2013年10月20日

仙台までの常磐線の駅を秋に偲びぬ (津浪の後の駅を偲びて短歌十首)


仙台までの常磐線の駅を秋に偲びぬ

(津浪の後の駅を偲びて短歌十首)

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常磐線の亘理から駒ヶ嶺までの津浪の被害状況
http://shi.na.coocan.jp/tohokukantodaijisin-8.html


駒ヶ嶺即過ぎ去りて新地かな伊達と相馬の境なるかな

新地駅海の近きに屋並見え虫の音聞きつしばし止まりぬ
新地駅月影さして明るしやおりたちしばし休む時かな
坂本駅秋の灯ともりここすぎて相馬となるや電車に帰りぬ
磯浜に港のありて知らざりき山元駅の親しきものを
山元駅瀟洒な住宅建ちにしをみな津浪にて流されしかも
仙台に勤めに通う人のあれ山元駅や秋の日暮れぬ
浜吉田浜とあれども海見えず駅まで襲う津浪なるかも
仙台へ亘理る来れば近しかな海の近きは思わざるかな
鳥の海蔵王の見えて船よりぬ阿武隈川もここにそそぎぬ
逢熊駅とまりて鳴きぬ蝉の鳴く声のひびきて新しき駅
仙台に電車に通う常の日や津浪に失ういつの日通ぜむ
仙台へ電車通わず十三夜の月影照らしあわれなるかな


相馬と仙台は密接に結びついていた。それは常磐線があったからである。相馬藩は江戸時代でも伊達藩との結びつきが強い。戦国時代に伊達政宗と争ったにしても強いのである。だからいろいろな江戸時代の碑は伊達藩のものが多いのである。


「地名は知っていた(下)(太宰幸子)で


海蔵寺は江戸後期に開山された寺だそうでその頃から須賀畑周辺に住む人が多くなったのだろうか。

しかし地元の人は「もっと前から住んでいた人がいると思うよ」と話し「何代もつづいた古い家が多いだんよね、秀吉の朝鮮出兵の際、船の漕ぎ手として行ったという家もあるよ」とつづけた。
領主であった伊達成実(しげさね)とともに、文禄の駅(1592-1593)に参戦した方の子孫もいるのだという。


この話で気づいたのは新地の神社に「文禄」と記された碑があったのだ。これは何を意味しているのか?ただ文禄とだけ記されている碑もめずらしい。そもそも相馬では文禄時代の碑など皆無である。元禄辺りからあるし増えているが文禄は古いのである。伊達藩は相馬藩より古いから古いものが保存されている。
新地は一時伊達領だった。境であり争った城もある。伊達政宗の朝鮮出兵は大きな歴史的出来事だった。だからその時朝鮮人を側室にしたとか言われるが真意はわからない、朝鮮の陶工などを強制的に秀吉は唐津などにつれてきたのだからそういうこともないとはいえない。


滴水瓦(てきすいがわら)

 瓦の瓦当面が、雨水が滴るように「雲頭形・倒三角形」に垂れ下がった軒平瓦で、一般に「朝鮮瓦」と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が権力の象徴として、朝鮮の瓦を真似たものとされています。
 仙台城本丸跡では、瓦当中央が花菱文の滴水瓦(3点)や菊花文(10点)が出土しており、仙台城二ノ丸跡・松島瑞巌寺・利府町大沢窯跡などでも出土しています。
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/castle/08.html


相馬市の城跡の大手門の瓦も滴水瓦なのである。この時伊達藩の方から技術が伝わったのかもしれない、新地には伊達藩の侍だった人が住んでいて相馬市との合併を拒んでいたという。その屋敷も津浪で流されたのである。伊達とは敵対しても因縁深いのが相馬藩なのである。そもそも野馬追いも伊達に対抗するための軍事訓練からはじまっていることでもわかる。
ともかくこの話から文禄という碑は文禄の役の記念だったと推測されるのである。
新地はやはり伊達とのつながりが深いのである。
相馬藩の歴史は伊達藩の歴史とクロスしているから伊達藩のことを知らないと相馬藩のこともしりにくいのである。
相馬藩には仙台方面の古い碑が多く仙台の方にお参りしていたことが如実にわかる。
小牛田神や山神などがそうでありこれはどこでもみられるからだ。


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新地の神社にあった

 

常磐線は自分も仙台には通っていた。遊びにしろ仙台は身近だった。第一相馬から通勤していた人もいたから通勤圏でもあった。一カ月に二回とかは行っていた。前は本を買うために行っていた。他に仙台はやはり東北では大都会だから違っていた。
でも駅の名は暗唱するくらい頭に残っていても実は相馬市から亘理まであれほど海が近いということを意識しなかった。海が新地でわずかに見えるだけで見えなかったのである。海に近くても海が見えないと意識されないのである。それで新地駅にしろ山元駅にしろ
あれだけ無残に破壊されたことにはショックだった。線路がぐにゃぐにゃに曲げられ見るも無残な状態になった。そもそも新地はわかるにしても山元駅があんなに海に近いとは思わなかった。磯浜に港があることもわからなかった。ただ山元駅はさらに仙台の通勤圏内に入り駅の回りに瀟洒な家が建っていた住宅街があった。そこにプロ野球を引退した人が住んでいたのである。そも全部津浪で流された。

最も意外だったのは浜吉田駅である。いつも通っても浜とあっても全く浜と意識されなかったのである。それがあそこまで津浪が襲った。あそこもかなり海に近かったのである。写真を見たらあそこの駅前まで津浪で海のようになっていた。あの光景も信じられないものだった。浜吉田の浜はだてについているものではなかったのである。

電車には思い入れが強いから駅が一つの記憶の場所になる。逢熊駅も最近できたから記憶に残る。そこは新しい駅なのである。仙台に近いから新興住宅地ができるから新しい駅ができた。そういう駅でも歴史を知らないと何かただ通りすぎるだけになる。旅をするとそうした歴史を知るのはむずかしい。
坂本駅でもあそこが伊達と相馬の境だなと思って旅する人はまれだろう。そこに旅が失った所以がある。例えば江戸時代なら境に関所があれば否応なく意識されるから違っていたのである。不便でもそこで意識されて記憶されるから違っていた。

亘理駅に来れば仙台は近い、ただここでも海が近いということは意識されない、ただ今度は阿武隈川をわたることは意識する。海は意識されないのだ。ただ一度鳥の浜に行ったとき、蔵王が大きく見えて船が寄っていることは新鮮な風景だった。あの辺から蔵王ははっきりと見える。阿武隈川は福島市から船で米などが運ばれ荒浜から江戸へ運ばれた歴史もあったのである。それなりに交通の要所となっていた。
 

仙台は何か電車が通じないと遠くになった。ここ半年以上めんどうだから行っていない、何か仙台も遠いなとなり十三夜の月影が津浪で襲われ破壊された駅や線路を照らしているのも感慨深い、何かこうして交通がたたれると江戸時代にもどったような気分になるのだ。江戸時代はめったに遠くには行かないからだ。
それは小さな今回津浪に襲われた港でもそうである。牡鹿半島の湊は小さい、そこでも江戸時代から暮らしがあった。そして隣とは山でさえぎられているからあまり行き来がなかったという、船越とは船で越すからであり陸では閉ざされた地域が点々とあった。
でも魚や貝がとれたとしても米はとれないし野菜もそれほどとれないとしたらどうして自給自足できたのだろうかとなる。それもまた海の生活というのがわかりにくくなったためである。牡鹿半島では津浪の時、後ろの清水を飲んでしのいだとあった。あそこには確かに清水が出るから山があり山の木で燃料も補給できたのである。ある程度自給自足できていたのだろう。だから交流がなくても最低限生活できたとなる。

地名というのは自然と密接に結びついている。
 
「岩沼」の地名の由来の一つとして、
「宮城県地名考」に「伊達家の家臣、泉田安芸重光が、この地に築城して「鵜ヶ崎城」と称した。このお城回りの堀が「沼」になっていて、10の沼があった上に、このお城の一角と沼とを併せて「岩沼」と呼んだといわれてい
 

こういう情景が津浪でリアルになった。津浪の後にいたるところに沼ができたからである。でも今までは岩沼は繁華な地であり沼を想像することはできない、いつも見るのは団地だったからである。あそこには千貫松の伝説も残っているから伊達藩には慶長津浪の記録であり伝説が多く残されている。第一相馬藩の武士が慶長津浪の後の六郷に移住した。
そこに吉田とか地名となって残っている。これもわかりにくいのだ。
なぜなら相馬藩でも700人溺死しているとしたらその被害も大きいのにわざわざ伊達藩まで移住して津浪の後にすみついたのかその動機も良くわからないのである。


そもそも相馬藩の慶長津浪の歴史は相馬藩政気に一行だけ700人溺死としか記されていない、これもなぜなのか?津神社も忘れられていた。伝説もごくごくまれにしかない、一方で伊達藩領域には記録も伝説も豊富なのである。その相違は何なのか、一つの歴史の大きな謎であり課題にもなった。記録されない語られない空白はなぜ起きたのか、それを疑問に思ってたずねてきた若い研究者もいた。これの解明はなかなかできないだろう。
伊達藩それだけ歴史が古いし大きい藩だったし今も宮城県の被害が相馬藩より格段に大きいように何かそのことが影響していた。ただこれは相当な謎である。

 

2014年01月28日

全線復旧した三陸鉄道に乗りたいと案内してくれと頼まれた (その人も相馬で津浪の被害にあった)

 

全線復旧した三陸鉄道に乗りたいと案内してくれと頼まれた

(その人も相馬で津浪の被害にあった)

最近知り合った人に三陸に行きたいからインターネットで調べてくれと言われた。その人は友達と二人で行く、一人は75歳で車での旅はしたが電車の旅はほとんどしていない、だけど三陸を旅したいという、三陸は津浪被害で鉄道が破損して途絶えた区間ができた。
でも全線開通したという、それが4月でありだから行きたいとなった。
またNHKのドラマでも有名になったこともあり行きたいとなった。
一人も60代の女性だけどテレビの鉄道番組を見るのが好きだという、その女性は働きつめであり貧乏でもあり電車の旅をしていない、団塊の世代は会社勤めでも結構遊んでいるし旅行しているのだ。自分は例外にしてもだからどこどこに行ったとかいうとだいたい日本なら全国行っているのでわかる。

三陸の鉄道が全線開通したというとき、早く開通したと驚いた。常磐線は六年後とかいつになるかわからないからだ。なぜそんなに早く開通できたのたろうかとも思う。
映像を見た限りあんなひどい状態から良く全線開通できたものだと思う。
鉄道のトンネルを被災者が歩いているのを見たときは驚いた。その訳は鉄道は歩くのには便利だったのかもしれない、三陸はトンネルが多いし隣への道が途絶えれば鉄道の方が便利だとなって歩いていたのかもしれない。
テレビで見ただけでは被害状況はわからない。

ただ自分は三陸でも岩手県も宮城県の海岸線も全部電車に乗っている。全国ほとんど乗って私鉄の線くらいしか残っていないのだ。けれどもここ七年間は介護などでしていない。ただ一回岩手の釜石まで行った記憶がある。その時釜石駅まで津浪が来た報道されて驚いた。釜石の海を見ていないからだ。あんなところまで津浪が来たのかというのかどこでも驚きだった。


三陸に旅行したいという75歳の人も津浪の被害にあった。3キロとか離れていたけど津浪の被害にあった。床上浸水だった。自分が見た限りでは床下でたいしたことがないと思っていた。津浪は洪水とは違う、圧力をともなった波が押し寄せてくるから50センチでも怖いのである。遠くでも怖いものなのである。その人はその時近くの女性に助けられたのでその女性と三陸に行きたいというので自分に調べてくれと言われた。
それで調べたら津浪を語る旅行も盛岡からも三陸沿線からも出ている。
全線開通して旅しても津浪の被害状況を見るためのものものになる。
でもその二人は津浪の被害者でもあるから話しがあうということにもなる。


その75歳の男性は津浪の浸水で一時相馬市に避難して一年間くらいアパートで暮らして最近ようやく荷物を家に運んだという。それから仙台の方にまで避難したという。
縁故の人がおおくててきた。仙台では一時物が不足して物を買うために並んでいたという。仙台でどうしてなのか?津浪の直接の被害はないし東京からの道路も断たれたわけではなかった。ただ名取の仙台空港や仙台港には倉庫が一杯あり船が入ってきていた。
そうしたところて物流が途絶えたのだろうか?その辺の事情がわからないが仙台まで津浪の被害が影響していたことは意外だった。確かに長町辺りも仮設住宅が建っていた。


仙台に避難者が集中しているということはあるだろう。相馬辺りでも原発避難者でも仙台に避難してそこに住み着くという人も出ているという。仙台は東北では一番の都会だから住みたい人がいた。でも住居費でも何でも高くなるから苦しい面はある。
この辺は相馬まで仙台と常磐線でつながっていた。通勤していた人もいた。だから常磐線を通じて関係が深い。福島市より関係が深かった。現実に鉄道が途絶えたときバスは出ていてもなんか行きたくなくなったのである。介護で行きにくいこともあるがやはり電車は便利なのである。


ともかく自分は考えて見ればた旅ばかりしていたのだから旅の案内に向いているとは言える。インターネットでも案内しやすくなっている。旅行ガイドというのが自分に実際の職業としたら向いているかもしれないと思った。ただ自分で自由に旅行はしたいがガイドなとしたくないということはある。でもどういう見どころがあるかは教えられる。
盛岡だったら城跡と中津川と北上川と岩手山は見ていけとかなる。それは観光案内にでていてもそれより深く説明できる。文学的にもできる。でも文学的なことはあまり普通の人は関心がない、でも関心がなくても庶民的な案内もできる。旅行ガイドというのもまたプロフェシャナルにありえるそれでも旅は自分なりの発見をするのが旅だというとき人まかせでは自分なりの旅はできないのである。


大船渡辺りを電車が通ったとき朝日が昇っていたことを記憶する。それは冬でありきれいだった。でもあの大船渡の被害も大きかった。家族五人くらいか死んで一人残された人が自殺したという報道があったときその被害がどのくらいのものなのか何も解説しなくてもわかった。津浪とは一家全滅になるような恐ろしいものだったのである。
いづれにしろ三陸の旅は津浪の被害の跡をたずねることになるから今までの観光旅行とは違ったものになる。そういうことを事前に心得ていないと地元の人に拒絶されるかもしれない、まだそういう観光のらヴな浮かれたものにはなっていないのである。

2014年12月22日

東京駅開業100周年限定Suicaで混乱 販売中止に (百歳になる自分の母が生まれた年にもなっていた) 今年も暮れようとしている。


東京駅開業100周年限定Suicaで混乱 販売中止に


(百歳になる自分の母が生まれた年にもなっていた)
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1904(明治37)年2月:日露戦争がおこる。
1906(明治39)年11月:南満州鉄道株式会社ができる。
1912年(明治45年)石川啄木死去
1914 東京駅開業
1915(大正4年)母生まれるー2015年で100歳
1921年(大正10年)7月に現在の福島県南相馬市原町区高見町二丁目(北緯37度38分8.58秒
原町無線塔は、底面直径17.7m、突端直径1.18m、尖塔高約201m、鉄筋コンクリート製の電波塔で、1928年12月に依佐美送信所の鉄塔(250m)が完成するまでアジアで最も高い建築物であった。
1923(大正12)年9月:関東大震災がおこる(死者9万9000人、行方不明者4万3000人)。
1932(昭和7)年3月:満州国建国宣言が発表される。
1933(昭和8)年3月:国際連盟から脱退する。
1945(昭和20)年8月:日本が連合軍に無条件降伏し、天皇自ら終戦の詔勅を放送する。


最初鉄道で旅していたから鉄道に興味を持つようになった。
自分の母親が来年で2015年で百才になるとき東京駅が開業したのは次の年であり2カ月くらいだった。ほぼ東京駅が開業した年に生まれたのである。
明治とか大正時代で錯覚しているのは人口が今の半分だったということである。
6千万しかいないとしたら風景まで変わっているだろう。
その変化が大きかったのである。百年で人口が倍になるということがどういうことか
そういうことは日本の歴史でもなかったし世界でも人口がこんなに増えることはなかったのである。
鉄道の歴史は日本が全国に鉄道網を張りめぐらされた結果日本人という意識をもったというほど鉄道の影響は大きかったのである。
切符を買えば日本だったらどこにでも行けるということは徳川時代からすれば関所があり簡単に他国に行けない時代からの大きな変化だったのである。
年表を見ると石川啄木が死んだのは1912年でありそのあとに東京駅が開業している。
だから上野駅の短歌を残しているが東京駅についてはない。
東京駅は大正時代を象徴する建物だった。

1921年に原町無線塔が建っている、関東大震災のことをアメリカに伝えたというので有名である。これも時代を象徴する建築物だった。
昭和になると戦争準備の年のようになっていた。満州へすでに進出していたからである。
鉄道の歴史をたどればそれも日本の歴史でもあった。満州鉄道というのもそうである。
釜山からソウルまでの鉄道を敷いたのも日本だった。その駅舎も残っていた。
日本は明治から鉄道の技術が進んでいたのである。それは現代では新幹線となりリニアまで発展している。鉄道が国を造ったという側面があった。
だから「国鉄マン」というとき誇らしいものがあった。
また地方でも国鉄で働く人が多かったしその人たちの組合が社会党を作っていたのであるそれが国鉄民営化になったとき衰退した。社会党も消滅した。車社会となり鉄道は衰退した。高速道路の時代へ車社会へと移行した。

東京駅はやはり何か東京の中心という感覚になる。東京は地理がわかりにくいし何か目印となるものがないし文化財にしても見るものが少ないからあれだけの都市でも歴史としての重みが感じられないのである。江戸時代300年の歴史を象徴するものがない、だから江戸城を復活させようとする運動かあるのもわかる。
皇居となっているのは明治からであり新しいからである。
ただ東京駅から皇居に通じているから東京駅に降りると東京の中心にまたは日本の中心に来た感覚になる。
日本はやはり天皇がいる所が中心になる。
ただ江戸時代は京都と江戸があり江戸が中心だったのである。
その江戸城に皇居が作られたから何か違和感を感じる。京都のように御所があればふさわしいとなるが江戸城というとどうしても徳川幕府の城だとなるからである。

京都だったら天皇からイメージするものがいくらでもある。だから天皇の都だったという意識がいたるところから感じる。江戸時代はむしろ東照権現が家康が起こしたものとして江戸があり日光があった。天皇にまつわるものは江戸時代はないから歴史的な連続性が感じられないのである。
江戸城が再建されたら皇居を見下ろすようになり宮内庁が反対だというのもわかる。
そもそも明暦に消失していたのだから江戸のシンポル的存在ではなかったというのもわかる。だから江戸時代の侍でも町民で意識されていないものだった。
徳川時代だったら日本橋が江戸の日本の中心だったのである。そこも交通の要所であり東京駅とにていたのである。
建物だけが建ってもそれがシンボルとなるにはやはり民衆の中でそれが価値あるものとならないとシンボルにはならない。
ヨーロッパが人気があるのは歴史がローマ時代でも二千年前でも遺跡として残っているから昔を偲べる。駅舎がドーム型になっていて聖堂のような感覚になっているのもあった。すると何か建物から威厳を感じて人間にも威厳を与えている。
「アテネの学堂」のような絵がなぜできたのか納得した。
ヨーロッパは都市でも建築の中に組み入れられたものとして作られていた。
だから整然として計画的に街自体が建築のように作られているのである。
建築には私的なものではなく公共的な概念が強いのである。
だから市民共同体はヨーロッパにあっても日本にそいういう基盤がなかったのである。

ただ東京はあまりにもビジネスへ一辺倒であり文化的なものがないから魅力がない
京都だったら寺が多くて困るけどそこには歴史があり文化的なものに満ちているから違ってい。江戸時代300年の歴史を象徴するものがないのが淋しいのである。
東京駅はやはり明治からの日本を象徴するものだがこさもオランダの駅の真似であり独特のものではない、だから日本独特なものを見たいとなると城がいいとなるのである。
東京駅に煉瓦作りであるときやはり名詞大正とかまでは煉瓦作りの建物が多い、それが日本全国でシンボル的建物になっている。特に銀行に煉瓦作りの立派なものが残っている。それから南相馬市の大原の廃屋の外風呂は煉瓦作りだった。
だから煉瓦作りとなると何か明治大正の時代を象徴していた、あそこもそれだけ古いのかともなる。富岡の製糸工場も煉瓦作りであり郷愁を感じるのである。
煉瓦は木より火事に強いから日本に普及したとも言われる。
とにかく江戸城もすでに明暦時代に火事で消失したように木だと常に火事で燃えているからである。

道幅を広げて飛び火を防ぎ、特に銀座の表通りの建物だけは、延焼を防止するために、従来の木造建を廃して、総て煉瓦造りの英国風建築に改造する都市計画を立てます

東京駅黄金色の銀杏散りしきて皇居に向かふ威を正しつつ
東京駅煉瓦の古りぬ行き交える人のあまたや年のくれかな
東京駅一騒動や百年をすぎて迎えむ新しき年を

東京駅の短歌とか詩とかはインターネットに見つからない、相当あると思ったがない
本の中にはあるがどこにあるかわからないから困る。
東京にはすでに十年は行っていない、月日がたつのは早い。
今年も暮れようとしている。


タグ:東京駅

2015年04月26日

春の日の新幹線の旅の不思議 (仙台から青森まで二時間だったことの驚き)


春の日の新幹線の旅の不思議


(仙台から青森まで二時間だったことの驚き)


東北新幹線と夕日
http://sakana114.exblog.jp/16757926/


新幹線盛岡とまり春の月
春の灯や盛岡すぎぬ新幹線
春星や新幹線に乗れる人
きらめきぬ旅路帰るや春の星

逢隈駅とまりてしばし残る花車窓に見つつ過ぎ行きにけり
とうとうと北上川の蛇行して岸辺の広く芽吹く樹々かな
みちのくの奥の深きも春の朝連なる山の霞けるかな
新幹線二戸にとまるタンポポの明るく映えてはや走り去る
新幹線樹々の芽吹きや風ゆれてひた走るかな青森までを
八戸に新幹線のとまるかな春田の見えてしばしのどけき
みちのくの春の山々残る雪新幹線の車窓に見ゆかな
みちのくの春や夕日のきらめきて新幹線の車体に反射す
仙台と青森結ぶ新幹線二時間なりし春の夜かな
十三湖西風強し春なれど新幹線にはや帰り来ぬ

新幹線は自分はあまり乗らなかった。旅する時間がなくなり最近東北新幹線でも乗った。青森まで開通して三年たったというけど行っていなかった。八戸までは行っていた。
ただ錯覚していたのは新青森まで三時間以上かかると思っていたことがである。
このことが大きな錯覚だった。
鉄道で三時間となると遠く感じるのである。暇な時間があるときはそうして電車で旅をしていた。それはぜいたくな時間だった。
急行にもあまり乗らず普通車で旅していたのである。

だから今回新幹線で青森まで二時間で到達したことに驚いた。
二時間ということはほぼ原町から仙台に行く感覚である。
それは前は相馬市からも通勤していたように通勤できる時間でもある。
それは一時間20分くらいである
それにしても二時間は本当に早い、距離として遠いという感覚が全くもてなかった。
それは今まで経験しない不思議な旅になった。

新幹線だと見えるのは山だけなのである。
だから新幹線から見える山を紹介するサイトがあったことでもわかる。
不思議なのはその山が連なってるように見えることなのである。
それは山と山の距離は相当にあっても新幹線は早いのだからその距離を短縮してしまうのである。
だから山の間が遠くても連なっているよように見えるのだ。
それで仙台から岩手山が見えるという詩を書いたりした。
今回は青森から仙台まで夜に来たが街の灯でもその間の間隔がないように感じる。
一つの街にきんきてもすぐまた街に来ているから街の間隔がない
街の灯が次々に見えてくる感じ蜷のも不思議な経験であった。
つまり盛岡の街の灯や一関の街の灯でも連続して見えるのである。
新幹線は空間の間隔を変えてしまった。

というのは津軽鉄道で終点の中里町から十三湖をタクシーで見に行った。
十三湖には西風が強く吹いていた。
ここに今ころこんなに強い西風が日本海より吹いてくるのかと意外だった。
ただ太平洋も春になると東風が吹くから海からは風が吹きやすいのである。
その西風をに見に受けて今日のうちに帰ってきたことも不思議である。
あそこは本州の最果ての地だけでも仙台からだって前はそうだった。
新幹線でゆくとそういう感覚がない、距離の感覚がもていなのである。
それでこの感覚はなんなのだろうとなる

技術はやはり人間に新しい感覚をもたらす、パソコンでもインターネットでもそうだった
ただ前から乗り物は車であれバイクであれ自転車であれ乗った感覚は違ったものとなる。見える景色もそれで体験するものは違ったものとなることはわかっていた。
新幹線も乗り物だからやはり同じだったのである。
いづれにしろ電車の旅が長いから新幹線にも鉄道ファンなら愛着を覚えるようになる。
その流線型の車体に春の日がさして反射する、何かその車体も愛おしとなる。
こういう感覚は自分は車にはもてないのである。
でも車をもっている人はそういう感覚をもつことは同じなのである。

ともかくこれだけ早いと青森が一段と身近に感じた。
青森は日帰りもできる距離にあるのかと驚いたのである。
一日泊まったがかなりの所を回ることができたのである。
そして7年間旅から遠ざかっていたからまた旅ができたことはうれしかった。
旅した感覚を忘れていたがよみがえった。
一時は身体障害者になりは旅もできないと悲観していたからうれしかった。
旅はまだまだできる、ほとんど休むこともできなかったがかなりの所を今回は効率的に回った。
こういうのは旅ではないにしろ青森までこんなに近いとすると青森が身近になったのである。
それが新幹線の効果なのかもしれない、青森の一日旅行でもかなり効率的に回れるということである。
今までなら行くだけで半日以上かかり一日かかっていたら長すぎたからである。
行きに一日帰り一日となると長すぎたのである。
新幹線は遠くを近くさせて一体感をもたせる効果があるのかもしれない。
だからまた青森には一日の旅をしたいと思ったのである。

新幹線にケンジが乗っている
このつづきだった、青森まで乗ってやはりこういう感じになる
空間感覚を新幹線は変えたのである。

 
タグ:新幹線

2015年04月29日

情緒ある弘南鉄道(黒石のこみせ通り) (春と冬をたずねてその土地のことがわかる)



情緒ある弘南鉄道(黒石のこみせ通り)


(春と冬をたずねてその土地のことがわかる)


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黒石弘南鉄道こぶし咲く
境松弘南鉄道夕桜

青森の山間の里知らじかななほ雪残り電車行くかも
春なれど雪の厚きや青森の山々車窓に写りてすぎぬ
駅の名を一つ覚えぬ浪岡や電車過ぎゆく春の朝かな
黒石のこみせを歩みあわれかな弘南鉄道に帰る春かな
松の湯と確かに松あり古りにけるこみせ通りや春の暮かな
黒石のこみせに昔を偲ぶかな買い物をして春となるかな
雪の日に温川(ぬるかわ)温泉に泊まるかなここより遠し春になたしも
黒石より小国は遠き雪うもれトンネルくぐり一度通りぬ
弘前城の雪を踏みにつ古き門入りて桜の根を見て帰るかな
弘前城古木のごとく三つの門雪を踏みしめ帰りし日かな
大館に泊まりしことあり冬の日や汽笛の鳴りて寒き日なりし

城下町時代、秋田から蝦夷・松前へ抜ける街道の中間にあったため、物資の交流など商業が大いに栄えた。豪壮な構えの商家・造り酒屋の妻入りや平入りの屋根のラインが、雪国独特の木のアーケード“こみせ”の上に姿を見せ、独特の景観を見せる。
http://www.jalan.net/kankou/spt_02204ad2150016774/

青森は東北では最果ての国となり情緒がある。青森県は湖があり海があり歴史もありいろいろ変化に富んでいる。鉄道も変化に富んでいる。
そして新青森で乗り換えて弘前に行ったのだがここだけが山間に入り雪が凍り残っていたのである。
やっぱりここは寒いのかとそこだけは最果ての国でまだ寒いからなのかと思った。
その山間をめけると雪はなく春であり今年は暑く夏にもなっていて気候は福島県とか東京とも変わりなかった。気候の変化を感じないから余計に距離感を感じなかった。
ただ十三湖で西風が強く吹いていたときだけ荒涼としたものを感じた。
そこは一四度くらいで寒かった。

黒石は前も一度行ったがこみせ通りには行っていなかった。
それでタクシーを頼んで行ったら松の湯があるところの古い通りとか言ったらすぐわかった。
松の湯のところはそこは工事中だったが松があるから松の湯になっていたのである。
これも地名と場所がぴったりとあいそれがこみせ通りに通じていたから情緒あると思ったこういう情緒はスーパーなどでは作れないのである。
そこには人間の営みとしての歴史があるためである。
歴史は現代では作り出せないものである。長い年月で作られたものだからである。
だから観光するとなると新しい通りはつまらないとなるしスーパーはただ買い物するだけだとなるからつまらない。
あそこを歩いて何か買ったりすると昔の情緒が味わえるのである。
だからあそこで松の湯に入ると癒される、いろいろ温泉をたずねあるいていた人がいた。温泉が熱いのかとしきりに聞いていた。
あれは相当な暇な人でありこれも退職した人であり温泉をたずね歩いているのである。
秘湯をたずねあるいている人もいる。退職した団塊の世代が今は相当に旅しているのである。
金と暇ができたからそうなる。

弘南鉄道もローカル線でありあれで黒石まで行くのも情緒がある。
「境松」とかありそうした駅名と地名がどういうわけか旅では心に残る
黒石という地名も何か青森では黒のイメージになるからあっているのだ。
あそこから冬には温川(ぬるかわ)温泉に行き二日泊まった
途中「小国」という所をトンネルをくぐり一軒宿の温川温泉に着いたのである。
小国という地名はどこにでもある、日本特有の地名である。
それは山深い所に多いのである。
小国というのは一つの国であり昔は自給自足していたからそうした地名が作られたのかもしれない。
福島県でも飯館村へ峠を越えて下がった平坦な盆地のような所が小国となっている。

バス泊まる梨の花咲く小国かな

そこてバスが泊まりしばらく待っていたことがあった。小国町というのもあるから小国という地名は日本全国で多いのである。
雪に埋もれた小国をバスが通ったときこんな奥深い所に人が住んでいて村があったのかと思う。今はどこでも行けるから秘境もなにもなにもない,実際に車でどこでも行けるから秘境などないのである。
秘境と思ったら観光地化していたというのが普通である。
ただ現代の交通の便がいいと何回も行ける、そしてその土地を知るには最低でも春と冬にたずねるべきである。
特に青森のような雪国は冬にたずねて春にたずねるとその風土が実感しやすいのである。冬に行くと全然違った感じになる。
弘前城でも冬に行った時、城内の雪を踏みしめて桜の根っこをみてきた。
そして春に訪れて桜が満開になっていたのを見た。
冬に耐えて一斉に一時桜は咲き散ってしまうのである。
そしてあの古い門が雪で埋まって通れないために高くしたというのも雪国らしいとなる。
弘前城に現存する門は、間口の高さが他の地域の城門に比べて高く作られています。これは、積雪時にも槍を掲げながら門を通過できるようにしているためだと言われています
これも風土であり何かそうした風土によって形成されたものが趣深いものが自ずから生まれる。都会は一様化するからつまらないのである。
どこにいってもビジネスのビルや観光用のものしかなかったらつまらないのである。
弘南鉄道とかあういうローカル線は情緒がある。
でも経営的には苦しい、津軽鉄道もそうである。
ただバスは情緒がない、車窓から見える景色も違ってくる
自分は電車の旅が好きである。バスでは移動したくないのである。
ただそういう恵まれた時は終わった。

今は思い出す旅である。
思い出を編むというかつないで一つの模様にするという作業である。
だからインターネットはそういう思い出す旅の役に立つ
検索できるからちょっとした知識でも役に立つのである。
弘前でコーヒーが薬としてはじめられたというのもそうだった。
旅というのはそうしたちょっとした知識を知っているのと知らないのではまた鑑賞の度合いも違ってくるのである。
だから芭蕉は平泉をその歴史ある場所として事前に調べていてあれだけの紀行文と俳句を残したとなる。
一面知りすぎても旅はつまらなくなるかもしれない、何か知らない意外のものとの出会い、未知(道)との出会いも旅だからである。
必ず旅にはそういうことが起きてくるのである。
決まったルートを行くだけではそうしたことは起きない、たから現代は交通が便利なのだけど観光地をただ回って終わるだけでつまらないとなる。
旅はその過程にあり目的にあるとはなちない、奥の細道は平泉が目的としてもその長い過程にあったからである。






タグ:黒石市

2015年06月06日

青森県の地名の謎 (鉄道の旅は地名が気になり記憶に残る)


青森県の地名の謎

 
(鉄道の旅は地名が気になり記憶に残る)

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今回久しぶりで青森の弘前まで旅した。それは新幹線でありあとは鉄道の旅である。
電車の旅だとどうしも駅名が心に記憶される。
それで自分は全国を旅して地名に興味をもつようになった。
今回もひさしぶりだったのでやはり地名が気になった。
何気ない地名でも鉄を旅はただ駅名だけが気になり風景が過ぎてゆきあとは記憶されないということもある。
地名とは一つの歌枕のようになっているのだろう。
その土地を地名を手がかりに知るというのは古代からあった
万葉集でも地名が基本にある。
日本を知るには地図もないのだからその地名をてがかりにしていたのである。

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎(かさのいらつめ)

これも陸奥ー真野ー草原(かやはら)も地名だと自分は推測した。
そしたら歌の中に三つも地名があるのだからいかに古代は地名が大事かわかる

浪岡

健保年間(1213〜1218)には行丘、鎌倉中期には波岡、慶長(1596)以降の徳川時代を通じて浪岡と改めたとされる。
地名の由来について詳細は分らず。

この町の名が気になったのは新幹線から乗り換えて弘前に行くとき山の中をぬけでた所にあったからである。
行丘(なめおか)とするとこの辺の行方(なめかた)郡と呼ばれていたからそれとにている。ナメという地名は滑らか(なめらか)から来ていて一字で滑(なめ)という地名もこのへんにある。
なめらかな丘で行丘となり波岡となった。そういう地形的なものが一番多い。
ここの地形は果たしてそうなっているのかわかりにくい。
ただ山をぬけたところであり行丘だと地形的にはあっているかもしれない。
なめらかな地帯に出てきてそこは人が生活しやすいということからついたのか?
新青森からは山深いなと感じた、今年は早めに春と夏がきていた。
青森も暑いくらいだったが新青森から浪岡にでるまでの山は深く雪がまだ残っていたのである。
やはり地名は地形的なものから名付けられるのが多いから地形を知らないとわかりにくいとなる。
弘前市について一晩とりま川部からのりかえて藤崎という駅があり町があった。
この藤崎もなになのか?

古くは淵先または淵岬と呼ばれていたという。
十三湖が内陸部まで深く入り込んでいたころの名残と見られる

藤崎

五所川原付近まで十三湖だった。丸山三内の縄文遺跡からヒスイが発見された、そこは青森の湾の方に近いからそっちの方からもたらされたのか?
藤崎というと藤とかかわりがあるとなれるが地形的なものだろう。
地名はあとからその名前からいろいろ別な風に語られるのが多すぎるからだ。
藤崎氏由来の説もありこさは安倍氏とかかわっているから嘘とも言えない
安倍氏が藤崎城を築城した時期には、既にこの土地に「藤崎」の地名が
存在していました。
現・南津軽郡にある、この「藤崎」の地名の由来は――
平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂が奥州の蝦夷征伐の際、
この地を訪れ、生えていた藤の大木から枝を切り、鞭として使用した。
使用した後の鞭を自然に帰そうと地に突き刺した所は、
「旧跡・藤巻森」と呼ばれました。
鹿島神社の北にある沼州川にちなんで、「沼州」と称された地に
「藤巻森」はありました。

藤崎は坂上田村麻呂にまで由来していて古い、でもこれも後から地名を元にして伝説を作り上げたのだろう。
ただ鹿島神社があることころは蝦夷征服と関係して建てられたことが多いことは確かである。
ここは十三湖の説が地形的にはなる。ただ安倍氏も津軽では蝦夷とかかわりその子孫説がある
青森では良くアイヌ語説の地名が多いと言われる、内(ない)は川であり平内とかそうである。川部とかもそうである。ただこれも別に他でもあるからわからない。
そもそもアイヌ自体が謎の民族だからである。
藤崎で忘れてならないのはここが藤リンゴの発祥地だった。
リンゴは好きで毎日食べているからこっちの方で親しみか沸いた。

板柳町

古くからこの地方に「いたや」「えぞいたや」「おのえやなぎ」などが繁茂していたことから、板屋野木村という地名となった。
後に板柳に改められた。

蝦夷いたやとなっていたのも津軽らしい。

田舎館村 

(1)蝦夷が住む中心であったことから、蝦中(えなか)と称されそれが転化した。
(2)稲作の生活から生まれた大和言葉の「稲家」が転化した。
(3)平安時代に「田舎の郡」と言われ、鎌倉時代になって田舎館と称される。
ここで興味深いのは蝦中(えなか)から田舎館になったということである。
エという言葉蝦夷語に由来していることを前に書いた
それは地形的に高台のものにつけられたののかもしれない

「漬ず」というのを見つけた。「水に浸(ひた)す」とあり、水に浸すと物は水圧で変形するので風貌が明らかに異なる人々に、接頭語の「え」を付け、「え-ひし」「え-みし」「え-びす」などと呼んだのではないかとした


ここから前にコメントあったがこちらの方が地名は専門的だから読んでください



北海道では「江別」「江差」「江刺」「枝幸」「恵庭」「襟裳」「遠軽」「遠別」などをあげることができるし、関東では「江戸」「恵比寿」「江ノ島」「荏原」「海老野」、中部地方では「恵那」、滋賀県では「愛知川」、大阪では「江口」「江坂」「餌差」「海老江」「恵我の里」、中国地方では「江田島」、九州では「海老野」をあげることができる。
「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。
http://asahi.co.jp/call3/diary/yamaken/chimei_05.html

エ・エトコ(頭,水源,山頂)
エサシ(山の頭を浜につけているもの,岬)
十三湖の小湾入のある「前潟」のことで,ie (尖った)rum (矢の根)ma (澗)J (尖った矢の根のような澗)
津軽にはほかに恵神崎(えがみざき)と
いう岬もあり,これは西津軽郡の岩崎村の岬である(図3)。この岬角名の語頭の「恵」
の部分にエンルムの「エ」が残存しているかもしれず,あるいは北海道の恵山(えさ
ん)のようにエサン(頭が浜に出ている岬)かも知れない




海老という地名もこの辺にある、それはえひであり海老とは関係なかった。
蝦夷はエミシでありそのエが何なのか、入江とか水と関係していることは確かかもしれない、蝦夷(エミシ)とは水辺に生活していた人たちのなのか
ヤマトはヤマを根拠地にしていたのかともなるがこれもわからない。
地名は何か確証がないのが問題であり勝手に想像で各人が言うから科学的でもないし
想像で作られた地名由来が多すぎるのである。
ただこれでもわかるようにエとは北海道にも広範囲にあるとなると蝦夷とはアイヌなのか?エとは北海道だげではない、日本全国の地名の基になっている。

相馬村 

鎌倉幕府の落人でこの地方に土着した一族に相馬氏がおり、その人物に由来するとされる
相馬藩も相馬氏が移住してその名となった。でも相馬市というのは戦後名付けられのであり新しい名である。相馬市と中村市だったからである。
だから意外と相馬市は地元でも実際はなじみかないのである。
地名でも姓名を基にしているのはまれである。
鎌倉時代に相馬氏の移住はここにもあったし津軽までもあったのかとなる。
タグ:青森地名

2015年06月15日

電車を待っている時間 (詩) (金のように計算できないから時間が節約できない)



電車(ディーゼル車)を待っている時間 (詩)

(金のように計算できないから時間が節約できない)

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春の雲がぽっかり浮いている
自由な気ままな旅
見知らぬ駅で途中下車
なかなか電車が来ない
遠い北の果ての鉄道
やっと一両のデーゼル者が来る
線路の脇にでんでん虫が眠っている
遠い見知らぬ駅におりたつ
そこには何軒かの農家があり
牛を飼い畑を耕し暮らしがある
そこにも駅があることがなつかしい
ああ、そういう自由な気ままな旅の日
それがなつかしい
今はただ日々家事に追われ介護に追われる
その時線路はどこまでもつづき
自由な時間がありふらりと途中下車
誰もとがめるものもなく
「どうぞゆっくり電車 (ディーゼル車)を待っていて下さい
その内電車も来ますよ」
夏の蝶が花々にとまり蜜を吸い
私は気ままに放浪していた
立葵の花が一際明るかった
私は延々と線路がつづく限り
自由な旅をしていた
そこに尽きることない自由な時間があった
しかしその時間も尽きたのだ
何事時間は尽きる
恵まれたものは自由な時間
それはもはや得られないことの衝撃
人に与えられる時間は限られている
何をするにしろ時間は限られている
そしてたちまち時間は尽きて老いる
そしてただ思い出すだけになる
そしてこの世から去ってゆく
私の時間は見知らぬ駅でなかなか来ない
汽動車(ディーゼル車)を待っていた時間
それは幸せな時間
その時間はもう二度と帰ってこない
人がこの世にいる時間は限られている
なかなかディーゼル車が来ないと思っていたら
本当にディーゼル車は来なかった
でも待つ時間に意味があった
待っている時間が人生の豊かな時間
そういう時間がない旅は記憶に残らない
ただあわただしく過ぎ去り
記憶に残らない旅となる


人間の盲点は常に時間を浪費していることである。
時間は金のように計れないから自ずとそうなってしまう。
金だったら物を買うのにもいつも意識して節約したりする
時間は節約するという思考が働かないのである。
時間をためるとか時間を一気に使うということもできない
金だったら多くたまったら一気にぜいたくして使ってしまうことができる
時間は一気に使ってしまったりできないしためることもできない
だから時間というのは常に不思議な理解できないものなのである。
ただ時間を理解できるのは老人になったときだけである。
これは誰でもはっきりと理解できる

人生の時間がなくなってしまったことを否応なく意識させられるからである
金だったらためることができるし老人になっても金は確かに有効に働く
ただ若いときの時間とかはもどってこない
青春という時間も二度ともどってこない
女性だったら若いときの美貌でももはや二度ともどってこない
ただ老人が若いときに失ったものの代わりとして経験から得たもの
知恵とかが備わってくる
若いときに読んだ本はいろいろあったが理解できない
今読んでみると理解できるのである。
人間の知恵とか理解力は老人にならないと身につかないようなっているのだろうか?

結局人間は何か失ってももまた何かを得るようになっている
ただ時間だけは失ったら取り戻せないのである。
それは巨万の富を積んでも取り戻せない
人生の時間は確実に切れるのである。
だから時間の謎は人間は何かを成しうるために時間が与えられている
その時間はそれぞれ限られている
時間とは刻々の時間であり日々の時間であり四季の時間であり一年の時間がある
人生の時間も子供から青春時代から壮年と段階があり
時間とはそうした日々の集積であり経験の集積である。
だかち人生は一挙に何でも経験できなようになっている
今日経験することと明日経験することは違っている
そういう経験された集積されたものがやがて実りとなる
だから老人はになるとその実りがいい方面でも悪い方面でも否応でも現れてくるのである時間が何に費やしたか確実に現れてくる

それは電車を待っていたのが自分の時間であり人生であったとなってもそうである。
つまり人生は何に時間を費やしたかで決まるからである。
何に金を費やしたかというより何に時間を費やしたかの方が人生を決める
つまりあらゆることに時間を費やすことはできないからそうなる
百億もっていてもあらゆることに時間を費やすことはできない
それで享楽に費やしても煙のように消えるし
また苦労してもその苦労した時間がありまたそれも人生だったとなる
それも無益とはならないしその苦役の時間もまた人生を作っていたのである。

時間はたいがい与えらるのは平等なのである。
金は不平等でも時間は公平なのである。
ただ金持ちだと時間を節約できることはできる
食事でもめんどうだから贅沢な外食ですませば時間がうく
高い金を払って家政婦を雇えば時間が浮く
自分はそれができないから時間が奪われているともなる
それでも家事は機械化されたとか外食もしているから時間を浮かしている
時間はいくら金があっても基本的にはある人が特別長い時間を得るということはできないのである。
そして時間を節約するということが金のように意識しないので時間は必ず浪費されているのである。
あなたが使う時間があなたの人生を決めているのである。


ディーゼル車は(ディーゼル)は北海道に多い

北海道では廃線になったのが本当に多い
タグ:電車の旅

2015年07月07日

仙台へ仙石線が開通したので石巻から女川まで行く


仙台へ仙石線が開通したので石巻から女川まで行く

今日は晴れたし三日間母を施設にあづけたから出かけることにした
仙台から仙石線が開通したので石巻まで行き女川まで行く
津波の後の復興の様子を見に行く
津波の被害を受けた所は高台になって海が見えない
野蒜なども駅前が山のような高台を築いた
あれを見ればいかに津波が高く被害が大きかったわかる
津波を防ぐの山のような高台を築くほかない
ただ海が見えず見晴らしが悪くなるから景観的にはマイナスである
ともかくまた出かけるのはひさしぶりである

2015年07月09日

高速で仙台へ仙石線と女川線にのる (夏の俳句と短歌)


高速で仙台へ仙石線と女川線にのる

 
(夏の俳句と短歌)

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奥松島


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女川線駅にカモメや夏の夕

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浦宿を過ぎてカモメや夏の夕

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万石浦


(高速道路)
バスに行く朝の十字路立葵

高速に夏の海見ゆ鴎飛ぶ
大川の二つそそぎて夏の海

(仙石線)
青田見え福田町や仙石線
若竹や仙石線に夏の海
老鶯や島々親し松の影
奥松島島影重なり合歓の花
奥松島島影一つ合歓の花
鳴瀬川河口に白波夏の海

(石巻)
千石町穀町海の風涼し
夏の日や石巻駅夕鴎
女川線駅に鴎や夏の夕
涼しきや万石浦夕鴎
合歓の花万石浦の夕べかな
浦宿を過ぎて鴎や夏の夕


ふるさとの山に青田や風そよぎ海を望みてバス走りさる
夏の朝風のそよぎて高速に海を望みて仙台に着きぬ
亘理駅電車とまりて鴎とぶ一羽やあわれ晩秋の野かな
故郷の山に向かいて月見草青田に鷺の朝に漁りす
ときわぎの松麗しく五大堂夏の日さして朝海光りぬ
ときわぎの松の緑に五大堂影の涼しく夏の午後かな
野蒜駅高台に移り白波よする夏の海見ゆ
石巻の人と語りぬ鴎飛び海風涼し残る松かな
石巻煉瓦造りの建物や日傘をさして歩む女かな
風涼し袖の渡しや石巻の人と語りて女川に行く
数十羽女川の駅に鴎とび復興の工事夏の夕暮
女川の湾にい出にし船入りて鴎あまたや夏の夕暮


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石巻煉瓦造りの建物や日傘をさして歩む女かな

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復興した仙石線で変わったのは東名駅と野蒜駅であり全く前と違っていた。
野蒜駅は高台に移り海が見えたから海を意識するが東名駅は山の陰になり
全く海が見えないから淋しい
仙台から仙石線は都会的であり頻繁に通る通勤の電車だから違っている。
一時間に一回とかでは本当は鉄道では少ないのである。
仙石線は東北ではだから珍しい線だと思う。
こういう線は関東とか関西には多いが東北ではほとんどないのである。
頻繁に通っているのは今では新幹線なのである。
鉄道の路線にも個性がある。それはみんな違った感じをもつ、仙石線は東北では特別なのである。
松島から奥松島と景色もいいから気持いいのである。
松島までは家が密集しているから景色は良くない、でも福田町までの区間に青田が見えたりするからその名のごとくなっているからやはり田舎的なのである。
多賀城は都会化して海も何も見えないからつまらない、ただ鴎が飛んだりするのは海が近いことを意識する。
実際に駅まで津波が来ていたのである。


石巻から女川線にははじめて乗った。途中の駅に鴎がとまっているのもいかにも海が近いからそうなる、万石浦も広いし牡蠣の殻が積まれていた。
女川駅は高台に移りそこはかなり高いしあの駅まで津波が来たとなると相当に高い津波だった。
まず復興するには女川であれ石巻であれ十年でもできないように思った。
今でも石巻でも店が閉まっているのが多いし復興するのは容易ではない
ただ仙石線と女川線がつながり新しく仙石東北ラインができたので石巻まで50分というのは早いから便利である。
通勤するにしても便利だなと思った。
常々思っていたことはなぜ常磐線はもっと便利にならないのか高速にならないのかと思うことである。
直通で急行で50分となれば確実に仙台の通勤圏になるからだ。
今は交通で遠い所も近くなるからである。

 
タグ:石巻 女川線

2015年08月23日

青森へ新幹線で行った不思議(詩) (津軽鉄道の終点、中里駅の旅情)



青森へ新幹線で行った不思議(詩)


(津軽鉄道の終点、中里駅の旅情)

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新幹線ではじめて新青森についた
途中二戸とか八戸と三戸とか五戸
その辺境の地名のみが心に残る
そこははじめて下りた駅
そこから普通車に乗り換えて
山間をぬって弘前に行く
今年の5月は暑いが雪が残っていた
その山間をぬけると開けた地が浪岡
弘前の五層の城は古武士のような風格
北の果てなる地に古の威厳を保つ
いくつかの古風な門をくぐりぬける
桜は今一斉に咲き誇る
優美な岩木山はその城より望み映える
弘前は喫茶店の街だという
ここではじめてコーヒが薬として飲まれた
その謂われもまた歴史を語る
弘前から津軽鉄道に乗る
高い煉瓦作りの塀を巡らした斜陽館
それはまるで城であった
地主として富を独占した
いつ小作に襲われるかもしれないと
高い塀を巡らした
そこに冬は津軽平野の西風が吹きつけた
終点の中里駅におりると
一軒のタクシーが待っていた
その運転手が一三湖に案内した
その道すがら地吹雪をふせぐ柵を説明した
ここの地吹雪はすさまじい
ここはその地吹雪を経験しないと
ここで暮らすものの厳しさを実感できない
一三湖はにごり波立ち西風が吹きつける
春なれどなお西風が吹きつける
一三湖は思い出した
砂に埋もれて栄し港は消えたと
運転手は津波で港は消失したと
それが生々しく思えたのは
今回の津波でいくつもの私の故郷の村が消えた
そのことを語ったのもまた時の巡り
十三湖の砂に埋もれた宋の銭
ここに船は巡り栄えたのは幻や
今はただ荒寥と西風が濁る湖にふきつける
私の住む所は太平洋からは春になれば
東風(こち)が吹くと言った
ここは春になっても西風が吹きつける
一十三湊は私の心に残る
そしてなぜか中里駅のそのタクシー運転手
その人が心に残る
その息子は仙台にいるというのもわかる
そこに働く場もないのだろう
青森県は常にそういう場だった
不思議なのは新幹線で二時間もかからず
青森についてしまったことだ
それほど近いのかという驚きである
最果ての地にそれほど近いのか?
すると中里駅でも近いとなる
新幹線は何か距離を短縮する不思議をもたらした
遠くが近くなり青森の津軽平野の最果ての地につく
だから中里駅も隣のようにさえ思えた
私は旅をしているうちに人生の終点を感じた
そこが旅の終わりのようにさえ感じた
人間は何をしても終わりが来る
人生は短く旅も尽きる日が来る
みちのくの最果ての地で終わりくるというのも
それも旅をしてきた私にふさわしい
その人がその場所が印象に残る
今なお忘れられた知られざる村がある
黒石市から雪に埋もれた小国
バスでトンネルをくぐると小国があった
あそこもまた奥深い場所である
あそこにも村があり人が住んでいる
冬はしんしんと雪に埋もれて青森は遠い
しかし新幹線でまた近いという不思議
旅も終わり人生も終わる
中里駅の一台のタクシー運転手
なかなかここまでは訪ねて来ないんですよ
新幹線でよる人増えたんじゃないですか
そうでもないです
終点はどこでも印象に残る

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新幹線で新青森から弘前市から津軽平野の津軽鉄道に乗ったのは不思議だった。
その不思議さは二時間ほどで新青森につき弘前とか中里となると辺境の辺境、最果ての地であった。みちのくでもそこは最果ての地である。
だから遠いと思っていたが新幹線で近いなとつくづく感じてしまった。
実際は自分は一カ月くらいふらり旅にでて帰らなかった。
今や二三日旅するのに難儀なのである。だから介護や自分の病気やらで七年間旅していない、旅ができないということが信じられないことだった。
それも近くですら出かけられないというのもショックだった
今回青森に行けたのは新幹線があったからである。でなければ日にちがかかるからできない、新幹線が時間と距離う縮小したから青森まで行けたのである。
青森は何か最果ての地で印象に残る地だった
それも自分の人生の旅の終わりにふさわしい場所に思えた。

津軽鉄道の終点の中里駅は何かこれも不思議だった。
一台のタクシーが待っていた、そのタクシー運転手も印象に残った。
あそこに一台のタクシーがあったことが印象に残った。
自分はこれまでタクシーをほとんど利用していない
高いから利用していない、でもあそこにタクシーを乗ったのは利用価値があった
タクシーで土地の人と交わるということにも価値があった
普通なかなか土地の人とは交わりにくい、タクシーは一応商売だから案内もしたりする
それは全部でないにしろ何か印象的だった
タクシーは外部から人の窓口になっていたのである。
青森の黒石もその名から黒をイメージするのも不思議である。もの寂びた街をイメージするが本当にそういう街だった。こみせ通りとか雁木の通りがあったりするからだ。
そこからバスにのって温川(ぬるかわ)温泉に行ったことがある。
その途中にトンネルをくぐると小国という村があった。
小国というのは日本のいたるところにある。まさに遠く離れた辺鄙な所で自給自足して暮らしていた所で小国となった。これも極めて日本的な地名なのである。
津軽鉄道はまた旅情があった、これは次ぎに書いてみよう。

ただ津軽鉄道でも斜陽館のあるところまつでは行くが終点の中里駅まで行く人は少ないみたいだ
でも中里駅からタクシーで十三湖に行くと津軽平野の荒寥とした景色が身にしみるのである。
だからあそこのタクシー運転手は何か津軽の旅には欠かせないものだと思った。
車の旅だというこういうことがないが電車の旅ではやはり旅情がある。
自分は最初の二〇年間は電車の旅であり次ぎに四〇才過ぎて自転車の旅であり50になったら海外旅行だった、そうしているうち人生の終わりに近づいたのである。
人間はなにをするにしろいづれは終わる
そして必ず過去をふりかえるのだ
旅というの蓄積である。旅でも忘れやすいから記憶として蓄積しないと忘れる
もう思い出せない所がかなりあるだろう。
だから思い出せる旅を心に残る旅をいかにするかが旅の秘訣にもなる
たいがい思い出せなくなるのはその五感に感じたものを記憶に残さないためである。
旅でであった女性がいたとしてその人に気をとられていると自然に対する印象は消えて
その女性の印象だけがのこり妄想にとらわれて記憶が消失するのである。
人間のエネルギーは女性に費やされるのが多すぎる、そこで貴重な時間が奪われていたのである。
それだけではない、人間というのはいろいろなものに雑なものに時間を奪われすぎているのである。
自然に集中できない、様々な雑なものが雑音が入り自然を記憶に残せないのである。

寂けさや岩にしみいる蝉の声 芭蕉

これは雑音ではない、一心に蝉の声に耳を傾ける静寂が沈黙が江戸時代にあったから残った句である。
その時観光客もまれだろうし車の騒音もないからこそこの句ができたのである。
今だとそうした句を作ることはむずかしいのである。
とにかく旅というのは一回限りのこともある
その場にはもう一回しかいることがない、海外だとそうなりやすかった
人間は旅でも一期一会になるがそれより自然との出会いも一期一会なのである。
自分は人間の出会いより自然との出会いに重点を置いた。
人との出会いとなると今はその場かぎりで合う浅薄なものになっているからだ
だから旅では人と出会ってもそこに時間がとられると自然と一体となる時間が奪われるのである。

結局人間は才能ではない、五感というのもこのように絶えず磨いていかなとその機能も低下してゆくのである。それは何でもそうである。
人間は常に何かを蓄積しているのである。自分が蓄積したのは旅だった
その旅も何か人間の欲望を刺激するようなものだとそっちのことばかり記憶に残り肝心のものが何も記憶に残っていないということがある。
だから青春の奔放な欲望を解放したような生活はあとで怖いことになる。
心に美しいものが残っていないという恐怖である。
欲望の残滓だけしかないという人も結構いるのである。
それを自分でも青春の時も考えられないのである。
青春時代の汚点が老年になりかえって鮮やかによみがえり苦しめることになる。
そして青春は過ぎるのが早いのである。
心の中に珠玉のように美しいものを残すような時間をもたねばならない
それがのちのちの宝となるからだ。金だけか宝ではない、老人になると記憶が宝となっているのだ。
そしてもういくら金を積んでもその記憶を作れないしその時間をとりもどせないのであるこれは本当に厳粛なことである。

時間などいくらでもある、暇で暇でしょうがない、暇をつぶすのが一苦労だ
自分もそう思っていたのである。暇をもてあましていたのである。
それが暇はない、絶えず家事であれ介護であれ追われる生活なのである。
ああ、暇だなと思っているとその暇も消失している。
50で海外旅行しなかったらもう海外旅行に行けなかった、そうしたら今どき外国に行かないなど笑い物になっていたのである。
実際に自分の識見は海外旅行しなかったときはそうだった。
だから人間というのは経験すべきことは経験しておくべきである。
山登りも今は体力がなくなり時間がないからできない
でも何度も登っている山があるからそこから思い出して山の詩を書いている
これも実際に山を登らない限り詩も書けないのである。
山は登ってみて実感するものがあるからだ

次回津軽鉄道の旅に御期待!



タグ:津軽鉄道

2015年10月03日

電車より見る春の城(俳句連作十句)


電車より見る春の城(俳句連作十句)

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花盛り天守へ登る福山城
春草や車窓より見ゆ姫路城
春なれど半月あわれ洲本城
船絶えじ春の夕陽や明石城
花散るや夕陽に映えて大阪城
夕暮れや枝垂桜の吉田城
川と海通じて春の吉田城
誰がたずぬ花ちる後や馬陵城
春の山四方に望み三春城
天守へと花咲く道を二本松城
車窓より春の夕日や白河城
残る雪車窓に見えて上山城
花の色幾日深む弘前城

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福山城は駅からすぐおりて城を見れる、駅が城のようになっているからめずらしい
一番印象に残ったのは姫路城である。
それは春の日であり車窓から遠くに見えた、ただ都会化しているからあまり大きくは見えないが確かに見えたのである。そこで心が弾んだ

洲本城は淡路島であり何かおもちゃのように小さい城のうように見えた。
ただ渚があり松があって波が静かで東北の荒い波とは違っているから落ち着く
その時出ていた月は半月であった。
ここにも城の物語がある。その物語を理解するのはなかなかむずかしい
ここは都会ではないから回りの景色がいい

明石城は瀬戸内海が見えて淡路島が見えて見晴らしがいい、船が絶えず往き来している
そこに春の夕日がさして沈んでゆく、
大坂城も春の夕日が燃えつつ沈んでゆくとき花が散ってゆく光景は忘れがたい
吉田城というのは豊橋だけどここは夕方訪れた、枝垂桜が印象に残った。
実際はここは東海道の繁華な街である。橋は浮世絵で有名である。
豊橋とは橋が有名なために名付けられたのか?
吉田城まで市電で行った、そのことは前に俳句でも書いた
吉田城で知らなかったのは海が意外と近く川が通じている、川をを防壁として作られた城だった。
青葉城も広瀬川を防壁として作られた戦国の城である。
相馬の城(馬陵城)も宇多川を防壁として城を守るためにもともとは城のすぐそばまで川があった。
戦国時代は川は敵から守るために川を利用して作られた。
ただ馬陵城は伊達から守るとしたら反対側になる、そのために堀を作った。

東北で車窓から見えるのは山形の上山城である。小さな城だけど見える、これも前に書いた
白河城も車窓から見える、あとは東北で車窓から見える城はない
西には城が多いが東北には少ない
日本の城は何か一般的に小さい、ビルと比べればわかる、なぜあんなに小さいのか?。
本当にあそこで生活していたのかとなる
でも当時はビルもないのだから一番目立った建物だったのである。
だから遠くから城は見えた、関所など越えて国が変われば城が一番目立つものだった
城は街の中心とてしあった。
ともかく城があるところに日本では歴史を感じる場所である。

電車から見るとどうしても走っているから記憶するのがむずかしい
要するにもっとゆっくりだったら記憶されやすいのである。
早ければ記憶しにくいのである。
現代はすべてが早いから印象に残るのが少なくなくなる
ただ通りすぎて記憶に残らないのである。
旅は今になと記憶に残ることが大事だった
第一記憶に残らなかったらこうして俳句にもできない
何かしらわずかでも記憶に残っているとそこから回想して俳句でも作れる

旅は簡単にできると思っていたが今は全くできない
何か今は日本でもホテルが不足しているとか旅しにくい時代になった
外人が多すぎるのも何か落ち着かないだろう
だから恵まれた時代を過ごしたとなる
ともかく何度でもやはり思い出して過去をふりかえることが意外と大事である。
テレビでも一回では記憶に残らない、二回三回と見ていると記憶に残る
映画でもそうだし本でもそうなのである。
俳句は短いから連作でないと何か芸術になりにくい
奥の細道は一句一句ではなく連作として鑑賞するものでありそうでないと俳句はなかなか一つの芸術となりにくいのである


タグ:春の城

2016年02月29日

東北新幹線ー春の俳句十句


東北新幹線ー春の俳句十句


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春光の窓にまぶしや新幹線

タンポポや新しき駅に新幹線

みちのくの春の大地新幹線

新幹線北上川の芽吹きかな

北上の春の流れや新幹線

雪の残るみちのくの奥や新幹線

春の街新幹線の通るかな

新幹線結ぶ速さや春の来る

新幹線きらめきあいぬ春の星

新幹線青森近く花見かな


北上の川の岸辺に風そよぎぎ柳青みて芽吹きけるかな

北上の流れはつづきその岸に柳青める新幹線行く

北上の流れの長く広きかな春の日さして新幹線行く




自分は日本の鉄道はほとんど乗った。乗っていないのは関西の私鉄と新幹線である。
新幹線は乗れたけどわがわざ乗らずに普通車で旅した。
新幹線の速さだと景色もゆっくり見ていられないし旅にならない
でもビジネスとか勤め人にとっては遠くに行くのは新幹線が便利である
でも途中がほとんど省かれるから旅として記憶には残りにくい。
駅でもとまるのがわずかだから駅の名を覚えて記憶に残る旅はしにくい
意外と今になると旅は記憶される旅が大事だった。
記憶に残らない旅は失敗だったからだ

それで「駅一つ名を覚えすぐ春の雲」とかなる、駅にとまることによりそこに旅情が生れるのが鉄道の旅だった。ただその旅には時間がかかった、何か今になると10年間も旅はしていないのでそういう旅をした自分が不思議に思う
自分の人生は駅を電車で待っていたのが人生だとなってしまう。
それは相当に恵まれたことだった。


結局ふりかえれば人生は何に時間を費やすかで決まる、それぞれの時間は限られているし何でもできない、何であれ時間を費やしたものが人生である。
金を費やすのではなく時間を費やすことが人生だということがあとでわかる
いくら金があっても費やす時間は限られているからである。
だからいくら金を費やしたかではなく何にどれだけの時間を費やしたかが人生だということがわかる

東北新幹線で見えるのは北上川である、これは長い川だから新幹線でもその一部が見える連続しては見えないが部分的に見える、こういう長い川だったら新幹線が早くても見える春に乗ったときその岸辺が見えて柳が青くなり芽吹きの季節で風にゆれていた
北上川は長いからその長さを認識しにくい、でも新幹線から早いから北上川をみるにはいいとなる
でも早すぎるから俳句でも短歌でも旅情がない、でも技術が進歩すると人間もそれと同時に感覚も変わる、自転車からみる景色と歩いて見る景色が違っているし電車から見る景色も違っている。電車でも普通車と急行とか特急とか新幹線ではまた違ってくる
自動車からは見る景色は自分にはわからない、車も景色を見るには適していないだろう。

新幹線も函館まで通じるから函館が相当に近くなる、距離の感覚は変わってくる
青森も二時間以内となる東京より近いなとか函館も東京くらいの距離かと変わってしまうでも青函連絡船とかの時代とはまた随分違ったものとなる
結局ヘ便利になりすぎると旅情は喪失する、一番記憶に残った旅は自転車の旅だったからである。
それが記憶に残っていることが宝となる、なぜなら自分が今自転車で北海道を旅しようにもできない、体力は落ちているしできないだろう。
人間はこのように何でもできると思っても時間が限られているし体力もなくなり病気になったりしてできなくなる、だからしたいことを早めにしないと後は一生できない
海外旅行にも今になるときつい、50代が限界だった。
その時しなければできないものとなった。人生の時間の過ぎるのは早い
遊んでいても何もしなくても時間はたちまち過ぎるのである


タグ:東北新幹線

2016年03月27日

北海道新幹線開業 (北海道には十回行ったー過去の記憶の街ー函館(詩)


北海道新幹線開業


(北海道には十回行ったー過去の記憶の街ー函館(詩)




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過去の記憶の街、函館


市電は過去の記憶を刻む
乗り場は駅でありその名に親しむ
老若男女が日々乗り合わせる
我は旅人なれば気楽なり
市電はゴトゴトコト街中を走る
その線路は刻まれた記憶の道
古い喫茶店が十字街にある
私はかつて函館の住人のようにあった
私は長く気ままにそこに滞在した
青函連絡船もその時あった
函館と本州は船で結ばれていた
白波が両側から打ち寄せる
立待岬に荒々しい波が打ち寄せる
エゾカンゾウが崖に咲き鴎が飛ぶ
ここに啄木の一族の墓がある
函館はその時青春の時代
榎本武揚が夢見た蝦夷共和国
日本の夜明けの熾烈な抗争の場
斬新な五稜郭に古風な見張りの屋根
ここに幕府軍は力を尽き船は沈みぬ
函館はその時開港して外国に開く先進地帯
今は秋から冬となり過去の記憶の街
ゴトゴトゴト市電は今も記憶の街を走る
私は冬の日もたずねた
入船町にロシア人などの異人が眠る墓
ハリスト正教会の屋根
カトリック教会の塔
トラピスト修道院も樅の木立ちて鎮まる
瞑想と祈りの日がこの北国にある
函館の市電の乗り場に凍てつく雪
その雪を踏みしめて歩みぬ
啄木の墓はここにありここに眠りぬ
そこはふさわしき奥津城なれや
明治の青春の日の形見なりしも


啄木の墓

立待岬の崖反りて暗し
荒波の大森浜に打ち寄せ
その波の音のひびき聞きにつ
啄木の墓の雪に埋もれありぬ
荒寥たるかなその一生
函館にその跡しばしとどめぬ
市電は路地を曲がり鈍き音
鴎とびきて冬にも旅人あり
坂を上り下りして暮らしあり
入船町に外人墓地や船は入りぬ
ハリスト教会や天主堂教会の塔
その鐘の音の海にそひびきわたり
ここに外国への門戸を開く
五稜郭に榎本武揚の蝦夷共和国
その夢は開陽丸の沈没とともに潰えぬ

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北海道というと十回は行っている、それも一カ月くらい一回で行っていた。
それほど自分は暇だったのである。
何故そうなったかというと梅雨の時期に家にいるのが嫌だったから北海道に行った
仙台から苫小牧までのフェーリーが便利だったのである。
電車で行くと新幹線すらないときがあったから遠かった。
青函連絡船の時から北海道に行っていたからずいぶんそれから月日が流れたと思う

函館にも何回も行った。函館から入るのと苫小牧から入るのは相当に感覚的に違っている函館は明治を象徴した街であり苫小牧はじかに北海道の大地を感じる
苫小牧に下りた時から北海道の大地を感じる、ルピナスとか北海道にしかない花が咲いていたりするからである。空気まで違って感じるのである。
最初は電車だったがそのあとはものたりなくなって自転車になった。
本当は最初は自転車でそのあと電車になるのが良かったが逆になった。
旅というのは意外と遊びのようにでもエネルギーが必要である。
特に自転車になるとそうである。旅をするというとき今は便利だから楽になりそれがかえって記憶に残らない旅になる。
旅とは峠があればそれを徒歩であれ自転車であれ苦労して上るときそこが記憶される


人生でも苦しみや不幸を経験しないと幸福が何かわからない、自分もここ十年間介護から何から苦しみの連続だった。でも今なにかその苦しみから解放されたなと幸福感がある
幸福とは苦しみがなければ不幸がなければありえないのである。
幸福ばかりだったら幸福はありえないとなるのだ。
今はだから旅をするというとき保養であり旅人はいないのである。
旅人になるというときそれだけの時間もないし便利だから二三日保養になる
江戸時代あたりだと歩いて行くとなるとそれだけで苦労だし旅になってしまう。


北海道の魅力はやはりそこが明治を象徴したフロンティアだったことである。
日本にもまだ耕すべき広大な土地が広がっていたのである。
その頃農業中心だから常に土地が求められてきた。それは満州にも求められてきたのである。それが戦争の原因にもなったといわれる。
農業中心だと土地が必要になるからである。戦後もブラジルとかに移住したのも農業するためでありそのための土地を求めていたのである。


北海道新幹線はそれぼどインパクトはない、それより青森まで新幹線が通ったときインパクトがあった、弘前から津軽鉄道に乗って終点の中里駅から十三湖にタクシーで行ったときはずいぶん近いと感じたのである。二時間くらいになると本当に近い。
ただ函館までは別にたいした距離ではないから新幹線の効用はそれほとない、現実にすでに開業したばかりでも空席がでていることでもわかる。
つまり札幌まで伸びない限りインパクトと効用はない、だから別に新幹線で函館まで行ってみたいとも思わない、松前には行ってないから行きたいとはなるか新幹線に乗ってみたいとも思わないのである。

ここ十年間介護に追われたりして旅はしていない、そして旅もできなくなる
自転車だと疲れるしなんか億劫になってしまったことである。
だからつくづく旅すら人間はできなくなる、これほど旅してもこれだけで終わりかとなるのが人生である。それは何でもそうである。
みんな終わってみれば人生はこれだけなのかとなるのに驚くのである。
もっといろんなことができると思ったが本当にできない、読書すらできない、せいぜい本でも100冊読んだらいい方である。その知識で書いているのである。
第一インターネットがないとまともな本が地方では読めないということが大きな問題だった。まず詩などとなるとどういうものがあるのかとかそれすらわからない
今は通販で詩集を集めて読んでいるがあのころはまずできない
それで仙台まで行って買っていたのである。それでも詩集など買いなのである。
だから田舎は知的なものを探求するには相当に不利だった
時代的に損得は必ずあるかちらどうにもならないのである。

いづれにしろ自分にとって北海道は第二の故郷である。十回も行ったからそうなる
新幹線は自分は山陽新幹線も乗っていないし北陸新幹線も乗っていない、鉄道が好きでも新幹線は敬遠してゆっくり普通の電車でわざわざ乗っていたのである。
だからこれも時間があるからこそできたことなのである。旅は金より時間がないとできないのである。暇人しかできないのである。
今回の北海新幹線にはそれほど魅力を感じないのである。

2016年07月20日

夏の日電車で小高まで



夏の日電車で小高まで


(小高には帰る人は少ないだろう)

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このカバンが何か仕事が始まったというのにふさわしい
品行方正という感じのカバンなのである。

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町暮れむ電車を待つや合歓の花

走りゆく電車に見ゆる夏の月

開通す鉄路の熱く藪甘草

小高へと汽笛ひびきて夏の山

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まだ人気が少ないからこんな感じになる



ひさしぶりで電車に乗り小高まで行った。原町へ小高からは四、五人しか乗らない
女校生が一人おりた。街から離れているという、迎えるにくる家族を待っていた。
もう一人は鹿島の仮設にいる人だった。

「オレ、新しく家建てたよ」
「どこに住んでいるの」
「小屋木だよ」
「みんな帰ってくのか」
「部落では三割くらいだな」
「街から遠いと不便だな」
「街から4キロ離れているよ」
「それは不便だ」
「まあ、仮設には来年の三月までいることできるよ」
「そんなに長くいられるの、みんな帰ってくるのかな」
「帰ってくるよ」
「他で若い人は家建てたとか別な暮らしになったからな」
・・・・・・・・・・・・

みんな同じようなことを言っている、補償金で新築した人も多いだろう。
そういう点では良かったが若い人も帰ってくると思っているのは甘いという人もいる。
要するに避難解除になってもほとんどは帰っていない、仮設にまだまだ住み続ける
20分の停車でありすぐひきかえしてきた。あと帰るとなると便がないからだ。
街中でも住んでいる人はまだ少ないだろう。
小高は終点で駅員がいたが鹿島は無人駅になったのも変化だった。

ともかく電車は待つ時間がありそれが旅するものには記憶となる。
合歓の花が咲いていてホームに涼しい風がふいてくる
それで電車で旅したことを思い出した。
電車を利用するにしても原町まで往復400円だとすると高いとうい感じになる
自転車だったら無料だからである。ただなんか体が弱ってくると電車がいいとなる
小高から買い物の車がでているが便数が少ないからやはり不便だ。

帰りは原町の喫茶店で食事して休み帰ってきた。
原町の駅前の書店も閉鎖した。ただ大きな図書館だけがある。これも何か無駄だったのか?、今になるとインターネット化すると図書館は何か無駄になった面がある
まず図書館で調べ物するのが容易ではないのだ。
なぜなら何か書くときは参考にするものが本でも必要なのだがそれをいちいちとりだすとなるとめんどうなのである。
インターネット化しても蔵書が一定数ないと書くことはむずかしい。
要するに自宅が小さな図書館のようにならないと何かを書けないのである。
自分の家はある程度そうなっている。

時代は常に変わる、本がなくなるなどイメージもできなかったろう。
そしてこの辺がこんなに変わることもそうである。
あそこは高校生が電車を待つ場所なのかとも思う
高校生は帰りで一杯乗っていたからである。

駅前にいろいろあれば電車で来てもいいが今はほとんどなにもない、駅前中心には街は作られていないからだ。
今日も暑かった、電車が走り夕方に夏の月がでていた。これも何か電車ならではの面白さである。
タグ:小高駅

2016年12月11日

南相馬市鹿島駅で出会った人、外部の人の出入りが多い (グローバルなものとローカルなものの理解を深めるにはいい)


南相馬市鹿島駅で出会った人、外部の人の出入りが多い


(グローバルなものとローカルなものの理解を深めるにはいい)


この辺では外部からの人が来ている、今日は日曜日でありあんないばん見ていた人は浪江の人だった。

「どこに行くんですか」
「西町です」
「それならここを真っ直ぐ行って橋に出て川を上った所です」
「遠いんですか」
「10分ほどで行きます,近いです」
「どこの人ですか」
「浪江です」
「復興住宅に移るんですか」
「そうです」

最近シシドスーパーの隣に復興住宅ができた、ほぼ完成した、それで移り住んでいる人がすでにいる、その人もそうだった。
あそこは浪江町とか飯館村の人たちが住む、小高の人は住まない、県営住宅であり南相馬市の人は住まない、かなりの数の人が今度は復興住宅ができて南相馬市に住むようになる原町のキクチスケーパーの隣の団地でも浪江町の人が住んでいた、その数も多いのであるそれより雲雀が原の五階建てのビルには驚く、この辺では五階建てのビルは病院くらいだからである。
あれを見たら都会だなと本当に思う、それだけ威圧するように高いビルが並ぶ
だからそんな所に住む人がいるということは相当数の人が南相馬市に移り住むということだろう、今までは分散していたのが仮設から復興住宅に移り住むようになる
その数が多いから南相馬市でもなんらかの影響があるし回りにも影響がある。
だから今になるとつくづく原発というのは大熊とか双葉だけの問題ではない、広範囲な地域をまきこむものだったのである。補償金でもめたのもそのためである。

もう一人の人は話していたら大分の人だった。大分も熊本地震の影響があった
ところが熊本ばかり注目されて大分は注目されなかったのである。
その人がなぜここに来たのか?
「地震で仕事がなくて来たんです」
そういう事情の人もいたから熊本地震もこの辺と関係していたのかとなる
大分というとなじみがない、阿蘇は熊本と大分の境にあった。
いくら全国を旅行したからといってすべてには通じ得ない、九州は遠いからわかりにくかった。
そして報道では熊本も被害は盛んに言われたが大分もそれなりに被害があったらしい。
大分というとき韓国から船で福岡に来て宮崎県だったかどこか船で東京まで帰った
その時伊豆の七島の島影を見た。そこは鎌倉の領域でもあったとかなる。

またこの前会った人は最初札幌から来たと言っていたので札幌の会社に転勤した、その人は年であり一旦退職してからも働いているらしい。
その人はドイツに8年間いたという、それはソビエト連邦の時代だったのである。
カザフスタンまでも行っていたらしい、これも驚きである。
その人は何か技術関係の仕事をしていて放射能関係の検査で会社から派遣されている
だからここで住むところも会社から与えられている
こういう人も田舎では会うのはまれだけどこんな事情でそういう人も来ている
こういう人は世界を日本でも会社の命令で渡り歩く、派遣される、だからこういう人は故郷に農業して外に出ない農民とかとはまるで違った人である。
グローバルに仕事をする人だとなる
こういう人はまず故郷とか関係ない、だからこういう人は何にアイディンティティをもつのだろうともなる

外国旅行で出会った人もそうだった。その人はフランスに一年いたとしても会社で派遣されこたのではない、自ら行った同年代の人である。
ただあの時代では外国はそれほどなじみがない、気軽に行けるものではない、それであとでスペインから船でアルジェリアにわたった、労働者を手配するためである。
アルジェリアはフランスの植民地だった、そこに石油がとれるからである。
そこで日本の日揮という石油関係とかのインフラを整備する会社の人がテロにあい十人くらい殺されたことも驚きであった。
そんな仕事をしている人がいるというのも驚きである。

ただ今の社会は日本国内でも広域化しているからめずらしくはない、この辺は原発事故以後は日本中の人が来ているから別に九州でもめずらしくない、ただ熊本地震の影響があって仕事がないから除染関係の仕事を求めて来たというのは特殊だと思った。
この辺は人の出入りがはげしい、それで鹿島駅で時々話かけているのである。
今日は特に仙台まで電車が通るようになったので二回くらい行った。
やはり駅は外との窓口となる。あそこに何か喫茶店のようなものを作るとか商工会で計画しているとか言っていたがそれはただ案だけなのだろう。
無人駅になったからそう話が出たのかもしれない

自分は外国もかなり旅行したからドイツに8年いたというときどこですかと聞いた。
ケルンですと聞いたときあそこはあの塔にも上ったし親しい感覚になる
ライン川が流れていてその場がイメージできる、日本だとたいがいはイメージできるが外国となるとそうはいかないがケルンは塔がありライン川があるからイメージしやすいのである。
だからたいがいの人と話を合わせられる、それは地理的なものであり理系の人は仕事のことなどわからないから話せない、ただ地理的なことを知っていることが外部の知らない人と話すときは大事である。地理が基礎になるということである。

アメリカの雑誌「タイム」は21日、毎年恒例の「世界で最も影響力のある100人」を発表し、日本からは、東日本大震災後の住民の窮状をで訴えた福島・南相馬市の桜井勝延市長ら、被災地の2人が選ばれた

こんなことは今までならありえない、それより外国に行ってフクシマというときすぐあの原発事故があったところかとなり世界的有名になったのである。
悪い意味で世界に通じる場所になってしまったのでしる。チェルノブエリと同じである。だから原発事故で奇妙だがこの辺は国際化したということにもなる。
世界の研究者も科学者もおしかけたからそうなった。

自分も遅かったが十年くらい世界旅行したからそれなりに国際化したし外国のことに興味を具体的にもつようになった。
今の時代グローバル社会になるとどうしても実地に世界を回らないと知識的な仕事はできない、グローバル社会ではそれを否定しても世界の中で生きざるを得なくなっているからだ。
ただ自分の課題として原発事故でもこれはフクシマという田舎で起きたことでありそれはグローバルなものとローカルなものとの問題でもあったのだ。
ローカルな地域的なもの自然を破壊したということで極めてローカルなものとして相馬郷土史を追求してきた。
そういう視点はそもそも地元でも欠落していたのである。
津波だって400年前に700人溺死ししていたという記録が相馬藩にあった人はほとんどいなかったのである。
つまりグローバル社会になってもいかにそこに住む地域的なものの知識が欠かせないとうことも思い知らされたのである。

意外と今の時代この地域的ローカルなものがないがしろにされているのである。
ともかく日本より地域より外国に詳しい人がいる、ところが肝心な自分の国のことや住んでいる地域のことを知らない人が多いのである。
そして地域のことを自分の住んでいる場を知らないとうことは致命的になるのである。
今回の津波とか原発事故がそれを思い知らされたのである。

地域とかローカルなものというときそこには自然がありその自然に基づいた暮らしがあるとき外国も同じなのである。自然をアイディンティティとして文明文化は作られてきたからである。樅の木があるとする、それは日本にもある、そればどこにでもある。
そうなれば樅の木のことを日本にいても理解できるとなる、ただ樅の木がドイツの古い時代のように森のようになっていることはない、でも樅の木がないとしたらそもそも理解できないのである。
でも日本に住んでいてもそういう自然の理解が今は欠けている、東京になどいたら樅の木であれ自然がない人口空間なのである。すると日本の文化も理解できない、まししてや外国の文化も理解できないのである。

つまり外国を理解しようとするとき日本を日本でも自然とともに生きてきた田舎を理解できないと外国も理解できないとなるのだ。
日本というとき別に奈良とか京都とは限らないのである。かえって樅の木というのはドイツの象徴になっているがではそれを京都とかに行っても理解はできないのである。
ローカルなものとグローバルなものが別になっているようでも実は自然から見れば共通のものアイディンティティがそこに見いだされるのである。
まず現代はこれだけグローバル化してもかえってローカルなものの視点が欠如しているからグローバルなものも理解できないという逆説がある。
だから世界を渡り歩いても必ずしも世界を理解するというものでもないのである。

2016年12月12日

鹿島駅の入り口の戸が重く開閉しにくい (南相馬市市役所に相談したが・・・)


鹿島駅の入り口の戸が重く開閉しにくい

(南相馬市市役所に相談したが・・・)

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錆び付いて重い 

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鉄塔が建ち八重桜は切られて残念



最近毎日鹿島駅に行って外からの人と話したりしていたので駅のことが気になった。
今日は十人くらいかJRの水戸管理局の人たちが来てみていた。
もったいないのは八重桜の木をみんな切ってしまったことである
鉄塔を建てたため切った。やはり駅はやはり街の象徴としてあった。

その入り口の戸は相当に古くなっている、さび付いていて重いのである。
冬だと寒いからいちいち開けたり閉めないといけない、改札口はあいていても入り口も開けていたら寒いからである。
それでそれが開けたり閉めたりするとき重いからやっかいになる
それは利用する人がみんな思っていることである。

今回仙台まで開通することでいろいろ新しく整備したからそのことで聞いてみた。
一応聞きはしたが別にそれで直すとか上の人に言いますとかは言わない
それで市の方に相談した。そこはJRの管理になるので市の方でもどうにもならないですとか言った。
それもおかしいと思った。なぜならみんな市民が困っていることだから市の方でもなんらか対策があってもいいと思ったからである。
これは自分一人が思っていることではないみんな不便を感じていることなのである。
それは市民の要望なのである。

ただJRの土地でありJRのものだから市ではなにもできない、市民も何もできないとなったらこの世の中どうなるのか?
JRでも公共機関であり民営でも公共のものである。そういうことは会社なら必ずある。
会社ならなんでも勝手にしていいとはならないのである。
反面そういうふうに公共的なものとなると利用する方も維持することに尽力する必要が出てくる、なぜなら民営となると利益が出ないならやれないからである。
「迷惑にはなるでしょうが予算がないんです」とかなればどうにもならなくなる
前は国鉄であり国で運営していたから違っていた今は利益を出ないことはしない。
だから北海道の鉄道は運営できないので廃止になってゆく、そういうふうに利用する方も考えることになる

明治以降はかえってこうしてみんな民営になり私有権が認められ主張するようになった。それは過剰なほどそうなった。それで補償金がもらいたくて自分の家の前の海は自分のものだ、私有権があるとまでなって主張したのである。
海は誰のものだとなればそれは本当に漁業する人たちのものだけなのか?
それで民間で勝手に魚釣りをできないと不満を言う人がいた
資源を守るためだと大義名分はそうでも原発事故でそうではなかったからである。
船主などが漁業権を東電に売り渡していたのである。
海を売ることができるのか?海は漁業権をもっているもの達のものなのか?

そういうことは原発事故ではいろいろあった。
極端な話が原発を建てた土地の所有者と県の許可で原発が建てられたことになる
その土地は俺のものだから何も言うなとまでなってししまいこんな大惨事になる
そして双葉町でも大熊町でも富岡町でもそんな狭い範囲で勝手に決められていいのかとなった。
現実に今やそういう人たちが避難して立派な家を建てることに回りの人が不満になったのである。原発はとてもそんな狭い範囲の人たちで決められるものではなかったのである。
土地とか山でも森でも大地でも海でも公共的なものでありなかなか一所有者のものとなりにくいのである。海だって大地だって山だって森だって自然は一つのものとしてつながっているからである。
飯館村で自分の土地を除染するより売りたいというときもし売ったらそこが放射性物質の処理場にされると今度は回りに影響する
現実に放射性物質を入れたフレコンバックが破れて流れだしたら南相馬市にも流れてくるのである。真野ダムでもそうである。

海にしてもあれだけ汚染されたのである。そして東電の前の海は誰も立ち入ることはできない、漁業権を組合で売ったからである。東電の私有地になったのである。
何か私有地というのは明治以降増えたのである。
猪苗代湖でも一部私有地になりバンガローなどが建っている、迷って入ったらしかられたそういうふうに自然を私有することができるものなのか?
それで山でも無数に分割して私有化された結果として土砂災害でもふせぎようがなくなる俺の山だから勝手に木は伐っていいとかなるとそこから土砂災害が起き安くなる。
森も山も全体だからである。

いづれにしろ鹿島駅でもJRの所有地だから全部勝手にしていいとはならないだろう。
街の景観としても維持する必要もあるし街全体の問題なのである。
それはあらゆるところで言えることである、私有権をあらゆることに認めると公共性が失われる、そして公共性のないものはこの世にない、一軒の家をもってもそこには自分のものだけとは言えない,それが空家化するとわかる、周辺に影響するのである。
何かそういう公共的志向がかえって明治になって民主主義化して失われたというのも逆説である。
原発でも何かそういうふうに漁業者でもただ利益しか追求しないで私有化して海を東電にうりわたした。巨大な会社に海が買われてしまったのである。
そういうことはグローバル化して世界で起きた、巨大な多国籍企業に森でも自然でも買われるのである。
第一そもそもが東電によって政府によって双葉町とか大熊町とか富岡町は町ごとが買われてしまっていたのである。それほど東電が大きな会社であり政府もかかわっていたからそうなった。

公共的なもの自分の住んでいる市町村に関心をもつのは日々の生活にかかわるからである毎日駅に行くとして戸を開閉するのに難儀するとなると嫌だとなるからだ
ただこういう身近なものは気づきやすいが大きなものにると原発とかなると立ち入ることも何もできない、その回りに住んでいても何もできない、ちょっとのぞくこともできないその回りに住んでいても一番危険地帯に住んでいても住んでる人は何もできなかったのである。



1898年(明治31年)4月3日 - 日本鉄道の駅として開業。

乗車人員推移
年度一日平均乗車人員
2000 596
2001 564
2002 530
2003 522
2004 524
2005 484
2006 461
2007 434
2008 430
2009 405
2010 378
2011
2012 293
2013 313
2014 299
2015 318

鹿島駅は開業当時からの古い駅舎らしい。だから相当に古くなっている
乗降客を見ると2000年に600人であり震災前の2010年にすでに378まで減っていた。
震災後は半分になっていた。
でも2015年には318になっているし仙台まで開通するとなると増えるかもしれない、
津波原発事故以後外から来ている人が結構いたからである。

岩手県の区界(くざかい)は一日の乗降客が一人しかいない、あそこは雪に埋もれていて岩手県の境だった

一日の乗降客が300人はまだ多い方である。でも鹿島駅でそんなに乗降客がいるようには見えない、なんか10人程度しか乗り降りしていないからだた。
ただここは300人以下にはならなんかもしれない、10人とか20人となると厳しいとなる。

2016年12月15日

五年六カ月ぶりに仙台まで電車で行く (バスで行くのとは全く違った感覚だった)


五年六カ月ぶりに仙台まで電車で行く

(バスで行くのとは全く違った感覚だった)


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クリック拡大  端に船が見える

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新しい駅、都会風である

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亘理の城が見える

長町でおりる


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定禅寺通りの喫茶店

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なぜか三本の木の絵が





新地駅沖に船見え冬の海

沖を行く船の遅しも冬の海

海見えて駅新しき師走かな

松一本電車に見ゆや枯野かな

長町の通り新しはや落葉

復興の電車に帰る冬満月


船一艘沖に見えつつ冬の海復興の電車高架橋行く

三本の欅の枯木見えにつつ定禅寺通りの喫茶店かな

仙台の通りを行きて骨董店しげじけと見て冬のくれかな

仙台の通りを行きて街灯や雪の舞いきて夕暮るるかも

仙台の通り歩み人ごみにまじりて帰る師走なるかな

五年ぶり電車にのりて年月のいつしかすぎて師走なりしも

なお生きて電車にのりて仙台に行く老人や年のくれかな

我を待つ人とてなしも冬の灯を我が家に帰りともしけるかな


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なんか今日仙台まで電車で行ったことが不思議だった。バスよりずっと楽だし仙台を身近に感じた。
行くとき自分よりふけた老人がやはり乗ってみたいと仙台まで乗った。
何か自分は津波とか原発だけではない、一〇年間介護して近くにもゆっくりでかけられない、旅もできなかった。だから本当にも旅ができないのかと思った。
仙台に行くのもこれで終わりなのかとさえ思うこともあった。
なぜなら本当はまだ長い時間がかかったかもしれないからだ。
80才くらいになったら本当に乗れないと思う人もいた、それだけ五年六ケ月となると長いのである。
人間は本当にこれが最後だなとなんでもつくづく思うようになる。
そのことが老人と若い人との大きな差なのである。
何にしろこれが最後なのかと感じてしまうのである。

車窓からの景色はまるっきり変わった、海が広く見えていた。一艘の船も見えた。
高架橋だから振動が少ないとか踏み切りがないとか今までは違っている
多少早くもなっているのかもしれない、時間は一時間二十分だからたいして変わりないみたいだ。
でもバスと較べると本当に楽だし気持ち的にも楽である。仙台がずっと近くなった感じである。それは結局五年六カ月も電車に乗っていないからである。
何か電車のありがたみを感じた一日だった。
北海道辺りだとこん津波が来たら復興はできない、乗る人が少ないから復興はできない。ここは少なくなってもまだまだ乗る人が多い、山下とか坂本でも仙台の通勤圏内になからだ。今日は結構乗っていたみたいだ。

今日は長町でおりた、ここも変わっていた、大きな家具店ができて高いマンションができて新しい広い通りができていた。これも何か不思議だった。すでに落葉の道となっていたそこから地下鉄で勾当台公園に出て定禅寺通りの喫茶店に入った。
あそこから三本の欅の枯木が見えて落ち着く、壁にその三本の樹の抽象画が飾ってあったのも不思議である。あの場所にふさわしいとなる

仙台では定禅寺通りの欅の木を喫茶店から見ていた。あそこは落ち着く場所である。
それも何か不思議である。ええ、まだ自分はここにまだいるのかというふうに感じたのである。
そういう感覚をもったのは介護十年とか津波原発とか大変化にさらされたからである。
家族二人を失ったことも自分にとって本当に辛い大きなことだった。
人間はこういう大変化になると感覚的に変わってしまう。
戦争など経験した人もそうだろう。まだ生きているんだなとかなってしまう。
例えば津波で流されて助かったような人もまだ生きていたなとか不思議な感覚になるだろう。そういう経験をした人がこの辺には多いのである。

骨董店などをのぞいたがいいものがあった、買いたいなと思ったが今回はやめた、それから古本屋に行き古い詩集などを買った。仙台にはずいぶん通った。それは二〇年前とかは本を買うためだった。まず専門的な本は仙台で買う他ない、でも仙台でも実際は本は相当にたりなかった。それで知識的には田舎は相当にハンディがあったのである。
本がなければ勉強しようがないからだ。インターネットもないのだから田舎はそれでハンディが大きかったのである。ネットで買えるようになったときなぜこんなに本があるのかと本当に驚いたのである。それでまた本の蒐集をはじめたのである。
何か専門的に知るには量を集めないとできないことがわかったからだ。
詩集を今では集めているのである。詩集はなかなか集められない、どこにあるのか良く未だにわからないからである。
仙台にはそうしたなかなかないものがまだあったりする

それから骨董品を二軒ばかり見て歩いた、好みのものがあったが今回は買わなかった。
やはりじかに見れるのかがいい、さわれるのがいい、ネットでは茶碗でも買ったが触ったり大きさなどがわからないのである。
確かに今までバスでも来ていたが今回はまるで違った感じを受けた。
来るにも帰るにも余裕があった。この感覚は本当に失っていたのである。
なぜならバスになると余裕がないし疲れるのである。
別に電車に乗れないということがなければこんな感覚にはならなかった。
五年六カ月も電車に乗れないことがそういう感覚にしたのである。
これは故郷を離れて仮設に五年住んだとかこの辺では変則的な生活になってこういう当り前のことが実は恵まれたことだと意識したのである。

帰りは地平線に大きな月がでていた。冬の満月だった。何か復興の電車が通るにはふさわしかった。
ただ帰っても待っている人もいないので淋しいとなる。なんか一人暮らしというのはこれもまたはじめての経験なのである。
これも経験しない人はにはそうならない人にはわからないということがある。
どうせ家に帰っても家族が待ってもないなとしたら自分の帰ってゆくべきところはどこなのか?
家があっても家族がいなかったら家なのかということになるのである。
まさに根なし草のようになってしまうのである。
ともかくここ十年は一身上でも次々に変化に見舞われたのである。
そのうちにまた年とったのである、確かにポーの大渦にのみこまれて急激に老いたともなる。人生にはこういうことがあるのだと思う
何か荒波にもまれて漂流している感じである。実際に津波では本当に波にさらわれて急死に一生を得た人もいたからである。

ともかく復興の大きな節目となったのが今回の仙台までの開通である。
バスは電車では全く感覚的に違うのである。電車がなくなることはそれだけ痛手が大きいことを実感したのである。

2016年12月23日

常磐線(仙台ー原ノ町間-強風のために運休)



常磐線(仙台ー原ノ町間-強風のために運休)


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この電子掲示板が見やすいしわかりやすい、無人駅でもこれがあるとわかりやすい

赤い字は運休である。


鹿島駅にまたよったら飯館の方を回ってきた青年がいて仙台から東京に帰れないと困っていた。地元の人も困っていた。その若者は原町まで歩いて行った。
いろいろ教えてやったがありがとうとその青年は言わなかった。
年配の人はいろいろ教えるとありがとうと言う人がいる
そんなこといちいちこだわるわけではないが前にそういうことがあったので若者は違うのかと思った。

第一自分にしても道聞いたりしてありがとうなどあまり言わない、店でも言わない
有名な学者がタクシーに乗ってもありがとうという、それは金を払っているからありがとうと言われてもこちらからありがとうとは言わない、
でも今回は善意でしていたボランティアだった。
だから確かに普通だったらありがとうと言うのかもしれない
年配の人と若者は違っている

なんか最近は毎日鹿島駅に行っている、気晴らしということもある。
今は無人駅であり案内人がいない、それでボランティアの案内人みたいなことをしているそれを最初は意識していなかったがだんだんそうしているうち意識するようになった。
まだこの辺は外部からくる人がいるからそういう人と話して案内する

今日は強風で運休というとき新地から浜吉田とか津波の被害にあったところが高架橋になり風の影響を受けたのかと思った。
ただ新潟の糸魚川で大火事があったように強風の影響だった。
糸魚川で記憶しているのは松本から長い塩の道の終点の街だった。
街道の宿場町ということで古い家が多くあれだけの被害になった。

ともかく今日は強風の一日だった。気温も冬とは思えないあたたかさであった。


2017年01月04日

5年半ぶりに開通した常磐線 (駅は人間臭い場所だった-新地駅の記憶(詩)


5年半ぶりに開通した常磐線

(駅は人間臭い場所だった−新地駅の記憶(詩)



明治時代日本に鉄道が導入されたとき、今の「駅」にあたるものも含め、列車が止まる場所はみな停車場と名づけられた。利用者はこれを駅と呼ぶことが多く、鉄道関係者も時に停車場、時に駅と用語を混用した。時とともに駅が優勢になったが、昭和時代まで停車場という言い方は残った。1936年(昭和11年)の鉄道省の職制改正によって、停車場と駅の呼び分けが明確になり、一般の会話から停車場という表現は少なくなっていった。

今でも都道府県道・市町村道の法定路線名には「停車場」という言葉が使われる。例えば、札幌駅から南にのびる道路は、北海道道18号札幌停車場線(通称:札幌駅前通)である

停車場というのは死語になったけどこれは最初はただ車両が止まる場所だった。
駅とは違っていたのだ。なぜそうなったのか?
駅というのがまだそんなに生れなかった時代の名残りなのだろう。
車両が止まるから停車場でありそれは駅とは違っていたのである。
停車場線というのも不思議である。車両が止まる場所へ通じる道路だとなる。
駅には前は引き込み線があり貨物車両が入り荷物を運んでいた。
だから駅前には自転車屋があったという,荷物を運ぶに便利だからである。
その頃車とかは使われていないからである。
縄屋とかあったのも縄で梱包するからである。
とにかく交通の要として鉄道があり駅前が街の玄関口でありにぎわっていたのである。
駅は人が集まる場所であり交差する場だったのである。
水上勉の「停車場有情」という短編小説などがあるのもそうである。


年末は駅では除染の人でも工事関係者でも中国の女性の出稼ぎ者でも故郷に帰る人が多かった。長崎の人もいた。駅はもともとそういう人間模様がある場所だった。
人間臭い場所だったのである。それは何か車社会の道の駅とは違った感覚の場所である。

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく 啄木

様々の人間模様や駅をたち帰る人送る年のくれかな

去年は結構駅で外から来た人を案内したり話したりした。鹿島駅が無人駅になったから案内する人がいないのも困ることがある。

正月になり二日は今度は常磐線で帰る人がいた、その人は車をもっているから電車には乗らない、それで電車のことがわからなくなっている
今は車社会だから電車のこと鉄道のことをわからなくなっている人が多いのである。
自分は車に乗っていないから車のことがわからないのである。
今どきそんなことがあるのかと思ってしまう。

「電車はいいよ、景色を見れるから、車だと景色は見ていられないから」
「常磐線は今度は高架橋になり海が広く見えるよ,船も見えたよ」

そう言って見送る人がいたが確かに電車だと景色をゆっくり見られる、車だと運転に集中するから景色が見れないのである。そういうことも車に乗らない人は良くわからないのである。
常磐線は五年半ぶりに開通した。今度は高架橋で広く海が見えるし船が行くのも見えた。

東京へ帰れる人を見送りぬ人も老いにし駅舎も古りぬ

常磐線五年ぶりにし開通す仙台に通じひびき高鳴る

ともかく自分にとってこの常磐線の開通は復興を一番感じた、というのは自分は仙台には良く行っていたし旅をしたからである。
その時はあまり電車のありがたみを感じなかった。つまりこの辺では当たり前にあるものが失われた。第一故郷に住めなくなるなどということをイメージもできないものだったのである。
今でもまだ仮設に住んだり移り住んだ人がいるからその心境はどういうものなのかその人にしかわからないだろう。

普通に電車が走る、今までは原町と相馬市の間しか走っていない、なにかそれも不思議だった。でも仙台まで通じるとまるで違ったものを感じた
その電車が走るひびきは仙台へ通じていることなのだ。その相違は大きいのである。
バスは何か疲れるし好きではない、電車は乗っても楽なのである。
津波で流された駅は新地でも山下でもずいぶん立派になった。
ひなびた駅が都会風になったのである。

まずこの辺はいろいろ変わり方は激しいのである。
駅をおりて浪江の人が新しくできた復興住宅に行ったりと除染や工事関係者がまだ外部から入ってきている。
駅というのがその街の玄関だというとき確かにそうである。
駅からその街をまず見るからである。電車の旅でも駅の名前がなぜか心に残っている
駅はバスとは全く違った乗り物なのである。バス停なとには何か今でも原町の深野の
豪蔵とかの地名が記されている、高瀬川を上った葛尾村に磐城落合とか停留所の地名が記されているときやはりそこでその土地のことを記憶に残すからバスでも昔はその土地の字名を記憶に残したのである。

駅はやはり途中下車なのである。

新地駅おりたちあわれ虫の声ここに聞きつつ月の光りぬ

新地駅五分まちつつ交換の電車を待ちぬ秋の夜かな

日立木駅ものさみしかもおりる人一人二人や冬のともしび

前の新地駅では交換のために五分間待っている、新地駅に来るともう相馬であり鹿島も近いとなる。
その時は家族がいて待っている人がいたからなにかほっとする
今になると家族もみんな死んだから一人帰るのが何か淋しいとなる

いづれにしろ鉄道には自分は相当に愛着がある。鉄道マニアになもっている、ただそのマニアでもいろいろある。鉄道だと今はローカル線では観光鉄道になっているところもある津軽鉄道などがそうである。スト-ブ列車でもある、春には乗ったが冬には乗っていない、やはり冬に乗ることで津軽を感じるだろう。
鹿島駅でもストーブがあったという、何かその記憶にともしいが確かにあったのだろう。それはどこでもあったものである。スト-ブがあるということはそこで待ち時間に会話がある。
この待つ時間が旅では記憶に残るのである。今の時代待つということが効率化で失われたのである。結果的に人生の時間が失われていたのである
瀬戸内海でも旅したとき土地の人と船を待っていたことが記憶に残る
瀬戸内海では船が日常の交通手段だから観光ではないから違っている
そこで瀬戸内海の人々の生活を感じるのである。観光では生活を感じにくいのである。
津軽鉄道があったとしても今はどこでも車が主だとすると何か違ったものになる。

今は車社会だというとき道の駅が生活を感じるものになる、でも何か鉄道の駅のように人間味を感じない、鉄道には何か人間味を感じるのである。
人を迎えまた見送ること、電車を待つことそれは人間的なことなのである。
車には何かそういう人間味がないのである。機能面がけが優れていてそこに人間的なものが生れないのである

常磐線が仙台まで通じて仙台に行きやすくなった。それでまた出かけたいとなる。
仙台に出ればまた遠くに行き安いから旅もしやすいとなる。
ただ何度も言うが旅で大事なのは記憶に残る旅をすることなのである。
それが一見非効率的なものになる、電車を待つとか船を待つとかの時間が記憶に残っている、そういう時間が実は大切な時間だったのである。
だから旅をふりかえると不思議なのである。その記憶が宝となっているのである。
それで思い出して短歌なり俳句なり詩にしているのである。
回想するたびというのもつくづく今になると不思議である。
かえって旅しているときより深く見ているのである。それは人生でもそうである。
その時々の経験したときは何かわからないが老人になるとその意味がわかり記憶が宝となるのである。

だから生きるというときどういう体験を積んだかであり必ずしも大金持ちになったとか金では計れない、何か大きな冒険をして九死に一生を得るというごとくそういう経験した人は貴重な経験をしたのである。津波とかがそうだった。そんな経験は滅多にできるものではないからである。


記憶の駅

津波に流される前の新地駅
五分交換のために電車を待つ
ホームにおりると
虫がかすかに鳴いている
月が光り新地の海側の家々
それらはみんな津波で流された
ここはすでに相馬に入り
我が家も近くほっとする
その新地駅は新しくなった
でも自分は前の新地駅に
なお幽霊のように立っている
そんな簡単に人は変わるものではない
人は長く生きていればどこにも愛着が生れる
だから愛着ある場所にいたいのだ
津波で流された後に松の根が残っているように
人の記憶はそう簡単には消えないのだ
私はそこに以前としている
家族もみんな失った自分だが
やはり以前としているように思う
長くあったものはそう簡単には消えない
記憶はその人の中に残っているのだ

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こういうことなんだろ、津波とかで家が流されて人も大勢死んだ、原発事故で避難した人々の気持ちもこういうことがある。
だから老人はどうしても故郷に帰りそこで死にたいという気持ちになるのである。
何でも長くいると愛着が生れるからである。若い人にはその気持ちがわかりにくいのである。老人になると記憶を生きるようになるからだ。
新地駅はまるで変わったものになった。するとそこからこのように過去を回想することはできないのである。
すると過去の記憶と今の記憶の断絶が生れるのである。そういうことは歴史でいくらでもある。東海道などはもうそこに江戸時代を回想することがむずかしくなる
その変化が激しすぎたからである。
中原中他の「桑名駅」では蛙が鳴いていた。桑名というという東海道の宿駅であったがそれがた現代と結びついている。そういうことは今はまれである。
この辺はまず大きな変化に見舞われた、だから経験し得ないことを経験したのである。

2017年01月14日

鹿島駅の重いドアは原ノ町機関区の人が来て直す (今日はホームを雪かきしていたので話できた)


鹿島駅の重いドアは原ノ町機関区の人が来て直す

(今日はホームを雪かきしていたので話できた)

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雪で今日は18分遅れた

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ここで宣伝ができる


鹿島駅の重い扉を直してくれるようだ、原ノ町機関区の人がホームの雪かきにきていて聞いてみたら滑車がなんとか言っていたから重い扉も軽くなるだろう。

これは市役所にも言ったし市の方にもいった。でも実際は原ノ町機関区で管理しているから原ノ町機関区で直すのである。水戸が管理していてもその人に言っても無駄だった。
やはり近くでないとできないことがある

そのJRの人に電車が通ってありがたいものだとみんな感謝していると言った。
今までそんなことを感じなかった、電車賃が高いとか何か文句を言うことが多かった。
でも一番今回復興を感じたのは自分の町では電車が仙台まで通ったことだった。

自分はもともと鉄道が好きで旅したこともあり思い入れがあったこともある
でも鉄道を運営している人々に感謝したことなどない、それは当たり前だと思っていた。でも鉄道がなくなったときバスで難儀した、それから電車に乗って仙台まで行ったとき本当に楽だった。それは五年間も乗らなかったから余計に感じたのである。

人間は何でも家族でも妻でも失ったときそのありがたみがわかる、この辺では津波や原発事故でそういうことが多かったのである。
当たり前にあるものは感謝しない、かえって文句を言うことが多いのである。

電車が走らないのと走るのでは相当に違ったものになる、この辺では見慣れているからだけど何か電車が通らないと僻地のような感覚になる、飯館村などがそうであり電車が通らないから僻地の感覚になる、バスが通ったとしてもバスと電車は全然違ったものなのである。

鉄道でも雪がふれば滑らないように雪かきしたり鉄道を守る、運行する仕事がある。
その仕事をしているのはJRなのである、ただ何か現代はそういう人間が働いて機械が動いているという感覚がなくなっている、鉄道でも自動運転なのかと錯覚するのである。
すると人間に感謝したりしないのである。
でも人間がいなければ機械だけでは運営できない、なにかしら人の手が必要なのである。だから今回の電車を運転しているとか車掌とか鉄道の保守をしている人とかがいて運行していることを自覚した。だから感謝したのである。

まず鉄道が通らないと廃線になるとさびれたものとなる、北海道は半分以上廃線になったしこれからもなる、北海道は採算がとれない、常磐線はまだ採算をとれる線だろう。
仙台との交流もあり学生も通うし坂本山下辺りになると通勤圏にもなっていたからだ
それでも二両の電車が何本か走っている、仙台まで二両でまにあうのかという疑問がある普通は4両が一番多い、八両も走っている、前は八両が多かったのである。
だから二両で仙台まで行くのかと疑問になる、仙台近辺になると乗る人が増えるからである。途中までなのかよくわからない。

いづれにしろ電車が仙台まで通ることがやはり活気がでる、夜でも八両とかの電車が行くと明るい感じになる、前はそれはいつも見ていた光景なのである。
でも今回復興して見ているとき前見ていた感じとは違う。
これが仙台まで通じているということが違っている、相馬市までしか通じないとのとは大きな差だったのである。

2017年01月16日

鹿島駅であったヨーロッパに8年いた人の仕事 (ミシン関係で安い賃金を求めて世界をわたり歩いていた)


鹿島駅であったヨーロッパに8年いた人の仕事

(ミシン関係で安い賃金を求めて世界をわたり歩いていた)


武藏野中央公園と中島飛行機など軍需産業だったところも多い。

あれこれ調べていたら、調布にあったジューキミシンも軍需産業だった。機関銃を作っていた。戦後は技術を生かしてミシンの製造に転換した。

それで、てっきり戦前の会社名は漢字表記で「銃器」かと思ったら違いました。東京重機工業株式会社だった。でも、この重機は、大辞泉の@「重工業に用いる機械」ではなくてA「重機関銃の略」の方だよね。広い意味では「銃器」だ。当たらずといえども遠くない

その人は札幌生まれであり東京の大学を出てミシン関係の会社に就職した。
今札幌に帰ったのは生れたところであったからだ。
その人はドイツに8年ではなくヨーロッパを広く回っていた。
それはミシンの会社であり裁縫関係の仕事をしていた。
それで別に外国だけではなくこの辺に良く来ていた。裁縫関係の会社がこの辺では結構多い、福装は有名であり150名が働いていた。ここに女性はこの辺で働いた人が多い。
浪江にもあったとかその人はこの辺を結構知っていた回っていた。

そのように国内だけではない、世界中を回っていたのである。
カザフスタンとかにも行ったとかそれからアジアもいろいろ回っている
それはなぜかというと安い賃金を求めて会社が移動していたのである。
それはテレビなどで放送されるが会社が安い賃金を求めて工場を移してゆくのである。
最初は中国だったが最近は東南アジアでベトナムが安いからいいとか移動しているのである。
その人もそのために世界中を移動していたともなる
そんな人いるのかとこの辺ではそういう人にあまり出あわないから驚きだとなる

でもそういうグローバル化社会をまさに身をもって生きていたのがこの人だったのである最後は生れた札幌に帰ったとなる。何かこの辺にきたのは前にもコネがあり来たと言っていた。
こういう生活しているとどういう感覚になるのか?
もう生まれ故郷も日本もどこの国とかも関係ない、ただ安い賃金を求めて世界を移動してゆく、渡り歩く、要するにどこの国とか関係ない、賃金の安い所などこでも行くという感覚になる、まさにこれは多国籍企業を象徴している人である。
それが今は現実としてある、トヨタとかでも工場をメキシコに作る、それは賃金が安いからである。
それが世界的にグローバルに行われたのが現代なのである。
企業にとってその国々のことなど関係ない、賃金が安ければいいというだけである。
そうしないとグローバル競争に勝てないからである。
福装では中国人も働いている、この前駅から中国に正月に帰ったのを見ている

ミシンで面白いのは銃器の技術を応用してミシンを作っていたのである。
これも意外だが何か技術はどこで利用されるかわからないところがある。
トヨタも最初は紡績関係の会社だったのである。
例えば車でも賃金の安いところで作る、そうするとヨーロッパでもアジアでもメキシコでもその会社員はこの人のように渡り歩くことになるしそういう人が現代のグローバル社会では多いとなる。

しかし自分が国内でも国外でも旅したとしてもこの人とは違う、自分は故郷にずっと住んでいたからである。それで故郷とアイディンティティをもつことを探求した。
この人にはそんなことはない、ただ会社のために世界中を回り歩いていたのである。
だからこの人はそういう一生を生きてどんな感覚になったのかとなる
いくら世界中を渡り歩いてもそこでその国のこと文化とかとはあまり関係しないし理解していないだろう。
なぜなら仕事はミシン関係でありそうした仕事中心に回っているからその国々のことは深くは関係しない
ただこの前あったオランダの大使館に3年間勤めていた人はオランダと深くかかわったことは確かである。それは大使館員であったからであり会社員とは違うからである。

いづれにしろソビエト連邦時代からかかわりカザフスタンまで工場を開くために行っていたというのは驚きである。その頃まだ日本がそんなソビエト連邦まで行っていたのかとなるからだ。
これが現代のグローバル社会の人間なのである。こういう生活は人間としてどうなるのかともなる、何かと深く自然でも文化でもアイディンティティをもつことは不可能になる
日本人としてのアイディンティティすらもてなくなる、ただこうしたグローバル社会を生きた人だったということである、他でも今はそういう人が結構いるのである。

韓国であった人も会社員ではないにしろアルジェリアで石油工場で働く人を集めて入って行った。そこは危険な場所であり実際に日本の会社員が9名とかテロで殺害されたのである。そういうグローバル社会にまきこまれているのが現代である。
そして今度はミャンマーが開国して賃金が安いとなるとこうした会社が進出してゆくからそこに日本人が派遣されるのである。
世界で起きているのはこうしたグローバル社会での問題がありテロも難民問題も起きている
シリア難民をどうしてドイツで受け入れているのか?危険を冒して受け入れているのか?
安い労働力が必要だからである。世界へ安い労働力を求めるより自国へ呼んでいるから文化の相違なと宗教の相違なとでテロが起きたりしているのである。

でも他国へ工場だけを作り働かせるならそういう問題は生れにくい、それでも軋轢は生れてくる、だからそもそもこのグローバル経済社会は世界的な問題でありこれでいいのかとなってナショナリズムが勃興する。
トランプが大統領になったのはアメリカですら多国籍企業でグローバル社会で一番もうけていたと思っていたがそうではないからその不満が大きくなって大統領に押されたのである。グローバル経済社会は自分の国を利するものではないし自国民にとってすべていいものとなっていなかったのである。
だから会社は国民のために従業員のためにあるべきでありメキシコのような所に関税を安いからといって作るべきではない、日本で生産して高くても売れるという主張がある
武田邦彦氏がそのことを言っているのもわかる。
多国籍企業というのがただ自社の利益だけを求めて世界中に進出して安い労働力で働かせること自体が何か反発されて拒否されるようになったのである。

2017年01月17日

鹿島駅の回顧の短歌十首 (復興してふりかえる)


鹿島駅の回顧の短歌十首


(復興してふりかえる)


鹿島駅八重桜咲きその影に休みて電車待ちし時かな

この駅のホームに白きつつじかな車窓に写し電車は去りぬ

鹿島駅待つも長しやあわれかな秋の薔薇しもここに見るかな

新年や乗りおりする人それぞれに無人駅に活気のいでぬ

復興の電車通りぬそのひびき今日も駅にし我はあるかな

母待ちぬくもりここに娘かな寒き日なれば寒からじかも

遠くより来る労務者駅にいてしばし語りぬ寒き日なりし

鹿島駅昔ストーブありにしと語りてあわれ寒き日なりし

四両の電車とまりて明るしや仙台へ通ず冬の夜かな

帰りきて待つ人あれや今はなし一人帰りし冬の夜かな

駅をおり月影さして我が一人影ひき帰る淋しき町かな

鹿島駅我が老いつつもここにあり年の明けにきまた旅たたむ

遠き国憧れにつつこの駅ゆ我が旅立ちてまた帰り来ぬ

乗り降りの少なき駅や今になほ二両の電車山眠るかな


鹿島駅の八重桜がみんな切られた、それが残念だった、ただ根っこは残っている
それが成長するには何十年もかかる、だから生きている内はもう八重桜の花は見れない
自分はその花の影で休み電車を待っていたのである。

白いツツジというとき田舎の電車はすいている、仙台近くになるとこむがこの辺はすいているから車窓に白いツツジが移っていてその花を写して去ってゆくのである。
何かそれも情緒がある、見送りしたりするのもそうである。

それは田舎駅だからそういう人間的情緒が残っている、東京都とか都会になると混むからそういう情緒もなくなる、新幹線でもそれが早すぎるから人間的に見送りするにしても時間の余裕がないのである。
結局何度も言うが旅は時間をかければかけるほど記憶に残る、だから意外と電車でも船でも待っている時間が貴重であり記憶に残っている不思議があるのだ。
今の忙しい時代は待つ時間がない、それが無駄とされているのである。

鹿島駅のことをいろいろふりかえる、集団就職の列車もここからでた、でも自分は恵まれていてその時それが何を意味していたかわからなかった、自分は大学に行ったのだからその差が大きかったのである。
その後電車はただ遊びとして旅として乗っていただけである。

実際は旅するにしても家をまもり家に家族がいたから余裕をもってできたなどなと思う
一人になったら家があってももう誰も待っていない、だから何かそれが感覚的に変なものとなる、今度は旅たったらもう待つ人もないのだから永遠に帰らないとまでなってしまう感覚にもなる、家があったとしても待つ人がいないとそんな感じになる
家はあってもそれは建物だけだからである。死んだ人が待っているともならないからである。

いづれにしろ人間は最後はみんな啄木のようになる、啄木は最後にあの若さで死ぬとなったから何でも惜しみ短歌にしたのである。本当に日常のささいなことを短歌にしたのである。そういうなんでもないものでも惜しむようになる。
最後は人間はみんなそうなる。普通は若いときはそうならない、いよいよ死ぬ時期がせまればもうみんな何かつまらない日常的なものでも愛おしくなるのである。
自分にとって駅とか鉄道は愛着がありそれを惜しむものとなるのである。


古い駅の写真

鹿島駅も建てた当時と変わらない古い駅なのである。
この写真の駅は本当に古い、何か駅にはやはり人間的なものがしみついている
ただ新しくなるとそうしたものが消える

城でも新しく建てるとそれが博物館のようにもなる、何かそこにあった人間的なものの記憶が消えてしまうことがある。
日本では木造だから新しくなり昔の記憶が消えやすいのである。

鹿島駅で出会った人 (新地町で港から天然ガスの供給基地とパイプラインを仙台まで作る人)


鹿島駅で出会った人

(新地町で港から天然ガスの供給基地とパイプラインを仙台まで作る人)


当社は、震災後の福島県・宮城県・岩手県など東北太平洋沿岸地域等における今後の天
然ガスの需要増に対して、長期安定的に天然ガスを競争力ある価格で供給していくことを社会的使命と考え、相馬港に大型 LNG 外航船を着桟させ、これを LNG タンクで貯蔵し気化する LNG 受入基地の建設と、同基地で気化したガスを、当社の大動脈ともいえる新潟
仙台ラインに(宮城県岩沼市・岩沼バルブステーションで)接続させる約 40kmの新規パイプライン建設を進めてまいります。

名 称 :相馬 LNG 基地
建設地点 :福島県相馬郡新地町(相馬港 4 号埠頭地区)
敷地面積 :約 20ha
主要設備 :LNG タンク(地上式 23 万kl×1 基、将来増設可能)、LNG 外航船受入バ
ース、LNG 内航船出荷バース(LPG 内航船受入兼用、将来増設可能)、LNG
気化器 2 基(将来増設可能)、気化ガス用熱量調整設備、LNG タンクロ
ーリー出荷設備、ほか
投資金額 :約 600 億円(接続パイプ)


今日鹿島駅で休んでいた人はガスの配管工事をする人だった。新地駅でしている大きな工事である。
鉄管を通すために土を掘ったら靴とか何か津波で埋もれていたものが出てきたという、津波の痕跡が地中に埋もれてしまった。
そして新地駅は前とはまるで変わったものとなってしまった。駅前開発がすすんでいる

このガスの工事は船を受け入れるためとか配管するために仙台とつながる大規模なもののようだ。新地町の変わりようも激しい、こういうものができれば前とは違う経済効果もあるのだろう。
六〇〇億円も投資することはやはり大きなものになるだろう。

新地駅前の開発では温泉が出たということで施設が作られるとかもありあの辺は前より魅力ある場所になるのだろうか?駅が高く立派になった。
津波や原発事故を契機にかえって新しい開発進んだのもある
それだけの投資が国からも行われたようだ、鉄道工事はJRで四〇〇億円投じて五年半かけて完成した。これも大きな金である、六〇〇億円となるとこれより大規模なのである。
仙台までガスの管をつなぐためにそうなったのか?

その人は溶接していて目を悪くして原町の病院に行く所だった。確かに目が赤くなっているのが見えた、白内障とか言っていたがそうでもないらしい

可視光による青光障害は,遮光保護具を用いず,裸眼で溶接アークを見つめた場合に発生する。症状は,視力が低下する,暗点(視野内の部分的に見えない領域)が生じるなどである

これも職業病の一種となる。インターネットはこういう時便利である。
これだけでもすぐに検索してわかったからである。

この辺はとにかくまだ工事がつづいている、除染が主だがその他にもこうした工事がつづいている、いろいろな人が入れ代わり入ってきているのである。
意外とだから鹿島駅でもそういう人たちに会うのである。
それが何かこの辺がどうなっているのか知ることにもなる
こうした工事はこの辺でまだつづくのか、あと二三年もつづくのだろうか?
除染関係は相当に縮小したが小高とか浪江とか双葉でも向こうの方へ行く人もいるからこの辺が宿舎にもなっているから駅も利用しているのである。

2017年01月18日

新装の新地駅短歌十首 (一変した新地駅の驚きー観光スポットになった)


新装の新地駅短歌十首


(一変した新地駅の驚きー観光スポットになった)


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New station ,SHINCH


all new station

SHINCHI on the Jyoban line

Mt.ZAO in the distance

the snowy severest one

flight of swans in refreshed place

turn around

Kinkasan on the Ocean

in the distance

Shinch station in the future

clear sky in winter


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蔵王
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駅前の開発地 クリック拡大

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新しき街の息吹や新地駅年の明けしも海広しかな

新地駅新装なりて海広く新しき年や金華山も見ゆ

新地駅雪の蔵王の迫り見ゆ白鳥も飛び年も明けにき

新地駅広々として清しかな冬の空澄み電車来たりぬ

新しき新地駅にそおりたちて雪の蔵王の厳しく迫る

新地駅おりたち帰る女高生都会めきたる新装なりぬ

新しき新地駅にそ二本の樹の植えにけるかな冬の日暮れぬ

新地駅電車の待つやうれしかな海広く見え復興成りぬ

新地駅タクシー乗り場に障害者乗る場もうけぬその配慮かな

新地駅昔を想うものもなし悲しく津波被害埋もれぬ


新地駅に今日行って驚いた。全く変わってしまい昔の面影は全く消えて別な町になっていた。雪の蔵王が見えて牡鹿半島も金華山もまじかく見えた、あんなに近くにはっきり見えるのも新鮮である。それは海が広く見えるようになったからである。
そして土盛りして高い所に駅を作ったからである。
だから駅をわたる通路の高架でなくても下のホームからも見える
駅からの景観が抜群になったのである。

そしてもともと新地駅は回りに家がないし海側の港があったところは全部津波で家がなくなった。それで広い土地が自由に利用されるようになり改造された新しい街作りをするようになった。
本当にその土地が広いのである。そこにコンパクトシティのように施設ができる
住宅もできる、温泉も出たということで温泉施設もできる
文化会館もできるとか駅を中心に新しい街が形成されるのである。

何か自分がおりたときそこが全く異次元の別な世界のように見えた驚きである。
宇宙ステーションではないが何かそんな感じの不思議さがあった。
テーマパークというかデズニーランドというか仮想の世界に来たのかとも思った。
こんなふうに変わるものかという驚きである。そこは人工的空間と自然空間がマッチしていたのである。
都会だとこんなに見晴らしがいい場所はないからである。

ともかく雪の蔵王もまじかに見えたし海も広々と見えて金華山も見えたし牡鹿半島も見えた。その景観が素晴らしいとなる、だからここは駅だけでも観光スポットになると思った何しろ広々として気持ちいいし景観がいいからだ。
ここは新しく開発するのには適した場所だったのである。駅前には家がなかったからである。
そして国からも金が出たからである。それは原発の被害がなかったから人口も減っていない、つまり津波だげの被害だったらこんなふうに復興できたのである。
原発の被害地は放射能被害などで復興できなくなったのである。
その差が大きすぎたのである。新地駅と小高駅を比べるとその差が歴然としているからである。

まあ、白鳥が飛んできたのも新しい駅にふさわしかった。またあの駅に行ってみるだけで価値がある。まだまだ整備は完了していないがあの駅には価値がある。
あれだけの広い土地にまだ住宅は建っていない、その点鹿島は新しい家が建ってほぼ完了した。やはり新地では原発などの補償金が出ないことがその差なのかもしれない
新地には原発の被害者、小高でも浪江でも他でも家を建てているのである。
土地が安いと建てやすいからである。

いづれにしろこれだけ変わることには驚きである。なにしろこの辺は常に変化して驚きの連続だったのである。それがまだつづいていたのである。
駅前はどこもさびれたがこれから駅前が復活するという人もいる、駅は他からの人を迎える玄関でありここからその市町村の印象が決まるとうときそれは家でも同じだから玄関を大事にしろという人がいる、玄関は人の出入りがあるから福を呼ぶから大事だと言っているのである。
新地駅はだからその玄関だけは特別立派になった。そしてその前に新しい街が生れて復興するとなる

ただあの駅見たらもう津波のことは忘れられる、わからなくなる、天然ガスのLPGのパイプウラインを仙台までつなぐという大阪から来た人がいたがそうした大工事もある。
その人が掘ったら津波で埋もれた靴とかなにか出てきたというときわずかにそんなことで津波のことを思い出す、でも新地駅から津波の被害を想像するものは何もなくなったとなる
それもまた歴史が埋もれるということで問題があるかもしれない。昔を何か残すことも必要だからである。
ともかくまた行きたくなったのが新しい新地駅である。

5年半ぶりに開通した常磐線 (駅は人間臭い場所だった-新地駅の記憶(詩)


2017年01月19日

新しい新地駅が復興構想の見本 (発想の転換で新しい街作りー小高や浪江も参考になる)


新しい新地駅が復興構想の見本


(発想の転換で新しい街作りー小高や浪江も参考になる)

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人の和も大事、復興も人でもある


新地駅があれほど変わってしまったのには驚いた。人間は変化が激しいとそれが現実のように思えなくなる。それは津波とか原発事故でこの辺では経験してきた。
津波は本当に現実に思えない災害だった、こんなことがあるのかと夢見ているような気分がずっとつづいているし今もまだその津波の被害の跡に立てばなる

今回新地駅に行って不思議だったのはそこは人間の力で変えてしまって現実のように思えなかった。前の駅とは全く違ったものになっていたからである
何か宇宙ステーションなのかデズニーランドの仮想駅なのかそれも現実に思えないように変わったのである。

そういうふうに駅でも人工的な人間の作ったものでも変わると辺りの風景まで変わって見える、蔵王が見えて白鳥が飛び大きく開けて海が見えてかなたに牡鹿半島と金華山が見えた。景観が抜群になったのである。だから新しい観光スポットになると思った。
おそらく鉄道マニアなどがこれから来るかもしれない。

ただ不満だったのは過去の津波のことがその駅に来たら思うものがない、つまりまるっきり変わってしまって過去の痕跡がなくなっていたのである。
その被害は写真とかで見る他なくなっていた。
するとそこにあった津波で死んだ人たちとかも忘れられるとなる
過去と現在を結ぶものがない、全く新しい空間になってしまったのである。

だから駅員は年取ったひとだけどあういう場所には若い人がふさわしいと思った。
その新しい空間でこれから津波の被害があったにしろ若い人はここで生活して行くからである。だから女高生が電車でおりて歩いてゆくのがふさわしいとなる
それは都会的風景なのである。
違っているのはそこは広い自然的空間の中にあったということである。
だから都会の駅より気持ちいい場所になったのである。

ここはだから小高とか浪江で今年は鉄道が通るというとき復興の参考になる。
新地駅があれほど変わったのはやはりあそこはもともと田んぼであり何もない空間だった海の方に村があったがそれもみんななくなった。
するとその広大な空間が生れ自由に新しい街を設計できるようになったのである。
そういうことが女川町とか他で起きているのである。
街ごと泣くなってしまったからそうなる。何もなくなったからこそ新しい街作りができるとなる
その時そこに古いものにこだわるとき新しい街作りはできなくなる
ただ古いものも活かした街作りが歴史を活かした街作りも必要なのである。
ただ古いものにこだわりすぎると新しいものは作りにくいのである。
それで女川町では若い人にその街作りをゆだねたのである。
老人は口だすなとなったのである。

新地駅を中心としたコンパクトシティはやりやすかった。あれだけの広大な空間が生れたからである。そこに温泉も出たということで憩いの場所になるし農園も作る広さがある。そしてこの辺と違って原発の被害がそれほどなかったことも幸いした。
この辺は原発の放射能被害が致命的だったのである。
ただ原発の補償金など新地ではもらっていないからあれだけ広い敷地にも家はぱらぱらしか建っていないのである。鹿島になると三つくらい新しい街ができるほど住宅地が生れたからである。それは原発マネーがあったからである。

とにかく発想の転換が必要なにる。今までは駅は車社会になり利用者がへり駅前通りもさびれシャッター通りになった。でもこれからはまた鉄道も見直されるかもしれない。
そして駅前に大きな駐車場スペースができた。すると車の人も温泉などあれば寄ることになる
公共的施設も文化会館とも作るというからあそこが新しい一つの街になる
すると鉄道でも車でそこに人が集まり人の流れができることになる
あそこは広場の役目も果たす、外部の人と内部の人が交わる場所にもなる
とにかく景観がいいからそれが最大の魅力になると思う。

それで小高などでも駅中心にこうした新しいコンパクトシティを作るのもいいかもしれない、今までの駅前通りという発想では新しいものはできない
この際、今まであったものを無視して新し街作りを目指す、それで新地駅が見本になる。ただあの駅にしても地元の人が新地町の人が役所でしたはいうわけではない、ほとんどはJRが作ったのである。今はこうした会社の力がないと大がかりなものは作れない時代である。
浪江でも今年中に鉄道も通るというとき小高とも結ばれるからそこで復興のはずみとはなる。ただ新地駅のようにはならない、そこが問題なのである。

でも浪江町でも小高でもまず今までのような街はもうありえいことを自覚すべきである。そういう前の街にこだわると新しい街作りができないからである。
ただ伝統的なもの歴史的なものは継続されるべきである。
だからといって前の街のイメージを強く残りいだいていると新しい街作りはできないのである。
だから若い人に新しい街作りを女川町ではまかせたのである。
原発被害地域ではその肝心の主役となるべき若い人が流出したから復興できないのである
鹿島駅で大阪から除染に来た人がこの辺は人がいいから三年もいたなとか大阪弁で話した大阪弁だともめんるんだよなとか言っていた。
都会を嫌う人もいて田舎が見直される時代でもある。
そういう人が移り住むといいとも思った。
その人は旅の人ではないからこの辺の人とか事情を知った人だから違っている
三年も住んでいたらやはりかなり土地のことに詳しくなる。
こういうときは移り安いということもあるから移り住む人がいるかもしれない。
ただ今のような状態ではとても住みたくないとなるだろう。


飯館村の場合は草野を中心にコンパクトビリッジになるのか?
若者を住まわせるための新しい住宅を作っている。
ただソーラーパネルがそこに大きくしめていたり前のような村の景観が多少壊されているでも飯館村でもやはり新しい村作りをする意外にない。
それがどういうものになるのか?それは町や村でもみんな個性があり違っているから個性的な村作りになる。飯館村だったらどうしても山村だから山を活かす村作りがふさわしいとなる。でも放射能被害で山菜がとることができないなど苦しいのである。
牛を飼うにしても土地の牧草を利用できないとか前のようにはいかないのである。
ともかく発想の転換が復興には必要なことは確かである。
でもそれは一番むずかいしことかもしれない、今あるものから人間は発想しているからである。

新装の新地駅短歌十首 (一変した新地駅の驚きー観光スポットになった)

タグ:震災復興

2017年01月20日

今日の駅の短歌(寒い日に駅で待つ中学生)



今日の駅の短歌(寒い日に駅で待つ中学生)


この駅に電車を待てる時のありしばし話しつ寒き日なりし

冬の雨しとしとふりて石ぬらす一人しあわれこもりいるかな


今日は特に寒い、人身事故があって電車が遅れているという電光掲示板に流れていた。
セブンイレブンから六号線を横切り踏み切りを出た鹿島の十字路で交通事故があった。
車はそれほど損傷がないから大きな事故ではなかったのか?

今日の駅にいたのは中学生だった、また一学年で3クラスくらいあるという、そんなにまだいたのか?ただ鹿島区では中学校は一つであり小高の人もまじっているからかもしれない。団塊の世代の時は一学年で八クラスだった。
何かそれもあまりにも遠い話になった。その中学生は塾に通っているという。
インターネットで英語の単語など勉強すると便利だと言ったら自分もしているという
この前はタブレットを見ていた中学生がいた、その女性は受験生だった。
相農で環境科とかで花の栽培を学ぶという、そういう目的をもって学ぶのはいい。

今日はこれだけのことだけどプログは毎日書くのでありこうして日々のことを伝える
それがプログ的だとなる、その日その日の感想を書くのである。
それはその日だけのことでありあとは書けない、そしてそれが記録となり記憶となってゆく、そういうことは今まではできなかった。
だからプログは何であれ一日一回はその日のことを書く、それが勤めである。

それが読んで面白くないとしても自分の日記だからかまわないとなる。
その日にしか書けないことを書いているのである。
一日一回は駅に行くのが自分の勤めともなっている

ともかく駅は待っていることが人間的なのである。待つ時間が人間的時間を作り出している。
バスだとなにか待っていても電車の駅のようにはならないのである。
旅でもこの待つ時間が記憶として残ったりする
急ぐ旅は記憶に残りにくいのである。

タグ:駅に待つ

2017年01月27日

今日の鹿島駅


今日の鹿島駅

乗車証明書が必要でもわからない無人駅

今日は川崎から来た人が「香の蔵」に行きたい、タクシー呼びたいと言って聞いてきた、おややげを買いたいと言っていた。
あそこはお土産にはいいものを売っている、地元の菅野漬け物店で実際に漬け物を作っているからである。そこに長年勤めていた女性を知っている
その人には世話になったけど死んだ、菅野漬け物店はこの辺では有名である。

ここで気づくことはお土産でも買いたいとなっても駅では買えないことなのである。
六号線まで出ていかないと買えない、車で来たならいいが電車で来るとそうはいかないのである。だからタクシーを呼んで買いに行った。

もう一人は新地の人であり最終の電車の時間をいつかと聞いてきた。
それで一〇時何分だとか教えた、無人駅でありなかなかわかりにくいところがまだある。なぜ新地の人がというと新地までも仙台まで電車が開通したからである。

すぐ駅前の「車輪梅」とかで飲み会があるらしい、それで最終の電車を知りたかった
そこから駅はすぐ近くであり帰るには便利である。高架橋をわたる必要もない
新地との交流も電車の開通で再開されたともなる

鹿島駅は無人駅になったけどやはりまだその利用方法が知らない人が多い
それで自分はときたま気晴らしに行って教えたり案内している
地元の人でもまだ利用になれていないのである。
だから案内人が必要なのだと思った。

たいがい乗車証明書をここで押してとってから乗りあとでそれを見せて金を払うですよと教えている、そのことがまだ知らないのである。
そしてそんなことを教えてもたいがいありがとうと言っている
こんなことでもありがとうというのかと思ってそのことを前にも書いた
言わなかったのは本当に少ない、若い人が一人言わなかったのはだから目立ったのである
自分もありがとうとあまり言わない、自分は社会と隔離したような生活を三〇年くらいしていたから何か社会常識がなかったのである。
ただここ十年介護とか自分の病気で苦しみ社会とかかわり社会常識が備わったともなる
たいだい普通はありがとうとささいなことでもいうのが普通なのかとなる
すみませんとはいつも自分は言っていたがありがとうとはあまり言わない、そこが社会常識がないということだったのである。
感謝の経済学などとだから自分には言えないところがあったのである。
それは経験してきたから書いたのである。

ともかく人にありがとうと言われことは悪い気持ちはしない、こんなささいなことでありがとうと言われのかということも再認識した。
二年間くらい食事を出してくれた仮設の食堂だったらていねいに今日はありがとう、ごくろうさんでしたと礼をするのは当然だが駅でちょっと案内してありがとうというのは意外だったともなる

どうもたとえ社会的に認められた生活をしてきた人でもその人は資格があり機械とかに詳しく仕事ができてもなんかそうした社会常識がない人だったようにも思う。
そういう人がよく会社を経営できたのかと思う、経営と機械いじりとか理系の研究だけの生活とかは違うからである。あの人も社会常識がなかったのかとも思う

要するに社会的に仕事をしないことは何か欠けてくることはまちがいない、自分はそういう点で欠けていたのである。
考えてみると普通の生活では人間は常にありがとうという立場にある。
医者とか看護師をのぞいてありがとうと言う立場にある。ありがとうと言われる立場の人は少ないと思う、もしそういうふうにありがとうとばかり言われる立場にいると人にそんなささいなことでありがとうとは言わないだろう。
自分の接した人は普通に生活している人だからなのかもしれないとなる

駅では人の流れがありそれで人がどう動いているのかを実際に見ているのも面白いとなる暇になったから気晴らしに駅に毎日行ってそうしているのである。
でもそこには無人駅になってなんらかの用が生れていたことを知ったのである。
あそこには無人では困ることもある、人が必要なのだと思った。

タグ:鹿島駅

2017年02月05日

冬の暮(今日も駅に見送る)


冬の暮(今日も駅に見送る)


80の歳と昔の駅語る親交あたため冬の日さりぬ

ふるさとの駅に帰りて冬のくれ別れを惜しむ80の人かな

年はふり芒の枯れて別れゆく故郷の駅今日も見送る


今日見送ったのは80歳の人であり大宮の人だった。親戚とかでくるのは東京辺の人が多いその人は80歳の人であり昔の駅は高架橋をわたるのはこっちの方だったとか言っていた。そういう時があったのか忘れていた、蒸気機関車の時代も経験している
自分が子供のとき知っているのは引き込み線があり荷物をそこで下ろしていたのである。それで近くに縄屋とかなったのは梱包するために縄を必要だったためである。
輸送がほとんど鉄道に頼っていたからである。

駅は何か迎えたり別れたりする人間臭い場所だったのである。
自分が無人駅になった鹿島駅で案内して一緒に見送りしていると奇妙な感じになる
自分も一緒に別れを惜しんでいる感覚になる
道の駅とかバスの停留場ではそううい感覚にならないのである。
そこが鉄道の魅力なのである ただ新幹線になるともうそういう雰囲気はない
ただ止まるまもなく過ぎてゆくだけだとなる
人間的になる時間ないのである。

待つ時間は実際は人間的なものを演出する、待っていることが旅で記憶に残ることを何度も書いてきた。待つ時間が実は旅では重要な要素になっていたのである。
自分が駅員のようなことをボランティアで演じているのも奇妙ではある。
何か自分は鉄道の旅が長いから駅でも愛着を感じるからそうなった。
駅はつくづく人間臭い場所だったのである。



タグ:冬の駅

2017年02月06日

冬の暮(鹿島駅の写真と詩)



冬の暮(鹿島駅の写真と詩)

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思わぬものが写っていた  

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鹿島駅今日も待つ人冬芒

待つ人や枯木一本駅舎かな


鹿島駅待つ人一人山脈の雲に翳りて冬の朝かな

鹿島駅乗る人一人待ちにけり枯れし芒や朝の一時

鹿島駅引き込み線の残りけり我がたどりつつ冬のくれかな

北風の今日も唸りて遅るかな電車を待てる駅に我がいぬ


故郷の駅

この駅になにかあれかし
年明くも芒の枯れにしままに
80となれる人こそあわれ
昔の駅のことを語りぬ
鉛色の雲の棚引きて
今日も見送りのあり
故郷に親交をあたため
また一人去りにけるかな
人の世の歳月の流れの早しも
すでに還らざる人もありしも
もはや会うことなしも悲し
我が腹からもみな墓に眠りぬ
墓ののみ名を留める人もあり
今我を迎え送る人もなしも
なぜ今我の他者を迎えて見送りぬ
我も老いしも故郷の駅に・・・・


鹿島駅のなんでもない風景が心にしみる、それはなぜか?やはり年を重ねて見る目が違ってきた、なんでもない風景にこそ実は深いものを見いだすのである。
ただそれを見いだせない、たいがい死をまじかにしたときはどんな人でもありふれた光景でもこれが最後だとなったら全然違って貴重なものに見える

自分でも家族はみんな死んだし迎える人もなくなり心境が変わってしまった。
人は結局みんな別れてゆく、永遠に会わないという感覚になる
「さよならだけが人生だ」というのは本当に実感である。
人は何度も会えると思ったがもう会えないとなる

駅で別れて遂には会えないともなる、墓に入った同級の人もいるし家族でも会えなくなるもう墓に眠っているだけである。
今まで見てきたなんでもない風景すら見納めだとかなる

引き込み線はまだ残っていた。これも注意していないから見ていなかった。
ここから貨物の車両が入り荷物を運んだのである。
それで縄屋とかあり梱包に使っていた。それもずいぶん昔のことである。
八〇の人は別な所から高架橋を渡ったと言っていた。
蒸気機関車の時代である。
引き込み線は原町紡績の工場の中まで通じていた。
汽車で作ったものを運んでいたし材料も運んでいた。
原ノ町は機関区になっていたからである。

こういう駅は別にありふれている、でも年を重ねれば全く違って見えるのである。
今日はこの写真をとった後北風が強くうなり吹いた。
この辺は朝は静かでもそのあと風が吹いてくるから注意である。
そしてまた今回も六〇分とか遅れた、運休もあった。
新しくなった路線は高く作ったので風の影響を受けやすくなった。
しょっちゅう遅れているのである。

撮り鉄という人がいるけど何もないありふれた駅に人生があり物語があることを見いだすのはむずかしいだろう。でも駅にはそういう物語が人生が感じられる
車には道の駅でもバスでも感じにくい、駅はそういう人生の出会いとか別れとかを演出する場である。

鉄道の駅は玄関であり待ちあう場所であり迎える見送る場所なのである。
そこに他の乗り物とは違う意味がありそれが見直されるかもしれない。
そういうものは混んでいる駅だと見いだしにくい、こうした平凡な田舎の駅だと今は冬芒になっていて季節感があり感じる、写真も季節を感じないと情緒がない
これが原町駅とか相馬市の駅になると枯れた芒が見えないので季節を感じなくなるのである。

タグ:鹿島駅

2017年02月11日

晩冬に仙台まで途中下車の旅(俳句十首)


晩冬に仙台まで途中下車の旅(俳句十首)

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キクチスーパー山下駅にできたので便利 

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亘理駅

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仙台駅

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仙台の駅が変わっていた

これも変わったものである。

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満月が出ていた
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雲ににじみ光っていたが雪がちらついた

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一本の冬樹や社に古碑並ぶ

みちのくや途中下車して冬の雲

金華山駅より見えて冬の暮

冬の空城郭映えぬ亘理駅

城郭のかつてはあらむ寒椿

亘理駅枯木五本や風鳴りぬ

亘理駅一羽飛びゆく冬鴎

岩沼駅貨物列車に冬芒

線別る福島の方冬の暮

仙台に冬満月や新幹線


満月の雲ににじみて光るかな仙台あわれ雪しぐれかな

仙台に古本買いて帰るかな枯木並木に灯のともるかな


新地辺りからはいつも金華山とかが見えるようになった。この辺には金華山の碑がある。それは明治時代頃のものでありその頃お参りが参盛んになった。古いものではないのである。むしろ湯殿とかは古いのである。

山下駅におりた、キクチスーパーが駅にできていた。広いスーパーである。あれだと駅前に人を集められる、そこで休む場所があったので弁当を食べた。
駅前にスーパーがあると便利である。駅をおりてすぐ買い物できるし車がなくてもできるからだ。
鹿島駅で老人が車がないのでバスを走らせてほしいと言っていた。
高齢化社会は足が問題になる、それで路面電車が復活したりしている。車も運転すると老人は事故を起こしやすいからである。
前は原町の前にスーパーがあったが今はない、図書館があるがあれもいいものかどうかわからない。やはり買い物する店が必要なのだ。
自分も自転車でゆくと何か最近腰が痛くなるのである。だから自分にとっても足になるものが必要になる。

仙台は便利になったから時々また気軽に行けるのがいい、次は亘理駅によった。
残念だったのはあの城の中は見れなかった、休館だったのである。
あの城はあそこに案たわけではないけど立派であり見応えがある。
中通には城はあるが浜通りにはないからだ。
亘理駅で冬の鴎が一羽飛んでいるのを見たことがある、それであそこも海が近いと思った現実に津波の被害がやはり大きかったからである。
浜吉田というのも浜がついていたから海が近かった、しかし海が見えないので近いと思わなかった、だから浜吉田の駅まで津波が来ていたのには驚いたのである。

亘理駅で五本の枯木が風に鳴っているというとき写生なのである。写生だと何か単純だけど力強い句、簡潔なた句になるのである。

岩沼駅はいつも貨物列車がとまっている、あそこは工場地帯だから引き込み線もあるからだ。原発事故以降は双葉、大熊は通らないので貨物列車とスーパーヒタチなどの急行は通らない、だからそれも不思議である。
自分は介護で家族が鹿島の厚生病院に入院していたとき窓から貨物列車を見ていたのである。その貨物列車がなんとも病院にふさわしいものだった。
重い荷物を運ぶとき病人もそういう感じになるからだ。
何か電車には常に人間的なものを感じるのである。

仙台ではまた古本屋によって本を買った。やはり通販だけでは買い物は面白くないしわからないことがある。本でも中味が見れないからである。
そして仙台だと変わったものが研究した本でもある。
今日は万葉集の絵があるのを買った、それは見れないようになっていた。
でも書店の人にみせてもらい買った、四〇〇〇円だった、これは骨董品だと思った。
相当に紙まで古くなっていたのである。

仙台駅に冬の満月が出ていた。それが曇って雪がちらついた、それはちょっとふっただけのものであり雪しぐれだった。冬の終わり頃に雪しぐれがある。
これは情緒的に日本的な微妙な感覚をかもしだすものだった。
日本の季節は微妙に変化するのである。だから季語が無数にあるのだ。
実際自分は雪時雨は経験していないからである。

帰りは山下駅で十数分下りの電車をまった、強風のため必ず遅れるのである。
駒ヶ峰と山下駅までは高架橋になり風の影響を受けやすくなったのである。
だから風がこの頃必ず吹くから遅れているのである。
これも困ったものだと思って帰ってきた。

2017年02月17日

風の影響で毎日のように遅れる仙台までの常磐線 (駅は人が交わる人間臭い場所だった)


風の影響で毎日のように遅れる仙台までの常磐線

(駅は人が交わる人間臭い場所だった)


今日は春一番が吹いて風で電車がまた遅れた。最近はともかく風が毎日吹いて電車が遅れる、最初は3分とか4分とかだが50分とかになり運休になる場合もある
今日は特に風が強かったからそうなった。

一時間とか待つとなると急いでいる人、仕事している人は困るだろう。
阿武隈信用金庫の人が何か投資の講演会があると人を待っていた。
その時はまだ遅れていない、その後に遅れたのである。

銀行は銀行法において、株式会社であることが規定されています。株式会社である、ということは、株主に利益を還元しなければ存続できなくなりますので、銀行が最も優先すべき事は利益をあげること、ということになります。

一方信用金庫は、ある地域内の地主や有力者、そして地域住民が会員となり出資し、設立した非営利法人です。そのため、利益よりもその設立理念である「会員の相互扶助にり地域社会の発展」に重きをおいています

信用金庫としんきんと銀行の相違は何なのか、双相信用金庫とかあったが合併して五城信用金庫とかなった。阿武隈信用金庫も今回の津浪や原発事故の被害地域が主な地域になっていた。亘理にもあるが狭い範囲である。阿武隈という地域である。浜通り地域である。信用金庫と株式会社である銀行の相違はより地域に密着したのが信用金庫だとなる
銀行は株式会社だから利益をあげて株主に配当しなければならないが信用金庫は株主より地域に密着して産業を会社を育てるという役割になる
銀行は小さい銀行でも福島県全部に支店をもっているしその資本金の額も大きいのであるそれでも阿武隈信用金庫でも投資信託をしている、これは信用金庫ではしていないと思ったがしていたのである。

投資信託を銀行に頼んだか興味深く聞いた、もっとこの辺の経済のこと震災の影響を聞けば何かわかることがあったと思うがあそこでは長い話はできない、待合室だからである。でもそれなりにいろんな人が出入りしていてちょっとでも話すと面白いと思った。
特に今この辺は外部からくる人が多いからである。
その人は地元の人だった。
郷土史研究などというと歴史だけで好事家のようなものだと思うが実際は故郷全体のことに関与することである
だからそういうことをプログで追求してきた。ただそうなると相当な広範囲な知識が必要になり自分だけでは手に負えない、記者だと雑誌でもそういうことを追求している
福島県には二つの雑誌があるからだ。でも東電については追求できなかった。
なぜなら東電はマスコミならどこでも宣伝費を払っていたからである。
そもそも雑誌などでも一カ月一回福島県で出してそれで生計が成り立つのかとなるからだ
地域というときそれは日々生活している場所だから全国的なニュースとか世界的なニュースより関心がある直接的なものとしてじ
かに影響する場である。

それで原発というのはそういうものとしてあったが地元なのに関心が薄かったのである。それより関心が喚起されなかった。それはやはりた報道の問題があった。
報道の意義は宣伝費を多くもらっているから何も言えないでは地元の人にも役にたたないとなる、新潟日報だけが巻町が原発に反対したとき同調したということで評価されている福島県の報道関係では反対した報道はなかったのである。
それも怖いことだなと今になると思った。第一報道すること自体やはり権力を持たないとできない、新聞社とかテレビ局を見ればわかる、報道するにも会社をもち金がかかる
新聞社などはあれだけの紙を刷って配っているのだから金がかかる
とても報道する内容だけでは成り立たない、だから宣伝費に頼ることになるし聖教新聞でも刷って金を得ることになる、そういう所から入る金は大きいからである

でもそうなると報道は会社の悪でも真実は追求できないのである。結果的に地元の人でも今回の原発事故のように大惨事となるまで追求できない
日本は報道の役割は権力側につきすぎる、権力にこびるだけなのである。そういうシステムになっている、たから原発の安全神話が通っていたのである。
そもそも報道とはなにかとなる、そんなことを考えたのはプログを書くようになってからである。前はホームページを書くようになってからである
それまで一個人が報道することはできなかったからである。
まずインターネットは発信することが楽だし金が全くかからないことでみんなしている
そしてリアルタイムであるから報道局を個人でさえもつことができる

そして感じたことは今はyoutubeで個人でも放送しているのである。
そのyoutubeを見て思ったのはテレビに出るときは何人かが対話形式で話しする、そこは一人の個人の発言の場所ではない、何人かがコメンテーターとして発言している
そしてそれはテレビ局の意向にそって発言を許されているという感じになる
そこで一番力をもっているのは司会者なのである。
司会者が意見を言うのは本当はあってはならないことだが司会者が常に意見を言うからもう客観的報道は不可能になる、司会者の言い分を意見を言う場所でありコメンテーターが飾りとして呼ばれているようになっている
だからyoutubeで個人で発言しているのを見てこれは今までとは違うなと見える
有名なテレビに出る人が個人で発言しているのである。
そうなると十分にその個人の言いたいことが言えるし深いことも言えるのである。

鉄道の駅は意外と人が交わりあう場所であり生の情報を得る場所であることにきづいた。もともと鉄道が全盛期のときはそういう場所だったのである。人間臭い場所だったのである。
それで奇妙だけど阿武隈信用金庫の人はまるっきりビジネスマンであり標準語を話す、それは今では当たり前になっているが駅というのは地方にある駅ならなまりがでてくるのが普通だけど今は子供まで標準語の世界になった、その時何か地域的なものが失われているのである。なまりには何かあたたかみを感じる、標準語はまるで英語のように感じるのである。英語は世界の標準語にもなっているからである。

ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく 石川啄木

なまりが聞こえるような所が鉄道の駅だったのである。今は地方でも子供まできれいな標準語を話すのである。ビジネスマンになったらもう標準語しかない。
そこに何かあたたかみがなくなるのである。
そして奇妙だけど新地とか山下駅が新しくなり都会風になったときひなびた田舎の駅という感じではなくなった、それそれとして新鮮なのだが古い駅舎では昔ながらの人間臭いものを感じる、いづれにしろ自分は毎日駅に行って様子を見て案内したりしている
ボランティアの駅員になっている、何か自分には鉄道には旅が長いから思い入れがあるから鉄道にかかわりたいともなる

今日は春一番が吹き春時雨にもなった。日本の気候はつくづく変わりやすい、なんかいつも電車が風で遅れるとそれも結構長くなったり運休したりもする
すると川止めのような感覚になる、川止めだと一日も二日も待たねばならなかったからである。やはり人間は自然の影響からまねがれないということも未だにあるのだとしる
これだけ便利な社会になってもそうなのである。風の影響を受けないようには技術的にはできるがそれもまた工事が大変になる、技術が進歩してもやはり自然の影響をまねがれない、原発事故だって津浪という自然災害をまねがれなかったのである。
人間は科学技術がどれほど発展しても以前として自然の影響を受けるしその災害からもまねがれないものだと思った。


2017年02月23日

鹿島駅の錆びついた入り口の戸は直した 駅とは広場とか待ち合わせとか出会う場所、外部の人との交流の場所

   
鹿島駅の錆びついた入り口の戸は直した


駅とは広場とか待ち合わせとか出会う場所、外部の人との交流の場所
   
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今日も夜は風で遅れている、でもこれはいわきの方だった
今日は仙台方面は遅れてはいなかった

 

今日は福島市からレンタカーで仕事で来た人がいた。目だつところがないので駅に来たという、それからもう一人は車を駐車する所を聞いていた、駅のすぐ前だと長く駐車するには向いていない、自転車置き場の所が空いていた、そこに止めたらいいだろうと言った
指定されている所もあったが指定されていない所もあったからだ

要するに鉄道の駅といってもこうして車時代になると車で行き来しているから駐車場とかが必要になる、街中は駐車場がないのが問題なのである。
それで新地駅とか山下駅は駐車場を駅前に広くとった。車も駐車しやすいから鉄道を利用しなくても待ち合わせでも何かここで用をたすともなる
温泉も出たとなると憩いの場所にもなる

確かにこの本のように駅というのは見直す時期なのかもしれない、駅が街の玄関口なのはまちがいない、そして東京への上ぼり志向から下り志向へ地方へ再び目を向ける時代が逆にきている、東京へ東京へという時代は終わったのである。
地方はこれから見直される、ただその見直されるとしてもみんながそうはならない、地方としての何か創造とか個性とか売りになるものがないと見直されない
外国人旅行者が増えて東京から都市部から地方へ目が向けられるときもそうである。

今はこの辺は外部からの人が結構まだいる、駅の特徴はそういう外部の人とも交わる所なのである。それで自分は全国を隈なく旅行しているから相手がどこから来たかというとき話を合せられるのである、そういう場にいることが何か生きがいにもなる
自分にとっても面白いとか相手もここに来てこの町のことなど聞くのが案内されるのが面白いともなる
ただ案内するにしても今は津波とか原発のことがあるがその他では目だったものはここにはない、でも何かちょっとでも話すると面白いとなる
駅が外部の人との交流の場所となる、それは仙台まで通じたからできたことである。
この六年間くらいはそういうことはなかったのである。

今日はいわき市からきた建築会社の人が戸を直した、ここは前から自分が市にも言っていたし水戸から来た人にも言っていたし原町の駅の人にも言っていた
戸が古くなってあきずらくなっていたのである。
それを今日は直してくれた、それを自分は見ていた

それから今日も夜になって遅れがでていた、昼間はめずらしく風がなく遅れなかった
でも夜になり風が吹き遅れた、だから毎日遅れが出るのが困るとなる。
でもそれはいわきの方であり仙台方面は普通に運行されていた、風がこっちはなかったからである。             
                                  
参考になる本

「老いる東京、蘇る地方ー牧野知弘」
タグ:駅の役割

2017年02月28日

鹿島駅に止まった「電気・軌道総合試験車」は格好いい (浪江まで開通する準備らしい)


鹿島駅に止まった「電気・軌道総合試験車」は格好いい


(浪江まで開通する準備らしい)

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この車両は、線路に異常がないか走行しながら検査する「電気・軌道総合試験車」とか「検測車」と呼ばれる車両。
この白地に赤いラインの外観の車両は、JR東日本が2タイプ所有する。
1つは、電車(モーターで走行)の「East i-E」。茨城の勝田の車両基地に所属。

この列車を見たことがある方は、かなりラッキーかも。日本中に1本しかなく、神出鬼没な列車だから。
ただし、秋田市内の車両基地(秋田車両センター=一つ森公園と金照寺山の間)に所属しているから、秋田では他地域よりは見やすいかも。

今日止まったのはこの車両だった、客車かと思ったが「電気・軌道総合試験車」というものだった、なぜこれがここに来たのか、線路の点検などで一両くらいのはくるがこんな長いのは来ない、だから珍しいし写真をとった

これは3月に浪江が避難解除になり電車も開通するということでそのための点検に来た電車だった。
この車両は一本しかないというと滅多に見れないものだとなる
インターネットだとすぐわかったから便利である。

鹿島駅に毎日行ってきるけど何かあるのが不思議である。
この前は中国語で話している人がいた、中国人が二人にベトナム人が一人だった、
これも不思議な関係だと思った。
ベトナム人を中国人が案内していた、その中国人は日本語がしゃべれたのである。
それで迎えに来た車にそのベトナム人をのせたのである。
工事関係か除染関係かそういう人がまだこの辺には来ている

仙台に行くという若い女性がいた、その人はなまりが違っていたらどこと聞いたら宮城県の人だった、宮城県は近いけど語尾に「だっちゃ、だっちゃ」というのが違っている
相馬ではだべとしか言わないからだ。新地ではもともと伊達藩だからだっちゃというらしい、新地の女性でだっちゃと言う人がいたからである。
なまりなつかし停車場というのはやはりそうである。
言葉にはなまりがありその人が土地の人とは違うなと判断する、でも今は標準語を話すから分からないことはある、でもなまりはでてくる、それでお里が知れるとなる
それがまた面白いともなる

ともかく鉄道好きなのはこうした車両に魅力を感じる人もいる
自分は鉄道の旅が長いから興味がある
浪江まで開通することもかなり復興にはなる
やはり新地や山下のように駅前を開発して人を集めるというのも見習うべきだろう。
鉄道が街の基点、玄関口になることを見直すことも必要である。
新しい街作りというとき長い通りの商店街は向いていない、なぜなら車の時代だから車と鉄道とが合体したような新地とか山下駅が参考になるのである。

「お帰りなさい」というとき上がり志向から下り志向になる時代でもある
駅は「お帰りなさい」というだけではない「行ってらっしゃい」という見送る場所でもある、だから自分は行ってらっしゃいと見送りしているのである。

2017年03月03日

今日の鹿島駅 風で遅れて新幹線で帰れない人がいた


今日の鹿島駅


風で遅れて新幹線で帰れない人がいた


今日も風が吹いて電車が遅れた

「新幹線で帰るつもりが帰れなかった」
「仕事だと困るでしょう、時間を決めて合うこともあるし時間どおりに運行しないと予定が狂う」
「この前は相馬市からバスで仙台に行きました」
「そうですか?まだ仙台までの直行のバスが出ている、バスは風と関係ないからいい

こうも毎日遅れると困る人がいる、バスもだから必要ともなるな」
そういう仕事の人もいた

もう一人は前にも見かけていたが新地の人だった
仕事でいつも鹿島に来ていた
話できな人かと思ったらできた

新地駅は立派になっていいよな」
「俺は運転免許もっているが車買う金ないんだよ」
「運転できるのか?、中古安いじゃないか」
「金がねえんだよ、ガソリン代もかかるしな」
「車はもつだけで車検とかもあるし金かかるよな
自分は金はあるけど運転できない、運転免許あるのにもったいないな」
「金がねえんだからしょがねえよ」
「世の中金があっても何もできるわけじゃないよ、うまくいかないんだよ
自分は自転車で原町や相馬市に買物しているよ」

あの人は話できない人かと思ったら話できる、これだけ話すればそれなりにその人のことがわかる。
もちろん車が運転できても車を買う金がないから鉄道を利用している
そういう人もいたということである。

「新地の駅は新しくなっていいよな、何であれだけの土地があるのに家がたたないのかなやっぱり金がないのかな、鹿島では三つくらい新しい街ができたくらい家が建ったけどな」
「家は建たない、金がねえんだろう」
「新地に原発の補償金はおりてねえらからな、その差は大きいよ」

新地の駅前に広い宅地用の土地があるが家が建っていないのは変だなと思った、鹿島では次々に新しい家がたち三つくらい新し街ができた、だからそれと比べるとなぜあれだけの広さの土地にまだ家が建ってないのかなと思った。
新地に他から来た人も小高でも大熊とか浪江とかからも来て建てた人がいる、小高の人が建てたとは聞いた、やはり原発の補償金がもらうのともらえないのではその差が大きい
津浪で家を流されても津浪の被害だけでは金が入らないからだ。

ともかく駅はいろんな人が出入りする場である。地元の人でも外部の人でもそうである。今日はおしの人が来ていた、最初わからなかったがしゃべることができない、耳が聞こえない、字は読めるからスマホを見ていた、説明したらなんとかわかったみたいだ。
別に障害者でも来るがめずらしいとは思った。
つまりいろんな人が駅には出入りしているのである。


2017年03月04日

車の話題 (車と鉄道が合体する場としての駅を考える)


車の話題


(車と鉄道が合体する場としての駅を考える)


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鉄道社会なら借金せずともどうにか暮らせるが 
車社会では大部分は嫌でも車のローンを抱える事になる。 
しかし、税金すげー払ってるよな考えたら。今年からリサイクル料金もいるしな。 
もうすぐ車検で頭痛いよ。駐車場代だの車検・税金、保険料とかに随分使ってるな。 
別に車が絶対必要な訳じゃないし、どうしてもの時は 
レンタカーやタクシーで代用できるからなぁ。手放したら海外旅行2回ぐらい行けそうだ・・ 

地方はフリーターでさえも車が必要。 
例え貯金無くともフルローン組んででも車が必要。 
自動車税、ガソリン代、オイル交換、タイヤ交換、その他諸々・・ 
果てしなく金が必要。 はよ脱出したいわ。 
しかし、車関係に金掛かって貯金が溜まらない。 何の為に働いてるんだ俺? 
ガソリン税、重量税、自賠責、自動車保険、維持費、 
取得税、駐車場、車検、リサイクル料、自動車税、消費税、 


自分は車をもっていないから車のことがわからない、すると実は今の社会もわからないのとなる、なぜなら今の社会は車なしではありえない社会だからである。
自分は家庭環境に恵まれて別に仕事もしなくても良かったから車がなくても良かった。
おそらく車をもっていたら自分は事故で死んでいた。
なぜなら自分は車を運転できない、注意散漫でできないからだ。
自分は金はあっても車をもつ気になれなかったのはそのことがある
そして車だと自然を遮断する、自転車だと常に風を感じるから自然を感じる
今の季節なら海から東風(こち)が吹いて来ているから春を感じる
この東風が3・11に吹いたため飯館とか福島市まだその風に乗って放射性物質が運ばれたのである。
車はまた注意していなければならないから外の景色をゆっくり見れない
ただ密閉した箱の閉ざされた空間が移動するだけだとなる
風を感じないというとき風土も感じないとなり旅したことにもならなくなる

とはいえ現代で車をもたない人は変わり者であり貧乏に見られる、仕事でも車が必要だからまともな仕事につけないともなる、車のことがわからないと実際は社会不適格者になっているのが現実である。そもそも自分は社会不適格者だったのである。
社会に適合できなかった、それが学校時代からはじまっていた、集団生活ができない、そこには甘やかされて育ったということもあった。
ただ大学に入ってから体育系の部に入ったりカルト宗教に入ったりしてなんとか集団生活になじもうと必死だったのである。
ただその後は仕事は流れ作業のようなものしかしていないから仕事を嫌悪するようになってしなかった。家庭環境に恵まれたからそういう生き方もできたのである。

車をもたないということは原町の六号線から入るモスバーガーを20年間知らなかった
あそこは車しか入れない場所だと思っていたのである。
あの辺には喫茶店がなくていつも困っていた,自分は喫茶店が好きだった、喫茶店で物思いにふけるのが自分だった、今やこの喫茶店はめっきりへった。
でもあそこに20年間も喫茶店としてあったのに気づかなかったのは車を利用していなかったからなのである。そういうことは今の社会では相当にある。
車をもたないということは戦国時代なら馬をもたないと同じとなってしまう。
足軽として仕えるような身分になっているのだ。足軽とはまさに足で歩くほかない職業だったのである。

ともかく田舎では車がないと生活できないというとき農業でも車なしではできない、軽トラックを必ず使うからである。最近知人が80近くになるのに新しい軽トラックを買った
農業しなくても軽トラックは必要なのである。それで軽トラックが一番売れていることでわかる。
ただ新地から鹿島に通っている人が50過ぎだろうか?免許もっているのに車が金がないというのはどういうことなのか?そんなに貧乏なのか?
中古品で20万で買える、その金もないのか、ガソリン代とかかかるとか言っていたがそんなに貧乏なのかとなる、車は実際はいろいろ保険とか車検とかかかる
金のかかるものである。自分は車を乗っていないからその分一千万くらいはトータルで金がかかっていない、残ったともなる
ただ車を知らないということは現代の社会を知らないということなのである。
それは何かと自分は隠者のような生活をしていたから社会を知らなかったのである。

なぜ車のことをしらないと社会の不適合者になるかというと社会自体に関与できないということもある。
例えば今この辺は津浪や原発事故で困っている、ではその復興にどうするかというとき車社会になっていれば車をどう活かすかが問題になる
とすると車を乗っていない者はそのことがイメージできないのである。
でも鉄道には関心をもっていたから鉄道の駅の回りに駐車場を広く新地とか山下では作ったので鉄道と車が合体したようになり駅周辺が活性化した。
別に鉄道利用しない人も車で駅周辺に集まるとういことがあるからだ。
そして鹿島駅に福島市から来た人は待ち合わせ場所として駅を利用していた。
目立つ所がないのと道の駅がここにはないからだ。
駅はやはり街の中心としてありその再開発として考える必要もある。
浪江でも鉄道が開通したら駅中心のコンパクトシティにするようになる。

いづれにし日本は貧乏社会になっている、消費者金融から借りている人が一千万人いる。その数も多い、近くでもみんな借金している、遂に犯罪者になる人もいた。
金をもっているようでも立派な家に住んでいても借金していそうしている借金社会になっているのが現代である。
ただ車が買えないというのは相当な貧乏だと思う。
車というとまだアジアの後進国では買えない、ベトナム辺りでもホンダのバイクとかが交通手段であり道一杯にバイクであふれているのである。
だから車が普通にあふれている光景が世界ではすべてではないのである。
カンボジアではバイクで観光していて中国人がそのバイクを土地の人に貸して商売している、あんな商売なら資本金があればできるなと思った。
なぜならバイクはそんなに高くないからである。カブであり安いからである。
カブの時代が日本にもあったことを思い出したのである。その時は車は普及していない

ふりかえると高校生まで蒸気機関車で原町まで通っていたことの不思議である。
トンネルをくぐると煙で煤になっていたからである。しかしその後すぐ電気になりその頃一番鉄道が利用されていたと南相馬市のチャンネルで放送していた。
あそこにホーム側とは待合室側でソバなどが食べられる丸屋の経営の店があった。
あういうものが手きていたことはやはり繁盛していたからである。
鉄道の利用客が多かったからである。国鉄時代を築いた一時期があったからである。
自分の母親が原町で原町紡績-原紡に勤めていたがその原紡に引き込み線がある写真があった。鉄道と直結していて運ばれていた。戦前であれ原町からも森林鉄道網が縦横に走っていた。そして木材とか石とかを積み出して東京に運んでいたのである。
それは資源を国内で利用していたから全国的にそうだったのである。
だから原町駅にもその貨物をのせる引き込み線かあった
それが車時代になり鉄道は衰退した

だから常磐線でもそうして繁栄した時期の半分以下の乗客になっているだろう
だから何か400億もかけてよく鉄道を復興したと思う、それだけの利益をこれからあげられるのかとなると疑問だからである。でも鉄道はこれからまた見直され利用されるようになるかもしれない、車だけに頼る時代は今やまた車が売れないとか買えないとか貧乏時代になるとまた変わる、車はなにかと金のかかるものだからである。
それでも車のことがわからないと社会はわからないのが現代である。

鹿島駅の前は駐車ス-ペスが狭すぎる、自転車置き場がある所は個人用の駐車場として決められている、だからあそこにはとめることは違反なのである。
つまり鹿島駅は駐車場がないことが一番の問題なのである。
通りが廃れたものただ車が通過するだけだから廃れた
駐車場を広くとれないからである。それで新地駅とか山下駅は駐車場を広くとれたし山下駅にはキクチスーパーができたから駅前に人が集まるようになった
車と鉄道が合体したような場になったのである。




タグ:車社会

2017年03月05日

今日の鹿島駅(春の日) (10年ぶりにいわきをまわり来た人)



今日の鹿島駅(春の日)

(10年ぶりにいわきをまわり来た人)

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紅梅や仙台に通ず線路かな

鹿島駅十年ぶりに来たりしと春の日さして鉄道の旅



今日は風がなく遅れがなかった、春の穏やかな日だった。土浦ナンバーの水戸管理局の人が信号室を見て回っていた。一人はこの前来た検査車両に乗ったことがあるという。
あの検査車両は浪江とか双葉大熊まで電車を通すために実験している車両である。
浪江は今年中に再開する、3月30日で避難解除になるからである。

そして双葉から大熊とかを通っていわき市までも開通する、その工事は点検ははじまっていたのである。ただ放射線量が高いので双葉とか大熊の駅にはとまらないという。
浪江から双葉に入ると0・5マイクロシ-ベルトから7マイクロシーベルトになるから高いから止まれないことがわかる。でもそうなるとなかなか双葉、大熊などの復興は遅れるとなる。いづれにしろいわき市までも通じる日が近いことを知った。

今日会ったのはいわき市からこっちに回って来た人だった、何かこっちに縁があったらしい人である。茨城の大学に在学していたというからだ。
震災前に来る予定だったがこれずに10年ぶりに来たという。鉄道の旅が好きだとは言っていた。今日は日曜日だから仕事ではない。
10年ぶりに来たとなればなつかしいのかもしれない、仙台まで開通したので来たのだろう自分でも介護ですでに東京に十年以上行っていないのである。

昨日は福島市からタクシーを貸し切りで鹿島駅まで来た人がいた。前も福島市からレンタカー借りて来た人がいた、鹿島では待ち合わせ場所がないので駅にしたという。
福島市から来るのは福島市に県庁があり仕事で福島市から南相馬市に来るということがある。新幹線を利用しても遠回りで時間がかかるから金がかかっても会社なら金が出るからタクシーできた。福島市には貸し切り専用のタクシーがある。
辰己屋というタクシー会社である。この会社を近くの人が知っていた。

近くに星自転車屋と大沼菓子店がある、10年ぶりに来た人は香の蔵でお土産を買った
うまいと言っていた。前に東京から来た人がわざわざ六号線の香の蔵にお土産を買いに行った、あそこまで行くのは不便である。
スーパーキクチの方が近い、あそこでも菅野漬け物屋のものは売っている、数はすくない

とにかく駅はこうして出会いの場所なのである。外から来る人が必ずいるしまだ工事関係とかで来る人もいる、やはりまだ開通したばかりだから外から来る人が多い
だから意外と何か用がある、別にいなくてもいいがやはり無人駅は困ることがある。
3月4日からの時刻が変わるので時刻表を置いたけど風で飛ばされていたのである。
それを原町駅に連絡したらすぐにまた置いた、セロハンで箱をはりつけて飛ばないようにしていた。時刻表をみんなもってゆく

ともかく紅梅が咲いて線路は仙台に通じているのがいい
いわき市まで通じればさらにいい、ただ特急ヒタチは走らない、もう走る姿を見れないとなるのは残念である。新幹線があるから時間的には東京まで行くのは変わらないからである。でももう一度鉄道ファンなら乗ってみたいということがある。
ただ十年以上その人もこっちに来なかったが自分も十年以上介護とか東京に行っていないのだ。時間がすぎるのはとにかく早いのである。

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福島貸切辰巳屋タクシー


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 常磐線の復旧に400億円かかっているからすごい、でももうけているのは新幹線でありあとは5パーセントしか収入がない
新幹線に接続するものとしてローカル線がある。ローカル線が維持できるのは新幹線があるからだとなる
これが鉄道の経済の実体なのである。

2017年03月07日

故郷の駅の八重桜(詩) 思い出のある場所が故郷


故郷の駅の八重桜(詩)

思い出のある場所が故郷

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信号室があり新しく鉄塔が建てられた

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建物財産標とは、国有鉄道(→JR)が建物の用途毎に設置した
建物の分類や建物の使用開始(或いは登録)年月日を示した札である

M 30年とあるのは

1897年(明治30年)
1898年(明治31年)
Mは明治のことでありこの駅舎は明治30年に建てられたから古い
そして31年に鹿島駅が開業した

30年に中村駅が開業して31年に原ノ町駅が開業した
ともかく建物財産標はそれだけ古いものであり鹿島駅は古い駅舎そのままだった


ふるさとの駅に
八重桜咲き
その花の影に
我がたたずみて
電車を待ちぬ
そのあたたかき
ほのぼのとしたる
八重桜かな
母のごとしか
姉のごとしか
我を待ち迎え
見送りしものあり
しかし悲しかも
その八重桜は切られて
その根のみ残りぬ  
ああ 我が母も姉も死ぬ
我を迎え待つ者のなしも
我はただその切られし
切り株を見るのみなりしも


一本の桜と古い駅

鹿島駅には八重桜が咲いていた、それが5年8カ月ぶりに再開したとき切られた、根が残っているがそれが桜となるのかわからない
自分はいつもその八重桜の下で電車を待っていた、電車は待つということがありそれが人間的なのである。待つということは人間的時間を作り出している
今は忙しいから待つ時間がもてないのである。10分20分でも待つ時間があるとそれが人間的な時間となり思い出となる。だから新幹線は何か思い出となりにくい、ただ目的地に行くだけだとなるから旅にはあまり向いていないのである。

昨日も広島から来た人がいた、何か駅舎の作られた年を見ていた、36年前とか書かれていたのか?これには注目していなかった。ここも5年ぶりとかに再開したので鉄道マニアでも来る人がいる。広島は遠いなと思った。ただその人とは会話は成り立たなかった、会話できる人とできない人がいる

ともかく毎日駅に行くとそこで人とふれあうことができることがわかった。
自分は家族がいなくなって本当に淋しくなった。もう待っている人も誰もいない、それが悲しいとなる、八重桜はほのぼのとしてあたたかい、桜とは違ってすぐ咲いてぱっと散るのとは違う趣がある。それはぱっと桜が咲いて散った後ほのぼのと咲くのである。
それは何か母のごとく自分の場合は姉のごとくとか愛を感じる
複雑でもそうである。八重桜はそういう家族の愛を感じるのである。

その八重桜が切られてないことがショックだった、信号室があって何か鉄塔を建てたために切った。それが残念だった、切り株だけが残っている、この根からまた新しい八重桜が咲くのだうか?
その八重桜の根を見たとき自分の家族が死んだのでそれを同時に思ったのである。
根だけしか残っていない、それは墓だけしか残っていないとかともなる
何か故郷というときそういう思いとか愛着がある場所なのである。
家族をみんなもっているからそういう愛のある場所である。

ただ家族に愛があっても故郷の人は愛があるかというとまた別である。故郷を一茶のように嫌悪するものもいる、ただこの辺では故郷とは何かとか避難したり故郷自体が消失したりしたから考えるようになったのである。
津波でも村そのものが消失したりしたからそうした愛着ある場所がなくなった
そのことがショックだった、老人が帰りたいというときそこに愛着があるからである。
それが失ってみてわかる、それがあるときは考えないのである。
だからここでも八重桜が切られてなくなったとき自分も考えたのである。
それが貴重なものであり思い出の木だったのである。
そういうことがこの辺ではいたるところで起きたのである。

右田の一本松というと津波で残った松だがあれはそもそも松原としてあったから一本の松としては意識していなかった。松原は一本一本の松を意識しない所だった
駅の八重桜は一本の木として意識していたのである。
要するに自然でも人間化する、八重桜には家族とか母とかでも人間をみるのである。

ともかく家族をみんな亡くして誰も待つ者もいない、それが淋しい、世間の風は冷たいが家族の愛につつまれていたときを思い出すのである。
それが思い出となってしまった。今は自分が待っていて迎え見送りしているというのも奇妙だとなる。
駅が結構いろんな人が出入りする、すると淋しさもまぎれるのである。
一人暮らしの人が老人がスーパーなどに毎日行くというときその気持がわかる
そういう人が出入りする所で淋しとかがまぎらわすのである。
それは妻を失ったとか一人身になった人しかわからない心境である。

家族が死んだり愛する者が死んだりするとそれがずっと尾を引いて癒されないのである。それはなぜか、死んだ人とは二度と会えないからである。会えないからこそまた悲しみがつのってくる、生きているときは嫌な人でもあったことはある、でも死ぬと二度と会えないから余計にまた会えたいとなるのである。
だから人間は二度と会えないということで会っていると有意義になる、一期一会とかなる自分は60年も一緒にいたからそのことで忘れられないとなる
だからどうしても老人は故郷に思い出のある場所に帰りたいとなるのである。

木造の古い駅舎

2017年03月08日

今日の鹿島駅 (名取の空港から大阪へ行く人)


今日の鹿島駅

(名取の空港から大阪へ行く人)


今日は風もないから電車は遅れない、ここ三日くらいは風がなくおだやかなので遅れがない。今日であった人はどうも記者らしい、どこかで見た顔でもあった。

「名取から大阪に行くんです」
「大坂まで飛行機で、いくらかかります」
「8000円です」
「それは安いな、新幹線だったら大坂まで3万以上かかる、そんなに安かったのか」
「常磐線が仙台まで通じたので名取の空港に行き安くなったんです」
「でも最近毎日のように風で遅れているから困る人もいた、新幹線に乗り遅れたとかいう仕事の人がいましたよ」
「名取まで直通だし何便かは大阪に行きます」
「大阪城の桜は見物だったな、西を旅すらなら大阪へ飛行機で行った方がいいな」

仙台空港から大阪への飛行機代が8000円というのは安い、沖縄に仙台空港から行ったけど3万だった、帰りも3万だった、往復6万となると高い、そんなに安いのかという驚きだった。
これはいろんな航空会社があり選び予約するのが結構むずかしいかもしれない、ただこれだけ安いものがあるのか?
普通は2万5千円くらいになっているからだ。
つまり常磐線が仙台まで開通し結果として名取へ行くのが便利になったから利用する人も増えるとなる
でも大阪も外国人だらけというとき何か泊まるホテルさえ確保できない、カプセルホテルには泊まれるのか?自分が泊まっていたのは東京ではカプセルホテルだった。
今になると外国人でホテルは泊まれない、何か外国人が増えて窮屈になっている
だから日本人が日本を旅行するのに向いていないともなった。
東北辺りはまだ空いているから旅行はしやすいだろう。

もう一人であった人は地元の人であり東北サッシの人だった

「あの人は社長なんですよ」
「ええ、あの人がですか」
「神奈川の人なんです」
「東北サッシというと桜田山にありずいぶん古い」
「50年たちました」
「その頃からあったのは知っています」
「今は人手不足で困っています」
「なかなか熟練しないとやれない仕事でしょう」
「70人くらい従業員がいますが人手がたりないんです」
「この辺は仕事が復興事業で増えましたから」

社長は神奈川の人でありその人を駅に見送りに来ていたのである。自分も一緒に見送ったのである。無人駅になりホームに出入り自由だからできる
その社長はこの土地の人と縁故ある人であそこに会社ができた。
駅にいると意外とそこが人の出入りする場所、情報を得る場所交換する場だということがわかった、今日は会社員と見ていたが征服が背広のような黒だったからそう見た
その女性は相馬高校だった、その制服だった、前は紫色の縞模様だった、だから征服も変わった、何か会社員のような制服に見えた
何でも吹奏楽部に所属していてその関係で来ていたらしい。

ともかく駅は意外といろんな人が出入りする、若い人でも年寄りでもそうである。
なかなか若い人と話す機会がないがあそこでは話せる
つまり駅では同世代の人とか年寄りとかばかりいるむけではない、世代だけではない、いろんな人が職業も様々な人が出入りしている場である。
今はまだこの辺は工事関係者も外部から来る人が多い、だからソ連時代にミシンを売るためにガサフスタンまで行っていた人に出会ったことは驚いた。
その人はこの町に住んでいるのである。

自分にとっては駅は面白い場所だと気づいた、いろいろ話できるし情報も得ることができる、大坂間で飛行機で8000円で行けるのは意外だった、特別安い切符を手に入れたからかもしれない、飛行機代も季節により変わってくるからである。

そして無人駅でも困ることがあると利用している人も言っている、何かとまどうことがあるからだ。最近は風で遅れることが最大の問題だったのである。
遅れると新幹線に間に合わないとか飛行機だともう乗れないとかまでなるから怖いのである。

ともかく自分は旅をしてきたから乗り物には興味がある。飛行機でもかなり乗ったからだただ飛行機のことについては良くわからない、だから8000円で大阪に行けるとなるとそこから瀬戸内海と九州に行った方が得だと思った
ただ春になれば外国人も増えて日本は旅しずらくなった。自分が旅したとききは一番いい時期だったともなる、これ時代なのである。
何かするにもいい時代と悪い時代があり時代の影響をまねがれないのである。



東北サッシ工業株式会社

本社工場
〒243-0401
神奈川県海老名市東柏ヶ谷6丁目20番32号
TEL 046-231-4021 FAX 046-231-4026

・東北サッシ販売株式会社
南相馬市鹿島区寺内字迎田39
TEL 0244-46-5291(代) FAX 0244-46-5292

・東和工業株式会社
南相馬市鹿島区江垂字桜平41
TEL 0244-46-2131(代) FAX 0244-46-2125

・東北精工株式会社
南相馬市鹿島区南柚木字仲板282

東北サッシの本社は神奈川県にあり鹿島区にこれだけ会社がある。
東北サッシはこの辺では大きな就職する場になっている
ただ人手不足なのは全国的にもそうだがここは特にそうなっているのである。

2017年03月10日

今日の鹿島駅 (カナダに住んでいるフィリンピン人の若者?)


今日の鹿島駅

(カナダに住んでいるフィリンピン人の若者?)


今日あった若者はなんかわかりにくかった、フィリピン人であり母親が鹿島に住んでいるという。
父親というとわからない、母親が住んでいるからカナダから来た。
でもその若者は15年間カナダに住んでいてカナダで育った、国籍はフィリピンなのかもしれない。カナダに住んでいるという

カナダのどこと聞いたらアトランタだという、でもアトランタはカナダだと思ったがアメリカだった。ただアトランタ航空でカナダに入ることがある
その航空の利用を言ったの?でも何度も自分はカナダに住んでいると言ったのである。
なんかこの辺が不可解になる。
どうもアトランタをトロントと間違いたらしい

ただ間違いなく鹿島区に母親が住んでいて来たことは確かである。
名取にビリヤードに行くと言っていた、これも何なのだろうと思う
なぜカナダに住んでいるとい言ったのか?
やはりアトランタとトロントを間違えたとしか思えない

英語がしゃべれるからアメリカでもカナダでも住める、この人は良くわからなかった。
前にはアメリカの英語の先生がいた、一番感心したのは日本語を流暢に話す中国人だった元の満州の吉林省から来た人だった、三年間いて流暢に日本語を話すようになっていたから驚きである。

田舎でも今や広域化して国際化しているのだ、まず中国人はどこにでもいて働いている
それから出稼ぎ者がこの辺では来ている、この前はベトナム人は中国人に連れられて工事現場に日本人が車で連れて行った。その中国人は日本語を話すことできたのである。
中国人はどこにでもこうしている

東北サッシの社長が神奈川に住んでいて見送りしたとかいかに田舎でも広域社会で国際化社会になっている、その若者の母親がフィリピン人だということは農家に嫁いだのとも違う、水商売関係の人なのか?フィリピン人関係は多いからである。
仮設に住んでいる小高の人がフィリピン人の女性を連れ込んでいたとか聞いた
なんかこれももしかしたらつながりがあったら奇妙だとなる

毎日駅に行っているがここ三日くらいは風で遅れていない、でも風は多少吹いている
本当に田舎の小さな駅でもこれだけの多様な人が出入りしていることには驚いた。
レンタカーで駅に来た人は鹿島から仙台に嫁いだ女性がいて実家に帰ってきた
子供もいた。この人は別に鉄道を利用して来たのではない
駅を駐車場として利用していたのである。そういう人に何人かあった
福島市から仕事に来た人もいた、レンタカーを利用していた。
タクシーで来た人もいた、つまり駅は車の人も駐車場として利用しているのである。
ただ鹿島の駅の駐車場は狭い、駐車場を広くしていればもっと人が集まる場所になる
新地とか山下駅前は駐車場を広く作ったから鉄道利用しない人でも集まり安くなったのである。
特に山下駅はすでにキクチスーパーができたから余計に集まり安くなった。

フィリピン人の若者はセブンエレブンがないとか聞いたから近くにあると教えた、橋をわたってすぐだと教えた、途中のキクチスーパに寄って買物した。
待ち合わせ時間が一時間くらいあったからである。
鹿島駅前には何もないことが問題なのである。前にもそういうことがあった。
お土産は六号線の香の蔵で買う人がいたが駅からは遠いのが問題なのである。
まあ、キクチスーパまではそれほど遠くないといえばそうだが電車の待ち合わせ時間はそんなに長くはない、するとどうしても何か買う店が必要になるのである。
でも鹿島は小さいから何もないのである。相馬市と原町駅前にはある
ただ毎日行っていると待ち合わせする時間をもてあます人がいる
何か買いたい人もいるがそれがないのである。

来日フィリピン人の変遷と現状

フィリピン人は人口の約一割が海外で働いている、移民の国である。
アメリカとかカナダにも多い、英語がしゃべれる国だと移民しやすいのである。
ただフィリピン人でも英語をしゃべるれ人は少ないという。

フィリピン人が英語をしゃべれこる訳

英語が身につく環境が実際の生活の中であるからである。
日本だといくら英語を習ってもそれを使う環境がないから英語ができないのである。
自分も日本にいたらほとんど英語はしゃべらない
必要ないからそうなっている、旅行で使う英語は限られている
だから海外旅行したくらいで英語を使うとしても深くコミニケーションする英語は使えないのである

2017年03月14日

鹿島駅前にとまっていた九人乗りのジャンボタクシー ( 小高小中学校の送迎用ー親は小高に帰らない)



鹿島駅前にとまっていた九人乗りのジャンボタクシー


小高小中学校の送迎用ー親は小高に帰らない

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鹿島駅前にとまっていた小高への小中学校への送迎用タクシー



これは9人乗りでありいい感じだとなと見た。これは小中学校生徒の送迎用である。
小高で学校がはじまるから用意したという。
高校生も300人くらい通うようになるが高校生には援助がないという
小中学校は義務なのだと無料だという。

でもこれで問題なのは小中学校の生徒の親は小高に住まないのである。
通わせるのであり小高には住まない
なんか飯館村でもこういう問題が起きていた。
立派な校舎を建てて小中学生を通わせようと村長がした。
でも親は住みたくないとか反対する人がいた。
第一村長の孫は飯館村に住まないからだ
人を住まわせようとしても肝心の人が住まないのである

その運転手が言うには金は子の方がにぎっていて老人の親には小使いを渡す程度で老人は金をもっていないという。ええ、そうなのか?子の方が力があるのか?
その子の方は小高に帰らないで外に家を建てたりしている
つまり金を握っているのが子の方だからそうなっている
本当は小高の方に住んで子供を通わせるのがいい
でも親はそうしない、そうしたら小高の復興はないのである。

ただそのジャンボタクシーの通学の費用は市で出すから無料になる
それも運転手は贅沢だといっていた。
これも補償金をもらっているからだろう。
前らか言っていたが小高の人への補償が手厚すぎるのである。
そうして小高に親が帰り子供が通学するならいいが親が住まないでジャンボタクシーを用意させて通学させる
なんても相馬市からも通う人がいてそこは遠くなるから無理だとか運転手が言っていた。

結局何か復興といっても本気になって町でも村でも復興させるという気概は見えない
肝心の若い人たちがそうなのである。小高に住んで通わせればいいがそうしないからまたジャンボタクシーに金がかかる
でも国からなんらか援助が出るからそれに甘えるとなる
そしてそういうことに何か言うと冷たいとか常に言う
近くの仮設でもコンサートなどして「故郷が恋しい」とか泣いていたけどなにか空々しいという感じになる
なぜなら小高はすぐそばなのだから恋しいともならないはずである。
帰りたければすぐ帰れるからである。
東京とかに住んでいるのとは違うからである。それでテレビを見ている人はお涙ちょうだいになる。あんなに故郷が恋しいのだなとか見る、テレビは何かそうしたいい面だけを報道するのである。その裏の真実は報道しないのである。
小高の人たちには南相馬市は原町区でも鹿島区でも不満なのである。

それを言うのは南相馬市全体からすると負担になるからである。
何かというとそうして支援してし無料にしている
そして肝心の人は小高に住まないのである。
老人だけが帰っても復興にならない、その負担が市全体に及ぶからである。
飯館だと線量が高いということがあるが小高だとこの辺と変わりないから帰れる
それでも帰らないということに不満が南相馬市全体でつのっているのである。

このジャンボタクシーを見てこれから利用できる、足として利用できると思った。
バスは一日一二回だからである。
ただジャンボになるから料金が高くなるとかこれも市とかに援助されないと足として利用するには金がかかる、車のない電車を利用した老人もそれを言っていた。
車も年をとると危険だとなっているし高齢化社会ではこの足となる交通が必要になる
自分も原町などに自転車で行っているけどこれから行けなくなったら苦しい
駅前には店がスーパーでもないからである。


ともかく津波の被害地でも高台とか防潮堤とかインフラ的なものを整備しても肝心の人が住まない、若い人が住まないということが復興に通じていないのである。
若い人が流出しているからだ。そして日本全体も若い労働力が減少して人手不足に苦しんでいる時代である。
ベトナムとかネパールの人が増えたのはそのためである。
何か復興というとき本当に変だなと思ったのは補償金をもらったらみんなその補償金で外に出て家を建てたりして故郷には帰らないのである。
何のための補償金だったのか?故郷の復興など関係なく、故郷を出てそこで復興することに金は使われたのである。
もし補償金が少ないとか家を建てるほどの金ももらえないとしたら苦しくても故郷に住んだかもしれない、でも多額の補償金をもらった結果、若い人はその金をにぎり外に家を建てて帰ってこないのである。
そして老人には小使い程度の金をやっているというのもなんか変だとなる
老人ばかり帰って今度は小高でも病院がどうなるとかなると復興できないのである。
この矛盾は他の原発避難地域でも起きているのである。