2017年11月26日

人間はみんななんらかで異常である (異常を異常と意識できない)


人間はみんななんらかで異常である

(でも異常を異常と意識できない)

人間が異常だというとき何が異常なのか?異常と正常はどうして区別するのか?
異常の人は異常と思っていない,自分は正常だと思っている
そして人はなんらかでみんな異常性をもっている,自分ももっている
内向的な人は極端になると引き籠もりになり人と接しなくなる
自分はそうなっていた,そして社会性がなくなる

では自分の異常性はどうして生まれたのか?
それは自分の環境にあった,そういう異常性の中でも暮らしていけたことである。
親がいて三食用意されているし職につかなくても文句も言われないのである。
うるさく就職しろと言われて引き籠もりがニートが親を殺す事件がある
自分も一時はあったが30年間くらいあとは職につけなど言われたことがない
自由に旅行しても文句も言われないのである。
そういうことは普通にはなかなかないが自分の場合はあったのである。
それは異常なことだった,だから社会性がなくなっていた

これが自分の異常性だけど異常なことは環境の中で作られる,なぜならそういう状態にあることを許されなければそういう異常なことでありつづけることができないからである。もし貧乏な時代だったら引きこもっていたら飢え死にする,生活保護もなにもないからである。だからこれだけ現代が無職がいることは今までありえなかったことである。
「無業化社会」なのである。いたるところに仕事をしないでぶらぶらしている若い人がいる時代なのである。田舎でもそういう人はいくらでもいる
何か自分はそういう人と良く田舎で会うからである。自分とにているからそういう人と会うともなる

ただ異常というとき普通に暮らしている人も異常な人はいくらでもいる
そもそも異常だというとき人間はその持っているもの気質でも先鋭化すると異常になるのである。陽気な外交的な人は躁鬱病とかになり陰気な人は鬱病になる。
陽気な強気の人は異常に自信家でありそれが病気だったことを自分の家族の一人が認知症になったとき知ってショックだったのである。
認知症になっても「自分は優秀だ」と言い続けて臨終になったのである。
これは本当に異常なことだった,そこまで自分が優秀だとこだわっていたのである。
それが実は正気のときはそれで通っていた,本当に優秀だったからである。
でも認知症になったときはもうそうではないからである。
でも優秀だとして自分もそう思い死んでいったのである。
ちょうどニーチェが自分が超人だと言って狂気となり死んだと同じであったのだ

だから別にそうしてこれまで社会生活をかえって優秀なものとして見られていたものが実はそれが極端化すれば異常であ狂気になる,俺は超人だというときそれは異常と狂気に向かっていた,自分の家族の一人もそうして狂気となり死んだとなる

ところがこの異常性と狂気は誰でももっているのだ,自分が接した人はみんななんらか異常だった,自分もふくめてそうだったのである。
家族の一人は庭はいらないとか木はいらないと花はいらないとか狂気のように言っていたのである。それは異常なことである。そうなったのはやはり環境だった,貧乏であり働きづめでありそういう異常性がつちかわれていた,家では働かせられることしかなく何か花嫁修行などもしない,そういう余裕もなかったからである。
だから人間は環境で異常性が誰でも培われるのである。

ある女性も狂気となっていたことに驚く,ものすごく育ての親に反発して狂気と化していた,あれほど乱暴な女性に変身していたことに驚くのである。
子供のときしか接していないからそうなったとしてもその変貌ぶりには驚愕した
育ての親もひどい娘だわと言ってすぐに死んだから良かった,全く介護などできる人ではないからだ,だからすぐにあっけなく死んで良かったなとつくづく思う
今は今度は実の親を施設に入れているが何の愛情もないのである。
五年間とか子供のとき接していてもあとは関係なくなっていたから介護などできない
金が欲しいだけで施設に入れているだけである。実の親は金をもっていても認知症になっているからわからないのである。この親も悲惨だなとつくづく思う
そんな人に世話になること自体泥棒に世話になることと同じだからである。

それは人のことは言えない,自分もそういう目にあっているからだ
その女性がどうしてそんな異常な狂気の女性になったのか?それはその女性とは長い間接していなからわからない,別にその女性が愛されないことはないし経済的には恵まれて苦しんだこともないのである。
だからなぜそんな乱暴な女性になったのか不可解だとなる
女性的優しさが全くなくなっていたのである。
自分に対してはそれはわかるにしても育ての親は長い間一緒にいたのに非情にしたことがわからないのである。

今回は異常な女性になったのはこれも環境とかが影響していた,不幸な生い立ちがありそれは同情すべきなのだがすでに40越えて高校卒業する18にもなる娘もいるらだ
この女性がどうして異常性がつちかわれたのか?
それは東京で暮らして子供が幼児の時から離婚して生活保護だったということに由来しているのだと思う,その人は社会と接しなくても生活はできていたからである。
その女性はまたとても仕事ができる人ではない,今回話し合うにもそれもできない
何か文句言うばかりでありまともに会話できないのである。
こういう人が何か仕事ができるとは思えなかった,だからいろいろやってもやめている
長つづきしないのてある。
娘もむっつりとして愛嬌もない,そして娘と母はぴったりくっついて離れないのである。それも異常な人格を形成することになる
母子家庭とか一人っ子とは平均的に異常人格が形成されやすいことはいなめない

異常だというとき事業をしていた人も異常性があった,理系でありそっちの方には詳しいでも事業となると会社勤めとは違う,多様な能力が要求される,商売でもあるからそうした能力も必要とされる,ただ機械だけをいじっているのとは違うからである。
その人は事業をして何か異常化した,失敗して借金したからかもしれないが性格がやはり異常化したのではないか?
その人はこれまで資格もあり優秀な人として認められていた,何も異常性などない社会人だったのである。法律に詳しい理系の技術にも詳しい人だったのである。

でもその人だけではないその家族自体にも異常性を感じたのである。
この家族はおかしいという家族は普通にある,それは比べてみてそれを知るのである。
自分自身の家族もそうだから人の家族のことは言えない,でも一見普通の家族としてまた社会人として認められていても異常性がある人はいるのである。
別にその人は事業に失敗していなければその異常性に気づかない
サイコパスとか異常人格かいてもその人は事業に成功したりしている人もいるからだ
事業に成功しても異常人格と思われる人がいるのである。

ただ人間はどんな人でも異常性がある,個人的にもそうだが集団的にも異常性はつちかわれる,戦争中とか何か集団狂騒状態に陥っている,戦争中は何か催眠術にかかったように戦争に国民が一丸となって向かっていたのである。
それは今の北朝鮮のような状態だったのである。異常性は別に個々人でなくても集団でもつちかわれる,カルト教団ではなぜあれだけの人が集まり社会を圧迫しているのか?
これもその異常性に気づかないからだ

異常であっても異常に気づかない

そもそも異常なことに気づくにはそういう異常な集団だと客観的に見ることができなければわからない
異常な人はその異常性に気づかないのである。カルト教団の人はむしろ外部の人こそ異常と見ているかもしれないのだ。それだけの数の人が同調しあうことは異常なのである。
だからナチスが生まれファシズムが生まれる,つまりそこで異常集団が形成されてもむしろその異常な集団に入らない者はかえって異常なものとして見られるのだ
異常が正常で正常が異常になることは歴史でもあったのである。

人間は自らの異常性に気づかない,それは個々人でもそうだし集団でもそうである。
集団の異常がやっかいなのは数によって権力をもつからである。
いくら異常だと言っても権力をもっているとその権力によって異常が認められることになる,逆らえないことになるのだ,それがファシズムの恐怖でありそういうことは歴史上で共産革命とかナチスとかその他大量虐殺として起きているから怖いのである。
まさにこれこそ集団が異常化して狂気化して地獄になったのである。
タグ:異常と正常
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2019年07月16日

天才は作れるのか?(教育、環境、時代が人間を作る)


天才は作れるのか?(教育、環境、時代が人間を作る)

天才とは何かがまず問題になる、科学者でも芸術家でも歴史に名を遺すような人が天才だとなる
天才とは凡人とは違い天才に生まれついた人で決まっているということになる
その説はショーペンハウエルが言っている
知性は母親から受け継ぐものだという説である
それがなぜ母親なのか?すると母親によって決まるのか?
母親の資質がDNAによってその人の知性も決まるのか?
それも確かにある、男性の場合その人の母親の資質がかなり影響している

ただ天才という時、努力しなくても天才であり何か成しうる人だともなる
そういう人を知っているが本当に普通の人よりエネルギーがありすでに小学校でも見分けられるほど優れている、それは知性だけではない、性格的にも大人びて早熟でありとか
何か普通の人とは根本的に違っている
だからその人は努力することを認めていない
そういう人はゴッホとかゴーギャンとか詩人にもいる
英雄にしても生まれつきそういう資質があって時代に適応したときなる
高杉晋作とかがそうである、もし明治維新という大動乱の時に生れなかったらただの暴れん坊で終わっていたのである

そもそも天才は作れるのかとなると資質論からすれば生まれつきでありできないとなる
私が問題にするのは天才が作れるのかとかのことではない
天才とは定義すれば何かの創造者である、それは科学の分野でも政治の分野でも芸術の分野でもあらゆる分野で新しいものを創造した人である   

すると天才は作れるかどうかという問題よりいかに創造的になりうるのか?

ここに焦点をあてるべきなのである

子供の時は遊びは何か創造的なものとしてある、何かいろいろ工夫したりする
つたなくてもそうである、それが学校とかに行くと暗記中心になる
とにかく暗記することであり計算でも考えるのではなくただ暗記することなのである
九九でも掛け算の意味を追求することはないのである
算数でも図形を使い具体的に割り算とか掛け算でも教えることができる
そして教えることが教育でもそれも創造的なものとして教えることができる
だから先生が創造的でないと学ぶ人はただまねるだけになり自ら考えることができないのである
つまり自ら考えることがあらゆることで教科でも必要なのである
それは社会に出てからでもそうであるあらゆる問題があり自ら考えることが根本にありそうしないとただ他者の言うままになるのである

単純な例として

abcdef1112222.jpg



I go to を教える時、このように図形化して行く先を入れ替える、するとわかりやすくなる、ABCDの代わりに他の単語を入れればいいからである、これを実際に教育道具を作り矢印が回るようにすればいいとなる
そこで子供ならゲームのように興味を覚えることがある
つまり教えること自体が創造的なことが必要なのである、そのこと自体が学校にないから創造的な人間が生まれないのである
教え方にも無限のバラエティがある、創造的に教えることがある
天才は生まれつきだとしても創造的な自ら考えて工夫することを目指すべきなのだが学校教育に全くないのである
日本人は同質的になりやすいから日本人から独創的な人が生まれにくいのである
カルト教団に入ったりした全く創造性と自主性を奪われる、過去にキリスト教であれ仏教であれ芸術が生まれという時
今とのカルト教団とは別物だったからである

そして環境が人を作るというとき家の中に全く本も置いていないような家だと刺激を受けにくい、私の家には一冊の本も置いてなかった、だから家でなにか学問になるものや芸術になるものに興味を覚えなかった、見ていたのは漫画だったのである
でもそれはそれでその時代があり炭とか囲炉裏がある生活は貴重な経験だったのである
いづれにしろ人間は家庭環境を基本にして人を作る、何々心理学を学んだ人は親からの承認されないものは歪んでしまうというのもわかる、家庭環境が悪いと致命的になる、ヨ−ロッパだと家庭で天才が作り出されてきた
家庭が学びの場としてありそこで貴族の家から天才が育てられたからである

第一留学した者と留学しない者の差は大きい、外国生活したものとしない者の差は歴然としている
私の場合は50歳以降に海外旅行したから遅かったのである
今の時代に海外旅行しない者はもう何も発言もできないのである
たいだい知識人となっている人は海外体験した人である
天才いかんにかかわらず留学できた人としない人ではその人いかにかかわらず大きな差が生じている
それは資質の問題以前のものであり最低条件として留学は必須になるのが時代だからである

そしてまた時代が大きく影響する、戦争の時代だったら天才も戦場であえなく死んで才能が発揮できなかったのである
英雄も英雄に成ろうとしてもなりえない、三島由紀夫は英雄になろうとして自ら演出したが成りえなかった
そこに無理に英雄になろうとしたあがきがあった、つまり英雄は時代が作るのであり時代が悪ければなれないのである
だから三島由紀夫は英雄ではないし評価できないのである
明治維新に英雄がでたのは時代が作ったからである、戦国時代でもそうである
ただ新たな時代を切り開くのが天才であり英雄でもある、それは科学技術的な面でもそうだし様々な分野でそうである
明治をみればわかる、あらゆる分野でみんな創業者になっているからである
今のような成熟した社会にはありえないからである、できあがった社会だからである
何もない社会では一から作り出さなければならないから創造性が要求されて創業者になる

結局天才は何かというとき、絶えず自ら考え工夫して創意がありそこに遊びの精神があり問題意識をもち臨機応変に物事に対処する
ただ言われるままに従うものではないとなる、何か時代が変わる時、そうした天才的なものが要求される
銀行が不用になるというときもそうである、時代が変わる時、ではどうしたら銀行が生き残れるのか?
そこに新しい創意が工夫が必要になる、でもそれは簡単にできないのである
ただ時代が変わる時否応なしに変わることが要求される、それができないと銀行はいらないとなってしまうのである
でも今までは銀行に入れば安泰だ、大企業に入れば終身雇用で安泰だとなっていたのである
それがグロ−バルの競争でそうなくなったとき取り残されてしまう
ただこうした体質は簡単には変えられないのである、欧米の強みは絶えず新しいものを生み出す環境がありそれで天才も生れていたからである、ヨ−ロッパになぜ天才があれほど生まれたのか?それは環境の相違だったのである


天才への階段

これは簡潔に表にしている、これはまさに努力して積み重ねることをすすめているから普通の人が天才となる道程を示している

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2019年07月20日

人間の才能はないのではなく活かされない (Love & Freedomの底辺労働者もそうである)



人間の才能はないのではなく活かされない

(Love & Freedomの底辺労働者もそうである)

人間の才能とは絵を描くとか文章を書くとか数学が得意だとか体力があるとか話がうまいとかいろいろ多様なのである
しかし何かしら才能ある人はいる、それが発見されないとか活かされないのである
Love & Freedomの底辺労働者を語る40くらいの人がそうである
この人の正体はわからないにしても

●しゃべるのがうまい
●精神障害とか犯罪者心理に通じる
●自らの実体験を語ることで訴える
●ニュースなどの解説に向いている

この人はしゃべるのがうまい、わかりやすく説明している、今日聞いたのでは年をとると比例して男はプライドだけが高くなる
そういう心理を説明されれば誰でも納得する
みんなそうであるからだ、10歳違った人がその年齢で判断して下に見るというのもおかしいと思った、何かその人に功績があればだが何もないとしたら年でその人を判断できないはずである
また結婚して子供を育てたとかでそれも社会的自慢になるとも思えない
価値はあるとしてもそれで人の優劣を決めることはできないだろう
ただ何もない者でも男はプライドをもっている、それが年をとるほどプライドが高くなるそれで年下の上司に仕えることができずやめる人が多いというのがわかる
おばさんにはそれほどないから若い人ととうまくやれるというのもわかる
このプライドはやっかいなものである
それが年をとればとるほど高くなる、だからただ年をとっただけでも偉いと尊敬されるべきだとなる、それはこんなに老人が多くなければ自然とそうなっていたのである
これだけ老人が多ければもう老人は何か特別なものがなければ尊敬されることなどないのである、老人はただ税金を使うだけの無駄なものだから早く死んでくれとなる

でも人間の才能は活かされないことが多い
また人間の才能は自ら発見されることも他者から発見されることもなかなかない
芸術分野で不遇な人が多いのはそのためである
天才を理解できる人は天才しかないというときその天才は一時代に数人だとしたらもう理解されない、いくら才能あっても理解されない、ただ次代に天才が出て理解されるとなる天才でなくても才能は活かされにくいし不思議なのは自らの才能を自ら発見されていない開発されてもいないのである
天才は別にしても何か才能でも自ら開発して発見してゆくことが必須なのである
ただ何もしないで天才になり楽器でもひけるとはならないからだ
それには過酷な練習があって才能が開くからである

この人は相当に才能がある、そもそも私立の学校に入り大学でも大学院まで出て臨床心理学士でもある、すると他の人よりその時点でも優れていたとなる
ただ文科系は実際の社会で役に立たない、それで就職できないとかなり自殺した人までいた、つまりそういう人は学者になれない、大学で就職できないとそうなる
実際の社会では必要としないからである
心理学が実際の社会でどう応用されるのか?それはほとんどないだろう
それで一時臨床心理学士として病院で働いていたがやめて底辺労働者になった
最初に歯車が狂うとそうなりやすいのである
20代でだいたい人間が決まってしまうというのはそのためである

ただ思うにこの人は才能があるのだが活かされないのである
ニュースキャスターとか解説者とかに向いている、説明とかしゃべるのがうまいからである、人間の心理とかにも通じているからいろいろな事件の解説に向いている
でもそういう機会が与えられないだけではないか?

機会が与えられず才能は活かされない

結局こういうことが社会には多い、自分自身もそうだった、今プログで作品を出しているが認められない、認める人がいない、ただ今までは発表する場もなかったが今はプログでしている、何か自分ながらいい作品を書けるようになったと思う
もちろんもう死ぬ時期なのだからその作品も高度なものでないとどうにもならない
何か私は何でも理解することでも遅すぎたのである

とにかくこの人はニュースキャスターとか解説者に向いているし才能がある
ただyoutubeとして金を稼ぐようになればその才能は活かされるともなる
だから外国など行って見聞を広めるとかすべきことはある
留学となると無料のがあるとして年齢制限でできないということは問題でも外国旅行は今なら安くできる、そういう点では恵まれている時代である
そして人間は一生学ぶことは終わらないのである
他の仕事でも精進することは終わらない、何でも腕を磨くことがあり終わらない
そういうことでなくても平凡なことでも仕事をもって何か社会のためになることをすべきだとなる
定年になって無用化されると危険なのである、認知症になりやすくなるからである
そういう場がまた与えられないことも現代の問題なのである

この人は大学に今さら行っても無駄だとか留学もできない、何しても無駄だというがそんなことはないのである
それはただ社会で金にならないから無駄だとしている
そもそも人生で学ぶことはいくらでもある、絶えず学ぶことが人生なのである
だからこの人はただ実用的なこと金になること社会で認められことに腐心している
でも別にその人なりの価値を追及する精進することが人生なのである
それは死ぬまで終わりがないのである
だから40になればなにしても無駄だとはならないのである
それは社会的には金にならないとしても人間の価値は金にならないものでも価値としてあるだからそれぞれの価値をの追求は死ぬまで終わらないのである
それでベーシックインカムがいいとなるのはそれぞれの価値を社会では金にならないとか価値にならないとかなっているがそれでもその人なりの価値を追及できるからこそいいのである
そういう時代にもなりつつある、だから40才なればもう何もないというのはおかしいのである

ただこの人は実際は演技しているといときそうなのか?
その辺はわからない、本当は絶望をこれほど言っても絶望していない
一筋の光明を見出そうとしている、それが人間である
女性にもていなというけど本当はもてているのかもしれない
何かそういう演技して共感を呼んでいるのかわからない
ただ40というのは人生の終わりが見える年なのである
だから人生は本当に過ぎるのが早いなとその年になると思う
でももう引き返せない、もう社会からはずれたものはそのままはずれてゆくほかない
でもその人生でも無益だと価値ないとかない
その人なりの価値を追求したものがありそれは充実した人生であったとなる
ただ他者がその価値を認めないだけだったのであ



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2019年07月31日

認知症の謎ー忘れるのはなぜなのか? (ただの暗記ではない、理解して覚えたものは忘れない!)

認知症の謎ー忘れるのはなぜなのか?

(ただの暗記ではない、理解して覚えたものは忘れない!)

アルツハイマー病治療薬の開発は「連戦連敗」を続けています。ウォール・ストリート・ジャーナルの記事によれば、過去10年間に世界中で行われたアルツハイマー病の薬の試験のうち99.6%が失敗しているということです

これだけ認知症の患者が世界的にも多いのだからなんとか直そうとしている
薬も発明しようとしているができない、何か絶望的なのである
結局それだけ脳があまりにも複雑すぎるのである
それは神の領域にもなる、脳が一番複雑なのは精神と一体化しているからである
第一精神は目に見えないものとして意識する
ところがこの世にあるものは目に見えるものとして人間は意識させる
原子がアトムは目に見えないけど精密に数式化して化学式にして目に見えるものとして
現す、脳でも目に見えるものとしてとらえようとしている

だから海馬が一時記憶する場所としてありそれが老化で確実に衰える
自分自身でも老化していることがわかる
つまり名前が覚えられないのである、新しい人の名前が覚えられない
でも昔覚えた人の名前は覚えているのである
これも海馬の機能が衰えたからだともなる
芸能人の名前でも昔の人は覚えているのである
でも今の人の名前とかどういう人なのかは皆目わからない、また見ていないせいもある

「理解して覚える」ということである。「なるほど、だからこうなるのか」というように理屈で覚えたことは、長期保存庫に移って忘れにくくなる。それに対して、意味も分からず丸暗記したことは、たとえその場では覚えたつもりになっていても長期保存庫に移行しないためすぐ忘れてしまう

記憶することは最初は丸暗記である、その意味もわからないのに暗記する
それは英語の単語とかには有効かもしれない、でも算数とか数学では暗算のように覚えても忘れてしまうことがある
そこで分数とか掛け算とかは何かを理解する、ただ暗算するのではない、その意味を理解するのである、例えば15×12は(10+5)×12であり10×12+5×12であり120+60となり180となる、何かこうすれば暗記として計算するのではなく数の性質を理解して解いたとなる、でもこれを計算機でするともうもし計算機がないと暗記したものを忘れるとできないのである
実際には私は数学が苦手だからこれを計算できない、でも理屈として数を分解するとわかりやすくなりできるとなる

「なるほど、だからこうなるのか」というとき理解するのである

とにかく認知症は薬でも直せない、医者に行っても実際は直せない、医者自体が認知症のことを知っている人が少ないのである
一番知っているのは直接介護した人なのである
海馬が損傷して衰えて記憶できない、そこから感情的になり激怒するようになる
海馬と感情を司る偏桃体が結びついていることも影響している

そもそもなぜ認知症になると数の計算ができなくなるのか?
それは数というものがどういうものか理解できなくなる、理屈として理解できなくなるからではないか?つまりただ暗記したものは忘れるのである

だから今の教育は受験勉強など暗記ばかりに励むのは実際は算数でも数学でも理解していないから忘れるということがある
別に忘れても数がこういうものだと理解していれば数をわかりふぃすい単位に分解して理解できるともなる
私自身の経験としてこうして算数でも数学でも自ら考えて考察したことがなかったのである、またそのように教えてもらえないことがあった
ただ暗記ばかりが勉強になっていた、そして高度になると本当はじっくりわかるまで自分の理解できる範囲で理解することが必要だった
それができないので数学が苦手となり数式を見ることも嫌になったのである
これは考えることの訓練なのである、数学も考えることの訓練としてやれば面白かったし理解できたとなるかもしれない

要するになぜ認知症の人が計算ができないのか?
それはただ無闇に暗記していることは忘れる、それがある
教育の方法が悪いと実際は勉強にも興味がもてないのである、数学でも能力がなくても
何か手法というか数の原理というかそういうものを知れば興味を覚えて忘れないともなるそれで英語にしても文法が数学とにていて数式のようになっているから原理として覚えてそれに単語を付け加えて覚える
そういう作業が必要だったのだと思う
ただ認知症の人はそうして合理的な理解力もなくなっている、ただ数学の先生でも認知症になっているからその人が数学の理解力をまだ保っているのか?それも興味がある

教育ということに私自身興味を持っていた、教育とはただ暗記させることではない、
算数でも数学でも考えさせるもはのとしてある、そういうふうなものと学べば能力がなくても何かまず興味を覚えたとはなる
つまり天才でもないものはそうしてすぐに理解できないから理解する方法が必要だったともなる
だから教育には創造的教育が必要でありまた自ら創造的に学ぶことが必要なのである
ただ正直あらゆることに人は通じることはできない、そこに教育の限界がある

ただ絵の才能が全くない自分がなぜ抽象画を描けているのか?
ソフトで描けているか不思議だった、それが大量生産できるのはただ数式のように同じ手順でソフトを使い作りだしているのである
それは自分自身が絵の才能が全くないのに絵を描いている感じになるのが不思議なのである、だから生まれ持った才能だけではすべて決まるわけではないと今さらながら思ったのである
暗記させる教育は教育ではない、英語の単語などはしかたないにしろ算数とか数学はそういうものではない、ただそれはあくまでも数学が苦手な人のためのものである
別に数学の得意な人はたちまち理解するとなるからだ

いづれにしろ認知症というとき脳が老化によって退化することでもある
誰でも新しい人の名前を覚えられなくなるのである、それは共通しているからである
海馬の能力が衰えるのである、でも理解する能力は増してくる
なぜなら知識でも理解力でも今まで貯えたものが活きてくるからである
それはあくまでも暗記したものではない、理解して記憶したものだともなる
とにかく老人になると理解力が高まる、それで評論が向くようになる
評論は一段と高い視点から本でも読むことだし社会でも見ることになる
こういうことは若い時はできないからだ、とても本を読んでもそれを評価することができないのである、本はそれだけなんでも内容があるからそうなる
ただ別にインタ−ネット上にあるものでも理解できないのである

理解して覚えるということが忘れないという一文を読んで自分も共感したのでこうして書けたからである、自分の論をこの一文を引用して展開できたのである
だから引用してもそれはただの引用ではない、それを自分なりに独創的に展開したとなるのである
そして理解するには文章を書くことだと思った
確かにyoutubeでは話すことが主体となっている
でもそこでは深い理解につながらないのである、文章を自ら書いてみると理解することがある
それはインタ−ネットで自らこれだけのものを大量に書いた結果わかったことである
話を聞いてもそれは上辺だけのものとなり深い理解に通じない場合がある
だから文章にすべきであり本を読むべきだともなる、ただ知識は無限であり理解の限界がある
そして時間だけがまたたくまに過ぎてしまうのである
人間が理解できるのは極わずかだったとなって終わるのである


あとがき

私は何でも理解することが遅かった、学校にも適応できない劣等性だった、集団生活が苦手だった
でも人間に大事なのは自ら考えることであり理解しようとすることである
それはただ暗記していてはだめである、それは忘れてしまい役にたたないのである
理解して覚えるということである、それはあらゆる分野でそうである
あらゆることになぜなのだろうという疑問をもつべきである
それが科学にもあらゆる学問にも社会の理解にも通じるのである

何でも理解しようとする態度をもち耳を傾けることが大事

原発はむずかしいから理解できないとして専門家にまかせると専門家の言う通りになりわからないということで責任をとらされる、銀行でも株のことでも投資信託でもめんどうだから勝手にされて手数料だけとられて損する
専門家の言うままになり損する、その専門家が何でも知っているかと思ったら知らなかったのである
銀行員は株の事でも投資信託のことも素人と同じだったのである
そんな人にまかせたら損することはわかりきっていたのである
でも私自身が知ろうとしないとか時間がないのでまかせたのである

宗教にしてもそれをただ単純に信じればいいとかなるとヒットラーのナチスのようになる
それは人々が全く考えないことから起きた、ハイルヒットラーとなって盲従することから起きた
人間は弱い存在である、でも考える芦であるというのもそうである
自ら考えることができるものが人間の要件なのである

これまで天才のことなど考察した、それを教育のカテゴリーに移す、まとめる、教育はただまねるだけではだめである
自ら考えて想像する、創造することが理解することがないと身につかないのである

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冬の道、晩年の道


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2019年09月07日

高度成長時代は平均的人間を大量生産する画一教育 (次の時代は自己啓発による創造的人間を作る自己教育)


高度成長時代は平均的人間を大量生産する画一教育

(次の時代は自己啓発による創造的人間を作る自己教育)

●田舎の小園の学び(詩)

畑に実りがある
畑に働く人がいる
二十日大根、四〇日大根
実りには時間がかかる
時節により種を植え
それぞれの花は咲き開きぬ
蓮の花のづぼみは大きくふくらみ
その花の赤味帯びて開くを待ちぬ
揚羽が優雅に舞い来たり
畑にカンナが映える
朝いつもの木陰に休み蝉が鳴く
この小園にも学び尽くせぬものがある
大事なことは急がぬこと
悠長な自然のリズムに合わせること
実りを早めることはできない
人の力に限りがあり
自然により自ずと育まれるものを知るべし
あなたの学ぶべきことは
教えられるべきことは限りなくある
あなたは学校という枠に閉じ込められてはいけない
その建物の中で学ぶ自由な空気は消失する
先生のみが教師ではない
近くに回りに学ぶべき人がいる
農民に学ぶがよい、教えられるが良い
大工に教えられるが良い
漁師に教えられるがよい
・・・・・・・・・
その周りの自然に教えられるがよい
あなたの学ぶきことは都会にあるのではない
田舎でもその周りにいくらでもある
ただ気づいていない、自ら見出していないだけ
あなたの学ぶきは教えられるべきは
現実の自然であり社会である
学校とはそのほんの一部であり閉ざされている
学ぶ場が限定されて記号のみを教える場となる
あなたの学ぶ世界は広い
故にせかせることではない
また点数で判断することではない
学ぶ時間と環境こそがその人を育てる

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●高度成長時代は大量に平均的人間を送り出すことが教育

教育を語る時むずかしくなる、教育はあまりにも教育されることに問題があったからである、教育過剰が問題だった、私たち戦後団塊の世代が受けた教育は人数が多いから教室がないとか何か高度成長時代の平均的人間を育てるものだったのだろう
大量に労働力を必要とした時代だったのである、それもあくまでも平均的な大量生産を担うベルトコンベアーで働く従順なロボットの養成だったのだろう
それがわかったのは日本人は高度成長時代を日本人が特別優れていたからとなってジャパンアズナンバーワンとして得意になっていた
でも日本人は高度成長を築いたのは日本人が何か優れていたからではなかったのである
確かに日本人には優れた資質とか文化を育む土壌はあった
でも高度成長時代というのは日本人が特別優れていたから成し遂げたということではなかった
なぜなら今や中国でも日本と同じように10数年で同じようになったからである
その時中国は後進国だった、でもみるみるまに日本を追い抜くようになったからである
ということは大量生産というのは電機製品でもどこの国でも作れるものだったのである
今は中国の方がITでは進んでいて日本は後進国になり貧乏国になったというのもそうである
戦後の教育はこうして大量生産時代に適した平均的人間を作ることであった

平均的人間を作ることで日本は適合した

日本人は同質になりやすい、でもまた共同一致することでは団結することは得意なのである、そういう平均的人間を大量に作ることで向いていたのである
でも何か独創的なものを作る、機械でも人間でも作るのには向いていなかったのである
現実にIT分野になると全く遅れてしまったからである
それはアメリカ主導になっていたからである、アメリカとかヨ−ロッパはもともと発明の国であり天才が科学分野でも学問や芸術分野でも排出してきたのである

なぜヨ−ロッパでこれほど天才が生まれたのか?

これも大きなテーマなのである、日本はものまねであり中国もコピー文化である
それでアメリカから批判されて対立するようになった
日本とか中国で独自に発明したものがないからそうなったのである
発明されたものを改良することは改善することは日本は得意でも発明することは不得意なのである、日本が高度成長時代を築いたことは日本人が特別優秀だったからではない
平均的人間を大量に生産することでは日本は適合した結果だったとなる
教育でも何か独創的な人間を育てることではないあくまでも平均的人間を大量に生産して物でも大量に同じものを作ることで高度成長時代になったのである
今になれば別に韓国でも中国でも同じものを作れるようになったから売れないとなったのである

何か日本人は特別優秀だということ科学技術でも優秀だという奢りが原発事故を生んだ
原発事故など日本では起きない、ロシアでチェルノブエリでも事故をが起きたときもそう言っていたのである
他にもスマトラで大津波が起きて10万人とか死んだ時でも日本では津波を警戒しているあんなふうにならないとか言っていたのである
それが東日本大震災で二万人近くが津波で死んだ、地震と津波の国で警戒していなかったのである
確かに日本人には日本人に優秀なものがある、でも何か本当に科学分野で技術分野で優秀だったのかというとそうではなかったのである
その奢りが原発事故で打ち砕かれたのである

●少数精鋭主義の創造的教育へ

いづれにしろ自分自身が教育というのに興味がある、教育は教え方でありその教え方が創造的でありうるからだ
ただまるでロボットのように教えるのではない、様々な教え方がありそれが創造的なものだからである
それはあらゆる分野でそうなのである
ただ学校だけが教育の場ではない、学校の先生のみが教師ではない
教育は明治以来国家教育になっていた、強力な国家の指導のもとに学校が作られて教育があった、戦後はそういう国家の縛りがなくなったようでも依然として学校という枠に教育は限定されてきたのである
団塊の世代は一教室でも50人とかいたし教室がたりなくなっていたのである

そういう時代には大量生産の平均的人間の生産に適していたのである
何か自分の様な三流大学になると講堂に三千人とかいて講義を聴くというのも驚いた
それで学生は講義がつまらないから学生運動に走ったという事情があった
マスプロ大学として話題になったからである
新宿で石を投げると学生にあたるとか大学は大衆化したのである
エリートでもなんでもない大衆化したのである
でも高度成長時代であり大学生は企業にみんな就職できたのである
それだけの受け皿が高度成長時代で生まれていたからである
こうした平均的大量生産の教育からこれからは変わる、すでに変わっている
中学校では一クラスは30人でありその先生は30人では多いといって少なくしようとしている、団塊の世代は一クラス50人だったからその相違がすでにある
少数精鋭主義になりそうなると今までの教育とは違ってきているのである
大学の先生が今の学生の方が優秀だという時すでに優秀な人は独創的な人が出ているのかもしれない、それは30人以下の学級と50人規模の学級で教えられるものが違ってくるのからである

いづれにしろ高度成長時代を築いたのは日本人が優秀だからではなかったのである
それはどこの国でもできるものだったが早くそれを成したということに過ぎなかったのである、今になれば韓国でも中国でも日本より先んじて最先端の物造りをしていることでもわかる、またIT技術では後れをとっていることでもわかる
本当に明治維新から70年過ぎてまた戦後70年過ぎて時代が変わる
それは教育にも及んでくる、もしかしたら学校というものがなくなるかもしれない

例えば学校でなんでもやるのは向いていない、スポーツだったら野球クラブでもサッカークラブでもやるのがいいとかなる
学校自体も今までの感覚とは違ったものになってゆく、そういうことはオランダとかアメリカで始めている
教育というとき人間は結局自己教育なのである
その人の自主性にまかせた方が伸びる、何かに興味を持つことがありそこから学問でも自ずからするようになる
それは自分自身がそうだった、就職もしないでただ旅ばかりしていたというのもそうである、そこで地名に地理に興味をもったりして学問するようになったからである
自分には特殊な家庭の事情でそういうことが可能だったからである
それ以後自分は自己教育をしていたのである 

ただ自己教育でも節制が必要である、どうしても人間の弱点は楽な方に傾く、怠惰になる、これが避けられないのである
そのために時間を無駄にするし精神も損なわれるのが多い、自由といってもそのために悪い方の自由に悪とか快楽の自由の方に向かい時間を浪費するのである、だから自由な時間をいかに過ごすかもむずかしいのである
社会での会社員でもそこで経験することはやはり貴重な体験なのである
それができない引きこもりとかニートとかは後で問題が起きる、事件を起こしたりする、小人閑居して不善を成すとなる
それを自分自身が経験しているしそれは今度は老人になって高齢化社会で起きているのである
長生きするからそうなる、老人になったからと快楽をやめたりできないのである
それだけ快楽を追求するのが人間だと思った、快楽は強力なのである、人間は苦しみとかを求めない、あくことなく快楽を求めているのである、それは老人になっても個人差があるにしても変わりないのである

●教育は自発的自己教育が基本

じっと思いをこらすことや、心の安らぎをえることや、知識を豊富にすることによって
確かさをゆっくり成熟させること、といったことはすべての本性に逆らって努力したところでどうにもなるものではない
そこに達するためには自然と文化がしっかりと結び合うような環境の助けによって深められ、その気になるのを待つだけで十分なのである
(何のための教師‐ジョルジュ・ギュスドルフ)

この本はいい本である、人間は教育できるものではない、自発的にならないかぎり人間は学ばない、それは小学校の段階からただ暗記するのではない、算数でもあくまで暗記するものではない、考える一教材として教えるべきなのである
ただ結局あまりにも多くなった知識のためにつめこむだけになってしまったのである
要するに時間がない、じっくり学ぶ時間がないのである
また時間が与えられないのである、音楽を知るためには一つの楽器を与えてそれを覚える時間と環境を与えることなのである
何か教えるということでないのである、何か教えることは強制的になりその人に合わないことを押し付けることになる、それがこれまでの教育だったのである

ただ正直教育は知識が増えすぎてもう一人の教師では手に負えないのである
英語だと高校だと英文法専門の先生がいたりと何か部分化してつまらないとなる
郷土史となると実はこれはトータルな分野だった
そのことで私はプログで追求してきたからである、ただ科学的知識に弱いから原発事故について追求できなかったとなる
まず近くの畑にしてもそこに尽きせず学ぶものがある、教えられるものがある
でも農業を実地にしていない人は近くに田畑を見ていてもわからないのである
だから田舎に住んでいても今は農業を実地にしている人は少ないからわからないのであるそのこと自体が大きな問題であり知るべきなのだがそれもしないのである
自分自身でも最近趣味で農業している人に教えられたからである
この年まで田舎に住んでいて農業のことがわからなかったのである

だからいかにこの世のことは知らないことが身近でも多いか知るべきなのである
この世は死ぬまで学びの場なのである、それだけ社会が複雑であり自然でもわからないことが多いからである
だから教育という問題は学校だけの問題ではない、生涯学習として継続的にある
学校を出てからこそ本当に現実問題として事業するなら命をかけるようにまでなる
事業に失敗すると自殺する人が多いからである
そういうふうに真剣に学び実践する場が社会なのである
ただ自分の場合は特殊な事情で60までもモラトリアムとして遊学したようになっていたのである

そこに達するためには自然と文化がしっかりと結び合うような環境の助けによって深められ、
その気になるのを待つだけで十分なのである

こういうふうにして田舎で生きてきたのが自分だったのである 
ただ田舎に生きていても農業を実地にしていないからわからなかったのである
そこに知識として肝心なものが欠けていたとなる
そういうふうに人間は身近な世界でも近くでもわからないのである
その結果として原発事故が起きたともなる、もっと近くに関心をもっていたらこうならなかったからである
その危険性を誰も教えなかったということにもあったのだ
だからその住んでいる場所自体人間は知らないことが多いのである
つまり学んでいない、また教えられもいないのである、教育されていないのである
学校は社会のほんの一部の閉ざされた機関にすぎないのである
その学ぶべき場所は自然であり社会そのものなのである

何のための教師―教育学の教育学のために (1972年)   古書, 1972(アマゾン)

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2019年10月29日

相馬女学校のこと(時代によって変わる教育)


相馬女学校のこと(時代によって変わる教育)

例えば,「良妻賢母」主義を実用知たらしめる「裁縫」は高等女学校では必須の学科目であり,また,伝統的には近世以来の女性の徳目の一つである「婦功」(あるいは「婦工」)の意味が込められていたはずであった
娘を高等女学校へ進学させるような社会層─ 例えばその中核を占めた士族層 ─ にあっては家事や裁縫,料理などの実用知を修めていくことへの動機付けがあまりなかったのではないか。

多くの女学生の放課後,家庭生活での教養や嗜みは,琴曲や点茶などの「遊芸」であったり,英語や数学の「学問」であったりした事実がこれを裏付けている。つまり,彼らは幼少期から家庭で培われた躾によって形成された「実践意識」の水準で,「良妻賢母」主義に異議申し立てをしていたのである。
http://www.seiryo-u.ac.jp/u/education/gakkai/h_ronsyu_pdf/12_2/04_inoue.pdf

私がなぎなたを始めたのは女学校に通っている頃でした。当時、学校の正課、体育の授業の一つになぎなたがあって、面白くてね。先生も東京で勉強をなさった方が教えてくださっていたので、楽しく取り組んでいました

  1903年(明治36年)4月 - 中村高等小学校校長の太田宗雄とその他有志により、「四行塾」が開設される。
        女子への裁縫教育を目的とした私塾で、修業年限を1年とする。
  1905年(明治38年)5月 - 中村町に移管され、「中村町立相馬女学校」に改称。
  1907年(明治40年)5月1日 - 相馬郡に移管され、「相馬郡立相馬女子技芸学校」に改 称。修業年限を2年とする。
        以後5月1日を創立記念日とする。
  1911年(明治44年)3月 - 「福島県相馬実科女学校」(相馬郡立)に改称。修業年限          を4年とする。
  1920年(大正9年)4月 -「福島県相馬高等女学校」
 
  
 裁縫教育を目的とした私塾ということは習いものくらいのものだった、それも一年だからである、次に技芸学校となっているのもそうである
 その後はも実科女学校だから実用主義である、それでも明治から始まり大正までさかのぼるというのは古いと思った
 
水害の状況を調べるために宇多川を下っていったら相馬東高校があった、ここは相馬女学校が基になっていた、これは相馬藩内では一番古い学校なのである
そこでクラブ活動になぎなたがあるとそこの用務員にあって聞いた
そんなものがまだあるのかと思った、弓術なら良くみかけるけどなぎなたはあまりももう聞かないだろう
明治となると江戸時代の継続がまだあった、だから第一明治維新で侍がいなくなったとき教師になる侍が多かったことでもわかる
なぜなら士族はすでに家庭で独自の教育をしていたからである
するとどうしても士族の教育が学校にも持ち込まれるのが自然である
つまり人間は全く新しいことはできない、必ず前の時代の継続なのである
だからこそ天皇制によって復古によって明治維新が成されたのである

たただ論文で裁縫のことを語り相馬女学校も裁縫教育から始まったとしている
その後も実用主義である、でもなぜ士族の子はそういうことになじまないというとき
何かそういうことは家でしてくれる使用人がいたからなのかとなる
裁縫を第一とするものに反発するものが芽生えていたとなる
それは女子が今までのただ結婚するということを目的とした花嫁修業とかに反発する新しい女性の芽生えだったのかもしれない
とにかく相馬女学校を出たとなるとそれだけ女性として格が高いものになっていた
女性としてのエリートだったのである、というのはまず女学校には入れない、金がかかるから入れない、それで私の姉は女学校に入りたかったと悔しがっていたのである
なぜなら頭が良かったし体力とか他の優れていたからである
だから学校は一番だったしマラソンでも一番になっていたかとなっていた
その後看護師の免許も東京でとった、それもなかなかできないことだったのである

そして飯館村の大倉に行ったら私は相馬女学校でたのよというばあちゃんがいた
つまり相馬女学校出たということは特別でありだからそれを自慢したかったのだろう
どうして大倉から相馬女学校に入ることができたのか、これもおそらく山では木材が売れて金になった時代だったからだとなる
その人は親戚の家から鹿島から相馬の女学校に通ったという
明治以降になると学校ができても必ずしもみんな入れない時代であった
字が書けない女性がいていつも人に頼んでいた、それで気がひけていたという人を知っている、ある人は子守りして学校に行けず小説読んで字を覚えたという大正生まれの人もいる、学校にまともに行けない人が結構いたのである

それは今の発展途上国をみればわかる、ネパールとかでは第一書くものボールペンすらないからボールペンをくれとなる
今でも裸足で歩いている人がいる国でありそういう国もまだ世界にはある
そういう時代が学校というのが貴重なものであり知識を得る唯一の手段だったのである
だから学校が重要な意味をもっていたのである
でもその後学校も社会の変遷とともに姿を変えた、あらゆるものが時代の変化にともない変わる、もうすでに団塊の世代から学校に対して不満が大きくなっていた
学生運動でも実際は大学の不満から生まれた面があった
マンモス大学となりまともな授業がないのが私立だったからである
1000人とか一つの講堂で授業するのだから学問に興味を失ったのである
そして文系となると本当に大学は遊びの場でしかなかった
毎日麻雀しているものとか授業に出ないことが自慢だったのだから変だったのである

つまり大学というのは高校とまるで違ったものであり独学する場所だったのである
何か知りたいことを独学する場所だったのである
そうなれば別に大学に行かなくてもいいともなる
ただ当時はそういう環境が整っていなかったのである
まだまだ教育環境は貧弱だったからである

それがインタ−ネット時代になると本当に独学できる、こうして学者の論文を読めるしいくらでも本が安くアマゾンで買える、すると非常に見識が幅広いものなる
それはAIのビッグデーターの思考方法と同じである
膨大な知識を集めてそれを編集するようなことをしているとそれは新たな創造物になるのである、自分はそれをしているのである
集合知ということがそうである
だから今の時代はインタ−ネットをしないと相当に遅れる、学校というのも知識の面ではもう時代遅れなる、youtubeでは優秀な先生が実際に教えているからである
すると学校で教えられるよりも理解が早くなるのである

教育も変わり目にきている、第一学校とか先生の役割も低くなる
なぜなら知識が自由化して膨大化しているからである、学校という閉じられた空間で学ぶだけの時代が確実に終わったからである
すでに学校は前時代の遺物のようになってしまうもしれない、そこにいろいろな問題が生まれてもう持続できなくなる
結局何でもその時代の反映としてあり学校も教育も同じなのである
でも相馬東高校が400人いてクラスが35名とかなると違ってくる、それは中学校でも同じである、一クラス30名だといっていた、団塊の世代だと50名くらいいたからである、少子高齢化時代は少数精兵主義にならざるうえないのである
教育でもそうである、世界に伍してゆくにはそうならざるをえない
そうして教育自体も変革を迫られているのである

私は学校とか集団になじめなかった、結局人間は自己開発しないかぎり何か身につかない何か求めるものがないかぎり何かを強制しても身につかないのである
信仰にしても求めよさらば与えられんとうなると求めないもの絶対に信仰が何であるのかその精華を得ることはできない、そもそも求めていないからである
学問でも何か強く求めるもの問うもの学びたいものがあれば雑学でも得ることがある
それで自分の場合は全国を旅行して地名に興味をもち地理に興味をもったとなる
だから学校を出てからの方が勉強するようになったとなる

どうしても学校では真剣な課題をもつことができないが社会に出る否応にも真剣な課題に直面するからだ
それには命がかかってくる、知らないと大損したり命まで失うから学ばないで得られくななる、でも学校だというそういう真剣に学ぶということがないのである
そうして時間の無駄になる、ただ人間は何でも経験である
例え間違ったとしても経験することの方が知識より先になる
学問はそうした社会での様々な問題に直面してから本物になる
それは津浪とか原発事故とか今回の洪水の問題でもそうなのである
どうしてそうなったのかとかその問題を解決するにはどうしたらいいのかとかそれは命にかかわるものとして解答を出すことを要求されているからである
 
 
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2020年01月22日

体罰の是非 (団塊の世代は父親に普通に殴られていた)


体罰の是非

(団塊の世代は父親に普通に殴られていた)


その女性は田舎でぱめずらしくいろいろと語る、自分の思っていることを語る
高校も出ていない、団塊の世代になると中卒とか集団就職の時代だったからである
三分の一は中卒だったのである
だから今の子供には体罰も必要だとしきりに主張している
でも体罰とかを団塊の世代では受けている、それより家庭でも親父は怖い者であり
絶対服従だったからしょっちゅう殴られていたと同世代の人がyoutubeで語っていた
しつけは体罰が当然とされていた時代だったのである
体罰で教育するしつける従わせる時代だったのである
家庭でそうであり当然学校でもそうである

でも10歳くらい年上の人が近くにいた先生に殴られたとか恨みを語っていた
何かこうしたことは恨みとして残っているのだ
私自身も中学でそういうことがあり先生に対する恨みが残ったのである
それはどういうことかというと先生が男女の生徒の前で殴ったり見せしめとして立たしたり体罰が日常的に行われていたからそうなった
それで今のように親が文句を言う抗議することもなかった
なぜなら親がそもそも家庭で体罰をしていたのだから当然文句を言うはずがないのである
体罰とは女性でも見せしめとして人間をおとしめるものでありそれで何かを更生したりできない、上のものに対しての絶対服従を体罰によって教えられるのである
教育自体がもともとそういうものであり強制的にしなければならないとかあった
学校では古い時代からそういうものであったともなる
学校の校は縛るという意味だからである、縛り教えるのが学校だともなる

とにかく人間が人生を語る時、自分を語る時経験から語っているのだ
人間は経験からしか覚えない、本当に痛い目にあわないかぎりその痛さがわからないのである、それでなぜこの同世代の女性が体罰をするべきだとしきりに言ったのか?
それは女性だったからである

女性には体罰はなかった!

女性は男子生徒が先生に殴られていたり立たされていたりしているのを笑っていたのである、つまり男子生徒の痛みを女性だから理解できなかったのである
ここにも男女が理解し得ないものとしてもともとあったことがわかる
女性だと男性から優しく扱われるからそうなるし男子生徒が殴られていても痛みを感じないのである
ところが男子生徒は老人になっても近くの殴られた先生を恨んでいた
自分自身もそうである、そうして笑いものにされたことを忘れないのである
その先生とあったが挨拶もしなかった、でも女子の生徒にはそういう痛みがないから
男性のことを理解できないのである
それはまた逆に女性の出産などにしても女性が侮辱されることに対して男性は無理解なのである、その痛みを経験しないからそうなっているのである

人間がなぜ互いに理解しえないのか?
それは人間の判断は別に本を読んで判断するとかではない
それぞれの経験から判断している、経験の積み重ねで判断しているのである
今になると戦争のことは経験しないかぎり理解できなくなった
人が平気で殺したり殺される世界をとても経験しない限りわからないのである
すると戦争を甘くみてまた同じように戦争をしたいとかまでなる
それは経験がないからそうなるのである

学校の体罰は見せしめであり人間を侮辱することでありおとしめることなのである
それをみんなの前ですることが後々まで影響しているのである
ただ自分自身は甘やかして育てられたから厳しい体罰でも必要だったのである
それは自分の特殊な生い立ちからそうなった
だから大学で体育会に入り殴られても良かったのである
それは先生が女生徒がいる前でなぐられるのとは違っていた
そこで鍛えられたということはあったからだ
殴ったのは先生ではない、先輩だったからである
それはまた事情が違ったものとなっていた

人間の問題は相手を理解できないということである、それが地域とか国とかまた育った環境とか男女でも理解し得ないのは経験することが違っているからである
男性は出産を経験しないからここで根本的に女性を理解できないのである
人間は理屈を言っても理解されない、経験しないことを理解されない
様々な痛みを経験しないと相手を理解できないのである

男女共学は必ずしもいいものではなかった、なぜなら男女は体と心も別々のものだからである
女性は女性らしい教育をして男性は男性らしい教育をする
そして日本だと家庭では父親が威張っていた、そして何か子供が言うと殴ちれたというときその延長として学校でも先生が殴っていた
それが許されたの家庭でそうしているのだから親が学校でも体罰することを容認していたのである
アメリカでは父親がそんなことをしない、殴ったりしない、子供の話を良く聞くというときもそうである
欧米の家庭の方にこそホームがあり日本がにはなかったとなる
そういう家庭ではそもそも個性とか創造性が伸ばせないのである

私の家庭は特殊でもしたいことをしなさいとなっていた
だからそのまま大学でも遊んで社会に出ても働かないで遂に旅ばかりして60まで遊んでいただけだともなる
ニートだったのである、でも勉強はしていたのである
それでその成果を今出しているのである



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2020年09月26日

天才はどうして作られるのか? (ヨ−ロッパにはなぜ天才が多いのか)


天才はどうして作られるのか?

(ヨ−ロッパにはなぜ天才が多いのか)

そもそも天才とは何なのか?常人にはない異常なほどのエネルギーをもった人だとなる
そういう人はどこの国でもまれにいる、そういう人は何か生まれつきであり努力しなくてもたちまち理解できる、小説でも子供の時理解したとかなる
そういう人は実際は模範になれない、なぜならみんな普通の人だからである
そういう突出した人を模範にできないのである
それでキリストは大工として働き人間としての常識を身につけていたし天才ではない
普通の人間の思考をしていたのである
だから天才はクリスチャンにはなれない、それでニーチェのように自分が神だとなり偶像化するのである

ただ天才に魅せられ天才に学ぶことはある、そして人間社会を変えたのは歴史で功績を残したのは天才である、文学だと啄木はすでに中学生くらいから自然にも通じていた
何か青年になって芸者を相手にしているとかあっても自然と通じていたことである
普通自然と通じることは簡単にできない、それができていたのが不思議なのである

不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心

このように自由な心をもち自然と一体化する、そういうことはなかなかできないから不思議なのである、そのあともやはり自然を謳っている
第一そんなに若くしてそういうふうに自然と通じた歌を作れることが理解できない
なぜなら自分等は自然と通じるには老人になるまでかかっているからだ
それで啄木の著書の「雲は天才である」というのがわかる
夏の雲が様々に形を変えて大空に雲の峰となる、それをイメージして雲は天才であるとなった、その表現も的を得ているのである

ただ天才という時、ヨ−ロッパに天才が多い、そこには科学でも芸術でもあらゆる分野の天才が輩出した、世界で学んでいるのはヨ−ロッパの天才なのである
それはギリシャから始まっていた、そこには様々な天才が数学でもそうだし科学の基となるものも生れた、ピタゴラスとかアルキメデスとか多様な天才が生まれたとなる
それを基にして西欧文明が築かれたともなる

ただ西欧文明の前にイスラム文明があり学術的にも優れていた、ヨ−ロッパは中世がありその時はイスラムより遅れていたのである
第一ギリシャの文献とかはイスラム圏の人によって発見されてヨ−ロッパに伝えられたことでもわかる
その後イスラムの学問を代数学などをとりいれてヨ−ロッパは発展した
そして謎なのはヨ−ロッパにどうしてあれだけの天才が輩出したのかということである
それは一つの理由ではない、天才と言ってもその背景があり一人が忽然として生まれたりしないからである、その背景に歴史や文化で形成されたバックボーンがあって生まれる
それがヨ−ロッパにあったとなる

その理由の主なものはヨ−ロッパは帝政国家ではない、巨大な国家ではない、エジプトとかペルシャとかは中国とかは巨大な大陸国家であり強権的な国家となりやすい
イスラムでも一つの強権国家にスルタンの支配になる帝国になる
でもヨ−ロッパは確かにローマ帝国があったとしてもその後中世になり都市国家となり都市が中心の国となった、地域的でありそこに都市ごとに違った文化を育むことにもなる
そこに巨大な国であるペルシャとか中国のような圧制にはならなかった
ルネサンスでもフィレンツェとかの小都市の5万くらいの都市から生まれたことでもわかる、そんな都市からあのようなルネサンスが生まれたのかとなるからだ
そこで綺羅星のごとくミケランジェロやレオナルド・ダビンチとかラフェロとか生まれたそれが生まれのは小都市国家なのである

もう一つの原因はヨ−ロッパが貴族社会だったことである、その貴族が富を浪費するというのではない、学問とか芸術でもパトロンとなり育んだ
キリスト教会でも対立があっても芸術を育んだ、つまりヨ−ロッパの特性は地域社会の充実と貴族社会にあったともなる
貴族社会は特権階級で否定されるとなるがでもヨ−ロッパでは貴族社会なくして学問でも芸術でも科学でも育まれなかったのである
もちろんベルサイユ宮殿のように貴族の浪費とかはあった、でもその富で育まれたものがあった
だからどうして天才が生まれるのかという謎はそういう社会があり天才を育む社会があったことだともなる
貴族だとそもそも先生は個人的に雇われて教えたとなる、学校だと大量の規格品を一様なものを作るには適しているが個性を育むことはできない

だから日本でも天才は生まれない、最初高度成長時代があり電器製品が世界に売れた
それで日本は優秀だと見ていた、でもそれは日本人が発明したものではない、ヨ−ロッパ文明のコピーだったのである
要するに規格化された大量生産して外国に売ってもうけたというだけだったのである
それがわかったのは同じことを韓国でも中国でも欧米からまねてした結果今は経済成長して日本をぬいているからである
でも中国でもIT技術はアメリカの天才のベルゲイツとかジョブスとかがコンピュターを発明して生まれた、中国が発明したものではないのである
ただまねることは悪いことではない、最初はまねることからはじまるからである
日本では奈良時代に中国の漢字を取り入れた、次に平安時代になりかなを発明した
その基は漢字にあったともなる、だから最初はみんなまねでありその後に独創的なものが生まれる

いづれにしろ日本の高度成長は日本が発明した独創的なもから起こったのではない
日本の得意技は改善と改良である、他国の発明したものをまねて改善して改良することに優れていた、でも発明はできなかったのである
だから今になると韓国、中国でも電気製品が作れる、それもコピーだからできる
韓国でも中国でも独自に発明したものがないのである
だからコピーしただけでは国の繁栄も発展もないのである

ではどうしたら天才が作れるのか?

その謎の解明はヨ−ロッパになぜあれほど天才が生まれたのかということである
一つは多様な地域性であり一つは貴族社会があったということである
そこにヒントがある、多様な地域性というときその土地土地は必ず違って個性があるからだ、地形とか歴史が違っているからそうなる
もう一つは貴族社会があったということである、それは特権階級として否定されるがいい面としては例えば家が基本としてそこが学びの場となっていたら有利なのである
家庭教師がついていた方が有利なのである
なぜならその人にあった教育でもできるとなるからだ、なぜ医者の家では子供も医者になるのか?それは環境の影響が大きい、見よう見まねがあり門前の小僧習わぬ経を読むとかもあるからだ
江戸時代ならたいがい親の職業をついていたことでもわかる
第一家に一冊の本もないような所では何か知性が育まれるとは思えないからだ
団塊の世代の子供時代は子供部屋もないし家には一冊の本もなかった
本は鉄腕アトムとか鉄人28号とかを漫画を借りて読んでいたのである
そういうことではいくら知的好奇心があっても育まれないからだ
そういう点貴族社会では家が教育の場になり家庭教師がいて個性が育まれたとなる

もちろん天才は生まれつきがあるとしても環境に左右される
だからそういう環境が備えれば生まれやすいとなる、私の場合そういう環境に恵まれていたとなる、ただ残念だったのは田舎には本がなかったことである
今のようにアマゾンであらゆる本を買えていたらもう独学でも知識は習得できていた
専門書など田舎の本屋には置いていなかったからである
それで仙台市に通うほかなかった、その仙台の書店でも今わかったことは本当に少なかったことなのである、本の量は膨大だったのでありそれを読んでいれば専門家になれたということがあった

ともかく天才が生まれるというとき天才は生まれつきである
ただそうでなくても天才を育むものがあり環境に左右されるのが人間である
例えば今なら留学は普通にできる、金がなくても労働しながらでもできる
すると外国を肌で感じることができる、すると日本を相対的に見れる
だからたいがい日本を語れるのはそうした外国生活をした人なのである
それはささいなことでも外国生活で経験したことと日本で経験したことの相違があり
そこから考える思考脳をもつことができるからである
そこに留学とか外国での体験がないものの差が生まれるのである
ヨ−ロッパの特徴はまたヨ−ロッパ内での交流があり地域性があり多様な世界があり刺激されるものがあり天才が多く輩出したとなる

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成功する人々の法則ほマルコム- グラッドウェル

これによるとビルゲイツが1955生まれ,スティーブジョブス1955年生まれ・・・
ほかのコンピュター関係で成功した人は1954とかその幅が一二年なのである
つまりこの時代に生まれた人がコンピュター成功している
その幅一二年しかないのである、この時代からはずれると成功しなかったのである
だから人間はいかに時代の影響を受けるかを示している
日本でも戦争で才能があった人は20代でも死んでいるからそれか後の損失となったのである
だから現代はニートとか引きこもりとかいくらでもいる、そんなことして無職でいられるのは親に余裕があるからである
そういうふうに余裕があれば才能も育てられるのである
ただニートとか引きこもりは実際は何も才能もないのにただ無職となっている人かもしれない、ただヨ−ロッパの貴族のようになっていれば才能は育てやすい環境にあった
まず毎日非正規でも肉体労働でもこきつかわれていたら才能があっても伸ばせないからである  
そして人間の才能は多様でありそれも埋もれるのが数限りなくある
時代の影響もあるし環境もあるし才能が伸ばせないのが普通なのである

日本の問題は今や規格品の大量生産では豊かになれなくなったことである
人間でも規格品はいらないとなる、でも現実には日本は規格品を同じようなものでも作るのに適した国だった
同調圧力が強いから個性が強いとはじかれる、才能を育てにくい環境である
でもそのことか日本自体の衰退に通じている
だから今までの大量規格製品を作るのとは違ったものとして教育もある
そういうことでテレワークとかyoutubeとかは新しい才能を育てるツールになる
学校では規格品を作るのには適していても個性とか才能を育てるのには向いていないからである
そしてAI時代になると人工頭脳時代になると何かもっと人間の能力が試される
驚くのは翻訳のソフトは優れている、これほどに翻訳できる先生がいるのかとなる
それだけ機械の方がAIの方が優れているとなると人間はさらなる人間の身にできる創造性が要求されるのである
詩となるとAIで翻訳できないようにである、それは高度な人間にしかできないものだからそうなる、そういうことは他の分野でもそうなるのである

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2021年04月20日

各人各様の異常性はなぜ生れたか? (家庭環境の影響が大きい―社会も異常化する)


各人各様の異常性はなぜ生れたか?

(家庭環境の影響が大きい―社会も異常化する)

何か自分自身が異常性に気づいたのは家族が認知症になってからである
姉は看護婦として勤めていたし役所にも長く勤めていた
だから社会人でも正常であり異常とはとても思えなかった
ただ認知症になったのは病気のためだったと見ていた
でも今ふりかえると精神の異常というより何か偏った性格があった
常に自分は優秀だと言い、他者を馬鹿にする傾向があった
その異常性に気づいたのは認知症になってからだが実際はその前に偏った性格があった
自分は常に優秀だといいそれが死ぬ間際まで「俺は優秀だ」こう言って息をひきとった
認知症になって馬鹿になったのだがそういう言って死んだから悲惨だった
姉は何か普通のしとやかな女性とは違う、まず男で相手をにらみ堂々と向き合う
そして全然男でも恐れないのである、男の方が恐れていたのである
もの凄く勝気な女性だったとなる
それはいい面に働けば男のように家を切り盛りできたとなる
やり手の社長とかにもなれたと思う
それで父が十代で死んだとき父親のようになっていたのである
だからその異常性に気づかなかったのである
ただ人間の性格は必ずかたよる、その偏ることが異常性となる

母はおとなしい内気の性格だった、それは自分と似ている、ただそれも異常なものがあった、確かに前の夫も結婚しているし社会生活を普通にしている
でも何か社会性に欠けていた、社会のことが人間の交際がどういうものかわからない
ただ店をしていてそこでずっと仕事をしていた
だから母と遊んだ記憶がない、一日中仕事に追われていたからだ
そうさせたのは家の事情があってそうなった、そもそもそういうふうに仕事に追われていたのは今のように電化されていないから家事でも忙しいからである
洗濯するにもごしごし石鹸で洗ったりご飯をたくにも竈だったとか江戸時代の生活でもあったからだ、たから当時の女性は暇なく働いていたのである  
それで花などいらないとしていたからこれも異常化していた
ただ何か社会性がなく内気でありとても家を切り盛りできる人ではなかった
金持ちだったら深窓の娘とかなっていただろう
一時はそうなっていた、家が裕福だったからである、でもそれは幼児の時でありすぐに会社経営に失敗して一家離散になった
それで苦労の連続となった

悲惨だったのは継母が入ってきていじめられたことである
弁当を作って残したら俺が本当の母親ではないから食べられないのかと言われて投げられた、そして泣いていた、その継母も異常なほど気の強い女性だったのである
その人もなんらか性格の偏りがあり異常性があった
そして最後は大学病院で解剖されて骨だけが帰ってきた
それを引き取ったの母である
その前に養老院に入っていたが何か異常化した、同室の人に嫌われていて妄想となった
眼が見えなくなり何か助けを求めた、そこで母が見に行っていたのである
そして「悪かったな」と母に言って死んだのである
最後は骨となり帰ってきたときそこに人間の厳粛なものを感じた
いくらそうして後悔しても過去はもどらないからだ 
母にしても花いらないというとき貧乏生活が長く何かそうして花をめでる余裕がないことでそういう偏屈な性格になったのは同情できる

もう一人は母親が三人変わった女性である、その変わった理由が継母がきてその息子の嫁とうまくいかない、あまりにも気丈夫なので嫁と合わない、それで息子の嫁は外に出たのである、それは5歳の時である、5歳までは育てられたのである
でもその妻は家を出て他の人と再婚した、その人は裕福だった
だから楽だった、ところが認知症になり世話するものがいず再婚した息子がいて財産争いになった、5歳の時娘を放置して出て行った母親であるが実の母親であり財産をもらう権利があった、ただ本人は認知症になっていたから悲惨である
金を欲しいだけでありなんら母とも見ていないからである

これも最後は悲惨な結果になった
育ての親は「ひどい娘だわ」と自分に言い残して死んだ、幸い介護されることもなくあっけなく死んだから良かった
第一その娘には介護などできなからである、病気の時でも捨てたのだからできない
ただなぜそうなったのかそのことが理解できない、何か貧乏で苦しんだこともない、三人母親がいても良くされたからである
その娘はまた異常化していた、それもは信じられない異常な人に変わっていた
なんら情ももたない、冷酷な人になっていた
ただその娘は別に結婚しているし子供も二人も成長している、大学も出ている
だから外から見たらいい家族だとなる
でもその異常性に気づいたのは私の家にきて「おばちゃんは金があるだから金でめんどうみてもらへ」と血相変えて去ったことである
何もしてくれとも言わないのにそうだった

つまりその女性は冷酷な情もない人に変わっていたのである
ただ私の家とか自分自身のカルマでそうなった面もあるからいちがいに批判はできない
でもなぜそんな信じられない人間になったのかそれが理解できない
その育った環境がそうしたのだろうか?
夫が何かやさ男でやけににたにたしてふがいないものを感じたからその夫の影響でそうなったのか?
何か女性は嫁いだりするとその夫とか家の影響を大きく受けるからなのかとなる
この人はもうとても正常の感覚から相当にはずれている
ただ本人はそういうことに気づいていない
概してどんな人であれ自分の異常性に気づかないのである
でもどこかでその異常性は現れて苦しめられるとなる

そういう自分自身もそうだった、第一30年間も引きこもりとして生活していたことが異常だったのである、またそういうことができたことも異常だったのである
普通だったら家族で許さないだろう、でも自分は何かそのことで責められることなかっただから仕事もせずしたいことをしていたのである
そのことで社会性がなくなり自分も異常化していたのである
そのことに気づかせられたのは家族を介護するようになってからである
介護では引きこもりでも社会とかかわるからである
つまり人間は各人各様に異常が生まれる、ただ異常と正常の差が何なのかもわからないのである
意外と自分の異常性に気づかないのである

その人は技術者として勤めていたときと優秀だった、でも自分で事業を起こして経営者になったときおかしくなった
その家庭自体を事業主になるとまきこむ、またその人は何か養子ではないがそれと似たような感じになっていた、娘と母親の家でありその家風に染まったのかとなる
まずその家はケチなのである、何か絶対に損したくないという感覚である
せこいのである、その原因はあまりにも貧乏を経験した結果そうなった
そこには同情すべきものがある、自分の母親も貧乏だったからとにかく無駄をしたくないのである、だから花などいらないとなったのである
そこの家は何かケチでこりかたまっている、別に損しろときいうまでもなく他人のために箱一つでも持ちあけたくないのである
その前に金をくれとなる、金をもらってからでないと何もしないとなる

そういうケチくさい人が商売するとどうなるのか?

それ相応の金は払う、でもその前にその人は他人のために何かしたくない
ただ成功した経営者と優秀だとして認められることでありそれを目的として事業をはじめたのである
第一自分が苦しんでいる時、借金していたのだから相手の苦しみなど考える余裕もないのである
つまりそういう人に仕事を頼むだろうか?
商売でもただ自分だけが得しようとすることは成り立たないし失敗する
そもそも人が困っている時何もしたくない人が事業などできるものだろうか?
何か人のためにやるのが事業だろう、そういう気持ちが全くない人が事業ができるのか?事業がわからないにしてもそういう家族が成功するのだろうかとなる
それで事業する人は商売人の娘を嫁にしろというときそういう家庭で育つ人だと商売のことが暮らしの中でわかるからだろうとなる

ともかくその人は人に与えたくない、与えてもらいたいとなる人だったのである
だから介護で苦しんでいても金にならないからしないとなる
でも金は自分は払ったのである
いづれにしろこうして家族にも他から来た人にも苦しめられたのが自分であった
そこで人間の悪質性を嫌というほど知ったのである
ただそれも自分自身のカルマだったとなるから相手を批判ばかりはしていられないということも確かだったのである
この人も異常化したのは事業に手を出したからである、会社に勤めていたら別に優秀な技術者として終わっていたのある

ある大工さんも異常に優秀なことにこだわる、本当に他の大工さんより腕はいいし優秀なのである、それがわかるにしても俺はお前より優秀だとマウントして気分よくしている
何か俺が勝ったとか自慢している、それは大工さんとしてまた庭作りもできるから優秀なのことはわかる、でもそれでも一部分で優秀なのである
だからこうして異常に優秀さにこだわる人がいる、それも問題と思う

ただこの異常性を追求ててゆくとそれが個々人でも家族だけの問題ではない、社会自体の異常性がある、現代社会は複雑であり社会自体が異常化する
ナチスも精神病理学の対象であり社会の異常性が作り出したのである
カルト教団とかでもそうである、オウムでもそうだし何らか宗教団体は本来の宗教とは関係ない、精神病理として現れた現象なのである
創価などでもそうである、そこも精神病理学の対象でありナチスとかとも共通したものがある、精神病理学というとき現代社会が病んでいるということである
個々人でも個々の家族でもそうだが社会自体が狂気と異常をはらんでいる
それが爆発したのがナチスでありオウムとかなる、またカルト教団でもそうである
何ら本来の宗教とは関係ない、精神病理学の対象なのである
それが病的なものだからいつかナチスのように社会を席巻して狂気に向かわせることが怖いのである
それが怖いのは個々人なら家族ならそこでとどめられる
そういう狂気の団体は社会をまきこみ大混乱におとしいれられる、現代の戦争は集団的狂気ともなるからだ

ともかく人間はかたより異常化する、第一あることに優秀だとしてもそれは一部分のことである、でもその一部分で優秀でも異常に優秀さにこだわる
そういう専門的なことで優秀なことはある、現代は専門家の時代である
その専門家とは偏った人のことである、だから異常性が社会の中で現れる
40万人がコロナウィルスで死ぬと言った学者もそうである
何か突飛なことを真面目に言うのである、こういうことは専門家時代になるとその専門意外のことは関係なく専門にこだわりすぎてそうなる

それで武田邦彦氏は機械とか物を研究する人間は頭が冷たくなると言っている
それは何か人間の情的なものが失われてしまいあたたかみが失われるからだろう
科学者にはそういう人が多いかもしれない、理系だとそうなりやすいかもしれない
その対象が物であり機械だからそうなりやすいとなる
でも牛馬でも相手にしているとそこに情が生まれる、相手が血の通った動物だからであるそれで馬と結婚した娘の伝説とか語られる、動物でも人間化する
でも機械だとそうはならないのである、ロボットだと情は通わない
知、情、意というとき情が喪失してしまったのが現代にもなる

結局社会が狂っているという時、この現代文明社会を全部理解できる人などいないからである、いくらある部分に専門家になっても社会全体ではそれはほんの一部だから偏るからそうなる、人間は文明社会で全体を生きることができなくなっている
そこでこうした偏った人が生まれてくる、法律を駆使する弁護士でもそうである
そうして理論にこだわると何か異常化している、専門馬鹿にもなる
つまり現代は全人格として成長して形成することが不可能なのである
だから部分化して専門化してかたよったものになりそれが異常性を産むのである


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2021年05月13日

庭作りでコンクリートを壊すのに苦労 (人間は経験からしか学べない)

庭作りでコンクリートを壊すのに苦労

(人間は経験からしか学べない―石工のまねをする)

庭師、大工、壁塗り、デザインなど何かこのようにいろいろできる人がコンクリートを壊して木を植えるというのでそのコンクリートを壊すことで苦労した
自分も手伝った、コンクリートが結構厚かった、それで前は成功したのでもう一つ木を植えることにしたがそれが難儀だった
自分はそういうことに気付きもしなかったしできると見ていなかったのである
ただ何かそういう提案がありでるのかとなりまかせた
ただ正直金がかかるのでしたくないということはあった
ただ成り行き上でそうなったのである

それは玄関にもなっているから二つの木があると森の中に入るようにもなるからいいとなる、前植えた紅葉の木は成功したからである
それでコンクリートが大地を圧迫するとか言うので気になった
そしたらコンクリートの道路を作る造園会社のページがでてきた

呼吸するコンクリート駐車場をつくる。 
http://www.zoukinoniwa.biz/blog/2018/08/30811.html

コンクリートの下でも土を活かしている

通気口を作るとか何かそういう工夫をしている、だからコンクリ―トの下でも土が活きている
不思議なのはななぜコンクリートの一部の土から紅葉の木が伸びてまたノウゼンカズラの木が伸びて花が咲く、それは地中深く根が張ったためだと見ている
いかに根を張らせるかが問題になる
ただ石がでてきたり何か中は木を植えるにはいい感じではない
でもこのサイトだと土を活かす方法が書いてある
何か私は理系ではないから理解しにくいがなんとなく理解できる
コンクリートでも土を活かすために通気口とかいろいろしている
コンクリートの下だと土が圧迫されて死んでいるのかと見るがそうではない

土の中には、空気がたくさんふくまれている。土は空気から酸素(さんそ)を吸(す)って、二酸化炭素(にさんかたんそ)を出しているんだ。つまり、呼吸(こきゅう)しているってわけだね。

でも本当は、土自体が呼吸しているのではないよ。土の中の細菌(さいきん)や小さなカビなどの微生物(びせいぶつ)が、呼吸しているんだ。植物も土の中の微生物なども、土の中に新鮮(しんせん)な空気があるから元気に生きていける。作物を植える時、土をたがやすよね。これは、土の中に新鮮な空気をたくさん送りこむためにやっていることだよ。

土も呼吸(こきゅう)をしているの?
https://www.panasonic.com/jp/corporate/sustainability/citizenship/pks/library/011plant/plan008.html

コンクリートにおおわれると呼吸しにくい、だから通気口が必要になる
何か庭作りと農業は共通したものがある、植物を育てるから共通している
どうしても土を知ることが大事になる、土を知らなくては農業はてきないとなるからだ
だから農業は本当にむずかしい、素人だと必ず教える人がいないとできないのである

今は田舎にいても農業がわからないのだ、農業している人は一割にもみたないからであるただ私は理系ではないからこうして化学とかなると苦手でありわからないのである
化学記号などは学校の時一番苦手でありわからなかったからだ
でも何かわからないなりに現実の農業とかから学ぶものがあったが何も知ることなく終わったとなる
こうしてとにかく学ぶべきことが山ほどあるのに学ばないで終わっているのが人間なのである、それを老人になって死ぬ間際に痛切に知るということにもなる

ともかく何か今は若い人でぶらぶらして職につかない人が多い、ニートとか本当に田舎でも多いのである、だから時間を無駄にしている、それがとりかえしつかないものになる
なぜそうしたことで切迫感をもたないのか?
何か時間が永遠につづくように錯覚しているからだ、それは自分でも若い時はそうだったこんなに時間が早くすぎてもう死ぬのかということがショックなのである

今回は作られた庭の修理とかであった、塀とかの修理であった
でも新しく玄関の方にもう一本木を植えることが提案されて実行したがこれが思った以上大変な作業だったのである
コンクリートを壊すのが大きな仕事になった、それを手伝った
そして楔を入れるようにして部分化して割る
実は昔子供の頃近くに石屋いてそうしていつも楔(くさび)で石をたたき削り割っていたのである、ただその時は機械がないから手でしていたのである
自分でも楔(くさび)打ちコンクリートを割って捨てたのである
石屋とか石工のまねをしたとなる、それでも経験したことで必ず理解するものがあるのだ

何にしろ学問でも身につかないのは現実問題から出発しないからである
学問とはどうしても高校までは試験のためにあるとなり嫌になっていた
ただ私の場合、奇妙なことは大学出て無職だったが学問に興味をもったのである
それは旅すれば地理に興味をもつから自ずとそうなったのである
つまり人間は現実問題に直面してその解決のために学問が生まれたからである

一体どうしてこの辺の原発事故から復興できるのか?

これが最大の課題でありこれも学問と関係している、特に放射性物質に汚染された土どうなっているのかとか除染が可能なのかどうかということが生々しい現実の問題としてあるそれは理系であり文系となるとまた別な問題の解決があるともなる
原発事故の問題をモラルの退廃からその原因を追究するとなるとそうなる
それは自分自身が書いてきたことである
でも理系の専門家が最も重要なものとして事故前でも後でもそうなった
ただその理系の学者でも放射線がわかったわけではない、だから被爆の森というNHKの放送でもそれほど事故から十年すぎても影響がなかったとも報告していた
つまり実際にどういうふうに放射線が人間に影響するのかわからないのである
それはコロナウィルスと似ている、これも未知でありわからないから不安になる人はなる専門の科学者が学者がいてもその人たちもわからないのである
だから憶測で言っているからなんだ素人と変わりないのかとも見るのである

人間はなんでもいいから経験すると頭に関係なく悟る、知る
経験しない限り現実問題ではない架空の問題のようになってしまうのである
だからつまらないことでも経験することが大事である
本ばかりテレビばかり見ていてもわからないのである
神を知れとか言っても聖書を千回読んでもわからない
ただ過酷な経験から知るのであり聖書を一回も読んでいなくても神を知ることは可能なのである、自分自身がそうだったからである

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2021年06月01日

立場が変われば見方が変わる(相互理解の難しさ) (男女でも見方が変わる)


立場が変われば見方が変わる(相互理解の難しさ)

(男女でも見方が変わる)

近くの人が80過ぎた人がしきりにいう、先生になぐられたことを根にもっていたのであるその先生も近くの人だったがじっと前に死んだ
その頃普通に学校は先生は生徒をなぐったり虐待していた
私も学校でそうさせられた記憶がありそれが心に残っている
何か人間を人間として見ないのである、奴隷のように見ているのが先生だった
またそうして厳しい先生が地域でも家族でもいい先生とされてもいた
今は逆に虐待だとか煩くなっている
ともかくそうしたことは意外と忘れない、根をもつことになる

ただ同世代の女性と話ししたらそういう厳しい先生の方がいいのだとしきりに言う
今は子供をあまやかしているという、これは女性から見た見方だと思った
女性はなぐられたり廊下に立たされたりしない、かえって笑っているだけだったとなる
そして厳しいししつけをするのがいいとされた時代だとなる
それで加治将一のyoutubeで団塊の世代の同期の人が子供は口答えするな、何も言えず飯を食えとしか言われないし何かというと殴られたとか言っている
その人は8人兄弟だというからそうもなるのかもしれない
でもそういうふうに地震、雷、火事、親父とか威張っていたのが昔の親だったのである

女の子にはそういうことがないからかえって厳しい方がいいとその母親となって年老いた女性は言ったのである、ところがその人には三人の息子がいるが一人は絶縁にもなっている、母親は苦しんでも何の関与もしない他人と同じなのである
そこには何か事情があるにしろ育て方にも問題があったのかともみる
ただ貧しい底辺の人だからそこにも問題があった
たいがい家庭では父親はこのように威張っていた、それが普通だったのである
だから大人になった時もそういうことを忘れない、それでその恨みを言うようになる
私の場合は早く父親が死んだからそういうことがなかったのである
もし生きていたらかえって恨んだりしたかもしれないのである

教育とは何か?それは自主性を育むことなのだが家庭でも学校でもそれができない
強制と体罰にもなる、人は何らかの才能を持っている、でもそれが伸ばせないのである
それは自主的に学べる環境が与えられないことにある
もしそれぞれか自主的環境が与えられれば自ら学ぶようにもなる、その時こそ学ぶことが身につくことになる
だから私の場合は大学を卒業していからの方が勉強したのである
大学ではほとんど勉強していないかったからである、勉強に興味をもてなかったからである
結局その後どうなったかとういうと就職もできないからアルバイトとか流れ作業のような底辺での仕事しかなくそれが嫌になり家庭環境に恵まれて旅ばかりしていたとなる
別に旅がもともとしたいというのではなかった、仕事に興味をもてないし就くこともないからそうなっただけである

結果的に旅ばかりしていれば自ずと地理に興味をもつようになった
また外国にも50代で行ったからさらに地理に興味をもつようになった
地理はまずいくら本を読んだり教えられたりしても興味をもてないのである
実地にその場に行かない限り興味をもてないのである
例えは詩とか作るにしても意外とその前にいろいろな体験をしておくことである
それで有効なのが登山とか旅とかになる
山を詩にしようとするとき山を知らなければならない、するとその詩を作る前に登山でも必要になる、でも登山となると体力がないので私は40代前にやめたのである
詩を作るというとき意外と体力がないと作れないとういことがある
なぜなら軟弱だったらとても荘厳な山を詩にすることができないのである
自然そのものが軟弱だったら詩にできないことがある
ただどうしても詩人というと体が頑丈な人は少ないと思う
ただ体が頑丈な詩人もいる、そういう人はまた別な感性に欠けるともなる

いづれにしろ立場が変わると見方が違ってくる、それで相互理解がむずかしくなる
男女間でもそうであり地理でもそうである
韓国から見た中国大陸からみた日本と日本から韓国や中国を見る感覚は正反対になる
日本は島国として韓国と中国をみる、それが固定観念となり世界を見誤るとなる
どうしても日本は島国でそうなりやすいのである
地理的に巨大な大陸的なものを理解できないのである
だから日本の太平洋戦争は無謀になった、西安まで日本軍が行っていたことに驚く
そこがどれだけ遠い場所かそんなところまで行っていたことは本当に無謀だったとなる
満州にしてもその広さを知らなかった、またアメリカでもその広さを知らなかった
知りえようがなかったともなる、それはその国の地理とかそこに住む人の立場を理解できなかったからだとなる
結局人間は自分の住んでいる場所がどこであれ中心として世界を観ているのである
だから必ずそこでその住んでいる場所が違うから見方が違い誤解が生まれるのである

人間が意志疎通ができないというときそもそも男女間でそうである
なぜこれほど離婚が多いのか、私の所に来た人が離婚が多いことに驚く
小高の人で二人離婚している、最近では67くらいになって離婚した
なぜか自分の家に来た人は離婚が多い、二回離婚した人もいる
熟年離婚も本当に多いのである、それだけすでに男女間でも意思疎通ができないということである
江戸時代でも離婚が多かったという時もともと男女の間でも意思疎通がうまくいっていなかったともなる
それは男女で基本的に相違が大きく社会でも世界の見方でも違っているからだとなる
その落差が大きいからどうしても離婚になる

また現代だと無数の職業がありその職業が違うと相互理解がむずかしくなる
それで鉄を作る人とか木地師とかは神秘的な存在になり伝説にもなった
天狗とかなんとかにされた人も何か意志疎通できない人だからそうなった
それより江戸時代なら隣の村の人との交流でも麦つきに来た若者が蛇だったとかされる
つまり隣の人すらなじめない異様な人とされたのである
それだけ隣の村同士でもなじめない交流しない世界だったのである
だから飯館村の大倉村と佐須村が明治になって合併できなかったのは民情が違うからとなっていたのである、民情が隣の村同士でも違ったのかとなる
それだけ人間が相互理解することは立場が違うと地理でも隣村ですら離れている相互理解が難しくなっていたのである
現代でも実際は相互理解することは本当にむずかしい、確かに情報が膨大になやりとりすることができても現実問題として相互理解する意思疎通することはむずかしい
グロ−バル化すると油まみれの一羽の海鳥でイラクを誤解したようになる
テレビの映像からだけでは実際は理解できないからである

人間が理解しあうことがどれだけむずかしいかは男女間で三分の一が離婚していることでもわかる、また立場が違うと見方が変わるからである
人間はそれだけ多様な立場がありそれで誤解も多くなる、現代はこれだけ複雑になると職業が多様化するとさらに理解がむずかしくなる
何か専門用語を弁護士でも科学者でも使うと理解できなくなる
まるで外国人と同じになる、現代とはこれほど他者を理解することがむずかしい時代はなかった、江戸時代なら農民が大半だったというときそこで理解しやすかったのである
侍にしても農民から税をとって生活していたから農業を理解することがあったからだ
現代はもう無数の職業がありさらにグロ−バル化すると理解不可能になったのである
ただ物が入ってきても相互に理解しているわけではないのである
そこでグロ−バルな争いにもなり世界大戦にもなったのが20世紀だったのである

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2021年09月20日

思考脳、創造脳を鍛える時代 (数学も考える手段としてあった)


思考脳、創造脳を鍛える時代

(数学も考える手段としてあった)

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私は文系であり数学が苦手だった、その原因が必ずしも生来的なものではなく学校での暗記教育にあった、だから高校まで自分で考えて勉強したこともない
何か興味あって自ら勉強したこともなかった
まず家には一冊の本もないのだから家で自主的に勉強する環境がなかった
また成長しても30才以上になっても家に一冊も本がなかった
それでいつも本を買うために仙台市まで行くほかなかった
専門的な本がまず売っていない、そして仙台市でも本は限られていたのである
これは相当なハンディキャップがある、なぜなら文系となると本を読めば知識が広まるからである

本が買いないとすると知識を広め深めようがないのである
それで町の本屋では「冠婚葬祭」とかが百万部も売れてベストセラーになっていたのである、要するにそんな本しか置いていない、田舎では専門的な本を読む人自体極端に少ないからである
東京だと古本屋もあり本は手に入る、それでわざわざ東京まで行って全集を買ったりしたまず本を手に入れることが知識を広める深めることでありそれ意外にないとしたら
勉強しようがないとなってしまうのである
ただ田舎は感性を磨くのには適している、自然があるから適している
逆行に東京とかなると感性は磨けない、自然がないからである
すると俳句とか短歌でもなかなか作れない、季語が必要でありその季語は自然の中で農民が暮らしの中で作りだしてきたものだからである

勉強とは試験のためにしているのではない、でも実際は試験のためでありそれも暗記だけの教育でありそうなると何かに興味を持つこともできないのである
だから高校まで何か考えたことはなかった
人間が生きることは無数の疑問がありなぜかと考えることが人間たらしめている
それで宇宙は考えないが人間は芦のように弱い存在だか考えることで宇宙より優っているとかにもなった
考えない人間はそもそも人間でもないとなる、奴隷だともなるし機械だともなる
現実にこれほど文明化しても自ら考えない人は多数なのである
それでカルト教団とか大衆を洗脳するマスコミに支配されることになる

数学でも実際苦手でも考える手段として学べば専門家になれなくても興味をもつ
ただ暗記だけだったらそれは考えないのだからつまらないとなる
でも江戸時代辺りまでは実用として読み書きそろばんが必修であり自ら何かを考えるということはできない環境だった
でもそろばんができるとか子供のとき自慢になったがコンピュターがでてきて何の役にもたたなくその労力も無駄になった
活字拾いをして印刷していた文選の仕事も能力として認められていたがそれもコンピュター化して役たたないものとしてその技術で就職しようとしたが採用されず犯罪者になったというドラマを見た

人間社会にはこういうことが常にある、もともとあった技術が進歩して新しい技術になったとき不用になる、そのために職を失う
静岡では大井川の渡しの仕事をしていた人が明治になり失業した、その人達はお茶作りをするようになったのである
人間社会には常に技術とか時代が変わりこれまでの技術でも知識でも無用化される
そういうことは常に起っている
もし技術でも時代が変わらなければ経験あるものが歳の功となり偉いとなっていたのである、老人は尊敬されていたとなる、でも今は技術革新の時代であり老人の経験も活きてこないから老人はいらないとなるのである

要するにこれから大事なことは思考脳と創造脳を鍛えることである
ただ暗記していては世界の競争に勝てないからである、日本は暗記脳に優れていて明治維新とか戦後の高度成長を成すことができた
それもものまねに優れていたというにすぎなかった
日本で戦後電器製品が売れたのは別に発明でもなかったのである
日本で優れているのは改良改善だというとき何か全く新しいものを作りだしたことではないのである、日本人はそもそも自ら考えることがない同調民族でありみんな同じにしようとする、だから異質な者を特に嫌う、村社会なのである
だから何か変わった奴は嫌われて排除される
でも大陸となると違っている、中国でもあれだけ広いから変わった人間もいる
そういう人間も役立つとかとみる、寛容さがある
それで「奇貨置くべし」とかの格言が残る、変わった奴も何かに役立つとして食客として食わせておくとなる
こういう志向が日本人にはないのである

いづれにしろ自分はもともと学問とか好きだったのだが学校での暗記脳教育で自ら考えることをしないので興味を失った、私が自ら勉強しはじめたのは大学を出てからだったのである、それで何か理解することが遅すぎたのである
もはや死ぬ時期になり理解力と思考脳ができてきたのである
第一50歳からバックパッカーになって世界を旅行したことも遅かったのである
それで相当に時間を無駄にしたのである

例えばグロ−バル化を考える時、数学的に考える時どうなるのか?

距離、時間、スピードの関係で考えると距離は変わらないが時間は短縮できる
スピードを速くすれば短縮できる、10キロを一時間で行くとして徒歩で行くのと車で行くのと違ってくる、100キロを時速50キロなら2時間で行く時速70キロなら
100÷七〇=・・になる1・4時間とかなる

AからBまで行く時間は短縮できる、距離自体は変わらなくてもスピードが速くなれば短縮できる、そうして世界には相当な距離で隔てられていても世界の物流が早くなる
物を運ぶにしても船と飛行機では格段の差かある
百倍とか千倍の差がある、なぜなら船だと一か月とかかかってしまうからである
その差が大きくヒト、モノの交流が盛んになりグロ−バル化社会が生まれた
そして時間でもそれだけスピードによって変わった時、空間も拡大して認識する

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正方四辺形を一周する時間を図式化する、一辺一時間で行くすると一周するのに四時間かかる、次にその倍の面積になると二時間で一辺を回ると八時間かかる、次に一辺を三時間で回ると一二時間かかる
つまり空間軸が広がるとその広さを理解するにも到達するにも時間がかかる
ただスピードを速くすれば早く回れる到達するとなる
それで空間の理解が深まることはないのである
確かなことは空間軸が拡大することによって比例してそこを回り理解するのには時間がかかることなのである、空間軸が拡大すれば時間軸も拡大する、比例する
ただそれは数学的な思考でありその空間を理解することは数学のようには理解できない
ただ空間が拡大すれば時間も多く必要になることは確かなのである
でも飛行機で世界を回っても空間を理解することはできないのである

いづれにしろグロ−バル化するということは距離を短縮する、距離自体は不変だがスピードによって距離を短縮するとなる
空間が拡大してスピードが速くなるとどうなるのか、世界の経済成長とか技術が伝播する時間が極端に短縮したのである、中国が十年そこらで急成長したのも交通の発達で空間が狭められたからである、すぐに先進国に追いついたのである
飛行機がないような時代はそういうことは不可能だった、船で運ぶような時代では不可能だったのである
またインタ−ネットとかで通信で世界が結ばれるのもグロ−バル化を促進した
江戸時代のように飛脚で手紙でも運んでいたら時間がかかりすぎる
瞬時に世界と交信できるので世界が村となるというマクルハーンが言ったようになった
ただ通信でも映像でも瞬時に送られてもそこにはぞの場のこと空間を地理を理解することはできない、それで誤解が生まれて油まみれの海鳥を世界では誤解した
イラク戦争でイラクが悪い奴だとすりこまれて怒りになったのである
その周りは別に油に汚染されていなかったのである

ともかく文系であれ理系であれ思考脳を鍛えることが大事になる、数学をただ暗記だけで教えないことである、図形を使い考えさせる思考脳を鍛える教育が必要になる
思考脳と創造脳を感性脳を鍛えることが必要になる、これからのグロ−バル化世界では思考脳感性脳創造脳が求められているからだ、これは子どもの時から訓練していないと身につかない
簡単なことでも計算でも思考脳を鍛える、だからソロバンのようなものはもう役に立たない、それはあくまでも暗記脳だけのものだからである
そうなれば計算機とか機械に変わられたのである
暗記脳的なものはコンピュター化される、AI化される、翻訳でもAI化されている
ただ思考脳と創造脳は絶対にAI化できないのである
つまり思考脳と創造脳が人間たらしめているのである
結局人間の能力は実は見出されていない、開発されていないのである
何か素質があり生まれつきなものがあったとしてもそれが開発されないと埋もれたままなのである、その素質が遺伝で決まっているとしてもそれが見いだされ開発されなかったら才能も開花しないのである

これからの教育は一律に学ぶ暗記脳から思考脳と創造脳を鍛えることである
それは別に特別な人だけのものではない、鍛錬で身につくものでもある
もちろん天才とかはごくごくまれにいるが一般の人でも思考脳と創造脳を鍛える時代なのである、そもそもコンピュターとかAIとなれば機械的なことはしなくつてもいい、必要ないのである、だからコンビニでもスーパーのレジでも機械化されて人が必要なくなる
人間に必要なのは何かと問われるのであり今までの教育の仕方では現代のグロ−バル化には適合できないとなる


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2021年10月01日

これからの教育はどうするのか (思考脳、感性脳、遊戯脳の育成)


これからの教育はどうするのか

(思考脳、感性脳、遊戯脳の育成)

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明治維新以降の教育はヨ−ロッパ文明をまねることだった、何かを日本人が独自に産みだすことではなかった
だから暗記脳で良かったのである、江戸時代でも暗記脳教育だった
「読み、書き、そろばん」で良かった、それは自ら考えることではない、暗記することである、それで子供の時そろばんが得意だったけど何の役にも立たなかった
父親が酒店の丁稚だったので子供にも同じ教育をさせようとしたのである
つまり江戸時代でも教育は読み書きソロバンである
第一文字を読めない、書けない人がいたのだから文字を読めるということだけで知識人にもなる、侍は武道だけではない、読み書きをできていたからエリートとなっていたのである

それでタリバン兵には読み書きができない人がいるというとき権力を奪っても行政になるとそれもできないとなる、字が読めないし書けないとなると何か飛行場に入る時の検査もできない、事務ができないからだ
ただ日本人は寺子屋で読み書きを習っていて読み書きができる人が多かったのが違っていた、でも明治になっても読み書きができない人がいたのである
その人はハガキとか手紙を読めないし書けないから人に頼んでいて肩身の狭い思いをしていたのである、大正生まれの母とかなると尋常小学校で一応読み書きはできたのである
その差は大きいとなる
だから読み書きは必要である、でもこれだけ高度な知識社会になると読み書きだけではもう成り立たない、コンピュター社会になるとプログラムができないとエリートになることは不可能とまでなってきている
それで小学校の時からプログラムを教えるようになる

明治維新以降の教育は基本的には画一的に暗記させる教育である、読書百遍自ずから通じるとかなる、暗記脳教育でありそれで間に合ったでいたとなる
近くの寺があったところに小さな碑が埋もれていた、そこはどうも暗唱しろということが記されていた、そこは寺子屋がありそういうものが残っていたのかとなる
例えば漢詩とかでも文学的なものでも暗唱することが教育でありその中味を理解することよりまずは暗唱することが教育だったのである
なぜ自分が勉強が嫌いになったのか、それは確かに能力がないということもあった
でも確かなことは高校まで自分で一回も考えたことがなかったことである
試験でも暗記したことで暗記脳がいい点数をとることにもなる

それでなぜ自分が数学嫌いであり興味がなかったのか、それは何でも暗記することだったからつまらないとなっていた
でももし算数でも数学でも自ら考えるものとして勉強すれば興味あるものとなったのである、そもそも足し算の意味はわかるにしても掛け算とか割り算の意味がわからないのである、そういうことを考えたこともないのである
そして意外と与えられた問題を解くより問題を自ら作り解くことが考えることに通じて
興味を持つことだと死ぬ時期になって理解したものも遅かったとなる

要するにこういうこは能力の差があっても訓練が必要なのである
ただ特別優れた人は訓練など必要ないともなる、天才とかなるもう教えなくても理解できるともなるからだ、私が言っているのは普通の人を対象にしたものである
図形などでもそれは相当に様々に考えて理解することがある
それがただ数式を暗記するだけでは興味が湧かないのである
だから算数でも数学でも図形遊びのようなことをしていれば積み木遊びでも何か具体的なものから理解して抽象的な数字を覚えるといいのである

そこで次に必要なのは遊戯脳なのである、人間には遊ぶということが基本的にある
子供の時遊ぶ時代であり遊ぶことで様々なものに関心を広げるのである
何か遊びを作り出すことは創造的な行為である
ただこの遊戯脳は学校ではそがれのである、学校だと一つの軍隊であり集団であり一律的行動が求められるからである
また学校は工場だというときその建物を工場を模したものだというときもそうである
現代の工業社会に適応させるものとして作られたからである
それで寺子屋では学校のような整然として机が並べられていない
ばらばらになっていて先生が個別指導するようにもなっていたのである
学校という形態は明治以降に作られたものなのである
大勢の人間の規格化であり一律にして工場で大量生産するものの備えとして作られたのである
これも明治以降はヨ−ロッパに習うことだからまねることだからそれでも良かったのである

それは戦後もつづいたのである、一見日本の高度成長が電機製品が売れたことで日本がは特別優秀な民族だと世界に誇ることになったがそれは何か独創的なこと発明したことではなかったのである、日本では何か独自に発明したことがない、ものまね民族だと言われていた、それは今中国でもアメリカのコピーだと言われるのと似ている
コンピュターはアメリカが発明したものだからである
そのためにバブル崩壊以後は日本は30年間停滞しして賃金も上がらない、貧困国家になってしまったのである
つまりヨ−ロッパ文明をまねて成長したのはいいが日本独自のものを産みだせなかったことが停滞の原因だったとなる

これからの教育は思考脳と遊戯脳と感性脳を育てることである
遊戯脳というときただ遊ばせるかのかと反対されるが人間の本質として遊ぶことが重要な要素としてある、ただ動物でもそうだがチンパンジーに数を教えさせた、そしたら興味をもってしていた、チンパンジーでも遊ぶことがありそれを自ら楽しむことがある
ところが数を覚えることでその度にご褒美でバナナをくれたりしていた
そしたら関心がバナナの方に移って数字を覚えることに関心がなくなったという
何かこれは遊び自体で楽しんでいたのにバナナというご褒美をもらうことが目的になって興味を失ったとなる

これは人間にある、画家でも絵を売ることが目的になりどれだけ金が得るということが目的となり肝心の絵を追求することがなくなる
何かそういうことが人間の仕事には多い、肝心の仕事に興味を覚えるより金のためにするとういだけになり歪められる
そういうことは人間社会に日常的にあるからである
人間にとって関心とか興味が大事であり遊びも大事である、でも金にならないなら利益にならないら無駄だとされてしまう、利益が上がらないからやっても無駄だとなる
人間には本当は社会の中でも遊ぶ空間が必要だとなる
その遊ぶ空間でも遊園地とかなると遊ぶことが利益の追求になる
ともかく人間はどれだけ常に利益を求めることで本来の目的とは違って歪められるからである
第一宗教とは利益とは関係ないものであった、それがただ御利益追求となり権力となったことでもわかる、利益を得るために肝心なものが必ず歪められるのである
だから私はベーシックインカムに賛成する、つまり各自利益だけを追求するものではなく各自の興味を追求して各自の個性ある人生を生きるためにいいとなる
ただそれは理想論であり実際はそうならないにしてもその思想には賛成するのである

ともかくこれまでの教育は暗記脳しかない、創造脳をもつには思考脳、感性脳、遊戯脳を開発促進することである
感性脳となるとこれはコンピュターにはないものでありこれから重要なものになる
コンピュター化できるものはもともと創造脳とか感性脳とか遊戯脳とは必要ないものとて作られている、まずコンピュターには美の感覚をもつことができないからである
確かに計算脳があっても人間的なものとは思考脳、感性脳、遊戯脳にある
これはコンピュターにはもてないからこれからの時代では重要になる
だからこれまでの工業化の大量規格製品を作る時代の教育とは違ったものになる
そうしなければイノベーションも興らず日本は停滞したままだとなる

おそらくその見本がオランダにあるのかもしれない、オランダの教育は世界でも優れているとされるからである、少人数で自由な教育をして思考脳、感性脳、遊戯脳を高めるものとして評価されている
団塊の世代などは一クラス50人とか教室がないとか騒いでいた、それだけ人数がおおかったからそうなる、そういう時代は一律な規格品を作る教育でも良かったとなる
第一学校に行けない国とかもあり学校に行けるだけでいいともなるからだ
実際に私の家には本一冊もなかった、もし家に本があり自ら読んでいたら考えることもしたかもしれない、家で読んでいたのは貸本屋から借りた漫画本だったのである
ただ今になると知識を探求する場が拡大した、インタ−ネットとかのyoutubeの教育番組がそうである、これは相当に勉強になる、無料で学べる
だからこれから自主的に思考脳、感性脳、遊戯脳を鍛える環境が整う時、日本でも何か発明する人がイノベーションを起こす人が出てくるということはありうる

とにかく自分が本格的に勉強したのが大学を出てからだった、そこで旅をして地名に興味をもったり地理に興味をもった自ら学習することになったのである
本だけ読んでもいても今日を持つとはならない、外国を知るには百聞は一見にしかずであり実地にその場に行った人が一番実感として理解するからである
いづれにしろ日本は少子高齢化であり今までの様な大量規格製品を作り出す時代でもない創造的な能力を高めることがこれから大事になる
少数精鋭主義になる、それでオランダの教育に習うのがいいとなる
オランダは小国でも貿易では大国になったりしている、小国でも大国にもなる
ポルトガルでもスペインでもイギリスでももともと小国でも大国になったからである
中国とかアメリカは大国なのだからそこから優秀な人が必然的に出て来る
でも小国でも優秀な人を才能を育てることができるということでオランダが見本になる

100校あれば100通りの教育がある国」オランダ 日本が学べるものは?

そもそも机の配置が自由である、それは日本の寺子屋と似ている
posted by 老鶯 at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2021年10月02日

内発的動機と外発的動機で仕事や勉強の態度が変わる (継続できるのは内発的動機をもつ者である)


内発的動機と外発的動機で仕事や勉強の態度が変わる

(継続できるのは内発的動機をもつ者である)

お金を貰えるから、嫌な仕事でも頑張る。
仕事をサボっていると、怒られるから、真面目に働く。
クラスで1番の成績を収めて表彰されたいから、勉強を頑張る。
テストで低い点をとって恥ずかしい思いをしたくないから、一応最低限の勉強はしておく

常識を覆す、やる気を引き出す科学的方法

ここに書いてあることは自分の思うことと一致していた
前に読んでいたが忘れていた、でもプログを読み返してなるほどなと思った
内発的動機と外発的動機のこともそうだった
内発的動機だと芸術家でも成功する、外発的動機だとか報酬を第一とするから成功しない一時的に有名になったり金が入り成功したように見えても芸術家としては成功しない
肝心の内発的動機がないから報酬をもらうとそれで目的が達成されて終わる
でも内発的動機でつづているものは最後に自分自身の芸術の完成に向かう
ただその時内発的動機だとしても誰にも認められず金銭的にも恵まれないとするとつづけるのはむずかしいとはなる

これは芸術家だけではなく教育にも言える、内発的動機として勉強すればそれは継続するし終わりなき知的好奇心として独習でも勉強しつづける、でも外発的動機だと試験とか外部の評価とか有名高校大学に入ることが目的だとその目的が達成される勉強もしなくなる内発的興味から勉強するならそれは一生でも継続するのである
ライフワークになるのである

内発的動機というとき動物でもそれがあった、チンパンジーに数字を覚えさせようとしたときそれにチンパンジーは夢中になった、チンパンジーも遊ぶことができてそれが面白いからしていた、でも必ずそこで報酬としてバナナとかを与えていたらそのバナナが欲しいということになり数字を覚えることに興味を失ってしまったのである
そういうことを子供でも実験したことをここでは書いている
私自身の経験でも教育とはすべて外発的動機からしていた
また高校まで一回も自分自身で考えることをしなかった、ただ試験のためとか親に認められたい、みんなに頭がいいとみられたいとかしかなかった
つまりすべて外発的動機だったのである、何か知的好奇心から勉強していたのではない
常に試験の点数をあげるためとかあらゆることか外発的動機でしていた
そういう勉強はつづかない、内発的動機でしているのもは一生継続するのである
人間の知的探求心は無限だからである

人生何をするにもやはり内発的動機から始めないと失敗する
でも実際はみんな外発的動機で仕事でも何でもしている、日々の糧を稼ぐためにしている内発的動機と外発的動機は対立する、必ず金にならないからやめる、認められないからやめるとなるのが普通だからである
金にならないと事業だって何でも継続できないからである
この両方を備える仕事とかなかなかないだろう、現実社会ではまずは利益だとなる
利益がでないならやめるとなる、また会社でも認められない
だから例え不正でもノルマを果たせば上司に認められ会社に認められる

でも考えてみると会社でもどういう動機で働くのかが問題になる、内発的動機が問題になる、それがないとモチベーションもあがらないとなる
ただ利益になればいい、売れればいいとしかならないといづれは会社もだめになる
現代は何かこうして意味を求められる時代になる、ただ利益を上げればいいとはならない内発的動機は外部に左右されないことである、その人にとって価値があり意味があることを継続することである、ただそれを全く外部的に認められないし評価されない金も与えられないことがある、そうなると継続することが困難になる
会社経営などは利益があがらなければやめるほかないからである

外発的動機というとき事業を始めた人はただみんなに自分は優秀だということを見せるためにした、確かに会社に勤めいたときは難しい資格をもっていて優秀だったのである
エンジニアとして優秀だったのである、でも事業を始めたときその動機は自分が優秀なのだから会社経営しても成功すると思っていたのである
そこに内発的動機が欠けていたのである、外部に優秀だと見せたいと言うだけだとなる
外発的動機になり内発的動機には欠けていたとなるからだ

つまり人間は常に外部を気にしている、みんなに知られて認められたいという願望が強いでも内発的動機を持つものはそういうことがあってもやはり内発的に継続するものが大事なのである、外部から認める認められないにしろ内発的動機から追求して来たものを一生追求する、特に芸術家となるとそうなる
価値とは相対的なものでなく絶対的なのである
唯一無二になる価値になる、花でもいろいろあってもそれぞれ個性があり相対的に価値があるのではない、その花にしかないものがありそれが価値となっているのである
みんな同じだったら価値がないからである
だから誰でも作れる大量生産できるものはやがて価値がなくなる
それが日本の電器製品とかだったのであり今では韓国でも中国でも同じものを作れるから価値がなくなり売れなくなり日本は衰退したのである
もし日本でしか作れないとかまねできないものだったら依然として価値を持っていたからである

ともかく現代のようにある程度豊かになるとそうした個性が求められるようになる
なにもない時代は個性より同じものでも作って売れる、でも器でも同じものがいいとなっていたのは貧乏な時代なのである、器一つにも個性あるものを求めるようになるからだ
同じもの大量生産する時代なら個性は必要なかったのである
日本の教育もやはり同じであり工業社会に適応する規格品を作ることが教育だったのである、思考脳、感性脳、遊戯脳は必要ないものだったのである
それは大量規格製品を作る時代だったらそれで良かったのである

これからそういうことが通用しなくなった、それでみんなアーティストになれというのも時代が変わったなとなる、そういう時代の変化は老人になるとなかなか理解できない
ベーシックインカムとかでもそうである、働かないいで金がもらえる、そんな馬鹿なことがあるのかとふざけるなとなってしまうのである
ただ自分の場合はそういう生き方をしてきたのは違和感がないのである
ただ企業戦士として働いてきた団塊の世代とかバブル世代とかはそういうことが理解できなくなる、教育だってそうである、大量規格製品を作るのがこれまでの教育だったからである、第一個性を引き出す教育は結構手間になりめんどうになるから先生でもしたくなとなるからだ、一律に教えているのが楽になるからである

ただ正直教育にしても別に先生がいなくても教えなくても自発的動機でしている人は自主的に学べる環境を与えてやればそれだけでもいいとなる
まず家に一冊も本がないとか子供部屋もないとかそういう環境ではいくら自発的に勉強するなってもできないのである
読み書きそろばんくらいの時代ならいいが今は高度な知識社会になるとき対応できないとなる、家にそういう環境があれば自ずと内発的動機で勉強できるとなるからだ

いづれにしろこれからの時代を生きるには今までの感覚では通用しなくなる
社会自体の価値観も変わってきているしグロ−バル化しているしそれは物流だけではない知的なものでもグロ−バル化しているからである
それに対応する能力をつけないとついていけないのである
私がグロ−バル化に反対したというのは過剰な物流のことであり知的なものではグロ−バル化した方がいいのである、それがインタ−ネットで世界的な知の交流時代になったともなる、テレワークの時代になったとなる
大学でもかえってテレワークの方がいいとなるとき実は教授でも教える方でも今度は生徒によって選ばれるのである、それも飛び切り優秀でいなと選ばれないとなる
なぜなら別に個々の大学で人を集めて講義するのと違うからである

その人の興味によって最も優秀な先生からyoutubeとかテレワークで学べばいいとなるからだ、かえって講堂で多人数で講義を受けるよりわかりやすいということもあったというのは別に大講堂で講義を受けるより身につくとなる
教えるも先生も淘汰され時代にもなる、AIの授業にもなる、実際ある分野では翻訳とかではAIが優れているともなるからだ、それで普通の先生は失業する時代になる
ただ創造的に教える先生は残るとなる、創造的なことができる分野は残るとなる
先生はもう選ばれた人しかなれないとか医者でもAIが発達するとそうなる
あらゆる分野でAIとは違ったものをAIにできないものをできる人が生き残るとなるからだ
ただ友達を作るとかその他の人間的なことが育めないことがある
そのマイナス面ももあるがプラスの面も大きいしそれが時代の流れになるとき無視できなくなる、知らないですまなくなるのである
車時代に車を持たないことは時代も社会も知らないことになるから問題なのである
例え車をもっていないくても車社会だから車の知識が必要になる
それで自分自身が車ももたいなで車を知らないことで失敗したのである
身内が交通事故になって自賠責とかでも知らなかったからである
こうして自分は社会から離れて暮らしたのはいいにしてもいろいろなことを知らないことで失敗したのである


posted by 老鶯 at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など