街作りを城下町の相馬市から考える
(文化は多様性だから一極集中は文化の喪失になる)

●文化は資本や金だけからも生まれない
街作りを考えるとき街自体には実際はいろいろな要素が複雑にからみあっている。おおまかに分けると自然と歴史と経済性、便利性とかが街作りの基本になる。現代は巨大スーパーでもコンビニでもそうだけで利便性と安さとか効率を極限まで追求した時代である。
だから商店街は消失した。スーパーは利便性ではダントツに優れているから集中した。
しかしそこには精神的文化的なものはない、胃袋を満たすということのみになってしまう。人間は豊かになればどうしても胃袋だけではない文化的な要望も大きくなる。
でも文化的なものはイオンのスーパーのように巨大資本でも金だけでも作れないのである。もちろん金も資本も文化的なものに投入すれば文化的な想像も興隆する。
それがフィレンツなどで起こったルネサンスだった。しかし薬で財を成したメディチ家がパトロンとなり芸術家を育てた。それでも金があったから資本があったからあれだけのルネサンスができたのではない、総合的な歴史の集積としてあれだけのものが生まれた。
それはギリシャ文明から発してローマの建築文明がありキリスト教文明がありイスラム文明と融合して一大壮観な全体的総合的なものとして芸術が結晶化したのである。
金があり資本があるからといって文化が興隆するわけでもない、確かに豊かさがなければ毎日奴隷のよう仕事に追われていたら文化は生まれない、基本的には暇がないと文化は生まれない゛スコーレがありスクールがあった。文化とはそうした余裕かあって生まれる。文化とは必ずしも実用的なもの商業主義的なものからだけでも生まれない、文化の定義はむずかしいにしろ現代がこれほど経済的には豊かでも文化が衰退して荒廃しているのはなぜなのか?アメリカがあれほど豊かなのに文化が生まれない、それはのようなヨーロッパのような歴史がないことに基因しているのだ。文化一朝一夕にはならない、二千年とかの歴史の集積して生まれてくるのである。経済は一時的に興隆する。スペインは泥棒国家と言われるようにインカなどから黄金を略奪して金ぴかの聖堂を作ったとしてもそれは本当の価値ある芸術とはならなかった。
これはグローバルにみた文化論であるが文化というのは日本などでも狭い地域でもあるのだ。原町市と相馬市がなぜこれほど違うのだろうか?そのことを度々プログで書いてきた。それはその市の成り立ちにあったのだ。原町市はいち早く近代化して駅が機関区になり常磐線で森林の木材などが運ばれた。交通の基点となり東洋一の無線塔も作られた。
もともと原町は野馬追いのために作られた馬を放す広大な牧であった。要するに原っぱだったのである。だから原町村というのがあったがそれは非常に小さな村だったのである。雲雀が原に戦後でも開拓者が入ったというのもそのためである。原町村は宿場町であり
原っぱだったのである。でも近代化して駅通り中心の街作りになり発展した。
明治維新以後は駅を中心に街作りが行われていたのである。それは全国でそうだった。駅を中心に街並が形成された。鉄道は今の車と同じ役割を果たしていたのである。
駅中心の街だというとき駅前旅館とか駅前に鉄道から荷物を下ろす引き込み線があったから駅前が拠点となる。駅前にあると何でも便利になった。それがかえって今ではイオンのように郊外に一つの街ができて駅前どおりはシャーター通りになってしまった。
ただ相馬市は城下町で古いから駅前通りがそのまま残ったのである。
●駅前の花屋から街作りを考える
今でも駅前通りはそのつまでありプラタナスの通りを作っている。秋風がその広葉にそよぎ気持ちがいい。それで駅前の花屋を中心にしてこれまで相馬市について語ってきた。花屋というのも注目されていない、ただ駅前の店というときあそこの店しかなにか目立たないのである。駅前花屋とはまさフラワーステーションになっていた。店とは見せるであり見せることがまず商売の始まりなのである。それで気づいたことが花屋の特徴はただ花見るだけでもそれで満足できるということである。あそこには外国から珍しい花が結構置いてある。大きなガーベラがあったのには驚いた。放射能で巨大化したのかとも思うように大きいのである。花も品種改良しているから膨大なものが生まれている。バラだけでもその数は増えすぎている。ただ青いバラができないというだけになっいる。
園芸というのはオランダでチューリップバブルが起きたように豊かになると園芸が盛んになる。イギリスが世界から植物を集めたようにイギリス庭園ができたようになる。
現代では一地方でも外国から花が入ってくるからいろいろな花に接することができる。
こんな花があったのかと覚えきれないくらい花が入ってきている。現代が物質の繁栄から文化の繁栄に移る時、園芸も盛んになる。江戸時代も園芸が盛んになった、趣味も多彩になり盆栽などが生まれた。庶民レベルでもそうなった。現代も一方で経済的に困窮している人が多くなっていてもやはり高度成長のような時代は終わり文化の時代に移行しつつある。その一つがやはり花の価値が高まってくることである。
ただ花といっても現代の花もグローバル化しているしデジカメ写真の時代であるから写真やパソコンのとの連携が必須となっているのだ。こうしたグローバル化とITに適合しないとあらゆるものが成功しないだろう。自分はパソコンでインターネットでキタムラでフォトブックが簡単にインターネットから注文して作れた。こんな簡単に写真の本が作れるのかと驚いた。花でもデジカメと一体化して楽しむ。なぜなら花は食べるものではない見るものだからこれはデジカメが必須になってくるのだ。そういうふうに現代の最先端の技術と融合してまた新たな文化が生まれてくる。ただその技術に追いつけないと取り残されるのがいつの時代でもあった。なかなか地方では老人が多いと若者向きにはならない、でもキタムラショップでは若い人が操作してプリントしている。プリントもデジカメ時代になり全く変わってしまったのである。それであんな商売が生まれたのだと思った。
●文化は多様性だから限界集落なくなれば文化の消滅を意味する
相馬市の魅力は歴史的遺産がある、一応城跡があり城下町だということがある。ただ外からきた人にはただ堀とわずかの石垣しかないから城下町と気づかない人がいるかもしれない、でも街割りは城下町特有のものであり碁盤の目のようになっていて細い路地が多いのだ。それでその路地に秋風が吹いてきたとき何か城下町の情緒を感じたのである。
秋風の路地に吹くかな城下町
相馬市には高いビルなどがないからそういう雰囲気をまだ感じられる。小泉川の柳を写真にとったがあれもあっているし何かいつもしんみりとするのが相馬市なのである。そしてそれなりに相馬市が規模が小さくても文化都市であることがわかった。店でも茶を売っている店でいい陶芸の壺などを売っていた。ガラス製品も売っていた。それは高いにしてもフラワーアレンジメントには必要なので何個か買った。それから高級家具店もあった。
高いものは注文しなかったがあそこでも買った。そういう店があってフラワーアレンジメントができる。フラワーアレンジメントはかりてり贅沢なものである。
ただ現代にデジカメとかそれを加工するものとかフォトブックにして記念に残すとかが必要になっている。印刷とか本にてするとか技術の進歩で安くなっている。それは出版社とか印刷会社でできるものが個人レベルでできる時代である。ただ書店には置けない、なぜなら書店は出版社の出先機関であり取次とかが流通を支配しているからである。それでも時代が変わったという時、書店だけがそうした情報の窓口になることは終わっている。情報の窓口は今やインターネットにも移行している。情報の窓口はマスコミから離れ非常に多様化しているのだ。多様化することは本当は文化にとって不可欠だった。みんな銀座通りとか東京のまねでは文化にならない、東京には実際は本当の文化は生まれないだろう。技術は生まれても文化は生まれない、なぜなら文化とは自然があり長い歴史があって生まれるものだからである。生け花にしてもこの辺では京都とと違うから伝統がないからどうしても理解できないものがあった。でも自然はあるから野の花を挿しても池花なのである。生け花は自然の花を摘んで挿したことから始まっているからだ。大都会になるとそうした自然がなくなるから文化も消失しているのだ。
医療や介護で便利にするにはコンパクトシティになるといいと書いたけど文化の面からするとそうではない、文化が多様性だというとき小さな町でも海岸側に住んでいる人と山側に住んでいる人は違う、原町の大原や鹿島区の橲原(じさばら)は山里であり山に夕日が沈むときなんとも落ち着いた気分になるのである。それは海側では感じられないものである。海側では海から太陽が昇るとき一番海側に住むことを感じる。人間は狭い地域でも住む場所によって心持ちが変わるのである。
例えば鹿島区の栃窪村にも下栃窪と上栃窪があり地域的に差がある。上栃窪まで行ってそこに墓あり秋の蝉が鳴くとまた違った感じになる。
墓静か上栃窪や秋の蝉
秋の蝉朝鳴きひびく古磯部
何か一段としんみりと秋の蝉の声がひびく、磯部でも海岸に集中していて津波で全滅した所は新しい、古磯部とあるようにもともとはあそこに最初に人は住んでいない、高台の方に住んでいた。するとそこに鳴く蝉の声は違ったものとして感じる。
これは梅田川でもそうだった。梅田とは埋めた川で実際そうなっている。そこに村の古さがあったのである。そうした狭い地域でも村の色合いは違っている。それはその土地から歴史から長い時間のなかで作られてきた。それが東京だけに人があれだけ集中して過密地獄にてっているのは人間の国土のあり方としては間違っている。でも限界集落は負担だからつぶせとかなっている。そうなると日本の地域地域の個性が失われ一様化して文化が失われる。旅してもどこも同じだなとなってしまう。グローバル化でも世界が一様化するとそうなってしまうのである。ただ文化論から歴史論から国作りを考える人は少ない、経済的合理性効率論でしか普通は考えないのである。ただ地域にしても昔なら自給自足社会だから別に都会に頼らなくてもインフラがなくても不便でも生活していたからとやせかく言われることもなかったのである。でも文化が消失するということは精神的なものも消失してゆく。確かに経済的基礎がなければ文化など語れないということもある。食うや食わずではそうなる。ただ現代のような豊かな社会ではまた違っている。街作りというとき津波とか原発事故の市町村はこれからどうして街作りしていいのだろうとなる。その課題はあまりにも大きいものとなってしまった。
ただ相馬市などは歴史地区、医療地区、文教地区として個性が保てる。文教地区というときもともと相馬女学校があったし今では相馬総合病院の近くに看護学校もあるからそうなる。これも渡辺病院が新地にできると相馬総合病院の患者が減るとなり問題が起きている。ただ相馬市は相馬市の街作りがしやすいのである。
●文化は総合的なものとして生まれる
今回なぜこれだけのものが作れたのか?たいしたことがないように見えても個人でこれだけやれるのは今までならできない、それはまず確かに技術の進歩があった。ただそれだけでもルネサンスが生まれないよう生まれない、様々なものが融合した結果生まれたのである。それは最初は自分のテーマは生け花でもフラワーアレンジメントでもなかった。
自然の花を見てきたのであり花をテーマにして詩も書いてきた。そこで病気になり相馬総合病院に通い帰りに駅前の花屋に寄った。それは車がないから電車を利用していたからである。そして自分は電車の旅も長い、だから電車に相当に愛着が生まれた。鉄道マニアにもいろいろあるが自分の場合は車両とかでもない、鉄道に乗ること自体が興奮するのである。バスにのることは興奮しない、何か今でも嫌な感じになる。だからバスでしか仙台に行けないから遠くに行くのがめんどうになり半年も仙台に行っていないのだ。
鉄道というときここは原町駅から相馬市までしか走っていない、それでもこの二両の電車もいいなとつくづく思う。二両になった結果何か前よりヒューマンサイズになり人間的になった。二両の電車があわれだとか感じるのはより人間的になっているからである。
そして二両になった結果必ず運転席の前になる。それで今回その運転席に運転手の業務用のカバンが置いてあった。それがなんとも律儀な感じでそれが古くなっていたので何か年期を感じたのである。外の景色は稲が実っている。一部がすでに刈られている。車窓から見える景色には常に情緒がある。相馬市になると原野ではなく普通の景色になっている。


クリック拡大
業務用の黒き鞄も古りしかな外は実りの景色となりしも
鉄道マニアになるとあらゆるものに愛着関心を覚えるのである。ただ今回は二両の電車になった結果、業務用のカバンに注目できた。何か鉄道マンの生活感覚がここに現れていたのである。二両の電車は極めて人間的になっているからこういうものに注目できた。長い電車だとそうはならないのだ。技術でも今は巨大化すると人間から離れてしまい人間的なものを感じなくなるのだ。飛行機などには感じない、今は機械と人間は離れてしまっている。二両の電車は人間が走っているようにも思えるからそうなった。
ともかく街作りを考えるときその価値は歴史から作られ自然から作られ場所からも作られる。商売でも場所の力が意外と大きい、駅前商店街が前に繁栄したのは鉄道主体の交通からだった。何か繁栄するというときとても一人の人だけでは繁栄できない、様々な複合的な総合的なものが合体して繁栄する。駅前の花屋が今は人が来ないというと来そうだった。車社会になれば駅前でも注目されないのである。ただ店屋が繁盛するというときも一つの店だけではいくらその人が優秀でがんばっても繁栄しない、その時代にあわないと繁栄しない、ただ時代といっても過去からの遺産もあり歴史は街を作っている。城下町はやはり城下町として作られたものがありそこを基礎にして街作りがある。郊外の巨大スーパーにはそれがないのだ。だから駅前の花屋によって街作りを考えるとき駅前通りがあり城下町がありと全体を視野に入れて全体の街に参画するのである。街にはそうした全体の視点があったのである。今はそういう街でも全体の視点をもつことができない、でも人間は何らか繁栄するとしたら個々ではいくら優秀でもがんばっても繁栄しない、全体が繁栄しないかぎり全体的総合的作用を受けない限り繁栄しないのである。だから一商店だけが繁栄することはむずかしいのだ。
今回もまずパソコンをしていたからキタムラショップであんなふうに簡単にきれいにプリントできることをしりフォトブックも簡単に作れることを知った。それは現代がもたらした新しい技術でありそれが花屋と結びついたのである。街全体とも結びついたのである。茶を売っている店に器を買ってフラワーアレンジしてもらったことで花についての知識も広まった。花屋は極めて文化的なものとしてあることがわかった。そして花とデジカメは密接に結びついている。なぜなら料理なら食べない限りうまいかどうかわからない、花は見ただけでそれだけでも楽しめる、まさに店屋として見せる機能が一番顕著な店だったのである。



このフォトブックはすでに40年前に作られていた!
これは40年前に出版されたものであり定価は500円になっている。今の値段にするといくらになるのか?
当時でもカラー写真だと高くなるだろう。
ただ別に出版は常に行われていたからそういうことはプロではできた
本でもプロは別に作っていた。
でも個人レベルではとても作れないものだった。
その相違も大きいのである。
なぜなら本作りとか報道とか個人レベルでできることは出版社とかマスコミに頼まなくても文化が作れるのである。
出版社マスコミ頼みだったら独自なものはつくりにくいからだ
書店も売れなければ置かないと地元から発信できないとかで文化の発信地にはなりにくいのだ。
書店の役割は相当に今はなくなった。
つまり何かを創造できて発信しないかぎり文化の創造はありえないのである。
すでに40年でも本の場合は残る。
インターネットの弱点はそんなにもたない、消えることが弱点なのである。
だから本に残すことはまだ記録するものとして必要なのである。