2006年06月22日

北海道(大地の胸)

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HOKKAIDOU大地の胸

HOKKAIDOU
若き旅人を待っている
広ろかな大地の胸
すみわたる空気
千の万の花々がゆれる
病なき健やかなる日よ
我は走り走りて行き当たる
北の果て厳しき独立不羈の峰
孤高の尊厳の峰
HOKKAIDOU
夏の雲がわき旅人はやってくる
大地を草原を海岸を走りさる
ハマナスの花は風になびく草原に
果てしない海岸線に咲く
一目見て一瞬旅人ははるかに
一直線の道路をかなたへと走りさる
HOKKAIDOU
その健やかなる大地の胸よ
大空を青鷺が悠々と飛ぶ
無骨なる大岩にアイヌコタンの伝説
ただ風と波の音がムックリのようにひびく
それは広いカムイモシリの大地に
はるか風にのってひびきつたわる
HOKKAIDOU
健やかなる大地の巨人のカムイの胸よ
老いと病とはそこになく
再び健やかなる日々のもどれ
大らかな笑いのもどれ
ああ 鳴りびびく命の鼓動よ
若き旅人は再び行くだろう
千の万の花々がゆれ
生命の讃歌のみがそこにある
posted by 老鶯 at 11:43| 北海道の旅(短歌、詩など)

2006年09月09日

神なる鳥の姿(北海道−海跡湖)

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神なる鳥の姿

カムイモシリ 大地の広し
その大気は未だ汚されぬ
最果ての知床、サロマ湖、能取湖・・・
かつての海跡湖の億年の営みの跡
広々として太古のままに
その時悠々と旋回して
神のごとく青鷺が舞いおりる
その水に同化して歩む細い足
その優雅なる自然の貴公子の歩みよ
その自然に溶けいれる妙なる姿
まさしくカムイの鳥なれや
昔は鶴もここに舞いしや
そのカムイの鳥の悠然と飛びさりて
その跡を汚さず静寂の湖
ああ まことに神なるものよ
そは何を見しか人の醜き姿よ
その鳥は一糸もまとわず
神が与えられしそのままの姿
文明人は様々なものをまとい汚れている
ああ 北の果、湖は広々として
オホ−ツク海に通じている
その大気を吸い遠望して
地球の限りなき美にふれよ
まだ人の手に汚されぬカムイモシリの大地に
再び本来の生気と活力を得よ!

2006年10月06日

樽前山と藪萱草

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煙はく樽前山や藪萱草

北海道は気持ちいいところがある。ここもその一つだった。牧場があって煙を吐いている樽前山が見えてここで盛んに鳥が啼いていた。北海道が自然では一番気持ちいいは場所、爽快になる場所が多い。これはその時とった写真が残っていた。旅行ではやはり写真は記憶として貴重だ。なかなか思い出せなくなるしメモしただけでは具体的にはわからなくなる。写真はその時感動した一瞬をとらえるから記憶として残る。この時はまデジカメはなかった。10年以上前、それ以上前になったからだ。デジカメだともっと記憶に残すものがとれたのである。とにかく今や旅行に行けないとなると何か旅行した時間が貴重なものとなった。普通だったらまた行けるさくらいなんだけど行けないとなるとそれは二度と見れないということにもなるからだ。

ともかく旅行にしたっていつまでもどこでもできるわけではないし読書にしたって何でも読めるわけではないし実際人間は極めて限られたものしかふれることができない、くだらない本を読んでいるものはそれで貴重な時間をつぶしている。あとでもう貴重な本は読めなくなっているのだ。旅行しても無駄な時間を過ごす人もそうである。そこに必ずしも何度も行けるというわけではなかったからだ。

2007年03月11日

燕(北海道の旅)

自由なる旅人集いはるかなり燕飛び交う北海道の旅

これは昨日のつづきである。5月で桜咲いた。5月で日中の気温が5度だった。稚内は6月で桜咲いていたのだ。日本列島はいかに長いかわかる。燕はその北海道の最果てまで飛んでゆく、一カ月間の旅はやはり長かった。終わって見れば旅はただ記憶だけとなる。その記憶も忘れやすい、自転車で行こうがやはり忘れやすいのだ。ただやはりこれだけ旅したんだから余りにも忘れるのがもったいないとなった。だからなんとか思い出して何か記念に残したいとなるのが人情である。その一つとして俳句とか短歌がある。

北海道は空気そのものが違うのだ。日本で唯一大陸的な場所である。北海道の広さがあって日本は豊かになった。北から南までミニマムに地球を凝集したような列島ができたのである。だから日本列島だけでも旅するのに一生かかるのだ。それでも見切れない場所がいくらでも残る。日本だけでも広いのだから外国だとなおさらその広さを知ることは不可能である。
北海道には船で行きやすいので梅雨の時期に必ず行っていたから風景は思い出す。その思い出したものをア−ト化する作品化することはやはり生々しく脳裏に浮かんでこないとできない。一部は成功したがやはり生々しい現場の記憶が薄れてゆく。

芭蕉の奥の細道は実際の旅を基にしてもかなり創作的意図的に作られた芭蕉の心象化した作品なのだろう。だから常に歌枕を基にして構成されている。すでに歌枕がありその歌枕を基にして創作されていた。外国旅行にはこの歌枕が欠けてくる。歴史的意味もわかりにくい、だからこれだけ外国旅行しても芭蕉のような紀行文は書けないのである。芭蕉は自然没入型の詩人であり蕪村は自然没入型とは違う客観的な自然鑑賞型詩人である。一茶は土着的、生活派の詩人でありこの三人の個性は際立っている。この三人の評論を書きたいのだがなかなかその書けない、短い文ならプログのように気まぐれに書ける長くなると書けないからである。

とにかくこのプログが一行くらい書いても一日文書いたようになっている。たいがい二三行書いて終わっている。一記事ごとにグ−グルでアクセス解析されるがその一記事の内容が貧弱すぎるからグ−グルでもプログの記事を上位にアップしないとかプログをアクセスしないで検索するようになる。今日も一日分をなんとか埋めたというのが本音である。

2007年04月28日

若草−春光(北海道−三笠市)

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若草に春光の名や芽吹くかな

北海道の三笠市の川の所でキャンプした。キャンプでも食事は作らない、ただテントで寝るだけである。これだけでもかなり自由な旅はできる。食事はめんどうだからだ。
ここは三笠市で人口は一万くらいだった。ただ若草とか春光という地名だけが思い出に残る所だった。旅は長くても意外と記憶に残っていない。芭蕉があれぼと歌枕にこだわったのは何かを記憶する目印としてこだわった。それがあとで記憶を蘇らすのに成功したのである。地名とか駅名だけが記憶に残る旅というのが結構あるのだ。その地形なり街並みなりなんでも記憶することはむずかしい。地名は記憶しやすいしあとで調べやすいからそうなる。

この地名は北海道にふさわしい地名だろう。北海道はやはり本州にはない広大さであり空気まで違っていることなのだ。その魅力は大きいから10回も行ったのである。今度洞爺湖がサミット会場になるそうだがあそこにも泊まった。あそこで記憶に残ったのが

洞爺湖の湖畔の道に小雨ふりサワアザミ咲き丈高きかも

エゾアザミとかエゾリンドウとかエゾトリカブトとか北海道にエゾとつく植物が多い。それは北海道らしい品種で一回り大きいのである。エゾノアザミとかあったが棘は猛烈に鋭く、牛が口に傷を負わせるので嫌らわられ殆どとり除かれてしまったという。
ここのアザミは普通より丈が高く感じたからサワアザミだった。北海道は本州とは違った花が咲いていることが魅力なのだ。

旅の思い出が豊富なのでそれだけでもなんとか日記を埋めることができるかもしれない、春も逝くとなるがいい句も短歌も浮かばないから回想した旅の思い出をまた書いた。

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洞爺湖(短歌と写真)

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〔洞爺湖〕

広々と洞爺湖より吹く風や湖畔通りの涼しき夕辺

洞爺湖の涼しく暮れて羊蹄の姿美し夕焼けの雲

洞爺湖の岸辺をわたり飛ぶ鳥の声の澄みしも朝の静けし

洞爺湖の湖畔の道に小雨ふり丈高きかもアザミ見上げる

洞爺湖の朝の岸辺にヒメマスの銀鱗光り群れ寄りにき

洞爺湖の朝の岡の畑とり入れや郭公鳴きて旅人の去る


洞爺湖の写真がでてきたのでこちらにまとめた。人間の記憶ほど頼りにならないものはない、いかに記憶では写真が優れているかわかる。アザミも丈が高いなとは記録していたがこれほどには記憶していなかった。このアザミは何のアザミかわからない、でもこれだけ丈が高いのである。写真で見て驚いたのだ。洞爺湖から羊蹄山が見えた。あの山も独立峰だから美しいのだ。岩手山もそうである。独立峰は見るだけでもいい、洞爺湖は確かに北海道的な輪郭の明確な美しい場所である。

プログは分類するのに向いている。一つの場所やテ−マで分類する。それにコメントをつけてゆくのに向いている。前はホ−ムペ−ジに一度に出していたがここでは場所ごとに分類してゆくのもいい、短いからその場所についてふりかえることもできる。一連のものとして書くとホ−ムペ−ジがいいのである。検索ではある場所の情報を欲しい人がいるのでその人には役に立つ。

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2007年04月29日

富良野(芦別岳)

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残雪の芦別望みチュ−リップの赤さ際立ち富良野に入りぬ

つくづく写真は貴重であった。人間の記憶は本当に消えやすい、人間がこれほど記憶の方法を技術を作り出したのは忘れないためである。今旅の記憶を蘇らすに役立つのは写真だった。これは生々しく残っているからだ。自転車で富良野に入った時、一番印象に残ったのがこの場面だった。真っ赤なチュ−リップに芦別岳の残雪だった。赤と白とのコントラストが鮮明だったので印象に残った。ちょうどその写真も残ったので記憶が蘇ったのだ。旅行では意外とどこにいたのかどこに行ったのかいつ行ったのかなど忘れやすいのである。だから芭蕉の時代だったら歌枕だけが頼りだったのだ。ともかく写真の力は大きい。川があったことを忘れていたし鉄道がここを通っていたことも記憶から消えていた。まあ、こうして一つ一つ記憶を蘇らせてゆくと二回旅しているようにな気分になる。プログだと一場面を蘇らせて旅の思い出として短文を書けるからいいのである。

2007年11月12日

北海道(枝幸町)−廃船の詩


北海道(枝幸町)−廃船の詩


北海道の自転車旅行のことを思い出した。そこは枝幸町(えさしちょう)であった。ここに二日ほど泊まった。ここから宗谷岬を回り稚内に到着した。この旅で印象に残ったのは6月でも寒かったのだ。5度くらいだったから驚きである。それで思い出して一句作った。
 
夏寒し廃船あわれ烏かな
 
夏寒しだとこれは冷夏のことだが北海道では夏でも寒いことが普通にあるから冷夏のことではないのだ。北海道では廃船をよくみかけるし廃船の風景がにあっている。今や旅は思い出す旅である。旅は旅ゆく前の計画する旅、旅を実際にしているとき、最後に思い出す旅がある。この思い出す旅が意外と大事なのだ。芭蕉はあとから思い出して奥の細道を推敲して構成した。旅しているときは夢中で見逃すことが多いのである。枝幸町は紋別市とは違い小さな町だった。その町中の海岸に廃船があったのだ。それが印象に残ったのである。その廃船に何羽か烏が泊まっていたのである。
 
枝幸で千畳岩による。枝幸の街はどこかうらさびしい感じがした。国道沿いには廃屋や廃船などが転々と ちらばって、砂浜には海鳥が群れている。神威岬は雲がかかり神秘的だった
 
インタ−ネットで検索すると廃船ではかなりでている。北海道は廃船が多くそれが絵になっているのだ。だから詩を書いている人もいた。廃船は何か認知症の人ににていた。
 

廃船と認知症
 
廃船が北海道の果

小さな町なかに無造作にあった

廃船は何を語るのか

廃船はしきりに語る

それは浪の荒い嵐の日のこと

波に廃船はもまれ沈む寸前

船は悲鳴をあげて波にもまれる

その日のことは忘れられない

そのように認知症の人も

忘れられない日を語り続ける

それは戦争の悲惨な経験

何度も何度も語りつづける

しかしその船は用なきもの

町中にその屍を晒す

烏が何羽か泊まって鳴いている

それが町の風景ともなっている

認知症の人は悲しい

そこは墓場なのだろうか

ただ過去だけ現実である

親しい人もよりつかなくなる
弔いなのだろうか、烏だけが群れている


廃船のマストにけふも浜がらす 
           鳴いて日くれる張碓の浜

 
小樽市新光町465  朝里不動尊前 篠原三郎


 加島祥造の「港町の風俗残映」
http://www.haizara.net/~kirita/unite/sake70.html

 

霧の中の廃船−写真と詩
http://www.comfart.jp/site/a_ship/a_ship05.html

 
廃船をテ−マにした写真館とか廃船に関しては相当集められる。こういう読み方がインタ−ネットにはあっている。このつづきは各自調べれば一冊の本にもなってしまうだろう。

2007年12月27日

北の果の白鳥

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北の果の白鳥

 

空も凍てつき

塵も凍りきらめく

川も凍り湖も凍り

樹々も樹氷となり

人の足跡も消え

朝の澄み渡った空気に

海猫が一段と白く飛ぶ

一切の不純が拒否され

純潔の白さに転じる

億年の地層の岩盤に

結晶して眠る水晶のように

孤高の山のみがそこに浮上する

白鳥は神の鳥なれや

霏々とふる雪のなかに

邪推するものもなく眠る

ただ純白の衣につつまれ

神のごとくに眠る

東雲にカムイコタンのポロトに

百羽の白鳥が目覚め鳴く

その声は凍れる湖にひびきわたる

さいはての地にひびきわたる


絶唱のように美しい歌を歌いつつ


地にあらず天に向かって飛翔する


そして北の果の星座と結び輝かむ

2008年07月28日

アポイ東菊(詩の部)

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アポイ東菊

北の果

千歳の磐の堅く

アポイ東菊

紋章のごと

濃霧流れて

隠され咲かむ

アボイ岳が低山で高山植物が見られるので有名である。東菊が東に咲いているから名づけられた。比較的寒い方に咲く花だったのか?菊は寒い地方の花だからそうなる。花が紋章になりやすいのはわかる。カタバミを紋章にしたのは日本人の繊細さなのだろうか?野馬追いの旗にも残っている。

 
アポイ岳は、海岸に近く、特に夏期、海上に発生する濃霧がアポイ岳を覆って日射をさえぎり、気温を低下させ、また、海岸からの強風などが、植物に対し耐寒性を要求することになり、多くの高山植物を生殖させる要因となっている

高山植物はあまり栄養度が高かったり暑い所には咲かない、低山でも条件がいいから咲いていたのだ。実際にあそこは濃霧が海に近いから流れやい所だった。

2008年09月05日

宗谷岬への旅路

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宗谷岬への旅路

北海道その広さは果てなし

はるかなる地平線やかなたへと

北海道の大気を十分に吸い

道のり遠く旅たつ者あれ春の朝

残雪の嶺や輝き一面のタンポポ

ああ 旅路は遠し果てなし

我に与えられし自由なる日よ

一カ月の長き旅のはじまり

オホ−ツクの波ひびきよせ

草埋もる廃線の跡や残れる

間宮林蔵の目指す樺太見ゆや

宗谷岬の丘々越えて淋しけれ

ハクサンチドリの雨ぬれ咲きぬ

隠されし沼に陽は眩しく輝き

オオバナエンレイ草の咲きひそか

沼のカムイのここにひそむなれや

アイヌコタンの昔ここにもあれや

今は牛飼う牧舎点々と日も暮れむ

風雨に打たれし一カ月の旅の長きよ

枝幸町に泊まりし思い出深し

かしこ流氷に閉ざされし地なり

厳寒の北の果てなる大地なり

みちのくに住めど偲べばはるか

かしこに住める人し思うかな

我は常に旅を住処として旅路にあらむ

旅は思い出す旅がある。旅は終わっても旅は思い出の中に記憶の中に継続されていた。私の旅は最初は汽車(電車)の旅だった。その時は船の旅も多かった。次に自転車の旅になった。これは40代だから結構厳しかった。50代になってやっと自転車で北海道を旅したのだから遅いしきついものとなった。最初にきつい旅をするのが先であったが逆になったのだ。だから旅としてはスケ−ルが小さい。私の旅は風流の旅である。間宮林蔵は本当に冒険の旅だった。西行は冒険+風流の旅であり山頭火もそうである。芭蕉は体が弱いから風流の旅である。冒険+風流の旅が理想であるが体の問題があるからみんなはできない、旅は長ければ長いほど旅の醍醐味がありまた風雨の旅であればまた旅として思い出に残る。とにかくそこでは苦労して走破したという満足感が残る。これが車とバイクではあまりにも容易すぎるのだ。旅の苦労がないからかえって旅の記憶が残らないのである。老人になれば普通は風雨、風雲の旅はできなくなる。だから風雨、風雲の旅は若いときした方がいい。外国旅行も50代からだときつかった。これも若いときすべきだったのである。
 
つくづく人間は老人になり介護とかなると悲惨である。そういう世界をあることを想像もしなかった。こんなふうに動けなくなる、食うこともままならず歩くこともできないただ寝ているだけで見るのは天井だけである。そうあってももし旅の記憶が残り記憶の中で夢の中でさらに旅していれば幸いである。人間の願望はどこまでも旅し続けたい、一カ所に閉塞されることに耐えられないのだ。留まればそこは淀んだ水となってしまうのだ。だから常に旅することは心をリフレッシュすることなのだ。それは近くでもできる。仙台とか松島とか近くでも旅はできる、やはり景色が違ってるからリフレッシュできるのだ。一カ所に留まっていれば停滞してしまうのである。介護の最大の問題はそうした自由が奪われてしまうことだった。これは自分にとって耐えがたいことだった。そしてただ思い出す旅になったのである。でもこの思い出す旅もやはり旅の継続だったのである。
 
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旅を思い出すというとき写真は大事である。人間の記憶力は大局的にとらえることには優れているが細部を記憶できないのである。神秘の沼の写真でも波紋が写っていたがこれは記憶にない、ここは宗谷岬に行くとこにあったが名前も覚えていない、本当の自然の沼であり人間の手が全く入っていないから神秘的だった。本当にここには沼の神、カムイがひそんでいるように思ったしそれはそう思うのは誇張ではなかった。日本の自然も本当に古代や太古はこのうよであったのだ。神がひそんでいると抵抗なく思った。北海道には開拓されたのだがまだ自然そのものの神秘が残されているのだ。ハクサンチドリは宗谷岬に咲いていた。これは白山だから本州では高山植物であり平地に咲くことはありえないのだが北海道では平地に咲いていたのである。宗谷岬の地図見ていたら電柱山とあった。電柱が立ってそれが目印となり電柱山になった。明治以降つけられた名前である。これも北海道らしい地名だと思った。
 
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2009年06月20日

夏の蝶(樽前山)

 


夏の蝶線路を越えて飛び去りぬ


煙はく樽前山や藪萱草牧場広く鉄道通る
 
線路飛び越えるとなると小さい蝶では感じが出ない、というより単に線路を飛び越える夏の蝶がいたというだけで俳句になるのかという問題がある。これも写生であるからそういう問題が起きる。ただこの句を作ったとき北海道の旅を思い出したのだ。その場所は特に印象に残る場所だった。鉄道が通り樽前山が煙をはき、広い牧場があり牛がいこい、牧舎があり菖蒲もさいていた。そういう北海道的雄大な景色の所は鉄道が通っていたのである。鉄道は躍動感を与えるものである。車はどうしてもそういうふうに感じない、鉄道の旅が長いからどうしても鉄道にひかれるのだ。
 
旅をしてやはり印象に残る場所がある。それはその人にとって印象に残るものでありその他の人はそうでもないかもしれない、名所でなくても印象に残るところはいくらでもある。やはり北海道は十回も行っているから思い出すときがある。でも人間は忘れやすいからもう一度確認の旅をするのが老人にはいいかもしれない、新しい場所を訪れのは向いていないかもしれない、ある場所とは一回行ったくらいでは記憶に残らない場合がある。何回も行けばここはこういう場所だったかと再認識できるからだ。その旅もできなくなっているのが残念である。 それで故郷という狭い地域に閉ざされているものとしては鉄道の線路を越えて夏の蝶が飛んでいった。その時旅したときをイメ-ジして重なると豊かなものとなる。こうした狭い地域だけではあきてしまうのだ。プログきかインタ-ネットのいい点は前に書いたことのつづきをいくらでも短くても書けるからいいのだ。本だと一冊で終わってしまうがインタ-ネットは死ぬまでつづきを書けるのだ。補足したものを書けるから書き続けられるのである。すでに自分のホ-ムペ-ジ、プログは自分の全集、百科事典になっている。「樽前山」と検索したら一発で前に書いたものと写真がでてきて続きを書いたのである。
 
 
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2010年04月22日

宗谷本線の無人駅(北海道夏の短歌十首)

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宗谷本線の無人駅(夏の短歌十首)



でで虫の線路に眠りなかなかに来ぬ車両を夏の日に待ちぬ

ようやくに一両の車両来るかも菖蒲の咲きぬ湿地帯行く

一時を無人駅に下りある家の花に囲まる夏の日の午後

その駅に一時のみや我が下りて夏の花咲く村を去るかな


立葵の花の明るくその通り家十数軒の無人駅かな



湿地帯の奥に牛飼う家ありぬ菖蒲の咲きて駅舎淋しき

はるかなる旅の駅かも一両の電車を待ちぬ夏の日の午後

北海道いづこの駅や我がおりて木陰に眠り電車待つかな

その駅に乗るは一人も一両の車両に去りぬ夏の一時

我が老いてまた行くことあれや無人駅北の果てなれ花美しき

その駅に一時遊びぬ夏の日や恵まれし我遠き思い出


  前に書いたけど人間の不思議は記憶なのである。この駅はどこにあったのか?何十年前にもなると思い出せない、宗谷本線で稚内近くの天塩辺りなことは記憶している。そこの駅は無人駅であり駅の前には家がわずかにあるが本当にやっと家があったというくらいの所である。十軒もないのである。そんなところに気まぐれに下りてぶらぶらしていたのが自分だった。そこは何の特徴もない駅である。そこに咲いていたのは立葵だった。ただもう一回ここではないにしろ自転車で北海道を何回か行った。その時の記憶が湿地帯に菖蒲が咲いてそこに一両の電車が走るのを見たのである。その記憶がまじりあっているが北海道は十回くらい行ったからそれなりに記憶が残っている。どういうところが記憶に残るか?それは名所とは限らない、旅ではこうした何気ないありふれた時間が貴重なのである。追われる旅は記憶に残らない、旅はそもそも今では贅沢なものになった。こんなに忙しい時代は自分のようにゆっくり旅することはできない、旅で大事なのはそこで余裕をもって見ることである。そうでないと記憶に残らないのだ。旅で記憶に残らないことが多いのはそのためである。一体どこにいたのかあやふやとなってしまう。旅は記憶に残すことがむずかしいのだ。スケジュ-ル通りに行くのが旅ではない、道が二つに別れている、その別れ道をどっちに行こうか、こっちにするかとか自由に選べるのが旅なのである。決められた通りに行ったら旅ではない、旅にはそれだけ時間が必要なのである。その時間が与えられたのが自分だったのである。

その頃ニ-ト、フリ-タ-などいない、みんな正社員で企業戦士として働いていた。だんだん経済も下り坂になったがまだまだ上りの経済だった。そんなときみんな働いているときこうした時間をかけた旅をしていたのである。それが今になると記憶に残っていたのである。老人になると何が仕事かというと記憶をたどることなのである。線路はまるで記憶をたどるようにつづいている感覚になるのだ。それもあやふやであり駅名などを覚えていてかすかに浮かぶとかなる。老人になると時間が逆戻りしている、昔のフィルムの映写機を元に戻して回すように記憶をたどる旅になる。さらに70とか80なると全く記憶だけが人生になってしまうのである。自分が経験したことを語りつづけるのが老人なのである。認知症になると遂に千回も同じことをしゃべりつづけるようになる。それでもその人にとっては記憶していることが人生そのものになってしまっているのだそして記憶に残っていることが人生だとすると鮮明に記憶が蘇るとしたらそこが大事な場所だったことがわかる。たまたま何気なく下りた駅、夏の明るい日、そこは夢のような所であり貴重な場所だった。なぜならそこにもう二度と行けない、というより死ねばもうそこに誰も二度と行けないのだ。その地を踏むことができないのだ。とすればこの世で記憶した事は夢の世界だった。
特に一時下りただけの無人駅などはありふれていたとししてもそこで人に悩まされることもなく
自由の一時がありただ夏の花だけが映えていた夢の国にあったのと同じだった。大きな駅や都市は忘れやすいがこうした小さな駅を覚えていたというのもそこが小さいからこそ記憶しやすいということで覚えていたのである。

日永きやどっちに行こうか別れ道

2010年04月23日

北海道(抽象画)

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海の紋様
 
 
 
 

2010年06月13日

函館(抽象画)

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函館と青森とでは印象が赤と白のように違う。江戸時代の北前線で栄えたのが青森であり
明治維新から北海道は開けた。ツガルとなればその名前さえどこからきたのか古い。
函館の魅力は函館から新しいものがはじまった。それが百年たったら青函連絡船もなくなり
ここも過去の歴史の街となったのである。
函館は地形的に両側が海でありこれは世界でも相当変わった地形であり魅力的であり坂の街でありそこから個性的な街となった。

 

函館で買ったガラスの花瓶と黄色の苧環は斬新でありあっていた。花瓶と花があうのはなかなかないだろう。花瓶は確かに種類が多いが花にアホせたものを買おうとしたらぴったりなものはないだろう。今回はぴったりだった。それでインタ-ネットで検索してガラスの花瓶を見たら「津軽ビイドロ」というのがでてきた。津軽でそんなもの作っていたのかと初めて知った。
それでガラスに白い雪模様の花瓶をアマゾンで注文した。津軽だと雪がにあう、インタ-ネットだとこうした土産となるようなものを選んで買える、かえって旅行したときじっくり選べないからつまらないものを買っているのだ。インタ-ネットはその地域の他では売ってない特産品を売るには向いている。津軽ビイドロなどはじめて知ったからである。

 
抽象画にすると絵らしくなる。ソフトで加工すると意外なものがでてくる。これは面白いと出しているのである。創作しているのはパソコンのソフトでありそれを評価しているのが人間だというのも不思議である。ガラスはやはり涼しい感じになるから夏に向いていたのだ。

2010年08月30日

線路に眠るでんでん虫-「幸福駅」(詩)


線路に眠るでんでん虫-「幸福駅」

 
 

宗谷本線-稚内近くの無人駅

線路にでんでん虫が三匹ほど眠っている

いつ電車は来るのだろう

いつまでも待っている

故郷から遠く離れた稚内

そこに自由な時間が与えられていた

故郷を遠く離れて拘束されない時間

広大な澄んだ空気のなかで羽根を伸ばす

いつ電車は来るのだろう

無人駅には一人しか乗る人がいない

線路にはじっとでんでん虫が眠っている

ああ その幸福な自由な患いのない長い時

人には苦しみも必要だ

でも苦しみだけでは心も歪む

人には幸福な時間も必要だ

たっぷりと幸福な時間が必要だ

人生は短い、労苦ばかりが人生ではない

たちまち人は老いる

病気になったりして旅もできなくなる

自由な時間もなくなる

そしてただ思い出す、その患いのない幸福な時を・・・・

何でもないそんな時が幸福の時だった

その幸福の時間は帰ってこない

場所は変わらないかもしれない

でも時間はたちまち過ぎて元の時間にもどれない

日々の労苦が重なり自由は奪われた

稚内-遠き果て-ぶらり無人駅に一人

でんでん虫が線路に眠っている

いつ電車は来るのだろう

いつまでも待っている

やっとのこのこやってきた一両の電車

その駅はどこだった、遠い果ての駅

そこに自分の幸福の時間があった

「幸福駅」という駅も確かにあった

しかし今では幸福駅という切符が記念に残るだけ

まさに幸福駅に幸福な時間があった・・・・

でんでん虫は線路にいつまでも眠っている


宗谷本線の無人駅
http://musubu.sblo.jp/article/37318341.html

 

2010年12月25日

層雲峡の秋(詩)

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層雲峡の秋


億年の岩

ぴったりと重なり合い

微動だにしない

互いに信頼しあうもの

ぴったりと重なり合い

億年の歳月を微動だにしない

爽やかな秋晴れの日

白く筋引く雲

その切れ込む谷間は深く

新鮮な空気を吸い込む

原始の日がここにあり

荘重な岩々が神殿と化す

荘厳なる岩の柱列と堆積

そこに滝がほとばしりひびく

その岩々は微動だにしない

原生質のその重量感

ひしひしと迫るその威圧感

隙なく漲り張りつむ充溢感

その原始の組成の構築

不動の充実が岩々にある


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2012年06月30日

夏の日函館(詩)


夏の日函館

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夏の日よ
白く波は砕けぬ
立待岬に波は砕け
北の海が吠える
エゾスカシユリの花は咲く
崖に吹き上がるしぶきに咲く
あわれ啄木の墓よ
函館よ
北海道の玄関口よ
船はまずここにつきぬ
青函連絡船の汽笛は鳴りにし
開拓の内陸の入り口よ
新天地を求めし新たな大地
夏の日よ
波は白く砕けちる
鴎は街の上をとびやまじ
函館の栄えし日よ
明治の日はここにある
学びに貿易に新しい風は起こる
異人の墓地に眠る人々よ
矢車草の青い花は咲く
坂に尖塔は高く教会の鐘が鳴る
函館よ
夏の日よ
白い波がおしよせ砕け散る
青春の時よ
今路面電車は古びし街路を
記憶をたどるように走る
北海道よ
火を噴く火山よ
荒々しい自然が息づく北海道よ
明治の日よ、若き日よ、夢の大地よ
北海道に挑む開拓者の若き挫折よ
汝の無念を深く心に刻め
そして再び燃え上がる熱情の大地よ
広大な地平線よ
函館より北海道ははじまる

 
北海道は十回くらい行ったから第二の故郷である。なぜそうなったのか?梅雨の時期に船で行きやすかったのである。だから苫小牧まで船で行き北海道をめぐることになった。だから意外と花咲く時期に行っていなかった。梅雨の時期には六月頃はそれほど咲かない、一面に原野に咲いている花をあまり見ていないのだ。なかなかいいときに見れることはない、でも自転車で苫小牧から稚内まで行った。自転車とかバイクのツ-リングには向いているのが北海道であった。


函館には最初の内何回も行っていた。北海道の入り口だからそうなる。あそこはやはり波が両方の岸から砕ける、独特の地形になっている。あそこては常に波を感じるのだ波がくだけているのである。啄木が東海の小島といったとき島のように感じたからである。回りに波がよせてくだける。常に波を感じる街だからあういう地形の所は世界でもめずらしいだろう。


函館は栄えたときは明治であり明治はやはり日本の夜明け、近代の開かれた時である。明治は青春だったのである。クラ-クとか内村鑑三がキリスト教を学んだ時であり日本が世界に開国して新鮮に外国を学ぶ時だった。その青春の舞台が北海道だったのだ。「明治が遠くなりにけり」といいうとき青春が遠くなったのである。明治はやはり日本の伝統と外国の文化が合体した時でありそこに人物も生まれたし新しい時代が生まれた。


もちろん猪狩満直のように北海道で開拓に挑み挫折した人も多い。でもやはり明治のとき北海道が一番輝いていたのである。アメリカだったらホイットマンのフロンティアだったのである。日本は時代的にはもはや欧米化してすでに老大国のようになっているのかもしれない、青年の時代は過ぎてその活力も衰えた老人である。確かに高度成長時代は物質的欲望を追求して充たされた時代である。それが今や経済も衰退して老人国と化してゆく、函館にしても偲ぶのはすでに今ではない、過去になってしまったのである。栄える場所は歴史的には常に変わってゆく。

ベネチアも衰退して過去の栄光のみがあり過去の栄光に浸っているだけである。函館ともにている。そういう場所はいくらでも世界にはある。

ただ自然は変わらないし北海道の魅力はある。ただ時代的に明治のようなフロンティアの時代感覚はない、それでも北海道は苫小牧から空気まで違った感覚になる。北の花々にいろどられる。それは本州の花々とは違っている。ルピナスの花が咲いていたりと違っている。水田がないことも違っている。一番の違いは水田がないことかもしれない、この辺が水田がなくなって草原化して北海道になったということを何度も書いた。水田がなくなると北海道化することを実感したのである。
 


 

2012年07月02日

美瑛の夏(詩)

 

美瑛の夏

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ポプラの木の丘に高きや風そよぎ
緑うるわし丘々や畑は耕されて
黄金のタンポポは天まで咲きつづくや
残雪の十勝岳は煙を吐き隆々と迫り
兀々(ごつごつ)として荒き肌に肩を組む
丘々をこえ郭公の声はひびきわたり
雪解けの水は清流となり大地を潤す
神殿の柱のごとく列なす針葉樹林
北の風雪に耐えてその樹々の列
ひしひしとその針葉樹の厳しさ
北方の風雪に鍛えられて立つ
その土、その岩、その樹、その草・・・
原始の精のここにありて息づく
オオバナエンレイソウの谷間に隠れ咲き
ここに光はしずかに人の歩みもまれなり
汝の足は今ひそかに忍び入るかも
ああ ポプラの木の高きや風そよぎ
神は花々をここに集め草原にしく
大地と山々と樹はあなたに答える
真直(まなお)なるあなたの心に答える
誠実なるあなたの心に答える
大地と格闘して倒れしものよ
汝はまたなおここに生きむ
汝の無念は受け継がれるべし
ここに大空に大地に峰々の調和しぬ
美瑛の夏よ、今蘇るかな
深々とここに息して爽快に癒されよ
日がな郭公の声は遠くへひびきわたれり


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写真ではこの光景は現せない
十勝岳に向かって咲いていたタンポポは圧巻だった
天まで咲き続けるようにまぶしかった
十勝岳は力強いものがありあれが風景をひきしてめていたのだ



美瑛は自転車で一回行って農家のライダ-宿に泊まった。その時、延々と農家なんかやっていられないとか聞かされた。最後は中国の方がいいとか言っていた。こんなところにも中国人がでてくる。
農家はみんなほとんどそうした農業ではやっていけないとかしか聞かない、この辺でもそうだった。機械には金がかかるしとかとてもやっていけなねい、やっていけないという話しか聞かない、北海道は本州よりもっと厳しい,なぜなら農業の他に仕事がないからである。本州では専業農家は少ない、兼業農家であり減反政策でも補助金が入る。わずかの田でも米を作ってもらえればそのう農家には金が入る。そういう矛盾が現代の農業である。結果として原発ができたのもこの辺では必然だったのである。第一次産業と農業に従事するものが一番賛成していたという皮肉があるのだ。そして一番被害を受けたのも第一次産業だったのである。


美瑛に行った時は郭公の声が丘々のかなたからひびき木霊していた。それは宗谷の方に行ってもそうだった。だから郭公の声は忘れることができない、今になると自転車旅行はできない、それを考えるともう行けない、思い出すだけだなとなる、遂にはみんなそうなるときが来る。時間は思った以上に早くすぎてゆく。美瑛はやはり独特の地形で魅力がある。丘の上にポプラの木が立っているのがいい、あういう風景はなかなかない、抽象画はこれはあるプログの写真を加工した。
加工すると原画がわからない、秋の方がいろどりが豊になる。9月ころが色の絨毯ができる。
今になると北海道は遠い。近くすら遠い、結局人間の与えられた時間は有限でありどんなに自由が与えられていてもその時間は有限だった。時間は尽きるのである。そして残ったのは思い出、記憶なのである。その記憶もあいまいとなるからあとでなかなか書けないのである。                 
それでも自分はかなり思い出す旅をしているから多少は書けるのだ。


美瑛にはプロの写真家が住んでいる。一人だけではない、何人も住んでいる。それで商売が成り立っている。開拓の時代は終わった。だから北海道も空家が目立つのだ。今いなくなったような家があった。それは飯館村の人がいなくなった家とにていたのである。他にも住宅のような家が空家になっていた。北海道は暮らしてみれば前もそうだが今も過酷である。ただ夏だけが最高であり天国になる。ここは北海道に行かなくても多少北海道化したから北海道にいる気分になるというのも不思議だった。


北海道を詩にしよとすると何かむずかしい、やはり伝統的日本的情緒の世界ではないからだ。大陸的でありつかまえどころがないからである。俳句でも短歌でもすんなり作れなかったのはそのためである。この詩もあまり成功したとはいえない、函館の詩はそれなりに特徴をとらえて成功したかもしれない、一回くらい行ってもその土地の特徴をとらえることはむずかしいのだ。十勝岳が圧巻であった。北海道に十回行っても本当の北海道の姿をとらえることはむずかしい。それでもこの頃思い出して結構いい詩ができるのは不思議である。自分でも言うのはなんだがやはり人間は最後になるといいものができる。正岡子規でも他の人でも若くして死んだ人がなぜあれだけのものを残したか不思議だった。それは常に死に直面していたからである。あと何年しか生きないとなるとどんな人でもいいものができなるのである。人生でも自然でも鮮明に見えてくるのだ。最近は詩でも大量に書いている。

発表しているのは一部である。こんなふうに書けることが自分では不思議である。なぜなら自分は才能がなく,40代でも俳句でも短歌でも稚拙なものであり鑑賞もでなきかった。今はたいがいのものが深く鑑賞できることも違っている。ここにきて何か自分なりのもの書けるしほかのも鑑賞できる。

こんこんと泉から湧きだすように創造できる。自分も死期が近いからかもしれない、どうも70くらいで最近死ぬ人が多い、人間死期が近づくとものが見えてくる。これは才能と関係ない、死期を前にして人は見えないものも見えてくるのだ。心眼で見えてくるのである。だからある人は本当に天国をありありと死期を前に見ることがありうる。そういう心境になってくることがありうる。心清らかに生きた人は最後にそうなってゆく。これは才能ではない、死期を前にしているからそうなってくる、
人間の神秘なのである。人間は最後にお迎えが来るというとき本当に天使でも観音様でもお迎えに来る。そして天国に連れ去るのである。その前にこの世のことが自然でも鮮やかに見えるようになるのである。こういうことは芸術家だけのものではない、ごく普通の人でもそうなりうるのだ。

 

2012年07月03日

北海道の海岸の詩 (旅では記録する写真が貴重)


北海道の海岸の詩

旅では記録する写真が貴重


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茫漠たる海
砂原に点々とつづくは
鳥の足跡のみ
波がよせてはひびく
流木の海岸
草原に風はわたり
茫々たる原野
蝶が一羽風にあおられている
人の跡はそこに印されない
わずかにアイヌの地名のみ残る
何を記憶に残すのか
波と風と砂に消される記憶
一両の電車がゆく
荒野の風に吹かれて
廃線の跡が草地に残される
烏がとまっている
自然の風化は地を清めることなのか
津浪の跡の砂原は草原は北海道になった
霧多布湿原にクシロハナシノブの星のよう咲く
丹頂鶴が優美な姿に舞いおりる
海岸には霧が流れキタキツネの足跡
渡り飛ぶ海鳥の声が砂原にひびく
荒々しくうちよせる波に
それは野生の歓喜の声か
人の跡の尽き果て
かなたに見えるのは海
日本列島はどこまでも海に洗われている


 

北海道シリ-ズになったけど現代は言葉より写真で伝えることが主流となった。写真で外国に伝えるというのは絵画でも世界的評価ができるからいい。詩は言葉のみだからむずかしいのだ。言葉ほどむずかしいものはない、特に詩はむずかしい。だから一般的に詩で伝えることはむずかしくなる。
旅行でもそうである。一枚の写真の方が詳細に細部を記憶していて訴える場合がある。
最近いろいろ整理していて写真でもそうだった。一枚の写真のもっている価値が旅では大きい。
ええ、ここどこだったのかとかこんなところに行っていたのかと思い出す、他の人の写真の価値が落ちるのは自分がその場にいなかったからである。自分の写真はその写真だけではない、その場にいたからその場の雰囲気から見れるから他人がとったように一部をきりとったものとはならない、そこに写真の大きな意味があった。他人の写真はビデオはどうしても感動しないのはその場にいなかったからである。自分の写真はその場にいたということが大きな相違なのである。

それにしても人間は忘れやすい動物である。次々に事が起こり忘却されてゆく、こんなに次々忘却されていいのかと思う、政治でもそうでありゆっくり記録される時間がない、何でもスピ=ドが早すぎるのである。車にのっていて新幹線でも記憶されない、歩いて自転車で行った時は記憶される。
それは雨風に打たれるから記録されるのだ。自然が体に刻まれるから記憶されているのだ。
つまり体に記憶されているのである。


北海道には十回も行っているのだから回想すれば思い出すものがある。それでも今や良く思い出せないのが多くなった。何十年前となってしまったからである。自分の場合はゆっくり旅しているから記憶されているものがある。そこで思い出してなんとか詩を書いたりしているのだ。その時デジカメがなかったから記憶されているのが少ない、今なら記録の面では格段の進歩をした。記憶というのは意外と大事だった。歴史は根本的に記録である。津浪のことでも400年前に同じ様な大きな津浪が相馬でもあった。それが一行しか記録されていないから誰も注意もしなかったのである。ところが今回のように生々しい映像として残されれば違っている。あまりにも生々しいから口伝えや文字で伝えるのとは違っている。その伝わり方は違っているからこれからの津浪は違ったようにみる。これまではあんなに生々しく記録されていなかったからだ。そういう点で将来への影響は大きいのである。


北海道では最初に20年前でも自分はいち早くビデオカメラを買ってとっていた。ところが写りがかなり悪いからぼやけている。でもそれすら貴重なものとなっている。記録は貴重なものなのである。
この辺では右田の松原が津浪で消失した。その一部の写真がホ-ムペ-ジの方に残っていた。いろいろ書いたから自分でも何がどこにあるのかわからなくなっていた。インタ-ネットは意外と消えない、本の方が消えなようでも本は書店に置けないし図書館に置いても全国の人は見ない、インタ-ネットは誰かがみるということがある。ただインタ-ネットの問題は見れた、読まれた感覚がない、アクセスを解析していない、ホ-ムペ-ジの方はそうなっているからあるのかないのかさえわからないような状態になっている。プログの方はどのペ-ジが読まれているから解析しているからこれは読まれたとか多少反応はあるとそれでみている。ともかく一度書いたものを整理する必要が出てきた。量が膨大なので整理すること自体大変である。

ともかく北海道は草原、原野、湿原の原初の状態が残っているからそこにあるのは野生の跡だけともなる。そういう世界は北海道にしかない、そこが魅力なのである。防波堤のない自然のまま砂原の海岸が延々とつづくところがサロベツ原野辺りにある。
あういう場所は本州ではないが津浪で原初の自然状態に帰ったのは驚きだった。

2013年04月08日

五稜郭の桜(榎本武揚など-明治の青春)


五稜郭の桜(榎本武揚など-明治の青春)


劇的に船は沈みぬ函館に風雲の日や桜咲くかな

五稜郭ここも日本や桜咲く明治の青春ここにありしも
五稜郭鴎飛びつつ桜咲く白波よせて戦いに死す
榎本の波しゆられて五稜郭海風やまず花の咲くかな


函館の五稜郭の桜を放送していた。今はまだ咲いていないにしろこれから咲く、明治維新の動乱の場所が函館だったのである。その時五稜郭落城して榎本武揚降伏したのである。
 
 五稜郭写真
 http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/05/post_38.html
 
 見張り塔が屋根の上にあるのは伊達政宗の瑞巌寺の寺と同じだった。あそこの寺は城だったのである。
 
        靺鞨の山 青一髪 我が行 此に至りて 豪に堪ゆ
        宝刀横ふる処 鬼呵護すべし 胡馬嘶く時 風は怒号す
        短鞨早天 暁霧を衝き 孤帆残月 秋濤に乱る
        扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを
       

靺鞨の山というのは古代からあった国のことであり多賀城碑にでている。扶桑とは日本のことである。北海道は当時新天地であり新しい蝦夷共和国を作ることを夢見ていたのである。

この脱走は最初から不運が付き纏いました。犬吠埼で暴風に遭い、咸臨丸が政府軍に捕まり、運送の座礁等があり、ようやく9月26日仙台港に集まり、修理に進めました。ところが、この時既に会津若松城は落城し、仙台藩も降伏を決定していました。奥羽の各反政府同盟(奥羽越列藩同盟)は早くも壊滅状態で、希望を失った旧幕臣たちは最後の抵抗を試みるため榎本の元に集まりました。
戊辰戦争で敗れ、北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎家臣団401名を乗せて仙台の寒風沢を出港した咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、1871年(明治4年)9月20日、木古内町のサラキ岬沖で座礁。


この時いかに激動のなかにあったか?陸では会津が落城して仙台藩の片倉家臣団が寒風沢から咸臨丸にのって出航した。仙台藩は北海道に伊達市があるようにかなりの武士が移住した。この時の激動も凄まじいものだったのである。ここで船が相当にかかわっていた。船で脱出して新天地の北海道を目指したのである。

明治の青春は函館が啄木の青春の地だったように気宇壮大なものがあった。時代が日本の青春そのものだったのである。だから青春の時代絵巻があった。その中には無名のうちに死んだ人も無数である。ぼっしん戦争では東北に責めてきた九州福岡の人が浪江辺りの寺の墓に死んで埋もれている。
土地の人が葬ったのである。相馬藩も一時戦い相手を殺したり自らも死んだ。


長州の毛利、筑前の黒田、大和郡山の柳沢、芸州広島の浅野、伊勢の藤堂、常州笠間の牧野、熊本の細川、因州鳥取の池田、筑後久留米の有馬ら各藩の軍勢だった。
相馬藩には以下の通達が行われた。
http://boshinken.info/hoshisenseironbun.html


芸州となるとどこの人となる、安芸藩であり広島の方になってしまうのだ。九州の福岡県の人も戊辰の役で死んで墓が残っている。福岡の人が歴史を探りに墓を訪ねていたりする。
http://musubu.sblo.jp/article/9378228.html


忘れらる相馬に果てる福岡の侍の墓春の夕暮    


戊辰戦争ではとても薩摩長州の連合軍の勢いにはかなうものではなかった。錦の御旗をたてられて進軍してくる勢いはとめられるものではなかった。それがやはり時代の趨勢だったのだろう。相馬藩はその勢いにたちまちのまれて敗退して軍門に下って仙台藩と戦うことになった。その境界が丸森であり戦場跡として残っている。大砲もそこで使われたのだ。


大砲をここにすえつつ戦いて死せる者かな春の夕陽没る

武器でも劣っていたから勝ち目はなかった。東北連合は成らずばらばらだったのである。それで白虎隊や二本松少年隊の悲劇があった。二本松では兵力すらなかったから12才の少年まで狩りだされた。まさに城と共に討ち死にしたのである。 仙台藩の侍も結局榎本武揚と同じ様に北海道に逃れた。亘理藩が移住したから伊達市となった。その激動は錯綜しているからわかりにくい、ただ大砲が武器として重要であり八重の桜では主題にもなっていた。そもそもヨ-ロッパの城の時代が終わったのは大砲が武器となったときである。大砲のために城壁は無力化して城の時代は終わったのである。


この地にそ轟く大砲その音や丸森にひびき春の日没りぬ
 

扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを・・・この漢詩は北海道からさらにロシアまで眼中にした雄大な詩だった。北斗の高きを・・というのはロシアまで視界にして本州を見ているのだ。
我等には新天地北海道がありロシアがある、樺太がある・・・北斗があるとなる。


明治維新庄内藩&会津藩のプロイセン(ドイツ)結合

最近発掘された資料でわかったように会津が閉鎖された山国で情報にうといというものでもなかった。プロイセンに北海道の会津藩の支配地域を売ろうとしていた。それは日本の領土だからそういうことは日本を売ることにもなっていた。でもぎりぎりの所で外国の力を借りようとしていた。
これは伊達政宗はヨ-ロッパに使節を派遣して連合を計ろうとしたのとにている。
だから必ずしも東北は閉鎖された辺境とも言えない、外国と結んで薩摩長州連合と対抗しようとしていた。人間は日本国というよりまだ藩単位のアイディンティティに生きていたからである。

はとにかく一つの雄大な詩であった。錯綜していても何か人間的だから詩にもなり小説にもなる。そこには英雄が存在した。一方太平洋戦争には何かそうした人間的なものがないから詩になりにくい、むごたらしい戦死者の数のみがあるだけなのである。だから報われないともなる。つまり明治は江戸時代の武士の文化の延長としてなおあったのだ。だから内村鑑三などが北海道でクラ-クに指導された強力な指導者になりキリストに命をささげた独立伝道者になった。北海道はその時日本のフロンティアになっていたのだ。啄木でもやはり時代精神の現れがあり若くしてあれだけの短歌を作った。それは明治という全体の時代の産物だったのである。明治は今になれば西欧化の華の時代であり詩的なテ-マになりやすい、詩の時代だったのである。それから大正とか昭和になると散文的時代となる。時代的に高揚するはいうより何か文明の頽廃的様相を呈してしきた。デカダンスとかが主流となってきたのである。戦後はアメリカに負けて日本の精神すら根こそぎ断たれた。明治は一番日本の国粋文化も高揚していたのである。漢詩が一番興隆したのが明治だったことでもわかる。漢詩は志を述べるものだからである。志の時代、まさに志士の時代だったのである。

だから明治の青春こそ無名でも一人一人が青春を生きていたのである。それは今や埋もれてしまいわからなくなった。結局明治の青春を作ったのは時代を作ったのは武士がいたからである。武士のモラルがまだ生きていて西欧化でもその魂が融合したのである。和魂、洋魂の時代だった。300年の武士の時代が明治になって死んだわけではなかったのである。その蓄積が実は技術面とか他でも華開いたのが明治だったのである。ルネサンスにしてもそこにイスラム文化とかギリシャの文化-ロ-マの文化などが融合して一大ルネサンスが生まれたのである。過去の蓄積が融合して華開いたのである。こういうことは個人的にもある。一人の天才がいてその才能が次代のものに新たなものになって蘇る、模倣ではない新しいものとして蘇るのである。ただ今や現代は個人的にしかそうした文化的なものは受け継がれないのだ。明治のように時代全体として受け継がれることはないのである。大衆化した文明というのはそうした文化の創造などないのである。宗教はカルトとなり数の政治にすぎないし文化的創造的なものは団体などから生まれない、政治と実用の科学の時代なのである。

現代とは一番詩が欠如した時代なのである。それで上野霄里氏などがニ-チェのようにアウトサイダ-化して絶叫するようになるのだ。上野霄里氏が自分は高杉晋作ににているというときまさにそういう詩人的行動者だったからそう言ったのである。詩が欠如している時代は時代的に衰退している。散文的な金だけを追い求める物質的なものとなり高邁な精神の高揚もなく低俗大衆文化の時代なのである。この辺の原発事故でもそうである。第一次産業に農業に漁業に林業でも自然とかかわることで生活することは詩的なことである。しかし工業化して文明化すると自然から離れるから詩的なものとはならない、詩は自然なくしてはありえないのである。原発によって自然が汚染され破壊され人まで住めなくなったことはまさに黙示録的世界がこの辺に現れたのである。津浪もまた大きな時代の変革をうながすのとして起きてきたのかもしれない、人間より神の力のいかに偉大かを示したものなのかもしれない、無情ではあるがそういう恐るべきものを見せつけたのである。


扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを・・北斗の高きを・・・というときこれには宇宙からの視点もあった。それだけ雄大な志に生きて果てたというのが明治の青春だった。現代の青春はカルトととかいかに金もうけて金で自分を誇示して偉くみせるとか物資的になりすぎているのだ。結局現代人の望みは金持ちになることしかないのである。志に生きるなどはすでに夢にも浮かばない、というのは会社自体が利益を追求するのであり利益が最大の眼目だからである。そこにいかなる志も芽生えない、いかに他者を蹴落としてもうけるか金になるかしかないのである。そういう功利的人間しかいなくなったのである。まさに志に生きる武士はいなくなった。日々利を求めて追われているだけなのである。この辺でも結局補償金の金でもめているだけでありどこにも絆などない、最初のうちだけあっただけだったのである。

2013年07月18日

残された北海道の一枚の写真 (写真はあとで貴重になる)


残された北海道の一枚の写真

(写真はあとで貴重になる)


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ここが北海道のどこかわからなくなった。最近ずといろいろなものを整理していた。ンも整理して半分くらいなげた。結局本も利用しなかったら何の価値もないのである。ただ集めて飾っていても野役目は果たしていない、ただ本が蔵書が必要だったのはどうしても辞書のように参考するものを置いていないと文章が書けないからそうなった。そこに図書館の意味もあった。参考にするを資料など全部揃えられないからだ。


それにしてもまずこの山はおそらく羊蹄山の麓の写真なのだろう。いかにも北海道らしい雄大な景色である。この写真をとった記憶も全くなくなっていた。この写真をみていい写真だなとつくづく思った。デジカメなどない時代だからこれは大きなプリントにしていたのはやはりいい写真だったからかもしれない、ただこれは本当に自分でとった写真なのか不明なのである。雑誌の写真を拡大化したのかもしれない、でも大きなプリントにするというのも解せないのである。


一枚の写真は実は多くのものを語って伝えることがあった。これは風景だけだけど人間が写っているものがそうであった。自分の家の子供の頃の写真を発見した。その写真は本当に不思議だった。
それから死んだ姉の写真もいろいろあった。とくに昭和15年にとった看護婦の写真は貴重である。なぜならその頃白黒写真だったからである。それもぼやけてくすんで汚くなっていた。

人間は死ぬと思い出すものは写真だけになる。その写真をみていると本当に不思議である。
こんな人だったのかとか思い出す、写真で問題だったのは日にちと場所がわからなくなっていたことである。これが意外と写真の盲点だった。日にちと場所と名前を書いておくと写真は貴重な記録になる。


現代はデジタルカメラで膨大な写真が記録されているからそれが50年後とかになるとかなり貴重なものとなり記録がよみがえる。人間にとって記録がいかに大事か、津波で思い知らされた。もし一枚の白黒の写真でもいいから400年前にあったらどうなったか?つたない絵でも残されていたらそんなことあったのと注目したに違いない、ともかく現代は写真で時系列にも記録される時代である。
人間ほどわすれやすいものはない、すでに母はぼけていて写真を見せてもわからなくなっている。

もう自分が経験したことも誰が誰なのかもわからなくなっている。たいがい90すぎたら認知症になってしまうからだ。記録が消えてゆくことは実は人間の死を意味していたのである。記憶していれば過去も生きているし一緒に生きた人たちも生きているのだ。忘れればもうその人たちも生きていないのである。


ただあまりにもくるしい人生だったというとき忘れることも必要である。嫌なことは忘れた方がいい、でもいいことも忘れるから困るのである。と
ともか北海道に十回も行ったからいろいろ記憶されているはずだが忘れてしまうのである。
だから思い出す作業をしているときこうした一枚の写真でも残っていると記憶がよみがえってくるからいいのである。

2013年11月30日

北海道の地名(思い出す旅の不思議)


北海道の地名(思い出す旅の不思議)

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北海道は十回行ったから思い出深い場所である。最初は電車の旅だった。それから自転車の旅に変わった。電車ではものたりないと思って自転車になった。それも40歳くらいになってからだった。若い時に自転車で旅できると思っていなかったのである。
旅も今になると思い出す旅になる。その思い出す時不思議なのは何か記憶に残っているかということである。何が思い出すのか?それがまた旅だったのである。

老人になると何でもそうだけど思い出すことが仕事になるのだ。
別に旅だけではない、それぞれの一生がありそれが何だったか思い出すことが生きることにさえなる。だから夫婦でも人生でもどういう人生を送ったかが必ず老人になると否応なく思い出さされるのである。嫌なことを忘れたいと言っても思い出すことがある。
罪なことも例え刑に服さなくても罪として意識される。


ただ旅を思い出すという時忘れるものが実に多い、どこに行ったのかもわからなくなる。電車の旅は電車は早く過ぎ去るから思い出しにくくなる。それで「雄冬」という地名が気にいった。何か簡潔で地から強いしまさに秘境にふさわしい名前だった。ただここには行っていない。でも名前から人間はまず記憶するということがある。これは北海道らしい名前だと思った。


記憶して思い出したのは函館線の「黒松内」という駅である。なぜかそこに長く止まっていたような記憶がある。そこはこの名の通り黒い森林地帯だからその名とあっている。
そういう街も見えない森林地帯が延々とつづいていたみたいだ。そういう場所が北海道にはある。

それからなぜか「和寒」という駅も思い出す、これは字の通りに何か寒い感じになるから不思議である。稚内線に入ってゆく線だからそれも不思議ではない、何かこの辺からそうした奥地に行くという感覚になっていた。ただ電車の旅は時間がたつと忘れやすい、どこをどう通ってどういう景色だったか思い出せない、ただ黒松内という駅名を記憶していたときあそこは確かに黒々とした森林地帯だったなと思い出した。何らか記憶に残っていたのだ。


北海道の地名にはアイヌ語の当て字だから変わっているしアイヌ語より漢字でイメージする。美瑛とかなると美しい場所だとイメージして本当にそういう場所だった。
和寒などもこれもアイヌ語であるかアイヌ語には何か簡単すぎて実用的で漢字のイメージとは違っている。むしろ地名はそうした無味乾燥なものが多いのだ。だから漢字の当て字にしたのは全く別なものなのである。

記憶をたどる時何かたどるべきものがないとたどれなくなる。それで地名がその一つの印として記憶する。名は体を現すで名前から人もイメージする。だから名前が大事になる。「雄冬」という名前はその名前と実体が一致しているのだ。いかにも寒そうだし力強いし簡潔なのである。岩内までは行ったがその奥だった。北海道は広いからとても回りきれない、バイクなどだと一応回ることはできるだろう。自転車だとできない、電車でも通らない所があるから行けない場所がかなりある。特に北海道は廃線になっているのが多い。

街には昔の駅が記念にあるのが多い。歯がぬけたように鉄道路線は消えているのだ。


夏の暮黒松内の駅暗し

和寒の名のみ覚えて冬の暮
北海道雄冬のありや冬に入る
 

2015年06月03日

函館の夏の短歌十首(お土産のガラスの壺に花をさす)


函館の夏の短歌十首(お土産のガラスの壺に花をさす)


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函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花 啄木

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これは函館のお土産ではない、安い壺である
でもこれが夏菊とあっていたのである。
フラワーアレンジメントは実際は簡単である。
様々な花を活けてみるとそれぞれの花が映えるのである。
それはなんら考える必要がないのである。
ただ意外と壺が関係している
壺と花を合わせることも必要になる
この夏菊は外でとってきたものである。

それから何か津軽ビイドロは津軽的なものがありその色合いが違ってた。
その地方の特色を出せば売れる
鎌倉彫りも武士がはじめたというのもで何か武士の感覚が伝えられている
相馬では大堀で相馬焼きの窯元があったが原発事故でなくなったのである。
その土地のカラーを出すことがこれから経済的な面だけではなく
地域創生にとって大事なのである。
もう経済的発展は日本には望めない
文化になるとそれは道路を造るとか建物を作るのとは違うソフトの面である
そういう面はいくらでも開発できるということがある
だから文化の面にエネルギーがシフトされてゆく
現実に釜石では工場があっても機械化して地元の人を雇っていないという
もの造りなどは機械化するから人は雇わないとなると
人間はどこで働くのかとなるからだ。


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矢車の花

様々に彩る花や函館の街に船よる夏の夕暮
函館の市電にのりておりる駅白波よせて夏の日の街
啄木の青春の日や明治の日海に響きぬ教会の鐘の音
函館の坂上り下り船とまり夏菊咲きて旅人行きぬ
榎本の五稜郭に陣とりて意気の高しも船は沈みぬ
函館に上陸してそ様々の思いや若き明治の日かな
北海道希望の地なり学びけれ働きにしや明治の青春
函館の交差する通り市電ゆく船も見えつつ夏の夕暮
函館に異人の墓やロシア人ここに眠るや厳かにして
函館に明治の夜明け様々の思い交差し夏の夕暮




北海道というと梅雨の時期に必ず太平洋フェリーで一カ月くらい自由に旅していた。
今考えるつくづく恵まれていた。
別に旅行しても金はそれほどかからない、最初は電車で旅していた。
それからものたりなくなり自転車で旅するようになった。
函館には何回も行った、青函連絡船の時も何回も行った
あんなふうに自由に旅できたのが今になると恵まれていた。
つまり旅に行ったらいつ帰ってこいという縛りがなかったのだ
勤め人だったら一カ月も旅できないだろう。
すでにその時から社会からはずれてしまったし普通の社会生活からもはずれてしまっていたのだ
ただ家庭環境でなぜか自由な旅ができた。
家の人は何にも文句いわなかったからである。
こういうこともあまりないだろう。
今になるとただ記憶をたどる旅になってしまった。

函館は何回も行ったから今でもそこを歩いている感じになる。
何回も行ってそこに深く親しむと何か旅してなくても旅のつづきがイメージの中でつづいているのである。
だから不思議なのは日本全国でも世界でも何か自分はあっちこっち旅していている
心が日本全国に浮遊して世界に浮遊してそこにあるという感じになるのだ。
だから今は全くすぐ近くにゆくのも容易ではないが
心は日本全国を浮遊して世界にも浮遊している不思議があるのだ。

旅したときはその場所がどういう歴史があるとかなかなかわかりにくい
でもあとからなぜかその場所について理解が深まることがある
それは全部ではない、旅したある場所が特別思いだす
函館は春にも夏にも行ったし冬まで行っていたのである。
北海道は冬にも流氷見るために行っていた。
だから自分はだいたい全国の人とあうと住んでいる場所を聞くとイメージできる
最近この辺では工事関係者とか除染の人が全国から来ている
時々その人のことを聞いてみてその人がどういう場所に住んでいるかイメージできる
ただ富士山を毎日見て暮らすという人の場所はイメージできなかった
全部ではない、イメージしやすい場所とそうでない場所がある
京都とかこみ入った所はイメージしにくい
ただ近江は自然環境があり琵琶湖中心にイメージしやい場所である。
だからそういうところは思い出して短歌や俳句や紀行文でも調べて書けるとなる

まずその場所についての地理的空間的なもの時間軸の歴史的なものを知るのが大事である函館には明治の青春が凝縮された場所でもあった。
あそこに上陸して北海道に開拓であれ向かったからである。
北海道の玄関なのである。
ただ新幹線が通るというとき地下から北海道に行っては旅情がそがれる
なぜなら函館は船がよる港として栄えたからである。
船なくして函館の価値はないのである。
だから青函連絡船がなくなったとき一つの歴史が終わり函館はさらに過去のものになった函館の今は一番生活保護者が多い
それは経済的に衰退している街だということである。
北海道全般がそうだが函館が今がそれだけ衰退しているのはやはり北海道全部がそういうイメージになる
新幹線が通ったら来年になるけど今度は観光客が来るという
青森の人は青森を通過してしまうから困るとかも言っていた。
それでも函館は船が欠けたら魅力がない
船でゆくとき港だったのだから函館の昔と今も感じるのである。

ともかくなんらかその場所について語るときはやはり相当にその場所とコミットメントしないと書けない
それだけの暇がある人はまれである。
そうなると旅行作家にもなるが旅行作家でも一生旅ばかりしても深いものはなかなか書けない
たいがい一つの場所なら何回も行きその度に感じるものが違って新たな発見がありいろいろあとで歴史的なものも時間をかけて知るようになる
つまり何かを理解することはその場所でも時間がかかるのである。
一番何でもそうだが理解が深まるのは60以降である。
その頃になるとたいがい本を読んでもすぐわかる
十冊の本を読んでもすぐ要点がわかるのだ。
自分はばらばらに本を積んで最近はアマゾンでも自分の書きたいことを調べるためにもそのつど買っているからまた本が増えた。
それでもつれづれなるままに本を手にとり要点だけを読んで利用しているのだ。
一冊をじっくりと読むのもいいが本はやはり知識はあることについて理解を深めるには多様な知識に接することも必要になる

それを理解する基礎はやはり旅などをして実感を多くもつことなのである。
肌で感じたことは忘れないし思い出すし血肉になるのである。
本だけを読んでもテレビを見てもインターネットでもその場所に行かない限り実感にはならない
でもそれだけ理解を深めるとなると旅するとなると一生が終わってしまうのである。
自分はいつのまにか旅しているうち人生も終わりに来ていたのである。
人生はそれだけ短いのである。
何するにも時間不足で最後はできない
あの時はあんなに暇だったのに今になると時間があっというまに過ぎたとつくづく思う
そして人間はいろんなことができるようでできない
何か一つのことを習得するにも時間がかかるからできないのである。
まず結婚したり子供をもったり他に何かしていたり無駄なことをしているとあることに集中できない、人間はそんな時間がないのである。
家庭をもって勤めて子供をもったりしたすでに自由な旅などできないのである。


タグ:函館

2015年11月06日

心をつなぐ一本の線路(詩) 北海道の消えゆく線路


心をつなぐ一本の線路(詩)

北海道の消えゆく線路

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北海道の果ての線路
一本のみが伸びている
駅舎も古りて単線のホーム
確かに一本の線は伸びている
広々とした野は枯れて
何かをつなぐように
一本の線は伸びている
でも果たしてその向こうに
駅があるのだろうか?
それも何かおぼつかない
それほど淋しい線路
北海道の路線は次々に消えた
この線もいづれは消える
野は枯れて霧の向こうに
寂寥とした枯野の向こうに
本当に駅があるのだろうか
町があるのだろうか
誰かが乗るのだろうか
誰かが下りるのだろうか
アメリカのアムトラックに乗った時
一人のみがその駅に下りた
駅の名はプリンスとか覚えている
王子様が住んでいる所
それも広大なアメリカであったのか
一本の線路は心をつなぐもの
でもそのかなたに本当に駅があるのか
誰かか待っているのか
ああ 家族はみな亡き人となった
故郷に帰っても誰も待つ人もいない
みんな墓の中だ
その駅には幽霊が待っているのか
良く帰ってきたなと
笑顔で迎えてくれる家族
その時自分は悲しく涙がでる
誰も待つ者もいない
人はみんな死んでゆく
ああ 一本の線路よ
それは心をつなぐ線路
それはかなたにつづき
人と人をつなぐ

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北海道には十回行っている、それは梅雨の時期に仙台港から苫小牧に船で行っていた。最初は電車の旅だった。二十年くらい電車の旅だった。だから日本の線路はだいたい乗っている。乗っていないのは関西など私鉄だけである。
ただ北海道の線路は今や半分は消えているだろう。
まず自分のように旅行した人もいないだろう。旅行が仕事だった。そんなことができたのも幸運だった、今なら遊んでいるニートなどいくらでもいるからめずらしくない
あのころはそんなふうにして遊んでいる人は少ない、一カ月も自由に旅する人は少ない
そのあとは物足りなくなって自転車の旅になった。
今になると自転車の旅もできない、筋肉が疲れてだめになったからだ。
遊びにしてもこれも簡単なようで時間がない体力がないとできなくなる


外国まで電車の旅をしていた。アムトラックで思い出したのはそれは深夜だった、一人の女性がおりた、それは一人だけだった。こんなところに駅があるのかと不思議だった。
さぞかし淋しい駅なのかと思ったらそうでもない、調べると写真もでているが「プリンス」という駅でありその名前で覚えていた。
外国でも名前で覚えることがあった。
アメリカは広くてこれも記憶に残りにくかった。外国の旅は記憶にのこりにくい。
でも旅はあとで思い出すことが意外と大事だった。景色も消えてその名前だけが印象に残ったからだ。アムトラックも観光路線であり冬でありがら空きだった。
アムトラックなどは座席が大きくゆったり座れることがよくそこでソァーのように眠れたから良かった。日本は座席が狭いから眠れないのである。


とにかく自分は鉄道にこれだけ旅行したのだから愛着がある。鉄道マニアというときいろいろある。撮り鉄とかいろいろある。実際に線路まで愛着を覚えるのが鉄道なのである。鉄道には何か人間的なものがあり旅情がある。
バスだと何かそういうものがないというのも不思議である。
鉄道の旅とバスの旅は全然違ったものなのである。
インターネットで藻琴駅とかの写真を見ていた。あそこも駅はあってもバスが線路を走るそうなると全く違ったものになる、やはり一両でも車両が走らないと気分がでないし旅情がないのである。
鉄道というと音にも感じる、汽笛でも線路を走る音でもそうである。
それはやはり旅しているからその心があの音に感じる、駅もまた旅情がありバス停とは違っている。鉄道はそれだけ人間的である、新幹線になるとまた違っている
早すぎて旅情がない、ただ早く運ぶだけだとなってしまう。
鉄道が全盛期のころがなつかしくなるだろう。
それは団塊の世代でもそのあとでもやはり鉄道が生活路線だったときがなつかしい
駅だってそこが街の中心であり駅前通りがありそうしてにぎわっていたころがなつかしい車時代になり道の駅になったが何かそれで淋しいのである。


人間は最後は思い出だけとなってしまう。原発事故で故郷から離れた人も何かこの詩のような感覚になる。もう駅があっても双葉とか大熊はいつ電車が通るのかもわからない
それも想像もできないことだったし村ごと津波で消えたことも想像もできないことだったあまりにも変わりすぎたのがこの辺なのである。
ゴーストタウンになりゴーストステーションになっている。
こんな映画のようなことが現実になることがおもいもよらなかったきである。
ゴーストタウンを幽霊のように彷徨っている姿がある。
そしてすべて消えたのか、やはり思い出はみんな残っているのである。
死んだ人はなにもなくなったのか、思い出だけが今でも残っているのである。
一本の線路は心をつないでいる、それは死者とも通じている
それは自分が死ぬまで消えることがない、心の線路なのである。




タグ:北海道の駅

2016年10月12日

途中下車宗谷本線(詩)ー宗谷本線が消える?



途中下車宗谷本線(詩)ー宗谷本線が消える?

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宗谷本線
一つの駅
おりたちぬ
夏の日の思い出
数軒の家あり
立葵明るく咲き
一軒の家の庭
花々に囲まれぬ
かしこ我がしばし
一人遊びてあり
今にして遠い記憶
一つの駅またおりぬ
その辺り歩みて
牧舎に牛のいぬ
のっそりとして
そこは湿原や
菖蒲の咲きにき
一両の電車あわれ
夏の夕ぐれ
ただ遠き日の旅の思い出
その最果ての線路
一つの無人駅
おりたちて
いつ来るとてなし
電車を長々と待ちぬ
線路には恐ることなく
でんでん虫の一匹眠りぬ
その路線も消える時
まさにただ記憶とならむ



宗谷本線の存続がむずかしくなるらしい、稚内からは乗る人がまれである。ほとんど無人駅である。電車も一両だった。youtuneで延々と電車からの風景を写している
延々と森の中を走っている、家は本当に少ない、あんなに家がなかったのか?

人間は最後は記憶だけになる、記憶がそこにあったということを示すが例えそこにあっても記憶が消えたら存在しないと同じなのである。
ても旅でも今は騒がしいから忙しいから記憶に残らないのである。
すると旅したことにもならないしそこにあったということすらなかったともなるのである
自分は暇だったから一つの駅でおりてその辺をぶらぶらしていたのである。
電車は二時間くらい来なかったかもしれない、あの辺は無人駅が多い。
電車も一両だった。それだけ乗る人がいないというとき廃止になるのもやむをえないのかとなる、北海道の路線はすでに半分は消失した。これからも消失してゆく
ただ宗谷本線は違っていると思った、なぜなら急行が走っているし本州と最果ての地を結ぶ路線だと思っていたからだ。そういうことでなくなるとは思わなかった
ただ一両の電車がたまに走る路線だから日常的に地元の人が乗る人が本当に少なかったのである。

電車の旅はずいぶんした。北海道はずいぶんのった。でも電車の旅は意外と記憶に残らない、その車窓の風景でも早く過ぎて行くから記憶に残らない、ただ途中下車するとき何かそこが記憶に残っている、宗谷本線では途中下車して長い時間をいたから記憶に残っていたのである。
記憶は時間と関係しているのである。早く過ぎたりちょっと留まったりしただけでは記憶に残らない゛ともかくそこでは途中下車しても長い時間を過ごしていたのである。
それで記憶に残っていたのである。
現代の旅は何でも忙しくて早すぎて記憶に残らないのである。すると何か実際は時間の浪費しているのである。
効率的な時間で旅すること自体がかえって時間を浪費しているという逆説になる
なんか無駄な時間がかえって記憶に残りあとで宝となる

人間は老人になればわかる、体験したことが宝でありもう新しい体験ができないから体験した記憶が貴重なものとなる、人間の生きる時間は極めて限られたものなのである。
そこに人間の限界がある。老人になると新しいことを消化しにくくなる。
ただ今まで経験したことをふりかえりその意味を深化させるのに向いているのでてある。では旅した経験を書くというとき記憶に残っていなかったら書くこともできない
でも記憶に残ることはつくづく少ないと思う、とにかく人間ほど忘れやすいものはないのである。

自分の場合、介護だ自分の病気だ、津波だ、原発事故だとかあり十年がたちまち過ぎた、それで時間を消費してエネルギーも消耗した。旅する気力もなくなったともなる
そして新しいことを消化できないのである。
今まで経験したことを深化してゆくことしかない、だから老人は狭い範囲で生きてその場で意味を深めてゆくことに適している、新しい場で再出発することは向いていないのである。だから原発避難民でも老人は故郷に帰りたいとなるのである。
そこには生きた記憶の場所だからである。

タグ:宗谷本線

2018年02月17日

北海道の思い出短歌十首(原始的自然が残るから惹かれる)


北海道の思い出短歌十首(原始的自然が残るから惹かれる)


北海道美し厳し一詩人命短く呪いつつ死す

開墾に挑むも成らず捨てられし家そちこに北海道かな

タンボボのまばゆく映えて草原や真昼間に鳴く雲雀のひびきけり

煙吐く十勝岳かなボプラの木丘にますぐに草萌えるかな

煙吐く樽前山に藪萱草放牧の牛たむろするかな

針葉樹厳粛にして北海道の大地の広く国を成すかも

トドマツの太くもあれな大雪山残れる雪や層雲峡見ゆ

北海道針葉樹林の黒々と打ちひびくかな原始の山見ゆ

沼一つ宗谷の果てや隠されて森の影深く陽の写し輝く

霧深く陽の輝くやこの辺りいづこやキタキツネの現れ消えぬ

霧流るえりも岬に菖蒲咲きその霧深く隠しけるかな


おらは反抗する
あくまで敵對する
まつ白な雪の中で
零下の寒氣の中で
このまま目をつむれるもんか
おら おららは

移住民(猪狩満直)


猪狩満直は四〇歳くらいで北海道の開墾に入り肺病で死んだ,絵も描いていたから相当に才能があった,でも厳しい開墾で病に倒れた,だからしきりにこうして呪っていたのである。
まず開墾となれば旅ではないのだから厳しいのである。
だから北海道にはそうして捨てられた家がそちこちにある
みんなが成功したわけではない,挫折した人も多いのである。
猪狩満直は北海道の厳しい自然と格闘して敗れ死んだのである。

北海道には本州と違うのはまだ原始的自然が残っている,それが北海道全体で感じる
北海道に入ると本州の空気まで違ってくるのである。
だから自分は十回も北海道をさまよい旅したのである。
その記憶もあいまいとなっているがこうして時々思い出して短歌と詩にしている

例えば福島県でも長野県でも県単位だと一つのものとして見れない,岐阜県の人とあったけど名古屋が岐阜県だと勘違いしていた,岐阜県はどういう地域なのかイメージできないのであてる。福島県でもそうである。ハマ,ナカ,アイヅで気候が違っているからである地形も違っていて一つの県としてイメージできない
北海道は広いのだけど一つの国としてイメージできる
そこはいろいろあるが一つの北海道として見る
そこには荒々しい原始的な自然を感じる,だから北海道に船で苫小牧から上陸したとき違った世界に来たとその時感じたのである。

旅の記憶をたどると宗谷岬に行く途中にカムイト沼がありここは本当に神秘的である。
原始の自然の沼である。こういう沼は本州では見れない,なぜか?
本州では人が住んですぐ近くに村でも町でも都会にもすぐ出るからである。
ここは町とか村でも離れていて家も少ないから自然のままなのである。
宗谷岬当たりは本当に人家もまばらだからである。
そこにはハクサンチドリとかの高山に咲く花も咲いていた
北海道には高山植物が寒いから咲いている,それが魅力的なのである

十勝岳は美瑛から見える,北海道には今も煙を吐いている山がある
樽前山もそうだった,だからここにも原始的なものを感じる
やはり北海道の魅力は北国の自然でありそれが厳粛なのである。
南国と北国でも自然が違っている,針葉樹林でありトドマツとかであり太いし荒々しいという感じになる,ドイツの黒い森とにているだろう。
そこは樅の木である。樅の木でも飯館村の奥に隠されていた樅の木には感動した
二本とかあったが太い樅の木だった,一般的に樅の木はあるがあのように太い樅の木は見ていない,同じ樅の木でもいろいろある,飯館村は森の村なのである。
この辺はまだ森がある,海から森へと通じる自然がある,ただ山はないのである。

こうして思い出す旅をしているのも介護が終わり余裕ができたからでもある
何か思い出すにしても時間と余裕が必要なのである。
介護しているとそういう余裕すらなくなっていた
冬はこうして思い出す記憶をたどる旅に向いているのだ
ストーブにあたたまり思い出す旅をしているのである。
ただ旅ももう何か終わったという感じにはなる
何か介護十年して消耗して疲れたのである。
だから旅する気にもならなくった,そのエネルギーもなくなったのかとなる


カムイト沼
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2018年02月18日

北海道短歌十首(2)(見直される猪狩満直などの詩人)


北海道短歌十首(2)(見直される猪狩満直などの詩人)


北海道原始のままに飾らずにますぐに太く立ちにし樹かな

高きより滝の落ち来る新緑の巌に映えて層雲峡かも

自由なる旅人一人北海道の郭公の声かなたにひびけり

北海道大地の広くその空に郭公の声ひびきわたれり

底までも澄みにけるかな山上湖原始のままにけがれなきかな

北海道流れの清く蕗の薹芽吹きけるかなその数多しも

アイヌの顔彫りの深しも哀しかなその民滅び和人となりぬ

きれぎれのアイヌの言葉残りしも継ぐ人なくて絶えにるかな

ここにしもアイヌの民の物語深くも尋ぬ人は少なし

ラベンダーの中に揚羽舞い来たりひそみ長くまた飛びたちぬ

ラベンダーの紫つつむ富良野かな鉄路の長くまた旅たちぬ

大いなる挫折にありや大鳥の半ばとびたち墜ちにけるかも



北海道は十回くらい行っている,これだけ旅するには勤めていてはできない
自転車でも何回も行っているからだ,だから北海道はほとんど回っている
一番長い旅は苫小牧から宗谷岬をめぐり稚内に行った時だった
その時六月で稚内に桜が咲いていたのである。

その時はまた郭公がどこまでもひびいていた,その声がひびきわたる大地の広さがいいのである。
北海道の良さはまだ全体的に原始性を残していることなのである。
原始的な清純な自然に触れることなのである。
それは本州とかなるとそこには確かに自然があっても全体としてはどこもないのである。北海道は全体として原始性が残されている,それが魅力なのである。

アイヌも住んでいたからそこに物語も残されているから深く尋ねれば興味深いものとなるただアイヌ語はもう死んだ言葉だし不明となっている
それでも彫り深い顔だちの人がいてその人はアイヌの末裔なのかと見る
その顔はもしかしたら西洋的というか何かそっち系統の顔なのかもしれない
縄文人とつながっているのかどうかは不明である。
言葉の痕跡として動詞が主語によって変化するとかあり英語などに通じるものがある
アイヌ民族の謎は未だに解明されていないのである。
アイヌが存在したということ,それも歴史だったということを日本史の中に記されるべきなことは確かである。

北海道の開墾に入り猪狩満直は挫折した,でもその人を考えるとそれが大いなる挫折だったということである。
その挫折には意味があったなと思う,啄木も挫折したがまた猪狩満直などは違う
啄木は注目されているが猪狩満直などは詩人としては注目されていない
三野混沌などもそうである。
その当時は農業中心の社会でありみんな農業で生活をたてるほかなかった
それは戦後の戦争の引揚者の時代までつづいたのである。
だから戦後の引揚者が入った場所がいたるところにある
この辺でも山には必ずそうした引揚者が入って開墾した場がある
それは全国的に仕事がないからそういう場に入ったのである。
北海道でも農業中心の社会ではそうなったのである。
だからそういう時代だったとなる,時代の犠牲になったともなる
戦争で犠牲になったのと同じである。

ただ挫折したからといって今考えるとそれが無意味だったとはならない
それは大いなる挫折だったのである。北海道の大地に挑み挫折した
それは大いなる挫折でありその残したものが何なのか考察する必要がある
挫折しても大いなる挫折でありそこに未来に残すものがあった

そのことはこの辺で原発事故で前にも書いたがみんな原発にかかわる人が本当にこの辺では多かった,南相馬市でもそうである。この人も原発にかかわったのかと新たにまた知った,それだけ原発の影響はこの辺で大きかったのである。
飯館村の人も原発で働いていた,川内村は近いから三分の一が原発で働いていたのであるそれで実際は村が成り立っていたのである。飯館村はそれほどではなかった
だから一番福島県で低所得だったのである。

そして小高に住んでいた人が子供のとき親から農業だけがするなと殴られたという
それだけ農業は過酷だったから経験でそう子供に言ったのである。
その子供は原発と建築関係で渡り働いたのである。
その原発があったことが事故後は仇となり生活そのものを見直す結果ともなった
でも事故後も補償金でもめたりただ補償金だけが頼りとなり分裂したのである。
水俣でも公害があっても分裂したのは補償金のためだったと書いてある
だから三野混沌とか猪狩満直などの農民詩人が見直したのである。
その人たちの後世に残したメッセージは何だったのかとなる
それは大いなる挫折であり後世にメッセージを残したことに気づいたのである。
それは宮沢賢治でもそうである。農業は過酷でありそこに戦ったのが挫折したのである。その挫折した歴史に教訓があったとなる

ともかく北海道に十回も行ったし北海道にひかれる、だからもう北海道は第二の故郷だともなる,外国旅行しても何か原始の自然に触れることはなかなかできない
やはり歴史とか文化を都市中心に見るからである。
ただネバールには驚いた,犀がいたというのも驚きである,象でジャングルに入り観光する,つまりなぜネバールにジャングルがあるのか驚きだった
あそこには原始的自然がある,人間も高地を裸足で歩いていたのである。
ボールペンをくれというときそこにはそういうものも売っていないのである。
だから原始的な生活があり自然がありヒマラヤの高峰を望む所に生活しているのも驚きである。
そこで現実に生活するとなると過酷だとなる,それは北海道とにているのである。
中国の帰りの船で一緒になった若い人はモンゴルで羊を飼うことを習うために一年間くらい一緒に暮らしたという
冬になると一間回り痩せるという,それは冬の生活がそれだけ厳しいためなのである。
その人は北海道で羊を飼って生活をしている,羊を飼うことを広めたいと言っていた
農業大学出身だった,その人がNHKのテレビでドキュメントして放送していたのである。
その後はどうなったかわからない,でも恋人が一緒に船にいてその後結婚して子供も何人かいて生活が苦しいとテレビで訴えていた

何か自分は東京が大学時代いたけど嫌になった,それから自然志向で北海道に旅したのである。
だから自分は北海道のような所で死にたいとまでなる,東京のような都会で死ぬのも無惨である。北海道のような所に死んだら本望だ気持ちいいとかなる
つまり生きたい場所が死にたい場所なのである。東京などに生きたくないということは死にたくもないということなのである。
ただ自分の場合は遊びだったから猪狩満直のように呪いにはならない,ただ旅した思い出だけだとなる,それで思い出す旅をしているのである。






タグ:北海道短歌

2018年02月20日

北海道の大地に埋もれし者(詩)(猪狩満直など)


北海道の大地に埋もれし者(詩)(猪狩満直など)

無念の声が
北海道の厳しい
大地に埋もれぬ
その分厚い雪の下に
無念の声が埋もれる
開墾に敗れし者
その無念の声が
冬の過酷な大地に
閉ざされ埋もれぬ
雪はふぶき非情
しかしそこに挑みし者は
無益ならざれ
北海道の大地の実り
その実りを味わう者は
また悲痛なる無念の
大地に埋もれし声を聞くべし
その大地に蕗の薹
力強く芽吹きぬ
北海道の大地の春は輝きぬ
悲痛に埋もれし者も
その命の芽吹き見る
死者の願いはそこにかないぬ
そこに死者は輪を作り立ち上がる
力強いその群像を見る
死者はそこにありて
その大地と共に生きつづける

北海道の魅力はやはり北海道は広くても一つの国として見る,本州だと一部をみていても北海道のように全体を見れない,福島県だって広いから会津は別な国であり一つの県として見れないのである。そこでなかなか福島県の詩とか作りにくいのである。
北海道はあれだけ広いの一つの国のように見ている
榎本たけようの蝦夷共和国というのは何か地理的なものとしてそうなったのである。
江戸幕府が敗れても北海道に新天地を見いだそうとしたのである。

北海道に入れば空気まで違う,苫小牧に船で上陸したとき必ずその空気が違ってるのだ
澄んでいるのであるそこに野の花々が咲いている
そういう原始性が残っているから違っている
本州だとどうしても町とか市とかに出る,どこまでも広がる大地とか草原とかそういうものは本州にはない,だからそこで心まで解放された気分になる

ただそこで生活するとなると過酷である。自分など体力がないから耐えられないとなる
北海道開墾はそこで敗れた者も相当に多い,猪狩満直もその一人であり他に大勢いるのである。
彼らは北海道の実りを享受できなかった,しかしその後の人はその実りを享受する
それがまた人間の歴史だったのである。
何らかの犠牲の上に次の時代も築かれるとなる
戦争の犠牲の後に日本の高度成長があったのもそうである。
何にもない焼け野原から良く高度成長になったのは驚嘆すべきである。
でもそれは中国でも20年くらいで同じように起きていたのである。
だからそれは世界的なものであり日本だけのものではない
何かそういう力が日本に働いて高度成長になったのである。

北海道は明治になりフロンティアになった,そこから日本の新生が始まったのである。
もし北海道がなかったら日本は失業した武士などの受け入れる場がなかった
アイヌはいたにしろ手つかずの未開の地が開けていたのである。
ただ北海道で犠牲になった人達も多い,それだけ厳しい大地だったのである。

おらは反抗する
あくまで敵對する
まつ白な雪の中で
零下の寒氣の中で
このまま目をつむれるもんか
おら おららは

猪狩満直「移住民」

これはこの詩人だけではない,北海道の開墾に敗れたものは大勢いる
それらの人達の代表としてこういう人がいて詩に残したのである。




















2018年07月08日

夏の霧(北海道俳句) (霧に消えた旅人)


 夏の霧(北海道俳句)

(霧に消えた旅人)

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夏の霧キタキツネ出て古き沼

夏の霧牧場つつみ夕日かな

旅人の去りて消えにし夏の霧

霧流る襟裳岬に菖蒲かな

霧晴れて都草の一面に


旅をふりかえるとそこがどこかわからなくなる、襟裳岬まで行った、その前に寄ったのがどこだったのか?
ただ海岸でありそこに沼がありキタキツネがでてきた
それは思い出している、そこに宿があり一泊している,何か自転車だったら奇異に見られた、バイクなどがとまるライダー宿ならそういうことはない、そういう宿にも泊まったことがあるからだ、そこは町とかで運営している宿のようだった
そこがどこか思い出せないのである。、牧場の丘があったところであるがそういう風景が北海道ではめずらしくない

その時深く霧がかかっていたことは記憶にあるのでこの句ができた
自分自身すらそこがどこかわからず夏の霧の中に消えたとなる
その時自分は旅人であったからだ
今は旅人になることはむずかしい、車とかバイクでも早すぎるのである。
すると景色に溶け込めないのである。
昔は普通の人でも旅人となっていたのは徒歩の旅でありそれで景色に自然と溶け込むようになっていたのである。

今は何かホテルでも泊まると旅人として何かにあわないのである。
立派なホテルだと何か旅人の宿ではない、そこでくつろぐとかうまいものを食べるとかなってしまう、現代はこれだけ観光旅行していても旅人はいなくなったのである。
だから北海道でテント張って旅したときは旅人となっていたのである

人間は死ぬと不可解な謎になる、もう深い霧につつまれる、その存在はみんな謎になる
北海道が夏にふさわしいというときまさに旅人は夏の霧に消えた、謎となったのである。
襟裳岬では霧が流れていた、そこに菖蒲が咲いていた、そして百人浜に出ると都草が一面に咲いていた、そこにもキタキツネが歩いていた、キタキツネは日常的に出会うのであるただ襟裳岬から百人浜まで行ったことは覚えているがそこからどこに行ったのか覚えていないのである。

ともかく霧は幻想的にする、霧がつづいたので北海道のことを思い出したのである。