2015年04月18日

春爛漫二本松城 (二本松城から考える現代文明の荒廃)


春爛漫二本松城(詩)


(二本松城から考える 現代文明の荒廃)

二本松城山城にこそあれ
天守台高くも見晴らす峰々
残雪の安達太良、吾妻山
遠くは蔵王も浮かぶ

春の日や十万石の城にあれ
天然の要害にして
家臣は曲輪に配して
守りは堅き山城なり

二本松城の天守台上りて高き
滝の朝ひびき落ちて清し
椿の一段と赤く高峰映えぬ
こぶしは風に咲きゆれる

洗心亭炎上まねかれ残るかな
春の日や一服の抹茶を所望す
曲松の古りて茅葺きの茶屋
キクザキイチゲの咲くもにあわし

城内の日影の井戸の深しかも
赤々とそちこち落椿
城を守る水のここより汲む
その水に茶を飲めば癒されむ

二本松城の残る石垣によれ
千代の松によりて昔を偲べ
難攻不落の山城なれや
そちこち椿の赤しも

今し桜の霞とおおい
残雪の安達太良光り
見晴らす陸奥の春の山々
その麓の里に桜は映えぬ

陸奥の都より遠しも
安達ヶ原に名を知らる
その岩屋の伝説や
知られざる陸奥の国

二本松城のここにあり
城代は変わりしも
その山城に歳月重ぬ
陸奥の攻防の城なり

伊達政宗の攻めて
会津の名将蒲生氏郷や
相馬義胤もかかわり
ここは陸奥の要と争いぬ

ああ、時は移り急変する時
攻め来る官軍に抗して
あわれ少年隊の犠牲かな
その菩提に花は散るかな

城こそ命とここに果つ
城を離れて武士はなし
ここに切腹して果てし将二人
城と共に心も命もあり

悔いなきものとここに眠りぬ
春なれや城をおおいぬ桜花
散れる椿もまた赤しも
霞ととおおいこの城に眠りぬ

敗者に無情の仕打ちは世の習い
その記録をも消さむとす
会津も二本松も敗れて非情
官軍への怒りはなおも残りなむ

しかし誇りもて二本松城
高きに守りも堅く今もあれ
椿は一段と山頂に赤く
山の蝶もここに飛び来る

戒石銘戒に刻まる教え
奢りを戒め民とともに
この地を治めよと
その石に春の日さしぬ

守りも堅くその石垣によれ
常磐木の松によれ
雄大に安達太良は映えて
ここは陸奥の要の城なれ

万葉にも歌われし安達太良や
古の陸奥にはや知られし山
その山の大きく城に影なして
要の城と今もありなむ



薩長新政府への恭順を勧める密書も届きました。しかし、最後には長国の「城を枕に倒れんのみだ」という決断で、徹底抗戦することになりました。

戦国時代から明治維新のときまで城のもっていた意義は大きかった。
つまり城は単なる建物ではない、城は武士が身も心も一体となるものとなっていた。
だからこそ白虎隊や二本松少年隊の悲劇が生れたのである。
白虎隊は城が燃えているだけで落胆して絶望して自刃した。
城のもっているそれだけその当時は大きかったのである。
二本松少年隊もの同じだったのである。
城と共に身も心もあったのでありだからこそ少年でも城とともに死んだのである。
会津と二本松だけが徹底抗戦したのだからすべてにはあてはまらない。
その理由がなぜなのかというとまた考察が必要になる。

もともと二本松城は伊達政宗から会津から白河から北上するときも要の場所にあったのだ歴史は地理であり地勢が必ず影響しているのである。
だから地理がわかれば歴史もわかる。
福島県を理解するには二本松が一番地理的にわかる場所である。
それは理屈ではない、直観してわかるのである。
あの天守台に立って四方を見回すとあそこが福島県の中心だということを実感する
二本松県になるということもあったから中心的な場所であった。

二本松城が自分が一番気にいった城になったかというとそこ山城であり自然がそのままに残っているからである。
城でもあういう城はめずらしい、会津城でも街中にある平城であり自然というものはない、青葉城でも仙台市街を見下ろすとなにかそこがあまりにも変わりすぎて都会化して嫌なのである。
姫路城は有名で最高の城でもそこに自然がない、街中にあるから何か映えないのである。大阪城でもビルの谷間になるから何か映えないのである。
都会化すると城がビルの方が高くなるから映えないのである。
城が活きていたときは城が高く見えたのであり天守閣に上れば遠くを見渡せる見張りの塔のような役目もしていたのである。
だから意外と城で感動するものが少ないのである。
自然そのものに映える城というのは少ないのである。
二本松城は山城であり自然そのものの中にあるからめずらしいのである。

明治維新のときもやはり白河城を落とし二本松城に入るとそこが陸奥の要の城となって立ちはだかった。
それで薩長軍に踏みにじられたのである。それは伊達政宗のときもそこで陸奥の覇権を争う攻防の城となった。
その時、相馬義もかかわっていたのである。会津と相馬とか三春が伊達政宗軍と戦っていたのである。
要するにそういう要の場所にあったからである。
そのことは二本松城の天守台に立てば一目瞭然なのである。
だから歴史は地理がいかに大事かわかる。地理によって歴史はあらかじめ決定されているともいえる。
イスラエルが世界の要であるというとき神が定めたからだというのもわかる。
地理によって世界史が決められるからである。
二本松はそういう陸奥の要の場所にあった。

ただ城の意味は時代が変わったとき意味も変わった。
第一桜が城には咲いていなかった。桜は明治以降城が公園化したとき咲くようになった。枝垂桜のことを糸桜として朝倉氏の城で歌われている。

折りを得てけふ咲く花は君がため今一しおの色や染めけむ 信忠

これは糸桜であり山桜でもないしもちろん染井吉野でもない、それは庭に咲くにふさわしい枝垂桜だったから城を染めるような桜は咲いていなかったのである。
枝垂桜も散るから今の桜とにてはいる。でも山桜とか染井吉野の散り方とはまた違っている。
このように歌をかわして朝倉氏に従う武将は城と共に信長に滅ぼされて死んだのである。でも今の桜とは違っていた、城を染めるような桜ではなかったのである。
枝垂桜と山桜とか染井吉野は同じ桜でも相当に違ったものだからである。
現代で城がもつ意味は変わった。城には石垣が残っている。
松も残っているしか松は城には欠かせないものだった。
石垣は石であり変わらぬ象徴としてあり城の礎であり城を今も支えるものとしてある
だから石垣だけ残っていても城があることをイメージできる。
二本松の石垣は立派なのである。
トロイの城でも建物は消えても土台となった石垣は残っている。

城のもつ現代的意義は二本松城だったら自然と一体化して美とモラルとしての城である。街中にある城は自然が欠けているから美が感じられない
二本松城には松があり椿も咲きそれも自生したような椿であり天守台に登ると陸奥の山が安達太良や吾妻山や蔵王まで見渡せるから違っている。
城と共に死すというとき自然とともに死す、自然の美があってそこが死ぬ場所としてふさわしいとなる。
まず東京のような場所は自然がないから美もないのである。
するとモラルもないのでてある。
山は精神的な象徴としてもある。不動であり誠実であり威厳がありとか何か人間の徳を人格を象徴するものともなる。聖なる山になる。
海にはなにかそうした人間の人格的なものがない、それでどうしても浜通りではその高い山がないから根本的に欠けたものとなっている。

中通りや会津や東北でも岩手山とかがあり山が中心的精神的支柱となる。
高い山を望んでいると心もその山に反映されるのである。心が山によって養われる。
自分は石をテーマにして詩を書いてきたが石も人間化したものとなる。樹でもそうであるだからそもそも自然がないところには美も真も善も育まれない
東京のよな所では経済しかないし人間に自然が反映されないのである。
そこでは人間と一つのロボットのようにされる。自然が反映されない機械ロボットになってしまう。
ロボットは自然とは関係なくありうるからである。
人間は自然とアイディンティティ化するとき人間となる。

例えは虹がかかったときそれは契約の虹であた約束の虹だと聖書に書かれているとき自然とモラルが一致して見るからそう見る。
虹は単なる虹ではない,神との約束を果すことを示している。
虹でもビルの谷間にかかったら美がそもそも喪失しているから美もモラルも喪失する
人間の心が高層ビルとかと一体化できるのかとなる
だから自分は工業とか商業とか経済一辺倒の世界になじめないのである。
でも世間ではそういうことに無関心でありただ便利な生活ができればいいとなる
田舎はどうししても第一次産業を基本にしてあるべきだというとき
それは経済的効率とか経済一辺倒の論理ではなく自然を反映したものとしてのアイディンティティ化した人間としての世界の構築なのである。
ヨーロッパのルネサンスは地方都市が起こっている。
そこにはまだ自然があったと同時に建築とか絵画とかでも古典の世界、ローマの世界とかイスラム文化とがが融合して華開いたのである。
あの壮大な石の聖堂でもゲルマンの森がありゴシックの建築が生れた。
文化が興隆するには人工的なものと自然の融合があって成される。

現代の文明は科学機械文明であり自然破壊文明でもあった。
もちろん科学がいちがいに否定できないものである。
ただそれが暴力的に自然を収奪したり破壊するものとして働きすぎたのである。
魚がとりすぎて魚が高騰している、それは今はとりすぎるからそうなる。
そのブレーキがないから法律的にもないから魚はとりすぎて資源が減少する。
そのブレーキになるものは魚だけではない,科学の暴走が止められないのである。
それが原子力でもあり世界核戦争の恐怖にもなった。
放射能汚染でこの辺は住めなくなったのである。
そこにヨーロッパ文明の限界が生れたのでありこれからは東洋文明が起こるというのも自然破壊があまりにも進んでしまったからである。
でも東洋文明とは何かとなると実際は不明である。
過去の文明とは違うものになるからである。
つまり城が当時がもっていた意味と違ってみているのとにているのだ。
そもそも桜が咲いていない城を染める桜などないのに桜と城は一体化されている
城は今は違った美的なものとして人間の精神的な意味としても違った意味をもつようになっている。
世界的に自然破壊が進行し拡大化がやめないとき果たして東洋文明が再び起こるのかとなるとき疑問なのである。

森が中国でもインドでもインドネシアでも大規模に喪失しているのである。
むしろ日本は森は外材に頼った結果残っている不思議がある
外国でははげ山が多い、それは木をとりつくしたからはげ山になった。
山が森でおおわれているのは日本くらいなのである。
ともかく経済のことばかり言うけどそれが本当に人間の栄えなのか疑問なのである。
自然がない自然の美もない所に新しい文明が怒りうるのかとなる。
いくら反映しても東京のようになったら人間砂漠になってしまうだろう。
自然の復活復興が新しい文明を生む基となる

でも科学とか経済の発展とかばかりが言われるのがそれが人間の繁栄になるのかとなるとそれは東京でありニュヨークであり上海でありそれが人間を人間たらしめるものとはならない、自然の美が自然が人間の精神を作るからである。
人間の栄華が野の花より飾られていないというときそのことを言っている
東京はただ人間が巨大な胃袋と化した怪物的都市なのである。
その東京に電気を供給するためにこの辺は人も住めなくなったのである。
原発が未来を作ると双葉町とか大熊町がかかげていたのはまさに東京化した地方の姿だった。
つまり電気文明を否定できない、車文明も石油文明も否定できない、ただ人間の繁栄を電気や石油や車や機械にすべて頼るとき今回の原発事故のように住めなくなったら終わりだとなる。
だからなんらか第三の文明を志向せざるをえなくなっているのである。

城の詩









2015年05月19日

廃藩置県で失われた地域の一体感 (県は広くて郷土愛などが育まれないー行政にも障害が)


廃藩置県で失われた地域の一体感

(県は広くて郷土愛などが育まれないー行政にも障害が)


明治維新を迎え、大政奉還をすると天皇が江戸に移りました―――といってみたところで、地方にはまだたくさんの大名がいます。権力は各地に分散していました。明治新政府が権力を持つためには、地方の権力を全部取り上げてしまわなければならない。そこで大名の持っていた武力をすべて召し上げて、藩をなくして全部県にしたいわけですが、それを実施するには中央に武力がなければならない。中央に権力と武力があって初めて中央集権が成立する。それが廃藩置県の意義でした。
明治の冒頭で、菊池寛がまず廃藩置県に注目したのはじつにみごとだと思います。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/?tag=%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A&page=1


神奈川って海あり山あり都会ありで
多様過ぎて一体感ないんだよね
県民性も地域によって大分違う


これはどこの県でもあてはまるだろう。
福島県でも広すぎる、ハマ、ナカ、アイヅで気候も風土も違っている
むしろ気候とか風土だと海岸線ということで今回の津波の被害にあった所が一体感がある世界だった。
相馬藩は江戸時代から伊達藩と関係が深かった

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に実は伊達に

今でも仙台に通勤している人もいたから同じである。
それは地形が影響していたのである。
阿武隈高原が障害となり隔てられていたのである。
こういう地形の影響はすでに古代からあったから変わらなかったのである。
まずその国は地形から地勢から地理から作られるのである。
自然村であり自然国である。自然から風土から一つの国が形成される。
これは世界的にみても自然から地形から風土から国が作られてゆく
だからその国を知るにはその国の自然と地理を地形を地勢をよむのが先である。

ところがこの地形をよむ地形を知るのが一番むずかしいのである。
これは地図をみてもグーグルアースを見てもわからない
例えば阿武隈高原でもそこを実際に越えてみて中通りに行ってみないとわからない
飯館村は阿武隈高原の村だが相当に標高差があり寒冷な地帯になる。
福島市になると冬は寒く夏は蒸し暑くなる。
それで阿武隈高原を越えた時海の方から風が吹いた時涼しくなりほっとした。
はっきりとそこに温度の差が生まれていたことを実感したのである。
つまり風土とはまさに風であり風を感じないとわからない
その風も今は感じにくくなっいてる
電車でも車でも風は感じないからである。

津軽平野に出て津軽鉄道の中里駅から十三湖に出たとき西風が吹いて
十三湖が波立っていたことであそこの風土を感じた。春でも日本海から西風が吹く、
そして冬はあの辺は地吹雪になる地帯である。
そういう厳しい風土なことを実感したのである。
そして青森県の車のナンバーの人がいてどこかと聞いたら大間だという
大間はどこかとすぐにわからなかった。
それは下北半島の先であり函館が原発があるのでもめている所だった
これも地理がわからないと理解できないのである。

30Km圏内に入る函館市や道南地域への説明もなく、また、同意を得ることもなく、建設が再開され、建設後には、大間原発の事故を想定した地域防災計画や避難計画を定めることを義務づけられることは、整合性を欠き、誠に理解しがたいものです。

平成24年10月、25年2月には、国や事業者に対し、函館市をはじめ道南の自治体や議会、経済界、農漁業団体、住民組織などが名を連ね、大間原発建設の無期限凍結を求めてきたところです。 
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014031000166/

30キロ圏内にあるから函館市は今回の福島の原発事故で反対になった。
青森県で日本海と太平洋側では風土も違ってくるし下北となるとまたわかりにくいのである。
結局自然的にその地形とか風土に準じて作られた藩が一番わかりやすかったのである。
その藩があり城を中心に見ればわかりやすいからである。
その江戸時代の前に古代からそうした地理や風土によってすでに国はつくられてきていたのである。

会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲びにせもと 紐結ばさね (万葉集 14−3426)
安達太良の 嶺に伏す鹿猪の 在りつつも 吾は到らむ 寝処な去りそね
陸奥の 安達太良真弓 弦著けて 引かばか人の 吾を言ひなさむ
陸奥の 安達太良真弓 はじきおきて 反らしめ置なば 弦著かめやも
安積香(あさか)山、影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を、わが思はなくに
陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

みちのく万葉集の歌の意味するもの (福島県の古代-みちのくの大地を深まる秋に想う)

万葉集に歌われたのは福島県までである。真野の草原は石巻説があり涌谷町の黄金花咲くは宮城県である。
ただ古代で奈良に知られたのは福島県では会津であり安達太良がある二本松であり
安積香(あさか)山がある郡山であり真野の草原がある南相馬市である。
これがその後も変わらない基となっている。
会津の国をさ遠み・・・というとき会津の国と記されていることが大事である。
すでに会津では国として認められるのものがあったから国がでてくる。
会津の名の起こりも古事記に記されほど古いからである。
つまり福島県には最初会津国があった。
安達太良というのは山でありそこには国ではなかった。
ただなぜ三つも安達太良の歌が残っているのか?
それは安達太良山が福島県の中心として位置づけられていたからである。
安達ヶ原の鬼婆とかもすでに都に知られていたのもそうである。

そしてその継続として二本松に霞城が築かれた、そのことは詩にもした。
二本松城が福島県の中心として地理的にあって城が築かれた。
会津はまた別な国だった。それで廃藩置県で二本松県があり会津県があり浜通りは
磐城県になっていた。
それが今のハマ、ナカ、アイヅになったのである。
郡山は古代も交通の要所であり都の郡が置かれて接待する女性がいた。
郡山はその後もそういう位置にあり東京に近く繁華な市を形成していたのである。
みちのくの真野の草原は港であると書いてきた。
ただ石巻なのか南相馬市の鹿島区の真野なのかはわからないが考古学的発見からは南相馬市の真野が有力になっている。

いづれにしろ廃藩置県で他国を理解することがかえってむずかしくなったのである。
藩を中心にしてその国の風土なり歴史をみるとわかりやすいのである。
だから廃藩置県は何か無理して線引きして作ったものだからなじめないのである。
地理的一体感がどこでも感じられないというときそうなのである。
県はどこでも広すぎるからそうなるのである。
だから神奈川県がどうなっているのとなると地理的にわかりにくい、それはどこでも県からはわかりににくいのである。
どこの県でも即座に地理がわかる人はいないのである。
地理的一体感がないというとき何かいろいろと問題が起きてくる。
原発のような科学的なものにも問題が起きた。
中通りの福島市とか二本松とか郡山まで放射能で汚染されるとは思わなかった。
それは阿武隈高原が障壁となって原発の影響はないと思っていたのである。
ただその時東風が吹いて放射性物質が運ばれたのである。

日本の地理が複雑なのは海と山があり接近しているし山となるとわかりにくい、だから日本列島を横断してみるとわかりにくい
でも海に沿ってみるとわかりやすくなる。
今回の津波では津波の被害にあったところが一体感があったのである。
一方で安達太良山が万葉集で三つ歌われているように山を中心にみるのも日本である。
ヤマトというと山なのである。それは山に囲まれた山の国だからである。
ともかく廃藩置県後の県で日本をみることはむずかしい
それで地方活性化とかの国の方針もうまくいかないことがあるだろう。
なぜなら県単位になると地域の一体化が広くて一体感がもてないからである。
県単位の行政すら今回の原発事故でもわかったようにむずかしいのである。
福島市にまで被害があるなど考えなかったろう。
それは地理的な要因でそうなっていたのである。

そもそも明治維新は様々な面で無理があった。だから今になると明治維新が必要だったのかとか見直される。
西欧化というけどそれは日本的なのもを排斥する無理があった。
そういうふにう西欧から迫られたというのもあるけどその無理が後々まで影響したのである。
明治維新かなかったら太平洋戦争がなかったといわれるのもそうである。
廃藩置県もそうした日本を中央に武力と権力を集めることであった。
それは文化的にもそうであり標準語に無理やりしたのもそうである。
その時地方の文化的なものもかなり失われたのである。
そういうことまで考慮する余裕がない状態だった。
別に幕府でも開国を目指ししていたのだから廃藩置県がなくても開国はできたということは言えた。
明治維新は日本的な文化の破壊もあり今日まで甚大な影響をしていたのである。
だから明治維新が今になって見直される結果になったのである。


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県単位ではほとんどイメージするものがでてこない (地方創生でも文化は地方からしか生まれない)


県単位ではほとんどイメージするものがでてこない


 
(地方創生でも文化は地方からしか生まれない)

 

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県というき最初は藩があったところが県になっていた。
だから三春藩があり城があったが三春県になっていた。
相馬藩の中村に城があったから中村県になっていた。
県の規模はもともとも大きなものではなかった。
江戸時代の藩を基にしていたのである。
それが拡大解釈して今の県になった。

県というのはイメージがわかない
福岡県といっても佐賀県といってもどんな地域かイメージわかない
福岡というと玄界灘があり韓国に近いということはイメージする
それ以外わかりにくい、佐賀県などとなると余計にわからない
長崎県なら長崎があるから長崎からイメージする
鹿児島県は先端だから薩摩としてイメージしやすい
開門岳があり桜島があるので比較的わかりやすい
阿蘇山は宮崎県だとなる
港とか山が先にあり県をイメージする
安達太良山が万葉集に三つものっていることはいかに注目されていたかわかる
それで

陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ 斎藤茂吉

蔵王は相馬地方でも見える、南相馬市の鹿島区からも大きく見えた。
ただ原町になると見えない、ただ意外と広い範囲で見えてる
蔵王は福島県と宮城県と山形県の三県から見えているからこういう歌ができた。
ただ蔵王と言えば山形県である。
県の象徴として山がある、岩手県は岩手山であり青森県は岩木山である
秋田県は鳥海山である。
富士山といえば静岡県なのかもしれないが富士山は山梨県からも他からも見える。
まず静岡県とあってもどのくらいの範囲であり地理的にイメージできない
それは県単位だとどこでも同じなのである。

山の上の桜に昇る朝日さし沖行く船に金華山見ゆ

これは新地の鹿狼山に登山口で牡鹿半島が見えて金華山も見える時がある。
そして相馬藩内に金華山の碑がある。
これは古くはなく明治時代以降のが多いから比較的新しい
湯殿の碑などは古い方だろう。明治まで金比羅参りなどもつづいていた。
新地は海から貝をとっていた手長の巨人伝説があるように山と海が接近している地形である。
蔵王でも亘理の鳥の海からはっきりと見える。それは船の当て山になっていたから海と結びついていたとなる。
新地では牡鹿半島が見えるからその見えることでつながりが感じられる。
会津の山などは全く見えないから一体感が感じられないのである。
海沿いに今回の津波の被害を受けた所が一体感を感じたのである。

日本では山国だから山からその土地をイメージすることが多い。
そもそも奈良県は大和ととして日本発祥の地だとするとき

やまとはくにのまはろばたたなづく 青がき山ごもれる大和しうるわし

この歌があるように奈良県は山に囲まれた中の盆地だからわかりやすい。
滋賀県だと琵琶湖中心に見るからここもわかりやすい。
結局あとはほとんど県単位ではわかりにくい、それだけ県単位だと広いから地理的なもの地形もわかりにくくなるのが日本である。
日本では県単位でイメージできるのはまれである。
市単位だとわかりやすくるなる。横浜市とか鎌倉市とかなるとわかりやすい。
ただそこが神奈川県だということはイメージできない
神奈川県となると広いからどこでも県単位ではイメージできないのである。

それから日本は海にそってみてゆくとイメージしやすい、瀬戸内海というとい瀬戸内海領域として見るとわかりやすい、それが山口県だ広島県だ岡山県だとかなると山の領域が入ってくるからわかりにくくなる。
京都府なども宮津まで入っているとなるとわかりにくい、宮津が京都府に入ると思う人は外からわからない、それでも方言だとにかよっていることも不思議である。
方言でなまりでみると大阪から近江から奈良から京都は共通性がある。
だからなまりで国がわかると言われたのは変わりない
方言はやはり一つの文化圏の形成として生まれ受け継がれたからである。
でも大阪弁と京都弁とか奈良の方言とか外から見てわかる人はいない
地元だったら似通っていてもわかるとなる
福島県でんだという語尾につけるとき宮城県ではだっちゃになるから明確に別れる
それで丸森ではんだべっちゃになっていたのも面白いのである。
丸森には相馬藩か一時城主であった金山城があったからそこで伊達藩の宮城県と相馬藩の方言が一緒になったというのも歴史だったのである。
こういうことは関西の人たちも知っている
近江商人というと有名だけど大阪商人の基は近江商人だったというのも知らなかった。
近江商人が大阪商人になっていたのである。

日本ではまず全国の地域をイメージするとき県単位ではほとんどできない
山とか川とか市とか城がある所とかからイメージする。
それは県より局所的になりイメージしやすいのである。
だから長崎市となると長崎県になるからわかりやすいのである。
横浜市とあったら横浜県になればわかりやすい、それが神奈川県になると範囲が広くなりわからなくなる。地元に住んでも福島県と同じようにわからないのである。
地理的一体感も歴史的一体感ももてない
鎌倉市だったら歴史的地理的一体化感をもてるし外から見てもわかりやすいのである。
あなたはどこから来たんですかと言っても神奈川県です福島県です、岩手県ですといってもわかりにくいのである。
だから富士山の車のナンバーがあったときわかりやすかったのである。
この人は富士山が見える所に住んでいるとわかるからである。
市にしても日本には藩があっても市はなかった
堺市などは例外だった。市民というのも存在しなかった。
外国に行くときパスポートにどこの市民かと記される
外国では日本国に所属しているのとどこかの市に所属した市民としてみる。
でも日本では村があり町があり市があるからどこの市民なのかとはみんなならないのである。

観光でも県単位で外部にアピールするとき外から見ると福島県でもハマ、ナカ、アイヅになるからわかりにくくなる。
会津なら会津をアピールするとわかりやすい、だから会津県の方が地域創生としては良かったとなる。
岩手県でも盛岡市なら盛岡県となればわかりやすいのである。
県はもとも藩の代わりに使われていたのである。
名古屋市だったら名古屋城があり金の鯱がありそこを中心に考える
でも名古屋市が愛知県というときイメージができないのである。
外国でも一つの行政単位はギリシャだったらポリスでありその後もヨーロッパ
では市が一つの独立国となっていた。
それで市同士が敵対して戦争もしていた。
フィレンツとかも市として独立国だった。そういう歴史が日本ではないのでわかりにくいただ市単位でみると日本でもイメージしやすくなるのである。

県単位になると県歌など作るにも作れないだろう。
ハマ、ナカ、アイヅでは地理も歴史も自然も相当に違っているである。
そういう風土とか歴史を無視して線引きした廃藩置県が今になると文化の破壊だったとなる
要するに県単位になるとアイディンティティが見いだせないし県に愛郷心ももてないのである。
廃藩置県というのはそうした日本の風土と歴史を無視して強行された。
そこには自然の理に反した無理があった。
明治維新から130ねんとかたてばまたそのことが問われる
明治維新の影響がその後の日本を決めたことで影響が大きかったからである。
地租改正などもありかえって江戸時代の日本より農民は苦しむことになったこともそうである。
それは明治維新で強力な中央集権体制で政府に官に権力を集中させたことによっていたのである。
江戸時代にあった村々は解体されて村の共同の入会の山は私有地化された
だから原発が双葉や大熊に建てられ時漁業権が強力なものであり原発御殿が建つほどの補償金をもらった。
そして家の前の砂浜や海まで私有地でると主張されたことでも象徴されている。
それだけ私有意識が強くなり日本人私的なものとして個々に分断された原因ともなる。
ただその私有地を許すということは資本主義に欠かせないということから国ではそうした要するに江戸時代から明治維新のことがわからないと今の日本もわからないのである。

それは行政面でもあり文化面でもある。行政単位としても様々な障害が生まれる
福島一区の選挙区も福島市と相馬の浜通りがふくまれていることに違和感があるのは
地理的阿武隈高原で隔絶されているからそう感じる
地理的に一体感がもてないのである。
地域的特徴地方再生となると相馬藩だったら相馬藩として江戸時代の継続から作り直すとアイディンティティも見いだしやすいのである。
身の丈の感覚でとらえられるのは相馬藩のような六万石くらいになるのか?
この範囲は自転車でも一日で行ける範囲だからである。
その中に海もあり川も山も一応あるから多様な地形を織りなす文化が育まれるのである。これからは明治維新の中央集権体制から地方分権体制に行政的にも移るべきである。
一方で東京に過度に集中する弊害もかえってつづいている。
ただ東京からは文化は育まれないし生まれない
そのバックグランドの自然がないから文化も生まれようがないのである。
文化的側面からだったら本当は原発は東京に作るべきだった。
東京湾の方が津波に対して安全だったからである。
そして貧しくても相馬地方が独自の国造りをするべきだったとなる。


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複雑な地形



 
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2015年06月06日

ソフトパンクなどのモバイルの通信領域が現代を反映 (地図から読み解く福島県など)


ソフトパンクなどのモバイルの通信領域が現代を反映


 
(地図から読み解く福島県など)




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地図は実際は多様であり地図から何かを読み解くことはかなり創造的な作業である。
自分は全国を旅したから地図から読み解く作業をしたがわかりにくい
地図だと高低差とか全体像が把握しにくい
それはインターネットでも同じである。
地図を見るには多様な視点が必要になる。
グーグルマップでもわかりにくい,それだけで四次元とかの空間認識はむずかしい
まずいくら地図をみても世界はわからない
地図から世界の十干か得られないからである。
ただ自分の得意な点は福島県でせんもほとんど自転車で旅していることなのだ。
まず歩いて旅するのと自転車で旅するのと電車で旅するのとは感覚的に相当に違っている
それで棚倉町というのは東北本線からはずれてエアポケットのようになっている。
そこは城下町だから古い町である。
でも東北本線からはずれると何か目立たなくなる。
世界認識は交通手段とか交通路で時代によて違って認識されているのだ
だから江戸時代の地理認識と明治時代の地理認識は変わってしまったのである。
確かに奥の細道は今の東北本線の通っている所である。
そこも江戸時代は俳句でもわかるように淋しい場所だったのである。
須賀川がとても隠者のような人が住むような場所には思えない
むしろかえって隠者は市井に住んでいたとなる
隠者と言っても知識人だからである。
現代になるとこれだけ交通が盛んで情報が流通すると知識人はかえって田舎の方に住んでいるともなる
東京と田舎の情報の差がなくなっているからだ。

ともかく棚倉町について詩を書いたようにそこは何か福島県でははずれた町で目立たないのである。
そして棚倉町の特徴は水戸に通じていて街道が
東京からは六号線でも水戸街道と東京からは呼ばれている

国道118号線を北上して、棚倉町へと入ってきました。
棚倉街道の宿場町・八槻宿があったと思しき八槻地区には、八槻都々古別神社があります
棚倉町には神社仏閣が多い街として有名です。
118号線沿線には、八槻都々古別神社だけでなく馬場都都古和氣神社や宇迦神社、そして山本不動尊があります。
国道118号線は、神社仏閣めぐり街道でもあるのです。

ここは古代のヤマトタケルの伝説が残る古い場所である。久慈川を上ってきたのである。久慈川も万葉集に歌が残っているから古い場所である。
白河の関よりここが福島県では古代の通り道だった。
ここは水郡線がありこれは結構時間がかかる、水戸まで通じている。
これは一回だけしか乗っていない、ローカル線である。
ただここが記憶に残ったのは会津からここまで自転車で来てテントで秋にテントでとまったからである。
ここは茨城県に日立に近いからここも福島県になり福島県はつぐづく広いなと思う

それから猪苗代湖の福良とか湖南町なども通信領域からはずれている
あの辺もも白河街道で江戸時代は会津に通じる道であり秀吉もこの道を会津に向かった。鉄道がここを通らないのですたれて淋しい町になった。
でも情緒はこうした江戸時代の旧街道だったところに感じるのである。
この道も自転車で会津に向かった。
それから昭和村とかあるがここも町の中心部は通信領域になっているが孤立している。
ここも確かに自転車で行ったとき遠いし離れていて孤立した村に感じた。
これは自転車で行った実感なのである。
山が多い所は通信領域になっていない、そこには人家も少ないからである。
檜枝岐に行く道で古町温泉とかに入ったのも思い出であり
なんとも今になると夢のようであり不思議になる。
旅はこうして気まぐれでないと旅にならない
ここでちっっとよってみようか別れ道を行くこうかとなる
あそこの温泉は地元の人が入る温泉である。

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自分が作った俳句で「日永きやまた道二つに分るかな 」があったがそういう時があったときなつかしく思った。
ここに時間の余裕があった。
日が長くなり春の日にきままに自転車にのり阿武隈の道をたどっている
そこに制限されない時間の余裕がこの句から感じられた。
こんな句を作ったのも忘れていたのである。
俳句でも短歌でもそこからどれらだけよみとれるからである。
自分が作った俳句だからもちろんその時を思い出す
つくづくその時制限されな自由な時間があったんだなとふりかえる
そんな時間があたりまえだと思っていたがそういう時間さえなくなる。
人生の時間はいづれ誰でもつきるのである。
今になるとその時そこにあったということ自体が不思議になる

それで面白いのは丸森町である。宮城県は仙台を中心にして通信領域で赤になっている
でも丸森の地域は通信はできるが薄い赤でありやはり正式の通信はできない
丸森は秘境があるということを書いたし詩にした
丸森は伊達藩でも相馬藩と接して仙台からははずれている。
ただ丸森からも角田からも蔵王が大きく身近に見えるのである。
蔵王が見え領域としての地理もある。蔵王はみな南相馬市の鹿島まで見えるのである。
だから高い山から地理を把握するのも一つの地理の見方なのである。
通信領域からはずれているのは阿武隈の高原地帯である。
そこは広いのだが葛尾村とか今では過疎地域になる。

旅をして魅力があったのはこうした通信領域からはずれている過疎になっている地域であった。
そこは江戸時代はかえって街道が通じていたが裏道になってしまったのである。
記憶をたどる旅になるとどうしても地図をみる、その地図を見てもわからない
インターネットで旅した道の紹介があったたするから便利である。
つまり何度も言うが地理は実感の世界でありまさに像で把握する世界なのである。
それが四次元にもなっているから地図を見ても立体地図を見てもわからないのである。
このソフトバンクの通信領域の地図は全国的に見ても興味深い
なぜなら通信領域からはずれいるところは過疎化している地域と一致しているからである白くなっていて空白地域になり穴があいたような地域になっているのである。

現代では通信ができないことも過疎なのである。
なぜなら通販はインターネットでしているからである。モバイルでもしているからである
学問もいろいろあるが地理というのは基本にある。
これを知らないと何か実感として何も理解できない
歴史も文学もそうだし地質学でも地震学でもそうだろう
これは世界の歴史でも同じなのである。
だから最近アマゾンで「逆さ地図で読み解く世界情勢の本質」
これなど南砂諸島になぜ中国がこだわるからわかりやすくなる。
政治は基本的に地勢学、地政学だからである。
このソフトバンクの地図からまた全国を見直してみよう。



道にも古道があるが町にも必ず古町がどこにでもある。都路に古道とあるのはその道が古い道になったからである。
どこの街でも古町があるのはそこがもとは栄えていたからである。
南会津でも古町温泉とかあり地元の人が入っていた。
ここが古町だったのかと山奥だから不思議に思った。
会津田島駅発内川行き → 針生 → 山口 → 古町温泉入口下車(乗車時間約1時間) 
福島県南会津郡南会津町古町 字太子堂186-2

古町温泉赤岩荘
http://www.sayurinosato.co.jp/akaiwa/access.php

古町や会津の奥の湯秋の暮


古い道と新しい道(会津の古町温泉)

2015年10月08日

みちのくの要所ー白河の歴史の要約


みちのくの要所ー白河の歴史の要約

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白河の関が機能していた古代には白河郡の政庁である白河郡衙は現在の白河市中心部より9キロほど
東方の西白河郡泉崎村関和久(せきわく)に置かれており、現在の白河市街地域が発展するのは鎌倉時代以降、結城氏が支配するようになってからのことである。

白河藩が設立されたのは徳川秀忠の時代、1627年のことで、石高は十万石、初代藩主は隣の棚倉藩から移封となった丹羽重家だが、まもなく重家は幕府から小峰城の大規模な改修と町割り整備を命じられる。これは幕藩体制の確立にあたり、白河藩を奥州の外様大名に対する戦略拠点とするのが目的だったと思
われる。
この城郭の改修事業は1629年から4年がかりで完成。現在のJR白河駅の南側まで含む約60万uの大規模な城郭が完成した。
ところで、その丹羽重家自身も外様大名であるうえ、関ヶ原では西軍とみなされて一度は領地を没収され、後に許されて棚倉五万石を与えられた経緯を持っている。そのような経歴の重家が、奥州の要衝である
白河藩主に抜擢されるのは不思議な気もするが、それは丹羽氏が築城技術に長けていたからだと云われている。もともと丹羽家は織田信長の家老挌の重臣で、重家の父長秀は安土城築城の普請を担当して力量を発揮し、家臣の中にも優秀な土木・建築技術を持つ者が多かったことを買われたようだ。
小峰城築城の大事業を果たした丹羽氏は次の光重の代にまたもや二本松へ移封となり、親子二代の間に棚倉・白河・二本松と三度もの築城を行わなくてはならなかったが、その労苦が報われたのか、その後は国替えもなく、幕末まで二本松を領している。


●白川城と小峰城で本家と分家で跡目相続で争い

文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐に参加し,功名をたてた結城朝光は、その恩賞として白河庄の地頭職(じとうしき)を与えられた。その後、朝光の孫の祐広(すけひろ)が正応2年(1289)頃、下総結城より移住して、この白川城を本拠としたと伝えられている
一四世紀の南北朝騒乱の時、四代目の宗広が奥州南朝軍の総大将となった。
一五世紀になると八代目直朝、九代目の政朝が一つの絶頂期を作った。
例えば政朝は文明三年(1471)に相馬高胤と一揆契約を結び「なにごとも助け合う」と同盟した。岩城氏とも兄弟の契約を交わした。
栃木の宇都宮氏とも保護する条約を交わし会津芦名氏からは自分の後妻を迎えて婚姻関係を作った。

後妻の子をかわいがりすぎて跡継ぎ問題が起きて本家と分家の争いが起きた。
それで政朝は小峰城の分家に滅ぼされてその後は衰退した。
これは良くある話である。ここで相馬藩も関係していた。白河ははり要所であり様々な勢力がここに集結したからである。

●石垣からみた小峰城の歴史

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白河は相馬からになるとなかなか行きにくい場所で行っていなかった。
小峰城には天守がない城がないとき行ったことがあった。
あそこの石垣が見物である。
地震で半円状の石垣は総崩れになった。白河でも十人以上が山崩れで死んだというのも意外だった。地震の被害はここにもありまた白河でも除染していた。
白河も風の関係で放射線に汚染されていたのである。
白河となる郡山からまた遠いから意外だった。郡山でも放射線量が高いとニュースでは騒いだ。地震から五年で石垣はようやく再建されたのである。
この石垣で興味深いのは

丹羽家は織田信長の家老挌の重臣で、重家の父長秀は安土城築城の普請を担当して力量を発揮し、家臣の中にも優秀な土木・建築技術を持つ者が多かったことを買われたようだ。
丹羽氏は二本松城を築いた、築城にかかわる家臣をかかえていた。丹羽氏は棚倉藩の城代ともなり白河城の城主とも一時なっていた。
丹羽氏と織田家は関係が深くそれは安土城とのかかわりがあった。
やはり城というのは石垣を組むこと城を造る事は一大事業だからそうなった。
「半円」は新しく現代風に作ったものだと思っていた。何か現代的だからである。
あれを復元するのは容易ではなかった。7000千個もの石を組み直したというからその苦労は大変なものだった。

穴太衆積み」と呼ばれる技術は個々の石それぞれが振動を吸収して揺れを抑え、地震や風雪に強いのが特徴。信長が延暦寺焼き打ちの後、残った石垣の堅固さに感心し、安土城の石垣を任せたとされる。その後、各地の築城に関わり、技術は豊臣秀吉が築いた大坂城(現・大阪城)や名古屋城などで用いられた。

石垣を作る技術集団がいて力をもった。ヨーロッパでも聖堂を建てた石工の集団が組織化され代々技術を伝えてフリーメーソンとして現代でも影の支配者だとか言われるのもそのためである。
二本松では茶をだした女性が「丹羽様」とか言っていたから住民には親しいものとして残っている。丹羽氏は小田家と関係が深い、次ぎに蒲生氏郷が会津の領主となり白河を支配した。
だから会津門があり会津町があった。会津町というとき会津の人が集団的に住んだから地名化した。
そこで興味深いのは蒲生氏郷はキリシタンであり白河城の石垣に十字が彫られているという、地元の女性が歴女というか大阪の女性であり説明してくれた。
その60代くらいの女性は城めぐりしていたのである。歴史に詳しい女性だった。
歴女というとき若い女性と思ったが今では60代くらいの女性でも言える。
城めぐりの旅をしていたのである。
この話は知らない人が多いだろう。何でも城に向かって祈っていたのはその十字架が彫られていた石垣に向かって祈っていたのだという。
会津の蒲生氏郷が支配していたからここにもキリシタンがいたのである。
会津にはキリシタンの墓がある。迫害もあった。
白河には会津町があり城には会津門がある。これで思い出したのがドイツの
秀吉の時代になると石田三成が相馬藩をたずねている。それは自分のすぐ近くにある田中城をたずねていたのである。
それで相馬藩に三成の旗印が野馬追いに出ていたし相馬の殿様は三成の一字をもらって名前としている。
秀吉は白河街道を通って会津に来ている。

●明治維新の激戦地だった白河

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白河から会津は勢至堂を通り会津にゆく白河街道である。この道が旧街道である。



白河口の攻防戦は、会津藩、仙台藩の両藩を主力とした奥羽列藩同盟軍と薩摩藩、長州藩を主力とした新政府軍との間で、およそ100日間にも渡って繰り広げられ、両軍合わせて800名を超える戦死者が出た、東北の戊辰戦争の中でも最大の激戦であった。

白河はみちのくの入り口であり要所だったから様々な勢力がしのぎを削る場所になった。茨城県とも境を接していて那須連峰も見えた。
こうした境が歴史が知るにはいい場所である。
郡山も万葉集の歌が残っているのだから古いし今では会津にも通じる鉄道が通るから郡山が交通の要所となっているが白河がもともと交通の要所でありここからみちのくの領域に入る場所で重要だったのである。
それで戊辰戦争では熾烈な争いの場所となり千人死んだとかなり白河の遊女の悲話が語られている。

棚倉でも戦いがありそれでは相馬藩士も死んでいる。棚倉藩は東白川郡になり今の白河は西白川郡である。
西白川郡には郡役所が置かれた。それが南湖公園に移築されていので知った。
福島県は明治維新に二本松県となり磐城県となった。白河県とならなかったのはやはり勢力的に二本松や磐城からすると小さいからそうなった。
古代では白河軍団がありこれも大きい勢力であり多賀城に木簡が残されている。
古代から要所の地であり福島県の玄関であり福島県を知るには白河から知るべきだとなるただ現代ではどうしても郡山から入る、そして白河が新幹線では新白河になっているのもややこしい、それで南湖から新白河駅へタクシーで行って仙台に行き日帰りで帰ってきたのである。
なぜ新白河駅を作ったのか?そこには一つの街になりホテルがいくつか建っている。
でも観光するには不便である。
ともかく新幹線だとかなり遠くても日帰りで行けることがわかった。
十年くらい旅していないから何か距離感だとかがわからなくなっていた。
十年もすれば時代は変わってゆく,特に新幹線で変わっていたことを実感したのである。

 
 

タグ:白河

常磐線でイワキへ磐越道で郡山市へ (旅ではやはり地名が記憶に残る)


常磐線でイワキへ磐越道で郡山市へ


(旅ではやはり地名が記憶に残る)

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津波に残った久の浜の神社

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久の浜駅

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阿武隈山地

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しばしよるイワキの通り秋柳

秋の日や長橋すぎぬイワキかな

秋の日や逢隈橋を渡るかな

郡山へ逢隈橋や芒かな

水郡線ここに別れて芒かな


竜田駅金木犀の匂いしも鉄路閉ざして五年はすぎぬ

久ノ浜駅に浜菊咲きし見ゆ津波の後にあわれなるかな

津波にも残る社は奇しきかな久ノ浜去る秋の旅人

四倉にセメント工場ありにしと語りてあわれ秋の風吹く

阿武隈の山々深く家ともし秋の雲の影朝に落としぬ

阿武隈合戸トンネルぬけいでて山々深く秋の雲かな

阿武隈の流れゆるか秋の日や岸に実りや郡山に入る


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久ノ浜の駅には浜菊が咲いていたから海の駅らしい、ここは海が見える線であり海に最も近い場所だった。
それにしても久ノ浜に残った稲荷神社は良く残ったと思う。
烏崎村でも八竜神社は残ったがそれは後ろの山の高い所にありその社は津波がすれすれにきて残った。あれももう少し津波が高かったら残らなかった。
あれも不思議だけどこの久ノ浜の社は人家なみに低いし海の堤防のすぐそばだったからこれで良く残ったと思う、回りには一軒の家もなくなっていたからである。
この社は今回の津波で最も不思議なものかもしれない。
波立薬師も残っていたというのも不思議である。
久ノ浜は原発から三〇キロ地点でありここは津波の被害が大きかった。家が密集していたからである。
四倉では駅の前に錆びて朽ち果てたセメント工場の残骸があった。
土地の人が教えてくれた。あれは相当に大きな工場だったのだろう。



イワキでは通り秋柳が見えてバスは長橋町という所をすぎたのを地名で覚えた。
イワキについて電車に乗ろうとしたら磐越東線は何時間もあとでありバスで磐越道にのり郡山市に向かった。一時間半である。
イワキから郡山の磐越東線は結構時間がかかる、それよりもう一日5、6便くらいしか出ていない、これでは乗り継ぎができないからこうい線はのりにくくなった。
よほど鉄道マニアで暇でないと乗れない、今は暇がないから乗れない
何かすでに一〇年は長い旅をしていない、この線に乗ったのも今になるとずいぶんまえになったと思う。だからこの線のことは思い出せなくなった。
やはり思い出せなければ何か書くこともできなくなる。


磐越道は途中合戸トンネルに入る、その名が目についた記憶に残る,こうした地名が意外と記憶に残る、途中の小野とか三春は見ることもできなかった。
郡山に入ると逢隈橋に出た。阿武隈はもともと逢隈だったのである。それは亘理に逢隈駅があることでもわかる。逢隈は福島市にもあり他にもある。
郡山から水郡線が出ていて棚倉町にゆく、棚倉には城がある。
この水郡線も一回だけ乗ったけどかなりの距離がある。その駅の名前も忘れた。
ここを別れて水郡戦線路が見えた、そして遠い旅の日を思い出していた。
すでに十年以上もいや二十年なのかこれだけ歳月が過ぎると何かなつかしいとなる。
だいたい自分は日本の線路はほとんど乗った、乗っていないのは関西の私鉄くらいであるただ最近は新幹線が走るが新幹線には前から乗らないでゆっくり旅していた。
今になると暇がないから新幹線が便利である。


今回も何か地名の旅だった。地名は記憶に残る、特に電車の旅では駅名が記憶に残る。
バスでも早いから地名だけが何か心に記憶される、だから旅には地名が心に記憶され
地名が歌枕の役目を現代でも果たしているのである。
そうでいなとただ通りすぎるだけの旅になってしまうからである。
高速道路もやはり旅であり電車とはまた違った風景になる。
高速道路も今は縦横に走っているから旅するのには便利だけどあまり心に残らないということは言える。










 

タグ:阿武隈

2015年10月09日

秋に訪ねる白河の小峰城 (秋雲棚引く小峰城ー詩)


秋に訪ねる白河の小峰城

(秋雲棚引く小峰城ー詩)

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みちのくを旅する女や秋薊

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石垣工事の石が今も置いてある




みちのくに駅の名一つ秋の雲
秋の雲棚引きあわれ小峰城
日のさして蜻蛉群れ飛ぶ小峰城
秋の日に乙女桜をたずねけり
白河に二つの城跡秋の風
小峰城石垣古りて秋薊
みちのくを旅する女や秋薊
白河に那須連峰見ゆ秋日没る

みちのくの城をたずぬと大阪の女(ヒト)と出会い別る秋かな
白河に会津町あり秋の日やここより結ぶ秋の街道
阿武隈川岸に芒や小峰城那須連峰を天守に望む
白河に攻防激し残る跡秋風吹きてみちのくに入る

白河に城の二つやその一つ埋もれ忘れらる秋風の吹く

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秋雲棚引き小峰城

古来より陸奥国の入り口
白河の小峰城の三層の櫓かな
秋雲棚引き翳りけるかも
映える天守に蜻蛉群れ飛び
石垣に薊のなおも残れり
大阪の旅人もたずねて
阿武隈川に芒なびき
かなた那須の連山を見ゆ

城内に乙女桜とあわれ
我は秋にしたずねけるかな
その石垣の反りの厳しく
堅固に組まれて構えたり
ここにかつて会津の門あり
会津町ありて歴史を残す

蒲生氏郷の一時ありて
会津に通ず白河街道
家並の古く道細し
我は勢至峠を越えて
猪苗代湖の波音ひびき
境の松の枝垂れる道をすぎ
福良に着きて一夜泊まりぬ

旅人の御堂に休むもあれ
石碑は古りて並びありぬ
会津へとつづく白河街道
その山間に芒なびきて
はや日も暮れむと急ぐかな
ここよりなおも会津は遠しも
今は忘れられる裏の道となり
かすかに虫の道の辺に鳴く

白河に二つの城あり
本家分家と争い衰退す
これも人の世の常なり
分家の小峰城は今に残りぬ
常陸、那須と通ぜし所
秋風ここに吹き歴史を語る
戊辰戦争にも陸奥の要の城
ここに集結して攻防激し
東北列藩のまとまらじかも
戦いの後や両軍の戦死者のともに
墓の向かいあいて残りけるかな

この時遊女一人戦いに巻き込まれ
会津の兵に裏切りものと殺される
何も罪なき一庶民も巻き込む
ここに恨みを残して時は過ぐ
古来より白河は陸奥の入り口
秋雲棚引き小峰城暮る


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白河と会津は白河街道を通じて結ばれていた。蒲生氏郷のときにはじまり会津領になっていた。その前は栃木とか宇都宮とか常陸と関係していたきも地理的に理解できる。
福島県の白河はその境目にあるからだ。
白河から那須連峰が見えたし会津の舘岩からも見える。
白河に二つの城があった。一つは分家した城でありそれが小峰城である。
もう一つは白川城である。もともと白河ではなく白川だった。
本家は分家と争いその後は衰退したという。
こういうことは常にある。だからめずらしいことではない。
それが歴史の跡として二つの城跡があることが明確なものとして残っているからわかりやすい。
家が二つに分かれるというとき別に普通の家でもそういうことはどこでもある。
家は何かまとまるのはめずらしく二つに分かれやすいものだとなる。

もともと平家とか源氏とか二つに分かれたけど元をたどれば人間は一つなのである。
要するに人間の家は安住の場ではない、分裂する場である。
なぜこれほど離婚が多いのかというのもそうである。
男女でも一つになることはむずかしく分離してゆく
天皇が二つになり分かれた南北朝の争いもそうである。
その影響は全国に及んでいてこの白河でもその歴史を残している。
国単位でも二つの勢力に分断される、東西の争い、関が原の戦いもそうだった。
何か自分の家もそうだったからこの二つに分かれた本家分家の歴史が身近なものに感じられる。
人間の宿命として家は大きくなればまた分家してそれが争いの元になる。

大阪の六〇代の女性が歴史に詳しく城めぐりしていた。歴女というのが話題になったが若い人ではなく六〇代くらいになるとかえって歴女としてふさわしい。
城内に薊が咲いていてそれを指さした。蜻蛉(あきつ)も群れて飛んでいた。
最近赤とんぼをあまりみないがここでは多くはないが群飛んでいたのでなつかしかった。ここでは半円に積む石垣が全部崩れた。それを直すのに七〇〇〇個の石を組み直したというから大変な作業を強いられた。
この半円の石垣は現代風に作り直したのかと思った。
それほど他には見ない石垣だからである。
もしそうしたら歴史は失われる、もともと半円状の石垣だったことがめずらしいのである
人柱伝説があるのもこれだけの石垣を作ったということで信憑性がある。
ただこれはどこにでもある伝説だから事実かどうかはわからない。
城の普請は一大事業であり常に城が普請されるときは江戸城でも全国の藩で刈りだされたその労役や費用が負担させられていた。
城を造ることはその地を支配することである。

人は石垣、人は城というけどこの逆も言える゛石垣があって城があり城があって城下町ができて人が活きる
最近コンクリートより人とという民主党の政策が鬼怒川の堤防決壊で見直された。
コンクリートつまり土木事業を無視して国土は成り立たない、特に日本は災害が多いからそう言われた。
この関係は家が第一なのかそれともそこに住む人が大事なのかという問題にもなる。
原発避難区域では人が住まなくなった、人が住まない家とか故郷はなになのかとなった。
人は石垣、人は城というのもまた真である。
まず人が住まない家は死んでゆくし故郷でもそうである。
支える人がいなくなればどうにもならない、先に人があって人の心と意志があって建物もある。
建物があって人があるとはならないが歴史の跡はまた建物が城でも残ることによって人の心を意志を伝えるということはある。
家でもやはりそこにはその家を作った人の意志とその家で暮らした家族の思い出がつまっている。
それは単なる箱ではない、人間の心がそこに宿っているとなる。

白河街道というときこの道は昔を偲ぶにはいいし風景がいい、勢至峠を越えてゆくと猪苗代湖が見える。福良はなにかひなびた湖畔の町である。
この道はさびれているが歴史を感じる道である。この道は深く会津と歴史的に結びついていたのである。
たいがい交通の便がいい、鉄道が通っている方をゆくがこの白河街道が歴史の道なのである。
歴史を知るにはやはりこうした歴史の道を実際に通らないとわからない。
今は車で簡単に行けるのだがそのあまりにも簡単な結果、昔が偲べないのである。
白河から会津まで実際はどのくらいかかったのか途中泊まったのかとかその距離感覚がわからない
自分は自転車で一夜福良の蔵の宿に泊まったのである。
それが何か思い出となっている。福良は前は茅葺きの家が通りにあったが今はなくなった十年とか二十年とかたつと変わる、昔のものはどんどん失われる
そして新幹線の時代になっていた。東北新幹線はすでに古いけど自分はわざわざゆんくりとした旅をするために乗らなかったのである。
でも今は暇がないから新幹線が便利だなと思った。
白河まで日帰りで行けたからである。白河から仙台まで一時間ほどであり早いなつくづく思う。
それから仙台から亘理まで鉄道で行き今度は相馬駅から電車に乗り換え帰ってきた。
電車とバスと新幹線を乗り換えて日帰りの旅だった。
その日帰りでも結構旅をして観光できたとなる。





タグ:白河小峰城

2015年10月10日

秋の白河の南湖を訪ねる(俳句と短歌)

秋の白河の南湖を訪ねる(俳句と短歌)


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松古りて野菊に虫の音南湖暮る
秋の山名君ありて南湖かな
雁数羽音なく水脈ひく南湖かな
中島に寄りて集いぬ雁の群れ
夕暮れや南湖に聞きぬ虫の声

湖岸の松の太しも古りにける秋の日さして南湖暮れにき
秋の日や南湖の岸に松古りて我もめぐりて夕ぐるるかも
秋の日の湖面に反射し暮れゆきぬ南湖の岸の松によるかな
名君の作りし湖の松古りて今は実り季(とき)にありしも



南湖の名は李白の詩句「南湖秋水夜無煙」からとも、白河小峰城の南に位置していたことから名付けられたともいわれている。現在の南湖公園のあたりは元々大沼と呼ばれた湿地帯で、松平家が藩主になるまえの本多家のころから多目的に利用するための湖沼を施工してはいた。
福島県白河市に、白河藩主であった松平定信が1801年に造営した日本最古の庭園といわれる「南湖公園(なんここうえん)」があります。白河の小峰城の南に造られたことと李白の漢詩から「南湖」と名付けられた湖を中心とした「南湖公園」。松平定信の「士民共楽」(武士も民衆も身分の隔てなく共に楽しむ)の精神が伝わる湖畔では、4月中旬には800本の桜並木や樹齢200年のシダレザクラが楽しめますよ。

この南湖は昔は厚く全部凍って子供の頃スケートとしていたという、今は全部凍ることはないという。このことは二人の人から聞いた。
つまり白河でも寒く南湖でもそれほど凍っていた、今はやはりあたたかくなった。
特に最近は温暖化していることは確かである。今日も朝から暑い、今頃こんなに暑いのかと思うからだ。

松平定信が名君と言われるのは天明の飢饉のとき死者を出さなかったからだという。
馬とか白河だるまとか何か他の産業を育成した。天明の飢饉は全国的なものであり
相馬藩では三分の一の人口が減った。なぜここではその被害がなかったのか?
それは名君があってそうなったのか?それだけでは天明の飢饉の被害はまねがれないだろう。
その辺の詳しいことはわかないが「士民共楽」という思想で治めた。
その象徴が土民も楽しむ日本最古の南湖となる。だからこの南湖は単なる自然の湖ではない、ただここはもともと湿地帯だったから湖にするのは容易だった。

岸の松はいい松であり桜も見物だという、那須連山が見えるのも白河らしい。
松というとき津波では松川浦の松も南相馬市の右田の松原も失われた。
だからなかなか松というのものが見れなくなったのが残念である。
確かにここの松は太いし古いしいい松である。
「士民共楽」というとき松と野菊と虫の声がふさわしいとなる。
ここが単なる自然の湖ではないからまた違ったもの歴史的なものとして自然を見る


田沼派への権力集中を面白くないと考えたからか、
意知が旗本・佐野政言に江戸城内で刺されて死亡、
また浅間山噴火から天明の大飢饉、
そして、田沼を最も頼りにしていた家治が亡くなると失脚、
蟄居のうえ、彼が城主の遠州相良城は打ち壊しとなります。
家斉が十一代将軍に就任。
田沼意次に代わって実権を握ったのが、
老中首座となる松平定信でした。

田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水

白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき


松平定信の経済政策は緊縮財政であり倹約に走りすぎ失敗したとある。
評価としては白河では良かったが中央の政治ではそうでもなかった。
天明の飢饉のときに幕府の政治を動かした、天明の飢饉の時代の人だった

(心あてに見し夕顔の花散りて尋ねぞわぶるたそがれの宿)から、たそがれの少将とも呼ばれた。

これも繊細な歌だけど政治家がこんな繊細な歌を作ったのかとかたそがれの少将という名はなぜついたのか?
それは中央の政治ではうまくいかず白河の藩主になって名君になった。
たそがれというのは中央の政治から引いたことも関係しているのか?
心をあてにした夕顔が散っていてその居所もわからなくなったということか、思いをよせる女性のことか?
おそらくこれは老境の短歌だろう。
老人になるとかつて思った人もすでになくなりわからなくなったりすることが多いからだ
ともかく中央の政治を引退して白河では名君になっていたのである。



 
タグ:白河南湖

白河の秋の翠楽苑

白河の秋の翠楽苑

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この石の脇に竜胆が咲いていた

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赤とんぼがとまっているのが見える


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秋の翠楽苑

秋水石にひびきて流れ
借景成す松山の緑濃く
広き池に写す深緑の影
二段の滝に四阿屋あり
茶亭の小径の石により
竜胆の咲きて径は分る
蜻蛉一匹静かにとまり
清流絶えず池を満たし
その水の濁らず保ちぬ
秋の午後の日のさして
一服の茶をたまわりぬ
床の間に清楚白菊一輪
水は石に絶えずひびき
松の翠の苑に鎮座する
石と石に日さし暮れぬ

(秋日さしここに静まる松と石)

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抽象化した翠楽苑のロゴマーク




南湖にあった翠楽苑は良く作られている。

「やっとなじんできたんですよ」
「作られていから何年ですか」
「二十年です」

「何か新しいものと思いました、やはりこれだけの庭を造るのには時間がかかりますね」
自然のものは松でも石でもやはり根付くには時間がかかる。
二十年でも真新しい感じである。京都の庭は古いからやはり違っている。
庭というのはなかなか近くで何度も行かないと鑑賞できない
だから京都に行っても庭のことは良くわからないのである。
まず京都自体を知ることはかなりむずかしい、歴史があっても鑑賞することがむずかしいのである。

だから庭は近くにあって四季おりおりに楽しむのがいい、そういう庭は仙台にもないし東北には意外とない、それだけ庭を造るのは苦労なのである。
ここの庭は場所が良かった。借景としてすでに松山がありそこから川のように水が流れるようにした。それが自然の川のように見えるのである。
ここは春は桜で夏は木陰が多いから涼しい感じになり秋は紅葉と楽しめる
花も咲いていて石により竜胆がそちこち咲いていた。

自然を人工化したものだが日本の庭はなるべく自然のままに作る、流れが縦横にあり石橋があり四阿屋があり滝もあり気持がいい、「秋水庵」というのもあり今の季節にぴったりだった。
秋水が石にひびき流れていて気持が良かった。
翠楽苑とは松の翠(みどり)を楽しむ苑のことだった。
確かに松が多く翠が多いのである。

自分でもやりたいのには庭作りだった。これはしかし相当に金がかかるし大財閥でないとできない、この翠楽苑で感じたことはものたりなかったことは大きな石がない、石がそちこちあっても大きな石がない、これだけの庭だったら大きな石があってもいいと思った。そしたら庭に重みをもつ、大きい石といっても隣の家でも大きな石があるし旅館に庭でもあったり結構ある。
ということは別に大きな石は贅沢ではない、立石というかそそりたつ石もない、点々と石はあっても何かポイントになる石がない、それがものたりない感じになった。
ただこの庭もそれなりの庭のイメージがあって設計されて作られた
だから庭にはどんな小さな庭でも個性があるのが不思議なのである。

近くに広い庭をもっている家がある。その庭には何にもない、更地にしている、前は畑にしたりしていたが今は更地であり何にもない、小石だけでもしけばいいと思うがそういう趣味もない、だからいくら土地をもっていても家をもっていても活かされないことがこの世には多いのである
そういうことができる、したい人は土地がない、金がないとかでできないのである。
津波の跡でも更地になったからそこを公園にして大きな庭でも作れば復興にもなる
ただこれもなかなか堤防工事とか先にあるからむずかしいとなる
ともかくあそこの庭にはまた行ってみたい、紅葉になるのは早い、一〇月末にはなっている、一部は写真に写っていたように紅葉になっているからだ。
新幹線だと仙台から白河まで一時間であるが仙台までゆくのに二時間かかるからそこが遠く感じる、それからバスは電車より疲れるのが嫌なのである。

福島県の観光というとやはり白河の小峰城とか二本松城とか会津の城がメインになる。
浜通りには城がないから歴史の観光としては魅力がかける、福島県では観光というと会津であり中通りが中心になる。
小峰城ができたのも十年くらいでありあれは小さいけど効果あったなと思う。
前は何もないとき訪ねたことがっあった。その時のことは印象に残っていない、だから城もやはり石垣だけではものたりないとなる。
ただ会津の城には魅力を感じない、何か平城で新しく博物館のように感じるのだ。
もし戊辰戦争の銃弾の跡とか残っていたら歴史を生々しく感じる。
新しくなると博物館なのかと思う、ただ会津でも七層の黒川城があったら見物だった。
その城は壮観であり会津九〇万石の時代もあったのだから見物だった。
その黒川城が地震で崩れて今の五層の城になったのである。

タグ:翠楽苑

2015年10月17日

常磐線の思い出短歌30首 (津波原発事故からふりかえる)


常磐線の思い出短歌30首


(津波原発事故からふりかえる)


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逢隈駅乗り降り多し蝉の声

AUKUMA station
the new one
many passengers
voices of cicadas

新しき駅にしあれや逢隈(あふくま)駅乗り降り多し蝉の音ひびけり
交換に逢隈駅にとまるかな蝉鳴く声のここにひびけり
亘理駅鴎の一羽飛びゆきぬ秋の野広がりしばしとまりぬ
浜吉田海の近きと知らざりき津波の後に電車通りぬ
山下駅勤めの人や菖蒲咲き仙台までを乗り合わすかな
坂本駅一人おりにき冬の夜やともしびあわれ我は見てをり
新地駅夜の静かに着き月光りホームにおりて虫の音を聞く

駒ヶ峰はやすぎにけり相馬と伊達の境の駅かな
相馬駅松一本立ち駅前の通り城跡へゆく秋の夕暮
日立木駅鉄路に咲きぬハマヒルガオ海に近きを磯部は消えぬ
日立木駅一人おりにき誰なれや刈田広がり電車すぎさる
鹿島駅幾人のるや秋の薔薇四五輪咲きて今日も暮れにき
駅前の自転車屋古りあわれかな病と聞くや秋となりしも
原町の駅に大輪のひまわりの咲きて行き交う電車見ゆかな
原町にスーパーヒタチのとまるまま五年も過ぎむ秋のくれかな
磐城太田神社の古く相馬藩歴史を語る秋となるかも
磐城太田次は原町ようやくに帰る故郷に電車ひびきぬ
小高駅ここまで津波来たりしと人住まぬ街電車通ぜじ
桃内の駅の淋しもつぎ浪江なにかあれかし冬田広がる

川二つよぎるや浪江の駅すぎて請戸の港思ふ秋かな
夜ノ森の駅につつじの映えにつつ電車すぎさる今は通らじ
双葉駅昔は長塚我が父と姉との思い出ここにあるかな
我が姉の死して悲しも語りたる双葉のことを思いだすかな
竜田駅金木犀の匂いけり線路閉ざすもまた通じなむ
木戸川をすぎて秋なれや木戸駅すぎて広野につきぬ
末次の駅におりたち畑に人菖蒲の咲きて墓地の暮れゆく
大野駅広野駅冬の野の広がり駅の名心に残りぬ
久ノ浜駅に浜菊咲きし見ゆ津波の後にあわれなるかな
四倉の駅の秋なれ廃墟ありセメント工場跡と電車すぎゆく
草野駅まもなくいわき秋の日のさして稲穂も刈られる季(とき)かな
平駅おりたち線路仙台へ伸びしも遠き春の夕暮
いわき駅東京へゆくカラフルな電車並びて春の日に来る
勿来より春にたどりぬ泉駅昔の路線夕焼け美し

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1898年(明治31年)8月23日 - 日本鉄道磐城線の長塚駅(ながつかえき)として開業。
1901年(明治34年) - 土浦線・水戸線友部駅 - 水戸駅間・磐城線を統合し海岸線と改
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により常磐線の所属となる。
1959年(昭和34年)10月1日 - 双葉駅に改称となる。

双葉駅が浪江が標葉郷であり楢葉があり双葉となった。標葉は浪江は相馬藩に入り野馬追いにもでている。双葉はもともと長塚駅だった。だから双葉というとその駅名が新しいと感じるが昭和34年に改称したとなる実際は古い
相馬駅も中村駅でありこれは中村というとき

1897年(明治30年)11月10日 - 日本鉄道の中村駅(なかむらえき)として開業。
1961年(昭和36年)3月20日 - 相馬駅に改称。

相馬駅に改称されたのは昭和36年であった。でもなにか中村というのが子供の頃から親しんでいたのでこれもそれなりに古くなったと思う。
人間は地名でも駅名でもなじむに時間が必要だった。
地名はまず百年くらい継続しないとなじまない、地名は百年は短い、それだけ地名というのはなじむのに時間が必要なのである。
だから駅名でも相馬でも双葉でも最近のことのように思えるのである。
合併して市町村の名前が変わってもそれがなじむには相当な時間が必要になる。
双葉は元の長塚は自分の父親と姉の思い出の地だった。父が丁稚奉公した酒屋があったからである。それは富沢酒店の隣だったのである。それは戦前につぶれなくなった。
でもその話を聞いていたからなつかしいとなる
何か銀行があって遊んでいたとか銀行自体がその時めずらしいものだったのである。
それも遠い日の話になってしまった。
人間は最後は思い出だけになってしまう。それが常磐線は何度も乗っているから駅名とか思い出すのだがその思い出すことは正確ではない、例えば駅でも大野駅とあるがその順序がわからなくなったりする、ただ駅名は何度も乗っているから覚えている。
他の線は駅名を覚えているのも少ない、だから何か思い出す作業というのが不思議なのである。
ともかく双葉駅辺りが相馬藩と磐城藩の境目である。
古代では磐城国だったから磐城太田という駅が原町の隣にあるし磐城とつく地名が今でも多い、それは白河も磐城と接していたから同じだった。

常磐線で今回津波で意識されたのは海が近いということだった。
浜吉田とかがなぜ浜になっているのかわからなかった。浜など全く見えないし遠いと思っていたのである。そしたらあの駅前まで津波が来ていたことには驚いた。
新地駅は一番海に近いことは知っていた。海が見える駅だった
山下駅でもあとは海が見えないのである。
だから浜吉田まで昔は海だったということを意識させられたのである。
それは亘理駅でもそうである。あそこに鴎が飛んでくるのを見た
鴎が飛んでくるということは海を意識するし海が近かったのである。
岩沼でも海は近かった。それは多賀城とか宮城の海岸線でもそうだった。
建物がたて込んだりビルが建ったり松原でも海が見えなくなっていた。
だから海が遠いと思っていたのが津波で海が近いと意識させられたのである。
小高駅までも津波がきたから小高は海が近かったことを意識させられた。
そして小高の城があるところまでかなり海が迫っていたのである。
中世には小高は規模の大きい湊でありすると小高城に近く湊だったとなる

常磐線は今のいわき駅は平駅だった。平駅というのがなじみがある。平機関区があり原町機関区がある。それは東京への物流の二大基点であった。
戦後十年か二十年か木材とか石とか運ばれた。平は常磐炭鉱があり石炭を運んだ。
日本の鉄道は北海道でもそうだが旅客を運ぶより物を運ぶものであり特に石炭を運ぶものとしてはじまった。小樽などもそうである。北海道には炭鉱が多かったからである。
とにかく自分は電車の旅行の時間が長い、自転車旅行はそれほどしていない、電車で一番旅しているから鉄道に興味をもったのである。
北海道には十回くらい行っているから一番親しい場所である。
電車の旅も人家が多い工業地帯など走ると印象に残らない
だから西は混んでいるから何か印象に残りにくい、ただ印象に残るというとき記憶されるというときやはり一度くらい行っては記憶しにくいのである。
英語の単語でもそうだが何度もその言葉を使っているうちに読んでいる内に記憶に定着するのとにている。

人間にとって意外と盲点なのは記憶することが大事だということである。
人間は人生でもその人が記憶したことか人生になりやすい
だから認知症になると昔の記憶は残っているのでそのことを何度も嫌になるほど話すのである。
それで戦争のことを千回も聞かされたので嫌になったがそれが人生だったからそうなったのである。
そして記憶というのは漠然としたものより地名とか駅名から記憶がよみがえってくる。
だから電車の旅は駅名が歌枕のような役割を果たしていたのである。
ただ正直遠くは必ずあいまいになり定かでなくなる
車窓からの景色でもあいまいになる、でも常磐線のようにいわきから岩沼までは人家が少ない、野原が多いからそういう場所だと記憶に残る。
その間に無人駅もかなり多い、日立木駅など人一人くらしかおりないことが普通にあるのだ。
そういうときその一人がおりたということを見ていて記憶するのである。
もう何十人もおりたりすると記憶しにくいのである。

いづれにしろ新地駅はなくなった。あそこでは相馬駅につくまえ交換列車を待つので6分くらいとまっていた。それは夜だった。月が海から出て光り虫がないていた。
そういうことが今や津波で流されて経験できないということも不思議だとなる
新しい常磐線は二年後に開通するがそれはまた全く違ったものになる
別な場所になるから今とはまるで違ったものとなる
それは仙石線でも新しくなりそうなった。遠名駅は高台に移り景色が悪い所になった。
常磐線ではそれぼとの変化はなしいにしてももう前の駅とは違うものとなる
だからもう経験できないとなると記憶されたものが貴重だとなってしまう。
新地駅などは特にそうである。

それにしても自分はいつでも電車にのっている気分になる、旅している気分になる。
それが人生だったともなる。そんなことが人生だったのかとなるが現代では結構普通の人でも作家でなくてもそうなる人がいるだろう。
働かない人が普通に若い人でも多いからである。
するどこんなふうにして過ごした人も多くなる
ただ団塊の世代は企業戦士だから働いていた人が多かったから自分のような人はまれである。ニートなとはあの当時は極まれなアウトサイダーである。
今はどこにでも働かないニートが日常的にいる、これも時代である。
今になると自由に旅できたことが不思議である。ここ十年介護などで全く旅できなくなったことでその自由に旅できたことが不思議に思え恵まれていたなとつくづく思う。
自由に旅することなど自分にとって当たり前だったのである。
特別なことではない、当たり前のことであった。でも勤め人だったらできないのだから自由に旅できることはよほど恵まれていたとなる。

印象に残る駅はある、逢隈駅は新しいがあの駅は丁度交換の電車を待つ、するとそこで蝉の声がひびく、山間にっているしトンネルをぬけると阿武隈川に出る、蔵王も見えるから一つの地理的境目になる。
阿武隈川は逢隈からでている,他にも郡山にも逢隈橋があったからだ。
常磐線でこれだけ駅からイメージできたのはそれだけ回数をのっているからである。
それは自分の死んだ家族との思い出も重なる
駅は鉄道が盛んな時はこれ以上に生活に密着してて思い出の場所になっていた。
何か人間が記憶するというとき思い出すというとき漠然として何もない、野原だけとかなるとそこに地名が一つあることでその地名からイメージする
だから旅で記憶されるのが駅名だったのである。

常磐線は昔の平から仙台までは記憶に残っているがその南となると何か福島県でいなように感じる、ただ勿来から泉駅まで春に自転車で行ったがあそこは勿来から鉄道が通っていて物資を運んでいた。その蒸気機関車の写真もネットにでていた。
そんな時代があったのかと鉄道が盛んなときは戦後十年以上でもつづいていたのである。つくづく津波があり原発事故がありそのことで何か大きくこの辺は変化しすぎた
その変化に五年すぎようとしてもとまどっているのである。
それだけの大きな被害だった。常磐線も双葉とか大熊とかの線がいつ開通するかわからない、仙台までは二年後だからそれまでは生きていて乗れるだろう
電車の旅はつくづく自分の人生だったとなとまで思う
ただ思い出すとなるとなかなかできない、駅でも前後が逆になったりはっきりしなくなるのだ。
ただ常磐線は生活路線でもあったから記憶されていたのである。


1907年(明治40年)12月1日 - 小名浜馬車軌道(馬車鉄道・後の小名浜臨港鉄道→福島臨海鉄道)が駅前に乗り入れ。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により常磐線の所属となる。
1941年(昭和16年)6月 - 小名浜臨港鉄道線が経路変更。同時に当駅に乗り入れ。
沿線の工場や小名浜港への貨物輸送主体の鉄道で、当時は栄町〜江名間の江名鉄道もありました。貨物列車にはもっぱら国鉄から譲受した蒸気機関車が使われておりました。
http://6.fan-site.net/~haasan55/OnahamaRinko.htm8(映像あり)


これはホームページで書いていた。常磐線俳句十句もまた連作になる
前に書いたものもまた書き加えられて延々と創作は連続してゆく
そういうことがネットではしやすいのである。
同じことでも多少色を変えると別なものになる、すると読む方でもその人が何を強調しているから記憶に残りやすいとはなる
一冊の本は完成したものだがプロクとかは特に完成しないで延々とつづくのである。
そしてそこで前に書いたものもまた新たにされる、更新されてよみがえるのである。
それが本とネットの違いである。


ともかく双葉駅はいつ開通するかわからない、昔は長塚駅であり自分の父と姉との思い出の地だった。父は酒屋に丁稚奉公していたのである。姉もそこに行っていたのだ。
そういうことでも常磐線は旅するだけの路線ではない他の人でもそうである。
母は原町の原町紡績(原紡)に十年糸取りして働いていたがその原紡に鉄道の引き込み線が門から通じていたことは驚いた。
この引き込み線は今でも岩沼の製紙工場にある、鉄道で物資や製品を運んでいたからそうなる
またどこの駅にも引き込み線があり貨物車が荷物を運んでいた、それで駅前に自転車屋があるのは鉄道で運ばれるからそこで下ろすのに立地がいいからそうなった。
おそらく病気になった駅前の自転車屋はそういう古い自転車屋なのだろう
駅前が栄えた、相馬市の駅前通りは鉄道とは関係していない、もともと城下町でありそのまま変えなかった、原町は駅前通りとなり陸前浜街道の通りはすたれて駅前通りが繁盛した。
今はシャッター通りになっているのも淋しいとなり時代の変化が常にある。



2016年07月08日

福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)


福島県の歴史の道の旅の回想


(棚倉→白河→会津ー(白河街道)


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青松浜には確かに森があった、ここでヅクが鳴いていた。

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人は道を通じてつながる、道は川が最初は道となった。

古代では川は道であった。アイヌでも川は道であり身体になぞらえて川口は頭であり川上は尻になる。その名づけ方は川を上流から下るのではなく下流から上ってゆくからそうなった。久慈川が長い川であり常陸からつづく道だった。この川沿いは黄金の道、鉄の道でもあった。

南相馬市の真野川でも源流に佐須の山津見神社がある。その神社は古代にさかのぼり古く伝説が残っている。川は道がないとき道になりやすかった。アイヌではまさに川が道だったのである。

久慈川は幸くあり待て潮船にま楫しじ貫き我は帰り来む

久慈川が棚倉まで上流になっている。久慈川は茨城県と福島県にまたがる長い川なのである。矢祭→棚倉→白河→泉崎は古代の東山道だった

茨城県の名の由来は

『常陸国風土記』の茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。また、『万葉集』にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌があり、この故事にちなむ茨城(うばらき)という地名がみられる。

東山道には蝦夷が住んでいて大和朝廷の侵入を阻んだ。久慈川に沿って福島県に入ってきた。
ただ福島県に入る道は三つもあった。一つは白河関が有名だけどこの棚倉の道の方が古い、それから浜通りの勿来の関である。これも古代の道であり来る勿れであり蝦夷の抵抗にあった場所で来る勿れとなった。
つまり福島県とは古代から見ると大和朝廷にとっても侵入を阻んだ東北のみちのくの境界線だった。それは茨城県でも大和朝廷が侵入して土地の賊を無惨に殺した伝説が残っている、茨城県から棚倉辺りで強力な蝦夷が住んでいて抵抗した。

棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という 

これも大和朝廷とかと闘った生々しい記録なのである。カヤ族がいて真野の草原(カヤ族)がいてその名が地名化した。カヤは伽耶国のことである。

歴史はまず地理から地勢から解明してゆく、だから実地にその地を踏む必要がある。
それも久慈川沿いをたどり棚倉に到達すると実感が湧く、どういう訳か自分は自転車で会津からこの棚倉に来たのである。そしてこの棚倉で一夜のテントを張り泊まったのである
「入り野の種蔵」と呼ばれ種籾をツトコに入れて分けた。都々古別(ツツコワケ)神社があった、種というのは農業するものにとっては大事なものである。いい種をいかに手にいれるかで決まるのが農業である。もちろんその土地が肥沃かどうかとか他にも自然条件にさゆうされるのも農業である。

棚倉にテントを張りし一夜かな古代しのびて秋のともしび

都々古別(ツツコワケ)神社から一すじの道が水戸に通じる街道である。その道は東山道でる。ただ水戸は古代には知られていない、茨城県の由来となった地域ではない、それは江戸時代から水戸に通じる道となった。
水戸街道というとき東京からは今でも水戸街道と言っている、それは六号線になる。
江戸からは古代は東山道であり日光街道があった。
芭蕉は日光街道を通り白河の関所に出たのである。

この棚倉とか白河は江戸時代から明治維新の時もやはり境界線であり棚倉では薩摩長州軍と官軍と戦った。その中に相馬藩も入っていた。相馬藩は最初は官軍に抵抗していたのである。あとで天狗党に参加したりして官軍に組み入れられた。
だからここは福島県の地理的境界線だったのである。

旅をするとき鉄道の旅でも車の旅でも歴史を偲ぶことはむずかしい、新幹線などで来たら全く歴史を偲ぶこともできないだろう。
久慈川沿いを遡って棚倉につくとき歴史を感じるしまた都々古別(ツツコワケ)神社から水戸への道を見るとき歴史を感じる、自分はその時会津から棚倉に来ていたのである。
会津というと遠いのだけどやはり福島県ではないが白河藩とか関係していた。
蒲生氏郷の時代に白河藩を治めて会津町という名を残しているのである。
蒲生氏郷というときキリシタンでありそれで石垣に十字架が彫られいると土地の人が話していたのも興味深い。

白河から会津へは白河街道を行くのである

(札の辻) → 金堀 → 赤井 → 原 → 赤津 → 福良 → 三代 → 勢至堂 → 長沼・惣五郎内 → 江花 → 牧の内 → 上小屋 → 飯土用 → (白河)
 滝沢峠、沓掛峠、黒森峠、勢至堂峠と峠が多いため、宿駅間の距離は比較的短い。

 菜の花や街道行きて猪苗代湖

勢至堂はその面影が残っている。道幅が狭く両側に家があるが昔はみんな茅葺きの家だった。道が狭いということが昔の街道のままなのである。
勢至道から福良にでる。ここは町としては大きい、両側にやはり茅葺きの家が点在していた。今はもうない。街道の宿駅というとき大内宿のようにみんなってっていたのである。あそこの蔵の宿に泊まったのは奇しきことだった。



勢至道道幅狭く家並ぶ昔をしのぶ秋の夕ぐれ

磐梯山威を正しつつ湖(うみ)碧し松なおしく秋深むかも

猪苗代湖畔のあわれ虫の音のかすかにひびき稲の刈られぬ

街道の宿駅なれど忘れらる蔵の宿壁に菖蒲の映えて暮る

砂浜に波の静かに青松浜木菟(ズク)鳴く声や夏の夕暮

雨しとと田植えする人あわれかな昔の街道猪苗代湖畔

会津への道の遠しも行き暮れむ萱におおわる山間の道

街道に清水の湧きて野菊かな忘れられしや日も暮れむとす

東山へようやくいずる歴代の会津藩士の墓秋の日暮れぬ


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脇にそれた道が白河街道であり古屋敷とかの地名があるのもわかる

旧道は外からはわかりにくくなっている  


会津まで相当に遠かった。ここは春と秋にも行った。会津は別に電車でも行っている。
福島県を旅をするときたいがい今はこの道は通らない、鉄道の通る道で会津に入る、すると歴史が実感できない、棚倉の場合も今だと東北線とか新幹線からはずれているから何か本道からはずれたような忘れられた場所と錯覚する。水郡線はあまり乗らないけど一回乗ったけどこれは時間がかかる。水戸まではかなり遠さである。ここはあまりなじみがないのである。
白河の関だって白河から相当に離れた森を出た道なのである。
ただあの小暗い森をぬけた所に白河の関があり芭蕉の奥の細道を感じる場所である。
あとは奥の細道を感じる場所は福島県ではない、あまりにも繁華な通りとなってしまったからである。

草の花たどりてつきぬみちのくへ白河の関所の跡はここかな

とにかくどこをどう通ってきたのがふりかえると不思議である。
なぜ会津から棚倉に来ていたのか、その行程もわからなくなった。
その前には八溝山をぬけて福島県に出てきた。その行程がわからなくなった。
会津というときそこは一つの山国であり一つの世界観も形成される場でもあった。
そういう地理であり風土であり歴史的に厚みがある場所である。

会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結ばさね

会津嶺のというときこの嶺は複数なのである、会津の特徴は山々が無数に重なっているのである。そして古代からそこは一つの大きな国として存在していたのである。
こうして古代から江戸時代の道をふりかえるとき確かに福島県はつながりがある地域だということはある。
福島県の特徴は古代の境界でありみちのくとして江戸時代までつづいていたのである。


この辺に松から磐梯山が見えた、舟津とか月形らしい

ここにも松が見えて磐梯山が見える
タグ:白河街道

2016年08月21日

葛尾村から三春から田村市(都路村)へー秋の短歌 (地理は地図を見てもわからない)


葛尾村から三春から田村市(都路村)へー秋の短歌


(地理は地図を見てもわからない)

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葛尾村あわれ遠くも古き碑の並びて語る秋の夕暮

三春へと葛尾村より我が行くやその道遠く秋の日暮れぬ

この辺りいづれや遠く山の道月見草咲き夕暮れ迫る

三春への道のり遠し道の辺の花もあわれや旅人去りぬ

葛尾村我が父の暮らしはいかに丁稚奉公に新山に出る

葛尾村三春浪江も遠しかな生活もあわれ秋の日暮れぬ

高瀬川上りて遠く落合や秋深まりぬ葛尾村かな

双葉より都路遠し坂のぼり我が着きにしも何かありなむ

五万石三春の城跡我が立てば四方の山々かなた相馬かな

葛尾村古き屋ありぬ養蚕に暮らしをたつや代々の墓

行司滝相馬と三春の境かなその謂れ知り秋深まりぬ

山中に様々な碑の古りにけり昔の暮らし秋の日暮れぬ

隣村都路村やその名にそ華やぐも古道とあり秋深まりぬ

船引と昔の町の名の消えぬ田村市となる知らざりしかな

船引に一夜泊まれる電車行く音のひびきし秋の夕暮

飯館村芒なびきて誰か住むその土地広く知られざるかな




地図見ると実際の感覚とは違う、葛尾村は何か広い感じがしたのである。でも実際はかなり狭い領域だった。飯館村はもともと広い感じだった。
川俣村も意外と狭い、でも人口が多いのは絹織物の里として栄えたからである。
福島市から電車まで通っていた。
双葉とか大熊も土地としては狭い、でも町として維持できたのは原発があったからである浪江町は土地が山奥の津島まで伸びているから変則的なのである。
津島は開墾に入った地域であり戦後のことである、だからあそこで中国人の嫁が都会に出たいと鉈で夫を襲ったということがあった。今は避難してどうなったのか不思議だとなる海側は何か狭い感じである。南相馬市は広いのは原町市がもともと入っていたからであるここに雲雀が原がありもともと広い土地だったのである。
田村市は船引町まで合併していたのである。船引は鉄道も通っていて大きな街がある。
だからそこも合併したので4万くらいになっている
都路村には双葉から自転車で行ったが坂がありようやく越えてつく
ただ都路村は葛尾村の隣である。境を成しているのは高瀬川なのである。
行司滝というのはその境の謂れが伝えている
ただここには行ったことがない、かなり川でも奥になるのだろう。

葛尾村というとき広いと思っていた。父親の出身地は葛尾村の小出屋であり
あそこも相当不便な所であり場所としては広い場所がないので窮屈なのである。
その実家のような家は今はない、そこにも一つの物語となってしまった。
あそこはでも三春までバスが通っていたから浪江の街中に行くより三春の方が近かった
江戸時代でも三春が近かったので葛尾大尽と呼ばれた製鉄で財を成した人が三春藩の殿様を呼んだとか言うのはそのためだろう。
要するに葛尾村が狭いというとき平地も少ない、平地があれば田にしていたが他は山の暮らしであり馬を飼っていたり炭焼きしたり木材とかを売り生活していた。
相馬野馬追いでの騎馬武者の草鞋を作っていたというのもそのためである。

この草鞋作りは金を稼ぐには良かった、栃窪村の上萱(うえがや)でも草鞋作りしていたのである。靴がない時代は草鞋だから草鞋は一日くらいでも履き替えるから売れるとなる、その草鞋は必要なくても義理で生活の足しにと買っていた人もいる
福島市の草鞋祭りもそういうものに由来している。
上萱も意外と古い、明治時代から家があったとか古いのである。茅葺きの家が何軒が残っていたとき何回も行っている、つまり大原村から八木沢へは辺鄙な不便な場所だけど開墾して入植した人がいた。バラ坂とは何なのだろうと思ったらそこが原発事故で家が避難して茨の原になっていた。バラ坂とは茨(いばら)のことだったのである。
それからたいがい古い農家は戦前まで養蚕しているからそれは兜作りであり二階が独特の形をしている、通気孔をもうけていたりとわかる。山の中でも養蚕していればそれなりに暮らしが成り立ったということはある。

ともかくこの辺が原発事故の被害にあり避難区域になった。
この辺は何回も自転車で行った所だがそれでも地理はわかりにくい
実際の感覚とは相当に違うのである。だから地図見ただけでは地理はわからない
遠さの感覚とか地形とか広さの感覚でも実感しにくいのである。
相馬藩は大熊とか葛尾村までありつくづく狭いようで六万石でも広いのである。
だからわからない領域がまだある、行司滝などまだ行っていないのである。

行 司 ヶ 滝

このプログの説明だと都路村の古道村まで相馬藩であり境争いがあった。三春藩の侍が切腹までしていたのである。境になっている所は必ず何か争いがありそうした歴史が残されている、ここのプログは面白いようだ。

ともかく人間の暮らしというときこうした山の村でもそこに暮らしている重みが違う。
こういうところにも人が代々暮らしているということが感慨深いのである。
確かに不便なのだけど都会だったら一軒一軒の暮らしの重みがないのである。
つまり今になると良くこんな山の中で暮らして来たなと思うのである。
だから東京などの家とかと比べると一軒の家の重みは百倍もあるだろう
それで浪江の赤生木にはもう人が住まないと一軒一軒の家を記録に残そうとしているのである。ただあそこは開墾に入った人が多いようである。

自分にとってこういう村が失われることが今になると大損失である。そんな限界集落のようなものは金がかかるからいらないと都会の人が言う時、それはあまりにも偏った見方なのである。人間の暮らしが本来どういうものなのか都会の人は経済的なもの、効率として見ないからである。ただそれも一理ある、なぜならもともとそういう村は自給自足であり都会の人に頼っていなかったからである。そこに誇りがあった。
今は原発でわかるように便利な生活のためにインフラでも何でも税金でまかなっているからそうなる。
結局もし田舎だけで都会の人に頼らずに暮らしていたらもっと生活の重みがあったともなる、もちろんそうなると貧乏で嫌だとなっていて街に出てきた人もいるし自分の父親のように酒屋に丁稚奉公に出された人もいるからそこで暮らすことは厳しいのである。
ただ貧しい,厳しい生活ということがその生活にさらに重みを加えていたともなる
田舎でも街中より離れた農家などには生活の重みを感じるけど街中だと感じない
家が密集していると一軒一軒の家の重みかなくなる、まして都会となると余計にそうなる農家だとそこが旧家だったりする城のようにさえ見えるからである。

いづれにしろ地理の感覚は地図を見てもわからない、実地に歩いてみないとわからないのである。だから葛尾村が狭い領域だということが意外だったのである。葛尾村には古い碑がある。落合には明歴と元禄の碑があったことを紹介したが明暦となると相馬藩内では本当に少ないのである。
また秋になったら涼しいからロードで行ってみたい、ロードだと倍速になるからだ。
葛尾村も避難解除にはなっているがあそこは辺鄙だからもどるとなると他より苦しいとなる。
この辺が都会の人には感じないがそういう代々の生活が奪われたとかその被害は深刻だったのである。そういうふうには都会の人は見ない、この際限界集落は消えた方がいいとかみる、それは経済的効率だけから見るからである。

生活の重みとか人間の暮らしが本来どういうものかとか見ればその見方は違ってくるのである。ただそういうことはそこに住んでいる人も感じないということもある
かえって補償金もらって都会で便利な生活したいとなる、そういうふうに田舎でも暮らしていたら当然この際補償金で都会で暮らそうと若い人は特になってしまったのである。
要するにその人の生きる価値観の問題がある、でもそんなことより普通は便利な生活がしたいとなるのである。自分でもどうしても小さい町でも街中でしか暮らせないのが現実なのである。車がないから近くにスーパーがないと暮らせないからである。
自分はまだ一万くらいの町でも我慢できる、それでも贅沢は今でもできるのである。
通販とかインターネットが発達したから補えるということである。
それもまた矛盾であり便利だからこそ田舎に暮らせるともなる
とにかく原発事故ではいろいろなことが問われたのである。むずかしく言えば実存的問題というか哲学的問題としても問われたのである。

高瀬川から葛尾村まで春の短歌二十首

葛尾(かつろう)村から三春へ(秋の暮)
(残された一つの物語)








タグ:葛尾村

2016年11月03日

古殿からいわきへの旅(秋の俳句十句) (塩の道をインターネットでふりかえる)


古殿からいわきへの旅(秋の俳句十句)

(塩の道をインターネットでふりかえる)

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古殿に市たつ昔秋の暮

鶏頭や御斎所街道下り来ぬ

水清し落鮎あわれここに死す

旅路来て鮫川に出会い水澄みぬ

磐城なる遠野をすぐや刈田かな

いわきなる稲刈り終えし遠野かな

はるばると山よ海へ秋の空

なでしこやいわきに目覚め朝の海

秋の海常陸に通ずいわきかな

みちのくの勿来の関や秋の暮


古殿に荷市場ありて市たつと杉の木古りぬ秋のくれかな

貝泊(かいどまり)その名残して塩の道牛も休ませ秋の日暮れむ


塩の生産地だった磐城の浜と、平潟九面両港に荷上げされた瀬戸内の移入塩は、荷駄に積まれ海産物と共に中通りに、会津方面に運ばれていた。

貝泊の地名は貝(峡)山と山との間の狭いところ、そして泊は止るを意味するものという。
 又、現在も「牛屋」と呼ばれる家もある。荷駄を積んだ牛の休憩所即ち立場であろう。 県道黒田−浅川線を西に進む。しばらくして右に折れる道は戸草を経て才鉢に通じる道である。

鎌倉岳山裾の荷市場の地名は「市神碑」(1319年建立)が語源であり、塩の道の重要な点でもある。

柳の若葉が眼にしみる頃肩荷で棒手振で御斉所街道を運んで来た初鰹の売り声が聞える・・・柳の根元に繋がれて餌を食べながら尻屋 で蝿を追払う馬車馬・・・繋石の脇で口を動かしながら休んでいる木炭を運んで来た赤牛・・
udono.fukushima.jp/kanko-dentou-bunka/see/shiseki/sionomichi/nisijyou1/159


ここのサイトに塩の道のことが書かれていた。

古殿に荷市場とありそこに古い杉の木があり古跡となっている。
ここには阿武隈高原に沿って自転車で行ったことがある。その記憶が明確ではない、鮫川とか石川郡とかなじみがない、ただ山の中に万屋(よろずや)があり味噌汁とご飯とかご馳走になったのを覚えている、今どきそんなことする所はない、まず万屋というのは昔あったが今はない、山の中だから残っていたのである。
記憶をたどる旅はインターネットが役にたつ、土地のことを書いているサイトが必ずあるからだ。

御斉所街道をはかなりの距離だった。ここを一気に下った、結構急な坂だった。
途中に貝泊とかあり塩の道で泊まる場所が記憶として残されているのもわかる。
相馬市の松川浦から塩を飯館村を通って二本松まで運んだ塩の道は有名である。
ただここは馬で運んだ、いわきの塩の道は牛で運んだ。
一番有名な長野県の信州の塩の道は日本海から松本まで運んだ、その道のりは長い、山中の細い道であり急な所もありそこで牛が転んだというのは実感できた。
牛つなぎ石とかもあり牛を休ませた牛小屋は今でも残っている、いわきにもこれと同じであったが小規模である。
塩はいわきでは作られず瀬戸内海の方から運ばれたから相馬藩とは違っていた。

この御斉所街道を下ったところに鮫川が広く流れていて落鮎をとる簗場があり臨時の食堂もあった。清らかな水に鮎が死んでいた。
そこから遠野に出た、上遠野があり下遠野がある、上は奥である。遠野というとき磐城の市街から遠いということで遠野なのか?そういう位置にあったことはわかる。

遠野から市街に出て磐城の浜に出てテントを張り目覚めたら撫子が咲いていた。それは覚えているのだかあとはどうなったのか覚えていない、旅でもなんか忘れることが多いのである。
自転車の旅でも忘れるのである。ただ懸命に御斉所街道を自転車で下って行ったことは覚えている
旅は計画して実行してあとでふりかえる、このふりかえることが意外と大事だった、なぜなら記憶していなければ行ったことにもならなくなくからだ。
記憶していればあとで地図でもインターネットでも見てそ記憶を蘇らせることができるからだ。

いわきは浜通りで近くても広いからわかりにくい、地理的にも歴史でもわかりにくい、特に石川郡とかなるとなじみがない、古殿でもなじみがない。
勿来の関でも白河の関所とは違いなじみがないし行ったこともない、福島県は本当に広すぎるのである。
いわきというと古代の常陸に近い、棚倉でも水戸街道へ通じる、水戸が近くなる、それが地理的特色である。そこで勿来の関と白河の関所があったとなりみちのくに入る場所なのである。
ただいわきには城がないから城跡すら平にあったとしても何か石垣すら残っていないとか歴史が偲べない、三春藩だと城跡が残っている、やはり歴史を偲ぶとき城がないと偲びにくいのである。

塩の道で貝泊というのがあったというのはあれだけの長い道だし坂だから当然だとなる。相馬市から飯館村への塩の道でも途中山中に助之観音堂(たすけのかんのんどう)がありここで泊まったとある。
とても松川浦から一日では飯館村までは行けない、途中沢沿いに細い危険な道がありそこは通れなくなっている、一歩ふみはずと沢に落ちる、だから牛転がしとか各地に地名化した。

旅というのもこうして歴史をたどらないと印象に残らなくなる、ただ旅も空間的移動だけになってしまう。現代の旅は交通が便利だから空間的旅はどこまでも地球でもできる。
ただそこに時間軸としての歴史を偲ぶ旅ができないのである。
空間の移動はできても歴史となると想像力と知識も必要なのである。
それを今回はインターネットとかでたどりした。こういう作業を今はしている。

2017年02月16日

みちのくの枯野の風景 (常磐線のいわき市から仙台まで)


みちのくの枯野の風景


(常磐線のいわき市から仙台まで)

いわき市辺りあ出ると車窓には枯野が広がる。大野、広野とかの地名がありこの辺はもともと広々とした野原だった。相馬藩の殿様がこの辺を余の森とした所である
今の双葉とか大熊とかは磐城藩との境で争いがあった。
余の森とは相馬藩の領地だという宣言である。「小良が浜」おらがはまというのも俺の浜だということで領有の宣言である。何か土地争いは常に古代からもあった
この辺は森におおわれていて明治に入って開墾された地域である。
ただ江戸時代でも人は住んでいたので野馬追いに出る古い家がある
浪江町は相馬藩に組み入れられたがあとからである。相馬藩の最初の城は小高にあり小高、原町、北郷(鹿島)相馬市が中心だった、そこに飯館村も入ってきた。

原町は神旗争奪戦が行われる雲雀が原がある、もともとここには家はなく広大な野原であり土手が囲んでいて馬が放牧されていた。原町とはまさに原っぱしかなかったのである。原町から深野とか大原も野であり原が広がっていた。最初はみんな原や野が広がっていたのだ。だから日本では野とか原とつく地名が多いのである。
森は杜でありそこは別な領域であり鎮守の森として杜として残された。

この枯野がつづくの亘理までである。ここまでは家が少なく刈田が枯野が広がっている。それは陸奥らしい風景である。この枯野の風景も阿武隈川をわたると岩沼になりここは大きな煙突があり煙をいつももうもうとだしている工業地帯になる。引き込み線もあるからしだからいつも貨物列車が駅にとまっている、そして冬芒が心に残る


岩沼の次は館腰(たてこし)の駅だが館腰神社があり館腰の碑が相馬にもある。相馬藩内には伊達藩にあった神の碑が多いのである。小牛田の碑とかもそうであてる。山神の碑は小牛田に由来している。お参りしたためにそうなった。
なぜ磯部には寄木神社がある。

「寄木神社の由来
  合祀稲荷神社 寄木神社
平氏没落後志摩国磯部に身を隠した落武者辰
之丞一行は間もなく陸奥国石巻に下り寺島氏
を称して世を忍ぶ辰之丞を船頭として漁師とな
つたが 海面を混濁する北上川の氾濫に度々漁撈
を妨げられ 遂に適地を求めて宇多郡大竹荘磯部
の里に移つたと伝えられる

永享の末頃寺島家は元の漁師に復し神官は絶
えたが後 佐藤好信が相馬氏に仕えて磯部城に拠
り祈願所として開山した海蔵寺が別当を勤めた
と伝えられる 天正十三年(一五八五)の建立を伝え
られた

海蔵寺は浜吉田にありそこに慶長津浪の縁起が記されていた、言い伝えがあった。この寄木神社は慶長津浪(1611)年の前のことである
このように伊達藩とのつながりが相馬藩には多いのである。それは地理的に接しているからそうなった。

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に

という民謡が残された。これは駒ヶ峰が境となり残されとか山の方の玉野なのか不明である。ただ駒ヶ峰とか新地には中世の城があったり境になっていた。

今回の津浪では宮城県から岩手県に被害がありそこが一つの地理として結ばれた地域だったことを知らしめられたのである。今回の津浪は東北の海岸線を一つとして見なければわからないのである。

新地から山下までの駅は高くなり金華山とか牡鹿半島が見えるようになった。
そして相馬藩内に金華山の碑がある。これは丸森にもあった。金華山参りが行われていたでもそれは明治になってから盛んになったから新しいのである。
古いのは湯殿の碑なのである。これは東北の農民が湯治に行った場所だからである。

海というのは常磐線でも仙台まで意識しにくくかった。なぜなら海が見えたのは常磐線からだと新地でありわずかに見えただけだったからである。
それで浜吉田の駅まで津浪がきていたことに驚いたのである。それは小高でもそうである小高は駅を越えたのではなく街に下水道から津浪があふれたのである。

現代の交通は鉄道と車となったとき海の視点が欠けるようになった。それは全国的にそうである。日本は海に囲まれているのだから海の視点があってもいいはずなのだがそれが喪失した。
でも新地駅でも山下駅でも海が広々と見えたとき金華山でも牡鹿半島でも身近に感じたのである。あれだけ見えれば海をわたっても迷うことなく行ける、目標がはっきり見えるからである。
それで古代にも石巻まで相馬の海からわたったという人もいる
なぜ石巻に萱原という地名がありそこが万葉集の真野の草原とされていたのである。
それが定説とされていた。石巻には真野公という木簡も発見されているからだ。
だから南相馬市の鹿島区の真野郷は発掘がありこっちが有力になったのである。
ただどうしても実感としてあれだけ牡鹿半島や金華山が見えるということで地理的一体感がましたのである。
やはり海が見えるのと見えないのでは全く違った感覚になる

ともかく陸奥は枯野の風景でありそれがふさわしいとなる
上野を電車で出るとやがて30分くらいなのかビルもなくなり太陽が地平に沈んでゆく
そしてそこからみちのくの枯野が広がってゆく、その時電車の音が高鳴りひびき故郷に向かうということになる。
ただもう常磐線で十年以上東京には行っていない、介護で行けなかった。東京にはすでに10年以上行っていない、何か本当に歳月がすぎるのは早い、十年介護で一昔となってしまった。その間に津浪や原発事後がありあわただしくすぎてしまったのである。

みちのくは以前として芭蕉の「奥の細道」の雰囲気が残っている地域である。
でも芭蕉が歩いた中通りとかは都会化しているから感じられない、浜通りはいわきから枯野となる、大野とか広野とかになりそこが原発事故で人が住まなくなり本当に枯野となり原初の状態に戻ったとなるのも驚きである、家が街が草茫々の中に埋もれてしまったのである。
だからこれは風流として見ることもできない、そもそも風流があるのは貧乏ではかえって風流はない、もう生活に追われるだけであり自然を風流として見ることができないのである。そもそもそんな風流より原発が建てられたのは出稼ぎしないように地元で働く場をもつために誘致したのである。原発は高給になるから働いたのである。
原発の経済効果は本当に大きかったのである。それがみんな裏目に出て悲惨な結果になったのである。

風流ならば

みちのくに枯野に何か昼の月

こんなことにもなる、そういうふうに自分もあったのはやはり経済的にとか恵まれていたからである。それで介護で十年苦しんだのもそのためである。
今のこの辺はこんなのんびりな状態にはない、未だに復興は先である。
津浪の被害地でも広範囲でありこれが復興するのはまだまだ時間がかかるのである
その被害があまりにも広範囲だったからこうなったのである。

2017年08月05日

福島県は地理的に隔絶されて一体感がもてない


福島県は地理的に隔絶されて一体感がもてない


昨日は仕事できた郡山市の人が駅にいた,車を運んできたらしい,帰りは電車で岩沼を回り帰るという,そうなると結構遠い,直通だから途中乗り継ぎがないからいい
あとは墓参りにきた福島市のばあちゃんだった,墓参りに来る人は増える
お盆だから増える

駅には人の流れがある,郡山市は30万都市で福島県では一番大きい,だからここから仕事に来る人は多い,福島市はそれほどでもないのは県庁があり公務員の市だからとなる
経済活動を一番しているのは郡山市である。
だから郡山市を県庁にするということでもめている

福島県は大きすぎる,だから実際はいわき地域と郡山地域とか福島市地域とか会津とか相馬地域とかに別れいてる,郡山市と福島市は交通の便がいいからつながる
でも福島市は仙台福島区とか言われるのは新幹線で20分くらいで行き来できるからである交通の便がいいからそうなった。

相馬地方は仙台とのつながり深い,高速でもつながったからますますつながりが深くなる電車でも仙台を行き来する人が一番多いのである。
仙台の方の人と結婚する人も多いのである。仙台市相馬区のようにもなる

ただもし福島市と鉄道ができて30分くらいで結ばれれば福島市も近くなるのである。
会津でもそうである,交通の便が悪いから交流がないのである。
新幹線のようなもので結ばれたらそうした地理的障壁はなくなるのである。

郡山市が発展したのは原野であり何もないところから発展した,安積疎水で猪苗代湖の水を利用した結果として発展した,三春の方が城があるから古いのである。
でも三春は山の中であり発展しなかった。二本松は中世の山城から発展した。
ただ平地があるのは福島市と郡山市と会津若松市である。
やは明治以降は平地があると発展しやすいとなる

福島県は地理的に統一感がない,地理的一体感がないのである。
浜通りと中通りは阿武隈高原でさえぎられていて障壁となり遠い感覚になる
中通りと会津はやはり遠い感じになる
前にも書いたけど廃藩置県は地理とか歴史とかを無視して無理やり作られたことでそうなったのである。

だからそもそも福島県のアイディンティティなど作り得ようがないのである。
会津なら会津のアイディンティティは地理的歴史的に作りやすい
福島県になると作りえようがないのである。

福島県の地理は本当に複雑である,会津などで山が多くて深いからそこを知るだけで容易ではないとなる,そこに魅力もあるのだが福島県は地理的歴史的に一体化することは無理になる,福島県の特徴は地理的に断絶された県だとなる
例えば山形県だと最上川で一体感をもてるかもしれない,ドイツのライン川が父なる川としたように地理的に川で結ばれて歴史も作られてきたからそうなる

福島県に阿武隈川があったとしても確かに郡山市から福島市から宮城県の亘理まで流れている,その川から一体感を感じるということもない,相馬地方とは関係ないからである。会津磐梯山が福島県の象徴的山のように見えても相馬地方からは全く見えない
むしろ霊山からは吾妻山が見えるから吾妻山の方が親しいとはなる

会津県とか二本松県とか磐城県とかになる構想があったがその方がわかりやかったとなるでもそうなると磐城太田駅があるように磐城として相馬地方は組み入れられる
相馬だけでは小さいからそうなる
相馬地域は独自性を保てないとなる,何か仙台市相馬区であり磐城相馬区とかなってしまう,相馬地域が何かそうした中途半端な地域なのである。
ただ相馬藩としてあるときそれはそれで独自性を保っていた歴史があったのである。

ただ原発事故で相馬藩だった所が一番被害を受けたから全体的に縮小した。
そして衝撃的なのは少子高齢化で将来を見ると阿武隈高原地帯には人がいなくなる
今も飯館村などでも原発事故で極端に人口減少が起きているが別に原発事故がなくても
将来的に阿武隈高原地帯には人が住めなくなるような状態になることが予想されていたのである。

津浪とか原発事故はここだけではない,何か日本の将来を先取りした地域になったのである。三陸でも高齢化であり漁業だけではやっていけないとかなっていたのである。
後継者もいないとかなっていた,だからそんなところに今さら金をつぎこんでも無駄だと官僚が本音を言ったのである。じじばばしかいなところに金をつぎこんでも無駄だと本音を言ったのである。それはこの辺でも原発避難区域になった所に言える
じじばばしか残らない地域で復興できるのかとなったからだ
そこはうば捨て山になってしまう

自分としては村々が広範囲にありその地域独自の生活をしているとき魅力を感じる
でも今やインフラの維持に都市部の180倍もかかるとかなると無理になる
昔の自給自足だったらいいがそれだけ金がかかるから税金がかかるからその税金が地方交付税とかで東京都民でも払うから不満になってくるのである。
炭焼きしていたような時は違っていた,自分の生活を自分の村でまかなっていたから都会とは関係なかったからである。

そうなるとコンパクトシウティとかコンパクトタウンとかコンパクトビレッジにするほかないとなる,もう原発避難区域になった所はそうなっている
街から離れた周辺部には住めない,それは小高でも浪江でもそうである。
飯館村でもそうである。蕨平などは40軒あっても一軒しか帰らないとか周辺部にはもう人が住めないのである。

福祉でも医療でそういう広い地域は一軒一軒回るだけでも手間なのである。
人が集まり住んでいると回るのも楽だから医療でも福祉でもサービスをする側にとってはその方が手間も金もかからない,少ない人員でやれる
そして人手不足になっているからコンパクト化が必要になっているのである。

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20150年には阿武隈山地には人が住まなくなる
元の森林にもどってしまう

日本ではこの辺でもそうだが原野化するとそこに木が生えて森林化する


2017年10月12日

 福島県会津昭和村の地名  (昭和村晩秋の詩)


 福島県会津昭和村の地名

 昭和村晩秋

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野尻村と大芦村過ぎて淋しき
はるか山の上に茫々と芒なびけり
矢の原湿原の沼のひそけし
その幽邃なる沼の水辺
しんとして千古の静謐
沼の精やここにひそむや
かそかに月こそ映し静まれ
晩秋の陽はここに薄れぬ
はるか旅人のここによりしを
その影の留めるなきや陽は没りぬ
誰か知る旅人遠く去りにき

会津藩士ここにも戦う沼ひそかはるか山の上秋の日没りぬ

誰かあれ秋の陽没りて日落沢



昭和村は会津でもかなり奥深い処だった。昭和村への道を入ると温泉が旅館がありそこで温泉にひたり疲れをいやした。それから村の食堂で食事をしてそれからかなりうねうねと山を上っていった。そこは一面の芒、萱原であった。その山の上に矢の原湿原があった。この湿原は日本でも二番目に古いとか道の脇にあるにしては古い沼だったのだ。ここで会津藩士が討ち死にししている。壮烈な戦いがこんな奥まで持ち込まれたのだ。こんな静謐な沼のそばにそんな案内板があるのもにあわない、反面そのことはあの会津の落城は壮烈なものだった。戦いは熾烈だったことを示している。なぜこんなところまで来て戦っているのかわからないからだ。確かにそこまでは覚えているのだがそこからはどこに出たのか覚えていない、自転車で行ってもこのように地理とかがわからなくなったり忘れるのだ。だから記録が大事になる。一面になびいていた萱原と沼とは覚えていたので思い出して詩も書けた。

それで昭和村の地図を見たら面白い地名を発見した。昭和村は大芦村と野尻村が昭和に合併してできたのだ。合併してできた名前はその村の歴史を消す場合がある。この合併地名はかなり多いのだ。大芦村の処は確かに芦が繁る処であり野尻というのも野の尻という意味でそれなりに地形として合っている。ここでは野は山間の平らな所でその尻となる。その他に日落沢とか転石峠とか木地小屋とかあった。これも山深い処の地名に合っている。日影山とか日落沢というのは山で日が落ちて陰るのが早いのだ。そういう地形が多い。転石峠というのは石が転げてくる危ない峠のことだしそういう処も多い。今でも落石注意とか案内板がある。それから駒止峠とは駒が止めるほどの峠道のことでこれは檜枝岐につづいていた。針生部落から檜枝岐は駒止峠でありこの峠は私は20年前くらいにバスで行ったがくねくねくねくねと曲がってやっと越えられる舗装もされていない、埃がたつ凄い峠だったのだ。ここを越えて檜枝岐まで行くのだから檜枝岐は秘境だった。今は観光化されて秘境というのはないのだ。

つまり秘境とは交通でも閉ざされていて外界との交流が少ない処である。交通が発達しない戦後まもなくや戦前はこうした地域は非常に多かった。そこでは自給自足の生活をしていたのだ。だから秘境は多かったのだ。まるでみんな仙人のような生活をしていたのだ。ソバが常食となるのは米がとれないためだし米を食えないという僻地でもあった。旅するならいくらでもその頃秘境があったのだ。今は秘境はない、自動車や交通の発達でどんな奥地にも気軽に行けるから秘境はないのだ。ただ昭和村というと今では観光化した檜枝岐より秘境の感じがある。あまりに観光化するとかえって魅力を失う、昭和村はその点まだそういう秘境的なものがある。インターネットで探したらそこにキャンプ場があり木のバンガロ−があり4000円で泊まれるとあった。ここに行きたいなと電話したら今年は終わったらしい。雪はふらないが紅葉も終わった。パスの便も終わり自動車がないと行きにくい、でもあんな所で3日くらいのんびりすごしたら気持ちいいだろう。この昭和村についてはからむし織りとかで良く宣伝しているがそれよりも何もなくてもわずかに残された秘境として価値あるんじゃないか、つまり秘境とはとにかく鉄道が通らず街からず−と離れた孤立したような山の中であればいいのだ。檜枝岐のように頻繁に人が入るようになると秘境ではもはやないのだ。伝説として次のようなものがあった。

治承四年、宇治川の戦に敗れ命からくも逃れた高倉宮以仁王は越後に落ち延びることになり、中仙道から上州沼田を経て尾瀬から下郷・大内宿に入った。橘諸安公の娘・桜木姫と高野大納言俊成公の娘・紅梅御前は数少ない家来を共に京から王を迫ってこの地に辿りついたものの、恋しい人はすでに越後へと向かってしまったあとだった。身のおきどころなく畑小屋集落にしばし滞在したがどちらも間もなく亡くなり、御前は下郷町戸赤の渓流沿いにまつられ、桜木姫の墓は大内集落のはずれに今もひつそりと残っている。そこから畑小屋の山は御前ヶ岳と呼ばれるようになったが、畑小屋の鎮守は以仁王の父・後白河法王を祀ったものという。

大内部落には都落ちした高倉宮以仁王の一行に同行したある従者の君「桜木姫」長旅の疲れから18歳の若さで亡くなり、この地に眠っているといわれています。このお墓の周辺を御側原(おそばはら)といいます。源氏と平家の争いがこんな僻地まで尾をひいたのか祭りがあるからこれは本当なのだろう。ただ平家落人部落というのはかなり嘘が多い。義経伝説も北海道まであるのだからこれもどこまで本当なのかわからない、それでも奥地まで戦いがあり落人狩りなどが戦争では行われたのかもしれない、執拗な追手というものがあって身を隠さざるをえないこともあった。会津というと何回も行っているがやはりあそこが良かったなとかもう一回行く処はまた調べ直してその土地に詳しくなり今度は別な処を探査してしみようとかするのがいい、あそこはただ通りすぎただけだったから今度はまわりをよく見ようとなる。でも何日か滞在しないとやはり自然はわからない、だから滞在する旅にはそれにふさわしいもの、山小屋のパンガロ−見たいのがいいのだ。今年は自転車で行くのは無理だろう。でも今年の最後はどこかに出かける必要がある。

福島県会津昭和村の地名




これは前にホームページで書いた紀行文である。今回プログの方にも転載した,プログだとキーワードで検索しやすいことがある。
膨大な量だからそこから検索される必要がある,人間は本当に忘れやすい
こういうことを書いたの忘れていた,昭和村に行ったことは覚えている
その時は結構坂があって楽ではなかった,自転車は坂で疲れてしまう
この時は一面に萱に埋もれていた

それで思い出して一句作った

奥会津萱に埋もれて日の暮れむ

本当に日が暮れようとしていたのである。その時どこに泊まったのか覚えていない
なかなか旅をしても時間がたつと思い出せなくなる
特にこの辺は一身上でも回りでも変化が激しかったから旅したことが思い出せなくなった今のことに心も身を奪われてしまったのである。
過去が忘れやすいというとき今が常に変化しているからである。
それも激しい変化に見舞われると今にエネルギーが奪い取られることがわかった
だから自分は旅するエネルギーも消失してできないともなったのである



タグ:会津昭和村

2017年10月13日

只見線の旅 (会津柳津町の人口減少がひどい)


只見線の旅

(会津柳津町の人口減少がひどい)

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柳津町の2008年〜2012年における赤ちゃんの出生数は、年平均で23人。人口千人当たりでは5.8人(全国平均8.4人)となり、全国の1,741市区町村中1349番目。同期間の1人の女性が生涯に産む平均子供数を推計した合計特殊出生率では1.48で836番目。

テレビで柳津町が人口が減ってさびれていると報道があった,柳津町は福満虚空蔵尊圓蔵寺で有名である。だから最盛期で4500人でありここ15年で1000人減った
この減少は町全体に相当に影響する,次の世代も子供もわずかしか生まれていない
若者は流出してゆく,40パーセンとの高齢化率である。
この辺は原発事故で35パーセントとかの高齢化率になったのは小高が避難区域になり若い人が流出したからである。
会津は原発事故の影響はほとんどなかった,ただ福島県ということで風評被害はあった

それにしてもこの数字から見ると危機的状態にある,もともと人口が少ない,それにさらに減少してゆく,すると町を維持できるのか?
深刻な状態である。やがて限界集落化してゆく,町自体を維持できなくなる
これが深刻なのは次の世代の子供も生まれないから跡継ぎがいなくなる
老人だけの村になり跡を継ぐ子供も生まれないのである。
限界集落に向かっているという恐怖である。
やがては町自体が消滅してゆくという近未来が見えることなのである。

山間参観地域は会津はほとんど過疎地域になっている,阿武隈高原地域も過疎地域になっている,原発事故でそれに拍車をかけた,飯館村では蕨平に40軒あった農家が一軒しか帰らないとかもう村が維持できるのかともなる
浪江でもこれから帰ってくる人がいるのかというと疑問である。
もう町として維持できない状態になっている
この辺は原発事故のためだったが会津は関係なく過疎化していたのである。
それは全国的に起きてくるこれからの日本の未来なのである。

怖いのは減り始めた人口がさらに減ってゆく,負のスパイラルに入ってゆく,若い人はますます流出するし子供を産む世代も極端に減っているのである。
最後に残るのは老人だけでありまさに限界集落となり町時代が消失してゆく
そうなったのが原発事故の避難区域である。
そこには老人だけが帰り若い人は帰らず流出したからである。

これからの恐怖はこうして人口減少して負のスパイラルに全国の市町村が陥ってゆくことである。それに先駆けてこの辺が原発事故でそうなった,津浪の被害地域でもそういう現象が起きている,若い人が流出して復興できないのである。
浜通り地域は仙台が近いから仙台とつながり高速もできたし鉄道も廃止されることはない工事関係者が増えて前の三倍に増えたというときまだそういう効果がある

只見線に乗ったけど比較するとあまりにも違う,一両の電車であり常磐線は一時間おきには出ているが

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豪雨災害で不通に それから約6年

 JR東日本は2017年6月19日(月)、福島県と「只見線(会津川口〜只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」を締結。同県が鉄道施設や土地を保有し、JR東日本が列車の運行を担う「上下分離方式」で、復旧させる方針であることを発表しました。

 只見線は、磐越西線の会津若松駅(福島県会津若松市)と上越線の小出駅(新潟県魚沼市)を結ぶ135.2kmの路線です。このうち会津川口〜只見間27.6kmは、2011(平成23)年7月の豪雨被害により橋梁が流出するなどして不通になっており、バスによる代行輸送が続けられています。

JR東日本が会津川口〜只見間を鉄道で復旧します。工事費総額約81億円の負担割合は、福島県が3分の2、JR東日本が3分の1です

それにしても工事費が81億円というのは驚く,この辺で津浪で流された常磐線が5年過ぎて復旧したが400億円だった,鉄道はこのように金がかかるのである。
復旧しても保線とかにも金がかかる,駅にいるとしょっちゅう駅や線路や電気関係など点検しているからである。
県で三分の二とか金をだすから復旧できる,でもバスだったら金がかからない,もう鉄道を維持することはそれだけ大変なのである。
ただ鉄道がないと観光面とかでもさらに町でもさびれてゆくのが問題なのである。

只見町には雪祭のとき一泊した,柳津町には粟泡饅頭をもらって食べた
粟とかは山国らしい食料である。檜枝岐などでは米は食べられず蕎麦が主食になっていたあそこは前は本当に秘境だったからである。今はかえって尾瀬に来る人がいるからにぎわっているのである。

只見町雪に埋もれて遠きかな一夜泊まりて雪踏み去りぬ

只見町には雪祭りの時,一夜泊まった,秋にも泊まったことがある
その只見町から小出に行く車両は一両だったのである。
あれでは鉄道を維持すること自体が容易ではない
会津から小出まで自転車で行ったこともある,そして小出町の前を流れている魚野川でとれた鮎を食堂で食べたことを覚えている,とれたてなのでうまかった,それも安かったのである。鮎はもう新鮮なものを食べられない,久慈川では鮎がとれるがそこから鮎を買ってきてもらったがやはり冷蔵庫などに保存しておくのでうまくなかったのでがっかりした

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魚野川釣りする人の映えにけり一両の電車来たりて去りぬ

魚野川夕べ岸辺に待宵草一両の電車只見より来る


只見線は生活路線としては維持しにくいが観光路線としては魅力がある。
ともかく旅というのは旅がはじまる前に計画を練るときから次に実際に旅しているときと意外と見逃されているのが旅の後に回想する旅があることなのである。
その回想する旅をするには記憶する旅をしないとできないのである。
団体旅行した人はどこに行ったかもわからないと言っていた
旅というのは意外と記憶することが大事なのである。

豪華客船の旅のことをテレビで写していたがあれは旅ではない,贅沢なホテルに泊まると同じである。
旅というのは今はそうしてなくなった,だから旅人も現代ではいないのである。
旅とは江戸時代のように歩いて旅するときあった,電車より自転車がそして歩くことが旅になるのだ。車とかバイクでも早すぎるのである。通りすぎる旅になってしまうのである
そうなると相当に時間をかけないとできない,勤め人はできないとなるのだ
今自分がしている旅はこうして旅をふりかえり書くことである。
そうして紀行文をでも書くとなるといかに旅が記憶されているかが大事になるのだ
だから不思議なのは旅でも自分が本当にそこに行っていたのか?
そういうことが今になると不思議になる,そこに行ったという記憶さえ消失している人がいるからだ,30,40年前にあそこに行った,そこで泊まったということが本当なのかとまでなる,そこで泊まったとしてもその民宿の人でももう30年,40年たつと老人になっているのである。そしてもう死んだかもしれないということにもなる




2017年10月25日

古殿からいわきの浜へ(俳句連作) (御斎所街道を行く)


 古殿からいわきの浜へ(俳句連作)
(御斎所街道を行く)

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(夏)      

小名浜に鰹一本朝の市

熱帯魚黒潮にのり波立に

朝つばめテントをたたみ旅たちぬ

テント張り明日も旅路や夏の星

六号線ハマヒルガオや朝走る

潮風や夏の旅路の六号線

風となり夏のライダ−すれ違う

(秋)

市の立つ古殿遠く秋の暮

鶏頭や一路下りぬいわきへと

街道の一路遠きも秋の朝  

秋の峯古殿去りていわきへと 

秋日さし馬頭観世音山の道

落鮎のここに死ねるや水清し

旅人の遠野を去るや刈田かな

街離れ遠野の里や稲架の立つ

なでしこやいわきの海の朝明けぬ

旅たつや波の音ひびく秋の朝



御斎所街道


いわきまでは夏にもで行った、小さな熱帯魚が波立海岸の岩礁に来ていた、それを見に千葉県から来ていた人がいた
熱帯魚が来るということはいわきは暖かい海であり黒潮の海だとなる

今回は秋に古殿からいわきの浜に御斎所街道を下ったときを俳句にした
記憶が何か消えてゆく、でもあの御斎所街道は急な坂であり下ってくるだけだから気持ちよかった
かなりの距離があったと思う、ここはいわきからは塩とか魚を馬で運び古殿からは木材とか炭とかを運んだ道である。

日本ではこうして海と山はつながっているのだ,いわきの浜から古殿を通り白河まで通じていた
塩が運ばれたとなる、それは相馬市の松川浦からはるばる飯館村まで運ばれた塩の道と同じである。
二本松までも運ばれたかから同じである

何回も言っているが旅は記憶に残らない旅をしないと後で思い出せなくなる
ここは地形的に記憶に残っている、坂が急だったことと坂をおりたところで川がありその水が澄んでいて落鮎が食べられる場があったその水は澄んでいて鮎が死んでいたのである。

そこから遠野にでた、農村風景でありそのとき稲架を立てていた、今は稲架をたてているのが見えない、機械ですぐに刈り取ってしまうからだろう。遠野の地名はどこから来たのか、いわきの市街から遠いからと今ならイメージする、でもそんなに遠くから遠野など地名をつけない,原町の大原に遠田とあるときそれは大原の前田から中心地からそれほど離れていないからである。
遠野とはそうした村の中心地から離れたところであり意外と近い場所になる
ただ今の感覚だといわきの市街から遠いので遠野とかイメージするのである。それだけ人間の距離感覚は広くなってしてまっいたのである。遠野市とかもあるがこれも別に遠くにある野ではない、村近くある野のことだろう。

いづれにしろ古殿の山からいわきの海へ行く途中に川があり遠野を通り海に出たことは記憶している
阿武隈高原になるとまだこうして海と結びつくのである。
そしていわきの浜でテントをはり寝た
朝明けたら撫子が咲いていていわきらしいともなった

ともかく旅はもしここを車で行ったら記憶されないだろう、急な坂を一心に秋の朝を自転車で下ることを体で覚えている
そして海に出た時の解放感も覚えている、それが旅なのである。
自分の体で地形を感じて覚えるのである。
人間は今車などで体験が浅薄なものになっている、だから一見広域的に動いても記憶されないのである。

現代では旅人はいなくなった、ホテルで豪華な食事するのは旅ではない、旅はかえって泊まるだけの粗末なものでいいのである。
長く旅するとなるとそうした宿が必要だからである。今は旅はただ移動するだけであり旅人もいないのである。
時々国道を歩いている人がみかけるけどそれも車の洪水の中を歩いているから旅人のように見えないのである。
とても江戸時代のような絵になる旅人にはならないのが現代なのである。

便利になるのはいいとしても必ず人間は何かを失う宿命にある、旅というのもなくなっいたのがそうである。
石川の竹貫とかの山の中の万屋(よやずや)で味噌汁とかご飯をごちそうになった、あんなことは今時ありえないのである。
江戸時代だったらそういうことがあっただろう、なぜなら山の中だと今のように何もはないから農家で何か食べさせてくれとかなる
そういうことができた時代だったかもしれない。
今はとにかく人間味がない社会なのである。

自転車だとあの時走っていたなとか体で感じて思い出すことがある。それが後で心を豊かなものにしているのである。
車だったらそういうことがない、ある地点にいった記憶だけになる、ある地点からある地点の間がぬけてしまうのである。
地理を知るには体で知らないと実感できない、グーグルの地図をみても坂のことはわからないのである。
坂とう峠をしるにはやはり体で経験しないと実感できない、車でも実感できないのである。
タグ:いわき 古殿

2017年11月09日

白河街道の旅 (勢至堂峠を越えて湖南町(福良)から会津へ) 白河街道の旅 (勢至堂峠を越えて湖南街(福良)から会津へ)


白河街道の旅

(勢至堂峠を越えて湖南町(福良)から会津へ)

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同年、会津6郡・仙道5郡を与えられた蒲生氏郷が会津に入部すると、白川の地も氏郷の支配下に入り、氏郷は小峰城に城代として4万8千石で関右衛門一政、次いで町野長門守吉高を置いた。

漆器に目をつけ,会津から職人をうつして藩の産物とした
紙も会津人牧本善右衛門をまねいて様々な紙をすかせ一産業とした.

白河に会津町があるのはこういう歴史があるためである。会津町が城の近くにあるのもそのためだろう。

地図を見ると丹羽長重の墓がある

長重は毎日2,000人を動員して約4年の年月を経て小峰城と城下町の大改築を施し、白河城と呼ばれるようになった。

白河城を築いた人だった,聞いた話だと白河城の石垣には十字が彫られているという,それは掘られているという蒲生氏郷がキリシタンだったからとなる
そうした隠れた歴史がある,それは地元の人しか知らないということもある

白河街道というとき白河を意識するが会津街道にもなる。今でも六号線は東京からだと水戸街道と言われている
ここで白河に馬町があるが馬市が行われていたのだ

三代村の川をだんだんに登れば勢至峠である,分外に広い山野があって木地屋などの小屋掛けしているのが見える
峠になった勢至堂は下りの中腹にあって荒れた宿場である。会津へ帰る武士はここで酒を飲んだ,ここはまだ会津領ではなかった
勢至堂は馬の守り神かと思われる,奥州では所々にその石塔がある
この山中の村でも家々に駒を育てている,昨日買われた二才駒が五六匹一繋ぎになって見知らぬ親父にひかれてゆく,いづれも小さな木札が下げられている
香川県綾歌郡などと書いてあった
左側が片岨(そば)になっていて江花の古駅は坂道の両側に村を成している
この辺はみな熱心な馬飼いで一等賞を得るために泥鰌を食わせたり卵を飲ませたりしているう(柳田国男全集-勢至峠)

白河では馬市が行われていた,これは戦前のことでありそれで香川県からも馬が売られたのか?ただ江戸時代からも馬市があったのだろう。馬町という名がつけばそうである。
その辺の由来はわかりにくい,ただ白河は十万石くらいあるとしてやはり大きな藩だったのである。相馬藩は六万石だからである。白河は白河の関で有名なように要所だったので明治維新の時はそこが争いの場となったのである。
東北の藩が集結したのである。相馬藩の武士も戦いに参加した

馬というときなぜこれほと馬頭観音が多いのかとなる,それは馬が死んだときその供養のためだった,すると馬は二〇才くらいで死ぬからその数も多いのである。
だからそれだけ馬頭観世音の碑が多いのである。

勢至峠は車の道からはずれた所に家並みもそのつまに残っている,それは旧道になっているのだ。
この峠を越えて福良にでる,今は湖南町である。ここは郡山市なのである。
勢至堂も会津領ではなく白河領になっていた,境目になる場だった

この街道は二回か三回通った,春とか夏とか秋である。
普通はみんな鉄道が通っている方を通るがこっちの方がものさびて歴史を偲ぶのにはいいのである。福良では湖南町では一回蔵の宿に泊まったのも趣があった
あの辺はかえって猪苗代湖でも景観的にいいのである。奥まった所にあるからだ
福良は自分が行った時でも街の通りに茅葺きの家が何軒かあった,今はないだろう。
焼き物でも有名だった,あそこは魅力ある場所である。

清水湧き野菊の咲くや旧街道

山間は芒に暮れぬ旧き道

会津へと街は遠きも山間は芒に暮れぬてかすか虫鳴く

会津というと萱が芒が茂る山が多い,昭和村の方に行ったときも山が萱に覆われていたのである。この辺ではこんなに萱が繁っている風景を見ない,それだけ大量の萱が産出する場だったとなる,それは大内宿のよ茅葺きの家のように萱が大量に必要としていたからその需要があった,会津から萱葺き職人が相馬藩辺りに来たとういのもそういう技術に優れていたためである。
ともかく白河街道は魅力ある街道である。

白河はまた南湖公園とか翠楽苑(すいらくえん)とかある,翠楽苑は十年くらいして整備された,借景として自然の松林を利用している,いい庭園である。



白河街道を会津へ (会津の歴史を白河から偲ぶ)

福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)

白河の秋の翠楽苑

秋の白河の南湖を訪ねる(俳句と短歌)

福島県の旅の部に白河について連作として書いています
キーワードで白河と入れてあとはそのタイトルをグーグルで調べると全文読めます

タグ:白河街道

2018年02月13日

雪の俳句と短歌(会津の風土から生まれるもの)


雪の俳句と短歌(会津の風土から生まれるもの)

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津川

ふりやまぬ雪や会津の悲劇かな

ふる雪や時の流れに埋もる墓

曲屋に雪の深さや奥会津

墓雪に埋もれて家や奥会津

一時や会津の雪に染まるかな

西会津芒に暮るや家一軒

(喜多方)

喜多方や積もれる雪に蔵の中

蔵の梁黒く太しも積もる雪

喜多方の蔵の梁太く冬籠もる

(西会津)

西会津芒に暮るや家一軒

西会津分かるる道や秋の暮

(津川)

川岸の凍てつく雪を踏みにけり


会津に入り雪をし踏めば深しかな雪なお霏霏(ひひ)と積りけるかな

清らかな雪に埋もれてもののふのここに死すかな時の移りぬ

会津にそ伝ゆ御仏の心かな立木観音冬深むかな

河岸に港の跡や津川かな昔栄えしも雪に埋もれぬ

西会津へ道は分かれぬ秋の暮会津は広く知らぬ奥かな

津川なれ昔栄ゆも雪埋もれともしびあわれ川面に写りぬ

みちのくの冬長しも都より遠しもここに培(つち)ふものあり

たちよりぬ塔寺の駅豆たたく人道にあり秋の朝かな




 会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね

会津というとここから始まっている,古い歴史をがある。
会津はその時から国として一国として意識されていたのである。
それは歴史的明治までも変わっていない
会津藩というとき大きな藩であり明治維新の時会津の旗印が鳥羽伏見とかの戦いでも絵に残されている,会津はそして北海道に領地をもっていてそれプロイセンに売り新政府軍、薩摩長州軍と戦おうとしていたのである。
それは批判されるがそれだけ大きな藩だから外国とも組んで戦おうとしていた
会津はだから情報が山国で入ってこないということで遅れたともなるが外国をも取り込んで戦おうとしていたから当時都から離れているから遅れていたとはならなかったのである
会津は今でも福島県となったとしても別な国であり歴史的にも地理的にも別な一つの大きな国なのである。
だから福島県というのは無理して作られたものであり地理的歴史的に統一感がないのである。会津となると電車で行くと東京より遠いのである。
相馬からだと岩沼で乗り換え福島市から郡山に行きそこでまた乗り換えるから不便なのである。
自分は郡山から磐越西線で途中中山宿駅で電車がスイチバック式なので待っていたことを覚えている

中山宿駅

ここに詳しい説明がある。何かそこで待っていることを覚えている
つまりそこは待つ時間がありそれが記憶に残っていたのである。
電車は駅でもそうだが待つ時間がありそれが記憶となり残されるのである。
駅でも絶えず見送り迎える場であり人間的な場になっている
それが車とかバスとかではなりにくいのである。
駅はそういう人間的な別れと出会いの場を演出する所でもあった
とにかく自分は本当に暇だったからそうしていつも旅していた
最初は電車の旅だった,だから全国の路線はほとんど乗っているのである。

会津というとき雪国である,浜通りはほとんど雪は降らない,だから雪国のことが実感としてわからない,旅して情緒的に雪を見るだけであり雪の苦労とかわからない
現実に今回福井とか大雪になり除雪や雪かきで人が死んでいるのである。
現代だと雪国にも交通が発達しているから昔とは違う,昔だと雪に閉ざされた世界になってしまう。それもイメージしにくいのである。
だから浜通りと会津の感覚は相当に違うのである。
そこに形成される心も違ってくる,いつも海を見ているのと山を見て雪を見ているのは気持ちが相当に変わったものになる、だから雪国のことは理解しにくいのである。

心からしなのの雪に降られけり 一茶

この信濃(しなの)の雪いうときまた会津の雪は違うのである。津軽の方でふった雪も違っていた,何か明るい感じがしたのである。この感覚はそこに住んだ人でないとわからない会津の雪はやはりそこに歴史があり明治の悲劇がありその歴史とともにその雪を見る
その雪を踏むときまさに歴史を肌で知るのである。

会津はまた古くから仏教が伝わった所である,徳一とか有名である。
その理由は病気祈願のためだったという,なぜ仏教が広まったかというと病気祈願が多かった,それは法印とか山伏が江戸時代に本当に多いのも病気祈願のためであった
その病気が一番深刻な問題だったからである。
カルト宗教団体に入るのも直らない病気のためとかある
でも今はみんな医者に科学に頼っているから宗教は衰退したのである。

塔寺は江戸期を通じて会津藩領で、寛文5年(1665)の万改帳で家数89軒・人数445人。主な産物は米・麦・豆・芋・栗・稗・タバコ・麻・ゴマ等だった。村民の多くは旅籠屋や駄賃稼ぎをしていた

粟と稗は山国らしいさ作物である。タバコはこの辺は阿武隈山地で栽培して有名だった
どこでもタバコは作られていてそれで財を成した所がある、貞光町などがそうである。
貞光の「二層卯建の町並み」は有名でありウダツは財力があるから作られたし喜多方の蔵でもそうである。喜多方は会津より北にあるから喜多方になり明治以降商業で栄えた街である。
会津は侍の街旧弊なものが残ったから明治維新後発達できなかった
相馬藩だと相馬市は城下町でありそのままの町割りになっている
元の原町市は原町駅が平駅のように機関区となり木材とか石材とか物資を東京に運び繁栄したのである。駅前通りが繁栄して人口も相馬市より増えたのである。
もともと原町は雲雀が原は野馬土手で囲まれていて馬の広大な放牧場だった
そこは今の街に変わったのである。

阿賀野川沿いに津川に冬に行ったことがある,そこは雪に凍っていた
そこが昔舟運で栄えた所だとは思えなかった

江戸時代、津川は会津藩の西の玄関口でした。会津藩は物資を会津若松から津川までは会津街道で陸路輸送し、津川から新潟までは阿賀野川の水運を利用していました。つまり津川は水陸輸送の中継地であり、運上金や塩の専売による収益金が得られることから藩にとっては経済上重要な港でした。

  会津からの廻米、会津塗、煙草、薪炭、木材などは津川で船積みして新潟へ運び、新潟からの塩、海産物、綿布などは陸揚げして会津に街道輸送しました。
  船着場は「大船戸(大船場)」と呼ばれて150隻もの帆掛け船が発着し、船荷を積み下ろしする丁持衆が100人も働いていました。その近辺には船番所、藩の米蔵、塩蔵、蝋蔵、物産問屋などが立ち並んでおり、活気に満ちたこうした状況から「日本三大河港」と称されていました。

ここはもともと会津藩であった,後に新潟県に属するようになった
会津は阿賀野川で新潟と結ばれていた,会津はむしろ新潟に近く中通りとか相馬藩となると地理的にも隔絶しているのである。交通は今でも不便だからである。
会津というとき本当に広い,東西南北があり東会津とか西会津とか南会津とか北会津とかあり奥会津とかある,西会津は何か淋しい感じになる,萱が一面に繁っていた中を自転車で走ったことは記憶していて前にも書いた
萱があんなに繁っていてそれを利用されていたのだ,茅葺きの家として曲屋(まがりや)とかがまだ残っていた
会津の茅葺き職人が相馬藩に来ているのもわかる,あれだけ萱が繁っていればそれも生業となったのである。
会津は山国でも会津塗りとか絵蝋燭とか特産物が生まれ伝播した
ともかく会津には木地師とかいたりして碗を作ったりしていた
それは山国特有のものとしてあった,ただ現代になるとそうした特徴がどこでも失われやすい,ただそれでも今でも同じように雪が冬中ふるからそこは変わっていないのである。その風土から歴史と一体となったものが産物でも文化でも生まれるのである。


会津の雪の詩(会津は一つの国の文化圏ー福島県は広い)

 福島県会津昭和村の地名  (昭和村晩秋の詩)

雪の俳句(雪国に住まなければ雪のことはわからない)

2018年04月14日

白河、二本松の城の桜の短歌 (歴史がある所に桜が一段と映える)

白河、二本松の城の桜の短歌

(歴史がある所に桜が一段と映える)

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(白河)

松の間を殿の歩みつ草萌ゆる白河藩の栄えなりなむ

人柱城を守るとあわれかな乙女桜の咲きてなぐさむ

小峰城春の夕日のさして映ゆ車窓に見つつ電車すぎさる

小峰城電車に見つつみちのくをいずるや春の夕日さしぬ

(二本松)

城内に残れる花のあわれかなはるばる来る相馬よりしも

天守跡望みて遠くみちのくの山々映えぬ春の来たりぬ

城内に井戸の深しも散る椿守り城の古りにけるかな



根を張りて枝垂桜の三春かな織りなす錦桜に染まる

小浜城夕べ桜の咲きにけりたずねて遠く街のともしび

はや散らむ会津の桜我は見じ城を守りて少年死にぬ



日本は桜の咲く季節が一番いい,それは桜がきれいだとういこともあるが桜はなぜか城に映えるのである。
自然でも桜というときそこには歴史がありその歴史によって桜がより深いものとして見るただの桜だったらそれほど魅力がないかもしれないからだ
だからなぜ大坂城の夕日に映えて散った桜が他より美しかったのか?
それはやはりそこに歴史がありそこで織りなした人間のドラマを偲んでいるから違って見えるのである。
そうでなければそんなに桜に日本人がひかれることはないからだ
それで戦争のとき桜のようにいさぎよく散れとかの美学が生まれた,ただそれは戦争に利用されただけだという批判にもなる
桜はそれだけ日本人にとって生死を託すような花になっていたのである。

今日テレビで人柱伝説の乙女桜を見た,これは伝説というのではなく史実だった
人柱になりたくなくて逃げてそこを追廻しという地名として残っているというから人柱になりたくなくて必死に逃げたのである。
この物語が語るのは必死に城を守るということが侍では第一にされていたのである。
それは白虎隊でもわかる,城があってこそ生きることができる,そこから出て生きるという感覚をもつことすらできないのである。
そういう狭い社会で生きていたのが江戸時代だであり価値観だとなる
白虎隊が城をが燃えたとして自刀したのもそのためである。
城がなくななれば終わりだという価値観の中に生きていたのである。

桜咲く時期はやはり城を偲ぶ,でも江戸時代に城には桜が咲いていたのではない,それは明治になったとき城がある所が公園化して桜を植えられたのである。
だから今見ている桜は明治時代のものであり江戸時代のものではないのである。
その辺が不思議なのだけど桜に城は映えるのである。

花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの」、かの一休宗純師、若い頃はとんちの一休さんで知られたお偉い坊さんが残したお言葉である。

室町時代からこの言葉があったとすると桜は愛でられていた,ただこの時も山桜だったと思う,今見ている染井吉野の桜は江戸後期なのである。その頃から花見が行われていたのである。
まず城で桜を愛でることはなかった,ただ糸桜の歌は残されている
でもそれは今の桜とは別物である。

春高楼(こうろう)の 花の宴(えん) 巡る盃(さかづき) 影さして千代の松が枝(え) 分け出でし昔の光 今いずこ.

この詩も明治以降に作られたものであり江戸時代は城で花見の宴などしていないのである。

テレビで見た乙女桜で南湖の松の間を歩いている姿はいい,あの松が貫祿があるのだ
あういう松は相当年月がたたないとあんなに太くならないだろう。
その間を殿が歩むことをイメージすると江戸時代にもどるのである。
江戸時代をイメージすると何かその景色に街道でもとけこむからなごむのである。
車ばかりの道路を歩いていてもうそこには人間も旅人もいないのである。
車の道であり何かベルトコンベアーを車が流れているという感じになるからだ

白河藩は松平定信が一時殿様となり治めていた,それで民のために尽くしたとか言われるが失政もあったからその評価が分かれる,この辺は詳しくわからない
ただ何か情緒的になるとあの松の間を殿が歩む姿は絵になっている
あのテレビの構図は絵になっている,写真でもあの構図でとればいい写真になっていた
白河はやはり白河の関所がありみちのくに入り出る場所を意識する
それで電車から城が見えるのは貴重なのである。

二本松城は古い中世の山城から発展した,だから古い城の形があり山城なのである。
その頂上に上ると安達太良とか蔵王とかが見えた,高いから見晴らしがいいのである。
あういう山城はめずらしいと思う,青葉城があるが仙台市街が大きくなりすぎて城下町という雰囲気がなくなっないる
二本松城は城内に入ると深い井戸がいくつかあり椿が散っていた
そこで暮らした人を思う,ここでも城を守るということがありその城を感じる
会津の城は平城だから何かもう一つ歴史を感じないのである。
ただ会津で桜を見たことはない,会津は浜通りから遠すぎるのである。
二本松までは相馬から自転車で行ったとき,花は散っていたのも感慨深いとなった
そのことは詩にした,二本松までは相馬藩で松川浦から塩を運んでいた
その塩の道がある、だから二本松とは交流が江戸時代からあったとなる

とにかく桜もここでは散った,昨日は風が強く散った,ただ残る花となりこれも味わい深いとなる
自分は会津でも二十年くらいも行っていない,今年も近くを見るだけだった
風が強く風が冷たいから自転車でも行けなかった
そして何か体が弱くなくり変調をきたしたこともある
でも以前として回想の旅をしている不思議がある,ぐるぐる電車であれ自転車であれ走馬灯のようにあちらこちら巡り歩いているのである
それだけ旅していたということである。

我が里や遠くに行かじ残る花

我が街や花散る後の静けさやここに住みにつあわれ深まる



2018年06月01日

いわきまで御斎所街道を下る旅(旅の思い出の短歌)


いわきまで御斎所街道を下る旅(旅の思い出の短歌)


御斎所街道を行く(福島民友)


そはいづこ山中にあり万屋に味噌汁ご飯馳走になりぬ

古殿に市神の碑あり秋の朝我も来たりて街道下る

雷鳴りて雨の打ちふり旅人のしばし休みてまた走りさる

水澄みぬここに死なむや落鮎の今ひとしきり泳ぎけるかも

市街へと我はいぞぎぬ刈田なる遠野を行きて心に残りぬ

旅人のはるか来たりぬ秋の朝海を望みて鴎飛びさる

目覚むればいわきの海や撫子の咲きてひびける波の音かも


元応(げんおう)は、日本の元号の一つ。文保の後、元亨の前。1319年から1320年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。

古殿の市神の碑がこんなに古いのには驚く,この辺ではこれだけ古いのはめずらしい
古殿の前に鮫川とありその山中に万屋(よろずや)がありそこで味噌汁とご飯をご馳走になった、石川とかいうと何か阿武隈高原を行ってもなじみがない,竹貫とかもあったがなじみがない,そんなところに万屋があった
そんなことがなぜできたのか?今ではありえないことだとふりかえる
そこにはコンビニなどないから万屋(よろずや)があった

万屋とは何でも屋であり田舎でも辺鄙な所にあった店である。
それはどこにでもあった,しかし今はなくなった
そういうところにはまだ人情が残っていたとなる
今は外部の人はみんな警戒しているからそんなことしないだろう
ただ旅をするとき昔だったら歩いてしているからどうしても食料がないと困ることがあるするとおにぎりとかもらった人がいるかもしれない
そうしないと旅自体できないからだ,なぜなら乞食がいたし物乞いして歩いているのを子度のとき普通に見ているからである。
そして意外とそうした乞食に物をあげる習慣があった
みんなではないにしろ物をあげていたのである
ただ頻繁に乞食がきて嫌われたという記憶もある,それだけ乞食が多かったのである。

小高い新地山が見えた。歌枕の「人忘れずの山」として知られ、定信も歌を詠んだ。

 世々へても 心の奥に通(かよ)ふらし 人忘れずの山の嵐は

これは西白河の方である

定信に愛された新地山

この歌はいい歌である。人忘れずの山というのはやはり人が忘れてしまうような山だからこそこの名がついた,そういう奥にも人の心は通うとうなるのか?
人も忘れてくれるなという意味ともなるのか?
そこは秘境のような所だとなる,江戸時代ならどこでも秘境になりうるのである。

街道を下りた所に川が流れていてそこに落ち鮎をとる梁があり落ち鮎を料理する小屋ができていた
その川の水は澄んでいて鮎が死んでいた,最後にそこで泳ぎ死んでゆく

ただそこから遠野に出るが遠野は稲も刈られて淋しい所だった,いわき市街から見て遠野だったのだろうか?遠野というのはいくらでもある地名だからそうともならないだろう
第一地名はそんな広範囲な感覚ではつけられていないだろう。
原町の大原に遠田とあるが大原からはさほど遠くないからである。
でもそこで遠野は何かいわき市街から遠いという感覚になっていた

そして海に出た時,秋の海でさわやかであり気持ちよかった,そこでテントを張り一日泊まった
目覚めると撫子が咲いていた,その撫子がなにかいわきとあっていた
それは山から街道を下りてきて海を見たから感覚的に違ったものとなる
もし海沿いを旅したなら感覚的にこうはならない
山から海に出たということで新鮮な感覚が生まれたのである。
だから旅はその過程で違ったものとなる,海から山へ入るとなるときもそうである。

ここも塩を運び山から薪を運びとか飯館への塩の道とにている,塩の道は全国にあった
そこで山と海との交流が生まれた

塩を運ぶ人を待ちけり山の人その塩貴重に市に求めぬ

要するに物の貴重さはそうして苦労して運ばれたとかにあった,今は物の貴重さがないのは簡単に手に入るからである。いくらでも塩でも砂糖でもあるとなると貴重なものとはならない,だから塩でもなんでもありがたさがなくなったのである。

ともかく何度も言うように旅は意外と記憶されることが大事である。
なぜなら旅は忘れやすいのである。まず車だったら記憶されない
自転車で街道をひたすら下り遠野通りいわきの海に出たということで記憶に残っていた
本当に現代の旅は記憶に残らないことが多いのである
記憶に残る旅がしにくいのである,それはあまりにも便利になってただ通りすぎて遠くに行くというだけになっているからだ
その途中が省かれるのである。記憶から消えるのである。
旅でも人生でも記憶されないことは何も残らないということになる
そしたら旅という経験は無駄ともなりかねないのである。 



2018年07月04日

佐須から霊山から相馬の城下へ(短歌十首) (春の日にたどる,自然の道,歴史の道)

                                                
佐須から霊山から相馬の城下へ(短歌十首)

(春の日にたどる,自然の道,歴史の道)


山の上に桜映えにき朝日さし流れのひびき巌に真向かふ
                                              
山間の磐を伝いて流れかな桜も咲きてさかのぼるかも

佐須により墓地をたずねぬあわれかな住む人なしや春となれども

春の日に佐須によりにきあわれかな人もなしかも花は咲けども

霊山に向かいし道の山間の陰にしなもお雪残るかな

霊山に大岩座してスミレ咲き鳥の鳴く声通りひびきぬ

霊山にこもれる僧や岩固く骨となららむ春となれども

霊山を下りてあわれ村一つ寺の跡かな春の夕ぐれ

碑の古りて文字定かならじ一時を足をとどめて春の日暮れぬ

相馬なる城下へおりてあわれかな老舗の灯し桜の映えぬ


霊山は貞観元(859)年に慈覚大師によって開山された。東北における天台宗布教の拠点となり、3,000以上もの堂塔(勤行の場)や僧坊(生活の場)が山中に造られ、「北の比叡山」とも言われていたそうだ。その後、南北朝時代に寺院の建築物が城として利用されることになり......

ここでも信じられないと書いているけど3000以上の堂塔があったという証拠もなにもないのである。その疎石すらないとしたら史実とは思えないのである。
ただここがもともと僧坊がありそこに南朝の拠点とした,国司館などが作られた
その疎石は残っているのである。

地名として岩が多いから学問岩とあるときそれは僧坊があったとき学問していた僧がいたからだとなる、山岳宗教が古くからあるし日本はもともと三輪山を御神体としてたように山そのものを神とする信仰があった
そういう日本人の自然信仰が仏教と合体したことは理解できる
ただ3000もの僧坊はありえないと思う
そしたら僧坊で山が埋め尽くされるしそんな大きな山でもないからだ
その言い伝えもはっきりしないのである。
何か伝説でも残っていればいいがそういうものも良くわからないし伝えられていないからだ

真野川をさかのぼり飯館村の大倉から佐須に行く道は歴史の道でもある
佐須という地域は奥深いのである。佐須とは焼き畑の地名でありそれで山津見神社がありそこでオオカミを祭っていた、オオカミは畑を荒らすイノシシやシカを食べるから大神とされていた、とにかく農業は畑をもっている人に聞くとキジに食われたとか、モグラに食われたとか虫に食われたとか野生の動物の被害が深刻なのである。
それは万葉集時代からはじまり鹿垣(ししがき)や猪垣を作って防いでいたのである。
今は電流を流して線で囲み防ぐとかその歴史は継続しているのである。
飯館村でも避難区域になったところはイノシシに畑でも何でも掘り起こされて荒れ果てたのである。

飯館村の佐須は霊山に行くとき必ず通るから印象に残る、そこに乳神と畑に碑があったのも記憶している、その時牛乳はない、牛が飼われたのは戦後なのである。
そういう奥深い所に暮らしがあったということが不思議だともなる
ただ今は人は住んでいる気配がなかった、時々帰って家をみていることは確かであるが住んでいる人は一二軒なのかもしれない、あそこで墓地をまた見た
菅野という姓が多い、村長も佐須の出身だったのである。

南朝が滅びたとき今の玉野で二手に分かれた、一つは卒塔婆峠を通って鹿島の真野に逃れた、そこは中館と言われていた、その時只野氏なども逃れておつづら馬というお浜下りで重要な役をになっていた、もう一方は山上に逃れた、そこに山王神社がある
野馬追いの旗印でも南朝の時の逃れた末裔の旗印は明確である。
杉の紋が只野氏だからである、あとは天皇の菊の紋が菊池氏とかなっている
他に桑折氏もそうである、その人たちの先祖は明確にたどれるのである
ただ卒塔婆峠は森に埋もれて消失してしまった 

まぎらわしいのは霊山神社とか山寺の近くにある北畠神社などは明治以降の神社である
明治維新は廃棄物希釈などがあり仏像などが破壊された、それに代わって国家神道が国のイデオロギーとした、それで明治に建てられた神社がある、そもそも靖国神社がそうだったのである。国家神道として明治維新で戦い死んだ人が祭られている
でも西南戦争で死んだ人たちは西郷隆盛でも朝敵となり祭られていなのである。
国家神道と地域の社はもともと成り立ちが違う、国家神道とは関係ないのである。
産土神(うぶなす)神であり土地土地の神なのである。
エジプトでも無数の神は土地の神なのである。何かそういうことでエジプトというのも日本と共通性がありギリシャの神々でもそうである。
それは人間の普遍的なものとしても宗教があったからそうなる

山上で不思議なのは金谷原といのがありそこに寺の跡があり墓地がある、江戸時代のものである。山上の奥でありあそこがどういう謂れなのかわからない、でも霊山から下ると
そこによるから記憶する、相馬市から高速が福島市へと通じたから今までの道は車が通らなくなった、そしたら何か古道となり観光するにはいいと思った
車が通りすぎると景色を良くみれないとかあるからだ
たから真野川からさかのぼり佐須を通り峠を越えて霊山に上ると残雪の吾妻嶺が望まれるからここはやはり景観もいいし歴史の道でもありサイクリングするにはいい所である
それから霊山から下る時もサイクリングに適している、ほとんど車が通らなくなったから安全でもあり静かになったからである。


春の日短歌十首(飯館村の佐須から霊山から山上へ-南朝滅ぶ歴史の道)

この続編です

2018年11月01日

なぜ名所観光はつまらないのか? (交通の便がよすぎてとぎれとぎれにしか旅ができないそして記憶されない)


なぜ名所観光はつまらないのか?

(交通の便がよすぎてとぎれとぎれにしか旅ができないそして記憶されない)

まず現代の旅はどうしも便利だから乗り物に頼る、例えば歩く旅している人はみかける
でも必ず帰りは電車を利用したり途中で乗ったりバスを利用したりとかなる
本当に歩き通す旅はできない、そして実際は現代では旅人は消えた
観光している人は旅人ではない、旅人はたいだい一人だと旅人のように見える
そういう人は若い人だと全国一周の自転車旅行などがある
ただそれは体力のある若い人だからできる
何か体力あるときしかできないものが人生にはある、まず登山はきついから普通は年とったらできない、でも今は70くらいでも登山している人はいる
山は老人に占拠されている、それはなぜなのか?
やはり登山でも旅でも本当は時間がかかるからである
勤めていると登山になると相当に時間もかかるし疲れる
すると勤めに出ることもできなくなる、現実に登山の後に疲れて帰りの電車で死んでいたとかいう人もいたようだ、私も体力がないから登山したときそうなったことがあった
登山とか海外旅行とかはきついことは若い内にしておかないとあとはできなくなる

そしてなぜ観光でも旅でも今は印象深いものとならないのか?
そしてみんな名所がつまらないというのはなぜなのか?
それはあまりにも便利すぎて旅がなくなったからである
平泉に行くか、新幹線で二時間ちょっとだなとなるとその間の行程がない
するとその印象も本当に記憶にさえ残らない浅薄な経験しかできないのである
芭蕉の奥の細道ができたのは今とは全然違った未知の世界の旅だったからである
それで平泉にようやく到着したとき感懐深いものになった

五月雨やふりのこしてや光堂 芭蕉

このような句を残したのはその距離と時代の相違だった、はるばる日本の果てのような所にきて五月雨にもふりこめられて栄華の平泉の名残として光堂が残っているということでこの句ができた
ではどうして平泉まで行ったのか?それは仙台までは今と同じである
でもそこから石巻をまわり北上川をさかのぼり柳津に行き登米を通って平泉に行ったのである、この行程を行くことは電車がないから自分の場合は行っていない
北上川は登米から米を船で運ぶ道となっていた、その米は石巻から江戸に船で運ばれたのである

その歴史を知るには北上川を知らねばならない、でも今北上川を知ること一本の道として知ることはむずかしい、川を知るという時それはとぎれとぎれに知るのではなく一本につながったものとして知る必要がある
何かそうして現代の旅はとぎれとぎれになる、新幹線でだ北上川がときどきちらっと見えてすぎてゆく、そういうふうに旅でもその土地のことを断片的にしか見ていないのである名所がつまらないというときそのアプローチに問題がある
旅はある目的地があってもその行程とアプローチによって相当印象が違ったものになるのだつまり福島県だったら浜通りから阿武隈高原を越えて行くのと逆に会津からとか阿武隈高原を越えて海側に出る感覚はまるで違ったものになる
それは飯館村の八木沢峠を越えたとき太平洋が見えるからである

何か東北に住んでいても本当にその土地のことを知らない、それはあまりに便利になりすぎた結果なのである、それで自分もこれだけ旅してもそうだった
俳句を作っているのだから芭蕉の奥の細道に興味がある
でもその芭蕉がどうして平泉まで行ったのか?その道のりをたどっていなかったのである電車とかで行っただけでありそれで失敗したとなる
石巻からは北上川をさかのぼり登米の方向へ行かねばならない、その道が芭蕉がたどった道だったからである
福島県は自転車で旅したが東北となるとしていないのである
そのように電車だけに頼る旅もその土地を理解することにはならない、電車が通らない所は行かないからである
つまり電車が行かないと所は抜け落ちることになる、車の旅は便利だがこれも早く通り過ぎるということで問題があるが車で旅した経験がないので語れない

いづれにしろ人間の土地を知るとういことで皮肉もあまりにも便利すぎてただ通り過ぎる旅になったのである、歩く旅なら印象に残りやすい、でもバイクでも早いなと思った
それはただスピードの快感を味わっているのであり旅しているのとは違う
車でもバイクでも早すぎるのである
ただ旅という時それはなにか?旅をつきつめれば旅が人生になると芭蕉が言った
人生は旅であるというとき旅が人生になった西行とか芭蕉とか山頭火がいる
私自身もそれに近いものになっていた

それで川に鴎が一羽飛んできて橋にとまっていた、そして去って行った
その時その鴎に旅人をイメージしたのである

秋鴎一羽去りゆく旅の人

これをイメージした、秋鴎が旅人に見えたのである、それは結局自分がまさに秋鴎であり旅人だったからだともなる
そこに旅人がいたわけではない,自分のことだったのである

いづれにしろ北上川を知るにはやはり北上川に沿って平泉まで行く必要がある
それが歴史をたどることでもある、北上川でも最上川でもとぎれとぎれにしか見ていない本当は船で行けば一番いいのである、最上川は一部できるにしても最上川にしてもきれぎれにしか見えないしわからないのである
ライン川でも長いから一部しかわからない、それでも船で運行しているから今もドイツの父なる川として理解できる、なぜならドイツを知るにはライン河を知らないと理解できない、その歴史も文化も理解できないのである
インドならガンジス河を知らなけれ理解できない、ガンジス河がインドの歴史と文化の源になっているからである、日本ではそうした長い広い川がないから川について理解できないのである、それはナイル川でも揚子江でも黄河でも同じなのである

だから北上川をさかのぼり登米から平泉まで行きたくなったのである
そうするには折り畳み自転車で電車で行く、途中柳津でおりて一部でもその川を知ることが必要になると思った、ただ正直体力的に苦しいとなった、腰が痛むとかある
介護十年して精神が消耗したのと体力的にも限界が来たのである
だからつくづく海外旅行とか登山は体力あるうちにすべきであり後はできなくなる
結局いつまでも人間は若くはない、たちまち時間がすぎて何もできなるなるのである
後は回想するだけだとなる、その回想するにもそうした記憶に残る印象深い旅をしていなと記憶にすら残らないから忘れるから何の成果もなくなるとなる
それが現代の旅でも観光でも多すぎるから名所はつまらないとなるのだ
みんなきれぎれの旅しかしていないからである

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2019年02月10日

会津(旅の思い出俳句十句ー秋から冬―会津の雪の詩) {会津の風土と歴史の独自性)

  
会津(旅の思い出俳句十句ー秋から冬―会津の雪の詩)

{会津の風土と歴史の独自性)


晩秋や古町温泉に我がひたる                    

奥会津山を萱覆い暮らしかな

我が踏みぬ落葉の深く会津かな

木も古りて落葉を踏みて社かな

城離れ刈田に残る虫の声

曲屋になお暮らしや蕎麦の花

曲屋に洗濯物や秋深む

雪深く我が踏む後に雪のふる

誰が眠る墓所に雪積む会津かな

                
(喜多方)

蔵の梁太しも雪や蔵古りぬ


大川の清流広くひびきつつ秋のすがしも会津の朝かな  

夜に雪明けても夕べ雪ふりぬ家にこもりて太し柱かな  

凍てる雪また雪ふりて閉ざされぬ会津の冬の長くもあるかな

会津なれ山間深く積もる雪家々ここに暮らしつづきぬ 

  

会津の雪

会津にふる雪や
おやみなくしんしんと
会津の雪を我がふみ
会津の雪の深しも
聳ゆる峰の黙しつつ
雪に埋もれし会津かも
会津の酒、会津塗り、
会津の心の鶴ガ城
会津の焼き物、会津の土産
どっしりとした蔵の家々
薪を積んだ曲屋
その歴史を刻む城下町 
なべて会津の色にそまりぬ
広らかに清く川の流れひびき
会津の水の清らかさ
道の辺の古き碑に墓
会津の雪に埋もれ眠りぬ
ひそまる奥の一部落
何か語らむただ雪に埋もれぬ
深々と雪に埋もれぬ
さらにしんしんと心に深く
雪にまた雪はふり積もりぬ
女の白き肌、情深きも
餅のようなねばりも
会津の雪のごとしかも
雪の暮らしの奥会津
人はそれぞれに土地の手形を持つ
その土地土地の色に染まる
はるかな嶺に雪は残りて
黄金色の花は咲くかも
まことの美しき花はここに咲くかも
それ故に深々と神の庭は雪に閉ざしぬ
会津の峰々高く吹雪うなり
不浄の人の入るを拒みぬ
その吹雪く猛威の中に
神は棲みたまいぬ
おやみなく会津の雪はふりにけり
心浄める会津の雪かも
しんしんとしんしんと・・・
ああ 会津の人の心にいつも
その雪のふり積もり
静かな眠りにつく・・・・
敗れしも無念もまた美しく
会津の雪に埋もれぬ
その会津に入る猪苗代湖
その心鎮める湖の碧い色
たちまちここも一面の雪
ま白し雪に染められぬ
不浄のものの来るを拒むがごとく
しかり会津を踏みにじるものの
その醜き血に飢えたる無謀よ
その心はこの浄よらかな雪に消され
今また邪なる者の来るをはばみぬ
波は静かに打ちひびきつつ
松は昔の国の境の街道に枝を垂れぬ
かなたその節操厳しく会津の城は
昔を偲び雪に映えつつ暮れぬ
その山間の民の暮らしもあわれ
朝美しく紅葉は清き流れに散り
今ひっそりと一部落雪に埋もれぬ
時にごうごうと吹雪くや
一部落身を寄せ合うごとく
会津の長き冬にひそみ耐ゆるも
そして春はまだしも
なお浄らかに残さる雪
その残さる雪に城内の松
城の白い壁に松は映え
忠節の証しと松は古りて立ち
会津の山々の囲み閉ざす
崇高なる峻厳なる独立の峰を仰ぎ
志操を高く山国の城そ守りぬ
女とてその心は変らじも
節は曲げぬ節は曲げぬ
「なよたけの風にまかする身ながらも
たわまぬ節はありとこそ聞け」
その心意気城とともにありぬ
君主とともに城に仕えて果てぬ
ああ 会津の春はまだしも
浄らかに雪は残されぬ
会津の人の心に常にその雪がある
純白の雪の覆っている
心の中に雪がふる
心の中に雪がふる
罪を浄めるごとに
しんしんとしんしんと
その中に醜きものはさらに醜く
一時浮かびては消える
悪はそこに耐えがたく退散する
会津の春はまだしも
浄らかに雪は残されぬ
雪解けてその峰高く
純潔の花の咲きなむ  
会津の風土に昇華される心
雪の結晶のごとくに美を極め
生き死にの場として潔く
その風土の中に命を献げる
・・・・・・・・・




今日は朝は雪はやんでいたが午後からふった、また寒いから降るのかと思ったらすぐにやんでしまった
この辺はやはりそんなに雪がふりつづかいのである
まず会津とか新潟とか東北でも雪がふりつづく所がある
そういうふうに毎日雪がふっていたらどんな気持ちになるのだろうか?
何か暗くなってしまうだろう、だから風土が心に影響するのである
この辺は浜通りでありいつも海が見えるということで心に影響する、開かれた明るい感じになる
ただ津波の甚大な被害ありそれもまた心に影響してくる、津波の恐ろしさを心底知ったからである
だから今回の津波で海がすべていいとはならい、恐ろしいものがあると知ったのである

会津という時、東北の万葉の歌で唯一国(くに)として歌われている
つまり会津だけが一国であり国だったのである
他の歌にはそういうものはない、みちのくの真野の草原(かやはら)の歌にしてもおそらく地名であり大和王権が早くから支配した一地点であり拠点だった、それはあくまでも点としての存在である
でも会津は違っていたのである  

会津 嶺の国をさ遠み逢わなはば偲びにせもと紐結ばさね」

国をさとあり明確に国(くに)だったのである、それは広い国だったのである、第一会津の地名の起こりからして古いのである

第10代天皇である崇神天皇の時代に、大和朝廷の支配領域を拡大するために全国に4人の将軍(四道将軍)が派遣されました。
その中で北陸に派遣されたのがオホビコノ命、関東・東北方面に派遣されたのがタケヌナカハワケでした。二人は親子でもあったのですが、二人が各地方の平定後に落ち合った場所が会津だったそうです

こういう古い由来がある、そして大塚山古墳から三角縁神獣鏡である、これは東北でもここにしか発見されていない
それはここが大和王権とも西の有力な豪族と関係していた証拠である、それは吉備と同型だから吉備と関係していた
それは大和王権が成立する前は吉備は大きな国だったからである
そして真野の草原(かやはら)は笠女郎(かさのいらつめ)が歌ったものだがこの女性は吉備の沙弥万世を父親としていたのである
だから双方が吉備国とは関係していたとなる
つまり古代から会津は大きな国として西の有力豪族にも認められていた、それは大和王権が成立する前からでもそうなっていたのである

そして会津というのがなぜ一つの国として意識するのか?それはその国が風土と一体化しているからである
典型的日本の山国なのである、千メートル以上の山々がひしめきあっているからだ
だからこれだけ山があるということをこの前登った国見山でも520メートルでありこの辺にはそれ以上高い山がないから山についてわからないのである、そもそも千メートル以上の山ひしめきあいそして本当にその山々が奥深いのである
山国の風土がありそこに長い年月で育まれた歴史がある
福島県とあるとしても会津は別格なのである、そこには会津のアイディンティティが形成された
そういうふうにアイディンティティが風土と一体となり形成される場所はなかなかない
中通りだとそういうものを感じない、会津は広いし山国ということでそこは大きな国として古代からあるのはその地理と地勢とかにある、だから会津で感じるものは他とは違ったものになる
深い落葉を踏みまた深い雪を踏むとき会津は奥深い山国でありそれを感じるのである
他ではそういうことを感じないからだ
国とは人工的な国家ではない、風土と歴史が一体化したのが国なのである、私はここで生きて死ぬのだ、ここの会津の土となるのだという感覚は会津だったら生まれるとなる
会津には福島県でも東北でも感じない、一つの国として生きて死ぬというものをもっているのである
それは長野県とかにもあるがそれがわかりにくい、会津は福島県内にあるから実感できるのである

ともかく雪の世界はわかりにくい、でも昨日今日は雪国的になっていた、ただすでに雪は溶けていた
でも寒々として凍った雪にまた雪が一時でもふったからである
ただここではそうした雪国の感じはすぐにおわる、雪という時風花の雪なのである
会津の詩は前に書いたものだがそうしてふりかえるとまたこれは良かったなと我ながら思う
これも忘れていたことがあったからだ
そうして今まで創作したり手直ししたり付け加えたりまた新たに作ったりと作業をしている
それは終わりなきものとなっているのだ

それにしてもどうして古町温泉に来て湯に入ったのか?その方角もわからなくなった
もともと会津は方角がわからなくなる、それは山がひしめいて山々に閉ざされているからわかりずらいのである
どうして古町温泉に行ったのかも思い出せないのである
それが茨城県と那須方面に通じてそこまで自転車でいった覚えがあるが定かではない
どういう経路を通じて行ったのかからなくなったのである

ともかく会津の雪の詩のようにまさに会津とはこういう場所であり場の力がありそれは理屈ではない
それがいいとか悪いとかではない、そういう場の力風土の中でそういう精神が育まれたのである
だから会津は一つの国として独自のものを持ちそれが外からでもそう認識される
でも中通りとか浜通りでは何かそうした風土と一体化したものは明確ではないのである
やはり30万石という大きさにもあった、それだけの大藩だったからこそ明治維新で薩摩長州が敵として征伐するとなったのである
会津の感覚はだから伊達政宗とか伊達藩とかとも違ったものであり何か東北的なものを象徴していたともなる







2019年10月04日

山形紀行(地理的境を知ること-俳句十句)


山形紀行(地理的境を知ること-俳句十句)


       (春)
山形やトンネルぬけて残る雪

水清し対面石に残る雪 

     (夏)
     
影深く苔むす磐や蝉の声

  (秋)     
    
山寺に清流ひびく朝の菊

山寺や巌に菊や流れかな

山寺や清流ひびき秋の星 

水清し対面石に朝の菊  


鈍きかな山形城に秋の雲

城一つ境の山越え秋深む

踏み入りぬ落葉の厚く磐司巌

みちのくの記憶の行跡落葉踏む

山小屋の岩風呂浸り窓に月 

  (冬)
  
馬形や新雪清し朝に踏む  


東北の風土でも福島県自体がわかりにくい、ハマ、ナカ、アイヅと三つに分かれている
そこで風土が違う、浜通りは雪はほとんど降らない、会津は冬は雪に埋もれている
中通りは雪はそれなりにふる、でも夏は蒸し風呂のようになり福島市は暑い
そしてその阿武隈高原を自転車で越える時、海から涼しい風が吹いてきた、その時ほっとした、浜通りに向かっていたのである
冬は底冷えするように寒い、それで阿武隈高原が境となり分かれる
飯館村は高原であり夏は涼しい、冬は寒い、そこも伊達藩との境目である
境とはなんらか季候も風土も変わる、会津はもともと別の国だった
一つの風土と歴史をもつ別の一国だった  

この境を注目すべきなのだが現代は交通が発達した結果、境の意識が薄れる
感じなくなる、峠を歩いて上ったから峠を越えたら別な世界に入るという感覚になる
飯館村の八木沢峠は高いからそうである
それは福島市の方からくれば峠から海が見えるから感覚に違ってくる
峠を境にして景色と風土が一変するのである
ただ今は県単位で境を意識することがむずかしい
県は明治以降作られた人工的な区割りである、福島県は広すぎる、会津は別な一国として風土でも歴史でもあるから不自然だったのである

境でわかりやすいのは山形県と宮城県の境である、面白山のトンネルは長くそこをぬけると山寺になり山形なのである、それで春でもいつも雪が残っている
それは関ケ原を越えると近江に入りそこで春になると風土と景色が一変する
そして不思議なのは近江の湖西から東を見るとそこから太陽が昇るのである
関ケ原は東西の境なのである

関ケ原越ゆるやいつも残る雪

湖西より東(あづま)を見れば陽の昇り秋の日あわれ高島にをり

このように国境を意識する、東から西国に入る境目が関ケ原でありここで関ケ原の東西の雌雄を決する場所になったのも地理からわかる
歴史も地理から作られるからそうなる

東北も住んでいてもなかなか風土となると地理がわかりにくいのである
それは県単位ではわかりにくい、ただ宮城県と山形県はわかりやすい方だろう

陸奥みちのくをふたわけざまに聳そびえたまふ蔵王の山の雲の中に立つ(斎藤茂吉)

これは宮城県と山形県を分ける山である、福島県となると広いからそうはならない
あくまでも宮城県と山形県を分ける山だとなる
ただ福島県でも私の住んでいる浜通り、相馬地域から蔵王が見えるのである
だから蔵王の見える範囲がありそれが成り立つともなる
ただ浜通りだと阿武隈高原によって分かれている

山形県というとここも風土として歴史も形成されてきた、山形県は大学時代、アパートの上に住んでいた人が山形県だった、何か訛りが強い、東北弁は共通している訛りがある
でも何か濁音が強く濁っている、それは津軽弁がそうである
東北弁でもみんな違っている、第一仙台弁が語尾にだっちゃだっちゃというのが本当に変わっている、普通はこの辺でもんだんだになるからだ
だから宮城県は東北ではないというのもわかるのである

とにかく面白山が宮城県と仙台の境である、そのトンネルを抜けると雪国だったとなる
山形も雪が深い場所である、日本海側になるからそうなる
山形県でも広いから日本海にも面しているから全体的に知ることはむずかしい
ただ山形県は一つの風土と歴史をとして見やすい、わからないのは秋田県である
ここは何か一つの特徴が感じられないのである
岩手県でも青森県でも一つの風土歴史として感じるものがあるが秋田県には感じないのである

なぜ風土がわかりにくいのか?それは宮城県とか福島県側の浜通りは大平洋に面しているそれは同じ海でも日本海とは相当に感覚的に違うからである
第一毎日海から太陽を昇るのを見ているのと海に沈む太陽を見ているのは正反対だからである
山形県でも山形市に入ると城がある、最上藩の城がある
それはいつも鉄道の脇にあるから意識されやすい、この最上藩で面白いのは京都の秀吉の伏見城に隣り合って最上藩があり伊達藩の屋敷があった
そして最上町が町名として残ったのである、これも山形県と宮城県の伊達藩が隣り合っているからこうなった、だからこの時相馬藩とかないのだから最上藩は古いとなるのだ
ただ秀吉の時代に相馬藩は石田三成が相馬地域に来ている
それで三成の旗印が野馬追に出ているのである
だから秀吉時代から関係はあった、名前も三成の名前をもらっているのである

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相馬藩初代となる利胤は、天正9年に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれる。慶長元年(1596年)元服の際に父義胤は石田三成に烏帽子親を頼み、三成の一字を得て三胤と名乗る。
これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され以来三成と昵懇であったためであった。

こういう歴史がある、風土と地理と歴史は一体だから総合的に見る
でも風土とかはわかりにくいのである、東北に住んでいてもそうである
山寺があるとする、でも馬形部落がありそこもいい場所である
新雪を踏んでそこに行ったことを覚えている
その奥を行くと磐次郎磐三郎伝説がある奥深い山に分け入ることになる
そこも上ったことがあった、何かそうして記憶の旅を続けているのが自分である
東北に住んでいれば四季を通じて行けるから風土でもなんとかわかる
遠くなると風土とか地理がわかりにくくなる、一回くらい行ってもからないのである
ただふりかえると私はどれだけ旅したかわからない、旅に明け暮れていたとなる
だから今でも旅している感覚になるのである
ただそこで問題なのは詩とか紀行文を書くにしても記憶をたどるからいかに記憶されているのかが問題になる
今になって山寺の馬形部落の新雪が心に残っていた、それは心を浄める雪だった
浜通りとか宮城県では雪のことがわからない、会津とかだとわかる
その雪が心の中に降っている、その記憶が大事なのである

山形の雪

心の中に雪がある
新しく雪がふる
この世の穢れを浄める
新しく雪がふる
それは原初の清浄の世界に戻る雪
その雪に浄められ浄土を想う
新しく雪がふる
心の中に雪がふる
その時心は浄められる
その雪は神の心である
神がこの穢土を浄める雪
もはやそこに雪しか見ない
一切は雪に隠される浄土となる

こんなふうになる、とにかく山形の風土も魅力がある
山形とか岩手県から詩人がでているが宮城県からは出ない、それは風土と関係している
福島県でも会津は一つの別の国であるが何か詩人が出ていない
まず中通りだと詩人は出ないかもしれない、会津は出てもいい名だたる詩人が出ていないのが不思議である
岩手県からは賢治とか出ているし山形県でもでている、斎藤茂吉は歌人だけで何か山形的なものを風土を具現化した人でもあった、でも宮城県となるとそういうものはないし出ないとなる
つまり人も風土と関係して生まれてくるのである
福島県だと会津であり山形県と岩手県と青森県は一つの風土と歴史を形成している
茨城県とかなると何か山が少ないし平坦であり魅力がないのである

私が探求してきたのは風土と歴史である、場所の魅力である
それにしても何か私は旅をした、その跡をたどり紀行文を書く、旅には事前に用意する旅→実行する旅→回想する旅がある
そして意外と回想する旅が最後に重要になる、なぜなら回想できなかったら旅しても行ったことにもならないからである
現実に団体旅行した人がどこに行ったかも覚えていないということがあったからだ
だからいかに記憶が最後に大事になるかである
記憶というのは別に旅だけではない、人生は最後に記憶になる
記憶したものが人生になる、そして人生が記憶されたものを天にもってゆくともなる
それも怖いものになる
だから青春時代を放蕩していたようなものは老人になって痛切に後悔する
その時はいいとしてももう清純な青春時代は返ってこないからである
その時ただ後悔と罪の意識に苦しめられるだけだとなる
それで金持ちがいいようでも放蕩したりするからこれも危険だと思った
貧乏だったら放蕩などできないからである

人間はなにしかしら必ず心に刻印されて残されるものがある、経験するものが心に残されそれがトラウマともなる、戦争を経験したものはそこで人を殺したりしら絶対に忘れることはできない、それがトラウマとなる
それで昨日風が唸り吹いた、その時思い出した
姉が認知症になり狂いが起きたことを思い出した
それから自分の家はガタガタになった、恐怖の連続だった、それを思い出したのである

我が家に風唸り吹き思い出す姉の病や秋となりしも

その時実際は12月だった、寒くなる時だった、そうなったとき冬であり風が家に唸り吹いたのである、だからそのことがトラウマになっていてその時を思い出したのである
このように人の苦しい経験とかも自然に反映される
本当にその時以来プログに書いたように苦しみの連続になったからである

とにかく山形県は魅力がある、ただ山形県全体となると最上川とかあり日本海がありわかりにくいとなる、ただ東北に住んでいる強みは何度もその場を踏めることなのである

われおもう ふるさとの水
ことごとく汝のふところに湧きけるを
そは生命の泉なりき
そそぎてものを稔らしめき
蔵王よ 蔵王よ
母のごといつくしみの頬を濡らす山

真壁仁

故国山水多清暉
日帰日帰尚未帰
一夜夢乗皓鶴背
遠向明月峰頭飛 

(斎藤野) 
 
         
これなどでも風土の影響のもとに作られた、水清しであり山国だからである
会津でも水清しになるからだ、どうしても水が清いのは山国なのである
それで米もうまいとなる、水と米が深く関係していて酒でもうまいのは山国だとなる   

参照ーやまがた文学風土記ー松坂俊夫













2019年12月07日

地理の不思議 (平面的ではなく立体であるから地図にできない―南相馬市の位置)


地理の不思議

(平面的ではなく立体であるから地図にできない―南相馬市の位置)

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南相馬市の位置

南相馬市の丘から冬晴れの日に
牡鹿半島と金華山が見えた
すると心はそっちに向き
心は海に向かって開ける
でも太平洋は広く荒い
いつも波が荒く打ちよせる
そして津波の記憶がまだ生々しい
多くの命が無情に奪われた
心はまた海に開けても
心は閉ざされる
阿武隈高原に視界が閉ざされる
福島市の方は見えず
心はそっちの方に向かない
心は常に海の方に向く
伊達政宗が太平洋を渡るべく
メキシコを経由してはるか
ヨ−ロッパに視界を広げた  
それは東北ではありえぬ快挙なり
常に海に向かう土地がそうさせたのか
ただ太平洋は荒々しく
冬の海に鴎が一羽とんでゆく
そして東北の海は閉ざされている


人間はその人の住んでいる位置が大事である、そこをベースとして起点として世界を見るからである、だから同じ地域でも山側から見るのと海側に住んでいる人とはかなり感覚が違ってくる、その地理からアイディンティティが作られてゆく
人間はまず初対面ならどこに住んでいるかを聞く、どこの出身かを聞く、そこからその人のことを推察する、私の場合は日本だと全国を旅したからだいたいどんなところか推察できる、外国になるとまだまだわからないが一応主な所を回った
外国にうとかったがそこで見聞を広めることが50からでもできたので良かった

まず自分の住んでいる所はどうしても一番影響しているのが阿武隈山脈というより高原となっている、ここで中通りと福島市とさえぎられている、視界に入らない
すると福島県は横に広く地理的一体感を感じないのである
詩にしたようにむしろ仙台の方に視界が開けているし交通でも常磐線があり仙台に通じている
そして津波でわかったように石巻辺りが震源地になっていた
その石巻の牡鹿半島と金華山が片倉のフラワーランドから見えたのは意外だった
新地から見えていたがあそこから見えるとは思わなかったからである
そこまで見えるということは地理的一体感を福島県より宮城県に感じることになる

そして宮城県に津浪伝説があり津浪が来ると警告していた市井の学者がいたことでもわかる、海に面していて地理として一体感があったのは宮城県の方だったのである
でも行政区分としては宮城県と福島県は歴史的に相馬藩と伊達藩に分かれて争っていて継続して相馬藩は福島県に属した
ただそれはあくまでも廃藩置県で無理やりに分けたから不自然なのである
地理的な自然境界がありそういうものを考慮していなかったからである

宮城県だと本当に海に面している面積が大きい、そしてそこは海産物が豊富であり縄文人が前期には多く住んでいたことが理解できる、海の方が住みやすかったとなるからだ
ただそこは津波などが来る場所だったのである

いづれにしろいつも海を見ている人と山に囲まれて毎日過ごしている人では相当に感覚的に違ってくる、海は何か心を解放する気分になるが山だとどうしても閉ざされた感覚になる、だから阿武隈高原によって浜通りは閉ざされるのである
おそらく双葉や大熊辺りに原発が建っていても見えないし無関心だったのかもしれない
全く見えないし阿武隈高原に閉ざされているから見えないし危機感を感じなかった
これは別に浜通りでも30キロ離れた私の住んでいる場所でも危機感がなかった
そういうふうに何でも地理が影響するのが人間なのである

ただ一方で太平洋は荒々しいから何かここを渡って行けるその向こうに国があるとなど思えない
だから伊達政宗がヨ−ロッパまで船を作って送り出したのは快挙だった
そんな視界を普通はもていない、海もまたこの辺では閉ざす世界である
津浪でもわかったように海は本当に恐ろしいものだったからである
太平洋は心を閉ざす海なのである、日本海は比較的冬以外は穏やかだから青森の方まで縄文時代でも行き来があったことでもわかる、太平洋だととてもありえない海であり閉ざされていたのである

そして地理で不思議なのは地理が平面ではない、立体だということである
だからどんなにしてもこの立体感覚は地図では経験できない
なぜなら土地の高低を実感できないからである
だから自転車で狭い地域を回る時、一つの球体を上ったり下りたりして回っている感じになる
それは原町でも鹿島でも相馬市でもそこが一つの球体に感じるミクロコスモスに感じる
それはとても地図を見てもわからないのである
地理はまずこの高低とか隈なくその土地を行き来しないと実感できない、体得できないのである、だから未だに故郷でも狭くてもわからない所がある
そして車だと乗っていないからわからないが土地の高低など坂を上る感覚もなくなるからわからなくなる
鉄道でも坂の感覚がわからないのである

結局学問というときなぜ面白くないのか、それは学校だと記号の勉強でありただ地理でも紙の上でしか見れないからである、あとは受験勉強になる
現実世界から隔離された記号だけの世界で学ぶから興味がなくなる
まず地域でも回っていたら地理に興味をもつ
第一今になってやっと片倉のフラワーランドから牡鹿半島と金華山が見えたことを発見したからである
それだけ地元に住んでいても地理のことがわからないのである
丸森の絶景ポイントも最近発見した
そこからは大平洋を一望にできるし蔵王を見えたのである
阿武隈川も流れているから丸森は景観が一番いい場所である

地理がわからないというとき世界が理解できないのはまず広すぎて地理がわからない
中国なども理解できないのは地理がまずわからない
それであるゆる世界のことでも基本がわからないから理解しにくい
それでなぜ香港であのような激しいデモが起きたのか?
その説明で面白かったのはそもそも中国は南と北では違った国であり北は軍事力の騎馬民族が支配して南はその北京などの騎馬民族に支配されて搾取されつづけてきたという
また言葉も違っていて別な世界を形成していたという
それを読んでなるほどなと思った
南船北馬というのは聞いていたけど北は馬であり騎馬民族が支配した国だとなる
そういうことが根底にあり中国は対立しているのかとなる
そして北に黄河あるとしてもそこは不毛の地だという、ヤオトンとか洞窟の中に住んでいるとか貧しいのである、第一木もない黄土高原を見たらとても豊かになれないと見る
でも南は揚子江はそれとは別な世界である
それで世界でもtake place(起きる)は場所が大事なのである

いづれにしろ地理を知るには机上の学問では不可能である
旅しない限り実感して知ることはできないのである
だから世界旅行は必ずしないと何もわからないままで終わる
ただ一回くらいしてもまた地理はわからない、それだけ地理を理解することはむずかしいのである
それがわかるのは狭い地元すらわからなかった、それが如実に示しているのである

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原町でも鹿島でも相馬市でもそこは一つの別々の球体という感じになる






2019年12月29日

会津の舘岩村への旅-短歌十首(NHK―小さな旅を見て)


会津の舘岩村への旅-短歌十首(NHK―小さな旅を見て)  

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栃餅の味かみしめよ奥会津

蕎麦の花霜ふり会津の暮らしかな
                                                
清水飲み舘岩に入る夏の暮                          

合歓の花山々閉ざし村一つ                                                      


舘岩の奥の流れの清らかに夏の日に来ぬ山の奥かな

一すじの奥の流れの清きかな隠されありぬ舘岩の村

萱刈りて肥やしとするや舘岩に暮らして長く老いにけるかな

夏の日や舘岩に来て栃木の山のそそり迫りぬ村は隠さる

萱ととも暮らしの長く舘岩の集落あわれ冬に入るかな

しんしんと雪にうもれて舘岩の村は閉ざさる冬の長しも

茅葺の家や村人の身を寄せあい暮らしあわれも雪にうもれぬ          

舘岩に暮らして老いぬその月日ここを離れじ刻みし時かな

冬長く囲炉裏を囲み閉ざされぬ薪をくべて外は雪なり

舘岩を去りて栃木やトンネルの長きを覚ゆ那須の原にそ我がい出にけり   
            

会津という時、

伊佐須美神社の社伝では、紀元前88年(崇神天皇10年)、四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が蝦夷を平定するため北陸道と東海道に派遣された折、出会った土地を「会津」と名付けた

大塚山古墳からは三角縁神獣鏡が発見された、これは東北ではここからしか発見されていない、これは吉備系統のものであり大和王権が確立するまでは吉備系統の支配があった
みちのくの真野の草原(かやはら)も笠女郎(かさのいらつめ)も吉備出身だったとも推測される
吉備は大和王権が成立する前大きな国でありそれで会津とか東北にもその跡を残している

会津嶺の歌」『万葉集』巻十四、3426番、東歌に会津の歌が収められています。

「会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね」

ここでまず会津嶺とでている、この嶺は複数なのである、会津は山国である、千メートル以上の山が密集しているのだ、ひしめいている、だからどうしても地理がわからなくなる、これだけ山があると方角もわからなくなる
それで舘岩から太田原に出てきたのだけどその辺の地理がわからなくなった
何か長いトンネルを出て太田原に出たことは覚えているのである

会津嶺とはこのように千メートルから二千メートルまで山がひしめきあっている嶺のことである、一つの山のことではない
そして唯一東北で国と出ているのは会津だけである、その国の古さは古代から始まっていたのである
なぜならみちのくの真野の草原(かやはら)はみちのくの境界線のことでありここが国とはなっていなかったのである
ここに東北での会津の古さがあり会津こそ東北で国として意識された場所だとなる
それは明治まで継続されていた地域なのである、このことは会津を知る場合は重要である
その国への思いが今日まで続いているからである
例えば相馬藩とかになるとそれが成立したのは江戸時代でありその前の国となると明確なものがないからである

会津の特徴はこうして古代からすでに国として意識された場所でありそれが明治維新まで継続されていたのである
会津とは風土と一体化して継続されてアイディンティティの場所だったのである
その風土と歴史の重みが一体化した場所なのである
福島県の地図をみると半分が会津なのである、だから福島県がハマ、ナカ、アイヅとなっているけど実際は会津は別の大きな一地域としてある、国としてあったから福島県として一つにしたことが無理だったのである、それは廃藩置県で全国的に起きたことである
廃藩置県は風土とか地理と歴史から生まれたのではない、行政的区割りとして人為的に生まれたのである、政治的なものであり風土歴史を無視しているから不自然なのである

ただ私は会津に自転車で二回くらいまわっている、夏と秋だった
その時昭和村の方まで行ったが一面に萱の原だったのである
いかに萱が多い地域なのかわかる、だからこそ昔は茅葺の家が曲がり屋が作られた
それには大量の萱が必要だったのである
それでNHKの小さな旅でその屋根裏に大量の萱をためていたのである
そして萱はまた畑の肥やしにしていたのである、それだけ萱が多いからそれをなんとか利用しようとする、とにかく農業は肥料が最大の問題だからである
だから貝殻まで肥料にしている

今日後半だけ見たNHKの小さな旅で舘岩の曲がり屋集落の前沢部落を写していた
そこにおばあちゃがいて萱を刈ったりしていた、ただ息子とは市に出て行っていないという、息子は世話するから市に移れというが嫌だとして残っている
これも今や日本全国で過疎化する村の姿である

ただ老人はわかるけどそれが簡単に移住できないのはそこで生きたことが人生そのものでありそこがアイディンティティの場所であり深い愛着のある場所というより
自分の人生の証しがその土地と家と暮らしにあったからである
それをつくづく自分の家のことについて延々として語ったが同じである
家はただの物ではない、その家族のまたは代々の歴史を刻んだものであり単なる家という箱ではないからである
その家はまた周りの自然と風土と歴史と一体化して形成されたものでありそこに価値がある
飯館村でも原発事故で若い人が帰ってこない、そこに山菜をとり山村の独特の暮らしがあった、それが消失したら飯館村に生きる意味がないというのもわかるのである
放射能汚染で山菜がとれないということはだから飯館村で致命的だったのである
そこに暮らしがなくなったとき何が残るのか?
森とかその自然は残っても人々の暮らしは失われてただ元の自然に戻ったともなる

でもそこに失われたものはそうしたそこで継続した暮らしでありそこに価値があった
それは金で換えられない価値だった、人間の価値は必ずしも金だけからは作りだせない
だから一旦失われた暮らしはもう戻らない、再現できないことにその価値の重みがある
芸術にしてもなぜ芭蕉の「奥の細道」が廃れないのか?
価値が継続してまたこその価値が衰えないのか?価値がさらに増しているともなる
その不思議はやはりその時代がありもうその時代を再現できないということにあった
それが故にその価値が長く時間がたっても廃れないし価値を継続してさらに価値を増している、それはそういう時代が再現できないからだったのである

何か茅葺の家でも城でも新しく再現しても博物館とかになると見世物になりかつてあった暮らしもなくなると価値がなくなるのである、でも時代の流れでそういう暮らしが成り立たなくなる
例えば栃餅はこれはいつも食べていたものではない、非常食として作られていた
第一栃餅は簡単に作れないのである、栃の実を拾いそれを餅にするまで相当な手間なのである、だからこそ貴重である
ただそういう暮らしがなくなるときもし栃餅が簡単に機械で造れるとかなるとありがたみがなくなってくる
つまりそういうものは風土と歴史と一体化して生まれたものでありそこに暮らしがなくなると価値がなくなるのである  

だからそうした価値は一旦失われたら再現できくななる
ただ茅葺の家があったとしてもそこに暮らしがなくなれば茅葺の家は博物館のようになるのである、日本の城でもそうである、再現されても新しくてそれが実際に博物館になっているからだ、会津の鶴ヶ城でも新しいからそれが博物館のように見えるしそうなる
かえって廃墟となって石垣だけが残っているかえって歴史を偲べるともなる
それで荒城の月の歌ができたとなる、それは廃墟化した城を見て作られたからである

とにかく会津の地理はわかりにくい、それは山国であり山に入ると方角もわからなくなるそれは近くの飯館村でもそうだったのである、方角がわからなくなり太平洋側の相馬の
方に帰るのに逆の方向に行っていたのである 
浜通りだと海が見えれば東だとしてわかる、山国になるとまわりが山だらけなのだから方角がわからなくなるのである

いづれにしろ思い出す旅をしている、それは冬ごもりの季節に向いている
ただ思い出す旅は記憶がとぎれとぎれになるしいかに再現するかが問題になる
だからいかに記憶させる旅をするかが問題なのである
それでた車とか便利だかいいとはならない、帰って苦労して峠を越えた記憶とかは残るのである、なぜか舘岩村から栃木の方に太田原の方に那須の方に行くとき長いトンネルがあったことを記憶していたのである
そういう記憶がなかなか車だと残らないかもしれない、自転車だと苦労してやっとトンネルをぬけたという記憶が体に残る、そして広々とした那須野に出たいうことが記憶に残っていたのである

ただ何かその記憶もとぎれとぎれになりあいまいとなり思い出すのもむずかしくなる
でも今日のNHKの小さな旅で後半だけ見て思い出したのである
舘岩村は本当に奥地であり秘境の感じがする場所だった
桧枝岐もそうだがあそこは尾瀬観光の拠点の村となってしまった
だから秘境という感覚がイマイチなくなったのである
観光化というのは本当の価値を失うのである、そこに暮らしがあってこそ価値がある
ただ現代ではどうしてもそこに暮らしていくには金が必要であり観光化はさけられないのである、現実に何で暮らすちとなれば昔のような暮らしができない
薪をくべて囲炉裏で暮らせない、そうしたとても電気を使わずに暮らせないのである

会津はこれからますます雪に埋もれてゆく、雪の時会津を訪ねれば会津に理解が深まる
それは山形でもそうである、でも実際にそこに生活するとなると楽ではない
ただそうして雪に埋もれて春が来て夏が来て秋が来てと暮らしてこそその土地と一体化するのである
舘岩村は本当に山々に閉ざされた奥地の村だった、だからまだ秘境の名残りがある場所だったとことを記憶の旅でたどったのである

舘岩村の情報

ここで紹介している

2020年03月14日

会津の旅の短歌30首


 会津の旅の短歌30首

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(湖南)

街道の湖南の蔵の宿泊まる菖蒲の咲きて心にしみぬ

風鳴るや木立騒ぎて夏の日に荒巾木(あらはばき)神社あるかな

街道の芒に暮れむなお遠く虫の音あわれ会津に向かふ

(猪苗代湖)

猪苗代湖その色碧く心しむ火を噴く後の磐梯山見ゆ

猪苗代湖その岸辺の松幾本や家居ともしく虫の音聞きぬ

猪苗代雪のふりけりその岸に秀夫は育つ雪の清しも

猪苗代湖その岸にふる雪清し心に雪の映りて去りぬ

(会津市街)

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雨しとと桐の花咲き誰が眠る会津の墓地を我が尋ぬかな

松静か桐の花咲き磐梯山形優美に聳えけるかも

氏郷の会津に死にぬ近江よりその歳月や花は散りにき

歴代の会津の殿も眠りける墓地を訪ねて秋の蝉鳴く

三人の女(おみな)の墓の並びけり城に仕えてここに死すかな

大川の流れひびきて広ろらかに会津の国や秋となるかな

会津なる謂れの古く大古墳鏡とともに冬深むかも

みちのくに会津のあれや山深く暮らせる人や冬深むかも

(西会津)

ここよりし西会津なり別れ道立木観音に秋の夕ぐれ

山の上会津の奥や戦いし藩士のしるし秋深まりぬ

阿賀野川新潟にそ流れつつ日本海にそ秋の陽没りぬ

新津駅会津の方に雪の嶺見えて朝たつ電車なかるかも

阿賀野川船運に栄ゆ津川かな雪に埋もれて我が踏み帰る

(喜多方の喫茶店)

喜多方の積もれる雪に蔵の中梁の太くも黒光りしぬ

(伊南)

そそり立つ巌に轟く流れかな心一つに戦い果てぬ

千の山競い聳えてひしめきぬなお奥に山会津の夏かな

鬼百合の咲きし会津やたおやめももののふの心戦いに死す

桧枝岐遠くにあれや米食えず蕎麦にヤモリを食いてしのぎぬ

古りにけるいさすみ神社の老木に我がよりあわれ秋深まりぬ

会津の奥の深しも秀麗に聳えし山や秋の夕ぐれ

会津なる奥の山路を分け入りて萱に埋もれし農家ありしも

雪のふり雪踏みてこそ会津にそ住みし心を知らるべしかな 


沼一つ奥にしあれや何ひそむ散りし木の葉の浮きて静まる

昭和村秋に来たれる鳥の鳴く声のすみにつ畑に人あり

舘岩の奥にしあれや境なるさえぎる山や秋となるかな

自刀せし親子のありぬ雪深く薩長の恨み残りけるかな

会津にそ灯ともりあわれなおしも雪のふりにけるかな

雪うもれ会津の墓や誰が眠る代々住みし家にしあるかな

しんしんと冷える夜なり会津にそ住みてその心知らるべしかな

(会津嶺)

会津嶺の国に生きなむ命かな同胞(はらから)友の絆強しも

会津嶺の国に生きなむ水清し母父ここに我をはぐぐむ

山々の重なり高くひしめきぬ守りの堅く国を守らむ

奥にある秀でし山の隠されて志操の堅く国をし思ふ  


次は国とは何かについて万葉者を例にして書いています

2020年03月15日

人間は国(くに)に生きる (国とは何か福島県(会津)の万葉集より考察)


人間は国(くに)に生きる

(国とは何か福島県(会津)の万葉集より考察)

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国という時何なのか?それは自然村のような自然に生じたものが国である
人為的なものではなくそこに風土があり自ずと一つの国が形成される
それでシンガポールとか香港とかは国ではない、商業単位の貿易都市である
そこには国はない、だから証券取引をする経済に特化された場所である
そこはイギリスとかによって便宜的に作られた場所なのである

国という時、そこに独自の風土があり土地があり自然がある場所でありそこに生きる時
国がある、だからまた東京とか文明の大都会にも国はないのである
そこは商業都市であり工業都市であり経済都市に特化したものである
または東京となると政治都市になる、でも自然がないのである
一千万人が住んでいてもそこは国とはなりえないのである

また行政単位として県があったとしてもそれも国ではない、自然から国が自ずと作られるとき行政単位としての国として廃藩置県で作られたから不自然になる
伊達藩と相馬藩がありその境が新地だとしてもそこが藩の境であり国の境と思えないのである、なぜなら平坦な太平洋岸の海岸線として仙台まで続いているからである
実際の生活でも仙台が身近なのである
むずかしい病気だと仙台に行っている、すでに二人は眼の手術で行っていたし近くで最近死んだ女性も仙台の病院に入院していたらしい

どうしても日本は山が多いから山でさえぎられる、すると自然の境界になりそれで実際の生活でも心でも心理でも形成される
阿武隈高原にさえぎられて中通りは遠く感じられる、第一中通りの山が見えないのであるでも蔵王が南相馬市の鹿島区からも見えるのである

陸奥みちのくをふたわけざまに聳そびえたまふ蔵王ざわうの山の雲の中に立つ
(斎藤茂吉)

この歌もそういう地形を歌っていたのである、でもそれより宮城県と山形県を分けるのは面白山がある所である、そのトンネルをぬけると山形になりそこは雪国だったとなるからだ、春でも雪が残っている、でも宮城県側はほとんど雪は降らないからである
だから面白山で国が分かたれていると感じるのである

福島県の成り立ちは会津が最も古い、この歌でもわかる

会津嶺《あいづね》の 国をさ遠《どお》み 逢はなはば 
偲《しの》ひにせもと 紐結ばさね 万葉集

ここに国がすでにあった、国が形成されていたのである
その時浜通りにはまだ国はなかった、浜通りはなにか渡来人の跡が古くあり鉄を求めて資源を求めて来て早く開かれた
そして「黄金花咲く」で宮城県が奈良に知られていた
それを象徴しているのが

みちのくの真野の草原(かやはら)遠けども面影にして見ゆといふものを」 (万葉集巻3)

つまり真野の草原は奈良からみて知られた場所でありみちのくの辺境だったのである
その先はまだ知られていない地だったとなる
ただそこで国というのは形成されていなかった
万葉集の歌で

安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに  万葉集  巻16 

があるとしてこれは今と通じている、交通の要所でありそこに官人を接待した采女の歌がこれだとするとそういう場所だったのである

そして中通りは

安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも
   我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね 」 
          巻14−3428 作者未詳
          
陸奥(みちのく)の安達太良真弓 弦(つら)着(は)けて
       引かばか人の 我を言(こと)なさむ 」
                 
これは縄文人の狩猟時代を彷彿とさせる歌である、原始性がある歌である、鹿と猪が身近なのである、陸奥(みちのく)の安達太良真弓とはこれはみちのくで特別なものである
安達太良真弓と固有名詞化しているから知られた弓だったのである

エミシは、「弓で矢を射る強者」の意のユミシが訛ってエミシとなったという説がある

弓は日本の縄文弓もあるが、中国で発展したらしく、中国東部の民族を東夷と呼ぶのも、ばかでかい弓を使う人たちだったので、大の字と弓の字を一体化して「夷」としたと言うもののようである

日本人はなぜ長弓に固執したのか
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「えび」の古い日本語「えみ」が「えみし」に通じるとして付けたとする説を唱えた[13][注 2]。夷の字を分解すると「弓人」になり、これが蝦夷の特徴なのだという説もある[15]

弓にたけていたのが蝦夷だったとなる、それは狩猟時代を生きていたから動物を射ることが得意だったとなる

この歌のようにこれはまさに開かれない狩猟していた人たちが蝦夷が住んでいたとなる
熊の穴とかイノシシが寝ていた場所だとか見るのは狩猟する人たちでありマタギの人たちだとなるからだ
だから万葉集の歌で福島県が特徴づけられたし今でも継続している
それは地形とか地理はかわらないからである

いづれにしろ人間が生きる時その場所が大事になる、その場に人は生きる、場と一体となり生きる、アイディンティティ化して生きる
そういう場がないとき人間の生は浅薄になる意味をもていないのである
でも現代社会は文明社会とはもうそういう場がなくなった
東京を見ればわかるそこに場となるべき自然がない、ただ政治経済商業都市として肥大化したのである、そこに国として生きる場ではないのである

ただ現代は全体的にただ経済人間として生きているのである
だからこそこの辺で金になる原発が誘致されたのである、農業とか漁業とか林業は衰退していた、跡継ぎもない、木材が外材だとか国を形成する基盤が失われていたのである
それで国に故郷に愛着がなく原発事故で簡単にゴーストタウンとなり捨てられたとなる
つまり金があればどこにでも住んでいいという時、その国の愛着はない
金さえあればどこに住んでもいい、国より金であり金で買えないものがないとまでなっている
だから金の切れ目が縁の切れ目であり土地とか風土から歴史から形成された国に愛着はないのである
その国に生きるより金にならなればその国との縁は簡単に切れるのである
原発事故でそのことが証明された、補償金が大事であり金さえあれば簡単に故郷は捨てられるのである
一億円もらったら田舎をでてやるとか事故前から若い世代でも言っていたから当然そうなる

ただ人間は経済人間だけでいいものなのか?それが極端化したのがグロ−バル経済である世界が経済の単位となり経済ですべてが計られるのである
そんなふうに人間を経済化することができるのか?
人間とはただただ経済に金にのみ生きるものなのか?
それが問われた、結局グロ−バル経済とは何か?それはアメリカの一局の経済支配でありまた中国の一帯一路の中華帝国支配になるところだった
それがコロナウィルスでブレーキがかかったのである

人間は何に生きるかと問いばそれぞれの国に生きる、そこが生き死にの場なのである
日本国家に生きるのではない、国に生きる、国家は行政単位である
国は自然に形成されたアイディンティティとなるものである
ただ会津を例にすると国と言っても城のある城を守る武士が会津のアイディンティティを形成したとなるが農民は別だった
農民は明治になって一揆を起こしたということは同じ同胞としての国を形成していたのではない、侍には堅い同胞として結ばれていたが農民は別だったのである
年貢をとられるものとしてそれに反抗して一揆を起こしたのである
だから会津を国として意識していたのは武士だけであったともなる
ただ万葉集の時は農民でも庶民でも国としてやはり意識していたのである
そこに同胞がいて妻がいてまた仲間がいてそういう意識をもっていた
そこに会津嶺という山々が常に心に映じていたのである 
なぜならその時会津藩はない、侍はいなかったからである
それでも農民でも庶民でも国として意識していたのである、国の感覚があった

自然から形成された国かあって人間も心も形成される、東京のような大都会から国が形成されるだろうか?
そこは物量の世界であり経済都市でありそこがいかに豊かになっても人間の精神は形成されない、ただ何か貪欲に世界から物とか食料でも食うだけの物欲人間になっている
だから何か精神的に象徴するものはない、皇居があるとしてもそれはもともと京都にあるべきものであり江戸城のあったところにあるのがそぐわないのである
そして江戸があった時そこにはまだ自然があった、縦横に水路がめぐらされて自然の美があった、でも明治以降はそういう美は常に破壊されて喪失してきたのである
つまり国には美がある時国になりえる
美がない時、そこに国はない、美は自然からしかから形成されないのである
経済都市とか工業都市とかからだけでは美は形成されない、美がないことは致命的なのである  

いくらそこで繁栄したとしてもそこに美がなく殺伐としてビジネスマンとは自ら言っているように社畜であり奴隷なのである
人間が生きる場所に値しないのである、たた現代はすべて金で経済力で計られる物量で計られるだけなのである
そして原発事故でわかったように肝心の風土を国を形成するもの、土や水や森や空気まで汚染されて住めなくなったことでもわかる
その時国に住めなくなった、生きる場所としての国が喪失したのである
ただその前に田舎でもどこでも金を追い求めるだけであり国を生きるなどなかったのである
「神の国を求めなさい」というときまず金を求めなさいしかなかったのである
だからこそ原発でも何でも金になるものなら国に作る
美とかも関係ないのである、田舎の人間の方が強欲にもなっていたのである
だから国という時日本の国として自然の風土と一体化した国にこそ人間は生きる価値と意味があるとなる

御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば  海犬養岡麻呂

栄とは物質的なものだけではない、実りとは自然とアイディンティティ化した美がある
または国に真善美がある世界である、そこに生きる価値があるとなる

国というとき国魂神社がある、相馬市に都玉神社(くにたま)神社がある
これは相馬氏の子息が若くして死んで祀られたのである
ただ国の魂(たましい)というとき何なのだろうとなる
国家と国(くに)は別物なのである、国家とは行政の単位としてある
例えば廃藩置県の後は福島県となってもそれが国とはなりえないのである
他でもそれは行政単位として分けたのである、だから不自然なのである
江戸時代の藩でも実際は本来の国とは違うものになっていた
第一相馬藩というけど千葉県などから来た相馬氏に支配されたから相馬藩となった
それは本来の国とも違っていたのである
だから伊達藩と相馬藩の境が新地になっているけどそこは山でさえぎられることもない
浜通りの延長として海岸線を通じて仙台まで直線的につながっているのである

ところが地理から見ると福島県でもハマ、ナカ、アイヅとあるが浜通りは阿武隈高原でさえぎられているから中通りと地理的一体感を感じないしまた会津になるともともと地理的に別世界なのである
この地理だけは変えることができないのである、いつも阿武隈山脈を見ていると向こう側は見えないのである、でも飯館村まで来るとかえって中通りでも近く感じる
地理的一体感を感じるようになる
この差が大きいのである、だから人間は地理からその場からアイディンティティ化される地理は変わらない、山が平地になどにならないからである

第一いつも太平洋側から太陽が昇るのと山から太陽が昇るを毎日見ているとき相当に感覚的に違ってくる、その感覚がどうしても理解できなくなる
例えば韓国から日本海を見ると東海と呼んでいるけど日本海側から見るとそこは常に太陽が沈む場所なのである、つまりそれだけ場所によって見る感覚が違ってくるのである

とにかく会津は古代から大きな国だった、他に福島県でも東北でも国として意識されていない、その国とは今の県とか江戸時代の藩でも伊達藩のように地理とは関係なくなる場合がある、人工的なものとしての国が形成される、ただ古代から国(くに)として継続したのは日本でも少ないだろう
国こそ国体という観念なのかもしれない、それは日本国家というのではない、その土地と一体化したものでありアイディンティティ化したものである
それが本当は愛国心に通じている、ただこの国と国家はまぎらわしいのである
国とは血脈を通じたものがあり国家は行政的機関とかなり人間の温かい血が通っていないのである、だからお国訛りとかなると何か親しみを感じるのはそのためなのである




2020年06月22日

地理で大事なのは境である (宮城県と福島県内の境)


地理で大事なのは境である

(宮城県と福島県内の境)


境というとき地形的境がある、山でさえぎられ日本に峠が多いという時、この峠は漢字にはなかった、国字だというとき日本では山の国であり峠が多いからである
峠を越えると別世界に入るというのが日本なのである

その峠というとき相馬藩内だったら飯館村は標高400メートルであり高地である
だから夏は高原地帯であり涼しいのである、でも冬は寒いから冷害があり米に被害があった、稲作には適していないともなっていた

飯館村に行くときどうしても峠がありそれが七曲りであり真っすぐな新しい道路ができる前は車でも難所だった、大倉回りではそうなっていた
そこで私が自転車で行くとき坂を上れずに自転車を押して上ったのである
大倉をすぎて坂を越える手前で休んでいた
その時とをしてか秋であり秋の蝉の声をそこで聴いていた
何かそれが心に残っていて不思議だった  

飯館の峠を越えんと常にして休みて聞きぬ秋の蝉の声

この歌は何かそれだけ峠を越えるのに苦しんだものとしてできた歌だとなる
つまり飯館に行くのだがもう秋になってしまったということである
そこに深い感懐がある、ただ今は飯館村は村として成立していないから残念だとなる
やはり人が住まなければそこはまた別なものとなる
人が住んでいてこそ秋の蝉というのも深く感じる
秋の蝉というときたそがれる、何か老いてゆくとかの感覚になるからだ

峠はこうして地理的に地勢的に地形的に山でさえぎられて分ける
そして山とかなくならないから人間はこの地理とか地形に制約されてありつづけるとなるいくら交通が発達しても山自体がなくならないからである
それで福島県というとき阿武隈山脈、高原にさえぎられて福島市の中通りが見えない
いつも山脈で閉ざされて見えないのである
そうなるとそこと地理的一体感をもてないのである
選挙だと福島一区は福島市と相馬地域が一区なのだけど何か違和感を感じてしまうのである、それは山でさえぎられているからなのである

福島県がハマ、ナカ、アイヅとあるとき中通りは見えない、アイヅはもっと見えないのである、だから浜通りは福島県からすると特殊な地域になるかもしれない
むしろ仙台方面に海を通じて地理的にはつながっているという感覚になる
それは津波の被害でも地理的一体感をもったことでわかる、相馬地域には津波は来ないと油断していたが地理からみればそういうことはなかった、現実に仙台に浪分け神社とかあり津浪が来ていた
それで若林区などは仙台の延長として住宅地化していた、それで被害が大きくなった
そうして不動産屋がそこに津波が来ると学者が警告したとき地価が下がるからそんなこと言うなと脅されたという
これも地理と歴史を無視して被害が拡大したのである

地形的にはそうなる、新地が伊達藩と相馬藩の境となっていてもそれは平坦でありただ政治的境界としてあったからむしろ仙台方面と一体感をもつのである
今でも常磐線で通勤圏ともなる、仙台まで1時間10分で行くからである
それで不思議だったのは震災以後原町から竜田まで電車が通らなくなった
でも仙台まで通っていた、そして仙台が下りだということに違和感を感じた
東京行きが上りとなっていたから仙台が下りになったとしても東京に直接通じなくなったから仙台がむしろ上りの感覚になったのである

とにかく人間は地形的に地理的に境を意識してそこで分ける、するとかえって人間はその制約されたことでその中でアイディンティティを作り安いのである
境がないというときそこでは人間の心が安定しないのである
日本でも広いからとても全国を地理的にアイディンティティ化することは不可能なのである、なぜなら北海道だと大陸的であり全く別な地理と地形でありそこでアイディンティティ化されるものは本土とは全く違ってものとなるからだ
それで北海道とかは俳句にしにくいなともなった、俳句のうよな感覚でとらえられない
ものがある、それはアメリカのような大陸でも何か俳句など作れないともなるのと似ている、グランドキャニオンなど見たらまるで異星に来たような感覚になったからである

ただ地理とか文化とかなるとこの境が大事である、なぜならライン川があるとする
それは父なる川でありこの川が地理的境だけではない文化的な境でありローマ帝国がこの川を越えることができなかった、ゲルマンの世界であり深いゲルマンの森がありその進出を阻んだからである
大陸はどこまでも平坦な地がつづく、それを遮るのは大河だとなる
そこを境として国も形成されたとなるからだ、ただスペインなどはピレネー山脈があり
それが境となっている、だから境となるのは山であり川が主なものとなる
海は広すぎるから国境がないのである、陸を行けば必ず国境があり国境によって国も言葉も文化を違ってくるのである

いづれにしろ世界を見る時、地理からみる、それは学問の基礎である
だから学問するならどうしても世界の地理をしる必要がある、それで実地に世界を旅することが不可欠なのである、それが遅くなったが50以後にできたので良かった
国内は隅々まで旅したが外国はしていなかったからである、ただ世界は広いからどうしても全部はできない、一部になったのである
そして今になるともう世界を旅する気力もない、国内すらできないともなったのである