2012年01月18日

新年のあらたまの歌の再考 (失われた悠長な時間感覚)


新年のあらたまの歌の再考
(失われた悠長な時間感覚)

あらたまの、年は(き)来ゆきて、玉梓(たまづさ)の、使(つかひ)の来(こ)ねば、霞立つ、長き春日を、天地(あめつち)に、思ひ足(た)らはし、たらちねの、母が飼(か)ふ蚕(こ)の、繭(まよ)隠(こも)り、息(いき)づきわたり 我(あ)が恋(こ)ふる、心のうちを、人に言ふ、ものにしあらねば、松が根(ね)の 待つこと遠(とほ)み、天(あま)伝(つた)ふ、日の暮(く)れぬれば、白栲(しろたへ)の、我(わ)が衣手(ころもで)も、通(とほ)りて濡(ぬ)れぬ


正月も終わりだけどこの歌はなにか昔の生活が如実に歌われている。玉梓(たまづさ)の、使(つかひ)の来(こ)ねば・・・というとき現代は使ひが多すぎる。たまに来るから使ひも貴重になるけど今は情報過多であり絶えず暇なく使いがニュ-スが耳に入ってくる。考えてみると殺人事件にしても全国レベルとか世界レベルになればめずらしものではない。人間社会では常に起きてきたことである。

万葉時代辺りはそうしたニュ-スが聞こえない、聞きようがないのだ。使(つかひ)はめったに来ないから玉づさのとして貴重なものとして枕詞になった。使ひにしてしも歩いて来たりして伝えるとなると貴重だとなる。万葉人の満足は天地(あめつち)に、思ひ足(た)らはし・・であり常に天地に思いはせて天地の中にあった。繭(まよ)隠(こも)りというのも養蚕は万葉時代から戦後10年くらいまでも養蚕は盛んだった。養蚕のために二階で繭を飼うための作りの家が今でも残っている。随分古い歴史があったけど養蚕もすたれてしまった。どこの山の中でも養蚕があった。だからこの歌は時代的に別にかけ離れたものではないし最近まで日本人がつづけていた生活だった。確かにそういう二階が養蚕をするために作られた家々はまだ阿武隈高原辺りに今でも残っている。


心のうちを、人に言ふ、ものにしあらねば、松が根(ね)の 待つこと遠(とほ)み・・・ここにも何か悠長な時の流を感じる。性急に思いを果たすというようなものはない、松が根というのは待つにかけている。ここに時間の悠長さがあった。繭(まよ)隠(こも)りというとき外界との交渉があまりない生活だった。霞立つ長き春日を・・・これも山深く隠されているような感覚になる。万葉時代は時間の感覚が今とは違いすぎる。江戸時代でもそうだからそれ以前の万葉時代の時間感覚はそれ以上に悠長である。明治維新以後生活のリズムがあまりに変わりすぎた。天地を思うようなことはほとんどない、時計に追われ車に追われ情報に追われ金に追われ何かに追われつづけている。こうした天地のリズムにあわせた時間感覚からあまりにも離れすぎた生活になった。古代文明でもエジプト文明でもマヤ文明でも常に思っていたのは天地のことだった。そのためのピラミッドであり神殿であった。

現代では天地より石油であり原発とか科学や機械が天地より大事になった。そして天地すら操ることができるとして原発が作られた。天地より人間が作ったものが機械の方が技の方に関心がある。毎日株に一喜一哀している。そういう生活はやはり何か人間を天地から離れさせて人工的な世界がすべてのようになってしまった。そこに落とし穴があった。津波なども天地の成せる業でありそれは人間の思いを越えていた。
 

岡崎の月見に来ませ都人かどの畑芋煮てまつらなむ  大田垣蓮月


【通釈】岡崎に月を見にいらっしゃい。都の人よ、門の畑で採れた芋を煮てご馳走しましょう。

【語釈】◇岡崎 京都市左京区岡崎。◇かどの畑芋(はたいも) 門のそばの畑で収穫した芋。◇まつらなむ 御馳走しましょう。「名月へのお供え物として捧げましょう」の意にもなる。


京都市でも広いからこういう場所がまだあった。江戸時代から明治でもあった。こういうもてなしが本当のもてなしになる。前の畑でとれた新鮮なものを出される。それこそなんともいえぬ安らぎを与える。現代生活はいろいろ便利なんだけど失われたものも多い。人間が営々と変わらない天地との生活が喪失した。


鶉ふす門田(かどだ)のなるこ引きなれてかへりうきにや秋の山里(建礼門院右京太夫集)


かへりうきにや・・・都へ帰るのも憂(う)し・・ということなのか、大原の生活も慣れたからなのか?大原は一回行ったけど本当にここは京都からはかなり遠い、当時だったら都ははるかに遠い雲の彼方になる。バスで行っても二時間とかかかるから遠いのだ。門田とは家の前の田で重要な田であった。前田もそうである。家を中心にして生活があったからだ。都の暮らしを思いつつ大原の生活も慣れたということがあったのか?人間はどんなものでも慣れるというのは本当である。不便な生活でも不便なりになれるということもある。ただ一旦便利な生活をしたら不便な生活にもどれないことも人間の性(さが)である。昔がいいというとき現実としてはわからない、昔の現実を今も生きている人がアフリカや後進国に現実にいるからだ。その人達の仕事は薪を集めることや水をくむことが仕事でありインドでの嫁の仕事は遠くから水をくんでくることだったりする。それが重労働で長生きできないとなると労働に追われて体力を消耗している悲惨な生活だったとなる。もちろんまともに医者などにもかかれない生活である。ただこれだけ便利になっても天地から離れて失ったものがある。だから現代からは過剰に過去への郷愁が募ってくる。飯館村でもそうだがこの辺はまだ素朴な田舎でもあった。変わったにしろそれなりに素朴な田園風景が残っていたところである。それが原発事故で失われたから余計にそう思う。


母が飼(か)ふ蚕(こ)の、繭(まよ)隠(こも)り・・というとき母が中心としての家があった。母の重みが家と共にあった。それは家で仕事していたからである。会社に勤めているのではないからそうなった。いづれにしろこの万葉の歌は心なごむ歌である。何かそうした当たり前の人間的なものをうしなったから余計に現代からなつかしいものとなっているのだ。心のうちを、人に言ふ、ものにしあらねば・・・というとき今はあまりにも言いすぎる。語りすぎるということがある。すべてを人は他者に語りようがない、いくら思いがあってもただ黙って待つほかないというのがいいのである。

2011年11月12日

相馬六万石の城下町(フランスの詩と自分の詩の比較)

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相馬六万石の城下町

相馬六万石の城下町
城も見えずに残る濁る堀
狭き門一ついづこが城や
その名残も知れじ


街中に菊畑映えて
塀の内に柿のなる
昔の武士の屋敷にあらじ
通りをゆく人あわれ秋の暮


街のはし橋一つものさび古りて
塩地蔵常にしありしも
我がここを行き来して
病院に枯木三本堅く立ちしも


田町は昔栄えし所
柳長々と垂れしかも
相馬駒焼き代々の主
無愛想にいぶせく棲みぬ


城下町曲がれる路次の多しも
残る虫の音なお聞こゆ
晩菊の静かに日のあたり
古本屋により書を読みぬ


誰が眠る街中の墓所の静けく
相馬藩代々つづきぬ菩提かな
野馬追いに受け継ぐ
武士の勲し誉れ蘇りぬれ


相馬六万石の城下町
日頃知られぬ街なりき
この街訪ねる人もまれなりき
駅前に落葉してひそまりぬ


街を離れて昔の街道行けば
松並木に昔を偲びぬ
刈田の道も静かに農家かな
昔郷士や伝来の旗を蔵しぬ


城下町誰か棲みぬれ
畳屋の灯ともり仕事かな
野馬追いの今もつづけば
鎧師のなお技伝えぬ


月曇り六万石の城下町
鈍き銀色の雲の棚引き
華やかな栄のなしも
月影のもれし屋並かな


墨絵の色の地味な街
質素なる暮らしの昔かな
四方に田野の広がりて
城はつつましく暮れにけり

 



仏蘭西の小都会
            アンリイ・ド・レニエェ


起き出て我朝に街を出ずれば
道の敷石に足音高くひびきて
太陽の若き光は古びたる甍を暖め
Lirasの花は家々の狭き庭に咲く


人の歩みに先(さきだ)ちて足音の反響は
梢にそびるゆる苔の土塀の長きに伝わり
磨り減りし敷石は白き砂道に連なり
場末の町より野辺に走れり

やがて険しく上る山道より
日に照らされて丘のふもとに
悄然として狭く貧しく静かなる我が生まれし街の
見慣たる懐かしき屋根の見ゆるかな

長々と彼処に我が街は横たわる。流るる河ありて
その水は二度居眠りて二つの橋の下を過ぎ
散歩の道に茂りし木立は街にそびゆる
鐘撞堂の石と共に古びたり


うららうに澄み渡りて狭霧なき空気に
我が街は太き響きを我に送りくる
洗濯屋の杵と鍛冶屋の槌の音
打ち騒ぐ幼子の甲高くやさしき声


変わりなきわが街の浮世に思い出もあらず
繁華光栄の美麗もなくて
わが街はいつの世までも
今見るごとく小さき都にあらむ


我が街は耕せし野辺,高原、荒れし野に
又は牧場の間に立つ数ある街の一つなれば
何れとわかぬ小さきフランスの街の名に
旅する人はわが街の名さへ知らで過ぎぬべし


しかれども朝より夕べに移る徒然歩きの
長き思ひの一日は過ぎて
麦の畠のかなたに日はかくれ
林に通う細道暮れそめて


物のあいろもわかぬ夜
歩む足音険しき道にとどろきて
堰越す水音はるかに聞こえ
吹く風運河の木立に騒ぐ時


つかれて我は帰りくる街近く
ふと仰ぐ辺りの家の窓
帳さへなきガラス越し、ランプの壺に
石油の黄金色なす燈火の燃ゆるを見れば


杖にて探る夜の道、自ずと足も急がれて
われ思ひしる、我が墳墓の国土
懐かしき眼に闇の内よりいとも優しく
我が手をとりて引くがごとしと



外国は日本と全く違ったものと思う人もいる。でも外国を旅していると人間の住んでいる所は必ず共通性がある。ギリシャでもあそこは特に風土が地形が日本とにていたから親しみがあった。菜の花が一面に咲いていたのを見たとき、これは日本と同じじゃないかとつくづく思った。ギリシャは日本の地形と本当ににていたのである。ヨ-ロッパはフランスやドイツは山がほとんどないから地形的にはにていない、でも歴史的にはにていたのである。特に封建時代があり中世は城の時代でありにている。各地に領主がいて支配していたし騎士は日本の侍とにている。封建時代があるのはヨ-ロッパと日本だけである。中国にはない、巨大な帝国はあっても地方に領主がいて城で支配していたという歴史がない。今でも廃墟になった小さい城の跡が多いから日本とにているのだ。そして中世の時代は長かった。日本の城下町と中世の街もにているところがある。いかに古い石畳の路次がありそこを踏み歩むと歴史を感じるのである。そこはまさに日本の城下町でもあった。ただ石造りということが違っていた。石畳の道は中世からつづいている道である。その路次には聖人の像などが祭られていたりするが日本では地蔵になったりする。


磨り減りし敷石・・・というのはまさにそうである。流るる河ありてその水は二度居眠りて二つの橋の下を過ぎ・・・ここは日本とは違っている。河が大陸では運河のうよになっている。流れているか流れていないのかわからない、自然の河のようには見えないのである。だからその水は二度居眠りて二つの橋の下を過ぎ・・・というのはうまい表現である。日本の河は絶えず流れて滝だと外国人が言ったが外国の河はまさに眠っているという表現がぴったりである。そして橋はいかにも古い石の橋でありそれは街と連結していて街の一部のうようになっている。この辺は違っていてもこの詩は全体的に自分の作った詩とにていると思った。ランプの壺に石油の黄金色なす燈火の燃ゆるを見れば・・・これは日本では江戸時代なら行灯だった。江戸時代の風情は城下町に多少残っている。相馬市がなぜいつも行くとしんみりするのかというと高い建物が街の中にほとんどないからである。それは昔の江戸時代の街並みと同じである。江戸時代に高いビルはない、だからこそ「月天心貧しき街を通りけり-蕪村」これが現代のように高層ビルだったら月も映えないのである。江戸時代の江戸でも高いビルはないのだから自然が太陽でも月でも映えるのである。そこが昔を錯覚する。高いビルは情緒を壊すのである。外国でも旧市街と新市街は分かれている。旧市街は歴史地区であり歴史を偲べるのである。

いづれにしろ相馬市をたずねても何もないと旅人は感じる。それはこの詩と同じである。しかし城下町だからそれなりに歴史がある。相馬市はまだ野馬追いがあるから他よりはいい、ここが野馬追い発祥の地として自覚するからだ。ただ城もないしここが一体どこが城下町なのかとなる、武家屋敷もない、最近堀の跡が発見されたとか残っているのはあの濁った堀くらいなのである。そうすると他からここにきて昔を偲ぶということはなかなかむずかしい。一般的に昔を偲ぶということはむずかしいのである。現代のものだけが目に入りやすいからだ。でも相馬六万石でも城下町の歴史はあったのだから他とは違っている。原町とは違っている。細い路次が多いのもそのためである。田町は昔繁栄して馬屋などが並び漢詩にも残された。そういう残されたものからも昔を偲ぶことはできる。風景は変わっても回りは田んぼだからそんなに変わってもいないからだ。ともかく自分の作った詩とこの詩はにている。やはり人間はどこに住んでも人間である限り共通性が必ずでてくるものだと思った。エジプトなんかはなかなか現代からすでに理解しにくい、でもギリシャなどは理解しやすいのである。


江戸時代は墨絵の世界だった。着ているもの地味だったというし侍でも質素であり派手な暮らしをしてしいない、今ほど派手な暮らしをしている時はないのだ。現代は余りにも社会が変わりすぎてしまった。車社会というのも情緒を破壊した。TPPにしても車社会と関係している。車社会になったとき街の商店街は消失したし様々な古いものが破壊されたのである。そして財界がTPPを押し進めるのは自動車を売りたいとかのためでありその圧力が大きいのである。農家の人でも名古屋辺りでは車の生産に関係しているのだ。下請けになっていたりする。車の方が売りたいから農業は二の次にされる。車を売らなければ豊かな生活はできない、農業ではできないということでそうなっているのであり
車社会がそうしていることが根底にあることを見ないと事の深層はわからないのである。車社会が必然的に街の通りと商店街を破壊して農業も破壊してゆくということがあるのだ。車を売ってその税金で国が農家に補償しているということもある。そういうジレンマが常に現代にはあるのだ。


ともかくヨ-ロッパは日本と意外とにている。中国辺りだと大きすぎてとらえどころがない、封建社会もなかったから歴史的にもにていないのである。確かに漢字は共通でも社会自体はにていないのである。スケ-ルが大きすぎるとわかりにくくなるのだ。距離の感覚でも何でも日本とはかなり違っているのだ。ヨ-ロッパの中世は感覚的にわかりやすいのである。教会もカトリックだと日本の寺とにている。役所の一部でもあった。日本でも戸籍係のような役目を寺が果たしていたのである。寺の権力も結構大きかった。ヨ-ロッパの方が大きかったにしろにている。ただ外国でも昔を知ることはむずかしい。外国人でも日本に来たら東京辺りだとほとんど昔を偲べない、偲ぶものがない、皇居だって城がないのだから偲べないのである。やはり何か遺跡として残っていないと外国は特に昔を偲ぶことはむずかしいのである。

 
           

2011年10月25日

戦前の短歌より昔を偲ぶ (記憶に印象に残らない現代の生活)


戦前の短歌より昔を偲ぶ

(記憶に印象に残らない現代の生活)
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古泉千樫の短歌-明治40年-昭和2年
隣家に風呂によばれてかへるみち薄月ながら雪ちらつきぬ


今の時代、隣の風呂によばれることはない、これはやはり相当親しくなっていないとできない。今は風呂のない家はない、みんなそれなりに豊になっているからこういうことをしない、それで隣近所が助け合うこともなくなった。縁側だって隣近所の人がしょっちゅう来るからできたものである。今は縁側を作っている家もなくなっている。家は開放されていないそれぞれ閉ざされている。またそうした付き合いを嫌がるのが多くなった。家の中に入ってくるのを嫌がる。都会の人が田舎だと家の中に人を入れるから嫌だという人がいた。都会だと玄関くらいで話しして返す、普通はそうだから嫌だとなる。

雨上がり春の野みちを踏みてゆく草鞋のそこのしめりくるかも


この時代はまだ草鞋(わらじ)だった。底がしめってくるというときまさに実感なのである。草鞋は雨に弱いことは確かである。

 
冬の光りおだやかにして吾児が歩む下駄の音軽くこまやかにひびけり
下駄屋などが近くにあった。下駄を直す人が戦後まもなく子供時代にいたのである。下駄の音に風情を感じた時代である。


もの問へばことば少なき村の娘(こ)の長橋わたりけるかも


この長い橋は木の橋だろう。これは今の橋とは違っている。歩いてわたる橋なのである。だから印象に残るのだ。そういう悠長な時間を感じる必要があるのだ。


荷車に吾児(わこ)のせくれし山人もここの小みちに別れむとすも


荷車は荷物を運ぶものとして常にあった。これは車にのせるのとは違う。つまり昔はそういうことがいちいち心に残りやすい、記憶に残りやすいのだ。車だと記憶に残りにくい、早いから残りにくいのだ。そこに人間的なものが欠けてくる。車だとなにか人間のありがたみを感じない、便利な機械があり人間が存在しなくなるのである。

山の上に月はいでたりわが児よ父と手をとりまた徒歩(かち)ゆかむ


こういうことがいつまでも心に残るのだ。そして父と子の絆も深められていたのである。これが車だとそうはならない、人間はこうした日々の生活の中で心も作られてくる。だから現代という環境で人も作られてくる。車洪水の中ではそれに応じたせわしげな忍耐のない人間が作られてくるのだ。


吾が村の午鐘(ひるがね)のおときこゆなり一人庭にいて聴きにけるかも


山がひの二つの村のひる鐘の時の遅速もなつかしきかも


この午鐘とは寺の鐘なのか、江戸時代は土地によって時間が違っていた。
花の雲鐘は上野か浅草か 松尾芭蕉 ・・・・これは別々に聞こえてきた。今のように全部の時間が統一されていないのだ。全国一斉に同じ時間ではない、だからこそ同じ時間でもどっちの鐘の音なのかとなる。そういう現代と違った時間感覚なのである。


老いませる父によりそいあかねさす昼の厩(うまや)に牛を見てをり


老いませる・・・というとき牛を飼っている、牛とともに老いた父を見ているのだ。その歳月の長さを見ている。牛の存在感とともに父もあったのである。ただこの牛は今の牛とは違った牛だろう。

今の牛は主に肉牛になっている。昔の牛はまた別な役目があった。牛を食べていても何か違っていた。ただ家畜は家族の一員となっていた
ことは確かである。飯館村でも牛と別れることを悲しんでいたからである。


さ庭辺につなげる牛の寝たる音おほどかにひびく昼ふけにけり


牛がいるということは牛と一緒に生活していることは牛というものと一体化してくる。すると牛のリズムが人間のリズムになるから悠長な時間の中で生きることになる。現代は車時代だから車のリズムで生活している。すると切れやすい人間ができる。牛馬と一緒に生活することは動物を愛おしむ人間を作っていた。今はその代わりをペットがしてしいる。でも牛馬は生活と一体化してあったからペッとも違っていたのである。


相つぎて肺やむ人の出にけりこれの布団のかづき寝しもの


この頃国民病と言われたのが肺病である。実家の墓にも27才で肺病で死んだ人が埋まっているし肺病で死んだ若い人が多かったのだ。


素足にて井戸のそこひの水踏めり清水冷たく湧きてくるかも


昔は水道水ではないみんな井戸でありこれも実感である。

おぼろ夜の村の長みち嫁入りのむれにまじりてわが歩みゆく


村の長みちというときやはりこれも歩くから長いのである。車だったら今は短い道になってしまう。こういう情緒は生まれないし嫁入りなどという言葉も死語になっているのだ。


(東京)

両国橋を渡りしが停車場の食堂に来て珈琲-を飲む

コ-ヒ-をすでに飲んでいたのは意外だった。東京だったらコ-ヒ-飲んでいた。コ-ヒ-だげの店はなく食堂だった。
このコ-ヒ-を飲めるのは東京でも少なかった。

カフェから溢れる大正ロマン
http://www.y-21gp.com/coffee/STORY/storyAG.htm

いくたびか家は移れる崖下の長屋がうちに今日は移れる


アパ-トでなくて長屋と言っていたから江戸時代の延長であった。江戸時代の長屋は人は移動していない、明治以降は人が東京のなかでも移動するようになったのである。この違いは結構大きかったのである。都会では知らない人々が集まり住むようになったのである。


異国米たべむとはすれ病みあとのからだかよわき児らを思へり


ふるさとの父がおくれる白き米に朝鮮米をまぜてを焚くくも


異国米とはタイとかの米ではありえない、朝鮮米のことなのか?朝鮮では日本人が米作りしていた。その米が入ってきたのか?東京だからこういうことがあった。田舎ではありえないからだ。



江戸時代にもどろうとしてももどれない、江戸時代はわかりにくい、江戸時代を知るには大正時代とか明治時代を知る必要がある。しかし今や明治時代を生きた人はもう生きていない、大正時代を生きた人はまだ生きている。90以上でも生きている人は結構いるからだ。ただ明治時代と江戸時代は実際は全然違ったものとなっていた。継続はあったにししても違っていた。なぜなら母は製紙工場で働いたがそうした工場というのは江戸時代にないからだ。機織りをしていてもそれは工場ではない、個々人の家でしていたのである。ただ個々人の家でも大正時代辺りは機織り機がありしていた。そういう点で江戸時代からの継続があった。戦後十年くらいでも子供のときは江戸時代と通じる生活だった。燃料は炭とか薪であり本当に電気製品も何もない貧しい生活だったからである。それは江戸時代からの継続だったのである。高度成長時代から急速に社会は変わってしまった。

車時代になったとき人は歩かなくなった。この変化は大きい。歩かないということが人間の基本的なものを失う、ここにあげた歌のように親と子の絆も失ったりする。人間の生活はあわただしく通りすぎて記憶に残らなくなっている。それは人と人の関係もそうだしすべてについて記憶に残りにくくなっている。記憶に残るということは悠長な時間の中で記憶に残されるのである。新幹線で旅しても記憶に残るものが少ない。ただ通りすぎてゆくだけである。旅も記憶に残らないし生活そのものが記憶に残りにくくなっている。そういうことが人間喪失になっているのだ。豊になり便利になっても人間の生活の質は低下しているのだ。老人になると記憶だけになる。あなたの一生で記憶されたものは何ですかとなると意外とないことに気づく,それは現代の生活が機械中心であり人間中心でないからである。また人間は集団化組織化されると数として非人間化される。統計の数であり一人一人の人間の生活の質は計れない、そこに統計の欺瞞がある。人間の生活の質は何なのかというとき,かえって江戸時代が質的にはまさっていた。いくら豊に便利な生活しても人間の生活の質が向上するとは限らない、低下する場合もあった。人間はこの世に生きるのが一回限りとしたら人の出会いでも生活でも印象深いもの意義あるものとしたい、そういうことが現代生活では消失した。車でぶっとばすとすっきりするとかなるがそういうのはあとでふりかえると何も残らない、記憶に残らないのである。記憶に残る生活はやはり自然と共に悠長な時間を過ごしているときなのである。万葉集などはそうした人間の生活の記憶として残っているのだ。


鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも

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これも何でもないような歌なのだけど印象深いものがある。鶉は素朴なものであり古い里でありそこに長く住んでいる親しい人がいる。その人は互いに何も言わないでもわかりあう仲かもしれない、村の中でともに長く暮らした友である。それは村という全体の中で育まれた仲である。変わらぬ仲間である。相見つるかもというとき万葉集には常に相という言葉が出てくるのも人と他者が常に一体関係にあったから相がでてくる。今の言葉では相はでてこない、他人は突き放したモノののような対象物になっている。そして人間が一体化する背景の自然や村がなくなっている。人間の一体感はただ団体とか組織で作られる。宗教であれ組合であれ会社であれ何であれ組織団体として分類されて数化されるのである。人間が一対一で向き合うことはいない、人間は一つの経済単位消費単位一票とか物化されている。宗教団体でも一票として数として統計化される。その数をふやすことが権力化するからだ。だから人間が会うということは現代ではない、ただ貨幣を通じて物を媒介するものになる。人間を金として計算するのが普通である。だから人間の生活の質は低下している。

人間の充実した存在感は失われたのである。相見つるかも・・・というときこれは一時点ではない、その古りにし村が継続するかぎりその人と人は相見つるのであり長い継続がその人間関係にはあるのだ。現代は無数の人と会っても会っていない、人と人の連帯も生じない、ただ物を貨幣を通して媒介するのが人になっているのだ。これはマルクスの言う物神化だというのもわかる。もう人と人の関係は金を通じてしかありえないのだ。それが極端化すれば人はみな泥棒であり強盗である。ただそうすれば警察につかまるからとしないだけである。機会があれば奪ってやろうとしかない、みなそうなるから誰も信用できなくなったのである。心の中ではみんな家族意外は相手は金と思っているからだ。それ意外そもそも何も他人に対して求めるものがなくなっているからだ。金を通した人間関係しかなくなっているのだ。物を得るにはいいがこれが福祉関係だと金だけではないから困るのである。金では愛とか親切は買えないから困るのである。一億円くれるから愛してくれと言っても誰も愛してはくれない、一億円はもらうけど愛したりはしないのである。現代はだから身寄りがない人は余計に悲惨になることを体験から知ったのである。江戸時代は便利でなかったが存在意義があり一人一人が存在感があった。生活の質は江戸時代の方がまさっていたのである。金だけの関係の社会でなかったことはまちがいないのだ。

2011年09月01日

万葉集の萩の歌の鑑賞


万葉集の萩の歌の鑑賞

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萩の素材はここより拝借
http://www.hagaki.skr.jp/hana/modules/tinyd3/index.php?id=7


娘女らに行相(ゆきあい)の早稲(わせ)を刈る時になりにけらしも萩の花咲く


宮人の  袖つけ衣  秋萩に匂ひよろしき  高円(たかまど)の宮    
                          大伴家持


秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き


鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも


秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ぬれば風をいたみかも



高円の地は、風流人の逍遥の地であるとともに、人々にとって忘れ得ない土地でもあった。高円の宮、あるいは峰上の宮などと呼ばれた聖武天皇の離宮が置かれたところでもあるからだ。
http://t-isamu.web.infoseek.co.jp/kosyaji-4.htm


行相(ゆきあい)行合道とかあるときそれは大和言葉だから地名は古いものとなる。早稲は今も作っているけど今は機械だからそうした風景は消えた。人の手で田植えしたり稲刈りしている姿は絵になっているがもはやない。万葉時代の風景は失われた。娘女らに行相(ゆきあい)という情緒もない、娘(おとめ)が農作業している姿も見かけない,そもそも農民自体が嫌われているしそういう野良仕事は醜いものとして今は見ているのだ。ホパ-ル辺りで娘が畑で仕事している姿が万葉の時代かと思った。着ているものは野良着だけど若いから美しいと感じる。若い人が農業にたずさわっている姿が今は見えない、この辺は放射能で今年は稲の実りはない。
ここでは早稲が実るとき萩も咲きだすという季節感が絶妙なのである。


次の高円の宮というのは天皇の宮だった。それで大伴家持が歌にした。宮人の  袖つけ衣  秋萩に匂ひよろしき・・・・とぇさに宮廷人らしい歌になる。萩は袖にふれやすいのである。昔の着物の袖は野を歩いているとふれやすい、高円の宮では聖武天皇の離宮が置かれたからその時世を偲んで歌にしている。匂ひよろしき・・・というのは萩の匂いと故人の聖武天皇の匂いよろしきにもなっている。みちのくではそうした古い歴史をたどることができない、聖武天皇の時代がありそのゆかりの場所に行けば歴史は身近になるのだ。それがみちのくではできない。東北の歴史は古代はない、蝦夷の時代だから歴史が抹殺されているからだ。


秋萩を散らす長雨の降るころは
・・・・こういう歌は当時の時間感覚にならないと鑑賞できない、江戸時代の時間感覚でもある。また言葉の感覚大事である。長雨という時、秋の雨でも長くふっている雨の感じになる。言葉の感覚が大和言葉を万葉集では味わうことが大切になる。


珠洲の郡より舟を発し、治布に還る時に、長浜の湾に泊り、月に光を仰ぎ見て作る歌一首

珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり 大伴家持


長浜というとき長い浜でありこれによって悠長の感じを出している。何かのびのびした感覚になる。かなりの距離を船をこいだことは確かである。漕ぎ来ればというとき人の手で漕ぐのだから実際は遅いのである。能登と月は今もあっている。長浜の浦というのが要点としてこの歌で生きているのだ。月が照って清涼感を出している。ここに見えるのは海と月と長々とした浦しかなかったのである。今はいろいろありすぎて原初の自然の美が損なわれているのだ。 ここは月の光だけに欲している気持ち良さがあるし万葉時代はみんなそうである。全体が自然の美の中につつまれているのだ。

次の鶉鳴くというのも鶉自体が今はいない、何かこの鳥によって素朴な感覚になる。
鶉鳴く里というか村というかそこはのどかな村であり村人は互いに知り合って気心が知れている。何でもないといえば何でもないがそういうのどかな村の風景が喪失したのが日本なのである。


秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ぬれば風をいたみかも


こういう歌も今は作れない、秋萩は見ていても下葉が紅葉する、紅葉色に変わるという細かいところまで見ていない、そういう変化を見ていたのはやはり自然と一体化して暮らしていたからそうなった。あらたまの・・・というときまた季節が変わってくる、荒い風が吹いてくる゛秋が深まってゆく、そういう日本の季節の移り変わりを絶妙に歌っている。そういう日本独特の季節感を喪失している。ただそうした日本人独特の細やかな感覚がもの作りに活かされているといとき伝統は活きているとなる。万葉集でも江戸時代でも時間感覚が違うから、鑑賞するには現代のせわしい時間感覚では鑑賞できないのである。

2011年02月15日

素心、素朴な人が失われ時代(漢詩よりふりかえる)


素心、素朴な人が失われ時代(漢詩よりふりかえる)


    杜甫


    舎南舎北皆春水   舎南(しゃなん) 舎北(しゃほく) 皆 春水(しゅんすい)
  但見群?日日来   但(た)だ見る  群?(ぐんおう)の日日(にちにち)来たるを
  花径不曾縁客掃   花径(かけい)  曾(かつ)て客に縁(よ)って掃(はら)わず
  蓬門今始為君開   蓬門(ほうもん)  今 始めて君が為に開く
  盤?市遠無兼味   盤?(ばんそん) 市 遠くして兼味(けんみ)無く
  樽酒家貧只旧?   樽酒(そんしゅ)  家 貧にして只だ旧?(きゅうばい)あり
  肯与隣翁相対飲   肯(あえ)て隣翁(りんおう)と相(あい)対して飲まんや
  隔籬呼取尽余杯   籬(まがき)を隔てて呼び取りて 余杯(よはい)を尽さしめん


  ⊂訳⊃
          草堂の南も北も  豊かな春の水
          目に入るものは  日ごとにやってくる?たち
          花散る小径も  客が来るからといっても掃除せず
          粗末な蓬門も  あなたのために初めて開く
          大皿の料理は 市場が遠いのでありきたりの品
          家が貧しくて  樽には古い酒があるだけです
          隣家の老人と  いっしょに飲んでみませんか
          垣根越しに呼び寄せて  残りの酒を平らげてもらう



陶淵明


 登高賦新詩  高きに登りて新詩を賦す
 
   過門更相呼  門を過ぐれば更ごも相呼び
  有酒斟酌之  酒有らば之を斟酌す
  農務各自歸  農務には各自歸り
  閑暇輒相思  閑暇には輒ち相思ふ
  相思則披衣  相思へば則ち衣を披き
  言笑無厭時  言笑厭く時無し
  此理將不勝  此の理 將た勝らざらんや
  無爲忽去茲  忽ち茲を去るを爲す無かれ
  衣食當須紀  衣食 當に須く紀むべし
  力耕不吾欺  力耕 吾を欺かず


陶淵明「飲酒二十首」


結盧在人境。    盧を人里に結んで住んでいるが
而無車馬喧。    貴人の車馬の来訪する喧しい音はない 
問君何能爾。    どうしてこんなに静かに暮すことが出来るかと言うと
心遠地自偏。    心が遠く世俗を離れていれば住む地も僻遠の地になる
采菊東籬下。    家の東の籬の下に咲いている菊を採って立上ると
悠然見南山。    ゆったりと南方の山を見るともなく眺めるのである 
山気日夕佳。    山に湧く気は、日中でも夕方でもそれぞれ美しく 
飛鳥相與還。    朝出た鳥が夕方に飛び連れて山に帰って行くのである
此中有真意。    その中に万象の奥の真理、自然の道理の意味を感じる
欲辨已忘言。    語ろうとすると言葉を忘れ、真実は言葉では語れない


  昔欲居南村(昔、南村に住みたいと欲したのは) 
 非為ト其宅(占いによるものではない)
 聞多素心人(ここには素心の人が多いと聞き)
 楽輿数晨夕(ともに楽しく暮らしたいと思ったからだ)
 懐比頗有年(長い間、考えてきたが)
 今日従茲役(今日、それがかなった。以下、詩を省略)



素心とは
「人間の心はもともと純真なものですが、
 名利を追うに連れて汚れに染まり、
 欲望や野心からさまざまに色がついてきます。
 そんな汚染や着色を去って
 本来の純真に返った心のことを
 中国の詩人の陶淵明は「素心」と呼んでいます」


 樽酒(そんしゅ)は濁酒でありどぶろくだった。高価な酒は飲めなかった。これも今のように豊ではないが心の満足があったことはまちがいない、隣翁というのは素朴な人だった。素心なる人の集る場所を求めてというのもあるから素朴な人がいる所に住みたい詩も書いている。今の時代まず素朴な人はいなくなっている。農家の人でも素朴な人はまれになっている。なぜならすべてが金の時代になったときそうなったのである。貨幣経済ではないこれは自給自足的な生活を理想としているのは金の時代になると素朴な心を失うからである。これは老子の時代から二千年前から言われてきた文明否定の思想である。鍬でも道具を使うと人間の素朴さは失われると言っていた。文明とは人間本来の素朴さを失うものとして生まれ2千年前からそのことは警告されていた。


現代はまさにその頂点に達した時代である。人間の素心とか素朴さは全く失われた。グロ-バルに貨幣が流通して金の力が世界的な力となった。人が求めるのは金だけとなった。貨幣の発生は謎にしろ贅沢品が貨幣になったことはいえる。貨幣にかかわる漢字が貝になっているとき財が貝になっているのは南方の珍しい貝が貨幣になっていることが如実にそのことを示しているのだ。貨幣はもともと装飾品でもあるから金銀や宝石も貨幣になりやすい、日常の生活必需品より贅沢な余剰のものとして貨幣が生まれたのである。だから貨幣はこんなに何でも交換できるものではなかった。南の島では貨幣は威信財であり巨大な石の貨幣であった。それは使われることもなかったのである。貨幣で何でも交換できるものではなかったのである。その交換もあいまいであり塩と黄金が平等に交換されていた。塩は黄金と同じ価値があったのである。現代の貨幣の価値とは違っていた。

文明とは確かに人間の素心を失う、素朴さを失うものとして発展してきた。文明が発展することは商業が盛んになり商人はどうしても人間的素朴さをもつのがむずかしい。陶淵明時代のような農民ではありえないのだ。道具も鍬でさえ人間の素心を失うものとして否定されたとき今や道具の力、機械の力は巨大化して人間を極端に卑小化する、その力の差は歴然としている。手で麦を刈るのとコンバインでは千倍もの力の差がある。すると人間の力は極端に低く見られることになるのだ。文明は人間の素心を失わすものとして常にあり発展してきたのである。貨幣が神のように力をもつようになったのもそうである。


今や人間は金に使われている、人間より金がどこでも大事なのである。どんな人間でも今や金、金、金であり金なしでは呼吸さえできなくなっている、水を得るにも金だし基本的生活が自給的生活からかけ離れているかそうなった。今までは自給的生活がありその基礎を成していたものも金が必要になった。だから毎日金なしでは生活できない、人と接することはすべて金を通じてしかありえない、だから人と接するにしてもこの人と接して利益になるのか、金になるのかしか頭にないのである。これは世界中でそうなっているのだ。ラオスの山奥にテレビが入ってきたときテレビが欲しくて母親が娘でまだ少女なのに都会の売春宿で働かせていたのである。テレビ一台でもそうなるしまだ遅れている国ではバイクが足となっている。ベトナムでもバイクが車と同じ役割を果たしていて道路はバイクの洪水となっている。バイクなどたいしたことはないと思っているが日本で車がないと生活できないとなっているごとく価値あるものなのである。文明化するとどこでも人間は同じである。バイクの価値は実に大きい、一旦その力を知れば手放せなくなる。娘を売春宿に売ってまで文明の利器が欲しくなるのである。そこで人間の素朴さは失われるのだ。


而無車馬喧。    貴人の車馬の来訪する喧しい音はない 


馬車の音すら嫌っていた時代があった。今やどこでも車の騒音がある。山奥でも道のある所ではさけられない、つまり文明から逃れる場所はないのである。もちろん文明の中で接する人間は素朴な人はめったにない、特に団塊の世代、60代から70くらいまでは高度成長の物欲中心に生きてきた世代だから素朴な人などほとんどいない、金しか眼中にない人たちである。それは自分もふくめてそうなっているのだ。ただ75才辺りから上の人は貧乏に育っても素朴な人がまだいる。日本的義理人情に固い人がいる。でも義理人情などというとすでに死語化しているのだ。ということはそういう人すら今やいないということである。だから都会はもちろん田舎だって殺伐としている。病院であった大原の農家の人は素朴な人でありそういう人と接していると心がなごむ。75以上の人にまだ素朴な人がいるがそれ以下はいなくなってたのである。人間は文明により豊になったとしても本当に満足かとなると心が充たされたかとなると幸福になったかというとこれは別問題である。その時代時代の幸不幸があり幸福そのものは数量的に計ったりできないからそうなっている。人間は文明によって幸福になったとはいえないのだ。まず素心のある人がいないことは心を許せる人がいないということは自然もないことも殺伐とするが回りにそういうなごむ人がいないということは幸福だとはいえない、近くでも田舎でも心を許してなごむ人がいないことは殺伐としたものとなる。現実にそうなっているから現代は幸福な時代とは言えないのだ。


濁酒を飲むも心充たされ
美酒を飲むも心充たされじ
いづれがよしや
人の幸不幸は計られじ
天は二物を与えざるかも


人間は今豊になっても心は充たされていない、かえって樽酒や濁酒を飲んでも素朴な人がいて心充たされていた時代をなつかしむ。美酒をあびるほど飲んでも心を充たされない、それは心が充たされないやけ酒になっている。美酒でも心が充たされない、金持ちになっても心が充たされるとは限らない、豊になり富を得て心を充たされるとはならないのが人間なのである。だから昔は貧乏だから全部が不幸だったとはいえないだろ。つまり幸不幸は計れないのである。
人間は一方が充たされれば一方が充たされないようにできているのだ。現代は物質的に豊でも精神的に充たされていない、介護時代になって必要なのはいたわりあう心だがその心がない人が多いのである。頭の中が金しかないし現代は素朴な素心の人が少ないのだからかえって介護とか一番向いていな時代になっていたのは皮肉である。清い心の人は神を見るだろうというとき今清い心の人、素心なる人をみることは本当にまれだろう。だから宗教にしてもカルト教団でありそこに集る人は清い心の人でも素心なる人でもない、この世の欲望が充たされない人が不満をかこつ場がカルト教団であり世俗的欲望をかえって強い人が集る場なのである。もはや素心なる人が集る場所などない、そういう人はアウトサイダ-になるほかないだろう。現代はそういう点では不幸な時代だったともなるのだ。

類似類想俳句


根岸郊外二句

竹たてて冬菜を囲む畠かな  子規
                                                                                        
この道や竹に冬菜に何もなし   
                                                            

http://musubu.sblo.jp/article/43137804.html


俳句は分類すると類似俳句が結構あるだろう。これもかなりにている。根岸郊外で上野の近くにこんな光景があること自体今では信じられない、「汽車過ぐるあとを根岸の夜ぞ長き-子規」これもそうした淋しい静かな上野だからこそできた。上野がそんなに淋しい所だったのかとなる。子規の住んだ家が保存されていても今はラブホテルの中にあり全然風情がない、興ざめした。第一冬菜を題材にしていること自体想像できない、そんな畠があったこと自体が東京からは想像できない、松山辺りならまだ想像できる。城の近くを牛が歩いていた。そういう江戸時代でも想像できるが東京は想像できない、子規の句も写生でありとりたててめずらしくもないがやはり竹がここに出てきたのは一致している。自分が何もなしとしたのは写生になっていないがこの道は何度も通っている道である。上野で冬菜が俳句にできる時代があった。その変わり方はあまりにも激しすぎたのである。子規庵で風流を感じることはありえない、回りがラブホテル街でありそんなところにあること自体そぐわないからだ。冬菜はやはり田舎でこそふさわしいものだろう。ともかく俳句は類似俳句がありそれを分類して鑑賞すると面白い。これも同じ発想で作っていると共感するからだ。

春風や道標元禄四年なり  碧梧桐


葛尾(かつろうに)夏草埋もる元禄の碑
http://musubu.sblo.jp/article/15958029.html


これは元禄ということ類似俳句である。元禄というと華やかな感じがする。ちょうど芭蕉の時代だった。奥の細道も元禄時代に来ている。一方で山深い葛尾(かつろう)村の落合にきて夏草に埋もれる碑を発見した。それが元禄だった。碑や墓をずいぶん見たが元禄時代は見ていなかった。それが葛尾(かつろう)村にあったから不思議だった。明暦はもっと前でありこの時代検地があってその記念にしるされたものか知れない、江戸時代にもいろいろ年号があり時代の雰囲気があったのだろう。明治以降は「降る雪や明治は遠くなりにけり・・・」で一時代を作ったがその後大正生まれとかなると短いし一時代をみることがむずかしくなる。さらに昭和になると戦前と戦後に別れ時代はまるっきり違っているからこうした年号は無理になっているのかもしれない、やはり西暦の方が世界がどうなっていたかとかグロ-バルになっているから日本だけの年号はあわなくなってしまったのかもしれない、元禄は確かに特別なものがあった。元禄時代は明治時代のようなものだったかもしれない、戦乱も収まり華やかな江戸の文化が開花した時代だった。でも東北ではそんな文化は花開かない、伊達政宗が伊達ものとして華やかに装ったのはかえって貧乏だから背伸び死して無理していたというのは納得がいく、本当に江戸のように栄えたからそうなったのではなかったのである。東北は元禄でも夏草に元禄の碑が埋もれていた感覚である。


類似俳句は他にも相当ありそこから見えてくるものが面白い。これは俳句が季語を通じて分類されるように類似俳句が多くなる文学だからで
ある。


寒さ(芭蕉と類想俳句)
http://musubu2.sblo.jp/article/35125995.html

2010年09月23日

蕎麦の花の句

そばの花山かたむけて白かりき     青邨

蕎麦の花は確かに咲いたのを見たけど山全体に咲いているのを見てはいない、平地に咲いているのは見ている。昔は蕎麦の栽培が盛んだからこういうことがあったのだろう。尾瀬への入り口の檜枝岐辺りは相当な奥地だから米がとれないから主食は蕎麦だった。そういう山間地があったから蕎麦の花も山全体に咲いていた。会津辺りにはそういう所が多い地域である。
日本では野というとき傾斜地のことであり平らな所ではない、日本は山が多いから傾斜地が多いのだ。その野に一面に咲いているのが蕎麦の花だった。これは極めて日本的風景だった。
でも日本人はとをしても米を食べたかったからどんな山奥までも田を作っていった。傾斜地でも棚田を作った。蕎麦は山間の寒い地域でもとれるから主食代わりになるから食料として欠かせなかったのである。

蕎麦の花の句
http://saruhiko.humaniste.net/nightcap/11.html

どこかにこうした句でもでているのがインタ-ネットである。
「蕎麦はまだ 花でもてなす 山路哉 芭蕉」
蕎麦は花の方が目立つ場合が多い。芭蕉は生活的実感より美的に見ているのだ。自分もそうである。実際に蕎麦を栽培して食料として欠かせないものとして見ていたらそうはならないだろう。花より実の方が大事になるからだ。花より実を丹念にみるようになるからだ。花でもてなす比重が大きくなったのが現代であるがやはり実を求めてるのも確かである。檜枝岐でも蕎麦が食べたくて行くのではない、尾瀬に花をみたくて行くのである。「夏になると思い出す、遠い尾瀬、水芭蕉が夢見て咲いている・・・・」花を求めてゆくのだが一方で味を求めて行くグルメ旅もある。忘れられないのは新潟の小出で鮎の塩焼きをたまたま食堂で食べたことだった。魚野川でとれたものだろう。新鮮であり本当にうまかった。天然の鮎だった。あと鮎を食べたが養殖の鮎であり大きいのだがうまくなかった。今になると鮎は食べることはできない、川でとれていても小さくてほとんど鮎の味がしない、ここ二十年くらいそうした天然の鮎を食べたことがない、だから天然の鮎を食べてみたいなということはある。
自分の場合は旅して食べることにはあまり興味なかった。金がないから食べるより旅することが第一であった。旅はどうしても安上がりにしようとししても金がかかるのだ。自分はこれまで百万単位の金を使ったことがないからなんか貧乏性であった。たまたまちょっと遺産が入ったから金が使えるなと庭作りに使ったのである。旅行でも百万で旅行したことないからだ。海外旅行でも五〇万以下でありそれより安宿に泊まるから高くても三〇万くらいだった。貧乏旅行だったのである。旅行はでも相当に贅沢なものだった。暇と金と体力とかそろわないとできないものだった。今になるともう長い旅はできない、金があるが暇とか体力とか喪失してきたからだ。つくづく退職してから鹿児島から青森まで歩く人がいたがその気持ちはわかる。「自由になった、金も暇もある、旅をするぞ・・・」となりあんな過酷な旅に出かけたのである。それまで勤めていたらそんな旅できようがないからだ。そういう人が海外でもいた。退職した人でありやっと自由に旅できるようになったとバックパッカ-になっていたのだ。
でもなんか若い人に交じりにあわない、そぐわない、ジジイになっているからだ。ギブミ-チョコレ-トの時代の人だから団塊の世代より5、6年前に生まれた人だろう。子供のとき進駐軍にギブミ-チョコレ-トとしてたかっていたのである。5、6年違っても世代の違いはある。団塊の世代は誤解しやすいがギブミ-チョコレ-トの時代ではない、でも都会ではアメリカの進駐軍関係していたかもしれない、アメリカの脱脂粉乳とかを給食に飲まされた時代だからまだ敗戦の後遺症が深く残っていた時代なのである。
今年は初秋とか仲秋の名月とか秋深まるとか季節感がなくなっている。やっと猛烈な暑さが終わって涼しくなった、秋が短くすぐに冬になる感覚である。こうなると四季の感覚が薄れ俳句の文化すら破壊されることを感じた。俳句は日本の四季と密接に結びついてできた文化だからである。今年は春と秋が短い、北海道は冬と夏が主であり大陸でも寒い地域だとそうなるがそれとにてきたのかもしれない、いづれにしろこんな四季になったら日本の文化自体が破壊されることを感じた猛烈な暑さだった。これが地球温暖化のせいだとすると大きな問題だと意識される。こんな猛烈な暑さの中で生活するとなるともう嫌だとなってしまうからだ。地球温暖化は自然現象だと思っている人が多い。今回も百年に一度の異常気象だとしているからやはり地球温暖化のせいだとは一般的にはまだまだ思っていない、その辺の見極めがつかないから困るのだ。

2010年03月10日

管 茶山「冬夜読書」の漢詩を読んで・・

 管 茶山「冬夜読書」の漢詩を読んで・


石川忠久著「日本人の漢詩」(大修館書店'03年2月20日発行)から抜粋
管 茶山(かんちゃざん)の七言絶句「冬夜読書」


雪擁山堂樹影深 (雪は山堂を擁して樹影深し)

檐鈴不動夜沈沈 (檐鈴動かず 夜沈沈)

閑収乱帙思疑義 (閑(しず)かに乱帙(らんちつ)を収めて疑義を思う)

一穂青燈万古心 (一穂(いっすい)の青燈 万古の心) 

 雪が山中の庵を囲み、外の木々の影もこんもりと見える
 

  軒端(のきば)の鈴もひっそりと音を立てず、冬の夜はしんしんとふけゆく

 取り散らかした書物をしずかに片付けつつ、疑問の点を考えると

 じっと燃える青い燈火を通して、先哲の心が伝わってくる

 

この漢詩が福島県の県立高校の入試に出ていた。 高校入試にしてはむずかしいだろう。なぜならこの内容を自分は老人になって理解できるものである。これが今の季節にぴったりなのだ。今年は寒い、昨夜も雪であり今日も外の風は冷たい、現実に雪がとけずに残っている。
これと同じことを昨夜は夜遅くまで起きて経験した。どういうわけか自分が一番読んだ本は聖書ではない、ショ-ペンハウエルの本を一番愛読した。おそらく気質的にあっていたのだろう。他にも確かに古典を読んだが若いときは理解できないことが多かった。でもわからなくても古典を読むことには価値があるし家に良書をおくこと自体、価値あることなのだ。何かの折りに手にとることがあるからだ。「じっと燃える青い燈火を通して、先哲の心が伝わってくる」夜の暗闇の中の灯火に先哲の言葉が伝わってくるというのは今でもそうである。江戸時代の闇はさらに深いから余計そうなる。「取り散らかした書物をしずかに片付けつつ、疑問の点を考えると」というのも部屋に本を重ね散らかしている、その一冊一冊をランダムに読んでみる、すると記憶が蘇りこんなことが書いてあったのかと見直すことがよくある。本の読み方としてランダムにペ-ジを読むことも読書の方法なのである。これは相当読書して老人になったとき特にそうなのである。やはり読書も積み重ねであり努力なのである。いい本を古典をある程度若い内読んでいないとあとで読めなくなる。

そして人間はいかに本を読むにしてもその本が限られているかわかる。今や知識は江戸時代の億倍になっている。だからつまらない情報、本に映像に浪費されること多い。もう映像が主流となるとき読書はしない、本は読まない時代ともなっている。映像を見て本を読んで音楽を聴いて・・・・そんなに人間いろいろなことを消化できないのだ。情報過剰化の世界で何を読んでいいか誰に習うべきなのかさえわからない、本も無数に出てくるし情報も毎日のようにあふれだしてくる。そういう時代に的をしぼって読むということも大事になる。ただその的をしぼることがむずかしい。結局老年になって読書の総決算が生じてくる。あなたが何を読んだのか?それが問われる。漫画ばかり読んでいたらあなたが老年で゛ふりかえるのは漫画である。老人になるとあらゆることの総決算が起きてくるのだ。読書というけど人間が吸収できる知識はほんのわずかである。青年時代はそんなことは思わない、時間はたっぷりあるし本なんていくらでも読めると思っている。実際は遂には本すらわずかしか読めないし印象に残るものもわずかなのである。そしていかに人間は多くのことを知らないか理解していないか老人になっても知るだろう。


この漢詩にしても有名だから普通文学をたしなむ人なら知っているはずである。ところが自分は知らなかった。基本的に知っているべきものを知らないことが多い、それは教養がないということなのだ。江戸時代の人間は現代のような膨大な知識とか技術とかの世界ではない、極めて人間的世界に生きていた。例えば春の雪の俳句で書いたけど歩くということが江戸時代では普通である。今は歩くことがない、だから歩道を雪がふりぬれて消えてゆく、歩道だからそう感じる。雪の中を歩く姿に情緒があふれている。今は車が走るだけであり人の歩く姿が見えないし歩いていても車が絶え間なく行き来しているから情緒が消されるのである。こうして人間の情が破壊されるているのだ。キレル人間になるのも車社会が影響しているのだ。人間と人間が相対することがないからである。歩くということなくなったということ自体そのことを物語っている。もはや商店街を歩くということがないのである。シャッ-タ-通りとなり歩く姿がないのだ。

今本の時代からインタ-ネットの時代となったとき昔からの読書という感覚も消えてゆく、キ-ワ-ドで調べることが 「取り散らかした書物をしずかに片付けつつ、疑問の点を考えると」はと通じている。キ-ワ-ドから共通なものがクロ-ズアップされるからだ。
管茶山という人も知らなかったけど結構有名な人だった。江戸時代の漢詩界では有名だった。江戸時代の方が情操的な面の教育では恵まれていた。先生でもそれほどの知識は必要がない、塾の先生でも人柄がいい人が選ばれていたということでもわかる。今は知識優先であり英語なら英語を外国人を相手にしゃべれるくらいだと最高の先生とされるし他でも同じである。人格など関係ないのである。学校自体受験勉強が主であり情操的な教育が最初から全くない、志の教育もない、江戸時代は最初に志の教育、武士とはいかにあるべきとか人間とはいかにあるべきとかを知識ではなく日頃の生活から教えたのである。これは戦前までもそういうところがあった。国家主義的教育でもそういうところがあった。今は全くない、団塊の世代からでも受験勉強であり知識の競争で勝つことだけを他者をだしぬくことだけを教えられた。一点でも点数を稼ぎいい大学に入りいい会社に入ることこれしか何も勉強の目標などないのだ。知識が膨大となり知識優先となったのである。

人間はやはり天才でない限り教育は大事である。凡才でもそれなりの教育するとそれなりのものになることはある。自分はいい教育はされなかったけどその後自己教育したとなる。現代では学校とかその他社会でまともに教育されるところなどない、結局自己教育しか方法がないのだ。でもどうしたって若いときは自己教育はむずかしい、回りの影響を過度に受けやすいのだ。それでカルト宗教団体に入ったりして青春を浪費する、そもそもそういう場所しか教育の場がなくなったということもいかに今の社会が異常か示しているのだ。だから受験が人生のすべてだと思わされて暗記とかの勉強に追いまくられ勉強嫌いになる。でも教育は知識の前に人間とはどうあるべきかとが問題になる。それが全くない一点の点数を稼ぐことしかないのだ。それが将来のすべてを決めると思わされている。日本にはすでに団塊の世代から教育はない、団塊の世代を今の若者は責めるけどそうしたのは団塊の世代ではない、受験勉強を強いたのはその前の戦争に負けて全く方向転換した戦前戦中世代であり団塊の世代はその方針に従っただけなのである。

江戸時代の魅力(江馬細香の漢詩から)
http://www.musubu.jp/hyouronedokanshi.htm

2009年10月01日

母刀自(とじ)の意味(尊敬されていた母)

母刀自が老いて寂しく暮らします千駄ヶ谷をば思いやる秋

かくれ里高尾山路の日だまりに古媼いてころ柿を売る(吉井勇)

果物と言えば昔は柿なれや干し柿好きな母なお生きぬ (自作)


あも刀自(トジ)も 玉にもがもや。戴きて、みづらの中に、あへ巻かまくも(四三七七)


刀自(とじ)という言葉自体万葉時代からあるのだから古い、ただその意味は失われた。母を老母を尊敬する言葉だった。台所をとりしきる女性だった。家族も万葉時代だったら今とは相当違っている。大家族でありその中で家事をとりしきる女性が刀自(とじ)だったのだろう。それだけ家族が多いとそういう中心になる人が必要だったのである。今とは違い家事は機械化もされていないし外部に委託されない、だから家事は一軒の家の中でまかなわれることが多い、外食などもないしその用意だけで大変なことであった。女性の労力は家事に費やされていたのだ。


だから家事をとりしきる刀自(とじ)は重要な役目をにない家をとりしきるまでになる。刀自(とじ)をまだ戦前は言葉として使っていた。それなりに使われていたし女性もまだ家の中の仕事が主だったからである。これだけ母刀自(とじ)が慕われ尊敬されることはある意味で幸福な時代だったともなる。今は母でも父でも存在感が希薄なのである。核家族などと家族も一体感が失われた。これは家族のせいではない、社会の変化の結果であり女性差別とかを声高に言うのも実は女性は別に過去に差別されていない、かえって近代になり差別が叫ばれるようになったのも皮肉である。女性が女性の役目をになっていたとき差別はなかったのだ。これだけ尊敬されることでもわかる。

かくれ里高尾山路の日だまりに古媼(ふるおうな)いてころ柿を売る
今はモノと人が結びつかない、世界の果てから食料が集められるけどそれを生産する人は見えない、物質的に豊でも心では貧しくなっている。直接老婆から渡された干し柿は特別温かさがある。 現代はス-パ-に行けばありとあらゆるものを食べられるがその食料を作る人が見えないのである。魔法のように置かれている。ただ金さえあれば食料も手に入る、だから地球の裏側から来る食料に感謝するということもない、人が見えないからだ。
老人の価値が低下したというとき老人のもっている役割の喪失である。女性の場合は大家族の家の中にあった。それが家事が機械化して社会化したとき失われた。その代わりに女性も社会的な役割として仕事の能力で評価される、男と同じ様に競走するようになった。だからかえって女性は苦しいと嘆いているのもわかる。男と伍して仕事はできない、やはり女性の役割は家庭にあったからだ。フェミニズムも社会の変化の中ででてきた思想であり男と戦わねばならないとはまさに社会の変化で女性が男と伍して仕事させられることから起こった運動だったのである。これはかえって女性を不幸にしたのかもしれない、男と女の役割は本来違っていたからである。

母刀自(とじ)の意味
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2468.html

2009年08月21日

これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺(小林一茶)の解釈

 是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺
                          小林 一茶

人間のついのすみかはどこになるのか、自分の行く末を考えたら最近は身内が一人死んだしそれで墓のことなど何か自らの奥津城を意識した。自分の最後となるべき墓のことをこれほど意識させられたことはない。自分の家の墓のこともそうだが母の実家の墓も荒れているので直す必要がでてきた。隣の墓が持ち主がないと思っていたら実際はあった。墓は一旦使用権を買えばあとは一年間500円とかで維持できるのだからなかなか無縁化はしないことがわかった。誰でもそれくらいの金は払えるから墓を維持することは楽である。家を維持することは老朽化してリホ-ムなどすると大きな金がかかる。財産がないと維持できなくなる。人間は俳句でもその人生経験から解釈する。小林一茶も放浪の俳人である。貧乏のどん底でも日本を旅して放浪していた。結局、自分も同じだった。30年間放浪していたのだ。そして今やジモシティ(地元主義)になった、というよりは地元に閉じ込められたというのが現実である。つまり自分の一生はそもそも故郷から地元から脱出することだった。東京の大学に出たのも地元を脱出することだった。若いときジモシティ(地元主義)にはならない、絶えず遠くへ遠くへと心は向き現実に今や若者は世界を放浪している時代になった。でも最後に老人になったらつひの栖(すみか)に落ち着かざるをえない、そのついのすみかがいいとは限らない、一茶にとっても故郷はいいところではなかった。でも故郷に帰らざるをえなかった。
故郷だと田舎だと狭い地域の思考になってしまう。視野がかなり狭くなるのだ。そして過去からの継続も大事になり意識化される。墓を作ったとき百万したとか聞いた。でも今他の業者に聞いたら高いという、実際に何十万も高いようだった。するとなぜそんなに高くとったのだろう、高くとりすぎていると思った。こんなこと都会だったら業者自体すでに誰かわからず関係していないのである。そうした昔のことまで今にとりざたされるのも田舎なのである。つまり都会なら法外値段をふっかけたりしてだますことができる。田舎だと今になってそんなことがわかると取りすぎだったとかごまかしだったとかなるから信用を失うこともありうる。つまりあまり高い値段では信用を失うことにもなる。地域で信用を獲得することは昔からの継続も関係しているのだ。グロ-バル化の世界は今や庶民でもそうである。視野が世界的になった。その反面やはり老人になればついの栖(すみか)が意識化される。つまりそこは墓なのである。もはや墓に入るだけのend(ゆきづまり、終着点)なのである。田舎は一面牢獄である。今年は曇って憂鬱なのも影響している。一茶がこの句を作った気持ちがわかった。
陰鬱な雪国の空がのしかかるようにおおい、ただ雪ばかりがふり土蔵に閉じ込められるついのすみかの暮らしである。最後にその重い陰気な信濃の雪の下に閉ざされる。雪国の冬は長い、江戸時代ならさらち長い、交通機関もない、ただ毎日雪がふり雪に閉ざされた世界なのである。ここで雪五尺という具体的な雪の量と重さを意識化したこともわかる。自分にのしかかる具体的な重圧感を表現したのが雪五尺だったのである。自分も介護とかでその重圧感を身に帯びたからわかった。身動きとれない感覚が雪五尺なのである。雪五尺のなかに埋もれる、払いきれない雪五尺の重みがのしかかる。もはや年だからさらにその重圧感は死へとつながっている。若いときは故郷が嫌で放浪したが今やここで雪五尺の下で死ぬ他ないという陰鬱な最後なのである。

2009年07月06日

無情の旅路 (山頭火の苛烈な旅)


無情の旅路 (山頭火の苛烈な旅)

誰かもてなすや

洞に寝て跡なく去りぬ

風のごと過ぎされり

乞食(ホイト)と呼ばれ

邪険に門前払い

灼熱の日ざしのなか

水を求め乞い歩く

人の世の非情よ

身を焼く炎天下

何故の旅か果てなし

無情の旅路はつづく

鉄鉢に霰

天も無情、熾烈な旅路

何故の旅や

時に吐き出す自由律の俳句

それは紙にあらず

むき出しの大地に記されている

血肉となり刻印されている

彼に人のもてなしはなし

ただ苛烈な非情、無情の旅

彼はなお死出の旅路や

この世からあの世へ

漂流しつづけている

時に雷鳴のごとく来たり

忽然として去ってゆく

雲となり風となり消える

とらえがたきもの

風雲の旅人はなお旅している

もてなしのことを書いたけど放浪の旅人をもてなすような人はいない、世の中からはずれた人だからそんな人をもてなすということはない、社会お範疇からはずれた人だからである。ただ一期一会で何かしらもてなすとしたら一回切り会わないのだから何かその時もてなしても自分も忘れている。旅人をもてなしてももてなした人も一回しかあわないとしたら何かもてなしたという意識がもてない、その時無償のもてなしとなっている効用はある。 日常的にもてなしていたらどうしてももてなしているという意識がでてしまうのである。無心にもてなすのではなく押しつけがましくもなるのだ。相手ももてなされたことを意識する。そうなるともてなされる方も心苦しくなる。


山頭火のような旅人は今どきいない、山頭火は旅人より冒険者の部類に入る人だった。なぜならその旅があまりにも苛烈だったからである。未踏の領域を発見するような冒険者であり俳句にこだわったが俳句は俳句にならない俳句だった。あれだけ過酷だともはや客観的鑑賞をする余裕がないのだ。腹がへる、おにぎり食いたい、炎天下に喉がからからだ、水がのみたいとか、それをそのまま書いても俳句にはならない、芸術にはならない、苦しい病気になっても苦しい苦しいと絶句しているときなかなか俳句になりにくい、芸術には客観視できなければできない、自分を客観的に見ることはまだ余裕がある時である。確かに子規は肺病でも苦しくてもその呻吟のなかから俳句や短歌を作り出した。客観視する余裕がなおあった。でもそれは家にいて周りの支援があったからできた。芸術の効用は自らを客観視することである。啄木も肺病で瀕死の状態になるまで短歌を書いたがその一握の砂でも自らを客観視できたことは救いだったのだ。もし単に苦しい苦しい悲しい悲しいと絶句していたら俳句にも短歌にもならない、最後まで客観視することが芸術を生む。ゴッホにしても強烈な天才的激情の人でも絵を描くことは客観視することである。対象を客観視できたから絵画という芸術を残した。もし単に狂気の人だったら芸術は残せない、本当の精神病の人は芸術は残していない、それは世界を自分を客観視できないからである。


山頭火の俳句は余りにも苛烈なる故に客観視できない、うめきとかあえぎとかでありそれは芸術ではない、冒険者だったら苦しみの末に未踏の地を征服したで後世の歴史に残った。でもその人は芸術家ではない、冒険者である。西行とか芭蕉、蕪村にしても旅人でも芸術家なのである。客観視して作品を残している。それは山頭火のような支離滅裂的なものになっていない、彼らの旅がどういうものであれ客観視した作品が残されそれを後の世の人は鑑賞しているのだ。あまりに苦しかったから鑑賞ということもできない、自分も旅したけど旅していると自転車でも歩きでも登山でもあまりに苦しかったら客観的に見ていられないからいい作品が作れない、特に登山は苦しいから山頂に上った時、疲れ切って周りをゆっくり見る余裕さえなくなる。そういうことが激しい運動だとそうなる。運動に重点を置けば別にかまわないが芸術家は創作と鑑賞を要求される、作品を残す必要があるのだ。もちろん冒険とか生活に重点を置くなら上野 霄里 氏のように冒険家タイプの生活こそ第一だとなる。そのあとに芸術もありうるとなる。その山頭火さえ批判しているのも理解できない、社会から離脱した人間となると実際は普通の人は理解外の人となる。彼自身もそこまでは生きていない、山頭火は冒険家と芸術家とを生きた。どちらかというと冒険家になっていた。山頭火をたどるとこちらまで肉体的に苦しくなる。作品を鑑賞するより腹がへるとか喉が渇くとか坂を上るとかそうした喘ぎが聞こえてくる。そして作品を冷静に鑑賞するよりも肉体的なものとして力が入ってくるのだ。それはスポ-ツを鑑賞するのとにているのだ。思わず筋肉に力が入り応援するのとにているのだ。芸術を鑑賞するのとは違ってくる。どんな旅でも旅しているときは客観視することがむずかしくなる。だからかえって旅を終わったあとで回想したとき客観的に余裕をもって見れるから紀行文などは書きやすいのである。だから今旅を回想して書いている。

そもそも山頭火が江戸時代の旅人より苛烈な旅をした。野宿する旅を延々とつづけられたのはやはり体力があったのだろう。江戸時代すら宿に泊まる旅だった。自分も自転車の旅をしたがそれは体力ある人なら簡単にできることだった。自分には苦しい旅となっていた。旅人スポ-ツは違う、テレビでやっていたように百キロとか走る必要はない、坂も上る必要はない、旅なら別に一日五〇キロでもいいのだ。なぜなら周りもゆっくり鑑賞するにはそんなに目的地を目指して走る必要がないの多。思うに現代ではスポ-ツとして移動する人はいるが旅人が喪失した時代なのだ。また旅ができない環境にもなっている。もてなしされるホテルなど旅人にはあわない、ビジネスホテルでも五千円とかなると高すぎるのだ。そして日本には旅をつづけるための安宿がないのだ。山頭火の時代はまだ木賃宿などがあったから旅人としてありえたのである。
旅館など今は贅沢なのが多すぎて安宿はない、そういう場所はもてなしの場、保養の場としてはいいが旅人には不向きなのである。現実はほとんどの宿は保養の宿であり旅人の宿はほとんどないのである。

そこには車が並び汚れて自転車で来たなどというとうさん臭い目で見られる泊まることさえできない、車なら汚れないが歩いたり自転車の旅はどうしても汚れるのだ。車の時代になると車を利用しない人は異端者のようになってしまうのである。きれいに疲れず車で移動する、旅ではない、車は疲れない移動なのである。 
だから旅人はこの世から消えた。わずかに四国の遍路などは旅人の名残りを見ることができるだけである。
野宿して苛烈な旅や夏あざみ

2009年05月10日

江戸時代の俳句(二本松の寛文時代の俳句)


江戸時代の俳句(二本松の寛文時代の俳句)

 
三春迄着るや岩城のちゝみ布   斎藤親盛
 

 「三春まて」「岩城宇尓、縮布」(『毛吹草』)。岩城名産のちぢみ布は、三春の人々まで着ていることだ。如儡子は『梅花軒随筆』の著者・三休子ゆかりの地・三春に出かけた事があったのであろう 
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/bungei/18/haikaige.html

 
寛文12年(1672)だからこの句は古い、芭蕉が出るのは元禄である。元禄1(1688)だから20年後になる、でもその前に俳句らしきものが二本松とか地方でも作られていた。
 
 笠鉾やかけ奉るひたち帯        春一
 
常陸国鹿島神社で、一月一四日の祭礼の日に行われた縁結びの帯占。布帯に意中の人の名を書いて神前に供え、神官がこれを結んで縁を定めた。鹿島の帯。
 
東ちの道のはてなるひたち帯のかことはかりもあはんとそ思ふ(新古今1052・古今六帖3360
 
常陸帯は全国で知られていた。常陸は陸奥ではない東道(ち)である。
 
あけぬるや雲のいつこにいかのほり 春一
 

関西方面ではイカ上りであり江戸では凧(タコ)と言っていたことである。1675年に、京都の俳人伊藤信徳が、江戸で「物の名も蛸(たこ)や故郷のいかのぼり」と詠んでいるし、同じ物でも土地が変わると名前も変わる。北前船で新潟と交流があり関西の文化が入りイカノホリと蛸上げを俳句にした。二本松では蛸上げとしていたのか不明である。
http://www.musubu.jp/hyourontakoage.htm

2009年02月16日

岩手県の自然のバックグランドから人物も生れる秘境岩手県に育まれたもの(原生人間-山人-賢治)-詩

 
 

岩手県の自然のバックグランドから人物も生れる(東洋、国風文化の回帰)
秘境岩手県に育まれたもの(原生人間-山人-賢治)-詩
http://www.musubu.jp/hyoronmorioka.htm#back

 
文化が生まれるバックグランドは自然である。なぜ岩手県から賢治とか啄木とか上野霄里氏が生まれたのか、それはやはり岩手県という広大な原始的自然が残されていたからである。人間はいくらその人が天才であっても自然のバックに映えるものであり広大な自然の作用があって映えてくる。ドイツの文化とフランスの文化の違いも隣り合っているのにこれほど違うのかやはり北方的風土と南方的風土の相違があったからだ。上野霄里氏の原生人間の思想も岩手県にふさわしいし岩手県という広大なチベットのような自然をバックにすると了解しやすくなる。そもそも東京の大都会をバックにしたら何が生まれるのか?そこには奇怪なカルト宗教であり異様なものしか生まれない、全くの人工的空間になってしまっているからだ。巨大なビルの谷間で人間は蟻のようになってしまっているからだ。そこで人間が巨大だと言っても誰も実感しない、でも岩手県のような大自然をバックにするとき人間は巨大だとか神話的だとか言っても違和感がなくなる。魔法だとか秘薬が生まれると言っても何か実感を帯びてくる不思議がある。山伏などは山野を駆けめぐり自然の中で何か会得したものがあるから今のカルト宗教団体より秘術的なものを身につけていたかもしれない、これを今の現代科学の時代からするとかえってカルトだとか非科学的でまやかしだとかなる。でもなぜ現代がカルト宗教がこれほど社会をおおっているのか?それもやはり奇妙なパラドックスである。自然から全く離れてしまった、人工的空間に異様なカルトが生まれ繁茂している不思議があるのだ。それは明らかに過度の文明化から生まれた病理的現象なのである。だから過去を今の科学からすべて否定するとき実は現代の文明こそ異様な怪物を生み出している。人間も自然の一部だから自然から離れると人間も異様なもの人間ならざるもになっていたのである。アウトサイダ-が異様化されてみるが文明人こそ実は異様な存在だということにも気づくべきなのである。

2009年01月31日

インタ-ネットに出た詩の不思議(天狼星(シリウス星)は上野霄里氏のイメ-ジと合致?)


 

シリウス星
http://pub.ne.jp/20071203MOTOTO/?cat_id=58126&page=2

 
インタ-ネットの不思議は今までにないものがでていることだ。詩の分野は限られている。発表する場も限られているしだからいい詩を書いても知られることがない、ただコマ-シャリズムにのったものだけしか書店には置かない、出版そのものが金にならないものは相手にしない、詩はマイナ-ものだから余計にそうである。現実詩人というと今誰を思い浮かべるかというと谷川俊太郎くらいしかいないだろう。コマ-シャリズムにのらない限り出版されない、小説でも出版社が宣伝するからこそ知られるのでありその人とか作品はあまり問題ではない。インタ-ネット時代になったら無数に表現されるようになった。インタ-ネットだと制限なく自分を表現できることが最大の魅力なのだ。本にして出版とかなると普通の人はできないしできてもかなり制限される。インタ-ネットはだから詩とかちょっとした小説とか何でもその人なりのものを簡単に出せる。だからつまらないものが多いから読むに値しないともなる。膨大なゴミが混じるからその中からいいものにあたるのは至難だとなる。でも一編とかいい詩を書く人はいた。この詩にはつくづく感心した。自分も上野霄里氏をイメ-ジして書いたがこの詩の方が数段優れている。この一つの詩だけが特別優れている。他の読んでもそれほどではない、天狼星(シリウス)としてこの詩はマッチしている。
 
でもこれを書いた女性は別に市井の普通の女性である。それでもこの詩を書いたことに驚く、それが上野霄里氏のイメ-ジと一致していたからである。こういうことめったにないがやはり世界は広いしインタ-ネットの世界は広いことがわかる。埋もれた人の作品がインタ-ネットに出るようになったのである。これまでもいい詩はあっても出版も書店にも並ばないから埋もれてしまっていたのである。不思議なのは特に優れた詩を一つは人間は作れる、その一つの詩だけでも後世に残ることがありうる。詩とはそういう側面がある。この詩はそういうものを感じた。他にもそういう詩があるがなかなか発見しにくい、これはわかりやすいし上野霄里氏のイメ-ジと合致したので驚いた。それでここに紹介した。他の人も感想書いていたがやはり感心していた。でも上野霄里氏の人と思想とは別に共鳴するものはないから残念だとなる。
 

人は人であるかぎり 独りでは生きられない
月が太陽によって輝くように
人も自分としての存在を 
多くの人達の支えと 仕事や愛によって輝かせる

 
ここが上野霄里氏の人と思想とはかけ離れている。この女性は社会運動家のようでもあり社会にかかわるから上野霄里氏とは思想的にも共鳴する人ではない、こういう思想や生き方は彼にはない、人は人であるかぎり 独りでは生きられない 多くの人達の支えと 仕事や愛によって輝かせる・・・・となるときどうしても社会主義的集団主義になる。予言者でも多くの人たちの支えが全くなかったからである。多くの人たちに援助されようとすれば予言者でも哲学者でも多くの人たちに媚びなければならないしその思想の基準は多くの人たち、大衆にもおねることになる。だからシリウスを詩にしたのは感心するのだがその生き方において反対のものになっている。この言葉をのぞいてシリウスということに焦点をしぼったら良かったがどうしても詩にはその人の生き方や思想が反映されるのだ。
 

誰にも煩わされず 誰にも指図されない
自ら発光するものの強さが 限りなく畏敬される


このあとの行と矛盾している。誰にも煩わされない、誰にも指図されないとすると多くの人たちの支えと・・・は矛盾しているし、現実の生活はそうなのだからこの詩と生き方がマッチしていない、上野霄里氏からみれば社会から離れられないディレタントの詩人だとなる。もちろんこれは別に知られた詩人ではない、シリウスについて詩を調べて感心したのである。障害者に関心があることでも経験から共鳴した読んだのである。
 

原生の森の鷲
http://musubu.jp/jijimondaiueno.htm#eagle

2008年12月29日

大いなる山-現代の一者、覚者の声(上野霄里氏の部)


大いなる山-現代の一者、覚者の声
http://www.musubu.jp/jijimondaiueno.htm#oneman (上野霄里氏の部)


ホ-ムペ-ジでは相当な量を書いてきた。上野霄里氏という人物は現代の本物の天才だから理解することがむずかしい。こういう人はその時代だけで理解できない、存在が大きすぎるからだ。能才はコマ-シャリズムにのって時代の脚光をあびる、「バカの壁」とか消耗品として何百万売れたとかなる。でもすぐに忘れ去られるのだ。本物の天才は次の時代さらに次の時代へと大きな光芒を放つ、今の時代だけで理解することができないのである。そしてその時代を適格に批判できたのは一人の一者たる覚者だとなる。指標とすべきはこの一者たる覚者なのである。それは社会からは認められない、轟々たる批判しかないのだ。上野霄里氏からは若いとき熱いメッセ-ジを送ってもらった。ただそれをその時一部しか理解できなかった。上野氏の言葉は簡単に理解できない、相当時間がかかるし一時代でも理解されないものなのだ。今その熱いメッセ-ジを解読しようとしているが手紙の字は読みにくい、全然読んでいないものもあった。郷土史の戦争の資料になるようなものもあった。これらも読んでいなかったし埋もれていた。本に書いたものと手紙の文を解読すればさらに理解が深まるかもしれない、ただ著作権の問題があるので利用することは今のところはむずかしいかもしれないがその熱いメッセ-ジは今またよみがえって詩を書いたのである。60になってやっと理解するということもあるものだと思った。凡才で時間をかければ理解できるものがあるのだ。上野霄里氏の部に書いたのは2008年1月以来だった。ここ三年間は介護に追われ余裕がなかった。余裕ができればまた書き続けることができるだろう。インタ-ネットならいくらでも書けるのが強みである。ただこれもどれだけ読まれているか反応がないことが問題であった。対話しろというときインタ-ネットでは対話する相手がつかめないのが問題なのである。

 
裸の楽園の島(NHK-トビウオ街道を行く・・・・)
 http://www.musubu.jp/jijimondaiueno.htm#paladise
 
これも連続しているものとして上野霄里氏の部にコピ-しました。

2008年10月28日

秋にふさわしい詩(鉛筆が語る昔)


秋にふさわしい詩(鉛筆が語る昔)

 

タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明日はもう秋だ


ー西脇順三郎「秋」U、詩集『近代の寓話』(1953)所収。


この鉛筆はドイツ製だという、鉛筆も昔はいいのは輸入ものだった。昔から勉強はノ−トに鉛筆を削り書いていた。鉛筆をナイフで削ることが子供の頃いつもしていたのだ。鉛筆も結構高価でありノ−ト(帳面)も高価である。帳面という言葉は死語になった。親戚の叔父は鉛筆が最小限に短くなるまで使っていた話をした。もう指でつかむことができないくらいまで鉛筆を使っていた。ノ−トも隙間なくびっしりと書いていた。それほど鉛筆もノ−トも貴重だったのだ。鉛筆をナイフで削ることは手を器用にしたりする効用があった。鉛筆削りという機械もでてきたが鉛筆をナイフで良く削っていた。
 
学校で学べない貧乏の無念 
 

叔父は優秀だったらしい
鉛筆を手にもてなくなるほど使い
帳面にも隙間なく文章で埋めた
貧乏で学校で学ぶことができなかった
女学校に入りたかった姉もしきり言っていた
父は酒屋の丁稚奉公でどうして字を覚えたのか不思議だ
通帳にも筆で書きよく筆を使っていた
明治生れの人で最後にさしみ食えるのにさしみ食えない
病気で食欲がないから食えないと言って死んでいった
その後も貧乏な時代は続いていた
金の卵で中卒で集団就職した同教生も多数
中卒が当たり前の時代から大学出が当たり前の時代
留学すらそれほどめずらしくない時代
私は三流大学でも大学出たんだから恵まれていた
父は上の学校にあげろよと遺言して死んだ
上の学校で学ぶこと自体が貧乏な時代は容易でなかった
明治時代から上の学校で学ぶことが日本人の願望だった
それは立身出世やら偉くなるということに通じていた
大学など出ることは最高のエリ−トの時代があった
字が読めない明治生まれの祖母が墓に埋まっている
ハガキなど書けないので人に頼んでいた
字を書いたり読めることがすべての人にできない時代があった
なんだか昔の人を今想うと悲しくなる
母方の墓には20代で結核で死んだ人が埋まっている
人間は望みをかなえられず死んだ人が多い
貧乏の犠牲となって死んだ人が多いのが歴史だ
叔父の写真は飾っている場所がない
実家が喪失してしまったから跡継ぎもいないから
墓だけは残っているのもあわれ
その一生は貧乏であり何ら残すべきものもなかった
そういう人が昔は多かった−無念がそこにあった

 
西脇順三郎の詩にはこうした貧乏の記憶はない、むしろ鉛筆というのが知的刺激を与えるマジック的なものとして詩にしている。バラモンはカ−ストの一番上の知識階級である。下々のことは念頭にないのだ。これは鉛筆を削り鉛筆で書くことにより知的な生活が道具とともにあった時代を詩にしている。田舎的ではない、極めて都会的なのだ。賢治の詩に通じる所がある。賢治は田舎的なものと都会的なものが同居していた希有なる天才だった。あれだけの知的宇宙を作り出したことに驚嘆するのだ。それも東北という岩手県で孤立していてできたのだから不思議だとなる。今とは相当環境も違う、海外旅行とか留学すら一般化した時代とは違うのだ。知的作業は前は筆で書いていたし鉛筆で書いていたときでも鉛筆を削ったりしているのなかで知的なものが育まれた。これは万年筆などにも言える。それは今や郷愁となっているのだ。バソコン時代になったらこうしたものから電子文字を読むようになったから郷愁の世界となってしまった。パソコンの文字はみんな同じだから個性がない、書くことはやはり文字にも個性を記すことだった。それが筆なら特別そうだし鉛筆でも万年筆でもそうである。書体はその人の個性を示すものだから外国ではサインが判子の代わりになっているのだ。今でも遺言書などは自筆で書かねばならない、実際死んで残した姉のノ−トの「私の一生」というのは遺言のようになっていた。字がうまい人だったから記念として残されるものとなった。これがパソコンで書いて印刷した電子文字だったら味気ないものとなっていたし証拠とならないことが問題になる。その人の書体がないからだ。ただパソコンは気楽に文章が書けるのでこんなに書いてきたのである。これだけのものを原稿に鉛筆であれ万年筆であれ書いていたらとても書けない、書くことは相当な労力なのである。私はあまりにも悪筆だから自分の書いたものを残したくないこともある。うまい字を書ける人も少ないことがありこれも問題なのである。インタ−ネットで書くとき便利なのはすぐに引用できることなのだ。この詩すら知ってはいたが良く読んでいなかったが紹介する人があるとこういう詩とか俳句とか短歌あったなとその一つのものを深く鑑賞することになる。普通なら本を読んでそうなるのだがプログなどで誰かが紹介したものを読むのがインタ−ネットなのである。その方が新しい発見があるのだ。こういう読み方自体今まではありえなかったのである。一つの詩とか一句一首を読むことが多いのである。この詩は高級な知的なものを刺激するものとしての鉛筆だがその底辺には貧乏な時代の知識を獲得できない、学校で学ぶこともできない人々がいた。そういうことをふりかえることも必要なのだ。この詩はとにかく秋にふさわしい詩だった。
 

2008年06月02日

「一つ屋に 遊女も寝たり 萩と月 芭蕉」−病院に宿泊した体験からの解釈

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「一つ屋に 遊女も寝たり 萩と月 芭蕉」−病院に宿泊した体験からの解釈


一つ屋に 遊女も寝たり 萩と月 芭蕉
 
芭蕉のこの句はあまりにも有名である。俳句とか文学作品の解釈は鑑賞は時代によっても違ってくる。人によっても違ってくる。病院に泊まってこの句の解釈をこんなふうに変えてみた。
 
一つ屋に患者といねし五月闇
 
病院は宿ではない、その病院も隣の街だし7キロくらいしかない、極めて近いのにそこが旅の宿と同じように感じた不思議がある。二日も病院に泊まった経験はなかった。その病院も隣の街だった。その街が隣でもつくづく異境であり故郷ではなかった。合併で同じ市になってもそこは隣でも故郷ではない、異境の街だった。今どき外国ならわかるがなぜそこが異境の街と感じたのか不思議である。これは「南相馬市原町の病院に泊まり短歌二十首(無常は人間の定め)」で書いた。病院は死と隣り合わせの場所であり己が生と別れを告げる、また生きている人とも別れる場所でもある。同じ病院にいる、病室にいてもここでは同病あわれむとかなり連帯感が生まれるのだ。それは介護している家族同志でもそうである。たがいにいたわることが自然なのである。そこには偽善的なものはない、かえって貧乏人は貧乏をしっているから貧乏人をあわれむ。インドでも乞食に恵むのは貧乏人だということがあり金持ちは冷たいとなる。実際に特殊な病気、ハンセンシ病とか精神の病とか認知症でも協力しあうのはその家族同志であり他のものはかえって差別、偏見であり冷たいのである。
 
この句が病人とか差別された人と関係あるわけではないが遊女もまた特殊な人であり差別されやすい女である。偏見をもたれ人並みにはあつかわれない、それで病人、患者とにたところがあったのだ。一つ屋→病院であり遊女→患者、病人としても違和感がない、そんな解釈もできるのだ。奇妙な組み合わせかもしれないがそれが違和感がないことはやはり人間として共通のものを感じるからである。江戸時代には病院はない、明治以降病院はみじかなものである。誰も病院に入院を経験しない人はいないくらいである。また看護とか介護とかで病院にかかわり高齢化社会で病院はすべての人にとって身近なものとなっている。病院が老人の社交場になって困ったというのも高齢化の問題だった。病院というのが旅の宿にもなりうるという不思議を書いた。それも家から7キロくらいしか離れていなくてもそうなりうる不思議を短歌で書いた。
 

馬の口とらえて老をむかふる物は日〃旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり

日々が旅であり旅をすみかとする、人に常住の世界はない、無常の変転があるのみである。だからこそ病院も旅のすみかとなりうる。実際に病院で死ねばまさにこの世からあの世へ黄泉へ旅立ち帰らぬ人となるのだ。病院も無常極まりないこの世の旅路の宿だった。一夜の宿だった。ただ病院は地元であれば様々な因縁深い場所だから違っていた。でもそれでもそこは異境であり異境に死すという感覚になる不思議があった。街の灯を二日病院より見てつくづく思ったのである。五月闇というと病人も患者もそれぞれ深い闇もかかえている。その闇を共有しているのが病院である。外に街の灯が雨にしみて写り病人は闇のなかに沈んでいる。今は老人が多いから昔のことを延々と回想している。この世は終わりあの世へ旅立つのが病院になりやすい、旅に死すというとき病院が旅路の最後のすみか、場所になりやすいのである。人間はその長年住んだ場所すら異境となりうる。旅の宿なりうる。なぜなら時間とともに回りの環境も変わり人も変わるからだ。この辺は住宅地の改造で全く昔の面影もなくなった。誰か昔を知る人がたずねてきてももはやわからないのだ。この世が無常というとき同じ場所にいようが無常を感じる。そしてそこは旅の宿ともなる。人はこの世に永遠にいることがないこと自体、無常の世界なのだ。人間は日々旅をすみかとするというとき別に芭蕉のように旅している人だけではない、人生そのものが旅なのである。いづれは死ぬとすると別れるとすると家すら一夜の宿にもなる。別れてしまいばあの世に旅たてばもうあうこともないから旅の宿だったとなる。そして永遠につづく家というのもない、家自体がなくなっていたり人も変わり帰る場所でなくなっている。老人が施設であれ病院であれ帰宅願望が強いが実際は過去の若いときの元気なときの自分に帰りたいということでありその元気な時の自分や家はもうないから帰るところなどなくなっているのだ。
 
草の戸も住み変わるよぞ雛の家
 
まさに人は絶えず住み変わる世でありそこに老人は帰る場所でなくなっている。雛の家とは代が変わった若い人の家になったということである。老人はそこに居場所がなくなっている。そういう人生の変転、無常がこの世でありこれは老人になるとみんな痛切に感じることなのだ。芭蕉の句にはそうした時間の経過の中で無常を句にしてしいるのが多いのだ。「夏草や兵ども夢のあと」でもそうであり「五月雨のふりのこしてや光堂」」でも時間の経過の中で時間の無常の中で残っている光堂を句にしている。つまりこの世にいかなる栄華も栄いも常住なものはない、一時栄えていてもそれは一時の栄華であり消えてしまう。これは庶民でも同じである。近くに材木屋で社長をしていた人も鉄工所を経営して議員になった人も零落したりとこういうことは普通のことである。無常こそ普通であり変わらないものはこの世にはないのである。無常を感じることは当たり前のことであり無常こそ人間の常になる現実なのである。永遠に若い日はつづかないし老いること自体が無常なのである。
 
病雁の夜寒に落ちて旅寝かな

病雁は病人であり芭蕉は本当に病気になり寝込んだ。ここでは旅寝が長くなれば外の景色が詠まれることになった。病気でもまだ軽いからこうした句になったが長く寝込んで病院にでも入院したら外の景色が詠まれ心に刻まれるたのである。現代の旅は早すぎるからその土地の風物がここに刻まれることが少ないのである。芭蕉のころは風景が心に残る、刻まれる時間があった。今回私が隣の街が印象深く思えたのは半年近く病院に通ったせいなのである。印象に残る時間がそこに生まれたのである。ただこれまでも買い物などにも行ってたのだか病院から街が別なものとしてより身近なものとして見えたのである。私自身は病気でないにしろ末期の眼から見る景色は見慣れたものでも今までとは違ったものとして写ってくる。もし誰だって最後に見る光景はどんな平凡なものでも印象深くならざるをえない、なぜならそれが最後の見納めだからである。
 
時鳥夜にも鳴きぬ明日も旅
 
明日もやっぱり旅なのである。一日一日が人間は旅なのである。出合い別れ発見の旅である。病院も旅の宿でありいづこも異境であり旅には死ぬまで終わりがないのである。
 

●補足
 
「故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものはかなりの力を貯えたものである。だが全世界を異境と思う者こそ、完璧な人間である。」(サイ−ド−オリエタリズムの一節」
 

2008年05月29日

九州の旅から−@遠の朝廷−春の都府楼(太宰府)跡(評論と鑑賞)

 

九州の旅から−@遠の朝廷−春の都府楼(太宰府)跡(評論と鑑賞)
http://musubu.jp/hyorondasaifu.html#tofu

 
九州は二回くらいしか行っていない、やっぱり東北からは遠い、北海道は近いのだ。博多は中国であれ韓国であれヨ−ロッパであれ文化の窓口だった。あとから回想して創作したのがかえっていいのができている。一連のものとして作ることができる。プログはホ−ムペ−ジのように一つのまとまりあるものとして作りにくい、その時その時の即興的なものに向いているのだ。作品の断片として作りやすいがそれをまとめたものとなるとホ−ムペ−ジでないとできない、都府楼跡(太宰府跡)で印象に残ったのは礎石である。大きな礎石だけが点々と残っていた。その礎石を踏みつつ春の日に遠の朝廷を思い詩作した。遠い記憶なのだがそこにいた時間を思い出しつつ想像−創造している、創作は想像であり創造である。インタ−ネットでは自分の記憶だけではない、他の人の作品と自然と融合してしまう不思議がある。キ-ワ-ドで調べる内に自然とそうなってしまうのである。
 
遠江 白羽の磯と 贄の浦とあいてしあれば 言も通わね 万葉集巻20-432
 
この歌は別に太宰府とは関係ないものだったのだが面白い歌だなと他のサイトで引用していたので興味をもった。これは何か子供的発想なのだけどつくづく交通が発達していなければこう思うのが人間である。交通が発達した今のような時代ならそれほど地理的に離れていてもこうはならない、博多には韓国から船で帰りさらに船で東京まできたことがあった。これも遠大な旅だった。船はほとんど乗った。ただ那覇から博多までの航路がありこれには乗っていなかった。何でも全部乗ることはむずかしい。電車にしてもそうである。これもほとんど乗ったのだが乗りえないものは残っているのだ。それと記憶から消えてしまったのも多い、汽車の旅も忘れやすいのである。

2008年05月14日

蕪村の句二つ(米ふむ音や藤の花、門を出れば秋のくれ)解釈


蕪村の句二つ(米ふむ音や藤の花、門を出れば秋のくれ)解釈

 
山もとに 米ふむ音や 藤の花  蕪村
 
蕪村の不思議は必ず生活者をそこに読んでいる不思議である。単なる風流ではない、生活を離れた詩人ではない、実際に農民として生活したような俳句を作っているからだ。蕪村という名もあられた村というから不思議である。山もとは(山元、山下、山本・・)とかなり日本人の生活の根拠になった所であるからこれもきいている。質実な農民の生活の場がここで表現されているのだ。
 
江戸の俳人・与謝(谷口)蕪村は、当時、カブの産地として、有名であった大阪・天王寺に住んでいたので、俳号を蕪にちなんで蕪村としたそうです。当然、カブをよく食べたことでしょう。もしかしたら、自分自身でカブを栽培していたかも知れませんね。
 

この号は後に『宇都宮歳旦帖』で「蕪村」と改められた。これには諸説あるが、彼が歳旦帖を編纂した寛保4年の前年、彼はほぼ1年を掛けて福島、山形、秋 田、青森、岩手、宮城と文字通り奥州を遍歴した。そこで彼が目にしたのは、冷害、飢饉などで疲弊した多くの農村であったと思われる。その印象が余りにも 強かったため、彼は初めての歳旦帖を編纂するに当たって、俳号を「蕪村」つまり荒れ果てた(荒蕪の)村と代えることに決心させたのであろうと思われ
http://groups.google.co.jp/group/haikai/msg/8ed7c3f191acccc7

 
蕪村とカブは関係ない、荒れた村の名前をつけたことに何か蕪村という人をしる手がかりになる。蕪村は風流な名前ではない、飢饉という現実の悲惨さを基にしているとなると蕪村の俳句に常に外からだけ風流としてながめているのではない、農民の生活と一体となるような農民が作ったような俳句になっているのもそのためである。ただ一方で華やかなもの、遊女とも交わったり画家でもありまるで違った側面もあるので謎が多いのである。
 
天台宗妙法寺。与謝蕪村が長く滞在し、多くの名画を残したことで別名「蕪村寺」とも言う。
 
門を出れば我も行人秋のくれ
 

蕪村が妙法寺を去る時に詠んだ句だろうか
http://blog.busondera.com/?cid=5803

 
古りにしや京の御寺の門の前我たたずみし春の夕暮
 
門を出れば我も行人秋のくれ
 
門をテ−マにすると門の前にたたずむのと門をでるという対象がここにあった。私の仁和寺だったがここは妙法寺だった。ここも歴史のある古い寺だった。ここに歌と俳句の共通性がある。俳句とか短歌は共通なもの、類想したものがあると同じことを思って作っていた人がいたと感じて共感する。、だから俳句は連句からはじまったというのがわかる。門をでた時その寺の歴史とかを心に残り描く余韻がある。門の前にたたずむときはこの寺に入る知らない世界に入ってゆく心の高鳴りがある。門をでるときは学校の門を出て卒業するとかの気分である。門を入ると出るでは相当違った感覚なになる。門前にあるということもまた違っている。私の場合は門を出て門前にあった。それは春だった。門を出るというとき秋がふさわしかったのである。門を通じてその寺とまたは門の中にあるものと一体となる、門にはそういう哲学的な意味をもっている。ロ−マの凱旋門でもその門を入る出てゆくでは違った感覚になる。門は一つの境界でありそこで心が変わる。門弟とか門人とか一門というのも門を入り共同の世界に住むということがある。しかし門を出れば門人だけではない、他者の人ともまじわる秋のくれとなる。門の中だけではない、街に出て広く交わる秋のくれである。門の中と外では相当感覚的に違ってくるのである。
 
一柱門を 出れば すぐ 目を剥く 娑婆世界の 惡鬼を 追い出す 四天王門が お寺を 守ります。
 
門は中に入るものを拒む世界でもある。入門することは誰でもできるものではない、覚悟があるものを入門させる、門を入ることは覚悟が必要である。「狭き門より入れ」である。誰でも容易に入れるような所はすでに汚れた場所なのである。現代は余りにも容易に聖なる世界に入れすぎたのである。どこもかしこも観光になっている。宗教はカルトになり相手かまわず勢力拡大に入れるだけなのだ。門は広き門になりすぎたのだ。娑婆世界の悪鬼を所かまわず入れているから現代の宗教界は悪鬼の巣となっている異常である。
 
これはインタ−ネットでペ−ジをめくるようにして拾い読みして文章を書いた。こんなことは本ではできない、キ-ワ-ドで調べていて自然とそうなったのである。インタ−ネットを読むことはその人によって常に編集して読むことになる。編集することは創造なのである。本作りで編集者の仕事が作家と同じように重要視されているのはそのためである。作家と共同で編集者は本作りにたずさわっていた。インタ−ネットも編集するときそこに新たな創造的なものが生まれている。膨大な部分が結ばれて一つの新たな創造的作品となる。インタ−ネットは新たな知的な創造を作り出すものである。本の世界は特権のあるものしか関与できなかった。インタ−ネットは万人に開ける知の世界を提供したのである。インタ−ネットを読むことは編集能力が必要となるとこれは高度な作業だからかえって深く背後まで読める人でないと編集できない、だから若い人は部分の知識に埋もれて新しい創造をすることがむずかしい、断片の知識に埋もれてしまうのである。その最たるものが2ちゃんねるとかの情報世界である。そこに何が起こっているか断片的にしかわからないのだ。全体的に何が起こっているのか把握することがむずかしいのである。だからインタ−ネットの世界は誰かが編集して全体的に何が起こっているのか何が重要なのか知らせる人が必要なのである。


 

2008年03月15日

「とけて寝ぬ 寝ざめ寂しき 冬の夜に むすぼほれつる 夢の短かさ」の意味

源氏物語歌集 319
巻二十 朝顔 12 源氏

 

    とけて寝ぬ 寝ざめ寂しき 冬の夜に
    むすぼほれつる 夢の短かさ


むすぼほれつつ―「むすぼほれ」は「(水分が)凝固する」「(心が)鬱屈する」などの意の下二段動詞連用形。夜床で涙を流し、朝までにそれが凍りつく――という状況が継続している、ということ。


溶けて(溶けて−解けて)は寝ているとむずかしい難問が解けたとかの話を聞く、いろいろな複雑な問題でも晩年には自然と解けてゆくことがある。ここでむずかしいのが・・・むすぶ−結ぶ−ほれつる・・・である。水が氷となって結ぶということだが涙が凍りつくというのも本当にそういう切ない悲しみが凝固して氷となるという深刻な表現なのか?源氏物語は宮廷内のことで庶民の喜怒哀楽とは離れているからわかりにくいしみんな読める人はいない、ただインタ−ネットでは誰か紹介しているものを読むことが多くなるのだ。この歌になぜ注目したかというと
 
介護して老いのあわれや冬の虹

夢に見し結ぶ心や冬の虹
 
http://musubu.sblo.jp/article/6902874.html (冬の虹)
 
私が作った冬の虹と意味が通じ合うのではないかと一瞬思った。晩年、老年は本当に心が結び合うことがあるのではないか?同じ病室の妻を介護するため毎日来ている。食事の世話もするし車椅子にものせるしこまやかに介護している。はたから見たらうらやましくなるだろう。家族でも介護にまれにしか来ない人は自分でも向かいの人からうらやましがられた。結ぶは心が結び合うものとは違う、別なものだがこの歌を解釈すると多少イメ−ジ的には似ている。短い夢であったが冬の虹が一瞬たってはかなく消えた。
 
 虹を見ゆ 寝ざめ寂しき 冬の夜に むすびて消えぬ 夢の短かさ
 
私の冬の虹の俳句を歌にすればこうなるのかもしれない、これだと意味は違うがやはりにている面はある。夢の短さは共通している。この世の契りも短い夢だったかもしれないからだ。インタ−ネットは一句−一首を通じてその人なりの読みを深めるのに向いているのだ。ある人がなぜある句に歌に興味をもつのか、それはその人の人生体験からそうなるのだ。老人になると特に様々な経験をするから読みが深くなるのである。様々な別離、死別も経験するから読みも深くなるのである。