2005年12月31日

俳句短歌の鑑賞−誤って削除した記事(俳句)

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プログの「今日の一句一首」とともに
俳句短歌などの鑑賞の手助けにしてください
プログの文などを編集したもの
構想がまとまったらこちらに長文をアップします


本サイト
http://www.musubu.jp

評論鑑賞の部
http://www.musubu.jp/hyouronkannshou.htm

新年特集
なごみの里、平和(やわらぎ)の郷(さと)を求める時代

(2006年のトレンドは国風文化の見直し)(本サイト時事問題32)
http://www.musubu.jp/jijimondai32.htm#na

・・・・・削除した俳句・・・・・・

枯菊

飯館は雪になるらし年暮れぬ

枯れし菊三輪見いだすこの道に

(この道に残菊三輪見いだしぬ)


菊というと晩菊、残菊、枯菊、冬菊、寒菊・・とかいろいろある。この季語のイメ-ジはみな違っている。残菊というと実際は秋だけでなく冬にもふさわしいのである。残菊は冬の季語の方がふさわしいかもしれない、三輪の残菊にしても良かったのである。季語は誰が決めたかわからないが全部決まってわけではないし新しい季語もぞくぞく生まれているのだ。

枯菊にしようとしたが枯れたとなると菊の形を留めないようなのが枯菊としてイメ-ジされる。残菊となると菊の形はまだある菊である。今日見たのは明らかに小さな菊三輪だった。色は薄れているが菊の形は明確であった。枯菊と枯れし菊とは微妙だが違っている。どのくらい枯れたか明確ではないが枯菊となると本当に形もととめず枯れた感じになる。枯れし菊となるとどのくらい枯れたかわからないが段階がある。これは明日デジカメで写真にとればわかってもらえるだろう。ここでデジカメが貴重なものとなる。何に出合うかわからないからデジカメは持って歩くべきなのだ。写真を見れば見た人は枯れし菊がいいか枯菊がいいかわかるだろう。投票とかコメントしてもらうのもいいだろう。匿名でもこうしたことはやりやすいが投票システムが作れないからだめだ。

今年も終わりだが山の方は暗くなり厚い雲がたれこめ雪になっているみたいだ。ここも曇って霙が降った。明日は雪になるのだろうか、今年も明日で終わりだ。今や正月気分はない、単に年が変わるという筋目にすぎない、ただ正月とは日本の文化だったからこれが失われたのは淋しい。番組も同じようなもので見るべきものがなくなった。やはり放送自体変わり目にきている。もっと少人数を対象にすればいろいろ番組はいくらでも作れるのだ。それがインタ-ネットだったのである。ここにはいくらでも番組にする材料があるからだ。地名のことについて書いたけど京都の地名を紹介する番組だって作れる。それを見るものは少ないにしてもそうした番組も成り立ってくるのがインタ-ネットなのだ。だからデジタル放送は同じ六局が伝播を独占するのだからそこからそれぞれにあった番組は出てこないのだ。ハ-ドが変わってもソフトが変わらないからなんら変化ない詐欺的なものだったのだ。むしろ地方でも市町村や企業が独自で作ったビデオやらを流すようになるのがこれからの番組なのである。

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残菊と石

石四つ残菊に薄る陽ざしかな

極月や庭石四つ夜はふけぬ
残菊と石

残菊の風に吹かれて日は薄る
石四つここに幾年ありにける
この庭を知れる人もなきしや
極月石を照らして夜はふけぬ


これも写生である。石何個とか写生はどうしてもなるのだ。禅寺の庭のようなものである。まず写生がありここからいろいろな物語も作られる。残菊となれば平家の落人とかイメ-ジしたりいろいろそれぞれにイメ-ジされる。しかしその元は写生なのである。こういう光景は大原の三千院辺りがにつかわしいのだ。写生でもここの四つの石は写真にするとなんかみすぼらしい、ぴったりしないからいい庭の四つの石をイメ-ジした方がいい。写生でもそれが写真にしたときみすぼらしいぴったりしないものがでてくるのだ。逆に写真にするとその細部が見えて発見がある。だから必ずしも全部を写真にしていい場合もあるが良くない場合もある。ともかくこの頃一二月にしては寒すぎる。寒さにも暑さにも弱いから極端になくとだめだ。


詩は漢詩にもなるが漢詩は作れない、まず写生の俳句があり次に短歌とか漢詩とか詩に物語に発展するのである。

http://hero.maxs.jp/050/kokei1.html

このペ-ジの月が水にゆらめいて池に映っているのは感動ものだ
これも明らかにパソコンの新しい芸術だ

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寒雁

寒雁やはや光りいず月を見る

石四つ今日も寒さに耐えてをり


the endurance of the four stones
in the coldest days


冬の雁という季語で前に作った。寒がつと寒月でも一月以降のさらに寒い感じになる。
今年のような寒さを今まで経験したことない、夕べ雁が飛んで行きそのあとにすぐ月が皓々と光る。月と雁というのはあっているテ-マなのかもしれない、こうしたものを漢詩と合わせて読めばいいしインタ-ネットで調べればいいかもしれない、こう寒くなると石四つでもともに耐えるという感じ、連帯感がででくる。暑さではこうならないがこう寒いと寒さをみんなで耐える、しのぐという感じになる。こうした寒さのなかで石というものが別な存在感を持ってきた。気候によって自然の物の存在感が変わって来ることをこの冬は体験した。北海道の人とかロシア人のみている自然は明らかに違ったものになることは確かである。熱帯にある石と極寒の地にある石は違ったものになるのである。寒い方が石の無機質な存在感はましてくることがわかった。

プログはなんか毎日書きつづけねばならない、強制的に書かされるという感じになる。こういうことは余り普通の人にはないだろう、でも締め切りを迫られる作家や番組作りしている人は新聞を出す人でも必ず月極めでも週単位でも何かを出さねばならぬのだ。プログは日記形式だから毎日出すのが基本なのである。短い文だからできることはできるが毎日となると大変だともなる。ただこうした強制されるように書いているからなんとか書かねばならないとなるから書けることもある。そういうことは普通の人には要求されなかったからある意味で創作する人にとってはインタ-ネットは実に便利なものなのである。

ただプログは自分なりにレイアウトとかその他できないから困る。庭の石の写真も偶然に配置することができたのでありHTMLがいじれないので自分なりのものが作れないのが一番困ったことであった。
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冬の山

一人のみ会いて下りぬ冬の山

冬日さしや仁宮仕法の家残る

悪きなか良きこと一つ年明けぬ


俳句を長年作ってきたけど俳句は短いから深く読むということが必要なのだ。鑑賞が大事なように思う。とるにたらないような俳句でも読み方によっては深いものがあったりするからむずかしいのだ。前の金色堂の秋の蝉の句でも「旅人に金色堂や秋の蝉」という時、この旅人は芭蕉のように人生が旅のような旅人でありちょっと休みに物見遊山の観光する観光客ではないのだ。現代では旅人であるということ自体むずかしいのだ。私の場合ず-と旅してきたからああ、長い旅をしてきて金色堂に来てみたら秋の蝉がもの淋しくひびいていたという句なのである。つまり俳句はこのように鑑賞することがむずかしいのである。

仁宮仕法というのは仁宮尊徳が指導した茅葺きの農家が記念として残っている。質素倹約を教えたのだから冬の日にふさわしい家である。冬の山を上ってあったのは一人だけだった。これも冬の山にふさわしいことだった。もう老年に会う人は少ないのである。しかしその中で会う一人はいつまでも印象深いものとなる。今年は最初から最悪の年だった。今度は自分が腰を痛めたのだ。原因は不明だ。俳句とか短歌は子規があんなひどい病気でも作ることができたのだからできる。短いから作れるのだ。このインタ-ネットやプログの便利さは病気やインタ-ネットでもこのくらいの短い文なら出しつづけることができるのだ。それほど便利なものである。これが今までの方法だと印刷からなにからめんどうでできないのである。まあ、これほど悪いなかにも一つだけいいことがあった。連絡がなかった母の孫から連絡があった。食べ物のが入ったものも宅急便で送られてきた。これはかなりいい便りだった。

2006年08月23日

「古池や蛙飛び込む水の音」の意味するもの

芭蕉の有名な句に、「古池や蛙飛び込む水の音」がある。

「古池や」と「蛙飛び込む」と「水の音」となる。古池は、そこに存在する実景であり、「蛙飛び込む」は、変わりゆく変化そのものであり、そして「水の音」は変化そのものの余韻である
http://www.st.rim.or.jp/~success/hiraizumi_basyou_ye.html

江戸時代の背景がわからないとそもそもその芸術も理解できない、現代とどれほど環境が違っているか、それは想像もできない世界になっている。現代はめまぐるしい変化の時代であり絶え間ない騒音の世界である。この違いは余りに大きすぎる。江戸時代までは日本の生活は確かに戦争などがあったがそれが目立つから面白いから取り上げるのであって日常の常民の生活は江戸時代までは日本人は変わらない生活をしていた。沈黙とか電気の明かりのない深い闇の世界に生きていたのだ。だから今とは違って全然違ったものの感じ方をしていた。

「古池」というのは変わらない世界のことである。変わらずに百年もあった古池なのだろう。現代では古池そのものがなくなっている。常に新池になっている。百年も庭に池があるということも考えられないのだ。そういう変わらない沈黙の世界であってはじめて「蛙飛び込む水の音」が意味を持つ、その音が沈黙の中に唯一ひびく、回りに騒音がないからこそひびく音なのだ。自然の微妙な音がひびく、この俳句の背景を実感できない世界に生きているからこの句もわからなくなっている。

古池とか「古 庭 に 鶯 啼 きぬ 日もすがら」蕪村とかの古庭も存在し得ない、庭も次々に作り変えられて新しくなっている。農家にしても江戸時代までは代々何代もつづいている農家である。今でも農家は代々続きやすいがそれでも農家さえ変化の波にさらされ古い農家が継続されなくなっている。変化のない世界だからこそ蛙飛び込む水の音が沈黙にひびき静かな余韻を帯びて心に残る。現代はあらゆるものが過剰な時代である。ニュ−スにしても世界中のニュ−スが毎日入ってくる。世界が関心となるとニュ−スを追うだけで一日が終わる。江戸時代はニュ−スもない、古池がありそこに飛ぶこむ蛙の音が変化を示している。日常の何気ない生活の中に美があり真実がある。ニュ−スは異常なほど異常的なものを追い続ける。この世はその異常なものだけの世界であり日常の平凡な営みは無きごとくになっている。視聴率をあげるためだからそれを望む視聴者にも問題がある。

古池やの古池は平安時代のような貴族の庭ではない、庶民の庭である。ただ江戸時代でも屋敷をもって庭をもっていた人は農家とか商家だからそれなりに裕福な家だったとなる。ただ平泉の浄土庭園の大きな池とか大きな池ではない、そうした池は古庭でも不似合いである。蛙そのものが庶民であり庶民を象徴している。やせ蛙負けるな一茶ここにあり・・・とかも蛙には庶民なのである。だからこの蛙は庶民的な象徴としてもってきたのである。江戸時代は庶民の生活が充実してきた時代である。そこで蛙をもってきた。戦国時代だったら武士が目立つが江戸時代になると平和の時代であり庶民の時代だから蛙が主役ともなる。やせ蛙でも侍に抵抗する気概が生まれつつあったのだ。日本は明治以降余りに変化ありすぎた。大きな戦争も二度あったし戦争が美化された時代であり富国強兵の戦国時代だった。

しかし今は平和な江戸時代に回帰すべき時がきた。それは日本に古来からある古池とか古庭の世界なのである。俳句というのは芭蕉を最高峰として蕪村や一茶を対称的にみると興味深いものとなる。芭蕉は自然に没入する詩人であり蕪村は画人でもあり視覚的詩人であり一茶は人情的詩人となる。これらの性格により蛙の見方も違ってくる。芭蕉は蛙が水に飛び込む音に注目した。芭蕉は耳の詩人、自然に聞き入る耳の詩人というのもそうかもしれない、沈黙の自然に聞き入る詩人であり蕪村は見る詩人なのである。どっちにしろ江戸時代の沈黙の背景があってその絶妙の句も生まれたのである。現代ではもはやそうした句を作ることもできなければ鑑賞することすらできないのである。

話はまた認知症になるが認知症の人にとって環境を変えることが一番良くないというのはわかっている。認知症の人にとっては昔こそが現実である。つまり古池や古庭が変わらない生活が継続された場が必要なのである。ところがこの古池や古庭が次々に喪失してゆくのが現代なのだ。老人の拠り所となる古池、古庭がないからこそ老人にとっては現代は住みにくい場所である。確かに栄養とか医療には恵まれているが環境的には江戸時代の方が老人にとっては住みやすかったのである。濃密な人間関係があり変わらない自然環境があり風景があったからだ。日本人が虫の音など音に敏感なのは狭い国土の中で聴覚が研ぎ澄まされる。江戸時代のような静寂社会で虫の音、蝉の声がひびきわたる。その時車の騒音も全くない世界なのだ。

江戸時代の見方はいろいろあり農民が搾取されていたとか暗黒面はあった。ただ全体的にみて江戸時代は時代として現代の我々の生活に精神的豊かさをもたらすのである。長い平和と沈黙の変わらない世界があったということが安らぎいやしの世界となっている。現代は過剰な刺激で疲弊している。日本人は江戸時代の回帰が必要というとき老鶯の心地よくなくスロ−ライフ社会への変化が求められている。確かに長寿社会は認知症や介護地獄など暗黒面が多いのだがこれも社会が変わるきっかけであり長寿社会への環境が整えられば日本は老人にとっても住みやすい江戸時代のようなスロ−ライフの自然と密着した環境と調和した社会が再び取り戻すことになる。

 
枯山水−石の句−十句
http://musubu.sblo.jp/article/9073853.html
 
ここで書いたのは古池は京都の庭であり蛙飛び込むは新興地の江戸の元禄時代の息吹を伝える

音だった。ここには京都−江戸という二つの新しい時代の息吹を現していたのである。

「古池や蛙飛びこむ水の音」の意味するもの(続編)
http://musubu.sblo.jp/article/69424380.html

これはアクセスがつづいているので続編を書きました
一番人気のペ-ジです

「静けさや岩にしみ入る蝉の声」が現代に問いかけるもの
(沈黙無き文明の音)−
時事問題の深層35へ

http://musubu.jp/jijimondai35.html#semi
 

 失われた原生の鹿の声(蕪村の「三度啼きて聞こえずなりぬ鹿の声 」の意味)
http://musubu.sblo.jp/article/7267972.html

2006年10月05日

蕪村の句の会津商人の意味するもの

時事郷土史へ
http://www.musubu.jp/jijikyodoshi.htm#aizu

蕪村の句は生活俳句でありその背景には常に江戸時代の生活の具体的な背景がある。この背景がわからないと俳句もわからない、会津商人というとき会津の歴史が深くかかわっている問題なのである。蕪村の句は具体的に個々の人に江戸時代の生活に根ざしたものがありこれを読み込むことが不可欠である。

2006年10月27日

町屋の意味(江戸時代の俳句)

御主殿ができて町屋は片はずし

徳川家から前田家(加賀藩)に嫁いだ時、建てられたのが東大の赤門になっている、御主殿門と言われていたものである。あそこに加賀藩の屋敷があった。その前には町屋があったのだが半分を取り壊したという。火事になるからという理由だった。これでわかることは江戸が火事が多いということなのだ。それから荒川線の都電にも町屋駅というのがある。
町屋とは大名屋敷と区別して町の人が住む所が町屋となった。この句は町屋に住むものから見た皮肉的な川柳である。町屋は簡単に半分取り壊しになるという当時の町屋の人が軽くあしらわれることをこの句は言っている。
「今度徳川家の松平から嫁いでくる、前の町屋は密集している、火事になると大変だ、江戸の火事は怖い、半分取り壊して延焼を防ぐ必要あるな
「町屋の人達が怒るんでは」
「町屋のものが、江戸は町屋のためにあるんじゃない、侍のためにあるんじゃ大名屋敷の方が大事なんだよ」
「そうでございますな、町屋の言い分など聞く必要がありませんな」
町屋というとき町屋に住む人が言ったのではなく大名屋敷に住む人が町屋と言って区別していたのだ。侍から見て町屋は下々の住む蔑視的な呼び名だったのだ。江戸にとにかく大名屋敷が多かった。それが今では一つも残っていないという不思議である。辛うじて名前が残っているがそれも面影を偲ぶような場所ではない、ビルが林立しているから全く昔のことはわからなくなっているのだ、だから東京で昔を偲ぶということがむずかしいのである。

この嫁いだ姫は30何番目かの子供の一人だったというのもあきれる。盛大なお輿入れが行われたのだ。こうした江戸幕府が300年つづいて明治維新にもろくも崩れさった。なぜこれをとりあげたかというと地名に自分は興味あるからだ。地名は歴史なのだ。大名屋敷はなくなったが町屋という地名は殘りあとに残ったのは町屋というかビジネス街や商店街である。町屋という地名を考える時、それと対照的に大名屋敷を常に頭に浮かべる必要があるのだ
俳句も短いからこうして歴史的背景を知らないと理解が深まらないのだ。だからこうして説明することが必要になっている。


現在も東京大学の通用門として使われているが、元は加賀藩前田家の上屋敷の門のひとつで、十一代将軍徳川家斉の息女、溶姫(やすひめ)が文政10年(1827)、前田家(斉泰)に輿入れするにあたり建造された。(建立 1828年)前田家は三位の格式があり、将軍家から奥方を迎える場合、朱塗りの門を建てるのが慣例で、「御守殿門」が正式名称

俳句で綴る、東京詩情探訪http://www5a.biglobe.ne.jp/~tenti/

これは読みごたえある。江戸情緒も偲ぶことができる。蕪村の俳句批評も優れている。これでわかることはいかに俳句というものがその人の読みと関係しているかわかるのだ。短いからその背景を読めないとわからないのだ。江戸時代の俳句は特に歴史がわからないと読めないのだ。中国の歴史をあれだけ読めて蕪村の句がわかったのだろう。江戸時代の人の方が中国の歴史に詳しかったというのも不思議である。今の人は中国に行っても歴史を深く知って理解している人は少ないように思う。


posted by 老鶯 at 13:11 | TrackBack(0) | 評論鑑賞(本サイトリンク)

2006年10月29日

生活に活きていた蔵の話(蔵の俳句など)

倉敷や白壁に春の夕日かな

倉のひまより見ゆ春の月

(野村)朱燐洞

蔵というと喜多方が宣伝しているが本家は倉敷になる。ここもずいぶん前だけど行ったが本当に蔵だらけの街だった。蔵がせめぎあうように密集していたのだ。南の方は商家でも規模が違う、倉敷の栄いは相当なものだった。倉敷格子などがあるのもはじめてしった。昔の状態がかなり大規模に残されているから確かに昔を偲ぶのには良い、まさに倉敷こそ蔵の街だった。裏道でも蔵が辻になり蔵の間を行き来することになるのだ。喜多方は蔵の街と言っても点々とあり本当にどこが蔵の街とかなる。規模が小さいし蔵の通りなどないから倉敷とはあまりに規模が違うとなる。俳句の倉のひまというのは倉の間からのぞく春の月となる。これも倉が本当に利用されて活きていた時代の句なのだ。俳句でも過去の回想だけでは俳句にならない、生活が活きていないと芸術も活きてこない、当時の活気があってこそ春の月も活きてくるのだ。蔵で面白いと思った童謡を発見した。

黄金虫(こがねむし)

黄金虫は 金持ちだ
金蔵建てた 蔵建てた
飴屋で水飴 買って来た

黄金虫は 金持ちだ
金蔵建てた 蔵建てた
子供に水飴 なめさせた

野口雨情


大きな商家の蔵には壱の蔵、弐の蔵、参の蔵とかあった。、「日本永代蔵」なども蔵が題名になっている。蔵は金持ちの証拠だった。今では銀行に金をあづけているが昔は蔵を建てることが金持ちの証拠だったのだ。だから喜多方でも蔵を建てることを競ったのである。立派な蔵を建てれば成功者として誇示できたのである。そして蔵にはお宝がしまってあった。今でもそれが骨董として高い価値があるものがでてきたり古文書がでてきたりする。蔵は実用的なものであり飾りではない、防火にも役立ったのだ。その蔵が観光用の見せ物となったとき蔵も死んでしまったのだ。どんなものでも活きて使われないものは骨董品となって魅力を失うのである。

長谷川時雨 旧聞日本橋219 西川小りん10http://nowhere47.no-blog.jp/ultrapeace15/



その祖母が女のたしなみを、いかにも簡明に女中たちにも、子供たちにも共通にはなしてきかせるのだ。その中で、あんぽんたんの耳に残っているのは、祖父が蔵を建てようといった時に一戸前(ひととまえ)の金が出来たからと悦(よろこ)んでいったのを、

「も一戸前分の金が出来てからになさい。」
と祖母はいった。自分たちの働きの成績を、一日も早く、黒塗りの土蔵にして眺めたいと願っていた祖父は、明らかによろこばなかった。
 二戸前(ふたとまえ)分の金が集まった時に、祖母はまたいった。
「も一戸前分出来たらにしましょう。」
 さすが温順な祖父も、なぜだと訳をきかないうちは承知しなかった。
「ものは、思っていたより倍かかるものです。まして、長く残そうと思う土蔵(くら)を、金がかかりすぎるからといって、途中で手をぬくようなことがあるといけないから、どうしても二ツ建てるだけの用意をしておかないとちゃんとしたものが出来ますまい。」

 それは理由のある理窟だから、祖父は頷(うなず)いた。けれど、三戸前(みとまえ)分なければというのには不服だった。
「それがなぜ、もう一ツ分入るのだ。」
「では、万一、蔵の出来かかった時に天災が来たらどうします。土蔵(くら)は出来ましたが、蔵に入れる何にもなくって人手に渡しますとは、まさか言えますまい。」
 なるほどと思った祖父はうなった。現今(いま)のように金融機関のそなわらない時代のことである。空手(くうしゅ)で、他人(ひと)の助力(たすけ)をかりずに働かなければならないものには、それほど手固い用意も必用だったであろうが、その場合の祖母の意見は、もうここまで来たという祖父の気のゆるみを、見通していたものと私は考える


蔵に対する考え方が今ではわからなくなったが実用として使うのには蔵の役目は大きかったのだ。蔵があるということは実際目に見えてわかるから立派な蔵があるということでこの家には金があるとわかるから泥棒にもねらわれた。今は金は実際は金の延べ棒でも小判でもないから金に対する実感がない、紙幣だってうすっぺらな紙幣にすぎないからだ。それで認知症になると銀行に金があることがわからないのは金が小判でもないし紙幣でもない通帳の数字になっているから認知症になると銀行に金があることさえわからなくなってしまうのだ。この古い蔵に雛人形が納まっていてそれを長男が受け継ぐことになっている。そんな俳句を鑑賞したがホ−ムペ−ジでは検索できないのでわからなくなった。

京都は手工業と公家の町である。山形県の村山郡で摘み取られた紅花は餅状にして出して運んだのが大阪の廻船問屋と紅商人でこれを京都にもっていって加工した。京都の紅屋が加工に一番優れていた。生産地は山形の田舎で積み出し港が酒田などになり運んだのは大阪商人であり加工したのが京都人である。この紅花は高価なもので「紅一匁(もんめ)金一匁」と言われた。作るのにも手間がかかる。帰りに京都の物産を積んで商人は栄えた。山形の村山市や宮城県の村田町では京都から雛人形がもたらされ飾るのが行事になった。

雛古りぬ京を偲べる昔かな(自作)

難波−交野−近江(志賀の歴史)
http://www.musubu.jp/hyoronoosaka.htm

この雛人形は蔵に納められて大事に代々引き継がれたのだ。宮城県にも山形県にも蔵の街として観光で売り出している町がある。そもそも蔵はいたるところにあり蔵はどこにでもあった。商家だけではない農家にも今でも蔵は残っているが何か骨董品とか昔の遺品みたいなものが保存されている博物館のようになっている。蔵は今は死んでいる、現実生活には活かされていないのだ。だから蔵は昔を偲ぶものとしてあるだけになってしまう。蔵に関する物語は相当ありインタ−ネットで調べ編集すると蔵をキ-ワ-ドとした蔵ワ−ルドが作られる。この文はその一部にすぎないのだ。

参考

喜多方は新しい街だった(明治維新で興隆した街)
http://musubu.jp/jijimondai18.htm#kitakata

posted by 老鶯 at 22:51 | TrackBack(0) | 評論鑑賞(本サイトリンク)

2007年02月04日

花の雲鐘は上野か浅草か(背景を読む)

uenoasahana.jpg

花の雲鐘は上野か浅草か

田舎路はまがりくねりておとづるる人のたづねわぶること吾が根岸のみかは、抱一(ほういつ)が句に「山茶花(さざんか)や根岸はおなじ垣つゞき」また「さゞん花や根岸たづぬる革ふばこ」また一種の風趣(ふうしゅ)ならずや、さるに今は名物なりし山茶花かん竹(ちく)の生垣もほとほとその影をとどめず今めかしき石煉瓦(れんが)の垣さへ作り出でられ名ある樹木はこじ去られ古(いにし)への奥州路(おうしゅうじ)の地蔵などもてはやされしも取りのけられ鶯の巣は鉄道のひびきにゆりおとされ水(くいな)の声も汽笛にたたきつぶされ、およそ風致といふ風致は次第に失せてただ細路のくねりたるのみぞ昔のままなり云々(うんぬん)と博士は記(しる)せり。中にも鶯横町はくねり曲りて殊に分りにくき処なるに尋ね迷ひて空(むな)しく帰る俗客もあるべしかし−正岡子規「墨汁一滴 」

根岸の里とというと今行ってみたらそこはラブホテルの細道であり興ざめした。あまりにも変わりすぎたのだ。昔の面影はなにもない、ここでは竹の生け垣から石煉瓦になったこともかなりの変化としている。煉瓦は明治時代から全国的に普及した。今では昔を偲ぶ建物となっている。古(いにし)への奥州路(おうしゅうじ)の地蔵・・・などというと江戸時代の街道のつづきがあったのか?奥州へ向かう道にあった地蔵だったのか?奥の細道というとくねり曲がった細道だったから江戸時代のつづきが根岸の里にあったのだ。昔の道は真っ直ぐではない、くねり曲がっていたのである。昔を偲ぶ作業をしてきたがこれは今や自ら想像しないかぎりわからない。その現場に行っても想像もつかないものに変貌してしまったからだ。東京は特にそうである。昔がまるでわからないのが東京だった。過去の世界を歩めない、今の空間しかないのだ。昔は地下に埋もれていた。地下から江戸時代のものが大量に発見されて昔があったことが実感されるのだ。何回も書いてきたけど俳句でも江戸時代の俳句は背景がわからないと鑑賞できないのだ。

「花」は「桜花」。上野、谷中は当時から桜の名所として知られ、深川の芭蕉庵から上野・浅草方面の桜が見渡せたという。貞享四年の句に、「草庵」を前書にした「花の雲鐘は上野か浅草か」があり、前年の貞享三年の句に、同じく芭蕉庵からの眺望を詠んだ「観音の甍(いらか)見やりつ花の雲」の句がある。

ここでは現代のようなビルがないから遠くまで見渡すことができたし富士山も見れる場所があり富士見という地名がかなり残っているのだ。それからここの地図のように上野には寺町であり寺が密集してしいたのである。これもその背景であり具体的に想像する世界があった。
http://www.token.or.jp/magazine/g200307/g200307_1.htm

武家地・寺社地・町地と代官支配地(百姓地を含む)。江戸の土地は、この三つの身分社会を反映した区域と代官支配地から構成されていました

花盛り大江戸線の地下を出る

東京やホ−ムレスと語る春

・・・・・・・・・・・

大江戸や犬もありつく初鰹・・・一茶

江戸衆や庵の犬にも御年玉 

朔日や一文凧も江戸の空 


四国の遍路のホ−ムレスと会い東京のホ−ムレスと隅田川の川べりのテントで出合い話したことを思い出している。これも奇妙な経験だったのだ。自転車をもっていたり川べりで釣りをしているとか結構優雅な暮らしをしているのには驚いた。これも人生の不思議な一こまであり田舎では経験しにくい、都会では多くの変わった人との出合いがある。これは大阪とか京都でも同じである。アルジェリアで働いていた人とか中国語ぺらぺらの人とか中国で商売する人とか田舎では出合いない職業の人が多数いるから人間的刺激にはあふれている。そして食うものは東京都で焚き出しなどをやっているから食いぱぐれることはないのだ。その点地方のホ−ムレスは厳しいとなる。遍路乞食などは昔は野垂れ死にしたから厳しいのだ。ともかく東京と江戸と田舎は今でもにているところがあるのだ。ただ今やその東京も遠くなってしまった。江戸時代のようにもしかしたら死ぬまで行けないかもしれないということまで感じたのが認知症の介護だったのだ。日帰りで行けるとしても一日では見物できないからだ。だから今や思い出す旅になってしまったのだ。大江戸線は乗ってみたかった。地下鉄は景色が見えないが隅田川では川にでるし公園のところを走っていたのだ。

春の日に誘われい出ぬ隅田川鴎百羽の遊びけるかな

出代(でがはり)(出稼ぎ者、奉公人)と江戸−一茶の句の背景を読む

卯平は年末の出代(でがはり)の季節になれば其の持病を苦にして、奉公もどうしたものかと悲觀することもあるが、我慢をすれば凌げるので遂居据りに成つて居るうちに何時でも春の季節に還つて、郊外に際涯もなく植られた桃の花が一杯に赤くなると其の木陰の麥が青く地を掩うて、江戸川の水を遡る高瀬船の白帆も暖く見えて、大きな藏々の建物が空しく成る程一切の傭人が桃畑に一日の愉快を竭(つく)やうになれば病氣もけそりと忘れるのが例であつた(長塚節−土)
 
かつて奉公人が雇用期間を終えて交代する「出代」は、1年契約では陰暦2月または3月がその時期。そして初めて「御目見得」した奉公人が「新参」。(ちなみに「出代」、「御目見得」も立派な季語)

出代が駕にめしたる都哉

ほろつくや誰出代の涙雨

  門雀なくやいつ迄出代ると

五十里の江戸[を]出代る子ども哉

出代や直ぶみをさるゝ上りばな

  出代や閨から乳を呼こ鳥

  出代やねらひ過してぬけ参

今の世やどの出代の涙雨


「出代り」は今死語であり使うことがない、出て代わるというのは江戸から出たり入ったりする出稼ぎ者とか奉公の人である。新年になるとそういう人が多数出るから新年の季語になった。これも江戸時代の背景を読まないとわからないのだ。

五十里の江戸[を]出代る子ども哉

これも五十里というからそんなに遠くないのだ。江戸の近辺の村から働きに来た奉公に来た子供である。子供が働かせられたのは江戸時代では普通だったろう。インドとか貧しい国では子供が働いているのが多いのだ。 「出代や閨から乳を呼こ鳥」これも働くものが子供だから幼いからそうなった。「今の世やどの出代の涙雨」これも奉公するということが辛いから涙雨となる。子供は親元を離れて働かねばならない時代である。 出代や直ぶみをさるゝ上りばな これも安く働かせられる奉公人を言っていた。これは中国とか他の貧しい国では今でも考えられない低賃金で働いている。これと似ていたのが金の卵として働きに出された集団就職の中卒の人たちだった。これもかなり辛いものだった。私の兄は円形脱毛症とかになったり適合できない人もいて辛かったのである。一茶も奉公人として江戸に出てきたのだから身をもって辛さを味わっているから同情したのである。これは今の中国の上海とか北京でも同じ風景がある。 出代が駕にめしたる都哉 中国は今や億万長者がごろごろいる。特に都市には多い。その中で低賃金で奴隷のように働かせられる出稼ぎ者がいる。お手伝いとして雇われる女性も多い。都会と田舎の大きな格差がこうした金持ちと貧乏人の人生模様を生み出したのだ。中国には三回行ったからある程度肌で感じたからわかったのだ。

 越後衆が歌で出代こざとかな

 江戸口やまめで出代る小諸節

 江戸口や唄で出代る越後笠


江戸時代の興味は地方色が豊かなことなのだ。地方には様々な民謡があり自ずと江戸でも歌われていたのだ。越後笠というものもありそれを見れば越後の人だと人目見てわかったのである。江戸時代は地方色豊かだから旅したら興味も尽きないものとなった。関所は外国へ行く国境と同じだったのだ。

越後節(えちごぶし)蔵に聞えて秋の雨−一茶

造り酒屋の秋元家に建ち並ぶ蔵に越後(新潟県)から※杜氏(とうじ)が来ており、彼らが歌う民謡が秋の雨の中でしみじみ聞こえたようです。
http://www.edogawa.go.jp/200610/story/index.html

これはしんみりとしていい俳句である。私の父も山から町へ下りてきて酒屋の杜氏になり丁稚として働いたのである。

椋鳥一群れ鴻の巣へとまり

椋鳥はよせ米の直(まま)が四十から

椋鳥に引導渡す馬喰町

椋鳥も毎年くると江戸雀


椋鳥は冬に餌が少なくなるから山から里へ町へ移動する漂鳥だという、冬の季語なのである。でも今は環境が変わり東京では夏に多いという、冬ではなく夏の鳥になってしまったのだ。椋鳥はよせ米の直(まま)が四十から−これは出稼ぎ者は米を多く食うからこの句ができた。江戸では白米が食えた。江戸に米が集まった。そして白米ばかり食うから江戸患いの脚気(かっけ)になったのだ。地方では稗と粟とか五穀を食っていたからならなかったのだ。

ともかく江戸時代の俳句でも常にその背景を読むことが勤めになる。万葉集の一首でも背景を読まないと鑑賞できないのだ。昔の文学は歴史的自然的地理的背景を知らないと鑑賞できない。その背景を読むにはインタ−ネットで調べたり本を調べたりと編集作業が必要になる。

2007年02月09日

桑の葉と汽車(斎藤茂吉の歌を読む)

朝さむみ桑の木の葉に霜ふりて
      母にちかづく汽車はしるなり

桑の香の青くただよう朝明けに
      堪えがたければ母呼びにけり


蚕の時代がまだつづいていた。桑畑がいたるところにあったのだ。阿武隈急行ができたのは遅い、あの辺は阿武隈高原は川俣、保原など蚕の産地であり蒸気機関車が来るとその煙で桑の葉がだいなしになると通さなかったのだ。それだけ蚕で生活していたから起きた問題だった。桑の葉は今はほとんどなくなってしまった。茂吉の生きた時代も明治から大正−昭和と今の大正生まれと通じたものがあった。新幹線とかで来てはこういう旅情もなくなるだろう。汽車という言葉自体すでに過去のものなのである。電車であり山形新幹線になっているからだ。文学は時代を読むのに適していることがわかった。

小説は苦手でもインタ−ネットで一部をとりだして読むというのもありえなかったがインタ−ネットではキ-ワ-ドから読むからそうなる。インタ−ネットの特徴は今までの読書とは違う、山形を旅したから山形にかかわるものを調べて出てきたものを読む、茂吉の短歌でも膨大だから全部は読めない、自分の興味ある関連したものを読むのがインタ−ネットなのである。だから今までなら読まないものの一部を常に読んでいる。インタ−ネットの読書は今までにない読み方をしている。本の世界だったら読まないものを読んでいる。それは自分の関心とキ-ワ-ドから読んでいるからなのだ。

山形のあがたよりくる人のあり三年味噌を手にたずさえて

ここにあがたという言葉がでてくる、他にもあがたがでてくるのもあがたがまだ生きている。あがたについては書いてきた。あがたは(県)だからもともと日本の国が起こった地域である。アガタ(上田)から田が作られてきたからである。山形とは山のあがたなのかもしれない、上山は上の山形だった。

古代の部落は丘にあった。低地部に臨んだ高地である。田は一般にその部落を上に控えた低地(田居)にあった。秋の収穫期になると特殊な信仰に関係して一部の貴い女性などが降って低地部に滞在する。そこで小屋などのある所を田居といい、そういう所で一時的集団的住居ができるのをいなか(いなか)と言った。 (折口信夫)

これでわかるように古代では田のあるところには普通は暮らしていなかったのである。生活の根拠は高い場所にあったのだ。

他に山形県の地名の特徴として山形市には三日、五日、六日市 七日市、八日・・・と市のつくのがやたら多いのだ。旅籠町もあり紅花商人などが泊まったという司馬遼太郎の推測である。つまり毎日のように市がたっていたのである。

雪溶けて市立つ日こそ待ち遠し(自作)

こうした待ち遠しいという感覚もなくなってきている。それも交通の発達ですぐ行けるからである。汽車と新幹線の時代はあまりにも速さが違っているから感覚的にも宇宙時代になったような気さえしたのである。飛行機かロケットのような速さだったからだ。

ゆけむり紀行
http://www.yamagatakun.org/kyoushu/mokichi03.html

念珠集 斎藤茂吉
http://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/43501_17416.html

2007年02月23日

春や昔一五万石の城下かな

春や昔一五万石の城下かな 子規

この句が名句なのはこの句が松山市だけでなく四国全体をも象徴した句だからである。つまり四国は四国を統一するような大きな藩は生まれなかった。それは山国でもあり平地が少ないという地形的な制限にもよった。四国は山が多く山によって分断されていたのである。東北では60万石の伊達藩が生まれたのはそれなりに平地があったからである。一五万石にまでしかなれない栄えを象徴しているからこの句は名句なのである。こういうふうに歴史的に象徴した句を作ることは実際むずかしいのだ。この句の味わい深いのは15万石というとやはりこのくらいの規模だと文化が育まれる規模なのだ。城の俳句とか写真とか出してきたが白河城とか上山城もそうだが小さい城が日本には多いのだ。相馬六万石なども小さいし城すら今は建っていない、日本では小さな城が多いから外国人から見たらなんだ大きな家くらいにしか見えないだろう。今の感覚だとビルの谷間に埋もれているから余計小さく見えるし城に本当に人が住んでいたのかと思う。さすがに姫路城くらいになると城だとなる。

春の日や遠くに望む姫路城(自作)

電車の窓から姫路城が見えた。遠くからも大きいから見えた。それでもビルが建っていてその間なんとか見分ける程度の城になる。でもこれが昔だったらどこでも城は国に入ると一番目立つ標識のようなものだった。外国では塔がそうであるように塔と同じ役割を果たしていたのだ。城が見えたとき国境を越えて別な国、外国に入るような気分になっていたのだ。城は町の中心だった。

この句は杜甫の春望の詩「国破れて山河あり、城春にして草木深し、・・・・・」からもイメ−ジされる。春ということで共通性がある。西安の城をめぐったが「城壁の外春塵に紛るかな」老鶯・・・外国では城というと城壁なのである。その城壁の外ががたがたの砂ぼこりのあがる道であり捨ててある自転車よりひどいレンタルの自転車で中国人と一緒になり走っていた印象が残った。城の中と外ではかなり住んでいる感覚が違ってくるのだ。

ブルジャ-とは語源は城砦(burgus)である城のことだから日本では侍になるがヨ-ロッパでは城の城壁内に住んで守る人が戦士がブルジャ-なのである。だからこのウオ-ルというのには大きな歴史的意味がある。ロ-マでもその後の歴史でも城壁というのは大きな役割があった。それは中国でも同じである。なぜ万里長城などを作ったのかというとやはり国自体を城壁で囲み敵から防御する守るという感覚は大陸として共通している。城壁のなかに住むものは日本のような侍とは違う、同じ戦士としての市民なのである。だから強固な一体感がある。城壁を破り侵入して街が破壊されたら住民も死ぬことになるし奴隷にされる。だから常に城壁は生命を守るものとして大きな意味をもっていたのだ。

つまり城壁の中だと守られていると実感するが城壁の外だと無防備になる。この差はかなり大きいのだ。中国が万里長城を作ったのは国を城壁で囲んだのである。城壁は国境でもあったのだ。大陸ではどこが国境なのか明確でないからだ。国境は人為的に作らねばならないのだ。それが城壁なのである。
日本では異民族の侵入がないから城壁がなかったし市民も育たなかったとなる。

旅ではその街の昔と今を知ってはじめて意味ある旅になる。この昔を知らないとただ今という視点からしか街を見れないからつまらなくなる。だからどうしても昔を知る想像力が今必要なのだ。


正岡子規句碑. 『牛行くや 毘沙門坂に 秋の暮』

この句が城の麓にあった。この城の麓を牛が行く姿があった。これは今では考えられないことである。正岡子規は武家の出であり侍だった。城は身近でありその城の麓を牛を行くのを見ていたのだ。松山でも3万くらいの町だから常に農家が身近に存在したのだ。江戸ですら農家が身近にあったのだ。生活でも糞尿の処理などで農家と密接に結びついていた。そういう昔をイメ−ジしないと感覚的にずれてしまう。そもそも昔を偲ぶ場合は一場面だけをきりとって鑑賞できないのだ。全体としての一部だから全体を知らないと思い浮かべないと細部もないのである。時代は一部だけをとり出して知ることはできないのだ。

春の雨しとと我が行く毘沙門坂

春の雨というと遍路の石手寺でも春の雨だった。あそこには古い三重の塔があった。春の雨もまたいいものであった。松山には三日ぶらぶらしていたのもよかった。

松山に四街道や春の朝−老鶯

松山からは大きな街道が四つくらい分かれて通じていた。四国の中心的位置にあり街道の基点でもあった。やはり四国とか瀬戸内海には春らしい春があった。東北の荒寥とした海とは違って人のあたたかさのようなものがある海なのだ。気候が影響してそうなっている。言葉でも東北弁のように重くならない軽さがあるのは気候とか歴史の影響が大きいのである。発音の抑揚が話しやすくしているのだ。東北弁は会話的ではない、重く沈んでくる会話になる。こういうところに文化の相違がある。西と東はそもそも古代から相当な文化の差があったのだ。
今回のプログの鑑賞と批評は前にかいたものを付け足したのである。ともかく量を書いているからまた前に書いたものを別にアレンジしたり付け加えたりして出せるのだ。編集するとまた別な文になっているのだ。インタ−ネットはいくら書いてもいいのだから気楽に書けるから膨大な量になってしまうのだ。プログだと短い文になるから記事ばかりふえるのだ。でもその一記事でもそれなりの内容を書いていないと期待外れになる。期待外れなのが多すぎるからだ。


四国紀行編−暮春松山散策

http://www.musubu.jp/shikokukikou1.htm



2007年05月05日

水車から偲ぶ昔(俳句−詩など)





水車から偲ぶ昔(俳句−詩など)


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水はじき水車涼しき昔かな 

私たちが今飲んでいるような清酒ができたのは、江戸時代の中期以降である。その理由は精米技術の進歩で、六甲山の急流を利用した水車により、精米率の高い精白米が手に入るようになったからである。「灘の酒」は、六甲の急流と技術革新ゆえであったのだ。もちろん米と水がいいことも条件で、灘にはそれらもそろっていた。江戸周辺でも酒を造っていたが、いい酒が市場に出るようになると、江戸ではほとんど灘の酒一色になったようだ。

水車稼ぎ、または水車稼ぎ同士、これより多くの水を取りたいがため対立することがあった。水車は主に雑穀の脱穀・製粉作業に使われていた。さらに上流部では製材のための動力として、また織物が盛んな地域では、燃糸のための動力として使われていた。水車の動力利用は入間川の流域の特徴と言えるだろう。人々はそれぞれ、既得権益を守るために対立しながら、しかしどこかで折り合いをつけ、共存共栄を図ってきたことがうかがえる。
http://www2.arajo.ktr.mlit.go.jp/konjyaku/03.html

18世紀には菜種油の製造が近畿、特に西宮を中心とする阪神間で盛んになり、この菜種油の大量製造とその販売で大阪の繁栄の基礎が築かれた。これには水車による搾油技術の進歩が大いにあずかっている。

明治十七年に「水車印数増加願」という文書が神奈川県令に出されていました。これによると長柄村芳ヶ久保の地名と水車場一ヶ所との記述があり、願人の名前もみられます。地名や添付された地図から、おそらく同じ水車だと思われますが、戦前には「わたや」という屋号のお宅が、綿打ち用に使用していたといいます。
http://www.hayama-kuretake.net/column/mizu-annai/mizu-annai.htm

それまで精米、製粉に限られていた水車営業が、煙草製造・ガラスみがき・薬種精製・活版墨汁練りと、農業から離れ、小規模ながら工場としての動きを始めたのである。もっとも、この動きは、市街地に近い目黒川流域だけで、呑川流域では、あいかわらず精米や製粉を行っていた。

山田貞策は、1869年岐阜県養老町の代々庄屋を勤めた大農家に生まれます。農事改良振興に尽力し、1898年に出崎栄太郎に水車式蒸気機関排水機を開発させます。この排水機を利用して、1906年〜1928年まで、福島県相馬郡八沢浦で干拓事業を実施します。荒地を美田とし、耕地面積350haの耕作地を作り出し多量の農業生産物の収穫ができるようにしました。1935年に山田神社が磯ノ上公園に建立されましたが、現在では八沢浦干拓事務所脇に遍座してます。


水車の用途は実際は多岐にわたっていた。水車は昔の小さな工場であった。水車から近代の工場へと技術は変化したのだ。南相馬氏の鹿島区の八沢浦裏干拓にも水車が応用されていたのだから水車は明治に入っても最新の技術力だったのである。風車も同じである。風車のなかはからくり屋敷みたいであり工場なのである。ここから造船技術も発達してオランダの海洋貿易国家の繁栄があった。オランダがほかに木靴で有名だというとき木靴は日本の下駄でもあったのだ。技術は何か共通性があり他への応用が必ずあるのだ。水車でも風車でも今からみると何か牧歌的なもの片隅にある忘れられたなつかしいもののように思っているが実際はそこは昔の工場であり活きていた。過去を偲ぶとき現代から想像するから何か必ず錯覚するのだ。城だってそうである。江戸時代の人が実生活で見ていた、見上げていた城の感覚は観光として見る城とは違っていた。城は当時の人にとっては怖いものだったかもしれない、警察署のようなものか何か畏怖させるものだった。戦前までの天皇と今の天皇とはあまりにも違うように畏怖させるものは違っていたのだ。水車が活きていたからことわざも生まれる。

精出せば氷る暇(間も)なき水車(せいだせばこおるまもなきみずぐるま):【意味】毎日毎日の務めに孜々として励んでいれば、人間というのは迷い悩んで絶望などしている暇もなく、そうこうするうちどうにか生きていくものだ

これもなんか今の自分を象徴している。水車のように介護のために動いている動かされているし問題も解決しないがただ動いている他ないということになる。自分のテ−マである過去を歴史をいかに偲べるかはいかにその時代に活きた世界を再現できるかなのだ。ただこれは必ず今の時代から見るのだから水車一つにしても当時の人と違った用のなくなった水車を見てしまうのである。

山桜散るや小川の水車  智月
http://www.aozora.gr.jp/cards/000606/files/44910_22425.html

雪解富士水車しぶきを宙にあげ 榎本虎山

水車 俳句で調べてもインタ−ネットにいい俳句がなかった。これが山桜と水車であっていた。雪解水は勢い良く水量豊かに流れるから春とともに水の流れが増してゆくことで季節感がでている。水車は車川とかの地名がここにもあるように地名化しているしまた水車は町の通りに必ずあった。精米屋と水車が一緒になっていた。水車は常に身近なものだった。何事一旦過去のものになるとその意味や活きていた時の感覚がわからなくなる。技術自体がみなそうなのである。歩いて旅していたという感覚が全くわからなくなったと同じなのである。この根本的なことから過去を再現することが困難になったのだ。馬車で運ぶ感覚、時間の流と自動車で運ぶ感覚の相違はあまりに大きすぎるからである。

立原道造

村中でたつたひとつの水車小屋は
その青い葡萄棚の下に鶏の家族をあそばせた
うたひながら ゆるやかに
或るときは山羊の啼き声にも節をあはせ
まはつてばかりゐる水車を
僕はたびたび見に行つた ないしよで
村の人たちは崩れかゝつたこの家を忘れ
旅人たちは誰も気がつかないやうに
さうすりやこれは僕の水車小屋になるだらう


水ぐるま 近きひびきにすこしゆれ すこしゆれいる こでまりの花
木下利玄


過去はこうして回想されているが当時は実用的な工場でありあまり牧歌的な風景として見ていなかったかもしれない、何か大きな技術であり生活を動かすものであった。その役目が終わると回想される詩となってしまう。ただ水車とは戦前まで活きていたからそんなに昔のものではなかったのだ。今でも水車のことを知っている老人がいるだろう。水車は自然の流の水を利用するのだから環境とマッチした技術だったし風車もそうだった。風車も牧歌的に見てしまうがあれも中は本当に工場だったのである。オランダは風車で技術革新をして人工的国家国土を作りあげた。風車は中東にあったものをまねたのであり元は中東だった。中東は砂漠だから風が吹くから風車の技術が発達したことは推測できる。ともかく風車は技術の象徴だった。技術的象徴となるものは常にあった。それがいづれは過去となり歴史となり世界遺産となる。富岡の煉瓦の製糸工場が世界遺産になるとか原町の無線塔も技術的象徴として原町が近代化されるときそびえ立っていたのである。無線塔は近代化の象徴だったのである。

さらに風車のすぐれた技術は、造船にも応用され、やがて17世紀、オランダは世界の海を制して黄金時代を迎えます。キンデルダイクののどかな風車群の絶景は、ただ美しいだけにとどまらず、オランダが国土を確保・拡大し、大繁栄を遂げた歴史の象徴として、世界遺産に登録されたのです

晩秋や風車の古りて村一つ

実際電車からみた風車は風格あるものだった。村の長老のようにどっしりとして風格があった。水車もまた当時の人には頼もしいものであった。技術も戦艦大和のようにゼロ線のように時代の粋を集め総力で作り出されるものがあった。蕪村の句の「絶頂の城頼もしき若葉かな」というのは石垣の技術に対しての頼もしさだったように常に技術を頼りとする人間の歴史がそこにあったのだ。そして時代と共に技術も過去のものとなる。

曲家に水車のまわり館岩の夏の日暮れぬ昔偲びつ

老鶯や昔の水車回るかな


館岩にあった水車小屋は小さい、藁葺き屋根の里は残っているがあのように小さいと水車の当時の効用はちっぽけなものに見えてしまう。あの山の部落時代小さいからそうなる。平地が水田が広ければ水車も大きなものとなる。浮世絵に描かれた水車は大きいからだ。

藁葺の農家にいかにも一本古き松  
夏草しげる村の辻見守る道祖神も古りぬ
時の止まりしごとく昔の道に旅人を見守り 
小さな昔のままの水車 小川に洗い場 半鐘もあり    
旧家の前水張りし田に菜の花映ゆるのどけさ  
今も変わらず湧き水のある一村の暮らし       
桜の花は散りそこに八重桜の花は咲くかな


湧き水に一村の暮らし八重桜

これは信州の古い村の光景である。なかなか大きな水車は今は残っていないからわかりにくいのだ。

水車のキ-ワ-ドでいいものがかなりでてくる。インタ−ネットは漠然と探していてはいいものにあたらない、具体的なものから探すといいものにあたる。インタ−ネットは常に編集して読まないと効用がなくなる。キ-ワ-ドから調べるから例えば老鶯と調べたら秀句を一つ発見した。つまり老鶯というキ-ワ-ドで知的構築を計るのがインタ−ネットなのだ。今回は水車のキ-ワ-ドであったがこれは風車とも結びついているし知的構築は必ずリンクするものなのである。リンクして広がっていく知識の探求がインタ−ネットの利用方法なのである。だからかなり根気よく調べる必要がある。情報の量が厚みが増せば書くことも厚みが増すからである。

2007年05月09日

山桜の美(染井吉野と混同された美) (桜のエッセイの連作)


山桜の美(染井吉野と混同された美)
(桜のエッセイの連作


評論と鑑賞へ
http://musubu.jp/sakuranew-4.html

桜の連作として3ペ−ジを本サイトに書いた。それに付け加えてて4ペ−ジ目を書いた。ダブっているところもあるがホ−ムペ−ジでもプログでも絶えざる更新であり編集なのである。インタ−ネット自体が常に知の情報の新しい更新でありこれは過去に書いたもの古典でも何でもインタ−ネットで新しく編集され新しい意味を帯びて書き換えられるのである。

山桜と染井吉野は混同されやすい、あまりにも染井吉野になじんでしまった結果−もともと山桜を歌っていたものでも染井吉野と混同してしまっている。山桜の美が何であったのかわからなくなっていたのだ。それでここでは自分の歌も交えて山桜の美とは何か追求した。前の桜のペ−ジとあわせて読むと厚みがでる。4ぺ−ジあるからこれもまた再編集が必要になっている。ホ−ムペ−ジは簡単に変えられるから便利なのだ。

2007年05月15日

他のプログの今日の一句一首の感想

他のプログの今日の一句一首の感想

一句一首の感想を書いている人がいた。これでこんな句があったのかと発見するものがあったのでここでそれについて自分なりの感想をまた書いた。人によって句の見方は違ってくることに批評の面白さがあるからだ。

能登麦秋女が運ぶ水美し 細見綾子

地域的なものと季節と女性的な感性が融合して一句ができた。水はやはり女性的なものなのだ。水ぬるむころ女の渡し守−蕪村・・・・これもそれと似た俳句なのだろう。

人入つて門のこりたる暮春かな 芝 不器男
これもなんでもない風景なのだが人が入ってゆくということでそのあとの余韻で春らしい気分を表現したのだろう。
春は人の出入りがあるからだ。でも表現としては門残りたるというのは写生ではない、門のこりたるでは何か廃墟に残っている門のように見えないか?つまり何か作られすぎていないかと言うことなのだ。でもそれなりに面白い視点である。

雨の花野来しが母屋に長居せり 響也

この句を碧梧桐は新傾向の俳句だという。母屋というのが何かなつかしい、これは古い農家では今でも生きている。今ちょっと母屋に行ってくるよとかチャットで書いた人があったからだ。長居せりというのが何かのんびりした時代の雰囲気を伝えている。母屋があれば隠居屋もあったから大家族時代の暮らしが偲ばれる。今は核家族だから家族は団地とかマンションとか箱のなかに住んでいるようでゆとりがないのだ。暮らしはやはり自然と大地とむすびつくとき人間らしい暮らしができるのだ。

榛名山大霞して真昼かな 村上鬼城

この句は大きな句ではないか?大きな山が霞の中に隠れる。大きな山を見ているから作れた。阿武隈には大きな高い山がないからだめなのだ。

街角の風を売るなり風車  三好達治

これは街にまだ自然が生きていた時代の風景である。金魚売りとかもいた時代である。

金魚売り真昼の影濃く路地の裏 老鶯

ギンギョイ−キンギョ−ギンギョイ−キンギョ−・・・・暑い盛りに金魚売りが桶を天秤棒で担いでやってくる。それがしなるように肩にかかり重いのだ。その影が路上に濃く日盛りの一日がすぎてゆく、そういう光景があったということはなになのか?自然のなかで人間が暮らし生きていた姿があった。女性の行商の魚売りが今は車で来るがそこでも必ずよるからこの魚はこうして料理するとうまいですよとか話しになる。また半年くらい来なかったのはなぜなのかと思ったら病気で手術したこともわかった。そこには人間としてのやりとりがあったのだ。それはただ今は物を便利に何でも買えるのだが人間的なコミニケ−ションはなくなったのである。働いている人が見えない、工場で働いていても見えない、なんかロボットでも働いて物が生産されてくる感じなのだ。そこがなんとも物足りない、やはり今はあらゆるところで人間がいて人間が主人公になっていないからである。

俳句は人生の呟き
http://blog.so-net.ne.jp/bekira/archive/200705

ここから拾い読みした。インタ−ネットでは誰かが感想を書いた俳句でも短歌でも本でもそういうものを読むことが多くなる。なぜなら書きやすいからそうなる。短文でもちょっとした感想でも書けるからだ。そのなかにはなるほどと感心するものがある。インタ−ネットはもともと短文表現の世界だった。これはまたその他人が書いた感想の感想になる。自分の一句一首ばかりつづけてきたが疲れた面もあるのでここで最近また他の人の文を読んでいる。またプログなどから拾って感想の感想を書いてみよう。

2007年05月28日

藤の花−随想(1)

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藤の花−随想(1)

藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君 330

藤の花を見て都という繁華な世界を思い出している美的感覚がわかりにくい、桜だったら栄えている都を思うことはある。藤の花だったらそもそも万葉時代だったら山深く咲いている藤の花があっているのではないか?でも実際は藤の花は日本では早い時期から山の花ではない、人間に身近なものとして親しまれていた。藤原京に藤がつくのもそうだし藤がついた姓−佐藤など一番日本人には多い姓なのである。だから一番早くからなじんだ花なのである。

妹が家に伊久里の杜の藤の花今来む春も常かくし見む 3952

なぜか藤の花は社にあう、神社にあう。相馬(中村)神社の古木の藤もそうだし藤の花は古い社ににつかわしい。ここで常かくしを常隠しと読むと面白い。常に隠して隠されて見るとなると何か私の好みにあったものとなる。ただいつものように見るのではつまらない歌となるからだ。この伊久里の杜はやはりどこかわからないが見事な藤の木がある。その写真をみて一首作った。

(万葉の藤−三条市)
http://www.naviu.net/manyounofuji/manyounofuji.htm

百の藤地に垂れんかな万葉の謂われを伝ゆ古木なる藤

藤の花は社に一番あっているのだ。

社一つ何の謂われや藤の花

とかなる。山に咲く藤より人間界に咲く人間的な花となったのが藤である。

我宿の藤の色濃き黄昏に 訪ねやはこぬ春の名残を

その御文は、見事な藤の枝に結びつけてありました。夕霧はお誘いを心待ちにしておられましたので、胸ときめかせ、恐縮してお返事申し上げました。(藤裏葉)

なかなかに折りや惑わん藤の花 黄昏時のたとたとしくは

源氏物語でも藤壺からはじまるから藤は親しまれた花なのである。ここではかなり艶なる藤となっている。藤棚は庭にもあっているし宮廷の御殿にもあっていたのだ。
紫がヨ−ロッパの古代でも高貴なものの色とされたのも同じ美的感覚なのかもしれない、高貴なものの色として藤の花も紫だからそうなっかのかもしれない、藤原京というのも藤を都のシンボルとするのは紫の色からかもしれていのだ。

色あひふか花房ながく咲きたる藤の花の、松にかかりたる

清少納言は、この藤の花を<あてなる(上品な)もの>にも挙げている。薄紫色に白がさねの汗衫(かざみ−女童の表着)、雁の卵、水晶の数珠、藤の花…。今なら「上品であるするものは」というお題への答えとでもいうべきだろう

塀の内誰か高貴(あて)なる藤に月

藤の花風にさゆれて今日も咲く風穏やかにやさしかるべし


今年は乾燥しているから風が強く盛んに藤の花もゆすられた。風に揺れる花を藤波としたというが藤の花は穏やかな風にわずかに揺れてあとは長々と静かに垂れて咲くのがあっている。長い白壁の塀があるところは情緒がある。これは京都とか奈良、萩には残っている。福島市の医王寺にも白壁の塀がある。これがコンクリ−トとかの塀となると情緒がなくなる。石塀小路とか京都にはあり情緒がある。藤の花とか紫陽花はやはり日本的な花なのだ。牡丹が中国の国花のようにバラがヨ−ロッパのシンボルのように藤の花と紫陽花とかは日本的情緒をかもしだす花なのである。日本的風土に一番映える花なのである。

2007年06月15日

暗い穴(常磐炭鉱の跡)


暗い穴(常磐炭鉱の跡)


父は暗い穴に入り
石炭を掘り出す
父が残した古ぼけた手帳
それは私の父が残した
酒屋の通帳とにていた
父は暗い穴に入り
石炭を掘り出すために
地下で格闘した
その石炭を小名浜港へ
常磐線で東京へ
一時エネルギ−として
日本を支えていた
鉄道は石炭を木材を運ぶためのもの
森林鉄道もそのため各地にあった
モクモクと煙をはき蒸気機関車が走った
父は暗い穴に入り
黙々と石炭を掘り出した
石炭の時代は終わった
しかしときにその暗い深い地下の穴に
声がして人をひきこむ
その暗い穴の底、落盤で死んだものもいる
塵肺で病気になったものもいる
暗い穴の中で人は格闘した
暗い穴にはまだ人の声がする
ひょっこりその暗い穴から
父がでてくる姿があった
夢のなかでも生々しい
確かに子にその歴史は受け継がれた
その暗い穴は歴史の証拠として生きている

近代化はすでに歴史となり歴史遺産となっている。これを保存するのが問題になっている。東北のNHKでそれを放映していた。特に常磐炭鉱で炭鉱で父が働いていたその子が父の残した手帳をもってそれを読んで身近に感じたと言っていた。これは前に酒屋の通帳で私が感じたことと同じだったのだ。会津の古い酒屋とか漆器店の蔵も保存できないとか放映していた。双葉の富沢酒店の煉瓦の煙突なども近代化の産業の遺産となっている。あそこが街の中心だったからだ。そのすぐ近くに私の父が働いた酒店があったからだ。

浅野は石炭商でしたから石炭には詳しい。遠い筑豊から運ぶより、東京に近い炭鉱の開発が急務であることを力説し、当時立ち遅れていた常磐炭鉱開発に積極的に取り組みます。常磐炭鉱近代史の父は渋沢そして浅野と断言しても過言ではありません。石炭を運ぶために常磐線敷設計画を最初に打ち出すのも渋沢と浅野です。ここで面白いのは、現場をよく知る浅野が年長者である渋沢に積極的に具体案を出していった点だと思います。石炭を産地から運ぶには鉄道敷設の前は船で、当時の三菱汽船と火の出るような激戦をしたのが共同運輸でした。
http://www32.ocn.ne.jp/~iizukahotline/syoukai/clip-041.htm

鉄道の敷設は物産を資材を運ぶためにはじまったのである。その最たるものが石炭だったのだ。燃料は当時、蒸気機関車だから石炭だったしスト−ブも石炭だったし石油がないのだから石炭が主な燃料となった。今でも中国ではそうである。常磐炭鉱のような石炭の街が今でもある。磐城は今でもそうだが東京に近いということが強みだったのだ。磐城までは複線であり東京までの電車が磐城をかなり往復している。途中で東京への通勤電車になるのだから東京が身近なのである。前は泉と小名浜を結ぶ電車もあった。
磐城−小名浜−泉は結ばれていたのだ。遠距離輸送は鉄道しかなかったから鉄道社会となっていた。磐城から原町−岩沼までは単線でありこれは今も変わっていないのだ。磐城は明治になって炭鉱で大きな地場産業を作り発展したのだ。東京に近いことが地の利で経済的に発展したのである。磐城は実際はみちのくというよりは古代の常陸(ひたち)であり今では東京圏内に近いのである。そして相馬からは磐城も遠い、会津もさらに遠いから何か一体感がないのである。これは交通とも関係している。今磐城市でもそれほど街としては大きくない、広域化して大きくなったのであり昔の平市となると大きくはない、電車で1時間半かかるとなると遠いから買い物でも行くことがない。ただ海を見に折り畳み自転車で行くくらいである。

酒屋の通帳(1)
http://www.musubu.sblo.jp/article/1836589.html


近代産業遺産を求めて〈八茎鉱山〉
http://loveiwaki.cocolog-nifty.com/duketogo/2007/02/post_f57a.html

加賀国から移住してきた一族のような墓が残っている。子分とか義兄とかの名もある。江戸時代から銅の生産が行われていたから江戸時代のものだろう。時代が書いていない。加賀国とあるからこれは江戸時代のものである。江戸時代から明治−大正と鉱物資源の開発は日本国内で行われていた。それが近代化産業遺産となっている。

関東近辺には日立鉱山以外にも素晴らしい廃虚が。
場所は茨城県北茨城市。

同市日棚地区には、旧常磐炭鉱中郷鉱業所跡地がある。
そこには、巨大なボタ山と共に、選炭場などの跡が多数残存。
本当に凄い!一部の建物には、ベルトコンベアや配電盤がそのまま
残っている。あと、ヘルメットも転がっていた。
あと、ここの敷地は一部工場になっているので要注意。

同地区北方の木皿地区には、重内炭鉱跡が。
こっちは常磐炭鉱と比べると小規模だけど、選炭場跡や廃線跡、
炭鉱町がほとんどそのまま残っている

2007年11月04日

松を友とする秋の短歌(古歌−自作)


室戸に立てる松の木汝を見れば昔の人を相見るごとし(万葉0309)

たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ 1043

ここをまたわれ住み憂くて浮かれなば松はひとりにならむとすらむ 西行

我が園の岡辺に立てる一つ松を友と見つつも老いにけるかな

松が根の岩田の岸の夕涼み君があれなとおもほゆるかな

たれをかも知る人にせん高砂の松も昔の友ならなくに(古今集 藤原興風)

いたずらに世に経るものと高砂の松もわれをや友と見るらん 紀貫之


秋の日や旅のしるべの石と松

新しきしるべとありな松一つ秋の日さして我が寄れるかな

秋の日に昔のしるべの松なれやその松古りて我が寄れるかな

秋の日に昔のしるべ松古りぬ枯れて残れる薊見るかな


行き帰り松一本の親しかな畑の道の秋の夕暮


(日本海)

野積へと通じる道や松一本良寛寄るや秋の夕暮

秋日さす入江の松原わがあゆみ長く泊まりし船をし想ふ


  松を友とみることが多い、松は日本人には最も親しい身近な木だった。だから松にまつわることは無数にある。江戸時代は街道の松並木があり常に松を見ていた。松は日本の美しい光景に欠かせぬものだった。絵のように美しい松並木が各地にあったのだ。防風林として松原も多かったから松は白砂青松の風景として日本の景観を作ったのである。


ここをまたわれ住み憂くて浮かれなば松はひとりにならむとすらむ 西行

我が園の岡辺に立てる一つ松を友と見つつも老いにけるかな


西行は庵を転々としている。一カ所にとどまっていない、そういう暮らしができたことが不思議である。この歌は転々とする西行ゆえに松はひとりに残される。一方で松は旧友のようにそばにありその老いを見守る、離れずある松がある。人間の心の反映として松もある。だから確かに街道の松並木は消えたがやはり日本にはいたるところに松が残っている。その松に思いをよせる人はいる。ただ車だとそうした松にも思いをよせることができないのだ。車だと人との出合いも道ではないし道中の道の辺の松とか石とか道祖神とかに思いをよせることはない、分去(わかれさり)でわざわざ人を見送る秋の暮とか人を入れねばならないのも人を見送ることがないからである。新幹線にしても見送るといってもあまりにもその時間が早すぎる。あっというまに行ってしまい旅情もなにもないのだ。キレルというときまさに今の時代ほど日常的にキレル世界を生きているのだ。関係が常にキレルのだ。現代は旅するというとき芭蕉がたどった道にはもはや昔の面影はほとんどない、では奥の細道はどこにあるのか?細道はあまり車の通らない道である。それが阿武隈高原にはかなりある。幾重にも道が山の中を通っているしそこには新たな道しるべとしての友としての松があったのだ。ここも車で通ったらバイクでも飛ばしたら友としてみるよる松はないのである。旅は今や相当に苦心して演出しないとできないものとなっているのだ。歩くということが人間として新しいことを体験することになる。人間が立って歩くことから人間になったというときその歩くことがなくなったということ自体が人間喪失の時代になったのだ。
 

新しき友にしあれや秋の朝知らざる松にわれはよるかな

2007年11月10日

神話伝説化した旅の巨人−西行編−(評論と鑑賞)


神話伝説化した旅の巨人−西行編−(評論と鑑賞)
http://www.musubu.jp/saigyo.html

 
評論と鑑賞というのは前に書いていたけど長文が書けないので書かなかった。私も30年旅したから旅ということで西行に興味を持った。西行は芭蕉とはスケ−ルが違う神話的伝説的旅の巨人だった。芭蕉は細心の注意を払い文学的構想の上に予定通りの旅をしたのであり・・行方もしらに・・という旅本来の醍醐味に旅をしていない、なぜ鎌倉時代に宿場も整備されていないのに空間でも時間でもスケ−ルの大きな旅ができたのか謎でありまさにそれこそが西行が神話的伝説的神秘の旅人でありすべての旅人を陵駕している旅の巨人であることに気づいたのだ。西安の王の墓にギリシャのペガサスの像があるように陸奥まできている不思議がある。その時陸奥は世界の果てのような地域でもあったからだ。その後の旅人はみなスケ−ルが小さいからである。山頭火で実際は旅人は存在しなくなったのだ。今や道は未知ではないすべてが見通された既知の道なのである。これは世界一周でもそうなのだ。予定通りの旅であり思わぬ道(未知)の世界に出ること出会うことはないのだ。むしろ近くの知られざる道が未知になっている皮肉がある。


上野霄里氏の言うように旅に関しても旅は失われ人間的不毛の時代が現代である。人間が世界を簡単に旅ができても卑小化されている。神話的伝説的人間は見いだされない、過去にこそそういう人間が現存したから人間的に豊かな世界だったとなる。現代はあらゆる面で人間はつまらない機械の組織のパ−ツにしかされない、それが人間なのか?これが常に疑問でありそのことを書いてきた。人間は文明化により空間や時間を征服しようとした。だから地球の裏側までに簡単に行ける、でも西行のような神話的伝説的人間が生まれることはない、かえって交通が不便だから西行のような空を駆けるような人神話的人物が生まれたのである。これだけ文明化してもかって人間が卑小化されるなら文明の意味は何なのだろう?そういう疑問をもつ人が少ないのも文明化され家畜化されて本来の野生的な人間の巨大さを見失っているからなのだ。

2007年11月13日

テジカメは写生俳句の必需品 (インタ−ネットで解放された知の世界)

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テジカメは写生俳句の必需品

(インタ−ネットで解放された知の世界)
 

●デジカメと写生俳句


松一本仙台平野の植田かな

現代はデジカメがでてきて写真芸術が最高潮に達した時代である。写真と俳句のことで写生とデジカメは相性がいいと書いた。写真ほど写生に適したものはないからだ。もちろん写真でもその人の視点があり構図があるから写真は機械だけでとることはできない、でも写真は機械的に記憶することも大事なのである。人間の記憶力は非常にあいまいであり忘れやすいのだ。この点機械の方が人間よりはるかに優れている。細部まで忠実に写して忘れないのだ。旅の写真を見て常に感じることは半分は記憶から消えてしまっている。外国になるととくにそうである。どこにいたのかさえわからない、写真を見てやっと思い出すことがあるのだ。
この写真を例にとるとこれは仙台の飛行場まで自転車で行ったときとったことは覚えている。仙台の飛行場に向かっていたことは確かである。いい松だなと思って写真にとったのである。しかしよく見たらその時は田植えしていた人がいたのか・・・植田になっていた。その時期がよく思い出せなくなっていたのだ。写真を見てこの時は田植えの時期か植田だから夏になっていたのかと思い出した。思い出したというより記憶になかったことを再認識したのである。松一本といってもいろいろな松の形があるから言葉だけでは表現できないのだ。この松はこの松だけの個性かもしれない、同じ形の松はないかもしれないからだ。写真で見たらいかにもたくましい松だなと思った。松一本では同じ個性のない松になってしまうからだ。

人間の記憶ほどあいまいなものはない、だから目撃証人はあいまいでありほとんど信用できないのである。かえって監視カメラが忠実に証人となっているのでもわかる。写生というときカメラの方が忠実に写生している。ではカメラだけでたりるかというとカメラは全体の把握には適していない、確かに松と植田は写しているがその平野がどこなのかはわからない、仙台に通じている平野だということがわからない、写真はやはり全体的なことを知ることはむずかしい、一部分を詳細に記憶することには向いているのだ。全体から見るのは人間の方が優れているしその意味づけするのも人間である。

●インタ−ネットは知を解放した


パソコン時代はサイボ−グとか人間とコンピュタ−一体化することが必要になっているのだ。旅しても頭脳に埋め込まれた記憶装置が全部動画でも記憶するのである。その記憶をふりかえりまた創作活動をする。コンピュタ−は人間の能力を補うのである。インタ−ネットでも旅をして北海道の町で「廃船」を見た、そこから記憶をたどり詩を書いた。他人の文を一部拝借した。廃船というキ-ワ-ドでインタ−ネットから新たな世界が構築できる。それだけのものがインタ−ネットのなかにある。私が読んだのはその一部だった。今や創作はコンピュタ−とつながりインタ−ネットとつながり知的共同の構築となっている。インタ−ネットでは今まで読めないものが読める、詩というのは書店に置いても金にもならないし売れないものである。だから膨大なものが埋もれていたのだ。他にも知的世界は無限であり小さな書店などでは読めないものが膨大にあった。その一部を今知るようになったのだ。アマゾンでもインタ−ネットで検索してあれこんな本があったのかと買って読んでいる。西行を知りたければそれに関する本が百冊とかでてくるかもしれない、認知症関係ではすでに百冊もアマゾンで買っている。そのように本を集めることができる。これも知的環境で変わったことなのだ。

そもそもこうしてパソコンでいくらでも文章が書けること自体、それも発表できること自体画期的なことなのである。本にしようとしたらできないものがいくらでも書ける。それが本にならないからつまらないものだとはならない、本にすることは特権がないと権力をもっていなとできない、だから組織をバックにしてしか出せない、出版社自体が組織であり大会社でありその承認を得ない限り書店にも置くことすらできない、自費出版など金にならないから邪魔になると門前払いにしかならないのだ。インタ−ネットで書くこと発表することが弱小の個人に解放されたのである。インタ−ネットは第二のグ−テンベルグであり知の解放の時代なのだ。知は取次、再販制などによりコントロ−ルされていた。新聞の強みは宅配制度にありメデアであったのだ。一軒一軒に情報を運ぶシステムに新聞の強みであったが今やインタ−ネットで新聞は必要ない、紙の無駄な消費に変わってしまったのだ。
ともかく俳句という文学もデジカメにより新たな創造が開けたのである。ただパソコン−インタ−ネットは過渡期であるからそれが何を意味しているのかまだわからないのだ。全部が全部いいとは言えないしそこでかえって個人は消失して百科事典の引用のために書いているのか?ある項目のために書いているのか、何か作者にしては虚しいとなる。得しているのは誰なのか?グ−グルとかの検索会社でありそこでは莫大な利益をあげている。宣伝でもうけている。情報をいくら出しても見返りがないとか結局宣伝されないようでもグ−グルの宣伝に貢献しているとかなってしまう。ただそういう不満があってもやらざるをえないのは今までの出版界というのが知の閉鎖世界であり排除世界だからであった。そこには何ら入り込む余地がゼロなのである。出版社の賞に入りコマ−シャリズムの世界に売り出される他発表する余地すらない世界なのだ。そこでは芸術性はそれほど大事ではない、出版社によって売り出される、宣伝されて価値がでてくるのである。実際は出版社より作者が力を持つべきであり出版社は作者に従うべきものなのだ。インタ−ネットでは作者が自由にいくらでも書けるからそこに新しい知の世界が解放されたのである。


ひらめき参考 
 

子規の鶏頭の句について(デジカメと俳句は相性がいい)
http://www.musubu.jp/hyoronazami.htm

 

ここの薊の句は写生にしても良くなかった。文章は良かったのだが俳句自体は良くなかった。というのは薊は夏の季語であり季語が二つ入っていて俳句になっていなかった。俳句などもあとから自分の作ったものを再読すると自分でもつまらないものとわかることがある。やはり時間がたってより客観的になるからである。自分に対しても客観的評価ができるからだ。写生については俳句作る人はみんな第一に考えるからもう一度まとめて書いておいた方が誤解がないだろう。
インタ−ネットは前に書いたものを簡単に変えたり付け加えることができるが二回読む人は少ないから誤解も生まれる。プログは毎日書いているので情報を出しているので前に書いたものの変更などを書いて読まれるかもしれない−膨大な量になっているので自分さえどこに何を書いたかわからなくなって困っているのだ。


 

2007年11月28日

失われた原生の鹿の声 (蕪村の「三度啼きて聞こえずなりぬ鹿の声 」の意味)


失われた原生の鹿の声

(蕪村の「三度啼きて聞こえずなりぬ鹿の声 」の意味)
 
●鹿に関する短歌
 

湯原王の鳴く鹿の歌一首)
秋萩の散りの乱(まが)ひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遥けさ


さを鹿の来立ち鳴く野の秋萩は露霜負ひて散りにしものを

(舒明天皇の歌)
夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも」


秋萩のうつろふ惜しと鳴く鹿の声聞く山はもみぢしにけり(新勅撰)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
奥山に  紅葉ふみわけ  鳴く鹿の  声きく時ぞ  秋はかなしき」                     
                      猿丸太夫(さるまるだゆう)  古今集


えは(芝松の)迷ふ葛の繁みに妻籠めて砥上原に牡鹿鳴くなり

をじか鳴く小倉の山の裾ちかみただひとりすむ我が心かな                                      西行

夕づくよ小倉の山になく鹿のこゑのうちにや秋はくるらん
                 (紀貫之 古今集)
小倉山みねたちならし鳴く鹿のへにけん秋を知る人ぞなき
                 (紀貫之 古今集)

      
      ようようと鹿は鳴き
食野之苹   野の草をはむ
我有嘉賓   我によき賓(まろうど)あれば
鼓瑟吹笙   瑟を鼓し笙を吹かん


曹操
 
●知床で聞いたエゾシカの声
 
鹿の声の遥けさ−万葉集時代だと鹿は身近な動物でありどこでも見られた、それも奈良の鹿とは違う野生の鹿だから遥か遠くからも鹿の声は聞こえた。今は野生の鹿は見れないし鹿の声を聞くこともなかなかできない、鹿の声を私が実際に聞いたのは真冬の知床だった。雪のなかでエゾシカが群れてかたまりそのときピイ−と鋭い声で鳴いたのだ。
 

知床の雪の斜面(なだり)に踏み入りて鋭く鳴きぬ鹿の声かな

知床の巌をそそりて流氷に鹿啼く声や凍てりけるかも
 
これはエゾシカだから本土にいる鹿とも違っている。「さを鹿の来立ち鳴く野の秋萩は露霜負ひて散りにしものを 」これなども知床のエゾシカと相通じるものがある。霜露が知床では雪になっているのだ。鹿は実際霜露おいて死ぬこともあるし大雪の時は実際にエゾシカもかなりの数死んだ。それが自然の摂理で鹿が減るので植生が維持される、鹿は実際は貪欲であり繁殖力が強いから木を食いつくすとか今や尾瀬にも進出して荒らされると問題になっている。鹿は繁殖力が強いから万葉時代だったら相当な数がいたのだ。原始時代だったら食料にしていたから鹿は極めて身近な動物だったのだ。「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも」鹿が鳴いていたのに今日は鳴かないというのもそれだけ身近に鹿がいたからである。毎日のように鳴いていた鹿が今日は鳴かないというのでいぶかしく思ったのである。西行でも山に住めば鹿が身近であり鹿の声を聞いてこの歌を作った。ただこれは実際に小椋山の近くに住んだかどうかわからない、我が心かなとなるとそういう気持ちになるということだからだ。鹿の鳴く声を聞いて一人住むのがふさわしいとかの意味でありそこに住んだとはかぎらないわけである。
 

●蕪村の三度啼(な)きて聞こえずなりぬ鹿の声の意味
 
江戸時代になってもやはり鹿の声を聞いていた。「三度啼(な)きて聞こえずなりぬ鹿の声 」この句の不思議は時間の悠長な流れと江戸時代の沈黙空間のなかでこそできた句である。「静けさや岩しみ入る蝉の声」になると蝉の声は鹿の声とは違い、一面騒々しい声、鳴き声が満ちて圧倒する。その声のすべてが岩にしみ入ってゆく、ここには時間の流れはなく空間のなかで蝉の声が岩という一点に凝縮されてくる。これも対象的なのである。三度啼くとは三回啼くことにより大自然の沈黙に帰ってゆく、三回啼くことによって十分に大自然の沈黙空間に吸収される、二回でもない、三回ということが味噌なのである。四回だと多いから緩慢になる。三回ということが音楽的にも無駄のない音となっているのだ。三回啼くことにより十分に意はつくされたのだ。三回啼くことにより余韻はさらに深くなる。そこに江戸時代の悠長な時の流れと沈黙と深い闇につつまれた世界の背景があってこの句もできたのである。この簡単な句のなかにやはり岩にしみいる蝉の声と同じ沈黙の空間があってこそこの句もできたし生きるのである。現代の騒音社会では作りえないものが残されたからこそ深い現代にも癒しとなる句となっているのだ。つまり江戸時代の時間と空間と沈黙に帰らない限りなかなか江戸時代の俳句でも鑑賞できないのである。
 
今や時間の流れは百倍になり絶え間ない騒音のなかで自然の音はかきけされる。大自然で営まれる生命へ共感することができないのだ。だから現代の芸術は浅薄になっている。大自然に共鳴できないからそうなっているのだ。この句はだから原生の大自然を自ら意識しないと今や鑑賞できないのである。原生の時間と空間と沈黙のなかで生まれた句だからである。三回啼くということのなかには悠長な時間のなかで聞こえた音でありそれはせわしく追い立てられる音ではない、大自然のなかで発せられた自然のなかで生きるものの真率な声である。それは人間の悲鳴でもない、恨みでもない、嘆きでもない、極自然なる声である。現代から聞こえるのは悲鳴であり雑音になっている。自然の声は野鳥の啼く声でも何でも人間の声とは違い真率なる大自然と調和した声だから魅了されるのである。まさに大自然を舞台に奏でる音楽だからこそそのひびきは深い感動となって残るのである。

 

現代は時間も空間も沈黙も奪われた時代である。だからそれらを自ら作り出す必要がでてくる。旅するにしても旅する時間とか空間がかえって便利になりすぎて奪われたからかえって不便な旅を作り出さねばならない、歩く旅や自転車の旅になるとまさにいかに日本でも広いものかと思い知らされるのだ。文明とは皮肉なことだが自然から離脱してゆくことである。文明が発達すればするほど原生の自然の声は聞こえなくなるのである。雑音とかばかりが大きくなり騒音と喧騒のなかに埋もれてしまう。だから雑音を文明を遮断しないと本来の自然の音を聞くことはできないのである。それで上野霄里氏のように原人間に目覚めたものは文明否定がどうしても過激なものとなりアウトサイダ−化するのが現代なのである。カルト化した宗教団体もまさに文明の雑音化した異様なものとなり世を席巻するのもそのためである。文明とは原生の真率な声を殺すのである
 
雪深き知床の奥鹿歩む足跡残り月影さしぬ
 

「静けさや岩にしみ入る蝉の声」が現代に問いかけるもの(沈黙無き文明の音)
http://musubu.jp/jijimondai35.html#semi

 

2007年12月13日

師走の句(松杉の上野を出れば師走かな)


松杉の上野を出れば師走かな−長谷川馬光

 
上野の地名は江戸時代初期,伊賀上野の大名・藤堂高虎の屋敷があったことに由来する。寛永元(1624)年,江戸城鬼門を守る寛永寺*1が徳川将軍家の菩提寺として建立された。江戸時代は門前町として栄えたが,慶応4(1868)年4月,上野寛永寺は彰義隊の拠点となり,5月15日未明,新政府軍の総攻撃を受ける。これが「上野戦争」である。明治5年,荒廃した上野に日本初の公園*2が作られ,上野の核となった。
上野公園制定 (明治6年)


明治維新後、上野の寛永寺は戊辰戦争で全焼し、荒れ果てていた。東京都の管理下に置かれたが、木を切り倒して茶畑や桑畑にしたり、不忍池を埋めて水田にしようという案があるほどだった。そこで文部省がここに医学校と病院を建てる計画を決めた。ところが、ちょうどその頃、上野を訪れる機会のあったオランダの医師ボードインが、まだ十分に残っていた上野の山の自然を見て、いくら学校や病院のためとはいえ、これだけ見事な自然を損なうのはもったいない、これは将来のためにも公園として残すべきだ。と進言して、すでに始まっていた病院の基礎工事は中止されることになった。
 
この句を理解するのにはまず上野の歴史を知らねばならない、江戸時代の上野は淋しい自然の森だった。今の東京と江戸時代は余りにも景観が違いすぎる。江戸時代の人が今の東京にきたら一体どこに来たのかも見当つかないだろう。どうしたら江戸時代を知り得るのか、当時の景観が浮かび上がってくるのか、その一つに江戸時代に残された俳句があったのだ。「松杉の上野を出れば師走かな」−長谷川馬光」これは松と杉におおわれて人もいない上野の森があったからこそである。上野は今や年中師走である。今はイラン人が一時いたり中国人は今や必ず出会うしアルゼンチンから来ていた夫婦もいた。東京の一割は今や外国人と言う時代になっているのかもしれない、「なまりなつかし上野駅・・・」は明治だった。その後もそれはつづいたし集団就職時代があり大量の東北人が東京に移り住んだし東北の出稼ぎの人たちも上野に着いた。上野は東北人にとっては親しい場所だった。

 
これだけ見事な自然を損なうのはもったいない、これは将来のためにも公園として残すべきだ。と進言して、すでに始まっていた病院の基礎工事は中止されることになった


上野の森も破壊され建物だけになっていたかもしれない、それを止めたのは日本人ではなく外国人だった。外国人の方が自然の大切さを知っていた。公園を街に作っていたからそこから発想した。その時公園というのは日本にはなかった。ここに徳川時代の名残として東照宮があるのも歴史を示している。徳川方の彰義隊がここで最後の奮戦した。上野は今は花見の場所として貴重である。花見のことでは「花の雲・・・」で書いたが上野には自然の森があったのだから寺が集まっていた地域でもあり森もあって景観を作っていたのだ。その森を出るとにぎやかな師走の街にすぐに出たのである。松杉の森の中にいればそこににぎやかな人間の声は聞こえない深い森だったのである。明治神宮の森もそれとにていた。江戸のような街中に自然の森があることは貴重である。今は代々木の明治神宮がその森になっている。

 
京都や大坂、長崎でも幕府による時の鐘は一つだけで、ひとつの都市で複数の鐘を用いて同時に時刻を知らせる例は江戸だけだ。
 
鐘が二つ同時に聞こえることもあった。いかにも栄えた江戸らしいとなり芭蕉の句をさらに深く鑑賞できる。江戸時代の俳句はいかにその背景が大事であり背景を知らないと鑑賞できないのである。

2007年12月28日

草に埋もれた奥州街道 (街道てくてく旅−日光、奥州街道−NHKハイビジョン)

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草に埋もれた奥州街道
(街道てくてく旅−日光、奥州街道−NHKハイビジョン)

 

埋もれたる奥州街道草いきれ
 
テレビで奥州街道をゆくを放映していた。卓球選手の女性が歩くものだった。栃木県の氏家辺りにその道があったのだ。昔の街道がいかに淋しいものだったかこれでわかる。街道というと何か大きな広い道をイメ−ジしてしまうのだ。奥の細道だから道は細いのである。杉並木の道でも暗い道だった。その暗い道を日光までゆくことで東照宮は神秘で豪華なものとして映えた。杉並木の道のかなたに東照宮の荘厳が浮かんでくるのである。このハイビジョンの街道の放送にでていた卓球選手の女性は一句だけいい句を作っていた。それは「初紅葉」の句だった。はるばる日光まで歩いて初紅葉に迎えられたことを俳句にした。若くても一応俳句のセンスがあるから自分の若いときより優れている。私の場合ふりかえっても30頃までいいものがほとんどない、その後もあまりいいものがなかった。つくづく私の場合は60になって開花したともなる。これもやはり旅の蓄積があったからなのだ。その時はいいものを作らなくてもつまり旅をしたということ自体が貴重なことだった。その時間は今やなくなったからだ。この初紅葉の句も電車とか車で行ったならこの句の感慨は薄れる。はるばる歩いて行ったからこそ初紅葉が一際美しいものとして映った。旅人になっていたからである。今や旅人になることはそれだけむずかしいのである。あとの卓球とかは無駄なことだった。ビデオには無駄が多すぎるから情報としては切り捨てねばならない、今や情報の取り入れ方は各自が編集することが必要なのである。
 
埋もれたる奥州街道草いきれ
 
草いきれというときこれは−夏草やつわものどもが夢のあと−に通じるものだった。なぜなら夏草がむんむんと辺りに生い茂っていたのが芭蕉が見たときの奥州街道だった。夏草の道を踏み分けてゆくような道が「奥の細道」だったのである。しつこいほど言っているが昔はこうして途切れた記憶の道を再構築する作業が必要になっているのだ。想像力で現地を踏んでよみがえらせない限り過去は浮かんでこない、これは奥の細道だけではない、過去の戦争体験でもその人の過去は途切れた記憶をつなぎあわせるような作業が必要になっているのだ。
 
白河関跡、堙没(いんぼつ)シテソノ處所ヲ知ラザルコト久シ。旗宿村ノ西ニ叢祠(草木に埋もれた祠)アリ

芭蕉らは鬱蒼とした草木に埋もれた古い明神祠を見ても、そこが白河関の跡であるとは判らなかったようだ。また、曽良の随行日記には追分の明神の記載も見られるが、そこへは立ち寄らず、関山を経て白河城下へと向かっている。

実際は白河の関がどこかは不明になっていたのだ。ここにもかえって現地を旅した時の意外性があった。旅とは常にそうである。想像したものとは違ったものとして現れる。過去もまた今や自分自身すら経験したものとは違ったものとなっているのだ。

生い茂った草に埋もれた途切れた道

草いきれがする道を踏み分ける道

そこに古人の旅する吐息がもれる

遠い記憶のなかの道が脳裏に通じる

歩いて行く古人の姿が見える

そこに出合いがあり別れがある

しかしたちまち現代の喧騒の道にかき消される

それでもその途切れた道を記憶のなかでつなぎあわせると

昔が一連の物語として一本の古木のように根を下ろす

遊行柳はなお昔を語り旅人を迎える


2008年01月02日

俳句短歌から上野の歴史をたどる

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俳句短歌から上野の歴史をたどる


●飛鳥山から上野の花見へ
 
飛鳥山上野と花見江戸の春

時移り花見の舞台上野かな
 
飛鳥山に行くには本郷口、根岸口があると言っていたが、江戸時代には上野の山では鳴り物入りの花見は許されなかった。飛鳥山公園は、八代将軍徳川吉宗の指示で1270本の桜を植え、大岡越前の時代、江戸庶民のためにこの地を花見の地にしたのが始まりといわれる公園御維新前は寛永寺宮様の御領地を支配する御代官田村権左衛門なるもの、山内取締をなし、其使役する者に山同心と唱え、紺の股引、山の字を付けたる半天を着し、赤房を付けたる十手を腰に差し、喧嘩等あれば直ちに取鎮むなり。そのため悪き輩少なく、女子供の遊び場所には適当なり。幕末下級武士の記録  時事通信社」
 
「松杉の上野を出れば師走かな」とあるようにここは代官の所有地であり松杉の森も人工林であり自然の森ではなく所有地であった。上野は管理された森であり花見であったのだ。
ここでは飛鳥山のような規制はなく自由であり飲めや歌いやの花見所だった。飛鳥山は今の十倍くらいの大きさであり江戸の上野とか飛鳥山でも大きな自然のある世界でありビルの谷間になっている小さな自然ではない、そこが江戸時代と今の根本的な相違なのである。
歴史をたどると飛鳥山の方が豪勢な花見があった。その飛鳥山も自然が大きく広がっていた。江戸は回りが広い田野であり農家が身近にあった世界なのだ。上野は明治になってから花見が盛んになった。荒川都電から飛鳥山の満開の桜を見た。これは「花の雲鐘は上野か浅草か−芭蕉」と類似俳句になる。江戸とか京都には名所がいくつもあるからそうなる。ただ東京はあまりにも猥雑になりすぎたのだ。江戸時代は本当に浮世絵のような世界だった。余りにも美が損なわれてしまった。上野にしても何か猥雑すぎる。「松杉の・・」からは余りにもかけ離れているし人間もごちゃごちゃして猥雑になりすぎたのだ。そこに不良外人もたむろしているから人間によって汚されすぎたのだ。
 
豚煮るや上野の嵐さわぐ夜に-正岡子規
 
子規は病気を直すために豚を食ったりした。その頃豚とか牛を食うのはまれだった。肉食は忌避されていた。でも病気だとどうしても直りたいから禁も破るし上野という新しい時代の嵐がさわぐ夜に食べたのである。今でもこうした猥雑さが何でも許されてしまう現代の猥雑さが上野やすべての都市を醜く汚いものにしてしまったのである。
 
●上野は集団就職で故郷を偲ぶ場所に
 
上野不忍池弁天堂に向かって左岸辺に春夫の献詩を付した「扇塚」がある。碑には春夫の筆跡で〈扇塚/あゝ佳き人のおも影は/しのばざらめや不忍池乃保とりに香を焚紀かたみのあふぎ納めつゝ/佐藤春夫〉と彫ってある。初代花柳寿美が45年間 愛用した扇を埋めたもの
 
しのばずの池は人をしのぶ池であり上野は遠くみちのくの故郷の親兄弟を偲ぶ池ともなる。
 

集団就職組今上野でホームレス? 俺も昭和34年に青森から来たその仲間
だけど 考えてみれば安い労働力の使い捨てみたいなものだったからな!
仲間の半数は東京に疲れ青森に帰って行ったけど残りの半数はなんだかんだ
とがんばって今まで生きてきたよ おれは下町で小さなすし屋をせがれに
任せて青森から一緒に集団就職で出てきたかみさんとのんびり隠居ですよ!


臨時列車に乗って旅立つ集団就職列車が有名である。集団就職列車は1954年(昭和29年)に運行開始され、1975年(昭和50年)に運行終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。就職先は東京が多く、中でも上野駅のホームに降りる場合が多かったため、当時よく歌われた井沢八郎の『あゝ上野駅』という歌がその情景を表しているとして有名である

彼等の就職先はほとんどが中小零細企業、いわゆる町工場や商店などで、当然、住込みとなるわけだが、賃金は約3,000円から4,000円。当時の高校卒初任給の平均が11,560円、大卒で17,179円であったことを見ても、いかに安いかがわかる。しかも労働条件は過酷であった。平均労働時間は10時間、休みは月に2回あればいいほうで、ほとんど無いところもあった。住込みであるがゆえに休みが取りにくい状況だったわけだ。

「あゝ上野駅」の伊沢八郎さん亡くなる
http://www.ringohouse.com/dramafiles/03.ueno.html
 
▼ それでも、都会や職場になじめない若者たちが上野駅辺りを徘徊(はいかい)することもよくあった。ここが故郷との接点だったからだ。駅員たちはそんな少年・少女をみかけると、駅長室に連れてきて、激励会を開くなどしたのだという。昭和40年前後の話である。
 
同級生でも一クラスで三分の一くらいが集団就職に行ったのかもしれない、兄もそうだった。労働が過酷で円形脱毛症になったりした。私はその頃すでに大学まで行ったのだから恵まれていた。その差は大きかったのだ。でも大学もマスプロ化して駅弁大学とかどこにでもできて庶民化していたのである。上野は東北人にとってはなつかしい場所になる。上野は芭蕉が上野ではないにしろ隅田川を上り千住からみちのくを目指した場所としても記録される。奥の細道への旅路の基点として上野があったのである。上野と東北はその時から結びついていたのだ。
 
●遠くなってしまった上野−東京
 
上野出て枯野に夕陽みちのくへ

故郷へ帰れざるかな啄木の悲しや上野に年の暮れなむ

東京は遠くなりぬるみちのくに奥津城のあり冬の暮かな
 
啄木から上野と東北はむすびついていた。ただ今や上野も東京も遠くなった。実際は今の感覚だと常磐線で3時間半だから遠いとはいえない、でもその3時間半がスビ−ド時代には遠いのである。東北線は新幹線で2時間だからだ。つまり今は遠いと言っても隣の市に行くように近いのである。遠さの感覚のない時代に生きている。遠く感じるようになったのは私自身の私的な事情、家族の介護のために離れられなくなったから遠くなってしまったのだ。一日も離れられないという事情がありああもう上野にも東京にも京都にも行けないのかと真剣に思ったからだ。還暦という年もありこののま行けずに死んでゆるのかとさえ思ったのである。だから東京も京都もはるかに遠い二度と行けない世界のように思った。だから奥津城というとまさに東京も京都もはるかに遠くみちのくの枯野の奥津城に納まってしまう自分をリアルに想像したのである。
 
電車で上野を離れるとたちまち常陸ではあるが陸奥へと枯野が広がり夕日が映える、上野の東京の喧騒は消えて枯野の夕日が映える。たちまちに千万都市の喧騒は嘘のように消えてしまう。本当に今や夢見たような世界である。「草の戸も住み替る代ぞ雛の家 」芭蕉も華やかに住む人も変わってしまった。これが変わらぬ世の実相である。草の戸は別に老人が住んでいる場所が若い人に変わる、若い人がすでに主役となり老人となった団塊の世代もただ昔を回顧するだけになってしまう。時の移りは常に無常でありそれが団塊の世代にもそういう無常を感じる時代になった。時代は急速に流れてゆく、激流となり一時代がまたすぎてゆく。戦争時代もそうであり団塊の世代もまた一時代を築き過去となり歴史となってゆく、それがこの世である。何物も変わらぬものはなくかつて栄しものは見る影もない、それを押しとどめることはできないのがこの世の定めである。
 

2008年01月09日

山頭火の旅(乞い歩き水と食と宿を求める旅)

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山頭火の旅(乞い歩き水と食と宿を求める旅)

山頭火ほど旅した人はいない、20年間くらい歩きつづけていた。半生は歩きつづけていた。野宿の旅でもあった。今でも野宿の旅だったら辛い、テントなどないから洞窟みたいなところで寝ていたのである。今は自転車でもバイクでもテントをもっているから雨露をしのげる。寒さもしのげる。今は金がなくて旅している人はほとんどいない、だから食料に事かくことはない、乞食もいない、まず食料を手に入れるために乞い歩くことが仕事になる。だから水を求め食料を求める旅だった。あまり宿を求める旅ではなかった。ただ宿に泊まれないで野宿することが多かったからだ。そういうことは何度も経験している。私自身の旅は安宿を探し求める旅だった。長い旅になるとどうしても安い宿が必要だった。だから安い宿を求めて駅から街の中を探し歩いた。でも日本では安い宿はない、千円くらい安いということで満足するほかなかった。
 
安宿や凍てる雪踏み路地の裏


秋田辺りで安宿を見つけたときはうれしかった。3千円だと日本では相当安いから助かる。そしてこの安宿を求めて外国までも旅がつづくとは思っていなかった。やはり旅は宿代によって安く旅行できるかできないか決まるからだ。だから外国ではユ−スホステルとかに泊まった。ここは別に若い人だけが泊まるのではない、年配の人も普通に泊まっているのだ。ヨ−ロッパには安宿が多いし旅しやすいようにできていた。そしてパリの東駅から落葉した運河を歩き安宿らしい所に泊まろうとしたら一杯で泊まれず断られた。そこは下宿みたいだから泊まるところではなかった。外国の宿探しは辛い、若いのは百円でも安いところを夜遅くまで探しているが50才にもなったらこうしたことはするべきではない、そもそもできないのだ。だから外国の旅はうまくいかなかった。失敗が多すぎたのだ。それにしても私は30年も旅していたのだから今更ながら死んでも旅をつづけ安宿を探ししている自分をリアリティあるものとしてイメ−ジした。
 
人間の一生は死後もその人の一生の延長ではないか?一生を旅に明け暮れた人はやはり死後も旅をつづけているのだ。現実に西行であれ芭蕉であれ山頭火も死んでもやはり旅している、その人を回想するとき旅しつづける人として見ている。今生きている人はその旅した人の跡をたどり旅しているのだ。西行と芭蕉などはやはり時代的に旅の困難な時代にしているからその意味は大きく深い。山頭火はやはり本当に自由に歩いた最後の旅人だった。ただその頃木賃宿とか安く泊まれる所があったからそれなりに自由な旅ができたともいえる。現代の方が歩くような長い旅をすることはかえってむずかしくなっている。安宿がないということが致命的なのである。
 

泊めてくれない村のしぐれ歩く

暮れても宿がない百舌鳥が啼く

泊まるところがないどかりと暮れた

ついてくる犬よおまへも宿なしか


我が死すも旅はつづかむ安宿を外国までも探し歩るきぬ

山頭火の俳句についてはこれが俳句なのか?季語も何もないし俳句として自分は鑑賞できない、ただ旅したものとして共感はしているが俳句は鑑賞できないのだ。西行とか芭蕉は最初から感受性豊かな詩人だった。啄木もそうである。しかし山頭火にはそうした詩の教養が感じられないのだ。それは反面破天荒なあまりにも行動的なるが故に詩人と見れないのである。むしろ冒険者のように見えてしまう。冒険者は詩を残さなくても前人未到の世界を切り開くことに価値がある。一方詩人は冒険者と創作者という二つの側面をもっている。詩人も冒険者にならなければ大きな詩は書けない、、自分自身がそれなりに英雄的な経験をしないと英雄の詩は書けない、上野霄里氏などは冒険者の側面が大きいから山頭火にひかれる。芭蕉とかはあまりひかれないのもわかる。本人が冒険者であり冒険者の行動者の価値を高いものとしているからである。
 

ゆふ空から柚子の一つをもらふ
この句は非常に不思議である。柚子をゆう空からもらうというのはどこにあった柚子なのか、誰の家のものともわからぬ柚子だったのか?そういうものが確かにある。一つくらい失敬する。それをゆう空としたのが面白いし自由な旅人であったことを彷彿とさせる。つまり旅人はもはや乞い歩くのではない、人に食べ物を銭をもらうのではない、ゆう空から食べ物をもらう、果物をもらうのである。神から食べ物をもらい旅をするのである。誰も自由な旅人は無料で寝れるところ、食べ物があるところを夢想する。自由な旅人はゆう空から食べ物をもらうのが理想でありいちいち一軒一軒回って食べ物をもらうことは疲れる、本筋は旅することであり食べ物を乞うことではなくなることが理想なのである。山頭火は絶えず水を求め、食べ物を求め旅していたのだから余計に無料で手に入る食べ物を夢想するようになった。

物乞ふ家もなくなり山には雲
物乞う家もなくなる。いや物乞うことも嫌になった。物乞うことも忘れてその時山の雲になってしまう。青い青い山に分け入り俗世を忘れる。歩き歩き歩き尽くして遂には雲となり青い山と同化してゆく。それほど歩きつづけたのである。
 
濁れる水の流れつつ澄む
歩き歩いて濁った水も澄み心も澄んでいった。反面絶えず水を食料を宿を求める旅でもあった。西行や芭蕉は何を食ったかなどほとんど書いていない、文学に昇華している。それだけにつてがあり食うことには困る旅ではなかったとも言える。
 
旅ごろも吹きまくる風にまかす
山頭火の足元から砂ぼこりがたち風が吹き出す、それは突風であり常に風雲の旅であり宿のない水と食べ物を求める旅だったのである。だからまた絶えず死を意識する旅でもあった。野垂れ死にを意識する旅だった。そこに旅の真剣さがあった。今は旅でも二十三重に保証されているから旅で死ぬことはない、要するに金さえあれば新幹線で飛行機で外国からも帰れるからである。遍路でも命懸けの旅をしている人はいない、物見遊山的な観光コ−スなのだ。野垂れ死にするようなことはないのである。

しかし現代の旅を考えるときフリ−タ−とか若いときから外国の安宿に一年とかたむろしてぶらぶらしているのがトレンドであり青春でもある。そういう人たちはその後もそうした世界放浪をしている人がかなりの数になる。そういう人が現実にいた、30才以上になっているからそういう人は日本に帰ったとしてもまともな職につくことはできない、一生世界放浪者になるのだろうか?そういう若者が相当数いるのだ。そういう若者は長い世界旅をしたくてフリ−タ−になっているのだ。数にしても何十万人とかなるかもしれない、それだけの人が世界放浪者となってしまうのかという時代なのである。日本だけではない世界放浪者になっているのが現代なのである。その先駆けとして世界放浪の旅案内を売り物にするものもいたが今の若者には世界放浪することは日本を旅するとたいして変わらないのである。その時特別なことで人にできないことをすればそれは注目をあびて仕事にもなる。しかしそれが当たり前になったとき誰も注目しない、アフリカに行ったの、オレも行ってきたよくらいで終わってしまうのである。冒険者は誰もその時代でまねできないことをするから冒険者なのであり一旦みんなやれるものとなれば冒険にはならないのである。山頭火の旅は現代の車の時代に歩いて旅したということに驚異を感じているのだ。それも命懸けで歩いたということに注目して感嘆するのである。

一日の食を水を宿を求め

炎天下乞い歩く

宿なければ洞にもぐり寝る

ホトトギス鳴いて

明日はまたかの山越えむ

山深くいづべの村や

乞う家をもなしも

山頭火雲となるらむ

風となるらむ

山のかなたへかなたへ

ゆう空より柚子をもらい

ひたすらに歩み

宿無しや洞よりまたいで

旅路の果ても知らじも

一日の食を水を宿を求め

なおその戸口に乞い立っている
 

2008年03月15日

「とけて寝ぬ 寝ざめ寂しき 冬の夜に むすぼほれつる 夢の短かさ」の意味

源氏物語歌集 319
巻二十 朝顔 12 源氏

 

    とけて寝ぬ 寝ざめ寂しき 冬の夜に
    むすぼほれつる 夢の短かさ


むすぼほれつつ―「むすぼほれ」は「(水分が)凝固する」「(心が)鬱屈する」などの意の下二段動詞連用形。夜床で涙を流し、朝までにそれが凍りつく――という状況が継続している、ということ。


溶けて(溶けて−解けて)は寝ているとむずかしい難問が解けたとかの話を聞く、いろいろな複雑な問題でも晩年には自然と解けてゆくことがある。ここでむずかしいのが・・・むすぶ−結ぶ−ほれつる・・・である。水が氷となって結ぶということだが涙が凍りつくというのも本当にそういう切ない悲しみが凝固して氷となるという深刻な表現なのか?源氏物語は宮廷内のことで庶民の喜怒哀楽とは離れているからわかりにくいしみんな読める人はいない、ただインタ−ネットでは誰か紹介しているものを読むことが多くなるのだ。この歌になぜ注目したかというと
 
介護して老いのあわれや冬の虹

夢に見し結ぶ心や冬の虹
 
http://musubu.sblo.jp/article/6902874.html (冬の虹)
 
私が作った冬の虹と意味が通じ合うのではないかと一瞬思った。晩年、老年は本当に心が結び合うことがあるのではないか?同じ病室の妻を介護するため毎日来ている。食事の世話もするし車椅子にものせるしこまやかに介護している。はたから見たらうらやましくなるだろう。家族でも介護にまれにしか来ない人は自分でも向かいの人からうらやましがられた。結ぶは心が結び合うものとは違う、別なものだがこの歌を解釈すると多少イメ−ジ的には似ている。短い夢であったが冬の虹が一瞬たってはかなく消えた。
 
 虹を見ゆ 寝ざめ寂しき 冬の夜に むすびて消えぬ 夢の短かさ
 
私の冬の虹の俳句を歌にすればこうなるのかもしれない、これだと意味は違うがやはりにている面はある。夢の短さは共通している。この世の契りも短い夢だったかもしれないからだ。インタ−ネットは一句−一首を通じてその人なりの読みを深めるのに向いているのだ。ある人がなぜある句に歌に興味をもつのか、それはその人の人生体験からそうなるのだ。老人になると特に様々な経験をするから読みが深くなるのである。様々な別離、死別も経験するから読みも深くなるのである。

2008年05月14日

蕪村の句二つ(米ふむ音や藤の花、門を出れば秋のくれ)解釈


蕪村の句二つ(米ふむ音や藤の花、門を出れば秋のくれ)解釈

 
山もとに 米ふむ音や 藤の花  蕪村
 
蕪村の不思議は必ず生活者をそこに読んでいる不思議である。単なる風流ではない、生活を離れた詩人ではない、実際に農民として生活したような俳句を作っているからだ。蕪村という名もあられた村というから不思議である。山もとは(山元、山下、山本・・)とかなり日本人の生活の根拠になった所であるからこれもきいている。質実な農民の生活の場がここで表現されているのだ。
 
江戸の俳人・与謝(谷口)蕪村は、当時、カブの産地として、有名であった大阪・天王寺に住んでいたので、俳号を蕪にちなんで蕪村としたそうです。当然、カブをよく食べたことでしょう。もしかしたら、自分自身でカブを栽培していたかも知れませんね。
 

この号は後に『宇都宮歳旦帖』で「蕪村」と改められた。これには諸説あるが、彼が歳旦帖を編纂した寛保4年の前年、彼はほぼ1年を掛けて福島、山形、秋 田、青森、岩手、宮城と文字通り奥州を遍歴した。そこで彼が目にしたのは、冷害、飢饉などで疲弊した多くの農村であったと思われる。その印象が余りにも 強かったため、彼は初めての歳旦帖を編纂するに当たって、俳号を「蕪村」つまり荒れ果てた(荒蕪の)村と代えることに決心させたのであろうと思われ
http://groups.google.co.jp/group/haikai/msg/8ed7c3f191acccc7

 
蕪村とカブは関係ない、荒れた村の名前をつけたことに何か蕪村という人をしる手がかりになる。蕪村は風流な名前ではない、飢饉という現実の悲惨さを基にしているとなると蕪村の俳句に常に外からだけ風流としてながめているのではない、農民の生活と一体となるような農民が作ったような俳句になっているのもそのためである。ただ一方で華やかなもの、遊女とも交わったり画家でもありまるで違った側面もあるので謎が多いのである。
 
天台宗妙法寺。与謝蕪村が長く滞在し、多くの名画を残したことで別名「蕪村寺」とも言う。
 
門を出れば我も行人秋のくれ
 

蕪村が妙法寺を去る時に詠んだ句だろうか
http://blog.busondera.com/?cid=5803

 
古りにしや京の御寺の門の前我たたずみし春の夕暮
 
門を出れば我も行人秋のくれ
 
門をテ−マにすると門の前にたたずむのと門をでるという対象がここにあった。私の仁和寺だったがここは妙法寺だった。ここも歴史のある古い寺だった。ここに歌と俳句の共通性がある。俳句とか短歌は共通なもの、類想したものがあると同じことを思って作っていた人がいたと感じて共感する。、だから俳句は連句からはじまったというのがわかる。門をでた時その寺の歴史とかを心に残り描く余韻がある。門の前にたたずむときはこの寺に入る知らない世界に入ってゆく心の高鳴りがある。門をでるときは学校の門を出て卒業するとかの気分である。門を入ると出るでは相当違った感覚なになる。門前にあるということもまた違っている。私の場合は門を出て門前にあった。それは春だった。門を出るというとき秋がふさわしかったのである。門を通じてその寺とまたは門の中にあるものと一体となる、門にはそういう哲学的な意味をもっている。ロ−マの凱旋門でもその門を入る出てゆくでは違った感覚になる。門は一つの境界でありそこで心が変わる。門弟とか門人とか一門というのも門を入り共同の世界に住むということがある。しかし門を出れば門人だけではない、他者の人ともまじわる秋のくれとなる。門の中だけではない、街に出て広く交わる秋のくれである。門の中と外では相当感覚的に違ってくるのである。
 
一柱門を 出れば すぐ 目を剥く 娑婆世界の 惡鬼を 追い出す 四天王門が お寺を 守ります。
 
門は中に入るものを拒む世界でもある。入門することは誰でもできるものではない、覚悟があるものを入門させる、門を入ることは覚悟が必要である。「狭き門より入れ」である。誰でも容易に入れるような所はすでに汚れた場所なのである。現代は余りにも容易に聖なる世界に入れすぎたのである。どこもかしこも観光になっている。宗教はカルトになり相手かまわず勢力拡大に入れるだけなのだ。門は広き門になりすぎたのだ。娑婆世界の悪鬼を所かまわず入れているから現代の宗教界は悪鬼の巣となっている異常である。
 
これはインタ−ネットでペ−ジをめくるようにして拾い読みして文章を書いた。こんなことは本ではできない、キ-ワ-ドで調べていて自然とそうなったのである。インタ−ネットを読むことはその人によって常に編集して読むことになる。編集することは創造なのである。本作りで編集者の仕事が作家と同じように重要視されているのはそのためである。作家と共同で編集者は本作りにたずさわっていた。インタ−ネットも編集するときそこに新たな創造的なものが生まれている。膨大な部分が結ばれて一つの新たな創造的作品となる。インタ−ネットは新たな知的な創造を作り出すものである。本の世界は特権のあるものしか関与できなかった。インタ−ネットは万人に開ける知の世界を提供したのである。インタ−ネットを読むことは編集能力が必要となるとこれは高度な作業だからかえって深く背後まで読める人でないと編集できない、だから若い人は部分の知識に埋もれて新しい創造をすることがむずかしい、断片の知識に埋もれてしまうのである。その最たるものが2ちゃんねるとかの情報世界である。そこに何が起こっているか断片的にしかわからないのだ。全体的に何が起こっているのか把握することがむずかしいのである。だからインタ−ネットの世界は誰かが編集して全体的に何が起こっているのか何が重要なのか知らせる人が必要なのである。


 

2008年05月29日

九州の旅から−@遠の朝廷−春の都府楼(太宰府)跡(評論と鑑賞)

 

九州の旅から−@遠の朝廷−春の都府楼(太宰府)跡(評論と鑑賞)
http://musubu.jp/hyorondasaifu.html#tofu

 
九州は二回くらいしか行っていない、やっぱり東北からは遠い、北海道は近いのだ。博多は中国であれ韓国であれヨ−ロッパであれ文化の窓口だった。あとから回想して創作したのがかえっていいのができている。一連のものとして作ることができる。プログはホ−ムペ−ジのように一つのまとまりあるものとして作りにくい、その時その時の即興的なものに向いているのだ。作品の断片として作りやすいがそれをまとめたものとなるとホ−ムペ−ジでないとできない、都府楼跡(太宰府跡)で印象に残ったのは礎石である。大きな礎石だけが点々と残っていた。その礎石を踏みつつ春の日に遠の朝廷を思い詩作した。遠い記憶なのだがそこにいた時間を思い出しつつ想像−創造している、創作は想像であり創造である。インタ−ネットでは自分の記憶だけではない、他の人の作品と自然と融合してしまう不思議がある。キ-ワ-ドで調べる内に自然とそうなってしまうのである。
 
遠江 白羽の磯と 贄の浦とあいてしあれば 言も通わね 万葉集巻20-432
 
この歌は別に太宰府とは関係ないものだったのだが面白い歌だなと他のサイトで引用していたので興味をもった。これは何か子供的発想なのだけどつくづく交通が発達していなければこう思うのが人間である。交通が発達した今のような時代ならそれほど地理的に離れていてもこうはならない、博多には韓国から船で帰りさらに船で東京まできたことがあった。これも遠大な旅だった。船はほとんど乗った。ただ那覇から博多までの航路がありこれには乗っていなかった。何でも全部乗ることはむずかしい。電車にしてもそうである。これもほとんど乗ったのだが乗りえないものは残っているのだ。それと記憶から消えてしまったのも多い、汽車の旅も忘れやすいのである。

2008年06月02日

「一つ屋に 遊女も寝たり 萩と月 芭蕉」−病院に宿泊した体験からの解釈

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「一つ屋に 遊女も寝たり 萩と月 芭蕉」−病院に宿泊した体験からの解釈


一つ屋に 遊女も寝たり 萩と月 芭蕉
 
芭蕉のこの句はあまりにも有名である。俳句とか文学作品の解釈は鑑賞は時代によっても違ってくる。人によっても違ってくる。病院に泊まってこの句の解釈をこんなふうに変えてみた。
 
一つ屋に患者といねし五月闇
 
病院は宿ではない、その病院も隣の街だし7キロくらいしかない、極めて近いのにそこが旅の宿と同じように感じた不思議がある。二日も病院に泊まった経験はなかった。その病院も隣の街だった。その街が隣でもつくづく異境であり故郷ではなかった。合併で同じ市になってもそこは隣でも故郷ではない、異境の街だった。今どき外国ならわかるがなぜそこが異境の街と感じたのか不思議である。これは「南相馬市原町の病院に泊まり短歌二十首(無常は人間の定め)」で書いた。病院は死と隣り合わせの場所であり己が生と別れを告げる、また生きている人とも別れる場所でもある。同じ病院にいる、病室にいてもここでは同病あわれむとかなり連帯感が生まれるのだ。それは介護している家族同志でもそうである。たがいにいたわることが自然なのである。そこには偽善的なものはない、かえって貧乏人は貧乏をしっているから貧乏人をあわれむ。インドでも乞食に恵むのは貧乏人だということがあり金持ちは冷たいとなる。実際に特殊な病気、ハンセンシ病とか精神の病とか認知症でも協力しあうのはその家族同志であり他のものはかえって差別、偏見であり冷たいのである。
 
この句が病人とか差別された人と関係あるわけではないが遊女もまた特殊な人であり差別されやすい女である。偏見をもたれ人並みにはあつかわれない、それで病人、患者とにたところがあったのだ。一つ屋→病院であり遊女→患者、病人としても違和感がない、そんな解釈もできるのだ。奇妙な組み合わせかもしれないがそれが違和感がないことはやはり人間として共通のものを感じるからである。江戸時代には病院はない、明治以降病院はみじかなものである。誰も病院に入院を経験しない人はいないくらいである。また看護とか介護とかで病院にかかわり高齢化社会で病院はすべての人にとって身近なものとなっている。病院が老人の社交場になって困ったというのも高齢化の問題だった。病院というのが旅の宿にもなりうるという不思議を書いた。それも家から7キロくらいしか離れていなくてもそうなりうる不思議を短歌で書いた。
 

馬の口とらえて老をむかふる物は日〃旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり

日々が旅であり旅をすみかとする、人に常住の世界はない、無常の変転があるのみである。だからこそ病院も旅のすみかとなりうる。実際に病院で死ねばまさにこの世からあの世へ黄泉へ旅立ち帰らぬ人となるのだ。病院も無常極まりないこの世の旅路の宿だった。一夜の宿だった。ただ病院は地元であれば様々な因縁深い場所だから違っていた。でもそれでもそこは異境であり異境に死すという感覚になる不思議があった。街の灯を二日病院より見てつくづく思ったのである。五月闇というと病人も患者もそれぞれ深い闇もかかえている。その闇を共有しているのが病院である。外に街の灯が雨にしみて写り病人は闇のなかに沈んでいる。今は老人が多いから昔のことを延々と回想している。この世は終わりあの世へ旅立つのが病院になりやすい、旅に死すというとき病院が旅路の最後のすみか、場所になりやすいのである。人間はその長年住んだ場所すら異境となりうる。旅の宿なりうる。なぜなら時間とともに回りの環境も変わり人も変わるからだ。この辺は住宅地の改造で全く昔の面影もなくなった。誰か昔を知る人がたずねてきてももはやわからないのだ。この世が無常というとき同じ場所にいようが無常を感じる。そしてそこは旅の宿ともなる。人はこの世に永遠にいることがないこと自体、無常の世界なのだ。人間は日々旅をすみかとするというとき別に芭蕉のように旅している人だけではない、人生そのものが旅なのである。いづれは死ぬとすると別れるとすると家すら一夜の宿にもなる。別れてしまいばあの世に旅たてばもうあうこともないから旅の宿だったとなる。そして永遠につづく家というのもない、家自体がなくなっていたり人も変わり帰る場所でなくなっている。老人が施設であれ病院であれ帰宅願望が強いが実際は過去の若いときの元気なときの自分に帰りたいということでありその元気な時の自分や家はもうないから帰るところなどなくなっているのだ。
 
草の戸も住み変わるよぞ雛の家
 
まさに人は絶えず住み変わる世でありそこに老人は帰る場所でなくなっている。雛の家とは代が変わった若い人の家になったということである。老人はそこに居場所がなくなっている。そういう人生の変転、無常がこの世でありこれは老人になるとみんな痛切に感じることなのだ。芭蕉の句にはそうした時間の経過の中で無常を句にしてしいるのが多いのだ。「夏草や兵ども夢のあと」でもそうであり「五月雨のふりのこしてや光堂」」でも時間の経過の中で時間の無常の中で残っている光堂を句にしている。つまりこの世にいかなる栄華も栄いも常住なものはない、一時栄えていてもそれは一時の栄華であり消えてしまう。これは庶民でも同じである。近くに材木屋で社長をしていた人も鉄工所を経営して議員になった人も零落したりとこういうことは普通のことである。無常こそ普通であり変わらないものはこの世にはないのである。無常を感じることは当たり前のことであり無常こそ人間の常になる現実なのである。永遠に若い日はつづかないし老いること自体が無常なのである。
 
病雁の夜寒に落ちて旅寝かな

病雁は病人であり芭蕉は本当に病気になり寝込んだ。ここでは旅寝が長くなれば外の景色が詠まれることになった。病気でもまだ軽いからこうした句になったが長く寝込んで病院にでも入院したら外の景色が詠まれ心に刻まれるたのである。現代の旅は早すぎるからその土地の風物がここに刻まれることが少ないのである。芭蕉のころは風景が心に残る、刻まれる時間があった。今回私が隣の街が印象深く思えたのは半年近く病院に通ったせいなのである。印象に残る時間がそこに生まれたのである。ただこれまでも買い物などにも行ってたのだか病院から街が別なものとしてより身近なものとして見えたのである。私自身は病気でないにしろ末期の眼から見る景色は見慣れたものでも今までとは違ったものとして写ってくる。もし誰だって最後に見る光景はどんな平凡なものでも印象深くならざるをえない、なぜならそれが最後の見納めだからである。
 
時鳥夜にも鳴きぬ明日も旅
 
明日もやっぱり旅なのである。一日一日が人間は旅なのである。出合い別れ発見の旅である。病院も旅の宿でありいづこも異境であり旅には死ぬまで終わりがないのである。
 

●補足
 
「故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものはかなりの力を貯えたものである。だが全世界を異境と思う者こそ、完璧な人間である。」(サイ−ド−オリエタリズムの一節」
 

2008年10月28日

秋にふさわしい詩(鉛筆が語る昔)


秋にふさわしい詩(鉛筆が語る昔)

 

タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明日はもう秋だ


ー西脇順三郎「秋」U、詩集『近代の寓話』(1953)所収。


この鉛筆はドイツ製だという、鉛筆も昔はいいのは輸入ものだった。昔から勉強はノ−トに鉛筆を削り書いていた。鉛筆をナイフで削ることが子供の頃いつもしていたのだ。鉛筆も結構高価でありノ−ト(帳面)も高価である。帳面という言葉は死語になった。親戚の叔父は鉛筆が最小限に短くなるまで使っていた話をした。もう指でつかむことができないくらいまで鉛筆を使っていた。ノ−トも隙間なくびっしりと書いていた。それほど鉛筆もノ−トも貴重だったのだ。鉛筆をナイフで削ることは手を器用にしたりする効用があった。鉛筆削りという機械もでてきたが鉛筆をナイフで良く削っていた。
 
学校で学べない貧乏の無念 
 

叔父は優秀だったらしい
鉛筆を手にもてなくなるほど使い
帳面にも隙間なく文章で埋めた
貧乏で学校で学ぶことができなかった
女学校に入りたかった姉もしきり言っていた
父は酒屋の丁稚奉公でどうして字を覚えたのか不思議だ
通帳にも筆で書きよく筆を使っていた
明治生れの人で最後にさしみ食えるのにさしみ食えない
病気で食欲がないから食えないと言って死んでいった
その後も貧乏な時代は続いていた
金の卵で中卒で集団就職した同教生も多数
中卒が当たり前の時代から大学出が当たり前の時代
留学すらそれほどめずらしくない時代
私は三流大学でも大学出たんだから恵まれていた
父は上の学校にあげろよと遺言して死んだ
上の学校で学ぶこと自体が貧乏な時代は容易でなかった
明治時代から上の学校で学ぶことが日本人の願望だった
それは立身出世やら偉くなるということに通じていた
大学など出ることは最高のエリ−トの時代があった
字が読めない明治生まれの祖母が墓に埋まっている
ハガキなど書けないので人に頼んでいた
字を書いたり読めることがすべての人にできない時代があった
なんだか昔の人を今想うと悲しくなる
母方の墓には20代で結核で死んだ人が埋まっている
人間は望みをかなえられず死んだ人が多い
貧乏の犠牲となって死んだ人が多いのが歴史だ
叔父の写真は飾っている場所がない
実家が喪失してしまったから跡継ぎもいないから
墓だけは残っているのもあわれ
その一生は貧乏であり何ら残すべきものもなかった
そういう人が昔は多かった−無念がそこにあった

 
西脇順三郎の詩にはこうした貧乏の記憶はない、むしろ鉛筆というのが知的刺激を与えるマジック的なものとして詩にしている。バラモンはカ−ストの一番上の知識階級である。下々のことは念頭にないのだ。これは鉛筆を削り鉛筆で書くことにより知的な生活が道具とともにあった時代を詩にしている。田舎的ではない、極めて都会的なのだ。賢治の詩に通じる所がある。賢治は田舎的なものと都会的なものが同居していた希有なる天才だった。あれだけの知的宇宙を作り出したことに驚嘆するのだ。それも東北という岩手県で孤立していてできたのだから不思議だとなる。今とは相当環境も違う、海外旅行とか留学すら一般化した時代とは違うのだ。知的作業は前は筆で書いていたし鉛筆で書いていたときでも鉛筆を削ったりしているのなかで知的なものが育まれた。これは万年筆などにも言える。それは今や郷愁となっているのだ。バソコン時代になったらこうしたものから電子文字を読むようになったから郷愁の世界となってしまった。パソコンの文字はみんな同じだから個性がない、書くことはやはり文字にも個性を記すことだった。それが筆なら特別そうだし鉛筆でも万年筆でもそうである。書体はその人の個性を示すものだから外国ではサインが判子の代わりになっているのだ。今でも遺言書などは自筆で書かねばならない、実際死んで残した姉のノ−トの「私の一生」というのは遺言のようになっていた。字がうまい人だったから記念として残されるものとなった。これがパソコンで書いて印刷した電子文字だったら味気ないものとなっていたし証拠とならないことが問題になる。その人の書体がないからだ。ただパソコンは気楽に文章が書けるのでこんなに書いてきたのである。これだけのものを原稿に鉛筆であれ万年筆であれ書いていたらとても書けない、書くことは相当な労力なのである。私はあまりにも悪筆だから自分の書いたものを残したくないこともある。うまい字を書ける人も少ないことがありこれも問題なのである。インタ−ネットで書くとき便利なのはすぐに引用できることなのだ。この詩すら知ってはいたが良く読んでいなかったが紹介する人があるとこういう詩とか俳句とか短歌あったなとその一つのものを深く鑑賞することになる。普通なら本を読んでそうなるのだがプログなどで誰かが紹介したものを読むのがインタ−ネットなのである。その方が新しい発見があるのだ。こういう読み方自体今まではありえなかったのである。一つの詩とか一句一首を読むことが多いのである。この詩は高級な知的なものを刺激するものとしての鉛筆だがその底辺には貧乏な時代の知識を獲得できない、学校で学ぶこともできない人々がいた。そういうことをふりかえることも必要なのだ。この詩はとにかく秋にふさわしい詩だった。
 

2008年12月29日

大いなる山-現代の一者、覚者の声(上野霄里氏の部)


大いなる山-現代の一者、覚者の声
http://www.musubu.jp/jijimondaiueno.htm#oneman (上野霄里氏の部)


ホ-ムペ-ジでは相当な量を書いてきた。上野霄里氏という人物は現代の本物の天才だから理解することがむずかしい。こういう人はその時代だけで理解できない、存在が大きすぎるからだ。能才はコマ-シャリズムにのって時代の脚光をあびる、「バカの壁」とか消耗品として何百万売れたとかなる。でもすぐに忘れ去られるのだ。本物の天才は次の時代さらに次の時代へと大きな光芒を放つ、今の時代だけで理解することができないのである。そしてその時代を適格に批判できたのは一人の一者たる覚者だとなる。指標とすべきはこの一者たる覚者なのである。それは社会からは認められない、轟々たる批判しかないのだ。上野霄里氏からは若いとき熱いメッセ-ジを送ってもらった。ただそれをその時一部しか理解できなかった。上野氏の言葉は簡単に理解できない、相当時間がかかるし一時代でも理解されないものなのだ。今その熱いメッセ-ジを解読しようとしているが手紙の字は読みにくい、全然読んでいないものもあった。郷土史の戦争の資料になるようなものもあった。これらも読んでいなかったし埋もれていた。本に書いたものと手紙の文を解読すればさらに理解が深まるかもしれない、ただ著作権の問題があるので利用することは今のところはむずかしいかもしれないがその熱いメッセ-ジは今またよみがえって詩を書いたのである。60になってやっと理解するということもあるものだと思った。凡才で時間をかければ理解できるものがあるのだ。上野霄里氏の部に書いたのは2008年1月以来だった。ここ三年間は介護に追われ余裕がなかった。余裕ができればまた書き続けることができるだろう。インタ-ネットならいくらでも書けるのが強みである。ただこれもどれだけ読まれているか反応がないことが問題であった。対話しろというときインタ-ネットでは対話する相手がつかめないのが問題なのである。

 
裸の楽園の島(NHK-トビウオ街道を行く・・・・)
 http://www.musubu.jp/jijimondaiueno.htm#paladise
 
これも連続しているものとして上野霄里氏の部にコピ-しました。

2009年01月31日

インタ-ネットに出た詩の不思議(天狼星(シリウス星)は上野霄里氏のイメ-ジと合致?)


 

シリウス星
http://pub.ne.jp/20071203MOTOTO/?cat_id=58126&page=2

 
インタ-ネットの不思議は今までにないものがでていることだ。詩の分野は限られている。発表する場も限られているしだからいい詩を書いても知られることがない、ただコマ-シャリズムにのったものだけしか書店には置かない、出版そのものが金にならないものは相手にしない、詩はマイナ-ものだから余計にそうである。現実詩人というと今誰を思い浮かべるかというと谷川俊太郎くらいしかいないだろう。コマ-シャリズムにのらない限り出版されない、小説でも出版社が宣伝するからこそ知られるのでありその人とか作品はあまり問題ではない。インタ-ネット時代になったら無数に表現されるようになった。インタ-ネットだと制限なく自分を表現できることが最大の魅力なのだ。本にして出版とかなると普通の人はできないしできてもかなり制限される。インタ-ネットはだから詩とかちょっとした小説とか何でもその人なりのものを簡単に出せる。だからつまらないものが多いから読むに値しないともなる。膨大なゴミが混じるからその中からいいものにあたるのは至難だとなる。でも一編とかいい詩を書く人はいた。この詩にはつくづく感心した。自分も上野霄里氏をイメ-ジして書いたがこの詩の方が数段優れている。この一つの詩だけが特別優れている。他の読んでもそれほどではない、天狼星(シリウス)としてこの詩はマッチしている。
 
でもこれを書いた女性は別に市井の普通の女性である。それでもこの詩を書いたことに驚く、それが上野霄里氏のイメ-ジと一致していたからである。こういうことめったにないがやはり世界は広いしインタ-ネットの世界は広いことがわかる。埋もれた人の作品がインタ-ネットに出るようになったのである。これまでもいい詩はあっても出版も書店にも並ばないから埋もれてしまっていたのである。不思議なのは特に優れた詩を一つは人間は作れる、その一つの詩だけでも後世に残ることがありうる。詩とはそういう側面がある。この詩はそういうものを感じた。他にもそういう詩があるがなかなか発見しにくい、これはわかりやすいし上野霄里氏のイメ-ジと合致したので驚いた。それでここに紹介した。他の人も感想書いていたがやはり感心していた。でも上野霄里氏の人と思想とは別に共鳴するものはないから残念だとなる。
 

人は人であるかぎり 独りでは生きられない
月が太陽によって輝くように
人も自分としての存在を 
多くの人達の支えと 仕事や愛によって輝かせる

 
ここが上野霄里氏の人と思想とはかけ離れている。この女性は社会運動家のようでもあり社会にかかわるから上野霄里氏とは思想的にも共鳴する人ではない、こういう思想や生き方は彼にはない、人は人であるかぎり 独りでは生きられない 多くの人達の支えと 仕事や愛によって輝かせる・・・・となるときどうしても社会主義的集団主義になる。予言者でも多くの人たちの支えが全くなかったからである。多くの人たちに援助されようとすれば予言者でも哲学者でも多くの人たちに媚びなければならないしその思想の基準は多くの人たち、大衆にもおねることになる。だからシリウスを詩にしたのは感心するのだがその生き方において反対のものになっている。この言葉をのぞいてシリウスということに焦点をしぼったら良かったがどうしても詩にはその人の生き方や思想が反映されるのだ。
 

誰にも煩わされず 誰にも指図されない
自ら発光するものの強さが 限りなく畏敬される


このあとの行と矛盾している。誰にも煩わされない、誰にも指図されないとすると多くの人たちの支えと・・・は矛盾しているし、現実の生活はそうなのだからこの詩と生き方がマッチしていない、上野霄里氏からみれば社会から離れられないディレタントの詩人だとなる。もちろんこれは別に知られた詩人ではない、シリウスについて詩を調べて感心したのである。障害者に関心があることでも経験から共鳴した読んだのである。
 

原生の森の鷲
http://musubu.jp/jijimondaiueno.htm#eagle

2009年02月16日

岩手県の自然のバックグランドから人物も生れる秘境岩手県に育まれたもの(原生人間-山人-賢治)-詩

 
 

岩手県の自然のバックグランドから人物も生れる(東洋、国風文化の回帰)
秘境岩手県に育まれたもの(原生人間-山人-賢治)-詩
http://www.musubu.jp/hyoronmorioka.htm#back

 
文化が生まれるバックグランドは自然である。なぜ岩手県から賢治とか啄木とか上野霄里氏が生まれたのか、それはやはり岩手県という広大な原始的自然が残されていたからである。人間はいくらその人が天才であっても自然のバックに映えるものであり広大な自然の作用があって映えてくる。ドイツの文化とフランスの文化の違いも隣り合っているのにこれほど違うのかやはり北方的風土と南方的風土の相違があったからだ。上野霄里氏の原生人間の思想も岩手県にふさわしいし岩手県という広大なチベットのような自然をバックにすると了解しやすくなる。そもそも東京の大都会をバックにしたら何が生まれるのか?そこには奇怪なカルト宗教であり異様なものしか生まれない、全くの人工的空間になってしまっているからだ。巨大なビルの谷間で人間は蟻のようになってしまっているからだ。そこで人間が巨大だと言っても誰も実感しない、でも岩手県のような大自然をバックにするとき人間は巨大だとか神話的だとか言っても違和感がなくなる。魔法だとか秘薬が生まれると言っても何か実感を帯びてくる不思議がある。山伏などは山野を駆けめぐり自然の中で何か会得したものがあるから今のカルト宗教団体より秘術的なものを身につけていたかもしれない、これを今の現代科学の時代からするとかえってカルトだとか非科学的でまやかしだとかなる。でもなぜ現代がカルト宗教がこれほど社会をおおっているのか?それもやはり奇妙なパラドックスである。自然から全く離れてしまった、人工的空間に異様なカルトが生まれ繁茂している不思議があるのだ。それは明らかに過度の文明化から生まれた病理的現象なのである。だから過去を今の科学からすべて否定するとき実は現代の文明こそ異様な怪物を生み出している。人間も自然の一部だから自然から離れると人間も異様なもの人間ならざるもになっていたのである。アウトサイダ-が異様化されてみるが文明人こそ実は異様な存在だということにも気づくべきなのである。

2009年05月10日

江戸時代の俳句(二本松の寛文時代の俳句)


江戸時代の俳句(二本松の寛文時代の俳句)

 
三春迄着るや岩城のちゝみ布   斎藤親盛
 

 「三春まて」「岩城宇尓、縮布」(『毛吹草』)。岩城名産のちぢみ布は、三春の人々まで着ていることだ。如儡子は『梅花軒随筆』の著者・三休子ゆかりの地・三春に出かけた事があったのであろう 
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/bungei/18/haikaige.html

 
寛文12年(1672)だからこの句は古い、芭蕉が出るのは元禄である。元禄1(1688)だから20年後になる、でもその前に俳句らしきものが二本松とか地方でも作られていた。
 
 笠鉾やかけ奉るひたち帯        春一
 
常陸国鹿島神社で、一月一四日の祭礼の日に行われた縁結びの帯占。布帯に意中の人の名を書いて神前に供え、神官がこれを結んで縁を定めた。鹿島の帯。
 
東ちの道のはてなるひたち帯のかことはかりもあはんとそ思ふ(新古今1052・古今六帖3360
 
常陸帯は全国で知られていた。常陸は陸奥ではない東道(ち)である。
 
あけぬるや雲のいつこにいかのほり 春一
 

関西方面ではイカ上りであり江戸では凧(タコ)と言っていたことである。1675年に、京都の俳人伊藤信徳が、江戸で「物の名も蛸(たこ)や故郷のいかのぼり」と詠んでいるし、同じ物でも土地が変わると名前も変わる。北前船で新潟と交流があり関西の文化が入りイカノホリと蛸上げを俳句にした。二本松では蛸上げとしていたのか不明である。
http://www.musubu.jp/hyourontakoage.htm

2009年07月06日

無情の旅路 (山頭火の苛烈な旅)


無情の旅路 (山頭火の苛烈な旅)

誰かもてなすや

洞に寝て跡なく去りぬ

風のごと過ぎされり

乞食(ホイト)と呼ばれ

邪険に門前払い

灼熱の日ざしのなか

水を求め乞い歩く

人の世の非情よ

身を焼く炎天下

何故の旅か果てなし

無情の旅路はつづく

鉄鉢に霰

天も無情、熾烈な旅路

何故の旅や

時に吐き出す自由律の俳句

それは紙にあらず

むき出しの大地に記されている

血肉となり刻印されている

彼に人のもてなしはなし

ただ苛烈な非情、無情の旅

彼はなお死出の旅路や

この世からあの世へ

漂流しつづけている

時に雷鳴のごとく来たり

忽然として去ってゆく

雲となり風となり消える

とらえがたきもの

風雲の旅人はなお旅している

もてなしのことを書いたけど放浪の旅人をもてなすような人はいない、世の中からはずれた人だからそんな人をもてなすということはない、社会お範疇からはずれた人だからである。ただ一期一会で何かしらもてなすとしたら一回切り会わないのだから何かその時もてなしても自分も忘れている。旅人をもてなしてももてなした人も一回しかあわないとしたら何かもてなしたという意識がもてない、その時無償のもてなしとなっている効用はある。 日常的にもてなしていたらどうしてももてなしているという意識がでてしまうのである。無心にもてなすのではなく押しつけがましくもなるのだ。相手ももてなされたことを意識する。そうなるともてなされる方も心苦しくなる。


山頭火のような旅人は今どきいない、山頭火は旅人より冒険者の部類に入る人だった。なぜならその旅があまりにも苛烈だったからである。未踏の領域を発見するような冒険者であり俳句にこだわったが俳句は俳句にならない俳句だった。あれだけ過酷だともはや客観的鑑賞をする余裕がないのだ。腹がへる、おにぎり食いたい、炎天下に喉がからからだ、水がのみたいとか、それをそのまま書いても俳句にはならない、芸術にはならない、苦しい病気になっても苦しい苦しいと絶句しているときなかなか俳句になりにくい、芸術には客観視できなければできない、自分を客観的に見ることはまだ余裕がある時である。確かに子規は肺病でも苦しくてもその呻吟のなかから俳句や短歌を作り出した。客観視する余裕がなおあった。でもそれは家にいて周りの支援があったからできた。芸術の効用は自らを客観視することである。啄木も肺病で瀕死の状態になるまで短歌を書いたがその一握の砂でも自らを客観視できたことは救いだったのだ。もし単に苦しい苦しい悲しい悲しいと絶句していたら俳句にも短歌にもならない、最後まで客観視することが芸術を生む。ゴッホにしても強烈な天才的激情の人でも絵を描くことは客観視することである。対象を客観視できたから絵画という芸術を残した。もし単に狂気の人だったら芸術は残せない、本当の精神病の人は芸術は残していない、それは世界を自分を客観視できないからである。


山頭火の俳句は余りにも苛烈なる故に客観視できない、うめきとかあえぎとかでありそれは芸術ではない、冒険者だったら苦しみの末に未踏の地を征服したで後世の歴史に残った。でもその人は芸術家ではない、冒険者である。西行とか芭蕉、蕪村にしても旅人でも芸術家なのである。客観視して作品を残している。それは山頭火のような支離滅裂的なものになっていない、彼らの旅がどういうものであれ客観視した作品が残されそれを後の世の人は鑑賞しているのだ。あまりに苦しかったから鑑賞ということもできない、自分も旅したけど旅していると自転車でも歩きでも登山でもあまりに苦しかったら客観的に見ていられないからいい作品が作れない、特に登山は苦しいから山頂に上った時、疲れ切って周りをゆっくり見る余裕さえなくなる。そういうことが激しい運動だとそうなる。運動に重点を置けば別にかまわないが芸術家は創作と鑑賞を要求される、作品を残す必要があるのだ。もちろん冒険とか生活に重点を置くなら上野 霄里 氏のように冒険家タイプの生活こそ第一だとなる。そのあとに芸術もありうるとなる。その山頭火さえ批判しているのも理解できない、社会から離脱した人間となると実際は普通の人は理解外の人となる。彼自身もそこまでは生きていない、山頭火は冒険家と芸術家とを生きた。どちらかというと冒険家になっていた。山頭火をたどるとこちらまで肉体的に苦しくなる。作品を鑑賞するより腹がへるとか喉が渇くとか坂を上るとかそうした喘ぎが聞こえてくる。そして作品を冷静に鑑賞するよりも肉体的なものとして力が入ってくるのだ。それはスポ-ツを鑑賞するのとにているのだ。思わず筋肉に力が入り応援するのとにているのだ。芸術を鑑賞するのとは違ってくる。どんな旅でも旅しているときは客観視することがむずかしくなる。だからかえって旅を終わったあとで回想したとき客観的に余裕をもって見れるから紀行文などは書きやすいのである。だから今旅を回想して書いている。

そもそも山頭火が江戸時代の旅人より苛烈な旅をした。野宿する旅を延々とつづけられたのはやはり体力があったのだろう。江戸時代すら宿に泊まる旅だった。自分も自転車の旅をしたがそれは体力ある人なら簡単にできることだった。自分には苦しい旅となっていた。旅人スポ-ツは違う、テレビでやっていたように百キロとか走る必要はない、坂も上る必要はない、旅なら別に一日五〇キロでもいいのだ。なぜなら周りもゆっくり鑑賞するにはそんなに目的地を目指して走る必要がないの多。思うに現代ではスポ-ツとして移動する人はいるが旅人が喪失した時代なのだ。また旅ができない環境にもなっている。もてなしされるホテルなど旅人にはあわない、ビジネスホテルでも五千円とかなると高すぎるのだ。そして日本には旅をつづけるための安宿がないのだ。山頭火の時代はまだ木賃宿などがあったから旅人としてありえたのである。
旅館など今は贅沢なのが多すぎて安宿はない、そういう場所はもてなしの場、保養の場としてはいいが旅人には不向きなのである。現実はほとんどの宿は保養の宿であり旅人の宿はほとんどないのである。

そこには車が並び汚れて自転車で来たなどというとうさん臭い目で見られる泊まることさえできない、車なら汚れないが歩いたり自転車の旅はどうしても汚れるのだ。車の時代になると車を利用しない人は異端者のようになってしまうのである。きれいに疲れず車で移動する、旅ではない、車は疲れない移動なのである。 
だから旅人はこの世から消えた。わずかに四国の遍路などは旅人の名残りを見ることができるだけである。
野宿して苛烈な旅や夏あざみ

2009年08月21日

これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺(小林一茶)の解釈

 是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺
                          小林 一茶

人間のついのすみかはどこになるのか、自分の行く末を考えたら最近は身内が一人死んだしそれで墓のことなど何か自らの奥津城を意識した。自分の最後となるべき墓のことをこれほど意識させられたことはない。自分の家の墓のこともそうだが母の実家の墓も荒れているので直す必要がでてきた。隣の墓が持ち主がないと思っていたら実際はあった。墓は一旦使用権を買えばあとは一年間500円とかで維持できるのだからなかなか無縁化はしないことがわかった。誰でもそれくらいの金は払えるから墓を維持することは楽である。家を維持することは老朽化してリホ-ムなどすると大きな金がかかる。財産がないと維持できなくなる。人間は俳句でもその人生経験から解釈する。小林一茶も放浪の俳人である。貧乏のどん底でも日本を旅して放浪していた。結局、自分も同じだった。30年間放浪していたのだ。そして今やジモシティ(地元主義)になった、というよりは地元に閉じ込められたというのが現実である。つまり自分の一生はそもそも故郷から地元から脱出することだった。東京の大学に出たのも地元を脱出することだった。若いときジモシティ(地元主義)にはならない、絶えず遠くへ遠くへと心は向き現実に今や若者は世界を放浪している時代になった。でも最後に老人になったらつひの栖(すみか)に落ち着かざるをえない、そのついのすみかがいいとは限らない、一茶にとっても故郷はいいところではなかった。でも故郷に帰らざるをえなかった。
故郷だと田舎だと狭い地域の思考になってしまう。視野がかなり狭くなるのだ。そして過去からの継続も大事になり意識化される。墓を作ったとき百万したとか聞いた。でも今他の業者に聞いたら高いという、実際に何十万も高いようだった。するとなぜそんなに高くとったのだろう、高くとりすぎていると思った。こんなこと都会だったら業者自体すでに誰かわからず関係していないのである。そうした昔のことまで今にとりざたされるのも田舎なのである。つまり都会なら法外値段をふっかけたりしてだますことができる。田舎だと今になってそんなことがわかると取りすぎだったとかごまかしだったとかなるから信用を失うこともありうる。つまりあまり高い値段では信用を失うことにもなる。地域で信用を獲得することは昔からの継続も関係しているのだ。グロ-バル化の世界は今や庶民でもそうである。視野が世界的になった。その反面やはり老人になればついの栖(すみか)が意識化される。つまりそこは墓なのである。もはや墓に入るだけのend(ゆきづまり、終着点)なのである。田舎は一面牢獄である。今年は曇って憂鬱なのも影響している。一茶がこの句を作った気持ちがわかった。
陰鬱な雪国の空がのしかかるようにおおい、ただ雪ばかりがふり土蔵に閉じ込められるついのすみかの暮らしである。最後にその重い陰気な信濃の雪の下に閉ざされる。雪国の冬は長い、江戸時代ならさらち長い、交通機関もない、ただ毎日雪がふり雪に閉ざされた世界なのである。ここで雪五尺という具体的な雪の量と重さを意識化したこともわかる。自分にのしかかる具体的な重圧感を表現したのが雪五尺だったのである。自分も介護とかでその重圧感を身に帯びたからわかった。身動きとれない感覚が雪五尺なのである。雪五尺のなかに埋もれる、払いきれない雪五尺の重みがのしかかる。もはや年だからさらにその重圧感は死へとつながっている。若いときは故郷が嫌で放浪したが今やここで雪五尺の下で死ぬ他ないという陰鬱な最後なのである。

2009年10月01日

母刀自(とじ)の意味(尊敬されていた母)

母刀自が老いて寂しく暮らします千駄ヶ谷をば思いやる秋

かくれ里高尾山路の日だまりに古媼いてころ柿を売る(吉井勇)

果物と言えば昔は柿なれや干し柿好きな母なお生きぬ (自作)


あも刀自(トジ)も 玉にもがもや。戴きて、みづらの中に、あへ巻かまくも(四三七七)


刀自(とじ)という言葉自体万葉時代からあるのだから古い、ただその意味は失われた。母を老母を尊敬する言葉だった。台所をとりしきる女性だった。家族も万葉時代だったら今とは相当違っている。大家族でありその中で家事をとりしきる女性が刀自(とじ)だったのだろう。それだけ家族が多いとそういう中心になる人が必要だったのである。今とは違い家事は機械化もされていないし外部に委託されない、だから家事は一軒の家の中でまかなわれることが多い、外食などもないしその用意だけで大変なことであった。女性の労力は家事に費やされていたのだ。


だから家事をとりしきる刀自(とじ)は重要な役目をにない家をとりしきるまでになる。刀自(とじ)をまだ戦前は言葉として使っていた。それなりに使われていたし女性もまだ家の中の仕事が主だったからである。これだけ母刀自(とじ)が慕われ尊敬されることはある意味で幸福な時代だったともなる。今は母でも父でも存在感が希薄なのである。核家族などと家族も一体感が失われた。これは家族のせいではない、社会の変化の結果であり女性差別とかを声高に言うのも実は女性は別に過去に差別されていない、かえって近代になり差別が叫ばれるようになったのも皮肉である。女性が女性の役目をになっていたとき差別はなかったのだ。これだけ尊敬されることでもわかる。

かくれ里高尾山路の日だまりに古媼(ふるおうな)いてころ柿を売る
今はモノと人が結びつかない、世界の果てから食料が集められるけどそれを生産する人は見えない、物質的に豊でも心では貧しくなっている。直接老婆から渡された干し柿は特別温かさがある。 現代はス-パ-に行けばありとあらゆるものを食べられるがその食料を作る人が見えないのである。魔法のように置かれている。ただ金さえあれば食料も手に入る、だから地球の裏側から来る食料に感謝するということもない、人が見えないからだ。
老人の価値が低下したというとき老人のもっている役割の喪失である。女性の場合は大家族の家の中にあった。それが家事が機械化して社会化したとき失われた。その代わりに女性も社会的な役割として仕事の能力で評価される、男と同じ様に競走するようになった。だからかえって女性は苦しいと嘆いているのもわかる。男と伍して仕事はできない、やはり女性の役割は家庭にあったからだ。フェミニズムも社会の変化の中ででてきた思想であり男と戦わねばならないとはまさに社会の変化で女性が男と伍して仕事させられることから起こった運動だったのである。これはかえって女性を不幸にしたのかもしれない、男と女の役割は本来違っていたからである。

母刀自(とじ)の意味
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2468.html

2010年03月10日

管 茶山「冬夜読書」の漢詩を読んで・・

 管 茶山「冬夜読書」の漢詩を読んで・


石川忠久著「日本人の漢詩」(大修館書店'03年2月20日発行)から抜粋
管 茶山(かんちゃざん)の七言絶句「冬夜読書」


雪擁山堂樹影深 (雪は山堂を擁して樹影深し)

檐鈴不動夜沈沈 (檐鈴動かず 夜沈沈)

閑収乱帙思疑義 (閑(しず)かに乱帙(らんちつ)を収めて疑義を思う)

一穂青燈万古心 (一穂(いっすい)の青燈 万古の心) 

 雪が山中の庵を囲み、外の木々の影もこんもりと見える
 

  軒端(のきば)の鈴もひっそりと音を立てず、冬の夜はしんしんとふけゆく

 取り散らかした書物をしずかに片付けつつ、疑問の点を考えると

 じっと燃える青い燈火を通して、先哲の心が伝わってくる

 

この漢詩が福島県の県立高校の入試に出ていた。 高校入試にしてはむずかしいだろう。なぜならこの内容を自分は老人になって理解できるものである。これが今の季節にぴったりなのだ。今年は寒い、昨夜も雪であり今日も外の風は冷たい、現実に雪がとけずに残っている。
これと同じことを昨夜は夜遅くまで起きて経験した。どういうわけか自分が一番読んだ本は聖書ではない、ショ-ペンハウエルの本を一番愛読した。おそらく気質的にあっていたのだろう。他にも確かに古典を読んだが若いときは理解できないことが多かった。でもわからなくても古典を読むことには価値があるし家に良書をおくこと自体、価値あることなのだ。何かの折りに手にとることがあるからだ。「じっと燃える青い燈火を通して、先哲の心が伝わってくる」夜の暗闇の中の灯火に先哲の言葉が伝わってくるというのは今でもそうである。江戸時代の闇はさらに深いから余計そうなる。「取り散らかした書物をしずかに片付けつつ、疑問の点を考えると」というのも部屋に本を重ね散らかしている、その一冊一冊をランダムに読んでみる、すると記憶が蘇りこんなことが書いてあったのかと見直すことがよくある。本の読み方としてランダムにペ-ジを読むことも読書の方法なのである。これは相当読書して老人になったとき特にそうなのである。やはり読書も積み重ねであり努力なのである。いい本を古典をある程度若い内読んでいないとあとで読めなくなる。

そして人間はいかに本を読むにしてもその本が限られているかわかる。今や知識は江戸時代の億倍になっている。だからつまらない情報、本に映像に浪費されること多い。もう映像が主流となるとき読書はしない、本は読まない時代ともなっている。映像を見て本を読んで音楽を聴いて・・・・そんなに人間いろいろなことを消化できないのだ。情報過剰化の世界で何を読んでいいか誰に習うべきなのかさえわからない、本も無数に出てくるし情報も毎日のようにあふれだしてくる。そういう時代に的をしぼって読むということも大事になる。ただその的をしぼることがむずかしい。結局老年になって読書の総決算が生じてくる。あなたが何を読んだのか?それが問われる。漫画ばかり読んでいたらあなたが老年で゛ふりかえるのは漫画である。老人になるとあらゆることの総決算が起きてくるのだ。読書というけど人間が吸収できる知識はほんのわずかである。青年時代はそんなことは思わない、時間はたっぷりあるし本なんていくらでも読めると思っている。実際は遂には本すらわずかしか読めないし印象に残るものもわずかなのである。そしていかに人間は多くのことを知らないか理解していないか老人になっても知るだろう。


この漢詩にしても有名だから普通文学をたしなむ人なら知っているはずである。ところが自分は知らなかった。基本的に知っているべきものを知らないことが多い、それは教養がないということなのだ。江戸時代の人間は現代のような膨大な知識とか技術とかの世界ではない、極めて人間的世界に生きていた。例えば春の雪の俳句で書いたけど歩くということが江戸時代では普通である。今は歩くことがない、だから歩道を雪がふりぬれて消えてゆく、歩道だからそう感じる。雪の中を歩く姿に情緒があふれている。今は車が走るだけであり人の歩く姿が見えないし歩いていても車が絶え間なく行き来しているから情緒が消されるのである。こうして人間の情が破壊されるているのだ。キレル人間になるのも車社会が影響しているのだ。人間と人間が相対することがないからである。歩くということなくなったということ自体そのことを物語っている。もはや商店街を歩くということがないのである。シャッ-タ-通りとなり歩く姿がないのだ。

今本の時代からインタ-ネットの時代となったとき昔からの読書という感覚も消えてゆく、キ-ワ-ドで調べることが 「取り散らかした書物をしずかに片付けつつ、疑問の点を考えると」はと通じている。キ-ワ-ドから共通なものがクロ-ズアップされるからだ。
管茶山という人も知らなかったけど結構有名な人だった。江戸時代の漢詩界では有名だった。江戸時代の方が情操的な面の教育では恵まれていた。先生でもそれほどの知識は必要がない、塾の先生でも人柄がいい人が選ばれていたということでもわかる。今は知識優先であり英語なら英語を外国人を相手にしゃべれるくらいだと最高の先生とされるし他でも同じである。人格など関係ないのである。学校自体受験勉強が主であり情操的な教育が最初から全くない、志の教育もない、江戸時代は最初に志の教育、武士とはいかにあるべきとか人間とはいかにあるべきとかを知識ではなく日頃の生活から教えたのである。これは戦前までもそういうところがあった。国家主義的教育でもそういうところがあった。今は全くない、団塊の世代からでも受験勉強であり知識の競争で勝つことだけを他者をだしぬくことだけを教えられた。一点でも点数を稼ぎいい大学に入りいい会社に入ることこれしか何も勉強の目標などないのだ。知識が膨大となり知識優先となったのである。

人間はやはり天才でない限り教育は大事である。凡才でもそれなりの教育するとそれなりのものになることはある。自分はいい教育はされなかったけどその後自己教育したとなる。現代では学校とかその他社会でまともに教育されるところなどない、結局自己教育しか方法がないのだ。でもどうしたって若いときは自己教育はむずかしい、回りの影響を過度に受けやすいのだ。それでカルト宗教団体に入ったりして青春を浪費する、そもそもそういう場所しか教育の場がなくなったということもいかに今の社会が異常か示しているのだ。だから受験が人生のすべてだと思わされて暗記とかの勉強に追いまくられ勉強嫌いになる。でも教育は知識の前に人間とはどうあるべきかとが問題になる。それが全くない一点の点数を稼ぐことしかないのだ。それが将来のすべてを決めると思わされている。日本にはすでに団塊の世代から教育はない、団塊の世代を今の若者は責めるけどそうしたのは団塊の世代ではない、受験勉強を強いたのはその前の戦争に負けて全く方向転換した戦前戦中世代であり団塊の世代はその方針に従っただけなのである。

江戸時代の魅力(江馬細香の漢詩から)
http://www.musubu.jp/hyouronedokanshi.htm

2010年09月23日

蕎麦の花の句

そばの花山かたむけて白かりき     青邨

蕎麦の花は確かに咲いたのを見たけど山全体に咲いているのを見てはいない、平地に咲いているのは見ている。昔は蕎麦の栽培が盛んだからこういうことがあったのだろう。尾瀬への入り口の檜枝岐辺りは相当な奥地だから米がとれないから主食は蕎麦だった。そういう山間地があったから蕎麦の花も山全体に咲いていた。会津辺りにはそういう所が多い地域である。
日本では野というとき傾斜地のことであり平らな所ではない、日本は山が多いから傾斜地が多いのだ。その野に一面に咲いているのが蕎麦の花だった。これは極めて日本的風景だった。
でも日本人はとをしても米を食べたかったからどんな山奥までも田を作っていった。傾斜地でも棚田を作った。蕎麦は山間の寒い地域でもとれるから主食代わりになるから食料として欠かせなかったのである。

蕎麦の花の句
http://saruhiko.humaniste.net/nightcap/11.html

どこかにこうした句でもでているのがインタ-ネットである。
「蕎麦はまだ 花でもてなす 山路哉 芭蕉」
蕎麦は花の方が目立つ場合が多い。芭蕉は生活的実感より美的に見ているのだ。自分もそうである。実際に蕎麦を栽培して食料として欠かせないものとして見ていたらそうはならないだろう。花より実の方が大事になるからだ。花より実を丹念にみるようになるからだ。花でもてなす比重が大きくなったのが現代であるがやはり実を求めてるのも確かである。檜枝岐でも蕎麦が食べたくて行くのではない、尾瀬に花をみたくて行くのである。「夏になると思い出す、遠い尾瀬、水芭蕉が夢見て咲いている・・・・」花を求めてゆくのだが一方で味を求めて行くグルメ旅もある。忘れられないのは新潟の小出で鮎の塩焼きをたまたま食堂で食べたことだった。魚野川でとれたものだろう。新鮮であり本当にうまかった。天然の鮎だった。あと鮎を食べたが養殖の鮎であり大きいのだがうまくなかった。今になると鮎は食べることはできない、川でとれていても小さくてほとんど鮎の味がしない、ここ二十年くらいそうした天然の鮎を食べたことがない、だから天然の鮎を食べてみたいなということはある。
自分の場合は旅して食べることにはあまり興味なかった。金がないから食べるより旅することが第一であった。旅はどうしても安上がりにしようとししても金がかかるのだ。自分はこれまで百万単位の金を使ったことがないからなんか貧乏性であった。たまたまちょっと遺産が入ったから金が使えるなと庭作りに使ったのである。旅行でも百万で旅行したことないからだ。海外旅行でも五〇万以下でありそれより安宿に泊まるから高くても三〇万くらいだった。貧乏旅行だったのである。旅行はでも相当に贅沢なものだった。暇と金と体力とかそろわないとできないものだった。今になるともう長い旅はできない、金があるが暇とか体力とか喪失してきたからだ。つくづく退職してから鹿児島から青森まで歩く人がいたがその気持ちはわかる。「自由になった、金も暇もある、旅をするぞ・・・」となりあんな過酷な旅に出かけたのである。それまで勤めていたらそんな旅できようがないからだ。そういう人が海外でもいた。退職した人でありやっと自由に旅できるようになったとバックパッカ-になっていたのだ。
でもなんか若い人に交じりにあわない、そぐわない、ジジイになっているからだ。ギブミ-チョコレ-トの時代の人だから団塊の世代より5、6年前に生まれた人だろう。子供のとき進駐軍にギブミ-チョコレ-トとしてたかっていたのである。5、6年違っても世代の違いはある。団塊の世代は誤解しやすいがギブミ-チョコレ-トの時代ではない、でも都会ではアメリカの進駐軍関係していたかもしれない、アメリカの脱脂粉乳とかを給食に飲まされた時代だからまだ敗戦の後遺症が深く残っていた時代なのである。
今年は初秋とか仲秋の名月とか秋深まるとか季節感がなくなっている。やっと猛烈な暑さが終わって涼しくなった、秋が短くすぐに冬になる感覚である。こうなると四季の感覚が薄れ俳句の文化すら破壊されることを感じた。俳句は日本の四季と密接に結びついてできた文化だからである。今年は春と秋が短い、北海道は冬と夏が主であり大陸でも寒い地域だとそうなるがそれとにてきたのかもしれない、いづれにしろこんな四季になったら日本の文化自体が破壊されることを感じた猛烈な暑さだった。これが地球温暖化のせいだとすると大きな問題だと意識される。こんな猛烈な暑さの中で生活するとなるともう嫌だとなってしまうからだ。地球温暖化は自然現象だと思っている人が多い。今回も百年に一度の異常気象だとしているからやはり地球温暖化のせいだとは一般的にはまだまだ思っていない、その辺の見極めがつかないから困るのだ。

2011年02月15日

類似類想俳句


根岸郊外二句

竹たてて冬菜を囲む畠かな  子規
                                                                                        
この道や竹に冬菜に何もなし   
                                                            

http://musubu.sblo.jp/article/43137804.html


俳句は分類すると類似俳句が結構あるだろう。これもかなりにている。根岸郊外で上野の近くにこんな光景があること自体今では信じられない、「汽車過ぐるあとを根岸の夜ぞ長き-子規」これもそうした淋しい静かな上野だからこそできた。上野がそんなに淋しい所だったのかとなる。子規の住んだ家が保存されていても今はラブホテルの中にあり全然風情がない、興ざめした。第一冬菜を題材にしていること自体想像できない、そんな畠があったこと自体が東京からは想像できない、松山辺りならまだ想像できる。城の近くを牛が歩いていた。そういう江戸時代でも想像できるが東京は想像できない、子規の句も写生でありとりたててめずらしくもないがやはり竹がここに出てきたのは一致している。自分が何もなしとしたのは写生になっていないがこの道は何度も通っている道である。上野で冬菜が俳句にできる時代があった。その変わり方はあまりにも激しすぎたのである。子規庵で風流を感じることはありえない、回りがラブホテル街でありそんなところにあること自体そぐわないからだ。冬菜はやはり田舎でこそふさわしいものだろう。ともかく俳句は類似俳句がありそれを分類して鑑賞すると面白い。これも同じ発想で作っていると共感するからだ。

春風や道標元禄四年なり  碧梧桐


葛尾(かつろうに)夏草埋もる元禄の碑
http://musubu.sblo.jp/article/15958029.html


これは元禄ということ類似俳句である。元禄というと華やかな感じがする。ちょうど芭蕉の時代だった。奥の細道も元禄時代に来ている。一方で山深い葛尾(かつろう)村の落合にきて夏草に埋もれる碑を発見した。それが元禄だった。碑や墓をずいぶん見たが元禄時代は見ていなかった。それが葛尾(かつろう)村にあったから不思議だった。明暦はもっと前でありこの時代検地があってその記念にしるされたものか知れない、江戸時代にもいろいろ年号があり時代の雰囲気があったのだろう。明治以降は「降る雪や明治は遠くなりにけり・・・」で一時代を作ったがその後大正生まれとかなると短いし一時代をみることがむずかしくなる。さらに昭和になると戦前と戦後に別れ時代はまるっきり違っているからこうした年号は無理になっているのかもしれない、やはり西暦の方が世界がどうなっていたかとかグロ-バルになっているから日本だけの年号はあわなくなってしまったのかもしれない、元禄は確かに特別なものがあった。元禄時代は明治時代のようなものだったかもしれない、戦乱も収まり華やかな江戸の文化が開花した時代だった。でも東北ではそんな文化は花開かない、伊達政宗が伊達ものとして華やかに装ったのはかえって貧乏だから背伸び死して無理していたというのは納得がいく、本当に江戸のように栄えたからそうなったのではなかったのである。東北は元禄でも夏草に元禄の碑が埋もれていた感覚である。


類似俳句は他にも相当ありそこから見えてくるものが面白い。これは俳句が季語を通じて分類されるように類似俳句が多くなる文学だからで
ある。


寒さ(芭蕉と類想俳句)
http://musubu2.sblo.jp/article/35125995.html

素心、素朴な人が失われ時代(漢詩よりふりかえる)


素心、素朴な人が失われ時代(漢詩よりふりかえる)


    杜甫


    舎南舎北皆春水   舎南(しゃなん) 舎北(しゃほく) 皆 春水(しゅんすい)
  但見群?日日来   但(た)だ見る  群?(ぐんおう)の日日(にちにち)来たるを
  花径不曾縁客掃   花径(かけい)  曾(かつ)て客に縁(よ)って掃(はら)わず
  蓬門今始為君開   蓬門(ほうもん)  今 始めて君が為に開く
  盤?市遠無兼味   盤?(ばんそん) 市 遠くして兼味(けんみ)無く
  樽酒家貧只旧?   樽酒(そんしゅ)  家 貧にして只だ旧?(きゅうばい)あり
  肯与隣翁相対飲   肯(あえ)て隣翁(りんおう)と相(あい)対して飲まんや
  隔籬呼取尽余杯   籬(まがき)を隔てて呼び取りて 余杯(よはい)を尽さしめん


  ⊂訳⊃
          草堂の南も北も  豊かな春の水
          目に入るものは  日ごとにやってくる?たち
          花散る小径も  客が来るからといっても掃除せず
          粗末な蓬門も  あなたのために初めて開く
          大皿の料理は 市場が遠いのでありきたりの品
          家が貧しくて  樽には古い酒があるだけです
          隣家の老人と  いっしょに飲んでみませんか
          垣根越しに呼び寄せて  残りの酒を平らげてもらう



陶淵明


 登高賦新詩  高きに登りて新詩を賦す
 
   過門更相呼  門を過ぐれば更ごも相呼び
  有酒斟酌之  酒有らば之を斟酌す
  農務各自歸  農務には各自歸り
  閑暇輒相思  閑暇には輒ち相思ふ
  相思則披衣  相思へば則ち衣を披き
  言笑無厭時  言笑厭く時無し
  此理將不勝  此の理 將た勝らざらんや
  無爲忽去茲  忽ち茲を去るを爲す無かれ
  衣食當須紀  衣食 當に須く紀むべし
  力耕不吾欺  力耕 吾を欺かず


陶淵明「飲酒二十首」


結盧在人境。    盧を人里に結んで住んでいるが
而無車馬喧。    貴人の車馬の来訪する喧しい音はない 
問君何能爾。    どうしてこんなに静かに暮すことが出来るかと言うと
心遠地自偏。    心が遠く世俗を離れていれば住む地も僻遠の地になる
采菊東籬下。    家の東の籬の下に咲いている菊を採って立上ると
悠然見南山。    ゆったりと南方の山を見るともなく眺めるのである 
山気日夕佳。    山に湧く気は、日中でも夕方でもそれぞれ美しく 
飛鳥相與還。    朝出た鳥が夕方に飛び連れて山に帰って行くのである
此中有真意。    その中に万象の奥の真理、自然の道理の意味を感じる
欲辨已忘言。    語ろうとすると言葉を忘れ、真実は言葉では語れない


  昔欲居南村(昔、南村に住みたいと欲したのは) 
 非為ト其宅(占いによるものではない)
 聞多素心人(ここには素心の人が多いと聞き)
 楽輿数晨夕(ともに楽しく暮らしたいと思ったからだ)
 懐比頗有年(長い間、考えてきたが)
 今日従茲役(今日、それがかなった。以下、詩を省略)



素心とは
「人間の心はもともと純真なものですが、
 名利を追うに連れて汚れに染まり、
 欲望や野心からさまざまに色がついてきます。
 そんな汚染や着色を去って
 本来の純真に返った心のことを
 中国の詩人の陶淵明は「素心」と呼んでいます」


 樽酒(そんしゅ)は濁酒でありどぶろくだった。高価な酒は飲めなかった。これも今のように豊ではないが心の満足があったことはまちがいない、隣翁というのは素朴な人だった。素心なる人の集る場所を求めてというのもあるから素朴な人がいる所に住みたい詩も書いている。今の時代まず素朴な人はいなくなっている。農家の人でも素朴な人はまれになっている。なぜならすべてが金の時代になったときそうなったのである。貨幣経済ではないこれは自給自足的な生活を理想としているのは金の時代になると素朴な心を失うからである。これは老子の時代から二千年前から言われてきた文明否定の思想である。鍬でも道具を使うと人間の素朴さは失われると言っていた。文明とは人間本来の素朴さを失うものとして生まれ2千年前からそのことは警告されていた。


現代はまさにその頂点に達した時代である。人間の素心とか素朴さは全く失われた。グロ-バルに貨幣が流通して金の力が世界的な力となった。人が求めるのは金だけとなった。貨幣の発生は謎にしろ贅沢品が貨幣になったことはいえる。貨幣にかかわる漢字が貝になっているとき財が貝になっているのは南方の珍しい貝が貨幣になっていることが如実にそのことを示しているのだ。貨幣はもともと装飾品でもあるから金銀や宝石も貨幣になりやすい、日常の生活必需品より贅沢な余剰のものとして貨幣が生まれたのである。だから貨幣はこんなに何でも交換できるものではなかった。南の島では貨幣は威信財であり巨大な石の貨幣であった。それは使われることもなかったのである。貨幣で何でも交換できるものではなかったのである。その交換もあいまいであり塩と黄金が平等に交換されていた。塩は黄金と同じ価値があったのである。現代の貨幣の価値とは違っていた。

文明とは確かに人間の素心を失う、素朴さを失うものとして発展してきた。文明が発展することは商業が盛んになり商人はどうしても人間的素朴さをもつのがむずかしい。陶淵明時代のような農民ではありえないのだ。道具も鍬でさえ人間の素心を失うものとして否定されたとき今や道具の力、機械の力は巨大化して人間を極端に卑小化する、その力の差は歴然としている。手で麦を刈るのとコンバインでは千倍もの力の差がある。すると人間の力は極端に低く見られることになるのだ。文明は人間の素心を失わすものとして常にあり発展してきたのである。貨幣が神のように力をもつようになったのもそうである。


今や人間は金に使われている、人間より金がどこでも大事なのである。どんな人間でも今や金、金、金であり金なしでは呼吸さえできなくなっている、水を得るにも金だし基本的生活が自給的生活からかけ離れているかそうなった。今までは自給的生活がありその基礎を成していたものも金が必要になった。だから毎日金なしでは生活できない、人と接することはすべて金を通じてしかありえない、だから人と接するにしてもこの人と接して利益になるのか、金になるのかしか頭にないのである。これは世界中でそうなっているのだ。ラオスの山奥にテレビが入ってきたときテレビが欲しくて母親が娘でまだ少女なのに都会の売春宿で働かせていたのである。テレビ一台でもそうなるしまだ遅れている国ではバイクが足となっている。ベトナムでもバイクが車と同じ役割を果たしていて道路はバイクの洪水となっている。バイクなどたいしたことはないと思っているが日本で車がないと生活できないとなっているごとく価値あるものなのである。文明化するとどこでも人間は同じである。バイクの価値は実に大きい、一旦その力を知れば手放せなくなる。娘を売春宿に売ってまで文明の利器が欲しくなるのである。そこで人間の素朴さは失われるのだ。


而無車馬喧。    貴人の車馬の来訪する喧しい音はない 


馬車の音すら嫌っていた時代があった。今やどこでも車の騒音がある。山奥でも道のある所ではさけられない、つまり文明から逃れる場所はないのである。もちろん文明の中で接する人間は素朴な人はめったにない、特に団塊の世代、60代から70くらいまでは高度成長の物欲中心に生きてきた世代だから素朴な人などほとんどいない、金しか眼中にない人たちである。それは自分もふくめてそうなっているのだ。ただ75才辺りから上の人は貧乏に育っても素朴な人がまだいる。日本的義理人情に固い人がいる。でも義理人情などというとすでに死語化しているのだ。ということはそういう人すら今やいないということである。だから都会はもちろん田舎だって殺伐としている。病院であった大原の農家の人は素朴な人でありそういう人と接していると心がなごむ。75以上の人にまだ素朴な人がいるがそれ以下はいなくなってたのである。人間は文明により豊になったとしても本当に満足かとなると心が充たされたかとなると幸福になったかというとこれは別問題である。その時代時代の幸不幸があり幸福そのものは数量的に計ったりできないからそうなっている。人間は文明によって幸福になったとはいえないのだ。まず素心のある人がいないことは心を許せる人がいないということは自然もないことも殺伐とするが回りにそういうなごむ人がいないということは幸福だとはいえない、近くでも田舎でも心を許してなごむ人がいないことは殺伐としたものとなる。現実にそうなっているから現代は幸福な時代とは言えないのだ。


濁酒を飲むも心充たされ
美酒を飲むも心充たされじ
いづれがよしや
人の幸不幸は計られじ
天は二物を与えざるかも


人間は今豊になっても心は充たされていない、かえって樽酒や濁酒を飲んでも素朴な人がいて心充たされていた時代をなつかしむ。美酒をあびるほど飲んでも心を充たされない、それは心が充たされないやけ酒になっている。美酒でも心が充たされない、金持ちになっても心が充たされるとは限らない、豊になり富を得て心を充たされるとはならないのが人間なのである。だから昔は貧乏だから全部が不幸だったとはいえないだろ。つまり幸不幸は計れないのである。
人間は一方が充たされれば一方が充たされないようにできているのだ。現代は物質的に豊でも精神的に充たされていない、介護時代になって必要なのはいたわりあう心だがその心がない人が多いのである。頭の中が金しかないし現代は素朴な素心の人が少ないのだからかえって介護とか一番向いていな時代になっていたのは皮肉である。清い心の人は神を見るだろうというとき今清い心の人、素心なる人をみることは本当にまれだろう。だから宗教にしてもカルト教団でありそこに集る人は清い心の人でも素心なる人でもない、この世の欲望が充たされない人が不満をかこつ場がカルト教団であり世俗的欲望をかえって強い人が集る場なのである。もはや素心なる人が集る場所などない、そういう人はアウトサイダ-になるほかないだろう。現代はそういう点では不幸な時代だったともなるのだ。

2011年09月01日

万葉集の萩の歌の鑑賞


万葉集の萩の歌の鑑賞

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萩の素材はここより拝借
http://www.hagaki.skr.jp/hana/modules/tinyd3/index.php?id=7


娘女らに行相(ゆきあい)の早稲(わせ)を刈る時になりにけらしも萩の花咲く


宮人の  袖つけ衣  秋萩に匂ひよろしき  高円(たかまど)の宮    
                          大伴家持


秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き


鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも


秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ぬれば風をいたみかも



高円の地は、風流人の逍遥の地であるとともに、人々にとって忘れ得ない土地でもあった。高円の宮、あるいは峰上の宮などと呼ばれた聖武天皇の離宮が置かれたところでもあるからだ。
http://t-isamu.web.infoseek.co.jp/kosyaji-4.htm


行相(ゆきあい)行合道とかあるときそれは大和言葉だから地名は古いものとなる。早稲は今も作っているけど今は機械だからそうした風景は消えた。人の手で田植えしたり稲刈りしている姿は絵になっているがもはやない。万葉時代の風景は失われた。娘女らに行相(ゆきあい)という情緒もない、娘(おとめ)が農作業している姿も見かけない,そもそも農民自体が嫌われているしそういう野良仕事は醜いものとして今は見ているのだ。ホパ-ル辺りで娘が畑で仕事している姿が万葉の時代かと思った。着ているものは野良着だけど若いから美しいと感じる。若い人が農業にたずさわっている姿が今は見えない、この辺は放射能で今年は稲の実りはない。
ここでは早稲が実るとき萩も咲きだすという季節感が絶妙なのである。


次の高円の宮というのは天皇の宮だった。それで大伴家持が歌にした。宮人の  袖つけ衣  秋萩に匂ひよろしき・・・・とぇさに宮廷人らしい歌になる。萩は袖にふれやすいのである。昔の着物の袖は野を歩いているとふれやすい、高円の宮では聖武天皇の離宮が置かれたからその時世を偲んで歌にしている。匂ひよろしき・・・というのは萩の匂いと故人の聖武天皇の匂いよろしきにもなっている。みちのくではそうした古い歴史をたどることができない、聖武天皇の時代がありそのゆかりの場所に行けば歴史は身近になるのだ。それがみちのくではできない。東北の歴史は古代はない、蝦夷の時代だから歴史が抹殺されているからだ。


秋萩を散らす長雨の降るころは
・・・・こういう歌は当時の時間感覚にならないと鑑賞できない、江戸時代の時間感覚でもある。また言葉の感覚大事である。長雨という時、秋の雨でも長くふっている雨の感じになる。言葉の感覚が大和言葉を万葉集では味わうことが大切になる。


珠洲の郡より舟を発し、治布に還る時に、長浜の湾に泊り、月に光を仰ぎ見て作る歌一首

珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり 大伴家持


長浜というとき長い浜でありこれによって悠長の感じを出している。何かのびのびした感覚になる。かなりの距離を船をこいだことは確かである。漕ぎ来ればというとき人の手で漕ぐのだから実際は遅いのである。能登と月は今もあっている。長浜の浦というのが要点としてこの歌で生きているのだ。月が照って清涼感を出している。ここに見えるのは海と月と長々とした浦しかなかったのである。今はいろいろありすぎて原初の自然の美が損なわれているのだ。 ここは月の光だけに欲している気持ち良さがあるし万葉時代はみんなそうである。全体が自然の美の中につつまれているのだ。

次の鶉鳴くというのも鶉自体が今はいない、何かこの鳥によって素朴な感覚になる。
鶉鳴く里というか村というかそこはのどかな村であり村人は互いに知り合って気心が知れている。何でもないといえば何でもないがそういうのどかな村の風景が喪失したのが日本なのである。


秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ぬれば風をいたみかも


こういう歌も今は作れない、秋萩は見ていても下葉が紅葉する、紅葉色に変わるという細かいところまで見ていない、そういう変化を見ていたのはやはり自然と一体化して暮らしていたからそうなった。あらたまの・・・というときまた季節が変わってくる、荒い風が吹いてくる゛秋が深まってゆく、そういう日本の季節の移り変わりを絶妙に歌っている。そういう日本独特の季節感を喪失している。ただそうした日本人独特の細やかな感覚がもの作りに活かされているといとき伝統は活きているとなる。万葉集でも江戸時代でも時間感覚が違うから、鑑賞するには現代のせわしい時間感覚では鑑賞できないのである。

2011年10月25日

戦前の短歌より昔を偲ぶ (記憶に印象に残らない現代の生活)


戦前の短歌より昔を偲ぶ

(記憶に印象に残らない現代の生活)
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古泉千樫の短歌-明治40年-昭和2年
隣家に風呂によばれてかへるみち薄月ながら雪ちらつきぬ


今の時代、隣の風呂によばれることはない、これはやはり相当親しくなっていないとできない。今は風呂のない家はない、みんなそれなりに豊になっているからこういうことをしない、それで隣近所が助け合うこともなくなった。縁側だって隣近所の人がしょっちゅう来るからできたものである。今は縁側を作っている家もなくなっている。家は開放されていないそれぞれ閉ざされている。またそうした付き合いを嫌がるのが多くなった。家の中に入ってくるのを嫌がる。都会の人が田舎だと家の中に人を入れるから嫌だという人がいた。都会だと玄関くらいで話しして返す、普通はそうだから嫌だとなる。

雨上がり春の野みちを踏みてゆく草鞋のそこのしめりくるかも


この時代はまだ草鞋(わらじ)だった。底がしめってくるというときまさに実感なのである。草鞋は雨に弱いことは確かである。

 
冬の光りおだやかにして吾児が歩む下駄の音軽くこまやかにひびけり
下駄屋などが近くにあった。下駄を直す人が戦後まもなく子供時代にいたのである。下駄の音に風情を感じた時代である。


もの問へばことば少なき村の娘(こ)の長橋わたりけるかも


この長い橋は木の橋だろう。これは今の橋とは違っている。歩いてわたる橋なのである。だから印象に残るのだ。そういう悠長な時間を感じる必要があるのだ。


荷車に吾児(わこ)のせくれし山人もここの小みちに別れむとすも


荷車は荷物を運ぶものとして常にあった。これは車にのせるのとは違う。つまり昔はそういうことがいちいち心に残りやすい、記憶に残りやすいのだ。車だと記憶に残りにくい、早いから残りにくいのだ。そこに人間的なものが欠けてくる。車だとなにか人間のありがたみを感じない、便利な機械があり人間が存在しなくなるのである。

山の上に月はいでたりわが児よ父と手をとりまた徒歩(かち)ゆかむ


こういうことがいつまでも心に残るのだ。そして父と子の絆も深められていたのである。これが車だとそうはならない、人間はこうした日々の生活の中で心も作られてくる。だから現代という環境で人も作られてくる。車洪水の中ではそれに応じたせわしげな忍耐のない人間が作られてくるのだ。


吾が村の午鐘(ひるがね)のおときこゆなり一人庭にいて聴きにけるかも


山がひの二つの村のひる鐘の時の遅速もなつかしきかも


この午鐘とは寺の鐘なのか、江戸時代は土地によって時間が違っていた。
花の雲鐘は上野か浅草か 松尾芭蕉 ・・・・これは別々に聞こえてきた。今のように全部の時間が統一されていないのだ。全国一斉に同じ時間ではない、だからこそ同じ時間でもどっちの鐘の音なのかとなる。そういう現代と違った時間感覚なのである。


老いませる父によりそいあかねさす昼の厩(うまや)に牛を見てをり


老いませる・・・というとき牛を飼っている、牛とともに老いた父を見ているのだ。その歳月の長さを見ている。牛の存在感とともに父もあったのである。ただこの牛は今の牛とは違った牛だろう。

今の牛は主に肉牛になっている。昔の牛はまた別な役目があった。牛を食べていても何か違っていた。ただ家畜は家族の一員となっていた
ことは確かである。飯館村でも牛と別れることを悲しんでいたからである。


さ庭辺につなげる牛の寝たる音おほどかにひびく昼ふけにけり


牛がいるということは牛と一緒に生活していることは牛というものと一体化してくる。すると牛のリズムが人間のリズムになるから悠長な時間の中で生きることになる。現代は車時代だから車のリズムで生活している。すると切れやすい人間ができる。牛馬と一緒に生活することは動物を愛おしむ人間を作っていた。今はその代わりをペットがしてしいる。でも牛馬は生活と一体化してあったからペッとも違っていたのである。


相つぎて肺やむ人の出にけりこれの布団のかづき寝しもの


この頃国民病と言われたのが肺病である。実家の墓にも27才で肺病で死んだ人が埋まっているし肺病で死んだ若い人が多かったのだ。


素足にて井戸のそこひの水踏めり清水冷たく湧きてくるかも


昔は水道水ではないみんな井戸でありこれも実感である。

おぼろ夜の村の長みち嫁入りのむれにまじりてわが歩みゆく


村の長みちというときやはりこれも歩くから長いのである。車だったら今は短い道になってしまう。こういう情緒は生まれないし嫁入りなどという言葉も死語になっているのだ。


(東京)

両国橋を渡りしが停車場の食堂に来て珈琲-を飲む

コ-ヒ-をすでに飲んでいたのは意外だった。東京だったらコ-ヒ-飲んでいた。コ-ヒ-だげの店はなく食堂だった。
このコ-ヒ-を飲めるのは東京でも少なかった。

カフェから溢れる大正ロマン
http://www.y-21gp.com/coffee/STORY/storyAG.htm

いくたびか家は移れる崖下の長屋がうちに今日は移れる


アパ-トでなくて長屋と言っていたから江戸時代の延長であった。江戸時代の長屋は人は移動していない、明治以降は人が東京のなかでも移動するようになったのである。この違いは結構大きかったのである。都会では知らない人々が集まり住むようになったのである。


異国米たべむとはすれ病みあとのからだかよわき児らを思へり


ふるさとの父がおくれる白き米に朝鮮米をまぜてを焚くくも


異国米とはタイとかの米ではありえない、朝鮮米のことなのか?朝鮮では日本人が米作りしていた。その米が入ってきたのか?東京だからこういうことがあった。田舎ではありえないからだ。



江戸時代にもどろうとしてももどれない、江戸時代はわかりにくい、江戸時代を知るには大正時代とか明治時代を知る必要がある。しかし今や明治時代を生きた人はもう生きていない、大正時代を生きた人はまだ生きている。90以上でも生きている人は結構いるからだ。ただ明治時代と江戸時代は実際は全然違ったものとなっていた。継続はあったにししても違っていた。なぜなら母は製紙工場で働いたがそうした工場というのは江戸時代にないからだ。機織りをしていてもそれは工場ではない、個々人の家でしていたのである。ただ個々人の家でも大正時代辺りは機織り機がありしていた。そういう点で江戸時代からの継続があった。戦後十年くらいでも子供のときは江戸時代と通じる生活だった。燃料は炭とか薪であり本当に電気製品も何もない貧しい生活だったからである。それは江戸時代からの継続だったのである。高度成長時代から急速に社会は変わってしまった。

車時代になったとき人は歩かなくなった。この変化は大きい。歩かないということが人間の基本的なものを失う、ここにあげた歌のように親と子の絆も失ったりする。人間の生活はあわただしく通りすぎて記憶に残らなくなっている。それは人と人の関係もそうだしすべてについて記憶に残りにくくなっている。記憶に残るということは悠長な時間の中で記憶に残されるのである。新幹線で旅しても記憶に残るものが少ない。ただ通りすぎてゆくだけである。旅も記憶に残らないし生活そのものが記憶に残りにくくなっている。そういうことが人間喪失になっているのだ。豊になり便利になっても人間の生活の質は低下しているのだ。老人になると記憶だけになる。あなたの一生で記憶されたものは何ですかとなると意外とないことに気づく,それは現代の生活が機械中心であり人間中心でないからである。また人間は集団化組織化されると数として非人間化される。統計の数であり一人一人の人間の生活の質は計れない、そこに統計の欺瞞がある。人間の生活の質は何なのかというとき,かえって江戸時代が質的にはまさっていた。いくら豊に便利な生活しても人間の生活の質が向上するとは限らない、低下する場合もあった。人間はこの世に生きるのが一回限りとしたら人の出会いでも生活でも印象深いもの意義あるものとしたい、そういうことが現代生活では消失した。車でぶっとばすとすっきりするとかなるがそういうのはあとでふりかえると何も残らない、記憶に残らないのである。記憶に残る生活はやはり自然と共に悠長な時間を過ごしているときなのである。万葉集などはそうした人間の生活の記憶として残っているのだ。


鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも

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これも何でもないような歌なのだけど印象深いものがある。鶉は素朴なものであり古い里でありそこに長く住んでいる親しい人がいる。その人は互いに何も言わないでもわかりあう仲かもしれない、村の中でともに長く暮らした友である。それは村という全体の中で育まれた仲である。変わらぬ仲間である。相見つるかもというとき万葉集には常に相という言葉が出てくるのも人と他者が常に一体関係にあったから相がでてくる。今の言葉では相はでてこない、他人は突き放したモノののような対象物になっている。そして人間が一体化する背景の自然や村がなくなっている。人間の一体感はただ団体とか組織で作られる。宗教であれ組合であれ会社であれ何であれ組織団体として分類されて数化されるのである。人間が一対一で向き合うことはいない、人間は一つの経済単位消費単位一票とか物化されている。宗教団体でも一票として数として統計化される。その数をふやすことが権力化するからだ。だから人間が会うということは現代ではない、ただ貨幣を通じて物を媒介するものになる。人間を金として計算するのが普通である。だから人間の生活の質は低下している。

人間の充実した存在感は失われたのである。相見つるかも・・・というときこれは一時点ではない、その古りにし村が継続するかぎりその人と人は相見つるのであり長い継続がその人間関係にはあるのだ。現代は無数の人と会っても会っていない、人と人の連帯も生じない、ただ物を貨幣を通して媒介するのが人になっているのだ。これはマルクスの言う物神化だというのもわかる。もう人と人の関係は金を通じてしかありえないのだ。それが極端化すれば人はみな泥棒であり強盗である。ただそうすれば警察につかまるからとしないだけである。機会があれば奪ってやろうとしかない、みなそうなるから誰も信用できなくなったのである。心の中ではみんな家族意外は相手は金と思っているからだ。それ意外そもそも何も他人に対して求めるものがなくなっているからだ。金を通した人間関係しかなくなっているのだ。物を得るにはいいがこれが福祉関係だと金だけではないから困るのである。金では愛とか親切は買えないから困るのである。一億円くれるから愛してくれと言っても誰も愛してはくれない、一億円はもらうけど愛したりはしないのである。現代はだから身寄りがない人は余計に悲惨になることを体験から知ったのである。江戸時代は便利でなかったが存在意義があり一人一人が存在感があった。生活の質は江戸時代の方がまさっていたのである。金だけの関係の社会でなかったことはまちがいないのだ。