追われているとなるとどうして金持ちなのだろうかとなる。
金持ちだったら家政婦でも20万とか30万でも雇うだろう。それこそ金持ちの気分になるだろう。掃除、洗濯、買い物、介護をしていたら自分は召使と今は同じではないか?
あいつは金があるなと言われても自分の状態は召使なのである。
だから自分を自分も金持ちだと思いないし召使としか言いようがないのである。
本当の金持ちは家政婦を二人とか雇っている人である。そういう人がいたが強盗に殺されてしまった。
だから金持ちは何なのかというときその内容もある。毎日家事に追われているような人が金持ちとは言えないのである。
家政婦とかだと一番格差を感じやすいのである。
他人の子供を世話して他人の家をぴかぴかにみがくのはなぜだろう?
そういうとき一番格差を感じやすいのである。
だからアメリカでは手伝いさんを裸にして使うということが極端化してなった。
それだけ格差が大きいと家に入る人はほとんど泥棒だということになってしまうからである。

確かに自分でも一番不思議なのは矛盾なのはアメリカに投資して儲かっていることであるええ、でもアメリカではこんなに貧困者がいるきかという驚きである。
アメリカは極端な格差社会である。移民社会だからそうなる。
つまりアメリカが国として豊かなのに貧困者がそんなにいるのかという疑問である。
そのアメリカで自分が金をもうけているというのも矛盾なのである。
これはグローバル経済では普通のことでもそういう経験がなかったから感じなかった。
アメリカが豊かでもその富はアメリカ人の国籍のある人に還元されていないのである。
誰に還元されているのか?それは株主だというのが資本主義なのである。
アメリカでは特に株主が優先される純粋な資本主義国である。
それは別に日本でもそうである。日本でもうけたものが別に日本人にその富が還元されるわけではない、外国人の投資家にも還元されるからグローバルなのである。
ただギリシャのようになると国自体が貧乏になると国内の格差だけではすまなくなる
全員が貧困状態に陥り国自体が滅亡するとまでなる
それは日本でも言えるのである。格差社会でも国にまだ力があれば国自体が全員貧乏になり滅亡するような状態にはならないのである。




 
タグ:格差社会
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2015年08月15日

現代人はなぜ労働したくないのか? (jobでなく[lifework]を目指すべき)


 
現代人はなぜ労働したくないのか?

(jobでなく[lifework]を目指すべき)


働くこととを探求してゆくとこれも複雑なのである。
jobだと賃[手間]仕事をするとか半端仕事とかある。
workだと•one's life's work [lifework]であり作品の意味もある。
現代に増えた仕事はjobである。
作品をしあげるとなると江戸時代の職人はみんな一つの作品を仕上げるために精出していた。
だから下駄でも何でも作った人の名前がついたりしている。
今でも特殊なきれのいい包丁を作っている所が近くにあった。それには名前が刻まれていた。
名前か刻まれていることはそこに誇りがあったのである。
そこから職人気質とかが生まれたのである。
今は大量生産になれば作った人の名前など記されていない、誰が作ったかもわからない、もしかしたらロボットが作っているのじゃないかとさえ思う
大量規格生産だったらそうなる、大量に同じものを作ることになったからである。


そういうものは貴重なものではない、例えは江戸時代など簪(かんざし)などあるがあれも一本一本手作りで貴重だったろう。
戦前の十年後とかまでは物はないから何でも貴重だった。自転車だって一生磨き使っていた。
物は職人でも丹精こめて一つ一つ手作りで作っていたから貴重になりその材料も大量生産するほどないしわずかだからさらに貴重になる。
簪(かんざし)でも銀の材料が貴重だから産地の秋田まで職人が移動したとかも言われる。当時は簡単に材料でも運べないからそうなる。
職人はすでにその仕事自体はone's life's work [lifework]であった。
そういう仕事をしている人は今の人の仕事とは全く違った意識をもっていたのである。
まさにwork(作品)を仕上げることが仕事だったのである。


現代人が豊かでも物があふれても何か満たされないということもこれも過去の比較でみるとわかりやすいのである。
まずこうして[lifework]として仕事をしている人はまれだから仕事はただその場稼ぎというか賃金を得るためのものであり生きがいを見いだせないのである。
自分にしても能力かないから若いときから流れ作業のような仕事しか与えられなかった。それ以来仕事を嫌悪するようになり仕事していないのもそのためである。
現代ではまず生きがいある仕事をできる人は特別な能力がある人しかなれない
ほとんどの人があとはロボットのような大量生産の部品を作る人になるしjobになる。
ともかく仕事はその場限りとかではなく本当は[lifework]になるとき仕事なのである。
だから昔の職人は技をみがくために一生努力する、現代ではその場限りなら技を磨く必要もないし何か仕事に上達するとかもない、その場限りで手間賃を得るだけだとなる
そうすると仕事に生きがいをもていなから仕事したくないとしてニートとか働かない若者も膨大に増えたのである。
それだけの余力が家にあったりするからそういうこともできるのが現代である。


自分の庭を作ってくれた人はそういう職人だった。大工でもあるし庭作りもできて一人親方になっていた。何でもできるから驚いた。でもそういう能力がある腕が良くてもやはり金がたりないと別なブラックな仕事をしていたのである。
今の社会はそれだけきりなく金が必要になる。それだけ贅沢を求めてきりない社会なのである。
家を建てている人は借金している人が本当に多い、借金してまで贅沢をしているのが現代なのである。
生産社会だったのがこれまでの物を大事にする社会である。もったないの社会である。
それが物がないからであり大量生産できない社会だからでもあった。
物があふれれば物は貴重でなくなる、だから簪でも江戸時代なら貴重でも今ではそうはならない、そうした物の価値も時代によってまるで変わってくるからである。

現代でもそうした職人とかは受け継がれている、エキスパートとかスペシャリストとか専門家がそうなるだろう。そういう人はやはり貴重であり価値ある人となる
でもそういう人になれるのは極まれなのである。
そういう人は別に農業でもいる。農業のエキスパートで成功している人もいた。
浪江の人で野菜作りに優れていて平(いわき)に売って財を成して子供を三人も大学に出した人である。その人は賞ももらっている。
野菜でもネットなどで販売している人では名前を出してその人が作ったものとして売り出しているがそれは昔の職人とにているのである。
だから現代でもそういうことは受け継がれているのである。


宅配とか、自販機の飲料水詰め込みとか
よくあんな仕事やれんなぁ〜と思ってる漏れの仕事(IT土方:夜間オペもやった)も

他人様から見リャ、よくあんな奴隷みたいな仕事やってんなぁ〜という目で見てるんだろねw


確かにこういうことが多いから仕事したくないという人が増えたのである。
自販機などは機械化して手がかかってないようで詰め込む作業を見たら種類が多いから結構な仕事になっていた。なかなか今の仕事は見えないから苦労がわからないのである。


自分は家事が仕事だからゴミだすのも一仕事なのである。するとゴミを投げるからゴミをもってゆく清掃車を見ている。あの人たちもゴミを運んでいるからあれも結構重いから楽じゃないなとかみる。
一つの仕事としての連帯感をもったのも奇妙である。
やはり同じ仕事している人は共感を持つということになる。
そしてあの清掃車の仕事でも市町村を支えているという実感をもった。
なぜならこの辺は人手不足でありみんな補償金とかもらって働かない人が多いからであるこの辺でそうして働かないとゴミすら運ぶ人がいないと市全体で困ることになる
一見そういう仕事はしたくないとなるがそれがするものがなくなったときどうなるのか?
市がもはや成り立たない運営できない、住むこともできないとまでなってしまうだろう。外国とかストライキがあってゴミが街に散乱したことがあっことでもわかる。


原発事故では何かそうした市を町を村を誰が支えるのかということが問題になった。
働き手の若い人がいなくなればゴミを運ぶ人とかまでいなくなればもはや市町村も運営できないとなるからだ。
こういう場所ではまた仕事の意味も違ってくる。でも働かない人はこの辺では老人も多いこともあるが補償金もらっているから他よりずっと多い
それでどこも人手不足になっているからまた事情が違ってきたのである。
だから俺たちの住んでいる市町村で困っているのに働かないということはそこに住めないとまでなる。
そういう危機的状態になれば今までのようにしてはいられないはずなのである。
金があるから働かなくてもいいとかならない、年金もらっているからいいともならない
第一年金暮らしといっても金があっても働いてくれる人がいないなら老人の暮らしも成り立たないのである。
病院でも介護でも働く人がいなくなれば金があってもサービスは受けられないのである。


だから避難区域では現実に帰りたくないというとき働く若い人がいないのだから老人だけ帰っても暮らせるかとなって問題になったことでもわかる。
働くことが端を楽にするというときまんそれは狭い範囲でみた労働感である。
つまり身近な家族でも苦労して働いているから楽にしたいという気持になる。
それが小さな市町村だと家族のようになりそういう意識がこういう緊急事態では生まれた他でも老人だけの村がスーパーも運営できないと自ら働かざるをえなくなったことでもわかる。少子高齢化ではそうなりやすい、人手不足が深刻になるからである
働くとは身近で感じたことであり今のように外国の人が働いて物を運んでくるということなどない
だから働くという目的とかがはっきりと見える社会だった。
今は一体誰のために働いているのかなどわからない、外国の品物が入ってもそれは誰のために働いているかなど関係ないのである。金になればいいとしかないのである。


一方で医者とか看護師とか介護関係などは直接人と接する仕事だから誰のために働いているから明確である。働く相手は現実に向き合う近くの人間だからである。
だからそういう仕事は嫌な面があっても生きがいが生まれる
だからいつも医者とか看護師とか介護士でも感謝されるのである。
品物を作って人とかコンビニとか他にも何か働いても感謝される仕事は少ないである。
ともかく現代は働けといっても働くことが嫌悪される社会なのである。
誰も今や家事なとしたくない、その女性の生きがいはわずかの狭い畑で農業することであるそこで生産するものはほんのわずかである。趣味にすぎないのである。
農業自体は実は苦労があってもまさに実りがあるからそれで働く喜びがある。


でもそういう仕事は一面金にならないし趣味でありかえって金がかかっているのである。でもそれが生きがいだから仕事している、つまり金になって生きがいになる仕事は現代では少なすぎるのである。
だからみんなjobとなりプロフェショナルになはならないのである。
そういうスキルもなにもいらない単純仕事は機械化される、ロボットがするようになる。でも農業などは複雑であり機械化できないのである。
人間の仕事がなくなることなどありえないのである。

株などでも大金が入っても金が入ってもそれ自体では生きがいになはならい

ただそれを消費することが生産に通じることはある

その金で有益なことに消費すれば生産になる、花を高いけどフラワーアレンジメントすれば美を作り出しているとかなる。


ともかく若者はjobではなく若いときから[lifework]をもつべきだとなる
それは趣味の分野でもそうでてある。才能なくても積み重ねてゆけばそれなりのものになる
雑学の分野だってそうである。何度も言うが時間を費やしたものがその人の人生なのである。そして時間はすぐに切れてしまうのである。
人生はつくづく遊ぶ時間すらないものだった。お前はそんなに遊んでいたじゃないかというけどそれでもそれもあっというまに過ぎてしまったとなる
おそらく何をしても人間の時間はたちまち過ぎるということである。
一つの楽器に習熟するのにも一生もかかってしまうのが現実なのである。
何事でも一万時間をかければそれなりのものになる。
いくら天才でも第一与えられた時間は増やせないからである。




 

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2015年08月20日

グローバル企業は地球をも破壊する (生産共同体ー文化共同体の考察)


グローバル企業は地球をも破壊する


(生産共同体ー文化共同体の考察)


人間は群れることから村になったとかいう。人間は何らかの共同体に所属して人間だというのもわかる。
人間はもともと生産も消費も一体の存在として生きてきた。
何かを生産することで共同体になることはわかりやすい、江戸時代の村とかさらに縄文時代の村までさかのぼれば生産共同体である。
みんなで狩りをする魚をとる米を作るなど生産共同体である。消費するというときそれも生産の一過程である。
森の木材でも消費するというときそれは生産につながる。消費という言葉には浪費という言葉から来ているのだろう。
江戸時代のような小規模の自給自足経済では浪費するようなことはできない
資源が限られているのだから浪費などできない、だから人間の糞尿だろうが紙切れ一枚でも無駄にすることはできない社会である。何でも有効利用する社会である。
つた物は現代の物あまりの時代と違って大量生産ではないから一つ一つの物は手作りであり貴重なのである。だから現代のようになんでも消費するという観念はなかった。
だから村でも何でも生産共同体でありその中でしか生きられない社会である。

現代でもやはり生産共同体が社会を形成する、会社ではなにかしら必ず生産することによってそれを売って消費してもらって成り立っているのである。
ただ工業化社会になると生産するものは電化製品でも車であれ様々な無数の物が生産されているがそれは会社で分業化して生産されて消費される、使用されている。
一方で村とか自給自足の経済では自然の循環の中で生産されて消費され使用されて成り立っている
米を作るということは山から絶えず水を供給されて実りがもたらされる。
山は水の貯水の役割を果たしていて雨がふらないときでも山からは水が流れている
そういう干ばつのような時を経験しているが山には水が絶えず流れていたのである。
それで山が神となり春には平地に下りてくるというときそうした自然循環の中にあっての生産共同体だからこそ生まれた信仰である。
つまり昔の生産共同体は自然と切り離せない自然循環の中にあった共同体である。
だから祭りごとも一致している。祭りが政り(まつり)事になるのも当然だった。
天皇がその政(まつり)ごとにたずさわる神官のような役目を果たしていたのもわかる。
大嘗祭が豊作を天に祈る司祭だったというのもわかる。

一方で現代の会社はこうした自然循環の生産共同体とは遊離したものとしてある。
第一電化製品でも車作るのでも他の様々なものを作るのに自然と関係していない
自然を考慮することもない生産共同体である。
東電のような電力会社も原発とかなると自然循環の共同体とは何にも関係ない会社であるだから農業とか漁業とか林業とかとも関係しない
でも電気そのものは第一次産業でも使うから関係しないということはない
なぜならダムのよう水力発電だと自然と関係している。
石炭でも石油でも実際は自然にあった自然エネルギーだから自然と関係している。
核となると今までのエネルギーとはまるで違ったものであり自然とは関わりないのである自然エネルギーだと科学に弱くても石炭であれ石油であれ燃やしてエネルギーになるのだからわかりやすいのである。
原発になるとそういうふうに今までの観念では理解できないものである。

ともかくこれまでの共同体は自然循環の中にあり自然を自ずと意識化される社会である。そもそもだから社に介するがのが社会でありそれが会社になったことでもわかる。
その会社が今やグローバル化して大企業化してその大会社が国を越えて世界で生産活動して消費させているのが現代である。
だからアメリカでもアメリカという国を支配しているのはロスチャイルドだとかロッフェラーだとか常に言われる。ロスチャイルドが原発にかかわりその利権を獲得していたとかいわれる。
それは東電でもあれだけの三兆円の資産があるとか国並の力をもっていたのである。
その東電に政治家でも官僚でも検察でも天下り先としてあり雇われていたともなる。
政治家より国より大企業の方が力があれ国は政治家は大企業の下僕であったという構図が原発事故で見えてきたのである。

その会社は一地域とか国とか世界でも制約されずに活動できる。
大企業にとっては国というのがあると自由に活動できないから障害になる。
貨幣でも国ごとにあると経済活動が停滞するから一つになった方がいいのである。
それでユーローが生まれたしドルが実質的に世界貨幣となっている
そうなるとアメリカがアメリカの大企業が世界を支配しているともなる
その規模は日本の昔の村と比べたらあまりにも規模が大きすぎるから理解不能になってしまう。
だから大企業は地球の自然でも破壊する力をもつようになる。
後進国の森林資源でも破壊してとりつくしたり有用な樹を植えて混生林の自然林を破壊してしまう巨大な力をもつことになる。
こうした大会社は自然に制約されて生きてきた小規模な生産共同体とはあまりにも巨大なマンモス的なものでありそれは地球の自然まで破壊する力をもったのである。
そもそも人類史でこうした地球の自然を破壊するような巨大会社は存在しえなかった。
自然の制約を越えられないしその中で生きていた共同体である。

国とはなにかとなるとそれは小規模な村がもともと国(くに)であり区切るとかあるからクニは小規模なものから発している。小国(おぐに)というのは全国にありそこは一つの自給自足の国だったのである。その規模とはかけはなれたものが大会社なのである。
そして国というときそこには何かしら文化がある。祭りがあり政(まつりごと)がありそれは自然と密接に結びついてあった。大企業とかはただ一つの物をテレビならテレビとか車なら車とかを生産する共同体でありそこには自然とかかわる祭りは生まれない
つまりそこには文化がないのである。
生産共同体があるとしたら文化共同体がある。文化というのもcultureがcultivate(耕す)から来ているように生産共同体がなくして文化もありえないのである。
文化というときその土地土地に根ざす生産共同体をベースにしているから多様になる。

一方でテレビや車だけを生産するのは単一生産であり多様化しない
自然とも関わらないので会社には文化が生まれないし育たないのである。
だから会社というのは世界的に文化を破壊するのである。
言葉にしてもそれは国々の文化であり文化共同体の基礎として共有される。
でも言葉が違うとグローバル経済にとっては不都合になる。一つの言葉の方が大企業にとっては商売しやすいし英語が世界語になった方が便利になるのだ。
そうなると言語としての文化は文化共同体は破壊されるのである。
グローバル企業が地域の文化を破壊するのはアメリカが世界の文化を破壊しやすいのはアメリカはグローバル企業が支配しているからだとなる。
今は例えればイオンがあるとするとイオンという大会社の一員として働くのでありその地域地域で働くとはならない、商店街はその地域のものだけどイオンとなると大会社であり地域のものとは違う。だからイオンという会社が優先化するから撤退したら何も残らなかったとか問題が起きる。地域だとここが商売にならないからと撤退できないからである。でも今やみんな地域の一員とかの感覚ももてない、現実には会社の一員でありまた国の一員と戦後のような強い国意識ももてないなのである。
だからいくら愛国心をあおっても何か国としてのアイデンティティが失われているのである。
とにかくグローバル化すると地域の食文化も破壊される、みんな一様化され安い、ただスシとかが世界で共通語になることもあるがスシとかは日本の暑い湿気の多い所にあった食である。暑いと刺身とか生のものかうまいからである。日本の湿気とか暑さから文化が生まれていたのである。酢の物もそうでありさっぱりしているからである。
日本の暑さは乾燥地帯の暑さと違っているからである。

現代は会社社会であり文化が破壊されやすいのである。その文化が破壊されることが深刻なことを理解されていない、文化はまだ技術によっても破壊されやすい
文化はもともと自然循環の中で生きてきた長い伝統から生まれた、それぞれの国の成り立ちは必ず文化がありその文化も大規模な機械化とかグローバル企業化によって破壊される万葉集などは日本の生産共同体から成り立った文化共同体の産物である。
会社社会はそうした文化は生まない、だから自然を容易に破壊する、森でもそこは木材という自然としてしかみない、米を作る生産共同体だったら山は水を貯える神聖なものだとかなるがそういうことは無視される
大企業や巨大な機械化によって森が根こぞき破壊され森と一体化した人間の共同体も破壊されるのである。
だから今回の原発事故も大企業による破壊だったのである。
第一次産業が致命的な打撃を受けたのはそもそも会社は昔の村のような自然と一体化して生きるものではない、自然循環に生きるものではない
現代文明はこの巨大会社化したときその弊害も大きく地球の自然を破壊するまでなったのである。

 
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2015年08月22日

特攻隊の死(詩) (70年過ぎて歴史となり評価されるー明治維新との相違)



特攻隊の死(詩)


(70年過ぎて歴史となり評価されるー明治維新との相違)



特攻隊の死


未来ある若き命を
強いられて御国のために
父母のためにと献げられぬ
何故と思う間もなく
御国の危機に献げられぬ
あたら若き命を
戦果ともならずに
特攻隊は敵艦めがけて
一心に砕け散るかも
その責は誰にありしや
その若き兵を誰か責めらる
ただ御国の危機に捧げれぬ
飛び立ちて突撃する心よ
神風特攻隊は武運はかなく消ゆ
ああ 時代の重みよ
戦いは敗れ同胞は異国の土に
はや70年の歳月は過ぎむ
やがてその日も忘れられむ
御国の魂と靖国に祀られるも
その命は報われざるかな
何故に若き命を
今は飽食にして国を思う若者なし
ただ享楽を求めて惰弱となりぬ
今非戦を語るは楽なり
しかしその時代の重みよ
三百万の命の代価は何や
未来ある若き命の代価は
その報いもなしや悲し
国難の明治は語られしも
太平洋戦争の死は無にされむ
何故の同胞の死なるや
今なお知らず70年は過ぎぬ
旭日に富士嶺高く日本の誠の心
平和と繁栄の日の70年
その果実は今美味とならむ
しかしまた危機の時代は来れり
国難はまたカルマと襲いかかる
未曾有の災害、経済の難、外敵の難
日本人の心は乱れ相争う
ここに故郷は消失して原野となり
あたかも戦後の焼け野原なり
国難の時勇み立つもののあれ
日蓮の激しく叱咤する声のあれ
そは衆の声にあらず一人立つ声なり
予言者の声にて衆の声にあらじ
衆より激しく責められしものの声なり
ああ 70年の歳月は過ぎぬれ
一時代はまた過ぎて次なる時代
日本の誠の栄はこれよりなりや
その前にまた国難の時は来れり
日本人よ心して立ち向かうべしかな



70年過ぎたときこれは大きな時代の区切りとなる。明治維新から70年で太平洋戦争でありそれから70年がまた過ぎたのである。
70年後とに大きな変化がくるというのは本当だった
津波原発事故とまさに自分の住んでいる場所がこんな大変化をする場となるとは思わなかった。
故郷を消失するなどこの辺が一番の変化に見舞われたのである。
これは一地域の難ではなく国難なのである。日本全体に及ぶし世界にも及ぶ
原発の災難はここだけのものではない世界的なものだからである。
危機は国内だけではない国外からも起きてくる。
個人的にも悪いことは必ず重なるのである。良いことも重なるのである。

戦争で一番印象的になったのは神風特攻隊である。
それぞれが神風特攻隊に一員としてイメージしてその突撃に向かう姿を思い浮かべたらどうなるか?
それは空恐ろしいものではないか?20くらいで死んでゆくものの気持がわかるだろうか?
誰もその特攻隊を責められない、それを強いた上の人は大人は責められる
特攻隊で死んだ若者は責めることはできない、ただ国の犠牲になったとのである。
非戦を言うのを今になれば簡単であり楽である。
その非戦も命をかけてやるとなるとまた別である。
人間は何でも命を書けてやるとなると真剣にならざるをえないのである
ただ命をかけたとしても的を得ないと無駄だとなるのも確かである。
無闇に行動しても戦果も成果もないのである。

いづれにしろあれだけの戦争になるともう歴史としてあり歴史の評価になる
だからその評価には時間がかかるのである。
明治維新との相違は明治維新にはいろいろな人物が現れて語られることが多いのである。その評価はまちまちでもそれだけ人物が出て語られることが多いということは意味あるものだとされる。
そこで様々な人間的葛藤があり人間の物語となっている
太平洋戦争でもそういうことがあったのだが余り個々人について語られないし英雄も実際は生まれていない、ただまだ太平洋戦争の真実は解明されていない
明治維新はいろいろ人物が生まれ人間の物語となっている
太平洋戦争は300百万人死んでも何かそうした人間の物語か欠けているのである。
だから詩になりにくいしもちろん叙事詩的なものであったが詩にならないのである
ただ300百万人が死んだという数だけが巨大なものとして印象づけられているのである。
近代の戦争は国民戦争であり世界的にそうだったのであり数の戦争だったからだともなる


特攻隊にしてもその葛藤はあまりにも若いから父母への恩とか未練になっている
明治維新は若者でも20代でも父母というより国を憂いて行動していた。
明治維新も若い人が活躍したのだが太平洋戦争は若い人は大量に死んでもそれが明治維新とは違っている。
上から強いられた死であり犠牲の死である。
司馬遼太郎が明治維新をあれだけ魅力あるものとしたのはそこに人間の物語があったからである。その見方も偏っていてもそこに人間的なものを感じたから小説にもなった。
太平洋戦争ではそうした人間の物語に欠けているのである。
ただ無惨な大量の死があるだけと見てしまうのである。
それでも特攻隊の死は太平洋戦争を象徴したものとして今でも訴えることには変わりない最後の戦争の華だといえば華だが未来ある若者の無情な死だった。
いづれにしろ太平洋戦争も歴史化するとき簡単には評価したり語られないものである。
明治維新とは違い何か人間臭いものがないことが物語になりにくいし意味をもたせられないのである。


歴史となるとやはり評価するには時間がかかる。要するに何か芸術とかも理解するにもまた自分でも創作しているが時間がかかるものである。
ルネサンスとかはやはり生まれるにはそれなりの時間の蓄積が必要である。
ルネサンスはイスラムの歴史とかヨーロッパの歴史の集積があって生まれのである。
歴史の集積がないところにルネサンスは生まれようがない
ローマの歴史とか中世の歴史の集積があって生まれたのである。
日本にもその歴史がありその集積があり歴史が作られる
日本の70年の平和と繁栄の蓄積はこれから華開く、それは自分でもそうだった。
何か詩でも書けなかった、でもやはり人間一個人でも蓄積したものが華開くの時間がかかる
旅にしてもまず旅することでありそれは行動なのてある。そのあとに内省して芸術として創作するのである。
戦争というのも自分が参加しないにしろその壮大なの歴史が内省されるのに時間がかかるのである。
だから太平洋戦争でも70年過ぎていろいろ評価するようになるがそれは以前として一つの答えなどないのである。
明治維新との相違は欧米であれイギリスであれ常にそういう海外の勢力に地抗しつつ日本の独立の道を切り開いたのである。


太平洋戦争では日本自体が大敗してうちのめされ独自の独立の道はなくアメリカの隷従があるのみだった。そこが日本人の魂まで喪失した。
明治維新はまだそうした隷従はなく日本人の魂は残っていたのである。
それは大和魂というものでもなく武士の魂かもしれない、何か日本独自の魂が残っていて改革されたから違っていた。
戦後はそうした日本人の魂が失われてしまった。ギブミーチョコレートしか物質欲しかなくなっていたのである。
ただそれでも平和と繁栄の70年は無益ではない、そこに蓄積されたものが華開くのが70年後だったともなる
もっとスケールを大きくすればあと百年とか二百年で日本の時代、ルネサンスが来るというのもそうかもしれない、日本はまだ本当の栄、華が開いていないとなる
つまりこの明治維新からの蓄積は技術と物質とかが優先された。
それが戦後も高度成長時代とつづいてきたのである。それも一段落したとき文化の華がルネサンスが起きるのである。
だからこれからは内面的なもの文化的なもので日本は日本の歴史の蓄積で華開く時代だともなる。
ただ経済的衰退とか内外が混乱時代となるとブレーキがかかってくる。
それも乗り越えたとき日本の黄金時代がやってくるとなる

あたらの意味はあったらなである。まさにあったらなという思いがにじみでる言葉だったのである。
いづれにしろ人間にはいろいろな葛藤がつきものなのである。
その葛藤さえ許されなかった時間がなかったのである。
時間があったらな・・・ともなるのである。
それは今だってそうである、人生をふりかえるとき時間があったらなと体力があったらなとか老いるとそういうことばかり考えるのである。
老人になればそれが普通だけど20代ではそういう時間も余裕もないのである。


 
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2015年08月24日

何か与えることがないものは生きていけない (貨幣とは何なのか?)

何か与えることがないものは生きていけない



(貨幣とは何なのか?)




あなたの一番有益なことをしなさい

金は与えます

金のために働く必要はありまん

あなたは何をしますか

あなたは何に一体時間を費やしたいんですか?

とにかくあなたが時間が費やしたものが人生です

漫画を一日読んでいたい、音楽を一日聞いていたい

そうしたいならそうして下さい

それがあなたの人生です

ところがです、漫画を一日読んでいたというが

それは誰かが創作して苦労して作ったものなんです

音楽を一日聞いていたいというけど

それも誰かが創作したものなんです

うまい料理を食べたい

うまい新鮮な野菜を食べたい

うまい肉を食べたい

うまい魚を食べたい

、、、、、、、、、

それも誰かが苦労して作ったものなんです

私は快適な家でのんびりしたい

それもその家も誰かが苦労して作ったものなんです

自由に旅行したい

それも乗り物でも食べることも泊まることもしなければならない

それも誰かが提供して旅ができているんです

本を読みたい

本ならインターネットでいくらでも買える時代

でも誰かが運びその本の内容も書くの苦労しているんです

そして車で苦労して運ばれてきているのです


人間が無料で提供されているのは空気くらいでしょう

今や水さえ水道管を通って人の力で供給されているんです

そのために払っているのが代価が金になっているんです

金など株とかで入ることあるんじゃないか

親の資産でのうのうと暮らしている人もいる

そんな人は何の苦労もしていないじゃないか

それそうですが、親の資産でも親が苦労して残しているんです

金は簡単に生まれないんです

株だったいつももうからない、必ず下がりますから

また金は万能ではない

物価が高くなり金は紙切れにもなる


この世の中、人は何かを人に供給する、与えないと生きていけないです

あなたは何を与えられるのかです

あなたが何もしなくてぼーっとしていたい

でもあなたは三食食べねばならないし住む家も必要でしょう

それも必ず誰かが苦労して提供したものなんです

問題はあなたは何を与えられるかなんです

何も与えることがない人は何も与えられません

世の中とはそういうものではないですか

働くのは金を得るためではありません

誰かに何かを与えるためなのです

肉体労働でもそうです

暑い盛りに外で働いている人はそうでしょう

頭を使って働いて与える人もいるでしょう


私はパチンコ屋で働いています

それも誰かに与えるためですか

娯楽として与えるためですか?

それはあなたが金を得るためだけです

そんなものが与えることになるでしょうか

その人は借金を返すためにパチンコ屋で働いている

誰かに与えるためとかはなく何のためもないのです

それこそ金をえるだけのものとなっている

普通の仕事はなにかしら自覚しなくても他人のためになっています

金のために人は働いているのではないのです

金は一つの働くということが代価となるものなんです

金はすべてではない、金はメデアであり仲介するものなのです


ではなぜ収入にこんなに差があるのですか

おそらく多く与える人は多く金を得るのが理想だけど

金はとうしても不公平が生じる

金というのは無数の職業があるとき

いちいちその価値を物で与えたりしためんどうだから貨幣を作ったんです

それは人間の知恵です

その金に支配されるということがあってはならないのです

人間と人間のやりとり金が介在しただけなんです

理想は多く与えるのもは多く受け取る

少ししか与えないものは多くは与えられないというのが理想なのです

人間は何が与えられるかが一番大事なんです


働くのは金のためではないんです

そこが社会を歪ませる大きな原因なのです

国と国の関係もそうです

何も与えない国は何も得られない

何もない砂漠でも石油が与えられるから豊かになる国がある

日本は技術力を与えて製品を加工して売って石油を買っている

何もない国は安い労働力を売る他ないのです

金だけがあればいいようにみんな思っているけど

金自体には何も価値がないのです


貨幣で何かを交換できる、買うことができるから価値があるのです

黄金の金は黄金自体に価値はあります

それとて何かと交換できるから価値があるんです

アフリカでは黄金と塩が等価だったというのもそうです

なぜなら塩の方が日常の生活では不可欠だからです

黄金をいくらためても食べることはできないからです

食べるものを買うことができるとき黄金に価値が生まれるのです

金自体は紙にすぎないのです

それが交換能力を失ったとき金の価値はなくなる

ただの紙になってしまうのです

円安になれば外国のものはますます高くなり

日本の円の価値はなくなるのです

交換能力がなくなるからです


金は媒介するものです、メデアです

情報でもメデアなのだからメデアをもったものが力をもってはならないのです

マスコミはメデアをもったから権力をもち大衆を操作するのです

貨幣でも媒介するものが力をもちすぎるのです

世界的に交換するものが増えると貨幣の力も強くなる

なぜなら交換したい、買いたいものがグローバルに広がるからです

欲望もグローバルに広がるのです

そして金が世界を支配してしまう

アメリカのドルが世界を支配してしまう

世界の機軸通貨がドルだということは世界を支配するのがアメリカになる

ドルをもっていけば世界中でアフリカの奥地でも通用するからです

ドルだったら世界のどこでも何かを買うことができるのです

それがアメリカが世界を支配する力を与えたのです

世界の人は国はアメリカにドルを通じてひれふすのです

金融でもって世界を支配するのです

しかしアメリカの背後に世界一の軍事力があり

ドルだけでは支配できません

ドルもまた紙でありドルを価値づけるものがないと価値はありません


実際に価値があるのは石油であり技術力であり軍事力です

貨幣はただ媒介するものであり貨幣自体には価値がありません

ローマの貨幣が価値があったのはローマ帝国があったからです

アメリカのドルが価値があったと同じです

ローマが価値があったのは軍事力であり貨幣ではないと同じです

何か資源でも技術力でも何でも与えるものがなければ価値がない

貨幣自体に価値があということはないのです

貨幣に価値あらしめているのが本当の価値です

だから江戸時代は貨幣より米高で給料が支払われていた

米が貨幣の代わりをしていたのです


サラリーとはローマの兵に支払われたけどそれは塩のことだったのです

塩が金の代わりに支払われていたのです

だから貨幣に紙幣に価値があるというのはそうあらしめているものがある時です

日本に技術力がなくなり与えるものがなくなれば円は暴落する

何も買うことができない紙切れになってしまうのです

そういう恐怖が昨今の経済の中で起きてきているのです

日本に膨大な借金があるというときそれは何なのでしょう

日本銀行が紙切れをの紙幣を作り市場に出しても景気が良くなりますか

黄金でもあればそれなりに景気が良くなるでしょう

ただ紙切れをいくら刷っても景気が良くなりますか

そんならこれほど楽なことはないでしょう

働くこともないです、紙切れをするだけですから




今の世の中絶えず金のことを考えないと生きていけない

金のことが頭から四六時中離れられない

世界が金のことで頭がいっぱいになっている

株や金融が世界をかけめくっている時代はなかった

でもよくよく考えてみると貨幣とは何かとなる

貨幣は単なる紙切れでしかないのである

そんなものに価値があるはずがない

これはみんなわかっている

世界の経済の動きは金融ではない

その背後にあり紙幣を価値づけているものである。

日本の円が価値がなくなのは国の価値が減退したからである。

それはいろいろある、だから日本銀行が紙幣をすっても景気は良くならない

紙切れをいくらすっても景気はよくならない

そんなことで景気が良くなるなら楽である

だから何かバブルになったりするのは資本主義社会の宿命なのである。

膨大な金あまりになり何かそれで買えるのかとなり

チューリップバブルが起きたように絵画バブルが起きたように

なんでもいい紙切れをもっているより現物に価値があるということなのである




俺はありあまる金を今もっている

でもここにはなにもない荒野なんだ

ここでは水一杯も飲めない

金をもっていても何の役にもたたないんだ

自動販売機もないしな

金がここでは捨てるだけだよ

何とも交換できない、買うこともできないから

そのとき一人の人が馬にのってきた

「助けてください 水一杯ください、金はこれだけあります」

「いいだろう、全部もらおう」

「ああ、やっと水をもらっんて助かった」

金も荒野や砂漠なら買うものがないから何の価値もないんだよ




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2015年10月18日

雇用者の責任と雇用される者の責任 (民主主義では雇用するものもされるものも対等を求める)



雇用者の責任と雇用される者の責任


 
(民主主義では雇用するものもされるものも対等を求める)



雇用主(使用者,会社)も,従業員の業務中の行為による損害について賠償責任を負います。これを『使用者責任』といいます。
契約はいつまでか(労働契約の期間に関すること)
辞めるときのきまり(退職に関すること(解雇の事由を含む)

※労働契約を締結するときに、期間を定める場合と、期間を定めない場合があります。一般的に、正社員は長期雇用を前提として特に期間を定めず、アルバイトやパートタイマーなど短時間労働者は期間の定めがあることが多いです。

労働契約に期間の定めがある場合は、労働者は、やむをえない事由がない限り、一方的に辞職する(労働契約を解約する)ことはできないのが原則です(

僕が「基本的には人を雇うべきではない」と思う一番の理由は、人を雇うということには、大きな責任が伴うと考えているからだ。社員を雇えば、毎月給料を払わなければならない。会社の業績なんてお構いなしに、契約した分のお金は払う責任がある

僕は、どうしても人が必要な時には「従業員」ではなく「共同経営者」を見つけるべきだと思っている。
http://dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2013/01/26/214422

言い換えれば、派遣労働者というのは、必要がなければ後腐れなく切れる企業にとって都合のいい人材という前提で作られた身分ということです。
http://winfriede.com/post-2346/

しかし、働く人が少ない中小企業では、社員一人一人の顔が直接見えます。
いくら会社の業績が落ち込んできたとしても、「明日からクビだ」なんてことは言えません。
当然、雇う側にも責任があります。
社員とその家族の面倒を見るという責任です。

どんな理由であろうと辞めると言っている人間を引き止めても仕方ないですし、
それが体調不良となればなおのこと止めることはできません。
http://lucas-sedori.com/?p=827



自分など社会とかかわらないから社会のことはわからなかった。学者のように本を読んだりして勉強していた。
でも現実社会になると具体的なこととして理論ではなく何でも重い責任が課せられているがわかった。
それは人を一人簡単に手伝いさんとして雇ったことからはじまったのである。
それは自分が雇ったのではない、家の人が雇ったのだがそのことからいろいろな社会や人間の問題を考えるようになった。
自分が人一人雇って大金を失ったのは誰の責任か?
雇ったお前の責任だ、お前が悪いんだ
結果的にこうなったのが現実なのである。もう金は取り戻せないし何もできない

だから人を雇う時はその履歴とか保証人とか厳しい
簡単に雇えないのである。まず手伝いさんでも簡単には雇えない
家の中に入るのだから家の中のことがわかるのだがら簡単に雇えない
つまり何かあっても雇った方の責任にされるのだ。
そして民主主義のことを書いてきたが民主主義とは選挙権があるというだけではない
社会そのもの民主主義なのである。
それはだから雇用とかの面でもそうなっている
雇う人と雇われる人がいるがそれは対等を計る制度なのである。
雇う方でも責任があるから雇う方でもいろいろ手を打つ、厳しくせざるをえないのであるなぜならその責任はとらされるのは雇い主だからである。

大金を失ったのは雇った方が悪いとなるからである。

犯罪でもそうである。
犯罪にあった方が悪いのだ、油断したから悪いのだ
そんな危険な奴を簡単に雇った方が悪いのだ

お前がレイプされたのはそんなに派手にしているからだ
お前が犯罪を誘発したのでありお前が悪いのだ

お前がタンス預金して盗まれたのはお前が悪いのだ
誰も同情しないよ
警察でも証拠がなければとりあわない
お前がすべて悪い、馬鹿だということ

 
民主主義社会では常にこうなっているのである
一見雇い主の方が有利になっているようでなっていない
だから人を雇うなというとき共同経営者になることだというとそうである
それは共同の責任であり雇うと雇われのとは違うからである。
つまり雇う者と雇われる者は対等になるのが共同責任だからである。
だからお手伝いさんを雇うにも共同経営となるか家族のようにしないと成り立たないとなる

正社員と派遣とかに分かれたのは雇う方が責任をとりたくないことなのだ
正社員ならいろいろ保証するが派遣だったらいつでも首が切れるということで雇う方にすれば便利なのである。
でも雇われる方にすると身分も安定しないし将来の設計もできない
すると公務員とかはまず一端入ったら身分保証が一生される
簡単には首にできない、病気だろうが何だろうが能力は実際なかったにしろ
一端入ったら身分が一生保証されるのである。
その違いはあまりにも大きいとなる
公務員は身分だというとき侍と同じだとなる
会社だとやはり会社自体がつぶれることがあるからそうはならない
公務員はこの辺のように町や村がなくならない限り身分は保証される
食いぱっぐれないのである。

民主主義は要するに何でも対等をめざしている、一見そうでないように見えてもそうである。
雇い主と雇われるものもそうだし政治家でもあくまでも選ぶのが選挙民なのだから対等である。
そして結果としては選んだ政治家が悪いとしたら

選んだお前たち選挙民が悪いんだよ

となる、それは犯罪にあったら犯罪にあう方が悪いんだとなるのと同じなのである。
マスコミに対して批判が多いのは

なぜマスコミだけが大々的に報道する権利があるんだ
民主主義は平等ご、誰でも報道する権利はある
知る権利がはある

とかなり新聞とかテレビの批判になりインターネットが生まれたのは当然なのである。
報道はテレビ局でも六局とかに独占されていたからである。
何も知らされないなら民主主義も成り立たないからインターネットは民主主義を促進されるツールになる。

民主主義の功罪は極端化するとみん対等だし責任を問われることを極度に恐れることになる
医者と患者は対等でないようでも対等を求める、だから医療ミスにあうとことを医者は極端に恐れると医者になりたくないとなる、そういう問題が実際に起きた。
先生と生徒でもそういうことは起きる、絶えず責任が問われるから戦々恐々としていなければならない社会である。
子供に声かけても何かあったら責任が問われると必ず何があってもお前が悪いんだとされる社会である。
そうなると雇う方でも徹底的に疑い信用しないという窮屈な社会になるし実際そうなっている 互いに人間が信用できない社会なのである。

それまた当然だともなる。つまり雇う方でも雇われる方でも対等を求めれば責任が問われる、雇う方にだけ責任があるのではなく雇われる方にも責任がある。
雇う方も雇われる方もだから共同経営者になるのが理想だしそういう会社もあった。
まさに民主主義社会ではそうした対等な関係をどこでも求めているのである。
つまり民主主義社会では一票が平等である。それは平等の権利を与えられていることなのだ。生活保護者でも一票は同じなのである。
とういうことは対等だということは対等の責任もあるということになる
首相でも大臣でも何でも対等であり首相にだけ責任があるのではない
その首相を選んだのは一票を入れた者にもあるとなる

でもそういうことを自覚している人は少ない、国を担うのでも会社を担うのでも何でも実際はみんな対等だとなるとき対等の責任を課せられているとなる
だからある人が金を多くもっていたりするとそのことも対等ではないとなる
あまりに対等を求めると平等を求めるとそれがかえって平等でなくなる
たいして働きもしなくても同じ賃金をよこせ、能力もなくても対等を要求する
才能でも努力でも何でも無視してすべては同じであるべきだとなりそういう要求もまた理不尽になるのである。

とにかく会社であれ何であれ例えばどこの市町村に属していてもその市町村の一員としての責任が問われる、だから原発事故では原発を誘致して金もらっていた町の人が悪いんだとされた。つまり民主主義とはこうして常に一人一人が責任が問われることなのだ
上の人が決める権力をもっていたなら下の人は従うだけだから責任はない
それは江戸時代なら侍がすべての責任があり切腹するほかないとなる
今はどこでも一人一人の責任が問われる
そうなるとき会社でも共同責任者であるとしたらその会社自体のことを総合的に考えざるをえなくなる
その会社は何をしようとしているのか、社会に対してどういう存在になっているのか?
何かそれは利益だけではない、そうした社会に対しての総合的な視点が必要になる
俺は別に時給いくらもらっていればいいだけだよとはならないのである。
でも時給もらっている人はそれだけのものとしてみられることは確かである。

大きくなれば会社だけではない、市町村員としての自覚とか国民としての自覚も要求される
それは上からの強制ではなく一人一人がそうした自覚や責任が課せられているのが民主主義だとなる
今人手不足で会社が困っているというときやはりただその場その場で会社にとって都合のいい雇い方をしていたからだと言うのもわかる
でも一方で雇われる方でもそうして何でも対等になると責任が大きくなるのだ。
派遣などはそうした責任がないから気楽だとか言われる
そういう人は責任がないのだからまた時給であり安いとなることに甘んじなければならないともなる
要するに民主主義とはともかく対等を求める社会だがそれと同時に責任も課せられている社会のである。



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2015年10月19日

明治維新に国民国家となった経緯 (国民国家から世界市民へ向かうのが人類の進歩?)



明治維新に国民国家となった経緯

(国民国家から世界市民へ向かうのが人類の進歩)

●西南戦争で国民軍が勝って日本国民になった

民主主義国家とは何かなのか明確に意識されていないのである。
民主主義国家とは主権が国民一人一人にある国家である。つまり国民の一人一人が国家に対して責任をもつのが民主主義国家なのである。
国民の一人一人が平等の権利をもたせる、票でもみんな一票であり同じ権利なのである。生活保護だかろうがよぼよぼの老人だろうがそうである。
国民国家というときそれが日本に生まれたのは明治維新の時なのである。
西南戦争で武士と戦い国民軍が勝ったことにより国民の意識が生じたのである。
だからその時戦った一平民の国民がどんな感覚になったのかということである。
「俺たちは侍と戦って勝った、もう侍に従う必要ない、俺たち国民一人一人が国をになうのだ」
その時意識変革があった。その意識変革はに民主主義に通じていた。
リンカーン大統領が、「人民の、人民による人民のための政治」としたことが民主主義の発祥である。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
(日本国憲法)

民主主義国家とは明治維新後でも明確に意識されないしなっていない、なぜなら天皇の臣民となっていたからである。それは国民の国家とは違う、天皇の国家となってしまうからである。そのことから太平洋戦争は天皇の臣民としての神国としての戦いであり多大な犠牲が国民に強いられた。
国民国家としての戦争ではない、天皇の臣民としての戦争となる
国民というとき国民一人一人のために戦うのであり天皇のために戦うのとは違うからだ。ではこの国民主権となり国民国家となったとき責任は国民一人一人に課せられる、国家をになうのは国民一人一人である。

江戸時代までの日本に存在したのは愛国はなく忠君という倫理だけでした。
自分が仕えている大名に忠誠心をもつというものです
商家にもそれはありました
愛国をなじませるために忠君愛国にした
(明治という国家ー司馬遼太郎)

江戸時代から明治維新で激変したのはそうした封建時代に培われたものの大変革だった
日本人にあったのは藩民でもない、会津ではあれだけの戦いがあり犠牲があっても会津藩に属する農民は無関心だったのである。
だから

■明治元年(一八六八)九月二十二日、若松城は一ヶ月の籠城戦の末、遂に開城と
なった。
■会津の落城からまだ十日とたたない十月三日から、会津全域にわたって数万にの
ぼる農民の激しい一揆騒動が起きた。「ヤーヤー」と叫んで打ちこわしを行った世
直し一揆は、封建制度を厳しく批判して、新政府に対しその改革の実行を迫るもの
であった。

これは明治維新の時の庶民がかえって城が破壊されるとか城の侍が激しく戦い死ぬとかに同情していない、むしろ歓迎していたとなる。
常に会津の戦争が悲壮感をもってみられるが庶民にとっては無関心だったのである。
それはヨーロッパだと城壁に囲まれて市民が一体であり市民とんう感覚が育てられた。
それは外敵と共同して戦うということから市民(citizen)が生まれた、外国にゆくと
どこの市民なのかと問われる、citizenship(公民権)というのはそこから生まれている共同体意識なのである。
civilizationもこのcitizenから生まれた概念である。
要するに市民というとき外敵から共同して守ることであり強固な連帯意識がある。
でも日本の封建時代にはそうした強固な共同体はない、侍は侍であり農民は農民であり職人は職人である。それらが一つの共同意識をもっていない。
だから会津ではあれほどの戦いがあってもそこの住民はかえって歓迎していたとなる
つまり農民は侍に米を納税するだけのものであり会津藩を共同して守るという意識がなかったのである。

●江戸時代は庶民は藩意識もない、強制的に所属されていただけ

明治維新から日本で一番の変化はこの武士の階級がなくなった。城もなくなった。藩もなくなった。廃藩置県でなくなった。このことが一番の変革だったのである。
ただ藩単位で生活していた期間が長いのだからそこで醸成されたものは郷土愛である
郷土愛とは何かというときこの辺は原発事故で避難区域となり住めなくなった。
その時故郷とは何かということが常に問われたのである。
故郷とは何かというときそこは一代だげではない、何代にもわたって人が暮らした所でありそこへの愛着は親から祖父からさらに代々暮らした所への愛着でありそれが歴史となっている。
だから自分の父親が双葉の酒屋で丁稚奉公していたということを書いたがそこにもやはり自分は経験していなくても話を聞いているから愛着がでてくる
つまり人間の記憶というのは一代だけではない、親や祖父やその前の長い歴史があり愛着が作られてきたのである。
だから郷土愛というのは普通にもっているものであり地が血となるのもわかる。

でもcitizen(市民)とかは本当にわかりにくいのである。文明というときみんな科学技術のことを蒸気機関車が走ったことなど技術だと思っている。
ところが文明というのはcivilizationであり市民から発しているのである。
そのcivilizationから国民意識になった。そのことが日本ではむずかしいので天皇の臣民として理解させて国民意識を作っていったのである。
だから国民になることは明治維新の最大の改革だった。また法人となること会社の一員となることもまた改革だった。会社というのも明治になって生まれたからである。
具体的に国民を理解したのは西南戦争の時である。とても武士階級に国民軍が勝てると思っていなかったし西郷軍の武士階級もそう思っていた。
でも国民軍が勝ったことで武士階級はなくなった。その時会津藩士も国民軍に参加していたのである。その時薩摩に恨みをいだいてその恨みを晴らすということもあったかもしれないがもう藩はない、国民として戦ったのである。
何かその時国民軍として戦い参加した人たちは最初に国民を意識した。
侍が国をになうのではない、国をになうのは戦った国民軍の一人一人だということを意識した。それはやはり命をかけて戦ったのだから学問的に知識として理解するのとは違っていたのである。
そして日露戦争から太平洋戦争と国民軍は外国との戦いでさらに国民意識が強固にされたのである。

今になると国民など当たり前ではないかとなるが明治維新の時はそうではなかった。
日本国民として大きな範囲での意識が生まれたことはこそcivilizationだったのである。なぜなら侍が治めているときは政治でも何でも侍が決めてそれに従うだけであり庶民は政治に関与することができないからである。
そうすると藩があっても藩意識もないのだから責任感も生まれない
それで会津の侍があれだけの戦いと犠牲があったのに無関心だったことでもわかる。
でも今や国民となるとき外敵に向かい国民が責任をもって戦うという意識になった。
日本のどこかが外国に攻められて炎上しても高みの見物だとはならない
同じ日本国民として黙ってはいられないのである。
太平洋戦争ではこの国民意識は最高潮になり過度になり敗戦でまた変わってしまった。
日本は戦争を否定して国民意識も変わった、日本国民自体を遺棄して日本国民であることに誇りがもてない、否定的な感情をもつようになった。
特に左翼系では日本国民であること自体を拒否する。おそらく中国に属した方がいいとか一方で右翼系でもアメリカに従属して属国化したから本当の国民意識は失われた。
その時愛国心も失われたのである。
歴史というときやはりどういう経過でそうなったのかをふりかえることにある。
明治維新が今日の日本国の基になったのでありその時からの継続が日本であった。

●国民国家は否定され愛国心は日本では喪失して多国籍企業世界へ

日本がなぜ愛国心がなくなり日本人であること自体拒否するようにもなったのか
その原因は太平洋戦争でアメリカに敗れて属国化されたことにあった
敗戦以後は国民という意識が希薄化してみんな企業戦士となったことでもわかる
会社が企業が国民の代わりとなったのである。この傾向は多国籍企業がグローバルに支配するということでもあった。アメリカですら愛国心がどうなっているのか、いくら戦争に勝っても愛国心となるとやはり衰退しているだろう。
むしろ多国籍企業として国が企業化しているというのが現代である。
だからこれは日本だけではないグローバル化した世界では愛国心は薄れるのである。
そして国民意識から何に変わったかというとグローバルな経済人となったのが現代である中国でも愛国心を言うが共産党の幹部は巨額の金を貯えてアメリカでもカナダでもどこでも移住する準備をしているとか日本でも金を金持ちは他国に移すとかをしている
もし愛国心の時代だったらそんな国を裏切るようなことはありえないのである。
でも世界的経済人としてなら別に国より経済が大事だからそうなっても不自然ではないのである。
今は国と国が戦争するように見えても実際は石油の利権とか企業の利益のために戦争になる。それは今までもあったにしろ多国籍企業世界ではそれが露骨になる。
太平洋戦争のときはそこまで多国籍企業の力はなかったからである。

ともかく人類史で考えれば国民国家というのは大きな共同体となり一つの大きな進歩だった。次に国を越えて共同意識をもつグローバル経済になったけどこれも問題はいろいろある、企業は利益共同体でありそれ意外ないから国々の文化も破壊する。
江戸時代のときの藩はその土地に根ざして個性的でありその土地土地の文化を育んだ
そこには土地と一体化した共同性と文化がやはり育まれたのである。
だから廃藩置県になったとき県というのは今でも違和感がある。
県の範囲が広いので県からイメージできないのである。福島県だったら会津は会津であり福島県としてありえないのである。そもそも福島という名前すらどこから来たのかこれも福島県が一体になりえないことである。県という範囲がどこでも広すぎるのである。
城があったところからその土地のことはイメージしやすいのである。
多国籍企業となるとこうした土地土地の文化を破壊することが大きな問題である。

でもまた貿易とかを否定はできない、なぜならオランダが最初に国民意識をもったのは貿易が盛んだったからだという、商人の国になったときどうしも世界が広がるから国民意識ももつ、そしてオランダは国が狭いから国民意識をもちやすいこともあった。
商人は国境を越えて商売するから国の支配を受けると自由がなく税ばかりとられるから国を否定するというのは今の多国籍企業とにている。
ハンザ同盟などがそうである。そうした商人のネットワークが一つの国のようになる。
そうした矛盾はあるにしろ人類が目指すのは何なのか?
文明とはcivilizationであり市民からはじまり国民意識となりさらに世界市民としての自覚をもつ世界なのだろうか?
そこでは世界市民となると世界市民として方を遵守するとか人権を重んじるとか共通の価値観の形成が必要になる。
そこには宗教とか様々な相違があり困難を究める、しかし人類の進歩とは国民意識がそうだったように世界市民として拡大してゆく、物理的には空間はすでにどこでも行ける時代だからその障壁はとりはらわれたから問題は意識の問題なのである。
ただ世界市民といってもそうなる前に今でもそうなように混乱が起きてくる
シリアの難民問題でもそうでありそれはあくまでも理想であり人類はその前にハルマゲドンとなり国と国が最後の戦いをして滅びるということもある。
だから世界市民といっても架空のことであり国民意識は現実となった歴史感覚であるか
世界市民という意識をもつのは困難を究める。
マルクス主義の世界のプロレタリアートは団結せよというのはそれも一つの世界市民への国を越えた運動だった、それも挫折して凄惨な大量殺戮で終わったのである。
だからその前途は厳しいが国民国家になるということができたことはやはり人類の進歩として見直すことは必要である。

確かに藩にすら所属していない時代から日本国民になったということは飛躍的な進歩だった。それからアメリカに所属しているというのはアメリカが世界国家的だからそうなる
そして今世界ではどうしてもそうした広域で結びつく世界を目指すのは貿易などで強いられている。それでヨーロッパ共同体 (EU) が生まれたのはそのためである。
でもこうした広域な共同体になることは歴史的なものもあり非常にむずかしいのである。だから以前として軋轢があり問題が生まれる、日本が江戸時代から明治維新で国民国家になったのはやはりそれだけの歴史があり統一しやすかったとなる
他ではアジアでも国民国家になるのは遅れたことでもわかる。
そうした広域共同体がむずかしいのは言語であれ様々な文化の相違もありそれを何をもって統一するかとなるとむずかしい。ヨーロッパとか中東は宗教が大きな役割を果たしたが現代はむしろ宗教を否定してフランス革命で自由、博愛、平等が理念になった。
それは民主主義の理念たったのである。民主主義というのは理解しにくい、でもそれは何でも自由とかではない、一つの理念なのである。
アメリカはその理念を世界に普及させることを強いる、それに従わないと戦争で従わせるとなるが中東では受け入れられなかったのである。


 
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2015年10月20日

資本主義の終焉と歴史の危機ー水野和夫を読む (資本主義民主主義の理念の危機でもある)


資本主義の終焉と歴史の危機ー水野和夫を読む

(資本主義民主主義の理念の危機でもある)


それまで三世紀にわたって封建経済全体を前進させてきた原動力である農村の開拓が地理的にも社会構造上も客観的にみて天井に突きあたってしまった

ぺリーアンダーソン

これは日本とにている、日本も幕末辺りになると新田開発になる場所もなくなり人口が増えるのも停滞した、日本でも田を作るための開墾開拓の歴史は弥生時代から延々とつづいてきたからヨーロッパともにていた。
そして明治維新後も開墾開拓はつづいていたのである。
八沢浦は明治になり埋め立てられて田になった。小高の井戸川浦は大正時代に開拓されたのである。
戦後でも引揚者が各地に開墾に入ったのである。小池というと鹿島では街から近いのちそんなところまで開墾に入った。だからいたるところ戦後でも開墾に入ったのである。
つまり農業国の延長として戦後十年くらいはつづいていた。
そもそも満州に日本が進出したのは広大な土地で農業をしようとしていたのである。
日本は狭く農業が限界に達して開墾地を求めて満州に進出した。
それが契機となり中国と戦争となりアメリカとも戦争になった。
日本という一国でも成長しようとするとき外国へ進出してそれが戦争ともなる
成長が限界になるとそうなりすいのは歴史をみればわかる。

資本主義の限界とは資本の実物投資の利潤が低下して資本の拡大生産ができなくなってしまうことです

金があっても今やどこにその金を投資してもうけるかとなるとその国も会社もなかなか見つけられなくなる、世界の資本主義がもうそこで限界に達する
自分がカナダの国債を買ったけどそれが一割も引かれたのはショックだった。
カナダはよく分からなかったが石油がとれるからいいんだとすすめられた。
今は石油の時代だから石油がとれることは経済が強いのかと思った。
ところが最近石油の値段がかなり下がった。それは中国の影響などで需要が低下したからそうなったのかと思う。
石油がとれてもそれを使ってくれる世界経済が停滞すれば石油の値段も下がるのである。中国でも成長の限界がきたということでそうなった。
そこで金余りにもなりパブルになる、一度日本では異常に土地の値段があがったのはそのためである。金の投資する所がなくなりオランダではチューリップバブルになった。
絵画が異常に高い値段でバブルの時に買われたのもそのためである。
バブルと同時に長いデフレになっていったのももう物余り金余りになったからである。
今やどこの国に投資しようがもうけがない、利子が生まれないので資本主義は限界に達したとされる

「主権国家が消滅して世界政府ではなく中世の西洋のキリスト教世界に存在したような普遍的政治組織の近代的、世俗的な相当物がそれにで変わる」
キリスト教的価値観に支えられた中世の神聖ローマ帝国のようになる

新中世主義ーブル

これはグローバル資本主義の限界として言われるようになった。それは自分でも相馬郷土史研究として地域のアイディンティティを追及したのとにているしグローバル化した世界が逆にフィードバックして中世的な世界に帰るという現象である。
相馬郷土史というよりこれから相馬郷土学として発展させたいから名前も変える
つまり資本主義が限界に達すると世界政府とか世界市民というより中世的なブロック的な世界観にもどるということがあるのは日本でも共通している。
世界政府となると価値観がとても共有できないからである。
グローバリズムの負の部分は世界の個性的な歴史的発展した文化の破壊であり自然の破壊だったからである。
何か文化的な統合はグローバリズムから経済だけのものであり起きなかった。
ルネサンスは世界的な文化の統合の結果として起きた。
ギリシャからローマからイスラムからキリスト教文化が一体となって起きたのである。
そこにイスラムがその時先進的な役割を果たしていて数学とか科学で優れていたのである中東は後進国ではなかったのである。
イスラム国のような野蛮だけが目立つ世界は世界に何も貢献しないのである。
ただ武力だげだったら文明は作り得ないのである。

資本主義は最初はこれも理念だった。それはプロテスタンシズムとしてはじまった理念の実体化したものとしてはじまった。利子はキリスト教では禁止していたが利子を産むことを勤勉に働いて資本を蓄積することは神に奉仕することだとなった。
なぜならその蓄積した資本を富を有効に使えば神に奉仕することになる。
それは他者への奉仕としてはじまったのである。だから理念であった。
それは現代の資本主義とはただ利子を産みそれを利己的に使うのとは違っていたのであるそして民主主義も自由、平等、博愛という理念からはじまった。
でもそこに西欧の文化には文明には必ずキリスト教文明でありキリスト教なくしてありえない文明である。
資本主義もそうだし民主主義でもそうである。一見関係ないようでもその底流にキリスト教があってありえるものだった。
なぜなら

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

こういうことは今では普通にあるが今までは人民の命は国王のものだとかなっていたしこういうことを実践することは今でもむずかしい
中国などの王朝国家からしてもこんな思想は起こり得ないのである。
それはアメリカだと貴族もなく上も下もない平民的世界になったから民主主義が可能になった。
それでもアメリカでも金持ちと貧乏人の格差が極端だというときそうはなっていない
逆に一パーセントの金持ちが富の大半をもっているというとき異常な格差社会で人民は金持ちの奴隷化しているのが現状なのである。
格差社会になると中間層が消失してゆくと民主主義もなりたたないいうのは対等を求めるのが民主主義だからである。

わかりやすいのは大金持ちが貧乏人に仕えるのがキリスト教であり対等化するのが民主主義の理念だとしたら現代の資本主義は全く初期のプロテスタンシズムとも全く相反するものなのである。
大金持ちは仕える人を金で求めるが誰かに仕えることなどありえない
金があればもう毎日外食でもいい、豪華な外食を毎日できることは金があるからそのサービスを受けられるのである。
そして召使を雇うこともできる、召使は金持ちに仕えさせるのであり金持ちが仕えることなどありえないのである。
だからアメリカでは黒人を奴隷として働かせた、それをしたのはキリスト教国だったのである。
仕えるというときそれが具体的に如実に現れるのか家で働く家政婦とか手伝いさんとかである。
なぜここに露骨に現れるかというとまさに家政婦とかお手伝いさんはその家の人に仕える仕事を目に見えてしているからである。
そこでなぜこの人はこんなに金持ちで贅沢しているのだということがはっきりとわかる。その格差を肌でわかる。だから金持ちの芸能人がベビーシッターを雇ったが宝石類を盗まれたというのはそのためである。
自分もそういう経験しているからわかる。

今の自分の感覚はお手伝いさんと言っても皿洗うとかで十分くらいで仕事が終わる
そうすると何か自分がかえってそのお手伝いさんに仕えているような感覚になる
なぜならほとんどの家事でも介護でも自分がしているからである。
それが機械化しているとか買うことで可能になっていることもある。
その代わり昼間は外で食事して家事を極力省いているのである。
そうすれば時間が生まれプログに書くこと創作に専念できるからである。
それは社会にとって有効だともなる。ただ具体的に自分のプログは社会的に認可されているとはならない。
要するに今は家事をしなくても外食であれ何であれ機械でするとか外に頼むことでできるだから昔は中産階級でも女中を二人雇っていたとの時代とは違う。
それだけ家事は一大労働となっていたからである。

でもまた現代の労働は奴隷は派遣とか非正規労働者に安い時給とかでやらされているとかなりそれは女中とか家政婦とか手伝いさんは具体的にわかりやすいがそうした派遣とか非正規の安い労働者は現代の奴隷なのかもしれない
ただそれが女中とかお手伝いさんとか家政婦のように金持ちに仕えているということが具体的でないから意識されにくいのである。
別に誰かの金持ちの人に仕えているわけでもない、会社に使われているだけだとなるからである。
でもその時会社の幹部に仕えているのかもしれない、それは間接的だから意識されにくいのである。
別にレストランで食事をしてもサービスされる方も奉仕されているなど意識しないだろう現代の奴隷は意識されないし貧乏人もじかに接してみないと目に見えないのである。

つくづく今になるニートが一番貴族である。
三食つきだし後は自由である。自分が60才までそうだった。
今も自分が召使であり奴隷になっていたのである。仕えるものはになっていたのである。
資本主義とか民主主義とは何なのかというときそれが理念でありその根底にキリスト教の精神がある。
どうして資本主義にあるのかというとはじまりが修道院にあった。そこでは神に奉仕するということで勤勉に働き資本蓄積して人の世に役に立つということであり修道士は贅沢などしていないのである。
今は逆でもそういう所が出発点としてあった理念だったのである。
民主主義もどこまでも対等を求めるというときそれはキリスト教の人に仕えなさということからはじまってる。それは人間の平等対等の理念である。
そして仏教でも女性は成仏できないと差別されていた。女人禁制の山が各地にあるのもそのためである。女性は不浄なものとされていた。
それでヒンズー教ではカースト制があり差別があり釈迦が生まれて仏教になり女性も成仏できるということで女性も信者になり普及したのである。

それも人間が対等を求めるからそうなる。そして逆にフェミニズムとなり今度は女性の適性を無視したもの女性の特権化が起きたり民主主義はあらゆる人が自由であ権利があり極端化して大衆の卑俗なものが力をもつようになったのとにている
要するに理念は理想である、でもその理想は時間がたつにつれて曲解されて俗化されて堕落して別なものになってゆく
資本主義と民主主義が理念だというとき中東のイスラム圏などと相いれないのは理念が対立しているからである。トルコは宗教でも妥協しているから違っている。
つまりすべて軍事力とか経済力の対決ではなく理念の対決で世界が調和しない、対立関係になるということがある。
誰も中国の共産党一党独裁は嫌だとなる、日本は中国よりはアメリカにも問題が多いが共産党一党独裁だけは嫌だとなり協力できないのである。
どうしても経済力があり軍事力があっても共通の価値観をもてないことが最大の問題なのである。
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2015年10月25日

国際性が身につくとは何か (株とか世界に投資してみるとわかるー信用が一番大事)


国際性が身につくとは何か


(株とか世界に投資してみるとわかるー信用が一番大事)


カナダに投資したらカナダのことは行ったこともないし知らない、でもカナダがどういう国なのか気にかかるようになった。
カナダに投資しているからカナダが経済的にも利益を出す国で政治でも安定していてその他でも何か世界に利益になるものを売り出しているとか気になる
石油の資源国なことはわかったがその他のことも気になる

投資することとか商売することとかグローバル経済とは何かというとき何か自分は学問的に考える、するとそれが学問上の問題のようになり現実から離れる
でも投資するとなると違っていた。中国の経済の不安で株価が世界的に下落したしカナダも下落して一割ひかれたことは大きかった。
株は前からそういうことがあった。だから株はリスクがあるから怖いのである。
ただ日本では株を多少していたが外国に投資したのははじめててである。
だから投資した外国のことが気になるようになった。
それはただ旅行しているとか学問的に外国のことを知るのではない、実際に自分の金がどうなるのかという深刻な問題になったからである。

人間は自分の金が得したり損したりするとき真剣になる。ギャンブルがやめられないのはそうした金の真剣勝負になるからである。
株は必ずしもギャンブルではない、外国に株であれ国債であれ何であれ投資することは何を意味しているのか?
例えば会社で働いている人は外国で勤務したりするとビジネスでも具体的に理解できる
外国と取引すること商売することがどういうことなのかわかる。
そういう経験を積んでいれば別に株をしなくても外国と取引する外国人とつきあうということがどういうことかわかる

外国に投資することで最大の問題は何なのか?そこは日本ではないということである。
それは当たり前のなのだが日本でないということはまた大きなリスクである。
なぜなら日本ではないということは日本で受ける保証がないということである。
だからある時投資した金がゼロになる、外国だったらそういうことも簡単にできる
としたらまず外国に投資したりしないだろう。。
現代のグローバル経済というときいろいろ批判してきたけど自分が株とかに投資したときそのグローバル経済の中に組み入れられていることを実感した。
資本主義が資本を投資してはじめて資本主義を理解するのである。
貯金していてもわからない、資本をもちその資本を金でも投資するとき資本主義を理解するのである。


その資本主義であれグローバル経済で一番大事なのものは何なのか?
それは信用なのである。金をあづけることは信用するからあづける、そんなことが当たり前というけど信用がなければまず商売は成り立たない、経済も成り立たない、まずカナダという国を信用するから金をあづける。そこは外国だから余計にそうなる。
政府で簡単にあずけた金をゼロにされたりしたらもう世界経済も資本主義も成り立たないのである。
商売で一番大事なのは信用なのである。これはあらゆる面でそうである。
信用がなければ社会も人間関係も成り立たないのである。
信用ということは農民だったらあまりなじみがない、信用にかかわることがあるとしても具体的に人と人のやりとりがあっても農民だったら何を信頼するかというと大地だとか自然になる。人間と人間の関係ではないのである。
商売では契約が一番大事であり命に懸けても守らねばならないものとなっているのは信用が第一だからである。
それで聖書が絶えず人間と神との契約の書だというときまさにその信用のことだったのである。中東辺りでは商売がはじまった歴史が非常に古いからそうなった。
法律でも商売に由来するものが多いのである。
宗教と商売とは関係ないようでも密接に関係していたのである。

グローバルな資本主義世界となったとき、そもそも貿易をして商売するのだから信用がなければ成り立たないのである。
中国では偽物が多いから日本で爆買いするというときもそうである。
中国はなにかと政治でもまだ信用がないから投資するのが世界でも不安になる。
それは政情不安な国とかもそうであり何か信用できないとなる
だから投資しにくいとなる。投資というのは大損するときがあるから個人的にでも簡単にできないのである。
ともかく投資することは信用するから投資するのである。
問うされた人は国でもその信用に答えねばならない、それが世界経済として成り立つ、信用がなければ国と国の貿易でもできなくなるからだ。

それで例えばTPPというときこれも日本だけが不利とはならない、アメリカでも反対しているからアメリカでも不利なのである。
でもこれも互いに信用しなければ成り立たない、アメリカが一方的に得する仕組みだとなると他の国も参加しないだろう。
そしてTPPの一番の問題がその参加国が信用しあえるかなのである。
その一番の不安が食料にあるだ。
何かあったとき食料が入ってこなくなる、金でも買えなくなる、何かそこが一番外国だから不安になる。日本国内だったらそういうことはない、食料だと輸送するのも新鮮なままに輸送するのもむずかしくなるからだ。
これも経済でそうした協定を結ぶことは国が違うのだから国同士の信用関係がないと成り立たないのである。

なぜ中国とか韓国とかと日本はうまくいかないのか?それは常に戦争のことで責めれるし日本を敵国のように攻撃してくるからである。
すると中国はいつ日本を攻めてきて占領されるかもしれないと不安にさいなまされているのである。日本人が滅ぼされるという極端な不安をあおる人もネットにいる。
それは信用できないということにある。
ただ信用できないというとき国同士信用しあっている国があるのかともなる。
ロシアは信用できないとかもそうである。それは歴史的にもシベリア抑留とかで信用できない、政治的に信用しあっている国があるのかとなる。
ヨーロッパは連合したがEUになったときそれは信用しあうものとして連合である。
その国々では国境もなくしたというのはそのためである。

ともかく商売とか経済とかはグローバルになったとき信用がさらに大事になる
なぜ例えば原発を最初に福島に作ったときアメリカのGEは古い型のマーク1を日本に売りつけたのかというのもそうである。
それは危険なものだったが外国だから売りつけたのである。

外国だから粗末なものでもいい、もうければいい

つまりこうなるとき公平な商売貿易は不可能になる。外国となるときすでにもう信用関係がない、危険な原発でも被害が及ばないとなれば安いものでも古いものでも売りつける。それは無責任だとなり外国は信用できないとなる。
日本国内でも東電は東京では危険だからはフクシマに原発を作った。それは東京までは事故が起きても被害にならないということフクシマに作ったのである。
すでにそこで原発はリスクをともなうものと認識していたのである。
それほど安全を言うなら東京に建てれば良かったのである。
そこにすでに信用できないものとしてフクシマでも見れば良かったのだが金欲しさが優先されて信用したのである。
その信用は見事に裏切られたのである。

ともかく人間関係でも信用が一番大事である。それは人を雇う者と雇われる者でもそうである。まず信用がなければ雇うこと自体できない、だからどうして雇う人間を信用するのかということが最大の問題だった。
近くに住んでいるからとかそんなことで信用したりしたのが失敗だった。
田舎だから安全だとは今はならない。
そして信用関係は簡単に築けない、時間もかかるし互いに信用するには必ず問題が起きて信頼できないとかなる。でも何とか問題があったが和解したとか信頼関係ができたとき
安全になる。それは狭い地域でもそうだから日本国内でも広いから同じである。
外国となるともともと国同士が常に信頼できないとなっているとき、どうしてでは経済でも商売でも貿易でもできるのかとなる


だから国際関係の基本は政治だけではない、経済にあり商売にありその他国と国が行う事業とかでも信頼関係が必要になるのである。
信用できないということが致命的なのである。
物を売ったけど金が払われなかったとかインターネットであればインターネット自体信用できないとか問題になる。
インターネットというメデアが何か信用できなるのかとなるとここでも商売をしているからそうなる
人間関係とは国同士でもどうしたら信用関係がもつことができるかが最大の問題なのである。
契約はその信用を証明するものだから一番大事なものとなる。
いくら自分はそんなこと契約していない、金を借りていないと言っても契約書があれば
嘘はつくことができないとなる。それで契約書が大事になる。
でも日本ではこの契約の大事さを認識していない
つくづくだから中国とかと政治問題でこれほど信用できないとなるときどうして経済が貿易ができるのかともなる。
日本の会社は中国をひきあげるとか投資もしないとかなるのである。
それは韓国でもそうだけど信用できないからそうなるのである。
中国の日本の会社が打ち壊されたりしたらもう経済活動も何もできなくなるのである。
戦争のことと経済商売のこととは別である。戦争の問題とかで日本をたたくことで貿易もできなくなる、戦争のことはなかなか今でも判断しにくいのである。
そのことで常に攻められたら日本でも中国とはかかわりたくない、経済的にもかかわりたくないとなってしまうのである。





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2015年12月09日

保証人問題は江戸時代からあった (江戸時代から継続している人間の問題)


保証人問題は江戸時代からあった


(江戸時代から継続している人間の問題)



学校を卒業してからの就職は雇用契約、結婚も契約、離婚も多くは契約、病気治療も契約、はかなく死亡した場合の葬儀、墓地埋葬も契約である。
 このように、生まれてから死ぬまで、人間は無数の契約を締結しており、ある一面では人間の一生は「契約で始まり、契約で終る」ということができる。


興味深いのが「埒明ける(らちあける)」という言葉です。奉公に出たもの(就職する人)が雇用期間中に、問題を起こしたり、行方をくらました場合は身元を保証した名主や親類が「必ず埒明けます(必ず解決します)」と約束しています。

人格の信用を第一としていた時代だったので、一度、奉公先を逃げ出し、埒が明かずに奉公を辞めた人間は二度と正業にはつけなかったようです。


借家人の身元保証人、家請人の事

この数年、借家人の家賃が滞り、借家明け渡しに関しての訴えが多い。
そのほかけしからぬ振る舞いなどもあるので、この度大坂の町で、家請人が判代金を徴収して、借家人の身元保証人になることを、別紙五十三人の者どもの願いにより申し付けた。身元保証の方法は別紙の通りで、この旨三郷の南組・北組・天満組の町役人は承承知した。もっとも、借家人の身元保証人になる家請人の営業をする者はこの五十三人のほかは、営業してはならない旨、町役人へ申し渡した。


このような人宿のなかには悪質な者も混じっており,奉公人と
共謀して,奉公契約を結んで給金を受け取っておきながら奉公先から欠落
させ,自分も姿をくらまして給金をだまし取る等のことにより,雇主であ
る武士の被害が無視できない状態になってきた。そのため,幕府は宝永7
年(1710)8月,当時390名余いた人宿を30名ずつに分け,13 の組合を作
ることを命じた。
この組合は,奉公人が欠落・取逃したら,組合としてその雇主に給金を
支払うか代人を出すこと,盗品がある場合はその代金を返済すること,欠
落した奉公人を組合として捜査することなどを責務とした。



奉公人争奪
がせり売り状態になって給金が高騰する, 手数料等の奉公人宿への支
払いが多くなって同様に給金が高くなる,という理由を挙げて,今後雇用
契約は相対にさせて欲しいとの願書を提出している。



江戸時代は何か現代とは隔絶した時代のように見える、でも人間社会は実際は継続している、歴史は継続して積み重ねて作られてきた。
だから何でも歴史的に考える必要がある。現代の問題は現代だけの問題のように見えてそうではない、必ず歴史的継続の問題として考察する必要がある。
保証人問題の根本は人をいかにしして信用するかにある。
これはまず人類が生れてからの最大の問題である。そもそも人間が信用できない、人間が罪を犯す、人間を性悪説を前提として法律ができたのである。
十戒でもそうである。殺すな、盗むな、姦淫するなとかはどこの国であろうがするなとなる、ただ十戒で偽証するなというのは何かすでに裁判制度があった証拠なのかもしれないそもそも人間とは罪を犯すものであり信用できないものだからこそ法律が生れた


なぜ保証人が必要なのかというとその人を信用できないからである。
人を雇うにしてもどうしてその人を信用できるのか?
私は信用できる人間ですといっても誰がそれを認めるのか?
雇う方でもどうして信用するのか?
それで就職するときも保証人を求める
なぜなら会社の金を横領されたら困るからである。
そういうことは常に起きて損害を与える、すると誰がその責任をとるのか?
責任問題が生じる、それで雇う方でも責任が問われるから保証人を求める
損害を与えたとき保証してくれる責任をとってくれる保証人を求める


雇う方でも責任が問われるから保証人を求める、雇われる方でも実は雇う方が保証してくれるのかという問題もある。
現実に江戸時代から賃金未払いはあり途中で雇われる方がやめて困ったとかすでにあり
雇われる方にも問題があり雇う方が損失をこうむる。
雇う方でも雇われる方でも双方に責任が生じている。
雇われる方が今だとフリーターとか派遣とかで正社員よりは気楽だとなるがそれなりに必ず責任問題が生じているのである。
本当は雇う方も雇われる方も双方の責任であり共同責任にもなる
会社だったら社長であれ社員であれ共同責任として会社を運営している
そして民主主義国家では個々人が自由だとしてもその自由には必ず責任を課せられているだから常に自己責任論が言われる、海外に行くのは自由だけど危険な場所に行ってはならないのに行ったから殺されたとなりそれは自己責任だとされる


民主主義国家は自己責任論社会である。政治家を批判してもその政治家を選んだのはお前ら一人一人でありその一人一人が悪いのだとなる
また健康でもお前の生活が不健康だから年取ってから病気になったのだ、健康も自己責任論になり不健康な生活をして60代以降病気になった人は自己責任であり国で医療費をめんどうみるのは問題として政治家がいた。
それも一理ある、毎日タバコをすい、酒を飲み、健康を害するのは自己責任でありそのめんどうを国の金で税金で面倒みれないとなる
それは税金だからそうなる、税金とかはみんなか払うものでありそんな不摂生な生活をしている人はその人の責任でありみんなで面倒みれないとなる
周りの人に迷惑をかけるからである。
そうはいってもいくら健康に気をつけても必ず60代になると必ず病気が出てくるのであるそれを自己責任されるのも辛いとなる。


どうしたら人を信用できるのか、保証されるのか、それはもう人間が生れてからの問題だったのである。
人間はそもそも信用できない、罪を犯すしその言うことも嘘が必ずあり信用できない、まず嘘を言わなかった人はいないしその人は異例であり馬鹿しかいないとなる、だから馬鹿正直だとなる、利口な人は必ず嘘ついているのである。
だからこそ保証人を求めている、その個人を信用できないからである。
そしてその個人を信用できないとき、保証をどうするかという問題になる。
それは家政婦だったら家の中に入るから非常に危険である。
それでフィリンピン人は家政婦として出稼ぎ者が多い、それは信用システムが作られているからだという、借金を調べて借金ある人は雇わないとか国でも信用システムを作っている


また家政婦を雇う時はそうした信用システムがない、個人で勝手に雇うと非常に危険になる、被害あった場合もう責任も問うこともできない
それが家政婦団体としてあればそこで共同責任になるから保証されるということもある
つまり共同責任体制の方が責任を問い安いし安心だとなる
五人組制度というのもそうである。
江戸時代は地域的な連帯で保証されることがあった。地域のつながりが濃密だったからである。だから村に住んでいれば村の人は信用できるとなった
でも一端村から出ると出稼ぎ者になると信用が別な問題となる、そこでいろいろ問題が起きてくる
法律が生れたのはヨーロッバで生れたのはそれは異民族が交わることで公平な法律が自ずと要求されて文書化された。口約束とかでは必ず破られる信用できないからである。
そういう経験を自分の家でもしている。口約束は破られてわずかだが土地は近くの人にとられた。近くの人でも信用できないのである。
人間がいかに信用できないかということでそもそも法律が生れたのである。
絶えず人間には裏切りがありそれで命を落とす人もいる、口約束は常に破られるのはそこに信用システムが構築されていないからである。


五人組などが何か封建的で古いものとしてあったと思うが今になると何かそれは共同責任体制であり信用システムだったのである。
江戸時代の問題は現代に継続している。例えば口入れ屋とかは今の派遣業者とにているしそういうものが必ず必要になり江戸時代も今も同じ問題が生じていた。
なぜなら江戸時代は終身雇用などない、年季奉公というとき期限がありあとは日銭稼ぎがほとんどであるから今の派遣とかフリーターとかの労働とにているから現代はかえって江戸時代にもどったのかとなる
現代の問題でも常に歴史的継続してと考える習慣が必要になる
江戸時代だから人と人が信頼し合っていたということでもない
ともかく人は信用できないということから保証人問題が生じていた。
だからどうして人を信用できるのか?常にそういうことが問題になる
履歴書でも偽って書いてわからなかったとか言う人もいるしそういうことは文書化して何をしても防ぐことはできないし犯罪はなくならないのが人間社会である。
ただ被害を最小限にとどめるとか何かしらの保証を人は信用できないから求める
それで保証人問題が江戸時代でも今も継続されているのである。






タグ:保証人
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2015年12月28日

労働の価値は常に変わっている (女性の家事労働は機械化したから別な価値を女性に求める時代)


労働の価値は常に変わっている

(女性の家事労働は機械化したから別な価値を女性に求める時代)


この世の価値は何でも一定していない、常に変動している、変数である。労働の価値も変化している。
そして機械の時代になると人間の労働の価値が急激に低下するのは本当である。
昔は江戸時代には力ある男が一人前の男として認められた。
それでどこでも比べ石というのがある。この石を持ち上げたら男として一人前として認められたのである。
要するに機械がない時代は体力がもの言う社会だった。男で体力がない人間は生きていけないのが一般的だった。体力のない人間は商人とかになり人を相手に商売するとか帳簿をつけるとか何か頭を使う仕事をするとかで身をたてる
でも一般的に江戸時代から戦前までどちらかというと体力がやはり仕事する目安になる。農業中心だったら第一次産業中心だったらそうなりやすい。
その時、農機具が発達していないからである。例えば鍛冶屋でも刀を作るにしても熱い鉄を打つ仕事は重労働である。
ただ職人でも細かい手作業の仕事はまた器用さであり違っている。


そして現代になると細かい仕事が多くなったから器用な人が価値がでてくる。
医者でも手術がうまい人は器用な人であり歯医者などでもそうである。
あらゆる場所で力目持ちより器用さの方が価値があり重宝されるのである。
ただ体力は以前として今でも価値がある。それで自分が失敗したのは自分は体力がないから体力を使わない仕事に従事するべきだった。
自分のことがわからないから勉強もしなかった。体力のない人は知的な仕事につくとなると勉強が必要になるのである。
ただ自分は学校になじめず勉強嫌いだったがあとで学問好きなことがわかった。
人間は自分の適性すらわかっていない、医者の子供は医者になるけどみんな適性が阿わけではない、そこに危険性がある。
だから親の都合で職を決定されるのはその医者にみてもらう患者に害を及ぼすから問題なのである。
それはあらゆるものに言える、適性あって仕事についている人は珍しい方かもしれないからだ。その害は本人だけにとどまればいいが他の人に害を及ぼすから問題なのである。

「労働の価値」が下げられている絶望時代
盛んにこのサイトではでは機械によって人間の価値が下がり仕事がなくなる、もう人間は働いても金にはならない、フリーターだ派遣だとか増えて働いても金にならない、大企業に勤めていても安泰な時代が終わったというとき確かに東芝やシャープでも斜陽になり大量にリストラされるから現実化している
おそらく大量の規格製品が売れる時代が終わった。日本は世界にテレビでも電気製品でも大量の規格製品を売り出して豊になった。でもそういう規格品は中国でも韓国でもどこでも作れるようになるとき価値が低下する。
そこに新しい価値を作り出そうと努力しているがなにか鮮明な画像を作り出すとか大型にするとか技術革新をしているが新しいイノベーションが最近生れてきていないのだろう。これはという商品が生れていない、何かそういう点で技術革新は限界に来ているのかもしれない、それより何かテレビの番組が面白くない、コンテンツが面白くない
芸能人の馬鹿騒ぎを写しているのももったいないとなる、最初テレビは何でもいい写るだけで視聴率が高かった、写るということが驚異的であり何か写っていれば驚き見ていた時代である。今は写るだけでは何の面白みもなくなった。
テレビという箱の開発してもそこに流す番組が面白くなくなったら見ないとなる
価値はテレビというハードに機械にあるのではなくそこに写る番組ソフトに移行したとなる


つまり時代によって価値が常に変化している。現代はインターネットで個人が放送局になったというのもそうである。個人がテレビ局になるということはイメージすらできなかったろう、そういうふうに機械が価値を変えてしまうことがある
家事などでも機械化されて家事の価値は変貌した。家事は今やご飯をたくのも機械だし洗濯でも何でもそうである。
洗濯板でごしごし洗っている時代は一大労働だった。そこに人間の労働力は費やされてきたのである。それで戦前だと女中が主な仕事であり中産階級でも女中を雇っていた。
家事そのものもが機械化されない時代は一大労働だったからである。
今でもそれなり料理などは結構な労働なのである。惣菜でもなんでも買っていたり家でする労働は相当にへった、その代わり金を得るために外で主婦は働くようになったのである家事の労働の価値は下がった他でも機械化して価値が下がるものが多いから人間が不用になり人間が働く場所がなくなり会社でも極力人間を雇うのは金がかかるから機械化する
事務ですらパソコンで機械化されるから職を失うとか人間の働く場がなくなってゆく


例えば田植えでも機械でできてい縁(へり)を人間が田植えしているという、そこは機械でしにくいからである。
そのことは中国でコンバインで麦刈りをすると人力の千倍もの力を発揮する、これまでは出稼ぎ者が人力でしていた。そこでもコンバインでてきない土地の起伏のある場所は人間がしていた。
いくら機械化しても何か機械にはできないものが残る、そこに仕事がある
そして人間の価値は変わる、機械化によっても変わる、記事でもインターネットでコンピューターで書けるとかなり新聞とか雑誌やただニュースの事実をだけを流すものは機械化される、そうなると今の新聞などはいらいなとなる
そして何かインターネットの読み方と新聞の読み方は違う。雑誌でも網羅的に書いていて一つのキーワードから記事の内容を深める読み方はできない
あるキーワードとかテーマごとに調べるとなるインターネットの方が優れているのであるそれでもすべてはインターネットでもできないしコンピューターでもできない
例えは受け付けなんかロボットでもたいして代わりないように見える
同じようなことを案内しているだけだからである
機械と人間を比べて変わりないものは機械化される、そういう仕事が結構まだある。
スーバーのレジなんかそうだろう、てもお釣りが自動にでてくることで一部が機械化されると人力が省かれるので仕事がなくなる
人手不足の時代になるといかに機械化できるかが問題になる


自分も経験したことだが今は別に家事を手伝ってもらう必要ないのである。
自分はほとんど家事はしている、ただ手伝ってもらうというときその女性は何か話がうまい、土地のことを良く知っている、同じくらいの年で経験も豊であり話が合うのである。その人はほとんど家事はしない、でも金を払っている、その人の女性として魅力は外見ではほとんどない、不細工なのである。
でもその人の価値は自分にとって相当に大きい、何かと家事ではなくても必要なものになっている
だから今は家事ができるということに価値はほとんどなくなっているかもしれない
女性でもそうである。その女性は別に中卒であり教養というものもない、でも何かいろひいろ苦労したりして話して面白いというか他にはない女性の特徴がある
その女性はそういう点で価値あると自分が認めて金を払っているとなる
なかなかこういうことをできる女性は少ないと思う


掃除なら今なら誰でもできるだろう、ロボット掃除機もでている、でも話術に巧みだとか何か機械にはできないなごみと癒しがあるとかになると人間しかできない
介護の仕事は新しいから評価されないけどロボットにはできない、優しさとか老人と話できるとかそういう要素がこれから大きくなってくる。持ち上げるとか何か力のいることは機械化される、すると何が価値あることになるのかとなり精神的なものが大事になる
そういう価値は家事が機械化したとき高いものとなるかもしれない
なぜなら家事自体が機械化されていて家政婦などがきても家事をすることもないとしたら何をするかとなるからだ。もし子供がいたとしたら子供をあやすのがうまいとか別な価値によって雇う方も雇うようになる
もし教養があるとしたら短歌でも俳句でも作れるなら学者とか何かそういう場所で重宝される、するとこれから大事なのは女性は教養を身につけることの方だ大事だとなる
いろいろな知識をもち学者やいろいろな職の人と話ができるには女性も教養が必要になる自分の母親は全然そういう余裕がなくただ家事だけをする女性だった
それは時代でしかたなかったのである。でもこれからの女性の価値は別なものであり家事にはないのである。
男も比べ石で一人前として認められた時代があり女性も家事ができることが価値だった。それが機械化すると人間の価値は変わる、そういう肉体労働は機械化がすすみ必要なくなってくる、そこで価値ある人間とは別なものになってゆくのである。
もしかしたら株が毎日変わるように人間の価値も変わっている、それに気づかないこともある。その人は時代に取り残された人となってしまい底辺化ししてしまう

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こんな募集になるかもしれない、家事が必要がないというときこれは何なのだとなるだろう
これからそういうことがありうる、家事は機械化してする必要がない
でも女性にしかできないもの女性しかもっていないものが活きる仕事はある
それはロボットで代行できないからである。





タグ:労働の価値
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2016年01月04日

何のために誰のために働いているのかわからない (見えない不特定多数の人のために働く矛盾)


何のために誰のために働いているのかわからないグローバル社会


(見えない不特定多数の人のために働く矛盾)


この社会は働くことを至上の価値としている。だからこの社会で働かないものは最も批判されるべきものであり無職は人間でもないから殺処分すべきだと盛んに言う。
働かないニートなどは最も忌むべきものとして社会のゴミだとしてそう言われる
つまり働くことが至上の社会では当然そうなるのである。
「働かざるもの食うべからじ」なのである。
要するに誰かが働いているからこそ働かないでも生活できる人がいるとなるからだ
俺たちが働いているのにお前はは働いていない、俺たちはお前の奴隷なのかともなる
所が現代社会はグローバル社会であり自分たちは誰々の奴隷だなどと意識できない
ローマ帝国とか何か貴族がいて下級階層がいてとはっきりしていればそういう不満は成り立つ、あいつは贅沢して俺たち毎日あくせく働いてやっと食べているだけだとか目に見えてわかるからである。そういうことでマルクスがその俺たちを奴隷にして働かせているのは資本家だとして攻撃の対象として革命して労働者階級主体の社会を作るべきだとして共産主義社会を理想の社会としたのである。


でも結局今度は中国などのように共産主義革命が達成しても今度は働くのは誰のためだとなると高級官僚とか共産党の幹部のためだとかなる、そうして革命で特権化した階級が生れそれは資本家と同じではないか?
労働者が平等に働いて豊になるということはなかったのである。
そもそも働くということは現代は何のために誰のために働くということが具体的にイメージできないのである。
それはあらゆる働く場所でそうである。一体コンビニでもスーバーでもそこで働くことは誰のために働いているかなど意識しないだろう。
確かに客として来るけどその人を意識して働いているというのではない、小さな町でもどこでも大勢の人のために働いているからである。
だから誰のために働いているということが意識できないのである。
そして何のために働いているのだろう?それも意識できない、わからない、なぜならグローバル化した社会では品物はあなたの身につけている着るものでも外国で作られているし地球規模で労働しているものが提供しているからである。
そういう人たちは誰のために作るなど意識できない、ただ金銭のために働いている
それが何のためか誰のためなのかなど関係ないのである。

だから現代の労働は矛盾している、労働すること自体に生きがいを見いだすことはむずかしい社会である。その成果はすべて金に換算されることによってあるのであり
誰かのために働いたとか私はこうして働くことに生きがいをもつということはまれなのである。労働は金に換算されてしかありえない、どんな辛い労働をしようがすべての労働の価値は金に換算されて計れるだけである。それはマルクスが言って社会の変革をうながしたのだがそもそもグローバル社会になればどっちにしろ誰のために働いているかなどわからない

誰かのために働いているというのが明確なのは子育てとかである。母親は明確に自分の子供のために骨身を惜しまず働いている。食事を出したりいろいろと子供の世話をする
それは親の愛でありその労働する対象が明確なのである。
そういう労働は明確であり子供はたいがいは親に感謝する、それは子供でもともかくわかりやすいからそうなる、自分は特に60までそうしてくれたから特に感謝しているから介護もしたのである。介護は恩返しだったのである。
でも自分のために働いていくれる人にそうして親のように感謝したりしない
それはすべて金で換算される、金を与えてそれで終わりである。感謝などしないのであるもちろん働いている人もある特定の人を意識して働いている訳ではない、その報酬はただ金で換算されて金が労働の報いなのである。
だからすべて労働の価値は金で換算されるしそれ意外はないのである。
もらう金が少なければ価値がない労働だというだけである。
でも子育てとかの労働は特定の人のための労働だから金には換算できない労働である。
そして苦労して貧乏で子供を育てたというときかえってその労働の価値は高くなる
子供は親の背を見て育つというから親に感謝する度合いが高くなる
自分の母親は霜焼けで苦しんでいた。そのことで今になると感謝している
それははっきりと誰のためかということがその時はわからなくても後でわかるからである


現代の労働の矛盾は自分でも今回の津波や原発事故でも体験した。
自分が病気になり苦しい身体障害者になったとき誰も同情しない、誰も自分のために働いてくれなかったのである。
その時家に来た人は借金に追われてパチンコ屋で働いていて自分の家に来て一切なにもしない、皿一つ洗ってくれなかった。
そして二三分で帰ってゆくだけだった。その時バチンコ屋では懸命に働いていたのであるそういう事情があったからしかたないとういう面はあった。
そして一方で原発で避難民化した人が何千人と来てその人たちは暇になりパチンコ屋におしかけたのである。
自分が病気であり身体障害者となったことに全く考慮されない、その人が働くのはパチンコ屋であり避難民はパチンコ屋で遊んでいたのである。
つまり肝心の自分という病気であり身体障害者であるものは無視されてパチンコ屋で遊ぶ人のために働いていたとなる。
だからこの時そのパチンコ屋で働く人にもパチンコをしている人にも腹がたった
それは一体誰のために働くのかということが矛盾として具体的に現れたからである。
だから自分はその時思った。

バチンコする人のために働いているのだからパチンコをしている人にたすけてもらへ

このことはまた東京の親戚の人にも言えた。自分はあまりかかわらないからその人も全く自分がどういう状態にあるのかもわからない
ただ金だけが欲しい人である。それも権利はわずかでもあったので払うことはいい。
しかし自分がその時どんな状態にあったのかを全く無視しているのである。
そんなことを聞きもしないで金だけをくれとなっていたのである。
そして私はエステで働いているからそこは厳しいからすぐ帰らねばならないとその女性も話す暇もなく帰ってゆく、そんならこちらも

あなたはエステのためにそんなに働いているのだからそのエステをしてやる人に助けてもらへ

つくづくそういう労働の矛盾が自分に具体的に現れたのである。
要するに金になればいい、金に換算される労働しか今はないということである。
不思議なのは一方で医者とか看護師とか介護士とかは具体的に人間とじかに接して働くのだから感謝されやすい、特に看護師は一番感謝されやすい職業なのである。
看護師は重労働だからしたくないというけど一番感謝される職業なのである。
そういう職業はグローバル社会ではまれなのである。
昔の狭い地域社会だったら何か労働の対象が狭い範囲だから誰のためにとか何のために働くか意識された
自給自足社会ではそうである。そしてその土地のもので暮らしているからその土地の自然に感謝していたのである。それが信仰にまでなっていたのである。
それが広域化グローバル社会なると米すら外国から入るとなるとそういうこともなくなる自分の家ではまだ木材でもこの土地でとれたもので作ったからそれを自慢していた。
損なことも今はない、建て売りだと家を造る人も土地の大工ではない、みんなよそから来た会社の人たちなのである。
だから故郷という意識もなくなって故郷に未練がなくなり原発事故を契機として若い人たちは流出した。それは故郷に愛着がなくなっていたこともある。単に放射能が怖いからだけではないのである。


いづれにしろ「働かざるもの食うべからず」となるけどなぜ働くのか?誰のために働くのか?何か労働がただ金に換算されるだけの社会はマルクスの疑問のように大きな問題なのである。なぜなら毎日人は働いているからである。その働くことに意義が見いだせないのである。すべての労働は金で換算されるだけであり金を多く得るものが価値があり金が多くえられないものは人間的にも価値がないとされるのである。
だから無職は現代社会ではあってならないものと批判される
それは誰かが働くことによってお前が働くなくていいからだとなる、ところがその誰かとは誰なのだとなると不特定多数でありわからないのである。
一番自分が働いてもらいたいときに誰も働いてくれない、こういう矛盾を自分は体験したそれは生死にもかかわるということもあった。しかしそれでも金のために他で懸命に働いていたのである
別に自分は金はあったから与えることができた。現実に与えていたのである。
広域化グローバル社会の経済の矛盾はいろいろある。いい面もあるしまた悪い面もありそれがこの辺で自分の一身上で具体的に矛盾として現れて自分が苦しんだのである。
グローバル社会とはもしいい面があるとしたらアフリカとか飢えている子供などがいればその人たちを助けることなどがあるだろう。そういう遠い世界でも金が有効に働くということがある。そういう利点はあるが一方ですぐ近くでも助けられず放置されているという矛盾もグローバル社会にはある。
ともかくこの辺では様々な矛盾が露骨に具体的に現れた所なのである。



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2016年01月09日

武田信玄はなぜ天下をとれなかったか? (天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず)


武田信玄はなぜ天下をとれなかったか?

(天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず)

武田信玄が人は石垣、人は城としたときこの原理に従って言った。人の和が一番大事だから城はいらないとした。
そして滅亡したのは肝心の人の和が家臣団の和が崩れたためだとなる。
次の代の勝頼は家臣団をまとめることができなかったためだという。
人の和というとき中国は巨大だから必ず分裂して三国志が生れた。大きすぎて一つになる、和を作れない国である。それが弱体化する原因である。
日本は一億総なにかとか一眼となってまとまるから小さい国でも強いとなる。
和の力が働きやすい国である。


でも国の興亡でも人でも家でも何でも一つの原因で決められない、様々な要因があり一つではないのである。
武田信玄には何かそれがみんなあてはまる。地の利というときこれも山国であり外の情勢にうとくなる。山に囲まれているから閉鎖的になる。それは会津ともにている。
だから直江津の港から海に出たいということで謙信と戦ったということもうなづける。
今でも直江津は船がでているし自分もその船に乗ろうとしたが乗れなかった記憶がある。戦国時代地の利というとき一番信長もっていたのである。京都に一番近い距離にあったこともそうだし海に面していたのもそうである。
京都に近いから近江にその居城、安土城を作ったのもそのためである。
歴史的人物が生れるにしても地の利というのは影響している
どんなに傑出した人間もその人の力だけではなりえない、地の利の制約を受けるのであるだから政治は地政学であり地の利を基にして考えねばならない


ロシアは武田信玄のように海にでるための港を求めた。それでロシアはシリアに固執するのは地中海の港がありそこを海に出る拠点にしようとしているからである。
その前にはだかるのがトルコになっているからEUは地政学的にトルコと組みトルコを重視すべきだったというのもわかる。
世界でも世界史でも地の利がわからなくして理解できないのである。
そして日本国内でも地の利というのが一番わかりにくいのだ。福島県自体も広いからわかりにくい、この地の利で何か必ず誤解が生れてくるのである。
一つの県から地の利がわからないのである。東北はなんとかわかるがそれだって岩手県なども広いからわかりにくい、他でも一つの県から地形を具体的にイメージできないのである。
イメージしやすいのは奈良とか近江はイメージしやすい、奈良は平地を山が囲む広い盆地であり

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし


近江も中心に琵琶湖があって山が囲んでいるからである。そして近江は東と西の境目である。
関が原を境にそうなっている。関が原を越えると近江であり景色も何か穏やかな感覚になる。そして関が原が天下分け目の戦いの場であるというのも地の利のためだった。
必ず春にゆくと関が原は雪が残っている地帯である。
そこが西と東の境目としてふさわしいのである。東(あづま)は関が原からはじまる地域だった。ここで西の文化と東の文化が別れる地域だった。
それで伊吹山でヤマトタケルが死んだ山でありここを境にして壬申の乱があり西と東の勢力がぶつかる地点だったことでもわかるのだ。


いづれにしろ武田信玄は天の時、地の利、人の和からみるとそれを象徴している人物なのである。
人の和があっても人の和が崩れ地の利が京都から離れて山国で天下を見るには不利であった。そして天の時も逃したのである。
天下をとるにしては謙信との戦いで時間を消耗した、結果的に天下とりに出たのが遅くすでに50をすぎて病気にもなり天の時を逃して挫折した。
人間は今でも個々人でも組織でもそうだろう。天の時、その人の人生でチャンスがくるのは一回しかない、それを逃すともうチャンスは永遠に来ない
ビジネスでも営業でも一回のチャンスをものにしないとあとは契約がとれないともある。それはどんな分野でもそうである。チャンスは何度も来ないのである。
恋愛でもチャンスは一回でありその時しないとあとはできない、つまり十代とか二十代の前半くらいまでしかできない、求道でも若い内しなければ年取ってからできない
若いとき放蕩したりすると老人になってもひびく、真善美を求められなくなる


結局ここの人間であれ平凡な人間であれ一つの教訓を残してみんな死んでゆく、武田信玄も英雄にしてそうだった。
死んでからこの人はこうだったああだっとかいろいろ批評する、そこには必ず教訓を残しているからである。それは平凡な一生でもそうである。
なぜその人はもっと何かをしていればよかったとかなぜもっと遊ぶということもしなかったのかとかなる。
それは時代を反映していたのだけど戦前生れだと働くばかりだったのはそういう時代だったからである。
でも戦後の団塊の世代になると遊び上手になる、近くの人が58才頃からスキーをはじめたというから驚きである。ピアノもしているとか趣味をもつようになった。
でもすでに65才くらいになっていて良くできるなと感心した。こういう人が戦後生まれには結構多いのである。そこが戦前生れと違うところである。


人間はただ長生きしただけで天の時を得ることがてきる場合がある。徳川家康は長生きしたから天下が自ずとれたともなる、武田信玄も長生きすれば違っていたのである。
才能がなくても長生きすればそれなりのことがてきる、才能があっても早く死んでしまうとできない、そういうことは個々人の人生でも家族の中でもある
母は百才まで生きたがそれが家族の中では意味ある価値あることだった。
もちろん長生きして意味がなく価値がなくなる人も多いし現代ではその方が多いから問題なのである。
でも才能を伸ばすのには長生きしていた方がいいとなる、凡庸な人間でも長生きして積み重ねるものがあればそれなりのものになりうるからである。
一方で天才的人物は別に長生きでなくても成果を残す、天才が短距離走だというとき短距離は努力してもなれない、生まれつきのものであるからだ。
マラソンはそうではないというとき平凡な人にも向いているというときスポーツでも生まれつきだけでは決められないものもある
大器晩成というけど平凡な人が長く時間をかけてやればそれなりのものになるということであり別に大器だからではないのである。
だから高齢化社会は平凡な人の才能が華開く時代だともなる
多様な才能が華開く時代だともなる、それが高齢化社会のプラスの点でもある


タグ:武田信玄
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2016年02月11日

世界的株の下落について銀行の部長と話する(短編小説)


世界的株の下落について銀行の部長と話する(短編小説)

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只野は東北のある田舎に住んでいた。只野は最近遺産がそれなりに入った。それでこの頃銀行は利子もつかないので外国の国債とか不動産に投資することにした。
その額はそれなりに大きかったので銀行の人が時々来るようになった。
その銀行は小さい銀行である。若い人が来たときも自分は証券の方で働いていたのですとしきりに言う。
それで勘違いしていたのは証券会社で働いていて銀行に移ってきた人かと思っていた。
「私は証券の方で働いていましたからまかせて下さい」
そういうふうに自信ありげに言う、性格的も押しの強い性格である。
只野が最近の世界的株の下落と原油安で心配になり銀行に聞きに行ったこともあった。
前には日本の株に投資していた、それが七年前くらいでありその時も最初は調子よく配当金が入っていた。その額は少なかった。それでも利子がつかないよりはいいと10万くらい配当金があり喜んでいたのである。
それが急速にリーマンショックになり半分になったのである。
今回もそういう急速な株の下落が起きてまたリーマンショックなのとか不安になった。
それで今日はいつも来る若い人と本店の営業企画部長の人が来て話した。

「カナダも原油安で裏目にでた」
「まあ、石油にもいろいろあるんですよ、一種類じゃないんですよ」
「そういうことをテレビで自分も見ました」
「石油は今下がっていますがとてもつづかないですよ、サウジアラビアなどはもうもちませんから、政情不安定になり政権も危なくなりますからまた石油は上がってきますよ」
「そういうことを解説している人がいます、また上がってくると、、、、」
「もう少し様子を見ていて下さい」
「みんな不安になっています、どうなるんですか」
こんなことを話した。

只野は原油はいつも高い、安心する投資だと思っていた。それがこんなに原油安となることが意外だった。そしてカナダが原油が世界で4番目にとれていることも知らなかった。
原油は世界で結構とれている、これだけ原油安になるとロシアから中東から南米でも経済が苦しくなり政情不安になる。
原油だけではない世界が政情不安になる
「ヨーロッパも危ないです、あそこはまとまらずEUが分裂するでしょう」
もともとまとまらない、歴史的にもそうでしょう」
「ペルギー人とあったけど盛んに俺はベルギー人だと主張していましたがあんな小国でもそういうことがあるからまとめるのは容易ではないでしょう」
ヨーロッパは日本のように城が多いから日本と似ていると只野はヨーロッパを旅して思った。日本の封建時代とにていると思った。
それから中国の話になった。

「中国では車が2500万台走っているんですよ、だからガソリンを消費するんですよ」
「そうですね、中国は今は北京など日本より物価が高いでしょう、時代が変わったもんです」
「中国の消費量も下がったもの一時的でしょう」
「東南アジアに行くとベトナムでもカンボジアなどはまだ車は普及していない、足はバイクです、道路一杯をホンダのスーパー株が走っていました、面白いのはカンボジアでは
中国人がカンボジア人にバイクを貸して営業させていました、ともかくカンボジアはやすいですから日本円でももっていけば事業起こせると思った。
バイクを買って貸せばいいからです、そんなことを考えたのもあまりにもまだ日本円との差が大きすぎるからですよ」
「東南アジアはこれから車が普及してゆくでしょう、常に世界は変わっていますから」
「そうですね、中国も十年たってあんなに変わってしまいましたから」
「東南アジアというとベトナムはフランスだったか」
「ベトナムでは漢字を使っていたんですよ、それからカンボジアのアンコールワットの壁画には中国人の兵隊とかタイの人も浮き彫りとして残っています,あの辺は昔から中国とかタイとかベトナムでもせめぎ合いがあったんです」

只野が田舎町に住んで世界情勢など直接語る人がいなかったのでその銀行の営業部長とかの人とと話して多少興奮した。
只野が世界旅行したのは50才からでありそれでも世界を20カ国くらい旅したのでそれなりに詳しくなった。それまでは本を読んで世界を知ろうとしていたのだがそれが失敗だったその時は日本が海外旅行ブームであり熱気となっていた。
なぜならその時の円は80ドルとかであり高かったから円の価値があったからである。
今は120円とかなったとき高いから海外旅行をもしにくいのである。
かえって中国人とかの爆買になり日本の風俗にも中国人が来ているというから逆になったのである。カホボジアでは5ドルで買っているとか信じられない安さでありそこに日本人やヨーロッパ人がたむろしていた。なにか自分は嫌だったが報いとして今度は日本人はそういう立場になるのもカルマだと思った。
そもそも中国に新幹線ができたということ自体時代が変わった。只野が行ったときは汽車で流民化した出稼ぎ労働者が家畜のように積み込まれて都市部に移動していたのである。車掌が笞で乗客をはたいていたというからまさに家畜だったのである。
それからたちまち十年以上たつと中国も変わってしまったのである。

ともかく只野にとって銀行は遺産がおりたときからかかわることになった。
そして株をするようになってからもかかわるようになった。
ただ株といっても不動産とか配当金目当てであり只野は年金をもらえないので月に配当金をいくらかもえればいいと銀行を通して投資したのである。
でも銀行が今や利子もつかない、マイナス金利にもなり一体銀行は何なのだろうと疑問に思った。営業部長といってもその人が証券会社の人と錯覚していたり銀行自体証券会社の支店化しているのかとも思った。
そもそも銀行自体がフインテックとかIT化されたり利子もつかないことや投資先がないとか経済の停滞でもうけることができない、銀行自体が消滅するのではないかということも言われる時代である。

つまり銀行の役割が消失しつつあるのではないかということである。
そもそも銀行がなにかということもわかりにくいがこれは江戸時代にはなく明治になって資本主義が導入されて不可欠なものとしてできたのである。
二宮尊徳が資本主義を江戸時代にはじめた先覚者だと言われる
資本を金をためてその元手で資金で生産を増加させたものとして評価されている
その時銀行はなくても資金を集めためて活かしたのだから銀行のはじまりのようなものだったのかもしれない。
そしてある本を只野は読んで銀行に貯金することは投資することでもあると書いてあるのを読んだ。なぜなら銀行とは金を集めてその金を貸してもうけて利子として配分するから株式会社と同じだということを知ったからである。
銀行が貸ししてもうけることができなくなれば利子も配当できなくなれば存在価値がなくなる、それで証券会社の下請けのようになってしまっていると思うのも当然である。
只野はともかく金がやはり現実に増えたり減ったりするから株がどうして上がったり下がったりするのに関心が向く、それが世界情勢とも関係しているから世界が身近に感じられるということもあった。
それは学問としてではなく現実の金がかかわっているから余計にそうなった。

銀行というとき大金をあづける人でも会社でも組織でも団体でもそれで銀行が経営できるのだからその金を積んでくれる会社でも組織でもその経営まで参加するようになるだろうそういう大口の貯金が引き上げられたら経営すら成り立たなくる
それである巨大な宗教団体ではその経営者のようにもなり銀行を支配するとまでなる
そういうふうに金の力はあるゆるところで左右する、マスコミにもそうした金が流れ支配されるから公平な報道などない、ドルが世界で一番強いというとき世界が金を通じてアメリカに支配されているということである。
エジプトの果てでロバに乗った少年がワンドーラくれというのもそうである。
アフリカの果てまで通じる金はドルなのである。
アメリカに逆らうものは今中国あれ世界でロシアであれ南米であれ石油安によってもつぶされるというのもなおアメリカが世界を支配しているからだともなる
その営業部長は終身保険としてオートラリアをすすめてきた。
「オーストラリアはこれは一番安全な商品です」
「こんなときオーストラリアがいいでんすか、石油安ですよ」
「石油はこれから上がりますよ」
「なにか、みんな不安でしょう」
「これは一時的なもんですよ」
只野は家族に従軍看護婦として今のシンガポールの対岸のマレーシアのジョホールバルという所のイギリスの赤十字病院に四年間いたのでそこに行きたいと思っていた。
オーストラリアにも行っていないのでそこを回って行ってみたいと言った。
只野はもう家族の介護でここ十年はどこにも行っていない、旅をしていなかったのであるただ年も年だから何か旅するのも海外旅行するとなると億劫になってしまった。
海外旅行ではひどい目にあっているので余計に今行くとなると嫌になっていた。
でもやはり家族に千回も聞いた話の場所には直接行ってみたいと思っていたのである。




あとがき


小説は苦手でありドキュメントとしてプログに書いてきた。プログはそれぞれの個人のドキュメントとしてニュースとして新しいジャーナルとなった。
マスコミで報道することだけがニュースでもない、個々人がニュースになった時代である例えば家族にとって家族の死であればこれは一番のニュースになる
だから母の死などをプログで書いたときそれも実際はニュースなのである。
ただ読む人の数がマスコミからすると極端に少ないし注目されないというだけである。
でも新聞で毎日死んだ人がのっているがその人がどういう人だったかはほとんどわからない、そうなると郷土の人でも何もわからない、ただ死んだという報告だけなのである。
それでは一人の人が郷土で生きて死んだということの意味とか価値もわからないのであるそれは郷土史としてとりあげることもできないのである。


郷土史というとき過去だけではない、今生きていることも郷土史でありというより郷土学になる。銀行でもやはり郷土として関係してくる、あらゆるものが関係してくるのが郷土学となる、郷土学とはトータルに社会をみるということであり意味を探求して価値づけるものである。
だからその範囲は自然も含めて広範囲になる、とても一人ではできるものではないのである。
自分は大学は経済学部であってもほとんど勉強していないし大学でもやっと入ったのであり三流であり遊んでいただけだった。
だから基礎的なものがわかっていない、それでも経験をつむとそれなりにわかるものがある、ただ現代は本当にグローバル社会になるとき70になろうが一生かかってもわからないことが多すぎるのである。
銀行とは何かとなったらこれもわからない、銀行に貯金するこきと投資することだよというのもそうなのかとなる、銀行には貯金して利子をもらうものだとばかり思っていたからである。現実にマイナス金利になったら株と同じとなった。
銀行でももうけられないとなると株のように低下してマイナスになってしまうのである。

いづれにしろこの十年間で経験したことをプログに書いてきたがこれは分厚い小説になるその能力が不足しているがやはり小説になるとすると特別の経験をしたときなると思った平凡な生活をしていれば小説にもならない、戦争など経験した人は小説を書けると思った能力が不足しているがそうなる
そして今プログにはそうしたネタが無数にある。もし小説家が読んでいたら小説のネタにはことかかないとなるだろう。

タグ:銀行の話
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2016年02月12日

世界同時株安に翻弄されて不安になるのはなぜ? (見通しがたたない、空間的にも時間的にもー紙幣は紙屑になり数字でありゼロになる)


世界同時株安に翻弄されて不安になるのはなぜ?

(見通しがたたない、空間的にも時間的にもー紙幣は紙屑になり数字でありゼロになる)


今日は真っ暗な道を自転車で帰ってきた。そして何かにつまづいたりなれた道でもずいぶんそれてしまった。
でも道は知っているから迷うということはない、自転車は暗いと迷いやすい、それで地元でないと迷ったときあせった。そこが全くどこなのかわからなくなった。
皆目検討もつかなくなることがあった。その時はパニックになる。
でも地元でこうして暗闇でつまづいたりてもあせることがない、なぜならその行く先ははっきりわかっているし必ず帰れるということはわかっているから途中でつまづいてもあせらない、いくら闇がおおっていても安心しているのである。


暗闇でも先の見通しがたっている、行く先がわかっていればあせらない、なぜ人は不安にかられるのか?
もし地元でないと先の見通しが全くつかなくなる、暗闇では余計にそうなる
そうなるとあせるし不安が増大する、パニックになる。
つまり地元では暗闇でもすでに心の中で道筋がはっきり見えているのである。
だからあせらないし急ぐこともないし安心で暗闇の中でも帰って行ける


世界同時株安と株がこれからどのくらい下がるのだろうとか、何か不安になるのは先の見通しがたたないから不安になる、こんなことは今までも良くあることだしまた株は下がったら上がるもんだよと誰も確信して言えないし先の見通しが言えない
それでみんな不安になり世界が不安心理におおわれるのである。
現代のグローバル社会は具体的なものとしてとらえられない世界に生きている
未だに自分の金融資産がどれくらいあるのか具体的にわからない、それはなぜなのかというと数字になっているからわからないのである。
数字だと抽象的であり具体性がないのである。
これまでは現物で経済を計っていたのである。給料も米高で相馬藩だったら六万石であり給料も米高で何石とりの侍とかなっていた。
こういう経済はわかりやすいのである。米で計られ米で一俵とかで計られる経済である。だから蔵に米が俵につめて置いておけば安心だとなる
まさに実物経済だった、それは江戸時代まで金は流通していても基本的には実物経済だったのである

金融というのはグローバル社会では数字で動いている、実物経済ではないのである。
だから世界が数字化して動いているからそこに落とし穴がある。
数字としての紙幣と現実に動いている実物が動いている世界とは違うのである。
世界が数字によって操作される、マネーゲームになる。
もちろん原油安が株安の原因とされる時、原油は世界の経済を動かすマネーである。
それは米と同じである。でもそれがマネー化するとき紙幣となり数字化した世界となる
だから現実の実物の世界として反映した経済ではないのである。
つまり現実の実物経済と金融化したグローバル経済のマネーゲームは違ったものなのである。
江戸時代などは社会がこんなに複雑化していない、実物経済がベースだからわかりやすい社会である。
人間の関係もやりとりもわかりやすいのである。
何かこうした架空化した数字化したマネーゲームのようなことをしているのは本来の経済ではない、経済とは経世済民から来ている、右から左へ巨額の数字化した金を動かすのが本来の経済ではないのである。
アベノミックスとか黒田氏の金融政策でもうまくいかないのは実物の経済と離れたものとして金融があるようになった。それは世界的にそうである。


奇妙なことだが現代のグローバル経済では何億もってようが安心を得られない、なぜならそれはあくまでも金といっても紙であり、数字にすぎないからである。紙だったら紙屑になるし数字は簡単にゼロになるからである
紙幣という金がそれほど信頼される富かというとそうでもない
だから大金持ちでも現代では不安をもっている
金がたまったら土地を買えということはそのことである。
自分の母も戦前に前の夫が事故で死んだとき一生暮らせる補償金をもらった。
でも実際は戦争になりその紙幣は紙屑になったのである。
残ったのはわずかに買った何反かの土地だけだった
原発事故でこの辺では避難区域から移り住んだ人が増えた
その時土地が求められた、補償金で家を建てるにも最初に土地が必要になる
それでこの辺では土地が三倍くらいに高くなったのである。
金はまさに紙屑となり数字はゼロとなる恐怖があるからみんな不安なのである。
これだけ豊でも不安を解消できない、それもまた皮肉な矛盾した現象である。


いづれにしろ人間は暗闇でおおわれるとき見通しがつかないからパニックになる
地震でも津波でも夜起きたらさらに被害者が増えた、そういうとき見通しがたたないから逃げることもできなくなる、津波から避難するときもあの道を行って坂を上って高台に逃れればいいと頭に入っていれば見通しがついていれば助かりやすい
でもそういう見通しがないとパニックになり迷うのである。
釜石で子供が津波から逃れられたのは避難訓練していてどう逃げるか道筋をわかっていたからである。それは自分が自転車で暗闇を帰れるのもその道筋が暗くても頭の中でわかっているからである。見通しがたっているからなのだ。

なぜまた現代はあらゆることで不安が増大するのか?それは情報過多ということもあるしマスコミもまた不安をあおる、週刊誌でも不安をあおる記事を書くと売れる
いいことばかり書いていると人はその記事も読まないのである。
「大きな地震がまもなく来る」と書けばみんな恐怖して読む
「もう百年は大きな地震は来ない、津波も来ない」と書けばあまり読まないのである。
なぜなら百年後となるともうみんな死んでいるからである。


いづれにしろこの世から不安をとりさることはできない、この世の終わり来るというのも真実である。むしろそのことを受け入れて来世を待ち望めばかえって見通しがたって安心だとなる、ジタバタしてもどうしようもない、来世なら天国なら永遠の安心があるが
この世にある限り不安から解放されることはない、それが人間のカルマであり生きることだとなる、実際は安心なのに安心でないとあおりそれで金を手ばなさない、消費しないというのも本当だろう。
今の世の中金がなければ老人を相手にするものもいない、子供すら頼りにならないとなると余計に金をためて使わないとなる
そして確かに人間の寿命は本人にもわからない、すると不測の事態が必ず起きる、その時金がないと困るとなり老人はためて使わないとなる
経済でもグローバル社会は世界的不安におとしいれる、それが怖いのは世界恐慌から戦争になったからである。グローバル経済はグローバルな戦争を引き起こすから怖いのである

こうした人間の不安心理を利用するものもいる、カルト宗教団体などがそうであり人を不安にして壺を買わせたとか商売にしたものもあった。
仏教でも安心立命とかというたとを言うから安心とかは宗教に帰依しないとないかのかもしれない、それはカルト宗教団体でもそうである。莫大な金をもっているからである。
自分もまた株に頼ったりしているからお前もそうじゃないかということもある。
では一体どこに安心があるのかとなる
それは金という紙幣なら確実に紙屑になるということは確率的に今は大きい、数字がゼロとなり全財産を失うことはありうる、では何か安心なのかとなると皮肉というか矛盾だけど自給自足的な生活に安心かあったとも逆説的にはなる
なぜならグローバル経済など関係ない、外から何も入ってこなくても一応生活できるようになっていたからである。
もちろん原発事故で空気も水も森林も汚されたらもう自給自足もなにもない、住めなくなったら何に頼るのかとなるとこの辺では補償金になってしまったのである。
飯館村の人が野菜など作り自給していたが金に頼るようになったら不安になったというのも象徴的だったのである。




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2016年02月20日

現代は遊びが仕事化する (遊びは創造を産み出す-人間は最後は遊び人間になる)


現代は遊びが仕事化する

(遊びは創造を産み出す-人間は最後は遊び人間になる)




古くは「神遊び」などという言葉が示すように,神をもてなすため,あるいは神とともに人間が楽しむための神事やそれに付随する芸能全体をさしていた

 汝(まし)も神ぞや 遊べ遊べ
  君も神ぞや 遊べ遊べ

古代日本における遊びは、ほかならぬ、こうした「カミアソビ」でした。
神のみが遊ぶのであり、人は神を通じてのみ遊ぶことができた

プラトン「法律」の一節のようだ。

「人間はただ神の遊びの玩具になるように、というので創られたのです。これこそが人間の最良の部分ですね。」

朝たづね ましも神ぞ や あそべ あそべ

朝たづね きみも神ぞ ましも神ぞや あそべ あそべ(神楽歌)


古代日本語のあそぶ


遊ぶとはもともと神と結びついた言葉である、あそばしますとかなると尊敬語になっているのもそのためである。
それが時がたつにつれてその言葉が庶民化して卑俗化する、御前とは宮中では尊敬語である。それはオメエはとかなると卑俗化した言葉になる
遊ぶという言葉自体その後は軽蔑的なものとなっていった。遊女(あそびめ)とか差別語にもなる。巫女はもともと神に仕えるものであり神と遊ぶものだが遊女化してゆく。
なぜこれほどまで遊ぶということが変化したのか?
それは労働が勤労の価値が大きくなったためである。古代とかその前は遊ぶということは今の遊ぶという感覚と全く違っていた。
現在は遊ぶということは常に忌み嫌われてきた、膨大な労働の時代がつづいた。
分刻みで労働が強いられる、江戸時代は意外と貧乏なのにのんびりしていた。時間にもルーズだったから約束の時間も守らないということがあった。
時間の感覚が時計もないのだから大雑把であり日が上り没りとの自然のリズムに生きていた。

それで東雲に(しののめ)という言葉が篠竹と竹に由来しているのが面白いし今になるとイメージできない。

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これなども意外なものである。竹と結びついていることは竹が生活と密接に関係していたからである。竹を利用した生活があったし竹が常に回りにあった。籠であれ笊であれ竹は日常生活に常に利用されていたからである。それが失われたときイメージできなくなる。

古代はその前は神と遊ぶだったが万葉集時代は

天皇(すめらみこと)に献(たてまつ)れる歌一首 大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)、佐保(さほ)の宅(いへ)にして作れり

あしひきの山にしをれば風流(みやび)なみわがする業(わざ)をとがめたまふな 巻四(七二一)

遊びは雅び(みやび)としても使われた。みやびとは宮中で生活することから生れた。
この歌は山にいることはみやびではない、宮中で遊ぶことが雅びなのである。
でも今になると山に入ることは遊びになっている。風流人はかえって山に入り隠棲するとなる。

人間が遊ぶということでも実は堕落してきたのである。遊ぶことができないことは人間の堕落だった。遊ぶことが何かネガティブな言葉と化して行ったのは遊ぶということが何なのか本来の意味が価値が忘れられたからである。

遊ぶが失われたのは西洋でも同じでありプラトンの時代は遊ぶが重視されていた。
学問もスクールが暇な意味であり遊ぶ意味から来ていたのである。
すべての学問が実用になったのは近代になってからである。
そして資本主義になったときすべてかは時間までが金となり金で価値づけられるようになった。
一分一秒を無駄にするなとなりそこで遊ぶということは価値なきものとなった。
戦前の製糸工場で休み時間に遊びたくて早食いした女性が死んだというのも嘘のような話に思うけどやはりそれだけ時間に追われて遊ぶ時間がなくなっていたのである。

江戸時代は貧乏でも仕事も時間によって追われない、2時ころすでに仕事が終わったとか時間に追われていないのである。時間の感覚がルーズだったのである。
現代とは絶えず時間に追われている、何するにしても追われている、遊ぶにしても追われている。遊ぶというとき時間に追われたら遊ぶにならないだろう。
ただ現代というのは豊になると遊ぶことがまた変質している、遊ぶことが価値あるものとなる
ゲームなど遊びでありでも金になれば遊びと見なされない、資本主義社会では金にすべて換算される、どんなことでも金になれば価値あるものとされる
一方で金にならないものは価値のないものとされ、その人は無益なもの社会にとって必要ないものとしてみられる、だから現代というのは無職とかには一番厳しくあたる。
無職ということは許されないことなのである。
つまりすべてが労働で成り立っているのだから働かざるもの食うべからずになったのである。

結局自分のしてきたことは一生遊ぶだったとなる、学問もた旅したことも芸術も遊びである。それで一銭の収入にもならなかった。となると資本主義では価値ない人間になってしまう。
もし本でも出して売れればそうはならない、画家でもいくらいい絵を描いても売れなければ価値ない人間にされるのが資本主義である。
そういう遊ぶ人間は許されないとなる、そうは行っても現代は豊になり遊ぶ人間が膨大に増えた。
第一何千万の老人はすでに仕事はしていないのである。そうしたらそういう人はみんな無駄だともなる、他にニートとか仕事をしない人も膨大に増えたのである。
そもそも子供時代は遊びが仕事である。遊ぶことによって学んでいた。
勉強になると遊びではない、常に勉強であり強いられることだった。
その成績とか試験とか中学辺りになると将来のためにいい生活をするために勉強が強いられる
でも学問でも今ふりかえるともっと遊びの要素があれば興味をもったと思う。
数学などでも図形遊びみたいなのもを工夫してやっていれば興味をもっただろう。
それが試験とか受験とか将来の生活の実益のためになるとかえって勉強したくなる

チンパジ−の実験で彼らにパズルを与えると大喜びしてそれを得ることを待ち、要求する。彼らにとってバズルを解くこと自体が楽しみなのである。しかしある時パズルを解くと食べ物を与えるようにするとチンパンジ−はしだいにパズルそれ自体を楽しむより食べ物を得るためにパズルするようになる。やがてパズルだけを与えて食べ物を与えなくなるとチンパンジ−はパズルへの興味をなくしてしまう。(あなたの隣の狂気−町沢静夫)

遊びで堕落した人間


それはチンパージーの実験でもそうだった。遊びとして数とか教えるといいのだがそれを成功報酬としてやらせると興味を失った。
何かを学ぶために褒美として餌をやるとかしていると餌に関心が向き遊びとしての学びに関心がなくなっていったのである。
それは人間も同じだったのである。遊びの要素がないと人間も学ばないのである。
つまり餌をやるから学ぶのではなく純粋に遊ぶことが興味を失わないことになる
科学でも実験でも遊びの要素があり遊びから発明が生れることもある
それは現代の複雑な科学技術の時代でもそうである。
豊になると遊びが仕事になる度合いも多くなるのである。
ギリシャでは貴族階級が奴隷を使っていたから暇が生れスコーレ(暇)がschoolになった。そのスクールが勉強であり強いられるものとなった、そもそも暇だから遊びの時間だったのである。
今は機械化でありIT化すると遊びが仕事になる、奴隷をしたものが機械がするようになるすると人間は何をするのか、遊べない人間は何をするのかとなる。
遊びというときギャンブルとかなにか低俗なものではない、本来遊びは高級なもの神と結びついていたからやはり芸術のような創造ができないものは時間を与えられてもすることがない、だからこの辺では補償金でパチンコとかギャンブルになったのである。

タグ:仕事と遊び
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2016年02月26日

なぜ農業が軽視されるようになったのか? (米余りなどで農家の価値は低下した)


なぜ農業が軽視されるようになったのか?


(米余りなどで農家の価値は低下した)


不思議なのは田舎にいても自分は農業をしていない、回りは田んぼでも野菜畑があっても自分は何もしていない、そしてなぜ八沢浦が津波で入江になったときそこで田んぼが消失して人も死んだのにその江戸時代の入江の景観がもどったことに驚嘆した。
そのことで批判されたのもわかる。
そもそも自分は田舎に住んでいても農業をしているわけではない、田舎の人がみんな農業している時代ではない、戦前は8割が農家だったのである。農民だったのである。
そういう社会と今の社会はあまりにも違っている。
田舎と都会が違っているようでも食料に対しての感覚はさほど変わっていないのである。米があまっている、減反しているというとき米の価値は相当に低下したものとしてみている。
米がなくなってもパンを食べればいいとか米が経済の中心になっていた時代とはあまりにも違うのである。


れは田舎でもみんな農家ではない、一割くらいし農家ではないし専業農家はさらに少ない、ただ土地を貸しているだけの農家も多い、あの女性は農家に嫁いだから大変だなと思っていたが全然違っていた。
会社員になっていて土をいじることもなけれ花すら作っていないから興味がないというのも変だなと思った。その女性はやせていてまるでモデルのような女性だった。
だから農家に嫁いだから農業やるのは大変だなとか見ていたが確かに旧家であっても旦那さんは会社員であり土地はあっても貸しているだけである。
それが農家なのかとなると疑問になる。そこに姑もいないから楽だなとみる
今では専業の農家とか純粋な農家は田舎でも少ないのである。
ただ趣味で畑で野菜を作っている人を知っているけどその苦労を聞いていると大変だとということがわかる、種が高くなった肥料が必要だ、虫に食われるからとか今度はモグラに野菜をかじられたとか盗まれたとか様々な障害が小さな畑を作るにしてもある。
草むしりは暇なししていなければならないから趣味の畑ですら苦労なのである。


東京のような大都会になると回りに田んぼも畑もないのだから農業を全く意識できない
だからたいがいはTPPに賛成になる、それより日本の経済は電気とか自動車にありそれで世界に売れなければ食料すら入ってこないという意識になる
経団連の考え方になる、グローバル経済ではそうなる、ベネゼエラで石油が安くなって食料品が高騰して入らないというのもグローバルに経済が動いているからである。
グローバル経済がいい悪いという前にそういうシステムに世界がなっているから日本だけが鎖国のようにはなれないのである。
否応なくグローバル経済のシステムに組み入れられているからである。
だから食料は日本国内と自給するべきだというときそれより工業製品を売れるようにするべきだとなる、そのことは農業の価値の低下なのである。
それはとりもなおさず農民の価値の低下なのである。
農業は農民は現代の経済では価値が低いものとしてみられる
米などありあまっているではとないか、何を心配するのだとかなる
たりなくなったら食料などいくらでも外国から入ってくるではないか、それより工業製品を売れるようにしなければならないとなる
それは石油が売れなくなったら食料すら入らないベネゼエラと同じになるというのが日本でもそうなのである。
日本では工業製品が売れなければ石油も食料も入らなくなり終わりだとなる
食料は日本の農家からだけ供給されるものとは都会では考えていないのである。


人間社会は常に価値の変化が起きている、食料が最大の価値だったのはそれだけ貧乏であり一日食べていければいいという社会だったからそうなる
日本酒でも今や酒を飲んで酔っぱらうというのではなく少量飲んで味わうというようになる、それで様々な酒が開発されるようになった。
食料でも原を満たすだけではない、味わうということであり質の高いものが求められる
自分も旅行しても家にいても何かうまいものを味わうとういことはなかった
でもなんか最近食を楽しみたいということがある、新鮮な野菜とか何かそういうものにこだわり味わいたいとなる
つまり老人はなにかをじっくり味わうということに向いている、それは映画でも小説でも詩でも文学でも深く味わうということに向いている。
文化的なものを味わうことに向いている。青年は行動の時期であるが老人は何か過去をふりかえり深く味わうことに向いている


ともかくなぜ自分が八沢浦が元の入江にもどったとき感嘆してそこで田んぼが全滅して家が消失して人も死んでいるのにその景観の方に関心をもったのか?
それは常日頃からそこに田んぼがあるということ米がとれるということに関心がなかったのである。そこが元の入江のようになっていたらどれほど美しかったろうといつも思っていたのである。
そこで米がとれて生活できるということをイメージしないのである。
これはすでに田舎に住んでいて都会人の感覚になっていた
ただ自分は田んぼでも畑でも景観として見ているだけだった。
ビルに囲まれた都会は嫌でありでも田舎が食料を供給する場というより景観として見ていたのである。
そして自然は安らぎの場所とてしみていた。そこでもし狩猟とか採集をする、食料を調達する場はしても見ていない、昔なら自然は森でも木の実をとっていたし野生の動物、鹿も狩りしていた、そうなるとまた自然は景観だけではないものとしてみる。
より深く自然とかかわることになる


いづれにしろ今は田舎にいても感覚的に都会的になっているのが普通なのである。
第一農家といってもその割合は一割にも満たない、みんなほとんどが会社員の時代なのである。だからこそ原発が金になると誘致されたのである。
米など作っても金にならないということで漁民でも農民でもその金になるということで原発が誘致された。
工業社会になったとき農業の価値が低くなったからそれは田舎でもそうであり原発が誘致されたのである。そして漁業も農業も放射能汚染で破壊されたとなる


それはグローバル経済の結果であり日本だけで起きたことではないのである。
ローバル経済になるとこうした食料生産する地方自体の価値も減少する。米でもオートラリアでアメリカでもとれるし安くてうまいとなると別に都会では地方に頼る必要はないとなり地方は軽んじられるようになった。
でもそれもTPPでもいいにしろ工業製品が売れなくなったときどうなるのか?
現実にこれまでのように電器製品は売れない、車だっていつまで売れるかもわからない
常に競争にさらされているからそうなる。
そして日本で売るものがなくなるときどうなのか?
その兆候はすで現実化している、観光立国として外国人を呼ぶのも金を稼ぐのもそのためである。売るものがなくなれば観光で売る、それはギリシャとかエジプトとかと同じになる。
それから食料さえ高くてて買えないとかなる、ベネゼエラのようになる
その時日本国内で食料だけでも自給した方がいいとなり地方が見直される
そして原発事故があって食料すら作れないとなることは日本が滅びる、飢饉がくるとかなりそれも反対するようになるかもしれない、つまり時代の変化によって常に価値は変わっているからである。
そしてグローバル経済は何か一国でも全体に影響を及ぼす、ギリシャなど観光国であり小さい規模の国でも世界的に影響を及ぼす、それが恐慌とかなり世界戦争にもなるから不安定なのである。


橡のみ.JPG



  秋深くして 橡子熟し
 散落す 榛蕪(しんぶ)の崗
 傴傴たり 黄髪の媼
 之れを拾いて 晨霜を践む
 時を移して 始めて掬に盈ち
 日を尽くして 方に筐に満つ
 幾たびか曝し 復た幾たびか蒸し
 用って 三冬の糧と作す

つづきはここで

この漢詩のように橡(とち)の実を拾ってそれを蒸ししてアクとりして食べるとなると手間がかかり容易でないから食料は貴重だとなる、その貴重な食料も税金としてとられるというのが中国は古来からそうだった。
農民に対して常に税金がかかりその苦しみがあった。
要するにこういう生活をしていれば食料の価値は高い、一つ一つの橡の実を拾うから一つ一つが貴重だとなる、それは会津の方で橡(栃)の実の餅が売られている、それはうまいけどこれを作るのには手間なのである。その橡の実は会津とか山の村になると日常の米のようなものになるから貴重である。
今はそういう感覚ない、米でも昔だったら一粒でも大事にしていた。それは米というのものが余り減反するなどありえなかったからである、その米をまた税金として納めなければならないから余計に貴重になったのは同じである。
だから人間は今食料をありがたいという思う感覚、感謝の気持がなくなっているのだ。
米ならあまるほどある、家畜の餌にするほかないとかなると米を大事に思う気持もなくなるのだ。
そのことがまた自然からでも復讐されるときがくるかもしれない、原発事故などでも自然に基としたものが放射能汚染で使えなくなった。
肝心な水さえ飲めない、土も利用できない、木も利用できないととなったら人間はいくら工業製品を作っても生きていけないとなる
外国に売ればいいといっても日本の電器製品のようにそれが売れなくなるということがあるから危険なのである。

posted by 老鶯 at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2016年02月27日

グローバル経済は数字化してリアリティが得られない) (恒産なくして恒心無しーモラルが形成されない)


グローバル経済は数字化してリアリティが得られない)


(恒産なくして恒心無しーモラルが形成されない)


【読み】こうさんなくしてこうしんなし
【意味】恒産なくして恒心なしとは、一定の職業や財産を持たなければ、しっかりとした道義心や良識を持つことはできないということ。
【恒産無くして恒心無しの解説】
【注釈】「恒産」とは、一定の職業や財産のこと。
「恒心」とは、正しさを失わない心。

諺でも格言でも時代的に必ず解釈が違ってくる、変わらないものもあるが解釈が違ってくるものが必ずある。
恒産とは常に産み出すものである。恒に(常に)産み出すものとはなにか?
それは大地が自然が産み出すものでありそもそもが人間では産み出せないものが恒産なのである。
恒産なくして恒心なしとは石油とかに頼っていればサウジアラビアとかベネゼエラのように世界経済のを影響をもろに受けて食料すら入らなくなり危機的状態になる
石油がとれれば安泰だと今までは外からでみていた自分も石油がとれる国が安全だと投資して失敗した。常に世界は変わりやすいからそうなる
アフリカとかでコーヒーだけを栽培していたらコーヒーが安くなり飢饉になっとかもあるつまり畑でいろいろな作物を作らずにコーヒーだけを作っていた結果コーヒーだけとっていてもそれは食料とならなかった。
単一商品化した農業のためである。それは江戸時代にの日本でも起きていた。
東北が飢饉になったのは米が商品化していて米だけを作っていたためだという。
五穀を作っていれば飢饉からまねがれたという、米を商品として売るためにだけ作っていた結果飢饉になったとき米もだめになったら他の作物を作っていればしのげたができなかった。


一国でバランスある農業をしていればそうはならなかった。東北という地域でもそうである。何か一地域でも工業でも農業でもバランス良くあればいいのだがかたよると危険になる、石油だけに頼っていた国はそれだけ危険だったのである。
つまり世界経済が危機になれば食糧すら手に入らなくなる,世界の国がそういうとき援助してくれるかというとできない、日本で米があまっていてもその米を援助するにも輸送費が高くなるから援助できなかったと同じである。
米が余っているからといってもさらに輸送するとなると金がかかるからその金を一体誰が出すのかとなるからだ。

工業製品が恒産になるのかというと疑問である。現実にシャープが債務で台湾の会社に売られるように電器製品も今では日本だけではない、中国でも台湾でも韓国でも優れたものを作るようになれば当然そうなる
今は車がなんとか売れているから日本経済はもちこたえている。それすら将来はどうなるか不明である。
技術競争に敗れたときたちまち零落するのが工業の世界である。
農業はそれと違って自然に根ざすから息が長い、森林業でも一つの木が育つのに50年かかるとすれば一代だけの思考ではできない、だからその栃に何代も根ざして継がれてきたのである。
世界でもエジプト文明が三千年もつづいたというときそれは農業中心の社会だったからである。江戸時代が3百年つづいたのもそうである。
現代の文明は約100年くらいで世界の資源を使い果たして消耗してゆく、百年で世界の資源を使い果たすようなすさまじい文明である。


TPPとは何か、それは貿易の自由度を拡大させる、そうなるとますます単一商品にエネルギーが注ぎ込まれる。日本は車だけ作っていろとかなる、あとの農産物はアメリカから輸入すべきだとなる。価格的にも安いのだからそうなるべきだとなる
これはアメリカ自体も反対している面がある。アメリカにとっても自国のバランスを欠くことになるから反対する、アメリカは農業大国でもあるだ。
グローバル経済の矛盾が一気に限界に来て噴き出してくるかもしれない
グローバル経済化しているからその時どの国でもその影響を受ける
原発事故は農業をできなくしたから都合よく農産物はアメリカから輸入しろとなる
アメリカが古い型のマーク1の原子炉を日本に売り込んだのはそうした陰謀があったのかとまでなる


東京のような大都会となる食糧は外部に依存しているしあれだけ密集ししているから地震で壊滅的打撃を受けるかもしれない、災害には弱い構造である。
そうした一極集中とか様々な脆弱さが大地震を契機に一気に現れる
それは天の理にも反しているし矛盾が何かを契機に一気に表面化して終始がつかなくなるそしてその時大都会がいかに異常なものだったか身をもって津波のように知ることになる無理して原発を作ったこともまた再稼働したことも事故になり日本の国土は汚染されてもう住めなくなるかもしれない、そういう危険を犯してまで原発は造るべきではない
日本にはそもそも原発は向いていなかったのである。
原発は恒産ではせない、工業も恒産ではない、それは一時的なものである。
だからシャープのような大会社でも売り渡すことになる
工業は消長と興亡が激しい世界である。恒産ではない、終身雇用ではない、自然に根ざしたものこそ終身雇用なのである。
それも一代では終わらない代々つづくものとして恒産があり恒心が作られるのである。
そして百年とか二百年しか現代の文明はグローバル経済はもうつづかない、つづけられないのである。自ずと破綻してゆく運命にある。
これほどに短期的に栄えてたちまち消失してゆく文明はなかった。
500年とかマヤ文明もつづいている、マヤ文明も自然に根ざしていたからである。
その根っこは大地にあったが故に時間的に長い文明が形成されたのである。


現代は恒産を作り出すものが何か問い直す必要があるのだ。グローバル経済というのは常に不安定であり株でも常に変動している。そういう世界では恒心をもつことはできない、モラルをもつことはできない、百カ国があってその一つ一つが関連していて世界経済をパソコンで見ていたら目が回ってしまう。恒心などありえないのだ。
そして突然どこかの一国が崩壊して世界中ガタガタとなりもう操作もできない、収拾できなくなる。
モラルというとき何か一つの食べ物でもスーパーであれ盗むとすごく罪悪感をいだく、でも株式市場とか世界市場とかなるとその金はもう金ではない、物でもない、金融のゲームのようになりそれで桁外れの収入になっている
市場がギャンブル化しているのである。
資本主義がプロテスタンの基というときそれは修道院からはじまったからてある。
勤勉にして蓄積して他者を助けるということにはじまっていた。
そこにはモラルが育まれた、もう現代の資本主義がそんなモラルもなにもない


莫大な金が世界をめぐりそしてゲームでギャンブルで桁外れの金が入る、それはまさに盗んでいても罪の意識もてない、一個のリンゴを盗むだけですごい罪悪感をいだく
でも百億を株でもうけたとかなると何の罪悪感もいだかない不思議がある。
それだけ世界経済は株の世界でも現実世界から遊離しているのである。
そういう世界はパーチャルな世界となりそれがリアリティともなり世界を動かすことにもなる
世界の真実などわかりえようがないからだ。それはメデアによっても操作されるからわからない、金融もバーチャル化しているし戦争だってイラク戦争のようにバーチャル化したでもシリアでも空爆で人間は無惨に多数死んでいるのである。
ここでも空爆なら罪悪感を感じない、戦争がゲームのようになる。
でも人一人を目前で子供でも殺したら余計に罪悪感をいだく、それがさらにロボットが戦争するとき罪悪感をいだかないようになることがまた恐怖なのである。
それはすでに一部で現実化しているからだ。
なぜこれほどに陰謀論になるかというとそれは今のグローバル世界がとても一人の人間にもうわかりえようがないものとなっているから陰謀論になる
誰かが裏で操っているのだととなる。それは株でも何でもそうなる。
経済でもだから百億円くすねられても何の罪悪感もいだかない、でも一個のリンゴを盗むとすごい罪悪感をいだく、この相違に現代のモラルが恒心が得られないことが端的に現れていたのである。

posted by 老鶯 at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2016年04月14日

グローバル経済と郷土学 (遠くの人は外国人は本当に困ったとき助けるか?)


グローバル経済と郷土学


(遠くの人は外国人は本当に困ったとき助けるか?)

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「地域を守る看護」ー地元の病院



グローバル経済というときこれを理解するのはむずかしい、実感できない世界である。
具体的に日々の生活でわかっていることは金がすべての価値基準になっていることであるそんなこと誰にも言われなくても庶民でも日々の生活で骨身に沁みて知っている
金なしではどうにもならないということを知っている
ではそもそもこうしたグローバル経済とか資本主義の金がすべての価値基準となった世界があったのかというとない、時代的に封建時代というときヨーロッパにもあり日本にもあった。
その価値基準は金ではない、江戸時代の価値基準は米であり貨幣ではない、だから石高によって侍の月給は計られていた。貨幣ではないのである。

封建時代は土地が最高の価値をもたらすものでありその土地の上に支配体制ができた。
米や野菜でも土地がなくては何もできないからである
ユダヤ人は土地をもてなかったから諸国をさまよい、金融で生活する他なかった
それが資本主義の元になったという人もいる。
だから土地を基にある国家とか否定する、世界が国というものなくなって金が支配されるのがいいことになる、それは多国籍企業でも同じである。
国が関税とか税金をとられるから自由に活動できない、国境もないほうがいいのである。

ではグローバル経済と郷土学というとき何が関係あるのかとなる
最近のこの辺で市が開かれる人が一個500円のトマトを売っている、前は200円くらいだった、そのトマトは普通のトマトより味がいいし大きいのである。
ハウス栽培のより味がいい、形が丸くなく楕円形で大きいのである。
だから確かに一個の丸いトマトより大きい分三個分くらいあるかもしれない
でも一個500円は高いと思った、そこまでして買うかとなる

そういうトマトは東京とかの金持ちに売ればいい、でも今度は輸送量がかかるからまた金がかかる、でも東京では大金持ちがいるから売れる、地元ではそうしたうまいトマトも食べられないとなる
そういうことは魚でもそうなっていた、新鮮なうまい魚は東京に売られていた。
確かに松川浦でとれた石鰈などを2000円とかで買っていたことがあった
それでも魚は新鮮だとうまい、それだけの価値はあった
でも金だけが価値基準になる経済は地元に住んでも地元のうまい魚が食べられないとなるのも損である
何もこういうことはグローバルに起きているのである。
世界の貧しい国ではうまいものを世界に売っている、それで生計をたてているが自分たちは食べられないということが普通にあったからめずらしいことでもない
金が基準となるグローバル経済ではどこでもそうなるのである。


でも問題は人間が困ったとき本当に遠くの人が助けに来てくれるだろうか?
「遠くの親戚より近くの他人」というときこの諺の意味は遠くというとき隣の村でも当時は歩くのだから遠かった゛では病気になったりして看病してくれとなっても隣の村から来るにも手間である、すると隣近所に助けてもらった方がいいとなるのだ。
そういうことを原町の親戚の人が車でくるのにも手間だと思った
隣だったら歩いてでも簡単に来ることができるが原町でも遠いということを知ったのである。まして東京になったら遠くてどうにもならないとなる
外国だったら来ることも何することもできないのである。

原発事故でも一時南相馬市は陸の孤島と化した、放射能を恐れて外部から物が入って来なくなったのである。ガソリンもなく車も使いなくなった
外部の人だって放射能が危険となれば自分の命が大事だからちらあえて来ないのである。グローバル経済をどうのこうの言っても現実に否定できないようになっている
世界がそういうシステム化されているからここから一国だけ一地域だけが別個になることはできないようになっている
これを郷土学の観点から考えると福祉などの分野から考えると病気になったり介護になったりするとき実際に助けてくれるのは働いていくれるの地元の人である。
こういう人に直接接する分野は遠くから物を運ぶのと違うからそうなる
ただ介護でも施設があっても人手がないとかでよその施設に入った人もいる。
だから必ずしも今は移動が容易だから地元にこだわる必要はない社会である。


郷土学というときそれは何か?これは人間を自然をふくめてトータルに生きることであり考えることである、自分はそれを追及してきたのである。
例えば人間が死ぬというとき山に葬られ先祖になったというときそれは自然と一体化したことなのである。
死というものもその土地の自然と結びついて死があり死んだあとも先祖が見まもってくれるという思想はトータルにその土地全体を視野にして生きていることなのである。
現代とは科学技術が過度に発達してトータルに生きられないことが一番の問題なのであるそれは死という問題でもそうである。何か人間は死ぬともう部品のようにかたづけられるのである。
「お前の役目は終わった、あとは何もない」となるのも淋しいだろう。
先祖として山に眠り子孫を見守るという思想は都会から文明から生れないのである。
一代だけの部品化した生なのである。生でも死でも意味がもてないのである。

エジプト文明でも死は終わりではなくあの世まで継続していた、あの世でも生前と同じような生活をしていたのである。生と死が断絶していなのである。
そこにはトータルな生き方が生前から実行されていたからである。
グローバル経済は世界をトータルに生きるというものではない、そんなことは不可能である。それより世界がかえって部品化されて物でも何でも供給するようになる
それは自動車が生産するとき自動車が一つの世界となり世界中で部品を調達しているのとにている、だから自動車文明になってしまう。
そこには自然とはかかわりないし外にもトータルにかかわらない世界である。
自動車の価値がすべてになってしまう社会なのである。


ともかくうまい500円のトマトを地元でも食べたいと思う、でも500円出さないと売らない、これはうまいから外でも売れる、外に売り出そうとなる
東京なら金持ちがいくらでもいるから出せばいいとなる、そして地元の人はそのうまいトマトを食べられない、それがグローバル経済の矛盾なのである。
全部がそうでなくてもグローバル経済は世界が金で計られるときそうなりやすいのであるそうなると500円のトマトを高くて食べられなかった、もっと地元で食べたいのに食べられなかった、あの人は地元に貢献しているのかとかなんとかなる
もし病院に入院したりしたとき、この人はあなたの作ったうまいトマトを食べさせてもらいましたから世話しますよとかならないのである。
そんなこと今はいちいち考えないというのもそうだが郷土学の観点からすればそうなる
郷土学は人間をトータルにみる生き方見方なのである。
江戸時代から戦後の十年くらいはそういう自給自足の世界だった。国自体貧乏なのだからそもそも地方交付金とか生活保護すらない社会だった。
それで自分の家の隣の人は餓死して死んだ、というより子供がいたのだから子供が悪かったのだかそういう貧乏な人がいたのである。
現実はそういうこともあり貧乏でないからこそ理想論が過去を美化するということはた常にある。

矛盾しているのは自分が一時外国の株とかでもうけてわずかの畑を作っている人を援助したりした。その人は畑をやれたのは趣味程度だがグローバル経済で自分が田舎でも金が入ったからだとなる、そんなことは自給自足経済のときはありえなかったのである。
趣味で農業をしている人などいなかったのである。そこで米でも野菜でもとれなかったら餓死するとかの切羽詰まったものとしてやっていたのである。
豊になったからこそ農業もゆとりでやれる、減反にまでなっている
だから過去をすべて美化するのは問題である、でも世界をトータルに生きるということは人間の生を充実させる、それは継続して死も充実して継続した生がその土地にありつづけるとなる、グローバル経済をすすめるとある地域はのトータルなものは失われ自動車の一部品をだけを生産する場となったりする
国自体が日本では車とカメラだけを作っていろとかなる。
食糧は牛肉でもなんでも広大なアメリカで提供してやるから作らなくてもいいとなる
そういう極端になるのがグローバル経済なのである。

トータルになるより国すら部品工場のようになってしまうのである。
国でも地方でもそういうふうになるのは人間にとっていいのかとなる
限界集落をなくせとか都会の人が言うとき、都会的価値観だけが価値観ではないことを知るべきである。
地方から田舎から産み出すものがありそれが何かを知るべきである。
都会的グローバル経済的価値観を一方的におしつけるのは問題なのである。
もちろん地元の人ですら田舎ですら現代の都会中心のグローバル経済の価値観になっている、それは現実にそうなっているからでもあるがそこに疑問ももたないとなると都会人と同じになる
原発事故の被害で一番思ったことは人間が生きる基本となる水とか土とか食糧の生産にかかわるものが放射能で汚染されたことである。
土が水が汚染されたもう人間はそこに住めないのである。それが原発事故の恐ろしさだったのである。


確かにボランティアの人には助けてもらった。現実に復興で働いているのはほとんど外部の人であるのも事実である。
これも広域社会のグローバル経済のいい面としてあった。
外からの外国からの援助も受けることができるということがある。
一方でボランティと言っても一時的に来るのは楽だと思う、でも継続的にかかわるとなるとむずかしくなる、女川辺りでここに住んでくれるんだな、ずっと住んでくれるんだな、なら最後まで世話してやるとか言っていた。
そういう困窮したところをあえて選んで住むというのは容易でなくなる
地元で南相馬市で補償金でもめたたしたのやはりここに生きて死ぬという場だからである一時的に旅人のようにきてボランティアして帰るのとは違うのである。
たがいの要求も厳しくなったりもする、それはやはりここで生きて死ぬという場だからである、ただもともと住んでいた人が放棄したりしているのだから津波の被害地であり原発事故の被害地でもそこに住むこと自体容易ではない
郵便局に長くいたら8割は老人だった。ここは避難区域でないにしろそれだけ老人が多くなっている。これは全国的にそうだがこの辺は老人が外よりも多くなったのである。
原発事故では故郷に生きる生の継続が破壊されたことも大きな被害だったのである。



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2016年04月25日

グローバル経済社会とは多国籍企業が世界を支配する (インターネットの読み方、知識情報の構築が必要)


グローバル経済社会とは多国籍企業が世界を支配する


(インターネットの読み方、知識情報の構築が必要) 

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モンサント社は「農薬の使用量が節約できる」といって、グリホサートと呼ばれる除草剤と、グリホサートに耐性のあるGM大豆の種子をセットでアルゼンチンの中小企業に売りつけ、在来種からGM大豆に切り替えさせていった。

そしてモンサント社は「農薬の使用量が節約できる」といって、グリホサートと呼ばれる除草剤と、グリホサートに耐性のあるGM大豆の種子をセットでアルゼンチンの中小企業に売りつけ、在来種からGM大豆に切り替えさせていった。

公的な利益を守るはずの国や自治体も、その目的が「株主利益の最大化」にとって代えられる。
 こうした独占大企業の支配が続くかぎり、国を支える働く者が生きていけず、社会を維持することができない段階に到達している。

他国の食料自給潰し略奪
アメリカ多国籍企業
               日本にTPP参加迫る黒幕 



米多国籍企業をたっぷり潤す現代の奴隷制度

240万人の受刑者をもっと増やせ、そして低賃金でこき使わせろ!



世界的に名前が知れ渡る多国籍企業が低額の賃金に目をつけ、受刑者を労働力として利用する動きが加速していることだ。しかも受刑者数は過去10年で加速度的に増えている。

 米国の刑務所(連邦、州立、民間)に収監されている受刑者数は現在約240万人。1972年が約30万人で、90年には100万人。過去20年以上で2倍以上に増加した。


 
「多国籍企業的展開にたいして、各国では、自国から企業が逃げないように、あるいは外国企業を誘致するために、法人税の引き下げ合戦が生じている。
安倍政権は、財政危機のもとで、法人税をさらに20%台に引き下げようとしている。これは、多国籍企業が支配する、こうした現実に対応しているのだ。」


世界の問題を追及するときそもそも世界が今どういうふうに構築されているかということが肝心になる、グローバル経済というとき一体それは何なのかということになる
ただヒト、モノが自由に出入りする流通するということではない
グローバル社会は国を国境を越えて多国籍企業が支配する社会である。
単純にヒト、モノが自由に出入りするというものではない、多国籍企業を通じてヒト、モノが自由に出入りする社会である。もちろん観光などもヒトが自由に出入りするがそれがグローバル社会の目的ではない、それが悪いとして否定はできない
ただグローバル経済資本主義社会というとき具体的にイメージすればそういうことではない゛多国籍企業が世界を支配するということである

これまでは第二次世界大戦までは国がしのぎを削っていた。今は多国籍企業が国境を越えて支配する、国の力は弱り多国籍企業に従属するようになっている
それでそもそも国の存在価値が何か問われる、国という存在が希薄化されているのである国より経団連の意向が政治に反映される
多国籍企業というとき何か特殊なアメリカにある巨大企業をイメージする
でもほとんどの日本のトヨタであれソニーであれキャノンであれ多国籍企業なのである
ほとんどの名のある大企業は多国籍企業なのである。
現代はまさに多国籍企業社会なのである。
世界がこういう社会でありシステムであるときそこから世界の問題も起きてくる
そういう社会の仕組み、システムを理解していないとそもそも理解できない

なぜタックスヘイブン問題が生れたのか?

つまりこれも多国籍企業が必然的に産み出したものである。多国籍企業は国とかからの税金を逃れたいのである。それで法人税を引き下げてほしいというのもそのためである。
多国籍企業の代表者のような経団連が政治を動かすのもそのためである
そして世界中で国からの税金を逃れるためにタックスヘイブンが必然的に生れた。
これは明らかにグローバル経済資本主義が多国籍企業社会中心であるからそうなった
こういう社会であるとき税金逃れの道を必然的に作り出していたのである。
それは違法ではない合法的だというときもまさにそういう社会だということである。
国が税金をとることを逃れる、でも多国籍企業社会が世界のルールを国を越えて決めていたとなるのである。

そしてダークネスで常に主張しつづけていることはわかりやすい、そういうシステムの中で生きることはどういうことになるのかということである。
多国籍企業社会のグローバル資本主義で勝者になるにはどうするかと常に説いている
それは非常にわかりやすいのである。株主になってもうける、資本をもって投資してもうける、それが勝者になることでありあとは奴隷化されるとなる
株主であり資本を元金を最低でも一億円もたないかぎり勝者にはなれない
実際は百億円とかもっている人でありもっともっている人でありそういう人はもう働く必要もない、株で定期的に収入が入ってくるのである。
その他の人はいくら真面目に働いても収入は限られている社会である。
不正規とか言われる労働者であり時給いくらとかで奴隷のように働かされても収入は低く抑えられる

それが極端化して面白いというと語弊があるがアメリカの刑務所で犯罪者が多国籍企業にとって好都合であり低賃金で働かせられているというのもわかりやすい
アメリカが豊かな国だというけど実際はそれは一部であり格差社会である。
それが極端な形で刑務所で安い賃金で多国籍企業に働かせられていることに現れている
つまり多国籍企業社会とは一部の株主が潤いあとは奴隷化される社会だということであるだから株主にならない限りこういう社会では勝者になれないのである。
刑務所で働かせられる者がいて多国籍企業社会で株主になっている人は富を享受できるというのが現実である

そして多国籍企業が農業すら支配する、種を遺伝子操作して支配しうりつける、種は高いものであり種が農業を支配するともなる、肥料でも除草剤でもそうである。
そういう基本的なものが大企業に支配されるのである。

公的な利益を守るはずの国や自治体も、その目的が「株主利益の最大化」にとって代えられる。
 こうした独占大企業の支配が続くかぎり、国を支える働く者が生きていけず、社会を維持することができない段階に到達している。

国や自治体というとき国という大きなものだけでない、市町村とかの自治体でもそうである。そこでも大企業が自治体を支配してしまう、原発が作られて事故になったのもそういう一面があった、大企業の力がそれだけ大きく国でも市町村でも支配してしまうのである

darkness DUA

ここで追及しているのがわかりやすい、結局この人も投資でもうけているのだろう。
そういう矛盾が自分にもある、外国に投資したりしているからである。
そういう社会だからそうなってしまうのである
タグ:多国籍企業
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2016年05月05日

この世の中誰が犯罪者かわからない (刑務所の囚人が低賃金で多国籍企業に使われる矛盾)


この世の中誰が犯罪者かわからない


(刑務所の囚人が低賃金で多国籍企業に使われる矛盾)



刑務所をビジネス化=民営化して儲ける連中の話が出てきます。
「刑務所産業」は儲かるのです。なぜなら、600万人もいる受刑者を
最低時給17セント(約時給17円)で働かせることができるからです。
そのために、数々の法律を多国籍企業は作って来ました。
スリーストライク法は、「スリーストライク アンド ユー アー アウト」
という信じられない法律です。犯罪を3度犯せば終身刑。微罪でもそうなります。
終身刑になった受刑者は時給17円の労働者として民営化された刑務所で搾取されるわけです。


多国籍企業にとっては囚人を奴隷のように仕えるから効率的だなとる
一般の人だといろいろ文句を言うが囚人だったら言えない
まさに奴隷のように使える、これほど企業にとっていいものはないとなる
こういう所に現代の多国籍企業支配の資本主義の矛盾があからさまに現れている
これなども囚人が犯罪者なのか多国籍企業が犯罪者なのかわからない

「俺たちは確かに犯罪を犯した、でもそれをいいことに多国籍企業は俺たちを奴隷のように使う、つまり弱みにつけこんでこき使うんだよ、どっちが犯罪者なんだよ」

現代の多国籍企業の支配というのはこの囚人のように一般人もされているのかもしれない安い時給で働かせられているのがそうである。
そうなると労働倫理が崩壊してゆく、一体何のために働いているんだ、多国籍企業の幹部や株主のために働いている、その利益は労働者には回ってこない
要するに刑務所の囚人と変わりないんだとかなる、それでしきりに今は労働することが馬鹿らしいとなる、利益が多国籍企業に回り株主に回り労働者には回ってこない
それはアメリカでも起こっているし全世界で起きていることである。
グローバル経済というシステムの中に組み入れられているからそれを否定しては生きていけないのである。
だからどうしたら得するのかとなるとグローバル経済のシステムの中でもうける方法を考えざるを得ない、それが株であったり他の投資であったりする
ただそれも一億円とかの元金がないと参加できないのである。

多国籍企業にるすると囚人がもっと増えればいいとまでなる、低賃金で規則的に働かせることができるからである。
その時医療関係でも無駄な薬でも与えてまたはたいして病気でなくても病人が増えればもうかるとか悪魔的計算になる
つまり利益のために人は人は悪魔に魂を売る、良心を売るとなる
社会はきれいごとではすまないとかなる、社会にでればみんなそういうジレンマに悩む

弁護士でもそうである。正義感だけでは通用しない、食べていけないから利益になる方につく。弱者より強者の味方になった方がいいとなる

弁護士は善人相手じゃ食っていけない 
悪人側につかないと儲からない 
人間のクズがやる仕事。 

坂本弁護士一家殺されてかわいそうって思ってたけど 
大人になるにつれて 
少年事件などの弁護士がいかに被害者を叩きのめしているか 
悪徳企業が得をするように割る知恵を伝授しているか 
 そしてこのように法律知識をふりかざして頭弱一般人から金を搾り取ってるか 
知って 
 なんか同情心消えたわ。 

これは極端にしても弁護士の危険なのは遺産相続とかう大きな金の争いに首をつっこむからそうなる
その分け前をもらうのが弁護士だともなる、後見人などでもわずかな金でしたくないとなり財産をある老人からとるということも起きる


「心に青雲」で野球賭博のことを言っていたがそんなに悪いことではないという。
普通だったらみんな批判するだろう。なぜ逮捕されたのかというとそういうふうに自由にる賭博されると役人が困る、役人の利益にならないからだという
実際に政府役人公認の賭博がありそれはいいとされている、つまリ胴元が役人だったらいい、暴力団関係ならだめだとなる
ところがハチンコ屋でも警察関係が天下りしているとか警察の利権になっているのである世の中権力をもっていれも得する仕組みになっている
警察すら巨大な暴力組織だから暴力団とにていないこともない、警察は時の権力者につくのが普通である。

結局この世の中誰が悪人か善人かなどわからない、まず自分は善人だと思っている人は善人ではない、自分は悪人だと思っている人は実際は善人である。
たいがい多くの人は善人だと思っているからである。
善人悪人というとき犯罪を犯すとか犯さないとかではない、本当の宗教家は自分は悪人だと言っているからである。そういう自覚を普通もていないからである。

だから囚人を弱者を利用して金儲けしている多国籍企業は相当な悪人だとなるが社会的には糾弾もされないのである。
犯罪人をどうしようが文句は言わせないとなる、これほど好都合なことはないとなる
だからこの世の中はみんなブラックである。
カルト宗教団体なども何ら宗教などと関係ない、あくことなく権力を求めている
なぜそうなるのか?結局得する利益になることをみんな求めているからである。
権力を得れば得する側になるからみんなそうしている
マスコミであろうが何でも権力側につくのである。
だから常に反権力の立場を維持しないとフラックなものにとりこまれるのである。
原発事故でも権力によって「安全神話」が作られた。
そこには政府であれ官僚であれ検察であれマスコミであれカルト宗教団体であれ権力化していたのである。

結局この世の中は矛盾である、キリストが十字架の上で同じ十字架の犯罪者を天国にあるだろうと言ったのも矛盾である。
キリストに味方したのは犯罪者だけだったということである。
それが何かこの世を象徴的に示していたのである。
この世で本当の犯罪者などわからないしそれは捕まえることもできない
それがこの世だということである。




タグ:刑務所
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2016年05月07日

全国市町村財政情況0・5以下の感想 (北海道の旅の回想の詩ー和寒(ワッサム)


全国市町村財政情況0・5以下の感想


(北海道の旅の回想の詩ー和寒(ワッサム)



矢吹町(福島県) 0・5 

矢吹町は福島県だ、ここも何かなじみないんだ、交通的に不便なんだよ、鉄道通らない所はなじみがなくなる、でも一回くらい通ったのかな

亘理町(宮城県)0・5

ここが財政悪い?仙台に近いしみんな通勤しているけどな

千葉県(いすみ市、旭市、白子町・・・)0・48

千葉県でも財政が悪いところあるんだな、東京圏だと思っていたが千葉県でもそういう所あるんだ

橋本市(和歌山県)0・49

和歌山県は山と海で平地がないから工業地帯になりにくい

中津川市(岐阜県)0・48

岐阜県は合掌作りの白川村とか山深い所の市町村あるからな
名古屋から自転車で行ったことあるよ、
鉄道が通っているけど終点で烏が待っているような所あったな

伊那市(長野県)0・48

中山道を出たところが恵那市だった、ここは岐阜県だった、伊那市は長野県だった、恵那市であそこでテント張ってとまったな
ここは間違いやすい、中山道をぬけたなと地形的には記憶している

三郷町(奈良県)

奈良県でも財政悪いところある、奈良県は大阪京都と違い鄙びた所あるんだよ

旭川(北海道)0・48

北海道は財政情況が悪いのわかるよ、旭川は結構大都会だけどそこでも悪いのか
北海道は札幌に人口が集中しているからな

石巻(宮城県)0・47

石巻は港で都会だけどな、今回の津波で大打撃でさらに悪化した

鳥羽市(三重県)0・46

ここも真珠とかとれる観光地だけど悪いのか、サミットが開かれる地になったけど

新庄市(山形県)0・46

山形県ならわかるな、米はとれるけど工業がないからな
ここは陸羽東線で最上温泉からトンネルをぬけると広い新庄にでる
これも地形的に記憶している

妙高市(新潟県)

妙高山は有名でありその麓で泊まったことあったな

白馬村(長野県)0・46

ここは有名だ、アルプスが見える、塩の道も歩いたことがある
男女の道祖神が有名

酒田市(山形県)0・45

北前船で栄えたことがあった港だけど今はわびしい市なのか

松島町(宮城県)0・45

松島と言ったら観光のメッカだけどな、観光だけではもうからないのかな

音更町(北海道)0・45

オトイネップとは違うのか?

利根町(茨城県)0・45

茨城県でも財政悪い、利根川から利根町

釧路町(北海道)0・45

釧路町は港町だけど釧路湿原が広がっている所だよ

常陸大宮市(茨城県)0・44

茨城県でも財政悪い市がまだあるのか、大宮といったら東京圏なのか?

上山市(山形県)0・44

小さな城、上山城があったな、ここには七ヶ宿街道を自転車で行って泊まったな
斎藤茂吉の故郷である。

蔵王町(宮城県)0・44

蔵王町は二つあるからな山形県と宮城県側だよ、ここが間違いやすい
宮城県側に自転車で行ったことがある

糸魚川市(新潟県)0・44

長野県の塩の道を松本からたどれば糸魚川町にでて日本海に出る
日本海から塩を延々と運んだ道だよ

長瀞町(埼玉県)0・44

埼玉県は東京圏だけど財政悪いところあるんだな
長瀞(ながとろ)というと名前から奥地なのか?

九九里町(千葉県)0・44

ここは九九里浜でイメージしやすいな、漁村だったからか
東京から離れているからだろう

那須烏山市(栃木県)0・44

那須というと広い平坦な土地だけど栃木県だったか?
福島県の会津から館岩村から那須の平野に自転車で出たな
栃木県とか群馬県はわかりにくいよ

角田市(宮城県)0・44

ここは仙台に近い通勤圏だろう、丸森となると森深いがここは平坦な土地だよ

桑折町(福島県)0・43

桑折町が福島市に近いけどな、桃を生産しているけどな、天皇に献上する桃を作っているとか自慢している農家いたな
桑折町というと桑折という姓がこの辺には古くからある
霊山の南北朝の争いで逃れて来たんだよ、落ち延びてきた、その時の祭りが残っている
桑折は郡であり郡役所があったところともなる

花巻市(岩手県)0・43

賢治の生れたところも悪いのか、岩手県は盛岡をのぞいて悪いことはわかるな

行方市(茨城県)0・43

ここも悪いのか、相馬では行方郡に古代になっていたけどな

高島市(滋賀県)0・43

高島市は湖西線であり比良の山をバックにした所、家型石棺の発掘など古代では有名だけどな、京都からも大津からも離れているからだろう

浪江町(福島県)0・42

浪江町も悪かったのか、原発で良かったと思っていたがそうでもなかったのか?

福島県自体の財政が0・41だからな

大館市(秋田県)

大館市では一晩駅前で泊まったな、ここは機関区になっていて線路が多い
朝に汽笛が鳴り米代川そいを通った

気仙沼市(宮城県)0・41

ここもそうだったの、津波で大打撃だからさらに苦しいな

御所市(奈良県)0・40

ここは奈良から離れているからな、途中下車したことあったな



なんか疲れた、この次にまたつづきを書いてみよう、0・4だとまだ下があるからいいのか? 

とにかく自分は全国を隈なく旅行しているからある場所がなんらかイメージできる
実際に行った所が多いからである。
あそこに行ったなあそこにも行ったなと市町村名でイメージできる
どんなところかイメージできる、それだけ旅行したということである

でも今回の財政事情を調べて九州はなじみがないなと思った
九州は二回くらいしか行っていないし地理的にもわかりにくい、なじみがない
熊本や阿蘇には行っているけどわかりにくい
北海道は十回も行っているからなじみがありだいたいわかる

だからなにか日本全国を市町村をみるときあそこにも行ったなとかイメージできるから全国をなじみがあるものとして見れる
でも九州はやはり東北からは遠いし二回しか行っていないのでなじみがない
何か浮かんでこない、イメージできない

財政情況が悪いところは辺鄙な所が多い、でも旅するならそういう所も魅力がある
都会は魅力がない、東京などただ人みるだけだからつまらないとなる

財政情況はともかくその場所がどういう地形なのかそれがなかなかイメージできない、日本だとたいがいその場を踏んでいるからイメージできる

全国の市長村から何を感じるのかというのも一回も行っていないならなかなかイメージできないだろう。
どんな場所でもみんななにかしら違っているからそこから個性が生れる
地形は変わらないからそこから個性が生れる
旅というのは地形を記憶することに意義がある。地図でみても実際は地形とかわかりにくいからである。電車だと坂とかトンネルがあり何か意識できない
自転車だといいのだがこれもそんなには行けない、今になると体力が落ちて自転車旅行はできなくなった゛これだけ旅行したのだから自分は満足だとなる

0・3以下の県は青森県、佐賀県、和歌山県、宮崎県、長崎県、岩手県、鹿児島県、徳島県、沖縄県、秋田県、鳥取県、高知県、島根県になる
なんとなくわかるな、岩手県がずいぶん下位だな、宮城県とか福島県は0・4だからましだ



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北海道の旅の回想


富良野に行った
雪の芦別岳が見えた
チューリップが赤かった
美瑛によってそこから
旭川に出た
この辺は冬は相当に寒いだろう
和寒(わっさむ)というのが
なぜか印象に残る名
宗谷本線で稚内を目指す
そのひびきが寒い感じ
そこから遠く音威子府(オトイネップ)
その変わった名で覚えている
それも遠い日のことか
北海道はほとんど回った
のんびりと牛がいた
お昼の鐘が鳴った
その淋しい音が町にひびいた
遠軽町の坂を越えてオホーツクにでた
夕日がオホーツクに沈む
冬にもオホーツクに行った
夕日のさして斜里岳が美しかった
そこは日本の果てであった
紋別という町は流氷で有名
北海道は一番なじみがある
燕が群れて飛んできた
みんな北海道の果てを目指した
若いときはみんな果てを目指す
ただ遠くに憧れ遠くを目指す
でもその日は遂に帰って来ない
やがては老いてとどまり
樹や石のようになり動けない
ただ駆けめぐった遠い地を
地名などから思いだすだけ
それでも旅したものはその地を
体感しているから親しい
何か地名からでも浮かんでくるものがある

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2016年05月08日

犯罪はパターン化できる (犯罪にあった人は犯罪に興味をもつ-格差社会は犯罪が増える)


犯罪はパターン化できる


(犯罪にあった人は犯罪に興味をもつ-格差社会は犯罪が増える)


今まで推理小説など興味をもたなかった。でも自分も犯罪にあってから興味をもつようになった
人間はともかく自分が当事者にならないかぎり他人事なのである。
それはこの辺で津波で近くでも人が相当死んだりして大被害だったのに自分は何も被害がないから被害にあった家族のことでもあまり考えない
これも普通のときでもそうである。誰か苦しんでいても相手の苦しみのことがわからないのである。
障害者を子供にもったものは盛んに訴えるが誰もわかってくれないとか言う、そんなものたいしたことじゃないとか見られる、あんたが生んだのだからあんたの責任だとか言われる、貧乏でも自己責任だとか言われる
今は格差社会だけど貧乏が見えない社会でもある、昔は何か貧乏はあからさまに見えていたのであ。乞食などが現実に物乞いしていたからこの人は貧乏だとはっきりわかる
今はそんな人がいない、外見は普通の人と同じだからである。
そうなると貧乏が見えないから貧乏がわからないともなるのである。
何が貧乏なのとなってしまう。
でも現代には現代なりの貧乏がある、そこから問題が事件も起きるのである。


本当に犯罪に明らかにパターンがある

「道具的」行動は,犯人が被害者からなんらかの利益(金銭や性的興奮など)を得ようとしておこなう行動です。

「表出的」行動は,他人との感情的な衝突によって引き起こされることの多い,被害者を傷つけることを1番の目標としておこなわれる行動です。

一番わかりやすいのは自分の欲望を満たすことが動機となっているものである。
そもそも人間の争いは基本的には欲望がおさえられないためにえ起きてくる
それが金であり本能的な性であれ一番わかりやすいし一番犯罪の動機になっている


だからどういう状態でシチエ-ションで犯罪が起きるか典型的な例が昨日見たテレビの推理ドラマだった。
まず資産家がいてそこにかかわる人たちがその資産家の財産をねらう。
家政婦とかヘルパー他にも宝石を売りつける人とかかかわってくる
なぜここでそうした家政婦とかヘルパーとか家に入ってくるものが犯罪者として疑われるのかというとその家の内部を家族のように知っているからである。
だから一倍危険なものはその内部を知るものだということである。
良く時代劇では内部か手引きする人を女中とかで入らせて強盗団が入ってゆく
それはパターン化した犯罪の手口である。国レベルになるとスパイで国の内部から攪乱してくる、だから内部に入るものは一番危険だとなる

そしてそういう資産家に近づくものはなにかいろいろな問題をかかえている人が多いのである。富めるものと貧しいものの差があからさまに現れやすいのである。
一般社会では見えないことがこういう場ではあからさまに見える
コンビニで働いていたとかその人がどういう人かなどわからない
でも資産家とか家に入ってくる人はその人がどういう人かあからさまになる
その働く人の家の事情とかがあからさまになる
今回のドラマでもそうだった、家政婦になった女性は借金をかかえていたとかなる
どこからきたのか素性もしれないとかなる、家に入る人で素性がしれないとなるとそれも危険度が相当に高くなる、そういう人が信用できなるかとなる
ただ家政婦とか何かそうした人は借金であれ事情をかかえているのである。

するとどうしても雇う方でもその人のことを考えざるを得なくなる、なにかコンビニであれパートであれその人の事情など考慮しないだろう。
でも資産家とか家に入ってくる場合はそうした個々の事情が直接かかわってくる
その人は別によそ者というものではなくてもやはりここの土地の人ではなかった。
それを安易に信用したのが失敗だった、本当は家に入れることは一番危険だから信用が最大の問題になる、何ももって信用するかとなるとむずかしい。
昔は女中とかお手伝いさんとかは普通にいたから何かしらの信用システムがあった。
前の働き先でどういう人か聞いていたとかが信用する要因になっていたとかあった。
ともかく家の中に入れる人は一番危険であり犯罪も起きやすいのである。
だからそれはパターン化した犯罪でありドラマになる

そもそも家の中に入ることは家族の一員のようになる、それで俳優の家で雇われたお手伝いさんがその夫婦の子供を殺したとかあった。これは何なのだとと思ったらお手伝いさんは子供のように家族の一員になっていたからである。
動機は子供が生れてからかまってくれなくなったという、まさに家族の一員になっていたからこそそうなったのである。それほど親密な関係になるのである。
まず人間が信用しあうことほどむずかしいことはない、それがゆきづりの問題をかかえた女性となるとそんな人を家に引き入れたらどうなるのかとなる
でも家政婦とかにはそういうふうに問題をかかえた人が多く入りこんでくるのである。
するとそこで貧富の差が明らかになり犯罪が誘発されやすいとなる

だからこういう犯罪を防ぐにはどうしたらいいのかとなる、雇う方も相当に気をつけねばならない、雇うにしてもその人を親身になって考えざるを得ないのである。
何か時給いくらとかでそれで終わりとならない、何かいろいろとその人のことについて家族のように心配するようになる、借金があったとしたら資産家だったらその借金を整理してやるとかさえしないとうまくいかない
借金を整理してやれば重荷がおりるからその家のものを盗むとかなくなるだろう。
資産家だったらその借金の額も小さいとしたらできるからで
恩義も感じるかもしれない、つまりそうした関係を作らない限りそういう女性を雇うことは危険にさらされつづけるのである。
そうはいってもそういう関係を作るのは時間がかかりすぎるのである
それで私はこの家で十年勤めさせてもらっていますとかなると信用できるとなる
その歳月が信用できるということを証明しているのである。
でもそれは資産家であってできることである、今はヘルパーとか介護関係でもちょっとしたことで家の中に入ってくる人が増えた、そこでまた問題が起きてくるのである。 

これは社会全体とも関係している、格差社会というとき富裕層も危険になる。高度成長時代なら中産階級が勃興してその上の金持ちをうらやむというのはあまりなかった。
格差社会になるとなぜ自分たちは貧乏なのだと、その原因を富裕層に向けられるから危険になる。自分たちは富裕層のために奴隷のように使われるだけなのだとなる
もちろん富裕層というとき資産家となると小金持ちとは違う。
まず小金持ちでは家政婦を雇うことはできないからである。
ヘルパーとか一時間とかちょっと手伝うだけであり家政婦とは違うのである。
格差社会というのは富裕層も危険にさらされる社会でありいつ襲われるかもしれないという推理ドラマのパターンになる、そしてたいがいそうして家に入ってくる人は家政婦とかが危険なのは追い詰められているからである。実際に家政婦として入った家々に火をつけて火事にしていた女性もいたからである
それは別に追い詰められている人は他にもいる、借金で追い詰められているとかそういう人は別に普通にいるからそういう人とかかわると危険になる
自分もそのために恐ろしい目にあったからである。
人間はどんな人でも追い詰められたら何するかわからない、その人が善人悪人の問題ではない、今日食べるものがないとしたらそのたに殺すことだってありえるしあった。
人間は追いつめられるとそうなるのである。  


人間の関係は金だけが動機になるときうまくいかない、こいつは資産家だから金を奪ってやれ、それだけの関係になると必ずそうなってしまう、その家で働く動機がそれしかないからである。普通の社会ではそういうことは金で割り切ってしている
でも一旦家の中に入ってくるとはそういうことは金だけでは通用しない
そうなれば資産家から金を奪えばいい、そこに働く動機はそれしかないのだからそうなってしまう。そういうことを自分は経験したからわかる。


高島忠夫長男殺害事件 

高島夫妻はこの女中をよくかわいがり、また女中も高島夫妻によく尽くしていたが、高島夫妻に長男が生まれた後は「長男へ愛情が移ってしまい、自分は疎遠に扱われるようになった」と感じていた。「この赤ん坊さえいなければ高島夫妻の愛情は私に戻るのではないか」と考え、気がついたら長男を湯船に沈めていたという。長男は激しく咳き込んだが、女中Aは、なおも長男を湯中に抑えつけた。そして「このままでは犯行がバレる」と思い風呂から出た後に物取りの犯行に見せかけるため、室内を物色されているように装ったという

こういうことが起きるのが家の中に入ってくる人なのである
要するに何かこういう家の中に入る人は家族関係の中に入ってくると同じなのである。
だから家族のような問題が起きやすいのである。

タグ:家政婦
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2016年05月26日

スーパーで毎日買い物して考える (日本は貧乏になり外国産のものを食べられなくなるのか?)



スーパーで毎日買い物して考える


(日本は貧乏になり外国産のものを食べられなくなるのか?)


アスバラガスは好きなので食べていたが今細く貧弱だし150円でも高いから買わない
メキシコ産は安く入っていたが入っていない、日本や地元だと高くなる。
原町の同じスーバーだは品数があり安いから得である。
スーパーが一軒で品数が少ないから買い物では損である
でも車がある人はこの辺では原町も相馬市もあるから困らない
アスバラガスの代わりにブロッコリーを買って食べる、ブロッコリーは150円以下でも食べる量があるから得である。これは結構栄養があるらしい。
野菜不足になっているのが気がかりである。野菜はもともと好きでなかった。
その代わり果物は何でも好きで食べている、フィリンヒンでバナナの病気になり品不足になりバナナが高くなり食べられなくなる。
バナナは一番安い、エクアドル産が240円で5本とかまだ安いようだ
アメリカのオレンジも400円くらいで78個あるみたいで安いのか、葡萄は結構高いのかもしれない、チリ産とかある。鮭はロシア産のがいい、鰻は中国産は安いけど何を食べさせているかわからないので不安である。

鰻は子供のとき近くでとれたものを食べていた。自分の父親と鰻とりに行ったことを覚えている、田んぼの畦にミミズをつけた棒を入れて鰻をとるのだがじっとして待っている時間が長いなかなかとれるものではない、ただそんなことして鰻がとれていた時代があった鰻を料理するとき頭をさしてもっているのが自分だった。
つるつるするから新聞紙でつかみそれを裂いて料理するのが家族総出でしていた。
それから鮎も良くとってきて食べた、その頃の鮎は大きくうまかったのである。
天然だからうまかった。川でも遊んだが今は鮎も小さくなりうまくない、それは最近ずっーとそうだった、ただ鮎釣りをしていたが食べるためではない釣りを楽しむためだった。自分は釣りはしないしなじめない、じっと待っているのが嫌なのである。
性格的に向いていない、良くあうして何もしないで待っていられると思う

子供のときバナナはこの辺で売っていなかった、たまたま秋祭りとかでバナナのたたき売りとかあった。バナナは高級品でまずこの辺では売っていなかった。
父親が病気になったとき仙台までバナナを買いに行ったのが姉だった。
仙台にはバナナは常時売っていたとなる
ともかく物が少ない時代だから食べ物もいろいろなかった。第一外国産がなかった。
外国産が入るようになったのは高度成長時代からだろう。
日本の電器製品などが売れ始めた時からである。
そこが外貨が入り外国産のものを買うようになれた。
菓子でもクッキーとかオランダ産で安いから買った。
結局地元のものをどれだけ食べているかとなると少ない
野菜は最近地元産のものが出てきている
一個500円の大きなトマトも売っていたがそれはうまくても高いから買わない
そんな高いものを地方で買う人がいるというのも金がある人がいるなと思う
地元では松川浦の魚を食べていた、石鰈などがうまかった。これは年越しの魚でこの辺では食べる習慣かあった。高いから滅多に食べないものだった。
松川浦の漁師は二日くらいすぎたものは食べないとか言っていた。常に新鮮なものを食べていたのである。それも放射能汚染で魚をとることさえできなくなった。

経済というときむずかしい理論ではない、日々の生活なのである。だから本当は経済学が一番身近なものかもしれない、ただ食糧となるものは工業製品とは違う。
天候などに左右され値段が一定しない、二倍三倍にも野菜がなったりする
そして不安なのは日本で売るものが電器製品とかなくなるとこうした外国産の果物でも何でも買えなくなるという不安がある、要するに今でも円安であり外国産でも高いとなる
どうしたって交通費がかかるから高くなる、日本が貧乏国になったというとき食べ物もそんなに贅沢つづけられるのかとう不安がある。
グローバル経済では売れるものがなかったら外国から買うことができなくなる
資源国なら石油であれ何であれ売ることができる。日本だと電器製品とか車とか売れなくなるとたちまち貧乏になる、その兆候がすでに現れている
日本は貧乏国になっているから贅沢できなくなっている
バナナすら高級品となり昔にもどるかもしれない。
その時国産の価値があがるかもしれない、でもそれだってやはり遠くのものは交通費がかかるということで贅沢できないとなるかもしれない、では地元で我慢すると言っても品数が少なすぎるのである。だからとても贅沢を覚えたからそれだけの食糧では耐えられないだろう。
小麦だって高くなりパンも高くなる、すると米でがまんするほかないという人もでてくるだろう。
リンゴだけは果物として好きでありそれが青森でとれているからそうなる。でも今は一個二百円とか高い、リンゴでも高くなるだろう。
マグロは高いからすでに鮭にきりかえるとかしている。実際は日本は貧乏になっている
ただこの辺では原発避難民はぜいたくしていると言われる、これも変だなと思う。


経済というときいろいろあるが基本は日々の食べ物から考えるのがいいかもしれない、それは毎日のことであり身近なものだからである。
貧乏国になればせめて食べることすらできなくなる、もう外国産のものは昔のバナナのように高級品になる、その時日本はどうなるのか?
日本は無理して贅沢な生活をしてきたともいえる、なぜなら借金までしてみんな贅沢しているからである。
アベノミックスとは金融の操作で景気を良くみせているにすぎないという。
日銀で紙幣を増刷してばらまいてもそれは紙なのだからそんなことで景気が良くなるのかとなる
つまりそうしたみせかけのものもはある日崩壊してゆく
それは借金してまで事業の成功者を装っていた人と同じである。
最後は借金で首がまわらなくなり破産してしまう。

日本の経済はそういう危険な状態にある、下流老人とか本当に現実に多いし67才くらいの人が同じ世代の人に詐欺をしたとかある、ぎりぎりの生活を強いられている人が増えたのである。とても国民年金などでは生活できない、厚生年金の平均15万というのもいろいろ引かれるからたりないのである。
老人が金もっているというとき一割くらいでありあとはぎりぎりなのである。
ただ一旦贅沢を覚えるとそこから生活の質を落とせない
だから借金してまで贅沢しているのである。家を建てるときもたいがい借金しているのである。そういう話は常に聞いてきたからである。
車を二台、軽トラックなどもっているから農家では車代がかかる、農業も金がかかる
農機具代になるとさらに金がかかり農業をやめた人も多い
放射能汚染されて田んぼはやはりかなり荒地のまま残っているのは農業をやたのだろう。趣味で農業やるとさらに金がかかる、野菜とるとしてもその十倍くらい金がかかっているのである。肥料だ苗だ種だとか金がかかっているのである。他から趣味で農業やるのは相当な贅沢なのである。

スーバーで自動化した計算機械には本当に感心した。小銭をいくら入れても正確に計算してお釣りを出す、お釣りを忘れることもない、お釣りをとっていってくださいと警告音を出すからである。
今日大量の小銭を整理するために入れたら一つ古い使えないコインが交じっていた。
そしたら機械か停止したのである。係の人が中を点検したちそのコインがでてきてとったら正常にもどったのである。
それはまさに異物だったのである。異物を入れたら機械が停止した。そして異物を排除したら正常にもどったのである。
こうして異物を認識することは優れていると思う
人間でもガンは異物だからその異物を認識して自動的に排除するようなものを作れれば凄いと思う゛本能的に異物を排除するというのは動物でもしている。毒なものは食べてわかり吐いたり食べないことはしている
実際機械のことを自分は嫌っているがこれには感心した。機械は人間より優れていることがある、それで医療でも何でも人間が仕事を失うと騒がれている
それは本当だろう。こうした機械が出回れば人手不足も補える、この辺では人手不足で苦しんでいるからである。
機械は実際は人間より優れている面がいろいろある。抽象画を大量に作ったがphotoshopなど優れている、これも機械でありソフトを使い粉こなすことで新しい芸術の創造ができたのである。ただこの場合は機械を使ってもソフトでも人間の審美眼などは機械にはもていなから人間の力が本当は大きいのである。
ただ機械的なルーチンワークとかレジなどは機械化できるのである。それが自動小銭選別機とかなるのかで実感したのである。
介護のときおかゆつくる電器製品には助けられた。これを鍋でしていたら手間だった
こういう点で家事は楽になった。主婦は料理は以前としてめんどうでもその他は相当に家事は楽になったのである。
それでも自分は以前として追われた生活なのである。介護がなくても何かそうである。
家事にはそれだけいろいろ仕事がまだあるからそうなる。



タグ:スーパー
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2016年06月07日

なぜ景気が良くならないのか? (グローバル経済資本主義では格差が拡大する)



なぜ景気が良くならないのか?


(グローバル経済資本主義では格差が拡大する)


景気が良くならない、消費が冷え込んでいるのはなぜか?
高度成長時代は団塊の世代は消費力が旺盛だった。月給も毎年うなぎのぼりに上がっていった。
そしてマイホームとか車とか電器製品をこぞって買った。
その時は日本の電器製品も世界で売れていた。ブランド品だった。
消費が旺盛というときとにかく団塊の世代は数が多いから当然だとなる
その時貯金していると利子が7ハーセントとかなり20年後30年後には倍になっていたのである。
だから母親の保険金が実際は150万くらいかけていたのだが遺産としてもらうと二倍以上になっていたのである。
だから20年前とか保険金を一千万かけていたら二千万になっていたのである。
それは貯金でも同じだったのである。それで老人の一割は金をもっているとなる
ただその時貯金をしてんいない人は今になると金融資産では残っていない
つまり60で団塊の世代が退職してもその金の価値は半分になっているのだ。
なぜなら利子がゼロというよりマイナス金利になっているからである。
一千万は実際は5百万くらいの価値しかなくなってしまったのである。

人間の心理として今あるものを貯金でも減らしたくない、物でもなかなか捨てられないでゴミ屋敷になったりするのはそのためである。
例え一億円あったとしてもそれが少しでも増えないと消費したくないのである。
だから利子がつかないとなると老人でも消費に回らない、それはケチとかではない、
人間の心理なのである。
今あるものを減らしたないという人間の心理があるからだ。
貯金でもだんだん減るだけだと不安になるのである。
だから利子もつかない、マイナス金利になっていると消費しないし景気も良くならない
金をもっていても金利もつかないからかえって使った方が得だというのも通用しないのである。
もちろん不正規とかフリーターとかは金がないから消費しないのは当然だしみんな月給も上がらないのだから消費しない、株も下がると富裕層も消費しなくなる

グローバル資本主義になると労働力を安い国に求めて多国籍企業化しているから移動するすると国内ではそうした安い労働力と競争させられることになる
日本の最低賃金は時給800円とか世界でも下位なのである。
日本がそんなはずがなかったというがそれだけ中産階級も消滅して貧乏になったのであるそして機械化やit化やロボット化でますます人件費はけずられ今度は人間は機械と競争させられるのである。
機械の方が効率的であり人がいらなくなってくる
中国でも麦を刈るのが人海戦術で出稼ぎ労働でしていた。今はコンバイン一台千人分もの麦をかる、この差はあまりにも大きかったのである。
つまりコンバイン一台が千人の労働を奪ってしまった。
そして出稼ぎ労働者はコンバインが入りにくい地形の所で細々と働いていたのである。
それは田植えでも機械でできない縁を人の手で田植えしていると同じである。
機械の補佐役が人間になっていたのである。

要するに多国籍企業はグローバル経済になれば労働者すら安い国でまかなおうとする
できれだけコストをおさえるために効率的にするたに機械化する。
近くのスーパーの自動でお釣りがでてくる機械は便利である。
これは人間より正確でありまちがうことがないのである。
たまたま古銭を入れたら機械が停止したのである。
それでレジの人がその使えない古銭をとりだして直したのである。
お釣りを忘れると警告音なるから忘れることがないしレジの人とやりとりするより問題が起きないのである。
そして機械の見守り役が人間になる社会を予測した光景だった。
そういうことは社会のいろんな所で今や実際に起きているのである。
会社はコストをおさえるために機械化できることは機械化するからである。
それでこの辺は人手不足が他よりひどいから補うことができたともなる

そして人間は高度な仕事を一握りの人間しか働かなくなるかもしれない、コンピュターのソフトを作るような人は高給とりになる。医療さえコンピュターがロボットが利用されるといわれる。確かに自動支払いの機械はそうなのである。自動販売機もそうである。
でも自動販売機も会社の人が来て様々な種類のジュース類を振り分けていれるのが手間なのである。どんな機械でも何か人間の手がかかっているのである。
確かにコンピュターはある点ではまちがいなく人間より優秀である。
膨大な知識の集積ができるからである。検索するというときインターネットではそこから芋づる式につないでゆくと新たな論文が書けるとなる
なにしろこれまで研究したものでも膨大だからである。ただ本だと検索できない、一冊の本を買うとなると金もかかるしめんをとだとなる
だから将来はすべての本でも無料で検索できたら人類の知は飛躍的に発展する
本は過去のものでも今でも膨大でありとても読みきれないからである。
すると知らないことがあり知識として不十分だとなってしまうからである。

要するに社会の頭脳たるものが支配階級となり高給とりになる、それは機械とかコンピュターを操作できる人間である。ソフトを作れるような人である。
そういう人たちが社会の支配階級になりあとは非正規のアルバイトやフリーターとか安い時給で働かせられる、ただかえって弁護士とか医者とかもコンピュター化されると職を失うといういうからそういう仕事だけが影響されるのではない
要するにグローバル資本主義とか機械化コンピュター化かit化する社会は格差を階級を作る社会である。
一握りの人間がコンピュターを操作して富を集中させる、あとは膨大な非正規とかの下流の労働者となってゆく
そしてベーシックインカムなどが実際に具体化されることがスイスで起きたがとりやめになった。そんなことが国民で実際に実行しようとしたことも現代を象徴している。
一握りの人間はコンピュターを操作して社会を動かし大多数は職を失うということも未来的にはありうる、そうしたらどうして生活してゆくのだとなるからだ。

そしてまた矛盾が生れる、経済の目的は経世済民である。民を救うことである。民が職を失い豊にならないとしたら何のための経済だとなる。
一握りの富裕層が幸福になってあとは低賃金でありそれで民が幸せになるのか?
そのことは一握り一部の富裕層にもはねかえってくる。民に不満が増大して社会不安を引き起こして社会が不安定になり犯罪も増える、それで富裕層も危険になってくる。
もちろん需要も増えないから会社でも物が売れないとなり全体的に経済は停滞してゆく
こういう社会も理想を実現するかとなるとならない
そこに必ず問題が起きてくる、そしてひょんなことからその社会が崩壊したりする
人間の社会でも文明でも何か原発事故のように一見核まで操作できる知能があるのにかえってその知能の良さ故に人間が滅ぶという逆説があるからだ。
だからこういう一握りの人間がまるでコンピュターを操作して社会の頭脳化するとき危険なことにもなる、つまりなにか機械のコンピュターの不具合から原発事故のように一挙に崩壊するようなことが起きる、それが人間の宿命、カルマとなっているからである。
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2016年06月11日

グローバル資本主義やTPPの矛盾 (久々に地元のこうなごを食べた)


グローバル資本主義やTPPの矛盾


(久々に地元の小女子( こうなご)を食べた)


久々に地元にとれる小女子(こうなご)を食べてその味かみしめるかな


松川浦でとれた小女子(こうなご)を久々に食べた。松川浦でも試験の時期は終わり魚がいろいろとるらしい、放射能汚染もなくなってきている。
ヒラメまでとれるとなるとそうである。大きな魚は放射能汚染が濃縮されるとか言われてきたしヒラメなどは危険だと言われてきたからである。
何か食べものというとき記憶と一体化している、だからお袋の味とか地元の味がある
自分の父親は良く鮎とか鰻をとってきた。その時の鮎は今よりずっと大きかったしうまかった。鰻も天然だからうまかった。
何かそういう味は記憶と一体化しているのである。その味とともに昔のことがなつかしく思い出すのである。

小女子(こうなご)というときこれは天ぷらがうまかった。それはこの辺では良く食べていたし他でも別に小女子(こうなご)はとれている。
ただ地元でとれたということでなつかしく食べた。確かにカルシウムが多いというのはそうだろう。骨ごとたべるからである。
他にもホッキ貝を松川浦でとれてホッキ飯を地元のものでまた出しているという。
これまでは他から仕入れて作っていた。こうなると地元は何なのだろうとなる
ただ外から買うだけだったら地元の味もないしお袋の味でも今や惣菜を外で買っているからなくなってしまう。
ということは味からお袋を思い出すのだがそれがなくなるということは母にしても子にしても淋しいものとなる

なんか年とるとかえって味にこだわる、若いときはどちらかというと腹が満腹になればいいとなる。自分はこれまで食べ物の味にほとんどこだわらなかった。
旅行でもうまいものを食べていない、定食の最低で終わりである。
旅で費用をへらすとすると食事と宿泊費しかないからである。
だから旅で何かあれがうまかったなとか思い出すものがない、ただ一つ新潟の小出の魚野川の前の普通の食堂で食べた鮎の塩焼きはうまかった。
前の魚野川で釣りをしていてそこでとれたものである。
生きがいいしその味は格別だった、でも高いものではなかった。普通の食堂だから安い、茨城県の太子にイワヒバを買いに行った知人に久慈川の鮎を買ってきてもらったが確かに天然の鮎だったがあそこで食べた味とはまた違っていた。
旅の思い出で食べ物の記憶というときその鮎しかなかったのである。
要するにその時食べ物の味にこだわっていなかったのである。腹をみたせばいいだけだったのである。ただ味にこだわる旅となると相当贅沢になる。そんな旅を長くはつづけられないのである。
このことは外国でも同じであり外国は全くうまいものは食べていない、マクドナルドのハンパガーを毎日食べていた。なぜなら外国ではレストランは入りにくいからである。
そして高価になるから気軽に入れないのである。

食べ物から経済を考えるとき最近青森のリンゴが高くなった。それで東京辺りではニュージラント産の小さなリンゴを食べているという、ちょうどニュージランドで旬でありとれているからである。
そんなのうまくないとかいろいろ言うが食べてみないからわからない
ただ青森では今の時期はとれないからいいじゃないかという意見もある
でも何か矛盾している。青森のリンゴはすでに外国へ輸出して一個千円でも売れている。そうなると日本での値段も高くなる、そして青森リンゴは高くて食べれなくなりニュージランド産でがまんしろとなる、貧乏人はそうなるのがグローバル経済だとなる
実際に青森ではリンゴ農家は輸出して金持ちになっている家があるという
一個千円で売れればそうなる、そういうことは外国で前々から普通に起きていたことである。海老を養殖しても地元の人は高いから食べずに日本に輸出していた。
何か特別うまいものは食糧でも高く輸出できるとなると地元の人は食べずに輸出して金を稼ぐとなるのがグローバル経済である。
日本でもうまい食べ物があれば輸出して稼ぐ、でも地元の人はまずいニュージランド産のリンゴでがまんしろとなる
これも相当な矛盾である。それがグローバル資本主義なのである。

そして売るものがない国はどうなるか、女性を売る他なくなる、テレビが欲しくて自分の娘を売春させたとかラオスのことを報道していたけどそういうことは貧しい国では普通にある。
カンボジアにたむろしていた日本人もそういう人たちである。日本人だけではない世界中から来ている、カンボジアは特に貧しいからである。
しかし日本が貧乏国になるときそれがカルマとなり親が自分の娘を外国人に売るということにもなりかねない、そういう過酷さがグローバル資本主義では競争に負ければそうなる現実にその兆候が日本に現れている、観光で売り出すということは貧しい国になったということである。
つまり日本人も一時豊かなときはそうしていたのだからカルマとなり今度は外国人にそうさせられる。それがカルマとなってそうなるのである。
日本人がしてきたことを今度は外国人にされる、それがカルマなのである。

いづれにしろグローバル資本主義とかTPPは矛盾である。だからアメリカすら実は反対していたのである。それは何か変だなということである。こんな経済でいいのかという直観的なものである。それは理屈ではない、こんなことが成り立つのかという疑問なのである農家には国の税金を使いすぎているとかいろいろ批判があるのもわかる。
それなら安い食べ物を外国から買った方が税金もかからないし安上がりだというのもわかる。
ただリンゴが好きなので毎日食べているのでどうしても日本でとれたうまいリンゴが高くて食べられず外国のまずいリンゴを食べる他ないというのが納得いかないのである。
そしたら日本の味もお袋のや味もなくなる、地元の味もなくなる、そうなったら日本に生きていてもいいことないな、地元に生きていてもいいことないなとなってしまう。
愛国心も愛郷心も家族愛までなくなってしまう。
地元のものでも日本のものでも母親が料理してくれてうまいなとなりそれが記憶となる
家族愛にもなり愛郷心にもなり愛国心にもなる
自分は親を介護して以来母親の料理を食べれなくなった。
そのことも悲しいことだった。介護になってからとにかく悲しいことをいろいろ経験したその中で親の料理したものが食べられないというのは悲しいことである。
自分はそういうことに感謝しなかった。、当り前と思っていたのである。
そういうことは津波や原発事故でこの辺では当り前にあるものが失われてそのことを考えるようになった。

ともかくグローバル資本主義は矛盾であり人間的なものから離れてしまう経済である。
外国に投資していると日本の株が下がるより外国の株が下がることの方が損だから外国の株が上がった方がいいとなる、これも矛盾であり愛国心もなにもない、そこには経済の論理しかなくなる。
グローバル資本主義の矛盾は人間を幸福にするとは限らない、なに、青森のリンゴも高くて食べられなくなる、もうこんな日本に住んでいたないという感情さえ生れてくるだろう食べ物は身近な問題だからそうなる。食べ物の恨みは深いとなるのもそのためである。
そういう何か根本的に矛盾したことは果たしていくら合理的でも継続されるのか?
貧乏でもいいからせめて地元のものでも食べられてリンゴくらい安いものでうまいものを食べたいとなりグローバル資本主義はもう嫌だとかなるかもしれない、それは日本だけの問題ではない世界の問題になるのがグローバル資本主義なのである。



内なる力の実り

樹の力はその場所に動かずに根づくこと
水は大地をめぐり潤すめぐみの力
山からミネラルを含んだ水が流れ潤す
山から栄養分が泥とともに流れてくる
実りは大地と水のめぐみによりもたらされる
山の恵み、大地の恵み、海の恵み
恵みとはめぐみーめぐるである
その土地だけの恵みには限度がある
広範囲な土地土地にそれぞれの恵みがある
そのめぐみもめぐりまわらねばならぬ
分かち合いめぐりあい豊になる
ただその土地に樹のように根付くとがこ基本
樹が力強いのはその土地に根付いているから
それは内なら力のゆえに充足する
内から湧きあがる芽吹く力
竹は真っ直ぐに伸びて蕗の薹
内に充実して外の力をとりこむ
内なる力としての一つの世界
エジプト文明、マヤインカ文明は内なる力の文明
内なる祭壇をまず築け上げよ
そして外なる力をとりいれよ
そこに誠の実りがあり千年の栄が持続する



内なる実りが基本としてありそこから外なる実りをとりいれる、もし内なる実りがないとしたらただ外なる実りだけをとりいれるようなことはありえないのである。
実りというとき農業だけではない、一次産業だけではない、経済でも技術でも内なる実りがないなら豊になることはありえないのである。
芸術でも内なる実りがあって成り立つ、その土地土地に生きる糧がありその風土にマッチした文化が起こり文明が起こる、外からばかりの文明になったらそれは日本でも故郷も何もないとなってしまう。現実にそうういことが起こりかねないのがグローバル資本主義なのである。


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2016年06月12日

グローバル資本主義やTPPについて「心に青雲」の 主張の矛盾(2) (青森のリンゴが高くなり食べられないから考えた)



グローバル資本主義やTPPについて「心に青雲」の 主張の矛盾(2)


(青森のリンゴが高くなり食べられないから考えた)


農家に「転作奨励金という補助金」を支給するシステムにしたのは、農水省官僚と政府(自民党も元民主党も)である。

、なぜ農水省は企業や国民の負担を増やしてまで、小麦貿易に強制介入する必要があるのか。こちらの答えも単純だ。それは財源と天下り先を確保するためである。

心に青雲では官僚を常に批判している、それは同調する、日本の小麦はうまくないというときこれは本当だろう。スーパーで日本製の小麦のパンは確かにうまくない。
外国の小麦がうまいしTPPで安く輸入できるというのもわかる。
おそらくこういうことは政策中心の議論をするとデベートが必要になるだろう。
デベートすると賛成するにしろ反対するにしろ何が問題なのか争点が何なのかなどが明確になるからだ。

そもそもTPPの議論をするときグローバル資本主義を押しすすめば当然関税のない貿易を目指すことになるのだ。つまりグローバル資本主義の問題も追求することになる。
日本の農業が保護されているということは確かであるが外国でも日本以上にやはり保護されているとある。
そうしなければどこでも農業を維持できないからそうなっている

そしてここには東京とか都会と地方などの対立も関係してくる、特に限界集落などに金を税金を使う必要がないという意見もそうである。
今はインフラ整備だけでも80倍の金がかかるとかなっているからである。
東京の人が国に税金を払い地方のそうした限界集落でも支えているとなるから常に言われるである。
そうなったのは戦後十年くらいからかもしれない、その時は第一生活保護もないし地方は地方で貧乏でもそれなりにまかなってゆくほかなかったのである。
その時は都会と地方の対立もないのである。
都会と地方の格差はあっても対立はなかったとなる

富めりとも翁の身には知らざらん木の間のけむり絶えずのぼりて 大和田建樹

今高い野菜のことで田舎と都会を考える (原発事故も田舎と都会の差から作られた)

富んでいる都会のこと東京のことは知らない、この山の村で炭を焼いて独立して生活している、それで満足だとなる
こうなってれば都会の人から東京の人から文句言われなかったのである。
それは原発事故とも関係していた。原発という危険なものを地方にはいらないともなったのである。

ただそうなると現代では誰も容認しないとなる、電気がない生活など考えられなくなっているからである。炭焼きとなるとそれは原始的な生活にもどるのかとなり誰も賛成しない
でもグローバル資本主義は関税のない世界、国境のない経済を推進する、そういう社会は実際は社会全体に影響する、金が最大の力となりなんでも金がものいう社会になる、現実になっている。金のないもの死ねとまでなっている
そして借金までしてみんないい生活をしようとしている、それより貧乏になっても今や借金で維持しようとしている、事業に失敗しても以前として生活を落とせないから借金を自分に要求してくる、おばちゃんは金あるんだから金でめんどうみろとか金でなんでもまかないという社会である。金のないものは誰も見向きもしないとなる
人間の付き合いは金がかかわり金なしではなにもありえない世界となってしまっている


グローバル資本主義でTPPではアメリカが必ずしも得するわけではないから反対もしていた。むしろ日本が車を売るからかえってアメリカは損だということにもなる
そこでトランプ大統領候補は本音を言って喝采をあびたのである。
グローバル資本主義は何か詩にしたけど「内なる力」の衰退になる
それはそれぞれの国の歴史とか文化を無視して経済合理性の原理だけですすめるから矛盾してくる、その弊害も大きくなってくる、世界貿易を否定しているのではなくなにかそれが極端になっている
それが農業問題とかに顕著に現れているのである。
もちろん官僚だけが既得権を維持するためにtppに反対するとかは問題である。

でも現実問題として官僚だけの問題でもないだろう。その辺は詳しくないし自分でもデベートできるほどの知識がない、でも庶民感覚というか常識的にリンゴの問題で書いたように変だなとなる、こんなことでいいのか、何か人間として常識的にありえないことをしている、そんなことで人間が幸福になるのかという疑問である。
自分はリンゴは好きだからリンゴは食べたいとなるが他の果物はがまんしてもいいとなるただ自分は果物が好きだから本当は外国のものでも食べたいが日本が自立するなら外国に頼りリンゴまで高くなり食べられなくなるならがまんするとなる
もうそんなにいろいろなものを食べる必要があるのかともなる、もちろん自分自身も矛盾である。外国の株ではないが外国に投資しているということが矛盾なのである。
日本がだめなら外国に投資して外国がもうければ日本などどうでもいいとまでなる
もう金持ちは日本脱出だとかなる、それがグローバル資本主義なのである。

つまり国への愛着とか愛国心とか故郷への愛着とか愛郷心とかさらに家族への愛着心とか家族愛さえなくなり解体してゆく、そしてみんな孤立化してゆく、金さえあればいい、金でなんでもまかなう社会だからである。
それはグローバル資本主義をおしすすめればそうなってゆく、都会と地方の対立もグローバル資本主義と関係している、都会の人は別に国内でも外国でも安くていいものが入ればいいとなる、米すらそうである。日本人でも地方を切り離して食糧も外国から安いいいものが入る方がいいとなる
それで限界集落とか切り捨てて地方にはもう金を使わないとなる
都会では食糧は外国から買う、日本の高い食糧は買わないとなる。
地方は地方で外国に青森のリンゴを一個千円で売り貧乏な日本人には地元でも売らないとなる。
そして青森の地元の人すら「一個千円のリンゴだと買えないな、地元にいて地元のリンゴも食べられないのか」と不満になる
リンゴ農家が金持ちになっているのをうらやむ、それがグローバル資本主義だとなる。

こうして金をもうけるのが勝ち組で負け組は地元のリンゴさえ食べられなくなる
地元でもそこで仲違いになり共同体に軋轢が生じて融和しなくなる
現実に社会でも地域でも家族すらそうして解体して孤立化して最後は一人暮らしで孤死だとかなってしまう。
そういうこともグローバル資本主義と関係して起きてくる。
これはデベートすれば自分の弱点とか問題点も明らかにされる
だからいちがいには言えない問題である。
でも経済の問題でもなんでもそうだが人間は身近な問題から大きな問題にかかわる
大きなことを言われてもなかなか理解できないからである。
青森のリンゴが高くなり食べられなくなるということを知ってショックだからそれがどうしてそうなるのかというときグローバル資本主義やTPPと関係していたのである。
もちろん官僚の問題もある、ただそういうものは是正すべきである。
それでも大きな流れとしてグローバル資本主義がそうさせてゆくのである。

「心の青雲」では絶えず愛国心とか国家が強くならねばならないと説くけど日本国が日本人が東京都と地方で対立して
和がないとき国難に共同して立ち向かえるのか?
「心の青雲」の矛盾はグローバル資本主義の推進、TPPの推進でありそれはユダヤ人の支配下に入ることである。
ユダヤ人に操作されることになる、それをいつもユダヤ人が世界を操作しているというけどグローバル資本主義を推進する立場になれば
ユダヤ人を批判する矛盾がててくる
つまりグローバル資本主義は国をなくして愛国心とかもなくすからである。
いろいろ共感することがあっても対立することも見えてくる
ただなぜそうして人間が現代で対立が生まれかとなるとまず都会と地方で対立するというだけではない、職業が違えば対立することも対立する。
そういう対立があるがその対立の中で明確に見えてくるものがある。
要するに都会に住んでいること自体グローバル資本主義の推進になる、そもそも国内でも外国でも食糧は安くていいものが入ればいいとなっているからだ。
そういう国で人間がまとまるのか、和がなければ国難には対処できない、つまりそもそも愛国心とは何かとなると
愛郷心とかその国の自然に基づいた生活であり文化があり愛国心が生れる
まず国家ありきとかでは愛国心は生れないのである。それは強制された愛国心になる。
だからそういう点では「心の青雲」は矛盾している、それは根本的には東京と地方という立場の相違から起きているの出てある。
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2016年06月13日

人間はなぜ対立して戦争するのか? (現代社会は複雑で敵が見えないから陰謀論になる)


人間はなぜ対立して戦争するのか?


(現代社会は複雑で敵が見えないから陰謀論になる)


●歴史的に人間は利害で対立してきた

人間の社会ではなぜ対立が生まれのか?その対立が戦争までなってきたのが人間の歴史である。
最初は部族と部族であり猿のトーテムと犬のトーテムとかを信仰するもので対立が生じて争いになる。その対立がなぜ殺し合いまでになるのかそれは基本的には利害がぶつかるからである。動物だったら縄張り争いであり雌を得るための熾烈な争いがある。
それは本能的な争いでありそれとにたものが人間にも起きている
ただ人間の場合は集団的と集団の争いとなる、その集団と集団が争いの元になるのはやはりなんらかの利害がかかわり争いになる。
わかりやすいのは日本の戦国時代が最初に山の木材の入会権をめぐって大規模化して大名もかかわり大きな戦争に発展した。それは利害関係から争いになったのである。
水利権でも稲作は水が元だから争いになる。水をめぐっての争い旧約聖書の時代から起きている。現代までそれは継続されていて中東戦争が実はヨルダン川の水の獲得のために起きていたと分析している人もいる。イスラエルは半分が砂漠なのである。
砂漠では当然水が貴重だから争いが起きる
それから遊牧民と農耕民の間でも争いが起きる、その証拠が万里長城なのである。絶えずモンゴルなどの遊牧民が農耕民の作物をねらい襲ってくる。
どうしても牧畜民、遊牧民は定住しないから食糧が不足する、それで定期的に農耕民を襲ってくる、富めるものは襲われるのである。

その後に貿易が発展すると貿易をめぐって争いが生じる、それは熾烈な争いとなりヨーロッパで展開された。商業というのは軍隊を有していないとできないということもある。
絶えず強奪される危険にさらされているからである。商業ではやはり利害が衝突しやすいのである。スペインであれオランダであれイギリスであれ貿易をめぐって海軍で船で戦争になったのである。オランダは日本との貿易を独占した。
ヨーロッパは貿易でアジアの富を強奪したのである。戦争に勝てば敵国の富を得るから戦争になる。それが基本的に戦争の原因である。十字軍も宗教だけではない、その時イスラム国が先進国だったから富を強奪するたに起きたのである。
ともかく基本的に人間の争いは利害が衝突して起きる、この辺で原発事故の補償金でもめていると同じである。この補償金の問題は意外と深刻だったのである。
同じ南相馬市民でも不和になり協力関係が失われたのである。
だからつくづく政治は利害関係の調節こそ最大の政策とするべきなのである。
そこが公平にならないと人間の和はたもてないからである。

昔の対立はわかりやすかった、現代の対立は複雑すぎる、その複雑さは無数の職業の分化から起きてきている。これだけ職業が分化すると相手のことを理解できなくなる
それは江戸時代であれ職業が違うと異質なものとして理解不能となり伝説化した。
鉄を生産するものとか木地師などはもともと生活していた農民からすると理解しにくいから伝説化した。天狗とか何か異様なものとして語り伝えられた。
それは現代でもそうなのである。原発にたずさわる技術者は理解できないのである。
一体あの人たちは何をしているのだろうとなる。そこは秘密のベールに隠されてうかがいしれないのである。そこから大事故が起きてきたのである。
「安全神話」を作られてきたというときなぜ現代に神話なのかとなる。
それはそもそも原子力のことを普通の人は理解できないからである。
職業が違うと意志疎通ができないのである。現代の対立が生むのは国と国とかもあるがむしろ職業が違うと意志疎通ができないのである。
そして奇妙なのは国が違っても職業が同じなら意志疎通できる、科学者同士は別に国が違っても意志疎通できる、共同研究もできるし国籍はあまり関係ないのである。
一方で同じ国民でも職業が違うと意志疎通ができないのである。
だから現代がグローバル資本主義になるというとき科学の社会だというとき科学者は共同しやすいということもある、多国籍企業というときも結局世界で同じ職業の人は連帯して一つの国のように共同できる、それは国を越えたものとして共同できるとなることなのだだからグローバル資本主義は必然的に愛国心がなくなってゆくのである。

●戦争は強い者が国が必ずしも勝つとは限らない

対立というときまず都会と地方という対立がある。これも大きな問題である。それもグローバル資本主義が起きてくる。食糧を供給するのは別に同じ国内でなくてもいい、外国でもいいとなれば地方はただ都会から東京から農業でも支えねばならないとなり切り捨てた方がいいとなる。
そういうことで国内でも根本的に東京と地方は対立関係になる。一方で国家を強くしなければ外国に対抗できないという「心の青雲」の主張も矛盾してくる。
そもそも国力とは何かとなると本当にそれが軍事力なのか?経済力なのか、GDPなのかというのも疑問である。
何がその国々を支えているのか?それはやはり国民の和がなければとても戦いないだろう
「人は石垣、人は城」という言葉は現代でも生きているだろう。
太平洋戦争は経済力がないから負けたとか言われる、だからアメリカに勝つには経済力で勝たねばならない、技術力でも勝たねばならないと戦後日本は努力してきた。
でも前にも考察したが日本軍に和がなっかたというのも敗因だったのである。
日本では上官と下士官は協力していなかった。日本軍の下士官は優秀であり上官は劣っていた。下士官は愚劣な上官のために犠牲になったといわれる。
一方でアメリカは上官と下士官は一体でありそういうことがなかった。かえってアメリカ軍の方が和があったのである。日本では陸軍と海軍が争っていたしまとまらなかった。
アメリカではそうういことがなかったのである。
だからただ技術力とか軍事力か経済力で劣っていたから負けたともならない
日本には一見和があようでなかったのである。

そして戦争とは必ずしも強い者が勝つとは限らないのである。
ベトナム戦争がそれを証明した、なぜあれだけの小国にアメリカという大国が勝てなかったのか?
それはベトナムでは地下に穴を掘り芋を栽培して飢えをしのいだ。芋が短期間に成長できたからである。アメリカが負けたのはパトリシズムがありその故郷に土着して愛着して生きていたものを蹂躙したからだと言う。
アメリカは強大な軍事力でふみつぶすことができる思った。でも実際はできなかった。
アメリカの強大な軍事力が果たして有効に働いたかというとイラク戦争でも働かなかったイラクのフセインの残党がイスラム国を作ったとされるからである。
アメリカはただ中東に混乱をもたらしただけだとなる、だからイラク戦争とは何だったのかとなる、ただアメリカの一方的な強引な軍事力によって世界が混乱させられただけだともなる、つまり軍事力だけでは世界のことは解決しないのである。
それは今や中国にも言える、そしてこうした大国は内部から崩壊してゆく危機にもある
格差がアメリカでも中国でも激しいので内部で内戦のようになるとも限らない、それは日本でもそうだがグローバル資本主義は世界的に国と関係なく富む者と貧乏人とに分断してしまうからである。
つまりグローバル資本主義はそうした矛盾が頂点に達して崩壊するのかもしれない、格差が極端になりそのことが崩壊の原因になる。それは国と国の対立より問題になっているからである。どこの国でもなんでこんな格差ができるんだとなっているからである。
どうしても金持ちはさらに金持ちになり貧乏人はますます貧乏になる、そんな世界があっていいのかとなる、そういうことが世界的不満となりグローバル資本主義は崩壊してゆくまず国々が分断されて和が保てない、日本でもそうである。
TPPにアメリカも反対だというとき何かおかしいとやはり思うからである。
貿易とかは必要でも何かなんでも自由に貿易することが本当に人間を幸福にするのかとは別問題なのである。
それを日本で青森のリンゴが一個千円になり地元でも食べられないという矛盾を指摘したのである。

●現代の社会は支配する者が誰か見えない

グローバル資本主義の特徴は中国辺りだと専制的国家だと国王や皇帝その臣下が権力をにぎり極端な贅沢をする、酒池肉林とかなるからわかりやすい、そこに反感を庶民はもち革命が起きる、でもグローバル資本主義で支配しているのは得しているのは誰かとなる。
グローバル資本主義で富を独占しているものは誰なのか?
なぜその人たちに富が集まるのか?なにかそういう世界的になるとわかりにくい、それでユダヤ人どうだとか陰謀論がででくる。その陰謀論もわかりにくいのである。
日本でも経済成長をみると波があり必ず株が上がり下がる周期がある。でもその富は富裕層に流れて下級の労働者には富は分配されないと指摘している
だからこれは株価でも世界的操作されているのではないかとなる。でもそれが誰が操作しているのかはわからないのである。具体的に見えていないから陰謀論になるのである。
革命を起こすにしても例えは地主とか何か専制的国家のように権力を富をもつものが具体的に見えていればわかりやすいからそれを倒せとなる。
それがわかりにくいから具体的に見えないから複雑だから悪人が誰かわからないから革命にもならないのである。
例えは百円でも千円でも盗んだらたちまち窃盗犯でありつかまり罰せられし結構重い罪にされる、でも百億円とかもうけている人は罰せられない、この世の王として君臨できるのである。それは他人の労働を盗んだものとなっていてもそうである。
実際に舛添東京都知事があんなわずかの金で責めれているけど他に何億とかごまかしている人は政治家にいるけと責められないのである。
小さな悪は責めやすいけど巨悪になるともう人間では責められないのである。
それは闇になり不明となるから陰謀論になってしまうのである。
なぜ原発事故を起こした東電の社長でも幹部でも罰せられないのか?これもまた現代社会の大きな闇がかかわっている。
これも東電の幹部を罰すると自民党も罰せられることになるからということもある。
東電で安全を計らないことの責任は時の政権だった自民党にもあたからである。
わざわざ安全をはかるための装置を撤去することを許可したのは自民党であったということになれば問われるからである。
だから今は自民党が政権をもっているのだから罰せられないとなるのだ。

「蒸気凝縮系機能という冷却システム」が備わっていたようなのであるが、それが、福島第1原発の2〜6号機では、約10億円かけて撤去されていたのである。(第10回原子力安全委員会資料 H15・2 申請者 勝俣恒久東電社長

これを許可したのは時の政権を担当していた自民党だったのである。時の政権が許可しなければこんなことできないからである。


お金のポンプ(武田邦彦)

ここで経済のことをグラフで説明している、景気と不景気の波があってもGDPは上がりつづけりつづけている。その上がったり下がったりするのも波があり金持ちは株主はもうかる仕組みになっている、貧乏人はますます貧乏になってゆく不思議を言っている
それで陰謀論は言わないが何かおかしいと疑問をもっている、つまり誰か知らないが操作されていると感じる、株価は市場原理ではない、誰かに操作されている
その誰かがグローバル資本主義では見えないわからないのでてある。
だからいろいろな陰謀論になって終わっているのである。
何しろ一兆円とか金をもっている百兆円とかもっている会社であれ何であれあれば株価は操作できる、その操作の結果として株価の上下の波はあっても金持ち、それもやはり10億とか大きな金持ちの金は増えてゆく計算になる。
下の賃金労働者には回ってこないのがグローバル資本主義なのである。
そういうシステムに作られているのでありそのシステムの中に生きざるを得ないのだから金持ちになりたかったら資本主義のルールのなかでなれとなる
この世はいつも不公平だったけど現代ではそれがあからさま見えない、だから不満があってもぶつけるものがない、金持ちは資本主義のルールの中で企業してもうけたのだからいいではないかとなる。
でも株でも操作されて今や大金持ちだけにその金が増えてゆくというのが問題なのであるつまり資本主義のこ自由競争ではなく何者かによって操作されているということはギャンブルでも八百長だとなる、グローバル資本主義ではその八百長が見抜けないから下層のものの不満が募ってくるのでてある。
ギャンブルでもあいつが大儲けしたからと責めない、それはそういうギャンブルのルールの中で行われていて承知しているからである。でもそれが八百長だったとなるとみんな起こり暴力ざたにもなるのである。その八百長がシステム的に巧妙に行われているのがグローバル資本主義となるから批判が高まっているのである。

タグ:陰謀論
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2016年06月17日

学問は問うことが考えることが大事 (武田邦彦氏の経済の説明で知ったことー権力に操作される情報)


学問は問うことが考えることが大事


(武田邦彦氏の経済の説明で知ったことー権力に操作される情報)


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水の配分総量が10ならば金持ちに5を配分すればあとは2とか下流は1になってしまうだろう。
でももし高度成長時代のようだったら20を水を配分すれば金持ちが5を配分しても下流でもおおくなのである


経済学部を出たとても自分は何の勉強もしていない、基礎的なこともわからない。
自分は受験勉強などで学問自体に興味を失っていた、そして何か自分で考えたことがないのである。
学問というとき学ぶはまねるでありあとは問うことである。
この問うということがいかに大事なことか知るべきである。
その問いの答えは用意されているのである

「なぜ人間は死ぬのか?」

これと人生最大の問いなのである。その答えはあるがキリスト教でしか解決できない
その他にこの世には無数の問題があり問いがある
なぜなのかということが無数にありとても一人の人間にわかることではない

ただ人間はいかに考えることが大事なことか知るべきである。
考えない人間があまりにも多すぎるのである。
学問とは自分の思考力をつけないかぎりわからない、最近たまった本を整理しているがいたるところに線を引いていた。そこが大事だと思って線を引いていたのだがそれを読んだ記憶すらないのである。
人間は本を読んでも読んでいないということが多いのである。
本は買っても読んでも読んでいない、もちろん心に入ってそれが自分なりに消化しているものもある。
ただこの本にこんなことが書いてあったのかということがはじめて読むように感心していることはほとんど読んでいても読んでいないということである。

理系的なもの特に経済には今や欠かせない、あらゆることが数値化しているからである。自分の場合は数字になると苦手である、だから数式とか化学式とかがでてくるとわからなくなる。
でも数学にしても基本的には考えることなのである。
この世のことでも経済でも数学的に考えることである。それがこの世を解明するすべてにならないにしても必要なのである。
だからグラフから経済を説いている武田邦彦氏の解説はわかりやすいのである。


現代の経済の問題は高度成長時代が終わったときからGDPは増えても収入は増えなくなった。
それを水で例えると水が出る量は10として一定であり増えないのである。
水の量が高度成長のように増えれば全体的に配分する水の量は増える
その中で貧富の差があっても20が5人に配分されればやはり全体的に水の量は多くなる、収入は多くなるのである。
今はそういうことがない、水の量は一定なのである。
ただGDPはあがりつづけているから実際は水の量が収入も増えている、でもバブル崩壊の時期からその増えた分が配分されない、政府が勝手に使ったり金持ちだけに配分されるようになった。日本は実際は豊なのだけど増えた収入が金が配分されないのである。

日本は借金が膨大だとというけどそれも国の借金ではなく政府の借金である。
だから政権が変われば政策を帰れば変えればその国から借り上げ借金を返せば一人350万にもなるという。
これも不思議な話である。このことはマスコミでもどこでも言わないというのも不思議だという。
金はあるけど国民から借りたものだから返すべきだという、みんなそれより国に莫大な借金があるからそれを国民が返さなければならないと思っている
それでその財源として消費税とか税を上げることもやむをえないと言われそうなのかとなり納得する、だけど国民から借りた金が莫大であり金はあるのである。
それは消費税を上げることではない、まずその国民から借りた金を返すべきだという
確かにこんなふうに経済を考えて主張している人はいない
これも政府にだまされてそうなっているのか?

なにか政府そのものが権力を持つものが国民を操作する、マスコミでもそうである。
肝心なことを言わない、舛添知事のことでもあいつは問題がありと指摘していた人がいたのである。
その声は大きくならなかった。それはなぜなのか、大きな声にならないように仕組まれていたのである。大きな声になるのはマスコミを通さないとならないという現代社会の問題がある。
ところがマスコミは裏の様々な団体によって操作されるから真実は明らかにされない
第一良くどん底の貧困者のことを書いているけどそれも真意がそもそもわからないのである。それがどういう事情でそうなったのかとかわからないが特別の貧困者のことを話題にする、するとそれを読んでそんなひどい人がいるのかとなる
でも本当のことは直接聞いたことでもないし真意はわからないのである。
つまりマスコミを人の注意をむけるたに極端なことを話題にするのである。
すると極端なことが今の社会の状態なのだと錯覚する、自分でもそうである。
そこに報道が社会の現状を正確に伝えないことになる。

なぜ舛添知事が問題があることがわかっていたのに厚生大臣までなったのか?
そのこともやはり回りがそうさせたのである。特にマスコミがそうである。
マスコミで名前を売りマスコミが舛添という人物を中味がないのに大きくしたからである

東京都知事の舛添が東京都民から嫌悪の目で見られている

今批判されるようなことがすでに言われていた。ではなぜ支持されたのかという謎であるそこにこれもまた今の自民党政権とか公明党がかかわってそうなった。
だから今になると自公政権が批判されている

そして原発事故でも安全神話が作られたのは自民党の時代でありそれはマスコミであれあらゆるものが官僚でも一体となり作られたのである。
そのために原発は危険だと主張した人がいてもその声が大きくならない、それだけ安全神話がもう国民に浸透していたのである。
それは空気のようなものになっていた。だから安全でないというとそんなことを言うのはもう変わり者だとなってとりあげられることもなかったのである。
本を出してもSFの小説のように見ていた。自分もそうだった、原発の近くにあっても危険だと感じなかったのである。
もちろん原発で仕事している人が多いからその人たちは上から安全だと言えと支持されていた。だからこの辺では安全を疑うこともできなかったとなる

経済の問題でも政府によって権力によって作られたものであり経済の実体を言わない
金は余っているし借金が膨大だから国民は消費税とか税金で返すほかないと思っているのである。そう思わされているだけなのである。
確かに高度成長時代が終わったとしても金が増えたしそれは国民の借金なのだから返せば国民が豊になるということを誰も言わない、それは原発の安全神話と同じなのである。
それが大きな声とならないのはなぜなのか?
そう政府とか団体とか権力をもつもの官僚手もマスコミでもそう誘導されているからだとなる
そんなことを言うものは変わり者だとなって相手になされないのである。
だから何かが大きな声になるというのはどうしてなのかとなる
いかに真実でもその声が大きくならなければ片隅に追いやられ変わり者として排除されるだけなのである。
一体舛添知事でももちあげたのは誰なのか?それが問題なのである。そこにも大きな責任があったのである。なぜならそういうことは知事になる前にすでに指摘されていたからである。だから今になってこれほど糾弾しているのかとなる
それは原発の安全神話でも同じだったのである。

経済再生の科学05 お金の量と豊かさ(武田邦彦)

タグ:国の借金
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2016年06月28日

グローバル資本主義の何が問題なのか? (移民などにより国家民族文化共同体の崩壊)



グローバル資本主義の何が問題なのか?


(移民などにより国家民族文化共同体の崩壊)


国家とは何かとなとこれも定義するのはむずかしい。国家とは一つの共同体である。
では共同体にはどういうものがあるかというと「政治的共同体」「経済的共同体」「民族的共同体」文化的共同体」「宗教的共同体」・・・とかある。
国家はそうしたものの総合としての共同体である。
ヨーロッパが複雑なのは共同体が重層的になっているからである。
EUができたのも元をたどればローマ帝国とかの共同体にさかのぼるしヨーロッパではそうした大きな統合された共同体が歴史的に生成して変化してきた。
宗教的共同体というときキリスト教圏を形成した共同体でありそれはローマ帝国のカトリック共同体を形成した。あとでプロテスタント共同体と二分化した。
アイルランドはカトリックでありイングランドと争ったのもそのためである。

そしてイギリスのEUからの離脱では何が問題になっているのか?
移民だというときそれは世界的に起きている問題である。日本でも人手不足で移民を受け入れる他ないとされている、今の政権は実行しようとしている。
移民はそもそもなぜこんなに増えたのかというと交通の発達で物理的条件がとりはらわれたからである。どこの国へでも飛行機でその日のうちに行けるとなると帆船とかで一年かけて日本に来たという時代とはあまりにも違っているのである。
そもそもだから人はこんなに移動していない、人は簡単に移動できなかったのである。
アメリカに移住するにも大西洋をわたるのに命がけだったら人は簡単には移動しない。
そういう物理的条件に制約されなくなったとき人が自由に世界を行き来することができるようになったとき移民の問題が発生した。
つまり国境が交通の発達で消失したのである。

このことは経済活動するには最適化した。国境がなく人種も関係なく企業は経済活動ができる。企業は土地にしばられるものではなく民族の制約もなく活動できる。
そして多国籍企業にとっては自分たちの商品を売り金儲けすることが目的だから国とか国境とか民族とか宗教とかにこだわっていたら活動できないからである。
いちいちこの国がどういう国田とか人種がどうだとか考えていたら活動できない、要するに商品を売り金儲けできればいいのが会社だからである。
現代ではどこの国に属しているというより日本だってみんな会社員であり会社に属して生活している。すると会社共同体が一番重要になっているのは世界共通である。
つまり経済共同体が共同体となっているというとき会社のか国家のようになってしまう。東電なんかも一つの国家のように巨大だったのである。他にも大企業となると国家のようになる。そこで経団連が力をもち経団連の言うなりに国家もなる。
それは多国籍企業として世界でも国家を越えたものとして力をもつ
イギリスに日本の会社が1300社が進出していたというのも驚きである。ヨーロッパの拠点として利用していたのである。

この多国籍企業はどういう目的の共同体かというと第一に商品をどこの国でも民族とか人種とかに関係なく売り金もうけるすること意外にはない、そこではいかにして利益を上げるかが最大の問題である、すると労働者でも安い労働力がいいと世界に進出するしまた世界からも呼び込む、人間というものを何か働くロボットのように考えている
または部品のように考えているのである。いかに安く使い利益をあげるかとなり人間も考える、要するに人間より機械やロボットの方が多国籍企業にとっては都合がいいのである人間は機械でないしロボットでもないからめんどうになる。そのめんどうさこそが人間たる所以なのである。
だから今の会社の働かせ方なども機械の部品とかロボットのように会社ではみている。
時給いくらとか働かせるのはそうであり外国人が安いからそっちの方が利益があがるとかなり人間というものを気軽に考える、ところが人間である故にそこに摩擦が生れるのである。

現実に宮城県のある村ではトヨタの工場になり半分がそこで働くとなるとそこはトヨタ村になってしまう。トヨタなしでは村が成り立たなくなる、東電でもそうであり原発がなくなると市町村も成り立たなくなるとかなる。そういうことは世界でも起きているのがグローバル社会である。
トヨタ村になった町になった社会は原発村となった町となったらそこにこれまであった共同体はそうした大企業の社員であり昔の農村共同体とは違ってしまった。
東電の社員のようになってしまっていた。だから東電が補償金を払い今度はそれで生活しようとしているのもそのためである。
昔のように一地域が農村共同体となっていた時代とは違うのである。
だから浪江の人が会社員だったが二本松に会社が移ったので家族もそこに移るとなる。
その土地に根付くというよりみんな会社員だから会社に属していて世界にも移動するとなる、それが多国籍企業と化したグローバル社会なのである。

「経済共同体」に特価したものがグローバル資本主義である。
それが交通の発達で可能になったのだけど人間は機械でもロボットでもないし部品でもないしモノでもない、人間を現すのは様々な要素をもっていて部品化できないのだが現代はそもそも部品化されてしまった。
移民は生産する機械でもないし様々な要素をもったアイディンティティをもった複雑なのだから地元の人とも軋轢が生れたのである。
経済的一単位とか部品のようにしているのが現代だというときそこにこそ問題があったのである。
それは国内でもあったことが世界的に拡大しただけでありグローバル資本主義がそこから必然的に拡大したともなる。人間は経済人間化した結果そうなったのである。
それは世界共通の問題でありグローバル資本主義に反対する運動の一旦としてイギリスのEUからの離脱問題でも移民反対のナショナリズムが起きている
そのナショナリズムというとき単に経済的利益だけではないもの、文化的なもの民族的なもの歴史的な共同体としての反発が起きている
ただこれも矛盾している面がある、スコットランドはそうした歴史的民族的文化的アイディンティティの強い共同体であるがEUに経済的メリットがあるから残留派になっていた。
一方でロンドンを中心とした所は移民が多い、ここはもともと残留派だと思ったが離脱派が多かったのは移民が多いためである。それで今度はロンドンは独立してEUに残るべきだと主張する
その人たちは多国籍企業からグローバル資本主義で利益を得ていた貴族階級である。
離脱派は底辺労働者として移民と競合している人たちだったという。
日本だって政治家とか経団連では大企業の幹部はグローバル資本主義で利益を得たいから移民に賛成なのである。でも底辺層が増えたから移民と競合するようになるから日本でもこれから同じ問題が起きるのである。
ともかくEUからの離脱派かこれほど騒ぐのはやはりグローバル資本主義が曲がり角にきたからそうなった。世界的にナショナリズムが勃興しているのもそのためでありそれは世界的にそうなのである。世界的なグローバル資本主義が転換を迫られているからこれだ騒ぎになったのである。

ヨーロッパの国家意識はおおむね民族と結びついている。
自分が何人かを決めるのは、単にパスポートに表示された国籍ではない、実際に言語であり共通の文化であり伝統であり日常の習慣である。
過去において外来者は一世代か二世代で完全に吸収された。
だが旧植民地からの移住者は全く異質なのでただ彼らを社会にとりこむだけではすまない彼らが存在することによって社会は自己規定観念そのものを変えざるをえないのである。
「ヨーロッパ、民族のモザイク」フローラ・ルイス

このことがまさにバスボート一つで自由にどこの国に出入りできても軋轢をうむ原因なのである。人間はそれが故に人間なである。
グローバル資本主義とか多国籍企業社会になれば言語は一つ、英語だけとか便利だし国境とか民族とか人種などはない方がいい、そしたら人間が人間たる所以が喪失するのであるそれは人間が経済人間になることの反抗でもある。
イギリスにはイギリスの文化がり習慣があるというときEUにそれを否定されることが嫌だというときそうである。
イギリス国内でもスコットランドの根深い対立もそうした歴史と文化と伝統の対立がありそうなる。それも否定できない、日本だって日本語から英語にすればいいとかなったら反対があるのは当然である。経済的に発展するには英語の方がいいと日本語を使わなかったらその人は日本人なのかとなるだろう。

国際人とは何かとか無国籍の方がいいと言う人がいるけどその人は一体何になるのか?
その人は何の特色もない骨なし人間のようになってしまわないか?
その人の個性はアイディンティティは国内でも一地域から作られる、相馬藩でも小さいがそうであり会津などは特に山国だからアイディンティティを作りやすい、その風土に見合った文化が作りやすいのである。
たがいに地域的にそうして個性とアイディンティティ育むときそこに文化の多様性が生れる、ヨーロッパの特徴がそういう多様性にありまた総合性にある
それでイスラ文化をとりいれたルネサンスが華開いたのである。
ヨーロッパの強みはその多様性にあり総合性にあった。グローバル資本主義になるとそういうものがEU内でも失われかねないからイギリスの離脱もあるし次にはスペインとかイタリアとかにも連鎖するのである。

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2016年06月30日

底辺層の不満は根強い (余裕がないと金持ちへの怒りにもなる)


底辺層の不満は根強い


(余裕がないと金持ちへの怒りにもなる)


富裕層は底辺層のことがわからない、交わらないからわからない。政治家でも実際に交わらないからわからない。
例えはなぜそんなに不満を言うのだろうと不思議に思うことがある。
自転車屋で障害者の息子がパンクを修理してもらったらチューブまで交換して金をとられたと不満を言う、それは自転車屋で良くあることだし自分は別に文句を言わない、たいした金ではないからである。
そのことを延々と言いその自転車屋の悪口までなりもう行かないとも言っている。
その自転車屋が病気らしいのだけどそれにも同情しないのである。
そんなことで恨みまでもつことがわからない、ただ底辺層になるとそんなことまで余裕がないからこだわっているということである。
むしろ自分は同情して金をとられてもいいなと思っている、それは余裕があるからだとなりそんなところに底辺層との差が生まれる

なぜチューブまで取りかえたんだ、金がないのに

それが怒りまでになっている、富裕層だったらそんなことこだわらないのである
でも現代の経済は非情である。この人が金持ちか貧乏かなど見ていないのである。
その金の分をどんな人でも要求するのである。
それが世界中でそうなっている、相手が貧乏だからといってその金の分しか払わない
もしそんなことしたら経済が成り立たなくなるだろう。
この人は貧乏だから医者が金を安くするとかならないだろう。そういう温情は情をかけるということは昔の方があっただろう。
でも現代は金が非常に支配する社会なのである。それが世界的になっているのがグローバル資本主義である。
ただ自分にしても一般的にもそういうことはありうる、自分は特にそうだったから理解できないことはない、
自分に自由になる金はやはり小使い数万とかの単位である。だから百万使うとなると怖いのである。
そしてやはり前だったらチューブに交換しなくてもいいと自分もなっていたから同じだったのである。
やはり人間は金があれば余裕が生まれる、これはどうにもならないのである。
今は清貧ということはありえない、最低でも金がかかるからである。
日本では福祉があり生活保護を受ければ医療費とか無料になるとかで後進国よりはいいとなる。つまり富裕層がいたときその税金を高くして貧乏人に回すことで平等を計っている

ただその人が食べるものを比較するとその人の方が贅沢しているのも現代的である。
自分が外食しているのは料理に時間がかかるからである。でも普通外食はぜいたくになるでもそこは700円くらいだから贅沢とは言えないのである。
この辺でもお前は贅沢だなとなる
ただテレビで見ていたらサラリーマンの小使いが減って昼食が500円くらいになったというのも日本も貧乏になったなと思う。
まず500円ではランチでも満足なものが食べられないと思う。せいぜい弁当しかなくなる
こういうことだとすると底辺層だけではない日本人全体の不満が大きくなっている
格差社会であり富裕層への不満か大きくなる。
そして高度成長期のように中間層がアメリカでも日本でも没落したことが大きいのである月給が増えないので家計がぎりぎりになっている
やはり人間は金銭的にも時間的にも余裕がないと心もすさんでくることは否めない
自分が苦しんでいるとききた人たちも余裕がないから助けようがないのである。
一人は事業に失敗して多額の借金があり一人は問題をかかえて貧乏であるとかそんな人がもう何もできない、相手が瀕死の状態でも何もできない、自分が苦しいから自分の苦しさをなんとかしてくれという人は人を助けることなどできないのである。

現代ではそうして貧困化すると余裕がない人があふれることになり犯罪も増えてくる
その恨みや不満の対象が金持ちに向かってくるから金持ちは危険なものになってくる
高度成長時代は最初は貧乏でもみんなれなりの豊かな生活を享受できるという将来があった。年々月給があがっていたからである。
事業をしても成功する人が多かった。今は何か事業を起こすにしてもすでにいろいろなものができあがっているから成功しにくい、なんでもすでにあるじゃないかとなる
これ以上なにか欲しい物があるのかという状態にもなっている
でも物があってもまた買えないという貧乏人が増えている、それは昔の貧乏人とは違うがやはり何かと不満をつのらせる人が増えてきたのである。
それは自己責任だともならない、そういう貧富の差も固定化しているからである。

要するに現代は物があふれて過剰であるというとき物を売るということに限界が生じている、だから何か閉塞した感じになる、国民総生産だってもう上がらない、ゼロサム社会である。
こういう社会は中世にもどるという人もいる。人間は物の世界から精神世界へ内面の世界へ向かってゆく、それは宗教的哲学的芸術的なものへと向かうともなる
ただカルト宗教が創価でもそうだが戦後の焼け野原から高度成長時代へと物質的豊かさを目指して会員も増えた、それもある程度達すると今度は精神的内面的なものに向かうのである。
ともかく今の政治的状態は何かそういう時代を反映している。
貧困層というが創価はそうだというときなぜ自民党と一緒になっているのか?
本当は底辺層は野党のはずなのである。自民と一緒になることは相当な矛盾である。
ただこの世の中は必ず矛盾なのである。
格差社会になると対立が激化して内戦状態になることさえありうる
犯罪も増えるし富裕層にとっても住みにくい社会になる。
全体の富を増やすということでは共産主義より資本主義の方が優れている
でも配分をうまくやらないと今のような極端な格差社会になると社会自体が治安が悪くなったり社会全体の和が保てなくなる
こういう時代の変わり目にはやはりそれにみあった政党が生まれればいいのだができないそこにも政治経済でも何か閉塞感を感じる時代なのである。
それは世界的にももう中国もだめだブラジルもだめだとか資本主義も限界にきている。
世界自体がどこの国もアメリカでも内向きになり閉塞感が強くなっているのである。

タグ:底辺層
posted by 老鶯 at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題