2007年01月06日

飛鳥の春の短歌(日本の国の歴史をたどる)




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日の本の国の歴史のはじまりぬ春の日吾にも飛鳥風吹く

国起こる宮の一つや飛鳥にそ残りて暮れぬ春の日の夢

亀石の何を語るや春日さし飛鳥の遠つ世夢見つ眠る

飛鳥にはエキゾシズムの石像の昔を語り春の日の夢

遠つ世の天皇の陵(はか)我がたずね春の夕べや飛鳥の道暮る

百済人作る仏のほほえみて春の日歩む飛鳥の道を


飛鳥→藤原宮→平城宮→の歴史をたどる短歌の旅の連作をしてみよう。過去の記憶からまた実地の創作の記録などからもう一度構成しなおしてゆく。これはその始まりである。やはりここでは日本の歴史の発祥からの遠大な連作となる。大和の国の歴史を詩的にたどる旅である。これもいろいろありすぎるがやはり古代は陸奥の真野の草原で自分のテ−マともなっていたので記録したものなどを手がかりに構成してゆく。ここから我等が日本人として生きる過去と未来を探るのである。そこには延々とつづく歴史の道のりがありそのなかに今の日本人も生きるからだ。今はこうした日本の歴史が希薄化してしまったのだ。ルネサンスとは再生だから常に過去の再生が必要になるからだ。

プログだとこうして細切れになるがそれをあとから本サイトのホ−ムペ−ジでまとめてみるのだ。プログはこういう点で便利なのである。

明日香風の意味(文化地方からしか興らない)
時事問題の深層34へ
http://musubu.jp/jijimondai34.html#asuka

2007年01月09日

飛鳥−冬の日の短歌

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夢ならじ日の本の国の興りしは宮址残り冬の日暮れぬ

雷の丘ありここに轟きて国の興れりその址もがも

代々の天皇(すめろぎ)の陵(はか)史(ふみ)記し
眠り久しも冬の日暮れぬ

真神原刈り田となりて六地蔵都は知らじここに並びぬ

帰化人のここに棲みしと飛鳥の里冬あたたかく蝶のむれ飛ぶ

冬枯れの飛鳥の里や宮の址訪ねし人はみちのくの人

板葺の名ぞ心しむその址に芒の枯れて日の没りしかも

飛鳥川流れの早しそい下りはや冬の日暮れ旅人去りぬ

騒乱を終えて一つの首塚や飛鳥の里に冬日没るかな

飛鳥の里島の大臣(おとど)の住みにしと址の残るや冬の日の暮る 


飛鳥には春と初冬に行った、歴史は事実の集積である。考古学も事実の発見であり歴史の文書と一致して意味をもつ、文書がすべてでないにしても歴史的事実として連なるものとして存在するとき現在でも意味もつものとなる。日本の歴史は天皇と共にはじまった。天皇と共に日本の歴史の共同性が作られてきた。そこに天皇の重みがあったのだ。皇国史観が成り立つのはそのためである。日本が正式に歴史がはじまったのは古事記の神話時代もあるがやはり飛鳥に政治の中心地が置かれた時からだろう。

そこは神話ではない事実として歴史がはじまった故、宮の跡でも事実としての重みをもっている。日本では連綿とつづく歴史はいい悪いにしろ天皇と共にあった。なぜ天皇を神とした戦争があったかというとこうした歴史の連続として必然的にそうなったのだ。日本は歴史国家だからそうなる。他でも中国でも結局マルクス主義を標榜しても中華主義、中国が世界の中心だという歴史観は変えられず歴史に基づいて中国は周辺国をみるから日本は朝貢すべき国だとなる。アメリカは理念的国家だが歴史的国家は歴史の延長上として存在し行動するのである。中国の歴史は始皇帝から始まり日本の歴史は飛鳥からはじまり欧米の歴史はロ−マからはじまるのとにているのだ。

明日香風の意味(文化は地方からしか興らない)
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2007年01月14日

飛鳥の鶯(旅の時間)

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鶯の日がなそちこち飛鳥かな

鶯の日がな鳴きしを聞きにつ我長々と飛鳥にいしを


旅の時間は不思議である。時間そのも不思議なものなのだ。ある時は長くある時は短くすぎる。去年の一年家族に問題が起きて駆けずり回ってまたたくまにすぎた。旅の時間も例えば自転車の旅の時間は何かせわしいのだ。絶えず次の場所へと移動する旅だから一カ所留まらないからそうなっていた。今何十年前の飛鳥にいた時間が長く感じたのはその頃は電車の旅であり駅で待つ時間とかが長かったからだ。そこで聞こえたのは鶯の盛んに鳴いている声だった。そこを未だに自分は歩いているような気がする。鶯の声が未だに耳に残っているのだ。60くらいになると必ず過去をふりかえる。そのふりかえる過去はまた別なものとなっている。その時感じたものと過去としてふりかえる感じは違っている。

記憶に残るのはやはり何らかそこに滞在する時間が必要なのだ。どこも記憶に残ることはない、都会の雑踏とか歩いた記憶はほとんど残らない、外国旅行も残りにくい、そこは余りに環境が違っていて残らないとなるのか、外国旅行は忘れやすいのだ。だから本当は外国旅行は一カ所に長くいた方がいいのかもしれない、そうすればなじむことがあるからだ。もともとなじみのない場所だから余計記憶に残らないのだ。

フランスのニ−スは保養の地であるから老男善女が海岸を散歩していた。その時は穏やかな春だった。ニ−スとはギリシャ人がつけた名らしい。新しい都市の意味でありこれは地中海沿岸に多い。ギリシャのコインも多く発見されている。

春日さしニ−スを歩む老夫婦

sunny days in spring
elderly couple in NICE

古城見つニ−スに春の日ざしかな

春の海古城一つや地中海



老夫婦がかなり連れ立って歩いている。その外国の老人にも歳月を経た記憶がありそこで昔を思い出しているのかもしれない、その物語を聞けば興味深いものとなるだろう。ヨ−ロッパには城が多い、小さな海岸にある城を汽車の窓からちらっと見た。その城にも物語がある。でも外国ではこの物語がわかりにくいからそれも印象に残らないものとしていた。城があってもいつの時代のものかとかいろいろ歴史的なものがわからないから記憶に留めることもむずかしかったのだ。日本ではあとでふりかえり調べて記憶を新たにすることもできるが外国はなかなかむずかしいとなる。老人になることは思い出が宝となる。その思い出が何になるのかそれは各自違う。何が印象に残るのかは各自経験が違うからそうなる。

ともかくそれぞれの記憶に残されるものが何になるのか?それが老人になってみないとわからない面があるのだ。自分は旅ばかりしていたから旅の記憶が宝となるのか?それでも今になると忘れているのが多い。人間は忘れやすい動物なのだ。でも旅に行けない今、旅した記憶が消えることはもったいない、いろいろな美しい自然を見たからだ。その美しい自然が時々蘇るが忘れてしまいばそれがなくなってしまうと同じではないか、もう一度印象に残った場所にはいつかたずねてみたいとなるのだ。それができなくなる日が来るとは思いもよらなかったからだ。

 記憶の中の飛鳥

sweet memory in ASUKA

遠き日春の日影のなかを
日がな鳴く鶯の声を聞きつ
私は飛鳥の里をそぞろ歩いていた
そちこちを気のむくままに
古りにし石像は何を語るや
小径に亀石が春の日を浴びて眠っている
飛鳥の里に鶯は飽くことなく鳴き
穏やかな春の日影のなかを
私は心ゆくまで歩いていた
その日はもう帰ってこないが
私は今も記憶の中で歩いている

2007年05月16日

大阪(城)の桜

大阪の桜

大坂城散る花しきり夕日かな

大坂城落下をいそぐ花あまた

なお尽きじ難波の夢や花の散る

大坂城落下のなかに吾も交じる

一陣の風に吹き散る花やさらに大坂城内花散りやまぬ

侍の町を歩かず商人の声にぎやかに難波の春かな


大坂城に行った時はちょうど桜が散るときだった。次から次と人が広い城門を入ってゆく、花がはらはらとちり夕陽が難波の街に沈んでゆく、大坂城は実際はもっと広かったから当時とすれば凄い見物だった。本当に難攻不落の城だったのだ。だから家康も攻めるのに難儀したのだ。この一大の栄華も難波の夢とはかなく消えてしまった。

大阪には侍の町ではないから堅苦しい町ではないというのはそういえばそうだと他のプログを読んで気づいた。東北の田舎だとこうした都会のことがわかりにくいのだ。町を歩いても侍を見かけないというのは当たり前だが大阪というとやはり侍がいると思っていた。これも過去はなにかしらみんな錯覚している。江戸は侍屋敷が多いから侍の町だというのはわかっている。大阪や京都は町人、町衆や商人の街として発展した文化を作った。この歴史も東北の片田舎ではわかりにくい、東北では豪商というのはまれでありそういう気前のいいものがなかった。それだけ人間的活気にともしいし江戸時代でも「奥の細道」だったのである。卯の花をかざしに関の晴着かな(芭蕉) −この句に象徴されているように江戸時代でもみちのくはこういう状態だったのである。ただ大阪とは北前船で日本海と青森とか経済で交流が活発だったのである。大阪、京都とは経済的に深く結びついていた。だから大阪などの屋号が多いのである。

江戸は参勤交代で侍の交流だった。侍が消費する一大消費地であり大阪や京都の生産や経済の交流の場所とは違っていた。政治都市というと北京がそうであり上海は大阪になる。ワシントンも政治都市でありニュ−ヨ−クは経済都市である。世界的に見ても都市にはいろいろなものがある。京都は手工業の街でもあるが東本願寺があり僧侶の街でもあった。だから今でも坊主を嫌い奈良の方が仏教でも古く素朴でいいというのも地元の人の見方だった。都市にも歴史があり個性が作られる。

雨しとと夜桜静か京の宿 

塔古く雀の群れて蓮華かな 


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合成写真でも元の状態がわからなくなれば著作権にふれないのではないか?
合成したのはくらべてみてもほとんどわからないからだ。???


塔に雀が群れているというのもあまり東北ではない、塔自体が少ないからだ。蓮華が咲いていたのは奈良の素朴さになる。まだ回りに田んぼがあるからだ。

蕪村は京都と大阪という都市の住人でありその生を謳歌した。一茶は田舎から江戸に出て丁稚もしていたので江戸に対してひにくれた見方の俳句ともなった。都会では貧乏人はいい生活をできないからだ。芭蕉は江戸から離脱して「奥の細道」へ向かった、脱俗の詩人だった。今でも都会がいいと都会の住人になるものもいるし一茶のように出稼ぎでやむなく都会に出る人もいるし脱都会を目指す人もいる。今はやはり脱都会派が多くなっている一面経済的にはまた都会集中になっている。東北には都会の文化が欠けている。歴史的にも貧しいので都会の文化が育たなかったのだ。大阪では庶民レベルでも豊かな生活をした人々がいた。その辺が心にも影響している。東北の都会というと平泉である。ここが一番都会文化をはぐくんだ所なのだ。ただこれも継続的発展はなく途切れてしまったのである。

春の虹断片に消ゆ平泉

平泉は春としても断片であり夏への大きな虹として結ばなかったのだ。三代の栄華で終わったが京都は千年の都としてつづいたのである。

城の詩
http://www.musubu.jp/shiropoem.htm







2007年06月02日

奈良と京都の相違 (文化創造には歴史の継続が必要)

奈良と京都の相違 


●俳句、短歌は分類に適している

 
秋篠はげんげの畦に仏かな 虚子

塔古く雀の群れてげんげかな−奈良 
 

俳句は一番分類に適している。季語ごとにも分類できる。だからインタ−ネットのキ-ワ-ド検索に適している。それでいつもキ-ワ-ドで同じようなものを調べているのだ。
そしてインタ−ネットには本の紹介とか古典のなかの一部を引用したものが多いから
こんな俳句や短歌あったのかと参考になる。ある人が引用したものをまた読むということが多くなるのだ。人間まず読書の量は極限られている。源氏物語でも読めるのはほんの一部である。興味ある人は読むが他はほんの一部であり古典でもあらゆるものがほんの一部しか読めないのである。人間はつくづくどんなに生きても旅をしても読書をしても知ることはたかがしれていることがわかった。どんなにがんばってもほんの一部分しか知ることができないのが宿命である。世界旅行してもこれは同じである。世界中を詳しく知ることはできない、時間が限られているからだ。一面インタ−ネットの検索は効率的なのである。一部分を自分の興味あるものとつなげて読むのである、musubu(結ぶ)のである。


としをへておなしさくらの花の色をそめます物は心なりけり(藤原公時朝臣)

みな人の心にそむる桜はないくしほとしに色まさるらむ(前左衛門督公光)
 
そめますとか色まさるとは毎年見る同じ桜なのだが何か違う、色合い深く心にしみる桜となっている。これも同じ心境から生まれたのだ。短歌でもこうして同じ心境を歌ったものを並べてみる、分類すると一つの世界が生まれるのである。
 
●奈良と京都の相違
 
奈良にはげんげがあっているのは奈良の歴史は京都とはかなり違っている。奈良は万葉の時代だから日本人の原点の場所である。飛鳥から奈良は天皇自体が単なるシンボルではない、象徴としての王ではない、実権をもっていた王である。大きな天皇の古墳がそれを示している。京都は平安時代になると実権をもった天皇ではなく象徴としての天皇になっていった。でも京都は明治維新まで権力争奪の中心都市であることには変わりなかったのだ。でもその権力の実体は天皇にはなく僧侶、僧兵とか地方の侍、平家−源氏とかに移行していたのである。そして京都は天皇がいることで御所があることで権力争いの場として都として機能してきたが手工業の文化都市としても千年の都として維持されたのである。これはフィレンツとにているといえばにている。
 
奈良はどちらかというとロ−マではないか、すべての道はロ−マに通じるというとき奈良は日本国家の基となったところだからである。奈良時代にみちのくの蝦夷征服も完成して日本国家が形成された。その象徴として奈良の大仏があったのだ。奈良の仏教でも奈良は国家鎮護的仏教でありより素朴であり京都とはかなり違っている。京都は観光化した仏教で坊主は嫌いで奈良には素朴な仏教があるという見方もそこに住んでいる人にしか感じえない見方がでてくるのもそのためである。(菊の香や奈良には古き仏たち−芭蕉)この句にもそういう意味があったのだろう。ロ−マも横暴な荒っぽいところがあるのだがヨ−ロッパに統一した政治世界を作り出したのだから奈良が日本国家を統一したのとにている。歴史は日本史だけを勉強しても興味は限定されて視野が狭くなる。かといって世界史だけでも興味がでてこないのである。必ず両方の勉強が必要なのである。これは郷土史と日本史を勉強することでも同じなのだ。
 
●永続しない都(文化には歴史の継続が必要)
 
奈良や鎌倉も短命に終わったところからみれば失敗した遷都と言えるかもしれない。また信長の安土や秀吉の大坂、軍部によって満州国に築かれた新京も、一場の夢と終わった
 
日本の永続した都は京都と江戸−東京しかないというのは確かである。平泉も三代で終わった。力を権力を集中させるものが必ずしもトップダウンではできない、何か別な力が働かないと都は永続しない、信長でも秀吉でも強力な権力者がいてもそれはトップだけの夢−難波の夢と終わった。平泉の三代の栄華もそうである。江戸も政治都市でありロ−マだった。すべての道は参勤交代で江戸に通じていたからだ。そのとき大阪は商人都市−経済都市−国家の台所であり京都は手工業や文化都市だった。役割分担が国のなかで明確だった。


政治都市はロ−マであり文化手工業はフィレンツなのだ。政治都市は武の世界になる。フィレンツのルネンサンスはロ−マの尚武の堅実な土台を基にして作られている。ロ−マとキリスト教文化とその上に人間性解放の自由な表現が一緒になりルネサンスが築かれたのである。日本で言えば奈良の素朴さと京都の洗練されたものとの結合があった。歴史の連続性があった。歴史の連続性が維持されるとき荘厳なものが生まれるのだ。歴史が分断されるとき文化も分断され分割され脆弱化される。仏教文化は飛鳥−奈良−京都−鎌倉まで変化しても連続性があり個性もあった。江戸時代でその連続性は断絶して武士の文化に変わってしまった。
 
日本にはヨ−ロッパのような広範囲な連続的歴史の発展がない故に荘厳なルネサンスが生まれないのである。明治までは江戸時代の文化との連続性があり明治は威厳がある時代となっていた。人間も明治の人となると威厳があった。その後日本人は歴史の連続性が分断されてしまった。特に太平洋戦争の敗戦は致命的であり明治時代のような矜恃をもつことができずただ欧米文化に習うだけになってしまったのである。文化の継続には歴史の継続更新発展が不可欠であり都もそうであってこそ永続するのである。ただ現代はグロ−バル化など世界的文化破壊の時代であり総合的統一的歴史永続的文化や都を作れない、分断、断絶する人類文明の終末期の様相を呈しているのだ。文化は総体であり部分ではないのだが細分化、部品化されて人間も卑小化されてしまったのである。

 
春の虹切れ端残る平泉 


秋の蝉三代に終わる栄華かな 老鶯

2007年10月19日

京都俳句集

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京都俳句集
 

 

春満月京都の駅に下り立ちぬ

三条四条五条大橋や燕来る  

塀越えて花散りくるや京の径

雨降りて夜桜静か京の宿

京都なる古御所町に枝垂れ桜

春の月円く京都の駅に下り

京に来て路地から見ゆる春の山

琴習う女もそぞろに柳かな

雨降りて夜桜静か京の宿

春の暮我が泊まりしは数珠屋町

優艷に枝垂れ桜や京女

花の京水も匂うや古人かな

車折(くるまざき)帷子の辻や春の暮

金屏風京の残夢や花に雲
春の日や二つ並びし小社かな 


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中山道越えて京都や牡丹咲く 

青葉濡れ八坂の赤き鳥居かな

打ち水や京の旅亭のゆかしかも

禅寺の門に舞い入る黒揚羽

竜にらむ若葉の寺に修行僧

京都にて商人宿の暑きかな

鳶舞いて雷雲湧きぬ二条城

緑陰の寺々静か京都かな

初夏や池に映せる東山

西院や京の日暮れぬ菖蒲かな

     
            
石塀の家々静か菊の花

秋深し職人生きる京の町

銀屏風芒なびきて虫の声

   
   (嵯峨野) 

琴鳴りて紅葉散りにし嵯峨野かな
秋嵯峨野菊の御紋の寺古りぬ

一嵐紅葉散らせり嵯峨野かな

紅葉踏み鐘の余韻や嵯峨野去る

落椿月の照らして寂光院

     

京都なる古御所町や冬の暮

 

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2007年12月19日

奈良俳句集


  
  
陵(みささぎ)の駅近くあり春の暮 

橘の実なる下に写生かな

白と黄の金雀枝映ゆる都跡

寄り合いて春の日差しに奈良の鹿

守られつ奈良の鹿臥す花の影

奈良町や柳しだれて暮の鐘

奈良町や雲に滲みて月光る

一品の抹茶茶碗や夕桜

鐘鳴りて旅人帰る夕桜

塔古りて奈良去りゆくや夕桜

  法隆寺  

春の日や鳩むつみあう法隆寺

夢殿に太子休らふ花の影

築地塀に一日写しぬ花の影

夢殿や花散る後の余韻かな

日も暮れぬ芒に塔や法隆寺

   秋

千歳古る大仏黒き秋の暮

晩秋や奈良には古き壺二つ

千歳古る大仏黒き秋の暮

橿原の市や家々菊の花

朝静か藤原京跡秋の蝶

奈良の秋出会町に出会橋

山鳩の鳴いて落葉の文殊院

枕元菊さし迎えし奈良の宿

三重塔二つ巡るや秋桜

柿なりて奈良の街道旅の人

奈良に古る大和棟の家柿なりぬ

バスとまる五軒屋とあり秋日和

奈良の人と交わり過ごすや秋日和 

稲刈られ五軒屋あわれ旅の道

旅路来て着物の女性や奈良の月

壺古りて着物の女性奈良の月

奈良の路地交じり出会うや秋の蝶

夜のふけて時雨の音や奈良の宿

韓藍に菊の畑や奈良の道

秋日和猫の眠れる奈良の駅

西の京なお散り積もる木の葉かな

秋日さす古りし跡見橋渡りけり

皇子悲し黄菊白菊二上山

  冬

奈良公園親子の鹿やひなたぼこ

奈良の古道に舞うや冬の蝶

三輪山に人を入れぬと冬日暮る

千歳経し寧楽の都や冬牡丹

農家古り崩れし塀や冬の蝶

2007年12月31日

冬の暮(NHKハイビジョン−京都茶の湯の歴史)


聚落第の跡もなしかな冬の日や大黒残し茶の湯の道


聚落第幻にあれや冬の日や茶室に静か入る人かな

秀吉の跡は継がれず茶の道の残され継がれ冬の暮かな
 

例えば、16世紀末の日本の政治家織田信長は、ポルトガルの宣教師から
西洋の城郭の話を聞いて、わが国天守閣建築のさきがけとなりました。信長
を継いだ羽柴秀吉は、手掛けた建物の多さから「普請狂」と呼ばれています
が、大坂城や聚落第は当代の文化の精華でした。

 
東山当時の茶の湯は(あばら家のような茶室ではなく)端正な書院造の部屋で中国の美術品をたくさん並べて鑑賞する美術鑑賞の場だった
 

禅宗との深い関わり
茶道はもともと唐(618〜 907)の時代の中国から伝わったと言われています。 茶道の精神は禅宗の考え方に基づいており、鎌倉時代、日本全国に禅宗が広まるのと共に茶道も全国的に広まりました。 そして、室町時代の華やかな東山文化のもと、茶の湯が成立しました。その後、安土・桃山時代に千利休が侘茶を完成させ、 これが現在の茶道の原形となりました。


秀吉は最初から土木事業者だった。一夜城というのもそうだったし城を水責めするというのも土木事業だった。それは田中角栄にもにていた。日本列島改造論がそうだった。田中角栄も土建屋だった。信玄も信玄堤を作った。昔の武将は支配者は様々な才能をもった人たちだった。人間的総合的な力を才能を知恵をもっていないと勤まらなかったのだ。一芸にたけただけではつとまらなかった。過去には人間で優秀な人は総合的人間だった。今は専門家であり総合的人間はかえって無用化無能人間にされるのである。結局総合的人間は何もできない人にされてしまう。私は人間の体を全部みて直すとか言う人は誰も信じないし能力がない人なのである。私は目を直すとか肝臓に詳しい、心臓のことならまかしておけとか一部に詳しい人が能力ある人なのだ。
 
何事物事を見るときは歴史的眼が必要である。簡単な要点でもいいから歴史的にどういうふうに茶が取り入れられたとか発展したのか見る必要があるのだ。秀吉が朝鮮出兵して韓国の陶工を連れてきて日本の茶碗作りも発展した。それから鎌倉時代に禅宗が入り禅宗と茶は一体のものだった。すでに侘、寂の精神は歌にも詠まれていた。
 
さびしさに 堪えたるひとの またもあれな 庵ならべん 冬の山里  西行
 
これが茶の湯の精神の基となっていたのだ。歴史をみるとき、聚落第という豪華絢爛な世界は消失してその跡に何も残っていないというのも不思議である。それは全く夢のように消失してしまった。一方侘、寂(さび)の茶の湯の道は残ったのである。黄金の茶室とはあまりに対象的な世界であり金閣に対しての銀閣とこの対象性も歴史である。高度成長時代は日本列島改造論の土木事業の時代であり建築ラッシュの時代であり自然破壊の時代だった。それも時代的に桃山時代とにている。一方で侘とか寂を追求する世界があったのだが高度成長時代は全部が一方方向に向かいつき進んでいた。明治時代も富国強兵であり全員が同じ方向を向いて驀進して世界戦争に突入したのである。しかし秀吉の時代に利休がそうした豪華絢爛な大事業より茶室の数寄屋を追求したというのも時代に反した価値観に生きた。そこにバランスがとれたものがあった。現代はみんな一方通行であり対象的な価値を求めることはないのだ。地域でもそれぞれの特色が活かされるとき地域も活きてくるがみんな一様化される、グロ−バル化で世界すら一様化されることで文化喪失の時代が現代なのである。
 
侘,寂の世界というとき東北がみちのくが一番あっていた世界である。歴史的にもそうだし東北は侘、寂の世界であり枯野の世界であり風土的に茶に一番あった世界なのである。ただ茶は盛んではないし茶道なるものを私自身何も知らない。でも侘、寂の世界は精神はわかるのである。北海道は侘、寂の世界ではない、新開地としてのアメリカ大陸とにている。日本という地域にしてもバラエティに富んだ風土なのである。その風土は自然と歴史のなかで醸成されてきたものであるから簡単には作れないものなのである。


NHKハイビジョンの茶の湯の歴史400年の映像が記録されていた。それをもう一度見て面白かった。登り窯ではなく一個一個を火のなかで焼き上げるのは古い手法だった。フイゴまで使っていたから最初はあのようにして焼き上げていたのだろう。あれでは大量には作れないから一個一個芸術品を作るように作っていたとなる。京都に受け継がれているものは奥が深い、ただなかなかその奥深さが外からわかりにくいのだ。京都に何回か行ってもわからない、文化は時間のなかでしか理解が深まらない、時間というとき何代もつづいて伝えてゆくところに継続する文化の意味もあったのである。

 
聚落第幻にあれや冬の日や茶室に静か入る人かな

聚落第も安土城もまるで幻のように消えた。それはあまりに豪華絢爛なものであったが一場の夢だった。しかし侘、寂の日常的なものは残った。かえって豪華絢爛なものには儚さがあったのである。

2008年05月12日

京都春の短歌連作(京より陸奥へ−義経と芭蕉の旅−エッセイ)

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京都春の短歌連作(京より陸奥へ−義経と芭蕉の旅−エッセイ)

 
仁和寺に京の人となり我がまじり御室桜のありと知りしも

古りにしや京の御寺の門の前我たたずみし春の夕暮

手折りたる桜に椿手に持ちて乙女の立てり京の春かも

長々と築地塀ゆく春の日や花影歩み京になじまむ

優艶に枝垂れ桜や京の街五条の通り消えし女かも

春の日に京のいにしえいづこかな築地塀長く日影うつろふ

春の日に旅人しばし見てをりぬ京の老舗の飾り窓かも 

さざなみの湖を巡りてなめらかな京言葉聞く湖西線かも

燃ゆるごとつつじの咲きて源氏の間残りゆかしき石山寺かも

京に入り朝日将軍埋もれたる寺こそあわれ春の日の夢

大原の夕べやあわれ花の散り女人のあわれ語る里かも

義経の夢かけめぐりみちのくにはてしもあわれ花は散るかな 

阿武隈の山里の道ここにしも弁慶石や春の日暮れぬ

京の日の遠くなりにしみちのくの奥津城親し春もゆくかな
 
●京都に住んで京都はわかる
 
千年の都京都には様々な物語がある。ありすぎてかえってわからなくなる。地元の人すら歴史がわからないのだ。ただ京都のような歴史ある場所住んちょっと旅死したくらいではわからないのだ。京の日があり、なじむと京都がわかる。私は確かに京の日があった。ただそれも長いとはいえない、だから今になるとやはり記憶に残っているものがわずかである。なかなか記憶をたどることができないのだ。今回また過去に書いた短歌などから思い出して書き直して連作を書いた。短歌や俳句は短いから連作として一つの文学を構成すると読みごたえあるものになる。一句一首ではなかなか文学となりにくい、だから第二文学などと言われたのである。旅する時必ず現代があり過去があるのだがこの過去を知ることがむずかしい、京都すら現代をまず感じる、過去を感じることは相当な想像力が必要なのである。仁和寺といえば兼好法師で有名であり徒然草を思い出す、その寺自体が古い、でも京都に寺を訪ねても昔を偲べるかとなるとそうもいかない、寺が多すぎるからまたわかりにくくなる。でも仁和寺の門前に一時あったとき昔を偲ぶことになったのはやはり京都の歴史の重みであった。やはり歴史の重みを考えるなら京都に天皇がいるのがふさわしいとなるかもしれない、京都はまさに天皇の歴史でもあったからだ。東京は徳川幕府の歴史であり今の御所も江戸城のあったところだからふさわしくないとなる。江戸城を再建して観光の目玉にしようとする運動があっても天皇がおわします御所となると簡単にできないのである。だから御所はもともとあった京都の方がいいとなる。そこで日本の連綿とした歴史を現時点から偲べることになるからだ。
 
●京都の周辺の魅力
 
京を舞台にして様々な歴史物語が生まれた。その舞台になった所でありその歴史の跡はいたるところに残っている。しかしこれもなかなかわかりにくいのだ。京都は住んでみてしかなかなかわからないだろう。それも現代があり現代ではない過去を偲ぶとなると住んでいてもわかりにくい、人間は現在のみに心を奪われるからだ。ただ京都は大阪より昔の面影がまだいたるところに残っているから想像力と感性があれば昔を偲べる場所でもある。京都の魅力はまたその周辺にもあるのだ。琵琶湖や近江も京都周辺であり京の一部でもある。大津には朝日将軍(木曾 義仲)の義仲寺があり木曽から野望をもって進軍してきた将軍はあえなく敗退してここに葬られた。どういう奇遇なのだろうか、芭蕉もここに一緒に眠ることになった。芭蕉が木曽義仲に親しみを感じたのは人間の悲哀に共感したからかもしれない、平泉で滅びた奥州の都の跡をたずね残された金色堂を俳句に読んだこととも通じるものがある。京都とという権力争いの場所から敗れてここに眠っている。滅びるもの敗者への哀惜があったのかもしれない、そこには古井戸があり菖蒲が咲いていた。湖西というと琵琶湖の奥であり淋しい感じになるのもいい、比叡山にしても京都から離れた所としての修行の場として立地が良かった。大原も京都があってそこから落ち延びたという場所としての魅力がある。京都を中心にして歴史があり物語がある。これはみちのくまでもそうだった。それを象徴していたのが義経と弁慶の物語だった。これは日本海沿いを回り陸奥に逃れた、その過程に魅力かあり伝説化された。芭蕉も日本海を回ったことに意味があった。つまり陸奥と日本海は違った風土であり文化があったからである。古代でも日本海の航路が先に開け安倍の軍団が船を率いて蝦夷を征服するために上陸した。日本海が渤海との交流があったように先にあったのである。その渤海の重要性は壺の碑に記されている靺鞨であった。江戸時代になっても北前線で日本海は京都とのつながりが深いのである。文化的にも京の文化を各地に残しているのだ。それは波穏やかな日本海があったためである。
 
●京都と阿武隈のつながり
 
この義経と弁慶の伝説はみちのくにも点々と残されている。白河の関の近くでは
弁慶が,「具足(ぐそく=よろい)のようだナ。」と,みんなを振り向いて大きな声で言いました。なるほど,鎧甲(よろいかぶと)の「しころ・くさずり」のように岩が何枚も連なり,重なり合っています。里人はあとあと,この岩肌を「具足岩」と呼ぶようになりました。

 具足岩から20m位先に,澄(す)んだ谷川が流れています。山あいの山々からしみ出てく水は,きれいで冷たく,手にすくって口に含めばさっぱりとすがすがしい。「五両の金を出しても買うていきたいような水だなア。」などと,言う者いるほどでした。里人はここを「五両沢」と呼ぶようになりました
 
こうした伝説が阿武隈の浪江の津島まであった。浜通りには義経、弁慶の伝説は残っていない、浜通りは義経も弁慶も通っていないのだ。日本海から中通りを通り阿武隈から太平洋の方に向かっている。だから弁慶橋が二つも阿武隈の山の中にあった。浪江の海の方に向かっていたのだ。この伝説の径路はただ無闇に作られた根拠のないものではない、なぜなら浜通りには弁慶の伝説はなくこの阿武隈の山の中にあったからだ。つまり白河関から中通り三春などを通り浪江の津島まで伝わったのである。義経の面白さはやはり京都から逃れる過程に様々な伝説を残したことなのである。この伝説は北海道まで伝わり義経はジンギスカンになったとか大陸まで広がっているのだ。芭蕉の旅の過程も興味あるが義経の逃れた径路も興味がある。旅は過程にあるからだ。現代はこの過程がはぶかれるから旅が消失したのである。白河街道を幾重もの峠を越えて会津に行ったとき会津はいかに遠いか、そこに繁華な城下町があり城が聳えていた。それは電車で一気に行く会津とはまるで違ったものとなる。つまり現代はそういう旅ができないことが歴史についての洞察力、想像力の不足となりただ現実のみに目を奪われて歴史を肌で感じる感覚が喪失したのである。ただそうした歩きの旅や自転車の旅をしようとしたら大変な労力が必要となる。それが今介護でできなくなってはじめてわかった。勤め人はとても旅はできない、旅は最低でも一〇日間くらいの余裕がないとできない、私は旅する時は一カ月くらい見込んでしていたから余裕ある旅ができたのである。旅とは意外と金とか暇が必要であり現代ではかえって特別な人しかできなくなってしまった。旅とは芭蕉のように日常も旅となることである。芭蕉の場合は一生が旅であった。私も三〇年旅したとなるとそれに近いものであった。そうなると延々と旅している感じになる、死んでもなおも黄泉路へも旅している感じになるのである。
 
京の日の遠くなりにしみちのくの奥津城親し春もゆくかな
 
遂に年になり今や京は遠い、そして奥津城にたたずむと京ははるかにここに埋もれてゆくのかとなる。ただまだ人間はどこで死ぬかもわからない、故郷にしても病気になったり老人になり施設に入ったりすると隣の市でもそこが異境になり遠くになることを実感した。遠さは別に京都でなくても外国でなくてもあるむしろ外国が国内より交通の便で近くなっていることもある。遠さとはその人の境涯によって起こるのだ。病気によって半年も入院して家に帰れなかったら家は本当に遠い場所になってしまったのだ。山一つ越えて先なのだがそこが実に遠い場所になってしまっていたからだ。
 
花も散り病院に語り久しきや山一つ先の家に帰れじ
 
昔は徒歩の旅だから隣の村さえ遠いものだったろう。遠さは今でも境涯が変わると近くても遠いのである。老人になるとすべてが遠く感じることになるかもしれない、なかなか遠くへ行けないということになるからだ。遂には歩けなくなるとその行ける範囲は極めて限られてくるのである。
 
我が旅のなお終わらじやかけめぐる山また山や春はゆけども
 

2009年02月10日

金閣と銀閣の詩

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金閣と銀閣の詩


金閣は雪ににあうや朝日に映え

銀閣は紅葉ににあい夕暮れや

常盤木の松の緑に映えにつつ

その金のまばゆさと銀のしぶさ

対をなしつつ千年の都の日かな
 
 
 
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京都の金閣にしても銀閣にしても一回しか見ていないから良くわからないけどこの対象性が千年の京都の都の文化を象徴している。平泉の金色堂は一つしかない、京都には金閣もあり銀閣もある。その対象性が文化である。対象性のなかに互いに個性を示して輝きあうものがある。そういうものが必ずある。どちらがいいというのではなくどちらも輝きあうのである。利休の侘、寂もいいが豪華絢爛な金の茶室の秀吉の好みもそれなりに全部は否定できない、美はそこにもあった。京都にはそうした二つのものが対象をなして光輝を放つ、みちのくは侘、寂の美しかない、つまりみちのくにはまだ文化は華開いていないのだ。金色堂も侘、寂のなかに朽ちてゆく、五月雨の中に残されていたかつての反映の証としてわずかに残されていたのである。ただ文化というのはその土地により個性が歴史が違ってあるからこそ互いに映えるのだ。みちのくには侘、寂、土臭さなどがあっているのだ。ともかくこの文化は対象性のなかに映える。ラテンとゲルマンの文化の相違は明確でありライン川を境に二つの文化は成長してヨ-ロッパの魅力を形成してきたと同じである。
 

2009年02月12日

京都・祇園芸妓の歌う(月づくし)から(想像の京巡り)


 

京都・祇園で芸妓さんらを囲んでよく歌われるのに「月づくし」がある。

 「東山では 春の月」
 「四条河原の夏の月」
 「通天橋の  秋の月」
 「金閣銀閣 冬の月」

日に日に紅葉にそまる通天橋

銀閣に迎えし客や冬の月

金閣寺を造営した足利義満の孫にあたるのが八代将軍足利義政である。慈照寺庭園、通称銀閣寺は、1490年、この義政によって建立された。
義政が銀閣寺庭園で詠んだ次の和歌がある。


くやしくぞ過ぎしうき世を今日ぞ思ふ心くまなき月をながめて
 

義満が最盛期の将軍だとしたら、義政は斜陽の将軍といえる。義政が心血そそいだ庭には月がくまなくさしていた。銀閣の造営の裏の話は凄まじい,その頃餓死者が京にあふれていた。その数も半端ではない、屍が放置され積み重なっていた。
1460年は、一、二ヶ月で約8万2000人の餓死者があったという。京都中に死体が散乱し、飢えた者がそれらを貪り、また鴨川の四条大橋に流れついた死体が、流れを塞き止めて洪水を起こしたことなどが伝えられている。
http://luis.jp/deepkyoto/niwa/ginkaku.html

中世でも死体は放置されていた。死体を焼くのも手間がかかる。野辺送りは大変な作業であり村のものが全部でしないとできない、だから葬式だけは村八分にしなかった。これは江戸時代の話になるがその前は死体は放置されていた。死体で橋になったとか死体はそこらじゅう道端でもごろごろ放置されていたのだ。それで化野に葬るようにした。死体の山が築かれていた。
こういう悲惨なことが歴史にはありその上に銀閣が建てられていたというのも歴史の事実である。餓死者の屍の上に建てられたともなる。それが金閣ではない、地味な方の銀閣だった。奈良の大仏ならそれなりの民の犠牲があったことを考えるが銀閣は金持ちが作った別荘くらいに思っていたが当時の迎賓館だった。茶室ではないれっきとした迎賓館だから政治的なまつりごとで接待していた。歴史的背景としてそういうものがあったことも知っておく必要がある。茶室も武士の迎賓館であったから日本では一見規模が小さくても政治を行う場所だったのである。
京都の歴史はわかりにくい、京都には千年の物語があるが名所がありすぎてわかりにくいのである。だから二三回行ってもわからないのである。奈良時代から京都へとさまざまな都が生まれ変わった。最近紫香楽宮で発見された木簡の「安積山の歌」 安積(香)山影さえ見ゆる山の井の浅き心を我(わ)が思はなくに(万葉集)陸奥国(みちのくのくに)に派遣された際、当地のもてなしに不満を示した王に対し、機転を利かせた女性が、誠意を表そうと詠んだとされる。ここにこのような木簡が発見されることはこの歌は相当古いし宮廷人にならわしのように歌われていた。一つの女性のもてなしのあいさつのようなものであり機転をきかしたというがすでに決まり文句になっていたのだ。だから郡山で接待した采女は地元の女性ではない、都から連れて来られた女性だったのだろう。万葉集の歌はそれほど古いことがこれでもわかったのである。第一紫香楽宮で発見されたこと自体おとぎ話のようだというのもわかる。紫香楽宮さえここが都だったのかと思うようなひなびた田舎なのである。ただそれでも陸奥のとのつながりがあり興味深いとなった。
 

花の春奈良へ京都へひととっび

奈良より京都へいくつ変わりゆく都やその跡春の雨ふる

一時の紫香楽宮も都なりたずねて見れば何か匂わむ

祇園の舞子さんなどどういうものか知らないが京都はやはり風流の文化の都であり教養が歌なども知らないとつとまらないのか、客になる方でも金だけでは相手できないともなる。風流とか楽しむのは金だけではできないからだ。そういう伝統があって当たり前だともなる。一方でそういう贅沢の裏側に悲惨な世界があったのも京都である。戦乱もあり京都が火の海になったこともある。しかし普通銀閣を見てそんな悲惨な凄惨な歴史を思い浮かべる人はいない、人間どこの世界でもフィレンツでルネサンスの美が開花してもマキャベリとかも同時代人であり都市と都市が絶え間ない戦争していたのである。時代が過ぎ去ったときそうした凄惨なことが忘れられ美しいものが残りそれだけが映えているのも歴史である。いづれにしろ京都は歴史を知らないとやはりなかなか一つの建物でも鑑賞できないのである。そして一度にいろいろてものは見れないから余計わからない、通天橋も行っていない、これはやはり自然が映えるように作ってある。写真見てわかったのである。京都では自然を庭にとりいれる。自然の美を映えさせるような工夫がいたるところにある。それが文化都市の京都である。京都とフィレンツを同列にするのもわかる。政治都市、宗教都市、技芸都市、町人(市民)都市・・・であるから共通していた。

2009年03月13日

春の京(連句)

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(春の京)

海の風堺大阪春の京

春の京千仏造る巧みかな

春の京フィレンツとにて錦かな

春の京店に触れたる清水焼

春の京宝物眠る古き寺

名を連ぬ三六歌仙や京の春

春の京御所も古りにき謂われかな

春の京嵯峨のあわれの尽きじかな

化野の煙となるや春の京

京に死し枝垂桜の優艷に

大津には義仲眠る柳かな

大原も京を語るや春の暮

京ありて吉野のあわれ花に月


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thousands of golden Buddha
at Kyoto in spring time
the excellent skill!



30年旅にすぎていったというけど不思議なのは江戸時代の俳人、芭蕉でも蕪村でも一茶でも一生旅していたようにさえ思う。貧乏なのに不便なのにそれほど旅ができたことが不思議である。そもそも江戸時代では隣の村にゆくさえ旅なのである。歩いていくとしたら旅なのである。むしろ旅は度々(たびたび)行くから旅となった。それを全国にまたがり旅している。貧窮のなかでも旅している。そして歩く旅だから本当の旅をしている。その旅も今の環境とまるで違うのだから旅の意味は全然違っていた。あるところに行くにしても遠いとなるとやはり一回しか行けない、それは今の外国旅行と同じである。一般的に何度も行けない、でもパリに通うにして若い女性も行っているのが現代なのだ。今の旅は遠くても何度も行ける旅であり昔の旅は近くは度々行ったが遠くは一度限りの旅である。ともかく京都にも四五回行った。その回りも何回か行った。ただ大阪はわからない、大坂城に一回しか行っていないからだ。堺にも行っていない。瀬戸内海には何度か行った。そして今想像の旅をしているのも不思議である。想像の旅をするにはやはり何度も実地に踏んでいないとなかなかできない、想像の旅にはまた歴史的背景など知らないとできない、だから外国は想像の旅がしにくいのだ。日本だと想像の旅はしやすい、知識をたどってもインタ-ネットなどでもできる。また何かに詳しくなれる旅もできる。織物に興味をもったら西陣をたずねてさらに全国の織物をたずねてまわることができる。全国となるとむずかしくなるがインタ-ネットの中でバ-チャルの旅ができる。でもやはり実地に旅することがその後の想像の旅もできるのだ。想像の旅ができて旅は完成していた。想像の旅ができないと旅は完成しない。想像の旅の方が豊になる場合がある。多分に芭蕉の奥の細道はあとから想像して創作した旅だと言われるのもそのためである。
 
次は京都についてのエッセイを別に書いていますのでご期待!

2009年03月31日

花見十句

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(花見十句)


人変わり上野の花見遠きかな

飛鳥山花をめぐりて迷うなれ

なお見たし京の桜や遠しかな

花もなし枯木に月や吉野かな

花めぐり京大阪に吉野かな

京の日や枝垂桜のあわれかな

大阪の花見や尽きぬ人の波

大坂城夕べなお散る桜かな

満開の桜や天守へ姫路城

城いくつ天守に上り花見かな

海望み瀬戸の桜や明石城

悲しさや花見にあれど会えぬかな

みちのくに花まだ咲かじ待つ日かな

 
花見といえばやはり京大阪から瀬戸内海の城のあるところで栄えた所である。どういうわけか奈良の桜もあるのだがこれも見たのだが奈良は思い出せない、奈良でも桜を見たのである。奈良が万葉集時代となるとやはり桜は山桜であり歌われたのわずかである。京大阪になり花見が本格化した。それは秀吉の醍醐の花見でわかるようにおおがかりになったのだ。だから京大阪が花見が一番豪勢なのである。江戸となると飛鳥山とか上野の花見があった。浮世絵を見ると飛鳥山は今の十倍以上の大きさであり今とは全然違っている。そもそも江戸百万都市といっても江戸は豊かな自然の中にあった。飛鳥山を花をみて回っていたら迷ってしまう、回りきれないほど大きい自然があった。江戸で暮らしていたら今のように電車で田舎に行く必要はない、身近に自然はあった。
 
今になると上野の花見も遠い、上野の桜はそんなにきれいではない、人が混んで人の臭気が漂う、酒の匂いも漂う、回りはビルだし花見といっても汚く感じるのだ。京、大阪や吉野となると違う、豪勢であり城もいくつもあり大きいから見応えがある。しかし人の世は変わる、今や上野で花見している人たちもすっかり代が変わっているだろう。同じ会社でも退職したりして若い人中心となると人が変わる。花は咲いても人は変わるのがこの世の無常である。今やなんか東京も京都も遠い、遠さの感覚は近くでもやけに遠く感じることがある。ここから同じ町内の栃窪さえ春北風が吹いて遠く感じた。人間はたちまち時は過ぎてゆき、ただその栄華も夢と消える、死んだ人とももはや会えない、巡る花見の季節にまた様々な人間模様があり人間の無常がある。年取ると無常の度合いが大きくなり無常のみを感じてしまうのだ。
 


 

2009年04月01日

近江の春-俳句十句

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(近江の春-十句)


関が原しばし止まりて残る雪

みちのくゆ春に仰ぎぬ伊吹山

春光や近江平野をひた走る

春光や近江平野の拓(ひら)かれぬ

菜の花に蓮華畑や近江富士

京近み大津の街や春の月

義仲寺や大津のあわれ柳かな

春の日や唐橋長く京へ行く

京を出て近江平野の春田かな

皇子山都の跡や春深む

近江で一番記憶に残っているのはまぶしい春光のなかを電車が走り近江富士を見たことである。それが未だに鮮明なものとして残っている。それはなぜなのかというとやはり地理的な影響が大きいのだ。大阪京都大津の街までは家が密集しているから狭苦しく感じる。でも一旦大津の街をぬけて近江平野に出ると広々とした感じになりここは田舎だという感じになり解放感があるのだ。これは京都から東海道を江戸に向かうのと江戸から京都に向かう感覚は相当違ってくる。電車でも関が原をぬけると景色が変わってくる。関が原にはまだ雪が残っていて伊吹山が見える。登山口にもなっている。伊吹山は大和武の死んだ場所として有名である。それはみちのくまで遠征してここで死んだということでみちのくとも関係している。近江平野というと早くから開けた肥沃土地を想像する。信長の安土城もある。また京都に近いということが信長安土城を築いた所以である。近江平野に出て家の密集地帯からぬけでるからほっとするのだ。江戸時代は違っていた。大坂城さえ広い野の果てに見えた。家がその前に見えない外国人のスケッチが残っている。京都や大坂まで家が密集してしくるとそこが狭苦しくなり窮屈に感じてしまう。その点奈良は不思議に田んぼや畑がまだあり田舎だと感じるのも変である。関西では奈良は田舎だというのも感覚的にわからない面がある。平城宮もあったところであったからだ。京都、大阪、神戸が新しい都会であり奈良は田舎になった。それはヨ-ロッパだとギリシャにている。
ギリシャは古代の中心地だったが今ではヨ-ロッパの保養地であり田舎なのだ。島とかにロバがよくみかけ一面に菜の花が咲いていた野を二三両で日本の廃れたロ-カル線のようなものであった。奈良にもそういう面があったのだ。奈良は一時期都であったがあとは都として発展せず京都が千年の都となったのである。ロ-マは今もイタリアの都であり現代にまだ通じている。でも実際の繁栄は西ヨ-ロッパに移っていった。

関西の位置づけは京都を中心として展開される。義仲の義仲寺が大津にあるのは意味がある。京都での覇権争いに敗れたものが眠る場所として大津がふさわしいとなる。京都よりはずれた場所としてふさわしいとなる。関西では常に歴史も京都があって展開されるし意味づけられる。東海道の旅でも瀬田唐橋に来れば京都が近いと歩む足もはずんだだろう。今はそうした京都までの過程がはぶかれるから旅がないから京都へ入る喜びもないのだ。地図を見ると瀬田唐橋の袂に橋本という地名があるのもなるほどと思った。大きな橋だからここに橋本とあるのは納得した。志賀のさざなみの都もここに五年間あり皇子山とあるのもなるほどと思う。旅はあとで地図を見たり写真を見たりしてふりかえらないとわからななくなる。インタ-ネットでは回想の旅がしやすい、写真も豊富であり地図も出ている。それで自分の旅したところをふりかえり思い出して書いてみる。どういうわけ近江には三回くらい行っている。多賀神社まで行っているしここにはあまり行かない、伊勢神宮には行っても多賀神社には行かない、でもここは伊勢が太陽だとすると多賀神社は月というふうに栄えた神社だったのである。「詣でけり多賀神社にも冬の月」である。 つくづくふりかえるとあちらこちら旅してきたものだと思う、外国は一〇年旅したがこれは今の時代では表面的なものとして終わった。やはり今の時代は外国を旅していないと日本も語れない、絶えず外国との比較で語られるのが現代だからである。その点失敗だったとなる。でも一応上辺だけでも旅したから日本と比較して外国が多少は語れるようになったのだ。」

春の近江平野
http://musubu.sblo.jp/article/1816789.html

2010年04月04日

京都の桜は満開(みちのくより偲ぶ桜の短歌)

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京都の桜は満開(みちのくより偲ぶ桜の短歌)

行き交いぬ京都の道々花の影

橋いくつ花に暮れるや京都かな

燕来る橋のいくつや京都かな

築地塀枝垂桜の花の影京都の女や歩み行くかな

詩仙堂その真昼間に赤々と散れる椿に花そ散るかも

清水の坂上り下りや夕暮れに鐘の鳴るかな春深まりぬ

枝垂桜その色濃くも交じりつつ御池に写し御所の暮れにき

平安京古の跡埋もれしや京都の街歩む春かな

平安京その日はいかに錦なす交わる人や春の夢かな

天皇の代を重ねし京都かな春爛漫の栄還らむ

天皇の参詣したる御寺かな菊の御紋に春の雨ふる


春の日に京都をそぞろ我が歩み昔の人と逢うも良しかな

八坂なる枝垂桜のその色の夕べに深め夜も人よる

京都より大津をめぐり浪の音聞きつ春の夕暮迫る

京都なれ春の日影の移ろいて塔の影さし日がな歩みぬ

生きてまた訪ぬることあれみちのくに京都は遠し花は咲くとも

春の日に京都を巡るいつしかに時は過ぎにき年も古りにき

いつしかに京都は遠しみちのくに花咲くを待つ年も古りにき

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春となれば必ず旅に出ていた。東から西、西から東と旅していた。遂に稚内でも六月に桜を見た。それだげ桜前線は時間的にも長いのが日本なのである。京都の桜は今が満開である。それをサイトで見た、やはり京都の桜は見事である。でもその日が遠くなり記憶も遠くなる。でも確かに京都を気のむくままにゆっくりと歩いていた。そういう日があったこと自体恵まれていた。人間の時間は実際は限られていたのだ。その中で奴隷のごとく働くことに追われているのが普通である。それが全くそういうことがなく旅の中にありつづけたことであった。今ふりかえるとその時間は貴重だった。今また旅するということがかなりむずかしくなっているからだ。旅というのは時間が制限されるとだめである。旅というのは道が二つに別れていたらどっちに行こうかと立ち止まり気の向くままに旅することなのだ。あらかじめ決められた軌道の中を行くのが旅ではなかった。でもそれだけの旅を今やできない、みんな決められた道、軌道の中を決められた計画された通りに行っているだけなのである。そんな気ままな旅をししていたらまずまともな職にもつけなくなる。今の時代そんな人がフリ-タ-やら何やら増えてきたのが不思議である。人間の生きる時間は限られている、すると労働の奴隷として生きたとはいえ、それが人生なのだ。終わってみればそれがどうのこうのといってもそれが人生だったとなる。もう戻ることはできない、もっと自由に生きていれば良かったとかもっと旅していれば良かったとかいっても時間がなくなっていたのだ。もちろん退職して必死に旅する人もいるから終わったわけではない、現実退職して世界を放浪している人もいるが結構辛いことになる。

ともかく今京都は桜が満開である。これをインタ-ネットで見るのも今の時代である。ここは一分咲きにもなっていないから相当差がある。そこがやはり日本の季節感なのである。みちのくは遅いしまたみちのくのなかでも岩手とか青森はもっと遅い、この時間差が桜前線が極めて日本的季節を感じる。京都は新幹線ですぐじゃないかという時代でもやはり今となると遠いことがわかった。どうしてもゆっくり見るとしたら一週間とかかるのだ。その時間をとることがむずかしいのである。もちろん金もかかる。今ふりかえると旅は金もかかるし結構手間がかかるものなのだ。それで若者はめんどうだと金もかかると旅すらしないなまけものになってしまった。それもあとで後悔するようになる。何の思い出も残らなかったとかなり老後は索漠としたものとなる。

人間の一生は限られているから何しても限られている。その間に記憶したものが何なのか老人になりわかる。記憶はみんな消えるわけではない、やはり貯えられていたのだ。金も貯えられたが、金で思い出は貯えられない、一億残っていても貯えていても金自体にはこれまで生きてきた記憶は貯えられていない、それは脳の中に貯えられているのだ。金は確かに大きな力をもっている。老人でも金だけが頼りだというのもわかる。でも過去の過ぎ去った時間を金でとりもどすことができない、もちろん必死で退職後旅する人はいる、でも結構大変な労苦になる。旅することは結構な労働でもあったのだ。青春時代だったら金というのはもっと大きな力であり有効なものである。例え無駄なようでも留学したり何か金があれば有意義なことができる。老人はなかなかもう金を活かすことがむずかしくなる。健康のために病気のために介護のために金を使うだけとかなる。一億円貯えればそれだけの価値を残したかというとそうではない、青春も時間も過ぎ去り何を生きたのかが問われる。何が記憶されたか問われるのだ。プラスであれマイナスであれ必ず何かが記憶されているのが人生なのだ。その記録されたものが人生だったとなるのだ。いくら金があっても過去の記憶を買えない、過ぎ去ってしまっているからだ。江戸時代に戻れないと同じなのである。

春はすでに六十回以上経験していてもやはり違っている。同じ春はないのである。春はやはり未来に向かっている。春は何であれ前進の季節なのである。春はやはり一番気持ちいい季節なのである。そして遂に何度の春を経験して春も終わりかとなる。もはや春を味わえない、そうなる日も近いのである。人間の与えられた時間は限られているからそうなるのだ。西行のように春に死ぬことはやはり人生を全うしたからだろう。冬に死ぬのは何か寒々しい最期なのである。春に死ぬのはやはり気持ちよく死ぬということである。春の盛りにこの世をお別れすることは幸せだったとなる。人間の死を見たら無惨な死が多すぎるからそのように死ぬ人は本当にまれだろう。最期の死だけはどんな地位ある人も金ある人も無惨なのである。誰も最期気持ちよく死ねないものかとつくづく思っている。しかしそう死ねる人はほとんどいない、みんなのたうちまわり死んでゆく・・・それは生を全うしていない、事故であれ病気であれ自殺であれみんな悲惨そのものである。生が全うされる人はまれなのだ。 だからこそ西行の春死なむが人間の理想となっているのだ。


2010年04月07日

九州から大阪城へ(春の短歌十首)

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九州-四国-瀬戸内海
 


九州から大阪城へ(春の短歌十首)
春の風吹きそよぐかな峠越えまたはるかにも旅に行きなむ

その時千里の道を旅をして南の海ゆ春の風吹く

伊万里焼き異国へ渡りその港春の風吹き夕暮れにけり

燃ゆるごと春の夕陽に映えにつつ開門岳を船に離りぬ

春の陽を朝に仰ぎ船は入る難波の港や栄し国かな

淡路にも城はありにき小さきや波よせひびき春の日没りぬ

大阪城海に通じて春の日や外国の人を謁見するかな

大坂城夕陽に映えつなお花散りやまじ人も絶えじも

大坂城大いなる石運びくる春の日さしてここに残りぬ

大坂城その城内に一品の茶器を手にとり春の日暮れぬ

大阪城その内広し春陽さし奥へと巡り花の散るかな

城の中花の影日がな奥座敷姫華やかに物語かな

鹿児島から船で薩摩を去った。開聞岳が船から見えた。船の上で春の陽が上り難波の港へ入り大坂城へ行く・・・九州の海は東北の太平洋とは違っている。具体的に外国と結びついている海だった。伊万里焼ももともと有田焼きが伊万里から輸出していたからである。タイとかベトナムに埋もれていた伊万里焼が発見されたりオランダなどヨ-ロッパにも輸出された。瀬戸内海から九州の海は長崎でも福岡でも確実に外国と結びついてる海なのである。
大坂城はやはり一大歴史絵巻を成した秀吉の城でありこういう豪壮な城とか歴史は東北にはない、春の夕陽が映えて桜が絶え間なく散っていた情景は今でも忘れられない、 大坂城は大阪湾に通じていて船が出入りしていた。ただ今になると都会の城はビルの谷間に埋もれているから当時の情景と余りに違っているからどうしも想像力で当時の世界の中に入る必要があるのだ。城が今だとビルと比べると余りにも模型のように小さく見えてしまうのである。城を見る当時の感覚は全く違っていた。なぜなら二階建ての家もまともにない平屋だけの市街に高く聳えているのが城だったからであり天守閣も街を一望できるものでありそこから眺めることはその土地を支配することだった。

秀吉の時代は安土桃山文化が華開いた時期でありその余波が伊達政宗を通じてみちのく仙台にもたらされた。瑞巌寺の金碧障壁画もその一端としてあった。その規模は余りに小さかった。秀吉の安土桃山文化は黄金の茶室のように豪壮そのものだった。醍醐寺の茶会とかも豪壮絢爛たるものでありそれで侘、寂を主張した利休と衝突したのである。それは余りにも異なる価値観から必然的にそうなった。東北こそ侘、寂にふさわしい地でありそれで芭蕉の奥の細道が生まれたのである。黄金に価値を置くのは外国でもスペインとかインカ征服で黄金文化が華開いたことは共通しているが侘、寂の世界は日本独特のものである。いづれにしろ大坂城の桜は忘れがたいものとなっているのだ。歴史でもその中に生きていた人は常にその城の美を見ていたとは限らない、権力の象徴だからかなり圧迫されたものとして見ていた。歴史はその中に生きている人にとっては常にいいものと限らない、要するにこうして回想するときは歴史も
ただ美として鑑賞できるのだ。その時代にその中で生きている人にはそうした余裕はない、死に物狂いで生きているのは今も同じなのである。

大坂城の桜については前も書いたけど短歌でも俳句でも連作として活きるものがある。十首を一つのものとして創作している。前にも作ったものがあるけど十首が一つだからそこで一首を別々にするより活きたものとなる。一つ一つをばらばらに別々に読まない、十首を一つの作品として読むのが連作なのである。短歌ではそういう連作を発表しつづけてきた。俳句はなかなかそうはできない、短歌はやはり長いから表現の幅が広がっているのだ。何か自分の石を伝えようとすることができる。俳句は写生とかで表現の幅が現代では短すぎるものとなってしまった。かといって詩になると冗長になるのが日本の詩であり短歌も短いが十首並べるとそれなり長い連作として提示できるのだ。

2010年06月06日

京都の紋様(抽象画)

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 金閣と銀閣の詩
http://musubu.sblo.jp/article/27303454.html

 

このパソコンの紋様は無限に作れるのだろう。無限の化学反応と同じなのである。
前に金閣と銀閣の詩で作ったからまた何かできるのかと試していたらできたのである。
これも芸術になっているのだろう。紋様の芸術は新しいパソコンの芸術である。
これを手書きでやろうとしたらできない、パソコンだから機械的にやっているからできるのだ。

 

2011年08月03日

大和元興寺五重塔跡の桜


大和元興寺五重塔跡の桜

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白珠は人に知らえず知らずともよし 知らずともわれし知れらば知らずともよし 1018
この歌は、その中のひとりが「独覚多智」でありながら、人にみとめられない才学を自嘆した、という一説を左注します。「独覚」は、独り覚(さと)るの意味
 歌の形は、旋頭歌(せどうか)577・577。しばしば問いと答えと相対し、あるいは類句を繰り返しても謡われましたが、天平時代には流行が去っていました。いま、その古い形でしきりに同音同句を繰り返すのです


「元興寺」とは、飛鳥の地に創建されたわが国最初の本格的寺院である「法興寺」が、
新京「平城京」に移され、寺名を法興寺から元興寺と改められました。元興寺の創建後、
飛鳥の法興寺は「本(もと)元興寺」と称されるようになりましたが平安時代に焼失して
しまいました。本元興寺の跡には、有名な「止利仏師」の制作による「飛鳥大仏」を本尊
とする「飛鳥寺(あすかでら)」が建立されております。「法隆寺金堂本尊釈迦如来像」も
同じ止利仏師の作です。
 
 「古代の寺院」は葬儀の法要は行いませんでした。何故なら当時の仏教には葬儀に関
する経典がなかったというより釈迦の考えが葬儀の法要は在家の者に任せよというこ
とでした。それが現在、「元興寺極楽坊」には墓地があることから国家鎮護の寺院から
庶民信仰の寺院へと刮目すべき変革には劇的なドラマがあったことでしょう。
  寺院の掲額には「元興寺」となっており元興寺の寺号を引き継いでおりますが創建当
時の遺構は五重塔跡のみとなっており通称元興寺(塔跡)と呼ばれております。


室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/gankouji.htm

 



元興寺の礎石



元興寺その謂われは古き

飛鳥仏にもさかのぼるかな

平城宮(ならのみやこ)の大寺なりしも

華やかに五重塔のここに聳えぬ

都は奈良より京都に移りぬ

その栄えもいつしか衰えぬ

ただその塔跡の礎のみ残りぬ

今し桜の花の盛りなるも

その花びらの礎石に散るもあわれ

地元の人の集い花見かな

元興寺の広き境内は奈良町となりぬ

世はかくして移りゆくものかも

その大和の歴史の古きを偲べ

春の日はさして古の栄の日は遠し

ただ礎石のみそこに残りぬ

 


たまたまテレビで地元の人が集い花見をしているのをみた。そこは元興寺跡であり礎石が残るだけだった。この元興寺は日本最初の飛鳥仏があり飛鳥寺をひきついだとすると本当に古いものである。それで万葉集にもここの寺の僧が残した歌があった。それが旋頭歌というのだからどれだけ古いかわかる。


旋頭歌について
http://neige7.web.infoseek.co.jp/sedoka.html

一種の掛け合いの歌であり民謡から発したものである。万葉集の基はもともとそういうところにあった。奈良の寺は規模も大きかった。官寺であり鎮護国家を目的としていたからだ。東大寺の奈良の大仏もそうである。蝦夷征伐などがあり鎮護国家が急務だった。日本統一するあたってかなりの犠牲者が出たからである。その霊を鎮魂する寺だった。だから死者を弔うことなどしない、もともと仏教は死者を弔うことはなかった。お盆とかは日本の古い民間の習俗が基となり仏教にとり入れられたのである。仏教そのものにはそういうことはなかったし戒名もつけることもなかった。それは僧侶にのみつけていたのである。この元興寺もやがて庶民の信仰の場となり変質した。その前に一揆があり五重塔の消失したというのもいかに歴史の変遷をしているかわかる。


奈良や京都を旅してもなかなか歴史はわからない、奈良町に実際自分は訪ねている。でもここが元興寺の境内跡だったということは知らなかった。歴史とはそれだけちょっと旅で訪ねただけではわからないものがある。自分の住んでいる場所すら奈良のような歴史がなくてもそれなりにある。でもそのことがわかるのは容易ではない、住んでいれば歴史は自ずと身につくことはある。結局なぜ歴史がわかりにくいかというと人間の社会というのは無常だからである。人が死んだらたちまち忘れられて墓の名前くらいしか残らず不明になる。残るのは人間の無常の跡だけである。五重塔があったといっても礎石だけになる。でもそれだけでも残っているから奈良などは歴史がある。万葉集にもその寺の僧が残した歌まで残っている。そういう点で歴史を認識する点でみちのくとはずいぶん違ってくるのだ。


無常といえば前に平城宮を訪ねたときそこは枯野だった。そして月がでていた。実際に何もなかった。今は平城宮跡に立派な門を再現している。でもそうしたことが昔を偲ぶことなのかというと疑問なのである。歴史はやはり人間の無常を示す場なのである。芭蕉が平泉を訪ね「奥の細道」を書けたのもまさに観光地化していない無常を感じたからである。今のように観光地化博物館化したりしたら無常を感じない、するとかえって昔を偲べないという皮肉が生まれる。そういうことか現代では多すぎる。旅人は今は浅薄な体験でしかない、深い体験になりにくいのだ。テレビを見て旅をすることはできない、でも結局その背景の長い歴史を知ると見る眼が違ってくる。インタ-ネットはバ-チャルな旅をするのに向いている。たいがい実際にその場を踏んでいるので必ずしもパ-チャルにはならない、自分の体験からものが書けるのである。


テレビ番組の問題は大衆向けに視聴率が絶えず念頭にあるからむずかしいことはやらない、NHKの大河番組でも通俗的歴史解釈であり歴史の真実はわからなくなる。現代の問題はすべてが大衆向けに作り大衆化するからかえって事の真相がわからなくなる。だからテレビとインタ-ネットの統合が必要になってくる。自分がしていることはまさにテレビとインタ-ネットと自分の体験を一体化して編集したものなのである。

大和元興寺五重塔(極楽坊五重小塔)
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_gangoji.htm


ここは古い図がでていて詳しい、五重塔は江戸時代まであった。それなりに詣でる人がいた。

引用したテレビの写真は著作権にふれるかもしれない、誰でもとっている構図にしても桜咲いているときだから貴重になる。ぼかしているからわからないか?今は映像の時代だからどうしても映像化することが要求される。ただ映像だけではわからない、歴史の長い深い背景がある。
それを知らないと何か深い感慨にはいたらない、それがわかるのは芭蕉の平泉の金色堂の俳句なのである。


メデアの変化

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テレビにはテレビの役割はまだある。でもテレビが独占した時代は終わった。インタ-ネットを通じて多角的になった。テレビは大衆的通俗的すぎることである。これも何百万の人にみてもらうためにそうなる。どうしても低俗化する。一方インタ-ネットは素人的専門性がある。でも本の専門性に比べると相当に低い。専門的な本を読むことはそんなにできない、本はプロが書いているから金にもなる。だから簡単な名所の案内などに役に立つ、だから創造的なもの著作権があるものとは限らないものが多い。

ただ大衆的なものよりは素人的専門性がインタ-ネットで備わりそれからより知りたい人は本を読むことになる。一般的に本を読むまでになるとあまりしない、テレビだけの時代は終わった。

ここで新聞は入らないが新聞はテレビより必要なくなった。テレビはやはり映像ということで情報発信で強さをまだ持っている。本はプロ的なことでまだ強さをもっている。新聞は映像もだめだし専門的発信もないから新聞は衰退し必要なくなる。インタ-ネットは速報性があるのだからそこで生き延びることもありうるがその内容によるだろう。情報環境は今やインタ-ネットなしではありえないのである。インタ-ネットに組み入れられることを拒否してももはや無理だし無視できない、そういう必需品になっているのだ。インタ-ネットでもやはり専門性があればどこでも生き残る。専門的なものを追求するのは別にメデアとは関係ない、それは相当な積み重ねや努力が必要でありインタ-ネットの素人集団だけでは書けないのである。

2011年11月30日

秋から冬-近江俳句十句 (近江の古歌の編集)


秋から冬-近江俳句十句

近江の古歌の編集


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鴎飛び堅田の秋や浮御堂

浪よせて堅田に松や秋の風


竹生島紅葉の散りし水面かな


越へ行く塩津によるや虫の声


塩津駅停まるやあわれ枯木かな


冬の暮塩津神社の古りにけり


浪の音志賀の都や秋の暮


京近く大津やあわれ冬の暮


大石の京に浮名や冬の暮


田は刈られ琵琶湖に望み彦根城


多賀大社古木二本冬の暮


隠れ棲む葛籠尾(つづらお)崎冬籠

 


青みずら 依網の原に 人も逢うはぬかも 石走る 近江県(あがた)の 物語せむ(1287)

近江は相当に古い歴史の場所である。物語せむ・・ということはそれだけすでに古代から語るべきものが多くあったのである。銅鐸などが大量に出土したことでもわかる。

堅田


堅田の落雁
http://www.ootu.gaido.jp/kankou/hakkei/katata.html


浮御堂-かもめ-写真
http://ameblo.jp/kazz0517/entry-10060596845.html


比良の高根は白雪のやや肌寒き浦風に落つる堅田のかりがね


峯あまた越えてこしぢにまづ近き堅田になびき落つる雁がね


すずみ舟よする堅田の浦風に月もゆらるる波の上かな(海人の刈藻)大田垣蓮月


鴎がここには飛んでくる。湖がウミというように海のようだから鴎がここに飛んでくる。でも海から結構遠いのである。近江八景でいかにも堅田
という所に連なり落ちる雁がねがふさわしい。堅田は船の出入りが多いから湖族という海賊とにた人達が通行税をとった。その後は自治都市になったという。それだかけここが琵琶湖の交通の要所だったのである。


塩津


高島の 安曇の港を 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今か漕ぐらむ  巻9−1734


塩津山うち越え行けばわが乗れる馬ぞつまづく家恋ふらしも  笠朝臣金村


塩津山といふ道のいとしげきを、賤の男のあやしきさまどもして、「なほからき道なりや」といふを聞きて


知りぬらむ ゆききにならす 塩津山 よにふる道は からきものぞと  紫式部


白洲正子さんの「かくれ里」には、菅浦の印象が記されているので、少し本文を引用してみよう。

「…菅浦は、大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾(つづらお)崎という。竹生島とは目と鼻の間で、街道からは遠く外れるため、湖北の中でも全く人の行かない秘境である。つい最近まで、外部の人とも付き合わない極端に排他的な部落でもあったという。


近江といっても広い、琵琶湖も広い、奥の方にはまわれない、そこにもやはり京に近いから天皇にまつわる伝説が残る。そういう土地にふさわしいのである。


多賀神社


多賀大社古木二本冬の暮
http://www.guitar-mg.co.jp/title_buck/25/taga_no_imorigi/onnaimorigi.htm


2本の大ケヤキは共に近くにある多賀大社(たがたいしゃ)の御神木で、奈良時代・元正天皇の御代(717-724)、天皇が病を得たので、平癒の祈祷を行い、神供の飯にシデの木につくった杓子を添えて献上したところ病が治り、杓子をつくった木の余りを地に挿したのが成長して飯盛木(いいもりぎ)になったとの伝説があります。


お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り


伊勢神社には行っても多賀神社まで行く人は遠くからはあまりないだろう。そういうところまで自分は20、30年前とかに行っていた。ふりかえれば遠い日のことだけど覚えている。旅も忘れやすい、だからどうしたら印象の残る旅ができるかが課題になる。今は便利すぎて旅が記憶しにくいのである。電車だと忘れやすい,車でもそうである。大地を一歩一歩歩いて旅したら体で覚えているから忘れないのだ。今は何でも記憶しにくいのである。人生そのものが記憶されず過ぎてゆくとあとで実り豊かな人生がないことになる。なぜなら60過ぎると思い出すことが仕事になるのだ。

それは旅だけではない、人生そのものが思い出だけになってしまうのである。そうなると記憶するような生き方をしていないと実り豊かな老後はない、人生で何があったかさえ記録されない、歴史にしても人間は本当に忘れやすい、津波でも400年前にこの辺であったけど全く忘れられていた。結局記録するものが少なすぎたのである。相馬藩政記は記録が残っていることで全国に知られていたけどそれでも一行しか津波のことが記録されていなかったのである。これでは後世に訴えるものがない、ヨ-ロッパなどだとロ-マの2000年前が詳細に記録されている、庶民の生活も記録されているから当時を生き生きと振り替えことができるのだ。日本は歴史はそれなりにあっても意外と記録されていないのである。
歴史が記録だというときまさに記録されていなかったらふりかえる方法がないから重大なことでも忘れてまた災害で苦しむことになったのである。

インタ-ネットはいろいろ出ていても編集しないと読めるものにならなき、断片化しているから編集する必要がある。編集すると新たなものとして活きてくるのでてある。編集は一つの創造的なことなのである。

2011年12月03日

近江から京都-春の俳句連作 (安土桃山文化の考察)


近江から京都-春の俳句連作

(安土桃山文化の考察)


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大津皇子若き死あわれ春の逝く


楽浪の都の跡や春深む


近江にそ敗れしものや春深む


信長の上洛果たし城成りぬ


春の日や楽市楽座近江かな


安土城黄金の瓦春の夢


職人の瓦に金箔近江の春


春の夢安土桃山の絵巻かな


信長の炎に消えて春の夢


春の日や幾日過ごすや京言葉


京に入り夢をかなえむ春満月


女御達御所に百間の物語


技伝ゆ錺り師棲むや春の京


路次入りて鍵隠町や春の京


障壁画千面残す春の京


春の日やここは京なり寺の鐘



戦国の力を示す城なるもたちまち消えて春の夢の跡


常磐木の松の緑や殿の間に長らくあれしと今はなきかも


肘掛けに殿の間奥にいつの日や時の長しも春の日暮れぬ



安土桃山時代は華やかだった。それは信長や秀吉の一時の栄華のようにはかなく消え去った。信長の安土城は今までの城とは全く様相を異にする新企画の壮大な城だった。それも全く一時の夢のように消えた。そんな城があったということもなかなか想像しにくい。秀吉の大坂城は城として残り今もその栄華は感じる。安土桃山城はその栄華も束の間だった。ただ信長は一つの時代を変えた革命家でもあった。それはヨ-ロッパの歴史とにていた。ヨ-ロッパの歴史はロ-マ時代からキリスト教の歴史でもあった。それはカトリックであり強固な権力的支配だった。ロ-マが政治で優れていたというとき宗教も政治化された面があったのだ。宗教は宗教都市と化して人民を支配した。政治的支配力があったのである。その政治と宗教の一体化に圧迫された歴史が長かったのである。千年以上そうした圧迫のもとにありついにルタ-がでて宗教改革が起こり改革された。宗教の支配の軛から脱することができた。ヨ-ロッパの歴史は常に宗教支配からの離脱が一つのテ-マになっていた。それは宗教があまりにも政治力をもち権力をもっていたためである。そしてナポレオンによりカトリック教会の支配は完全に打破されたのである。するとナポレオンは信長とにていたとなる。比叡山を焼き討ちして僧侶を虐殺したこととにている。それまでは日本も宗教の力が大きかったのである。日本でも権力をもっていたから権力争いになったのである。宗教はそもそも権力をもった時すでに宗教から離れて政治化していたのである。 そして熊本城の安土桃山文化の復元が成ったがそのNHKの放送で信長の安土城を作るために職人を獲得するために比叡山の焼き討ちとか僧侶集団を滅ぼそうとした。それが職人を得るための具体的な利益を目指していたというのもそれだけそれまでの富は寺院の中にあったのである。


建築の分野では修理職や木工寮などの担当官司や東大寺などの大寺院を中心として工匠組織内部における技術や経験の師資相承が行われ、後世における大工・職人の徒弟制度の原点となった。また、日本全国から造営に動員された工匠たちも中央の優れた建築技術を持ち帰ってそれぞれの地方の建築で生かし・・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%
BB%BA%E7%AF%89%E5%8F%B2


大工が聖徳太子を祭っているのもそのためである。それは法隆寺の建設のときからはじまっていた長い歴史があった。西には日本の長い歴史が積み重なっている。近江の魅力はその歴史にあるけど自然が豊であることも魅力なのである。琵琶湖があり比良の山々がありと変化に富んでいるのだ。多賀神社にしても伊勢と並び本当に古い謂われがある。様々な歴史が積み重なっている。安土桃山城を信長が造営して楽市楽座を開いたというのも商業の興隆になった。それは全国に広がったのである。

近江商人の元をたどればこの辺からもでてくる。近江商人は全国に散らばり栄えた。そもそも近江とか大阪京都となると人間が東北のような性格とはあまりにも違っている。東北は未だに百姓的農民的性格が根づよく残っている。商人の気質に欠けている。商人に向いていない,それは今でもそうである。東北には豪商が育つことがなかった。農民が大半であり豪商は育たない、それで伊達政宗が伊達ものとして中央に威勢を張った。つまり大半の民衆は貧乏であったが中央には威勢を張らなければならないからそうなった。強く見せるためにあえてそうした。信長の安土桃山城の建設も秀吉の大坂城の建設も当時では権力の象徴として建設された。あまりの豪華さに大坂城を見た毛利は秀吉に逆らえない、従うほかないと思ったということでもわかる。つまり建築は権力の象徴になるのだ。


それは古代からはじまった。日本では大古墳でありピラミッドでありロ-マのコロセウムもそうした建築を誇るものだった。中世の教会も権力を象徴する面があった。ただ権力でも文化の裏付けがありただ大きいというだけではなかった。精神的シンボルでもあるからそれは後世に美として文化として残されたのである。熊本城は豪勢な城だった。外国の南方との貿易を計りその利益を得て資金にしたということもあった。薩摩が中国との貿易で財を成して雄藩となったというのもやはり九州は外国と通じやすいからそうなる。東北は外国と地理的に通じにくいのである。みちのくではそもそも本当の栄華を経験したことがない、城も伊達政宗の青葉城や会津の城をのぞいて小規模なものである。西には大きな城が多いから違っている。それだけ栄えたということである。みちのくでは平泉の栄華があったにしてもそれも一時のことであり三代で消失したはかないもので「五月雨のふりのこしてや光堂-芭蕉」で終わったのである。京都が千年の都とするときその栄華は余りにも短すぎたのである。
人間の文化には必ず歴史的蓄積が必要なのである。文化が華咲くにはそうである。ルネサンスはそうした西欧の歴史的蓄積から起こった。それもイスラム文化も入ってきた国際的なものとして起こった。

江戸時代も鎖国であったが日本の内部的国力を養うものとして働いたという説も面白い。外国との交流で力を消耗しなかったというのも面白い指摘である。確かに明治維新後を見れば一目瞭然である。大戦が三回もあり日本の国力は消耗しただけではないかともみれる。常に日本では外国の文化をとり入れても奈良時代の唐風文化から平安京の国風文化へまたは鎌倉時代の武士の文化へと国風文化が盛り返してくる。明治維新後は外国との交流に消耗されすぎた。だから奈良時代のあとに平安文化が交流した,国風文化になったように日本も欧米化とかではない、国風文化の時代になる。新しい国風文化の創造の時代になる。

結局戦後60年とかは物質の豊かさを追求したのである。それがここにきて終わりを告げる。その象徴がこの辺で起きた原発事故かもしれない、原発も物資的富の象徴としてあったのだ。団塊の世代が生きた時代は物質的には恵まれた時代だった。高度成長であり一つの平和な栄華の時代だったのである。しかしそこに文化は育たなかった。文化の栄華はこれからなのだろう。本当のルネサンスはこれからなのだろう。一方で経済的には衰退するにしても文化は興隆の時期にくる。物質的豊かさの次は精神的豊かさを求めるからである。ただつくづく人間の栄華は短い。繁栄も終わってみれば短い、はかなく無常だというのは変わらないのである。この辺ではそうした無常を津波や原発事故で身をもって全員が感じることになったのである。


常磐木の松の緑や殿の間に長らくあれしと今はなきかも


殿様も悠長な栄華の時間の中にあったがそれも一時だった。江戸時代前は時間はゆっくりと流れていた。その残されたものが物語っている。和時計であれ殿様の肘掛けであれ何かゆったりとした時の流の中にそうした物もあった。それがめまぐるしい時に追われる現代から比べると癒しとなる。江戸時代をふりかえることは常に癒しなのである。それは過去への深い郷愁なのである。結局自分にも個々人にも栄華あり過ぎ去ってしまった。常磐木の松のようにいつまでも変わらぬものとしてありたいと願っても時は無常でありたちまち人生は終わりを告げる。これで終わりか?百年生きても人間は儚いとなる。ああ 青春が帰ってきてほしい、栄華のなかにまだいたいといってもそこにいたのは束の間だったのである。


熊本城の釘隠し
http://www.geocities.jp/joysunny/kumamoto/kumamoto048.htm


京都の釘隠町の由来
http://www.linkclub.or.jp/~mcyy/kyo/names/kugi/01.html


京都の鍵隠町の話は面白い。やはり京都だなと思う。釘隠しが立派なのでみんな見に来たからこの名が残った。これは町家だけど町家でもそれだけ立派なものが建つ、そこが違っているのだ。旅するにもこうしたいろいろな歴史を知らないと通りすぎてゆくだけになるのだ。インタ-ネットではそうした故事をたどり旅できるということもあるのだ。京都など実際に行ってみてもこうしたことがわかりにくいのである。

2011年12月10日

近江の短歌十首(春から冬まで-菅浦など)


近江の短歌(春から冬まで-菅浦など)


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伊吹山倭尊(ヤマトタケル)のここに死す春なお雪の残る山かも

関が原越えて近江や春の日に琵琶湖光るや大津に泊まる

三上山聳えて電車走り来ぬ近江平野に蓮華映えにき


三上山春の光に映えにつつ電車過ぎ去る一時眩し


(菅浦)


長浜はにぎわいにしを菅浦は道も途絶えて冬の日暮れぬ


菅浦に舟より静か高島を思ふやあわれ秋のくれかな


長浜の城は近きも菅浦の隠され長く冬籠もるかも


長浜に城建つ前に菅浦のありて古りしも社の氏子


奈良よりし代々つづく神主の菅浦に棲み冬深まりぬ


四足門菅浦に古り閉ざされし歳月長く言い伝えあわれ



越前は遠きにあれど都人行き交ふなれや冬の日暮れぬ


盗人恐れ荷運ぶ昔より舟の行き交ふ琵琶湖なるかも

 


地理がわかれば歴史がわかる。それを象徴しているのが関が原の戦いがなぜあそこで行われたかということである。まさに関が原が東西の分かれ目だったのである。関が原を越えると近江平野が広がり琵琶湖も見えて何か解放された気分になる。近江の安土に信長が豪壮な城を作ったのも長浜に秀吉が城を造ったのもその後の発展につながった。記憶では電車がひたすら走っているなかに秀麗な三上山が見える。春田が広がり近江平野の中に近江富士と言われる三上山が見える。記憶の中で旅しているときその光景がいつも浮かんでくるのはやはり近江が西国の入り口になっていたから印象的になる。大津を過ぎると家が多くなり印象が薄れてくる。京都は古い平安京を基にした都であり街であり街を知らないと京都はわからない、近江は自然に恵まれているし琵琶湖がありわかりやすい地形なのである。何よりも自然があるということで京都や大阪とは違っている。旅をして印象に残る地と残らない地がある。それは人によっても違ってくる。自分の旅では関が原から近江平野に出た所がいつもよみがえってくる。それは春の陽光のまぶしい日だった。伊吹山で倭尊(ヤマトタケル)が死んだの意味深である。なぜあそこで死なねばならなかったのか?東国の遠征から帰り西国の入り口で死んだのである。これも何かしらの歴史的事実を反映している。


長浜には行っていないし、菅浦にも行っていない、近江といっても広いから比叡山や比良の山の方も行っていない、近江は全体的にわかりやすいがなかなか全部を知ることはむずかしい。地理は実際に現地を踏まないかぎりわかりにくいのだ。福島県の地形のことを書いたけどここも広いから福島県全体を知ることはむずかしい。会津と浜通りは全く違った地形であり自然なのである。会津といっても奥深い、琵琶湖も奥深い所に菅浦があった。想像だけでもそういう所があるということを知って魅力を感じた。本当に最近まで道も通じない秘境だったらしい。道がないとしたら舟で行き来するほかない、それで小舟があった。海老などをとっている所もテレビで写していた。高島の方に舟で行き来するとしたら高島の方と交流かあり陸路は途絶えているから高島の方に思うということがある。

現代では秘境はなくなった。秘湯を求めて旅している人もいる。檜枝岐などは平家落人の村で秘境だったけど今は尾瀬の登山口でありそういうことはない、秘境など今どきないだろう。車でどこまでも行ける社会だからである。ただ菅浦は地理的秘境の条件を備えていたのである。実際に神主が奈良時代までさかのぼる系図を見せたからあながち嘘とは言えない、この辺はみちのくとは違ってそれだけの歴史があるから信憑性もあるのだ。長浜は秀吉の城が造られて町ができた。菅浦はその前に集落としてあった。ただ田んぼなどないから食糧をどうししていたのか?もっと昔になるとやはり後ろが山だから焼き畑だったのだろう。琵琶湖の魚はそれほど食糧にはならなかったろう。ソバが米替わりになっていたことはやはり会津の山の奥とにている。


16世紀の末に長浜城主だった秀吉が、男子が生まれたのを祝い、町衆へ金子(砂金)を与えました。これをもとに町衆が曳山をつくり、八幡宮の祭礼に曳いたのが、現在の「曳山まつり」の始まりといわれています。
また、湖北地域は中世から猿楽が盛んで、そうした芸能の土壌が、この祭りにも大きな影響を与えたと考えられています。


長浜は近いけど菅浦はその頃も秘境のままだった。道が通じていなかったからだ。高島の方に舟で行けたからそっちの方が親近感をもって
いた。交通の便で親近感をもつところと持たない所がでてくるのだ。例え外国でも頻繁に行っていれば親近感をもつ、相馬だと会津は遠すぎるから疎遠になるが仙台は電車で行けるから親近感をもつ、でも常磐線が5年くらい仙台まで通じないとなると疎遠になるのだ。現実に今年は一回行った限りで行けない、代行バスだと遠いのである。亘理が最終7時ころだとするとさらに行きづらくなったのである。交通が閉ざされると江戸時代にもどったような気分になるのだ。車がない人は余計にそうなるのだ。

 
 

2012年01月01日

新年桜の短歌(大坂城の桜)-2012-元旦


新年桜の短歌(大坂城の桜)-2012-元旦


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大坂城夕陽に映えて門入れば静心なく花の散るかな


大坂城なほも花散りあましたる花に酔うかな夕陽落ちゆく

大坂城出入り尽きぬ花あまたなお散りにつつ日も暮れぬかも


大阪城難波の夢の蘇るその跡の大いなるかも花散りやまじ


大坂城栄いは遠くみちのくの雪に埋もれて春を待つかな


優艷に京都の桜しだれけり昔の人に我があわめやも


千年の都にしあれその栄今につづきて桜しだれぬ


みちのくゆ我がたずねしは遠き日や姫路城にそ満開の桜


淡路島見えて明石城大阪へ船の行くかな春の夕暮


瀬戸の海遣唐使の帰りきて明石の戸や平城宮の近しも


淡路島なぎさに花の散りにつつ夕陽の映えて城の小さし


岩国の城をたずね山の上に椿の咲きて我が下り来ぬ

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桜というときやはり京都、大阪、瀬戸内海沿岸とかが印象に残った。桜というとき日本人の花になったのは奈良時代ではない、桜が日本人の花になったのは西行が桜を歌った時からである。鎌倉時代になるのか、京都の平安京からも桜は歌われていたろう。奈良は桜の時代ではない、梅の時代であり


あをによし 奈良の都は 咲く花の にほうがごとく 今盛りなり(万葉集巻三328)

いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな  伊勢大輔(61番)


奈良の桜は八重桜であり今の桜ではない、今の桜のように華やかには散らない、八重桜と吉野の桜ではまるで違っている。奈良時代は山桜の時代である。 


さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな 


今の桜の感覚はやはり平安京辺りからはじまっている。左近の桜は、中国から考え方が入ってきた時は「左近の梅」だったそうです。右近の橘の方は、なんでとなりますよね。調べました。橘は日本書紀の中で不老長寿のクスリとして出てきます。
それがいつの頃からか「左近の桜」となったらしい。桜というのは武家が台頭してからかもしれません。ということは最近(室町時代ぐらい?)かな。

やっぱり桜はまだ平安京では今のような桜ではない、奈良時代からのつづきで梅だったのである。
桜は大坂城の桜が一番印象に残ったというとき大坂城は広いしその時丁度桜が散っていた。そして夕陽が落ちてゆくときだった。その桜がなんともいえぬものだった。桜というとき花でもそれは山桜ではない人間の歴史と呼応して人間化した桜である。大坂城で見る桜は人間の興亡を写していたし京都の桜は千年の都として栄えた所に咲く桜であり一際優艷になっているのだ。大坂城は短く炎上したけど大阪の栄は江戸時代もつづいたのである。信長の安土城は一代もつづかないはかないものだった。しかし大坂城は秀吉が死んでも終わらなかった。大阪商人の栄いはつづいたからその繁栄を写すものとして見ている。江戸は参勤交代の政治の場であり大阪は商人の都市となった。その棲み分けで栄えた。京都は天皇がいて文化都市として千年の都でありえた。それが現代では東京に集中しすぎたから大阪が衰退したとかとなる。ともかく京都-大阪-明石-姫路城-とかの桜は見物だった。そういきう栄はみちのくにはない。大坂城の桜はいくら散ってもまだ散ってゆく、やはり大坂城の桜は日本の栄の象徴だった。江戸城にはそういうものがないから残念である。西には大きな城があるから陸奥とは違ってその栄を偲ぶことができる。絶えず旅していたからそういう日がなつかしい。今や仙台に行くのがやっとである。日本に生まれて最後に見たいものは富士山だった。最後に富士山を仰ぎ死んでゆきたいというのがやはり日本人だった。
今年は津浪原発事故で新年おめでとうとはなりにくい、でも西は被害がないので新年おめでとうでもいいのかもしれない、今年は龍年だけど去年が龍年だった。これ以上荒れる年はごめんだとなるがそれでもまたどん底の年になるのだろうか、いづれにしろここ五年間災難の連続であり最悪の年として終わった。今年は平穏であってほしいとなるが放射能のことなどは簡単にはおさまらないし病気のこともあるし晩年になってからの災難は苦しい、そして津浪でも原発事故でも何ら解決していないのである。復興はこれからも時間がかかる。放射能を払拭したくてもできないのが辛いのである。


今年もまたいろいろ鑑賞することでは何か不思議に進展があった。見る眼ができた。すでに遅すぎたということがある。でも何かものを見る眼がさえてくる。本をいくら読んでも深く理解しなかった。それが理解できるからかえって本を読み返すことが楽しいのである。だからモノを書くことでは進歩があった。自分独自のものを書ける。この桜の短歌も前の短歌のつづきだった。旅はしなくても回想でまだつづいているし旅は死ぬまで終わらないのだ。ただだんだんこの世から人間は離脱してゆく、それが年をとり死が近づくことである。ますますこの世への執着が強くなるというのも老人にはある。老人になってから欲がかえって強くなるというのは本当である。一方で我執も強くなる。淡白になるというではない、そんな人が多すぎるから老人は嫌われるのがわかる。


九六寝て年越すも時代かな

町の墓所死者も年越す除夜の鐘



寝ながら介護されながら病院で自宅で年越す老人がどれくらいいるのだろうか?相当な数だろう。
小高の人が80才以上の人が集まって町を活性化しようとしても無理がある。若者が集らないことにはとをにもなちない、若者が集る町にしよう、残る町にしようというのがこの辺の課題になる。高齢化は津波の被害にあったところでも相当深刻なのである。若いなら立ち直ることができるが老人は立ち直ることがむずかしい。あきらめる人が多くなるだろう。農林漁業は六〇才以上の人が大部分だろう。会社などで募集しても人が集らないという、まさに働く若い人が減っているからそうなる。そうなるとこの辺はいろいろなサ-ビスも受けられるなくなる。福祉関係など病院などではそうなっている。こういう問題はこれからも津波の被害にあったところや原発事故周辺ではつづくのである。


今年もいろいろ書き続けますのでよろしくお願いします

 大坂城の花見客
http://www.musubu.jp/shiropoem.htm

桜前線の短歌
http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm


山桜の美
http://www.musubu.jp/sakuranew-4.html

前に書いたものののつづきとして書いている。年が明けてすぐアップできた。こういうことがインタ-ネットではできるからいい。

2012年02月06日

短き堺の日(詩)

 

 短き堺の日(詩)

淀川と通じ京都と結ばれ
三十石の船の行き交い
京街道の道,長い堤に残り
信長、秀吉、家康が
ここに熱い欲望を抱く
ポルトガルから鉄砲が入り
鉄砲鍛冶が起こり

南蛮吹が伝わり
銅より金銀の精錬
その産地は東北にもあり
煙草が入り煙草包丁が作られ
煙草は四国の貞光町のように
一大産業となり栄えをもたらす
東北の阿武隈山中に今も葉たばこ作る
名の彫られた数々の包丁の名器
呂宋(るそん)助左衛門のルソン壺
黄金の襖に南国の猿
その財故に秀吉に憎まれ
伝説と化したその行く末
一時信長にも逆らう自治都市
千利休が生まれた都市
信長、秀吉に抗う反骨自由の商都
豪商と武将の争闘
生み出された技と富
最初の自転車作りに活かされた
鉄砲鍛冶の伝統
女傑なる与謝野晶子が生まれ
開明の明治の華となる
君死にたもうなかれは
また国家への反骨精神なれや
歴史は重なり継がれぬ
「故郷春深し行々て又行々
楊柳長堤道漸くくだれり」
蕪村の行き来するはここか
土手に残る京街道の道
かしこ遠く離れしみちのくより想う
しかし三成は相馬藩にその旗印を残し
秀吉も会津に来れり
いつしか堺は忘れられその跡は
ただ遠き日の伝説にあれや
るそん助左衛門はいづこに消えし
その跡をたどるもならじ
往事の栄し面影は消えぬ
(淀川に京街道や冬鴎)

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2012年02月22日

春の星-飛鳥-俳句十句

 
春の星-飛鳥-俳句十句


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我が訪ぬ飛鳥や遠く春の星

春の星さわに煌めく飛鳥かな


争いなし天に煌めく春の星


鳩のごと天に平和や春の星


春の星飛鳥大仏の微笑かな


国成りぬ飛鳥の宮や春の星


香具山の高くはあらじ春の星


春の星飛鳥に成りぬ宮いくつ


人結ぶ石橋あわれ春の星


橘寺その名のいわれ春の星


寺ありて礎石を踏みて春の暮


飛鳥にそ橘寺や礎にその紋なれや春の星見ゆ


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橘について
http://kamnavi.jp/jm/tatibana.htm


旅をして記憶に残っていれば成功だと前に書いた。何か印象に残ればあとで詩でも書けるけど残らなければ書けない、自然でもそうである。飛鳥は山際であり奈良の奥であり都会ではない、それで春に行った時、星がきれいだった。闇もまだ深い所だったから星がきれいだった。それで夜も歩いていた記憶がある。その記憶にしてもすでに30年とかたっているのだけど記憶が蘇るのはやはりそこにいた時間が長いということがあった。それだけの時間の余裕があったから記憶に残っていた。飛鳥でも奈良の方に行くとすでに都会であり春の星がきれいには見えない、ネオンの光の方が優勢になるからだ。飛鳥はまだ開発されていないから山もシルエットのように暗く星がきれいなものとして記憶されていたのだ。自然でその場所が印象的になるところがある。瀬戸内海の明石城は海に面して春の夕暮れ情緒があった。景色と文化財が城が一体となり美しかった。そういうところは印象に残る。都会化したところは印象に残らない、飛鳥は都と言っても大きな宮殿があるわけでもない、小さな宮の跡しかない、でも飛鳥が日本の国の始まった所だから歴史的場所である。


飛鳥というのが記憶されるのはまた名前が良かったのだ。アスカとは何の意味なのかわからないけどひびきがいい。日本的でもない何か異国のようなひびきなのである。その名前故にひかれるというのも人間である。ただ飛鳥も政治の場所だったというときそこに血なまぐさい争いがあり首塚とか談山神社とかあり物騒な所でもあった。これは政治の場所となった都ではどこの国でもそうである。童話的な所などない、人間の争いと醜さが必ず記されている。人間の社会に争いのない場所などない、それは天国にしかない、その人間の本性は全く21世紀でも変わらない、ただ自分が訪ねたとき闇が深くただ春の星がきらめいていたことが印象に残った。寺の大きな礎石とかも残っていた。飛鳥と言っても特別に何か目立つ遺跡はない、平城宮すら枯野だったから日本ではロ-マの遺跡のように歴史が残らない、だからアスカという名前だけから都を詩的にイメ-ジするということもある。阿武隈高原の都路(みやこじ)なども都でも何でもないけど山里だけどその名前だけで都をイメ-ジするから不思議である。飛鳥は歴史的から裏付けがある日本の国の興った所であるから別であるがそれでもあのような山里が都だったのかとなる。それで名前だけが印象的なものとして残るということがあった。


ともかくその時自分は何の拘束もなく飛鳥をぶらついていた幸福があった。人間はつくづくそうした幸福な時間のことがわからない、そういう時間もなくなりその場所に行けなくなるというときその時間と場所にあったことが幸せの時間だったとなる。別に近畿の人だったら簡単に行ける場所である。でもみちのくとなるとそれなりに遠いところなのである。その遠さによって価値がでてくるということもある。故郷だってそこに住んでいるとその良さがわからない場合があるからこそ「故郷は遠きにありて思うもの・・」とかなる。故郷を離れたとき故郷が輝いていたとなるのはそのためである。人はそこに住んでいれば心がにごってくるのだ。遠くは何か理想的なものとしてイメ-ジしている。実際は違うにしろ現実とかかわらない遠くに憧れのである。春はやはり近畿の方が一段と春らしい、自然と人間の栄が一体となっているからだ。まだ自然の美しさも残っているからだ。大阪は芭蕉すら繁華であり嫌って句も残していない、でも大坂城の夕日に映えた桜は格別だった。
やはり西の方が桜の色は濃く春の太陽は一段と燃えて輝いている。

 

2013年04月07日

九州から大阪へ-春の旅の短歌十首 (人間は最後は記憶をたどる旅になる)

 


九州から大阪へ-春の旅の短歌十首

(人間は最後は記憶をたどる旅になる)


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クリック拡大! 春の潮-題を変えた


 

外国(とつくに)へ開けし海や平戸かな桜の下に按針の墓
平戸には春の潮の渦巻きつ城と教会と寺の古りしも
長崎に雨しととふる眼鏡橋出島やあわれ夕暮れにけり
長崎に大船去りぬ長々と入江の深く春の日暮れぬ
開聞岳去りゆく船に見えにつつ春の夕陽にそまりけるかな
明石城花に暮れるや淡路島真近に見えて船行き来する
大阪に船のすすみぬ夜は明けて太平洋に春の曙
大坂城夕陽落ちゆくあわれかも花散りやまず惜しみ去るかな
大坂城我が一時や花に酔ふ時の流れの今あわただし
醍醐寺の花見の宴や金屏風贅を尽くして西の栄えぬ


平戸
http://akkamui212.blog86.fc2.com/blog-entry-499.html


人間の特徴は何か?それが老人になると何も哲学者でなくても普通の人でもわかる。とにかく忘れやすいのである。忘れる動物なのである。記憶することがいかにむずかしいかということである。400年前にあった大津波の被害もこの辺ではたった一行しか記録されていないしまるっきり忘れていた。人間は何かに書いていないと記していないと忘れて思い出すことすらできない。自分の書いたものをすでにかなりの部分忘れている。こんなことを書いたのかと短歌や俳句や詩にしても自分が書いたことを忘れている。こんなことを書いたのかということを自分が書いたのに忘れているのである。人間はいろいろなことを経験しても忘れやすい、そして思い出すことがむずかしくなる。
旅もそうなのである。ついにどこに行ったかもわからなくなる。団体旅行だとおしゃべりなどしているとその場のことなどが記憶されなくなる。思い出せないのである。旅行というのもあわただしくすぎる余計に思い出せなくなる。

自分が最初に旅して感動したのは平戸の海だった。それが入江のようになって広く感じた。それは東北の太平洋の海とは違っていた。この海は外国に通じている海だと思った。実際に外国人はここに早い時期に入ってきた海だった。それで按針の墓があった。それは満開の桜の下にあった。ただ写真とっていたと思ったがそれもない、その頃デジカメがなく写真をとるのは金がかかり貴重だった。
デジカメ時代は記録するものとして便利になった。なぜなら人は忘れやすいから何でも記録することが大事なのである。人間がなぜ最後にあらゆることを忘れる認知症になるのだろうか?これも極めて人間的病気だったのである。最後は記憶もあいまいとなりその記憶すらたどることができなくなるのだ。それはすでに60代とかからはじまっている。それが極端化して病気になったのが認知症だったのである。遂に自分の娘息子すら忘れる。最後はみんな忘れて遂に自分がどこにいるかもわからなくなった。自分の生まれ場所すらわからなくなったのである。そこに80年とか住んでいても自分の住んでいる場所さえ忘れてしまったのである。それが人間の最後だったのである。


旅の記憶にしても平戸に行ったのは30年以上過ぎている。すると思い出すことが容易ではない、ただあそこには寺があり教会があり入江のように海がありあの時は桜の満開の時期だったとか覚えている。春の潮が入江に流れこんでいたようでもあった。古い城もあった。そういうことはおぼろげに覚えている。ただおぼろげになってしまった。開聞岳を覚えているのは船はゆっくりと離れてゆくからである。これが電車だったりすると覚えていない、新幹線だったら記憶には残らない、早すぎるから記憶には残らない、目的地につくにはよくても記憶する旅には向いていない、結局最後は人間は記憶をたどる旅になってしまう。近くだとまだ行った所があるのだから記憶が蘇るから忘れることはない、それでもその場から去ると忘れやすいのである。


ともかくこの辺は津浪や原発事故で日々あわただしく過ぎたからまたそうした現実に過去は記憶から消えてやすくなる。これだけのことが起こるとまた日々追われて過ごすことになり過去は記憶から消えてゆく、それでまた過去の記憶は消えやすいのである。自分はゆっくり旅しても記憶から消えているのだから今のように早く急ぎすぎる旅はさらに記憶に残らない。船旅が好きでかなりしたから船旅はゆっくりした時間があるから記憶しやすいということはある。時間をかければかけるほど記憶に残りやすい、それでも終わってみればただ一時の時間だったのである。

2013年10月06日

秋の俳句(金閣と銀閣)



秋の俳句(金閣と銀閣)

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金閣に紅葉と松や写す池

金閣や紅葉と紅葉映えにけり
金閣に燃ゆる紅葉や鮮烈に

金閣に朝日夕日や紅葉映ゆ
秋の日の金閣にさし松の影
金閣や一面に赤き散紅葉


銀閣の砂に月影窓に見ゆ

銀閣に黄紅葉映えて日の暮れぬ
銀閣に秋の日差しや歩む廊
銀閣に深まる秋や書院かな
銀閣に紅葉や幾時京にあり


これはインターネットの画像で検索してそれを見て俳句を作った。他人の写真ではイメージできにくい、写真は写生そのものだと書いてきたけどその現場のすべて写真では現せない、ただ京都に何度か行っても時間の経過で見れないからなかなか京都でもわかりにくいのだ。一カ所に長くいても一時間だと朝日がさして夕日がさす感覚がわからない、つまり旅の問題は時間軸で体験できないのである。空間的には移動して体験しても時間の移り変わりの中でどう変化するか感じるかが浅薄になる。
だから意外と京都のことでも今や思い出そうとしても思い出せないのだ。
現代は写真が豊富だからその写真からイメージした。
勝手に拝借したがこれは一つの新しい芸術の例としてみてもらいたい。
明らかに著作違反が写真の無断使用であった。指摘されればとりのぞく。

それまでこういうふうにもきりはりして一つの創作物ができるということで出した。
こういうことは前から自分はしてきた。
そういうことがしやすいのがインターネットだったのである。
自分で背景とか何やら作るとソフトがあってもめんどうになるのである。

だから金閣と銀閣という画像検索できりはりして作ったのである。
俳句が写生という時、想像するときはいいものができない、でもとをにもならない、
時間軸では旅して見れないのか多すぎるのだ。
空間の移動も早いからまた記憶に残らないことが多すぎるのだ。


京都という時、やはり前にも書いたが金閣と銀閣という対象で見れる。それは文化の豊かさを示されている。平泉は金閣だけになるからだ。金閣と銀閣のイメージは秀吉の黄金の茶室と利休のわびさびの茶室との対象でもある。西にはそれだけ対象化される美が作られた。金閣は青春の若さなのか、あまりにもまばゆい。銀閣は何かわびさびであり老いの感覚である。二つが対象的に見れるから美と思索も深まってくる。


いつづれにしろ京都も遠くなってしまった。それでも四季を通じて行っているから自分は恵まれていた。ただ京都を理解することはかなりむずかしい。見るものが多すぎてわかりにくいのである。
ただ自分は今は思い出す旅をしている。今になるといかに思い出すかであり思い出すことによって創作ができる。日本の場合はしやすいが外国はなかなか思い出せなくなる。
写真を見たりその他解説でそういう場所だったのだとか知る。
まず旅ではいろいろなものが一時にくるから理解できないのである。
あとからゆっくりとその場所をイメージしてゆくとあそこはそういう場所だったのかとわかるのだ。

本当は一日でもいいから金閣でも銀閣でもいれば中の書院にでもいればわかる。
それができないから浅薄なものとして一時的なものとして記憶に残らないのである。


秋の京都がいい、紅葉の時がいいとしても遠くなるとまずその時期に行くのがむずかしくなる。でも確かに紅葉の時に二回くらい行っているのだ。
今はまず仙台までも行かなくなった。半年以上行っていない、意外と旅する時間もたちまちすぎる。自分のように旅に明け暮れてもその時間もたちまちすぎた。
もう旅ができないとまでなっている。
ただ人間のそうした経験の収穫は60以上になってやってくる。
それは例えば雑学のようなものでもそうなのである。
人間はくだらないと言われても必ず何かを蓄えているのである。
その総決算が60以降にやってくるのだ。

だから老人の仕事は体験を話すことなのである。

70歳の人はトラック運転手だった。その人が覚えていたのは道路の標識のように大きく書いてある文字だった。だから特に東京まで通っていたら築地市場などに行っていたからそのことを語っていた。車からみると靖国通りとか大きな文字が大事になる。
それで方向がわかるから常にそういう案内の文字に注意しているからそれが記憶になり語っていた。その他は通りすぎるからあまり覚えていないのだ。
人間は一番注意しているものを覚えている。その他は忘れやすいのである。

そのトラック運転手の話を聞いていたら自分もトラック運転手のような気分になったのは不思議である。老人は何かしら体験しているからその話を聞くと面白いのだ。
ただその人はボケかかっているのか、病院に行っているとか、孫がいて年金もらうときだけにこにこ近づいてくるとか何か言うことかあやふやになっている。
家では用なくなっている。そうなるとボケるかもしれない、なんか酔生夢死とはよく言ったものである。トラック運転手の話はまるで夢の中で話しているような感覚なのである。人生はトラック運転手でも終わって見れば夢だったとなるのだ。
それはみんな同じである。終わって見ればみんな夢の中の事になってしまう。

自分の場合も旅の記憶をひきだしては書いている。それも夢の様だったとなる。

2013年12月02日

冬の金閣-俳句十句 (金閣は自然に映える美の極致)


冬の金閣-俳句十句

(金閣は自然に映える美の極致)

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冬の金閣十句

金閣に寒椿の赤さかな
金閣に誰が入るや松に雪
金閣を写して時すぐ冬の池
金閣の鳳凰に朝日凍る池
金閣や口を閉ざさせ冬に映ゆ
金閣に仕ふや冬の松と松
松風や金閣暮れて冬の星
金閣や夕日に光り京の冬
将軍に鳳凰の夢冬の京

金閣を残し急逝す冬の京

庭石も黄金(キン)に輝く冬の京

黄金の時を刻める金閣の刻々変わる姿かな

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金閣の魅力はまさにゴールデンタイムを演出する。刻々自然の中で変容して限りない美を現している。つまり自然の中に黄金が映えているからその自然の中で変化するから魅力を作り出している。背景の常磐木の松の緑にも常に映えているし凍った池にも映えているし写真はいろいろある。常に違ったように見えるのである。その美は女性だったら衰えるがこの金閣は衰えることがないのである。だから金閣に魅せられるということがある。
京都だからその背景には複雑な歴史が人間模様も織りなされている。
千年の都は未だにこうして美を残して色あせないのである。

平泉の金閣寺はこうして自然に映えないから何かものたりないものとして不満が残る。
それはまた違った美にしてもやはり美を作り出しているのが自然だということがわかる。冬の京都なども趣深いだろう。ただ最近京都は外人でも観光客が増えすぎると情緒がなくなる。修学旅行生もうるさいか京都の情緒を乱しているのだ。
そもそも京都はちょっと行ったくらいではわからないところだった。
歴史もわからないし何かわからない、金閣にしても実際は自分にしても一回くらいしか訪ねていない、それで屋根も金箔が張られていたと錯覚していたのである。


金閣寺のこけら葺き屋根
こけら葺きとは、屋根の原料となる材木を薄くそいではがしたものを
板屋根に葺いてあるものをいいます。


でもこれが金色に光っていると写真で出している人がいた。屋根は金箔にはできない、雨風ですぐ朽ちてしまうだろう。だから自分はそういうところも見ていなかった。

今まで俳句にしたりするのは想像の句だから果たして現実にそうなっているのかわからない、写生ではないから俳句ではないかもしれない、京都ではなかなか一日金閣を見わわけにもいかない、住んでいれば四季にも見れるが離れていれば金閣も見れない、でも金閣の特徴は何かイメージ化されやすい、見ていなくてもありありと浮かんでくるシンプルなのがある。だから想像でも詩を作りやすいともなる。

ただ現実に夕日に映えるのかとかここにだした俳句とは一致しないかもしれない、でも紅葉でも雪でも何か金閣に鮮やかに映える。春に行ったとき確かに赤い椿が散っていた。
その赤さも一際赤かったことを記憶している。ただそれも遠くなり明瞭に浮かんでこない。それでも金閣はイメージしやすいものだったからあとでふりかえり何か詩的なものとして創作できる。
金閣炎上とか燃やした人が実際にいたから何かその心理はわからないにしてもそれだけ金閣は美の極致のようなところがあるのは確かである。
隙のないゴールデンタイムを日々自然の中に反映しているのだ。

石まで黄金に輝くの京都だった。それがやはり千年の都の所以である。フィレンツと同じである。
とてもそれは百年とかでは作り得ないものであった。

 

2014年02月19日

近江の春の俳句十句 (近江は自然景観と歴史がマッチしているから魅力がある)

 

近江の春の俳句十句

(近江は自然景観と歴史がマッチしているから魅力がある)

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関が原伊吹山聳え残る雪

関が原越えて近江谷春の山
車窓より蓮華畑や近江富士
春光や近江平野を走るかな
雲にじむ大津の街や春の月
義仲寺を訪ねてあわれ柳かな
春なれど朝日将軍あわれかな
春なれや芭蕉の眠る近江かな
さざ波の都の跡や春は逝く
信長の楽市楽座栄ゆ春
京に行く春の夕暮瀬田の橋
古都なれや桜の並木慶州かな


近江には4回くらい行っている。それでも近江全部を実際に回っていない、近江の魅力は自然が残っていて自然の中に歴史が織りなされていることである。近江八景とかありそれは変わっていない。これが都市化したら変わっている。意外と農村的風景が残っているから自然が残っているから歴史でも偲ばれるのである。京都はそうした自然的風景が失われているから歴史があっても魅力が失われている。ただ庭や寺だけを見るという感じになる。

近江はまた地理的に東西を分ける地域にあることで魅力がある。関が原は東西の分かれ目であり何か景色も変わってくる。伊吹山がありここでヤマトタケルが死んだというのも何かの謂われがある。歴史も地理によって織りなされているからである。
春でも関が原辺りは寒く雪が残っている。
関が原を越えると近江平野でありそこに優美な三上山の近江富士が聳える。この山は400メートルくらいとすると低い山である。でも形がいいから目立っていて象徴的な山となっている。


春には蓮華畑が広がりその近江富士が望まれる。これも極めて近江の風景にマッチしている。電車で走ってもきれいに見える。思い出としては青春10切符で春に下関まで行き船で韓国の慶州まで行ったのは夢のようであった。近江は百済寺などがあり渡来人の国でもあった。だから韓国はより身近でありその古都にも桜並木がありわずかに咲いていたが散っていた。まさに韓国まで近江はつたながっているという気分になった。


春はやはり西の方が一段と歴史もあって春らしくなる。ただ京都でも大阪でも自然景観が都会化で損なわれているから幻滅する。つまり自然景観が昔のようにありそれと歴史がマッチしたとき魅力あるものとなる。それが近江にはある。信長の時代もありその魅力を語れば語りきれないだろう。近江は春は穏やかなのだろう。


晩年の2年近くを大津に過ごした芭蕉はその時期に、藩士、医者、町人、豪商、住職、能役者など多様な人達との交流を楽しんだ。実際、芭蕉は大津湖南地方を訪れること8回におよび、近江の風景や人間に深い愛着を抱いていたように思われる。

「死後もここで過ごしたい」
芭蕉はそのことを遺言した。

芭蕉の生涯の作品は980句確認されているらしいが、そのうち1割近くの89句が大津湖南地方で詠まれているという。奥の細道の52句に比しても、近江の密度の高さがわかる。36俳仙とよばれる弟子の国別分布をみても、近江12、江戸5、美濃・尾張各4、伊賀3、等で近江が群を抜いている。

芭蕉の近江好きは「行く春を 近江の人と 惜しみける」という句に代表される
http://www.geocities.jp/ikoi98/bashou/bashou.html

木曽義仲が眠る義仲寺に芭蕉もともに眠っている。近江が気に行ったということはやはり景色が穏やかで温暖だからだろう。荒寥とした陸奥の旅を終えて安らぎがあった。
人間的にも文化人なども多いし近江商人の出たところであり京都も近いから人の交わりも盛んな所である。実際に韓国で近江商人の末裔のうよな人に出会った。
その人から年賀状が10回も来ているが返事を出していない、いろいろあって何か余裕がないからだ。

ただ近江という時、福島県に意外と歴史的に交わりが深い。会津の蒲生氏郷は有名であり近江の日野の出身である。石田三成も現実に相馬藩に来ていて自分の住んでいる近くの田中城を訪ねていて相馬野馬追いの旗に三成の旗印が残っていた。三成は近江の出身であった。それから葛尾村(かつろう)村の葛尾村大尽という製鉄で栄えた跡には近江八景を模した庭が残っている。それは近江のヨネという女性を嫁にしたからである。
そんなところにも近江との関係がある。他にも近江商人の足跡はみちのくに残されている。それだけ近江は歴史的に広がりがあるのも魅力である。琵琶湖があり風光明媚なのことと歴史があることで語り尽くせない魅力がある。

近江では秀吉の長浜の城などは訪ねていない、近江全体を見るとなるとこれも相当な時間がかかる。なぜか自分は30年くらい旅をしていて全国を遊行していたのである。
それは今になると相当恵まれていた。高度成長時代はほとんどが企業戦士となり猛烈に働いていた時だったからである。こんなふうにして遊んでいた人はまれであった。今のニートのようなものは皆無だったからである。
こうしして今になり旅を思い出すと不思議である。旅でも印象に残る場所と残らない場所がある。近江は印象に残った場所だっから思い出して俳句や短歌を作れる。
思い出さないと作れないのである。
4回も行ったとなると近江はみちのくにいても身近なのかもしれない、心象に残っていて近江は心を豊かにする。京都は家が多く寺の街であり自然景観が近江のようにないので印象に残るのが少ない、やはり自然が映えないと歴史も建築物も映えないのである。


「行く春を 近江の人と 惜しみける」やはりこの句が近江を象徴しているのだろう。
春にふさわてい場所が近江でもあるからだ。そこにはまた人がいて近江商人のように人の活動があり自然景観だけではない、人の活動文化もあるという人なのである。

ただ戦国時代は何か芭蕉の句になっていない、信長なども句にしていないし秀吉も語られていない、芭蕉の句に城の句がない、蕪村にはあるのになぜなのだろうとなる。
何かそこには芭蕉に隠されたものがあるのかと謎になる。
なぜなら城は要でありその城を無視していることが謎になるからだ。
城をさけていたとしか思えないからである。

次は秋の部としての近江の俳句十句をだす、俳句も短歌も連作となったとき一つのものとして鑑賞できる。だから俳句短歌十句十首を出しているのである。
 
 

2014年10月05日

建礼門院右京大夫集の歌と津波の無常 (世の中の大きな変化は共通した無常があり歌が生れる)


建礼門院右京大夫集の歌と津波の無常


(世の中の大きな変化は共通した無常があり歌が生れる)


作者は承安2年(1172年)より右京大夫の女房名で中宮時代の建礼門院(平徳子)に出仕したが六年足らずで辞し、のち後鳥羽上皇とその生母七条院に合わせて二十年以上仕えたが、昔が忘れがたいという本人の希望で勅撰集には「建礼門院右京大夫」の名で称された。天福元年(1233年)頃、『新勅撰集』撰進に際し藤原定家に選考歌の提出を求められ、詠歌を纏めたのがこの家集である(右京大夫の歌で『新勅撰集』に選ばれたのは二首に止まるが、のちの『玉葉集』には十首採られた)。

女院(建礼門院)が大原にいらっしゃるとだけはお聞き申し上げていたけれど、しかるべき人に了解をなしには、お参りする方法もなかったのを、女院に思い申し上げる深い真心を道案内にして、無理やり尋ねてお参りしたところ、次第に近づくにつれて、山道の景色からまず涙が先にたって、言いようもなく、御庵室のありさまや御住まい、事柄、すべてが、目も当てられない。
昔の御様子を知らないものでさも、ここの大体の御生活を拝見すれば、どうして普通のことだと思われよう。まして、昔のことを知っている身には、夢とも現実とも言いようがない。秋深い山おろしが、近くの梢に響きあって、筧の水の音、鹿の声、虫の音、どこでも同じことであるけれど、例のない悲しさである。
錦を裁ちかさねたような美しい着物を着て、お仕えしていた人々は六十余人もいたけれど、顔を見忘れるほどに衰えた墨染めの尼姿をして、わずかに三、四人ほどがお仕えされる。その人々にも、「それにしてもまあ」とだけ、私も人も言いだした。むせぶほどの涙が溺れて、言葉も続けられない。

あはれされば此(これ)はまことか猶もただ夢にやあらむとこそ覚ゆれ(家集212)

【通釈】[詞書] その年(寿永三年)の春、ただもう驚くばかり恐ろしい噂が耳に入ってきたが、親しく顔を合わせていた(平家の)人々で亡くなった人が大勢いて、変わり果てた姿で都大路を引き回されるなどと、何かと辛く言いようもない話が聞えて、「誰それが…」など、人々が噂しあったのも、例のない酷いことに思えて。


何か津波の跡や原発事故の後に感じたことはそれが本当のように思えないことだった。夢のようであり現実と思えなかったことである。それは急激な世の中の変化に生きた人たちは過去にもそう思っていたのである。
平家が滅亡したときもその変化の中で生きた人たちもそうだった。
平家物語ができたのもそのためだった。
大原に行ったことあるけど京都の街から相当に離れている。こんなに遠いのかと思ったことを記憶している。
バスで行っても相当に遠いのである。観光地化していてもそこは鄙びた山里になる。
西山という所に住んでいた頃、身の暇なさにかこつけてか、久しく音沙汰がない。枯れている花があったので、

とはれぬはいくかぞとだに数へぬに花の姿ぞしらせがほなる

訪ねてくれないのはもう何日だとは数えないが、枯れた花の姿が教えているような様子です。
この花は、10日余りほど前に訪ねてきたときに、手折って持っていた枝を、簾に挿して出ていったのだ。
問われないということはそういう山里だからそうなっている。都にいたときは60人も仕える女性がいた。
それが三四人になった。それでも四五人でも仕える女性がいたことが不思議である。
一人でもいたらそれでけでも十分である。家事をやってくれる女性が一人でもいたら十分だからである。
現代ではその一人を雇える人は相当な金持ちなのである。その分機械が召使の代わりになっているのである。

この歌集は建礼門院(平徳子)の歌ではなく建礼門院(平徳子)に仕えていた中宮の女性だった。その人が建礼門院を大原に訪ねて同情して歌にした。同じ平家一門だから同じ境遇にありこれだけの深い歌ができた。
そのことは何か津波と原発事故を経験した人に言える。あまりの無常の変化をやはり経験したからだ。
平家とは違う自然災害や原発事故でもその無常は同じである。仮設に住むとなるとそうした流離の境遇ともにている。もちろん補償金をたんまりもらっていい暮らししているといのもありかなり違ったものである。
それでも故郷を離れよその土地で暮らすということはまた思いも寄らぬことだっ。
ただ川内村とか辺鄙な村では郡山市に避難した人たちはかえって都に来たとなり帰りたくなったというのも
平家の落人とはまるで違ったものになったのも現実である。
東京辺りに避難して東京暮らしで補償金で贅沢しているというのもまた違っている。

何か深い歌ができるのは文学が生れるのは普通のことではない、世の中が激変して無常が生れた時である。
平家物語もそうして必然的に生れた。奢れる平家一門が零落してゆく無常だったのである。
そういうことは繁栄した家にもあるし個々人にもある。没落した家などめずらしくなく無数にあるからだ。
本当に繁栄は長つづきしないのである。それは一国単位でもある。日本などはすでに高度成長の繁栄の時期が終わり零落してゆく国になっているのだろう。だからどうあがいても高度成長のような時代は来ないのである。

歴史を文学でも理解するにはとにかくその場を踏むことである。そうするとそこから自ずと実感するものが生れる。だから俳句でも短歌でも子規が写生が基本だとしたのはやはり空想ではなくまずその場に立って実感することが芸術の基本だからである。
大原はそういう場にいかにもふさわしいというのを感じた。それもすでに三〇年前以上とかになんているが意外と一回行っただけでもその場を踏んでいるからあとで思い出してその場をまたイメージできて深化した短歌でも作れるのである。その時感じないものが三〇年たってもさらに深く感じる。
日本だとそういう古典が残されているからそういうものを参考にしてその場をさらに深く感じるのである。

自分はそうして訪れた全国のことを今詩にしている。それはその時書いたのもあるがそれを深化したものとして書いている。やはり今になって思い出して書くものがいいものになっている。
ただ旅で記憶に残るものは京都ととか繁華なところは記憶に残りにくい、記憶が分散されて集中できないのだろう。大都会はいろいろなものがありすぎて心が散って残りにくい。
でも大原のようなところは何もないからかえって辺鄙であり記憶に残りやすいのである。
だから近江なども琵琶湖があり自然があるからあそこは四回くらい行っているから今になると紀行文でも詩でもいいものが書ける。それだけ場数を踏めばそうなる。
そして西の方は古典に残っているからそれを参考にして昔と今を書きやすいのである。
だから関が原を越えた西は都会化してもまだ魅力があるのである。
とにかく六〇年間旅していたのだからその成果が今になって出てくるということがある。
旅だけではなく人生をふりかえり何であったのかを知るのは実際は還暦すぎてからだともなる。
そのころからしきりに人は自分の人生をふりかえり語ることになるからだ。

山深くとゞめおきつるわが心やがてすむべきしるべとをなれ

古典がなぜ味わい深いものとなるかというとやはり今の自然とはまるで違っていたからである。
京都であれどこであれ回りは草深い自然におおわれていたのである。そこから感性が磨かれていたのである。
今の京都や大阪辺りでももうそうした自然はないから感性はみがきにくいのである。
庭の石と自然の中にある石はまるで違ったものなのである。
まず自然の中の石をみて庭の石をみることが順序なのである。
ところが今は京都に行ったら庭の石をみる、でもその石はまず自然の中にある石を知ってみればさらに深いものとして感じるものがある。
自然の中にある石こそが原点でありすべて文化はそうした自然から生れたのである。
この歌にしても山深く住んでいれば自ずとこういうものになる。石でもしるべとなるのである。
しるべとなるとは自然とアイディンティ化するのでありそういう詩を自分は膨大に書いてきた。
ただまだプログにも詩集の部を出したがだしていない、それだけの余裕がなかった。

大原に夕べかそけく花のちり闇の深くもおおいけるかな
大原の清き流れに赤々と椿のちるやいにしえの女(ヒト)の姿浮かびぬ
大原に閉ざさる女や山の端に春の夕日やあわれ深まる

2014年12月12日

伊勢から名張から奈良へ(秋の旅路の短歌十首) (名張(なばり)の地名の不思議の考察)



伊勢から名張から奈良へ(秋の旅路の短歌十首)


(名張(なばり)の地名の不思議の考察)

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伊勢湾に秋の朝日のさし昇る波音ひびき我がたちにけり
なおあまた秋の燕の群れ飛びぬ名張を越えて奈良に向かわむ
名張にそしばしたちどまりその名にそ心に残す秋の朝かな
名張にそしばしたちよる旅人の影そとどめて秋の日あわれ
旅人の名張を越えむ奈良遠く飛鳥を目指す秋の夕暮
奈良に着き飛鳥に望む夕暮れの二上山や秋の夕映え
飛鳥にそ天武天皇の墓ありと伊勢より来る秋の夕暮
奈良に来て剣の池の古りにけるその謂われにそ秋深むかも
みちのくゆ伊勢に来たりて奈良に来ぬ陵大きく秋の夕暮
奈良に来てみちのく遠し誰とあふ古の人や秋深むかな



「那婆理稲置(なばりのいなぎ)」の記述があるので、名張の音としては「なはり」と「なばり」の両方について解析する必要がある。
@古くから名張の地が、鮎の産地として有名であったことから、漁師たちが縄を張って領域を独占したことから「ナワバリ」と意味され、鮎の縄張り的な習性、あるいは鮎漁猟者間の縄張り(なわばり)が転じたとする説。

A初瀬より山の中へ入り、三本松辺りの高地から名張を望むと、一大盆地が開け晴々した気持ちになることから、原始林などを開墾するという意味がある、新墾(にいばり)が転じたとする説。

(1)古事記 ⇒ 「那婆理」の表記
『古事記』安寧天皇の段には、皇子師木津日子命(安寧天皇の諱《いみな》=実名)の子の一人が、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖先であるとする伝承が記されている(「稲置」はヤマト政権の地方官で、屯倉(ヤマト政権の支配制度の一つ)や県の管理にあたる)。須知・那婆理・三野は、いずれも現在の名張市域の地名で、安寧天皇(正確には「大王」などと表記すべきだが、便宜上慣例に従う)の子孫が稲置としてこの地に配備されたという伝承は、かなり早い段階からヤマト政権の勢力がここまで及んでいたことを示唆している。
天万豊日天皇 孝徳天皇(二年春正月)
凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、兄、此をば制と云ふ。西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。
A巻第二十八 ⇒ 「隠」の表記
天渟中原瀛真人天皇 上 天武天皇(元年六月)
夜半に及りて隠郡に到りて、隠駅家を焚く。因りて邑の中に唱ひて曰はく、「天皇、東国に入ります。故、人夫諸参赴」といふ。然るに一人も来肯へず。横河に及らむとするに、黒雲有り。広さ十余丈にして天に経れり。時に、天皇異びたまふ。則ち燭を挙げて親ら式を秉りて、占ひて曰はく、「天下両つに分れむ祥なり。然れども朕遂に天下を得むか」とのたまふ。即ち急に行して伊賀郡に到りて、伊賀駅家を焚く。伊賀の中山に逮りて、当国の郡司等、数百の衆を率て帰りまつる
天武天皇(?−686)の条。 天武元年(672)六月二十四日、総勢わずか三十余人で吉野を発った大海人皇子は、伊賀、伊勢、美濃をめぐって各地の豪族を糾合しながら大津宮に攻め入り、反攻をしのいで大津宮を陥落せしめた。七月二十三日、大友皇子は縊死を選ぶ。勝利した大海人は翌年、飛鳥浄御原宮で即位、天武天皇として律令国家の建設を推進する。 大海人軍は吉野を出た六月二十四日の夜半、名張に入り、駅家うまやを焼いて衆を募るが、誰一人として応えない。横河(名張川)に至り、空にかかる黒雲を見て、大海人は自分が天下を得ることを占う。一行は伊賀郡に入り、積殖で朝を迎える。

底本頭注は、「隠郡なばりのこほり」を「伊賀国名張郡。今の三重県名賀郡の西半部・名張市」、「隠駅家なばりのうまや」を「三重県名張市の地にあった駅家か。大宝・養老令制では、駅家は諸道三十里(約十六キロメートル)ごとにおかれ、一定数の駅馬を常置した」、「横河」を「現在の名張川か。大化改新当時の畿内の東端」
「名張は伊賀国名張郡。今、三重県名賀郡の西半部、名張市。厨司は天皇の食膳に供する鳥・魚・貝類などをとらえるためにおかれた施設。名張の場合は年魚(あゆ)・雑魚などをとらえるためのものか」とする。

吾勢枯波 何所行良武 己津物 隠乃山乎 今日香越等六
吾(わ)がせこは 何所(いづく)行(ゆ)くらむ おきつもの 隠(なばり)[名張]の山(やま)を 今日(けふ)か越(こ)ゆらむ



名張(なばり)という所に注目したのはなぜか、それは自分が確かにここを船で仙台から名古屋に来てそこから自転車で松坂と志摩を回って名張を通り奈良についた記憶がある。
ただこの記憶も定かでなくなった。旅でも記憶があいまいになる。
名張という名が何かめずらしく心に残った。そこでは確かに秋であったが燕がなぜこんなに飛んでいるのかといぶかったことを覚えている。すでに去ってもいい時期だったからである。こっちは温暖だからまだ残っているのかと思った。
その名張の意味も良くわからない、しかしこの地域が飛鳥時代はまだ東国であり飛鳥の時代に支配権が及んでいない、境目になっていた。それも古い時代だが奈良と伊勢の中間地帯にあるから地理的には納得がいく。


歴史でもこの地理感覚が大事なのである。これが車だとなかなかわかりにくいのである。徒歩の感覚だと歴史も体にわかるということがある。現代は便利すぎてかえって地理の感覚がわからなくなる。遠さの感覚がわからなくなる。車で飛ばせば遠い感覚も旅が苦労だということもわからない、自転車だと何とか遠さとか旅の苦労がわかる。
自転車だと相当に疲れるからだ。そして自転車だとあとで記憶に残っていて回想して短歌を作ったり詩を作ったりできる。これが車だとできない、あそこにとどまっていたなという記憶がなくなるのである。
そして旅は伊勢から奈良から飛鳥という行程、道行の中にある。だから旅の短歌は一連のものとして鑑賞するものとなる。その長い行程の中に旅がある。
だからその行程を記憶する旅をしないとあとでも記憶にも残らないのである。
確かに名張で秋の燕がなぜこんなに飛んでいるのだということが一つの記憶として残っていた。そのことが旅の貴重な記憶だったのである。
それは名張にふさわしいということもあった。なぜならそこは奈良に近く飛鳥に近いから古代でもここを越えれば東国から奈良や飛鳥へ入るという感覚になるからである。

名張の地名はナラーハリかもしれない、奈良は均す(ナラス)であり平らにするとか耕作するのに適したように均すことは開墾することでもある。つまり飛鳥や奈良から開墾に入ってきた人達がいたのかもしれない、そういう記録もあるからだ。
一大盆地が開けていたということもそうである。そこは開墾するのに適地だったのであるだから名墾という名にもなった。開墾するということである。
ただナワバリーナハリという説もある。

名張市。厨司は天皇の食膳に供する鳥・魚・貝類などをとらえるためにおかれた施設。名張の場合は年魚(あゆ)・雑魚などをとらえるためのものか」とする。

ナワバリはこの由来なのか?川があったとするとその川で魚をとっていた人達がいてその名がついたのか?
ともかく新しく開墾された地が名張であり張るは開墾する意味である。田などを作る意味である。それで名張となった。吉隠(よなばり)ともにているからこれが有力になる。
地名の解読はむずかしい、でも自分は旅をして何か駅名とかこうした地名が心に残る不思議があった。名張というのも何か変わっていたから心に残るのである。
あまりにもありふれていると心に残らないというのもまた人間の心理なのである。

旅というのは奈良から伊勢へと旅するのと伊勢から逆に奈良へ旅するのは全く変わった感覚になるのだ。古代から江戸時代でも西から東の旅、京から陸奥への旅は枕詞などがあり旅をしているが逆に陸奥から西へ京へ旅することはしていない、そういう記録も文学もほとんどないのである。ほとんどの古典は西から東への旅なのである。
ただ万葉集でも防人の歌は西に向かう旅を歌っていたのである。
現代はむしろ東から西に向かう旅が普通なっている。
旅というのは福島県でも浜通りから会津にゆくのと会津から浜通りに来るのとは全く違ったものとなる。なぜなら浜通りから会津は山国への旅であり会津から浜通りになると海へ出るからまるで違ったものとなる。

この七年間は近くすら自由に行っていない、それまでは自由に旅していた。今は回想する旅である。それも自転車でしていたから回想して短歌などでも作れる。
回想するときの旅はその土地のことを歴史などをインターネットなどでも知ることができるからそこからその土地のことを思い出して作る。
でもやはり人間は忘れやすい、どこをどう行ったかもわからなくなる。
ただ旅はある一カ所にゆくのではない、一連のものとして旅がある。行程に旅がある。
そういう旅がない、江戸時代なら別に旅でなくても歩いていたのだから日常が旅なのである。度々ゆくから旅だともなる。現代から旅が消えたのは過程がないからである。


そして旅はつくづく今はかえって労力がかかる。自転車の旅でも相当に時間もかかるし労力もかかる。だから勤め人だったらできない、そして江戸時代だったら歩くことが旅なのだから別に作る必要はない、演出する必要はない、今は旅は演出する必要があるのだ。
便利すぎるからわざわざ不便な旅をするようにしないと旅にならないのである。
でも歩いて旅している人も必ず途中で電車に乗ったりしている、遍路の人もそうだった。だから歩き通す旅をしている人はほとんどいないのである。むしろできなくなっているのである。
ただ鹿児島から青森まで歩いて旅していた人には驚いた。公務員をやめて自由になり旅したのである。よほど自由な旅をしたかったことがわかる。
やはり勤めていれば自由な旅を今はできないのである。




 

2014年12月16日

秋篠寺を想像で訪ねる (インターネットで編集の試み)


秋篠寺を想像で訪ねる


(インターネットで編集の試み)


本堂は国宝である。穏やかに手を広げた瓦屋根の勾配、白い壁と精緻な柱、格子戸のバランスは見ているだけで心が軽やかになるのを感じる。鎌倉時代の大修理を経ているが奈良時代の単純素朴な美しさがあると評されているようだ
http://blogs.yahoo.co.jp/geru_shi_m001/64310523.html

、私たちはその柔らかな物腰から視線をそらせなくなる。そこから微動だにしなくても、後ろの漆喰に映る濃い影──高く結い上げられた髪のかたち、抱きつきたくなるような丸い肩のフォルム──は仏の気配そのもので、その影がふいに壇上からおりて「さあ、なにも怖くない。いっしょに行きましょう」と寄り添ってくれるような気がしてならないのである。
http://nara.jr-central.co.jp/campaign/akishinodera/special/


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秋篠寺の伎芸天女

その体全体に満ちるふくよかさ、やさしさ、優美さ
その胸はほどよくふくらみ受容する愛の表出
なだらかな線は胸から脚の先まで作ることなく
まろやかに流れるように体全体をつつむ
その手は軽く繊細に指を合わせる
何を思ふやその顔は穏やかさに満ちて
その内発からその体躯には毒のなし
大輪のおおらかな花のように
微笑みは深く内面から表出される
それは一つの完結した美の典型
その脚も手も腕も胸も顔も頭も
未だ血がめぐり生きているように人を迎える

奈良に京めぐり年の瀬鐘の音
簡素なる秋篠寺かな前庭に冬の日さしてたずぬ人かな
秋篠寺屋根にとまれる鳩の二羽穏やかなれや冬の日さしぬ
秋篠寺伎芸天見て味わいぬ懐石料理や京の年の暮
京都なれ鐘の音の聞きて東京へ帰れる人や年の暮かな



インターネットの利用の仕方はまだ定まっていないし有効に活用されていない、それだけ活用される範囲が広いからそうなる。
文化的にはやはりインターネットで広がる世界があった。
自分は今はただ回想する旅をしているがその時インターネットが役たつのである。
なぜなら訪れた場所でもその謂われとかわかりにくいからである。
また訪れない場所でも想像をふくらませてその場を旅することがある。
秋篠寺はたずねたことがない、それでも写真が一杯でているしそこから想像で書ける。
常に言っていることだがインターネットは自分なりに編集しつつ読むことなのである。

インターネットから秋篠寺についてプログでもかなりの人が書いてある。
今回は三つくらいしか読んでいないがもっと読めばまた違った感想が書ける。
一つは「心に青雲」で書いていたので秋篠寺のことについて検索して読んだ。
著者は秋篠寺については感心している。
それはあまり観光化していないのと他の寺とは何か趣が違うものを感じたからなのだろう写真を見ると確かにずいぶん簡素な建物だと一見してわかる。
冬の日がさしている写真があったがそれもふさわしい。
ことさら伎芸天女に感心していたが確かに見ればこの伎芸天女は秀作である。
自分は仏像には感心したことがほとんどない、感心する感性がないともなる。
そもそも日本ではギリシャの彫刻とかの芸術がないと思っていた。
でも仏像はギリシャからインドへ伝わったものなのである。

この伎芸天女は彫刻として特に優れている。
女性の持っている良さをあますことなく顕している
女性の場合は心も体に顕われやすいということがある。
体と心が一つになるということがある。これはギリシャのビーナスとは違って女性を顕したものでは傑作である。
ただはっきりいって自分には鑑賞力が不十分である。
結局奈良とか京都は日本文化の伝統の場所だがそれがなかなかわかりにくい。
何回か旅したけどわかりにくいのはやはり文化とか伝統は簡単に身につかないものだからである。時間の中で徐々に身につくものでありそれも何代にもわたって受け継いで身につけるということもあるからだ。
そういう点東北となるとそうした文化の蓄積がないから日本文化が身につかないことがある。
それでも仙台から名古屋に船で行き自転車で奈良まで行ったように距離的には短縮化されているから精神的にも近くなっているのである。
それで旅の短歌なども思い出して書いているのである。

奈良京都というととにかく寺が多すぎるのだ。だから一方で寺はもはや何か仏教を追求するような場でなくなっている。観光化して修行の場でもない、それでも伝統があるから違っているとは言える。それは信長の時代からの継続なのである。
寺というのはそのときから実質的な支配階級だった現実に権力ももっていたから信長と敵対して戦争にもなったのである。大阪だった秀吉が治める前は本願寺があり真宗の拠点となっていたしそれで激しい戦争になったのである。
宗教でも権力化するとすでに宗教ではない、政治化して権力追求になる。
今のカルト宗教団体とか団体化した宗教はすべてそうである。
だから団体化した宗教は政治団体であり何ら宗教とは関係ない俗世の団体である。
だから自分はそういう所は信じない、それでもこの世にはそういう悪場所でも頼らざるをえない人達がいる。だからいくら否定してもそういうものは消えないということである。第一真宗とか日蓮宗が今でもこれほど勢力をもっているのは何なのかというと結局拝めば何でもかなえられるという大衆への洗脳に向いていたからである。
最悪の貪欲な人間でもその貪欲な欲望がかなえられるために祈っているのだから異常なのである。

秋篠寺は平安時代後期から寺領を増大させ、南に位置する西大寺との間にはたびたび寺領をめぐる争論があったことが、西大寺側に残る史料からわかる。
保延元年(1135年)には火災により講堂以外の主要伽藍を焼失した。現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建つが、創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建である。


このようにすでに平安時代から土地争いで勢力争いになっている。
土地をもつということは権力をもつことであり土地に執着することは権力に執着することである。禅僧はだから一所不住であり旅していたことでもわかる。
寺をもつことはすでに権力をもつことに通じていたのである。
カトリックでも土地を所有したことが権力を持つことになったから宗教の歴史もまた東西でにている所はあるのだ。
結局奈良や京都は信長の時代と変わらずに今でもそうした宗教によってかえって汚された地でもある。だから修行には実際は向いていないのである。
そこには祇園で遊ぶ金持ちの坊主がいるとかなる。
今修行に向いているのはやはり荒野であり自然のある田舎なのである。
もちろん今は田舎も都会のように汚されているが自然がありそこで精神形成をすることが修行になるのである。
東京のようなところではもう精神形成は不可能である。
奈良や京都はまだ自然がないということではない、東京はもう人工化した荒野だからもう精神形成はできない、だから言葉もそこではすでに詩語は失われ死んでいるのである。
摩天楼のような世界で言葉も通じなくなっているのである。

タグ:秋篠寺

2014年12月31日

近江の秋の俳句と短歌連作 (東北とも福島県と近江は古代から関係していた)


近江の秋の俳句と短歌連作


(東北とも福島県と近江は古代から関係していた)

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湖の道


秋深む銅鐸古りぬ近江かな
一葉の紅葉の浮きぬ竹生島
三井寺に鐘なり暮れて秋の湖
秋風や昔の栄堅田かな
秋鴎あまた群れ飛び浮御堂
一時を塩津に止まる枯木かな
湖西線日本海より秋の暮
高島に家型古墳や秋の暮
彦根城望む琵琶湖や刈田かな
織りなせる近江の興亡紅葉散る
秋深む金箔の瓦夢の跡

塩津駅あわれ一時とまるかな枯木に家の数軒見ゆかも
高島の野に宿りして奈良遠く淋しさ募る秋の夕暮
奈良よりし琵琶湖をわたる船のあれ菅原の名や秋の夕暮
義仲寺に秋の柳のそよぎつつ誰かたずねむ古き井戸かな
高島をたずねてあわれ湖に鳥居や波寄す秋の夕暮
堂々と家型古墳残りける誰が君眠る秋のくれかな
多賀神社たずねて帰る電車かな窓にかそけく月の見ゆかも
幾度かたずねてあわれ近江かな波音ひびく秋の夕暮
旅路きて真野の入江や葦枯れて鴨の浮きにつ京を離れ見ゆ
清盛の瀬田の唐橋馬に乗り勢い良く渡る歌の残りぬ
石山寺たずねあわれ一隅に源氏の間や秋深むかな
石山寺石に誓ふと信心の歌そ詠みける秋深むかも
一望に近江平野や信長の天守に望む天下ふぶかも
比良の山伊吹の山や打ち仰ぎ秋の陽没りぬ琵琶湖光りて
韓国に近江の人と会いにつつ別れるし秋を偲びけるかな
葛尾(かつろう)に近江八景模し作り庭に偲びぬ秋のくれかな



どういうわけか近江には3回くらい行っている。近江は琵琶湖もあり風光明媚であり歴史もある。三井寺の鐘は奈良時代となるとやはり古い。あそこで確かに鐘の音を聞いた。
しかし記憶も薄れてゆく、ふりかえると自分ほど旅した人もいない。
それも何かただぶらぶらしていただけである。あてもなくそうして旅していた時間がなつかしい。
多賀神社などたずねる人は少ない、伊勢神宮は今でも多いけど多賀神社はたずねない。
でも多賀神社は昔は伊勢神宮とも並んだ大きな神社だったのである。
そんなところまでたずねて電車で帰ったその時乗っている人も少なくかそかに月がでていた。
それも30年前とかなると記憶も定かでなくなる。
ただ近江に関しては地理的にわかりやすいことがあった。

でも旅すると方角がわからなくなる。どうして湖西となると西になるからあの方向が西なのかわかりにくい。東となると東であるがこの辺で東となるとどうしても海側なのである西となると山側になるから方角的にわかりやすい、旅すると方角がわからなくなる。
湖西線は日本海から回って京都の方に通じている。
塩津駅は印象に残る場所である。古代でもそうであり万葉集にも塩津のことは歌われている。つまり琵琶湖を船でわたってきて塩津の港で日本海の方に向かったのである。
太陽が沈む方向は湖西線の方であり比良の山の方である。
t錯覚していたのは菅原は高島に近い方だった。湖東の長浜の近くだと思っていた。
つまり何かこの方角が旅するとわからなくなる、錯覚するのである。
ただ近江がわかりやすいのは中心に琵琶湖があるためである。

近江に魅力を感じたのはそこが都会ではない、関が原を出ると広々と近江平野が望まれ解放された気分になる。

浅みどり三上の山の春霞たつや千歳のはじめなるらん(大江匡房)

この山は形がいいし目立つ、電車が走りこの山を望むと気持ちがいい。
あそこが電車が走っていて一番気持ちがいい、でも大津になると都会化して高層ビルなどかあるからいいと思わないし京都までも家が繁華で広々とした解放された感じがなくなるそれは大阪もそうであり神戸辺りから瀬戸内海を望むとほっとするのである。

近江は相当に歴史がある。らその点でも魅力がある。いろいろな歌も残されているのも魅力である。京に近く東への出口となっているのも魅力である。つまり近江は地理的なものと歴史的なものが積み重なって魅力を作っているのである。日本の要、要衝の地になっているからである。奈良時代は奈良から敦賀などの通り道であり越の国へ出た。
そして一番古いのは敦賀はツノガノアラシト伝説のツノガでありこれは朝鮮半島から来た製鉄技術などをもった渡来人の一団だった。
そしてそれはみちのくと深く関係していたのである。
今回の東北の大津波で津神社が津波神社だと話題になったがそれは嘘だった。
津神社はたいがいつのみやとか言われたものが津神社に漢字化されてわからなくなったのである。津(つ)神社とは言わない必ずツノミヤ神社と言っていることでまぎらわしく誤解されたのである。すてに700年に浪江の棚塩に津神社が祭られていたのである。それはツノ神社でありツノガノアラシト系統の製鉄の技術をもった人がわたってきたのである。

近江は意外と東北と関係が深い、古代も近江系統の渡来人が来ていた形跡がある。陸奥の真野の草原の万葉集の歌は地名が三つでている。陸奥と真野と草原(かやはら)である。
草原には異論があるがこれも地名らしいのである。真野という地名は近江にもあるし吉備にもある。もともとは味真野が越にあったように葦き間から見える野だったのである。
近江の古代は今の大津や堅田ではなく高島町が中心だった。
だから立派な家型古墳が発掘された。それは本当に貫祿のある石作りの立派なものであるそこから金銅双魚も出ている。それは真野の草原(かやはら)の歌われた鹿島町からも出ているのだ。そこにも一つのつながりがある。
戦国時代は日野から蒲生氏郷が会津の領主になったことは有名である。
それから石田三成は戦国時代に相馬藩と深く関係していたのである。
なぜなら三成の旗が江戸時代の野馬追いの絵に出ていたからである。
自分の住んでいるすぐ近くの田中城にもきていたというから不思議である。

それから近江商人というのも有名であり相馬藩の元の中村に支店を出していた。
東北でも近江商人の支店が結構あった。
それから面白いのは製鉄で財を築いた葛尾(かつろう)村の葛尾大臣という跡が残っているがそこに近江から連れてきたという嫁をヨネという女性がいた。
その女性が近江八景を模した庭を作って故郷を偲んでいたのである。
自分も韓国の旅で世話になった人が大津の人だったというのも縁があった。
だから近江には特別興味をもっている。それだけではない近江は風光明媚であり歴史もあるから魅力がある、大阪だったら大坂城だけしか歴史がわからないからである。

ともかく近江は歴史絵巻物として書きやすいのである。織田信長の安土城もあるし古代からち中世から江戸時代と歴史てとして重層的に継続されているものがあった。
奈良というと京都に都が移ってうらは田舎化したという歴史の継続が断たれたこともある奈良は古代で歴史が途絶えたが京都と近江は江戸時代でも職人の町商人の町としてつづいていたのである。
それも東北と関係していたということが魅力になるのである




タグ:近江

2015年01月25日

瀬戸内海ー春の俳句連句


瀬戸内海ー春の俳句連句

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洲本城波のやさしく春の月
船見えて若草萌ゆる瀬戸の海
夕日さし船の往来明石城
汽笛鳴り大きな船や瀬戸の春
春潮や大阪へあまた船の入る
重なりて瀬戸の島々春の海
昔なれ島々の港春の月
潮流の早き流れや燕来る
常夜灯潮流の岸辺椿散る
三重塔島の栄や落椿
瀬戸の島蝶の生まれて島わたる
船を待つ暇のあれや島の春
春日さす待合室や船を待つ
船遅く菜の花の島めぐりさる
ひた走る電車や海沿い桜咲く


思い出す旅というのも不思議である。自分は瀬戸内海を旅したときもわざわざ遅くなるようにしていた。今だったらいくらでも早く行ける、それが旅の情緒をなくしている。
旅がなくなったというとき早すぎるからである。
歩いていた時代の旅と今は百倍の速さになっている。すると心に映し出されるものは記憶できない
めまぐるしく過ぎ去ってゆくからできない、団体旅行などでは人としゃべる時間にとられるとまた心に残らない、つまり旅の時間は回りの景色に注意しなければならない
それだけで相当な時間の余裕が必要である。
ここで一時間次はここで30分などと計画していたら旅にはならない
そういう旅は印象に残らない、ここは景色がいいから夕方までいて夕日まで見ようというのがいいのである。
だから時間が制限されたら見るものも見れないのである。
現代の旅はそういうことが多すぎるのである。
速度をわざと落とさない限り景色も心に残らないのである。

瀬戸内海を旅したときはすでに20年とか30年まえとなになった。
ただその時わざとゆっくりとした旅をしていた。
こういう時間に余裕をもてるのが贅沢であり金を使うことではない
その時間が消失したときつくづくそう思うようになった。
その場所にいつでも気軽に行けると思っていたが今は行けない
そういう時が誰にでもやってくる
あそこにもう行けないのかと思うときショックである
そうてるとあそこに長い間いたことが貴重だったとなる。
ただどうしても記憶は定かでなくなる
なんとなくこんな雰囲気だったなと俳句にしてみたのである。

こういう俳句が作れたのはやはり瀬戸の島々をぶらぶらする時間があったからである。
旅というのは意外とできない、家族を持ち勤めていたらこんな旅はできない
二三日の保養が精一杯になる。ただ移動して動いているだけなのである。
だから旅するということは意外と今は交通が発達して楽に見えてもできない
その時間が与えられないのである。これも皮肉なことである。
とにかく旅するなら一カ月間くらい余裕みてするのがいいがそれが勤めていればできないまず今はそもそも旅人というのはいない、旅人になれない、江戸時代辺りだとみんな旅人になっていた。それだけの距離を歩いて行くし時間がかかるからである。

瀬戸内海の春は春らしい、船が好きであり電車も好きである。車は好きではない
車が旅を破壊したということはある。船はやはりゆっくり進んでいる
電車も普通電車なら遅いから旅情がある
新幹線になるともう過ぎ去るだけになる。
瀬戸内海は昔だったらやはり生活があり活きていたのだろう。
港々が生活の場になっていた。
それも車時代になると変わった、運輸は船ではないだろう
ただ島から島へは橋がなければフェリーになるが橋がかかると港も廃れた
そこちまた旅情を牛なっている

瀬戸内海は潮の流れが早い、それが内海でも違った印象を受ける
その潮の流をしらないと船は操れない
瀬戸内海から村上水軍とか生まれたのは必然だった。
瀬戸内海はやはり日本の海としては魅力がある
日本の海では唯一古代から船の交通路となっていたからである。

淡路島の洲本に泊まったがあそこの海岸の波は穏やかだった。
自分の住んでいる太平洋岸は波が荒いから穏やかでやさしく見えた。
あそこには松がありいい場所だった。
洲本の城も小さくてかわいらしく見えた。
淡路島は大きい島でありただ洲本意外はわからない
結局今は思い出を綴る作業をしているのが自分である。
それを俳句でも詩でも作品化している
一連のものとなるときそれが一つの作品となるからである。
単発ではなりにくいのである。
だから一連のものとしてつなぎあわせる綴る作業をしている



禍福はあざなえる縄のごとし

江戸時代だったら
伊勢なんか遠い、もう一生に一度の旅だ
一カ月間はゆうゆうかかるな
歩いて歩いて目的地につく
一カ月間は農作業は休みだ
じっくりと見てまわるよ

伊勢か新幹線と数時間
パリかニュヨークか
飛行機で何時間
どこでもすぐに行けるな
でもそこで過ごす時間がない
毎日が勤めだからな

世の中とはこういうふうにできているんだよ
なんでも満たされることはない
便利だと思っても時間がなくて旅が楽しめない
肝心の時間がないんだよ
家族サービスだ、勤めは一カ月間休んだら首だよ
すぐに行けるんだけど時間がないんだよ

世の中こうなっているんだよ
原発は便利なものなんだけど
電気は便利なものでいいんだけど
原発事故になったろう
二つのものを人間は満たせないようにできている
便利が不便になり不便も実はいいところあったんだよ
何でもいいことはこの世にはない
禍福はあざなえる縄のごとし
時代時代に幸不幸があるんだよ

タグ:瀬戸の春

2015年04月08日

京都の桜(俳句十句) (京都には日本の歴史と文化が凝縮されている)


京都の桜(俳句十句)

(京都には日本の歴史と文化が凝縮されている) 

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枝垂桜夕べ艶なり京にあり
八坂なる枝垂桜の古木かな
雨にぬれ枝垂桜の艶なりき
琴の音や京の女かな花の散る
詩仙堂真昼散る花落椿
詩仙堂花散る真昼錦鯉
京の橋誰か逢わなむ夕桜
千体の黄金の仏や花盛り
屏風にそ醍醐の花見残す京
一庶民京の花見に酔いにけり
京都なれ哲学の道も花の道
たずぬべき名所あまたや京の花

優艷に枝垂桜や京にありその日は遠くみちのくに想ふ

ゆくりなく京に花散るその時をかえりみて今我が惜しむかな

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京都にも四回くらい行っている。桜が咲いた時も二回くらい行っているかもしれない、ただそれも30年前とかなると記憶が薄れる、八坂神社の枝垂桜はいかにも古くそういう古いものが街中にあるのも京都である。
つまり八坂なる・・というときそこにすでに歴史の古さを自ずと語ることになるのが京都である。あの枝垂桜は樹齢何百年という古さなのである。
それを雨にぬれた夕暮れに見た覚えがある。これも相当にうろ覚えになった。

京都とは何か?それは日本文化が凝縮して残された歴史の街である。
だから京都を理解することは一回くらい旅行してもわからない。
時間軸で偲ぶ歴史は簡単にその場を踏んでもわからないのである。
京都には見るべきものがあまりにも多いからである。
一つ一つに長い歴史がこめられている。八坂神社というのは全国にありそれも京都から広がったのだろう。北野神社などもこの辺にあるから京都から広がったのだろう。
そのルーツが京都にあるのが多いのである。
秀吉の醍醐の花見でも屏風絵として残っている、東北にはそういうものが残っていないことでも栄えた歴史がないのである。

だから日本の歴史と文化の栄は桜が咲くとき京都とか大阪とか西の方が一体として感じる京都にはやはり芸術の街であり芸術が花咲いた街である。
奈良は万葉集であり縄文時代の継続のような日本の原始性の世界である。
京都はかなとか発明され平安時代に女性が文学を残したことでもわかる。
奈良の男性的なものから女性的なものへの移行がある。
だから何か仏像でもやさしくふくよかなものになる。
平安仏は貴族の仏教だったからである。
小高の大悲山の磨崖仏は平安仏なのである。だから相当に古いものである。
鎌倉時代になると武士社会になり質実剛健なものとなってゆく

いづれにしろ京都というとき哲学の道とあってもそこは花の道になっていた。
美的なものは哲学的なもの宗教的なものが一体化している。
京都には日本の美意識の基がある。
京都に住めば日本の文化の真髄にふれることになる。
それでも京都は大都会でありそこで風俗的にも乱れていることもある。
最近中国人の観光客がふえたりすると何か京都の風情が乱される
修学旅行生でもうるさくて嫌だった。
今では外国人にホテルも占領されて泊まれないとか何か必ずあまりに観光化すると本来の風情は消失してしまうのである。

ともかく京都ならどこの道を歩いてみてもそこに先人の平安時代からの歴史を感じる。
ただその歴史を感じるには時間が必要であり旅にはその時間がないのである。
だから本当に京都をわかるには住んでみないとわからない。
京都の桜では御所の桜と詩仙堂の桜を今でも覚えている。
特に詩仙堂の桜が雪のように散って真っ赤な落椿が映えていたのはまるで絵のようだったとなる。
そういう絵になる場面が京都には多いのである。
ただあまりにも寺が多すぎるので困るのである。
寺はもともと観光の場所ではない、修行の場所であるから観光には向いていないのである詩仙堂などは風流人が住んだ所だから違っている。
京都で驚くのは寺の柱に応仁の乱で争った槍の跡が残っていたことである。
寺の中まで侵入して争っていたのである。
京都は政権争いの場でもあるから戦乱に常にまきこまれてきたのである。
そういう点でも常に歴史の中心としてあったから千年の都なのである。

 
タグ:京都の桜

2015年10月31日

京都も方角がわかりにくかった、鞍馬山は暗部山 (京都は滋賀県とも地理が一体である)


京都も方角がわかりにくかった、鞍馬山は暗部山

(京都は滋賀県とも地理が一体である)



秋の夜の月の光しあかければくらぶの山も越えぬべらなり(在原元方) 
(訳:秋の夜に出る月の光が明るいようなので、闇深い鞍馬の山も越えていけそうだが・・・)

梅の花にほふ春べはくらぶ山やみにこゆれどしるくぞ有りける(紀貫之) 
(訳:梅の花の匂う春には、さすがに鞍馬の山の闇を越える時も白く見えていることだ)
わが来つる方もしられずくらぶ山木々の木の葉の散るとまがふに(古今295)


鞍馬山昼なお暗し樹々の根のむきだしにしてさえぐ道かな(自作)




「春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山際、少し明かりて…」というのは東山を描いた文章だとされています」

枕草子のこの文は東山を見て書いた。京都の地理はわかりにくい、どこに行っても地理はわかりにくい、まず方角がわからなくなる、盆地になると意外な所が太陽が上ったり沈んだりする。それが旅の醍醐味でもある。
歴史を知るには地理を知らなければならないとは何度も書いた
でもこの地理が一番わかりにくいのである。京都は複雑でありわかりにくい。
自分は滋賀県には何回も行った。琵琶湖があるから行った。
湖西線というのがありそこが西となっている。確かに西に陽が沈む場所だったしではそこが西なら東は関が原の方向になり東(あづま)の方向になり西と東を分ける場所である。
地理を知るときは一部分からはわかりにくいのである。広範囲にその一帯を知らないと地理はわからない、今はどうしても電車とかで一部分を切りとるように見るからわかりにくくなる。

ここでも東山とは京都から見れば東になるが山科とか琵琶湖方面から見れば西山になってしまうのである。西と東では感じがかなり違っている。
春はあけぼののように明るい感じになるのだ。ただこれは盆地に住んでいる人の感覚である。海側に住んでいる人は太陽はいつも海から上る、だから山から上る陽というのは感覚的にわかりにくい、大阪に日下(くさか)という古代からの場所があるときそこは陽の沈む場所だった。大阪になぜ海に面して陽が沈むのかも感覚的に違和感があった。


地図を見たら鞍馬山とか東山とかは近江に接している山だった。すると近江を知らないとまた京都は地理的にわかりにくいのである。近江と京都は一体としてあるし他でもそうである。大地はつながっているから地理をわかるには全体を見ないとわからないのである。福島県と宮城県とかで区切るのもそうである。
特に廃藩置県は歴史がないし地理的にもいいかげんに無理して作ったから一体感が普通はない、ただ滋賀県というのは琵琶湖を中心にして山が囲んでいるからわかりやすい。
滋賀県は風光明媚であるが京都は都市としては規模が大きすぎてわかりにくかった。

湖西線秋の陽没るやさざなみの琵琶湖の岸や波のひびけり

湖西線というのは西といいうことでそういう感じになる。西というとやはりその方角なり風情になる。

鞍馬山は近江側の山と連なっている。近くに比叡山があり意外と大原も近かった。
方角的には湖西線が名前とともに印象に残っている。
まず京都市内に来たら方角がわからなくなる。
京都というとき大坂まで大都会になっているけど近江は琵琶湖があり田畑もあり田舎びているのがいいのである。それは京都から近くてもそうなっている。
でも大阪方面になると大都会になり家が神戸までも密集しているら嫌なのである。


いづれにしろ鞍馬山はくらぶ(暗部)山であり昼なお暗い山なのだろう。京都の面白さは都会だけではない、街から離れるとこうした昼なお暗い山がありそこが修行の場になっていた。まさに魔界の場にふさわしいとなる
暗いというときそもそも電気の光でこうこうと夜まで明るくなっている世界と昔だったらそれも江戸時代でも京都でもどこでも暗いのである。そこでまた過去を錯覚するのであるインターネットの鞍馬山の写真では本当にむきだしの根が張っている、その樹も古いからそうなる。


梅の花にほふ春べはくらぶ山やみにこゆれどしるくぞ有りける(紀貫之) 

梅の花で白く目立ったというのはやはり当時の感覚だった。そこはあまりにも暗い場所だ一段と映えたのである。
いづれにしろ昔の山であり道であれ街中でもどこでも暗いのである。
そういう暗い所に住んでいて鞍馬山が暗部(くらぶ)というのは余程暗い山だったのである

わが来つる方もしられずくらぶ山木々の木の葉の散るとまがふに(古今295)

木の葉が散り道もわからないようになってしまう。まず平安時代という時代で京都は一段と暗いし今の感覚とはまるで違う。暗黒の魔界に感じたのがイメージできる。

タグ:京都の方角

2016年03月01日

桜の花の短歌連作続編(大坂城)


桜の花の短歌連作続編(大坂城)


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秀頼と淀君の無念大坂城夕べ桜の散りやまじかも

今しきり花の散るかな大坂城夕日赤々と心に残りぬ

武士の意地見せて戦う大坂城石垣の固く守り残りぬ

一陣の風に吹き散る花やさらに大坂城内花散りやまぬ

大阪城門入る人の絶えぬかな夕日に映えにつ花散りやまじ

華やかに秀吉の世は終わりけり夕日の映えて散る花あわれ

花の咲き明石海峡夕べにも船の行き交い難波の栄えぬ

伏見城黄金の茶室春の夢まみえし人は今はなしかも

花咲くや奈良に京都に大阪やみちのく遠く未だ咲かじも

みちのくに政宗ありと名をとどむ今日の都に織りなす歴史

我が家の広き廊下に春日さし栄はここにもあるを知るべし




春の奈良京都大阪

大和なる奈良を離れて京都にあり
千年の都にあれ古りにし御所の塀長く
枝垂桜の色濃くも咲きにけるかな
五条の大橋瀬音も高く人々の行き交いて
燕飛びきて各地より集まる人々
織りなす歴史の絵巻かな
三十三間堂黄金の千の仏の光輝
その巧みここにはぐくむ職人の業
金閣銀閣対なし映えて千年の都かな
春爛漫大坂城の大いなる石垣や
花は盛りに大門を入る人の群れ
安土桃山の豪華絢爛たる文化華開く
みちのくにもその障壁画あり
松島に伊達政宗の茶室や時代を偲びぬ
大阪は日本の商都、人々集い活気に満ちぬ
奈良大阪京都と日本の歴史は編まれけるかな


大坂城の花見客(詩)

桜前線の短歌



桜前線の短歌で前から書いてきた。インターネットは絶えずリニュアールできることである。作歌が生きている限り更新されつづけるのがいいのである。
関西の方へはずいぶん旅した。その経験で面白かったのは関西に行くと桜は満開であり
みちのくに帰るとまだ桜が咲かないとかある
みちのくに桜が咲いたらすでに関西は散っているとか現実に自分は旅して経験している。桜はある一カ所で鑑賞するのではなく桜前線としての鑑賞がある。
日本も距離的に差が結構あり北海道となる稚内では6月に桜が咲いていたのである。
桜前線は6月まで稚内までつづいていたのである。


日本は桜の国である。桜は山桜もあるしいたるところに咲いている、別に京都の桜がいいとはならない、日本全国に桜が咲きそれぞれの美があり歴史があるからだ。
栄はべつに田舎にある,必ず栄えた家はある、自分の家も二代くらいでも栄えたとなる
何か廊下が長く広いからここに一番栄を感じた。別にこうした屋敷に住んでいる人はいくらでもいるからである。
ただどうしても関西が日本の歴史を作られた所だから桜ははもに歴史を感じる
大坂城は城より石垣が見物である。それが歴史を象徴していることで桜もまたそこに歴史とともに鑑賞するのである。
秀頼と淀君が炎上する大坂城とともに死んだというのも苛烈な悲劇だった。
信長も秀吉も華やかに桜が咲いて散ったという感じになる、絢爛豪華な安土桃山時代の文化も作られた。
徳川三百年は地味だがこの時は絢爛豪華になった。その時陸奥の伊達政宗も一枚加わっていた。東北が中央の政治を動かしたのはこの時くらいだろう。


それにしても関西方面から陸奥へと行ったり来たりしていたというのもずいぶん贅沢だと今では思う。そんな時間は普通の人にはないだろう。
そういうふうに行ったり来たりしていると桜前線が日本の旅の情緒になることがわかる
そんなに旅しても以前とし富士に映えている桜は一度も見ていない
だから今度は見ようとしているが富士に映える桜がどこなのかというと行きにくいだろう富士山は車がないといい場所を見つけないと見れないだろう。
でも富士山が欠けたら桜前線の短歌は完成しない、今度は旅できるから行ける
ただそこで桜が映える富士山を見ることはかなりむずかしいかもしれない
それにはまた相当な時間が必要になるが桜前線とか桜は見にくいのは一二週間で散ってしまうからである。その間に見るとなると見れない桜はいくらでもあるとなる
桜の古木などどこにでもあるからである。

奈良京都大阪にはそれぞれ個性がある。歴史がある。その相違はやはり歴史を知らないと理解できない、大坂城はわかりやすい、京都はいろいろあってわかりにくいが大坂城は外国人でもわかるだろう。
日本を一時治めた城ですとなればわかりやすい、ともかく大坂城で忘れがたいのは夕日だった。その夕日が映えて桜が散る光景はわすれがたい、今でも夕日が赤々と心の中で燃えている不思議がある
大坂城は夕日にあっていた。秀吉の栄華の跡であり滅びの跡だったからである。


大阪城と夕日


2016年05月02日

和歌山県をイメージする (古代からふりかえれば・・・)


和歌山県をイメージする


(古代からふりかえれば・・・)



4月1日時点の和歌山県推計人口は、95万8018人(男性45万408人、女性50万7610人)で、1 
 997年以降、20年連続の減少となった。1年間の減少数は9347人。 
 減少幅は拡大傾向で、調査開始の1967年以降最多となった。 


紀伊半島の由来ともなった紀伊国の大半に当たる(一部は三重県となっている)。江戸時代は初期には浅野家、のちに御三家の紀州徳川家の領地(紀州藩)であった。附家老として田辺に安藤家、新宮に水野家を置いた。古くから「木の国」と謳われたほど山林が多く(中山間地域の比率が7割超)、紀伊水道や熊野灘を挟んで変化に富んだ海岸線が続く。また、このような深山幽谷の地形から高野山開基による仏教寺院や熊野三山などの神社信仰が発達しており、その一方で中世から近代にかけては紀ノ川沿岸を中心に全国から見ても大規模な都市が形成されていた。


水戸、尾張より格上だよ将軍を7人も出してるし。 
 最後の将軍も一橋慶喜じゃなく、 
そのまま紀伊家の徳川家達にしてりゃ 
 もう少し江戸幕府も存続してたかも知れない。 
 和歌山は多くの優秀な人材を輩出してる。弘法大師空海が 
最後の修行の場を和歌山の高野と決めたのには理由がある。 



根来衆など問題地域 
 大阪の監視 
 昔は船運メインで大都市 
 将軍輩出 
 鉄道に変わり徳島共々衰退 
 道路に変わっても変わらず衰退 

 和歌山は行き止まりだからな 
和歌山の向こうには海しかない 

親戚が新宮という所に住んでるが和歌山まで車で五時間以上かかる 
険しい峠もあるし全く地元という感じがしないといってた 
三重の県庁所在地の津の方が近いから三重県にしてほしいともいってた 

確かに和歌山は、和歌山市以外平地という感じのところがほとんどないな。 


 房総も先っぽは過疎だし、 
 三浦も絶賛減少中。 
 伊豆も言うまでもなく。 
 人口密集地の隣にあろうと、 
 半島はどこも大変。 


熊野古道
端くい岩
竜神温泉
十津川温泉と龍神間を結ぶ酷道(国道425号?)
那智の滝

1585年(天正13年) - 羽柴秀吉の命を受けた羽柴秀長による和歌山城築城開始。古代からの名勝地「和歌浦」に対して、秀吉が「和歌山」と命名したことに由来する。
近世[編集]


俗に「根来」と称される朱漆塗器物の一群は、繁栄を極めた中世の紀州根来寺で
一山内の旺盛な需要を賄うために製作された朱漆器が主流をなすが、江戸時代に
入ってからも庶民の間では「根来もの」「根来出来」と称されて喧伝・珍重された。

 それは中世根来一山内の組織立った工房が優れた木地師集団や塗師を擁し、彼らが
積極的に機能的で洗練された美しい形姿と微動だにしない頑健な素地づくりに励み、
さらには堅牢な塗り肌を持つ良質な漆器に仕上げられたからに他ならない。



和歌山市加太

旧休暇村・加太研修センター

藻刈り舟 沖漕ぎ来らし 妹が島

 形見の浦に 鶴翔るみゆ

巻7−1199


紀伊の国の 雑賀の浦に 出で見れば

 海人の燈火 波に間ゆ見ゆ

巻7−1194

和歌山市和歌浦中

玉津島神社・塩竈神社

若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ

 葦辺をさして 鶴鳴き渡る

巻6−919


海南市下津町大崎

大崎集落手前

大崎の 神の小浜は 狭けども

 百舟人も 過ぐと言はなくに

巻6−1023

日高郡由良町白崎

白崎海岸

白崎は 幸くあり待て 大船に

 真楫しじ貫き またかへり見む

巻9−1668




和歌は若であり若の浦だった、和歌山県の由来は浦と山の県だということで地形と一致している。 
ある県からどれだけのものをイメージできるか?イメージできるものが多ければその県のことに興味をもつ、和歌山県のことは結構イメージできるからふりかえると興味をもった隣の三重県についてはほとんどイメージできない。
和歌山県というといと古代から歴史があり万葉集の歌の数も多い、和歌山県という名自体が若の浦の万葉集からでている。
和歌山県というとき今は辺鄙な場所であり過疎地が多くなっている。地形的に平地がほとんどなく山と海しかないからである。
古代にさかのぼるとかえってそこは海があり漁業があり特に木の国と言われたごとく木材の供給する地として知られていた。

島隠り 我が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へ上る ま熊野の船  山部赤人

このま熊野の船は有名であり船をつくる産地として熊野があった。熊野信仰も全国に広がった。特に東北にも広がり熊野系の神社が多いのである。そして和歌山県に鈴木姓が多いというとき相馬でもそうでありそれは熊野信仰をたずさえて移住した人が多いからである熊野信仰は山岳宗教のメッカであり高野山もあり熊野詣でがあり海と山との典型的な日本の地形の国としてもみれる、太地町のように鯨業が盛んだったのも海に活路を見いだすことがつづいていた。
今は辺鄙な地域であるが古代から船をつくる木の豊富な地域であり交通の要所としてあった。それから信仰も盛んであり江戸時代でも和歌山城でも立派であり徳川御三家であり吉宗将軍を出している。
この船をつくるということは重要なものでありそのことが見失われている。
外国でもレバノン杉が有名だけど船材として利用されて喪失した、つまり船というのが重要な役目をになっていたのでそうなった。船はやはりその後も大航海時代でも一時代を開いたように重要なものだったからそうなった。

 大阪の監視 
 昔は船運メインで大都市 
 将軍輩出 
 鉄道に変わり徳島共々衰退 
 道路に変わっても変わらず衰退 

これは古代からもつづいていた地理的宿命であった。船運があり確かに船は徳島にも出ていた。自分は日本の船だとたいがい乗っている。それだけ暇だったともなる。船は時間がかかるからである。沖縄には東京から5日間か7日間だったとかかけて行った。あれは客船というより貨物船だったのだろう。あれには一番長く船に乗っていた。あんな経験はなかなかできない、今はなくなっている
普通の船だと船はそれだけ時間がかかっていたのである。船旅と電車の旅は十分にした。自転車の旅もしたがこれはまだものたりないとなる、今になると疲れて自転車の旅はできない、やはり若い内にハードな旅はしていた方がいい。
 鉄道に変わり道路も変わっても衰退したというのは船運なら陸の孤島でも良かったからである。むしろ船材が供給されるから有利だったとなる。
江戸時代でも北前船があり船が重要な役割を果たしていたのである。 

新蕎麦やむぐらの宿の根来椀 蕪村

山深いということで木地師がいた。それが寺と結びついていた。寺は当時は文化の担い手だった。これなども歴史として興味深い、和歌山県はこうしていろいろとイメージできる県単位でイメージできる県が少ない、何々県とあってもそこをイメージできればその県に興味をもつのである。
その県をイメージするにはまず地理と地形を具体的にイメージできるかどうかなのであるそれには旅しなければわからないということである。
その点自分は全国を旅しているからある程度はイメージできる。

和歌山県というとき山と海の国であり今になると産業的には不利であるが観光としては面白い国かもしれない、

和歌山城石段長く我が上る登城するなれ秋の朝かな

和歌山城の石段は長く感じた、やはり吉宗の城であり55万石であり大きな城である。
山と海の国にしても木材の供給地でありそれだけの経済的基盤があったからそうなった。江戸時代でも地方には木材などは森林資源は大きな財源になっていたのである。
それが全国的になくなったとき地方は衰退したのである。
地方から供給するものがなくなり工業社会になればそうなる、石炭なども供給されないし結局地方は原発を作りそれは地方で供給されるものではない、そして森林も汚染されるだけとなったのである。

タグ:和歌山県

2016年05月04日

西と東の境目が伊吹山であり関が原である (信長が天下を制覇したのは地の利があったから)


西と東の境目が伊吹山であり関が原である


(信長が天下を制覇したのは地の利があったから)


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地域をイメージするとき古代から考えねばならない、それが今でも今の県の名前の元になっていることもある。
地形的に一致しているのは和歌山県である。若の浦という浦と山を基にしているからである。日本はもともと海彦、山彦の世界であり漁労採集狩猟で生活していた。
縄文時代の一万年が日本人の骨格を形成した。それは地形からそうなった。
その典型的なものが和歌山県だったのである。
この辺では新地の手の長い神が貝を食べていた、そこに貝塚ができた。
そこに神社が建てられ祭られた。
これは他にもあるが新地の地形を見ればそれは嘘ではない、貝塚もあるし地形は変わらないからその伝説を証明しているのである。
新地は海と山が接近しているのである。相馬地方でもあとは海はかなり山から離れているだからその場所にそういう伝説があるのは事実を基にしているのである。

吉備  黍(五穀の一つ)の産地であったことに由来

吉備が黍(キビ)だというときキビ団子の鬼退治にも由来している。日本では米を最初から食べていたわけではない、キビを食べていたし五穀を食べていた。十五夜のお月さんに備えるものは団子であり芋などである。米ではないのである。
だからそれは相当に古い祭りの伝承だとなる

そして和歌山県とうとき紀伊の国であり木の国だと言われるのもわかる。そこは熊野の山があり森が深いから木材が船材として供給されたのである。
そして奈良というときそれは均(なら)すから来た言葉だというとき奈良は盆地でありそこは広大な湖だった。たいがい盆地の中は湿地帯であり湖であったことが多い
福島市も会津もそうだったと言われる、奈良は均すであり湿地帯を田にして米をとって発展したところだとなる
そこで山辺の道のように巨大な古墳は山際にあり平地の中にはないのである。
山を中心にした生活が基本にあったためである。ヤマトもやはり山なのである。
ヤマトとは山の戸口である。そういう場所に人が集中して住んだとなる

文明が起こるときは定期的に安定して食糧が得られるとき起こる、エジブト文明では麦である。ビールまですでに作っていたことでもわかる。インカとかはトウモロコシである。日本では米を作りはじたとき縄文文明から稲作文明に移行したのである。だから均すが奈良になり都になった。

地形をみるとき日本では山が多く平地が少ない、その平地はたいだい湿地帯になっているその湿地帯が田んぼになって米を作ってきたのである。
麦は乾燥地帯に向いている、エジフトでも砂漠になっているように乾燥地帯なのである。日本は湿潤であり大量の水を利用する稲作に向いていたのである。
古代国名では米を稲をイメージするものはない、日本の古代は縄文文明の時代だった。
その継続として国名があったからである。

旧国名の由来

吉備は黍ではなく地形説をここではとっている、旧国名はほとんど地形に由来している
地名はたいだい最初は地勢とか地形である。
歴史でもまず地形を知らなければ基本的なことが理解できない

父の景行天皇の命により、ヤマトタケルは西に行き、クマソを討って帰還するが、更に東方平定を命じられる。東国からの旅の帰途、尾張の国でミヤズヒメを娶るが、その折に、叔母のヤマトヒメから貰った大切な剣をそこに置き、素手で伊吹山の神の討伐に向かった。山道で大きな白い猪に出会うが、それを神の化身とは思わず、侮って帰りに討ち取ろう、と言ったために神の怒りを買い、大氷雨に遭って悩まされる。

伊吹山がどういう位置にあるかが最大の問題なのである。そこは古来から西と東の境目である。
東(あづま)とは伊吹山を境として東側のことなのである。そこを境目にして言葉を違っていた。それが万葉集にも残されている。
東(あづま)の領域は広大だった、そこで壬申の乱も起きた。ここで天皇が二つに分かれて西と東の勢力が衝突したのである。それは関が原の戦いでもそうだった
つまりここは西と東を分ける古来からの境界線だった、だからこそヤマトタケルの伝説が伊吹山に残っている、つまり歴史は塵と深く結びついてる証拠なのである。

そして尾張という国を見ると尾張自体が開墾した土地のことでありここで米をとるために開墾して尾張は経済力をつけた。そこが天下をとった信長が生れた地域なのである。
信長が天下をとったのは必ずしもその人が優れたからだともならない、地の利があったからだともなる、とても一個人で成されるものではない、その背景には必ず地の利がある。だから地形を見ないと歴史がどう動くか動いたかはわからないのである。
これは世界史でもそうである。地理を知らなくして歴史もわからないのである。
信長は最初小国だったけどやはり地の利が作用して強国になったのである。

アフリカの中央部は峡谷が多く大帝国ができにくい、部族同士が争っているのは地理的要因もあったのか?エジフトに大帝国ができたのはやはり平坦な地が広がっていたからである。平坦な地は交通が盛んになるから大帝国ができやすい、それも地理の成せる業である世界史の理解が容易ではないのは地理がわからないからである。
地震とか津波でも地球の地質学とかも知り得ようがないからである。
人間の歴史の興亡も地理とともに起こり地理に制限されているのである。

タグ:伊吹山

2017年01月03日

新春短歌十首(海と桜と船と・東海から九州へ・・・)


新春短歌十首(海と桜と船と・東海から九州へ・・・)


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伊豆の桜と富士山

瀬戸内海-写真

開聞岳

写真はいいのが一杯あります、これは一例です


朝桜富士の嶺の映える伊豆の海

(東海)

東海に朝日の昇り紅梅の映えて電車のひた走るかな

駿河湾波うちひびき富士の山望みて春や心高鳴る

(瀬戸内海)

瀬戸の海見えて今しも花盛り行き交ふ船や島見ゆかな

島一ついづこにありや菜の花の咲きて行く船遅かりしかな

瀬戸内の島の古りにき夕暮れに梅の香りて宮居静けし

春の日の海に昇りて船は行く四国の沖や大阪へ入る

瀬戸の海入り来る船や古ゆ難波の港春日さすかな

淡路島今宵城にし春の月波おだやかに我が泊まるかな

(四国)

菜の花の咲きて沖にし船の行く遍路の旅も電車にのりぬ

(長崎)

春の日に海をわたりて韓国へ慶州にしも桜咲くかな

長崎に春の雨ふりあわれかな出島の跡に旅人たたずむ

春の日や長崎去りぬ大船の去りにし後や雨しととふる

春の日や石畳みの坂歩みつつ昔偲びて長崎の暮る

開聞岳春の夕日に染まりつつ船は去りゆく影そ濃くして



青春18切符でここから韓国まで行ったのは長かった、やはり長距離に旅の醍醐味がある、そうなるとどうしても時間がかかる、それで勤め人は旅がしにくいのである。
自分は金はないけど時間がふんだんにあったからできたのである。
要するに何度も言うようにその時間が人生では貴重であり帰って来ないのである。
ここに短歌にしたのでも相当に時間をかけてまわっているからだ。

旅とはあとから思い出すのも楽しみとなる。そのために車などだとなかなか思い出しにくいだろう。運転に集中するから外の景色も見ないからである。
鉄道だと外の景色が見えるからいいと車に乗っている人が駅で言っていた。
車に乗っている人は電車や鉄道のことが良くわからないのである。
これも車社会だからこそである。

自分は電車と船でも相当に旅した。一週間かけて東京から沖縄に船で行ったこともある
それだけ暇であり時間があったことなのである。
その船は貨物船のようなものであり大きな船ではなかったのである。
船の旅は気持ちに余裕ができるからいい、急ぐ必要がないからである。

瀬戸内海も相当にまわった、その時は瀬戸大橋はできていない、でも瀬戸大橋ができたときも行った、その時島に港があっても用がなくなっていたともなる
日本の魅力はやはり海に囲まれていることである。
常に海が見えて船が行くのが見えるのである。

いづれにしろこれまでも書いたが自分は旅が以前として心の中でつづいているのである。回想する旅ができて旅も完成するのである。旅しているとき発見しえないものが回想の旅で発見しているのである。










2017年01月10日

新春短歌十首(海より望む大和島)


新春短歌十首(海より望む大和島)


天離(あまざか)る夷(ひな)の長通(ながぢ)ゆ恋ひ来(く)れば明石の門(と)より大和島(やまとしま)見ゆ

浦廻漕ぐ熊野船着きめづらしくかけて偲はぬ月も日もなし(12-3172)

御食つ国志摩の海人ならしま熊野の小船に乗りて沖辺漕ぐ見ゆ」(6-1033)

島隠り我が漕ぎ来ればともしかも大和へ上るま熊野の船


(韓国)

韓国に東海望むかなたにそ大和島あり年は明けにき

島一つここに成りしも漢拏山反りつつ高く四方の海望む

韓国の済州島の漢拏山春風吹きて四方の海望む

韓国のゆ船に帰りて伽耶山の春の夕日に染まり暮るるも

春の陽の海より昇り輝きぬ新たな年を大和島見ゆ

明石城夕日に染まり行き来する船の絶えじも淡路島見ゆ

淡路島城もありにし春の月大阪近く一夜泊まりぬ

瀬戸内の島々船に行き来する小湊一つ春の夕暮

島々に潮流早し春の日や汽笛鳴らして大船の行く

島一つ望みてあわれ春の日や誰か住みなむ瀬戸の海暮る

春の日の海より昇りて船よりそ四国を望み難波に入りぬ

赤々と夕日輝きつ大坂城花散りやまじ人絶えぬかも

大坂城栄の跡やゆくりなく夕日に散りぬ花にそ想へ

旅路して花また花の宴の跡西の栄えの跡を行くかな


日本列島を見るときどうしても韓国が視界に具体的に入ってくる。
それはただ地理的なものだけではない、歴史的にもそうである。
それが今日までその綱引きがつづいている。
大和の義というときその国土にあるというとき韓国の一部が入ってきているのである。
もちろん韓国側からすればその義は韓国にあるとなる
韓国から日本海を見れば東海になる、日本海というのが韓国では嫌だとなるものそうである。
つまり日本の海だとなるからだ。それはただ方角的なものとして見ればどこの国の海ともならなんとはなる
でも明らかに韓国の一部は伽耶などがあった任那などは日本だったのである。
だから地理的に歴史的に日本の一部なのである。
韓国は中国と日本にはさまれてその国土のアイディンティティを義を維持するのがむずかしい国だった。だから良くこれまで国を維持できたとも感心する国なのである。

地理とか風土とかでもそこに歴史がかかわってくる、歴史とはその自然とアイディンティティ化した一体化したものである。だからインカとかマヤとかの山を見たときカナダの山とは違っていてそっちが魅力があったというときそれはそこに長い歴史のなかでアイディンティティ化した山だったから違っていたのである。
それは海でも同じなのである。瀬戸内海と西側の海は東北などの海とはまるで違った海である。船が絶えず古代から行き来してアイディンティティ化した海である。
瀬戸内海というのはだから地中海ともにているのである。
海人族が活躍した所だからである。平家などはそうした海の民を味方にして勢力を伸ばしたというのもそのためである。南船北馬ともなる国である。
東北の太平洋は荒寥として船も通わない海ともなっていたからである。
海が荒いし島が少ない、瀬戸内海は航海するには内海ともなっていい海だったのである。でも潮流が早し結構危険な海だったのである。

大和王権が船で日本を制圧したというときあの辺の民だったら船の技術が発達していたからできたとイメージできる、でも太平洋は荒いから丸木舟の大きくしたくらいで行けたのかとなる、船のロマンはバスコダガマとかコロンブスとかある
船の魅力は何か海を通じて一挙に新たな陸地に到達することなのである。
だからそれを鹿児島から四国の沖をまわって大阪へ難波へ来たとき感じたのである。
朝に春の日が太平洋から昇り四国の島影を望み進んだからである。
大阪というときまさに難波でありそれは古来から日本の大和島の入り口だったのである。
そして大坂城の桜は見物だった、特に春の夕日がかがやいて花が散っていた景色は忘れがたい、それは秀吉の大坂城にふさわしかったとなる
そこに日本の栄華があったということでありそれは難波の港ということから古代からそうであったのだ。そういう地理的環境から栄華が生れたのである。
だから桜というとき西側に大阪を中心にした所に一段と映えて散るのである。
それは東北の桜とは感覚的に違ったものである。それは歴史がそうさせているのである。

それにしてもあの辺を旅していたのはずいぶん前になった。それも不思議になる。
自分ほど旅した人間はいない、旅に時間が費やされていたのである。
そういう環境が用意されていていたというのも不思議だとなる、とても勤めていたらできないからである。旅に必要なものは時間であって金ではない、泊まるのに金がかかるにしてもそれより時間がないと旅はできなかったと今では想う
なぜなら年とれば時間が尽きてしまうからである。
結局自分は最初は鉄道の旅であり船の旅であり次に自転車の旅であり最後が外国の旅で終わったとなる。、ふやはり船の旅は時間がないとなかなかできないと今ではふりかえる
それだけ船の旅は時間がかかるからである。
世界一周の船旅でも3カ月かかるとかなる、それだけ旅したら満足だとなるだろう。
それでも船旅は楽だから年取ってからもできるだろう。年配の人が主になっているからわかる。80くらいでもそうした船旅はできるだろう。
ただ早めに旅はしていたほうがいいとなる、何か困難な旅は外国の旅でも早めにしていないとあとはしにくいのである。
ただ時間は容赦なくすぎてゆく、そして時間は二度と帰ってこないのである。
今はそして回想する旅となっているのである。それもやはり旅の延長であり旅だったのである。





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