2017年07月03日

なぜ疑心暗鬼になるのか? (犯人が特定できないから)


なぜ疑心暗鬼になるのか?


(犯人が特定できないから)


今回の自分の家で起きた侵入でも金庫が確かに閉まってあけられなくなっていたのに開いていた、このことは一番の謎である。金庫がこんな簡単に開けられるものかと思ったからだ、まず金庫は小さいものはほとんど役に立たない、自分のは小さな金庫だった
それにしてもこれも不可解なのである。

すると犯人は誰なのか?それも探り得ようがない、外部のものか内部のものか、一体誰なのか?一回内部のもの犯行であり手痛い目にあったがそれは犯人が疑いようもなくはっきりしていたのである。それで自分は津浪が来る前の半年以上その人に対して呪いつづけていたのである。
額が大きいからそうなった、その人に呪い続けたというときその人だと疑いようもなくはっきりしていたからである。
これも呪うというときはっきりと呪う対象が明確化されないとできないのである。
その後は自分はあきらめた。

今回のまた別だった、誰なのか皆目検討もつかない、そこが不気味なのである。
こうなると疑い内部のものへ、回りのものへとあらゆる人に疑いをもつようになってしまう。これもまた困ったものになる
そう疑われる人も嫌だろう、実際は関係ない人が多いからである。
そこでなぜ警察では犯人の逮捕急いだり犯人でないものまで犯人にしたてたりするのか?
それがわかった、市民に不安をもたらすからである。
誰が犯人かわからない、すると住民は不安にかられる、その不安が実際に相当広い範囲に広がる
もし犯人が特定されてそれが真犯人でなくてもつかまえると安心することがある
それは人間の心理なのである。

加計学園問題でも東京都が利権化されていたがそれが闇につつまれている、それも明らかにされないということが疑心暗鬼をもたら国民に都民に不信感をつのらせる、はっきりさせてくれとなる
それをしないから不信感がつのり結果的に選挙で大敗したりする
苦しくてもこういうことをしましたと党なりで明確化して謝罪するとかすれば安心はする
でもその時信頼を一挙に失うからしない、しないとまた疑心暗鬼になってゆく
そういうことが最近の問題にもあり常にあったことでもある

このことは良く世界を操っているのはロスチャイルドだとかなにか常に言われる陰謀論とにている、その正体が実際はわからないからだ。
本当に世界を操るほどの力があるのか?それもわからない。
だけどそれが根強く存在するのは犯人が特定できないことにある
すると人間の心理として誰かに特定のものがその犯人だとしたい心理が働いているのである。

疑心暗鬼の問題の深刻さは厚い雲となって社会をおおい晴れないことなのである。
暗雲となってたれこめて消えないのである。
もしその暗雲が晴れるとするとともかく誰かが犯人であり特定される
そしてその人を弾劾して死刑にしてでも罰すると何か安心して暗雲が晴れるとなる
だから犯罪というのは無数にあるし犯罪を犯さない人もいない

ただその犯罪がもたらす影響について考える人はいない、もちろんそんなことを考える余裕があるなら犯罪など犯さないのである。人のことなど考えられないから犯罪を犯すのである。そして犯罪に対して理解を深めるというときそれは犯罪を受けた人が犯罪でいろいろな被害が受けるわかるのである。
人間は何かこの世で事件があっても無関心である。それは自分とかかわならいからドラマのように見ているだけなのである。
病気にしたって自分が病気を経験していない限り他人の病気には無関心なのである。
ただ今回の自分の熱中症のように誰にでもなる可能性がありそのことを書いたら警戒する人がでてくる

いづれにしろ副島氏が実際に盗難の被害にあって考え方が変わったというときそうである今までは他人事だったがそうでなくなったのである。人間は理論上は理屈は言えるのだが体験から語るのとただ理屈として語るのは違ってくるのである。

元日弁連副会長の岡村勲弁護士(71)の自宅で、 
夫人の真苗さん=当時(63)=が訪れた男に殺された。 

犯人(66)は山一証券との株取引で損をし、 
そのうらみから同証券での交渉相手だった岡村弁護士宅を訪ね、 
応対に出た夫人を用意したナイフで刺し殺した。

岡村弁護士は犯罪の被害者になって初めて「司法と被害者の距離を実感した」という。 

ここで死刑廃止論者が死刑を望んだのである。死刑廃止というのは理論的には人道的でいいとかなる、でも自分の身にふりかかったとき全く違ったものになる
株の恨みも怖いものだと思った。

疑心暗鬼になるとみんな信用できなくなる、それが深刻なのである。
もし誰か特定されればそういうことはない、それは病気でもそうだろう、何か病名判断してこういう病気ですからこの薬を飲んでくださいというとき安心する
あなたの病気は何の病気かわかりません、一応この薬を飲んでくださいとなると安心できないのである。
これは明らかに人間の心理なのである。人間は心理的なものがかなり影響する
人間の心理を知れば営業などでもうまくいく、まず体が弱っているときは薬を売りやすいそれが効く効かないではなくその時とにかく何か処方されて安心したいという心理があるからだ

いづれにしろ疑心暗鬼状態は影響が大きい、側近でも回りでも信じられなくなるからである。だから国を攪乱するには内部からすると効果的である。
日本の国内には在日であれ中国系であれまぎれこんでいて日本を操作していると常に右の人がいうのもそのためだろう。マスコミはそういう操作するものとしてある
でもなんかそれも明確化されていないから疑心暗鬼になるのである。
スパイがまぎれこむとみんなスバイに思いこんでしまうのである。
そうして疑心暗鬼になることで戦国時代であれば一つの藩の結束が失われる
国でもそういうことが起きてくる、内部攪乱されることの怖さがある。


2017年08月28日

美濃加茂市を脅す愛知県警、「崖っぷち」 (警察に抵抗するにはどうるかを知っておくべき)


美濃加茂市を脅す愛知県警、「崖っぷち」

(警察に抵抗するにはどうるかを知っておくべき)





愛知県という地方自治体組織に所属する警察として、岐阜県美濃加茂市という5万5千人余の市民からなる地方自治体を尊重しようとする気持が全くないということ

「正直に自白するのが当然だ。早く自白しないと美濃加茂市を焼け野原にするぞ」という言葉にも表れている。


例えば任意という過程で職質の際に立ち去ろうとすると警官は腕をつかんだりして止めたりしますが、こちらが警官の腕をつかんだりすると公務執行妨害、その他何かしても警官は免責で何も罪を負わない。

警察官に職務質問をかけたら、なんと、警察手帳不携帯⇒警察法違反の現行犯



こんなこと良くできたな,警察官を本当に職務質問している
この方法は警察官に対処するのにはいい

●ビデオで警察官の顔を撮って記録している

●名前とか階級とかを聞いている

●執拗に問い正している

何か不法侵入したのが警官でありそのことを問い正している,それをyoutubeにあげている,警察官を訴える場合,これが必須条件なみたいだ
警官に対抗するにはどうするのか?これは有効である。
これはマスコミの働きもしている,一般に公開しているからこれを見た人は痛快である
なぜなら常に一方的に職務質問されているだけだからである。
ただなぜここまで恐れないでやれたのか?それが謎だともなる
でも市民として警察に対抗するには有効である。
証拠にもなるからだ,そしてyoutubeで公開できるからだ
やはりインターネットでも個人でもマスコミの働きをするようになっている

警察に対しての不満を調べれば相当あるだろう。今や市民は警察に対して防衛しなければならない時代になっているのだ
その武器がビデオカメラとかインターネットや法律である。
でもここまでやるとなると勇気がいると思う
この人は警官に不法侵入されてそれで恨んでいてしたのだろう。

警察に対抗するにはいろいろな面でむずかしい,市で警察の苦情を言っても一応きいてはくれるが何もしない,警察権力があまりに強すぎるのである。
警察を諫めるものがないのである。公安委員があるとしてもそれも警察の一部だとかあり警察権力機能の中に組み入れられているから頼りにならないとかある
つまり警察を監視するのは市民しかないのである。
こうして市民が警官に職務質問するまでしていることの驚きである。
なぜならみんな警察を怖がってかかわりたくないからである。

「正直に自白するのが当然だ。早く自白しないと美濃加茂市を焼け野原にするぞ」

この言葉でもわかる,自治体など甘くみしているしそれより上だとしているからだ
警察が自治体より大きな権力をもっているからだ
警察が上であり行政は下だぞと脅しているのである。
そして警察は地元の市民とか自治体に何か貢献するということに関心がない
行政は一応市民のこと自分たちの住んでいる場所に関心をもち良くしよとする
自治体の職員も市民だからである。そこに住んでいる人であり長く住んでいるからである警官は転勤が多いからそういう地元の市民や住民や自治体のしていることにそれほど関心がないのである。
もしかしたら江戸時代のヤクザの方が土地のことを知っていて治めていたかもしれない
なぜならその土地に長くいればいくら横暴でも暴力だけでは治められなくなるからだ

何か警察というのは一番権力をもち横暴になりやすい職業である。それは国家権力と一体化している,まさに権力の犬になってしまう,それも獰猛な犬になる
権力が乱用されやすいのである。そして市民がなかなか怖がり抵抗できないのである。
マスコミも警察には抵抗しないし暴いたりすることをしない

ただ警察の不祥事を暴いたものもある,それは密室の取調室で行われる
その密室が警察の思うままにさせる温床だともしている,公開されていからだ
つまり取り調べも公開されたりビデオでインターネットにだされたりすると警官も市民を一方的に権力で従わすことができなくなる

ともかく警察も諸刃の剣である。警察も悪い方に向かうと暴力団と本当ににているのだ
実際暴力団だと言っている人もいる
今回の自分の問題でもそうである,あやしいという通報があるだけですぐにかけつけてくる,正当な理由もなしにである。
ビデオを撮ってインターネットに公開した人は街の防犯のようなことをしていた
それで警官のことが気にかかっていたり不法侵入を警官がしていたので警官に職務質問したのである。
だから実はこの住民こそ街を守る人であり警察官ではないのである。
そこの住民はそこで長く生活しているからである。
ただ八戸でありなまりがあるから県内の人である。それで親しみはあるかもしれない。

警察は権力があまりに大きいからそこで不正など働いたらもう国民としても市民としても住民としてもまともに生活すらできなくなる
そうした権力は常に市民が監視しなければならないのである。
権力というとき警察が一番大きいが他にも権力をもつものは社会にある
大企業だってそうだしカルト宗教団体だってそうである。病院なんかもそうである。
そういう大きな団体はやはり警察並の権力をもつことがある。
だから市民の監視が必要なのである。

その抵抗の手段が自営の手段がビデオにとるとか録音するとかインターネットで公開することである,それは警察にとっても市民を恐れることになる
だから共謀罪はそうした市民の抵抗さえ防衛さえできなくなるから怖い法律なのである。警察に何でも許してしまうという言いなりにされてしまうからである


2017年08月29日

公職中の警察官の動画や写真をとれる (肖像権はない,回りの人が写るとある)



公職中の警察官の動画や写真をとれる

(肖像権はない,回りの人が写るとある)


警察官の横暴・暴挙 神戸市

これも警察に抵抗するには参考になる,執拗に警察官の動画を撮っていた,それでやめろと恫喝された,でも撮っていた,その理由が公職中の警察官の動画や写真はとれる
肖像権がないとして撮っていた。
そして警官に恫喝されたことを盛んに言っていた
この人はNPO法人なのである。ちゃんと認可もされているから強い

まず相手の警官の階級とか氏名とかを知り動画か写真に写す,なぜならそれが証拠になるからだ,その証拠がないことには裁判では戦いないからである。
この人は法律に詳しい,ここまで知っている人は少ない
法律はやはりその現場で問題が事件があった有効に働くかどうかである
実践的なものとして利用しないと身につかないのである。

自分もここまでは知らなかった,一般の人も知らない,この人はマスコミに匹敵して
個人でもこれだけ警察官を追い詰めていることに驚く
なぜ動画に写されることこれほど嫌うのか?
それは証拠になるからだ,警察官の横暴を訴えるに証拠がないとできない
そして肖像権が警察官にはない,公職中ならない,公務員もない
この法律を知っている人はなかなかないだろう
みんなまず警察官は怖がるからである。

必ず一方的に恫喝してくる,それで怖がりこんなこきとまでしない
ただここまでできるのかという驚きがある
こういうとき法律が役にたつということを実感した

インターネットにもいろいろ問題があるが市民の武器でありマスコミの代わりをしていることがわかった,マスコミでもこういうことをなかなかしない
誰が警察官の横暴をとめるのかとなると市民しかない,しかし市民でもその武器がないとできない,それがインターネットでできるようになった
その人は世界に発信するというとき世界の人も見ているとなるからだ
日本の警察は何なのだとかなる,中国の警官の横暴もある
日本よりひどいだろう。中国ではここまでできないだろう。

八戸の警官に職務質問したのもそうだがこの動画も警察官に抵抗するには相当に参考になる,必ずカメラを携帯して職務質問されたら相手の名前階級などを聞き身分を明らかにする,そして動画や写真をとるのである。
それが証拠となるからだ,でなければ後でそのことを証明できないからである。
それをインターネットで公開もできる,結構を見る人がある
だからインターネットはマスコミの代わりにもなるのだ

でもここまでやれる人はなかなかいない,田舎ではこういう知識をもつ人がいないかもしれない,どっちも八戸であれ神戸であれ大きな都会である。
この辺が違っているかもしれない

警察に対抗するにはカメラとインターネットと法律だ!

これが言えるかもしれない,何か他に見当たらない,相談する場所もない,公安委員会などでもよほどのことがないかぎり取り上げないだろう

その前に証拠がない限り警察でも検察でもとりあげないのである。
だから裁判では常に証拠,証拠になる
そして犯人も必ず証拠をだせとなるのが現代の社会である。
だから領収書とか何か常に証拠になるものを持参していないとどんな犯罪にあっても大きな犯罪でも警察はとりあげないのである。殺人などになると別だと思うが他の事件はそうである。

現代を生きる術を知らなければならない,そのために知識が必要になる
ところが学校ではいかにこの社会を生きるかその生き方を教える場所がないのである。
そこでただ一方的に警官にでもその抵抗の方法がわからないから泣き寝入りになる
この人は若いように見えて50近くになっていたから驚く
なんか自分は社会やいろいろなことがわかることが遅すぎたのである。

社会のことを知らないで生きられていたからである。それも自分でも不思議だと思う
ニートなど社会を知らない人達はこれから必ずひどいめにあう
社会経験がないからそうなる
法律も大事だがその元となる社会経験がないと結局法律も利用できないのである。
法律といっても膨大でありそれらをいちいち知ることは不可能だからである。

ただやはりインターネットは民主主義を促進する力となる
マスコミにできないことをこうして個々人が補うことができる
やがては個々人がマスコミの代わりになってゆくかもしれない,その途上にある
これは具体的な法律の勉強になる,こういうのだとわかりやすくなるのだ。
具体的な実践的な例だからである。

インターネットによって個々人も放送する権利を獲得した
インターネットだと新聞社とかテレビ局とか出版社とか通さなくても発言できる
それは大きな権利である。なぜならそういうものを通すと新聞社でもテレビ局でも
俺たちを通さなければと何も言えないのだとなるからだ
現実にそういうことで今までマスコミは力をもっていたのだ
議員でもテレビで顔を売れば票が増えるとかいろいろあったからである。
インターネットではなかなか顔を売れないからだ
人間の社会は歴史は権利(right)の追及である。

権利はライト(right)である。正しいことが権利になる
だから権利を獲得することはそれにともなって正しいことを追及することである。
そして権利をもったらそれを乱用はできない
それは警察でも同じである。強大な権利を権力をもたされた警察は勝手にその権利と権力を乱用してはいけないのである。
それが警察の場合はまかりとおっている,それを諫めるものがないのである。
司法と行政と議会と三権分立が民主主義の基本としてある
この仕組みが日本ではうまく機能していないのである。
だからこそ警察の権力が肥大化して横暴になっても諫めるものがないのである。
三権分立は機能していないのである。
だからこそ自治体を焼け野原にしてしまうぞと愛知県警に脅されていることでもわかる
ここまで言うこと自体,いかに日本では警察の権力が検察でも大きくなりすぎているからである。

民主主義は戦ってこそ獲得できると言われる,日本は戦後おしつけられた民主主義である。
だから民主主義は成熟していない,民主主義は常に市民が権利を獲得する戦いなのである。
戦いなくして権利は獲得できないのである。
インターネットは民主主義を推進するものとしてある
これも問題があるにしろ個々人が武器を手にしたことは大きいのである。


肖像権とは

人格権に関しては、「公権力が『正当な理由無く』個人を撮影してはならない」とする最高裁判例が存在する

報道写真のように公共目的の場合、あるいは政治家[12]や公務中の公務員、芸能人[12]のような公人に関する場合であっても、肖像権は存在し得るが、撮影の目的や場所、様態、必要性などを総合的に勘案して、それが肖像権を侵害しても良いとされる限度であるかどうかを判断したうえで[13][14][15][16]撮影を行えば、一般に違法性はないと考えられる

肖像権も解釈がいろいある

今は写真の時代である。そしてインターネットに膨大な写真がアップされている
だから著作権とか肖像権とか知らないとまずいとなる
インターネットは公表することができる
でもそうなると責任が生れる,そのために法律の勉強が必要になる
個人が大きな武器を手に入れたのだがそれとともに責任も生じている
だから法律を知らないと危険になってくる
インターネット自体がまだ成熟していない,だからその利用方法がわからないのである。

福島県の公安委員に警官の職務質問について聞いた (正当な理由があったのか納得できなかった)


福島県の公安委員に警官の職務質問について聞いた


(正当な理由があったのか納得できなかった)


警察官職務執行法(警職法)2条1項である。以下警職法第2条を列挙する。

警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者を停止させて質問することができる

福島県の県警に今回のことで相談したけどその人は説明はわかりやすいし親切だった
いろいなアドバイスを受けたし電話したことは無駄ではなかった

でもやはりなぜあやしいというだけで何の根拠もないのに警官がかけつけて職務質問することが許されるのかわからなかった
あやしいという通報には何ら正当な理由がないからである。
ただ見慣れない人がずっと長く駅をうろうろしているだげでそれがあやしいと判断するのには正当な理由がない,でも110番に通報があると警官は必ず確かめるためにかけつけなければならないという規則になっている
110番は県警で受け付けて市町村の警察署に連絡して警官が即座に職務質問する体制にある

それはおそらく「あやしい」というとき何か緊急のことがあったりするからかもしれないその時即座にかけつけないとあやしい人が現実にいて逃亡していなくなれば職務質問もできなくなる
そういう理由があるのかもしれない,すぐに通報する,連絡しないといけない事情がある
それなら正当な理由になる,でも110番に通報するのは119番に通報するのと同じなのである。
119番だと一応どういう状態で電話したのかきく,110番は聞かないのである。
一切通報したことについて事情は聞かないのである。
緊急性があるから事情を聞いていられない,その緊急性がある理由がなくても警官はかけつけなけれはならないのである。
「あやしい」人がうろついているというだけで警官がかけつけねばならない
その理由を全くきかないのである。一言でもどんなふうにあやしいのですかとかきいてもいいはずである。

与那国島では木蔭に休んでいるあやしい人がいると土地の人に通報された
それも理由にならないにしろ一応理由を聞いているのである。
理由は駅をいつもうろうしている人がいるというだけなのである。
別に駅にはいろいろて人が出入りしている,散歩がてらによる人もいる
ジュースを飲む人もいる,広場の役割もありいろんな人が出入りしているのである。
全く理由を聞かないのが納得できなかったのである。
命にかかわるのが119番である。それと同じなのが110番の通報なのだろうか?
その辺が納得いかないことだった,110番の通報にも命にかかわることは確かにある
では駅にあやしい人がうろうしているというだけの理由が警官がかけつける理由になるのか?
その辺が納得がいかなかったのである。
また納得がいかないのは今回事情を説明したし回りの人を認めていたのである。
でもあやしいと通報がまたあれば必ず来なければならないという,そのことは公安委員でも同じだった

ただこのあやしいというのにはもし悪意の人がいたりいたずらでもありうる,でも通報する人をまず信用して確かめる,そういう仕組みになっているからこれは止めることができないのである。
実際は通報する人は電話でも携帯でも警察では証拠として相手のことがわかる
電話した時点で相手のことはわかる,ただ相手のことは言わない規則になっているのだ
そうししないと情報が得られないからである。
今回はかんぐれば悪意があったかもしれない,あいつが駅をぶらぶらして気にくわないと見る人もいる,なんか子供がいるから不安だとかともなる
それで通報することはありうる

それで県の公安委員では駅の案内人としてわかるようにそうした目立つものを来て案内するといいといっていた,それからJRから許可を得て許可章をもらうといいといっていた
それはyoutubeでアップされた神戸の街の防犯のボランティアがそうしていた
街の防犯をボランティアでしている人はいるのである。
なぜではそこで警官ともめたのか?警官にしてみれば防犯は警官の仕事であれそんなことに勝手に手をつっこまれるのが嫌なのかもしれない
なぜならソープで働いている人が発言していた,

元ソープ組合員です。   国家公安委員長も賄賂お渡しております。   本当です。

これは本当かどうかわからない,警察とこういう関係の人は結びつきやすいことは確かである。何かだからボランティアの防犯などを面白くなく思うことがあるのかもしれない

ともかく法律を知らないと対抗できないことは確かである。だからこそ証拠が必要になる証拠がなければ全く対抗できないからだ
ただ法律は本当にむずかしいから一般の人は損しているのである。
それは自分でも法律はむずかしいからわからない

例えば故意とか悪意とかが必ず問題になる,あやしいと通報するにも故意が悪意があったかもしれない,あいつが気にくわないとして通報する人だっているのである。
その故意と悪意を見分けるはほとんど不可能である。
誰も人間の心を見れる人はいないからだ,神はその心を見ているというとき神は知っているのである。たとえ警察沙汰にならなくてもその悪意自体が大きな罪なのである。
だからそれは罪であり必ず罰せられるのである。
だから人間は罪を犯さない人はいない,悪意をもたない人などいないからだ
直接犯罪にならなくても悪意など誰でももつからである。
そのこと自体罪になってしまうのである。

法律と宗教は関係が深いのである。宗教は人を罰しない,許し更生することを第一にしている,だからキリストでも許せと言っている,警察はただ罰することであり許さないのである。罪に帰して許さないのである。
だから警察はいい職業ではない,なぜなら警察官もやはり罪を犯している,悪意の人もいる,その人が罪に帰して許さないからだ,だから神は裁くなというとき人間に裁く力がないからである。でも警察は検察でも常に裁くことが仕事なのである。
そこで罪深い仕事だともなる,人間が裁けないというとき必ずミスがあるからである。
そのために常に冤罪がある,そして人間の一生を狂わしてしまうことがある
たから警察は罪深い仕事だとなる

2017年09月26日

職務質問してなぜ悪いのか (なぜ警察を挑発するのか-コメントの答え)


職務質問してなぜ悪いのか

(なぜ警察を挑発するのか-コメントの答え)

コメントは直接プログに出ると思っていたら一旦許可してからでないと出ないものがあった

前は許可していたが最近は直接コメントがそのまま出ていたのである。

警察官から職務質問を受けることが
そんなに不愉快ですか?
私も今までに数回、警察官から職務質問を
受けたことはありますが、普通に応じたら
すぐ終わりました。何の不都合もありませんでしたけど。
正当な理由(犯罪に関わっていると疑われる相当な理由)がなければ、そもそも職務質問に応じる義務はない?
小賢しい法律知識を盾に不必要に警察官を
挑発する必要がどこにあるのですか?

Posted by 垰田敦嗣 at 2017年08月29日 10:08

コメントありがとうございます

すぐにプログの方に自動的にコメントがアップされる仕組みになっていたが
このコメントはアップされなかった

遅くなりましたが返答します

職務質問がみんな悪い訳ではないのです
別に自分も旅したときなどは職務質問されています

職務質問はその状況によって変わってくるのです
それを受け入れられるものと受け入れられないものがある
そういう状況を自分は鉄道の部で書いてきました

自分は善意で半年くらい駅でボランティアしてきたのです

それを誰かの悪意の通報でだいなしにされたのです

あやしい人がいるということで警察がのりこんで職務質問すればみんなもあやしいとなる

それは警察がみんな悪いとはならないです
通報した人も悪かったのです

この事情は複雑です

良く自分が何をしてきたのか読めばわかることです

ただフログだけでそれを理解するのはむずかしいかもしれません

鉄道の部を詳しく読めばわかるでしょう

自分が何をしてきたかそれが簡単には理解できないです

何でもそうですが職務質問は全部悪い訳ではないです

要するにケースバイケースなのです

警察はそこを考慮しない

土足で踏み込んでくるのです

そういうことは警察には多いと思いますよ
何しろ権力をもっているからそういう強引なことになりやすい

だから慎重さが必要なのですが
その配慮が警察には全くないのです

そうすると地元からも警察は信用されなくなる
そういう事情は書いてきたのです

人間社会は複雑なのです
何でも職務質問していいかとなったらならない
ケースバイケースでありそういうことに警察は
無遠慮なのです

家族の問題でもなんでもその家族の事情があります,そういう複雑なことに考慮しない
ただ警察にとってもむずかしい面はある

ストーカー問題などでそういうことがあった
だからいちがいに警察を責めることはできないです

でも今回自分が怒った事情はフログに書いたことを良く読めばなぜ怒ったかるでしょう

遅れてすみませんがそういう疑問があるのも当然ですがやはりなかなかその人のことをわかるのはプログだけからむずかしい面はあります

これはフログにまとめて書きますので読んでください


なぜ自分が今回警察の職務質問に怒ったのか?その事情は鉄道の部に書いてきた

自分はこの半年間くらい駅でボランティアしていたのである。
もうそれだけ長かったということである。
なぜそうしてボランティアしていたのに誰かがあやしいと通報したのか?
それは誰かわからない,外部のものかもしれない,しかし自分はそのことでひどく傷ついたのである。

別に自分は旅したときなど必ず職務質問されていたけど嫌だったけどこんなに怒ることはないのである。
つまりなぜ自分があやしいと通報されるのか?そして警察がすぐにかけつけて自分を職務質問したのか?
その警察官は「あやしい」と通報されれば必ず来る義務があるのですと言っていた

そして自分は言ったのである。

ここで駅のボランティアしているから今度通報があったら訳を説明してください

それはできないです

「あやしい」と通報があれば必ずまた来ます

なぜそうなのか?

今自分がこうてし何をしてきたか説明しているのです

そしてまわりのものも認めていたのです

職務質問はすべてに許されいるわけではない

ところが警察では許されていると思っている

「あやしい」と通報されればとにかく相手のことをかまわずかけつけて職務質問する

職務質問していい場合とそうでない場合が確実にある

なぜ今回自分があやしいのかそして警察に通報されたのか?

その理由が全くわからないのです

あやしい素振りがあればいいですがそうではない

自分はずっと長い間駅でボランティアしていたのです

それは駅員に聞いてみればわかる

無人駅でも管理している駅員がいてあっていたからです

自分が何をしているかは回りでもわかっている人はいたのです

そういう善意の行動がだいなしにされたのです

だってそうでしょう

また「あやしい」と通報されるならすぐに来ますと警官が言っていたからです

今説明したし回りでもそう認めているのにですよ

そうしたら自分はそこに普通に安心していられますか?

別にボランティアでなくても駅はみんなが待ち合わせとか交流の場としてもあるのです

それでただうろついているからとそいつがあやしいとなればそうした公共の場に自由に出入りできなくなるのです

そうでしょう,また誰かが悪意で「あやしい」と連絡すればまた職務質問に来ると言ったのです,そしたら安心して出入りできますか?
また警察が来たらやっかいだな,回りでも自分をどう思うのかかなとなるでしょう
それは警官だけが悪いとはならないです
でもただ「あやしい」というだけで相手のことをまるでわからないのにすぐに職務質問するのは許されるのでしょうか?
通報する人がどういう意図でしたかわからない,悪意があるかもしれない
実際それで自分は疑心暗鬼になったのです

自分をこの辺ではあやしいとみている,そして警察に通報される,そうしたら公共の場さえ出入りできないのです
自分の自由は奪われたし常に密告というかそういうものを恐れなければなくなる
それは警察が「あやしい」というだけで職務質問にかけつけることにあったのです
みんなの前で職務質問されればあいつは何なのだと田舎だと目立つのです
自分は善意でボランティアを半年くらいしていたのにそれでできなくもなったのです
あいつはあやしいと誰か一人でも通報すればそして警察がそれに答えればそうなる
むしろ通報した人に問いただすべきなのです

なぜあなたはその人をあやしいと思うのですか?

それが全くないのです,ただ「あやしい」と匿名でも通報すればすぐにかけつける,この次もあやしいと通報があればかけつけると警官が言ったのです
なぜそれほど匿名の通報者を信じるのか重んじるのか?
このことが全くわからないのです

はっきりいって「害悪の告知」という法律違反に通報した人はなるかもしれない
通報した人も罰せられべきでありまた警官も同罪になる可能性がるのです

別にそんなこと気にしないでやれともなりますがやはり警察というのはそれだけ権力をもっているから影響が大きいのです

こうした事情があるし田舎ではまた簡単に誰かが通報したからと職務質問していたら疑心暗鬼になってしまう:それは密告とにているのです
その最大の問題がそうした内輪の問題に警察権力がかかわることで起きているのです
だから権力をもつものは慎重さが要求されるのです
職務質問がみんなが悪いとはならない,でもケースバイケースでありその職権を軽く行使しただけで被害があることもある

だから通報する人にもどうしてあやしいとあなたは思ったのですか?

こうきくべきだったのです

それが職務質問には一切警察では考慮しないです

だから警官は横暴であり警官は信じるなとまでなってしまう

田舎の人でも回りでもそう見てしまうことだったあるのです

田舎はみんなしっているし狭い所で生活している

だから田舎の事情がわからいないで警察が介入することでかえって田舎の和を乱すことだってある,そのことを書きました

ともかく警察が権力をもって横暴になる,そういうことを職務質問などで経験している人が多いから嫌われるとか不信感をもつことがあるのです
権力をもつものは慎重さが要求されるのです
何かそういうことは他でも多く起きているでしょう
そこで警官に不信感をもつ人が増えているのです

それは元公安委員長の人が職務質問されて怒ったことでもわかるでしょう

とにかく一方的であり相手の事情など考慮しない

「あやしい」と通報があればすぐにかけつける,何度でもあやいしと通報があればかけつける
こんなところでうろうろしているなよともなるのです
それはそれだけ警官というのがかかると田舎ではそう見るからです
別に地元に生活しないなら職務質問されてその土地を去るけだからいいのです
あとは関係ないですから,ここでは駅に出入りしなくては生活できないしそういう日常の生活の場なのです
そこであやしいというだけですぐに警察官が何度でもきて職務質問する

そうしたらどうなりますか?

公共の場あですから散歩がてらに来る人もいますし待ち合わせする人もいます
そこをうろついているだけであやしいとさたら出入りできなくなるのです

そんなことで通報する人も悪いですがそんなことを何の考慮もせず職務質問に来るということも納得できない
なぜならみんなが見ている所で職務質問したらあいつは本当になにか悪いことをしているのではないかと回りから見られるからです,田舎だとそういうことにうるさいからです

いづれにしろ今回のことは自分では納得していないです

警察には不信感をもっています,それが警察だけが悪いのではないにしろ権力が介入することがいかに大きな影響をもたらすか
警察では考えるべきなのです,冤罪とかもそうして起こる
それが警察の不信感になり警察だって回りから信頼されなくなる

職務質問ってみんななにか一方的犯人扱いされるような感じを受けている人は多いと思います

ただいちいちそうした事情までふみこむことはむずかしいということがありますがどうしても警察は横暴だなと思う人が多いように思う
今回でも一方的であり何も相手の話しなど聞かないからです

ただ警察に警官には警官の事情がある,それも考慮せねばならない,要するに民主主義とはめんどうなのですが話合いが基本なのです,権力だけで力あるものが一方的に言いなりに行動できるなら民主主義はなくなる
警察にとってそうなると確かにめんどうになるがそれが民主主義であり権力あるものは慎重に相手の話でも聞く必要があるのです
それが全くないからただ怒りになり警察に対して不信感だけが残ってしまうのです

こういう事情を書いたとしても

こいつは警察を挑発している不届きな奴だ,マークしておけ?

挑発という言葉にすでに警察の姿勢が出ている

それははわからないにしても普通の人が挑発しているなどと書かないように思う

警察に逆らう奴は許せないという権力をもつものの姿勢が自ずとでてくる,それが習慣性になっているのが警察や権力をもつ人ににはある,ただ警察にはだからかかわらない方がいいとなっていて表立って言う人はまれである
そうするとそういうことで警察でも警官でもますます冗長してくるということがある
俺たちには逆らえない,俺たちは正しい,いちいち文句言うな,それは警察を挑発している不届きな奴だとマークされる

もしこれを書いた人が警察関係だとしたらこういうことでやはりインターネットでも警察に逆らう奴をマークしているのかともなる,するとは警察を批判するようなことをちっょとでも書けないとなる
それは警察国家となり民主主義社会とはまるで違ったものとなる

ともかくただどっちにも言い分はあります,警察だって相手の事情にどれだけ踏み込んでいいかわからない
それでかえって関係しないで殺人までストカーなどで起きているすから
その時は実際は権力で介入すべきだったのです

つまりケースバイケースなのだけどその判断が簡単にはできないのが問題なのです
それは都会と田舎でまた事情が違ってくるしそういうこともまた考慮する必要があるとなるとめんどうだともなる
ただ警察の影響力がかん大きいから慎重さや話し合いも相手の言い分を聞く態度が必要なのです
それがなにか警察にはないから問題だと思うのです

警官も医者も教師も他の職業も土着的であるべき (一時の赴任では仕事ができない)


警官も医者も教師も他の職業も土着的であるべき

(一時の赴任では仕事ができない)



職質の技術の基本は会話である。が、地域警察官と市民との会話の機会が少なくなっている今日では、職質技術は育たない。本来この職質は、刑事警察官の聞き込みや取り調べの技能の基本にもつながるから、刑事警察官にとっても基本的な技術なのである。

地域に愛されたお巡りさんが退職 住民嘆願、異例7年勤務

同小の橋本佳史校長(55)は「地域にとけ込む努力を欠かさず、私たちにとっては良い仲間でもあった」と退職を惜しむ。先月だけで送別会は7回催され、PTA役員や町内の医師たちが長年の労をねぎらった。同小児童と、隣接する美川幼稚園の園児計25人は「お別れ会」を開いた


警察とか警官の仕事もどういうものなのか?
何か駐在さんなどというときは地域に土着して親しまれた感じである。
第一駐在というとき在とういのはある程度そこに継続して在中することである。
でも7年でも短い感じがする,それだけ今は何か一時的にいる人が多い時代である。
広域化グローバル社会になるとそうである。

そして警官でもそうだが土着性がなくなる,その土地に長くいないからその土地のことをわからない,人ともコミニケーションがとれないということもある
実際コミニケーションとは最もむずかしい問題なのである。
それはどこでもそうでありそれでみんな悩んでいるのである。
田舎などはまるで相互監視状態でありそういうところでは本当は犯罪は起こりにくいともなる
みんなが監視カメラのようになっているからだ,みんな何かしたかを知っているからである。犯罪した人も知っている,ただそこに警察が介入しないだけである

現代は何か相互のコミニケーションが欠けた時代である。インターネットでコミニケーションするというのもそうだがそれで本当のコミニケーションができているかとなると疑問になる
広域的にグローバルに知るにはいいが肝心の実際に生活している場を知ることはかえってできていない,何か田舎町でも何で生活しているのかわからなくなっているのが現状である。
昔だったらたいがい何をしているかわかっていたし相互に関連した社会に生きていた
それが今は田舎町でもわからないのである。

例えばこの辺でタニコーという会社は有名である。その近くに友伸エンジニアという会社があった,それをタニコーに勤めていま人も知らなかったし自分も知らなかった
これは自分にしても小さな町に住んでいるのに知らなかったのである。
それはすぐ近くの小池に工場があるからそれを見てわかった
そして東京から友伸エンジニアの関係の人が来るし社長も来る
東北サッシも有名だが駅に社長が東京から来ていた
社長は東京の人であり地元に住んでいない,そのことは土着していないということである本拠地は東京にあるからだ

東電でもそうである。東電の本社は東京にあり事故が起きたとき本社とコミニケーションができず吉田所長が独断で決めたりした,つまり離れているといくら通信技術が発達しても意思疎通ができなくなるのである。それでその後事故の処理につまづいたのである。
ローマ帝国でも権力の崩壊は地方から起きてくる,それは中央と地方が意思疎通できなくなり地方が独自に力をもつようになるからである。
中央からの統制がきかなくなるからである。
それは戦争のとき起きた,関東軍が天皇の命令をきかずに暴走して戦線を拡大しすぎたのである。

現代の問題は人間と人間がコミニケーションできなくなった時代ともなる
相互の意思疎通ができないのである。
そこに今回のように権力で警察が介入したりするとかえって田舎の和を乱したりする
ただそのコミニケーションにしても簡単にはできないのである。
それは家族だってそうだろう,コミニケーションというか意思疎通自体が最高にむずかしいのである。
だから外から赴任して7年くらいでその土地のことがわかる,意思疎通できるのかともなる

ただ現代は土着性が希薄な時代である。そこで何が起きるのか?
互いに誤解が生じたりそれで争いになったりする,都会であるある女性はそれで被害妄想になり隣人を疑っていたが犯人は風だったのである。
風によって鉢植えの花が壊されただけであり隣人は何もしていなかったのである。
それも日頃から意思疎通ができない,引っ越してきたばかりとかなるとできないからそうなる

現代とはそういうことは非常に多い時代なのである。小さな町すらそうだとしたらもう4,5万の市だってそうなる,ましてや十万以上の市だったらさらにそうなる
もうそういう市が多いのだから当然意思疎通しにくくなる
人間は農業中心の時代は土着的に生きていた,そうするほかなかった
でも広域社会グローバル社会になると移動する社会になるから一時的にいるだけだからその土地とも人とも深く交わらないとなる社会である。

この辺では医者でも前は開業医が多かった,大きな病院はなく開業医が多かったのであるだから一万くらいの町に小児科の開業医があった,そこで自分は幼児の時注射をしてもらいそれが基で成長してから股がヤケドしたように大きな傷として残ったのである。
その頃子供が多いから小児科の開業医も成り立っていたとなる
そして原町の産婦人科の医者は原発事故でこの市のために尽くしたいとしてがんばった
それは開業医だったし長くここで医者を勤めていたからである。
つまり土着的になっていたのである。

何か人間は土着的でないと仕事ができない,報道にしても一見そんなこと別にそこに長く住まなくてもできるではないかとも思われる
ところがその土地の事情に歴史でも自然でも知らないと報道もできない
だから自分は今回の津浪とか原発事故では地元で生活してきたことから報道したのである報道にしても土着的であることが必要だったのである。
確かに外から来たひともいろいろ報道したり本を出したりした
でもやはり地元に住んでいることで地理などもわかり深い報道ができるのである。

現代の問題はあらゆることで土着性がない,そこからコミニケーションが互いにとれず意思疎通できない,警官でもそれができなくなっている,駐在さんなどと呼んでいれば土着しているのである。ただ7年では短いとなる

自分がしてきたこと詩とか芸術にしてもその住んでいる自然とアイディンティティ化することは時間が必要になる,石と樹でも山でも長い時間で見ないとアイディンティティ化できないのである。それは地元の人にとってはそうしたことは実際の生活では関係ないことだったかもしれない,文化的なことでもやはりその土地に長くいないと創造できない。、そもそもエジフト文明は3000年とかで形成されたものでありマヤ文明でもそうである。
日本文明だってすでに二千年とか縄文時代を入れればどのくらいになるのかその歴史は長いのである。

ともかく土着性がないことは現代社会に大きな歪みをもたらしているのである。
それが大きな問題をある時原発事故であれ犯罪であれ致命的にもなる事件となる
大げさだったかもしれないが警官が介入してきてかえって田舎の和が乱されたりもする
それは警察というのが土着的なものではない,一時的に滞在するだけであり田舎に深くコミトメントしない,交わらないということがある。
それだけの時間がないということがある

要するに何でもそうだが時間が関係している,土着的とはやはり時間的にそこに長くあって土着的になる,原発というのもそもそも日本の土着的なものから見れば津浪とか地震かありそれを無視して作ったのだから大事故になったともなる
土着的というとき技術も土着的なものから生まれていたのである。
風車は中東で発明されたのは風が強く吹く土地だからである。
日本でトンネル技術が発達したのは山が多いからである。技術も土着的なものとして生まれてきているのである。
土着的になるとき技術もその土地に根付くということである。

そして意思疎通ができない,コミニケーションができない社会に何が起こるのか?
それは社会的にはファシズムでありナチズムになる。強権的一方的権力による支配である。
そしていかに自動化するとかAI化するとか機械化しても
それ自体が今回の原発事故のように破滅的な事故につながる
機械とコミニケーションできなくなるというか今度はAIが人口知能が暴走するのである。
それを誰もとめられず社会自体のメルトダウンが起きてしまうかもしれないのである。
決してAI化とかは人口知能が万能ではないからだ
駅の無人化でも様々な問題が生じている
なんでも自動化無人化すればいいとはならないのである。
やはり人間と人間のコミニケーションが基本にあるのが社会だとなる
タグ:土着的仕事

2017年09月27日

警察とか公共機関組織が何でも解決してくれることはない (市民が国民が自主的にかかわらないと守れない)


警察とか公共機関組織が何でも解決してくれることはない

(市民が国民が自主的にかかわらないと守れない)


都心なんて、もっと狭いのに、 
家からの騒音と、道路でのチンドンのコラボだもんな。 
家族みんな高血圧になったわ。

相談を受けたという警察には止められた可能性があるわけだ 
他の相談量の多さを理由に構ってられなかったでは言い訳できんよ、仕事なんだから


相談に行くからあしらわれる 
騒音やトラブルはすぐ110番通報

警察に対応して欲しい気はするが 
隣人トラブルに全部介入してたらいくら人手あっても足らん気はする 
解決しようもないってのもあるし

暴言吐いて家に物を投げ入れるって警察から見ると些細なことなのか 
なら警察官の家に物投げ入れても何も問題ないってことだよな?

警察は毎日のようにパチンコ屋で新台の認定してシールをパチンコ屋に売る仕事をしてるから
ご近所トラブルなどに対応する時間はない

警察に相談しても被害に会ったらそれを動画に収めてくださいと言われる 
暴言吐かれそうになったらスマホで素早く撮る 
それが無理だったら豊田議員の秘書みたいにわざと挑発して 
ボイスレコーダーを起動させ録音する 
そうすれば警察は動く

警察はほんと動かない 
基地害が上から物を(ビール瓶とか)捨ててたから相談したけど 
壊れたものがないとかで事故を未然に防ぐ努力を一切しなかった 
物が当たって死んでからしか動かないらしいよ@練馬警察


相談に行くからあしらわれる 
騒音やトラブルはすぐ110番通報


警察に相談に行っても受け付けない,なぜか?
警察はなるべくかかわらないようにしている,犯罪でも明確な証拠がない限り動かない
殺人事件などは別にして警察はかかわらない
騒音問題などは特にそうだろう

要するに前に書いたように騒音問題でも双方の事情を知ることがそこに長く住んでいないとわからないのである。
その人がどういう人なのかもわからない,だからよほどその土地の事情に詳しくならない限り仲裁とか簡単にできない
かえってこじらせたり悪い方向に向かわせたりする

だから警察を呼びたかったら110番通報することある。
「あやしい」人がいるとうだけでかけつけるからだ
おそらくそれは119番と同じ効果がある,公安委員でもそういう取り決めになっているし
あやしいと言われれば相手が匿名でもなんでもかけつける
そういう仕組みに警察はなっているのである。

それで自分もそうしてあやしいと誰かわからない人に通報されて職務質問された
そして事情を話して回りの人もそう言ってくれたのに
あやしいと通報されればまた来ると言っていたから駅に自由に出入りすらできないような状態になった

何かこうしたもめごとは本当にむずかしい
これは警察に同情することもある
ただ回りの人が犯人に同情することはやはり相手にも非があったとなる
そこに土地の事情に詳しくないと仲裁もできないことがある

何か事件があるときは積り積もったものがある,それを知らないと仲裁も何もできない
でも警察でも他のこともあるしかまっていられないのである。
そしてへたにかかわると警察が責められることもある
自分のことでもなぜそんなことで警官が責められるのかと見る人もいるからだ

つまりこの事件も土着的でないということで起きた面もある
新興住宅街によそ者が移り問題が起きたからである。
何か今はそうしてみんな土着的な生活をしていない
だから近隣トラブルが増える
警察でもそうした社会状態に対応できないのである。
警察もかかわってもかかわらなくても文句が来る
それは市役所でも常に苦情が来て困っていると言っているからだ

実際なんでも警察に頼ることは無理だし警察のやるべきことは限定せざるをえないかもしれない,それで私立探偵などに頼ったり民間の自主バトーールとかも必要になる
警察で何でもできないのである。
ではそうしたトラブルを解決するような社会でもない
長屋のもめごとは大屋がしていたから大屋はやはり事情に通じているからできる
そこに住んでいる人がどういう人か熟知しているからできる
そして意外なのは長屋に住む人は実際は長く住んでいたのである。
今のように変わりやすい社会ではなかった
だから浪人のようなものがふらりと来て長屋に住むということではない
長く同じ長屋に住んでいたのである。
江戸でもそうして同じ長屋に住んでいれば相手のこともわかるからトラブルでも治めやすいとなる

公共機関がいろいろある,市役所もあり学校もあり病院もあり福祉施設もあり警察もありとではそうした公共機関が何でもできるかとなるとできない
かえって害を及ぼすのもそういう機関であり組織にもなる。
なぜならみんなそういう公共機関は権力をもっているからである。
学校でも病院でも老人福祉施設でも警察でもそこに頼めばなかなか文句など言えない
それはそこにあづけてしまうからそうなる
もし家族だけでまかなうようだったらそういうことはないのである。
そういう公共機関は確かに助ける場でもあるが逆に冷たい場所であり人を苦しめる場にも変わる

いづれにしろ現代の社会は様々なその構造に問題をかかえている,でもそういう社会なのだからどうにもならないという面はある
ただ人間社会はそもそもが市民が国民が作るものでありそうした機関や組織が作るものではない
例えは自衛隊というのも組織機関としてある,それが本当に国を守ってくれるのかというとそんなことはない,国を守るのは市民であり国民である。
もし国民に自国を守る意志がないなら自衛隊とか軍隊がいくらあっても守ることはできない,最後は志願兵ともなり特攻隊ともなり敵と戦う意志がなければ守れなくなる
つまりボランティア精神がないと国も守れないのである。
最後は機関や組織がいちらあっても守れないのである。それが生死をかけるとなると余計にそうなる,なぜ自衛隊でも警察でも俺たちだけが死ななければならないのかとなるからだ

だから最後は政党でも組織団体でも機関でも守れない,国民がそういう意志をもたないかぎり守れないのである。
戦争というのではなくても自由とか民主主義とかもそうである。
国民がそれを守ろうとしなければ誰も守ってくれないのである。
ただ法律があり民主主義があってもそれは名ばかりになってしまうのである。
日本にはお上のままにお上を信じるというかまかせるというか長いものに巻かれろとかある,そうなると本当に市町村でも国でも守れない
そういう機関が組織があっても何でもしてくれるわけではないからである。
何かそこを錯覚している,錯覚させられている
それは危機の時わかる,今回の原発事故などでもそういうことが露見したからである。
国や官僚とか検察でもマスコミでもあてにならないか知ったからである。
そして結果的にその被害はそこに住む住民とか国民が受けるのである。
責任はこの辺のようにとらされるのである。

報道だってそうである。,マスコミの報道をうのみにしていたらそれで自らに害が及ぶ
マスコミは偏向しているからである。
でもそのことを言う前に対抗策がとらねばならない
インターネットなどはその対抗策になる,自分でも報道機関の一翼をになっているのだと自覚するようになる
その影響力はわずかでも自分で報道してその自覚をもったからである。
それがなにがしか社会に影響してゆくこともある
今までなら何も言う場がない,マスコミを通してしか言う場がなかったからである。
インターネットは市民のメデアでありマスコミのマスメデアとは違うのである。
そこから「心に青雲」の都築氏のような過激な言論も生まれたのである。
それはマスコミでは一般社会では出ないものだったのである。
でもそのログが消えたということが問題なのなのである。
全部ではないにしろなぜ消したのか?自ら消したのか?
死んだとき消えたのである。それが残念だったとなる

制度疲労を起こしている現代社会 (大きな機構組織会社は機能不全化しやすい)


制度疲労を起こしている現代社会

(大きな機構組織会社は機能不全化しやすい)



私は日本人の付き合い方は大企業ではなく、中小企業こそ、その良さを引き出せるものがあると思っています。つまり、企業レベルが大きくなっても一緒に汗をかくその協業精神が維持されないとだめなのだろうと思います。

巨額の不良融資を原因として倒産したA銀行の物語をしよう。大蔵省はその処理に介入した。これは監督官庁として当然のことだが、その処理の過程で大蔵省は巨額の税金を投入し、今後も巨額の税金が投入される可能性を残しているのだが、これらは当然のことだろうか。
監督官庁である大蔵省は、「金融不安を防ぎ、国民生活を混乱させない為」に、それまでに何を監督していたのか。これらについては追求されなければならない。

総ての官庁は、それぞれが所掌することに対して大きな権限を持っている。だがその権限の行使の結果に責任を問われることがないことも、総ての官庁に共通している。彼らはどれほどの失敗をしても崩壊し倒産することはない。そしてこの事実によって彼らは自己浄化・自己改善の動機を持たない。そしてその為に彼らは同じ失敗を、あるいは犯罪を、平然として幾度も繰り返すのだ。


役所-市民の自治

警察-市民の自主バトロール-私立探偵

病院-開業医-民間療法(漢方医)

老人ホーム-民間のホーム-家

銀行-サラ金-個人の金貸し

学校-塾-家

ハウス会社-地元の大工


何か現代はこうした大きな機構とか組織とかに頼りすぎるしそういう社会になった,
それは専門家社会だとかイリイチなどが指摘した
人間が無能化される社会である。自主性をなくして専門家集団組織にたよる
宗教でもカルト宗教団体にたよるとか困るとはそうした組織集団に頼る
そのことが人間の自主性をなくしてそもそも市町村でも市町村を作るのはその市民であり役所で何でもできるはずがないのである。

だから例えば不思議なのはこの辺では原発事故などで避難して町に村に人が住まなくなった,でも最初に住むというか入ったのは役所であり警察であり銀行とか農協とかであったゆうちょも入った,ではそれだけで復興できるかとなるとできない
肝心の市民が町民が村民がもどらないからである。
そして肝心のそうしたそこに住むべき人間が復興の意志がなければ復興はありえないのである。そういう機関が元にもどっても肝心のそこに住んで生活再建する人が帰ってこないのである。

役所とか警察とか病院とか銀行とか学校でも大きな組織であり国が関係しているのが現代である。でもそれらですべてまかなえないから警察に相談できないから民間療法に頼むとか警察だったら私立探偵に頼むとか学校だったら教育だったら塾に頼むとかなっている
それらは大きな機関があってもすべてまかなえないから補う役目なのである。

これらを見ると警察でも病院でも大きなものだが自主的パトロールとかなると少人数でできる,実際にしていた,病院というとき大きな組織であるが開業医とか漢方医とかは個人であり開業医などもそうである。

そして何か役所でも警察でも病院でも学校でも普通にあるものだと思うようになった
でも不思議なのは江戸時代を見ればそうとはなっていない,確かに警察に代わるものとして役人がやはりいたし幕府があり地方で藩が治めていた
だから警察のようなものはあったし病院はないにしろ町医者はいた
学校でも寺子屋があり代わるものがあった
大きな組織機構を補完するものが江戸時代には主役だった
明治維新後にそういうも大きな組織機構ができたのでありそれまではなかった
官僚機構だって江戸時代にはなかった,幕府とまた官僚機構は違っていた
侍が基本的に治めていたのであり官僚ではなかった

だから一見当然現代にあるべきものが実はまだ明治維新後できたものであり歴史的に長いとは言えないのである。
なぜそんなことを考えるかというと何かあらゆるものが明治維新後の近代化で制度疲労をきたしている,社会のニーズにかえって答えられなくなっている
警察でも書いたようにそんなに様々なトラブルに介入できない,処理できない
複雑な社会になっているからである。だからかえって権力で介入すると社会を田舎の平和を乱すことにさえなる
だから警察はそうしたもめごとにはかかわないのである。
かかわるとかえって問題をこじらせたりするし警察が介入してうらむ人もいる
だから簡単に介入できないのである。
それが職務質問で自分が経験したことを書いた

この大きなものが必要でも制度疲労を起こしている,大きいが故にかえって機能しない
田舎のもめごとだったら江戸時代なら大屋とか地元の顔役でも治めていたのかもしれないヤクザでもそういうことをしていたというとき地元のことを知っているからである。
警察は警官は一時派遣されるだけだから地元に精通していない
そこで相談しても頼みにならないしかえって田舎のことを知らないで和を乱すようにもなる

これからは逆に補完的役目をになう小規模なものが社会で有益になるかもしれない
ボランティアなどはそうした役目がある。
だから警官に対して自主バトロールした人が逆に職務質問したり薬物をもっていると装い警官をだましてそれをyoutubeで放送したとき百万人が見たのである。
なぜそうなったのか?日頃職務質問で嫌な思いをしている人が多いから警察ざまあみろとなったのかもしれない
警察がからかわれたことに拍手喝采になったのかもしれない,警察は権力を笠にきて庶民をいじめているということがありそれでみんな拍手喝采したのかもしれない。
警察が笑い物にされたのでありそれがみんなも喝采していたのである。
警察に不満をいだいているからそういう人もでてくる

現代は大きな組織に機構に会社でも東電のような国並の会社に社会が牛耳られる
そういう会社は国でも官僚でも警察でも官僚でも支配できる:マスコミも莫大な宣伝費を払い原発推進した,金で社会を動かし支配できるのである。
その大きなもが社会に大きな弊害をもたらす,だから大きなものが社会にとっていいとは限らない,病院は必要でもそれを補完するものがかえって今では有効になっているのかもしれない,なぜならそうしたし大きなもの国がかかわるようなものが制度疲労を起こしているからだ,もう複雑な社会に対処できなくなっている
職務質問しても検挙率は10パーセントくらいしかない,警察でも複雑な社会に犯罪でも対処できなくなっている

いづれにしろこうした大きな社会のインフラというかそうしたものが制度疲労を起こしている,そしてこうした大きなものを制度を機構組織を建物を維持するのには莫大な金がかかる,国ではだからもう病院を維持できないとするとき国がつぶれるような金が老人医療などにかかる,それは主に病院を維持するためにそうなっている
国で維持するようなものが役所でも警察でも病院でも学校でもその他福祉施設でも制度疲労を起こしている,それによって国はもうまかなえない,今度は消費税10パーセントにして教育費を無料にするというがそれもいいようでまたそうした制度とか機構に組織に国で金を使うことになる,むしろ塾とか小規模な教育機関などに援助したらいいのかもしれない。民間の小規模な医療機関を充実するとかの方が効果的なのかもしれない。大きな政府はいらないというとき制度疲労を起こしているからただ国で上からの官僚からの支持ですると金ばかりかかり効果を上げられない
そして国民の負担のみがふえて国もつぶれるようなっているのである。

銀行でもつぶれるとなると国の税金が使われる,それを監督するのは国だけど国の責任は問われない,そのツケは国民に税金の無駄使いとしてはねかかり消費税が上げられる
誰かの不始末はみんな国で引き受けそして国民がその責任をとらされる
それが現代の社会であり仕組みである,それが原発事故で一番明らかになったのである。
タグ:制度疲労

2017年09月29日

巨大なる機構会社などが機能不全に陥る社会 (そして恐竜のように自滅してゆく?)


巨大なる機構会社などが機能不全に陥る社会

(そして恐竜のように自滅してゆく?)


肥大化した組織が自壊する5つの理由と、小さな組織の台頭

明治維新後は近代化であらゆるものが国家の役割をにない,国家のために富国強兵を目的として社会が変えられた,強力な中央集権国家になった
それは対外的に外国と対抗するためである。
警察でも中央集権国家の中で侍に代わり生まれたものである。
軍隊も明治以降は国家の軍隊として生まれたのである。
藩の時代は藩中心の軍だった
つまり明治時代以降は国家中心の国家のために尽くすものとして社会が変えられたのである。
江戸幕府時代の藩をなくして廃藩置県にして四民平等しにしたのもそうである。
西南戦争で国民軍が西郷隆盛のひきいる武士集団に勝ったことで国民の軍隊となった
明治からは強力な中央集権国家に変貌したのだ
言葉でも標準語に変えられた,明治維新後は欧米とか列強と戦うための強力な中央集権国家になっていた,その継続としてアメリカとの熾烈な戦いがあり敗れたのである。

まず江戸時代は国家は意識しない,天皇も意識しない,それぞれの藩が国だったのであるだから国家意識をもつことはない,
天皇などは地方では知らないということもあったろうそれが強力な中央集権国家になったとき天皇が国の中心となり太平洋戦争に向かったのである。
明治以降は国家のために生きていたのであり一般的に個々人の価値観に生きることは許されないことがあった

だから絹を生産するのも国力を充実させるためでありその輸出で外貨を稼ぎ軍事力の増大に使っていたのである。国家のためにと働かせられていたのである。
一に国家,二に国家,三に家があったのかもしれない,その家も国家に尽くすものとしての家だった,戦後の家父長制は国家の意向が働いていたのである。

戦後はそうした国家のためにという価値観は否定されてきた,そして今度は企業戦士となり会社のために働くようになり高度成長時代を築いたのである。
でもやはり中央集権国家というのは制度に残っていたのである。
地方でも国家から中央から地方交付税とかを配布されるから経済的に中央が支配する体制ができあがっていた
そしてあらゆる分野で国家が関与する,官僚がその税金を使うようになった

それが警察でもそうであり医療関係でも病院であれ福祉施設であれ銀行でも国家が関与して経営する,国民健康保険自体が国家が運営するものだからである。
だから教育でも明治以降は学校制度ができて中央集権の国家のために尽くすように作られた,学校自体が国家のためにあったのが明治以降なのである。
寺子小屋だったらそれはただ読み書きそろばんを習うだけであり国家など関係しないし,江戸時代などは村が中心であり国家など関係していないのである。

そういう巨大な国家運営するための機関が組織が肥大化する,その巨大機構が機能不全に陥ってくる,制度疲労を起こしてきているのが現代である。
巨大なものの危険はあまに巨大化して肥大化してそれで社会までおしつぶしてしまう。
東電なども国家並の巨大企業でありそれは福島の一地域に原発を造った時,事故となり住めなくなった
それは国家が地方などつぶしてしまう力を持っていた
それは巨大なるがゆえにそうなったのである。

巨大なるものの危険性はそうして自然でも一地域でも破壊する力を持つことである。
そして巨大なるものは巨大なるが故に自ら制御できなくなる,結果的に原発事故のようにメルトダウンして何もできない,そこには人は住めなくなる
それはあたかも恐竜のようにも見える
恐竜は巨大なることの故に自滅したのである。かえってネズミのようなものが盛んに動き回り適地に逃れて生き延びた,恐竜は巨大なるが故に動くのも遅いし小回りがきかないから自滅したとなる

国でも必ずしも大きな国がアメリカでも中国でもロシアでもそうだが強いとも限らない
なぜ北朝鮮のような小国を相手にアメリカが右往左往しているのか?
それは核だと大国に対等に対抗できるからである。アメリカでも一発核弾頭がうちこまれたら大被害になるからである。
だからアメリカでも中国でも大国が必ずしも強いとかならない

そこには巨大なるがゆえの弱点が生まれる,小回りがきかないとかまとまりがないとかなる,それは大企業でも同じである。小回りがきかないから時代に適応できない
ネズミはこまわりがきいて動き回るから自然災害からも逃れられたとなる
巨大なるものは強いようで弱点をもっているのである。
日本は小さいにしてもまとまりがあり小回りがきくとか大国にはない強みをもてる
だからその利点を活かせば大国にも抗することができる
なんでも大きなものが有利とはならないのがこの世界なのである。

いづれにしろ巨大機構は機能不全に陥ってゆく,警察だって巨大な機構だけど個々のこまかい対応はできなくなっている,
病院は肥大化してただ税金を使い国をつぶすまでになっている,
国家の巨大機関が機能しなくなる,官僚はただ税金の無駄使いするだけだとかなる,それは国家が巨大でありこまわりがきかない,大きな政府より小さな政府がいいというとき税金の無駄使いなどなくなるからである。
何でも政府で無償化というとき無料のことではない,必ず税金でまかなうことなのである。
政府ではとにかく税金でまかなうほかない,公務員とか官僚でも別にかせぐ組織でないからである。
いづれにしろ現代の制度疲労化した社会は何かの拍子に自壊するかもしれない
それが原発事故でもあった,原発の内部を知るものは一人もいない
吉田所長も肝心の復水器があることを知らなかった,それは水を流して原子炉を緊急に冷やすものでありそれを知らないとは致命的にもなっていたのである。

原発は巨大だから複雑だからそれを誰も制御できなくなりメルトダウンした,現代の社会も同じようなことが起きてくる,巨大な機構でも会社でも機能不全に陥ってゆく
そして手がつけられなくなり自壊するのである。
たから今度は警察機構が崩壊したら機能不全に陥ったら自警団を組織するとかなるかもしれない。学校が崩壊したら自主学習の小規模の塾に通うかもしれない。
銀行がつぶれたら小規模の金融組織が作られて地域に機能するかもしれない。
マスコミだとインターネットのyoutubeのようなほぼ個人で放送できるものがかえって繁栄する
大きいだけがすべていいとはならない,小さいものには小さいものの良さがある
そういう社会そのものの転換期が明治維新から140年とかすぎてきている
制度疲労はもう機能不全になり腎不全のようになってしまうかもしれない
それは死を意味しているのである。

2017年10月12日

権力が闇を作る-陰謀論になる (権力によって真実は隠蔽される)


権力が闇を作る-陰謀論になる

(権力によって真実は隠蔽される)

いん ぺい  【隠蔽・陰蔽】

ある物を他の物で覆い隠すこと。見られては都合の悪い物事を隠すこと。 「陣地を−する」 「事実を−する」 〔類義の語に「隠匿」があるが、「隠匿」は隠してはいけないものをひそかに隠す意を表す。それに対して「隠蔽」は都合の悪い物事故意に隠す意を表す〕


なぜ陰謀論になるのかというと権力のことがわからないからである。一体誰が権力をもってそれを実行できるのか?
これが庶民にはわからない,だから江戸時代の時代劇でも役人がいてその背後さらに大きな権力をもつ上役がいてその人は表に出てこない黒幕としてある
闇の中に本当の権力をもった人がいるとる

世界的になるとさらに一体この世界を動かしているのは誰なのか?
それはさらにわかりえようがないのある。
するとロックフェラーだとロスチャイルドとかユダヤ人だかといろいろ陰謀論になる
最後には遂に不可解になりそれはサタンであり悪魔がこの世を支配しているとなる
サタンに操られているのがこの世だとなる,陰謀論の帰結はそうなる
なぜならその闇の主とは誰なのか?それはサタンだとなるのだ

そもそもこの世で権力をもつ力を持つものはサタンに魂を売ったものだと言うときそうなる,キリストはそれでこの世のものをサタンから与えると言われたとき拒否した
でもたいがいはサタンの申し出を拒否したりしない
人間には欲望がありその欲望故にサタンに操られるのである。
もし人間に欲がなかったらサタンも無力になってしまうのである。
人間に欲望があるからサタンはこの世で王となっているのである。

カルト宗教団体などは宗教を装っているがサタンに魂を売った団体である。
悪魔に魂を売りそして自分達の欲望を達成するための団体である。
宗教というのはその仮面なのである。
創価などは目的は権力をとり自分たちの欲望を達成することを目的としている
もう毎日選挙のことしかない,拝むのもフレンド票を得るためである。
その票をもって権力にかかわり社会を動かすためにだけある
その数でもって権力をもち恐れさせるのである。

宗教だと罪の恐れだとか良心の呵責だとか関係しているがそういうものは一切ない
一票とることが至上命令でありそれで成仏するとまでなっているからカルトなのである。
他でも宗教団体はそうして悪魔に魂を売っている団体なのである。
宗教も悪魔にのっとられているのがこの世なのである。
第一そんなに大勢の人が入っていることはすでに俗化している
大衆化している,そこでは崇高なものを追及することなどありえないのである。
だから現代のカルト宗教団体から崇高なものは何も生まれない
ただ政治化経済化しているだけの宗教とは何の関係もない団体である。

平安仏教などは貴族の仏教として批判されるがやはりその時ですら何か世俗を離れたもの崇高なものを追及するものがあった,平安仏教という時代があったからだ
それはやはり一つの文化を形成したのである。鎌倉仏教でもそうである。
その後江戸時代になると仏教は武家の付属品となり役所と化して死んだ
江戸時代をみると平安仏教とか鎌倉の武士の仏教文化とか何か残したものがないからである。ただ死者の供養となり侍の菩提寺となっただけである。

なぜ権力が闇になるのか?
原発事故を追及してきたが政府と東電は10メートルもの津浪が来ることを科学者が予想していたのである。それで政府は対策をしなかったから事故になったと賠償請求の裁判で勝訴した。
そうして権力によって肝心なものが隠されているからこそこういう問題が起きた
もし10メートルもの津浪が来るということを公にして問題にしたらどうなったのか?

津浪でそのことを知っているからいち早く逃げて多くの命が助かった

なぜならこの辺では津浪が来ないというのが確信とまでなっていたからである。
だから何か隠すことが権力者にとっていいことのように見えるが実は違っていた
そのことを公にしていれば多くの人命を救ったとまでなったかもしれないのだ。
ところがそれを隠したのは津浪対策をしたくない,金がかかるからしたくないということで隠していたのである。
何か権力を持っていると不利なことは隠せる,ところがそれが甚大な被害になる

報道関係もそうした権力をもつものが隠したものを暴くのが仕事なのだけどしなかった
結局権力に従うだけの機関だった,福島民報でも50パーセントが県が出資する官報にすぎなかった,何の自主性もないのである。
聖教新聞を刷っているいるし東電から宣伝費ももらっていたから何も追及しない,ただ原発推進になるだけだったのである。

権力は闇になるというとき一党独裁になるともう権力の闇を追及することはできなくなる阿部首相がそうである。自分たちの仲間だけにその分け前を与える,国の財産を与える
そういうことができてしまうのが権力なのである。
警察も権力側につくからさらに権力は闇化する
警察も正義の味方などではない,その権力も闇なのである。
天皇の権力も闇でありそれを批判するものもいる
それは誰が本当に権力をもって動かしているのかわからないからである。
江戸時代の時代劇のように頭巾をかぶって黒幕は顔をださないからである。
だからこそいろいろと陰謀論になるのである。

そしてこの世からそうした闇が払われるのか?
それは永遠にない,それはこの世が滅びてからしかありえないのである。
人間は欲で滅びるというとき人間から欲がなくなることはないからである。
そこにサタンはつけいってくるからである。
金が欲しくない人間もいない,すると金に支配されるのである。
その金をもつものがロックフェラーだとかロスチャイルドとかユダヤ人だとかなる
今の世の中を支配するものは昔と違って武力ではない,金になっているからである。
だからドルが世界の通貨となっているとアメリカが世界を支配しているとなるからだ
ドルはアフリカの果てから砂漠の果てまで通用するからである
つまりアメリカの支配の力は軍事力だけではないドルが世界で通用するとういことにもある

世界中が何でも金で買えるとなる時代である。それで中国人で一人っ子政策で女性が少なくなり結婚できない男性が苦労していた,大金持ちだったら若い子でも寄ってくる結婚できるとなげていた,女性でも要求するのは金だけだとと言っていた
それは世界的にそうなってしまっているのである。
人間の関係が金しかなくなっている,男女の関係でもそうである。
別にその男性は金がないわけでもない,ある方である。でももっと金持ちの人がいるから大金持ちだったら若い子がよってくる結婚できると言っている
金だけではない別な基準があってもいいはずだが現実にはない
若い人はもう金だけの世界になると贅沢すると貧乏したくないとか遊びたいとなる

共産主義とか社会主義の価値観はもともとそういうものではなかったはずである。
結局資本主義的価値観の世界になっている,金があれば何でも買える,人の心も買えるとまでなっている,それはまたサタンに支配されているともなる
金を否定してみても現代を生きるのには否定できない
金があると実際に心にも余裕ができる,金がないと余裕ももていなのが資本主義社会なのである。
第一困ったとき金がないと助けるコミニュティも今はない,隣近所も助けるなどしない時代である。家族すら金の関係にもなる,そういう社会はまちがっている
金は否定できないにしても何か人間的価値観をとりもどし追及すべきだとなる
そういう変換点に来ているのが現代なのである。

ベーシックインカムなどは思想としては理想としてはいい,現実に自分は実行している
その人は家に来てすることはほとんど何もない,家事は全部自分がしているからである。皿洗うとしても二三枚であり一日おきなのである。
していることは小さな畑である。そこで毎日草むしりしている,なにやかにやとある。
そこにも金がかかり収穫はわずかだから他人に与えるものなどない,自分もキュウリ二三本しかもらっていないのである。
ただその人がしたいことは家事ではない,畑なのである。それで金をもらえるから自分の家に来ているだけである。
それは自分がベーシックインカムを実行しているとなるのだ
ベーシックインカムとはその人がしたいことがあればする,したくなければしないともなる,では誰も働かなくなるのかとなるとそうでもなき,その人は草むしりなど不満を言っても畑仕事が好きだしする,そしてその人の価値はまさにその畑仕事をすることにあった畑仕事しないとしたらその人の価値はないとなる

社会に余裕がでてくればベーシックインカムが具体性を帯びてくる,それも理想だけどみんな社蓄だとか奴隷だとか言って働きたくないのに働くのは健康的にも良くないし社会的にも暗くするのである。それは働きたくないのに働いているからである。
畑仕事している女性は文句は言っても農業が好きだからしているのである。
ただそれでは金にはならない,でもベーシックインカムだったらできるとなるからだ

2017年10月29日

社会の仕組みがどうなっているのかわからない (民主主義社会に生活ししていてもわからない)


社会の仕組みがどうなっているのかわからない

(民主主義社会に生活ししていてもわからない)


人間はつくづく社会に生きることが何なのか,どういう社会に生きているのかわからない基本的にそういうことがわからないとしたら生きることがむずかしくなる
学校ではなぜあれほど勉強しろとか受験競争とかなったのか?
それは今の社会を生きるために楽して生きるためにそうなった
親が底辺だったのは学歴がないからだとか地位が得られないのは月給が安いのもそのためだとかなる,それで大学でもいい大学に入れば大企業に入れて楽して金になるとなる

勉強の動機は明治から福沢諭吉の立身出世主義になったのである。学問とは立身出世のためであり学問して得した楽な生活を送りたいということでそうなった
何か真理の追究とかもともとあった学問は功利主義の学問になった
利を得るためのものであり利にならない学問はいらないとなったのである。
それで文系はいらないともなってきたのである。

警察のことを取り上げたが警察というのがどういう仕組みになっているのか?
一番トップにいる人は検察でありその人たちは法律家であり司法試験に受かった人なのである。司法試験を受かるということ自体がすでに警察のトップになれるということであるそれは腕力とか体力でとない法律に通暁した人がトップになり警察を支配するのである。侍の時代だったら腕力であり武力がものいう時代だった,力持ちが村でも能力あるものとして認められていた,なぜなら機械がない時代は力仕事をするのに米俵でもかつげる力持ちでないとできないからである。

警察でも現場の警察官は体育系の体力がある腕力が強い人がなる,それは現場では腕力が必要になる,犯罪者を体力で力で捕らえることが必要になるからだ
体力で威圧する必要がある,でも現実に警察を支配しているのはそうした腕力あるとかの人ではない,法律に通じた人なのである。その資格を持った人なのである。
すると社会を知っていれば上に立ちたければ法律を勉強しろとなるのだ
密接に警察と結びついていて警察官僚になるには法律の資格が司法試験を受かっていなければなれないからである。そこで東大閥とかが形成される

上に立つというとき今は腕力でない,頭脳であり知力であり腕力は低いものにみられる
それで子供の時から勉強しろ勉強しろとなるのだ
例えば建築現場で働くものは肉体労働だから辛いことがある,体力がないとできないことがある,でも設計とかしていればそれは肉体労働ではないから楽だし給料を高いとなるのが現代だからである。
そして機械によって肉体労働は価値なくなる傾向にあるのも現代である。
すると機械を作る人間の方が価値あるとなる

また逆に体力がないものは勉強した方がいいとなる,体力があるものは建築現場でもどこでも一応働けるから食べていけるが体力のないものはできないとなるからそういうことを自分自身のことがわかっていれば自ずと勉強するようになっていた
自分も体力がないからそうして勉強すれば良かったとなるが自分のことがわからないと
社会に出て苦労することになるのである。

こういう社会の仕組みを知っていれば自ずと勉強した方が得だとなる,警察でも上にたつの上で命令するのは司法試験を受かった人達であり体力があっても上には立てないからだそんな理屈ばかりを言う人を無視しろというのもある,でもその人は現実社会をわかっていないのである。その人が警察官だったとしたらそうした上の人に命令されて動く人だからである。

民主主義社会に生きていて民主主義のことがわからないのである。
三権分立があり司法,議会,行政に分かれている,司法は法律で決める場所であり議会は法律を決める所であり行政はその法律を執行する場だとなる
そしたら法律がいかに重要な役割を果たしているかとなる,法を決めて法で動いている社会だともなる,その法を無視して民主主義社会は成り立たないのである。
法律が絶対ではない,ただ一応法律に基づいて社会を運営するとなるのが民主主義社会なのである。

特に文系の場合はどういう職業と結びつくのかわかりにくい,ただ法律関係だと警察という官僚組織にトップに立つというたとがイメージできているしわかりやすいとなる
でも経済学部とかいろいろあるけど文系はどういう職業につくために勉強しているのか社会と直接結びつかないのである。だから遊んでいるだけの無駄だとなる
ただ人間は無駄にも効用がありそれですべていらないとはならない

そもそも学問自体何なのかとというときそれは広範囲な人生全般にかかわるものである。大学とかないと時代は境界とか僧院とかが学ぶ場だった,そこでは社会で得するために学ぶとかではない求道心があって学んでいた,修行する場だったのである。
そこは実学の場所ではなかった,そういうものがなくなったとき大学が就職のためにとかなったのである。

いづれにしろこの社会がどういうものなのか?その仕組みもわからない,民主主義社会といっても言葉だけであり現実に社会の仕組みもわからない
だから警察官でも法律を知らないし法律を無視するような発言になる
でも現実は警察は法律を無視してありえないのである。第一警察機構を支配しているのは司法試験を受かった検察官だからである。法律を知っている人が警察官を動かしているのである。

「法秩序を守るための仕事をしている人」は、「法の番人」に入ると思います。
役所用語で「法執行機関」というと、だいたい捜査や調査をしている機関のことで、警察海上保安官や国税査察、税関、証券取引等監視委員会、公正取引委員会も入ります

法の番人が警察であり警官であるときその人が法を無視していたら法治国家も民主主義も成り立たないのである。

強すぎる司法権 (検察官僚が実質の支配者)


強すぎる司法権

(検察官僚が実質の支配者)


今回の小池百合子の排除の言葉でもそれを良しとする人達と悪いという人達がいる
良しとする人達は右寄りの人に多く悪いという人達は左の人達に多かった
そしてマスコミは悪いとして小池百合子を攻撃したのである。
希望の党を民進党が乗っ取り小池百合子にあやかりあわや政権交代をも目指したのであるだからマスコミにとって民進党の候補者の排除は許されなかったのである。
ただマスコミはみんな中立として見ていたのである。
自分もそうだったしみんなもそうである。でもネットでそうした右寄りの意見が多く出ているので考えるようになったのである。
マスコミは左によって占拠されていてかたよって報道していたのである。
だからあれほどの小池百合子の攻撃になったのである。

だから考えさせるというときかえって反対のことを言うとき考えさせる,考えるきっかけになる,同じようなことを同調することを聞いていたら考えることはないのである。
だから議論することデベートすることは考えることになるから有効なのである。

いづれにしろ民主主義社会では自ら考えることが不可欠な社会である。
でもそれが教育でも社会でも成されていない,考える訓練が成されていない
するとただ同調することだけになりファシズムへと容易に転換してしまうのである
ファシズムは人間を考えなくさせるものだからである。
カルト宗教団体ではそうなっている,そしてマスコミも考えさせないメデアなのである。
なぜならマスコミはただ事実を報道するのではない,何を報道するかも選んでいるし自分たちの主張を通すために報道している,そして巧妙に報道を操作している
記者クラブでも一部の左寄りの人達だけをクローズアップして写していたという
記者クラブ自体が官報であり利権団体化しているにすぎないというときそれは政府の権力側の都合のいいものとして使われているだけだとなる
こうしてテレビを見ている人にはわからないように操作しているのである。
だから知らない間にテレビを見ていると洗脳される,テレビは考えさせないメデアなのである。
ただ自分は今回の選挙では比例は希望の党に入れた,なぜか?

別に排除することはいいことだとネットで右寄りの人達が言っていたからである。
排除を嫌ったのはマスコミであり別にそれなりに筋を通したものだったのである
だから小池百合子は謝る必要がないというのもうなづけたのである。
自分は右でも左でもなく,民主主義社会には政権交代があるべきでありそれは保守の二大政党のようなものの方がいいと思ったからである。
民主主義社会には政権交代があって成り立つのでありなければ一党独裁であり全体主義社会ファシズム社会となるからだ

ネットではいろいろな情報がでてくる,それを読んでいた方が真実に近づける

官僚独裁国家・大日本官僚帝国の官僚の恐怖政治を支える2本の柱が、 
「警察と検察と裁判所が役人の同士として完全にグルになった司法暴力」、 
「記者クラブという報道情報独占利権と平均年収1500万円の特権階級を保証された 
日本の御用マスコミの第4の腐敗権力」だ。 

日本国民が官僚を潰そうと選挙でどんな反官僚の政治家を当選させようと、 
事実上、「司法暴力」と「第4の腐敗権力」を支配する官僚権力が、 
「国会議員の立法権」も「総理大臣の行政権」も脅しをかけて従える事ができる。 

「国民の意思」である選挙も、 
「司法暴力の国策捜査」と「御用マスコミの偏向報道」で 
官僚に都合の悪い政党や候補者を悪徳政党や汚職政治家に仕立て上げて落選させれば、 
幾らでも官僚権力が操ることができる。 

この国の実態は「民主主義国家・日本」ではなく、 
「官僚の恐怖政治が支配する警察国家・大日本官僚帝国」なんだよ。

なぜこれほど司法権が強いのか?それは警察という暴力装置と密接に結びついているからである。議員とか行政でもそうした暴力装置とは結びついていないからかえって司法の力が強いとなり自治体が警察に脅されたことでもわかる
権力の実体は警察権力に露骨に現れているのである。誰でも警察とはかかわりたくないというときもそうだし議員でも行政でも警察を恐れているからだ
それは警察は逮捕することもできるし実行する権力をもっているからである。

現代社会は権力を持っているのが露骨に見えにくいのである。
それで本当は議員などは何の権力ももっていない,もっていたのは東電の幹部のような目立たない人だったというのもそうである。検察官僚も天下りしていたからである。
警察でも必ずしも現場の警官が権力をもっているとは限らない,検察官僚が司法を司る人が実際の権力をにぎっている,警官ばかりに注目するが実際の陰の権力者は検察官僚だとなる,そうなると社会を支配する側に立ちたいなら法律を勉強して検察官になれともなる警官はただ上の検察官に従うだけだとなるからだ。



2017年11月08日

名誉棄損だった職務質問 (公衆の面前でされたから)


名誉棄損だった職務質問

(公衆の面前でされたから)

今回野球の試合があるということでバスが野球場まで出ていた
そういう人が集まるとき警察官が二人来て自分も職務質問したのである。
それはあやしい人がいると通報があったからだとなる
そのことは書いた

これまで何回も職務質問されているが今回は事情がまるで違っていた
あやしいと通報されたことは与那国島で経験している
木蔭に休んでいるからととうい理由だったのである。
与那国島は閉鎖された島だからそうなったのだろう
その時公衆はいない,一対一である。
その時警察官は村の人が通報すれば来なくてはならないのですと
実際は来たくないようなことを言っていた
木蔭に休んでいるからあやしいとはならないからである。

今回がなぜ名誉毀損になるのかというと公衆の面前で職務質問に来たからである。
すると周りの人はどうみるのか?
この人の変な人なのかと見られてしまのうである。
自分は駅に一回限り来ているものとは違っている
実際は半年くらい駅に通いみていたのである。
無人駅になったので教えることもあり通っていたのである。

だから知っている人は知っていた,特に前の自転車屋の人は親しいから知っていて
弁護してくれた,他の人もあやしい人ではないですよ言ってくれたのである。
でも身体検査とかカメラの検査とか強引にしたのである。
だから今回は今までの職務質問とはかなり違ったものである。

つまり名誉棄損になることであった,公衆の面前でされたことそして公共のためにしていることが職務質問によって阻害されたことなのである。
これはかなり大きなことである
ボランティアには何も法的保護がないと嘆いているのもわかった
ボランティアは例え公共のために尽くしていても認められないことがある
ただあいつは何しているのだとあやしいと見られるだけのこともある

名誉棄損というときいくら盗まれてもその人のことを何人かに言うとかえって訴えられることもある
その人は別に法的に裁かれていないから何もしていないのに罪を犯していないのにと訴えられることがあるのだ:つまり名誉棄損になるのだ
これも変なのだけと犯罪者が守られているのである。
だからそうして法律を利用してつけいる人も多いとなる

なぜ自分がこのことにこだわるのかというと駅に自由に出入りできないようにもなったからである,誰かまたあやしいと通報して警官がくるのをおびえるようになる
これによって公共的活動が阻害されたのである。
そのことが一番怒りになったのである。

今も駅に行って道案内などはしているが長くいない,それは誰かが通報するということで不安になるからである。
大げさかもしれないが検察は権力をもっている,だからその権力の使いようが問題になる権力を持つということはそれだけ慎重になるべきことである。
その権力を行使することがどういう影響を与えるかわからない場合があるからだ
権力を行使するときは慎重になるべきなのである。

ただ現実は職務質問はただ強引にされているけど何もできなのが現状なのである。
それは相手が権力をもっているからである。
だから警官でも恐れさせるために名前を聞いたり不当な職務質問には訴えるとか抵抗しないと横暴な職務質問はとめられないのである。
ただそこまでやるとなるとかなりめんどうになるからみんなしていないのである。

だけど強制で見せろと言われた時にその理由を述べろと言って不審な物が入ってないか調べたいと言われたら、そこまで人を疑って何もありませんでしたで申し訳ありませんだけで済ましませんよ。名誉毀損で訴えますよ!なんていうのは有りですかね?しかも周りにたくさんの人がいて恥をかかされるわけですからなんらで訴える事ってできますか?

この人の答えは警察官が答えているのと同じである。警察官には職務質問する絶対的権利があるとなり訴えても無駄と言っている
本当にそうなのだろうか?

周りにこくさんの人がいて恥をかかせられたというのは自分と共通している
自分の場合はたいしたことがないにしろ公共のためにボランティアをしていたからであるそれが阻害されたことで怒っているのである。
ただもう職務質問は警察の絶対的権利であり逆うことはできないとここでは議論になったそれに答えているのは警官ではないかと思った

例えば公衆の面前ではない,あとでこっそり対面的に職務質問していれば良かったかもしれない,そうあれば公衆の面前ではないから被害がそれほどない
公衆の面前でしたことが問題だったからである。
いづれにしろ職務質問はもう警察の絶対的権利でありこれに逆らうことは不可能だとまでなっている,いくらそうなっていても納得できないのである。
それは権力の横暴にしか見えないのである。

2017年12月23日

自己責任は弱者に対して言われる (権力もっているものこそ責任は問われるべき)


自己責任は弱者に対して言われる

(権力もっているものこそ責任は問われるべき)

民主主義社会というとき自由と個々の権利とかを追及する社会である。ただ権利をもつと責任をもたされる社会でもある,権利というのは明治に翻訳されたが元は権理だったのである。理があり権利が生まれるということである。
リーゾナブルなものとして権利が生まれた,でも翻訳すると日本では利だけが強調される権利はライトだから正しいということでもそうである。
戦後民主主義は利だけを個々が極端に追及してそれにともなう責任とか義務はないがしろにされたのである。
権利が与えられれば義務も責任もともなうのである。

自己責任はそこからもともと発しているのである,例えば政治でも江戸時代なら庶民は「見ざる,聞かざる,言わざる」だから権利もないが責任もない,それで政治には必ず不満があるから一揆が起きた,それは命懸けだったのである。
すべてお上の命令のままに生きていた時代である。そこには権利も責任もなかったとなるその権利を実現するには命懸けの一揆であり暴力革命しかなかった
世界史は暴力革命の歴史である。不満分子が暴力でしか政治を正すことができなかったからである。選挙などないからである。

だから庶民に一票が与えられたとき庶民に権利が与えられたから責任と義務が生じた
それで政治家のことをいろいろ文句言ってもそれはお前たち選んだ政治家だから政治家が悪いわけではないとなるのである。
その政治家を選んだ庶民が市民が悪いのだとなる
つま権利が与えられると責任が生じるのである。

そして責任は権力をもつものがとらねばならない,なぜなら権力をもつことは大きな責任をもつことなのである。権力がもたなかったら何もできないからである。
権力というときいろいろあるが金は資本主義社会では最大の権力である
金を持つだけで資本主義社会では大きな権力でありあらゆるものを得ることができる仕組みになっている

自分は何の権力ももっていなかった,ただ遺産相続して金を自由にできたとき権力をもったのである。そこでもめたというのも権力に対して金だけを一人じめにするなとなるからである。お前だけの遺産ではないとか兄弟間とかでもなって骨肉の争いとなる
逆に金を自由にできないものは権力がない,だからかえって責任がないともなる
その金を自由にできる使うことができる人は大きな責任をになっていることになる
だから金に対して周りでもうるさいのは金をどうその人が使うかと見ているからである。
自己責任というとき権力がないものに自己責任をおしつけるのは問題である。
金を多くもてばそれを何に使うかで責任が問われる,放蕩して遊ぶだけに使ったりしたらいくら自分の金だからといって周りでは許さないということもある
金を見る眼はみんな厳しいからである。
なぜなら働いても働いても金にならない人が膨大にいる,するとその人たちは金のある人に対して不満になるからだ,金はその人だけでは稼げないものだからである。


だから資本主義社会では金がもつ度合いに比例して権力をもつことによって責任がある
10億円もてば10億円の責任が生まれ一億もてば一億の責任が生まれる
その金のないものは責任はないのである。江戸時代では十両盗んだら首が切られたと同じである。
自己責任論となると何か貧乏な人は貧乏になったのは自己責任だと弱者に対して必ず言われる,それも一理あるのだが強者に対しては自己責任論は言われないのである。

原発事故でも国の官僚とか政治家,科学者とか東電の幹部とか大きな責任があったけど
何の罰も与えられていない,その人たちこそ罰せられるべきだけどされない
そして地元の人達も原発で金が入ったのだから自己責任だとしきりに言われるのも変なのである。もちろん地元では金,金,金・・・だったということもあり責任はあった
でも本当の責任は権力をもっていたものにある,原発を作ったものに責任がある

自己責任は弱者について言われることが多いのである。もちろん例えば麻生大臣が老人で健康でないものは自己責任があるというのもそうである。
自分も不摂生するからそれには明かに自己責任がある,それで国の金を国民の金で援助するのは理不尽だという,つまり自己責任というとき自己責任だけで完結しないから他者の迷惑になるから自己責任を言うのである。
健康とかもただ自分自身のためだけではない,家族のためでもあり社会のためにも健康には気をつけろとなる

そして弱者とは何かというときこれも例えになるがそれは卑近な日常の生活にもある
買い物すると失敗が多い,家電量販店でレジを買ったときもそうである。
いろいろなレンジが並んでいたがどれを選んでいいかわからない,でも店の人は良く説明しないのである。そして選ぶのは自己責任になり3万の買ったけどそれは一万のと何ら変わりなかった,どれがいいかは選ぶのは自己責任ですよとなる,それを買って失敗したとしても誰も責任はとらないのである。
でも通販だとレビューがありその品物の評価がでているから情報が与えられているから選ぶとき失敗しない面はある,店だと店の方で売りたいものを売るとなるからである。
銀行だと銀行のもうけになる投資信託を売るとなるからである。
そこに売る者と買う者のは対等ではないのである。

情報でも対等だったら自己責任論は生まれない,マスコミが今まで責任があったのは六局しか報道できなかったからである。それで第3の権力と言われたのである。
それがインターネットが生まれたとき情報の平等が生まれた,個々人でも発信できるからである。情報も自由に与えたり発信できなければ自己責任といってももち得ようがないのである。知らないのだからもち得ようがないのである。

原発事故でも知らされないからこそ責任は上の支配者層にあったとなる,また専門知識となると放射能のことなど説明されてもわからないからまた専門家によって支配される

「あなたは核のことがわかるんですか」
そう問われるとわからないから専門家の言う通りにされる
「あなたは法律のことがわかるんですか」
これも同じで専門家の言う通りにされる
「あなたは医学のことがわかるのですか」
こういわれて無力化される
「あなたは株や投資信託のことがわかるのですか」
これもまた同じである。

でも逆に

「あなた方専門家は核のことをすべて知っているのですか」
これに自信をもって言える人は実際はなかったのである。
「株や投資信託のすべてわかるのですか?」

銀行員でも専門家でもわからないですよといっているのだから実際はこれもリスクがあり専門家がすべてわかっているわけではないのである。
もし全能の神のようにすべてわかっていればそんなことを問わないのである。

だから何でも自己責任は確実にある,でも全部が全部自己責任にはなりえないのである。すでに権力を持つものと権力をもたないものでは自己責任は相当に差がある
権力ももつものこそその責任を厳しく問われるはずだが弱者に対して自己責任が問われる正されるのは本末転倒だとなる
ただ健康とか個々の生活で人生で自己責任はあるし問われる
でも自己責任論はそうして権力もつもつものには問われず弱者に対して問われるのであるそれは権力者にとっては好都合になるからだ,金があるものは金のない貧乏人は自己責任だと言っていればいいし責められずにすむからである。

ともかく人間は全能の神ではないのだからすべての責任をもちえようがない,
必ずミスもある,だからミスを前提にしてしか責任はもてない,だから原発の「安全神話」は神のように事故は起きないと言っていたから問題だった
そして誰も責任はとらずただ地元の人は被害を受けて責任をとらされたのである。
そこにも自己責任はあったとしても一番の責任は原発を運営した人達だったのである。

2018年01月12日

昨日の痴漢冤罪のテレビドラマの批評 (今の社会で怖いのは警察と病院)


昨日の痴漢冤罪のテレビドラマの批評

(今の社会で怖いのは警察と病院)


このドラマは複雑だけど現代を象徴しているものだった,警察と病院が舞台になっていたからである。
最初は痴漢冤罪だけだと思ったがその背景に病院がからんでいたのである。
まず日本の有罪率が99パーセントとかほとんどが有罪になっているのはおかしいというのは本当である。

こうした警察当局を増長させたのが司法である。日本の刑事裁判の有罪率が99.9%を超えていることは異常だ。先進諸国では7〜8割程度であり、日本では「起訴されたら有罪確定」と考えて間違いない。それだけ無実の罪で服役する(あるいは死刑になる)者も多いはずだ。

そもそも人間はどんな人でもミスを犯す,だから裁判でも人間は公平に裁判できない
人を裁き罪に帰することは最高にむずかしいものとなる,だから神は裁くなと言ったのである。裁くなというより人間は人間を裁けないからそうなった
だから日本では有罪率が高いというときすでに起訴した時点で裁きがついているとなる
そういう事案しか扱わないともなっている
でも本当は人間にはミスがあるのだから冤罪も確実に起きる
それだからこそ外国では7割くらいしか有罪にされないのである。
もちろん弁護してまた誤って罪悪人を無罪にすることもある
これも人間はミスをするからそうなる,でもそれも有罪率99・9バーセンというのはありえない数字だともなる,その中に確実に冤罪があるからだ

ともかく痴漢冤罪というときこれは女性が訴えだけで有罪になるというのも不公平となる女性の権利は格段に主張され法的にも実行力もつものとなった
その権利を逆手にとり男性をおとしいれる悪い女性も出てくる
ちょっと手を触れただけでも訴えられ有罪にされ社会的に抹殺されることは怖いことである。女性の権利が余りにも強くなった結果,男性は結婚がめんどうだとかなり少子化の一員にもなっている,結婚することは女性が断然に有利になっているからである。
少子化の原因はこういうところにもあった,女性は今はいろんな点で守られているのである。女性は大目に見られ犯罪にしても警察は女性には甘いのである。

この痴漢冤罪の背景は病院にあった,病院の院長がホームレスの男性を手術する必要がないのに手術して死なせた,それは生活保護だと手術すると金が入るからである。
だから手術する必要もないのに手術したのである。
ここに病院の怖さがある,生活保護とか身寄りがないとかなるとこの世は一見やさしいようで非情化する,そういう人は病院は恐怖の場所になる
実験材料にもされる,現実に自分が入院した市立病院では隣の福祉施設に入っている患者をおもちゃのように扱っていた
痰がつまってそれを治療するとき苦しんでいたがそれを面白がっていたのである。
その他病院には怖いところがある,確かに治療するにしても病院は無機質な空間であり情に欠けた空間なのである。
だから病院は刑務所のように思えた,見はり役が医者であり看護師であった
その人の言う通りにしなければならなからだ
医者は病院では拒むことのできない絶対的権力をもっているからだ
なぜ医者がこれほど敬われ力をもっているのか?
それは命をあづけるから何も言えないからである。

このドラマのテーマは警官がその痴漢した人を逮捕したのだがそれに疑問をもち独自に探り冤罪を晴らしたのである。
その背景に病院がからんでいたのである。その冤罪した人は病院にとって都合の悪い人だから痴漢にされて逮捕されたのである。それは仕組まれた罠だったのである。
そこで警官は苦悶するのだがどうしても良心があり冤罪にしたら自分が警官をやっていけないとして弁護士を頼み冤罪の証拠を探して遂に病院の院長の悪事を暴いたのである。
でも一警官がそこまでするのは相当に抵抗があり仲間からも注意された
上からの圧力もあった、でも押し切って痴漢冤罪を晴らしたのである。

ただ現実はそうはいかない,むしろ警察は怖い場所であり冤罪にできる権力をもっている検察と警察は今の社会では実行力あるのだから一番力を持っているから怖いのである。
他は会社であれ何であれ実行力がないからそうはならない
そして警官と医者と看護師は頭を下げない,患者様とか言うが現実は病院では頭を下げない,職務質問でも上から権力で拒否できないようになっている
警官に検察には逆らえないのである。
だから今の世の中で一番怖いのは警官と病院の医師とか看護師になる
そこはだからかえって悪が露骨になる
時代劇でも役人が悪人だとそれが露骨に権力を笠にきて威張っているのと同じである。
権力があるから何でもできるということにもなりかねないのである。
実際に実行力があるのが権力でありなければ怖がらないのである。
戦時中では一番威張っていたのは軍人だったという
現在は警官と医者とか看護師とかなる,これには逆らえないからである。
病院長の言い分としてはホームレスを手術したのは生活保護から金を得るためだという
そして優秀な医師や看護師を雇うのには金が必要だからだという
そこに必ずコストの問題が生じる,医も算術だとなっているのが現代だからともなる

このドラマは現代の問題を浮き彫りにした,過度な痴漢の摘発であり法の解釈である。
あまりにも女性側にたちすぎる結果として起きているということもある
それがひいては今度は少子化の原因にもなる,みんな女性に対して怖がるとういことさえある,ちょっと触ったら社会から抹殺されるとなると近づくことさえできないとまでなるそうなると結婚はめんどうだとかなりしない人が出てくるから少子化の原因にもっている何かと女性の権利が強くなりうるさくなっているし人間の善意すらはばまれる
そういう窮屈な社会にも反面なったのが現代なのである。

タグ:痴漢冤罪

2018年02月08日

老人は時代の大きな変化についていけない (今まで信用していたものが信用できない)


老人は時代の大きな変化についていけない

(今まで信用していたものが信用できない)


津浪から原発事故で経験したことは何なのか?
それは信用の崩壊だったのである。
なぜなら原発は安全だ安全だと「安全神話」まで作られていたからである。
その安全神話を作ってきたのは政治家であり官僚であり大企業であり科学者でありマスコミだったのである。
それらが一挙に信用を失った,もう信じられないとなった
科学者も事故は起きない,原発は安全だと言っていたしマスコミは巨額の宣伝費をもらっていた,だから原発の安全神話が作られた

それは日本の戦争の時と同じだった
日本は神国だから負けないという神話を信じていて戦争していたのである。
それは政治家であれ官僚であれ大企業であれ科学者でも技術者でも全勢力が戦争に向かっていた,日本は負けないのだという神話が形成されていたのである。
だからその時日本が負けるとか言うと危険人物にされていたのである。
この辺でもみんながそうすりこまれて利益を得ているから原発は安全なのかとか疑問をもち口にだすと危険人物にされていたし住むことさえできなくなっていた
なぜならみんななんらか三分の一とかは原発にかかわり利益を得ていたからそうなった

そういう今まで信用していたものに対して信用が失われた,それが致命的である,そうなると何を言っても信じられないとなる
そうした人達が指導したものが信じられないとなる
その不信感は簡単にぬぐいされない,一旦犯罪にあうとだまされたりすると人は信じられなくなる,信じようにも信じられなくなる
本当にそうなると信頼を回復することは至難になるのだ
一旦信用を失ったらもう回復することは不可能に近くになる

そういうことが今まで信用していたものが信じられなくなるのも時代なのだろう
時代が変わるからこれまで既得権を得ていたものが総崩れになってゆく
銀行のことを言ってきたがこれも地銀などはもう存続できない状態になっていたのだ
だからなりふりかまわず投資信託とか株とかをすすめる,そして手数料だけはもらう,それもアメリカだったら0、03とか率が低いのに日本ではとにかく手数料が高い
3パーセントとか高い,そして証券会社からも手数料がとられ税金もとられる
だからもうかることはまれなのである。

なぜそういう商品を売りつけるようになったのか?
銀行がもうける先がない,金を貸してもうける先がなくてそうなった
地銀などは信用第一であり地元では信頼されるエリート集団だったのである。
それで人も律儀で固い職業であり信用される人達だったのである。
それがまるで変わってしまって証券会社の一支店化していたのである。
その変化も大きかったし自分は気づかなかった
そのことはyoutubeとかで盛んに放送されている
youtubeはあまり見ていなかったがこれは今まではとは違う
信頼できて学習機能があると思って今は毎日見ている
テレビよりいろいろと勉強になるのである。
情報分野でも常に変化しているから追いつくことができなくなる

地銀は既得権益化して政府の補助金とかで生き延びてきた,もうマイナス金利でそれもできないから窮地にたたされた,地銀の合併が要求されるし金融庁からも株とか投資信託をすすめるのはひかえろとか警告されるようになった
ただそうして地銀が地方から消えたらどうなるのか?
有力な就職先がなくなる,すると地方は疲弊するともなる
地方にはいい就職先がないから地銀などはいい就職先であり安定していたからである。
そういうものがなくなると地方はますますま衰退することになる

この世の中を成り立たせているのは信用だというときその信用がなくなるときどうなるのか?
この金をもっていて通用するのか?ドルも世界で通用していたが本当に通用するのか?
これは紙切れではないか?何かそうした根本的なところでも信用を失うと世界は破綻する
資本主義がそれでもう終わりだという人が増えている
それはほんの一部の者に富が独占される,奪われるシステムでありそんなものいらない,信用できないとなり機能しなくなる
今の地銀がそれを象徴していたのである。
こういうことは時代の変革期には次々に起きてくるのかもしれない
今までの既得権者は明治維新の時のように侍はその特権を失い新たに職を見つけなければならなくなる,新しい時代に適合した職を見つけなければならない
そういうことが資本主義社会の要の銀行で起きていたのである。

つくづくこういう時代は老人は不利である。時代の変化についていけないのである。
パソコンは20年くらいしてきたからできるにしてもそれだってスマホの時代になるとまた違ってくる
ただyoutubeは内容が濃いし信用性が高い,匿名でもない,顔も出しているから今までとは違う,学習能力が高いのである。
これによってかなりの信頼できる情報をえる,得るだけではなく学習できる
マスコミだとテレビだとか一方的であり学習機能がない
何回も見れることで記憶して再考して学習できることが違っている
自分がしている抽象画も無数にあるインターネット上の写真とか絵とかから変形して作っている,これも自分でしていて不思議だとなる
これもインターネット時代に生まれた芸術だともなる

いづれにしろ時代が変わるとき産みの苦しみがある,それがいたるところで起きてくる
それが時代が大きく変わる時だからそうなっている
易性革命とは天変地異が起こり政治でも変わらざるを得なくなった
津浪とかもそういう働きをしたのである。
明治維新の時,太平洋戦争で日本が完全に負けたときそして津浪原発事故とか資本主義が終わりを迎えるとかになる
そういう時代の変化の節目が70年ごとに起きていたのだ
それは一面苦しいものとなる,一方で新しい日本を作る再生するものともできる
それはこれからの若い人たちの肩にかかってくるのだ
老人はそうした重荷をとても負いないからだ
ただこれまで生きたことで各自が何かを教え与えることはできるのである。

2018年03月31日

国家は何のためにあるのか? (富裕層をまもるためにある?)


国家は何のためにあるのか?

(富裕層をまもるためにある?)

国家というのはなんのためにあるのか,国家とは何なのか?国家と民族は違うともいう。
日本の場合は国家と民族が一体化しているのは特異なのである。
大きな国家は様々な民族の集合体だからである。
ロシアでも中国でもアメリカでも多民族国家であり民族=国家ではない

国家の歴史をたどれば国家は軍人が作ったものである。
武力で作られたものである。奈良時代でも貴族は天皇守る兵士に由来していることでもわかる,天皇のために死ぬものとして守護するものとしてあった

海うみ行ゆかば 水み漬づく屍かばね
山やま行ゆかば 草くさ生むす屍かばね
大おほ君きみの 辺へにこそ死しなめ
かへりみはせじ
(長閑のどには死しなじ)

それは太平洋戦争でも日本を鼓舞するものしとて利用されたのである。
ただ天皇の場合は権力者とは違っている
ただ天皇でも支配階級側につくものであり守護するものを必要としていたのである。

人間はまず群れをなして生活する,村は群れるから名付けられたとすればそうである。
村というのは最初の国家だったのである。
人間が群れて存在するというときトーテムがあり猿族,犬族とかあり群れがそれぞれ分かれて暮らしていた,でもその群れ同士が何かの理由で狩猟していればその獲物の取り合いで争いになる
何かしたら人間には争いの種は尽きることがないのである。
犬猿の仲というがまさに猿族と犬族も人間になると争うのである。

資源とか財産とか富をめぐって争うのが一番人間では多い
丸森には名前のように豊富な森林資源がありそこで米沢藩と伊達藩と相馬藩が三つ巴の争いをしていたことは有名である。
そして入会権のある森林資源をめぐって戦国時代が生まれたという説もあながち否定できないのである。
木材資源がそれだけ大きな資源だったからである。
今なら石油資源をめぐって中東で熾烈な戦争があるのとにている
そういうことは人間社会である限り変わらずにある
そういう争いは変わらないからわかりやすいのである。

では兵士が国を作ったとして何を守ろうとしていたのか?
それは当時の支配層の富を守ろうとしていた
それはやはり土地であり森林資源であり何か財産となりうるものである。
そういうものを所有していることは奪われる対象になる
女性もまた略奪されることがあり守る必要がある
遊牧民社会ではそういうことは普通に行われていたからである。
羊でも常に奪われるし牛でも奪われる
つまり盗まれるということである。
財産をもつものは常に奪われるという危険がある
だからどうして財産を守るかが問題になる

個人的にも大金持ちになると都会では高い塀をめぐらしているとか今でもある
ブラジルとかメキシコとかでも大金持ちがいてその人たちは財産を守るために私兵を雇っているのである。そこは一つの小国家なのである。
大国家とはその小国家が発展したものなのである。
要するに財産をもつことはそれを奪われることが盗まれることが常に心配になるのだ
それを守るためにはどうするかが問題になり高い塀をめぐらしたり私兵を雇うことになるそれが国家のはじまりだともなる

貧民から国家は生まれないだろう,支配階級があり国家が生まれる
支配階級の富を守るために国家が生まれる,支配階級が財産を守るために軍隊を作るとなる
だから会津ではあれだけ白虎隊とか美化されているけど城の外に住んでいた人は全く城が萌えることで薩摩長州軍が侵略することでも無関心だったのである。
また庶民は被害をある程度はあったとしても受けなかった,殺されるとういことはなかった,それで会津が落城してなくなるときヤーヤー一揆が起きたのである。

農民、特に戦場にならなかった地域の人々にとっては、かねてからの重税や物産の専売制度による搾取に加え、藩主松平容保が京都守護職として上洛して以来、その経費を賄うために行われてきた増税に対する不満に一気に火をつけることになった。9月22日(1868年11月6日)、会津藩が明治政府に降伏すると、たちまち藩政崩壊による権力の空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した
B8%96%E7%9B%B4%E3%81%97%E4%B8%80%E6%8F%86

かえって城の落城を喜んでいた,これこそ重税とかの日頃の恨みを晴らす機会ととらえていたのである。
貧民と金持ちの関係も同じである。支配者が金持ちが弱体化するとそれが狙い目となり責めてくる,日頃の不満が一気に爆発する,これが人間の歴史の真実でもあった
だから会津武士道とか美化する一方なのもどうかなと思う
回りの庶民にとって武士道など関係なかったのである。
ただ重税にあえいでいたからその負担を減らすために好機となり一揆を起こしたのである
では日本の戦争ではなぜあれほど国家に忠誠を三百万人も犠牲になったのか?
それはただ日本の財産を守るためだけではないとうことは言える
なぜならそこには膨大な貧民が兵士として参戦していたからである。
江戸時代までは貴族を守るための軍隊であり国民の軍隊ではなかったからである。

ただ基本的には支配階級の財産を守るために国家が生まれる
太宰治の家は大地主だった,それで小作から搾取していたので小作の反乱を恐れていた
それで警官に金をやり高いレンガの塀を作って反乱して攻めてくることに備えていたのである。富裕層は財産を守るためにそうするのである。

中国でも共産党の幹部は莫大な富を貯えた,するとどうしてその財産を守るのかと心配する,だから海外に金をもちだすための算段をしている
支配階級もまた膨大な貧民の反乱を恐れているのである。
現実に膨大な反乱暴動は小規模でも起きている,それが報道されないだけだとなる
中国がネットげて盛んに分裂すると言われるのも今度は利権争いであり軍区で争うことになる,軍人が共産党では最大の権力なのである。
軍隊はそもそもそうした支配階級の財産を守るためにあるのが基本である。
だから支配階級に雇われる,でもやがて軍人が事実上の権力をもつとういことで支配者になる,それが共産党では露骨なのである。
共産主義が平等を目指していても極端な格差社会になった

人間の心理として一旦富をもつと金でも減らしたくないのである。
そういう心理が働く,それは例えは一億円もっていても十億円もっていても減らしたくないということでは同じなのである。
だから金を持っている老人でも減らしたくない,今利子がつかないから使わないとなる
ただ老人の金は増えることはない減るだけだからである。
それで老人は消費しないのである。
そんなこと贅沢だというときそれが人間の心理なのである。
財産があれば富を守りたいとなる,それで保守化するのである。
だから革命というとき明治維新でもそうだが支配階級は保守になる
侍でも下級武士がいてその人たちは貧乏だったのである。
だから明治維新では下級武士が革命を起こしたのである。
殿様とかは今の地位を守りたいとなるからそなん革命は起こし得ないのである。

「たとえ政権の正当性が全住民に浸透していなくても,体制そのものに結びつくエリートたち,とりわけ支配政党や軍隊や警察などの強圧権力を一手ににぎっているエリートたちのところでその正当性がゆらぎはじめないかぎり,その政権は危機に陥ることはない
政権をうまく機能させてゆくにはこれらエリートたち団結が不可欠でありそして独裁制度における正統性の危機というのはこのエリート集団内の危機にほかならない」
(歴史の終わり、フランシスフクヤマ)

こういうことは中国で起きている,軍区のエリートたちが分裂して反乱する危機にある
共産党の政権の権力は軍隊に支えられているからだ
選挙もないから軍隊の力関係によって権力の行方が決められるのである。
それは内戦でしか決着がつかないともなるのである。

2018年04月01日

国家とは何か(2) (多国籍企業が国家を消滅させる?東電は国(クニ)を破壊した)


国家とは何か(2)

(多国籍企業が国家を消滅させる?東電は国(クニ)を破壊した)

トランプとアマゾンの対立の裏側にいったい何があるのか

ここのサイトは毎日読んでいる、一貫した主張があるから反対することがあっても読んでいる,何か主張するとき首尾一貫したものがないと訴えるものがなくなる
だから別に右でも左でも首尾一貫していることが大事なのである

ここでは多国籍企業が国家を消滅させる,それに反対しているのがトランプだから対立するとなる,アマゾンは世界中にあっても商売する国に税金を払わないと責める
そして多国籍企業はみなそうであり国家を越えて商売するから国家はもう消滅するという
それもそういうグローバル化経済の中で起きてきたことである。
国家の力が弱くなり多国籍企業が国家の役割をするともここでは主張している
ということは今国家とは何かがあらためて問われることになる

多国籍企業が国家の役割をになうことはできないと私は思う
企業とは車を作るとかいろいろな物を作り売るにしてもそれは全体から見れば一部のことである。
ただ宮城県のある町ではトヨタの部品など製造して半分が村の収入になる,するとトヨタ村になる,原発事故でわかったように浪江町でも双葉町でも大熊,富岡などその周辺の町は東電村のようになっていたのとにている
東電を多国籍企業として見ることもできるのである。

でも私の考えではそもそも国とは何かとなればそれはその土地の中で空間と時間の中で形成されたアイディンティティ化されたものである。
そこに多国籍企業が入り東電村と町になるのは人間の文化の破壊なのである。
結果的に原発事故で町とか村とかそのもの全体が破壊された,消失させられた
時間軸で築かれた歴史も消失した,代々受け継がれた土地でもそこは不毛の土地となり
先祖は見捨てられ荒地と化した

それは結局村でも町でも時間軸で形成された歴史がありそういうものが政府と一体化した東電によって破壊されたのである。
多国籍企業がまさに国家ではないが一地域の時間軸でアイディンティティ化された世界を一挙に破壊したのである。
それだけ一会社が多国籍企業も国家より大きなものとなり社会を支配する力をもったのが現代だとはなる

アメリカの軍需産業が巨大だから国家を左右する,武器をいくら作っても売れないとなれば戦争して消費してくれともなる怖さが多国籍企業が国家の代りになればそうなる
そこで国家とは何かということが問われているのである。
そのわかりやすい例として多国籍企業が国家の代わりをするとこの辺のように一旦事故が起きたら住むことさえできなくなる
それはあまりにも一企業の力が大きくなりすぎたからなのである。
政府自体がすでに電力会社の言うままであり電力会社の一部門のようになっていたのである。
政府の官僚や検察が天下り先として東電が有力なものとしてあった
それだけ東電は国並の力を持っていたのである。

国家というとき何なのか?経済だけから見たのが国家なのか?
地域から見ればその地域に積み重ねられた歴史がどこにでもある
だから国家の前は国(くに)が国家であり江戸時代になると藩が国になる
日本国とか日本人とは意識しにくい,そこに無理が生まれる
国を守ろうという時,国は江戸時代の藩のような単位でありそこで国意識がありお国訛りがありアイディンティティ化した社会に生きていたのである。

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし 倭建命

くにのまほろば・・・というとき青山に囲まれた所を国として意識していたのである。
それは自然からイメージされた意識化された国である。
そもそもヤマトとは一地域の名前が日本国まで拡大したことでもわかる
国とは今の日本全国のようなものしとて意識されていないのである。
日本全国を国として意識することはむずかしいからである。

愛国心というとき日本全国から起きていない,倭建命(ヤマトタケル)でも国として意識したとき青がき山に囲まれた美しい場所を国として意識した
それは自然と結びついた国である。国家というと行政単位のようにも感じる
自然と自ずから形成されたのが自然村であり国(クニ))であり人工的に作られたのが国家だとなる
国家というとき経済力とか軍事力だけが国家として強調されるが自然村としての国としては意識されないのである。
多国籍企業からも自然の中に生きてきた人間は意識されないのである。
そしてそういうことをグローバルにおしすすめるとどうなるのか?
原発事故でこの辺が住めなくなって荒地化廃墟化したようになる
空間と時間軸で形成されたものが一挙に失うのである。

多国籍企業は現代に最近できたものであるが国の歴史はどこでも古い,民族の歴史も古いそれが一時的なものである多国籍企業が国家の代わりなどなりえないのである。
それは経済からしか世界を見ていないからである。
ダークネスでも株の世界からしか見てないなというふうに見る
国とは経済だけで成り立っているものではない,空間と時間軸で積み重ねられてきたものがある

一自動車会社とか薬会社とかIT会社とか何か現代に突出した生産力のある消費されるものでその国を席巻する,それが多国籍企業だとするとそういうものは国ではありえない
いくら大きくてもそういう一会社の社員として従属することがそこに命までかけることができなるのか?
戦争の是非があるがやはり命をかけてまで守るものが一企業にあるのか?
国には異論はあるが命をかけて守るとういことは以前としてある
もし多国籍企業が国の代わりになるなら国の歴史は否定される
ただ国家がなくて経済だけの世界になる
その時一番力をももつものは金だとなる,貨幣だとなる、それでユダヤ人が世界を支配するのだとか言う,またはイルミナティがそうしているのだともいう
国がなくなり世界を支配するのは経済だけを追及するのに都合がいいからである。

ともかく今や国家といっても企業の交渉役が政府だとかなる,企業の代弁するものが下僕になっているのが国家だとなる
だから国家とは何かとなれば経済力でありGDPであり軍事力とかになってしまう
中国でも共産党幹部が巨万の富を築いた,そしたらその人たちは多国籍企業と同じである国はもうけるためのものでありそこで貧民がいくらいようと関係ない,そういう人達が反乱したら国を脱出する,そのために財産を外国に移しておくとかなる
家族は子供はアメリカ国籍をとっておくとかなっているとしたらそういう人達は国などないのである。多国籍企業でただ利益をあげるものとしての国家なのである。

大和しうるわし・・・というときそういうふうに感じられるのが国である。
だから大都会東京などを国とは感じない,それは経済力だけの国なのである。
国の基は美しい自然がありそこに人間の営みが代々つづけられた場所だとなる
それを破壊するものは外国とは限らない,多国籍企業であり東電のような大企業でもあったことが原発事故で証明されたのである。




2018年06月15日

人殺し医療(ベンジャミンフルホードを読む) (巨大企業が現代社会を世界を牛耳る)


人殺し医療(ベンジャミンフルホードを読む)

(巨大企業が現代社会を世界を牛耳る)


>たかが〈肺炎〉で年間12万人死亡する疎の訳は

>どうしして肺炎が死因の第4位なのか

>実は肺炎感染につながっているのがいわゆる〈院内感染)である

知っている人が63歳くらいで肺炎で死んだ
肺炎で死ぬ人が多いことは確かである。
肺炎がそんなに怖い病気なのかという認識がない
癌ならあるが肺炎にはない、それも不思議である。

肺炎が院内感染だというとき自分も病院で40度の熱が三日くらいつづいて出た
何か病院は危険な場所なのである。
院内感染で耐性菌は抗生物質がきかない、そういうことも関係している

医療ギルドの形成

>すべての医療行為は「西洋医学」の傘下に組み込まれ西洋医学の価値館、考え方のみが>「正しい」とされそれ以外は非科学的で野蛮とされた

日本は江戸時代以降過度に西洋かぶれになってしまってこれまであった価値観を否定した、日本の場合それは極端なのである。
漢方とか蘭学とかあり医療をしていた伝統を捨てたのである。
一段低いものとして見るようになった
だからそもそも江戸時代のことがわからないのはこうして明治にすべて西洋のものが価値がありこれまであったものがまるで価値のないものとしたからである。
江戸時代と明治時代では歴史の連続性が絶たれたのである
その影響は非常に大きいと思う
それは別に医療の分野だけではせない日本文化全体の問題である。
例えば政治でもなぜ朝鮮とかアジア進出を吉田松陰などが明治維新の時に主張したのか?そのことが太平洋戦争に通じていたのである。
江戸時代では朝鮮通信使とかあって友好関係にあったからだ

また江戸時代は健康的な生活をしていたと指摘するときもそうである。
とくに現代と全く違うのは当時の人は怪我や病気に対して(完治)目指していなかった
まず日常生活に復帰すればらしとしていた病気と怪我とつきあいながらゆっくりと完治をめざす、これを(養成)とい

江戸時代だと今から比べるとあらゆるものが遅れているというふうに見る、ところがそれは明治以降に極端に変化して西洋化された結果なのである。
最近江戸がなぜ繁栄したかというnhkの番組で格差社会になったが金持ちの商人が米蔵まで作り貧乏人を助ける組織を作っていたとか江戸時代にはいろいろな日本人の知恵がありそれがあって明治維新もできたという、つまり江戸時代のことはあらゆることで劣っているとすりこまれてしまったのである。
だから漢方とか何か今まであったものがインチキ臭いとなる、それは自分にしてもそうなっている、だからそうした教育の洗脳は恐ろしいのである。
東洋医学はあったとしてもそれは補助としての一段劣ったもはのとしてしか見られていないのである。

それは日本でもあまりにも西洋一辺党になってしまったからである
だから日本の文化は明治以降歴史の継続性が絶たれたのである。
江戸時代がなぜこれほど日本に住んでいてまるで異国のようにわからなくなったのはそのためなのである。
だから自分は国風文化の再興を言ってきたのである
東洋でも日本の良さがあり伝統があり見直すべきだとでもそれがむずかしいのは日本にはそうした伝統的なものが失われてしまったからである。

過剰な医療が薬でもそれは医薬品会社と結びついている、それでいらない薬をうりつけてもうけていくる、それは世界的組織化して会社がもうける仕組みを作っている
それはフリーメーソン、石工の組織と同じだという、石工は城などを作るとして建築を受け持つから秘密に通じたりするからギルドとして力をもっていた
医師会のギルドは強固である、政治も従わざるを得ない、それは患者のためというより医師会のためであり医師会の利益のためであり医者の利益のためだとなる

それは他の会社ともにている、巨大な企業が社会をギルドと化して支配する
多国籍企業でもそうである、原発事故を起こした東電でもそうである。
もうそうした巨大企業に一自治体では対抗できないのである。
だから巨大企業が事故を起こしたりすると今回のように被害も甚大になる
それはそもそも巨大企業は政府とも政治化して結託しているからである。
それは医療の世界でもそうでありそれが世界の構造になっているからだ
アメリカが軍需企業と一体であり戦争を望んでいるというときもそうである
銀行だってそういう世界的システムの中で資本主義を支配するものとなる
現代は政治とか国の力は弱体化して巨大企業に多国籍企業に支配されているのが現実なのである。

それだ医療でも国民の税金の負担が膨大になる原因なのである。
もうその負担に耐えられなくなる,それはこうして医薬品会社とか医者とかギルド制となり過剰な医療をしているからである。
もちろん延命治療とかにはむずかしい面があるから一概に言えないにしても過剰治療で国が潰れるまでになっているのは
医療のギルド制がありそれは大企業でもあり組織化して無駄に金を使われて吸い上げられているともなる
それは個々の医者とか病院の問題ではなくそうした体制そのものにもあるとてるからだ



読書の方法

本の読み方としてこうしてパソコン通信のように答える作業するのがいい
ただ漠然として読んでいても読んだことにならないからだ
答える作業が必要なのである。それはフログなどでもそうである。
何か自分で答えてゆく作業が必要である。
そうしないと実際は読んだことにはならないのである。
なぜなら膨大な本があってもただ積んでいるだけだったとなるからだ

本は自分の文脈の中で取り入れ消化するべきものなのである。
だからネットでこうして書けるのがいいのである。
自分がこうして書いているのは書きながら考えるということがある
だから書くということは理解するのに効果的なのである。
それで読んでくれる人があるということはまた励みにもなる
自分はこうしてこれだけ書き続けているのはそのためなのである。

2018年06月20日

権力の謎 (人の弱さから権力が生まれる)

権力の謎

(人の弱さから権力が生まれる)

権力がどうして生まれのか?暴力が権力になる、戦争で勝てば権力をもつということが人間の歴史だった、それは今でもある、暴力団がいるのは暴力で権力を持つからだ
でも権力は暴力だけではない,知識とかほかにもいろいろな要素で権力をもつことができる

例えば科学も権力の大きな要素である、ひめこが日食を予言して権力をもったというときとき科学の力で権力を持った、科学は権力を持つ大きな要素だから現代では科学技術社会となり科学者が神官のようになったのである。

なぜ仏教がこれほど栄えたのか?会津などでは異常に多いし薬師堂はどこでもある
仏教がこれほど普及したのは病気を治すことができないから神仏に祈ることになったためである
今でもなぜカルト教団がこれほどの人を集めているのか?
それもやはり病気が原因していることがある
直らない病気がありその為に神仏に頼ることになる
山伏とか法印とかは小さな地域に必ず一人くらいいた、その人の役目は何だったのかとなると病気を直す加持祈祷だったことでもわかる

なぜカトリックなどが権力を持ったのか?
これは科学技術ではない、神のことを司ることで権力をもった、天国に行くか地獄に行くかを僧侶が決めるとなれば当然それで権力をもつ
天国への鍵をもっているのは僧侶ではない、牧師でもない
ただそれをあるように見せていただけなのである。
カルト教団では成仏とかに異常にこだわるのもそのためである
それは日本でもそもそもなぜ奈良とか京都であれほど仏教が栄えたのか?
僧侶が権力をもったのかとなる
そのために信長は権力をもつ僧侶集団と戦わざるを得なかった

権力とは何かというとき様々な要素があるからわからない、権力を持つのが表だっては政治家が権力があるように見える、でも実際の権力は政治家にあるだろうか?
実際の権力は大企業にある、企業という存在は何かを産みだす力をもった集団である
東電だったら電気を産みだすから力をもつ、そこに検察から官僚でも天下りする
東電の力がどれほど大きいものだったか?
それは原発事故でわかった、その権力があまりにも大きいので小さな地域と自治体などつぶされるような巨大なものだったのである。

疑問なのはなぜ銀行とか何も産みださない作らないものが大きな権力をもつようになったのか?いくら金の世の中で金さえあればいいとなっても何も産みださな作り出さないものが権力をもちうるだろうか?
銀行でも今金を貸す先がなくなって窮地に追い込まれている
それは銀行が何も産みださない作り出さないからである。
企業なら何かを産みだし作り出して利益を出す、銀行にはそもそもそういうことがないからである。つまり金をもっていてもそれで何かを作り出すわけではない
紙幣はいくらでも紙なのだから作れる、それで豊かになるかといったらならない
金が何かを物を産んだり作り出したりしないからである
もしそうだったらこれほど楽な商売はないからである。

なぜ石工の団体がフリーメーソンが力をもったのか権力をもったのか?
それは城でも教会でも作る力をもっていたからである。
そして秘密をにぎるということもあり実質の権力を持ったとなる
だから何も産みださない僧侶とかが権力をもったというのがわからない
今になると僧侶はあからさまに穀つぶしだとされるからである。
ただお経を唱えているだけで何か役にたっているのか、産みだしているのかとなるからだそれは医療でも科学技術に頼るようになったからである。

理系と文系を考えると理系の人は何かを産みだし作り出している人たちである。
文系の人はそうではない、例えばマスコミにしても実際は何も産みだしたり作り出していない、車でも電気でも建築物でも作り出さてい、ただ口八丁で力をもっているともなる
だから実質の力は東電などの大企業にありそこから800億円もの金が宣伝費としてもらっていたのである。
文系は何も作り出さないということで批判されることもわかる
芸術関係だと美を産みだしているということはある、でも実質何も産みだして作り出していない、農民だって漁民だって食料を作り出しているとなるがマスコミが何か産みだして作り出しているとはならない

だから権力と何がというときいろいろな要素がある、医療関係では薬の会社が世界的に大きな力をもつ、結果的にいらない薬まで使用させられ巨額の税金が医療関係に使われるのである。何か恐怖をあおり効かない薬を飲まされたりされる
それは医者と結託していらない薬でも使用させられる
医者の言うことは聞かねばならないからそうなる
でもそれは実質的に病気を直す薬も産みだし作り出しているから権力を持つのである。

人間はなんらかの弱みを必ずもつ、すると権力をもつようになる
弱者化するとカルト教団がその弱さにつけこんで会員を増やすようにする
人間は悪質であり弱者化すると食い物にされるのである。
そういうことを自分が介護と病気で苦しんだとき経験した
助けるということは一切ない、ただその弱さにつけこむことしかなかったのである。

カルト教団でも政治団体でもそうした弱者を利用する、一見助けるようでもその弱者を利用して権力をもちたいだけなのである。だから権力を追求していることでは変わりないのである。権力をもつ立場にあれば役得があり利権も得られるからである。
だからこの世の中は変わらないのである。
なぜ変わらないのか?権力から脱することができないからである。
理想の社会は権力なき社会である。権力があるかぎりそこに必ず不正が生まれるし権力によって社会は歪められるからだ
かといってそんな社会はこの世に出現しないから絶望的なのである
だから権力というとき個々人の弱さから生まれているということもあるからだ
なぜなら個々人で病気にもならない、金にも困ることがない、何が困ることがない、弱みがなかったら権力も生まれないからである。

タグ:権力の謎

2018年07月02日

利権ばかり追求する巨大組織会社により歪められる (権利はrightであり日本にも中国にもその意味はない)

  利権ばかり追求する巨大組織会社により歪められる

 (権利はrightであり日本にも中国にもその意味はない)

権利という言葉を意味する西洋語は「権利≒法」として用いられており、そこに「正しさ」を意味する点で「権利」という言葉とは決定的に異なっているようです。

権利という訳は何か本来の意味とは違っていた、権とは力ずくで得るという漢字に由来しているというときもこの漢字をもってきたことは問題があった
ただ訳しようがないのでこの訳にした
権利は権理とも訳されていた、ここにresonableという意味が入れば本来の意味に近づくともなる

ヨ−ロッパの文明が入ってきたとき明治維新に日本人はいろいろとまどった
選挙のことでも札入れとかとして理解した、日本にないものだからあるものからイメージするほかなかったからだ
銀行が日本になかったといってもその前進となるもの無尽とか頼母子講とかの相互互助の組織が作られた、それで近くの人の古い家柄なので親立・・・とかの書類が残っていて
その家は信頼される古い家なので親になっていたのである。

だから今の時代は何でも巨大化して本来それがどういうことで成り立ったのか?
どういう趣旨ではじめられたのか?それもわからない、銀行でも証券会社でもそういうものを理解しにくいのである。
そして今や銀行が窮地に追い込まれるときどうするのかというときその成り立ちから考える必要がある,銀行の前進が頼母子講だというときそれは相互扶助の地域の仲間の集まりから生まれたのである。地銀とか信用組合でもそうである。
それはグローバル化で世界の株式市場に参加するときもう理解できないものとなる

つまり現代文明は巨大化であり巨大組織化である、それは世界的に拡大する組織である
その時その意味を理解することが不可能になる
もうそこには人間的な血と情も通わなくなる、金と数字の世界だけになる
統計の世界になり人間のすべては数値化したものとして見るだけになる
世界的貨幣経済になればそうならざるをえない,物でも食料でもいちいちそれがどうしてできたのか、その苦労を語らせたらきりがなくなる

昔の市場だったらこれは苦労して作ったとか栽培したとか語られる
だから高く買ってくれとなる、そういう人間的な場として市があった
そこに市の面白さがあった、今はスーパ−で無数の商品があっても売る人はそれがどうして作られたかなど知らないのである。
ただ生協の人が回ってきてこの豆腐は特別作ったものだか卵も餌を選んで作ったものですよとか言うとき、生協ではそうして作ることを委託しているから説明てきたのである。
スーパーだとそういうことが一切聞けないのである。

江戸時代だとあらゆるものに人間の情とかが通っていた世界である。
もちろん江戸時代を理想化することは危険でもある
つまり過去は理想化される、死者も一旦死ぬと何なのかわからなくなり神格化しやすくなる、それで歴史も誤解が多くなる、たいしたことがない人物でも祭り上げられる
司馬遼太郎は坂本竜馬や吉田松陰を小説で英雄にしたてたのである。
それは史実ではないのだけど一般の人は史実など調べないし興味ないからそれを信じるのである、でも小説でも物語でも真実はふくまれている
良く時代劇で火事で家族が別れ離れになった子供が孤児になったことなどがドラマにするがそれだけ江戸などは火事が多いからありえたことなのである。
焼け焦げた骨格が掘り出されて生々しいものとして見る

権利というとき明治以降に私的所有権が認められたとき無数に個々人の権利が主張されて細分化されて昔の入会権が消失した、その時逆に公共的なものとして山を管理できなくなったのである。土地の私的所有は土地バブルとして一時東京辺りで大問題になった
土地の公有制が失われた私権の権利化したからである
また権利を反対にすれば利権になる、権利はrightより利権として日本では理解したのである。権利を主張することは利権を主張することになった
そのことが戦後の民主主義でもすべてが権利を利権を主張することになったのである。

大組織となるとそこは巨大な利権が動く場であり利権しか見えなくなる
それが原発でもそうなった、それは何十兆円とかの金が動く想像もできない利権だったのである。その利権のために政治家が動き官僚が動きマスコミが動いたのである。
そして安全神話作られたのである。800億円もの金がマスコミに宣伝費として流れた
その利権が莫大なものとしてありそれによって動かされる、right(正しさ)によっては動かない、ただ利権によって動く、それが権利だとなるからだ
そこにすべての歪める基があった、巨大会社は組織は利権によって権利によって動いている、カルト教団が宗教で信仰で動いているというのではない
そこも数を集めて利権をえ得るための団体なのである。
なぜそれほどに数を集めることにどこも奔走しているのか?
それは民主主義が数が権力だからである。田中首相が政治は金と数だといったときまさにそうだった、宗教でも頭数をそろえれば権利を主張できて利権を得ることになる

そこで何が起きてくるのか?すべてが利権で動き権利を主張するとき何が起きてくるのかrightは無視されて社会は歪められる、医療にしても医者とか病院とか薬業界は利権で動く、そして無駄な薬を飲まされる、利権として結びつきそうなる
それはあらゆるところで起きている
利権だけを主張すれば公正な報道はできない、マスコミも利権で動くから原発では公正な報道すらできないし大事なことを報道すらしなかったのである。

権の意味は

いきおい。ちから。「権威」「権力」 Aおもり。はかりの分銅。「権衡」 Bはかる。はかりごと。もくろみ。「権謀」  Dかり。かりそめ。便宜的な処置。「権化(ゴンゲ)」 Eそえ。正に対する副のもの。「権(ゴン)大納言」

権という意味にはrightという意味がないのである。中国の政治的な横暴の意味が強い
巨大な組織は会社でも政治組織でもカルト宗教団体でも権力をもつから権利をもち主張できる、それは医療業界でもそうであり漁業組合でも農協でもそうである
漁業権の問題を論じたが正当なrightはそこになかった
そもそも漁業権はそういう趣旨で与えられていないなかったからである。
ではなぜそれが法律的に許されたのか?
それは政治家が東電が権力を利権をもっていたからである。その権でもって押し通すことができたからである。

もし法律家でも法律でもって正当性をrightを追求したら漁業権はありえない
漁業権は資源の保護とか別な趣旨で与えられていたからである。
それが通ったのは漁業組合が権力をもって要求できたからだとなる
でも法律でrightをreasonを追求したらありえないことだった
それだけではない、なぜ原発が建てられたかというときそれも原発を建てる土地を提供したものと県の権力で命令で建てられたというのも法律的にもありえないことだった
その時そういう法律はなかったから立法なかったから権力があるものが何でも押し通すことができたとなる
法律とはrightを追求する時理由なき権力の横暴を抑制するものとして成立したのではないか?皮肉なことは弁護士でも検察でも今はそれがないという
99パ―セントが有罪になっているとか検察も利権化して出世争いのためにあるとか
天下りの席をえるためとか学者だと御用学者になるとか利権の追求になる

「権利≒法」としてあるときそれはヨ−ロッパの精神の基本にある
法律はもともとrightを追求して成立した、ところが権利と訳したときその意味は失われた、権利が法を作るというとき権力が法を作るとまでなる
力ある者が正しいのでありそれを実行することが法律だとなってしまう
アジアでは中国でもそうして法の精神が養われていないしそういう文化もなかったのである。そもそも法律を作るものが何かを追求してゆけば権力ではない

それで地震研究者は地震を予知できないのに予知できるようなことを言う
そして全く見当はずれの所に地震が起きている
それはなんのためかというと予算が欲しい利権が欲しいからだという武田邦彦氏の意見は参考になる、なぜならあの人は上流階級と支配階級と直接接しているから指摘できる
下層階級しか知らない自分にはそういうことはわかりにくい、一般の庶民でもそういう上流階級支配階級のことはわかりにくいのである。
大金持ちにじかに接し得るのはやはり大金持ちであり資本家であり経営者でありそこで巨額の金が流通されているとなる、そこに役得があり得する仕組みもできているのである。それは田舎の公務員でそうだったのである。それで家族が公務員だったから自分の家でも得していたことを知っているからだ

前にも悪いことをした会社を罰する法律がないから罰することができないということもそうである、それが巨大だからそれを罰することができない
そこで権利が利権のみが主張される、政治家も官僚もマスコミもすべて利権で動くことになる、地元でもそうである。、その利権だけを追求すると今度は原発事故のようにとりかえしのつかない大被害を国を亡ぼすような大被害になる
この辺では町や村が崩壊したように国も崩壊して滅んでしまうのである。
それは利権を権利ばかりを追求するからそうなるのである


2018年07月22日

組織化団体化の利権追及が社会を歪める (民主主義が機能しない訳)


組織化団体化の利権追及が社会を歪める

(民主主義が機能しない訳)

日本ほどシロアリにたかられた国はない!米国、官僚、企業、政治家政党(共産党を除く)国民の税金にたかっている! マスメディアもシロアリである!政治がダメなので、その結果、日本ほどシロアリにたかられた国はない。そのため国民は、日本史を知らないのみならず、シロアリ天国の日本の現実を知らないのである!兵頭正俊氏…

巨大な農協が、小さい農家から利益を搾取

農家は小さいが農協は巨大だ。取り扱う農作物は十兆円を超え、貯金も六十兆円以上だ。こんな巨大企業に独占を許していたら、弱い立場の農家は搾取され放題になる。
・農家が農協から購入する農薬や肥料などの資材はかなり高額で、例えば、全農を通じて国内メーカーから購入する肥料の価格は、同じメーカーが輸出する肥料の価格の三倍もする。

農協とはそもそも、農地解放と言いながら地主達が特権を継承する場として、作られました。しかし本質は、農家=小作という存在であり、農家の儲けの上前をはね取る搾取対象であるという意識が残存しています。

koumeiiiii111.jpg

大成建設と創価は密接な関係がある
創価大学の就職枠があり利権化している



この利権のことを追求したら限りないだろう、民主主義がなぜうまく機能しないのか?
それは一票というのは何の力もないからだ、それが組織化団体化すると力を持ち利権となる、社会は利益の追求だというとき利権の追求なのである。
利益の追求と利権の追求の相違は利益は公正なものとして利益を得る
農民が汗水たらして米でも野菜でも果物でも作る,それを売るとして利益をあげるのは別に悪いことではない、利益をあげることがみんな悪いとしたら社会自体が成り立たなくなる

ただ混同しやすいのは利益と利権が違っていることである。具体的に小さな畑で野菜を作りそれを地域の販売店で売ろうとしたら農協がかかわり高い肥料とか薬を買わされるという、第一その畑は趣味のものであり売るほどのものはとれない、結局赤字となりその分を自分が払わされているのである。
ただ荒地にしておくよりはいいとして払っている、農協を通じて売るほどのものは全くとれていないのだからそのために金をはらうことはそもそもできないのだ
自分でとれたものを食べるとか周りにあげるとかするくらいである

利権というときあらゆる団体組織が利権団体なのである。
団体組織でも会社もそうだからまず利益をあげねばならない、それは悪いことではない
ただそこに利権がかかわると社会がゆがめられる、ところが団体組織化することは権力化することなのである。権力をもてば利権化する、一個人が商売しても利権にはならない
そして現代社会はみんな会社員だとするとそこは利権化する体質を備えている

それは原発事故で追求してきたけどそこには現代の大きな組織権力がかかわっていたのである。東電は莫大な利益をあげる会社であった
すると官僚でも政治家でもマスコミでもその利益にあずかろうとする
例えば東電だけではない組合も利権団体なのである。
電事連があるとしたらそれも利権団体でありマスコミに800億円もの宣伝費を払っていたのである。それだけの払う金があるからできた、そうなるとマスコミでも東電を原発を批判したりできないから強固な「安全神話」が作られたのである。
それはそうした組織団体が利権をもっているからである。
マスコミは報道するという権力もあっていて第3の権力と言われていた
電波利権をもっていた、テレビの報道は六局でしかできないとなっていたからである

原発では漁業者のことを漁業権の悪用として追求してきたがここも利権団体になっていた漁業権は東電に売り渡すために与えられていない、資源の保護とかがあり東電に売り渡す権利などなかったのである。
でもそこも組織団体化すると誰も逆らうことはできなくなる、暴力団のようになる
実際原発事故前でも多額の補償金をもらっていたが知る人はその近くに住んでいる人たちだった、原発御殿が建っていたとうらやましがっていたのである。
でもそれを知ることすら地元でもできなかった、報道されないからである。
原発に関しては報道管制がしかれていたからできなかったのである。
もし一個人がプログで批判しても原発事故前だったら怖いことになったと思う
そこは利権化した団体でありもし批判したら攻撃される、暴力があったかもしれない、
だからそれを近くで知っていても何も言えないとなっていた
そういうことは今の社会でありふれているし常態化している
だからマスコミではそのことで気を使い何も言えなくなる、差別だとか常に障害者でも団体があり同和利権とかもありそういう団体は暴力団のように怖い存在なのである。

利権と利益は違う、利権は公正な競争の原理が働かない、官僚は権力をもっているから東京医科大学でも予算を配分してやり子供を裏口入学させるとかある
官僚とか公務員でも検察でも警察でも組織団体でありそこは強力なた権力をもつからである。原発で東電で明らかにされたことが海上保安庁から検察から警察から官僚から天下りしていた、それが利権構造を作り原発事故に結びついたともなる
そういう権力組織団体が「安全神話」を作ったからである。マスコミもそうである

それは今の社会のあらゆる面にある、医療でも医師会の団体は強力な力を持つ、自民党はその組織に頭が上がらないとかなる、医師会も利権化して報酬でも引き上げようとする
そして薬剤関係も会社も医師会とかとかかわり利権化する
そして必要のない飲ませたり医療もゆがめられる,その金も膨大なものとなりそれが国民に跳ね返ってくる、税金として払わされるのである。

利権というとき公明新聞にゼネコンの宣伝がのる、するとそれは公明新聞の収入になる
それで社員を養うことができる、カルト宗教団体は巨大な利権組織なのである。
だからこそその活動は一票を確保することでありそれ意外なにもない
信仰としてもそれは御利益利権追及のため毎日祈っているのである
宗教というときそれが組織化団体化したときヨ−ロッパの歴史でもカトリックが巨大な利権化したしいかに仏教でも日本でも利権化したか?
仏教というのは強大な利権団体だった、僧坊は城でもあり僧兵もいたからである
だからこそ信長がその利権団体を潰すために戦争になったのである

この世とはそもそもそうした利権化の歴史だったともなる、利益追求でもそれが利権の追求となる、それが政治闘争ともなる
ではなぜ利権が悪いのか?
それが社会を根本的にゆがめてしまうからである。
それが具体的に原発事故で明らかになったのである。
漁業組合の利権−官僚の利権−マスコミの利権とかが一体となり事故につながりとりかえしのつかないものとなってしまったからである
そもそも明治維新以降は会社組織が生まれそれは利権団体化する

例えば地域でも農協は身近であるが利権団体化するし漁業組合もそうだったし銀行もそうである、銀行も利権団体だというとき資本主義社会では銀行は大きな役割があり利権化する、国債を国から買って利子をもらっていたがその利子がもらえなくなり苦しくなり今度は投資信託を売りつける,これは全く銀行では手数料が確実に入るから損しない商売なのである。それで自分も損した、銀行も利権化しているから国債を買って国から利子をもらっていたというとき利権化しているからである。その利権を失って投資信託とかもともと銀行ではしない商売をするようになった

とにかくこの利権を正すことは本当にむずかしい、ただその利権を正さないとまた甚大な被害が国民が負わされるのである、利権で動くことは本来の正当な活動とは違うからである、利権によって正当な活動がはばまれるのである
それが社会に甚大な損害をもたらすから怖いのである。ただそれに歯止めをかけることは今回の原発事故のように困難を極めるのである。
検察とか官僚が利権にかかわるとそもそも利権を正すことはもうできない
原発には検察と国がかかわっていたからできないとなっていたのである。

いづれにしろ利権化するとうまい汁が吸いる、天下りで何もしないでも高額な収入を得る利権を得るには組織化して団体化することである、それが大きければ大きいほどいいのである。すくと政治でも官僚でも会社でも動くとなるのである。
ただ権利はrightてあり正しいから与えられる、漁業権でも資源の保護とかのために与えられるのだから権利が悪いとはならない、権利を反対にすれば利権になるから共通性がある、権利は利権となりやすいのである。
誰でも利益を得たいだから権利を得たい利権を得たいとなる、ただこれらが混同されるのである、正しい利益は否定できないし権利も必要だが利権は違うのである
それが一体化しやすいのである

報道する権利は今まではマスコミしかなかった、でもそれがインタ−ネットで万人に与えられたことは権利をrightを得たということである、ただ力が弱いから利権にはならない
もしマスコミのように力を得れば利権化する、例えばこうしてプログで報道したとき何万人から何十万にとか読むようになれば力を得るがそれは一握りの人しかインタ−ネットではいないのである。
そうなると大衆化して本来の役割を果たせないともなる
報道するにも権力がないとできないということはある、第一官僚でも警察でも情報を得るには権力がない限りできない、重要な情報を得ることはできないからである。
そしたら追求もできないとなるからだ
NHKは巨大な権力組織集団である、だから影響力も大きい、それで利権にもなるから月給も高いとなる、第一視聴料を強制的にとる権利をもっているから利権団体だからである。そういう権利が与えられたのは利権のためではない、国民に公正な報道してもらいたいからである、でもそれをしていないから視聴料を強制的にとるのはやめろとなる


タグ:利権の悪

2018年07月23日

世の中表と裏がある (カジノも容認されるし組織団体の悪徳がまかりとおる)

世の中表と裏がある

(カジノも容認されるし組織団体の悪徳がまかりとおる)

カルト教団というとき創価とかなれば信者5百万いるんだから社会で信用されているというより怖いともなる、宗教を看板にしているのだから信心深いいい人がいるのかと見る
他でもエホバの信者だといい人の集まりだとかいう
それは宗教を看板にしているからそうなる
でもそこに集まっている人たちがどういう人なのか?
そしてその目的は何なのだろうとなる
創価の場合は利権団体であり議員とかになるために入るというか利用する人たちもいる
だからカジノとかに賛成なのは議員とか上の人たちに金が回るからなのかもしれない、

なぜ宗教団体なのにカジノに賛成したのか?
実際は会員でも反対している人たちが多いのにそうなったのか?
公明党の国土交通大臣が許可したというのも不可解だとなる
そこには利権がからんでそうなったのだろうとも見る
原発でもそういうことがあったからだ
博打というとき別に昔から寺で博打が開かれていた
そこで寺銭として寺が受け取っていたというのも信じられないとなる
寺とはそうしてまで金を得る場だったのかとなる

一応表の顔は宗教なのだが裏の顔は利権を権力を追求する団体であることが多い
そもそも組織とか団体はそれだけですでに権力を追求しているのである。
日蓮とか予言者がいたとしてもそういう人はもともと一人だからである
そんなに組織集団で威嚇するようなものではなかったからである。
組織化集団化したときすでにそこは権力を志向する団体になっている
だから政治化するのである、創価の場合はあからさまにしている
政教一致の団体だから政教分離に違反しているが放置されているのは自民党が利用するにのにいいからである

こうしてこの世の中わからないのはそうした偽善的組織団体が堂々と社会を支配するまでになることである。
それは宗教団体だけではない、あらゆる組織団体がそうして権力をもち権力をふるい搾取する団体ともなる、ただ会社でも組織団体でもその悪は明確に見えないのである。
だから闇になっているだけなのである。裏の顔は隠されている
農協でも肥料でも農薬でも農家に高く売りつけるのである
でも農協も権力をもっているから農家は従わざるを得ないのである。

銀行でも硬い真面目な人たちが働く場所だと思っていた、証券会社とは違うものとして見ていた、それも変わってしまった
収益が得られないことで自分たちが確実にもうける手数料がとれる投資信託をうりつけるしかし投資信託のことなど地銀では知らない、素人なのである。
ただはやりのものをすすめるだけである、あとは手数料をとればいいとしかない
そして銀行は前はサラ金と消費者金融ともかかわっていた、金を出していたのである。
だから表の顔は真面目な硬いものとして見ていても裏ではそういうことをしていた

銀行はあこがきな金貸し、農協は過酷な小作を搾取する地主、宗教団体は宗教を商売にする悪徳僧,国がギャンブルの胴元....とかなる、ただ表の顔は善人であり善人面しているのである
だからなぜそういうことがこの世にまかりとおっているのか?
そんな社会で世の中でいいのかと疑問になる
みんな真面目に働いているのが社会ではないか?
ただ別にそうして真面目に働いている人はいる、いろんな現場で働いている
その人たちは別にそうした悪はないのである、真面目な人たちなのである
ただ組織化団体化したときそれらが権力をもち悪として作用する

なぜそうなるのか?それは組織化集団化すると権力化するからである
すると社会に対して自分たちの利益でも利権でも要求しやすくなるからである。
それは国でもそうである、国は最大の権力をもっている
するとカジノでも実はアメリカの実業家が日本人から金をまきあげるためにトランプ大統領に働きかけて法案を通したとなる
アメリカや中国という国が最大の権力なのだからそれに逆らうことはできない
すると悪はその国にあるともなる、ただその国を動かしているのが大金持ちでありアメリカ人が全部日本にカジノを作りたい訳ではないのである

この辺でわからないのはなぜ次から次と大東建託のアパ‐トが建つのか?
20ケ所くらい建っているのである
原発事故で避難した人たちが入るからだとみていたがそれにしても数は多い、まだ建て続けているのである、その数に驚くのである

大東建託は儲かりすぎて利益ありすぎて お金を使わなければいけないのです。 2012年度の決算の話ですよ。
儲かりすぎると節税対策としてお金を全部使わなければいけません。これが大変なんです。決算という締めでただのそれだけのためにです。
大東建託は、将来に向けての計画性は全くありません

こんな事情があるのか会社のために人が入らなくても建て続けているとなるのか?
その営業にノルマがあり増やしている、銀行でも投資信託のノルマがあり売りつける
何かそうした会社にとがめることもない、金融庁では銀行に投資信託でも説明責任をもてとか通達はしたが実際は何もしない
そんなのは買う方の自己責任だとなる、知らないものが買うから悪いのだとなるだけである、でも銀行は真面目な人がする仕事だと思っていたから頼むことになった
まず素人は投資のことは知識が膨大でわからない、そしてそんなに時間をさけないからプロに頼んでいるのである。でもそうなると相手は何も知らないとカモにされるだけだったとなる

この世は利益と利権で動いている、権利とはrightだけで正しさでは動いていないのである。その結果何が起きてくるのか?
原発事故とかとりかえしのつかないものとなって大被害になり故郷にも住めなくなる
カジノでもそこには確かに経済的効果があったとしても韓国でも他でもその市は荒廃してしまう、でもそうなってからでは遅い、もうそこは回復不可能になる
原発事故でもそうなったように放射能汚染で回復不可能となったからである
だから安易に利益と利権ばかり追求してゆくと取り返しのつかないことになる
ただ飯館村でも馬券売り場とか鹿島でも競輪のサテライトがある
反対したものもいたが結局作られたのである。
それで原発避難民が入り浸りになっていたのである。

ただ国レベルでカジノを招請して作るとなると国自体が博打場になるのか?
日本はそれだけ経済でも停滞しておちぶれてそうなったのかとなる
日本には日本の良さがあったがそれも失われる
貧しくても心清らかに生きている人たちが江戸代にはいたがそれも失われた
ただ利益と利権と金をもとめるガツガツした人たちしかいなくなった
すでに日本自体が荒廃している、だからそうしたものも容易に入りこんでくる
それが支配者層の利益となり利権となり下層の人たちはギャンブル依存症になり金をまきあげられるともなる
何か会社でも権力をもつとこうして金をまきあげるものとなる
官僚は税金で金をまきあげるし自分も金を巻き上げられるだけだったとなる
ただ自分の場合は家族が公務員でありそれで得したから巻き上げられたのか、カルマだったのかともなる

事業仕分けで枝野さんの「公営ギャンブルの天下り利権はつぶす」という頼もしいお言葉を聞いたと思ったら、週刊文春で若林亜紀さんが「小沢が理事長になってる競走馬育成協会もちゃんとつぶせよ」とつっこまれ...

利権を得ているものは利権をつぶすとしてもつぶせないからこの腐敗の根は深いのである

カジノ利権を警察が狙う、天下り先激減で

警察も利権の場となりやすい、一番の実質的権力をもっているのが警察であり検察官僚だからである。
パチンコ屋が天下りする場だったからである。

おそらく貧しくも清く正しく生きようとしている、カルト宗教団体に入ってもそうであるオウムに入った理系の優秀な青年は純粋だったというときもそうである
別に農協であれ銀行であれそういう場に入り悪をなして働くとは考えていないのである
でも上からの命令で強いられるのである
ただではそうした組織団体がすべの悪の根源なのか?
そうともいえない、この辺で個々人を見たらまずあくことなく欲望が限りなく求めていたのである、借金してい家を建てる、高級の車をもつ、様々な欲望を求めるから原発でも何でも金になるらならいいしかないのである。
だからカジノでも金になればいいとしかそこでみんなも考えないのである。
下々になると掃除の仕事ができるとか食堂で働けるとかいう
そういう人は原発でも金になればいいしか考えないのである
だから金をばらまけばいいと上の人たちは考えて御しやすいとなるのである。

貧しくも清く正しくなどは死語になった、現実問題として電気や水道やガスでも石油でも金がかかる、それでしょっちゅう電気を止められたとか、水道を止められたかと訴える
人がいる、そういう人たちは原発でもカジノだろうが金になればいいしかなくなるのである、現代では貧しく清く正しくは成り立たない
確実に最低限電気や水道代は払わざるをえないからである、清貧が成り立たないのである節約するにしても基本的な部分は節約できない、通信代も節約できないからである
すると今年金が10万以下というのが半分以上もいるということは驚きである
それでやっていけるのかとなる、もうぎりぎりなのである
日本はやはり貧乏国になったからギリシャのように観光でもうけるとか後はカジノとかになってしまった、江戸時代に戻ることはできないからである
ただ日本の国の在り方を今や根本的に見直す時がきている
それは教育でもそうでありあらゆる分野で組織機構でも錆びついて腐敗してしまった
やはり明治維新から百五十年も過ぎたのだからまた大きな改革の時期にが来たのである
こういう時に原発事故が起きたり天変地異が起きたりするのである。


タグ:カジノ

2018年08月17日

グロ−バル経済を歴史的にふりかえる (東京に本社があり社長がいる問題)


グロ−バル経済を歴史的にふりかえる

(東京に本社があり社長がいる問題)

Economy"(経済)という言葉の語源を辿ると、"Eco-"はギリシャ語で「家・家庭・家計」などをあらわす"oikos(オイコス)"に由来する接頭語で、"-nomy"はギリシャ語で「法・秩序」をあらわす"nomos(ノモス)"に由来し、秩序や法則性、あるいは学問をあらわす語につく接尾語になります。つまり"Economy"というのは「家計の学問」という意味であり、いわゆる「家計のやりくり」から発展して今日の「経済」という意味になったものと思われます


経済学は家計から家政からはじまった、それがグローバルになり途方もないもう天文学的な世界の経済になった
日本でも働くという語源が端(はた)を楽にするというときそれは家のものが働くことで苦労しているから楽にさせたいいうことが起源になった言葉である
それは極めて狭い範囲で生まれた言葉なのである

グロ−バル経済というときこれを批判すること現代では必須である
ただそれを批判することは簡単にはいかない、グローバル経済とか資本主義とは何かという問題は大きな世界史的視野で見る必要が出てくるからだ
現代のグロ−バル経済はヨ−ロッパの大航海時代からはじまった
大航海できる技術が生まれたとき船が作られたときはじまった
グローバル経済になるにはまず距離を縮めることができないと成立しない
そのためには技術が発達しないとできなかった

大航海時代になりそれができるようになった、その時資本主義も発展した
株式会社の起源がこの船で大航海できるようになったとき生まれたからである。
その航海に投資する時株主が生まれた、その航海が成功すればその見返りが大きかった
ただ遭難して船が沈没したりするからその時は大損になったのである
それは今の株の世界とにている
それはオランダで発達してオランダが大航海時代に大儲けして豊かになったのである。
チューリップバブルが生まれたのもそのためである

距離を縮めるということでは蒸気機関車が発明されたことも大きかった
鉄道は世界に普及して距離を縮めることができたからである。
つまり船の次は鉄道でありその次は飛行機になり車になったのである
船でも帆船の時代から蒸気の時代へと技術は改善された
蒸気機関車でも電気で走るようになったとか改善されてゆく
つまり常に技術は改良されてそれに比例して距離は縮められるのである。

でもそもそもこうして利益を得たのはヨ−ロッパ諸国でありアジアは収奪の対象となったのである、植民地化されたのである
インドでもそうであり中国でも東南アジアでもイギリスの植民地化されたのである
日本だけはヨ−ロッパの植民地にされなかったのである
それが第二次世界大戦の基となったともみれる
ヨ−ロッパの延長としてアメリカがありアメリカに従わないものは征伐されるとなっていたからである
ヨ−ロッパとはインカ文明でもスペインに黄金を収奪されたように略奪者だった側面がある、アフリカから奴隷狩りして売買していたり収奪者だったのである。

ただグロ−バル経済は資本主義は外国から富を収奪するだけでは成り立たない
イギリスで産業革命があり蒸気機関車とか機械が発明されて大量生産ができるようになったこともある、大量画一生産は機械なしではできないからである
機織りでも手織りでしいたらとても大量生産はできない、手織りでしたものはだから高価になる、紡績機械が生まれたことで大量生産が可能になったからだ
現代のグロ−バル経済を作ったのはこうしたヨ−ロッパの距離を縮める交通手段の発達と大量画一生産のできる産業革命の結果である

ただそこから問題が生まれた、何事いい面と悪い面が生まれる
これは大局的な見方だが日本国内にしても距離が縮まることによりグロ−バル経済と同じような問題が起きていたのである。
例えば自分の住んでいる町は一万足らずである、でも工場がある、東北サッシとか友伸エンジニアとかある、その社長は東京に住んでいるのである。
それで社員が駅に迎えにくる、こういうことは全国であるだろう
会社が工場が地方にあっても社長とかは東京に住んでいるのである。
ということは地元に住んでいる人とか土地にそれほど関心をもたない
ただ地方で労働力をまかないそこで得た利益を東京で使うとなる
もし地方に住んでいれば地方で使うから金も地方に回るが回らないのである。
それは何かヨ−ロッパがアジアという遠い地域を植民地化して富を収奪したのとにているのだ、富が地元に還元されないのである

こういうことは原発でもそうだった、東電の本社は東京にあり東京で支持していたのである、それで吉田所長は事故の時独自に判断した、そのことで東京の本社と対立したのである、つまりそれは距離が離れていることで緊急時に対応できなかったのである。
こういうことは距離が離れていると緊急時に何が起こったかわからなくなる
いくら通信が発達しても事情がわからなくなるから対応できなくなるのである
それでローマ帝国でも離れた支配地域と中央のローマの政府の支持に従わない地方官が生まれた、その地方官が権力をもち中央に反乱することも生じた
それは日本だってそういうことが歴史にあったから共通している
遠くからだと統制ができなくなるのだ、満州で関東軍がそうなった
中央の指示に従わないで暴走して中国と戦争になったのである

確かに距離は交通手段の機械で縮めることができても依然として人間の意思疎通とかコミ二ケーションはむずかしいのである。
例えば東京に社長が住んでいると会社でも工場でも地方にあったとしてももし公害を出しても直接被害がないから無関心になる
また地元の人がどういう生活をしているかも関心がない、ただ地方は労働力を供給してくれてそこから利益をあげればいいとしか考えないのである。
それはグローバル的にも遠い外国で大企業の工場があることでも起きていることと同じなのである。

だから原発事故がなぜ起きたのか?東京に原発を作ることが正論だった書いた
もし東京に原発を作っていたらその関心度が全く違っていたからである。
すぐ近くにあるのだから関心度が違う、もし事故があったならじかに影響するからであるでも福島なら離れているからと無関心になる、そしてそこの土地のことはここと関係ないとなる、公害を出しても関係ないとなる
もし東電の幹部が住んでいたならそうはならないだろう、一番事故のことを心配するからである、家族のことを心配するようになるからだ
だから東電の人たちは福島に住むべきだったとなる、一部は住んでいたが幹部でも大勢で住むべきだったとなる、その時真剣に安全を考えるからである
離れていることはヨ−ロッパがアジアを植民地化したように富を得ればいい、その土地のことは二の次三の次になるからである。
これは国内の中央と東京と地方の関係だけどこれもグロ−バル経済の構造とにているのである

人間の生活はやはりその住んでいる場所からはじまる、そこが基なのである
だから経済のエコノミーが家政からはじまっている
そしてエコは循環だとかになるとその土地で循環する経済になる
つまり生活の場がこうして社長は東京に住んで会社や工場が地方にあることは本来の人間の生活からすれば無責任なのである
これは日本でも工場を労働力が安いからと外国に作ったのともにている
それはその土地の人々の富の収奪にもなっていたからである
そこにグロ−バル経済の矛盾がありそのシステムはヨ−ロッパの植民地と同じ構造ともなっていたのである。
つまり東京だったらどういう生活をしているかもうわからない
地元に住んでいれば社長でもその生活を見るし土地の人とかかわらざるをえないからあまり贅沢はできないとなる、社長だからといって貧しい生活をしている人が多くいたら無視できないのである。でも離れていれば土地の人とは関係なくなる
東京でどんな豪勢な生活していも見えないからわからないからである
グロ−バル経済とはそうした矛盾が必ず起きている

株とかで儲ける人は税金も払わずに外国で株を投資してもうけているとかいろいろ抜け穴がある、現実にタックスヘイブンでも日本では一人だけしか追求されていない
後はわからないという、何かその後も追求されていないのである
これもグロ−バル経済の中で富裕層はその抜け穴を知っていてできることである
こういうことは地方に住んでいるとしにくい、その生活が回りから見られるからである
グロ−バル経済とか資本主義はこうしてとびぬけた富裕層には莫大な富をもたらす仕組みなのである。
自分も株をしてみたが必ずリスクがある、ある時ギリシャ危機だとか北朝鮮危機だとか今度はトルコ危機だとかなんだかとこうして世界のことが常に気になり恐怖になりおちおち安心して眠れないともなる
そんな生活は何か変だと気付くべきである。
そんなことを心配していたらきりがないし別に関係ないとして江戸時代までは生きてきたそういう世界市場の中に生きていること自体が問題なのである。
そんなことで一喜一憂していたらきりがないしもう安心して眠れないともなる

いづれにしろグロ−バル経済とか資本主義は限界にきている、金融資本主義とは投資ではない、ただ右から左と金を動かしてその差益でもうけているだけなのである
為替差益でもうけるのと同じなのである。それは本来の投資ではないのである。
それがバブルとなり世界恐慌となる、資本主義はもう限界であり崩壊してゆく
グロ−バル経済資本主義は距離を縮めることからまず生まれた
でも距離を縮めることにも問題が生まれた
身近なことでも起きているのだ、人間は遠くとの関係より近くでの関係で生きるのがいいしそうでないといろいろな問題が起きる

経済でも同じである、それは地域が中央に収奪されることである
原発事故だってそういうことで起きた側面がある、距離を縮めた結果として起きた
交通が発達したことで起きた、江戸時代だったら300キロ離れていたらとてつもなく遠い距離にもなるからだ、そこと関係を保つには住むほかなるからだ
江戸時代にだから江戸に地方の藩の屋敷があったというのは幕府では手元に置いて支配するためである。離れていると支配できない、反乱することがある
人質だったとなるがやはり距離が縮めることができないとういことでそうなった
今なら新幹線と何時間飛行機で数時間とかなればそんなことをしないだろう
それでも距離を縮めることができても離れてしまうと人間の意思疎通とかコミ二ケーションができなくなり問題が生まれるのである。

原発を東京に作れというのは正論だった (人は住んでいる場所に一番関心をもつ)

2018年08月31日

共同体とは何なのか? (金だけを求めると共同体は分断され破壊される)


共同体とは何なのか?

(金だけを求めると共同体は分断され破壊される)

 我々の住む世界は、共同体なのか、それとも、無機質な集合体、システム、仕組みに過ぎないのか。我々はどの様な社会を望んでいるのか。それを忘れたところで、経済について議論してもはじまらない。無意味である。企業は、機関か、共同体なのか。現代社会は、共同体性を喪失し、唯物主義的に機関化している。つまり、人間性を失いつつある。そして、急速に仮想空間が人間の社会の隅々まで浸透しようとしている。

 共同体の従来の意味は、土地を共有し、地縁、血縁と言った何等かの人間関係で結ばれた集団を指して言うが、ここでは、非貨幣的人間関係によって形成された集団と共同体を定義する。つまり、金銭関係を離れた集団である

 第三の経済

このサイトは参考になるし共感する

共同体とは何かというとき様々なものがあるから一概に言えない、一番わかりやすいのが家族なのである。家族こそ共同体の核でありそれは古来から変わらなかった
経済というとき家政を基にしたいた、

"Economy"(経済)という言葉の語源を辿ると、"Eco-"はギリシャ語で「家・家庭・家計」などをあらわす"oikos(オイコス)"に由来する接頭語で、"-nomy"はギリシャ語で「法・秩序」をあらわす"nomos(ノモス)"に由来し、秩序や法則性

家族というとき一見血のつながりが家族だと思っているがそうではない、家族でも養子制度があり血がつながらなくても家族の一員となるからだ
そもそも家族とは共同体の原型であり共同体は家族から発展拡大したものである。
国並みの共同体でもハウスブル家とかなればやはり家から拡大したし江戸時代の藩は御家中である、やはり家という共同体というのを優先していたのである。
だから御家のためにと尽くしたのである

私の場合は家族のために苦しみ苦闘してきた経過がある、それは結婚して子供をもち家族を形成したというのではない、特殊な事情で家族を形成されていた経過がある
だから家族とはなにかと考えるとき血縁の家族ではないのである。
そのこと故に最後まで死ぬときまで争っていた経過がありその家族もみんな死んで一人になったのである。
本当は自分の家は家族として維持できないものだったのである
夫婦としてあって維持していたものでもないからである
その特殊性は外から理解するのは不可能だとなる
ただ家族というのを共同体としてあったということを今では死んでも深く理解している
つまり争う家族でも家を維持するということで共同体だったのである。
家という共同体があって維持されていたのである。
だから別に血縁でなくても家は家であり共同体なのである。
だから病気の時は看護したり介護したりとそれは自主的なものとしてしたのである

共同体が何かというときまず家族が共同体だということを理解しないと根本的にわからないのである。
なぜならどんなに大きな共同体となってもそこには家族の延長としての共同体をイメージして形成するからである。
国家でも大きな家族だとなり天皇が親であり国民はその子である赤子としてしいたからである
つまり共同体とは家族が基本だとするとき家族は何かということにもなる

だからこのサイトで家族が非貨幣的に結ばれたものだというときそうなる
家事労働でもそれは非貨幣的な労働であり母親の労働は金銭に換算できないものとして愛情をもって子を育てるものとなる
でも一旦それが家族でないとすると家事の外注すると金銭に換算されたものとなる
そうして現代は家事すら外注されて金銭化されるようにもなった
あらゆるものが労働でも金に換算されて金のための労働となったのである。

共同体は家が核になる、村でも核になる草分けの農家がありそこは前田という地名がついている、原町区の大原などでも前田とついた地名は草分けの家で古いのである
そうした核となるも家がそこに雇われる人がいたりして村が形成される
日本では苗字が必ず村の名前から地名からでている
それが村が一つの姓の下に共同体を形成していたからである
村の結束が強かったのである。日本では村という単位で共同体を形成して来たからであるだから江戸時代の村というとき強固な家族のような共同体であるからよそ者は入りにくいということがあった

ただ共同体というときそこに家族のようなものをイメージする、非貨幣的なもので結びついている共同体である、家族は非貨幣的な結びつきの上に成り立つからである
家族にはまた共同体の原型としたとき宗教でも血縁の家族を否定してもやはり天国は愛しあう家族をイメージしているのである。
だから人間の核には家族があり家族なしでは共同体も天国すらイメージできないのである
でも家族がみんな愛しあう家族とかになっているかとなるとそうはならない
家族だから親子だから兄弟だから憎しみ合うことがある
でも家族の場合は愛しているから憎むということがある
愛の反面が憎むという感情になるのだ
だから長い間家族として争っていても実はそれは愛しているからだったともなっている
おそらく家族とは夫婦とでは形成できない、子供がいてまた兄弟がいてとかになり家族になる、兄弟が姉妹がいて家族共同体が形成される
だから大きな国とかの共同体でもみんな兄弟だとか姉妹だとか言うのはそのためなのである、それで一人っ子はそうした共同性が身につかないから問題視されるのである

ともかく人は愛で結ばれた家族を求めている共同体を求めているのである。
その核に家族がある、なぜ宗教団体がこれほど会員を獲得しているのか?
それはそこが家族のように共同体を形成する場だと見ているからである
実際はまるで違ったものでもそうみる、オウムだってそういうふうに見て入った若い人がいたからである、信仰の前にそうした愛の共同体を求めるが故に入る
それはどこの宗教団体でもそうである、現実は愛の共同体などはない
そこも愛の共同体などなっていない、ただ一応外面はそう装っているのである。
でもなぜそんなに会員になるのかとなれば人々がそうした愛の共同体を求めているからであることは確かである

現代の問題は経済の問題はこうした人間の原型としての家族とかをはみだした経済でありグロ−バル経済になるとその規模は地球的になるからもう共同体などはない
ただ人間と分離した物だけが流通する巨大な世界市場の中でに人間はとりこまれる
だから金だけが突出して異常な力をもつ世界なのである。
金というのは本当は共同体があって機能するものでありその共同体がない世界では共同体を破壊するものとして機能するだけになる

世界でどこでもドルが一番通用する時アメリカの支配に世界があるとなるのもそのためである、アフリカの果てでもドルが通用する
エジプトでロバに乗った少年がワンド−ラーくれとなるのもそうである
今でもまだベトナムとかカンボジアとかでは物価が極端に安いのもグロ−バル経済のためである、そこで金があれば王侯気分が味わえる
それはそこに生きている共同体の関係なく、金があることでそうなるのである
逆に今や日本がインバウンドで観光客を受け入れて中国人におもてなししているのもそのためである、それが過酷なグロ−バル経済なのである
経済が駄目になれば金によって奴隷化される過酷な世界なのである
そしてその国であれ共同体は金によって支配されるのである

不思議なのは「消費者が王様だ」というときもそうである、金をもっている人が王様になるというのでは同じなのである。
すべてが金で差別される、その差が明確なのはホテルとか旅館とかである
江戸時代は部屋の差はなかった、みんな貧乏だからみんな相部屋で同じである
侍も庶民も時代劇では一緒である、今は王様クラスからいろいろある
だから私はホテルとか旅館とは嫌いだった
私は旅することが目的だからただ寝れればいいと思っていたからである。
その点外国は安いホテルとか多いから旅しやすかった、私は食べ物はどうでもいい、旅することが目的だからである。
ただ今になると老人になってかえって食べ物にこだわる、料理も文化だということを知ったからである

いづれにしろあらゆることが金で計られる時代がいいのか?
そのことによって何か人間として本来あるべきものが破壊される、共同体も破壊される
田舎でも都会から大金持ちが来て消費すれば王様になる
貧乏人は来るなとなるのもまさにカジノが日本で作ろうとする理由なのである
大金持ちは歓迎で遊んでくれ、貧乏人は来るな、それはそもそも日本がアジアなどでしてきたことなのである。
でもそのことがカルマとなり今度は逆の現象が起きる
外国の金持ちに使われる、そして日本という共同体は金によってそのモラルすら破壊されるのである。
それは原発事故の補償金問題でも書いたことである

共同体がありモラルでも維持されたがグロ−バル経済になれば金が第一でありすべてになるから維持できなくなる
金さえあればなにしてもいいんだ、金が実際の力だとなり歯止めがきかなくなるからだ
そうして原発も作られたのである。原発は金のなる木だからそうなった
莫大な金が動くものだったのである。事故でもそうである
その費用には驚く、何兆円もの予算が湯水のように使われるたからである
結果としてこの辺では補償金をもらうことに血眼になり共同体が分断されて破壊されたのである。金さえもらえば故郷とかの共同体など関係ない
金があれば王様になれる、もうめんどうな故郷の復興などどうでもいいとなったのであるだから金がすべていい方向に働くとはならない、それは人間のモラルも共同体も破壊するそれは金が共同体の中で機能するのであり今やグロ−バル経済になると共同体を破壊する多国籍企業でも小さな昔ながら村落など感嘆に破壊された
そこに公害になって住めなくなったりしている
それは原発事故事故と同じである、放射能汚染ではその環境が根こそぎ破壊されるからである。そして住めなくなったのである。

なぜ原発事故の補償金でもめたのか?
(金のみがすべてとなって共同体が回りが無視されたため)

2018年12月22日

グローバル社会広域社会の弊害 (地方の衰退の大きな原因になっている―津波や原発事故の原因にも)


 グローバル社会広域社会の弊害

 (地方の衰退の大きな原因になっている―津波や原発事故の原因にも)


 グロ−バル社会になるとそれが地方とか田舎とは関係ないとかみているが実際は地方の方が影響が大きすぎたのである
まずモノが自由に世界から入ってきてどうなったのか?
地方はそれで衰退した、なぜなら木材を例にすれば外材でまかなうようになったとき日本は森林が多いがただ無用のものとなりそれで山で暮らす人の仕事も収入もなくなった
木材は大きな資源であり家を建てるにも木材でありエネルギーも炭だから木材なしではありえない社会だった
それが実は戦争の原因になっていたのだ、入会権の争いが木材を争うことが戦国時代にまでなったという説がある
この辺では飯館村でも木材をめぐる争いがあり丸森は木材資源が豊富だから米沢藩と伊達藩と相馬藩の三つ巴の争いがあったことは有名である
それだけ木材は今の石油のように重要な資源だったからそうなった
でもグロ−バル社会になると木材は外材になりエネルギーは石油になるとなれば地元の資源は活かせないのである
その影響はあまりにも大きかったのである

食料にしてもそうである、あらゆるものが外国から国内からもいくらで入ってくる
そうすると地元でとれるものに関心もなくなる
食料は地元からとれるのではない、米だっていくらでも全国でとれる
するとスーパーに行けば別に地元のものを食べない、うまい米を買ってしまうのである
そこで起きることは何なのか?
地元でも地方でも田舎でも意外と農業とか第一次産業に無関心になる
もし外部から食料でも何でも入ってこないとなると地元のものでまかなうとなると例え農業にたずさわらない、農民でなくても関心をもつ、なぜなら日々の食料が自分の住んでいる所で供給されなかったから死んでしまうからである
戦前まではそうした自給自足的生活が基本にあった
だからこそ自然の恵みに感謝していたのである
そういう祭りさえ消失したのは別に地元で食料が得られなくても外国からでも全国からいくらでも食料は入ってくるというなかで実際に日々生活しているからである

ではそこで起きたことは何なのか?
東京とかでは地方とか田舎は非効率的であり無駄だとかになる、地方交付税は東京に住んでいる人が払っている、そんな地方や田舎はいらない、特に限界集落などはインフラに金がかかるだけであり潰すべきであるとなる
食料は外国からいくらでたも入ってくるとなっているからそうなる
現実に日本では一番食料の自給率が世界で低いのである
日本で大事なのはトヨタのような車を世界に売ることでありそうして外貨を稼げばいくらでも世界から食料でも買えるとなっている
だから地方とか田舎は経済的に無駄だとなってしまうのである

そしてそうなると何が大事なのか?
金だとなる、金があれば外部からいくらでも世界から物も買えるとなるからだ
つまり外部に頼る時金が重要なものとなってくる
江戸時代辺りだとまだ地元で生産されるもので暮らしているから金はそれほど大事にはならない、土地をもって食料を生産していれば食べてはいけるとはなるからだ
グロ−バル経済になると金が異常なほど重要になる、外部から世界から入ってくるものを得るのには金になるからだ
その金を産みだすのはなにかとなると日本では工業製品とか車とかなりそれが国家を支えるものだとなる、江戸時代は米経済だから米が一番重要なものだった
米を中心に経済が回っていたがグロ−バル経済では世界に売れる物を作ることが食料でも得ることになる

何かこういうことはグロ−バル経済は意識しないがその中にどんな辺鄙な地域でもその中に組み込まれて生活しているのである
そしてグロ−バル経済の影響をもっとも受けたのは地方であり田舎だったのである
地方とか田舎の価値が極端に低下したのである
その弊害は原発事故にも現れたのである
なぜなら漁業組合がなぜ東電に漁業権を売り渡したのか?
それは漁業でも農業でも林業でもグロ−バル化で衰退して跡継ぎもいないと金にならないということで衰退した
すると原発で金になるのがいい、補償金でももらえるのがいいとなったのである
現実に漁業組合とか船主では原発事故前も豊富な補償金をもらい原発御殿が建っていたとかうらやましがられていたし事故後も立派な邸宅を建てていたのである
つまり補償金でこれからも困ることがないからである

ここに象徴されているようにグロ−バル経済では金が異常なほど重要になる
そのためには原発のリスクなど考えなくなっていたし地方に暮らす人でも漁業とか農業とか林業とか第一次産業を軽んじる、第一それに従事する人は一割にもみたないからであるするとどうなるのか?地方でも田舎でも自然との関係でも希薄化する
それで一匹の魚を軽んじた結果として津波をが起きたということが伝説に残っている
その土地の実りとか自然に感謝しないのである
むしろ原発とか今なら今度はソーラーパネルとかそうした科学技術こそ富をもたらすものだとなってしまう、自然ではない科学技術こそ恵みをもたらすとなると神の如くなるのが科学技術者である、その人たちは実際に現代の神官になっている
神様のごとくなっている、今一番尊敬されているのが医者であることでもわかる
でも科学技術者でも一挙に原発事故でその権威を地位を失ったのである

私は何か景観というのも異常に気にしている、ただ田舎でも景観からしか見ていない
そこで食料をとれるとか見ていなかった、だから自分自身も実は田舎の農業とか林業とか漁業でも無関心だったのである、そういう景観を作っていたのは実際に米を作るとか野菜を作るとか魚をとるとかの暮らしがあて景観もあったのである
だから極端なのは八沢浦が津波で入り江なにったときそこで死んだ人がいるのにその景観を見て喜んでいたのでしかられたというのも当然だったのである
つまり自分自身が本当に八沢浦で米を作っていたのにそこに価値を置いていなかったのである
だからあそこが入り江だったらどれほど美しかったろうといつもイメージしていたのである
それが現実になった時ほど驚いたことはないから奇跡だと見た
そこで実際に米を作っていることなど無関心だった、米などいくらでもどこでもとれるし入ってくるという感覚になっているし地元の米を食べる訳ではないからである
もし地元でとれる米でしか生活できないとなれば違っていたのである
それは自分自身の生死にもかかわってくるからである
自分にとっては地元でとれる米より景観の方を大事にして見ていたのである
だからソーラーパネルなどは景観を壊すから嫌だと見ているのである

いづれにしろ田舎に地方に住んでいても意外とその土地のことについて無関心になっているのが現実なのである
まずいくらでも食料が世界からでも入ってくるとなると地元で苦労してとれたものに感謝もしない、それを作る農民でも軽んじることになる
日本全国で見ても一番大事なのは車でも外国に売れることになり外貨を稼ぎ食料を外国から買うということになるからだ、ただそれは今までは電機製品が外国に売れていたときはできる、外国に売るものがなくなってくると日本は苦しくなり現実になっているのであるそして日本は貧困化している、でもこういうグロ−バル化社会というのは本来の生活からすればありえない異常なことでもあった
だからこそ津波とか原発事故でも起きた原因にもなっていた
それはあまりにれ科学技術とかグロ−バル化経済に傾きすぎた結果だったのである

何か変なんだけど

津波跡ブロッコリー畑や冬の暮

今日を見ゆ田舎に冬菜暮らしかな

こんな俳句を作るとき、津波の跡にもブロッコリーを作っている、自分も毎日食べているここで作っていたのかとなるのが一応田舎である
でもまたこのブロッコリーでも外国産のものを安いから買っていいるときがある
それがまた現代なのである、、メキシコ産のとかあるからだ
そんなに遠くから入ってくるのでも今は不思議で何でもない、普通である
でもそれだけ地元とというのも直接的につながらないものとなる
地元のことを軽んじることになる、盛んに絆のことを言われたがその絆も外部との絆が意識されたが内部では補償金で金でももめて争い絆がなくなったことでも同じである
内部での絆はかえって金で分断されたのもグロ−バル広域社会が影響していたのである
いい面もあるが外部からの協力を得られることもあったが内部ではそうした絆すらなくなっていたのである、それはそういう日常グロ−バル広域社会に生きていたからそれがそういう結果を必然的に産んだとなっていたのである


2018年12月23日

グローバル広域市場経済だけでは成り立たない社会 (一軒だけの自転車屋に無料で中古の自転車を提供する訳)


 グローバル広域市場経済だけでは成り立たない社会

 (一軒だけの自転車屋に無料で中古の自転車を提供する訳)


 グローバル広域の経済の矛盾は意外と身近にあったことに気づいた
そもそもブロッコリー畑が近くにあった、ではそのブロッコリーを必ずしも地元で買って食べているとは限らない、なぜなら外国産のものメキシコ産のものでも入ってくる
アスパラガスなどでもそうである
すると価格が安い方を買ったりしている、地元だからそれを買わねばならないと強制はされないからなんでもそうなる、この辺は米は放射性物質の汚染で飼料米になったから食べる米とはなっていない
でも今までも地元産の米をみんな食べているわけではないのである
外国産は食べないにしても全国の米が入ってきていいものを各自自由に選んで食べている日本全国が市場化しているからである、そこじ自由競争している

でも私の町には地区には自転車屋一軒しかない、それもなくなると自転車屋が一軒もなくなる
その自転車屋についていろいろクレームをつける人がいる
それでわざわざ隣の街まで行って自転車を修理したりしている人がいる
確かにそういう面があるにしてもも一軒だけになった自転車屋がなくなると困るなと思う奇妙なのはそこで駅前の活性化とか話していた、それは自転車屋が駅前にあるからそうなった
駅前の活性化というけど一軒の自転車屋がなくなったちさらにさびれる
現実駅前に空き家があり廃墟化していたりとさびれている
どうしても駅中心の街作りにはならなくなったからである

それでその自転車屋には中古になった自転車を無料でくれた、それは結構いい値段で売れた、まるもうけとなっていたからだ
今回もヤマハの電動自転車のロードを使いなかったので処分しようとした
それは25万とかしていいものであるが原町にもっていったら4万もしない
安いなとなり売るの躊躇している、そしてもう一台12万で買った電動自転車がある
これは普通に今でも使えるいいものである
それも売ったら一万もしないかもしれない、そうなるとそんな値段で売っても自分の住んでいる町に自転車屋があった方がいいとなる
なくなったら不便になり自分が困るからである

そういうことは他でも普通にこれだけ広域社会になればある
仙台から来たのがユニットバスを100万で作ってもらったのは本当に安かったのだ
工事するだけで相当な手間だったからである
それでガス屋に聞いたら200万かかるという、これを地元の知り合いの人に頼んだら軽く300万以上になる、そもそもそれできる人ではなかったからだ
現実にその知り合いの人を通じて修理を頼んだらその大工さんは修理できていなかったからである
でも仙台の人に仕事を頼んだら地元で仕事している人は困るとなるのである
ただこの辺で何百軒も家を建った感じだがその仕事をしたのは外部の人がほとんである
大きな会社の人たちが請け負って建てたのである
それだけの大量の家を建てることなど人もいないからできなかったのである

ただ地元を活性化するというときそうした広域経済の市場化がすべていいとはならない
常磐高速とかができて仙台からも仕事に来るようになった仙台ではまた復興工事の仕事はなくなったからそうなったのである
そういうふうに広域化市場化経済グロ−バル経済ですべて従うということが地域にとってさらに地域の地域にとっていいものかとなるとそうはならない
南相馬市では人口が多い原町は前から良かったが補償金でも恵まれたが鹿島区は少なくて不満だった
それで自転車屋が一軒だけになりそれがなくなるとさらに駅前でもここに住むことが不便になると思った

そんなこと今はただ物は高く売ればいいし安く買えればいいとかなって考えない
でも奇妙だが自転車の人と駅前の活性化のことを話し合ったりしていたのが自分でもあったとに気づいた
そもそもそうなるとその自転車屋を維持するにはもうけてもらった方がいいとなる
一つの電動自転車は売っても一万にならないからだ
でもそれを買う人がいる、するとまるもうけになるからだ
その自転車屋は無料でしか引き受けない、そんなに余裕がないとも見ているからだ
だからすべて市場原理だけではこの社会は公正なようでそうではないと思った
通信販売でもそうである、イオンとかでもそうである
その収入は必ずしも地元に分配されない、中央の会社に東京に吸い上げられることが多いのである、そして地方は疲弊して衰退している、シャッター通りになったのである

ただそうはいってもまたそうした広域市場経済をすべて否定するわけにはいかない
地域には地方にはどうしても売っていないものがある
通販でしか買えないものがある、本などは全くそうなった、田舎にいても本ならボタン一つで古本でもなんでも手に入るから便利なのである
そこで知識が広げることができる、これだけは便利だと思った
古本などは東京の古本屋街までいかないと買えないものがいちらでもあったからである

ただすべてが市場化原理に従うことはできないのである
確かに地域で市を開いているがそこでは競争が働かないからスーパーよな相当に高くなるものがある、ただトマトが一個500円とかで売っていたと聞いた
それは特別のトマトであり買う人は買っているとなる、でも普通はそんな高いものは買わないのである
要するに地域だけになると物でも高くなるしいいものが提供されるとは限らないのであるそこに競争原理が働かないからである
でもその地域で地域の地域で暮らすということは市場原理だけでは成り立たないことがある、それがかえってその場所に暮らすには不便にしてしまうのである
だから今度も金にはならないが一軒だけの自転車屋に無料で中古品を提供することに決めたのである

investtt111.jpg

損しているようで得しているともなる、住んでいる町が不便になったら自分自身が困るからである
もしかしたらこういうことが血の通った経済になるのかもしれない
グロ−バル経済で株で投資しても何かそれが血の通ったものとはならない
金がどういうふうに活きるのかわからないからである
ただもうけたら使い方で血の通ったものとなることは言える


2019年01月19日

グロ−バルリストとナショナリストの戦い (思想価値観世界観の転換の時代))


 グロ−バルリストとナショナリストの戦い

 (思想価値観世界観の転換の時代)

natinalisttt123.jpg

国際主義(グローバリスト)とは、「共産主義」「社会主義」「左翼リベラル思想」「ネオコン(新保守主義)」「新自由主義(ネオリベ)」・・・、様々な形があります。
これらの共通項は、国家の価値や民族の価値、それらのナショナリズムを否定して世界を統一すること(ワンワールド)、つまり世界政府を樹立することです。

民営化が容易になり市場経済化が進むと、外資(アメリカ資本)が民営化された現地企業を買収することが容易になり、グローバル化が達成されたことになるのです。
これが、民主化→民営化→グローバル化という三段階のレジーム・チェンジ方式なのです。


人間とは今生きている時代がどういう時代なのかわからない、その時代に生きている者が一番わかっているようでわからない
それがグロ−バル社会になると世界を知らねばならないから余計にわからなくなる
第一社会というものは大きなものだから人間はその大きな社会に時代の雰囲気にのまれる例えば日本の戦争であれナチスであれその時代に生まれたらやはりその時代にそまる
戦争は否定されないしむしろ称賛されて高揚されていたとなる
一時代が終わると冷めた見方になる、その時代では熱中していたのである

だから今の時代をみるとき歴史的見方が必要になる、過去の時代の対比で現代をみる
江戸時代に生きていればそれはできない、外国も知らないから江戸時代で生きている人は対比できるものがないから今生きている時代を知らないとなる
現代になって戦争のことをとやかく言うがそれは戦争が終って70年過ぎたから覚めてふりかえり見ているのである

現代とはグロ−バル社会である、でもそれがどういう社会なのか見えている人はいない
なぜなら日本でも世界中でもグロ−バル化しているからである
それは全部が赤色にそまっている時一点だけ白色になっていると同じになる
それは赤色に染められるのである
だからグロ−バル社会に生きていればその色一色に染められるのである
それは共産主義でもグロ−バルというときもそうである
その価値観に染められそれ以外は排除されるのである
中国などではもう強制的にそうなっているからその価値観から思想強制されているのである

ただ世界はグロ−バル化が資本主義でもゆきづまっているしその弊害が大きくなったのである、そこで移民問題やらなにやらいろいろいと問題が噴出している
資本主義にしても金融資本主義とかに変貌している、そして富が世界の富が数パーセントの人たちに吸い上げられている格差社会になった
それは世界でもそうであり資本主義の本場のアメリカでもそうである
それでナショナリストのトランプ大統領が生まれたのである
それはウオール街のグローバリストに対抗するものとなったからである
ただグロ−バリストというときなかなかこれがわかりにくいのである
それはグロ−バル化の中で一色に染められているからそれ以外の見方ができなくなっているのである
現実に金の力が世界を支配してそれが実行力をもっていることでそうなる
だから世界の果てまで血眼になって金を求めている
ドルでもアフリカの果てまでドルをくれと子供まで要求している、ドルは世界の通貨でありアメリカが世界を支配しているとなるからだ

まずだから大事なことはグロ−バル化とは何なのか?これを理解することなのである
それがむずかしいのである、客観的に見ることがむずかしいのである
ただそういう時代の変化が起きている、ナショナリストのトランプ大統領が生まれのはそのためである、貧富の格差がアメリカで起きているのもそうである
アメリカの富は数パーセントが50パーセントを握っている異常事態なのである
そういう社会がもう成り立つのかということである
もう崩壊前夜であり革命前夜なのである

ただこのグロ−バル化が何なのか?それを理解しないかぎりこれに対抗できない
それは例えば時代時代の色に染められるからである、戦争の時は戦争一色に染められる
あらゆるものが戦争一色になっているときそれを客観的冷静に見るのは不可能だとなるからだ
それは今でも自由社会でも例えばカルト教団に入っていればそうなる
その団体での見方が思想洗脳されて一色になる、ただ言論の自由があれば批判する人もいるから客観的に見ることができるのである、でも洗脳された集団は強固でありそれを否定するのである、そして創価などでも数が多いとなるとそれに誰も逆らうことができなくなる、つまり数が増えると創価一色になりえることもありえたのである
他にもカルト教団がありその色に一色にそまる

でもグロ−バル化とかグロ−バリストとかなるとそれはもう社会全体世界全体がその中で生きているのだからそれがわからないということである
だからまずグロ−バル化とは何なのか?グローバリストとは何なのか理解することが先決だとなる
ただこれは本当にむずかしい作業なのである、それは金が世界を支配していて実行力をもっているから簡単に否定できないのである
みんな世界中の人が思っていることは金が欲しい、金があればすべて解決すると思っていることでもわかる、そして金の中でもドルが欲しいということでもわかる
金があればすべてがこの世の物が得られとまでなる強力なものになっているからである
それは世界中どこでもそうである、アフリカの果てまでそうである
それから逃れることができないことでもわかる
すべては金なりの世界になっているのである、それから脱する道があるのか?
それがいかに容易でないかわかる、つまりなにやかにやと理想論を言っても金が実質的に絶大な権力となり実行力があり支配するからである
世界中の人が金の前にひざまづくのである、マモンの神にひざまづくからである
第一金がなければ今日食べるものが得られないという人が世界中で田舎でもいるからである、そしたらそんな人はグロ−バル化がどうだこうだとか言っていられないのである
今日の食べる金が欲しいというだけになっているからである

ともかくこのグロ−バル化とかの問題は簡単に解明できない、変革するのも容易ではないただそれも転換期に来ているから自壊するとか何か大きな変化がきている
世界でも来ている、それがナショナリストの運動が盛んになってきていることでもわかるアメリカ自体がトランプ大統領になっことでそれを証明しているのである

基本的なグローバリストとナショナリストの対抗軸を列挙した

グローバリスト     ナショナリスト

中央集権ー地方分権

外需中心ー内需中心

グロ−バル金融資本主義ー内需地域資本主義

大企業型多国籍企業型経済成長主義ー国土生態系によるコスモスの形成

マスコミ(マスメデア)−インタ−ネット(分散型メデア)

物質追求ー精神性の追求(国風文化など文化の追求)

こういう対比が主にありそれを追求してゆく、そして新しい思想的世界観価値観を現実の社会にでも実践してゆく、でもまずグロ−バル社会とは何か理解しないとできないことなのである

この本は参考になるから読んで参考にすべき

ポスト大企業の世界(貨幣中心の市場経済から人間中心の社会へ)−デビット・コーテン


2019年01月29日

始皇帝陵(漢詩もどき一将功成万骨枯) (世界の歴史は極端な格差社会の継続だった)

  
始皇帝陵(漢詩もどき一将功成万骨枯) 

(世界の歴史は極端な格差社会の継続だった)

始皇帝陵

春雨濡始皇帝陵
興国中華祖威容
万騎兵馬俑面々
大軍地下深埋没
平原平沙興亡国
一将功成万骨枯     

格差社会をいろいろ現代で言われるけどもともと人間の歴史をみれば極端な格差社会である
王が栄華を極め人民はそのコマとなり広大な大地に平原に砂漠に埋もれる
その図式が世界史ではいたるところにある、ヨ−ロッパでもベルサイユ宮殿とかでもそうである
中国は極端にその人民と王の格差が激しいのである
王にすべての富が集中する構造になる、その富で広大な土地だから限りなくななる
今の中国をみればわかる、同じ構造だからやはり極端な格差社会になる

共産党幹部は王朝であり幹部が何兆円もの財産を所有して貧富の差が極端なのである
だから平等を目指す共産主義がまた極端な貧富の差を産みだしたというのも皮肉である
つまり中国社会の構造は始皇帝の時代から変わっていないのである
それは歴史的にも莫大な富が王に集まりそこに大宮殿が生まれ遂に始皇帝の場合は大規模な地下宮殿になる
その地下宮殿に行ったことがある、それは作られたものだった
でも死んで地下まで現世の栄華を作り出し残すという執念は中国人らしいとなる

日本がは国土が狭いしまず巨大な富を産みだせないし平等な国になっていた、第一侍がいたとして支配したとしても庶民の暮らしとさほど食べ物でも変わらないからだ、中国とかヨ−ロッパでも宮廷料理があるが日本には侍料理などないのである
殿様料理があったとしても鯛を食べるくらいが贅沢だとなる
侍でも質素なのはそれだけの富を作り出せないからである
日本がの古墳でも大きいのがある、仁徳天皇陵は世界的に見ても巨大である、始皇帝陵は一つの人工の山を成しているので高さの点では大きい、でも日本の天皇はそんな贅沢をしていない、豪華さがないのである
大陸国家のように国土が狭いからそれだけのい富を作り出せなかったのである


高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり

『新古今集』

この歌は古代の聖帝として有名な仁徳天皇を偲んで詠われた
歌です。

仁徳天皇は八幡さまのご祭神として知られる応神天皇の第四皇子です。
仁徳天皇のことで最もよく知られている逸話は、民のために
3年間租税を留められたことです。
そのため、宮殿の雨漏りはひどく、天皇は、屋根の破れ目から星の光がさし
入るような中、休まれていたといわれています。

三年を経過して民の生活力はすっかり回復しかまどの煙が立ち上る
ほどになり、天皇も「百姓富めるは則ち朕が富めるなり」と仰せられて
喜ばれたのです    


この歌は後世のものであり史実ではないのもわかる、第一仁徳天皇陵は巨大だからである
もしかしたらそういう脚色して天皇をほめることにしたのかもしれない
あまりに格差があると質素を装うことがある、あれだけの天皇陵を作った人がそういう気持ちになるのか?
確かに何か疑問が生まれる
ただ天皇はもともと質素なのである、大陸の王とはまるで違ったものであり権力はなくただ担がれるものでしかなかった
日本でで巨大な権力者となると秀吉くらいだったろう

ともかく中国とは何かとなるとその広大な国土と国民の人間の多さがその国柄を作ったし人も作ったのである
「一将功成万骨枯」である、それはアメリカとか今のグロ−バル社会でもそうである
数パーセントの人世界の富の半分とか集中して保有している、アメリカも極端な格差社会なのである
グロ−バル資本主義自体がそうした格差を作る、今は世界の富が資本家というか多国籍企業に集中してその幹部や社長が莫大な富を得ているから世界史いうのも変わらないのかとなる
2000年前でもそうだし今もまた形を変えているが極端な世界的な格差社会なのである

中国には十数年前に三回くらい行っている、それで何か中国というのも理解した、あの時は鉄道は通っていても出稼ぎ者が車両に家畜のように詰め込まれていた、出稼ぎ者の大移動があった、流民というのを実感した
膨大な人間が集まり流民となり都市に移動していたのである、その貨車に人民という家畜が詰め込まれていたとなる
中国では人間が多すぎるから人権とかは成り立たない、人民は奴隷でありその莫大な人間を支配するには圧制になる
それが共産党に代わっても同じだったのである
大陸国家にはそうした共通性がある、莫大な富が王とか少数の人に支配階級に集まる、そういう仕組みがある

グローバル資本主義もそうだったのである、後進国がそうした支配階級の奴隷と化している
それが世界的規模になっているから何か公正な原理で働いているようで実際は同じ構図なのである
何か国が大きくなり規模が巨大化するとそうした格差社会になる
日産のゴーンでもそうだろう、富が社長に集中する、その金の額に驚くことになる

日本では村という小さな単位が共同体でありそこでは格差が生まれにくい、みんな平等を追求する、極端な富者はありえないのであるそれは規模があまりにも小さいからである、そういう国の差がやはり国土から生まれているとなる
ロシアでもプーチン皇帝となるように国土が広大になるとそうして圧制があり一党独裁となり王が君臨することになる
中国の謎は村というものがないというのである、日本がで村というものは中国にないというときこれも理解しにくいのである
中国の共同体の単位は相当に一国のように大きなものだということである
要するに日本人が大陸国家を理解できないのはその国土のスケールの相違が大きいからである
平原があり砂漠があり湖にしても琵琶湖の三倍とかもっとありなんでもスケールが大きいからイメージできなくなるのである

私の場合中国で犯罪にあわなかったのはバックパッカーだったが汚い恰好していたから中国人に見えた
中国人と日本人でも見分けがつかないところがあったからである、これがヨ−ロッパだと見分けがつく、ただ日本人は中国人になる
つまり私は中国人民の群れのなかに埋没したから目立たなかったから犯罪にあわなかったとなる
あのころ中国人は相当に貧乏だったからである、それが十数年で新幹線から月まで行くとかスマホとかit先進国になっているのが信じられないとなる、こんなに変わるものかと驚くことばかりである
この辺の津波でも原発事故でもそうだったが十年一昔になり十年なると世界でも様変わりするものだと驚く
特にグロ−バル化でその変化が世界的になり激しいのである、だから中国は経済的に崩壊しているとかyoutubeで盛んに言うが
アメリカでも衰退してアメリカは日本を見捨てるというのも現実である、アメリカも常に変わっているからである
最も勢いのある時代をアメリカはもう過ぎているからである、だからなぜ中国は崩壊するとか言うのが理解できないのである







2019年01月30日

グローバルな大陸的思考がない日本 (奇貨置くべし―人材のグローバル化は必要)


グローバルな大陸的思考がない日本

(奇貨置くべし―人材のグローバル化は必要)


日本人の性向とか国柄とかどこから生まれてくるのだろうか?
他の国でもその国に生まれ育つとその国なりの性向が生まれる
これも人間は環境の産物だからそうなる、風土から文明文化が作られる
では日本人の性向の基本的なものベースとなるものは何なのか?
それは狭い村という範囲で作られてきた
狭い村では争いを極力避けないと生きていけない
村からまた他の村とかに移ることができないのが日本がだからである
江戸時代はもう村から出れない、移動の移住の自由がないからだ
そうなると狭い範囲で生きるためにはどうするのか?
なるべく争わないことである、みんなと同じようになり目立たないことである
そこで一番重い罰は村八分だからである
ここから日本人の性向が作られてきた、同調圧力が強い性向が生まれた

日本人は大陸国家の人間とは文化とか文明でも相当に違っている
日本人は山が多いから山にさえぎられて国土が狭いから平地が少ないからその狭さでいろいろと制限されるのである
まず中国でもモンゴルでもロシアでも東ヨ−ロッパでもフランスでもドイツでも砂漠の中東でも広大な土地が広がっている
だから常に移動することが羊飼ってもそうなる、そういう生活感覚が日本にはない

日本がは島国でありさらに狭い地域の村で同じ人間と生活していた
大陸だと国境があっても大陸はつながっていて越えられるから絶えず異民族が嫌でも侵入してくる、国境を作るには万里の長城のようなものを作らない限り異民族の侵入を抑えることはできない
そこから日本と大陸国家の差が大きいものとなる
そもそも大陸国家はグローバルに展開しやすいのである
モンゴルでもいつも移動しているのが生活なのだからそれがそのまま大群となって移動すれば他国への侵略にもなるからである

そこで大帝国が生まれやすい、しかし一方でまた侵略される方にもなりやすい
そしてそこに民族の興亡と国家の興亡がくりかえされる
つまり常に歴史的にもグローバルに展開しやすいから今だけではないグロ−バル社会になる
そして戦争に勝てば他国を侵略して富を得る、その富を集めることができる
それで大陸にはペルシャ帝国であれエジプト帝国であれオスマン帝国であれナポレオンのオスマン帝国であり版図を拡大して莫大な富を集める、それが大陸国家の歴史だった
グローブとは地球のことでありその地球は大陸でつながっている地球のことだった

そして他国と戦争して勝てば領土を拡大すると莫大な富が入ってくる、また負けた国の人は奴隷となる、スラブ民族のスラブとはスレーブから来ている、つまり奴隷なのである
戦争にされれば奴隷にされるのである、そういう過酷な世界が大陸国家の宿命だとなる
ただ奴隷にされるとかになっても逆にそうして帝国が形成されてもまたその帝国も興亡があり興隆してもまた衰退もする、そういう繰り返しの歴史がある、日本では島国でありそういう富が蓄積されなかったのである

世界規模になれば富がある時はスペインにある時は七つの海を支配したイギリスにとか集中する、現代でもグローバル社会という時激しい技術競争がありその技術競争に勝てばその国は世界の富を集めることができる
今では通信の世界で覇権を争っている、アメリカと中国になっているようにである

いづれにしろ中国を理解することはこのように大陸国家としてあったことである
そして中国人の思考とかもそうした歴史と文化から風土から作られてきたのである

趙の人質となっていて、みすぼらしい身なりをした秦の公子・異人(後に子楚と改称する。秦の荘襄王のこと)をたまたま目にして、「これ奇貨なり。居くべし (これは、掘り出し物だ。手元におくべきだ。)

この時期には孟嘗君や信陵君などが食客を集めて天下の名声を得ていたが、呂不韋はこれに対抗して3,000人の食客を集め、呂不韋家の召使は1万を超えたと言う。この客の中に李斯がおり、その才能を見込んで王に推挙した。更に客の知識を集めて『呂氏春秋』と言う書物を作った。

人材を広く求める、変わった奴でもまた外国人でも取り入れる、それによって国が豊かになるという考え方である
つまり中国自体がグロ−バルなのである、それをアメリカがしてきた
IT関係の人材を世界から集めたからである、ただその人材とはどうしても今の単純労働者とは違う、技術者であり知識人であった
それは日本でも韓半島から来たのは鉄の生産とか陶器の生産技術を持つ人たちであり何ももたない人は来ていないのである、そういう人は別に日本でも必要なかったからである
おそらく中国人の性向としてあれだけ人口が多いと人間がなんとかして目立たないと注目されないとだめだということになる
なせならありふれた人間の数が膨大だからである
そんな人間は見たくないとなり石でも岩でも奇岩が求められ庭に置く、ありふれたものでは目立たないからである
それは人間にも言えたのが中国だとなる

いづれにしろ大陸的思考は奇貨置くべしというのにも如実に現れている
日本がだとそういう変わった人は受け入れないからである、みんなどんぐりのせいくらべになる、変わった人間は拒否されるのが狭い村で生きることはできないからだ
とにかく大陸だと外国人であれ常に移動してくるから拒否できないのである
もし拒否したら侵略してくる、そもそもアメリカでもトランプ大統領が移民を壁を作って入れないようにしも必死で入ってくる人たちがいる
そうなるともう戦争にもなる、移民を殺すほかなくなってくるのだ

これから日本はグローバル社会で生きるとなるとき日本に移民を受け入れるにしても単純労働者ではない、介護関係とかでもない、優秀なグロ−バル競争に勝つ技術者とか頭脳を入れなければ競争に勝てないのである
グロ−バル経済を否定してきたがそれは物の自由な出入りとかではなく人材のグローバル化ならいいとなる
そうしないと日本は後進国になる、現実に例えば車の生産にたずわる人が日本では8パーセントもその下請けなどをふくめてあるということは農業にたずさわる人たちと同数だとなる、それは多すぎるというのもわかる製造業にたずさわる人が多すぎる、それでit時代に日本がは遅れをとったのである
車自体が時代が変化してそんなに大量生産てし売れるとはならない、何かそこに技術革新がありそれがit技術と一体化するからであるでも肝心のit分野で遅れをとっているから日本はグロ−バル競争についていけず経済も衰退したとなるからだ


2019年01月31日

老子の思想と江戸時代の意味 (大陸国家は戦争の歴史でグロ−バル化も平和をもたらさなかった)


老子の思想と江戸時代の意味

(大陸国家は戦争の歴史でグロ−バル化も平和をもたらさなかった)

そこには世界政府がない、すべての国の国民に責任をもち、グローバリゼーションのプロセスを監督してくれる存在がない
「そこには世界政府のない世界統括」とでも言うべきシステムである
少数の機関ー世界銀行、IMF,WTO,-と少数の人間ー特定の商業的、金融的利害と密接に結び付いた金融や通商貿易の担当者、−が全体を支配してその決定に影響される多くの人々ほとんど発言権のないまま取り残される
(世界を不幸にしたグローバリズムの正体ージョセフ・E・スティグリック)

グローバリズムを考える時やはり歴史的に考察する必要がある
この世に起きていることは継続でありあることが過去の歴史と無関連に起きない
それは人間の業(カルマ)として人間個々人の人生もありまたその同じ人間が繰り返すのが歴史だとなるからだ
「歴史は繰り返す」とはカルマを繰り返すということなのである

大陸国家というのはヨ−ロッパからユーラシアから中東から中国とそれは絶え間ない戦争の歴史だったとなる、それはアーリア人が好戦的でありそれが世界戦争をもたらしたというのも大陸国家は陸続きだかたら衝突が起きれば戦争になる
移民でも別に戦争しないにしても飢饉とかなると隣の国が陸続きなのだからなだれこんでくる、それがモンゴルでありそれを防ぐために万万里の長城が作られた
今でもアメリカのトランプがメキシコの国境に壁を作ろうとしているのもそのためである
グロ−バル化経済とはそこには経済の原理しか働かない、金の原理しか働かない
人間の生活は経済だけではない、様々な要素があって成り立っている

だからこの辺で起きたこともそうである、電発事故の避難民のことを追求してきたが人間の生活は金があればいいというだけでは成り立たない
そうなるとどうなるのか?もう金があれば一億円もらったら別に原発事故で放射能に汚染された故郷でも住む必要がなくなる、それで若い人たち世代は流出して老人だけが取り残されたのである
そこに先祖がいて歴史があったがそれも簡単に断たれることになる
そういう金にならない経済的効果がないものでも価値がある、それがその国でも地方でも文化であり文化は無視されるのである
ただ経済的効果価値あるもの、金になるものだけが価値あるものとなりその他一切無視される、それがグロ−バル経済なのである
それは世界をかえって荒廃させたのである
世界の市場化自体がそうした歴史と文化的価値を無視した異常なことだったのである

人間社会ではそんなことが成り立たないのである、そしてただ多国籍企業とか株式とかで一部のものに富が集中する、数パーセントが世界の富を収奪するようになる
世界規模になればそこに集まる富も莫大なものになるのだ
それは歴史的には帝国が皇帝に王様に富が集まったとにている
戦争で他国を略奪してその富を帝国の貴族階級に集める、ローマ帝国であれフランス帝国であれそうである、版図を拡大すれば他国の富を入ってくるからだ
そういう世界の歴史の継続としてグロ−バル化経済がある

ただ帝国とかはそこにないが実際はアメリカ帝国支配になっている
ドルがアフリカでも世界の果てまで通じていることでわかる
石油の決済もドルでありそれでカザフスタンとかでは困り中国のブロックチェーンを利用してドルを使わないで決済する方法を産みだした
だからドルが世界で通用することはアメリカの世界を支配することになる
一方でアメリカでもグロ−バル経済で国内経済がだめになりアメリカ第ファーストの政策に切り替わった、これもまた矛盾しているのである
なぜならアメリカが世界を支配できたのはグロ−バル経済の結果だからである
それでもそういうことになるのはグロ−バル経済が世界的矛盾を産んでいるからである

それで歴史をふりかえると江戸時代が老子の思想を具現化したものだったということに気づいた

老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、料理も衣服も住居も自給自足で賄い、それを楽しむ社会であるという。隣の国との関係は、せいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。

こういう思想が生まれたのは2000年前だから驚く、その時の中国の人口は一億とかなるとそんなに人口が多くない世界なのである
中国は三国志から絶え間ない戦争の歴史だっからそのアンチテーゼとしてこうした思想が生まれたのがわかる

どうしたら戦争のない平和がありうるのか?

それが切実な問題だからこういう思想が生まれた
つまりこれはグローバル化経済社会のアンチテーゼなのである
その小国寡民などこの文のようなことが実際に実現していたのが日本なのである
江戸時代の鎖国の時代がそうだったのである
国としては大きいがなぜ300年間も戦争がなかったのか?
このこと自体世界史ではありえないことだったのである
それは江戸時代自体がまた日本の国のなかでも村々が自給自足でありあまり遠くとはかかわらない社会だったからである
そして国自体も島国で世界とはかかわらなかった
ただ貿易は長崎の出島だけからしていたのである、それで他国とも友好関係にあり戦争もなっかたのである
朝鮮通信使とかも江戸時代に来て歓迎されていたし今のように戦争の結果として日本がは憎むこともなかった、だから江戸時代を韓国では評価している
明治以降は侵略されたとして評価していないのである

なぜ明治以降凄惨な世界大戦が起きて膨大な人間が死んだのか?

この原因は何なのか?やはり老子の言うように世界がグロ−バル化して自由に交わる世界になった結果である、それは一見いいようでもその国と国の軋轢が増して悲惨な戦争となる、その戦争の原因は貿易戦争でもある
貿易というのはすべていいようにみえて必ず国と国の軋轢を増してそれが戦争につながる日本がとアメリカでも日本の車がアメリカ人に壊されたり日本でも牛肉を食べる習慣がないのにもっと牛肉を食べろとかなる
それは文化の破壊に通じる、肉食は日本ではあまりしていなかったからである
日本は魏志倭人伝から牛とか馬とか羊がいない世界であり肉食をしない、漁労民族だったからであ
それが文化であり料理でもそうだからである

これからの世界で参考になるのはグロ−バル化世界ではない、日本の江戸時代のような鎖国したような世界が理想となる、そこには300年間戦争がなかったからである
戦争ほど悲惨なものはないからである
だから人間のプライオリティはまず戦争をしない、戦争をなくすことなのである
その次に様々な問題の解決がある

グローバル経済の世界自由貿易はいいようでもそこに国々との軋轢をもたらす、そして欲望が世界大に拡大してとめられなくなる
その欲望が国同士の戦争にもなる、第一こんなに食べ物でも世界の食べ物を得ようとする必要があるのか?
それは老子の言うようにいろいろな味を追求しても結局水が一番いいとか無味を味わうとかなるのである

いづれにしろグロ−バル化経済がもたらし負の面があまりにも大きくなりすぎたのであるそこには統治するものもない、アナキーな経済原理だけが働いているのである
そしてそこでもたらす荒廃は金さえあればいいとなりもともとあった歴史的文化的価値も無視される、それは金にならない経済的効果がなくても価値があるものだが無きものにされる
そしてこの辺ではただ補償金だけをもらうことだけが価値になりその他の価値は無とされて若い世代は流出して残されたのは老人だけになったのである
これはグロ−バル広域経済がもたらした結果だったのである
歴史的にグロ−バル経済社会の負の面を世界的に否が応でも認識されたのが20世紀だったのである
その反省に基づいた新たな経済の在り方を模索する時代である
その見本になるのは江戸時代なのである、そして老荘思想だともなるのである

2019年02月07日

グロ−バル化は国内でもそうである (東京一極集中で地方から富が吸い上げられる―会社の社長は東京に住んでいる)


グロ−バル化は国内でもそうである

(東京一極集中で地方から富が吸い上げられる―会社の社長は東京に住んでいる)

 グローバル経済とは何なのか?これを客観的に見て理解できるかとなるとむずかしい
今どんな時代を生きているのか意外と生きていてもわからないことがあるのだ
江戸時代に生きていた人がどんな時代に生きていたのかわからない
それは時代を比較しにくいからそうなる
こんなに外国と交わり生きている時代はない、でも江戸時代は狭い地域で藩とかの単位で生活していた、規模が小さいから何かいろいろなことが見える社会であり互いの関係も見える社会に生きていた
そういうことで何かいろいろなことを別に特別な勉強しなくてもいい社会である
かえって人間同士も互いに通じ合う社会である
もちろん必ず負の面はあるが今のように互いの関係がわからない社会ではない
それは狭い社会で生活していたからである

身の回りにあるもので生活していた、燃料は炭だとすれば山で木材から炭を作っていてそれを利用するとなると近くの山で木を切って炭にしている目に見えるから何もむずかしい勉強などいらないのである
水でも井戸からとるとかわかりやすい、そして何より遠くのものは物でも人でも滅多に入ってこない、制限されている
だから遠くから運んでくるものもわずかだから身の回りにあるもので間に合わせていたからその生活もわかりやすいのである
経済の動きが手にとるようにわかるのである

竹を利用して竹細工があり籠屋がありとか手仕事の社会でもある、その材料はみな近くでとれたものなのである、外国からも藩の外からも入ってこないのである
そういう社会になると別に学問として学ぶ必要はない、経済の勉強すらいらない、その社会で生活していればむずかしい経済学など勉強しなくても学問がなくてもわかることだからである、だから生活の中で生きる術を身につけていたのである

現代社会では日本ですら広域的に密接にかかわる社会である
モノ、ヒトが自由に出入りする社会である
それで単純な疑問として南相馬市鹿島区に東北サッシがあタニコウがあり友伸エンジニアがある、これは鹿島区では大きな会社であるから働く人も多い
でもみんな社長は東京の方なのである
鹿島区でも相馬地域に住んでいない、なぜなら時々電車で視察には来る
その時社員が迎えるから知っている

つまり社長は地方に会社が支社があっても住んでいないのである
こういうことが今は多いと思う、社長は東京の方に住んでいて地方に会社があっても工場があっても地元には住んでいない、するとどうなるのか?
その富は社長がいる東京に使われるとかなる
東京に富が集中するシステムになっているのだ
そして東京に住んでいる限りどんな贅沢していても地方ではわからない
東京では一か月二百万の家賃とかのマンションに住んでいる人が普通にある
会社の社長が多いからである、経営者はそれなりの金が入ってくるからである
そういう生活は田舎ではイメージできないのである

そして社長は経営者は地方に視察に時々来ても住んでいないのだからその地方の田舎に住んでいる人についてもその地方の生活がどういう状態にあるのかも理解しないでもいいとなる
なぜなら社長でも地方の田舎に住んでいたら自分が生活する場だから何か社長となれば関与することがありその住んでいる場所を良くしようと自ずとなるからである
でも住んでいない限りそういうことにはならないのである
時々社長として視察して後は東京に帰ってゆくだけだとなる
そういうことが何かグロ−バル社会では普通なのである
グローバルとなると日本に住んでいないでアメリカに社長が住んでいるともなる
すると日本はただ金儲けの対象であり日本に住んでいないのだから日本からは金が入ればいいともなってしまうのである

そういうことが原発事故にもなる原因を作っていたのである
なぜなら東電の幹部は社長でもフクシマ原発のある大熊とか双葉とか浪江でも周辺に住んでいないからである、確かに社員で住んでいた人はいた
だが幹部クラスになると住んでいないのである
その住んでいないことはその場所に無関心になる、東京から離れたところで安全だとかただそこで収益をあげて東京で贅沢していればいいとなる
原発に対する危険性も感じなくなるのである
もし原発の近くに住んでいればそうはならない、素人より放射線の危険とか知っているからである 

現実に東電の社員で住んでいた人は爆発の時山の方に逃げたが東電の社員は海側の街の方にもどった方がいいと行って引き返したのである
山側の津島は放射線量が一番くらい高い地域になっていたからだ
つまりそこに住んでいる人は自分が被害に会うからみんなに支持できたのである
東京の東電本部からは何の指示もなかったのである
そして吉田所長と東京の幹部とは意思疎通ができなくなっていた
それも事故現場にいないしもともと離れて支持していたからそうなったのである

だからグロ−バル社会とはこういうことになりやすいのである
それは国内でもそうである、社長は地方で会社や工場を経営してもその市町村を良くしようというものにならない、それはそこに住んでいないからである
グロ−バル経済になると世界が一つに結ばれるというのは幻想である
世界をばらばらにするのである
グロ−バル経済はただ金だけがやりとりする無政府状態なのである
人間が人間同士わりあえる範囲は広ければ広いほどわかりえなくなる
無関心になる、それだけ広くなるともう相手のことなど理解できないからである
グロ−バル社会とは経済だけが突出した無政府状態であり無法にもなっているのだ
そこで通用するのは金しかない
金があればどこの国に行っても最高級のホテルに泊まれるとなる
人は世界でも金だけが価値として見られるのである

江戸時代だったら身近な人たちと密接にかかわり生活していたから金だけの社会ではない要するにその地域で貢献する人はみんなわかっているからその人が認められていたとなるその社会的に共通に認知された認められた人が力をもっている、それは金だけではない、身分とか社会的な貢献度合いによって決まっていたとなる
現代では誰でもいい、第一遠くから来る人だからその人となりなどわからない
ただ見かけとか金でその人の価値を判断するだけなのである
金さえあれば殿様待遇になるのである

グローバル経済はそうして人間的なヒューマンなものを排除して成り立つ
金を唯一の価値としている、人間と人間がわかりあうなど関係ないのである
そういう社会は異常だともなる、つまり経済だけの金だけが通用する無政府状態の社会なのである
そして世界が市場になるのだからある一部の人に巨万の富が集まる
それは中国の皇帝と同じなのである

だからグロ−バル社会は何か世界が交流していいものだとしてきたがそれは世界でも格差社会になりその富は極一部の人に集まるシステムなのである
そして世界を支配するのはFRBなのか政府でもないとなる
金の流れのシステムを握っている人たちだとなる
その人たちによって世界は牛耳られている
それは陰謀論にもなるがでもドルが世界を支配しているという時そういうシステムがあるそれでアメリカは基軸貨幣としてのドルの支配権をゆずらないのである
それにも綻びをきたしてきた

基本的世界は国家なしではありえない、国家以上の共同体はできていない
グローバルの経済だけを追求する社会はそこは誰もモラルでもなんでも統制できない無政府状態になっている
ただ金のやりとりだけがあり人間的なものは排除されるのである
つまり人間が社会を作りえるのは共同体を作りえるのは本当は江戸時代の藩のような範囲である
それ以上巨大化すると統制ができないものとなる

そして世界で何が起きたか?グローバル化した結果世界大戦で第一次第二次世界大戦で3000万人とか死んだと信じられないものとなる
それはナチスのファシズムも産むのも当然だとなる
人間が人間的に治められる範囲には限界があるからだ
その血脈を通じる場所が限られた場所なのである
それはグロ−バル化ははるかに逸脱しているからもう統制するものもない無政府状態になって金だけが突出して力をもつ世界になる
もう世界の株式市場でも機能不全になる、それが恐慌とかなり破綻する
それが自然災害のようにやってくるように見えるのはもう世界経済など知りえる人はいない、原発でも吉田所長すら復水器のことを知らなかったのである
もう世界市場のことを知りえる人はいないのである
だから突然リーマンショックのようにクラッシュする、破綻するのが運命なのである

2019年02月08日

貨幣の歴史、金の背後にあるもの (政治軍事力であり民間銀行の金融支配?)


貨幣の歴史、金の背後にあるもの

(政治軍事力であり民間銀行の金融支配?)

 前2世紀(共和政期)のローマ社会は、単独統治者、つまり独裁者の登場を登場を強く恐れた。市民集会が行われるローマ中心部の広場から、許可なく建てられた人物像が撤去されたほどである。したがって、貨幣に自己の肖像を描出することも独裁への意欲ありと見なされ、不人気につながることから忌避されたと考えられる。英雄神や、すでに亡くなった祖先は独裁者になる心配がないので許容された(しかし祖先の肖像は駄目)。、共和政時代のローマ人って面白い。

 比佐篤『貨幣が語るローマ帝国史:権力と図像の千年』(中公新書)

オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム ...の連続テレビ放送見ていてエジプトの支配をまかせられた人物が自らの肖像を貨幣に彫ったものを流通させた
それは自分自身が支配者でありその地の王だということになった
それでオスマン帝国の真の王のスレイマンが討伐を命じて殺された

貨幣とは何かとかその謎は歴史的に解明しないかぎりこれもわからない
貨幣にはただ交換するための手段として便宜的にあるのではなく政治と深く関係していたのである
だからローマでは単独統治者が出れば他の政治家がそれを嫌うから自己の肖像を彫ることは独裁者になる、統治者になるということで嫌われたのである
貨幣は紙幣でもそれが経済的要因だけで生まれているのではない
政治的力が反映して生まれている、政治の力が作用している
ヤップ島の石の貨幣というのも別にそれは交換できない、経済的意味がないにしろ威信財でありそれを所有しているだけで力をあるものとして認定されていたからである

政治の力が経済にも反映するしそれで貨幣とか紙幣にも反映する、世界の通貨でもなぜドルがアフリカの果てまで通用しているのか?
なぜドルでしか石油が売買できないのか?それは政治的な力関係でそうなっている
アメリカのドルが世界の共通の貨幣になっているときアメリカが世界を支配しているとなる、だからアメリカはドルを世界基軸通貨として金融の面で世界を支配できるからこのドル支配に抵抗するものをたたくことになる

それが中国だったのである、カザフスタンで石油がとれるとしてその売買はドルでしかできないとなればそうである、それで中国はブロックチェーンを利用してドルでなくて取引しようとした、そのことは良くわからないにしろドルだけで石油を売買することに逆らったのである
そうなるとアメリカに敵対するものとなり中国に関税かけるとか圧力をかける
世界を支配する手段は軍事力もあるがグロ−バル化すると金融も大きな柱になる

そしてこの金融を握っているのはその国ではなくアメリカさえ紙幣の発行権がなくFRBという民間の銀行だというときこれも現代のグロ−バル資本主義のシステムの謎を解く大きな問題なのである
それでアメリカの政府で紙幣を発行しようとしたリンカーンからケネディから歴代の大統領が暗殺されたというのも紙幣を発行することドルを発行することがどれだけ重要な意味を力をもっているかわかる
現代のグロ−バル経済を支配しているのは金融であり民間の銀行だともなる
その背後になにながあるのか?それが常に陰謀論になっている
それは国家のように表に出てこないからである

金融の仕組みがわかりにくいからそうなる、つまりグロ−バル経済というのはそうしてわからない仕組みになっているから陰で操作して巨万の富が世界から吸い上げられるとなる
そして不思議なのはアメリカ自体が極端な格差社会になっている、それも数パーセントの人にアメリカの富の半分が吸い上げられている
だからアメリカという国は何なのだろうとなる
アメリカを支配しているのはアメリカ国民ではない、裏で操作しているFRBとか民間巨大銀行なのかとなる、もしそうした富がアメリカ国民に回っていけばアメリカ国民を富ませるものだから格差社会にならないから不満も起きないのである
それだけの格差があればアメリカ国民自体がそういう社会を糾弾するようになる

なぜグロ−バル経済とかが批判されるのか?そして今対立軸は本当は右か左とかではなくグローバリストとナショナリストの対立である、トランプはナショナリストでありグロ−バリストではないからウオール街から反発された
それはとりもなおさず今の金融を支配するのはアメリカの政府ではない、アメリカ国民でもない、数パーセントの金融を支配するものたちだとなるからだ

グロ−バル化経済は世界市場の自由な競争であり公平というのではない
明らかに世界市場を操作して極一部の人たちに富を集めるシステムなのである
だから株式市場が公平のように見えてそうではない、そんなところに株でも投資信託でも素人は儲けられないシステムになっているのだ
第一地銀などは弱小の銀行でありそういうグロ−バル化の中ではやがて排除されてつぶれてゆく銀行である、もう現実そうなっている
地銀などはとてもグロ−バル化市場に参入できないのである
そんなところで競いば金を失うだけでありまたそこに預ける人も金を失う
地銀の役割はそういうことになかった、地元の会社とか地元に金を回して貢献するということに成り立ちがあったからだ

現代の問題を追求する時やはり常に歴史的に追求することが要求される
そうすると見えてくるものがあるからだ、いくらグロ−バルでも複雑でも歴史的に解明してゆくとわかるということがある
紙幣は政治的軍事的でもその優劣によって価値が決まる支配されるということである
アメリカに中国が軍事でも金融でもハイテクでもITでも通信分野でも対等になりさらにアメリカを凌駕するとなるとアメリカの敵国にもなる
政治のバランスが崩れドルに価値がなくなる、ドルの支配ができなくなる
それよりアメリカ自体がそのドルの発行権がない、グロ−バル経済を支配するのは金融でありFRBがドルの発行権をもって世界を支配するとなる

そして紙幣が実は負債であり銀行が金を貸したものが紙幣として金として流通しているのだとすると経済のシステムは借金から成り立っているともなる
借金させることにより個々人でも国すら支配できる
借金の怖さは個々人でもモラルを消失させることである
たいがいの犯罪が借金が原因になるのもそのためである
借金に追い込まれた人間はもうなんでもするようになる、殺人までする
だから借金しているとその人は怪しいとまでなる
それは江戸時代からあった、遊女に売られたのは借金のためである
借金した人はなんとか借金を返したいとしてなんでもする
もう人を人ともみなくなる、そういう人と出会ったのが自分であり最悪だったとなる
悪くすると保険金殺人のようにさえなっていたから恐怖である

人間は借金によって悪魔に変貌する!

これは国単位でも借金させて国家すら支配する、それで中国の一帯一路計画でも借金させてそれに従わせようとして反発されたのである
借金によって言うことを聞かせる、それが金融支配でもある
中国もまたアメリカと同じなのである、大国は帝国そうして支配する
要するにグロ−バル経済に公平な市場の取引とかはないのである
もし本当に自由競争の原理が経済に働くならそれは理想である
かえって世界市場化グロ−バル化は富が数パーセントの人たちに集まるように極端な不公平を生むというよりそういうふうに仕組まれたものであり当然だったとなる
それは意図して作り上げられたものなのである

ともかく現代起きている問題はグロ−バル化にありそれを解明しない限りわからない
国家をなくす国家がない世界もありえない、そうなるとまさにグロ−バル化社会の完成になるのがそこには政府もなにもない、無政府状態でありモラルもない、金だけが唯一の価値となり荒廃する、現実世界がすでにそうなっているのである
何かネパールでは今だに日本の円からすると十分の一だとかいうのも変である
それで日本に出稼ぎにくる、そんな極端な差があること自体が世界がグロ−バル化して
モノでもヒトでも自由に出入りできる社会になっているからそうなる
実際はそんなに差があることが異常なのである
そうなれば富める国へ人が流出する、そこで移民問題が生じるのである
それは極端な金の格差からそうなっているのである

貨幣の紙幣の通貨の謎は世界的に通用するということ自体ありえないことだった
国と国になればそれは自由な貿易でも簡単にはできない、金が貨幣が紙幣が万能にならない、その国と歴史があり価値観も違っているからである
だから世界市場化して金によってそれもドルによってすべての価値が計られるということはアメリカによって支配され計られることにもなる
つまりドルの背後には政治力があり軍事力の優位があって力をもっているのである
そういうものが崩れるとドルも通用しなくなるのである
だから中国の台頭で起きていることはアメリカの驚異となり危機となっている
アメリカ一国支配が終わりつつあるということである 

そして歴史的にみれば地銀の成り立ちでも江戸時代の頼母子講とかに還ることが求められているかもしれない
グロ−バル化で地銀が投資信託とか株式に参入するのは本意ではないからだ
そうすれば結局地方の富すらグロ−バル経済市場の中に組み入れられて奪われる
グロ−バル化市場経済で地方にでも金が回って貢献すれば別だがそういうことはない
第一もう何に投資ているのか、そこで何意味があるのかなど皆目わからないからだ
そういう社会ではどうしても陰謀論がはやることになる
それは世界経済がどう動いているのかわからない、遂にAIの方が優秀だから銀行員とか証券マンなどいらないとなっていることでもわかる、意味も価値も何もない、無政府状態でありそこで金が暴力的に力を発揮するのがグロ−バル化経済なのである

だから陰謀論者は常に言っている、戦争すら金によって金融を支配する者によって起こされたとか言う
それは戦争というものでも武器を売ったりもうかるから利益をあげるから戦争がしかけられたのだとも言う
戦争が起こる原因も不可解だからである
もう人死ぬとしても何でも金儲ければいいとかしかない世界だとするとそうなる
戦争させて金融支配者がもうかって笑っているとなるとそれは悪魔的でありサタンだともなる
なぜ20世紀は戦争の時代であり何千万もの人間が死んだ、それはどうしてなのだろうとなる
局地的な戦争があってこれまでも歴史的に死んでいたけどこんな数の人間が死ぬということは歴史上ありえなかったからである
その原因は何だったのかとなると何か明確ではないのである
そこには深い闇があるだけだとなっているからである

2019年02月10日

家の力、土地の力、歴史の力 (グローバル化に対立するもの、ナショナルな力)


家の力、土地の力、歴史の力

(グローバル化に対立するもの、ナショナルな力)

家には何か育むものがある
その家を建てその家を作った
両親がいて祖父母がいる
その人たちの苦労がしみこんでいる
その人たちの誇りが家にある
死んでもその人たちは生きむとす
先祖が両親がその家を支える
家には力がある
家には料理でもそれなりの味があった
土地土地には力がある
それは先祖が苦労しして作り上げたもの
土地土地にはその土地特有の味がある匂いがある
その風土の中で住んだ作られた味がある
国はそれぞれの力がある
その国土と風土に育まれた力がある
人間は今だけを生きているのではない
営々と受け継がれたものを生きる
歴史的存在でありそこに力の源がある
もしそういうものを無くすと力を失う
その国の力も喪失する
ナショナルとはネティブとはその風土と先祖に育まれたもの
貨幣で一様化平均化して計れないものの価値
人間の基盤はそこにあり力の源泉がそこにある

何か家族がみんな死んだ結果、死者のこと生きている時より考えるようになった
人間の根源的アイディンティティはやはり家族にあり土地にあるというとき故郷にもなるし大きくはその民族であり国にある
ただその家にしてもヨ−ロッパ的な家の感覚と日本人の家の感覚とかは違う
日本人だと言えと言う時、建物だけではない、人と一体化して分離していない
イエはハウスではない、ハウスとホームが一体化したものである
英語だとハウス〈建物〉とホーム(家族)は明確に分離している
ハウスには重みがない、ホームには重みがある、ホームとは建物の家のことではない
家族がいる場所とか自分のアイディンティティとなる場だともなる
それは遊牧民的な生活から生まれたともなる
遊牧民はハウスがない、一時的なテントだからである
でも農耕民族は家を建てることはその土地に定着して代々暮らすことでありそこに家の重みが生まれた

もともと人間は家族があって両親がいて生れ育つのだから家が基本的アイディンティティとして育つ、国家も実際は大きな有力な家が国家となった、まさに日本では国とは家なのである、ヨ−ロッパでもハウスブルク家とかロシアのロマノフ王朝とか家が基本にありその家が拡大したのが国家なのであり帝国にもなる
日本がでは平氏源氏でもそうである、その有力な家がどうして生まれたのかとなれば農業を基本にする生活だと土地から生まれたとなる
だからヨ−ロッパの貴族では大地主になっていることでもわかる
それは共通したものがあり封建国家とは土地を基礎にした社会だったからである

ナショナルなものとは何かとなればもともとは家であり地域的なものである
ネティブが起源である、ネティブランドなのである
生まれ育った土地のことになる、人間の生活はそうして世界共通なものが必ずある
なぜ近代に明治以降でも世界が第一次第二次世界大戦で何千万人もの人間が死んだのか?その原因は何だったのか?
それは民族主義があり民族が国家になり対立が激化したともなる
それで民族主義が否定されるようになった、ナチスとかが生まれたのはそのためだったというのもある
民族主義とはナショナリズムとは家から発している、家から発してその土地土地から発する人間の根源的な営みがあって生まれたものだから否定できない強いものがある
言葉でもそうでありもしネティブなものを否定すれば人間はどこにアイディンティティでを求めるのかとなるからだ

ただ家という時家族という時、その家だけを重んじるととなると他者の家とは対立的になり遂には争いとなる、それが国と国の争いに発展したともなる
なぜなら平氏と源氏の争いでもそうだからである、そこで天皇は日本人の大先祖だというとき天皇には姓はないのである、それは平氏に属すれば平氏の味方はなり公平でなくなるからそうなった、天皇は日本がを統べる者として公平な存在でなければならないからである 
                                        
でも南北朝とか明治維新でも薩摩長州に味方したように公平というわけにはならなかったから熾烈な内戦となったのである
つまり家族とは他者の家族とは排他的になる
民族でもそうである、そのためにグロ−バル化とはそういう排他的なものをなくすためにイデオロギーとかをもちだした、フランス革命でもそうである
貴族の特権を家の特権を廃止するために「自由、平等、博愛」の思想をかかげたのであるそれは民族とか人種とか国家の制限を受けない、普遍的なものとして普及させるためである、宗教となるとまたキリスト教でありイスラム教であり対立するから実は博愛とはキリスト教的な愛とも違う、キリスト教を否定するところの博愛だとなる
今でいう人権主義だとなる、ヒューマニズム思想だとなる

グロ−バル化とは常に歴史的にあった、今だけではない人類が始まって以来あったともなる、それはより大きな共同体を目指す運動だからである
ローマ帝国でもそうだしそのために法によって平等に支配する、統治したとなる
そこに民族の優劣などで差別したら大きな共同体は作れないからである
近代に起きた共産主義でもそういう大きな共同体を目指すものとしての運動だった
なぜなら「万国の労働者よち、団結せよ」というときそうである
それはその国とか出自とか人種とか関係ない、万国の労働者ということしかないからである
それからアメリカでも民主主義とうときも様々な民族が移民してできた国なのだからそこにネティブなものナショナルなものは否定されて大きな共同体として成り立つ
そうなると一つのイデオロギーが必要になりアメリカが成立したとなる
そもそもキリスト教国家共同体とかでもイスラム共同体でもそうした民族の枠を越えたものとしてイデオロギーで大きな共同体を歴史的に形成してきたのである

ただ人間の根源的アイディンティティは家とか育った土地とか民族にある
これは否定できないほど強いものでありそれを否定することは自らのアイディンティティの喪失になり自己の存在の意味も喪失する
グロ−バル経済とは何なのか?
それはイスラム教であれキリスト教であれ仏教であれフランス革命の自由平等博愛の思想でもない、何かイデオロギーではない、かえってマルキシズム、共産主義イデオロギーだという人もいる
経済至上主義であり世界市場化でありそこには自由平等博愛があるようでない
過酷な経済原理市場の原理が成り立つだけである
世界市場化して巨万の富を得る人がいるが世界で数パ―セントの人たちが富を収奪する仕組みだとなる
共産主義には一応平等という思想はあったがこれも中国のように極端な格差社会となったように理想は実現していない
共産主義の失敗は何であったのか?

それは人間社会が形成された歴史を無視したためなのである
ある地域に金持ちがいたとして富裕な人がいたとしてその家がどうして富裕になったのかそれはそれなりにその家が努力したとか代々積み重ねたものがあり富裕になった、財産を築いたとなる、そしてその土地で富裕になったことは周りに影響してくる
やはりその富が回りに巡ってくる、その家だけに富はとどまらないからである
それは世界的に言える、ある国が富めば発展すれば隣の国に影響して隣の国も豊かになるそれはアジアで日本が最初豊かになったが韓国に中国にも波及したことでわかる
だから歴史的に富でも積み重ねられて作られてきたのだからそれを否定することは根源的人間の営みを否定することになるから問題なのであり成功しなかったのである

そもそも経済だけの世界市場化など成り立ち得ようがなかったのである
それは極一部のものに富が収奪されるシステムだった
だからアメリカでさえグロ−バル化の結果格差が天文学的になっている
数パーセントの者にアメリカの富は収奪されて後は貧困にあえぐようになったのである
それは共産主義の中国でも同じだったのである
それも富の収奪が共産党幹部によって行われたからである
平等も博愛もなにもない、ただ経済と市場の論理だけの非情な世界になったのである





2019年05月16日

宮沢賢治の中尊寺の詩より (大盗とはグロ−バル経済で起きていることだった)


宮沢賢治の中尊寺の詩より

(大盗とはグロ−バル経済で起きていることだった)   


 中尊寺
            宮沢賢治

七重(じゅう)の舎利の小塔(こたう)に
蓋(がい)なすや緑(りょく)の燐光

大盗は銀のかたびら
おろがむとまづ膝だてば
赭(しゃ)のまなこたゞつぶらにて
もろの肱映(は)えかゞやけり

手触(たふ)れ得ね舎利の宝塔
大盗は礼(らい)して没(き)ゆる


この詩は、簡単に言うと、金色堂に盗みに入った大泥棒も
金色堂の放つ燐光と、その迫力に盗むことが出来ず、
一礼をして、その場を立ち去っていくと言った意味です。

 この大泥棒は、源頼朝を指していると言われていますが、
他にも幾つかの説があるようです。

これも不思議な詩である、詩とかは隠喩がありいろいろに解釈できる
一つの解釈ではない、人によって時代によって解釈が違ってくる
そういう詩がいい詩だともなるしそもそも芸術は鑑賞する方が問われるのである
鑑賞する側も芸術家でありそうした才能も要求されるのである
まず宮沢賢治の詩そのものもか難解であり理解しにくい所がある
法華経に通じないとわからないとかなると余計に難解なのである
こうした難解なものでも後世に残っている
やはり後世になって認められることがある

この詩を私が今に生きて感じたのは解釈したのは何か場違いのような気もするが
この大盗(だいとう)という言葉である
これが何を意味しているのか?
大泥棒の意味なのである、ここでは源頼朝とか鎌倉幕府側のことを言っている
この金色堂の荘厳は盗まれず破壊されず残った
実際は堂塔伽藍は火を放たれて焼失したのである、その跡は忘れていた
そして芭蕉が来た時もその金色堂が残っていたことで「五月雨のふりのこしてや金色堂」の句が作られた、宮沢賢治の詩と通じるものがある
何かその美が尊いものとして残されたとなる 

1453年にコンスタンティノープルがオスマン軍率いるイスラム勢力によって占領されたのです。普通に考えれば、異教の建造物は破壊の対象となるでしょう。しかし、征服したメフメト2世はアヤ・ソフィアの美しさに感銘を受け、聖堂を完全に破壊するのではなく、わずかな改修にとどめてモスクへ転用したのです。

その美の威容に破壊できなかったことでは金色堂とにているかもしれない。
人間は醜いものだと破壊衝動が起きる、だから今の東京とか大都会には美になるのものがないから原子爆弾でも落としてもいいとかなるかもしれない
京都には文化財があったからアメリカ軍が空襲しなかったというのもそのためである
歴史という時、宗教でもそこに荘厳な美が残されて偲んでいることが多い
それはキリスト教圏内で多い、それがルネサンスの芸術に集約されたともなる
仏教でもそこに美があり後世のものが偲んでいるのである
現代文明にはなぜか全体的に美の感覚が消失している
ビルだってビジネスとしての機能性しかないのである、それが世界的なグローバル経済の結果だったのである  

これだけの富が生まれても美が生まれない、その象徴がアメリカ主導のグロ−バル経済からは美が生まれていない、世界の富がアメリカに集まりその数パーセントに金が流れ込んでも何か美は生まれていないし作り出されていなのである
だから美は必ずしも金があるからといって作り出されない、ルネサンスは確かに
メディチ家の繁栄はフィレンツェ・ルネサンス文化の発展につながったということは言える、そこに富豪がいて芸術家のパトロンになり繁栄したとはなる
ではなぜアメリカの一部の投資家などに莫大な富が集積されているのに何か美が創造されていないのはなぜかとなる

確かに金がないと経済的に余裕がないと芸術は生まれないことは言える
個人的にも宮沢賢治のように裕福な家庭だからあれだけの才能を発揮できた
あのころは農民は貧乏でどうにもならない時代だったけど賢治の家は裕福だったからいろいろなことを試すことができたとなる
ただ賢治は天才だったからできたということがある
でも家が裕福で余裕があることが隠された才能を伸ばすことがある
不思議なのは現代は経済的に余裕ある人が多い、第一なぜ働かない人が人口の三分の一もいるのか?

またニートとか全く働かない人がこれだけ多いのか?
貧乏だったらどんなに苦しくても働かなければ生きていけないからである
戦前はみんなそうだった、するとそうして働かない人は貴族なのかとも見てしまうのである、そこから非正規で苦しんでいる人が生活保護自由時間をもてばしたいことができるとしている、それはおそらく現代的にはベーシックインカムでありそこでしたいことするとなる

ここで言いたいのはグロ−バル経済とは何なのか?これを知らなければ現代を知り得ようがないのである、それはこれまで書いてきたように一万くらいの田舎でもグロ−バル経済の中に組み込まれていて逃れることができないからである
そしてグロ−バル経済とは「大盗」が跋扈して世界から富を集めているのである
それがグローバルな多国籍企業だともなる、国自体も実は歴史的に見て大盗である
ジンギスカンのモンゴル帝国も大盗であり中国国内でも時の権力者に対して反乱を起こして盗賊が皇帝にもなっていたからである
つまり「大盗」になれば英雄なのである
それは現代でも同じである、小盗は厳しく常に罰せられるが大盗は国を盗むのだから罰せられないのである、むしろ国をのっとるとなると英雄になるのである
それは歴史でも戦国時代があり熾烈な権力闘争に勝てば国の富を得るとなる
カルト教団でも国をのっとる、権力を得たいとなり選挙で勝つことを最大の目標としている、そこでその首領が実は大盗賊の親分だともなっているのである

つまり大盗とはグローバル経済になれば国自体であり多国籍企業になる、そもそも世界からグロ−バル経済で数パーセントの人に富が流れていること自体がその人たちこそ世界の富を収奪している大盗なのである
ただそれらの人たちは罰せられることがないのである、むしろ崇められているから陰謀論が生まれる
どういうふうにしてその富がごくわずかの人に集まるのかとなるからだ
でそうはいっても日本自体だってグローバル経済で高度成長が一時は大盗だったともなる
グロ−バリゼーションとはそういうものだともなる

グロ−バル経済というときそれだけの富がごくわずかの人たちに集められているのになぜでは歴史的に富が集中するとそこに美が創造された、でも創造されていない、その莫大な金は何に使われているのかとなる、金の使い道が変わったということもある
その世界から集めた金はどこに投資されているのか?それは科学技術の分野だともなる、ITとかもそうである
その金の使い方は歴史的にはエジプトならピラミッドとかギリシャなら神殿とかその後キリスト教なら大聖堂とかなりルネサンスになる、そこには宗教が関係していたのである、ピラミッドが謎にしても王の墓ではなく当時の宗教的建造物だという見解が出ているからである、そこに民衆の宗教的熱意があって作られたともしているからである

現実にいくら権力者がいても民衆の意向が働く、ローマでは大衆が望むのは「パンとサーカス」でありあの巨大なコロッセウムもサーカスに猛獣と人間の戦いの見世物として作られたというのも矛盾なのである
でもそれは民衆が望んだからだとなる、今でも大衆を望むものがありそれでテレビというマスメデアが大きな力をもったのである
それは大衆が作り出したものであり権力者だけでは作りえないからである
常に視聴率が最大の問題でありそれで会社の宣伝媒体となっているのが現代社会であるからだ

いづれにしろ資本主義であれグロ−バル経済というのが何なのか?
これが理解できなくては今の世界は理解できない、ところがそれが理解しにくいのである
おそらく大盗というときそれが本当に大盗でありかつての富をもつものとは違い美とか文化を創り出さないためなのかとも思う
多国籍企業だと後進国の人たちの安い労働で成り立つ、それは別に日本でもそうして外国の安い労働力に依存していた
逆に今度は外国人労働者が世界から入ってきて非正規の氷河期世代の30後半から40代の人が低賃金に抑えられている
それもグロ−バル経済の結果なのである、そしてもう俺たちは捨てられるという恐怖を語っているのである
それがグロ−バル経済なのである、労働自体が世界的競争にさらされるからそうなる

グロ−バル経済の問題はいろいろある、そもそもグロ−バル経済が何か知ること自体容易ではない
だから常に陰謀論になって終わる、ただ確かなことは歴史的に富が集まれば文化が芸術が美が生まれた
それがグロ−バル経済にはない、かえってグロ−バル経済は国々の地域の文化を破壊しているのである
日本語すらグロ−バル化すれば必要ない、みんな共通の言葉がいいとなり英語を共通語にすればいいとなる
それで非正規の人たちが英語を覚えて外国人労働者をマネジメントする立場になれと訴えている
そしてもう日本人のアイディンティティは保てない、日本語が通じない外国人労働者に日本人は入っていけない、排除されるというのもそうである

それからグロ−バル経済にはかつてのようなキリスト教でありイスラム教であれモラルがないのである
ただモノであれヒトであれ自由に流通する世界である、モラルがないからそこにあるのは金だけが唯一の価値となる
そこで悪魔的に世界の富が世界の数パーセントの人たちに集まる、でもそこには何ら文化的なもの美的なものも創造しないのである
美とモラルとも関係しているからである、だからエジプトでも宗教がありキリスト教でもイスラム教でも仏教でも背後にモラルがあって文明が作られていたのである、それがグロ−バル経済にはないことが最大の問題なのである
そこで世界は精神的に荒廃して退廃してゆく、だからその限界がきて資本主義のグロ−バル経済は崩壊する
では次の時代はどういう時代になるのか?それは何か大きなショック的なものが起きて変わるのか?
世界的恐慌が起きるのか、世界的戦争が再び起きるのか?津波のような大災害が起きるのか?
原発事故のような破局的災害が起きるのか?
何かわからないにしてもそういうことは起きる、そういう変わり目に来ているのである


2019年05月17日

小さな畑から考えるグロ−バル経済の矛盾 (世界市場を支配するはサタンなのか?祭りがもっていた意味)


小さな畑から考えるグロ−バル経済の矛盾

(世界市場を支配するはサタンなのか?祭りがもっていた意味)


今日は暑かった、畑も乾いている、それでペットボトルで水を運んでいる
今は一人だから自転車で運んでいる
でもそこで一体なにがとれているのかもわからない、茄子を植えたというが花すらまともに咲いていない、そこで何がとれているのかもわからない
実際にもらったのはキュウリ二三本である
第一ほとんど何もとれない、肥料やら種やら道具やらそこにかけた金の十分の一もとれていない、そんなこと普通だったらつづかない
前の畑をしていた人は腎臓病で死んだ、透析をしていた
隣の畑は車に乗せられて這って80過ぎた老人が手入れしていたが今は来ていない
それで草ぼうぼうとなっている
この小さな畑でも一緒にしていた人が糖尿病で病院に二か月も入っている
手術するのに仙台まで行ったからだ
その女性でもその畑の草むしりでも苦労している
しかし収穫がないのだから普通だったやめているのだ

なぜこの小さな畑は別になくてもいいものである
でももしこれが戦前とか江戸時代とかならどうなるのか?
もし日照りになり作物がとれないとしたらどうなるのか?

今は別にここでとれなくても
野菜はいくらでも入ってくるよ、外国からだって入ってくるよ
飢饉のように餓死することなどないよ
それより今は金さえあればいいんだよ

こんな感覚であり日照りで野菜がとれないとしても全国世界規模になれば食料になるものが入ってくるとなる、それがグロ−バル経済であり広域社会に住んでいる者の感覚なのである
もし戦前と江戸時代ならその土地で食料がとれなかったら飢饉となり餓死する、そういうことがかつてあったからだ
だからその小さな畑でも野菜がとれなかったらそこに住んでいる人も困るからなんとか雨がふって野菜が育ってほしいと願うはずである
ところが現代ではそんなことがない、金があればいつでもどこからでも買えるという感覚になっている、そこで大事なのはこの土地でとれる食料ではないのである
その土地に依存して生活しているわけではないからそういう感覚になる

そこで何が起きてくるのか?
土地の人はその土地に無関心になる、その土地のことを真剣に考えない
日照りで困ったと言っても別にここでとれなくても全国からでも世界から食料が入ってくる、それより金があることなんだよとなる
そういう思考になっているのが広域化グロ−バル経済なのである
でも別にそのように広域化グロ−バル化経済だからこそ昔のように飢饉がなくていいじゃないかというのもある
それが悪いことなのか?という意見もある 

その時その土地で働く人の価値とか働く意義も低くされる

つまり地元で食料生産にたづさわてっも地元の人がその人を重視するわけでもないのである、そして地元の米はまずいとなりここでは放射能汚染とかで飼料米になっている

そうなるとそんな米をとっても価値がない→その米を作る人間も価値がない

そうしてその土地土地と人間のつながりも希薄化して原発事故で起きたように簡単にばらばらとなり先祖代々からの土地からも離れて住むようになりゴーストタウンになったのである
問題はその土地に暮らしていてその土地のことを真剣に考えないようになる
そうするとどうなるのか?

そこでその土地で長年つづいてきた祭りなどが失われる
そもそも神社はいろいろあってもその土地にあって豊作をもたらすとために祈る場所だったとかなるからだ、江戸時代だったら雨乞いをして神社で祈るとなるからだ
それより今なら金であり神に祈る必要はないとなるからだ
だからもともと地域にあったものが意味がなくなっている
神社で神に祈ってもどうにもならない、それより金があればいくらでも食料は買える
そういうことがグロ−バル経済では当たり前になっているし疑問もない

そういうことで地域に無関心になっているから原発も金になるからと地元の人が熱心に誘致したのである、そして今度は地域でも故郷でも住めなくなった
でもまた地域に執着しないからばらばらに簡単に分散したのである
そもそもこのように地域のことを真剣に考えて暮らしていないからである
別にここで食料がとれなくもいくらでもは食料が入ってくるではないか?
ここでとれないなら他から金で買えばいい、それができないなら金があるから他に移り住むだけだとなりばらばらになり町からも村からも人がいなくなり廃墟と化したのである

でもそもそも祭りとは何なのか?それはいろいろあるにしても神に祈って恵みを実りを与えてもらうということである、それは自然と人間の間に祭りが生まれたのである
豊作になれば自然であれ神に感謝するという祭りが生じたのである
その祭りもグロ−バル化経済では消失する
なぜならグロ−バル経済という時世界のことであり金さえあれば世界のどこからでも食料が入るのだから神とか自然に祈るとか必要はないとなるからだ
そこにそうした自然とか神というのものが省かれる
そして祭りも消失する、つまりグロ−バル経済では神となっているのは世界市場を操作する者なのである、それが何者か?それがわからないから陰謀論になる

だからグロ−バル経済というのは一見世界で食料でもある所からない所に供給するのだからいいじゃないかとなる
それで飢饉もなくなり世界の人たちにとっていいものである
つまりグロ−バル経済化ではそうした経済原理だけが働きその土地土地に伝えられた祭りは失われる、それは国でも日本だって伝えられてきた祭りがあり天皇がそれを継続している司祭だとなっている
宗教とはいろいろあっても神が存在して神と人とが折り合うためのものであった
そこに至高のもの、神を認めてそれに折り合うために祭りが生まれた
キリスト教が生まれたユダヤ人の聖書でも常に動物が犠牲として神にささげられていたりして神とおりあっていた
なぜなら至高のものなる神が実在している、その神との折り合いがつかないと災いが起きるからである、ノアの洪水も神が起こしたとしている、それは人間の心がみな悪くなったからだとしているからである
そこでなんらか神と折り合うものが必要となり家畜がささげられたり人間までもささでられたりしていたのである

グロ−バル経済ではそうした狭い地域ではない、世界規模になると地域地域の経済とはまるで違っている、そうなると地域の神とかの折り合いは必要なくなる
神社などもその土地土地に結びついた神であり祭りがあったからだ
グロ−バリゼーションとは一体何なのか?
それが現代の最大の課題である、それが人間にどういうふうに影響するのか?
何か人間がもともと継続していた地域地域の祭りでも消失したことは人間にどう影響するのか?
そういうことをもっと知るべきではないか?
すべてが経済とかコストとかそれだけ社会を計っていいのかということである
そこに何か非常に危険なものがあり神の怒りをかうものがあってそれで世界規模の破綻が起きてくる、
グロ−バル経済は世界市場が神の見えざる手によって導かれるというが実は悪魔にサタンによって導かれていたのである
世界の富が数パーセントの人に集まっていることがそのことを如実に示しているからだ
だからこそ絶えず陰謀論が言われるのである

グロ−バリゼーションによって何か本当は人間にとって大事なものを見失った
それは文化的なものでありそれは経済の原則と反するものがある
祭りとかは文化的なものであり人間が何千年とかつづいた歴史の中で継続されたものであり
そこに人間が継続しなければならないものがあった
それは経済のコストとからだけでは計られないものがありそれを見失ったとき人類そのものが危機にさらされる
そういうことで原発事故だって起きる、人類滅亡の危機になる
科学至上主義というのもそうである、科学者が神となることなのである
そこにはすでに神を畏敬する畏れもなくなることなのだ
遺伝子組み換えとか現実にすでに実行されている
そういうことから人類に大きな災いが生まれ原発事故のように取り返しのつかない壊滅的なことが起きてくる

つまり人間が長く継続したものにはなにかしら意味があって継続されてきた
しかしそれすらもう問われることもない、そうして祭りであれ伝えられてきたものが無視されるとき大きな壊滅的な災いが起きる
津浪でもそうである、何か言い伝えが失われた結果として無防備に海岸沿いに家が密集したからである
それで一匹の魚を軽んじた結果、それが大津波となったという伝承もそうだったのである
グロ−バリゼーションとは本当は悪魔的なものでありサタンが支配した結果なのかともなる、世界の富が数パーセントの人たちに集まるというときそれ自体が悪魔的だからであるそして普通の人は投資したとしてももうけられない、一割しかもうからない
もうかるのはと株を操作する世界のエスタブリッシュメントであるとしている
株に投資させられる一般人はカモだとしている、自分もそういう経験をしたからである
つまり経済がギャンブルのようになっている、そして地域地域から国単位でも祭りとかが失われてただコストしか考えられない世界になっている
つまりグロ−バリゼーションとは世界が悪魔がサタンが支配するシステムだともなる
第一世界の株のことなど経済でもわかる人はいない、それは何かしらのきっかけで恐慌とかなり破綻する宿命にあるのだ
悪魔のシステムだから当然そうなってもおかしくないのである  

グロ−バリゼーションをすべては否定はできない、でも今のグロ−バリゼーションは限度を越えている
あくまでも内需主体のドメステック経済が主であるべきなのだ
それはまた地域地域でもそうである、あまりにも広域化するとその地域の価値とか人間の価値まで失われるのである
だから現代は輸送にたずさわる人が多いのである、田舎で会う人がトラック運転手が本当に多いのである
それは広域的にグロ−バルに運ぶ社会だからそうなっているのである
経済とかコストが全面に出てきて何か本来あるべき文化的価値とか人間の本来の価値が無視されてしまったのである