機械化が社会を根本的に変えた
(刀自には一家の主的役割があったー機械化で失った主婦の役割)
●機械化工業化で明治以降は社会が激変した
現代の社会を根本的に変えてしまったのは機械化の影響が大きい。信長の時代だと鉄砲が入ってきてそれが時代を変えた。戦争でも常に武器が社会を変えていった。中世の城壁が無用になったのは大砲がでてきたためである。会津の戦争でも大砲で旧式の鉄砲で戦いなかった。現代社会を大きく変革したのは機械だった。江戸時代まで大量生産ができなかったから工場もないから時間にルーズですんだ。大量生産で効率的にするには時計で時間を絶えず計り規格製品を大量に作り出さねばならない。
その大量生産のために学校が作られたのである。学校もまた機械化される社会に適応させるために世界中で作られたことでもわかる。
それは国と関係なく機械化社会に人間を適応させるためにそうなった。
江戸時代の寺子屋は意外と自由であり机を並べて一人の先生の指示に従うものではない。学校は規格化された大量生産のために必要だから作られたのである。
time is moneyになった資本主義もそうして時間を機械化して計ることにより人間を機械化することだった。
現代文明とは機械文明でありそれは機械を使いこなせなければ生きていけなくなった。
それは非人間的なものであっても機械化された社会になるとその中で生きる他なくなるのである。
戦争すら機械化戦争であり高度な機械は殺人兵器となり大量殺戮になった。
原子爆弾がその象徴でありナチスのガス室送りでの大量殺戮もそういう文明の結果だともされる。ともかく人間がこれほど大量に殺されたのは機械が発達して機械が大量殺戮を可能にしたからである。空爆だったら大量に殺戮できることでもわかる。
人間は機械に使われ機械によってその人間性も容赦なく奪われる。
ただ機械化しなければ他国との競争に勝てないから共産党主導の強引な政策の強制は失敗した。
全農民を動員して鉄鋼大生産に全力を挙げるよう命じた。だがそもそもが農民を総動員して鉄鋼生産をさせるという手法に根本的な無理があった。金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなく、生産された鉄の大半は全く使い物にならない粗悪品であり、膨大な資源を浪費する結果となったhttp://dadao.kt.fc2.com/fanzui08.htm
要するに機械化できないから鉄鋼の大量生産ができないから農業から工業化ができずに遅れをとったのである。
戦後は農業でも機械化であり農機具なしでは農業もできなくなった。そのことは中国でも同じである。コンバインだと麦刈りするとき人力の百倍とか千倍の収穫ができる。
それで麦刈りの出稼ぎ者は極端に減ってしまった。ただコンバインの入れない地形の所で出稼ぎ者がまだ使われていた。それは日本でも田植機で田植えしてもその縁(へり)が機械でできないので手植えしているのとにている。
巨大な機械によって人間が隅に追いやれ人間の力は機械に比べていかに小さいものか認識される。中国は人口が多いから人力作戦で行う。その中国ですら機械の力にすれば小さいものになったのである。
●日本人意識は鉄道によってもたらされた
これは大局的に見た現代文明である。明治維新以後は鉄道化した結果江戸時代の社会が大きく変わったのである。江戸時代は簡単に藩を出ることはできなかった。範囲意外の人間と交わることはまれだった。それより隣の村との行き来すらしていない自給自足の閉鎖された社会だった。例えば伊達政宗が相馬藩の街道を通るとき相馬の殿様の許可を得なければ通れない、でも伊達藩にも恩義があるということで特別通された。
そういうことは全国であり簡単に道は関所もあり通れないのである。
鉄道の歴史で面白いのは切符が江戸時代の手形やパスポートのようになっていたという指摘がある。切符一枚あれば日本全国どこにても行けるからである。そんなこと当たり前だろうとなるが鉄道ができた当時はそれはありえないことだったのである。
そして鉄道に見知らぬ人が乗り合わせることもありえないことだった。江戸時代は見知らぬ人が出会うということは少なかった。だから全然知らない人が同じ車内にのっているということが何か普通の経験ではなかったのである。
そういうことを小説の描写で残しているのがあるし鉄道ができたことにより社会そのものが人間関係も変わってしまったのである。見知らぬ人が同じ車内で出会い切符一枚で全国どこでも行けることは日本の社会を変えてしまった。
だから鉄道が日本を統一国家にした日本人として意識させるようになったというのもあながち否定はできない、天皇ではなくそうした鉄道化した社会は日本人としての意識をもたらした。なぜなら天皇とはその頃まで庶民にはそんなになじみがあるものではなかったからである。
江戸時代までは日本人は他の藩のことなどしりえようがなかったのである。
現代の人間関係は常に見知らぬ人と遠くの人と交わるのが普通になっている。
狭い村の自給自足的な閉鎖された社会とは違い人の出入りが激しい社会である。
そういう中で犯罪も増えてくる。
機械化というとき通信の世界でも匿名の人が集まり文字で話し合うというのも現代的である。これも相手の顔も素性もからず文字だけで話しているのである。こういう世界もありえなかったのである。現代は膨大な人々が匿名で交わる社会である。
それもパソコンとか通信機械化社会に寄ってそうなったのである。
コンピュターライズド社会になった。その前にモータライズド社会が車社会ができあがっていた。車社会となったのも大きな変化である。
それは鉄道にまさる変化をもたらしたのである。
●昔の家事の重みは万葉集など刀自の言葉に伝えられる
機械化というとき家事も機械化であり機械なしでは今やありえない、機械化で効率化しているから仕事も外でできる。今は一人暮らしでも機械によって家事が簡便化した。
米たくにもスイッチ一つ押せばいいとか誰でもできる。
ただ家事のノウハウは多岐にわたっているからそれが家事を全くしていな男にとってはそのノウハウを知らないことで苦労する。
自分もここ七年間はそうした家事に追われていた。家事は簡単にそのノウハウが会得できないのである。まず料理からしてめんどうであり自分はほとんど買ったものでまにあわせている。それからいろいろな管理方法でもわからないのである。
その点女性は知っていて教えられることがあった。
全然家事したことがない男性が妻に突然死なれたりすると苦しむのはそのためである。
家事というのは昔でも大きな仕事であり
トヌシ(戸主)の転。戸口を支配する者の意。「家長(いへきみ)」の対。
「刀自」は女、つまり、「一家の主婦」なのですが、奈良時代には「一族の女主人的な立場の人」でもありました。年寄りでも若くても関係なく「刀自」です。
さらに転じて、「女性に対する尊称」として用いられるようになり、
平安時代には、「内侍所・御厨子所・台盤所などに勤めて、事務・雑役に従う女房」に使われるようになったと書いてあります
神道では故人は神(祖霊)になって、一族を見守るようになる。
刀自命(とじのみこと)、姫命(ひめのみこと)、大人命(うしのみこと)、命(みこと)は祖霊になった際につける敬称の1つ。
意味合いは違うが、仏教における「戒名」と近いものとなっている。
※刀自命の刀自とは、戸口を守るという意味があるそうです。転じて女性を指す言葉となっています。
母刀自(その2)……駿河国の坂田部首麻呂の歌。
「真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず」(4342)
目豆児の刀自/身女児の刀自……『万葉集』巻十六、能登国の歌。
「鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て
石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ
辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて
母にあへつや 目豆児の刀自
父にあへつや 身女児の刀自」(3880)
刀自は家事を背負った大きな役割を果たした女性である。その家事の内容が今とは戦前でも役割の中身が違っていた。今のように機械もないし買うこともないのだから自給自足となると一軒の家ですべてをまかなうということになる。
戦後でもまもなく農家では納豆まで作っていた。もちろんその前は味噌も自前で作っていたりと何でも自前で作っていた。今はただ買う生活なのである。
だからそこで刀自とかいう家の重みを背負っている女性は喪失した。
真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず」(4342)
ここには家の重みのある時代を彷彿とさせる。家自体も真木柱とありその木が特別な木である。その柱のごとく殿はあった。そういう家に母刀自は重い存在だった。
お袋の味とか言われるがそれすら今もなくなったがそういうものを作り出していたのが母刀自である。その日々の仕事は家事に費やされていたのである。
時代をさかのぼればのぼるほど家の重みがあった。
鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て
石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ
辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて
母にあへつや 目豆児の刀自
父にあへつや 身女児の刀自」(3880)
一種の自家生産なのである。塩をもんでいるとなると塩を加工するのも仕事である。
売っているものを買うのではない、回りにあるものを利用して自給自足でありだから生産と消費は直結していたのである。ここに刀自が四つもでてくることでもわかる。
刀自の役割は大きかったのである。つまり今でいうなら言うなら主婦の座の役割は大きかったのである。
今は主婦はそうした刀自の重みはない、むしろ外でいくら稼ぐかとかで計られる。
家事はやはり料理でも自前でするというよりオカズでも買っている人が多いのである。
家の重みでも主婦の座の重みでも消失したのである。
刀自の重みは単に家だけではない自家生産して消費していたことにあったのである。
●刀自の役割が喪失して女性のフェミニズムが主張されるようになった。
昔の家事は機械など極力使わないから人力であるからその費やす労力も大きい。戦前でも中産階級ですら二人の女中を雇っていたというからそれだけ家事は機械化していなければ手間がかかるものだったのである。家事の労働に女性の労力は費やされていたとなる。
それが機械化されたとき女性の労苦も解放されたのだがまた新たな苦労が待っていた。
外で稼ぐには男性並みの能力がないと稼げない、でもそれだけの能力ある人は少ないから今度は外で働くのに女性は苦労するようになった。
つまり人間の社会は一見何かで楽になった機械で楽になったとか思うと別な苦労が待っている。機械化でもたらしたものは大変革だったがそれによる弊害も大きかった。
昔の女性はフェミニズヒムなどでは差別差別とか騒いでいるけど実際はそうした家事全般を受け持つことで大きな役割を果たしていたのだ。
刀自というのは今でも原町の大原の知って人の墓に刀自と記されている。
何か刀自というのには女性の高い大きな地位を示していたのである。
だから墓まで刀自と記しているのである。女性の地位をいろいろ言うが機械化でかえってその大きな役割を失ったということもあったのである。
男女平等を言うがそもそも男女平等というとき外で働くようになった女性が男並に能力を発揮することを強いられた結果としてそうなった。どうしても仕事では女性は男性並にはなれない。つまりそもそも男女の役割が違っているからそうなっているのである。
要するに女性本来の力を発揮する所は家にあり刀自としての役割にあったのである。
むしろ女性の本来の役割が近代化機械化で失われたということもある。
なぜそんなことを思うようになったかという自分がまさにそ家事一切を背負う男刀自になっていたからである。墓参りでも先祖の祭りでも自分がしなければならない、すべて家事一切家のことをまかされることになった。その刀自の役割は家を守ることである。それは家事だけではない家の財を守ることでもある。実際に犯罪に合い家の財も奪われたから家はまた刀自がいないと大きな隙間ができるからそうなる。
そして毎日介護でありこれも刀自の延長の仕事してあった。家の中で介護する負担は大きい。今でも嫁がやらされるというときその時刀自のような役割を担うことになる。
昔は大家族だから手のあいている人がやっていたのだろう。女中が中産階級で二人もいたということは女中も介護などの仕事をしていたのである。
ただ機械化した結果、掃除洗濯料理はもう機械ができる。オカズも買うから料理しなくてもいいから女中の仕事もなくなったのである。
今は女中の仕事をする人はまれである。それでも毎日家事の仕事は本当にあるものだと思った。大きな家になると掃除自体が手間になる。
だから最近買った3000円の掃除機が使える、簡単な掃除に使える。
3000円は安いなとすぐに通販で買った。35000千円で買った。スチームクリーナーは3万以上したがトイレとか床にはいいがあまり使えなかった。掃除機は重いからこれは気軽にできるから良かった。
これも機械をいかに自分にあったものを買うかとかが問題になり買うことから使うこなすことが始まってる。
なかなか道具は使ってみないとわからないから困る。この3000円の嘘かと思うくらい安い。それでも使えるから得だった。
知らないとこうして無駄な出費も多くなるのが現代である。何を買っていいのかも電器店に聞いてもわからない。
印刷機でも使えないものがあったし自分でいろぽす見て選択するほかないのが現代である。
電器店では売れ残りとかを進めたりするからこれも信用できなくなっている。
かえって通販の方がいいとまでなんているのだ。ただそこでは選択する能力が必要になっているのである。
毎日ゴミがでる、ほこりがでる。掃除は毎日欠かせないからまた手間なのである。
家事でも機械化すると便利な機械を知り機械を使いこなすことが肝心になる。
誰か主婦にならうより機械を使いこなす方が現代では大事になる。
そうはいっても家事のノウハウは実際の主婦の女性の方が知っている。
でも現実は機械でこなすほかないのである。
だから無洗米とかを精米できるところがあるとは知らなかった。
それだともう米を洗う必要もないのである。そうなると主婦の役割は喪失して外での仕事でいくら金をかせぐかが男と同じように評価の基準になってしまうのである。
家事をうまくやれるかより外で仕事ができて稼ぐことができるかが女性の価値判断になり男女平等がフェミニズムが興隆することになったのである。
吸引力が結構あり便利である。音はかなりうるさい。でも普通の掃除機は重いからめんどうである。これは手軽にチョコチョコ利用できるからいい。
これは偶然に見つけた、通販でしかこういうものは買えない
最近また通販で毎日のうように買っている。
通販だと自分の欲しいものが次々と買えるからいい
今は機械でも何でも多様化しているから通販でないと買えない
もう電器店だってそろえきれないものがあるからだ。
それは本でも何でもそうである。
あらゆるものがそろえきれない、だから店にあるのは大型テレビとか決まりきったものになる。
買い始めたらきりなくなるというのも困るが今まで買えないものが買える。
田舎でも都会にいると同じなのである。