2017年07月20日

夏の日の平和な田舎駅の風景 (駅と街道の茶店には共通したものがある)


夏の日の平和な田舎駅の風景

(駅と街道の茶店には共通したものがある)


 電車が新地を発車した、電光掲示板の印が動くからわかる、相馬市に着き日立木駅を発車した、私は待っている
一人老人がおりた、高い階段を上り高架の通路をわたりまた階段を下りてくる
ここは意外と老人にとって難儀である、荷物をもつとさらに負担になる
原町方面に行くのはだからちょっと難儀になる
駅にはまだこうして乗り降りするにも不便なことがある
実際にその階段をおりるとき老人が落ちてケガをしたことがあった
エレベーターがあれば便利である。新地駅は小さいけどエレベーターがついた
クーラーも駅舎についている、でもここは自然の風がそよいでくるからかえっていいという面もある、海が近いから風が気持ちいい、クーラーもいいがそうなると自然を感じなくなる、何か便利なものは機械化すると自然から離れるのである。
現代とはそういうことが多い社会である。自然から涼しさを感じなくなる
アスハルトの道が照り返しで10度くらい高くなっている、だから熱中症になりやすいのである。

駅では人を待つ場所でもある、東京とか出た息子や娘でも帰ってくるとき駅にきて車で迎えるにくる、それは再会の場でもある、駅は出会いの場でもある
そういう舞台として駅がある、待っているということは不思議に心高鳴ることである
久しぶりで再会を喜ぶ、親しい愛する人と会う、逆に別れることもある
駅はそうした出会いと別れの場を演出しているのである。
車だとそういうことはない、車を待つといっても電車を待つという感覚が生まれない
急に車が来て急に去ってゆく、そこに人間的出会いと別れがない
突然人間が切れて離れてゆく分断されるともなる
車にはこうした人間的リズムがないのである。そこにキレル人間が生まれのも当然だとなる

田舎の駅では誰かが乗り下りる人を記憶している感覚になる、そういう舞台が用意されている、駅で待つホームに出て待つ、高架の通路をわたり待つ、待つ時間が記憶する時間になっているのだ。
例えば江戸時代の街道の茶屋とかだと歩いてきた人が休む、そしてまた歩いて去ってゆく後ろ姿があり記憶にとどめる、だから茶屋の人はそういう人を覚えている


碑にある子規の俳句は「かけはしの記」から採られており、この句の前に次の文が書かれている。
・・・・・馬籠峠の麓に来る。馬を尋ねれども居らず。詮方なければ草鞋はき直して下り来る人に里数を聞きながら
上りつめたり。此山を越ゆれば木曽30里の峡中を出づるとなん聞くにしばし越し方のみ見返りてなつかしき心地す。

 所在地 新茶屋  中山道の路傍

「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな 」子規

草枕むすぶまもなきうたたねのゆめおどろかす野路の夕立 長塚節

子規の歩いた道

自転車で木曽街道を行ったから子規の句は実感している、ここでは穂麦となっているが
自分の場合は稲の実りだった

木曽路出て恵那に稲穂や月に寝る

その頃麦畑が結構多かったから子規の場合は麦になっていたのである。
長塚節の歌も旅ではこういう驚くことがあるからうまい表現である

木曽路といえば「送られつ別れつ果ては木曽の秋 芭蕉」が有名である。
これも歩く旅だからこそ送る人送られる人がそういう時間をもったのである。
そういう時間の流れがないのが現代である。
人間と人間の関係が突然にキレルのである。
つまり情を交わす時間がないのである。それは人間だけではない自然に関しても情を交わすというか見る時間がもてないのである。
今は茶店でも自動販売機とか駅でも無人駅化して人がいなくなる
それも人間的なものを失うのである。人件費を省くために自動化はすすむ
そうなると何かやはり欠けたものになる、


景色が変わるというとき歩く旅だったら桑の実から穂麦に変わる田園風景を感じる
桑の実というときその頃桑畑が非常に多かった、農家ではどこでも蚕を飼っていたからである。今でも兜型の屋根は多くこの辺にもあり全国的にもある、特に山の方では残っているのが多い、するとそういう蚕を飼う家がありそこを出たら麦が実る平野に出たとなる
自分の家の後ろでも麦畑があり蚕畑があったから戦後まもなくは江戸時代のつづきだったのである。

これは駅と関係ないようでも旅の駅となると茶店にもなる、それで駅弁があるいうとき茶店ではその土地の名物が売られていたというのも同じなのである。
原町駅では弁当をホームで売っていたからである。震災前も売っていたみたいだ
駅弁というのはまさに土地の料理を出すものだったからにているのである。

茶屋のあった場所は小豆餅、代金を受け取った場所は銭取(ぜにとり)という地名で呼ばれるようになった、遠州鉄道奥山線には小豆餅駅、銭取駅がある。
(静岡「地理・地名・地図」の謎 意外と知らない静岡県の歴史を読み解く!)

つまりここでは街道の物語が駅名として残っている、駅に継続されて駅名として残っていることでも駅がやはり茶屋の役割も今でももっている、継続されているのである。
家康が茶店で銭を払わなかったので茶店の婆さんがおいかけてもらったから銭取となったとかあるが盗賊がいて銭をとられたからだともいう。
この奥山線は1964年に廃止されたからずいぶん昔にあった線だとなる
小豆餅にも古い謂れがあり名物となるしお土産ともなる

ただ茶屋というとき水商売とも関係している、茶屋町が各地にありそこは水商売であり女性が接待する場所になった、駅にも水商売、風俗関係の若い女性が来ていた、若い女性の警察官と話していた、何かマークされていたのか?女性の警察官も南相馬市管内にいたのである。それは一目でわかる恰好をしていた、この辺では外部からまだ原発事故などできている
だから原町に韓国系のバーができたとか言われる、暴力団関係も入ってきて治安が悪くなるということも地元の人が心配したのである。駅にはいろいろな人が出入りしているのである。昔の街道でもそうである。
監視カメラが三台あり振り込め詐欺の人が逮捕されたということもあった、どこでも今は監視カメラがある
駅とは関所の役割も果たしている、なぜなら街への入り口となっているからである。
今はただ高速とかの方が関所にてりやすい、そこでも出入りは監視カメラでチェックされている

インターネットはこうして旅をつづることができる、自分のした旅と重ね合わせてできるでもそこを一回も旅しないとやはりその場所を理解できないのである。

一人の労務者が駅の長いホームのベンチに寝ていた、その人は80歳の老人だったのである。海からの風がそよぎ日影であり涼しい、それは平和な風景だった、その時合歓の花に風がそよぎ咲きゆれていた


合歓の花風にそよぎてゆれにけり駅に一人の男寝てをり

a peaceful time
a man is sleeping
on the long bench
at the station
the flower of the silk tree blooms
in the breeze


2017年07月24日

時刻表を常に見に来る人がいる (手帳にいちいち時刻表を書いていた人がいた)


時刻表を常に見に来る人がいる

(手帳にいちいち時刻表を書いていた人がいた)


駅前にふえて飛び交う夏つばめ

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昨日は年配の女性が時刻表を手帳に書いていた、何か駅に来る人は時刻表を見ている
駅の中に時刻表を置いてもすぐなくなる、それはなぜなのか?
おそらくあの時刻表は小さいからなくしやすいのかもしれない、その時刻表を置くとすぐなくなる
その女性はカレンダーのように大きな時刻表で家に置きたいといっていた
確かにそういうものが必要である。

ただ今はスマホとかで時刻表を写真にとったりしているしすぐにインターネットで検索できる、でもその女性はスマホもしていないからできない
そういう人もまだいる、その割合も老人が多いからまだいる
自分でパソコンで印刷しようとしたらインクがきれてできなかった
印刷何か自分の場合うまくいっていない、印刷機も何台か買ったがうまくいかない
バソコンで調節できない、パソコンでもうまくできないものがある
こういうことはパソコンはそもそも教えてくれる人がいないから困るのである。
電器屋でも教えないし自分で習得するほかないのがパソコンなのである。

このように駅には何か毎日ある、昨日は日曜日で中国人が乗るので電光掲示板に出ているのを説明した、やはり無人駅ではわからないことがある
中国人は発音が全くわからないので困る、全くしゃべることができないからだ
それでもありがとうと言ったのはその人は日本で働いているからそのくらい覚えたとなるするとこちらも気持ちがいいとなる
だから外国に行ったらその国の言葉でありがとうくらい覚えないとまずい
でもその言葉を覚えるだけが大変である。旅行者は長くいないからわからないのである。英語だったら最低限わかるからいいのである。

今日はまた水戸からJRの人がきていた、必ず何か調査にきて見て歩く
駅には本当に絶えずそうして調査したり見て歩いているのである。
だから駅を維持することは人手がかかると思った
下請けの人もくるし人がそれだけかかわっているのである。
これがバスだったらこんなにかかわらないのである。
だから金がかかるからJRでは無人駅化しているのである。

駅前は人がともかく人が交じり行き交う場所なのである。
必ず娘を迎えに来る人がいる、昨日は乳母車で一人の子供を背負い向こうから階段を上り高架の通路をわたりおりてくる、それが結構難儀なのである。
スーツケースで上るときもそうである。
だからエレベーターがあると便利なことがわかる
新地は鹿島駅より小さいがエレベーターがついたからいいのである。
エレベーターをつけろという要望があったがやはり予算の関係でできていない
それもJRで金を払うことになるから余計に苦しくなる
トイレはJRで金を払って掃除してもらっている
でも駅を鉄道を利用しない人も使っているのである。
だから自治体がかかわることも援助することも必要になる
JRだけでは金銭的にも鉄道は維持できないのである。
ただJRは新幹線でもうけているから今回津浪で流された区間を400億円かけて修復したのである。

駅前つばめが飛び交っている、夏になると増える、そのように夏は活気が出ている
野馬追いになれば常磐線が開通してはじめてだから電車で来る人も増えるだろう
土日は仙台にゆく人が多いのである。



2017年07月25日

原町駅の人が駅舎を掃除していた (いろいろな人が駅で混じり合う)


原町駅の人が駅舎を掃除していた

(いろいろな人が駅で混じり合う)


今日は原の町駅から駅舎の掃除にきていた、長い箒をもって蜘蛛の巣を掃除していた
ホームの長椅子と他の椅子には雲の糞がついていいて汚れていた
そこは座るところだから掃除が必要だった
駅には何かしらこうして用事があり来る人がいる
昨日も水戸管理局からきていて建物を見ていた
こうして駅は常にJRでとか下請けで見て回る
それだけで人手がかかっている

だから自治体でもかかわらないと維持できない
トイレは車の人もしょちゅうきて利用している、農協の葬儀関係の人も来ている
トイレはJRを利用したものだけが使うのではない、関係ない人も使っているのである。
そして障害者施設の人に掃除してもらっているが金をJRで払っている
そうなると自治体でも市の方でも負担してくれともなる
つまりJRだけでは維持できないのである。
掃除くらいなら自分もできるが他はできないものがある

昨日は相馬農高の相農の高校生がいたい、その人は農家であり跡を継ぐという、それはなぜそうなのか?梨農家だからである。梨農家だと農業でも収入があり家を継いでもやっていけるからである。農業などやるなと親に殴られた人は梨も作っていない零細な農家だったのだろう。梨とかトマトとか花は収入になり農業でもやっていける
ただ飯館村には梨農家はいないようだったからあそこで梨はとれないのだろう。
他にも梨農家に生まれた人を知っているから梨農家はこの辺で多いのである。
だから一時放射能汚染で苦しかったのである。
今では影響はないとしているが風評被害はまだあるのかもしれない

もう一人の女性は農家ではないが相農に入った、中学生で相農に入った人は花栽培したいということで入ったからめずらしい、その二人の女性は農家の出ではない
一人は勉強嫌いで相農に入った、相農だと無試験でも入れるだろう。
定員割れにもなっている時代だからである。

ともかく駅にいるとこの辺の事情がわかることがある、家の跡を継ぐとなると進路も決まっているから悩む必要もないからから楽だともなる
農業の否定的な面だけを言ってきたが梨農家とかは農業としてやっていけるのである。

駅はいろんな人が行き交う場である。外部の人も交わる
だから何かそこが活気ある場ともなっている、なかなかそういう場がない
高校生が多いにしろ老男若女が行き交っているのである。
老人だけ集まるのが老人ホームであり同じ学年とかか年齢で区切られて集められるのが学校であり今の社会である。そこに何か世代間の交流がなくなっている
むしろ江戸時代の方が世代に関係なく交わっていたともなる
子供が生まれて名付け親になったりするのは村の人だったからである。
ずっと村人がみんなで見守っていたのである。
学校とかは一時期しか関係しないのである。そこに世代間の断絶がすでに生まれている

駅には何もできない場であるようでも何かが毎日ある場でもある
盲人など来て案内したりするのでもそうである。盲人と直接話した経験がないからであるたいしたことをするわけではないが駅は面白い場だなと実感した
ただ自分はせいぜい一時間くらいしか駅にはいないのである。
気まぐれに駅に行っているだけだともなる
それでも何かあるのが駅だったことを経験したのである。

旅だとすぐすぎさるからもったいなとなる、なぜならそこには一度しか行けないということがあるからだ。海外旅行の場合はそうである。
一方こうして定点観測するのも興味深いものだと思った。
一人一人の人間のことをみる、小さな町でも会わない知らない人がいかに多いかのかしるそんな人いたのかとなる、一万人いれば知らない人がそれだけ多いことを知る
これが4万とかさらに十万とかなると人間はもう会うこともちょっとでも関係することもないのである。
一万でも知らない人がこんなにいるのかと思う、世代が変わるとまた知らない人がふえてくるからだ、身内は公務員をやめてから役場に行っても知らない人ばかりになったと言っていた。回りですら知らない人が増えてくる
仕事しないと余計にそうなる、会社の人間が関係がきれるとまた新たな人間関係が作りにくいのである。
定点観測はその地点で何か深く知るのにはいい、一つの定点から街とか社会とかをみる
すると見えてくるものがあるとなる

2017年07月26日

墓参りに来た人(ボランティアの意味)


墓参りに来た人(ボランティアの意味)


墓参りに来る人はいる,その人も墓だけしか残っていないという
江垂(えたり)だけど原町に墓参りする人はいる
その女性は80以上だろう,すぐに次の電車で仙台に帰ると言ってタクシーで行った

その人は小高の生れで鹿島と関係して新地とも関係している:そして仙台に移った
それで新地にも墓参りに行ってきたという。
何か近くの自分の墓地でも墓だけがあり仙台などから墓参りだけに来る人がいる
墓は家がなくなっても残っているのである。

自分の母の実家の墓は原町にあり家はとっくの昔になくなっている,50年前とかにすでになくなっていた,でも墓だけは残っている
それで福島市にいる人が墓参りにだけは来ている
つまり家の跡継ぎがなく空家が膨大化しているのと同じく墓も跡継ぎなく残されている
ただ墓は簡単に壊せないから最後まで残っている
これもまたまた問題なのである。

なぜこうなるかというというと広い地域に人が住むようになったからである。
まだ相馬地方内で住んでいればいいが仙台となると遠くなってしまう。
そういうことは今回の津浪や原発事故で親戚を頼り全国に散らばったことでもわかる
長男が家の跡を継ぎ守るということもなくなるとき家とか墓も一代限りとかになってしまうのである。

駅にはいろいろな人がくる,この土地に前に縁ある人もくる:今は外部からも仕事で来る
そういう何か人間的な出会いの場所でもあったことを発見した
今までは駅をこんなふうに見ていなかったのである。
ボランティアで駅員していたら見えてきたものがあった
だからボランティアは社会とかかわることだから退職した人はボランティアをするのがわかった

ボランティアとは

語源は英語の will の語源ともなったラテン語の volo で、意思や志願を意味した。
英語圏では、現在も本来の語義どおり志願兵あるいは義勇兵の意味で、この語が使われている。なお voluntary とは、自発的であるさまのことである。

ボランティア活動の原則として挙げられる要素は一般的に、自発性、無償性、利他性、先駆性の4つである。
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ボランティアこそ本当の仕事だという人もいる,なぜなら仕事というとき強制的な面がでてくる:会社のためにもうけになることを追及するのが普通である。
それで金儲けのためには嫌なことでもしなければならない働くにしても金のためだというときそれは自由意志で望んで働いていないのである。
そこに労働の頽廃がある、俺たちは奴隷なんだよな,社蓄なんだよなとなる

ただ自発性、無償性、利他性、先駆性というとき,先駆性とは何なのだろう?
ボランティアには何かを見いだしてするということがあるからか?
何か仕事を発見するということがあるためかもしれない:,確かにそういうことはある
ボランティアは誰かが仕事を与えてくれるわけではないからだ。
ここが欠けているから補おうとか仕事を発見しないとできないからそうなっている

ボランティアはそうではない,自由意志なのである。それは金儲けのためではないから
その仕事そものものに意義と生きがいを見いだしてしているとなる
現代では逆説的にボランティアが本当の仕事ととしての生きがいになっているというのもに大げさではない:それだけ人間というのはそもそもそういう仕事も求めている存在だともなる
ただ金のために強制されて働くことは仕事として嫌だとなっていたのである。

知人が趣味でしている小さな畑もボランティアなのである。
文句は言ってもその仕事は好きだからしている
ただそれが人のためになっているとも思えない
なぜなら人に分けるほどのものは何も作っていないからだ
すると何のためになるのか?荒地にしておくよりはいいとなるのかもしれない。

高齢化社会はボランティアを求める人が増えてくる:現実に増えている,収入に余裕があれば生きがいのある仕事を求めるからである。
ただその人にあったものでないとボランティアもできないだろう。
たまたま無人駅になった結果,そこで何か役に立つことが生れて自分はしている
いなくてもいいがいないよりはいいというくらいだけどそれなりにworkしている
社会的に機能して働いているとなる

2017年07月27日

原町駅の前で報道機関の人と出会う (野馬追いの取材で来た)


原町駅の前で報道機関の人と出会う

(野馬追いの取材で来た)


29日(相馬市:鹿島区)30日神旗争奪戦(原町雲雀が原)

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本陣山を上る

ここは急な七曲がりの坂を上るから力がいる

ここが一番祭りで迫力を感じた


 

どこの報道機関かはわからない,原町の駅前で野馬追いの報道機関用の用紙を読んでいたあれは雲雀が原で柵の中に入れる許可証である。
また必ず写真とる人がいてその人も一年前くらいから許可証もらっている
そして場所を確保する

でも今日は27日であり29日が中村神社から今の相馬市から出陣して北郷(鹿島区)で合流する,7月30日が雲雀が原で神旗争奪戦である
27日,28日ととまって帰るのかとなる

遠くから東京辺りから来ると交通費とか宿泊代がかかる,二人来ていたからそうした出費がある,報道には金がかかる,そしてどのように報道するのかとなるとそれも問題になるまず一応そ木土地の歴史をある程度知る必要がある,でも簡単には知ることはできない
報道となると結構手間がかかるしノウハウとか学も必要になる

ただ仕事として記者は面白いかもしれない,プロクで報道しているのは記者でもある
写真を撮って報告すればそれは記事である。
ただ報道機関の人は雲雀が原で柵の中にと入れるので特権がある
いい場所が与えられているからいい写真がとれるとなる

ただ野馬追いの写真は地元でもいいものがとれない,それは一回限りであり通りすぎて行くのが早いからいい写真がとれないのである。

中村神社と太田神社と小高神社が雲雀が原に集結して中村神社の神輿を雲雀が原の本陣山を上る時が見物である。ここで昔の相馬藩が一体化する感じになる
そしてあの坂が急なので神輿を上に上げるのが難儀する
馬でもそうだが神輿をみんなで担ぐとき何か相馬藩として一体感を歴史的に体験するのである,あれは氏子だけで担げないので会社員に頼んでいるらしい。
かなり力があり若くないとできない:そもそも祭りは若い人がその村をになって受け継ぐものとしてやっていたのだろう。
その若い者が村からいなくなくなるとき祭りの継承もできなくなるのである。

野馬追いには別に老人でもでている:でも甲冑も重いし暑いと楽ではない
旗取りにはだから若い人しか出れないだろう,40代でも50代でもでているかもしれないがきつい,鹿島区では二組でる:旗がたっていたからだ
街内ではほとんどでたのを見ない:それは相馬市でも原町市でもそうである。
ほとんどは農家からでる,もともと農業をしていた侍であり郷士と言われた人たちである中村に今の相馬市の城に移ってから城勤め人のが増えたのである。

野馬追いでは500人出るとしても全体の人数としては極めて少ない,10万くらいの人口があるのに五〇〇だとなれば少ないのである。
江戸時代はどのくらい出ていたのかもっと出ていた
飯館村が山中郷として出ていたし数は多かったろう,今でも飯館村で野馬追いに5騎くらい出ているという。

ただ地元でも参加できるのはそうした歴史的由緒ある者だけであり他は参加できない
野馬追いは歴史保存のためにある,だから何か相馬地方全員で盛り上がるふうにはならないでも相馬藩が一体となる祭りでありそこに意義がある

今日は涼しいので一カ月ぶりくらいに自転車で原町に行くことができた
原町駅にはやはり来る人が違っている,報道機関の人がくるのは原町である。
ホテルもあるからどうしても原町になる
ただ原町では話しかけにくいと思っていた,でも話しかけたら報道機関の人だったのである。他にも相当数報道機関の人がくる
再興に盛り上がったのは震災と原発事故で祭りが再開されたときだった
その時復興するという祭りとなっていたからだ

でも今となると何かもう外部からも忘れられるということがある
関心が薄れている:今でもまだボランティアは来ているが下火だろう
災害は各地にありそっちの方に移ってゆく
横浜から来た工事関係の人は見たいと言っていた
原町の行列は10時頃行かないとみれなくなると教えた
行列が早いのは五〇〇騎となると相当な長さになるから時間もかかるからである。
だから早めに行って見た方がいいとなる

ともかく震災から6年すぎてこの辺は一体感が失われた
相馬市だって補償金で不満が多いのである。そこにも仮設に住んだ人たちがいるからだ
また今は復興住宅などで浪江とか飯館村の人が住んでいる
そういう人たちとも一体感が失われる
だから野馬追いはそうした一体感をとりもどす祭りとしてはいいとなる

2017年07月31日

時刻表を見に来る人がまたいた (無人駅ではたりないものがある)


時刻表を見に来る人がまたいた

(無人駅ではたりないものがある)


鹿島駅虹のかかるや我のをり

虹残る電車の去りて駅にいる
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ボタン押すと乗車証明書がでてくる

外から来た人はここがわからない
ここが一番重要なのたけど・・・

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  切符を入れるものだがここも意外と外からの人はわからない

意外とはじめての人はわからないものなのである

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ごみ箱はホームにある

これも外から来た人はわからなかった


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ここはドアをあけるには押すとあかない

手を離してかざすと開く

ここに説明が必要なのである。

他ではコンビニなどのドアでは説明が書いてある



今日も孫が仙台に行ったからと迎えるに来る人がいた,その人は老人だからスマホをもっていない,デジカメももっていない,それで手で時間を書いていた
その人は良く会う人だったのである。
耳が遠くなっているとか言うけど車は運転できる
それでバチスロかなにか原町に行ったことを話していた
パチンコ屋も老人が多いというとき暇だからそうなる
学校の孫の送り迎えとかの人が良くくる

無人駅で困るということはある,特に外から来た人がわからない,乗車証明書があるのだけどそれがわからない,外にごみ箱があることもわからなかった
それからトイレの身障用のものが手をかざすとドアがあくのだけど
手を触れるとあかないのである。でもみんな手をふれて押しているのである。
これは何かその前に書いておけばわかりやすい,コンビニとかではそうしている

だから無人駅は外から来る人には困ることがある,説明が書いてあってもわからないのである。こういうことは外国だとあることだが日本でもわからないことがある
ここに住んでいる人はなれてきてわかるが外から来る人ははじめてだからわからないのである。

無人駅で何か用があるのか?やはり何か用があるときはある
掃除などもする必要がある,仕事とは何か?この世に仕事がないということはないのだ
まだ発見されない仕事が常にある,この駅では無人駅化して仕事が生れた
何でもこの世の中自動化,無人化できない,必ず人間で補うことがでてくる
英語だとわかりやい

need and fill

必要なものがあり満たすものがある,必要なもの足りないものが必ずどこの職場でもある職場でなくても地域でもある,ただ見いだされていないだけなのである。
だから満たさざるものを満たすというのが仕事になる
だから無人駅では満たされないものが生れた,それで仕事がかえって生れたのである。

今日は急に雨になった,これは局地的であり鹿島だけだった
そして虹がかかった,この辺で虹がかかるのは場所も時期も決まっている
にわか雨がふり夕方になると虹がかかる,これは法則のようなものである。
確率的に虹がかかる割合が高いのである。それは自然条件でそうなっているのである。
こういうのは偶然ではないから科学的にもわかる

駅には一日二回くらいしか行かない,でも何か用がある,それはやはり無人駅でたりないものが生じているということである。
だから駅の無人駅化は問題があるとみる,盲人とか反対しているのはわかる
ただコスト面では電車に乗る人が少ないのでやむをえないとなる
みんなが鉄道を利用して自治体でもかかわることが必要になる
トイレはJRで頼んで掃除していもらっている,でもそこは鉄道を利用する人だけではない車の人も利用しているのである。
つまり鉄道は自治体とか地区とかでもかかわり維持しないと保てないのである



2017年08月01日

鹿島駅のトイレは市で作り運営していた (駅には常に点検とか修理とか見に来る人がいる)


鹿島駅のトイレは市で作り運営していた

(駅には常に点検とか修理とか見に来る人がいる)

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今日もいわき市の方からユニオンが来ていた,ここは前にも来ていた
盲人用のプロックが壊れていたので直していた
そこは改札口から離れている,一人盲人が通っているがそこまではこない,改札口くらすぐに乗るからだ

それからまた隣の原町駅の人がスプレーで蜘蛛の巣のあったところに吹きかけた
蜘蛛が来ないようにした,あとはポスターをはりかえた
時刻表はもうなくなっていた

駅前のトイレは市で作ったものだった,あそこのトイレは立派なのである。
掃除は近くの身障者の団体の「あさがお」の人たちが掃除している
市の方で金を払って頼んでいるのである。
要するに市の税金で維持しているのである。
建てたのも税金だし掃除して維持管理しているのも市だったのである。

誰かがあそこはJRで作ったものであさがおに掃除を頼んでいると自分は聞いた
だからてっきりJRで作り掃除も頼んでいるのかと思った
この間違いは大きな間違いだった
知らないのにそういう人がいてっきり自分もそう思っていたのである。

あそこは外から車で来る人も利用しているし農協の人も利用している
市で作ったものなら市民も外部の人も利用できる
公園のトイレのようなものになる,あそこのトイレは身障用もあるからいい
何か身障用のは広いのである。
隣の健常者用のトイレは狭いし窮屈なのである。
それは身障用は車椅子で入るから広くしている
ただあそこは別に健常者も使っている

ただ手を触れると押すとドアは開かないのである。
外から来た人はそれがわからない
外からはじめてくる人は無人駅だとわからないことがある
確かに無人駅でもわかるようにしてはいるがそれでもわかりにくくなる

そこに駅員がいれば聞けばわかる,それができないので困ることがある
だから無人駅は問題がある,鹿島駅はそれなりに乗り降りがあるからだ
新地駅より乗客数は多い,新地駅は無人駅になっていない
駅は新しくなりエレベーターもあるし冷房付きの待合室になった
駅前は広く駐車場や乗り場がもうけられた
これは津浪で流されたがかえって前より良くなったのである。

ともかく何か一つの駅でも知ることは蒸すかしいと思った
あそこのトイレが市で作り運営しているとは思わなかったからである。
それは誰かがそう言ったのをそのまま信じていたのである。
こういうことは人間にある
知らないのに適当に言う人が結構いるからだ
だからそれを鵜呑みにしないでJRであれ市の方に聞けばよかった
でもそんなことで嘘を言うとは思わなかった
嘘というよりそう言った人は確認もないのに言っていたのである。

情報は身近でもこういうことがある
噂話なんかそうである。そういうものでも信じる
そして嘘が広まってしまう
そこに悪意がなくてもそうなるのである。

今日市の方に聞いたら地域振興課とか産業企画課とかなんとかで扱うと言っていた
別に苦情ではない,そこまでは必要ないだろう。
ただ身障用トイレの開け方が問題なだけである。
これも別にそれほどの問題でもない
ただ現代はほとんど使わない盲人用のブロックとか身障用のトイレを整備するから金がかかる,それも法律で決まっている,そういう点でも福祉には金がかかる世の中になっている。それで反発する人もいるのもわかる
あそこの身障者用トイレを利用する人を見たことがないからである。
盲人は一人駅を利用してもこれだってこの辺ではほとんど利用しないのてある。

いづれにしろ駅は維持するのに手間もかかるし金もかかる
しょっちゅう来てみる人がいるからだ,管理するのに手間暇がかかり金もかかるのである第一ホーム自体広いから雪などふると雪かきだけでも大変になる
ここては雪は降らないからいいけど雪がふる駅では雪かきだけでも負担になる

いづれにしろ無人駅には問題がある,でもJRでは金をかけたくないから自動化して無人駅をふやしてゆく,収入がないのだからそうならざるをえないのである。
ただ鉄道や駅はJRだけがかかわるものではない,今回のように市でトイレを作り掃除を頼みそこが街の中心,ランドマークの役割を果たしている
街にはランドマークが必要だと訴えている人もいるのもわかった
つまり街には中心となるものが必要なのである。

それが駅となりトイレも利用するとなっていたのである。
駅は街の案内する場である,駅の場所がわかりやすいからである。
商工会が近くにあり観光案内していても場所がわかりにくいのである。
観光案内は駅が一番いいのである。ただ商工会は駅のすぐ近くにある
でも駅の方がいいのである。

2017年08月02日

駅のトイレから考える福祉の問題


駅のトイレから考える福祉の問題


鹿島駅の市で作ったトイレは立派である。特に身障者用のトイレは広いしきれいになっている,車椅子で入れるようになっているから広いのである。
一方隣の男女用のトイレは狭い,窮屈なのである。
でも車椅子で利用した人を駅にいて見たことがないのである。
ただそこは別に身障者でなくても利用できる,でも身障者用より健常者用を使っているみたいだ

盲人用の黄色のブロックを駅で直していた,そこはほとんど一人通っている盲人でも利用しない,第一駅の渡りの通路は階段が上り下りあるのだから使えない,危険である。
誰かが導かない限り使えない,そもそもそんなに黄色のブロックが必要なのかという疑問がある,通っている盲人も車で送り迎えさせられている
ただ乗る時は本当に危険である。他では死んだ人もいた
だから盲人団体では駅の無人化に反対している
実際に駅に通っている盲人が隣の原町駅の駅員を呼び出していたことでもわかる
盲人自身が危険を感じているからである。
駅員が常駐していれば安全であることは確かである。

でも何かトイレから福祉を考えると一度も車椅子で利用したこともない身障者用が広くとってあって健常者が狭く窮屈になっているというのも変だなととも思う
それは法律的に決まっているしそういうふうに社会がなったのだから仕方がないともなる
でも現代は福祉が弱者に対してあまりにも過剰化したのかもしれない
その不満が底辺にあること確かである。
要するに何か弱者化して集団化するとそれにたてつくことはできない
それで言葉狩りが生れた,盲人団体ならその団体から苦言がくる,だから何も言うこともできなくなる
カルト宗教団体でもそうである。団体組織化するとそれが権力化するから何も言えなくなる

原発避難者でも特権化したことがあった,いたりつくせりの補償があり金が支払われた
かわいそうな被害者だとなると特権化した,それが必要でも過剰化していたのではないか?
津浪の被害者と原発避難者はまた違っていた
でもこの辺でももめたけど自分もその時自分の病気とか介護で苦しんでいたけど普通なら個々人のことなど何があろうとほうっておかれるだけであてる。かえって弱者化したら金をとることしか考えない非情な人達しか来なかった
それは津浪でも原発避難者にもあった,火事場泥棒のようなことが実際にあったからである。
ただ一般的に手厚い援助があった,でももしそのことに文句を言うとものすごい反発があったのである。
現代は弱者でも集団化すると特権化するのである。

なぜこれを問題にしたかというと別に盲人のことではない,何か社会に本当はそうした不満が鬱屈しているのだ。それで障害者の大量殺人した人に共感する人さえでてきている
要するにその負担が社会で大きくなりすぎたからではないか?
健常者がかえって障害者より窮屈にしている,障害者のご機嫌をうかかって小さくなっている,そういう不満が鬱屈してそうなっている

自分が言いたいことはそれは老人に対してこそ一番不満が鬱屈している
福祉の費用が膨大化しているからだ,もう国がつぶれるという過剰な福祉の限界が来ている,そうなると自分も老人だからいいにくいとなる
それは結局自分自身が障害者側にたっているからだ
だから身障者のトイレがどうだこうだとは言えない立場なのである。
誰でも自分の損するようなことは言わない,そして老人が多いから圧力になる
障害者は全体からすれば数が少ない,だからそれほどの圧力にはならないのかもしれない老人は確実に票をもち政治を左右している,それは自分でも自分に不利なこと損なことはしないからである。そういう利己的なのが人間である。
いくらきれいごとを言ってもそうなのである。

ただ豊かな時代であれば福祉も手厚しても良かった,余裕があったからである。
それが社会になくなるとやはり福祉は厳しくなる
第一健常者の方が窮屈なトイレになるということがどうしてだともなるからだ
健常者が遠慮して生活しなければならないことの不満が大きくなる
別にそれは冷たいともいえない,なぜなら健常者の生活があって障害者の生活も成り立っているからである。福祉は必要でも過剰な福祉が限界になっている

それは医療でも延命治療はもうできないとかあまりにもそのコストが大きすぎるからだ。
ただ老人の場合は数が多いからいくら政治でどうにかしようとしても民主主義は数だから数できまるから矛盾が生れている
ともかく老人は老人で自己利益優先するから福祉のサービスを減らされることには抵抗する,でも限界にもなっている
鉄道を維持するにも金がかかる,それは福祉ではないのである。
収入がなければ無人駅にもするしサービスも減らされる
それはどうしようもないのである。
ただ駅は街全体が自治体がかかわっているからJRだけの問題ではなく市民全体の問題なのである。

駅からいろいろなことが見えてくる場だった,そこは鉄道だけではない,街全体とか外部でもかかわる場だったからである。そこから社会が見えてくる場でもあったのである。
それは世代を越えてかかわる場でもあった
必ず孫とか娘とか息子でも迎えに来たり見送りに来る場でもあるからだ
まず自分は駅をこんなふうに見たことがないのである。
ただ切符を買って電車に乗るということしかない
駅がどうして維持されているのかなど見ていなかったのである。

だから人間の問題はサービスする側にならないとわからないことが多い
サービスして働く側になると見えてくるものがある。
それはどこでもそうである,だからサービスする側にたたないと社会性が養われない
金持ちでサービスばかりされていたら社会のことがわからなくなるのである
それで退職した人がボランティアに精出すことがわかる
サービスするよりもサービスする側の方が社会を実際は生きているからである
そこに充実感がある,生きがいがあるとなるからだ
親の気持ちがわかるのには子供を育ててみないとわからないということがあるのと同じである。

ただキャリーバッグとか通路を運ぶのは無料ではやる気がしない,有料でもやる気がしない,荷物が重いし階段を上り下りするのが結構な労働になるからだ
乳母車をもちあげて来る女性もいた,だからエレベーターが必要なのだかそれも金がかかるからできない,JRではコストを減らすことをしているからだ
ただ新地とか山下駅は津浪があってエレベーターまでつくようになったのである。
それで良くこの辺に小高の人の引っ越しを手伝いにボランティアに来た人がいた
それは結構な労働であり力仕事なのである。それを74才の人がしていたのである。
自分だったらしない,そこまでやる力もないからだ
そこにボランティアの限界があるともなる

タグ:過剰な福祉

2017年08月04日

秘境駅の詩(秘境駅は行くのが大変だ)


秘境駅の詩(秘境駅は行くのが大変だ)


秘境駅(詩)

その駅はどこにあるのか
そんなところをまだ電車が走っているのか
暗いトンネルをぬけると
駅舎もない駅がある
そんな駅から誰が乗るのか?
家があるのか
一体電車は来るのか?
待っても待っても来ない
忘れられたような駅
誰を一体乗せるのか?
まさか幽霊なのか?
誰も乗らない駅なら
それもありうる
何か草むらにひっそりと花が咲いている
一両の電車が来て去る
誰が乗っているのか?
電車は暗いトンネルぬけて遠くへ去ってゆく


秘境駅とは

列車到達難易度 は、列車本数が少なく、普通列車でも停車が少ない場合に高いポイントを得ます。

外部到達難易度は、駅までの道が無い、登山道、未舗装路など、外部からのアクセスが困難な場合に高いポイントを得ます


宗谷本線に多いことはわかる,そういう駅におりたことがあるからだ
常磐線とか東北本線とかにはない,秘境駅はあるようでないかもしれない
常磐線は一時間おきにでているから秘境駅はないことになる
でも人が一人しかのりおりないとかなる無人駅は結構ある
日立木駅などがそうである。でもこれは秘境駅ではない

秘境駅にはなかなか行けない,そこに行っても何時間も待たないと電車が来なくなる
すると相当暇な人しか行けないとなる,かつで自分は暇でそういう秘境駅におりたことがあった,小海線の山間の無人駅である。そこには郭公の声だけが木霊していた
駅の前には二三軒家があった,あんなとこに駅があること自体不思議だった
ただそういう駅にはなかなか下りることができない,帰りが何時間も待つことになるからだ。現代人は待つことが苦手になっているのだ

東京とかなる二三分おきに電車がでる,常磐線でもこの辺だと必ず待つ時間が生れる
その待つ時間が何か人間的な時間を生み出していた,話する時間が生れていたのである。普通駅では話などしない,ただ人が行き来するだけのものだと思っていた。
駅のボランティアをしていていろいな人が行き交う場所が駅だとわかった
ただ鹿島駅は無人駅でもそれなりに人が乗り降りしている
仙台と東京からも結構来ている
常磐線には秘境駅はない,末続駅がもしかしたら秘境駅ににている
崖があり海がのぞけるが山深い感じになるからだ
常磐線でも原町からいわき市の間はたいがい二両であり行き来が少ない
乗客も少ないのである。

ただ秘境駅となるともっと淋しい駅である。本当に電車が来るのかという感覚の駅であるだから全国でも少ないのである。自分も全国を電車で隈なく旅しても秘境駅には三つくらいしか行っていないのである。
奥羽本線の峠駅がそうなのか?あそこは新幹線も走っている,ただ回りをみれば警告がありそういう雰囲気がある,北海道が一番多いことは確かである。
もう廃線寸前の線があり駅が多いからだ,本州になると秘境駅となるとなかなかないだろう。

ともかく鉄道の旅が長いから鉄道にはいろいろ興味がある。ただ駅のボランティアを駅員のようなまねごとをしてみたことで鉄道とか駅とかの理解を深めた
鉄道とか駅を維持すること自体が結構手間とか金もかかるものだったのである。
そういう裏方の労働があって成り立っていたのである。
例えば待合室のホームの椅子があるがそこが蜘蛛の糞とかで汚れていて掃除していた
そんなことがあったのかとなる,掃除する人がいてその椅子がきれいになって利用できていたのである。ただそこまで駅を鉄道を利用する人は思わないのである。
自分でもそんなこと微塵も思わなかった,他でも何かサービスを受けるときはそうして働いている人がいるのである。
ただそれがそうして裏方でも働いてみないとわからないのである。
タグ:秘境駅

JR無人化基準は、1日の利用者が700人。  (この基準だと相馬市とか原町,亘理以外は無人駅になる)


 JR無人化基準は、1日の利用者が700人。


 (この基準だと相馬市とか原町,亘理以外は無人駅になる)


   鹿島駅
kshimaeki111.JPG

この数字は2017年度は6年ぶりに常磐線が開通したので変わっている
2017年度の乗客数はかなり増えているようだ
なぜなら3倍に増えたと言っていたからである。
ただ震災前から乗客数は減っていたのである。

JR九州や北海道では、無人駅を大量創出することを決定している。九州では大幅に安価となったセキュリティドアが開発され、採用も決定している。
一方で、JRのホームから転落する事故も相次いでいる。上場したJR九州では、利益最優先政策から、現在の駅数566駅のうち、既に無人駅が281駅に達しており、さらに今後、最大で100駅弱も無人化する計画を有している。

国交省は14日、JR京浜東北線の蕨駅で、盲導犬を連れた男性がホームから転落し、電車と接触して死亡した事故を受け、鉄道各社に対し、1人でいる視覚障害者を見かけた際は声をかけることを駅員に徹底するよう指示する方針


JR九州

筑豊線7駅無人化 反対要望書提出へ 14日に直方市と鞍手町 /福岡


別の無人駅では、外国人が券売機の前で困っていました。片言英語で声をかけると、500円玉入れて290円のボタンおしても切符が出てこないようです。画面をよく見ると、10円が釣銭切れのようです。幸い私の財布に小銭が多く入っていたので、両替してあげたのですが、

名鉄瀬戸線を使っている友人は、向かいに座った客がおう吐したので車掌を呼んだところ、すぐ汚物を片付けたことや、その道具を持っていたことに驚いていました。
また、急病人発生で無人の清水駅に臨時停車して、駅員もいない中運転士と車掌で救急隊まで引き継いだことに対し、乗務員の対応に感心するとともに、もっとひどい心臓発作とかだったらどうするのか、

年配の方など、機械に弱い人にとって、券売機の操作が分からなければ、使いにくい鉄道になります。私のように機械の不備で待たされるような場合も同様です。ましてや国際化、高齢化が進む中、ソフト面のサービスも重要と考えます。

鉄道会社はワンマンや無人化で取りこぼす運賃よりも、人件費の方が高いのは分かってますからね

筑豊本線の無人化に反対するよりも、北九州市や自治会などで簡易委託駅として維持管理する方向に努力はできないんだろうか?
JR九州の駅員配置駅でも業務委託駅は多く、むしろ直営駅(その鉄道会社の従業員が駅員であるところ)は少ないでしょう。

一応の基準は、一日あたりの利用客数が700人以下であるということです


福岡)駅無人化計画に反対 視覚障害者ら1万人超の署名

nomanss1.JPG


あすからJR吾妻線 2駅を無人化 利用者から不満の声 
更新日時:2017年3月31日(金)

昨年度の1日平均の乗車数は群馬原町が488人、万座・鹿沢口が205人で、記録が残る2000年度の3、4割程度。無人化は「駅の利用状況などを総合的に判断した」(同支社)という。 

美幌駅を無人化とする計画の撤回を求めた要望(北海道)

どの程度利用者数に減ると無人駅になるのか?
という点である。これまで散々、利用者数などの数値を出してきたが
利用者数だけでは無人駅化する、しないの目安にはならないのではないかと思う。
なぜなら、これらの駅よりも利用者が少ないのに有人の駅も日本中、あちこちにあるからである。
逆に、なぜ利用者が少ない駅なのに有人駅が存在するのか?


100段近い階段のある福吉駅は、無人になったら高齢者や障がい者は乗り降りできず、観光や親せきも来られなくなる。
 対応は?

福吉駅と一貴山駅の無人化   中止して下さい!


車イス等は、(乗る時も降りる時も)深江駅に連絡あれば、係員が出向いて対応する。
 車イス利用者には、JRが説明をする。

九州が無人駅化を押し進めている,その数も200以上とか多い,もうローカル線を維持できない状態になっているだろう。危機的状態なのかもしれない。
ワンマン化も進んでいる,そこでも車内で突然の自己とか事件があって困った
無人化は何か突然の事故の時に対応できない,人がいないのだから安全がない
確かに自動化の技術は進んでいるが安全が計れない

鹿島駅が自動化したことで乗車証明書をとることが意外とわからない,外から来た人はわからない。自動化しても何か必ずわからないことがあり駅員がいれば聞きたいことがある盲人の問題もある。一人の盲人が通っているが前は隣の駅員を呼んでいた,危険を感じていた,今日は補佐したら別にいいという,何か遠慮を感じたのと障害者でも自力でしたいということがあのかもしれない,自分は駅員でないから遠慮するということもある
駅員だったらこき使ういうことがある。ボランティアだと遠慮することがある
ボランティアと何かあいまいな存在なのである。
善意でやるのはいいがサービスを受ける方は嫌がることもある

いづれにしろ無人化に反対するのは全国的にある。それがインターネットでわかった
こういうときインターネットが力を発揮する
相互にリンクすれば無人駅化反対の運動が全国的に拡大するということがある。
ただその解決方法は自治体がかかわるべきだとも言う
つまりそれは市町村の問題でありJRだけの問題としては解決しないからである。

ただ一日平均の乗客数が700人以下が無人化の対象になるとき相当に厳しい
JR九州だと半分が無人化する,常磐線でも相馬市と原町と亘理をのぞいて無人化してしまうのである。それだけローカル線の状況は厳しいのである。
そういうことを市町村でみんな自覚している人は少ない
みんな車を利用しているから鉄道のことに関心をもたないからである。
それでますますJRでも無人化をすすめることになる
市町村の問題として問題意識をもつ人も少ないからますます無人化が増えるし
鉄道はこれからも危機的状態が加速してくる
ただ高齢化社会で高齢者が車に乗れなくなるとき鉄道が見直されるかもしれない
それより少子高齢化で人口が全国的に減るときもうローカル線はどこも維持できなくなる廃線になると予測している,インフラの整備に手間も金もかかるからである。

業務委託駅とかにして無人化を防ぐということはありその方向に向かうのか?
これもやはり住民が要望したり自治体がかかわらないとやはり無人化はすすむ
JRだけにまかせていればそうならざるをえないのである。
タグ:無人駅反対

2017年08月07日

JRには人へのサービスが欠けている (技術者集団であり人へのサービスは重んじていないからか?)


JRには人へのサービスが欠けている

(技術者集団であり人へのサービスは重んじていないからか?)



市で作ったトイレが障害者の団体のあさがおで毎日掃除しているという
たまに行くと見かけるけど毎日にしていた
そんなに掃除しなければならないのか?
いつもきれいになっていた,その分金がかかっていたのである。
その金は市で払うから市民が払っているともなる

なぜそれがわかったかというと向かいの自転車屋はいつも駅を見ているから知っているのである。自分は一日一二回くらいしか行かない
その人はいつも駅を見ている一日中駅を見ている
何もしなくても駅とかかわっているのである。
道案内などやタクシーのことも聞く人がいた
つまり駅には誰いない無人駅だからそうなっていたのである。

その人は駅舎が空いているのでそこを利用すればいいと言っていた
それが観光協会がなんとかでうまくいかなかったという
鹿島駅てはあそこで弁当などを売りたいという人がいるという
それなりの人が出入りしているからである。
前は売店まであった,その時はまだもっと人が乗っていたときである。

駅で弁当でも何か売りたい人がいるということは初耳だった
でも観光協会がどうのこうのとかできないらしい
JRはこうして市民が地区の人が掃除していても何も礼も言わない
それは自分もそうだった

いろいろ駅を見ているですよと言っても何も礼も言わない
それがJRだという,確かにおそらくその駅前の人も地区の人も礼など言われたことがないから言っている
何か注文をつけるとうるさいというくらいにしか思っていないのかもしれない
これもどういうことなのか良くわからない
道案内しただけでありがとうと言う人もいるのになぜJRではそうして地区でも掃除したり自分もいろいろみていて補佐しているのに何も礼も言わない
一言ありがとうとも言わない,むしろどうでもいいという感じになる
それで自動化して無人駅化する
何かJRでは人へのサービス精神に欠けているのだろうか?
その辺の事情はよく分からない
今日前の自転車屋に聞いてJRはそうだなと思った

2013.10.15

JR、ずさんなサービス品質の実態〜安全対応軽視、黙り込む駅員、顧客無視のシステム

東京駅の改札前のメイン・フロアでは、カート用のスロープが一路あるだけ。それ以外は、階段と小さなエスカレーターが一機設置してあるのみ。ほとんどの人がスーツケースを重たそうに持ち上げ、階段を上っている。


東京駅でもそういうことがあるのも驚きである。そういうのは駅員が見ているとわかる
田舎の駅ではエレベーターがない駅が多い,するとスーツケースでもキャリーバッグでも階段を上り通路をわたり改札口まで結構な労働なのである。女性もいるから楽ではないと見ている

ここの記事では駅員が何かと不親切だとかインターネットの予約でも何か人へのサービス精神がJRでは欠けていると指摘している

そもそもJRは線路の保守とかメカの点検保守がメインの仕事であり人へのサービスは別なのもと考えているのかもしれない,そういう集団であり組織なのかもしれない
サービス業だとは思っていないのかもしれない
理系とか技術者関係にはそういう人が多いだろう。

でもホテルとか売店とか経営するようになっているから今は変わっているが基本的にはそういう姿勢なのかもしれない,線路とか鉄道の技術としての保守管理がメインの仕事であり人へのサービスは付随したものでしかないと思っているのかもしれない
実際に地区の人でも自分が駅をみてしていることでも全く無関心なのである。
その駅舎でも自分たちのものではないという感じにもなる
すると機械だけおく無人駅でいいというのがJRの態度になって行くのもわかる
それはただコストがかかるからというだけではないのかと今日話を聞いて思った
機械にたいしてメカには保守点検は厳重にしているが人へのサービスは重要なものとして考えないということである。

ただ駅はJRのものだけではない,駅に来て無人駅で案内する人もいないとなると駅が街の玄関の役割を果たしているというときその街自体の印象が悪くなるのである。
駅はJRだけのも問題ではない,その市町村と密接に結びついてある
経営として人へのサービス精神からみる必要もある
駅はJRだけのものではない,それは街と一体化していることを市民でも自覚する必要がある,でも車時代になると常磐高速道でも四車線化しているように
車は乗る人が多いから便利になる,鉄道は利用する人が少ないから便利にならないのである。乗る人が多くなれば三〇分感覚に電車に乗れるようにしたりできるからである。
どうしても経営はコストなしには語れないということである。

2017年08月08日

心が通う田舎駅(詩) (機械自動化しても人間的な仕事の価値は高まる)


心が通う田舎駅(詩)

(機械自動化しても人間的な仕事の価値は高まる)


駅は母が子を待つように
あたたかく待っている場所
ぬくもりのある場所
駅はまたは無事を元気なことを
祈り見送る場所
老いも若きも男も女も
ここに住む人も
外から来る人も
様々な人が行き交い
駅は熱気を帯びる
「行ってらっしゃい、お帰りなさい」
あたたかな人間の血が通う場所
一時の出会いなれども
駅には人の心が通う場所
そこには駅員が必要なのだ
すべて自動化機械化はできない
人間は心を持っているから
あらゆる場所がそうである
心が通いあうことを願うから
薬を売るならその人の病気の直ることを
私の作った野菜を食べてください
私が苦労して精根こめて作ったものです
その手から直接与えられたら
その本当の価値を知る
ただ金を得るだけではない
物には人の心が通い物の価値が生まれる
心をこめて作られたものに価値がある
医者はいくら機械に囲まれていても
そういう心をもたないと人をかえって傷つける
今人に欠けているものあたたかい心
科学技術がいくら進歩しても
そこに人間の心が欠ける時索漠とした社会
駅で母が子を待つように
寒い日でも誰かが待っている
あたたかく待っている場所
忠犬ハチ公のように待っている
いつまでも主人の帰りを待っていた
大きな駅にはそれがない
人々はただ物ののように流れてゆく
小さな駅はかえって心が通う
そこには駅員が必要なのだ

これは別に駅だけの話ではない,どんなに機械化自動化しても人間が必要なのである。
ロボットに介護してもらいたいか?ロボットは補助にはなるが心をもてない,愛ももてない,だから人間の代わりにはなれない,未来は機械化自動化であり人間がいらなくなるということはありえないのである。

確かに鉄道の方が全自動化して運転手も車掌も駅員もいらなくできる,そうなるとどうなるのか?何か索漠としたものにならないか?ロボットに見守られている世界は情なき世界になる,それは社会全体でも言える

牛馬を必要としていたときなぜJそこで情が育まれたかというと牛馬は機械ではないからである。やはり人間の情が通じる,それで馬と結婚した娘の話が残っている
それだけ動物でも情が通じ合うから情が育まれていた,なぜこれほど犬猫のペットブームになっているのか?それは人間の情が通じる,情を求めているからである。
機械には情が通じないのである。

駅では無人化してもやはり必ず家族が見送り出迎える場所である。それはまさに家族の情が通じる場として駅がある。そういうふうに人と人が情で結び合う場所がどこでもある
駅は公共的な空間でもある,車は一台一台閉ざされた空間であり一緒に多数の人が乗りあわすことがない,乗る人は個人か家族か親しい人だけでありあとは排除される空間なのである。

電車とか駅は見知らぬ人が交わる空間でもある,見知らぬ人も行き交う場である。
それも子供から老人までみんな行き交う場である。
今はそういう場所もない,学校は子供のいる場であり病院や老人ホームは老人だけがいる場とか分離して閉鎖されている
昔の村の方が世代間で分離していないし交流が生活の中で自ずからあった
人間が世代でも男女でも仕事でも分離されて交流できないのが現代である。
そこに情が通わない歪な社会になっているのだ。

機械化自動化で人間が働かなくても良くなるということはない,逆により人間的なものが求められる,介護でも力仕事はロボットとかるが愛情ある介護は人間しかできない
機械的にできるものは機械にまかすとしてもやはりどこにも人間にしかできないことがありその価値が高まるのである。機械にはそもそも愛がありえないからである。
要するに機械化自動化はかえってより人間的なものが人間にしかできないものが価値が高まるのである。

例えば家事でも自動化してゆく,すると人間はいらなくなる,実際家事は一人暮らしでもできるようになっている
ではお手伝いさんはいらなくなるかというとそうでもない,一人暮らしの人は淋しいから話し相手に必要だともなる
そうなると話がうまいとか何か趣味があるとか家事をする能力ではないものが価値がでてくる
もちろん料理でも自動化はできないたろう。機械化自動化してもどうしても人間的なものを求める
その人間的なものがかえって価値が高まるのである。
だから未来は別な能力が求められる,より人間的なものが求められる

将棋や碁の相手は機械になった,すると娯楽にしても変わる,人間はそれでも会話を望むし人間的なもの求める
つまり娯楽も変わる,そこでより創造的なものが求められる時代になる
将棋や碁はコンピュターによって解析された,そうなるとコンピュターによっても解析されないものが価値がでてくる
自分がしている抽象画はコンピュターでしているが新たな価値を作り出したともなる
もちろんその価値はどれだけのものなのか疑問ではなる
でもやはり新しい価値が生み出したともなるのだ

2017年08月17日

駅から労働することは何になのか考える


駅から労働することは何になのか考える


仕事と労働は別物、仕事っていうのは自ら仕事を創りだすものなんだよ、 
労働ってのは寄生して汁吸ってるだけ


無人駅だけでは困ることがある。困るのは外部から来た人である。
ゴミ箱がホーム内にありわからないのである。
それから切符入れも小さいからわからない,その切符は回収しているのである。
感心するのは金を入れている人がいる,ごまかしたくないという人がいるのは感心する
自分にはそういうことがなかったから余計に感心したのである。
鉄道を支えている人のことなど考えたこともないのである。
要するに電車賃が高いとかしか考えていないのである。
それだけ自分は社会性に欠けていたともなる

今になると無人駅でそれほど何か仕事というものがあるわけではない,
ただ外部から来た人に道案内とかはある
何か聞きたいことが必ずある,それは自動化できないだろう。
80パーセントは自動化しても自動化できないものが残る

そもそも仕事は与えられるものではない,創り出すものだというとき仕事になものを見つけ出し発見する,例えば階段をキャリーバッグを運ぶのは負担になる
もしそれをもってくれる人がいたら助かるとなる
そういうことをポーターなどがいて頼むことがある
でもそうなると無料ではしないとなる,重いし運ぶのが結構な労働となるからだ
それをやる人は金をもらってやることになる

人間はつくづく他人のためにそうした重い荷物を運ぶことはない
自分が病気になったとき,遠い親戚の人はその荷物を運ぶのもを嫌がっていたからであるその人は借金しているからまず金が欲しい欲しいしかないのである。
そういう人は無償の労働など絶対しないのである。

だからボランティアでも水害や津浪のときなど泥をかきだす仕事は苦しい
川崎の人も良く原発避難者の引っ越しの手伝いをしていたと思う
重い荷物を運ぶから74才では苦しくなる,自分ったらできない
そして仮設の人達はむしろ金をもっているのだから近くで金がなくて困っている人がいたのだからその人たちに金をはらって手伝ってもらうべきだとも近くでは見ていたのである
ボランティアというとき盲人を電車に乗せることなどは楽である。
でも案内されることを嫌ったから自分でしたいということが障害者にある
いつも人を頼っているのが嫌だとなるからだろう。
そういうならいいが荷物を運ぶとなるとボランティアではしたくない,ボランティアはそうした苦しい労働には向いていない,そういう辛い労働はやはり報酬があってできるものである。

「このバックが重いのでもってもらいませんか」
「・・・・・・」
「お礼はさしあげますが・・・」
「自分は別に金に困っていませんから」

男性なら若い女性で美人なら無料でやる,その他は無料でやることはないだろう。
金をもらってもやらない,なぜなら金がある人はやりたくないことはやらない,
労働はしないのである。ただやりたいことは金をはらってもやるのが金持ちである。
芸術などは金をはらってもやりたいものである。
美でも何かを創造することは金を払ってもやりたいのが人間なのである。

人間は金があると労働はしない,あの人はキャリーバッグを重そうにして運んでいるけど自分も力はないからしたくない,金をもらってもしたくない
人間は何でも本当に金をもらったからやるだろうか?
もし金をもっていたら嫌な辛い仕事などしないのである。
だからこそ機械化自動化しているのである。
要するにエレベーターがあれば機械化されて人間の助けがいらないのである。
でもそうなるとそのインフラに金がかかるからできないのである。
新地駅とかは鹿島駅より小さいけどエレベーターがついた,それは津浪があって特別にできたことである。

ともかく駅からいろいろ考えることがある,駅から社会が見えるということもある
仕事は与えられるものではない,創り出すものだというとき社会はすべて満たされていわけではない,時代によっても社会が変わりそれで必要なものが生れる
コンビニなどは車社会になってうまれたのもである。
コンビニとか宅配とかも車社会になり新たに創り出された仕事なのである

ともかく鉄道で感じることは駅でもそれを維持するのに人の手間や金がかかっている
自動化してもやはりその自動化のために金がかかる
エレベーターを作っても電気代はかかるからである。
だからインフラは無料では維持できない,そもそもなんでも無料では維持できない
人の手間があって維持できている
だから鉄道会社では郷愁で鉄道を残せるのか?金がかかるのにその金を誰が出すのだとなる,鉄道を残せという人が鉄道を利用しないのである。
その負担は鉄道会社だけで負えきれないからそういうのも当然だとなる

2017年08月19日

無人駅で一番困ったことが今日あった ( 切符がなく駅で料金を払うことができない人)


無人駅で一番困ったことが今日あった

(  切符がなく駅で料金を払うことができない人)


今日仕事で福島駅から来た人が乗車証明書はもっていたが切符はもっていなかった
それは鹿島駅で清算する証明書だったのである。どうしてそうなっていたのか何かありそうなった
それでどうしていいか迷っていた,それで原町駅に連絡したら切符入れに金をいれてくれと言った
前にも切符入れを回収すると小銭が入っていた,今度の金は大きい
その人は別にそのまま駅を出てもとがめられることはない
たまたま自分がいたから聞いてきたのである。

こういうことで良心的な人はいるものだと思った,かえって無人駅で金払わなくてすんだと得したと思う人もいる,自分などはそういう面があった。
その人が金に余裕があるからなのかと思ったがそうでもない,なぜなら3,4キロある自動車のリース会社のあるところまで歩いて行ったからである。
金を節約するために歩いて行ったからである。タクシーで行けばやはり1500円くらいとられる距離だから節約した

それで原ノ町駅にインターホンで連絡した,料金はわかった
その人は1940円と料金として入れてくれといったがこまかがないので2000円入れたのである。この金は大きいと思う,普通は小銭が多いからである。
その人はこの駅が無人駅だと知らなかったと言っていた
これは無人駅の一番の問題だったかもしれない
料金を無人駅では清算できないのである。みんながスイカを利用できるわけではないからだ。

このように無人駅は万能のようにみえても最も肝心な料金を回収することができないということがあった,鹿島駅は結構乗り降りがある駅なのである。
それで昨日は市の地域振興課の人が二人乗客数を調べていた
何か駅を地域振興のために調査しているのかとなる

確かに地域振興というといろいろあるが駅も大きな部分をしめているかもしれない
鹿島駅は人の出入りが結構多いのである。
今日は小高で花火大会があると浴衣を来た若い女性が電車に乗って小高に向かった
今日は小高はにぽやかになっているだろう。
通りも暗いから人が集まるのはいいことである。
ただ直通で行く電車がまれなので行きにくいのである。
その辺がまだ改善されていないのである。

2017年08月22日

駅からの足がないことが鉄道の大きな問題 (鹿島駅の時刻表を作る)


駅からの足がないことが鉄道の大きな問題

(鹿島駅の時刻表を作る)


今日来ていたのは相馬市から来た人だった,わざわざ二時間も遅れたのに乗るという
その理由が相馬市からのバスがないからだという
相馬市街に住んでいるのではなくちょっと離れているからバスの便がそれぼどないから
そのバスの乗るために鹿島駅で待っているという。

鉄道の最大の問題がここにあった,みんな駅に高校生でも息子でも孫でも車で迎えに来ている,駅からの足がないからそうなっている,タクシーだと町内は600円内で行けるが離れると高くなる,だから普通には利用しにくい。
それで9人乗りの乗合タクシーなどが一時小高の方で利用されていた
今は子供の通学などに使っている

電車が利用されないというとき電車にだけ乗せようとしても乗らない,交通は鉄道だけではない,今では車が主流となっていると車と結びつかないと電車も利用しにくいのである乗り継ぎができないので田舎だと町から離れて住む人が多いから車になる
なぜ東京とか都会だと電車だけでまにあうかというと電車で用をたせるようになっているからだ。車がなくても不便がないのである。
電車とバスでも連結したようにして利用できないと電車も利用されないのである。

その女性は二時間も待っていたのは暇な人だからである。なんでも息子がアメリカに仕事で住んでいてインターネットで連絡しているという,それでタブレットをもっていて見ていた,おばあちゃんなのに60代なのか先進的である。
それは息子が与えたのと連絡するためにもたされたともなる

その人はアメリカとハワイには行った,タイにも息子が住んでいて行っている
この辺で60代くらいになるとそういう人は少ない
でもそういう国際化はグローバル化は田舎にも及んでいるのである。

アメリカの高速道路にはサービスエリアとか休憩所があっても小屋のようなものしかないという,日本ではパーキングエリアとサービスエリアがある。
サービスエリアは50キロごとにある,鹿島のセッディセとかのサービスエリアがある
アメリカにないというときアメリカが広いから50キロごとにもそうした休憩所がもうけられないのかもしれない,アメリカは広いから高速でも違ってくる,高速はアメリカでは無料だというときずいぶん得だなとも思う
日本では人口が密集して狭い場所だから細分化してサービスする所がもうけられる
アメリカだと次の街から街で相当に離れていることがあるだろう
するとその間にサービスする店も休憩所もないとなる

アメリカだと鉄道の軌道も広いしアムトラックだとソファーでゆっくり寝れた
アメリカ人の太った人が座っても十分に余裕があるからだ
だからホテル代をうかすことができた,日本は窮屈だから眠れないのである。
アメリカが土地が広いというとき土地が無料だったというとき
その考え方にも影響する,人種差別があるにしても広い土地だから棲み分けができるという,それで摩擦が起きるのを防いでいるともいう。
日本では近接して密集して住むから必ず摩擦が起きやすいのである。

ともかく駅は必ず待つ時間があり一人の女性は買ってきたのかおにぎりを食べていた
弁当でも食べている人がいる,それは待つ時間があるからだ
だから駅前の自動販売機は一番売れている,待つ時間に飲む人が多いからである。
人の出入りが多いところは商売になりやすいのである。

時刻表を作った,コピーで十円である。
自宅での印刷はかえってインクカートリッジでコストが高くつく
そしてうまく印刷ができない,コンビニのコピーだと写真もきれいにとれていた
前は相馬市の方でしていたが遠くてできない
何か全部自宅で機械を用意してやるのはかえって今は損である
洗濯でもコインランドリーが安上がりである。
乾燥機を6万で買って失敗した,生活が変わっているときそれに適応しないと損になる
印刷はスキャナーとしては使いたがその他印刷となるとうまくいかない
インクが消耗しやすいから損なことに気づいたのである。

この時刻表は印刷自由です

(A4の大きさに印刷できます)

timepole221.jpg

2017年08月23日

他人の仕事を認めない現代 (その対立が深刻になる)


他人の仕事を認めない現代

(その対立が深刻になる)


暑き日に線路補修するJRの人を見てをり無人駅に


今日は仙建工業が小屋のようなもの建てるために工事していた
この会社は鉄道関係で仕事をしているのでしっている
JRの人も原町駅から二人来て草むしったりしていた
何か鉄道は保守管理の仕事がある。それが手間なのである

道案内としてはコモドイン小池のホテルに泊まる人が来たので案内した
歩いて行きたいといったが無理だとタクシーを教えた
駅前の看板の地図を見てもどれくらいの距離がわからない,時間がどのくらいかかるかわからない,そういうことは知らない土地に来ればそうなる

人間は毎日働いているけどその働くことをその価値を認めていない
今まで電車の旅をあきるくらいしたけどそこで働く人のことを考えたこともなかった
そこに人が働いているとすら思っていない,何か自動的電車が来て乗っている感じだった現代はいろいろな場で働いているけどその働いている姿が見えないのである。
また機械化自動化すれば余計に機械が働いていて人間が働いているのが見えないのである
だから日本では働く(はたらく)は端(はた)を楽にする意味があるというとき働く人を身近に家族でも見ているときそういう気持ちになったのである。
今は子供でもお父さんが会社で毎日働いていてもその姿が見えない
すると親の後ろ姿を見て子供が育つとはならないのである。

もし農家だったりすると暑いとき汗を流して働くのは楽じゃないなと子供ながらにみる,でも会社だとその姿は見えないのである。
そしてこれだけ多様な複雑な社会になると他人が働いていることがわからない
小さな町でもわからない,隣すら何して働いているのかわからないのである。
そこで何が起きてくるのか?他人が働いていることの価値を認めないということ知らないということになる

それで駅前の葬儀屋といつもあうが暇で余裕で毎日駅にきて楽だなとかのことを皮肉的に言った,その人は全く駅で自分がボランティアしていてもその価値を全く認めていない
なんだ毎日駅にきて何しているの?暇な奴がきて駅で時間を過ごしているとしか感じていないのである。
そういう面があるにしてもなにかしら役にたっている面もあるがそれを全く認めていない
そういうことは別に今の社会では普通にあり多いのである。何をしているのか仕事をしているのかわからなければ価値を認めるも何もないからである。
家の修理で屋根に上ったりするけどそれは危険なことがわかる
だからその時はその仕事の価値は高くなり一時間で一万五千要求されたがしかたがないと思った,それは目に見えてわかる仕事だからそうなる

ともかく今の社会は他人の仕事がわからないし価値を認めないのである。
車社会になったとき電車の乗り方も知らない人が多い,そういう人は全く鉄道の価値を認めないのである。鉄道など必要ないと思っているのだからそうなる
そこにすでに対立が生れる,自分でも葬儀に関しては30万でしたから必要にしてもそれがさほど重要な仕事に思えないのである。
相手も自分のことを認めなかった,自分でも葬儀などは簡単にしてやればいいと思うだけであり必要でもその価値をあまり認めないのである。

こういうことは今の社会では本当に多い,趣味で農業している女性でもそうである。
自分が駅でボランティアしていてもその価値を全く認めない,自分から見るとほとんど何を収穫している畑でただ愚痴を聞くだけのものが価値が高いとは思えないのである。
そこに種代とかいろいろ自分で払った,でももらったものはほんのわずかであり何もないと同じだからである。
するとそんなことしていて何の価値があるのか?自分は確かに価値を認めていてもその人が自分のしていることをしなくていいとか言えるのか?
ここにも自分のしていることは価値があり他人のしていることは価値がないとしているのである。

こうしてもし一緒に暮らすとなると価値観の対立が深刻になり一緒に暮らせなくなる
そういうことは自分の家族であった。花とかが無駄だとか庭は無駄だとかいう人と一緒に暮らせるのか?それが例え親でもである
これだけ多様な複雑な社会になるとそういうことが多すぎるのである。
要するに一つの絵にしろ価値を認めないものには何の価値もない,芸術となるとそうである。ただ芸術がわからない人でも一枚の絵が何億だと値がつくと価値あるものとして認めるのである。それが資本主義社会である。

現代の社会は価値観の対立が起こりやすい社会なのである。もちろんグローバル化社会になると世界的にもそうなる
価値観の対立は仕事でもあなたの仕事は価値がないいらないということになればその存在の全否定になる,それが深刻になるのである。
現代は価値が多様であり複雑になりすぎてもうそれぞれの仕事とか価値をしりえない社会になっているのだ。

葬儀屋とかは失礼になるが昔なら棺桶屋にもなるだろう。人間が死ねば商売になる仕事である。自分がそんなこということ自体相手の価値を否定しているのである。
大人でも若者がゲームしているのは無駄だとかなったり世代間の価値の対立もある
どこでも価値の対立が起きやすい社会なのである。

自分が車の価値を認めず鉄道の価値を認める,でも現実は車社会であり車に関係する仕事している人が多いのである。だから車がいらないとなれば車関係で膨大に仕事している人もいらないとなり価値が否定されるのである。
自分は車がいらないとかは言っていない,車の恩恵を間接的に通販でもなんでも受けているからだ,車をへらせということを言っているのである。
荷物を運ぶのには必要でもこんなに車が必要なのかという疑問なのである。

タグ:仕事の価値

2017年08月26日

みちのく鹿島球場で二軍の試合 (東京からもファンくる-シャトルバス運行)


みちのく鹿島球場で二軍の試合


(東京からもファンくる-シャトルバス運行)

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みちのく鹿島球場で今日は楽天とジャイアンツの試合があるとシャトルバスがとまっていた,女性二人も案内に出ていた
東京の方からも来ると言うから二軍でも見る人がファンがいるものだと思った
なぜなら東京からだ電車賃が高くなるからだ
よほどのファンでないと来ないだろう,でも東京から来るということはにぎやかになっていいことである。

みちのく球場は津浪の被害がありあそごでも死んだ人がいた,何か津浪が渦のようになりはいりこみ死んだという,あの辺は被害が距離的にも大きかった
それが復興して野球試合が行われる,そして今度は常磐線が開通したから東京からでも来やすいのである。
これは大きなイベントでもある,鹿島ではあまりそうしたイベントはないからである。

入場券は1500円だから高いのか?その人は老人でシャトルバスには乗らないで自転車で行くと行った,自転車でも遠くない場所である。

駅はしょうちゅうJRの関係の人がきて工事したりしている,最近は小屋を建てるらしい
仙台から来た人がいた,新幹線の無線関係で仕事したことを語った。
なんでもトンネルで無線が切れるのでその工事をしていたという
今はスマホとかいろいろ無線機器を使っているからトンネルで切れると困るからだろう。

次に問題になったのが警察が二人来て職務質問されたことである。
誰かが怪しい人がいると匿名で通報してきたのである。
そのことに頭に来た,匿名であやしいと警察に連絡するとすぐに行く義務があるという
ただそんなことをしていたら匿名の人を信用してそんなこたとをしていたら仕事も増えるしこなしきれなくなると思った

このことは次回に書く

警察官が二人駅に来て職務質問される (近くの誰かが怪しいと警察に通報したから)



警察官が二人駅に来て職務質問される


(近くの誰かが怪しいと警察に通報したから)


今日駅にいたら景観が二人来て自分が駅で何をしているのか聞きにきた
それは近くの誰かが「怪しい人が駅にいる」と通報したからである。
自分は駅でもう数カ月ボランティアで道案内とかいろいろしていた
もう結構長いのである。よそ者がぶらぶらしているのとは違う。
そしたらあの人は何をしているのかと直接聞きにくればいいのである。
そこが常識的な方法である
よそ者で一回限りのような人ではないからだ

警察は何度でも言った,あやしいと通報があれば必ずかけつけなければならない,
その通報する人が匿名で信用できないではないかとしてもそう言っていた
通報があるかぎり必ず確かめに行くという
こんなことをしていたら警察の仕事がふえて重要なことに時間がさけなくなるのではないか?
怪しいというだけでその根拠は何もないのである。

■正当な理由(犯罪に関わっていると疑われる相当な理由)がなければ、そもそも職務質問に応じる義務はない。
■警察署に連行される義務はない。質問に答える義務もない。身体検査も拒否できる。
■礼状が無ければ、逮捕されることはない。
■大声で助けを求めるのも有効。
■高圧的な相手には、名前を聞くこと。警察官は身分を明かさなければならない義務がある。
■そして、録音・録画をすることで、横暴な捜査を防げる。懲戒請求も可能になる

そもそもその前に匿名の人がなぜあやしいというだけで警察に訴えて受理されるのか?
その匿名の人こそ警察であやしいと思っても不思議ではないか?
その匿名の人こそ職務質問をしなければならないのではないか?
いだすらで通報する人もいるしいろいろいるからだ
もちろん匿名ダイヤルがあるというとき匿名で通報して犯罪を防止したり摘発したりすることはできる,だから匿名で通報することがその時は許されている

じも駅であやしい人がいるというときどうしてその人が怪しいのかとなるそれは何も聞かないのである。いつも駅にいるが何しているのかわからない,何か犯罪のようなことにかかわっているのかどうかもわからない,なぜその匿名の人の通報の方を信じるのだろうか?
その匿名の通報した人こそあやしいのである。

匿名で通報した人は実際は訴えられるべき人かもしれない

でも現実に警察ではあやしいと通報があればなんども来るという
事情を話したのだから今度は自分のしていることを話してくれといってもしないという
せめて事情が警察ではわかったのだから話してくれと言ってもだめだという

警察ではともかち匿名の人の誰だかわからない人のことを全く信用しているのである。

その匿名の人の所にまずいって職務質問すべきなのである。
その人の方があやしいかもしれないからである。
なぜすぐに電話で匿名で通報してそのことを信じるのかとなる
もちろんよそものがいたり本当にあやしい人はいる

でも何でもかまわないのである。匿名で通報したらすぐに警察官が職務質問に来るのである。
どういう事情も全くきかない,「あやしい人がいる」
それだけでかけつけるのが警察の任務だといっている,そのことに全く疑問をもたないのである。
必ず匿名でも確かめに来なくてはならないのです
それより「あやしい」というのはどういうことであやしいのことか聞くのが普通である。人間社会の常識ではそうである。
つまり警察は人間社会の常識が通用しない場である。ただ一方的に「あやしい」というだけでその人を信じてしまうのである。

訴えられるべきは匿名で通報した人である。

なぜならよそ者としてとおりすぎるわけでもない,もう数カ月も駅にいるからである。
だったらその人は何をしているのか聞けばいいのである。

匿名で通報した者よ,あなたが職務質問されるべきである。

こんなことをして田舎でしていたら疑心暗鬼になり何もできなくなる
田舎だったらあの人毎日来ているけど何しているのかと聞けばいいわけである。
その匿名者こそ責められるべきなのである。

まず警察では大きな犯罪とかはとりあげない,大金を盗まれて届けてもとりあわない,自分で経験しているからだ,何か大きな犯罪にはなるべくかかわらないようにしている
ただいちいち匿名の通報などにはかかわっている,時間をさいているのである。
そして日本の警察は外国に比べて逮捕率が90バーセントとか高いのである。
そこには不当逮捕とかあるから深刻であり怖いのである。

そういう警察に対して苦情を聞く場所がある,電話でうけつけている,それは逮捕されたとかの深刻な人である。
警察に抗議することができるという,個人的には警察は相手にしないだろう。
そんなことができるのか?警察は権力が強すぎる
これも市民が監視しないとこうした横暴がまかりとおる

あやしいというだけで田舎でいちいち職務質問に来ていたら仕事が増えるだけである。
それも事情は全くきかないのである。「あやしい」というだけで職務質問にくる
それこそが横暴なことであり警察権力の乱用になる

どういうふうにあやしいんですか?そのことすら聞かないで職務質問に来るのである。
一言も聞かなくもかけつける義務があるのですと言っていた

「見慣れない人がいて駅にいつもいます,何しているのかわかりません,不安です」
「何か悪いことをしていますか?そんなそぶりが見えますか」
「いいえ,何もありませんが・・・・」
「ではどうしうてあやしいとして通報したのですか?」

このうよに匿名で通報した人を職務質問すべきことがある,見たことがない人があやしいというのはわかる,その人はずっと数カ月もいたのだからそこでなぜ今になってあやしいと通報したのかとなる,そのことこそ職務質問されるべきだったのである。
これは法律の前に人間としての常識からはずれている,でも警察は常識は通用しない,警察の常識が通用するのである。それで不当逮捕もあるから怖いのである。
ともかく警察に常識は通用しないのである。脅しでもなんでもまかり通ってしまう世界である。どっちがあやしいかわからないのに匿名の通報があったらすぐにかけつける
こんなことがありうるのかともなる,犯罪のそぶりもなにもないのにそうしている

警察には何か理不尽なことが多い世界である。
ともかくインターネットでも匿名が問題になったが実社会でも匿名がこれほど警察にも認可されていることに驚いたのである。
常識では匿名は信用できないということである。だからネットでも実名の人が増えてきたのである。
ただ匿名の効用はあるが実社会でこれほど匿名が通用していることの驚きだったのである匿名ならまず疑い信用しないのがネットである。実社会では匿名がこれほど警察にも信用されていることは何なのだろうとなる
これは自分だけの問題ではない,地域社会でも国民の問題でもある

匿名の人があやしいというだけでかけつける,職務質問する

事情も聞かない,匿名の人をまず信用しているのだ

こんな社会だったら本当に疑心暗鬼になり平穏に暮らせなくなる
これは小さいようで大きな問題かもしれないのである。
これは自分だけの問題ではない,警察の在り方とか匿名のことについて国民は考えるべきである。

「救援連絡センター」は、警察の横暴などについて相談を受け付けており、「まさに職質中の場合、代わりに警察と電話で話をする」こともしてくれるそうだ。
 電話番号は、「03-3591-1301」
 営業時間は、平日は9:30〜20:00、土日祝は12:00〜18:00だそうだ。

「あやしい」というだけで警察に通報することは違法である (これは国民全体の問題である)



「あやしい」というだけで警察に通報することは違法である

(これは国民全体の問題である)

■正当な理由(犯罪に関わっていると疑われる相当な理由)がなければ、そもそも職務質問に応じる義務はない。

警察に誰かが通報したということは警察がその通報者をあやしいというだけで全面的に信用ることである

その通報者に事情を一言も聞かない
「犯罪に関わっていると疑われる相当な理由」などなくても通報できる
「あやしい」というだけで十分なのである
すぐに警官はかけつけく義務があるという

匿名の通報者を全面的に信用している,でも実際は匿名でも電話番号がわかり相手のことがわかる,するとその匿名というのは調べてわかり通報した人を信用したのだうか?
そうかもしれない,何かいつも駅にいる人がいる,あやしいとして通報した
その事情は一切警察では聞かないという

警察に通報することはいろいろ問題がある,どういう理由で通報するのかが問題になる
嫌がらせとか隣人トラブルは常にあるけど警察に通報するとなると大事になる
それで相手も心証を悪くしてかえってこじれる,そして殺人までになったことがある

警察がなんでも介入することがいいことではない,介入するにしても何か理由が必要なのである。

今回自分にはその理由が見当たらない,駅にいつもいるというだけで警察に通報する理由にはならない,何かそこで問題を起すそぶりがあるとかなればありうる
でも毎日のようにいたのだから直接聞いてみればわかる

あやしいというだけで通報する理由がないのである。
あいつはあやしいというだけで警官がすぐに駆けつけるとしたら警官でも仕事が多くなりこまる,警察は大きな犯罪にはかかわらない,小さな犯罪にはやりやすいからかかわる,うるさいのである。
いちいち騒音トラブルでもなんでもない,近隣トラブルでもない,第一駅にいつもいるからと誰も迷惑になっていない,たいがい通報しているのは迷惑になっているからである。
そもそも警察に通報することはやっかいなことである。警察が近隣トラブルとかで介入すると角がたち田舎などでは住みずらくなる
いつも顔を合わしているからそうなる,だから警察は田舎だとあやしいとかでいちいちかけつけて近隣トラブルに手をつっこんでいたら田舎の治安は乱れる

すでに田舎の治安は乱れたのである。そんな匿名の人に事情もきかない,ただあやしいというだけで警察に通報することが田舎の治安を乱したのである。
匿名で通報した人も悪いにしろなぜ警察がそんなことでいちいち来るのかとなる

ともかく

あやしいと通報すれば警官がすぐにかけつける,事情は全くきかないのである。

正当な理由(犯罪に関わっていると疑われる相当な理由)がなければ、そもそも職務質問に応じる義務はない。

そんな人が通報しても警察が答える必要もないともなる,第一通報者に正当な理由がまずないからである。そこが警察の一番間違っていることなのである。

通報者があやしいというだけでは正当な理由にはならない

通報者を全面的に「あやしい」というだけで信じるのか?

それより通報者のことをわかって職務質問に来たのかもしれない,でなければそんなことできるのかともなる

これを法律的に訴える根拠になる,警察を訴えるとなるとめんどうでもあやしいというだけでその通報者のことを事情を一言も聞かないで職務質問に来たからである。
そういう職務質問には答えなくてもいいとある
これは通報者の問題だけではない,警察自体のそうした姿勢が問題になる
通報者があやしいというだけで即座にかけつけたりしていたらどうなるのか?
そんなことでいちいち通報されていることに答えたらどうなるのか?

これは法律としても明らかに違反しているだろう。ただ権力があるから

あやしいというだけで職務質問にかけつけてきた

その理由がこの社会で通っていいのだろうか?
これは自分だけの問題ではないのである。

今の社会は匿名社会である。タニコウは会社としてこの辺では有名である。
社長が東京から来るので迎えに来る,そして友伸エンジニアリングを知っているかと聞いたら知らないのである。
友伸エンジニアリングの関係の人も東京から結構来ているのである。
会社が違うとこれだけ狭い田舎で知らないとなるのだ
そういう社会だとなる,田舎でもそういうことがある

都会だと駅など無数の人が行き来するからわからない,でも田舎だと行き来している人とかいつも駅を利用る人などはわかる,自分は毎日冬からもいたのである。
だから長いのである。としたらその人があやしいというとき聞きにくれば良かったのである。ただ誰が通報したかはわからない,でも外から来た人が通報するとは思えない
駅にいつもあやしい人がいると言っていたからである。

通報した人は自分を長い間見ていたとなる,ただなぜ今になって通報したのかわからないこれはただ自分だけの問題ではない,警察がそうした通報でいちいち職務質問したりしていたら田舎の平穏が乱されるのである。
疑心暗鬼になってしまうのである。警察に通報することはなかなか普通はできない
近隣トラブルでも警察に通報したら角がたち恨まれて殺されたという事件も普通にあるという。
要するに警察がかかわってかえって治安が乱れることもある,事前に犯罪も防ぐ効果もあるが近隣の信用関係が壊される,田舎は住みずらくなるのである。
その辺を警察は考慮しなければならない,それが今回はなかったのである。

通報者を信じる正当な理由とは何なのか? (あやしいという通報だけで職務質問できるのか?)


通報者を信じる正当な理由とは何なのか?

あやしいという通報だけで職務質問できるのか?


正当な理由(犯罪に関わっていると疑われる相当な理由)がなければ、そもそも職務質問に応じる義務はない。

なぜ今回の通報が問題だったのか?まず通報した人が悪いことは確かである。
なぜなら駅にいたのだからきいてみる,回りの人に聞いてみる
自転車屋はいつも自分より駅を見ている,駅前で仕事しているからそうなる
だから自分より詳しいのである。
そういう人に聞いてみたりしてもいいのである。
その人は実は駅のことを一番知っていたともなるからだ
何かあやしい人がいたら自転車屋の人は見ているとなる

法律で追及されているのは正当な理由なのかもしれない,自分は理屈好きだからそういうことは関心がある

正当な理由とは何なのか?

あやしいということだけで正当な理由ですぐにかけつけて職務質問できるのか?
何かこういうことであやしいのですというならわかる
警官は何度も言ったのである。
「あやしい」と通報があればなにがなんでも確かめに来なければならないのです
それが匿名でもそうなのです,ただ警察だと電話してきたらその番号がわかり住所でも特定できるし誰かわかるのである。
するとそうしてわかって通報した人を信用して職務質問にかけつけたのかとなる

あやしいというだけですぐにかけつけるのは正当な理由としてあるのか?
実は自分はに与那国島で経験している,木蔭に休んでいるからあやしいと警察に通報され即座に警官がかけつけてきたのである。
その理由が木蔭に休んでいるという理由なのである。
ここでは一応理不尽でも理由があった,でも今回はあやしいというだけで理由がないのである。
全く理由が無くてもあやしいと通報があるとかけつけねばならないのです,そこを知ってもらいたいと何度も言う
正当な理由もなしにただあやしいだけでかけつけねばならないのですと何度も言ったのである。
その理由は聞くことはないのです,そしてまたあやしいと通報があると職務質問に来なければならないのですという
これも理不尽なことである。こんな横暴が通っていいのか?
それは自分だけの問題ではない,他の人もこうして職務質問されることになる
理由などなくてもあやしいと通報されるとすぐにかけつけて職務質問されるのである。


ただ与那国島は小さな島であり閉鎖された世界である。だからよそ者を警戒している
でもその理由は木蔭休んでいるからというのが正当な理由になるのかとなる
ただそこでもその警官は島の人の言い分は聞かなければならないと言っていた。
今回の場合とにているのだ。
ただ今回は自分は地元でありずっと駅でも長くいたのである。
通りすがりの旅人ではない,そこが根本的に違っていたのである。
今日何かあやしいこともしてない,ただ二軍の野球の試合があるので写真をとったりしていた,それであやしいとなるのだろうか?
今はスマホでもなんでも写真とっているからである。

だから外部の人とは思えないのである。市の女性の若い職員が来ていた。
これも何かあまりにも子供っぼいので話しにならなかった
何か市職員は若くまともに話ができない,正式の職員なのかときいたがそうだという,何か違っているかもしれない,臨時とかアルバイトとか雇っているからだ
パークゴルフ場ではそうである。あのような女性は正式の職員にみえなかったのである。市の職員自体が地元のことに熱心だとは限らないのである。
まだ若いからやむをえないにしても何か質が悪い感じに見えたのである。
駅のことを話しても関心などないのである。

今回は外部の人でもない,地元にずっと住んで駅にも冬からいる,その間に問題を起こしていない,誰にも迷惑をかけていない,案内などをつとめ地元の人に教えたりしていた
たから多少は役立っていたのである。認められてもいたのである。
だからなぜ匿名で通報した人のことに一言も事情をきかないで「あやしい」というだけでかけつけてきたのか?そのことが理解できないのである。
そして「あやしい」と他にまた通報があればかけつける義務があるという
自分が事情を話したのに関係ないという,それが警官の勤めですからという
事情を話してもその警官は認めないのである。

「あやしい」と通報があればすぐにかけつけると言っていた,子供などいるからそういうことで心配した母親などいるかもしれない,そういうことに過敏になっているからである前にそうした経験もある,今の時代はともかく互いが信じられない,田舎でも知り合えないとか理解しえない社会になっている
でも犯罪はどんなところでも起きている,最も信用した人でも犯罪を犯しているのである疑うべきない人が犯罪を犯しているのである。
そして横領の罪などその金額が多いのに軽いのである。でも百円でも盗めば警察は逮捕までする,何かそうしたことが警察が人を犯罪者にするものとして嫌われる
警察官の罪は人は罪にすることであり罰することである。そこにすでにそんな仕事につくこと自体罪深いのかともなる
ただそんなことを自覚している警官などいないだろう。
権力を傘にして何でもできるんだと思い上がっているだけである。

だから今回は警察にみんなで抗議してほしいとなる
このプログを読んだ人はしてほしい
それが圧力となるからである。

つまり警察はあくまでも市民に奉仕するものであり市民に害になったとしたら市民が警察をとがめなければならない,そうしないと市民の平安すら保てなくなるのである。
なるべく田舎では警察は市民の間に介入しない方がいい,何か角がたちややこしくなるからである。
そんなただ「あやしい」という通報者など無視すればいいのである。
たいがい大きな事件になることはとりあわない,無視するのになぜあやしいとして通報した人に即座に来なければならないとかの理由がわからないのである。
そんなことにいちいちとりあっていたら田舎の平安が乱される
でも即座にかけつけるのが勤めでありこれは断れないと言っているのである。

その通報するものに正当な理由がないのである。
法律的にはやはり理由がないということは大きな問題になる
理由もなしに相手をなぐったりすることはない,何かしら必ず理由があって犯罪になる
その理由がないのに人を勝手逮捕したり犯罪者にすることはできないのである。
何か納得する理由があるならしかたがない,それないとしたらただ賢察の権力の横暴がまかり通るだけだとなる,それは市民にとって恐怖社会になる
そんなことたいしたことがないと他人事にしているといつのまにか警察のやり放題になり治安もなくなる,平穏に暮らせなくなるのである。

ここでは病院で診療を断る理由が書いてある
断るのにも理由が必要なのである。
そして警察に通報するとある

正当な理由なしに、その委託を受けた事務に関して知り
得た秘密を漏らしてはならない。

常に法律では正当な理由が追及されている,正当な理由なしにというのが法律なのかもしれない,正当な理由なしには警官は権力を行使してはならないのである。
あやしいというだけの通報で職務質問する正当な理由にはならないのである。

田舎などの市町村でも狭い社会ではもめごとにNHKでもマスコミがかかわるとかえって問題がこじれる,一方の言い分だけを聞いていたらか争いをかきたてるようになる
家族のもめごとでもかかわりにくいのは骨肉の争いであり他者がかかわりにくいからである。そういう面が田舎の争いにもある,だから安易に一方の言い分を聞いて「あやしい」というだけでかけつけて職務質問などするものではない
田舎とはそういう場所なのである。かえって問題をこじらせてしまうのである。
そもそもそうした争いごとに介入すること自体容易ではない
公平な立場を維持できないからである。

それが原発避難者に一方的についていることで争いがかえって治まらなくなったともなる田舎だと村のような所になると余計にそうなっていた
そこは警察とか介入しにくく犯罪も隠された,それも問題だが警察が介入したからといってでは村の問題が解決するかとなるとならない,かえって介入した結果事態が悪くなることすらある,だから警察というのは万能ではない,日本では内々に治めるということがありそういう文化なのだからそれでもいいとなる
警察に頼りすぎる社会は日本ではいいものではないのである。
そういう社会であり平和を保ってきたのが日本の歴史だったともなる
日本では警察力が弱い方がいいのでてある。警察があまりかかわらない方がいいのであるその時日本では平和なのである。だから警察に通報などは簡単るするものではない
また警察では正当な理由がないのだからとたあげるべきでもなかったのである。

2017年08月27日

しのびよる警察国家の影(白川勝彦) を読む


しのびよる警察国家の影(白川勝彦) を読む

職務質問でここまで抵抗できる人はいない,どう対処するのか国家公安委員長までしているきだから心得ていた

私が会いたいのは署長だけですから、誰が出てきても同じです

つまり警察でも市役所でも会社でもどこでも対応するのは責任もない下の人でありそういう人とあっても言っても何の効果もないのである。
私は上の人の命令でしているからわかりませんで終わりになる
市の問題でも何か市民が訴えても同じである。

でも署長に会えるのかとなると普通の人はできない,そこまで通すことはできない
それでも署長が最大の権力者でありその人に会って言わない限り効果はなにもないのである。下の人は何の責任もとらないし実行力がないからである。
適当にあしらって終わりになる
そういうことはみんなどこでも経験しているだろう。
官僚でも役人でも会社だったそうである。会社だったら社長に会えば社長が権限をもっているのだから効果がありその他はないのである。

つまり下の人は何もできない,すると権限をもっている社長が本当は大きな責任をになっている,警察署長なら署長が権限をもって部下に命令できるのである。
部下がそうして無法なことをしていたら注意するし改めさせることができる
部下が無法な職務質問しているのは実は署長の責任になる
でも署長は部下のしたことを知らないとうことがある,でも署長が責任があるとなる
それは公安委員長までしていた人だから知っていてできたのである。
社会とは誰が実質動かしているのか?そうして権限と権力をもっている人だとなる

ここで問題になるのは、Due Process Of Law という考え方なのです。法の適正手続きなどと訳されますが、本来の意味はちょっと違うような気がします。国民の生命・身体・財産などに対する強制力の行使は、法が定める正当な手続きと方法に基づいて行なわれなければならないという、かなりポヂィティブな意味をもっている概念で、アメリカ法のもっとも基本的な理念のひとつです。

誰に対してもできるというものではないのです。

異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して、何らかの犯罪を犯し、または犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者

こういうことが匿名の者があそこにあやしい人がいるというだけで職務質問できるのか?
その理由が全くないのである。第一あやしいというだけでどうしてあやしいのか聞いていないからである。理由がなくてもしやしいと通報があったら職務質問する
それも何度もあやしいとだけでも通報があれば職務質問に来る,それが勤めだと言っていた,こんなことが通るのかとなる
こうなったらもう警察国家ではないのか?
誰かが勝手に通報する,そしたら市民を勝手に職務質問して身体検査もできる
それはまさに警察国家である。

国民に信頼されない警察には、情報も集まらなければ協力も得られないからです。国民の情報提供や協力がなければ、犯罪の捜査といえどもその実をあげることはできないのです。それは、他の警察活動でも同じです。しかし、権限の塊ともいうべき警察組織の中で育った警察官は、意外にこうしたことを知らないのです。国民に恐れられる警察が強い警察だ、と勘違いしている人も結構いるのです。だから、私は「国民に信頼される警察になれ」ということを強調したのです。

警察のこうした横暴を許したら警察国家になる,市民は誰かがあやしいと通報されれば強制的に職務質問される,これこそ昔の特高と同じである。つまり警察国家であり市民の安全は警察がおびやかしているとなるのだ。
警察でも市民に国民に信頼されなければつとまらない,だって公務員とは市民に奉仕することだからである。その市民が主役なのである。
市民の意識をもち市を作り上げてゆくのが市民なのである。
そういう市民意識がないと北朝鮮のような戦前の日本のような警察国家軍隊国家になり市民が300百万人も死ぬはめになる

そういう危機意識をもつ必要がある,何でも権力の一方的行使になると危険になる
それは原発事故でもそうだった,「安全神話」には検察がかかわり今でも幹部が逮捕もできないからである。ここでも原発の被害にあったものはそうした国家と一体となった
東電とかに疑問も抱くことがなかった,それがこれだけの被害になったのである。
それは戦争ともにている,行政でもこういうことがある。
市役所の職員が必ずしも市民に対して奉仕するということがあるとは限らない
適当にして無関心だということもある,市民が主役であり市民が目覚めなければ
市も良くならないのである。

日本は歴史的にお上に支配され言いなりになってきた歴史が長い,だから市民意識が希薄なのである。村という狭い意識しかもっていない,そううい歴史がないことが日本も容易に警察国家になりやすい体質になっているのである。
欧米では権力の抵抗から市民革命が生れてきた経緯がある,それがない日本は容易に警察国家になりただお上の言うことを信じる,そして戦争でも原発事故でも大被害を受ける
市民というときブルガーであり市壁に囲まれて市民が敵と戦うという歴史がヨーロッパにはあった,日本は村がコミニュテイの単位でありそういう市民が共同して戦うという歴史がない,ただお上の言いなりになりやすい国なのである。

ペイトマンは政治参加の体験が政治的有効感覚を生みさらなる政治参加を促進するとしているが、バーバーは政治参加によって市民相互の友情が育まれ公共善への関心が生じるという。

政治に課せられた最も重要な課題はアクティブな市民社会を再生すること
である。そのためにはシティズンシップの尊重と市民に公的空間へ参加する権利を保障する必要があると主張している。

パスポートにはどこのシティに市に属しているか書く,日本の感覚ではない
(citizenship)もない,市民という言葉そものものが日本にはなかったのである。
だから訳しようがないとなっていたのである。
市民の政治への自主的参加なのである。それはボランティア精神にも通じている
警察が市の職員が公的な機関にまかせるだけで市は良くならないのである。
駅は公的空間でりそこに参加する権利があり保障する必要があるとなる
その公的空間から排除されたら市民はただ警察の言うなりになり市民の連帯も失われるのである。

原発でも市民の抵抗が弱いのはそのためだった,市民というときまた左翼のようなものではない,それもまた一つの権力を形成する,カルト教団も一つの大きな権力を形成する
そういう団体はまた国家権力を形成する,それは中国が共産党一党支配となっているのと同じである。それは市民の国でもないし政府でもないのである。
まさに警察国家になる,そこには民主主義などないのである。


駅の公的共同空間から排除しようとする警察と通報者に抗議を!


駅の公的共同空間から排除しようとする警察と通報者に抗議を!

ペイトマンは政治参加の体験が政治的有効感覚を生みさらなる政治参加を促進するとしているが、バーバーは政治参加によって市民相互の友情が育まれ公共善への関心が生じるという。

政治に課せられた最も重要な課題はアクティブな市民社会を再生すること
である。そのためにはシティズンシップの尊重と市民に公的空間へ参加する権利を保障する必要があると主張している。

駅は市民の公的共同空間である。そこから排除しようとする通報者は許されない,市民の権利を奪うからである,公共的空間の立ち入りを禁止される
これは重大なことである。市民としての自由が奪われる

正当な理由なしに「あやしい」という通報があれば警察がまたかけつけて職務質問するという,そして公的共同空間からの排除しようとする,市民の重大な権利を奪うのである。なぜなら公園でも広場でもただ自由にぶらつくことだってある。
それをあやしいというだけで通報されていちいち警察が来て職務質問されたら市民は広場でも公園でもぶらつく散歩することもできないのである。
何かあやしいという理由も根拠もないのである。
ただあの人があやしいというだけで通報されて職務質問に何度もかけつけるという
市民の権利と人権侵害なのである。

これが許されたらまさに警察国家である。それは自分だけの問題ではない,みんなの市民全員の問題なのである。
誰かが匿名でもなんでも通報すれば警察がやってきて職務質問して身体検査までする
そして共同空間からの排除しようとする,ただあやしいというだけで理由もなしに
通報されただけで共同空間から排除される
そんなことが許されたらここではもうまともに暮らしていけない,自由が奪われるのである。そんな通報をいちいち聞いて理由もなしに職務質問されたらもうここで生活すらできないのである。

駅をぶらついていても駅に毎日来てジュースを飲んでいる人もいるし会話を楽しむ人もいる,そのことを書いてきた,駅は公的共同空間なのである。
その市民の権利はただあやしい人がいると理由もなしに職務質問して何度もあやしいと通報されるだけで警察は来る,それが義務であり勤めなのだという
例えばこ公園でもぶらついていてあやしいと通報する人がいたら公園すら利用できないのである。公的空間の排除が警察によって行われることなのだ

これは自分だけの問題ではない,白川勝彦氏にも起きたようにみんなの問題なのである。だから市民がみんなで抗議するべきである。
そうしなければ公共的空間で暮らすことの自由が失われる,何の理由もなしにあやしいと通報されただけですぐに警官がかけつけて職務質問されることが許されのか?
警察は市民を守るということもあるが市民の敵と化すこともある。それが怖いのである。まさに警察国家になる,地元で公共善も追及できない,警察があやしいとだけ通報あるだけでかけつけて尋問して公共空間から排除しようとする
警察はもう市民のためにあるのではない,市民の公共善を追及することをはばみ,そして公共的空間から排除しようとする,隔離しようとする
警察は市民に敵対するものとなるときまさに警察国家なのである。
市民は警察を糾弾しなければ警察が権力がありなんでもできるとなり警察国家になるのである。

警官は何度でもあやしいと通報があれば来るというからだ,事情を説明してくれといってもきかない,あやしいと通報があれば何度でも来ると言うのである。
その理由は問わないのである。権力の横暴がこうしてまかりとおったとき民主主義もなにもない,恐怖政治であり警察国家になるのである。
それは自分だけではない,市民全員に及ぶことなのである。
だから市民は警察と通報者を糾弾すべきである。抗議すべきである。

治安の悪化は被疑者が権利を主張しすぎるから、ではなく、警察が信頼を失って法治主義が崩壊/衰退したから、ではないか。

烏賀陽(うがや)弘道という人も警察にひどいめにあった,それを書いている
この人も記者だから弁護士を知っていたりして抵抗した
でも一回でも警察にひどい目にあうと警察を信頼できなくなる
それで法治主義国家が崩壊してゆく,その時村の自治のようなものが残っていれば対処できるが国レベルで対処できなくなる
今の時代コミニュティの力が弱い,分散しているからまたむずかしい,自治体というけど自ら治める力が衰退しているのである。

そうなると誰が市町村の治安を守るのかとなる,住民が守らなければ守れないとなる
その住民の間でも今回のように互いに不信感があり相手を知らないこともあり
コミニュティとしての絆が弱くなるとどうして治安が守れるのかとなる
いづれにしろ有名人でもそれなりに力があっても警察には抵抗できない,一回でもこういう目にあったら恐怖になり忘れられないのである。


警官自体がよそ者であり田舎の事情を知らない (それでづかづかと田舎の事情を知らないで介入してきて平和を乱す)


警官自体がよそ者であり田舎の事情を知らない

(それでづかづかと田舎の事情を知らないで介入してきて平和を乱す)


今回駅で一見「あやしい」と通報した人がいて警官がすぐにかけつけることはいいことのように見える,でも何の正当な理由もないのにしているとき田舎だと特に狭い範囲で生きているからかえって治安を乱す,田舎ではそうしたことは狭い所で生活しているから深刻になるのだ,だから村社会ではなるべく争わないように工夫していたのである。
毎日顔を突き合わせて生活しているからそうなった,村八分があったとしても簡単にはできなかったのである。

今回の問題でそもそも警官が駐在所で南相馬市警察署でもそうである。
その警官はみんな地元に長く住んでいるものではない
一時的にいて転勤してゆく,つまり警官自体がよそ者なのである。
ずっと住んでいればいいがそういう人がいても大方は転勤する人が多いのである。
それは銀行でもそうだし現代ではそういう人が田舎でも多くなっている
そうなると一時的にいるだけだら元から長くいる住民とは違って田舎のことを知らないのである。
その土地土地のことを知らないのである。また愛着など郷土愛とかもないのである。
田舎がどういう所なのかもわからない,その人間関係もわからないのである。

ただ田舎自体が昔の田舎とは違う,会社員がほとんどであり農業しているわけではない,すると田舎でも何をしているのかわからない人が多いのである。
そこに田舎自体のコミニュティが失われている,だから簡単に誰か知らない人がいて駅をうろついているだけでも通報される,でも自分は冬から駅にいたのだからそこで問題がなかった,だから通報した人は聞きにくれば良かったのである。
冬からいるということは相当長いのである。

ともかくそこに長く住んでいる人はやはり信用に値するともなる,外から来た人はなかなか信用できないとなる,それで農家では三代つづい一人前の農家として仲間になるというそれは農業時代のことである。今は全く違うみんな会社員の時代なのだから何をしているのかわからない人が多いのである。
田舎でもそうである。東京から会社の社長がきて迎えに来る,そうなると東京の会社の社長はここに住んでいないから土地のことに関心がないともなる

例えば市役所の人がきても原町の人だったら鹿島駅に関心がないし車だけで電車を利用しない人は駅には関心がないのである。
そういう時代だから何か一つのコミニュティというのが形成しにくいのが現代である。
すると誰かわからない人が駅にうろついているだけでも警察に通報する
直接いつもいたのだから聞きもしないでそうしている
あやしいとしてもその正当な理由がないのである。
その通報をうのみにして警察が飛んできて職務質問する
何か迷惑をかけているわけでもないのにそれが義務だとして正当化している

広域化社会とかグローバル社会とかになったがその弊害も大きかった
昔の村のような核となるコミニュティが崩壊したとき原発事故でもわかるようにコミニュティは簡単に崩壊して元にもどらなくなった
広域化グローバル化の影響は確実にある,金さえあればどこでも暮らせる便利に豊かに暮らせるというときそうなる,それもいい面と悪い面としてある

物事は必ずいい面と悪い面に働くは便利でも交通事故がない日はない,車も諸刃の剣なのである。
その最たるものが原発だったのである。これも事故がないならいいものだった
でも事故になったらもう故郷でも住めなくなったのである。
この被害は大きいのである。
なんでも諸刃の剣だということを知らないとそういう危険な目にあう。

要するにこの世に絶対的いいものはない,いいと思ってもダークサイドとか悪いものともなる,科学技術は人間にとっていいものだとしても悪く働くと交通事故になり原発事故になり住めなくなる
警察権力でもそうである。いいものとして働けば治安を守る,逆に悪いものとして働くと住民の自由な権利やコミニュティをも破壊するようになる
田舎では極力警察権力は嵌入しない方がいいいのである。
ただあやしいと通報しただけで昔から長く住んでいる人を職務質問したりしては田舎は住みずらくなる,だから極力角をたてないように田舎では配慮する必要がある

警察は権力があるから家の中までもずかずか入り込んでくる,相手のことなどかまわないのである。暴力的であり横暴になりやすいのである。
それでいいとして警官があるとき田舎でも平和が乱される
そして気まずくなり住めなくなるのである。

やはり人間は生物の一種だからどこであれ一カ所に長く住むことで信頼でもアイディンティティも形成しやすいのである。自然と一体化するのが自分の詩のテーマである
自然も木でも寿命が長い,最低で百年とかなる,縄文杉だと千年とかなる
そういう時間が長いものには重みがでてくる
住民でもそこに長く住んでいる人は信頼するとなる,コミニュティが形成されてゆく
それがない時代だからこそコミニュティは原発事故があったりすると簡単に崩壊してゴーストタウンになったのである。
それは必ずしも原発事故だけの原因ではないと書いた
その土地に根ざす生活を現代はしていないからである。

いづれにしろ警官自体が転勤してきたよそものであり銀行員もそうであり長くはいないのである。だから土地のことを知らないし愛着もないのである。
知らないからづかづかとただあやしいというだけで地元に長く住んでいる人でもあやしいという通報だげで土足で入りこむようにかかわる
通報した人にも問題があるがやはり正当な理由もないのに権力を乱用してはいけないのである。
つまりそこに長く住んでいる人にはそれなりの権利が生じているのかもしれない
転勤とかよそ者を別に拒否するわけではないがそこを分けるべきなのかもしれない
そういう場でづかづか警察権力を乱用すると田舎の平和が乱されるからだ
農民だったら草分けは尊重された,最初にその土地を開いた人である。

鹿島区でも会社の社長は東京からくる,その社長は地元に住んでいないのである。
すると地元の愛着はない,ただ地元で人を使い社長は東京で暮らしていたのである。
それで社長だから給料は高いのである。それせ何か不自然なのである。
東電の社員でもそういうことがあった,地元にずっと住んでいるのではなく一時的なものとして住んでいた
もしずっと長く住んでいると原発が事故になったら被害が及ぶから考える
でもまた地元から離れたりするから転勤する人は転勤した人にはない
そして本社が東京にありフクシマの所長と事故のとき意思疎通ができなくなっていたのである。
それは本社が東京にあったからである。地元にあったらそういうことはないしもっと真剣に安全を考慮したかもしれない,
なぜならそこに長く住むからである。

今はそういうことはない,新参者の方が威張っていることもあるし力があったりする
金があればどこでも威張れるとかなる,そこにまた問題が生れている
そうなると田舎はそれだから嫌なのだとなる
それもわかるのだが今回の駅での自分の問題でも困ることにもなる
警官自体がよそものでありそのよそ者が権力をもっているから田舎の平安が乱されたからである。
村でも庄屋でもなんでも権力をもっていた人はいた,でもその人は村の事情を知り尽くしているからもめごとでも丸く治められるということはあった思う
警察権力はそういうものではない,村の田舎の事情など考慮しないのである。

昔から日本では長いものに巻かれろとかあるから別に今だけのことではない
ただ現代はまたそういう社会ではない,自由社会であり民主主義を追及している過程にある,警察にかかわりたくないというのはわかる,自分もそうである。
スネに傷もたない人はいないからである。
でもそうしていると自由や地元に生きる権利すら侵害されて生活もできなくる
この辺では原発事故で同じようなことを経験しているのである。

現代社会は法律がすべてであり法律で解決しようとしても実際はできない,そして泣いている人は大勢いる,だから法律も万能ではないのである。
警察は上級国民の見方であり弱いものの味方ではない,だから東電の幹部すら未だに罰せられない,東電は検察の天下り先になっていたからである。
今回の問題も原発事故でもそれは何か現代社会の問題を浮き彫りにしたのかもしれない,あんなに簡単に町自体が村が崩壊してしまうことはイメージもできなかった
それはどうしても原発事故だけの影響ではない

そういうことが起こりやすいのが現代社会なのかもしれない,だから今度は大規模な大都市でも一挙に崩壊してくることが起きるかもしれない,外からの攻撃かもしれない,
ミサイル一発でも東京でも崩壊してしまう恐怖がある:また大地震でも何か原発事故でもそうである。そういう社会に住んでいるということである。
そして文明自体が崩壊するということもありうる,この辺ではそれとにたことが起きたからである。治安が乱れるのもその一つなのである。無法状態のようになるかもしれない
そういうことが一見平和であってもやはりこの辺のように近未来に起きてくるかもしれない,その危機感がないだけであり突然なるのがこの辺を見ればわかるのである。

正当な理由なしに警察に通報したものは罰せられべき


正当な理由なしに警察に通報したものは罰せられべき

正当な理由(犯罪に関わっていると疑われる相当な理由)がなければ、そもそも職務質問に応じる義務はない。

警察に通報している人はいる,騒音で迷惑がかっているとかある,他にもいろいろあるからそれは正当な理由があって通報しているから警察も来ることがある。

例えば大金を盗まれたことがある,でも証拠がないし警察ではとりあわなかった
そしてそれは自分ではわかりきったことでも警察では証拠がなければとりあわない
その犯人は近くに住んでいる,しかし絶対にあの人は犯人だとは口にだしても何も言えないのである。噂にはなるとしてもその人が犯罪者だとは言えない
盗んだとも言えないのである。
それを言えば怖いことになる,人権侵害となり逆に訴えられるのである。
だから犯罪者にすることがどれだけ大変なことかわかる

ではなぜ正当な理由もなしにあやしいというだけで警官が職務質問に来たのか?
それは確かめるためであり犯人扱いしているのではないということもわかる
でもそういうことがあるだけでも周囲から何だろうと田舎だと余計にあやしまれるのである。何か悪いことをしたのかと見られるのである。

今の時代逆にそういう人権とかうるさい,それもまた諸刃の剣なのだけどなぜだから
あやしいというだけで正当な理由なしにみんながいる前で職務質問に来たのか?
それだけで自分が恐怖を覚えることになる
大きな犯罪でもたとえ殺人でも何も証拠もないのにもしわかっていても普通は言ったら人権侵害で逆に訴えられるのである。一方で人権人権と過剰にうるさい時代でありそれで
かえって犯罪者の摘発が簡単にできない社会である

だからこういう時代になぜあやしいというだけで正当な理由なしに地元に長く住んでいる人に職務質問にきて事情を話してもやはりあやしいと通報があればまた来るという
自分が言った事情は話さないしただただ匿名なのかどうかわからないにしろその通報者を信じているのである。これは明らかに人権侵害である
まず正当な理由がないのにただ「あやしい」というだけで職務質問に来ているからであるそして事情を話しても誰かがあやしいとういだけで何度も来るというのもおかしいのである。一回は事情を話したからである。それは脅迫でもある
お前はここにいるとまた職務質問に来るぞという警察の脅迫なのである。

だからこそここに住み公共空間たる駅にもいられないとなり排除される
それが警察の目的であり通報者の目的なのかとなる
なにせ匿名なのか何かわからないがあやしいと通報すればかけつける
それも何度でもである,一回事情を話してもとりあわないのである。
それほどなぜ正当な理由もないし言わない通報者のことを信じるのだろうか?
そこに疑問がある

だからこれは明らかな人権侵害であり犯罪も犯していないのにそのそぶりもないのに通報したから通報した人に問題がある,通報した人が職務質問されるべきものなのである。
どうして通報したのですか?警察はその正当な理由があったら聞くべきなのである。
正当な理由なしに職務質問してはならないとしているからだ

よそ者だとその正当な理由になるかもしれない,よそ者だとあやしいと通報する人もいるだろう。そういう経験はある,でもよそ者は去ってゆくからそこに住まないからのであるおそらく死ぬまでもうそこには行かないからである。
そういうふうに長く住む場と一時的による場所とは大きな相違がある
ここで生活してゆくのにそうした通報者がいるとき安心して暮らせなくなるからだ
これはそう疑われただけでそうなる,行きづりではないからだ
そこに長く住んでいる人を確かめもしないで警察に通報したからである。

だから理屈としては通報したものがあたかも犯罪者のように見て警察に通報したのだから通報した人は人権を侵害したのである。それは人権侵害として訴えられるべきものであるなぜなら安心して地元で暮らせなくなるからだ。
それが深刻な問題なのである。職務質問など普通にあるじゃないかとなるが地元に住んでいてそういうことをされるとやはり地元に生活するのに支障をきたすのである。
旅人としてなら後は去ってゆくからその土地の人とはかかわらないからいいのである。

法律の解釈にもいろいろあるがこれは明らかに法に触れるものであり人権侵害である。
だから警察は通報したものを明かして職務質問してなぜ通報したのか
その正当な理由を聞くべきでてある。
通報社会とか密告社会は共産主義とか戦前の特高とかあり恐怖社会になる
それが現代にぶりかえされる危機を共謀罪とかで訴える人達がいる

これもその一つとしてあるのかもしれない,ただたいしたことがないとして見る人もいるでもその被害にあった本人には深刻である。
こんなことが通る社会が何かおかしいとなる
それは通報者もそうだがそれを受け入れた警察の方が重大な責任がある
なぜなら警察は権力をもっているからである
「なんだあの人おかしいね」とか言ってもそれほど影響がない
でも権力のもっている警察がかかわったらそうはいかなくなるのである。

だから正当な理由もなく通報したものを警察は問い正すべきである。
そうしなければこれからも何の理由もなしにあやしいというだけで隣人が通報される
これはあきからに法律違反であり人権侵害であり罰せられるものである。
その人権侵害しているのが警察なのである。
なぜ正当な理由なしに通報したものをそのまま事情もきかないで信じてきているからである。その通報する人間に問題がある場合もあるからだ
地元の人がよそ者を通報するのは一理あるかもしれない,しかしここに長く住んでいる人を通報したのは人権侵害である。
それは地元に生きることに支障をきたすからである。安心してそんな人がいたら生活できないからである。
だからこんなことがまかりとおって警察が一方的におしかけてくることは法律違反であり人権侵害なのである。
タグ:人権侵害

2017年08月28日

共謀罪により警察国家監視国家になる (匿名の通報でもすぐに職務質問にかけつけるのもと同じだった)


共謀罪により警察国家監視国家になる

(匿名の通報でもすぐに職務質問にかけつけるのも同じだった)



「犯罪が実際に行われていなくても」その可能性を語り合ったり、匂わせただけで、犯罪行為として処罰の対象になるのが共謀罪です。現在、未遂や予備(準備)や共謀は軽犯罪では処罰の対象にならず、重大な犯罪だけに限定されています。

「テロ組織」「暴力団、組織的詐欺など」を想定しており、一般人は対象とならない。

共謀罪の対象犯罪の中身は?

その選別にはかなり疑問がある。重く処罰される企業犯罪、公権力の私物化や警察などによる職権濫用・暴行陵虐罪、民間の汚職を含む経済犯罪などが除外され、政治家、警察、大企業に有利な感があります。

日本弁護士連合会も「共謀罪」には反対声明を発表しています。日本の現行法には犯罪の準備段階を処罰する法として、すでに殺人予備罪、強盗予備罪などの予備罪というものがあり、人権侵害の恐れがある「共謀罪」を新設する必要はないと主張しているのです。

金田法務大臣は、共謀(計画)の手段は問わない、SNSもありうると言っていますので、フェイスブックの「いいね!」やLINEでは「既読スルー」、ツイッターも含めて手段を選びません。「いいね!」は積極的に同意していますが、問題は「既読スルー」の方だと思います。見たけれど何も異論を唱えなかった、これがまさに「黙示の共謀」です。「既読だけでそのままスルーしたら「黙示の共謀」が成立すると判断されます

今回の共謀罪は、秘密裏に犯罪を計画する中身を(捜査で)知ることになると、いわゆる『たれ込み』が捜査の端緒としては非常に大きい。告発は非常に重要な要素になる。
(金田法相)

告発する人の意思で(告発)できる。(一般人が)告発の対象にならないということをなぜ大臣が言い切れるのか。(逢坂誠二-民進党)

広告企業が警察官僚の子弟を縁故採用し、法を意のままに解釈出来る、恣意的な態度は戒められる必要があります(くろかわけんたろう)

時事通信社

実際に犯罪が実行されなければ、検挙・処罰する事ができなかった

だけど、この法律が出来ると、共謀段階で検挙・処罰が可能になるんだよ

「犯罪」の概念を密かに書き換え、犯罪行為に至るかもどうかもわからない時点で、むしろ実際には単なる会話に終わることが大半でも、人々を「犯罪者」に変えてしまう恐るべき強権性から、これまで国会で三度も廃案になってきた。

共謀罪の核心は、人々の日常のコミュニケーションが犯罪化される、という点にある。合意すること、相談すること、言葉に出すことで犯罪が成立するのだから、警察は私たちのコミュニケーションそのものを捜査対象とすることになる。


それは、共謀罪の取り締まりとは犯罪行為以前のコミュニケーションを取り締まることであり、犯罪に関係するコミュニケーションを警察が割り出すには、すべてのコミュニケーションを捜査対象とせざるをえないからである。

NSAの調査員が「攻撃」「殺し」「ブッシュ」とキーワードを入力して、大統領への敵対的な発言をネット上から検索している。メール、チャット、ブログ、フェイスブックはもちろん、非公開のネット情報も含めて世界中の人々の通信と投稿が対象だ。有名人や政治関係者の発言ではない、すべての「フツーの人々」の私信から洗い出しているのだ。



通信だけでなく、室内の会話を補足する必要があるとして、現在認められていない室内盗聴(会話傍受)の制度化を求められる声があがることも予想される。これらが実施されれば、これまで公安警察がとってきた手法が、刑事警察の分野でも日常的に行われるようになり、監視国家化が進むことは間違いない。



共謀罪など自分に関係ないと思っていた,そしてわかりにくいこともあった,ただ今回のことで自分の身に直接ふりかかったことで関心をもった

これは良くわからないが非常に危険なものかもしれない,今回自分が経験したことで考えるとなぜ「あやしい」というだけですぐに職務質問にかけつける,事情を一回説明してもまたあやしいと誰かが通報すればかけつける

「犯罪」の概念を密かに書き換え、犯罪行為に至るかもどうかもわからない時点で、むしろ実際には単なる会話に終わることが大半でも、人々を「犯罪者」に変えてしまう恐るべき強権性から、これまで国会で三度も廃案になってきた。

一見あやしいと通報して警官がすぐにかけつけることは安全のためにいいとみえる
でもその人が町のために活動していたりすることもある,でも匿名の人のたれこみ,密告,通報があればただちに職務質問にくる,これは明らかにこの共謀罪の成立と関係している,事前に犯罪を防ぐとして国家権力が介入してくる
自分はそうして無人駅のボランティアをとめられるよにさえなった
それは市民のためにならないことなのである。
市民の公共善の活動を阻害するものとしてあったし田舎の人間関係も破壊する

匿名の通報,たれたみ,密告というときそういうことを警察が実は直接することになるのが共謀罪である。インターネットでもそれを合法的にできるようになると思想の検閲であり自由が奪われる,自由というときいいあってもボランティアなどはいい自由の活動なのである。そういうものも規制されるかもしれない,それは組織的であっても個人に及ばないとしてもわからないとなるとそうである。

いくら匿名の人から通報があったとしても密告があったとしても警察がそれを全面的に信じてもとりしまり逮捕すらできる法案なのである。
こうなると日本は本当に警察国家であり監視国家になる
もしかしたら別に通報した人がいたとしても警察が誰かわからないのだから警察が通報があったとして言えば職務質問もできるのである。それが共謀罪とにているのである。

今回の共謀罪は、秘密裏に犯罪を計画する中身を(捜査で)知ることになると、いわゆる『たれ込み』が捜査の端緒としては非常に大きい。告発は非常に重要な要素になる。

そして事情を話して回りの人も認めていても何度でもあやしいと通報があれば駅に来るという,それはもうお前はここで活動するなということでもある
公共的な場からの活動を停止させ排除させる,そして刑務所ではないがその活動を制限しとじこめる,これが今の日本社会なのかとなる
それは戦前の社会に逆戻りしたのである。

『たれ込み』が捜査の端緒としては非常に大きい
これは警察が直接介入するだけでない,誰かの匿名でもなんでもたれこみとか密告とか通報で職務質問すくように未然に犯罪を防ぐということで逮捕までできる恐るべき法案だとなる
人権侵害がも日常的に合法的に権力で行われるのである。
そうなるともう日本は民主主義もなにもない,警察国家監視国家一党独裁の強権国家である

自分は別に右翼でも左翼でもない,どちらかというと右寄りである。
でもこの共謀罪に関してはそうしたことは関係ない,これだけ人権侵害がうるさいのに
全くそれが無視される法律だということの驚きである。
犯罪もしないのに犯罪を未然に防ぐということで警察権力が介入してくる
それは組織的な三人以上の場合とあるが個人にも適用されることもあると見ている

職務質問など普通にあることではないか?そんなことで騒ぐのおかしいともなる
でも自分が今回感じたことはそんな生やさしい問題ではない
日本が警察国家になり戦前のように思想検閲とか事前にいいろなものをとりしまり逮捕までできる法律なのである。
だから例え公共善でも政府が警察があやしいとなればとりしまり活動を禁止させることができるのだ。現実に駅で自分はそうなったからである。

警察は市民の敵と化した

市民の公共善の活動を阻害して禁止することもできるのである。逆に共同の悪の活動も阻害するがどちらかというと犯罪を未然に防ぐという口実で警察国家となる
もう自由はない,どこがで監視されいつ警察権力が介入してくるかわからない
国家権力が時の政治の政党が勝手にあやしいとしてマークしてその活動を禁止させることができるのである。
そういう恐ろしい時代に入ったことを知るべきである。

自分に起きたことはたいしたことではない,そんなことで騒ぐなともなるがでも国家権力は警察に一番具体的に現れるのである。
これからはこうした人権侵害が日常的に行われる,有無を言わさず強引な職務質問などで警察はできるのである。
現実自分は駅でそうなったからである。
だってそうだろう,一体通報した人が誰かもわからない,そういう人が本当にいたのかもしれない,警察が勝手に作り出したのかもしれない
それを市民は知り得ようがないからである。
警察があいつがあやしいと見るだけでそうした活動でもなんでも停止させたり逮捕までできる法律となるとこれは恐ろしい社会になる
それが自民党と公明党でしたことが納得いかないのである。

いづれにしろこれは野党勢力にとっては恐怖になる,それは戦前と同じになるのである。もう自由な結社活動とかも禁止できる,個人的にもやはり誰かわからない通報で検察権力が介入できる,現実に自分がそういう目にあったからである。
公明党が賛成したこともわからない,公明党創価はやはり危険な組織的活動と認定されてもおかしくない面があるからだ,なんらかの取引があったのかもしれない
つまり自分たちは見逃してくれという自民党との結託があったのかもしれない

やはりこういうものが通るのは自民党の一党独裁のようになりもう野党などないと同じになったからである。野党もまた在日とか中国とかそういうバッグと組むから日本のためにならないというのもわかる,でもこの共謀罪は日本にとって大きな問題であり危険なものとなる,人権侵害は日常的になり一旦政府からでもこいつはあやしいというだけで逮捕できるようにさえなることができる
政府にとっては自民党にとってはいいものになる,反政府的な活動するものをおさえこむことができる,それは一党独裁のいナチスにもなるし現実そうなってきているのである。今回駅で自分に起きたことはそういう国家権力の強権が実行されたことでもあったからである。

2017年09月13日

東京から故郷に帰る老人が増える (それも困ったことになるのでは?)


東京から故郷に帰る老人が増える

(それも困ったことになるのでは?)


今日駅であったのは昭和11年生まれの人だった,若く見えるから集団就職で東京に行ったと思った

「この駅は変わっていないな」
「これは明治30年建って以来変わっていないです,鉄道マニアが写真とりにきまから」
「わたしは東京に出て帰ってきたんです,東京では車が走っていました」
「そうでか,車は田舎ではみかけなかった,荷車とか荷馬車の時代だった
車がそんなに走っていたんですか」

戦前となるとこれもまた集団就職とは違う,それにしても昭和11年生まれでどうして東京に行ったのか?子供のとき東京に行ったとなる,それはわからないが東京に戦前でも働き口を求めて出た人が結構いるのだ,東京の工場で戦時中働いていた人も知っている
その人はしきりに車に乗っている東条英機を見たと言っていた
自分の母親は女中の仕事で東京に出たのである。
姉も看護婦の免許をとるために東京に出たことがあった
東京とのかかわりはなんかあったのである。

ここで考えたのが一人は集団就職の人だったが実家があって帰ってきた,この人も実家があり帰ってきた,どちらも老人になっているのだ。
するとこれから田舎は東京からなど帰ってくる老人が増える
東京より田舎の方が今度は住みやすくなるからだ,でもこれもまた田舎にとっては困ったことになるかもしれない,なぜなら若い者が働き手がなくてこの辺では困っているからだ80才ともなると介護とかなれば世話する人が必要になる
つまり若い人と違って負担になってくるのである。

何かこれも戦後であれ東京一極集中の経済の問題があった

戦前の銀座通り
戦前の東京

銀座となれば車が結構走っていた,荷車に自転車も走っていた,人力車も走っていた,荷物を運んでいたのが多いかもしれない,その頃自転車自体が相当に貴重なものだったろう。
自転車自体がそんなに普及していない,戦後自転車を自分の家でも買ったが買い換えることはなく,毎日みがいて手入れして使っていたのである。
自分は子供の頃から自転車に乗るのが好きだった,ただ今のような自転車ではなく何か
ごついというか軽快に走るものではなかったのである。

その人は孫か誰か駅に迎えに来ていたのである。
故郷に帰ってくる老人はなまえが消えて東京弁に標準語になっているからわかるのだ
でもしばらくいるとなまりがもどるのである。でも東京弁というか標準語は消えないのである。
だからつくづくなまりは国の手形だというのは今でも変わらなかったのである。

今は駅には長くいない,でもふらっとよると誰かがいる,駅は人が出会う場所なのである警官がきて誰かがあやしいと通報されたことはショックだった
今の時代,みんなあやしいと見れられる,子供や若い女に近づいただけでそう見られる時代である。
だから痴漢を疑われて犯罪者にされるとか問題が起きる
何かそうしたことが常に報道されるから過敏になりみんなあやしいと信じられない時代になっているのだ。
でも信じられる人間も肩書ある人間も著名人でも犯罪はあるのだからこれまたそうなると誰を信じていいのかさえわからてぐなるだろう。
情報にふりまわされ過敏になるのも問題だとだから指摘したのである。

法律ではなんでもあやしいと通報して警官がくるのは「害悪の告知」とかにもなる
害悪がないのに告知する,通報するとそれも犯罪になるのである。
だから警官が来たら氏名を聞いてカメラで写真をとり対抗措置をとる必要がある
なぜなら通報した人は害悪の告知で訴えられるということも知るべきなのである。
そうしなければ田舎で公共の場に出入りできなくなるのである。
現実自分がそうなったのである。その被害は実際は大きかったのである。
ただ今はあまり長居はしない,ふらっとよって誰かいたら話する
そんな程度だと誰もあやしいとはならないだろう。
こうなるとボランティアでもないとなる
ボランティアだったらもっと何か役にたたないとならないからである。

いづれにしろこんなに小さな田舎でもいろいろな人が出入りしていることは意外だったのである。

2017年09月16日

いい自転車に乗っている人がいた (駅はいろいろ人がきて休んだりする場所でもある)


いい自転車に乗っている人がいた

(駅はいろいろ人がきて休んだりする場所でもある)


「これは外国製だな」
「フランス制か」
「自転車はヨーロッパがいいですよ,本場ですから」
「でもシマノはやはりこのロードにも使われているな」
「シマノはたいだい使われている」
「自分もドイツ製の折り畳み自転車買ったけど
これどこで買ったの?」
「相馬市だよ」
「どこの店?」
「相馬市に外国製の自転車買える所あるんだ,原町に佐藤自転車屋あるけど,あそこでは外国製の自転車売っているよ,いつも試乗して買ってくると言っていた」


あのロードはいくらくらいしているのか?値段は言わなかったが30万以上しているかもしれない,相馬市でも高いロードに乗る人がいる,この前きたのは仙台からかもしれん,
自転車はまず高い自転車は確実にいいのである。それは間違いないのである。
いい材料も使っているからそうなる。高いものを買って損することはないのである。
自分も25万でヤマハの電動自転車のロードを買ったがいいものであり損したとは思わないのである。
その人は電車できたのではなく駅に休むために来たらしい
駅は何か街の中心でありランドマークとしてくる人がいる
そういう機能がある,ここには道の駅はないからだ

あといたのは病気になっているとか生活保護受けている老人だった
前も事業に失敗した人も病気で生活保護だったらしい,何か外から来る人はそういう人が多い,落ちこぼれた人が多い,
第一履歴書も書かなくても働けるのはこうした建築関係とか除染でもそうだがそういう人である。

もう一人はいわきナンバーの人であり双葉とか大熊とか浪江辺りの人である。
原町から待っている人が来た,車で乗って去った
いわきナンバーの人達も相当来ているのがこの辺である。

ともかく駅は警察に通報されたり嫌な目にあったがいろいろな人の出入りがある場所なのである。
今まで駅は電車に乗るだけの場所だとして利用していたのである。
駅で話したことないのである。
ふらっとちょっと寄ってもいろいろな人がいるのである。
相馬市から来る人が結構いた,厚生病院に相馬市から来た女性もいた,それはなぜか?
この女性もなんらかの関係で相馬市にいても鹿島の病院に来る必要があった
この人もやはり大熊や双葉や浪江などから移住してきた人なのである。
そううい人がこの辺では多いから当然いても不思議ではないのである。

今日は駅内に原町の駅員が来てビラ張りをしていた。駅は人の出入りが多いか宣伝の場にもなる,あれは結構目立つだろう,インターネットだと宣伝してもなかなかわかりにくいのである。使わない人もいるから宣伝効果があるとも言えない

ともかく駅は電車に乗るだけではないその他に人が集まる休む場にもなっている
毎日ジュースを飲みに来る老人がいる,あの人は毎日何もしない,何か生き生きしていない,人間は目を見るとそれがわかるみたいだ,何もしないと生きがいがないと目が死んでくる,とろんとしている
自分の家族で認知症になったのも退職してから生きがいをあるものを見いださずなまけるばかりだっからである。それが実際は老後で怖いことのなのである。
だんだん心も死んだような状態になり認知症になる度合いが強くなるから怖いのである。これは明らかに高齢化社会の大きなテーマとなっている
その準備は退職してからでは遅い,老人になったからといってすぐに何かできるわけではない,今まで積み重ねたことしかできないからだ
パソコンだって自分ができるのは今まで20年とかしているからである。
でも実際はパソコンのことは良くまだわからないしめんどうなのである。
自分は機械が苦手だからである。

ともかくふらっと駅によりそこに誰かがいて話したりするのは気張らしである。
社会にはそうした場所も必要なのである。小さな街だってどういう人が住んでいるのかもわからない,それが多少でもわかるし外からの人も来て生の情報を得ることもある
実際原町でも相馬市でもわからないことが多いからだ
外国製の自転車を売っている所があるというのもわからなかったからである。
近くでも意外とわからないことが多いのである。

2017年09月18日

原町の道の駅で山口県の人と会う (自転車で日本一周四〇日目)


原町の道の駅で山口県の人と会う

(自転車で日本一周四〇日目)


原町の道の駅では自転車旅行している人と会う,その人は学生であり日本一周四〇日目だという,これから帰るが四国の方にもよるからまた三〇日くらいかかるとか言っていた。自分も30日くらい自転車で旅したらくらくらしてきた。
これから飯館の方に行くと行ったが坂を上るのが大変である。
その坂は予想もしないような坂がある,それが自転車旅行では怖いのである。
若い人はまだそうういことができる,でも若い人でもみんなが日本一周しているとは限らないのである。それがどのくらいの冒険になるのかわからないがそれなりの冒険にはなる
その学生が山口の宇部だというとき山口県というときまず萩とかをみる,そこから明治維新が起きたからである。
そして下関からは韓国への船がでている,自分も行ったことがある。
その時ははじめてで滋賀県の大津の人に助けてもらったのである。
そのお礼も言わないままになっていた。

山口県をみるときつくづくそれもわかりにくいのである。
萩は日本海の方であり何か繁華な所には見えなかった
ただ山口県は長州だがなぜそこから明治維新が起きたのか?
それはやはり地の利だったのである。

下関から韓国への船が出ているようにそもそも韓国も外国であり外国が身近なのである。九州でも古代から密接な関係が韓国とあった
それが東北辺りの地理感覚とは相当に違っているのである。
会津と比べればわかる,歴史はだから地理が基になっているのだ

なぜ薩摩と長州が手を組んだのか?
それもなぜ高知から出た坂本竜馬によって薩長同盟ができたのか?
それも地理からみればわかりやすい
薩摩も中国とかの貿易があり外国が身近なのである。
長崎も出島があり鎖国していても外国に開いていたのである。

外国がそれだけみじかになるときいち早く時代を感じた
それは江戸幕府があった江戸や会津よりもその外国が身近だったのである。
歴史が地理が基だというとき地理がわからないと見当はずれの見方をするのである。
そしてなぜ坂本竜馬が薩長同盟の担い手になったのか?
それも四国の高知だということでわかる
薩摩があり長州がありそれを結ぶものとして四国があったとなる

四国がそういう位置にありそこから担い手の人物が生れたとなる
地理と密接に結びついて人物も生れているのである。
だから地理がわからないと歴史もわからないのである。
だから自分は外部の人と駅でも道の駅で話するときそこがどういう場所なのか
全国を行っているから考える

では山口県というときこの山口県全体を知ることはむずかしい
それは福島県全体を知るのがむずかしいと同じなのである。
宇部というと何かなじみがないからである。
でもそうして全国の人とあって話するとき自分は全国に実際にその土地を踏んでいるので旅したことを思い出してイメージするのである。
一回も行っていなかったらイメージもできないのである。
山口県の像をイメージできないのである。

原町の道の駅は車でとまる人も多い,あそこに自転車旅行でテントを張る人もいる
道の駅は外部の人のたまり場になっている,特に原町の道の駅は便利なのである。
スーパーも近いしホテルの湯も入れるよと言った
その学生は入ることはなかった

原町の道の駅で案内のボランティアをするのもいい,あそこでは自転車旅行の人と会うからである。そういう人とは話しやすいとなる
ただ学生が多いからあまり相手から話は聞けない
ただ山口県の宇部から来たというだけで宇部はどこなのだろう,何なのだろうと考える
地理からまずイメージするのである。

原町の道の駅は外部から来る人が多いから鹿島の駅より話できるということはあるかもしれない。そこで道案内のボランティアをする
あそこではあやしいと通報されることはないかもしれない
いろいろな人が出入りするところではかえってそういうことがないのである。
あまり人が出入りしない本当の田舎になると変わったことをすると目立つのである。
ただ原町の道の駅が近いとしてもそんなには行けないから困るとなる

原町でいいのはマルマツとか簡単に食事する所があることなのである。
食事を用意するのが一人だとめんどうになるからだ
あそこでは納豆定食など安いものも出しているからである。
一人暮らしはある程度,都会の方がしやすいことがある
食事関係ではそうである。鹿島にはマルマツとか外食する所が少なすぎるのである。
二三軒しかないからである。

ともかく一人で家にいると誰かとしゃべりたくなる,それで駅で気晴らしに話したりしていた,道の駅でも原町辺りは外から来る人が多いから話できるということはある。
ただ自転車旅行の人などは話やすいが車の人となると別である。
車の人は車の中にいるからわからないのである。
車は開かれた場ではなく閉鎖された空間なのである。
車は外部との交流も遮断している感覚になるのである。

だからテントを張ったときそこに止まっている車に人がいたことがわからなかったのである。だから旅では車の人との交流はあまりないとなる
ただ別に自分は旅してそんなに話したりはしなかった
それはなぜかというと疲れて話する気にもなれないということもあった
自転車旅行はぐったりと疲れるからである。

話するにもやはり余裕がないとできないのである。
地元にいるからこっちは疲れていないから話ができる,相手は疲れているのだから話たくないということもある,駅のような所は別に相手も疲れていないのである。
駅で休む人は車で来たりしている人だから疲れないないから話しやすいとはなる。
ただ道の駅に車を止めている人は疲れてはいない,だから話はできるがしにくいとなる
ともかく駅でも道の駅でも外部との接点になる場である
そういう場所は自分にとって見聞を広める場だともなる
内部だと同じような話になるが外部だと広い世界の話になるから面白いとなる

2017年10月01日

鹿島駅前は駐車場ではなかった (送迎のものしか止められない)


鹿島駅前は駐車場ではなかった


(送迎のものしか止められない)

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指定席の駐車場

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指定席の駐車場

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農協の駐車場



これはわからなかった,ちゃんと看板が出ていたのである。
これを見ている人は少ないだろう
道の駅ではないのだから駐車してはいけないとなっていた
ただ無人駅なのだからそさを注意する人もいないだろう
ちょっとの間なら止めてもいいとなる

でもここが駐車場になっていないことは意外だった
ただ送迎の人は止めている,ここには駐車しても長くは止めていない
道の駅ではテント張ったり車で車中泊する人が必ずいる
道の駅は駐車場だが駅前はそうではなかった

こうなると車で利用しにくいともなる,鹿島には道の駅がないからだ
車にとって駐車場は欠かせないからである。
それができないから街の通りは衰退して郊外のイオンとかになった

駅には待ち合わせ来る人もいるし車で来る人もいる
それが駐車できないとなると駅の活性化はむずかしいともなる
新地駅とか山下駅は駐車場を新しく作ったろう。
駅中心の街作りをしたのである。
それは津浪で根こそぎ駅がなくなったことでそうなった

駅前開発がまず駐車場の整備だということがわかる
指定席の駐車場はあっても外から来た人はとめられないからである。
そうなると車にとっては使いにくいとなる

つくづく駅などいつも行っているがわからないことがあるものだと思った
駅は意外と様々な使い道がありそれがわからないということがあった
それがボランティアのまねごとで駅員をしてみたらわかったのである。

タグ:駅前駐車場

2017年10月02日

南相馬市の横手の踏み切り近くで電車が20分ほど停止 (線路内に入る人がいた!-そこには危険の警告板が立ててあった)


南相馬市の横手の踏み切り近くで電車が20分ほど停止

(線路内に入る人がいた!-そこには危険の警告板が立ててあった)
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横手の茂手のローソンのある所の踏み切りで電車が20分ほど停止した
それで車が踏み切りに渋滞になった
それで踏み切りはちょっと上に行けばいいのでそこから行くように言った

それから誰かが携帯で駅に連絡した
まもなく来るという連絡があり車は待った
ただ20分くらい電車が止まるのは長いしめずらしいと思った

それで鹿島駅のインターホンで原町駅に聞いてみたら
誰かが線路内に立ち入り止まった

それで気がついたあそこに細い道があり線路をわたるようになっている
そういう踏み切りのない所に道があり線路をわたるようなものがある
それであそこに止まったのだと思う


 踏切遮断機が設置されていない踏切道に
おいて死亡事故が発生していること。

付近住民が生活道として利用している線
路を横断する里道等においても、同様に、
死亡事故が発生していること。

○ 踏切遮断機が設置されている踏切道(第
1種)に比べ、設置されていない踏切道
(第3種・第4種)は事故の発生率が高い
こと。



あそこは踏み切り道といえるのか?畦道から通じているような横断道である。
あそこを知っている人はこの辺でもいないだろう。
自分は自転車で行ってことがあり知っていたのだ
この辺だとそうした細い道まで入っているからだ

あそこは4種にもなっていない,なぜなら警報警標がないからだ
そしてJRではここは渡っては行けないと警告の看板まで設置していた
そこは渡っては行けない場所だったのである。
線路はどこでも渡れるわけではないのだ

だからなぜあそこで電車が止まったのか,原町の駅の人に聞いたそうだと思った
ここまで地元だと知ることができる
地元だとそこまでわかることがあるのだ

踏み切り道は他でも危険になっている,事故が一番多いというのもわかる
子供のとき線路に耳をおしつけて電車が来るのを待っていた
あのときは蒸気機関車の時代だったのだ,あれも危険だった

踏切道の危険は一応横断できるようになっていても急に電車は来るから危険なのである。それでやはり事故が一番多いというのも気づかないことがある
ただ踏切道は結構あることは確かである。そこで横断できるとしても危険である。
電車は早いから危険なのである。

これはJRには何の手落ちもない,渡った人が百パーセン悪かったのである。
そうなると損害賠償すら要求される,認知症の人すら事故を起こしてJRから要求されたからだ

いづれにしニュースは本当は無数にある,これだってニュースである。
ただ報道されるのはほんの極一部なのである。
例えば心に青雲のフログ主催者の都築詠一氏が死んだのも相当なニュースかもしれない,でも知られていない,芸能人のニュースなどどうでもいいということもある
ニュースは今やインターネット時代になるとさらに無数に増えるからテレビからの情報ばかりに接しているのはかたよるので危険でさえある
何に注目するかを選ばないと情報化社会では社会が見えなくなるのである。

まず線路を横断することは禁止であり危険でありこれを破れば責任をとらされる
みんなに迷惑をかけるからだ,車の渋滞ができたし仕事で遅くなり困るという人もいた
電車が20分も止まるのは外から見たことはない,人身事故はあり遅れることがあるが外から電車が止まるのは見たことがない,電車でも事故は起きる
とにかく危険の警告板までJRでは出していたのだから今回は百パーセントわたった人に責任が課せられる

2017年10月13日

鹿島駅に原の町駅方面の看板を設置


鹿島駅に原の町駅方面の看板を設置

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今日は原町サインという看板屋がきて原町方面へ行く案内板を設置した
いつも自分は駅にいて原町方面へ行くのはどっちのホームなのか聞かれていた
普通はどっちの方向に行くのか案内がある
それが意外と外から来た人にはわからなかったのである。

それで自分が原ノ町駅の人にそのことを言っていた
それでもずっとそのままにしていたから何もしないのかと思っていた
でも今日はその案内板をとりつけたのである。

それで自分が言ったからとりつけたのかと思ってうれしかった
何か一個人が言ったくらいでは大きな会社ではなにもしないだろう。
だから一個人でこうして社会にかかわればその言い分が通ることもある
ただ有効なのはみんなで言わないと通りにくい
何かを通す場合はやはり数がもの言うのである。

この看板にしたってそれなりに金がかかるからJRでは無視することもある
ただ無人駅だから駅員がいないのだから外から来た人がわからないで困る
だからこういう看板は無人駅では必要なのである。
何か必ず無人駅でも困ることはある

最近は長くはいない買い物帰りにちょっとよるくらいである。
でも駅は何か仕事があるものだと思った
大きな自分が作った時刻表はもってゆく人がまだいる
新しい小さい時刻表も置いてあるがそれもなくなる
ただ大きな字の時刻表も必要なのである。

ともかく何かそこに住む人が駅でも市町村でも良くしようという気持ちがあれば
良くなることはある
これも一種の小さな政治である。政治家はそこに住む人達の要望を聞きその政策を実現させるのである。

ただ鉄道でもみんなで維持しようとしなければ維持できなくなる
車がいいとして鉄道を利用しなければいづれはもたなくなる
だから只見線の復旧には県が三分の一の予算をだす,81億円もかかるからだ
つまりそうしたローカル線は県や自治体がかかわらないと維持できないのである。


2017年10月18日

日立の風力発電会社の事務所にドイツ人三人が来る (駅からすぐ近くにその事務所がある)


日立の風力発電会社の事務所にドイツ人三人が来る

(駅からすぐ近くにその事務所がある)


まず一人はいわきからレンタカーを借りて駅に来た,その人は日本語をしゃべったしナビでも日本語のナビを車の中で聞いていた,日本に慣れた人なのだろう。

その後に土浦ナンバーの車がやってきた,ここで待ち合わせるするという人だった
その人たちはドイツ語で話しした,ドイツ人だった

なぜ三人も来たのかと思ったら車がすぐ近くの路次を曲がり入った,それで気づいた
「風力発電の事務所」が作られていたのだ
それで風力発電関係の技術者だということがわかった

ドイツの電力需要に占める風力発電の設備容量は2010年末時点で9.3%、2011年末時点で10.6%であった[2][3]。
国内に21,607機の風力発電機が設置されており、ドイツはさらに多くの発電機の設置を計画している[4][5]。2011年時点で、ドイツ連邦政府は特に洋上風力発電の利用に焦点を当てた再生可能エネルギーの商業化(英語版)を増大させる新しい計画に取り組んでいる

2011年の東日本大震災による福島第一原子力発電所事故の後、ドイツ政府は特に洋上風力発電に焦点を当てた再生可能エネルギーの商業化加速を見込む新しい計画に取り組んでいる[17]。計画では、大型の風力発電機が陸上よりもより恒常的に強い風が吹き、巨大な発電機でも住民を気にしないで済む海岸線から遠く離れた場所に建てられる。
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日立ソリーシュンというの名の事務所があるから茨城県にあり駅で待ち合わせした人は土浦ナンバーなことも辻褄が合う

ドイツでは風力発電が進んでいる,太陽光発電も進んでいる,なぜなら原発を廃止したからである。それで風力発電でも技術的に進んでいたのである。

風力発電と太陽光発電を一体化した技術の開発も進んでいる

何かこの辺はそういう点では国際化している,ドイツ人が三人も来るなど普通はないからだ,前は東北電力にドイツ人が一人来た,一人は日本人の通訳だった

駅は何かこうしていろいろな人が出会う場所なのである。
この辺は外部からの人が入るようになって国際化したということもある
全国からも人がまだ来ているから前とは違った駅となっていたのである。

駅近くの事務所

株式会社 日立パワーソリューションズ 電源インフラ事業統括本部 新エネルギー本部
風力システム部  茨城県日立市幸町三丁目2番2号

2017年10月21日

駅から社会の動向を見る (原の町駅は大きいから違う)


駅から社会の動向を見る

(原の町駅は大きいから違う)


昨日は原の町の歯医者に行った,30分くらい駅にいた,そしたらお土産を探しいる人が売店にいた,鹿島駅でもお土産を探している人がいてわざわざ香の蔵まで買いに行った人がいる,ここでも香の蔵のお土産を買った人がいる
何か必ずお土産は必要になり駅では買いやすいのである。
お土産が売れるのは中味もあるが場所なのである。駅がお土産を買うのに一番適しているからだ

次に不動産を探しいる人がいた,いくつもの不動産会社をあたっていて土地が買いないんだよと言っていた,その不動産会社の電話番号に通じないから売店のおばさんにたずねていたのだ
駅はこのように何か聞かれる場所なのである。道案内とかも必要なる
それは自分が鹿島駅で経験したことである。
つまり駅は人が集まるというとき情報のセンターになりやすいのである。
インホメーションが必要になる場なのである。
ただ駅は鉄道だったら案内所があるがそこは鉄道の案内しかしていないのである。
そこに問題がある

何かそうしてコオディネイトするものが必要になる,AとBとC・・・などをしりつなぐ人である。情報関係などマスコミはそうした仕事でもある
いろんなことを報道するからそれを説明するにはいろんな分野の人が必要になるからである。司会者もそういう役目だけどなんでも詳しい人はいないからコオディネイトするのもむずかしいのである。

駅前では立憲民主党が演説していた,あと原発に反対の市民グループが運動していた
定期的に集まり運動しているという。
それから不思議だったのは駅で桜井市長とすれちがったことである。
最初わからなかったが確かにそうだった
原町にいればそういうことはある

鹿島駅だと社会の動きがあるとしてもそれは狭い範囲である。
原町だと社会の動きは大きくなる,だから原町のことはわかりにくくなる
どういう会社があるのかもわからないのである。

社会の動きは肌で感じることも大事である。それで直接演説を聞きにくるという人もテレビで写されていた,今回の選挙でも結局福島一区での候補者を見たこともないし演説も聞けなかったのである。雨のせいもあったかもしれない,昨日はどしゃぶりの雨だったから今年の選挙運動はしにくくかった

ともかく駅から社会を見ることがある,歴史的に見ると原の町は昔のいわきの平機関区と原の町機関区があり原の町機関区だから前は一杯車両が並んでいたのである
その時は蒸気機関車の時代でもあった,その時高校だったから自分は通っていた
それから自分の大正生まれの母親は原町紡績で働いていた,その原町紡績に引き込み線があった,直接鉄道で運んでいたのである。
そして自分の異父の兄は集団就職だったから原ノ町駅から行ったとなる
でも40才で交通事故で死んで実家の墓に埋まっている

原ノ町は自動ドワにもなっていない,大きな梁が天井にあり古い建物のままである。改築していないのである。
ただ原ノ町駅と鹿島駅ではずいぶん違うなと思った
原ノ町駅だと人事的なものだけになってしまう
鹿島駅だと自然が反映する
駅前には切られたけど八重桜が咲くの特徴だった,今でも一本は残っている
今は秋薔薇が咲いている,ホームの近くに合歓の花が咲いたり今は柿がなっている
虫の声も聞こえたりする

それで俳句を作ったりする

駅に会う地元の人や柿なりぬ

これが原ノ町駅だと自然が反映しなくなる,都会の駅になる,その相違は大きい
そこに風流がなくなってしまうのである。
ただ社会の動向を見るにはいい,鹿島駅では限られているからだ
それで渡り廊下で桜井市長とすれちがったのもそうである。
小高の方から来たらしい,どんな活動しているのか?
何かそうした活動を肌で感じられば社会の動きがわかるとなる
人間は今は何か情報社会でも肌で感じることが少なくなっているからだ

南相馬市と合併して歯医者に行ったら後期高齢者ではないがカードが配られていた,今までは3割負担だったが2割負担になるカードが市役所から配られていた
それがないとうけつけできないと言われたが市役所がすぐ近くなのでそこで事務手続してくれとなった,でもハンコとかないのでできなかったが市役所の人が連絡して了解してもらった,これは南相馬市に合併したからできたことだったのである。
事務手続きは南相馬市内ならどこでしても同じでありできるからである。
そういう点は便利になっていたのである。
合併していい面と悪い面が生まれたことは確かである。

明日は選挙だけど何か今度の選挙は何が争点なのかわかりにくい,野党が一本化しなかったのもわかりにくい,この辺は原発では反対である。でもその他はみんなまちまちである駅前で原発反対していた市民運動の人は鹿島が補償金のことで分断されたことを言っていた,それは深刻なものであり南相馬市の一体化が失われたのである。

タグ:原ノ町駅

2017年10月28日

駐在所勤務の警察官は地元に密着 (自分に職務質問した警官は駐在所勤務ではなかった)


駐在所勤務の警察官は地元に密着

(自分に職務質問した警官は駐在所勤務ではなかった)


最近駐在所勤務の警官を良くみかける,自転車で横断歩道を横切ったとき注意された,それは自分が悪かったからしかたがない,また職務質問かと思って嫌だった
その警官は最近地元を回っているからみかける
仮設の食堂で自転車をとめていたら倒れた,それを教えてくれた,なんかまた嫌な感じがしたがそうではなかった,それでありがとうと礼を言った

駐在所勤務のお巡りさんは地元をいつも回る警官である。この前駅で職務質問した警官は駐在所勤務のお巡りさんではなかった,原町の警察署にあやしいと連絡されてかけつけた警官である。
それがなぜプロ野球の試合があり駅が混んだとき来たのか謎である。
外部の人が通報したということもありうる
そういう場で職務質問されることは周りの人が何なのだとあやしいと見られるのである。つまり名誉棄損になるとき公の場でみんな見ているとなるのである。
もしみんなが見ていない場だったら名誉棄損にはならないのである。

みんなが見ている場で職務質問することはそういうことがありうる
でもあやしいと通報されれば警官が関係なくかけつけて職務質問する
持ち物の検査とかいろいろ強制的にするのである。
それは害悪の告知としても問題になる,通報した人も罪を問われる問題にもなる
なぜなら害悪の告知というとき害悪をしないのに通報したからである。
通報した人が名誉毀損として訴えられるのである。人権侵害なのである。
これを警察では軽く見すぎているのである。そういう事情など全く考慮しないのである。あやしいと通報があればかけつけてどんな場でも職務質問するのである。

ただ駐在所勤務の警察官はの場合は違っている,「何をしているんですか」とか聞いてコミニケーションをとるのは別にその土地の人のことを知るためでありいいのである。
職務質問とは違うのである。職務質問はすでにその人が何かしらあやしいということでしている,犯罪者ではないにしろそういう疑いの眼でみる
それは公の人が集まる場でしたことは明かに人権侵害だったのである。
それ以後自分は駅に自由に出入りすることができなくなったからである。

この辺は外部から警官が入ってきている,駅前でも今日は長野県の警官がパトロールしていた,遠い所からも来ている,それでそういう人が職務質問したのかもしれない。
ただ駐在所勤務のお巡りさんは地元の人にも尽くしたとして表彰されたのは地元の人とコミニケーションをとっているからである。
地元の人と親しくなっていればそういうことはないのである。

これは一見たいした問題ではないように第三者からは見える,でも自分にとってはショックだったとなる
結局なんでもケースバイケースでありあやしいと通報されたから問答無用で職務質問するそれも人が集まる公の場でしたことが問題なのである。
それも警察では全然反省しない,権力があるから何でも通ってしまう
そこに権力の怖さがある,抵抗もできないからである。
一人の個人のことなど力がないのだから考慮しないのである。

そしてみんな自分がこんなことをいっても誰もとりあわないのである。
警察とかかわることをみんな誰でも嫌がっているからである。
スネに傷をもたない人はいないし警察とかかわらないという人が多いからである。
駐在員はいつも地元をまわりみかける人なのである。コミニケーションもとれる人なのである。
でもそうでない警官もパトロールしている,この辺では外部から応援でまだ来ているのである。そういう警官は駐在所勤務のお巡りさんとは違うのである。
だから通報あれば職務質問する,その人の立場など考慮しないのである。
そしてその被害は大きいこともある,でも権力によって通すことができるから警官を信用しなくなった人も多いのである。
ただ地元に密着する駐在所勤務のお巡りさんは地元の人にしたわれたりしているから違っている
それは地元の人とコミニケーションもとれているからそうなる
そこに長くいればコミニケーションがとれるから問題は起きないともなる

法律は理由である、いかなることにも理由がある (理由を拒否するものは民主主義を否定している)




法律は理由である、いかなることにも理由がある

(理由を拒否するものは民主主義を否定している)

警察官から職務質問を受けることが
そんなに不愉快ですか?
私も今までに数回、警察官から職務質問を
受けたことはありますが、普通に応じたら
すぐ終わりました。何の不都合もありませんでしたけど。
正当な理由(犯罪に関わっていると疑われる相当な理由)がなければ、そもそも職務質問に応じる義務はない?
小賢しい法律知識を盾に不必要に警察官を
挑発する必要がどこにあるのですか?


この人がいかなる人かわからない、警察官かもしれない、全くこの人は理由そのものもを拒否している
つまり法律も否定している!この人は民主主義社会を否定する人なのである。
小賢しい法律知識を盾に不要に警察官を挑発するのか?
この発言にも強権的な警察の体質が露呈しているのである。

物を売り買いするのでも理由がある、物がリーゾナブルだというときreasonがあるからそれを買う方でも認める人間生活はあらゆるところで理由づけがなされているのである。
この前家の樋を直してもらおうと思って頼んだら高くなるというときそこは危険な場所だから高くなる
そういうことで理由が常にある,鳶職は危険だから給料が高いとなる

人間にはあらゆることに理由がつきまとっているのだ。別に難しいことでなくてもそうである。
金をくれと親に頼むとき何に使うのだなる,その理由も聞かれる
ただ金が欲しいから金をくれということで納得する者は親でもいないのである。
人間社会は一見理由など考えない,そんなめんどうなことを考えたくないとして生活している
だから法律などめんどうなものは関係ないとも思うし必要もないとも思い生活している

ところが法律と関係しなくても人間は理由から逃れることができないようになっている
例えば力があるものは力で押し通すことができるし暴力で通すことができる
なんで俺を殴るんだよとか言ってもお前が気にくわないから殴るんだとなっても力ある者はそれで通る
これが戦争になる時でも通用する,アメリカだったら理由なくても圧倒的な軍事力で戦争して国を破壊できる
それでは世界の人が納得しないので化学兵器をもっているとか難癖つけてイラクを攻撃したのである。

権力をもっていてもそれだけでは攻撃できない,理由が必要になるからである。
警察の危険は権力をもっているから押し通すことができることである。
職務質問でもあやしいと通報されたら駆けつけるという,それは決まりだからという
それを県の公安委員の人も相談したら言っていたのである。
その人はいろいろ親切に説明してくれた、でもあやしいというだけで職務質問する権限がどうしてあるのかが今も疑問なのである。

要するに自分もその理由に納得できないのである。そこに理由がないのである。
あやしいというだけでどうして誰でもその場もわきまえないで職務質問できるのか?
例えば劇場のようなところでみんなが集まるところであやしい人がいると警察に連絡したらその劇場に職務質問にくるのかとなる
その時と場をわきまえないことができなるのか?
それは極端にしろそういうこともあやしいと通報があればかけつけなければならないとはいうのはおかしいのである。
あやしいとあればそのあやしいという理由は聞かないというのも納得いかないのである。
つまりあやしいという理由が欠如しているのである。
だからここでも理由がともかく必要がとなる

与那国島では土地の人に木陰に休んているからあやしいとして警察に連絡されて職務質問された
その理由が木陰に休んでいるからだとなる、それには納得いかないにしろ理由は理由だったのである。
今回は一切その理由がない、ただあやしいというだけでかけつけてきたのである。
この辺では別に職務質問を受けやすい,避難区域になった所で自分は何回も職務質問を受けている
こういう事情だからしょうがないとなる,それも理由なのである。
でも今回はそうした理由がなかったとなる,ただ外部の人が入ってきているのであやしいと地元の人が通報したのか?それも理由にはなるがそれは言わないのである。

そもそも理由に関係なく怪しい通穂あればどこでも関係なく駆けつけると言っていたからである。
警察官らしい人がそんなに職務質問にこだわるのはおかしい、そんなの普通のことであり理屈を言う必要はないとコメントがあった、つまり警察官は職務質問に関しては強制的にどんな人でも場合でも理由もなくできることになっているしそれをやめないのである。
警察の方にしたらそんなことで理由を聞いていると犯罪者を捕まえられないということはある
だから数うちゃ当たるということで強制的に職務質問しているのである。
それが権力でできるのである
別にこのことは警察だけのことではない、人間のすることには必ず理由がありその理由が正当なら納得して認めるというのが法の起源なのだろう。目には目を歯には歯をというときそうである。目がつぶされたら目をつぶすとなる、復讐を正当化する法律だったのである。

ともかく法律とかは特にその理由の正当性がないと認められないのである。
学問自体もみなそうして理系でも理由を求めている、なぜそうなるのかという理由を求めているのである
これは一つの例にすぎない、人間社会のあらゆるところで理由が大事になる
株だってただ奨めて買わない、もうかる理由を言わなければならない
ところが銀行でも投資信託な説明されてもその理由を理解できないということがある
するとその理由知らない頼んだ人が悪いとなるのである。
自己責任になり銀行では責任をとらない、でも株とか投資信託の仕組みをしることはむずかしくて不可能だったのである。とするとそんな理解できないものに手を出すのが悪いとなり自己責任になるのである。

人間社会は特に民主主義社会はこの理由の追求である。一党独裁とか中国のような社会ではいちいち理由を言う必要がない、権力者が理由にこだわらず権力でもって通すことができる社会なのである。
法治国家というとき法で治めるのだから理由が大事になる、理由なしで権力があるからと通る世界になったら法治国家にはなりえないのである。
警察はこの法と深く関係している場である。暴力で治めるのではない、法で治めるとしたらそうなる
だから法を無視する警察を許していればもう法治国家ではないのである。
ただ法律というのはむずかしい、でも日ごろ日常生活で常に理由が追求される、だからそこで考える習慣をもつことが民主主義社会を生きることになる
理屈を嫌がる人がいるけどではささいなことでも子供に金をくれるとかでも理由なしでくれる親はいない
他にも何かしら理由がないと認めないのである。人間の行為には必ず理由がつきまとっている
それを否定できない、それが法治国家となっている故なのである。

2017年10月30日

風で常磐線運休二本 (駅ではお土産を買いたい人が多い)


風で常磐線運休二本

(駅ではお土産を買いたい人が多い)

今日は風で常磐線が運休していた,仙台行きに乗る人はちょうど乗ることができた
次の仙台行きが運休になった
インターホンで連絡してみればいいと言って原町駅に問い合わせたら仙台行きは出る
その後は運休になった

その人はお土産買いたいといってテレビ画面の宣伝の映像を見ていた,そしたらネットで買うからいいと言っていた,パソコンの話をしていたから詳しいらし
原町駅でもチーズのみそ漬けは人気である。
あそこの売店にはお土産を売ってるからいい,ここでも売ればいいのにと言っていた
前もお土産を買いたいという人がいた,わざわざ六号線の香の蔵まで行った人もいる

何か駅ではお土産を買いたいということがある,だからお土産の需要はある
ここにお土産が売っている,菅野漬け物店はこの辺では有名である。
近くで世話になった人がここでずっと働いていたのである。
あの女性が働いていたなと時々駅から思ったりするのもここは狭い町だからそうなる

みそ漬け処 香の蔵

駅はまた自転車置き場を広げる,八重桜の木を切ったところを自転車置き場とする
その他また工事する場がある,この前はスイカの自動改札の機械を点検する人があった
無人駅でも人が来て保線とか電気系統の点検とか駅の建物とかその前の広場とかを見ている

鹿島駅前はJRの土地である。だから駐車場にはなっていない,一時的にとめるのはいいのだが駐車場ではないのだ,それで車をとめるところがないかと前の自転車屋の人に聞く人があった,キクチスーパーにとめるのがいいと教えたという
駐車場がないことが駅では困るのである。
地元の人は指定した駐車場を借りている,そこは停車できないからである。

いづれにしろこれから風が吹くと必ず遅れる,それが問題になるのだ
今日は木枯らしであり時雨たりした,風は冷たく冬になったのである。
もう冬なのか,秋がなくて冬が来たともなる,何か変則的になり変わってしまった
秋はもっと長く感じていたからである。
だから秋の季語には秋深いとか秋に関しては季語が多いのである。

2017年11月05日

馬が好きで東京から来た女性 (野馬追いで馬を飼っているから馬が見れる)


馬が好きで東京から来た女性

(野馬追いで馬を飼っているから馬が見れる)


今日駅であったのは折り畳み自転車で旅する人だった
その自転車は小さいもので重さは12キロあった
それを袋にいれていた,結構そういう人はみかける
でもロードとかであり小さな自転車ではない

だからめずらしい思って話しかけたら,その人は馬が好きで馬を見るために三連休を利用してきたという
東京の人であり馬が好きというのもめずらしい,競馬が好きなのかとも思ったが馬自体が好きなのである。だから北海道とかにも馬を見に行っている
この辺は野馬追いがあるから馬を飼っているきで馬が見れるから来た

もう一人青森出身の人であり下北半島の尻屋崎に「寒立馬」がいると教えた
下北半島は鉄道で行ったが終点からかなり遠い,馬に興味があるとしたら行きたいとなるのか?

鉄道の問題は駅からの足がないことである。その人もバスがないかと探してもないとか言っていた,都会だと結構バスがあるからだろう
折り畳み自転車は鉄道で遠くまで行けるが自転車が重いしかさばるので嫌になるのであるその女性は相馬市まで行こうとしたが坂があるので嫌なので電車を利用して相馬市に行った

なぜか結構鹿島駅でも遠くから来る人に出会う,遠くから来た人は無人駅になったので
切符代わりの乗車証明書をとるのがわからないから教える
スイカをもっていればいいがもっていな人もいる
だから外から来た人には教えることがある

ともかく馬が好きで馬を見に来るという人はまれだろう,東京辺りではそもそも馬は競馬でしか接しられない,競馬が好きな人は馬も好きだいうことがある
確かにそこでは毛並みのいい馬を見れるからである。

馬が一番あっているのはモンゴルのような草原なのである。
そここそ馬が一番あっている場所なのである。
馬が好きだという女性になると遠野辺りの民話で馬と結婚したという話が伝わっているからそういう女性もいるのかと思った
ただそれは馬と一緒に曲屋で住んでいたからそうなった
東京だとそんなことありえないからなぜ馬が好きになっているのかわからないのである。
ただこの辺が野馬追いということで馬を見に来る人がいても不思議ではない場所である。ただ馬だけを見に来る人はまれだと思った

2017年11月06日

JRでは掃除費用を商工会の女子部に払っていた (でも今は掃除しないともめている)


JRでは掃除費用を商工会の女子部に払っていた

(でも今は掃除しないともめている)

鹿島駅は商工会がJRに頼まれて掃除していた,女子部が掃除していた
無料でしていたのかと思っていた
掃除といってもごみ箱にたまるものをとりのぞくくらいである。
駅自体は汚れない,ただタバコ吸う場所に空き缶などがあるので自分がかたづけていた
駅構内にごみ箱があるのでわかりにくいのである。

地区では花壇などを手入れしていた,地区とか商工会が関係していた
それから前の自転車屋の人が言うには市の許可ないと掃除などして金をJRからもらえないという,それも団体などでないと許可しにくいという
老人会などである。でもわずかでも金が払われていたことが意外なのである。
ただなんらかで商工会の女子部は掃除したくないとなったのである。
この理由は良くわからない,金が入るにしても女子部に入れば飲み食いして終わりだろう
市の企画に電話したらJRからそういう相談したことは知らない,別な部署だったのか?
自転車屋の人は名前まで知っていたのである。その人が担当だったから直接話したから知っていたのである。
市が関係しているのはトイレである,毎日福祉関係の人があさがおが掃除している,だからぴかぴかなのである。

金が欲しいわけではないが掃除するだけで金をJRが金をはらっていることは意外だった
なぜなら無人化しているのは人を雇うことが金がかかるのでしているのかと思ったからである。鹿島駅は無人化する駅ではなかったが震災以後の事情でそうなった
ただ駅員でも相馬市でも制服着ていてもJRの正式の職員ではないのである。
委託された人である,何か委託する人が必要なのである。

だから切符を販売ずるとかも頼みたいとか言っていたがそうなるとめんどうになる
掃除だとあそこは楽である。それで金をもらいるとしたらボランティアとも違ってくる
委託されれば制服のようなものを着ることになる
ただ一時間くらいの掃除だとそういうものはいらない

自転車置き場を広げると水戸管理局の人が言ったが原ノ町の人は知らなかった
これもなぜだろうとなる,ただ今回は自転車置き場を見に来ただけだったのだろう。
駅は市も関係している,自治体も関係している,駅は街と直結していることと
駅が街のランドマーク,目印になっているからである。
ここでは道の駅がないからトイレも利用しているからである。

駅の機能は実際は電車を利用するだけではない,街の中心的なランドマーク目印とある,だから一応駅に来る人がいる,でも駅前は駐車場ではないのである。
一時的にしかとめられないからキクチスーパーにとめるとなる
それも駅の問題なのである。

ともかく駅からその街のことがいろいろ見えてくる,それは駅がその街の玄関口になっているからである。駅は本当に前は玄関だった,駅を利用する人が多いときは余計にそうなっていたのである。だから家でも玄関が大事だというとき人が出入りするところだから
玄関でその印象を決めることがあるからそうなる
玄関に花とか飾ればきれいになり入る人も気分良くなるからである。

タグ:駅の掃除

2017年11月14日

複雑化した無人駅の鹿島駅の問題 (NPOが駅で事業するために申請していた)


複雑化した無人駅の鹿島駅の問題

(NPOが駅で事業するために申請していた)

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NPOやNGOを名乗る団体が増え、石を投げれば当たるほど増えた観があります。
ところが仕事や普段の生活で関わっている人以外で、これらが何なのか詳しく知っている人は少ない。
何となくボランティアしてそうとか、社会に役立つことをしているという程度だと思います。

NPO法人に認定されると税制で優遇されるので、同じ事をやるならNPOにした方が儲かります。

こうして石を投げれば当たるほど、日本にNPOが増えました。

NPO法人が胡散臭いという空気が生まれる理由

全ては法律の不備が原因だし、簡単に設立できるハードルの低さが胡散臭い連中を呼び寄せてる原因とも言える。こうして考えるとそもそもNPOに法人格を与える必要などないのではないだろうかとすら思えてくる。

NPO法人は設立時に最低でも10名必要である事や、平均的にも6か月の設立にかかる期間がある事、また、審査の厳しさがまるで比較にならないなどの点から、同じ法人であっても、社会的信用度が圧倒的に違います。
NPO法人と名乗る事が出来るだけでも、それだけで最大のメリットと言えるのです。


鹿島駅の問題は複雑になっていた,駅はどこでも駅だけでは成り立っていない,街全体が関係している,その自治体と地区と商工会とJRが関係していた
駅前のトイレは福祉関係の人が毎日掃除してぴかぴかに磨いている
それは市で金を出していたのである。
前の花壇は地区の人が花を植えて手入れしていた,そして駅の掃除は商工会の女子部がしていた,それはJRから金をもらっていたが理由がわからないがやめるとなりもめている
JRで金を払っているということが意外だったのである。
鉄道はもうからないから維持するのが苦しいから自治体とか地域でかかわり維持するために努力してもらいたいということなど放送されていたからである。

今日前の自転車屋から聞いた話ではタバコ吸う駅の外の部分を利用して何かやりたいという人が新潟県の人でいたという,それも良くわからないがもともと鹿島駅はそれなりに人の出入りがあるから商工会で観光関係が入る予定だったがしなかった
そこで最近何かに利用しようということで動きはじめた
JRで金を払うこともあり市の方でも実際はそういうこは知っていたのである。
ただ個人的に自分が聞いてもわからなかった,その担当者を自転車屋の人は知っていた

そしてNPOがすでに鹿島駅で事業するために市に申請書を出していたのである。
するとNPOとは何なのかとなる,何か評判が悪いこともある
ただこの辺の特殊な事情でNPOの人達が相当数入っている
その人たちはやはり利益になるものを探している
だから駅でJRからも金をもらえるとなればとなり申請したのかもしれない

ただNPOとは何なのか?Nonprofit Organization(非営利組織)となっている
この名称がまぎらわしい誤解を生んでいるのである。
ボランティアでもそうだがもともとボランティアとも共通しているものがある
今回の震災や原発事故の被害地域にはボランティアが多数働いたからである。
でもNPOはボランティアの組織された団体であるが個々人のボランティアもいる

つまりNPOは誤解しやすいのはボランティアのように見ているからそうなる
でもその動機はボランティアに由来しているともなる
ボランティア精神とはその人の自主的な意志でしいてる,老人が増えると何か社会に役に立ち生きがいをもちたいということが動機になる

ボランティアとはまず利益を考えない 自由意志でする

ここが営利的に仕事している大方の会社とその設立動機も違っているのである。
自分が駅のボランティアをはじめたのは偶然だった
駅が無人化したので困っている人がいて案内はじめたのである。
別に利益を求めていない,それが何か自分には面白かったのである。

●鉄道が好きである
●地元に住んでいて地元を案内する
●生きがいを見いだす

自分のボランティアする動機である。こういうふうにボランティアとはその人が自主的に強制されないでやるものでありそれをすること自体に興味と生きがいを感じるからする
別に報酬もいらない,そういうことがNonprofitだからこそそうなる
つまりボランティアの原点はそこにあり利益を得るためではないのである。

だから今外から来る人が多いというとき例えばそういう人がボランティアするとなると収入が必要になる,みんな自腹でやっていけない,老人などはそういう人がいたが若い人もNPOにはいる,すると収入になるものを探すとなる,それは市から金が出たたり税金も払わないでいいものとなりそれでNPO法人になるのも増えてきた,それだけ数が多いのだから不正もでてくる,それでNPOは何かうさん臭いとなってしまったのである。

でも市とJRでもそうだが信用されるには団体でないと許可されにくいのである。
自分も失敗したのは家政婦とか雇う時,組織化して団体化している法人だったら信用できる,そこでは共同連帯責任になるが個人的に雇うとその人にはそうした責任が生じないのである,組織として団体としてもそうした個人契約は責任をとらない
だからそうして雇った人が犯罪を犯しても盗んでもその責任は雇った人にあり自分は大損になり何の補償もなかったのである。
現代は見知らぬ人と頻繁に交わる社会だからどこで信用を得るかが問題になる

するとどうしても組織化した団体化したものを信用するとなる,個人は信用されないし責任をもてないなからである。大会社であれ市の職員であれ不正があれば会社が市が自治体が負うようになるから責任をもたされるから信用するとなる
ただNPOでもNGOでも組織化団体化すると政治団体化して政党の運動のようになる弊害がある
現実になっている,そういう場にはなんといっても巨大な政党とか宗教団体でもかかわりやすくなるからだ
NPO法人でも10人も必要であるからだ,それは一つの小さな会社組織になっているのである。

だから鹿島駅でNPOで申請を出したことはその人たちが駅にかかわりすることになる
そして金は市とかJRから出るようになる,NPOの有利なのはそうした優遇があることなのである。
ただ動機としては自分のような本来のボランティアいいともなる
地元に住んでいれば地元を良くしようと無理しなくても働くからである。
つまり土着的精神が自ずと発揮されるからである。
ただ外から来た人達でもこの辺では多いが違った視点でみるからこういう事態では必要なのである。

2017年12月07日

原町の時刻表 (小高行きの時間が出ていた)


原町の時刻表

(小高行きの時間が出ていた)

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道の駅にあった原町の時刻表に小高行きの時間がでている,こさを見れば小高に行くときは便利である。浪江行きとはなっていないが浪江行きも小高行きだと行くのかもしれないこれは浪江駅が開通する前に作られたので出ていない

これも時刻表として自分の作ったものに入れればいいがめんどうでできなかった
自分が駅に置いた鹿島駅の時刻表は結構枚数を置いたが今でもなくなる
だから相当な量が必要になる,千枚とか必要になるのかもしれない,
それ以上必要にもなる,ただ最近駅でしていることはタバコの吸殻とか拾ったりゴミを拾ったりしているだけである。

駅舎のホームの蛍光灯が二つ点滅していので連絡した,それは了解したから交換するだろう。その他何かいろいろあったが話だけで終わった
ただ一年間ボランティアのまねごとをして面白かった

鉄道の旅が長いし世話になった,でも鉄道員のようなまねをしてみたら鉄道も違ったものにみえる,これは簡単にはわからないものだった
車掌に手をふって電車を見送ったときなんともいえぬ不思議なの気分になった
鉄道員としての鉄道を維持する連帯感を感じたのである。

人間の仕事はいろいろあってわからない,まず鉄道を利用するのと鉄道を維持するために働くのとはまるで違ったものとなる,鉄道会社で働くということは何か義務感とか大げさになれば使命感みたいものが必要になる,だから生きがいになるのである。
自分も鉄道を維持しているんだというものを感じる
それはボランティアのまねごとでも感じたからである。

自分は働いたことがないから会社員になったことがないからそういうことがわからなかったのである。鉄道員が映画になったように何かそこには人生そのものが鉄道とともにあったとなる,だからこそ愛着が生まれたのである。
どんな仕事でも長くしていればそれに愛着を感じる,ガンになった人が倉庫で働いた人とまた働きたいというときもそうである。
なぜなら仕事というときそれが給料をもらうとういだけではない,人生そのものになる
これもふりかえればそれが生きた証だとなってしまうのである。