2012年05月17日

雷雨(雨にぬれた草原)



雷雨(雨にぬれた草原)


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ツツジ赤しかなたに望む鹿狼山


青々と雷雨のあとの草原(くさはら)に夕暮なおも雲雀鳴くかな


今日もまた雲雀鳴く声ひびきあう夕暮れ雨にぬれし草原


写真で見ると草原が遠くまでつづいているように見えるけどこの田の一区画だけが草が茫々と繁っていた。あとは田んぼだったところはそんなにまだ草が繁っていない、でも自然の状態はこうして草が茫々と繁っていた。日本だと雨が多いからその草原が青々とした水々しいものになる。
この辺はもともと湿地帯だった。その湿地帯に還ったともなる。


雲雀は草原とかにあっていた。広々とした草原で鳴いているのがふさわしい。水田のしめっぽいところにあったものではなかった。巣を作るのにも草が繁っている草原がいい、イギリスのようなゴルフ場のような丘にもあっている。水田にはあっていない、水田から草原に変わった自然を見ているのは不思議である。水田だからこそ山が神になりえた。春には神が山から里に下りてくるというとき水と深く関係していた。山から水が流れてきて水田が作れるからだ。そういう自然の摂理の中で山を敬うようになったのである。現実に草原化したら北海道の牧場のようになったら山が神という感覚にならない。なったとしても別な感覚でそうなる。稲作は水と深く関係している。水を分け合うということから共同体が生まれたしまた水争いもあった。水の管理が稲作共同体を育んだのである。そこに山を神とする共通の信仰も生まれた。もし稲作がなければそうした祭りもないのである。


雷雨のあとに水々しい草をみている。ただ白鷺とか見えない、燕が飛んでいても少ない、水田には餌となるのもがかなりあった。それがないから蛙もいても鳴いているのはわずかである。ただこういう状態が長くつづくと湿地帯化して自然の状態にもどる。その時北海道のような釧路湿原のうよなものになる。するとそこは自然だけとして見るならそれなりに気持ちいいとなる。でも暮らしがないのが淋しいとなる。

請戸の人が船を出して漁をしたことをなつかしんで歌を作った。無事で帰ってきたよ・・・とか漁師は無事に帰ることが何よりなことが実感としてわかる。必ず漁師は海で遭難しているしその遭難の碑が必ず港にはあるからだ。漁師であれ農家であれまるごと生活を失うことを想像すらしなかった。

これからも漁師の場合は請戸でも復活できるかどうかわからない、放射能汚染があるから簡単にはいかないだろう。牡鹿半島は漁ができて魚をとれたことを仲間と喜んでいた。そういう生活がいつもどるのか?雑誌にでていた家族でともに働いたいた方がどれだけ楽しいか、それ以上のものは望まないとか言うのは今はそうかもしれないがそう思って仕事していた人はいない、請戸の漁師でもそうだし農家でもただたりないたりないということから原発を誘致したのである。これでもたりない、たりない、欲望が尽きることがない、もっといい家が欲しい、車が欲しい、もっといいものが買いたい、もっともっと・・・欲しい欲しい・・・そうして犯罪にもなる。家もなくてそうなった人もいるけど家があり車があってもさらに欲しいとなっていた人もいた。そこから原発を安易に誘致したのである。

いづれにしろ原発から避難した人は難民化した。磐城市でも二万人くらい双葉や富岡とから避難しているから住宅が一杯で外から来る人が住む所もないという。仮の町を作るにしてもいわき市との軋轢が生じている。そこで非常に肩身の狭い思いをしている。今になると原発の近くに住んでいたらいかに災難だったかわかった。浪江の人なども親しい人だった人と電話していつも泣いて話ししているというのもわかる。ここはなんとか留まり住めたからいい、でも全体的には市自体が衰退してくるからこういう所には住みたくないという人がでてくる。自分にとってはこの辺は性にあう所だった。

不便なことは何も感じていなかった。車がなくても電車があるし仙台にも簡単に行けた。確かに病院では困っていたがその他はさほど困らない。夕張の人口は7万から一万になった。そんなに減ったらもういろいろなものが維持できない、もう住みたくないとなるし住めなくなってくる。この辺は今後どうなるのか先は読めない、ただ夕張のようなことがありうるんだと思った。でもこの辺では家をなくした人が増えて町内に建つ家がふえた。こわされた家も10軒以上あった。小高はこれからどうなるのか、徐々に回復するのか、まだ先が見えない、浪江はどうなるのか、これもわからない、原発に近くなればなるほどその先は暗くなり住みたくなくなるだろう。飯館をのぞいては原発事故は距離に比例してその被害感覚が違っていたことは確かであった。

 

2012年05月16日

藤の花(デジカメで写真の魅力が一般化した)


藤の花

(デジカメで写真の魅力が一般化した)

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七輪の牡丹の散りし余韻かな


黄金色エビネラン映え七輪の牡丹の一輪散りにけるかな


藤波の花長々と池の面に写りそよふく風にゆれにき


新緑の風にそよぎて枝移り鳥鳴き飛びて消えにけるかな

 


藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君 --大伴四綱-万葉集


藤の花にもいろいろある。もともと山藤で自生したのでもあとで栽培されたものは違っている。
長く紫の色でも濃いのがある。人の手で変えられたのである。山桜と染井芳野はかなり違ったものである。染井吉野も色が濃く人里に咲かせて鑑賞するようになった。山桜でも山藤でも色がうすく淡白である。人工化された桜や藤は艶な色合いになっている。だから都を思うとなった。山藤をみて都を思うなどとなりえないしこの辺ではみちのくでは都すらイメ-ジしたりしない。この藤は人間化された藤であり山藤とは違っている。


藤の花にもいろいろある。もともと山藤で自生したのでもあとで栽培されたものは違っている。
長く紫の色でも濃いのがある。人の手で変えられたのである。山桜と染井芳野はかなり違ったものである。染井吉野も色が濃く人里に咲かせて鑑賞するようになった。山桜でも山藤でも色がうすく淡白である。人工化された桜や藤は艶な色合いになっている。だから都を思うとなった。山藤をみて都を思うなどとなりえないしこの辺ではみちのくでは都すらイメ-ジしたりしない。この藤は人間化された藤であり山藤とは違っている。

写真にとったものも山藤だから長々ととはならないがそういう雰囲気にした。写真にするとイメ-ジされないからこれはそうじゃないとかなってしまうのが問題である。ただ現代は本当に写真の時代である。写真というものが素人化して普及した時代だった。それはデジガメで写真は一般化したのであり今までは写真はそれなりに技術が必要だったのである。だからめんどうで写真の魅力を知らない人が多くいた。デジカメで写真の魅力に一般的に目覚めた時代だった。そして写真の加工が芸術になるということに気づいた。自分がこれまで加工して時々出した写真の加工の絵がそうだった。それは全く才能ではない、技術でありたまたま化学反応のように絵が生まれたのである。明かに昨日の白藤と黒猫の写真は絵だった。構図的にも絵の題材となっていたのだ。そういう写真が無数に生まれた時代である。写生俳句-写俳の時代になった。写真を出すからにはインタ-ネットでないと出せないからこれもインタ-ネット時代の芸術だったのである。


自然を写真にするにはある一瞬をとらえるには結構シャッタ-チャンスを逃さないことであった。デジカメはその点いいのだが瞬間的にとれないという弱点はあった。ただ生の自然の生きた瞬間をとらえることに写真の醍醐味があった。庭にミクバチグリが咲いた。外から種がいつのまにか入ってきたのだろう。庭はこうした小さな虫の観察などに向いている。


牡丹は今年は七輪咲いたけどもう散った。黄金色のエビネランも同時に咲く、ミツバチグリの花はミツバであり葉が三つから見分けられる。クサノオウなどの花とまちがいやすい、葉っぱから識別される花の名がある。ビデオも今はいいのができているからいいのだが一瞬の美は写真の方がいい。ビデオは余計なものが写りすぎるのである。

今日は暑かった。夏はやはり花の観察がいい、放射能と関係なく花は咲いている。燕が餌の関係で少ないようだ。水田がないと虫もいなからなのか、燕はアメンボウなど餌にしている。放射能で生態系がどういうふうに変わるのだろうか?別に魚でも寿命が一年とか短いから魚自体には放射能の影響はない、一年で死んだら遺伝子に影響がない、人間は長く生きるから影響する。原子炉のなかにすらバクテリアか生きているのはそのためである。放射能の影響がないのである。複雑で長生きするものに放射能は影響する。ネズミなどでも寿命が短いからチェルノブエリでも影響がなくかえって繁殖したのはそのためだろう。ただ燕が減ったということは何か影響した。あとは生物に影響はないみたいだ。ということは別に森に生き物がいなくなったりはしないのだろう。ただ人間は影響する。長生きするから影響する。

2012年05月15日

初夏の花-短歌十首 (春は逝く・・相馬六万石の城跡・・)


初夏の花-短歌十首

(春は逝く・・相馬六万石の城跡・・)

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六万石花は散りにきあわれかな訪う人まれに次に藤の垂れ咲く


武士(もののふ)の城の跡とて昔かな藤と菖蒲と咲きし静けき


街道のの松並木にそ椿散り立谷村の細道曲がる


相馬なる城下を歩み川岸にシャガの花咲く家そ静けき


若葉して欅にそよぐ風清し山鳩高きに一羽鳴くかな


我が庭に緋色の牡丹他の家に深紫の牡丹見るかな


七輪の牡丹一輪散りにけりその豊けさや朝日に映えぬ


栄ある家にしあれや七輪の牡丹一輪散るも残り映ゆ


七輪の牡丹の一輪散りにしも午後の日さしてなお華やぎぬ


白藤と菖蒲の咲けるその間黒猫一匹歩みけるかな


白藤の下に黒猫一匹のひそみ見つめる目の光るかな

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  同題仙遊観       同じく仙遊観に題す


 仙臺初見五城楼   仙台初めて見る五城楼
 風物凄凄宿雨収   風物凄凄として宿雨収まる
 山色遙連秦樹晩   山色遙かに連なる秦樹の晩
 砧聲近報漢宮秋   砧声近く報ず漢宮の秋
 疎松影落空壇淨   疎松影落ちて空壇浄く
 細草春香小洞幽   細草春香ぐはしくして小洞幽かなり
 何用別尋方外去   何ぞ用ゐん別に方外を尋ねて去るを
 人間亦自有丹丘   人間亦た自ら丹丘有り


仙台の由来がこの漢詩である。漢宮の秋となっているけど現代は今の状態からイメ-ジするから錯覚していることが多々ある。中国の宮廷でもそこは自然の中にあり自然の中に配置されているから今の大都会とはまるで違っていた。これだけの宮殿があったとして「砧声近く報ず漢宮の秋」とあるのか?農民の暮らしが宮殿の近くにあった。中国旅行して「私は農民です、ノンミンです、お土産買ってください」といっていたけど日本語と共通したものがあった。漢宮というとき自然から離れた大きなものをイメ-ジしている。でもまじかに農民の生活が感じられる場所だった。ましてや江戸時代の城の回りはこれ以上に田畑が囲む農民の暮らしの真っ只中にあった。城はただ一番目立つものとしてあった。それでも今からするとビルなどを見るとなぜこんなに小さいのだろうと思ってしまう。そんな小さなものが城なのかとなる。中国やヨ-ロッパの城は比較的大きいから余計そう見える。
亘理には駅が城に作ったけどあそこに城があったのか?あの城を見ると回りがほとんど田畑になっている。「農民の冬菜畑や城を見る」とかなる。城下町といってもいかに小さな町だったか、やっと田であったところを町にしたのが城下町だった。だから田町という地名がその名残りとしてどこにでもある。田が町になった、通りになった。相馬藩の相馬市もそうだった。


相馬となると相馬野馬追いで有名だから外から見ると大きな城があるように見える。しかし相馬市の城跡に来てみればなにもない、ここに城があったというのもわからない、門が一つあってもそれが馬一頭がやっと通るだけの門なのである。大手門とか大きな門もない、一体ここに城があったのかと思う。堀しか残っていないのだ。ではなぜ野馬追いの豪華な行列かあるのかという疑問になる。外から見ている人は野馬追いは誰でも参加できると思っている。しかし地元でも野馬追いに出る人は極めて限られているのだ。実際に地元に住んでいても野馬追いに出る人とめったにあわない、知らないのである。ええ、野馬追いに出る人を知らない・・・?実際野馬追いに出る人とあったことがない、知り合いになっている人もまれなのだ。一見あれだけの馬が出ているのだからみんな野馬追いに出ている人を知っていると思っている。でも地元ですら野馬追いに出る人を知らない、それだけ野馬追いに出る人は希少価値がある家なのである。野馬追いに出る人は在郷の給人武士であり農民と武士を兼ね備えた郷士である。相馬藩ではまず城勤めの人は少ない、だから野馬追いでもほとんど農家出身である。

例えば鹿島区でも一軒くらいしか町から野馬追いに出るのを見ただけである。町内からはほとんど出ていない、これは相馬市でも原町でもにている。原町は原町村であり武家の出が一軒しかなかったのである。町内は新しいのであり原町市などは明治以降人口が集中したのでありそれまでは野馬追いの訓練する原っぱでありだから原町になっていた。野馬土手というのが原町の広い範囲にあり街内はほとんど野馬追いのための原っぱだったのである。野馬追いの祭りは文化財の保護のためにもあり勝手に脚色したりして祭りを盛り上げるようなことはできない、他の祭りはネブタ祭りなどは誰でも外から来てもハネコになれる、野馬追いはちゃんとした由来をもったものしか出れないのである。そこが外からの人も誤解している。南相馬市と相馬市とあわせて10万以上の人口がある。その中で500頭が野馬追いに出たとしてもその割り合いは極めて少ないのである。そこが外から見たときかなり野馬追いを誤解しているのだ。全国の人がプログを読んでいるのでこれを書いた。

それでも六万石の城があったのだから城下町の様相が相馬市には残っている。枡形とかも細い路次は当時の城下町の名残である。それにしても以前として外から来たらどこか城下町となってしまう。

当時の面影を知るのは日立木の松並木とあの細道なのである。あそこか昔の浜街道の面影が一番残っている場所である。今年も相馬の城
跡の桜は散った。六万石の桜は散った。相馬藩で残念なのはどんな人が住んだとか侍でも物語が浮かんでこない、会津とかは絶えず語られるけど何かそういう人物物語に欠けている。それも何か淋しいのである。武士より二宮尊徳については絶えず語られている。でも二宮尊徳自体も相馬藩には来ていない、その弟子が来て教えられて相馬藩を復興した。いづれにしろ物語に欠けているから何か語るものがないのである。野馬追いがあるから何かもっと語るものがあるように見えてもないのだ。3000の旗があるというとき旗祭りだというのも確かである。この旗についても良くわからない。どういう由来でその旗になっいるのかも明確ではない。野馬追いは明かにいろいろな旗があるから興味深いとなっているが旗についてわからないのだ。研究すればいろいろあるのだろうけどわかりにくい、石田三成の旗が野馬追いに出ていることは面白い。なぜなら石田三成は相馬藩と因縁が深い、南相馬市の鹿島区の田中城の興亡にかかわっていたた。実際に相馬藩に来ていてその旗印を残したのである。これだけは旗印の由来がはっきりしているのだ。

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ともかく今年の春も逝った。相馬の城跡には桜のあとは神社の境内に藤の花が垂れ咲き堀には菖蒲が咲く、人間は武士の時代は終わったというけど実際は明治以降も武士の時代の延長だった。平和がなかったのだ。富国強兵でありかえって平民まで兵隊にされた時代だったのである。強制的に武士にされて戦わされて4百万人も戦死した。武士の時代、戦争の時代が明治維新以後の日本だった。武士だけではない民をまきこんだ戦争の時代であり不幸な時代だったのだ。武士の時代より柔和なるものの時代、花を愛でる時代がいいとなる。柔和なるものが地を継ぐ・・・時代の方がいいとなる。
桜はやはり日本人を象徴した花だというとき一時咲いてたちまち散ってしまう、その一時に美を感じる、それ故、若い人もその桜に例えられ死んだという批判もわかる。結局戦争で死んだ若い人はいくら慰めても英霊とかたたえても不幸だったことはまちがいないない。今の時代の方がどれだけ良かったかと比べればそうなる。実際に20代で死ななければならないと追い詰められたらどうなるのか、肺病で死ぬ人も多かったしそれを考えると今は幸福だったとなる。


牡丹は栄の象徴的花である。今年は七輪咲いた。一輪散ってもなお六輪咲いて光にまぶしい。
金の感覚でも一億円もっている人は百万くらいははした金とかなりやすい、本当の金持ちはやはり資産家は今は一億円ではない、土地とか家とか資産をもっていてさらに何十億と金のある人だろう。
そういう人の金の感覚と貧乏人の金の感覚は違っている。それが本当に豊かなことなのである。
そういう富豪は東北にはまれである。だから豪壮なものが生まれていないだ。東京などの都会には一億円もっている人が百万人いるとかざらにいるし資産家も多い。でも文化は生まれない、ルネサンスは生まれない、フィレンツなどは地方都市であり自然に囲まれていた。東京などはそういう文化を産む基盤がないのだ。だからいくら金があっても文化は生まれない、ルネサンスは生まれない、奈良や京都や大阪でももともと自然を基盤として作られた街であった。奈良は特にそうだった。だからこそ万葉集が生まれたのである。江戸すら自然に囲まれた都市だった。だから浮世絵とか生まれた。
文化は今や地方からしか生まれない、だから地方に金持ちがいるべきなのだ。地方に金を回すべきであり都会に回すべきでなはない、スカイツリ-なんかくだらない、あんなものが文化でありえない、
東京ではどんなことをしても美を作り出せない、そもそも自然が美の基だとしたらそれがないのだからどんなものを人工的に作っても醜くなってしまうのである。


白藤の下に黒猫がいた。その眼が光りこちらを向いていた。これも不気味だったが白藤とか静謐なものに猫はあっている。猫が入り組んだ墓の間を歩くとき何かあっている。猫は静謐なク-ルな目をもっている。何かをじっと静観しして見ている。それは自分の性格とも通じていた。猫の性がある。
犬は絶えずじゃれついている。騒がしい、猫はその正反対なのである。だから藤の花や菖蒲にあっている。

山鳩が一羽欅の木の天辺にとまり鳴いていた。気持ちよく風がそよぎ新緑の季節である。

2012年05月09日

忘れな草(栄える家と栄えない家はなぜ?)


忘れな草(栄える家と栄えない家はなぜ?)


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春の陽光をあびて開いた花



虫一つささやき去りぬ二輪草


争いの我が家にやんで二輪草


とりどりの花を我が買いぬ春の日に

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春の日や忘れな草に霞草


沈丁花匂いの濃くも流れけり蜂数匹の庭にとどまる


忘れな草今年もここに忘れずに咲きしやそえて桜草の咲く


忘れな草忘れず咲きて苧環もここに咲きにつ静まりけるかも


七輪の牡丹や二輪増え咲きて我が家の栄受け継ぐべしかな

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虫一つが二輪草にささやくようして束の間飛んで去っていった。蜂が何匹かやってきた。沈丁花の匂いが流れていた。次に忘れな草が咲き桜草を植えた。赤い霞草をめずらしいから買った。その後牡丹が咲いた。今まで一番多くて五輪しか咲かなかった。七輪も咲いたということは今までにない、なんか縁起がいいのかとも思った。姉が死んで牡丹が一段と鮮やかに咲いている。次に忘れな草を笠のようにおおい苧環の花がひっそりと咲いた。スノ-フレイクもうなだれるように小さな袋を垂れて咲く。この庭は土が悪いからなかなか花を植えて枯れるのが多い。でも今年も忘れな草は咲き苧環の花は咲いた。忘れな草は名前がいいのだ。名前は意外と体は名を現すとか影響するのだ。名前からイメ-ジすることがある。地名はだから意外と影響する。百伝つ磐余の池・・・これは地名が荘厳なものをイメ-ジさせている。古殿の越代(こしだい)の桜今盛り・・・と自分が短歌にしたときこの地名は重厚であり荘重な歌になったと思った。地名が縁起悪いとして好字に変えたりしたのはそのためである。

家にはそれぞれ事情がある歴史がある。それが外から見てわかりにくい、自分の家のことを知る人はいない、あまりにも複雑だった。
姉が父親のような役割を果たして家を支えたから姉が主役の家だったともなる。だから死んだあとでも牡丹が姉のように咲いている。死んでもやはり人間はあとあとまで影響する。放蕩して家をつぶす人もいる。そうなるとその人のことは家族でも良く思わない、その人自体を偲ぶということもないかもしれない、いつまでも家で偲ばれる人はその家にとって大きな役割を果たした人だとなる。

これは郷土の歴史でも国の歴史でもそうである。あとあとまで偲ばれる人は大きな役割を果たし人だとなる。しかしその後家が栄えるかどうかは栄えた家でも跡継ぎ悪いと衰退してしまう。それで大阪辺りの大きな商家では跡継ぎを実の子ではなく養子にしていることがかなりある。それは家をつぶさないためなのである。これも家を栄えさせるための知恵だった。ただどうして栄える家と栄えない家があるのか、不運な家というのはある。その原因は一様ではない、なぜ障害児とかが生まれかかえる家は大変な不運を一生背負うから気の毒である。そうした不運な家ではカルト宗教団体に入りやすい。だからといって良くはならない。かえって悪くなる場合が多い、なぜか一票を得るためにその団体の勢力拡大のために利用されるだけだからだ。そもそもきそういう団体の目的全く同情なんかしていないのである。勢力拡大の道具にされるだけなのである。ただそういう人は何でも悪魔でもいいから相手にされるからいいとなる。その他ふしだらいいかげんで怠け者でもなんでもそういうカルト団体では受け入れる。その人自身の責任は問わないのである。団体でも一票になればいいのだから誰でもいいのである。だからたいがい入っても何ら改善しないのである。


いづれにしろ家には人には栄枯盛衰はつきものである。いつまでも栄える家や人もいないし国もないのである。その家が栄える国が栄えるというとき何か原因があることも確かである。ただ数学のように一般化はできない、でもある本では家系を数多くみていたら嫁がその家に嫁いできてその家に満足しないような家は衰退するというのは本当だろう。財産でも嫁がしっかりしないと残らないだろう。財産とかは離婚したような人は残りにくい、夫婦共同で協力して働いていれば財産も残りやすい。それだけではない、協力しない家は争いばかりある家はなかなか財産は残りにくいだろう。これはすべてにはあてはまらないけど一般的にはそうである。三人に一人が離婚している時代である。それが老後になるとき淋しい悲惨なものになる。離婚したあとのことをよくよく考えないからそうなる。人のことは言えないけど離婚した人はやはり何か問題があり金は残らない、淋しい老後になってしまう。つくづく嫁は女に家であり家と一体化するのが女性だった。男性は外で仕事と一体化するが女性はもともと家と一体化して存在したのである。


家の不思議ははんばボケて寝ているだけでも家にいると病院にいるのとは違っている。これは不思議である。病院ではただ一方的に世話される介護される人でありある意味でやっかいな人となる。
家にいると家にいるだけでその人は家と共に価値あるものとなる。家と一体化して存在意義をもつのである。だから家でしにたいというとき人間は病院ではただ個としてもう必要のないものとしてもう手をかけるものがやっかいなものとしてかたづけられる。死体でもすぐに邪魔だからかたづけてくださいとなる。次がひかえてますからとかなる。一つのモノのように扱われる。家にいると寝ているだけでも家と共に価値をもつ。すでに60年とかいるのだからその時間と共に家が価値をもっているのだ。農家だったりしたら土地と一体化しているからさらに別な価値をもっている。土地は深くかかわっていて家自体が土地と一体化しているのだ。だから家から離れてアパ=トとか仮設住宅に住んでるとそういう存在価値から切り離される。嫁はまさに女に家であり女性は特に家と一体化したものとなっているのだ。だから女性にとって家に存在意義を見いだしているから家から離れると存在価値を見いだせなくなる。とにかく何もせずはんばぼけていても家にいるだけで価値を帯びていることに気づいた。病院だったらただ世話されるだけのやっかいなものなのである。ただ世話するのも大変だから施設にあづける人がふえたのである。

2012年05月08日

夏の俳句十句(浜街道を相馬市まで)

 

夏の俳句十句(浜街道を相馬市まで)

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我が家や姉亡きあとの牡丹かな


街中の倉に紋かな藤の花


家新し広がる夏野住宅地


仮設の畑の広し夏の午後


ほしいまま草原を飛ぶ夏燕


自転車に遠くに行かむ夏燕


街の中羽つくろうや夏燕


水張る田田鴫のあまたいでにけり


詩碑には遠潮鳴りと若葉かな


城下町辻を曲がりて日影かな

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水張る田田鴫のあまたいでにけり


八重桜咲きて来なれし道歩む介護しつつも今日も暮れなむ


街道に二本の松や八重桜ここに咲きにつレストランあり


嫁ぎきて長くも家にありにける母を介護し八重桜咲く

 


街の中の通りにある家は古いのだろう。倉がある家はまず古い。街でももともと農家だった家がありそういう家は倉をもっている。この辺は町自体が小さいから富豪はいない。医者とかが金持ちでその他目立って金持ちはいない、ウダツの町並みなどは有名だけどそういうふうにみちのくでは栄えた町は少ない、喜多方は蔵の町として栄えた。蔵をもつことが一人前になったということであり蔵を建てて誇った。喜多方は商人の街だからそうなった。この辺では震災以後ずいぶん家が壊された。古い家が壊された。だから変化が激しいのだ。古い家が十軒くらい壊されている。

五本松というレストランは環境がいい、街道沿いでありあそこにはいい松が残っている。今は八重桜の季節である。あそこで食事した。店がいいというとき他でも常に評価するのは料理としての技術であり次にもてなしであり次に環境なのである。旅館なども見晴らしがいい所は部屋が高くなる。
病院すら環境が大事である。環境はどこでも大事なのである。意外と料理ばかりが注目される。
環境が評価されることはない、あそこは環境が一番良かった。立地条件がいいところはやはり価値が高くなる。

相馬市に入るとまだ田植えはしないにしろ水を張っている。そこに田鴫だろうか十羽くらいいたのは見物だった。それが丁度昔なら田植えにでてくるような人をの光景に見えた。昔は村総出で田植えしていたのである。それはまたこの田鴫が一杯水張る田にでてきたのとにていた。人間もそのとき自然とマッチしていたのである。一度にあれだけの田鴫を見たことはない、田鴫は一羽くらいは飛んでいる。田鴫は秋の季語だった。渡り鳥だからたくさんやってきたのだろう。尼鷺も一羽すでにみかけた。やはり夏らしくなった。
相馬市の城跡の神社に「遠潮鳴り・・・」という詩句があった。確かにこの詩語はあっている。夏らしく感じた。


遠潮鳴りは われら呼び・・・

http://www.miyapedia.com/index.php?title=
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AD%A6%E6%A0%A1%E7%99%BD%E6%B5%9C%E5%88%86%E6%A0%A1


岩手県宮古の小学校の校歌にあった。このことで思ったのは相馬市は松川浦があっても海からかなり遠いのである。鹿島区や原町や小高や浪江は海に近い、だから六号線近くまで津浪が来た。小高では駅を越えたのである。相馬市は海から一番遠かったのである。そして阿武隈山脈の山側に近いのである。それで海側の原町や鹿島より放射線量が高かったのである。放射性量は山側になると確実に高くなっているのだ。それで疑問なのはなぜ高いのに田でも普通に作らせていることである。南相馬市とそんなに変わらないからである。ただ水の影響は南相馬市の方が受けているからなのかわからない。ただ普通と同じだから相馬市は変わらないと見てしまうだろう。


ともかく夏は遠く行きたくなる。自転車でまた遠くへ行きたい、しかし介護であり病気持ちでもあるから行けない。病気はそれほどでもないから行けないこともない。夏はやはり北海道をどこまでも走りたい。あそこは自転車に一番向いていたのだ。

2012年05月07日

雷雨のあとの夏の月

 

雷雨のあとの夏の満月

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満月や雷鳴るあとに澄みにけり


夏の月早き流れに映え光る


夏の月光反射し流れかな


月明かり雷雨にぬれて若楓

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今日の天気は一日めまぐるしく変わった。最初は海の方から霧がでていた。それも晴れたと思ったら山の方から雷がなった。稲光りも激しく瞬間的に停電した。つくば市では竜巻であり死んだ人もいた。家も破壊された。落雷で死んだ人もいた。何か津浪とか自然が変化しやすい、津浪の前は猛暑があった。一身上でも身内が認知症になってからろくなことがなかった。災いの連続だった。どうしてこんなに災いがつづくのかと疑問に思っていたら津浪が来たのだ。犯罪にあったしそれでかなり相手をのろっていた、そしたらあの津浪がきたのである。自分の家の中が姉が死んでからめちゃめちゃになったのである。それは信じられないことの連続だった。最後に津浪がてき原発事故になった。

この雷にも外に出て追われた。でもそのあとは晴れ渡りきれいな満月が出ていた。それで外に見に行った。今日の満月は大きく見えるとかネットで自分のサイトにくる人がいた。こういうとき同時につながっているから検索すると同時間を共有できるのがネットである。
本当にこの雷のあとに澄んだ夏の満月が輝いていた。水がまして流の早い川の面にその月が写っていた。光を反射していた。それから家の若楓も雷雨にぬれて瑞々しく月の光に照らされていた。

この一連の自然の変化は激しかった。その時リアルタイムでアップすれば臨場感がでる。
この同時間を共有するのがネットの醍醐味なのである。今も全国で同じ満月を見ている。ただ場所が違っているから違うように見えるのである。春から夏はやはり生命が一番輝くときである。

 

2012年05月05日

夏の海(津浪のあとに草原から望む海)


夏の海

(津浪のあとに草原から望む海)


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360度パノラマ

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波しぶき遠くにたちて夏の海


波しぶき砕ける白さ夏の海


波しぶき朝に砕けぬ夏雲雀


草原に朝風そよぎ夏雲雀


荒々し白波たつや津浪にも残れる松の数本立ちぬ


田中城湿地の中に蛙鳴く声高鳴りて城を守りぬ


松原がこの辺ではどこでも津浪で流され喪失した。右田の松原はいい松原だった。その松原も百年とかありみんな見てきた。自分もいつも見ていた。ただ松原があるから遠くから海は見えない、浜通りでも宮城県でも意外と海が近かったのだか松原などで海は遠くから見えない、だから海を意識しなかったのである。常磐線でも海が見えたのは新地駅だけでありあとは見えない、ところが浜吉田駅まで津浪がきていた。浜吉田だから海が近かったのである。津浪は遠くから見て津浪が来てから逃げて助かった人がいる。仙台の遠見塚とあるけどやはり遠く、それも海を見ていたからその名がついた。そこも海に近かったのである。海も見えないと意識しないのである。


草原のかなたに波しぶきがたち何かそれが夏らしく清々しい、津浪で原初の風景に戻ったのである。田中城は湿地帯に囲まれていた。湿地帯が防御の役割を果たしていた。その近くまで津浪で来て湿地帯になったことでよりリアルになった。湿地帯と言ってもリアルにイメ-ジできないことがあった。
現実に今は田中城の回りは湿地帯になっているからわかる。ともかく草原化して草が風になびき光景は田んぼがある風景とは全然違っている。でも水田は人工的な風景であり津浪のあとの風景がもともとの風景だったのである。


千倉庄田中の城へ黒木武石東郷の面々押し寄せたり、田中の城三方は大淵囲み古松、老柏、繁茂して容易に近づきかたければ冬より夏にいたる。
此の城平野の田畑となりしは近き世、石田治部少輔三成堀久太郎大崎の仕置きに下りしとき数日田中に逗留するとき大樹を倒し堀を埋め立て平地となす、顕胤は掛田帰陣も近ければ不日にもに田中を責め落とさんと評議せり(奥相茶話記)
http://musubu.sblo.jp/article/34831653.html


ここになぜか三成がでてくる。三成の畑も野馬追いにでている。三成とは縁が深いとなる。


ともかく波がうちよせ一段と砕ける波が夏の日をあびて白い。草原化した湿地帯化した風景は原初の風景に戻ったのである。蛙もかえって元気になり声高く鳴いている感じがする。水田より草原が夏の感じが出ている。水田はどうしても湿っぽくなる。草原は広々として果てに海が見え波が白く砕けて夏らしい。水田の風景は山の方があっていたのかもしれない、海側はもともと湿地帯であり水田に適していなかったが土地がないので無理やり干拓したからである。宮城県の海側もそうである。無理に開拓した所だったのである。広い土地は海側にあったからそうなった。それが元の海に戻ったのである。

2012年05月04日

夏の月 (草原化、湿地帯化し北海道になった)


夏の月

(草原化、湿地帯化し北海道になった)


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雨ぬれて草の潤う夏の月


点々と湿地に写る夏の月


ふっくらと姉の顔かな夏の月


夕蛙鳴くや雲間に月のぞく


夕蛙盛んに鳴きめ湿地かな

草原化したというときこれは北海道の景色なのである。緑の草原であり今回のように雨が降ると湿地帯になりそこに丸い月がゆらゆらと写っていた。明かに春より夏の月だった。水田に写る月と湿地帯に写る月は違っている。田んぼになる前はみんなこんなふうだったのである。湿地帯であり草原だった。今年は盛んに蛙も鳴いている。蛙も水田より湿地帯が気持ちいいかもしれない、放射能の影響はないだろう。人間のような複雑な生物は影響しやすいが単純な生物だと影響しないという。もし蛙の声も聞こえなくなったら異常である。蛙は盛んに鳴いている。


夏の月というと姉の顔を思い出す、ふっくらとしていていつも陽気で笑っていたからである。あういう陽性の性格だった。自分は陰性だから陽性なものやおおらかなものとか何か気宇が大きい人とかに憧れる。弱いから強い人にも憧れてきた。人間はないものを満たそうとする働きがある。それは性格でもそうである。すべてをもっている人はいないのである。そしてどんな人でもいいものをもっている。学があるとか関係なくそうである。何ももっていない人はいないのである。体力がある人もうらやましいと思ったが知性がないとか一方は体力が欲しいと思い一方は知性が欲しいと思うのである。体力があって知性がある人は天才しかいない、ただ人間の不思議は自分にないものを他者から補うことができるということである。男性にないものを女性がもっていて補いあうし才能でもそうである。あらゆる才能をもっている人はいない。だから人間社会は互いに補いあうことによって成り立っている。


遅すぎた面はあるが最近前に読んだ本を深く自分なりに理解できるようになった。本もむずかしいといくら読んでもわからない、若いときは特にわからない、でも今になるとこの人はこういうことを言っていたのかと納得するしその人の書いたものを自分なりに応用できる。もうただ読んでいるだけではない自分なりに応用できるとき本当に読書しているのである。そして人間は天からか神からか霊感があたえられる。才能にかかわらず神が関与して与えるものがある。それは自分のもっている才能ではない、神が覚らせるということがあるのだ。それで最近そうした詩をずいぶん一気に書いた。その詩はまだプログには出していない。洞察力とか理解力、鑑賞力が年をとると増してくる。それは特別優れた人だからというのではない、普通の人もそうなる場合があるのだ。透徹した見抜く力をもつようになる。そうしたものは若いときは中年でももちにくいが最後にそういう洞察力をもつことができるようになる。ただその時はすでに死が近いとなる。死の間際になれば人間は何か大事だったのか本当に価値あるものだったがどんな人でも悟るのである。しかしすでに時遅しとなっているのだ。

春から夏へ-俳句


春から夏へ-俳句



雨しとといつもの道や余花に暮る


雨にぬれ夕風きりて雲雀鳴く


道の駅遠くより来る若葉かな


葉桜の青々として雨にぬる


雨ふりて蛙の鳴くや湿地かな


ゆうたりと鯉の動かずアメンボウ


月光り晩年あわれ雲雀鳴く

夏になった。葉桜などが雨にぬれて青々として気持ちがいい。原町の道の駅によると連休で遠くから車が来ている。六号線からは来れないからここにくる人は特別興味あるから用事ある人かもしれない、ただ未だに除染とか工事関係の人の出入りが多いのがこの辺である。
自転車で走っているときが一番気持ちいい、雨とか風には弱いけど風を切って走ることは気持ちいいのである。これは車で味わえない、車は自然を遮断してしまう。でも車にのる人は車にのったときだけ主人公になれる。車で飛ばすときただ使われる労働ではなく自分が主人になれる。だから用事でのる人よりそういう爽快感を得るために乗っている。これは車をもっていない人にはわからない心境である。車にのっているときだけ自由を感じるというのはありえる。だから暴走族とかもそういう感覚で飛ばすのである。それだけ現代社会は自分が主人になれるということがなさすぎるのかもしれない、何かに絶えず追われ使役される。労働に満足がないからそうなる。
池に鯉が動かない、ゆったりとして動かない、それを見ていただけでゆったりする。まず今の人間を見てゆったりすることなどありえない、めまぐるしく人も変わってゆく、みんな余裕がない、この辺は特にそうなった。ただ昼間から酒飲んでいるとか暇になった人がふえた。それはゆったりしているともいえない。ゆったりとして動かないものがいて子供のようにアメンボウのように波紋を作り遊ぶものがいる。前はこうしてゆったりとした時間があったが今はない、自分も絶えず食事の用意とかに追われている。三食用意するのは自分一人だけでも大変なのである。

月が光りなおも雲雀が野に鳴いていた。田んぼはないから原野化して野に鳴いているのも不思議である。明かに雲雀や燕でも草原のような所があっていた。水田は実は人工的な文明の一つだったのである。もともと湿地帯とか原野が自然の状態だったのである。北海道ではエゾシカが原野を駆けていた。何かわからないこの辺で原野化して野生化した大型の犬なのだろうか、一瞬幻のように疾走して消えた。20キロ圏内は警戒区域になっていた。その時野生化した牛や犬や猫がいた。その一部が境界を越えて来たのかもしれない、犬のようにも見えなかった、何かの野生のものなのだろうか?
警戒区域内は人が住まず野生化してゆく、チェルノブエリでも狼とかヘラジカとかが入ってきた。
人が住んでいないところは野生の動物が住むのには適しているからそうなるのだ。

 
 
 

2012年05月01日

タンポポの詩 (水田がタンポポの原野に変わる)


タンポポの詩

水田がタンポポの原野に変わる


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写真ではタンポポとれていなけど実際はタンポポが遠くまで咲いている。
アップしないと写っていなかった。


水田がタンポポの原野に変わった
青々と草がなびき燕飛びかう
タンポポのまばゆい輝き
燕はその黄金の輝きの中を飛びかう
ここは北海道になった
湿っぽい水田は乾いた原野になる
光が一段と明るくタンポポがどこまでもまばゆい
その果ては海につづき海も光っている
雲雀の声がタンポポの明るさの中にひびきあう
人がふえ店がふえ活気が出た町の不思議
ここが放射能の汚染で汚れ沈んだ街なの?
水田がなくなり明るくなった原野
自然がこれほど変わることはありえない
水田は第二の自然でありそれがなくなるとは・・・
もしかしたらここにかえって新しいものが生まれるのかもしれない
新しい街が生まれるのかもしれない
タンポポはどこまでも明るい
悲観ばかりしていてもしょうがないのか
津浪の被害のあとにまた自然が励ましているのか
タンポポの明るさはどこまでもつづく
子供がかがみその顔にタンポポが一段と眩しい
こういう原野だと車が走っているのも気持ちがいい
電車は二両の行き来で淋しい
ス-パ-ヒタチは風光る中をいつ走るのか
今日は原野に荒々しく風がうなり吹いている
燕はその風を切って盛んに飛んでいる
燕は放射能ことも何も知らない
かえって気持ちよく飛んでいる

水田だと湿っぽい感じになるが原野だと北海道のように乾いて明るい感じになっている。タンポポがどこまでもまぶしい、青々と草がなびき草原化して風もきもちがいい、すでに揚羽が飛んでいる。
北海道に行かなくても北海道の景色を見れる不思議がある。この変の変わりようは自然まで変わったということである。自然が変わるなど水田がなくなるなど想像すらできなかった。農家の人にとってはショックである。でも風景だけを見れば別なものを見る。それはまさに北海道化したのである。
日本では水田があるから湿っぽい感覚になっていた。水田がなくなり乾燥した原野が戻ると明るい感じになるのだ。これは精神的にもかなり影響する。北海道の人は比較的おおらかで因習にとらわれず明るい性格が作られるのかもしれない、どさんことか何かそうした性格が作られてきた。
それは牧場的風土であり水田ではない風土が影響してそうなっていたのだ。


自然が変わったということはその自然に則した村や街作りが要求されているのかもしれない、確かに食糧を生産するにも放射能汚染でできない、でも花栽培などは放射能とは関係ないからできる。現実にいろいろな花をハウスで栽培している人は影響されていないのである。そして風景的に見たとき水田もいいにしても一面がタンポポや花野になっている風景が北海道であり気持ちいいともなる。
ここには放射能汚染されるから来たくないというのもわかるが花は影響されていないのだ。緑の草も青々として同じである。自然は見た目には汚されていない、同じなのである。まだ美は損なわれていない不思議がある。自分のようなものは食べるものより美が損なわれるとそこには住みたくない、
都会はすでに美が損なわれている。自然の美が消失しているのだ。ここは確かに放射能に汚染されているが美は同じようにある。多少放射能の影響を受けてもこれなら別に住んでもいいのではないかとなる。草や木が枯れ花が咲かなくなったりしたらもう住めない、そこは本当に
地獄と化してしまう。

ともかくチェルノブエリでも狼がへら鹿とか野生の動物が戻ってきたり原初の森に還ってしまったという不思議がある。飯館村などは元の原初の森に還ってしまうのか?それがなんとも不思議なのである。地球の自然はあまりにもどこでも大きく損なわれてしまった。だから自然の復活が必要である。森とかが原野でも再生できたらそれはかえって気持ちいいものとなる。ただ生活的には経済的には問題があるにしろこの辺の状態がすべて悪い変化ととらえるのも間違っているみたいだ。そもそもこの辺では放射能の影響がどれほどあるのか?本当に子供も住めないのか?東京などにいるよりタンポポがどこまでも咲いているここの方がまだいいとなる。タンポポが終われば今度は一面のひまわりの畑になるし他にも花を咲かしたら気持ちいいとなる。

 

2012年04月30日

草原化した田んぼにタンポポが咲く (高齢化社会にはコンパクトシティがいいのか?)


草原化した田んぼにタンポポが咲く

(高齢化社会にはコンパクトシティがいいのか?)


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タンポポに子供の顔の大きくも迫り輝きうれいのなきも

青々と草の茂りて燕とびタンポポ満ちぬ海も近きに


海よりの風のそよぎて青々と草のなびきて揚羽飛ぶかな


故郷に我が年ふるもこの夕べ雲雀鳴きあふ声のひびけり



この辺の風景は津浪以後変わってしまった。北海道のように草原化したのだ。田んぼに青々と草が茂り一面にタンポポが咲いている。この景色は北海道である。北海道には奥になると水田がない、広々とした草しげる原がつづいている。北海道に来たとき空気まで違うと感じたのはやはり水田がない、湿っぽくないということにあった。カラリと乾燥していて草原があり花々が咲いている。日本の水田的景色とは違っている。牧場的景色でありそれは明かに地中海とかヨ-ロッパの牧場的風土になる。
イギリスなどでも丘が連なりゴルフ場のようになっている。あそこにゴルフが生まれたことは風土からしてわかる。自然のゴルフ場になっていたからだ。湿潤なモンス-ン的風土と北海道的牧場的風土は精神的にも違ってくる。これは和辻哲郎の風土文化論になる。


この辺の変化は津浪、原発事故が激しい。人口が増えてにぎやかになったのも不思議である。仮設店舗なども30軒くらい増えたのである。他から入ってくる人も多い。名古屋から来た人が太鼓を披露していた。そういう芸能関係の人々も入ってくるからにぎやかになったのである。それは悪いことではなかった。こうなると津浪被害にあったところは今までとは違う街作りが要求されている。逆にそういうチャンスだということもある。更地になったのだから思いのままに新しい計画を作れるとういことがある。でも水田がなくなってそのあとに一体何を新しく作るのかとなるととまどうだろう。

放射能で牧場もだめだとなると北海道のようにはならない。ソ-ラパネル発電は試している。それも土地がないとか採算が合わないとか問題がある。新しいものを創造するチャンスにしてもそれがどういうものか描けないということは確かである。



特に中山間地帯では、隣の家まで車で5分以上かかるというように、さらに低密度に家が建っています。ご飯を作ることが大変なお年寄りに弁当を配る「配食サービス」という福祉事業がありますが、このような中山間部では配る手間がかかるので採算割れとなり、公的支援なしには成り立たなくなっています。


 これは介護ヘルパーさんも同じです。家が分散していると、移動にかかる時間と費用が馬鹿になりません。福祉サービスの実施の面でも問題が生じるのです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3188


一軒一軒回ることは相当な手間なのである。福祉サ-ビスはこういうことに時間をかけると行き届かない。一所に集めると楽なのである。労働力が不足してきたとき効率的にするとするとやはりコンパクトシティがいいとなる。現実この辺では津浪の被害にあった人は街周辺に集まり期せずしてそういう状態が作られたのである。やはり高齢化社会は分散しているとサ-ビスができなくなる。自給自足の村社会とは違っている。病院でも福祉でもサ-ビスを受けたいとなると効率的ではないのである。

この辺ではそういう将来のビジョンが混乱して描けない、変わりよう激しすぎたのである。ただとまどい混乱しているだけである。田んぼがなくなるなど想像すらできなかったからだ。もちろん故郷自体が消失することなども想像すらできなかった。

でも高齢化社会とかにはコンパクトシティ化が要求されるし何か方法を考えねばならないしこの辺はそうした新しい計画が必要になったのである。水田が草原化するということ、これ自体が余りにも大きな変化だった。ただ水田は復活するのか?別に隣の相馬市では風景は変わらないのである。ただ不思議なのは中通りの福島市でも郡山でもここより放射線量が高いのに同じ様に米は作っている。
それもどうしてなのかとかと思う。


要するにこの大きな変化に未だ人々は対応できないない、小高の人は警戒区域解除でも何ら変わりないとか喜ぶべきことではないとか帰れないとか言っている。まだ将来の見通しが小高区ではたてられないのである。だから帰らない人が多いのである。

 

2012年04月29日

タンポポ (耕されない田畑がタンポポで埋まる)

タンポポ

(耕されない田畑がタンポポで埋まる)


年老ゆも鳴き合いひびく夕雲雀


たんぽぽや子供の顔に輝きぬ


タンポポの耕さぬ田畑に満ちにけり


草原に春の夕風海近し


耕されない田畑に一面にタンポポが咲き満ちている。ハコベのようなものも咲き満ちている。あとは一部耕されているが草原化している。草原だと風も夏の感じになる。海まで見通しが良くなったから風が海から気持ちよく吹いてくる。この景色はまた北海道なのである。北海道は牧場で草原なのである。一面にタンポポの咲いている所がにているのだ。この景色も悪くないと思うがこういう状態でそのままにしておくわけにはいかないだろう。


ソ-ラパネルの仕事も山の木を切ったりして大変ならしい。何か仕事を生み出すにしても簡単にはできない。みんなこの先、福島県などはどうなるんだろうと心配する。田畑の仕事がなくなったら農家の人はどうなるんだろうとか他からも心配になる。ただハウスでいろいろな花を栽培している家があったけど花は放射能の影響はない。水田がなくなっても一面に花が咲いたらかえって美しいともなる。ひまわりは相当植えてあるから一面のひまわり畑になる。


タンポポが辺り一面咲いている。そのタンポポにかがみ子供が遊んでいる。その時自然と子供は一体になっていた。その花に近づける顔にタンポポも明るく輝いて咲いている。畠打つとか耕しとか人間と自然が一体化するとき調和して美しいのである。


my cultivating homeland in spring
humanbeing and the earth in one body


以前として家の方が整理できない、本は乱雑に積まれているしまだ地震で壊れたところや掃除しないところがある。一人は寝ているのでなかなか咲きに進まない。一年間すでに整理に追われている。

近くの人が死んだ。老夫婦であり二人とも病気みたくなっていた。夫が先に死んだけど妻ももう一人では生活できない、90近い人が買い物している。回りにはそんな人ばかりである。老々介護とかよたよた何とか歩いている高齢者である。この辺は津浪、原発事故で病院や福祉関係のサ-ビスの質が落ちた。これから施設に入るのは容易ではない、国では在宅介護にしようとしているが今や少子化や家族数が致命的に少ない、その中で一人倒れられると介護する人大変なことになる。自分は二人も介護する人いたが一人は苦しかったけど死んだので助かった。もし二人も介護していたら自分も倒れた。少子化というのは高齢化して二人でも四人でもその少子化した子供がみなくならねばならぬ。
その重荷はとても背負いきれないものとなる。兄弟もいないとなれそうなるのだ。昔のような大家族だったらなんとかのりきれる。少子化やら高齢化やら一人暮らしの増大はこれから悲劇を生む。

90近い人が多い、その人たちはどうしても病気とかになり倒れる、それが見えているのだ。百までも健康な人などまれだからだ。その時老々介護とかなり共倒れになる人も多数でてくる。
近くで死んだ人は子供が親のめんどうみなけれならなくなる。一か月くらい子供ではなく近くの人がめんどうみていたという。子供でも離れていると今はめんどうみないのである。だからといって近くの人がめんどう見るなどとは今はならない、少子高齢化はやはりえびつな社会構図なのである。

2012年04月28日

桜の短歌十首(橲原村から鹿島の町へ) (日本ではどこでも桜の名所がある)


桜の短歌十首(橲原村から鹿島の町へ)

(日本ではどこでも桜の名所がある)

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犬猫の墓や山家にすみれかな

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二輪草一群れ咲きて山間の流の清く日さしかげりぬ


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鶯と蛙の鳴くや橲原村


山の墓一つありにき錨草


苔むしぬ樹の根元や錨草


犬猫の墓や山家にすみれかな


春の鴨待つ人あれや里の川


星いくつ遠くまばたき花に月


一本の桜の下にの花の影一人行くのみ橲原の村


午後の日の谷間にさして山桜高きに映えて鳥の音ひびく


一本の桜の下に墓ありぬここのみ華やぐ山間の村


山の墓一つありにき一本の桜も散りてあわれ深まる


町方の花の散りぬる夕べかな道を染めにし絹のごとくに


鳥は飛び紅染むる花の色いづれの町も花は咲くかな


風なきに花は散りゆく惜しきかな花には早し時のうつりは


夕日さし花の散りぬるあわれかも時のうつりは早くもあるかな


裏の道花の散りぬる雨しとと我が行き来する町の暮れゆく


夜の森の桜を偲ぶあわれかな帰れぬ人もよその桜見ゆ


 

山鳩に芽吹きし樹々や夕暮れぬ森に隠れて家のともしも


二輪草一群れ咲きめ山間の流の清く日さしかげりぬ


町にある墓はこみ入り狭きかな春の夕べや我が帰るかな


山の墓たずねて町の墓たずね春の日あわれ我が住みにけり


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橲原村の方に行った。一本の桜が咲いてそこを通る女性が一人だった。あそこはいつも人はいなかった。ただ江戸時代からある村だった。ただ墓は明治時代のが多い。あそこで江戸時代の墓が見つからない、杉林にある石塚は名前もわからないが明治時代のものである。戦後も小池に引揚者が開拓に入った人を知っている。その人は自分の父親と双葉の新山の酒屋で働いていたのである。店をやっていたから父親があって親しくなったのである。戦後まもなく全国で引揚者が開拓に入ったのである。
働く場所がなかったのである。上萱などはなくなったが戦後まもなく開拓に入ったのであり新しい村だったのである。それも消えてなくなった。この辺がまぎらわしいのである。江戸時代であればそれは何であれ郷土史関係でも価値があるが明治以降になると価値が落ちるのだ。だから墓を見るときは江戸時代のかどうか見るのがポイントである。

橲原から橲原渓谷を入ってゆくと大葦とかに出るがあの辺は原町区の大原と鹿島区の橲原村に道を分けて分かれている。どちらかというと

大原の方から入って来た人が多いだろう。桜が咲く下に墓が一つあってそれは真宗系の墓だった。一つ石塚がわきにありそれはいつの時代のものなのか?なぜ真宗系なのか?どっちかというと越中などから飢饉のときに相馬藩に入って来た人たちは不便な条件の悪い場所に入った。だからあんな所に入ったのかと思うが別に子孫もいるし江戸時代のものかどうかわからない。ただ上萱よりはあそこは古くから人が住んでいた。大原は江戸時代からあったからその延長の村であり橲原村から入った人は少なかった。ただ良くわからない。

墓が一つだけあるから目立つ、その墓はその近くの家の人だけが参る墓である。そういう墓も田舎には多い。でもその家が途絶えれば墓参りする人もなくなるのだ。それで上萱の墓もなくなった。家族が移動したのである。あの辺は放射能が高いから一部は移動しかもしれない、側溝の落葉のところが20マイクロシ-ベルトあったのは驚いた。道では5か6くらいであった。高いことは高い。側溝は特別どこも高いのだ。水でセシウムが流れだしてたまっているし落葉にはたまりやすいのである。

その墓の近くはキクザキイチゲやらスミレやら二輪草も咲く流れがあり錨草も咲いていた。
ただここは放射能で汚染されたというよりゴミを捨てているのでがっかりした。頻繁に車が通る所なので捨てられたのだろう。放射能よりこっちのゴミの方が目立つのである。放射能は別に水を汚したり見た目には見えない、ただあれだけの放射線量があるとする下流に影響するから鹿島区では耕作させないのだろう。猿が良くでてきた。猿などにどう放射能が影響するのか?山のものを食べていれば必ず放射能の影響があるからだ。

橲原村は橲原渓谷があるからいい、高速道路を車がすでに走っていた。あれが東京と通じたらこんなところでも人が入ってくるようになったかもしれない、飯館村なんかも原発事故がなかったらかなり入ってきたかもしれない、高速道路を待ち望んでいたのである。東京から飯館村も来やすくなったことは確かだろう。でもあの辺は風穴の湯とか農業でも畜産農家でもやめる人がふえるだろう。そのあとどうなるんだろうとなる。ただ高速道路が通れば東京からの客が来ることも考えられる。

橲原村は前にも書いたけど丁度鹿島区の奥座敷のようになっていたのである。回りを森に囲まれているからだ。大原は昔は大原山人という人が住んでいたが今は車がひっきりなしだからそういう感じがないのである。橲原は車が通らない分今も奥座敷の静けさを保っているのだ。

そこからまた町の方に下ってきた。桜ももう散って終わりつつあった。花の命は短い。桜で感じることは花が咲き散ることにより時の移りを感じる。それを日本人は自分の命にたくしていたのだ。花が咲いて散る・・・その移り変わりが人生とみるようになった。他の花にはそういうことはない。ただ咲いて枯れるだけなのである。花は美しく散ることこそが美しいとなった。そういう日本的美学を桜は作ったのである。ただそれは戦争のとき故意に作られたということもある。命を惜しむな散る桜こそ美しいのだとなって400万人死んだともなる。ともかく桜は日本人の心の花なのである。


桜は別に京都や大阪でなくてもどこでも咲いている。桜の名所は別に無数にあるのだ。この辺でも南相馬市立病院の桜は自分が一か月入院したからあれは情緒あるなと思った。相馬市でもお掘りの桜がある。桜は土地土地にある。夜ノ森の桜も有名だった。それを見れなくなるとは思わなかったろう。でもよその桜を見ている。他にも桜の名所はいくらでもある。吉野や京都だけではないのだ。ただ京都とか奈良だと何でも名所になるから得なのである。キ-ワ-ドでも桜を知りたいというとき辺鄙な知らない町のことなど調べないのだ。必ず京都となり俳句でも短歌でも京都のことを書くとアクセスがふえるのである。地方はキ-ワ-ドでも注目されないのである。


今回も橲原村から町の方に帰るとここでも山の方と町の方では違っていると思った。山の桜と町の桜は違っている。町が都とはなちないがそれとにたものがある。山の墓は一つだったが町の墓は狭い所に密集している。墓も町のように入り組んでいるのだ。だから山と町は違っている。墓も狭くいりくんでいることはまさに町は現実の町もそうである。現実の町もそうだから墓所もそうなっているのだ。土手の桜は散って花びらで桃色に染まったのは美しかった。まるで布がそめられた感じになった。これは町ならではの美しさであり都的な美しさだった。どこにでも本当は美はある。ただ人は見る目がないと何も見えないのである。田舎はかえって自然は美しい、放射能は別に自然の美を損なうことはなかった。花が咲かなくなったり木が枯れたりしたらショックであり住めない,人は美のない所に住めない、それでも東京のような美のない所に住んでいるのがわからないのだ。京都だって都会だからすべてが美しいとは言えないのである。空でも街でもやはり濁っている。歴史があっ

ても自然は汚れている。ただ京都は水はきれいだし自然と調和したものが残っている。

それにしても桜いくら見ていてもあきない、桜は場所によって違って見えるのだ。それから桜前線によって咲く時期が全国で違っている。テレビでやっていたけど弘前の桜は雪がようやくとけて咲くから一段と美しいと言っていた。その雪国の時間の移り変わりを外からきた人は体験できないのだ。
だから福島県でも会津の桜とかは良くわからない、そもそも会津は浜通りからする異質の世界なのである。日本海側の桜も見ていない、なぜみれないかというと時期をはずすと桜は見れないからである。自分は稚内まで行って桜を見た。5月の下旬頃まで咲いているのが桜だったのである。全国の桜をみるということはそれだけぜいたくなことでもあった。九州の桜などは見ていない。ただ桜はどこでも見れるものである。山の鄙びた山桜を見て町の華やかな桜を見るということもあったのだ。
やっぱり日本は桜の時期が一番いいのだ。ただ今や旅もできない。でも近くでも桜は見れるのである。

ようやくに稚内に着き桜見る日本の果てや旅もつきしも

2012年04月27日

畑打つ(アマゾンでまた本を買った)


畑打つ(アマゾンでまた本を買った)


●関連した知識を得るには便利になった


本で家が傾くほど本があった。百科事典はかたづけた。今はインタ-ネット時代だから必要でなくなった。なぜは本は整理できないのか?本がなかなか捨てられないのは愛着があるのはモノだからということもある。それもあるのだが本はあくまでもそこに書いてある知識が大事なのである。その知識が整理できない、長年生きていると知識の量も膨大になるのだ。すると知識が整理できなくなる。
本の山に埋もれているのも知識が整理できないからだ。知識はまたいくら年取って乗数的に増えてくるのだ。そしてインタ-ネット時代で気づいたことはこんなにいろんな本があることの不思議だった。これまで手にした本は決して巨大な書店でも手に入らない、古本にもなっているからだ。どんな古本もアマゾンだと手に入る。すると今まで決して手にとることのできない本が読める不思議があるのだ。詩は極めて少数者のものだから大書店でも置いてない、だからいろいろな詩に接することはできない。でもアマゾンだと探せば自分が興味ある詩集があったりする。それで買ったりする。
本を読んでいてもインタ-ネットなどを読んでいてもそれに関連したものが知識として必ずある。
一冊の本は決して一冊では終わっていない、知識は無限に連鎖しているのだ。また自分だけが感じたり考えたりしたことが実は他人も同じこと考えていた感じていたということは往々にしてある。
それがインタ-ネットでわかったりする。交通事故などでも被害者は生贄だというとき同じことを思って書いていた人がいたのである。


どんな本を読んでもある人の引用している人が多い。そうすると引用したものに興味をもつのである。この人は誰なのか、詩集を出しているのか、もっと詳しく知りたいとなる。その時アマゾンが便利なのである。ものを書くにしても自分だけでは書けない、誰かの引用をしなければ書けないのである。そういうときインタ-ネットだけでなくアマゾンでそれに関連した本を探し買うのが便利なのである。ともかく連鎖、リンクして知識が拡大して深めることができるのだ。インタ-ネットはペ-ジだけしか読まれないことが多い。あるタイトルはどうしてかわからないが毎日10くらいあることに驚く。すでに数年間もつづいているからそのアクセス数はト-タルではどのくらいになるのか?


「古池や蛙とびこむ水の音-芭蕉」この句の感想が延々と読まれていることの不思議である。一ペ-ジくらい読まれるのはある。でも10近く毎日読まれるのはどこにもないのである。この句になぜこれほど関心があるのかもわからない、これは外国でも興味をもっている。外国からもアクセスされたからである。「これがまあつひのすみかか雪五尺 小林一茶」これも結構読まれている。中国語でアクセスがあった。こういう句は一般的にみんな興味をもっていることがわかる。でもそんなに興味のないものでもある人が紹介するとその短歌や俳句に興味をもつのである。この人はこの句にこういうことで興味をもっていたのかとわかりその俳句やら短歌を見直すのである。こういうことは確かに本でもあるがインタ-ネットになると増えたと思う。本がインタ-ネットと違うのは本全体を閲覧して要旨をつかむことができることである。ぱらぱらとめくりだいたいのことがわかる。プログなどだとなかなか全体が見えてこないのだ。毎日読んで記録するというのが感じるというのがプログなのだ。


●畑打つ(耕し)の類似俳句


最近近くの本屋で郷土史関係の本をアマゾンで買った。古本になっていて安かったのである。
その中でやはり一茶の句が引用されていた。地元であることが今はそれほどメリットがない。
特に情報関係はそうである。本も情報の一つであり電子化しやすいものだったのである。
交通が発達すると地域が関係なくなる。それは問題にしても味噌を地元で作っていても全国から味噌が入ってくる。すると地元の味噌を買うとは限らない。そういう全国的世界的競争からまねがれなくなったのが現代なのである。地方では売ってないものも買えるからどうしても利用してしまうのである。


畑打つや土よろこんでくだけけり 阿波野青畝


耕され土も喜ぶ春なりき 自作


この句と自分の句はうり二つだとなる。類似俳句になる。俳句は短いから誰かと同じ発想の俳句がどこにある。ただこれで失敗したのは耕しは春の季語だったのである。季語が二つあったからまずかった。俳句の季語覚えるだけで大変な時間がかかる。

耕され土も喜ぶ我が里に


このように直した。こういうふうにあとから簡単に直したりできるのもインタ-ネットではできるからいい。これがいったん本になったら直せないのである。


畑打ちや我家も見えて暮遅し   与謝蕪村


前畑を耕す人や里暮れぬ 自作


これも類似俳句なのである。俳句は何か連句的なところがあるから類似類想俳句が多くなるのだ。
前畑、前田なら家も近くであり見えるから安心感がある。遠くで家が見えなくなると暮れるのも早くなる。こういう土地と家とが一体化して働いていたのが普通だった。それが人間的なことであり自然と一体化した生活だったのである。


畠打ちの顔から暮るるつくば山 小林一茶


確かにこの句は江戸時代を象徴していた。江戸時代は九割とかが農民だった。だから農民的な顔をしていた。農民が顔を代表していたのである。今はいろんな職業の人がいるから農民が時代の顔ではない。農民が時代の顔だったときは素朴な時代だったのである。現代の不思議が田舎でも土地は九割は田んぼなのである。だから農民的世界かと感覚的に思うが実質はそうではなくなっている。農民が土地の顔になることは今でもある。しかしサラリ-マンが普通に田舎でも多いから昔とは違う。農民の顔は今や稀少になってしまったのである。その顔はもうこれが時代の顔だというのはない、顔自体がロボットのような人もいるしもう混交してわからないのである。ただ鬱病的憂鬱な顔が増えていることは間違いないのだ。農民的顔はない、様々な職業に分化して一つの時代の型になるような顔はないのである。


浮世絵の顔がパタ-ン化したのは偶然ではなくそういう一つのパタ-ン化した顔になっていたのだ。
現代ではそういう型になる顔がありえないことでもわかるのだ。そういう同じ顔だと精神的には落ち着いたものとなる。相手のことが顔からすでに話さなくてもわかりあうという間柄になっていた。
現代は田舎だって相手がどんな人間なのかわかりにくくなっている。信用もできなくなってしまったのである。金の力が田舎でも大きいというとき人間は相手と接するとき金勘定しかしていないのである。そういうことは全世界で共通していることなのである。都会だけではない、田舎だって殺伐としているのが現代なのである。

病院であった大原の農家の人は素朴な人だった。大原の草分け的な農家だったらしい。前田という地名のあるところに住んでいるからわかるのだ。あそこには遠田もありその前田から遠いのである。
ただ放射線量が高いから子供のある人はいなくなったらしい。ただ老人は残っている。


大原に動けぬ老人春も暮る


老人は動けなくなってしまう。認知症の人でも住み慣れた見慣れた所だと安心するけどちょっとでも変わった環境になると悪化する。見慣れたものしか認識できなくなっているのだ。だから老人は変化に弱いのである。

2012年04月25日

桜咲く浜街道を相馬市まで行く (地元からの報道の意味は何なのか?)

 

桜咲く浜街道を相馬市まで行く

(地元からの報道の意味は何なのか?)


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パノラマ写真

鹿島区横手古墳群と枝垂桜


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街道に枝垂桜や蔵の家


街道に枝垂桜や古墳群


薬師堂参道の道花の影


相馬へと松並木や落椿


外堀の大町までや柳かな


六万石城の朝かな蛙鳴く


六万石お掘りにたまる花の屑


哀しき跡に偲びぬ夕雲雀


朝静か川の面写る桜かな薬師堂にそ参る人なし


大町に柳芽吹きぬそよそよと朝の風にそゆれてしだれぬ


濁りたる堀に写れる桜花その色濃くも城下町暮る


朝静か城跡に散る桜かな君主にまみえず社残りぬ


城跡に行き交う人や花は散りまたあわめやも離るる人かな


哀しきや妻の面影偲ぶかな津浪の跡に春はめぐれど


三百年つづく相馬の城の跡花散りあわれ集う人かな

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今日は朝晴れていたから相馬の方に行った。やはり日立木の薬師堂のあるところは情緒がある。立谷川に桜が写っていた。医者は特に病院勤務の医者は土着性がないと問題にした。職業には意外と土着性が必要なのかもしれない、土着性は人間の本能としてある。その土地に石や樹のように根付き生活する。人間も生物だからそういう心性をもつのが普通である。動物はトロピズム-本能によっていきている。それは本能的に土着性をもっているということである。江戸時代はもちろん戦前とか戦後十年くらいは農家が中心だから言われなくても土着性は自然と人間はもっていたのである。自給自足だとすると人間は生活そのものがその土地と一体化していた。そういう土着性とから遊離してアイディンティティが失われてきたのが現代なのである。このアイディンティティが失われたことが文明人の病ともなっているのだ。


今は薬師堂といっても病気が直るように祈っても効き目はない、でもこうした薬師堂とかは何の用もなくなったのだろうか?実際はそうでもないのかもしれない、昔からあったものには何らか人間にとって意味があったから残っているのだ。そういうものでも時代が変われば用無きものになる。でも人間自体が変わっていない、病気に効能がないにしろ薬師堂というのは今は癒しとして効能があるのかもしれない、見直されるかもしれない、病気には病気自体を直すことは不可欠である。それとともに病気のときは癒しが要求される。この癒しは軽視される。医者はただ体だけをみる。看護師は確かに癒しの役割がある。医者は癒してくれるような人はまれである。なぜ医者が傲慢になるのかといえば常に弱者になったとき医者に行く、そこで弱者として医者と向き合うことになる。だからそこですでに医者と患者は上下関係ができてしまうのである。あなたは弱い人欠陥人間になった人、私は直す人、患者は医者に頼る人となってしまう。そこに人間としての平等の関係はなくなってしまう。だから癒しもないのである。

癒しというとき薬師堂であれ神社などがパワ-スポットとしてもてはやされるが神社でなくても場には場の力が働く、必ず場を変えれば気分が変わるからである。ただ癒しを求めるとき、賽銭などを入れて何かを得ようとすると癒しはなくなる。その賽銭には人間の欲がこびりついているのだ。これだけ賽銭を入れたのだから見返りがあるべきだとなるのが人間である。そういうふうに神に対応すること自体間違っているのだ。癒しはだからそうした欲を求めないときかえってやってくる。
今なら桜にいやされるし春だから自然に癒される。自然にはそもそも癒しの機能が自ずとあるのだ。
日立木の薬師堂から松並木を経て相馬の城に入る。落椿がにあっている。城跡には桜が満開であり
朝静かに写している。そしてすでに花は散り始めている。城跡には相馬六万石の要であることは変わらない。三百年つづいた相馬藩の要として相馬神社が残っている。

それはcommon mental ,holly and centered placeになる。相馬藩として集権する場が相馬藩の城跡であり相馬神社になりあそこから相馬野馬追いの出陣式が行われる。そこにそういう歴史的パワ-が秘められていることは確かである。ただそれは相馬藩内に生活している人しかなかなか感じないだろう。それも長く生活していないと感じない、実際は何代も生活してきた人、江戸時代から主君に仕えていた武家の人、野馬追いに出る人は一番感じていることである。そういう歴史的場は江戸時代に作られた藩にある。だから会津なら会津の城が中心となる。そこが一つの世界の中心なのである。
だから原発事故でそうした何百年もつづいた千年もつづいた歴史の場を失ったり住めなくなったりすることがイメ-ジすらできなかった。そうした長い時間で積み重ねられた歴史をのアイディンティティを失うことがどれほど重大なことか認識していない、幸い今回の原発事故は相馬藩の余(夜)の森で起こった。中心からは離れていた。でもその影響は大きすぎた。

東京辺りの人や関西の人が面白がって早く福島県から避難しろ、もう住めないんだといって面白がっているけど人間は歴史的に時間でそういうふうにして長く住んだところから簡単に離れられるのか?

そうすると人間の根源的アイディンティティを失うことになる。もちろん新しいアイディンティティ求めて移り住むことは可能である。それでもそのアイディンティティを作るには長い時間がかかる。会津に移り住んで会津人のようになるには長い時間がかかる。一代だけではできないほど長い時間がかかるのである。

外からの報道と一地域からの報道は違っている。福島県の新聞やテレビすらその報道するものは違っていた。インタ-ネットはプログは実は一つの報道機関、メデアを個人的にもったものだという自覚をした。地元から報道することは何を意味しているのかわからない面があった。本を出すこととこうして毎日報道のようなことをしているのとは違っている。地元から報道することは時間が途切れなく継続していることなのだ。全国でも福島県ですら一時的なものとして途切れることがありうる。
しかし地元に住んでいる人の違いは時間は津浪であれ原発事故であれ継続したものとしてある。途切れることはないのだ。他からなら一時的な興味としてあとは忘れることもできるが地元では津浪の跡は消えず残っているしその被害者もここで生活している。それは延々と継続している。一代では終わらず継続した時間を生きるのが地元なのである。特にインタ-ネットで報道の主体となったときそれを感じたのである。

亡き妻に法螺貝を鳴らして去年もあえて出陣した人がいた。その津浪の跡は以前として何も変わりはない、土台しか残っていない、新しい家は一部町内に建ったが海岸沿いには建たないだろう。
ここでは津浪の被害の悲しみもつづいているし放射能被害もこれからつづいている問題なのである。外の人は忘れることができても地元の人は継続して悲しみ苦しむことになる。これは神戸の地震時は他人事であり最初だけ注意したのとにている。遠いから関心が一時的なものとして終わったのである。地元が被害にあえば一時的ではない延々とつづく問題としてここでその重荷をそれぞれ負うことになり共同で負うことになるのだ。


哀しきや妻の面影偲ぶかな津浪の跡に春はめぐれど


簡単に人は長年暮らした人のことを忘れられないだろう。ともかく継続した時間を生きているのが地元であり外からかかわるときは一時的なものとして終わり安いのである。そして記録するというだけでも意味がある。今までは地元の人でもメデアをもっていないから発言もできないし記録ということもできない。記録として日々残されていることだけでも意味がある。こんなに大惨事になると大きな記録の作業をしていることがわかったからだ。郷土史の基本は記録にもあった。400年前の慶長地震と津浪のことは一行しか記録されていないから忘れられていたのである。記録は歴史を残す基本的な仕事なのである。

鎮魂の野馬追い
http://musubu.sblo.jp/article/47599444.html

2012年04月24日

南相馬市鹿島区の春(仮設の人の耕す畑)


南相馬市鹿島区の春
(仮設の人の耕す畑)


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寺内の古墳

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春耕や仲間と喜ぶ仮設の人

耕され土も喜ぶ我が里に


鶯の鳴き競う声森の奥


生まれたて黄色の蝶や日をあびぬ


風そよぎ孟宗竹に芽吹きかな


朝風に木蓮百輪そよぎゆる


春の鴨しきりにくぐる波紋かな


花散らし鳥また桜へ飛びうつる


千本のツクシの伸びよ日の光


一石坂江垂の中館山桜


百輪の二色の椿夕日映ゆ


寺内に三つの古墳春の草


紅梅や墓石新し花模様



満開に咲きにし桜一二片はや散りそめて静心なし


飛ぶ鳥の花から花へ鳴きわたる晴れ渡る空燕飛びかふ


真野川の土手の桜の満開に飛び交う鳥の暇なかりけり


一本の樅の樹ここに立ちにしを知らずに春や力強きかな



今日はようやく春がきた。それも一挙に来た。桜も満開である。人間は地元でも灯台もと暗しなのである。近くに何があるか良くみていないのだ。今回も近くで見たのは初めてだという感じになっていた。ここに椿が咲いていたかのか樅の樹も一本ここにあったのか、こんなところにこんな家があり花が咲いていたとか気づかないことが近くであるのだ。

郷土史研究などしていても近くのことが意外とわからない、注意していない、寺内の古墳など万葉集にも歌があるしあの古墳は有名だから知っていると思っていた。実際はこの年まであそこに三つの古墳があることがわからなかった。あそこに集中して三つの古墳があることはやはりあそこが歴史的場所であり古代の真野郷の中心地帯だった。一つには注目していたが三つあったことに注目していなかった。それも大きな古墳だったのである。それから江垂の中館というのは中世では有名であったからあそこに山桜が咲いていた。山桜が山城だからにあっていたともなる。こたにも歴史的場所がある。他の人はわかりにくいけど地元の人もわからない、その歴史的背景を知らないと俳句とか短歌もつくれないのである。また鑑賞もできないのである。


仮設の人が岡和田へ行く橋をわたった所で耕して種を植えたり水をやったりしていた。何か楽しそうであった。小浜の人で津浪で家が流されたという、その人はいち早く逃げたから家族は助かったという。小浜は南相馬市原町区であった。小高と境を接している。ビニ-ルハウスは60万で寄付されたという。他にも畑をNPOなどで提供されているが自由がないがここは自由に作れるという。放射能も計っているし自分たちで食べることもできるし売ることもできるというのは意外だった。別に耕すこと自体がこの辺は禁止されているのとも違っていた。だから耕している所はある。やっぱり畑が耕されないということは土も死んでしまう。耕されて土も喜んでいるなと本当に感じた。耕されない土地をみていたから余計にそう感じたのである。土も喜び人間も喜ぶ・・こんなことを感じたのはやはりこの辺の異常な環境からだったのである。

 

この辺は環境が変化した。仮設が建っていることと避難した人で人が増えたからにぎやかになったのだ。人口減少していたから人口がこの辺はどこも増えた方がいいことがわかった。人口が増えると便利なものができてくるのだ。ともかく人間の世の中は変わるものだ。
世の中は三日見ぬ間の桜かな・まさにこれだ。桜も満開となり二三片花びらがすでに散りはじめたのである。とにかくこれほど変わるということは経験したことがない、世の中は急激に変わってしまうことがある。この辺は古い家があちらこちらで壊されている。新しい家も建っている。家がなくなった人がこっちに建てている。寺内の墓所は陰気な所だった。それが新しい墓も増えたのか回りの木も切られて明るくなった。
花模様の墓石も珍しいし明るい、墓所も明るい方がいいのかもしれない。墓まで世の中は変わってしまうのだ。

ともかく南相馬市はまだ住めるからいい、住めなくなった浪江やら双葉やらの変化はこれ以上に激しい。
自分たちの住む場所がなくなったのだからその変わりようは未だに信じられないだろう。南相馬市ではまだ人が住めるから変化しても良しとなる。でも津浪で家が流されたとか家族が死んだとかそんな人が回りにいるということはその変化が激しすぎるのだ。いづれにしろまた春の盛りもたちまち過ぎてしまうだろう。今年は一挙に春が押し寄せた感じだ。

2012年04月20日

花曇り(みちのくの桜も満開なれど・・・)


花曇り(みちのくの桜も満開なれど・・・)


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故郷の病院あわれ花曇り


みちのくは災害の年花曇り


雨ぬれて病院に誰か夕桜


みちのくの桜ようやく満開に咲きしも暗くくもりけるかな


みちのくの桜満開に咲きにしも厚くも雲のたれこめにけり


一鉢の日本桜草我が買いぬその名の良しも我が愛でにけり



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今年は桜も咲いたけどみちのくは曇りの日が多い。何か今の状況とあっている。桜を心から楽しめない、ぱっと咲かない、花曇りがにあっている。こんな災害の時はなかった。心から明るくぱっと咲くのはいつになるのか?もともとみちのくの桜はぱっと咲かない、京都とか大阪とか西とは違っている。醍醐の花見とか昔から栄えた大阪辺りとは違いみちのくは栄えていない、桜もやはりその土地土地によって違ったものとなる。桜咲くときはいつも京都や大阪とか西の方に旅していた。ずいぶん我ながら旅したものである。今になると旅ができないというのもその報いなのだろうか?家から簡単に出れない。それだけ恵まれていた。しかし時はたちまちすぎてしまった。桜が美しいのはやはり西の方だから特に京都や大坂城の桜は見物であった。もう一度見たい、しかし旅というと一日とはいかない、やはりゆっくり旅するのには一週間でも東北からだとたりない、ゆっくりと旅することは贅沢だった。一か月くらい平気で旅していたから恵まれていた。それが思い出となり思い出して詩を書いたりしている。旅は自由気ままで時間をかけないと旅にならないのだ。あとで記憶に残らないからだ。
風のように旅する必要がある。つまり旅人になることは普通の生活を勤め人のような生活をしていればできない、旅人は時間に制約されず風のように自由でなければ旅人にはなれない、だから実際は旅人は少ない、今の旅は保養の旅であり休養の旅である。


日本桜草は種類がいろいろあった。自分が買ったのは写真にあるものだろう。名前がそれぞれついている。日本とついているところがいい。大和撫子とかも何かその花と共に日本人の心を象徴する感覚になるからいいのだ。今の女性の名前はそういうものがない、名前が何かあまりにも日本的なものではない、どこの国の人かもわからないだろう。とにかく桜草というのは日本に自生している花である。この花は金華山で見た。あんなところに咲いているのは意外だった。自生している花は栽培しているのとは違う。野性味があり自然にマッチして咲いているから違っている。小高区の村上城跡に咲いていた椿の群生は自生していたものである。だから栽培された椿と違って貴重であった。

自生した花はより神秘的でありふれがたい美しさ清純さがある。尾瀬の花がそうであり高山植物がそうである。ただこういう花は日常的鑑賞できない、登山するにしても疲れてしまうからゆっくりと鑑賞する余裕がない、そこが問題だった。自転車旅行もいいのだか疲れてゆっくり鑑賞できないのである。最近疲れやすくなっているし病気持ちだから遂に登山も遠くの旅行もできない、人間はいくら旅しても美しものを見たと言ってもつくづく一部にすぎなかった。よく見ていないのだ。自分でさえそうなのだから他の人はさらに見ていない、いろいろな雑事に追われて花を見ていない、そのうち時間が過ぎてしまうのが人生であった。

2012年04月19日

桜咲く(戦争の話しを老人に聞く)


桜咲く(戦争の話しを老人に聞く)


春日さし昔を語る老爺かな


春日さし石あたたまり里に老ゆ


梅の香の流れたたずむでで虫の一匹歩む朝の静けし


みちのくは未だに花の咲かざりき南は盛りを過ぎて散りしを


みちのくにようやく咲きし桜かな仮設に住める人も歩みぬ



88歳の老人と道端で話した。この年だとやはり戦争の話だった。東京の飛行機作る工場で働いていたという。地方からも人を集めていたのだろうか?特攻隊を見送る話しをしていた。直接見送ったわけではない、女性が花束を特攻隊員にささげて別れた。油は帰る分がないので帰ることはできないし死ぬのだから帰ることはないと攻撃したのだからそれでも良かった。

この人は直接戦争に行ったわけではないし人を殺したわけでもない、志願兵で行った人は本当に人を銃剣で殺している。中国人を殺している。だからそのところは詳しく語らなかった。今日あった老人は人に聞いた話であり経験した話ではない、戦地に行っていない、ただ東急空襲を経験している。

人づてで聞いた話で中国人を並べて戦車でひいたと語っていたがこれもよくわからない、ソ連兵は日本人を戦車でひいたことは確かである。天安門でも戦車でひいた。これはあまりにも残酷なことである。人間は戦争になればそこまでやるのかとなる。戦争に関しては生きている人もすくなくなり経験者よりその話を聞いたという人が多くなっている。この世代の人は必ず戦争のことを語る。姉も死ぬまで戦争のことを語り続けしんだ、死ぬ前まで語っていた。シンガポ-ルに4年間も従軍看護婦で働いていたからである。そのことが忘れられないのである。人間はこうした強烈な事件は経験は忘れられない。それは戦争でなくても人間の一生のなかで起こることで強烈な印象になることは忘れないのである。だからそのことを延々と語ることになるのだ。

戦争で確かなことはやはりその人が身近に見たことなのである。梅毒になって死んだ人を近くで知っているから梅毒が蔓延したことはまちがいない、その人も近くでそういう人がいたと言っていたから各地に戦争帰りの人で梅毒になった人がいたのである。


(4)10年以降、中枢神経系と循環器系を中心に全身が冒され、麻痺や痴呆、精神障害


戦争が終わって10年後になるということでもわかる。近くの人もそうだった。梅毒は戦争と共にもたらされたのである。


 フランス王の シャルル 8 世 ( 1470〜1498 年 ) は イタリアの ナポリの王女と結婚した父親の遺産を相続し、ナポリを自分のものにするのは当然と考えました。そこで兵を進め 1495 年には港町の ナポリを包囲し陥落させましたが、征服軍の兵士たちはここで売春婦などと遊び興じたために、多くの兵士が新大陸直輸入の新種の病気である性病の梅毒に感染しました。

上流階級の男性の間では インディオの女奴隷を 賞味すること が流行したためであり 、その女奴隷を通じて新大陸の風土病であった梅毒に罹ったとする説がありました。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/koronbusu.htm


人間の病気はいろいろありなぜこんなに病気になるのかと思う。梅毒は戦争から生まれたということは戦争により人間の性が乱れることが原因している。韓国女性の従軍慰安婦もいろいろ言われるがすべては否定できないだろう。そういう女性を必要としていた。戦争は人間をアブノ-マルにしてしまうからだ。人間の病気は罰なのだろうか?性の乱れからだとするとエイズなどもそれと関係しているしソドム、ゴモラも同性愛とか性の乱れから滅ぼされた。ともかく戦争は露骨に人間の悪の側面が現れる。その一つが性の乱れである。梅毒とかエイズとかは他の病気とは違う、文明病とか言われたように戦争とかが原因でなっていたのだから他の病気とは違う、心臓病とか脳梗塞などは普通にある病気だけど梅毒は戦争を通じてもたらされたから違っている。戦争から様々な悪が生じてくるのである。


今日話を聞いた老人の顔は子供のような顔していた。そこに悪を感じない、素直な童顔であり飾り気のない子供のような顔をしていた。もう欲望もないしいい顔だと思った。88才までも病気にもならなかったのかもしれない、だから幸せな顔していたのかもしれない、まず今は60代は老人とは言えない、なお欲望でぎらぎらしている。これも女性でもそうだったから60代は危険な人が多い。個人差はあるにしろ全く枯れていない、ただ80以上の人は義理人情とか素朴な人がまだいる。そういう農家の人にあった。素朴な人は接していて顔を見ていてわかる。何か悪さをするという感じが見えないのである。正直であり素朴なのである。個人差はあるにしろそういう人は結構多いのかもしれない、60代はそういう人はまれである。以前としてぎらぎらした欲望がむきだしになっているのだ。そういう人だということを知っていればもっとを気をつけたが失敗だった。そういう人と接すると害を受けるから怖いのである。


ともかくこの辺では農家の人でも田んぼや畑を耕さないのだから昼間から酒飲んでいる人が多いのである。その人は仮設の人ではない、地元の人でも農家の人はやることがないから酒飲んでいる。
88才になれば何もできないからだが仕事できる人もできないから酒飲んでいる。この辺はどうなってしまうのか? ぼかぼかと石が春の日にあったまるようにいられるならいいがいられなくなった老人もいるから悲劇である。


この辺もようやく桜が咲いた。多少落ち着いたが自分はいろいろと生活に追われている。家事だけでも一人でやることが大変なのである。最近身内が死んだがその貯金を全部下ろしていなかったのだ。それで連絡がきたが通帳はすでに捨てた。通帳があれば引き出すことが簡単にできた。それがないので戸籍謄本とかを送ったりかなりめんどうなことになる。相続問題がでてくるからだ。一人の人間が死ぬことは財産があったりするといろいろあとあとまで整理が大変なのである。自分の場合は相続する人が一人だったりしているから楽だったが兄弟がいたりしたらめんどうになる。
死んだら通帳は必ず見てもらった方がいい、ここは盲点だった。いろいろ証書があってわからなくなっていたのである。

2012年04月17日

春の雷 (警戒区域解除-南相馬市小高区に入り俳句と短歌を作る)


春の雷

(警戒区域解除-南相馬市小高区に入り俳句と短歌を作る)


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小高区へ燕の飛ぶや入れたり


小高区へ入るや轟く春の雷


山に雷海に波打ち揚雲雀


雷鳴りて波しぶきあがり藪椿


波ひびき街復興せむ春の雷


故郷の病院あわれ花曇り


雨ぬれて病院に誰か夕桜


荒々し波うちよせて藪椿赤々と映ゆ城跡の山


庭の石ここにも残り家ありて残れる松や春の日あわれ

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小高区へ入ったら春の雷が鳴った。燕も飛んだからやっと入れたということでうれしかった。
第一そもそも警戒区域とかで入れないことが信じられないというか何か理不尽なのである。
ある土地が入れなくなるということが今まであっただろうか?
こんなとき春の雷が激しくなってちょっと雨がふった。ともかく入れたということが感激になっているのも奇妙である。小高にはあまりこれまで行かなかった。土地に特徴がない、高瀬川のような急流もあるわけでもない、見るところがないのだ。

村上城のあったところに一面に藪椿が咲いていたのは見物だった。あれは自生していたものであり数が多いから見物であった。この時も波も荒く打ち寄せていた。海への恐怖感が植えつけられたから津浪のあったところには住みたくないというのは心情としてわかる。海は怖いなとつくづく思った。
この辺の波は荒いからそもそも親しめるという感覚がない、瀬戸内海のような海とはもともと違っていた。

ここでも流された家の跡に庭の石が残っていた。不思議なのは小さな石も残っていたことである。烏崎村でもそうだった。小さな石は流されてもいいはずだがみんな残っているのだ。

小高の被害は海に接して大きな集落がなかったから被害が小さかったかもしれない、塚原の方は家が全部流されたとかはあまりないみたいだ。山沿いにあり多少高かったから助かったのかもしれない、一番の被害は海側に直接面していたところだった。村上の城跡の山が一つあっても津浪を和らげる力になった。津浪を防ぐのは高い堤防とは限らない、厚い土盛りしたものが効果的である。
名取や仙台辺りでは高速道路が高く厚く土盛りしてあるので津浪をさえぎったのである。


南相馬市立病院には一か月入院していたのでなじみかある。故郷で一番なじみのある場所になったのはこの病院かもしれない、最後に死ぬときも今は病院に世話になる。病院が最後の場所になるとしたらそこはやはり大事な場所になる。あそこの桜は見物である。見晴らしもよく桜も咲くから環境がいいのである。医者や看護師もいい病院の条件だが環境もいい病院の条件なのだ。特にタ-ミナルケアとかの病院になったら環境はさらに大事な条件になる。その点相馬市立病院の環境は悪い、回りに見るべきものがない、情緒的には良くない、ただ看護師とか医者はまた別である。すひべてがいい病院などないのである。


今日はまた母が胃が痛いとかで病院に行った。そこでは南相馬市出身の医者がいた。地元出身だと何か親しみがもてるかもしれない、医者は土着性がないと指摘があった。意外と土着性というのも仕事に必要なことかもしれない、病気になったりしたらいい医者が遠くにいても親しみがもていなとか何か心の面で安心しないとか落ち着かないという心の問題が起きてくる。そういうことも病気に影響することは確かである。医者自体心が体に影響すると言っているのだから病気には心の問題が影響するからだ。病気は総合的なものとして対処するのが理想なのである。土着的だとか回りの環境も影響する。その土地に根付くように仕事をするということが必要なのかもしれない、ただ技術的なことだけならば他かの遠くの医者が上手であり高い技術をもっていることはいえる。高度な手術はやはり地方の小さな病院では無理だということはいえる。小高に泌尿器科の医院があったのは意外だった。
病院は近くにあるのが意外と大事である。確かに車がある時代だから遠くに行けるようでも車がない人もあり車に乗っていても病人は疲れるのである。だから近くがいいとどうしてもなるからだ。


ともかく忙しい一日だった。旅をしないと一日家にいると暇になることは確かだが介護とかあるので暇がもてないということもある。食事の問題が一番時間をくう、片づけたり洗ったりするのがめんどうなのである。だから原町にあるチェ-ン店で200円の朝食があるのには驚いた。
350円でも納豆定食食べられるからあれだったら楽だし金もかからないからいい。
朝昼は外食で夜だけちょっと軽いものを作るとなれば時間はかからない。
なんかあと5,6年しか生きないとすれば短いがまた10年とか生きれば結構長いものかもしれない。
とにかく人間はいつ死ぬかは医者もわからない、60代でも結構死んでいるから死は身近なのである。

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2012年04月13日

春の朝(南相馬市の国見山に行く)


春の朝(南相馬市の国見山に行く)

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老いざらむ脳活性化春の雷

定まらぬ余震つづきて春の雷


高倉の木橋渡りて梅におふ


石神に蛙の鳴くも耕さじ


石神の小学校や蕗の薹


朝日さし鶯ひびく国見山


朝日さし猫柳芽ぶく国見山


木蓮に山風そよぎ朝日さし椿群れ咲く石神の里


清流の流れのひびき朝日さし磐にすみれや山に入るかな


山鳩の鳴きあう声のこもりつつ森に騒げる風の音かな


国見山海より東風(こち)の吹きそよぎさえづり高くひびきけるかな

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昨夜は春雷で稲光りが走った。そして今度は余震だった。余震は今夜もあった。まず落ち着かないのがこの辺である。人は老いたくないし、頭を使うと脳の血流が良くなり体全体に影響するからいいという。認知症はこまめに体を動かさなかったり頭を使わない人がなりやすいのかもしれない、自分の姉も役所をやめてから何もしない、怠惰になってしまったことが原因していたことは言える。頭を使わないと血流が悪くなりそれが体にも影響するのだ。

一体いつになったら安定してくるのだろうか?時々この辺は特別呪われた地域になったのかと思い不安になる。原発事故の影響も大きすぎたのである。
原町区のイオンから意外と石神は近かった。この辺で放射線を計ったから1・5くらいあったから高い方だったのだろう。それでなかなか石神小学校ははじまらなかったのだ。石神には子育て地蔵とかもあった。今回注目したのは写真の木の橋だった。木の橋は今やめずらしい。梅も咲いてにおっていた。

そこから流れの上流をたどり国見山に行く、山鳩が鳴きあっていた。国見山は通行止めになっていたが自転車だと上れる。この電動自転車は坂には強い、頂上まで上った。国見山からちょうど南相馬市の全容が視界に入る。鹿島区-中心の原町区-小高区が見えるからまさに国見山だったのである。

ここに海から東風(コチ)が吹いてくるがこの東風が災いした。飯館村はこの東風のために放射性物質が大量に運ばれた不運があった。

放射能の被害と言っても目に見えてはわからない、ただ耕作されないということが一番目に見えての被害なのである。相馬市だと普通に耕作しているから普通と外見は変わりない、田舎で田畑を耕作しなかったら田舎になるのかとなる。飢饉にはならないにしろそんなことを経験もしていないだろう。田畑があって田舎なのである。江戸時代だったらもう住めなくなる。

俳句とか短歌とか芸術などができるのもそもそも平和がなければできない、確かに一年前よりは平和な春が来ているにしても正常ではない、逆に俳句でも短歌でも芸術が楽しめない地域は異常なのである。普通の暮らしがない平和がないとなる。だからこういうところに住みたくなくなる人がでてくる。若い人は他に移る。すると高齢者だけが残されることになる。残る人は家と土地をもっている人である。田舎の家は広々としているし簡単に移れないのである。


国見山はまさに南相馬市を見晴らせる山である。南相馬市を訪ねたら必ずよる必要がある場所である。この辺は別に原発事故などがなけれ
ば悪い場所ではなかった。住みやすい場所だったのである。
住めないことはないにしても何か落ち着かない住みにくい場所になったのは残念である。