朝風の樹にそよぎて涼しかも陽ざしに明るく立葵咲く
抽象画は具体的なもの花だったら花を描かない方がよりよいのだ。もちろん描けないのだが樹や花を線や円で抽象化することに意義がある。具体的な物をもってくると抽象画ではなくなる。抽象画という分野がれっきとしてありこの法則は具体的なものを描かずに線や円やその他面などで代りにするのである。これは偶像崇拝を禁止したイスラム教の絨毯とかモスクの紋様作りとにているのである。偶像崇拝を極端に禁止する時代は終わったが芸術としてこうした抽象画の分野はイスラム教を手本にして残ったのである。
緑の樹に風がそよぎそのかたわらに立葵が咲いていた・・それを抽象化したのがこの絵であった。絵が全く描けなくても抽象画がパソコンで作りやすいのである。パソコンだからこそできた抽象画なのである。これも創作であることは間違いない、レベルは低いかもしれないがこれは自分でもこんな芸術があると発見したのである。ソフトは2千円でありこれでいくらでも作れることがわかる。ソフトは別に高い物が必要ではない、いかに利用するかの方が大事なのだ。10万のソフトを買ってもうまく使いこなせないと無駄になるし無駄になることが多いのがソフトなのだ。結局10万くらいソフトでは無駄にしたからだ。
インタ−ネットはそもそも調べるにしろ何するにしろ使いこなす方がむずかしい道具なのである。今安くなっているが以前として使いこなすのがむずかしいのである。
芸術はいろいろあるが基本的に遊びが芸術である。子供のように遊び楽しむことなのだ。そんなのは芸術ではないとなればそうだが自分が遊び楽しめればいいのである。人間には対価なしで純粋に遊び楽しむことが必要なのである。何々したらこれだけしたらいくらだとか計算ばかりして暮らしているのが人間ではない、人間は遊ぶから人間だともいえる。遊ばないと退職したら何もない金にならないものしか興味がないとその人はボケる、認知症になるから遊ぶこともバカにできないことが身に沁みてわかったのである。
純粋に遊び楽しまないものの罰は認知症、ボケだ
こうなると遊びや純粋に自然でも人生でも楽しまないものは呪われた存在になる。現役中は金になり地位があっても一旦現役を退いたときボケが待っているいうことになってはなにもならないではないか?
全くボケは認知症は恐るべし人間に対する罰なのだろうか?
この病気は全く謎めいて不可解なものでありすぎるからだ。