2007年05月19日

飯坂線−十綱橋−医王寺

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車両古り飯坂線や菖蒲かな

十綱橋ひびく流れに夕燕

十綱橋渡りて遠きみちのくの奥や夕日に山桜かな

(医王寺)

月影に鎮まる寺や花の散る

古の墓に花散る夕べかな

途中駅医王寺ありぬ飯坂線芭蕉もよるや落椿かな

医王寺に着物の女性静々と後姿や落椿かな


飯坂には芭蕉も寄っている。

「奥の細道」の中では「飯坂」ではなく「飯塚」と記されています。これは昔「飯塚」と呼ばれていたこともあったようでそれを引用しているのかどうかは定かではないようです。

 「其夜飯塚にとまる。温泉あれば、湯に入て宿をかるに、土坐に莚を敷て、あやしき貧家也。灯もなけれバ、ゐろりの火かげに寢所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、・・」

飯坂は飯塚だったのだ。塚というとき誰の塚なのか?

「月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が舊跡は左の山際一 里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋たずね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が舊舘也。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたハらの古寺に一家の石碑を殘す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがいしき名の世に聞こえつる物かなと、袂をぬらしぬ。墜涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へバ、爰に義經の太刀・辨慶が笈をとゞめて什物とす

  ”笈も太刀も五月にかざれ帋幟”


この人の塚なのか?そうでないにしろ塚の方があっていた。飯坂のイメ−ジは鄙びた温泉とはまるで違ったイメ−ジとなってしまった。何か猥雑なものさえ感じてしまうのだ。ただ不思議なのは飯坂線は鄙びたものを感じてしまうがこれも栗原線がなくなったように風前の灯になっているのではないか?線が余りにも短いからあそこに残っているのも不思議である。みんなあのくらいの距離だったら車で行ってしまうだろ。

◎平安時代
藤づるで編んだ吊り橋がかけられていた。千載集に「みちのくの とつなの橋に くる綱の 絶やすも人に いひわたるかな」とある。
◎文治5年(1189年)
大鳥城主 佐藤元治は義経追討の鎌倉勢を迎え撃つため、自らの手で橋を切り落とし石那城合戦に赴いた。
その後は、両岸に綱を張り船をたぐる「とつなの渡し」にたよった。しかし、摺上川(すりかみがわ)はたびたび氾濫する川で、船の往還にも難渋した。
◎明治6年(1873年)
盲人伊達一、熊坂天屋惣兵衛らの努力によりアーチ式の木橋が架けられ「摺上橋」と命名されたが、一年ほどして倒壊。
◎明治8年(1875年)
宮中吹上御苑の吊り橋を模して10本の鉄線で支えられれた吊り橋が架けられ、「十綱橋」と命名された。
◎大正4年(1915年)
橋の老朽化に伴い、当時としては珍しい現在の「十綱橋」が完成された。昭和40年(1965年)に大補修が加えられ、飯坂温泉のシンボル的存在となっている。


飯坂の はりかねばしに 雫する あづまの山の 水色の風   与謝野晶子

(飯坂ライオンズクラブにより、橋の横に立てられた「十綱橋の由来」より)



十綱橋というのも昔を偲ばせるものだった。ここもそれなりに昔から知られていた。吊り橋であり渡しであり鎌倉勢がおしよせたときもこの橋を切り落として戦った。橋が倒壊したり再び10本の鉄線で橋がかけられた。雫するとは明治になっても鄙びた感じの橋だった。橋にも歴史がある。今はどこでも雫してもびくともしない橋になっている。

医王寺は風情のある寺なことは確かである。そこには着物姿の女性がにあっていた。やはり京都でもそうだが日本的な場所には着物姿がにあうのである。これは文化なのだ。しっとりと落ち着いた回りの景色にとけこむのである。こんなところに派手な今風のファッションの若い女性が入ってきてキャキャ騒ぐと興ざめになるのだ。観光地化するとそうなりやすいし全国的にそうなっているのだ。

旅は思い出す旅がかなり重要なことがわかった。30年前でも生き生きと思いだせば書ける。忘れれば書けない、ここも通ったのだが十綱橋を渡ってさらにどこに行ったのか記憶にない、飯坂線で行ったのだが良く覚えていないからだ。俳句とか短歌は残っていたからここでまた再編集した。前にも書いていたから常に再々編集もしているのがインタ−ネットなのだ。いくらでも再編集しやすいからである。だからインタ−ネットのプログでもホ−ムペ−ジでも絶えず書き加えたり再編集の連続なのである。

2007年07月16日

消えた中山宿のスイッチバック駅(郡山−中山宿−会津)

 
 
消えた中山宿のスイッチバック駅(磐越西線−郡山−中山宿−会津)(鉄道の部)
http://musubu.jp/jijirailway.htm#naka
 
会津には鉄道を利用して何度も行った。そこで中山宿のことを思い出した。スイッチバックで一旦本線からそれた駅にとまりまたバックして坂を峠を越えてゆく、この遠回りな感じが旅情をかもしだしていたのだ。これから坂を上ってゆくんだぞという人間的なものが電車にもあった。そのときはいつも芒がなびいていた。今の旅はこうした旅情がない、あまりにも早く早く行ってしまう。旅はふりかえればある所に留まる時間が長ければ長いほど記憶に残る。そして何度も行ったところはやはり記憶に残る。海外が記憶に残らないのはたいがい一回くらいしか行けないからである。中山宿には少なくとも10回近く停まっている感じがするからそこが思い出の場所となったのである。そこはすでに商人とかが仕事のために行き来しているような所だった。ただ会津も福島県なのだが電車だと不便で遠回りになるから何か福島県と言っても遠い世界に感じてしまう。仙台は近いが会津は遠い世界になってしまうのだ。

2008年01月08日

会津(伊南川−山里橋−写真から作る俳句と短歌)

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花にあき石に休みぬ夏の蝶

渓流の音のひびくや夏の蝶

我が室に会津をとりし写真見る曲屋もあり冬籠もるかな

合歓の花月見草咲き茅葺きの家も残りて山里橋かな


山里橋事件は、30代後半の恰幅のいい鮎釣り男性が27日(金)午後に山里橋から亀岡橋(只見町明和地区)まで流され、亡くなった件ですね。


伊南川は釣りする人にとっては有名である。会津をとった写真を見ていたらたまたまそこに山里橋と書いてあったのでここが山里橋だとわかった。でなければここがどこかはわからなくなっていた。写真をとってもどこのばしょかからなくなっていた。旅ではこういうことがかなりあるのだ。だから場所の地名を書いておく必要があるのだ。そうすればあとで思い出すことができる。それで地図を見ると山里橋があり橋を渡ると二軒在家とある。もともと二軒があったのか良くみると茅葺きの家が一軒残っているからここは古い部落だったのか、それにしても山里橋という名前は何か新しい名前の気がする。普通わざわざここは山里だと名づけないし里山とかも明治になってから言われたことである。
旅ではいかに記憶したもの自分の頭にでもそうだがやはり書いたものや写真が貴重になってくる。この写真ではじめてここに茅葺きの家があったことを知った。記憶にも全然なかったからだ。この辺の宿に泊まったことは記憶している。それが小林という地名だった。そしてここに確かに小林山とあったのだ。小林という姓も地名を基にしているから地名としてあるのはめずらしいことではない。ただ写真を手がかりにしてインタ−ネットで調べてこれだけわかった。これだけわかるだけでも収穫はあった。旅の記憶は消失しやすいのである。10年20年前となると記憶はあやふやとなり写真の方が正確に記憶していたのだ。蝶の写真もそうでありそのとき俳句など作っていない、写真を見てあらためて俳句を作った。
ここは釣りで有名だから死んだ人もいたというのもわかる。山里橋辺りで死んだというのも一つの事件として記憶されることであった。

2008年08月08日

会津より越後(小出)へ(短歌連作)


会津より越後(小出)へ(短歌連作)


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会津より境を越えて小出かなその道遠し夏の夕暮

小出まで道のりはるか我が休む木陰やここはなお会津かな

只見線はるばる来る小出かな越後の国や夕べ蝉鳴く

魚野川我が足浸し涼しかな会津をいでて越後の国かな

会津より来る電車は二つのみ只見は遠し秋の日暮れぬ

幾度か只見を過ぎて旅行きしその日は遠し会津広しも

雪深く只見の駅やさらになお小出に行くや汽笛鳴りたつ

只見より越後の国の村々や奥深きかも雪に埋もれぬ

会津なれ越後の国や雪深く生活(たつき)厳しき昔なるかな

会津なれ越後の国や知られざる民の暮らしのあるを知るべし

道もなくトンネルなきに雪深く閉ざさる越後貧に苦しむ
 

越後獅子は、越後国西蒲原郡月潟地方から出た獅子舞。子どもが小さい獅子頭をかぶり、身をそらせ、逆立ちで歩くなどの芸をしながら、銭を乞い歩きました。蒲原獅子、角兵衛獅子ともいいます。
 実際、江戸時代には、貧しい家の子やみなし子などが買われて、親方に虐待されながら芸をしたという例も多かったようです


当時は十二、十三の子供たちが、地方から出稼ぎに出て、半ば人身売買のように、大店などで働かされていたのです背中に背負っていた幼児を寝かせ、あやしてみたり、少しませた少女の恋心を踊ってみせたりしながらも、郷里の民謡の節を聞かせながら、幼くも出稼ぎ生活を強いられた若い娘の郷愁を踊ります。
http://blog.livedoor.jp/nisikawaryu1/archives/50629758.html

 
日本舞踊にも歴史が反映しているのが興味深い。こんなふうには見ない、民謡には悲しい物語が秘められているのが多い。だから哀愁を帯びているのだ。踊りというと華やかなものだが何でも歴史がそこにはある。越後というとやはり雪に閉ざされるから丁稚や酒屋で働く出稼ぎ者が昔からいたのだ。でも今も確かに出稼ぎ者というのはいたが江戸に働きに出ると行ってもその遠さが問題なのだ。新幹線で二時間ではない、そこにこうした歌が残されていて一際哀愁を帯びたものとなる。なかなか故郷に帰れないからである。信じられないほど故郷は遠いのである。この遠さの感覚が喪失したから歴史が実感できなくなったのだ。八十里越えなどもそうである。その道はあまりにも険しく遠い道のりである。とにかく会津は本当に広い、だから会津を知ることは一国を知ることであり容易ではない、でも三回くらい会津から小出とかまで行った。自転車でも一回行った。つくづく福島県だけでも路査したら広いし地理を理解することは容易ではない、今思い出してみると遠い世界になったとつくづく思った。交通が発達して一見近いように思えてもやはり遠いのである。会津は方角もわからなくなる。ここから西会津の別れ道と山の方にはいってく道があったがこれも遠い道だった。西会津には高速バスで通ったが電車では行けない、電車で行けない道はいくらでもある。そこは私にとっては車がないので実に遠いみ世界になるのだ。自転車で別れ道に来ることがよくあるがその別れ道は簡単には入っては行けない遠い道だった。つまり行き帰りを計算すると5キロとして10キロになるから遠いのである。
 
西会津別れて入りぬ道遠し旅路つきぬも秋の日暮れぬ

 

2008年09月04日

常磐線10句−常磐線の果す役割(福島県内)

 

常磐線10句−常磐線の果す役割(福島県内)
 http://musubu.jp/jijirailway.htm#jyoban(鉄道の部)

 


日本の鉄道は百年以上の歴史があり様々な視点から語られる。一路線だけでもすでに様々な歴史をもっているから奥深い。そして外部からはわかりにくいのがやはり交通なのである。歴史が地理だということを何度も言ってきたがまさに鉄道も地理でありそれも生活に密着しているから外からわかりにくいのだ。常磐線が仙台に向かうのが上りであり磐城は下りになる。磐城は東京と結びつき原町を基点として仙台に結びついている。仙台の方に二つの新しい駅ができたのもそのためである。仙台へ向かうとき例えば「浜吉田」で月見草の俳句を作ったがこれも常磐線の背景を知らないと鑑賞できない、それは江戸時代の俳句がその背景を読まないと鑑賞できないと同じである。そしてこの背景を読むことが江戸時代はむずかしいから鑑賞もむずかしくなる。街道がどういう働きをしていたか今になるとりかいするのがむずかしいからだ。ともかく自分にとって旅は鉄道が主であったから鉄道の旅は人生そのものですらあった。これほど鉄道に思い入れが強いのが自分だった。つまり老人になれば何に思い入れが強かったかでてくる。会社で一生働いた人はやはり会社に思い入れが強くなっていたのだ。だから会社から離れることは人生そのものを否定されるようにさえ思う人もでてくるのは当然である。会社に骨を埋めるとまでなっていたからだ。まちがっていてもカルト宗教団体に一生費やした人もそうなってしまう。だからその価値を否定されたくないとなる。旅に一生を費やしたものは旅に人生を終わるのがいいとなる。回想の旅は今や延々とつつくのである。

2009年04月13日

二本松の桜(霞城の桜)

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本丸を四方に望み花の昼

春暑し本丸上る人の波

夕日さし松に桜や霞城

春の山かなたは相馬洗心亭

城の内日影の井戸や落椿

安達太良の連なる山々春の夕

夕風に落椿あまた城の内

霞城松に桜に夕日かな

三三五五花見絶えじや夕日かな

十万石城に映えにし桜かな

小浜城訪ぬ人あれ夕桜



阿武隈の山中深くいでて見ゆ城に映ゆ桜安達太良望む

二本松相馬を結ぶ道ありて城に桜や春日入るかな

津島より二本松への道のり遠しバスに揺られて春の日行きぬ

合戦の枝垂桜や阿武隈の山中深く古りにけるかな

夕風に城の桜の騒ぐとも松は静かに白壁に映ゆ

春うらら二本松は遠くともその道のりに桜咲きつぐ

二本松へ桜咲きつぐ道のりやバスに揺られて遅くともよし

満開の桜に映えゆ百輪の椿は風にゆすらる夕べ

本丸の石垣の反り厳しかな春の陽眩し安達太良に没る

本丸に我が上りつつ安達太良をまじかに仰ぎ春の日の没る

夕風に桜騒ぎて二本松少年隊の急ぎ散るかな

                      (小浜城)

小浜城興亡ありて埋もるかな過ぎゆくしばし春の夕暮

二本松田村相馬とせめぎ合う小浜城跡春日入るかな

小浜城政宗ここに一時を城主とあれや桜咲き散る

小浜城戦乱の日々あわれかな変わる城主や花咲き散りぬ


二本松までの道のりは長かった。一時間半以上かかった。くねくねした山の道を行き、桜がどこまでも咲いていた。もっとゆっくりでも良かった。バイクとかでもただ飛ばすだけである。ゆっくりと見る時間が必要である。でも今の時代バスは遅いのだろう。バスはすでにスピ-ド時代にあわなくなっている。もしかしたら津島からのバスもなくなるのかもしれない、あそこも四五人だけではやっていけないだろう。二本松に着いたのは三時過ぎだった。まもなく夕暮れになった。安達太良山という山はない、安達太良連峰であり一つ一つの山の連なりを安達太良なのである。安達太良を背景にして二本松の城は映える。やはり桜の時期が一番映える。途中の小浜城も城であり若い政宗がここの城主となった。田村や相馬や会津まで加わりせめぎ合いの場となった。最後は会津の蒲生氏郷が治めたという、この城をめぐって興亡があった。今回の二本松は夕べになり風が吹き満開の桜をゆすった。桜は咲いたら散っている。静心なく花の散るらむ・・である。静に咲いている暇がないのが桜なのだ。そのように急ぎ散ったのが二本松少年隊であり戦争で死んだ学徒とか特攻隊であった。やはり゛桜は日本を象徴する花である。写真はいいのがとれなかった。前にとったのでいいのがあった。自分でもこれをどこからとったのか覚えていない、でも構図としては決まっている。こういうふうに一部ではない全体をとる写真はむずかしい。去年きたときはすでに桜は散っていた。桜は散る時もまたいいからう一回行ってもいい、二本松の桜はやはり福島県では一番いいような気がする。

2009年07月31日

塔寺(会津から新潟(小出)へ)

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大川や夕蝉ひびく川向い

会津でて塔寺よりか越後へと街道行くや秋の陽没りぬ

会津なる塔寺おりてあわれなる秋の日ざしに豆を打つ人

塔寺より西会津へと向かう道さらに遠きや秋深まりぬ

魚野川の夕べ岸辺に待宵草一両の列車只見より来る

小出−魚野川
http://www6.ocn.ne.jp/~yasuei/turi.html

福島県の浜通りには大きな川は高瀬川くらいだろう。会津方面や新潟には大きな川がある。水量も豊かである。只見から新潟へでる電車には何回かのった。只見から夕べやっと一両の車両がのこのこと小出までやってくる。月見草より待宵草があっていた。川の岸辺に咲いて只見から来る電車を待っている。ここで路線は交わるからそうでもないが鉄橋をわたりやっとやってくる一両の電車は印象的なのだ。
只見は遠いし会津はさらに遠い、あの辺も相当に山深い広い地域である。日本は狭いというけど福島県だってここを歩くなり自転車でも相当広い、特に会津は奥深いからすべての道を行くことはできない、西会津は新潟まで高速バスで行った時通った。会津という土地は山におおわれているからわかりにくいのだ。結局わからずじまいになったのがかなりある。人間は近辺の地理を知るだけでも相当な時間が必要である。相馬藩内でもそうでありこれが会津になると2000メ−トル級の山がひしめいているのだからわかりにくい、電車で行っただけではわからない、一二回自転車で行ってもわかりにくい、その会津を只見から新潟の小出へでる地帯も広い、そして魚野川は印象的な川になる。ここにも二回三回行った。電車で行くとここで泊まることになるからだ。その岸辺でテントを張った記憶もある。そこで川向いから夕べ蝉の声がひびいていたのが記憶に残ったのだ。塔寺というのも情緒ある駅名である。そうした駅名は記憶される。

地形的にも広々と開けた会津盆地が終わり、これから越後や上州に向けての山間の隘路に差しかかろうかというところ、旅人の多くはこの宿で旅装を解いたであろう
http://magok.cool.ne.jp/todera.html

塔寺
http://www.pref.fukushima.jp/aizu/kensetsu/tiiki-fureai/genki/akarutouderasennwoiku/2_9_1.htm

インタ−ネットにでているものはリンクを張ると共同制作になる。そこがどういう場所だったかはあとで調べられるので便利である。

2010年02月13日

相馬より会津へ (白河街道-詩と文)

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東北でも地理的感覚は平面地図のようにならない、距離感覚でも違っている。
地理の感覚は地図どおりにはならない、それは現しようがない、これも一つの
コンピュタ-ソフトでアレンジして偶然にできたがこれも地理感覚の表現である。


相馬より会津へ (白河街道-詩と文)

 


太平洋望む浜通り
阿武隈山地のさえぎりて
中通りに出て会津は遠しも
歴史を秘めて雪に埋もれぬ


七層の黒川城の威容かな
奥深き会津山国の城
歴史はここに積み重なり
代々の藩主はここに眠りぬ

その奔騰する川の流れや
迫る峰々隆々として険し
断崖絶壁にひびきわたれり
鬼百合こそここに熱く燃えて咲け


会津に入り福良の蔵の宿
茅葺きの家並み残り菖蒲咲き
猪苗代湖波うちひびきあわれ
境の松の枝の長々と垂れにける


関所もあれ勢至峠や秋の一部落
殿様清水にその名残や偲ぶ
一面に月見草咲き家まれに
道は郡山へつづきけるかな


遥なり残雪の飯豊連峰
桐の花咲き雨しとと墓所ぬれぬ
藍色の猪苗代湖に秀峰磐梯山
我が望みつ相馬に去りぬれ


阿武隈山地を我が越え行けば
太平洋の海の風そよぎ涼しも
船も行くかな松島牡鹿半島へ
伊達政宗は海を望み想いは外国(とつくに)へ


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蒲生氏郷が最初に築いたという黒川城は七層の黒い城だった。あとで江戸城の城をまねて白壁の城になった。最初の七層の城の方が山国、雪国ににあう威容のある城だった。七層となると今より高いからそうなるし黒いということがいかにも奥深い山国に来た感じになる。
勢至峠から福良で蔵の宿に泊まったことがある。猪苗代湖の岸辺の道を行きそこに松の枝が長々と垂れていてそれは境の松でありいかにもふさわしい松である。今は会津に行くのに福良の方をまわる人はいない、だからこちらは取り残されたようになっている。ただ昔を偲び旅をするのにはこっちがいいとなる。秋の日磐梯山の山影がここに伸びてくる。その時まだ宿場町にふさわしく茅葺きの家が通りに何軒かあったものさびた町である。昔を偲ぶにはこの街道を行かないとわからない、秀吉もこの道を行き会津若松に出た。
自転車で行ったから延々とつづく街道の記憶が残りこうして詩に書ける。福島県の地理は浜通り、中通り、会津と別れている。浜通りからすると会津はかなり遠い、それはまず阿武隈山地が障壁となってさえぎるからである。まず中通りまで出るのが容易ではない、中通りから出てまた遠い、電車で行くと岩沼から郡山に出て会津になるがこれも乗り換えがあるからめんどうになる。それより昔はどうしても阿武隈山地を越えないと会津には行けないからその行程は遠いのである。阿武隈山地と中通りでは気候もかなり違う、福島市は盆地であり冬は寒く夏は蒸し風呂のようになる。それがはっきりはわかるのは阿武隈山地を越えてゆくとき涼しい風が太平洋から吹いてきたときだった。自転車だから歩いて坂を越えるから特にその風には救われた感じがした。涼風は太平洋から吹いてくる。ここで気候が変わるのだ。
浜通りと会津はこのように隔絶されているのだ。だから地理的には宮城県までの海沿いを通じて塩釜や松島、牡鹿半島に結びつくのである。相馬藩にいかに宮城県関係の神々が勧請されていたことでもわかる。館腰という駅名があるがあれも神社であり相馬にもあった。宮城県のそうした神社に相馬からお参りに行っていた。山神も多いが小牛田神もそうである。船で塩釜の寒風沢に行き来した記録も残っている。金華山の碑もある。会津の方からそうした神々はもちこまれない、それだけ交流が少なかったのである。ただ木こりとか茅葺きの屋根葺きとか出稼ぎで来ていて住み着いた人も記録として残っている。やはり会津藩との交流は地理的に隔絶されているから少ないのである。
人間はやはり自分の住んでいる地点がコンパスの中心になる。自分の住んでいる場所から世界をみる、相馬から磐城、中通り、会津、宮城県の仙台、塩釜、松島・・・と見るのである。それでもこれだけの視野をもつこと自体、江戸時代だったらむずかしいことになる。庶民は会津などに行くこともない、宮城県にはお参りで行っても会津までは行かない、だからその地理感覚は狭いのである。もちろん伊達政宗のようにスペインまでその視野を拡大化したことはあった。東北では例外的なことだった。これだけ交通が発達しても日本は山国だからその地理がわかりにくいのだ。会津は特に山国だからわかりにくい、峠また峠である。山が障壁となり閉ざされた国が大和(やまと)の国なのである。

猪苗代湖や会津街道の御前桜などの詩
http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm

2010年02月17日

福島県の東風(こち)について

福島県(浜通り)の東風(こち)について
 

昨日は北風吹きて

今日は東風(こち)吹く

光明るく今日は春北風(はるきた)吹く

東風はかなた海より吹く

東風は海に誘う風

しかし山越えて東風は

丸森や阿武隈山地に吹くも

はるか会津には海よりの風は吹かじ

蒲生氏郷は会津の山に閉ざされ死す

山国の人となりて死す

東風は浜通りでは海より吹く風

広々と海に向かって春は開ける

東風で有名な歌は
東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな 菅原道真

「東風(こち)とは漁師ことばで春一番の前に「ふっ」と吹く風の事を」言うとか。
 いずれにしても、道真公が使った言葉なのだから、彼の生きた当時にはあった言葉、あるいは、彼の生きた地域(それとも宮中?)では使われていた言葉であることは間違いない。
 漁師の言葉だとして、それをも道真は知っていたのか、それとも、元来は漁師らの言葉であっても、教養ある人も使うような言葉として流通していたのか。

http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2005/03/post_9.html
この説は漁師らの言葉にするには不自然である。何故なら京都も盆地であり海から遠いのである。だから日常的に漁師と接することがないからこの説は納得できないのである。ただすでに東風をコチと呼んでいた。京都には東山があり東山となると感覚的にここでは海から吹いてくる風になる。海がないところでは東の山から吹いてくることになる。海に面した地域ではそもそも東山がないからその感覚がわかりにくいのである。ましてや風は本当にわかりにくい、風向きが常に変わっているし一度旅したくらいでは体験できないからである。)「コチ(此地)へ来よと春風を招く心から名づけたものか」という説がもっともらしい。早く春の風がこっちに吹いてきてほしいからなづけたのかもしれない、これは海が見える所でなづけたのとも違う。


「大伴家持が任地越中で、越中ではコチ(東風)の語がないことも珍しく思ったらしく「東の風越の俗の語に東の風をあゆのかぜと謂ふ」と言い、次の和歌を示してくれている

 東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣する小舟(おぶね)漕ぎ隠る見ゆ


越中では東風をあゆのかぜと言っていた。全く違った言葉だった。風に関しては方言がありその土地に独特に吹く風があった。南風がハエというのも全然違っている。東風(こち)は山国で吹いてくる風である。その感覚は山国に四方が山で囲まれている地域に住んでいないとわからないのだ。さらに海に面していても日本海と太平洋は表と裏でありこれも全く違っているのだ。太平洋から東から太陽が昇るのと日本海に沈むのとはあまりにも感覚的に違っているのである。あゆのかぜ、東風がどういうふうに吹いてくるのかもわかりにくいのだ。

御蔵島の風
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mabuta/progra-m/fl-wind.htm

ここでとりあげている風は島は風向きによって上陸が決められるから風は日常的に知っている必要がある。島とか漁師は風を体で知っている必要があった。
浜通りだと

東風(こち)吹くや海より奥へふきそよぐ

東風(こち)吹くや海より山へ吹きそよぐ

峠越え東風吹き来るや海に出む

東風は海より山に吹いてゆく、丸森だと峠を越えて吹いてきた東風もある。この時京都などよりこの風は太平洋から吹いてきた風だと意識した。おそらく丸森の人も海を意識するだろう。ところが京都とか会津では海を意識することはない、できないのだ。 丸森だったら「峠越え東風吹き来るや海に出む」と意識する。丸森は阿武隈川でも狭隘な谷間から流れて広々として太平洋にそそぐことをすでに意識する、海を意識するのだ。川からも海を意識する。伊達政宗の初陣の地が丸森であり自ら名づけた地が

筆甫である。相馬に出て初めて海を意識したともある。丸森では海を意識する。

京都とか会津は海を意識できない、もちろん仙台の青葉城は太平洋さえ望めるのだから海を意識する。伊達政宗がさらに要塞として瑞巌寺を海のすぐ側に配置したことでもわかる。日本は地理が複雑だから風にしても多様だしそれが簡単に肌ではわからない、地域的なものは風土はわかりにくいのだ。
  限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風  蒲生氏郷

氏郷を相馬に想う冬の日にはだかる山や会津にうもれぬ


この山風も山に閉ざされた会津で生涯を終えたことから感じねばならない山風である。海に面していれば春の風は海からそよぐ東風になるが山国では違っている。日本では海に囲まれていても山彦-海彦の世界が別世界になっているから文化的にも理解することがむずかしいのである。


東風(こち)の地名
 
   北海道松前郡   松前町 東風泊(やませどまり)
   青森県西津軽郡  深浦町  東風股沢(ひがしかぜまたさわ)
   宮城県牡鹿郡   女川町尾浦 東風浜(こつはま)
   山形県酒田市   北俣 東風当田(だしあてだ)
   茨城県那珂市   東風谷(こぢや)
   千葉県富津市   東風谷(こちゃやつ)東風谷田(こちややつだ)
   千葉県山武郡   芝山町 東風山(こちやま)
   長野県伊那市   東風巻谷(ひがしかざまきだに)
   愛知県知多郡   南知多町内海 東風畑(とうふうばた)
   山口県下松市   東風浦(こちうら)
   山口県周南市   東風石(とうふうせき)
   香川県三豊市   詫間町粟島 東風浜(こちはま)西東風浜(にしこちはま)
   愛媛県八幡浜市  東風脇(こちわき)
   愛媛県越智郡   上島町 東風浜(こちはま)
   大分県佐伯市   東風隠(こちがくれ)
   長崎県対馬市   東風防島(こちぼうじま)東風泊(こちどまり)
  東風泊鼻(こちどまりはな)東風泊湾(こちどまりわん)
   熊本県上天草市  東風留(こちどまり)
   鹿児島県鹿児島郡 三島村 東風泊(こちとまり)
   沖縄県島尻郡   八重瀬町 東風平(こちんだ)
http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/54348075.html

東風をヤマセとしているのは山から吹いてくるからだろう。北海道の松前だとそうなる。
 千葉県富津市   東風谷(こちゃやつ)となっているきはやはりこちゃとはこちがなまったものでありコチが基本としてある。これは漁師言葉なのか、京都でなぜこの言葉が一般化したのか?漁師言葉だとすると瀬戸内海とかで使われた言葉が京都に入り一般化したのかもしれない、ただ地名としてはここで瀬戸内海は出ていないから不明である。言葉は大和言葉は奈良京都を中心にして広がっている。沖縄とか青森に平安時代の言葉、京都の言葉の尊敬語が残っている。そんな遠い地域に古語が残されていた。こちも京都辺りから遠い地域に広がった言葉なのか?越中であゆのかぜと東風を言っていたのは東風に代わる地名もあるだろう。東風(こち)というとき京都で使っていた言葉が一番古いと考えてしまう。
 


 

2010年03月04日

夏の旅短歌十首(奥会津)

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     夏の旅短歌十首(奥会津)

 
木陰なす樹影の深く奥会津杉の林に隠さる村かな

奥会津古沼にあわれ菖蒲咲き訪ねる人の心にしみなむ

奥会津倒れし墓や鬼百合の咲きて暑き陽山間に没る

十数輪鬼百合咲きていづこかな会津の村々巡り来たりぬ

断崖に激流ひびく奥会津鬼百合咲きて旅路ゆくかな

夏の日に尾瀬より流る水清し揚羽とまりて旅路つづきぬ

夏の日に聳え鋭し蒲生岳つばめの飛びて我が仰ぎさる

夏の日に会津の峰々競いつつ聳えけるかな清水手に飲む

はるけくも会津の境我が越えて越後に入りぬ夏の夕暮

小出にて只見を思う遠きかな夏の夕べの魚野川の岸


会津は尾瀬があり二三回自転車で旅しているけどどこをどういったのかもわからなくなった。山が多く坂が多いからふりかえるとその道のりがわからない、でも自転車とかで行った旅は体で記憶していることがある。それであとでどこだかわからないにしろふりかえり創作する。小出については書いたが小出からは必ず只見を思う、只見からさらに会津若松や喜多方は遠くなるのだ。実際その距離は遠いのである。ともかく本当に旅することは今は相当に演出しないとできない、無理やり不便な旅をしないと便利すぎるから旅にならないのだ。だからかえって時間もかかるし金もかかったりするのだ。何より自由な時間ないとできない、つくづく今旅ができなくなっていかに自由な旅をすることがぜいたくなことかわかった。普通の人は自由な旅はできない、わずかな暇をみて休養するだけだからだ。会社を一週間など休むことできないからだ。それだけ自由な旅をすることはぜいたくなことだったのである。でもこうした自由な旅をしないかぎり会津も広いから会津の地理もわからない、もし地理をわかろうとしたらこうした不便な旅をする、坂を越え坂を越えて旅するとある程度わかる。でも旅が終わって回想してみるとどこをどういったのかわからなくなっているのだ。車などだと余計にわからなくなる。それだけ旅したことを記憶することはむずかしいのである。
 

2010年04月17日

二本松の城の桜(2)短歌十首

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 二本松の城の桜(2)短歌十首

小浜城その跡に咲く桜かな夜に束の間よりて去りにき

二本松へ花咲きつぎぬ道のりの遠しも城を目指し行くかも

二本松残れる花のなお散りぬ相馬より来て夕陽さすかも

相馬より二本松に来てなお散りぬ花を惜しむやあわれなるかな

相馬より二本松遠し花のなお残り咲けるを我が惜しむかも

二本松朝の桜に残雪の安達太良映ゆる城門を入る

二本松花こそ散らめ安達太良に残雪光り風騒ぐかも

残雪の安達太良まじか百輪の椿のゆるる夕べの風に

二本松夕風吹きぬ旅人の急ぎ帰るや花も散るらむ

二本松一夜泊まりぬここに散る花に心の騒ぎけるかも

巻淵に水渦まきて桜咲く朝日のさして我がよりさりぬ


二本松の霞城には何回も行っている。あそこの城は見物である。桜の時期も自転車で二三回相馬から行ったから遠かった。一回は満開のときでありもう一回は城に着いたら桜は散っていた。でも余花でありそれが風情があった。この風情は情緒は相馬からわざわざ自転車で来た時生まれたのである。これが電車だとか車だと生まれにくい、はるかに来たとなると歩くとか自転車くらいでないと旅の感じがでないのだ。だから旅人は今になると二本松まで車で来るのは簡単だが本当に江戸時代の感覚で二本松まで来た感覚は味わえない、その喜びは大きかった。あの絶頂の城の本丸に上って四方を眺めたとき、相馬藩は山の彼方に隠れて見えない、相当に遠い感覚になるのだ。

記憶からすると着いたときが夕べであり風が吹いていた。残雪の阿武隈を仰ぎ夕風が吹いていた。それを体で覚えていた。それでまた思い出して短歌の連作を書いた。こうした短歌もやはり相馬からはるばる来たということで情緒が生まれているのだ。これも昔の相馬と二本松の街道を来るべきであり岩沼回りの鉄道だとそうした情緒が生まれないのである。
途中小浜城がありこれは暗くなり夜になってついた。そこでちょっとの間寄った。暗い道を進んで二本松にようやくついた。もう一回は夕べについた。花は大方散っていたが余花がなおわずかに散っていたのである。これも情緒あるものだった。帰りは巻淵というところが阿武隈川にあった。?ここがどこかわからない、淵が巻いている、水が確かにうづまいている大きな淵でありそこにも桜が咲いていたのである。随分桜の短歌を作ったからこれらをまとめれば連作として作品化できる。西行も桜の歌人になったのは当然だった。それほど桜は日本を象徴する花だったからである。

二本松の桜(1)
http://musubu.sblo.jp/article/28451498.html

2010年06月18日

四倉の詩(四倉の魅力)

四倉の詩(四倉の魅力)

四倉や磐城へと 砂浜広く
波うちよせて 浜風吹きぬ
港には大漁の旗ひるがえり
海の男の心意気、波そ高鳴る


浜街道残りし三本の松影涼し
海の近きやよする白波
草深く埋もれし墓のあわれ
四倉駅の日陰に電車待つかな


昔銅山に働く人や線路あり
ここに集まり埋もれ墓かな
江戸時代よりの人もあれ
一族ここに埋もれけるかな


浜の風さらに吹きぬれ
海広く心も広くなりぬれ
遠き海に船の見えつつ
浜風そよぎ電車は去りぬ



ある市町村がいいというとき、第一に自然条件に左右されているのだ。四倉もそうだった。あれだけの広い砂浜はなくなっている。みんな防波堤になっているからだ。そしてその広い海に接して六号線があり常磐線があり海の街となっている。海の風や波の音がひびいてくる距離にある。浜通りと言っても街から宇はまでは遠いところが多いのだ。広い砂浜もない。まさに浜街道を象徴していたのが四倉だった。昔の名残りの松並木の三本の松が残っていたのも歴史を示しているからいい。海に面していても街が巨大だと自然の良さは失われる。四倉はまだ小さな町である。騒がしくなく静かでもある。不思議だったのは夏草におおわれた墓地が駅の近くにあり墓地に興味をもっていたから何かまだ墓地が目立つような土地柄でもあった。墓などいらないというのもあるが墓はやはり街を構成するものである。先祖が街の中に一緒に生活している感じになるのが墓地である。先祖の墓が生きている人を見ているという感じになる。

四倉には八茎銅山があった。ここは江戸時代からのものであり加賀国から一族が移住して死んだ墓石が残っているとインタ-ネットで発見した。
http://loveiwaki.cocolog-nifty.com/duketogo/2007/02/post_f57a.html


墓のことを相馬藩内でいろいろ書いてきたが墓で江戸時代のものが残っていれば価値がある。明治以降だと興味が薄れるのだ。

電車待つホ-ムの近く草深く墓地のありしや四倉の駅
墓地はやはりそれなりに過去を意識させるのだ。現代だけをみるのではない過去も現代の中にあるべきである。ただ墓でも南無阿弥陀仏とかだけになるとみな同じでつまらないと感じる場合がある。家の歴史や個人の歴史が無視されるかもしれない、家の否定が宗教にあったからやむをえないという面はあった。
海の街で一番印象的なのは函館である。両側は海になっていて波がよせてくるような地形は世界でもめずらしいだろう。函館はだから特別であり地形が街を作ったのである。他にも街の中に自然が溶け込んでいる都市は魅力がある。盛岡は岩手山が常に真正面に聳え北上川と中津川が街中を流れている。街の中に川が生きている。街の脇を流れているのではない、街中を中心を川が流れて街が形成されているのだ。仙台も広瀬川があるが街中を流れているという感じがしない、盛岡は二つの川が街中を流れとけこんでいるのだ。これも自然が活きている都市だから魅力がある。やはり自然が魅力を形成するのであり人工物ではない、そして水の流れている、水辺の所は特に夏になると涼しくて気持ちいいのである。水が風を涼しくすることもあり気持ちいいのである。庭でも水がある庭は涼しくなるのだ。
いづれにしろ浜通りと言っても海と一体化した街は四倉くらいしかない、街に絶えず海の風と波の音がひびいている街はないのだ。四倉は自然条件に恵まれてそうなった。あとは太平洋岸が単調なのである。

2010年06月22日

磐城市四倉(抽象画)

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磐城市の四倉を詩で書いたけど抽象画にしてみた。イメ-ジとして大きな砂浜と白い波が四倉の特徴だった。だからまず白い波の部分がイメ-ジとして浮かび上がる。あとは色の効果をだすだけである。いろいろいじってみた結果、グラスができた。
最近津軽ビィドロがなどガラスの花瓶を買ったけど夏はガラスの花瓶が涼しくていいと思った。

抽象画も第二芸術にしろ自分なりに絵を楽しめる、これは絵の才能がなくても技術的に規則的に加工しているだけである。それでも絵の感じになるからやっている。この抽象画には無限の変化を作り出せるから不思議である。機械的にやっているのだから同じものができても不思議ではないが同じものではない、みな違っているから創作なのである。

2010年06月28日

照葉樹林の波立海岸


照葉樹林の波立海岸


 

波立海岸の岸壁に

照葉樹林の名残り

光が燦として明るい

岩礁に白波砕け

鴎がよぎり飛び

はるか沖に白波がたち

航行する船が見える

その岩陰の日陰に休む

礒の穴には小魚が隠れ

はるか沖から涼しい風

一面に砂浜にハマヒルガオ

燦々として光が明るい

眩しい陽光は南国の光

照葉樹林に照らす光

珊瑚礁もここに根付き

黒潮にのり小さな熱帯魚も来る

磐城は古代の常陸に隣接して

いち早く開かれた地域

今も東京に一番近い

ここに南国の燦然とした光に欲して

太古の巨大な生き物の夢を見る

海は山深く入りアンモナイトが眠る

夏の日波が岩礁にしぶき洗う

若き女性のスカ-トが海風にそよぐ

磐城は福島県の湘南とか

唯一南国の海を連想する

海の幸に恵まれて古代からも

のんびりと暮らしていたのか

燦然と明るい光がそそぐ

照葉樹林の花々が咲き開く

大きな美しい蝶が飛来して休む

ここにはるか南の国を連想する


 

2010年07月13日

イワキの海竜(詩)

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 イワキの海竜

 

大海の潮を切って進む海竜はまことか

イワキの夏の海は岩礁に飛沫をあげる

千変万化の神の姿を見よ

黒潮にのり鮮やかな熱帯魚も泳ぎ来る

珊瑚礁もここに根づきてイワキの海

照葉樹林の葉がつややかに夏の日に映える

車輪梅はさらに北上して相馬へと根づく

海竜は大海から飛沫をあげて顔を出す

泳ぐスピ-ドは驚異的にして我が物顔の海の王者

大海ありてこそ生まれしものよ

その海にふさわしき爽快なる生き物よ

雄大なる日よ、地球創生の時の大景観

その大いなる命よ、我等は今知らじ

大海と大空の中に長い海竜の首が伸びる

その回りにイルカがカツオが飛び魚が泳ぎ飛びはねる

その巨体は大海にマッチして神の業を示す

夏の日、大海に生きるものよ、風ははるか沖から吹く

自然は一つの大いなる詩、尽きざる詩なり

海と大地と森と川と織りなす詩なり

山深く堆積したアンモナイトが太古の夢を見て眠っている

深い海底の静寂がそこにある

文明は誇れるものや神の驚異の業を見よ

なお未知の大海ははるかに知れず広がっている

汝はさらに遠くへ天来の翼もて天翔るべし

この世を生きるはただ夢にしすぎじ

ならば大いなる夢を神の夢を見つつ死ぬべし

神の広大な領域を飛び駆け抜けるべし

大海の潮を切って進む海竜はまことか

そは一瞬の神の快挙として消え去りぬ


 

2010年07月18日

四倉(抽象画)

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四倉の写真出ていたけどこれは著作権違反になるかもしれない、原画を加工するなと書いてあるサイトもあるからだ。でも二番目になるとわかりにくいだろう。この写真は一見平凡なのだが
意外と白波の感じをこのようにとれない、油絵のようにも見えた。
四倉は砂浜が広く白波が広くよせる。一つの原画からいくつもの抽象画ができるのだ。

著作権が指摘されたら消す、でもこの写真はどこにでもあるようなのだけど・・・
 
 
 

2011年01月07日

遠い記憶の町(詩ー棚倉町)

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遠い記憶の町



北風が唸り吹く

一人冬籠もる日々

我が旅して

訪れた街や村を想う

数えきれない街や村

しかし記憶から消えていた

一つの町を思い出した

山々に囲まれた町

そんな町があったのだろうか?

心の中で化石のようなってしまった町

そこも歴史がある古い町

でも奥の細道からもはずれた町

閑却されやすい場所の町

冬は深まり我が年も古りぬ

並べては遠い記憶となり

不夜城の大都会を離れ

化石のように眠るもよし

北風が家を揺すり吹く音

最後に思い出だけが宝となる

棚倉町を冬に思う


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棚倉町を冬に思う

 


棚倉のともしびあわれ秋の夜や会津より来て我は泊まりぬ


都々古別神社の古りぬ水戸へ行く街道見つつ秋の夕暮


郡山は繁華なれども棚倉は目立たざるかな秋の夕暮


都々古別神社の杉の古りにしや何を見ゆべき秋の夕暮


棚倉に城跡ありて一国や何を語らむ秋の夕暮


棚倉に旅路によりし一日かなその日も遠く冬にし思ふ


冬籠もりふりかえるかな我が旅路棚倉によるは遠き日となる


一度のみ水郡線我が乗るやその日も遠く冬深まりぬ

 

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棚倉町は古代から道が通っていた。だからこそ古い都々古別神社(つつこわけ)神社がある。 久慈川をさかのぼってくると山々の狭間になり棚倉の地域で広い平野にぬける。ここを突破すれば広い中通りの平野に出ていけるのだ。そこでここに蝦夷の一群が集結した。


棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という



でも棚倉町は福島県でもなじみがない、それはなぜなのか?白河はみちのくの入り口として記憶される。その東北の街道にそって芭蕉の奥の細道で須賀川や二本松や福島市とかは記憶されやすい、新幹線になると本当に大きな市にしかとまらないから途中は記憶されなくなる。
ただ水沢江刺.沢駅が記録されたのは新幹線が停まる駅というだけだった。それまで水沢のことは記憶しにくい、人間は明治以降は道にそって街道にそって村や町を記憶するのではない、鉄道に沿って記憶するようになった。だから鉄道が通らない停まらない町は閑却されやすいのだ。
郡山は古代から道の要所だった。それで『安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに』という国司を饗応する采女の歌が残った。この采女は饗応することに慣れた女性でありだからこの歌は特別なものではなく采女などがみんな知っていたものであり特定の人が作ったものではなかった。安積山も郡山にある安積山とは限らない、紫香楽宮からこの歌の木簡が発見されたことでもわかったようにみんな手習いとして暗唱されていたものであった。郡山宿は江戸時代でも飯盛女がいて繁華な町であり古代からのそうした延長上にあった。そういう地理にあり今もあるのだ。


古代の道は川でもあったから久慈川にそって溯り棚倉に出たということが地理的にわかる。でも現代になるとそうした川とかの自然地形ではない、人工的な鉄道が道となるから棚倉はその道からはずれてしまったから閑却される町となったのだ。そもそも福島県は北海道-岩手県-福島県であり広大な領域であり知らない市町村があって不思議でもない、全部回ることはできない、ここは自転車で会津から来てテントで一夜泊まったことがありその記憶が蘇り今書いている。人間はつくづく歴史が地理だというとき地理がもっとも理解しにくい、日本の地形は山が多くて理解しにくい、だから近くでも一山越えれば隠里のようになってしまう。棚倉は確かにそういう地域だった。


猪苗代湖でも鉄道の通るところは意識されやすいが昔の白河街道は忘れられている。そこに福良宿(湖南町)があり昔の面影が残る。地理は実際に近くでもわかりにくい、日本では山が多いからそこに例え実際に足を運んでも時間がたつとそんなところどこにあったのかとなる。それはまさに隠里を訪れたと同じである。夢のように記憶から消え去るのだ。ただ東北の幹線道路であり新幹線が通るところは日常の道となっているからその沿線は記憶されやすいがそこから一旦はずれると記憶しにくくなる。棚倉もたまたま自転車で行ったことがあるからこそ思い出すことができたのである。でも不思議なのは確かに会津から来たがそこからどの方向へ行ったか良く記憶していない、人間はともかく忘れやすいのである。ただ都々古別神社に立ちそこから水戸への街道が通じていたのでここからは水戸が常陸が近いと実感したのである。


水郡線も一度だけのって水戸まで行ったがこれもほとんど記憶していない、駅名も記憶していない、鉄道も一回くらい乗ったのでは記憶しにくいのだ。現代は便利だから意外と記憶する旅ができない、通りすぎる旅になってしまうのである。旅をふりかえると本当にそんな街を自分が通ったのかどうかも定かでなくなる。人間の記憶はいかにあいまいになり忘れややすいか、でも今や旅ができず思い出す旅を回想の旅をしている。すると思い出せないとてるともうそこは本当にそんな街があったのか村があったのかとなってしまうのだ。人間は余りにも便利になり心に残る記憶に残る旅ができない、浅薄な旅しかできない、それであとで思い出すことができない、旅は事前に計画して実行してそのあとでふりかえることで旅が完成するのだ。そのふりかえるとき記憶されない旅だと思い出せないからそこに行ったかどうかもわからなくなるのである。それが現代の旅の一番大きな問題だった。



遠い記憶の町
http://musubu.sblo.jp/article/42432023.html

2011年01月22日

海竜の謎

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 海竜の謎

ぽか-んと長い首を伸ばして
海竜がはるか大洋のかなたを見ていた
それはいつの日だったのか?
何千万年前といってもな
ぽっかりと雲が浮いているように
何千年も前にぽか-んと
大洋のはるかかなたを見ていた
本当にそんな海竜いたのか?
空想で作られたもんじゃないか
でも化石が発見されたんだからいたんだ
でも化石が骨が本当にいたという証拠になるのか
実際は海竜ははるか大洋のかなたに去り消えた
海竜は竜になって大空に昇ったとか
そんな空想はいくらでも作れる
人間だった本当に存在しているのか
死んだら灰になり骨すらなくなる
生けるものは死ねば消えて空だよ
ぽか-んと長い首を伸ばして遠くを見ていた海竜
大洋は果てしなく広くその中にいつしか消えた
その跡が化石とは限らない
誰も真実はわからないんだよ
何千万年前となるとな・・・・
ぽか-んとして見ているだけで人も死んで消える
なぜあくせくして窮々しているんだろう
果てしない海、空、陸を見てぽか-んとしている
そのうち消えてなくなりどこに行ったかからなくなる
そんなのいたのか、そんな人いたのか
雲をつかむような話しになる
人間じたばたしてもどうにもならない
ぽか-んと果てしない大洋を空を見るのもいい
人間の技などたかがしれているんだよ
神の世界は広大無辺でつかまえられない
だからぽか-んとして見ているのもいい
人間の知恵は神にかなわない
そんなことでそろそろまた寝ることにするか
新年の夢は大きな方がいいぞ
人間はしょせんこの世で一時ぽか-んとしているだけ
何を成すのにも成しえない
成さずしてなるが老子様の教え
今年ものんびりしてやっていきたいけどな・・・



イワキの海竜(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/39607171.html

2011年10月12日

山中節の情緒(旅の思い出)


 

山中節の情緒(旅の思い出)


 



山が高うて山中見えぬ 山中恋し山にくや


谷にゃ水音峰には嵐 あいの山中湯のにおい


「山が赤なる木の葉が落ちるやがて船頭衆がござるやら」にもある通り春から秋にかけて北海道附近に出稼ぎしていた船頭さん達は冬が近づくと家に帰り一年の苦労を癒すためこの山中に来てゆっくり湯治をしたのである。


山中や菊は手折らじ湯の匂ひ 芭蕉


「山中温泉はまことに効験あらたかな温泉である。かの不老長寿の霊薬と伝える山路の菊を手折るまでもなく、湧き出る湯の匂いは菊に劣らず香しく、浴するほどに命の延びる心地がする。



太平洋と日本海の情緒は正反対である。情緒的には日本海側の方がいい。あの情緒は他ではなかなかない情緒である。日本海には何か古い家並みがあり昔のものさびた感じがあった。一方で太平洋な明るさはなく陰気な感じになる。雪国だから余計にそうなる。

山中温泉には行っていないから地理的なことがわかりにくい。そんなに山の中なのかとうことが実感としてわからない。やはり一回行ったところならイメ-ジしやすいし関心をもつ、ただこの辺りの白山郷がありそこには行っているし近くだった。そこは閉ざされた本当に山深い平家落人の里にふさわしい所だった。山中温泉はそんな山奥とも地図で見た限りでは違っている。ただかなり山間を奥に入った場所である。こおろぎ橋などがあり名前としてはいい。でもそこが山中節のように山が高くさえぎっている場所のようにも見えない。ただ日本は山にさえぎられている所が実に多い。山国である。こういう俗謡でもそういうふうになるのが日本の風土である。北前船の船頭がここで湯治した。長く滞在するからそこに恋も生まれた。そういう歴史を感じて泊まるのとただ泊まるのでは違っている。歴史がある場所とない場所では違っている。北前船にまつわる話しはいろいろある。太平洋側にはそうした情緒が不足している。何か人間的なもの情が深いものを感じる。日本海とか越前越中越後はそういう土地柄でもある。
今回原発事故などで新潟県にも浜通りから相当数の避難者を受け入れてくれた。新潟県はそういう情が厚いという面があった。ただ現代は旅の情緒がない、山中温泉に行ったことがない、たまたまテレビで見て知った。ここに芭蕉が長く滞在したのも知った。ここの湯にいやされたのである。でも温泉ホテルが今は意外と情緒がない、そもそも豪華なホテルは保養にはいいが情緒がない、旅人は木賃宿のようなものがにあっている。今はやたらホテルが多い、それで旅の情緒がそがれるのである。旅が自由になりどこでも行ける時代だがかえって本当の旅がなくなったというのも皮肉である。貧しいときの方が旅の情緒があり旅があったし旅人になれたのである。自分は旅がしたかったから豪華なホテルには泊まりたくない、もちろん金もなかったから安宿を探して歩いていた。長く旅しているとやっぱり安宿なのである。その点ヨ-ロッパは旅しやすい、安宿やユ-スホステルで安く泊まれる。年配の人も泊まっている。一方で外人用のホテルは高く豪華なのである。ヨ-ロッパは長旅する人が多いからそうなった。やはり旅にいい時代は戦前であり江戸時代だったのである。豊になりすぎて便利になりすぎて旅が自由になって旅がなくなったというのも皮肉である。豪華ホテルには泊まりたくない、また高すぎるということもある。ふらりと旅して気ままに泊まるホテルではない、だからどうしても今はビジネスホテルに泊まることになった。

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天正8年(1580年)山中温泉の上流真砂の地に、滋賀・福井方面より山づたいに良材を求め移住した工人たちの「ろくろ挽き」が始まりとされております。
 その後、技術・製品ともに川を下り、手工芸品として山中温泉の浴客への土産品として広く生産されるように、1700〜1800年代にかけて工人たちのたゆまぬ努力と創意工夫や全国の名工を招いての技術導


江戸時代後期天保年間(1830〜1844)の蒔絵師 会津屋由蔵(あいづや よしぞう) 弘化年間(1844〜1848)の糸目挽き(いとめびき)名工 蓑屋平兵衛(みのや へいべい) ました。

1830年から1844年(天保年間から弘化年間)には会津の板物師桜田門兵衛が当地へ赴き会津の塗法を伝え、1848年嘉永)には会津の蒔絵師角田東斉によって会津蒔絵法が伝わり、川連漆器に見られる沈金、蒔絵といった装飾の、基盤も大きく築かれていった。



山中漆器で面白いのは会津の漆器が技術指導に最初に来ていたことである。すると会津の漆器は技術的に古く優れていたとなる。相馬焼きも技術指導のために益子焼きには相馬焼きの技術も入っていた。益子焼は笠間焼きからはじまった。焼き物の歴史を調べるとやはり興味深いものがある。浪江の大堀焼きは一体どうなってしまうのだろうか?焼き物は土が大事だとするとその土地に根ざしたものとして生まれた。ただ今は土も他からもってくるものが多いから青ヒビとかの技術は移住先でも残すことはできるのだろう。



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新蕎麦やむぐらの宿の根来椀


根来塗の名称は紀州(和歌山県)の根来寺から来ており、当時僧徒が自分の寺で使うものを作りました。根来塗の歴史は古く、正応元年(1288年)に遡ります。お寺で、僧が日常的に使う為、きれいに塗るというより、使いやすさ、丈夫さに 主眼をおき、黒漆で何回も塗り重ね、最後に一回 朱漆を塗り、仕上がりとしました。


この根来碗で新蕎麦を食べた。その味わいはなんともいえぬものだった。蕪村は食べることにかなり風流を感じて食べていた。江戸時代はともかく土地柄がにじみでるようなものが多かったのである。今はそういう土地柄の産物が喪失した。どこでも何でも手に入るということはみんな規格化した製品になったのである。おみやげが今は一番つまらない、まずいものが多い。名前だけになってしまった。そういう土地の情緒が喪失したのが現代でありそれと同時に旅の情緒も喪失したのである。江戸時代は旅に一番向いた時代であったが旅がしにくい時代でもあった。人間はだから時代によって恵まれたといっても必ず失われたものがありその失われたものは取り戻すことがもはやできないのである。

山が高うて山中見えぬ 山中恋し山にくや


日本はどこでもこういう風土なのである。隣の村も山にさえぎられて閉ざされている。隣の村に行くには峠を越えねばならない、そういう風土である。だから隣の村さえ神秘的になる。一旦去れば山にさえぎられて見えなくなるからだ。そしてし互いに閉ざされた中で暮らしていたのである。それで飯館村だったら大倉村と佐須村は民情が一致しないから合併できないということにもなった。狭い村々で民情が違っていたのである。それは山があるから今のような大きな市はできないのである。


あしひきの 山きへなりて 遠けども 心し行けば 夢に見えけり 大伴家持


山に隔てられている。その山の向こうを常に思っているのが日本の風土である。山がにくいとなるのもそのためである。山さえなければ会えるのになとなる。それで日本はトンネルが多くトンネルの技術も発達したことがつくづくわかるのである。


 

2012年01月24日

途中下車の旅(会津の塔寺駅)


途中下車の旅(会津の塔寺駅)

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千手観音が守っているのは子供だったのだろうか?
確かに下に子供の観音が見える。
ここは気づかない人がいるだろう。



 秋の塔寺駅



塔寺に下りたちあわれ秋の暮

午後の日さして家の前の筵に座り

豆叩く人に道を聞く

一木造り千手観音も古りにしや

子供を守る観音にもありしや

柳津の道ここより通じぬ

その道標も残りけるかな

一時おりたつ塔寺の駅




電車の旅は長い。旅に費やされた人生だった。北海道でも他でも無人駅におりて夏だったら一日寝ていたりぶらりとおりてぶらぶら歩く。そういう旅が旅なのだ。現代では旅することは相当にぜいたくである。時間をかけられないから旅になっていないのだ。それにしても北海道辺りでのんびりといつ来るかわからない電車を待っていた。その電車を待つことが人生だった?ふりかえるとそういうこともありうる。人生にはいろいろある。そんな人生は無駄だと言えば無駄だった。それでも無駄な人生は山ほどあるのではないか?戦争自体無駄だったと言えば無駄になってしまう。それで四百万死んだとなれば誰も無駄だといえないだけである。カルト宗教団体で一生終わる人もいるしパチンコや賭博で一生終わる人もいる。現実そういう人が近くにいて妻が世話しているからそれも恵まれている。もう75になってもそうである。

ともかく人間はいろいろなのである。一般的には会社勤めしてそれが一生になっている。それがすべて有益かとなるとそうともいえない。有益だとか価値あるだとかはなかなか決められない、高度成長時代そんなに働いていいのかという疑問もあったのだ。エコノミックアニマルと世界から言われた時代がなつかしいという時代にさえなった。高度成長時代は終わり斜陽国家となる良く言えば成熟社会になる。成熟社会には若い人より老人が向いている。老人の知恵や経験が生きる社会なのだが一面技術的な面では老人は今や役に立たないとか社会で活かされない無用化してくるから活かせる場がないということで成熟社会になっても老人が活かされないというミスマッチの社会である。でも高齢化社会というのは六十代でも六十代以上の人を相手とする客とする商売がふえる。コンビニでも六十代くらいの人が働いていたけど話ができた。若い人とは話しにくくても同世代だと社交的でなくても話ししやすいことがあるのだ。だから客商売は六十代くらいの働く人が必要になる。ただきつい肉体労働はできない、介護でも話し相手になるとかは向いているのだ。


途中下車してしいい場所とそうでない場所がある。現代はロ-カル線では途中下車しにくい。一旦途中下車したらあとあと半日電車が来ないとか帰れないとかの恐怖がある。二時間おきくらいに電車出ていれば大丈夫だがそうでない地方の路線もある。そうするとどうしても不安になるからだ。その点今は電車で自由な旅がしにくいとなる。車の時代だからそうなってしまった。旅が成功したかどうかはあとでわかる。旅がもし回想して蘇ったら活きた旅をしていたのである。旅でも全く忘れてしまうことが多すぎるのだ。記録に残らない旅は失敗した旅である。そもそも記憶にないということは人間何も存在しないと同じになるのだ。何らかの記憶があって過去をたどることができる。歴史でも何ら記憶になるものが残らなければしりえようがないということである。だから塔寺が途中下車して記憶に残ったから詩にも書けた。塔寺の駅は変わっていた。塔寺を記憶していたのは塔寺から名所の一刀彫の木彫りの仏がある寺が駅から近いことだった。電車の旅では駅から近いところは記憶しやすいのである。駅からおりると筵をしいて家の前で豆がらをたたく人がいた。そこで道を聞いたりしてすぐ近くが木彫りの立木観音のある寺だった。


清水八幡神社は会津の五大社の一つである。
源頼義とその子八幡太郎義家が安倍氏と戦ったとき、義家は眼病を患い、ある夜夢枕に立った神が「お前の弓矢をもって巽(東南)の方に向かって矢を射よ。その矢が落ちた所に神泉があるからその清水で目を洗えば必ず治る、ゆめゆめ疑うな」とのお告げがあり、矢を放って落ちた所に行くと泉の辺りで矢を発見した。その清水で目を洗ったところ、日ましによくなったという言い伝えがある。

http://www.pref.fukushima.jp/aizu/kensetsu/tiiki-fureai/genki/
akarutouderasennwoiku/2_9_1.htm#a1


源義家の伝説は東北の各地にある。その数も実に多い。なぜこんなところにあるのかというほど山奥にもある。なぜそれほど伝説として残ったのか?義経はわかるが源義家についてはもう一つ現実味がないのだ。それでもこれだけ伝説を残したということはみちのくに多大な影響力があった人だったことはまちがいない。ここで眼が悪い人が直ったという清水のことを言っていたが昔から眼を患う人は多かった。だからなんとか眼を直したいという人が多かった。栄養不足が関係していた。いい医者にかかりたくて関所を越えてゆく人の話しとか眼を患い苦しんでいた人が多かった。だからこの伝説は眼が悪い人が直りたいという一心でそういう伝説を作ったのであり別に眼が直ったわけではない、こうした病気が治るという伝説は大半は病気が治りたいという願望が作った伝説なのである。これはヨ-ロッパでも同じだった。病気を直す泉があったり聖人にお祈りしたりしている。病気というのは今でもなんとか直したいということで切実なのである。だから癌になった人が薬がきかないのに効くと言われてだまされたりする。そういうことが今でもつづいているのだ。本当に病気になると人間は弱い、なんとか直したいと藁にもすがる思いになり宗教心ない人も神仏に祈るのである。自分もそうだった。そういう人間の心理は変わっていないのだ。


「その矢が落ちた所に神泉があるからその清水で目を洗えば必ず治る、ゆめゆめ疑うな」・・まさにこのことが如実に語っている。なんとか眼を直したい人がいてどうししてもその泉で直るのかという疑問があるのは当然である。だからこそ疑うなということになる。しかし結局昔は病気は治らない人の方が多数だった。そういう伝説が多いのは人々の切実な願望だからこそ残された。ただそれがどうして源義家伝説と結びつくのか?遠い都から来た人だから何か技術をもっているとか何か霊験をもっているとかそう思われたのだろうか?みちのくという都から遠い地域で暮らす人は当時そう思ったのかもしれない、医者でもない武家でも何か都という所は別世界であり病気も直せるものをもっているとか憧れの気持ちがありそうした伝説が残ったのかもしれない、みちのくにあまりにも源義家の伝説が多すぎるからだ。


ここから越後と柳津の方に道が別れている。柳津は西会津になる。会津は広いから方角がわからなくなる。塔寺辺りも西会津になる。柳津は電車が通っているからまだ行きやすい。でも一回仙台からバスで西会津を通り新潟に出た。その時は電車で行けない温泉地帯を通った。盤越高速道路で行くとやはり西会津町となるからその辺だったのか?その時芒の原が見えた。


西会津芒の原や日の落ちる


奥深く西会津町やその町に行くことなきや命短し


会津は本当に広いから地理を理解することは容易ではない、特に山が多いから余計山にさえぎられて地理がわかりにくいのだ。西会津町というとき相当に奥まった所である。電車で行けないとしたらそこはなかなか行けない場所である。会津は自転車の旅ではきつい、山が多い坂が多いから自転車旅行ではきつい。それでも二回くらい行った。途中でダウンして帰ってきたこともあった。その記憶もあいまいになってしまった。自転車旅行でも旅は記憶されるとは限らない、自転車旅行の弱点は疲れすぎるということだった。疲れるから余裕をもって見れない、ぐったりしてし死ぬように寝るほかない、するとただ運動しているだけの旅にもなる。そういう弱点があった。ただ車がないとしたら自転車で行く他なかったのである。


ともかく途中下車は相当したがただ記憶から消えたのが多い。旅は本当に記憶が大事なのだ。外国旅行は特に記憶から消えやすい。どこに行ったかもわからなくなる。だから写真が貴重であり写真家ら思い出す他なくなることがある。ええ、こんな所に行ったのかと今でも写真見て不思議である。全く記憶していないからである。インタ-ネットはバ-チャルな旅をするのに向いている。写真がでているから回想してこんな所だったとか思い出すのである。


カッコウやここはどこやら途中下車


結局旅は死ぬまで終わらない、途中下車の旅は今度は外国でつづくだろう。特にヨ-ロッパは電車の旅にはいい、でも日本のような途中下車の旅する余裕はなかった。今なら若い人はいくらでもできる。旅は時代ともに変わってゆく、ヨ-ロッパでもこれからはいくらでもそうした旅ができるからそれでいろいろ詩を書いたり物語を書いたりいろいろなことでコミットが深くなってゆく、現代の幸福は冬でも旅できることや外国を旅できることである。外国を旅することは本当にぜいたくである。なぜなら戦前の人や戦後でも団塊の世代でも海外を自由に旅した人は少ない、金がかかりすぎた。だから海外旅行はこれからのテ-マである。若い人が最近海外に旅しないというのは納得がいかない、外国は百聞は一見にしかずという言葉がこれほどあてはまることはなかった。一回ともかく外国の土地を踏んだものと踏まないものとの差は大きすぎるのだ。これはテレビだろうが本だろうが人の話しを直接聞いても実感がもてないから外国は一回でもその地を踏まなければ何もわからない。駆け足でも一回踏んだ所は実感として心に残るからあとで外国について理解が深まるのである。

 


 

2012年01月25日

福島県の奥の細道 (芭蕉は城をさけていた-忍者説の由来)

 

福島県の奥の細道

(芭蕉は城をさけていた-忍者説の由来)

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みちのくへ木蔭の深き
境の明神守りけり
暗き細道たどりつつ
白河の関に卯の花かざし
郡山を過ぎ須賀川へ
花かつみといかなる花や
幻の花を探しつつ
その花の見いだされじや
幽邃なる花にしあれや
隠されし花にしあれや
須賀川に世の人の見つけぬ花
栗の花やゆかしき庵の主
初に聞く奥の田植唄
信夫もちずりの謂われ
一すじ奥の細道つづきけり
曾良と二人の旅人の影
さらに奥へと移りゆくかな
芭蕉の知らじや三春城下
その奥の葛尾村に元禄の碑
時を同じくしても埋もれけり
山深く人の生業のありぬ
安達太良山に粟蒔入道の雪形
民の暮らしのあわれかな


●芭蕉は城を避けていた、忍者説の由来

芭蕉がその感動を「松島やああ松島や松島や」としか詠めなかったと言われる日本三大名所のひとつである松島を、実は芭蕉は素通りしているのです。その代わり仙台藩の重要拠点とされている石巻港などを見物に行っていたことが、河合曾良の記録には記されているのです。


芭蕉のみちのくへの旅は 62万5000石 外様大名
伊達家 仙台藩の動向を探るのが 幕府から与えられた任務であった。 仙台
伊達家は 外様大名であった。


芭蕉のみちのくの旅は 芭蕉十哲の一人 河合曾良( かわいそら)が同行した。
河合曾良( かわいそら)は 情報収集の専門家であった。
http://www.geocities.jp/general_sasaki/bashoh_ninja_ni.html


芭蕉の俳句でも謎が深い、芭蕉のような俳句はその時代が生んだものだとするとき絶対今の時代では作れないから価値が衰えないのである。だから芭蕉の存在や俳句そのものが神秘的なものとなっているのだ。蕪村は現代にも通じる俳句を作っているしわかりやすい。だからこそ子規は写生俳句として蕪村を手本にしたのである。芭蕉はある意味で誰も手本にできない特別の存在である。信長が誰もまねできない天才だったというときそれとにている。誰もまねできないのが芭蕉の芸術だったのである。だからその俳句の価値は衰えないのである。


ここで前から不思議だと思っていたのはなぜ芭蕉には城を俳句にしたものがないのかということである。今だったら常に江戸時代のことなら城に注目する。城が中心になるとして過去を振り返るしその当時も城が中心的存在としてあった。だからこそ「絶頂の城たのもしき若葉かな」ができたし蕪村は現代にも通じている。ところが奥の細道でも白河の小峰城でも二本松の城があったのに注目していないし一言も書いていない。そもそも城の俳句がない、あたかも城を避けて旅した感じなのだ。そこから芭蕉忍者説密偵説が生まれた。現実に仙台だったら伊達政宗の青葉城を意識するはずだが城のことは何も書いていないし松島にも実際は寄っていないという、松島には瑞巌寺がありここは政宗の一つの城の役割を果たしていた。何か伊達政宗を城を避けている感じで符号するのである。報告するために書かなかった、詳しい情報は伝えていたととれるのである。


元禄時代というとき何か華やかな感覚になるのだが芭蕉はそうした華やかなものとは縁がない、江戸時代でもそれなりに栄えて華やかな所はあった。だが芭蕉は隅田川の辺に住んで江戸の華やかさとは縁がない、わび住まいだった。むしろそうした華美なものを嫌ったのかもしれない、ある意味で僧のような禁欲生活をしていたのである。蕪村は花街に出入りするような粋な風流人であるが芭蕉にはそういうことはまるでない、修行者なのである。忍者だったというとき何か忍者とか密偵とかそういうのがあっているからそういう説が出てきた。人目を偲ぶ生活である。旅でも須賀川は実は郡山よりも明治20年までは栄えていたとか商人の街であり栗の花が咲く隠者を訪ねるような所でもない、そもそも隠者でありえるにはのんびり隠居するには商人のように金に余裕がないとできないのである。貧乏人の農民は日夜あくせく働いているのが江戸時代である。須賀川にそうした隠者のような人がいたことは須賀川は商人の街として栄えていたからでありみちのくの貧しい農村地帯ではそういうことはできなかったのである。風流に生きることができるのは贅沢だからという逆説もあったのだ。

いづれにしろなぜまた花かつみのような幻の花を求めるようなことをしていたのか?おそらく江戸より寒い地域には見れない花が咲いていたということがあった。みちのくはまだ未知の世界だった。
北海道には高山に咲いているハクサンチドリが平地に咲いている。檜扇菖蒲も咲いている。宗谷岬への旅ではそのハクサンイチドリが雨にぬれて咲いていた。そういう北へのまだ見ぬ地域での発見があると思っていたのかもしれない、芭蕉が求めたのは本当にわび、さびの世界である。一方蕪村は華やかな美の世界があった。元禄時代というとき奥の細道からはずれているけど三春藩の境に近い葛尾(かつろう)村の落合に元禄の碑があった。明暦と元禄と記された碑は謎である。元禄というとき何か華やかな時代を連想する。あんな山の中にも元禄の碑があったということでめずらしかったのである。


まず今は奥の細道の面影が残っているところは極めて少ない、ただ境の明神のある所は杉木立で道も細く奥の細道に入る面影を残している。あとは白河市から須賀川とかは新幹線の世界であり新幹線が山をロケットのように突き抜けて行く世界では旅情など全く感じないのである。あの辺は歩いても旅情を感じない、車の量も多いし疲れるだけである。

 

2012年05月05日

福島県の桜散る(短歌で綴る) (福島県の広大さ-ハマ-ナカ-アイヅの風土の影響)


福島県の桜散る(短歌で綴る)


(福島県の広大さ-ハマ-ナカ-アイヅの風土の影響)

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熊川の桜



(夜の森)
夜の森の桜を偲ぶあわれかな帰れぬ人もよその桜見ゆ

(大熊)
熊川を下り開ける桜咲き沖に船見ゆ鴎も飛びぬ

(白河)
双葉より白河に逃れ小峰城花散るあとやあわれ深まる

(三春)
優艶に時を惜しみて枝垂れたる滝桜の香りの濃しも

(二本松)
二本松散れる桜のそのあとにたずねてあわれ散り安きかな

(小高)
浮舟城荒れにしあとに桜咲き復興願う小高の人かな

(飯館)
飯館に花は咲きしも人住まず誰かよるべし花もちりゆく

(南相馬市大原-大芦)
墓一つ山の桜も散りゆきぬ誰がたずぬるやあわれ深まる


森の中隠れて花の咲きにしを花散りてしるその桜かな


来て見れば花は散りにき風うなり過ぎ行く時の今年も早きも


故郷を離れ散りじり何思ふよその桜も散りてあわれも


いずこにも桜はさきぬ日本なりそれぞれの思いあわれなるべし


小峰城に避難した双葉の人
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/11/post_2345.html

 


白河にも双葉の人が避難した。会津にも避難した。会津の城をながめ桜を見た。避難者は全国にちらばった。縁故をたどるときそれだけ今は遠くに嫁に行ったりする。もちろん外国まで行っている時代だから昔とは違う。ただ福島県内に避難したというときやはり地元ということがあるのか?
他の県にゆくよりは仲間意識がでる。自治体としてもサ-ビスがあるし情報も入ってくる。他県にゆくと福島県のテレビなどが見られないということがある。インタ-ネットは別である、だから全国にちらばっている人が福島県や浜通りの情報を求めていることがある。自分のプログでもそうである。
こういうときインタ-ネットは役立つ、ただもう一つ情報の活用がうまくいっていない。 福島県といっても実際は広すぎる。浜通りと中通りと会津があるけど会津は一つの別の山国である。会津自体が歴史もあるしその歴史の層も厚い。広大な森に歴代の藩主や会津藩にかかわりある武家の人の菩提がある。



会津武士桜に月や山に散る

秋日さし苔むし重なる菩提かな

歴代の墓の重なり秋の蝉


その中に三人女性の菩提かないかなる女(ひと)やあわれ深まる


奥山を藩主たずねて咲く桜会津知られじ山に月かな


会津は広すぎるのと山が多いしその山も高いから地理がわかりにくいのだ。会津というとき月にしても山に月であり山国の情緒である。この辺は海から月が昇り山に沈むけど山に月を見ることがない、谷間の月も見ることがない、2000メ-トル級の山が重なる会津で奥深い山の峰の間に月が落ちる。
その情緒はこの辺とは全然違っている。


ひんがしの 野にかぎろひの 立つ見えて返り見すれば 月かたぶきぬ 柿本人麻呂


これは山の中で歌われた。しかし海辺だったら海から日が昇る。浜通りではそうである。すると福島県全体ではひんがしは浜通りであり月かたぶきぬ・・・は会津になるのだ。無理やり福島県を一国とすればそうなる。その範囲は拡大化しすぎているけど無理すればそうなる。月は山にあう。


蕎麦 一斗打 草臥し 暮の月 蕪村
http://haikusenryu.yomibitoshirazu.com/yume_haiku/
yume_sobaudon_soba_haiku_sono4_buson.htm


蕎麦と月はあっている。山に月があっていると同じ感覚がある。檜枝岐などは相当な僻地でありだから平家の落人伝説が生まれた。そこでは蕎麦が主食であり米の飯は食べるのは贅沢であった。米は他から買っていたのだ。買うにしても駒止め峠がありあの峠は凄い峠だった。今は下にトンネルができて楽に行ける。昔は檜枝岐は交通が隔絶された陸の孤島だったのである。今は尾瀬などの観光地になったからわからなくなったのである。会津は蕎麦が主食とするような所であり食文化すら相当違っていたのである。


奥深き会津の山に没る月のあわれや主食は蕎麦なりし日かな


福島県の桜というとき他にいくらでもある。会津の桜は有名であっても訪ねることはなかなかできない。桜にも月があっているから会津武士は山をよりどころとしてある。この感覚は浜通りでは実感としてわからないのである。「会津武士桜に月や山に散る」山に咲き山に散る桜である。それは潔く高い山の清気のように清らかである。だから白虎隊の壮烈な悲劇があった。山国故の閉鎖された環境と言えばそうなる。会津という風土がそうさせたともいえる。貿易とか盛んな港があると適当な所で妥協している。そういうことができない「ならぬことはならぬ」とか頑固に拒絶して首相にならなかった政治家もいたことでわかる。海に接していると心は開けてくるが山は閉ざされるのである。山で形成される思想と海から形成される思想はまるで違ったものとなるのだ。


イサスミの杉の木立の森厳に齢を保つ薄墨桜


言い伝え残し会津の山の奥千歳桜の今だ咲かじも


京の姫幾年ここに過ごせしや御前桜の咲きて散りにき


桜前線の短歌
 http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm


御前桜は白河街道の福良には泊まったことがあった。あの時は風雨が激しかった。それも一興だった。自転車だからもらに雨風を受けた。


風雨なか御前桜や旅路きて我がしのべるや街道の道


福良なる土蔵の宿に我がとまる堀に菖蒲やあわれ深まる


茅葺きの家の通りや福良宿菖蒲咲きにつ曲がる細道


福良は情緒あるところだった。白河街道は昔の風情が残っている。忘れられた道として魅力がある。あそこから会津の城下に入った方が趣がある。御前桜はここにあった。この桜もあまり知られていないだろう。今また旅を思い出して書いている。前に書いていたからそれに追加して書いている。
インタ-ネットだとこういうことがしやすい、書き換えたり追加するのが簡単なのである。
だから前に書いたもののつづきかなり書いているのだ。元になるものがありそれに追加してゆく,補てんして書いてゆくのである。会津は広いから探求したらきりがない、高い山が望めるから気持ちいいのだ。会津はやはり山国であり山国の文化である。山によってたつ文化である。それは奈良ともにている。ただ奈良には山に囲まれていても広い平地があった。あの平地はもとは大阪湾から海が入り込んでいて湖になり湿地になり平地になった。琵琶湖もそうである。山国でも海が太古には関係していたのだ。(やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし」この感覚とは違っている。会津城があるところは多少にている。平地があるからだ。

福島県では夜ノ森の桜もいいが熊川の桜も見た。あそこに行ったのは貴重だった。あの一本の桜は津浪で流されたかもしれない、かなり海に近いからだ。あの道の脇には家があった。それも流された。今になるとこの写真は貴重である。今年の春では大原や橲原から行った昔の秘境である大芦の桜であった。桜一本の下に墓が一つあってあわれが深まる。墓一つだからその墓一つに注目されるのだ。
墓が多いと一つには注目されないのである。飯館村には今年は行っていない、あそこに桜並木がありその花影の下を歩いたことがある。飯館は別に自由に出入りできるからいい、浪江などは高瀬川などの景勝地があっても入れないから損なのである。あそこにも桜咲いていた。


高瀬川激つ流れや磐を打ち山桜映え芽吹きけるかな


都路は山のかなたや春なればまた行かむかな鳥鳴き飛びぬ


飯館に今年は行かじ静かにも花の影歩む日を偲ぶかな


高瀬川は流が激しい、その山のかなたは都路村であった。今は都路という名前は合併で消えたけどやはりこの名前だけでも都でもなんでもないのに山の都に行くという気分になるから不思議である。


月見れば 国は同じぞ 山へなり 愛(うつく)し妹は へなりてあるかも


山隔(へ)なりが日本の風土である。福島県は阿武隈山脈で隔てられ中通りがありさらに山国の会津がある。ここも山又山でありチベットかネパ-ルなのである。阿武隈高原でも山にさえぎられている。
会津になるとその峠は駒止め峠のようにはるかに高いものになる。山頂は湿原であり高山植物が咲いているからだ。

ともかく日本は桜の国である。桜は咲いてはかなく散ってゆく・・だから人生を投影しやすい、短い時期に一生が投影される。それで日本人のアイディンティティが桜になったのである。だから桜について語り尽くせないのである。みちのくの桜もいろいろある。ただ岩手県にしろ弘前の桜にしろかえって見なかった。西の京都、大阪は見た。


平泉夕べ桜や栄えたる昔の跡を旅人たずぬ


広瀬川流れの早し花の散る反る石垣燕飛ぶかも


海に映え桜は咲きぬ石巻正宗の心ここにあるべし


政宗は石巻の月の浦から支倉常長をヨ-ロッパに船で遣わしたように石巻に城を作る予定だったのである。より海に近く海を望んでいた
みちのくでは唯一視野の広い英傑だった。日和山には桜が咲いたがやはり今年は石巻は観光とはいかない、その前が津浪に襲われ無残すぎた。景色は変わらないしあの日和山は変わらない、みちのくといってもさらに奥深いのである。

 


 

2012年05月07日

古殿の越代の桜(古殿の歴史の道)


古殿の越代の桜(古殿の歴史の道)


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古殿の越代の桜今盛り山風そよぎ磐により見ゆ
http://blogs.yahoo.co.jp/yuuzen50/36954194.html


古殿の越代の桜その下に岩のいくつか動かざるかな


縁側に山桜見て下郷の戸赤の村や家も古りにき


縁側に山桜見て戸赤かなここに年ふり語る人あり
http://www.tohoku-sakurakaido.jp/lineup/fukushima/sakura16.html

 


古殿町は古くから太平洋岸と内陸部を結ぶ物流の中継地として栄えた。今に残る「荷市場」などの地名は当時の名残なのだろう。伝統行事の流鏑馬にも歴史がうかがえる。

古殿地方の新領主は岩城大和守隆宗であったという。彼は主家岩城氏没落後、上洛して家康にあい成瀬隼人正政成のとりなしで竹貫3000石を新たに賜り、しばらく伏見城在番の上、慶長9年改めて竹貫へ入部したという。
隆宗が慶長15年に死去すると、領地は没収され相馬家の家臣となったなお、竹貫氏からは大竹氏が出ており
http://yaminabe36.tuzigiri.com/fukusima%20nangoHP/takanuki.htm


標高500mの阿武隈山系のど真ん中古殿町竹貫は、中通りと浜通りをつなぐ御斎所街道の宿場町として発達した町でした。古殿町の中心部である竹貫は、中世竹貫氏の城下町でもあり、当時から宿場町として問屋が置かれ、市が立ちにぎわったと言われます。

「御斎所山熊野神社」の標柱が立っているので、迷うことなく出発点となる熊野神社の鳥居に着くことができた。
http://ftk-ac.net/01_hik/2009_hik/4302_gozaisyo/4302_gozaisyo.html

 


源頼朝から竹貫の領主に社領地が下り、時の竹貫領主はこれを記念して、領内兵士達による笠懸(かさがけ)と流鏑馬(やぶさめ)を盛んにして祭礼当日の神事としたと伝える。棚倉藩になっても祭礼当日は領主の代参は欠かさなかった。 鎌倉山とあるから明かにこれは鎌倉と関係していた。南相馬市鹿島区の岩松氏も鎌倉から来た武家である。鎌倉から東北に領地を与えられて移住した人々は多い。テレビで見たとき岩があることに注目した。田村市にある同名の山と区別するために、こちらは竹貫鎌倉岳とも呼ばれている。鎌倉とついてもすべてが鎌倉に由来するとは限らない。


インタ-ネットで見たら岩がほかにもある。その岩が実際に見ていないにしろ村の人が取り囲むようにまた座談しているようにも見えた。石も人間に見えるのである。いかにも山奥の村らしい。一回ここに阿武隈高原を通って自転車で行ったことがあった。ここも地理的にわかりにくかった。山だとわかりにくい。古殿の町に入る所に滝がありその流れで頭を冷やした。秋であったが暑くてそうなった。それから御斎所山街道というのは御斎所山熊野神社があり修験道の山でありここにお参りしたためについた。それにしてもここはくだっただけど相当にきつい坂が延々とつづいていた。この道を上り塩など運ぶのは容易でなかった。古殿町はその中継地点としてあった。いわきの海からここまで来ること自体容易ではない、今でもそうである。この道が会津に通じていたというのもまた遠い道のりである。あとで棚倉藩に組み入れられた。相馬藩の家臣になったというのも興味深い。相馬からそれほど遠いというものでもない、でも磐城氏や棚倉藩の狭間にあった。あの辺の地理が本当にわかりにくい、つくづく福島県は広すぎるのだ。わからない地点がいくらでもある。ここの越代の桜は確かにテレビでも写真でも見物である。桜にしても桜の咲く時期に見れるのは限られているからいくらでも見れない桜は日本ではある。ここは古殿とか越代とか地名がいかにも重厚な感じでいい。百伝う磐余の池・・・の地名ともにている。何か地名からも荘重な雰囲気がでてくる。これは確かに山桜であり見物である。

古殿や滝水に頭冷やすかな


古殿の秋こそあわれ荷市場と昔の人の通う道かな


古殿ゆ遠野をめぐりいわきへと海を望めば秋となるかな

古殿から遠野にでて磐城の海の方へ向かった。ここの道は遠かった。ただ記憶がうすれどういうふうに行ったかわからなくなった。
磐城そのものがここも広いからわかりにくいのである。

下郷の戸赤の桜は村の人が縁側から見ていた。山桜を縁側から見るのは贅沢である。あれだけ集まって咲いているからこれも見物である。あそこで縁側はまだ生きている。縁側自体なくなっている家が多くなった。なんかなつかしい風景にもなっている。実際に過疎の村であり若い人は桜の時期にもどってくるというのはわかる。ちょうど連休の五月ころ咲くからである。桜は他にいくらでもある。知られない桜もいくらでもある。その桜を短歌にした。福島県は実に広大である。会津は奥深くてその全容は知り得ようがないのだ。
 



インタ-ネットは郷土史関係では役立つ、一つの村でも町でも一ペ-ジでも書いてあればそれだけで全国になれば膨大な量となるのだ。本だと調べようがないのである。もう一つ効果的な利用方法はテレビで見たり本で読んだりしたことと連携することでてある。メデアミックスである。ただ今までのマスプデアはインタ-ネットを敵視ししている。自分たちの特権が奪われるからそうなっている。インタ-ネットは関連したものを探すのが得意でありそこから興味を拡大化できるのである。福島県だって古殿といってもわかりにくいのである。インタ-ネットは個人的にでも膨大な情報収集できてそれを福島県のインタ-ネット内の図書館のようにできるのだ。インタ-ネットは個人的にでもメデアをもつということが強みなのである。
メデアをもっていたのは新聞社とか出版社とかテレビ局でありこれは金がかかりすぎるから個人ではできなかった。インタ-ネットで個人放送局ができたことは大きい情報社会の変化なのである。
ただまだ十分に利用されていない。利用方法がわからないという面もある。プロ的な仕事をインタ-ネットでしているのも少ない、結局金にならないからしないのである。そこに一つの問題がある。

2012年05月20日

藤の花とツツジ (相馬市山上-玉野-霊山-飯館村を回る)


藤の花とツツジ

(相馬市山上-玉野-霊山-飯館村を回る)


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山上の日輪の碑はめずらしい、他で見ないからだ


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滝平の手前の家の藤棚は見物

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落合の丸森に行く所の白藤は見物

一本の木に藤の蔦がからまみついている



朝風に草原そよぎ夏菊の白く映えにつサイクル車行く


日立木の細道あわれ紫と白の菖蒲に松並木見ゆ


屋敷林木蔭の深し朝静かシャガの花咲く城の近きに


宇多川の上や静かに藤の花風にそよゆれホ-ムのありぬ


古き碑のまたここにありにき我がたずね朝の静かに藤のたれにき


物倉とバス停に名や山上の奥に田植えや人のすみつく


藤棚をしつらえ静か紫と白映えにつつ木の間より見ゆ


滝平とどろきひびき夏来る我が上り来て峠を越さむ


そうそうと山風そよぎ一木に白藤の花からまりつきぬ


たぎり落つ清水のひびき朝日さしツツジの赤く映えにけるかな


山里につつじの赤くそちこちに田植えしてをり暮らしありにき


新緑に風のそよぎて開拓の村や今日知る霊山の裏


山中に分かれ道かな旅心我に覚えぬ夏の日さして


玉野なる旧き道来て一人会う土地の人かな木蔭に休む


玉野なる昔の道や古き碑の並びてあわれ菖蒲咲くかな


笹町と昔の名かな争いのここにありしも古き碑のあり


玉野より霊山に来て残雪の吾妻嶺光り我に迫りぬ


飯館の人なき家や蛙鳴き帰れと待つや田は荒れにけり


どぶろくを作る家あり佐須に来てここにありてそ味の良しかも


赤々とつつじの咲きてこの家の人の帰るを待ちにけるかな


山中はなお八重桜咲きしも人なし淋し残る家かな


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この写真はよくとれている

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副霊山の開拓地に入る
ここが宇多川の源流になっていた


相馬市玉野村を通る(旧道)

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飯館村へ
 
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佐須から大倉への道は通行止め
自転車はたいがい通れる

写真はクリックすると鮮明に見えます-縮小しているので画面ではぼやけています



今回は宇多川の上流を上って行ったことになった。丸森の方にはよらなかった。古い碑は必ずわからなくても見ていた方がいい、そこが古い場所として確認できるからだ。ちょうど山上に老人ホ-ムがありその脇に江戸時代の碑が並んでいる。山上はそれなりに古い村である。今回「物倉」というバス停に注目した。なぜここにこういう地名が残ったのか?やはり人が住みついて倉ができてそこが目立ったのか共同的なものとしてあったのか?昔は個人でも大きい農家は中心的役割を果たしたから倉でも必ずしも個人の倉とは限らない。地名化するにはなんらかその土地に住んでいる人々の共同性があるからついたのである。そこでは手で田植えする人があった。そこから大きな藤棚しつらえている家があった。あれは見物である。そこからすぐに滝平になる。そこからが急な上りがつづく、落合で丸森の松が房ダムの方に向かった。

この辺で福島市と通じる高速道を作っていた。震災で早期に作るようになった。飯館村が放射能で住めなくなったことが影響した。松が房ダムから副霊山の方に向かった。そこははじめて行く所だった。阿武隈山地が意外と広い、全部を行くことはできない、自転車の旅は気ままに道にそって行くことだった。だから別れ道が旅心を旅心を誘う。どっちの道に行くかな・・というとき旅をしているのだ。その道を事前に決めてしまうと旅はつまらないものになる。旅は道を行く、道は未知なのである。近くでも道はいくらでもあるから未知の領域がある。今回の道もそうだった。ここはどこなんだろうと見当つかなかった。宇多川の上流であり源流であり副霊山に通じていた。ここは開拓村であった。だからその記念の碑があった。ここは伊達市に属している。

そこから玉野村にでてきた。ここは相馬市である。玉野村では領地争いで有名である。山林資源が豊だから米沢藩-伊達藩-相馬藩で争いがあった。伊達と相馬の境であり「伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に」であり境の桜は東玉野の115号線沿いにある。それを確かに今回丸森から伊達市を回り地理的に自覚した。米沢は遠いにしても三つの藩がかかわる境が交差するところだった。玉野も115号線の広い道路ではない旧道の方にでてきた。ここがまぎらわしい。ここの旧道にはさらに旧道があったのか細い道の脇に古い碑が並んでいた。その一つに・・暦とありこれは明暦なのか明暦となると元禄の前でありこの辺ではほとんどない、葛尾(かつろう)村の落合で見ただけである。この碑は確かに古いことは確かである。この道の方が霊山から落城のとき落ち延びて来た道なのだろう。

霊山城落城のとき落ち延びたのが二手に分かれた。一つは鹿島区の真野に逃れ中館となって残った。もう一派は山上の方に逃れた。だからそこに山王神社が祭られている。日吉神社も日枝神社もそうである。霊山は玉野から近い。ただ玉野からかなりの峠道になる。霊山町は伊達市として合併したからわかりにくくなった。合併するとなじみがないからわかりにくいのである。もともと伊達の領地として歴史があるからかえって歴史がわかりやすくなったとはいえる。でもなじんでいないからとまどうのである。伊達市の範囲が広まったこともとまどうことになる。伊達市がどこからどこまでかわからなくなる。狭い範囲のことがわかりにくくなる。その点飯館村は合併しなかったのでわかりやすい。

行合道から新しい道を上り佐須に入った。この辺は道だけはどこも新しくなって造成していた。ここもその一つである。どぶろくを作っている家はテレビでも有名であった。ただこの佐須という場所が狼も祭っている山津見神社があり神秘的色合いを出していた。この場所で本当は昔物語でも聞いてどぶろくを飲めば一層うまいとなる。店は場所の影響がある。霊山の紅葉館は吾妻山が見えるので絶景の場所にあるから気持ちがいい。あそこまで来たとき残雪の吾妻山が見える。すると福島市の方を意識するのである。飯館村では人が住んでいない、でも前も不思議だったのは廃屋とは違う、人が自由に出入りしているし家には人がいるところもあったし農作業していた人もいた。蛙も鳴いていた。その蛙の鳴く声で気づいたのは蛙は人里に鳴くものと決まっていた。田んぼと一体化して蛙が鳴いていた。その田んぼがなくなったとき蛙が鳴いているので不思議だった。蛙は人間が住んでいないときから沼地などにいたろう。しかし田んぼのなかで生きるようになってからの年月はあまりにも長い、だから人里があって蛙も鳴いていた。蛙は極めて人間的なものと化していたのである。だから人が住んでいない田んぼがいない所に鳴く蛙をイメ-ジすらできない、蛙はだから人が帰ってこいよと鳴いている。ペットとにていたのである。

ただ飯館村は放射線量が27マイクロシ-ベルがあるホットスポットがあった。これにはびっくりしたけどそこだけ異常に高かったのである。飯館村は帰れるようになるのだろうか?どうしても人がいないなくなるとは考えられないのだ。佐須から大倉の方に下ってくると一軒の家がまだ残っていてそこはツツジにおおわれていた。だからあそこも人が帰るのを待っている。とても人がいないというふうに見えないのである。八重桜がまだ山里だと咲いている。それは山里の雰囲気をかもしだしている。「遅桜なほもたづねて奥の宮 虚子」遅桜とは八重桜だったのだろうか?この句はいい句だった。山津見神社は本当に奥の宮なのである。神社は場所と密接に関係しているから移動できない、そうなると飯館村にある神社はどうなるのか?すでに半分以上は帰ることをあきらめているとかなるとどうなってしまうのだろうか?どぶろくを作っている人は福島市で作ったけどあそこて作ってこそ意味があった。場所のもたらす価値がある。そういうものは他に行ってしまったら作れない、飯館村にあったからこそ価値があるものが他にもあったのである。


ともかく大倉を下って栃窪に出る。あそこに隠された大岩がありあれがまさに千歳の岩なのである。あれに気づいている人はまれである。隠れるようにしてあるからわかりにくいのである。千年眠りにつく岩である。自転車の旅も今は疲れる。限界を感じた。なんとか病気でも行けたから良かった。

それでも天皇陛下みるとあれだけの手術しても海外旅行までしている。カ-テルを交換しただけであれだけ回復している驚きである。人間の体は機械であり血管がつまるようになったら水道管のように交換すればいいとなる。その技術がほとんど完璧だったからあれだけ回復した。自分もそうして機械のように体の部品を人工化している。別に癌ではないとするとすぐに死ぬということではない、だから運動も前のようにできなくてもそれなりにできる。長生きするのは医療の発達もあるのだ。胃ろうですでに三年も生きている人もいる。これも体を機械のように扱い生きているのだ。


ずいぶん旅ばかりしていた。旅をしたものはどこまでも旅をしたいのである。病気の中で芭蕉は旅をしていた。つまり西行とか芭蕉は旅を棲家とした常時旅人だったのである。一時的な物見遊山の旅人ではない、旅を人生として生きていたのである。旅ばかりしていると人生そのものも旅となってしまう。旅人の感覚で人生もみる。会ったり分かれたりするのも旅では常時起こっている。ただ遂には人は石のように動けなくなる。石は最終地点の象徴である。動けなくなって人は死ぬのである。

 

追記

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この辺もあまり人は通らない、車はそれなりに通っているのか、それで少ないほうだろう
車が通らない道があったら不思議だろう。

飯館村でもいかに人間は自然の中に溶け込み暮らしていたかわかる
贅沢な空間を所有していたのである。

こういうところに暮らしている人がどうして都会や東京のような所に住めるのかと思う
福島市のマンションに住んだ人がいるがそれでも相当に違っている

花だけに飾られて人が住んでいないという家も不思議である。
花がきれいだから廃屋とは違う。誰かが住んでいるように見える。 


 

2013年03月16日

名所観光がつまらないのはなぜ(3) (福島県の奥の細道はどこに)


名所観光がつまらないのはなぜ(3)

(福島県の奥の細道はどこに)



名所観光がつまらないのはなぜ(1)
http://musubu2.sblo.jp/article/46974438.html


名所観光がつまらないのはなぜ(2)
http://musubu2.sblo.jp/article/46982436.html

名所観光がなぜつまらないのか、今はあまりにも簡単に名所に行けるということもある。新幹線で二時間で平泉についたよ、これが金色堂かやっぱりこんなものか、ここはこれくらいしか見るものはないな、次は何を見るんだ、もう終わりか、また新幹線で遠くへ行こうとなる。
これでは芭蕉の感じた「奥の細道」は全く感じられなくなったのだ。自分も前に書いたけど平泉で印象に残ったのが金色堂ではなくその裏方の普通の農家だった。それがいかにも農家らしい農家であり古い碑があり納屋がありとかで深々と雪に埋もれていたのである。そこにもののあわれ北国の情緒を感じた。観光地化した平泉には感じなかった皮肉があるのだ。


深々と雪に埋もれし農家かな金色堂の華やかさもなし


金色堂の華やかさもなくてもその土地に根を降ろした農家は平泉が栄えた時代からあったのだ。それは今も変わらずあったのである。必ず農家には風情がある。それも本当に農家らしい農家だったそうなる。そこに日常の暮らしがあり冬は雪に埋もれてひっそりとしている。今の農家は一面農家らしい農家が少なくなっている。農業だけで暮らしている農家が少ないと風情もなくなる。その風情は観光者のために作られたのではない、自然とまさに自然の暮らしのなかで自ずと生まれてきたものである。そこは観光地用に作られたのではない、そこが現代はあまりにもあらゆるものが観光地化してもののあわれを失ったのである。そして観光というときみんな急いでいる。だからともかくいいとこどりして早く見て早く帰ってゆく、それで旅が印象に残らないものとなった。旅には時間が必要であり現代はただ車で突っ走り通り過ぎてゆくだけなのである。歩いて通りすぎるなら体で記憶に刻まれることがあるが車だとそこで風も感じないし記憶に残らないのである。ただ遠くへ遠くへ通りすぎてゆく旅になってしまう。

福島県も相当に見どころある場所である。ところがこれも会津の白虎隊とか名所とかばかりに気をとられているのだ。別に名所でなくても見る所がいくらでもある。奥の細道というとき相馬藩などは注目されていないけどプログで何度も書いたように六号線ではなく日立木から入り松並木を通り城跡のある相馬市に入る道が歴史の道であり情緒ある道だった。そこは細く曲がりくねっていていかにも奥の細道の感じがでているのだ。あのような細い曲がりくねった道でありそこは歩いて旅する道だった。白河の関に出る道が森があり木暗い道であり境の明神がありいかに奥の細道に入る道としてふさわしいがあとは頻繁に車の通る道になるからその面影は全く感じられなくなるのだ。時々東京辺りから六号線を歩いてくる旅人がいた。でもその人も昔の街道を歩いていない、六号線はわかりやすいから歩くにしてもそうする。ただ歴史に興味ある人が街道の昔の跡を訪ねて歩いてインタ-ネットに出していた。その人は地元の人より詳しく見ていたのである。

昨日見たその日立木からの細いくねり曲がった道の脇に養蚕をした農家が二軒あった。それも気づいていなかった。六号線ができたのはすでに40年前とかなるにしてもその前は六号線がなかったからこの街道の細い道が唯一の道だったのである。相馬市まで鹿島から梨をリヤカ-で運んだという女性がいたがそれは六号線ではない、旧街道である。今になるとすべてが六号線で運ばれたような錯覚に陥るのだ。車がこんなに普及してわからなくなったのである。車時代になると車があるのが当たり前になるからわからなくなる。それまでの運搬は馬だったから馬頭観世音の碑が多いのである。


桑畑、麦畑、養蚕農家の景観は後進国では今でもそうである。ネパ-ル辺りでは麦畑と水田が半々にある。昔の景観が残っていることが後進国では面白いのである。過去にタイムスリップした感じになるからだ。養蚕農家を見るとそこに重厚な暮らしがあったと思う。三階建ての白川郷の合掌作りも養蚕するためにあのような作りになった。今は何か農家の重みがない、会津辺りにある曲がり屋でも生活の重みが感じられた。そこに生活がなくなるときやはりもののあわれは感じない、水田とか畑があるということが風景としても必要なのである。外国からTPPで輸入して米すら作れなくなったらどうなるのか、この辺の原発事故の放射能で荒廃化した大地のようになってしまうだろう。何だかわからないけどTPPはアメリカの策略であり地震は人工地震でありTPPを日本におしつけるためだったと言うひともいる。確かにもう放射能で農業も漁業も林業もできなくなったというとき何で食べてゆくのだとなる。自動車工場とか何か日本の農業は壊滅してしまうかもしれない、農業は日本の大地の景観を維持するためにも必要だった。それがなくなることは日本の精神自体にモラルにも影響してくる。
そういう観点から論じられない、ただ経済的効率のかみしか論じられないのである。そこに原発事故が起きたように大きな落とし穴があるのだ。


福島県の観光でどこがいいのかとなると推奨するのは松林があり静かな船津浜辺りがいいのではないか?真正面に秀麗な磐梯山が見える。松林があるのもいい、あまり観光地化されていない、志田浜は観光地化しているからいいとはいえない。そこから福良にゆく白河街道はやはり忘れられた奥の細道であった。そこを自転車で旅したから記憶に残っている。福良はその時まだ茅葺きの家が通りに何軒かあった。今はないだろう。何か寂れていたのだ。そこの蔵の宿にたまたま泊まった。それも情緒があった。その裏の路地に紫菖蒲が咲いていた。そこで思い出して一句作った。

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蔵の宿紫菖蒲に福良かな


福良から会津に出る道が情緒がある。でもあそこはあまり行かない、六月でしとしとと雨がふって田植えしていた情景も情緒があった。あそこはあまり車も通らない、今はこうして名所観光地を目指して一直線に行き一直線に帰る。そして名所はつまらなかったとあとでみんな言う。会津は白虎隊だけではないのだ。また八重の大河ドラマのように作られたものが今では観光になる。ドラマと歴史的事実は違っている。何かドラマが歴史的事実のように錯覚しているのだ。名所が架空のドラマによって作られているのだ。映画の舞台が名所になっていることでもわかる。そういうところに旅の感動はないのである。

白河街道の詳しい写真
http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/sira/05.htm


こういうふうに詳しく見れないのだ。これを見れば白河街道の情緒が再現される。自分が旅してもやはり通り過ぎてみていない、自転車も通り過ぎるのが多いのだ。写真から一枚失敬した。

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夏草に埋もれむ道や雨しとと

2013年04月03日

旅をふりかえり詠む桜の短歌 (白石千本桜-阿武隈川の桜-梁川-丸森)


旅をふりかえり詠む桜の短歌

(白石千本桜-阿武隈川の桜-梁川-丸森)

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東京の桜は嵐に散りにしと伝えられつつここも吹き荒る
みちのくに花咲く前に嵐かな遠くに行けず内にこもりぬ
(白石-千本桜)
訪ねれば千本桜は散るあとや相馬は遠し我が帰るかな
長々と白石川やその岸に千本桜や東北線かな
阿武隈川はここより広く蛇行して海に到るや花盛りなり

満開の桜そ映えぬ残雪の蔵王の迫る朝の光に
(阿武隈川-巻淵)
巻淵や阿武隈川の渦巻きつ淀み流れ桜の道行く

阿武隈川淀みの深く何ひそむ巻淵の名や桜咲くかな
残雪の吾妻嶺望み阿武隈渦巻き流れ満開の花

阿武隈川岸の桜の点々と流れ激して我がそい下る
(二本松)
二本松安達太良映えてその天守高くも朝の桜花かな

小浜城訪ねてみれば夕暮れに桜を見つつ麓も暮れぬ
(梁川-丸森)
丸森の峠を越えて梁川や城跡に夕べ桜の散りぬ

川岸に桜と梅や春草の土手に萌えつつ燕飛ぶかな
丸森や夕べ咲きにし桜かな峠を越えて相馬に帰る
六万石相馬の花は濁りたる堀に写りつ夕暮るるかも


白石の千本桜は有名である。あれを見るのはたいがい東北線の車窓から見ている。ところが自分が見たのは自転車で白石まで行ったときだった。その時はすでにみんな散っていたのである。それが何とも感慨深いものだった。桜が見れずにどうして感慨深いものかというとまずその距離感覚から見るものが違ってくるのだ。そこまで苦労して桜を見に行ったけど散っていたとなる。桜は満開に咲いているときだけが桜ではない、それは



花は盛りに・・


花はさかりに 月はくまなきをのみ見るものかは
雨にむかひて月をこひ たれこめて春の行方知らぬも なほ哀(あわれ)に情(なさけ)深し
咲きぬべきほどの梢 散りしをれたる庭などこそ 見所(みどころ)多けれ
歌の詞書(ことばがき)にも 「花見にまかれりけるにはやく散り過ぎにければ」とも
「さはる事ありてまからで」なども書けるは 「花を見て」といへるに劣れる事かは
花の散り 月の傾くを慕ふならひはさる事なれど ことにかたくななる人ぞ
「この枝 かの枝散りにけり 今は見所なし」などはいふめる


萬(よろず)の事も 始終(はじめおわり)こそをかしけれ
男女(おとこおんな)の情も ひとへに逢ひ見るをばいふものかは
逢はで止みにし憂さを思ひ あだなる契(ちぎり)をかこち 長き夜をひとり明し 
遠き雲井を思ひやり 浅茅(あさぢ)が宿に昔を偲ぶこそ 色好むとはいはめ
(徒然草-吉田兼好)



花は盛りにだけ風情があるのではない、花見というと盛り焦点をあてているが桜は散るときも風情がある。散ったあともしばらくは余韻があるのだ。さらに咲く前にもすでに花を見ようとしているから花見がはじまっている。花は盛りがすべてではないのだ。千本桜を訪ねた時はみんな散った後だった。でもそれが何か深い感慨として残っている。それはそこまで行った距離も関係していたし自転車で行ったということも関係していたのだ。車だったらまた違っている。車での花見は経験していないがやはり近いものとなるからまた違ったものとなる。現代が便利になったというとき深い感慨がもてないのは便利すぎるからなのである。江戸まで歩いて旅して日本橋まで来たのと新幹線で二時間で着いたよとなるのでは全然違った感覚になるのだ。その喜びは天と地のように違っている。便利になってかえって旅の喜びがなくなってしまったのである。

桜と城はあっている。城に桜は映える。二本松城は天守閣があったところが山の天辺だから見晴らしが一番いい。小浜城もそれなりの城だった。小さいにしてもそれなりの構えがあった。そこから安達太良の山が見えて暮れてゆく。そこを訪ねたときはもう日も暮れようとしていた。ここに行ったのも自転車だった。梁川城は会津までかかわった古い城である。阿武隈川を梁川から下った所は見物である。流れが早まり淵に渦巻き流れる。そこに満開の桜が咲いていた。眺めも残雪の吾妻嶺が見えて
ビュ-ポイントになっていた。そこから丸森に下り相馬に帰る道は情緒がある。桜と桃が一時に咲く場所でもある。あんなところまで放射能が影響したことは残念である。

阿武隈川の巻淵というのはどこにあるかわからなくなった。地図を見てもわからない、ただ記録に巻淵と残っているから確かにあった。そこでも桜は咲いていた。深い淀みがあり渦巻く流れがあり桜が咲いていた。島山とあるから島山の近くである。阿武隈の流れが狭まり島山というのは山で流れがさえぎられた所である。東和町の中にあった。


阿武隈川の流れは山間深く滔々と
巻淵に広く淵なし淀みつ流れ
島山に急流となりて磐間を激ち流れ
丸森にい出てや遠く残雪の蔵王を望む


この辺は変化に富んだ所だった。ただ人間は忘れやすいから旅は必ず記憶しておくべきなのである。あとで記憶が蘇るからである。別にこの辺は行けないということはない、日帰りコ-スだからである。電車だったら白石の千本桜は車窓からも見えるのである。

相馬の城跡の桜はいつも濁った堀に写るだけである。ともかく桜はいたるところに咲いているのだから名所だけの桜を見にゆくだけが花見ではない、すぐ近くにどこでも咲いているのである。
ただ会津の方の桜はわかりにくい、盛岡とか弘前城の桜はまだ見ていない、桜咲く時期に見ることがむずかしいのである。なんだからこれだけ桜のことを書いて花疲れになったというのも変であった。

2013年04月06日

飯館村から川俣に出て二本松の城へ (二本松の城は東北で一番魅力がある)


飯館村から川俣に出て二本松の城へ(短歌十首)

(二本松の城は東北で一番魅力がある)


天守閣春一望の眺めかな


小宮へと分かれる道や春なれど人住まずして淋しかりけり

旅心湧きにけるかな山木屋へ行く道分かる春の昼かな
東風吹かれ峠を越えて川俣へ安達太良山を望み下りぬ
飯館へ行く道さえぐ山仰ぎ春日は没りぬ安達太良山に
残雪の安達太良山や朝日さし桜に染まる城にこそあれ
残雪の安達太良山や城跡の椿の赤く夕暮れせまる
城の内井戸の深しも椿落ち侍ここに仕え登りぬ
城跡の松に茶室や椿落ち井戸の深きを我が思うかな
城跡の山をめぐりて一日尽く名残り惜しむや残る花かな


飯館村には三つの別れ道があった。小宮へ行くのと草野に行くのと原町や大倉に行く道である。歩きでも自転車でもこの分かれ道が印象に残る。こっちの道はどこへ行くととなるとその方向に思いをはせる。それが旅なのである。決められたコ-スを行くのは旅ではない、思いがけない所に出るのが旅である。だから自動車というのは旅にならない、遠くの目的地に行くのはいいが分かれ道の旅の旅情はない、分去(分かれ去り)という地名が各地に残っているのはどうしてもそこで旅人が分かれてゆく基点となっていたからである。別に旅は遠くでなくてもすでに散歩の延長としても旅はある。
特に阿武隈の道は多岐に分かれているからだ。山木屋への道は塩の道であり相馬の塩は二本松まで運ばれた。参勤交代でも二本松にでて江戸に出た道でもあった。二本松と相馬藩はそれなりにゆかりがあった。


ただ二本松の城のことで特別人物が浮かんでこない、あそこの城は山全体が城になっていて大きく感じるのだ。あそこをめぐっているだけで一日が過ぎる感じなのだ。大坂城などもそうだが一日めぐっていて日が過ぎてしまうだろう。頂上に天守閣があったというのもあそこは見晴らしが特にいい、福島の地理的中心とも思える場に立つことになる。360度のパノラマ景観がある。あれだけ高い所にあるので気持ちがいいのだ。会津の城などそれほど魅力がない、平城だから見晴らしがいいとはならないからだ。二本松の城は立地といい魅力があった。安達太良山もまじかに望まれる。春は1700本近くの桜に染められるのも圧巻である。

そして印象に残ったのは天守閣もあるが深い井戸が二カ所くらいある。その井戸を覗き込むと深いのである。その井戸から水をくみ上げて茶室があり茶でもてなす、そして落椿が赤く夕暮れがせまっていた。城の内にある井戸が生命線だった。籠城するときその井戸水でしのいだ。だから熊本城の井戸は120もあった。


1877(明治10)年の西南戦争では政府軍の重要拠点となり、司令官・谷干城以下4000人の籠城で、西郷軍14000人を迎え撃ちました。加藤清正が築いた「武者返し」石垣の前に西郷軍は誰一人として城内に侵入することができませんでした。西郷隆盛は「「わしは官軍に負けたのではなく、清正公に負けたのだ」と言ったと伝わります。


城というとそこが最後まで死ぬまで籠城しても命を城とともに果てるという感覚があったのだろう。その感覚は今はわかりにくい、白虎隊が城が燃えた、落城したというとき城のもっている意味がそれだけ大きかった。その感覚は日本の城は小さいからわかりにくい、ヨ-ロッパのような城郭都市になると市民が育成されたようにそういう感覚になるだろう。そこが自立した一つの生活の場であり命もそこに尽くして果てるともなる。城にはそれだけの意味もあったとなる。現代はそういうアイデインティティの場をもっていない、会社がそうなるが会社はあくまでも利益を追求している仲間であり命をともにするまでにはならないだろう。でも地域より会社がアイデインティティになっているのが現代なのである。原発事故でわかったように一地域の経済力よりはるかに巨大な経済力があったのが東電だったのである。地域の一員というより地域が東電の社員になっていたのである。


ともかくあの城内の井戸水でお茶をもてなされたら格別だったろう。それこそ茶の道を感じる場でもあったのだ。水道水ではそれを感じない。ゆっくりと井戸水をくみあげて茶を出す家庭に茶の道があった。茶道はやはり全体の自然に組み入れられて意味をもつのである。文化とはあらゆるものがそうである。一部分が文化ではないのだ。全体の中に機能しているとき文化があるのだ。だから時代時代の文化は再現しにくいのである。全体が喪失しているのだから部分的にだけ茶室とか再現しても文化にならないのである。それは文化全般にそうなる。明治時代は江戸時代の日本文化の国風文化が興隆する素地が残っていた。それが文学でも現れた。正岡子規でも漱石でも啄木でも文人が大和言葉をまだ自分のものとしていた。江戸時代の連続性がまだあってその言葉使い継続されていたのである。

現代はまさにそうした連続性はもうないけどどうしてもやはり文学関係では漢詩の詩語や大和言葉を使う必要が出てくる。でも明治時代のようにしぜんてものではなく作られたものになってしまう。
日本文化はすでに部分化して死んでいるのだ。それはヨ-ロッパだって同じなのである。グロ-バル化で文化そのものが世界的に一様化してしまった。文化は長い時間のなかでその国々に培われて生まれたものである。だから百年とかの短い時間では作れないのである。それだけ奥深いものが文化なのである。


二本松に行くにしてもやはり飯館村から水境峠を越えて安達太良山を望むとき川俣に二本松に出ると自覚させられる。それが電車だとそうはならない、そこに今は旅でも感動できないものとなったのだ。あまりにも便利になり感動できないのである。とにかく水境峠を越えたとき明かに別世界になる。安達太良山を望むときそうなのである。浜通りには高い山がないから山の神秘性が感じられないのだ。山はやはり高く山でないと山ではない、阿武隈山脈は高原であって山ではないのだ。だから山の神秘は峠を越えたとき感じられるのだ。逆に海の神秘も峠を越えて八木沢峠辺りで太平洋を望んだとき感じられる。その感覚は海側に住むものと山側に住むものの感覚の相違である。


あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。


安達太良山の、阿多多羅山はあだだらは何か音のひびきがどっしりしていいのである。だからこれだけで詩になっていたのだ。ただここには城のことは歌われていない、城ぬきでは二本松はありえないのだ。二本松は菊人形祭りがあっても春の方いいのかもしれない、二本松県というのが構想されていたようにやはり福島県の中心的位置にあったのは二本松城があったからである。あの城は東北では一番魅力ある城の感じがする。青葉城でもそんな感覚がしない、市街にビルや家で埋められと眺めがいいとはならないからた。「天守閣春一望の眺めかな」これを感じる城というのは意外に現代になると少ないのである。


二本松の城の桜(2)短歌十首
http://musubu2.sblo.jp/article/37187722.html


二本松の城の桜(1)短歌十首
http://musubu.sblo.jp/article/28451498.html


前に書いた短歌だけど忘れていた。読み返すと思い出した。これはこの連作になっている。

2013年11月22日

阿武隈高原の回想の旅の短歌 (阿武隈高原の魅力は幾重にも分かれた道にある)


阿武隈高原の回想の旅の短歌

(阿武隈高原の魅力は幾重にも分かれた道にある)
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(飯館)

小宮へと行く道遠く久しくも行かず閉ざさる冬のくれかな
月館へ行く道遠し夏の日のなお明るしもまた行かむかな


 (三春)

三春へと行く道遠し日永きにのちの憂いもなくて行きなむ
三春なれしだれ桜の長々と夕日のさして古き家かな
三春なる城の跡かな四方の山ここに映えつつ春の夕暮
五万石三春の城や栄えなれ愛姫(めごひめ)嫁ぐ政宗のもとへ
なお夕べ優艷にして滝桜匂いのつきじしだれけるかな
目に見ぬも我が心にそ離れても花の明るく映えて輝く


(二本松)


二本松道のり遠く相馬よりなお花残り夕ぐるるかも

二本松城跡の井戸深しかも椿の落ちて重なりけるかな
二本松安達太良まじか椿映え残れる雪の清しかりけり
安達太良の影の大きく川俣を我が去りゆくや秋の夕暮


(小浜城跡)


小浜城夕べあわれも遠く来て花咲きそめて闇のつつみぬ

小浜城廃城となりて長きかな夕べかそかに桜咲きそむ
小浜城興亡ありぬ一時は政宗棲みぬ秋の夕暮
小浜城滅びてのちの久しかも雲に隠りて月の光りぬ
小浜城落ち延び遠く会津へと逃れる武士や曇る月かな


(梁川城跡)


丸森ゆ峠を越えて梁川の城跡に来れば花は散りにき

阿武隈川桃に桜や丸森へそいくだるかも海への道かな


旅心尽きざりしかな分かる道なおつづきつつ年も暮れなむ

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阿武隈高原は広い、高い山もないし温泉もないけど広い、だから自転車で行けば旅になる。どこまでも道をたどることが旅なのである。だから旅では別れ道が一番印象に残るのである。分去(わかれさり)という地名が全国に残るのはそのためである。つまり別れ道に来たとき道を一番意識するのである。これは車だとそうした旅の感覚はなくなる。

道をたどるというよりただ早く移動するという感覚になるからだ。車の旅はある地点に行くのにはいい、例えば富士山が一番良く映える場所に行くのは車がいいが車では旅にはならないのだ。旅をするということは現代では特殊なことなのである。

バイクでも旅にはならない、バイクも早すぎるからだ。どっちの道へ行こうかとか旅の感覚はなくなる。車とバイクの速さは同じだからである。自転車は旅になっている。

ただ自転車でも早すぎるということはある。ただ別れ道などでは道を意識するから旅になる。実際に分かれ道があったとしてそこから5キロで温泉があるとして行きたくても行けなかった。なぜなら5キロとして往復10キロになるとかなり遠くなるし疲れるからだ。
車だったらこういうことはないから秘湯めぐりなどには向いている。


旅する時はやはり歴史的な知識も必要である。小浜城についてはわからなかった。勘違いしていたのはこれが江戸時代もあったと思っていたのだ。この城は江戸時代前に廃城になっていた。だから城の跡としてだけこれまで残っていたのだ。その期間は400年とかにもなる。だから良く残っていて今も訪れる人があると思う。城跡でも土塁だけとか堀とかでわからないのがあるからだ。相馬藩の城でも堀とわずかな石垣しかないのである。
だからあそこの城が江戸時代もあると思っていたのである。これは小さな城でもそれなりの城だった。なぜここにあったのかも謎である。地理的な要衝としてあったともある。

この頃会津までもこの城にかかわったりしている。だから伊達に攻め落とされた時、会津に逃れた武将がいる。梁川城も伊達領の城だが一時は会津の城にもなっていた。それから上杉もかかわっていた。戦国時代はどうしてか遠くも関係してくる。まだ領地が確定していないからせめぎあいが各地で大規模にあった。入会地で山林資源の争いのことを飯館村の飯樋のことで書いたが丸森の玉野村は大規模だった。その時合力が行われて上杉や伊達や相馬と三つ巴の争いとなった。
ともかく小浜城は何か神秘的な場所にあった。あのうよな出城とか小さな城でも江戸時代前は各地にありそれが戦国時代だったのである。


1627年(寛永4)に、一国一城令に基づき廃城となった。現在、本丸跡など城域の一郭は下館山児童公園として整備され、郭、石垣、帯郭、堀切、土橋跡などが残っている。かつての本丸南側の虎口である同公園の入り口に残る石垣は、蒲生氏郷の属城となっていた時期につくられたものである


阿武隈高原でもふりかえると自分は自転車で相当に回っている。今になると回想するとき不思議である。回想する旅になるとこれまた現実旅しているのとは違う、それは何か内面化した旅ともなっているのだ。だから旅というのは何度も言っているけどあとで記憶されている旅をしていないとほとんど忘れる。どこをどう行ったのかさえ忘れる。

自分も回想して短歌を作ったりしてもそれが春だったのか秋だったのかわからなくなる時がある。ただ回想しやすいのは近間だからである。これが阿武隈高原から離れて会津の方になるとわかりにくくなる。人間は自分の住んでいる場所から離れれば離れるほど忘れやすい、だから外国のことはさらに忘れてしまう。福島県でも会津はかなり遠い。そして山国だから余計にわからなくなる。
阿武隈高原だと二本松とか梁川とか福島市とかまではつづいて記憶されやすい、でも会津になるとすでに地理的にも記憶しにくくなるのだ。


阿武隈の魅力は道にある
http://www.musubu.jp/abukumichimiryoku.htm

 

2013年12月08日

人間は自分の住んでいる場所を基点に思考する (福島県は地理的一体感がもてない広さがある-相馬より見た視点)


人間は自分の住んでいる場所を基点に思考する

(福島県は地理的一体感がもてない広さがある-相馬より見た視点)

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地理的感覚というのは一番わかりにくものだろう。地図見ても立体地図を見てもわからない、高低差とかいろいろな面で地理はわからない、やはり一番わかるのは徒歩感覚だろう。車感覚でもわからないだろう。ただ現代の地理感覚は交通に左右されている。
東京から飛行機で何時間と計れば中国が三時間となると中国が国内より近くなる。
日本より外国を身近に感じる人も多いのが現代である。
中国人の距離感覚は日本人の十倍くらいの感覚になるとか遠い所に行くのが抵抗がない、大陸の距離感覚は日本の島国の距離感覚とは違っている。
日本は中国と戦争になった時その広大な大陸感覚に適合できなかったろう。
もう戦略もたてられないほど途方もない広さだった。
広大な大陸にのみこまれるような感覚になっただろう。
まず世界は一二回旅行したくらいで地理はわからない、それだけ地球は広い。


結局人間の地理感覚は自分の住んでいる場所か基点となり思考しているのだ。
これたけは変えることはできない、地理の制約を越えることはできない、
そこに人間が理解しえない壁が生れる。
そして地球だけではない、自分の住んでいる狭い場所でもまた地理感覚が違っている。
南相馬市でもここは地理感覚では国見山からみると確かに鹿島区原町区小高区が視界に入り原町句か中心になる。もともと原町市が中心だった。
相馬市ははずれている。飯館村が南相馬市に合併しなかったの地理的要因が大きかった。飯館村は山国であり南相馬市と通じていても別個の地域だった。


そして福島県となると大きな県であり地理的感覚として一体感をもつことがむずかしいと書いてきた。江戸時代から相馬藩は伊達と争ってきたけどまた伊達藩と接しているから伊達藩と交流が深かった。今でも福島市より仙台に通勤している人さえいたから仙台が身近である。常磐線が通じているから交通的にも身近である。
交通に左右されるという時、山形県は仙台の延長として仙山線で通じるという距離感覚になるから意外と会津より近いともなる。また蔵王が見えるから山形県の方が近く感じる。交通の影響でそうなる。会津は交通でも岩沼でのりかえ郡山でのりかえと遠いのである。ただもし新幹線が会津まで通ったりすると近いとなる。

いわき方面は前の平駅から仙台の方を望むと結構遠いと感じる。いわきからは茨城県や
東京が近くなる。現実にいわきとまで常磐線の東京までの通勤電車が八両編成ででる。
その電車に乗って東京まで行ったことがある。
この感覚は勿来の関が東北のもう一つの入り口だったから古代から変わっていないのかもしれない、


吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山ざくらかな 源義家


この歌は何か白河関とは趣が違っている。海に面しているからなのか?
桜前線ではいわきが一番早く咲くだろう。中通りや会津は山が関係して遅くなるだろう。いわきが咲けばすぐに相馬でも咲く、白河関は
「卯の花を かざしに関の 晴着かな (曽良)」とは対象的である。海の感覚ではない山の感覚である。
実際に白河関は山道であった。心細い山の細道だった。今の感覚とはあまりにも違っていた。

相馬では磐城太田(いわきおおた)駅とか磐城落合とか葛尾(かつろう)村のバス停にあった。古代では磐城の国だったことも地理的にわかる。福島県が磐城県があり二本松県があり会津県があった。これが福島県のハマ、ナカ、アイヅの区分けであり地理的要件と一致していたのである。福島県になったとき大きくなりすぎたのである。
だから会津となると今でも遠くわかりにくいし文化的一体感がもてない、相馬藩が水戸の天狗党に入ったりした藩士がいていち早く尊皇になったのは地理的に水戸が近いからである。会津とは阿武隈高原など山に阻まれて交流しにくい場所だった。

郡山で相馬藩士と会津藩士が争ったというのも郡山がそうした人が合流する場所だったことは江戸時代からそうたったからである。

人間の世界観には地理か影響している。人間は自分の住んでいる場所が基点となりいつも思考しているのだ。相馬藩内でもさらにその住んだ場所によって地理的感覚は違ってくる。鹿島区だと原町区に一番近いか相馬市にも近いからその中間点にあり経済的にも左右される。大原とか栃窪とか大原などは山側であり僻地になる。
原発のあった地域はちょうど磐城藩と相馬藩が争った地域だった。夜の森とは余の森と相馬の殿様が言って領有権を主張した地域だったのである。
はま側通ると浪江に入る所に「境の松」があったのも浪江は標葉郷で相馬氏と争い相馬藩に編入された地域であった。野馬追いに標葉郷の子孫のものが出ている。


人間の感覚は思想でも地理的感覚に制約を受ける。地政学的な視点から離れられないだろう。会津には会津の中心感覚が生れる。特に山国の文化はわかりにくい、京都のように山に囲まれた感覚は日本ではどこでもあま。海側に住んでいると海から太陽でも月でも昇ってくる。しかし山国では山から昇り山に沈んでゆく、この感覚がわかりにくいのだ。
日本海側では山から太陽が昇り日本海に沈んでゆく感覚はまたさらに違っているのだ。
夕日のなかに海岸線がある情景は太平洋側とまるで違った感覚になる。

2014年08月13日

桃を南相馬市原町区のコンビニの脇で売っていた伊達市の桑折町の農家の人 (その人が語ることには歴史が詰まっていた不思議ーにぐらや牧場の人)


桃を南相馬市原町区のコンビニの脇で売っていた伊達市の桑折町の農家の人

(その人が語ることには歴史が詰まっていた不思議ーにぐらや牧場の人)

●半田銀山は日本の三代銀山だった

桑折宿を出ると街道左手には半田銀山で知られた半田山(863n)の雄姿がよく見える。
かつては佐渡金山、石見銀山とともに日本三大鉱山といわれた半田銀山。慶長3年(1598)ごろから米沢藩上杉景勝の代より本格採鉱が始まり、江戸・明治期にその隆盛を極めました。  この銀山は幕府直営の御直山として佐渡金山と同組織で経営され、役人も佐渡、石見、生野から交替で派遣され産出量も大きく伸び、幕府の財政を大きく支えました。
http://www.town.koori.fukushima.jp/site/kankou/handa-ginzan.html

半田山(桑折町)は、徳川幕府時代に、通貨鋳造銀山として、佐渡相川金山、但馬生野銀山と共に日本三大鉱山といわれ、坑道の延長は十数キロメートルあり、当時は大いに賑わっていました。
「伊達はよいこと半田の銀山、末ははだかになる半田」との俗謡は日本中の坑夫が知っていたという。また、先代萩の芝居で御殿の場の一節に、政岡が「七つ八つから金山へ同じ名のつく千松は」と述懐するが、これは60余万石の重臣だった政岡が、半田銀山の一坑夫をうらやんだものと解されるくらいで、半田の当時の繁昌がわかる。
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/201008300000/

配線の接合に使われるハンダ(づけ)の名は、桑折町にあった半田銀山に由来するとの説がある。

半田山山麓にある半田沼は、伝説の沼としても知られている。
源義経が平泉の藤原秀衡を頼り、この沼を通った時、
金銀を背にした牛が暴れて沼に落ち、以来この沼の主になったという。
その牛は人を襲うので、沼に近づかないようにと伝承されていたようだ。

藤田宿は代官のいる桑折宿と違い、旅人や付近の人にとって気楽な宿場であったらしい。
そのためか、付近の人や半田銀山の人が旅籠や湯屋に入り浸りと賑やかであったようだ。
嘉永5年(1852年)で、旅籠は14軒もあった。
なお、この藤田宿は、今は伊達郡国見町(くにみまち)藤田となっている。
http://hitosh.web.fc2.com/04osyudo15/158oiwake.html

●にぐらや(荷鞍屋)だった農家

コンビニの隣で桃の安売りしていた人がいた。78個で一箱500円で二箱で1000円にしていた。これは安いと思った。次から次と売れてなくなった。
なんか桃の投げ売りのようになっている。放射能汚染で売れないのか多少痛んでいるのかわからない、味はいいしこぶりではあるがとってきたばかりで新鮮である。
その人は伊達市の元の桑折町の人だった。

その人は田畑も作っているし馬も競走馬も十頭くらいもっていて福島競馬なのだろう、競馬新聞で自分の馬が勝って賞金を獲得したと自慢していた。
そして自分の先祖は江戸時代から馬商人だったという、15代つづいていて正五郎とか正がついていたという。五代将軍からであり馬を徳川家に献上していた家柄であり葵の紋の提灯も家にあるとか言っていた。
その馬は盛岡から買って江戸に送っていたという。盛岡では確かに大規模な馬市が開かれたところであり福島県からも馬を買いに行っている。それは江戸時代からであり古い歴史がある。
その理由は江戸時代になり街道が整備されたからだろう。
でもこれほどの古い旧家だったということも驚きである。
「にぐらや」という家で天皇家に献上桃を出しているのだから由緒ある古い家なのである

福島県伊達市霊山町掛田荷鞍廻(字)

江戸時代末期の安政七年(1860)、村の商売を記した「松崎家名
書」には旅籠屋 荷鞍屋 ・馬喰(ばくろう)のほかに20種類もの食料品を
商う店が書かれています。成田詣の旅人が増え、さまざ
まな農閑商いを営む村人が現れ松崎は町化した村に変わ
りました。
http://www.city.narita.chiba.jp/DAT/05_1015p16.pdf#search=
'%E8%8D%B7%E9%9E%8D%E5%B1%8B'


「在りし日のこの国の文明」は「生態学のニッチという概念を採用するなら..棲み分けるニッチの多様豊富さという点で際立った文明であった。」「鬢を結うためのかたい詰めものを売る店、下駄屋、紙傘の店、日笠雨笠の店、紙の雨合羽や包み紙の店、人馬のためのわらじを売る店、蓑や蓑笠の店、馬の荷鞍を売る店。そして表通りには漆器店と仏具屋がある。古着屋、扇屋、掛け物を売る店、屏風屋、羽織の紐を売る店、ちりめんを売る店、手拭いの店、煙草道具の店、筆だけ売る店、墨だけ売る店、硯箱しか売らない店、
((渡辺京二『逝きし世の面影』)

「桑名よりくはで来ぬれば」と伝日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ちぬ。
徒歩ならば杖つき坂を落馬哉
と物うさのあまり伝出侍れ共、終に季ことばいらず。

「桑名よりくはで来ぬれば」という日永の里から、馬を借りて杖つき坂を上る時、荷物を載せる鞍がひっくり返って落馬してしまった。
(笈の小文 芭蕉)

今やこの人の家の屋号はにぐらや(荷鞍屋)である。この話でリアルなのはそれは江戸時代ではなく父親が荷鞍を作る職人でもありその作り方が他の人と違って工夫したところがあり作るのが早かったという。なぜ早くしなければならないかというと手作りだから多く作れないから早く作ったというのはなるほどそれは生々しい話しだと思った。
売るにしても売れるにしても手作りだから量が限られている。そうなると夜なべまでして作らねばならなくなる、残業である。
「人馬のためのわらじを売る店」というとき人だけではない馬のわらじも売っていたのである。馬もわらじをはいていたのである。
野馬追いでもそうだがそもそも馬のことがリアルにイメージできなくなってしまった。
自分は子供のとき馬車屋があってその馬車の後ろに乗って遊んだことを覚えているから
荷馬車のことがそれほど昔とは思えない、荷鞍屋は馬車ではない、馬そのものに荷物をのせて運ぶためのものである。荷馬車になるともっと大量に荷物が運べたのである。
荷鞍橋とか荷鞍が地名になっているところが福島県に二つもあることはそれなりに福島県でも荷鞍作りも盛んだったのだろう

●半田銀山の裏話は本当なの?

もう一つ半田銀山のことで代官が賢くて本当は金がとれたのに徳川家には銀を送っていたという。これはごまかしていて代官の名前には銀がついているが本当は金がとれていた。その金は飾り職人によって細工されていた。確かに伝説には金銀の山ともあるから金もとれていたがそれは報告しないで隠していたのかとなる。
こんな話までしているのはそういう話しが伝えられてきたからだろうか?
もちろん半田銀山にはそれだけの日本を代表する銀山だった。
だからいろいろな話しが伝説がまとわりついてくる。
ただこの話は自分ははじめてきいた。この辺の歴史も調べていないし桑折町にはよっていない。というのは福島市に何度も行っても駅だけの名しか覚えていない
越河ー貝田ー藤田とかの駅である。ここはもともと街道の宿場町だったのである。
だからここは自転車でたどらないとわからない所だった。
電車の旅はこうして歴史の跡をたどることができずぬけてしまうのである。
ただその頃自転車の旅はしていない時期であった。
それでもあとで羽州街道は自転車で旅した。あの小坂峠を自転車で登るのは最高にきつかったのである。
桑折町は羽州街道へ出るまた江戸へ出る分岐点の町でもあった。
だからここはもともと人の出入りがある繁華な町だったのである。

まず奥の細道は新幹線でも普通電車でも通り過ぎたら何の感懐もないだろう。
最近インターネットで詳しくその行程を紹介している人がいて何かそれをたどると旅した気分になるのである。
旅にはこうした知識も必要でありただ通り抜けてゆくだけでは跡に何も残らないだろう。だから旧街道をたどることは必ず本当は必要なのである。
ただ遠くからくるとわかりにくくめんどうになるのである。
もう一回ここを通って旅したいがそれができない
旅するとなると自由な時間がかなり必要なのである。車だとできるがやはり旅するのとは違う。旅とは現代では最も贅沢なものになってしまったのである。
それでも福島県内でも自転車で自分は相当に旅している。
だから思い出して文を書くのだがここの桑折町についてはほとんどわからなかった。
でもここは奥州街道の要所であり歴史ある町だったのである。

いづれにしろ桃を売っていた人はこんな話できるのだから何か商売も上手なのだろう。
話がうまいということである。競馬はギャンブルだけど競馬は馬が疾走するのが見れからパチンコとは多少違っている。自分は動物に興味がある。馬が草原を疾走するのを見たら気持いいだろう。そこに馬本来の姿がある。競馬はそうではないが今や馬が見れるのは競馬場しかないということである。馬については野馬追いでもそうだが馬そのものについてイメージできなくなっている。馬が身近に接していないから馬が何であったのかイメージできなくなるのだ。

あそこでは毎日桃を売っているわげではない、不定期であり今回はお盆で特別安くしていたのである。今回限りと書いてあったからそうである。でもまた来るというからまだ桃の時期であり売り来る。桃は期間が短いし外国産も入らないから競争相手がないからいいとは言っていた。献上桃の家にしては安く売っているのもわからなかった。
何らか桃も早いうちに売る必要があって安くなっていたのだろう。
福島市は暑いから桃の産地になったのである。

ともかくこうして一人で売る人は今や一人で市を開いていると同じである。
昔の市を思い起こす、市には物を売るだけではない、こうした情報が集まることなのだ。物を媒介として情報が集まりそれで見聞を広めていたのである。
情報通信が発達していないとそうして人が集まる場所で情報交換していたから
昔の市はただ物を買うというだけではなかったのである。
物を通じて人と人が交流する場所だった。現代はただ物がどうして作られてどうして運ばれてきたか皆目わからない、ただ物があり買うとういことしかない、その物が作られた経過もわからない。だから地球の裏側で作られた人のことなど関心がないのである。
つまり人と人の交流がないことが問題なのである。
バナナをとるにしても重労働だったという若者が言っていたがそういう話をバナナを売る人から直接聞けないことが問題なのである。
そういうグローバルな経済は非人間的にもなる。物だけが流通して人の顔は見えないのである。それは金融でもそうであり人の顔が見えない巨大化した結果、雲をつかむような金融の世界になっている。だからコンピューターが操作しているのか悪魔が操作しているのかユダヤ人陰謀論とかになってくる。それはとても世界化した経済が見えない世界になっているからそうなる。金だけ神のようになってしったとかマルクスが言うのもわかるのである。だから人間的経済を復興させろということがしきりに言われるようになってきたのである。
タグ:半田銀山

2014年10月15日

福島県の観光の魅力 (旅する経路が問題ー浜通り→中通り→会津の横断でわかる)


 
福島県の観光の魅力

 
(旅する経路が問題ー浜通り→中通り→会津の横断でわかる)

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●福島県を横断してわかる地形

福島県は今振り返ると広大であり地形の風土の魅力が大きい。海があり山があり川がありと変化に富んでいる。旅をするときよく自転車でも六号線を東京から青森とか旅する人はいる。つまり日本列島縦断が多い。どうしても日本列島を旅するとなると縦断が多くなるそれが最短距離だから遠くに旅する場合はそうなる。
そこに旅の盲点があり旅をつまらないものにしていることがある。
福島県を理解するにはこれは相当な時間と労力が必要である。
これは福島県に住んでいてもそうである。福島県全域を旅しても福島県は広いなとつくづく思う。特に会津は山国でありここはわかりにくい、山の領域が広いからわかりにくい。どれだけの山があるのかと思う。阿武隈山脈は山ではない、高原であり山の醍醐味がないのが残念なのである。
福島県ははま、ハマ、ナカ、アイヅに分かれている。ここでは気候も相当違っている。
浜通りは海に面しているから風土も違う、会津は全く山に囲まれている。
この相違も相当に大きい。
もともと福島県ができるとき磐城県と二本松県と会津県とに分かれていたのは歴史的にもそうだし風土地理的にもそうだったのである。
前にも書いたけど二本松の城にたつとあそこが福島県の中心のように感じる。
天守閣が高く一望できるからである。
中通りはもともと江戸時代から大動脈でありそれは平泉に通じていたのは鎌倉時代からだった。だから頼朝が国見町の圧樫山で藤原氏の軍勢と戦ったのがわかる。
芭蕉が来たのもこの道である。江戸からだとどうしても最短距離になるからである。

今は旅が便利すぎて旅にならない、旅はもともと不便であり不便だからこそ旅になっていた。新幹線で三時間で平泉に着いたとなると何の感懐もなくなる。だから名所がつまらないとみんな言っている。そもそも旅は過程にあるからだ。その過程がぬけおちたら旅にならないわけである。芭蕉の奥の細道がまさに徒歩のリズムで過程にあったから書けたのである。ただ芭蕉でもみちのくは一回しか旅していない、旅は実際はその過程にあるのだから旅の経路か違えば旅はまた違ってくる。
自分の人生がほとんど旅に費やしたというときそれでも福島県を知るのは容易ではないことがわかった。それだけ福島県は変化に富んで広いからである。
旅は福島県を中通りだけを通過したらつまらない、浜通りから中通り会津からさらに日本海へ横断すると日本がいかに変化に富んだ地形であるかわかくだろう。
そして会津から浜通りへ出て太平洋を望んだときの感激も大きいのである。
日本海から会津から浜通りへ太平洋へ出るとそれも同じ横断でも方向が違っていても全く違った感懐を抱くのである。
結局旅の経路はきりがないから一人の人間の旅する時間が限られているから知ることも限られているとなる。

旅をするときどうしても東京からとか大阪からでも縦断が多くなる、福島県を横断するとなるとまた時間がかかりすぎるからそうなる。今は車だからそれがしやすいか車だとまた早すぎて印象に残らない場合が多い。例えば車だと風を感じないのも致命的になる。
夏の盛りに阿武隈高原を越えて太平洋の方に向かうと涼しい風が吹いてきて救われた感じになった。福島市は暑く蒸し風呂のようになるからだ。
その風を感じるのは自転車だといい。自転車はまたきつい坂を上ることを記憶している。あそこを息咳って苦労して登ったと体に記憶されるのである。
まず風土とか地形を知るにはいくら立体地図をみてもわからないのである。
峠があったとしてもそこを登る体験をしないと実感しないのである。
バイクだって早すぎる楽なのである。自転車とは全然違っている。
だから40すぎてから自転車旅行しているとき若い者がバイクで飛ばしているのも変だった何だ若いのに楽だなと見ていたのである。

●猪苗代湖の湖西は隠された地域

福島県を旅するとき会津に入るのにも郡山市から入るが旧街道の白河街道を昔の福良とかを回り旅すると興味深いし情緒がある。あそこはあまり車も通らないからいい。昔の街道の感じが残っていたのである。

雨しとと田植えの人や湖西かな

奥羽山脈の中にあり、北に磐梯山、南に猪苗代湖、東に郡山盆地(安積原野)、西に会津盆地がある。
湖南は郡山市の領域であり会津の方に向かう所は湖西だったのか?琵琶湖でも方角でそれぞれ違った趣をだしている。方角地名は地名の基本である。

湖南出身の民俗学者・橋本武氏が、安積から湖西に嫁にきた<おたかばあさん>(当時75歳)に聞き取りをしたときの記録です。
<おたかばあさん>、<大正のはじめごろはこの地の田んぼは1反歩3俵ぐらいしかとれず、1町3反歩耕作していたがくらしは貧しく、炭焼きをするしかなかった・・・>
http://eigaku.blog.ocn.ne.jp/test/2011/08/post_72af.html

経沢(へざわ)――福島県会津若松市――の物部守屋一族落人伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/30535860.html

これらのインターネットの説明は興味深い、なぜかというとここが黄金とか鉄の生産と関係していたとなるとそこになぜかここに

荒脛巾 (アラハバキ)神社と扁額に書いてある神社がある。
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/ca6443348a2c24f9128edd076cdfe454

これは知られてはいるが東北でもあまり見かけない神社なのである。大和王権に滅ぼされた蝦夷だという説がある。阿部氏と関係しているのも東北では多い。
この辺は何かまだ知られていない秘密的な場所である。白河街道の方を来る人は少ないからである。
この辺は前にも書いたけどまたそれからいくらでも発展して書けるのかインターネットである。インターネットだと本のように固定しないのである。常に簡単に書き換えられて新たなものとして展開してゆく、それが本との相違である。本は固定しているからである。今はある地域に詳しい情報がインターネットででている。
本で探していたら容易ではないしできない、本はまず一冊は厚くて読めないから触りだけでも読むのがいいのである。それだけでも全国となると広いから助かるのである。

足とめて清水を飲むや野菊かな

夕日さし白河街道芒かな我がたどりゆき会津に入りぬ

次回はまた旅のご案内を御期待!

タグ:福島県

2014年10月30日

霊山まで秋の俳句十句 (鹿島→栃窪→大倉→佐須→霊山→玉野) 霊山まで秋の俳句十句 (鹿島→栃窪→大倉→佐須→霊山→玉野)



霊山まで秋の俳句十句


(鹿島→栃窪→大倉→佐須→霊山→玉野)

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秋日さし老木保つ齢かな
老木に晩菊映えて介護かな
土壁の蔵や黄落に日のさしぬ
柿なりて土蔵に映えぬ畑に人
晩菊に石の動かじ門の脇
晩菊や栃窪村を過ぎにけり
碧水に紅葉写りて巌かな
この家に紅葉燃ゆるも人住まじ
空は澄みともに燃えなむ紅葉かな
峰々の連なり高く秋霞
みちのくの吾妻連邦秋霞
晩菊にコスモス映えて日のさしぬ
旧道をたどりて秋の昼の月
秋日さし玉野に古りぬ碑の四つ
三日月や夜に影なす五本松

木を叩くキツツキの音霊山の高きに重くひびきけるかな
玉野より相馬市遠き古き碑のここに残りて秋の日さしぬ

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真野側渓谷

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今日は風もなく晴れたのでひさしぶりに大倉から佐須を通り霊山まで行ってきた。
最初に見たのがこの生きているのか死んでいるのかわからない老木である。
そこに晩菊が咲いているのもあっている。
この木はまるで百歳生きた老人にも見える。自分の母親にも見える。
晩菊はまさに自分のことであり介護しているのである。
今親を介護している人も老人になっているのだ。
ただ現代では本当の老人は70以降になっているかもしれない、70まで元気な人が多いからである。自分も病気になったがもともと軽いものだった。
ただ看護するものもなく辛いものとなったのである。
それでも時々異常に筋肉痛になって自転車に乗れないのではないかと心配だった。
今日はそさほど疲れていないかもしれない
この辺は田舎の暮らしが途絶えてことで風景も殺伐としている。
ただ畑を羽しめた人は多くなっている。
ただ風景でそこに暮らしが野に働く人がいないと活きてこないのである。

大倉からは除染の人が一杯いた。あそこは道が良くなりドライブコースになっていた。
でも人は住んでいないから淋しいとなる。
猿が出てきた、小猿もかなりいて親の背にのっている。器用に木の枝を伝う。
まず小猿でも子猫で親より機敏なのである。子猫は親より柔軟性がある。
野生の子供でも適応力があるものだと思った。
そうでないと生きていけないということだろう。
動物を観察していると本当は面白い、でも動物の写真は一瞬をとらえるのがむずかしい。動いているからその一瞬がとれないのである。

紅葉は佐須辺りでとったのか一番きれいだった。あとは真っ赤になっていない、霊山も紅葉ではない、紅葉はほとんど見れないのが残念である。
あそこも人が住んでいていから淋しい、でも除染して人が住むようになるのか?
空屋とも違っている一時留守にしているという感じである。
ただ除染してもどれだけ効果あるのかは疑問なのである。
霊山の上でキツツキが木を叩いていた。それも大きなキツツキでありコゲラとかではない、その叩く音が重く響いていたのが印象的だった。クマゲラは一番大きいがそういう種類ではない。でもやはり山に来るとこうしたものに出会うからいいのである。
あそこからは吾妻連邦の峰々が浮かぶように見えた。
あれは秋霞なのだろう。山は遠くから見る方が感動的である。
山がきれいに見える場所は高い山から見るときれいに見えるのである。
それはヒマラヤでもそうであり3000メートル登ると天をつくような8000メートルの山が見える。
山の魅力が本当に大きいから山で死ぬという人がある。山に魅せられるのである。

ただ山は登らなくて見るだけで十分山を知ることができる。
そさでもやはり見る場所が問題になる。富士山でもそうなのである。
富士山も何か見る場所によってこれが富士山かとがっかりする。
それは見る場所によっているからなのである。
自分は山はそんなに登っていないし山もあまり見ていない
山をもっと知りたいなと思っているが今はせいぜい霊山まで行って吾妻連邦を望むことはできる。
春に行った時の方が残雪の吾妻連邦を見たからきれいだった。
その時のことは写真もとったが報告していない。
毎日書き切れないのである。

福島市から相馬市まで高速道路を作っている。高速道路ができると三つの道になる。一番古い旧道と今の道路と高速道路になるのである。
だから古道という地名があるのは昔も新しい道が常に生まれていたからそうなったのである。古町もそうである。
玉野から相馬市は意外と遠い、玉野は相馬藩内で伊達との境だけどずいぶん城からは遠い所だと思う。
あそこで米沢藩と伊達藩と相馬藩の森林資源をめぐって争いがあったことは有名である。玉野が相馬藩になっていたのは森林資源を得るために相馬藩の領内になっていたのであるそこに境目付が配置されたのである。それは森林資源を確保するためだったのである。

相馬市街か離れた田んぼで白鳥が群れなして飛んで行った。
今年の天気は変則的である。今日はあたたかいからまだ秋である。
昨日は冬だった。白鳥が来たということは冬になるのである。


タグ:霊山

2014年11月07日

春の短歌二十首(平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ) 春の短歌二十首(平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ)


春の短歌二十首

(平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ)

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(浪江)
高瀬川轟く流れ春の日やそそりたつ巌をまた見む鳥鳴き飛びぬ
岩を打ち轟く流れ高瀬川春日まばゆし奥へ入りゆく
流れ来る二つの川や浪江町春の大地の請戸に展けぬ
請戸港船の並びて春日さすその日も消えて荒野となりぬ
大堀を春に訪ねぬ陶工の技を磨くや大き壺買ふ
夏の日の野馬追いに来る大堀の人帰らじと陶器売るかな
白河に窯を持ちしと相馬焼技伝えつつ浪江に帰らじ
恨めしき原発近く人は消え淋しき家や秋の日没りぬ
(津島)
塩浸し春の日来たりて店により津島に向かふ遠き道かな

津島より道は分かれて三つかな店も出しにつ春の日つきぬ
飯館ゆ津島につきぬ山陰の道の長しも春の日暮れぬ
さえづりの津島にひびくここよりや二本松に向かふ道の遠しも
津島にそ古き墓あれ浪江より遠きもここに埋もる人かな
(葛尾村)
上りゆく葛尾までや落合に昔の墓や春の日暮れぬ
葛尾(かつろう)に古き農家や春田のありて営みのあり
栄えあれ葛尾大臣山深く近江八景に妻は偲びぬ
(三春)
山路きて三春につきぬ長々と枝垂桜や家そ古りしも
三春なる城跡に立ち相馬との縁(えにし)の深く春の日暮れぬ
めご姫の伊達に嫁ぎて伏見へと三春思ふや春の日あわれ



今になると何かこの辺はいろいろとありえないことが現実になりなんと言っていいかわからない。
浪江の高瀬川はちょうど水墨画のような岩がそそりたち名勝の地だった。
その高瀬川の平地に流れ出る所に大堀の相馬焼きの里があった。
あそこも場所が良かった。高瀬川が流か急だしダムもないから自然のままであり水墨画のように見えた。
請戸にしても江戸時代は盛岡の宮古から鉄の素材を運んで葛尾大臣がいて栄えた。
そこには近江八景の庭を江州から滋賀県から妻を娶ってすまわせたからである。
あれだけの山の中だと退屈したということもあったろう。
葛尾村から三春のほうが近く昔はバスも小出屋を通って通っていたのである。
つまりあの辺になると三春のほうが近いから葛尾大臣が三春の殿様を招待したというのも津島に行く塩浸しという小さな川があるところに店がありあそこで休んでパンなどを買った。塩浸しとは塩を運んでいた馬が塩を落として塩浸しとなったという伝えがある。
あの辺も何回も行った記憶がある。

下冷田越えて津島や春の日に二本松へバスにのるかな

 「冷田」の場所は、谷津の開口部に当り、台地を流下してきた水が出てくる位置でもあります。谷水が溜るような土地であったかもしれません

 品種に関連しますが、ヒエダは「稗田」とも呼ばれます。稗は、米に比べれば雑穀とされますが、環境条件の悪い場所でも収穫できます。暖まりにくい水田は冷めたい田であり、水稲の成育には適していない

 http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/dokusyo/timei/hieda.htm
 
 同じ地名が全国にある。やはり冷えるというのは水が冷える温まらないということかあった。あそこは何かそんな山奥の坂でありそういう場所だったからふさわしい感じがした何か地名は心に残り安いのである。何か日当たりが悪い暗い感じの場所にも思えたからだ
葛尾村も落合に明暦の碑があったように古いのである。
相馬藩の山中郷である。小出屋は自分の父親が出た所である。
双葉の新山に酒屋の丁稚になった。そのことも何か謎が深い、戸籍を見れば祖父に当たる人は柏原であった。そこは津島から近い。
三春は相馬藩とは歴史的に相当に縁が深い、争いがあっても殿の姫が嫁いだりして縁戚関係にあった。三春のめご姫は伊達政宗に嫁いだことで有名である。
戦国時代でも江戸時代でも常に政略結婚でそうなっていた。
めご姫はただ大阪の秀吉の伏見城のあった伊達家にあり人質としてそこで一生を終えた。それで不思議だったのは飯館からなぜか京都に移り住んだ若い夫婦をテレビで紹介していた。あんな遠くに行ったのかと不思議だった。
今は結婚は全国が相手だから不思議ではなくなっている。
だから避難した人は全国に広がったのである。

それにしても今になると平和だった日を偲んでいる人がいるだろう。
請戸には一回しか行っていない、春の日であり穏やかに日がさして船が並んでいた。
それは何でもない風景でありとりたてて珍しいものではない、でも津波で壊滅した結果その風景は失われて何も残っていないから不思議である。
一転してあまりにも荒涼とした風景になってしまった。
南相馬市立病院に入院していたときあったのが請戸の人であり農家で手広く畑を作りそれを今のイワキの平に売って財をきずいた。その人は優秀な農家で表彰もされているし若手を指導していたのである。でも重病になり妻が浪江から毎日通っていた。
そして手をにぎるとわずかに反応するのだが何かわかっているのかわからないのかただ手をにぎられ何かを感じていたのかもしれない。
反応といえばそれだけだったのである。だから悲惨だった。
その人は娘三人を大学に出しているからそれだけ優秀だったとなる。
それは畑作をして商品として野菜を平に出していたからなのだ。
請戸というと港のように思うが広い土地が広がっていたのである。
だからそれだけのもうけを出す野菜を作ることができたのである。

大堀でも相馬焼きを作っていたが消失した。野馬追いで店を出していた人は白河で二軒ばかりが窯をもって定着するという。もうあそこて相馬焼きが継がれることはないのだ。
浪江はやはり避難して復興することはむずかしい。
小高でさえ聞いてみると年寄りはめんどうだから帰らないというし若い人ももちろん帰る人は少ないのである。
一億円もらって他で新しく始めたほうがいいとなるのが現代的になるからだ。
人間は今は苦しいことをあえて選ばない、楽な方が用意されていればそこに行くようになる。
飯館村では除染した一軒の家に一億円かかっているという。なぜそんなにかかるのかというと後ろの山林などを木を切って除染したからそうなる。
なぜこんな金をかけて除染しているのかもわからない。
まず小高浪江でももう今は街があのようになると復興はずかしくなる。
小高などは放射線量はこの辺と変わりない所が多いのに帰らないのだから余計にそうなる


春の短歌十首(津島から葛尾、三春、飯館へ)
http://musubu.sblo.jp/article/28874706.html






タグ:春の短歌

2015年02月07日

会津の雪の詩 (会津は一つの国の文化圏ー福島県は広い)


会津の雪の詩

(会津は一つの国の文化圏ー福島県は広い)

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雪深く技あ磨きぬ会津塗り
車窓より雪に埋もれぬ社かな
城により会津の武士道松に雪
城下町茶の道残り冬深む
雪埋もれ会津の武士の眠るかな
城下町蝋燭の光雪に映ゆ
曲屋の雪に埋もれてけ奥会津
雪埋もれ木地師の裔や山の中
山中に木地師の灯し雪深し
蔵の梁黒く太しも積もる雪
津南町川の港や凍る雪

深々と雪に埋もれて墓の見ゆ後ろの農家も雪におおわる
猪苗代湖畔の雪やあわれかな野口秀夫の貧しき生家
火を吐きし磐梯山の風雪を帯びて厳しく凍る湖かな



会津の雪の詩

雪の深さに樹々の静まり
寥々と風は鳴るかな
樹々に吹雪て引き締まる
今日も霏々と雪は雪はつもりぬ
その林の奥処の知らじも
会津の雪の白さや会津の心
会津の武士道こここに育ちぬ
火を噴きし磐梯山を望み
その厳しく凛々しき姿よ
貧しく清らかにも哀しき
猪苗代の湖畔に雪はふりにつ
湖は凍りて純白の白鳥こそそこにあれ
城下町技を磨きぬ会津塗り
蝋燭の灯は雪に映えにき
雪埋もれ木地師の裔の山に棲み
曲家の雪に埋もれて奥会津
長き夜や囲炉裏を囲み物語せむ
しんしんと雪はふりつつ
会津の城下や無念を秘めて雪に埋もれぬ



福島県はそもそも広すぎる、ハマ、ナカ、アイヅに別れていて気候が違う。だから福島県を一つとして語りにくい、歴史も違っている。
明治維新のときなぜ相馬藩が尊皇の水戸天狗党にいち早く属したのか?
それは浜通りであり水戸に近いからである
棚倉からは水戸街道であり水戸に通じている。
東京からも今でも浜通りの六号線は水戸街道と言っている。
会津は水戸より遠い感覚であり交流も少ない、ただ福島県内でも会津藩は大きいから中通りとか相馬藩にも影響はしている。
それでも会津藩は一つの大きな国であり文化圏なのである
会津は風土と歴史とが一体化した一つの大きな国である。
だから歴史の厚みがあり文化の厚みがあり福島県の文化の中心ともなる

福島県だと会津かなとなるのが外から見て会津が特別であり特徴が風土的にも歴史的にもあるからだ。
会津は雪国でありその雪から会津の心も作られたのである。
だから雪を知らずして会津や日本海などのことがわからないのである。
雪というとき全部同じ雪だと思っているけど雪質とか感覚は違っている。
「心から信濃の雪に降られけり 一茶」というとき信濃の雪はまた違ってる。
青森で朝降った雪は何か明るかった。これもしめった雪とか新潟辺りはそうなるのか、
何か違っている。会津の雪も会津らしい雪のなである。
ともかく会津は本当に広い、そして2000メートル級の山がひしめいている。
その山もわからないのである。それは尾瀬まで通じている
山を知らなければまた会津をしりえないのである。
山の心が会津の心にもなる。

会津はまた会津若松の城下町があり明治以降は喜多方が商人街として発展した。
この二つの街は対称的である。歴代の会津藩士の殿様の墓地があるのも特徴的である。
そして会津城下町は本当に城下町らしい体裁を調えている。
職人の街でもあったからである。会津塗りとか会津蝋燭とかか産業としてあった。
これも山が多いのだから会津塗りは木地師が碗を提供する必要があった。
その材料を求めて近江の方から蒲生氏郷が職人を連れてきたのである。
面白いのは浄法寺碗、秀衡碗(岩手県)の影響を強く受けたらしく仙台市が市場としてありそこを通じて技術が伝播されたという
仙台が江戸時代でも市場としてそこを中心にして東北のつながりがあったことは今に通じている。
「会津商人」というのが巣てに知られていた。

村紅葉會津商人なつかしき  蕪村

領国経営の手法は信長似ており、商業優先政策(楽市・楽座の実施)をとる。近江商人→松阪商人→会津商人と、経済政策において極めて優秀な統治を行う職人も多く招いた。漆器、ろうそく、木地、焼き物などの基礎をつくり、その産物は、日野や松阪から連れてきた近江商人によって全国に販売され、会津に大きな経済効果を生み出している。
芦名時代からの会津商人司簗田藤衛門道幸の屋敷跡でここに2500坪の屋敷を与えてその発展を期させた つまり会津は近江商人 伊勢商人の集大成の町で白虎隊だけの町ではないのです

養蚕、漆、ろう、紅花などの栽培を奨励して、価値の高い商品作物を生産することに力をいれました。特に朝鮮人参は高価な商品作物であることから藩直営の事業とするために人参奉行所を設け、人参の生産販売を専売制にしました。そして、藩の指導奨励と農民の根強い努力で、会津の朝鮮人参(会津和人参ともいわれる)は天保(1830)幕府の許可によって日本ではじめて輸出人参として清国(中華人民共和国)のむけ長崎の港を出港したのです。
http://www.musubu.jp/jijikyodoshi.htm#aizu

会津の歴史は厚みがあり会津藩は大きく明治維新で敗北したが大藩で最後まで幕府側にたち武士道を貫いた。会津の魅力は雪国であり風土と一体化しているところにある。
東京とか江戸城があったとしても大阪でも大都会化して風土ときりはなされているから魅力がない、ただ高層ビルを見るだけになっているからそこに精神性もつちかわれない。
徳性すらつちかわれない。ただ金儲けのビジネスがあるだけだとなる。
江戸時代の魅力は風土と歴史とかが生活そのものと一体化していたから魅力があった。

ただ時代か変わると価値あるものもの価値がなくなる。結局一つの物でも碗一つとってもその当時人々が使っていたから価値がでてくる。
今になるとあまり碗など使わないし規格化された大量生産のもので使い捨てにしている。昔だったら碗一つが高いし貴重でありていねいに一生も使っていたかもしれない、
だからこそ当時の使っていたものは当時の人にとって今の人の感覚では計り知れない価値があっんたのである。
今はそれを土産とかで買ってもその価値は喪失しているのである。
江戸時代は簪一つにしても今の価値とは全然違っている。
珊瑚の簪とか価値があった。それは美的なものとして使われていたから価値かあったのである。
江戸時代のものは一つ一つが職人の手作りであり価値があった。
下駄一つ一つに職人の名前すらついていたのである。
そういう価値観の時代と今の価値観は違いすぎるから価値あるものも価値ないものとされる。
ただそうした物の価値でも時代が作っているのである。
その時代に生きた人達がいて使っていて価値が生まれたのである。

だから使わなければ何の価値もでてこない、例えば自分の母が百歳になり百がモモであり桃色のちゃんちゃこを買って着せた。
これは一回だけ使ったのである。だから無駄だとも思えた。
しかし百歳まで生きることはまだまれだから記念に買った
そして一回だけ着ても使用しもそれに価値が生まれる
なぜならそのものか使われたことによって精神性が付与されたのである。
百歳生きた人が着てそこに百歳の魂がのりうつったとも大げさだがなる
つまり江戸時代の物でもそういうことがある。
使われたことによって価値が生まれそこにその当時の人の魂がのりうつっている物なるから貴重だとなる。
ただ現代になると骨董品のように飾っていても価値は生まれないのである。
時代時代に価値あるものがあるがその時代でしかその物の価値がしりえない、今では碗にはそれほど価値がない、でも漆器は近くに塗り屋がいたから漆塗りは塗るだけで相当な手間であり労働なのである。
そういう手間と労働を考えても碗一つの価値がどれだけ高かった偲ばれるのである。

 
タグ:会津

2015年02月08日

会津の方角地名 (方角地名がその土地を知る基本)


会津の方角地名

(方角地名がその土地を知る基本)

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塔寺の駅におりたちあわれかな秋の日さして豆たたく人
塔寺におりたち道の別れゆく西会津かな秋の夕暮
西会津道分け入れば芒かなかなたは越後や陽の没りゆきぬ

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地名の基本は方角地名である。南相馬市では合併して南相馬市になったのは相馬市から南だったからという、相馬郡はもともと相馬氏が小高に最初の城を築き在地の豪族を支配して行った、小高より北の北郷はみて南相馬市の鹿島区と相馬市の領域である。
相馬市はもともと伊達の支配地域であった。
だから北郷というときそれは歴史的地名としての北がある。
小高が中心として北郷がある。本郷というときもそこが中心の郷になるからである。
旅をするときまず方角がわからなくなる。方角がわかればその土地の全体の姿が見えてくる。滋賀県は琵琶湖中心だからわかりやすい、湖の西がありその方向の比良の山にが没る西は陽の没る地域である。西は何か淋しい感じを受けるのである。
東とつくと陽の昇る地域であり明るい感じがする。
京都でも方角地名から全体の姿をとらえると東山は陽の昇る山であり明るい感じになる。北山とかなると何か寒い感じになる。
だから会津の東山温泉となると京都の東山に通じるのかとなるとこれもどうしてあそこが東山なのかわかりにくい。
喜多方は北であるが北会津となるとまた違っている、どこから北会津なのだろうとなる
つまり方角地名はどこが中心なのかが問題なのである。
相馬地方だったら歴史的小高が中心だったからそこで北郷というのが歴史的方角地名として残っている。
histrical centered place がどこになるのかが問題である。

会津では西会津というのはわかりやすい、それは越後へ新潟へ通じているからである。
西会津は会津市街から離れた辺鄙な淋しい場所に感じられる。
秋に旅したときは芒がなびきそうだった。西会津の奥にも温泉があり新潟に出た。
バスだったので地理的にわかりにくかった。
白河街道は自転車で旅しているから地理的にわかる。
ただ白河街道が会津に出る場所が東山温泉だったことかわかりにくい。

いづれにしろ地名は方角地名が基本である。そもそも世界でも西と東(オリエント)に別れる、西はヨーロッパ
であり東はアジアであり中東となるとその中間とかなる。
日本でも西と東があり東はアヅマであり福島市には吾妻山がある。
遊牧民とか海洋民にとっては方角が一番大事である。
方角を知ることが生死を決する。砂漠で日本人の一団がラクダを率いて旅したが水のある方向がどっちかで苦慮した。幸い経験者がいて水のある方向に導いて助かった。
砂漠や平原とか大陸とか広いところを旅するには方角が一番大事なのである。
それで北斗七星と北極星が目印となり相馬藩でもそうだが野馬追いでも妙見信仰は北斗七星信仰が中国から伝わったのである。

不思議のなのは日本は最初ポリネシアとかの海洋民がわたってきたので日本語はポリネシアに由来するという説がある
海からみて船にのって日本列島を見る、海から方角地名が生まれる
ニシとはイニシであり太陽が去ってゆく方向にある。それは海から見てそうなのである。陸地ではない、だから日下石(にっけし)とはニシの方向にある海岸地帯だったのである。今回の津波で本当に日下石(にっけし)まで海なったことに驚いた。
あの辺は縄文時代は海だったであり海岸地帯だった。
鬼腰館という中世の砦があるがあれも鬼とは北の方角でありあそこは北風を受ける小高い山だった。

いづれにしろ方角地名からその地域をイメージさされることが多いのである。
奈良の西の京というとき何か西でありさびれた感じになる。

奈良市の西の郊外で、平城京の右京を西京と称したことに由来するといわれています。秋篠(あきしの)川西岸一帯をさし、薬師寺、唐招提寺・・・

ここは別にさびれた場所ではない、右京が西になっただけである。

赤々と椿の散りぬ西の京築地塀古り古(いにしえ)偲ぶ

西の京春の夕日影塀長く古偲ぶ堂塔の跡

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タグ:塔寺

2015年02月09日

白河街道を会津へ (会津の歴史を白河から偲ぶ)


白河街道を会津へ


(会津の歴史を白河から偲ぶ)

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 小峰城の西側に広がる会津町。白河も領地としていた会津の蒲生家が改易となり、多くの浪人が出た。棚倉から白河に移ってきた丹羽長重が、これらの家臣を召し抱え住まわせたため、「会津町」と名付けられたとのこと。白河には、今でも会津にゆかりのある方が少なからず住み、「あいづ」の名で商いをしている店もある。
 http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/view.rbz?cd=3704
 
伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている
奥州仕置によって伊達氏が岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後は、上杉景勝の領地となって、梁川城には須田長義が置かれた。現在の梁川城の遺構は基本的にこの時代の城主…蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義によるものと考えられる
会津の勢力が梁川まで伸びていた。丸森で伊達政宗が戦いたのは梁川城があったためである。丸森は地理的に相馬に近い、今でも丸森と相馬の関係は深い。
相馬市の病院に入院していた人は丸森の人であり丸森の人は相馬市が近いから往き来する丸森から相馬地方に働く人達もいる。
だから一時金山城は相馬氏が城主となっていたのである。
ただ丸森から梁川はかなり遠い、山を下って行ったが地理的には不便である。
阿武隈川があるにしてもそこには急流があったりするから船を利用できないだろう。
この辺の事情はわからないが梁川は会津と伊達と米沢藩が城主となっていたからそういう場所にあった。


白河となるとここもわかりにくい、白河の関所があるがあそこが本当に古代からの関所だったのか特定されていない、ただ今でも奥深い場所にあり暗い杉の林の森でおおわれた道をゆくからあそこがいかにもみちのくへ入るにはふさわしいし奥の細道を感じるのは福島県ではあそこだけである。
あそこに盗賊が出たという伝説が残るのもわかる。
その白河から白河街道が会津まで通じていた。猪苗代湖の湖南町を通り東山温泉辺りに出る道である。ここは自転車で旅したからわかる。
勢至峠は今でも昔の面影を残している。道が細く両側に宿場町の名残りとして家並がある

馬を育て馬と別るるあわれかな馬頭観世音に秋風の吹く

此辺の若駒は凡て婦人の手で育てられるので、優しい別離の場がこの日何回も演ぜられた
勢至菩薩は馬の守護神かと思はれる。奥州では処々にその石塔がある。

馬と人間の物語はいろいろある。今は牛と人間の物語である。飯館村では牛の村だったからそうだった。牛の名前を十頭も覚えていた。意外と羊でも飼う人は特徴があり名前をつけて覚える。名前をつければ名前を呼べば人間と等しくなる。
猪苗代湖を見渡せる高原のような所がありそこに一面に月見草が咲いていたことを思い出した。

感動するのは 峠を越えてしばらく下がったころから目の前に現れる猪苗代湖へ
続く里山の美しさである 
http://ameblo.jp/nanacuba/entry-11835922785.html

一面に月見草咲き猪苗代湖その藍色や秋となるかな

福良で蔵の宿に一回泊まったのも一興だった。福良は宿場町であり奥まった場所であり趣がある。

福良にそ磐梯山望み見る波音ひびく秋の朝かな

白河街道は春にも行った。今思い出しているのは秋である。

街道の奥にこそあれ足とめぬ野菊の咲きて清水流れぬ
街道の道のり遠し芒原山間越えて会津に出るかな

そこは車もあまり通らない、芒だけが茂っている淋しい場所である。
ただどうしても記憶はうすれてゆく、あそこから歴代の会津藩士の墓のある

苔むして墓も古りなむたずぬれば今ひとしきり秋の蝉鳴く
三人の戒名見れば女なり側室にあれ苔むしにけれ
歴代の藩主の墓の積み重ね墓山となり時は過ぎにし

あそこの松平家の墓所はまさに墓山だった。立派な墓があるのだがそれがすでに過去の栄光を語るだけであり今は苔むして無常を語るだけだった。
結局墓を立派にしてもその墓も苔むして無常を語るだけである。
三人の女性の戒名の墓があったのはそこには側室もいたのか、それはわからない。
どういうわけか女性個人の墓が相馬藩でも何人も残されている墓地があった。
なぜこんなに女性の墓があるのか不思議だった。やはり武家では女性個人でも重んじられていたということなのか?最後に人間残るのは墓である。ただ墓も無常なのである。
無縁墓として元禄時代の墓まで捨てられて墓の墓場になっていたことが放送されていた。墓の運命も遂には捨てられことにある。
自分も墓に金かけて新しくしたのが失敗だった。
どんなに立派な墓にしてもその墓も時代や時の流れに忘れられ無常を語るだけになる。
すでに明治からは武士の墓はそれほど意味ないものになっていたのである。
むしろ民俗学的には路傍の馬頭観音の碑とかは文化財として見直されているのである。

会津若松の中心から五つの街道がのびる。白河・二本松・越後・下野・米沢街道。白河街道は奥州街道を経て江戸につながる重要な道。今の国道294号がこれにあたる。 
  
晩年白河を越える折二人はこう詠んだ。
 
 八重 老いぬれど又も超えなん白河の関のとざしはよし難くとも。
 頼母 旅にねしむかしの夢のあととへばうらみを知るや白河の関

会津藩は明治維新では激しい興亡があり無常を語る場所になったのである。
その恨みが未だに残っていることでもわかる。
白河と棚倉が関係していたことはわかる。距離的に近いからである。
棚倉藩は水戸への街道が通じているように水戸に近い、白河はみちのくの境である。
水戸に近いから水戸学の水戸天狗党に尊皇の攘夷思想に相馬藩士がいち早く洗脳されていたことがわかる。
そしていち早く皇軍の薩摩長州軍に帰順して丸森で仙台藩と相馬藩士は戦ったのである。その時船で磐城の方まで行った、やはり船の方が便利ということがあった。

福島県が福島市を県庁とした理由は二本松にも会津にも置かなかったのは皇軍に抵抗したからだという。それで福島市は関係ないから置いたという、たた福島市は平坦な土地が広いからそういう地の利が影響しかのかもしれない。二本松市は山が多いから新都には向いていなかったともとれる。
福島県の歴史もこのように複雑に交差している。
だからそもそも福島県を一体のものとしてみることが歴史的にも地理的にもむずかしいのである。
歴史的には会津の人は会津の歴史から考えているからである。会津はそれだけの歴史の厚みがあるし広いからである。

白河に会津町あり城の側ここより偲ぶ会津への道

 
タグ:白河街道

2015年04月13日

二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城 (福島県では一番魅力ある城)


二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城


(福島県では一番魅力ある城)

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洗心亭で抹茶を飲んだ。

「この洗心亭は江戸時代に作られたものでぼっしん戦争で消失したのですがこれだけは焼けなかったのです」
そうですか、日本の城はほとんど残っていません、石垣だけが残っているだけです
あとで新しく建てたのがほとんどですね
「これは江戸時代に作られたものだから貴重です」
「そういえば何か茶室風の作りですね」

茶室といってももともと民家を基にしたわびさびの作りは農民がそういう環境で生活していた。その時農民はわび、さびなど意識しない、そのわび、さびは豪勢な建築物が豊かさが生れたとき意識されたのである。

「この城で気になっていたのが何であんな高い所に城を築いたかなのです」
「それはここはもともと畠山氏が建てた山城だったからですよ」
「ああ、そうか、最初は城は防衛のために山城からはじまっていましたからあんなに高い所に建てた」
「畠山氏のあとは丹羽様が城を築いたんですよ、丹羽様が信長様と縁故があったんです」「信長が出てくるのは古いですね、東北では秀吉は会津にも来ていますし
石田三成は相馬に来ていて野馬追いの旗印の三成のものを残したんずすよ」

なぜその抹茶を出した年配の女性がしきりに信長のことを言うのがわからなかった。
ただ畠山氏は南朝で霊山の大将になっていたから古い氏族である。
二本松城では伊達政宗と激しい攻防戦があった.相馬氏もこの攻防戦に深くかかっていた。


畠山氏を救援するため、佐竹・芦名・岩城・二階堂・石川・白河・相馬氏の反伊達連合軍約三万の軍勢は一旦須賀川に集結したのち安積郡に進撃した。

 同年七月四日相馬義胤が伊達実元・白石宗実を介して二本松城の無血開城を申し入れてきた。その夜家臣と談合した伊達政宗はその申し入れを受け入れることにした。
  同月十四日畠山主従の安全が保障されるよう相馬勢が二本松城に入城し、同月十六日畠山国王丸は二本松城本丸に自ら火を放って城を退去し会津の芦名氏を頼り、ここに戦国大名畠山氏は滅亡した。
  
  城の歴史
  http://bit.ly/1aWnMXR

秀吉のもう一つの一夜城、石垣城の謎

このサイトの絵が二本松城とぴったりなのである。これと同じ配置なのである。
  
城の歴史をふりかかると中世の館(たて)と呼ばれた山城から城が発展した。
地名で館(たて)とつく地名は多くそこは中世の城でもあった。
それは平地には少なく自然の山によって敵から身を守っていたのである。
だから二本松城ももともとは山城だったからあんなに高い所に畠山氏が城を築きそのあとに丹羽氏が天守台をそこに建てた。
興味深いの二本松城は山城から平城へ移る過渡期の城であり石垣でもそれがわかった。
曲輪(くるわ)というのが城内にあり家臣はそこに家を構えそれが敵が攻めてくるのを防ぐ役割を果たしていた。
山城のその手前には家臣たちの屋敷がありそれが敵を守るものとなっていた。
平城でも相馬藩の中村城は岡田館がありそれは家臣でも敵を守るものとしてあった。
二本松城の位置もまた防衛のために選ばれた。
鎌倉のような切り通しがあり城に入りにくいような地勢を選んで城が作られた。
たしかに城のある場所に駅から行くのがわかりにくいのである。

戦国時代にはまだ平城は少ない、安土城でもあんな高い所に城を信長が作ったのはこの二本松の山城の天守台とにている。信長の時代はまだ防衛を第一に城を作ろうとしていた。城を見るときその過渡期の城、中世の館の延長としての山城と平城の過渡期の城の形態である。小浜城などもそうである。丸森の金山城もそうである。
家臣の屋敷は守るために城のすぐ下に曲輪(くるわ)として作られていたのである。
相馬藩で麓給人という人たちがいたのももともと山城がありその麓を守るものとして仕えていたから麓給人となった。
だから歴史はつくづく何か必ず連続したものであり段階的に発展しているのだ。
前の時代の継続が常にあるのだ。全く新しいものは作れないのである。
明治維新でも日本的なものが継続していたことでもわかる。
天皇を中心にしたのがそうである。これは変えることがてきなかったのである。
歴史は本当は飛躍したりしない、前にあったもの作られたものを再構築するのである。
山城から急に平城にはならない、その中間段階として山城と平城へ移る前の状態の城が二本松城なのである。


今回も船岡城をたずねて一目千本桜を見たが石垣も残っていないので城に思えなかった。中世の館(たて)が基であり二本松城と同じように平城へ移る過渡期の城だったようだ。
何か旅をしても城がないと何かが欠けている。どうしても過去への歴史のイメージがふくらまないのである。相馬の中村城は一応野面積みでも石垣が残っている。
船岡城には何も残っていない、だから歴史を感じられない、イメージできないということがある。外から来た人はあとから作られたものでも城があるとわかりやすいのである。
だから亘理駅を城にしたのはあそこに城がなかったにしろ伊達藩として亘理があり歴史があったから観光用に作ったものてはない、観光でも城がある所とない所は相当に違ってくる。ただ会津の城は平城であり山城ではない、何か平凡に感じてしまう。
ただ前にあった黒川城は七層でありあの城を見たら感動する。

亘理駅の城は遠くから映える、見えやすいのである。ビルなどないから目印になりやすいのである。
大坂城ですら建ったとき回りには高い建物がないし平野の中に高く目立ったものとしてあった。城はどこでも中心としてあった。
だから今でも城がないということは中心がないという感覚になるのである。
天守閣というのはそもそもなかったというとき信長の安土城からはじまったというとき
遠くから見ても目立つものとして作られた。安土城は琵琶湖に接近していて見られるように作っていたという。
建築物は必ずその時代の象徴として中心的役割を果すのである。

ともかく歴史に興味をもつには土地の人とその場でなんでもじかに話すると興味をもつ。なぜ年配の女性が丹羽様とか様をつけていっていたのか?
それは尊敬のためなのか?やはり丹羽様というとき二本松の人にとっては特別な感情をまだもっているとかなる。普通だったら丹羽氏という、相馬藩だって相馬様などと言う人はまれだろう。
それは特別な意味がないにしろあそこで山城から発展した城だということはその場で聞くと実感するのである。
だから歴史はその場を踏んで土地の人とじかに話すと何かそこがただ本を読むのとは違った土地に根ざしたものを感じるのである。
歴史とはそもそも何か継続してきたものでありそれは今にも通じているのである。

ともかく二本松城の魅力は自然と一体化していることなのである。
今でもその庭は野趣あふれていて山城と一体化している。
そして天守台に登ると安達太良や吾妻山や蔵王や・・・・なども一望できるのである。
二本松県として明治のとき構想されたというのも立地条件からしてわかる。
ただわからないのは平地が少ないのに十万石になっていたのか?
郡山市とか福島市の方が平地が多いから都市として発展した。二本松には平地が見えない、そしたら米でもそれほど作れないとなる。
ただ実際は米を作る土地はあるから十万石になっている。外から見てそういうことかわからないことがある。
飯館村でも山の村でも平地がかなり広い所があるのを実地に行って知っているからわかる飯館村はもともと米も相当とれていたのである。
だからおそらく米がとれる土地が二本松にあるとなる。

今回も絵になる写真が二本松城でとれた。それは俳句とか短歌と一緒にあとでだそう。
それにしても奇妙なのは城がつくられたとき江戸時代でも桜はそんなに咲いていなかったという、桜はあとから明治以降公園化して植えられて咲くようになった。
城があったとき桜は城に映えていない、でも今は城に映える桜をあたかも城が作られて侍がいたときもその桜を見ていたような錯覚に陥っているのだ。
だから確かに俳句でも短歌でも城と桜を歌ったものはないのである。
これもやはり現代から見ているから過去は常に錯覚して見ていることのわかりやすい例なのである。

「武士道の象徴としての桜」は明治時代以降の感覚。特に各地の城址に在郷軍人会が桜を植樹するようになってから、「城・武士=桜」というイメージが定着した

桜と城とか武士とは関係ないものだった。いさぎよく散るというのは戦争の時に作られたのである。
戦国時代の武士でも桜のようにいさぎよく若くても死ぬのがいいとかならない。
武士が望んだのは報償だった。だから手柄をたてて出世するために戦った。
簡単に死ぬのではない、あくまでも戦で勝って上に昇りたいという上昇志向が働いていたのである。
桜のようにいさぎよく散るというとき武士には全くなかったのに戦争のときのイメージが現代の人にも影響しているのである。
だから桜が城ににあうというときそれは城と一体化していた武士にはなかったことも奇妙なのである。
ただ美的にはそういうことが関係なく確かに城と桜はあっている。ただそれは城が作られたときは桜もないのだから武士が桜と城を歌ったということはないのである。

要するに歴史は過去はないことでも美化されることがある。
自分も桜を見て二本松城に登城していたとイメージしていたのである。
むしろ武士のイメージは松である。松は忠臣とか誠意とかイメージされるからである。
江戸時代の城の屏風絵はたいがい松である。桜など描いていないからである。
それにしても二本松少年隊にしても何か桜のようにいさぎよく散ったというふうに美化される。それは後世の人が特に太平洋戦争と関係してそうさせた。
しきりに若くても桜のように散るのはすばらしいこだとされた。
それは武士とは何ら関係ないことだったのである。
桜のように散るというときただ早く死ぬということが奨励され美化される。
そこに何のためにかとかはない、ただ早く死ぬのがいいのだとなっているからである。

花と散る二本松少年隊・・・・
とにかく早く死ぬことが美しいということになる。それは危険な思想にもなっていたのである。



 
タグ:二本松城

2015年04月14日

二本松城の桜の短歌二十首 (船岡の一目千本桜と二本松城の写真ー朝桜)



二本松城の桜短歌二十首


(船岡の一目千本桜と二本松城の写真ー朝桜)


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一目千本桜

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船岡城の桜

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こぶしがこれだけ咲いていたのはめずらしい

これは拡大しないとわからない

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城遠く見えて亘理や朝桜
船岡の朝の通りや花の影
滝に散る椿や赤し山の城
燕来てまた一駅途中下車
会津の方磐梯山や夕桜
みちのくに新幹線や芽吹きかな
新幹線西へ東へ桜かな
日本なれともに栄えむ桜かな



残雪の蔵王の映えて田起こしの土黒々と草萌ゆるかな
朝早み千本桜尽きず咲く我が歩みつ人の行き交ふ
長々と桜の古木枝垂れて残雪の蔵王映えにけるかな

(二本松城)
燕来る二本松街の通りかな坂を上りて城に向かいぬ
春の鳥さえづりけるや街中に切り通しの道上り下りぬ
切り通し坂を上りて隠されし二本松城花のよそおふ
大手門入りて城内に根ずきし松に桜映えにき
大手門春の日さしてよそよりもあまたの人の出入りするか
石垣の古りて添い立つ松にあれ朝の日さして枝垂桜かな
木蓮の白さに映えて桜花朝日におふ今盛りかな
城内のそちこちに散る椿かな上り下りして石垣古りぬ
洗心亭唯一残ると一服の茶を差し出して花見つ語りぬ
洗心亭残りてあわれあまた咲くキクザキイチゲ抹茶飲むかな
おおどかに安達太良山に春の日や吾妻峰を見えみちのくの春
天守台へ桜咲きにつ安達太良の残雪光り椿赤しも
車窓に花また花やみちのくの残雪光り峰々映えぬ
天守へと花咲き染めて残雪の安達太良光り椿赤しも
朝に映ゆ桜花かな残雪の峰の高くも天守台に見ゆ
山城やこぶしも咲きてこの城の山の守りて古りにけるかな
残雪の峰々朝に望むかなみちのくの春天守台に立つ
天守台残雪の峰浮かび見ゆ椿の映えて朝に立つかな
二本松少年隊の菩提かな朝咲く桜のはや散りそめぬ
安達太良の麓を染める桜花京より遠くみちのくの里

(二本松城)

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洗心亭(キクザキイチゲが咲いていた)
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天守台にのぼる道

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城の前の喫茶店は一番場所がいい

クリック拡大しないときれいに見えません



亘理にも駅が城になっいる。あれでも城があると何か街が歴史があくように見えるから不思議である。
あれは別に城があったわけではないが伊達藩がありやはり歴史があったから城を作った。城は遠くから見えるとき映える、目印になる。江戸時代は平屋しかないから城が今は低いようでも高く見えるのである。

一目千本桜は写真が相当でているから同じようなものがある。
でも朝桜として今回はデジカメが前よりはいいものなのできれいに写っていた。
写真で見るとまた違ったものとして見えるから不思議である。
人間の脳だけでは記憶が定着できないのである。

二本松城は切り通しの坂を上り下りてまた曲がるとある。あれも防衛のためにあそこに作った。要害の地にもともと中世の山城が作られそれが山城と平城の中間として作られたのが二本松城である。
江戸時代に桜は咲いていないが椿は咲いていたろう。
洗心亭の前にキクザキイチゲが一杯さいていたのもあっていた。
滝が自然の滝のようになっているのもいい、あそこは全体が絵になる風景になっている。山城だから自然が活かしているからそのまま絵になっている。

今回は新幹線で郡山から引き返して仙台につきバスで帰った、常磐高速が全線開通して原町から直通のがでている。九〇分だから早くなった。各駅止まりでも一時間三〇分だったから早くなった。これは便利だと思った。今までは二時間かかっていた。
新幹線から見えるのは山だけである。
郡山から磐梯山が見えた。郡山から会津に行く、それにしても会津の方にも十年くらい行っていない。
だから仙台に行ったのも一年ぶりくらいだったのだ。
そしたら何か残雪の蔵王も新鮮に見えたから不思議である。
自分はほど旅したものはいない、だから最初はどういう経験をしていたかというと
まず京都とか大阪とか西の方の桜を何回も見ていた。
それから東のみちのくに帰るとど。うなっていたかというと西の桜が散った時、東の桜が咲き始める。桜前線で面白いのは時間差があることがその土地の風土を感じるから桜咲く時期は日本独特のものが生れる。
実際に六月まで桜は日本では咲く、雨がふって稚内では六月に桜が咲いていたのである。その時間差が日本ではその土地の風土を感じるのである。

だから郡山で磐梯山を見た時、夕桜が見えたがかなたは会津に想いをはせた。
なんか会津も遠いなとつくづく思った。
ただ福島県だと会津も福島県だからテレビで会津のことは報道されることが違っている
「会津でも桜が咲き始めました」とアナンサーが咲き始めた城の前の桜を写すとき
会津も咲き始めたのか、やはり寒いから浜通りとか中通りとかより遅くなる。
そこにかえって奥深い寒い会津を感じる、ようやく雪国の会津も春なのかと感じる。

会津より桜の咲くと写されぬ城の前なる桜にしあれ

こうして桜の時期はいろいろ思うことが多いのである。
自分の場合全国を旅しているから桜の時期も旅しているからみちのくから京都や大阪をこの時期に想いをはせる。ただみちのくから都は遠くなったなとつくづく思う。
その遠さは距離ではなくそこに行く時間が与えられないということなのだ。
今ならでも新幹線で相当な距離を行けるが新幹線ではどうしても旅になりにくい
旅は途中下車がいいのである。気ままにゆっくり見て旅しない旅にならないのである。
それはしかし贅沢なことだったのである。
新幹線から見えるのは山だけである。
それで新幹線から見える山をインターネットに出ていたのは面白い
新幹線から見えるものはある、それが山だったのである。
それで盛岡に新幹線で行ったとき岩手山が近く感じた、仙台から見えるように感じた。
五〇分で行くとなると何か岩手山が仙台から近いように錯覚した。
これも新幹線の不思議だとなる。

ともかく日本は桜によって象徴される。それも桜もともに栄えることがないと映えない
アベノミックスなどは格差を拡大しているからいいものではない
日本の文化の特徴は仁徳天皇の時代から民の煙を天皇が歌ったように上も下も平等の感覚があった。

 高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑ひにけり
 
江戸時代でも武士と庶民階級がそれほど差がない生活をしていた。
というよりは日本自体が平等に貧乏だったともなる。
日本はいい面として平等を追及する、それが悪い面になると何か突出したものは嫌われるヨーロッパとか中国とかアメリカとは大陸との相違は格差が激しくならない
日本自体が平等を志向する国土になっていた。
それが悪くなればどんぐりの背比べになる
いい方面としては分け隔てなく共に栄えるという平等を志向するうよになる。
桜を見るには一地域を見ていてはわからない、西の方から瀬戸内海でも大阪京都でも桜前線をたどるとき日本の桜は絵巻物の圧巻となる。
だからなんとかまだ見ていない弘前の桜を新幹線で次に見にゆこうと思った。



これは新幹線の視点の景色である。








 
タグ:二本松

2015年04月16日

福島県(一部宮城県)桜の短歌二十首 (桜は城を中心にして見るようになる)


福島県(一部宮城県)桜の短歌二十首

(桜は城を中心にして見るようになる)

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(仙台)
広瀬川瀬音のひびき青葉城今し桜の盛りなるかな
青葉城石垣の反り燕飛び流れひびきて桜咲き満つ
東京より陸奥の街道染めにける花にしあるかな仙台に着く
たずぬれば千本桜みな散りぬ我が帰りゆく道のり遠しも
(福島県)
白河の城に春の夕日さし電車は行きぬ西のかなたに
船引に桜咲き満ちここにしも電車の音のひびきけるかな
三春なる城跡に立ちほのぼのと桜の色に染まる夕暮
合戦場の枝垂桜の優艷に謂われも古く夕暮るるかな
雨にぬれ白河街道福良かな御前桜や我が泊まるかな
(古殿)
越代の桜今盛り山風そよぎ磐により見ゆ
古殿の越代の桜その下に岩のいくつか動かざるかな

(会津)
花染める会津の城やかなたにそ残雪の飯豊神々しかも
城を染む会津の桜相馬より遠しもかしこ栄えありなむ
会津なれ知られぬ花のなほ奥に殿のたずねし歌の残りぬ

(二本松)
二本松城の桜のはや散りぬ相馬よりたずね帰りゆくかな
二本松天守の跡に見晴らしぬ春の山々十万石かな
相馬よりたずねてあわれ二本松残れる花を惜しみけるかな

(阿武隈川の桜)
梁川の城跡古りぬ我が来る桜の盛り要の城かな
阿武隈の流れ蛇行し渦巻きぬ岸に桜の映えにけるかな
阿武隈川流れゆたけく淀みつつ渦巻く淵や桜咲き満つ
(霊山)
残雪の吾妻嶺光り霊山に花咲き映えて小鳥しき鳴く
霊山の岩黒々と夕べ咲く桜のあわれ南朝滅ぶ
(相馬)
夕日さしみちのく寒し花映ゆる我が里に住み年ふるりけり
夕べ咲く相馬の城跡桜見ゆともる灯静か誰かたずねむ
田町にそ柳しだれて城下町夕べ桜や暮れなづむかな
桜咲きスーパーヒタチ走るときいわきを通り東京へ進む
若くして死す人あわれ国の花見ずに悲しも七〇年過ぐ



桜は咲いている期間が短いから近くても見れない、福島県の桜前線は西から東京の方から咲いてくるのと東から浜通りから山国の会津の方に咲いてゆく
会津は寒いから遅れる、そこに時間差がある
桜でもやはり歴史的場所が印象に残る。
会津の桜はほとんど見ていない、ただ白河街道の御前桜は自転車で行ったし雨にぬれたときだったし福良の蔵の宿にとまったので覚えている。
かえって何か雨にふられたり風に吹かれたりして難儀したとき旅は記憶に残ったりする。だから車でも何でもあまりにも便利すぎると旅にはならない、そういう旅が今はしにくいのである。わざわざ不便な旅をしないとできないのである。
白河街道は鉄道もないし車も通るのが少ないから昔を感じるならあそこの方が良かった。
阿武隈川を梁川から丸森に下った時の桜はきれいだった。
遠くに残雪の吾妻峰が光り桃の花も咲いて阿武隈川は大きく蛇行するときその淵に満開の桜が咲いていた。
梁川にも城があったところであり何かやはり城が中心にしてみている。

桜は満開のときだけではない、咲き始めでも散ってゆくときも散ったあともそれぞれに感じるものがある。船岡の一目千本桜を見に自転車で行ったときは遠かった。
そうして苦労して行ったのにあの千本桜がみんな散っていたのでがっかりした。
でもそのこともまた感慨深いものがあった。
ただ電車で行ったらそんなに感じなかった。
わざわざ苦労して自転車で行ったということでああ、来るのが遅れてみんな散ってしまったなと感慨深いものが生れた。
それは江戸から芭蕉がみちのくに旅して「奥の細道」が生れたと同じである。
江戸から歩いた距離によって生れたのである。今とは距離の感覚があまりにも違い過ぎたからである。
ただ元禄時代にも桜が咲いていたと思うがその時期は終わっていた。
五月に入っていたからである。ただその手前で今の茨城県で八重桜のことを俳句にしている。芭蕉には桜の俳句は少ない、その頃あまり桜は咲いていなかったのかもしれない
そもそも城には桜は咲いていなかった。
桜と城が一体として見るようになったのは明治以降なのである。
ただ西行は桜を歌ったから平泉で桜の歌を残した。

ききもせず束稲やまのさくら花よし野のほかにかかるべしとは

だから西行のこの歌はめずらしい、これは東北の奥深い地をたずねた感懐がある。
その時代なら芭蕉の時代よりさらに遠いからである。

源義家の「吹く風をなこその関とおもへども道もせに散る山桜かな」はこれとはまたは違っている。
山桜であるのはその頃は山桜であり染井吉野ではない、山桜らしい歌である。
源義家の伝説は本当に多い、山桜と染井吉野の桜は違う。

しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花 本居宣長

これも山桜であり今の桜はほとんど染井吉野なのである。それがまた混同しているのだ。

日に風に清流ひびき山桜高きに咲きて散りにけるかな (自作)

山桜は一般に山の高い所に咲いているけど城に咲いているのはたいがい染井吉野なのである。それは城が公園化して植えられたらである。

あくがるる心はさてもやま桜ちりなむのちや身にかへるべき(67)[新後撰91]

これも山桜なのである。山桜と染井吉野が相当に違っているのだが混同しているのが現代である。城を染む桜・・・などと歌っても城に桜咲いていなかった。
西行が歌ったのは山桜もあるが吉野の桜は山桜ではないだろう。
西行の時代はまだ染井吉野はなかったからである。
吉野山には古来桜が多く、シロヤマザクラを中心に約200種3万本の桜が密集しています。
やはり吉野の桜は西行時代にさかのぼるから山桜なのである。

城といえば桜という印象が少なくないが、現在のように城に桜が本直えられるようになったのは明治に入ってからのことである。それ以前は、燃料や食料に適した「松」が多く植えられていた。松が食料というのはぴんと来ないかもしれないが、松の皮から取り出した繊維で、餅や団子が作られていたのだ。
http://www.kyosei-tairyu.jp/nihonn-shiro/column/shiro-sakura.html

これも意外である。いかに燃料となるもの食料となるものの方が大事だったかわかる。
美的なものより燃料と食料が切実だったのである。花より団子だったのである。
現代は生活によ余裕が生れた結果、美的に鑑賞するようになったのである。

春高楼(かうろう・こうろう)の花の宴(えん) 巡る盃(さかづき)影さして
千代の松が枝(え)分け出(い) でし 昔の光今いづこ

明治になった時やはり桜が植えられて桜の宴があった。花見が城で行われた。
松は城にはもともとあったが桜は咲いていなかったのである。

霊山にも南朝の城がありはかなく滅びた。一年もたたないうちに炎上したのである。
そこにも桜が咲いている。あの黒々とした玄武岩によりそい咲いていた。
あそこから残雪の吾妻峰も遠望できて見晴らしがいい。
その霊山城が炎上したとき一族がおちのびて南相馬市の鹿島の真野の館に住んだ。
そういう歴史を知らないとやはり桜でも鑑賞できない

いづれにしろなぜこれほど桜と城が一体化されたのか?
それは後世にそうなったとしても城と桜はにあうのであり絵にもなるのである。
ともかく桜は日本全国に咲いていて名所の桜だけではない、いたるところに咲いていて発見されない桜がいくらでもある。ただ咲いている期間が短いから見れないのである。

吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ(新古86)

つまり吉野山だけではない全国に今は桜は咲いている。だから見ぬ方の桜はいくらでもある。

今年とて桜は咲けど人住まぬ故郷淋し誰かたずねむ

この辺では津浪や原発事故で故郷を離れて住む人がいる。でもそこにも桜は咲いている。小高辺りにもいい桜が咲いているの紹介されている。
でも人が住まないとなると桜も咲いても淋しいとなる。
やはり人が住まないと自然も活きてこない、そういう世界が想像すらできなかった。

桜前線は仙台で終わるわけではない、岩手県にもつづき盛岡に城がありさらに青森につづき弘前城で一応東北が終わるがさらに函館から稚内まで桜は咲き続けるのである。
どうしても青葉城で終わる感じになるが東北はさらに奥深いのである。
会津となると陸奥街道からそれがそこにも桜咲き続けるのである。中通りから会津とかは高い山があるから神々しいとなる。
会津のかなたには飯豊山が見える、浜通りは海があっても山がないから何か欠けているのである
山には神々しいものがあるからだ。

昨日は荒れ模様であり春の雷が鳴った。

雷鳴りて桜前線北上す

まだ北に向かって桜は咲くのである。


タグ:福島県の桜