2022年08月15日

奥会津の旅(鬼百合十句‐記憶の旅―写真四枚)


奥会津の旅(鬼百合十句‐記憶の旅―写真四枚)

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この辺に小林村というのがあった記憶

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蒲生岳
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伊南川

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激流に鬼百合映えて奥会津

夏草に碑の古りあわれ奥会津

鬼百合や我が力だし来たりけり

鬼百合や五六軒の家奥会津

鬼百合や遠く来たりぬ旅の人

鬼百合や激流轟き崖そそる

蒲生岳はるばる来たり夏燕

旅人の休む木陰や奥会津

墓倒れ鬼百合咲くや奥会津

小出にそ鮎釣る人や魚野川

月見草河原に咲いて小出かな



会津の激流

巌はきびしく反り直立しぬ
激流はひびきほとばしる
燕飛びはるか来たりぬ会津の奥
鬼百合の咲き燃ゆるかな
会津の奥処が知らじも
重量に山々閉ざし千古経ぬ
その秀麗なる山岳を望みて
会津の心は養われぬ
鬼百合のここに燃えよ
その命激しくここに燃えなむ
会津の激流はひびき我はさらに
遠くへと山々を分け入りぬ




人間はとにかく忘れやすい、20年前30年前となると記憶していることがあいまいになる
だから思い出して俳句とかにするにしてもそこがどこかわからなくなる
確かに只見線を通って小出に出た、小出駅前に魚野川がありそこで釣りしていた人がいたその川の前に食堂があり鮎料理を食べたことを記憶している
そこはかなり鮎がとれる場所なのである

でもわからないのは伊南川にも行った、でも伊南川は只見町から入り桧枝岐の方に行く
地図ではそうなっている、自転車で桧枝岐まで行ったことがあるから伊南川に沿って
行ったようだ、つまり只見線で小出に行ったの伊南川に沿って行ったのは別々の旅だったのである、これが混同している

会津は川が長いし激流がありこの辺の短い川とは違う、そこに川の魅力があり山の魅力がある、浜通りは海があり海の魅力があるとなる
ただ会津は本当に広いから地理がわからない、でも自転車で三回くらい行っている
会津はもともと福島県でも別個の大きな地域であり国である
それは古代からそうであった、唯一国として認識されていた

会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結びさね

だから会津は古代から大きな国としてあり歴史があり文化があったとなる
そこが中通りとも浜通りとも違うのである
それで大塚山古墳には三角神獣鏡が唯一発見されている、その歴史が古いのである
それは地理的に阿賀野川を通じて日本海から近畿地方から人が入ってきていたからである日本海の方が交通路として最初に開けていたからである
古代とかなると道が整備されていないから海でも川でも道になっていたのである
福島県で一番古い地域は会津だともなる
会津というと白虎隊とか注目されているが実際は古代から独立した大きな国だったのである

旅でも準備して旅を実行して後は回想する旅になる、そして意外と注目されていないのが回想する旅なのである、でも20年30年とかさらに過ぎると記憶もあいまいになるのである、だから写真とかとっているのは後で思い出すのにいい
ただその時はデジタルカメラの時代でないから写真が簡単にとれなかった
でも残った写真を見たら思い出すことがある

ともかく自転車で行ったことは貴重だった、今になると行けなくなった
体力的にも行けない、するとどうしても思い出す旅になる
でもその時思い出せないとするともう旅したことでもしてなかったとまでなる
現実その人は確かに子供の時五年間一緒に生活していた
でも実の兄とかではないので五年間いてもその人を知らないと言っていた
その女性は異常な人だったからそうなったかもしれない、非情な女性になっていたからである、でも50年過ぎたらどうなるのか?

大学時代でも東京で逢った人はそんな人がいたのかとまでなる
人間とはこうして何でも忘れる、そして最後に認知症になり子供まで家族まであなた誰ですかとなってしまうのである、つまり人間は忘れ安いのである
そしてそんな人と逢ったこともないし知らないとまである
それは家族ですら十年に十年と過ぎてゆくとあいまいな記憶になってしまうからである
そして死んでしまうとさらにその人が実在したのかどうかすらわからなくなる
百年前に生きていたとかでもその人が実在したかどうかもわからなくなる
それはもう名前さえ残らない、名前が残っている人はましだとなる
膨大な人間が実際は消えてしまったのである、消えてしまったということはその人は実在しなかったともなるのである
墓が残っていれば誰かがここに埋められて眠っているとか思う
墓は最後の人間存在の証明だとまでなる
ところが庶民は姓もなく墓もなかった、村の共同墓地に埋められていたのである
だから個人はなくただ共同としての墓地があった、それがホトケッポなのである

会津は広くて地理がわからない、ただ山国として魅力がある
でも今は記憶してありそれも定かではない、あいまいになってしまったのである




2022年09月09日

福島県の歴史と地理 (福島県の境界の歴史-境界から見る歴史)


福島県の歴史と地理

(福島県の境界の歴史-境界から見る歴史)

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歴史人から地図を抜粋したが著作権の問題があるのか
引用として許可されるのか、こういうことはネットが普及して普通の人でも利用することがある
それはインタ−ネットは誰でも参加できるメデアだからである
それは共同作業にもっながるのである


戦国時代を見ても明らかに白河の関が変わらず境界になっていた、伊達政宗が会津を支配していても次に秀吉の仕置きで伊達正宗の会津が蒲生氏郷の所領になってもその境界は変わっていない、そして相馬藩とか岩城藩は変わっていない
その原因は阿武隈山脈がありさえぎられていたことである、地理的障害になっていた
それで玉野村には伊達と会津の境の桜がある

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に

こういう言い伝えがある、そして玉野村では丸森の木材をめぐって熾烈な資源争いがあった、伊達藩と米沢藩と相馬藩で木材資源の奪い合いがあった
それが藩の支配地図を見るとわかりやすい、米沢藩は新潟であり一時は勢力が拡大した
でも不思議なのは伊達との境が新地にあり新地は伊達藩の領地だった
だからその墓地を見ると相馬藩にはない姓がある、伊達藩は相馬藩と隣り合わせであり
そこで争いもあったが戦国時代が終わると協力もしたのである
でもなぜ新地となると平坦な地であり強力な伊達藩が一気に攻めて支配しなかったかである
それはやはり相馬藩が野馬追いがあるように相馬氏騎馬軍団が強力であり攻め入れることができなかったのかとなる

勢力争いとしては会津を支配した蒲生氏郷が意外と相馬藩と境を接していたのである
白河の小峰城の石垣に十字架が彫られていると地元の人に聞いた
氏郷は洗礼を受けてキリスト教徒になっていたからである
そして白河から三春から相馬の境まで一時領地があった、それは伊達政宗が欧州仕置きで秀吉によって叱責されて奪われた、蒲生氏郷に会津は与えられたからである

ここで境界を見る時、みちのくというき白河の関が古代からありそこが変わらず境界になっていた、ここの境界は福島県の今の境界としてつづいている
ここからみちのくに入る場所として継続していたのである
それはどうしてそうだったのか、地理的境界だったからか?確かに茨城県となると平坦な土地になっている、それで白河に入ると山がさえぎっていたとなる

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山頂は福島県東白川郡棚倉町と茨城県久慈郡大子町との境にあり、栃木県との境界から東へ1km未満の距離にある。八溝山地の主峰で北麓には久慈川の源流がある

八溝山は一部一キロくらい福島県に入っている、この山は結構深い、なぜかここを通って
白河の関跡に出た、その地理がわかりにくかった
もともとは久慈川の源流が八溝山になって久慈川をさかのぼって棚倉がありここの方が古い場所である、ヤマトタケルの伝説が残っていて水戸街道にも通じている
ここで蝦夷と戦った記録があるからだ、その時なぜか津軽の蝦夷まで応援して大和軍と戦っている、地理から見れば那須の原がありそこから白河の関所に入る、その平野は茨城県になるのである、那須の原だからである、ただ上野の領域にもなる

とにかくこの地理を知るのが意外とむずかしい、地図を見ただけでもわからない、私は
八溝山を自転車でぬけて白河の関跡に出てきたのである、そういう場所は古代なら通れない、久慈川の川をさかのぼる、川は道にもなっていたからである
森が覆っていたら道がないのだから古代では通れない、でも不思議なのは八溝山は奥深い森におおわれていて暗かった、だから閉ざされた感覚になった
そこから抜け出したいともなった、その山をぬけて白河の関跡に出てきたのである
でも大田原とから行けば平坦な地を行くことになる、芭蕉は日光からこの道をたどり白河の関所跡に出たのである

でも旅する時何かこうして山を越え森を抜け川をたどりとかしてゆくと本当に旅したことになる、その行程が何とも言えぬ不思議な感覚になる
もし古代とかだったら余計にそうである、深い森をぬけると開けた地があるとか未知との遭遇がある、そもそも古代となると旅することは命がけの冒険にもなっていたのである
山を越えて深い森をぬけて川をたどりその向こうに何があるかわからない世界がある
今のように何かすべてわかったような世界ではないのである
現代はもう旅する前かは行く先でも何でも情報があふれてわかっている、未知な世界がなくなったのである、道は未知だったのである
地理を知るということは鉄道の旅でもわからない、一番わかるのは歩く旅になる
なぜなら戦前でも江戸時代でも歩いて旅していたからである、するとその当時の人の心を知るには歩く旅をしなければわからないのである、私は自転車で旅したから歩く旅には通じていても歩く旅はしていないのである

深々と小暗き森を抜け出でて白河の関や秋になるかな

草の花道の辺に咲きあわれかな関所の跡やみちのくに入る

いづれにしろ伊達政宗であれ蒲生氏郷であれその物語に人間を見る
蒲生氏郷も伊達政宗も歌がうまかったのである、詩人でもあった
何か昔の武将は武だけではない、文にもたけていた、今の政治家にそういう人はいない
とういうことは現代人はかえって人間的にも劣化したのかともなる
侍というのはそれを育てる環境がありエリートととして育てる環境があり優れた人が育ったとなる、明治維新でも依然として侍がエリートとして指導者となり国造りしていたのである、それが明治の後半とか大正時代から戦争になるころは侍は存在しなくなった
国民は存在しても指導者になる侍はいなくなった、それは全世界的に言える
国民国家であり大衆社会となったのである、そこで人間を教育する環境は喪失した
ただ学校などで一様化規格化された人間を生み出すだけである
知識には優れていても人格的教育などないのである

侍とは武だけではない全人間として人格的に優れていたと人達だともなる
だから江戸時代までは侍を模範にしていたのである
現代は教育するというとき膨大な知識を教えられる、その知識の量が多すぎるのである
江戸時代なら限られているからその分人格教育とかが主になる
現代ではかえって教育となるともうAIとかが教えるとなる、知識の量が多すぎるからそうなった、ただそこではモラルとか人格教育はない、そしてなぜカルト宗教がこれほど増えたのか、それはもう教育する場がない、侍のようなエリート育む場もない
大学などでもそうである、大衆化して教育自体がなくなっていたのである
だから学生運動とかカルトにはまる人もでてくる、そこには教育する場所でもないのである、かえって藩校などが全人格的な教育をしていたとなる

氏郷の会津転封は、伊達政宗を牽制する意味と、秀吉が氏郷を都から遠ざけようとしたためだと思われます。氏郷の夢と激しい野心は、秀吉の側から見れば、ひどく危険だったのです。
 会津黒川城を居城としてからわずか五年後、氏郷は京都にて病死します。

 文禄の役の時、氏郷も兵を率いて、会津を出発、京都を経て、秀吉が朝鮮出兵の本営を置いた肥前名護屋(佐賀県鎮西町)に参じました。その道中の歌があります。

世の中にわれは何をか那須の原なすわざもなく年やへぬべき
 (我は何をなすためにこの世に生まれたのか。那須を通過しつつふと思われる。不本意なままに時間だけが過ぎて行っていいものか)

思ひきや人のゆくへぞ定めなき我がふるさとをよそに見むとは
(思いもよらなかった。人間の運命は不可解なものだ。生まれ故郷を旅しながら、無縁な場所のようにただ通り過ぎてゆくだけとは)

蒲生氏郷は朝鮮出兵のために九州の名古屋城に行ったがそこで病気になり京都で死んだ
40才だった、でも優れた人だったのである

かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風

ただ会津を治めたとしてもその期間は短かった、40才で死んだとなればそうなる
その息子も20代で次々に死んで受け継ぐことができなかった
一代で終わった不運の人だともなる、病気で早死にすることはその当時相当にあった
それにしてもこうして福島県の会津を治めたのでありその領地が実は相馬藩の境まであったというのも相馬とは無縁でもない、どうしても会津というと地理的に一体感を感じないのである、でも福島県としてすでに古代からその境界はみちのくに入る境界であり歴史的境界ともなっていて福島県というのが必ずしも歴史で作られた地理を無視しているわけではない、地歴を無視して福島県になったのではない、古代の歴史からさかのぼることができる、また伊達藩とか最上藩とか米沢藩との境もありそれもわかりにくい、境というとき実際にその場に立って実感することが必要なのである
それで宮城県と山形県の境はわかりやい、面白山でさえぎられトンネルを抜けると山寺になり山形県になるからである、トンネルをぬけると雪国だったともなる
山形県は春でも山が残雪で雪におおわれていたからである
そこが気候の境目にもなっていたからである

ともかく歴史を知るには地理を知らねばならない、時間軸になると歴だが空間となると地理になる、その両方をしらなければ歴史もわかほらない、でも地理となるとこれは福島県ずら広いからわかりにくいのである
どうしても会津は山国であり氏郷が治めていた時でも42万だったから広いのである
そこを自転車で旅しても本当に地理がわからなかったのである
福島県の地理はハマ、ナカ、アイヅがあり気候も違っている
だから二本松城に立ったときそこが福島県の中心をにも思えた
なぜなら二本松県となる構想もあったし磐城県となることも会津県ともなることがあったからだ
ただやはり地理があり歴史があり福島県になったのである、それは地理と歴史を基してそうなった
そこに多少無理してもやはり福島県は地歴として古代から形成されていたともなる
まず浜通りは中通りでも高い山があり会津ださらに山国であり広いのである
会津が一番歴史が古く唯一三角縁神獣鏡が東北で発見されている
会津が福島県では一番古い地域であり国があったとなる

会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね

この歌のようにすでに最初に国として意識されていた地域なのである
もう一つ南相馬市の鹿島区の万葉の歌も境界を示した歌だった

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを

笠女郎(かさのいらつめ)

この歌も境界の歌だった、それは地理的歴史的境界として真野の草原があった
浜通りから海沿いを大和の勢力が進出するには地理的に良かった
そして真野の草原の地点はこれまで考察したように気候的にも地層的にもシャリンバイが南限の地として鹿島区の海老が自生する地域であり温暖だからそこまで奄美大島から種が流れ着いて自生したともなる、しだ神社もありそれは南国産の樹なのである
みちのくの境界として白河の関があるとしてむしろ真野の草原が最初の境界ともなっていたのである、境界として意識されていたのである、つまり境界とは自然の境界があり歴史としての境界がある、新地などはさえぎる山などないのだから歴史的境界なのである
でも古くなればなるほど地理的境界が自然的境界にもなっていた
外国は川が長大で大きいからライン河がローマ帝国が侵入できない境界となっていた
ゲルマン人がそこに住んでいたのである
そしてウクライナの戦争でも川が依然として戦争で防衛線になっていたのである
だから橋を壊して渡れないようにするとなかなか川を渡れずに攻め入ることができないとなっていた、現代の戦争でも地理が依然として影響していたのである
現代でも戦争でもやはり地理が地勢が影響していた、これはなかなか克服できないものだったのである




2022年10月09日

会津の曲がり屋の写真 (まだそこで生活している)


会津の曲がり屋の写真

(まだそこで生活している)

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薪を積み曲屋に生く冬支度

干し大根曲屋(まがりや)古りて会津かな

曲がり屋に日のさしあわれ干し大根

この写真は会津で撮った、今写真の整理をしている、その時デジカメがまだ出ていない時代であり写真が貴重だと思った
なぜなら人間はとにかく忘れやすいのである、それで写真を見てこんなところあったのかとふりかえる、人間は記憶が大事なのである、でも旅したとしても忘れ安いのである
ここが会津だとしてもどこだったのか思い出せないのである
その時は秋から冬に入る時だったろう、大根を干すのは秋から冬だろう
季語としては冬である、いかにも冬らしいとなる、ただ大根は別に今でも農家では大根を干している、そういう風景はある、凍み大根とかは飯館村では有名である

飯館村で古い兜屋根の養蚕農家があった、そこは原発事故で空家になっている
それがなんとも淋しいものだった
でも相馬藩内で曲がり屋は見たことがない、各地に残っている曲がり屋は馬を飼っていて人間とともに暮らしていた
その曲がり屋の馬を飼っている上で養蚕をしている兜屋根がある写真を見た
いかにも当時の暮らしが感じられる

〈蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと〉芭蕉

馬の尿(ばり)が聞こえた、馬の尿あ出す時相当な量であり音も大きかったのである
実際はそんなところで眠れたのかとなる
私は自転車で旅して隠れるようにある田んぼにテントを張って寝た
日本は田んぼが隠れたような場所にある、気付かないのである
それで隠した田が各地にありそれで税としてとられないようにしたということもわかる

隠し田の刈田に一夜テントかな

尿前の関はこけしの産地、鳴子温泉の近くにある。尿前(しとまえ)とは前が湿地の意味らしい、アイヌ語としているがこれが実際は曲者なのである
しとしとという語があるから日本語なのである、しとしとと雨がふるとなる、しっとりするとかもあるから日本語から来ている、アイヌ語由来は意外と少ないと思う
青森辺りにはあるみたいだがアイヌ語由来にするのは近年否定されているだろう

ともかくこの一枚の写真のいいのは生活感がにじみでていることである
薪を積んでいるから冬支度している、何か花も咲いている、でもこの家の茅葺の屋根は相当に傷んでいるからここに住めるのかとなる
でもなぜ曲がり屋とかが人が住まなくなり観光のために展示されるようになるとそれに
違和感を覚える、それはもうそこに人が住んで暮らしがなくなったためである
人間の暮らしがなくなるとき何か神社でも誰も参るものがなく原発事故の避難区域では死んでいるのである、暮らしがあることで家でも土地でも村でも町でも活きている
それが喪失したとき死の村や町になる、人が住まない限り死の世界になってしまうのである

もう一枚の写真は蕎麦の花である、この季語が初秋になっている、これも会津でとったものである、ただ場所がわからなくなったのである

蕎麦の花会津の暮らし小屋一つ

会津は山国だか蕎麦がふさわしいとなる、桧枝岐などでは米は食べられなかった、蕎麦を米代わりに食べていた、米を食べることは贅沢であった時代がある
山の村では稗とか粟を食べていた、また大根飯とかありかて飯があった

かて飯は、米の消費を抑える目的で、雑穀や野菜など他の廉価な食品を炊きこんで増量した飯である。米に加える食品を「かて」と呼び、その種類によって大根飯、蕪飯、芋飯、南瓜飯、小豆飯、山菜飯、海藻飯と呼び分ける。農業技術や輸送、貨幣経済が未発達時代だった近世以前は、全国的に広く食されていた。米が貴重な離島や寒冷地の山村では、粟や稗など雑穀の飯に野菜類を混ぜ炊きする例も見られた

米が貴重だから米にこうしたものまぜて食べていたのである
90年前に東北飢饉があった、それが悲惨だった、その写真を見たら着る物も粗末であり
もう貧困のどん底に見えた、娘でも売られたとかある、でも東京では西の方ではそんな飢饉はなかった、東北はやはり貧しい地域となっていたのである
それで何か戦争があり飯を食べられるからと兵隊になったとかある
人間はもう食べられないとなるとそうまでなる、食べなければ死ぬのだからそうなる

とにかくこの一枚の写真の語るものはかなりある、写真の時代だからこの写真から読み取るものが相当にある、この写真は貴重だった、こうして一時代が過ぎると写真でも貴重なものとなる
要するに歴史をふりかえると米の御飯でも食べられることは恵まれていたとなる
今なら全国のうまい米を食べられる、これも贅沢なことなのである
でもそのありがたみは感じなくなる、当たり前となり贅沢になれてそうなるのである
でも何か最近食料不足になるとかやはり必ずカルマがめぐってくる
同じ苦しみがやはりめぐってくる、カルマがめぐってくるから怖いのである

曲がり屋の養蚕と馬小屋がある写真

2022年10月28日

飯館村から川俣町へ(秋の暮の短歌俳句) (伊達藩との相馬藩の境の地名)


飯館村から川俣町へ(秋の暮の短歌俳句)

(伊達藩との相馬藩の境の地名)

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石臼は水車でも使っていた

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水境神社の夫婦松ー妙見神社で伊達と相馬藩の境

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養蚕していた家、二階でしていた




秋深むキツネ二匹や大倉に

秋日さし石あたたかや山の村

菊映えて柿なる家の蔵古りぬ

川俣へ葉山神社と秋の暮

境木とバス停一つ秋の暮

峠越え安達太良望む秋の暮

参りける御霊神社や秋の暮

川俣や小手姫の里黄菊かな

川俣は絹の里かな薄紅葉

川俣に猫神神社や秋の暮


木戸木にそ昔の苦労語りしも跡継ぐ人なし秋のくれゆく

木戸木なる半鐘古り秋の暮鐘盗まれしと語るもあわれ

飯館にまた花買いて帰り来ぬ我が家にさして映えにけるかな

(水境神社)

からまりて離れざるかな夫婦松峠越え行く秋のくれかな


安達太良の大いなるかも秋の陽の輝き没りて雲を染めにき

川俣の通りに古き蔵の家昔栄しいくつかありぬ

(御霊神社)

川俣の御霊神社のその前に老女の語るや秋の暮かな

川俣の神社の由来京奈良や小手姫もまた絹の里かな

川俣の絹を作りて栄いけり古き蔵あり秋のくれかな

川俣に神社二つに参りけり木の葉色づき由緒をたずぬ

それぞれの土地の歴史をたずぬるや我がめぐりて秋深まりぬ

深々と山は黙して秋の星きらめきましぬ人は眠らむ


飯館村から川俣へ行った、飯館村から川俣へは10キロあったから結構遠かった
途中「境木」とかのバス停があり境だったのだろう、本当の境は水境神社の所だろう
妙見様を祀っているからである、そこはもともと伊達の相馬の境であった
玉野村がそうなっているがここに植えていた桜の木を玉野村に遷したということでそうだったのか?

臼石とあるとき臼石とは水車に使うものだったのか?その話を木戸木で聞いたからである川俣町は絹で栄えた街であり古い黒い蔵が通りにいくつかあった
それから御霊神社がありその前に老女は座っていた、前の家の人だった
謂れを聞いたがわからない、ただ鹿島神社があると言っていた
ここにも鹿島神社があるのかと思った、鹿島町から来たと言ったが良くわからないようだった、鹿島神社はそもそも全国にある、ここにもあったとなる

小手姫の里となっているから絹織物で栄えた、猫神社があるのは養蚕で猫がネズミを追い払うからいいとなり祀ったとある
丸森にも猫を祀っている猫の町になっているのもそういうことかなとなる

川俣町にも歴史はある、これは次に書くことにしよう

旅という時どうしても車だと旅にならないし地理がわからなくなる
峠にしても車だと越える感覚がなくなるだろう
自転車だと川俣への道を下る所で安達太良山を望んだ時は感動的である
車で来たらそういう感動がなくなる
それで福島市とか二本松市とか中通りに行くとき電車で行くと地理につながりがなくなる相馬藩から川俣へ行くときはやはり地理のつながりがあり地歴を知るのである
つまり相馬藩の境も感覚的に理解する、岩沼から電車で来たらその境を感じないのであるそうすると地歴を理解できないのである

ただ日帰りで行くのは川俣くらいまでである、後は帰るだけで時間がかかりすぎる
また自転車だと宿をとれないことがある、それも大きな問題なのである


2022年12月22日

土地土地のものが活きていた江戸時代 (人間の豊かさは風土と歴史から作られたものにある-旅の思い出) 真壁仁の詩より


土地土地のものが活きていた江戸時代

(人間の豊かさは風土と歴史から作られたものにある-旅の思い出)

●旅の思い出と料理の話

私が興味持ったのは地理と風土である、それはなぜかとなれば大学卒業してから底辺労働者となりその後は30歳以降は仕事にもつかず旅ばかりしていたからである
何もすることがないのでそうなったのである
仕事は底辺労働だから何かそれは日銭稼ぎでありつまらないとなった
流れ作業していたのが辛かった、これはロボットになることでありこんなことが仕事なのかとなり仕事をしたくなくなった
私の場合は何度も言うように家族に特別恵まれた結果としてそうなった
職につけとか言われなかった、むしろ旅でも何でも自由にしていなさいと言われていたのである、何かそうしてもとがめられることもなかった
ただ金はなかっけど自由時間があったからホテル代を最低にして旅していたのである
ただ旅館とホテル代は節約できなかった、食事は千円以上となると食べていない

何か食事で贅沢をしたことはない、だから旅の思い出としてこれがうまかったなという思いではない、ただ一回只見線で新潟県の小出の魚野川の流れている岸辺の食堂で鮎の塩焼きを食べた、それは安いものだったのである、その川でとれたものだからうまかったのである、それくらいしかこれはうまかったとかの記憶がないのである
鮎は私の住んでいる川でも父親が釣りとかか趣味でありその釣ったものが御馳走だった
その時鮎は大きなものがとれていたのである、今小さくなり食べてもおいしくないのである、そして原発事故で放射線に汚染されたので食べることはできなくなった
その前から鮎は食べるものではなくなっていた
鮎はまた意外と大きな川を船で昇った所で鮎を焼いて売っていた
観光客はみんなそれを買って食べていたがおいしくなかった
なぜならそれは養殖の鮎だったからである、天然の鮎は意外と少ないのである
それは岩魚でも養殖が多いとなる、なぜなら天然ものは量がとれないからである

私にとって旅とはうまいものを食べることではなかった、今は車で旅館にホテルにつき何かうまいものを食べることが旅になっている、だから料理が大事になりその土地の物を食べたいとなる、でも実際はその土地の料理は特別な所ではないと出ない、なぜならその料理になる素材は外国からでも外から運ばれてきて買ったものだからである
江戸時代の旅をしたらそんな遠くから素材は入ってこない、だから土地にあるものの料理になる、でもそれが粗末なものとしてもその土地でとれたもので工夫したものでありそれが郷土料理になっていた、だから土地土地で味の違うものを食べたとなる
だから江戸時代の方がかえって貧しくてもその土地のものが食べられたとなる
そして鮎でも岩魚でも鰻でも天然のものなのである、だからうまいのである
私の父親は鰻をとることもしていた、それが田圃の畔の穴にミミズをつけた棒を入れてとっていたのである、これも不思議に見えた、そんなふうにして鰻がとれるのかと思ったからである、その鰻を家族みんなで料理した、その鰻はうまいものだった
それは天然ものだからであり中国産の養殖とは違っていたからである
今になるとそうした純粋に天然の物は食べられないのである、それは高価なものとなっている、今は豊かでも昔は昔なりに豊かなものはあったとなる

現代とはそうしてその土地土地にとれるものが実際はスーパーで買うことができる
味噌でも醤油でも米でもそうである、でも江戸時代ならその土地に行かないと食べれないのである、だからこそ旅することに意義があった、そこでその土地の味を実感できるからである
今は遠くに行かなくてもいくらでもその土地のものが入ってくる、でも実際はその土地でとれものがあって人間は豊かになる、外からばかり仕入れてその土地土地に住んでいてとれるものがなかったら貧しいとなる、いくら金があってもそれが富にはならないのである確かに外国から何でも入ってくるからバナナでもパイナップルでもオレンジでも食べられる、でもやはり日本には日本のミカンがあっているし土地でとれたものがいいとなる
東北でぱ気候的にミカンはとれないにしろ国内産であるからいい、日本では今では葡萄でもとれるしいろいろとれる、リンゴだと種類が多く日本産でありうまいとなる
相馬地域でも結構リンゴはとれている、結構うまいのである、梨は前からもとれていた
リンゴはこの辺でもとれる、新地のリンゴなどはうまいのである
農家で成立つのは梨農家とかリンゴ農家とか花卉栽培、花農家である、これは現金収入としてそれなりに収入が大きいからである、米でもブランド米となれば売れるが競争が激しいからなかなか売れにくいだろう

●グロ−バル経済の終わり

いづれにしろグロ−バル経済で外国から輸入してその土地土地でとれるものは利用されなくなった、これはかえって日本として貧しくしていたのである
木材でも外材だけになり森は放置されて無用化した結果としてそこがソーラーパネルになった、丸森は森が深く木材資源の宝庫だった、だから米沢藩と伊達藩と相馬藩でその木材資源の取り合いになり争ったのである
今は山ごとそーらーパネル化しているのである、そこで景観は壊される、景観というのも自然だけで作るものではない、人間の暮らしがあって生業があって作られる
里というときそうである、それは全く自然だけの世界ではない、自然が人間化したのが里なのである、奥深い原自然がありそして人間が住む里がある、里とはそこにある者か石でも木でも人間化する庭のような場所なのである
里というときそこに人間的なあたたかみのある場所なのである
里の小径で一匹の赤とんぼが死んでいるのを見る、その時その赤とんぼは人間に看取られて死んでゆくとなる、全く荒寥とした自然ではなく人間がかかわり人間の情が通っているのが里なのである
女性でも古代に里刀自とかなるとその里を知り抜いた家事をとりしきる女性だともなる

私がなぜこうして地理とか風土を基本にしてみるのかとなるとやはりグロ−バル経済とか広域経済とかが交通の発達で極端化したからであろう
そこに土地土地の個性が喪失した、それだけではないそもそもその土地から成り立っていたものが歴史でも伝統でも失われた、そしてグロ−バル化することは一様化することなのである、土地にはいろいろな個性があってもグロ−バル化することはそうした土地土地の風土とかを歴史を無視して単一化する、多様な色があっても一つの色にしてしまう
料理でも日本料理があり中国料理がありフランス料理がある、それは風土と歴史から作られてきたのである、だから料理は多様なのである、また言葉でも方言なとるなと地域性があり標準語と違ってあたたかみを感じるのである
方言は国の訛りとなるからである、標準語と英語が共通語になったときそうした文化は失われるのである、確かに標準となるものは世界で共通なものは必要である
でも同時に世界は多様であることが豊かなことなのである
どこに行っても料理でも同じだ変わりないとなるときつまらないとなる

そして食べ物だとその土地土地の風土の影響が大きいのである、米でも野菜でも果物でもその土地の影響が大きい、それはどうしてもその土地と風土から作られるからである
それは土だけではない、天候もあり寒暖もあり雨と風とか様々な影響を受けて農作物は育つからである、特産物があるときそれはその土地に根付いてその土地にあったものとして開発されたものであり外の土地で作れないものとなる
そこに価値がある、なぜならその土地でしか作れない味になるからである
ワインにしてもその土地土地で味が違っている
葡萄でも微妙に光の影響を受ける、湖があるとするとその光の反射をうけていい葡萄ができるとかなり土地土地の名がついた葡萄がとれる、そこに他ではまねのできない価値が生まれる
それこそが文化なのである、cultureはその土地土地でcultivate(耕す)されたものだからである

つまり料理もそれぞれの土地から歴史から伝統から生まれたものでありそこに価値がある郷土料理とかなるとそうである、でも今は料理としても一様化されている
その土地独特の料理を味わうことはかえって至難である、旅行してその土地の郷土料理など食べられない、みんな定食にしてもトンカツ定食とかハンバーグとか同じものである
外国で私が食べたのは金がないからまたレストランなど入りにくいからハンバーグだけだったのである、これは簡単に食べられるからである
だから何かその土地のものを食べていない、ということはその土地の文化でも知ることができなかったとなる、それは私はバックパッカーでありしょうがいなとなる
意外と土地の料理を食べるということはと相当に贅沢になっている
みんなハンバーグとかなる、それは安いし入り安いからである
でもそこで土地の文化を知ることはできないとなる

●大量規格製品の生産から土地土地の風土に根ざした物の生産に

これからの世界はグロ−バル経済でありそれは量の世界でもあった、大量生産して外国に売る経済だった、でもこれからは質の経済になる、それぞれの土地土地の味を追求したものが価値があり世界に売れるとなる
テレビドラマで温泉宿の女将とか放送していたが酒でもいろいろ味があり違っている
ただこの酒の味をわかるのは本当に通である、その酒の味はその土地土地の土から水から天候から関係して生まれている、米でもそうである、スーパーで売っている米の味が違っているからである

だから今なら土地土地の味をいながらにしてどこでも味わえるとういことはある
でももともとその味はその土地土地でじかに行って味わっていたのである
それが江戸時代の旅だったら歩いて旅するのだから一挙に新幹線で東京とか青森とかに行かない、順々に土地土地を歩いてゆくのだから自ずとその土地土地のことが記憶として刻まれていたのである
人間はだからかえって便利になりすぎるとまたそこで失うものがある、現代文明は土地から遊離しているのである
だからこそ生態系を無視しして原発を作り生態系を破壊して住めなくなったとかある
生態系とは土地土地の文化を育んだ基だからである

またウィルスというのも何か不明にしてもやはり土地土地から生まれた風土病だった
それは不可侵の領域にありそこに人間がづかづかと侵入した結果としてウィルスに感染したとなる、それがグロ−バル化した交通が発達した世界ではたちまちに拡散されたとなる
これからの経済がどうあるべきかなとなるともう規格化された大量生産の時代と終わった日本が経済成長を遂げたのはこの規格化された大量生産の結果だった、一見電器製品は日本で発明したものであり独自のものと見ていたがそれはどこの国でも作れるものであり
ただ先んじて規格化したものが大量生産できたことで売れたのである
それも韓国であれ中国であれまねて今度は中国が安価な規格化したこものを大量生産できるようになった、そして日本は衰退したのである
日本は世界と比べると知的好奇心が希薄だとか世界と比べても学生が本を読まないとか
何か今までも日本礼賛とはまるで違った評価になっている
今まで評価されていたものがジャパンアズナンバーワンとは何だったのかとなる
科学論文でも日本はもうアメリカにも韓国にも抜かれているとかいう
でもノーベル賞をとっているではないかとなるがそれは今のことではない、それはずっと前の業績が評価されたのでありこれからは日本ではノーベル賞はとれない、つまり日本ではあるゆる面で衰退しているのである

ただそうはいっても食糧とかなると料理とかなるとその土地土地からとれるものであり独特の味はその風土と地理から作られるから日本酒が人気になったり日本の米でも果物でも高価なものとして売れるとなったのである、それは他の国では作れないからそうなったのである
私の父はもともと酒屋で働いたから酒屋と縁がある、でも私はずんと酒は飲んでいない
だから酒については語れないし酒はいいものではないと思っている
でも時代によって価値が違う、酒を日本人が飲んでいたのは栄養が足りなかったからかもしれない、とういうのは戦国時代のスペインとかの宣教師が日本に来て布教したがその時食料がなく酒を飲んでいたという、つまり酒は米からできているから栄養があったとなるビールでも麦なのだから栄養になる、そういうことがあり酒を飲んでいたともなったのかともみる、今はいくらでも他のものでも栄養がとれるからいいとなる
そして酒でも料理に合う酒があるという、北陸の酒とかは京都に近く京料理にあった酒が造られたはいうのも地理が関係していたのである
酒と料理は密接に関係していたのである、それぞれの料理に合う酒があったとなる
東北の方が淡麗な味でありかえって西の方が濃い味だという、でも味噌汁などでも西は淡泊であり東北は濃いから塩分が多いから脳卒中が多いともなっていた
その辺がなぜそうなったのかとかなるがやはり風土と歴史で作られた料理がありそれに合ったものが作られてきたとなる

ともかく大量規格製品の経済は終わった、それぞれの土地に根ざした風土に根ざしたもの文化を伝統を歴史を再構築することである、それは国風文化の再興にもなる
原発事故はそうした文化を育む生態系と伝統とか歴史を破壊したので罪が重いのである
それはもういくら金をつぎ込んでも復興できなくなった
自然の中から生まれた生業は喪失した、この損失は金で代えられない、文化とは精神を形成するものである、アイディンティティを形成するものであるとするときその影響は余りにも大きすぎたのである、人間はただがつがつ食べるだけのものではない、文化を精神世界を生きるからである、それができなくなったときその損失は金で補いないのである
ただそのことを土地の人達も意識していない、金だを得ればいいとかしかないのが現代なのである、それは田舎でも同じなのである、何か文化を育むのだということなど意識しない、金になればいいとういだけである、だからこそ原発が金になるということで積極的に誘致されたのである、人間はなんらか矛盾してくる、だから一概には責められない
でも何が大事なものを見失っていた、それが自覚できなかったことは確かである

●心を買いに・・・(農民真壁仁の詩から)

小さな町に実直な菓子屋さんがいる
そこで作る栗羊羹、塩小倉
その味を買いに行く
道具が人の手のあたたかみを伝えるように
手漉きの紙に楮{こうぞ)漉いたかあちゃんの
心が宿るように
菓子にも作りての心がこもる
その心を買いにゆく
日のあたる庭先で莢(さや)はたいたばあさんの
丹精の小豆(あずき)
・・・
土と太陽の光で育ったもの
野の香りをとじこめた菓子
それよりも何よりも
店の主の竹の割ったような
きれいさっぱりとした性格
それに惚れずにいられようか
昔は栗や胡桃や干し柿が菓子だった
その始原につながってる心
心を買いにゆく・・・・

真壁仁はやはり生粋農民だったから菓子でも作るものの心がわかる
それは理論ではなく実際の生活に養われた感性なのである

手漉きの紙に楮{こうぞ)漉いたかあちゃんの
心が宿るように
菓子にも作りての心がこもる
その心を買いにゆく
日のあたる庭先で莢(さや)はたいたばあさんの
丹精の小豆(あずき)

昭和でも原町区の石神辺りで紙漉きをしていた農家の女性を知っている
その紙漉きを教えたのは越中の移民だった、なぜなら越中とかなると越前紙とか有名であり越前からでも相馬藩が飢饉で三分の一に人口が減った時移住してきたからである

そして庭先でないが私が会津を旅した時、道で豆の莢をたたいていた老人がいた
むしろをしいて豆の莢をたたいていた、豆を莢からとりだすためである、これも結構めんどうになる、それは秋の日であり秋の日がさしていた
塔寺駅をおりて立木観音のことを聞いたのである

会津なれ立木観音の古りにしや秋日さし莢をたたく老人

会津には寺院が多い、それはどうしてかとなると病気治癒のために僧が8世紀とか古い時代に来ていたのである

徳一は会津での布教の拠点となる慧日寺(えにちじ)を 磐梯山(ばんだいさん)の麓に開きました。磐梯明神を守護神とし、古来の磐梯山信仰と仏教が深く融合した独自の信仰を築き、会津仏教文化発祥の地とされます。

仏教がこんなに広まったのは病気治癒のためだった、山伏が法印が小さな村でも一地域でも必ずいたのは病気治癒の加持祈祷のためだったのである
医者代わりだったからいたのである
だから医療が科学の分野になるとどうしても宗教は衰退するとなる、ただ宗教は病を治すだけのものではないがそれを志すのは少数者しかないてのである

とにかくこの詩では物と心は分離していない、だからこそお菓子でも物を作った人の性格まで言っている、どんな人が作ったことまで言っている
それがもし外国から入ったものなら誰が作ったとかわからないのである
どういう土地で作ったというのもわかりにくいのである
ただ土地と物が人と物が分離した商品として入ってくるし食べているとなる
心を買いに行く・・・・まさに物には人の造った心がこもっている

物と心は一体なのである、ものはもの憑くとか物には何らか人間であれば心がこもっている、それを生みだして作ったものの心がこもっている、それが地元であれば土地の物であれば磯部の梨とか新地のリンゴでも味が良かったからこんなものがとれているのかとなり味わうとなる、そのとれた場所も知ることができるからその土地の味を味わうともなる
地元だと土地と物と心は一体化して分離していないのである、だから地元でとれたものは価値があるとなる、ただ米等でも味噌でも選んで買っている、地元のものを買うとういことでもない時代である、でも遠くからになると輸送代とかかかり高くつく場合が起きる

第一地元で何かとれないとしたらどうしても豊かになれないのである
外からばかり買っていては豊かになれないことが問題なのである
外国からでも何でも買えるとしても円安とかなったら高くて買えなくなるとか戦争で食料で入ってこないとかなる、そこに安心感もないことが問題なのである
鉄道でも戦争の時とかの安全のため輸送として線路でも残すべきだというもある
だから経済をただ市場原理とか安いからとかだけで決められないのである
また物と心を分離すればそこに何か人間として豊かな生活にはならないのである


途中下車の旅、会津の塔寺