2007年06月21日

パソコンで抽象画が身近になった

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パソコンで抽象画が身近になった

抽象画はパソコンで身近になった。特に紋様類が豊富だから組あせると偶然に作品ができてしまう。それも2千円のペイントグラッフィクでこれだけが作れたのは自分ながら意外だった。作品は小学生なみでもやはり創作には違いないのだ。そもそも芸術は遊びの要素が大きいのである。絵は全く描けなくても抽象画と写真芸術がパソコンによって開かれたのだ。パソコンがなければめんどうでできなかったのだ。デジカメ写真のとるコツはいろんな角度から何枚もとってそれを加工することなのだ。パソコンでそれが容易になったのである。

抽象画というと本当はかなりむずかしいものがある。具象が描けないものは本当の抽象画は描けない、自分はただ遊びとして抽象画をパソコンで試しにやっているだけである。パソコンだとすぐにできあがるし修正も簡単だから遊びとしてやっているのだ。要するに自分で面白ければいいのである。暇つぶしでもある。だからそれくらいの価値しかないともいえる。ただデジカメ写真はみんなプロに近づいている。俳句と写真を組あせて出しているが写真の方が断然いいのが多い。俳句よりデジカメ写真芸術が大衆化しているのが現代である。

この抽象画はまず顔があり話すとういことをイメ−ジした。ただそれだけのものであるがパソコンの抽象画としてイメ−ジしたのである。こういうことがやりやすいのがパソコンなのである。顔は具象だがその内面的なものが抽象化している。抽象画はどういう意味があるのかわかりにくいしどれが優れたものかわかりにくい、ピカソの絵は具象と抽象がまじりあっている。現代は抽象画の時代だというとき人間が具象的なものではなく数字のような機械の部品のようなものになっているからそうなったのである。

抽象画にも理解しがたい奥深い内面的なものもありこれはわかりにくい、誰かの絵をまねてパソコンで描いていた。あれこれは簡単には真似できないものだなと感じた。藪深く鳴く老鴬・・・濃い緑のキャンバスに赤い四角の点が色濃くあった。それだけなのだが何かこれが老鴬を象徴していた。何かを象徴しているのが抽象画であるがこれは一つのものではない、人によって違ったものに見えるのが抽象画である。

2007年10月16日

盛岡−秋桜

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私は絵の才能はないにしてもデザインは好きだった。デザインと抽象画は共通性がある。デザインと抽象画の分野はパソコンと相性がいいのだ。パソコンの2000円のペイントソフトでこれだけのことができるのは我ながら驚きだった。ソフトは別に高いものは必要ではない、安いものでも使い方できまる。ただ紋様とかはもっと多様にあればもっといい、それでもこれだけ駆使してできたのだから満足である。前は一万とかのフソト買っても全然使うことすらできなかった。デジカメの写真とパソコンのソフトで加工することでア−トになる。ア−トそのものが技術という意味だから技術が新しくなれば必ず新しい芸術も生まれるのだ。メデアもそうである。メデアも変われば必ず新しいア−トが生まれる。インタ−ネットはまさにそうである。ただまだ既存のメデアに依存しているのが多いのでインタ−ネットは実験的なものとなっているがすでに新しい情報環境の変革が進行してきたので本とか新聞とかテレビとかだけが占有する情報環境のなかだけではやっていけなくなっている。

結ぶ(http://www.musubu.sblo.jp)

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Happy New Year 2008

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in the future

By Yuichi Kobayashi

 
 

2008年01月07日

枯菊(写真→抽象画は盗作なのか?)

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ほのぼのとなお色残る枯れし菊
 
 
枯れにしもなお残りける紫と黄色の菊に石の壺かな
 

俳句の風景
http://green.ap.teacup.com/819maker/278.html

 

ここのサイトに紅の菊とあるけど紫の菊である。この絵を抽象化するとこの絵のようになった。
パソコンで操作するとこうなった。もちろんここから紫の菊をイメ−ジする人はいない、その元になった原画と俳句とか短歌を詠めばなるほどこれが紫の俳句なのかとイメ−ジするのだ。パソコンは抽象画を簡単に操作して作りやすいのだ。抽象画になると別にこれが紫の枯菊だと固定したイメ−ジにはならない、様々なイメ−ジとして見ることができるのだ。こうして作ったものがもはや原画からの盗作とは思えない、一つのその人の創作ではないか?なぜなら抽象化するにしてもそこになんらかの芸術的見方がありその人の抽象化した価値観がそこに生まれるからである。この写真でもその他の写真でも加工すると百とか千とかの抽象画が生まれる。しかしその中でその人が一枚選ぶのだからその人の価値観、審美眼でその一枚を選ぶのだからやはりこれも創作であり盗作ではない、著作権に触れることはない、原画と抽象画したものは同一性が喪失しているからである。ただ芸術の評価は様々でありむずかしい。これは何の価値もない、芸術ではないとか抽象画には多くなる。抽象画の芸術的判定はむずかしい。ただパソコン時代はこうしたコピ−が無数にふえてくるし加工したものもふえてくる。加工を禁止しているものもある。でも加工しても原画と二次作品が区別できないとしたら盗作なのか?著作権に違反するのか?一つの問題提起としてここに出して見た。

2008年03月11日

花明かり−仄かな明かり

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花明かり
 
仄かな明かり

上のを下に加工したらこれも偶然になった。これに名前をつけるのはむずかしいが上は確かに花であり花明かりとすればいいかもしれない、下は仄かな明かりであり京都の情緒になるかもしれない、着物の紋様にもいい、パソコンは紋様作りにすぐれているのだ。これまでも絵が全然できないのにパソコンで加工すると新しいア−トが生まれてくる不思議がある。パソコンはまだまだつかいこなされていない、応用範囲が広いからである。デザインとか紋様とかこうしたものを作るのにはすぐれている。これは手では作れないからである。抽象画の部は少ないが日々の俳句短歌の部に抽象画がアップしてきた。

2008年03月15日

初蝶の乱舞の抽象画ができたプロセス

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初蝶の乱舞のできたプロセス


万華鏡で上のが下に変化するとは想像もつかない、まず抽象画で橙だから四角にした。橙のヒョウモンの蝶が乱舞していたから橙をテ−マにした。でも万華鏡で上のから下の絵になることは想像もしなかった。でもパソコンに自分の霊感が通じたのかパソコンが作り上げたのである。ここにパソコンの不思議がある。コンピュタ−は創造的能力とは関係していないというがこうして絵の加工や紋様作りはパソコンの方がすぐれている。パタ−ン化されるイメ−ジ作りは人間よりコンピュタ-がすぐれているのだ。つまり思いもかけないものができる。これこそ創造である。思いもかけぬことは常に自然界にあるが人間も絶えず今までにないものを作り出すことができる。だからコンピュタ-は今世紀最大の発明だった。これは脳と密接に関係しているからだ。インタ−ネットでも能力開発はできる。思いもかけぬものが情報やら論文やらいろいろあるからだ。それらを組み合わせただけでも文章ができてしまうのである。それが創造であるかないかは問題あるにしろ自由に利用できるとなるとそこから無限の創造の世界が開けるともなる。現実は私は時事問題の深層でもインタ−ネットの情報を取り入れ編集して書いてきたことでもわかる。テレビのメデアは一方的になりやすいがインタ−ネットはその人それぞれに創造する、編集したりして新しいものを作る余地がかなりある世界なのである。

2008年05月16日

漢字は抽象画−桐

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漢字は抽象画−桐
 
そもそも文字,言葉自体が抽象画である。漢字はそのものが一個の抽象画なのだ。絵ではないが抽象画である。桐(きり)を現せば確かにこの漢字ではないが抽象化した絵にすればこれもあてはまる。木という遍があることにより木を現している。毒とあれば確かにこれは毒だよと漢字で一目見て警告できる。横文字だとアルハベットだと一目見て直観的に判断するのがむずかしい。漢字とかなを組み合わせた日本語はむずかしいが読みやすいともなる。感じだけだと読みにくい、漢字と漢字を読みやすくするにはかなが必要だった。かなは日本人が発明したのであり漢字をより読みやすくしたから日本語が優れている。ただ漢字とかかなの弱点はアルハベットのように数式のようにさらに抽象化されていないことなのだ。英語は数字に近いからコンピュ−タ−言語にすることができた。漢字と,かなはコンピュ−タ−言語にできないからコンピュ−タ−を発明することもできなかったのである。コンピュ−タ−はアルハベットなくしてできないものだった。コンピュ−タ−の発明はもともとあった文化から生まれた。漢字とかなの文化はアナログ的でありより具象的でありそこにコンピュ−タ−化できないマイナスの面を作っていた。ただ漢字にもかなにもいい点があり両方をかねそなえる文化はなかった。言語は文化の基底であり日本語もその一つなのである。

2008年05月29日

パソコンにはピカソが棲んでいる−抽象画のでたき過程

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パソコンにはピカソが棲んでいる−抽象画のでたき過程
 
前に何度も書いてきたけど絵の才能はゼロである。ただ今パソコンをただ遊びいじっているだけで抽象画が書ける。万華鏡にするとどんなものも抽象画になりそれが別なものに変容して別なア−トととなっている不思議である。パソコンは抽象画にするのに最も適した道具である。これを筆を絵にしようとしたらとてもじゃいがめんどうくさくてできない、パソコンは絵の才能なくても絵を楽しめる道具なのだ。私がこれまで一句一首の部で作ってきたのはほとんど偶然の産物だった。加工していたら偶然できたのである。加工するとき、百回の加工のバリエ−ションがありその中から選ぶのがパソコンの作品作りになる。それなりに根気がいることは確かである。でも才能は必要ないのだ。これが何かいいなというのを選んで出しているだけである。パソコンの中には明らかにピカソが住んでいるような感覚になる。
 
この絵の抽象画ができた過程は博多とか太宰府は中国からの風、韓半島からの風、ヨ−ロッパからの風が吹いてきた文化の窓口として一文を書いた。そしてそれを絵にしようとしたのが最初の下絵だった。
次にこれを加工していたら偶然に抽象画になった。つまり最初は具体的イメ−ジとして三つの色の風が吹くということから三色の光をイメ−ジして博多や太宰府をライトアップした。今度は渦巻きの加工をしたらたまたまこれはいいなとこの絵になったのである。
 

伽耶や百済の風、唐の風、ヨ−ロッパ、オランダの風
博多にまじる、エキゾシズムの風、色合い、文化の混合
・・・・・・・・・・・・・

 
こんなふうに詩としてイメ−ジした・・・その歴史としてのイメ−ジが絵として具体化したのがパソコンの加工技術だった。だからパソコンにはピカソが住んでいる。ピカソは本当に天才だけどパソコンを通じて天才でないにしても抽象画家になれる不思議である。ともかく絵の才能がなくても絵を楽しめるということはパソコンやデジカメは人間の才能を発揮させる意味は大きい。デジカメで写真俳句−写俳−という新しい芸術の分野が生まれた。それも安価なものでできるのだ。ソフトはソ−スネクストの2000円のペイントグラフィックでありあとはつけたしで使うのが一万のソフトだから馬鹿らしい。2000円のソフトが役立ち一万とか二万でも役立たないソフトはいくらでもある。ソフトはその人の創造性により使いこなされなければ価値が出てこないのだ。ソフトにはもともとハ−ドと違いその人の工夫なり創造性が必要なのである。これは芸術の分野だけではない、介護の分野などでもハ−ドとソフトが必ずある。ハ−ドは箱ものの建物でありその中で働く人はソフトである。人との個性的な対応はソフトととしての働きなのである。そこにはその人なりの工夫や創意が必要となってくるのだ。パソコンはハ−ドでありソフトこそ創意工夫の世界でありそれは無限にある。やはりパソコンは今世紀最大の発明だったのだ。
 

九州の旅から−@遠の朝廷−春の都府楼(太宰府)跡(評論と鑑賞)
http://musubu.jp/hyorondasaifu.html#tofu

2008年06月17日

万華鏡は芸術なのか?

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万華鏡は芸術なのか?
 
そもそも万華鏡が創作なのか?これは別に機械的にできる抽象画の摘出である。創作しているのはコンピュタ−である。でもコンピュタ−はこれが芸術だとは言わない、人間がコンピュタ−で加工したものをこれは芸術だと主張することになる。何かしらの意味を見いだすことになる。万華鏡の加工をしてきたのでテレビのデジタル画面がはっきり写らずモザイク模様になったのである。あれこれは一瞬抽象画だと思った。それで今度はニュ−スの画面を万華鏡にしてみたのである。テレビの画面は複雑な模様を作ることがあるからこれを万華鏡にしたらどうなるのか抽象画になりやすいと思った。それでデジカメでとって抽象画にしたのがこれらであった。緑−土色−青と何かやはり抽象画でありこれが何を意味しているのか?一つの村のイメ−ジかもしれない、中心に青があるのは鉱石が閉じ込められているのか、外側は土や木のイメ−ジである。これは陶工が偶然に火の加減で焼きだされるものににている。火の作用で偶然にできたものが芸術になっていたのだ。一瞬これは独特の美だと発見したのである。相馬焼の青ひびなどもそうである。偶然に発見されたのである。コンピュタ−の抽象画は無数にできるとするとこれが芸術になるのかどうかは今は確定できないだろう。ただやはり一つの美の創作としてコンピュタ−があったということは確かである。
 
 
 
 

abstract-watergreen

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Abstract Digital Art and Fractals Gallery
http://www.abstractdigitalartgallery.com/index.htm

 
ここの中の一つをまた万華鏡にしたらこれになった。万華鏡1→万華鏡2→万華鏡3→こういうふうに抽象画
が一つの原画から無数のバリエ−ションにできる。これは確かに創作の面もあるが機械的な作業である。絵の才能がなくてもできる。芸術といっても第二芸術的なもので絵画とはいいがたいかもしれない、でも絵の才能がなくてもできるのだから簡単に自らも創作できるからいいのである。

万華鏡−green palace2

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GREEN PALACE 

water greengreen waveに回りを直して次にgreen wave を万華鏡にしたらこうなった。
コツがわかるとある程度ここがこの色にしようとすればできる。偶然にまかせるのではなく意図的に
できる。パソコンは元にもどすことが簡単だから前からやり直しても手間がかからない。単純な構図でもできる。ただ最初緑の線をひきそれから三角の波模様にして色を変えたらこうなった。
ともかく万華鏡は無限のバリエ−ションができる芸術なのである。そのなかには簡単だからにたものもできる。どこまでオリジナル性があるのか問題になるかもしれない、そこに人間の意図が入ってくるから
やはり創作となりうる。

2008年06月24日

抽象画−質実な連帯−三本の柱

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抽象画の特徴は何か?具象画と違い量産が可能なことである。なぜなら万華鏡にしても機械的操作で無限にできてしまうからだ。それがどこまで芸術かは確かに確定しがたい、抽象画は絵の才能がなくてもできるのが特徴である。もちろん絵の才能があって抽象画をできるのが理想でありそれが本当の絵なのかもしれない、この元となっているのはペイントグラッフィックのなかにあったものでありその元になるものがいいからこれもできたのである。だからこの創作はペイントグラフィックを作り素材を提供した人に著作権があるが金を出してフリ−にしているのだから利用できたのである。
 
質実な連帯」というのはこの木の素材感からでてきていた。ここに思想的な意味を見いだしたのだ。別に他にも名前がつけられる、これを見て別な名前つけてもいいのである。その人の発想で自由な名前がつけられるのが抽象画でもあるのだ。具象画は馬が描いているなら馬というイメ−ジから離れることはできないが抽象画は発想が自由になるのだ。

 
これは別にそのまま「三本の柱」でも良かった。三本の柱が支える−一つの質実なコミュニティのイメ−ジにしてもいいしここからイメ−ジされるのはいろいろあるのだ。名前は他の人でもいろいろつけられるのだ。
コメントととして名前を募集してもいい、ただプログの場合は取捨選択される。コメントされたものは一応必ず読むがプログのコメントとして出すのは本人の許可になる。というより私のプログでは一回も他者のコメントを許可していない、一人だけ許可したみたいだがあとはしていない、やはり2ちゃんねるのようにごちゃごちゃになるのはプログには向いていないのだ。プログは主催者中心のメデアなのである。

2008年06月26日

抽象画−夕べの水辺

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草深き水辺


これもたまたま操作していたらできた。老鴬をテ−マにして抽象画の俳画を書いてきたので参考にしてもらいばいい、このパソコンの絵の変容は偶然でありあれこれがいいなと操作しているうちになるのだ。何度も言うように絵の才能がなくても抽象画作りやすいのである。ただその時天候などが抽象画に反映する。どんよりと曇り草深く老鴬がないている。これが気分となり抽象画と俳句にしたのである。抽象画と俳句というと合わない気がするがどこで芸術は共通性があるからやはり俳句を抽象画に合わせることができるのだ。
草深く老鴬啼きあい夕暮れぬ」この句をこの抽象画に合わせても合うのである。artはそもそも技術の意味だからつくづく新しいartが生れれば新しい芸術が生れることを我ながら実感したのがこのパソコンのち抽象画だった。これは自分の才能を発見したのではない、新しい技術によって作り出されたものである。

2008年06月28日

2008年06月29日

抽象画−細密な花壇 夏の川

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細密な花壇

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夏の川

 
抽象画は別に名前とは必ずしも関係ない、適当に名前はつけられる。「細密な花壇」「夏の川」としたが別に他にも名前はつけられる。これが別に花壇でなくても川でなくてもいい、抽象画は見る人によって違ってくる。だから理解しえない抽象画がかなりある。これはどういう絵なのだろうか?これは何を意味しているのだろうか?これが絵なのだろうか?でたらめな価値のない絵にすきないのではないか?具象だったらどんなつまらないものでも絵の才能が必要である。それが全くなくても抽象画は作れるから価値判断がむずかしいのだ。特にパソコン時代はとにかく膨大な写真文化の時代でありまた映像加工の文化である。パソコンは文章もそうだがコピ−文化でありこれは映像にも波及している。簡単に加工できるから原画が何なのかわからなくなる。するとそれは著作権違反となるのかどうか不明である。万華鏡などはいくらでもできる。これは才能というより技術的修練なことがわかった。とにかく百回くらいいろいろ試してみてこれがいいじゃないか、これは何か意味している、やはり一つの新しい絵なのかと思い出している。ただこれも加工しているのだからパタ−ン的に他にも同じものが作られているかもしれない、なぜならパソコンの加工は誰にでもできるし同じものもできる。これはパタ-ン化したものだからそうなりやすい、具象化だったら簡単に描けないからそうはならないのだ。パソコンの抽象画は絵を描く才能よりまずソフトを使いこなすことである。これがペイントグラッフィックの2千円のソフトでできたのだからいかにソフトを使いこなすことが大事でありこれは高価なもの買っても使いこなせない限り創作はできない、写真でもデジカメでいくらでもとれるといってもその人なりの見る眼があって写真も活きてくる。機械を活かすのはやはり人間なのである。

2008年07月03日

抽象画−「魚の口」(ふぞろいな仲間たち」

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魚の口 
 
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ふぞろいな仲間たち


抽象画は全然意味が不明なのが多い、これは一目見てわかる。
人間も表情が大事である。万物が人間の象徴だというとき動物もそうである。
魚にも顔があり口があり口を通じて人間を見る。口が人間的表情をしているからだ。
笑い泣くだけの人でも人間的だというときその表情でそうなっている。
岩でも樹でも花でも人間の顔だという、人間は万物の表象になっているからだ。

ふぞろいの仲間たちというとき同じ学年とかで分けるのは自然ではない、子供はやはりいろいろな年齢も違う仲間で群れるのが自然である。現代は何でも非人間化する世界である。芸術はそうした非人間化に対抗するものである。
芸術は基本的には子供の遊びとにているのだ。純粋な遊びである。
この遊びも商業化したりすると純粋な遊びでなくなる。
遊びで堕落した人間」で書いたように人間には遊びが不可欠なのである。
遊びがない世界は人間を非人間化して労働の奴隷にしてしまうのだ。

abstract-greencity-greentown(草深い町)

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 greencity

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greentown(草深い町)
 前に出したのを対象的なものとして出した。
これは一組としての抽象画になる。
一方は都市であり草深い町である。
こういうのも抽象的に表現されることを発見した。

2008年07月10日

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crystallized flower
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color prism


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 総合力(allmighty


 
ソフトを組み合わせてパソコンで絵を作る、ソフトの作用で絵ができる。
ソフト一つでできない、化学の実験みたいに絵を作る
まさにart(技術)であったのがパソコンの抽象画の世界だった。
ただこれは第二芸術的なもので本格的な絵はやはり具象である
パソコンは抽象画を作りやすい、今までは作れないものが作れるのだ。

2008年07月25日

抽象画−女性の脳

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女性の脳 
 
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花と緑

抽象画は種類の違った表現手法で何度も変化させてゆくと変わったものができる。
それも2000円のペイントグラフィクでほとんどできる。変化したものを選び何か意味を見いだす、抽象画を見る人によっても違って見える。名前はいくらでもつけられる。これは何かに見えるなというのが抽象画だからだ。
具象だとイメ−ジが固定化されるのだ。抽象画はイメ−ジが固定化されないのだ。それも機械的作業で加工していてあれ、これって何かに見えるなと選び名前をつけてだす、だから名づけた名前からこれは町なのかとか女性の脳をイメ−ジしたのかと見る。抽象画が見る人により違って見えるから別な名前もつけられるのである。だから抽象画が才能ではない、機械的な作業で変化したものをあれこれは何々に見えるなと選ぶだけなのである。そしてその変化は無数にある。それはソフトがすることであり意外なものがあ現れる、予期しないものが現れることが具象を描くのと相当違っている。
偶然の結果に左右されることが多いからである。

2008年08月13日

我がパソコンの抽象画創作(まず色に感動した)

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光につつまれた花
 


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牡丹 
 
我がパソコンの抽象画創作(まず色に感動した)
 
構図とか建築的だとか絵にもいろいろな側面がある。「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい。自然は平面よりも深さにおいて存在します」セザンヌ−自然を立体的構築的にとらえた。山とか岩は意志的である。男性的である。建築は男性的なのだ。山にも樹にも岩にも強烈な貫く意志がある。一方色はより感性的であり女性的である。色には癒しがあった。私は絵を一応見ていたが描いたことはなかったし才能もないから描けないと思っていた。絵の具で絵を描くことは才能がないものにはできない、絵の具とか書道とかはその道具を使いこなすことがめんどうでいやになるのだ。一度失敗すると書き直すこともできないのも難点であり自分からやる気がなくなった。
 
パソコンではまず色の新鮮さに魅せられた。絵はパソコンではまず色に感銘する、バソコンの色は絵の具の色とは違う、バソコン独特の色なのである。色とは実際は多様である。赤といっても赤にも百種類くらいの赤がある。色のかもしだす多様性にまず感動するのが絵の基本である。絵が全く描けない自分でもこの色は美しいなとまず感動したのだ。芸術はまず何であれ感動することが必要である。色に感動するというのは変であるが花だと様々な色だからその色からイメ−ジされる。でも自然界の色と人間が作り出す色は違っている。色には自然界が作り出した色とART(技術)を通じて作り出された色があることに気づいたのだ。絵の具でもそうでありパソコンだと今までの絵の具では現せない色を機械の操作で簡単に出せるのだ。これは自然の色ではない、ART(技術)を通じて作り出された色なのだ。だから今までの絵の具ではパソコンで作り出す色は出せないのである。
 
その色を今度はパソコンで操作して抽象化する、紋様化するのである。パソコンは抽象化、紋様化することが得意なのである。これは明らかにART(技術)によっていることが多い、その人の才能とはあまり関係していない、自分自身全く絵を描けなくてもまず簡単に色を出せる、その色にまず美しいなと感動したのである。それからソフトの操作で色の変化が万華が無数にできあがる。これも単純な機械の操作の結果だから果たして芸術作品と言えるかどうかわからない、ただパソコンでは立体性や構築的なものより色に感動したのである。立体的なものを作るのはパソコンでもむずかしいが色は作り出すのはパソコンでは簡単だしあれ簡単に抽象画ができるなとここに作品として出してみた。これが果たして芸術になるのかどうかわからないが色が美しいということで感動する。パソコンが出す色は今までにない色の美が表現されたのである。これは機械の操作でソフトによって作り出されるから才能とは関係ない、これは何かイメ−ジしていると思いそれに名前をつける。ただ名前をつけても名前と抽象画は一致しない、いろいろに見えるからである。

2008年08月24日

感性豊かな脳

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感性豊かな脳

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栄養豊かな卵(森の卵


森の卵という名前の卵売っていた



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七色の硝子
 

2008年08月29日

万華鏡−花の輪

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flower circle
 
回りの小さな花に注意!
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BLUE FLOWER 
 
 
 万華鏡も加工できればいいができあがっているので直すことがむずかしい。
上のは回りの三角は無駄だから消して小さな花を目立たせたいができない
偶然にできたものだし自分なりに加工できないからだ。