
車両古り飯坂線や菖蒲かな
十綱橋ひびく流れに夕燕
十綱橋渡りて遠きみちのくの奥や夕日に山桜かな
(医王寺)
月影に鎮まる寺や花の散る
古の墓に花散る夕べかな
途中駅医王寺ありぬ飯坂線芭蕉もよるや落椿かな
医王寺に着物の女性静々と後姿や落椿かな
飯坂には芭蕉も寄っている。
「奥の細道」の中では「飯坂」ではなく「飯塚」と記されています。これは昔「飯塚」と呼ばれていたこともあったようでそれを引用しているのかどうかは定かではないようです。
「其夜飯塚にとまる。温泉あれば、湯に入て宿をかるに、土坐に莚を敷て、あやしき貧家也。灯もなけれバ、ゐろりの火かげに寢所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、・・」
飯坂は飯塚だったのだ。塚というとき誰の塚なのか?
「月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が舊跡は左の山際一 里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋たずね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が舊舘也。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたハらの古寺に一家の石碑を殘す。中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがいしき名の世に聞こえつる物かなと、袂をぬらしぬ。墜涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へバ、爰に義經の太刀・辨慶が笈をとゞめて什物とす
”笈も太刀も五月にかざれ帋幟”
この人の塚なのか?そうでないにしろ塚の方があっていた。飯坂のイメ−ジは鄙びた温泉とはまるで違ったイメ−ジとなってしまった。何か猥雑なものさえ感じてしまうのだ。ただ不思議なのは飯坂線は鄙びたものを感じてしまうがこれも栗原線がなくなったように風前の灯になっているのではないか?線が余りにも短いからあそこに残っているのも不思議である。みんなあのくらいの距離だったら車で行ってしまうだろ。
◎平安時代
藤づるで編んだ吊り橋がかけられていた。千載集に「みちのくの とつなの橋に くる綱の 絶やすも人に いひわたるかな」とある。
◎文治5年(1189年)
大鳥城主 佐藤元治は義経追討の鎌倉勢を迎え撃つため、自らの手で橋を切り落とし石那城合戦に赴いた。
その後は、両岸に綱を張り船をたぐる「とつなの渡し」にたよった。しかし、摺上川(すりかみがわ)はたびたび氾濫する川で、船の往還にも難渋した。
◎明治6年(1873年)
盲人伊達一、熊坂天屋惣兵衛らの努力によりアーチ式の木橋が架けられ「摺上橋」と命名されたが、一年ほどして倒壊。
◎明治8年(1875年)
宮中吹上御苑の吊り橋を模して10本の鉄線で支えられれた吊り橋が架けられ、「十綱橋」と命名された。
◎大正4年(1915年)
橋の老朽化に伴い、当時としては珍しい現在の「十綱橋」が完成された。昭和40年(1965年)に大補修が加えられ、飯坂温泉のシンボル的存在となっている。
飯坂の はりかねばしに 雫する あづまの山の 水色の風 与謝野晶子
(飯坂ライオンズクラブにより、橋の横に立てられた「十綱橋の由来」より)
十綱橋というのも昔を偲ばせるものだった。ここもそれなりに昔から知られていた。吊り橋であり渡しであり鎌倉勢がおしよせたときもこの橋を切り落として戦った。橋が倒壊したり再び10本の鉄線で橋がかけられた。雫するとは明治になっても鄙びた感じの橋だった。橋にも歴史がある。今はどこでも雫してもびくともしない橋になっている。
医王寺は風情のある寺なことは確かである。そこには着物姿の女性がにあっていた。やはり京都でもそうだが日本的な場所には着物姿がにあうのである。これは文化なのだ。しっとりと落ち着いた回りの景色にとけこむのである。こんなところに派手な今風のファッションの若い女性が入ってきてキャキャ騒ぐと興ざめになるのだ。観光地化するとそうなりやすいし全国的にそうなっているのだ。
旅は思い出す旅がかなり重要なことがわかった。30年前でも生き生きと思いだせば書ける。忘れれば書けない、ここも通ったのだが十綱橋を渡ってさらにどこに行ったのか記憶にない、飯坂線で行ったのだが良く覚えていないからだ。俳句とか短歌は残っていたからここでまた再編集した。前にも書いていたから常に再々編集もしているのがインタ−ネットなのだ。いくらでも再編集しやすいからである。だからインタ−ネットのプログでもホ−ムペ−ジでも絶えず書き加えたり再編集の連続なのである。