2019年09月22日

観光と旅の相違 (今は旅人も旅も喪失した観光の時代−地元の観光をどうする)


観光と旅の相違

(今は旅人も旅も喪失した観光の時代−地元の観光をどうする)

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観光資源の活用は、既存のものの掘り起こしと新しいものの創造によって、観光のあり方を激変させる可能性がある

現代は観光の時代である、世界的にそうである、交通の発達で旅もグロ−バル化した
観光が一大産業にもなる、ギリシャなどでは観光が主な収入源でありヨ−ロッパの保養地となっていた、だからのんびりと暮らしていたがギリシャ危機でそうもいかなくなった
観光だけに頼ることも危険である、なぜなら観光も浮き沈みがあるからだ
ある時はある場所が人気になりある時は別な場所になる
今は日本が人気になっているのは日本は旅しにくい場所だったからである
物価が高いとかでしにくくかった、でも今になると中国をはじめ豊かになるとやはり外国を知りたいとなり日本が貧しくなったので観光立国とかまでなった
京都辺りでは観光公害にまでなっている
日本人が日本をゆっくり旅できないというのも異常である

観光という時、旅とは違う、現代では旧来の旅とか旅人はいない、江戸時代辺りなら普通の人でも街道を歩くほかないのだから旅人になり旅をしていたのである
今は交通機関が発達したから旅はなくなった
旅と旅人だと宿場があり必ずそこによる、今は別に途中の宿場による必要はないのである新幹線で一気に目的地に来る、その目的地で温泉とかにひたるとか御馳走を食べるとかが目的となる、途中がないから旅ではないのである
つまり歩いて感じる感覚とはかけ離れたものとなる

街道を行く人あれや秋薊

日立木から松並木があり相馬市の城跡までは昔の街道である
でもそこは細い道だから車が行き来する、そこで情緒がなくなる
自転車だとなんとか歩いたものに近くなる、でも車だと道の辺の花など見ないのである
車はひたすらスピードを出して目的地に向かう乗り物なのである
それは電車にも言える、途中がないのである
それで旅の情緒がなくなったのである
だから旅人はもういない、西行ー芭蕉ー山頭火まで旅人であったが今はいない
旅人になりかない環境になったのである
六号線とか国道を歩いていてもそこは車の通り道であり歩く道とはならないのである
草臥れて宿かるころや藤の花 芭蕉」こういう感覚はないのである 
自転車で亘理から相馬市の方へ来たときそこは街道であったから旅になっていた
そのことをプログで俳句にしたりして書いた
そこには古い歴史があった、歴史の道としてあったがどうしても六号線を通るから昔の街道がどこかもわからなかったのである

東海道五十三の浮世絵を見るとそこは歩く人しか描かれていない、みんな歩いていたのである、一日30キロとか歩いていたのである、それだけ歩く時代だったのである
それで朝早く旅立ったというのもわかる、朝早くなければそれだけ歩けないからである

私も自転車で旅したが自転車は歩くよりやはりかなり早くなる、それでも一日私の場合体力がないから50キロから60キロくらいしか行けない、疲れて行かなかった
だから30キロ歩いたら相当に疲れる旅だとなる
いづれにしろこれだけ交通が発達すると旅自体ができないのである
歩いている人がいても必ず電車を利用したりしているからである
ずっと歩きとおすことはできないのである

現代は観光の時代である、観光というときそれは一つの目的地まで電車なり車なり飛行機なりを利用して目的地に早く着きそこでその場を観光するということになる
でもこの観光というのは初めての場所を知るということは意外とむずかしい
それは老人になっても地元のことがわからないとういことがあるからだ
それだけある土地について知るには時間がかかるのである
とすると一日来てその土地のことを知るのはほとんど不可能である
ただ何回も来ているうちにその土地のことを知るということがある

観光資源の活用は、既存のものの掘り起こしと新しいものの創造によって、観光のあり方を激変させる可能性がある。

そしてその土地に住んでいる人が地元のことがわからないのである
この辺だと日立木から相馬市の城跡までは旧街道であり歴史の道である
そこはわかり安くても他はわかりにくいのである
松川浦もわかりやすい、でも実は田舎の魅力は地元の人が当たり前と思っている何気ない場所にあった、そういう場所は土地の人もわからないのである

●歴史の道(相馬市の城跡までの旧街道)
●田舎の小径
●田舎の秘境

この辺だと城跡までの街道はわかりやすい、でも故郷の小径となるとわかりにくい
なぜなそらその小径を最近私が発見したからである、そこは隠されたようにあったからわからなかったのである、自転車で毎日行っていて発見したのである
それはすぐ近くだったのである、つまりありふれた場所が実は魅力ある場所として発見されていないのである
そういう場所があるのだが発見されていないのである
田舎の秘境というのもそうである、それは橲原の奥の水無河川の上流だった
そこには道もない、道を整備しようとしたができていない
だからそこに行くことは難儀する、でもそこは秘境となっていたのである
田舎自体そうした秘境を知らないのである

飯館村の木戸木には森におおわれた清流があったが道ができて失われた
あそこは本当に秘境だった、ただそういう場所は田舎だと必ずある
でも地元の人すらわからない、注目していないのである
でも観光の問題は観光だと秘境が秘境でなくなる
人が入らない所だから秘境になっている、それががやがや観光客が入ってくると秘境でなくなるのである
ダムができる前の大倉の集落も秘境だったのである

相馬地域でも野馬追いだけではない、自然でも観光資源はある、身近な所にある
ただそこが地元の人すらわからないということである
観光はだからその地域をしるというときどうしても案内人が必要になる
それが金がなくてできないから外国のことがわからなかったのである
ただ外国に行けばいいというだけであったから自分の場合はせっかく外国まで行ったのにわからずしまいになったともなる
それは日本国内でも言えるのである、誰か案内人がいなと始めてくる場所のことはわからないのである

ただある地域を知ることはこのように地元に老人になってもわからないというときはじめて来る人は余計にわからない、少なくても三日くらい滞在しないとわからない
その時間が日本にはない、移動するにも便利でも時間がかかる、金もかかる
ではまた滞在するのでも三日となれば時間がとれないとか観光でも時間がかかる
旅だったらそれ以上に時間がかかる
そして地域の魅力は四季にある、四季の変化で魅力が変わる
だからある地域を知るには四季に行くといいとなる、でもその時間がないのである
それでヨ−ロッパではバカンスがあり一か月くらい自由に旅する保養するというのが文化になったのである

人間は何するにも時間がかかる、そしてその時間がないのである
まず勤め人になればもう一か月とか旅はできない、一か月も旅できる人間は異常なアウトサイダーだとなってしまうのである
正規のルートからはずれた人間になってしまうのである
結局旅の問題は金もあるにしても時間の問題が大きいのである
私は別に金があったわけではないか十分に時間だけがあったので旅できたのである
一番困ったのは泊まる宿だったのである、日本の宿は高いのである
ヨ−ロッパでは安宿が多いから旅しやすいのである

観光をどうするかというとき日立木の松並木から相馬市までの旧街道を歩行者天国にするそこは歩くから自転車にする、あそこは曲がりくねって細い道であり歩くと昔の道になるからだ、後は自転車とかで小径の散策である
秘境となるとそこは道を整備しなければならない、でもこれだけ観光するだけで相当に疲れる、三日は十分にかかるのである
そういう案内が自分はできるがその労力も相当なものになる
自分一人ではできない、私は他にやることがありできない
毎日こうしてプログを書いているだけでまた家事にも追われているからできないのであるただ観光のヒントを与えることはできるとなる



posted by 天華 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅の記録

2020年06月23日

トンネルの話 (トンネルは国境ともなり闇をぬけることで人生の象徴にもなる)


トンネルの話

(トンネルは国境ともなり闇をぬけることで人生の象徴にもなる)

旅の思い出として残るのが境として意識するのが山国の日本だと峠になりそれは国字である、峠を上るきるとそこに視界が開け別世界になる
もう一つ境とか意識するのは山国ではトンネルなのである
日本は山国だから本当にトンネルが多い、トンネルは電車の旅で意識する

仙台市から山形県へ向かう面白山のトンネルが宮城県と山形県の境界である
それは地理的にも意識しやすい、また季節的にもその境界辺りは寒く雪が春でも残っている、つまり面白山を境に気候も違っているのである
そして福島市に向かう電車が峠駅でとまる、そこは無人駅だけどそこから盆地の福島市に向かう境界なのである、だから峠駅なのである

トンネルの不思議は真っ暗な闇の中をゆく、そして闇をぬけたときほっとする
やはりトンネルをぬけると新しい視界が開ける、別世界に来たような感覚になる
自転車でトンネルをぬけるのは怖い、とても長くなると車道を走れない、それで脇の歩道を行くにしても怖いし長いと早く出たいというだけになる
そしてトンネルをぬけたときほっとするのである

とにかく日本にはいたるところにトンネルがある、それは山が多いからそうなる
それで日本がではトンネル技術が進歩したというのもわかる
技術も風土によってその土地に見合ったものが開発されるからだ
砂漠地帯だと中東から風車が生れたというのは絶えず風が吹く場所だから適していたとなる

トンネルは何か神秘的である、それは暗いからである、その暗い所をぬけると解放された気分になるのである、だからトンネルは国と国の境になる
そして村と村でも道がないときトンネルをほって道を作る、そこで村と村が道で結ばれる何らか日本では山とかでさえぎられどうしてもトンネルをほって道を作ることになりやすいからである
日本ではやまのあなたに幸いありという地形なのである 

人間の一生でも暗いトンネルに入ることがある、それは抜け出せないという恐怖に通じている、でもトンネルには出口がありそこに光りがさして新しい世界に向かっている
ただ苦しい時はどうしてしもその暗いトンネルから抜け出せないような感覚になり重苦しいものになる、病気とかになったりするとそうである
介護ではそういう苦労を自分はしてきた、介護はいつ終わるかわからない暗い長いトンネルだったのである、そういうことをみんな人生で経験する   

不思議なのはトンネルでも電車でぬけるトンネルと歩いたり自転車で行くトンネルは違った感覚になる、自転車を引っ張り歩いたりしてぬけるトンネルは電車とは違う
電車はあくまでもレールの上を走るから必ず抜け出られるという前提があり安心である
歩いたりしてぬけるトンネルはぬけだせるにしても遠く感じるのである
そしてかなたに出口があり一筋の光明がみある、光りがさしてかなた明るくなっているからだ、

その感覚は電車にはない、つまりなんでも機械に頼ると人間的感覚が失われるのである、だから本当に旅したいなら歩くほかないのである
そこに人間の感覚でとらえられるものが生れるからである
でも自分自身がこれほど旅しても歩いた旅はしたことがない
例えば陸前浜街道にしても10キロの道も歩いたことがないのである
それだけ今は歩くということをしない時代なのである
それで車であれバイクであれ自転車でさえ何か人間的感覚を感性を失ったのである

人間はこれだけ電気社会になると暗いという場所がめずらしくなる、暗さを体験しない
時代をさかのぼれのぼるほど人間は暗い世界に住んでいた
それでかえって人間の感覚が鋭敏になり感性が磨かれた、それで谷崎潤一郎の 「陰窮 礼讃」などが生れた
人間は今や本当に暗い世界を体験しない、都会だと不夜城になり暗さを追放している

ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く 山部赤人

これも闇が深くまた騒音もない古代の景色がありその清涼感がでている
ここには久木とあるがこれは何かわからないにしろ植物としてありその他に人気もない
原子のままの状態をイメージさせる、つまり人間がいない原初の自然の清涼さがある
その河原には人の足跡はなくただ千鳥の足跡だけがある世界である
それは闇が深いとういことでもそういう手つかず自然の中で歌われたのである

トンネルというときこの闇と深く関係している、闇の世界がトンネルである
そこを抜け出すということでトンネルがある
いづれにしろ日本にはトンネルが多い、トンネルで村と村も結ばれたということがある
そのトンネルほるために大変な労力をはらったことが伝説ともなっている
それは中国でもあった、その時機械もないから人力だからトンネルをほることは大事業になったのである

九州の大分県の耶馬渓(やばけい)にある“青の洞門”でしょう。
 今からおよそ250年ばかり前のこと、耶馬渓をおとずれた一人の僧がいました。
 名を禅海(ぜんかい)といい、 耶馬渓は山国川にそう険しい台地で、そそり立つ岩の間を何本も川が流れています。
 昔から交通の難所として知られていましたが、中でも険しい崖をつたう鎖渡しとよばれる桟道は、命がけで渡らなければならない難所でした。
 この難所で多くの命がうばわれることを聞いた禅海は、ここにトンネルを掘ろうと決心しました。
 洞門を切り開くことに手をつけたのは、1720(享保5)年で、禅海は50歳くらいでした。
 ツチとノミを使ってただ一人で、禅海はトンネルを掘り進めました。
  こうして30年、1750(寛延3)年に、トンネルはついに完成しました。

 トンネルの歴史

トンネルを作ることは大事業だった、30年かかって完成した粘り強さには驚く、つまり今は機械でするけど人力の時代になるとこれだけの労力と歳月が必要だったとなる 
ヨ−ロッパだと運河のトンネルがあるのも川が道になっていたからである
だから運河のトンネルというのもやはりトンネルでありそこをぬけると別世界に出るという感覚になる





posted by 天華 at 09:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅の記録

2021年01月05日

地理で基本になるのは方角である (地図でで方角を知る方法)


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地理で基本になるのは方角である

(地図でで方角を知る方法)

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地図上で方角がわかる

●東と西の方向

日の沈む国。日本の西にある国の意で、中国をさす。推古天皇15年(607)遣隋使小野妹子の携えた国書にある「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」による

「東北」という方角の表し方は東洋風(漢字圏)の表し方で、「北東」という方角の表し方は西洋風の表し方です。

そもそも東北というとき北東のことである、北海道は北である
韓国から見て日本海は東海である、東であり日本海から太陽が昇る
日本だと日本海であり太陽は日本海に沈む、この差は本当に大きい
そこで韓国では東海だとして争うことになる
日本と対抗しているから余計にそうなる、日本の海だというのが気にくわないのである
だからこの方角は地理にとって基本である
旅をして一番感じるのが太陽が昇り太陽が沈む方向なのである
それは海を航海するときも太陽が昇り沈む方向で方角を知る

それで旅をして一番不思議に思ったのは太陽が沈む方向だった
それを感じたのは琵琶湖の湖西という地域である、そこは西であり太陽が沈む方向であるでも太陽が昇る方向が東になりそれが関ケ原でありそこを境に東西に分かれるのが日本である
それは歴史的にもそうである、壬申の乱でも東西が分れて争った
その境目が関ケ原にもなる、それで東(あづま)というときそこから東の地域に入るということになる、琵琶湖の滋賀県までは西であり関ケ原を越えると東である
戦国時代だと信長の名古屋城がある、そして琵琶湖の岸に安土城を築いた
それは東(あづま)から西へと京都へとし支配するためである

世界史でも世界の地理でも肝心なのは方角である、なぜなら東西文明に分かれるからである、西洋文明と東洋文明というときそうである、それは基本に方角があり世界史でも分かれる
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」とか小野妹子が国書に記したのはまず方角でもって世界の地理を意識して示したのである
それだけ方角が地理の基本だからそうなった、方角でその国の位置を確認していたのである

玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ (後醍醐天皇)

太平記の世界から、後醍醐天皇の遺言です。南北朝の戦いで足利尊氏に敗れ、京都から奈良県の吉野へ撤退した後醍醐天皇は、吉野で失意のうちに崩御します。その時の遺言がこれです。「私の身体は南の吉野で白骨になるけど、魂は常に北の京都奪還の執念を持ち続ける」といった大意です

それで南北朝の争いでも方角が意識される、北闕に北に京都があり御所があるからであるそしてイスラム教ではメッカのある地点に向かって礼拝する、方角が大事なのである
偶像を否定しても方角は否定していない、世界のどこにいてもメッカの方角に向かって礼拝している、方角が大事なのは砂漠とか草原の民の遊牧民である
そこでは方向は星で決める、だから三日月と星の旗になる
北斗七星が信仰にもなる、北極星が目印となるからだ
相馬氏の妙見信仰はこの北斗七星なのである、だからこの信仰は大陸から伝わったものである 

●太陽の沈む方向の地名

ともかくこの方角から地理を知ることである、それは実際にその場に立って太陽が昇る方向とまた沈む方向を知ることである、実感することである
それを知るにはいつも住んでいる同じ場所では実感できないのである
だから大坂でも不思議なのは日下とあるとき太陽の沈む方向だとしている
大坂に太陽が沈むというとき普通は山に沈むからイメージできない
でもそこは太陽の沈む方向になっていた  

「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」……「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」……「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」……の如く、枕詞的に用ひられた修辞句……「日下(ひのした)の草香(くさか)」……があつて、それが地名の訓を獲得してしまったと見るのである。……当地からすれば太陽の出を山麓から仰ぐのであり、大和からすれば……太陽の下る所に当るのである

大坂の日下は大和から見て太陽の沈む方向にあったからその地名がついた
どこを基点にしているかが重要なのである、それで方角が変わってくるからである
だから韓国から見た時、日本海は東海なのである
東の海であり太陽の昇る方向なのである、それで争いにもなる
日本海だと日本の海なのかとなってしまうからである
でもこれは歴史的に日本海なのでありその呼称を変えることはできないのである
ただ世界を知ることでも方角が重要なのである  

明石城があるところに春の太陽が沈み城を赤く染めたのは忘れられない光景であった

明石城夕日に染まり行き来する船の絶えじも難波の栄ゆ(自作)

天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ 柿本人麻呂

あそこから淡路島も見えるから淡路島が古事記の神話の国造りの中心になったのも地理的に感じる 

二上山に秋の夕日の映えつ没る姉と弟の山と並びぬ

これもやはり方角が太陽の没る方向に映えた、それは飛鳥の方向から見えたのである

●相馬市の日下石(にっけし)の地名の不思議   

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地理と歴史は一体化している、それで地歴となった、この地理を知ることは容易ではない地図を見てもたとえ旅しても電車とか車だと必ずしもわからない、坂があっても簡単に越えるしただ早く早く通り過ぎることが多いから印象に残らないのである
本当は歩けば地理を実感できる、でも歩くとなると労力がかかりすぎる
だから私自身は歩く旅はしていない、自転車の旅だったのである

太陽(日)が昇る方向だからということだそうです。
沖縄のほうはもっとダイレクトですよね。太陽が上がる方向だから「アガリ」

日向かしが東(ひがし)の由来だとすれば、
同じ字の地名「日向(ひゅうが)」も同様ですよね。 

日本語のニシは、「去方」(イニシ)の約であろうという。イニが去(イ)
ヌという動詞の名詞形で、シは方向を示すので「日没の方向」の意で西を捉え
た語というわけである。

そして津波で判明したことは日下石が西の方向のことだった
なぜならそれは海から見た時西になっていたのである
私は津浪になったとき海になった所を見た、確かに日下石は海から見れば西なのである
それは海洋民族の感覚である、どうしてもそこが西にはならないからである
船で海を渡ってきた渡来人が名付けた地名だともなる
なぜなら相馬地域に綿津見神社が本当に多いからである、飯館村の山中にもある
それが主な社でありそれは先住民が入ってきた証拠なのである
それは安曇族などの海洋民族なのである、それがこの辺の基礎にある

でも海から見れば海の岸に太陽が沈んでいたから不思議だった
東とは確かに日に向かうということから来ている、でも日の岸ともなり海の岸辺に太陽が昇るともなる、ただそれは今度は山側とか西から見た時そうなる
だから方角地名はどこを基点にするか問題になる
北京から見て南だから南京となり南京から見れば北京なのかとなる
東京は東の京だからである  






posted by 天華 at 18:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅の記録

2021年01月29日

記憶に残る旅ー機械に頼ると記憶に残らないからあとで損になる


記憶に残る旅ー機械に頼ると記憶に残らないからあとで損になる

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週間新潮ー2月4日号

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これには共感した、現代から旅がなくなったということを書いた
それはあまりにも便利になりかえって旅か喪失した
GPSで案内されてもその土地の実感は地理は自ら手探りのようにして進むことで得られる
道とは未知のことであり未知なるがゆえに魅力がある
この道を行けば何があるかわからないということで道に魅力がある

それで私は気ままに自転車で近くでも行くとそうなる
坂を上ったり細い一日一人も行かないような道がありとか近くでも発見されない道があるそこが魅力ある場所だと感じる
そして道が分かれている時、どっちに行こうかなというとき旅になる
電車とかなるとレールが決まっているから自らその方向を選択することができない
決められたルートを行くだけになるから最初は電車の旅をしていたが飽きた自転車の旅にしたのである

日永きやいづこへ行かむ分かれ道

阿武隈高原は特別変わった風景もなかったが気ままに道を自転車でどこまでも行くのにいい、そんな記憶が残っている

にわか雨お堂に休む一人旅

なんかこの時お堂の役割りを知った、お堂は雨をよけたり旅した人ても休む場所としてもあったのだ、それは時代劇で見る光景である
その役割りがわからなくなったのは車の旅とかなったからである
歩いていた旅だったら今でもこういうふうににわか雨で雨宿りする場所が必要になる
現代では旅が便利になりすぎて経験できないのも皮肉である
近くでも自転車で行けば旅になるのだ
それで最近トラック運転手だった人が仕事をやめて自転車で近くを回っているので良く合うのである、何か足も悪くしたらしく自転車で近くでも回ることが仕事になっていたのである、他の同級生も脳卒中になったけど軽くすんで自転車に乗るようになった
ただ近くしか行かない、運転手だった人はかなり遠くまで行っている

ともかく旅をふりかえると何か最初は電車の旅だった、だから本当に全線を乗ったという感覚にもなる、だいたい十年費やして乗った、だから自分は恵まれていたのだ
要するに遊びが人生だったのである、遊戯三昧だったのである
それで鉄道に思い入れができてたまたま無人駅で車掌のような真似をしたのである
私は鉄道が好きだからそうなったのである
その後は船で旅した、日本の航路ならたいがい乗ったのである
東京から沖縄まで貨物船のようなもので一週間くらいかけて行ったことがある
その時船ならそういうものしか沖縄に出ていなかったのである

旅のことで大事なのは記憶に残る旅をしろということを書いた
でも記憶をするということは便利な機械とか利用すると記憶されないのである
だから電車でも車でも記憶する旅になりにくいのである
そして旅したなという実感も残らないのである
私は船で名古屋まで行きそれから自転車で奈良まで行ったのである
その時は本当に長い旅であり一週間以上かかっていた
その時は秋だったのである、途中で秋燕がたくさん飛んでいた

秋燕あまた飛べるや奈良へ行く

それから奈良について飛鳥に行きそこから二上山に夕日が没るのを見た
それは本当にはるばると来て見たから何とも言えないものとして心に残ったのである
その行程は遠かったからである、ただ体力がないのでこの時が一番長い旅だったかもしれない
それでも苫小牧から稚内までも自転車で行ったらこれも長かった

稚内6月に咲く桜かな

雨しとと稚内に着き桜かな

6月になっても稚内に桜が咲いていた、それだけ桜前前線はあった
そこまで行く行程も長かった

郭公のひびく北の地旅つづく

ともかく旅で意外なのは記憶に残る旅をしているかどうかなのである
機械に頼ると意外と忘れている、だから江戸時代のように歩いて旅した人は旅を記憶している

一歩一歩かみしめ歩む旅なれやいづれは死なむ人の身なれば

何か人生の最期にはみんないとおしいものとなる、なぜならもう旅もできないともなるからだ、現実に私はここ十年は介護とかに追われ旅していない、できなかった
でもこれだけ旅したのだから贅沢すぎたともなっていた
ただこんな旅をするのは普通はできない、そういう時期は普通は学生時代だけだったとかなる、会社員になるとできない、そういうことをしたら自分のように社会からはずれた人間になってしまうからだ

ともかく地理を知ることは本当に難しい、それは坂を上ったり下りたり手探りのようにして前に進む、車で飛ばして過ぎ去るのではない、歩むことは体に記憶されることなのである、その時辺りの景色とも人間は一体化するのである

草臥れて宿かるころや藤の花 芭蕉  

こういうことも歩いて旅しないとできない句なのである、ただ私は歩く旅はしたことがないのである、歩くと相当に疲れるからである
だから歩く旅は新鮮な経験になるけどその労力が大変なのものになる
だから昔の旅を経験することはその時代により便利な時代になっても労苦になる
つまり演出して作りだすことになるからだ

会津にそ城は遠しも街道に虫の音聴きて夕暮るるかな

白河街道は人も車もあまり通らないから記憶に残っている、そこは旧街道になって寂れていたから余計にそう感じた
鉄道の通る表の通りだとそうは感じないのである
ただ街道というのは何か今では裏道ともなり人もあまり通らない淋しい道になっている
それがまたいいのである

旅人の昔も行くや芒かな

何かこんなふうに道でも街道には今でも魅力を感じる、それで相馬なら陸前浜街道の日立木からの松並木の道が旧街道でありここを歩いて行くべきだとなる
でも実際は六号線の国道を行っている、そこはまるでベルトコンベアーのようにトラックなどが行き来する道であり情緒がないのである
でも便利だからどうしてもその道を行くことになる、遠くなるとやはり早く行ける道を選ぶからである
そして後でふりかえると何か記憶として残らないのである
そうなるとこうしてふりかえり記憶したものを書けないともなるのである
どこを行ったかも記憶しないことは行ったことににもならないとなる

それは意外と人生にとって損失だったことを知る
なぜなら老人になると記憶に生きることになるからだ
それは旅だけではない、自分はこういうことを経験したと常に老人は語るからである
仕事のことでも語る、するとそうして記憶して語ることが人生だったとなるからだ
この老人の人生はどういうものだったかというときそれはその人の語ることによってわかるのである
だから戦争の経験をした人などはその経験があまりにも強烈であり忘れられないものだから語る、私の姉は従軍看護婦だったので死ぬ直前までシンガポールのジョホールバルのことを語りつづけて死んだのである
認知症でもそうして若い時の記憶に刻まれたことは忘れないのである
それで千回も聞かされたのでうんざりしたのである

とにかく老人になるともう何も行動ができなくなる、体力的にもそうだし精神的にもそうである、するとこれまでししてきたことを語ることになる
だから老人が意外とプログとかyoutubeですら向いていることもある
若い世代はまだ人生を語ることができない、でも40代くらいになると結構語ることができる、それで面白いとなる
そういう場としてもインタ−ネットは有益なのである、ただそれもまだ一部であり利用されていないがこれからはネットの世代になるから老人になり語ることになる
そこで大事なのは記憶されたことなのである
もし記憶されないなら語ることもできないからである、旅のことでもそうである
記憶されなかったら語ることもできないのである
だから記憶される旅をしろとなるのである、それにはあまりに便利な旅は機械を頼った旅は記憶されないということである、そうなると老後は行動できなくなるから豊かなものにならないともなるのである
なぜなら自分自身が今でも旅したことをたどっている、それは自転車で旅したことが記憶に残っている
でも電車となると記憶に残っていない、それは電車でも景色が流れて行くだけで記憶に残らなかったからである
第一A地点からB地点へ電車で行ってもその風景が記憶しにくいのである
それは早すぎるから脳に記憶されず消えてしまうからだともなる
でも電車でも駅のことを覚えているのはそこで停止しているから記憶に残る

逢隈(おおくま)に電車止まりて蝉の声

ここは阿武隈川を渡る手前の駅である、新しい駅である、でもここで三分くらい電車が交換で待つからその三分間が記憶に残る
それは前の新地駅でもそうである、ここで六分くらん交換のために待つから記憶に残っていた

新地駅六分待ちて虫の声

新地駅は津波の後は高架橋の高い場所になり虫の声は聞こえなくなったのである
新幹線とかなるとまず自然とから遊離するし早すぎで途中の景色すら記憶に残らないのであるそれで何も残らなかったとなってしまう

タンポポや新幹線に次の駅

途中が過ぎて次の駅にしても遠いのである、途中はとばされてまっていたのである

インタ−ネットになるとあらゆる記事でもその感想を書くことができる
これまでは一方的に読まされるだけだった、こうして感想とか答えることができる
それがメデアとして変わったことである
メデアを自ら持ったということなのである
ただインタ−ネットだと数が多すぎて読まれないのが多いのである
津波とか原発事故では相当に読まれた、でもそれも十年も過ぎると関心がなくなり読まれなくなったのである
その時々読まれるもの関心が変わるからである
でもこうしてあらゆる記事でもその感想を書くことができる
対話的になる、様々な記事でも意見でも知識でも相互に深化できるからいいことである
ただ著作権の問題が出て来ることも確かである






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2021年01月31日

すべて金で計算してもうまくいかない (旅でも親切にされたことで後で効果がでてくる―安宿旅行の回想)


すべて金で計算してもうまくいかない

(旅でも親切にされたことで後で効果がでてくる―安宿旅行の回想)
この世の中すべて金で計算している、金をどれだけとれるかを計算して仕事する
すると一番優遇するのは金持ちだとなる
それで旅館でもホテルでも金持ちは優遇する、特等の部屋に案内して泊まらせる
そこで収入が増えれば商売として成功したとなる
それは当たり前のことである、貧乏人はそもそも金がないのだから宿にとまるなともなる自転車で来るような奴は野宿しろとなる、それが似合っているとなる

それもそうなのだけど本当にそうなのだろうか?

すべて金で計算して商売になるのだろうか?

そこが疑問なのである、私は旅をしてもいかに安上りにするかが問題だった
それで安宿を探すのにいつも困っていた、最低でも5000円はかかっていたからだ
それで3000円の宿があったときはうれしかった

春の月安宿見つけうれしかな

こんなふうになっていたのである、私は金はいつもなかった、働きもしないからなかったでも旅はしていたのである、だから安宿を探していたのである
それが外国まで行って安宿を探すとは思わなかった
でも貧乏旅行者は安宿を探し回っていたから自分と同じだと思った
それはパリだったのである、そして東駅の方でも安宿探していた
そこには安宿があった、でも満員だった

東駅安宿探し落葉かな

意外とヨ−ロッパはホテルが多く安く泊まれる、高級なホテルもあるが安宿も多いから旅行しやすいと思った
そしてユースホステルが多い、そこでは千円とかで泊まれる
そこは別に老人でも泊まっていたのである
だからヨ−ロッパは旅行しやすい、ただ高級ホテルとなると馬鹿高くなるから泊まれないただヨ−ロッパなら城のホテルとか高級ホテルでも泊まる価値がある
つまりヨ−ロッパでは何でも歴史があるから違っているのである
そのホテルにしてもそうである、日本のホテルは新しいがヨ−ロッパは古いからである
ただそういうホテルとかに泊まったことはなかった
私はバックパッカーだったからである

でも旅となると別に貧乏旅行でもバックパッカーでもそれも旅であり価値がある
高級ホテルに泊まりグルメとなるのもいいが別に貧乏旅行でも安宿でもユースホステルでも旅の経験の価値としては平等に思える
本当は高級ホテルに泊まりまた貧乏旅行するのもいいとなる、その価値は別々であり経験の価値としては違った価値であり金持ちだから特別の経験するということはない
おそらく人生でもそうかもしれない、人間が経験することは限られている
だから貧乏の経験でも貴重だとなる、もちろん金持ちとしての経験も貴重である
でもどちららにも経験として価値がある

人間は経験するにしても結局時間が限られているから何か経験することでは平等に思えたただ金持ちだと留学とか習いものとかいろいろ金をかけてやれるので違っている
でも人間が生きる時間は限られている、金持ちでも時間だけは多く持つことができない
だから経験することでは平等の感じもした
バックパッカーでも海外旅行すれば安かったからである
ただ日本が貧乏になると海外旅行はぜいたくだとなる

私が旅で親切にされたのは覚えているのは二三回だけである
一番親切にされたのは鮫川辺りでまだ山の中に万(よろず)屋がありそこでご飯と味噌汁を御馳走になったことである、今時そんなことをどこでもしない
されたこともなかった、そういうことが今はしにくい時代である、便利だからコンビニで買いとかなるからである
もう一回は山形県の田麦俣から入った湯殿山ホテルだったと思う、そこはそれなりの大きなホテルだった
なぜそんな山の中にホテルがあるのが不思議だった、湯殿山の参拝のために利用するホテルなのか?
団体旅行用のホテルでありそれが自転車で行ったら泊めてくれたのである
それも確か無料でいいともいってきた、女将がそう言ったのである
そういう小部屋がありそこにとまっていいと言ったのである
そんなことをしてくれるホテルがあるのかとなる
それは全く例外的でありありえないことだったのである


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でも旅をするときそういうことが心に残る、そういう親切はあとでも忘れないのである
するとどうなるかというと全体に影響する、あそこの市町村は親切な人がいるなと
その市町村自体の評価が高まるのである
そういう親切を人は忘れないからである
ただ現実は貧乏な人は来るな、そんなもの来ても商売にならないというのが普通である
でもそこに何か問題がある、金持ちしか優遇されないのだとなり悪い印象をもつともなるでもそういう親切は覚えていてあそこちいい人がいるとなるとき観光でも影響するかもしれない、そういう親切を覚えているからである
あそこは冷たい場所だった、人は親切ではない、道をまともに教える人もいなかったとかなんとかなる、現代はすべて金で計算する時どうしてもそうなりやすいのである

貧乏人だけ相手にしていると豊かになれない、でもそういう親切は長く心にととまりいつかその土地に恩恵があるかもしれない、ここで親切にされたからまた行ってみようとかなるかもしれない、それはわからないにしても金だけ計算して商売してもうまくいかないことがある
実際に私が介護で苦しんでいたときでも事業をはじめた人は借金して荷物一つもつもの嫌がっていた、金にならないことは一切したくなかったのである
でも百万をやったし金がないわけではなかった
ただその人はその時金にならないことはしたくなかったのである
そういう人がはたして事業とかなると成功するものだろうか?
それで損して得しろという諺が生まれたのである

ただそういう自分も事業のようなことをして同じ失敗しているから責められないとはなるやはり利益をまず得たいとなるからどうしようもないとはなる
それで事業はじめるなら資金的にも余裕がないとうまくいかない気がする
また長い目で見ないとうまくいかない、、だから資金的にも余裕がないとうまくいかないすぐに見返りが入ると限らないからである、でもそうなるとなかなか事業でもやれないとなる、それで自分自身も駄目だったからである
現代は変化が激しいし目先のことに追われる、長い目で仕事でも事業でもできないのである、競争も激しいから追われるように仕事をしなければならない
それで現代は国家百年の計などができない、変化のスピードが早すぎるからだ
中国の変化をみればわかる、十数年であんなに発展したのは驚いたからである

いづれにしろコロナウィルスで観光業は打撃になった、するとこれから観光業はどうなるのか、どうするのかが問題になる、近間を大事にして近間の人にサービスする
近間の人のくつろぎの場とするとかなる
でも金で計算するとどうしても東京とかの大都会の人を呼ばないかぎり経営は成り立たない、だから東京からの観光客が来ないことは大打撃になったのである
ただこれも時代の変化でそれに対応しないと生き残れないともなる
観光もオーバーツーリズムになっていた、京都などもう外国人とかで混んで異常だった
それがぱったり来なくななっというのも驚きだったのである
京都のような所は貧乏な人は相手にしない、粗末に扱われる
それは観光客があふれていて来ないことがないからである
でもそうなると人を粗末にする、それで観光客来ないとなり新しい手をうたねばならなくなる、人を呼ぶために観光客に貧乏な人でも親切にするとか変わる
それは希望だがそういうふうに観光も変わることは悪いことではないのである  

もともとホテルはホステルとか旅人をねぎらう病院とも関係していた、ホステルとかかがホスピタルになったからである、そういう起源があるということはそこに本来の役割を感じて商売するということにもなる、そこが原点だからである
金持ちのためにだけ優遇してサービスするのとは違っていたからである
なんでもただ金だけを計算してしていると本来の役目とかも見えなくなる
それがかえって人も離れてゆくともなりかねない、ただまず利益だとなるから本当にむずかしいのである


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2021年10月28日

温泉街が廃墟化した驚き (会津の東山温泉、福島の飯坂温泉もひどい‐旅の思い出)


温泉街が廃墟化した驚き

(会津の東山温泉、福島の飯坂温泉もひどい-旅の思い出)

鬼怒川温泉の黄金時代は、バブル崩壊とともに終わりを告げます。景気は冷えこみ、日光鬼怒川温泉へ社員旅行をする企業が減り、個々人も、余暇に鬼怒川温泉へ観光しようというゆとりが減ってきました。

観光の世界において、常識的に語られることはいくつかあるが、その一つに「旅館が大型化し、宿泊客を囲い込んだために、街にあった店舗が潰れ、街の魅力がなくなった」というものがある。

(旅行会社が送客する)団体客への依存が高く、増えてきた個人客への対応力が弱い
個人客は、いろいろな施設が揃った大型旅館の中で過ごすより、それぞれの地域での街歩きを楽しむ傾向にある
温泉街には、かつては飲食店や物販店はもちろん、スマートボールや射的などがあったが、温泉旅館が、それらを内包してしまったために、皆、潰れてしまった
つまり、個人客対応できない温泉街にしてしまったのは、巨大化した温泉旅館に原因がある
さらに、その遠因は、団体客を受け入れしやすいように旅館の大型化を生み出した旅行会社にある。

会津の東山温泉と福島の飯坂温泉が廃墟の街となっているのをyoutubeで見て驚いた
これはいつこうなったのか?それが良くわからない、ただこれも日本の経済衰退から起きていた、ただ救いはインパウンドなどで外国人旅行者が特に中国人が団体で訪れていたことである、それでなんとか維持できていたこともあった
ただ全般的には温泉街は高度成長時代が終わりバブルがはじけて衰退した
高度成長時代は社員旅行とか団体旅行が盛んだったからである
この辺の呉服屋でも客をしきりに団体旅行に連れて行ったのである
この辺では火力発電所ができた港の村とかではもう航空運賃が50万とかなるときヨ−ロッパ旅行に行っていた人がいたので驚いた、その頃とても外国旅行に行けるとは思っていなかった,ヨ−ロッパ旅行となると夢のまた夢のような時代だったからだ

私自身が人生を旅に費やしたから旅館とかホテルでも興味がある
でも貧乏旅行者であり自転車旅行になってからまず高いホテルとか旅館には泊まらない
温泉旅館は高いので泊まったことがないし自転車では泊まりにくいのである
ただ一回だけ湯殿山ホテルに道に迷い泊まったのである
そこのお上が泊めてくれたから例外的だった、ホテルとなるとこうした自転車旅行者など泊めない、断られる、だからまず自分は旅館とかホテルはただ体を休めるだけで贅沢など求めない、温泉旅館は保養のためであり温泉街自体を楽しむ場所である
私は一夜の旅の宿を求める場所だから違っていた

『蚤虱馬が尿する枕もと』芭蕉

こういう所でも良かったとなる、ただ現代ではこうして旅人を受け入れる農家などないから野宿なのである、たいがい自転車旅行とか一人旅でも野宿である

隠田やテントに眠る夏の星

こんなふうになる、日本の特徴は意外な所に田があることである、それは税金逃れにもなる、山の陰などになっていてわからないからである、この辺の近くでも土地の人があそこか隠田だったよと教えてくれた人がいた、そこは平地なのだけど森の様な所があってかくれていたたそである、相馬市の松川浦の近くだから山の中ではないのに隠田があったから謎である

とにかく私の旅をふりかえると福島県なら隈なく行った、それで会津の東山温泉が廃墟化していることに驚いた、あんなふうに廃墟の街となっこのはこの辺が原発事故で避難して廃墟の街や村になったことと同じように見えた、なんか気味悪くなる
往時のにぎわいがぱったりとやんで廃墟マニアが訪れる場所となったのである
東山温泉というとき私は白河街道を通り芒の山道をぬけて東山温泉に出て来た
その時は廃墟の街のようには思えなかった
途中の福良の南湖の蔵の宿に泊まった、あそこはいい場所であり蔵の宿が良かったのである、でも私は温泉街とかには魅力を感じなかった、もともと宿賃が高いし泊まりにくかったからである
私はずっと貧乏旅行が長いから常に安い宿を探していたからだ
それで海外旅行でもパリの東駅で安宿を探していたのである
あそこにはかなり安宿がありでも満員だった

安宿に落葉を踏みて東駅

海外はむしろヨ−ロッパでも安いホテルが意外に多く個人旅行がしやすかったのである
日本はそういう安い旅館がホテルが少ないから旅はしにくいのである
かえって江戸時代の方が宿場町があり安宿が多いから長旅には向いていた
宿場町ではそうした旅人をもてなした、それは保養に車とかで来る人と違って長く歩いて汚れたりしているからまず足を洗うのである、それがもてなしなのである
もともとホテルはホステルであり病院に由来するからもてなしねぎらうものだった
それは歩く旅だからそうなったのである

現代に旅はないし旅人もいなくなった、電車でも車でもバイクにしろ早いから途中が飛ばされるし途中の宿に泊まるということもないからだ
自転車とバイクが似ているようで全然違う、バイクだと車並みに早いからである
自転車旅行は疲れるからだ、特に坂を上ると体力を消耗するのである

東山温泉もそうだが飯坂温泉もあんなに寂れて廃墟化していることに驚いた
福島市から飯坂線がありその線が何か情緒があった、途中の医王寺は芭蕉が寄ったことで有名である、そこから飯坂に行った、あそこをさらに上って行くとやはり旅館があり
その時桜が咲いていて丁度暮れる頃であり雨がしととふり旅館から湯の煙がたっていた

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雨しとと湯の煙たち夕桜

雨しと灯ともる旅館夕桜

こんな感じだった、その記憶は残っているが飯坂に泊まったのは覚えていない
旅の記憶はうすれてゆくと定かでなくなる、ただ自転車で行きそこで暮れたことは覚えている

『蚤虱馬が尿する枕もと』芭蕉

こういう宿でもふりかえると旅の醍醐味であり記憶に残る貴重な体験なのである
ふかふかのベッドとかホテルに泊まるだけの旅はかえってつまらないありきたりの体験になる、旅でも記憶に残る旅をしろと語ってきたときそうなる
電車であれ車であれ旅が楽過ぎるからかえって旅にならないのである
そもそもトラベルとは苦労することだから旅は外国でも難儀だったからである
それは歩く旅だったからである、歩く旅をしていないものは本当の旅がわからないとなる今は歩く旅はかえって余裕がないとできない、その疲れ方も半端ではないからだ
これだけ旅しても私は歩く旅はしていないから本当の旅がわからないともなる

いづれにしろ温泉街は旅の宿にはならない、高度成長時代のバブルとして廃墟化した
一時の夢の跡ととなってしまったのである
こういう盛衰は人間社会につきものである、ただ原発事故で町ごとが村ごとが廃墟化したことにも驚いたが温泉街の廃墟化にも驚いた
ただ原発事故とは違って温泉街という一部であり全体はまだ残っているのは違っている
原発事故は全体が廃墟化したからひどいとなる
温泉街が廃墟化しても回りの農家などはやはり生業があり残っている
この辺では農家自体が廃墟化したからショックだった

ただ本当に空家が全国で800万軒になるということはショックである、衰退してゆく日本を象徴しているのだ、本当に空家が多い、この辺で原発事故の避難区域は廃墟の町となり村となった、それは将来の日本を先取りした風景なのかとも見てしまう
ただ一挙に廃墟化したから凄まじい荒廃となった
ただ温泉街とかは何か全体ではなく温泉街として特化したものだからブームとかさると一挙に寂れてしまう、それがコロナウィルスでもそうなったのである

posted by 天華 at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅の記録

2021年12月01日

温泉若おかみの殺人推理 (ホテルは料理でもてなす所ー関サバがテーマのドラマ)


温泉若おかみの殺人推理

(ホテルは料理でもてなす所ー関サバがテーマのドラマ)


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外国人でも日本に来ることの目的が日本の料理が目的だったのである

このドラマのテーマはホテルで出される料理のことである
ある時老女が一人で泊まりに来た、それで断ろうとしたが今時そういうことは時代に合わないとして受け入れさせたのがホテルのコンサルタントの女性だった
このドラマはいかに客をもてなし寂れたホテルを復活させるかがテーマである
その中心が料理なのである
ここで関サバというのが名物である、これは全国的にも知られている
ここだけでとれる特別のものである、潮流とかの関係で一本釣りでとるのである
その老女はこのホテルに結婚して夫と来たことがあった
でもその夫が死んだので一人で思い出のホテルに泊まりに来たのである
そして夫のために御膳をもう一つ用意してくれとなった、陰膳である
でも関サバは出せなかった、でも九州の旅の帰りにまた寄ってくれたら出すと料理人が約束する
そこで命がけでその関サバを出すために自ら仲間であった漁師ととりにゆく
前に関サバを無理に獲りに行って父親と兄貴が死んだ女性がいた
その女性はそのことでずっと恨んでいて殺人になったのである

このドラマで感じたことはもう涙ぐましいほど命をかけてまで魚をとりお客に出すことがドラマのテーマとなっていた、ホテルとは何度も言うけどホステル、病院から発している旅人を癒す場として病院の役割があってその言葉が生まれた
それだけヨ−ロッパでも旅することがトラベルであり苦痛だから難儀だからそうなった
言葉は何か生まれるにも歴史があって生まれて来る

もう今は旅はない、旅とは江戸時代のように歩き宿に泊まり旅をつづけることである
宿はそのためにありそこで休養をとりまた歩いて旅してゆくのである
今は目的地に直行して車でホテルや旅館に行きそこで食べることが楽しみとなる旅であるそれはあくまでも保養の旅であり旅とは言えないのである
つまり現代では旅人がいないのである、江戸時代辺りまでだとどうしても歩くことになるから自ずと旅人になっていたのである
現代か旅は喪失したのである
だから最近温泉街が廃墟化しているのに驚いた、会津の東山温泉でも飯坂温泉でもそうである、温泉街とは高度成長時代の会社の団体旅行などがあって成り立っていたのである
また団体で商売のためにそうしてホテルに泊まらせてうまいものを食べさせることで客に物を売っていたとなる
そういう商売も日本経済の衰退で成立たなくなったのである

そもそも本来の旅は喪失している、旅人ももういない、バイクで旅しているとしても早すぎるから通過して行くたげだともみる
現代では通過する旅が多い、何か目的地に早く到達してホテルでうまいものを食べるのが楽しみだとなる、別に車だから多少疲れていても歩いてきた旅人とは全く違っている
そこでもてなすとうまい料理を出すことだとなる
それが目的でホテルに泊まるということでありこれは外国人でも同じだったのである
外国人だと日本を旅したいと見たがそうではない、やはり日本で日本の料理を食べたいというのが一番大きかったのである、人間は一般的にそれだけ食べることに一番関心があることが共通していたのである

旅の思い出はホテルで食べた料理の味

これは旅とは言えない、まず旅はしていない、移動してホテルの自慢の料理を食べることだとなる
だからこそ関サバを命がけとって客を喜ばすことが第一だとなる
そこに地域の人々が漁師でもかかわって観光客をもてなすということである
ここではもう旅はないのである、旅人もいないのである

私の旅の経験では何か福島県の石川なのか鮫川なのか阿武隈高原を自転車で旅していて
万屋がありそこでご飯と味噌汁を御馳走になったことである
なぜそんなことをしてくれたのか不思議だった、今はそんなことありえないからである
そんな山の中で旅人をもてなしてくれた、それも金を出さないのにそうしてくれた
これが何か記憶に残っているのだ
他でも湯殿山ホテルに泊まったのは迷ってしまいホテルがあったので行った
普通は必ず自転車旅行者は断られる、でもそのお上は一室を用意してくれたのである
それもありえないことだった、ここに人間の情が本当のもてなしがまた活きていたことを経験したのである
でも実際はそれはもう例外的なものであり自転車旅行者など受け付けないのである
でも自転車旅行者は相当に疲れているのである、だから疲れをいやしたいのである
でも今のホテルはそういう人のために旅人のためにはないのである
つまり何か上品な老女でも来てまた見かけがいい重役のような人が来てうまい料理を出してもてなすことが目的化しているのである
そういう人を金持ちをホテルの従業員も迎えるということである

現代では旅する人は稀有である、猪苗代の湖南の福良では蔵の宿に泊まった
それは昔の白河街道の通り道だった、それも不思議だった
でもたまたまであり普通はそういうことない、でもそういう宿は記憶に残るのである
まず旅を思いだして果たしてあそこで旨いものを食べたなど記憶に残るだろうか?
それはドラマのことでありそんなにうまいものを食べたことが記憶に残るとも思えないのである
ただ一回だけ新潟の小出の魚野川の食堂でそこでとれたての鮎を焼いたものを食べた
それはうまかった、安いけどうまかった、それを特別感じたのはもう鮎がこの辺では食べれなくなったことが影響していたのである
子供の時は父親が近くの川で大きな鮎をとってきてそれを食べた記憶があったからだ
今は普通の川では鮎はとれたとしても小さいしうまくなくなったからである
確かに何かうまいものを食べたものを記憶することはある
でも何かそれが旅の記憶となるのかとなると疑問である
何か旅を記憶することはむずかしい、記憶する旅をすることはむずかしい

ただ宇多川をさかのぼり霊山の方へ行った時旅した感じになった
それは一応長い行程を行ったからである、ともかく旅に明け暮れた人生だった
だから旅とか旅館とかホテルに興味がある、でも現代では旅は喪失した
温泉街が廃墟化したというときやはり観光の仕方が悪かった、時代の変化がありそれに適応でなかったからかもしれない、今は何か旅を演出しないとできない
それは時間もかかり金もかえってかかるとなる
昔の街道を歩くようにして昔のままに茶屋をもうけて休ませるとかする、すると旅した気分にはなる
巨大なテーマパークのようなホテルがあるがそれはもう旅とはなんの関係もない
ただ巨大娯楽場であり旅と関係ないのである
交通でも便利になんでもやはりそこで失うものがある、特に便利さを求めて何か人間の豊かさを失うことがある
みんな金でなんでもできると思うができない、かえって金がなくても時間があり体力があるだけでも旅はできる、莫大な金をかけてもすべて価値あるものを作りだせなてい、
そもそも江戸時代の旅は一か月とかあり歩くのだから体力がないとできないからである

ただうまいものを食べるだけに旅はしていないのである
旅する時間をかけがえいのないものとしてするということがなくなったのである
なぜ西行であれ芭蕉であれ山頭火であれ旅人でありえたのか、旅をできたのか?
それは命がけでもあり旅をそれだけ人生で意味あるものとしたからそうなったのである
それは遊行でも命がけでありそに人生の価値を見出していたからである
今やそこまで思って旅する人はいない、気楽に旅してホテルでうまいものを食べることになった、ただそうしても金をかけても本当の旅をしたことにならない
つまり人間は何でも金だけでは得られないのである、そこが誤解している
旅は別に時間があり体力があれば金がなくてもできる
私は時間もあり一応体力がなくても中年から自転車旅行ができたからである
私の旅の目的は旅することでありうまいものを食べることではない、だから金もないから食べ物に贅沢できない、旅できればいいと思っていたからである

旅の道茶屋に休むや秋の暮

旅人の逢いて分るや秋の暮

松一本標しとあれや秋の暮

遠くへと旅人去りぬ秋の暮

こんなふうに歩く旅とは人間的になる、それで旅は道連れ世は情けなとなった
しかし道連れもいないし情けもなくなったのが現代なのである
何か情を交わすとういことがないのが現代なのである
駅でも無人化して迎えるのはロボットにもなる、そこに人間はいないなくなるのである
いろいろ進歩したとしても何かその中でも必ず失われるものがある
それが失ってみて貴重なものだったとなるのである
人間でも家族でも死んでみてその貴重さを認識する、ただ今や旅を回想して死んだ人を追憶しているだけとなったのである

つぐつぐ人生も旅である、人は出合い分れる、それは本当に貴重な時だったのである
一期一会の貴重な時だったのである、なぜならもう二度と合わない、みんな死んでゆくからである、実際に今やこの年になると家族も全部死んだし知っている人も死んでゆく

歌舞伎俳優で人間国宝の中村吉右衛門さん死去 77歳

この人は良く時代劇で見ていた、この人も死んだのかと驚く、テレビの画面でしか知らないけど77、78歳で死ぬ人が多いとみた、人間はとにかくこうして人間が出合ったとしても忘れてゆく、この年になると次々に同年代が死んでゆくからである
そしてつくづく人間がこの世で出合うとは何なのだろうとなる
出合った人でも死んでゆくからである、それもつかの間の出合いだったとなる
そして永遠に出合わないとなるのが人間なのである
人間とは本当にこの世で出合うのは束の間なのだなと思う
それでけさよならだけが人生だというのは名言になったのである、最後はみんなそうなるのである


歩く旅の喪失と保養としての宿の変化 
(福島中央道から地域を考える―車が通らなくなった道)

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2023年08月16日

老人は記憶に生きる―ドイツの骨董店の対になった古い椅子(詩) (人間は忘れやすいので写真でもこれ文章でも記録することが大事)


老人は記憶に生きる―ドイツの骨董店の対になった古い椅子(詩)


(人間は忘れやすいので写真でもこれ文章でも記録することが大事)


●電車や車の旅は記憶に残りにくい


そもそも情報とは何か情報は無限にある。常磐線を例にすれば上野からいわきまで普通列車が通じている。でもその間に様々な駅がある。でも記憶されるのは水戸駅とか日立などは記憶される。でもその間のさまざまな駅が記憶されないしそこの情報が実は通り過ぎてゆくだけで知らないのである

それで電車の旅という旅はただ駅名だけを記憶していた。それで私は地名に興味を持つようになったのである。要するに記憶に残っているのは駅名だからである。そのほかは景色とかでも記憶に残らないのであるだから電車の旅というのは早すぎて記憶に残らないのである。それは来るまでもそうだしバイクでもそうである。現在は交通が発達し乗り物も便利である。でもそのために帰ってその土地のことや景色でも何でも記憶に残らないのである


何か今になると私は回想する旅をしている。それが仕事のようにもなっている。あそこを旅したあそこに行ったことがあるとか思い出すのである。ただ電車の旅も相当したとしても後で振り返ると何が記憶されたかとなると駅の名前だけだったともなる。景色でも電車から見ていると次々に移っていくからもし歩くように見ているのは相当な違いなのである。景色でも一瞬のうちに電車でも過ぎ去るし来るまでもそうだしバイクでもそうである。


だから現代は江戸時代のように旅は道づれとかはない。旅と一緒にして街道を歩いてそこで何か親しくなりそして分かれ道があり分かれさりとなる。そこが地名化して残っているのである。それはそこで人が分かれて本当には一回限りの出会いであとは合わないということがあった。


今のように交通が発達していないのだから簡単には会いに行けなくなったからであるなっていたからである。そこで会うということはだから相当に今と違って貴重なことだったのである。

今なら旅で別れても飛行機でゆけば大阪までも一時間くらいで行ける。それが私が気づいていなかった。それは必ず電車とか船を利用していたからである。

でも実際は大阪から仙台から大阪まで飛行機で行けば一時間くらいなのででもそれは旅にはならない長い途中が省かれているからただ距離を縮めてしまってその途中が省かれて旅というものを体験しないのである。


だから常磐線でも上野から途中の駅があるのだがそこが記憶されない。大きな駅である日立とか水戸は記憶している。東京から近いところでは土浦がある。そのくらいしか記憶していないのである

人間の体験というのはだからいくら交通が発達しても本当にその地理とかを理解することはできない。例えば航空でもシベリア周りでヨーロッパの方に行ったがシベリアの上を飛んでも下は何も見えなかった。真っ暗闇でなっていただけである。そんな旅はつまらないと思った退屈なだけだと思った。

でもウラジオストックからシベリア鉄道に乗ればその体験は全然違ったものとなる。川は電車から見たら大きかった。それも運河のようにではなく何か激しく流れているように見えた。

その幅が広く大きなものだった。そういう川は日本にはない。でもその川でも一部を見ただけなので大陸の川はそれだけ長いからである。流氷というのがアムール川の河口あたりにできてそれがオホーツク海まで流れて来るということがある。それもスケールの大きなものとなる。


鉄道でも川でも道でもそれは長いものである。だからその一部しか実際はわからない。長い川でもやはり船で行けばその川の長さを実感する。でもただ電車はその鉄橋を渡っただけであるが確かに大きさ感じたが瞬間的に通り過ぎたのでその一部しかわからないのである。本当に川のと長さを知るとしたらやはりその川を全部ではないにしろ上流からであれ下流からであれ船で行ってみることである。

そこに大きな川の流域があり人々は暮らしている。でもアムール川だと写真を見れば壮大な森がありシベリアのそのスケールがまた違っている。ロシアとかでは広大な森がありウクライナもそうであるその森が阻み閉ざされているともなる。

それはヨーロッパの中世でも広大な森がありそれでそれぞれの国は簡単に往来はできず閉ざされていたのである。そのためにドイツの神話で民話で森の中の城で眠れる美女の伝説が生まれたというのも分かる

ドイツは樅の木が育ちおおっていた。その広大な森が樅の木の森があって黒い森といわれていた。その森をイメージして作られたのがゴシック大聖堂なのである。


●交通が発達して便利なっても人間の五感で記憶されない


ともかく何故地理を知ることが難しいのか。シベリアを飛行機で行ってもなんにも見えなかった。真っ暗闇のしか見えない。それで地理がわかるということはない。地理がわかるということは人間の実感で知るということは容易ではない。地理はいくら地図を見てもわからない、地形でもわからない。日本には山が多く峠が多い。その高低が実感できないのである。

だから峠でも歩いて超えた時はその地形を実感する。でも車で一気に登ったらその高さとか高低が実感しにくいのである。だから外部から見るときそうま地域でも飯館になると標高400mくらいあり海側とは違った気候になる。冬でも五度くらい温度が違うその代わり夏になると高原となり涼しいのである


結局人間というのは確かに機械に頼れば鉄道であれ車であれ飛行機であれその目的地に早く着く。それはそれで便利であり交流を深めることはある。でもその土地のその地理を理解したことにはならない。つまりどんなに人間が機械を使い便利になったとしても何か実感として心に記憶されることは機械に頼ってもできないのである。

ただ外国になると見慣れないものが多いから余計に忘れてしまう。それで失敗したのはもっと写真として起動記録しておけばよかったとなる。


ただその時デジタルカメラが出ていないので写真にとることが難しかった。その頃いちいち現像したりするのが金もかかるし面倒だったのである。でも老人になると必ず何であれ過去を回想する。その時不思議な事は頭に記憶されていなかったのだが写真を見てこういうところだったなと再認識することがある。頭の中にはもう何も記録されていなかったのである。

こういうことは本でもある。大量の本を買って印をびっしりとつけていたのだがその本を読んだ記憶さえなくなっていたのである。それでまた読み返してみてこういうことを書いてあったのかと感心しているのである。だから記憶を蘇らさせるためにはやはり記録しておくことが大事であり文章にしてもいい今ならデジタルカメラでとにかく記録しておくのである。そして後でその写真を見て記憶をよみがえらせるのである。


●親しくなるにも時間がかかる


人間は確かにいろいろなことを経験して記憶する。でもそれも時間が経つと60以上になれば遠い過去になり忘れてしまうのである。現実に同じ家で子供の時一緒に暮らしていた人が五年間であるがその人が記憶にないと言ったのに驚いた。何かしら五年間も一緒に同じ屋根の下に暮らして飲み食いもしていたのだからその人がいなかったということはありえないのでただその人は女性は普通の人ではない異常な人となってからそうなったのかもしれない。やはり人間は家族のことは忘れない。私の場合は特殊な事情で結婚もしないで親と一緒に60年も過ごしていたから忘れることはないのである。そして特別よくされて愛されたから今でも家に居ると家族がいるような感覚になるのである


とにかく人間は老人になれば記憶に生きる。それで認知症の人は異常になっているのだが一番印象的なことを人生で経験したことを延々と語り続ける。今のことは全く忘れても若い時の経験したことは忘れない。私の姉はシンガポールの向いのマレーシアのジョホールの赤十字病院に従軍看護婦として四年間働いた。そのことが忘れないから1000回くらいその話を聞いたのでそれで嫌になったわ延々と話す相手もないから私に話したのである。


そして驚くべきは死ぬ間際になってもその話を戦争で働いた話をして死んでしまったのである。だから一番印象に残ったのは若い時その戦地で従軍看護婦として働いたことなのである。だから戦争の経験した人は戦争のことは老人になっても忘れられない。それだけの大きな経験をしたからそうなったのである。これは特殊にしてもやはり人間というのは老人になるとその人生を語るのだから同じなのである。

そして人間というのは人間が生きるに際して盲点となっているのは時間を軽んじることである。時間の貴重さが認識できないから時間を常に無駄にするのである。金だったら常に100円でも200円でも1000円でも意識している。それで得したとか損したとか常に頭に記録されてこだわる。でも時間だけはいくらとか換算できない。それが盲点となって時間を一番人間は無駄にしているのでいるのである。


そのことは人間が親しくなれるのはやはり長く一緒に生活を共にしなければ親しくなれない。人間の親しさは時間に比例している。長く一緒に暮らしていればやはりその人が他人だとしても親しい者となる。親子でも兄弟でも遠く離れてしまうと疎遠になり。そして貴重なことは孫と接するにしても娘でも遠くに嫁げばなかなか会えない。


そこで何か祖父母でも孫は親しくなれないのである。子供の時接することは親しくすることは貴重である。なぜなら祖父母だったら死んでしまうからである。そうして孫と接する時間も短いからである。するとあまり直に接していないままでも記憶に残らないということがある。

それで結婚でも60過ぎてから離婚するということは大きな損失だとも見る。なぜなら結婚でも互いに信頼し合って親しくなれるのには時間がかかる。 60までも一緒に暮らしていて離婚するとなると他にまた親しい女性はできたとしてもなかなか親密にはなりにくい。そこには既に親密になる時間が残されていないのである

だから人間とはいくらでも時間があり離婚したらまた別の人と結婚すればいいともならない。。なぜならそんな時間が人間には与えられていないからである。でも実際は離婚している人が1/3とか多いでわまた別の人と結婚すればいいではないかとは簡単になれないのであるそれだけの時間がないからである。





antikushop.jpg

oldchaie2.jpg

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骨董店のショーウィンドウに古い二つの椅子が飾られていた。でもその写真をなくした。写真でも物だから無くすことがある。
それで失敗した。この絵はイメージクリエーターで作った。ショウウィンドウではないがイメージはできるから便利である。
ドイツでもヨーロッパでも歴史が古いから骨董品は似合っている、アンテークコインが現実に高値で今でも取引されているからである。

古い椅子が二つ

(old twined chairs)


二人は座っている

いつまでも座っている

何かを語り続けている

その人は死んでも

やはりそこに居る

そして愛し合い

思い出を語り続ける

今はその人は居ない

でも二人はいつまでもそこに居る

その土地に深く根づいた木のように

愛し合う人は 離れない

二本の木のように

その土地に根ずき思いを深める

ドイツの秋は深まる

中世の街は古く

石造りにものさびて寂びている


(秋深む古き椅子二つ ドイツかな)



old twined chairs.


They are sitting

They're sitting there forever

They're talking about something

And when they die...

They're still there.

Like a tree deeply rooted in its land

And they love each other.

And they're still talking about it.

He's gone now.

But they will always be there.

People who love each other will never leave each other.

Like two trees

Rooted in the land and deep in love

Autumn in Germany is deepening

The medieval town is old

built of stone, rusted and desolate


Two old chairs in the depths of autumn, Germany perhaps






二本の樹

柿の木に柿の実のなり

無花果に無花果の実のなり

ここに久しく変わらざるもの

風の日も雨の日も雪の日も

ただ黙しつ耐えし強き命よ

冬の日さして今休らいぬ

そは大地に根を張り変わらざるべし

昔を偲び末永き命なるべし

柿の木に柿の実のなり

無花果に無花果の実のなり

何事のなけれど争うことなく

互いに傷つけることもなく

大地に根を張り変わらずに

静かなる強き命にあるべし

そは天にてもつづきあるべし

神の園に植えられし樹よ

その実はさらに甘美なるべし

忍耐は平和の基、来世の実り

神の国はそこに作られるべし



Two Trees


persimmon tree bears persimmon fruit


The fig tree bears figs


Here is something that has remained unchanged for a long time


In windy days, rainy days, snowy days


The strong life that endures in silence


The days of winter are now at rest


Rooted in the earth, it shall remain unchanged


It must be a long life in memory of the past


persimmon tree bears persimmon fruit


fig after fig after fig.


No matter what happens, there will be no conflict


Without hurting each other


Rooted in the earth, unchanging


Quiet and strong in life


And it shall continue in the heavens


O tree planted in the garden of God


Its fruit must be even sweeter


Patience is the foundation of peace, the fruit of the world to come


The Kingdom of God shall be made there


Translated with DeepL



posted by 天華 at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅の記録

2024年02月04日

【東は明るく西は暗い感じになる―日本海は暗い】 地名は方角地名が基本ー相馬市の日下石(ニッケシの由来)


地名は方角地名が基本ー相馬市の日下石(ニッケシの由来)

【東は明るく西は暗い感じになる―日本海は暗い】

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相馬藩の北斗七星の旗−黒い●は星でである

●日が昇る方向は明るく沈む方向は暗い

方角を知る一番わかりやすい方法は日の昇る方向と日の沈む方向を知ることである。

遣隋使の小野妹子が、持って行ったとされる書簡が「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)で始まります

これはただ方角を正直に言っただけである。とにかく外国に行ったりすればあなたはどこから来たのか?それをまず尋ねられる。
Where are you from?と尋ねられる。それで外国に行ったら日本だと伝えるのだがそうした国がわからない時代には何か目印になるものが必要になる。だからイスラエルのへブル人という意味は川の向こうから来た人という意味である。川が目印となってその方角を知るということにもなる。外国の川は必ず境界にもなっていたからである。だから川を越えて来たというときその川がどういう川か知っているからそう伝えたのである

旅をしていると一番分かりにくいのはこの方向が分からなくなり道に迷ってしまうのである。それは近くでもそうだった。飯館村は山に囲まれているから海が見えないから東がどっちなのだかわからなくなる。それで東の方に行こうとしたら西に向かっていたのである。なぜそうなったかというと太陽は沈む方向に行ったから沈む方向は西だと気づいたのである。山に囲まれていればこうして方向の目安となるものは分からなくなるから近くでも迷ってしまうのである。

西となれば日が沈む方向になる。東となれば日が昇る方向になる。でもそれが分かりにくいのである。ただ東と言う時日が昇るのだから何か明るいイメージを持つ。会津の東山温泉があるところは東にあるとしても山の陰にあり明るい感じにも思えなかった。でも京都だと東山というのはそこから日が昇る山であり明るい感じなのである。西山となればそこは何か寂しい感じになるのである。

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城を中心にして方角地名が名づけられた

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城を中心にして方角地名となった。喜多方は会津の北に発展したから北方が喜多方になった。

●日本海は寂しいと見ても古代は栄えていた

東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ  柿本人麻呂

東はやはり太陽が昇るから明るい感じになる。でも西となると陽が沈むとなり淋しい感じになる;だから日本海は日が沈む場所であり月がにあっている。

寺泊出雲崎行くや月あわれ
日本海秋の夕陽や漁村古る

日本海は海に夕陽が沈む。そして漁村も古いとなる。

名月や膳にすゑたる東山 支考

京都では東山となるとこのように身近なのである。でも京都を旅して東山がわからなかった。だから陽の昇る方向に旅したら注意すべきだとなる。

ただ地理的にはそうであっても歴史的に見れば日の沈む方向はさびれていたという感じにではない。日本海側に日は沈むからそこは今では裏日本隣寂しい感じになる。
でも古代からむしろ日本海の方が開けた栄えた場所にもなっていた。なぜなら韓半島とか中国大陸と向き合う近い場所でありそれで出雲の国引き神話が生まれた。その国とは韓半島の国のことである。地理的に見て太平洋側より近いのだから当然ひらけた場所になり韓半島からの渡来人もきて返って先進的な国でもあった。

なぜ今から見ると島根とか鳥取は人口も少なくさびれた感じになっている。
ではなぜ出雲の国がありそれが大和の国と互角に並ぶ強国となっていたのか?そして出雲弁が東北弁は似ているというとき東北が蝦夷と言われた国でありそれは出雲とも一体化していた国だったからだとなる。なぜ蝦夷というのは強敵になったかというと韓半島からかやとかから渡来人が入ってきてその人たちが蝦夷に加勢したということがある。だから大和王権の強敵になったのである。

●相馬市の日下石(ニッケシ)は日が沈む場所?

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津波で日下石の近くまで海になった

日本語のニシは、「去方」(イニシ)の約であろうという。イニが去(イ)ヌという動詞の名詞形で、シは方向を示すので「日没の方向」の意で西を捉えた語というわけである

これで気にかかるのはなぜ日下石(ニッケシ)という地名がアイヌ語説もあるがこれは西の意味とも取れる。それが津波でその日下石の前まで海になった。太陽はその日下石記の方に沈んだのである。
ではなぜそういう地名がついたのか?つまりそれは海の方から名付けた地名だったともなる。それは海からやってきた海洋民族が日の沈むところを日下石としたともなる。その海洋民族とは何かといえば相馬地域に多い綿津見神社と山津見神社が一対となった安曇族のことである。その後裔の人たちが名付けたものと推測される。なぜならもし日下石が西という意味があれば海から船で来た人たちがそこを日の沈む場所としたからである。
ただ海から離れた所から見れば海の方は日が昇る所になる。
どこからみるかで反対になるのである。
ただアイヌ語に関連しているとなればまた違ったものとなる。

なぜ方角が大事なのかというと例えば砂漠であれ草原であれ遊牧民が移動するとき方向が最も大事なものになる。方角がわからなくなると方角を誤るとそれは死にも繋がっている。だからこそ砂漠の国では星が星を見て方向を知る。だから北斗七星北極星が信仰の対象にもなった。北辰菩薩とか妙見様とかはその北極星のことだからである。相馬藩の旗印もその妙見信仰から来ていて北斗七星と北極星なのである。それはやはり中国からまた中国韓国を通じて韓半島を通じて日本にもたらされた信仰でもあった。一定の土地に定着して住んでいる人なら方向はそれほど大事にもならないからである

妙見菩薩は、北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。尊星王(そんしょうおう)、妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)、北辰菩薩(ほくしんぼさつ)などとも呼ばれる

●縁(えにし)ー江西、愛西などの意味と語源

私の魂は子の風景のもとに安んじて返ってくるだろう、それはかつてこの島影にたどりついた民族の心象というものがあったからだろう
「海やまのあいだ」にある狭い土地ーそれを海岸線と言ってもいいだろうーにこそ我が民族の「ふるさと」があったのである
海岸線の歴史ー松本健一

江西(えにし)は江と西が結びついた。当て字である。いには去るという意味でもある。太陽が去り沈む所だとなる。


縁(えにし)とは海洋民族が縁を結んだ海岸のこと? (日本の海岸線が日本のアイディンティティを作った場所)

江(え)とつく地名が多すぎる。ということは蝦夷(え)でも江なのである。南相馬市の鹿島区の海老(えび)はエヒなのである。江垂(えたり)は六号線まで江垂であり海が入りこんでいたのである。江が垂れると垂れるように海が奥に伸びていた。だから桜田山に魚の骨などが発見されたというときその入江で魚など取っていた

新地の手長明神の伝説は有名である。巨人が長い手を伸ばして貝をたべていた。それは縄文人が貝をとりたべていたことが基になっている。現実に高台に貝塚があったからである。新地の地形は山が海に迫っているからその伝説は実際の生活が反映したものだったのである。蝦夷(えぞ)のえは水と関係しているかもしれない、えとつく地名はいたるところにあるからだ。水のあるところに人は住むからである。江戸(えど)でもエがついているから水と関係していたとなる。

古代でも海が陸地に深くはいりこんでいた。原町の江井とか小高の井田川とか江とつく地名が多い。そこも入江になって津波でそこが海になったことで驚いた。八沢浦も入江であり津波で元の入江になったことで驚いた。

とにかく相馬地域には松川浦に山津見神社があり和田という地名は対になってあり綿津見(わたつみ)のことである。海洋民族の安曇族の後裔が入って来て開拓して住むようになったことは確かである。海洋民族にとっても方向を知ることが大事である。海では方向が分からなくなるからである。




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2024年10月06日

日本は森の国‐飯館村も丸森町も森が深い 【八溝山を自転車で白河の関に来た記憶】

日本は森の国‐飯館村も丸森町も森が深い
【八溝山を自転車で白河の関に来た記憶】

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●飯館村丸森も森の国−浪江町の津島は秘境だった

何か薄暗い森に覆われていたが自転車でも行ける道があった。でも覚えているのはそこが何か暗い森に覆われて閉ざされたという感じであった。でも日本は森の国であり山の国である。今でもそうなのである。森林面積が70パーセントとかある。
ただその森を切り開いて開墾して田畑を作って暮らした。でも全体的に見れば日本は森に覆われている国である。この辺は丸森町が名のように本当に森が深いのである。それで木材資源が豊富だから上杉藩と伊達藩と相馬藩でその木材を得るために争ったのである。

この辺で飯館村でも森に覆われている。栃窪から飯館に出る塩の道でも森に覆われている。飯館の長泥から浪江町の赤宇木(あこうぎ)を通り
津島に行ったがそこも森に覆われた場所でありその森の中を清流が流れていた。そして津島となると浪江の街からは相当離れた秘境になっていた。その山間の道に雲がかかり月が出た時まるで山水画の風景だった。そこが峡谷のようになっていたからである。

峡谷に曇りて月や長々と白藤垂れて津島の暮れぬ

そこはかけ離れた場であり山は未だに放射線に汚染されて入ることができなかった。一時津島は44マイクロシーベルトとかあった。津島は廃墟の村にになってしまった。

●八溝山の森を自転車で通り抜けた記憶

旅はどうい経路で行くかが問題になる。そしていかに記憶されるかが問題になる。何十年も過ぎると忘れるからである。
最近ある人の名前を忘れた。すぐ近くに住んでいる人だが何年も逢わずに話もしなかったからである。
だから近くに住んでいても人間は忘れる。ましてや遠くにいる人は忘れやすくなる。特に老人は忘れたやすくなる。だから日ごろ接している人は認知症になっても忘れないことがある
でもその息子であれ娘であれ遠くに住んでいてあまり会わないと忘れるのである。近くでも何年も会っていないと名前でも忘れるからである。

旅というのも忘れやすい、何十年も過ぎるとその記憶も定かでなくなる。そして地図を見て思い出した。茨城県を旅して雲巌寺により八溝山に自転車で入った、そこは深い森であり記憶していたのは清流が流れそこに紅葉は木の葉が散る光景だった

森深く清流に散る紅葉かな

私の記憶に残っているのは八溝山の深い森でありそこから白河の関に出たのである。白河の関でも森の道を通る。そこで感じたのはいかに日本は森が多く森に閉ざされていた国である
縄文人はそうした深い森で生活していたのである。つまりその生活環境を知らなければ縄文時代を知ることは不可能である
その森の中で狩猟をして木の実など採集して生活していた

森というとき暗いのである。森に閉ざされた生活である。森だとなかなか道がないから遠くに行くのはむずかしい。人々は森に閉ざされて生活していた、ただ川があるときそれが道になりやすい、その川にしても日本の場合には激流とか滝とかがあり外国の大陸の運河のような川とはあまりにも違っている
外国人は日本の川は滝だと言ったのもわかる、とても交通路になりにくかった。森に覆われていて遮断されて交流ができなかった
それはヨーロッパでも広大な森がありそれで森がボーダー国境ともなったのである。やはり延々と森が続いていたのである。

●糺の森,槻木駅ことなど

糺の森の「ただす」がどういう意味なのかは諸説ありますが、一説には「日頃の誤りを正す」という意味があるそうです。
糺すという漢字を使う機会は多くの人には無いと思いますが、使い方としては正すと全く同じで意味も同じになります

日本の森の場合はそういう感じがしない、鬱蒼として覆われて一本一本の木を見ない、外国だとドイツでも樅の木の森があったとしても一本一本の木が柱のように見えるからゴッシックの石の大聖堂は森をイメージして作られた。石の柱は木を模しているし古くはエジプトの神殿ももともと森に囲まれていた時代があり木を模したものだが石の柱になった。それはヨーロッパでも同じだったのである。

天(あま)飛ぶや、軽(かる)の社(やしろ)の、斎(いは)ひ槻(つき)、幾代(いくよ)まであらむ、隠(こも)り妻(づま)ぞも
「斎(いは)ひ槻(つき)」は、神木として祀(まつ)ってある槻(つき)のことです

隠(こも)り妻(づま)」は、人目に触れないようにこもっている妻のことです。

というときいつまでも斎(いは)ひ槻(つき)、幾代(いくよ)まであらむ、隠(こも)り妻(づま)ぞも槻(つき)の木のようにあった欲しいとなる。何か隠(こもる)というとき森に閉ざされて隠るになる。なかなか森から出れないという意味にもなる。

槻(つき)の木というとき欅(けやき)のことらしい、ならばなじみがあるとなる。槻(つき)の木という駅が東北線にある、
阿武隈急行もここから乗り換える。ここはやはり槻(つき)の木(けやき)の森がありナずけられたのか?
北海道に黒松駅があるがこれは明らかに黒松の森があり名ずけられた。

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とまかく日本は森の国であり鎮守の森というときもともと社がある場所は森だったのである。社をモリというのはそのためであるただ森がこれだけ多いというとき森を意識しない、当たり前にある者は意識されないのである。
日本は森の国だというとき世界でも特殊である。森が世界が消失しているからである。







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2024年11月07日

思い出に残る旅 【人生最後に残るのは思い出ー老人は思い出を語るのみ】


思い出に残る旅
【人生最後に残るのは思い出ー老人は思い出を語るのみ】

●共にその土地で苦労して昔を語り連帯する

人間は老人なり残るものは何なのか?そんなこと考えて生きる人はいないだろう、でもそれが後になり老人になるとわかる
何かをするというとき仕事でも実は後でそれが充実した思い出になるとき老後はそのことをもい出して語り合い共感して連帯する
だからこの辺で原発事故とかで故郷を離れて暮らすようになった人たちは他の土地でまた新たな思い出を作ることは容易ではない。でも若い人ならそれができる、それだけの生きる時間があり例え移住してもそこが故郷となる
要するに生まれた所が故郷とは限らない、長く住んだところが故郷になる。そしてその土地と切り離せず思い出が作られる

それで浪江の津島というと本当に街からは欠け離れた辺鄙な土地である、でもそこに戦後開拓に入った人たちがいて共に苦労した人達でありそこに連帯が生まれて思い出も作られた
だから辺鄙な所でも離れたくないというのが理解できる、なぜならそこには苦しくても共に生きたという思い出があるからそうなる。他の土地に移ったら確かに便利な生活はできてもそこに共に生きたという思い出は語り合えないからその土地の人との連帯は生まれないのである。だからすべてがいくら補償金を多くもらってもそうしたことが補えないのである。そういう精神的なものは補うことはできないのである。

だから熟年離婚が多くなっているがそれが損なのはもはや60過ぎてから新たな生活を始めてもなかなか思い出を作り連帯することが難しい、そのためには時間がかかるからである。何か家族であっても息子娘で一旦離れてしまうと疎遠になり他人のようにもなったしまうのである。つまり一緒にくらしていないと例え孫でも外孫になると親密にならないしおばあちゃんおじいさんという感覚も持てないとなる。遠く離れて暮らせばそこで思い出が作れないからそうなる、ただ近くであれば交流がありそうはならない、遠くになるとどうしても疎遠になってしまうのである。

●自転車の旅の思い出

思い出とはいろいろある。それは個々人によって違っている
何がいい思い出になるのかわかりにくい、でも大概どんな人でも老人になるとその過去を人生を語る。何故かとなればそれが人生だったとなってしまうからである。それで何も語らない人は何か後ろめたいことしてきて語らないのかとなる
別に特別な人でなくても必ず過去をそれぞれの人生を語るからである。つまり老人は思い出の中に生きているのである。

私の場合自転車で旅したことが思い出になった。そんなこと遊びではないかとなるがやはり自転車で旅することは車とか電車で旅するのとは違い達成感があり感じることも違ってくる。だから一見歩くことで移動して時代は不便でも江戸時代でも思い出に残ったことは確かである。何か鉄道であれ車だと印象に残りにくいし自分の力で行ったという達成感がないのである。自転車だとあの坂を苦労して上ったとか記憶に残る、それで後から思い出して詩にしたりしている。つまり思い出として残すには鉄道とか車の旅だと残りにくいのである。ただ移動しているだけだともなる

だから芭蕉の旅でも歩いて旅したからこそ深い俳句が作られあのである。つまり何でも空間軸と時間軸で作られる、空間軸でも別に飛行機なら一挙に遠い外国に行けるが途中が省かれるから体験としては本当に外国を体験するとはならないのである
其れが大航海時代のように何か月もかけて外国に行った時の感動はないのである。それでも戦前は船ででもアメリカでもヨーロッパでも行っていたのである。
だからその時代時代で印象に残るものは違ってくる
それで芭蕉が平泉まで歩いて旅して感じたことは今は感じることはできないのである。それでも私は何度も平泉に行った、そこで

旅人の平泉去る秋の蝉

これは時間軸で感じたものである。季節の変化で感じたものである。もう秋かここで栄えたみちのくの都もあったがそれも遠い昔となった。旅人は秋の蝉の声を聴いて去ってゆくとなる
芭蕉の五月雨の降り残してや光堂というのはそうした空間軸と時間軸で作られたものである。はるばるここまで旅をしてきたが五月雨に朽ちもせず黄金の光堂が残っていたとなる深い感慨を句にしたのである。それは新幹線で東京から二時間半くらいで来ても感じないのである。

そして旅に病んで夢は枯野をかけめぐるというのもやはり旅して廻ったことが脳裏をかけめぐったのである。
私自身も自転車で旅したことがやはりこの句と同じように感じた。駆け巡っているのである。これは鉄道とか車で旅しても感じられないのである。人間の五感で感じるものが思い出として脳裏に刻まれ残るのである。

坂越え坂を越えつつたどりつく矢の原湿原心にしみぬ

●桜を見るにも空間軸と時間軸で見え方が違っていた

ある場所に行くのにもその行程が大事になる、そ子が現代の旅には欠けている
それは一目千本桜でも電車で行くのと自転車で行くのは相当に感覚的に違ってくる

はるばると我がたずぬれど千本の桜はみな散りし後かな

これも自転車で行ったから遠かった。でも電車で行った時はこんなふうには感じない
苦労してやっと来たのに千本の桜はみな散っていたとなり感じ方が違ったものになる
空間軸と時間軸で感じるものが違ってくる。空間軸では自転車で行けばかなり遠い所になる、
時間軸で見れば花は咲く期間は短い、だから桜はたちまち散って桜の盛りは見れなかったのである。
そこにかえって深い感慨が生まれた。だから必ずしも桜でも盛りを見るということでもない、
二本松城に自転車できた時もそうである

遠く来て霞城なれ残る花

桜が辛うじて残り咲いていたのである、どうしても桜は咲く時期が短いから満開の時を見れないのである
何かを見て感じるとき空間軸と時間軸で感じる。それが空間軸となると交通が便利になって感じれなくなる
また空間軸と時間軸は一体でありそれを切り離すことができない、そうなると浅薄な感じ方しかできないのが問題なのである
旅とは空間軸と時間軸のなかで感じるものとならないと深い見方はできないとなる
posted by 天華 at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅の記録

2025年01月25日

旅が喪失した現代【価値の多様性−金にならない価値】


旅が喪失した現代【価値の多様性−金にならない価値】

価値というときあまりにも多様なのである。ただ価値は現代なら金で計られる。金になるものは何でも価値があるとなる
金にならないものは価値がないとされる。
でもすべて金で計れないし金にならなくても価値があるものはいくらでもある。例えば景観に価値がある、何か私は景観を気にする。喫茶店でも景観がいいと価値がある、そこにいるだけで気持ちいいとなる。新地のはあガーデンという所は海が全面に見えるから気持ちいし松川浦でも港が見えて船が見えていいとなる

でも磯部の喫茶店はただ道に面していて海も見えないから入る気にもなれない、道を車が通るだけではつまらないとなる。
海が見えれば価値がある。ただ価値はいろいろでありそこで料理がいいとか人がいいとかいろいろな要素で価値を作り出している
温泉でも都会の温泉より景色のいい何か秘湯とかをめぐる人がいる。ひなびた場所が人気がある。

つまり人間は場所に影響される、場所が変わると心も変わる
また人も関係する。もてなしがいいとかでいいとなる。
ただ一番の価値は立地になる。景観がいい場所は人と関係なく価値を作り出すのである

●場所〔景観〕
●歴史
●料理
●人のもてなしサービス

何か今は料理に一番価値を置く人が増えている、私は料理より場所でありまた旅をするときそこまで行く過程で見るもの感じるものがありそれで俳句や短歌を作る

草臥れて宿かる頃や藤の花 芭蕉

こういうことは歩いて旅した時代で感じたものであり今は車だからただ目的地に着き旨いものを食べることが目的になり旅は失われたのである。温泉地でもそこが高度成長時代は歓楽街のようにもなった。旅自体が現代では喪失したのである。旅は車ではできない思う、山頭火が時雨に感じたのは歩いて旅していたからである。
でも車だったら時雨でも風でも感じないのである
すると旅館でホテルで何かうまいものを食べたとかしか印象に残らなくなる、だから現代は旅がなくなりただ車で移動しているだけだとも感じる

何が価値があるかというときそれも様々であり時代によっても変わる。旅となると単なる移動ではない、歩きながら景色でもまた旅は道連れとなる。そうなるのは歩いていたから道連れになった。車は閉ざされた空間であり人と触れ合わないのである。ただ互いに通り過ぎてゆくだけである。

例えば東北〔福島自動車道〕ができたが前の道は旧道になり車が通らなくなった。でもサイクリングにはいいとなった。もし歩いたとしたらそれ以上にいいとなる。車が通らないからである
ただそのために店は人が入らずやめた。でもサイクリングするには良く途中に休む場があればいいとなる。
昔の街道のようになり茶屋があり休む。それが旅なのである

街道に秋の日さして松による道の辺あわれ草の花かな

歩いて感じるののは違っている。松でも違って見えるのである
浮世絵とかに残されている風景がそうである。何か松でも良く描かれている

松一本ここに立ちにし標かな旅人行くや秋の暮れかな

松は高くもないから人間に見えるのである。だから松に特別親しみを感じる。

とにかく街道には松が多かった。松並木があり松を絵にするのが多い。

旅人を地蔵の見るや街道を今日も行く人秋の日さしぬ

街道なら地蔵でも旅人見る、道祖伸とかもある。それは旅の安全を祈るとなる。つまり街道はこうして心を通わすものとしてあった。自転車で旅して雨が降ったとき夕立ちが来たとき御堂に雨宿りした。御堂は旅人が休む場所でもあった。雨宿するにいいし時代劇ではそこで寝ていた宿にもなっていたのである。そういう役割があったとなる。

夕立や御堂に休む燕飛ぶ

ともかく現代は旅が喪失した。車だと移動であり旅になりにくい、そこで何か移動するだけで記憶に残らないのである

冬籠り記憶の道をたどるかな

このように記憶が車だとたどれないのである。歩く旅なら記憶に残る。だから現代人はかえって失うものがあった。五感で感じるものが鳴く記憶されないのである。それが後で大きな損失だったと気づくのである

一歩一歩踏みしむ道や根ずく木の心に残る秋深むかな

posted by 天華 at 17:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅の記録