パソコンで抽象画が身近になった
抽象画はパソコンで身近になった。特に紋様類が豊富だから組あせると偶然に作品ができてしまう。それも2千円のペイントグラッフィクでこれだけが作れたのは自分ながら意外だった。作品は小学生なみでもやはり創作には違いないのだ。そもそも芸術は遊びの要素が大きいのである。絵は全く描けなくても抽象画と写真芸術がパソコンによって開かれたのだ。パソコンがなければめんどうでできなかったのだ。デジカメ写真のとるコツはいろんな角度から何枚もとってそれを加工することなのだ。パソコンでそれが容易になったのである。
抽象画というと本当はかなりむずかしいものがある。具象が描けないものは本当の抽象画は描けない、自分はただ遊びとして抽象画をパソコンで試しにやっているだけである。パソコンだとすぐにできあがるし修正も簡単だから遊びとしてやっているのだ。要するに自分で面白ければいいのである。暇つぶしでもある。だからそれくらいの価値しかないともいえる。ただデジカメ写真はみんなプロに近づいている。俳句と写真を組あせて出しているが写真の方が断然いいのが多い。俳句よりデジカメ写真芸術が大衆化しているのが現代である。
この抽象画はまず顔があり話すとういことをイメ−ジした。ただそれだけのものであるがパソコンの抽象画としてイメ−ジしたのである。こういうことがやりやすいのがパソコンなのである。顔は具象だがその内面的なものが抽象化している。抽象画はどういう意味があるのかわかりにくいしどれが優れたものかわかりにくい、ピカソの絵は具象と抽象がまじりあっている。現代は抽象画の時代だというとき人間が具象的なものではなく数字のような機械の部品のようなものになっているからそうなったのである。
抽象画にも理解しがたい奥深い内面的なものもありこれはわかりにくい、誰かの絵をまねてパソコンで描いていた。あれこれは簡単には真似できないものだなと感じた。藪深く鳴く老鴬・・・濃い緑のキャンバスに赤い四角の点が色濃くあった。それだけなのだが何かこれが老鴬を象徴していた。何かを象徴しているのが抽象画であるがこれは一つのものではない、人によって違ったものに見えるのが抽象画である。