2009年01月26日

悲しむものは幸いなり


悲しむものは幸いなり

 

人よ、良き思い出を作れ

悲しくもせつなくもその思い出は宝なり

良き思い出のみを語るがよい

そしてし死者をいたむがよい

汝、みだりに運命にあらがうのはやめよ

定められしものがすべて不幸にはあらじ

静かに耐え忍ぶがよい

汝、みだりに世の不条理を嘆くのはやめよ

汝、みだりに世の不公平を嘆くのはやめよ

静かに耐え忍ぶが良い

その涙はやがて真珠ともなろう

正しき人がほめられるにあらず

この世の得は得ならじ損が得にもなる

だますよりだまされる方がよし

人を泣かすよりは泣かされるがよし

痛切に悔い改めに泣く日がくるだろう

人の世は変わらじ、悲しみは尽きじ

悲しむものは幸いなり

まことに悲しむものは幸いなり

その涙は浄化され天にて真珠となるを見るだろう

この世に成らざるものが天に成るだろう

その時相争うものが手を結び泣くだろう

天に平和は成り鳩が神の園に憩い群れるだろう

ただ美しい様々の思い出のみが残るだろう

日々思い出はつづられ尽きることがないだろう

苦きは甘きとなり甘きは苦きとなろう

人生は終わりになり死なねばわからぬもの

今の幸いは後の不幸となり

今の不幸は後の幸いとなろう

みなうつろい変わりゆく一つとて

永続するものはなくただ無常なり

故に悲しむ日は悪き日にあらじ

のちの良きことへつながるを知るべし


 マタイ五章

貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである

今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる

今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる

人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは

幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。


 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである

2009年02月04日

地球環境史観や原生人間史観 と老荘思想は共通している -原生環境の大地の回復(詩)-


地球環境史観や原生人間史観 と老荘思想は共通している
-原生環境の大地の回復(詩)-
http://www.musubu.jp/jijimondaiueno.htm#ecohuman

 

グロ-バル化は経済の分野だけではない、視界が拡大化して地球環境史観とか上野霄里氏の原生人間史観とか空間的時間的にも巨視化したのである。日本とか国の枠内で歴史を考えることは限界がある。またその枠内にとどまって是非を論じても限界がある。日本の戦争は正義の戦争だ、アジア解放の戦争だといいつづけても解決ができない、それは日本という国の枠を離れられないからだ。文明とは何なのかというとき文明を相対的客観的に見れる巨視的視点が必要になるのだ。それが文明の中で生活している限り困難を究める。文明的価値観から離れることができない、日本の枠内からも離れることができないから世界的に容認されるものとはいつまでたってもならない、老荘思想は二千年前に文明を否定して戦争も否定して過剰な労働も否定していた。これはやはり今になると驚くべき思想だった。ルソ-の自然に帰れという思想は近代に起こったことだしそれよりはるか前にそうした思想があったこと自体驚きなのである。
上野霄里氏の原生人間の思想も老荘思想の人物に近いのである。最近起きた地球環境史観も老荘思想としてあったものである。今はエコがキ-ワ-ドになっているがエコカ-とかモノに重点をおいてエコなのだがエコヒュ-マンこそ究極のエコなのかもしれない、エコヒュ-マンは原生人間に通じているからだ。

2009年02月13日

死は愚かさの一つの終わり

 


死は愚かさの一つの終わり

 

死とは何か

一つの愚かさの終わり

石は愚かを成さず

石は誤謬を犯さない

石は何も成さず

人は成して成して

愚かさを重ねて

遂に死して一つの愚かさが終る

集団も愚かさの集約

無益な労働、戦争の人命の消費

死体の山を築き終る

人類の大いなる誤謬

壮大な愚かさの終わり

人間のように無益を成さぬもの

自然には壮大な愚行はない

ただ己が分を守り生きる

神の定めし法則からはずれない

それぞれの分を尽くして終る

雀は雀、鴨は鴨、白鳥は白鳥

それぞれは争うことはない

無益な争い、消耗は自然にはない

内面と外面が一致して

単純にして明快

石は何も成さず

無益な愚行はなく留まる

人間は死して愚行が終る

死もまた幸いなるかな

死者は賢く生者を見守れ

死者はもはや愚行を成さず

故に死者も幸いなり

死は一つの愚かさの終わり

しかし人間の愚かさは終ることがない

愚かさは人類が滅ぶまでつづく

一つの愚かさが終わり

さらに何万何十万何百万のの愚かさの始まり

ああ 人類はかくしてつづく・・・・

 

老人のゆくつく先はみな死である。老人の研究の行き着き先も死である。死でもってすべては終る。死者はもう迷惑をかけない、でも死別の悲しみやら死後のことをいろいろ考えた。
ただ一つの愚かさが終った。認知症にしても病気だから愚かさとはいえないがやはり愚かさが終った。もう死者は愚かではない、愚行はしない、迷惑もかけない、死者は愚かさから完全に脱した。人間は死なない限り愚かさから脱することはできない、石のように賢くなることはできない、無益なこと、罪なこと、愚かなこと、犯罪は延々とつづく、人間の愚行はやむことがないのだ。これだけ愚行をしたのだからやむだろうとはならない、個々人でも集団でもやはり愚行はつづく、それが人間の宿命ではないか、自然にはそうした愚かさはない、無益な争いはしない、莫大な浪費もない、神の知恵の下に生きているからだ。石一つある。その石には愚行がない、人間は必ず無益な愚行がある。石一つに無駄がない、全く無駄がないということが驚異ではないか?本当に自然には無駄がないのだ。自然は質素簡素でありいかなる無駄もない、今やその簡素さにひかれる。それは老子の思想に通じているのだ。

2010年02月27日

原生圏の時(大器晩成を目指せ!)

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原生圏の時(大器晩成を目指せ)
 
原生人間→原生環境→原生質・・・・原生圏・・・とかなる。原生花園などもあるから別に特別な用語ではないが上野霄里 氏が語るときそれは独特なものなのである。原生圏となるとニ-チェのツアラストラが住む世界となる。それも原生圏の形成された世界だった。文明圏と原生圏とは価値観が別個である。共通している面もあるがそもそも人間そのものの価値が文明圏では否定される。全人間の価値は全く否定されるから文明圏では原生人間は見えない、それは何者なのかもわからない、全人間など文明圏では見えないのだ。だから新たな原生圏の創造が望まれるのである。文化というのも文明圏では商業主義とか大衆主義の世界では創造されることはもはやできない、肝心の原生人間も真人も排除される。そもそもそういうものが全く価値を認めない世界である。細分化された部品化された人間としてしか存在しえぬのが文明圏である。
時間もまた文明では奪われ分刻みで酷使される。原生の時間は一万とか一億年単位だからそのスケ-ルが違う。そして人間は大器晩成というように成長するに時間がかかりすぎるのだ。結局人生の半分は浪費されるし迷い失敗も多すぎる。もちろん自分のような凡才は特にそうである。人間は50年くらいモラトリアムの時間なのである。何かを達成することはできない、自分も俳句や短歌にしてもどうみても才能があるとは誰も見られない、この人が一体何の才能があるのだろうとしかならない、そういう人間も時間の中で何か成長していた。大器晩成とは天才に言う言葉ではない、凡才こそあてはまる言葉であり本当に誰でも大器になりうる素質があるのだ。そこが人間の不思議だとつくづく思う。人間の生まれつきとか素質とかは確かに人間に作用するがそれだけで人間は計れない、自分は全くあらゆる点で素質的にはいいところがない、学校も学問などほとんど興味がないし劣等生であった。でも結局長い時が遂に何者かに一角のものに知らず成長させるものがある。時間の中で人は大きくされる。その時間も原生の時間であり文明に酷使された時間では人間は文明に消耗されて卑小化されるだけなのである。つまり人間は誰でも才能あるなしにかかわらず大きくなれる要素が備わっている。特別な人がなれるのではない、大きくなれる条件とか環境の作用も大事である。自分の場合はそういう条件と環境に恵まれた。文明に酷使されずにすんだのである。時間はいくらでもありその中で自由に過ごすことができた。
 
現代は長生きの時代だが長生きすることにより今までにない才能が素質が花開く時代である。団塊の世代の多くは企業戦士となって会社の犠牲になって才能を伸ばせなかったから子供には個性を才能を伸ばしてもらいたいというのでニ-トとかフリ-タ-が増えたという。常に時代は個性を伸ばせるような時代はなかった。一握りの人が才能を素質を開発できたのである。才能とか素質は人間は自然界のように花開かない、それなりの条件、環境や努力やモラトリアムの時間が必要なのである。今日のように豊かな時代になればそういう人がふえてくるのは確かである。自分も体が貧弱だから早世すると思っていた。上野霄里氏はそんなでは大成しないといっていたがそれを納得した。今のような長生きの時代は最低でも60代までは生きなくてはどうにもならない、それでこそ凡才も何者かになれる。自分も体が弱ったが60まで生きて何かが実ってきた。先人の達したものを理解できるようになった。人間は時間をかければそれなりのものになるし創作もできるようになる。60前で死んだらやはり大器晩成とはならない、今では早世の部類に入ってしまうのである。なんとかこの年まで健康でありえたことが大器晩成に通じるのである。
 

原生圏の時(詩)
http://musubu.jp/jijimondaiueno.htm#genseitime123

2010年03月01日

玉本あゆみ様へのコメント(死は愚かさの一つの終わり)

『死は一つの愚かさの終わり』から


しかし人間の愚かさは終ることがない
愚かさは人類が滅ぶまでつづく
一つの愚かさが終わり
さらに何万何十万何百万のの愚かさの始まり
ああ 人類はかくしてつづく・・・・』

http://musubu.sblo.jp/article/27303460.html


(玉本あゆみ様の文)
小林様は、とてもシビアに、神様が作られた現代社会に生きる人間の愚かさを直視しておられるのだと思います。人間は生きている間に、罪を悔い改めなければ、死しても罪に対する償いは残されているでしょう。私も職業柄、人の老いや死を真近かに拝見し、生きるとは何か、満足出来る老いとは…考えさせられます。一人では生きてはいけないから、誰かと共存していかなければいけません。メリットもあればデメリットもあります。
時代が変わっても罪びとは減少しません。
でも、自然界だけは人間の利己欲に破壊されながらも、忍耐強く姿や役割を変えません。与える事に徹し、死しても生き返る雄大な無限な命の展開を見せてくれています。自然界に学ぶべき事は、たくさんありますね。


 

・私も職業柄、人の老いや死を真近かに拝見
・し、生きるとは何か、満足出来る老いとは
・考えさせられます

私も今回は家族が認知症になったことは余りの衝撃でありそのことを延々と書いてきました。
未だに人間が認知症のようなもの痴呆になって死んでいったことが信じられない、何故なら
自分でも最後まで言っていたけど頭がいいし体力もあり他にも社会的にもしっかりした女性でしたから、看護婦から保健婦もしていた女性でした。それもあまりにも最後は無惨でした。


人間は愚かさ、罪、弱さを意識しない、そもそも自分で愚かだとか意識している、罪を意識している人は愚かでもないしまた優れた人でしょう、病気だったら精神病でも病識をもつと直りやすいとありますから自分が病気だと意識したとき回復する方向に向かっている。認知症の場合は最初自分が忘れたんじゃないかと言っていた、忘れることを意識していた、症状が悪化したら忘れたことを意識できなくなった、病識もない、自分が馬鹿に痴呆になったのにそう思わない、人間がこんなになってしまうことは信じられない、満足できる老いとかは認知症の人を見たら認知症にならないことです、痴呆にならなければ一応真人間として接してあの世に送ることができますが認知症になったら人間でなくなったのかということになりますから悲劇です

人間はいくら賢いと優れているとうぬぼれていても最後は認知症になったりするのだから人間の賢さなどあてになりません、神から見たら人間の賢さなどとるにたらない、人間が誇るべきものではない、人間はそして最後は老いは無惨です、結局は塵に帰るだけの存在です、これは延命治療とかいろいろしても無力です、人間は人間の力ではどうにもならない、最後は主・キリストを通じて神が支配しない限りどうにもなりません

・自然界だけは人間の利己欲に破壊されなが
・も、忍耐強く姿や役割を変えません。与える
・事にに徹し、死しても生き返る雄大な無限な
・命の展開を見せてくれています。自然界に
・学ぶべき事は、たくさんありますね。

忍耐強く姿や役割を変えません・・・・・・忍耐強くというとき石とか樹になるのですがこれも詩に書きましたが最近発見したことなのです、なかなか自然を理解するのはむずかしい、自然は長い時間をかけないと理解できない、老人になれば確かに自然をいくらか理解するようになる、それだけ奥深いのが自然だからです

看護婦(師)さんに病院で世話になりました、大変な仕事です、でも看護婦(師)さんの仕事はやはり女性が良かった。若々しい女性の声がきびきびして働く女性の声が元気を与えてくれた。
これは男性から見てそう思ったが女性からだとまた別になるのか?看護婦さんはやはり女性の天職なのでしょう。病院だと極自然に互いに患者同士がいたわり慰め合うことができた。そういうことも普通の社会生活ではない、競争社会ですから、
ともかくいろいろ経験しました、病院は看護婦(師)の役割が大きいです、ご努力ください。


コメント欄に書いたけど反映されなかった、実験したのでは新しい記事に反映していた
つづけて書いたのには反映されなかった、原因はわからない
だから改めてここに書いたのでご了承ください

プログ主(小林)

2010年03月30日

人生の最後に残るのは記憶である(テニスン-旧き逝く年に・・・)


人生の最後に残るのは記憶である

T

he Death of the Old Year
( 旧き逝く年に )

アルフレッド ・テニソン
Alfred Tennyson

                                 
    冬の雪は 膝までも 深く
    冬の風は 悲しくも 息を漏らす
  鳴れよ 教会の鐘 悲しく緩やかに
  そして 静かに歩め 声低く語れ
  旧き年は いま 逝こうとしている
  旧き年よ あなたは 死んではならぬ
  あなたは 疾く 来たった
  あなたは 固く吾々と 生きてきた
  旧き年よ 私はあなたを 死なせはしない

  

    彼は静かに 横たわり 動かない
  彼は 夜明けを 見ることはないだろう
  彼は この先 生きることはない
  彼は 私に 友と愛する人をくれた
  そして新年は それらを 取り去ってしまうのか
  旧き年よ あなたは 去ってはならぬ
  かくも永く あなたは 我らと共に生きた
  何という喜び あなたが 我らと共にあったことは
  旧き年よ 私はあなたを 逝かせはしない
    ≪ 途中省略 ≫


  何という 彼の息苦しさよ 雪の上で
  たった今 雄鶏の 鳴き声が聞こえた
  物影が あちこちと 動く
  蟋蟀が鳴く 炎が 低く燃える
  時は 今 12時に近い
  握手をしよう あなたが 逝く前に
  旧き年よ 我らは あなたを悼む
  あなたに 我らの 出来ることはあるか
  あなたが 逝く前に 告げよ


  彼の顔は 険しく やせて
  ああ 我らの友は 逝った
  彼の 目を閉じよ 顎を結べ
  亡骸から 離れて 人を入れよ
  そこに 一人で 立つ人を
  そして 扉のそばに 待つその人を
  新しき歩みが 床の上にある、我が友よ
  新しき顔が 扉の前にある、我が友よ
  新しき顔が 扉の前に ある


旧き年よ・・・旧き記憶でしょう、六〇以上になるとわかりますが最期は人生は記憶になるんですよ、人生はいろいろ体験した記憶として残される、記憶として刻まれたのが人生になってしまう、「 旧き年よ あなたは 去ってはならぬ、  かくも永く あなたは 我らと共に生きた
家族がともにいる年数も長い、夫婦でもそうである。やはり長く入ればいるほど記憶に残りやすい、例えは憎しみあっても長くいれば実は愛し合っていたとか死んでからわかったりする。愛していたから憎んでいた、愛さない人は全く無関心だからである。人間はともかく複雑なものなのである。


旧き年よ・・・旧き記憶よ、去ってはならぬ・・・記憶も悪い記憶も消えない、記憶は六十代になるとかえって生々しく蘇ってくる、若いときの放埒な不品行など罪も悔恨となって生々しくよみがえってくるんです・・・そうした罪の記憶とかも消えない、カインがアベルを殺して顔に神から標(しるし)をつけられたように消えない、若いときは自分もそうでしたがそんなことになると思わないからみんな青春をふりかえって悔恨している、旧い年よ(記憶)よ・・・去ってくれと切実にかえって思っている人も多い、そうした嫌なこと犯した罪なことを忘れたい、旧い年(記憶)を忘れたいという人が逆にいる、そして一方いい記憶も消えることはない、誰かが愛すこと自体が幸せだという言葉を残しています。何であれ愛せなかったら不幸です、そういう人には愛の記憶は残らないですから・・・実の親でも一緒に育たなかったら記憶がなかったら子供は親と思わない、現実に四才くらいまで育てた親でもその後一緒に育たないからあとで成人してから私が実の親ですと名乗っても全然親という感覚がもてない、愛情ももてないのである。記憶に残らなかったためである。老人になると今までわからないことがわかるから老人は不思議な体験なのである。


認知症になっても認知症の人は忘れると言っても忘れないことありましたから、特に若いときのことは忘れていないから千回も話しつづける、聞いている方は嫌になってもその記憶が人生だったからである。認知症をテ-マにした「もがりの森」というの見たが、カバンを大事にしていた。そのカバンには日記とか写真とかいろいろ思い出の品が入っていた。それを粗末に扱ったら認知症の男性が怒った。あの人も妻のことがいつまでも忘れられなかった、私の姉も戦争中、従軍看護婦をしていてその友達からもらった手作りのバッグをいつも持ち歩いていた。よほど大事なものでありそこにいろんなものを入れて持ち歩いていたので困った。認知症にはそういう行動をとることでは共通していた。そこには人生の大事な記憶をつまっていてその記憶をなくしたくない、だから外に出かけるのにも持ち歩いていた、認知症の症状は共通したところがあり不思議だった。つまり最後に残ったものが記憶でありその記憶を奪われたくないからバッグを持ち歩いていたのである。

モノには残したモノには何かそうした過去の記憶がつまっている場合がある。人間が死んだら具体的にはモノしか残らないからだ。それでその残されたモノから歴史を解きあかそうとする、でもモノも消えやすい、記憶も消えやすいのだ。人間が生きた記憶でも残っているのはほんのわずかである。あとはみんな消えてしまった。でも歴史に残らない記憶も実際は残されている。個々人の記憶はやはり来世でも蘇る。全く記憶が消えるとしたら来世で裁くこともできない、何か記憶されているから来世でも神が裁くことができる。やはり人間は今世での記憶を来世にもってゆくのである。もちろん消える記憶も数多くあるが何か肝心な記憶は来世にまでもってゆくのである。もしすべてがこの世限りのものだったら人間社会自体も成り立たなくなる。この世があって来世があり天国あり地獄がある、天があり地がある。地だけしかなかったら救いも希望もなくなってしまう。何故なら地は永久に天に天国に変わらないからだ。どうして延々と罪がくりかえされて終わることがないのか?いくら改革を唱えても実行してもやはり世は変わっていない、犯罪はうんざりするほど毎日ありこれも変わっていないのだ。むしろ悪質な犯罪は増えている。今世しかないなら結局絶望しかないのである。
 


●翻訳などの著作権の問題 


 

この詩は玉本様が掲示板に出したものです、原詩は英文なら自由に利用していいが翻訳の詩には五十年は著作権がある・・・全文なら問題あるのか?つまりこの翻訳の詩の本があるということでそれを読んでくださいとなるならいいのか・・・・・でも文句がない場合はそのままになっているのがインタ-ネットなのである、許可を得るにしてもどこに許可を得るのかもむずかしいから・・・自分も翻訳の詩をサイトに出した、翻訳だとかまわないと思っている人も結構いるかもしれん、翻訳くらい自由に出してもいいと思うがやはり翻訳でも一つの創作になっていることがかなりあるからむずかしい、この翻訳も一つの創作なのかもしれんから・・・・ここには翻訳者の名前は書いていない・・・翻訳は著作権上どうなっているのか明確ではない・・・
 

2010年04月08日

騒音語と化して詩語が喪失した現代文明 (原生圏の森の人-詩)


騒音語と化して詩語が喪失した現代文明
(原生圏の森の人-詩)

一切が語っていて、一切が聞きのがされる、
一切が語っていても、成就するものは何もない
一切が鵞鳥のように鳴きたてる
しかし静かに巣籠もりして卵を孵(かえ)そうとするものはいない・・・
そこでは一切が語り語り壊されている・・・ニ-チェ(ツアラストラ-帰郷の部)

現代文明を痛烈に批判した。一切が語るというとき一部の人が成熟した人が語ればこうはならなかった。今やあらゆる人が語る。全部は無駄でないにしろそうなるとすべてピカ-トの言う騒音語として意味を成さないものとなる。言葉は沈黙の背景があって生きてくるし長い沈黙の中に言葉は成熟して詩語を形成する。自然は常に樹であれ石であれ大地であれ山であれ沈黙しているからだ。だからその沈黙から発する言葉を聞くには自らも相当沈黙せねばならない、太古の沈黙の世界に帰らねばならない、そうなると文明圏では不可能になる。新たな原生圏を意図的に作り出さねばならない、そこで沈黙の業を行うのである。現実に禅僧などはそれをしてきたからめずらしいことではない、つまり社会から離れて禅を究めるためには禅堂があり庭を作り社会と区別した世界を造ったのである。文明圏は今や余りにも巨大であり騒擾の混沌(カオス)となっている。一切が語っていても今や誰も聞いていないとかなる。インタ-ネットなんかもあらゆる人が無秩序に語りカオスとなっている。いづれにしろ現代文明の中から成熟した言葉(詩語)を見出すことはむずかしい。あらゆる人が成熟しない言葉を吐きだしつづけすぎるのだ。有名でないにしろ10冊以上の詩集を書いている20代の自称詩人もいる。詩集など出版されなくても今や本自体作ることは簡単になったからそうなる。でも誰か価値を認めることはないだろう。
自然に通じるには自然が沈黙の長い継続である時、人もまた沈黙せねば通じることはできない、だから禅堂に籠もったように文明圏と分かたれた原生圏を作りそこに新たに自然が語るものを詩語として語りだすのが詩人の役目である。原生圏と言ってもそれは全く別にあるのではない、自然にあるものであり自然が残っていればそこから自然の再創造が行われる世界である。それは東京のような都会にはありえようがない、沈黙と言ってもそれは全体に沈黙がなければ沈黙は孤立してしまうとかある。江戸時代は全体の沈黙があったから芭蕉の句が生まれたのである。それは今になると作り出せないその時代の沈黙から生まれた句だったのである。
静かに巣籠もりして卵を孵(かえ)そうとするものはいない・・・この時間が相当長くなるのだ。だから待てないから20代で未熟な成熟しない言葉を吐きだしているのだ。これは別に若い人だけではない、詩人は騒音文明の中で大自然の沈黙に通じた言葉(詩語)を吐く人が途絶えてしまったのだろう。言葉は無限に吐き出されているがその言葉は騒音語なのである。成熟した言葉(詩語)は沈黙を習慣としているような時、徐々に紡ぎ出される。自然のロゴスがその長い時間の内に成熟して吐き出されるようになる。

人間の心が文明の中で通じなくなったというとき共通基盤としてアイディンティティの基の自然を喪失したためだろう。それでそのアイディンティティ取り戻すために回復するために相馬郷土史研究をはじめたのもその一つだった。郷土だから土の上にあり土の上に本来の人間のアイディンティティを見直そうとしているからだ。自然に通じるには本当に長い時間がかかる。だから今のような時代は自ら沈黙を作り出せねばならないし沈黙を習慣とすることをあえてせねばならない、そういうことができれば自然に通じて成熟した詩語を吐き出すことができるのだ。しかしその道のりは長いから60代前で死ぬと未完成に終わる。中途半端なものとして終わる。天才は別として凡人はだから長く沈黙の修練すれば詩語が自然のロゴスが宿るようになる。
それは必ずしも才能ではなく結局修練なのである。

いづれにしろ誰でも超人になりたいというのは強い願望だからニ-チェが特別なことを言ったわけではない、神になろうとしたとき倒れたのである。どんなことをしても自力で超人や神になることはできない、でも誰でも健やかになりたい、強くなりたい、それは当たり前のことである。弱い人間などなりたくない、体が弱ければなんとか強くしたいとなり自分もそうなろうと努力してきたのである。やはり詩でも病的なものがかなりありそういうのは精神上読むと良くない面があるのだ。そういう詩ももてはやされるのも文明人が病んでいるのだというの上野霄里氏の指摘ももっともなことなのである。誰も病人のように弱くなりたくない、だからニ-チェでも上野霄里氏でも当たり前のことだが天才だからあのような強烈な主張ができたともいえる。体が弱くても節制したり訓練すると多少は体も改善される。ただ60代になると何らかの病気が出やすいのである。
自分に欠けているものはニ-チェや上野霄里氏が持っている強さであり雄渾なるものであった。自分のような細身の神経質な病的になりやすい性格の人は逆の志向を持たねばならない、おおらかな陽性な性格に憧れるようになるのだ。

繊細なるものは胆を大にすべし・・正岡子規が俳句大要でその上達方法を書いているが詩人には繊細なるものが多いがもし繊細なるだけなら自然を現すことはできない、自然の詩語を吐き出すことはできない、自然は余りにも雄渾であり雄大であるからだ。それを詩にしようとしたらその性格も雄渾なるものとならねばならない、繊細な病弱な人も日頃からそう努めれば天才的にならずともそれに近づくことはできるのだ。人間はすでに生まれつき固定されたものとして決定されていない、常に生きている間は生成発展している。遂に衰弱することもあるが性格も体力もやはりそれなりに他者から補ったりして拡大化できるのが人間なのである。沈黙するというのも修練だとするとき沈黙によって自然の偉大さを感得するということなのだ。それは生まれつきの才能ではなく修練だとなるから後天的に作られたものなのである。

(原生圏の森の人-詩)
http://www.musubu.jp/jijimondaiueno.htm#genpoem2

2010年06月30日

貧乏人と金持ちは永遠に調和しない(生きることは苦である)


貧乏人と金持ちは永遠に調和しない(生きることは苦である)

 
●お手伝いさんや召使などから考える
 
自分はここ三〇年他人と直接かかわったことがなかった。かかわる必要がなかった。家族にはそれなりにもめごとがあっても外部の人とかかわらないから自分が恵まれていても責められることもなかった。それが家族の一人が死んだとき外部の人と接することになりいろいろ考えさせられた。前にも書いたけど親戚というほどでもないがそれもみんなうまくいかなかった。ここも結局金の問題だった。金の切れ目が縁の切れ目となっていた。家族の一人が死んで人間の醜い面にもろに接するようになったのだ。お手伝いさんにしても実際は本当のお手伝いさんではない、本当のお手伝いさんは一日勤めるような人であり住み込みのお手伝いさんが本当のお手伝いさんであろう。前は女中と言っていたが差別用語で禁止された。貧乏人と金持ちが調和しないというときなぜなのか?ここに人間に平和がない調和がない根本問題があるからだ。一般的にお手伝いさんとかなると金持ちの家で勤めることが多い、今はそれほどの金持ちでなくても一時間くらい頼む人がいるが本来は金持ちに雇われるのである。するとどうなるのかその経済的差が大きすぎるから問題になるのだ。アメリカでは極端な話、お手伝いさんに盗まれて困るから裸にして仕事する人を頼むとまで広告を出した。これも金持ちの家に来れば欲しいものがありその経済的差が大きすぎるからそうなるのだ。すでにそこには調和はない、お手伝いさんにしてみれば「なぜこんなに金持ちで自分は貧乏なのか?」そういうことが常に思うようになる。これが貧乏人だけで生活していればそうならないのだ。だからつくづくインドのカ-スト制とかがいちがいに悪いとも言えない、江戸時代の階級制も悪いともいえない、逆に極端な経済的差の人が一緒に暮らせばそこにもはや根本的な調和はないのである。別にお手伝いさんだからといって軽蔑したり手荒く扱ったりしなくてもそうである。そもそも経済的差が大きいだけで調和しないのだ。今はお手伝いさんでもいろいろだから昔とは違うが一般的に下積みであり苦労している。そして貧乏だとなるとなぜこの家は金持ちでありこの人の家は楽をして贅沢をしているのだろうかとなる。それを毎日の生活の中で見てしまう立場にあるからどうしても怨嗟の感情が大きくなるのだ。
 
●極端な経済的格差は必ず犯罪の原因
 
お手伝いさんをテ-マにした昔の映画をテレビで見たが貴族の家に召使に雇われた青年がいた。そこに他にも召使が何人かいて共同で仕事していた。そこでそこの貴族の家の人が殺された。あとで犯人は誰だったかわからずじまいにドラマは終わった。でもそこに勤めていた老人の召使の女性がいてその青年はその女性の息子でありその息子はその貴族の家の主人らしい人に生ませられた子供だった。そしてその子供は施設にあづけられたのだ。それでその青年はこの貴族の家に復讐に来たということを暗示した。ただその青年が犯人だったかどうかは言わず終わった。このドラマもまさに極端な経済的差から生まれた恨みをテ-マにしているのだ。「太陽が一杯」というのもこれとにていた。その経済的差が大きすぎる。一方は貧乏人であり一方は大金持ちであり放蕩息子である。その怨嗟が殺人にまでなった。これも極端な経済的差をテ-マにしていたのだ。極端な差があるからわかりやすいから映画化されたのである。


貧乏人と金持ちの問題は人間が生まれて以来あり解決していない、世界的にも問題が起きるのは貧乏な国と金持ちの国があるからでありそこが根本の問題としてある。まだ飢えてやっと生きている人が多いのにその百倍ものいい暮らしをしいる人がいれば世界に戦争がなくても平和は調和は来ないのである。世界的に考えてもそうであるように狭い世界、社会でも貧乏人と金持ちは調和しない、それをわかりやすく示したのが金持ちの召使とか昔なら女中とか今ならお手伝いさんとかである。そして現在も不景気や日本経済が衰退してゆくときこうした社会は金持ちと貧乏人の差を大きくするのだ。それは今までのような金持ちではない、若者はワ-キングプアとなりいくら働いても働いても暮らしが楽にならない、その不満は経済的に恵まれている人たちへ向けられる。公務員は恵まれすぎている、老人は金をもっていて恵まれている、若者は老人のために働かされている奴隷だとか絶えず怨嗟が起こり攻撃される。それが極端になると暴動になるかもしれない、確かに公務員など本当に恵まれている。年金だけで夫婦で五〇万とかもらっていればとをしてもこうした下り坂の経済では怨嗟の対象になるのだ。上り坂の高度成長時代だったらこうはならなかった。自分たちも努力すればマイホ-ムがもてる時代だったからである。今のような時代こうして恵まれている公務員などは相当に多数の貧乏人の怨嗟を意識しないと無頓着でいると非常に危険な状態になってくる。

 
●人間は生きることは苦でり幸福はない
 
なぜか自分は若いときからショ-ペンハウエルを読んでいた。性分的にあっていたからだろう。人間は生きることは苦であり快楽と見えるものははかなく消える。そして苦だけが現実だと何度も書いてあり読んでいた。これは何もショ-ペンハウエルだけが言っていることではない、仏教でも生老病死であり結局は苦のみが現実であり快楽や楽はこの世にないと説いていた。そのことを自分の体験からつくづく実感したのがここ五年間の家族の認知症の介護とか他人とのじかの接触で感じた。そして今年は病気の年だった。胃腸が弱いにしても一週間くらいで直っていたが今回すでに三カ月くらい直っていない、まともに食事ができない、そうなると腹減って普通にうまいと食べていたときは本当に幸福だったなとつくづく思った。健康が幸福の基であることをつくづく感じた。今までは体が弱いにしてもこういうことはなかった。普通に食欲があり食べられることは幸福だったのだと今さらながら感じた。病気の人から見ると健康である人はその人はどうであれ幸福だと思ってしまうのだ。普通に食欲があり食べられるのは幸福だなと思ってしまうのだ。でも別にそんなことが当たり前だと今健康であることに感謝している人はいないのである。寝たきりの人は歩ける人をどれだけうらやましがっているか、自分自身そうなってみないと人間はわからないのである。人間はそもそも健康であることに感謝している人もいないし、自分に満足している人もいない、貧乏人はもちろんそうだが金持ちもそうである。地位ある人も東大出た人も天皇陛下も自分に満足している人などいないのだ。何かしら不満を抱いているのが人間である。才能あるにしてもいくら才能があるといってもあらゆる才能などもてない、ほんのわずかの才能しか与えられていないから満足する人などいないのである。そして最近幸福を平和を感じるのは我を忘れて眠っている時だけだった。なぜならその時嫌なことを病気のことや
いろいろなこと嫌な他人と接することなど忘れてしまっているからだ。どんな人も他人との接触、付き合いで不幸になる要因をかかえるのだ。この世にいい人などいない、苦痛を与えるのが他人であるし今や家族自体がそうなってしまったとき介護かなてしまったとき家族にも平安はなくなる。被害を与える人、極端なのはストカ-とかに苦しめられる人もいるがそういう人がコメントしてきたけどまさにその人はそういう悪質な人から逃れられないのだ。だからその人にとって幸福とはそういう人から逃れそういう人を意識しないとき幸福になる。眠っていて忘れればそうなるのだ。夢でもそういう人、ストカ-につけ回されるならばまたそうならない、結局死ぬことはそれほど不幸でないかもしれない、死ぬ前に人は無意識になる。無意識になることは嫌なことを忘れることだから幸福だとなるのだ。いづれにしろ人間の実体は苦だということを今更ながら実感しているのが現在の自分の状態だった。

2010年08月05日

人間の最後から人生を考える


間違いのみ生きにし我や最後には正しきことを語り死ぬべし

人間は間違いが多いし罪を生きるのが人間である。でも人間がどんなつまらない人でも最後は死ぬときは正しきこと、嘘のないこと、真実を語り死ねばその人の生きる価値はあったとなる。
だからどんな人でも最後は大事なのである。でも実際に最後に正しいことを語ろうとしても最後まで語れずに死んでゆく人も多いのだろう。ともかくカルト宗教団体に入っているような人は嘘でぬりかためられている。そこに真実は全くない、組織人間は概してそうである。真実は個々にあるがその個々が抹殺されるから個々の声はないから真実もない、ただ一様な画一的なシュプレヒコ-ルになっているのだ。組織集団化すると人間そのものが非人間化する。このことは上野霄里氏が何度も言っていた。そういう集団に属した人から最後の死ぬときも真実の声は聞くことはできないだろう。そういう人は嘘偽りの中で死ぬのである。何一つ真実はない、自分の言葉がそこから生まれないのだ。人間の最後くらい自分の言葉を語り死んでゆきたいが組織集団に属していればありきたりの決まり文句を言うことしかなく死んでしまのうだろう。ロボットのように死んでゆくのだろう。そこに生きがいがあるのか?生きた価値があるのか?一つの組織の機械としてロボットとして死んでゆく生に意味があったのか?

ともかく人間の最後はその人の一生の何かを語る、間違いのみ罪のみの人生でも最後に真実を語り死ねば大きな意味をもってくるかもしれない、何故なら死をかけて語る言葉は誰であれ重いものである。こういうことはその人が特別優れているとか才能あるとか関係ない、その人がただ自分に正直であるということだけでありそれができないのが人間社会の現実なのである。でも人間は最後そんな嘘偽りのなかで生きて安らかに死ねるものだろうか?やはり最後に真実を語ることによって心も救われる。その時その顔もまともであり正気でありその顔でもって天に上ってゆく、人間は常にその最後を考えることが必要なのである。若いときは人生の最後は先の先で関係ないと思っているがすぐに最後が身近となり最後を生きることになる。そして若いときのことがただ大きな後悔として残ることになる。人間は言われてきたように死という時点から生を考えて生が充実した緊張したものとなる。人間は死ぬからこそ真実を充実した悔いのない生を送りたいと思うのである。

2010年09月04日

人格形成と盛衰(経済的豊さ)は一致しない


人格形成と盛衰(経済的豊さ)は一致しない

●人格形成の失敗者の顔

管総理と小沢氏の討論はさておきテレビ時代は今までも良く言われたことだがイメ-ジが先行する。見た目で判断する人がふえる。顔が大写しになるからその人の言うことより政策より顔からの印象でその人となりを判断する。小沢氏はいかにも悪役なのである。どうみても女性からすると怖い顔つきになっている。悪いがヤクザの親分みたいに見えるのだ。女性から人気がないのがわかる。でもそれだけに何かをできるやれる豪腕だとか頼りになるとかみる。それはその人の言っている政策を実行するかどうかではない、まず顔つきからイメ-ジとして判断されるのである。女性の場合は特にイメ-ジから判断するから余計に損だとなる。顔は偽れないものをもっているからどうにもならない、親戚の女性で最初長い間あっていなかったから顔を見てもわからなかった。ところが何十年と合わない間に実際は人格が全く変貌していたのだ。でも外見からわからなかったが今になるとその顔が奇怪なものになっていることがわかった。夫婦の場合は夫婦で顔が作られることがあるようだ。夫婦とも奇怪な顔だったなとつくづく今になると思った。
顔にそれまでの人生が刻印されていた。でもその顔は何を意味しているのかなかなかわからないだろう。あまりにも極端な異常な行動に出たのでその顔も奇怪なものになっていることをまざまざと知ることになった。弱者を踏みつけて平気でいるような顔つきになってしまっていたのである。その夫婦は自分達の異様さを気づいていないだろう。子供も育てているし別に借金しているわけでもない経済的には豊なのだがその夫婦は顔が奇怪な異様な夫婦となっていたのである。

一方下積みで働きづめの60代の女性は中卒だし貧乏なのだがつくづくしっかりしているなと思った。離婚して一人で子供を二人育てたことも影響している。奇怪な顔になった女性はたいして経済的には苦労していない。だから金があるからといってそれがすべての幸不幸を左右するわけではない、あんな顔になったことはやはり金があっても不幸だろう。本人は気づいていないにしろ金があっても人格形成に失敗したとなるからだ。でも外見では金のない人は失敗者にみられてしまうのである。人格的におかしいなという人はいくらでもいる。世間で尊敬されている医者に多いということが問題になった。余りにも持ち上げられすぎてそうなってしまったのだ。どうしたって世間で神様のごとくもちあげれば俺は偉いんだという意識が働き、傲慢になってしまうだろう。するとそういうことは下積みで働いている人より人格形成的にはいい環境でもなかったとなるのだ。もちろんこれも外見上はお医者様は金もあるし世間からも特別尊敬されるしといいことづくめなのだが人格形成的にはいい環境とはいえない、もし人を人とも見ない傲慢な人格になっていたらやはり医者という職業の特殊性が原因しているとなる。あのように崇められる職業はないからだ。人格形成などどうでもいい、金さえあるものが勝ちなんだと世間ではなるにしてもあんな奇怪な顔になるのはやはり悲劇ではなかったか?本人は気づかないにしろなんだかダンテの地獄編の中に実在する人のように思えた。つまり地獄ではそうして人格が歪んだ人々が顔の人がいるのだ。そんなところに行くほかないとしたらやはり人格形成は軽くみることはできない、この世ではそういうことは意識されない逆の現象が起きていても来世では奇怪な人は奇怪な顔の人々が集まっているということになる。夫婦は一連託生だから夫がいい人で妻が悪いとか妻が良くて夫が悪いとかにはなりにくい、二人して人格形成される。その人格形成に失敗すれば二人して地獄に行くようになってしまう。確かに外見上は金持ちでありそうは見えないにしても人格形成は内面的なものとして作られるのであり外見とは一致しないからである。


●人間の盛衰(経済的成功不成功)と善や義や仏の道は違っている

盛衰を以って、人の善悪は沙汰されぬ事なり。盛衰は天然の事なり。善悪は人の道なり。教訓の為には盛衰を以って言ふなり。(山本常朝)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/744

盛衰をもって、人の善悪は判断できない。盛衰というものは時の運である。しかし、善悪は人の道である。あえて教訓のために、善人は栄え、悪人は滅ぶというのである。善人だから金持ちになるということはない、人格が形成されるわけではない、人格者がみな金持ちになるわけではない、これは別なものなのだ。たまたま一致することがあってもこれは別なことなのである。
貧乏でも善の道を実行することが人としての道である。それは金持ちになるかどうかとは別問題である。ただただ金持ちになることを願い金持ちになれば人として成功したのだなる。盛衰は別である。これは国にとってもそうである。盛衰と善を成すことは別のことである。善を成したからアメリカが栄え他の国が衰退するとかならない、盛衰は世界史的にも平等に起こっているからだ。アメリカは日本の戦争に勝ったのは日本に義がない善がないからだとはならない、それはあくまでも盛衰であり善とか義とは関係ない、そのことが今でも錯覚されている。日本は人倫的にまちがった戦争をしたから負けた、当然原爆を落とされてもしかたない国だったとアメリカが言うのは傲慢なことである。戦争の勝敗は時の運もあるし盛衰であり善とか義とは関係ないのである。勝ったから義があったとかなかったとかではない、その時の運もあり国際情勢もありさまざまな要因があり戦争に勝ったものが正しいとはならないのだ。原爆を落としても正しいというのはあまりにも傲慢だったのである。

アメリカにその時盛衰の中の盛がありもし国全体が衰に向かっていたらそうはならない、今アメリカは衰に入り中国が盛に入っているからアメリカの世界覇権がいつまでつづくかはわからない、そういう力関係は世界史的に常に変わっているのだ。奢れるもの久しからずはアメリカにも日本にも起こっているのだ。経済大国だなどと奢っていたが今度は中国人の金持ちの観光客を呼ぶのに必死になっている姿がそうである。これも盛衰であり逆転したのである。盛衰は常に起こっても義とか善から判断はできない、人の道を行うことと善を行うことは一致しないのである。カルト宗教団体などは肝心の仏の道を実行することではない、常に盛衰だけをみている。他人の盛衰だけをみている。あいつは俺たちを批判したから金持ちになれない、病気になったりろくなことはないのだと喜んでいる。でもその内部では同じことが起こっている。盛衰はどこにでもありまねがれない、それと義であり仏の道であり人の道を行うことは全く違ったものである。でも盛衰だけを見て判断する。ご利益だけを得ることを願っている。盛衰がすべてであり盛衰で経済的にご利益があったかどうかですべてが判断されるのだ。人でも国でも会社でも団体でも盛衰だけで語ると見誤る。盛衰と善や義は別物であり一致しないからである。たまたまそうなっていたとしても人倫の道、義や善と盛衰は違ったものなのである。

2010年09月07日

死者への供養も愛がなければつづかない


死者への供養も愛がなければつづかない

 
●愛とは何なのか
 
愛とは何なのか、そもそもわかっている人は少ないと思う。キリストやお釈迦様が説いた愛は普通のものではない、非常に高度な愛であり慈悲であり凡夫には実行しがたいものとしてある。そして愛を愛をというとき愛にはいろいろあるのだ。まず恋愛は愛の内に全く入らない、それはエゴの愛であり宗教的にはどこでも否定されているのだ。肉欲も否定されている。愛とか慈悲はまた家族愛、親子の愛とかとも違う、万人を隣人を愛する愛である。だから宗教的愛は実行されているのを見ること自体知ること自体も世間の中ではありえないほどのものである。人を愛しなさいというとき愛にもいろいろあるから混同しているからである。恋人を愛す、親が子あ愛す親を愛す兄弟を愛すと恩になった人を愛す世話になった良くしてくれた人を愛すというのは普通にある。でも現実そのことすら世間では実行しがたいものとなっている。そしてそうした普通の人間的情を実践できない人は絶対にその上の宗教の説く愛とか慈悲など実践しようがないのだ。例えば誠実に生きろ嘘つくなとか教えられてもそれを実際の生活で実行することは本当にむずかしい。一見簡単なようなことでもモラルを実行をすることは世間を生きるなかではむずかしいのだ。そしてではカルト宗教団体などを見ればわかる、信仰しているのだからそこにいる人たちは愛や慈悲を実践する人たちなのかというと全くそうではない、そうした愛や慈悲を実践できる人は一人もいないのである。会員を増やすとか勢力を拡大化することには熱心でも愛とか慈悲などまるっきりないのである。
 
そもそも人間は普通の親子の愛とか兄弟愛とかそうした愛を実践することすらむずかしくなっている。昨今の高齢者の行方不明問題もそのことを物語っている。普通のモラルさえ実行できない、借金しては返さない人はやはり愛とか慈悲など実践できない、すでに正直でも誠実でもないからだ。「汝の敵を愛せよ」という時、口で言うのは簡単である。現実になると本当にむずかしい。実行不可能になってしまう。しかしそこに本当の愛があった。人間は良くしてもらった人にさえ恩になった人にさえ愛をもてないということがある。忘恩は世の常であるというのも真実である。ただ恩と義理など古いとなるがそれすら実行しないし実行することがむずかしいのだ。十万くらい貸していた人は本当に律儀な人だった。必ず感謝して返していたのである。金を借りて感謝して返している人はまれである。その人は姉が認知症になったときかわいそうだと話相手をしてくれたからやはりそういう恩と義理に厚い人はやはり情ある人だったし今ではまれなのだ。日本人自体すでにそうした恩と義理さえ感じない情のない人が多くなっている。日本人的良さが今やモラル的に喪失したのもそのためである。それを汝を苦しめた人を愛せというのはできないことなのである。愛を愛を気軽に言うことは簡単でも実際は家族や身近な世話になった人でも愛をもつことはむずかしいのだ。実行されていないのである。愛や慈悲を説いている人自体実行できないのが現実なのである。
 
●具体的な愛の例
 
複雑な事情ではあるが実家の祖母にあたる人はものすごく気の強い人でそれで母は実の母の代わりに育てられたのでひどいめにあった話を聞いた。弁当を作ってくれたのだがたまたま残して家にもってきたら「オレの作った弁当は食えないのか」と弁当をぶちまけられてこっぴどくしかられたという、相手はまだ子供なのにその話を聞いてひどいなと思った。母も実の母だったらあんなことしないのになとつくづく回想して言っていた。でもその継母となった女性にも功罪が有りすべてがひどい人ではなかった。それなりに尽くしたところもあった。それだけ気の強い人も晩年は養老院に入り死ぬ間際に目が悪くして盲目となった。そして気が弱くなってしまったのである。その時頼ったのが回りの人であり母しかいなかった。養老院でもそういう強い気性の人だからいじめていたりしていて嫌われていたのである。でも目も見えなくなり回りにも世話になるし最後はどうにもならなくなり母に頼った。母はそれでも進んではないにしろ行ってめんどうみた。そして最後は母にすまねえなと言って感謝して死んでいったのである。養老院で世話になったからと解剖に出すことになっていたので解剖されてのち私の家に骨はもたらされ実家の墓に納骨したのである。これもしかたなしにやったにしろ一つの愛だったのかもしれない、ひどい目にあったけれど最後は自分が弱くなったとき相手にはじめて感謝して死んでいった。強かったらこうはならなかった。
 
愛というのは強い人には通じないということがある。強い人には愛は必要ないし愛が何かもわからないのである。強い人にはもののあわれもわからないのである。俺は一回も病気したことがないような人は弱いということを経験しないから愛もわほからない、愛とは基本的には弱さへの愛だからである。強い人は元気なときは愛を必要としない、必要性も理解しない、でも遂に人生の中でその最後には年老いて誰でも弱さ自覚せざるを得ないのだ。そういうことをまざまざと見たから驚愕した。姉も強い人だったか認知症になり心も体もガタガタになってしまったからだ。最後はどんな強い人も弱さを露呈せざるをえないのである。人間は弱いものだということである。
 
●死者への供養も愛がなければつづかない
 
死者を愛すというとき生前でも愛がない人は死後も愛することはなかなかないだろう。生前と死後は継続してある。ただ生きているときと死んでしまったときの差は余りにも大きいのでとまどうのである。死んだ人を愛するというときもう形もない、返事もない、どこに愛する対象を求めていいかもわからない、墓だけが残っているから墓掃除したり墓参りすることが死者と通じることになるのか?それだけで死者を愛することになるのか?死者は何の返答もない、生きているときいろいろ利益を与えてくれたり具体的なものとしてあった。今や何もない、何の利益も与えてくれない、供養したからといって感謝しているのかどうかもわからない、だから虚しいともなる、でも介護しているときのように負担を与えないから気楽だともなる。死者は何の苦労も負担もかけないからだ。だからかえって死者を愛することは容易な感じもする。ただ手を合わせればいいからだ。でも死者を愛することはやはり愛が必要なのだろう。「汝の敵を愛せよ」というときこれは死者に対してもあてはまる。なかなか死者に対してもできないからである。例えば日本人の墓が戦争した場所にはない、骨はジャングルやアジアのそこかしこ放置さされているだけである。誰も敵であった日本人を弔う気持ちがないからである。むしろなんとか恨みをはらそうとする憎しみの念が延々と伝えられるだけだからである。
 
死んだんだから死んだ人はかわいそうだから弔うというのは日本的心性なのだろう。それは悪いことではない、それは汝の敵を愛せよということに通じているのかもしれない、現実に死者さえ憎んでいる人はいくらでもいる。親でも親族でも憎んでいる人はいる。それも実際に知っているからそれが悪いとも思えない、余りにもひどすぎた親というのがいる。親が仇のようになってしまっている不幸な親子関係もある。子供捨てるということも親にあるだ。自分もそういうことではないが迷惑かけられた兄弟がいてそのことで不満をもっていた。でも死んでしまったのだからそのことにこだわってもしょうがない、やはり死んだ人でも愛すべきだと供養している。死者でも愛せない人には供養もしないだろう。やはり死者にも愛がなければ供養はつづかない、返答は感謝もないにしろ供養も愛の行為だったのである。死者も暗黙の内にみているかもしれない、返事はないにしろいろいろ迷惑かけてすまなかったなとか思っているかもしれない、許してくれとか言っているかもしれない、そうなるとやはり供養せねばならないと思うのである。
 

死者とともに生きる
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/mourning.html

 

死は、あるいは喪失は、終焉を意味しない。
死や喪失を機に、自分のなかに息づき始める物語がある

 
確かに死ですべてが終わったわけではない、人間の物語は延々とつづく、家族の物語もつづく、死んだことにより死んだ人を冷静に見直すということや死者についていろいろ回想して考えること自体、死者は自分の中で生前とは違う新たなものとして息づく、生き始めているということもあったのである。

2010年11月21日

危険な貧者


危険な貧者



心の貧しきものは幸いである


回復訳:「霊の中で貧しい人たちは幸いである.…」
欽定訳:「霊の貧しい者たちは祝福されている。…」
英語訳:「自分が霊的に貧しいことを知っている人たちは幸いです。…」
新世界訳:「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。…」



この貧しきものは物質的に貧しい人ではない、心が空虚な人、心で何ももっていない、何にもおごらない、才能があってもなにもないとかそうした謙虚な心の人を言っているのでありモノを豊にもっているのに対して持てないとか一般的な貧乏を言っているのではない、だれも貧乏な人が幸せでありえない、金持ちの方が幸せだと思っている。貧しくて幸いと思っている人はいない、今の世の中のように金が万能の時代になれば余計にそうである。それを一がいには否定できない、モノの観点から見たらこの言葉は理解できない、貧しくて幸いだと思っている人などないのだ。金がもっているとかモノをもっているとかではない、心の問題として提起しているのだ。

まず今の世の中貧しくて満足している人などいないのだ。貧乏な人は富に金を渇望している。ただ条件が悪く充たされないだけでありそれが高じると犯罪にまでなる。恐ろしい犯罪になる。金のために人を殺すことも平気になる。金にまつわる事件は毎日起きている。貧乏な人はかえって心が卑しい、自分はまた貧乏人と本当に接していなかった。自分は悪人にも本当の貧乏人にも接していなかった。今どき貧乏人というとなかなかわからないのだ。今の貧乏人とはなにか?今の貧乏人は食に関してはほとんど変わらない、確かにグルメをしている人もいるが食べ物はそれなりに満足するものをみんな食べているのだ。ここは昔の貧乏と相当違っている。金持ちと貧乏人はそんなに変わりないのである。もちろん安いケ-キと高いケ-キがあったとしてもやはりケ-キは食べられているのだ。

金持ちと貧乏人の大きな差は住居にあった。広い庭をもち豪邸に住んでいるものと小さな借家に住んでいるものの差は大きい、あとはいい車をもっているとかいないとかある。あとはそんなに変わらないのである。現代は貧乏人が目に見えないのだ。乞食している人もいないし貧乏人がどこにいるのか目に見えない、ただそういう人がまだいて貧乏人の充たされな欲望と渇望がいかに大きなものか知った。そうして金を得られないものは大きな犯罪者にまでなる。貧乏人の不満の大きさは恐ろしいものである。今の時代そういうものをあまり感じない、でも現実にそういう人に接したから被害者になったのである。


「ソロモンの栄華も野の一輪の花にしかず」ソロモンの栄華とは現代では豪邸に暮らしている人かもしれない、それよりはるかに王の栄華は限りないものであった。でも結局最後は虚しいものとなった。野の一輪の花にしかず・・・となった。賤(しず)が屋にも一輪の朝顔でも映えるし庭がなくても花は野にいくらでも見ることができる。大きな庭がなくても自然の恵みはさほど変わらないのである。でも現代は賤(しず)が屋で満足している人はいない、アパ-トで満足している人はいない、誰しも豪邸に住みたい、その渇望は大きいのだ。要するにソロモンの栄華を極めた人ならソロモンの栄華も虚しいと言えるがそうでない人はその虚しさを実感しないのである。

賤(しず)が屋で満足している人はいないのだ。でもその渇望が肥大して犯罪までになることは許されないことである。一輪の花が賤(しず)が屋に映えることでは満足しない、そして犯罪までなったらそもそもいかなる花も映えなくなるのではないか?、その不満はわかるにしても犯罪までなったら人間は一線を越えたのでありいくら貧乏人でも犯罪者の烙印が実際に罰せられなくても心の中に刻まれる、またはカインのようにその顔に罪の標しが烙印されるのではないか?富者は犯罪から恵まれているから犯罪からまねがれやすい、しかし貧者や苦しめるものに鈍感になりやすい、一方貧者は犯罪の誘惑にかられそれを実行する。貧者も大きな危険性をはらんでいる。貧しい人が社会的問題なのはそのためである。現代はそうした貧しい人が具体的に見えないのである。それなりにいいものを食べ普通に着るものも着ているしわからないのである。



貧しき人の性


悪人の家にいかなるも

豪壮なる家なるも

広き庭なるも

そこに花は映えざる

貧しくも賤(しず)が屋なるも

花は映えにき

野の一輪の花は映えにき

貧しきも悪き人あり

その家に花は映えざれ

貧しき人みな良き人にあらじ

ただ貧しきゆえ悪を成せざる

その欲の充たせざるにすぎじ

機会あらば盗みもはばからず

その欲を充たさんとす

貧しき人みな良き人にあらじ

大方悪き人なり

ただ貧しきゆえに欲の抑えられる

ひとえに富者をうらやみ

その心は充たされることなし

貧しき人の不満の大きなるをしれ

かくなる貧者に近づくなかれ

家に引き入れるなかれ

ただ富者の富を奪わんとするのみ

その性は貧しきゆえに悪く

その下賤なる人に近づくべからじ

この世に欲なき人のまれなり

高貴な貧者は極めてまれなり

過大な欲は災いの元なり

我も汝も欲をつつしむべし

タグ:貧乏人

2010年12月10日

モラルなき団塊の世代以降は弱肉強食の価値観しかない


モラルなき団塊の世代以降は弱肉強食の価値観しかない 
                                                 
●戦中から戦前はまだ日本的道徳があった                                    


団塊の世代は若い世代からいつも責められていて評判が良くない、人間の社会は世代的に一つの塊として特徴がある。明治の世代は人間として気骨があったとか義理人情に厚いとか評価が高い。大正から昭和の戦前もそれなりの日本人的モラルをもっていた世代である。その人たちは80以上になっている、団塊の世代の親である。共通しているのは「もったいない」という言葉に象徴される、モノ不足、貧乏の時代に生まれた価値観を共有している。必ずご飯粒一つぶまで残さないで食べる。働くこと自体に価値があり金はためる一方であり消費に価値を見出さない世代である。これもアンバランスな一方的な価値観であるがモノを無駄にしないということでは評価できる。80代以上の人はまだ日本人がもっていたモラルを有していた人が多い。
モラルというときむずかしいことではなく宗教的高いモラルではなくその国はその国の道徳なくしして国は成り立たないのである。義理とか恩とか人情に厚いとかも明らかにモラルとして通用するものである。現実にそういうモラルがなくなったとき人間社会がいかに荒廃してゆくのか現在の状態を見ればわかる。


80代以上の人だと日本人らしい日本人がいる。その人は学はないけどとにかく馬鹿正直で情に厚いのである。借金してもそれも一〇万くらいしても正直に必ず返す、そして恩になったと忘れないのである。それで私の家族の一人が認知症になったときその人だけはかわいそうにと相手してくれたのである。他は誰も相手しなくなったのにその人だけは相手してくれたのである。義理と人情と恩を感じる人である。学もない庶民にすぎないけどそれが今になるとそういう人はめずらしいとなるのだ。なぜなら団塊の世代から以降の人にはそういう人はいなくなったからである。戦前世代にはまだ義理と人情に厚い人はいたし教育でも国としてのモラルを教えていた。教育勅語であっても戦争故にすべて否定されたが戦前の世代は明らかに日本的道徳を教えられていたのである。だからみんな貧乏だったけど盗むなとか悪いことはするなとか最低限のモラルは有していた、守っていた。その中にいつの時代でも犯罪を犯す人はいる。でも全体的に見たとき明らかにその国の道徳を守る人が多数だった。だから八〇代以上の老人はまだ好感をもてる世代として扱われている。


●日本人の道徳はアメリカに戦争で負けて根こそぎ失われた


しかし団塊の世代になるとモラルなき道徳なき世代となった。日本がアメリカに敗戦した結果として日本的伝統的良きものを戦争のためにすべて否定してしまったことにあった。その中にいいものもあったのである。それがすべてアメリカに戦争で負けた結果悪いものとされてしまったのである。だから知らず知らずの間に日本人はアメリカ人化されていたのである。そのことを団塊の世代以降の人自体気付いていない、なぜならでは日本人の道徳とは何なのか知らない世代だからである。団塊の世代は戦争に負けてアメリカ的な価値観一辺倒にされたから日本的古来かある価値観を知らないのである。では新しく入った価値観としての民主主義もこれも自らの中で歴史の中で培われたものではなく突然アメリカから押しつけられたものなのである。そして民主主義とかも実際は何なのか理解してしていなかった。ただ自我の自由な欲望の拡大化であった。抑制のない自我の自由な欲望の追求だった。「自由だ、自由だ」というとき何でも自由だというとき悪いものまで自由だとなってしまう。自由をとり違いてしまっているのだ。そこに混乱が生まれてしまった。宗教の自由がカルト宗教団体を跋扈させてオウム事件を生んだり

政治と一体化した創価を生んだりした。それも本来の宗教ではないにしろ何でも自由だからこそ生まれたのである。

団塊の世代が批判されるけどそもそもの原因は日本がアメリカに負けた結果としてアメリカ化されたことが最大の要因だったのである。アメリカの価値観をすべて受け入れた結果としてアメリカ化された日本になったのである。戦前までは日本的モラル道徳価値観が確かにあった。でも団塊の世代以降は知らないのである。自分を滅して国のために尽くすとか滅私奉公とかがあった。そういう価値観は全く否定されるようになった。それより個人が大事であり個々の自由が大事だとなった。でもその価値観もとり違い個々の制限なき自由な欲望の追求となったのである。現代とは明らかに欲望を抑制するモラルがない、モラルとは人間の歴史がはじまって以来何かしら欲望でも抑制することからはじまった。そうでないと共同体も維持できない、滅私奉公というときやはりそこには自我の欲望を無限に拡大するのとは違う、抑制するものを価値観として推奨した。個々の欲望の自由な拡大化をすべて容認することは非常に危険なことである。江戸時代でも分を守れと言っていたのはそのためである。侍でもそれぞれの身分がありその身分を守らないと社会の秩序が維持できないのである。そもそもそうしなければ御家大事にして仕える人などいなくななっていただろう。誰も犠牲になるのは嫌だとなるからだ。


●団塊の世代以降は弱肉強食、欲望の無限の拡大、達成しかない


現代のモラルなき団塊の世代以降の人々はまず自分の経験でも受験戦争からはじまった。数が多いから他者を蹴落としてもいいからいい暮らしをしたい、得をする職業につきたい、利だけを優先された教育になった。戦前は大学はエリ-ト中のエリ-トが行くところだから庶民とは関係ない、エリ-トとして養成されたし誰も行けるものではなかったのである。だから社会全体で受験競争など起こらなかったのである。団塊の世代は数が多いから教室にも入りきれないとか競争が熾烈であり他者を蹴落とすこと競争に勝つことが第一とされたのである。そこからモラルなき世代が形成されてきたのである。国のために尽くす、滅私奉公など古くさい馬鹿げているとなるのがこの世代以降の特徴である。戦争に敗れた結果そうした価値観が全く否定されてしまったのである。そういうモラルを否定したとき民主主義はただ個々人の無限の自由な欲望の追求になったのである。モラルが何らかの抑制であるときそれがなくなった。そうなると価値観として金が唯一の価値観となる。すべての欲望を充たす象徴として金があるからだ。そしてグロ-バル市場化したとき金の価値はますます強大になってきた。欲望も世界に広がり無限化して抑制ないものとなる。


本当に戦前の世代にはまだ日本人としての素朴な正直な義理人情に厚い人がまだいた。欲望を抑制する人がいた。しかし団塊の世代以降はそうした欲望を抑えることは教えられていない、ただ自我の欲望の自由な拡大が奨励された。消費が奨励された。だから団塊の世代以降はモラルがないから一般的に信用できない、人間として信用できないのである。自分も団塊の世代だからこういうのも矛盾しているけど全般的にはそうなっている。もちろんモラルというとき全体的になくてもモラルを有する人はいる、でもそれは個々でモラルをもっているのであり社会全体として戦前のようにはないから人間は信用できない、危険な人が多いとなってしまったのである。団塊の世代が今老人化してゆく、高齢化してゆくけど八〇代以上の老人とはかなり違っている。「もったない」の世代とは明らかに違う、欲望の制限のない世代であり暴走老人が話題になったように非常に危険な人たちになってゆく。贅沢も覚えたし様々な欲望を追求してきたから待遇でも悪ければ不満が大きくなるだろう。まだ分をわきまえるとかはない、だからヘルパ-とかお手伝いとか介護関係などには一番向いていない人たちなのである。そういう福祉的な仕事は犠牲が要求されるときそれに耐えられないのだ。威張って仕えさせる方にはなるが自己犠牲的に仕える人にはなりえないのだ。滅私奉公という価値観もない、自らの欲望をひたすらに自由に追求して充たすことが価値観になっていたからである。 弱肉強食の世界では弱者となる老人は誰も敬意などもたない、若者は老人に敵対化して弱者は無益なものは死んだ方がいいとか安楽死させろとかナチス的にさえなるだろう。そうした心情は抑えようがないからやがて爆発して現実のものになるのである。大勢の人たちが持っている念は怖い、その念が個々人でも犯罪になり全体の社会でも戦争とかへ導くのである。


●モラルなき社会は崩壊


小額の借金でも恩を感じて返していた正直な義理堅い人のことを最初に述べたが今はこの逆なのである。借金など返す必要がない、かえって貸す方が悪いのだとかなっている。そもそも消費が美徳となったときアメリカのように借金でカ-ドで金がなくても消費してそれが引き金となり世界的大不況になったように借金は国レベルで奨励された。国でも借金は紙幣を増刷してちゃらにすればいいと言っているのだから個々の借金もちゃらにすればいいとなる。つまり借金   は返す必要はない、貸した方が悪いのだとなる。小額の借金でも恩を感じて返していた義理堅い日本人とはあまりにも違った人たちが団塊の世代以降の人たちである。団塊の世代以降の人たちはまずなにか恩義をあってもそれを恩などと感じない、だから義理も感じない、モラル的に一般的にそうなっているのだ。ただ得すればいい、遂に金がなければ金があるところから借金して返さなくてもいい盗めばいいというまでになる。そういう恐ろしい時代である。もちろん戦前でもすべていいとはいえないがそれなりに日本人のモラルがあった。

今はまるでない、個々にはあるにしてもそれは全体としてのモラルではない、だから社会全般として互いに信用できない社会となってしまったのである。その根本的な原因はアメリカの価値観が戦争に負けた結果として社会を支配してしまったためである。アメリカの価値観がすべて悪いものではないにしろそのいい点、キリスト教などのモラルをとり入れていないことも致命的だった。モラルは欲望の抑制だというとき仏教でもキリスト教でもイスラム教でもそうである。中国にもモラルはあり論語でもそうである。そうしたものがないとき民主主義は資本主義は欲望の制限のなき拡大化になる。現実に団塊の世代以降はそうなっているのだ。いづれにしろモラルなき社会は野獣化する弱肉強食の世界であり社会は崩壊してしまうだろう。日本人にはまだ犯罪が少ないとかだからいい社会だとか言っているが現実の荒廃はかなり進んでいる。田舎でもそれは同じである。団塊の世代以降はもう昔からの価値観をもった日本人はいない、みんなアメリカ人になっているのだ。もちろん個々人にはモラルを維持して優れた人はいるが庶民レベルでのモラルは消失しているから社会全体の荒廃はすすむのである。特に欲望が充たされていた高度成長が終わり不況が常態化して贅沢ができない、今までのように欲望か充たされないとなるとさらに不満が増大化して社会に犯罪がふえる。田舎でも小さな盗難やら犯罪がふえる。人は信用できない、団塊の世代が言うのも変だが同世代は協力できない、信用できない、殺伐とした時代となっているのだ。

2010年12月27日

今あるものに満足し感謝することからはじめる(欲望の歯止めがなくなる社会の危険)


今あるものに満足し感謝することからはじめる(欲望の歯止めがなくなる社会の危険)

現代の人間の問題は欲望の歯止めのかからない肥大化なのだ。江戸時代あたりは欲望の歯止めがかかっていた。それは簡単に自分の住んでいるところから遠くに移動できないことにあったのだ。豆腐でも遠くにうまい豆腐があっても近くの豆腐屋に行って買っていたのは美味い豆腐があるからと簡単に今のように車で移動できないからである。そこで欲望に歯止めがかけられていた。今では欲望に歯止めをかけるものはない、世界の果てまで何か欲しいとなったら出かけてゆく。美味い豆腐があると言えば遠くまで平気で買いにゆく時代である。そうすることは近いということが意味をもたない社会で近隣で相互にかかわりあう社会はなくなった。それはいい面があるにしろ欲望に歯止めがかからなくなるのだ。だから世界中からうまいものを輸入するようになる。今になるとそんなに他国から食料を買わねばならないのか疑問である。国内だけで十分じゃないかともなる。そもそも資本主義が修道院の禁欲の労働からはじまったとするとそれは労働が奉仕であり他者を助けるためにということからはじまっていた。消費という観念はそこになかったのである。現代は消費のための資本主義でありそれは無限の欲望の拡大化である。それはグロ-バルに欲望を拡大化することである。そこに欲望の歯止めがなくなる。ますます金が万能となり金が世界を動かすことになる。現代に必要なものは欲望に歯止めをかけることである。


そのためにはまず今あるものに満足して感謝することからはじめる必要があるのだ。今あるもの与えられたもの満足しないもの、感謝しないものはさらに欲望が肥大化してゆく、つくづく人間の欲望はきりがない、例え一億円もっていようが広い土地をもって財産があっても人は満足しない、もっとほしいもっとほしいとなるのが人間である。金でも今ある金で満足している人は誰もいない、一億円もっていてももっと欲しいと思うし人間の欲望は切りがないのである。今あるものに満足している人は富者でもいない、誰もいない、もっと欲しい欲しいとなる。人間何かしら持っているものがある。金でなくても家族がいるなら孫がいて娘息子がいればそれも財産である。家族がない人から見るとそうなるのである。いくら金があっても家族の代わりにはなれない、そを身にしみて経験したから家族のある人はうらやましいとなるが家族などだれでも持っているじゃないか、できの悪い家族もったらかえってひどいとかなる。でも家族は家族であり他人は家族の代わりになれないのだ。そして家族は簡単に作れないのである。時間がかけて家族も成り立つからである。とにかく新しい貧乏の時代でも今の人は食べるものでも恵まれている。米が食べられなくなるということはありえない。それもうまい米が食べられる、農家でさえ戦前は粟と稗をまぜて食べていた。今は貧乏でも感謝するものがあるのだ。米が食べられるからと感謝している人は誰もいないのが現代なのである。欲望が肥大化した現代では決して今あるものにまず満足して感謝するものはほとんどいない、もっとほしいもっとほしいと欲望は限りなく肥大化するのだ。


何らかの事件は今も昔も人間の欲望から起きてくる。現代の欲望はグロ-バルに拡大化ししているからますます無限大になっているのだ。消費しろ消費しろというとき欲望を充たせ充たせと常にあおられてもいるのだ。禁欲からはじまった資本主義が限度のない制限のない欲望の資本主義になっているのだ。欲望を充たすためには他者を蹴落としてもいいし競争に勝って欲望を充たすためには必死になる。そこには「禁欲」にはじまった資本主義のモラルは全く逆転してぎらぎらの欲望を充たすだけの資本主義になっている。そして人間の欲望は決して充たされることはない、それは餓鬼地獄になってしまう。餓鬼地獄の資本主義になっているのが現代なのである。欲望に歯止めをかけるのが仏教でもそうだしキリスト教でもそうだった。でもカルト宗教団体は御利益を求める現世の欲望を達成するための宗教である。ここには欲を制限する抑えることはしない、煩悩即菩提だと煩悩はかえって強い方がいいのだとかエネルギ-がある証拠だとなって個々の欲望達成のために集団で祈っているのは異常である。


ともかく自分にはまがりなりにも小さな家でも家があるとか満足している人はいないな、あそこの家は立派だとかあんな家が欲しいとかそうして他者を羨むことが常態になっている。いい車を見ればあいついい車もっていていいな俺も欲しいとかそういう比較が常に行われている。俺もあんないい車ではないが中古車だがこれでもまにあうよとか思う人はいない、そもそも車もない人もいるのだから車もない人よりいいとかも思わない。常に他者を羨むのが現代なのである。
もちろん健康である人が健康なことに満足して感謝している人は一人もいない、そんなの当たり前じゃないかとなる。でも健康でなくなった人から見ればそうではないのだ。人間は今あるものに持っているものに感謝している人は誰いない、あれがたりない、何かがたりない、もっと欲しい欲しいとその目はぎらぎらとデザイア-(desire)が強いのである。結局その欲望をすべてかなえるのが金だから金に対する欲望に集約されているのが現代なのである。これはやむをえないにしても人間は一億円持っていても満足しない、金に対する欲望もきりがないのである。

金のもっている資産家にはそうしたデザイア-(desire)の強い人ばかりよってくる。ぎらぎらした欲望の人がよってくるから危険であり嫌になる。貧乏でも困るが貧乏だったら金がないならそうしたぎらぎらした欲望の人はよってこないという利点はある。とにかく現代は欲望に対する歯止めが必要なのである。そのためには社会全体でも個々人でも今あるものに満足して感謝することからはじめるべきである。すでにいろいろたりているのにあれがたりないこれがたりない社会でもっと欲しい欲しい消費を拡大化しろとか言うのは欲望が制限できないものにますますなるのだ。そんなことしたら景気が悪くなるというが景気が悪いとしてもやはり日本では他に比べて満足して感謝するものがある。食うや食わずの国もある。つまり今あるものに満足して感謝しないものは欲望の餓鬼地獄になる。いろいろ不満があってもそこから出発しないと人間の欲望はきりがなく危険なものになってゆくのだ。



今あるものに満足し感謝するためには現代では自ら強いなければできない、
私にはこれがある、これでまず満足だ感謝するとかならないと欲望は抑えられない
一種の訓練をしないとできない、そうでないと不満ばかりになってしまう。
そういうふうに強いて訓練しなければならないほど欲望で見えなくなっているからである。
ある程度自己自制しして「禁欲」の業をするほかないのではないか?
「禁欲」が強すぎると守れない、でもその人なり今あるものに満足するものを見出し感謝することからはじめないと欲望の餓鬼地獄になってし
まう。

私にはこれがないこれがない、私にはこれがあるとか言う人はいない
これがない、これがないとそのないことばかりが声高に叫ばれる
そうなると不満だらけであり欲望に歯止めはかからない
頭の中がこれがないこれがない→あれがほしい、これがほしいとなる
そういう頭の構造を変えない限り欲望に歯止めはかけられない

2011年01月01日

新年に若者への戒め-少年老いやすく学なりがたし


新年に若者への戒め



少年老い易く学成り難し

あなたはもっと勉強できた
あなたはもはや勉強できない
その残された時間が少ない
あなたは英語すら良く読めない
英語すらものにしていない
時間はたちまち過ぎ去った
あなたはいかに勉強していなかったか
それは老人になればわかる
基本的な教養の本すら読んでいない
あなたの思慮はいかに浅薄か
あなたは肝心の古典も読んでいなかった
あなたの読める本も一生でわずか
人はいかに時間を浪費するものか
それに気付いたときは遅い
青春は一時であり
あっというまに過ぎ去る
時間はたちまちに飛び去る
あなたはあっというまに老いてしまった
何かを成そうとしたがその時間がなくなった
もう死はまじかであり墓が身近になる
あなたはもっと勉強できた
しかし英語すら読めない
もう語学をものにすることはできない
あなたの読んだ本はわずか
読まなかった本が無数に積まれている
もはや読むこともできない
その時間がなくなった
人の一生は時間切れで終わる
ただ後悔だけが残るのが人生
勤め励む時間は限られている
その時間はたちまちすぎさる
だから心して若きうちに勤めよ
時間は限られた時間しか与えられていない
何でも勉強する時間は短い
時間は常に浪費されている
時間はいくらでもあると錯覚する
しかし時間は限られている
あなたは何も成せず時間切れで終わる
勉強したい努力したい勤めたい
そう嘆いても後悔してもできない
快楽の日は虚しく消えて
白髪の老人のみが悄然としてあるのみ



老人は人生の結果である。最終地点に老人は到達した。そこで過去をふりかえると必ず後悔する。それは老人にはもう何かをする時間がない、特に学問は手間がかかり実際は骨のおれるものでこつこつとした積み重ねが大事だったのである。学問は能力だけでない、なぜなら人間が知りうることは天才だってすべてに通じることは絶対にできない、みんな一部分しか詳しくなれないのである。だから誰しもある分野でこつこつ何かを極めていけばその分野では詳しくてなれるのである。自分はもともと才能がなかった。才能というより何か人格的に人間的しっかりしていないから学問もだめだった。そもそも学問する意欲が出てこなかったのである。受験勉強はしても学問そのものに興味をもったことがなかった。また自分の性格とか育ちが甘い環境にあったことも影響した。学校に適応できなかったしまた社会にも適応できない我が儘な性格だった。それで遂に30年間旅することになったのである。これは自分の家庭環境が偶然そういうことができる環境にあったからである。これは特殊なことであり今になるとそうした自由に生きられた代わりに苦しんでいることがわかった。


学問も何か興味をもたないとやる気がしない、旅行するようになって地名に興味をもつようになりそこから自分なりの学問がはじまった。地名などなんの意味があるのだ、学問になるのかともなるが、学問はまず何でもいいのだ。興味をもたないかぎりそもそもやる気がしないからである。ただ今になると語学なんか相当に集中的に勉強しないとものにできない、それだけ語学の修得は大変だから若いときものできなかったらもうできない、勉強する時間など若い内はいくらでもあると思うが実際に本当にない、時間はまたたくまに過ぎてしまうのである。光陰矢のごとしである。個々に与えられた時間は限られている。その中で人生は雑事に追われるから純粋に学問を追求することができなくなる。生活にも追われるから学者の地位でもなければ普通の人は学問は縁遠くなるのである。やはり学問の基礎はある程度の量の本を読んでいないとできないだろう。その読める本も実際はわずかなのである。百冊読んだらいい方だとなる。だからくだらない本を読んでいたらそれだけで時間を失ってしまう。根本的に教養の基礎となる本を読んでいないとしたら書くことも浅薄になる。もちろん人間は経験しない限り真実の理解力は生まれない、でも経験だけでもだめである。経験したものを表現する力か必要になる。それにはある程度知識が必要なのである。それが本の中にあるのだがその本も読めるのがわずかなのであり、そのわずかの貴重な本さえ人間は読まずに終わるのである。


「相馬郷土史研究」などもこれも学問の一部なのだけどやはりその基礎となる資料などかなり読んでいなと書けないだろう。これも積み重ねなのである。どんな分野でも積み重ねがないとそれなりものは書けない、相馬郷土史でも狭い範囲でもその中でもそれぞれに見出すもの、新発見がある。たいがい歴史は埋もれているからだ。でもそれを発掘するには根気よくつづけないとできないのである。つくづく人間は才能ではない、そもそも人間一人に与えられた時間が同じであり、ある一人の天才がいてもやはり時間が何倍も与えられているわけではない、その時間を効率的に利用して活かした人がそれぞれの分野で一級の人となっているだけなのである。俳句を今これだけ書いているがこれも若い内はほとんど小学生なみのものであり30才ころまでそうだった。短歌もそうであり才能はないがやはりこの年まで継続してやっていたらそれなりのものができるようになったのである。「継続は力なり」であることはまちがいない、プログもやはり継続しないとだめである。ただ書くことによって新しい発見があるからだ。書くことは創造につながっているからだ。だからプログでもいくら書いてもいいというのは書く方にとっては便利なのである。

そういうわけで今年も「今日の一句一首」も「相馬郷土史研究」も書き続けるのでよろしくお願いします

2011年01月04日

新年の教訓-今の人と昔の人の名言

                                                    
新年の教訓-今の人と昔の人の名言

老成というものは多分、懸命に道を貫いてきた人にだけ現われる実りの季節の事なんだと思います
音楽家や芸事の人に限らず、一心にひたすら極めようとした人ならば
文筆家や研究者なんかも最晩年の著作がとても深くて味わい深いものになることが多いんじゃないでしょうか。
--- インタ-ネットの無名の人-
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人間は誰でも年をとる。年をとることがただ馬齢を重ねることが偉いことにはならない、それは生理現象であり年をとったから年齢が上だから偉いとはならない、価値あるものとはならない、
人間は年取っても何かしら追求してきたものがありそうした一芸を極めるでもいい、そういうことのために年とることが意義あることでありただ年とるだけでは価値あるものとはならない、高齢化社会で老人が嫌われるのはただ年をとるだけでありただ長生きすることが目的化している人が多いのである。一日でも生を伸ばす執念のみがある。もちろん早く死にたいと会うたびに病院で寝たきりの人もいる。死にたくても死ねないのが現代である。人間が長生きするだけでは価値がでてこない、人間は何かを価値あるものを極めてゆくからこそ年取ることに意義がでてくる。老成とはただ年取ったから老成して大器晩成とかなるわけではないというのは確かである。前にも書いたけど大器晩成とは才能がなくても積み重ねて努力していけば遂に老人になればそれなりのものになっているということだった。ただ漠然と年取るだけでは大器晩成にはならないのである。



他の富めるをうらやまず、身の貧しきを嘆かず、ただ慎むは貧欲、恐るべきは奢り。
小林一茶


家は洩らぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり。
(家は雨露をしのげる程度、食事は飢えない程度にあれば、十分である)
千利休


小林一茶の俳句は貧乏のどん底から生まれている。だから芭蕉とか蕪村のような高等なものがないからこれは俳句ではないという人もいる。でもこういう言葉を残していることはやはり小林一茶という人も偉かったなと思う。あんなに貧乏のどん底を生きてきた人がこんな言葉を残しているのは意外であった。なぜ感心したかというとこの正反対の人が今は多いからである。前にも書いてきたけど絶えず他者を羨む人ばかりなのが現代である。昔の人は今の人と比べたら今の人の貧乏人とは比べることもできないくらい貧乏である。食べれればいい腹一杯食べれればいいというだけである。今の人間の欲望は無限であり決して満足にはいたらない、どんなに貧乏でも江戸時代からしたら食べるものでも何でも豊なのである。人間とは今や貧乏というものを理解しない、自分も理解しない、そもそも貧乏はあってはならないものになっている。モノがあふれているからそのモノも買えないということはもはや耐えられないのだ。小林一茶は俳句などで富裕な町人と接していた。パトロンになった人もいた。でもたいがい富者の家に行けばその生活の相違に必ずうらやみ、身の貧しきを嘆く、そしてそれだけではない、そこから犯罪までになるのだ。それが一般的である。現代人は日本人はもっとみんなが貧しい時代より卑しくなっている。貧しく清く正しく生きるなどということはほとんどない、絶えずなぜあいつだけが金があるのだとかうらやむことしかない、民主主義によってさらに不満を言うことこそ抗議することかそ正しいということになり毎日自分より豊かな生活している人をうらやむのが正しいとなっているのだ。


例えば富者をうらやまずというとき富者がいくら貧乏な人にあわれみ恵んだりしても今の人は感謝などしない、なぜあそこの家では高いものばかり食べているのだ、なぜいい車とかもっているのだとかそういうことしかない、まず感謝する気持ちなど全くない、もらって当然でありむしろ奪うべきであり金持ちはあってはならないものだと思っている。それは不公正であり金持ちは貧乏人と同じく鳴くべきだと思っているのが普通なのである。金持ちは否定されるべきものでありもはやあってはならないものでありだから革命であれ殺してしまうべきとさえなったのが社会主義革命だったのである。金持ちがいて自分たちもいづれあういう金持ちになりたいから働くとかならない、それより金持ちから財産をとりあげるべきだとなったのが社会主義革命だったのである。だから小林一茶の言葉は本当に意外だったし本当に昔の人は貧乏でもこんなふうに考えるのは偉いと思った。今は貧乏そのものが否定されている。貧乏でも心ゆたかに生きるということがありえない時代である。みんなが貧乏な時代のとき人間の心は貧しくなっている。だから昔の人は貧しく生きていても心がねじまがらない、他の富者をうらやまないというのは本当に今から比べると高い境地であり聖人のようにさえ思えてくるから不思議である。小林一茶には今までそういうことを感じていなかった。ただ貧乏を嘆いて俳句を作っていた人だと思っていたのである。人間の価値は時代によって違う、今の時代からするとそんな貧乏でもこんなことを言っていたとあらためてその人間の偉さに気付く、そして今の人間はなんなのだ、こんなに心貧しい人間になってしまったのかと驚くのである。現代こそ貧しくても清く正しく生きることが一番むずかしいことになっているのだ。そういう人はもはや過去に探すほかない、今にはなくなっているからだ。戦前生まれでも七五才以上の人はまだ貧しくても清く正しく生きていた人が多かった。七〇以下はアメリカの物欲一辺倒の資本主義に毒されすぎてしまったのが日本人だったのである。そういう価値観が当たり前であり欲望でもはや昔の人の清貧とかの価値観を見出すことは至難な時代なのである。



現に偽っている快楽を偽りと感じ、まだ味わわない快楽の虚しさを知らないところから移り気がうまれる-パスカル


これもまさに前にも書いた餓鬼地獄になっている欲望の資本主義をいいあてている。これほど食料でもなんでも快楽が満ちている社会はない、でももっと快楽がある、欲望を充たすものがある、もっと欲しい欲しいと限りなくグロ-バルに欲望を充たそうとしているのが現代である。この菓子はうまい、しかしもっとうまい菓子はほかにある、我が市になくても大きな都会に行けばあるし世界ではもっとうまい菓子を食べている、ケ-キを食べている。まだ味わわない菓子はいくらでもある。毎日料理番組で放送している。だから今の菓子はうまいにしてももっとうまいものは味わわない菓子はいくらでもあると移り気になっているのが現代なのである。目覚めた時からもっと欲しいもっといいものがうまいものがあるはずだという心になってしまっているのだ。これで充分だなどという人はいない、あなたの欲望はまだ充たされていないと絶えず宣伝されて欲望が刺激されるのも現代である。こうして欲望の餓鬼地獄化しているのが現代である。その歯止めがないのである。だからどんな金持ちでも充たされないのである。


世界的グロ-バルに欲望を充たすことは不可能だからである。アメリカ流の欲望の餓鬼地獄化した資本主義には歯止めが必要である。人間のモラルは低下して犯罪してまで欲望を充たすことがいいのだとさえなっている。これほどまでに欲望が制限されないことは危険な状態になっている。江戸時代から戦前までは貧しいから結果として欲望が制限されていた。現代は欲望は制限されない、欲望はますます激しく刺激されるし消費しないことは悪いことだとなりモノ余り時代に欲望を制限することが悪だとまでなっている。そうなると金のない不況下でもモノ余りだから金のないものは犯罪してもモノを手に入れろとまでなる。万引きはとまらないし大きな盗難もふえてくる。欲望に歯止めがかからないから犯罪してまでも欲望を充たすことが肯定されるまでになっている恐ろしい時代になっているのだ。

今あるものに満足し感謝することからはじめる
(欲望の歯止めがなくなる社会の危険)
http://musubu.sblo.jp/article/42277249.html

2011年01月18日

宗教とは何なのか(善悪の世界で心が試される)


宗教とは何なのか(善悪の世界で心が試される)


●神は悪を容認している

この世には善と悪がある。自然界には善と悪はない、善悪は知らない、神が人間も神と同じように善悪を知るものとなったというとき神が善を作りまた悪も作ったのだろうか?神は実は悪をサタンを容認している。ただ神の許しの範囲内でサタンの存在を許している不思議がある。人間は善に反して悪があり悪によって善を強く意識することがある。人間は人間を殺したいほど憎むことがある。そういう残酷な仕打ちをしたなら誰でも憎しみ恨みで一杯になる。毎日の事件でもそれが自分のみにふりかからなければドラマのようにみているから面白いのだ。実際に自分のみにふりかかったらそうはいかない、やはり憎しみ恨みの念は簡単に消えるものではない、その仕打ちがひどいのに比例して憎しみ恨みは消えるものではない、だから簡単に許せとかいくら言ってもそうした憎しみ恨みはこの世から消失することはない、この世は善悪の世界が明確にある世界であり善だけの世界ではない、善だけの世界は天国にしかない、そこでは善を意識することがない、動物のように花のように無邪気な世界なのである。無心の世界である。善が何なのか意識することはない世界である。この世では善と悪が明確に別れてあり悪によって人間は善を強く意識する。一面善が悪によって鍛えられるとも言える。善人は悪人によって試練を受けている。悪があるかぎり必ず憎しみ恨みが起きてくる。善であるためには悪の暴虐にも耐えねばならない、その時かえって善の力強さが現れる。キリストの十字架はそのさいたるものだろう。この世に悪ある限り人間から憎しみ恨みの念は消えることがない、それはカルマのごとくくりかえされている。善人だけになる世界などありえないのだ。若い人がまた犯罪を犯せばやはり犯罪はこの世からなくならないことをしる。人間は生まれ変わり生まれ変わり犯罪を犯しているのではないか?そのサイクルが止まることがないからカルマ(業)だと言った。


●回心は加害者だけではない被害者にもある


だからこの世では悪から逃れることができない、悪を全面的に否定して生きることはできない、どんな人でも悪を受ける運命にあるのだ。だから悪に対処するにはどうすればいいのかとなる。憎しみや恨みに憎しみや恨みで対抗しても悪はなくならない、そこに平安な心はない、それは悪を成された人と同じレベルに落ちてしまうことなのだ。汝の敵を愛するようになるまでこの世に平安は来ない、、愛し許す心に平安が宿る。ただこれを口で言うのは簡単である。現実問題になると困難を極める。肉親を殺されてみろ、お前は許されるのかとかなる。だから宗教者がいてもきれいごというだけで説得力がない、実際の体験から宗教者は述べていない、ただ教典を読んでいるように諭してもそういう悪の攻撃を受けたものの憎しみや恨みや呪いは消えることがない、それは自分もそうだった。だから人に諭すことより自分の体験を言うのがいいのだ。許しがたいものがありそれは十分にわかるからだ。でもいくら言ってもその人が回心しない限り無駄だろう。そして憎しみに憎しみ、恨みに恨みをもってしても一向にこの世は人は良くならない、何であれ憎しみ恨みの念を持つことは自分自身も害するのである。その憎む理由はわかるにしてもやはりそういう念を持つことは自分も害を受ける、果たして憎しみを恨みをぶつけてその思いを果たしても結果的に両方ともいいことはない、悪人は憎しみに憎しみを返したからといって決して良くなったりしないのである。だから許しがたき許す、万感の思いで許すほか心の平安は得られない、その涙は真珠となる。これもその人によってその試練を受ける度合いが違うのだろう。より優れた人は大きな悪の試練を受けるかもしれない、そこでまた心が試されているのだ。常に心はこの世では試練を受けているのだ。悪を成す方に注目されるが悪を受ける方もまた試練を受けているのだ。悪により善が試され善は強化される。善悪があるということはそうではないか、もし悪がないならそこは天国になる。より善を強く意識するために悪があるのだ。
だから悪も神が容認している。


●憎しみに憎しみを返しても平安が得られない


万感の思いで許しがたきを許すとき愛すときそこに心の平安が生まれる。それは簡単にはできないことである。これはただ他人に言ったところで納得することはない、そんなきれいごと言っていられるのは大きな被害を受けていないからとなるからだ。ただ自分も自分なりに被害を受けたからこそそう言っているだけである。他者に憎むことや恨むのはやめろと言ってもその人がそういう心にならない限り効果はない、ではそうしたことがどうして起きるのか?それも一つの回心かもしれない、毎日のように憎んでいた、激しく呪ってもいたがある時、突然その激しい憎悪が消えて許す気持ちになった。昨日まで憎しみで一杯だったが突然回心したように許す心になったという不思議がある。悪を成した人、罪ある人が回心するということは聞くしその方が普通である。でも悪を成された方にも突然回心する、人を許す心になることがあるということである。その時心が晴れたように気持ちよいものとなった。人間の心の作用の不思議がある。そして宗教とは相手に対して心を変えることを回心を祈ることである。

しかし人間は病気なら肉体を直すことはある程度今は医療の発達で可能である。でも心を変える、心を直す回心させることは至難である。でも肉体が病気が治っても心は以前として同じで変わらない、肉体を直すのと心を直すのでは今は別問題である。奇跡を行った時代とはあまりにも違っているからだ。宗教がかかわるのは心の問題であり肉体の問題ではない、確かに肉体が病気になれば心も病気なりやすい、だから宗教で病気を直そうとするのはわかる、でも今は宗教と医療は明確に別れてしまった時代である。宗教はあくまでも心の問題を追求している。医療や科学は肉体を直す癒すことを目的としている。心と体は一体だから相互に作用するから分離できない面があるがやはり現代は心の問題は宗教の問題として追求される。現実に体が病気が治っても心が変わるということはまれだからである。肉体は機械のうよなところがあったことは確かである。人工的なものが機能の役割を果たすことでもわかる。人間の体は明かに機械が一部代用することはまちがいない、ただ機械が心の代用することはいくらパソコンが発達してもならない、それが人間の人間たる所以だからである。


●憎しみ恨みの念は伝播する


憎しみとか恨みをもっている人と接するとどうしてもその念が伝播する。ひどいめにあったらそうなることはやむをえないと思う。でもそういう強い憎しみ恨みの念は確実にその人から出てきて回りに影響するのだ。だからなんの気なしに接していて愚痴など聞いていてもそこから憎しみとか恨みの念がでてきたりする。会話でもそういうものがどうしても話題になるから聞いているだけで影響されるのだ。これは個人だけではない、国家間でも憎しみは伝播して国と国が対立して戦争にまでなる。中国や韓国の反日デモは憎しみが過剰に作られている場合があるのだ。第一自分の親が日本人に殺されたとか具体的な恨みをもっている人はもはやいないのにそうなっているから憎しみが作られているのだ。宗教団体でも争っているらしい、内部でも争いがあると憎しみが団体の中で伝播して一丸となり他の団体を攻撃することになる。創価でも内部で争いがあり本山と熾烈な憎悪があった。そして正本堂は破壊された。A団体とB団体があればその中に入っていれば対立して憎しみあいばいやでもその憎しみを持つしまた敵となる団体の憎しみを受ける。それで創価と真光とか幸福の科学とかが争っている。その原因は勢力争いなのである。宗教団体は政治団体でもあり会員をふやして勢力を拡大することが第一になっている。どんな宗教でも憎悪の感情を刺激するようなことはしない、憎むな人を愛せとかが宗教だから共通しているのだ。でも勢力争いになると宗教が政治化すると他の団体と衝突するから憎しみが生まれてくる。個人的に宗教団体に恨みを持つ人もいたが宗教団体同士が憎しみ合う、その内部抗争で憎しみ合うことが熾烈となる。宗教が組織化団体化すること自体が勢力拡大であり権力化する宗教である。数が集れば権力化してくる。数で社会に圧力をかけることができるからだ。すでに組織化団体化すること自体が権力志向になっているのだ。


●宗教は心を最重要視する


つまり心の平安は肉体が直っても必ずしも得られない、もちろん病気から心の平安が得られなくなるのはわかる。でも本質的なものとして心と肉体は別である。罪の問題でも肉体の問題ではない、心の問題である。罪と悪は人間の心をむしばむ。一種のやはり病気なのだろう。その病気は肉体を治すようにはいかない、経済問題でもそれは肉体の問題である。腹がへれば腹をみたせばいい、しかしそれで心の問題は解決しない、世の中の問題はすべて経済問題、肉体問題になっている。でも心が第一とするのが宗教である。不況を何とかしてくれ貧乏をなくしてくれと神に頼むことはできない、病気でも貧乏でも不幸でもそれによって心がねじ曲げられないように祈るのが宗教である。実際に貧乏で心がねじ曲げられて犯罪に走ることが実に多いことでもわかる。ではその貧乏が解決してもやはり人間の心は良くなっているとは言えないのである。現実にいくら豊になってもモラルが低下しているのは心が病んでいるからである。貧乏なときの方があわれみの心があり人情が厚かったというのもそのためである。今のように豊で科学が発達していろいろ成すことができるようになったのとは違い、何もできないとき医は仁術であった。医者や普通の人も人情がありあわれみの心でみていたのである。むしろ何もできないが故にそうしたあわれみの心が深くなっていた。あわれむほか手段がないともいえた。逆に今は科学が無情を非人情を作り出していることがあることは述べた。医者や看護師など今は機械的に接していることが多い。その仕事は大変なのだが人間を物体のようにみて処理してあわれみの心が喪失している面もある。肉体の面での治療は格段に進歩しても心の面でのケアはかえって退歩しているということもある。

宗教は最初病気のことでも経済のことでも社会のことでもあらゆる問題を追求するものだった。
でも宗教で病気を治したり経済を良くしたりいろいろな不幸を解決ものとはならない、みんな経済問題で苦しむし病気にもなり様々な苦をまねがれることはできない、そういう不幸が来ないことを祈っても宗教にその力はない、ただ心を直す変える、回心させるとか心に働きかけるのが宗教である。しかし考えてみるとそのことが肉体を直すより困難を極めている。結局それはこの世から悪がなくならないことを見ればわかる。いくら科学が医療が発達しても悪は以前として同じようにありかえってモラルが低下しているのをみればわかるからだ。

2011年01月25日

この世は人間は狂気にいたり滅ぶ


この世は人間は狂気にいたり滅ぶ

一つの狂気が終わりまた一つの狂気がはじまる
この世が滅ぶまで狂気は終わらない・・・・


●自分の家族も狂気だった


世界は病院である
http://www.scot-suzukicompany.com/works/01/


人間の狂気など特別なものであり普通の人は関係ないというが人間は最後にほとんど狂気にいたって死んでゆくようだ。正常でも狂気にいたる。リア王だけが狂気にいたったのではない、
多くの老人が狂気になってゆく、認知症になると本当に脳の異常が加わり狂気になる。身内でそれを死ぬまでみてきたから未だにショックである。自分の家族そのものが正常から離れた異常であったからやむをえない面があった。老人が狂気になってゆくというときそれはなぜなのか?結局人間の業が極端化するのが老人だからだろう。人間は老人になったからと欲望が枯れるわけではない、肉体的には枯れても名誉欲から金銭欲から権力への欲望は消えることがないしかえって先鋭化することがある。老人になるとその人がますます依怙地になり自分の主張を曲げなくなる。94才になって庭作りしたがその庭作りしたことを絶対に認めないのも自分が無用だと思うもの価値ないものは絶対に認めない、それは狂気であった。その後多少ボケてきたみたいだがそれにしても94才まで自分が無駄だと思うものは絶対認めない、金は使わせないと必死になっている姿は狂気である。老人にはそうした異常な人々が多数いる。世界は病院であるというとき別に精神病院でなくてもこの世は狂気の病院であることはまちがいない、精神病者だけが病人ではない正常と言われる人もほとんど病人なのである。犯罪人も実際は病人だと思う。心が病んで犯罪にいたる。憎しみが極限化したとき殺人にいたる。その動機はわかるにしてもそれも狂気になっているからこそできるのだ。無差別殺人などもその人は精神病でなくても狂気になってゆきできることである。なぜ俺だけが恵まれていないんだとかなぜあいつは恵まれて金に困らないのだ、俺はあくせく働いても金にならない、あいつは親の遺産でたいして働かなくても金がある。あんなやつから金を奪っても罪にはならない、真面目に働くのが馬鹿らしいとかなり実際に犯罪にいたる。そういう思いが狂気になり爆発して犯罪になる。


●集団組織も狂気だ


カルト宗教団体も集団化した狂気だった。オウムが極端だったから断罪されたけどカルト宗教団体は狂気なのだけど社会的に権力を持つ結果その狂気を見逃されている集団である。その狂気が爆発したのがオウムであったのだ。サリンをまいた人は自分が出世にするにはサリンをまくほかないと思っていた。高学歴の頭のいい人たちが幹部になっていたからである。これも一種の狂気的野心と欲望だったのだろう。組織化序列化集団化の世界はその内部で激しい権力闘争になり狂気化してくる。創価でも社会の下積みのものがやがて金持ちになり革命が成功したら選挙で多数をしめたら政治家にもなれるし社会的に高い地位につける、そうすれば金持ちにもなり豊になれると毎日現世利益を求めて祈っている。そこには高尚な本来の宗教心など一かけらもない、カルト宗教団体は集団的に社会に容認された狂気の集団である。ニ-チェも言っていた。個人も狂っているが集団も狂っていると、実際に自分も神は死んだとして狂ってしまったが集団も狂っているのは確かである。ただ集団で狂っていれば狂ったとはならない、大勢だから正常だと認められるのである。それらがナチスとなり社会主義革命の狂気に突っ走る。当然内部での権力闘争があり粛清の嵐となり多くの人がその中で殺戮された。カンボジアの狂気もそうであった。戦争もどこの国が正しいというよりは権力闘争の結果としての狂気であった。どっちにしろ正当化などできないものだった。やらなければこっちがやられるとか弱肉強食の世界の政治闘争だった。つくづく世界史は狂気の舞台でありそこで無惨な殺戮が何度も行われてきた。人間はなぜこれほどの狂気と愚行の繰り返しなのだろうか?その原因はすでに個々人の尽きることのない欲望からはじまっている。その欲望の業は尽きないから狂気は終わることがない、この世を生きることはこうした狂気的な人間の中で生きることなのである。


●狂気の人に怒っても無駄だ


そしてその狂気をとめることができないことが絶望的なのである。その狂気の原因が個々の欲望にあり欲望をあきらめろとか言っても無駄である。欲望はますます激しく増大して抑制することができない、そして遂には犯罪になる。欲望が極端化すると狂気化して犯罪にいたる。自然は平和であるというとき人間のような際限のない欲望や憎しみとか恨みとかの念をもたないためである。詩でも書いたように樹や石が他者を傷つけるようなことがないからである。自然は決して無駄に争ったりしないからである。人間はいくら平和を唱えても平和になれない、平和は個々人で平和な人がいないからである。個々人をみればみんな様々な欲望を持ち何かたりないと不満がいつも鬱積している。あれかたりないこれがたりないと満足して感謝するということはない、ただ要求するばかりでありその欲望がかなえられないと不満ばかりでありその不満が高じると犯罪までなる。自分が最近接した人は本当に狂気の人間ばかりだった。まともな人は一人もいなかった。そして老人になったから悟るとかない、悟りなど年齢を重ねてもない、欲望が悪い面さらに先鋭化したりしてくる。庭などいらないとか自分が無駄と思うものを絶対に許さないとか個々の家族でそうした老人がいくらでもいることを見ているだろう。人間は本質的にすべて狂気的存在であり老人になるとその狂気的なものがむきだしになってくる。人間に平和がないというというとき別に戦争があるから平和がないというのではない、個々人の心に平和かないのである。憎しみや妬みや恨みの感情をこの世から決して消すことができない、いくらやめろといってもきかない、狂気の人に言っても無駄である。狂気はとめようがないから狂気なのである。
俺は必ず復讐する、そんなこと無駄だからやめなさいと言ってもとめようがないから狂気になっているから無力だとなる。


●人間の行き着く先は狂気にいたり滅ぶ


この世を生きるのはまさにこうした狂気の人々の中で生きることなのだ。自然は穏やかで他者を傷つけないが人と人はどこまでも傷つけあい生きてゆく。そういう光景を60年間家族の中で見てきた。どっちにしろ狂気であり一人は本当に認知症の狂気にいたり死んだ。もう一人も狂気であった。では自分の家族だけが異常なのか言うとすでに個々人が狂気なのだからそこにはどうしても狂気的なものがどこからも生まれてくる。この世こそまさに地獄である。狂気の世界、地獄の世界にほうりこまれているのだ。当然この世では様々なそうした狂気の人間の中で生きるのだから理不尽なことが起きて当然である。どんな平和な人もそうした狂気にまきこまれてゆく、さけることはできないのである。狂気的戦争をやめろと言っても無駄である。集団が狂気化しているから止めようがないのだ。人間の欲望とか狂気を鎮める薬はない、人間の業を鎮める薬はない、宗教はさらなる狂気に拍車をかける。つまり人間の欲望を抑制したり否定する宗教は本質的に成り立たない、カルト宗教団体は数をふやすことを第一としているとき決して人間の欲望は否定しないのである。


ともかくこうした地獄化している世の中で一人一人を諭しても無駄である。だからこそ出世するとは世の中からでる、狂気の世界から出ることであった。そうしなければ正常を保てないからである。人間は最後の審判がくるとかハルマゲドンが最終戦争がくるということこそ真実でありこの世は一旦滅びない限り永遠の平和やってこない、この世の欲は滅びるというときそうならないのが当然である。個々の狂気の人間をみていたら確信する。もうあきらめるほかない、精神病者の犯罪に刑が与えられないようにこの世では犯罪でもあきらめるほかない、精神病者と争うこと自体無益だとなるからだ。そんなふうにでもしなければこの世は乗り切っていけない、それほど人間は狂気的存在なのである。現在は狂気であり過去はも狂気であったが過去は過ぎ去ったから思い出として平和がそこにあるのである。過去を思い出しても過去は過ぎ去ったからこそ平和があるのだ。現実は常に地獄なのが人間の現実だったのである。


世の中は地獄の上の花見かな(一茶)


桜だけではない、本当に花を見ていると平和そのものである。風にそよぎそれぞれの美しさをあますことなく現して咲いている。夢見心地に咲いている。でもその花も人間界という地獄の上に咲いていたのである。それはなんという対称的なことなのだろうか、自然は調和している、人間は決して調和しない、この世の終わりまでその欲は業は尽きることなく燃え盛り最後に世は滅び終わるのである。



山や樹や石に狂気はない

自然界に人間の狂気はない

人間だけが狂気を作り出して

狂気の内に滅びる

罪と欲望は狂気と一体

ソドム、ゴモラを脱出するほかない

神により滅ぼされるから・・・

2011年02月21日

女性の心理の謎(ニ-チェの言葉より)


女性の心理の謎(ニ-チェの言葉より)

あまりに長い間、女性の内部には奴隷と専制者とかかくされていた。

それゆえに女性にはまだ友情を結ぶ能力がない、

女性が知っているのは愛だけである

女性の愛には彼女が愛していないいっさいのものに対する不公平と盲目がある

また知をともなった女性の愛にさえそこになお光と並んで発作と稲妻と闇とがある

ニ-チェ-ツアラストラ(友)



人間は読書して実際はうわべだげであり読んだものを記憶すらしていない、読書することは深く読み自分なりの解釈を与えることである。ただ読んだだけでは血となり肉となることはできない、そししていかに人は本を読んでも読んでいないかわかる。本買っても積んどくになっているかわかる。二-チェの本は読んでも理解しにくいだろう。この一文も誰かが紹介していてこれは女性に対しての深い洞察があると自分の経験からきづいたのだ。自分が女性について語ることはできない、でも女性の一般的心理なるものはある。女性そのものも謎にしてもある。その一面がこの文に示されていた。


女性が知っているのは愛だけである


この女性が知っているのは愛だけであるというのは女性の一般的な心理である。女性の愛は特定の人にささげられる愛情である。夫であれ子供であれ特定の人にささげられる愛情である。一方でその逆は


女性の愛には彼女が愛していないいっさいのものに対する不公平と盲目がある


となり自分の愛さないものには無関心であり冷酷非情にたやすくなる。女性には万人を愛すなどという愛情はもちえない、自分が愛するものには尽くすがその他は全く冷酷になりうる。その裏返しは自分がそれだけ愛したのだから自分も愛してもらいたいという独占的愛なのである。
女性の視野は狭く自分が目に見えて愛しているものの他は見えない、無視されるのである。
それがいい悪いとかではなく本能的にそうなっているのだ。だからこそ愛情をもって子供も育てられるし夫に愛情をもって尽くすことができるのだ。でもこれは男性的原理とはかなり違ったものとなる。男性的原理はそうした女性の褊狭的な愛とは違うものを目指して社会は作られてきた。法律でも公平を目指して作られてきた。女性的な愛からすれば愛しているものを罰することさえできなくなる。愛している人は罰せられるべきものでもなくなってしまうからだ。


女性の愛にさえそこになお光と並んで発作と稲妻と闇とがある


女性は突然心変わりがする。理屈を越えて発作的にひどい仕打ちをする。女性は自分の愛していないもの、かつて愛していても愛さなくなったものにたいしては冷酷非情になりうる。それは女性が特に感情の動物である。感情的に反応が敏感だということに通じている。好き嫌いと愛している愛していないすべてのことが決められる。そこに法律のような公正なものの追求はない、女性の一般的心理としての特徴がここにあった。女性に科学者などがまれなのはやはり科学も万人からみて納得がいく公正さを追求しているからではないか?特定の人とか何かに偏る愛情ではない、万人共通の公正さを追求している。そういうものが女性に欠けているから真理とかの追求に向いていない、女性の哲学者がいないのもそのためだろうし哲学から科学が発展したことでもわかる。女性の本分は愛情にあり愛情によって充たされるようになっている。その愛情は子供とか妻とか自分が愛するものに尽くすことにある。この愛情は友情とはなりえない、友情はやはり公平なものを追求している。褊狭な愛情とは違っている。でもそれはまた男性も支える愛情なのである。ただ危険なのは突然発作のように稲妻のように冷酷非情な仕打ちを平気でする。
だから女性の犯罪はそうした自分の愛情が裏切られたとかで起こす犯罪が多いように思う。
女性は肉体だけではない精神的にも相当違った存在なのである。



ともかく読書してもその本を読んでいない、読んでいるように錯覚している場合も多い。本を読んだからといって読んでいるわけではないのだ。なぜこの一文を注目したかというと本屋で立ち読みしていて発見したのである。立ち読みして新しい発見をする場合がある。場所を変えて本を読んでも同じ本を読んでも新たな発見をする場合がある。それだけいろいろな見方ができるのが本であり人の思想なのである。本屋は立ち読みするということにかなりの意義がある。なぜならそもそもそんなに多くの本を買うことができないからだ。部分的に読むということもかなりあるからだ。インタ-ネットではそうしているが本だとまだ選ばれたものが書いてある、要点を書いてあるということで参考になるからだ。でも一冊一冊本を売るとかには限界が来ているのではないか?インタ-ネットなら問題はあるしろ膨大な本がある書店ともなっているし代わりの役目を果たしていることでもわかる。無料の立ち読みになっているからである。そういう点でも本が限界に達してきているのかもしれない、一冊一冊にして売るということが限界にきたのかもしれない、本を買い集めるにしても一人では限界がある。当然そこには知識の限界が生じる。インタ-ネットはそうした本からの知識を吸収するという限界を破るものとしてもあったのだ。


完膚無きまで相手を攻撃する
http://www.ml-info.com/weekly/archives/2001/010721t.html

2012年06月07日

教育とは能力を引き出すこと (人間の脳は生涯で二割くらいしか使われていない)


教育とは能力を引き出すこと

(人間の脳は生涯で二割くらいしか使われていない)


education 教育
[語源] L.educatio = e-(=out)+doctus = 子供の資質を引き出す行為


ローマ時代には、この石橋の上の溝に水を通して生活に使っていたのです。aqueduct の溝の部分が、水を導くための duct です。現在の duct は建物の換気、液体を流すための大きな管のことですね。このイメージをしっかりつかんでください



プログに出している抽象画だと思うがほめられた。美しいですねとコメントがあった。何度も書いてきたけどこの抽象画は芸術になっているかどうか疑問だった。ただ見ている人がいるのだから全く無視されていないのだから芸術として認められていたのかもしれない、抽象画は本当に芸術なのだろうかという疑問がある。でも抽象化が人間の精神的活動の根底にあった。文字も数字も抽象化した結果である。タ-ナ-のような大画家でも最後は抽象画になったということでも人間の精神と抽象化は密接な関係があるのだ。

educationが資質を能力を引き出すというとき、そもそも人間の能力は大方引き出さない限り眠っている。生涯で使う脳は割り程度というのは本当だろう。あとは能力が引き出されず眠っているということである。つまりどんな人でも能力はある。ただ引き出されないだけなのである。人間の能力というとき知的なことばかり言っているが社会を見ればいかに多様かわかる。人間には無数の能力をひきだすことによって社会が成り立っている。手伝いとかヘルパ-とか何かそんなものに能力が必要なのか、誰でもできるではないかとか見えるけどこれもその人に備わった能力があり向いている人といない人がいる。介護関係の仕事は力より優しさが求められるから今までにない男でも気質が要求されることになる。戦国時代だったらただ剛のものの能力が要求される。要求される能力も時代によって違ってくるのだ。


能力のない人はこの世にいない、ただ能力が引き出されないだけなのだ。芸術的感性などでも磨くにしてもそういう環境に恵まれていないと
そういう方面の感受性は身につかない、クラシック音楽などは生のオ-ケストラの演奏などをしょっちゅう聞いている人と聞けない人の差は大きいだろう。生の演奏を聞いて感動することが本当に感動することになるからだ。また自ら一つの楽器でもこなせれば音楽の関心が高まる。でもそれにはそれなりの時間が必要になるのだ。環境も必要になる。つまり能力を引き出す環境と時間に恵まれる必要があるのだ。ところが実際は貧乏な時代はほとんどそういう環境と時間に恵まれないから芸術的を鑑賞するセンスがみがけないのである。もちろん創造するのにもあくまでも自らの能力を引き出すことが創造につながる。


そして人間は能力がない人はいない、ただあらゆる方面で引き出されないというだけなのである。人間には何かしらの能力が備わっているが引き出されないのである。隠れている使われない能力が大きいのである。また能力を引き出すのには脳の状態を健全に保たないとできない、酒飲むことは脳を退化させる。一時的に脳が麻痺状態になるから能力が低下するのだ。能力を引き出せなくなるのだ。脳の潜在的力を引き出すためには節制が必要なのである。過度な酒や過度なセックスやそういうものに溺れたらどんなに潜在力があっても能力は引きだせなくなる。能力がわずかでも節制して長年努力していれば能力を引き出せるのが人間なのである。素質的に天才であっても能力を引き出すのに失敗する場合がある。一方わずかな能力でも節制していて引き出せることがあるのだ。それは別に年齢に関係なくそうできる。現実にパソコンの抽象画に目覚めたのは最近のことでありすでに60すぎてからである。60以降も引き出せる能力はいくらでもあるのだ。それもやはりそういう節制した状態でないとできないのである。


その一つの例がパソコンの抽象画だった。絵の才能が全くない自分でも抽象画が作れたという不思議がある。それはただ化学反応のようにしてパソコンのソフトから作り出したのである。パソコンのソフトは高価なものを買うより使いなれることが大事だというときまさにそのソフトを自分なりに使いこなせない方が多いのである。様々な機能があってもそれを引き出していない、ソフトの能力が引き出されていないということがパソコンをしている人は気づく。ええ、こんな機能があってこんなことできたなということが多すぎるのだ。これは脳を使いこなせないと同じである。脳の二割くらいしか使わず死んでゆく、ソフトの機能もすべてを使いこなすことはできない、何割しか使わない、そしてもともと備わっている機能を知らないことも多いのである。最近ではJ=Trimのテキスチャ-を使っていないかった。これを大理石に変換するとまた一味違ったものが作れていたのである。人間の能力もこれも使われていない、引き出されていないのだ。例えば文章を書くにしても本当は今や普通の人でも膨大なものをインタ-ネットで発表できる。すると文章を書く能力が増大するのだ。文章を書けば書くほどその能力が引き出されてくるのである。


artはもともと技術の意味だった。新しい技術が生まれたとき新しいartが生まれた。そもそも文字を書くにしても墨とか筆の発明なくしてありえないし紙の発明もそうである。


画材道具がどんどん改良されていきますが1840年にチューブ入り絵具が発明されたのです。
 それまで、画家たちは自分で絵具を作成していました。絵具の作成は画家にとって重要な技術の一つであり、その技術は画家の個性の一つでありました。良い画家とは、良い絵具を作る職人でもあったわけです。
http://foo-d.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-e66a.html


印象画はチューブ入り絵具が生まれて作られたのである。それまでは画家が絵の具を作り出していた。だから逆に今の時代にはない色が作り出されていたのである。必ずしも絵の具の発達が美術を発展させたとも限らない、時代時代により絵の具を作り出していて独特の色合いを絵に出していた。その色は今に作れないものとなってもいるのだ。染料なども時代時代によって作り出されていて過去の草木染めなどは再現できないということもある。その時代によってしか再現されない芸術がありそれは価値がなくならないものとなる。

この文章を書くにしてもやはり他者のものをインタ-ネットでは利用しやすいからそういうものを編集して書いている。インタ-ネットは常に編集しながら書くものなのである。だからインタ-ネットも能力をひきだす新しいツ-ルとなっているのだ。出版社では作家の能力を引き出していたのとにているのだ。編集者はそういう役目を果たしていた。でも今は出版社の役割は作家自身に移ってゆく、
作家自身が編集する方が効率的だしインタ-ネットからは引用が簡単だから膨大な文章が書けるし発表できる。なかなかインタ-ネットでは認められないにしてもそういうことができるツ-ルではある。だからこれからは出版社はよほど創造的なことをしないと生き残れないだろう。作家自身が創造の源であったしその作家が編集して出版までできるとなると出版社の役割がなくなるからだ。


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人間が認識する色は実はどのくらいあるのかわからない、同じ青でも何百種類の青があるかもしない、それらの色が認識されないように人間の隠された機能、能力を使われていない、ソフトの能力が機能がすべて使いこなせないととにているのだ。ペインタ-12とかなると使いこなすこと自体がむずかしすぎる。機能がありすぎるからだ。自分が使ったのは二千円のペイントグラッフィックだった。これだけでも使いこなすことがむずかしい。その機能を全部使いこなすことが手間になる。ソフトはどんないいソフトでも使いこなす方が手間でありむずかしいのである。

2012年06月22日

白鷺の詩から現代文明を考える (文明人が喪失した自然への感受性)


白鷺の詩から現代文明を考える

(文明人が喪失した自然への感受性)

白鷺の脚


白鷺の川の岸辺に一羽
悠然として優美なる姿
何か加えるものありや
何もなしかも完璧な姿
その翼と脚と嘴と
過不足なく与えられ
神の御園生に生かしめられぬ
夏の日太陽に一段と白くまばゆく
その天然の衣は映えぬ
夕風そよぎそのしなやかなる脚
その脚に絶えず水が流れている
水にひたひたと浸されている
いづこかへまた軽やかに飛びたち
白鷺は風を光を身に感じている
常に明るい光と風の中にある
その他は何も知らない
何も得ようとはしていない
完璧に神の業の賜物
エジプトの神殿の守り神
静謐なる純白の衣をまとい
水辺に菖蒲は咲きてひそまり
神にかしづき自然に調和する
いかなる災いももたらされず
神の御園生に生かしめられぬ


アオサギは定期的に蘇る命の象徴、つまり再生の象徴でもありました。というのは、浸水期になるとナイル川に必ず戻ってくるのがアオサギだったからです。アオサギはエジプトではベヌウ(bnw)と呼ばれてきましたが、一説では「昇る」とか「輝く」を表すwbenから転訛したものとされています。
http://www.lookandlearn.com/history-images/XB175586?.jpg


エジプト文明が何かというとこれも謎になった。アニミズムというのは何か?別にこれは人間が進歩しない科学的でないものの迷信的な宗教だとかなる。実際に神と崇めるのは間違っている。
しかし現代というのがこれだけ科学技術化した社会が進歩したものなのだろうかいうとき疑問がある。原発事故で科学技術もまた迷信的な宗教とも化していたのだ。安全神話が科学者によって強固に作られた。科学によってだまされていた。科学が宗教までなっていたからだまされた。

人間は意外とある面の感受性が衰退している。それは自然に対する感受性が喪失している。田舎に住んでいれば農家でなくても自然にまだ直接ふれられる。だから自然を肌で観察している。しかし都会だともう自然とは断絶している。ということは自然への感受性が喪失してしまったいることなのだ。そういう自然から遊離した文明の中で生きていること自体がすべての問題の根底にある。
アイディンティティ(自己同一化)というとき人間はもともと自然とアイディンティティ化してきたのだ。それはどこの国でも同じである。最初は密接な自然とのアイディンティティの中に生きていた。生きざるを得なかったから自然への感受性は自ずと身についていた。そうでなければ自然の中で生きられなかったのである。最初の信仰がアニミズム的になることは自然だったのである。それが偶像崇拝になっても自然なことだったのである。人間が自然から遊離するとき、現代の科学技術文明化は自然と遊離するから人間はどこにアイディンティティを求めていいかわからなくなる。そこでカルト宗教団体が都会から繁茂してくる。カルトは社会とも自然ともアイディンティティ化、自己同一化できないところから生まれてくるからだ。ビルと車の狭間で何とアイディンティティ化していいかわからない。スカイツリ-などもくだらないものでもそこに人は集中する。それも一つのアイディンティティ化を求めて都会ではそうなる。一つの山のようなものとして登山の感覚みたいなものが人工的に作られたから集中する。人は高いところに上りたいということが本能的にあるからだ。


人間の危機があまりにも人工的なものに囲まれてアイディンティティ化できないとういことから起きている。津浪でも人間の感ではない、テレビの報道に頼っているからテレビの警報に頼っているから命を失ったということもありえた。6メ-トルの津浪がくると言っても感じなかったのである。そういうときは人間の直感に頼っていた方が助かる率が大きかったかもしれない、あの地震では大阪から地震警報がでていた、そこで警報出す人が直観的にこの地震は普通ではない、震度の感覚では数字以上より大きなものに感じていたという。実際はその人間の感覚の方があたっていたとなる。すべてを機械で計れるわけがないのだ。人間の感の方があたる場合がある。人間はその感をあまりにも機械に技術にたよすぎてしまうようになった。人間の社会は今やあらゆるものが機械に頼っているから機械に頼れなくなればパニックになるのである。だから過去のアニミズムが迷信的だとかエジプト文明も動物を神とする非科学的文明だとかは言えないのである。それは自然とアイディンティティ化-自己同一化した文明の体系化だから今の科学技術文明のアイディンティティ化よりまともだとなる。科学技術文明からはまともな自己同一化、アイディンティティが作り得ないことでもわかる。


人間の言葉そのものが自然とアイディンティティ化する過程で生まれてきたのだ。日常的に使う言葉そうなっているとき自然から離れた人間の言葉自体がすでに自然と遊離しているから言葉自体が死んでいる。言葉が最初に詩だったというのは本当である。万葉時代はそうだった。大和言葉は日本の自然と同一化、アイディンティティ化する過程で生まれたのである。それが神道にも通じていた。
大和言葉は縄文時代からすでに使われていたのである。


苔むせる千歳の岩に年古りて何事問わむかしこまりあれ


千歳の岩に向かうときこの岩と自己同一化、アイディンティティ化しようとしているのだ。それが人間を作るのである。現代の宗教がカルト化するの正常な感覚をもてないのは自然から遊離しているからである。このかしこまる-かしこ-かしこい-これは何の意味だろうとなる。それは神道の祈りでも良く使われる。しかしその意味は何かわからなくなっている。でも自然に対する畏敬の念から生まれた言葉なのだろう。


世のため 人のために 尽くさしめ給へと畏(かしこ)み畏みも 申(まを)す


ここの世のため、人のために・・・ということが現代の宗教の根本的に間違っていることなのだ。

それがカルトになっているのである。神があって自然があり人間がある。自然を作ったのは神でありそういうものが実在するというのが宗教である。世とか社会とか人を第一にしていたら現代の文明こそ最もいいものだとかなる。かしこむとはすべての創造主なる神であり自然にかしこむことなのである。人は結局、権力にかしこみ、人間の作った科学技術にかしこみ、そして自然に対する感受性を喪失するとき自然の今回のような大災害にあい原発事故にもなったのである。。それはすでに予定されていたのである。


夕風や水青鷺の脛を打つ 蕪村


これはやはり鷺の脚に注目したことで同じ発想だった。あのしなやかな脚に魅力を感じる。なんともいえぬ優雅さがあそこにある。青鷺より白鷺の方が夏は一段とまぶしく映える。ただこの辺では川には白鷺がいるが田んぼがないのだから白鷺がいない、白鷺は水と一体になって存在していた。田んぼには蛙などの餌も豊富だったからである。


白鷺の飛翔(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/4710434.html


夕べの白鷺(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/14960452.html

2012年07月22日

女神山の伝説 (人間の一生は夢-みな伝説化する)


女神山の伝説

(人間の一生は夢-みな伝説化する)

女神山


穏やかなる春の日
気ままにゆく山間の道
その道の分かれぬ
いづこに行かむ
春の日さして
誘われるままに
我は行きにしを
その知らざる道
知らざる僻村
女神山とあり
我かしこに春の日
苦もなくに眠りてあらむ
我に添うものありて
我が生を長らく楽しむ
しかしそも夢なれ
その長き日もまこと
槿花一朝の夢
たちまち散りし花
ただ夢の日にあれ
そは幻なれや
浦島の伝説や
はかなき煙と消えぬ
まことしやかに
浦島の釣り竿はこれと
山中に残るもいぶかし
すでにはるかなる昔なりしを
ああ されどふくよかに
女神山微笑みて
我をつつみぬ
我に苦を強いざるもの
そは常に微笑みて
我のそばに長くもありしも
ここに春の雲は流れきて
春日さす石や
鄙人の翁の座りぬ
時に共に昔を語り笑いぬ
この地の良しと神も笑わむ

今になると人間の一生は誰しも夢である。どんな一生も夢である。そういうことは老人になると本当に実感としてわかるし現実なのである。夫婦であれ家族であれそれがなくなったときそれは夢の世界だったとしる。人間の一生は夢であり謎であり最後はみな伝説化して終わる。別に特別な人でなくても普通の人でもその人生は夢であり伝説である。夫婦のともにする歳月は長いとしてもいつかはどちらかが死ぬとそれが夢のように思えるだろう。しかし人間の夢は本当に深い、いくら夢だと言ってもその夢は余りにも深いのである。旅したところも今思い出せば夢を見ていたようだとなる。その夢は時々よみがえり詩にしている。しかし旅だけではない、それぞれの人生そのものがみな夢なのである。どんなに豊かな恵まれた人生でも終われば夢であり貧乏でも同じである。人生はどっちにしろ夢だったとなる。みんな最後は浦島太郎になっている。ただその夢にしても一生のことだから長いからその夢はさめきれないほど深いのである。だからその夢は容易に生きている限り消え去らない、老人になると本当に夢の中に生きることになる。終わってしまった人生が夢でもその記憶を夢を生きるのである。これも不思議なことである。


この辺はまさに個々の人生ではない、町や村が津浪や原発事故で消失して夢のようになってしまったことである。津浪の跡でもこれが一体現実なのかと未だに夢うつつになっている。おそらく津浪の被害で家族を失った人たちはそれ以上にそう思っている。これが現実なのか夢なのか、今まであった長く暮らした家もなくなり家族もいなくなりとか一瞬にして夢のようになってしまった。普通だったら人生の最後にそうなるのだがこの場合は突然にそうなってしまったのである。だからこの辺の状態はまさに個々人ではない全体が夢のようになっているのだ。全体が夢うつつになっている不思議である。魔法に操られたような奇妙な感覚になる。怪しく紫の烟をくゆらせてその中に人は夢を見させられている。それも実に深い夢なのである。だからとてもそれが夢とは思えない、でも現実も遂には夢と化してしまう。快楽にふけるのも一時の深い夢である。それもたちまち消え去る。そしてただ最後は夢を綴(つづ)っているだけになる。あんなことしたこんなことしたとか思い出すだけが人生となる。でも自分のしたことが簡単に消え去るのかと言えば消え去らない、ちょっとしたことでも思い出すことがある。青春時代の浅はかなこと罪なことはあとで必ず思い出して苦しむことになる。過ちや罪の行為は消えないのである。その時はなんのことなく軽い気持ちでしていたことでもそうなのである。そういうことがあとで苦しめるものとなる。


青春時代であれ若いときであれいくらこの世ははかないとか夢だとか言ってもそれを実感しえない、目の前の華やかな生に心は奪われる。人はそこで深い夢を見せられる。そして最後に人は夢からさめる。しかしその深い夢は簡単には消えないのである。いづれにしろ人間は老人になれば誰でも哲学者になる傾向がある。人生とはこんなものかと否応なく悟らせられるからである。若いときは生きることに正に夢中でありそれが夢であることを覚らないのである。だからさも重大なことにのようにその夢に真剣に没頭する。この世で成功するも失敗するも夢となる。成功した人も結局夢の人生だったとなる。しかし人生は余りにも長すぎた夢だったからその夢からさめられないである。人生を本当にこれは夢なのだと若いときから覚ればそれほど苦しいものとは思えないだろう。人間は何者かによって操られ深い夢を見せられているのである。それは何なのかわからない、たぶらかされているのである。サタンといえばそうなのかもしれない、そして社会自体もこの世自体もそうした夢にたぶらかされている。ありもしない夢を現実化すると思っている。カルト宗教団体などがそうである。オウム王国だとか創価王国だとか幸福実現王国だとか夢をみて夢にかられている。


歴史をふりかえればソロモンの栄華の夢がありすべては夢としてあったのが歴史ではないか?歴史は現実だったにしろ終わって見れば夢となる。そんなこと本当にあったのか?そんな人本当に生きていたのかとなる。だからこそ伝説化している。一人一人の人生も伝説化する。人生は不可解であり謎だとなってしまう。ただ津浪や原発で町や村自体が消失して伝説化することは想像すらできなかった。しかし今やそれが現実なのである。


阿武隈高原に女神山がある、阿武隈は比較的道が平坦だから自転車では行きやすい、そして道が分かれている。その道をどこへ行くともなく行っていたのが自分だった。その日はあまりにも長かったのである。それでとがめられることもなかった。そういうふうに恵まれた生活が長くつづいた。でもそれも遂に夢となった。家族の一人も死んだ。そして回りも家も苦しみの場となった。でもその夢はあまりにも長いが故に簡単には消えない深い夢として語られるのである。ただ労苦の人生もあった。今の80代はそういう人が多い。ただ働くこと苦しむことが人生だった。そういう人生も何か哀しい。

花一つも愛でない人生は荒寥としていた。自分は春爛漫として花々の中を逍遥した人生だった。その思い出は限りなく我が心にありそれを今詩にしたりしている。労苦だけが人生だったというのもやはり悲惨である。ただ語られるのは労苦だけなのである。幸せな日がなかったというのはやはりその人生に接したとき息苦しくなってしまうだろう。ただ今そのつけを支払わせられているのかもしれない、あまりにも楽な人生のつけを支払わせられているのかもしれない、実際人間の境遇は不可解なのである。境遇は選びようがない、宿命でありそれを生きざるをえないのである。


魔法使いがその手を使い自在に人間を操る
今だ、もっと楽しめ、楽しめ
ハッハッハッ、楽しめ、楽しめ


魔法使いに操られ狐にだまされていたのが人間である。一見自分が生きているようでも実際は人間には欲があればその欲望の故にだまされ操られることになる。欲があるからだまされるのである。
人間は欲によって操られるものである。カルト宗教団体もその欲でもって人間を操る、社会そのものがそうではないか?原発事故だってそもそもみんな欲の故に危険を無視して操られたのである。そこに人間の深い欲がからんでいたから操られることになる。人間の欲は限りないものである。その欲を人間は絶つことはできないから様々にだまされ操られるのである。

輪廻の欲

まだ色濃くにおう紫の香の烟
醒めやらぬ夢の名残り
その深き夢の微睡み
人は欲に操られ正体を失う
醒めてみればただみな白髪の老人
死神は汝の齢を数えて
黄泉に送りその生は幻
ただ後悔と罪の汝を責めぬ
人の欲を断つことの硬し
故に人はその欲故に輪廻する

阿武隈の魅力は道にある
http://www.musubu.jp/abukumichimiryoku.htm

2012年08月17日

「親切心」の養成 (家族にすら親切心がない現実)


「親切心」の養成


(家族にすら親切心がない現実)

例えば福祉関係の仕事、看護師とか介護士とか他者に直接働きかける仕事は「親切心」が自ずと養われる。仕事なの中で「親切心」意外と大事である。嫁に来た人はその家の墓に入りたくないという人が30パ-セントくらいいる。夫婦の墓がいいとかが多い。それは何なのか?それは姑と嫁の対立にあるのではないか?姑はどうしても嫁に親切心をもてない、そのことが恨みともなっているからそうなる。たいがいは赤の他人でも親切心でもって接すればこころよく勤めるということがある。それができないのは家族のなかでも親切心をもって接し得ないからである。


そういうことは家族の中で社会の中で働いていないと実感しえないのである。現代は一番この「親切心」が欠けた時代なのだろう。人を思いやる心が一番欠けている。ただ金だけを求めている。親切心も金をくれからやっているのだとなり愛想笑いとなって心から親切にするわけではない、ただ相手に親切にすることは自分も親切にされるというのが基本にある。姑が嫁に親切にできないから一緒の墓に入りたくないとなるのだ。ただだからといって姑がすべて悪いとはならない、嫁が悪いかもしれないし家族のことはあまりにも複雑なのである。今は姑より嫁の方が強く親切心が欠けていることがありうる。家族には外から見てわからないことが必ずある。それほど家族関係は複雑なのである。

だから家族の中に立ち入れることはよほどのことでないとできない、理解しがたいものがかなりあるからだ。自分の家族など自分すら理解できないほど複雑だった。一人が死んでやっと何なのか理解した。60年一緒にいてもそうだったのである。それほど人間は複雑なのである。

親切心はまた感じる人と感じない人がいるのだ。例えば身寄りがないとか家族がないとかひどいことばかりされてきたとかそういう人は親切にすると人一倍親切をありがたいと思う、感じるのだ。いつも家族の中で親切にされていると感じないのである。それが自分にもあった。親切にされるのが当たり前になっているときそのとき人は親切にされても感じないのである。ホ-ムレスの人か病院で実験台にされても看護師などに親切にされるからいいというとき、まさにそうなのである。路上で寝て全くもののようにしか扱われない、病院では看護師が名前を呼んでくれて人間扱いしてくれるからだ。家族のないものにとって病院すら家庭的に感じていいものになってしまうのである。

それだけこの世が非情になってしまったからともいえる。そして病院とかでは家族がいて有力者だと看護師も親切にするが身寄りのないものを親切にしないということもある。家族の監視があると見かけ上親切にせざるをえないということもある。本当は身寄りのない人は親切にされるべきなのである。

また不思議なのは親切に自らしないものは親切が何か実感しにくい、親切にしてみて親切が何かわかるのである。親切にされているばかりだとそれが当たり前になり親切にされても感じないのである。人間は仕事の中でただ金を求めて金さえ得ればいいと思っている。しかし人間社会で「親切心」は欠かせない潤滑油である。

働く場でも親切にされれば働く意欲も普通はでてくる。私に親切にしてくれた、だからここでは尽くそうという気持ちになる。姑と嫁には敵対関係がありそうした親切が通じ合わないから同じ墓に入りたくないとまでなっているのだ。親切心というのはいろいろな事件があるけどちょっとした親切心があれば事件にならないということがあるかもしれない、冷たくされて事件になるということがある。金のことで事件が起きるがこれも余りにも金に非情だとそうなるのかもしれない、相手がもう明日食べるものがないというとき、誰も助けてくれないとなれば殺人にもなる。でももしそのことを知り食べさせたりしていればそうならないかもしれない、現代は昔のようにそうした情がない社会になっている。自分の場合、家族でさえ情が通じ合わない所だったのだからさらに社会になるとそうなりやすい。


ただこの世が非情だというときこの親切心が全く通ぜず踏みにじられることがある。そういうことを自ら経験した。親切にしても全然感じない、むしろ親切をいいことに恩を仇で返すのも人間である。中国人の留学生に事情あって親切にしていた人が金のために殺された。金が欲しいとなったとき小さな親切は無視される。逆に見かけを親切にして老人から金を奪うとういう事件が実際はひんぱんに現代では起きている。親切というものが全く通じない非情化している人間もふえているのだ。確かに冷たくされたとかが原因にある、そして非情な人間化した。そして親切にする人があってもその親切は通じなくなった。そういう人もいる。それでも家族が複雑なように人間が起こす事件は本当は複雑である。報道だけをみればなんという人だとなるがやはり人間である限り何か犯罪を起こす原因があり残酷な事件であればあるほどそういうふうに考えいたいの人間なのである。人間なのだからそんなことまでしない、何かそれだけのことを起こす事情があったのだろうとかになる。人間だからということがやはり前提にある。良心をもっている人間なのだからそこまでやるのはそれだけの事情があるだろうと犯罪者を思うのである。会津の事件などでもなぜそこまでしなければならなかったのか?
その背景を考えその人がどうしてそれほどの犯罪を起こしたのか?この犯罪者は絶対に許せないというそれでもそこまでやる背景とか事情とかを考える、考えたいのが人間なのである。


いづれにしろ今の世の中、そんな親切心など説くお前は甘いとなる。世の中は食うか食われるかの修羅場だ。そんな甘いことでは生きていけない、お前は恵まれたから世の中の厳しさを知らないのだとなる。これは事実である。だからお前みたいなやつは格好な犯罪の餌食になったのだとなる。それは言えるし本当だった。この世はそんな親切心などを言ったら生きていけない、そんなものを殺してこそ成功するんだとなる。いちいち相手のことを考え同情していたら商売にならないよともなる、それが現実だともなる。だからこそちょっとした親切さえこの世では実行できない、善行というと大きなことをするものばかりと思っているが実際は小さな善行がその前にできないのである。

小さなことができないから大きなこともできないのである。人間は家族であれどんな場であれ親切にされると気持ちいいからその場で勤め尽くし働こうとなる。田舎でもそういう親切な人がいるところだったから自分も一緒に生活したいとなる。しかし田舎でも人間に関して都会とさほど変わりがない、いい人はまれである。むしろ田舎の人は排他的で他者に冷たいというのが一般的にあり会津の凶悪事件も背景にそういうことがあったかもしれない、最初の入った家ではいい人だとされていた。ただこの事件はあまりに残酷なので想像の範囲を越えているから簡単には言えない、それでも人間なのだから人間的に考えるからそう思うことになる。殺された人に何の非もないのだということが一般的であり死罪になるだろう。ただ田舎で起こった犯罪なので興味をもったのである。


親切心の養成


あなたに向かって花は咲いている
誰でもない、あなたに向かって花は咲いている
あなたに向かって花は喜び咲いている
あなたは他者に向かって親切にしてみよう
あなたも親切にされるだろう
親切は誰にでもできること
あなたはその人の名を呼んであげよう
忘れられた人の名を呼んであげよう
それだけで人は喜ぶだろう
大勢ではない、親切は一人一人になされもの
集団を相手にするとき人は人として扱われない
そこで「親切」の徳は忘れ去られる
親切はちょうどスミレのようなもの
目立たない花であるが喜びがある
親切は社会の潤滑油
親切はただ一言の言葉かもしれぬ
しかし感じるものには感じる
私は親切にされた
だからあなたのためにみんなのために働こう
そういう気持ちにさせるのが親切の徳
小さい目立たぬ徳なれどその力は大きい
大きなものだけが社会を支えるのか
小さなものに愛そそごう
神はそを見ているだろう
目立たぬ「親切」も社会を支える
ああ しかしその親切も無惨に裏切られ無視される
それもまた人間社会の真実
それでも親切に励まねばならぬ
自らの徳の養成のためにである


親切は集団的ではない、個々にある。だからカルト宗教団体にはその親切心すらない、集団として権力拡大維持を第一にするから親切心は無視される。助け合うとしても権力維持が前提にある。
「親切心」は本当は無償的なものかもしれない、確かに親切にすれば親切にされる、でもそうされない場合も多いとすると虚しいともなるからだ。親切心は見返りを期待しない愛なのかもしれない、そんなもの普通は実行できないとなる。たいがいこうしたものは否定される。社会はともかく家族の中で親切心がなかったので書いたまでである。

2012年09月09日

食べものが料理が人間にもたらすもの (神に自然に感謝しないものは呪われる)


食べものが料理が人間にもたらすもの

(神に自然に感謝しないものは呪われる)

料理一つとってもそこには複雑な要素があった。自分一人で料理してみてわかった。料理はまず素材として野菜であれ肉であれ用意する、それからそれを運び並べるのが結構手間なのである。それらを全部一人でやることが手間なのである。だから病院などで食堂でもそういう手間がないからその手間に感謝するということがある。しかしそんなことを注目している人はあまりいない、この料理がうまいかとうかで価値は決められる。料理人の腕が注目される。しかし料理の素材として提供されるものにもあまり注目されていない、なぜ米が野菜がとれるのか肉が食べれるのか注目されていないしその行程も見えないのが現代世界である。田舎では米がどうしてとれるか現実に見ているから農家でなくても実感として理解できる。東京辺りでは田んぼがないから米がもたらされてもそれがどうして作られるのか理解しにくい。ス-パ-に行けば米はあるよとなる。金さえあればいつも食料は買えるよとなり誰も食料を感謝してなど食べないだろう。金の悪弊として人は金の力が余りにも今は大きいから金が神のようになっているから食料となるものに感謝しない。金によってあらゆるものがもたらされると錯覚する。でも金は金属であり紙でしかないのだ。そこに現代の盲点がある。


病院で経験したことは全く受け身となり料理が毎日もたらされたことである。そこには運ぶ手間がありその手間にも感謝する。病院は運んできてくれた看護師にありがとうとみんな言って感謝している。そんなことレストランでは言わないし感謝もしない、当たり前である。常に「俺は金をはらっているんだ、もっと愛想よくしろ」となりもっとサ-ビスしろよとなる。でも不思議なのは病院では料理を運んできてくれた看護師にみんなありがとうと感謝しているのは不思議である。病院の悪い点を書いてきたがいい点もある。人と人が互いにあれほど気づかっているのも不思議だった。病気だから互いに気づかうということはある。病気が軽いからまだ相手を気づかう余裕があるといえばそうである。重度になれば相手を気づかうことなどできなくなる。病院ほど労働に感謝している場はない、掃除婦にもありがとうと言っている。みんな病人で世話になるからそうなっているのか?他では掃除している人などに感謝している人などいないだろう。


ただ人間は感謝するとき本当は肝心なものに感謝していない、料理の基となる米とか野菜でもどうして作られるのだろうか?そこまで考察する人はいないだろう。米でも根本的には土があり光があり水がなければ作れない、その恵みは誰が与えたものなのか?すると地球を作った神がいてすべての食物は与えられたから地球を作った神に感謝すべきだとなる。そこまで思いをはせる人は少ない、食物を作るにはどんなに人間の手を加えようが根本的に土や水や光がなければ作れないのである。食料を作ってくださる農家の人の手間には感謝する。だが農家の人だけ食料は作れない、それを一番知っているのは農家の人である。なぜなら自ら作付けして育てたものを収穫するとき、人は自然とまさに神がその実りを与えてくださったと理屈ではないものとして会得している。だから水をもたらす山に信仰が生まれたのだろう。米でも米の神様に祈り祭っていたこともわかる。


動物の肉を食べるにしても動物はなぜ育つのか?肉食動物があるにしろ動物は草食動物であり草を食べて肉を作っているのだ。その草は土と水と光がないと作れない、そこに感謝している人はいない、人間は文明が高度に発達すると自然から遊離してくるからますます食物がどうしてもたらされるのか実感できなくなる。東京のように一千万人の食卓に提供する食料があること自体不思議である。
回りには田んぼもなにもない、コンクリ-トジャングルであり土も水も見えない世界である。そういう世界に人は普通に今は住んでいる。田舎だったら農家の人は以前として食料を生産しているのだから自然からもたらされるものが何か理屈ではなく感じている。


人間の命の基は土であり水であり光である。そして魚でも動物でも食べるときはやはり食べられる方は犠牲になっている。特に動物は血を流して犠牲になっている。魚さえ血を流している。だから植物を食べるよりより感謝せねばならない、宗教的にはインドのように肉が食べない方が理想的である。人間はこうして当たり前だった世界から離れ自然がみえなくなったとき災いが自然から神からもたらされる。今ほどあらゆるものを食べている時代はない、それ自体が異常なことだと気づくべきである。そういうところから原発事故も生まれてきた。電気はそもそも自然の光とかとは違う。原発を神のように崇拝するという映画あったけどまさにそこに危険があったのだ。崇拝すべきものは原発を作り出すものであり科学者はそこで司祭となり権力となるから政治家も民衆もあらゆる人が仕えることになる。しかしそこに呪いが隠されていたのである。


原子力を崇めることを神が偶像のように拒否したのかもしれない、それで破壊したのかもしれない、感謝すべきものは原子力ではない、電気でもない、土であり光であり水なのである。人間の技ではない、直接神の業なるものから作られたものなのである。それに感謝しないものは呪われるのである。

2013年01月10日

人間の罪の基は口にあった (口からすべての汚れがでてくる-現代社会の嘘は見抜くことがむずかしい)


人間の罪の基は口にあった

(口からすべての汚れがでてくる-現代社会の嘘は見抜くことがむずかしい)


口は災いの元

そのうわついた口はぺらぺらあることなきこと
しゃべりつづけて嘘もつく
口は災いのもと
口はつつしむべし
特に女性の口は軽すぎる
その口の恐ろしさを知るべし
その口よりいでしものが他者を殺す
愛なくば愛を語るべからじ
真実の一言は重し
真実の言葉に力が宿る
石の如くに真実の言葉は重し
浮ついたる口よ
そは地獄にてその舌の焼かれむ
その口は呪われるべし


人間は簡単に言葉を日常的に使っている。言葉などなんの影響があるのかと普通は思う。しかし言葉を通じて人間の心が表に出るということが人間の人間たる所以なのである。身、口、意で悪を犯すというとき人間は口から一番悪が出やすい。意というときその心が言葉となって現れる。人は言葉を軽んじているけど言葉を通じて心が表出されるから言葉は恐ろしい害毒をふりまく、自然界のものは樹でも石でも山でも動植物でもは言葉をもっていない、言葉がでてこないからこそそこにいかなる悪も表出してこないのだ。だから人間でも沈黙の行をしていれば樹や石や山のようになれば悪は表出しないし罪を犯さない、罪というとき具体的な犯罪として罰せられる罪を罪だと思っているが人間は日常的に言葉で相手も殺しているのである。人間の言葉の害毒は計り知れないほどこの世を汚している。
そしてこの世とは嘘と偽りの世界である。それは権力者から下々まで嘘と偽りの世界に汚染されているのだ。現代では嘘というとき個々人のあからさまな嘘もあるけど会社とか組織や種々の団体が嘘をつく。するとそれは権力を持っているから大々的社会に宣伝されてその嘘が嘘でなくなるのだ。

マスコミがこの頃盛んにネットなどで批判されるのは真実を報道していない、嘘だというときそうだった。マスコミも宣伝費をもらっているから大きな会社の意向に従う、東電など電事連が一番宣伝費を出すときその意向に従うほかない、そうして安全でなくても原発の安全神話は作られた。これは嘘だったのである。それは政府自体もその嘘に加担していたのである。政府と会社が一体化して嘘をついていたのである。戦争中でも政府と軍部とマスコミが一体化して実際は負けた場合でも勝っていると嘘をついていたのである。政府もマスコミも一体化して嘘をつく、その嘘が人の判断を誤らせていたし結果として300百万人も死に犠牲にされていた。


まずこの世で嘘をつかないで人生を終えた人など一人もいないだろう。現代では特に嘘をつかないということは会社とか団体と組織化の中で生きていると個人が嘘をつかないように思ってもできないのである。会社ぐるみで団体で行動しているのだから一個人の意向は無視される。だから除染にしてもごまかしていても会社の支持でやっている、政府の支持でやっているとなり個人はその大きな権力の意向に従わざるをえないのである。つまり現代は江戸時代などより偽りと嘘が天文学的に増大した時代である。組織ぐるみの嘘が莫大なものとなっているからだ。例えば江戸時代だったら職人であっても一人一人で職人気質で仕事していたのだから嘘をつくようなことはない、すると全体的に嘘は極めて少ない、だからみんな江戸時代の人は貧乏でもいい顔していたというときそういう社会の違いがあった。現代はまた嘘を見分けにくいのである。マスコミの嘘などでも見分けるのがむずかしい。もちろん政府が嘘ついていたら余計にそうである。宗教だってカルトとなると巨大な組織集団だから宗教を看板にしていること自体嘘と偽りなのである。そもそも宗教は自らが犠牲になるような崇高なものだった。するとカルト宗教団体などはまるでその正反対だし誰も自分が犠牲になるような宗教を実践することが不可能だからその看板をかかげていること自体、嘘であり偽りだとなる。ただ別に宗教ではなくてあなたたちの欲望をかなえてやりますとあればかまわない、それは法華経とか虎に自分の食わせるとかの宗教を実践できるものはいないからそもそも宗教を看板にしていること自体が嘘と偽りになってしまう。この世全体がそもそも嘘と偽りの世界だとなってしまっているのだ。


現代はなぜ嘘がこれほど蔓延してしまうのか?それは薬でも医学でもその他いろいろなことが専門化して素人にわかりにくい社会だからである。何か宣伝している人は金をもらってしているのだからそれがいいとか悪いとか真実なのかどうかなど関係ないわけである。それを自分で確かめるわけにもいかない、原子力発電とか放射能問題でもそれらは目にも見えないしわからないから嘘が一番つきやすいとなる。放射能が低いならかえって体にいいといわれればそうかなと思って信じてしまう。それは専門家しかわからないから嘘をつかれてもわからないのである。個人的嘘なら具体的でわかりやすいけどこうした科学でも組織的集団的なことになるとその嘘を見抜くことは不可能になってしまう。
建築関係の仕事をしている人が一億円資産があるもうかっていると言われたときその方面の知識がないからそういう仕事もあるのだと思っていたら嘘だった。そういうことは現代は数限りなくある。
何が嘘なのか本当なのか社会が嘘と偽りにおおわれていたら見抜くことはできなくなる。宗教を看板にしているのだから宗教を追求しているのかと思ったらそこはどろどろした現世欲望を追求している団体だったカルトだとかなる。その嘘が偽りは巨大組織化集団化されると社会に公認されるから余計わからなくなるのだ。社会でその嘘と偽りを糾弾できなくなっているのだ。


おそらく嘘をつかずに一生過ごせるとしたら奇跡的だろう。社会とかかわること自体嘘をつき偽りに生きることになる確率が大である。だからこそ出家してこの世とかかわらないことが身、口、意を汚さないようにすることだったことがこれからも理解できる。でも出家してもまたそこが嘘と偽りの場になることもありうる。宗教というのも嘘が多すぎるのである。だからこの世で人間社会で嘘と偽りから逃れようとしたら不可能になる。石と樹とか山とか動植物、自然は嘘をつかない、偽りがない世界である。だからこそ自然にひかれるのであり自然に安らぐのであり人間社会ではそういうことがありえないのだ。その社会は複雑怪奇になっていてとても何が嘘で真実なのかもわかりにくい、原発事故でもそうだった。ただ原発事故の原因は嘘にあった。必ず権力でもって嘘が隠蔽されていたのである。その嘘は政府の権力もかかわり隠されていたのである。それが事故につながっていた。原発の技術的問題として安全かどうかの前に正直にその内部の情報を出していない、嘘で隠していたことが事故につながったのである。だから原発が技術的問題よりそうした嘘をつくことにあったのだ。


ともかく愛がないのに愛という言葉を口にする人が多すぎる。それは宗教団体であろうがいたるところで愛を言うがそんな愛を簡単に実践することはできない、すると愛ということばを余り語らない方がいいとなる。いや簡単に語れないということでもある。政治家などは愛想のいい大衆受けをすることを盛んに言うけどそれはみんな自分の欲望のためであり他者の犠牲になるなどないから嘘なのである。それは政治家自身が言っているのだからおべっかと言っているのだからまちがいない、政治家はそもそも嘘を言うことで公認された職業でもある。だから公約などもほとんど実現されないのである。選挙のときだけいいことを言ってあとは実現されないのである。政治家だから相当な罪の職業だともなる。嘘をつけないではやれない職業だということである。そういう職業が結構多いのも現代社会なのである。江戸時代の職人や農民でも侍でも嘘をつく職業ではなかったろう。現代は膨大な嘘が蔓延した社会なのである。その嘘もみぬくことがむずかしい社会なのである。
女性の水商売などもどうしても嘘が商売になっている。それも相当な罪な職業なのかもしれない、今なら別に地味な職業でも食えないことはないからである。強制的にされるのではなく自ら選ぶということもあるからだ。そんなことに出入りすることは嘘の世界に自らも汚すし汚されることになる。
でも社会ではそんな堅いことでは通じないとかなり接待が普通にある。


口から入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのでる


口が人間の罪の一番の出口なことには変わっていなかった。口をつつしむことが宗教の修行の第一にあった。口をつつしめば罪を犯すことからまねがれる。だから社会とあまりかかわらず口をつつしむ禅宗の修行があった。現代社会生活で嘘をつかないで暮らすことはむずかしいからである。
ともかく心にもないことを次と次と言って恥ないのにはあきれた。女性は嘘つくのが当たり前だと弱い女性には嘘は許されるというがそんなことはないと思う。やはりその口は罰せられるだろう。それは男女に関係ないだろう。人間の謎は罪から生まれ罪を犯すために生まれた来たのだろうか?
結果的にはみなそうなる。なぜなら自然界には善悪がないから罪もないのである。人間だけが善悪をしる。人間が知恵の樹の実を食べて善悪を知るようになった。だから人間だけに善と悪がある。
嘘をつくということも悪であり真実であることは嘘のないことでありこの二つは分けられるのである。悪があって善を知り善の意味を知るということがある。山や樹や石など動植物でも嘘をつくことなど偽ることなどないからである。人間だけに悪あり嘘も悪であり嘘をつかない人など一人もいないから人は罪を犯すために生まれてきたということでもある。

2013年02月08日

良い姿勢も生活習慣で作られる (人を見るとき姿勢が大事なのはなぜ!)


良い姿勢も生活習慣で作られる

(人を見るとき姿勢が大事なのはなぜ!)

姿勢というとき言葉をはればまさに姿の勢いなのである。その姿に勢いがあるかどうかが姿勢なのである。living attitude なのである。


figuratioを遡ると、「姿」「形」の意のfigura(フィグーラ)や、「つくり上げる」の動詞fingere(フィンゲレ)になり、同じ語源では英語のfigure(フィギュア)があります。
このfigureの概念は、ギリシア語で「形」を意味するschema(スケーマ)の翻訳語ともされていますが、このschemaから来ているのが英語のscheme(スキーム)で、「企画」「枠組み」などで訳されています。


figureにはいろいろ意味があってももともとは形にすることであり解決するということはfigure outである。

人間を見るときまず顔を見るということがある。顔も大事なのだが実際体全体が大事であり姿勢が大事なことがわかった。姿勢がいい人は見ていて気持ちいいのだ。なぜ老人が醜く見えるのか?
顔も肌も老いて醜くなるのだが姿勢が悪い人が多いからではないか、それは肉体的衰えもあるが姿勢から精神が歪んでいる感じも受けるからだろう。回りを見回しても60代くらいになると姿勢が悪くなる人が多い、体型も悪くなり歪んでくる。自分も痩せ型なのに腹がでていたりする。どうしても年とともにそういう人が多くなってくることが印象を悪くしているのだ。


美人の要件として姿勢がいい、スタイルがいいことである。顔よりスタイルが大事だという人もいる。人間は体全体から何かを発している。同級生で背の高い人だったがせむしのようになっていたのには驚いた。あの人は表に出れないだろう。人に見られないように家にひきこもっている他ないだろう。ある人はぶよぶよに太っている。ある人は脚が曲がったように見える。ある人は体が太鼓腹であり脚が短く体型自体が生まれつき悪いのだろう。それに加えて心も曲がっているから体と心が一致してしまった。ダンテの地獄編では体が変形した人が良くでてくるけど悪しき心が変形して歪んだ体となったのである。ただ若い内はたいがい体に生気があふれ姿勢がいいから若い人と接することは老人に接するより気持ちいいのである。若い人はまだ世の汚れにもそまっていないから気持ちいい人が多い。若い人のすべてがそうでないにしろ一般的にはそうである。
姿勢はそもそも生まれつきではなく作られるのである。人間なんでも生まれつきだと思っているけど違う。双子がいたけど筋骨隆々になったのは重量挙げをしていたからみたいだ。双子でも全然違った体型になってしまったのだ。その後訓練で双子でもまるで違ったものになっている。その生活習慣でもそうである。人間を決めるのは生活習慣だというのも本当である。もちろん生来のものもある。

自分の場合、体も弱く心も弱く能力もまるでなかった。でも結局長い人生で生活習慣でなんとかさほど病気もせずにここまで生きられた。体力的にも知的にも優れた人はいる。若いときスポ-ツができて知的能力も高い人がいる。高校生のときから柔道ができるとか体力がある人がいる。そういう人を見ているとうらやましいとなる。知的に勉強できる人は体力がないように見えるからだ。でも実際は勉強もできて体力もある人がいる。そういう人はやはり社会的に上のクラスに自ずとつく。やっぱり人間は頭脳が大事だといっても体力もその基礎にある。芸術だと本当は体力がないと巨大な芸術家にも哲学者にもなれないだろう。なぜならこの大自然を詩にするにしろそれ相応の体力かないと健康でないととても詩にできない。だから巨大な芸術家は超弩級の体力かあった。牛という詩を作った高村光太郎、その体自体が牛のようにさえ見える。頑丈な体だったのである。彼は彫刻家でも彫刻家は頑丈な体の人が多いかもしれない、それはかなりの肉体労働になるからだ。牛になるきるには牛のような体力が必要だとなる。虎の詩を書いたブレ-クも異常な体力の持ち主だった。天才はそういう人が多い、上野霄里氏とかニ-チェもそうである。体力がなければあれだけのものも書けないのである。


一般的に詩人薄命だとかいうように詩人には柔弱な人が多い、自分もその一人である。ただ人間の不思議そうした柔弱でも生活習慣でそれなりの体力を身につけることができるのだ。もちろんそれには限界があるにしろ生活習慣でできる。酒を飲まないとかタバコを吸わないとか日頃運動しているとかはできるのだ。現代の生活は昔のように第一次産業に従事する人が少ない、工場とか会社のデスクワ-クとか不健康なのが多いから姿勢も悪くなるし人間に生気がなくなるということがある。人間の姿勢は一生の間で作られるのだ。奇妙な話だけど自分の場合は常に自転車にのっていたから自転車に乗る姿勢になっていた。自転車は極めて自然を感じるものである。風を必ず受ける、風に向かって走るのである。そうすると風に向かう姿勢になるのだ。車はそういうことがない、自然をさえぎるからそうした姿勢になりにくいだろう。だから姿勢も長年の習慣で作られる。商売人でもしょっちゅうおじぎばかりしていたらそういう姿勢にならないだろうか?デスクワ-クの人はどうしても前かがみにならないだろうか?現代人の仕事はそういうのが多いから姿勢が悪い人が多いともなる。

高橋英吉の彫刻の漁師は潮風に向かって胸を反って立っている。あの姿勢は漁師だからこそあのようになる。漁師も常に潮風を受けて働いているからそうなる。高橋英吉も自らも漁船にのって遠洋航海で働いたというからそれだけの体力がありあれだけのものをあの若さで作ったのである。これも天才だったが戦争で死んでしまったのである。あの彫刻には広い海からの風を常に受け波の音を聞き常に海に向かっている男の姿を見事に形にしているのだ。日本ではヨ-ロッパのように人間を彫塑にする芸術があまりなかった。自然を立体的にとらえる力が不足していた。だから立体的な建築も発達しなかった。だから姿勢の芸術たる人間の彫刻力がなかった。


ともかく姿勢が生活習慣からつくられるというとき現代は生活習慣がその仕事上も悪いから悪い姿勢になる。職人でも自分が接した人はもともとすでに柔道しなくても柔道何段かの体力があるような人だった。見ているだけでうらやましくなった。職人でも体力かないとできない、それに加えて技術力やセンスもないと一流にはなれない、だから優れた職人も長年の生活習慣でその姿勢が作られる。だから昔は姿勢のいい人が多かったかもしれない、肉体労働がどうしても多かったからである。
一般的にスポ-ツできる人は姿勢がいい、武道をする人は姿勢がいい、背筋が伸びていい姿勢が作られる。だからもともと武道は姿勢を重んじていたのだ。姿勢が人間を作ると思っていたから姿勢を良くするものとして発達した。剣道でも柔道でも武道をする人は姿勢がいいのである。

ただ人間は生活習慣で作られる。生まれつきがあっても長年の生活習慣か人間を作る。病気も生活習慣からなるのが多いとしたとき健康も生活習慣によって作られるとなる。どうしても生まれつきが影響しても現代のように体力がなくても長生きができる時代なのは環境のためである。栄養もとれるし過重な労苦を強いられないということもある。自分の場合は生まれつき弱くてもそういう環境と生活習慣でこれまで生きられたとなるから恵まれていたとなる。昔だと無惨に才能があっても死んだ人が多いのである。まず自転車にのることが人生だったなどということは昔ならありえない、現代のような恵まれた時代からそんな人もありえたのである。ニ-トなどありえないのが昔である。


漁師の像


漁師は常に大海に向かって立つ
筋骨隆々として波がその体を洗う
波はその体全体に轟いている
直射日光が体に射しつけ
その眼は海のかなたを見つめ
遠方から来るもの望んでいる
胸は希望にふくらみ常に潮風を受けている
常に大海から吹いてくる風に向かって立つ
あたかも岩壁のように打ちつける波に向かって立つ
その姿は凛々しく自然が人間を造形したように
大海に向かって立ち波と光と風のなかに立つ


石巻-潮音-漁師の像が立っている
http://ishinomakinews.blogspot.jp/2012/11/hibi1120.html

 

2013年02月28日

人間はなぜ歪んでしまのか? (その原因の根底に育った家庭があった)


人間はなぜ歪んでしまのか?

(その原因の根底に育った家庭があった)

子供は夫婦の会話や態度を鏡のように映す存在。例えば奥さんから誕生日に『おめでとう』と言われプレゼントをもらったときに、どんな反応をしていますか。奥さんが喜ぶような言葉や態度で感謝を表現できているでしょうか。素っ気ない態度で感謝の気持ちをごまかして、きちんと伝えていないと、子供はそれを感じ取り、男の子は特に父親をまねて極端な形で表してしまいやすいのです」


 つまり日ごろから夫婦間で『ありがとう』の会話がないと、それがわが子にも伝播(でんぱ)して、友達の心が理解できない感受性の鈍い子供となる。その結果、当然のことながら感謝の表現ができなくなるというのだ。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130227-00000001-pfamily-soci


自分がここ6年介護とがで接した人間はまともなものがいなかった。主に親戚だが他人もいた。そもそも自分の家族が異常な家族だった。それは家族が悪いというのではない成り行きでやむをえないことからそうなったのだから自分は家族が異常でも家族を責めないし自分で言うのも変だがそれなりに手厚い介護しているし親には感謝している。こういう家庭環境になったのは本人が悪いというのではなかったからだ。それぞれの家庭を知ることは複雑であり他者が知り得ないものがある。


まず自分の母親などは悲惨だった。継母に育てられたのである。だから小学生のとき弁当を作ってくれたのだがそれを残したとき「オレの作ったものを食えないのか」とその弁当を投げつけたというからひどい。その継母は異常なほど気性が荒い女性だった。最期は養老院で眼が見えなくなり死んだ。もう一人は連れ子になり心が歪んでしまった、またもう一人は子供のとき三人母親が変わった。これもかなり影響したろうがその三人は愛情がないとういのではない、特別可愛がったのである。でもその影響が大きかったかもしれない、それで50才くらいになってその女性は異常な人間になっていた。そのとばっちりを自分の家で受けた。あとは子供のころは極端な貧乏とか苦しみを味わい結婚してから夫がすぐに重病となりその世話に明け暮れた女性も心が歪んでしまった。もう一人は生まれたとき母親の乳で育たず親戚のものが乳を与えて育てた。兄弟姉妹も多くそんなふうになったのだろうがこれも最後は犯罪者になった。自分がここ6年であった人はこんな人しかいない。自分自身の家庭環境が異常であったこともあるがその回りもすべて異常だった。


そういう人ばかりみていると家庭とはそもそもそういうものだと思ってしまうのだ。まともな家庭、家族で育たないものはまともな家庭がどういうものか知らないのである。毎日夫婦喧嘩しているのが普通だと思ってしまうのである。家庭とはそういうものだと思ってしまいまともな家庭があるなどわからないのである。ともかく人間は家庭環境が致命的に影響することがまちがいない、やはり家庭環境が悪ければまともに育たないということはある。ただ環境因子がすべてではないし生まれつきがすべてでないしそれは複雑に相互作用しているのだ。悪い環境でもいい子は育つ、親がなくても子は育つと同じである。一般的には確率的にはどうしても人間は育った家庭環境に大きく影響される。
だから就職のとき家庭環境を見て採用するというのはやむをえないかもしれない、協調してやれるかどうか性格がどうかとか見るのには家庭環境を見るのが基本になるのかもしれない、自分はまず他人と協調してやれるようなことはなかった。それでも逆に家庭環境で会社にも就職せず無職でも遂に人生の最後までも困ることもなかったのである。


ただ世の中は広い、人間の接する範囲は極めて限られているのだ。だからそこから判定することはできない、一般化することはできない、最近あった女性を見ていていつも不思議だった。その感じとか受け答えとか本当に気持ちよく素直であり態度がいいのである。それは何だろうと不思議だった。異常な人間ばかりとあっていたから地獄で仏にあったような気がした。この女性はまともだとつくづく思った。心も歪んでいないしまともなのである。そのことに感動したというのも変だけどまずこれだけ歪んだ人間を相手にしていればそうなる。その女性は男一人と女一人と三人兄弟姉妹であり夫婦仲は良かったという。なるほどこれくらいまともだとやはり家庭環境もいいのだなとつくづく思った。まともな家庭環境で育った人もいるのだなと感心した。こういう家庭に育てば気立てのいい優しい女性に育つと思った。ただ金持ちの家だって夫婦仲が悪かったりすべてがいいわけではない、貧乏でも夫婦仲が良かったりするし貧乏がすべて悪いとはならないから貧乏から家庭を判断することはできない、ただ家庭は人間形成の基の場であり影響が大きすぎるのである。だから家庭環境をみればそれなりにその人物を判定できるかもしれない、ただその後の大人になってからすべてを家庭環境の原因にすることはできない、どんな不遇な環境でもみんなが犯罪者になるわけではないからだ。


結婚が昔は家と家の結婚だというときそれは家庭環境がその人間に大きく影響しているからだ。家と家の結婚だというときその結婚する本人より家庭環境を見ている。その方がまちがいないかもしれない、なぜ戦後に三分の一も離婚しているのか?それはその人ばかり見ていてもなかなか人がわからない、家庭環境を見ればその人がわかるということもある。家と家の結婚なら離婚も少なくなるかもしれない、だから自由恋愛というのも離婚が非常に多いのである。そこで古いものが何でも悪いとしたことにも問題があった。新しいものは新しい価値観は簡単に身につかない、それより何代にもわたった価値観にも習慣にもそれなりの人間の知恵が働いていたから軽んじるのが問題だったのである。


「オマエを育てるのに苦労した。」
「この食事の支度に苦労した。」
「あんな人と結婚するんじゃなかった。」・・・等々。
個々の事例については、以前より配信しております。


じゃあ、このようにグチばかり聞かされてきた子供がどうなってしまうの?
その一例として、「苦労自慢や不幸自慢」の人間になったりする例が多くあります。
そもそも、その親から不幸話や苦労話以外の話を聞いたことがないんだから、子供だって、自分の不幸を語るしかないじゃないの?
皆様の周囲にも、不幸自慢や苦労自慢ばかりの人もいるでしょ?

まさに、当人の親と同じように、被害というか、苦労というか、不幸を語り、そして、被害者という立場でもって自分のアイデンティティを設定するわけ。
被害者として、自分の被害を語り、被害を語ることという行為によって、「被害者としての自分」という立ち居地を自己確認するわけ。
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/04-04/04-04-19.htm


こういう人を知っている。本当に信じられない苦労の連続だから苦労を他人に語ることが人生になってしまった。そして他人の不幸を喜ぶような歪んだ性格になった。そんな人と付き合わされた自分は最大の不幸だった。最初はその人間についてはわからなかった。こうして歪んだ性格の人とつきあうことは何らか大きな害を受ける。この女性はついに弱者だったが弱者を虐待して喜ぶまでになった。
だめだめ家庭は実際にいたるところに普通にいるしそういう家庭と接して生きざるをえないのだ。
ただそういう家庭と接するとなんらかの害を受けざるをえない、ある意味で恐いことでもある。
病気になり弱者になって抵抗できないからこんな女性に助けてもらったらあとあと大変なことになる。家庭が崩壊させられるしそういう事件もあったから恐いのである。


だめだめ家庭の目次録
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/index_original.html


ここはかなり参考になる。

 

2013年04月13日

カルマの法則は現実にある (なぜ子は親と同じような人生になりやすいのか?)


カルマの法則は現実にある

(なぜ子は親と同じような人生になりやすいのか?)



カルマの法則・・・前世での行為の清算のために、あるときは義務を負う側に、
あるときはそれを受け取る側に身を置き、何度も何度も繰り返す。


ある人が何かの出来事で人の命を奪ってしまったら、その後には、同情を覚えるほどの
辛い状況が待っているでしょう。
もしかしたら、来世では医者になって、人の命を助ける仕事について、全身全霊で人(生命)を
愛し、その生涯を捧げるかもしれない。



知人に、自分の前世を、昨日の事のように覚えている看護婦がいる。
その人は、戦国時代に「山賊」であったという。戦いで傷を負って落ち延びた武者を襲い、
金品を奪い、手を切り落としたり、足を切り落としたり、時には、命まで奪っていたという。
そんなことを全部覚えているという。


そして今、勤めている病院に、自分が前世で殺した人が診察を受けに来ることもあると言う。
前世で足を切った人が、足が不自由なままに入院したり、自分が「刀」で切りつけた人が
背中に傷跡がそのまま残っていたりするという。「今は姿・顔形は違うけど、魂が同じなので、
すぐ分かるという」。


そんな人を見るたびに、「すみません、すみません」という思いでいっぱいで、
ただひたすら心の中で詫びるという。


他の看護婦さんが、あの患者さんはわがまま、扱いにくいと言う人もいるけど、
「私はとてもじゃないけど、そんなことは言えない。自分のやってきたことを考えたら、
そんな事を言える資格はない」。今はすべての人を愛したい、出会うすべての人に
ありったけの愛を注ぎ、全身全霊で人に奉仕をしたいという。
そして、休みの日には、ボランティア活動に励んでいる。
http://www.ne.jp/asahi/aquarius/messenger/books_008.htm



カルマというときそもそも前世の因縁があるのかどうかということがある。前世での悪行を今償うために医者や看護師の仕事など福祉やボランティアをしている。それが動機になるというのも不思議である。しかしこの動機は全く根拠もないものでもないし悪いとは言えない、それだけの善行を行う動機づけになっているのだ。そんなものないよと否定するのもいいが実際の動機となり善行になっているからだ。ここまで前世のことを真剣に考える人は普通はいない、医者だって看護師だって種々雑多でありこんなにしてまでこんな動機でやる人は極わずかである。そして医者や看護師でも結構性格の悪い人だって金だけを求める人だって天使が変じて悪魔にもなりやすい職業でありきれいごとはこの世はすべてすすまない。だから前世のことをこれだけ真剣に考えることは特殊であり動機が悪いとはならない、いい動機になっているのだ。でもこの前世で悪いことしたからそれを現世で償わねばならないというのはすべて否定することもできないむしろ事実なのである。


たいがいなぜ親と同じ様な人生を送りやすいのか?親の因果が子に報いとかなるのか?親が離婚していると子も離婚しやすい、親が苦労したことを子も同じ様な苦労をする。借金で親が苦労したらやはり子供も借金で苦労する。親に捨てられたという人は自分が親になったら子供捨てていたということもある。何かそういう因果がある。それはほとんど一部にあてはまるのではなく統計的な数字として確実なのである。だから家系の研究している人はそうした一つの法則があることを割り出した。親が悪いことをしていたらその因果は子に受け継がれる。それは仏教でも聖書でも同じである。三代四代までその因果が継続されたたるともなる。その罪の報いは一見関係ない子供が受けることになる。これも理不尽と言えば理不尽なのだがそれが因果の法則なのである。悪行はそれだけ恐ろしいことなのである。しかし軽い気持ちで悪は常に行うのも人間なのである。

この看護師は極端にしてもこういうことはありうるのだ。前世でないにしろ今世でもそうである。

例えば恩を受けたら恩を返すことが要求されているのだ。恩を返すことなど別にするしないは自由であると考える。でも恩を受けたことがカルマとなっているのが人間なのである。だからそのカルマが生まれたのだから返さねばならない、それをしないとどうなるのか?その人はそのカルマを返さないからカルマは解消せず自分自身を不幸におとしいれる。そういうことは現実にみている。恩を返す機会がありまざまざとみていたのに何もしなかった。ただ見て笑っていただけだったとなればその人は何だったのかとなる。それで今の不幸があるとしか言いようがない、それは自分にも起きたことだった。もちろんそれは一方的な見方だということもある。悪行の結果はすでに必ず別に死ぬ前に現れるのである。カルマ(業)をそれぞれ背負っているからこの看護師のように極端ではないにしろカルマを解消するためにはカルマは罪障でありそれが行為として示さないと消えないというのが現実としてある。


例えばここにホ-ムレスがいたとする。この人は自分とは何の関係もない、この人はよほどでたらめな人生を送ったのだろうとか思いその人の苦しみなど全く無視するのが普通である。ところが逆に人間は会社が急に倒産したりして自らがホ-ムレスにならないとも限らないのだ。そして人間は結局決して自分が苦しまない限り他者には同情しない、病気になった人は病気の人に同情するようになる。ホ-ムレスの苦しみはホ-ムレスにならない限りわからない。病気の苦しみも同じである。貧乏の苦しみもそうである。現代ではどうしても貧乏の苦しみを実感することが普通はできない、過去の貧乏とはあまりにも違っているからだ。だから医者とか看護師は別に病気などしていない人が多いから意外と病気はみていても同情しない人が多いのである。だから病人を残酷に扱う悪魔にもなりうる職業だということである。

ところがそういう人も医者でも看護師でもいつか病気に必ずなる。するとなんであのとき患者にあんな冷たい扱いをしたのかと反省する。そういうカルマの繰り返しが人間なのである。だからこの看護師は極端にしてもカルマを解消するためにはそれくらいすることも異常ではないのである。
普通はこの逆であったり全然していないからである。その結果として自らに不幸を招く、でも自分自身のことは反省しないで他人のせいにしたする。そのことは自分自身もこの六年間こんなに苦しむのはなぜだろうと考えたがやはり自分のカルマだったのである。それは今も継続中なのである。


そして仏教でもキリスト教でもシャカやキリストがどういう人生を送ったか?それが忘れているのだ。それは大伽藍に飾られて大聖堂に祭られたりしているからシャカは洞窟で暮らした乞食だったしキリストは枕するところなしというホ-ムレスだったということを全く忘れている、感じられないのである。大伽藍や大聖堂の主がそんなことがありえないとなる。でも現実は二人ともホ-ムレスだったのである。この世では住む家すら与えられなかった。今の宗教者はこの正反対である。清貧の生活すらしている人はまれだとなる。それは江戸時代からそうであった。だから宗教者ということ自体何なのかともなる。袈裟を来ているだけの見せかけだとなる。ともかく人間はいくら言葉で説教しようが自分自身が同じ苦しみを受けない限り同情することはないのだ。ホ-ムレスの苦しみはホ-ムレスになってみなければわからないし病気や貧乏もそうである。そういう同じ苦しみを受けると同情するようになるのである。そうでないと口だけになってしまうのである。だからかえって人の苦しみをみて他人の不幸は蜜の味となっているのが普通である。自分が苦しまないから実際は関係ないとなる。金持ちは貧乏人に同情しないし無関心である。

また自分が苦しんできたから他人も同じ苦しみを受けるべきだともなりざまあみろとなって同情しない人もいる。こういう人もまた多いのである。そういう人は他人の不幸を心から願っているのである。自分と同じ様に不幸になればいいと暗黙の内に願っているのだ。そういう人とつきあうことも危険である。だから現代では特に同情する人はまれである。そもそも前世のことをこれほど思ってカルマを解消しようとしているのは特殊でありほとんどないから貴重だともなる。
そういう立場の人を理解できないのである。
自分のこの六年間の苦しみもやはりカルマだった。そしてこのカルマは未だ解消していないのである

結局人間は罪の故に業(カルマ)の故にカルマを誰でも背負っている。だからこの世でカルマを消滅させる必要がある。でもかえって必ずまたこの世でそんなカルマの自覚より新たにカルマ(罪と業)を積んでゆく。するとまたカルマが消滅していないから生まれ変わり苦しむことになる。その因果の繰り返しだともなる。ただこの看護婦の場合は強制されたものでなく自らそう思ってカルマを消滅させるために人の看護をする。逆にカ-スト制はカルマによって身分制化したもので強制されてしまっているからいいとはいえない。強制されてやるのと自らが悟ってやるのでは相当にちがう。
前世など関係ないというけど現世ですでに誰でもカルマを背負わされている。そして自らもカルマを積んでゆく宿命にある。殺人を犯したような人はすでにこの世ではそのカルマを消滅することなどできない。とすると来世でまた生まれ変わりそのカルマを消滅させるために生きることになるというのも不思議ではない、殺人したから今度は医者となり他人の命を救うために働くというのもわかる。
なぜこの人はこんなに懸命に働くのだろう。金のためだけではない、本当に他人に尽くすために働いているとなるとその動機が何なのだろうとなる。それは前世からの因縁でそうなったというのも一つの解釈にはなる。


ただ人間は決して自分のカルマを認めたりしない、だからこの看護師の言うことは特殊でありまれである。逆に自分の犯した積んだカルマを他人のせいにするのだ。他人に自分のカルマを負わせようとする。それもまた普通にある。自分で自覚してカルマを消滅させようとしないで他人に押しつけるのである。借金というのがそうかもしれない、自分が贅沢するために遊ぶために見栄のために借金していてそれを他人のせいにして借金する。カルマが関係ない第三者にも負わされるのである。結局この世はそうしたカルマが充満して解消しないのがこの世だとなる。それはどなんことしたって永遠に解消しない、変わらずにカルマを積んでゆく、その大きな原因が欲望があるからになる。欲望はどんなことしたって断つことができない、そこからカルマが生まれてくる。そういう因果の繰り返しなのである。カルマが消滅するのはいつなのか、それはこの世が滅び新たにされるときしかない。人間という種が滅び新しい種になる。それはこの世ではありえないからこの世は欲で滅びるとなる。
最後の審判があり人間の欲が滅ぼされてようやくカルマが消滅するとなる。

2013年04月30日

人間は近くのことを見逃している (時間軸の歴史を知ることはむずかしい)


人間は近くのことを見逃している

(時間軸の歴史を知ることはむずかしい)



今年も桜が散り桜の季節も終わりつつある。今年も意外だったのは桜はいたるところに咲いているものだと思った。去年見た桜と今年見た発見した桜は相馬藩内でも違っていた。そんなに桜が咲いているのとなるけどここにも桜咲いていたなと身近なところではじめて見る桜があった。それもいつも行き来している六号線沿いにあった。イオンの前の一木の山桜はあれは街道の近くにあっても隠れている。街道からは見えないからわからなかった。唐神の堤の桜も前見たのとまた違っていたのが松にそえて咲いていた。これだけこの辺で桜が咲いていることが意外だったのである。
日立木の薬師堂の桜などは目立つから毎年見ている。でもまた何か違ったものとして見えてくるのも不思議なのである。それはやはり人間の心境が一年一年変わっているからなのだろうか?
心境は若いときと老人になったら全く違ったものとなる。価値観がまるで変わってしまうのである。

自分は桜は全国を旅して見ていた。その時は関西の方を中心に見ていたのである。京都の桜も見た。 そこで感慨深かったのは関西の桜を見て散ったときみちのくに帰れば咲きはじめていた。そういう空間移動で桜前線の旅をしていた。これは今やいかに贅沢なことだったか恵まれたことだったか知った。一日も旅ができなようになってわかった。自分の30年間は世間と没交渉であり旅ばかりしていたとなる。その報いがこの六年間の苦しみとなった。そして近くを行ったり来たりしていると退屈かとなるとそうでもなくなった。自分は若いとき相当に退屈していたから旅をしていたのである。

故郷にいることが平凡で退屈だったのである。東京の大学に行ったのもただ故郷から脱出したいというだけだった。勉強したいということなかった。高校でも自分は落第に近いし学校にはなじめなかったし友達つきあいもできなかった。要するに脱出願望しかなかったのである。その後そういう意識はつづいた。50才になって世界旅行したのも今度は日本から脱出願望でそうなった。日本なんか狭いから嫌だと若い者は世界へ脱出するのがトレンドとなった。バックパッカ-時代になった。


確かに日本には空がない、東京には空がないのではない、日本には空がない、広い空かないということを外国を広大な大陸を旅したとき感じた。日本の空は山が多いから区切られた空のようになっているのだ。大陸の空は山がないからどこまでも平坦な土地に空がかぎりなく広がっている。そこで天の思想や星を国旗にする感覚が生まれた。日本は空を仰いでも大陸のような無限に広がる空ではないのだ。また人間的にも大陸はおおらかだということがあって若者が外国でアルバイトして帰りたくないと言っていたのは日本は島国であり人間関係も狭苦しい、姑息になっているからだろう。
大陸的風土はおおらかでのびのびしたものになる。それはやはり風土の影響なのである。


そして今故郷から出れないとなったとき退屈になるかというとそうでもない、確かに狭い風土だし人間関係も姑息だし褊狭であり嫌である。それでも狭いといっても鹿島から相馬市まで昔の浜街道を頻繁に通っているから飽きたともならない、それは俳句や短歌にしていたことでわかる。こんなに俳句や短歌にするものがあるのかと我ながら不思議に思う。つまり広い空間軸でみたものが狭い領域でも内面的に時間軸で深く見ればどこに住んでも豊かな精神生活が送れるのだ。時間軸の歴史を掘り下げることでその住んでいる場所の意味を理解することで人間の心が豊かなものになる。外国を空間的に旅行してもわかりにくいのは印象に残らないのは長い歴史の時間の積み重ねを理解できないからである。時間軸ではまず一時よったくらいでは理解できない。だからまた忘れやすいのである。

結局鑑賞するというとき深く鑑賞するには絵画でも壺でも何度も毎日のように生活の一部のように見ていれば自ずと理解するものがある。自然とか人間の生活もそうなのである。

つまりどんなところに住んでいようがそれなりの自然と歴史が人間の住むところにある。東京などはないが地方ならある。そこで人間は時間軸で堀さ下げる、感受性を見いだし作ってゆくのである。
この感受性すら自然にその人間に備わっているものではなかった。時間軸で積み重ねで作られてゆくものだったのである。脳でも体でも天才は別にして普通の人は積み重ねで作られてゆくのである。

脳の細胞はその人の日頃の積み重ねで人工的に作られてゆくという不思議があるのだ。常に美しいものに接しようとしていないと汚いものにまぎれて見えなくなってしまうのだ。脳の細胞はその人の日頃の積み重ねによって脳を構築しているのだ。それは例えば雑学のようなものでもそうなのである。地名に興味をもったとしてもそれは雑学にすぎないとなるがそれも知識を実地に歩いたりして脳を地名学として構築していたのである。雑学ですら馬鹿にするが積み重ねがないと理解できないのである。雑学すらものにするには相当な時間の積み重ねが必要なのである。いろいろなものに心が散ってまたたくまに時間はすぎるからだ。


時間は実際は老人になればわかるけどかなり限られたものだった。もはや60代以降は新しいことを学ぶことがむずかしくなる。ただ今まで体験したこと学んだことを深化することが仕事なのである。狭い土地でもだから時間軸で見ればそこに深い意味を見い出すことができる。相馬市の新田というところを時間軸で深化するとき別なように見えてきた。江戸時代から長い時間軸の追体験をするとその土地に対してまた愛着を覚えるということがある。
それは何気ない場所でも道でもそうだったのである。
今の時間に心を奪われているとどうしても物の見方が浅薄になってしまうのである。
極端な極貧の生活が江戸時代からありそこから現代の豊かさをみるときこれは何なんだ、あまりにも贅沢じゃないかとかなぜこんなに贅沢しているのに不満なのかとか見方が違ったものとなるのだ。

花咲くは都にのみ咲くにあらじいたるところに装い咲きぬ

2013年05月01日

常識のない人が増えている (若者にも大人にも老人にも共通している)


常識のない人が増えている

(若者にも大人にも老人にも共通している)


昨今では勉学を学ぶことよりも、「常識」を学ぶことの大切さの方が強調されている感じすらあります。一般社会においてはどれほど頭脳が優秀でも「常識」のない人間は問題視され、評価もされません(あくまで一般社会ではね)。
http://www.kuro14.net/2013/04/blog-post_11.html


「気づきがない、無頓着、理解力がない」
「基本を知らない、マナーを知らない、常識がない」
「気配りがない、気遣いがない、対応が悪い」
「機転が利かない、臨機応変に対応してくれない」などなど。


企業は困っている、悩んでいる
http://www.manavinet.com/special/0801/no16.html


周りの人が右を向いているときに、左を向いてしまう
周りの人が当たり前にできる事が、全く出来ない
その結果、周りからは、
「あの人は変わり者」と思われてしまいます!

相手のことを意識できないので、仕事にならない

仕事というのは、相手が気持ちよくならないと
商品を買ってくれたり、契約を結んでくれたりしません。
お世辞や愛想笑いなどが出来ないと、仕事にならないわけです。


ただ、大人のアスペルガー症候群の人は、
他人のことを意識することが出来ません。


どういった言葉を言えば、相手の気分が良くなり、
どういった言葉を言ってしまうと、相手が不機嫌になるのか
全く理解できないのです。


そのため、物を売ったり、契約をまとめるような仕事は、
ほとんどできないわけです。


相手からは過激な性格だと思われてしまう

上記のような状況でも、
本人は悪気があって言っているつもりはありません。
自分の考えていることや思ったことを、
素直に表現しているだけで、
他に深い意味はないのです。
http://アスペルガー大人特徴.net/asupe1/page5.html


子供は、言って聞かせれば解りますが年寄りは絶対に自分の非を認めません。
その場で言い争いになれば尚、悔しい思いをしたと思います。



常識とは何かというとき定義するのがむずかしい。非常識が何かも定義するのがむずかしい。だからいちがいにすべて常識-非常識では計れない、ただみんな今の社会では常識そのものが若い者だけではないいい大人でも老人でも増えている。そう感じている人が多い社会ではないか?
若い者ならしかたない面があるだろう。でもいい大人が老人が常識を身につけていないというのはどういうことなのだろうと疑問に思う人がいる。これはなんなんなのだという非常識な人間に出くわすことが増えているのではないか?

病院であった人はそうだった。職人として家で働いてくれたことがあった人なのでそのおくさんに声をかけた。その人は重症にその時見えたのだ。そのあともどうしたのかと気づかった。同じ病気ということで情報交換もしたかった。この前話ししたら
「あんた困っているの今はディサ-ビスに通っているよ、自分のことは自分でやっているよ、あんたなにかしてもらいたいの」
これまでは確かに自分は困っていた。今も困っていることはある。でも手術してからは余裕できてほとんど困っていないのだ。その時声をかけたのは自分のことを思ってしたのではない、自分が何かしてもらいたくて声かけたのではない、でもその女性は何かしてもらいたくて魂胆があって声かけたととりうざいから声かけるなと言ったと同じである。こんな人のことを気にもかけない気遣いも常識もない人間は何なのだろうと思った。その人は60くらいになっているかもしれないし老人である。

今や老人でも常識のない切れる老人とか暴走老人とか増えている。ただこれも人によりけりでありすべてではない。これは別に人を思いやる心がないとか宗教でいう愛がないとかそうした高等なものではない、人間として最低の常識がないということなのだろう。この女性をどう理解していいかわからない。四人の人と自分は家のごたごたでかかわった。一人は犯罪者であった。一人は会社経営者だけど嘘ついて成功を装って借金をかかえていた。もう一人は夫が公務員だったけど異常な行動をした。犯罪者と異常な行動した女性はもはや常識では語れない、異常者ということになる。他は別に普通に社会生活している人たちである。


常識がない人間がふえたというときこれは若者だけではない、社会人全般に常識がない人間が増えたのである。現代は常識が養成されにくい社会なのかもしれない、常識を養成されるのは今では家族でも地域でもない会社になる。だから会社で社員教育するわてけである。会社組織に入らない人は常識が欠けやすいかもしれない、例えば職人でも職人気質と昔言って悪いものとして言われなかった。しかし現代のような社会が複雑になると人との接触もふえると対人的には非常識な人が増えるかもしれない、職人はただその技術をみがけばいいとかになはならななる。そういう職人の家族はまた非常識になっているかもしれない、でも一人親方のような職人は契約をとるために社会性があることに驚いた。技術力もあり優秀であり人との対応も知り尽くしていたのである。その人と接して自分が常識がないとなった。それは仕事上そういうふうに社会性を身につけたのである。

そもそも他人と接触することの前提として宗教と関係なく他人を思いやることが前提にある。そうでないと仕事もうまくはかどらないだろう。モノを売るにしてもその人が心をこめて売るのとでは同じモノでも違っているのだ。東北人は自分もそうだけど人との対応がへたである。関西人はつまり京都のように文化の蓄積があるところは人との洗練した対応が生まれる。それは本心でなくてもやんわりと断るとかの文化が京言葉に現れる。それが他から来た人にはわかりにくいのである。京言葉自体東北の言葉とはあまりにも違いすぎるのだ。人に対応するやんわりとした言葉なのである。


一般的に常識があるというとき人と接する職業はどうしても常識が必要とされるから常識が社会性が身につく。職人だけをやっている人や農業の力仕事やっているだけの人や工事関係でも現場で肉体労働だけしている人とかは人と対応しない仕事であり社会的常識が身につきにくいかもしれない、結局人間はその人の職業が習慣性を作る。職業はそれだけ人間を作るものなのである。だからニ-トとかはまず社会性がないから常識が身につかないから人と対応できないから職につけないともなる。

自分もそうだったから社会性がないから職業についていないからそうだった。ただ変な話だけど創価にいたとき毎日社会的に人と接していたから人と対応する言葉使いができたともなる。人間はまず集団に帰属して社会性と常識を身につけるのである。人間は何であれあらゆることを経験できないカルト宗教団体でもそれは一つの経験であり間違っていてもそれなりに得るものがある。一人の人間の経験することは極めて限られているのだ。だからこそ常識自体を身につけることがそもそもむずかしいのである。教員が常識がないとか医者が横柄で常識がないというときそれはその職業がそうさせているのだ。学者バカというのもそうである。マニアックな理系馬鹿、研究一筋の人も社会性が身につかないとかなるか。現実はとても理論通りにはいかない、複雑怪奇なのである。上からの目線ばかりで人をみる立場にあれば常識もなくなる。そして夫婦が一体だというときその夫の職業の影響を妻も必ず受けるのである。


つまり医者であれ教師であれその仕事ばかりしていれは世界を社会をその職業から見てしまうのである。この世には様々な仕事がありそれは体験できない、だから他の職業に従事するもののことをなかなか理解できないのである。こういうことはこれだけ多様な社会になると特にそうである。
原発に従事している東電の人が何をしているのかなど地元の人がしりえようもないのと同じだったのである。そうなると東電では相手が何もしらないし反論もできないとなるからやり放題になった。
絶えず不具合、故障があっても隠せる。だからそれが習慣化していたのである。どうせ誰にも追求などできない、みんな金で抑えている。こうしてしそれが大事故につながったのである。

無数の職種ごとに常識も違っているとなれば常識自体何を基準にしていいかわからないとさえなるのだ。常識がない・・というときカルト宗教
団体でもその権力を背景に誰も責められないとなり警察も味方だとなれば非常識なことでも社会に通るとなる。検察官僚組織でも非常識なことが権力で隠される。警察関係もどうしても権力をバックに横柄になり常識が欠けてくる職業だとなる。
常識非常識というときそれは個人の問題でもあるがその所属している会社や組織や団体の問題でもある。


今回自分が経験したの非常識な女性は個人的要素が大きいだろう。ディサ-ビスに通っていて自分のことは自分でやっています・・それだけ言えばいいことだった。そうですかと言ってこちらも終わりであり傷つくことはなかったのである。お前はオレに何かしてもらいたいのかという言いぐさがあまりにも人との対応で非常識だったのである。田舎の人間はあけすけにモノを言うにしてもちょっとひどいと思った。そこには嫌であってもやんわりと京言葉のように言えば傷つかなかったともいえる。
こういう人は全く他人は無視であり気づかっていないのだろう。自分がきらいだからということでないみたいだ。
人間は人をみないで接すると大変なことになる。ただ非常識な人であれ犯罪人であれ人間はこの世にいる限り否応なく接触する。
それがさけられないのだ。ただ人間がいかに人を見ることが大事か思い知らされた。
ちょっと声かけるにしても素直でない人も嫌う人もいる。こっちが善意でも相手は悪意にとる。そいうことは常に起きてくる。
結婚も結局人を見分けられないから離婚が三分の一とかふえる。家と家の結構、どういう家で育ったか見て結婚した方がうまくいっていたともなる。女性などはどういう家で育ったかでかなり影響されているかもしれない、余りにも顔とか外形だけ判断すると失敗する。
あとになって顔などさほど問題でなく人間は気持ちだとかなる。顔見ただけでも人間はわからないのである。

2013年06月11日

因果はめぐる (カルマを断てないのはなぜ?-親と同じ人生を歩む不思議)


因果はめぐる

(カルマを断てないのはなぜ?-親と同じ人生を歩む不思議)


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因果がめぐるというとき必ず親の代からつづいているのだ。親の因果が子にめぐってくる。
これは迷信でも何でもない、数学のように確実なものである。避けようにも避けられない宿命としてみんな負わされている。


なぜ親が夫で苦労したものはその結婚した娘もその夫で苦労している
夫に苦労する運命にある不思議である。


因果がめぐるとしてもその本人はなぜそうなったとか気づいていない、因果は冷静になって客観的にみると見えてくる。ある程度偶然のいたずらでなく合理的に判断できることである。

ただ本人はなぜこうなっているのか?なぜ自分だけが不幸を負わされているのか?それで神仏に頼ったりする。でも神仏に頼っても解決しない、なぜか?
それはギャンブルで借金して困って神仏にいのるのとにている。
そんな勝手なことを誰も神仏だって聞いてくれないのである。
でも人間は勝手だから自分の不幸の原因を合理的に考えない
仏教には何かわかりにくいのだけど合理的に人生を考えるものがある。
一種の積み重ねられた人生の謎を問題を長い時間の中で何代もの時間の中で考えたのである。
それがインドに起こったということはそれだけインドではすでに数千年とか長い時間を人間が生きていたからその長い時間で人間はなぜこうなるのかということを思索して生み出されたのが
インドの哲学であり宗教だった。


つまりカルマという考え方もそうである。カルマ返しというのがあるのもまたそうであった。
必ず人はカルマを積んでゆく、カルマは因果はめぐるでくりかえされてゆく・・・
そういう例を身近で親族の中で見られる
カルマは決して一代で終わらない、その子に孫にとひきつがれてゆく、ただすべてが悪いものとして引き継がれるのでもない、一般的には悪いものとして引き継がれるのが多いのだ。

だからどこかでカルマをたちカルマ返しをしなければ延々とそのカルマは子孫に受け継がれることになる。

ある人は自分が母親に捨てられたと思い母親をうらんでいた、でも自分も施設に自分の子供をあづけるはめになった・・

親と同じような結果になった。そういうことが身近で常に起こっている。カルマが延々と人間の生があるかぎりつづいてゆくのだ。どこかで断とうとしても断てないのが人間のカルマなのだ。
だからカルマとは業でありキリスト教なら罪であり原罪だともなる。


親を批判して恨んだりしている子供も親になり同じ親になってるのだ!


そういうことは人間はあくことなく延々とつづけてきたのだ。だからインドのような長い時間を積み重ねたところではカルマの思想が生まれたのである。人に害を与えたらカルマをもつ、そのカルマをどこかで返さねばならない、そういうカルマをもったことになるのだ。一方で良いことをしたら善のカルマをもちその人に返ってくる。でもそれが自覚できない、だから恩を受けた人にもその恩をカルマを返さないからまだカルマを積むことになりカルマから脱せられないのである。

恩を仇で返すということもありそうなると二十三重にカルマを積み逃れなくなるのだ。
そして自分はそのことに気づいていない、自分はやることはやっている、非はないと思っているからこそ神仏に頼り祈るわけである。そういう身勝手が人間には常にある。

つまりカルマを指摘しても人は聞かないのだ、聞く耳をもたない、自分はやることはやっているとみんな思っている。もちろん恩も返していると思っているし第一恩すら感じない人もいる。
だからそれを言ってもなんにもしないしかえって必ず怒ったりするのである。

人は自分の非を認めないし罪を犯しても自分は悪いと思う人は少ない、反省したり悔い改める人は少ないのである。ただただ親でも他者の非を責める人が多すぎるのである。
カルト宗教団体ではたいがいそういう人が集まっている。
身勝手な人がいて神仏に祈り自分の勝手な願いを神仏に要求している。
そういうことを許すのは指導する人もただそういう身勝手な人たちを利用して自分たちの欲望を達成することしか眼中にないからどうでもいいわけである。


カルマの法則というときそれは数式のように確実になっている。だからインドの宗教は合理的宗教であり極めて哲学的なのである。ただやたらむずかしくしたのは僧侶階級が形成されて宗教の独占からそうなった。それで逆にあまりにも簡単な題目だけを唱えれば救われるとか日蓮宗や真宗が普及した。それは文字も読めない時代の人を対象だった。今は庶民でも文字は読める、だから合理的哲学的に探求する仏教や宗教が必要ともなる。いろいろわからないにしてもカルマということについては具体的にあまりにも回りにその具体的例がみられるから理解しやすいのである。
題目をやたら唱えてもカルマは消滅しない、カルマを理解してカルマを断つ具体的なも行動が必要になっているのだ。


カルマの法則は現実にある
http://musubu.sblo.jp/article/64859154.html

2013年07月19日

家系の謎 (悪い因縁は簡単に切れない、結婚すれば相手の家系の因縁を受ける)

 

家系の謎

(悪い因縁は簡単に切れない、結婚すれば相手の家系の因縁を受ける)

この世で人間の運命ほど不思議なものはない、運命とかは出生の不思議は何なのか?そこには神の関与もあるのかとも思う。家系でもそうである。なぜ夫で苦しんでいた親がいてその娘も同じ様に苦しんでいるのだろうか?別にそういう夫を選んだわけではない、結果的にやはり夫に苦しめられるようになった。親と子が同じ運命になった。なぜそうした夫を選んだのか?見合い結婚だとするとそんなこと結婚するときはわからない、でも結果的にはなっていた。

母親の違う兄の父は工場で事故で死んだ、その後その父系統の親戚とは音信不通となった。その息子も今度は交通事故で死んだ。これもなぜなのだろうとなる。祟りだといっても自分の息子には祟るということはありえないのだ。二代にわたって同じような運命になりうることは多々あるのだ。

カルマだと言えばカマルになる。カルマといってもせいぜい三代前くらいまででありそれ以上はカルマは継続しないと思う。だから前世からの因縁だというのはわかりにくい。
明らかなことは二代くらいはそうしたカルマが悪い因縁はつづく、因縁とはなかなか断ち切れないものである。親戚でもめる人が多くても縁を切れないのはそれだけ親戚になると甥姪子でも結構因縁が深いものとなっているからだ。

一旦夫婦になったらその因縁は深いものとなる。だからなかなか因縁を絶つことはむずかしくなる。別れても追い回され殺されている妻もいる。だから一旦因縁を結ぶことは恐いことなのである。
簡単には切れなくなるからだ。だからこそ結婚の相手は相当に問題になる。その家とか家系とかの影響を受ける因縁を引き継ぐといかことがあるからだ。因縁は実際は相当に恐いものがあるのだ。

結婚することは二人だけの問題ではない、必ず相手の家庭や家系とも関係してくるから恐いのである。二人が愛し合っていればいいではないかというのが現代の結婚だけど実際は結婚することは相手の家族や親戚や家系と深く関係してしまうことなのである。そして一旦結婚したらその因縁の中に否応なく組み入れられるから悪い因縁でも断ち切ることはできなくなる。もちろん相手のいい因縁も受ける。ただ悪い因縁も受けたらその影響は大きいのである。


ただ悪い因縁でも二代くらいまでだろう。祖父が事故で死に息子も事故で死にその娘も不幸でったが四代目の曾孫くらいになるとそうした悪い因縁も断たれてきていい因縁に変化することもある。
余りにも悪い因縁はつづくことは良い因縁に変化するということもある。悪いことがつづいてもいつまでもつづくとはならない、そういうものは一つの膿(うみ)みたいなものかもしれない、一度出してしまうと体が良くなるように好転することもありうる。

自分もここ6年間はどうにもならない悪い因縁の中に組み入れられて苦しんだ。凶運は五年くらいはつづく。そういうときはどんなことしても悪いことがつづくのである。悪いことが重なるのである。そういうことは誰にでもどの家族でもありうることである。
その家族か特に呪われたというものでもない、そういう運命に誰でも陥る時があるのだ。
そういうときカルト宗教団体に入っても解決しない,かえって悪い方向に悪い因縁の中に組み入れられてしまう。


ともかく地震であれ津波であれ原発事故であれ本当に凶運だった。なぜこれほどはの凶運になったのか?人間が非情なとき自然も非情無情になったのかもしれない、地震や津波は規則的に襲う自然現象であり人間のこととは関係ないというけどそうでもない、人間が乱れるとき自然も乱れるのだ。
江戸時代が比較的平穏だったのは貧乏でも人間の心はそれほど乱れない、素朴さをもっていたからかもしれない、今は人間の心は冷たく異常であり非情化している。明治維新後の変化は大きすぎたのである。大きな戦争が二つもあり犠牲が多すぎた。それも異常な時代だったのである。


人の運命もあまりにも不可解だから誰かが神が人生に関与しているとさえ思う。自分にしてもある時死んでいたかもしれない、そこて死ななかったのは神が見守り助けてくれたともなる。そういう経験をしている人は結構多いのだ。ただすべてが宿命だとか運命だとかはならない、いくら不遇に生まれてもその人の努力によって運命は変わるのだ。不遇を嘆く人は多いけどその不遇を嘆いてばかりいて呪っていると結局その不遇から脱することができないのである。

ただ人間の運命は不可解でありそれはなぜなのだろひうとなると前世の因縁だとかいろいろなことを言う人がいる。

人間はこうして人生もそうだが自然でもわかっていなかった。人間を超えた力が働いている。科学もそうした大きな力を越えることはできなかった。科学がいくら発達しても人間の謎は解けないし自然の謎も解けることはないのだ。だから神の前に謙虚になることが要求されるのである。
原発でも核のことなどまだわかっていなかった。だから一旦事故になったら終始がつかないものとなったのだ。


自分の凶運は一応終わったように見える。やはり健康が回復したことが一番大きかった。健康でありさえすればたいがいの凶運ものりこえられる。健康がなくなるとき人間はどうにもならなくなる。

まあ、なんとか客を迎える準備はできた。それだけの余裕もできたから客も迎えられる。
とても余裕が客をもてなしたりできない、相手もきづかったりすることもできない、自分が健康でないかぎり相手をきづかうこともできない、また借金している人もできない、借金している人は本当は相当に恐い、暴力団に借金で追われ自分の妻や子供まで保険金をかけて殺すとかそれほどまでに追いつめられる。それは架空の小説にしてもそれだけ追いつめられるから借金している人は恐いとなる。そういう人が自分のんにはいなかったことが最悪だったのだ。そういうとき相手も必死だから自分の弱さにつけこんで病気のことなどかまわないし入院しても脅迫するようなことをしてきたのである。だからそういうふうに追いつめられている人間は恐い、それで凶悪な殺人も起きているのがこの世である。


ともかく悪夢の時はすぎた。これからは良い方向に向かうのか、まだ不安材料があり介護しているからわからないけど何かそうした最悪の凶運過ぎた夜討ち思える。

2013年08月19日

カルマとはそもそも何なのか? (カルマは借りであり必ず返すことを要求される)

 

カルマとはそもそも何なのか?

(カルマは借りであり必ず返すことを要求される)


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●借りは金銭だけではない、必ず返すことを要求される


貸し借りをしたということがハッキリとは分からないこと、「まさか!そんなことが貸し借りになってしまうの?!」

誰にいくらの借り(負債)があるのかということが、生きている時に顕在意識ではあなたには分からないというところです。


「あなたにはいつこれだけの貸しがあったよね。今それを○○の方法で返してね」とどこかの誰かに言われてしまう可能性が大きいということを意味します。


AさんはBさんに1億エネルギーの借りがあったので、Bさんに借金のかたにあなたへの1億エネルギーの貸しを渡す。

世の中には偶然もなければラッキーもアンラッキーもない。

必ず貸し借りは精算されるようになっている。

貸しはいつか必ず返ってきます。あなたが返してねと求めなくても返ってきます。なぜならそういう法則が存在するから。
http://www.circulation.co.jp/bhs/column/column37.html


ここのサイトは不思議である。人間の借りは必ず返さねばならない、借りとはカルマなのだ。親子の間では別に子が親に借りがないというけど実際はある。自分の親は子供のときだけではない大人になってからもさらに六〇頃まで食事の用意をしてくれた。それを自分は当たり前だと思っていた。

そういう人は今の時代にはニートとか結構いる。子供のときはやむをえないとしてもそれからいい大人になっても食事の用意とかをしてくれるとなると相当な借りができていたのである。だからその借り(カルマ)は返すことを要求される。今や介護に追われているのもそのためである。毎日食事を作って出している。自分がゆっくり食事できないこともある。食事は運ぶだけで結構手間なのである。
食堂がなく台所と食事するところは離れていることで運ぶことが手間になっているのだ。
自分の場合は明らかに借りを返すことを要求されてそれをしている。そのカルマの借りの自覚がこの年だからわかってやっている。普通はこの人の言うように何か借りなのかわからないのだ。

どこでそんな借りを作りましたか?借りが何か自覚できないのである。でもいづれその借りをカルマを否応なく自覚させられるときがくる。それが60以降から明確に現れてくる。否応なく自覚させられるのである。六〇代の人を見ればわかる。人生の総決算のようなことが現実として結果としてカルマでも課せられて拒否することができなくなる。ただ自分に何の借りがあるのか自覚できないのである。それが否応なく六〇代になれば自覚させられるのが恐いのである。その前に手をうっておけばこんなふうにはならなかったと後悔しても遅いのである。


●大きすぎる借り(カルマ)はもう返せない


まず生活保護の人などは一見今や恵まれている。この貧乏時代になり生活保護の方が恵まれているのが批判されるようになった。でも実際本当にそうなのだろうか?生活保護って一切が借りになっていないか?国民から膨大な借り(カルマ)を作っている。でも生活保護者にはそうした意識がないのである。当然の特権だと思ってい人もいる。でも生涯生活保護になると一億円以上の金が国民から使われることになる。一億円借りたらもう返せないのだ。もうカルマは借りは返せないのだ。そしたら結果的にどうなるのか?かえって一億円得したではないかと思っているが実際は返せないために人生が破綻する人が多いのではないか?あまりにも借金が借りが大きくなると返せなくなる。積もり積もって返せなくなる。そういう人がいてその借りを自分にも要求してきた。だから自分が病気で苦しんでいることも借金の要求するにはチャンスとまでなって迫ってきたのである。借りを返せなくなると逸れか犯罪者に近くなってくる。そして人生が最後に破綻してくる。生活保護者の子供の四割がまた生活保護者になっているということでもわかる。借りが大きすぎるからもう子供でも返せないのである。せいぜい一割から二割くらいの特別優秀な人しか返せないように思う。

生活保護がすべて悪いとはいえない。老人の生活保護は違っているし障害者も違っている。老人は別に一律に一〇万とか年金を支給した方がいいようにも思う。ただ生活保護が長びくと借りが大きくなりすぎるから人生そのものが破綻する人が増えてくるのではないか?そういうふうに自覚している人も少ないのである。
借りそのものカルマが自覚できないからまたカルマが輪廻してゆく、その借りとはどんなものなのか自覚できないのである。カルマは図のようにBがAにカルマを負っていたとしても返せば逆にBがAにカルマを負う夜討ちなっていても気づかずにカルマを要求してくることがある。いつもカルマは一方的な関係ではない、変化しているが変化していることにもカルマはきづきにくい。だからそこで理不尽に思う。こっちがこんなに尽くしているのに相手は何もしてくれないとかなる。そういうことは人間関係では日常的に起きているのだ。


例えば変な話だけど自分は旅ばかりしていた。すると「お前はどれだけ旅館やホテルに泊まり世話されたか?それがお前のカルマだ、借りだ」とまでなる。だからお前は今度は旅人をもてなすことで借りを返さねばならないとかなるかもしれない、まだ生きる時間が長いとするとそうなるかもしれない、実際に世界を旅して世話になったからとボランティアで一室を世界の旅人に提供している人がいた。旅でも借りを作っていたのである。あまりにも病弱で医者や看護師に世話になったりするとその借りも相当に大きくなっているかもしれない、そしてその借りを返すことを要求されるかもしれない、医者になった人が看護師でも前世では医者や看護師の世話になることが多かったから今自分は恩返し借りを返すために医者や看護師をしているという人もいた。人間は借りをもたない、カルマをもたない人はいないのである。そのカルマが借りが大きくなりすぎるともう担いきれないのである。
莫大な借金をしているともう担いきれないから人生が破綻する。回りにも多大な迷惑をかけて破綻する。生活保護者はそういう危険があるけど自覚している人は少ない、もし自覚したら必死でそんな借りのカルマの生活をしようとはしないだろう。カルマは借りが自覚できなくても必ず最後は自覚させられる、借りを返すことを要求される。


●金銭的な貸し借りも神の帳簿に記されてごまかすことができない?


金銭的にも何か不思議なのだけどそこには神がかかわっている感覚がある。自分が経験したことではそうである。大金を盗まれて失ったのもやはり自分の借りがあったからかもしれない、ただ盗んだ方からすると大きな借りを作りカルマを作ったからその借りを自分はしなくても誰かから厳しく請求される。その金額にみあった額が厳しく請求される。でも生活保護者のようにその借りが自覚できないのである。一億円盗んだら誰も絶対に返せないからその借りは払うこともできずに残る。それは地獄までその借りをもってゆくことが恐いことなになる。10万だったら返せるだろう。でも一億円となると誰も返せないから、その借りをカルマを担い死んでゆくからまた生まれて輪廻してそのカルマを返す生を送るとなる過酷なことになる。この借りは例えば知らず担っている人もいるのだ。多額の収入を得ている人もそうである。そもそもそんな一人でそんな多額の収入を得ることは不可能だからである。みんなの協力があってもうけることができるからだ。その収入が身に余るものとなるときそれはその国だけではない全世界へのカルマに借りになっているのだ。だからすでに大金持ちは世界を支配するサタンと化しているともなる。

常に言われるロックフェラーやロスチャイルドがユダヤが金融を支配して世界を牛耳っているとかなる。要するにその操作する金がすでに天文学のような数字になっているからであある。何か巨大な権力化するところ金の集まるところはサタン的になっていないか?
カルト宗教団体でもそうであり政府でもそうであり官僚でもそうであり東電のような大会社でもそうであった。その巨額な金が借りなにっていて返せなくなっているからそういわれるのである。金がありすぎても借りになっている。借りは返せねばならなくなっている。


この借りを返さねばならないというときこれは自然界でもあるかもしれない、なぜ津波でこれほどの被害が犠牲があったのか?やはり海の恵みがあり恩恵お大きかった。人間は自然にも大きな借りがあった。その借りを返すことを自然界からも要求される。自然に何を返すのだとなるがそれは海の恵みに対して感謝の気持ちをもつことだった。常に海の恵みなど農業と同じ様に足りない足りないとばかりになっていた。もう漁師とか農民になる人はいない、後継者はいない、もちろん自然界に恵みを感謝するような人もいなくなった。ただ足りない足りないというだけであった。それで原発を誘致した方がいいとなりその原発が津波で破壊された。それは自然界からの罰だったかもしれないのだ。

借りをカルマを返さないものには恐ろしい罰が与えられる。卑近なところでも金銭の貸し借りでもそれもごまかすことができないように借りは返さねばならない、変な話だけど大金を盗まれたとしても別な方からもどってくることもある。盗んだ本人は返さないとしても他の人から厳しく取り立てられたりする。その盗んだ分が他から補てんされたりもする。金銭の貸し借りも公正でありごまかせないところがある。貸し借りでは金銭が具体的でわかりやすいのである。金銭のやりとりのなかに神が関与しているのではないか?何かそういうことを自分の経験で感じたのである。


●神話も人間への借りへのカルマとしての罰を伝えていた


シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。


これもまたカルマだったのである。何か人生で有意義なことをしないものは借りができてカルマとなりそれが罰となり無意味なことを延々とさせられる。有意義なことをしなかった罰としてそうなっているのだ。人生何も苦労しないで遊んで暮らせればいいというのもある。ただ働くことだけが有意義なことではとない、働きすぎた人はただ蟻のようよ働くばかりで花にも自然の美に感じることがなかった。これも異常なことだったのである。だからただ働くことだけが意義あることではない、働く意義は他人に押しつけられるものではなく自分が見いだしてゆくものである。それが自由社会では特にそうなる。そのために働かない時間も与えられるのが自由社会であり豊かな社会なのである。でも結果的にその自由が遂に何も働かずに働くことを見いださずに終わるということもある。なぜならなかなか自分で働く意義を見いだすことがむずかしいからである。働く現場にあって働いていると働く意義も見いだしやすいのである。家事でも働く意義がありそれは働いてみないとわからないのである。労働の意味は自分で働いてみないとわからないことが問題だったのである。


ともかくカルマというとき人間は何かしら必ず借りがある。すでに生まれたら親の世話になるし地域の世話になるし国の世話にもる。すると国のカルマも借りも背負うことにもなる。そういう大きなカルマの借りの自覚をもつ人はよほど優れた人だろう。普通は狭い身近なカルマしか意識しないからである。大きな国となるとそれぞれカルマを背負うことになる。戦争でもいろいろ言うがアメリカの原爆はもうぬぐいされない大きなカルマを借りを日本に作ってしまったのである。それは日本だけではない世界にそんな世界を破滅させるほどの武器を作ったことでカルマを作ったのである。だからアメリカはこのことで未来永劫このカルマから逃れることはできない、だから日本を守ることはこのカルマの故に要求できるのである。どんな言い訳してもこんな大きなカルマをのがれることはできないのだ。だから日本の戦争が悪いものとして中国や韓国にアメリカの正当性を主張させているのも矛盾なのである。アメリカは原爆を落としたことで日本は必ず復讐するとして恐れたという今も恐れているというのは本当だろう。それは良心の恐れでもある。その恐れから呪縛からは逃れることができないのである。それだけ原爆の罪は大きかったのである。

2013年10月05日

カルト宗教が簡単に消えない理由 (人間の弱み、不安が消えないから)

 


カルト宗教が簡単に消えない理由

(人間の弱み、不安が消えないから)

●「悲しむのは幸いである」と思っている人はいない


カルト宗教というといろいろある。なぜカルトがこれほど世の中に跋扈して消えないのか?そこには深い人間の不安と恐怖に根ざしているからである。カルトという時、あらゆるのがカルトになりうる。カルト宗教団体だけがカルトではない。宗教団体になると権力を持つカルトだから悪質になる。宗教が権力を持つと最悪になるのだ。
宗教はそもそも権力否定がありあらゆる宗教でも根本にある。


心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである


聖書にこう書いてあるのは誰でも知っている。しかしこの意味が何なのか知っている人は非常に少ない。なぜなら世の中の一般の人が求めているのはこの正反対のことである。
心の貧しいものにはなりたくない、心の豊かな人になりたい、それより物質的に豊かになりたい、とにかく金が欲しい、それが先決だとして毎日必死で働いている。
貧しいとはここでは心の問題になっているけど物質的にも貧しくなりたくないためにどこの国でも必死に経済成長を計る。人間か貧しさ肯定して生きてきたことは歴史上ないのだ。ただ様々な事情で豊かになれないだけだったのである。

悲しむ人は幸いである・・・

これもまた何なのか?人間はなぜ悲しむことが幸いなのか?これも全く世の中の常識とはあまりにも違っている。この世の中で悲しむことが多ければ多いほど幸いである。
ええ、そんなことがありうるのか?これほど理解できないものはないのである。

この世の中まず金かない、貧乏だと悲しむことが多い、いろいろと不自由になるし金がないということて悲しい思いをすることが多いし馬鹿にされたり相手にされないこともあるからみんな必死で金持ちになろうと毎日あくせく働いているのだ。
こういう教えをまともに受ける人はこの世ではほとんどいないのである。

人間は貧しいもの弱いもの悲しむものがまた多数いる。だからこそ宗教が生まれた。
宗教はそうした根本的には解決できない弱さから生まれている。なぜならあらゆる人が絶対的に強者にはなれない、そう願ってもなれない、ニーチェは狂気になって死んだ。
ただ人間は病人のようになるようにあのように自然の中で健康に生きたいと思うのは自然なのである。だから自分も上野里氏などにあこがれたしそういうことは人間にとって別に変わったことではない、人間は強く健康に生きたいと思うのが普通なのである。
ところが現実にはそういうふうに生きられないから宗教が生まれた。

 
●誰も社会的弱者にはなりたくない


カルト宗教団体に入る人はいろいろ理由はあっても社会的弱者の人が多いわけである。
生活保護者が多いというのもそのためである。そういう人は弱者なるが故に「悲しむものは幸い」だなどと心理的に精神的に肯定などしない、この悲しみは何なのだ、なぜ自分かこんなにしこんなに社会的に貧しく損ばかりしているのか、金にもならずは底辺で働かせられているのか?一方で上を見れば楽して悠々暮らしている人たちがいる。あぜあの人たちはあんなに社会的に得しているのか?そういう不満がものすごく渦巻いている。
その不満がカルト宗教団体に入る動機になる。


例えば就職するにも保証人が必要でありそれて苦しんでいる人たちもいる。この保証人問題も実は社会的弱者であることの証明なのである。保証人もいない人は社会的弱者と認定されまともな会社に就職することもできないことになる。自分もその一人になってわかった。就職するにも保証人が必要だということは社会の有力者だったらコネ入社とか他にも公務員の親戚がいたり大企業の親類がいたりとか何か社会的ステータスのある人が保証人になってくれれば社会もその人を信用して就職もスムーズにいくことがある。そういう面でも社会は必ず差別してくるから悲しい思いをすることか弱者は多くなるのだ。そういうことて「悲しむの幸い」だなと納得するものはいないのである。
なぜこんなに弱者は損するのだと憤りになるのだ。だから保証人問題でも弱者いじめなことがわかった。


ではこうした弱者でなくなるためにはどうするのかとなるときそういう不満の捌け口がない、そこでカルト宗教団体がありそこに入ると創価でもそうだがあれだけの大きな団体になると弱者も強者になれだろうと思ってしまう。つまり弱者でも助けてくれるだろうと思う。現実にそういう面は確かにあるのだ。何か現代は親密な村のようなコミニュティすら家族の紐帯も弱くなる時、そういう団体に頼り安いのである。コミニュティの中心に神社があたというときその神社も明治以降は激減したことでもわかる。明治以降は社会が激変した。明治以降からやはりカルト宗教団体というものが増えていた。自分の考えではカルトとは宗教でも団体化した者かカルトである。団体化することは権力化することなのである。社会では一人は相手にしない、二人以上になれば団体であり二人で訴えれば何かしら社会ではとりあげる。だからこそ何か不満があれば団体化して訴えるのが民主主義でもある。要するにただ悲しむものは幸いなり・・そんなことより悲しまないように団体化して社会に抗議しして自分たちの不満をはらすことだとなる。


個人的にはオームの浅原も池田大作もものすごい劣等感の塊だったということを書いた。ヒットラーも芸術家になりたかったがなれないのて政治家になりあのような独裁者になった。そこに歪んだ性格が形成された。それで仏教に学んだがそれは社会に宗教で団体化して復讐するためだった。見ろ、自分には800万の仲間かいる。この人たちを俺の一声で動かすことができる。見ろ、金は一兆円もある。銀行に積んであるから銀行の幹部が頭を下げる。銀行も金を持っている人は優遇する。自分もたいした金でないにしろ投資信託などは申し込んだら歓迎される。あれも今や銀行の収入源になっているのだ。
警察も官僚もそうだが銀行も権力的な場所になっている。だから創価ではそうした権力的な場所をおさえようとしている。警察にもにらみをきかしている。警察も怖いからそうした団体にはあまりかかわらないようになる。それはまさに東電ともにていたのである。
あそこも資産が三兆円とかあるとなっていたから驚きである。


実際に現実社会は権力で動いている。だから現実的になればこの世の権力的場所をおさえることだとなる。池田大作を批判するもの世から抹殺するほどの権力をもったのである。マスコミも政治家も官僚も銀行も彼の前にひれふす、巨大な権力集団の前にひれふすようになったのである。
ともかくカルト宗教団体に入っている人はそういう社会に不満があり恨みをもっている人が多い。それを晴らすために権力を得たいがために運動することになる。権力さえ得ればこんなに悲しい目にあわずにすむとなって運動している。怨念の宗教でありそこに何かに感謝している人など一人もいないのである。


確かにこの世で弱いものは相手にされない、金のないものも相手にされない、みじめな思いをするからこそ金を得るために必死になる。例えば保証人問題でもそうだが警察も権力集団だから権力あるものにはこびる。社会的有力者なら事件でも動く、ところが社会的弱者は犯罪にあっても警察は捜査しないということもあるのだ。現実になぜ東電の会長であれ幹部であれ何の罰も受けないのかわからない、外国の東電の会社に以前として留まり暮らしている。これも以前として東電の幹部は大企業の幹部であり社会的強者になっているからだ。検察も実際は東電の天下り先であるからグルでもあったともなる。官僚とか大企業の幹部はいい思いだけをする。あれだけの犯罪を犯しても罰せられることもないのだ。一方で百円盗んでも刑務所に入れられ人もいる。そういう不公平が公然とまかり通っているのがこの世の中である。


だからこそみんなカルト宗教団体だけではない、社会的強者になりたい、権力を持つ側になりたいとなる。それでカルト宗教団体はすべてそういう人々の欲望を知っているからこそ今は底辺の生活でみじめでも創価が社会の枢軸をおさえて支配するようになる時、権力を行使する側になりいい暮らしができるようになると説いて毎日票集めに必死になっているのだ。それは多分に共産党もそうした底辺層を相手にしているから同じ傾向がある。中国でも不満分子が相当いるからそういう人たちを宗教で集めた。カルト宗教団体というのはすでにそれだけ古いし人間そのものがやはり変わらないから形を変えて似たものが生まれてくるのでてある。


死の病から人を救う宗教団体は、圧政に苦しむ庶民の不満と結合して、黄巾賊と呼ばれる一揆集団へと発展していく。張宝(ちょ一つほう)張梁(ちょうりよう)張角の弟たち。彼らの死後も、漢朝の政治に不満を持っ民衆は、黄色い布で髮を結い、度々、蜂起した。


人間の最大の弱点は今でも病気である。医者でも直らない病気があり以前として宗教に頼る。創価に入る人の動機も最初はそういう人が多かった。不治の病になったら直るとなればどんなものでも信じるようになるのが人間の心理なのである。これだけ科学が宗教のようになってもやはり直らない病気が多いからそうなる。それたけカルト宗教団体が跋扈するのは古い歴史がある。というよりは人間の根本的問題として人間の弱さや社会的差別や不満が解消しないからそうなる。創価は武力革命さえ一時は目指していたからにたものだったのである。
結局権力を目指すものは宗教であれ社会主義のようなイデオロギーであれ何であれみんな同じである。まさに黄巾賊であり三色旗とかもシンボルにしてるからにているのだ。

信長に反抗した念仏宗の真宗の集団もそうだった。大坂城の前進はその寺院の跡に建てられたことでもわかる。宗教的集団は政治的集団と化しやすいのである。カトリックも権力をもったから政治的集団と化して腐敗した。

ともかくカルト宗教団体を否定してもこうした人間の根本的問題がある時、いくら否定してもまた形を変えて社会を席巻する。これも人間社会のカルマだったとなる。歴史を繰り返すとは団体でも社会全体でもそうであり個人的にもカルマは解消されず延々とつづいているのだ。人間の最後は罪の最後の審判であり滅亡に定められているのだ。その滅亡はノアの洪水の再来かもしれないし核戦争かも知れないし今回の放射能汚染で水も空気も汚されいつのまにか人類は死滅していたとなるかもしれないがこの世はいつか必ず滅亡するのである。ただその時期はわからない、おそかれ早かれそれは神が成すことであり必ず人類滅亡の日は来る。


●人間はみんな最後は弱者になる


自分が経験した身内のことでもあれだけ健康で優秀そのものだった女性が最後は認知症になり本当に馬鹿になってしまったということを書いてきた。これも信じられないことであり人間かいくら優秀だと言ってもいかにもろいものか?一転して百の評価だったものかゼロになり人生の落第生になってしまった。これも人間というものはいくら強く健康に生きたいと思っても最後はみんな老いて体もだめになり頭もだめになり人間そのものが崩壊してしまう恐怖がある。だから三島由紀夫も老いることの恐怖でボディビルダーのような体を作り自殺のようにして死んだ。老いることは男性でも女性でも恐怖なのである。
それはこれまでもっていたものをすべて失うことに通じているのだ。

その恐怖から誰も逃れることができないのである。老人になるとなぜかえって権力や金に執着するのか?なぜ老人は金を持っているのに使わないのかとかいろいろ若い世代に責められている。でも一体誰が今老人を敬う人がいますか?金がない老人は死ねと叫んでいる。そういう時当然老人は若さもないのだから権力や金に執着するようになる。その権力も金もない人間は死ねといわれれば当然そうなるのではないか?金がなくなったり何の価値もないとなれば金は使わないし執着する。金意外の価値は何も認めないということになっているからだ。でももし若い世代が決起すれば老人など弱者だから金など奪うことができるのだ。若い者の方が老人より実際は力があるからだ。ただ本気でそうしないだけなのである。


前にも書いたけどカルトは別に団体化したものにだけあるのではない、個々人がカルト的体質をもっていたのである。自分が身内に障害者をかかえたときや自分が病気になったとき明らかに自分も弱者になり個人的に脅されたときほど恐怖を感じたことはない。
結局自分のこの六年間の苦難でいかに弱者が悲惨なことになるか身をもって経験した。
あらゆることで弱者化していたのである。これは金があっても病気になったりしたら誰でもどうにもならない、弱者化するのである。そのとき例えばカルト宗教が入りこんでくる。先祖がどうのこうのとか何が悪いのとかどうかと言われる時信じやすくなるのだ。
それは権力をもった団体だけではない、個人でも弱者を恐怖におとしいれる。


親戚の人はもともと弱者だった。それで創価など一時入っていた。その人間が実は弱者をいじめるカルトになっていたのである。自分が病気になったことをいいことに入院している時も脅してきた。借金しているからいろいろと金が欲しくて脅迫のようなことをしてきたのである。借金している人は普通に殺人まで追い詰められるから怖いのだ。自分を苦しめた人間も実は弱者だったのである。一人は病気の時、火事場泥棒をしたがその人も金に困っていて弱者でありおいつめられていた。だからこそ自分が弱者になったとことをいいことにそういうことをした。津波の被害の時もそういうことがあった。そういうことをするのは金に困っているからそういうことをするのである。金に困らない人はそんなことをしないのである。弱者は弱者を助けるのではない、弱者化するときそこをついてきて襲ってくる、それか戦国時代でもあった。それが人間の真相でもあった。


結局人間は弱者に甘んじる人は一人もいない、悲しむ人は幸いである・・などと満足している人はいないのである。そうして弱者としてひどいめにあった人は余計にそうである。まさに自分の経験したのは食うか食われるかの世界だった。食わねばこっちが食われるという極限の状態になれば人間はみんなそうなる。そういう弱者になる体験をしない人は人間はみんないい人だとか思っている。現実の厳しさに直面すればそんな甘い考えは吹っ飛んでしまう。この世はまさに修羅場だとなる。


カルト宗教団体がなくならないというときまさに人間の根本的問題として社会的弱者が常に存在するしその弱みを解決できないからそうなる。絶対的強者になれないからこそ悲劇になる。いくら優秀でも認知症になり本当に馬鹿になって死んだということも信じられない、人間は確かに権力を求めて地位と金と名声とかあらゆるものを手に入れてもやはり弱者としての人間からはまねかれない、王様もやっぱり最後は病気になりあえなく死んでゆく。人間は結局どんな人でも最後は弱者として死んでゆく、権力が求めて得たとしても同じである。この世の矛盾はこの世では解決しない、いら努力しても解決しないのである。
だから天に望みがありこの世には望みがないのである。常にキリストか説いたのは天のことでありこの世のことではない、この世のことは絶対に解決しないのだ。


悲しむ者は幸いなりとは・・・そもそもこの世の中は悲しまないで生きられないところなのである。悲しむことに人間の真実がありより多く悲しむものは実は人間として何か重大なものを知るとなる。何にも悲しまないものはかえって人間としては何か重大なものに気づかない浅薄なものとしてこの世を終わる。悲しむ人は純粋なのである。涙は真珠のように尊いのである。神はそのために泣くことができるようにしたのである。悲しみ泣いているときカルタシスになる。何か心が清められたような気分にならないか?涙にはそういう効用があることは確かである。シェークスピアが悲劇がテーマだったということは人間はそもそも悲劇的存在だったということである。ドラマでもハッピエンドで終わればつまらないとなる。悲劇的なことに人間存在の重みがある。キリストも十字架で死んだからこそ影響力があった。人間はなぜこんなに苦しみ悲しむのだというとき、実際は恵まれて悲しみもしない人よりより人間として生きているのかもしれない、まずあまりにも恵まれて幸福だったら文学も生まれない、それは浅薄な一生になってしまうだろう。それでも人間あえてそんな苦しみや悲しみを受けたくないのである。

実際に人間は一方で求めているのは快である。人間の求める快楽がどれだけ強いか?その快を求めるからこそこれだけの文明社会になった。性のような本能的快楽も個人差が大きいにしろ死ぬまで消えない人も多いのである。その欲望故に人間も継続できたともなる。人間はあえて苦しみなど求めない、快楽を求めるのが普通である。たた強制されてそうなるだけなのである。図らずもみんなそうされてしまうことなのだ。

ともかくそうした悲しみや社会的弱者化するときどうしても涙を流して来るべき天を望むようなことよた現世で権力を得たいということになるのが人間だったのである。そのこ
とはカルマは変わることがない、たから人間の問題はそうした根本的なことが変わらないから歴史もカルマであり個人的にカルマを繰り返すだけであり世の中は何か変わったようでも何も変わっていなかったとなるのだ。

 

2013年11月26日

カルマはめぐりめぐって返すことを要求される (誰でもカルマを背負わないものはいない)

 

カルマはめぐりめぐって返すことを要求される

(誰でもカルマを背負わないものはいない)

●自分がサイフを落とした時は必ず返ってきたから今度は拾って届けた


カルマについて家系の因縁とかを気にしている人は多いみたいだ。なんか今日サイフをめずらしく拾った。中味は千円しか入っていなかった。カードが十枚くらい入っていた。
保険証が入っていたから名前もわかっているしカードがあれば警察で名前が割り出される。本当は警察にゆくとめんどうだから届けたくなかった。
でもなぜ届けたかというと自分は田舎で暮らして十回くらいサイフを忘れているがもどってこないことはなかった。これだけは不思議だと思った。
サイフを盗られたという人がいたから田舎ではそんなことあるのかと疑問に思った。
田舎ではサイフだけは届けられる。サイフは普通あまり金が入っていなことが影響しているかもしれない、ただ一万でももちいたいという人もいるからわからない。
自分がカードをなくして困るのはキャッシュで金を下ろすカードである。
これはなくすとカード会社に連絡しないとならないからめんどうである。
三回以上そういう手続きをしたから嫌なのである。
それもすぐしないとまずいからめんどうである。

今回はそうして自分のサイフがいつも返ってきたから今度はサイフを拾ったので警察に届けた。前は仙台で落としたのも警察に届いた。あとから連絡が来た。日本ではサイフを落としても返ってくる割合が大きい。80パーセントくらい返ってくるだろう。名前が書いてあり住所が特定できれば警察から必ず連絡がくる。カードだけでも住所や名前も割り出せるようである。だから都会でも落としても警察に届けられると返ってくる割合も多いのかもしれない、忘れたところがスーバーだとスーバーやコンビニでもとっておいてくれて連絡がくる。だから仙台は遠いにしろ近くでサイフを落として返ってこないことはなかった。その点は安心だった。金よりハンコなどが入っていたときそれがなくなると本当にめんどうになる。全部貯金通帳を書き換えるようにさえなる。ハンコはなくすことがありめんどうである。サインだったらこんなめんどうなことはないのだ。


結局これもカルマだった。十回もなくしてサイフがもどってきたのだから自分も返さねばならないと思った。だから警察に届けた。つまりそれだけすでにカルマを積んでいたのである。だからどこかで返さねばならなくなっていたのだ。もちろんサイフも拾ったりして中味の金を使ったりしたら犯罪になるらしい。それで監視カメラからサイフを拾った人が犯罪者にされたというのも驚く。そんなことあるのか、どこで見ているかわからないというが監視カメラ見ていた。人間は生きている間に必ずこうしたサイフを落とすということでもカルマを積んでいるのだ。もちろん落とさなければそのカルマを意識はしない。
でも長い間生きていればそうしたカルマを積むのが人間なのである。


●カルマはどんな人でも積んでいる


カルマというのは人生をふりかえれば必ずそれぞれが積んでいる。自分の家は店屋でありスーバーがない前は繁盛していた。その時母は食事する暇もなく働いていた。どうしても食事中にお客さん来てたたなければならないからだ。それを子供の時から見ていて何でそんなにしてまで働かなければならないのかと嫌だった。
それが今母を介護しているけど必ず食事中に食べ物を運んだりするし料理もしているから食事の途中で必ずたたなければならない、だから何かゆっくりと食事できないのである。子育てしている母親もそういう経験をしている。
今になり自分は楽だったけど様々な災難に見舞われた。誰も助けるものもいなかった。
それもはカルマだと思うようになった。楽しすぎたことが今の苦しいカルマを作り出していたのである。そしてカルマは返すことが必ず要求されるのだ。

具体的にカルマはそれぞれの人生で違ったものとなるからわかりにくいが個々の人生を紐解けばそれぞれのカルマが明確に認識できるだろう。

まず人はどんな人でも必ずカルマを積んでいる
人は必ず誰かに親でも世話になっているし誰かの労働によって活かされてもいる
だからカルマなしで生きられる人はいないのである。
カルマはすでに意識しなくても背負わされたもの、チャージされたものなのだ
ただそれを感じなかったのは親であれ兄弟であれ他人であれ背負ってくれていたから
自らカルマを返さなくてもいいという面があった。
誰かがカルマを背負ってくれればカルマを背負わずにすんでいるということがあった。

親の世代とか祖父母の世代とかがカルマを背負ってくれて次代のものが楽をしているということがある。また逆に親や祖父母の世代のカルマが次の世代のカルマとなり苦しみを背負わされるということがある。それはこの辺の原発事故が次代のものに多大なカルマを背負わせたことでもわかる。放射能という毒は消えないということでそのカルマが大きすぎたのである。まだ結果はわからないにしろそういうカルマを今の時代の人が作り出して背負わせたのである。だからこのカルマを解消するにはとてつもない時間がかかる。
プルトニウムの毒が二万年消えないということがそれを証明している。


●金がたまりすぎるとカルマも返せなくなり悪となる危険


こういう大きなカルマもあるが個々人の人生でもカルマは負わされる。
今は格差社会だけどなぜこんなに貧乏な人がいてまた裕福な人もいるのかということがある。一万とかの金に苦労している人もいる。一方で一万とかはした金になっている人もいる。百万すら落としても平気な人もいるだろう。
億の金をもっていればそうなる。だから金に対する感覚は金持ちと貧乏人では相当に今は違う。でも金持ちも実はカルマを背負っていたのである。
貧乏な人がこれだけ増えているということは金持ちも安穏として金持ちではいられない、金を多くもっていることもカルマなのである。すでに多すぎる活用できない金はカルマになっているから返さねばならないとかなる。
こんなふうに意識する人は少ない、でも何らかそうした金は貧乏人に対してであれ社会にであれ返さねばならないものとなる。それを返さないと借りになり返還を要求されるだろう。


こうしてカルマを返さないとそれが社会の中で巨大な悪として膨張して成長してそれが社会自体に大きく影響するから怖いのである。徳州会などもその志は最初がよかった。それが政治にその巨額の金を使うようになって堕落した。つまり金がたまりすぎてそれを使う術が間違っていたのである。そうした巨額の金を社会に有効に使うとなるとすでに使いきれなくなる。だからカルマを積み金自体が巨大なカルマとなっているのだ。

カルト宗教団体でも会社でもあまりにも金が集まりすぎるともうその金を社会に有効に還元できなくなりかえって悪いものに使うようになる。東電なども3兆円とか巨額な資産がありそれがマスコミ対策とか天下り先の提供とかに使われたことでもわかる。金も一つのカルマなのである。

もちろん借金も明確に目に見えるカルマである。返しきれないほどの借金をしている人はすでにカルマのためにつぶれる。そのカルマは他人にも転嫁される。返しきれないからそうなる。そういうことを自分は経験している。病気の時も借金を要求される。さらに極端化してくると借金のために家族まで生命保険にかけて殺されるとまでなる。借金から起きる犯罪が一番多いように見えるからだ。借金は具体的に目に見えるカルマなのである。
まずそういうカルマを背負う人は見栄があり節約しない、金を使い自分は金がないということを見せない、成功者のように装うのである。でもそうしたみせけもいつか露呈する。その時はすでに返せないほどの借金になり他者にそのカルマをおしつける。それが犯罪までになるから怖いのである。


神々がシシューポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった

まさにこの石を絶え間なく運ぶことがカルマだった。このカルマは有益なことをしていないために課せられたのである。
この有益なことは実際は個々の人生ではわからない、でも有益なことをしないものはこの罰が課せられる
延々と石を持ち上げる作業を続けねばならない、まさにこれがカルマなのである。
自分もこうして料理して運ぶことをすでに六年間くらいしている。これもカルマだから逃れることができないのだ。
これまでは自由に旅もできた。いつ帰るかなど心配したこともない、今や六時ころまで帰らねばならないとか
近くにもゆっくり外出すらできないのだ。そして代わりを探したがしてくれる人はいない、金でも解決できない
結果的は大損害になった。家の中を他人に簡単にまかせることはできないからだ。
これも結局自分の人生で積んだカルマだったのであり返すことを要求されたのである。

2013年12月22日

公務員はそんなにいいものなのか? (人生は何に時間を費やしたかで決まる)


公務員はそんなにいいものなのか?

(人生は何に時間を費やしたかで決まる)


●公務員はリスクがないが生きがいもない

特定独立行政法人の役員及び職員には国家公務員の身分が与えられる

公務員は何なのか?それは良く公務員が待遇がいいのは身分だからがという。それは侍とにている。身分として固定しているから一つの階級制となりその身分を否定することはできない、ちょうど明治維新の時、侍を否定するような革命が起こさない限り公務員という身分はなくならないとまでなる。民間人がいろいろ文句を言っても身分制なのだからその身分を剥奪するには革命しかないとなる。
ただ公務員は嘘をつかないというのは本当かもしれない、民間人は成績をあげることを会社から絶えず要求されるしノルマがありそれで嘘もつく、TOPPAというプロバイダーがNTT関係の会社ですとか電話一本で解約できるというのは嘘だった。これはたいした金銭的被害がないにしても嘘だった。これがかいいん増やす手であるというのもわかる。
二三分で遠隔操作で何の支障もなく変えられることにも問題があった。
ただ解約はめんどうだったのである。

公務員が嘘をつかないというと侍もモラルを重んじていたからにている。商人は嘘ついても侍は嘘をつかないということがモラルがありそれが矜持となり「武士は食わねど高楊枝」になった。公務員は腹は一杯なのは違っているが嘘をつかないというときそれだけの身分が与えられているからである。民間人と公務員ではその働き方が相当に違っている。
民間人はもうけるために嘘をつく、必死になりもうけを増やさなければならないからそうなる。公務員は別にもうけを増やすために必死になる必要はないのである。民間人は生きることが厳しい、公務員は楽なのに身分が保証されつぶれることもなく安泰だとなり不景気の時代がつづくと一番の憧れは公務員だとなっている。

公務員の仕事など誰がやっても同じだとというのは本当だろう。いつも簡単な書類の作成しているだけだともなる。売るために頭を下げて必死になっている民間人とは大違いだともなる。

これも確かにそうなんだけど本当に公務員という職業が仕事が人生をふりかえったときいいものだろうか?公務員には仕事の醍醐味がないだろう。何かイチカバチカの大仕事するということがない、失敗は国で背負ってくれる。ただミスを犯さないように失敗しないようにこつこつ目立たず生きる。それで身分は保証され生活は安泰になる。
もちろんそこには冒険はない、金持ちになるには冒険が必要だという、決断力がないものは商売人には向かないという、株でも大きな儲けを得るために大きな金を賭けなければならない、金が大きいほど株が上がればその儲けが大きいのである。でも下がればゼロにもなり自殺する人もでてくる。でも大きく金を元手にして賭けなければ決断しなければ大金は得られないのだ。だからなんであれ大金持ちになるのはリスクが大きい。


●資本主義で成功するのは冒険した人


大金持ちになったのは国単位でみればわかる。コロンブスが太平洋を渡り命懸けの冒険をしたことにより巨額の富がもたらされるものとなった。特にスペインがインカなど南アメリカ大陸に一握りの荒くれ男たちが入ってゆきたちまち黄金など巨額の富を手に入れた。それは略奪であり泥棒だったのである。ヨーロッバが豊かになったのはそうして世界から富を略奪したからである。それは世界大航海時代に冒険したからでありそうでなければなかなか巨額の富は手に入らないのである。ただそれにはリスクも大きかったのである。
そのリスクに投資した結果として富を手に入れた。資本主義もそうした所に投資して富を得るのが手法である。資本主義は社会主義と根本的に違っている。平等とか安全を計るものではない、だから成功した人は巨額の富があり冒険しない人には入らないのである。それは一つのギャンブルにもなる。保証されないからそうなる。

でも実際事業して成功する人が20人に一人というから事業で成功することはよほどの人でないと成功しないのが普通なのである。テレビなどにでてくるのはみんな成功者である。でも失敗者の方がだんとつに多いのだ。そういう人がでてこないから成功者を安易にまねる人もでてくるだろう。そもそも自分の母方の実家は事業の失敗から悲惨な家族離散とか苦労の連続になってしまった。父親が警察所長をしていたときは裕福でお嬢さんだった。でも機織り工場の経営に失敗して一家離散とかなり過酷な運命を背負わされることになった。警察所長をしていたから自分が偉いだという感覚があった。母も威張ってばっかりいたといっている。何も事業を起こし成功するものをもっていなかったのである。
警察所長では上から命令していれば良かっただけだからである。

いろいろ技術をもっていても知識をもっていても事業で成功している人は20人一人となると一割も成功していないのである。それだけ厳しい世界なのである。
ただ成功すれば見返りは大きい、失敗すればゼロになり自分の実家のように悲惨なものとなり子供も辛酸をなめる。そういうリスクが事業にはあるからそれを踏まえてやらないと大損失になるだろう。

経営者になることは技術者とは違う。そこを勘違いして失敗する人もいた。
その人は技術的には優秀でも頭脳が優秀でも失敗している。だから経営とは別に理系とか技術がないとできないというものでもない。
東電の原発事故は技術的な失敗というより経営に失敗したのである。
経営には単に技術的な要素だけでない、さまざまな要素がある。

それは市町村でも国家でも経営するのとにている。

長期的ビジョンをもつとかもそうである。国家百年の計とかがそうである。
目先の利益をあげることではない、株を一時期にあげることではない
経営とは別な資質が必要なのである。国家を経営するとなると余計にそうなる。
国家は会社のように簡単につぶされないものだからである。
東電だって目先の利益を追ってコストカットして失敗したということがある。
安全は長期的な視野が必要であり目先の利益を追っていたらできない。
津波がいつくるかわからない、400年前にあったこたとなど考えられるかなど無視して大事故になったことでもわかる。目先の利益に追われればみんなそうなる。

●人生は費やした時間で決まる


時間は短くても、お金は時給制の仕事以上に稼ぐことができます。
それが本当の自分の魅力なのです。
時間を売って仕事をしているかぎり「自分」ではなく「時間」でお金をもらっているのです

http://happylifestyle.com/4576
時間を切り売りしていることは自分が生きる時間を失っている。自分が自分のように生きる時間を生きることとこそ大損失なのである。最後は金では人生は買えない、なぜなら人生と限られた時間の中で何をなし何を生きるからにあるだ。

公務員だとともかく事業を起こした人のように失敗して悲惨なことにはならない、でも人生の醍醐味みたいなものは味わえないだろう。あまりにも平穏無事だとそうなる。
あまりにも平穏無事だということにもリスクがあるのだ。
自分の家族の一人は公務員であった。ただ公務員でも保健婦とかであり仕事はかなりきついものがあった。一軒一軒自転車で回っていたりして体力が必要だった。
その頃は生きがいがあった。でもあとは事務の方に回り楽をするようになった。
それから早めに退職して家事すらしなくなり認知症になって死んだ。
公務員とか先生とか裁判官とかが認知症になるのは多いのはなぜか?

やはり決まりきった創造性のない職業だからだという。創造性がなくてもこなせる仕事だからという。創造性とか別に才能と関係あるわけではない、つまり創造性を発揮させられる場所にいると才能だけではない、人間は現れていなかった才能が現れることがあるのだ。人間の才能はあらかじめ決められてはいない、才能は何らかの契機で刺激され啓発されて出されることがある。
だから明治維新の時は若者があれだけのことができたのはそういう環境に置かれて強いられたからできたとなる。今の時代はそうした才能を発揮させられる環境がないから若者の才能も現れないだけなのである。

三島由紀夫なども自ら演技して狂気の演技者になり自殺するように死んだ。
いくら英雄になろうとしてもなれない、英雄は時代が作るのである。時代に強いられて作られるのであり自ら作ることができないのである。

結局人生とは何に時間を費やしたかで決まる。人間の時間は限られている。才能を発揮するにしてもどれだけ時間を費やしたかで決まる。なぜならあらゆることに時間は費やされない、限られているのだからあらゆることに詳しくなれることはできない、雑学でもそこに多くの時間を費やせばそれなりの専門家になれる。それは才能というのではなく時間をそれに費やしたということで決まるのである。ただ効率的に時間を費やすことは必要である。時間を無駄にしないようにすることが何事肝心なのである。どれだけ自分でも時間を浪費してしまったか、時間は何をしようがしまいが確実に過ぎてゆく、そして何に時間を費やしたかで人生は決まる。

例えば家族でもそこに費やす時間は限られている。夫婦として子供をもち費やす時間は限られている。もしその時間をのがしてしまいばいくら血のつながりがあっても子供と一緒に過ごす時間がなかったら子供にもならない、それは時間が限られているからそうなる。夫婦になるにしても時間が限られているから夫婦としての時間をもつことは普通は一人である。何人とも夫婦のうよな時間は過ごせない、だから熟年夫婦の離婚は相当な損失だと思う。なぜならもうそうした夫婦としての時間をもつことはできなくなるからだ。
一緒に過ごした時間が長ければそれなりに分かり合い愛し合うということがある。
それも一重に時間があればできなるのだ。老人になるとあらゆる時間が喪失してただかつて過ごした時間を思い出すだけなのである。


だから公務員という役所勤めも果たしてそこで過ごした時間が人生にとっていいものだったのか?俺は生きたな、やったなという満足感があとで得られるかとなると疑問である。
「俺は生きた、やった」というものがないと人生を生きた人とは言えないだろう。
一回だけでもそういうことがあれば生きたとなる。それは天才とか凡人でも関係ない、
凡人だって決断して俺はやったとかいう体験はできるのである。
公務員とか会社員にはそういうことがない、だから老後も保証されても何か不満が残る。でも時間は喪失するからもう何かをすることはできない、過ぎ去った時間を戻すことはできない、何か決断することもできない、その時間が過ぎ去ってしまったからである。
そこでみんな誰でも後悔しているのだ。
人生で一番後悔するのは「やりたいことをやらなかった」このことである。
旅をしたかったがしなかった・・・したかったができなかった、しなかったとかなる。

自分の場合、旅をしている内にいつのまにか人生も終わりに近づいた。でもこれだけ旅をしても旅をまだまだしていなかったともなるのだ。それだけ人間は何をするにも時間切れになる。時間がたりないのである。今や家事だ介護だとか近間しか行けない、ここ六年間はそうである。自由気ままに外にでて旅していたのにできないことが信じられない、何とかしようとしてもできないのである。これまた一つの自分の背負わされたカルマだった。でもこれだけ旅をしているといつも旅をしなくても旅をしている感覚になるのだ。
だから思い出してた詩とか短歌にしている。
旅ばかりしていたら人生そのものが旅になる。西行もそうだし芭蕉もそうだし山頭火もそうなったしそういう人は死んでも旅をしつづけているのだ。

退職してから何か別なものに生きがいを見いだすことはむずかしい。
今までしてきたことの延長しか残されていないのである。

年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山 西行

旅したものの最後はこうなる。旅に死ぬのが本望になる。そして死んでも旅をつづけているのだ。


旅人に風雲が起こり
遠くへ連れ去る
そしてまた新しい世界が開け
旅人は永遠に旅をつづける

こんなふうになってしまうのである。

2014年02月17日

カルマについつての考察 (個々人の人生の謎がカルマで解けるから?)


カルマについつての考察

(個々人の人生の謎がカルマで解けるから?)


●なぜカルマの思想が生れたのか?


人間が輪廻のサイクルにあることを“苦”と考え、そこからの“解脱”を宗教による救いの最終目的と考えています。インド人にとって救いとは、苦しみの輪廻から逃れることに他なりません。

輪廻は「カルマ(業)」によって引き起こされるとされます。カルマとは、前世の行為が目に見えない潜在力となったものです
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-7/sp-thought1-7-01.htm


仏教では、生前での生き方、為してきたことの結果によって生まれ変わる世界が決まると説いています。それは「自分の為したことが返る」というカルマの法則に基づいています。

カルマというとき宿命とかもなりいろいろな解釈がある。ただなぜインドでこういう思想が生れたのかということである。それは百年とかの単位で生れたものではない、仏教の思想はヒンズー教に由来している。キリスト教は旧約聖書に由来している。
その歴史は人類かはじまりから生れた思想である。
だから仏教でもヒンズー教に由来しているという時、ヒンズー教を知らないと本当は深く知ることはできない、キリスト教でも同じである。
そして何の宗教であれ思想であれ慣習のようなトーテムの原始宗教であれいちがいにそれらを古いとして近代的な思想で批判はてきない、奇妙なことは現代思想こそ実際は百年単位とかで生れたもので人類史をさかのぼれば一時期の異様化したものとして後世にふりかえられる。

カースト制が古いし差別だという時もそうである。それが成り立つ伝統社会があって生れた。だからそれはそれなりに合理性があり社会を形成する。差別だという時それは現代からみてそうなのであり当時は別に当然であり社会的合理性があったともなる。

奴隷すら人類史では進歩したものだったという。なぜなら戦争で負けたら皆殺しにされたけと奴隷として生かすことは進歩だったとなる。だからカースト制にもそれがなりたつ歴史があり否定するにも簡単に一言ではできないものをもっている。

江戸時代の士農工商も差別だとなるがこれも江戸時代の社会ではその社会を成り立たせる基盤でありこれを否定したら社会は成り立たない、侍は別に支配階級でぜいたくしていたとはいえない、ヨーロッパの貴族でもそれなりの役割があり社会を維持していた。
だからマルクス的階級論は歴史的現実社会に適用されないで失敗したのである。


●カルマの思想で解ける人生の謎


カルマというのにキーワードでも関心をもつのは人間というものがその人間関係でも家族でも結婚因縁でもそうした諸々の人間の事象が不可解だからカルマとは何なのかと関心をもつ、それぞれの人生でなぜある人はある人と結婚する。それは好きだと嫌いだとかあるにしてもただそれだけではない、何か前世からでも結婚する因縁があったのではないかとまでなる。結婚は好きだから結婚しても三分の一は離婚している。別に見合い結婚でもうまくいっている。それはなぜなのか?見合い結婚は家と家同士の結婚だから意外とうまくいっている場合が多いかもしれない、かえって恋愛結婚は離婚している割合が多いかもしれない、そこに家系とか家がもっているカルマなども関係してそうなっているのかもしれない。家系がもっているカルマなど恋愛結婚ではわかりえようがないからだ。

そのカルマがわかるのは何十年もたってとか人生の終わりに自覚したとまでなるからむずかしいのである。結婚などはただ相手の姿形だけを見ているから失敗するのかもしれない。それ以上に家系やその人がもっているカルマなど見ないからそうなっているのかもしれない。それはまた見ることも簡単にできないから結婚して失敗したとなる人が多いともいえる。


そもそもこの世に生を得たということはすでに業(カルマ)があって生を受けた。何らかのカルマがあったから今の生がある。だからそのカルマを解消しないとまた生まれ代わりカルマを解消しなければならないとなる。人類全体でもそうではとないか、その個々の人生でもそうである。同じカルマを延々と繰り返し活きている。人類でも同じカルマを繰り返す、戦争でもそうだし今回の原発事故でもやはり一つのカルマであり火を盗んだプロメティウスの過酷な罰を受けた神話的場にすらなってしまった。神話が現実化して個々人がその刑罰を担うことになったのである。人類的歴史的カルマが現実化した驚愕があったのである。

具体的には個々人では常に訴える人がいる

「なぜ自分はこんなに苦しまねばならないのか」
「なぜ自分はこんなに貧乏なのか」
・・・・・・・・・・・・・・


それは障害者をもった人なども言うしなぜ自分は自分の子供でこんなに苦労しなければならないのかとか訴える。
ある人は結婚した相手が20代で大病にかかり一生世話させられる羽目に陥りそのことを延々と嘆いてきた。
確かにそれは同情すべきことであった。
でもそれがなせなのか?というとき不可解になる。
なぜその人だけがそんな苦しみを受けねばならないのかとなるからである。
それはなぜなのかと問うとき謎になる。

よりもよってなぜ自分だけが若い時から身体障害者や知的障害者など世話しなければならないのか?

そういうことも謎であり納得する人はいないから他者にその不満を訴える。
そうするとそれがなぜなのだろうとなりカルマだったということが一つの解答になる。
つまり前世に由来していてあなたはそうした病人や身体障害者や知的障害者を世話しなければならない因果をもったのだとなる。


●カルマは社会やた他人の生ではない前世のカルマ(行為)に由来している


それも何か合理的に最近納得した。そういう不幸な人は不幸になる因縁があったと思うようにもなった。なぜならその人と深くつきあってわかった。
その人は他者を弱者を虐待するような人だったのである。
だから自分が病気の時、弱った時いろいろ責めてきたことでわかった。
その人は前世は弱者などを虐待したことがありそれで今世でそうした弱者を身体障害者世話し続けねばならない運命に陥った。
だから前世の悪行で今世になり報いのためにそうなった。
どうしてそうなったのか他に説明つかないから前世の因縁だとなってしまうのである。
親もそうならその妻となった人も夫で苦労する運命にあった。
もちろんそれは最近わかったことでありすでに還暦など過ぎてわかることがある。

ともかく親と同じように夫で苦労する運命にあった。しかし今まで表面化していないから隠されていただけである。

前世の行為が目に見えない潜在力となったものです。

潜在力として長くひそんで現れなくてもいつか必ずその行為(カルマ)は現れるのである。
例えば団体とか組織の罪は権力で隠されやすいし闇に葬られやすい。
でもいつかは必ずその団体や組織のカルマも表面に現れて隠すことができない。
それはカルト宗教団体のようなものでもそうでありいづれはその悪が否応なく現れてくる。
原発事故も東電の組織的犯罪とまで言えるものだったが政府までとりこむほどの
巨大な権力だったから隠されていたにすぎなかったのである。
それが津波によって暴露されたのである。


なぜ自分は不幸なのだろう
なぜ自分は貧乏なのだろう


そういう問いは常にある。それを社会の不公正として糾弾する。それが一般的でありそれが団体化組織化すると様々な団体組織党派となる。カルト宗教団体でもそうである。
仏教系統の宗教団体でもそれは前世の宿縁でかたづけられない。
「あなたは不孝になることはない、貧乏になることはない、それは社会のせいである」と団体で運動することになる。
ところが社会のせいだというとき、それは結局他人のせいだということになるのである。
前世の宿縁だとしたら自分の悪行,業(カルマ、行為)によって現在があるとしたらそれは社会のせいではない、
そんなことを考えたくない、自分には何の責任もない、社会のせいであり他人のせいだとする方が楽であるからだ。

そうにしたって結局なぜ自分だけが苦しむのか貧乏なのかとか問うと解答にはならない。
自分の中にあるのではなく社会に他者にあるとすれば楽なのである。

借金する人も明らかに自分に責任がある。普通借金はいろいろ事情あっても簡単にはしない。
でも借金する人は簡単に借金している。それはやはりカルマを作っているのである。
そのカルマの故に家族が一家離散したり具体的に悪い結果が現れるのは因果の法則でありわかりすい。
そして金を借りにくるのは他者に責任をおしつけることになる。
借金する人はそういうふうに他者に責任をおしつけるのである。
自分が病気の時もそうして借金している人に苦しめられたからそのカルマはさらに大きなものとなりその本人にのしかかってくる。
でも以前として他者まで苦しめたことをきづいていないのである。


カルマは気付かないことが多いのである。
他人を傷つけたり虐待したり苦しめた人は意外とそのことに気付いていない、
一体私は何をしましたかむしろ助けていたんですよとかさえなっているのだ。
それほどに他者に対した悪行でも気付かない、気付かないからカルマを受けて苦しむことになってもどうしてなのだろうとなってしまうのである。
でも潜在力となってその人に絶えず働いているのだ
個々人の人生でも人間関係でもあまりにも不可解だからカルマの思想が生れた。
それが何か一番納得がいくから生れた。
その他にそうした人生の不可解を合理的に解けるものがないから生れた思想なのである。

2014年04月02日

人は人を理解できない (相手の身になることができないから)


人は人を理解できない
(相手の身になることができないから)



人は人を理解できない
男は女を理解できない
女は男を理解できない
大人は子供理解できない
子供は大人を理解できない
若い者は老人を理解できない
老人は若い者を理解できない
性格が違うと人は理解できない
理系は文系を理解できない
文系は理系を理解できない
職業が違うと理解できない
無数の職業があり理解できない
医者は看護師の気持が理解できない
看護師は医者の気持を理解できない
親は子の気持を理解できない
子は親の気持を理解できない
与えられているばかりの人は
与える人の気持が理解できない
人に与えてみてその気持が理解できる
野菜を苦労して作る農家の人を消費者は理解できない
立場が違うと理解できない
住む場所が違うと理解できない
千円二千円を大きな金としている
貧乏人を金持ちは理解できない
一万円くらいを借り貸ししている
貧乏人を金持ちは理解できない
毎日その日暮らしの人を理解できない
なぜそんな小さな物に金にこだわるのか?
その人にとってみればその日の金に事欠いているから
一方で十万もはした金になっている人もいる
一万を貸し借りしてもめている貧乏人のことは理解できない
貸している人は借りている人の気持を理解できない
借りている人は貸している人のことを理解できない
人を雇い働かせている事業主は
働いている人のことが理解できない
働いている人は経営者のことが理解できない
外国人になるとさらに理解できない
言葉が理解できない
習慣が理解できない
宗教が理解できない
理解できない、理解できない、
互いにその人の立場になることができない
互いに理解できないことが分裂を産む



なぜ離婚がこんなに多いかのか?それはそもそも男女が根本的に理解しにくいことが根底にある。男性でも女性でも互いにかみ合わないものを根本的にもっているから理解できずに離婚が多くなる。人の性格もまちまちでありそれは男女関係なく大きな障害となっている。人間関係ほどむずかしいものはない、理解できないものの方が無数にあり理解し合うものは少ない、社会がこれだけ複雑化するとさらに理解できない、隣が何をしているのかもわからない、だからまず理解できないものとしてこの世はありいかにして理解するようにするか?それが問題なのである。

人は人を理解できないのは立場が違うと考え方違ってくるからだ。金を貸す者と借りる者は立場が違っていて理解しあわない。貸す方にすればなぜ貸したのに返さないのかと思うのは当然であるが借りた方にすると何かもらったような気分になっているのだ。
だから一旦借りたものは自分のように思っているのだ。だかさ返せと言われると理不尽にさえ思っているのである。だから人は金を貸すことはしたくない、借りた方がそういう気持になっているのが人間の心理だからである。貸した方が馬鹿みたいな感じになるのだ。だから金は貸すな貸すならくれろとなる。


貧乏人の気持も今はわからない、なぜその人千円とか二千円にこだわっているのか?
わずかのモノにこだわっているのか、昔ならもったいないというのは自然でありわかる。
でもその人は貧乏暮らしが長いからそうなっている。
毎日の暮らしに事欠いているからそうなっているのは自然なのである。
普通に今の標準で暮らしていればそういうことはない
それでもそうした貧乏な人はこの豊かな社会にもいる
なんでそんなにせこいのだ、考え方もせこいと嫌悪感を感じるがその人にとっては違う
その人は日銭が欲しいというのもそのためである。
それほど困っているのだが雇う人はそのことを見ていない
そうして働いたのに金をもらえなかったのに憤っているのもわかる
ただ外から見るとなんかせこいというかいつまでもそんなことにこだわっているのかとみるが
その人にとっては日々の生活費がなくなるから深刻なのである。


人間はこうして無数に理解できないものを互いにもっている。
その理解できないものがあるということをまず理解する。
知らないいうことが無数にあることを理解することから理解がはじまる
何でも知っている自分は正しいと思っていると理解できない
相手の言うことが何でそんなに責めるのだともなる
そこには性格の相違も大きく作用してくる。

こんなにしつこいのが女性にもいるのかとなる
女性は従順なのがかわいいとかなる
でもその女性にしたらそれでは生活ができないとなりしつこくなる
一片のパンにさえこだわっているのである。
今の時代にずいぶんせこいなと思うが本人にすればそうは思わない
日々の生活費に事欠いているから小さい金にうるさくなっているだけなのである


人間はまず自分だけを理解されたいと思っている
不遇の人でも貧乏の人でも自分のことを延々と語る
でも理解されたい相手もまた自分のことを理解されたいと思っているのだ。
病気の時、苦しい時、なぜその苦しさを理解するのではない
自分たちの苦しいことを借金を要求してくるのか
または自分が苦しんでいる時、相手はその苦しみをともにしようとはしない
ただその人から利益を楽を得ようとしている

それはいいとして苦しんでいる期間は相手を思う余裕さらないのだ

相手を理解するには本当に余裕がないとできない
余裕があればじっくりと聞くこともできる
ゆったりと反応することもできる
自分が病人でさらに介護までしているとき他人の困った相談にはのれない
しかし切羽詰まっているからそんなことおかまいなしになる
それがエスカレートすると一種の身勝手な強盗や殺人にもなる
実際そういう目にあってきたのが自分だったのである


2014年04月04日

人間の最大の危険は奢りにあった (優秀な人でも奢りで失敗するー人間は結末まで見ないとわからない)


人間の最大の危険は奢りにあった

(優秀な人でも奢りで失敗するー人間は結末まで見ないとわからない)

●技術者として優秀だった人が事業主になり経営に失敗


その人については誰もとれない建築関係の免許をとっていた。
だからそういう免許をとっているから教えてもらいたいということで訪ねる人もあった。
その人は頭が本当に良かった。まずそうしたむずかしい第一級の免許をとることは普通できない
だから建築の設計でもその人にみてもらっていた人がいた。
そううい技術的な面で一番上に立つ人だったのである。
だからこそ独立して事業をはじめた。

そういう技術をもっているから独立しても事業をはじめ成功すると思っていたのである。
でも実際は事業に失敗したいた。
借金していことが最近わかったからである。
でもまだそのことは回りでは知らないし家族でも知らなかったのである。
そうした最高のむずかしい免許を取得していても独立して事業をはじめて一人でも
事業をはじめて経営するとなるとその経営能力は別物なのである。
それは別に理系だから文系だからできないものでもない
経営能力とは戦国時代なら信長とか秀吉とか家康のような能力が必要になる
それは鉄砲を作る技術者とも違うのである。


おそらく東電では優秀な人達の集まりでも経営に失敗したのである。
原子力という高度な技術を操作する集団でも経営能力が欠如していた
経営能力はトータルな能力であり相当にむずかしいものになる
技術的には優れていてそこに奢りがあって失敗した。
それは個々人でも俺は優秀なんだというとき奢りが生まれ失敗に通じる。
東電がいかに奢っていたか、何度もプルサーマルで危険を前の知事が
警告しても聞く耳をもたなかったし津波の研究がすすんで
貞観津波のことで警告しても聞くこともなかった
それだけ独善的になりうる権力があったからである。
権力をもつと人でも集団でも独善的になり暴走する
東電はあらゆる権力を操作する力をもっていた。
政治家から官僚(検察)からマスメディアから権力を有して操作できた。
それだけの金を産む産業だったのである。

●高い地位の人が事業して失敗


奢りが失敗に通じるという時、自分の母方の実家がその例だったのである。
自分の祖父にあたる人はあってもいないし全く人となりも知らない
でも警察署長だったのである。
そして絹織物の工場をはじめた。
その工場が倒産して一家離散の悲惨な状態になった。
それで自分の母親そこら苦労の連続となってしまった。
子供の時は裕福な暮らしをしていたのだが苦労の連続しかなくなった
その当時はみんながそういう苦労を背負わされたから特別ではなかったにしても
やはりそうした苦労を背負わせたのは父親だったのである。
その父親は工場の経営など何も知らなかったのだろう

ただ警察所長として偉い立場にありいつも威張っていたから
工場経営もできると思っていたのである。
だから母は父は威張り屋だったと言っている
威張るだけの人だったのである。
警察所長になっていもそれが特別能力があるからなっていたわけではなかった
ただそういう地位にあった結果、自分は特別な能力があると思ったに違いない
そういう地位についていて奢りが生まれた。
だから会社を経営しても成功すると思ったのだろう。
ただその経緯はよくわからないから詳しくは言えない
会社経営で失敗している人などありふれていることなのだ
経営に成功するのは20人に一人だということでもわかる
だからそううい事例はこの世にいくらでもあるのだ
そのために実家はなく墓だけが残っている

人間が優秀なこと頭がいいことが成功に通じていないことである。
普通はそんなことがないと思うだろう。
頭がいいことに越したことはない、みんなそのことで一番悩んでいるのである。
体力だってあった方がいいし頭も良くなりたいとみんな思っている
そうして優秀な人の頭がいいという人の一番の問題は奢ることなのである。
謙虚さが失われることである。それが落とし穴になる
技術的に優秀でも経営は別なものでありその能力は技術の能力とは違っている
でも一つのことに優秀なら他のこともできると奢りが生まれていた。
その奢りが失敗に通じていたのである。

●優秀な人が認知症になり痴呆になった驚愕


自分の姉も特別に頭もよく体力もあり人間的にも優秀だった
学校も一番であり太っていても体が機敏なのである。
だから看護婦になりシンガポールで4年間も戦争で辛酸をなめた
その苦労は並大抵なものではないし普通の人には耐えられない苦難だった
だから死ぬ直前までその戦争のことを語りつづけていたのである。
ちょうど青春時代をそこで過ごしたからそれが忘れられなかったのである。
その後保健婦とか役場になり公務員になった
そして自分はいつも優秀だと言って自慢していた
手術して生死の境にあったときも「俺は優秀だ」と言ったのをなんとか自分は聞き取った
そんなに優秀なことにこだわるというのも自分のようなあらゆることに不出来な人間には理解できなかったのである
これだけ心身ともに優秀な人も最後は認知症になり馬鹿に痴呆になってしまったということが未だに信じられないのである

人間の結末は本当に意外でありわからない
そんなに優秀な人はが本当の馬鹿にな痴呆になり死んでゆくことがあるのだろうかと思った
現実はしかし否定できないのである。
家族ではあるが客観的に見ればそうなる

一方で姉が優秀であり他者を馬鹿にしていることがあった。
それは身内でもありまた近くの親しい人でもあった。
近くの人は何か馬鹿のように見えた女性である。
でもその女性は実際は情に厚い親切な人であった
それで馬鹿になった姉のことを嫌わずにみてくれていたのである。
それもなんとも不思議な光景だった

あれだけ優秀な人が本当に馬鹿になり馬鹿のように見えた人に世話になっている
それも実に不思議な人間模様だった
人間は最後の結末を見ない限り人間のことはわからない
どんなに優秀な人でも最後に認知症になったら悲惨である。
これまでの優秀さはなきものになってしまう恐怖だった

一方で母は体も細く頭も悪いとされていたから自分と同じである
しかし不思議なことに認知症でも軽く金のことなどまるでわからないことは共通しているが
その他のことはわかっている
反応がまだあり病院にいること、老人保健病院でもそこがいいと言う時、正常な反応をしている
これも99になっているのだからまだそうして正常な反応していること自体凄いことだと思うようになった。

母には何か優秀なものはなかった。控えめなおとなしい女性だったからである
だから奢りをもつようなものは何もない、そもそも何かに奢るということがありえないのである
それは近所の情の厚い女性もそうだったのである。

でも今になるとこの愚かなものと見えて優秀なものがない女性の方が
人生の結末から見たら優秀だったとも見える
そうは言っても優秀な人がいないなら高度な文明など築きようがない
優秀な人は何をできて成すことができる
そういう人達がいなければ社会はそもそも成り立たないのである

ただ人間の落とし穴は奢ることにありそこから墓穴をほる
それが失敗につながり終わっているのだ
原発事故も人間の奢りから起きたことはまちがいないのである
人間はあることについては優秀でも他のことについては優秀だとはならない
一つのことが優秀でもすべてのことに通じることはできないのである
技術が優秀でも経営はまた別なものでありその能力をかねそなえることはむずかしい
いづれにしろ人間の危険は奢りにありそして人間のことはその結末までみないとわからないということであった

歴史でも奢れるもの久しからずでありそれは人間個々人にもあてはまるのである。

2014年05月10日

人生は時間を何に費やしたかで決まる (人間の脳は日々の経験努力が刻印されて後天的に作られたもの)


  人生は時間を何に費やしたかで決まる

(人間の脳は日々の経験努力が刻印されて後天的に作られたもの)

●語学の習得は脳に記憶を刻印させること


人生というのはどんな平凡な人でも才能がなくても最後に60代にその一生が自ずと明らかになる。
つまり人間は決して60代になる人生の最終章になることをリアルにイメージできない、
その歳になるとどういうことになるのかイメージできない。
みんな時間など無限にあると思っていたし時間をつぶすのに苦労していた。
時間なくなることが一番イメージできないのである。

金がなくなるきことは若い時でも俺はフリーターだからニートだから老後は金がないから悲惨だろうなとか、
親の資産があるから俺は大丈夫だろうとか予想している。
金は具体的だから予想しやすいのである。
時間は具体的にもっているものではない、土地がある家がある金があるとか何か具体性に欠けている。
だから金だったら節約もするが時間を節約するということは具体的でないからできない。
そこで時間は常に知らずに失われているのだ。


何に時間を費やすかで人生が決まるというとき、わかりやすいのは語学の修得である。
これは天才は別にして語学の修得には非常に時間がかかる。
英語を日本人は中高校大学で学んでも習得できないことでもわかる。
それはまず学び方が悪いということもある。英語に日常的に触れられないということもある。
そういう悪条件があるのだがやはり語学の修得には時間がかかるということである。
一般的に学問自体が時間がかかるものなのである。
「それで少年老いやすく学なりがたし」となっている
語学はやはり嫌でも暗記だったり苦しくても無理して読んだり書いたりと訓練する度合いが強い。
もちろん他の学問もそうなのだが語学が一番努力を要するものなのである。
だから二カ国語の外国語をものにできる人は極めてまれになる。
一カ国語すら無理なのだからそうなる。

そしてわかったことは記憶は脳は日々の生活の学びの中で作られてゆく度合いが大きいのである。
天才は生まれつき体力的にも能力的にも恵まれているからそういう人は例にできない。
一般的に脳は日頃の訓練で作られてゆくのである。
脳の記録の回路も何も作られていないが時間を重ねて作られてゆく。
だからその人が記憶されることも作られていたのである。


個々人の脳は努力の結果記憶が刻印されたものである


記憶すら長年の積み重ねで作られたものだった。それが語学の場合顕著に現れる。
語学だとどうしても単語を覚えねばならない、母国語のように自然には頭に入らない。
つまり恣意的に意志でもって無理にしてもでも脳に記憶を刻印させねばならなかった。
そういう努力を常にしていなければならないのが語学の習得には必要である。
だから語学の修得には時間がかかる。語学は何か数学などと違い特別な才能というより
時間をかければ習得できるという感覚をもつ、でもその時間は膨大になってしまうのである。
だからとても普通の人は一生かかっても一つの外国語も修得できないのである。


●人間の脳は日々の生活の努力で刻印されたもの


ともかく語学で例えると時間がいかに大事かわかる。今になると時間がないから
語学にさく時間がないからもう英語すら自分は学べないしもうかえって忘れてゆくから語学能力は減退してゆく。
ただそれでも脳に記憶されたものがあるからまだ全然わからないということではないのだ。


人生とは数式化すると

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まず時間を何費やすかがある。abcdef・・・と費やすべき時間がある。
でもaに時間をかけたら時間は100とか一定だからbcdefには時間をかけられない。
aに50をかけたらbcdefで50を割らねばならなくなる。
人間は与えられた時間が限定されているからあらゆることに均等に時間をかけることはできない。
普通語学ばかりに時間をかけることはできないから英語でもものにしている人は少なくなる。

そしてもう一つは金を何にかけるかが問題になる。費やす金によっても人生は決まってくる。
現代は特に金が大事になるのは時間を金で買うことや金で効率的に暮らせるということである。
金があればもし語学でも専任の講師を雇えばいいとなる。そういことを大金持ちはできる。
すると語学修得の時間の節約にはなる。

それにしてもやはり語学修得には努力が必要であり時間がかかりすぎるのである。
金があっても時間は限られているから金がなくてもその人なり価値あるものに時間を費やせば
人生の最後に収穫、実りをかりとることができる。

その例として本でも若いときはいくらでも読めると思っている。
ところが本はむずかしいのになると若いとき理解するのがむずかしい。
それでもむずかしくてもなんとか理解しようとして読むことが必要になってくる。それは語学の修得とにている。
なぜなら老人になると読む時間とエネルギーもなくなってくるからだ。
そして実際に読んだ本はわずかでありその読んだ本にしても理解できたのはわずかだったとなる。
でも読まないよりは良かったとなる。
そしてくだらない本を読んで時間を費やして失敗したとなる。なぜなら有益な本は読めなくなっているからだ。
本というのは厚いし何度も読まないとわからないことがある。
何度も読んでいる本はいい本なのである。そういう本にしてもなんか何十冊くらいしか残らないだろう。
それほど本も読めなかったのである。

結局自分の場合、青春はカルト宗教団体に浪費された。ただこれもすべてが無駄だとはいえない。
なぜならどんな無駄なことでもそれは経験になっているからだ。
何かをどんなことでも経験することがついには老人になるとできなくなる。
だから馬鹿げたことでも経験することは限られているから貴重だったとなる。
だから自分はカルト宗教団体については内部にいたから批判できる。
つまり内部告発できるのはあることに詳しくなれるのは内部で経験を積んだ人なのである。
官僚だって内部で時間をついやした人が詳しくなれる。
でも一人の人間の経験はわずかだからあらゆることに詳しくはなれないのである。


いづれにしろ青春でもあっというまに終わってしまう。ただではすべて消えてしまったかというと消えていない、
心に脳に記憶された刻印されたものが残りつづけるのである。
だから60過ぎると過去が生々しく甦ってくることが実際になる。
それは青春時代がそうなりやすい、だから自分の姉は死ぬときまで戦争のことを語り死んでいった。
四年間従軍看護婦で働いたからそのことが忘れられないのである。
それも青春時代だったから忘れられない、だから今も生き残っている戦争経験者は90になっても忘れられないのである。
それが生々しく甦ってくることがあるからだ。
戦友の顔だって生々しくよみがえってくることがあるだろう。
もちろん青春時代に悪いことしたことも刻印されて消えないのも怖いことである。

老人になると何でも結果として現れてくる。
それは一人一人違っているにしてもそうである。

自分は旅に費やした時間が100の内、60くらいになっていたかもしれない。だから今になると全く旅ができない、
するとただ思い出す旅になる。その旅も忘れいるのが多いのだが時々よみがえる。
何十年前でもよみがえることがある。何でも時間がたったからといって消えるわけではない、
経験したものがよみがえってくることがあるのだ。

花を覚えるにしても名前を覚えるだけで大変であり季節的にいつ咲くとか名前だけではない
その花がどんなものかイメージする必要がある。
花の名前だけでも百くらい覚えるとなると大変になる。
それが俳句を作る基本にもなる
その花をしるのも毎年毎年花を見ている必要があるのだ
毎年毎年見ていても花は新鮮に見えるし新たな花も知る
花の種類だけでも外国産もあるし品種改良したものもあるしと
花の世界も広大なのである
だからくだらないものに時間を費やしていると花の世界もしりえない
時間がまたたくまにすぎてしまうからである


●石の貨幣の価値を決めるのはその経歴だった


面白いのは石の貨幣の話である。


個々の石貨には価値が厳密に設定されているわけではない。石貨の価値を決めるのは個々の石貨の来歴であり、それを所有している者とそれを譲られる者の話し合いによって譲渡の条件が決定される
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%83%E3%83%97%E5%B3%B6


海中に沈んだ石貨があった。それを取り出して舟でカヌーで運ぶの苦労した。
その苦労を語ることによってその石貨の価値が決められたというのも面白い。
だから一億円の金は同じ価値があるとは限らない、デイトレーダーとかが一日でパソコンを操作してかぜぐことができる。
同じ一億円でも命懸けの仕事で稼いだという人もいるだろう。
その話しを聞く時、命懸けで稼いだ人の話しは価値があり同じ一億円でも中味は全く違っているのである。
要するにその経験の方に価値がある。
俺はあの危険をのりこえて金を残したとか自慢できるのである。
その経験もただ金を残したというだけではない、実際はその人の人生を豊かにして力となっているのであてる。
あんな苦難を乗り越えたということが自信にもなるのである。

電気関係の電設工事の人が財を築いたのは請け負いであり会社員ではなかった。
個人が請け負いもらっていた。だから仕事を増やせば働けば働くほど金になる。
そうして財を築いた。会社員だったら決められているからそんなに財は築けない
ただその時は電設工事でも高度成長時代だからいくらでも仕事があり時代の影響でも
一代で財を残した人が団塊から上の人には多いのである。


ともかく時間がいかに大事かを知らないとあとで後悔してもあとの祭りになってしまう。
インターネットなどでも無料が多い、それはいいことなのである。
なぜなら何であれ時間を費やすものが価値を決めるのである。
本でもインターネットでも金を払うから価値を決めるのではない
そこに貴重な時間を費やすから価値がありうる。
だから無料でもすべて質が悪く読むに値しないということはない
なぜなら無料でもそこに時間が費やされたものに価値があるのだ
もちろんくだらないものに時間を費やせば本でもインターネットでも結果的に何も残らないのは同じなのである。