2017年11月26日

人間はみんななんらかで異常である (異常を異常と意識できない)


人間はみんななんらかで異常である

(でも異常を異常と意識できない)

人間が異常だというとき何が異常なのか?異常と正常はどうして区別するのか?
異常の人は異常と思っていない,自分は正常だと思っている
そして人はなんらかでみんな異常性をもっている,自分ももっている
内向的な人は極端になると引き籠もりになり人と接しなくなる
自分はそうなっていた,そして社会性がなくなる

では自分の異常性はどうして生まれたのか?
それは自分の環境にあった,そういう異常性の中でも暮らしていけたことである。
親がいて三食用意されているし職につかなくても文句も言われないのである。
うるさく就職しろと言われて引き籠もりがニートが親を殺す事件がある
自分も一時はあったが30年間くらいあとは職につけなど言われたことがない
自由に旅行しても文句も言われないのである。
そういうことは普通にはなかなかないが自分の場合はあったのである。
それは異常なことだった,だから社会性がなくなっていた

これが自分の異常性だけど異常なことは環境の中で作られる,なぜならそういう状態にあることを許されなければそういう異常なことでありつづけることができないからである。もし貧乏な時代だったら引きこもっていたら飢え死にする,生活保護もなにもないからである。だからこれだけ現代が無職がいることは今までありえなかったことである。
「無業化社会」なのである。いたるところに仕事をしないでぶらぶらしている若い人がいる時代なのである。田舎でもそういう人はいくらでもいる
何か自分はそういう人と良く田舎で会うからである。自分とにているからそういう人と会うともなる

ただ異常というとき普通に暮らしている人も異常な人はいくらでもいる
そもそも異常だというとき人間はその持っているもの気質でも先鋭化すると異常になるのである。陽気な外交的な人は躁鬱病とかになり陰気な人は鬱病になる。
陽気な強気の人は異常に自信家でありそれが病気だったことを自分の家族の一人が認知症になったとき知ってショックだったのである。
認知症になっても「自分は優秀だ」と言い続けて臨終になったのである。
これは本当に異常なことだった,そこまで自分が優秀だとこだわっていたのである。
それが実は正気のときはそれで通っていた,本当に優秀だったからである。
でも認知症になったときはもうそうではないからである。
でも優秀だとして自分もそう思い死んでいったのである。
ちょうどニーチェが自分が超人だと言って狂気となり死んだと同じであったのだ

だから別にそうしてこれまで社会生活をかえって優秀なものとして見られていたものが実はそれが極端化すれば異常であ狂気になる,俺は超人だというときそれは異常と狂気に向かっていた,自分の家族の一人もそうして狂気となり死んだとなる

ところがこの異常性と狂気は誰でももっているのだ,自分が接した人はみんななんらか異常だった,自分もふくめてそうだったのである。
家族の一人は庭はいらないとか木はいらないと花はいらないとか狂気のように言っていたのである。それは異常なことである。そうなったのはやはり環境だった,貧乏であり働きづめでありそういう異常性がつちかわれていた,家では働かせられることしかなく何か花嫁修行などもしない,そういう余裕もなかったからである。
だから人間は環境で異常性が誰でも培われるのである。

ある女性も狂気となっていたことに驚く,ものすごく育ての親に反発して狂気と化していた,あれほど乱暴な女性に変身していたことに驚くのである。
子供のときしか接していないからそうなったとしてもその変貌ぶりには驚愕した
育ての親もひどい娘だわと言ってすぐに死んだから良かった,全く介護などできる人ではないからだ,だからすぐにあっけなく死んで良かったなとつくづく思う
今は今度は実の親を施設に入れているが何の愛情もないのである。
五年間とか子供のとき接していてもあとは関係なくなっていたから介護などできない
金が欲しいだけで施設に入れているだけである。実の親は金をもっていても認知症になっているからわからないのである。この親も悲惨だなとつくづく思う
そんな人に世話になること自体泥棒に世話になることと同じだからである。

それは人のことは言えない,自分もそういう目にあっているからだ
その女性がどうしてそんな異常な狂気の女性になったのか?それはその女性とは長い間接していなからわからない,別にその女性が愛されないことはないし経済的には恵まれて苦しんだこともないのである。
だからなぜそんな乱暴な女性になったのか不可解だとなる
女性的優しさが全くなくなっていたのである。
自分に対してはそれはわかるにしても育ての親は長い間一緒にいたのに非情にしたことがわからないのである。

今回は異常な女性になったのはこれも環境とかが影響していた,不幸な生い立ちがありそれは同情すべきなのだがすでに40越えて高校卒業する18にもなる娘もいるらだ
この女性がどうして異常性がつちかわれたのか?
それは東京で暮らして子供が幼児の時から離婚して生活保護だったということに由来しているのだと思う,その人は社会と接しなくても生活はできていたからである。
その女性はまたとても仕事ができる人ではない,今回話し合うにもそれもできない
何か文句言うばかりでありまともに会話できないのである。
こういう人が何か仕事ができるとは思えなかった,だからいろいろやってもやめている
長つづきしないのてある。
娘もむっつりとして愛嬌もない,そして娘と母はぴったりくっついて離れないのである。それも異常な人格を形成することになる
母子家庭とか一人っ子とは平均的に異常人格が形成されやすいことはいなめない

異常だというとき事業をしていた人も異常性があった,理系でありそっちの方には詳しいでも事業となると会社勤めとは違う,多様な能力が要求される,商売でもあるからそうした能力も必要とされる,ただ機械だけをいじっているのとは違うからである。
その人は事業をして何か異常化した,失敗して借金したからかもしれないが性格がやはり異常化したのではないか?
その人はこれまで資格もあり優秀な人として認められていた,何も異常性などない社会人だったのである。法律に詳しい理系の技術にも詳しい人だったのである。

でもその人だけではないその家族自体にも異常性を感じたのである。
この家族はおかしいという家族は普通にある,それは比べてみてそれを知るのである。
自分自身の家族もそうだから人の家族のことは言えない,でも一見普通の家族としてまた社会人として認められていても異常性がある人はいるのである。
別にその人は事業に失敗していなければその異常性に気づかない
サイコパスとか異常人格かいてもその人は事業に成功したりしている人もいるからだ
事業に成功しても異常人格と思われる人がいるのである。

ただ人間はどんな人でも異常性がある,個人的にもそうだが集団的にも異常性はつちかわれる,戦争中とか何か集団狂騒状態に陥っている,戦争中は何か催眠術にかかったように戦争に国民が一丸となって向かっていたのである。
それは今の北朝鮮のような状態だったのである。異常性は別に個々人でなくても集団でもつちかわれる,カルト教団ではなぜあれだけの人が集まり社会を圧迫しているのか?
これもその異常性に気づかないからだ

異常であっても異常に気づかない

そもそも異常なことに気づくにはそういう異常な集団だと客観的に見ることができなければわからない
異常な人はその異常性に気づかないのである。カルト教団の人はむしろ外部の人こそ異常と見ているかもしれないのだ。それだけの数の人が同調しあうことは異常なのである。
だからナチスが生まれファシズムが生まれる,つまりそこで異常集団が形成されてもむしろその異常な集団に入らない者はかえって異常なものとして見られるのだ
異常が正常で正常が異常になることは歴史でもあったのである。

人間は自らの異常性に気づかない,それは個々人でもそうだし集団でもそうである。
集団の異常がやっかいなのは数によって権力をもつからである。
いくら異常だと言っても権力をもっているとその権力によって異常が認められることになる,逆らえないことになるのだ,それがファシズムの恐怖でありそういうことは歴史上で共産革命とかナチスとかその他大量虐殺として起きているから怖いのである。
まさにこれこそ集団が異常化して狂気化して地獄になったのである。
タグ:異常と正常
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2019年07月16日

天才は作れるのか?(教育、環境、時代が人間を作る)


天才は作れるのか?(教育、環境、時代が人間を作る)

天才とは何かがまず問題になる、科学者でも芸術家でも歴史に名を遺すような人が天才だとなる
天才とは凡人とは違い天才に生まれついた人で決まっているということになる
その説はショーペンハウエルが言っている
知性は母親から受け継ぐものだという説である
それがなぜ母親なのか?すると母親によって決まるのか?
母親の資質がDNAによってその人の知性も決まるのか?
それも確かにある、男性の場合その人の母親の資質がかなり影響している

ただ天才という時、努力しなくても天才であり何か成しうる人だともなる
そういう人を知っているが本当に普通の人よりエネルギーがありすでに小学校でも見分けられるほど優れている、それは知性だけではない、性格的にも大人びて早熟でありとか
何か普通の人とは根本的に違っている
だからその人は努力することを認めていない
そういう人はゴッホとかゴーギャンとか詩人にもいる
英雄にしても生まれつきそういう資質があって時代に適応したときなる
高杉晋作とかがそうである、もし明治維新という大動乱の時に生れなかったらただの暴れん坊で終わっていたのである

そもそも天才は作れるのかとなると資質論からすれば生まれつきでありできないとなる
私が問題にするのは天才が作れるのかとかのことではない
天才とは定義すれば何かの創造者である、それは科学の分野でも政治の分野でも芸術の分野でもあらゆる分野で新しいものを創造した人である   

すると天才は作れるかどうかという問題よりいかに創造的になりうるのか?

ここに焦点をあてるべきなのである

子供の時は遊びは何か創造的なものとしてある、何かいろいろ工夫したりする
つたなくてもそうである、それが学校とかに行くと暗記中心になる
とにかく暗記することであり計算でも考えるのではなくただ暗記することなのである
九九でも掛け算の意味を追求することはないのである
算数でも図形を使い具体的に割り算とか掛け算でも教えることができる
そして教えることが教育でもそれも創造的なものとして教えることができる
だから先生が創造的でないと学ぶ人はただまねるだけになり自ら考えることができないのである
つまり自ら考えることがあらゆることで教科でも必要なのである
それは社会に出てからでもそうであるあらゆる問題があり自ら考えることが根本にありそうしないとただ他者の言うままになるのである

単純な例として

abcdef1112222.jpg



I go to を教える時、このように図形化して行く先を入れ替える、するとわかりやすくなる、ABCDの代わりに他の単語を入れればいいからである、これを実際に教育道具を作り矢印が回るようにすればいいとなる
そこで子供ならゲームのように興味を覚えることがある
つまり教えること自体が創造的なことが必要なのである、そのこと自体が学校にないから創造的な人間が生まれないのである
教え方にも無限のバラエティがある、創造的に教えることがある
天才は生まれつきだとしても創造的な自ら考えて工夫することを目指すべきなのだが学校教育に全くないのである
日本人は同質的になりやすいから日本人から独創的な人が生まれにくいのである
カルト教団に入ったりした全く創造性と自主性を奪われる、過去にキリスト教であれ仏教であれ芸術が生まれという時
今とのカルト教団とは別物だったからである

そして環境が人を作るというとき家の中に全く本も置いていないような家だと刺激を受けにくい、私の家には一冊の本も置いてなかった、だから家でなにか学問になるものや芸術になるものに興味を覚えなかった、見ていたのは漫画だったのである
でもそれはそれでその時代があり炭とか囲炉裏がある生活は貴重な経験だったのである
いづれにしろ人間は家庭環境を基本にして人を作る、何々心理学を学んだ人は親からの承認されないものは歪んでしまうというのもわかる、家庭環境が悪いと致命的になる、ヨ−ロッパだと家庭で天才が作り出されてきた
家庭が学びの場としてありそこで貴族の家から天才が育てられたからである

第一留学した者と留学しない者の差は大きい、外国生活したものとしない者の差は歴然としている
私の場合は50歳以降に海外旅行したから遅かったのである
今の時代に海外旅行しない者はもう何も発言もできないのである
たいだい知識人となっている人は海外体験した人である
天才いかんにかかわらず留学できた人としない人ではその人いかにかかわらず大きな差が生じている
それは資質の問題以前のものであり最低条件として留学は必須になるのが時代だからである

そしてまた時代が大きく影響する、戦争の時代だったら天才も戦場であえなく死んで才能が発揮できなかったのである
英雄も英雄に成ろうとしてもなりえない、三島由紀夫は英雄になろうとして自ら演出したが成りえなかった
そこに無理に英雄になろうとしたあがきがあった、つまり英雄は時代が作るのであり時代が悪ければなれないのである
だから三島由紀夫は英雄ではないし評価できないのである
明治維新に英雄がでたのは時代が作ったからである、戦国時代でもそうである
ただ新たな時代を切り開くのが天才であり英雄でもある、それは科学技術的な面でもそうだし様々な分野でそうである
明治をみればわかる、あらゆる分野でみんな創業者になっているからである
今のような成熟した社会にはありえないからである、できあがった社会だからである
何もない社会では一から作り出さなければならないから創造性が要求されて創業者になる

結局天才は何かというとき、絶えず自ら考え工夫して創意がありそこに遊びの精神があり問題意識をもち臨機応変に物事に対処する
ただ言われるままに従うものではないとなる、何か時代が変わる時、そうした天才的なものが要求される
銀行が不用になるというときもそうである、時代が変わる時、ではどうしたら銀行が生き残れるのか?
そこに新しい創意が工夫が必要になる、でもそれは簡単にできないのである
ただ時代が変わる時否応なしに変わることが要求される、それができないと銀行はいらないとなってしまうのである
でも今までは銀行に入れば安泰だ、大企業に入れば終身雇用で安泰だとなっていたのである
それがグロ−バルの競争でそうなくなったとき取り残されてしまう
ただこうした体質は簡単には変えられないのである、欧米の強みは絶えず新しいものを生み出す環境がありそれで天才も生れていたからである、ヨ−ロッパになぜ天才があれほど生まれたのか?それは環境の相違だったのである


天才への階段

これは簡潔に表にしている、これはまさに努力して積み重ねることをすすめているから普通の人が天才となる道程を示している

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2019年07月20日

人間の才能はないのではなく活かされない (Love & Freedomの底辺労働者もそうである)



人間の才能はないのではなく活かされない

(Love & Freedomの底辺労働者もそうである)

人間の才能とは絵を描くとか文章を書くとか数学が得意だとか体力があるとか話がうまいとかいろいろ多様なのである
しかし何かしら才能ある人はいる、それが発見されないとか活かされないのである
Love & Freedomの底辺労働者を語る40くらいの人がそうである
この人の正体はわからないにしても

●しゃべるのがうまい
●精神障害とか犯罪者心理に通じる
●自らの実体験を語ることで訴える
●ニュースなどの解説に向いている

この人はしゃべるのがうまい、わかりやすく説明している、今日聞いたのでは年をとると比例して男はプライドだけが高くなる
そういう心理を説明されれば誰でも納得する
みんなそうであるからだ、10歳違った人がその年齢で判断して下に見るというのもおかしいと思った、何かその人に功績があればだが何もないとしたら年でその人を判断できないはずである
また結婚して子供を育てたとかでそれも社会的自慢になるとも思えない
価値はあるとしてもそれで人の優劣を決めることはできないだろう
ただ何もない者でも男はプライドをもっている、それが年をとるほどプライドが高くなるそれで年下の上司に仕えることができずやめる人が多いというのがわかる
おばさんにはそれほどないから若い人ととうまくやれるというのもわかる
このプライドはやっかいなものである
それが年をとればとるほど高くなる、だからただ年をとっただけでも偉いと尊敬されるべきだとなる、それはこんなに老人が多くなければ自然とそうなっていたのである
これだけ老人が多ければもう老人は何か特別なものがなければ尊敬されることなどないのである、老人はただ税金を使うだけの無駄なものだから早く死んでくれとなる

でも人間の才能は活かされないことが多い
また人間の才能は自ら発見されることも他者から発見されることもなかなかない
芸術分野で不遇な人が多いのはそのためである
天才を理解できる人は天才しかないというときその天才は一時代に数人だとしたらもう理解されない、いくら才能あっても理解されない、ただ次代に天才が出て理解されるとなる天才でなくても才能は活かされにくいし不思議なのは自らの才能を自ら発見されていない開発されてもいないのである
天才は別にしても何か才能でも自ら開発して発見してゆくことが必須なのである
ただ何もしないで天才になり楽器でもひけるとはならないからだ
それには過酷な練習があって才能が開くからである

この人は相当に才能がある、そもそも私立の学校に入り大学でも大学院まで出て臨床心理学士でもある、すると他の人よりその時点でも優れていたとなる
ただ文科系は実際の社会で役に立たない、それで就職できないとかなり自殺した人までいた、つまりそういう人は学者になれない、大学で就職できないとそうなる
実際の社会では必要としないからである
心理学が実際の社会でどう応用されるのか?それはほとんどないだろう
それで一時臨床心理学士として病院で働いていたがやめて底辺労働者になった
最初に歯車が狂うとそうなりやすいのである
20代でだいたい人間が決まってしまうというのはそのためである

ただ思うにこの人は才能があるのだが活かされないのである
ニュースキャスターとか解説者とかに向いている、説明とかしゃべるのがうまいからである、人間の心理とかにも通じているからいろいろな事件の解説に向いている
でもそういう機会が与えられないだけではないか?

機会が与えられず才能は活かされない

結局こういうことが社会には多い、自分自身もそうだった、今プログで作品を出しているが認められない、認める人がいない、ただ今までは発表する場もなかったが今はプログでしている、何か自分ながらいい作品を書けるようになったと思う
もちろんもう死ぬ時期なのだからその作品も高度なものでないとどうにもならない
何か私は何でも理解することでも遅すぎたのである

とにかくこの人はニュースキャスターとか解説者に向いているし才能がある
ただyoutubeとして金を稼ぐようになればその才能は活かされるともなる
だから外国など行って見聞を広めるとかすべきことはある
留学となると無料のがあるとして年齢制限でできないということは問題でも外国旅行は今なら安くできる、そういう点では恵まれている時代である
そして人間は一生学ぶことは終わらないのである
他の仕事でも精進することは終わらない、何でも腕を磨くことがあり終わらない
そういうことでなくても平凡なことでも仕事をもって何か社会のためになることをすべきだとなる
定年になって無用化されると危険なのである、認知症になりやすくなるからである
そういう場がまた与えられないことも現代の問題なのである

この人は大学に今さら行っても無駄だとか留学もできない、何しても無駄だというがそんなことはないのである
それはただ社会で金にならないから無駄だとしている
そもそも人生で学ぶことはいくらでもある、絶えず学ぶことが人生なのである
だからこの人はただ実用的なこと金になること社会で認められことに腐心している
でも別にその人なりの価値を追及する精進することが人生なのである
それは死ぬまで終わりがないのである
だから40になればなにしても無駄だとはならないのである
それは社会的には金にならないとしても人間の価値は金にならないものでも価値としてあるだからそれぞれの価値をの追求は死ぬまで終わらないのである
それでベーシックインカムがいいとなるのはそれぞれの価値を社会では金にならないとか価値にならないとかなっているがそれでもその人なりの価値を追及できるからこそいいのである
そういう時代にもなりつつある、だから40才なればもう何もないというのはおかしいのである

ただこの人は実際は演技しているといときそうなのか?
その辺はわからない、本当は絶望をこれほど言っても絶望していない
一筋の光明を見出そうとしている、それが人間である
女性にもていなというけど本当はもてているのかもしれない
何かそういう演技して共感を呼んでいるのかわからない
ただ40というのは人生の終わりが見える年なのである
だから人生は本当に過ぎるのが早いなとその年になると思う
でももう引き返せない、もう社会からはずれたものはそのままはずれてゆくほかない
でもその人生でも無益だと価値ないとかない
その人なりの価値を追求したものがありそれは充実した人生であったとなる
ただ他者がその価値を認めないだけだったのであ



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2019年07月31日

認知症の謎ー忘れるのはなぜなのか? (ただの暗記ではない、理解して覚えたものは忘れない!)

認知症の謎ー忘れるのはなぜなのか?

(ただの暗記ではない、理解して覚えたものは忘れない!)

アルツハイマー病治療薬の開発は「連戦連敗」を続けています。ウォール・ストリート・ジャーナルの記事によれば、過去10年間に世界中で行われたアルツハイマー病の薬の試験のうち99.6%が失敗しているということです

これだけ認知症の患者が世界的にも多いのだからなんとか直そうとしている
薬も発明しようとしているができない、何か絶望的なのである
結局それだけ脳があまりにも複雑すぎるのである
それは神の領域にもなる、脳が一番複雑なのは精神と一体化しているからである
第一精神は目に見えないものとして意識する
ところがこの世にあるものは目に見えるものとして人間は意識させる
原子がアトムは目に見えないけど精密に数式化して化学式にして目に見えるものとして
現す、脳でも目に見えるものとしてとらえようとしている

だから海馬が一時記憶する場所としてありそれが老化で確実に衰える
自分自身でも老化していることがわかる
つまり名前が覚えられないのである、新しい人の名前が覚えられない
でも昔覚えた人の名前は覚えているのである
これも海馬の機能が衰えたからだともなる
芸能人の名前でも昔の人は覚えているのである
でも今の人の名前とかどういう人なのかは皆目わからない、また見ていないせいもある

「理解して覚える」ということである。「なるほど、だからこうなるのか」というように理屈で覚えたことは、長期保存庫に移って忘れにくくなる。それに対して、意味も分からず丸暗記したことは、たとえその場では覚えたつもりになっていても長期保存庫に移行しないためすぐ忘れてしまう

記憶することは最初は丸暗記である、その意味もわからないのに暗記する
それは英語の単語とかには有効かもしれない、でも算数とか数学では暗算のように覚えても忘れてしまうことがある
そこで分数とか掛け算とかは何かを理解する、ただ暗算するのではない、その意味を理解するのである、例えば15×12は(10+5)×12であり10×12+5×12であり120+60となり180となる、何かこうすれば暗記として計算するのではなく数の性質を理解して解いたとなる、でもこれを計算機でするともうもし計算機がないと暗記したものを忘れるとできないのである
実際には私は数学が苦手だからこれを計算できない、でも理屈として数を分解するとわかりやすくなりできるとなる

「なるほど、だからこうなるのか」というとき理解するのである

とにかく認知症は薬でも直せない、医者に行っても実際は直せない、医者自体が認知症のことを知っている人が少ないのである
一番知っているのは直接介護した人なのである
海馬が損傷して衰えて記憶できない、そこから感情的になり激怒するようになる
海馬と感情を司る偏桃体が結びついていることも影響している

そもそもなぜ認知症になると数の計算ができなくなるのか?
それは数というものがどういうものか理解できなくなる、理屈として理解できなくなるからではないか?つまりただ暗記したものは忘れるのである

だから今の教育は受験勉強など暗記ばかりに励むのは実際は算数でも数学でも理解していないから忘れるということがある
別に忘れても数がこういうものだと理解していれば数をわかりふぃすい単位に分解して理解できるともなる
私自身の経験としてこうして算数でも数学でも自ら考えて考察したことがなかったのである、またそのように教えてもらえないことがあった
ただ暗記ばかりが勉強になっていた、そして高度になると本当はじっくりわかるまで自分の理解できる範囲で理解することが必要だった
それができないので数学が苦手となり数式を見ることも嫌になったのである
これは考えることの訓練なのである、数学も考えることの訓練としてやれば面白かったし理解できたとなるかもしれない

要するになぜ認知症の人が計算ができないのか?
それはただ無闇に暗記していることは忘れる、それがある
教育の方法が悪いと実際は勉強にも興味がもてないのである、数学でも能力がなくても
何か手法というか数の原理というかそういうものを知れば興味を覚えて忘れないともなるそれで英語にしても文法が数学とにていて数式のようになっているから原理として覚えてそれに単語を付け加えて覚える
そういう作業が必要だったのだと思う
ただ認知症の人はそうして合理的な理解力もなくなっている、ただ数学の先生でも認知症になっているからその人が数学の理解力をまだ保っているのか?それも興味がある

教育ということに私自身興味を持っていた、教育とはただ暗記させることではない、
算数でも数学でも考えさせるもはのとしてある、そういうふうなものと学べば能力がなくても何かまず興味を覚えたとはなる
つまり天才でもないものはそうしてすぐに理解できないから理解する方法が必要だったともなる
だから教育には創造的教育が必要でありまた自ら創造的に学ぶことが必要なのである
ただ正直あらゆることに人は通じることはできない、そこに教育の限界がある

ただ絵の才能が全くない自分がなぜ抽象画を描けているのか?
ソフトで描けているか不思議だった、それが大量生産できるのはただ数式のように同じ手順でソフトを使い作りだしているのである
それは自分自身が絵の才能が全くないのに絵を描いている感じになるのが不思議なのである、だから生まれ持った才能だけではすべて決まるわけではないと今さらながら思ったのである
暗記させる教育は教育ではない、英語の単語などはしかたないにしろ算数とか数学はそういうものではない、ただそれはあくまでも数学が苦手な人のためのものである
別に数学の得意な人はたちまち理解するとなるからだ

いづれにしろ認知症というとき脳が老化によって退化することでもある
誰でも新しい人の名前を覚えられなくなるのである、それは共通しているからである
海馬の能力が衰えるのである、でも理解する能力は増してくる
なぜなら知識でも理解力でも今まで貯えたものが活きてくるからである
それはあくまでも暗記したものではない、理解して記憶したものだともなる
とにかく老人になると理解力が高まる、それで評論が向くようになる
評論は一段と高い視点から本でも読むことだし社会でも見ることになる
こういうことは若い時はできないからだ、とても本を読んでもそれを評価することができないのである、本はそれだけなんでも内容があるからそうなる
ただ別にインタ−ネット上にあるものでも理解できないのである

理解して覚えるということが忘れないという一文を読んで自分も共感したのでこうして書けたからである、自分の論をこの一文を引用して展開できたのである
だから引用してもそれはただの引用ではない、それを自分なりに独創的に展開したとなるのである
そして理解するには文章を書くことだと思った
確かにyoutubeでは話すことが主体となっている
でもそこでは深い理解につながらないのである、文章を自ら書いてみると理解することがある
それはインタ−ネットで自らこれだけのものを大量に書いた結果わかったことである
話を聞いてもそれは上辺だけのものとなり深い理解に通じない場合がある
だから文章にすべきであり本を読むべきだともなる、ただ知識は無限であり理解の限界がある
そして時間だけがまたたくまに過ぎてしまうのである
人間が理解できるのは極わずかだったとなって終わるのである


あとがき

私は何でも理解することが遅かった、学校にも適応できない劣等性だった、集団生活が苦手だった
でも人間に大事なのは自ら考えることであり理解しようとすることである
それはただ暗記していてはだめである、それは忘れてしまい役にたたないのである
理解して覚えるということである、それはあらゆる分野でそうである
あらゆることになぜなのだろうという疑問をもつべきである
それが科学にもあらゆる学問にも社会の理解にも通じるのである

何でも理解しようとする態度をもち耳を傾けることが大事

原発はむずかしいから理解できないとして専門家にまかせると専門家の言う通りになりわからないということで責任をとらされる、銀行でも株のことでも投資信託でもめんどうだから勝手にされて手数料だけとられて損する
専門家の言うままになり損する、その専門家が何でも知っているかと思ったら知らなかったのである
銀行員は株の事でも投資信託のことも素人と同じだったのである
そんな人にまかせたら損することはわかりきっていたのである
でも私自身が知ろうとしないとか時間がないのでまかせたのである

宗教にしてもそれをただ単純に信じればいいとかなるとヒットラーのナチスのようになる
それは人々が全く考えないことから起きた、ハイルヒットラーとなって盲従することから起きた
人間は弱い存在である、でも考える芦であるというのもそうである
自ら考えることができるものが人間の要件なのである

これまで天才のことなど考察した、それを教育のカテゴリーに移す、まとめる、教育はただまねるだけではだめである
自ら考えて想像する、創造することが理解することがないと身につかないのである

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冬の道、晩年の道


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2019年09月07日

高度成長時代は平均的人間を大量生産する画一教育 (次の時代は自己啓発による創造的人間を作る自己教育)


高度成長時代は平均的人間を大量生産する画一教育

(次の時代は自己啓発による創造的人間を作る自己教育)

●田舎の小園の学び(詩)

畑に実りがある
畑に働く人がいる
二十日大根、四〇日大根
実りには時間がかかる
時節により種を植え
それぞれの花は咲き開きぬ
蓮の花のづぼみは大きくふくらみ
その花の赤味帯びて開くを待ちぬ
揚羽が優雅に舞い来たり
畑にカンナが映える
朝いつもの木陰に休み蝉が鳴く
この小園にも学び尽くせぬものがある
大事なことは急がぬこと
悠長な自然のリズムに合わせること
実りを早めることはできない
人の力に限りがあり
自然により自ずと育まれるものを知るべし
あなたの学ぶべきことは
教えられるべきことは限りなくある
あなたは学校という枠に閉じ込められてはいけない
その建物の中で学ぶ自由な空気は消失する
先生のみが教師ではない
近くに回りに学ぶべき人がいる
農民に学ぶがよい、教えられるが良い
大工に教えられるが良い
漁師に教えられるがよい
・・・・・・・・・
その周りの自然に教えられるがよい
あなたの学ぶきことは都会にあるのではない
田舎でもその周りにいくらでもある
ただ気づいていない、自ら見出していないだけ
あなたの学ぶきは教えられるべきは
現実の自然であり社会である
学校とはそのほんの一部であり閉ざされている
学ぶ場が限定されて記号のみを教える場となる
あなたの学ぶ世界は広い
故にせかせることではない
また点数で判断することではない
学ぶ時間と環境こそがその人を育てる

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●高度成長時代は大量に平均的人間を送り出すことが教育

教育を語る時むずかしくなる、教育はあまりにも教育されることに問題があったからである、教育過剰が問題だった、私たち戦後団塊の世代が受けた教育は人数が多いから教室がないとか何か高度成長時代の平均的人間を育てるものだったのだろう
大量に労働力を必要とした時代だったのである、それもあくまでも平均的な大量生産を担うベルトコンベアーで働く従順なロボットの養成だったのだろう
それがわかったのは日本人は高度成長時代を日本人が特別優れていたからとなってジャパンアズナンバーワンとして得意になっていた
でも日本人は高度成長を築いたのは日本人が何か優れていたからではなかったのである
確かに日本人には優れた資質とか文化を育む土壌はあった
でも高度成長時代というのは日本人が特別優れていたから成し遂げたということではなかった
なぜなら今や中国でも日本と同じように10数年で同じようになったからである
その時中国は後進国だった、でもみるみるまに日本を追い抜くようになったからである
ということは大量生産というのは電機製品でもどこの国でも作れるものだったのである
今は中国の方がITでは進んでいて日本は後進国になり貧乏国になったというのもそうである
戦後の教育はこうして大量生産時代に適した平均的人間を作ることであった

平均的人間を作ることで日本は適合した

日本人は同質になりやすい、でもまた共同一致することでは団結することは得意なのである、そういう平均的人間を大量に作ることで向いていたのである
でも何か独創的なものを作る、機械でも人間でも作るのには向いていなかったのである
現実にIT分野になると全く遅れてしまったからである
それはアメリカ主導になっていたからである、アメリカとかヨ−ロッパはもともと発明の国であり天才が科学分野でも学問や芸術分野でも排出してきたのである

なぜヨ−ロッパでこれほど天才が生まれたのか?

これも大きなテーマなのである、日本はものまねであり中国もコピー文化である
それでアメリカから批判されて対立するようになった
日本とか中国で独自に発明したものがないからそうなったのである
発明されたものを改良することは改善することは日本は得意でも発明することは不得意なのである、日本が高度成長時代を築いたことは日本人が特別優秀だったからではない
平均的人間を大量に生産することでは日本は適合した結果だったとなる
教育でも何か独創的な人間を育てることではないあくまでも平均的人間を大量に生産して物でも大量に同じものを作ることで高度成長時代になったのである
今になれば別に韓国でも中国でも同じものを作れるようになったから売れないとなったのである

何か日本人は特別優秀だということ科学技術でも優秀だという奢りが原発事故を生んだ
原発事故など日本では起きない、ロシアでチェルノブエリでも事故をが起きたときもそう言っていたのである
他にもスマトラで大津波が起きて10万人とか死んだ時でも日本では津波を警戒しているあんなふうにならないとか言っていたのである
それが東日本大震災で二万人近くが津波で死んだ、地震と津波の国で警戒していなかったのである
確かに日本人には日本人に優秀なものがある、でも何か本当に科学分野で技術分野で優秀だったのかというとそうではなかったのである
その奢りが原発事故で打ち砕かれたのである

●少数精鋭主義の創造的教育へ

いづれにしろ自分自身が教育というのに興味がある、教育は教え方でありその教え方が創造的でありうるからだ
ただまるでロボットのように教えるのではない、様々な教え方がありそれが創造的なものだからである
それはあらゆる分野でそうなのである
ただ学校だけが教育の場ではない、学校の先生のみが教師ではない
教育は明治以来国家教育になっていた、強力な国家の指導のもとに学校が作られて教育があった、戦後はそういう国家の縛りがなくなったようでも依然として学校という枠に教育は限定されてきたのである
団塊の世代は一教室でも50人とかいたし教室がたりなくなっていたのである

そういう時代には大量生産の平均的人間の生産に適していたのである
何か自分の様な三流大学になると講堂に三千人とかいて講義を聴くというのも驚いた
それで学生は講義がつまらないから学生運動に走ったという事情があった
マスプロ大学として話題になったからである
新宿で石を投げると学生にあたるとか大学は大衆化したのである
エリートでもなんでもない大衆化したのである
でも高度成長時代であり大学生は企業にみんな就職できたのである
それだけの受け皿が高度成長時代で生まれていたからである
こうした平均的大量生産の教育からこれからは変わる、すでに変わっている
中学校では一クラスは30人でありその先生は30人では多いといって少なくしようとしている、団塊の世代は一クラス50人だったからその相違がすでにある
少数精鋭主義になりそうなると今までの教育とは違ってきているのである
大学の先生が今の学生の方が優秀だという時すでに優秀な人は独創的な人が出ているのかもしれない、それは30人以下の学級と50人規模の学級で教えられるものが違ってくるのからである

いづれにしろ高度成長時代を築いたのは日本人が優秀だからではなかったのである
それはどこの国でもできるものだったが早くそれを成したということに過ぎなかったのである、今になれば韓国でも中国でも日本より先んじて最先端の物造りをしていることでもわかる、またIT技術では後れをとっていることでもわかる
本当に明治維新から70年過ぎてまた戦後70年過ぎて時代が変わる
それは教育にも及んでくる、もしかしたら学校というものがなくなるかもしれない

例えば学校でなんでもやるのは向いていない、スポーツだったら野球クラブでもサッカークラブでもやるのがいいとかなる
学校自体も今までの感覚とは違ったものになってゆく、そういうことはオランダとかアメリカで始めている
教育というとき人間は結局自己教育なのである
その人の自主性にまかせた方が伸びる、何かに興味を持つことがありそこから学問でも自ずからするようになる
それは自分自身がそうだった、就職もしないでただ旅ばかりしていたというのもそうである、そこで地名に地理に興味をもったりして学問するようになったからである
自分には特殊な家庭の事情でそういうことが可能だったからである
それ以後自分は自己教育をしていたのである 

ただ自己教育でも節制が必要である、どうしても人間の弱点は楽な方に傾く、怠惰になる、これが避けられないのである
そのために時間を無駄にするし精神も損なわれるのが多い、自由といってもそのために悪い方の自由に悪とか快楽の自由の方に向かい時間を浪費するのである、だから自由な時間をいかに過ごすかもむずかしいのである
社会での会社員でもそこで経験することはやはり貴重な体験なのである
それができない引きこもりとかニートとかは後で問題が起きる、事件を起こしたりする、小人閑居して不善を成すとなる
それを自分自身が経験しているしそれは今度は老人になって高齢化社会で起きているのである
長生きするからそうなる、老人になったからと快楽をやめたりできないのである
それだけ快楽を追求するのが人間だと思った、快楽は強力なのである、人間は苦しみとかを求めない、あくことなく快楽を求めているのである、それは老人になっても個人差があるにしても変わりないのである

●教育は自発的自己教育が基本

じっと思いをこらすことや、心の安らぎをえることや、知識を豊富にすることによって
確かさをゆっくり成熟させること、といったことはすべての本性に逆らって努力したところでどうにもなるものではない
そこに達するためには自然と文化がしっかりと結び合うような環境の助けによって深められ、その気になるのを待つだけで十分なのである
(何のための教師‐ジョルジュ・ギュスドルフ)

この本はいい本である、人間は教育できるものではない、自発的にならないかぎり人間は学ばない、それは小学校の段階からただ暗記するのではない、算数でもあくまで暗記するものではない、考える一教材として教えるべきなのである
ただ結局あまりにも多くなった知識のためにつめこむだけになってしまったのである
要するに時間がない、じっくり学ぶ時間がないのである
また時間が与えられないのである、音楽を知るためには一つの楽器を与えてそれを覚える時間と環境を与えることなのである
何か教えるということでないのである、何か教えることは強制的になりその人に合わないことを押し付けることになる、それがこれまでの教育だったのである

ただ正直教育は知識が増えすぎてもう一人の教師では手に負えないのである
英語だと高校だと英文法専門の先生がいたりと何か部分化してつまらないとなる
郷土史となると実はこれはトータルな分野だった
そのことで私はプログで追求してきたからである、ただ科学的知識に弱いから原発事故について追求できなかったとなる
まず近くの畑にしてもそこに尽きせず学ぶものがある、教えられるものがある
でも農業を実地にしていない人は近くに田畑を見ていてもわからないのである
だから田舎に住んでいても今は農業を実地にしている人は少ないからわからないのであるそのこと自体が大きな問題であり知るべきなのだがそれもしないのである
自分自身でも最近趣味で農業している人に教えられたからである
この年まで田舎に住んでいて農業のことがわからなかったのである

だからいかにこの世のことは知らないことが身近でも多いか知るべきなのである
この世は死ぬまで学びの場なのである、それだけ社会が複雑であり自然でもわからないことが多いからである
だから教育という問題は学校だけの問題ではない、生涯学習として継続的にある
学校を出てからこそ本当に現実問題として事業するなら命をかけるようにまでなる
事業に失敗すると自殺する人が多いからである
そういうふうに真剣に学び実践する場が社会なのである
ただ自分の場合は特殊な事情で60までもモラトリアムとして遊学したようになっていたのである

そこに達するためには自然と文化がしっかりと結び合うような環境の助けによって深められ、
その気になるのを待つだけで十分なのである

こういうふうにして田舎で生きてきたのが自分だったのである 
ただ田舎に生きていても農業を実地にしていないからわからなかったのである
そこに知識として肝心なものが欠けていたとなる
そういうふうに人間は身近な世界でも近くでもわからないのである
その結果として原発事故が起きたともなる、もっと近くに関心をもっていたらこうならなかったからである
その危険性を誰も教えなかったということにもあったのだ
だからその住んでいる場所自体人間は知らないことが多いのである
つまり学んでいない、また教えられもいないのである、教育されていないのである
学校は社会のほんの一部の閉ざされた機関にすぎないのである
その学ぶべき場所は自然であり社会そのものなのである

何のための教師―教育学の教育学のために (1972年)   古書, 1972(アマゾン)

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2019年10月29日

相馬女学校のこと(時代によって変わる教育)


相馬女学校のこと(時代によって変わる教育)

例えば,「良妻賢母」主義を実用知たらしめる「裁縫」は高等女学校では必須の学科目であり,また,伝統的には近世以来の女性の徳目の一つである「婦功」(あるいは「婦工」)の意味が込められていたはずであった
娘を高等女学校へ進学させるような社会層─ 例えばその中核を占めた士族層 ─ にあっては家事や裁縫,料理などの実用知を修めていくことへの動機付けがあまりなかったのではないか。

多くの女学生の放課後,家庭生活での教養や嗜みは,琴曲や点茶などの「遊芸」であったり,英語や数学の「学問」であったりした事実がこれを裏付けている。つまり,彼らは幼少期から家庭で培われた躾によって形成された「実践意識」の水準で,「良妻賢母」主義に異議申し立てをしていたのである。
http://www.seiryo-u.ac.jp/u/education/gakkai/h_ronsyu_pdf/12_2/04_inoue.pdf

私がなぎなたを始めたのは女学校に通っている頃でした。当時、学校の正課、体育の授業の一つになぎなたがあって、面白くてね。先生も東京で勉強をなさった方が教えてくださっていたので、楽しく取り組んでいました

  1903年(明治36年)4月 - 中村高等小学校校長の太田宗雄とその他有志により、「四行塾」が開設される。
        女子への裁縫教育を目的とした私塾で、修業年限を1年とする。
  1905年(明治38年)5月 - 中村町に移管され、「中村町立相馬女学校」に改称。
  1907年(明治40年)5月1日 - 相馬郡に移管され、「相馬郡立相馬女子技芸学校」に改 称。修業年限を2年とする。
        以後5月1日を創立記念日とする。
  1911年(明治44年)3月 - 「福島県相馬実科女学校」(相馬郡立)に改称。修業年限          を4年とする。
  1920年(大正9年)4月 -「福島県相馬高等女学校」
 
  
 裁縫教育を目的とした私塾ということは習いものくらいのものだった、それも一年だからである、次に技芸学校となっているのもそうである
 その後はも実科女学校だから実用主義である、それでも明治から始まり大正までさかのぼるというのは古いと思った
 
水害の状況を調べるために宇多川を下っていったら相馬東高校があった、ここは相馬女学校が基になっていた、これは相馬藩内では一番古い学校なのである
そこでクラブ活動になぎなたがあるとそこの用務員にあって聞いた
そんなものがまだあるのかと思った、弓術なら良くみかけるけどなぎなたはあまりももう聞かないだろう
明治となると江戸時代の継続がまだあった、だから第一明治維新で侍がいなくなったとき教師になる侍が多かったことでもわかる
なぜなら士族はすでに家庭で独自の教育をしていたからである
するとどうしても士族の教育が学校にも持ち込まれるのが自然である
つまり人間は全く新しいことはできない、必ず前の時代の継続なのである
だからこそ天皇制によって復古によって明治維新が成されたのである

たただ論文で裁縫のことを語り相馬女学校も裁縫教育から始まったとしている
その後も実用主義である、でもなぜ士族の子はそういうことになじまないというとき
何かそういうことは家でしてくれる使用人がいたからなのかとなる
裁縫を第一とするものに反発するものが芽生えていたとなる
それは女子が今までのただ結婚するということを目的とした花嫁修業とかに反発する新しい女性の芽生えだったのかもしれない
とにかく相馬女学校を出たとなるとそれだけ女性として格が高いものになっていた
女性としてのエリートだったのである、というのはまず女学校には入れない、金がかかるから入れない、それで私の姉は女学校に入りたかったと悔しがっていたのである
なぜなら頭が良かったし体力とか他の優れていたからである
だから学校は一番だったしマラソンでも一番になっていたかとなっていた
その後看護師の免許も東京でとった、それもなかなかできないことだったのである

そして飯館村の大倉に行ったら私は相馬女学校でたのよというばあちゃんがいた
つまり相馬女学校出たということは特別でありだからそれを自慢したかったのだろう
どうして大倉から相馬女学校に入ることができたのか、これもおそらく山では木材が売れて金になった時代だったからだとなる
その人は親戚の家から鹿島から相馬の女学校に通ったという
明治以降になると学校ができても必ずしもみんな入れない時代であった
字が書けない女性がいていつも人に頼んでいた、それで気がひけていたという人を知っている、ある人は子守りして学校に行けず小説読んで字を覚えたという大正生まれの人もいる、学校にまともに行けない人が結構いたのである

それは今の発展途上国をみればわかる、ネパールとかでは第一書くものボールペンすらないからボールペンをくれとなる
今でも裸足で歩いている人がいる国でありそういう国もまだ世界にはある
そういう時代が学校というのが貴重なものであり知識を得る唯一の手段だったのである
だから学校が重要な意味をもっていたのである
でもその後学校も社会の変遷とともに姿を変えた、あらゆるものが時代の変化にともない変わる、もうすでに団塊の世代から学校に対して不満が大きくなっていた
学生運動でも実際は大学の不満から生まれた面があった
マンモス大学となりまともな授業がないのが私立だったからである
1000人とか一つの講堂で授業するのだから学問に興味を失ったのである
そして文系となると本当に大学は遊びの場でしかなかった
毎日麻雀しているものとか授業に出ないことが自慢だったのだから変だったのである

つまり大学というのは高校とまるで違ったものであり独学する場所だったのである
何か知りたいことを独学する場所だったのである
そうなれば別に大学に行かなくてもいいともなる
ただ当時はそういう環境が整っていなかったのである
まだまだ教育環境は貧弱だったからである

それがインタ−ネット時代になると本当に独学できる、こうして学者の論文を読めるしいくらでも本が安くアマゾンで買える、すると非常に見識が幅広いものなる
それはAIのビッグデーターの思考方法と同じである
膨大な知識を集めてそれを編集するようなことをしているとそれは新たな創造物になるのである、自分はそれをしているのである
集合知ということがそうである
だから今の時代はインタ−ネットをしないと相当に遅れる、学校というのも知識の面ではもう時代遅れなる、youtubeでは優秀な先生が実際に教えているからである
すると学校で教えられるよりも理解が早くなるのである

教育も変わり目にきている、第一学校とか先生の役割も低くなる
なぜなら知識が自由化して膨大化しているからである、学校という閉じられた空間で学ぶだけの時代が確実に終わったからである
すでに学校は前時代の遺物のようになってしまうもしれない、そこにいろいろな問題が生まれてもう持続できなくなる
結局何でもその時代の反映としてあり学校も教育も同じなのである
でも相馬東高校が400人いてクラスが35名とかなると違ってくる、それは中学校でも同じである、一クラス30名だといっていた、団塊の世代だと50名くらいいたからである、少子高齢化時代は少数精兵主義にならざるうえないのである
教育でもそうである、世界に伍してゆくにはそうならざるをえない
そうして教育自体も変革を迫られているのである

私は学校とか集団になじめなかった、結局人間は自己開発しないかぎり何か身につかない何か求めるものがないかぎり何かを強制しても身につかないのである
信仰にしても求めよさらば与えられんとうなると求めないもの絶対に信仰が何であるのかその精華を得ることはできない、そもそも求めていないからである
学問でも何か強く求めるもの問うもの学びたいものがあれば雑学でも得ることがある
それで自分の場合は全国を旅行して地名に興味をもち地理に興味をもったとなる
だから学校を出てからの方が勉強するようになったとなる

どうしても学校では真剣な課題をもつことができないが社会に出る否応にも真剣な課題に直面するからだ
それには命がかかってくる、知らないと大損したり命まで失うから学ばないで得られくななる、でも学校だというそういう真剣に学ぶということがないのである
そうして時間の無駄になる、ただ人間は何でも経験である
例え間違ったとしても経験することの方が知識より先になる
学問はそうした社会での様々な問題に直面してから本物になる
それは津浪とか原発事故とか今回の洪水の問題でもそうなのである
どうしてそうなったのかとかその問題を解決するにはどうしたらいいのかとかそれは命にかかわるものとして解答を出すことを要求されているからである
 
 
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2020年01月22日

体罰の是非 (団塊の世代は父親に普通に殴られていた)


体罰の是非

(団塊の世代は父親に普通に殴られていた)


その女性は田舎でぱめずらしくいろいろと語る、自分の思っていることを語る
高校も出ていない、団塊の世代になると中卒とか集団就職の時代だったからである
三分の一は中卒だったのである
だから今の子供には体罰も必要だとしきりに主張している
でも体罰とかを団塊の世代では受けている、それより家庭でも親父は怖い者であり
絶対服従だったからしょっちゅう殴られていたと同世代の人がyoutubeで語っていた
しつけは体罰が当然とされていた時代だったのである
体罰で教育するしつける従わせる時代だったのである
家庭でそうであり当然学校でもそうである

でも10歳くらい年上の人が近くにいた先生に殴られたとか恨みを語っていた
何かこうしたことは恨みとして残っているのだ
私自身も中学でそういうことがあり先生に対する恨みが残ったのである
それはどういうことかというと先生が男女の生徒の前で殴ったり見せしめとして立たしたり体罰が日常的に行われていたからそうなった
それで今のように親が文句を言う抗議することもなかった
なぜなら親がそもそも家庭で体罰をしていたのだから当然文句を言うはずがないのである
体罰とは女性でも見せしめとして人間をおとしめるものでありそれで何かを更生したりできない、上のものに対しての絶対服従を体罰によって教えられるのである
教育自体がもともとそういうものであり強制的にしなければならないとかあった
学校では古い時代からそういうものであったともなる
学校の校は縛るという意味だからである、縛り教えるのが学校だともなる

とにかく人間が人生を語る時、自分を語る時経験から語っているのだ
人間は経験からしか覚えない、本当に痛い目にあわないかぎりその痛さがわからないのである、それでなぜこの同世代の女性が体罰をするべきだとしきりに言ったのか?
それは女性だったからである

女性には体罰はなかった!

女性は男子生徒が先生に殴られていたり立たされていたりしているのを笑っていたのである、つまり男子生徒の痛みを女性だから理解できなかったのである
ここにも男女が理解し得ないものとしてもともとあったことがわかる
女性だと男性から優しく扱われるからそうなるし男子生徒が殴られていても痛みを感じないのである
ところが男子生徒は老人になっても近くの殴られた先生を恨んでいた
自分自身もそうである、そうして笑いものにされたことを忘れないのである
その先生とあったが挨拶もしなかった、でも女子の生徒にはそういう痛みがないから
男性のことを理解できないのである
それはまた逆に女性の出産などにしても女性が侮辱されることに対して男性は無理解なのである、その痛みを経験しないからそうなっているのである

人間がなぜ互いに理解しえないのか?
それは人間の判断は別に本を読んで判断するとかではない
それぞれの経験から判断している、経験の積み重ねで判断しているのである
今になると戦争のことは経験しないかぎり理解できなくなった
人が平気で殺したり殺される世界をとても経験しない限りわからないのである
すると戦争を甘くみてまた同じように戦争をしたいとかまでなる
それは経験がないからそうなるのである

学校の体罰は見せしめであり人間を侮辱することでありおとしめることなのである
それをみんなの前ですることが後々まで影響しているのである
ただ自分自身は甘やかして育てられたから厳しい体罰でも必要だったのである
それは自分の特殊な生い立ちからそうなった
だから大学で体育会に入り殴られても良かったのである
それは先生が女生徒がいる前でなぐられるのとは違っていた
そこで鍛えられたということはあったからだ
殴ったのは先生ではない、先輩だったからである
それはまた事情が違ったものとなっていた

人間の問題は相手を理解できないということである、それが地域とか国とかまた育った環境とか男女でも理解し得ないのは経験することが違っているからである
男性は出産を経験しないからここで根本的に女性を理解できないのである
人間は理屈を言っても理解されない、経験しないことを理解されない
様々な痛みを経験しないと相手を理解できないのである

男女共学は必ずしもいいものではなかった、なぜなら男女は体と心も別々のものだからである
女性は女性らしい教育をして男性は男性らしい教育をする
そして日本だと家庭では父親が威張っていた、そして何か子供が言うと殴ちれたというときその延長として学校でも先生が殴っていた
それが許されたの家庭でそうしているのだから親が学校でも体罰することを容認していたのである
アメリカでは父親がそんなことをしない、殴ったりしない、子供の話を良く聞くというときもそうである
欧米の家庭の方にこそホームがあり日本がにはなかったとなる
そういう家庭ではそもそも個性とか創造性が伸ばせないのである

私の家庭は特殊でもしたいことをしなさいとなっていた
だからそのまま大学でも遊んで社会に出ても働かないで遂に旅ばかりして60まで遊んでいただけだともなる
ニートだったのである、でも勉強はしていたのである
それでその成果を今出しているのである



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2020年09月26日

天才はどうして作られるのか? (ヨ−ロッパにはなぜ天才が多いのか)


天才はどうして作られるのか?

(ヨ−ロッパにはなぜ天才が多いのか)

そもそも天才とは何なのか?常人にはない異常なほどのエネルギーをもった人だとなる
そういう人はどこの国でもまれにいる、そういう人は何か生まれつきであり努力しなくてもたちまち理解できる、小説でも子供の時理解したとかなる
そういう人は実際は模範になれない、なぜならみんな普通の人だからである
そういう突出した人を模範にできないのである
それでキリストは大工として働き人間としての常識を身につけていたし天才ではない
普通の人間の思考をしていたのである
だから天才はクリスチャンにはなれない、それでニーチェのように自分が神だとなり偶像化するのである

ただ天才に魅せられ天才に学ぶことはある、そして人間社会を変えたのは歴史で功績を残したのは天才である、文学だと啄木はすでに中学生くらいから自然にも通じていた
何か青年になって芸者を相手にしているとかあっても自然と通じていたことである
普通自然と通じることは簡単にできない、それができていたのが不思議なのである

不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心

このように自由な心をもち自然と一体化する、そういうことはなかなかできないから不思議なのである、そのあともやはり自然を謳っている
第一そんなに若くしてそういうふうに自然と通じた歌を作れることが理解できない
なぜなら自分等は自然と通じるには老人になるまでかかっているからだ
それで啄木の著書の「雲は天才である」というのがわかる
夏の雲が様々に形を変えて大空に雲の峰となる、それをイメージして雲は天才であるとなった、その表現も的を得ているのである

ただ天才という時、ヨ−ロッパに天才が多い、そこには科学でも芸術でもあらゆる分野の天才が輩出した、世界で学んでいるのはヨ−ロッパの天才なのである
それはギリシャから始まっていた、そこには様々な天才が数学でもそうだし科学の基となるものも生れた、ピタゴラスとかアルキメデスとか多様な天才が生まれたとなる
それを基にして西欧文明が築かれたともなる

ただ西欧文明の前にイスラム文明があり学術的にも優れていた、ヨ−ロッパは中世がありその時はイスラムより遅れていたのである
第一ギリシャの文献とかはイスラム圏の人によって発見されてヨ−ロッパに伝えられたことでもわかる
その後イスラムの学問を代数学などをとりいれてヨ−ロッパは発展した
そして謎なのはヨ−ロッパにどうしてあれだけの天才が輩出したのかということである
それは一つの理由ではない、天才と言ってもその背景があり一人が忽然として生まれたりしないからである、その背景に歴史や文化で形成されたバックボーンがあって生まれる
それがヨ−ロッパにあったとなる

その理由の主なものはヨ−ロッパは帝政国家ではない、巨大な国家ではない、エジプトとかペルシャとかは中国とかは巨大な大陸国家であり強権的な国家となりやすい
イスラムでも一つの強権国家にスルタンの支配になる帝国になる
でもヨ−ロッパは確かにローマ帝国があったとしてもその後中世になり都市国家となり都市が中心の国となった、地域的でありそこに都市ごとに違った文化を育むことにもなる
そこに巨大な国であるペルシャとか中国のような圧制にはならなかった
ルネサンスでもフィレンツェとかの小都市の5万くらいの都市から生まれたことでもわかる、そんな都市からあのようなルネサンスが生まれたのかとなるからだ
そこで綺羅星のごとくミケランジェロやレオナルド・ダビンチとかラフェロとか生まれたそれが生まれのは小都市国家なのである

もう一つの原因はヨ−ロッパが貴族社会だったことである、その貴族が富を浪費するというのではない、学問とか芸術でもパトロンとなり育んだ
キリスト教会でも対立があっても芸術を育んだ、つまりヨ−ロッパの特性は地域社会の充実と貴族社会にあったともなる
貴族社会は特権階級で否定されるとなるがでもヨ−ロッパでは貴族社会なくして学問でも芸術でも科学でも育まれなかったのである
もちろんベルサイユ宮殿のように貴族の浪費とかはあった、でもその富で育まれたものがあった
だからどうして天才が生まれるのかという謎はそういう社会があり天才を育む社会があったことだともなる
貴族だとそもそも先生は個人的に雇われて教えたとなる、学校だと大量の規格品を一様なものを作るには適しているが個性を育むことはできない

だから日本でも天才は生まれない、最初高度成長時代があり電器製品が世界に売れた
それで日本は優秀だと見ていた、でもそれは日本人が発明したものではない、ヨ−ロッパ文明のコピーだったのである
要するに規格化された大量生産して外国に売ってもうけたというだけだったのである
それがわかったのは同じことを韓国でも中国でも欧米からまねてした結果今は経済成長して日本をぬいているからである
でも中国でもIT技術はアメリカの天才のベルゲイツとかジョブスとかがコンピュターを発明して生まれた、中国が発明したものではないのである
ただまねることは悪いことではない、最初はまねることからはじまるからである
日本では奈良時代に中国の漢字を取り入れた、次に平安時代になりかなを発明した
その基は漢字にあったともなる、だから最初はみんなまねでありその後に独創的なものが生まれる

いづれにしろ日本の高度成長は日本が発明した独創的なもから起こったのではない
日本の得意技は改善と改良である、他国の発明したものをまねて改善して改良することに優れていた、でも発明はできなかったのである
だから今になると韓国、中国でも電気製品が作れる、それもコピーだからできる
韓国でも中国でも独自に発明したものがないのである
だからコピーしただけでは国の繁栄も発展もないのである

ではどうしたら天才が作れるのか?

その謎の解明はヨ−ロッパになぜあれほど天才が生まれたのかということである
一つは多様な地域性であり一つは貴族社会があったということである
そこにヒントがある、多様な地域性というときその土地土地は必ず違って個性があるからだ、地形とか歴史が違っているからそうなる
もう一つは貴族社会があったということである、それは特権階級として否定されるがいい面としては例えば家が基本としてそこが学びの場となっていたら有利なのである
家庭教師がついていた方が有利なのである
なぜならその人にあった教育でもできるとなるからだ、なぜ医者の家では子供も医者になるのか?それは環境の影響が大きい、見よう見まねがあり門前の小僧習わぬ経を読むとかもあるからだ
江戸時代ならたいがい親の職業をついていたことでもわかる
第一家に一冊の本もないような所では何か知性が育まれるとは思えないからだ
団塊の世代の子供時代は子供部屋もないし家には一冊の本もなかった
本は鉄腕アトムとか鉄人28号とかを漫画を借りて読んでいたのである
そういうことではいくら知的好奇心があっても育まれないからだ
そういう点貴族社会では家が教育の場になり家庭教師がいて個性が育まれたとなる

もちろん天才は生まれつきがあるとしても環境に左右される
だからそういう環境が備えれば生まれやすいとなる、私の場合そういう環境に恵まれていたとなる、ただ残念だったのは田舎には本がなかったことである
今のようにアマゾンであらゆる本を買えていたらもう独学でも知識は習得できていた
専門書など田舎の本屋には置いていなかったからである
それで仙台市に通うほかなかった、その仙台の書店でも今わかったことは本当に少なかったことなのである、本の量は膨大だったのでありそれを読んでいれば専門家になれたということがあった

ともかく天才が生まれるというとき天才は生まれつきである
ただそうでなくても天才を育むものがあり環境に左右されるのが人間である
例えば今なら留学は普通にできる、金がなくても労働しながらでもできる
すると外国を肌で感じることができる、すると日本を相対的に見れる
だからたいがい日本を語れるのはそうした外国生活をした人なのである
それはささいなことでも外国生活で経験したことと日本で経験したことの相違があり
そこから考える思考脳をもつことができるからである
そこに留学とか外国での体験がないものの差が生まれるのである
ヨ−ロッパの特徴はまたヨ−ロッパ内での交流があり地域性があり多様な世界があり刺激されるものがあり天才が多く輩出したとなる

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成功する人々の法則ほマルコム- グラッドウェル

これによるとビルゲイツが1955生まれ,スティーブジョブス1955年生まれ・・・
ほかのコンピュター関係で成功した人は1954とかその幅が一二年なのである
つまりこの時代に生まれた人がコンピュター成功している
その幅一二年しかないのである、この時代からはずれると成功しなかったのである
だから人間はいかに時代の影響を受けるかを示している
日本でも戦争で才能があった人は20代でも死んでいるからそれか後の損失となったのである
だから現代はニートとか引きこもりとかいくらでもいる、そんなことして無職でいられるのは親に余裕があるからである
そういうふうに余裕があれば才能も育てられるのである
ただニートとか引きこもりは実際は何も才能もないのにただ無職となっている人かもしれない、ただヨ−ロッパの貴族のようになっていれば才能は育てやすい環境にあった
まず毎日非正規でも肉体労働でもこきつかわれていたら才能があっても伸ばせないからである  
そして人間の才能は多様でありそれも埋もれるのが数限りなくある
時代の影響もあるし環境もあるし才能が伸ばせないのが普通なのである

日本の問題は今や規格品の大量生産では豊かになれなくなったことである
人間でも規格品はいらないとなる、でも現実には日本は規格品を同じようなものでも作るのに適した国だった
同調圧力が強いから個性が強いとはじかれる、才能を育てにくい環境である
でもそのことか日本自体の衰退に通じている
だから今までの大量規格製品を作るのとは違ったものとして教育もある
そういうことでテレワークとかyoutubeとかは新しい才能を育てるツールになる
学校では規格品を作るのには適していても個性とか才能を育てるのには向いていないからである
そしてAI時代になると人工頭脳時代になると何かもっと人間の能力が試される
驚くのは翻訳のソフトは優れている、これほどに翻訳できる先生がいるのかとなる
それだけ機械の方がAIの方が優れているとなると人間はさらなる人間の身にできる創造性が要求されるのである
詩となるとAIで翻訳できないようにである、それは高度な人間にしかできないものだからそうなる、そういうことは他の分野でもそうなるのである

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2021年04月20日

各人各様の異常性はなぜ生れたか? (家庭環境の影響が大きい―社会も異常化する)


各人各様の異常性はなぜ生れたか?

(家庭環境の影響が大きい―社会も異常化する)

何か自分自身が異常性に気づいたのは家族が認知症になってからである
姉は看護婦として勤めていたし役所にも長く勤めていた
だから社会人でも正常であり異常とはとても思えなかった
ただ認知症になったのは病気のためだったと見ていた
でも今ふりかえると精神の異常というより何か偏った性格があった
常に自分は優秀だと言い、他者を馬鹿にする傾向があった
その異常性に気づいたのは認知症になってからだが実際はその前に偏った性格があった
自分は常に優秀だといいそれが死ぬ間際まで「俺は優秀だ」こう言って息をひきとった
認知症になって馬鹿になったのだがそういう言って死んだから悲惨だった
姉は何か普通のしとやかな女性とは違う、まず男で相手をにらみ堂々と向き合う
そして全然男でも恐れないのである、男の方が恐れていたのである
もの凄く勝気な女性だったとなる
それはいい面に働けば男のように家を切り盛りできたとなる
やり手の社長とかにもなれたと思う
それで父が十代で死んだとき父親のようになっていたのである
だからその異常性に気づかなかったのである
ただ人間の性格は必ずかたよる、その偏ることが異常性となる

母はおとなしい内気の性格だった、それは自分と似ている、ただそれも異常なものがあった、確かに前の夫も結婚しているし社会生活を普通にしている
でも何か社会性に欠けていた、社会のことが人間の交際がどういうものかわからない
ただ店をしていてそこでずっと仕事をしていた
だから母と遊んだ記憶がない、一日中仕事に追われていたからだ
そうさせたのは家の事情があってそうなった、そもそもそういうふうに仕事に追われていたのは今のように電化されていないから家事でも忙しいからである
洗濯するにもごしごし石鹸で洗ったりご飯をたくにも竈だったとか江戸時代の生活でもあったからだ、たから当時の女性は暇なく働いていたのである  
それで花などいらないとしていたからこれも異常化していた
ただ何か社会性がなく内気でありとても家を切り盛りできる人ではなかった
金持ちだったら深窓の娘とかなっていただろう
一時はそうなっていた、家が裕福だったからである、でもそれは幼児の時でありすぐに会社経営に失敗して一家離散になった
それで苦労の連続となった

悲惨だったのは継母が入ってきていじめられたことである
弁当を作って残したら俺が本当の母親ではないから食べられないのかと言われて投げられた、そして泣いていた、その継母も異常なほど気の強い女性だったのである
その人もなんらか性格の偏りがあり異常性があった
そして最後は大学病院で解剖されて骨だけが帰ってきた
それを引き取ったの母である
その前に養老院に入っていたが何か異常化した、同室の人に嫌われていて妄想となった
眼が見えなくなり何か助けを求めた、そこで母が見に行っていたのである
そして「悪かったな」と母に言って死んだのである
最後は骨となり帰ってきたときそこに人間の厳粛なものを感じた
いくらそうして後悔しても過去はもどらないからだ 
母にしても花いらないというとき貧乏生活が長く何かそうして花をめでる余裕がないことでそういう偏屈な性格になったのは同情できる

もう一人は母親が三人変わった女性である、その変わった理由が継母がきてその息子の嫁とうまくいかない、あまりにも気丈夫なので嫁と合わない、それで息子の嫁は外に出たのである、それは5歳の時である、5歳までは育てられたのである
でもその妻は家を出て他の人と再婚した、その人は裕福だった
だから楽だった、ところが認知症になり世話するものがいず再婚した息子がいて財産争いになった、5歳の時娘を放置して出て行った母親であるが実の母親であり財産をもらう権利があった、ただ本人は認知症になっていたから悲惨である
金を欲しいだけでありなんら母とも見ていないからである

これも最後は悲惨な結果になった
育ての親は「ひどい娘だわ」と自分に言い残して死んだ、幸い介護されることもなくあっけなく死んだから良かった
第一その娘には介護などできなからである、病気の時でも捨てたのだからできない
ただなぜそうなったのかそのことが理解できない、何か貧乏で苦しんだこともない、三人母親がいても良くされたからである
その娘はまた異常化していた、それもは信じられない異常な人に変わっていた
なんら情ももたない、冷酷な人になっていた
ただその娘は別に結婚しているし子供も二人も成長している、大学も出ている
だから外から見たらいい家族だとなる
でもその異常性に気づいたのは私の家にきて「おばちゃんは金があるだから金でめんどうみてもらへ」と血相変えて去ったことである
何もしてくれとも言わないのにそうだった

つまりその女性は冷酷な情もない人に変わっていたのである
ただ私の家とか自分自身のカルマでそうなった面もあるからいちがいに批判はできない
でもなぜそんな信じられない人間になったのかそれが理解できない
その育った環境がそうしたのだろうか?
夫が何かやさ男でやけににたにたしてふがいないものを感じたからその夫の影響でそうなったのか?
何か女性は嫁いだりするとその夫とか家の影響を大きく受けるからなのかとなる
この人はもうとても正常の感覚から相当にはずれている
ただ本人はそういうことに気づいていない
概してどんな人であれ自分の異常性に気づかないのである
でもどこかでその異常性は現れて苦しめられるとなる

そういう自分自身もそうだった、第一30年間も引きこもりとして生活していたことが異常だったのである、またそういうことができたことも異常だったのである
普通だったら家族で許さないだろう、でも自分は何かそのことで責められることなかっただから仕事もせずしたいことをしていたのである
そのことで社会性がなくなり自分も異常化していたのである
そのことに気づかせられたのは家族を介護するようになってからである
介護では引きこもりでも社会とかかわるからである
つまり人間は各人各様に異常が生まれる、ただ異常と正常の差が何なのかもわからないのである
意外と自分の異常性に気づかないのである

その人は技術者として勤めていたときと優秀だった、でも自分で事業を起こして経営者になったときおかしくなった
その家庭自体を事業主になるとまきこむ、またその人は何か養子ではないがそれと似たような感じになっていた、娘と母親の家でありその家風に染まったのかとなる
まずその家はケチなのである、何か絶対に損したくないという感覚である
せこいのである、その原因はあまりにも貧乏を経験した結果そうなった
そこには同情すべきものがある、自分の母親も貧乏だったからとにかく無駄をしたくないのである、だから花などいらないとなったのである
そこの家は何かケチでこりかたまっている、別に損しろときいうまでもなく他人のために箱一つでも持ちあけたくないのである
その前に金をくれとなる、金をもらってからでないと何もしないとなる

そういうケチくさい人が商売するとどうなるのか?

それ相応の金は払う、でもその前にその人は他人のために何かしたくない
ただ成功した経営者と優秀だとして認められることでありそれを目的として事業をはじめたのである
第一自分が苦しんでいる時、借金していたのだから相手の苦しみなど考える余裕もないのである
つまりそういう人に仕事を頼むだろうか?
商売でもただ自分だけが得しようとすることは成り立たないし失敗する
そもそも人が困っている時何もしたくない人が事業などできるものだろうか?
何か人のためにやるのが事業だろう、そういう気持ちが全くない人が事業ができるのか?事業がわからないにしてもそういう家族が成功するのだろうかとなる
それで事業する人は商売人の娘を嫁にしろというときそういう家庭で育つ人だと商売のことが暮らしの中でわかるからだろうとなる

ともかくその人は人に与えたくない、与えてもらいたいとなる人だったのである
だから介護で苦しんでいても金にならないからしないとなる
でも金は自分は払ったのである
いづれにしろこうして家族にも他から来た人にも苦しめられたのが自分であった
そこで人間の悪質性を嫌というほど知ったのである
ただそれも自分自身のカルマだったとなるから相手を批判ばかりはしていられないということも確かだったのである
この人も異常化したのは事業に手を出したからである、会社に勤めていたら別に優秀な技術者として終わっていたのある

ある大工さんも異常に優秀なことにこだわる、本当に他の大工さんより腕はいいし優秀なのである、それがわかるにしても俺はお前より優秀だとマウントして気分よくしている
何か俺が勝ったとか自慢している、それは大工さんとしてまた庭作りもできるから優秀なのことはわかる、でもそれでも一部分で優秀なのである
だからこうして異常に優秀さにこだわる人がいる、それも問題と思う

ただこの異常性を追求ててゆくとそれが個々人でも家族だけの問題ではない、社会自体の異常性がある、現代社会は複雑であり社会自体が異常化する
ナチスも精神病理学の対象であり社会の異常性が作り出したのである
カルト教団とかでもそうである、オウムでもそうだし何らか宗教団体は本来の宗教とは関係ない、精神病理として現れた現象なのである
創価などでもそうである、そこも精神病理学の対象でありナチスとかとも共通したものがある、精神病理学というとき現代社会が病んでいるということである
個々人でも個々の家族でもそうだが社会自体が狂気と異常をはらんでいる
それが爆発したのがナチスでありオウムとかなる、またカルト教団でもそうである
何ら本来の宗教とは関係ない、精神病理学の対象なのである
それが病的なものだからいつかナチスのように社会を席巻して狂気に向かわせることが怖いのである
それが怖いのは個々人なら家族ならそこでとどめられる
そういう狂気の団体は社会をまきこみ大混乱におとしいれられる、現代の戦争は集団的狂気ともなるからだ

ともかく人間はかたより異常化する、第一あることに優秀だとしてもそれは一部分のことである、でもその一部分で優秀でも異常に優秀さにこだわる
そういう専門的なことで優秀なことはある、現代は専門家の時代である
その専門家とは偏った人のことである、だから異常性が社会の中で現れる
40万人がコロナウィルスで死ぬと言った学者もそうである
何か突飛なことを真面目に言うのである、こういうことは専門家時代になるとその専門意外のことは関係なく専門にこだわりすぎてそうなる

それで武田邦彦氏は機械とか物を研究する人間は頭が冷たくなると言っている
それは何か人間の情的なものが失われてしまいあたたかみが失われるからだろう
科学者にはそういう人が多いかもしれない、理系だとそうなりやすいかもしれない
その対象が物であり機械だからそうなりやすいとなる
でも牛馬でも相手にしているとそこに情が生まれる、相手が血の通った動物だからであるそれで馬と結婚した娘の伝説とか語られる、動物でも人間化する
でも機械だとそうはならないのである、ロボットだと情は通わない
知、情、意というとき情が喪失してしまったのが現代にもなる

結局社会が狂っているという時、この現代文明社会を全部理解できる人などいないからである、いくらある部分に専門家になっても社会全体ではそれはほんの一部だから偏るからそうなる、人間は文明社会で全体を生きることができなくなっている
そこでこうした偏った人が生まれてくる、法律を駆使する弁護士でもそうである
そうして理論にこだわると何か異常化している、専門馬鹿にもなる
つまり現代は全人格として成長して形成することが不可能なのである
だから部分化して専門化してかたよったものになりそれが異常性を産むのである


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2021年05月13日

庭作りでコンクリートを壊すのに苦労 (人間は経験からしか学べない)

庭作りでコンクリートを壊すのに苦労

(人間は経験からしか学べない―石工のまねをする)

庭師、大工、壁塗り、デザインなど何かこのようにいろいろできる人がコンクリートを壊して木を植えるというのでそのコンクリートを壊すことで苦労した
自分も手伝った、コンクリートが結構厚かった、それで前は成功したのでもう一つ木を植えることにしたがそれが難儀だった
自分はそういうことに気付きもしなかったしできると見ていなかったのである
ただ何かそういう提案がありでるのかとなりまかせた
ただ正直金がかかるのでしたくないということはあった
ただ成り行き上でそうなったのである

それは玄関にもなっているから二つの木があると森の中に入るようにもなるからいいとなる、前植えた紅葉の木は成功したからである
それでコンクリートが大地を圧迫するとか言うので気になった
そしたらコンクリートの道路を作る造園会社のページがでてきた

呼吸するコンクリート駐車場をつくる。 
http://www.zoukinoniwa.biz/blog/2018/08/30811.html

コンクリートの下でも土を活かしている

通気口を作るとか何かそういう工夫をしている、だからコンクリ―トの下でも土が活きている
不思議なのはななぜコンクリートの一部の土から紅葉の木が伸びてまたノウゼンカズラの木が伸びて花が咲く、それは地中深く根が張ったためだと見ている
いかに根を張らせるかが問題になる
ただ石がでてきたり何か中は木を植えるにはいい感じではない
でもこのサイトだと土を活かす方法が書いてある
何か私は理系ではないから理解しにくいがなんとなく理解できる
コンクリートでも土を活かすために通気口とかいろいろしている
コンクリートの下だと土が圧迫されて死んでいるのかと見るがそうではない

土の中には、空気がたくさんふくまれている。土は空気から酸素(さんそ)を吸(す)って、二酸化炭素(にさんかたんそ)を出しているんだ。つまり、呼吸(こきゅう)しているってわけだね。

でも本当は、土自体が呼吸しているのではないよ。土の中の細菌(さいきん)や小さなカビなどの微生物(びせいぶつ)が、呼吸しているんだ。植物も土の中の微生物なども、土の中に新鮮(しんせん)な空気があるから元気に生きていける。作物を植える時、土をたがやすよね。これは、土の中に新鮮な空気をたくさん送りこむためにやっていることだよ。

土も呼吸(こきゅう)をしているの?
https://www.panasonic.com/jp/corporate/sustainability/citizenship/pks/library/011plant/plan008.html

コンクリートにおおわれると呼吸しにくい、だから通気口が必要になる
何か庭作りと農業は共通したものがある、植物を育てるから共通している
どうしても土を知ることが大事になる、土を知らなくては農業はてきないとなるからだ
だから農業は本当にむずかしい、素人だと必ず教える人がいないとできないのである

今は田舎にいても農業がわからないのだ、農業している人は一割にもみたないからであるただ私は理系ではないからこうして化学とかなると苦手でありわからないのである
化学記号などは学校の時一番苦手でありわからなかったからだ
でも何かわからないなりに現実の農業とかから学ぶものがあったが何も知ることなく終わったとなる
こうしてとにかく学ぶべきことが山ほどあるのに学ばないで終わっているのが人間なのである、それを老人になって死ぬ間際に痛切に知るということにもなる

ともかく何か今は若い人でぶらぶらして職につかない人が多い、ニートとか本当に田舎でも多いのである、だから時間を無駄にしている、それがとりかえしつかないものになる
なぜそうしたことで切迫感をもたないのか?
何か時間が永遠につづくように錯覚しているからだ、それは自分でも若い時はそうだったこんなに時間が早くすぎてもう死ぬのかということがショックなのである

今回は作られた庭の修理とかであった、塀とかの修理であった
でも新しく玄関の方にもう一本木を植えることが提案されて実行したがこれが思った以上大変な作業だったのである
コンクリートを壊すのが大きな仕事になった、それを手伝った
そして楔を入れるようにして部分化して割る
実は昔子供の頃近くに石屋いてそうしていつも楔(くさび)で石をたたき削り割っていたのである、ただその時は機械がないから手でしていたのである
自分でも楔(くさび)打ちコンクリートを割って捨てたのである
石屋とか石工のまねをしたとなる、それでも経験したことで必ず理解するものがあるのだ

何にしろ学問でも身につかないのは現実問題から出発しないからである
学問とはどうしても高校までは試験のためにあるとなり嫌になっていた
ただ私の場合、奇妙なことは大学出て無職だったが学問に興味をもったのである
それは旅すれば地理に興味をもつから自ずとそうなったのである
つまり人間は現実問題に直面してその解決のために学問が生まれたからである

一体どうしてこの辺の原発事故から復興できるのか?

これが最大の課題でありこれも学問と関係している、特に放射性物質に汚染された土どうなっているのかとか除染が可能なのかどうかということが生々しい現実の問題としてあるそれは理系であり文系となるとまた別な問題の解決があるともなる
原発事故の問題をモラルの退廃からその原因を追究するとなるとそうなる
それは自分自身が書いてきたことである
でも理系の専門家が最も重要なものとして事故前でも後でもそうなった
ただその理系の学者でも放射線がわかったわけではない、だから被爆の森というNHKの放送でもそれほど事故から十年すぎても影響がなかったとも報告していた
つまり実際にどういうふうに放射線が人間に影響するのかわからないのである
それはコロナウィルスと似ている、これも未知でありわからないから不安になる人はなる専門の科学者が学者がいてもその人たちもわからないのである
だから憶測で言っているからなんだ素人と変わりないのかとも見るのである

人間はなんでもいいから経験すると頭に関係なく悟る、知る
経験しない限り現実問題ではない架空の問題のようになってしまうのである
だからつまらないことでも経験することが大事である
本ばかりテレビばかり見ていてもわからないのである
神を知れとか言っても聖書を千回読んでもわからない
ただ過酷な経験から知るのであり聖書を一回も読んでいなくても神を知ることは可能なのである、自分自身がそうだったからである

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2021年06月01日

立場が変われば見方が変わる(相互理解の難しさ) (男女でも見方が変わる)


立場が変われば見方が変わる(相互理解の難しさ)

(男女でも見方が変わる)

近くの人が80過ぎた人がしきりにいう、先生になぐられたことを根にもっていたのであるその先生も近くの人だったがじっと前に死んだ
その頃普通に学校は先生は生徒をなぐったり虐待していた
私も学校でそうさせられた記憶がありそれが心に残っている
何か人間を人間として見ないのである、奴隷のように見ているのが先生だった
またそうして厳しい先生が地域でも家族でもいい先生とされてもいた
今は逆に虐待だとか煩くなっている
ともかくそうしたことは意外と忘れない、根をもつことになる

ただ同世代の女性と話ししたらそういう厳しい先生の方がいいのだとしきりに言う
今は子供をあまやかしているという、これは女性から見た見方だと思った
女性はなぐられたり廊下に立たされたりしない、かえって笑っているだけだったとなる
そして厳しいししつけをするのがいいとされた時代だとなる
それで加治将一のyoutubeで団塊の世代の同期の人が子供は口答えするな、何も言えず飯を食えとしか言われないし何かというと殴られたとか言っている
その人は8人兄弟だというからそうもなるのかもしれない
でもそういうふうに地震、雷、火事、親父とか威張っていたのが昔の親だったのである

女の子にはそういうことがないからかえって厳しい方がいいとその母親となって年老いた女性は言ったのである、ところがその人には三人の息子がいるが一人は絶縁にもなっている、母親は苦しんでも何の関与もしない他人と同じなのである
そこには何か事情があるにしろ育て方にも問題があったのかともみる
ただ貧しい底辺の人だからそこにも問題があった
たいがい家庭では父親はこのように威張っていた、それが普通だったのである
だから大人になった時もそういうことを忘れない、それでその恨みを言うようになる
私の場合は早く父親が死んだからそういうことがなかったのである
もし生きていたらかえって恨んだりしたかもしれないのである

教育とは何か?それは自主性を育むことなのだが家庭でも学校でもそれができない
強制と体罰にもなる、人は何らかの才能を持っている、でもそれが伸ばせないのである
それは自主的に学べる環境が与えられないことにある
もしそれぞれか自主的環境が与えられれば自ら学ぶようにもなる、その時こそ学ぶことが身につくことになる
だから私の場合は大学を卒業していからの方が勉強したのである
大学ではほとんど勉強していないかったからである、勉強に興味をもてなかったからである
結局その後どうなったかとういうと就職もできないからアルバイトとか流れ作業のような底辺での仕事しかなくそれが嫌になり家庭環境に恵まれて旅ばかりしていたとなる
別に旅がもともとしたいというのではなかった、仕事に興味をもてないし就くこともないからそうなっただけである

結果的に旅ばかりしていれば自ずと地理に興味をもつようになった
また外国にも50代で行ったからさらに地理に興味をもつようになった
地理はまずいくら本を読んだり教えられたりしても興味をもてないのである
実地にその場に行かない限り興味をもてないのである
例えは詩とか作るにしても意外とその前にいろいろな体験をしておくことである
それで有効なのが登山とか旅とかになる
山を詩にしようとするとき山を知らなければならない、するとその詩を作る前に登山でも必要になる、でも登山となると体力がないので私は40代前にやめたのである
詩を作るというとき意外と体力がないと作れないとういことがある
なぜなら軟弱だったらとても荘厳な山を詩にすることができないのである
自然そのものが軟弱だったら詩にできないことがある
ただどうしても詩人というと体が頑丈な人は少ないと思う
ただ体が頑丈な詩人もいる、そういう人はまた別な感性に欠けるともなる

いづれにしろ立場が変わると見方が違ってくる、それで相互理解がむずかしくなる
男女間でもそうであり地理でもそうである
韓国から見た中国大陸からみた日本と日本から韓国や中国を見る感覚は正反対になる
日本は島国として韓国と中国をみる、それが固定観念となり世界を見誤るとなる
どうしても日本は島国でそうなりやすいのである
地理的に巨大な大陸的なものを理解できないのである
だから日本の太平洋戦争は無謀になった、西安まで日本軍が行っていたことに驚く
そこがどれだけ遠い場所かそんなところまで行っていたことは本当に無謀だったとなる
満州にしてもその広さを知らなかった、またアメリカでもその広さを知らなかった
知りえようがなかったともなる、それはその国の地理とかそこに住む人の立場を理解できなかったからだとなる
結局人間は自分の住んでいる場所がどこであれ中心として世界を観ているのである
だから必ずそこでその住んでいる場所が違うから見方が違い誤解が生まれるのである

人間が意志疎通ができないというときそもそも男女間でそうである
なぜこれほど離婚が多いのか、私の所に来た人が離婚が多いことに驚く
小高の人で二人離婚している、最近では67くらいになって離婚した
なぜか自分の家に来た人は離婚が多い、二回離婚した人もいる
熟年離婚も本当に多いのである、それだけすでに男女間でも意思疎通ができないということである
江戸時代でも離婚が多かったという時もともと男女の間でも意思疎通がうまくいっていなかったともなる
それは男女で基本的に相違が大きく社会でも世界の見方でも違っているからだとなる
その落差が大きいからどうしても離婚になる

また現代だと無数の職業がありその職業が違うと相互理解がむずかしくなる
それで鉄を作る人とか木地師とかは神秘的な存在になり伝説にもなった
天狗とかなんとかにされた人も何か意志疎通できない人だからそうなった
それより江戸時代なら隣の村の人との交流でも麦つきに来た若者が蛇だったとかされる
つまり隣の人すらなじめない異様な人とされたのである
それだけ隣の村同士でもなじめない交流しない世界だったのである
だから飯館村の大倉村と佐須村が明治になって合併できなかったのは民情が違うからとなっていたのである、民情が隣の村同士でも違ったのかとなる
それだけ人間が相互理解することは立場が違うと地理でも隣村ですら離れている相互理解が難しくなっていたのである
現代でも実際は相互理解することは本当にむずかしい、確かに情報が膨大になやりとりすることができても現実問題として相互理解する意思疎通することはむずかしい
グロ−バル化すると油まみれの一羽の海鳥でイラクを誤解したようになる
テレビの映像からだけでは実際は理解できないからである

人間が理解しあうことがどれだけむずかしいかは男女間で三分の一が離婚していることでもわかる、また立場が違うと見方が変わるからである
人間はそれだけ多様な立場がありそれで誤解も多くなる、現代はこれだけ複雑になると職業が多様化するとさらに理解がむずかしくなる
何か専門用語を弁護士でも科学者でも使うと理解できなくなる
まるで外国人と同じになる、現代とはこれほど他者を理解することがむずかしい時代はなかった、江戸時代なら農民が大半だったというときそこで理解しやすかったのである
侍にしても農民から税をとって生活していたから農業を理解することがあったからだ
現代はもう無数の職業がありさらにグロ−バル化すると理解不可能になったのである
ただ物が入ってきても相互に理解しているわけではないのである
そこでグロ−バルな争いにもなり世界大戦にもなったのが20世紀だったのである

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2021年09月20日

思考脳、創造脳を鍛える時代 (数学も考える手段としてあった)


思考脳、創造脳を鍛える時代

(数学も考える手段としてあった)

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私は文系であり数学が苦手だった、その原因が必ずしも生来的なものではなく学校での暗記教育にあった、だから高校まで自分で考えて勉強したこともない
何か興味あって自ら勉強したこともなかった
まず家には一冊の本もないのだから家で自主的に勉強する環境がなかった
また成長しても30才以上になっても家に一冊も本がなかった
それでいつも本を買うために仙台市まで行くほかなかった
専門的な本がまず売っていない、そして仙台市でも本は限られていたのである
これは相当なハンディキャップがある、なぜなら文系となると本を読めば知識が広まるからである

本が買いないとすると知識を広め深めようがないのである
それで町の本屋では「冠婚葬祭」とかが百万部も売れてベストセラーになっていたのである、要するにそんな本しか置いていない、田舎では専門的な本を読む人自体極端に少ないからである
東京だと古本屋もあり本は手に入る、それでわざわざ東京まで行って全集を買ったりしたまず本を手に入れることが知識を広める深めることでありそれ意外にないとしたら
勉強しようがないとなってしまうのである
ただ田舎は感性を磨くのには適している、自然があるから適している
逆行に東京とかなると感性は磨けない、自然がないからである
すると俳句とか短歌でもなかなか作れない、季語が必要でありその季語は自然の中で農民が暮らしの中で作りだしてきたものだからである

勉強とは試験のためにしているのではない、でも実際は試験のためでありそれも暗記だけの教育でありそうなると何かに興味を持つこともできないのである
だから高校まで何か考えたことはなかった
人間が生きることは無数の疑問がありなぜかと考えることが人間たらしめている
それで宇宙は考えないが人間は芦のように弱い存在だか考えることで宇宙より優っているとかにもなった
考えない人間はそもそも人間でもないとなる、奴隷だともなるし機械だともなる
現実にこれほど文明化しても自ら考えない人は多数なのである
それでカルト教団とか大衆を洗脳するマスコミに支配されることになる

数学でも実際苦手でも考える手段として学べば専門家になれなくても興味をもつ
ただ暗記だけだったらそれは考えないのだからつまらないとなる
でも江戸時代辺りまでは実用として読み書きそろばんが必修であり自ら何かを考えるということはできない環境だった
でもそろばんができるとか子供のとき自慢になったがコンピュターがでてきて何の役にもたたなくその労力も無駄になった
活字拾いをして印刷していた文選の仕事も能力として認められていたがそれもコンピュター化して役たたないものとしてその技術で就職しようとしたが採用されず犯罪者になったというドラマを見た

人間社会にはこういうことが常にある、もともとあった技術が進歩して新しい技術になったとき不用になる、そのために職を失う
静岡では大井川の渡しの仕事をしていた人が明治になり失業した、その人達はお茶作りをするようになったのである
人間社会には常に技術とか時代が変わりこれまでの技術でも知識でも無用化される
そういうことは常に起っている
もし技術でも時代が変わらなければ経験あるものが歳の功となり偉いとなっていたのである、老人は尊敬されていたとなる、でも今は技術革新の時代であり老人の経験も活きてこないから老人はいらないとなるのである

要するにこれから大事なことは思考脳と創造脳を鍛えることである
ただ暗記していては世界の競争に勝てないからである、日本は暗記脳に優れていて明治維新とか戦後の高度成長を成すことができた
それもものまねに優れていたというにすぎなかった
日本で戦後電器製品が売れたのは別に発明でもなかったのである
日本で優れているのは改良改善だというとき何か全く新しいものを作りだしたことではないのである、日本人はそもそも自ら考えることがない同調民族でありみんな同じにしようとする、だから異質な者を特に嫌う、村社会なのである
だから何か変わった奴は嫌われて排除される
でも大陸となると違っている、中国でもあれだけ広いから変わった人間もいる
そういう人間も役立つとかとみる、寛容さがある
それで「奇貨置くべし」とかの格言が残る、変わった奴も何かに役立つとして食客として食わせておくとなる
こういう志向が日本人にはないのである

いづれにしろ自分はもともと学問とか好きだったのだが学校での暗記脳教育で自ら考えることをしないので興味を失った、私が自ら勉強しはじめたのは大学を出てからだったのである、それで何か理解することが遅すぎたのである
もはや死ぬ時期になり理解力と思考脳ができてきたのである
第一50歳からバックパッカーになって世界を旅行したことも遅かったのである
それで相当に時間を無駄にしたのである

例えばグロ−バル化を考える時、数学的に考える時どうなるのか?

距離、時間、スピードの関係で考えると距離は変わらないが時間は短縮できる
スピードを速くすれば短縮できる、10キロを一時間で行くとして徒歩で行くのと車で行くのと違ってくる、100キロを時速50キロなら2時間で行く時速70キロなら
100÷七〇=・・になる1・4時間とかなる

AからBまで行く時間は短縮できる、距離自体は変わらなくてもスピードが速くなれば短縮できる、そうして世界には相当な距離で隔てられていても世界の物流が早くなる
物を運ぶにしても船と飛行機では格段の差かある
百倍とか千倍の差がある、なぜなら船だと一か月とかかかってしまうからである
その差が大きくヒト、モノの交流が盛んになりグロ−バル化社会が生まれた
そして時間でもそれだけスピードによって変わった時、空間も拡大して認識する

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正方四辺形を一周する時間を図式化する、一辺一時間で行くすると一周するのに四時間かかる、次にその倍の面積になると二時間で一辺を回ると八時間かかる、次に一辺を三時間で回ると一二時間かかる
つまり空間軸が広がるとその広さを理解するにも到達するにも時間がかかる
ただスピードを速くすれば早く回れる到達するとなる
それで空間の理解が深まることはないのである
確かなことは空間軸が拡大することによって比例してそこを回り理解するのには時間がかかることなのである、空間軸が拡大すれば時間軸も拡大する、比例する
ただそれは数学的な思考でありその空間を理解することは数学のようには理解できない
ただ空間が拡大すれば時間も多く必要になることは確かなのである
でも飛行機で世界を回っても空間を理解することはできないのである

いづれにしろグロ−バル化するということは距離を短縮する、距離自体は不変だがスピードによって距離を短縮するとなる
空間が拡大してスピードが速くなるとどうなるのか、世界の経済成長とか技術が伝播する時間が極端に短縮したのである、中国が十年そこらで急成長したのも交通の発達で空間が狭められたからである、すぐに先進国に追いついたのである
飛行機がないような時代はそういうことは不可能だった、船で運ぶような時代では不可能だったのである
またインタ−ネットとかで通信で世界が結ばれるのもグロ−バル化を促進した
江戸時代のように飛脚で手紙でも運んでいたら時間がかかりすぎる
瞬時に世界と交信できるので世界が村となるというマクルハーンが言ったようになった
ただ通信でも映像でも瞬時に送られてもそこにはぞの場のこと空間を地理を理解することはできない、それで誤解が生まれて油まみれの海鳥を世界では誤解した
イラク戦争でイラクが悪い奴だとすりこまれて怒りになったのである
その周りは別に油に汚染されていなかったのである

ともかく文系であれ理系であれ思考脳を鍛えることが大事になる、数学をただ暗記だけで教えないことである、図形を使い考えさせる思考脳を鍛える教育が必要になる
思考脳と創造脳を感性脳を鍛えることが必要になる、これからのグロ−バル化世界では思考脳感性脳創造脳が求められているからだ、これは子どもの時から訓練していないと身につかない
簡単なことでも計算でも思考脳を鍛える、だからソロバンのようなものはもう役に立たない、それはあくまでも暗記脳だけのものだからである
そうなれば計算機とか機械に変わられたのである
暗記脳的なものはコンピュター化される、AI化される、翻訳でもAI化されている
ただ思考脳と創造脳は絶対にAI化できないのである
つまり思考脳と創造脳が人間たらしめているのである
結局人間の能力は実は見出されていない、開発されていないのである
何か素質があり生まれつきなものがあったとしてもそれが開発されないと埋もれたままなのである、その素質が遺伝で決まっているとしてもそれが見いだされ開発されなかったら才能も開花しないのである

これからの教育は一律に学ぶ暗記脳から思考脳と創造脳を鍛えることである
それは別に特別な人だけのものではない、鍛錬で身につくものでもある
もちろん天才とかはごくごくまれにいるが一般の人でも思考脳と創造脳を鍛える時代なのである、そもそもコンピュターとかAIとなれば機械的なことはしなくつてもいい、必要ないのである、だからコンビニでもスーパーのレジでも機械化されて人が必要なくなる
人間に必要なのは何かと問われるのであり今までの教育の仕方では現代のグロ−バル化には適合できないとなる


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2021年10月01日

これからの教育はどうするのか (思考脳、感性脳、遊戯脳の育成)


これからの教育はどうするのか

(思考脳、感性脳、遊戯脳の育成)

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明治維新以降の教育はヨ−ロッパ文明をまねることだった、何かを日本人が独自に産みだすことではなかった
だから暗記脳で良かったのである、江戸時代でも暗記脳教育だった
「読み、書き、そろばん」で良かった、それは自ら考えることではない、暗記することである、それで子供の時そろばんが得意だったけど何の役にも立たなかった
父親が酒店の丁稚だったので子供にも同じ教育をさせようとしたのである
つまり江戸時代でも教育は読み書きソロバンである
第一文字を読めない、書けない人がいたのだから文字を読めるということだけで知識人にもなる、侍は武道だけではない、読み書きをできていたからエリートとなっていたのである

それでタリバン兵には読み書きができない人がいるというとき権力を奪っても行政になるとそれもできないとなる、字が読めないし書けないとなると何か飛行場に入る時の検査もできない、事務ができないからだ
ただ日本人は寺子屋で読み書きを習っていて読み書きができる人が多かったのが違っていた、でも明治になっても読み書きができない人がいたのである
その人はハガキとか手紙を読めないし書けないから人に頼んでいて肩身の狭い思いをしていたのである、大正生まれの母とかなると尋常小学校で一応読み書きはできたのである
その差は大きいとなる
だから読み書きは必要である、でもこれだけ高度な知識社会になると読み書きだけではもう成り立たない、コンピュター社会になるとプログラムができないとエリートになることは不可能とまでなってきている
それで小学校の時からプログラムを教えるようになる

明治維新以降の教育は基本的には画一的に暗記させる教育である、読書百遍自ずから通じるとかなる、暗記脳教育でありそれで間に合ったでいたとなる
近くの寺があったところに小さな碑が埋もれていた、そこはどうも暗唱しろということが記されていた、そこは寺子屋がありそういうものが残っていたのかとなる
例えば漢詩とかでも文学的なものでも暗唱することが教育でありその中味を理解することよりまずは暗唱することが教育だったのである
なぜ自分が勉強が嫌いになったのか、それは確かに能力がないということもあった
でも確かなことは高校まで自分で一回も考えたことがなかったことである
試験でも暗記したことで暗記脳がいい点数をとることにもなる

それでなぜ自分が数学嫌いであり興味がなかったのか、それは何でも暗記することだったからつまらないとなっていた
でももし算数でも数学でも自ら考えるものとして勉強すれば興味あるものとなったのである、そもそも足し算の意味はわかるにしても掛け算とか割り算の意味がわからないのである、そういうことを考えたこともないのである
そして意外と与えられた問題を解くより問題を自ら作り解くことが考えることに通じて
興味を持つことだと死ぬ時期になって理解したものも遅かったとなる

要するにこういうこは能力の差があっても訓練が必要なのである
ただ特別優れた人は訓練など必要ないともなる、天才とかなるもう教えなくても理解できるともなるからだ、私が言っているのは普通の人を対象にしたものである
図形などでもそれは相当に様々に考えて理解することがある
それがただ数式を暗記するだけでは興味が湧かないのである
だから算数でも数学でも図形遊びのようなことをしていれば積み木遊びでも何か具体的なものから理解して抽象的な数字を覚えるといいのである

そこで次に必要なのは遊戯脳なのである、人間には遊ぶということが基本的にある
子供の時遊ぶ時代であり遊ぶことで様々なものに関心を広げるのである
何か遊びを作り出すことは創造的な行為である
ただこの遊戯脳は学校ではそがれのである、学校だと一つの軍隊であり集団であり一律的行動が求められるからである
また学校は工場だというときその建物を工場を模したものだというときもそうである
現代の工業社会に適応させるものとして作られたからである
それで寺子屋では学校のような整然として机が並べられていない
ばらばらになっていて先生が個別指導するようにもなっていたのである
学校という形態は明治以降に作られたものなのである
大勢の人間の規格化であり一律にして工場で大量生産するものの備えとして作られたのである
これも明治以降はヨ−ロッパに習うことだからまねることだからそれでも良かったのである

それは戦後もつづいたのである、一見日本の高度成長が電機製品が売れたことで日本がは特別優秀な民族だと世界に誇ることになったがそれは何か独創的なこと発明したことではなかったのである、日本では何か独自に発明したことがない、ものまね民族だと言われていた、それは今中国でもアメリカのコピーだと言われるのと似ている
コンピュターはアメリカが発明したものだからである
そのためにバブル崩壊以後は日本は30年間停滞しして賃金も上がらない、貧困国家になってしまったのである
つまりヨ−ロッパ文明をまねて成長したのはいいが日本独自のものを産みだせなかったことが停滞の原因だったとなる

これからの教育は思考脳と遊戯脳と感性脳を育てることである
遊戯脳というときただ遊ばせるかのかと反対されるが人間の本質として遊ぶことが重要な要素としてある、ただ動物でもそうだがチンパンジーに数を教えさせた、そしたら興味をもってしていた、チンパンジーでも遊ぶことがありそれを自ら楽しむことがある
ところが数を覚えることでその度にご褒美でバナナをくれたりしていた
そしたら関心がバナナの方に移って数字を覚えることに関心がなくなったという
何かこれは遊び自体で楽しんでいたのにバナナというご褒美をもらうことが目的になって興味を失ったとなる

これは人間にある、画家でも絵を売ることが目的になりどれだけ金が得るということが目的となり肝心の絵を追求することがなくなる
何かそういうことが人間の仕事には多い、肝心の仕事に興味を覚えるより金のためにするとういだけになり歪められる
そういうことは人間社会に日常的にあるからである
人間にとって関心とか興味が大事であり遊びも大事である、でも金にならないなら利益にならないら無駄だとされてしまう、利益が上がらないからやっても無駄だとなる
人間には本当は社会の中でも遊ぶ空間が必要だとなる
その遊ぶ空間でも遊園地とかなると遊ぶことが利益の追求になる
ともかく人間はどれだけ常に利益を求めることで本来の目的とは違って歪められるからである
第一宗教とは利益とは関係ないものであった、それがただ御利益追求となり権力となったことでもわかる、利益を得るために肝心なものが必ず歪められるのである
だから私はベーシックインカムに賛成する、つまり各自利益だけを追求するものではなく各自の興味を追求して各自の個性ある人生を生きるためにいいとなる
ただそれは理想論であり実際はそうならないにしてもその思想には賛成するのである

ともかくこれまでの教育は暗記脳しかない、創造脳をもつには思考脳、感性脳、遊戯脳を開発促進することである
感性脳となるとこれはコンピュターにはないものでありこれから重要なものになる
コンピュター化できるものはもともと創造脳とか感性脳とか遊戯脳とは必要ないものとて作られている、まずコンピュターには美の感覚をもつことができないからである
確かに計算脳があっても人間的なものとは思考脳、感性脳、遊戯脳にある
これはコンピュターにはもてないからこれからの時代では重要になる
だからこれまでの工業化の大量規格製品を作る時代の教育とは違ったものになる
そうしなければイノベーションも興らず日本は停滞したままだとなる

おそらくその見本がオランダにあるのかもしれない、オランダの教育は世界でも優れているとされるからである、少人数で自由な教育をして思考脳、感性脳、遊戯脳を高めるものとして評価されている
団塊の世代などは一クラス50人とか教室がないとか騒いでいた、それだけ人数がおおかったからそうなる、そういう時代は一律な規格品を作る教育でも良かったとなる
第一学校に行けない国とかもあり学校に行けるだけでいいともなるからだ
実際に私の家には本一冊もなかった、もし家に本があり自ら読んでいたら考えることもしたかもしれない、家で読んでいたのは貸本屋から借りた漫画本だったのである
ただ今になると知識を探求する場が拡大した、インタ−ネットとかのyoutubeの教育番組がそうである、これは相当に勉強になる、無料で学べる
だからこれから自主的に思考脳、感性脳、遊戯脳を鍛える環境が整う時、日本でも何か発明する人がイノベーションを起こす人が出てくるということはありうる

とにかく自分が本格的に勉強したのが大学を出てからだった、そこで旅をして地名に興味をもったり地理に興味をもった自ら学習することになったのである
本だけ読んでもいても今日を持つとはならない、外国を知るには百聞は一見にしかずであり実地にその場に行った人が一番実感として理解するからである
いづれにしろ日本は少子高齢化であり今までの様な大量規格製品を作り出す時代でもない創造的な能力を高めることがこれから大事になる
少数精鋭主義になる、それでオランダの教育に習うのがいいとなる
オランダは小国でも貿易では大国になったりしている、小国でも大国にもなる
ポルトガルでもスペインでもイギリスでももともと小国でも大国になったからである
中国とかアメリカは大国なのだからそこから優秀な人が必然的に出て来る
でも小国でも優秀な人を才能を育てることができるということでオランダが見本になる

100校あれば100通りの教育がある国」オランダ 日本が学べるものは?

そもそも机の配置が自由である、それは日本の寺子屋と似ている
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2021年10月02日

内発的動機と外発的動機で仕事や勉強の態度が変わる (継続できるのは内発的動機をもつ者である)


内発的動機と外発的動機で仕事や勉強の態度が変わる

(継続できるのは内発的動機をもつ者である)

お金を貰えるから、嫌な仕事でも頑張る。
仕事をサボっていると、怒られるから、真面目に働く。
クラスで1番の成績を収めて表彰されたいから、勉強を頑張る。
テストで低い点をとって恥ずかしい思いをしたくないから、一応最低限の勉強はしておく

常識を覆す、やる気を引き出す科学的方法

ここに書いてあることは自分の思うことと一致していた
前に読んでいたが忘れていた、でもプログを読み返してなるほどなと思った
内発的動機と外発的動機のこともそうだった
内発的動機だと芸術家でも成功する、外発的動機だとか報酬を第一とするから成功しない一時的に有名になったり金が入り成功したように見えても芸術家としては成功しない
肝心の内発的動機がないから報酬をもらうとそれで目的が達成されて終わる
でも内発的動機でつづているものは最後に自分自身の芸術の完成に向かう
ただその時内発的動機だとしても誰にも認められず金銭的にも恵まれないとするとつづけるのはむずかしいとはなる

これは芸術家だけではなく教育にも言える、内発的動機として勉強すればそれは継続するし終わりなき知的好奇心として独習でも勉強しつづける、でも外発的動機だと試験とか外部の評価とか有名高校大学に入ることが目的だとその目的が達成される勉強もしなくなる内発的興味から勉強するならそれは一生でも継続するのである
ライフワークになるのである

内発的動機というとき動物でもそれがあった、チンパンジーに数字を覚えさせようとしたときそれにチンパンジーは夢中になった、チンパンジーも遊ぶことができてそれが面白いからしていた、でも必ずそこで報酬としてバナナとかを与えていたらそのバナナが欲しいということになり数字を覚えることに興味を失ってしまったのである
そういうことを子供でも実験したことをここでは書いている
私自身の経験でも教育とはすべて外発的動機からしていた
また高校まで一回も自分自身で考えることをしなかった、ただ試験のためとか親に認められたい、みんなに頭がいいとみられたいとかしかなかった
つまりすべて外発的動機だったのである、何か知的好奇心から勉強していたのではない
常に試験の点数をあげるためとかあらゆることか外発的動機でしていた
そういう勉強はつづかない、内発的動機でしているのもは一生継続するのである
人間の知的探求心は無限だからである

人生何をするにもやはり内発的動機から始めないと失敗する
でも実際はみんな外発的動機で仕事でも何でもしている、日々の糧を稼ぐためにしている内発的動機と外発的動機は対立する、必ず金にならないからやめる、認められないからやめるとなるのが普通だからである
金にならないと事業だって何でも継続できないからである
この両方を備える仕事とかなかなかないだろう、現実社会ではまずは利益だとなる
利益がでないならやめるとなる、また会社でも認められない
だから例え不正でもノルマを果たせば上司に認められ会社に認められる

でも考えてみると会社でもどういう動機で働くのかが問題になる、内発的動機が問題になる、それがないとモチベーションもあがらないとなる
ただ利益になればいい、売れればいいとしかならないといづれは会社もだめになる
現代は何かこうして意味を求められる時代になる、ただ利益を上げればいいとはならない内発的動機は外部に左右されないことである、その人にとって価値があり意味があることを継続することである、ただそれを全く外部的に認められないし評価されない金も与えられないことがある、そうなると継続することが困難になる
会社経営などは利益があがらなければやめるほかないからである

外発的動機というとき事業を始めた人はただみんなに自分は優秀だということを見せるためにした、確かに会社に勤めいたときは難しい資格をもっていて優秀だったのである
エンジニアとして優秀だったのである、でも事業を始めたときその動機は自分が優秀なのだから会社経営しても成功すると思っていたのである
そこに内発的動機が欠けていたのである、外部に優秀だと見せたいと言うだけだとなる
外発的動機になり内発的動機には欠けていたとなるからだ

つまり人間は常に外部を気にしている、みんなに知られて認められたいという願望が強いでも内発的動機を持つものはそういうことがあってもやはり内発的に継続するものが大事なのである、外部から認める認められないにしろ内発的動機から追求して来たものを一生追求する、特に芸術家となるとそうなる
価値とは相対的なものでなく絶対的なのである
唯一無二になる価値になる、花でもいろいろあってもそれぞれ個性があり相対的に価値があるのではない、その花にしかないものがありそれが価値となっているのである
みんな同じだったら価値がないからである
だから誰でも作れる大量生産できるものはやがて価値がなくなる
それが日本の電器製品とかだったのであり今では韓国でも中国でも同じものを作れるから価値がなくなり売れなくなり日本は衰退したのである
もし日本でしか作れないとかまねできないものだったら依然として価値を持っていたからである

ともかく現代のようにある程度豊かになるとそうした個性が求められるようになる
なにもない時代は個性より同じものでも作って売れる、でも器でも同じものがいいとなっていたのは貧乏な時代なのである、器一つにも個性あるものを求めるようになるからだ
同じもの大量生産する時代なら個性は必要なかったのである
日本の教育もやはり同じであり工業社会に適応する規格品を作ることが教育だったのである、思考脳、感性脳、遊戯脳は必要ないものだったのである
それは大量規格製品を作る時代だったらそれで良かったのである

これからそういうことが通用しなくなった、それでみんなアーティストになれというのも時代が変わったなとなる、そういう時代の変化は老人になるとなかなか理解できない
ベーシックインカムとかでもそうである、働かないいで金がもらえる、そんな馬鹿なことがあるのかとふざけるなとなってしまうのである
ただ自分の場合はそういう生き方をしてきたのは違和感がないのである
ただ企業戦士として働いてきた団塊の世代とかバブル世代とかはそういうことが理解できなくなる、教育だってそうである、大量規格製品を作るのがこれまでの教育だったからである、第一個性を引き出す教育は結構手間になりめんどうになるから先生でもしたくなとなるからだ、一律に教えているのが楽になるからである

ただ正直教育にしても別に先生がいなくても教えなくても自発的動機でしている人は自主的に学べる環境を与えてやればそれだけでもいいとなる
まず家に一冊も本がないとか子供部屋もないとかそういう環境ではいくら自発的に勉強するなってもできないのである
読み書きそろばんくらいの時代ならいいが今は高度な知識社会になるとき対応できないとなる、家にそういう環境があれば自ずと内発的動機で勉強できるとなるからだ

いづれにしろこれからの時代を生きるには今までの感覚では通用しなくなる
社会自体の価値観も変わってきているしグロ−バル化しているしそれは物流だけではない知的なものでもグロ−バル化しているからである
それに対応する能力をつけないとついていけないのである
私がグロ−バル化に反対したというのは過剰な物流のことであり知的なものではグロ−バル化した方がいいのである、それがインタ−ネットで世界的な知の交流時代になったともなる、テレワークの時代になったとなる
大学でもかえってテレワークの方がいいとなるとき実は教授でも教える方でも今度は生徒によって選ばれるのである、それも飛び切り優秀でいなと選ばれないとなる
なぜなら別に個々の大学で人を集めて講義するのと違うからである

その人の興味によって最も優秀な先生からyoutubeとかテレワークで学べばいいとなるからだ、かえって講堂で多人数で講義を受けるよりわかりやすいということもあったというのは別に大講堂で講義を受けるより身につくとなる
教えるも先生も淘汰され時代にもなる、AIの授業にもなる、実際ある分野では翻訳とかではAIが優れているともなるからだ、それで普通の先生は失業する時代になる
ただ創造的に教える先生は残るとなる、創造的なことができる分野は残るとなる
先生はもう選ばれた人しかなれないとか医者でもAIが発達するとそうなる
あらゆる分野でAIとは違ったものをAIにできないものをできる人が生き残るとなるからだ
ただ友達を作るとかその他の人間的なことが育めないことがある
そのマイナス面ももあるがプラスの面も大きいしそれが時代の流れになるとき無視できなくなる、知らないですまなくなるのである
車時代に車を持たないことは時代も社会も知らないことになるから問題なのである
例え車をもっていないくても車社会だから車の知識が必要になる
それで自分自身が車ももたいなで車を知らないことで失敗したのである
身内が交通事故になって自賠責とかでも知らなかったからである
こうして自分は社会から離れて暮らしたのはいいにしてもいろいろなことを知らないことで失敗したのである


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2022年01月12日

戦前の学校教育―旧制高校は超エリート (みんな尋常学校で読み書きソロバンの延長だったーこれからの教育)


戦前の学校教育―旧制高校は超エリート

(みんな尋常学校で読み書きソロバンの延長だったーこれからの教育)

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大学は増えたから実業化しろとなるとき戦前の実業学校にしろとなる
職人の養成とかである、大学は増えすぎてその中身が劣化したからである
実際大学として通用するのは国立大学と早慶になっているからだ
後は実業に即してものでいいとなる



●尋常小学校ー女学校時代

尋常小学校の6年間が義務教育となり、かつ尋常小学校の就学率が97%を超えたのが1907年(明治40年)のことです。ちなみにこの時点で、日本に大学は3つしかありませんでした。東京帝国大学(現・東京大学)、京都帝国大学(現・京都大学)、東北帝国大学(現・東北大学)で
https://note.com/asamorikdb/n/n6f38ed881883

人間は老人になれば60以上になれば必ず過去をふりかえる、自分は何をしてきたのだろうか、何のために働いたのか?そういうことは若い時はあまり考えない
生活のためだ金のためだとかなっている、それで収入が多い方がいいとなるだけである
何が志をもって働く人はまれだろう、そういうことは戦前のエリートの帝大生にはあっただからデカションとか哲学者をまなんでいたのである
その極一部のエリートは何か就職するのでもすでにかエリートとして有利な職が地位が与えられることが約束されていたのである
だから戦前のそうした旧制高等学校は一校二高・・・とかに入れる人はまれだったのである

例えば女学校というとき(高等女学校)というときそこに入れる人は地域で選りすぐれた女性であり金持ちの家が多かったとなる
だから女学校を出たというだけで一目置かれていたのである
それで飯館村の大倉のばあちゃんが俺は相馬女学校でたとか言っていた
それを自慢したかったのだろう、ではなぜそんな山の中で女学校に入る金があったのかとなると山林をもっていて山持ちが金持ちになっていた時代があったからだ
戦前は木材でも輸入することがなくみんな地元の木材を利用していたからである
木材は炭にもしたし燃料として欠かせないから飯館村では炭焼きで金持ちになった人がいたのでる
姉は看護婦になったが意外となれないものだった、なぜなら結構勉強することが多いからである、そして試験を受けるために東京の新宿の方まで行っていたからである
ただ頭が良かったのとしっかりしていたので女学校に入れないことを悔しがっていたのである

●相馬市の女学校に通った大倉の女性

私の子供の時でも囲炉裏があり炭を利用していたから今になると信じられないとまでなるその女性は鹿島の親戚の家から相馬女学校に通っていたのだ
とても大倉からでは通えないからである、第一通うだけで大変だった
なぜならその頃汽車(電車)があったとしてもその汽車賃が高いからである
私の母は大正生れて松川浦に親戚があったが汽車に乗って行ったことを語っていた
その時代は意外と汽車が通ってもいてもめったに乗っていないのである
なぜなら汽車賃が高いからである、今ならみんな電車で気軽に乗っているけどそうはならなかった、それだけ貧乏だったとなる

そして鉄道とはもともと荷物を運ぶために作られていた、主に石炭を東京に運ぶために作られていた、北海道はたいがい石炭を運ぶものしとて作られていた
旅する人を乗せていたわけではない、何かおそらく汽車で旅した人は文人とか特殊な人達だったかもしれない、汽車賃が高いから簡単に乗れないからである
それで鹿島区の横手から梨を売るために相馬市までリヤカーで行っていた女性がいた
これも遠いから大変だと思った、でも汽車はとても利用できないのである
その頃車がないからそうなっていたのである

この図でみれば大正生れの母は尋常小学校でありそこは一番多かったのである
それはせいぜい読み書きソロバンでありあとはたいして勉強する科目がなかった
習字とか作文とか算術が主だった、だから勉強するには楽だったとも見る
つまり高等教育を受けるのはほんの一部でありあとは日常生活できる程度の読み書きソロバンだったのである

●戦前の教育は修身と体練が主であった

効率的に知識を生徒の頭に詰め込むことができる。

初等科では国民科(修身・国語・国史・地理),理数科(算数・理科),体錬科
(体燥・武道・ただし,女児には武道を欠くことができる),芸能科(音楽・習字・図画・工作・女児には裁縫を加える),高等科では以上の諸教科のほか実業科(農業・工業・商業又は水産)を加え,女児にはさらに芸能科に家事及び裁縫を加えることになっていた

戦前は修身、体錬(体育)が重んじられていた、この中に武道があった、それで今でも相馬女子高校では長刀(なぎなた)を習っているのである、それは江戸時代の続きだったのである、相馬女学校は相馬氏の城があったからそういう歴史があってそうなったともなる侍の伝統を受け継ぐものとして依然としてあったともなる、裁縫も女性には不可欠だったから科目にあった
なぜなら原町高校の前進は原町商業学校だからである、相馬市には相馬女学校とか何か伝統的なものがあることがふさわしかったとなる
ともかく今のようにあまりに多岐にわたる科目がないし何か実生活での基本的なことを学ぶ場であった、今はあまりにも複雑なものとなりすぎたのである
もしかしたら基本的教育で必要なのは修身、体錬(体育)だったかもしれない、それが学校では膨大な知識中心の教育に変化したのである

戦後の教育は効率的に知識を生徒の頭に詰め込むことができる。

生徒を教室という『監獄』に押し込んで、授業で疑問や反論を一切認めない、画一的な教育を行うことによって、上からの理不尽な命令にも何の疑問も持たず、従順に従う、経営者にとって都合がよく、質の高い『企業戦士』という兵隊を大量生産することができる。
https://jp.quora.com/nippon-no-senzen-kyouiku-to-sengo-kyouiku-no-ooki-na-chigai-ha-nande-shou-ka

戦後の教育も明治からの継続であり暗記中心の教育でありそれが一応成功していたのである、戦後の焼け野原からの復興でもこうして画一的な人間の大量生産で良かったのであるなぜな高度成長とは同じものを大量に生産することであり人間も個性重視とかならない、個性を無視した同じような規格化された人間を作ることで良かったのである
そこに創造性は必要なかったのである
つまり日本の教育は時代にあって成功していたともなる
ただ規格化した大量生産と同じように人間もそうなったのである
そこで戦争になりその原因がまた戦前の画一的国家に忠誠を第一とするものとなっていたそれが国家神道となり皇国となり戦争の下敷きとなったのである
それは戦後も同じような規格化された人間の大量生産であった

『子曰 学而不思則罔 思而不学則殆』
(学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思ひて学ばざれば則ち殆し)

これは論語でもやはり学ぶことがどういうことか要点をついている
学ぶはまねるから来ている、暗記することであり暗唱することである
だから江戸時代でも暗唱しろと寺子屋があった跡に古い碑があった
暗唱が暗記が学ことの基本にあったのだ

でも学問とはまず学ぶーまねるーでも思わないと考えないとだめである、また考えてまた学ぶとなる、その過程で学問が身につくのである
だから論語というのは何か忘れられたが江戸時代でも論語を学びそれで人間を作っていたのである

●戦後教育も大量規格品を作り工場に配置するためであった

いづれにしや戦後の教育は高度成長時代を作るには良かったがその後は30年の停滞がありモラル的にも荒廃したのである
知識第一であり無思考であり創造性も追求していない、だからカルト教団が戦後増えたのである、これは現代文明に共通していたことでもある
ドイツにナチスが生まれたのはやはり日本的土壌と似たものがあったからかもしれない
ナショナリズムが強くあり民族意識が強いからそうなった面もあったからだ
何か軍隊的であり上意下達であり体育会系ともなる、ただ軍隊はそういうものであり
自主的に考えることを拒否する、それは警察とか自衛隊とかではそういう人が集まっている、考えることとか法律とかを嫌っているのである、それは体育系の上の命令に従うだけのロボットがいいのである、ただ体育とか体の鍛錬は必要なのである
だから戦前の教育がすべて悪いとはならない、いいとしている知識人もいたからである

いづれにしろこれからの教育をどうするのかとなるとやはり時代にあって抜本的に変えざるを得ない、高度成長時代は規格化した人間の大量生産でも良かった
でもなぜ30年も経済でも停滞しているのか?それは世界でも変化してそれに追いつけなかったからだとなる、ITでもそうだし何か製造業からソフトが中心になったとき変えられなかったともなる
創造性というときそれは一部の天才のものであり一般の大勢の庶民には関係ないと思っているがそうでもない、創造性とは創造してゆく態度なのである
創造性が大事だとなり何か常に工夫して考えて学ぶということである

『子曰 学而不思則罔 思而不学則殆』
(学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思ひて学ばざれば則ち殆し)

真似るだけではない、思うー考えることなのである、考えるとは工夫するということにも通じている、それが日本の教育に足りなかったのである
なぜヨ−ロッパが西欧文明が世界を導く者となったのか?
それはヨ−ロッパは貴族社会であり家庭で学べる環境がありそこで天才が多数生まれている、つまり学校教育ではない、家庭で学べる創造性を発揮することができた
また家庭教師がついてその人にあった教育ができたということも天才が生まれた所以だとなる

ともかく日本は今戦後70年であらゆるものが疲弊して停滞して衰退している
教育でもそうである、もう時代に合わない教育をつづけている
そうして改革しないとじり貧になってゆく、すでになっている
それは教育だけではない、あらゆる面でそうなっているのである
だから抜本的な改革をしない限りさらにジリ貧になるみんな不幸になってしまうのである

●明治維新の西欧化で失敗をしたことから学ぶ

ただ人間が住みやすいとか幸福とは何かとなると別に最先端の科学技術志向がそうするともならない、それが原発事故でわかったのである
いくら豊かになるとしても故郷にも住めなくなるということは最悪だったからである
別に原発が無くても住むことはできていたからである

日本は日本なりの教育があり経済があり文化がある、そういう日本の伝統を見直す作業が必要になるというのもわかる
何か戦後の20数年はかえって日本はいい社会だったとしている
それは戦後十年は貧乏の時代である、どこの家でも飯台一つしかない貧乏だった
でも何かその時日本人はかえって一家団欒とかあり貧しくてもめれほど欲望に衝かれたうになっていない平和な時代だったと回想する人もいる
何か隣近所とのつながりもあり金第一とか欲望がむきだしの競争社会でもなかった
そう回想するのも昔は良かったという年よりの常套句にもなるがでもそういう面はあったのだろう

そしてバブルの崩壊で日本の物欲金第一主義が崩壊した
それから30年も経済は低迷している、
すると過去に回帰するのが日本がである、過去に回帰する歴史があるのが日本なのであるアメリカとかにはないからである、日本に江戸時代があったということが大きな遺産なのである、だから江戸時代を知ると心がなごむのである、それは東京でも江戸は全然違った風景なのである、今になると東京には行きたくない、何か魅力あるものがない
景観でも高層ビルと車の洪水と騒音の中で人間的なものもないのである
だから今東京から人が離れて地方に移住する、東京の人口は減ってゆく
明治以来の東京中心の社会は終わる
だから教育にしても地域に根ざした江戸時代の藩校のようなものが復興するかもしれない私の試みて来たのはそういうことだからである
地域に自然に根差した本来の人間の復興である、ただそれも東電の東京中心の経済体制で原発事故で崩壊したのである

確かなことはこれからは脱西欧化アメリカ化が志向される、和魂洋才の和魂が見直されるそれはアジア的なものが見直される時代になる
ただカルト教団の仏教などは全く文化的な精神的なものとは何にも関係ない
そこには数と権力志向があるだけである、その現世利益追求は確かに高度成長時代の物欲中心の世界にマッチして会員が増えたのである
でも高度成長時代が終わりマッチしなくなった、物欲が充たされなくなったからである
そして物欲ではなく精神的和魂の充実が求められているのである
だから万葉集などが見直されるのである、ただ依然して和魂洋才は形を変えてありつづける、実際に西洋文明といっても日本では日本的に消化されなかったからである
それをアジアでは中国に先行して日本が担っていたのである
それで西欧文明の言葉を漢字を通して訳したのが日本だった、それを中国人が使っているのである、つまり日本が西欧文明とアジアの橋渡しを担っていたのである
今でも外交的にはアメリカとヨ−ロッパと中国の橋渡し役があり一方に偏ることは良くないのである、日本は両国の仲介役の立場にあるからである

西欧文明というとき内村鑑三によるとキリスト教文明でありそれを受け入れないので日本は西欧文明の受容に失敗したとなる、西欧文明を日本は機械とか道具とか工業力だと見たからである、それがキリスト教文明と見なかったのである
それで内村鑑三は武士道とキリスト教を接ぎ木したのである、手島郁郎はキリスト教と神道を接ぎ木したのである、神仏習合とも似ていたのである
キリスト教にはそういうことはなかった、習合しなかったのである
つまり機械であり道具であり実用的な技術的なものとしてしか見なかったし受け入れなかったのである、だから国家神道となりそれが戦争にも突入する要因ともなっていた
だから教育もすべて実用としての教育でありそこにモラルとしての教育は戦後は余計に修身もないのだからただ利益の追求だけになったのである
カルト宗教でも御利益の追求しかなくなった
アメリカ軍にGHQに支配されて日本の精神は骨抜きにされて今日至っている
明治維新で日本精神文化は失われ次に敗戦でアメリカ軍の支配で日本はモラルなき国となったのである
教育だけで日本を変えることは不可能である、日本国家自体の変革が要求されている
そういう大きな時代の変わり目なのである、戦後70年であらゆるものを変えないと日本は没落するだけでとなる
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2022年01月14日

人間の情が喪失した社会の問題―情を育む村落共同体の喪失 (機械化社会車社会は情を喪失させた)


人間の情が喪失した社会の問題―情を育む村落共同体の喪失

(機械化社会車社会は情を喪失させた)

●情を交わす場の喪失

人間は幸不幸を感じるのは比較するときである、いい家に住んでいるとかいい車をもっているとか比較して幸不幸を感じる、あいつは頭がいいとか才能でもそうである
そこで不満が生れ幸不幸を感じる、一人っ子は親になんでも与えられるからいいと見るものもいる、でも一人っ子は遊ぶ兄弟もいないから親は不憫に思うとかなる
あらゆることが人間は比較して幸不幸を感じる

それは今だけではない、不思議に私は江戸時代が好きである、江戸時代をふりかえると
何か人間的でいい、景観もいいし旅するにも歩いて旅していたとかありなつかしくなる
今より人間的であり旅は道連れ世は情けとかなる、旅は歩いていると必ず道連れになり
そこで一時であっても人間的情を交わすことになる
車社会になるとそういうことは全くない、馬鹿野郎とか自転車で道を横切ったりする怒鳴られる、そしてその車の人はどこかへ情も交わさず去ってゆく

また鉄道だと駅の待合室が人間的な場所になる、そこで人は一時ちょっと見知らぬ人でも話ししたり合ったり別れたりする時間を待つ、また待つことが人間的時間を作りだしている、車だと道の駅があっても何かそこで待つ時間もないし話すことも情を交わすこともないのである、ただ次の目的地に早く着くとういことしかない、その土地とのかかわりもないのである
なぜなら鉄道の駅と道の駅とか特に高速道路のSAとなるとその土地とは全くかかわらないのである、鉄道だったら駅前通りができたりその土地と深くかかわって街が作られていた今は車社会になるとそうした商店街が郊外にイオンとかできてシャッター通りになった
それは車社会が作りだしたものなのである

だから必ずしも車社会が人間にとってすべていいとはならないのである
とにかく現代は情がない社会だというとき旅でもそうだが情を交わすことがなくなっているからである
例えば牛馬を農家で飼っていたりすると動物とふれる、すると動物と情を交わすようになる、それで娘が馬と結婚したという伝説も生れる
動物とふれることは情が通じるからである、だから今ペットブームになっているのは
犬猫と情を交わすことができるからである
人間より犬猫の方がいいとなるのも人間社会が非情化したからである
そうして私は特に車を嫌悪するのである、なぜなら車が情を奪うものとしてあったからである、もちろん車の恩恵は計り知れないことも確かである
ただ車が社会を変えて便利でも情無き世界としたことも確かなのである
するとどうしても車なき戦前とか特に江戸時代がなつかしくなるのである
だから浮世絵とかみると心がなごむのである
ここには人間がいたなとなる、今は車しかいないとまでなる

●旅は道連れ世は情け

ともかく人間は比較することで常に見ている、それは今という時代だけではない、時代の比較でみる、日本では江戸時代があることが現代を比較する見直すということで役にたつまた戦争の時代がありその時代をふりかえるときそんな時代に生れなくて幸福だともなるただ戦争の時でもそれが終わるとみんな協力していたとかなつかしがる人もいる
人間は一時代が終わるとそれをなつかしく思うのである
ビートルズの音楽を聴いて老人が泣いているというのもそうである
その時青春がありもう二度と青春は帰らないものとなったからである
老人は回想に生きる、だから過去が苦しかったとしてもなつかしくなるのである
これは理屈ではない、そういう時が貴重だったなとかふりかえるのは二度とそういう時が帰らないからである、そしてあとはさよならだけが人生だとなってしまうのである

やはり現代でみんな感じていることは人間に情がなくなった、情を交わすことが少なくなった、それは共通しているだろう、旅で情を交わすということもない
なぜならバイクにしても早いからである、逢ったとしてもあっというまに遠くへ行ってしまうということである、バイクはエンジンをふかして音を出すことに快感を感じている
だから電動バイクはつまらないとしている、それは自分も電動自転車で感じた
大きな音はでないがブーンとなるとき快感を覚えたからである、ただその音は低いし迷惑にはならないのである、ただそこに機械と人間の関係であり人間と人間の関係は生まれないのである
歩く旅だったらどうしても道連れになり情を交わすとなり
別れを惜しむから分去(わかれさり)という場所が地名化した
一時でも出合った人の後ろ姿をずっと見ていたとなる
そして歩く時代は逢うことが簡単にできない、一度の出合いで永遠に別れてしまうともなる、だからこそ別れを惜しんだとなる

二本の松の立ちにし街道をまた逢わんかな秋の日暮れぬ

松があるとしたらその松とも情を交わすことになるのが街道を歩いていたときなのである
いづれにしろ人間から情は喪失した、車が騒音をまきちらしバイクが爆音たてて過ぎ去り自転車が横切ると怒鳴り散らして去ってゆく、あとに残るのはそうしだ怒鳴り声は車とかバイクの爆音なのである
結局現代の文明は情を喪失させた、機械とか道具とかは極限まで改良されても何か情を喪失した社会であり殺伐としている、もうそこに人間はいない、終にはロボットがいるだけだとなる,ロボットと今は会話しているのかもしれない、インタ−ネットの会話などでも
相手が人間なのかロボットなのか見分けがつかないこともある
それは有益なこともあるが情を交わせないことが問題なのである

●義理人情もなければ宗教の愛と慈悲はありえない

そもそも宗教とは人間の情のことである、愛とか慈悲とかでも情のことである
そしたら情がない社会で宗教がありうるのかとなる
現代社会で肝心な人間の情が欠落しているのである
例えば病院に行っても設備として高価な機械があっても何か人間の情がないのである
患者を一人の人間ともみない、それで議員でも番号で呼ばれたことに怒ったのである
つまり現代人間は番号であた数字化されているのだ
医者でも看護師でも情に欠けているのだ、医は仁術から医は算術になったのもそうであるそれはカルト教団でもどこでも同じである、数を集めることが第一である、要するに番号として数として処理されるだけだとなる、それでナチスが埋まれたと分析する学者もいる

そして家族遺棄社会のように親子の情すらなくなる、それはもう人間の基本的なものが失われている恐ろしい社会だともなる
そして現代社会は深く病んでいる、精神的ストレスに苦しめられている
それはどこでも情を感じられないからである、そんなこと言っていたら生きられないということもある、情を重んじれば利益にならないということもある
ただ利益ぬきの情が人間社会に必要である、それが潤滑油になる
ただ現代社会は機械化社会であり情を育む環境がなくなったことである
それで江戸時代は貧乏でも情が交わされた社会に生きていたとなつかしむのである
それも人間はその時代に生きていなければただイメージするだけだから美化されるのである、死者が美化されると同じなのである
実際は江戸時代に生きたら地獄だったとなるのである

グロ−バル化経済社会でも物は自由に流通しても必ずしも人間と人間の情は交わすことはないし育まれない、ただ物が入ってくるだけだからである
ただ人間が直接来るとどうしても情が必要になる、相手が生身の人間だからである
そこで外国人労働者でも相手が人間だから機械や道具のように扱うと恨まれるともなる
なんらか日本人を恨んて母国に帰るとなるとあとあと問題になる
グロ−バル化したからといって国同士が親密になって友好的にもならない
それは個々人でも情が交わされていない、経済原理だけでもうかるというだけでは情は交わされない、ただ利益としてしか金になるとしか見ない、そして金の切れ目は縁の切れ目となり中国でもあれだけ友好を言っていたのに領土問題で敵対する
人間は物を入ってきてもそこに情が交わされないと友好は保てないとなる

人間の生活の意義は人倫の道を実現することにある、利潤が自己目的となれば人間の生活は利潤のための手段となり
その意義を消失するだろう
だから経済組織はあくまでも人倫の道合うようにに革新せねばならい(和辻哲郎ー倫理学)

グロ−バル化した経済では情とかではない道理を重んじるものとなった
情を重んじればグロ−バル化はありえない、情とは家族とか狭い範囲で成立つものだからである、でも宗教となると情を中心にしている、愛と慈悲は情なのである
道理を優先する社会は情が希薄化する、グロ−バル化とは情無き社会なのである
すると世界は人倫を無視したものとなる、そして国でもただ利潤を目的としているだけであり世界的人倫組織などありえないのである
だから中国と日本が五十年前に日中友好があれほどあっても今やない、中国が経済で巨大化すれば小国となった日本の領土でもとりにくる、支配しようとなる
世界化に拡大すれば人倫の道はなくなる、日中友好のときは互いにあれほど結ばれていたのにただ今や中国は日本の脅威となり日本の領土を奪われ支配される関係になる
情というのは世界関係になると成り立たないとはなる

●師弟関係の情もない、知の教育となり情は育まれれない

師弟関係でも今やない、ただ一時的な知識の教授しかない、だから先生のことを慕い何か情的に結ばれることもない、ただ受験とかで競争に勝つことしか教えられない
そのために先生がいて知識がある、そして一緒に学ぶにしても友でも受験戦争になると追い落とすことに力をそそぐ、もう友情でも育まれない、情が育まれない
知識も膨大だからそれに追われて情は育まれない、そもそも情というのは金にもならないし利益にもならないから実利がないから無視される
資本主義社会とは実利の追求であり情は余計なものになっているからだた

ただ戦前の教育では修身とか礼とか体錬が重んじられて知識優先ではなかった
だから戦前までは何か情がまだあり義理人情も活きていた、今はそれもない、同情するなら金をくれとなってしまう
ただ問題はそうして極端な知識偏重とか科学技術偏重とかから現代の殺伐な社会が生まれたのである
すると情をどうして育むのかが問題になる、でもそれが時代的にできないのである
ただこういうことを問題にして情操教育どうするのかとなるがその基盤がもともと村落共同体ならあったがそういうものも喪失した
だから情を育む基盤もないのだからどうにもならないとなる
結局いいと思っていたグローバル化と科学技術社会と車社会とか資本主義のマイナス面が大きくなったのである
だからこれらを全部否定するのではなく見直す改善する抑制するとかが必要になったのである

ただ時代の変化が余りにも大きすぎたのである
江戸時代はそんなに技術でも変わらない、変化の少ない時代だから社会だったのである
現代では継続されない、技術でも変わりすぎるし継続する価値を追求できないのである

導きしことさへ うすき老いの身に 三世の契りを残す石ぶみ

群馬県原の郷村に明治三十四年に建てたられた筆子塚

師弟の関係が三世の契りとなまでなっている、おそらくそれは情で結ばれた師弟関係だったからこうなったのかもしれない、今は学校というといい思い出が自分にはない、ただ強いられた苦行であり先生でも情でつながらないのである
近くの人も八十五くらいだけどまたすぐ近くの人が先生だった
その先生をひどく恨んでいたのである、なぐられたことを根に持っていたのである
だから現代では師弟関係でも昔のようにはないのである
それは時代と関係してそうなったともなる
私も殴られたのではないが先生に対して恨むのではないにしろ根をもつことがある
これも学校とういのは昔の寺子屋とかとはまるで違ったものになっていたからである
カルト教団の師弟関係は弟子とは奴隷であり数が多いからナチスのヒットラーへの忠誠と同じである、それは大衆化した社会で起きたことである

●情を育む村落共同体の喪失

学校とは一つの工場のようなものでありその監督が先生にもなっていたのである
それは時代の要求でそうなっていた、大量規格製品を作ると同じように生徒を工場で働く規格品を作ることが教育になっていたからである
そして教えるものが多すぎることなのである、江戸時代なら本当に読み書きソロバンであり知識量が少ないからかえって礼とかしつけとかが重んじられた、情も重んじられた
知識を教えるのではなく狭い村落共同体で生きるための知恵を授けられていたのである
そのために情で結ばれることが基本にあった、だから村落共同体は一つの大きな家族となっていたのである

取上げ親(産婆)とはべつに、出産時にへその緒を切る人)
抱き親(出産直後に赤ちゃんを抱く人)
行き会い親(赤ちゃんを抱いて家の外に出て最初に出会う人)
乳親(生後数日間、乳を与えた女性)
拾い親(丈夫な子どものいる家の前に形式的に捨てた赤ちゃんを、一時的に拾って預かった人)
名 付 け 親(名前をつけた人。たいていは自分の名前から一字あるいは複数の字を与えた)
守親(幼児になるまで子守をした人)
烏帽子親(武家の元服に立ち会う)

これだけの人が生れたときとか幼児の時かかわっていたのである
そこに自ずと情が生まれる、他人がかかわりその子に情が生まれる家族のようにもなる
子供の時から親密にふれあって情を育んでいたのが村だったのである
ただそのマイナス点は広い社会と交わる公共的なものがなかったことである

武家では乳母(うば、めのと)がいた、乳がでないと乳母を頼む
するとその乳母と我が子のようにも思える、情が生れるのである
武家社会がなぜ強い絆で結ばれていたか、戦があれば主君のために一緒に戦い死ぬとういこともあり生死を共にする、だから家族ごと一体となり御家のために尽くしたのである
だから家来でも一つの大家族のようになっていたのである
つまり情で強く結ばれた共同体だったのである
だから東国の武士が平家に勝ったのは武家では代々情で結ばれた関係がありそれで勝ったとしている
人間の強固な情の結びつきあり勝ったとしている、武器だけでは戦争に勝てないということもあるからだ
太平洋戦争では日本兵は上官と下士官が強く結ばれていなかった、上官に下士官は常に不満だった
アメリカはかえって上官と下士官の結びつきが強かった、それも負けた敗因と分析する人もいる
歴史をさかのぼると人間は情で結ばれていた、でもだんだん明治以降からさらに昭和となり戦後になると情で結ばれる関係は消失してゆく、最後は核家族となり会社の部品のようになる、その人間の結びつきは高度成長時代の終身雇用の時はあった
でもかつての武家の殿とか家臣の結びつきのようにはならない、そういうこで人間の歴史を見ると人間の歴史がどうしてこれほど変わってしまったか見えて来る

震災でも盛んに絆が言われたが現実は絆がなかったから余計に言われたのである
でも結果的には地元でも絆はなかった、かつての村落共同体のようなものは喪失していたからである
そして補償金をもらうことが復興となり分断されたのである
だから十津川部落ではみんな一致団結して災害にあっても北海道に移住して団結していたのとは大違いだったのである
例えは浪江町の電気関係の仕事をしていた人はまわりの田畑が草ぼうぼうになっていても何も感じないのである
かえって老後の資金を補償金でもらって良かったとしている
つまりもう村落共同体などは遠い昔のものになっていたのである

現代文明とはそもそもそうして人間性とかを無視するものだった
それでケージに入れられて卵を産む機械に鶏がされている
それも現代文明の効率化工場化なのである、近くの放し飼いの鶏(にわとり)が文字通り庭を歩いているときほっとした、牛も牧場にいてなごんだのである
とにかく様々な文明のマイナス面が顕著になった時代なのである
いくら科学技術が発達したからと人間を幸福にはしないことに普通の人でも気づいたのである
つまり幸不幸とは常に比較して幸不幸がある、比較して自覚される、江戸時代と現代を比較して幸不幸がありそれで何が不幸にしたかとなると情がなくなったことだとなる
でも江戸時代からみれば科学技術でも近代化した社会と比較した時、その相違に気づく
ただ人間はみんな時代の子であり江戸時代に還ることはできないし未来を生きることはできないのである



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2022年02月09日

学校、社会で挫折しやすい陰の性格の人 (引きこもりにも効用があるー沈黙して自然と一体化する)


学校、社会で挫折しやすい陰の性格の人

(引きこもりにも効用があるー沈黙して自然と一体化する)


人間には性格があるし好みがあるしそれにあった生活をしないと歪められる
でも家庭でも学校でも社会でもいちいちその人の性格など見ていない
そして外交的な人、コミニュケーション能力がたけた人が人気者になり目立つのである
内向的な人は好かれない、その女性はいつもにこにこと笑っている
だから店で働く接客に向いている、もともとそういう性格だからである
私自身そういう女性とかに好感をもつ、それは全般的にそうだろう
内向的な人間は学校でも社会でも好まれない、陰気臭いとかなる
積極性もないから何か率先してやれないので目立たないのである

でもそういう性格を無理やり外交的な積極的な性格にはできない、それは生まれついたものだからである、人間には生まれついたものがベースとなって作用してゆく
不思議なのはフラワーアレンジメントで気づいたことは花を挿して飾っておくと時間の経過のなかでその花の特徴がにじみだしてくる
それから花はいろいろな花があってもどんな花とも調和して咲いている不思議がある
目立たない花でも例えば葉牡丹など目立たなくでもそれもぜんたいの中で調和して必要なものとして咲いている、これは滋味だからいらないとかならないのである
滋味な花は滋味なりに全体の中で働きがあり調和しているのである
人間世界にはこういうことがない、根本的に人間社会は調和しないのである
絶えず何らかでいがみあいけなしあい衝突して調和しないのである
人間の性格でも素質でもいろいろあっても認めない、こいつは陰気な奴だとかなり排除される
まず教育でもその人の特性に沿った教育などされない、ただ一律に同じように見て機械的に対処するだけである

そしてその人の興味にそって教育などしない、EDUCASTIONが引き出すという語源があるときその人にあった性格素質を引き出す教育などないのである
どうしてヨ−ロッパには天才が多いのだろうかとなる
それは貴族社会であり貴族社会だと個々人に家庭教師がついていたのである
すると個々人にあった教育ができたともなる、だからそこで天才が生まれやすくなったのかともみる

ただ貴族社会には貴族がいても労働者階級は含まれていない
だから「アテネィの学堂」というラファエロの絵には哲学者と弟子がいるし知的探求する天才はいても労働者階級はいない、庶民はいないのである
ギリシャでもソクラテスとかプラトンとか弟子がいても奴隷が支えていたことは語られないのである
奴隷というとき家事をする召使とかがそうである、そういう人は家事労働が機械化されないとき必要だったのである
もし家事労働に追われていたら知的探求などできないからである
それで私は学校では大学でも何か興味をもてることがなかった
でも大学卒業してから自由に旅行して地名とかに興味を持ち地理に興味を持つようになったのである
人間は自由な時間があれば必ずこの世界に興味を持つ、学校で興味をもって学ばなくてもこの世界は神が創った世界は驚嘆すべき美がありそれに目覚めるのである

つくづく学校はスコーレから暇が語源になっていたことが自分の人生で理解した
高校まで受験勉強とかであり強制されるものだった、ただ大学になると勉強は強制されないのである、むしろ授業に出る者は真面目で面白くない奴だとされていたのである
それで一日マージャンしていたりパチンコしていたりする人がいた
そのつま一生が遊び人、ギャンブル人生になった人も大学出ていたのも当然だとなる
何か文系大学だとレジャーランドとかされていた、自由なのである

でも暇だからその暇をいかに消化するかが問題になったり遊び人になった人もいるのがわかる、学生運動でもそれはマスプロ大学で千人とか入る講堂で授業していたからである
授業がつまらないから学生運動に入ったりカルト教団に入った自分の様な人もいる
暇であること何か空白の時間が生まれたのである
でも自主的に興味をあって高校まで勉強していないから何か研究などできないのである
私は大学出てからの方が自主的に勉強しつづけてきたのである
勉強とは自主的に勉強しないかぎりつづかないし継続できないのである
そもそも点数をとるために勉強とか学問はするものではない、何か必要性があり興味がありするものである、試験のための勉強は教育ではないのである

ただこの暇が意外といいようで普通の人には危険である、暇をもてあますからである
それでよからぬ方向へ向かうことがある、そこでギャンブル人生になった人もいる
ゲーム人生とかにもなる、そしていかに人生で時間の浪費が最大の問題だったことに気づくである、時間は本当に貴重でありあっというまに40才ですでに白髪となりおっさんになる、ふりかえると20代が盛りであり30過ぎるとすでに下り坂にもなる
つまり老人に向かっている、そして死に向かっているのである
だから人間は20代で決まるとまでなる、20代で社会からはずれたり引きこもりになると一生引きこもりになってしまう恐怖があったのだ
なぜなら自分自身がそうだったからである、それも怖いと思った
別に引きこもりにならなくても20代でその人の方向が決まり骨格ができる
そして30くらいでその人の人生は決まるとまでなる
人間の時間は限られていることを老人になると痛切に感じるからだ

まず人間の一生となる恋愛したり結婚したり家族をもったりするとその負担が時間をかけることになるから何か自分のあった知的探求の時間がなくなる
その負担が大きすぎるのである、追われてしまうのである
だから天才とか何か芸術家とか学者でも業績を残したのは8割が独身だったとかなる
それもわかる、人間はそんなにいろいろなことはできないのである
そんな時間がないのである、女性に費やすエネルギーも膨大でありそれで時間が失われるのである
そんなことで浮かれているとあっという間に時間は過ぎて白髪の老人になり今や死ぬだけだとなってしまうのである

理系の工学部とかで機械マニアがいてその人たちは機械マニアでありそこに没頭して優秀である、でも英語とかは得意ではないしだらしいなとか社会常識もないが日本にとって貴重な存在だとしている、そういう人達はやはり機械に対する情熱があり新しいものを作りだす可能性があるからだ、でも社会常識的に見たら異常だとなる
それも問題があるにしろ何かに異常に興味をもって没頭するとそうなりやすいのである
社会常識から外れてしまうのである
ベ―トベンとかでもそうだったとかある、つまり音楽の創作に没頭した結果そうなったとなる、でもそこは天才だから大目に見られていたのである
そういうふうに興味に没頭することは何か新しいものを作りだす人となる
引きこもりがこれだこけ多いとしたら何かそういう人が生まれるのかもしれない
ただ

おそらく最大の人生の誤算は意外と人間はすでに20代でその方向が決まりあとはその余禄みたいになる
それで「若きうちに神を知れ」となる、なぜ若いうちに神を知れとなるのか、そんなこと老人になってでもできる、それができないのである
求道は命もっとも盛んな時にするべきことなのである
病人になったり老いてからするものではない、それはすでに時遅しとなっているのだ
すると20代までだからそれもあっという間に過ぎてしまうのである
そして神を知る機会を失うでのである
だから若い時神を求めない限り神を知ることは不可能に思いるのである
それで朝に道を聞けば夕べに死すとも可なりとなる
その後の人生は余禄のようになってしまうのである
なぜなら30過ぎたら40になり白髪がでてきておっさんになるからだ
すぐに50くなっけ初老となり老人となるのである
そこで少年老い易く学成りがたしとかなる
結局結婚して家族を持ち雑用に追われていると時間が奪われでそうなるのである

そういうことで高齢化というのは悪いことではない、たいし才能がなくても時間をかければ積み重ねがあると雑学であれなんであれ自分の興味にあったものを開発できるからである、そのために私は抽象画を始めたのはパソコンを覚えて60過ぎてからなのかもう70に成ってから本格的に作るようになった
全然が絵の才能がないのにソフトを操作して偶然そのコツがわかったからである
たから長生きすることはこうして何かを発見したり学ぶことで自己開発ができる時間が長くなることで天才でなくても普通の人でも何か発見したり創作できるようになる
つまり技術は日進月歩だからその技術に適合して今までにないものが生まれるのである

それで必ずしも陰の性格でも悪く働くとはならない、引きこもりが批判されるが陰の性格の人はどうしても社会に適合しにくい、でもマイペースで自分の性格にあった環境で好きなことをしていると何か発見するということ創造することがりうる
そして引きこもりでいい面に働くのはいつも他人の顔をうかがったり御愛想笑いしたり
何か会社で上司にごまをすったりとかすなくてもいいことである
私はまるで禅僧のように沈黙業をつづけてきた
するとどうなるのか?自然と一体化してゆくのである
自然を知るには一体化するには沈黙が欠かせないのである
なぜなら大地でも山でも木でも石でも沈黙しているからである
ということは自然と一体化することは沈黙しなければ一体化できないのである
でも社会でそんなことしていたら異常だと見られるのである
でも引きこもりだったらそういうことはないのである

禅寺か自衛隊にブチ込めばよかった
引きこもりだから生産性のない奴は根本から対処せんと

引きこもりは禅寺に入るのが向いている、そこだったら別に社会に適応できなくても修行することで布施されて生きることになるからだ、でも現代でぱそういう場所がなくなったのである、不思議なのは貧乏な時代にこそ古代からでも寺が多かったことである
そういう場所にいれば職業につかなくても良かった
そもそも職業は業となるように何か悪いことをすることでありそれでさけていたのである
そういうことは職業には必ずある、何かしら社会の悪とか権力にとりこまれるとか悪いことがあるからだ
知っている人の息子は勉強が嫌いで自衛隊に入った、それで訓練されるからいいともなる私自身は家族の中にいても禅寺にこもっていたと同じだったのである
ただ一日成さずば食わずとはなっていなかった、食事でも毎日与えられていたし家事もしてくれたしただ暇だけがあったのである
だから好きなことをしていたのである、これはただ特殊な事情で家族に恵まれた結果なのである、それで家族には今でも感謝して供養しているのである
介護の時でも必死になってしたのはそれだけ家族に良くされた何でも自由にやりなさいということでそうできたことで感謝している
引きこもりだから親に殺されることもあったからだ

いづれにしろ人間の不思議はマイナスがプラスに働くしプラスもマイナスに働く
陰の性格は社会的にマイナスである、でもこれも実はプラスに働く、家に籠っていても
それで沈黙業を続けると自然と一体化してくる、それで未発表の詩を百遍以上書いた
それは沈黙業をつづけた結果なのである
だから精神修養には禅宗のように座禅して沈黙することが不可欠である
なぜなら人間は口から悪いものが出るからだ、その口からでる言葉の害は恐ろしいものなのである、その言葉によって人でも殺せるし呪いとなり子の世界を汚す、それが人間の特徴なのである

「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」。聖書

人間は最も言葉を慎むことがてきないのである、もし言葉をつつしむことができたらこの世はどれだけ住み心地が良くなるのか、それが見落とされているのである
言葉の害は恐ろしいものなのである、ある哲学者は心で殺意をいだいたら必ず殺すことになる、それだけで他者を殺すことになると言っていた
その殺意は殺意を向ける人だけではない、誰かの弱い人も関係ない人もその殺意によって害を受けて死ぬこともあるとしている
そのために中国でも韓国でも日本人に戦争で被害を受けたと日本人に敵意をむき出しにすることがある、それはすでに心でそう思うことが現実化する
日本を攻めて今度は復讐するのだとなる、それは口で言っているだけにはならないのである、それが現実化するから怖いのであく

posted by 天華 at 17:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2022年02月13日

これからの社会は暗記脳ではやっていけない-仕事がなくなる時代 (教育でも、思考脳、感性脳、遊戯脳、創造脳を鍛える)


これからの社会は暗記脳ではやっていけない-仕事がなくなる時代

(教育でも、思考脳、感性脳、遊戯脳、創造脳を鍛える)

時代が変われば教育も変わらざるをえない、これまでは読み書きソロバンが基本だった
それは戦前でも同じであり戦後の焼け野原でも同じだった
私の父親は明治生まれで酒屋の丁稚だったからソロバンを習わせた
それでできたので自慢にくなった、でもそんなものは今になると役にたたないしすでに社会に出た時でも役にたなくなっていた
ただ古いテレビドラマでソロバンを使っているとか見た、40年前頃ならまだ使っていたのかもしれない、今になると全くソロバンを使わない

するとどうなるのか?無駄な時間を使って大損だったとなる
貴重な金と労力の無駄になっただけであった
ただワープロを使ったのはコンピュター時代になっても役だっている
コンピュターでも文章を書くのは基本的にワープロと同じだからである
ここはまだ進歩していないのである
例えばタイプライターを外国人はずっと前から使っていたからワープロでもなじみやすいことがあった、それができたのは英語でアルファベットだったからである
日本語は漢字ありかなありカタカナありでできなかったのである

その後の教育でも受験勉強であり暗記することだった、高校まで自ら考えて勉強したことがなかった、思考脳が全くなかったのだ
例えば思考脳は小学校からでも鍛えられる
数学だと何か問題の解答を解くのに十通りとかあるとすれば一つのものを暗記することではないのである

10+20+30=60
10+10+10+10+10+10=60
10×6=60
10+10+10+30=60
10×3+30=60
30×2=60

この問題ではどうして解くかが問題になる、ただ暗記していたらソロバンと同じになる
こういうことは算数でも数式でも必ずあり数学が考えるものとして学ぶことである
算数数学が苦手でも考える教材として学ぶことである
教える方でも考えさせるものとして学ばせるのである、それが暗記だけだとできないのである
つまり今までの教育は暗記脳であり思考脳を鍛える訓練する能力を伸ばしていないのである、それは小学校から暗記脳でありソロバンと同じである
こうしたことも教育で訓練されていないのである

だから私が一番勉強したのは大学出てからである、大学出てからは独学しかないから
自ら興味をあるものを勉強したとなる、ただ田舎だから本が売ってないない、それで仙台市まで本を買うために一週間に一回とか行かざるをえなかった
だからまだ独学する環境が田舎ではなかったのである
今は独学する環境ができている、本でも古本でもあらゆる本がボタン一つ押すだけで届けられるからである、それで思考脳は鍛えられる、でも学校では鍛えられない
学校は集団教育ではあり個々人にあった教育ができないから最大公約数のような教育になる、でも個々人に対応するにはネットなどで学べる時代になったのである
youtubeなどであらゆるものが学べる時代にもなっている

なぜ今までの教育が暗記教育が役にたたなくなってくるのか、それはソロバンが役にたたなくなったことでわかる、そこにいくら金と労力を費やしても徒労であり無駄な貴重な時艱を失っただけだとなっていたからである
なぜなら子供時代の時間は貴重だったからである、そこが出発点になっていたからである
思考脳というとき別に数学とか理系だけではない、社会に出るのに不可欠なのである
それがないと人にだまされたりいろいろある、なぜなのかということを考えないからである、それでカルト教団とかにはまったりする、そこではナチスと似ていて人を考えさせないからである、そうして人生を無駄に消費して終わる
ただ題目を唱えていればいいとかなるとまた一人の師を神のように偶像化することで思考停止になってしまうからである
それより社会全体がもう無思考になって千万単位とか戦争で死んだとかなるから怖いのである、それは結局無思考人間、暗記脳人間の大量生産の結果なのである
それはすでに学校という集団教育の中で作られてきたのである
なぜなら学校というのは世界的なものとして作られて来た、その前は貴族だと個々人に家庭教師をつけて教えていたからである、学校は存在しなかったのである

いづれにしろ教育でも将来を見て対処しないと私がソロバンをしたのに二級くらいとっていたのに何の役にもたたなかった、労力と金の無駄になっただけである
こうならないために未来を見て教育する学ぶ必要がある
ただこの未来は簡単に見れない、だからこそ株でも簡単にもうけられないのである
10代の時すでに十年先見るのもむずかしいからだ
パソコンにしてもコンピュターにしてもこんなに普及してIT時代になると思わなかったからである、それで日本がではその未来を見ないためにデジタル化に遅れ韓国や中国より遅れた国になっていたのである

そうして時代に合わないと会社でも無益化されて仕事しないおじさんとか生まれる
会社でももう今までのように安泰ではない、変化が激しいから技術的にも追いついていけずもう会社にいても何もできない、邪魔になるものとなってやめさせられるとなる
グロ−バル化したことでも競争に負けると会社自体が成り立たなくなったからである
絶えず新陳代謝しないと競争に負ける、すると絶えずイノベーションしなければならないとなる、それは暗記脳とかでは対処できないのである

だから機械化IT化自動化がどんどんすすんで失業者が増える、仕事がなくなる
こうした未来はすでに現実化している、するとそれに対処する教育も必要になる
暗記脳ではもう成り立たない、仕事がなくなっているからだ
そして金のために働くという時代でなくなるかもしれない、ベーシックインカムとかなり働かなくてもいい時代くる、それは兆候として実際に働かない人がニートとか引きこもりとか退職した老人が何千万といる時代なのである
こういう世界も今までになかったのである、そういう時代に対処するにはただ戦前の人のように働き詰めの一生のうよなものにならない
まるで違った世界になる、女中にしてもいらないしでも必要な奇妙だが掃除洗濯ではない料理は難しいから必要になるがそれよりも生け花ができて鑑賞できるとかの能力になる
ただ農業をできる人はやはり花を栽培するとかで重宝される、また話がうまいとかの能力でも評価される、しかし掃除したり皿を洗ったりとか家事でも多くは自動化するから必要なくなるのである、そこで仕事を失うのである

だから本当にみんなアーティスになれというのが不思議なのである
それだけ価値観が変わったのである、ただもう金だけが価値とはならない、金は支給される、てもその人の価値は金で計れない時代になるかもしれない
ホテルでも旅館でもどういう人を歓迎するかと言ったら金がある人が待遇が良くなる
金で人の価値は計られる、でも私は貧乏旅行者だから歓迎されない、それで野宿だったとなる、高価なホテルとか旅館とか温泉とかに泊まったことがないからである
でもそれも変わるかもしれない、その人がどういう人かを見るようになるかもしれない
画家だったら絵にしてくれるから歓迎されるとかまた詩人なら詩にしてくれるとかその人を見て価値が計られるかもしれない、それは金だけをもっていてもそれで価値ある人とは見られなくなるともなる
ベーシックインカムとかなるとその人の価値を何で見るのかが問題になるからだ
金だけでその人の価値を見なくなる、収入はホテルや旅館に与えられるとなるかもしれないからだ、そうすると金だけ人の価値をみなくなるとなる
そういう社会もありうるようになるからだ、それが未来なのである

そうなればただ収入が給料がいいからとして会社に入ることが目的とはならない
何かその人自身の個性的な価値を作りださないと認められないとなる
そういう社会になると価値観ががらりと変わるのである
だから団塊の世代は高度成長時代を生きたのだから金の価値が大きかった
金をもうける人間が価値あるとされてきたのである、でもそれもなくなりその人の自身の価値が計られる時代になる、花にもいろいろあるようにその人の個性を出すことが求められる時代になる、それがインタ−ネットとかyoutubeの時代になる
一人でも個人でもテレビ放送局になる、するとその放送する内容がコンテンツが大事になる、今までのテレビ局は六局しか放送できないことで特権階級になっていたのである
それも終わりとなっていてコンテンツがくだらないから見なくなっている

そして大衆化の時代が終わり個々の人間を相手にした放送ともなる
視聴率優先ではない、何かその地域地域の個性とか変わったことでも注目をひくとなる
だから同じようなことを言っていても表現しても価値がないとなる
youtubeでも同じことを言っている人がいた、これはインタ−ネットの検索でわかった
何かインタ−ネットだと同じようなことを言っていることが出てくるのだ
するとこれはそのパクリなのかとも見てしまうのである、そういうことが多くなっているのだ、これはその人独自のものではないなり価値がなくなる

こういう時代ではもう暗記脳とか受験脳とかは役にたたなくなる
だからそれに備えないと人生を無駄にする、貴重な時間を無駄にすることになる
ただ未来に備えることは至難である、どうなるかわからないからである
ただソロバンが使わなくなったようにそういうことが常に過去にも起きてきた
そのために未来を見る目を持たないとそのために備えないと大損になり人生そのものを失うとまでなる、そうして現実に今の老人を見ればいくらでもそういう人がいる
未来を見る目がなくて今になると何の用もない老人に人間になっていたともなるから怖いのである






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2022年05月14日

子育てはどうあるべきか? (体罰を容認する古い世代―厳しくしつけろはいいのか‐親ガチャの問題)


子育てはどうあるべきか?

(体罰を容認する古い世代―厳しくしつけろはいいのか‐親ガチャの問題)

その女性は団塊の世代だから同世代である、それでも古い年代の考え方がある
しきりに厳しく育てろ、体罰もしろとか言う、それが納得いかないのである
85歳くらいの人が近くの先生を恨んでいた、体罰を受けたとかひどく恨みに思っていたのである、ただその当時団塊の世代でも体罰はあった
男性は廊下に立たされたりして笑いものにされていた、でも女性はそういうことはなかったのである、ここに男性と女性の差があった
同世代の人でやはり団塊の世代でも8人兄弟の人が父親から何も口答えするなとか父親の命令に従っていればいいとして育てられた、逆らうようなことを言うと殴られたと言っていた、だから親を良く思っていないのである
私は学校でそういう経験しているから学校は嫌な場所だった、ただ私の場合はそもそも集団生活になじめないし一人っ子でわがままだったから特殊だから違っていた
自分の場あいは逆に厳しいことも必要だった
厳しく鍛えられることが必要だったのである、それで親元を離れてからそれなりに苦労したことが良かったのである、だから厳しいことがすべて悪いとはならない
でもどうしてしも厳しく育てられると人間は委縮してしまうと思う

だから奇妙なのは父親と母親がいたとしてそれが普通に子育てすることになる
でもそれがいいのかとなるとわからない、父親の役割があり母親の役割があって子育てする、でもそれだけでたりるのかとなると人間は複雑なのでそうともならない
本当に母親だけでもその母親に反発する人も多いし恨んでいる人もいる
それは母親一人だと母親の道具のように子供を見る、子供を自慢するためにあるとなる
自分の都合良いものとして子供を見る、そこで常に親の意向に子供はふりまわされることになる
だから不思議なのは人間の場合は両親がいたとしても子育てが必ずしもうまくいくとは限らない、もちろん片親とかいろいろ境遇が違っているからその人の事情があって複雑であり他人のことはわからないのである
それは人間関係でも人間は複雑だからそうなる、一人っ子だと兄弟がいないと人間関係をうまく築けない、一人っ子はそれで問題になる

とにかく人間は両親であれ家族であれその影響が余りにも大きいのである
それが人生を決めるとまでなる、別に両親がいてもカルト教団に入っていれば完全に洗脳されて遂に死ぬまでその色に染まって一生を終わった人も普通にいる
全くそれ意外何も考えられない、人生もその方向に行くことが決められていてそれしかないとなっている人がいる、そこに何ら疑問も感じないのである
全く自主性のないロボットとして一生を終わったのである、これも恐ろしいことだと思った、だから親の影響は余りにも大きいのである
いくら恵まれていても金持ちでも親ガチャはあるのだ、医者の子に生まれたら医者にならねばならないと不本意でも強制されるのも親ガチャなのである

ともかくその知っている女性は子育ては失敗したのだろう
ただその人は貧乏だったからそうなったこともあり同情する、何か金がなくて上の学校にもあげられなかったみたいだ、それで子供は結婚して今いい暮らししていても親とは絶交している、親か金が無くて苦しんでいても何もしない、というよりはもう他人なのである近くにいてもあいさつもしないとなっているのだ
だからみんな一応子供を産んでも親に感謝するかというとならない、親を恨んでいる人も相当数いるのだ、そういう人は墓参りもしないのである
だから親でもいろいろであり千差万別なのかもしれない、だから一概には言えない
三人の母親が代わり育てられた娘は信じられない人になっていた
非情になっていた、5歳まで育て母親は認知症になったが金を持っているので金だけが欲しいとなっていたのだ、これも悲惨であった、でも育ての親にも反発して病気になっても助けることもしなかったのである
何か親の言う通りにさせられて反発したらしい、ただこの人は普通ではない信じられない非情な女性となったことに驚くのである
この女性もまた複雑な家庭環境であり理解ができないということはあった

とにかく人間はそれぞれの家庭環境の影響が大きいのである
私自身も複雑でも二人の母親がいたとしてもそれが私にとってはいいものだったのである実際は私が実母だけから育てられたら私という人間形成はできなかった
私の母親はもともと貧乏で育って性格は几帳面でありささいなことにうるさいのである
貧乏だったら花に興味もない、ただ働きづめだった、それは同情する
でももう一人の母親ともいうべき姉は大らかな性格であり小さいことをなにかやと言わないのである、常に自分を肯定するものとしてあった、だから別に就職もしないで引きこもりになっても何も言わないのである、やりたいことをやりなさいとなっていたのである
何か自分に何かを望むのではなくただ肯定するだけだったのである
それは甘やかされたともなるがそれで自分は自由に自分のしたいことを追求して来たのである、だからこういうことはまれだと思った、そこにも大きなマイナスがあったとしてもプラスの面も大きかったのである

それで思うことは子育てすることは子供を否定することを言わない、常に肯定して見守ることがいいとなる、確かに厳しいしつけも必要でも肯定される、愛をもって見守るということがいいとなる、何かと親が子供に要求すべきではない、その人なりの人生を生きることを応援することである、自分は60歳までもそうされてきたのである

子供を否定する言葉を言うな

常に温かく見守り肯定する言葉をかけろ

人間は別に子供でなくても部下であれ相手を否定することが多い、お前はだめなんだとか女性でも否定される言葉が多い、あなたはここが悪いけどいいところもあるとか言わない一方てきに前はだめなんだとかしか言われない人はどうなるのか?
その人は常に自分自身を否定するようになり自信がなくなる、何するにもそうなるのである

ただ親元を離れて苦労したのは20代であり若い時苦労しろというのは本当である
そもそも人間は本を読んでも自ら苦しみ悲しまなければ何でも理解できないのである
経験の方だ大事なのである、仕事でもそうである、どんな仕事でもつくづく経験しないとわからないのである、実感できないのである
だから別に底辺の仕事でも経験することはいいことなのである、それはボランティアでもいい、金にならなくても経験することは貴重なのである
人間は何か経験することでも極わずかのことしかできないからである、また人間は経験から学べない、聖書でもいくら読んでもわからない、でも苦しい体験とかした人はわかる
悲しむ者は幸いである・・・こういうことは経験しない人しかわからないのである
まず悲しい苦しい体験をしない人は人を導けないだろう、また同情もできないからである
そして人間の不思議は家族でも死んだ時、その人の肉体は消えても何か魂のようになものは残る、愛は残る、その愛は消えることがない、太陽のように輝いている
またかえってその輝きが増すということもある
もし忘れられない人になるならこうして子供でも愛すなら、ただ子供に何も望まないで肯定するだけならその人は子供にも忘れられない人となる
子供でも何かと親がおしつけるて子供を自分のエゴのために利用するとかなるのが多いのである、そうなると子供でも親が死んでも心に残らないともなる
だから親を恨んでいる人も多いのである、愛とは無償の愛なのである
神の愛でも無償の愛だからである
ただ理想的な親など言ないだろう、私の姉にしても他人には冷酷であり別にすべてがいいとはならない、ただ自分に対しては良く作用したとなる
だからそもそも家族でも両親だけではうまく子育てができないかもしれない
そこには祖父母とかまた叔父叔母とかでも様々な人がかかわった方がいいとなる
だから核家族は閉鎖された家族だけの世界となりいいものとはならない
子育てにとってはいい環境とは思えないのである

私を育て肯定した女性は
死んで十年も過ぎても
依然として消えなかった
太陽のように輝いている
それは愛だからであった
愛は死んでも消えない
あなたの心の中に
その女性はいつもいる
愛は継続する
肉体は消えても愛は消えない
そういう人を持つことは幸い
その女性は常に離れず見守っている
優しい顔で見守っている

ともかく人生で忘れがたい人というとき極わずかである、結局最後は二三人くらいになるだろう、みんなたちまち忘れられるのである、親子でもそうなのである
でも忘れられないようになるにはどうするのか、それを子育てでも人間関係でも知らねばならないとなる、ただこの世ではそんな人間関係など築けない、ほとんど金の切れ目が縁の切れ目である、これだけの人間がいてそんな関係しか築けないというのは何なのだろと思う、余りにも淋しいとなる、非情だとなる、でも実際はこれがこの世の現実なのである結局この世は無常であり無情なのである、親子ですら無常であり無情になっていたのである
いづれにしろ人間は親子関係とかでもそれだけで閉鎖されているとうまくいかないとみる
親一人子一人などは良くない、そこに別な人でも他人でもかかわり育てることがいいとなる、一人の親ばかり影響を受けることは良くない、それは実母でもそうなのである、意外と性格が似ているから合わないということさえある
私はもともと神経質だから大らかな女性の方があっていたのである、細かいことささいなこと地こだわり注意されるのが嫌なのである、それは結局社会に適応できない人間になっていたということにもなる
でも自分にとってはそれが良かったのである、社会に適応できなくても自分らしい生をおくれたとなるからた

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2022年06月21日

戦後教育の失敗 (資本主義欧米の競争原理でモラルなき教育ー個々の利益追求で崩壊した―原発事故避難地域)


戦後教育の失敗

(資本主義欧米の競争原理でモラルなき教育ー個々の利益追求で崩壊した―原発事故避難地域)

●江戸時代から明治から戦前は道徳が科目でも優先された

戦前と戦後と江戸時代と明治時代の相違が余りにも大きすぎたのである
何が変わったかというと技術的な面とかいろいろあるが社会のモラルが変わった
道徳が変わった、また消失した、でも不思議なのは江戸時代で一番重んじられたのは
教育でも道徳である、塾の先生でもその人がいい人なのかモラル的に優れているのかで
判断された、医者だと医は仁術となっていた、道徳的なこと人情的なこと心が一番重んじられていたのである
それが可能だったのは塾など読み書きソロバンであり今のような複雑多岐なことを教えることがないから道徳が重んじられていたのである
医者にしてもそもそも患者にしても病気は治らないものとして医者に行っていたから病気が治らないとしても医者が責められることがなかった
だから医は仁術であり心の方が重んじられたのである
そういう時代背景があって道徳がモラルが重んじられていた
その模範となったのは武士であり武士道があった、武士は人の鏡としてあった
日本の侍は貧乏でありたいし庶民の生活と違わないのである
それはヨ−ロッパの貴族階級とはまるで違ったものだった

そのために明治にキリスト教が入ってきたとき内村鑑三のように武士道キリスト教にもなったのである、でも日本が取り入れた西欧文明とは技術文明だったのである
ヨ−ロッパに派遣されたエリートが注目したのはその科学技術でありキリスト教ではないキリスト教文明ではなかったのである
そしてモラルというとき日本では天皇を鏡として


明治23年に教育勅語が発布されると、修身科は、教育勅語の精神を学校教育において具体化する教科として一層重視されるようになった。

戦前は、「教育勅語」によって国民にわかり易く「教育の日的」が示されていた。
「国民として」「人としての道」を、家族から友人、社会、国家という広がりの中で具体的に示した。
修身の授業を通して「偉人の生き方」などを示しながら具体的に子供たちに教えた。

戦前の教育と戦後の教育


江戸時代も明治以降もやはり道徳をモラル第一にしていた経過があった
それが戦後アメリカに支配されて民主主義国家となったとき日本はモラルなき経済となりモラルなき社会と変質したのである
そしてやたら個人の権利を主張するのが民主主義となりモラルはない私益の追求となったのである、結果的に日本に道徳はないしモラルなき経済ともなった
ただ他者は利益を得るための道具のようになった、もう人間とは見ていないのである
それは教育でも私益の追求であり知識はそのために身につけるのである
それで団塊の世代から受験戦争となりただ知識は立身出世のためであり知識はそのための最大の力となったのである、それは福沢諭吉の学問のすすめから始まっていたのである
一方内村鑑三などはキリスト教を基にしてモラルを説いていたのである
でも日本全体は福沢諭吉の学問のすすめの方向に向かった
だから戦後もやはり学問とは立身出世の道具となった、受験戦争が熾烈であれそこで仲間でも蹴落として上位に立つ、仲間との競争に勝つことが第一の教育となったのである
そうはあっても依然として修身とかモラルが第一とされていたのである

●自己を他者と比べて優秀さを異常に競うようになった戦後の教

その人は技術的に優秀なことがわかるが必ず人と比べて体力でも技術でも自分が優れていると自慢する、それが尋常ではないのである、でもそうして人と比べて競って優秀さを競う教育が過熱したのが戦後教育だとなる
他人を蹴落として上昇志向をもつ、団塊の世代はとにかく人数が多いから椅子取り合戦になっていた、そういう熾烈な競争社会を生きて来たのである
それでスポーツでも常に競争でありオリッピックで参加することに意義があるなど全く関係ない世界である、一秒でも一分で早く走り勝ち抜く人が勝者だけが尊ばれる世界であるそれでスポーツのことを加治将市氏が批判するのはわかるとなる
「俺はお前より上だ」こうして異常なほどに他者比較してマウントするのか現代人であり戦後の人間なのである、それは戦前と戦後の教育が社会がまるで黒から白に変わってしまった結果なのである

それは一部の高学歴とかエリートとかだけではない、庶民でも同じなのである
上か下かと異常に序列を気にするのである、俺はお前より上だとなり必死になっている
その評価として学歴をみたり大学を序列化するのもそうである
これも戦後教育の悪しき結果なのかもしれない、本来のヨ−ロッパの文明を取り入れたのではない、それを悪しく取り入れた、だから個々人の権利が異常に主張するが肝心の個々人の責任は無視される、権利と責任は一体でもそうである
私益が全面にでて公益は消失する、だからこの辺で原発事故になったとき簡単に町でも村でも解体して崩壊したことが信じられないとなる
こんな簡単に町でも村でも崩壊するのかという驚きであった
そこには何かすでに公益と公共性とかがなくなり私益のみがあり私益だから補償金をもらうことが第一となったのである
それであらゆることに補償金を要求したとなる、家の前の海は俺の物だとか私道でもそうであり仏壇から何から物品も保証しろとなったのである
でも肝心の全体の町とか村とかを復興しようとする意志はなく多額の補償金をもらったら若い人は町や村を捨てて流出して老人だけが取り残されたのである

これも戦後の社会の変化とか教育の変化があってそうなったのかともみる
ヨ−ロッパではパブリックなものがありプライベートとは奪うということが語源としてある、つまりこの私益のみの権利の追求が戦後社会だったのである

アダムスミスは、人の本性は利己的であるという前提に立ち、自分の利益のために働く個々の人間の利己的行為が社会的分業を成り立たせ、市場はうまく機能すると考えました。そのことを著書で「見えざる手」に導かれるとスミスは表現しました。

人間はこの前に公共性とか共同性とかがあってこうしたことも成り立つ、なぜなら現実に市とか町とか村とかがなぜ成り立っているのか?もしアダムスミスのように私益を追求するばかりになると市町村は維持できなくなる
ある人は優秀だからあくことなく私益を追求する、それは確かに悪いことではない
だから立派な家を建ていい車でもった、それは悪いとはならない、資本主義社会では誰でもいい自転車であれいい車を買うことは奨励されている、それこそ社会を発展させるものとされたのである、そういう人がいてこそ社会は発展する進歩すると奨励されたのである

●原発事故で提起された全体の問題

でもこの辺の原発事故で起きたことはその人は苦労して建てた立派な家でも庭でも津波の被害もあったが放射線被害があり住めなくなって放置した
それも大損だった、それより原発避難区域ではそうした立派な家でも庭があってもその町に住む気になれない、寂れてしまだからである、すると家が確かにまだあるし住んでいるでもそこに住む価値が極端に低下したのである
つまり町全体が村全体から人がいなくなり住めなくなりいろいろな施設でもスーパーでもなくなり買い物もできないとか不便になったときそこにいくら立派な家があっても価値がなくなり放棄してしまったのである
つまりいくら私益を追求しても町でも村でも全体が寂れてしまって不便になったときその価値も極端に低下したのである

でも何か小高の隣の原町とか鹿島とか相馬市でも新地でも移り住む人が多いからそこでの価値が上がったのである、今でも移り住む人が家を建てているからである
全体の価値が上がったという矛盾がある
これは日本全体を見てもそうである、日本全体が高度成長のときは個々の価値も上がっていたのである、貯金でも退職金が一千万あったとしても銀行にあずければ7パーセントもあり十年も過ぎたら倍になっていたのである
今は例え二千万退職金もらっても実質は物価高とか利子がつかないということで半分の価値しかないのである、貯金も価値がないのである、目減りするだけであり最悪は紙幣は紙きれになるという預金封鎖を言われるのである
それは日本全体の価値が低下したからそうなっているのてある

別に個々人の私益の追求をとがめることはできないことは確かである
でもそれも全体の市でも町でも村でも繁栄があって個々人の繁栄もある
それがこの辺では問われたのである、教育にしても同じである、ただ個々人の私益のための教育であり個々人の立身出世のためでありそのために手段も選ばない、とにかく何としても競争に勝たねばならないとなる
もちろん競争が悪いとはならない、でも全体が落ち込めば個々人の競争も成り立たない
それが現代の落ち込んだ貧困化した日本の実態なのである
戦後教育の失敗は過度な利己心の追求でありそれがモラルを荒廃させたのである
戦前は日本全体を統制するモラルが修身とか一応ありそれで競争だけの世界とはなっていなかった、共同体が第一としてあったともなる
その共同性がモラルが崩壊した時どうなったのか、この辺のように簡単に町や村が崩壊して消失したとまでなる、それは必ずしも放射線だけではない、何か戦後社会の矛盾がマイナスの面が極端に現れた結果だともみる
だから戦後70年であらゆることが教育だけではない社会全体が行き詰まりになった
教育といっても社会全体の一部としてあるのだから当然荒廃するとなる

アダムスミスのように利己心の追求が繁栄させるとしても全体が衰退すれば個々の繁栄もありえないのである、それで不思議なのは原発避難区域に豪邸を建て立派な広い庭を作っても回りに住む人がいなくなり町自体が寂れてしまい様々な便利なものスーパーでもなんでもなくなるとそこに住む価値がなくなる
そしてその豪邸は価値がゼロにもなり放置されてそこに住んでいた人は別な地域に移住した、利己心の追求はいいとして全体が寂れればそういう町に住んでいてもその豪邸も価値がゼロになってしまったのである

●町全体と国とか全体を意識された原発避難区域

人間は自己の利益を見るが全体は見ない見えない

人間の弱点はここにあった、自己の利益の追求には熱心でも回りを全体を見ないのであるそれが原発事故で一挙に避難した人が帰ってこずに廃墟のような街になった
そしたらそこで苦労して私益の追求であれ建てた豪邸の価値もゼロになったのである
売るにしてもそういう家を買う人もいないのである
だから全体を人は見ない、突然この町はどうなったのだ、誰も住まなくなるのかとまでなった、こんな所に豪邸があっても住んでいられないとなり移住するとなる
そこで問題になったのは全体なのである、町全体であり村全体なのである
市でも町でも村でもその全体が寂れれば個々の利益は追求できないのである
確かに個々に私益でも追及することは是認される、しかし市でも町でも村でもまた大きくは国でも衰退すると個々の私益の追及もできなくなった
ここでいくらいい暮らしを豊かな暮らしをしようとしてもできないからである

ただ人間は全体を大きなことを理解することが苦手である

目先の金とか利益を常に意識するが大きな全体を意識することができない
それで原発事故の避難区域で復興しようとしたとき全体を町を村を全体を意識せざるをえなくなったのである、個々人だけではもう復興できないからである
ただ現代社会は個々に分解してアトム化しているから全体を意識できない
江戸時代やその後農村社会でもそういう500人単位の共同体だと全体を意識する
でも今は職業も多岐にわたり分化しているので全体を意識しにくいのであ
だから原発避難区域では何か突然もぬけの空のようになった
それは本当に不思議な光景だったのである、あっという間に町や村から人が去り戻ってこない、家があってももう誰も住まない、空家の街とも化したのである

一方でその回りにも人が移住して新しい街が生まれた、新築の家が50軒くらい建ち
原町でも鹿島区でもまた相馬市でも新地でもそうであり新しい街が三つくらいできた感覚になったのである、その相違も余りにも大きかったとなる
簡単に町でも村でも捨てられたような感じになったのである
その時みんな全体を見るから全体を意識せざるをえなくなった、個々の私益の追求は是認されてきたがまず全体の復興なしで個々の復興もないとなったのである

このように国家とか市であれ町であれ村であれ全体としてある、その全体は意識しにくいのてある、まず国家となると大きいからもうわからない、でも戦前は常に国家を意識して日本人は生きていたのである、全体が国家が優先された社会だったのである
でも戦後は個々人の私益の追求が資本主義社会で優先された、個人と私益の追求だったのである、それが極端になりそれぞれの個々の利益を追求することが良しとされた
だから教育でもそれはあくまでも個々人が立身出世のためであり個々人の利益のためであり他者は眼中にない、他者は個々人の私益のためにあり利用するものだとなってしまったその矛盾が原発事故でこの辺で極端なものとして現象化したので驚いたのである

townbildblank11.jpg


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街はいろいろな色で埋まっている、でも空家化すると街全体が空洞化する
それが原発避難区域なのである
そこに立派な家を建てて住む気になれない、十億円もっていてもそこに家を建てようとする人はいない
そこに多様なものがあり人が住んでいる時価値があった
全体に価値がなくなると個々の価値も消失してしまったのである




newhousest11.jpg

 新しき街の通や立葵

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新しき屋並つづきて夾竹桃


新しい街がこの辺では三つくらいできた感じになる、新しい家もまだ建っている
そこで立葵とか夾竹桃も活きて咲いている
新しい家並みに街にふさわしい花ともみる

小高の方に行って奇妙だったのは道の辻にある馬頭観音が目についた、それは別にどこにでもある
でも何か車もあまり通らないから昔あった馬車を利用していた時代に還ったような気がしたのである
街の中でも車が通らないのである、だから何か車のない昔にもどったような不思議な気分になったのである
今は人は歩かない、車は通っているからだ、車が通らないから静かになったとはなる
でも淋しく感じるのである

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2022年06月25日

親の背中を見て育つが活きていた時代 (身近な家業とかで職業を理解した時代)


親の背中を見て育つが活きていた時代

(身近な家業とかで職業を理解した時代)


どうして諺(ことわざ)が生まれたのか?
それは現実社会から必然的に生まれたのである、その諺は古代からでもつづいたものがある、それは人間の生活が綿々と継続されて来て残されたのである
諺を残したのは庶民であるがそれが依然として活きているのは人間というものが基本的な所で変わらないから活きている
もし人間がまるで違ったものになってしまったら諺でも通じなくなる

親の背中を見て育てというときもそうである、親は何も言わなくても日々の行動の中で子供に押しえるものがありそういう言葉が生まれた
また働くの語源が端を楽にするというのもそうである、それは身近で親が働くの見ていて子供ながらに辛いとも見ていたからで親を少しでも楽にしたいということで生まれた言葉である

ただ現代になると時代の変化で社会の変化でそうして伝えちれた諺でも格言でも様々な伝統でも失われてきた
「親の背中を見て育つ」ということでもそもそもそれは農民社会や職人社会で職住一体になっていた時そういうことを実感する
生業とか家業とかは代々その土地で家で伝えられたものを受け継ぐからである

ところが現代のように親が働く姿を身近で見ない、すると親の背中を見て育つというとき親は家ら分離して会社員になるのが普通となるとき親は家から出勤したらその背中は見えないのである、会社で何して働いているのかもわからなくなっている
身近な所でも働く姿が見えないのである
都会だと一時間かけて会社に通勤するとかなると余計にそうなる

そこで何が起きて来るのか?

子供は親から学べない、親の背中を見て育たつことにはならない
また戦後まもなくでも隣近所で何をしているから見えていた社会である
石屋は一日近くで石を削っていたとか塗り屋は一日漆塗りをしていたとか篭屋は籠を編んでいたとか何か仕事が近くで見えていたのである

それで子供の時でも何かこういう仕事があるのか見ていてそれでそういう仕事をしてみたいとかなっていた、近間でそういう職業が見えていたからである
そして農家でも子供は必ず働かさせられていた、人手がたりないので家業も多いので働かせられていた
私は毎日学校から帰ると店をしていたから配達をさせられたのである
自転車で卵買いにも活かされた、それで近くの橋が土橋でありゆれて怖かった
糠に卵子をいれていてそれが必ず割れるのである
その卵買いに行った場所は街から近い場所である、小池とかそんな近い所に戦後の引揚者が入って細々と農業をしていたのである
その時どれだけ戦争の引揚者が職がなく荒地を開墾したのである
でも厳しいので半分は撤退したのである
何か辺鄙な所に飯館村だったら木戸木となると山の狭間にあり平な土地がないのである
そんな所でも戦後引揚者が入って来たのである
それで共栄橋とかあればそういう名は地形と関係ないから戦後の引揚者の村なのである

ともかく戦後十年の生活は江戸時代からつづくまた古代からつづく原始的生活でもあった

まいにち、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯せんたくに行きました・・
https://guzlog.com/shibakari-405

柴とは雑木であり小枝とかでありそれを燃料としていたのである、だから子供の時近くの裏山に本当に落葉拾いとか柴刈りに行った経験がある、戦後は燃料は炭であり柴であり薪だったのである、それで便所紙は新聞だったり風呂の焚き付けだったりした
紙もまともにない時代だったのである、電気は裸電球一つくらいしかなかったのである
水道もないしガスなども使っていない
そして街中でも本当に裏の堀川で洗濯していた、これも信じられないともなる
だから継続された原始的生活だったともなる、そういう状態で良く生活できたとも思う
だから家の中に一冊の本もないし鉄腕アトムとか鉄人二十九号とか読んでいたにしろそれも買ったものではない、貸本屋から借りたものだったのである
本とかは高くて買えないものでありせいぜい教科書を買うくらいだったのである
だから知的興味を育てる環境とはなっていなかったのである
そしてあまり貧富の差はなかった、そもそも物がなかった

農家の人の話を聞くと家で納豆を作っていたとか栢木(かやのき)の実から油を作っていたとか油まで作っていたのである、農家は自給自足であり買うことはほとんどない、物がない時代は買う生活ではないからである
そういう時代は農家の方が豊だったのである、なぜなら卵すら食べていないからである
私が子供の時卵買いに行ったのは店で卵を売るためだったのである
農家の人は卵を鶏を飼っているから食べていて恵まれていたとなっていた
バナナすら私の父親が病気になって仙台市まで行って買ってきた、バナナすら売っていなかったのである

ただ私の家で店をしていたとき私は嫌だった、母親は食事すらゆっくりできないのである必ず食事中にお客さんが来るからである、そして家事もしていたから暇なく働いていたのである、それが自分には嫌だったのである、親の背中を見て育つというのは本当である
それで店というものを自分は嫌悪していたのである、そういう職業につきたくないとなっていた、まともにゆっくり御飯も食べられないとなればそうなる
親の背中を見て育つというとき逆に親の仕事を身近に見るからそんな職業には着きたくないともなる
ある人は小高の人だったが親に農業だけはやるなと殴られたという、農業は実際は労働が厳しいから子供に継ぎさせたくなかったからだとなる
その子供は成長して原発で働きまた建築現場で働くようになったのである

ともかく現代は職業が見えない、近くで何をしているのかわからないのである
それでも地震で壊れた家を大工さんに直してもらった時、その人の職業を具体的に理解する、それは補助役もしたので理解する
職人とはどういうものか理解する、職人が気にするのは水平器で計る

nageshi1.jpg

切りすかす長押(なげし)の子口すぢりくくいかに押せどもあわでこそあらめ

大工の仕事はこうして何か合わせることが多いからこうした歌が生まれた
今は水平器でも電子化している、精密に計れる
私の家は地震で沈下したり傾いているということでしきりに水平器で計っていたからだ

親の背中を見て育つというとき職人は親方であれ兄弟子であれ技を盗むとか見様見真似で仕事を覚える、だから下働きでも親方にでも兄弟子でもついて仕事をしていると自ずと覚えることがある
それで私自身が直接手伝ったので大工の仕事はこういうものかと多少はわかったのである
仕事をするときの職人の姿勢はやかましく言われた、それは職人のみだしなみであり見栄でもあった、結局正しい姿勢が正し仕事をするの不可欠なのである

年季は十二,三才から始まり、だいたい21才と兵役の年限にあける
そのくらいの年から入らないと仕事が覚えられない
一七,一八歳から始める者は中年者と呼ばれて歓迎されないし事実大成もしなかった
「職人」竹田米吉ー現代教養全集

何を志すにも早い時期にしないと大成しない、家を直した人は一五歳で親方に弟子入りしたという、それも早いようだがその位でないと遅いともなっていたのである
それで志すというとき「若き内に神を知れ」というのも同じだったのである
そのくらいから求道していないと神を知ることはできなくなってしまうのである
だからいかに若い時が大事なものが後でわかる、たちまち時間が過ぎてしまい何も身につかなかったとなってしまうからである
それで大卒でも新卒を会社で採用したいのである、なぜなら若い時期に仕事を覚えやすいからである
そして人間の一生は若い時の二〇代までその方向が決まってしまうから怖いのである
大工として大成するにも一五歳から始めないと遅いとなるのである
ここを肝に銘じないと後で本当に後悔する

それで今の学校教育というのは相当に問題がある、親の背中を見て育つはなくなった
学校という場で社会から分離した場で言葉と数字と記号ばかり習い試験ばかりさせられた優越を決められる、そこは社会と遊離した場所なのである
理系の場合はいいとして文系は何も身につかないのである
そこはただ遊びの場だったからである、それで文系はいらないとなるのも当然だとなる
弁護士の資格をとった人などはいいとしてもあとは実際は何ら社会に出て役にたつものを身につけていない、むしろ大工さんの方が現実社会でその技を発揮することができているのである
劣等生でまた性格的甘やかされたからでもあるが学校教育は問題が多すぎるのである
知識でも知恵となったり現実社会を生きるものが身につかないのである

それでもともと親方がいて弟子となり修行を積むのがいいとなる
学校は集団化して先生でも団体の世代のように五〇人学級とかなれば目くばせができないそこでは知識だけであり知恵として身につかないのである
親の背中を親方の背中を兄弟子の背中を見て育つことがないのである
何か抽象的記号の世界となりそれが現実社会と遊離していて興味も失うし実業として身につかないのである
そのために文系大学はかえって実業を専門学校化した方がいいというのもわかる
大学は遊びの場であり何も身につかないからである
もう文系大学はいらないとなる、文系大学出ても何の価値もないとなる
文系は別に独学できる、本を読んだり今ならインタ−ネットで無料でyoutubeでも勉強できるようになったからである

今の社会はとにかく活きた人間の姿を見て育つということがない、AIロボットに学べとかまでなる、そこに生きた人間が手本になることはまれである
そういうのは今度はカルト宗教団体の教祖とかなりナチスのヒットラーとかになってしまうのである、そうなるのは現代ではもう教育する場がない人もいないからそうなる
集団化であり組織化でありそこに模範となる個人は排除されている
つまり習うべき人はなく、独学するほかないのである
また師とかでも普通の人には必ず差が大きいので偶像化するのである
人間が偶像化しやすいのである、弟子とはただ師に従うロボットのようになってしまうのである、ほとんどの大衆カルト教団ではそうなっているからである
つまり現代では自己教育しかない、だから何か技術を身につけるにしてもそお模範となるものはないし学べないともなる、そこに社会の荒廃が生まれている

いづれにしろ人間は積み重ねである、知識でもそうである、何でもそうである
それで推理ドラマで悪いことを積み重ねた人は親からも実際は犯罪を犯していなかったのに犯罪を認めた、誰も日ごろの行動を見ているから悪い奴だとして信じてもらえなかったのである

人間日頃の行いが大事

家を直してくれた大工さんでも一五歳から修行して技を身につけた、それで原発避難地区から避難して別な街に来ても一応南相馬市内だがその技が優れているから認められるとなる、でも何も技もない特技がないとしたら歓迎されない
パチンコとギャンブルに明け暮れる、最初の内はうかたがないと見ていたが一一年も過ぎてもそういうことをしていたら回り人は嫌悪するとなるからだ

芸は身を助く

芸は技は身を助く

ともなっていた、老人でも何かを身に着けていれば敬われることはある
その一生で積み重ねた経験したことがありそれが参考にするということである


●本は理解しなくても買って私設図書館を作るべき

本を千冊くらい買っても消化していなかった
ただあの本に職人のことを書いたことがあったなと覚えていた
それでもう一度読んで引用したのである
ただ正直そこに書いてあったことは忘れていたのである
でも確かに職人のことを書いてあったなと探して読んでみたらなるほどと理解して引用したのである
本を理解するのは自分の文脈の中で引用したときなのである

でもとにかく本は理解しなくても買うことも大事だと思った
そして興味ある本をそろえるのである、私設図書館を作るのである
こうして時々拾い読みするとなるほどと理解するのである
だから本は買うだけでも後で役に立つとなることがわかったのである

家の修復も前半戦は終わってほっとした、でもまた直す所がありそれは秋になるだろう





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2022年09月16日

文系大学はいらない (職人なった方がましだーyoutubeで学んだ方がいい)


文系大学はいらない

(職人なった方がましだーyoutubeで学んだ方がいい)

アホ大なんかで数年潰してプライドだけ高くしちゃうより、高卒で頭柔らかいうちに技能を身につけるのもアリだと思う。
AIがなんちゃらとか言うけど、結局人が面倒見てやらないといけないんだし他にも人の手でしか回していけない仕事はたくさんある。
まだまだ職人は必要なんだよ。
アホ大入るくらいなら高卒で手に職つけたほうが賢いよね、みたいな風潮にすれば不必要な私大は潰せる

これはわかる、優秀な大工さんは15歳から大工修行していた
昔は18歳になると教えることはできないと職人になることは親方でも断ったという
つまり人間は何でも早い時期からスキルでも身につけないとできなくなる
それだけ時間が貴重なのである、時間はあっというまに過ぎてゆく、飛んでゆくのであるそして職業が人間を作るとういことがある、それでホイットマンは平民を職人をあらゆる働く人々を讃美していたのである
その大工さんも体でも仕事の中で作られていたのかとなる、もともと体の造りまで違っていたのかともみる、天性の職人なのかともみる

本当に文系大学よりほんの一部をのぞいて職人の方がましだとなる
理系だったら直接職業と結びつきやすいからである
文系はどんな職業と結びつくのか見えないからである
神学学んで牧師になるとかそんなのも変なのである、聖書でもそれをいくら読んでも実際はわからないからだ、経験しなければわからないからだ
だからプロテタントには牧師はいない、平民が直接神に結びつくのである
法学部とかると裁判官とか弁護士とか職業が見える、でも他はあいまいなのである

私は大学で何も身につかなかった、日東駒専だったからである
そもそも私は高校でもどうしてもなじめなかった、だから積極的に自ら勉強する気がなかった
それでかえって大学は勉強を強要されないので良かったのである
一日教室に閉じ込められることに耐えられなかった、また体でもそういう場所になじめないものだった、我がままといえばそうだが学校で勉強を強制されたから嫌だった
その後も会社とか団体生活でもなじめない、でも一時体育会に入った、それは体が弱っかたから強くしたいとういことで入った、それで何か積極的な姿勢が生まれたから良かったとなる、どうしても陰の性格だから積極性欠けていたからである
だからそういう点で大学に入ってすべては無駄とはなっていない

でも職業のスキルとか他に学問とかでもほとんど学ぶことがなかった
カルト教団に入ったがそこも教育などなかった、奴隷養成の場であり何の教育もない場所である、ただ正直今や大学でもそうだがカルト教団が増えたのはもう侍のようなエリート養成の場所がなくなった、教える場がなくなったのである
知識を教えるものがあっても全体的人格を陶冶する場は消失したのである
そして現代は必ず複雑な迷路に迷い込む、そこから抜け出せなくなる、そしてカルト教団のような所に迷い込む、それだけまともに学ぶがなくなった結果である

でもふりかえればただ貴重な時間を無駄にしたとなる

だからこそ職人の技を身に着けた方がましだったとなる、文系だと語学に熟達すれば仕事がある、ある人はドイツ人の技術者を火力発電所に案内していた
それは英語でしていた、つまり英語を流暢に話すことできれば仕事があるともなる
語学を身につけることは仕事になる、文系だとそこが専門職にもなる
でも大学では何か英語を習おうとしたができなかった
でも今はあらゆることで学ぶ環境ができたのである
youtubeの講義は解かりやすいと見ている、本だと文章を読むので疲れる
でも動画で図解で説明されるとわかりやすいのである
これは明らかに下手な大学の先生に教えられるより勉強になる
もう大学は知識教養を身につける場ではない、第一千人とか講堂に詰め込んで授業するより自宅でyoutubeでも何でも学んだ方がいいとなる
それはもう田舎でも可能なのである、どんな本でも手に入る、古本だったら自分の書庫もできる、どうしても一定の専門の本は揃えないと勉強はできないからだ

英語の勉強で失敗したのは

聞く能力を身につけることだった

それでテレビの英語放送でただ聞く練習を大学出てからしていた
それが意外と効果的だったのである、英語の音に慣れることが大事だったのである
つまり勉強の方法も大事だったのである、今なら無料でyoutubeで英語でも学べる
だから大学に行っても文系なら無駄だとも思った
ただ大学には大学の役目がある、何かそこで友達を作ったりとか人生を語るとかある
モラトリアムとの期間として与えられているとなる
でも正直そこに学ぶものがない、なぜ学生運動があったのかというともう大学はエリート養成の場所でもなくなっていた、つまり大衆化したのである
団塊の世代でもそこはエリートとして扱われない、無数の大衆の群衆の一人になっていたのである、文系ならまず授業すらまともに受けられない、教授とかなると何も教えない
時折顔みせるだけだとなる、だから大学は何する場なのだろうとなる

ただ4年間が遊びの場としてあり公認されているともなる
それも人生で意味がないとはなるが何かもったいなと思った
ともかく時間だけは容赦なく無情に過ぎてゆくのである
ただこうして大学が遊びの場になっているときそのまま遊びが人生になったという人がいるのもわかる、ギャンブルに興じてそのまま変な方向に行ってしまったというのもわかる私のようにカルト宗教にはまったとかにもなる
つまり大学の謎は教育する場所ではなかったのである
何か教育という機能が失われていたのだと思う
それより藩校とかが人格教育とが文武両道を教えていたからそこから明治維新でも人材がでてきていたとなる

なぜなら明治維新は民衆の革命ではなく侍が起こして成立していたからである
侍というのは江戸時代300年で培われて育てられた人達だったのである
真のエリートだったのである
でも明治にはその侍がいたが明治後期からはいなくなった
そして太平洋戦争になった、その戦争は国民化大衆戦争になった
それは外国でも同じである、ヒットラーのナチスがその最たるものだった
大衆ファシズムの時代になったのである
それまでは貴族がいて貴族が戦士であり戦争のプロでもあった、侍と似ていたのである
その貴族には城を館もっていて召使が大勢いたのと同じである
洗濯するものから食事を用意するものから婦人の身支度をするものとか分かれていたのである、まるで殿様だったのが貴族なのである
その貴族に使えていた人達もやがて別な職業につくようになった
侍と似ていることはその人達もエリートでありそこから国民を指導する人達が生まれたとなる、その階級制が今でもつづいているというのがヨ−ロッパだとしている
そこでは子供に家庭教師がついていた、そのためにやはり個性を伸ばすことができて天才が生まれたともなる
学校のようにな一律の教育ではないからである

いづれにしろ江戸時代には藩校がありエリートとして侍があった
明治になり学校化してエリート養成はなくなり教育でも大衆化した
現代ではもう教育する場所がないのである、そういう場が失ったのである
そうなるとどうなるのか?自ずと自分で自学しないと学べないとなる

そもそも強い学ぶ意志があればそういう環境がなくても道は開けるともなる
ただ受身的ではな何も身につかないのである
ともかく文系の大学はいらないとかそもそもなくなるともみる
youtubeとかででも無料で学べる時代になっているからである
大学の講義よりわかりやすいのである、これは本よりもわかりやすいのである
文系なら独学できる環境が整ったということである

教育はもう読み書きソロバンとかの時代ではない、思考脳、感性脳、遊戯脳、創造脳とかを育てることである、とても暗記脳とかでは何の役にもたたない、それはコンピュターが代わりにするからである
これも意外と天才でないかぎり訓練なのである
私自身は学問に興味がなかった、でも大学を出てから経験したり旅することによって地名に興味をもったりいろいろ興味をもってそれを育てていたのである
それは私は特別家族に恵まれていてそういうことをしていたのである
それは外から見れば遊んでいたとしかならない、でも今その成果を出しているのである







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2022年09月30日

運がないとあらゆることがうまくいかない (教育でも家族運とか時代運とか金運とかあり才能が発揮できる)


運がないとあらゆることがうまくいかない

(教育でも家族運とか時代運とか金運とかあり才能が発揮できる)

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私たちの社会はとても不平等です、その不平等をもたらす大きな原因の一つが偶然親から配られた遺伝子の組み合わせが生む遺伝的な素質の格差だときいうことです
それからもう一つの原因は偶然の環境です、遺伝でも環境が親ガチャであり、それで9割が説明されてしまいますー

●私の家族が特殊でも私には良く作用した

人間は生まれつきの才能とかあるけど人間が最も作用するのは運である
どういう親から生まれるかというものがあるが遺伝もあるが環境因子の作用も大きいのである、そしてこの運命自体が不可解なのである、謎なのである
私自身の運命自体不可解そのものだった、家族でもそうである
でも自分にとってはこの運命が環境が幸いしたのである
そうでなければ確実にまともに就職もできず浮浪者となり脱落者となり野垂れ死にのようになっていた
実際三流大学を出て就職もできなかったからである

でも私の家族はそのことで責めることもなかったのである
最近引きこもりとかが増えて問題になっている、引きこもりをたもり人というようになった、私自身このこもり人として生きたのである
だからこれは本当に異常なことだったのである、現実に自分自身が異常化したことを気づいたのは私を育てた二人の母親が病気になり介護になって一人悪戦苦闘した時だった
そこで社会とかかわりもう死ぬような苦しみにあった
誰も助けるものがいない兄弟もいないとかでそうなった
それも余りにも恵まれた結果としてそうなったのである

人間はなんらか不可抗力の運が作用しているとこの本で書いている
それを自分の運命から理解できる、その人の遺伝は確かに大きく作用する
遺伝的資質はどうにもならないのである、外交的な人もいるし内向的な人もいるし性格も様々だからである、自分は内向的な性格でありどうしても集団になじめない性格だった
一人っ子でもあり人とうまく協調できないのである
私の母親も内向的地味な性格の人であり似ている、ただもう一人の母親は全く性格が違っていて外交的陽気な性格だったのである
でも奇妙なことはこうして相反する性格の母親に育てられて自分はたいしてなかった才能でも伸ばすことができたのである
60まで自分のおもむくままに生きていたのである、自分の合わないことはせずにすんだのである、こもり人となると異常にしても自分には合っていたのである

●共同体があって教育もありうる

私が一番嫌だったのは学校である、学校になじめなかった、何かどうも腸が過敏になっていて集団の中に異常に緊張するのである、体までおかしくなる
今でもそうである、人間嫌いであり人間がいると緊張するのである
だから私が自然と木とか石とか山でも自然に接している自然を鑑賞するということに向いていた、そこには人間がいないからである
また体力がないということも実の一人の母親に似ていた、体が細くて重いものも持てない母親だったからである、だから遺伝的には実の母親の影響がまねがれないのである
でももう一人の母親は太っていて社交的であり男優りだった
ただそれだけではなく私の家が父親が中学で死んだ時、もう一人の母と言うべき姉がいて家が維持できたのである

必ずしも家族とか家は血縁とかでも成り立たない、家を維持するということはそれが一つの最小の共同体であり家のために生きることが女性にはある
また江戸時代なら御家大事ということがありまず御家のために臣下でも尽くし働いて維持してきたのである、つまり人間には何らか共同体がありそれを維持することが優先されるそれは必ずしも血縁とかではない、一つの共同体として機能する
それが昔の村だったのである、村とは500人くらいで成立っているときそれは一つの家族も同然だったからである、それで子供の名付け親とか村の人がなり村の子供は村の家族の一員として育てられたのである
村というのはとても一家族だけでは維持できないからである

だから教育というときそういう共同体があってこそ成り立つのである、でも明治以降学校になったときそういう共同体から分離したものとして知識だけを学ぶことになったのである、江戸時代なら侍がいたとき侍が模範としてありその侍は学校教育で育ったのではない当時の社会でエリートとしてあり学校があったとしても藩校で育てられる
その土地と密接に結びついて育てられる、村でも土地土地と密接に結びついて育てられていたのである、有機的に結合した共同体があってその中で子供でも自ずと学び体得していった、学校教育はもうそうした共同体から分離して知識だけとの教育となり福沢諭吉は教育は立身出世のためとして学問をしろとなったのである
それは近代化したとき世界中で学校が教育の場となったことは共通しているのである
その前の教育というときヨ−ロッパだったら貴族階級が家庭教師を雇い教育していたのである、学校はないからそうしていた、でも貴族には蔵書があったりして学校に行かなくても学べる環境があった、だからかえって天才でも生まれ育てやすかったのである
その人にあった教育をしたからだともなる

●教育でも田舎と都会の差が大きい

教育というとき田舎と都会で相当に差がでる、ただ教育という時何か人から教えられる
先生がいて教えられるとかなるがそうではない、先生の上に本当の師がいる
それは自然である、自然が基本的に本当の師である
でも大都会になるとこの自然がないのだから自然から学べない、俳句を作るにしても四季を知らなければ作れない、自然を見なければ作れない、季語を知るには年ごとに季語となるものを自然の中で知識ではなく体感する必要がある
すると都会ではしにくいのである、季節感にして余り感じない人工的空間になっているからだ、ただ自然といっても私は別に子供の時に自然というのは感じていない
ただ子供の時は原始的生活だった、洗濯でも裏の堀川でしていた
煮炊きは竈があり炭で暖をとっていたとなる、囲炉裏が街中の生活にもあった
でも自然がどうのこうのとは子供の時感じない、ただ父親が鮎釣りとか鰻釣りしていたし川に小魚がいたからそういうことで自然は感じていたとなる
また畑などがあり田んぼもあり回りから自然を感じることはあった
でも意外と田舎に住んでいても自然を感じない、自然を知らないのである

自然を感じるようになったのは東京の大学をでてから都会暮らしをしてから都会を嫌いになり田舎に帰って自然を感じるようになった、それでつたないものでも俳句とか短歌を作るようになり意図的に自然を感じるように勤めたのである
でも土いじりなどしていないから農業のことはわからない、田舎でも回りが田畑でも農業している人は一割とか少ないのである、今はみんな会社員か工場で働いているのである
それで意外と田舎に住んでも農業のことがわからない人がいるのである
ただどうしても田舎だから自然が無意識的にも感じるようになる
でも自然はこちらから意識的に働きかけないと感じないこともある
俳句を作ることは季語を体得しなければならない、その季語も多様だから意外とこれも自然のある場所で年々積み重ねた体験が必要なのである
それは一年とかで身につかない、相当の年数がかかる、自然を知るには実際は相当な年数がかかる、木が50年で育つように自然の時間は人間の時間とは相当に違ったものだからである、徐々に時間をかけてしか自然を知ることはできないのである

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった

このキリストの言葉は意外と理解できない、都会ではとても理解できない
鳥をなぜ日々餌を得ているのか?何を食べているのか不思議である
餌があるのか、でも日々貯えることもなく生きているのである
それは単純なことだが人間と比べるとあまりにも違いすぎるからである
人間だったら何も貯えないとしたら不安でしょうがないからである
そのこと当たり前なことでも本当に不思議だとなる
そうして貯えもせず生きていることが不思議なのである
キリストが生れ育ったのはナザレといいう辺鄙な村にすぎなかった

だから自然は身近にあった、でもそこに行ったら何もない、あまりにもありふれた村であり町だったのである、何か特別美しい場所でもなかったのである
ただそういう場所で生きていて自然を観察していてこの言葉が生まれたのである
それが自然が師となり自然が自ずと教育したのであり誰か人に教えられたものでもないのである、だから教育はそもそも人間だけではできない、先生だけではできない
自然が最大の師なのである、それは科学的なものでもそうである
自然からかけ離れたようでももともと自然の観察から生まれたものだからである
ともかく教育といっても学校だけでは先生からでもでも本質的にはできない
キリストがこのことを言っても都会に住んでいる人は何か理解しにくいからである

大都会なら食べ物は食料でもスーパーであれ買うものでありそしてその食料でもどうして作られているのか知らないからである、ただ金で買えるものとしてしか理解できないからである、こうして現代は便利になっても本質的なことを理解できない社会なのである
野菜でも果物でもどうして作られるのかわからないのである
ただ店に並んでいて買うものとしか理解できない、そこに大きな問題が生まれている
本質的なものが理解できないのである、つまり知識と現実の生産とかの場から離れているからであるただ金で買うものとなると金の方が大事になる
でも食料を生産している人がいて食料が得られるということその現場を知らないからそのありがたみも感じないのである、つまり教育といってもそうして知識だけだと記号だけを覚えることになりリアルなものとして現実のものとして理解できないのである

●戦後にはモラルの教育が消失していた

なぜ今教育の問題がうまくいかないのか?それは知識だけの教育であり実地の社会から分離して共同体から分離して知識詰め込みになったからである
教育とはそもそも学校だけではできない、また師だけでも先生だけでもできない
その基盤に共同体があって実地の社会があってできる、現代ではその基盤がなくなったから教育とはただいかに自分のみが得する、楽に生きられるかが問題になる
そして東大を出れば官僚になり上級国民になれるかとなる、それはあくまで得するという立身出世の教育なのである、戦後の教育に道徳教育はない、知識で優れたものが得するという教育しかなかったのである

それはあらゆるものがそうだった、宗教すらカルト教団になり御利益宗教になったのそうである、資本主義社会にはモラルはなくなった
ただ自己の利益をいかに計るかしかないのである、だから教育自体ができない、ただあるのは知識教育でありいかにして受験戦争を勝ち抜いていい地位につき収入をあげ得することだしかなくなったのである
戦前はいい悪いにしろ国家のためにすべてがあった、でもそこには日本的モラルがあったそれは自分だけが利益をあげる得するとかではないものがあった

また戦前と明治とか江戸時代でも特にに江戸時代になると侍が指導者であり侍を模範することがあり侍自身もそう自覚していたのである
だからなぜ明治維新が成功したとなると侍が指導者の立場に立ったからだとなる
江戸時代に育まれた人材がえてそうできたとなる、庶民の革命ではなかったのである
でも大正とか戦前の昭和になると指導者のエリートのモラルが消失した
国民国家となり大衆国家となったとき指導者は国民が大衆が選ぶものでありそれもただ数として選ぶものであり上に立つものに自覚したものはない、やはり利益があがればいい
自己のためのものとして議員でもある、何か公(おおやけ)に尽くすものとしての自覚がないのである、それは選ばれた議員でもない、ただ地位を得て得すればいいとなるとき
自己の利益追求として大衆があるともなるからである

●運の作用が大きい人間

人間の謎は意外と運が作用していることである、だからこの本でそのことを言っているので共感した、そもそもどんな親から生まれるとか決められない、それは運命である、その親から基本的に資質が受け継がれるのである、遺伝があることは確かである
でもそれですべてが決まるかとなると決まらない、環境因子があり家族というのも複雑なのである、いろいろな家族がいてその作用がある、単に実の親がいて子がいるとともならないのである、だから不思議なのは兄弟なのに全く違った人生になる人はいくらでもいるまた兄弟でも性格とか違って同じ運命にはならないのである

◎遺伝、素質

◎環境因子

◎運

ここで意外なのは運なのである、運にもいろいろある、金運とかもあるし人間関係でも人の出合いでも運命的なめぐりあわせがあるとか運が作用している
どういう人と逢うとかでその人への影響が大きいからである
金運とかもある、時代運とかある、団塊の世代は戦争が終わり焼野原から始まったけど
食べる物も満足にない時代から始まったけど高度成長時代がありみんな豊かになった
そしてそれは日本人が優秀だったからとかではなかったのである
その時国際関係でも米ソ冷戦があり日本が共産主義の防波堤としてアメリカに重んじられた、そして朝鮮戦争があり日本が物資の供給国となり経済が復興したのである
その時鉄が不足していて子供の時鉄くず拾いして売って金になったことも覚えている
戦争で鉄が不足したからそれを日本で供給したのである
その後のベトナム戦争でもやはり戦争特需が日本にあり日本は別に戦争で被害がなくても経済的な恩恵があった
だから国家でも運が作用している、時代の運が作用している

私の家が戦後店を駄菓子屋のような店を始めて繁盛したのは別に商才があったとかではない、ただ場所が良かったのである、車がないとき角にあったので場所が良くて繁盛したのである、それも運だったのである、だから何するにも運が作用している
運が悪いといくら能力があるとか優秀だとか言っても成功しないことがある
それで財産のことをfortuneが運となっている、財産でも運があって持てるとなる
だから運が悪い人はこの世でいくらでもいる、不運に若くして死んだとか才能が発揮されずに死んだとかいくらでもいる、戦前は肺病で若い人が大勢死んで国民病ともなっていたからである、それも時代が悪かった、運が悪かったとなる
なぜなら今なら肺病は治るし死ぬ人がいなくなったからである
この肺病は悲惨だったからである、手術で灰の片方を切除した人を知っている
その人は一生身体障碍者のようにして終わった、それも悲惨だったとなる

そもそも人間が才能あったとしても発揮されずに終わった人が多い、それは様々な要因があるが運が作用している、親が悪いとかもある、親ガチャも相当にある
親に恵まれないからそれで一生が犠牲にされたとかある、カルト教団とかの二世問題がそうである、親には子供は従わざるを得ないからどうにもならないとなる
そこで魂まで支配され従属されることになる
私の場合は特別親に恵まれた結果としてたいして才能もないのに発揮できたとかなる
ただ奥手であり遅すぎたとなる、もっと早めに自覚して勉強していれば良かったとはなるでもこれも時代運であり長寿社会になったとき長い目で自らを育てればいいとなる
それも時代運である、肺病でも死ななくなっても良くなったというのもそうである
何か認知症でもアルツハイマーでも効く薬が出るとかでもそうである
時代に恵まれればそういうものも直せるとなるからだ

●運命は不可避的なもの(猫の運命)

不可避という言葉の意味は、「避けられないもの」「回避できないこと」といったような意味の言葉になります。

人間は確かにその人の才能がどうかとか言うけど才能というのは何か開発しないかぎり
発揮できない、天才だと別である、天才は努力しなくても会得するのである
普通の人はそうはならない、自らを知り自らに合ったものを努力して追求しないかぎり
才能も発揮できない、その才能となるのもわずかでも最終的に大きなものとなりうる
だから人間は生まれつきは確かにある、でもそれだけですべてが決まらない
人のめぐり合わせとかも運でありどういう人と出合うとかでも決まる
そして運という時、必ず運がいいとか運が悪いというけど運もめぐるのである
ある人は運がいいとありその運が他の人にめぐってゆく

私が猫を飼っていた、その時別な猫が餌を奪いにきた、でも追い払っていた
それは黒い猫であった、でも飼っていた猫が死んだ時、その黒い猫に餌をやるようになった、でもこの猫は絶対に慣れないのである、黒いからかわいとも言えない
でも自分自身でもなぜこの猫に餌やっているのかわからないとなる
それは飼った猫が死んだからでありその猫に運が恵みがめぐってきたからなのである
人間には何かそうした運が強制的にでも作用している
不可避的なものとして現れたとなる、確かに避けることはできるでも何か飼っていた猫の代わりとなっているのである
誰かの不運が誰かにとってはいい運となる、高度成長時代の日本は朝鮮戦争があり朝鮮人は苦しんだ、でも日本人にとっては幸いしたのである
またベトナム戦争でもそうである、日本人はやはり特需のようになったからである
戦争で死ぬこともなかったのである、このように何らか人間が運の作用が大きいのである
私の父親違いの兄の父親は事故で死んだ、結果として母が再婚して私か生まれた
でも兄は私の家では五年間は一緒に暮らしたが母の実家に引き取られた
そして離婚してその後交通事故で死んだのである
だからそもそも父親が事故で死んだことは不運だったのである
でもその不運があり自分が生まれたということになる
つまり誰かの不幸が誰かの幸いになっていることがある
国家間でも他国の不運が不幸が別な国の幸運とかにもなる
そういうことがどうしてなるのか謎なのである
ただ誰でも一生運がいいとはならない、必ず不運に見舞われ苦しむことになる
そういうことでは人間は平等なのかもしれない




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2022年11月23日

精神知的発達障害者やニートとは何なのか (適切な治療教育がされないー認知症と似ているがまた違っている)


 精神知的発達障害者やニートとは何なのか

(適切な治療教育がされないー認知症と似ているがまた違っている)

●計算できない、漢字が書けない、文章が理解できない

言葉の遅れが気になる
勉強についていけない
集中力・落ち着きがない
他者との関わりが苦手
発達障害の種類とグレーゾーン
発達障害の3つの種類


読み書きや計算など、特定の学習が苦手
目から入ってくる情報をうまく処理できず、図形や似たような文字を理解しづらい
文章のどこを読んでいるのか分からなくなる
読み書きに他の人よりも努力が必要なため、疲れやすい
計算や読み書きが必要な場面で困る
その場で書類に字を書くのが難しい など

その人は50歳になるけど数の計算ができないという、どうして数の計算ができないのか学習できなかったのか、その辺がわかりにくい、その人が言うには常に親に殴られたとか頭でけられたとか言う、何か親が虐待していたとなる
兄弟も二人いしても嫌っている、この家族も理解するのがむずかしいと思った
そもそも他者の家族は簡単に理解しにくいのである、そしてまともな家族がまれだともなる、何らか問題をかかえているのである、私自身の家族もそうだったからである
ただこの人がかかえたものが精神知的障害だからさらに理解しにくくなる
でも見た目は普通の人だし話しもできる、だからどこが障害なのかよくわからないのである

認知症になるとこのような症状がみられる、数が計算できない、だから自分の持っている金を把握できない、銀行から金がおろせないとなる、知的障害がある
だからこのことに驚いたのである、でも私が認知症を介護してきたことでわかったことはこれまで経験してきたことで正常に生活してきたのだから何かそうした知的な計算ができないということはあってもわかることがある
だから全く心が通じなくなることはないと後でわかってきた
何か感情的な面では普通なのである、喜んだり悲しんだりすることがありそれは普通の人と同じなのである、だから認知症になると相手の態度が問題になり敏感になる
何か馬鹿になったからと馬鹿にしているとか冷たくしているとかわかる
すると怒ったりするのである、特に優秀だった人はそうなりやすい、馬鹿にされることを敏感に感じて怒るのである、でも子どものときから発達障害とか精神障害者はそうしたことはない、常に馬鹿にされてきたしうとまれてきたし虐待もされてきたからである
それで怒ったり相手に暴力をふるったりしないまたそれだけの力もないのである

●算数とかでも教え方が影響するー暗記教育しかなかった時代

ともかく発達障害でも精神知的障害でもいろいろあるから判断するのはむずかしい
でもなぜ親がそんなに実の子供をいくら障害者でも虐待したのか理解できない
その家は夫婦仲が悪くなにか常に母親に夫が暴力をふるっていたらしい
でも息子までそんな虐待をするものなのかということが理解できない
相手は障害者だからである、その人が言うには私が計算などできないのは適切に教えられなかったからだと言っている、それはあるのかもしれない、確かに知的障害があっても
教え方があり理解できることはある
それは自分自身でも算数と数学が嫌いになったのは生まれつきというより教え方が悪いとなそうなる、おそらく小学生とかの段階ではそうである
私が受けた教育は算数だったら暗記しかなかった、そして後はソロバンだったのである
これは全く機械と同じ暗記教育だったのである

算数でも後の数学でもこれは思考訓練として教えるられるべきものだったのである
私は自ら興味をもって勉強したことは高校までなかった、だから勉強嫌いであり劣等生で終わった、ただ三流大学に入れたのはたまたま家族に恵まれて金がありは入れたのであるなぜなら団塊の世代は第一中卒で集団就職していた時代だからである
中学だと4,5人しか大学に入っていないからである
なぜ自分自身が教育に興味をもつのかというと教え方がありそれは先生でも思考すること創造することでもあるからだ

数の計算にしてもそうなのである、計算でも暗算ではなく考えるものとして学んでいたら違っていた
27+35となるとめんどうだが20+7+30+5と分解するとわかりやすくなるのである
別に20+30+7+5でもいいわけである、また7がめんどうなら5+2にする
そうするとわかりやすくなる、また数字を図形化して教えると具体的わかりやすくなる
つまりなんらか学ぶ方法があり教え方がある、それが学校だと一様になり暗記教育になり勉強に興味を持てくなる
例えば数字とは何かという根本的なことすら理解できない、●でも■でも色でも違っている、大きさも違っている、でも同じ一っ個にする、一となる、だからこうした単純なことでも数字化することの意味が何なのか教えていないし自ら学んでいないのである
今なってそんなことを考えたのも遅かったとなる
ただ思考するにもこうして訓練が必要だとなる、普通の人だったらそうなる
まれにいる天才だったらそんなことを教える必要もなくすぐ理解するからむしろ教育自体必要ないともなる

●先天的なものなのか後天的環境の作用もある

その人がなぜ発達障害になったのか?

●生まれつきなのか

●後天的なもの環境の影響なのか

確かに生まれつきがあったのがもしれない、でも後天的な環境にもあったかもしれない
親の理解がなく虐待されたことで余計に学ぶこともできなくなっていたのかもしれない
何か人間に対して恐怖を抱いているからである
ただ何もわからないというのではなくわかっている、だからどこが悪いのと見られることは確かである
数の計算ができないのとなると確かに社会では働けないとはなる
でも別に他に数の計算が出来なくてもできることはある
その人はいい体しているから力はある、だから重い物を持つということはできる
指導する人次第では仕事をさせることができる
その他でも話しは通じるのである、でも計算ができないということが大きな障害にはなるそれは小学生並みの計算とか文章が読めないとかある
何かこれも認知症と似ていると思った、計算ができない、漢字が読めない、漢字が書けない、文章が読めない・・・でも認知症よりわかっている
認知症だとももっとわからなくなっているからである

先天的後天的なものが人間に影響する、でも後天的環境の影響も人間は大きい
いくら才能が先天的にあってもそれを伸ばす環境がなかったら才能は発揮できない
子供の時、一冊も本が家になかった、するととても自主的に勉強などできないのである
だから教育では家庭環境とか親とかの影響の方が学校より大きいかもしれない
学校はどうしても個々人に対応できないからである

そして現代文明はあまりにも複雑であり精神障害になりやすい、それは先天的なものではなく後天的にである、だからニートが110万人もいるというときもそうである
この問題は特殊な例外ではないからである、これだけの数がいて確かに責めることは容易である、でもなにかしら現代文明の問題として生まれたのである
現代社会に適応できない、それは甘いだということもわかる
社会はもともと厳しいのだ、そんな甘ったれことは許されるのかということもある
それは贅沢なことだと言われる、ただでは例えば自分が経験した流れ作業のようなことを機械かロボットのような仕事が嫌になるのは人間として普通である
他にも自分に適合しない仕事につくこは苦痛でしかなくなる
すると鬱とかになり精神でも病むのである、逆に奇妙だがニートでも家に引きこもるたごけではなく自分のように旅ばかりしてそこに生きがいを見出す人もいたとなる
例外的でもそうなのである、どうしても流れ作業などしたくないとなりそうなったともなるからである、ただそれがいいとはならなかった
何か必ず社会から離脱しても変な方向に行くから危険でもあった
ニートは特別優れた人ではないから小人閑居して不善を成すと必ずなるからである
それが自分自身も経験しているからである、何かおかしな方向に行ってしまう危険があるからである

●文明の病弊としてのカルト、ファシズムも精神障害となる

ただ正直現代文明は病んでいる、だから病的な現象が社会全体でも起きやすいのである
それを証明したのがナチスであった、そのことはいろいろと考察されている
今ならカルト教団である、人間がアトム化してつながりがなく共同体の絆もなく一体感を得るためにそういうものが生まれた、それも集団的狂気の状態なのである
つまり文明の病的なものとした現象なのである、そこにもともとあった宗教など全くないからである、集団的狂気でありそういう中でした人間の一体化がもなくなったのである
だからニーチェも言った、個人も狂っているが集団も狂っているとただ個人の狂気は確かに問題でも集団が狂うとナチスのようになり何百万人が死ぬとなるから恐怖なのである
今でも創価とかカルト教団がそういうものだから怖い、社会を席巻してしまい巻き込まれて集団狂気になる、ファシズムになるからである
ただ集団の狂気は放置される、個人の狂気は病人とされるが集団になれば正常となりかえって批判する者は巨大集団で攻めてくるのである

いづれにしろ現代文明社会とは狂気になりやすい、ファシブムになりやすい体質をもっている、ニートも問題だか正常だとしてそうした人達を排斥することは危険なのかもしれない、もちろんお前たち怠け者ののために働くのは嫌だ、お前らは働け、社畜となっても働けというのもわかる、なぜなら社会で働くことが厳しいから苦しいからそうなる
なぜニートとか何もしないでのうのうとしているのかと反発するのわかる
だからニートを強制的に働かせろというのもわかる、日本が貧困化しているから余計にそうなる、ただこれも個々人の事情がありその対処方法はむずかしいなとる
ただ言えることはニートとか親が死んだら地獄になる
もう食べることもできなくなる、親が財産でも残さない限りそうなる
つまりその時カルマが容赦なく過酷に現れるのである、それが自分自身だった、もう死ぬ思いで親を介護したからである、ただ経済的には困っていないから救われたとはなる

いづれにしろ精神知的障害者でもそうだがそういう人達が増えてくるのが現代文明となるただもともと精神知的障害者はいた、でも現代では複雑になり社会に適合できない人が増えたことは確かである、そして親に頼り住む場所もあり食べることができるからそうなったともなる、まず昔だったらそんなことできなかったからである
だからこれは時代が作りだした現象だとなる、50年前頃にアウトサイダーという本が話題になったがそれは天才的な人のことでありニートとは別物である
でも何かしら似ているのである、天才と狂気は紙一重というけどそうである
天才と超人にもなりまた狂人にもなってしまうからである、ただその差は大きいから比較することはできない、ニートとは普通の当たり前の人であり何か劣っている人がなっているからである,アウトサイダーとなるとかえって並外れて天才であり現代文明に社会に適合できな人だったからである、その例としてニーチェとか上野霄里氏がいたとなるのである

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2022年11月27日

発達障害の謎―計算できない、漢字が文章が読めない (抽象化が理解できないー人間を数字化抽象化する危険)


発達障害の謎―計算できない、漢字が文章が読めない

(抽象化が理解できないー人間を数字化抽象化する危険)

その人は精神障害とは違うようだ、知的障害であり何らかで文章が理解できない、また漢字が書けない、計算ができないとなった
でも不思議なのはしゃべることはできるのである
それは普通にしゃべることができる、だから会話ができる、またスマホもできるしラインで会話している、その時漢字を読めない書けないのに変換して理解している
その人は聾の人としゃべれない人とラインで会話している
これもどうなっているのか理解しにくい
漢字が書けない、読めない、計算ができない、数字がわからなくなるのは認知症でもそうなる、これはどういうことなのか?

おそらくこれは抽象的思考ができなくなっている、数字でも漢字でも抽象的思考ができないとわからない、漢字でも太陽を日とするのは抽象的思考である、でも漢字は実物と似せたものにしているから何か実物を連想することがある、でもやはり抽象思考になる
でも英語とかなるとsunなのだから完全に音だけであり抽象になる
だから音だけから実物をイメージするのはかなり高度にもなる、でもしゃべることはどの言葉でもみんなできている、でも英語でも英語を読んだりできない人が英語をしゃべる人でもいる、そういう人がまだ多く日本人はみんな新聞を読めるから優秀だとしている

ともかくなぜその人が漢字が読めないとか書けないとか数字がわからず計算できないとなったのか?
それは先天的なものでそうなったのか、それとも適切な教育をされないのでそうなったのか、というのはその人は父親にしょっちゅう殴られていたというからである
頭をけられたということも言っていたからである
こうして適切な教育を子供の時されないので理解できなくなったのか?
その辺がわからないのだが発達障害というのは意外と多くあるかもしれない
そもそも学校で何か理解できない人は相当数いる
それはこのように抽象的思考ができないためではないか?

そのことで自分自身が発達障害者だったことに気づいた、どうしても小学生のただ算数のように計算することはできた、だからソロバンができた、でもこれは知能とは関係していなかった、一切考える必要がないものであり頭を使わない、人間の脳を計算機にするものでありこれでは数字の意味とか何も考えないからわからないのである
私は文章は理解していた、でも理系的なものが理解できない、だから文系と理系とは何なのかとなる
でも漢字も抽象化したものであり数字も抽象化したものである
数字でも実際は数字ではなく具体的な物から理解する、一個のリンゴがあり一個のみかんがあるめれを一個とするとき二つをたすと二個になる、でも実質はリンゴとみかんは違ったものでありでも一個として一として認識する、抽象化するとそうなる
だから数字化することはそれですでに物が持っている様々な属性を省くことになる
リンゴがもっている味とか大きさとか色とかを省きただ一個として認識するのである
それは人間でも同じである、人間の属性は万物の霊長というように不可解なほどいろいろな要素で構成されているのである、でもただ一個として数字として認識するとその属性は奪われる、顔も体格も恰好も見ないで全部ただ一個としか見ないとなる

抽象化から何が起きたのか?

このように人間を数としてみるとき現代文明だと数だけでしか人間社会を見ない、民主主義が投票数で決まるというときでもそうである、そこには人間の様々な属性がはぶかれてただ一人一票でありそれしか見ない、若い人でも老人でも男でも女でも一票なのである
すでにこうして数しか見ないというときそれがナチスとかの全体主義になり人間を物のように数字として処理してガス室に送ったのではないか?
そこで役所の事務員は人間をただ数字として番号のようにしか見なかったからそうなったのかとなる、そこに全然罪悪感も感じなかったのである
でも人間を殺すことは怖いことである、一対一で果し合いして相手を殺すことは殺す方でもその殺される人を見たらやはり何か感じる、相手は物ではないからである
心苦しくなり罪の意識を感じるとなる、でもこさゃも数が多い戦いだと感じにくくなる
集団戦であり一人一人を見れないからである

ともかく現代の科目で人気なのは統計とかになるのは常に人間を数で見ているからである政治でも経済でも数で見ている、だからGDPとか国民総生産額とかが指標になる
すると数学がができない人は現代文明には適合できないともなる
だから文系はいらない理系だけで大学はいいとなるのもわかる
現実文系は大学で遊んでいるだけだとなるし本を読めばわかることだからである
でも理系でも何か物を相手にしていると相手が人間ではないから機械ばかり扱っている人は頭が冷たくなると理系の大学の教授が言っている
もし生きた人間とか動物でも相手にしていると情が通うから違ったものになる
現代とは情が喪失した時代だともなる
コンピュターとかAIがどれだけ発達しても人間のように情をもたけることはできない
機械が人を愛することなどありえないのである

だから宗教とはそもそも情を基本として愛とか慈悲を説いたのである
それは母親の母性愛がありその母性愛は動物でもある、だから情として愛は動物にもある程度通じるのである、でも知的なものはそうではない、全然愛がない人でも知的に優れた人はいるのである、その人はまたサイコパスとかフランケンシュタインのようにもなる
人間は今や情より知的な面からしか見ないともなっている
それでけ知的な社会になっているのである
そして人間は数字化されるというとき抽象化されて生身の血も涙もでる人間として生き物として認識できなくなる、だからこそ現代文明は原爆のように大量虐殺でもできる
そういうことは昔の戦争だったらしにくい、生身の人間が殺すことを目の当たりにするとなかなかできないことがある、でも現代の戦争は一人一人の生身の人間など見ていない
だから数のように見ているから大量虐殺でも機械でもできるのである
そこに現代文明の恐ろしさがありここに恐怖すべきなのだがそんなことしていない
宗教とはもともと愛とか慈悲を説いたのだから知的なものとも違っていた
そういうことは難しい数学とか科学の理論とは違っていたからである

だから人間とは何かというとき漢字が読めない書けない数字がわからない、計算できなくても認知症なっても愛はわかるのである、だからこの人は冷たいとかわかるのである
家族でもわかる、親だったら余計にそうである、それで愛情をもって接しないと親でも子供を恨んで死んでゆくから後味悪いものとなる
宗教などでも理論からしたらいくらでもむずかしいものとなる、特に仏教はそうである
でもキリストの教えはそれはほとんど学問がなくても理解できるものである
数の計算でもできない人ですら理解できる、中学生レベルでも理解できる
何もむずかいしいことは言っていないのである

神を知るということは聖書があってもそういうものを読まなくてもまた教会で牧師に教えられなくても聖霊が下れば一発で理解できる
これは別に頭がいい優秀な人しか理解できないものではない、普通の学問でもない人でも理解できるのである、でもかえって頭のいい人でも学問があってももし愛がないならその人は理解できないとなる、「心が清いものは神を見るだろう」それはむずかい理論でも何でもないのである、だから宗教だとその関係の本を千冊でも万冊でも読んでもわからないのである
むしろ苦しむ経験とか何か大きな経験をすると理解する、第一どうしても悲しむ者は幸いであるということは理解できない、そもそも人間は苦しみ悲しんで人間となるからであるむしろ涙を流す時何か尊いものを感じる、カルタシスとなる、涙には何か浄化するものがある、人間は泣く時もしかしたら最も人間的になっているのかもしれない

何かこの世で泣くようなことがあるときあなたは何が大切なのか知るともなる
私は悲しんだことがない苦しんだこともない、そういう人がいたらその人もしかしたら獣のような人かもしれない、なぜなら情がないとういことである
でも現代社会は確かに情が希薄化した時代である、知的なものが肥大化して情が失われた時代なのである、そこから起きて来る問題が山ほどあるとなる
いくら文明が機械化して豊かになっても情が失われるときそこは地獄にもなる
現実に孤独死が増えたりしているのはそうである、誰も知らずに見捨てられて死んでいるそういう社会が果たしていい社会なのかとなるからである

ともかく精神障害者知的障害者が人間ではないのか?

認知症の人は人間でなくなったのかと考える時、やはり愛とか情的なものはわかっているすると愛は通じる、情的なものは通じるから人間として分かり合えるともなる
ただ正直現代社会は知優先であり課題に知の教育しかなくなったのである
学校でもただ知の競争なのである、そこで愛とか情など関係なのである
知を競わせるだけである、そして知に劣れば脱落者になるのである
だから頭がいい人ほど頭が冷たくなっているともなる、非情ともなりフランケンシュタインのような科学者となり怪物となるともなる
それが現実に起きたのがナチスの大量虐殺でありカルト教団の狂気的ファシズム団体なのである、そこで数しか見ていない、一人など個人は相手にしないからである
そこから人間は非情となり危険なものとなり人間を人間とも見れない、数字であり物のようにしか見ない社会となっていることの怖さなのである
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2022年12月18日

発達障害者の謎ー読み書きソロバンができない (でも他は普通に話せるしわかっている―学習障害者ともなる)


発達障害者の謎ー読み書きソロバンができない

(でも他は普通に話せるしわかっている―学習障害者ともなる)

●読み書きソロバンができない発達障害

その人は明らかに発達障害者だとわかった、その原因が何かあって父親から殴られたりしてそうなったと本人は言っている
適切な指導がなくてそうなった、確かなことは読み書きソロバンができないことである
漢字が読めない、書けない、文章が読めない、あと計算ができない、だから金の管理ができないから役所の人に管理してもらっているのである
このことで気づいたのが認知症と似ていると思った
認知症になると漢字が書けない、読めない、計算ができなくなるからである
それで銀行から金を下ろすことができなくなる、これせ驚きだった
でもその発達障害者は銀行から金を下ろすことわかっているのである
まずしゃべることは普通にできる、結構むずかしいことでもしゃべるしわかっているとなる、これも不思議なのである

ここでわかることは漢字とか数字とかは抽象的なものであり抽象的思考ができないということである、その原因がどこにあるのか?それは認知症でも起きてくるからである
人間の特徴は漢字でも文字でも数字でも抽象化する能力がある、それが動物とかとの大きな相違なのである、まず単純なことでも数を数えること自体相当な高度な知的な作用なのである、動物はそれができないからである
また漢字でも文字でも抽象化したものでありこれも相当に高度なものである
だから文明というとき文字があるかないかで見分ける、エジプト文明でも神聖文字がありあとは最古のオリエント地域の文明でも楔型文字があり文字があったことである
ただマヤ文明とかには文字のようなものがあったにしろ数を現していたにしろそれがなかったみたいだ
でもその文明も高度なものでもあったのだ

人間の能力というとき江戸時代までは基本的には読み書きソロバンができれば良かったのである、それができれば別に社会で生活できた、だから戦後に生まれた自分は親からソロバンを習いと言われ習った、その時ソロバンが得意で自慢していた
でもそれは何の役にたたなかったのである、でも明らか地に読み書きソロバンができないことはもう社会でまともに生活できない、障害者として生きるほかなくなる
江戸時代までは寺子屋で読み書きソソロバンを習えば良かったのである
でも現代ではそれだけでは役にたたない、高度な知的社会になったからである
それでも基本的に読み書きソロバンができれば一応社会で生活はできるのである

●話すことでぱ言語能力は普通であるが漢字が読めない書けない

ではその発達障害者の人が能力がないかとなるとそうでもない、しゃべることでは普通なのである、高度なことも理解している話すことができるし通じるのである
だから言語能力とは話すことが基本にある、文字がなくても漢字がなくても縄文時代でも人は話ししていたのである、文字の前に話すことがあり人は話すことで伝達していた
漢字とか文字の前に音で理解していたのである、だから地名は古い原住民の言葉の音が基となっている、ヨ−ロッパではケルト民族が原住民でありその発音した音が地名ともなっている、アメリカの地名もインディアンが発音していた音が基になっている
インディアンでも文字がなかったが話ししていたのである
また日本だったらアイヌがいて文字がなかった、でも北海道はアイヌの人が発音していた言葉が基となりそこに漢字をあてたのである、だから何かわかりにくいものとなっているつまり人間でも音を通して会話していたのである、動物でもそうなのである
鳥でも動物でもなんらか音を発して鳥なら鳴くことによって仲間に伝えるものがある
でも文字はないから文字こそが人間が高度な知的文明を作ったものだとなる
文明とは文で明らかにするということでもあるからだ

youtubeで発達障害者が自分のことを語っているのも不思議である、もう普通の人と変わりないのである、どこが障害なのかもわからないのである
話すことだってスムーズに話してうまいからである、一体どこに障害があるとなるのかわからない、ただ直接接してわかったのは読み書きソロバンができないことである
でも他に発達障害がありみんなそうではないだろう
発達障害とは学習障害なのかもしれない、学習障害というときそれは普通の人でも相当数いる、学校で学習できない、理解できないのである
それは自分自身にもあった、私が学習障害になったのは数字が苦手なのである
理系的なものが苦手なのである、でもソロバンができたのはただ暗記することであり
それは数字が何か理解しているわけではなかった
数字とは意外と抽象的なものであり数字を知ることは人間が文明化したことなのである

数字は漢字とか文字より抽象化する能力である、例えばイチニイサンと数えることは高度なことである、なぜなら動物にはできないからである
第一イチとは何なのか、1個と数えることは何なのか意外と理解できないものである
それで1+1=2とはならない、1個にして円いとか四角と長いとか短いとか赤いと黒いとか重いとかいろいろな属性がある、石でもなんでもそうである
ではなぜそれを1個と数えることができるのか?その属性が違ったものを1個と数えるのかまたプラスして2となるのかとなると明確にできないのである

●学習とは抽象化能力である

onethink111.jpg


1とは何なのか?これも実際はわからないのである

○を1とするでも□でも1でありそれをたすと2になるのか?
奇妙なのは○と四角を合体すれば図のようになり一つになる、1になる
短いのと長いものでもTでありたすと2になる
でもそれが正しいかそれですべて計れるのかとなると計れないのである
だから1個2個と数えること自体が何なのか明確ではない
でも数字化するということはこのように世界を抽象化したものである
だから世界が数であるという学者もいたとなる
こうして何でも考えるということが興味を持つことになる
それを自分自身がしたこともないのである、数とはただ暗記することとして覚えたからである、結局そこで自分自身が数学に関して発達障害者になっていた
ほとんど数というものでも何か理解できなかったのである
だから1とはなになのかoneとは何なのか本当のところを理解していないのである
つまり算数でも数学でも暗記ではなく思考の訓練するものとして教えられれば興味をもったとなる、自分の場合はそれを知るのが遅かったとなる、なぜならあとは死ぬだけだとなったからである

私は数字というときソロバンができたとしてもただ暗記していて数字というのはどういうものか考えたこともないのである、だから何らかで数字がかかわる数学とかに学習障害になったのだと見る、理系的なものが理解できないのである、それが暗記脳になって考えるということをしなかったからである
数学が嫌いというときただ暗記脳ではできない、数字とは何かをまず基本としてしらなければできない、でも読み書きソロバンの時代は暗記脳で良かったしそれで社会生活するには十分だったのである
でも現代はもうそんなレベルではとても上のレベルには行けないしロボットとして働かされるようになる
ただ自分の場合は文章能力はあった、国語力があった、理解していた
ただ数字に関して数学に関しては学習障害者になっていたのである
その他理系的な理解に欠けていたのである、でも数学は思考の訓練として学んでいれば興味をもったともなる
ただ試験のために暗記ばかりしていると興味がなくなる、勉強ふる気もなくなる
何か学校では一様にしか教えないし考えることがさせない、一律でありその人なりペースも無視される、だから学校ではもともとそれなりに能力があっても発達させられない
発達障害になっているのが多いようにみえる
人間の能力開発がうまくなされていないのである

●陰の性格と同じように発達障害者は社会にとけこめない

そして発達障害者とは陰の性格の人が多いのかもしれない、陰の性格の人のことを書いてきた、集団にとけこみにくい、社交的になれないとかいろいろある
それは発達障害者と似ているのである、何かはきはきしない、うじうじしている、シャイであるとかになり好かれないのである
そういう人は内面的なものの追求には向いているのである、芸術家になるのには向いている、また研究者とかも向いている、でも集団で組織的に何かをすることに向いていないのである、人とうまくコミニュケーションもとれないのである
ただ発達障害者は何か一つのことをつづけられないから会社をやめるとかなる
忍耐力をもってつづけられないとしている、でも私の場合は忍耐力があり陰の性格の人は忍耐力がある、目立たないにしろ石のように忍耐力がある
だから物事を持続的に追求してゆく、ただそのために時間がかかるスローにしか理解しえないことがある、でも時間をかけてじっくり探求するからそのうちそれが開花してくる
それで70過ぎてもやって自分なりのものが開花してきたともなる
正直遅すぎたとはなる、なぜなら早い時期かからそうて理解力があれば違ったものになったと思うからである、そこで時間が浪費されたのである

人間とは生まれつきもあるが学習するのが動物との大きな相違である、動物は本能的に生まれた時から備わったものがありそれで生きることができる
トロピズムがある、渡り鳥がどうして方向を知るのか本能的なものでわかる
何か学習するということはあまりないのである、人間は学習しないかぎり身につかないのである、でも学習でも必ず学習障害となる人が多いのである
それは考えるということがないし学校では暗記脳だけになってしまうからである
江戸時代辺りならそれで良かったが高度な文明社会になるともうそんなもので成立たなくなったのである

いづれにしろ現代は発達障害とか学習障害とか精神疾患とかそういうものになりやすいのである、何か一つの具体的なもので村とかで理解するものがない、一挙にグロ−バル化して世界を理解しろとなるとできない、そして世界が無数のパーツとなりどういうふうにつながっているのかもわからない、そのためにアトム化した社会でナチスが生まれたと分析する人もいる、それは今ならカルト教団である、あういう場所は全く思考脳がない人が集まる、体育系が集まる、うじうじ考えているな、すぐ行動に移せとかなる
それはカルト教団で同類なのである、統一教会でもそうだったし創価とか幸福の科学でもオウムでもそうだった、そんなところで考えることは禁止すらされている
同一行動をとることしかない、だから一番上の教祖が殺せとかなれば本当にナチスのように見境いなく大量殺戮になったのである、それは社会主義でも全体主義だから同じだったのである、個々に考えることは禁止される、それは同一行動をとるためにそうなる
つまり教祖がいたとしてもそのロボットとして動くなのである
オウムでは本当にコンピュターに体でもつながれてロボット人間にされていたのである
これが現代文明の怖さである、そうなりやすい社会なのである
江戸時代辺りだったらあんなことになりえないからである

発達障害学習障害とかはうつ病とから現代的社会から起きたのかもしれない、そうなりやすい社会からかもしれない、余りにも過剰な知識を学ばねばならないというときパニックになる人もいる、私は文系だから理系的なものでは学習障害となり発達障害となっていたからである、うつ病もそうだけど社会に適合できないという人は増えるのは当然だと思う引きこもりニートが増えたのもそうである、社会に適合できない、それが極端化するとニーチェのようになるしアウトサイダーになる、その人達は天才でもあり今のパーツ化した部品化した数字化した社会に耐えられないからそうなったのである
人間は数ではないとなるのも当然だとなる
文明の病理的現象としてナチスがあり現代ではカルト宗教団体がある
それは個々人の問題ではなく社会全体が必然的に生みだしたものでありだからこそ扱いにくいのである、文明そのものにあるとしてたら文明を否定する他正常化しないともなるからである、そこに病根の深さがある、批判しても簡単に変えられないものがある
とういうのはやはり文明という母胎からそういう病理的疾患が別なものとして社会に現れる、そしてナチスのように悪夢が再現される恐怖なのである

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2023年08月06日

文系大学はいらない、理系と文系とは何なのか (原発事故ではあらゆる学問が必要になった)


文系大学はいらない、理系と文系とは何なのか


(原発事故ではあらゆる学問が必要になった)


●中世の大学は神学部、法学部、医学部だった


米国において官職・公職に就く方法が次の2つだからです。ひとつは富を持っていること、もうひとつは適切な信用保証を持つことです。最も優れた信用保証が法学の学位なのですね。それゆえ、政治家になりたい人たちはロースクールに行くわけです。

予言者と呼ばれた進化人類学者が予測「米国には“終焉の時代”が訪れ、共和制は衰退する」(クーリエ・ジャポン) - Yahoo!ニュース


文系大学がいらないと言う時それは社会に出てほとんど役に立たないからである。モンゴルが侵略して殺されなかったのが職人だった。職人はやはり役に立つから殺さなかったのである。また日本の戦争でも太平洋戦争でも学徒出陣があり理系の学生は強制されなかったのである。職人も理系でありそれは社会に役立つものであり認められたものである。

文系理系と簡単に言うけどそれは命にもかかわるものだったのである

そもそも歴史的にも物つくりは理系だからである。石器を作るにしてもその石を見分けねばならない、石器でも黒曜石が貴重だった。


ただヨーロッパの大学で中世からあったのは神学部であり法学部であり医学部であった。この三つから大学が始まっている。文系の場合は神学部と法学部なのである。ただ現代になると神学部は宗教となるがそれはなくなった。でも不思議なのは大学でも宗教系の大学は多いのである。ヨーロッパから文明が入ってきた時キリスト教系の大学は増えて作られた。また今でも仏教系の大学が多い。文系がいらないというときなぜこんなに宗教系の大学が多いのかとる。


そもそも文系がいらないというとき宗教などは無駄だからいらないとなる。医学部などは今でもそうだけ医者は特別尊敬されている。病気の問題が人間にとって一番深刻だからそうなっている。だから、もともと仏教でも病気を癒すと言うことがあり科学技術が発達しない時神にでも祈る他なかったのである。現実にキリストは奇跡で病気を治したからである。だから人間にとって医学は不可欠のものとなったのである。


それから法律というのも今でもそうだが現実社会で不可欠であり実効性があり弁護士資格を持てばそれは社会で実際に役立つものである。その他の学部は経済学部とかあってもそれは何か役に立つということはない。一種の教養となる。実業とは結びつかないのである。私は経済学部で何もほとんど学んでいない。なんだ何か知らないが。マル系の人がいてマルクス経済学が教えられた。でも実際は何か経済学といっても何を学ぶのかもはっきりしない?ゼミでも1、2回教授が来ただけであり。教授は授業にすらしない教授とは一体何をしているのだろうとなる。文系だと何の研究をしているかもよくわからないのである。結局、ただそこでは遊びの場であり時間潰しの場になっていたのである。


●文系は教養である―独学できる


私の場合は奇妙だけど実際は宗教学部に入ったと同じである。カルト教団に入ったからでそれは全く大学でないか教育するということがないからそうなったのである。そもそも教授でも一回くらいしかあっていないからである。


大学とは自主的に勉強する場合であり。何かを教えるという場でも無いのでだから高校から大学の変化があまりに大きすぎて文系の場合はおかしくなる人がいる。ギャンブルに費やされたとかカルト教団に入って費やされたとか学生運動で暴力となり青春のエネルギーを発散させたとかなる。もともと文系は何を学ぶのかも明確でなくて入ってくるからである。理系の場合は少人数で実験を必ずしなければならない。レポートをさなければならない。そこで遊んでる暇などないのである。それは職人でも同じである。知っている人は大工さんは十代から修行して技を身につけたからである。つまり職人は理系でありそれは実社会で役に立つ金になるからである。


文系というときそれが実社会でどう役に立つか見えないのである。経済学部に入ってマルクス経済学を学んで、何がそれで実社会で役に立つのそれもわからない。むしろ高卒で銀行に勤めた人の方が直に経済というものを学ぶのである。ただ法律は現実の社会で役立つものであり別なのである。文系は法学部を除いて教養なのである。一般常識を身に着けるだけである。それは社会で直接役に立つものではないのである。


建築関係なら経営できるようになれば設計できるようになればやはりそれは実社会で役立つのである。


「art」は英語だけど、さらに語源を遡るとラテン語の「ars」なのね。

この「ars」には、「技術」や「資格」「才能」といった幅広い意味があったの。


このうちの「技術」には、「人の手を施して装飾する」という意味合いも含まれていて、これが現在のアートの直接の由来になっている。


ただ、この時点では「人の手を施すこと全般」が含まれていたので、医術や建築工学、学問までもが含まれていたのよ。



人の手を施して装飾する」というときそれは職人であり意外なのは医者もartととして含まれていた。人の手を使い病人を見て直すからだちなる。

ともかく今のアートは実用的なものとしてあった。今のアートは実用から離れて画家とか音楽とか特殊なものとして見られる。でももともとはアートはあらゆる実用的なもののとしてあった。


何か時代をさかのぼれば遡るほど。一つの言葉で広い分野のものを指している。時代が進めば進むほど専門家して言葉も違って使われるようになったのである。


●宗教は宗はむねなるもので古代からあった


宗教は古代からでも原始時代からでもあった。縄文時代でも宗教はあった。それは祈る姿の土偶が発見されているからである。つまり人間は無力だから神に祈ることになる。病気は深刻であり医療も発達していなければ神に祈る他なかった。だから仏教とか神道でも加持祈祷があり民衆は頼ったのである。


中世の大学は医学部と神学部と法学部だということはそこに大学のオリジンがある。ただいまの大学と違っているのは神学部が重要視されていたことではそれは明らかに文系なのでる。文系不要論を言うとき今では神学部はいらないとなる。僧侶はあれ牧師など何か社会に役に立たないそして今は地位が低い。でもなぜ神学部が重要視されたかというと、やはり人間は生きる根本として宗教は必要であり。神を知るということは一番大事なことだからである。この世の中、神などなくして成立してなぜ神が必要なのかとなるからであるなっている。


実際奇妙だが私は大学に入っても創価などのカルト教団に入ったともなる。

そこもまた宗教とはなんの関係もない場所だった

そこは選挙をのためにすべてあり宗教は御利益のためであり人間がなぜ死ぬのかなど追求する人はいないのである。そこでは政治家になりたい人や現世でとにかく成功する地位を得る金持ちになるそれを異常な熱意で追求している。世俗より世俗的な場である。それは別に宗教を看板にしなければ社会ではそれをとがめたりしないのである。

その人は世俗で成功する、金でも女でも得るためにあからさまなのである。別にそれは世俗では普通のことでありとがめることもないのである。でも宗教を看板にすると矛盾してくるのである。


人間の最大の問題は人間がなぜ死ぬかということである。


ここは科学技術かいくら発達しても解決できない。なぜなら永遠の命を与えるのは神しかできないからである。だからいろいろな知識があっても技術があっても一番優先されるのは当然なのである。ただ宗教はいくら学問してもわからない。何も聖書を読まない人すら聖霊を受ければ一発で分かるのである。だから神学部などは無用だとなってしまう。いくらそこで学問しても神についてはわからないからである。それは文系が要らないと同じである。それ文系の学問はそもそも独学できるものでありだからこそ文系大学だと遊びの場に暇つぶしの場になっていたのである。。


むしろ教会とかに行っても牧師に説教されても理解できない体験からしか理解できないからである。理系の学問となると、それは現実社会と結びついて実効性がある。文系はそもそもそういう風に社会で役に立つものでもない。ただ社会で役に立たないからといってに無駄なのかとなれば、そうでもない。つまり人間が最初に知るべきものなの神がいるかどうかであり神を知ることであるからである。それは科学技術が発達しても同じで最上階に全能の神がいて全ては成り立っているからである。


とにかくドイツだと十才で職人の道を行くか大学に行くかきめられるという。学問に適しているかどうか10才できめられるという、それも早いと思うが社会では効率的になる。なぜなら職人でも技を身に着けるのは10代になりそれも早い時期だないと見に着かないとされるからである。文系の大学はそれで何の役にもたたないとなる。


●原発事故ではあらゆる学問が必要になった


ただこの辺で起きた津波や原発事故は理系が中心であっても文系的なことも必要であった。それは学問の全般的なものに及んでいたのである。そのことを私は追求してきた。でも理系でないから原子力の事、放射線のことなどわからなかった。でもそれ以外でも広範囲にあらゆることが関係していたのである。郷土というの特定の好事家が追求するものと思っていたがそうでもなかった。なぜなら相馬藩内で400年前にやはり慶長時代に慶長津波がありこの辺でも700人溺死したという記録が残っていたからである。それはたった二行だったけどそれがいかに貴重なものだったか津波が来て原発事故になり認識されたのである


そのほかにもこの土地特有の問題があり原発の時不運にも春になると海から東風が吹きそれが風に乗って飯館村とか福島市まで放射性物質が運ばれたのである。それで放射性物質が風に乗って流れるということを知らないので浪江町の町長は一番放射性物質が多く流れた津島に避難したのである。そもそも東電では事故はないと安全神話を作っていたのだから事故が起きたときの備えなど何もしていなかったのである。それで最初に頼ったのはアメリカだったのである。日本の技術者はお手上げとなり、何もできなかったともなる。


でも現実東電に働いてした人は避難するとき海の方は安全だとして山の方に向かったが、引き返して海の方に避難したのである。だから、やはり東電の人は放射線がどういうものか知っていたのであっる。でも地元の町民には知らせなかったのである。秘密のベールに隠されてのである。ただ安全神話を作りそれで安心していたというのも大きな怠慢だったのである。

このように津波原発事故でわかったことは理系文系だけで分けられない総合的なものして郷土でも見る世界でも見ることが強いられたのである。ただ、それを見るとしたら、とても一人の人間では不可能であった。そんな知識を持っている人などいないからである。 それを知りうるのは全能の神しか無いともなる。そこに人間の限界があり。原発は人間が操作するできるものでもなかったのである。


元々宗教とは旨(むね)なるものであり総合的なものとしてあった。現代は無数のもの分化してパーツ化して全体を見ることができなくなったのである。でも一地域であれそこに生態系があり歴史がありそこには地質学も関係してさまざまなことを総合的視点で見る必要があったのである。原発となると、やはり理系が中心にしても文系も関係していたのである。


だから理系と文系を分けて文系がいらないということにはならない。でも現実問題として文系大学などいらないというとき文系は独学できるからである。実験などもしないしただ本を読むということが基本になるからある。それでそれで現実それで大学文系大学は教授が何も教えないという場所だったというのも奇妙なのである。要するに文系大学には教授などいらないのである独学できるからそうなっている。するとただそこが遊びの場となり必要ないとなるのは当然である。ただ体育系とか友達を作るとか何か学問以外での遊びの場でもそれが人生にとって無用の場ともならないのである。でもそんなところに国で金を費やすのは無駄だとの今はなる。そんな余裕がもはや国にはないからである。


●文系大学は国で金をかけるのは無駄ーただ文系的なものは必要


 だからドイツのように十歳で職人になる人と学問を追求する人を分けるということも社会にとっては効率的になる。別に文系なら独学できるからである。それより文系の大学だと何かテーマも持って追求する場であり。そういう。テーマも何も持ってない人は大学に行っても何を学んでいいかも分からなくなる。私はむしろ大学を卒業してから学ぶ事が多かったのである。大学を卒業してから旅に費やされた。それで地名に興味を持ったのである。そんなこと大したことない。実用性がないといえばそれまでである。


 ともかく文系理系というとき医療の分野でも関係している。医者は理系であり薬を飲ませ治療する手術もする。患者を見るときそこには必ず精神的なものは作用する。医者でもただ金を払ってくれる患者として金儲けのさせてくれる人間としてしか今は見て医は算術となっている。だから病院は無機的な空間であるそこに精神的安らぎがないのである。それで家で死にたいというときはなぜそうなるのか?家というのもまた単なる建物ではないのである。建物を建てたのは職人である。でもそこに魂を入れるのは人間だとなる。何か家は物的な建物というだけでないものがある。


ここで人間が暮らした歳月があり家にはただ雨露を凌ぐというだけではないそこには不思議に愛というものは通い合っている。家族が死んだ後も愛が通い合っている。愛は消えないのである。だから家族が死んで13年経っても必ずしもその人の形はなくなっても見えないところで愛が通じあっているという感覚を経験する。それは説明できないものでもある。でも家にこだわるのはそういうことがあるからだと思う。死んだ家族が依然としてその家の中に居るという感じになる。だから建物は物体でありでもそこに通いあうものは愛でありそれでそこに家は単なる物体だけとはならないのである。


だからそこでも理系と文系の問題があるかもしれない。それで物と心は一体であるというのは東洋的思想である。物に憑につくというとき心が憑くということになるからである。それはやはり科学でも説明できない問題なのである。だから理系と文系とかで明確には分けられない。ただ、文系は別に大学に行かなくても教養であり本を読んでいればわかるのである。それで文系がいらないというのはそうして特別に大学という場でなくても学べるからそうなっているのである。 









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2023年08月29日

ヨーロッパにはなぜ天才が多く生まれたのか? (小都市国家が文化を育んだー文明から文化の時代に)


ヨーロッパにはなぜ天才が多く生まれたのか?

(小都市国家が文化を育んだー文明から文化の時代に)


「飯・風呂・寝る」の生活から「人・本・旅」へ


2000時間も労働していたら(200日働くとしたら一日10時間です! )、しかも仕事後、職場で飲みにいくという悪習もあるわけですから、正社員が勉強する時間などありません。「飯・風呂・寝る」を繰り返すだけの生活になります。

ダイバーシティがあり、かつ高学歴な人たちの組み合わせです。学歴の内容もダブルドクターやダブルマスターが多く、しかも数学と音楽や、物理学と歴史学というように、文理の別を超えて好きなことを極めている人が目立ちます。こういう人たちを僕は「変態もしくはオタク」と呼んでいます。


世界で戦う教育法】日本の「学歴」「偏差値」はもはや無価値。我が子をグローバル社会でキャリア形成させるには?
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●日本人は変わり身が早い

人間は価値観が変わると戸惑ってしまう。これは何なのだと理解できないのである。それが明治時代とアメリカとの戦争に負けて焼け野原になった日本で起きている。これまでの価値観が通じない。でも日本人は変わり身が早く適応性に優れているとなりそれが外国人には驚きだったという。
いち早く髷を切ってザンギリ頭にした。こうした変化こそやはりヨーロッパの文明を優れたものとして積極的に庶民ですら取り入れたということである。その取り入れるスピードも早かったのである。それを見ていた外国人が驚くのも当然だとなる。
なぜなら江戸時代に籠で人を運んでいたような人たちが一挙に鉄道で人を運ぶようになったからである。その変化は本当に大きかった。だからなぜそんなに変化できたということが驚きだったのである。何か籠で人を運ぶというのは原始時代のように見えていたからである。もっと工夫すればそんなことをしなくてもいいと見るからである。だから江戸時代というのは技術的にはあまり進歩しなかったようにも見えるのである。

ただ政治的には天皇が復古して天皇中心の国家になった。それはヨーロッパから取り入れた議会制とか民主主義とかとは何か相いれないものだったのであ。そのことがの太平洋戦争へと向かうことになった原因でもあった。日本は神国だということでそれが政教一致となり祭政一致となり300万人も死んだという原因になっていたのかもしれない。ただ戦争についてはいまだにその原因も明確でないし日本人自体があの戦争は何だったのか総括していないのである。

でも原爆が落とされて日本が焼け野原になってアメリカに従属するようになった。その代わり身もまた早かったのである。そこから高度成長時代と向かっていたのである。アメリカ軍は日本支配するにあたって相当な抵抗があるのではないかと思ったが日本人は意外とアメリカに従順に支配されたのである。だから日本人というのは変わり身が早いのである。

でもなぜまた高度成長の後失われた30年があったのかそれが不可解なのである。確かにインターネットというのは製造業と違って日本に適合できないものだったのかもしれない。それにしても変わり身の早い日本人にしてはそうした通信世界でもいち早く適用できることはあり得たのである。

●物つくりからソフトの世界に変わった

なぜなら最初に携帯電話とこ普及したのは日本だったからである。その後の通信がインターネットになったということでそれに適応できなかった。その原因が何だったのか追求してもなかなかわからない。おそらくものづくりとは違った分野でありそれが日本人に適応できなかったのかも知れない。その証拠がいまだに日本ではソフトは世界的に通用するソフトは作れていないのである。そのことでも遅れていたことが日本は世界の通信産業から遅れてしまったことがわかる

そして本当に不思議なのは戦後の高度成長時代が終わり失われた30年があり最近なぜオタクがいいとかみんなアーティストになれとかそんなことを知識人でも大ぴらに言ってることが不思議になる。
なぜなら団塊の世代などはそんな人がいたらそれはアウトサイダーでありそんな人が居てもいないとされていた。つまり社会の外の人でありそんな人は社会に存在すらさせられなかった。ただ変なのは今アウトサイダーなのかニートとか引きこもりとか働かないで家に居る人は百万近くもいるとか信じられない時代になっているので。でもその人たちはやはり社会から糾弾されている。でもそれだけの人間が現実に存在しているということが高度成長時代を経験した私にとってはありえないことなのである。

そしてここでも述べているように何かオタクだとか変わったやつが集めてそこで起業して成功したとかそんなことが今までありえなかったのである。ただ昔から飛び抜けた人がいて天才がいてそういう人が新しいものを作り出していたことは確かである。でもそれは一般的には適応されない。でもなぜ今そういう人が必要だとかそういう人たちを集めて新しいものを作り出すのがいいとか堂々と言っているのは何なのだろうかとなる。
というのはものづくり一辺倒から社会が世界が変化したためだろう。インターネットの世界はものづくりではない。ソフトの世界であり日本人のようにものづくりに精通するということではない。ソフトとは何か人間の頭脳と深く関係しているのである。だから本当に最近出て来ているチャットgptとかイメージクリエイターとかが本当に不思議なのである。

特に私が感心したのはイメージクリエーターである。言葉を入れるだけでそれが絵に転換される。それがどうしてそうなるのか理解できないのである。私は元々絵の才能はゼロであ。それで他人の写真や絵などを加工して抽象画を作っていた。それも不思議なものだった。でも本格的な映像が言葉を入れるだけで作れるということは本当に不思議である。
何かパソコンというのはもともとこうして人間の頭脳と深く関わり創造的な作業もできるものとしてあった。それはやはり人間の技術の進歩がやはり人間の頭脳と深く関係しているとのようになるなるものは必然だったと
そのことが日本人にはよく飲み込めのみこ見ていなかった。そこでものづくりの世界からこうした頭脳的な物としてコンピューターを捉えることができなかった。それで日本の日本は世界から遅れてしまったのである

今世界を導くGFFAなどは今までの車を作るとかテレビを作るとかはいかそうした製造業とは違っているのである。だからこそ日本は大量生産して世界に電気製品などを輸出できた時代とは違っているのである。それは人間の頭脳と深くかかわったソフトの世界だからである。それはまたコンピューターのプログラミングの世界でもある。何か物を作り出しているというのとも違うのでものづくりが得意だった日本が遅れたのはそのためだったともなる。

●ヨーロッパの天才は小都市国家から生まれた

いずれにしろなぜここで人本旅とかに費やせというのも不思議になる。もちろん本を読むということはその人の教養とか創造性を作る基にはなる。旅でもやはり外国に直に行ってる人と行かない人の差は相当に大きい。それより留学する外国で生活する外国で仕事する人と日本を出てでない人はその差が大きいのである。外国を直に知っている人は日本を相対化して見れるからである
ともかくなぜ西洋文明というのはヨーロッパ中心の世界が作り上げられてきたのか。その大きな原因がヨーロッパには本当に天才が多いのである。つまり発明する人発見する人創造する人が多かったということである

そのことはやはりヨーロッパ中心の世界が作られてきた原因だと見る。ただ軍事力で世界を支配したというのでもない。スペインはただインカ帝国であれ略奪国家であり泥棒国家であり何かイギリスとかとは違っていたイギリスは産業革命を起こしたことで鉄道などを作り出したのでありそれが世界に普及したのである。
だから軍事力だけで世界を支配することはできない。ローマ帝国でも建築に優れていて道づくりにも優れていて軍事力だけで支配できたからでわなかった。それはほかの帝国でもインドでも中国でも中東でもそういうことがあった。
ただ軍事力で世界を治めることはできない。アメリカは軍事力は強大だがただそれだけで覇権国ともなれなかった。やはり技術力がありIT先進国になったようにアメリカはヨーロッパの後継者でありやはり天才を生む国であり発明発見創造する国だったからである。

ヨーロッパがあれほどの天才を生んだということはそれはただ偶然とかではない。一人の天才が生まれるにしてもその一人だけでわとても天才にもなれない。天才を産み育てる環境背景がないければ不可能である。それがヨーロッパの貴族社会にあったということである。
またそうした文化を生んだのは大帝国の大都市でもない。中世の5万くらいの小都市であれ小国家なのである。ルネッサンスの中心になったフィレンツェなどは5万くらいの年である。

となるとこの辺で原町とか相馬市の規模でもあったとなそんな小さな年からどうしてあにょうな華麗なルネッサンスが生まれたのか、それはやはりかえって今のような1000万の東京のようなところからは文化は生まれない、ただ経済力だけであり文化は生まれない生まれないのである。
そもそも文化というときは何なのか。それはやはりcultureはcultivateからきているからである。その土地に密着してその土地を耕すことによって生まれたものだからである。もしそうした土地もなければ文化も生まれない。文化というとき建築とか絵画とかいろいろあるな身近なものとしてその食にあるヨーロッパはワインの国でありその元になる葡萄にしても多様なのである。
その葡萄にもその土地の名が付いたものはある。それは日本でも同じである。米でもその土地の名前が記されているしその土地の土地で獲れた独特の味がするもの果物でも野菜でもあるからであるそれがもともと文化なのである。

そういう文化は文明と違って小都市国家から生まれやすいものだった。小都市国家だとそこでアイデンティティ化しやすいのである。だからそもそもシチズンと言う時シティーが元であり市民なのである。パスポートにどこの市民なのかシティズンなのかを書くのはまさに小都市国家から生じたヨーロッパの歴史がそこにあるからである。シティズンシップというときは四面の共同体のことだからである。
でも日本だったらそういう市民などないからその言葉自体が理解できないのである。言葉というのはそれだけ言葉だけでは理解できないものはその背景に土地代わり歴史があるからそうなる。
とても数式のように世界を分析することは不可能なのでそれはおそらく理系でもそういうことがあり意外と英語ができないとグローバル人材にはなれないというのもそうなのかなともうもうなぜならあるか学者は機械マニアが良いのでありそういう人は英語など学ぶ必要がないと言っているからである。

●大都市からは天才は生まれていない

それもそうなのかと思ってたが一方でどうしても理系でも英語に通じていないと共同して研究したり仲間となれないというのもまた一面そうなのかもしれない。それは言葉にはこれまで培ったさまざまの概念とかがありそれがやはり理解できないとグローバルに通じた人材とはなり得ないともなるだから理系は機械間に合ったら機械に通じていればいいと思ったはそうでもないのかとなる
とにかくヨーロッパから天才が多く出たのはやはりその基となったのは小都市であり小国家だったということである。そのくらいの規模だと人間を返って全体的なものとして育むものアイデンティティ化しやすいのである。
だから大都会には天才が出ていないのである。普通なら1000万人もいればその中から天才が出てもいいはずなのであるでも大都会からは天才が出ないのである
ただ理系とかもあるから一概には言えないとしてもやはり天才は大都会からでないとしている。現在はもはや大きな文明国家とか大都市とかそうした物量的にただ巨大だというだけの物には価値がなくなっている。

むしろ小規模でもヨーロッパの中世の小都市の都市国家のようにそこで世界を世界を見て一体化するアイディアしアイデンティティ化してミクロコスモスの中で世界を見て想像する。だからこれからはグローバル化といってもただ大量生産大量消費する時代は終わった。テレビでも冷蔵庫でも洗濯機でも車でも便利な機械は持っている
何か今求めているのはそうした機械ではなくものでもなく各地に独特に育まれた文化が求められている。海外旅行とはそうした文化を求めているからである。

中国人の爆買いがあったけどもそれももうない。でもやはり日本の文化を知りたくて味わいたくてしてくる人はいるわけである。文化は空間軸と時間軸で作られるがやはり相当に奥深いものがあり簡単には理解できないからである。
すると日本通になるとしたら何度でも日本に旅行に来なくてはならなくなる。中国だと近いからそれができるのである。そもそも奈良時代に遣唐使は中国に派遣されたがそれは中国文明を取り入れるということもあった。文化を取り入れるということでもあった。特に漢字を取り入れたことが日本文明を作ったということにもなる。漢詩なども学んだのもそうであるそれは文化を学んだのであり文化の交流がそこにあったということである。

中国にしても唐の帝国は世界帝国になったかそれはただ軍事力だけではない絹織物の生産とか紙の発明とかあった。それがシルクロードを通じて世界に伝播したのである。
でも中国でわ20世紀でもヨーロッパに支配された時まだ太平洋戦争が終わって今度はアメリカに技術を取り入れても発展したわ中国自体が何かを創造発明発見したということはないのである
何か中国由来の独自のものは世界に普及しているか。漢字はやはり中国人最大の発明でありそれが日本人は奈良時代に取り入れたのである。
でも最近中国があれほど発展しても中国自体が生み出したというものは見えないのである。ただヨーロッパやアメリカから生まれたものを作っているだけである。それは日本とも似ていたのである。
ただ日本は最初電気製品なので独自なものを作っていた。でも基本的にはやはり欧米の真似だったのだろう。つまり発明発見想像力それがなければやはりその国は世界を導く者とはならない。人間の数が多いとか国土が広いとかそれだけで覇権国にはなれないのだろう。ロシアとか中国はバカでかい領土があっても農業国だけでは世界を導くということにはなり得ないかった。
アメリカの有利な点はその国土も資源もある大きく豊富でありそれを基として発明発見創造の国であるということがやはり世界を導くものとなったのかもしれない。ただそれも今限界がきていることは確かである。

発明と発明発見創造とかなるとやはり何か社会から逸脱してもオタクのような人でも何か一つのものに異常な関心を持って追求するということも想像発見創造につながる。ありきたりのことをして考えていては何か新しい発見想像はないのだろう。旅というのは私が追求してきたの常に今までにないものと接するからあなたの視点を得られるのである。まず本当は地理を知らなければ世界を知ることはできない。それでやはりバックパッカーとして私は50才で遅かったが世界旅行したことが見聞を広めたのである

ここで人本旅ということを進めているが私の場合本は本も相当読んだ。旅は仕事の様にもなっていた。だからこの二つは自分にとって創造の源はなっている。ただ欠けていたのは人である。私自身は孤立していて知的刺激を受けるような人と直接接している事はないからである。ただ本を通じて通じてとかインターネットわ通じてこうして対話はしている。
でも直接人と接するということは無いからそこが大きく欠けているのである。やはり創造的な人が集まればそこに刺激を受けて新しいものが生まれたということが分かるのである。ただそれは理系のことであり文系となるとその人もあまり関係ないかもしれない文系というのはそもそも独学できるものだからである。

posted by 天華 at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2023年09月08日

利から離れた場が教育には必要 (宗教も学問も学校も利と結びつき堕落した)


利から離れた場が教育には必要

(宗教も学問も学校も利と結びつき堕落した)

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青年の特権

青年は利を語るなかれ
これをやれば儲かる金になる得する
青年は利得を語るなかれ
青年は純粋たるべし
世俗の欲にまみれざるべし
青年は大いなる未来を語るべし
それは成らずとも語るべし
青臭くとも大言壮語でもよし
喧々諤々議論するもよし
とにかく利欲より離れてあるべし
純粋にその理想を語り目指すべし
それは別に成らずともよし
それが青年の特権なり
大げさなことと批判されても良し
確かに現実がすぐに突きつけられる
でも青年は未来を語るべし
なぜなら未来は青年によって作られるから
老人はただ過去を回想するだけになる
青年には大いなる未来がある
未来を創るのは青年であり老人ではない
だから青年の特権は未来を語ることにある
それが大げさでも非現実的でもいい
とにかく青年は未来を語り利得を求めない
ともかく青年は大望を抱くべし
それがならずとも抱くべし
それは青年の特権なり
いずれはその大望も挫折するとしても
青年は大いなる大望を抱き未来を語るべし
利得を離れてただ純粋に大いなる未来を目指すべし
それが青年の特権であり
神は青年に永遠の命の霊を与える
その時青年は神を知り神の子となる
その先の人生も挫けることはない
神は汝を導き天の国に引き上げる
神の懐は深く大きい過ちも赦す
紆余曲折があっても神は汝を神の国に導く
神に敗北はなく勝利のみがある
汝を再び神の天地創造の技を見る
全能の神の技は尽きることはない
その大自然が神殿でありさらに天にに真の神殿がある
そこに聖徒たちが集い天使が神を賛美する
さらに神は驚くべき技を行うだろう
新しい天と地を見る
人はかくて神を讃え神と共にあり永遠の都に住む
朽ちざる都がありその成すことは虚しくはならない
そこに誠の実りがありその実りを刈り取る
そして神にその実りはは奉げられる
神と結ばれて栄があり神を離れて栄はない
永遠に讃えられべきは一なる神なり
その光は闇を払い消えることはない
永遠の光明のなかにあり悪は見ない
神を見たものはその神々しさに倒れる
全知全能の神を畏るべし



●明治から立身出世も学問となった

教育でもなぜ歪められたのか。それはすでに明治時代から始まっていたのである福沢諭吉が学問のすすめを書いたけどもそれは学問でもって立身出世をする。それが学問の目的と化した。
そこからして学問というのが利益と結びつき一体化した。
学問とは立身出世のためであり何か真理とかを追求するとかではない。社会に出て立身出世するための学問である。
つまり学問と勉強とは社会で得する有利な地位に就く。そのための学問であり勉強である。だから慶応大学とかは学閥が強力であり社会を牛耳っている。それは利権団体として強固なのでそれで慶応大学に入ると就職するにも社会に出ても学閥が強力であり得するとなる。
こうしてその出発点からして歪められていたのである。ただ戦前の大学は全く今の大学とは違って本当に選ばれたエリートでありそれでそこに自由があり青春が謳歌できたのである。だから利だけではないデカンショデカンショとか世の中に出ても役に立たない哲学でも追求していたのである。つまり社会の利から離れた場として大学がありそこでエリートとして育てられていたのである

でも戦後は大学はそういうエリートではない。大衆化したとしたものとなっていた。講義をするにしても千人も入る講堂でするとか高校とはあまりにも違っていたので特に文系は暇つぶしの場であり遊びの場になっていたのである。
だからゼミに入っても教授とあったのは一二回しかなかったのである。教授とかでも何か教えないのである。だから大学というのは何だったのかと何かを教えられる場として入ってきたのだが教えることもないしただそこに自由な時間が与えられていただけなのである。
でももともと何かを追求するために大学に入ってはいない。大学に入れば何か得する社会に出ていいポジションを得る地位を得る。ただそういう利得を得るものとして大学にも入り受験戦争もあり本来の学問の目的など関係なくりの教育であり純粋に何か興味を持って追求するということもなかったであろう。
学生運動というのも戦前の特別なエリートは違った大学になった時起きた。大学は大衆化して起きた現象だったのである。つまり戦後はあらゆるものは大衆化してゆく。そこに今までの選ばれたエリートとか特権階級というものはなくなったからである。だから戦前の大学と戦後の大学はまるで変わったものとなったのである。

●戦後の民主主義は利を求めるだけ

そして戦後は民主主義となりその民主主義でもただ権利を主張して利を得ることが目的化したのである。そこに責任は無い。ただ利を追求することでありそのために教育もあり学校もあり大学もあるとなった。
とにかく人間というのは利と結びつくと歪められ金と結びつくと歪められる。でも子供の時は純粋に遊ぶということが仕事にもなる。それは利と結びつかないのである。だから遊ぶということはもともとは神聖なことであり神は遊ばされるとなる。つまり神は利から離れて遊ばせられる聖なる存在なのである。

神社でもそこは賽銭箱があって利を得る場所になった。そもそも宗教はこの世の利から離れる場所としてあった。でもこの世にある限りそれも不可能であり利と結びつきついにはただ御利益を追求するような場となったのである。
カルト宗教団体となるとむしろ信者を集めて組織団体化して利権団体となり政治団体となり権力を得るためのものとなり完全に利益を追求する団体となったのである。カルト宗教団体は共通しているのはその内部でも出世争いがあり権力争いがありしのぎを削っている。そこは世俗的な場よりさらに世俗的な場所になってしまったのである。ただ共通しているのは利求めることなのである。

大衆化した宗教であり大衆化するということは利益を第一にすることである。利益というのは誰でもすぐに理解する。発達障害の人が簡単な計算すらできないのに利に聡いのである。それは日々の生活の中でいかに金が大事なものか身をもって知っているから金のことを第一にして理解しているのである。
つまり面倒な理屈などなくても知らなくてもいい。どんな人で学がなくてもこの利益だけは理解する。得することは何かを理解する。だから今の宗教はすべて御利益宗教なので利益になる得すると吹き込む金になるとそういうことばかり指導しているのである。だからこそあれだけ人数が増えてくるのである。難しい理論は一切必要ない。ただ利を説くだけなのである。

●教育する場の喪失

要するに大衆化した社会ではもう教育する場というのはなくなった確かに学校はある。それも必ず利益と結びつき利益を得るための学問であり勉強なのである。学校では常に試験がある。その点数を上げるための勉強なのだがそれもただ利になるからそうしているのである。それから逃れられないのはその学生が悪いというのではなく第一親がそう強いてるからである。親もまた常に利を求めているから得したいから子供をそうした得する場に楽に稼げる場に地位を得ること望むからである。だからいくら利から離れた教育をしようとしてもできないのである。

ただ教育というときそうした一部のエリートがしているものではなかった。教育というのはそもそも実用的なものであり何か高等な哲学などは普通の人にとって関係ないものだったのである。職人だったらその技を身に付けるものでありそれはあくまでも社会に出て稼げる力をつけるためにそうしていたのである。だから私の父親は明治生まれであり酒屋で丁稚奉公していた。
それで私も家で店を始めたとき絶えず配達とかさせられていたのである。つまり父親は私を丁稚として見ていたのである。そしてそろばんを習っていたのもそのためである。それは丁稚には必ずそろばんが必要だったからである。でもそういう経験をしているから上の学校に上げたら楽だとして上の学校に上げてくれと言って中学のとき死んだのでは。だから教育ということ自体何か利益を得る社会でも有利な立場に立つそういう観点からしか観ていない。親も子供にそうした立場に立つことを望んでいるからである。

結局なぜ人間は教育でもなんでもゆがめられるのか。それは常に利がが優先され本来の目的がそれによってゆがめられるのである。子供の時に純粋に遊ぶという時そこにには関わっていない。でも大人になればそうして純粋に遊ぶということもない。遊ぶこと自体にも利が関わってくる。そこで本来の目的とは違ったものとなり弱められるのである。

カルト教団などは創価でもひたすら御利益であり後は社会的地位を上げることであり得することであり利益を得ることでありただそのために毎日祈っている。ほかの宗教でもやはり利と結びつき本来の宗教性は何もないのである。そこで語られるのはただ得することであり御利益を求めることだけなのである。だからそこで何か利を離れて未来を語ることなど何もないのである。

●子供と青年の特権は利を離れて未来を望むこと

子供の特権は青春の特権は利から離れて遊ぶことにあり青春の特権は利から離れて未来を語ることである。その未来を語るのは青年の特権なのである。もしかしたら荒唐無稽なことでもいいとても実現しない未来でもいいそのことを語ることが青年の特権なのである。
何か青臭くても良いし大言壮語でもいい。とても実現しない未来を語ってもそれが青春の青年の特権だとなる。そういう場があってもいいのだが今は必ず利と結びつきそういう場が失われたのである。なぜ青春は大事な時かというとそこが人生の出発点となり後々まで影響するからである。その出発点が間違うと人生そのものは間違ったものともなり得る。ただ青春の時はさまざまなことが一気におしいよせる。その性の欲望であれなんであれ一番膨れ上がりその欲望に圧倒されて肝心なものも見えなくなる。

でもなぜ若き時神を知れということが大事なのかそれは若い時しか聖霊を受けることはできないからである。なにか老人になれば悟りが得られる。れは確かである。理解できなかったこと何か自ずとと不思議に理解できるようになるのである。
でも青春の時最も血気盛んな時その時神を知らなければもはや神を知ることはできなくなる。神を知るということはやはり青年の時しかできない。だから青春時代に何か放蕩三昧にして節制しないと神を求めないとその後は得られなくなるし真善美の世界も見えなくなるのである。だからやはり人生の出発点が後々まで影響するのである。そしてあっという間に青年時代も過ぎてしまい老人になってしまうのである。

もう35になったら人生はあとは余禄だというのも分かる。40歳で白髪が生えてきたりするからである。それだけ人生は過ぎ去るのが早いのである。そして人生は夢のようになって終わる。「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」人生となってしまう。ただ今人生百年時代だから違っている。それでも人生は短いのである。それで職人であれ普通に働いている庶民であれなんで働いてきたかわからないという人が多いのである。何のために金をためたのかもわからないと言っているのである。別に知識人でなくても普通に現場で働いている人もそうなっているのである。空の空になてしまうのである。だからこそ若き時神を知れいうことが重要な教えとなるのである。出発点を間違うと一生も間違うとなるかっらである。

詭弁学者は自分の知識を営利の目的をもって諸都市を巡回し謝礼を得るためにさまざまな科学や芸術中でも雄弁修辞のの学問を売りさばいていた。彼らの学問の目的は純粋な真理追求ではなく実利を目的としていたそれは宗教にも言える宗教団体の勢力を伸ばそうとして政治的に経済的に実利を目指す芸術の分野でも思想書くというよりは本を書く制作するというよりは絵を描いて実利をものにする方に進む
離脱の思考ー上野霄里

つまり学問でも芸術でも宗教でもすべて利を求めるものとなった。そのことを厳しく批判している。それは批判とより激しい糾弾になっているのは上野氏の特徴である。それは原野に咆哮する野生の動物とも似ている。
とにかく社会は利によって歪められ本来の素心はなくなったのである。素朴なる心を失ってしまったのである。ただどこに行っても複雑に利益がー絡みあって利から離れられないのである。あらゆるものは利益を目的として社会は機能する。それは宗教でも同じである。宗教はすべてご利益宗教になっているのを見ればわかる。だからこそ宗教はカルト宗教になり大衆宗教になり堕落したのである。でも世俗で認めるのは本来の宗教などではないそうして堕落した利権化した利を求める宗教こそ大衆でもわかるからそれは巨大化してナチスのようにもなる。

つまり大衆がそうしたカルト宗教を作り出し利権化してただただ利益を得るためのものとなってしまったのである。だからそこに本来の宗教を目指すものは何もない。ただ利益を得ることであり権力や地位をあくことなく求めているのである。そして政治化した利権団体となれば批判もできなくなるのである。
現代は個人など認めない。それは拒否するべきものでありそもそもこの世に存在させられないのである。この世で大きな声になるのは必ず背後に利権団体があり宗教でも必ず組織団体がありその団体よ社会は認めたとえそうかのように完全な政教一致でも数が多ければ世間はそれに従う。なぜなら選挙はすべて数で決まるからである。そこに法律も何もないのである。そこから全体主義ファシズムとなったのはナチスだったのである。

●老人でも最後は神の国に向かって前進する

いずれにしろ人間の一生は不連続なものではなく連続している。だからすでに老人になったとしても老人の中に青春があり青年がある。それで青春でも老人の中によみがえる。青春の冒険精神お忘れるなという時人間の一生は連続しているからである。
ただどうしても若いときは無謀であり欲望が溢れて何か理解することにかけている。理解する悟るというのは老人になってからで。ただ私の場合は遅すぎたということである。 70以上になってからようやく理解するようになっているからである。すでに天才ならば若い時に芸術でも何でも理解しているからである。

自分の耳に目に芸術的なものまた美術的なものを触れ示いまだ多くの人が思いもかけない未発なもの蓄える力を養うということが大事です
老いゆけよ、我と共に  手島郁朗

そうして日々蓄えたものが老年になって実りとなる。とにかく人生は連続していてその出発点が青年でありだからこそ若き日に神を知れとなることが大事なのである。出発点を間違うと一生間違った方向に行ってしまうからである。
そういう人たちは集団組織の中に取り込まれて自らの個を失い硫一生ただ集団組織のために生きるロボットとなるのである。そして教祖を偶像化して教祖のコピー人間となり終わる。
ただそういう集団組織の中で利を追求するから利益にはなる。

でも最後にわ普通の人でもただがむしゃらに利益のために働き金を残しても何のために残したのかもわからないと言っている。それは別に集団組織のために尽くした人だけではない。それは最初の出発点が間違っていたからそうなったともなる。ただ利益しか求めていない。そして他者より優れているものとして這い上がろうとして必死になる。集団組織の中でも地位を求め激しく争うのそれはオウムでもそうだった。そこには理系の優秀な人たちがいてその人たちに負けたくないとして高卒の人がサリンを撒いたと言っていた。その内部でも熾烈な競争があり地位を得るために争っているのである。

とにかく人生は連続したものであり若き日のことは老人になっても連続している。別なものではないのである。人生はやはり日々生きたものはその人のものとなる。日日蓄えたものはやがて老年になって実りとなる。ただそれは天才の場合は別なので天才は別であり努力しなくても会得するものはあるからである。
私が参考にしたものは内村鑑三でありキリストの幕屋の手島郁郎であり直接学んだ上野 霄里氏となる。ただ上野 霄里氏は信仰者とは違う。天才思想家行動者哲学者でありキリストの信仰者ではないのである。だからそれのその思想を理解できるのはやはり天才だとなる。でも普通の人は天才でないのだから偶像崇拝化する危険がある。
そもそも師というのは問題がある。なぜならどうしても天才だともともと優れているものを持っていて努力しなくても備わっているからである。だからそれを真似ることは出来ないのである。でも普通の人でも神から聖霊を受けてそれによって神を知り神の国に入ることができる。主と共にそのその生は終わらないのである。その生はさらに天の国に向かって神の国に向かって進んでいるのである。だから真の成果は神の国にありこの世では成就しないのである。

離脱の思考 ー原生人間復権のための試論ー (現代神話シリーズ第4輯) 単行本(ソフトカバー) 上野霄里 (著),

老いゆけよ,我と共に: 手島郁郎英詩講話R.ブラウニング「ラビ・ベン・エズラ」に寄せて 文庫 – 手島 郁郎 (著)
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2023年10月31日

学歴コンプレックスの異常さ 【大学を出ない人は大学を異常に誇大化している】


学歴コンプレックスの異常さ

【大学を出ない人は大学を異常に誇大化している】


バブル期に有名国立大学を卒業、一流と呼ばれる企業に就職した「かつては自慢だった息子(56歳)」と暮らす及川清子さん(仮名・84歳)の場合。息子さんが人生につまづいたきっかけは「学歴コンプレックスの上司によるパワハラ」だった。

 「入社当時から目をつけられていたようで、二言目には『●●大卒のくせに』とか『●●大卒だもんな』などと因縁をつけられていたようです

私が死んだら息子はどうなるの…解決しない「8050問題」のあまりに辛いリアル

そもそも大学を出ていない人は大学がどういう場所だか大学は何なのかわからないのである。何か大学というだけで偉いというふうに見ているのかもしれない。そして何度も理系と文系のことをわかりやすく説明しても同じ大学なのかと見ているのかもしれない。つまり大学というところはどういうところなのか理解できないのである。

そして高校出の人はとにかく大学出た人に対してコンプレックスを持っている。大学でもいろいろあるのピンからキリまである。私自身は三流の文系大学を出ていて何の勉強もしていない。だから文系大学のことはある程度理解する。文系にはそれほど差がないようにも見えるのである。ただ私は理系となれば評価している。私自身が化学式とかそういうものが苦手でありそういうことを知り得る人は特別な人がこと見ているからである。

でも文系となると何かそこに大きな差はない。だから文系の一流大学でも優れた人と思えないのである。そして文系は独学できるのである。本を読めばいいのである実験などしなくてもいいからである。私自身こうして色々書いているとしても殆ど独学であり大学を卒業してから興味を持ったものはあり勉強したことを書いているのである。

なぜ学歴コンプレックスが起きてくるのか。それは大学が出てない人が大学のことがわからないからである。文系だとそこが遊びの場だということも理解できない。だからなぜここでその上司が学歴コンプレックスになっていたのかよくわからない。その部下が一流大卒だったから余計にそうなった。でもそういう会社で上司が学歴コンプレックスになっていることが理解できない。
とにかく人間は何かしら劣等感を持っている。その劣等感も大学学歴コンプレックスというとき大学という名前だけなのにその名前に幻惑されてコンプレックスを持っているのである。三流文系大学の場合私など大学で何も学んでいない。むしろ職人として体力であれ植木職人であれその技を身につけた人の方が自分自身でわ優れていると思っているのである。
第一大学は出たからといってその人は何ができるのかもし私は大学の建築学部学部などが出て設計などができれば別である。それで大工さんでも一目置くということがありうる。でもそうでなければ何コンプレックスを持つのか理解できないのである。ただ大学という名前に幻惑されているだけなのである。

とにかく人間は何かしらコンプレックスを持つ。絵が上手い人を見れば羨ましい歌がうまい人がいればそれも羨ましいとなりまた体力でもある人は羨ましいとなる。人間はみんな何か不足しているのである。才能にしても極一部のことであり職人であれその才能もれっきとした才能でありそういうことができることは羨ましいとなるのである。そんなこと比べていたらこの世の中キリがない。

でもこの劣等感の怖さはこの上司が学歴コンプレックスを持っていたように相手を別に学歴が高いからといってイジメていたことなのである。ここに大きな問題がある。例えばヒットラーは画家になりたかった。その才能もあったが実らず政治家になってしまったのである。そして抽象画などは絵ではではないとして禁止したりしたのである。
このように劣等感というのは誰にでもありでもそれが極端になると恐ろしいものとなる。例えば創価の池田大作は大学が出ていないとかコンプレックスを持っていた。なぜならその部下が東大とか出ていた人が結構いたからである。それでコンプレックスを持ったのでそのために世界中の大学に金をばらまいて名誉博士をの称号を手に入れた。それが何十もであり異常な執念をもってそれを手に入れた。一応富士短期大学卒はなっていた。なぜそれほど学歴にこだわったのか?それはおそらく戦前とかなると大学は特別な所であり社会のエリートだったからである。
戦後は大学も大衆化したのである。

そもそもそんな劣等感を持つ必要もなかったのである。それなり文才もあり詩を書いたりまた政治的才能もありだからこそ会長にまでもなったのである。でもなぜか学歴コンプレックスに陥っていた。それはやはり大学というものはどういうところかわからないから過大に評価していたのだと思う。ほかの人でも大学を出ない人は大学はどういうところかわからないからかえって何か幻想を抱いているのだと思う。

確かに東大とか出ていれば劣等感を持つのもあり得る。でもそのほかそんなに劣等感を持って持つって相手ではない。社会に出ればわかるわ多様な才能の人はいくらでもいる。学歴とは所詮学校で学んだこと受験技術に優れたことでいい大学に入ったというだけかもしれない。要領は良いということもことがあるかもしれない。何か私が反省すれば学び方というのは問題だったのである。自分なりに興味を持ち探求する心があればおのずと勉強する受験のために強制されて勉強するのは勉強ではない。だから学問とは学び学ぶまるなのだがとうということがまた重要なのである。この世には様々な疑問がありその謎を解いていくことが学問なのである。だから学問は受験のためなのではないさまざまな自然現象とか社会のことを知るためでありそれは数限りなくどんなところにもある

大学で評価できるのは医者とか理系なら専門職業として就職できる。とても文系はそうゆう明確な知識を大学で身に着けていないのである。だからどうしても文系はたとえ一流でも大して差がないとみるのである。それで文系大学はいらないというのも理解できるのである。文系は独学できるからである。第一大学に行っても授業に出なくてもいいということが不思議だった。大学教授でも授業に出ないのである。休講というのは結構多いのである。大学の先生の仕事は研究であり学生に教えることでわなかったのである。だからゼミの教授と1 2回あったのあとは何も教えられてもいないだから奇妙だけでも私は大学の教授になりたかった。授業もするわけでもないただ自由な時間は与えられている身分なのかと見たからである。

結局人間はどんな人でも劣等感をもたない人はいない、なぜなら何かしら必ず欠けているからである。確かに頭がいいとしても体力がないとかがあり劣等感を持つ、あらゆることに優れた人などいないのである。要するに何か優れているというよりいろいろな色があり色が違うということである。花ならばみんな個性があり色も違っている。でもフラワーアレンジメントするときどんな花も必ず争うことなく調和するのである。人間にはそいうことがないのである。俺はお前より優れているとなり優劣を競っている
それが度を越していて危険なものにもなる。そして遂にヒットラーのように度を越したものになり一番偉いのは俺であれ従いとなる。そういう人が組織団体のトップななり人々を従い奴隷のようにされ崇めさせるようになるから怖いのである。
いずれにしろ人間は調和しない、常に争い競い熾烈な地位争いもあり平和そもそも戦争状態ではなくても人間界にはないのである。そこに絶望がある。この世から人間から劣等感をなくすことができないこと絶望なのである。






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2023年12月03日

自己投資自己開発できなかった今の老人世代【団塊の世代】 【企業戦士として奴隷のように働かされた】


自己投資自己開発できなかった今の老人世代【団塊の世代】

【企業戦士として奴隷のように働かされた】


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高齢者から搾り取れ!姥捨日本!】高齢者(エルダリー)よ団結せよ!
反旗を翻せ!エルダリー革命!俺たちに明日はない!あてにするな!-

●団塊の世代は平気で親とか先生に殴られていた

なぜ加治将一氏に共感するのか、団塊の世代で同世代だからである。何か子供の時の暮らしも貧しく同じだった。教育といってもすし詰め教育でありクラスは50人とか同年代で8クラスとかあった。今は三クラスぐらいしかないので。そうなると教育といっても暗記教育であり詰め込み教育であり先生は日常的に暴君ともなり平気で殴っていたのである。何か廊下に立たせるとか見せしめとしてそうしていたのである。その時同年代の女性は母親になって今でも厳しくしつけたほうがいいとしているのである。その考え方が変わらないのである。でも戦前生まれの人でもそうして生徒でも平気で殴っていったことで近くに居る先生を恨んでいた人がいたのである。

ただそれは先生だけではないそもそもが親が子供を躾けるのに平気で殴ったり子供の言い分などは聞かない強権的な親だったからである。それで地震雷火事親父となって親父というのは怖い存在だったのである。それは明治時代からそうなっていたのである。私の父親は明治生まれだからまた酒屋の丁稚奉公だから私を丁稚にしようとしていたのかもしれない。そこでそろばんを習わせられた。それは結構上達して自慢になった。でもそんなものコンピューターができて何の役にも立たなかった。つまり時代が変わるということはそういうことである。。

家には子供部屋もなく一冊の本も置いてなかった。漫画を読んでいたがその漫画も借りて読んでいたのである。とてもそういう環境から自主的に興味を持って勉強するということはあり得なかったと思う。基本的には読み書きそろばんが出来ればいいというのは教育だったのである。その後団塊の世界の世代などはモーレツ社員とか今日企業戦士なって24時間戦いますかなどのコマーシャルのように懸命に会社の奴隷のようになって働き高度成長時代を気づいたのである。

●団塊の世代は学校を出てモーレツ社員に企業戦士になった

そしてジャパンアズナンバーワンとか言われるようになったのである。その後にバブルになり失われた30年になったのである。そして今高齢者はただ負担となるだけであり社会にとって邪魔だとされるようになったのである。まともに年金もらえず窮窮として生きるのがやっとだという人も多い。。そしてなぜ老人が邪魔だかという時何か生産的なことをしない。また老人は暇で一日パークゴルフなどをしていい身分だともみられている。

モーレツ社員として会社に尽くしてもいったん退職すると地域社会で何か役割もなくただ無用のものとして邪魔者扱いされる。地域社会でも今やそういうものはなく役割もなくただ邪魔者扱いされるだけである。ボランティアなどするとそれも社会では簡単に受け入れることはない。おそらく何か邪魔者として入ってくるということもありうる。だから老人の行き場が無くなっているのである。

そしてただ老人はお荷物であり介護などでも保険で若者は税金を払うから老人はただ負担として見られるのである。また数が多いことでもただ負担が増やすだけだとみられるのである。ではなぜそうなったのかというと老人は70以上とかなると企業戦士とかモーレツ社員とかなりただ会社のために奴隷のように働くかなかった。その結果として自己投資自己開発ができないということがあったかもしれない。なぜなら自分の場合は大学を卒業してから職にも就かないし放浪していたりあとは引きこもりになってしまった。

●私は会社人間にもならずはずれて自己の興味に生きた

でも不思議なのは自分が一番勉強したのは大学を出てからだったのである。なぜ勉強したかというと受験戦争とかの詰め込み教育とか点数を取るための暗記教育ではない。自主的に興味を持って勉強するようになったのである。特に旅行が仕事のようになっていたから地名に興味を持ち地理に興味を持つようになったのである。そこは自分の学問の出発点だったのである。
つまり何か学ぶということは自己自らが興味を持って自己開発して自己研鑽しない限り知識も目につかない。要するに何でも積み重ねによって成果がいつか出てくるのでは。それは天才は別にしても平凡な人でも自己投資自己開発自己研鑽しない限り何か目に付くことはないのである。それは別に知識だけではなく大工の技術とか農業の技術とかでもやはり自己研鑽をしない限り一人前になることはないのである

おそらく今の老人に欠けているのはこれまで自己に投資する開発自己開発するとか自主的に興味を持って学ぶとは学ぶということが足りなかったから老人になって会社を辞めると無用のものとなったのかもしれない。私自身はどこにも就職もしていないで引きこもりになったが旅をするだけであったり地域を回って郷土史に興味を持ったりして自由に生きてきた。それができたのは親に恵まれた結果だったのである。こういう生き方をしたのは団塊の世代などではほとんどない。生活のために企業戦士となり猛烈に働かねばならなかったからである。

だから自分の人生というのはそういう人たちとまるで違ったものとなっていたのである。でも私自身は一人で自己開発をして自主的に興味あることを追求してきたのである。その成果がようやく老人になって現れてきたということである。でも大方は会社人間であれ企業戦士であるからあったから会社を辞めると無用な人間となってしまったと思う。つまり自己投資自己開発がなされなかったことが原因だったのである。だからその人自身の個人としての価値は生み出さなかったのである。それはあくまでも会社としての組織としての価値であり個人としての価値ではないからである。だから退職すると用なきものとなってしまったのである

だから私に対して職人として優秀な人はあなたは遊びをしているだけだ金にもならないと見ている人もいる。でも奇妙なのはその人は暇になって何をしていいかわからなくなっているのである。ということはやはり何かその職業だけに限られていてその人はまた金にならないことはしないのである。そこで思ったことは老人になって必要なのはやはり何か趣味でも必要であり遊ぶということが必要なのである。その遊ぶということは何か女遊びとかただ浪費するだけのものではない

●今老人は暇を持て余しているのはなぜか?

旅することも遊びであるだから別に昔でも遊行聖というのもいたのである。禅宗でも雲水となり旅をして自然と融合する。そしてそのために喜捨をされて旅を続けていたということもある。だから私は禅宗に惹かれるのである。つまり奴隷のように企業戦士として会社のためにだけ働くのでは人生ではない。別な人生もありえたのである。ただそれは特殊でありアウトサイダーともなり一般的には適用されるものではなかったのである。だからこそただ働くことしかない人は会社を退職すると何をしていいかわからなくなるということである。なにか自己に投資して自己開発をしていないからである。

それで奇妙なのは引きこもりという人たちが百万人もいるとかそれは何なのかとなる。なぜなら団塊の世代だったらみんな会社に勤めてモーレツ社員となり企業戦士となっていたからである。でも自分自身の場合はそういう人生とは全く違ったものとして生きたとなる。ただそれは親に恵まれた結果だったのである。普通はそんなこと許されないからである。だから自分は特別親に感謝しているし今でも供養しているのである。

いずれにしろ時代が変わると価値観が変わることである。戦前はみんな国家のために生きていたそして戦争で国家のために死んだのである。それだけ国家の価値が何よりも大きなものだったのである。戦後は敗戦で焼け野原から出発して経済を復活すること豊かになることが目的となったのである。そのときの価値観は経済的に豊かになることでありそれしかなかったのである。
とても人間は経済的にある程度満たさられると何か他のもの求める。それが今ある程度豊かになって価値観が変わってしまったのである。だから本当に変なのは大学の教授がみんなアーティストになれとか言っていることである。そんなこと団塊の世代とか企業戦士とかモーレツ社員の時代に言ったら相当な反発があった。

でも今になると私のように生きた遊びに生きたい人は価値あるものともされている不思議がある。なぜなら老人になってただ暇を持て余している人も多い。その人たちは何の価値も社会に提供しないからである。でもそう趣味に費やした人でも遊んだ人でも旅に費やした人でも今になるとそれが価値あるものまでなってしまったのである。だから価値観が変わるということは時代によって必ずあるということである。そんなバカなということが時代が変わり起きてくるということである。

●思考脳創造脳感性脳遊戯脳の時代に

その一つが子供時代にそろばんを習ってそろばんができたことを自慢していたかそろばんは何の役にも立たなかった。その労力と金も全く無駄になってしまったのである。むしろそろばんなどより算数でもそれを興味あるものと自主的に学んだらその後の学習にも影響した。つまり暗記教育は何の役にも立たないということである。確かに暗記も必要ではある。でも肝心なことは思考脳創造脳感性脳遊戯脳でありそれがいま求められていることが時代が変わったことなのである。
思考脳創造脳感性脳遊戯脳は結びついている。学習でも遊ぶということは思考脳創造脳が必要になる。算数でもソロバンのように暗記ではなく図形でまなぶというとき具体的にボール紙でも切ったり遊びのようにして学ぶということが興味を持つことになる
ただ暗記だけのソロバンのようなことでは算数でもその後数学でも興味をもてなくなるのである。だから思考脳創造脳感性脳遊戯脳を一体化することが大事である。

だから職人が私に対してあなたは遊んでいるだけだという時その人は暇を持て余しているのである。その人は何か人生が遊びだということは全く理解してない。また金を稼げないものは価値無いものとしているのである。そこは職業によりまた時代によって価値観が変わることがでありそれを理解していないということである。
だから必ず時代によって価値観は変わる。戦前は国家一辺倒であり国家の価値が第一であり。戦後は焼け野原となり経済は豊になることは第一の価値であったのである。でも今になると確かに豊かになることは必要である価値がある。それでもやはりそれだけではない別の価値を追求するようになってきたのである。だからみんなアーティストになれというのはそういうことなのである。ただ一面今はまた貧乏な時代になったということでそういうと反発されるようにもなる。それは時代は固定されていない常に変わるからそうなるのである。

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2024年01月08日

人間を決めるものは作るものは何なのか 【環境因子の方が人間を作る影響が大きい】


人間を決めるものは作るものは何なのか

【環境因子の方が人間を作る影響が大きい】

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今日見れば一段と映える赤き花調和し美し心なごみぬ

●人間は環境の影響が大きい

人間を作るものとして

遺伝
生まれた家の職業
家族を中心にした人間関係
生まれた場所
生まれた時代
その人の努力
その人の行為行動

人間はとにかく親の影響が大きいなぜならその才能でも性格でも親から遺伝して受け継ぐからである。では人間が遺伝だけで決まるのかというとそうもうならない。その他のさまざまな因子が人間に影響するのである。その一番影響が大きいのはどういう家族に生まれるかである。
確かに親に親から生まれるのだが家族といっても両親がいて子供がいるとは限らない。シングルマザーとかもいるしまた逆に昔だったら大家族の中で育つということもあるし兄弟でも8人兄弟とかいてその中で育つ人と一人っ子で育つ人は相当に差がある。
また家族でもその家がどういう職業なのかその影響も大きい。農家に生まれた人は自ずとと農業に詳しくなる。それは農業についての知識を勉強しなくても日々の生活で農業ということはどういうものか身に付くからである。それはまさに生まれた時からある生業でありその影響もまた大きいのである。
だから人間というのはすべて生まれつきで決まるわけではない。動物の場合は本能で生きてる生きるのだからすでに遺伝によって決まるということである。人間は確かに遺伝の影響も大きいがさまざまな原因があって影響があって人間が作られる。

●花の多様性と人間の多様性

最近多様性をよく言われるがフラワーアレンジメントをしていると不思議なのは花がみんな調和して咲いている。黄色い花があり白い花があり紫の花があるそこに赤い花が一段とはえつまり多様性がありさまざまな花が必ず今日はして咲いている。多様な色の中でその色をさらに協調されるのではい。
でも人間社会ではそうした多様性が拒否される。変わった人間がいるとそれは排除される。また個性が強い人間がいるとそれも排除される。要するにみんな同じ色であることが人間界では調和することなのである

だから人間社会というのは一つの色に染められる。ナチスであったらまさに一色に染められる。それと同じなのがカルト教団なのである。そこではみんな同じ色でなければ存在し得ないのである。社会というものは多様性を認めない。個性も認めないので逆に一色の色になって多数になる時社会はその人達を認めるのである。認めるというより多数だからそれが権力となりそれそれに従うとなる。
特に民主主義は個性を育てるようで育てない。なぜなら大衆が主役でありむしろ大衆は同じ色として存在しなければ相手を認めない。何か個性ある人は返って規格化されないので排除されるのである。
だから返って貴族社会の方が個性を育てる社会であったというのもこともある。だからこそなぜナチスが生まれたかというとまた共産主義でもそれは一つの色に染めることでありこれはカルト教団でも同じなので多様性を認めないのである。

●生まれた家とか時代で人間は作られる

とにかく江戸時代あたりとかその前でもどんな家に生まれるかがその人の運命を決めてしまう。侍の家に生まれれば侍として育てられるからそれにその侍に会わなくてもなくてもそういう家に育てばおのずと侍になってゆく。それは今でも医者の家に生まれればおのずと医者になるように育てられるし医者というのはどういうものかその家にいて学ぶから何か特別勉強するというのでもなく医者とはどういうものかをおのずと直感的にわかるということである。

また家にしても家にはいろいろあり家には必ずそれが二代三代しか続かないにしろ歴史がありその家の持っているカルマがある。それは良いものと悪いものがある。だから必ず人間はどういう家に生まれるかでその影響が大きく人間がつくられるのである。それは確かに遺伝もあるがそういう環境で育つということがその人間を作ってゆく。人間はそうした環境因子が作用して作られていく。

だからすべて遺伝で決まるわけではない。確かにその骨格は遺伝で決まっていることはある。でも人間を見ればわかるようにいくら才能があって生まれてきてもその才能が開発できずまだ時代が悪くて戦争で早死にしたということもありすべて才能でも生かされないのである。
例えばその人に才能があっても家に一冊の本もないとしたら何か知的な刺激を受けるものがないとしたらどんなに才能がもともとあったとしても才能は開発されない。音楽の才能があってもピアノもないとしたら開発しようがないからである。だから有名な音楽家は家の中にそういうピアノでも親が音楽家だったりして幼少の時期から音楽に触れていてそれで後年その才能は平板となる。だからどういう親から生まれ家の環境がどういうものなのかの影響は相当に大きい。
それでカルト教団の中に生まれた人は家族がそこに全部ハマっているのだからその他は見えなくなってしまうのである。もうそこでは自主的に考えることもできないしただ家族全体ではまりその子供もカルトから抜けられなくなるのである。

●生まれた場所生まれた家の職業生まれた時代の差

教育機関の「成長」には時間がかかる。何世代にもわたる先輩たちの成功や失敗を、後輩たちが引き継ぐことで、ノウハウを蓄積していくからだ。私は、藤島高校、福岡高校、松山東高校など藩校の流れを汲む高校から、ノーベル賞の受賞者がでているのは、このような歴史に負うと考えている。それぞれが独自の価値観を熟成し、その独自性が国際的に通用する人材を育成している。

大学受験の最難関「東大理3」からノーベル賞受賞者が出ない理由

ここになぜ藩校とか出てくるのだろうか?それとノーベル賞はどんな関係があるのだろうかそれもわかりにくい。藩校というのは何かやはり伝統があり受け継がれるものがありそれがノーベル賞にも通じていたのかとなる。でもこれは理系のことであり藩校というときどういう教育をされていたのかそれもよくわからない。
でも人間を形成するものはやはりその土地土地の中で育ちそれが影響したのかとなる。東日本からノーベル賞者が出ないのはやはり西の方がもともと教育的にも優れていたからだとなる。
ただ私は郷土史とかその土地に根付いて詩の創作などしている。理系でもその土地と関係しているのかともなる。だから人間を形成するのは環境の影響が大きいのである。

また生まれた場所の住んでいる場所の影響も大きい。いつも海を見ている人と山に囲まれて住んでいる人の感覚は相当に違ってくる。海でもいろいろあり日本海側り瀬戸内海はりやはり違った感覚になる。そもそも人間はその住んでいる場所によって世界を見るからそのアイデンティティの基礎は住んでいる場所にあることになる。だから住んでいる場所によって世界の見方は違ってくるのである。
それは別にどんな親から生まれる遺伝を受け継ぐというのではなくその住んでいる環境の影響が大きいのである。その場所の違いというときそれを世界に拡大すればどんな国に生まれるかによって人はそれぞれ違った感覚になり世界の見方も違ってくるのである。

また生まれた時代によってもその人の人生は違ったものになる。縄文時代弥生時代などあるがそこで生まれたら例えば海側に生まれた人は一日中貝などを拾いまたしかな狩猟採集で生きていたとなる。だからそういう環境で生きていたら今のような複雑な時代とは違った人生を生きたことになる
だから時代によってその生きる体験は違ったものになる。今の時代なら車を運転しコンピューターを使いスマホを使い絶えず情報を摂取している。
でも江戸時代まではどうして情報を接して取り入れたかというと人に直接会うとか手紙でもそれを比較が運んだのだから時間もかかるしその金を高いものとなり簡単に手紙なども出せないとなる。

また交通など発展していないのだから人と人は離れていれば簡単に出会えない。一期一会というけどもそれはやはり本当に人間が合うというとき簡単に離れていれば遠くになれば会えないからそうなったのである。今ならいつでもどんなに離れていても外国に住んで離れていようと青木になれば会えるのである。だから一期一会というのは今になると何か合わないのである。会う気があればいつでも会えるからである。

つまり例えば旅であったとしても離れてしまえば遠くに離れてしまえば会う事はかなり貴重なことになるから一期一会という言葉が生まれたのである
だから時代によって相当人間は相当に感覚的にも違ったものとなりそれで江戸時代の人が生きていたということがなかなか理解できなくなるのである。歩いて生活していた人とクルマ社会になった人と人の感覚は生活感覚は相当に違っているからである
そして戦争などを経験した人としない人の差も大きいのである。戦争など普通は経験できない。だから戦後生まれの人と戦前生まれの人は相当に違っているのである。もちろん戦国時代もありその時代に生まれた人と江戸時代になり平和に生活下の人の差も大きいわけである。

●才能を開花させるのでも環境の影響が左右する

その人の努力というのも人間を作るということはある。学問でも天才でもない普通の人ならやはり知識の積み重ねであり絶えずそれを探求していればある部門で専門家になれることはある。それはその人の才能というものでもなく何か一つに興味を持ったらその部門の知識を深めていけば広げていけばそれなりの専門家にもなる。
だからいくら天才でも才能があっても何か積み重ねがないと才能でも伸ばせないのであ。それで田舎の方でそんだったのは本は買えないということだったのである。

文系の場合は本を読むことが知識を深め拡大することだからである。その本が買えないとしたらその差は相当に大きい。それで私はわざわざ東京の古本屋に行って全集を買ったりしたのである。暇ならどんな本でもアマゾンでやれ通信でボタン一つ押せば運ばれてくるこの差も大きいものだったのである。
だから今は田舎でも知的方面で遅れるということもなくなった。何か知的作業をするときどうしてもその資料とか本とかが参考になるものが必要になるからである。それが入れないとしたらどうしても才能でも伸ばせないのである

そして人間が意外と見逃しているのはその人の行為行動がその人の生まれつきの性格やいろいろあって変えてしまうということである。動物だったらネズミだったらネズミとしか生きられないしネズミがライオンになるようなことはない。とても人間の場合はその性格がネズミのようなのでも一回でも勇気ある行為とかで変質するのである。聖書の物語でも何か一回の勇気ある行為がありそれに神の力が加わり奇跡も生まれてそのネズミのような人もライオンにもなりる。

そもそも人間は塵に過ぎないともなる。でも神がその塵に霊を注いで人間を使って作ったとなる。人間にはそもそも何か足りないものが多く人間だけでやれることは限られている。でも人間には神の力が働く時その人間が一変するということがある。それが奇跡なのである。だから人間というのはすべて生まれつきで決まるものでもないし必ずしも環境だけで決められるものでもない。一つの行為行動はその人間変えてしまうということがある

人間は確かに遺伝子とかさまざまな要素であらかじめ決められて変えられないということもある。でも人間の特徴は生まれつきでもすべて決まるわけでもなく可変的要素が大きいということである。一つの形に一つの色に決まったものとして人間は生まれていない。人間は様々に変化するのである。なぜなら人間というのは時代によって違った人間になる。

y=(a+b+c+d....)x

つまり結びつくものによって人間は変容する可変的なものなのである。

江戸時代に生まれた人と現代に生まれた人ではまるで違ったものにもなるからである。侍の時代なら剣の修行を必ずしなければならない。その剣でその武道で秀でなければ上に昇ることもできないとなる。まだ村社会でも農民社会になれば力がないと村の一員としても認められないとなる。だから必ず村には比べ石があり石をを持ち上げことができる人が村の中で一人前と認められ村のの一員として認められたとなる。

ともかく人間というのはその特徴はむしろ遺伝子に作用されないさまざまな環境因子によって作られる。なぜ私の母が花にも興味持たなかったのか。それはママ母に育てられ花嫁修業とかもさせられなかった。教育にしても尋常小学校とか最低限の読み書きをする能力しか教えられない。でも生け花などを教えるたという女性もいるが母の場合はただ生糸工場で働くだけだったのである。だから何か花などでも鑑賞する余裕もなくただ働くだけで一生が終わってしまったのである。それは時代の影響もあり環境の影響もあってそうなった遺伝的には文学的な才能があったと思う。その文学的な才能は私が受けついたともなる。

でも母の場合でも恵まれた環境にあればやはり短歌とか作っていたと思う。それができなかったのはただ環境の影響であった。そういう人は相当に多いと思う何か才能があったとしてもそれを伸ばすことができないのである。それは貧困とか時代の影響があり戦争とかもあってそのために才能を伸ばせずに終わった人は相当数多い。むしろ何か才能は伸ばせた開いて花開いたという時それは逆に環境に恵まれた結果だとなるのである。
私の場合はまさに才能もないが自分の好きなことをやって生きてきたからそれなりに花開いたと才能が花開いた伸ばせ才能を伸ばせたとなるのである








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2024年01月20日

集中力がないと勉強も創作もできない 【勉強するには環境が影響する―特に家が大事になる】


集中力がないと勉強も創作もできない

【勉強するには環境が影響する―特に家が大事になる】

●自らの意志で集中しないと何もできない人間

何か勉強でも何かをしでも文章でも書くとき集中力がないとできない。才能も必要なのだがあることについて知識でも集中力がないと活かすことができない。集中力は一つの意志によって作り出す。だからそれは才能の前に自ら意志でもってあることに集中しなければまた鍛錬しなければ何か創作もできないし学者になれば論文でも書けない。それは文系だけでなく理系でも同じである。集中力がないと成果が現れない

集中力は自らの意志によって作り出すのである。勉強するにしても集中力がないと進まない。例えば勉強するにしてもいろいろと気が散る。すると勉強も進まないのである。何か性欲の妄想は出てきたり他でも気が散るということがいろいろある。あることに集中しなければ何か勉強でも進まないしまた何かを創作するにしても進まないできない。ともかく人間というのは怠けやすいのである。だから自らの意志でもって集中しないと常に時間を無駄にすることになる。だから何か一つのことに打ち込むということは大事である。

またそれは特別なことでなくても人間の健康でもやはり自らの意志でもって運動しなければ体も作れない。いくら生まれつき体が丈夫で習慣的に自らの意志で体を鍛え運動しなければやはりもともと丈夫な人でも弱てくるし病気にもなくなるなってくる。だから人間はすべて生まれつきで決まる訳ではないのである。確かに生まれつきが影響することは大きい。でもいくら生まれつきで才能があってもそれを伸ばすためには自らの意志で作り出さなければ活きてこないのである

だから人間というのは何でもただ与えられるものではないし何かを作ることもできない。人間はたとえその人が大した能力がなくても何かを積み重ねて集中していけばその人はやはり何かを作りその人なりのものを生み出すことができる。天才だと努力などいらないとなるがその天才にしても異常な集中力があったりする。だから何かに集中できるということはそれだけその人は創作できるとなる。

●集中を邪魔するものが多い

何かに集中するというとき必ず周りからでも気が散らされるて集中できない。それは問題なのである。だから必要なのは集中する場の確保である。やはり個室を持たないと集中できない。その時家族がいても家族によって気が散らされると集中できなくなるのである。だから知的なこととか創作的なことをするときどうしても集中する場が必要でありそこで鍛錬して作り出す努力をするのである。

集中するにはどうしてもその人の意志が強くないとできない。なぜなら人間は怠けやすいし何か漫然として時間を無駄にしている。でも何かに集中すれば才能はなくても見えてくるものがある。だから集中力というのは何をするにしても大事になる。おそらく勉強ができないという人は集中力がないからだと思う。

その集中力を出すにはやはり何かに興味を持っていないとできない。強制的に集中力を作ることはできない。その人の意志で集中力を作り出さないと強制的ではできない。その強制するにするのも自らの意志でするとき効果がある。その人はその人なりのものを追求するとき集中するからである。

だから集中する場が必要であり色々なもので気が散らされるような場所に入れば集中できない。だから個室が必要でありまた家も大事なのである。住んでいる場所でも大事である。周りの環境が騒々しいとかになるとやはり集中できないからである。ともかく人間は才能の前に何かそうして環境も大事であり自らの意志も必要でありただ漫然としていて何か身につくことはないのである。ただ天才とは別であり普通の人はこうして何か意識的に集中しないと何もそれなりの人にはなれない。

例えばこの世界の美を見るにしてもやはりそこに集中力が必要なのである。さまざまなものはこの世には雑多にありそういうものによって自然の美も見えなくなる。まず大都会では自然の美は見えない。あまりにも雑多なものでごちゃごちゃしてスモッグのようになって美は見えないのである。
だから今白鳥がいるがその白鳥の美を見るにわやはりその白鳥に白鳥にみることに集中しなければならない。花を見るにしてもやはり花を見ることに集中しなければならない。生け花でもその花を目の前で何日か続けてみているとその美が映るようになる。つまり花でも花でもその花を見ることに集中しなければならないのである。

でも周りのものにさまざまな雑音があって気が散るとその美も見えなくなるのであ。まだ人付き合いで人は邪魔なものとなり集中力を削ぐものとなる。やはり何かに集中しないと何kを創り出すことはできない。ただ周りでもそれぞれに集中するものがあれば人がいれば別である。

とにかく人間というのは様々なものに気が散りまた無駄な時間を過ごしている。それは集中できないということがあるからである。テレビでもくだらない番組を見るときそれも何かに価値あるものに集中できないからそうなるのである。そして時間を無駄にしているのである。集中することはあるとき苦行になる。だから座禅とかは何かに集中するためにするのである。集中力をつけるために座禅するのである。
人間は何かに集中する時やはりたいして才能なくても何者かになってゆく。何かを作るにしても必ず意志が必要であり集中力が必要だからである。それは例えば医者でも患者を見るとき患者に集中しなければ見れないからである。

確かなことは人間はあることにことに集中できなければ何者かになることはできない。ただ受験勉強のようなものは強制されてしているからそれが身につかない。自らの意志で自らを強制してやるときは別なのである。何か芸術でも創作するにしてもどうしても集中しないと作品でも作れないからである。だから集中するということは粘りも必要であり忍耐力も必要になる。

●集中する場として家が大事―特に老人は大事

賃貸に住んでいる人のインパクトはそれ以上でした。老化のスピードは持ち家の人に比べ、年間0.045歳早い。つまり、1年に約2.5週間も老化していたのです

賃貸住宅に住むと早死にする」

若いときは家というのはそれほど影響しないかもしれない。だから狭いアパートでも学生時代に住んでいたが別にそれで苦しいということもなかった。若い人は適用力があるから体力もあるしそれで別にアパートのようなところでもいいとなる。
でも老人になると家が大事になる。その周りの環境も大事になる。老人はやはり落ち着いた場所が必要なのである。また家が狭いと何か心にも余裕が生まれない。狭い部屋だと圧迫されるからである。ただ認知症になった場合は狭い部屋でなんでもいつでもどこにあるかをわかっていることがいい。でもそうでなければ部屋は広い方が良いし余裕が持って住めるいいのである。

だから賃貸の狭い部屋に住んでいる人と広い家にゆったりと住んでいる人は寿命まで影響していたのである。それはたしかなことである。老人になるとあまり外にも出ず遠くにも行かず家に居ることが多くなる。だから家でいる時間が多くなるのだからその家が居心地が良くないと影響するのである。だからアパートとかに住んでいる人は寿命が縮まるというのもわかる。それだけ家の影響は日常的に影響するからそうなるので積もり積もって寿命まで短くしていただいたということである。

そして家で読書したり作業したりする時どうしても家というのは生活のベースになりその家が賃貸のアパートだったりすると何か落ち着かないとなるのである。そして知的作業をするにもかなりの本が必要でありその本を保管する場所も必要になってくる。書斎も必要になってくる。だから家というのは大事になってくるのである。何かに集中するにはやはり家が必要でありまた個室が必要なので外からの騒音を入らないようなところで精神を集中する必要があるからである

私の場合は広い家に住んでいる。だから寝室も八畳間がありそこで寝る時いつでも本を読んだり何かメモしたり作詩したりもしている。その部屋が落ち着いて外の騒音も入ってこないので家族もいないから集中できるのである。だから私の場合は知的作業をするのに恵まれた環境を与えられていたのである。つまりそれだけ家の影響が大きいということである。だからアパートのようなところに住んでいればなかなか知的作業もしにくいし寿命まで縮まったということである

ともかく自分の子供時代は高校まででも子供部屋もなく雑居しているような感覚であった。家には一冊の本もなく子供の時は店で毎日配達をさせられて働かされていたのである。読んでいたのは貸本の漫画であった。だから何か自分自身の知的興味で持って勉強したことがないのである。だから確かに才能というのは生まれつきもある。それに加えて環境が相当に影響しているのである。やはり学校だけでは足りないのである。学校は一人一人を観ていないし平均的に見るからその人にあったものが追及できないのである。返って家庭の中で子供向けの本でも揃えてあったり個室があってそこで自分の好きなこと興味あることを追求できる環境は必要なのである。

ただ不思議なのは私は大学出てから自分の興味あることを追求してきたのである。大学というところは実は何かその人が興味を持っていることがないと何も学べない。なぜなら授業に出なくてもいいからである。そこに教授がいたとしても何も教えないのである。だから自主的に勉強しない限り何も身につかないのである。その自主的な勉強の場としてただ時間暇自由な時間が与えられ図書館などがあったりして自主的に勉強そこで勉強自ら勉強しない限り何も身につかない。でもそれがない人は大学に行っても何も身につかないのである。大学は公園だというときもそうである。何か別に教える人がいるという感覚がなかったからである。だから文系の大学はいらないというのもわかるのである。

●寺は社会に適応できない人でも受け入れる場所だった?

だから奇妙なのは引きこもりというのは否定的に見られるがそういう面も大きいそこで社会から離れて隔離したような場所で何か自分の興味あることを追求したり私の場合はそこで自然と一体化するために沈黙の行をしたり詩作をしたりしていたのである。そもそも社会に出れば会社に入っても常に人と対応したりしてそこで人を騙したりするのは普通である。特に今は不景気になって金融関係ではゆうちょですら人をだます金融商品を売ったりしている。銀行でもそうである。そういう場にいればどうしてもそれを否定することはできなくなる。。

でも引きこもりの場合はこれも問題なのだがそうした人を騙すようなことはしなくてもいいのである。そもそもはなぜ寺があったりしたのか寺の役割はなんであったのか宗教とは何であったのか。職業というの業とカルマと見ていた。職業に従事することは何らか悪いことに関わるということにもなっていたのである。だから職に就くことを拒否することにもなったのである。それが寺という場所でありそこで座禅などをしているのはまさにそれが許される場所だったからである。私の場合は引きこもりになってそうした修業をしていたと思う。現在ではそういう場所がないから引きこもりとなりそういう人たちは社会の脱落者として批判されるとなる

要するに社会に適応出来ない人が人を受け入れるのが寺の役割としてあったのかもしれない。でも今になるとそういう場所がないから引きこもりにもの現象が現れたのかもしれない。これを全て肯定はできないにしてもやはり社会に適応出来ない社会を拒否する理由もあったとなる。何か社会ですべてが労働が決して良いものとなっていないからである。結局金になればいいとかしかならない仕事もいくらでもあるでもそこで金を稼げればその人はいうような社会の一員とされているのである。だから仏教では職業は全ていいもの観ていない。心を正常に保つためにわ社会から離れざるを得ない状態だったのである。それは現代社会にもありまた現在特有の事情も出てきてそういう引きこもりが多くなったとも言えるかもしれない。

ただ私の場合は引きこもりでも絶えず旅をしていたから家に引きこもっているというだけではなかった。だからそれももし私の場合でも私に合った職業が与えられればそれに励んでいたかもしれない。でも私はそういう職業が与えられることはなかった。自分に合わない職業はでも働かざるを得ない金を得るために働かざるを得ないという人が多いので。そもそも社会でその人に合った職業など与えられないだろう。その人の天職など与えられないし若いうちは何が自分に合ったものなのかわからないわからないこともある。

ただ私の幸運だったのは家族に恵まれて恵まれて自分の自由な自分で自由に興味あることを追求してきたことなのである。だから私は親には人一倍感謝しているのである。そして最後に2人を介護したことで親も喜んでくれたので自分のはただ尽くされるだけでないということで親も喜んでいたのである。まだこういうのは本当にまれだと思う。特殊な家族環境で私の場合はそうなったのである。



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2024年02月02日

学生運動の時代【失われたエリート教育―大衆化した大学】ー三菱鉱業爆破事件の桐島聡の一生


学生運動の時代【失われたエリート教育―大衆化した大学】ー三菱鉱業爆破事件の桐島聡の一生

●マンモス大学で大衆化して地の塩たるべきエリートは消失した

今回の桐島聡の50年近くも三菱鉱業爆破事件から氏名指名手配されても見つからなかった。大概50年前になると何があったのかも忘れてしまう。ただそれらは左翼の革命運動として一連のものとしてあった。それは学生運動の延長として赤軍派があった赤軍それが悲惨な結果になった。

1968年(昭和43年)頃から東大闘争、全学共闘会議(全共闘)と呼ばれる運動形態が現れた。
1970年3月31日、JA8315号機(愛称「よど号」)は日本航空351便赤軍派を名乗る9人(以下、犯人グループ)によってハイジャックされた。犯人グループは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へ亡命する意思を示し、同国に向かうよう要求した
1972年には連合赤軍による12名のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)が発覚した。こうして学生運動は急速にその支持を失っていった。左翼学生運動同様「民族派」学生運動も次第に衰退していった。

これらは学生運動の延長としてあった。だからこの運動にの主役はもともと学生であった。その学生が連合赤軍とかなりハイジャックして北朝鮮に逃れたり亡命したりした。連合赤軍は仲間割れして仲間を惨殺したり悲惨な結果になった。そもそもなぜこうした学生運動は起きたのかそれは大学が大衆化したことも原因していた。文系の大学とかなるとマンモス大学になり講義を聴くにしても千人くらい詰め込む行動でしていたとかだから大学に入った時高校とはあまりにも違うので戸惑ったのである。そして大学の不思議なのは授業に出なくてもいいのである。大学の教授というのはまたゼミで一回くらいあったがあとは会っていない。

だから大学とは何か教育する場だったのか教える場だったのか文系の場合はわからない。大学というのはそもそも自主的に学ぶことがなければ何も学べないところだったのである。そこはただのキャンパスがあってもそれは公園と同じだったと言う人もいるのも分かる。なぜならそこでそこが教育の場というにも持っていなかったのである。授業には出なくてもいい。教授は講義を休むことがある。そして朝から下宿で麻雀をしていた人も結構多いのである。文系の場合そうして大学とは遊びの場であり勉強する場でもなかったのだ

ただこうしてマンモス大学で学生を集めてその学生も戦前のエリートになるものでもなかった。国立大学の東大とか京大とかトップになればやはりエリートの道をゆくことにはなっていた。でもそのほかは私立の文系とかになると慶應とか早稲田とか別にしても他はそれほどエリートでもない大衆化した大学になっていたのである。
だから大学は何をする場なのかということも分からなくなった人もいると思う。その不満が学生運動の原因にもなっていたことが確かである。そうした大衆化した大学に対して不満がありそれが学生運動にもなったのかと思う。何か社会を変えるということでもなかった。第一学生は社会のことなどわからないその極端な例が中学校で金の卵として集団就職した人たちがかなりの数たからである。

大学に行けた人は地方ではクラスで5、6人であり恵まれた人だったのである。だからその時代に大学に入ったということ自体そういう人たちと比べると相当に恵まれた人たちだったのである。その人たちは学校では遊んでいたともなる。でもその時集団就職した人たちは工場下町の工場で下積みとして働いていたのである。その差も大きいものだった。
そのときまだ高校卒でも少ないものであった。それで警官と衝突してゲバ棒で大学生が戦ったがそのとき警官は高卒でありその大学生に対して不満が大きかった。お前たちは大学生になるくらい恵まれていたとなっていたからである。なぜお前たちは恵まれてるに暴れているのかともなったのである。

要するに学生の不満でありそれは社会全体に影響するものでもなかった。なぜなら社会人と学生は別の別の者であり学生だけが運動したから社会全体を巻き込むものはならなかったこれ。だからマルクス主義という理論だけが先行して現実の社会人の生活は観ていない。だから革命になるということはなかったのである。そのとき創価なども会員を増やしていた。創価というのは問題はあるにしろ現実に生活している社会人でありその社会人に根ざして運動していたから違っていた。学生運動の場合はみんな学生でしかなかったのである。だから理論だけが先行する現実社会を見ない運動になっていたから破綻したのである。

例えばそのあとのオウム真理教でもそれもう理系の学生が中心となっていて現実社会とはかけ離れたところで運動するようになっていた。だからそれは社会的に影響して社会的広がりを持つものとはならなかったのである。何か創価などはみんな社会人でありそうして社会で苦しんでいる人たちを相手にしているから学生運動とは違っていたのである。だから困って苦しんでいる人と庶民を相手にしているから何か泥臭いものとして庶民にじかに接していた。そういう人はなかなか相手にする者もいない。

それは共産党と本当に似ていたのである。最底辺の人はやはり同じように相手にするのは共産党くらいだからである。ただ共産党の違いはそういう最底辺の人たちを相手にするから学生運動とは違っていたのである。確かにマルクス主義を基にしているのだが理論にしていた。でも現実社会では最底辺の人を相手にしているからそういう理論だけでも成り立たないものとなっていたのである。底辺層のいる地域では市営住宅地とかでも創価かか共産党に入る。そして票の取り合いになり争っていたことでもわかる。学生運動とはそうした現実社会とかけ離れて理論だけになりそれで破綻したのである。

明治維新の日本は、日本の未来に危機感をもつすぐれた人物が多く登場した時代といえる。ローマの繁栄がそのすぐれた人物が統治したことから生まれたように、日本がアジアの中で西欧に対して少なくとも独立し、アジアの雄として一矢報いることができたのは、こうした先見の明をもつ人々が、当時次から次へと登場したからである。

西欧においても、すぐれた政治家が排出しているとはいいがたい。むしろエリート層の能力の衰退が顕著である。そうしたエリート層では、未來へのかじ取りができるはずもない。

日本はこのまま「国家の衰退」を黙って待つだけか

●明治時代に依然として侍がいて指導者になっていた

私は、藤島高校、福岡高校、松山東高校など藩校の流れを汲む高校から、ノーベル賞の受賞者がでているのは、このような歴史に負うと考えている。それぞれが独自の価値観を熟成し、その独自性が国際的に通用する人材を育成している。

大学受験の最難関「東大理3」からノーベル賞受賞者が出ない理由

ノーベル賞が藩校と関係しているのか理解できないけど江戸時代に培われた武士の教育が明治維新を成し遂げ指導者を輩出させた。それは幕臣だった武士も活躍したからである。
様々な分野で日本を導く者となったからである。西欧文明の挑戦を受けた日本だったがそれに対応するものが鎖国した日本にはあたとなる。他のアジアでもヨーロッパの植民地化したことでもわかる。それだけ西欧文明に対応できるものがなかったからだとなる。なぜ明治に様々な分野で指導者になる人が綺羅星のごとく輩出したのか?例えば武士道キリスト教を先導した内村鑑三などがそうだった。そのとき幕臣だった人たちが指導者になっていたのである。大学であれあらゆる分野で指導者になっていた。

そうなり得たのはやはり江戸時代に培われたもの。藩校で教えられた人たちが指導者になったことである。その人材は江戸時代に培われたものから生まれていたのである。その伝統の上に西欧文明を根付かせたと取り入れたとなる。
だから藩校のあるところから優秀な人材が生まれたという時もそうであり藩校のあるところは大藩であり福島県だと会津になっていたのである。相馬6万石には藩校はなかった。会津には日進館があったからである。だから明治維新でも会津から政府に雇われて活躍した人がいたということでわある。不思議なのは幕臣である人はその子孫は現代でも薩摩長州よく思ってないのである。

内村鑑三でも絶えず藩閥政治を薩摩長州の政治家を批判していたからである。そういうところにやはり歴史があり歴史が伝えられているということでもある。つまり明治にさまざまな分野で人材が輩出したのは江戸時代の伝統があってそれでそこから培われたものは指導者になったのである。そして文化でも明治時代に一番漢詩が興隆したのである。和魂洋才があった。和魂があって洋才があったのである。
だから明治に漢詩でもってその志を述べる人がいたということである。蝦夷共和国を主張した榎本武揚などがそうである。武士は漢詩を作れる教育がなされていたから漢詩を作れたとなる。今の政治家でそいう言う人いない、短歌すら作る人もいないのである。短歌なら武士のたしなみとしてみんな作っていたからである。

そうした人材が大正時代頃になると消失して行った。結果的にその後は昭和になり太平洋戦争へと進むことになる。それは明治の時のように人材が枯渇して侍の伝統を受け継ぐ人たちがいなくなった。だからこそ軍人であって侍の真似をしてもその中身は本来の侍の心を持った人でもなかったのである

●医は仁術でありすべてが算術に金儲けになった

おそらく藩校とかでは江戸時代ではまずモラルを重視し人間はいかにあるべきかということを最初にその教えられた。その後に知識を教えた。それはあらゆる分野でそうだったかもしれない。医者だったら医は仁術であり算術ではない。医者もまたモラルを優先していたのである。職人ですら職人気質となりモラルがそこにあった。 算術だけではないものはそこにあった。それはやはり社会の中で侍がモラル的に模範とされるべきものとしてあったからである。

だから商人と違って算術にはならなかった。何か社会には地の塩となるべきものが必要なのである。それが消失したとき社会は荒廃する。明治時代には地の塩となったのは侍だったのである。その侍がいなくなったとき大正以降は日本の伝統的なモラルが消失して太平洋戦争に向かい300万人も死んだということである。戦後にしてもアメリカ軍に占領されてアメリカ的価値観が押し付けられてそれですべてが算術になってしまったのである。

ただ地の塩が消失したというときそれは日本だけの問題ではない。世界的に大衆化が起きて経済だけが優先される金だけが優先される社会になった。資本主義がキリスト教の修道院から生まれたというが今やそれはただ金を得ればいいというだけの世界になったのである。グローバル経済とは道徳なき経済でありただすべてが算術になったのである。
日本の高度成長時代一時は日本は世界から注目されてジャパンアズナンバーワンとかになりなっていたがそれもたちまち失われた30年となり今や日本は日本の悪い点ばかり言われるのである。高度成長時代は日本の良い点ばかり言われたの大違いである。

なぜ日本はいまや衰退するだけなのか。それは地の塩たるべき人が作れなくなったということがある。ただそれは世界的に起きていることであり大衆化でありただ全て算術でありお金を儲けるということしかない社会になってしまったのである。だから戦後の教育でも大学でも何かモラルというのはない。人間はどうあるべきなのかという根本的なことは教えない。それより膨大な知識を詰め込まれその点数を稼ぐことで受験戦争がありそしてただ得するということだけを目指したのである。

●大衆化社会で真のエリートが養成できなかった

だからこそ東大であれ有名大学に進学してそこでエリートになり得するということしか考えない人になった。それはなぜかといえば大衆に支持されるには利益を優先しなければならないからである。それでカルト宗教も大繁盛したということでそこ宗教となればモラルが中心になるあそんなものは微塵もない。狂気のように御利益を得るために集団化して祈っているだけである。それはただ巨大な利権集団に過ぎないのである。これもやはり大衆化社会から起きたことでありそこでは地の塩などはない。また育てないのである。それが極端になるとナチスのようになってしまうのである。その教祖はヒットラーにもなるのである。

これは日本だけの現象ではない。世界的に起きたことである。なぜドイツのような歴史が古いモラルは高いプロテスタントが生まれたような国でナチスが生まれたということが理解できない。確かなことは大衆化現象というのは世界的なことでありそこで地の塩は失われてまともな指導者は大衆社会からは決して生まれないということである。だからカルト教団のような教祖は悪質であっても大衆は求めているものは御利益であり何か高等なものではない。

また大衆というのはモラルなどを求めていない。だから現代とは大衆社会でありその大衆とは何なのか知らなければ理解できないとなる。大衆が主人公となり大衆によって決められる社会だとなるからである。マスコミでもその大衆を相手にしているからモラル的には腐敗しているのである
学生運動とは何であったのか。それはやはり大学の大衆化であり地の塩たるべき人たちがただモラルもなく利益を求めて真のエリートではなくなったということである。それに反発したとしても大衆社会自体を変えることはできないのである。そういう社会自体の問題として学生運動も起こりそれも挫折したとなる。

●老人になって明らかにされる個々人の価値

いずれにしろ老人になるとその人の人生の人生が何であったのかおのずと問われ明らかにされる。誰でも老人は自分が生きてきたことを語るからである。戦争を経験した人は忘れられないから認知症になってもそのことは忘れず死ぬまで語り続けたとなる。戦争で300万人も死んだというときそのことが何であったのかとうことになる。その命が犠牲にされてもそれが意味もないとされたら死者は浮かばれないとなる。ただ老人になっても何をしてきたのか語らない人もいる。その語らないということは語りたくないということである。どうしてもそこにやましいことをしてきて語りたくないのかもしれない。たしかにその人は戦争で18歳で志願兵になってそれで人を殺したみたいだよある。でもそのことを語ることをしない口をつぐんだのである

それにしても桐島聡の一生はなんであったのだろうか。爆破事件から50年も生きていたということの驚きである。その人の一生は爆破事件で終わっていない。それから50年も生きたということでありそこにその人の人生があったと思う。そこでやはりともも何か音楽に熱中していたらしい。その人と語り合った人もいるしそこで何か生活がありそれは人生となっていた。でもなぜ最後に自分の名を名乗ったのか。何か自分の人生を振り返りそのまま誰だかわからないものとして消えていくのは嫌だったとなるのかもしれない。何か自分自身でありたいとして死んだのかもしれない。

ともかく人間の一生は何であったのか老人になるとおのずと明らかにされる。その人間の価値はその一生はなんであったのか明らかにされる。ただ人間の価値といっても多様だからその人の価値を見ることは難しいとなる。ただカルト宗教団体でもある団体組織団体に所属していたときはその組織団体の価値がその人の価値にもなる。会社に所属していればその会社の価値がその人の価値にもなる。でも会社を退職した時今度は会社の価値がその人の価値にはならない。その人の個人の価値が何なのか問われるのである。ただ会社で働いてそこで何か価値あるものを身につけている人はいる。でも会社を辞めたら退職したらその人の価値が消失してしまうということもある
ともかく人間の一生は何であったのか自らも他者からも価値づけされることは確かである。ただ組織団体に属しているとその組織団体の価値がその人の価値になる。でも組織団体の価値がは焼失したりするし会社を辞めたらその人の価値は何なのかとなってしまう。







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