故郷に老いゆくものや夕雲雀どうも自分自身が老いに入ってゆくのだから老いがテ−マになってしまった。認知症というのも明らかに老化の極端化したものともいえるし脳の老化と関係してふえてくるから高齢化社会では地域でもめずらしくなくどこにでもいるし地域でそうした障害者と共生せざるをえなくなってくる。施設に収容しきれなくなってくるからだ。
軽度の認知症の方をトレーニングしますと3年後に
は55%の方が良い状態でもっています。認知症の前段階の人をトレーニングしますと87%の方が良い状態でもちます。
悪くなってからではなかなか良くなるのは難しいということが言えます認知症は早期発見すると回復させやすいが悪くなると回復させるのがむずかしくなる。ところが物忘れなど老人になると誰でもするから単なるボケとかに思ってしまい見過ごしてしまのである。すでに自分の家族の場合も2年前からその兆候があり医者も気づいていたのである。とすればその頃から今のように密なるコミニケ−ションをしていればもっと回復していた。それでも軽度だからなんとか回復してきた。軽いうちに放っておかずいろいろ刺激を与えたりコミニケ−ションをとることが必要だったのである。
それよりも2年前より正常なときですら濃密な家族のコミニケ−ションがとれていれば認知症になる老人は少なくなるのではないか?この辺はわからないが自分の家族はそういう点であまりに普通の家族ですらない異常な家族だったのである。だからこそ認知症がでても不思議ではなかったといえる。家族環境が大きく作用してなるというのは間違いないような気がする。花に水をやったり田畑を手入れするように人間もかかわらないと花が早くしぼんだり作物も育たないと同じである。
うらうらに照れる春日に雲雀上がり心かなしもひとり思へば -大伴家持 この歌は現代の人の歌だと言っても誰も疑わないだろう。きわめて近代的抒情と同じなのである。これは老いと通じるものがあるだろう。
認知症といっても百人百様である。極端な物忘れは共通していてもすべてがわからないとか馬鹿になっているのではない、大人の会話が通じている不思議があるしユ−モワとか笑いとか人間的なものもわかるし通じているのだ。ただ極端な物忘れから整理が苦手になったり物盗られ妄想が起きたりするのが特徴である。
老いれば真昼の空にさえづる雲雀のようにはいかないが夕雲雀のように依然として認知症ですら人間として美しいものにふれ笑い悲しみ感動することはあるし人間的なものが通じるのだ。笑いがあるうちは人間だというのも言える。笑いとかユ−モアがない世界は荒寥とした世界となる。人間は確かに悲劇なのだが悲劇が喜劇にもなっている。認知症の悲劇を語ってきたがここには何か喜劇にもなっているのだ。これはまだ軽度だからこんなことを言うようになったのか、それとも認知症の人に接してなれたのか?人間はどんなことにもなれるということがあるからだ。最初はショックでもなれてしまいショックを感じなくなるということはありうるのだ。
ともかく人間とは老いるものであり老いは不可避的に起こるものであり老いは自然現象でもある。だから老いを受け入れざるをえない、植物でも生物でも老いは共通にある。それは自然現象であり自然なことであり老いをすべて醜いものとすることはできないのだ。老いて死んでゆくことはみんな避けられない、その老いをことさら嫌い否定することは自然ではない、社会でも地域でも老いを受け入れる寛容さが必要になってくる。ただ問題は高齢化社会はその数が多くなることが最大の問題なのである。これは自然現象としても社会現象でも不自然なものなのである。そのために認知症もふえるからやはり老いというのは自然現象でも数があまりに多くなるとこれは不自然なものとなり認知症のようなものが自然からの長寿社会への警告としてでてきたのかもしれない、エイズとかも性の乱れの天からの警告、神の戒めのようなものがあったからだ。