2017年01月28日

平戸の春の短歌十首


平戸の春の短歌十首

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平戸なる海の世界通じけり春の日明るくみちのくゆ来ぬ

平戸なる入江の深く桜咲き真昼明るく海に映えにき

平戸なる入江の深くアンジンの墓こにありにき

城ありて教会に寺交じりつつ平戸に春の潮流れぬ

和蘭の船の来ると遠き日やその跡しるし春の日くれぬ

春の日や平戸の海は世界へと結びつながる夢ならじかも

みちのくゆ春の日たずぬ平戸かなその海の気を運ぶゆかむかな

平戸なる海の思い出鮮やかに蘇るかな春のめぐりて

キリシタン隠れて眠るその島に祈り聞こえむ春の日くれぬ

海に向き十字架の墓平戸かなたずねてあわれ春の夕ぐれ



平戸の海に出たときのことは忘れられない、それは20代くらいだったのか若かった
それを今思い出すのも不思議である。
その海の感覚がみちのくの海の感覚とはまるで違っていたのである。
太平洋を見ていてもそこは荒寥としている、向こうにアメリカがあくとしてもあまりにも遠いし大陸があくとはイメージすらできないものである。ただ海だけが広がっているのだ
平戸に来たときの海はそれは入江であり島の間にしろ太平洋とはまるで違った感覚になるその海は陸に近いし船が行き来する古くから船の往来があった海なのである。
そういう海はただ自然の海ではない、人間的な海になっているのだ。

だからオランダの船が来てイギリスの船が来て三浦アンジンがここで死んで墓がある。
九州の海は外国と関係している、通じる海なのである。
みちのくの海は外国との交流がないし国内的にすら海が航海に適していないのであったとしも今でも感じられないのである。
むしろ津波が来たように荒寥としたものとしてさらに感じる海になった。
津波の跡に壊滅した港の村を見たら海は非情にも吠えていたとなる

瀬戸内海とか九州の海はみんな外国と通じているということで東北の太平洋とはまくで違った感覚をもつのである。
山にしてもインカ帝国があった山とカナダの山が違っているというときそれは歴史がそうさせているのである。古くから人が住んでいる山とカナダのように移民が住んだ所で感じる山は違っているのである。

例えばこの辺でも駅に八重桜が咲いていた、その影で自分は電車を待っていた。その木は人間化している木になる。それが普通の原始林の木とは違う人間化した木なのである。
だから原発事故で避難して人がいなくなったところち取り残された木が人間のように見えたのである。

日本は海に囲まれていても海の感覚は違っている、それは歴史があり人間の交流が外国とあったのとないのでは相当に違ったものとなる
平戸でも地図を見ると韓国に近いし済州島にも近いのである。
だから済州島の漢拏山(ハルラサン)を見たときこれは日本ともつながっていると感じたのである。韓国は地理的一体感を感じるのである。

九州でも地図を見ると平戸は伊万里にも近い、伊万里から有田焼がオランダにも輸出された。それで伊万里焼きになっている。地理を見るときやはり全体的に広視野で見ないと地理もわからない、名護屋城もありあの辺を旅したからふりかえる

いづれにしろこうして韓国であれ中国であれその海は外国に通じている、オランダとかイギリスは遠いけどやはり海を介して通じているとなる。
自分が行ったとき春だった、桜が満開だった、あそこは春にふさわしいとなる
今でも旅の記憶が蘇りそれを短歌とか詩にしている
それが膨大になっているのだ。外国もありそれを思い出して詩につづる
冬の寒い日は家に閉じこもり回想するのが向いているのだ。
石油ストーブでもあたたまるとイマジネーションが刺激されるのである。
老人は何か駅のことでも書いたが思い出に生きるようになるのである。
だから豊富な思い出をもっていると老人の生も豊かなものになる
旅だけではない何か思い出をかみしめるというか思い出が宝となるのである。

2017年03月27日

西の栄の桜の俳句十句 栄枯盛衰の桜(大坂城の散る桜の詩)


西の栄の桜の俳句十句

栄枯盛衰の桜(大坂城の散る桜の詩)

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吉野山おおふさくらや霞かな

(奈良)

大仏や平城宮(ならのみやこ)は八重桜

(京都)

椿落ち真昼に花散る詩仙院

花の色御池に濃しや塀長し

優艷に枝垂桜や京の暮る

(大阪)

散りやまぬ花や栄の大坂城

(近江)

栄とて志賀の都は山桜

(淡路島)

淡路島よす波静か花の散る

月の出て花の散りにき淡路島

(瀬戸内海)

百舟の行き来変わらず夕桜

瀬戸内や百舟行きて花に風

(四国)

海よりそ望む四国や花に城

金比羅におしよす人や花盛り

山峡に磐打つ流れ山桜



み吉野の吉野の山の桜花 白雲とのみ見えまがひつつ

青丹よし寧楽(なら)の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
小野老

いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな

さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(千載66)

露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢 秀吉


西の桜というときそれは自然のままの桜ではない、歴史がそこにかかわり映える桜である万葉集には桜の歌はほとんどなく梅の歌が多い、梅は中国より入った外来種である。
咲く花のにおうがごとくとは梅のことであり桜ではない
むしろ八重桜が奈良の都の栄の象徴だった、そこに奈良の特徴がある

そしてさざなみの志賀の都でも山桜である。都の跡でもそこは規模が小さいものであり一時の都であり人が去った時、都が移った時、そこも元の原野に帰ったのである。
そこに咲いていたのは山桜だったのである。

桜というとき何か一つのもののように見ているが違っている、万葉集時代は今に感じている桜は歌われていない、山桜の美は確かに歌われている
でもまた誤解しているのは一般的に桜というとき染井吉野でありそれは山桜とは本質的に異なるものなである。感覚的にもそうであり野性的な美である山桜とは違う。
江戸時代から染井吉野が開発されて花見の習慣も生れた、その辺から染井吉野が主流の桜となった。

花は桜木 人は武士 柱は檜 魚は鯛 小袖はもみじ 花はみよしの と続きます。
一休宗純禅師の言葉とされていて、花だったら人だったらと1位と思っているものをあげていった言葉のようです。
他の方も書かれていますが、桜は散り際が美しいもの、武士もまた潔く死に際が潔いもの、つまりは散り際が潔く美しいものが良いということを書いているそうです

一休というとき1400年であり南北朝の時代なのである。その時から武士というのはこういうものだということが一般化していたとなる、でもその桜は山桜であり染井吉野ではないいさぎよく散る美学が山桜から生れたのか?その辺がはっきりしない。

そもそも不思議なのは城に植えられていたのは桜ではない、今は桜に飾られているけどその桜は染井吉野であり城には桜は飾られていない、糸桜のような庭で鑑賞するもののようであり華やかに城を飾る桜はなかったのである。
それは城が廃止しされた明治以降である。だから城に登城した武士は桜を見ていないのである。殿様も見ていない、桜はなかったからである。
大坂城にも桜はなかった、だから何か当時もあのように桜が咲いていると錯覚している

でも何か大坂城の桜は一番自分には印象に残っていた。規模が大きいのと散る桜がなんともいえないものだった、それはなぜか?
それは歴史が反映していたからである。そこに人間の栄枯盛衰がありそのことのゆうえにただ散る桜ではない、その散っている桜が人間の栄枯盛衰、無常を反映していたからである。
自分が大坂城の桜を見たときはちょうど盛りを過ぎて散るときだったのだろう。
その散る桜がいつまでも心に残り今でもその桜は散っているのである。
栄枯盛衰がありまさにそれを象徴するかのように桜が散ってゆく

 ひさかたの 光のどけき 春の日に
    静心(しづごころ)なく 花の散るらむ

            紀友則(33番) 『古今集』春下・84

その桜が咲いていたときは光のどけきだった、それでも桜はひらひらと尽きることなく散ってゆく、静心なく(しずかな心ではいられない)心が騒ぐのが桜が散る時である。
それはあまりにも桜は早く散ることにある、華やかに咲いてもたちまち散ってしまうのが桜である。それゆえに桜は美しいものとなる
だからいさぎよく死ぬのがいいと戦争中には桜がもてはやされた、その通り300百万人の人が主に若者が死んだのでありそのことを批判する人もいる

難波のことは夢のまた夢という秀吉の辞世の歌もあるがみちのくとかなるとそうした栄華がないのである。そういう栄華があってこそ夢のまた夢と言える
西にはそうした栄があったからこそでありそれが桜を見るとき心に影響しているのであるだから山桜を見るのとは違っているのだ。            

敷島の 大和心を 人問わば 朝日ににおう 山桜花 本居宣長

この歌は純真な自然の美そのものを歌ったものであり戦争とは結びつかない、戦争と結びついていたのは吉田松陰の辞世の歌の大和魂だったのである。
この歌は平和そのものの歌であり戦争とは関係ないからである。

いづれにしろ桜の季節だけど自分はずいぶん旅したから思い出して書いている
西の桜は山桜とかの自然そのものの美ではない、歴史の栄枯盛衰の中に咲く桜である。
だからカナダの山とかよりアンデスとかペルーの山とかが美しかったというときそこにはインカ文明とかが築かれた歴史がある場所だから違って見えた。
自然の山としても美があるとしてもそこにはすでに千年の歴史があるから違って見えたとなる、自然でも純粋な自然と歴史がかかわる自然とは違ってるのである。

今になると何か旅するのも疲れる、旅も何かそれだけのエネルギーが必要だった、それが介護とか自らの病気とか津浪とか原発事故とかで消耗した、旅すらいくら時間があってもできなくなるときがある。人生はそれほど短いものだったのである。
たちまち時間は過ぎてしまう、そして今になると外国人が多くなり旅しにくくなった。
あまりにも外国人が多くなると情緒がなくなるし宿すらとれなくなるというのも困るのである。外国人の花見ともなってしまう。日本文化がそうして世界的になるのかもしれないが日本人自体が桜をゆっちり楽しめないというのも困るとなる



大坂城に散る桜

尽きず散る大坂城の桜かな
はなれて遠くみちのくにあれ
その花の心に残りぬ
西の栄を集む大坂城なれ
華やかに花は散りやまず
尽きることなく花は散るかな
その栄の日は短かきも
一時この世の憂さを忘れて
その桜に酔い栄華を味わふ
争うときあれど過ぎされば
西の栄もまた東の栄なり
その栄華秀吉のものにのみあらじ
万人のものとて今桜咲き映え散りぬ
はなれても遠く心の中に花は
尽きず散りやまぬかも
赤々と夕陽耀ふその色や
なお人の出入りしつつ
日の本の国の栄の桜花
その花にこそ日本人は酔いぬ
西行の花にしなまし心かな


            

タグ:大坂城の桜

2018年06月12日

金閣寺の俳句(2)(千年の都の美)


金閣寺の俳句(2)(千年の都の美)

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金の美の極めてここに花の散る

金閣や都に乱も花の宴

金閣寺朝日に輝き散る椿

苔に散る椿の赤し金閣寺

三層に日本の歴史春の京

王眠る金に魅せられる京の春

常盤木の松に金閣夏日映ゆ

移る季(とき)池に金閣松と岩

(銀閣)

月光や砂に銀閣松の影

銀閣に秋の日さして松古りぬ


金閣のまばゆさや
銀閣のしぶさや
対なして千年の都の京都
築地塀古りて
その角をまがりて消えぬ
後ろ姿のその女誰や
優艷に枝垂桜の影
その塀に写りて暮れぬ
街中を流るる水の音
祇園の舞子の下駄の音かな
しずしずと歩みて去りぬ


金閣の美はやはり自然の中に映える美である。室内ではない,金色が自然に映える,それが魅力である。京都は京都が千年の都としてあったことである。
そこが他の都市とは違う,戦乱があったのも京都である。
だから金閣寺でも実際は炎につつまれている感覚になる
動乱の中に金閣が映えている,京都は文化が栄えてもそこは天皇がいて常に政治の場所だったからである。
寺に応仁の乱の争いの傷跡が柱に残っているというのも京都である。
それだけ古いということである。

京都と奈良とではずいぶん違う感覚になる,奈良だともの寂びた古代の感覚である。
それが奈良の大仏に象徴される,平城宮といってもそこは枯野であり何も残っていなかったのである。
京都はずんと千年の都として維持されてきたのである。
だから日本人の美意識は京都と磨かれたとなる
その象徴が金閣なのである。



タグ:金閣寺俳句

2018年12月16日

吉野の短歌連作十首 (短歌も俳句も写生が基本、実地にその場を踏まないと実感できない)

     
吉野の短歌連作十首

(短歌も俳句も写生が基本、実地にその場を踏まないと実感できない)

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 (吉野の花)

春に来て冬に来たりぬ吉野山あわれ深まる籠る人かな

散りやまぬ花の尽きぬや吉野山一陣の風花さらに散る

山に陽のかがよい今盛り花に染まりぬ吉野山かな

吉野山は花に染まりぬその色やまただずねてそ色を深めぬ

吉野山下りてあわれ枯木かな夕月いでて我が去りにけり

(西行庵)

吉野山何を残さむ落葉踏み山の間に月西行庵かな

西行庵残せるもののなきにしを山の間に月我が見て去りぬ

奥山の紅葉の下に細径や清水の湧きぬ泉に通ふ

清水飲み人の通ふや赤々と紅葉し奥の山の庵かな

(吉野宮)

修験者の吉野の古りぬもの寂びて山々深く秋の峰かな

吉野にそ都のありと秋深む流れとどろき天皇(すめらぎ)ましぬ

天皇を神と崇めぬその昔たぎつ流れや巌のそそりぬ

吉野川流れて遠く我が旅路行方も知らになりゆくならむ

冬深む光巌天皇そのみ跡たずぬ人ありその人も死ぬ

我が町に南朝の裔(すえ)只野なる姓をとどめて祭り司る 


●まず地理を知れ、実地にその場を踏め実感しろ

俳句が写生としたのは子規だった、でも短歌も写生が基本だとしたのもそうである
それはなぜなのか?
例えば一度も実際に見たことがないとかその場に立たないとかなるとどうしてもイメージの世界になる
するとそこに実際とは違うものをイメージするのである
地理のことを常に書いてきたけどそれは地理がわからないと歴史でもなんでも政治のことでも理解できないからである

外国でも一度その場を踏んだものはいくら学者でもその土地を国を知るとなる
だから今は庶民でも若者でも外国に普通に行ったり暮らしているから外国に詳しくなっているのだ、それは時代でそうなっているのである
だから外国をリアルに知っている人が多いのである
本を読んで知っているのではないから外国に行っていない住んでいない学者より知っているともなるのだ                                                  

私の場合は最初は奈良とか京都とか吉野にも回っていた、だから吉野にも二回か三回行っている、ところがそれが30年前とか40年前とかになっている
するとどうなるのか?
プログでばホームページでも書いてきたようにいかに思い出して書くかとなる
でもそれだけ年数がたつと記憶に残らなくなる、思い出せなくなる
それでわからなくなったのは確かに吉野山に行った記憶がある
それも自転車で行った記憶がある、でもどういう経路で自転車で行ったのかわからない
ただ確かに自転車で急な山道を登ったことは確かなのである
その記憶が明確ではなくなったのである

ただふりかえると私は本当に旅をしていたと思う
関西でも一か月くらいふらついて回っていたような気もする
ではなぜ今その旅をふりかえり短歌とか俳句にできるのか?
それはやはり実際にその場を踏んで見ているということである
それで記憶に残りふりかえり短歌を作る
それは全くその場を踏まないでイメージしているのとは違っているのだ
そのことで俳句でも短歌でも写生だというときその場を踏み実写する
イメージの世界で作らないから俳句でも短歌でも訴えるものがでてくる
                                            
●生駒山にも自分は登っていた

記憶が定かでないにしろ一回でもその場を踏んだことの意味はふりかえると大きかったのである

妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ吾《あ》が来る
  〜作者未詳(遣新羅使) 『万葉集』 巻15-3590  
  
  雲ふかきみ山のあらしさえさえて生駒の嶽に霰ふるらし(実朝)
  
 600メートルというと高い山ではないがやはり鎌倉時代とかなると今の世界とはまるで違っている、
家でビルで埋め尽くされるような大阪ではない、広い田野が広がっていたのだ、そこで600メートルでも高い山なのである
 この辺で一番高い山は鹿狼山(がろう)山だが400メートルくらいしかない
それでも阿武隈山脈には高い山がないから目立つ、目印になる
そして登山すると結構高いとなる、上れば太平洋が一望できる
そこで実際に生駒山でも上ってみると実感する
私はケーブルでも一回生駒山に上ったからこの実朝の歌が実感できるのである
霰ふるらしとなっているから実際は実朝生駒山に上っていない、でも生駒山を実際に見ている、ただのイメージで作った短歌ではないのである
                            
●西行庵にも行ったがその場を踏まないと実感できない

西行庵を訪ねたときも不思議だった、
こんなところに人が住めるのか暮らしていけるのか?
どうして食料を調達したのか山の奥で人家もないとしたらそうなる
ただ清水は近くに湧いていたから水は飲めるし使いるが食料をどうしたのかとか
人との交わりがっあたのかとみるとそこは修験者が修行する場であり
そういう人たちがいて交流があり食料も調達できたとなる
ただそこに西行が実際住んだかどうかは疑問であり証拠はないのである
西行が吉野に修験者と交じり修行したことは確かなのである
吉野の周辺では600メートルから1500メートル級の山がある、
1500あれば相当に高いが600メートル級だとそんなに高くはないとなる
ただそれでも鹿狼山りは高いのである
この辺のものたりさは高い山がないから何か気持ちがひきしまらないのである
山が平凡すぎるのである

関西でいいのは自然も歴史と一体化していることである
そこには日本の国造りがはじまったところであり早い時期から歴史の最前線であり舞台となっていたのである、
その歴史はだから古い、そもそも相馬地方だと歴史的人物が明確なのは鎌倉時代以降だからである
関西になるとその前からありそれだけ古さが違っている
そして歴史が刻まれたものとして自然も見るから一層味わい深いものになる
カナダの山よりペルーの山が違っていて美しかったというときカナダにはそうした歴史がないからである、
アメリカにもない、すると自然でも見え方が違ってくるのである
歴史があるところは人間と自然が一体化するのである  

●光巌天皇に注目した死亡した都築詠一氏

それから南北朝の時代では光巌天皇のことが注目された
それは都築詠一氏が光巌天皇に光をあてたことで私自身も注目したのである
でも残念なことにその都築詠一氏も死んだのである
インタ−ネットだけで知る人であり本も出していない、だから知らない人が多い
でも文学に造詣が深かった、評論家だった
極端な右であったが戦争賛美論者でもあったが文学に造詣が深いので感心して毎日プログを読んでいたのである

冬深む光巌天皇そのみ跡たずぬ人ありその人も死ぬ

本当に死んだということは重いことになる、なかなか光巌天皇を注目してその跡をたずねて行く人はまれである、ただ最後にその人に思い入れがあり訪ねてその後に死んだのである、光巌天皇と一緒に眠りたいとまでなっていた人なのかともふりかえる

吉野の魅力は人間の歴史と自然が織りなすものがありそれでそれがただの山ではないものになり魅了するのであり語られ続けるのである
この辺の霊山も南朝ゆかりの山でありそれはただの山ではないから違っているのである

ともかく吉野は色々に語られる場所である、この辺と歴史的に通じているのは後醍醐天皇が南朝を開いた場所でありその南朝と縁が深いのが福島県の霊山である
ここに霊山城があり東北の南朝の城となったからである、それは10年くらいだったが炎上して滅びた、その時逃れたのが今の南相馬市の鹿島区の先祖ともなっているからであるそれで只野氏のことを書いたけどその人も霊山から逃れた人だったのである
そして鹿島区には本当に只野という姓が集中しているのだ、50人くらいいるのだ
その只野氏は郡山の多田野村から霊山に来たものである、先祖は多田野村にある
鹿島区の真野の日吉神社には落ち延びて来た時の衣装をまとって踊る祭リか残されているそれで吉野の南朝とここも歴史的つながりを感じるのである

●万葉集の吉野宮の天皇の歌

俳句や短歌は実写が基本である、だから地理を知らなければ地形でも知らなければ歴史でも文学でも何でもわからないのである、実感できないからである
実感が大事だという時、どこでも何でも同じなのである
農業していない人が農業のことを語れないし、他でも実際に経験していないことを語れないし聞いてもわからないことがある
そこで相手に話を合わせられないのである、だから外から来た人でもその土地の地理を知っていないと話を合わせられないのである、地理とか気候がわからないからである

吉野町から川を上ると宮滝があり菜摘とかありそこが吉野宮となっていたこともどうしなのだろうとなるが古代の感覚は違っていた、自然に畏れを感じていてそれが天皇と一体化していたのである 

山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも 柿本朝臣人麻呂


天皇(すめらぎ)を神と崇めぬその昔たぎつ流れや巌のそそりぬ(自作)

湯原王、芳野にて作る歌一首

 吉野なる 夏実(菜摘)の河の 川淀に 鴨そ鳴くなる 山陰にして

この歌でもそうである、ただたぎつ流れとかどこにでもある、川淀に、山蔭というときあそこの場を踏んでないと実感しにくい、こんなに山間なのかとなるからだ
影になりすい場所なのである、川淀とかは淀むというときこれも自然のことではない、人間の心が淀んでいる何か悩み苦しんでいるとかとみる
そういう背景をから自然をみる、人間の心情が自然に反映されるからそこにただ自然だけではない人間をみるということにもなる
それを実感するにもまずはその場を踏むことなのである

夕明かり葛城山の遠きよりさせる吉野の花のもとかな(与謝野晶子)

葛城山から陽がさしていたのか?これも地理がわからないと理解できないのである

大峰や吉野の奥の花の果 曽良

この句は吉野の大きさ懐深さを句にした名句である、吉野は山が重なり深いからである

●半生を旅に彷徨いつづけていた自分

それにしてもふりかえると自分ほどあちらこちら旅して彷徨っていたなとなる
外国までそうだったのである、ただ外国は50過ぎてだから遅かった
そこでパリの東駅で安宿を探していたから日本の旅のつづきだったのである 
こうして旅できたのは家を守る家族がいたからだった
自由に旅させてくれた家族がいたからだった、その家族もみんな死んだとき痛切にそのことを感じたのである、まずこんなふうに生きられるということはなかなかない
今はただニートとか普通にいる、団塊の世代は貧乏から始まったからあらゆるものに欲望が深かった、会社の企業戦士になったのもやはりそれだけ貧乏から脱して豊かになりたいということがそうさせたともなる

でもその時みんな企業戦士になる必要はなかったかのである
みんなサラリーマンになる必要もなかったのである
ただ自分のような社会からはずれた人は極々まれであった
それが今になるとAIで仕事が職業がなくなるからみんなアーティストになる
そんなことを言っているのはなんなのだとなる
これまで日本人はただ働くことだけだったからである
それを否定できるのか?それも時代だとなる
時代が変わると価値観も変わるからである、自分のように旅ばかりしていたらそんな人は社会にとって認めない、
それが逆になっているのが信じられないとまたなるのである







2018年12月27日

琵琶湖周辺の秋の短歌十首 (近江は地理が琵琶湖中心でわかりやすい)


琵琶湖周辺の秋の短歌十首  

(近江は地理が琵琶湖中心でわかりやすい) 

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高島の家形古墳

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さざなみの志賀の都も一時や消えてはかなき秋のくれかな

天皇も二つに分かれ争いぬくりかえしたる歴史の跡かな

争そいば誰か泣きにし人のあり争いやまぬカルマなりしも

堅田なる浮御堂かな松に寄り鴎群れ飛ぶ秋のくれかも

芦枯れて真野の岸辺や寺古りて誰か眠らむ鴎飛びさる

高島や家型古墳この地にそ根付き離れじ秋のくれかな

多賀大社古りにしものや我がたずぬ近江の秋や神々も古る

多賀大社伊勢より古しももうでしや月の光りて夜もけにけり

塩津にそ一時止まる電車かな枯木の駅に家のともしも

天皇の跡を守ると銀杏散る四足門に閉ざす村かな

閉ざされし村にありしと囲炉裏古り何を語らひ冬籠るかも


近江がいいのは琵琶湖があるためである、琵琶湖を中心にして地理もわかりやすいのである
まず山に囲まれたところは方角がわかりにくいのだ、一番わかりにくかったのはあいづである、ここは山々が重なり方角がわからない、なぜ東山温泉ときそこがなぜ東になっているのかわからないのである
それは京都でもそうである、京都はさらにわかりにくい、大都市だし山に囲まれていてわかりにくいのである、琵琶湖は近江は地理がわかりやすい
観光でも琵琶湖を周遊すればいいとなるからだ

ただ私は菅浦とか長浜方面には行っていない、そこが欠けている
でも近江は何回か行っている、春にも秋にも夏にも行っている
近江はやはり自然が豊かでありその中に遺跡などがあるからいいのである
多賀大社は伊勢より古いのである
そんな所までつくづく行っていたなとふりかえる

最初は30代のころ関西と東北を行き来していたのである
それで桜前線の短歌の連作のように桜を関西で見て京都で見てまた帰りみちのくで桜を見るとか桜前線をたどって見ていた、遂には稚内でも桜が6月に咲いたのを見た
それだけ旅していた結局30代以後は度に費やされたとなる
最初は鉄道の旅であり全国ほとんど隈なくのった、次に40代になり自転車旅行だった
次に50代で海外旅行でありそうなことしているうち60になって終わったとなる
こんなふうにして生きられたのも自分の家庭環境でそうなった
別に旅していてもとがめられることもない、かえってすすめられていたのである
今ならニートなど働かない人が普通にいるが団塊の世代ではまれだったからである

旅をりかえるとインタ−ネットができたことは便利である、必ず写真付きでどこでも紹介しているからである、菅浦に行っていなくても写真で紹介していた
それは晩秋であり四足門に銀杏が散っていたのを見て短歌にした

高島の家形古墳はどっしりとして貫禄がある、そこにも私は行ったがこの古墳は見なかった、何か見るべきものを見ないことが一人旅ではあるのが問題である
ここに訪れたのは私の住んでいる地区に真野の草原(かやはら)の万葉の歌が残っていて真野という地区に前方後円墳かありそこに金銅双魚佩が発掘された
これは一大発見だった、東北ではこうしたものが発見されていないからである
だから万葉の真野の草原(かやはら)という歌との関係がとりざたされたのである
なんらか奈良の大和王権によっていち早くここが拠点となった場所だったのである

なんかNHKの放送で菅浦のことを放送していた、そこに囲炉裏があり冬籠りにはいい場所だと見た、あそこは周りを山に閉ざされていて海に面している秘境なのである
でも天皇が一時住んだとか京都に近いから歴史が古いのである
多賀大社でも伊勢より古いのである    


著作権について

囲炉裏の写真はNHKの白洲が愛した近江とかの番組からとった、これも著作権違反になるのか?
何かインタ−ネット時代の著作権というのはわからない、どうしても引用がリンクとかでも多くなる
写真でもそうなのである、だからいちいち許可とるとなるめんどうだろう
創作的には一部利用していいのかともなる、でも一回だけ著作権で文句を言われたが言われないとそのまま使うことになる別に営利目的ではない、広告も出していないから収入はゼロなのだからかまわないのかその辺がわからないのである



2020年08月03日

奈良県の旅をふりかえる (奈良県は人口減少が大きい-奈良は田舎だった


奈良県の旅をふりかえる

(奈良県は人口減少が大きい-奈良は田舎だった)

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人口減少は、各都道府県を代表する都市であるはずの県庁所在地さえ例外ではない。青森市(220位)、秋田市(368位)、長崎市(382位)、奈良市(460位)などは、20%以上の人口減少が予測されている

奈良県= 御所市 宇陀市 大和高田市 桜井市 天理市

これだけ奈良県内の市が減少する市になっている、500以内にある
ここは他より多いと見た

将来「人口が激変する」500自治体ランキング

地理の感覚は実際にその場を踏んだり電車でも行かない限りわからない
何か今や記憶としての旅をつづけている
奈良とか京都には4回くらい行っている
だから地理的に実地に行っているからイメージできる、御所市となると何か駅として記憶したが奈良中心部からかなり離れていると意識した
そこから吉野の方に行ったからである

奈良中心部でも奈良市でも田舎だと感じたのは回りに田んぼがあったことである
これは意外だった、もっと繁華なところだと思っていたからだ

それで奈良市の中心部の郊外に三重塔がありそこに蓮華が咲いて夕暮れに雀が塔にとまっていた

三重塔雀の群れて蓮華かな 

ここは斑鳩町なのか、回りは田んぼだった、ここは奈良市からだと遠すぎるから違った場所だったのか?
ここで写真をとる人がいた、この句のように何か奈良市でも田舎の感じがあった
だから奈良と京都は相当に違っている、京都にはもう田んぼはないからである
だから奈良だと万葉集の昔を偲べるのである

奈良だと御所市を記憶しているのは一時その名前が御所となっているからであった
それで記憶した

一時を御所駅とまり秋の暮

奈良県で最も人口の少ない市、御所(ごせ)市は、大阪府南河内郡との境にそびえる「葛城山(かつらぎさん)」と「金剛山」という2つの山の麓にある町。日本の初代天皇である神武天皇やヤマトタケル、高天原など神話の世界に登場する非常に由緒ある町です。

御所市は置き薬として有名な胃腸薬「三光丸」発祥の地でもあります

『紀氏家牒』の「五処里」の地名は、
「神森」→「御森」→「三室」のことで、このミモリの「御諸(みもろ)」を音読し、
「五処(ごしょ)」→五所(ごしょ)→御所(ごせ)に転じたものか。

江戸時代、“大和の売薬”で知られ、有名な家庭常備薬の製造
や行商に携わるものが多かった。

吉野の近くに「薬水」という駅がありそこが気になっていた

薬水には、「薬水の井戸」と呼ばれている、ふしぎな伝承を残す井戸(湧き水)があります。

弘法大師が、宇陀の室生寺と高野山のあいだをゆききしていたころ、あるときこの村を通りかかると、村の人たちが大勢疫病にかかってこまっているのをみてあわれに思い、このふしぎな井戸を教えてくれたという

ところがそののち、無信の人が、この水で米をといたり、むつき(ふんどし)を洗ったりなどしたので、そのたたりをうけて失明してしまったようなことがあった。それからというものは、人々はこの水をこわがって、ちかよらなくなってしまった

これも不思議な物語である、疫病というのは常に恐れられていた、どうしてもその水を洗濯したり洗い物すると水が汚れる
意外と今は山の清水でも汚れている場合がある、上流で獣が住んでいて汚したりするからである、ばい菌でも出やすい、この辺では清水は放射能汚染で飲めなくなった

秋の灯や電車去りゆく薬水

何かこうして駅名だけが記憶に残っていることがある、特に電車の旅はそうなのである
そしてまた電車の旅も忘れやすいのである
ただ距離的に奈良からかなり離れているなと意識しているし奈良から京都までも一時間とかあったのか結構遠くも感じた、この距離感覚は電車でわかりにくくなる

とにかく奈良は今や関西でも田舎だとされる、でも関西は大坂でも京都でも奈良でも歴史があるから違っている、京都からすぐ近くでも滋賀県は風光明媚で田舎なのである
奈良県は山に囲まれて広い、吉野まであり魅力的である

ただ全国の人口減少地帯になっていた、中心部の奈良市さえ人口減少500の都市に入っていた、また観光地なのにホテルが少ない、京都とはずいぶん違った場所なのである

いづれにしろ旅の記憶をたどるときインタ−ネットは便利である
こういう謂れがあったのかと再確認する、するとより深く知ることになる
でもまず旅はその場所に行かない限り知ることは不可能である
電車でも距離感覚がある程度わかる、地図を見ただけではわからないのである

とにかく私は日本だと隈なく旅しているからイメージできるのである
それで回想して旅をつづけているのである

奈良俳句集

こんな感覚であった、田舎の感じなのである

その時平城宮跡は空地になっていた、今は再現して大門などができた
その時は何もないただの空地だったのである、それすら残されないことにもなっていた
ただ歴史的遺産として残す運動があり残り今は大門などが再現されている
だからまた行ってみれど違った印象になる

大仏に蝦夷の鎮護や秋深む

大仏は蝦夷征伐で日本を統一されると犠牲になった
その人たちの霊を鎮めるためのものでもあったのだ
そして南相馬市の鹿島区の万葉集の歌ともかかわっていたのである
そこでみちのくの真野の草原の歌を偲ぶと歴史としてつながりを感じるのである

人口減少というとき福島県が500の中に入っていないのは解せなかった
震災とかで減ったと思ったが実際は減り方が意外と少なかったのである








2021年04月03日

奈良の桜の俳句(奈良が語る歴史−京都との相違)


奈良の桜の俳句(奈良が語る歴史−京都との相違)



三重塔雀や奈良に蓮華かな

桜咲き奈良の夕暮れ古き壺

築地塀古りて門あり落椿

大仏に春の恨みや蝦夷鎮む

堂塔の跡の礎石や花の影

奈良なれば掘れば遺物や春の暮

(西の京)

夕桜奈良の昔や西の京

朝たずぬ唐招提寺や燕来る

春日没る薬師寺の塔古きかな  


奈良めぐる近鉄の駅春の暮

秋日和猫の眠れる奈良の駅


奈良俳句集
http://musubu.sblo.jp/article/8619460.html



奈良を旅したのもずいぶん前である、30年とかそれ以上過ぎている
そうなると記憶もあいまいになる、だから今になると記憶することが大事なのである
なぜなら記憶が蘇らなければもうそこに行ったという旅したということもわからなくなるそこにいたということすらわからなくなる
でもこれだけ時間がたつとどうしても記憶があいまいとなる
それが意外と大きな問題だった、結局人間は何を記憶したが人生となる
だから一番印象に残ったことを延々と老人は語る、認知症になると戦争経験したことを千回も聞かされたとなり聞く方もうんざりしたとなる
でもそれが一番印象に残ったことだから語りつづけたのである

ともかく奈良とか京都とか大阪でも歴史が古い、その歴史があって桜が咲く、するとその歴史を知らないと感じないと何も感じないとなってしまうのである
外国から来た人は日本の歴史がわからない、するとなぜ大仏があるのかとその由来もわからない、大仏は鎮護国家のために作られたのである
奈良とは大和が興った場所であり日本国家の起源の場所でありそれが違っている
ローマだったらまさにローマがローマ帝国の起源の場所だったのと同じである

唐招提寺というときこれも名前のごとく唐を招くであり鑑真和尚が中國から海を渡ってきて仏教を伝えたからこの名がある、そういう簡単なことを見逃していた
人間は歴史的なことがつくづく簡単なことでもわからないことがあるのだ
そして大仏には蝦夷制服で殺された人々の魂を鎮めるものだったのである
靖国神社でも戦争で死んだ人の魂を鎮める場所だったようにである
そういうふうに歴史を知らないと何か今だけ見たら感じるものがないのである
ただこれだけ時間がすぎると奈良自体も変わる、朱雀門とかが再現されたりしているからである、平城宮も私が行った時は枯野だった、芒がなびいて何もなかったのである
だからそこがどうしても平城宮があったということが感じられなかったのである

月の出て平城宮跡枯野かな

こんなふうになっていた、だから今度訪ねて見れば感覚的相当に違ったものになる
当時の華やかさが多少再現されるとはなる
奈良とは何か印象として違っていたのは田舎だったということである
回りが田畑であり田舎の風景があった、そこが意外だったのである
それがまた京都との大きな相違だった、京都は千年都とてしつづいた
今にも継続している都である、でも奈良は日本の国家の起源となった奈良時代で日本の歴史の最初のページを飾ったがあとは京都が中心となり平安京となり次に鎌倉時代があり
さらに戦国時代には大阪が商都となりまた秀吉の大阪城が中心となった
その継続として大阪と京都が交通的にも新幹線でも走り奈良ははずれた地域となり実際に関西では田舎になったのである
だから奈良は田舎だよなと関西の人は言っている、実際に奈良から京都はそれなりに距離がある、一時間くらい電車でかかったような気がする
つまりそれなりに離れているのである

だから田舎だという時、奈良のはずれの方に三重塔がありそこは野原であり田畑があり
すずめが三重塔に群れてとまりレンゲが咲いていたのである
レンゲとなると何か田舎的だからである、桜と梅は奈良でも京都でも咲くがレンゲとなる田んぼとか畑が似合うとなるからだ
そもそも万葉集とは奈良時代の遺産だがそれはまさに都会ではない、田舎の暮らしを歌ったものである、奈良の山とか自然を歌ったものである
自然で暮らす人々の歌なのである、平城宮があったとしてもそれは一部の貴族のものである、その貴族にしても平安京の京都とも違う、それはローマの貴族がもともと農民でありその名前に野菜の名が多いというときそうである  

もともと農民だから質実剛健でありローマ帝国の兵士となり大帝国を築いたのである
それと似ていて奈良の貴族は平安京の貴族とも違う素朴なものを原始性をもっていたとなる、だからこそ万葉集と古今集がなぜあれほど違うのかそれを示している
古今集の短歌は何か貴族の遊戯と化しているからである
宮中とか御殿の中での生活である、枕草子とか源氏物語の世界になる
万葉集の主なものはほとんど野に生活する人々を歌っているから本質的に違っていたのだそこに万葉集の価値がある

第一飛鳥でも藤原京でもそこは田畑になっている、藤原京の跡は田んぼであり秋にたずねたときは刈田になっていた、それでここが藤原京なのか都跡なのかそう思えなかったのである、それとにて奈良でもそういうことがあったが奈良はやはり都会であり平城宮跡があった、でもそこはただの空地とあれ荒野になっていたのである

ローマとか昔の外国の遺跡だとその跡が石の建築だから残っている
それで今でもローマでは地下であれいたるところにそのローマ時代の石の建築を利用して建物がある、日本ではそうした古い遺跡は消えてしまうのである
だから奈良の都にしても何もなくなってしまっていたのである
ただ大仏殿は日本国家形成の起源の記念として残ったとなる

いづれにしろ人間にとって記憶がいかに大事か、最後に残るのは記憶したものである
奈良でも京都でもローマでもたずねたから何か比べることができる
それでも記憶があいまいとなりわからなくなる、それが問題になる
歴史を知るというときやはり何度もその場をたずねないとわからないとういこともある
関西に住んでいればそれができるが東北だと遠いからできない
つまり人間の記憶は歴史は場所に刻まれているからである
だからその場所に立たないと記憶が蘇られないのである
奈良と言えばいまでもともかく発掘がつづけられて何かしら新しい発見がある場所である

土うもれ欠片(かけら)の語る昔なれ平城宮(ならのみやこ)の春のくれかな

日本は桜前線とか桜の国だけど桜は一二週間で散ってしまう、するといくら桜の名所が日本中にあっても桜は見れないのである、その見る場所が限られてくる
これだけ日本全国を旅しても桜を見たのは自分でも限られてくるからである
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奈良から京都の色合いはこんなふうになる、京都となるとその色合いが濃くなる
そもそも万葉集には桜の歌は少ないのである、ただ今見ている桜はソメイヨシノでありこれは江戸時代のものであり
もともと桜は野生種であり今見ている桜とは違っていたのである
そこが誤解しやすいのである


2021年08月29日

関ケ原ー近江の地理と歴史をたどる(短歌十首)


関ケ原ー近江の地理と歴史をたどる(短歌十首)

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蓮華に菜の花に近江富士(三上山)となる旗

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ここに陸奥弘前藩がある




近江なれ菜の花畑に蓮華かな

波音や大津京跡朧月

皇子山いわれを語れ春の月



関ケ原越えて行きなむ残る雪近江拓けて蓮華野を見る

関ケ原越えて望みぬ近江かな春の光りや京も近しも

京近く瀬戸の唐橋長きかな今宵泊まらむ大津の宿に

東海道中山道と近江にそ交わり京へ向かう要なるかな

奈良想い京都を想い近江かな越に東に通じる道かな

湖西にそ夕日沈むやあわれかな高島の古墳我はたずねぬ

東より昇る陽見なむ秋の日や近江平野に銅鐸残る

東西の雌雄を決す関ケ原陣を張りにし跡を訪ねる

さざなみの都の跡や心しむ波の音ひびく秋の夕ぐれ

みちのくゆ大津京跡さざなみの波音しみぬ秋に偲びぬ

東西に分かれ争そう関ケ原古代よりしも近江にい出ぬ

大津京奈良の都や古の跡を訪ねて秋の日暮れぬ


近江を知る時もまず地理なのである、近江が交通の要衝となったとのは琵琶湖があるからだある、この琵琶湖は地中海と似ている

近江は、もともと「ちかつあふみ」と読み、「近淡海」と書かれていた。「淡海」は湖のことで、読み方は「あはうみ」が「あふみ」となり、「おうみ」となった

湖を海としたのは海のように広いからそう言った、地中海が交通の海としてあったように近江もそうだったのである、この琵琶湖が風土としてその国の精神性を育み歴史を育んだのでてある、東海道があり中山道もここで交わる、そして古代から敦賀とも越の国への通路でありしがらき宮とか大津京とか古代からすでに要衝の地としてあったから栄えたのは地理的な条件として備えられていたからである
つまり地理が国を造るのであり地理を知らずして歴史も知りえないのである

近江国は宇宙(あめのした)に名有る地なり、地広く人は衆(おおく)して国富み家給(そな)わる

このように言われたのはまさにそういう地理であり交通の要所だからである
アフガニスタンでもなぜ世界が問題にするのか?それはそこが交通の要衝だからである
周辺国の通過点になるからそこが争いの場ともなる
奈良や大阪や京都や日本海側から古くは朝鮮系の帰化人が住みつきオンドルの遺跡まで発見している、それがあることは朝鮮系の帰化人が住みついたからである
これは実感として韓国でオンドルの部屋に泊まったから感じるのである
その時滋賀県の大津の人と一緒に泊まったことは宿縁があったともなる

ツノガノアラシトのことをこの辺の古代史関連で大分追及して書いたけど古代から近江はそうした渡来人が入り住みついた場所なのである
それでみちのくとも関係していた、粟田郡で鉄生産の技術を習うために直接工人がみちのくの真野郷からも往き来していたことがわかったのである
つまり近江は古代から東とも深く関係していたのである
それでみちのくの真野の草原(かやはら)の万葉集の歌の作者の笠女郎が近江出身者という説を出した学者もいることも納得する
また三上山の麓に銅鐸で有名な場所がある、つまり近江まで銅鐸文化があった、東になるとないのである
ここが東西の文化的分かれ目ともなっていた

近江というとき例えば関ケ原が東西を別れ地なのである、地理的に近江に出ると何か山間から出て心和むとなる、電車でも関ケ原は高地であり春でも雪が残っている
まだ寒いと感じる、これが歩いてみればさらに明確になる
関ケ原を出て近江に入ると景色が変わる、平野が開け琵琶湖を見える、この風景は中山道の山間を出てもそうである、その景色に安堵するほっとするのである
それで「行く春を近江の人と惜しみける」とか芭蕉がみちのくから北陸を旅してこういう俳句を残したのは別に人というのではなくその風土がまず心和むものとしてあったからである
琵琶湖は荒いというのもでもない、海とは別物だからである
そして平野も広くありそこに蓮華畑とか菜の花が似合っているということを感じたのである

人間とは人間そのものが作るものではない、作れない、地理とか風土とかから歴史が作られてきたのである、なぜ近江商人が生まれたのかとなるとまさに近江が交通の要衝だったからである、それでみちのくまで近江から渡来人であれ近江商人でもやってきたのである葛尾村の鉄生産で財を成した葛尾大尽屋敷跡になぜ近江八景を模した庭を作ったのか?そして妻まで近江からもらったのか?これも近江商人との関係があったからだともみる
妻がそこで近江を偲ぶために近江八景の庭を作らせたとなる

大津城に全国の蔵屋敷があったということでもそうである
そこに弘前とかもありこれは北前船で日本海から関係して蔵を作ったともみる
日本海側の越とかとは大伴家持が赴任したように関係が深かかったのである
それは何より琵琶湖に八十港があったように琵琶湖が交通の湖だったからである
琵琶湖があることで近江が作られたのである、人も作られたのである
世界でもなぜイスラエルがあの場所になるのか?それは神が定めた場所である
それでアブラハムは神の命令でその地に向かったのである
イスラエルは地中海にでてヨ−ロッパに向かう港にもなっていたからである
地理的に神が定めた地だともなっていたのである
だから世界を知るとしてもまず地理がわからないと何も理解できないとなる
ただこの地理を知ることは実地にその場に行かないと実感できないのである
そこで誤解が生まれてくるのである、世界だと行く場所が限られているから余計にそうなる、なぜネパールとかで3000、4000メートルの所に住んでいるのかとなるからだどうしてそんな所で生活できるのかとなるからだ

近江で不思議だったのは高島町がある湖西から見て東の方から太陽が昇ることである
湖西とは西だから太陽が沈む場所なのである、太陽が沈む西は何か淋しい感覚になるのである、でも関ケ原辺りから陽が昇るということが不思議になるのである
方角が旅するとわからなくなるからである、

近江国滋賀郡小野村(現在の大津市小野)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏の出身

小野妹子が陽が昇る国から陽の沈む国へと中国に行って言ったのはやはり人間は方角が旅すると一番気になるからだともなる
とにかく方角がわからなくなり意外な方向から陽が昇ったり沈んだりするからである
だから地名の基本は方角地名なのである、ただ海があると太平洋側は東がわかりやすい
でも近くの飯館村ですら意外な方向から陽が昇り陽が沈むとなり方角がわからなくなったのである、この人も近江の出身である、もともと国際性がある場所だった

鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国に 高山(たかやま)は・・・

鶏が鳴く東壮士の妻別れ悲しくありけむ年の緒長み

鶏が鳴くということは朝が明けると鶏が朝を告げて鳴くからである、東壮士(あづまおとこ)であり東とは吾が妻のことである、東に分かれた妻を偲ぶことで東となった
普通は東(ひがし)なのになぜここだけが東となり福島市に吾妻山があるのかとなる
方角地名に人間的なものが入るのはやはり東西を境にして人間が分れることかそうなったのか?壬申の乱でも東西の勢力が争った場所であり関ケ原でもそうだったからである

古代からも近江が要衝の地であり戦国時代でもそうだった、信長が天下布武を宣言して近江に安土城を築いたかのもそうである、そこがやはり日本の地理の交通の要衝の地としてあったからである、ただ大阪とか京都と違うのは意外と広い平野があり田舎という感覚になる、大阪とか京都とは今見るとビルとか家とか人が密集しているから心が和まないのである、でも近江は平野が広く田んぼもあり琵琶湖があるから心なごむのである
そこにまだ自然があるということで心なごむのである
名古屋でも大都会であり伊勢湾があるにしてもやはり大都会だから違っている
やはり自然が消失するとそこはいくら歴史があっても魅力がなくなる
そこで芭蕉も近江で氏に朝日将軍と言われた木曽義仲も義忠寺に眠っているのも合っているとなる、中山道からも近江に出てくると安堵するほっとするとなるからだ

日本はそもそも山が多いから山からでて平野を見るときほっとするということがある
山には山のいい点かあるが心を狭くする、閉ざされた感覚になる
でも広々とした平野に出ると心も拓けるとなる、つまり地理とかそもそも心に影響してそうなるのである
私の住んでいる場所は太平洋側にあるにしても阿武隈山脈高原に中通りとか会津はさらに見えない、その見えないことが一体感を感じなくさせているのだ
猪苗代湖だって見えないからだ、ただ原町区からでも高台から金華山と牡鹿半島が見えたのである、だからそこで宮城県の方と一体感を感じるし蔵王でも八沢浦からも見えたのでそこで地理的一体感を感じる、見えないと感じないのである
琵琶湖だったら近江として一体感をもてるのである、だから地理的一体感があると人間もその影響を受ける、平地があるとまとまりやすいとなる
山々にさえぎられるとアフガニスタンのようにまとまらないともなる
統治しにくいともなる、一体感をもちにくいからである


近江粟田郡の鉄生産地と陸奥行方郡真野郷の密接なつながり
(直接鉄生産の工人が行き来していた)
http://musubu2.sblo.jp/article/186269461.html




2023年02月08日

近江の紀行文(地歴を知るべき)


近江の紀行文(地歴を知るべき)


関ケ原電車に越え行く残る雪
平地に出春光眩し近江かな

高島は西にあれや東より秋の朝日の昇るを見ゆ

歴史が地歴と言う時まず地理がわからないと歴史もわからない、この地理自体理解するのがむずかしい、まず一回でもその場に立たない限り理解できない
近江に行った時高島が西であり東(あづま)が関ケ原の方向になりなぜここで東西の覇権を決する戦いが起きたのかも地理と密接に結びついている
古代の壬申の乱でもやはり東軍と西軍の争いになったからである
近江を制する者は日本を制するともなっていた、だからこそ信長がここを重視して安土城を作ったのである
また木曽義仲が今の中山道の山中深く旗揚げして京に攻め上ったのである

これは東から見た歴史である、でも九州とか中国とか瀬戸内海とかから西から見るとその歴史はまた違ったものになる、大阪が難波の都となったのは遅いのである
そしてなぜ飛鳥が都になったかというとそれも地理的なものが影響していた
大阪湾は古代は大きな湿地帯であり住むにふさわしくない場所だったのである

日本の海岸線は湿地帯が多いのである、釧路湿原のようになっていた
だから津波で驚いたのは本当に海岸が湿地帯化したことである
そういう湿地帯を埋めて田にしてきたのが日本だった、それで田下駄とはそういう湿地帯で必要になった、また日本で下駄が作られたのは雨がふると下駄が必要だったのである
ぬかるみになり下駄が必要だったのである

なぜ飛鳥が最初の都になったのかというとその前が太古では奈良は湖になっていた
そこは海のようになっていた、だから万葉集でも

天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は 

巻一(二)

となっている、何か盆地になっている所はもともと湖になっていた、福島盆地でもそうらしいからでである。奈良盆地でもそうなっていたのである
さらに太古にさかのぼれば大阪湾から奈良盆地まで海が入りこんでいたともなる
そういう地理では飛鳥が高台にありそこが最初の都となったこともうなづける
つまり地理がそうさせたのである、地の利がそうさせたのである
そこから次に藤原宮が生れ奈良の平城宮が生まれたのである
ただわかりにくいのはなぜ京都が千年の都になったかである
やはり大阪の難波の方が湿地帯であり京都が盆地でありそこが都になった
そして近江が要衝の地となったのは琵琶湖があり交通の要衝になったからである

近江の不思議はヤマトタケルも伊吹山で死んでいる、近江で死んでいる
また芭蕉でも奥の細道でみちのくを旅して近江で死んでいる、風土的に近江は関ケ原を出ると何か春光がまぶしかった、関ケ原には雪が残っていても近江に出ると春らしくなったのである、何か開明的な感覚になった、そもそも近江商人とかが出ているから近江はそうした地域であり人流も活発になる地域なのである
だから信長が楽市楽座を作り自由な商売を奨励したのである

大津百町は、東海道五十三次の「宿場町」、琵琶湖水運の「港町」、三井寺(園城寺)の「門前町」という3つの町の顔を持ち、東海道最大の人口を誇る宿場町でした。その繁栄を示すのが「大津百町」という言葉です。実際、江戸時代中期には、ぴったり100の町を数え、湖と山にはさまれたコンパクトな場所に約1万5千人の人々が暮らしていたことがわかります。

近江は日本の歴史が地層のように重なっている、近江の魅力は琵琶湖があり風光明媚であり交通の要衝にもなった、近江八景がありこれはまさに魅了される、比良の暮雪というときそこは西になりいかにもふさわしい風景である
三井寺の晩鐘というのもそこで鐘のの音を聞いた、その金は相当に古いものである
その時は秋だったのである

三井寺の鐘なりひびく秋の暮

ただ春に行った時は大津は朧月であり大津は都会である,繁華な都市であり宿場町だったとなる

朧月大津の一夜京近し

大津だったら京都は近い、電車でも近い、でも京都と違うのは琵琶湖があり結構平野が開けている、それで彦根城は大きいし圧巻だったのである、その造りも雄壮な城である

天主より近江平野は刈田かな

雄壮に城の構えや冬に入る

春には蓮華が映えていた、そして三上山が見えたのである

蓮華田や三上山聳え近江かな

蓮華田があるということは都会というのではなく土臭いものがある、田舎でもある
京都には田んぼなどないからである、それでなごむということがある
ただ近江商人が生まれたようにここは大阪商人とか京都の公家とかそのつながりとして
近江商人が生まれたとなる、そういう人が出るのも地理であり歴史であったとなる
そして注意すべきはここは古代に韓国からの渡来人が住みついて技術を伝えた地域であるそれが私の住んでいる真野の地域とつながっていたのである
なぜなら栗東まで鉄を作る工人が行き来していたのである、鉄を加工する場があった
鉄そのもののとれなくても加工する技術があり真野の地域からでも工人が直接そこに通っていたのである、技術研修生ともなっていたのである
だから近江に真野という地域があり何かその真野というのは渡来系でありそれが鉄を求めてこの地域に来ていた

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

この歌を詠んだ笠女郎が近江出身だったという説もでてきたのも具体的に鉄作りで関係していたからだとなる
そして韓国で大津の人と合ったのも奇遇だったとなる、そこで韓国を案内してもらったのである、それを感謝している
鉄作りというとき葛尾大臣でも近江八景をまねて庭を作ったいた、なぜかというと近江の女性を連れてきて結婚していたからである、それで女性が故郷をなつかしみ近江八景を模して庭を作ったのである、それにしても余りにも近江とは違った場所であった
淋しくなるのもわかる、このように近江とは繋がりがある

秋鴎百羽集いぬ浮御堂

堅田に松や秋の日浮御堂

この鴎は大阪から淀川を上り琵琶湖に来た、つまりここでも海が関係している
飛鳥でもそうだがここでも鴎がこれほど飛んできていたということは海が近くだということになる
とにかく近江の魅力は琵琶湖にあり自然が依然として映えている、京都とか大阪は家が密集して自然が映えない、自然は作られた庭にある、でもそれは本当の自然ではない、人工的な自然である、そこに庭の限界がある
なぜ東京でも大阪でも魅力がないのかというともう自然が消失している、東京などでももう江戸時代に水路があったことなどイメージすらできない、自然の地形を説明してももうイメージできないのである、だから東京には魅力がないのである
京都は違っていてもやはり家が密集しているから押し込まれような感覚になる
ただ京都は文化都市だから千年の都だから他とは違っている
その延長として近江もある

昔のひとに出逢った、依然美しかった
だがそのひとは今は湖畔の城下町の
由緒ある宿屋の御寮さんであった
ゆくりなく近江の秋の日に浪漫的なものを
失われた簪(かんざし)のように拾った
(田中冬二)

この詩のようにまさに簪を拾ったというときまさに千年の都は工房があり技が伝えられてそういうものが落ちていたともなる、つまり自然があり千年の都の京都が近いということで魅力がある

これはやはり京都が近いということで作られた詩である、簪というのがそうである
それは京都の工房で作られたものであり貴重なものである、それが近江に拾ったというとき京都に近いからそうなったのである
ただ戦前とかの風景とは近江でも琵琶湖でも違っている、やはり繁華になり詩にしたようなひなびた感じは失われている、ただ田畑があり琵琶湖があり山々があり自然の風景がなお残っているから大坂とか京都とは違っているのである
なんとかなく近江に来るとほっとするのである