
東海道-吉田(豊川橋)俳句短歌の紀行文
芭蕉句碑は、昭和七年に建立された旅寝塚と呼ばれるもので、芳野紀行で、芭蕉と越人は、貞享四年(1687)十一月十日、渥美の保美に社国を訪れる途次、吉田宿の旅籠で一夜を過ごした際、詠まれた句である。
寒けれど 二人旅寝ぞ たのもしき
ごを焚いて 手拭あぶる 寒さ哉
東海道にしては淋しい感じだが当時は今とまるで違う、人の行き来も頻繁ではない、宿場はにぎわってもそこを出れば淋しい田園風景が広がっていた。
そのまま歩いていくと、水を湛えて濤々と流れている大きな川に出た
豊川で、川に架かる橋は豊橋である。 江戸時代には、橋の右下あたりに吉田湊があり、伊勢に向かう旅人を乗せた舟が出て行った、という。 池田輝政により最初に架かられた橋は、現在の橋の七十メートル程下流にあった、といわれ、大橋百廿間(約220m)といわれた大きな木橋で、吉田大橋と呼ばれていた。 東海道に架かる大きな橋 は、武蔵の六郷、三河の吉田、矢矧、近江の勢多であるが、矢矧橋に次ぐ長い橋で、その管理や修復は幕府が自ら行っていた
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この先にある佐奈川の佐奈橋を渡ると、小田淵で豊川市に入った。
名鉄名古屋本線小田渕駅の近くは、古い民家が残る。 右側に少し入ったところに、
散り残る 花もやあると 桜村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ
という歌碑があった。 江戸時代の冷泉家の当主で、冷泉家中興の祖という。 一度だけ江戸に行った際、当地桜町で詠んだものである。
桜村さくらは散れどなおしばしここにあれかし旅路によりぬ
大橋を渡り吉田の城見えて名古屋も近し春に旅行く
桜村というのはその桜で有名だったのか、一つの歌枕のようになっていてその桜を偲んだのか、ここは桜で有名だから散り残る花もやあると・・・なった。こういう歌は歌枕として事前に知っているからこういう歌ができる。桜で有名な所は日本では無数にある。冷泉為村とははじめて聞いた名であった。吉田から名古屋は近い、ただそれは今の感覚である。豊橋と名古屋は電車ではすぐだとなる。江戸時代ならそれなりの距離感覚になるが繁華な名古屋は近いとなる。そこには大きな名古屋城がある。東海道を旅するといっても電車でおりてはよるだけでありとぎれとぎれに行くことになるから当時の東海道を旅することがどういうものだったか偲ぶことはむずかしい。東海道は道路が交差して車や電車や新幹線とあまりにも変わりすぎてわからないのだ。

かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し 芭蕉
また、烏巣の句は
ももの花 さかひしまらぬ かきね哉
伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称 茶屋本陣跡) 一 茶屋の地名
東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり、立場茶屋が設けられたので、茶屋の地名ができた。
さかひは境であり関所のことである。関所はまだあいて人の行き来がある。そこに桃の花が咲いている。それだけ東海道は人の行き来があったということでもある。これは東海道らしい句である。「豊橋」は飯田線から来たのだが歴史的にもこういう地域だったことがわかる。
春の月三千円の宿見つく
これが自分の句として書き加えた。三千円の宿はなかなかない、旅しているとこの安宿探しで苦労した。長い旅だと安宿でないと金がかかりすぎる。でも今や日本には安い旧式の旅館はなくなった。ビジネスホテルで最低で五千円出さないと泊まれない、日本では長い旅するのに向いていないのだ。ヨ-ロッパは安い宿が多いので旅に向いている。豊橋は飯盛女でにぎわったというからそういう宿場町でもあった。
この文章はコピ-からつけたして構成した。でも著作権に違反しているものではないだろう。ただそこの謂われを紹介しているだけでは創作にはならないだろう。道順、順序などはそのままではない、俳句と短歌の鑑賞を優先した構成にした。インタ-ネット時代こういうコピ-が半分くらいの文章が作りやすいのである。でもこれもインタ-ネット時代の創作なのである。
