2017年11月26日

人間はみんななんらかで異常である (異常を異常と意識できない)


人間はみんななんらかで異常である

(でも異常を異常と意識できない)

人間が異常だというとき何が異常なのか?異常と正常はどうして区別するのか?
異常の人は異常と思っていない,自分は正常だと思っている
そして人はなんらかでみんな異常性をもっている,自分ももっている
内向的な人は極端になると引き籠もりになり人と接しなくなる
自分はそうなっていた,そして社会性がなくなる

では自分の異常性はどうして生まれたのか?
それは自分の環境にあった,そういう異常性の中でも暮らしていけたことである。
親がいて三食用意されているし職につかなくても文句も言われないのである。
うるさく就職しろと言われて引き籠もりがニートが親を殺す事件がある
自分も一時はあったが30年間くらいあとは職につけなど言われたことがない
自由に旅行しても文句も言われないのである。
そういうことは普通にはなかなかないが自分の場合はあったのである。
それは異常なことだった,だから社会性がなくなっていた

これが自分の異常性だけど異常なことは環境の中で作られる,なぜならそういう状態にあることを許されなければそういう異常なことでありつづけることができないからである。もし貧乏な時代だったら引きこもっていたら飢え死にする,生活保護もなにもないからである。だからこれだけ現代が無職がいることは今までありえなかったことである。
「無業化社会」なのである。いたるところに仕事をしないでぶらぶらしている若い人がいる時代なのである。田舎でもそういう人はいくらでもいる
何か自分はそういう人と良く田舎で会うからである。自分とにているからそういう人と会うともなる

ただ異常というとき普通に暮らしている人も異常な人はいくらでもいる
そもそも異常だというとき人間はその持っているもの気質でも先鋭化すると異常になるのである。陽気な外交的な人は躁鬱病とかになり陰気な人は鬱病になる。
陽気な強気の人は異常に自信家でありそれが病気だったことを自分の家族の一人が認知症になったとき知ってショックだったのである。
認知症になっても「自分は優秀だ」と言い続けて臨終になったのである。
これは本当に異常なことだった,そこまで自分が優秀だとこだわっていたのである。
それが実は正気のときはそれで通っていた,本当に優秀だったからである。
でも認知症になったときはもうそうではないからである。
でも優秀だとして自分もそう思い死んでいったのである。
ちょうどニーチェが自分が超人だと言って狂気となり死んだと同じであったのだ

だから別にそうしてこれまで社会生活をかえって優秀なものとして見られていたものが実はそれが極端化すれば異常であ狂気になる,俺は超人だというときそれは異常と狂気に向かっていた,自分の家族の一人もそうして狂気となり死んだとなる

ところがこの異常性と狂気は誰でももっているのだ,自分が接した人はみんななんらか異常だった,自分もふくめてそうだったのである。
家族の一人は庭はいらないとか木はいらないと花はいらないとか狂気のように言っていたのである。それは異常なことである。そうなったのはやはり環境だった,貧乏であり働きづめでありそういう異常性がつちかわれていた,家では働かせられることしかなく何か花嫁修行などもしない,そういう余裕もなかったからである。
だから人間は環境で異常性が誰でも培われるのである。

ある女性も狂気となっていたことに驚く,ものすごく育ての親に反発して狂気と化していた,あれほど乱暴な女性に変身していたことに驚くのである。
子供のときしか接していないからそうなったとしてもその変貌ぶりには驚愕した
育ての親もひどい娘だわと言ってすぐに死んだから良かった,全く介護などできる人ではないからだ,だからすぐにあっけなく死んで良かったなとつくづく思う
今は今度は実の親を施設に入れているが何の愛情もないのである。
五年間とか子供のとき接していてもあとは関係なくなっていたから介護などできない
金が欲しいだけで施設に入れているだけである。実の親は金をもっていても認知症になっているからわからないのである。この親も悲惨だなとつくづく思う
そんな人に世話になること自体泥棒に世話になることと同じだからである。

それは人のことは言えない,自分もそういう目にあっているからだ
その女性がどうしてそんな異常な狂気の女性になったのか?それはその女性とは長い間接していなからわからない,別にその女性が愛されないことはないし経済的には恵まれて苦しんだこともないのである。
だからなぜそんな乱暴な女性になったのか不可解だとなる
女性的優しさが全くなくなっていたのである。
自分に対してはそれはわかるにしても育ての親は長い間一緒にいたのに非情にしたことがわからないのである。

今回は異常な女性になったのはこれも環境とかが影響していた,不幸な生い立ちがありそれは同情すべきなのだがすでに40越えて高校卒業する18にもなる娘もいるらだ
この女性がどうして異常性がつちかわれたのか?
それは東京で暮らして子供が幼児の時から離婚して生活保護だったということに由来しているのだと思う,その人は社会と接しなくても生活はできていたからである。
その女性はまたとても仕事ができる人ではない,今回話し合うにもそれもできない
何か文句言うばかりでありまともに会話できないのである。
こういう人が何か仕事ができるとは思えなかった,だからいろいろやってもやめている
長つづきしないのてある。
娘もむっつりとして愛嬌もない,そして娘と母はぴったりくっついて離れないのである。それも異常な人格を形成することになる
母子家庭とか一人っ子とは平均的に異常人格が形成されやすいことはいなめない

異常だというとき事業をしていた人も異常性があった,理系でありそっちの方には詳しいでも事業となると会社勤めとは違う,多様な能力が要求される,商売でもあるからそうした能力も必要とされる,ただ機械だけをいじっているのとは違うからである。
その人は事業をして何か異常化した,失敗して借金したからかもしれないが性格がやはり異常化したのではないか?
その人はこれまで資格もあり優秀な人として認められていた,何も異常性などない社会人だったのである。法律に詳しい理系の技術にも詳しい人だったのである。

でもその人だけではないその家族自体にも異常性を感じたのである。
この家族はおかしいという家族は普通にある,それは比べてみてそれを知るのである。
自分自身の家族もそうだから人の家族のことは言えない,でも一見普通の家族としてまた社会人として認められていても異常性がある人はいるのである。
別にその人は事業に失敗していなければその異常性に気づかない
サイコパスとか異常人格かいてもその人は事業に成功したりしている人もいるからだ
事業に成功しても異常人格と思われる人がいるのである。

ただ人間はどんな人でも異常性がある,個人的にもそうだが集団的にも異常性はつちかわれる,戦争中とか何か集団狂騒状態に陥っている,戦争中は何か催眠術にかかったように戦争に国民が一丸となって向かっていたのである。
それは今の北朝鮮のような状態だったのである。異常性は別に個々人でなくても集団でもつちかわれる,カルト教団ではなぜあれだけの人が集まり社会を圧迫しているのか?
これもその異常性に気づかないからだ

異常であっても異常に気づかない

そもそも異常なことに気づくにはそういう異常な集団だと客観的に見ることができなければわからない
異常な人はその異常性に気づかないのである。カルト教団の人はむしろ外部の人こそ異常と見ているかもしれないのだ。それだけの数の人が同調しあうことは異常なのである。
だからナチスが生まれファシズムが生まれる,つまりそこで異常集団が形成されてもむしろその異常な集団に入らない者はかえって異常なものとして見られるのだ
異常が正常で正常が異常になることは歴史でもあったのである。

人間は自らの異常性に気づかない,それは個々人でもそうだし集団でもそうである。
集団の異常がやっかいなのは数によって権力をもつからである。
いくら異常だと言っても権力をもっているとその権力によって異常が認められることになる,逆らえないことになるのだ,それがファシズムの恐怖でありそういうことは歴史上で共産革命とかナチスとかその他大量虐殺として起きているから怖いのである。
まさにこれこそ集団が異常化して狂気化して地獄になったのである。
タグ:異常と正常
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2019年07月16日

天才は作れるのか?(教育、環境、時代が人間を作る)


天才は作れるのか?(教育、環境、時代が人間を作る)

天才とは何かがまず問題になる、科学者でも芸術家でも歴史に名を遺すような人が天才だとなる
天才とは凡人とは違い天才に生まれついた人で決まっているということになる
その説はショーペンハウエルが言っている
知性は母親から受け継ぐものだという説である
それがなぜ母親なのか?すると母親によって決まるのか?
母親の資質がDNAによってその人の知性も決まるのか?
それも確かにある、男性の場合その人の母親の資質がかなり影響している

ただ天才という時、努力しなくても天才であり何か成しうる人だともなる
そういう人を知っているが本当に普通の人よりエネルギーがありすでに小学校でも見分けられるほど優れている、それは知性だけではない、性格的にも大人びて早熟でありとか
何か普通の人とは根本的に違っている
だからその人は努力することを認めていない
そういう人はゴッホとかゴーギャンとか詩人にもいる
英雄にしても生まれつきそういう資質があって時代に適応したときなる
高杉晋作とかがそうである、もし明治維新という大動乱の時に生れなかったらただの暴れん坊で終わっていたのである

そもそも天才は作れるのかとなると資質論からすれば生まれつきでありできないとなる
私が問題にするのは天才が作れるのかとかのことではない
天才とは定義すれば何かの創造者である、それは科学の分野でも政治の分野でも芸術の分野でもあらゆる分野で新しいものを創造した人である   

すると天才は作れるかどうかという問題よりいかに創造的になりうるのか?

ここに焦点をあてるべきなのである

子供の時は遊びは何か創造的なものとしてある、何かいろいろ工夫したりする
つたなくてもそうである、それが学校とかに行くと暗記中心になる
とにかく暗記することであり計算でも考えるのではなくただ暗記することなのである
九九でも掛け算の意味を追求することはないのである
算数でも図形を使い具体的に割り算とか掛け算でも教えることができる
そして教えることが教育でもそれも創造的なものとして教えることができる
だから先生が創造的でないと学ぶ人はただまねるだけになり自ら考えることができないのである
つまり自ら考えることがあらゆることで教科でも必要なのである
それは社会に出てからでもそうであるあらゆる問題があり自ら考えることが根本にありそうしないとただ他者の言うままになるのである

単純な例として

abcdef1112222.jpg



I go to を教える時、このように図形化して行く先を入れ替える、するとわかりやすくなる、ABCDの代わりに他の単語を入れればいいからである、これを実際に教育道具を作り矢印が回るようにすればいいとなる
そこで子供ならゲームのように興味を覚えることがある
つまり教えること自体が創造的なことが必要なのである、そのこと自体が学校にないから創造的な人間が生まれないのである
教え方にも無限のバラエティがある、創造的に教えることがある
天才は生まれつきだとしても創造的な自ら考えて工夫することを目指すべきなのだが学校教育に全くないのである
日本人は同質的になりやすいから日本人から独創的な人が生まれにくいのである
カルト教団に入ったりした全く創造性と自主性を奪われる、過去にキリスト教であれ仏教であれ芸術が生まれという時
今とのカルト教団とは別物だったからである

そして環境が人を作るというとき家の中に全く本も置いていないような家だと刺激を受けにくい、私の家には一冊の本も置いてなかった、だから家でなにか学問になるものや芸術になるものに興味を覚えなかった、見ていたのは漫画だったのである
でもそれはそれでその時代があり炭とか囲炉裏がある生活は貴重な経験だったのである
いづれにしろ人間は家庭環境を基本にして人を作る、何々心理学を学んだ人は親からの承認されないものは歪んでしまうというのもわかる、家庭環境が悪いと致命的になる、ヨ−ロッパだと家庭で天才が作り出されてきた
家庭が学びの場としてありそこで貴族の家から天才が育てられたからである

第一留学した者と留学しない者の差は大きい、外国生活したものとしない者の差は歴然としている
私の場合は50歳以降に海外旅行したから遅かったのである
今の時代に海外旅行しない者はもう何も発言もできないのである
たいだい知識人となっている人は海外体験した人である
天才いかんにかかわらず留学できた人としない人ではその人いかにかかわらず大きな差が生じている
それは資質の問題以前のものであり最低条件として留学は必須になるのが時代だからである

そしてまた時代が大きく影響する、戦争の時代だったら天才も戦場であえなく死んで才能が発揮できなかったのである
英雄も英雄に成ろうとしてもなりえない、三島由紀夫は英雄になろうとして自ら演出したが成りえなかった
そこに無理に英雄になろうとしたあがきがあった、つまり英雄は時代が作るのであり時代が悪ければなれないのである
だから三島由紀夫は英雄ではないし評価できないのである
明治維新に英雄がでたのは時代が作ったからである、戦国時代でもそうである
ただ新たな時代を切り開くのが天才であり英雄でもある、それは科学技術的な面でもそうだし様々な分野でそうである
明治をみればわかる、あらゆる分野でみんな創業者になっているからである
今のような成熟した社会にはありえないからである、できあがった社会だからである
何もない社会では一から作り出さなければならないから創造性が要求されて創業者になる

結局天才は何かというとき、絶えず自ら考え工夫して創意がありそこに遊びの精神があり問題意識をもち臨機応変に物事に対処する
ただ言われるままに従うものではないとなる、何か時代が変わる時、そうした天才的なものが要求される
銀行が不用になるというときもそうである、時代が変わる時、ではどうしたら銀行が生き残れるのか?
そこに新しい創意が工夫が必要になる、でもそれは簡単にできないのである
ただ時代が変わる時否応なしに変わることが要求される、それができないと銀行はいらないとなってしまうのである
でも今までは銀行に入れば安泰だ、大企業に入れば終身雇用で安泰だとなっていたのである
それがグロ−バルの競争でそうなくなったとき取り残されてしまう
ただこうした体質は簡単には変えられないのである、欧米の強みは絶えず新しいものを生み出す環境がありそれで天才も生れていたからである、ヨ−ロッパになぜ天才があれほど生まれたのか?それは環境の相違だったのである


天才への階段

これは簡潔に表にしている、これはまさに努力して積み重ねることをすすめているから普通の人が天才となる道程を示している

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2019年07月20日

人間の才能はないのではなく活かされない (Love & Freedomの底辺労働者もそうである)



人間の才能はないのではなく活かされない

(Love & Freedomの底辺労働者もそうである)

人間の才能とは絵を描くとか文章を書くとか数学が得意だとか体力があるとか話がうまいとかいろいろ多様なのである
しかし何かしら才能ある人はいる、それが発見されないとか活かされないのである
Love & Freedomの底辺労働者を語る40くらいの人がそうである
この人の正体はわからないにしても

●しゃべるのがうまい
●精神障害とか犯罪者心理に通じる
●自らの実体験を語ることで訴える
●ニュースなどの解説に向いている

この人はしゃべるのがうまい、わかりやすく説明している、今日聞いたのでは年をとると比例して男はプライドだけが高くなる
そういう心理を説明されれば誰でも納得する
みんなそうであるからだ、10歳違った人がその年齢で判断して下に見るというのもおかしいと思った、何かその人に功績があればだが何もないとしたら年でその人を判断できないはずである
また結婚して子供を育てたとかでそれも社会的自慢になるとも思えない
価値はあるとしてもそれで人の優劣を決めることはできないだろう
ただ何もない者でも男はプライドをもっている、それが年をとるほどプライドが高くなるそれで年下の上司に仕えることができずやめる人が多いというのがわかる
おばさんにはそれほどないから若い人ととうまくやれるというのもわかる
このプライドはやっかいなものである
それが年をとればとるほど高くなる、だからただ年をとっただけでも偉いと尊敬されるべきだとなる、それはこんなに老人が多くなければ自然とそうなっていたのである
これだけ老人が多ければもう老人は何か特別なものがなければ尊敬されることなどないのである、老人はただ税金を使うだけの無駄なものだから早く死んでくれとなる

でも人間の才能は活かされないことが多い
また人間の才能は自ら発見されることも他者から発見されることもなかなかない
芸術分野で不遇な人が多いのはそのためである
天才を理解できる人は天才しかないというときその天才は一時代に数人だとしたらもう理解されない、いくら才能あっても理解されない、ただ次代に天才が出て理解されるとなる天才でなくても才能は活かされにくいし不思議なのは自らの才能を自ら発見されていない開発されてもいないのである
天才は別にしても何か才能でも自ら開発して発見してゆくことが必須なのである
ただ何もしないで天才になり楽器でもひけるとはならないからだ
それには過酷な練習があって才能が開くからである

この人は相当に才能がある、そもそも私立の学校に入り大学でも大学院まで出て臨床心理学士でもある、すると他の人よりその時点でも優れていたとなる
ただ文科系は実際の社会で役に立たない、それで就職できないとかなり自殺した人までいた、つまりそういう人は学者になれない、大学で就職できないとそうなる
実際の社会では必要としないからである
心理学が実際の社会でどう応用されるのか?それはほとんどないだろう
それで一時臨床心理学士として病院で働いていたがやめて底辺労働者になった
最初に歯車が狂うとそうなりやすいのである
20代でだいたい人間が決まってしまうというのはそのためである

ただ思うにこの人は才能があるのだが活かされないのである
ニュースキャスターとか解説者とかに向いている、説明とかしゃべるのがうまいからである、人間の心理とかにも通じているからいろいろな事件の解説に向いている
でもそういう機会が与えられないだけではないか?

機会が与えられず才能は活かされない

結局こういうことが社会には多い、自分自身もそうだった、今プログで作品を出しているが認められない、認める人がいない、ただ今までは発表する場もなかったが今はプログでしている、何か自分ながらいい作品を書けるようになったと思う
もちろんもう死ぬ時期なのだからその作品も高度なものでないとどうにもならない
何か私は何でも理解することでも遅すぎたのである

とにかくこの人はニュースキャスターとか解説者に向いているし才能がある
ただyoutubeとして金を稼ぐようになればその才能は活かされるともなる
だから外国など行って見聞を広めるとかすべきことはある
留学となると無料のがあるとして年齢制限でできないということは問題でも外国旅行は今なら安くできる、そういう点では恵まれている時代である
そして人間は一生学ぶことは終わらないのである
他の仕事でも精進することは終わらない、何でも腕を磨くことがあり終わらない
そういうことでなくても平凡なことでも仕事をもって何か社会のためになることをすべきだとなる
定年になって無用化されると危険なのである、認知症になりやすくなるからである
そういう場がまた与えられないことも現代の問題なのである

この人は大学に今さら行っても無駄だとか留学もできない、何しても無駄だというがそんなことはないのである
それはただ社会で金にならないから無駄だとしている
そもそも人生で学ぶことはいくらでもある、絶えず学ぶことが人生なのである
だからこの人はただ実用的なこと金になること社会で認められことに腐心している
でも別にその人なりの価値を追及する精進することが人生なのである
それは死ぬまで終わりがないのである
だから40になればなにしても無駄だとはならないのである
それは社会的には金にならないとしても人間の価値は金にならないものでも価値としてあるだからそれぞれの価値をの追求は死ぬまで終わらないのである
それでベーシックインカムがいいとなるのはそれぞれの価値を社会では金にならないとか価値にならないとかなっているがそれでもその人なりの価値を追及できるからこそいいのである
そういう時代にもなりつつある、だから40才なればもう何もないというのはおかしいのである

ただこの人は実際は演技しているといときそうなのか?
その辺はわからない、本当は絶望をこれほど言っても絶望していない
一筋の光明を見出そうとしている、それが人間である
女性にもていなというけど本当はもてているのかもしれない
何かそういう演技して共感を呼んでいるのかわからない
ただ40というのは人生の終わりが見える年なのである
だから人生は本当に過ぎるのが早いなとその年になると思う
でももう引き返せない、もう社会からはずれたものはそのままはずれてゆくほかない
でもその人生でも無益だと価値ないとかない
その人なりの価値を追求したものがありそれは充実した人生であったとなる
ただ他者がその価値を認めないだけだったのであ



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2019年07月31日

認知症の謎ー忘れるのはなぜなのか? (ただの暗記ではない、理解して覚えたものは忘れない!)

認知症の謎ー忘れるのはなぜなのか?

(ただの暗記ではない、理解して覚えたものは忘れない!)

アルツハイマー病治療薬の開発は「連戦連敗」を続けています。ウォール・ストリート・ジャーナルの記事によれば、過去10年間に世界中で行われたアルツハイマー病の薬の試験のうち99.6%が失敗しているということです

これだけ認知症の患者が世界的にも多いのだからなんとか直そうとしている
薬も発明しようとしているができない、何か絶望的なのである
結局それだけ脳があまりにも複雑すぎるのである
それは神の領域にもなる、脳が一番複雑なのは精神と一体化しているからである
第一精神は目に見えないものとして意識する
ところがこの世にあるものは目に見えるものとして人間は意識させる
原子がアトムは目に見えないけど精密に数式化して化学式にして目に見えるものとして
現す、脳でも目に見えるものとしてとらえようとしている

だから海馬が一時記憶する場所としてありそれが老化で確実に衰える
自分自身でも老化していることがわかる
つまり名前が覚えられないのである、新しい人の名前が覚えられない
でも昔覚えた人の名前は覚えているのである
これも海馬の機能が衰えたからだともなる
芸能人の名前でも昔の人は覚えているのである
でも今の人の名前とかどういう人なのかは皆目わからない、また見ていないせいもある

「理解して覚える」ということである。「なるほど、だからこうなるのか」というように理屈で覚えたことは、長期保存庫に移って忘れにくくなる。それに対して、意味も分からず丸暗記したことは、たとえその場では覚えたつもりになっていても長期保存庫に移行しないためすぐ忘れてしまう

記憶することは最初は丸暗記である、その意味もわからないのに暗記する
それは英語の単語とかには有効かもしれない、でも算数とか数学では暗算のように覚えても忘れてしまうことがある
そこで分数とか掛け算とかは何かを理解する、ただ暗算するのではない、その意味を理解するのである、例えば15×12は(10+5)×12であり10×12+5×12であり120+60となり180となる、何かこうすれば暗記として計算するのではなく数の性質を理解して解いたとなる、でもこれを計算機でするともうもし計算機がないと暗記したものを忘れるとできないのである
実際には私は数学が苦手だからこれを計算できない、でも理屈として数を分解するとわかりやすくなりできるとなる

「なるほど、だからこうなるのか」というとき理解するのである

とにかく認知症は薬でも直せない、医者に行っても実際は直せない、医者自体が認知症のことを知っている人が少ないのである
一番知っているのは直接介護した人なのである
海馬が損傷して衰えて記憶できない、そこから感情的になり激怒するようになる
海馬と感情を司る偏桃体が結びついていることも影響している

そもそもなぜ認知症になると数の計算ができなくなるのか?
それは数というものがどういうものか理解できなくなる、理屈として理解できなくなるからではないか?つまりただ暗記したものは忘れるのである

だから今の教育は受験勉強など暗記ばかりに励むのは実際は算数でも数学でも理解していないから忘れるということがある
別に忘れても数がこういうものだと理解していれば数をわかりふぃすい単位に分解して理解できるともなる
私自身の経験としてこうして算数でも数学でも自ら考えて考察したことがなかったのである、またそのように教えてもらえないことがあった
ただ暗記ばかりが勉強になっていた、そして高度になると本当はじっくりわかるまで自分の理解できる範囲で理解することが必要だった
それができないので数学が苦手となり数式を見ることも嫌になったのである
これは考えることの訓練なのである、数学も考えることの訓練としてやれば面白かったし理解できたとなるかもしれない

要するになぜ認知症の人が計算ができないのか?
それはただ無闇に暗記していることは忘れる、それがある
教育の方法が悪いと実際は勉強にも興味がもてないのである、数学でも能力がなくても
何か手法というか数の原理というかそういうものを知れば興味を覚えて忘れないともなるそれで英語にしても文法が数学とにていて数式のようになっているから原理として覚えてそれに単語を付け加えて覚える
そういう作業が必要だったのだと思う
ただ認知症の人はそうして合理的な理解力もなくなっている、ただ数学の先生でも認知症になっているからその人が数学の理解力をまだ保っているのか?それも興味がある

教育ということに私自身興味を持っていた、教育とはただ暗記させることではない、
算数でも数学でも考えさせるもはのとしてある、そういうふうなものと学べば能力がなくても何かまず興味を覚えたとはなる
つまり天才でもないものはそうしてすぐに理解できないから理解する方法が必要だったともなる
だから教育には創造的教育が必要でありまた自ら創造的に学ぶことが必要なのである
ただ正直あらゆることに人は通じることはできない、そこに教育の限界がある

ただ絵の才能が全くない自分がなぜ抽象画を描けているのか?
ソフトで描けているか不思議だった、それが大量生産できるのはただ数式のように同じ手順でソフトを使い作りだしているのである
それは自分自身が絵の才能が全くないのに絵を描いている感じになるのが不思議なのである、だから生まれ持った才能だけではすべて決まるわけではないと今さらながら思ったのである
暗記させる教育は教育ではない、英語の単語などはしかたないにしろ算数とか数学はそういうものではない、ただそれはあくまでも数学が苦手な人のためのものである
別に数学の得意な人はたちまち理解するとなるからだ

いづれにしろ認知症というとき脳が老化によって退化することでもある
誰でも新しい人の名前を覚えられなくなるのである、それは共通しているからである
海馬の能力が衰えるのである、でも理解する能力は増してくる
なぜなら知識でも理解力でも今まで貯えたものが活きてくるからである
それはあくまでも暗記したものではない、理解して記憶したものだともなる
とにかく老人になると理解力が高まる、それで評論が向くようになる
評論は一段と高い視点から本でも読むことだし社会でも見ることになる
こういうことは若い時はできないからだ、とても本を読んでもそれを評価することができないのである、本はそれだけなんでも内容があるからそうなる
ただ別にインタ−ネット上にあるものでも理解できないのである

理解して覚えるということが忘れないという一文を読んで自分も共感したのでこうして書けたからである、自分の論をこの一文を引用して展開できたのである
だから引用してもそれはただの引用ではない、それを自分なりに独創的に展開したとなるのである
そして理解するには文章を書くことだと思った
確かにyoutubeでは話すことが主体となっている
でもそこでは深い理解につながらないのである、文章を自ら書いてみると理解することがある
それはインタ−ネットで自らこれだけのものを大量に書いた結果わかったことである
話を聞いてもそれは上辺だけのものとなり深い理解に通じない場合がある
だから文章にすべきであり本を読むべきだともなる、ただ知識は無限であり理解の限界がある
そして時間だけがまたたくまに過ぎてしまうのである
人間が理解できるのは極わずかだったとなって終わるのである


あとがき

私は何でも理解することが遅かった、学校にも適応できない劣等性だった、集団生活が苦手だった
でも人間に大事なのは自ら考えることであり理解しようとすることである
それはただ暗記していてはだめである、それは忘れてしまい役にたたないのである
理解して覚えるということである、それはあらゆる分野でそうである
あらゆることになぜなのだろうという疑問をもつべきである
それが科学にもあらゆる学問にも社会の理解にも通じるのである

何でも理解しようとする態度をもち耳を傾けることが大事

原発はむずかしいから理解できないとして専門家にまかせると専門家の言う通りになりわからないということで責任をとらされる、銀行でも株のことでも投資信託でもめんどうだから勝手にされて手数料だけとられて損する
専門家の言うままになり損する、その専門家が何でも知っているかと思ったら知らなかったのである
銀行員は株の事でも投資信託のことも素人と同じだったのである
そんな人にまかせたら損することはわかりきっていたのである
でも私自身が知ろうとしないとか時間がないのでまかせたのである

宗教にしてもそれをただ単純に信じればいいとかなるとヒットラーのナチスのようになる
それは人々が全く考えないことから起きた、ハイルヒットラーとなって盲従することから起きた
人間は弱い存在である、でも考える芦であるというのもそうである
自ら考えることができるものが人間の要件なのである

これまで天才のことなど考察した、それを教育のカテゴリーに移す、まとめる、教育はただまねるだけではだめである
自ら考えて想像する、創造することが理解することがないと身につかないのである

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冬の道、晩年の道


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2019年09月07日

高度成長時代は平均的人間を大量生産する画一教育 (次の時代は自己啓発による創造的人間を作る自己教育)


高度成長時代は平均的人間を大量生産する画一教育

(次の時代は自己啓発による創造的人間を作る自己教育)

●田舎の小園の学び(詩)

畑に実りがある
畑に働く人がいる
二十日大根、四〇日大根
実りには時間がかかる
時節により種を植え
それぞれの花は咲き開きぬ
蓮の花のづぼみは大きくふくらみ
その花の赤味帯びて開くを待ちぬ
揚羽が優雅に舞い来たり
畑にカンナが映える
朝いつもの木陰に休み蝉が鳴く
この小園にも学び尽くせぬものがある
大事なことは急がぬこと
悠長な自然のリズムに合わせること
実りを早めることはできない
人の力に限りがあり
自然により自ずと育まれるものを知るべし
あなたの学ぶべきことは
教えられるべきことは限りなくある
あなたは学校という枠に閉じ込められてはいけない
その建物の中で学ぶ自由な空気は消失する
先生のみが教師ではない
近くに回りに学ぶべき人がいる
農民に学ぶがよい、教えられるが良い
大工に教えられるが良い
漁師に教えられるがよい
・・・・・・・・・
その周りの自然に教えられるがよい
あなたの学ぶきことは都会にあるのではない
田舎でもその周りにいくらでもある
ただ気づいていない、自ら見出していないだけ
あなたの学ぶきは教えられるべきは
現実の自然であり社会である
学校とはそのほんの一部であり閉ざされている
学ぶ場が限定されて記号のみを教える場となる
あなたの学ぶ世界は広い
故にせかせることではない
また点数で判断することではない
学ぶ時間と環境こそがその人を育てる

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●高度成長時代は大量に平均的人間を送り出すことが教育

教育を語る時むずかしくなる、教育はあまりにも教育されることに問題があったからである、教育過剰が問題だった、私たち戦後団塊の世代が受けた教育は人数が多いから教室がないとか何か高度成長時代の平均的人間を育てるものだったのだろう
大量に労働力を必要とした時代だったのである、それもあくまでも平均的な大量生産を担うベルトコンベアーで働く従順なロボットの養成だったのだろう
それがわかったのは日本人は高度成長時代を日本人が特別優れていたからとなってジャパンアズナンバーワンとして得意になっていた
でも日本人は高度成長を築いたのは日本人が何か優れていたからではなかったのである
確かに日本人には優れた資質とか文化を育む土壌はあった
でも高度成長時代というのは日本人が特別優れていたから成し遂げたということではなかった
なぜなら今や中国でも日本と同じように10数年で同じようになったからである
その時中国は後進国だった、でもみるみるまに日本を追い抜くようになったからである
ということは大量生産というのは電機製品でもどこの国でも作れるものだったのである
今は中国の方がITでは進んでいて日本は後進国になり貧乏国になったというのもそうである
戦後の教育はこうして大量生産時代に適した平均的人間を作ることであった

平均的人間を作ることで日本は適合した

日本人は同質になりやすい、でもまた共同一致することでは団結することは得意なのである、そういう平均的人間を大量に作ることで向いていたのである
でも何か独創的なものを作る、機械でも人間でも作るのには向いていなかったのである
現実にIT分野になると全く遅れてしまったからである
それはアメリカ主導になっていたからである、アメリカとかヨ−ロッパはもともと発明の国であり天才が科学分野でも学問や芸術分野でも排出してきたのである

なぜヨ−ロッパでこれほど天才が生まれたのか?

これも大きなテーマなのである、日本はものまねであり中国もコピー文化である
それでアメリカから批判されて対立するようになった
日本とか中国で独自に発明したものがないからそうなったのである
発明されたものを改良することは改善することは日本は得意でも発明することは不得意なのである、日本が高度成長時代を築いたことは日本人が特別優秀だったからではない
平均的人間を大量に生産することでは日本は適合した結果だったとなる
教育でも何か独創的な人間を育てることではないあくまでも平均的人間を大量に生産して物でも大量に同じものを作ることで高度成長時代になったのである
今になれば別に韓国でも中国でも同じものを作れるようになったから売れないとなったのである

何か日本人は特別優秀だということ科学技術でも優秀だという奢りが原発事故を生んだ
原発事故など日本では起きない、ロシアでチェルノブエリでも事故をが起きたときもそう言っていたのである
他にもスマトラで大津波が起きて10万人とか死んだ時でも日本では津波を警戒しているあんなふうにならないとか言っていたのである
それが東日本大震災で二万人近くが津波で死んだ、地震と津波の国で警戒していなかったのである
確かに日本人には日本人に優秀なものがある、でも何か本当に科学分野で技術分野で優秀だったのかというとそうではなかったのである
その奢りが原発事故で打ち砕かれたのである

●少数精鋭主義の創造的教育へ

いづれにしろ自分自身が教育というのに興味がある、教育は教え方でありその教え方が創造的でありうるからだ
ただまるでロボットのように教えるのではない、様々な教え方がありそれが創造的なものだからである
それはあらゆる分野でそうなのである
ただ学校だけが教育の場ではない、学校の先生のみが教師ではない
教育は明治以来国家教育になっていた、強力な国家の指導のもとに学校が作られて教育があった、戦後はそういう国家の縛りがなくなったようでも依然として学校という枠に教育は限定されてきたのである
団塊の世代は一教室でも50人とかいたし教室がたりなくなっていたのである

そういう時代には大量生産の平均的人間の生産に適していたのである
何か自分の様な三流大学になると講堂に三千人とかいて講義を聴くというのも驚いた
それで学生は講義がつまらないから学生運動に走ったという事情があった
マスプロ大学として話題になったからである
新宿で石を投げると学生にあたるとか大学は大衆化したのである
エリートでもなんでもない大衆化したのである
でも高度成長時代であり大学生は企業にみんな就職できたのである
それだけの受け皿が高度成長時代で生まれていたからである
こうした平均的大量生産の教育からこれからは変わる、すでに変わっている
中学校では一クラスは30人でありその先生は30人では多いといって少なくしようとしている、団塊の世代は一クラス50人だったからその相違がすでにある
少数精鋭主義になりそうなると今までの教育とは違ってきているのである
大学の先生が今の学生の方が優秀だという時すでに優秀な人は独創的な人が出ているのかもしれない、それは30人以下の学級と50人規模の学級で教えられるものが違ってくるのからである

いづれにしろ高度成長時代を築いたのは日本人が優秀だからではなかったのである
それはどこの国でもできるものだったが早くそれを成したということに過ぎなかったのである、今になれば韓国でも中国でも日本より先んじて最先端の物造りをしていることでもわかる、またIT技術では後れをとっていることでもわかる
本当に明治維新から70年過ぎてまた戦後70年過ぎて時代が変わる
それは教育にも及んでくる、もしかしたら学校というものがなくなるかもしれない

例えば学校でなんでもやるのは向いていない、スポーツだったら野球クラブでもサッカークラブでもやるのがいいとかなる
学校自体も今までの感覚とは違ったものになってゆく、そういうことはオランダとかアメリカで始めている
教育というとき人間は結局自己教育なのである
その人の自主性にまかせた方が伸びる、何かに興味を持つことがありそこから学問でも自ずからするようになる
それは自分自身がそうだった、就職もしないでただ旅ばかりしていたというのもそうである、そこで地名に地理に興味をもったりして学問するようになったからである
自分には特殊な家庭の事情でそういうことが可能だったからである
それ以後自分は自己教育をしていたのである 

ただ自己教育でも節制が必要である、どうしても人間の弱点は楽な方に傾く、怠惰になる、これが避けられないのである
そのために時間を無駄にするし精神も損なわれるのが多い、自由といってもそのために悪い方の自由に悪とか快楽の自由の方に向かい時間を浪費するのである、だから自由な時間をいかに過ごすかもむずかしいのである
社会での会社員でもそこで経験することはやはり貴重な体験なのである
それができない引きこもりとかニートとかは後で問題が起きる、事件を起こしたりする、小人閑居して不善を成すとなる
それを自分自身が経験しているしそれは今度は老人になって高齢化社会で起きているのである
長生きするからそうなる、老人になったからと快楽をやめたりできないのである
それだけ快楽を追求するのが人間だと思った、快楽は強力なのである、人間は苦しみとかを求めない、あくことなく快楽を求めているのである、それは老人になっても個人差があるにしても変わりないのである

●教育は自発的自己教育が基本

じっと思いをこらすことや、心の安らぎをえることや、知識を豊富にすることによって
確かさをゆっくり成熟させること、といったことはすべての本性に逆らって努力したところでどうにもなるものではない
そこに達するためには自然と文化がしっかりと結び合うような環境の助けによって深められ、その気になるのを待つだけで十分なのである
(何のための教師‐ジョルジュ・ギュスドルフ)

この本はいい本である、人間は教育できるものではない、自発的にならないかぎり人間は学ばない、それは小学校の段階からただ暗記するのではない、算数でもあくまで暗記するものではない、考える一教材として教えるべきなのである
ただ結局あまりにも多くなった知識のためにつめこむだけになってしまったのである
要するに時間がない、じっくり学ぶ時間がないのである
また時間が与えられないのである、音楽を知るためには一つの楽器を与えてそれを覚える時間と環境を与えることなのである
何か教えるということでないのである、何か教えることは強制的になりその人に合わないことを押し付けることになる、それがこれまでの教育だったのである

ただ正直教育は知識が増えすぎてもう一人の教師では手に負えないのである
英語だと高校だと英文法専門の先生がいたりと何か部分化してつまらないとなる
郷土史となると実はこれはトータルな分野だった
そのことで私はプログで追求してきたからである、ただ科学的知識に弱いから原発事故について追求できなかったとなる
まず近くの畑にしてもそこに尽きせず学ぶものがある、教えられるものがある
でも農業を実地にしていない人は近くに田畑を見ていてもわからないのである
だから田舎に住んでいても今は農業を実地にしている人は少ないからわからないのであるそのこと自体が大きな問題であり知るべきなのだがそれもしないのである
自分自身でも最近趣味で農業している人に教えられたからである
この年まで田舎に住んでいて農業のことがわからなかったのである

だからいかにこの世のことは知らないことが身近でも多いか知るべきなのである
この世は死ぬまで学びの場なのである、それだけ社会が複雑であり自然でもわからないことが多いからである
だから教育という問題は学校だけの問題ではない、生涯学習として継続的にある
学校を出てからこそ本当に現実問題として事業するなら命をかけるようにまでなる
事業に失敗すると自殺する人が多いからである
そういうふうに真剣に学び実践する場が社会なのである
ただ自分の場合は特殊な事情で60までもモラトリアムとして遊学したようになっていたのである

そこに達するためには自然と文化がしっかりと結び合うような環境の助けによって深められ、
その気になるのを待つだけで十分なのである

こういうふうにして田舎で生きてきたのが自分だったのである 
ただ田舎に生きていても農業を実地にしていないからわからなかったのである
そこに知識として肝心なものが欠けていたとなる
そういうふうに人間は身近な世界でも近くでもわからないのである
その結果として原発事故が起きたともなる、もっと近くに関心をもっていたらこうならなかったからである
その危険性を誰も教えなかったということにもあったのだ
だからその住んでいる場所自体人間は知らないことが多いのである
つまり学んでいない、また教えられもいないのである、教育されていないのである
学校は社会のほんの一部の閉ざされた機関にすぎないのである
その学ぶべき場所は自然であり社会そのものなのである

何のための教師―教育学の教育学のために (1972年)   古書, 1972(アマゾン)

posted by 老鶯 at 05:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など