
きりのはな
みそらにたかく
あるとしもなく
つつしみふかく
ちりもつかずに
みなもにひそか
かげうつし
ちりにけるかな
たれかしる
みそらにつきや
かげうすく
ひるしずか
しんとして
そこはかとなく
かみのみむねに
そのはなの
さきてきえにき
ひまわりの詩
突然向かいの庭から塀をこえて
大きなひまわりが伸びて咲いた
らんらんとこちらを向いて咲いている
その曇りなき不純なき大輪の花
その生命力の強さをじかに感じる
ミンミンはひまわりに向かって一心になく
蝉の声をひまわりは受けとめて大らかに咲いている
ああ この大きなひまわりの燃え上がるような力よ
ひまわりはアメリカ産だから
もっと大きな広い大地と空に咲くのににつかわし
その花は世の汚れを一新するような大きな花だ!
あなたもこのような大輪の花たれ
すべての穢れを払うようなこの花の力強さ
太陽の光を存分に吸収して
灼熱の大地に立ちて咲き開く
あなたの未来はひまわりのようであれ
ただ未来に向かって咲き
太陽に向かってひたすら咲く
らんらんとひまわりは今咲いている命のかぎり
天真爛漫の大輪の花よ
そをとがめるは誰や
大輪の花を萎縮さすなかれ
あなたはこのように力強く咲き命尽きる
あなたの命は全うされた
さらなる大いなる未来が来るだろう
自然は神は汝よりはるかに大きいもの
あなたはその神の力をまだ知らない
百才を生きてもその齢は短い
青春の日はさらに余りに短い
またたくまに消失する
神を自然のすべてを知ることはできない
限りなき命の輝きよ
再生の日は激しい夏のようにやってくる
青春は蘇り新しい日は織りなされる
それが人間の歴史である。
ひまわりの詩(信頼の花)
ひまわりは大地に伸びて咲く
すくすく力強く伸びて咲く
その大輪の花は信頼に満ちている
自信に満ちて咲いている
一点の疑いもなく堂々と
隠すことなくすべてを明らさまに
そこに暑い陽ざしが照りつける
十輪ほどのひまわりがた私に向かって咲く
その時安心があり病も癒える
みんな信じあって力強く咲いている
信じないものはその輪に入れない
人間も信じ合わなければ何事も成されない
一点の疑心をもってもすべてが崩れる
信じ合うことがすべての基礎である
信じ合わなければ何事も成せない
信じ合うことによって成らざるものも成る
大輪のひまわりが今日も私に向かって咲き
わたしは励まされ力づけられる
ひまわりは力を人々に与えつづける
人の世に絶望させられし者よ
大輪のひまわりを見よ
そのそびらに大いなる山は聳え
信頼の不動なる山は厳然と聳える
そして新たな信頼を回復させよ!
あなたに向かって花は咲く
あなたに向かって今日も花は咲きます
あなたに向かって花は熱く咲きます
あなたに向かってあなたのために花は咲きます
あなたに向かって花はほほえみます
あなたに向かって花は笑っています
あなたに向かって花はやさしくおじぎをします
あなたを待って花は人しれず隅に咲いています
あなたはいつも花の中にあります
様々な色の花の中にあります
あなたはこの世になくてはならないもの
あなたに向かって花は咲くからです
花はあなたのために一段と装いを新たにします
その生来の色を豊にします
あなたはこの世で金をかせげなくても
あなたはこの世になくてはならないもの
花はあなたに向かって咲くからです
何よりあなたに向かって咲くからです
花に愛されたければ花に愛されるような人でないと
花はあなたに向かって咲きません
汚れた人に花は咲きません
花はしぼんでしまうでしょう
あなたに向かって花は生来の美を隠さず咲きます
あなたのうよな人がいたから花はしあわせです
あなたは花の中をあるいています
いつまでもいつまでも歩いています
花は尽きることなく咲きつづいています
一重にあなたのために・・・・・・・
その道は天につづいています
あなたは神の花園のへと歩いているのです
天で待っているのも花々です
尽きることなく咲く花々です
橙色の夏菊の中にふうわり
揚羽がゆれつつとまるその一時
鮮やかに橙色の夏菊が一面に映え
揚羽はゆれながらとまっている
蝶も鳥もいつも飛び立つ構えでとまる
明るい橙色の夏菊が飛び立ったあとにも
あざやかに映えてまたいづこかへ飛ぶ
新たな花園が待っている
残る蝉の声
天地の静寂
残る蝉の一つ二つ
森の深みに
静かに聞き入る
親の墓所があり
ここを離れえじ
最後まで聞き入る
その蝉の声
ともにありにし
歳月の長きも
ここにともにありて
故郷の土となりゆく
天地の深まる静寂
そを聞き入りぬ
線路は草に埋もれて
半年電車が来ない
電車の音も汽笛も聞こえない
常磐線は5年も復旧しないと
一部は線路がずたずたにされた
なんだか北海道の廃線のようになるみたい
トンネルの向こうに町がある
町の灯が見える
でも電車は来ない
廃線のトンネルのようになる
鉄道マニアがその廃線をたどる
秋の蝉はまだ鳴いている
仙台はずいぶん遠くなった
半年も行っていない
秋の陽が湿地化した田んぼを照らし
阿武隈山脈に沈んでゆく
月の光が線路を照らしている
江戸時代に帰ったようだ
狭い村々で人々は暮らし
めったに遠くへと行けない
もちろん電車に乗って遠くから人も来ない
頻繁な人の出入りはない
自分は車をもっていないから
江戸時代にもどったように感じる
六号線も途中で閉鎖されたから
長距離トラックもこないから
余計に閉塞された感じ
狭い空間に閉ざされた感覚
それか江戸時代だった
常に遠くと交わり
遠くが近い世界とはまるで違う世界
電車でも車でもそれは常に遠くへ遠くへ
物も心も運んでいた
もしそれがなくななればものも心も
近くへ近くへ集束してくるのではないか?
それでも物は遠くから来ているからそうはならない
原発事故で地元で作物がとれなくても
九州の福岡の米がス-パ-に積まれている
江戸時代とはあまりにも違う
ともかく山のトンネルをくぐり電車は来ない
山は徐々に心の中で閉ざされて
今日は深い夕霧につつまれて
電車はもう半年も来ない
隣の町も遠くなる感じ
町の灯も秋に淋しくなる
蝶と蟻
蝶はどこから生まれるのか
空気から生まれ
風から生まれ
常に軽やかに
ところ定めず
ただよい浮かぶ
絶えず風に流れ
とどまるは花のみ
蝶は地には下りない
花も空中に咲いている
花々の中をいつも飛んでいる
まばゆい光の中を
蝶は神の掌から放たれた妖精
神の業の奇跡の一つ
風に運ばれ風に舞い
花にたわむれ嬉々として
命の喜びを現せり
しかし蟻は労苦の内に
汗と埃りにまみれ
冬に地下に眠り
ようやくに休みに入った
蟻の定めはただ労苦のみなのか
蟻はただ冬になり
地下でようやく眠りに入る
あたかも墓に人が眠るごとく
人はただ労苦のみなのか
延々たる労苦のみなのか
蝶は夢、蟻は現実
人は夢にのみ生きられず
蟻の宿命を負わされている
その宿命は終わることがない
世の終わりまで蟻は働きつづける
それが例え蟻塚を作るだけにしても・・・
地球は遊びの場
大いなるもの
とろえどころのない
つかみどころのない
大鵬は南冥に飛び
呵々大笑して去った
あとにはからりとした青空
笑いが天から木霊する
どこかにぽっかり浮かんだ春の雲
その下の花々で遊ぶ子供たち
地球は労働の苦役の場ではない
大いなる遊びの場、遊星である
千年石のように眠るがよい
大蛇や龍のように眠るがよい
何物にも拘束されることなく
遊びの場として地球は与えられた
神は遊びのために人をまねいた
苦役のためではない
苦役の労働は罰であった
ああ またぽかぽかぽかりと春の雲が浮かび
どこかに気ままに遊びにゆくだろう
にほふがごとく
若々しく
みずみずしく
したたるごとし
憂いもなく満面の笑み
ふくよかなるおみなの顔
血色のいい、若やぐ顔
ああ かつて我が側にありし女
やさしさの満ちたる女
ああ 人の老ゆるは悲し
健やかに快癒される日よ
老いざる日を人は願う
天なる高見に月は汚されず
静かに慈愛の光を放つ
月光菩薩のそこに見えしや
汚れし世の上に月輪の光
うるわしき大和の国の春満月
このみ国を汚せしものは呪われよ
大和の国の天地海はいかに尊き
神の与えし天地海なりしを
大和の民の慈しみあいかしこくあれ
ああ 大和の国の美しきかな
その天地とともに命長かれ
神の恵みはここに尽きざらむ
きりのはなの章
きりのはな
そらにうつり
みずにうつり
ちりもつかじ
たれそしる
ほのかにひるのつき
ささやきにけり
くもりなき鏡
そのすみにひそか
きりのはな
つつしみふかく
さきてあるかな
なにをかいわむや
なにもいわじ
ありとしもなく
きりのはな
かみのまそ鏡に
うつりてあるかな
かくされしはな
ほのかに
かすかに
ひめやかに
しとやかに
おくゆかし
いづこかに
さきいずるはな
ちりもつかじ
かくされさきぬ
たれそふる
とおすみとんぼ
とまりしもしらじ
まいつつさりぬ
ひそかなるかげ
そこによりそふ
こけむしふりぬ
ちとせのいわ
そこにしあれや
ゆうひかげ
そこにさすかな
山帽子の花
山帽子一木にさわに咲きにける
その一輪一輪の清らかに
日のさして風にそよぎゆれ
燕飛び交い軽快に
時に雨降り雷轟きぬ
自然の躍動のなかに花も咲き
花は造花にあらじ自然の中に
その命は自然の中に全うされぬ
新しく詩集の部を作りました
数が多くなったので分類してゆきます
最近大量の詩を書きました
詩も書けるようになるといくらでも書けるようです
ただ最近家事が忙しいので集中できない
ともかく分類すれば読みやすくなる
詩はあまり読まれないが一人でも読めばアクセス解析でわかる
新しいブログにすると一人でも読んだ人がわかるでしょう
それが励みにもなる
アクセス解析がないとインタ-ネットでは全く反応がないから
それがあるのかどうかすらわからないのです
そこが大きな問題なのです
詩二題
夏の盛りの花々
ひまわりと芙蓉
詩集の部(花の詩)
http://musubu3.sblo.jp/
自分のテ-マは花だった。最近膨大な詩を書いた。人間は芸術でも絵でも詩でも描けるときは描けるし詩でもこんこんと清水が湧きでるように書くことができる。理解もできる。その人生の最後で追求したものが実ってくる。それは才能と関係ないみたいだ。早く死んだ人がなぜあれだけのものを残したのか?絶えず死期が迫り死を意識していたからあれだけのものが書けた。まだまだ先があるとか思っているときは書けない、もうあとがない先がないというとき人は最後に何かを次代のものに残すために作れるようになる。それは仏に芸術家でなくても最後になり死ぬときになり人は何をか悟るのである。自分は才能はなかった。やっと俳句とか短歌とか書き続けてきたけど稚拙なものだった。
でも真善美を追求してきたことは確かである。特に花を生涯見てきたのである。だから今になって花の詩を作ることができた。
実際はひまわりと芙蓉は挽歌になるかころ見ていた。でもその花がどういうものなのか、人間的内面的に見ていない、人間的にいみづけるように見ていないのである。また見れないのである。ひまわりと芙蓉はおおらかな花でありその花をなんともいえず向き合っておおらかに咲いている。そこに争うことなどありえないのである。それぞれの個性を活かすならば人は争わない、それぞれの個性を際立たせて咲くだけであるからだ。むしろ個性を出さないことには花は映えないのである。個性なきものは自然に映えることはないのだ。夏の花は多様であり個性を出して大調和している。それがなんとも心を豊にしてくれるのである。
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 |