2009年06月09日

東海道-吉田(豊川橋)俳句短歌の紀行文

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東海道-吉田(豊川橋)俳句短歌の紀行文


芭蕉句碑は、昭和七年に建立された旅寝塚と呼ばれるもので、芳野紀行で、芭蕉と越人は、貞享四年(1687)十一月十日、渥美の保美に社国を訪れる途次、吉田宿の旅籠で一夜を過ごした際、詠まれた句である。 
    
  寒けれど    二人旅寝ぞ    たのもしき  

聖眼寺がある。雨に濡れた静かな境内に入ると本堂左手に芭蕉句碑があった。「松葉塚」である。

    ごを焚いて 手拭あぶる 寒さ哉
東海道にしては淋しい感じだが当時は今とまるで違う、人の行き来も頻繁ではない、宿場はにぎわってもそこを出れば淋しい田園風景が広がっていた。


そのまま歩いていくと、水を湛えて濤々と流れている大きな川に出た 
豊川で、川に架かる橋は豊橋である。 江戸時代には、橋の右下あたりに吉田湊があり、伊勢に向かう旅人を乗せた舟が出て行った、という。  池田輝政により最初に架かられた橋は、現在の橋の七十メートル程下流にあった、といわれ、大橋百廿間(約220m)といわれた大きな木橋で、吉田大橋と呼ばれていた。 東海道に架かる大きな橋 は、武蔵の六郷、三河の吉田、矢矧、近江の勢多であるが、矢矧橋に次ぐ長い橋で、その管理や修復は幕府が自ら行っていた
http://www.geocities.jp/mrmaxtoukai/35-goyu.html

豊橋というと橋だから橋で有名だった。浮世絵にも大きな橋と吉田の城が描かれている。幕府がこの橋を管理していたということはこの橋が東海道で重要な役割を果たしていたからである。川に橋がかかっていること自体少ない、日本では大きな橋が少ない、だから渡しが多かったのである。

この先にある佐奈川の佐奈橋を渡ると、小田淵で豊川市に入った。 
名鉄名古屋本線小田渕駅の近くは、古い民家が残る。 右側に少し入ったところに、

冷泉為村の 
散り残る 花もやあると 桜村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ
という歌碑があった。 江戸時代の冷泉家の当主で、冷泉家中興の祖という。 一度だけ江戸に行った際、当地桜町で詠んだものである。
桜村さくらは散れどなおしばしここにあれかし旅路によりぬ

大橋を渡り吉田の城見えて名古屋も近し春に旅行く
桜村というのはその桜で有名だったのか、一つの歌枕のようになっていてその桜を偲んだのか、ここは桜で有名だから散り残る花もやあると・・・なった。こういう歌は歌枕として事前に知っているからこういう歌ができる。桜で有名な所は日本では無数にある。冷泉為村とははじめて聞いた名であった。吉田から名古屋は近い、ただそれは今の感覚である。豊橋と名古屋は電車ではすぐだとなる。江戸時代ならそれなりの距離感覚になるが繁華な名古屋は近いとなる。そこには大きな名古屋城がある。東海道を旅するといっても電車でおりてはよるだけでありとぎれとぎれに行くことになるから当時の東海道を旅することがどういうものだったか偲ぶことはむずかしい。東海道は道路が交差して車や電車や新幹線とあまりにも変わりすぎてわからないのだ。
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かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し    芭蕉
また、烏巣の句は
ももの花 さかひしまらぬ かきね哉

 伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称 茶屋本陣跡)  一 茶屋の地名
 東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり、立場茶屋が設けられたので、茶屋の地名ができた。


さかひは境であり関所のことである。関所はまだあいて人の行き来がある。そこに桃の花が咲いている。それだけ東海道は人の行き来があったということでもある。これは東海道らしい句である。「豊橋」は飯田線から来たのだが歴史的にもこういう地域だったことがわかる。
春の月三千円の宿見つく
これが自分の句として書き加えた。三千円の宿はなかなかない、旅しているとこの安宿探しで苦労した。長い旅だと安宿でないと金がかかりすぎる。でも今や日本には安い旧式の旅館はなくなった。ビジネスホテルで最低で五千円出さないと泊まれない、日本では長い旅するのに向いていないのだ。ヨ-ロッパは安い宿が多いので旅に向いている。豊橋は飯盛女でにぎわったというからそういう宿場町でもあった。
この文章はコピ-からつけたして構成した。でも著作権に違反しているものではないだろう。ただそこの謂われを紹介しているだけでは創作にはならないだろう。道順、順序などはそのままではない、俳句と短歌の鑑賞を優先した構成にした。インタ-ネット時代こういうコピ-が半分くらいの文章が作りやすいのである。でもこれもインタ-ネット時代の創作なのである。
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2010年02月28日

春爛漫小田原城

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春爛漫小田原城 


鯉はねて小田原城は花盛り


小田原の天主を望み春の鯉

朝桜小田原城に映えて散る

城門や旅人入れて春の月

行く人に花を散らすや小田原城

春の雲流れて天主に海望む

城今宵客を迎えて花に月

春の雲箱根に上る電車かな

木の間ぬい石畳の道夕鶯

急ぐなと休むや春の石一つ

箱根路や枝垂桜に石一つ

石一つ休みてここにスミレかな

畑宿に下りてバス待つ春の月

旧街道偲びて行くや馬酔木かな

春の暮本陣跡に石一つ

春の星一つ二つや畑宿に

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海望み箱根の山の高きかな小田原城に桜映えにき


朝日さし小田原城に桜映え波のひびきて東海道かな

海近く小田原城や花の影真昼明るく大門入りぬ

相模湾春の潮のひびきけり小田原城に我は来にけり

箱根路の石畳の道残るかな春の夕暮我バスを待つ

箱根路に本陣跡やバスを待つ鶯鳴きぬ春の夕暮

春の海望みて城や関東を治めし誇りここに残りぬ

正宗へ恨みの残る小田原城花の盛りにみちのくゆ来ぬ

城中に葵の紋の長櫃の残され古りて春の日暮れぬ

花盛り流れのひびき富士の嶺の目前に迫り湯煙はきぬ

春の朝芦ノ湖澄みて真白なる富士の嶺の影ここに映しぬ

石一つまた石一つ旅人の休みて下る春の箱根路

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花爛漫小田原城



小田原の城下に桜望む海

春の潮のひびきよせ

伊豆半島も弓なりに

天下の険箱根の嶺迫り

お堀に鯉の跳ねて

関東の覇者の城にあれ

東海道の随一の宿場町

堅固な城門なるも

今宵は春の月光り

遠来の客招き入れるべし


東海道というと海道であり中山道とは対称的である。海に開けている道である。東海道の昔の道をたどることはむずかしい。都会化が激しいからどこが東海道だったかわかりにくい。小田原城は海に近い、天下の険の箱根の山も見上げられる。東海道は海に沿った道でありそれが魅力なのである。ここもとぎれとぎれに旅したから昔の東海道がどうのうよだったかはわからなかった。つまり東海道を連続したものとして旅するにはこれも相当演出した労力が必要なのである。その点中山道は昔を偲びやすいのである。つくづく現代の旅は雑踏とかビルとか車の洪水とか様々なもので記憶に残りにくいのだ。東海道などは特にそうである。どこに行ったのかさえ記憶できない、そして旅は最初に計画→実行→回想がありこの回想も旅の大きな楽しみなのである。回想してみて旅は完成する。この回想の旅も終わりがない、この回想の旅を豊にするには何度も書いたがいかに記憶に残る旅をするかなのである。これは必ずしも写真を大量にとって記憶しようとしてもできない、人間の五感の記憶として残せるかどうかが問題になるからだ
これは分類としてホ-ムペ-ジに出したの書き足したアップした。
http://www.musubu.jp/notetrip.htm

2011年01月08日

新春俳句東海道十句


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新春俳句東海道十句

春潮の高鳴りひびく小田原城


小田原城帆影の見るや春の海


東海道春光まぶし望む海


東海道商家の多し燕来る


東海道道まっすぐに燕来る


紅梅や東海道に望む海


伊吹山関が原にそ残る雪


関が原越えて近江や春の山


車窓より蓮華の畑近江富士


京近し瀬田の唐橋春の暮

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東海道というと今は旅してもわかりにくい、新幹線は通りすぎるだけであり普通列車でも家ばかりが密集しているのが印象になる。昔の東海道の面影はあるところにある。そこは旧道で細い道になってまっすぐな道がつづいていた。あれだけまっすぐな道が街中を通っているのはやはり東海道である。必ず日本だと道は曲がるからである。東海道の面影が残っていて印象に残ったのは小田原である。城の桜が見事でありそこから海が見えたことである。箱根の山と海が見えるから展望がいいから気持ちいいのだ。その海から品川の方に行く船が帆の船が見えたかもしれない、品川は近いからである。品川には船の出入りが多く浮世絵にも出ている。


東海道は海がまじかなのである。大阪と東京を結ぶ海があった。その海は頻繁に船が行き来する海でもあった。そこが東北の海とは違っていた。でも東海道は海にそってあったとしても今は電車で行っても海はそんなに見えないからわからないのである。結局断片的記憶しかここも残らなかった。その記憶をつなぎあわせてまた俳句の連作十句を作った。俳句でも短歌でも一つだけではものたりない、連作になると活きてくる。俳句は連句とかで成ったものであり一句では俳句にならなかった。芭蕉の句も紀行文であり連句として読むべきであり一句一句では深い鑑賞はできない、連続したものとして価値があるのだ。そもそも地理をみるときある一地点だけを見たってわからない、棚倉の詩を出したがあれも福島県の全体の地理がわからないと鑑賞できない、そのポイントは奥の細道から東北の幹線道路からはずれた所に意味があった。水郡線というのも不便なロ-カル線でありかえって旅情がでてくる。芭蕉の通った道は今や東北では繁華なところでありとても奥の細道からほど遠くなってしまったからだ。


東海道は車が多いから当時をイメ-ジできない、でも春になると北より南の方に向かいたくなる。春はやはり南から来るのだし南にひきよせられるしそこには日本の歴史の栄があった所でもある。地理的に関が原は春でもまだ寒いから雪が残っている。そこに伊吹山がありヤマトタケルがそこで死んだの象徴的である。日本の国を二つに分ける所で死んだからである。蝦夷征服の英雄が東北の蝦夷の地から帰還して伊吹山で死んだのである。そこから開けた西国が近江-京都-奈良が望める地域だったのである。地理が歴史を作っていたのである。新春の俳句として前に作ったものもあったが出してみた。



春爛漫小田原城
http://musubu.sblo.jp/category/759559-1.html


 

2013年02月23日

日本橋-春の江戸俳句十句 (日本橋は江戸時代の基点の橋)


日本橋-春の江戸俳句十句

(日本橋は江戸時代の基点の橋)

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寒暁や大名たちぬ毛槍かな

季節がいつなのかわからないが冬の感じがする

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日本橋諸国の大名上る橋

日本橋渡りて誰も江戸の春
大名の紋あざやかに江戸の春
足軽も日本橋渡り江戸の春
日本橋毛槍をかざし江戸の春
日本橋馬も渡りて江戸の春
百艘の舟入り乱れ花の江戸
伊達藩の米も積まれぬ江戸の春
日本橋踊る魚や春の岸
江戸っ子の活魚を売るや日本橋
春富士や諸国の基点日本橋
寒暁や大名たちぬ毛槍かな


日本橋というと広重の浮世絵がまず思い浮かぶ。あの絵は江戸に到達した絵だと思っていた。逆だった。江戸を出立する絵だった。お江戸日本橋七つたちの七つは朝四時だから早い。この絵は冬なのだろうか?何か冬の寒い感じがする。その頃魚屋も買い出しにきていた。今でも魚屋は早い、日本橋には魚河岸があり一体となっていた。だから日本橋を魚屋が天秤棒かついだ通るのが日常的だから絵にもなっていた。生きた魚を扱うからそこから威勢のいい江戸っ子気質が生まれたのか?江戸は今の東京も同じであり生き馬の目を抜く繁華な場所であり他の浮世絵を見ても人でごったかえしている。それは今の東京にも通じている。一里塚とは、江戸日本橋を起点に一里(36町=3.9km)ごとに街道の左右に築いた塚である。日本橋は江戸時代はまさに諸国の中心点でありそこに大きな意味があった。日本橋に到達してはじめて江戸に入ったと感じた。
それはロ-マと同じだった。ロ-マを基点にマイルスト-ンがありロ-マの道は諸国に通じていた。
東京では今は歴史的なものを感じることはむずかしい。ビルと車の騒音と道路に埋もれている。
東京都中央区日本橋小舟町とか地名にわずかに当時の名残がある。中央であり小舟がそれを示している。

京都なら歴史を偲べるが東京はできない、それが観光しても面白くないとなる。ただ江戸時代は江戸は魅力ある都市だった。水路があり舟が行き来してまさに花のお江戸であった。その基点となったのが日本橋だった。観光は昔を偲べないと歴史を知らないと今だけだとどこでもつまらないものとなる。東京に来たら江戸を知らないと何の魅力も感じない、ただ文明の騒音のみしか残らなくなる。今だと東京駅が基点になるのかあれは昔のままに再現したからあそこを中心にして皇居もあるから日本橋の役割をになうのか?ただ東京はあまりにも雑然としすぎるのである。

江戸時代でも今でも生きることは必死であり詩的に鑑賞するようなことがないのが人間である。のんびりと観光気分の人は当時でもないだろう。長い旅であれ日本橋にきてやっと江戸についたなとなりその感懐は長い旅路であったからこそひとしおのものがあった。新幹線であれついたよとはならない、その行程が宿場に泊まり長いのである。だからこそ日本橋のもっている意味も大きかった。今はどんなところでもあっというまに飛行機でもついてしまうからどこが基点というふうにならないしああやっとついたなということもなかなかない、旅は目的につく時間が長ければ長いほど旅を感じるのである。ただ早くついて通りすぎるのは旅ではないのだ。だから江戸時代の人はなかなか遠くに行けなくても歩いているから旅をしていたのである。

浮世絵を見ると日本橋からあんなにはっきりと富士が見えたのか?想像で描いたのか?ただ当時は高いビルがないからあのように富士も見えたかもしれない、


その北詰側に朝だけで千両の金が落ちる魚河岸があり、今の人形町付近には夜千両が落ちる遊郭・元吉原があった。また現在の日本銀行本店は、江戸時代の金座跡である。
http://www.tokyo-rekisi.com/chuoku/nihonbashi/nihonbashi.html


日本橋付近のにぎわいは江戸時代ならとても田舎では味わいないものだった。田舎と江戸の差は今では考えられないほど大きかった。江戸は政治経済文化の中心地だった。伊達藩が石巻から米を船で江戸に送った。その米を作るために今回の津波にあった仙台平野が開拓されたのである。米はみちのくでは商品作物だった。川岸には蔵が密集していてそこに米は貯蔵された。全国から物資が集まりあの蔵に納められたのである。江戸はその当時の人は住んでいてそれほど感じなかったかもしれないが今になり江戸を偲ぶあういう江戸なら行ってみたいとなる。タイムマシンがあったら行って見たいとなる。今の東京には見るべきものがない、スカイツリ-なんかもつまらない。昔も偲べないからつまらないとなる。では何か目新しいものに接して買い物があるかとなるとほとんどない、通販でほとんどのものは今は買える、東京でなければ買えないものは今はほとんどないのだ。だからただ今になると混雑して嫌だなとなり今の時代は田舎の方がずっといい、文化的差も今はほとんどないのだ。情報的にもそうである。インタ-ネットが普及しているしこうして即座に調べて書いてプログにのせられるのである。東京にいようが田舎でも情報格差はないのである。


キンドルを買ったことを書いたがこれも実際は最新の技術がつまったものだった。クラウドとかWI=FI通信とかipadと同じくこの小さな文庫本のようなものに意外と最新の技術の集積があったのだ。
パソコンで文字を読むと何か疲れる。文庫本のようにどこでも気軽に読めることが必要だった。そうすると頭に入り安いのである。パソコンで調べるのはいいが本のように文を読むのは向いていない、横文字でありまた体がリラックスして読めないから頭にも入りにくいのである。この点キンドルは本当に読みやすい、紙より読みやすいのである。こういうものでも東京が別に文化の中心地でもない、通信が発達すると中心地がなくなるのだ。クラウドというように雲の上が中心地になってしまっているのだ。


これで青空文庫の夏目漱石の「草枕」を


「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑(ぞうふ)
をさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ修業を積んだとは云われんてな。


日本橋を通る人の数は、一分に何百か知らぬ。もし橋畔に立って、行く人の心に蟠まる葛藤
を一々に聞き得たならば、浮世は目眩ぐるしくて生きづらかろう。ただ知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る


臓腑(ぞうふ)をさらけ出して、恥ずかしくないように・・・・・というのは日本橋が日本橋の中心でありその中心だからこそ自分の臓腑までさらだしても恥じないようにせよという意味なのだろう。
つまり漱石の時代、明治時代は日本橋が日本の中心だという感覚が残っていたのである。もちろん明治時代には鉄道馬車などが通っていたから日本橋は今とは余りにも違う何かのどかなものになっていた。でも日本橋はそれだけ人が混雑するところだから草枕という小説では日本橋をこのように表現した。でも今になると江戸時代の日本橋の混雑もなつかしいとなる。それで日本橋を再興しようとか観光にしようとかになる。でももうできない、余りにも変わりすぎてしまったのである。人間は昔を歴史を偲べないということは心を貧しくする。現代だけだと人間の重みは失われる。過去とつながって現代がありそうするとき人間の意味もでてくるのである。


外国人が見た「日本橋」
http://www.tanken.com/nihonbasi.html


日本橋魚河岸
http://wako226.exblog.jp/16111505/


浮世絵で見る江戸の橋
http://hix05.com/rivers/ukiyoe/nihonbasi.html

2013年07月11日

夏富士二十句 (見る場所によって山はまるで違って見える)


夏富士二十句

(見る場所によって山はまるで違って見える)


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青富士_クリック拡大


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北斎-赤富士

夏富士や青春の意気登山かな
富士登山崩れては湧く雲の峰
夕日さし富士の斜面や雲の峰
雲の峰富士の斜面や人の列
夏富士の大斜面かな雲の湧く
晴れ渡り夏富士高し天までも
夏富士の乱れざるかな仰ぎけり
麓より天を衝く夏の富士仰ぐ
夏富士や裾野の広く優美かな
ひまわりに映えるは富士の峰にあれ
影富士の夏の日ざしに伸びにけり
夕富士の染まりて赤き夏の月
七色に夕焼け変化富士の峰
夏富士や北斎の筆特に冴ゆ
涼しさや河口湖畔に浮かぶ富士
下山して姫百合咲きぬ富士麓
下山して河口湖畔の青田かな
夏の夕優美に暮れぬ富士の峰
登り来て富士の山頂夏の星


富士山には一回だけ上ったけどなかなか思い出せなくなった。その時雲の峰を
富士山頂で仰いでいた。それも30年前とかなると思い出せなくなる。
ここに出した俳句は写生ではない、他の人の写真を参考にしたからいいとはならない。
そもそも富士山は見る場所によってみんな違ってくる。山はたいがいそうである。見る場所によって見え方がまるで違ったものとなるのだ。富士山はいろんなところから見えるから特にそうである。
自分は一回感動して見たのは河口湖畔から見た夏の富士だった。青富士だった。やはり山は大きく見えるとき映える。だから見る場所に左右される。ヒマラヤでも3000メ-トル級まで上ると天まで達するように高く見える。山は登る山と見る山は違っている。見る山は場所に左右される。
その場所にゆくのが大変になる。写真をとるために半年くらいテント張って暮らしていた人が紹介されていた。あれくらいしないと富士山を見ることにはならないだろう。山の姿は刻々と変わってゆくからだ。富士山は特にそうである。

今になると旅行することは相当な贅沢だった。なぜならまず富士を見るにしてもちょっと出かけるにしても一週間くらい最低必要になる。すると勤めていてはできないのである。富士山見るだけだってそれだけ時間がかかるのだ。新幹線から富士山見ても感動しない、富士を見るということはそれなりの努力をしないと見れない、それには相当な時間が必要なのである。ただ富士を見える場所に暮らしている人は恵まれているなとつくづく思う。ただそれも日常化すると平凡なものになってしまうこととある。

富士は夏なら青富士とか赤富士とかいろいろある。しかしそれを見るのは離れていれば結構手間になる。富士山はすでに日本人の心だとすると日本人の心として見ることにもなる。ただやはり山は何度も見ていないと感動が薄れる。その迫真力はやはりまじかで見ていないとやがて記憶は薄れてゆく。
確かに影富士も見たし下山したとき林がでてきてその中に姫百合が咲いていたのを記憶している。
やっと麓に下りてきたなと安心したとき姫百合が咲いていたのである。河口湖畔から見る夏富士は青々として雄大だった。もう一回見てみたいけどなかなかできない、まず山は天候に左右されやすい、夏は見えにくい、ヒマラヤではがっかりした。春だったから雲に隠れて見えなかったのである。
外国まで行って山かみえなかったら何もならない、10月ころは山が見えやすいからその季節に行くのがいい。

山に魅せられるて60代の女性が二人ヒマラヤで死んだ。あれほど過酷な登山をその年でできたことに感心する。ただ山はそれだけ魅力があるのだ。クロ-ズアップ現代で放送していたのは50代半ばから登山をはじめたというから驚きである。女性でもやはり家事だけではない生きがいも求める時代なのである。家事にしても子育てにしても40くらいで終わりやすいけどそれからの人生が女性でも長くなるからなんらか生きがいを見つけることが必要になってきた時代である。つまり人生が長いということはまた様々な可能性も開けるという見本だった。これだけのことをやれる女性はやはり能力的にも人格的にも優れている、しっかりしている、一人は管理職でありもう一人は医者だったのである。社会的にも有能だからそれだけのことができたのである。みんながとてもできるとは思えないのだ。
ともかく世間の日常の小さな悩みが山に登ると吹っ飛んでしまうのがいいというのはわかる。あまりにも小さなことに汲々としているのが人間の日常だからである。

富士山が世界遺産に登録されたのは当然だろう。日本に来て一番感動するのは富士山を見たときだというのは共通しているからだ。あれだけの形の独立峰は世界にもない、その形の美しさがぬきんでているからだ。ただ山にはそれぞれみんな個性がある。岩手山はすごく筋肉質なのである。筋肉隆々とした感じになる。富士山は優美なのである。形がいいからそうなる。ただ山というのはなかなかその姿をとらえることがむずかしい。詩にしようとしてもなかなかできない、それだけ奥深いし雄大な美だからそうなる。
写真から加工していたら富士の切り絵のようなものができた。写真家ら結構加工できる。でもその元の写真のことはイメ-ジもできなくなる。だからそれが著作権違反とはならないだろう。一部なるものがあるかもしれない、でも明かに加工しても創作という面が大きいのである。これは構図的には写真によっていた。でもその後の加工は創作なのである。

2018年09月22日

東海道春の俳句二十句 (歴史は地歴だから地理の理解が不可欠)


東海道春の俳句二十句

(歴史は地歴だから地理の理解が不可欠)

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飛脚行く海風涼し裸かな

飛脚が裸なのは走りやすくするためだった,当時の旅はなるべく荷物を減らすことだった
走っていれば汗かくから裸の方が良かったのである


海望み小田原城や花盛り
春潮のひびき高鳴り小田原城
春の海伊豆半島に富士の峰
駿河湾魚打ちあぐ春の海
陽の昇り海に桜や東海道
東海道通りますぐに燕来る
春風や東海道を飛脚行く
飛脚行く海風涼し裸かな
松古りぬ東海道や春の富士
上方と江戸の行き来や花の春
大井川春の日渡り広しかな
東海道天下の攻防燕飛ぶ
商人の往来盛む燕飛ぶ
長篠を出でて豊橋春の海
豊橋に交わる線や春の月
安宿も東海道や春の月
春の月東海道の旅籠かな
欄干に旅人もたれ日永かな
春の日に舟上り城や橋渡る
残る雪関ケ原出て近江かな
関ケ原越えて近江や春の山
車窓より蓮華畑や近江富士
京に着く春満月やおいでやす
花散るや夕陽に映えし大阪城



歴史は地理がわからないと基本的に理解できない、その地理がわかることは本当にむずかしい、地理は何か錯覚したものとして見ている、地図を見ても実際の実感としての地理はわからない
では地図は無駄かというとそうでもない、地図と実地に歩いた経験があると地図も活きてくる、東海道を知るにはまず地理的にしる
でもここは戦国時代の大きな舞台となったから歴史の知ることも基本的に欠かせない

私が錯覚していたのは信長の尾張と家康の岡崎城が随分近いことだった、隣の感覚である、ということは信長と家康の連合は地理的なものとして納得がいく
家康は後に浜松城へと進出して関東へ進出する
信長の後継者は秀吉となり小田原へ進出する、小田原は要としてある地で進出することができなかった
それから武田軍の勢力が脅威となっていた
それは飯田線で長篠駅がありそこも境界であり地理的に家康の岡崎城や尾張に迫る地点だったのである
飯田線は長い、今はなんとか一両の電車が走っていたり直通ではなく乗り換えたりと不便な所であり廃線路線にもなる
でも豊橋に出るとまるで違ってくる
そこで東海道線と交わるからだ

それは山国から海の国へと出ることなのである
武田は山国であり海に出たいという願望があった
ただそこは信長や家康が支配する領域であり出れなかった
でも騎馬軍団で突破しようとしたが無惨に敗北した
歴史は確実に地理的な要因があり展開している
それは人事だけではどうにもならない、地理の制約を必ず受ける
それは世界史でも同じである
ゲルマンはドイツはライン河で区切られて別な世界だったのと同じである、ローマはライン河に遮られて進出できなかった
そこには強力な民族であるゲルマンが存在したからである

ロシアが海に憧れる、海へ出る拠点を求める、だからウクライナでも黒海がありシリアも地中海の要として勢力下に置こうとする
ウラジオストックは遠すぎるから海へ出る拠点を求めるのである
なぜ信長が天下をとったかというと地理的なものが影響している
とてもいくら優秀でも一人の天才だけで偉業は成し遂げられないのだ
名古屋を見ればわかる、いかに地の利があるかわかる、近江に出れば京都は近い、だから関が原を越えて近江に出て安土桃山城を築いたのである、関ケ原は地理的に東西を分ける場所だった
電車で行くと春でも依然として雪が残っている
でも関ケ原を越えて近江に出ると琵琶湖があり春の山が穏やかに見えたのである
そして近江富士が電車の車窓から見えた、レンゲ畑があり印象的なのである
近江となればすぐに京都なのである、京に上るには支配するにはいい場所なのである

武田軍は山国から出たが病に倒れて上京は果たせなかった
それは騎馬軍団ではあったが山国ということで海に出れなかったからである
信長は鉄の船まで作っている、名古屋湾であれ海に通じていたのである。
東北でも会津は山に閉ざされていて雪に埋もれる、でも伊達政宗が東北を支配したのはやはり海に望み開明的だったともなる
第一メキシコからヨ−ロッパまで船でわたるという壮挙を成し遂げたことでもわかる、それはやはり海に通じていたからである

東海道は日本の幹線でありそこに江戸時代も大阪から京都から江戸との行き来があり大動脈だった、それは今も変わらない
そこに日本の栄えがあった
東海道には長いまっすぐな道路があった
あれもなかなか見れない、それだけ東海道は海側であり平地がありそういう平なまっすぐな道が伸びていたとなる

いづれにしろ歴史は地理を知らずして知りえない
歴史でも文学でも地理と深く関係している
東海道と奥の細道を対比してみるとわかる、みちのくと東海道はまるで違ったものなのである、歴史的にそうである
東海道は上方から大阪から京都から常に往来があり栄えた地域である、日本で一番往来があった道なのである
そこに富士山が見えることでまた日本の中心という感覚に戦国時代以降はなったのである

ただ名古屋に近く吉田城があったがそれは川岸にあり橋がかかっていた、それは浮世絵でも描かれている
でも私が行ったときは春でも城内には枝垂桜が咲き淋しい感じだった、それはなぜなのか?
時代とともに東海道の賑わいは失われた、江戸時代なら旅人が端をたり行き来していた,でも今になると何か車社会になり車が通るが人がにぎわうという感じではない
つまりその時代の感覚は時代が変わるとわからなくなる
一見今では淋しいなとさびれているなと感じても当時は人でにぎわっていたのである、活気ある場所だったのである
鉄道の駅が車社会になる前はにぎわっていた
駅前通りがあり駅が街の中心だったのである
車社会になれば高速のSAとかがにぎわう場所になったのと同じなのである
だから飯田線から豊橋に出て吉田城まで市電で行って吉田城についたとき何かそこは取り残されたような淋しさを感じだのである
ただ今でも別に東海道は繁華な道であるがやはり歩く旅ではないし
車が中心になると吉田城でも江戸時代の東海道の城としてはその当時に見えた風景とは違ってくる

ただ小田原城は花盛りであり大手門が立派でありそして天守があり海を望む、それは当時と変わらないのである
城の魅力はやはり今でもある

大手門威を正して入るかな
天守も臨み春の箱根の山高し
その影おおい海も望みぬ
昔小田原城の栄えかな

城は建築としてやはり侍の精神を現している
建築は精神の象徴なのである、大手門から威を正して入ると天守閣が聳えて主君にまみえるのである
小田原城はいい場所にある、あそこも地理的に要だから秀吉が攻めあぐんだとなる、小田原を突破すれば関東に入るからだ
その時伊達政宗が遅れて参戦したので秀吉にとがめられたが機転をきかして一命をとどめたのである
東海道でも新幹線で行ってはわからない、地理がわからない、だから電車で行くのがいいとなる、歩くのが一番いいがそれも遠くなるとできない、東海道は混んでいるから自転車でも楽ではないからだ
車でこみすぎるところは情緒もなくなるから嫌なのである

俳句にしろ短歌にしろ詩でも文学でも歴史の理解が欠かせない、奥の細道でも平泉の栄華の跡をたずねて芭蕉が名句を残した
自然でも歴史と一体となっているとき自然もさらに映えるとなる
ただ東京はあれだけ栄えているとしても自然か映えない、というよりも自然はないのである
江戸だったら富士山がまだきれいに見えたのである
高層ビルなどがないから見えたのである、それは浮世絵にも残っている

わが庵(いお)は松原つづき海ちかく富士の高嶺を軒端にぞ見る
(太田道灌)

こういう光景になっていた、江戸はいかにも日本の中心としてあった、日本の中心は奈良であり京都であり大阪であったが近江から名古屋から関東へ江戸へ移ったのである
ただ江戸から奥の細道であり発展していないのである
ただいわき市までは複線であた常磐線でも東京と通じているという感じになる、でもいわき市からは単線になり原発事故で途中の双葉大熊はまだ開通していないから閉ざされた感じになる
いわき市から相馬との区間は新幹線もないから遅れた地域に感じるのはやはり地理的なものや歴史的なものでそうなっている






2020年07月15日

東海道の春の俳句20句 (東から西への春の旅)


東海道の春の俳句20句 (東から西への春の旅) 

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西伊豆や菜の花映えて富士の峰

東海道小田原城や花盛り

茶畑や新幹線に春の富士

駿河湾魚打ち上げ春の富士

春日さす岸辺の広し大井川

東海や紅梅映えて電車行く

街並みの道真っすぐに燕来る 

にぎやかに東海道や花の宿 

海の風橋をわたるや春の城

春の日や天主望みぬ名古屋城

関ケ原越えて近江や春の山

朧月大津に一夜我が泊まる

京の日や枝垂桜の水映る

京の辻鐘鳴りあわれ春の暮

大阪城夕日に映えて花の散る

明石城春の夕日に染まるかな

波静か春の細月洲本城  

西の城いくつたずねて花の宴

宴の後西の栄や城いくつたたし

花散りし栄華の跡や今日も暮る

潮流の瀬戸の島々花咲きぬ

春の日の海に反射し瀬戸田かな

島々の重なり暮れぬ瀬戸の春

釜山なる松によりにつ春の暮

春日さす福岡城跡街の中  

海近み福岡城跡春に来る

桜咲く平戸の入江外国へ

城二百日本の栄花盛り

みちのくゆ慶州までや花咲きぬ 

春の日や洛東江を沿い下る  


東海道-吉田(豊川橋)俳句短歌の紀行文

東海道というときやはりここが日本の幹線道路だった、それは今でも同じである
東海道から瀬戸内海から九州に行き韓国の慶州まで電車で行った
青春18切符で行った、その時韓国の慶州まで桜が咲いていたのである
つまり韓国まで一連のつながりがあるものとして旅したのである
洛東江を電車で沿い下ったのは醍醐味だった
大陸になると川は大きいのである

洛東江

旅をこれほどしたが今は思い出す旅である、この思い出す旅で大事なのはいかに記憶しているかである、人間はとにかく忘れやい、それでいかに思い出として残すかが問題になる今ならやはりデジタルカメラで記録するから楽である
写真はやはり記録としては一番効果的になる
その写真が今ではインタ−ネットで豊富であり見れる、するとその写真を見て思い出すのである、人間は旅してもその人によって見るものが違う、景色でも違ったものとしてそれぞれ記録されている、ここは電車と川を写しているから秀作である
外国ではなかなかいい写真を撮るのがむずかしいだろう、場所とかが問題になるからだ

韓国の桜


●明石城

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淡路島ゆききの舟の友がほにかよひなれたる浦千鳥かな(藤原定家)

明石を詠んだ歌としては. 天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば. 明石の門(と)より 大和島見ゆ.

ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ 柿本人麻呂

明石という場所がもともとこういう場所だった、船の行き来がすでに多くあった場所である、でも万葉時代の船がどんなものだったか、それを思う時、今の船の感覚とは違う
だからこそ梶でこいではるばる来て明石の戸に来たときに感懐はより深いものとなる
フェリーにのんびり乗ってくるのとはあまりにも違っていたのである

生き死にを船にたくして天離る鄙の長道を大和島につく(自作)

当時の舟だったら本当に怖い、常に死の危険を感じていた
このように別に万葉時代だけではない、大航海時代の旅は命がけだった
だから船に命をたくしたのである、そしてかなりの人が実際に死んでいる
必ずしも新天地にみんな無事についたわけではないのである
万葉集の歌は雄大である、古今集になると定家のように何か近くを親しく行き来している歌である、天離るという感覚はなくなっている

明石城が印象に残ったのはその城は夕日に映える城だったからである
そして瀬戸内海を船を行き来している、絶えず行き来している
そこが東北とは全然違っている、東北では広い海でも一日行き来するのは本当に二三艘しか見えないのである
瀬戸内海でも狭い海峡に大きな船が汽笛を鳴らして入ってきたときは驚いた
大きな船がそういう場所にまで入ってくるのに驚いた
つまり瀬戸内海は船の道になっているのだ、水道というときそうである
水の道が瀬戸内海にある、そこは船が古代から常に行き来して村上水軍とかも生れた
瀬戸内海は交通路であり潮流は早いのだが天然の港が自ずとできた所である



旅で何か印象に残る場所がある、そこは常に思い出す場所なのである
明石城はそうげある、そこは夕日が輝いて沈む、海が側だから船が絶えず行き来しているそれから淡路島も見える、そういう光景は東北には見ない、東北の海は荒寥として船は一日二三艘しか通わないのである  
船の旅は中国までも船で行ったし韓国にも二回とか行った
船は相当に乗っている、電車の旅もしたが船の旅もした
とにかくそれだけ旅をしたのが自分だった、自分はだから旅人になっていたのである
旅人となると常に旅している人であり遂には旅が人生ともなった人だとなる
そういう人は日本では西行とか芭蕉とか山頭火とかである

ただ現代は交通がこれだけ発達したのだから昔の旅とは違う、何度も行けるし旅する範囲も外国まで広がるのである、そして江戸時代までは歩く旅だったが今は船でも電車でも自転車でも車でも旅をする、ただ車で旅したことはないからここはわからない
旅と言っても何か現代は移動しているだけだともなる
昔は普通の人でも歩いて移動するから旅になっていたのである

東海道をテーマにしたがやはりここは日本の幹線道路である
街の中でも街道がまっすぐに長くつづく道があった
あのような繁華な街並が残っているのは東北にはない
東海道はやはり栄えた道である、瀬戸内海の山陽道でもそうである
瀬戸内海は交通の海でありこれも全く東北の海とは違っている
だから海と通じた城があり港にもなる、船が実際に城に入る水路があり入ってきているのもある、明石城なども相当に海に近いのである

俳句は何か今や一句としては芸術として成り立たない、こうして連作にすると一つの作品として連続したものとして鑑賞できる
奥の細道でも連続したものとして鑑賞するからそれでそれが古典にもなった
だから前にも単発的に出したのはそれをまとめてまた連作にする
それで一連のものとして鑑賞できる、今回は韓国の古都の慶州に行ったからそこでも桜が咲いていたから連続していた、韓国だと日本の歴史と連続しているから地理だけではない日本で桜が咲けば韓国でも咲くとなる、韓国も栄えるとなる
現実に韓国が技術的にも日本の模倣であり中国でも日本の技術の模倣があり発展したのである、韓国の古代の伽耶などはむしろ日本だったらしい
なぜなら縄文時代から日本人が行き来して縄文人のDNAと似ているとか研究者が発表したからである、北方系があるとして南方系は照葉樹林帯の文化圏でありその文化が似ているからだ、肉食ではなく精進料理のようだというときもそうである
肉食はモンゴルの征服でもたらされた、今でも韓国で海苔を作っているのも日本をまねたのである、まねたにしても海に面しているから同じことができたのである

いづれにしろ日本で一番いい季節は桜が咲く時である
私の場合はこれだけ旅したからコロナウィルスで旅できなくても満足である
こうして旅できたのも平和の繁栄の時代に生まれたからである
そして長生きの時代にも生まれたからこうして旅を回想したして作品にする
そういう点でいい時代に生まれたしまたそういう境遇に生まれたから幸運だったとなる
これからコロナウィルスで旅できないとか何か暗雲になり経済的にもいい未来が見えないのである、まず交通がとめられて電車さえ人が乗らないというのには驚いた
こうなると閉じこもる、地域ごとに閉鎖された江戸時代に戻るようにも思えたのである


城の俳句十句(城が意味するものー時代を知らないと見えない)

城の俳句二十句(九州中国関西東海道)

新春2017年(春の城俳句十句)

電車より見る春の城



2021年02月15日

旧街道の旅の思い出 (車では自然を感じないー風も雨も感じない)


旧街道の旅の思い出

(車では自然を感じないー風も雨も感じない)


街道の細道を行き梅香る


相馬市までの道は昔の道である、日立木から城跡まで行くと昔を偲べる
それにしても狭い細い曲がりくねった道である
あのように細く曲がりくねっていたのである
そこは歩く道だからそうなっていた、その道もとぎれて六号線に出ると国道になる
そこでは頻繁に車が行き来する現代の道となる

細い道を行くと梅が咲き始めそこはかとなく香りが流れた
それは細い道を行ったから感じたのである、それは街道の細い道が歩く道だったからである、そこも車が通っているが狭いのである
車にはふさわしくないのである、車は情緒を壊すものなのである

車で行くとこうして梅の香とかを感じない、鋼鉄に覆われた車が外界の自然をさえぎる
風も感じない、今の時期だと海から東風(こち)が吹く、そしてまた北風になったりする季節である、この東風が吹いて原発事故で放射性物質が飯館村から福島市まで運ばれたのが不運だった、風に影響されたからである
もし北風だったら海の方に流されたから意外被害が少なかったかもしれないからだ
実際に請戸漁港からは原発の煙突が見える、近いのである
そこで放射線量は0・5マイクロシーベルトとか低かったのである
それが不運だったのである、何でもいくら科学時代でも自然の影響をうける、それはさけられないのである

私は自転車で行くから歩くとはならないがそこで自然を感じる、風とか光とか感じる
暑さ寒さも感じる、でも車というのはそうした自然を感じないのである
中は鋼鉄に徒おおわれた空間だから暖房もあり寒さも感じないのである
だから風流がないのだ、風の流れを感じないのである
自転車に乗っていれば風で季節を感じるのである、それがないから快適な空間でも自然を感じない、すると風流がないから俳句とか短歌でも作りにくいとなるのだ
ただ車がだけではない、鉄道の旅も電車の旅も風は感じないのである
だから鉄道は好きでも自転車の旅に乗り換えたのである

バイクは風は感じるから、車よりは自然を感じる、でも車と同じく早すぎるから風景に自然にとけこむとはならない

春光や南へ飛ばすバイクかな

こんなふうになるから自然の中で走っているという感じになる
つまり車だと風を全く感じない、自然を遮断した空間なのである
それが快適でも自然を感じないから旅しても旅ともならないのである、ただ早く目的地に着くという旅になる、その目的地に行くことでは便利なのである
便利なもの科学技術は必ず自然に反するものをもっている
それでソーラーパネルでも風力発電も水力発電でも自然破壊があるというのも納得する
なんらか回りの環境に影響するのである

ともかく街道を旅するには歩くことが一番いいが自転車もその次にいい、その次がバイクになる、ただバイクは車とおなじスピードだから通りすぎてゆくだけになる

みちのくの街道行くや野菊かな

こんな風に道の辺の花に目をそそぐことができないのである
ただ今の時代は本当に旅すること自体演出しなければならないからかえって大変だともなる、何か歩く旅をする人がいるがそれが車の洪水の中を行くから広重のような絵にもならないのである

百輪の椿や往来六号線

この往来とは車であり人ではないのである

とにかく昔を偲ぶとしたら
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松一本茶屋に休むや秋の暮

この風景は秋なのだろうか、稲刈りは終わっている、海も見える、淋しい風景である
ここは二つの宿場の中間であり茶店がない、出茶屋である、道端で店がないがそこで茶屋となる、相の宿でもあるが建物はないのである
なぜこうなるかというとコンビニとか便利なものがない、でも旅人をもてなす需要がありここで店もないのに出茶屋になっている
これも歩いている旅人かいるからである、やはり休む場所が必要でありそこでお茶を飲んで一服することで疲れを癒してまた歩いて行くからである

花咲きておこん茶屋かな旅人の遠くへ去りぬ今はなしかも

庄野という東海道にあった茶屋である、ここに名前をつけいているのがいかにも江戸時代だとなる、江戸時代は何か下駄を作っても簪(かんざし)を作っても手作りであり名前がついている、作った人の名前がついているから人間的だとなる
庄野の白雨は広重の絵で有名である

私は雨の時も旅をした、その時御堂に雨宿りしたのである、御堂には旅人を休ませる機能があったのである、御堂は無料の宿にもなっていた、そこで寝れるからである
だから時代劇には良くでてくるのである

雨宿り御堂をたつや夏燕

こんなふうにして旅をしてきたのが自分だった
そして今は思い出す旅をしている、それがインタ−ネットでしやすいのである
何度も言っているけど思い出す旅、記憶に残る旅をしていないと回想の旅もできないのである、だから人間は便利なもの科学技術ばかりに頼っていると何も残らないとなる
つまり精神的に豊かになれないとなる、それで現代では旅人がいなくなったのである
現代はいかに早く移動するかになってしまったのである
それはかえって貧しいとなってしまうのである

広重の絵が秀作なのはそういう風景が江戸時代にあったからである
今はそういう風景がないから描きようがない、まず歩いて旅している人はいないからである、歩くことは特別なことになってしまったからである
そして田舎で車をもたないこと自体変人になっている
実際車もないのかとなり見下されるのである、そこで自転車に乗っている人は仲間になりやすいのである、自転車仲間になる、退職したトラック運転手は近間を自転車で回ることが仕事になっている、それで良く合うのである
人間回復するには歩くことだともなる、本当に人間は歩かなくなったからである
歩くこと自体貴重な経験になり歩く旅を企画するともなる
つまり現代には移動する人がいても旅人はいなくなったのである


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坂のぼる牛や茶屋にそ休む人旅の疲れを癒しまた行く

これはいつの季節かわからない、牛が坂を荷をつんで登る、人間もまた上ってきた
そして茶屋に休みまた歩いてゆくのである
まず坂を歩くのは疲れる、日本は山が多いからどうしても坂を上る、だから坂が多いから峠があるから峠の茶屋が生まれたのは自然である