カルト宗教が簡単に消えない理由
(人間の弱み、不安が消えないから)
●「悲しむのは幸いである」と思っている人はいない
カルト宗教というといろいろある。なぜカルトがこれほど世の中に跋扈して消えないのか?そこには深い人間の不安と恐怖に根ざしているからである。カルトという時、あらゆるのがカルトになりうる。カルト宗教団体だけがカルトではない。宗教団体になると権力を持つカルトだから悪質になる。宗教が権力を持つと最悪になるのだ。
宗教はそもそも権力否定がありあらゆる宗教でも根本にある。
心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである
聖書にこう書いてあるのは誰でも知っている。しかしこの意味が何なのか知っている人は非常に少ない。なぜなら世の中の一般の人が求めているのはこの正反対のことである。
心の貧しいものにはなりたくない、心の豊かな人になりたい、それより物質的に豊かになりたい、とにかく金が欲しい、それが先決だとして毎日必死で働いている。
貧しいとはここでは心の問題になっているけど物質的にも貧しくなりたくないためにどこの国でも必死に経済成長を計る。人間か貧しさ肯定して生きてきたことは歴史上ないのだ。ただ様々な事情で豊かになれないだけだったのである。
悲しむ人は幸いである・・・
これもまた何なのか?人間はなぜ悲しむことが幸いなのか?これも全く世の中の常識とはあまりにも違っている。この世の中で悲しむことが多ければ多いほど幸いである。
ええ、そんなことがありうるのか?これほど理解できないものはないのである。
この世の中まず金かない、貧乏だと悲しむことが多い、いろいろと不自由になるし金がないということて悲しい思いをすることが多いし馬鹿にされたり相手にされないこともあるからみんな必死で金持ちになろうと毎日あくせく働いているのだ。
こういう教えをまともに受ける人はこの世ではほとんどいないのである。
人間は貧しいもの弱いもの悲しむものがまた多数いる。だからこそ宗教が生まれた。
宗教はそうした根本的には解決できない弱さから生まれている。なぜならあらゆる人が絶対的に強者にはなれない、そう願ってもなれない、ニーチェは狂気になって死んだ。
ただ人間は病人のようになるようにあのように自然の中で健康に生きたいと思うのは自然なのである。だから自分も上野里氏などにあこがれたしそういうことは人間にとって別に変わったことではない、人間は強く健康に生きたいと思うのが普通なのである。
ところが現実にはそういうふうに生きられないから宗教が生まれた。
●誰も社会的弱者にはなりたくない
カルト宗教団体に入る人はいろいろ理由はあっても社会的弱者の人が多いわけである。
生活保護者が多いというのもそのためである。そういう人は弱者なるが故に「悲しむものは幸い」だなどと心理的に精神的に肯定などしない、この悲しみは何なのだ、なぜ自分かこんなにしこんなに社会的に貧しく損ばかりしているのか、金にもならずは底辺で働かせられているのか?一方で上を見れば楽して悠々暮らしている人たちがいる。あぜあの人たちはあんなに社会的に得しているのか?そういう不満がものすごく渦巻いている。
その不満がカルト宗教団体に入る動機になる。
例えば就職するにも保証人が必要でありそれて苦しんでいる人たちもいる。この保証人問題も実は社会的弱者であることの証明なのである。保証人もいない人は社会的弱者と認定されまともな会社に就職することもできないことになる。自分もその一人になってわかった。就職するにも保証人が必要だということは社会の有力者だったらコネ入社とか他にも公務員の親戚がいたり大企業の親類がいたりとか何か社会的ステータスのある人が保証人になってくれれば社会もその人を信用して就職もスムーズにいくことがある。そういう面でも社会は必ず差別してくるから悲しい思いをすることか弱者は多くなるのだ。そういうことて「悲しむの幸い」だなと納得するものはいないのである。
なぜこんなに弱者は損するのだと憤りになるのだ。だから保証人問題でも弱者いじめなことがわかった。
ではこうした弱者でなくなるためにはどうするのかとなるときそういう不満の捌け口がない、そこでカルト宗教団体がありそこに入ると創価でもそうだがあれだけの大きな団体になると弱者も強者になれだろうと思ってしまう。つまり弱者でも助けてくれるだろうと思う。現実にそういう面は確かにあるのだ。何か現代は親密な村のようなコミニュティすら家族の紐帯も弱くなる時、そういう団体に頼り安いのである。コミニュティの中心に神社があたというときその神社も明治以降は激減したことでもわかる。明治以降は社会が激変した。明治以降からやはりカルト宗教団体というものが増えていた。自分の考えではカルトとは宗教でも団体化した者かカルトである。団体化することは権力化することなのである。社会では一人は相手にしない、二人以上になれば団体であり二人で訴えれば何かしら社会ではとりあげる。だからこそ何か不満があれば団体化して訴えるのが民主主義でもある。要するにただ悲しむものは幸いなり・・そんなことより悲しまないように団体化して社会に抗議しして自分たちの不満をはらすことだとなる。
個人的にはオームの浅原も池田大作もものすごい劣等感の塊だったということを書いた。ヒットラーも芸術家になりたかったがなれないのて政治家になりあのような独裁者になった。そこに歪んだ性格が形成された。それで仏教に学んだがそれは社会に宗教で団体化して復讐するためだった。見ろ、自分には800万の仲間かいる。この人たちを俺の一声で動かすことができる。見ろ、金は一兆円もある。銀行に積んであるから銀行の幹部が頭を下げる。銀行も金を持っている人は優遇する。自分もたいした金でないにしろ投資信託などは申し込んだら歓迎される。あれも今や銀行の収入源になっているのだ。
警察も官僚もそうだが銀行も権力的な場所になっている。だから創価ではそうした権力的な場所をおさえようとしている。警察にもにらみをきかしている。警察も怖いからそうした団体にはあまりかかわらないようになる。それはまさに東電ともにていたのである。
あそこも資産が三兆円とかあるとなっていたから驚きである。
実際に現実社会は権力で動いている。だから現実的になればこの世の権力的場所をおさえることだとなる。池田大作を批判するもの世から抹殺するほどの権力をもったのである。マスコミも政治家も官僚も銀行も彼の前にひれふす、巨大な権力集団の前にひれふすようになったのである。
ともかくカルト宗教団体に入っている人はそういう社会に不満があり恨みをもっている人が多い。それを晴らすために権力を得たいがために運動することになる。権力さえ得ればこんなに悲しい目にあわずにすむとなって運動している。怨念の宗教でありそこに何かに感謝している人など一人もいないのである。
確かにこの世で弱いものは相手にされない、金のないものも相手にされない、みじめな思いをするからこそ金を得るために必死になる。例えば保証人問題でもそうだが警察も権力集団だから権力あるものにはこびる。社会的有力者なら事件でも動く、ところが社会的弱者は犯罪にあっても警察は捜査しないということもあるのだ。現実になぜ東電の会長であれ幹部であれ何の罰も受けないのかわからない、外国の東電の会社に以前として留まり暮らしている。これも以前として東電の幹部は大企業の幹部であり社会的強者になっているからだ。検察も実際は東電の天下り先であるからグルでもあったともなる。官僚とか大企業の幹部はいい思いだけをする。あれだけの犯罪を犯しても罰せられることもないのだ。一方で百円盗んでも刑務所に入れられ人もいる。そういう不公平が公然とまかり通っているのがこの世の中である。
だからこそみんなカルト宗教団体だけではない、社会的強者になりたい、権力を持つ側になりたいとなる。それでカルト宗教団体はすべてそういう人々の欲望を知っているからこそ今は底辺の生活でみじめでも創価が社会の枢軸をおさえて支配するようになる時、権力を行使する側になりいい暮らしができるようになると説いて毎日票集めに必死になっているのだ。それは多分に共産党もそうした底辺層を相手にしているから同じ傾向がある。中国でも不満分子が相当いるからそういう人たちを宗教で集めた。カルト宗教団体というのはすでにそれだけ古いし人間そのものがやはり変わらないから形を変えて似たものが生まれてくるのでてある。
死の病から人を救う宗教団体は、圧政に苦しむ庶民の不満と結合して、黄巾賊と呼ばれる一揆集団へと発展していく。張宝(ちょ一つほう)張梁(ちょうりよう)張角の弟たち。彼らの死後も、漢朝の政治に不満を持っ民衆は、黄色い布で髮を結い、度々、蜂起した。
人間の最大の弱点は今でも病気である。医者でも直らない病気があり以前として宗教に頼る。創価に入る人の動機も最初はそういう人が多かった。不治の病になったら直るとなればどんなものでも信じるようになるのが人間の心理なのである。これだけ科学が宗教のようになってもやはり直らない病気が多いからそうなる。それたけカルト宗教団体が跋扈するのは古い歴史がある。というよりは人間の根本的問題として人間の弱さや社会的差別や不満が解消しないからそうなる。創価は武力革命さえ一時は目指していたからにたものだったのである。
結局権力を目指すものは宗教であれ社会主義のようなイデオロギーであれ何であれみんな同じである。まさに黄巾賊であり三色旗とかもシンボルにしてるからにているのだ。
信長に反抗した念仏宗の真宗の集団もそうだった。大坂城の前進はその寺院の跡に建てられたことでもわかる。宗教的集団は政治的集団と化しやすいのである。カトリックも権力をもったから政治的集団と化して腐敗した。
ともかくカルト宗教団体を否定してもこうした人間の根本的問題がある時、いくら否定してもまた形を変えて社会を席巻する。これも人間社会のカルマだったとなる。歴史を繰り返すとは団体でも社会全体でもそうであり個人的にもカルマは解消されず延々とつづいているのだ。人間の最後は罪の最後の審判であり滅亡に定められているのだ。その滅亡はノアの洪水の再来かもしれないし核戦争かも知れないし今回の放射能汚染で水も空気も汚されいつのまにか人類は死滅していたとなるかもしれないがこの世はいつか必ず滅亡するのである。ただその時期はわからない、おそかれ早かれそれは神が成すことであり必ず人類滅亡の日は来る。
●人間はみんな最後は弱者になる
自分が経験した身内のことでもあれだけ健康で優秀そのものだった女性が最後は認知症になり本当に馬鹿になってしまったということを書いてきた。これも信じられないことであり人間かいくら優秀だと言ってもいかにもろいものか?一転して百の評価だったものかゼロになり人生の落第生になってしまった。これも人間というものはいくら強く健康に生きたいと思っても最後はみんな老いて体もだめになり頭もだめになり人間そのものが崩壊してしまう恐怖がある。だから三島由紀夫も老いることの恐怖でボディビルダーのような体を作り自殺のようにして死んだ。老いることは男性でも女性でも恐怖なのである。
それはこれまでもっていたものをすべて失うことに通じているのだ。
その恐怖から誰も逃れることができないのである。老人になるとなぜかえって権力や金に執着するのか?なぜ老人は金を持っているのに使わないのかとかいろいろ若い世代に責められている。でも一体誰が今老人を敬う人がいますか?金がない老人は死ねと叫んでいる。そういう時当然老人は若さもないのだから権力や金に執着するようになる。その権力も金もない人間は死ねといわれれば当然そうなるのではないか?金がなくなったり何の価値もないとなれば金は使わないし執着する。金意外の価値は何も認めないということになっているからだ。でももし若い世代が決起すれば老人など弱者だから金など奪うことができるのだ。若い者の方が老人より実際は力があるからだ。ただ本気でそうしないだけなのである。
前にも書いたけどカルトは別に団体化したものにだけあるのではない、個々人がカルト的体質をもっていたのである。自分が身内に障害者をかかえたときや自分が病気になったとき明らかに自分も弱者になり個人的に脅されたときほど恐怖を感じたことはない。
結局自分のこの六年間の苦難でいかに弱者が悲惨なことになるか身をもって経験した。
あらゆることで弱者化していたのである。これは金があっても病気になったりしたら誰でもどうにもならない、弱者化するのである。そのとき例えばカルト宗教が入りこんでくる。先祖がどうのこうのとか何が悪いのとかどうかと言われる時信じやすくなるのだ。
それは権力をもった団体だけではない、個人でも弱者を恐怖におとしいれる。
親戚の人はもともと弱者だった。それで創価など一時入っていた。その人間が実は弱者をいじめるカルトになっていたのである。自分が病気になったことをいいことに入院している時も脅してきた。借金しているからいろいろと金が欲しくて脅迫のようなことをしてきたのである。借金している人は普通に殺人まで追い詰められるから怖いのだ。自分を苦しめた人間も実は弱者だったのである。一人は病気の時、火事場泥棒をしたがその人も金に困っていて弱者でありおいつめられていた。だからこそ自分が弱者になったとことをいいことにそういうことをした。津波の被害の時もそういうことがあった。そういうことをするのは金に困っているからそういうことをするのである。金に困らない人はそんなことをしないのである。弱者は弱者を助けるのではない、弱者化するときそこをついてきて襲ってくる、それか戦国時代でもあった。それが人間の真相でもあった。
結局人間は弱者に甘んじる人は一人もいない、悲しむ人は幸いである・・などと満足している人はいないのである。そうして弱者としてひどいめにあった人は余計にそうである。まさに自分の経験したのは食うか食われるかの世界だった。食わねばこっちが食われるという極限の状態になれば人間はみんなそうなる。そういう弱者になる体験をしない人は人間はみんないい人だとか思っている。現実の厳しさに直面すればそんな甘い考えは吹っ飛んでしまう。この世はまさに修羅場だとなる。
カルト宗教団体がなくならないというときまさに人間の根本的問題として社会的弱者が常に存在するしその弱みを解決できないからそうなる。絶対的強者になれないからこそ悲劇になる。いくら優秀でも認知症になり本当に馬鹿になって死んだということも信じられない、人間は確かに権力を求めて地位と金と名声とかあらゆるものを手に入れてもやはり弱者としての人間からはまねかれない、王様もやっぱり最後は病気になりあえなく死んでゆく。人間は結局どんな人でも最後は弱者として死んでゆく、権力が求めて得たとしても同じである。この世の矛盾はこの世では解決しない、いら努力しても解決しないのである。
だから天に望みがありこの世には望みがないのである。常にキリストか説いたのは天のことでありこの世のことではない、この世のことは絶対に解決しないのだ。
悲しむ者は幸いなりとは・・・そもそもこの世の中は悲しまないで生きられないところなのである。悲しむことに人間の真実がありより多く悲しむものは実は人間として何か重大なものを知るとなる。何にも悲しまないものはかえって人間としては何か重大なものに気づかない浅薄なものとしてこの世を終わる。悲しむ人は純粋なのである。涙は真珠のように尊いのである。神はそのために泣くことができるようにしたのである。悲しみ泣いているときカルタシスになる。何か心が清められたような気分にならないか?涙にはそういう効用があることは確かである。シェークスピアが悲劇がテーマだったということは人間はそもそも悲劇的存在だったということである。ドラマでもハッピエンドで終わればつまらないとなる。悲劇的なことに人間存在の重みがある。キリストも十字架で死んだからこそ影響力があった。人間はなぜこんなに苦しみ悲しむのだというとき、実際は恵まれて悲しみもしない人よりより人間として生きているのかもしれない、まずあまりにも恵まれて幸福だったら文学も生まれない、それは浅薄な一生になってしまうだろう。それでも人間あえてそんな苦しみや悲しみを受けたくないのである。
実際に人間は一方で求めているのは快である。人間の求める快楽がどれだけ強いか?その快を求めるからこそこれだけの文明社会になった。性のような本能的快楽も個人差が大きいにしろ死ぬまで消えない人も多いのである。その欲望故に人間も継続できたともなる。人間はあえて苦しみなど求めない、快楽を求めるのが普通である。たた強制されてそうなるだけなのである。図らずもみんなそうされてしまうことなのだ。
ともかくそうした悲しみや社会的弱者化するときどうしても涙を流して来るべき天を望むようなことよた現世で権力を得たいということになるのが人間だったのである。そのこ
とはカルマは変わることがない、たから人間の問題はそうした根本的なことが変わらないから歴史もカルマであり個人的にカルマを繰り返すだけであり世の中は何か変わったようでも何も変わっていなかったとなるのだ。