2016年01月20日
知らなかった過去の事件 (イスラム国とにていたテロリスト集団のアメリカの金持ち誘拐事件)
2016年02月16日
朝日新聞の創価学会対共産党の大研究の批評 (マスコミも常にネットから批判される対象に)
2016年02月18日
THERE WILL BE BLOOD 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)「野心が信仰と出会う時」の批評
2016年03月12日
無責任な発言が許されなくなったインターネット (匿名でも発言の責任が問われる時代)
2016年05月15日
メデア(テレビなど)よって一方的に操作される時代 (テレビは感情的に私的制裁するリンチするメデア)
2016年05月20日
みんなが記者になるインターネットの時代 (現場の被害よりいい写真をとることに夢中になる)
2016年06月06日
買い物が増えすぎた、情報が増えすぎた、処理できない (古いものが失われたことによる損失もあった)
2016年07月14日
家電量販店とインターネットの買い物の相違 (アマゾンのレビューは消費者(有権者)の声が反映されている)
2016年08月13日
「心の青雲」が文字化けして読めなくなっている謎 (サイバー攻撃か、その怖さ)
2016年08月26日
民主主義には言論や報道の自由が不可欠 (でも権力との癒着で成されていない)
2016年09月07日
「天国の門」の映画はこの辺の事情とにている (郷土愛がテーマとなっているから)
2016年09月10日
松本清張の「黒い福音」を見て (アメリカに支配されていたために宣教師を逮捕できなかった)
2016年09月15日
マスメデアからインターネットの情報摂取の変化 (知らないことが致命的になる社会)
2016年10月20日
報道とは何かー報道に土着したものの眼が必要 津波や原発事故で思い知らされた
2017年01月04日
マスコミはもう終わっている (これからは土着的地域に根ざす報道機関が必要)
2017年01月06日
通販でパソコン買って故障 (ASUSのノートパソコンの保証書なくして修理できない)
2017年01月12日
トランプはなぜマスコミを嫌うのか (マスコミを相手にすると偏向報道がされるから)
2017年01月21日
マスコミの報道の独占は終わる (トランプはマスコミを相手にせず大統領になった)
2017年01月27日
ミネルバ大学 インターネットでグローバルに創造的に学ぶ
2017年02月03日
外国の映画も深く鑑賞するには地理を知らねばならない (『大陸横断超特急』を見て)
2017年02月13日
権力に大小に比例してプロパガンダは効果を発する 政治も科学も報道も宗教も権力のプロパガンダと化す
2017年02月15日
本は何なのだろう (骨董品となり芸術品となっていた)
2017年02月26日
NHKのフェクニュースの解説を今日のテレビでしていた NHKも中立ではないマスコミは局の意図をもって報道解説している
2017年03月05日
時代を越えられない、時代の犠牲となる人間 (大奥という場で犠牲となった絵島ーNHK歴史秘話ヒストリア)
2017年04月28日
ニュースも継続したものとして歴史として理解する 時間的にも断片化しない
2017年05月05日
報道がなぜ面白がることになるのか? (他人の苦しみを知らないし理解できないから)
2017年05月16日
マスコミは会社から宣伝費をもらって成り立つ (会社側に立つから公正な報道はない)
2017年06月03日
原発安全神話の洗脳に加担したマスコミ (福島民報は県が50パーセント出資している官報だった)
2017年07月13日
一つのパソコンからさくらのフログに書き込めなくなった謎 (記録したものが消される恐怖)
2017年07月14日
インターネットの情報社会の混乱 (プログも勝手に削除されたりしていいのか?)
2017年07月25日
地方の一新聞がピューリッツァー賞受賞 (報道は事実を伝えることー原発事故でも問われた報道)
2017年08月12日
マスコミにはリアリティのある報道がない (個人の経験にリアリティがある)
2017年08月26日
テレビでは他人の不幸は蜜の味になる (報道は今やネットで個々人もモラルが問われる)
2017年08月31日
情報化時代の弊害 (過剰に反応して疑心暗鬼の社会に)
2017年09月04日
インターネットはプログは重要なものはログをとって読む (リンク先のログはとっておくー「心に青雲」のログが死亡してなくなる)
2017年09月06日
「心の青雲」都築氏死亡の波紋 (インターネット利用はどうすべきなのか)
2017年09月20日
報道はともかく事実を多面的に報道すべき (津浪(八沢浦)の自分の報道で責められたことについて)
2017年10月08日
人工知能化する人間 (膨大な情報処理が強いられる)
2017年10月24日
今なぜ本が問われるのか(2) (インタ-ネットにはない本の特徴)
今なぜ本が問われるのか(2)
(インタ-ネットにはない本の特徴)
冬日さしペ-ジをめくる厚き本
●本をテ-マにした短歌や詩
瓶にさす藤の花ぶさ一ふさは重ねし書の上に垂れたり 子規
売り売りて手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る夏の末かな 啄木
本を読むならいまだ
新しいをきりはなつとき
紙の花粉は匂いよく立つ
外の賑やかな新緑まで
ペエジにとじこめられているようだ
本が美しい信愛をもって私を囲んでいる
室生犀星
タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ 明日はもう秋だ
寝ころびながら本をぱらぱらとめくる
自分が引用できそうな文をマ-クする
その詩に洞察に感嘆する
寝て座って立って所を変えて読む
時には廊下に冬の日がさして
分厚い本のペ-ジめくる
そのペ-ジに冬の日がさしている
随分この本も古くなったと
我が古い友のような本もある
我も古くなった本のよう老いる
何度も読んだ本は古酒のようになっている
夏の夕ぐれ日はまだ明るい
本は人類の知恵の宝庫
私は居並ぶ賢者と芸術家とともにいる
私は今やそうした歴史上の人物と対等
なぜなら即座に深く読める
その一文を自分の文のようにとりこめる
丁度オ-ケストラの指揮者のように
それぞれの楽器を深く理解できる
鑑賞力が増せば深まれば
その味わいはまるで違うものとなる
一なるものが十にもなる
くめど尽くせ知恵と美が本にあり
私の時間は至福に満たされる
詩でとりあげたように本というのは電子本との相違はまだ良くわかっていない、本が何であったのかなどと問うこと自体それが電子の世界になったとき問われるようになる。本が最初は文字が作られたときからはじまったというときただ文字を印すものが煉瓦だったり粘土だったり竹だったりとしていただけであり紙に印されたとき今の本ににた形になってきた。本の前に文字が作られたことであり文字があって本がありえた。文字でも何か印されることによって残ることができる。すると木に印されるよりは石に記された方が後世に残りやすい、石に記されると何か文字に重みがでてくるというとき石の重みがそうさせているのだ。文字は別に何に記されても同じなはずだが石に記された文字は重みがでてくる。それは文字に重みがあるというより記された石に重みがあるからである。本でも装丁が美しく重い本だと中味もあるように思えるのと同じである。
鉛筆にバラモンのにおいがする・・・という詩でもこれは本にもあてはまる。紙の材質によっては紙の手触りから本を読むことはバラモンのような特権階級のように思えてくる。本は高いものがそういう感覚にもなる。文房具にこるのもわかる。筆がいろぽす発達したのはそのためである。本の世界はそれだけ特権階級的なところがあった。だから普通の人でも一生に一冊本を出したい、成功した人が大金を出して自費出版するというのが成功の証でもあった。それほど本というのは普通の人には高根の花だったのである。それを商売にしようとする出版社がふえた。今でも流通面では本は普通の人には書店に並べられない、でも本を作るのは今や素人でもパソコン上でもできる安上がりなものとなっている。本にもいろいろあり本の大きな価値は流通面にあった。本を作ることができても普通は流通はできない、大手出版社とかの許可がなければ近くの本屋でも置けない、そういう仕組みになっているのだ。だから情報が操作されるということがあった。原発の危険を指摘した本が隅に追いやられて何か特殊な奇人の空想的なものとして真面目にとりあげられていなかったのである。情報は権力あるものによって操作されている。それは本の世界でもそうである。
何故なら取次ぎなどは戦後アメリカが情報を検閲するために作られたのである。本と流通の問題は別なのである。グ-テンベルグ時代に本は簡易に作られ普及して流通したからこそ革命になったのである。その時代に流通した本は少ないにしても仏教寺院で修道院でしか仏典でも聖典でも読めない時代とはあまりにも違う社会となったのである。現代では逆に本は中世の写本のようにして残る。
装丁にこり一冊しかないような芸術品として残る。ただ中味は電子本で流通することになる。本とは普通の人には流通できないし本自体流通にはむかないので出版社も書店もなくなる。すると最後に残るのは本の芸術性を追求したものとなる。それは図書館に絵のように保存されたりする中味は電子本で読むのである。
●本と電子本との相違にまだ気づいていない
本とは何なのか?そう問うこと自体が電子の世界化、インタ-ネットで改めて問うようになった。だから本とは何かとなるとなかなかわかりにくいのだ。本は文字だけでなく物としてありだから材質にこだわったりする。物としてのフィテシズム、愛書家も生まれる。物だからそうなる。自分も本を読むというより本の蒐集家でもあった。20代から書斎をもっていたから恵まれていた。ただ若いときは本は集めても読んでも深く読めない理解できないのであるがでも相当集めた。郷土史関係の研究でもまず本を集めないとできないということがあったのだ。だからある程度手元に本がないと研究もできないし文章を書くこともできない。ものを書く人はどうしても書斎が必要だし思索の空間も必要である。それがわかったのは今まで狭い所で書き物して読書していたことでわかった。今は広い部屋で読書している。それで気づいたのが本というのは自然の外界の反映がある。インタ-ネットの空間にはそうした外界の自然の反映はない、分厚い本を開いたらそれで風がそよぎペ-ジがめくれたとか、冬の日がさしてきたとかない、ただ電子文字と写真やビデオの空間なのである。
平安中期から以降になるとさかんに書物を読むようになる。読むばかりではなくて昔のことですからそれを筆写しなければならない。そうするとこれはかなりの明るさをもたないとそれができません
しかも風が吹き込むような家では困ります。
そういう中から襖を薄い紙でもってはる、いわゆる明かり障子とういものが作られようになった
(宮本常一)
このように本というのは電子本とは相当に違ったものであり本とは何かというときそれが良く答えられないのはそのためなのである。その大きな特徴が本が物としてあるということなのだ。物としてあるから流通するには不便なのである。自分の家が本で傾いたというのはそのためである。本の不便さはいろいろある。本は手元に奥には限られたものである。すると知識も極限られたものとなってしまうのである。それは物だから置くには限度があるからだ。ところ電子空間では物ではないから無尽蔵に置ける、ゴミになっても一瞬にして消し去ることができる、それがかえって電子本は文字に重みを与えないものとなっている。電子の世界では書くということも違っている。書きながらキ-ワ-ドで書くことを追加したり書きながらアイデアが自然と生まれてくることがあるのだ。そういうふうに書き方も違ってきている。ともかくいくら書いても重さもないから誰の負担にもならない、誰の負担もかけていないということが不思議なのである。本一冊を流通させるには相当な負担がかかる、だからそれを商売にだけしにらうとするものは売れないものは扱いたくないとなる。こんな売れないものは置いてどうするんだとなる。でも知的なものの価値は誰かに何かを伝えるということでもあるから別な価値観を本の世界には知的情報の世界にはあるべきだったのである。それがインタ-ネットで開けたのである。
売り売りて手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る夏の末かな 啄木
本はこうして誰かが読んでいるものをまた読む、この本は誰かが使ったのだなと思ってよむ。しかし電子空間にはインタ-ネットには物ではないからそうしたものがない、電子本の世界には古本になることはない、物ではないから古くならないのである。本だったら必ず40年くらいすると表紙がはがれたり紙が汚れてきたりする。いんづれは読めなくなったりする。電子本にはそういうことがない、劣化することがない、でもソフトで読み出せないという恐怖がつきまとっている。一瞬にして消えるということがある。現実にレンタルサ-パ-でそういう経験をしている。復旧したから良かったが他では消えたらしい,そういう怖さが電子のインタ-ネットの世界には常にあるのだ。