2019年09月22日
観光と旅の相違 (今は旅人も旅も喪失した観光の時代−地元の観光をどうする)
2020年06月23日
トンネルの話 (トンネルは国境ともなり闇をぬけることで人生の象徴にもなる)
2021年01月05日
地理で基本になるのは方角である (地図でで方角を知る方法)
2021年01月29日
記憶に残る旅ー機械に頼ると記憶に残らないからあとで損になる
記憶に残る旅ー機械に頼ると記憶に残らないからあとで損になる
これには共感した、現代から旅がなくなったということを書いた
それはあまりにも便利になりかえって旅か喪失した
GPSで案内されてもその土地の実感は地理は自ら手探りのようにして進むことで得られる
道とは未知のことであり未知なるがゆえに魅力がある
この道を行けば何があるかわからないということで道に魅力がある
それで私は気ままに自転車で近くでも行くとそうなる
坂を上ったり細い一日一人も行かないような道がありとか近くでも発見されない道があるそこが魅力ある場所だと感じる
そして道が分かれている時、どっちに行こうかなというとき旅になる
電車とかなるとレールが決まっているから自らその方向を選択することができない
決められたルートを行くだけになるから最初は電車の旅をしていたが飽きた自転車の旅にしたのである
日永きやいづこへ行かむ分かれ道
阿武隈高原は特別変わった風景もなかったが気ままに道を自転車でどこまでも行くのにいい、そんな記憶が残っている
にわか雨お堂に休む一人旅
なんかこの時お堂の役割りを知った、お堂は雨をよけたり旅した人ても休む場所としてもあったのだ、それは時代劇で見る光景である
その役割りがわからなくなったのは車の旅とかなったからである
歩いていた旅だったら今でもこういうふうににわか雨で雨宿りする場所が必要になる
現代では旅が便利になりすぎて経験できないのも皮肉である
近くでも自転車で行けば旅になるのだ
それで最近トラック運転手だった人が仕事をやめて自転車で近くを回っているので良く合うのである、何か足も悪くしたらしく自転車で近くでも回ることが仕事になっていたのである、他の同級生も脳卒中になったけど軽くすんで自転車に乗るようになった
ただ近くしか行かない、運転手だった人はかなり遠くまで行っている
ともかく旅をふりかえると何か最初は電車の旅だった、だから本当に全線を乗ったという感覚にもなる、だいたい十年費やして乗った、だから自分は恵まれていたのだ
要するに遊びが人生だったのである、遊戯三昧だったのである
それで鉄道に思い入れができてたまたま無人駅で車掌のような真似をしたのである
私は鉄道が好きだからそうなったのである
その後は船で旅した、日本の航路ならたいがい乗ったのである
東京から沖縄まで貨物船のようなもので一週間くらいかけて行ったことがある
その時船ならそういうものしか沖縄に出ていなかったのである
旅のことで大事なのは記憶に残る旅をしろということを書いた
でも記憶をするということは便利な機械とか利用すると記憶されないのである
だから電車でも車でも記憶する旅になりにくいのである
そして旅したなという実感も残らないのである
私は船で名古屋まで行きそれから自転車で奈良まで行ったのである
その時は本当に長い旅であり一週間以上かかっていた
その時は秋だったのである、途中で秋燕がたくさん飛んでいた
秋燕あまた飛べるや奈良へ行く
それから奈良について飛鳥に行きそこから二上山に夕日が没るのを見た
それは本当にはるばると来て見たから何とも言えないものとして心に残ったのである
その行程は遠かったからである、ただ体力がないのでこの時が一番長い旅だったかもしれない
それでも苫小牧から稚内までも自転車で行ったらこれも長かった
稚内6月に咲く桜かな
雨しとと稚内に着き桜かな
6月になっても稚内に桜が咲いていた、それだけ桜前前線はあった
そこまで行く行程も長かった
郭公のひびく北の地旅つづく
ともかく旅で意外なのは記憶に残る旅をしているかどうかなのである
機械に頼ると意外と忘れている、だから江戸時代のように歩いて旅した人は旅を記憶している
一歩一歩かみしめ歩む旅なれやいづれは死なむ人の身なれば
何か人生の最期にはみんないとおしいものとなる、なぜならもう旅もできないともなるからだ、現実に私はここ十年は介護とかに追われ旅していない、できなかった
でもこれだけ旅したのだから贅沢すぎたともなっていた
ただこんな旅をするのは普通はできない、そういう時期は普通は学生時代だけだったとかなる、会社員になるとできない、そういうことをしたら自分のように社会からはずれた人間になってしまうからだ
ともかく地理を知ることは本当に難しい、それは坂を上ったり下りたり手探りのようにして前に進む、車で飛ばして過ぎ去るのではない、歩むことは体に記憶されることなのである、その時辺りの景色とも人間は一体化するのである
草臥れて宿かるころや藤の花 芭蕉
こういうことも歩いて旅しないとできない句なのである、ただ私は歩く旅はしたことがないのである、歩くと相当に疲れるからである
だから歩く旅は新鮮な経験になるけどその労力が大変なのものになる
だから昔の旅を経験することはその時代により便利な時代になっても労苦になる
つまり演出して作りだすことになるからだ
会津にそ城は遠しも街道に虫の音聴きて夕暮るるかな
白河街道は人も車もあまり通らないから記憶に残っている、そこは旧街道になって寂れていたから余計にそう感じた
鉄道の通る表の通りだとそうは感じないのである
ただ街道というのは何か今では裏道ともなり人もあまり通らない淋しい道になっている
それがまたいいのである
旅人の昔も行くや芒かな
何かこんなふうに道でも街道には今でも魅力を感じる、それで相馬なら陸前浜街道の日立木からの松並木の道が旧街道でありここを歩いて行くべきだとなる
でも実際は六号線の国道を行っている、そこはまるでベルトコンベアーのようにトラックなどが行き来する道であり情緒がないのである
でも便利だからどうしてもその道を行くことになる、遠くなるとやはり早く行ける道を選ぶからである
そして後でふりかえると何か記憶として残らないのである
そうなるとこうしてふりかえり記憶したものを書けないともなるのである
どこを行ったかも記憶しないことは行ったことににもならないとなる
それは意外と人生にとって損失だったことを知る
なぜなら老人になると記憶に生きることになるからだ
それは旅だけではない、自分はこういうことを経験したと常に老人は語るからである
仕事のことでも語る、するとそうして記憶して語ることが人生だったとなるからだ
この老人の人生はどういうものだったかというときそれはその人の語ることによってわかるのである
だから戦争の経験をした人などはその経験があまりにも強烈であり忘れられないものだから語る、私の姉は従軍看護婦だったので死ぬ直前までシンガポールのジョホールバルのことを語りつづけて死んだのである
認知症でもそうして若い時の記憶に刻まれたことは忘れないのである
それで千回も聞かされたのでうんざりしたのである
とにかく老人になるともう何も行動ができなくなる、体力的にもそうだし精神的にもそうである、するとこれまでししてきたことを語ることになる
だから老人が意外とプログとかyoutubeですら向いていることもある
若い世代はまだ人生を語ることができない、でも40代くらいになると結構語ることができる、それで面白いとなる
そういう場としてもインタ−ネットは有益なのである、ただそれもまだ一部であり利用されていないがこれからはネットの世代になるから老人になり語ることになる
そこで大事なのは記憶されたことなのである
もし記憶されないなら語ることもできないからである、旅のことでもそうである
記憶されなかったら語ることもできないのである
だから記憶される旅をしろとなるのである、それにはあまりに便利な旅は機械を頼った旅は記憶されないということである、そうなると老後は行動できなくなるから豊かなものにならないともなるのである
なぜなら自分自身が今でも旅したことをたどっている、それは自転車で旅したことが記憶に残っている
でも電車となると記憶に残っていない、それは電車でも景色が流れて行くだけで記憶に残らなかったからである
第一A地点からB地点へ電車で行ってもその風景が記憶しにくいのである
それは早すぎるから脳に記憶されず消えてしまうからだともなる
でも電車でも駅のことを覚えているのはそこで停止しているから記憶に残る
逢隈(おおくま)に電車止まりて蝉の声
ここは阿武隈川を渡る手前の駅である、新しい駅である、でもここで三分くらい電車が交換で待つからその三分間が記憶に残る
それは前の新地駅でもそうである、ここで六分くらん交換のために待つから記憶に残っていた
新地駅六分待ちて虫の声
新地駅は津波の後は高架橋の高い場所になり虫の声は聞こえなくなったのである
新幹線とかなるとまず自然とから遊離するし早すぎで途中の景色すら記憶に残らないのであるそれで何も残らなかったとなってしまう
タンポポや新幹線に次の駅
途中が過ぎて次の駅にしても遠いのである、途中はとばされてまっていたのである
インタ−ネットになるとあらゆる記事でもその感想を書くことができる
これまでは一方的に読まされるだけだった、こうして感想とか答えることができる
それがメデアとして変わったことである
メデアを自ら持ったということなのである
2021年01月31日
すべて金で計算してもうまくいかない (旅でも親切にされたことで後で効果がでてくる―安宿旅行の回想)
すべて金で計算してもうまくいかない
(旅でも親切にされたことで後で効果がでてくる―安宿旅行の回想)
この世の中すべて金で計算している、金をどれだけとれるかを計算して仕事する
すると一番優遇するのは金持ちだとなる
それで旅館でもホテルでも金持ちは優遇する、特等の部屋に案内して泊まらせる
そこで収入が増えれば商売として成功したとなる
それは当たり前のことである、貧乏人はそもそも金がないのだから宿にとまるなともなる自転車で来るような奴は野宿しろとなる、それが似合っているとなる
それもそうなのだけど本当にそうなのだろうか?
すべて金で計算して商売になるのだろうか?
そこが疑問なのである、私は旅をしてもいかに安上りにするかが問題だった
それで安宿を探すのにいつも困っていた、最低でも5000円はかかっていたからだ
それで3000円の宿があったときはうれしかった
春の月安宿見つけうれしかな
こんなふうになっていたのである、私は金はいつもなかった、働きもしないからなかったでも旅はしていたのである、だから安宿を探していたのである
それが外国まで行って安宿を探すとは思わなかった
でも貧乏旅行者は安宿を探し回っていたから自分と同じだと思った
それはパリだったのである、そして東駅の方でも安宿探していた
そこには安宿があった、でも満員だった
東駅安宿探し落葉かな
意外とヨ−ロッパはホテルが多く安く泊まれる、高級なホテルもあるが安宿も多いから旅行しやすいと思った
そしてユースホステルが多い、そこでは千円とかで泊まれる
そこは別に老人でも泊まっていたのである
だからヨ−ロッパは旅行しやすい、ただ高級ホテルとなると馬鹿高くなるから泊まれないただヨ−ロッパなら城のホテルとか高級ホテルでも泊まる価値がある
つまりヨ−ロッパでは何でも歴史があるから違っているのである
そのホテルにしてもそうである、日本のホテルは新しいがヨ−ロッパは古いからである
ただそういうホテルとかに泊まったことはなかった
私はバックパッカーだったからである
でも旅となると別に貧乏旅行でもバックパッカーでもそれも旅であり価値がある
高級ホテルに泊まりグルメとなるのもいいが別に貧乏旅行でも安宿でもユースホステルでも旅の経験の価値としては平等に思える
本当は高級ホテルに泊まりまた貧乏旅行するのもいいとなる、その価値は別々であり経験の価値としては違った価値であり金持ちだから特別の経験するということはない
おそらく人生でもそうかもしれない、人間が経験することは限られている
だから貧乏の経験でも貴重だとなる、もちろん金持ちとしての経験も貴重である
でもどちららにも経験として価値がある
人間は経験するにしても結局時間が限られているから何か経験することでは平等に思えたただ金持ちだと留学とか習いものとかいろいろ金をかけてやれるので違っている
でも人間が生きる時間は限られている、金持ちでも時間だけは多く持つことができない
だから経験することでは平等の感じもした
バックパッカーでも海外旅行すれば安かったからである
ただ日本が貧乏になると海外旅行はぜいたくだとなる
私が旅で親切にされたのは覚えているのは二三回だけである
一番親切にされたのは鮫川辺りでまだ山の中に万(よろず)屋がありそこでご飯と味噌汁を御馳走になったことである、今時そんなことをどこでもしない
されたこともなかった、そういうことが今はしにくい時代である、便利だからコンビニで買いとかなるからである
もう一回は山形県の田麦俣から入った湯殿山ホテルだったと思う、そこはそれなりの大きなホテルだった
なぜそんな山の中にホテルがあるのが不思議だった、湯殿山の参拝のために利用するホテルなのか?
団体旅行用のホテルでありそれが自転車で行ったら泊めてくれたのである
それも確か無料でいいともいってきた、女将がそう言ったのである
そういう小部屋がありそこにとまっていいと言ったのである
そんなことをしてくれるホテルがあるのかとなる
それは全く例外的でありありえないことだったのである

でも旅をするときそういうことが心に残る、そういう親切はあとでも忘れないのである
するとどうなるかというと全体に影響する、あそこの市町村は親切な人がいるなと
その市町村自体の評価が高まるのである
そういう親切を人は忘れないからである
ただ現実は貧乏な人は来るな、そんなもの来ても商売にならないというのが普通である
でもそこに何か問題がある、金持ちしか優遇されないのだとなり悪い印象をもつともなるでもそういう親切は覚えていてあそこちいい人がいるとなるとき観光でも影響するかもしれない、そういう親切を覚えているからである
あそこは冷たい場所だった、人は親切ではない、道をまともに教える人もいなかったとかなんとかなる、現代はすべて金で計算する時どうしてもそうなりやすいのである
貧乏人だけ相手にしていると豊かになれない、でもそういう親切は長く心にととまりいつかその土地に恩恵があるかもしれない、ここで親切にされたからまた行ってみようとかなるかもしれない、それはわからないにしても金だけ計算して商売してもうまくいかないことがある
実際に私が介護で苦しんでいたときでも事業をはじめた人は借金して荷物一つもつもの嫌がっていた、金にならないことは一切したくなかったのである
でも百万をやったし金がないわけではなかった
ただその人はその時金にならないことはしたくなかったのである
そういう人がはたして事業とかなると成功するものだろうか?
それで損して得しろという諺が生まれたのである
ただそういう自分も事業のようなことをして同じ失敗しているから責められないとはなるやはり利益をまず得たいとなるからどうしようもないとはなる
それで事業はじめるなら資金的にも余裕がないとうまくいかない気がする
また長い目で見ないとうまくいかない、、だから資金的にも余裕がないとうまくいかないすぐに見返りが入ると限らないからである、でもそうなるとなかなか事業でもやれないとなる、それで自分自身も駄目だったからである
現代は変化が激しいし目先のことに追われる、長い目で仕事でも事業でもできないのである、競争も激しいから追われるように仕事をしなければならない
それで現代は国家百年の計などができない、変化のスピードが早すぎるからだ
中国の変化をみればわかる、十数年であんなに発展したのは驚いたからである
いづれにしろコロナウィルスで観光業は打撃になった、するとこれから観光業はどうなるのか、どうするのかが問題になる、近間を大事にして近間の人にサービスする
近間の人のくつろぎの場とするとかなる
でも金で計算するとどうしても東京とかの大都会の人を呼ばないかぎり経営は成り立たない、だから東京からの観光客が来ないことは大打撃になったのである
ただこれも時代の変化でそれに対応しないと生き残れないともなる
観光もオーバーツーリズムになっていた、京都などもう外国人とかで混んで異常だった
それがぱったり来なくななっというのも驚きだったのである
京都のような所は貧乏な人は相手にしない、粗末に扱われる
それは観光客があふれていて来ないことがないからである
でもそうなると人を粗末にする、それで観光客来ないとなり新しい手をうたねばならなくなる、人を呼ぶために観光客に貧乏な人でも親切にするとか変わる
それは希望だがそういうふうに観光も変わることは悪いことではないのである
もともとホテルはホステルとか旅人をねぎらう病院とも関係していた、ホステルとかかがホスピタルになったからである、そういう起源があるということはそこに本来の役割を感じて商売するということにもなる、そこが原点だからである
金持ちのためにだけ優遇してサービスするのとは違っていたからである
なんでもただ金だけを計算してしていると本来の役目とかも見えなくなる
それがかえって人も離れてゆくともなりかねない、ただまず利益だとなるから本当にむずかしいのである
2021年10月28日
温泉街が廃墟化した驚き (会津の東山温泉、福島の飯坂温泉もひどい‐旅の思い出)
温泉街が廃墟化した驚き
(会津の東山温泉、福島の飯坂温泉もひどい-旅の思い出)
鬼怒川温泉の黄金時代は、バブル崩壊とともに終わりを告げます。景気は冷えこみ、日光鬼怒川温泉へ社員旅行をする企業が減り、個々人も、余暇に鬼怒川温泉へ観光しようというゆとりが減ってきました。
観光の世界において、常識的に語られることはいくつかあるが、その一つに「旅館が大型化し、宿泊客を囲い込んだために、街にあった店舗が潰れ、街の魅力がなくなった」というものがある。
(旅行会社が送客する)団体客への依存が高く、増えてきた個人客への対応力が弱い
個人客は、いろいろな施設が揃った大型旅館の中で過ごすより、それぞれの地域での街歩きを楽しむ傾向にある
温泉街には、かつては飲食店や物販店はもちろん、スマートボールや射的などがあったが、温泉旅館が、それらを内包してしまったために、皆、潰れてしまった
つまり、個人客対応できない温泉街にしてしまったのは、巨大化した温泉旅館に原因がある
さらに、その遠因は、団体客を受け入れしやすいように旅館の大型化を生み出した旅行会社にある。
会津の東山温泉と福島の飯坂温泉が廃墟の街となっているのをyoutubeで見て驚いた
これはいつこうなったのか?それが良くわからない、ただこれも日本の経済衰退から起きていた、ただ救いはインパウンドなどで外国人旅行者が特に中国人が団体で訪れていたことである、それでなんとか維持できていたこともあった
ただ全般的には温泉街は高度成長時代が終わりバブルがはじけて衰退した
高度成長時代は社員旅行とか団体旅行が盛んだったからである
この辺の呉服屋でも客をしきりに団体旅行に連れて行ったのである
この辺では火力発電所ができた港の村とかではもう航空運賃が50万とかなるときヨ−ロッパ旅行に行っていた人がいたので驚いた、その頃とても外国旅行に行けるとは思っていなかった,ヨ−ロッパ旅行となると夢のまた夢のような時代だったからだ
私自身が人生を旅に費やしたから旅館とかホテルでも興味がある
でも貧乏旅行者であり自転車旅行になってからまず高いホテルとか旅館には泊まらない
温泉旅館は高いので泊まったことがないし自転車では泊まりにくいのである
ただ一回だけ湯殿山ホテルに道に迷い泊まったのである
そこのお上が泊めてくれたから例外的だった、ホテルとなるとこうした自転車旅行者など泊めない、断られる、だからまず自分は旅館とかホテルはただ体を休めるだけで贅沢など求めない、温泉旅館は保養のためであり温泉街自体を楽しむ場所である
私は一夜の旅の宿を求める場所だから違っていた
『蚤虱馬が尿する枕もと』芭蕉
こういう所でも良かったとなる、ただ現代ではこうして旅人を受け入れる農家などないから野宿なのである、たいがい自転車旅行とか一人旅でも野宿である
隠田やテントに眠る夏の星
こんなふうになる、日本の特徴は意外な所に田があることである、それは税金逃れにもなる、山の陰などになっていてわからないからである、この辺の近くでも土地の人があそこか隠田だったよと教えてくれた人がいた、そこは平地なのだけど森の様な所があってかくれていたたそである、相馬市の松川浦の近くだから山の中ではないのに隠田があったから謎である
とにかく私の旅をふりかえると福島県なら隈なく行った、それで会津の東山温泉が廃墟化していることに驚いた、あんなふうに廃墟の街となっこのはこの辺が原発事故で避難して廃墟の街や村になったことと同じように見えた、なんか気味悪くなる
往時のにぎわいがぱったりとやんで廃墟マニアが訪れる場所となったのである
東山温泉というとき私は白河街道を通り芒の山道をぬけて東山温泉に出て来た
その時は廃墟の街のようには思えなかった
途中の福良の南湖の蔵の宿に泊まった、あそこはいい場所であり蔵の宿が良かったのである、でも私は温泉街とかには魅力を感じなかった、もともと宿賃が高いし泊まりにくかったからである
私はずっと貧乏旅行が長いから常に安い宿を探していたからだ
それで海外旅行でもパリの東駅で安宿を探していたのである
あそこにはかなり安宿がありでも満員だった
安宿に落葉を踏みて東駅
海外はむしろヨ−ロッパでも安いホテルが意外に多く個人旅行がしやすかったのである
日本はそういう安い旅館がホテルが少ないから旅はしにくいのである
かえって江戸時代の方が宿場町があり安宿が多いから長旅には向いていた
宿場町ではそうした旅人をもてなした、それは保養に車とかで来る人と違って長く歩いて汚れたりしているからまず足を洗うのである、それがもてなしなのである
もともとホテルはホステルであり病院に由来するからもてなしねぎらうものだった
それは歩く旅だからそうなったのである
現代に旅はないし旅人もいなくなった、電車でも車でもバイクにしろ早いから途中が飛ばされるし途中の宿に泊まるということもないからだ
自転車とバイクが似ているようで全然違う、バイクだと車並みに早いからである
自転車旅行は疲れるからだ、特に坂を上ると体力を消耗するのである
東山温泉もそうだが飯坂温泉もあんなに寂れて廃墟化していることに驚いた
福島市から飯坂線がありその線が何か情緒があった、途中の医王寺は芭蕉が寄ったことで有名である、そこから飯坂に行った、あそこをさらに上って行くとやはり旅館があり
その時桜が咲いていて丁度暮れる頃であり雨がしととふり旅館から湯の煙がたっていた

雨しとと湯の煙たち夕桜
雨しと灯ともる旅館夕桜
こんな感じだった、その記憶は残っているが飯坂に泊まったのは覚えていない
旅の記憶はうすれてゆくと定かでなくなる、ただ自転車で行きそこで暮れたことは覚えている
『蚤虱馬が尿する枕もと』芭蕉
こういう宿でもふりかえると旅の醍醐味であり記憶に残る貴重な体験なのである
ふかふかのベッドとかホテルに泊まるだけの旅はかえってつまらないありきたりの体験になる、旅でも記憶に残る旅をしろと語ってきたときそうなる
電車であれ車であれ旅が楽過ぎるからかえって旅にならないのである
そもそもトラベルとは苦労することだから旅は外国でも難儀だったからである
それは歩く旅だったからである、歩く旅をしていないものは本当の旅がわからないとなる今は歩く旅はかえって余裕がないとできない、その疲れ方も半端ではないからだ
これだけ旅しても私は歩く旅はしていないから本当の旅がわからないともなる
いづれにしろ温泉街は旅の宿にはならない、高度成長時代のバブルとして廃墟化した
一時の夢の跡ととなってしまったのである
こういう盛衰は人間社会につきものである、ただ原発事故で町ごとが村ごとが廃墟化したことにも驚いたが温泉街の廃墟化にも驚いた
ただ原発事故とは違って温泉街という一部であり全体はまだ残っているのは違っている
原発事故は全体が廃墟化したからひどいとなる
温泉街が廃墟化しても回りの農家などはやはり生業があり残っている
この辺では農家自体が廃墟化したからショックだった
ただ本当に空家が全国で800万軒になるということはショックである、衰退してゆく日本を象徴しているのだ、本当に空家が多い、この辺で原発事故の避難区域は廃墟の町となり村となった、それは将来の日本を先取りした風景なのかとも見てしまう
ただ一挙に廃墟化したから凄まじい荒廃となった
ただ温泉街とかは何か全体ではなく温泉街として特化したものだからブームとかさると一挙に寂れてしまう、それがコロナウィルスでもそうなったのである
2021年12月01日
温泉若おかみの殺人推理 (ホテルは料理でもてなす所ー関サバがテーマのドラマ)
2023年08月16日
老人は記憶に生きる―ドイツの骨董店の対になった古い椅子(詩) (人間は忘れやすいので写真でもこれ文章でも記録することが大事)
老人は記憶に生きる―ドイツの骨董店の対になった古い椅子(詩)
(人間は忘れやすいので写真でもこれ文章でも記録することが大事)
●電車や車の旅は記憶に残りにくい
そもそも情報とは何か情報は無限にある。常磐線を例にすれば上野からいわきまで普通列車が通じている。でもその間に様々な駅がある。でも記憶されるのは水戸駅とか日立などは記憶される。でもその間のさまざまな駅が記憶されないしそこの情報が実は通り過ぎてゆくだけで知らないのである
それで電車の旅という旅はただ駅名だけを記憶していた。それで私は地名に興味を持つようになったのである。要するに記憶に残っているのは駅名だからである。そのほかは景色とかでも記憶に残らないのであるだから電車の旅というのは早すぎて記憶に残らないのである。それは来るまでもそうだしバイクでもそうである。現在は交通が発達し乗り物も便利である。でもそのために帰ってその土地のことや景色でも何でも記憶に残らないのである
何か今になると私は回想する旅をしている。それが仕事のようにもなっている。あそこを旅したあそこに行ったことがあるとか思い出すのである。ただ電車の旅も相当したとしても後で振り返ると何が記憶されたかとなると駅の名前だけだったともなる。景色でも電車から見ていると次々に移っていくからもし歩くように見ているのは相当な違いなのである。景色でも一瞬のうちに電車でも過ぎ去るし来るまでもそうだしバイクでもそうである。
だから現代は江戸時代のように旅は道づれとかはない。旅と一緒にして街道を歩いてそこで何か親しくなりそして分かれ道があり分かれさりとなる。そこが地名化して残っているのである。それはそこで人が分かれて本当には一回限りの出会いであとは合わないということがあった。
今のように交通が発達していないのだから簡単には会いに行けなくなったからであるなっていたからである。そこで会うということはだから相当に今と違って貴重なことだったのである。
今なら旅で別れても飛行機でゆけば大阪までも一時間くらいで行ける。それが私が気づいていなかった。それは必ず電車とか船を利用していたからである。
でも実際は大阪から仙台から大阪まで飛行機で行けば一時間くらいなのででもそれは旅にはならない長い途中が省かれているからただ距離を縮めてしまってその途中が省かれて旅というものを体験しないのである。
だから常磐線でも上野から途中の駅があるのだがそこが記憶されない。大きな駅である日立とか水戸は記憶している。東京から近いところでは土浦がある。そのくらいしか記憶していないのである
人間の体験というのはだからいくら交通が発達しても本当にその地理とかを理解することはできない。例えば航空でもシベリア周りでヨーロッパの方に行ったがシベリアの上を飛んでも下は何も見えなかった。真っ暗闇でなっていただけである。そんな旅はつまらないと思った退屈なだけだと思った。
でもウラジオストックからシベリア鉄道に乗ればその体験は全然違ったものとなる。川は電車から見たら大きかった。それも運河のようにではなく何か激しく流れているように見えた。
その幅が広く大きなものだった。そういう川は日本にはない。でもその川でも一部を見ただけなので大陸の川はそれだけ長いからである。流氷というのがアムール川の河口あたりにできてそれがオホーツク海まで流れて来るということがある。それもスケールの大きなものとなる。
鉄道でも川でも道でもそれは長いものである。だからその一部しか実際はわからない。長い川でもやはり船で行けばその川の長さを実感する。でもただ電車はその鉄橋を渡っただけであるが確かに大きさ感じたが瞬間的に通り過ぎたのでその一部しかわからないのである。本当に川のと長さを知るとしたらやはりその川を全部ではないにしろ上流からであれ下流からであれ船で行ってみることである。
そこに大きな川の流域があり人々は暮らしている。でもアムール川だと写真を見れば壮大な森がありシベリアのそのスケールがまた違っている。ロシアとかでは広大な森がありウクライナもそうであるその森が阻み閉ざされているともなる。
それはヨーロッパの中世でも広大な森がありそれでそれぞれの国は簡単に往来はできず閉ざされていたのである。そのためにドイツの神話で民話で森の中の城で眠れる美女の伝説が生まれたというのも分かる
ドイツは樅の木が育ちおおっていた。その広大な森が樅の木の森があって黒い森といわれていた。その森をイメージして作られたのがゴシック大聖堂なのである。
●交通が発達して便利なっても人間の五感で記憶されない
ともかく何故地理を知ることが難しいのか。シベリアを飛行機で行ってもなんにも見えなかった。真っ暗闇のしか見えない。それで地理がわかるということはない。地理がわかるということは人間の実感で知るということは容易ではない。地理はいくら地図を見てもわからない、地形でもわからない。日本には山が多く峠が多い。その高低が実感できないのである。
だから峠でも歩いて超えた時はその地形を実感する。でも車で一気に登ったらその高さとか高低が実感しにくいのである。だから外部から見るときそうま地域でも飯館になると標高400mくらいあり海側とは違った気候になる。冬でも五度くらい温度が違うその代わり夏になると高原となり涼しいのである
結局人間というのは確かに機械に頼れば鉄道であれ車であれ飛行機であれその目的地に早く着く。それはそれで便利であり交流を深めることはある。でもその土地のその地理を理解したことにはならない。つまりどんなに人間が機械を使い便利になったとしても何か実感として心に記憶されることは機械に頼ってもできないのである。
ただ外国になると見慣れないものが多いから余計に忘れてしまう。それで失敗したのはもっと写真として起動記録しておけばよかったとなる。
ただその時デジタルカメラが出ていないので写真にとることが難しかった。その頃いちいち現像したりするのが金もかかるし面倒だったのである。でも老人になると必ず何であれ過去を回想する。その時不思議な事は頭に記憶されていなかったのだが写真を見てこういうところだったなと再認識することがある。頭の中にはもう何も記録されていなかったのである。
こういうことは本でもある。大量の本を買って印をびっしりとつけていたのだがその本を読んだ記憶さえなくなっていたのである。それでまた読み返してみてこういうことを書いてあったのかと感心しているのである。だから記憶を蘇らさせるためにはやはり記録しておくことが大事であり文章にしてもいい今ならデジタルカメラでとにかく記録しておくのである。そして後でその写真を見て記憶をよみがえらせるのである。
●親しくなるにも時間がかかる
人間は確かにいろいろなことを経験して記憶する。でもそれも時間が経つと60以上になれば遠い過去になり忘れてしまうのである。現実に同じ家で子供の時一緒に暮らしていた人が五年間であるがその人が記憶にないと言ったのに驚いた。何かしら五年間も一緒に同じ屋根の下に暮らして飲み食いもしていたのだからその人がいなかったということはありえないのでただその人は女性は普通の人ではない異常な人となってからそうなったのかもしれない。やはり人間は家族のことは忘れない。私の場合は特殊な事情で結婚もしないで親と一緒に60年も過ごしていたから忘れることはないのである。そして特別よくされて愛されたから今でも家に居ると家族がいるような感覚になるのである
とにかく人間は老人になれば記憶に生きる。それで認知症の人は異常になっているのだが一番印象的なことを人生で経験したことを延々と語り続ける。今のことは全く忘れても若い時の経験したことは忘れない。私の姉はシンガポールの向いのマレーシアのジョホールの赤十字病院に従軍看護婦として四年間働いた。そのことが忘れないから1000回くらいその話を聞いたのでそれで嫌になったわ延々と話す相手もないから私に話したのである。
そして驚くべきは死ぬ間際になってもその話を戦争で働いた話をして死んでしまったのである。だから一番印象に残ったのは若い時その戦地で従軍看護婦として働いたことなのである。だから戦争の経験した人は戦争のことは老人になっても忘れられない。それだけの大きな経験をしたからそうなったのである。これは特殊にしてもやはり人間というのは老人になるとその人生を語るのだから同じなのである。
そして人間というのは人間が生きるに際して盲点となっているのは時間を軽んじることである。時間の貴重さが認識できないから時間を常に無駄にするのである。金だったら常に100円でも200円でも1000円でも意識している。それで得したとか損したとか常に頭に記録されてこだわる。でも時間だけはいくらとか換算できない。それが盲点となって時間を一番人間は無駄にしているのでいるのである。
そのことは人間が親しくなれるのはやはり長く一緒に生活を共にしなければ親しくなれない。人間の親しさは時間に比例している。長く一緒に暮らしていればやはりその人が他人だとしても親しい者となる。親子でも兄弟でも遠く離れてしまうと疎遠になり。そして貴重なことは孫と接するにしても娘でも遠くに嫁げばなかなか会えない。
そこで何か祖父母でも孫は親しくなれないのである。子供の時接することは親しくすることは貴重である。なぜなら祖父母だったら死んでしまうからである。そうして孫と接する時間も短いからである。するとあまり直に接していないままでも記憶に残らないということがある。
それで結婚でも60過ぎてから離婚するということは大きな損失だとも見る。なぜなら結婚でも互いに信頼し合って親しくなれるのには時間がかかる。 60までも一緒に暮らしていて離婚するとなると他にまた親しい女性はできたとしてもなかなか親密にはなりにくい。そこには既に親密になる時間が残されていないのである
だから人間とはいくらでも時間があり離婚したらまた別の人と結婚すればいいともならない。。なぜならそんな時間が人間には与えられていないからである。でも実際は離婚している人が1/3とか多いでわまた別の人と結婚すればいいではないかとは簡単になれないのであるそれだけの時間がないからである。
古い椅子が二つ
(old twined chairs)
二人は座っている
いつまでも座っている
何かを語り続けている
その人は死んでも
やはりそこに居る
そして愛し合い
思い出を語り続ける
今はその人は居ない
でも二人はいつまでもそこに居る
その土地に深く根づいた木のように
愛し合う人は 離れない
二本の木のように
その土地に根ずき思いを深める
ドイツの秋は深まる
中世の街は古く
石造りにものさびて寂びている
(秋深む古き椅子二つ ドイツかな)
old twined chairs.
They are sitting
They're sitting there forever
They're talking about something
And when they die...
They're still there.
Like a tree deeply rooted in its land
And they love each other.
And they're still talking about it.
He's gone now.
But they will always be there.
People who love each other will never leave each other.
Like two trees
Rooted in the land and deep in love
Autumn in Germany is deepening
The medieval town is old
built of stone, rusted and desolate
Two old chairs in the depths of autumn, Germany perhaps
二本の樹
柿の木に柿の実のなり
無花果に無花果の実のなり
ここに久しく変わらざるもの
風の日も雨の日も雪の日も
ただ黙しつ耐えし強き命よ
冬の日さして今休らいぬ
そは大地に根を張り変わらざるべし
昔を偲び末永き命なるべし
柿の木に柿の実のなり
無花果に無花果の実のなり
何事のなけれど争うことなく
互いに傷つけることもなく
大地に根を張り変わらずに
静かなる強き命にあるべし
そは天にてもつづきあるべし
神の園に植えられし樹よ
その実はさらに甘美なるべし
忍耐は平和の基、来世の実り
神の国はそこに作られるべし
Two Trees
persimmon tree bears persimmon fruit
The fig tree bears figs
Here is something that has remained unchanged for a long time
In windy days, rainy days, snowy days
The strong life that endures in silence
The days of winter are now at rest
Rooted in the earth, it shall remain unchanged
It must be a long life in memory of the past
persimmon tree bears persimmon fruit
fig after fig after fig.
No matter what happens, there will be no conflict
Without hurting each other
Rooted in the earth, unchanging
Quiet and strong in life
And it shall continue in the heavens
O tree planted in the garden of God
Its fruit must be even sweeter
Patience is the foundation of peace, the fruit of the world to come
The Kingdom of God shall be made there