2019年09月22日

観光と旅の相違 (今は旅人も旅も喪失した観光の時代−地元の観光をどうする)


観光と旅の相違

(今は旅人も旅も喪失した観光の時代−地元の観光をどうする)

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観光資源の活用は、既存のものの掘り起こしと新しいものの創造によって、観光のあり方を激変させる可能性がある

現代は観光の時代である、世界的にそうである、交通の発達で旅もグロ−バル化した
観光が一大産業にもなる、ギリシャなどでは観光が主な収入源でありヨ−ロッパの保養地となっていた、だからのんびりと暮らしていたがギリシャ危機でそうもいかなくなった
観光だけに頼ることも危険である、なぜなら観光も浮き沈みがあるからだ
ある時はある場所が人気になりある時は別な場所になる
今は日本が人気になっているのは日本は旅しにくい場所だったからである
物価が高いとかでしにくくかった、でも今になると中国をはじめ豊かになるとやはり外国を知りたいとなり日本が貧しくなったので観光立国とかまでなった
京都辺りでは観光公害にまでなっている
日本人が日本をゆっくり旅できないというのも異常である

観光という時、旅とは違う、現代では旧来の旅とか旅人はいない、江戸時代辺りなら普通の人でも街道を歩くほかないのだから旅人になり旅をしていたのである
今は交通機関が発達したから旅はなくなった
旅と旅人だと宿場があり必ずそこによる、今は別に途中の宿場による必要はないのである新幹線で一気に目的地に来る、その目的地で温泉とかにひたるとか御馳走を食べるとかが目的となる、途中がないから旅ではないのである
つまり歩いて感じる感覚とはかけ離れたものとなる

街道を行く人あれや秋薊

日立木から松並木があり相馬市の城跡までは昔の街道である
でもそこは細い道だから車が行き来する、そこで情緒がなくなる
自転車だとなんとか歩いたものに近くなる、でも車だと道の辺の花など見ないのである
車はひたすらスピードを出して目的地に向かう乗り物なのである
それは電車にも言える、途中がないのである
それで旅の情緒がなくなったのである
だから旅人はもういない、西行ー芭蕉ー山頭火まで旅人であったが今はいない
旅人になりかない環境になったのである
六号線とか国道を歩いていてもそこは車の通り道であり歩く道とはならないのである
草臥れて宿かるころや藤の花 芭蕉」こういう感覚はないのである 
自転車で亘理から相馬市の方へ来たときそこは街道であったから旅になっていた
そのことをプログで俳句にしたりして書いた
そこには古い歴史があった、歴史の道としてあったがどうしても六号線を通るから昔の街道がどこかもわからなかったのである

東海道五十三の浮世絵を見るとそこは歩く人しか描かれていない、みんな歩いていたのである、一日30キロとか歩いていたのである、それだけ歩く時代だったのである
それで朝早く旅立ったというのもわかる、朝早くなければそれだけ歩けないからである

私も自転車で旅したが自転車は歩くよりやはりかなり早くなる、それでも一日私の場合体力がないから50キロから60キロくらいしか行けない、疲れて行かなかった
だから30キロ歩いたら相当に疲れる旅だとなる
いづれにしろこれだけ交通が発達すると旅自体ができないのである
歩いている人がいても必ず電車を利用したりしているからである
ずっと歩きとおすことはできないのである

現代は観光の時代である、観光というときそれは一つの目的地まで電車なり車なり飛行機なりを利用して目的地に早く着きそこでその場を観光するということになる
でもこの観光というのは初めての場所を知るということは意外とむずかしい
それは老人になっても地元のことがわからないとういことがあるからだ
それだけある土地について知るには時間がかかるのである
とすると一日来てその土地のことを知るのはほとんど不可能である
ただ何回も来ているうちにその土地のことを知るということがある

観光資源の活用は、既存のものの掘り起こしと新しいものの創造によって、観光のあり方を激変させる可能性がある。

そしてその土地に住んでいる人が地元のことがわからないのである
この辺だと日立木から相馬市の城跡までは旧街道であり歴史の道である
そこはわかり安くても他はわかりにくいのである
松川浦もわかりやすい、でも実は田舎の魅力は地元の人が当たり前と思っている何気ない場所にあった、そういう場所は土地の人もわからないのである

●歴史の道(相馬市の城跡までの旧街道)
●田舎の小径
●田舎の秘境

この辺だと城跡までの街道はわかりやすい、でも故郷の小径となるとわかりにくい
なぜなそらその小径を最近私が発見したからである、そこは隠されたようにあったからわからなかったのである、自転車で毎日行っていて発見したのである
それはすぐ近くだったのである、つまりありふれた場所が実は魅力ある場所として発見されていないのである
そういう場所があるのだが発見されていないのである
田舎の秘境というのもそうである、それは橲原の奥の水無河川の上流だった
そこには道もない、道を整備しようとしたができていない
だからそこに行くことは難儀する、でもそこは秘境となっていたのである
田舎自体そうした秘境を知らないのである

飯館村の木戸木には森におおわれた清流があったが道ができて失われた
あそこは本当に秘境だった、ただそういう場所は田舎だと必ずある
でも地元の人すらわからない、注目していないのである
でも観光の問題は観光だと秘境が秘境でなくなる
人が入らない所だから秘境になっている、それががやがや観光客が入ってくると秘境でなくなるのである
ダムができる前の大倉の集落も秘境だったのである

相馬地域でも野馬追いだけではない、自然でも観光資源はある、身近な所にある
ただそこが地元の人すらわからないということである
観光はだからその地域をしるというときどうしても案内人が必要になる
それが金がなくてできないから外国のことがわからなかったのである
ただ外国に行けばいいというだけであったから自分の場合はせっかく外国まで行ったのにわからずしまいになったともなる
それは日本国内でも言えるのである、誰か案内人がいなと始めてくる場所のことはわからないのである

ただある地域を知ることはこのように地元に老人になってもわからないというときはじめて来る人は余計にわからない、少なくても三日くらい滞在しないとわからない
その時間が日本にはない、移動するにも便利でも時間がかかる、金もかかる
ではまた滞在するのでも三日となれば時間がとれないとか観光でも時間がかかる
旅だったらそれ以上に時間がかかる
そして地域の魅力は四季にある、四季の変化で魅力が変わる
だからある地域を知るには四季に行くといいとなる、でもその時間がないのである
それでヨ−ロッパではバカンスがあり一か月くらい自由に旅する保養するというのが文化になったのである

人間は何するにも時間がかかる、そしてその時間がないのである
まず勤め人になればもう一か月とか旅はできない、一か月も旅できる人間は異常なアウトサイダーだとなってしまうのである
正規のルートからはずれた人間になってしまうのである
結局旅の問題は金もあるにしても時間の問題が大きいのである
私は別に金があったわけではないか十分に時間だけがあったので旅できたのである
一番困ったのは泊まる宿だったのである、日本の宿は高いのである
ヨ−ロッパでは安宿が多いから旅しやすいのである

観光をどうするかというとき日立木の松並木から相馬市までの旧街道を歩行者天国にするそこは歩くから自転車にする、あそこは曲がりくねって細い道であり歩くと昔の道になるからだ、後は自転車とかで小径の散策である
秘境となるとそこは道を整備しなければならない、でもこれだけ観光するだけで相当に疲れる、三日は十分にかかるのである
そういう案内が自分はできるがその労力も相当なものになる
自分一人ではできない、私は他にやることがありできない
毎日こうしてプログを書いているだけでまた家事にも追われているからできないのであるただ観光のヒントを与えることはできるとなる



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2020年06月23日

トンネルの話 (トンネルは国境ともなり闇をぬけることで人生の象徴にもなる)


トンネルの話

(トンネルは国境ともなり闇をぬけることで人生の象徴にもなる)

旅の思い出として残るのが境として意識するのが山国の日本だと峠になりそれは国字である、峠を上るきるとそこに視界が開け別世界になる
もう一つ境とか意識するのは山国ではトンネルなのである
日本は山国だから本当にトンネルが多い、トンネルは電車の旅で意識する

仙台市から山形県へ向かう面白山のトンネルが宮城県と山形県の境界である
それは地理的にも意識しやすい、また季節的にもその境界辺りは寒く雪が春でも残っている、つまり面白山を境に気候も違っているのである
そして福島市に向かう電車が峠駅でとまる、そこは無人駅だけどそこから盆地の福島市に向かう境界なのである、だから峠駅なのである

トンネルの不思議は真っ暗な闇の中をゆく、そして闇をぬけたときほっとする
やはりトンネルをぬけると新しい視界が開ける、別世界に来たような感覚になる
自転車でトンネルをぬけるのは怖い、とても長くなると車道を走れない、それで脇の歩道を行くにしても怖いし長いと早く出たいというだけになる
そしてトンネルをぬけたときほっとするのである

とにかく日本にはいたるところにトンネルがある、それは山が多いからそうなる
それで日本がではトンネル技術が進歩したというのもわかる
技術も風土によってその土地に見合ったものが開発されるからだ
砂漠地帯だと中東から風車が生れたというのは絶えず風が吹く場所だから適していたとなる

トンネルは何か神秘的である、それは暗いからである、その暗い所をぬけると解放された気分になるのである、だからトンネルは国と国の境になる
そして村と村でも道がないときトンネルをほって道を作る、そこで村と村が道で結ばれる何らか日本では山とかでさえぎられどうしてもトンネルをほって道を作ることになりやすいからである
日本ではやまのあなたに幸いありという地形なのである 

人間の一生でも暗いトンネルに入ることがある、それは抜け出せないという恐怖に通じている、でもトンネルには出口がありそこに光りがさして新しい世界に向かっている
ただ苦しい時はどうしてしもその暗いトンネルから抜け出せないような感覚になり重苦しいものになる、病気とかになったりするとそうである
介護ではそういう苦労を自分はしてきた、介護はいつ終わるかわからない暗い長いトンネルだったのである、そういうことをみんな人生で経験する   

不思議なのはトンネルでも電車でぬけるトンネルと歩いたり自転車で行くトンネルは違った感覚になる、自転車を引っ張り歩いたりしてぬけるトンネルは電車とは違う
電車はあくまでもレールの上を走るから必ず抜け出られるという前提があり安心である
歩いたりしてぬけるトンネルはぬけだせるにしても遠く感じるのである
そしてかなたに出口があり一筋の光明がみある、光りがさしてかなた明るくなっているからだ、

その感覚は電車にはない、つまりなんでも機械に頼ると人間的感覚が失われるのである、だから本当に旅したいなら歩くほかないのである
そこに人間の感覚でとらえられるものが生れるからである
でも自分自身がこれほど旅しても歩いた旅はしたことがない
例えば陸前浜街道にしても10キロの道も歩いたことがないのである
それだけ今は歩くということをしない時代なのである
それで車であれバイクであれ自転車でさえ何か人間的感覚を感性を失ったのである

人間はこれだけ電気社会になると暗いという場所がめずらしくなる、暗さを体験しない
時代をさかのぼれのぼるほど人間は暗い世界に住んでいた
それでかえって人間の感覚が鋭敏になり感性が磨かれた、それで谷崎潤一郎の 「陰窮 礼讃」などが生れた
人間は今や本当に暗い世界を体験しない、都会だと不夜城になり暗さを追放している

ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く 山部赤人

これも闇が深くまた騒音もない古代の景色がありその清涼感がでている
ここには久木とあるがこれは何かわからないにしろ植物としてありその他に人気もない
原子のままの状態をイメージさせる、つまり人間がいない原初の自然の清涼さがある
その河原には人の足跡はなくただ千鳥の足跡だけがある世界である
それは闇が深いとういことでもそういう手つかず自然の中で歌われたのである

トンネルというときこの闇と深く関係している、闇の世界がトンネルである
そこを抜け出すということでトンネルがある
いづれにしろ日本にはトンネルが多い、トンネルで村と村も結ばれたということがある
そのトンネルほるために大変な労力をはらったことが伝説ともなっている
それは中国でもあった、その時機械もないから人力だからトンネルをほることは大事業になったのである

九州の大分県の耶馬渓(やばけい)にある“青の洞門”でしょう。
 今からおよそ250年ばかり前のこと、耶馬渓をおとずれた一人の僧がいました。
 名を禅海(ぜんかい)といい、 耶馬渓は山国川にそう険しい台地で、そそり立つ岩の間を何本も川が流れています。
 昔から交通の難所として知られていましたが、中でも険しい崖をつたう鎖渡しとよばれる桟道は、命がけで渡らなければならない難所でした。
 この難所で多くの命がうばわれることを聞いた禅海は、ここにトンネルを掘ろうと決心しました。
 洞門を切り開くことに手をつけたのは、1720(享保5)年で、禅海は50歳くらいでした。
 ツチとノミを使ってただ一人で、禅海はトンネルを掘り進めました。
  こうして30年、1750(寛延3)年に、トンネルはついに完成しました。

 トンネルの歴史

トンネルを作ることは大事業だった、30年かかって完成した粘り強さには驚く、つまり今は機械でするけど人力の時代になるとこれだけの労力と歳月が必要だったとなる 
ヨ−ロッパだと運河のトンネルがあるのも川が道になっていたからである
だから運河のトンネルというのもやはりトンネルでありそこをぬけると別世界に出るという感覚になる





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2021年01月05日

地理で基本になるのは方角である (地図でで方角を知る方法)


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地理で基本になるのは方角である

(地図でで方角を知る方法)

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地図上で方角がわかる

●東と西の方向

日の沈む国。日本の西にある国の意で、中国をさす。推古天皇15年(607)遣隋使小野妹子の携えた国書にある「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」による

「東北」という方角の表し方は東洋風(漢字圏)の表し方で、「北東」という方角の表し方は西洋風の表し方です。

そもそも東北というとき北東のことである、北海道は北である
韓国から見て日本海は東海である、東であり日本海から太陽が昇る
日本だと日本海であり太陽は日本海に沈む、この差は本当に大きい
そこで韓国では東海だとして争うことになる
日本と対抗しているから余計にそうなる、日本の海だというのが気にくわないのである
だからこの方角は地理にとって基本である
旅をして一番感じるのが太陽が昇り太陽が沈む方向なのである
それは海を航海するときも太陽が昇り沈む方向で方角を知る

それで旅をして一番不思議に思ったのは太陽が沈む方向だった
それを感じたのは琵琶湖の湖西という地域である、そこは西であり太陽が沈む方向であるでも太陽が昇る方向が東になりそれが関ケ原でありそこを境に東西に分かれるのが日本である
それは歴史的にもそうである、壬申の乱でも東西が分れて争った
その境目が関ケ原にもなる、それで東(あづま)というときそこから東の地域に入るということになる、琵琶湖の滋賀県までは西であり関ケ原を越えると東である
戦国時代だと信長の名古屋城がある、そして琵琶湖の岸に安土城を築いた
それは東(あづま)から西へと京都へとし支配するためである

世界史でも世界の地理でも肝心なのは方角である、なぜなら東西文明に分かれるからである、西洋文明と東洋文明というときそうである、それは基本に方角があり世界史でも分かれる
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」とか小野妹子が国書に記したのはまず方角でもって世界の地理を意識して示したのである
それだけ方角が地理の基本だからそうなった、方角でその国の位置を確認していたのである

玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ (後醍醐天皇)

太平記の世界から、後醍醐天皇の遺言です。南北朝の戦いで足利尊氏に敗れ、京都から奈良県の吉野へ撤退した後醍醐天皇は、吉野で失意のうちに崩御します。その時の遺言がこれです。「私の身体は南の吉野で白骨になるけど、魂は常に北の京都奪還の執念を持ち続ける」といった大意です

それで南北朝の争いでも方角が意識される、北闕に北に京都があり御所があるからであるそしてイスラム教ではメッカのある地点に向かって礼拝する、方角が大事なのである
偶像を否定しても方角は否定していない、世界のどこにいてもメッカの方角に向かって礼拝している、方角が大事なのは砂漠とか草原の民の遊牧民である
そこでは方向は星で決める、だから三日月と星の旗になる
北斗七星が信仰にもなる、北極星が目印となるからだ
相馬氏の妙見信仰はこの北斗七星なのである、だからこの信仰は大陸から伝わったものである 

●太陽の沈む方向の地名

ともかくこの方角から地理を知ることである、それは実際にその場に立って太陽が昇る方向とまた沈む方向を知ることである、実感することである
それを知るにはいつも住んでいる同じ場所では実感できないのである
だから大坂でも不思議なのは日下とあるとき太陽の沈む方向だとしている
大坂に太陽が沈むというとき普通は山に沈むからイメージできない
でもそこは太陽の沈む方向になっていた  

「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」……「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」……「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」……の如く、枕詞的に用ひられた修辞句……「日下(ひのした)の草香(くさか)」……があつて、それが地名の訓を獲得してしまったと見るのである。……当地からすれば太陽の出を山麓から仰ぐのであり、大和からすれば……太陽の下る所に当るのである

大坂の日下は大和から見て太陽の沈む方向にあったからその地名がついた
どこを基点にしているかが重要なのである、それで方角が変わってくるからである
だから韓国から見た時、日本海は東海なのである
東の海であり太陽の昇る方向なのである、それで争いにもなる
日本海だと日本の海なのかとなってしまうからである
でもこれは歴史的に日本海なのでありその呼称を変えることはできないのである
ただ世界を知ることでも方角が重要なのである  

明石城があるところに春の太陽が沈み城を赤く染めたのは忘れられない光景であった

明石城夕日に染まり行き来する船の絶えじも難波の栄ゆ(自作)

天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ 柿本人麻呂

あそこから淡路島も見えるから淡路島が古事記の神話の国造りの中心になったのも地理的に感じる 

二上山に秋の夕日の映えつ没る姉と弟の山と並びぬ

これもやはり方角が太陽の没る方向に映えた、それは飛鳥の方向から見えたのである

●相馬市の日下石(にっけし)の地名の不思議   

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地理と歴史は一体化している、それで地歴となった、この地理を知ることは容易ではない地図を見てもたとえ旅しても電車とか車だと必ずしもわからない、坂があっても簡単に越えるしただ早く早く通り過ぎることが多いから印象に残らないのである
本当は歩けば地理を実感できる、でも歩くとなると労力がかかりすぎる
だから私自身は歩く旅はしていない、自転車の旅だったのである

太陽(日)が昇る方向だからということだそうです。
沖縄のほうはもっとダイレクトですよね。太陽が上がる方向だから「アガリ」

日向かしが東(ひがし)の由来だとすれば、
同じ字の地名「日向(ひゅうが)」も同様ですよね。 

日本語のニシは、「去方」(イニシ)の約であろうという。イニが去(イ)
ヌという動詞の名詞形で、シは方向を示すので「日没の方向」の意で西を捉え
た語というわけである。

そして津波で判明したことは日下石が西の方向のことだった
なぜならそれは海から見た時西になっていたのである
私は津浪になったとき海になった所を見た、確かに日下石は海から見れば西なのである
それは海洋民族の感覚である、どうしてもそこが西にはならないからである
船で海を渡ってきた渡来人が名付けた地名だともなる
なぜなら相馬地域に綿津見神社が本当に多いからである、飯館村の山中にもある
それが主な社でありそれは先住民が入ってきた証拠なのである
それは安曇族などの海洋民族なのである、それがこの辺の基礎にある

でも海から見れば海の岸に太陽が沈んでいたから不思議だった
東とは確かに日に向かうということから来ている、でも日の岸ともなり海の岸辺に太陽が昇るともなる、ただそれは今度は山側とか西から見た時そうなる
だから方角地名はどこを基点にするか問題になる
北京から見て南だから南京となり南京から見れば北京なのかとなる
東京は東の京だからである  






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2021年01月29日

記憶に残る旅ー機械に頼ると記憶に残らないからあとで損になる


記憶に残る旅ー機械に頼ると記憶に残らないからあとで損になる

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週間新潮ー2月4日号

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これには共感した、現代から旅がなくなったということを書いた
それはあまりにも便利になりかえって旅か喪失した
GPSで案内されてもその土地の実感は地理は自ら手探りのようにして進むことで得られる
道とは未知のことであり未知なるがゆえに魅力がある
この道を行けば何があるかわからないということで道に魅力がある

それで私は気ままに自転車で近くでも行くとそうなる
坂を上ったり細い一日一人も行かないような道がありとか近くでも発見されない道があるそこが魅力ある場所だと感じる
そして道が分かれている時、どっちに行こうかなというとき旅になる
電車とかなるとレールが決まっているから自らその方向を選択することができない
決められたルートを行くだけになるから最初は電車の旅をしていたが飽きた自転車の旅にしたのである

日永きやいづこへ行かむ分かれ道

阿武隈高原は特別変わった風景もなかったが気ままに道を自転車でどこまでも行くのにいい、そんな記憶が残っている

にわか雨お堂に休む一人旅

なんかこの時お堂の役割りを知った、お堂は雨をよけたり旅した人ても休む場所としてもあったのだ、それは時代劇で見る光景である
その役割りがわからなくなったのは車の旅とかなったからである
歩いていた旅だったら今でもこういうふうににわか雨で雨宿りする場所が必要になる
現代では旅が便利になりすぎて経験できないのも皮肉である
近くでも自転車で行けば旅になるのだ
それで最近トラック運転手だった人が仕事をやめて自転車で近くを回っているので良く合うのである、何か足も悪くしたらしく自転車で近くでも回ることが仕事になっていたのである、他の同級生も脳卒中になったけど軽くすんで自転車に乗るようになった
ただ近くしか行かない、運転手だった人はかなり遠くまで行っている

ともかく旅をふりかえると何か最初は電車の旅だった、だから本当に全線を乗ったという感覚にもなる、だいたい十年費やして乗った、だから自分は恵まれていたのだ
要するに遊びが人生だったのである、遊戯三昧だったのである
それで鉄道に思い入れができてたまたま無人駅で車掌のような真似をしたのである
私は鉄道が好きだからそうなったのである
その後は船で旅した、日本の航路ならたいがい乗ったのである
東京から沖縄まで貨物船のようなもので一週間くらいかけて行ったことがある
その時船ならそういうものしか沖縄に出ていなかったのである

旅のことで大事なのは記憶に残る旅をしろということを書いた
でも記憶をするということは便利な機械とか利用すると記憶されないのである
だから電車でも車でも記憶する旅になりにくいのである
そして旅したなという実感も残らないのである
私は船で名古屋まで行きそれから自転車で奈良まで行ったのである
その時は本当に長い旅であり一週間以上かかっていた
その時は秋だったのである、途中で秋燕がたくさん飛んでいた

秋燕あまた飛べるや奈良へ行く

それから奈良について飛鳥に行きそこから二上山に夕日が没るのを見た
それは本当にはるばると来て見たから何とも言えないものとして心に残ったのである
その行程は遠かったからである、ただ体力がないのでこの時が一番長い旅だったかもしれない
それでも苫小牧から稚内までも自転車で行ったらこれも長かった

稚内6月に咲く桜かな

雨しとと稚内に着き桜かな

6月になっても稚内に桜が咲いていた、それだけ桜前前線はあった
そこまで行く行程も長かった

郭公のひびく北の地旅つづく

ともかく旅で意外なのは記憶に残る旅をしているかどうかなのである
機械に頼ると意外と忘れている、だから江戸時代のように歩いて旅した人は旅を記憶している

一歩一歩かみしめ歩む旅なれやいづれは死なむ人の身なれば

何か人生の最期にはみんないとおしいものとなる、なぜならもう旅もできないともなるからだ、現実に私はここ十年は介護とかに追われ旅していない、できなかった
でもこれだけ旅したのだから贅沢すぎたともなっていた
ただこんな旅をするのは普通はできない、そういう時期は普通は学生時代だけだったとかなる、会社員になるとできない、そういうことをしたら自分のように社会からはずれた人間になってしまうからだ

ともかく地理を知ることは本当に難しい、それは坂を上ったり下りたり手探りのようにして前に進む、車で飛ばして過ぎ去るのではない、歩むことは体に記憶されることなのである、その時辺りの景色とも人間は一体化するのである

草臥れて宿かるころや藤の花 芭蕉  

こういうことも歩いて旅しないとできない句なのである、ただ私は歩く旅はしたことがないのである、歩くと相当に疲れるからである
だから歩く旅は新鮮な経験になるけどその労力が大変なのものになる
だから昔の旅を経験することはその時代により便利な時代になっても労苦になる
つまり演出して作りだすことになるからだ

会津にそ城は遠しも街道に虫の音聴きて夕暮るるかな

白河街道は人も車もあまり通らないから記憶に残っている、そこは旧街道になって寂れていたから余計にそう感じた
鉄道の通る表の通りだとそうは感じないのである
ただ街道というのは何か今では裏道ともなり人もあまり通らない淋しい道になっている
それがまたいいのである

旅人の昔も行くや芒かな

何かこんなふうに道でも街道には今でも魅力を感じる、それで相馬なら陸前浜街道の日立木からの松並木の道が旧街道でありここを歩いて行くべきだとなる
でも実際は六号線の国道を行っている、そこはまるでベルトコンベアーのようにトラックなどが行き来する道であり情緒がないのである
でも便利だからどうしてもその道を行くことになる、遠くなるとやはり早く行ける道を選ぶからである
そして後でふりかえると何か記憶として残らないのである
そうなるとこうしてふりかえり記憶したものを書けないともなるのである
どこを行ったかも記憶しないことは行ったことににもならないとなる

それは意外と人生にとって損失だったことを知る
なぜなら老人になると記憶に生きることになるからだ
それは旅だけではない、自分はこういうことを経験したと常に老人は語るからである
仕事のことでも語る、するとそうして記憶して語ることが人生だったとなるからだ
この老人の人生はどういうものだったかというときそれはその人の語ることによってわかるのである
だから戦争の経験をした人などはその経験があまりにも強烈であり忘れられないものだから語る、私の姉は従軍看護婦だったので死ぬ直前までシンガポールのジョホールバルのことを語りつづけて死んだのである
認知症でもそうして若い時の記憶に刻まれたことは忘れないのである
それで千回も聞かされたのでうんざりしたのである

とにかく老人になるともう何も行動ができなくなる、体力的にもそうだし精神的にもそうである、するとこれまでししてきたことを語ることになる
だから老人が意外とプログとかyoutubeですら向いていることもある
若い世代はまだ人生を語ることができない、でも40代くらいになると結構語ることができる、それで面白いとなる
そういう場としてもインタ−ネットは有益なのである、ただそれもまだ一部であり利用されていないがこれからはネットの世代になるから老人になり語ることになる
そこで大事なのは記憶されたことなのである
もし記憶されないなら語ることもできないからである、旅のことでもそうである
記憶されなかったら語ることもできないのである
だから記憶される旅をしろとなるのである、それにはあまりに便利な旅は機械を頼った旅は記憶されないということである、そうなると老後は行動できなくなるから豊かなものにならないともなるのである
なぜなら自分自身が今でも旅したことをたどっている、それは自転車で旅したことが記憶に残っている
でも電車となると記憶に残っていない、それは電車でも景色が流れて行くだけで記憶に残らなかったからである
第一A地点からB地点へ電車で行ってもその風景が記憶しにくいのである
それは早すぎるから脳に記憶されず消えてしまうからだともなる
でも電車でも駅のことを覚えているのはそこで停止しているから記憶に残る

逢隈(おおくま)に電車止まりて蝉の声

ここは阿武隈川を渡る手前の駅である、新しい駅である、でもここで三分くらい電車が交換で待つからその三分間が記憶に残る
それは前の新地駅でもそうである、ここで六分くらん交換のために待つから記憶に残っていた

新地駅六分待ちて虫の声

新地駅は津波の後は高架橋の高い場所になり虫の声は聞こえなくなったのである
新幹線とかなるとまず自然とから遊離するし早すぎで途中の景色すら記憶に残らないのであるそれで何も残らなかったとなってしまう

タンポポや新幹線に次の駅

途中が過ぎて次の駅にしても遠いのである、途中はとばされてまっていたのである

インタ−ネットになるとあらゆる記事でもその感想を書くことができる
これまでは一方的に読まされるだけだった、こうして感想とか答えることができる
それがメデアとして変わったことである
メデアを自ら持ったということなのである
ただインタ−ネットだと数が多すぎて読まれないのが多いのである
津波とか原発事故では相当に読まれた、でもそれも十年も過ぎると関心がなくなり読まれなくなったのである
その時々読まれるもの関心が変わるからである
でもこうしてあらゆる記事でもその感想を書くことができる
対話的になる、様々な記事でも意見でも知識でも相互に深化できるからいいことである
ただ著作権の問題が出て来ることも確かである






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2021年01月31日

すべて金で計算してもうまくいかない (旅でも親切にされたことで後で効果がでてくる―安宿旅行の回想)


すべて金で計算してもうまくいかない

(旅でも親切にされたことで後で効果がでてくる―安宿旅行の回想)
この世の中すべて金で計算している、金をどれだけとれるかを計算して仕事する
すると一番優遇するのは金持ちだとなる
それで旅館でもホテルでも金持ちは優遇する、特等の部屋に案内して泊まらせる
そこで収入が増えれば商売として成功したとなる
それは当たり前のことである、貧乏人はそもそも金がないのだから宿にとまるなともなる自転車で来るような奴は野宿しろとなる、それが似合っているとなる

それもそうなのだけど本当にそうなのだろうか?

すべて金で計算して商売になるのだろうか?

そこが疑問なのである、私は旅をしてもいかに安上りにするかが問題だった
それで安宿を探すのにいつも困っていた、最低でも5000円はかかっていたからだ
それで3000円の宿があったときはうれしかった

春の月安宿見つけうれしかな

こんなふうになっていたのである、私は金はいつもなかった、働きもしないからなかったでも旅はしていたのである、だから安宿を探していたのである
それが外国まで行って安宿を探すとは思わなかった
でも貧乏旅行者は安宿を探し回っていたから自分と同じだと思った
それはパリだったのである、そして東駅の方でも安宿探していた
そこには安宿があった、でも満員だった

東駅安宿探し落葉かな

意外とヨ−ロッパはホテルが多く安く泊まれる、高級なホテルもあるが安宿も多いから旅行しやすいと思った
そしてユースホステルが多い、そこでは千円とかで泊まれる
そこは別に老人でも泊まっていたのである
だからヨ−ロッパは旅行しやすい、ただ高級ホテルとなると馬鹿高くなるから泊まれないただヨ−ロッパなら城のホテルとか高級ホテルでも泊まる価値がある
つまりヨ−ロッパでは何でも歴史があるから違っているのである
そのホテルにしてもそうである、日本のホテルは新しいがヨ−ロッパは古いからである
ただそういうホテルとかに泊まったことはなかった
私はバックパッカーだったからである

でも旅となると別に貧乏旅行でもバックパッカーでもそれも旅であり価値がある
高級ホテルに泊まりグルメとなるのもいいが別に貧乏旅行でも安宿でもユースホステルでも旅の経験の価値としては平等に思える
本当は高級ホテルに泊まりまた貧乏旅行するのもいいとなる、その価値は別々であり経験の価値としては違った価値であり金持ちだから特別の経験するということはない
おそらく人生でもそうかもしれない、人間が経験することは限られている
だから貧乏の経験でも貴重だとなる、もちろん金持ちとしての経験も貴重である
でもどちららにも経験として価値がある

人間は経験するにしても結局時間が限られているから何か経験することでは平等に思えたただ金持ちだと留学とか習いものとかいろいろ金をかけてやれるので違っている
でも人間が生きる時間は限られている、金持ちでも時間だけは多く持つことができない
だから経験することでは平等の感じもした
バックパッカーでも海外旅行すれば安かったからである
ただ日本が貧乏になると海外旅行はぜいたくだとなる

私が旅で親切にされたのは覚えているのは二三回だけである
一番親切にされたのは鮫川辺りでまだ山の中に万(よろず)屋がありそこでご飯と味噌汁を御馳走になったことである、今時そんなことをどこでもしない
されたこともなかった、そういうことが今はしにくい時代である、便利だからコンビニで買いとかなるからである
もう一回は山形県の田麦俣から入った湯殿山ホテルだったと思う、そこはそれなりの大きなホテルだった
なぜそんな山の中にホテルがあるのが不思議だった、湯殿山の参拝のために利用するホテルなのか?
団体旅行用のホテルでありそれが自転車で行ったら泊めてくれたのである
それも確か無料でいいともいってきた、女将がそう言ったのである
そういう小部屋がありそこにとまっていいと言ったのである
そんなことをしてくれるホテルがあるのかとなる
それは全く例外的でありありえないことだったのである


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でも旅をするときそういうことが心に残る、そういう親切はあとでも忘れないのである
するとどうなるかというと全体に影響する、あそこの市町村は親切な人がいるなと
その市町村自体の評価が高まるのである
そういう親切を人は忘れないからである
ただ現実は貧乏な人は来るな、そんなもの来ても商売にならないというのが普通である
でもそこに何か問題がある、金持ちしか優遇されないのだとなり悪い印象をもつともなるでもそういう親切は覚えていてあそこちいい人がいるとなるとき観光でも影響するかもしれない、そういう親切を覚えているからである
あそこは冷たい場所だった、人は親切ではない、道をまともに教える人もいなかったとかなんとかなる、現代はすべて金で計算する時どうしてもそうなりやすいのである

貧乏人だけ相手にしていると豊かになれない、でもそういう親切は長く心にととまりいつかその土地に恩恵があるかもしれない、ここで親切にされたからまた行ってみようとかなるかもしれない、それはわからないにしても金だけ計算して商売してもうまくいかないことがある
実際に私が介護で苦しんでいたときでも事業をはじめた人は借金して荷物一つもつもの嫌がっていた、金にならないことは一切したくなかったのである
でも百万をやったし金がないわけではなかった
ただその人はその時金にならないことはしたくなかったのである
そういう人がはたして事業とかなると成功するものだろうか?
それで損して得しろという諺が生まれたのである

ただそういう自分も事業のようなことをして同じ失敗しているから責められないとはなるやはり利益をまず得たいとなるからどうしようもないとはなる
それで事業はじめるなら資金的にも余裕がないとうまくいかない気がする
また長い目で見ないとうまくいかない、、だから資金的にも余裕がないとうまくいかないすぐに見返りが入ると限らないからである、でもそうなるとなかなか事業でもやれないとなる、それで自分自身も駄目だったからである
現代は変化が激しいし目先のことに追われる、長い目で仕事でも事業でもできないのである、競争も激しいから追われるように仕事をしなければならない
それで現代は国家百年の計などができない、変化のスピードが早すぎるからだ
中国の変化をみればわかる、十数年であんなに発展したのは驚いたからである

いづれにしろコロナウィルスで観光業は打撃になった、するとこれから観光業はどうなるのか、どうするのかが問題になる、近間を大事にして近間の人にサービスする
近間の人のくつろぎの場とするとかなる
でも金で計算するとどうしても東京とかの大都会の人を呼ばないかぎり経営は成り立たない、だから東京からの観光客が来ないことは大打撃になったのである
ただこれも時代の変化でそれに対応しないと生き残れないともなる
観光もオーバーツーリズムになっていた、京都などもう外国人とかで混んで異常だった
それがぱったり来なくななっというのも驚きだったのである
京都のような所は貧乏な人は相手にしない、粗末に扱われる
それは観光客があふれていて来ないことがないからである
でもそうなると人を粗末にする、それで観光客来ないとなり新しい手をうたねばならなくなる、人を呼ぶために観光客に貧乏な人でも親切にするとか変わる
それは希望だがそういうふうに観光も変わることは悪いことではないのである  

もともとホテルはホステルとか旅人をねぎらう病院とも関係していた、ホステルとかかがホスピタルになったからである、そういう起源があるということはそこに本来の役割を感じて商売するということにもなる、そこが原点だからである
金持ちのためにだけ優遇してサービスするのとは違っていたからである
なんでもただ金だけを計算してしていると本来の役目とかも見えなくなる
それがかえって人も離れてゆくともなりかねない、ただまず利益だとなるから本当にむずかしいのである


posted by 老鶯 at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅の記録