晩菊に今日も我が寄り我も老ゆ
バス行くや乗る人なしに冬菜かな
毎日晩菊を見ているその自分が老いてゆくというのも奇妙である。今の時代親が90歳とかめずらしくないから子供も老いているのだ。これも時代である。まだ寒菊という感じがしない、寒菊はもっと寒くなってからの方があっている。
バスはなんか前時代の遺物のように見えるんだがたまに走っている。乗客がいなかった。バスというもの自体何かなつかしいものになっているのだ。車というのは好きでないし俳句にもなりにくい、バスは俳句とかになりやすい、バスはまだ何か人間的なのである。そしてバスにのるのは今や老人が多い、バスの利用はこれから多くすべきである。自家用車のない人だっているしバスは地域の足として必要なのである。バスはまだ人間的なぬくもりみたいなものが感じる。車はメカとしてしか認識できない、人間的なものではない、車は便利でも何か人間を疎外してしまうのだ。
晩菊や里の老人バスを待つ
http://www.musubu.jp (本サイト)
http://www.musubu.jp/2004dairyhaiku4.htm (過去の今日の一句一首)ログ
2005年11月29日
晩菊
晩菊に今日も我が寄り我も老ゆ
バス行くや乗る人なしに冬菜かな
毎日晩菊を見ているその自分が老いてゆくというのも奇妙である。今の時代親が90歳とかめずらしくないから子供も老いているのだ。これも時代である。まだ寒菊という感じがしない、寒菊はもっと寒くなってからの方があっている。
バスはなんか前時代の遺物のように見えるんだがたまに走っている。乗客がいなかった。バスというもの自体何かなつかしいものになっているのだ。車というのは好きでないし俳句にもなりにくい、バスは俳句とかになりやすい、バスはまだ何か人間的なのである。そしてバスにのるのは今や老人が多い、バスの利用はこれから多くすべきである。自家用車のない人だっているしバスは地域の足として必要なのである。バスはまだ人間的なぬくもりみたいなものが感じる。車はメカとしてしか認識できない、人間的なものではない、車は便利でも何か人間を疎外してしまうのだ。
晩菊や里の老人バスを待つ
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バス行くや乗る人なしに冬菜かな
毎日晩菊を見ているその自分が老いてゆくというのも奇妙である。今の時代親が90歳とかめずらしくないから子供も老いているのだ。これも時代である。まだ寒菊という感じがしない、寒菊はもっと寒くなってからの方があっている。
バスはなんか前時代の遺物のように見えるんだがたまに走っている。乗客がいなかった。バスというもの自体何かなつかしいものになっているのだ。車というのは好きでないし俳句にもなりにくい、バスは俳句とかになりやすい、バスはまだ何か人間的なのである。そしてバスにのるのは今や老人が多い、バスの利用はこれから多くすべきである。自家用車のない人だっているしバスは地域の足として必要なのである。バスはまだ人間的なぬくもりみたいなものが感じる。車はメカとしてしか認識できない、人間的なものではない、車は便利でも何か人間を疎外してしまうのだ。
晩菊や里の老人バスを待つ
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2005年12月01日
冬の日の書斎
冬の日の書斎や
読み返す本こそよけれ
古酒のごと
その味わいの深きかな
一日籠もりて
今日も過ぎにき
読書は自ら発見して再構築してゆく、ただ読んだだけではいきてこない、その一文からでも刺激を受けて自ら想像してまた別なものを作ってゆく、引用して自分なりに編集して再構築してゆく、本というのはまずかなりの量を集める必要があるのだ。それで何度も手にとり再読して味わうのである。冬も静かだから読書とか昔をふりかえるのに向いている。なんか最近外出ほとんどしない、仙台にも行っていない、一カ月ほど近辺にして行っていないのもめずらしい、結局インタ-ネットが自宅で仕事になっている。インタ-ネットは文章書くのに都合いいのだ。リンクしたり引用するのに向いているからここで常に編集しているとそれなりのものができているのだ。だから自宅が出版とか報道とか創作の仕事の場となってしまったのだ。
このプログは今のところはわかりにくい、ただやってみないことにはわからないのではじめた、これもわかるまでは時間がかかるがともかくやってみるほかない、自分にはかえってホ-ムペ-ジは慣れているし管理しやすかった。これは何かかえってまだ管理しにくいし読まれているかどうかもよくわからない、というより今日の一句一首は日に一人くらいしかこなかった。でも毎日のように書きつづけてきた。書くことがともかく楽しいし記録として書いているのだ。あとでまた自分の書いたものを参考に編集すれば別な作品になるから書きつづけているのである。
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2005年12月03日
みぞれ
初老なる青春遠くみぞれかな
三四枚残る無花果の枯葉しみじみと見つつ過ぎけり今日はみぞれけるかな
みぞれというと今まで作ったことがない、季語は多いからすべての季語を利用した人はいないしまた鑑賞した人もいないだろう。みぞれと雪の感じはかなり違う、みぞれの方が何か寒々とした感じがしないか?雪はかえってあたたかい感じさえする。というのは私の住むところは東北でも福島県でも浜通りだから雪はめったにふらないからむしろ雪は美しいロマンチックなものとしてみている。現実雪国で暮らす人は雪下ろしとか雪はやっかいなものなのである。そこに雪に対しての感覚も地域によって違うのである。また年によっても様々なものに対して感じ方が違う。青年と老人の感じ方は全く違っている。それは人間の見方も全く違ってくる。老人になって病気かちの人は病気のないこと健康のことがどれほどいいかありがたいかわかってくる。健康でさえあればさほど金がなくても人間は幸せなんだということがわかる。80とか90とか生きる時代でも老人はやはり歩くのもままならず女性は肌が老化して腐れてゆくようにさえみえる。するとつやつやの人の肌を見るとうらやましいに違いない、つまり当たり前の健康な人のことさえうらやむのである。だから青春は何もなくても恵まれているのだから自殺を考えるなんて馬鹿げている。老人が自殺するのはほとんど病気に苦しみ悩んでのためだからだ。
詩は時間の経過とともにある。隣の無花果の木をずっと窓から見ていた。枯葉が何枚か残っていたが次に北風吹いて一枚もなくなった。この写真は二三枚残る前の写真だった。本当に二三枚が最後の時を迎える、散る時の写真は絵だった。だからデジカメは絶えずきろくするよように毎日とることが必要なのだ。
刻々の変化が詩になっているし絵になっているからだ。最後に残った二三枚の枯葉を描いていればそれは心に沁みた写生の絵だったのである。写生を常に心がければ詩にも俳句にも絵にも短歌にもなるのである。
このプログはまだわからない、書きやすいことは確かだがアクセスなどもまだよくわからない、まあ、もともと何年かやってきても「今日の一句一首」はあまりアクセスないみたいだ。プログの特徴として一回ごとにタイトルにリンクはられるからタイトルごとの文章は長くした方が一つのまとまったものとして読まれようになるみたいだ。一題を長く書かないとクリックしても読みごたえないとなるからだ。プログはプログなりに書き方が違ってくるのだ。
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2005年12月04日
余白の芸術(石一つでも芸術だ)
NHKの日曜芸術の番組で李禹煥の余白の芸術というのをやっていた。
ただ広いキャンバスに四角を一つ描いただけ、石を二つ並べただけで芸術になるのか?あれもやはり芸術なのだ。芸術はいたるところにあるし自然のものは神の作った芸術品だから石ころ一つでも芸術なのである。それがつまらないと思うのは発見する能力がないだけなのだ。だから芸術は別に俳句とか短歌とかにこだわってはいけない、石一つおくだけで芸術なのである。特別なものを芸術とすることはないのだ。複雑化した現代ではかえってあのような何もないものが芸術家するし癒しとなっているのも不思議である。芸術の要求というのは時代によって違ってくるのだ。芸術家とは特別な人がなることではない、人間であればすべての人が芸術家になりうる。人間の存在自体がもっとも優れた芸術品だからである。
石一つ
高ぶらない石
謙虚なる石
質素なる石
女性的なる石
小さなに庭に
安らぎ落ち着きぬ
一本の小松が下に
囲む塀に写る
在りし日の花の影

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2005年12月05日
冬の雷
冬の雷老の一徹貫かむ
昨晩は真夜中まで起きていた。雨がふり雷がなり弱い地震も感じた。雷となると春もあるし夏もあるし四季を通じてあるが冬の雷と春の雷はめずらしい。冬の雷について俳句を作ったことはない、俳句はだから季語を一つのテ-マにして創作する文学なのである。老人というと頑固さがある。これは柔軟性がなく依怙地になるという悪い面もある。一徹を貫くということは実際は老人になったからできるものではなく若い時から一貫して追及するものがありそれが一徹となることは悪くないのだ。それは自分の信念を貫くということでもあるからだ。
今朝は雪降った。ただ寝坊したのでわからなかった。雪が畑に残っていたし山には雪がふり雪化粧していた。
今朝の雪残れる畑の野菜かな
冬菜となるのだが二つの季語は入れない方がよいから野菜にした。今年は結構寒くなるのか、12月にしては例年より寒いのかもしれない、冬は冬で好きである。冬は回想の季節なのだ。いろいろ回想するから書くこともふえてくるのだ。やはり冬は静かに家にこもり回想するのに向いている。だから冬は静かな環境が必要である。都会では冬の感じがでない、あまりにも騒々しいからだ。
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昨晩は真夜中まで起きていた。雨がふり雷がなり弱い地震も感じた。雷となると春もあるし夏もあるし四季を通じてあるが冬の雷と春の雷はめずらしい。冬の雷について俳句を作ったことはない、俳句はだから季語を一つのテ-マにして創作する文学なのである。老人というと頑固さがある。これは柔軟性がなく依怙地になるという悪い面もある。一徹を貫くということは実際は老人になったからできるものではなく若い時から一貫して追及するものがありそれが一徹となることは悪くないのだ。それは自分の信念を貫くということでもあるからだ。
今朝は雪降った。ただ寝坊したのでわからなかった。雪が畑に残っていたし山には雪がふり雪化粧していた。
今朝の雪残れる畑の野菜かな
冬菜となるのだが二つの季語は入れない方がよいから野菜にした。今年は結構寒くなるのか、12月にしては例年より寒いのかもしれない、冬は冬で好きである。冬は回想の季節なのだ。いろいろ回想するから書くこともふえてくるのだ。やはり冬は静かに家にこもり回想するのに向いている。だから冬は静かな環境が必要である。都会では冬の感じがでない、あまりにも騒々しいからだ。
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2005年12月07日
枯木と廃屋
廃屋に枯木一本今日も暮る
今日も通る倉庫の上に冬の月
何度も言ってきたけど俳句は写生なのだ。ここで写真の通り何にも作っていない、見たままを俳句にしただけなのだ。その方が意味あるものなのだ。ただ説明すればこの廃屋は製材所でその会社の人を知っていた。破産してどこかの団地の管理人になったとか風の噂に聞いたがずいぶん前なのでそれもわからなくなった。廃屋は山の方に多いが知っている人はそこに誰が住んでいたか語られる。私は知っているから語ったのである。この辺の町には人家では廃屋はない。ただこの枯木一本が今も廃屋を見守っているのだ。
倉庫というとこれが俳句になるのかとなるが倉庫について前も俳句にしたが倉庫も生活の重要な場だから俳句になる。生活の場になっているところはそれは活きた場所なのだ。例えば函館では観光用に倉庫を利用しているか観光用になったとき実は死んでいるのだ。馬籠や妻籠でも映画のセットのようになって現実味がなくなっている。そこに生活が活きているとき深い趣がでてくる。特に自然とともに生活していたものはそこに生活がなくなると空虚になる。そこに現代の過疎の大きな問題があるのだ。観光とは生活ではない、観光化したときかえってそこは魅力ないものになっているのだ。
六地蔵
枯枝の垂れて忘らる六地蔵
冬の日や里の地蔵の親しかな
仏教では、命は六道を転生するという六道輪廻の思想があり、死んだ後、四十九日を過ぎると、六道と呼ばれる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界のどれかに生まれ変わってくると言われています。
この六地蔵はいたるところにある。村の入口に多い。村の境界に置かれた。他に様々な理由で供養のためにも置かれた。間引きしたとか水子とか子供の供養のためかもしれない、なぜこれがそこにあるのか?これがわからないのだ。いつそこに置かれたのかもわかりにくい、これがわからないと事実というのもわからない、東北では江戸時代のものはまれなのだ。たいがい明治以降の碑が多いのだ。八木沢峠に行く道には村などもない、家が何軒かあるがあそこにどうしてこれがあるのか謎である。ただこの童子の顔をアップして見たら良くできている。これは気づいている人は少ない、急な坂道だからいつも自転車でスピ-ドだして下っていたからわからなかったのだ。意外と身近にあるものに人は気づかないものなのだ。灯台下暗しなのである。
これは六地蔵のアップの写真がめけていたのでもう一回出した。デジカメでいろんな隠れたものを発見されるようになった。写真とか絵をインタ-ネットから探すと面白いもののコレクションができる。私は外国のものも集めたが著作権の関係で公開できない、合成写真にしたりしたから著作権違反になっているかもしれない、インタ-ネットでは写真は今や膨大なものとなった。その中には非常にユニ-クなものがあり発見があるのだ。
2005年12月08日
陸前高田の湾(姉歯橋)
久しくも陸前高田広田湾行かざりしかな冬の日暮れぬ
地図で見るとここに姉歯橋とあった。ここを通った記憶はないが自転車で陸前高田のこの湾の前の宿に泊まったのである。この湾はほぼ円形の美しい穏やかな湾だった。この湾は印象的で覚えていた。砂浜にはめずらしく松林が整然としてあり青松白砂の風景が残っていた。そこに姉歯橋とあったのだ。その古歌が残っていた。
“朽ちぬらん 姉歯の橋も あさなあさな 浦かぜ吹きて 寒き浜辺に”(能因)
これはすぐ近くが海だから頼りない橋がかかっていて朽ちようとしていたのだ。あそこの風景は湾は印象に残りやすい風景である。例えば「みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)」という歌の謎は笠女郎(かさのいらつめ)は間違いなくみちのくには来ていないのにどうしてそこを面影にまで見るようになるものなのか?その謎が解けないのだ。草原は地名であり入江の意味があるとしたら一度その入江を湾をこのように自分の眼で見れば明確に思い出すが一度も行ったことがない場所を思い出す面影にまで見るという不思議があるのだ。想像力の豊かな人は賢治のように北上川の河畔をイギリス海岸などと名付けたからイギリスの海岸が想像で見えたのかもしれない、ともかく陸前高田は広田湾が印象に残る場所だった。
姉歯の姓の由来-この姓が話題なので書いた
http://www.musubu.jp/somagappeijiji.htm#ane
2005年12月09日
過疎地の老人
バスもなし車もなしや老人の山暮しあわれ年の暮れかな
ノートパソコンからの書き込み実験です
「4kmばかり離れたところに 用事があるので乗せていってもらえないか。また帰りもそこで待っているから、乗せて帰って頂けない か」とのことである。町営バスは走っているが、行きのバスと帰りのバスの間が4時間もあって、
30分もあればすむ用事でも大変な時間が
かかってしまうとのことである。
一人暮らしのおばあさんにとっ て、この辺は全く陸の孤島となっているようである
バスは使えなくなった。この過疎のバスを愛好して研究している人がネットにいた。今や鉄道廃止路線寸前のような愛好趣味の対象になっている。
ノートパソコンからの書き込み実験です
「4kmばかり離れたところに 用事があるので乗せていってもらえないか。また帰りもそこで待っているから、乗せて帰って頂けない か」とのことである。町営バスは走っているが、行きのバスと帰りのバスの間が4時間もあって、
30分もあればすむ用事でも大変な時間が
かかってしまうとのことである。
一人暮らしのおばあさんにとっ て、この辺は全く陸の孤島となっているようである
バスは使えなくなった。この過疎のバスを愛好して研究している人がネットにいた。今や鉄道廃止路線寸前のような愛好趣味の対象になっている。
2005年12月10日
烏と冬の月
空澄みて烏帰るや冬の月
just coming back to the nest
crows highly in the clear sky
the moon in winter
空を見上げると冬の澄んだ空に二羽の烏が帰ってゆく、その烏に夕べの月が輝き出すそれは一幅の絵だった。そこに不純なものは何もない、工場の煙も見えない、澄んだ空がどこまでも広がっている。自然のものは常にこうした自然の中にあり命は自然の中で美しい絵や詩になっているのだ。こうした光景はありふれているしいつも見る光景じゃないかとなるがでは人間はそうした美しいものになっているか、なっていないのだ。都会の烏はゴミの餌をとるのに頭使うから田舎の烏より頭がいいとか延々と田舎の人間は性根が腐っていると都会の人間が田舎をこきおろして自己満足している掲示板がある。人間はそうであっても都会には自然がないから人間もすべてが醜くなっていることに気づかないのだ。都会の烏はビルの上の汚れた空を飛ぶときゴミを漁りガ-ガ-が鳴く時何か不気味な都会の変容した動物となっているのだ。それは都会の人間も同じである。人間ならざるものになっていることに気づかないのである。
2005年12月11日
草枯れる
野の道や薊も消えて草枯れぬ
農民の苦労を刻む大地かも薊の消えて草の枯れにき
薊をテ-マにした句を作ってきたけどその薊が咲いていた場所を歩いたら草は枯れた道になっていた。でもその道で印象に残っていたのは薊なのである。
荒浪に松風鳴りて秋薊
一歩一歩歩む道の辺秋薊
一二里を歩む山路や秋薊
秋風や残るアザミの十数輪
稲刈られ鴉三羽にアザミかな
夏の薊の句もあったが秋から冬へ薊についての一連の句があった。
プログをやって一週間ほどだがわかったことは一つのテ-マごとに分けて書くので季語ごとに分けて整理するのに向いている。読む人も検索あるから前の句を検索しやすいのだ。これは情報を整理するのに向いている。薊については一つのテ-マとして何ペ-ジか書ける。というのはアザミはスコットランドの花でありここの物語も興味もったからである。アザミをテ-マにして俳句とか短歌とか詩を編集してゆくとアザミ物語ができるからだ。プログはRSSもやってみたが情報が整理しやすい、だからこれで旅の俳句など今まで書きためたものを整理してみよう。ホ-ムペ-ジは整理しにくい、自分で書いたものがどこにあるかもわからなくなっているのだ。こういうふうに細切れに書くのがプログだということはわかった。
子規の鶏頭の句について(デジカメと俳句は相性がいい)
http://www.musubu.jp/hyoronazami.htm
農民の苦労を刻む大地かも薊の消えて草の枯れにき
薊をテ-マにした句を作ってきたけどその薊が咲いていた場所を歩いたら草は枯れた道になっていた。でもその道で印象に残っていたのは薊なのである。
荒浪に松風鳴りて秋薊
一歩一歩歩む道の辺秋薊
一二里を歩む山路や秋薊
秋風や残るアザミの十数輪
稲刈られ鴉三羽にアザミかな
夏の薊の句もあったが秋から冬へ薊についての一連の句があった。
プログをやって一週間ほどだがわかったことは一つのテ-マごとに分けて書くので季語ごとに分けて整理するのに向いている。読む人も検索あるから前の句を検索しやすいのだ。これは情報を整理するのに向いている。薊については一つのテ-マとして何ペ-ジか書ける。というのはアザミはスコットランドの花でありここの物語も興味もったからである。アザミをテ-マにして俳句とか短歌とか詩を編集してゆくとアザミ物語ができるからだ。プログはRSSもやってみたが情報が整理しやすい、だからこれで旅の俳句など今まで書きためたものを整理してみよう。ホ-ムペ-ジは整理しにくい、自分で書いたものがどこにあるかもわからなくなっているのだ。こういうふうに細切れに書くのがプログだということはわかった。
子規の鶏頭の句について(デジカメと俳句は相性がいい)
http://www.musubu.jp/hyoronazami.htm
2005年12月12日
本の山
冬の月光を放ち今日も澄む
冬籠書斎にひしめく本の山
本の山埋もれし本の一冊をとり出し読める年の暮かな
あるプログの「分け入つても分け入つても本の山」というのはうまい表現である。
http://yondance.blog25.fc2.com/
一種の川柳になるしこうした句にも著作権あるから引用するのがむずかしい。人間は年取ると誰でも何かがたまる。最近ゴミの家で話題になっているがどんな人もゴミをためこむのだ。これは異常なことではない、それが極端に肥大化したのがゴミの家なのだ。私も本が一部屋以上たまり整理しきれないし捨てるのも捨てきれずに困った。本というのはどうしてもたまる運命にあるのだ。知識が本となっている限りたまる。本で知識を貯えるほか知識の仕事はできないようになっていたからだ。物を書くには自分の家が図書館になっていない限り書けない、なぜなら常に何かを参考にしなければかけないからだ。だから必要以上に本はたまるのである。インタ-ネット時代になるとこれが変わってきた。何かを書くときインタ-ネットから探す、「本の山」と入れたら4万もグ-グルにでてきた。それだけ本の整理に苦労している、本をためこんでしまった人が多いのだ。そして同じを本を家にあった本を買ったりもした。本とはそれほど整理つかないものになる。でも千冊ある本の中味をどれだけ読んでいるかというと一割にも満たない、もう一回読んでみたらこんないいこと書いてあったのかとかふりかって読んでいるのだ。知識の世界は膨大なものであり人間はその本の一部しか理解できないのである。
本は人間を書いたものだから読んでくれ理解してくれとひしめき騒いでいるのかもしれない、でも個々人で利用できる知識の範囲は極めて少ないのである。知識は本来利用されるときに価値がでてくる。利用した人が価値を与えることが多いのだ。だから知識とか本とかを商売にするのは向いていないものだった。ベストセラ-というのは宣伝により買わされるものでありほとんどの人にとって必要なものではなかった。個々人に必要な知識とか本はそれぞれ違っているのだ。基本的なものは古典は読むとしてその他はみんな違っているである。だからこそ個性が生まれる。インタ-ネットによって読書環境は激変した。体験談なんか例えば本当は無料でするのが一番向いている。体験談を聞いてくれる人の方が貴重なのである。金払ってまで聞くきしない体験談なんかいくらでもあるからだ。そもそも体験談は何か伝えたいものがあるからでありそれを出版とか商業化するのはなじまないものだったのである。プログでも読んでくれる人の方が読者の方が貴重なのである。今や読まれないということがインタ-ネットでは大問題になっているからだ。今年もそろそろ終わりだけど人間は最後にゴミの山になること考えておいたほうが良い、最後に結局ゴミばかり残るということがありうるのだ。だからゴミの家は一見特殊な人のように見えるが老人になればわかるが特殊なものではない、ただそれが極端化、肥大化しただけなのである。
冬籠書斎にひしめく本の山
本の山埋もれし本の一冊をとり出し読める年の暮かな
あるプログの「分け入つても分け入つても本の山」というのはうまい表現である。
http://yondance.blog25.fc2.com/
一種の川柳になるしこうした句にも著作権あるから引用するのがむずかしい。人間は年取ると誰でも何かがたまる。最近ゴミの家で話題になっているがどんな人もゴミをためこむのだ。これは異常なことではない、それが極端に肥大化したのがゴミの家なのだ。私も本が一部屋以上たまり整理しきれないし捨てるのも捨てきれずに困った。本というのはどうしてもたまる運命にあるのだ。知識が本となっている限りたまる。本で知識を貯えるほか知識の仕事はできないようになっていたからだ。物を書くには自分の家が図書館になっていない限り書けない、なぜなら常に何かを参考にしなければかけないからだ。だから必要以上に本はたまるのである。インタ-ネット時代になるとこれが変わってきた。何かを書くときインタ-ネットから探す、「本の山」と入れたら4万もグ-グルにでてきた。それだけ本の整理に苦労している、本をためこんでしまった人が多いのだ。そして同じを本を家にあった本を買ったりもした。本とはそれほど整理つかないものになる。でも千冊ある本の中味をどれだけ読んでいるかというと一割にも満たない、もう一回読んでみたらこんないいこと書いてあったのかとかふりかって読んでいるのだ。知識の世界は膨大なものであり人間はその本の一部しか理解できないのである。
本は人間を書いたものだから読んでくれ理解してくれとひしめき騒いでいるのかもしれない、でも個々人で利用できる知識の範囲は極めて少ないのである。知識は本来利用されるときに価値がでてくる。利用した人が価値を与えることが多いのだ。だから知識とか本とかを商売にするのは向いていないものだった。ベストセラ-というのは宣伝により買わされるものでありほとんどの人にとって必要なものではなかった。個々人に必要な知識とか本はそれぞれ違っているのだ。基本的なものは古典は読むとしてその他はみんな違っているである。だからこそ個性が生まれる。インタ-ネットによって読書環境は激変した。体験談なんか例えば本当は無料でするのが一番向いている。体験談を聞いてくれる人の方が貴重なのである。金払ってまで聞くきしない体験談なんかいくらでもあるからだ。そもそも体験談は何か伝えたいものがあるからでありそれを出版とか商業化するのはなじまないものだったのである。プログでも読んでくれる人の方が読者の方が貴重なのである。今や読まれないということがインタ-ネットでは大問題になっているからだ。今年もそろそろ終わりだけど人間は最後にゴミの山になること考えておいたほうが良い、最後に結局ゴミばかり残るということがありうるのだ。だからゴミの家は一見特殊な人のように見えるが老人になればわかるが特殊なものではない、ただそれが極端化、肥大化しただけなのである。
2005年12月15日
干し柿
干し柿の匂い老母によりそいぬ
人へりし町に枯木の十数本
干し柿が庭にぶらさがっている。そこで干し柿の匂いをひさしぶりにした。干し柿は食っていないが干し柿の匂いに何かなつかいしものを感じたのである。大正生まれになる90の母は干し柿とか納豆が好きである。納豆は毎日食っている。なぜかというと子供のとき食っていたからだ。みかんなども食っていないが柿とか干し柿は食っていたのである。卵は病気の時しか食っていないしバナナなども食っていない、梅干しとおつけくらいが庶民の食事なのだ。もともと粗食だから今になると栄養がよく長生きしていることが考えられる。干し柿というものを私は食わない、果物が多いからリンゴが好きだから食っている。干し柿は食う気しないのだ。一般的に子供のとき食ったものはなんでもおいしいと大人になっても食いつづける。ハンバ-グを子供のとき食っていれば大人になってもその味が忘れられない、子供のとき味覚が作られるのだ。だからアメリカでは子供のときハンバ-グを食わせて日本人に牛肉を輸出する戦略だったというのもわかる。これも文化の破壊だったのである。文化はその土地でとれたものを食うのがいいのだ。郷土食というのが各地にあった。それも失われたのだ。貧しいなかで工夫したのが郷土色だからである。
どこでも地方では人口がへっている。我が町でも一番多かった時より5千人へっている。日本人自体が少子化で縮小してしゆくというのは時代の流なのだ。狭い日本では人口自体多かったのである。東京辺りはあまりにも大きくなりすぎた。だから人口は分散して余裕ある生活を目指すようになるのが自然である。日本は人口減少期に入ったのでありこれも自然の摂理でありこれをくいとめることはできない、それに見合った国造りをするほかないのである。十数本の枯木は枯木になり町を支えあうことになる。なんでも増える時代は終わったのである。
2005年12月16日
冬満月
みちのくの大地広かれ冬満月
大きな満月が上ってきた。冬満月という句集をだしている人もあるからそれなりの季語なのか。日本でたりないのは広さである。ロシアで見た月はあの広大
な原野から昇ってくるから悠々としている。月とか太陽は地平線から上り地平線にもえるよにう沈んでゆくとき地球の広大さと太陽や月の光輝が映える。日本は山に昇る陽であり山に沈む陽なのだ。広さがないことが欠点なのである。
石の庭と残菊の合成写真に障子を合成した写真に作り直した。これは無料の障子の素材を提供するところがあってできた。合成写真芸術はパソコン故にできた新しい芸術の分野なのである。それがなぜできるのか?豊富に写真とかの素材がありまたwebの素材があるからできる。絵が全然書けなくても合成写真はできる。偶然に操作していてできることがあるのだ。
バ-チャルトリップ(禅庭)へ
大きな満月が上ってきた。冬満月という句集をだしている人もあるからそれなりの季語なのか。日本でたりないのは広さである。ロシアで見た月はあの広大
な原野から昇ってくるから悠々としている。月とか太陽は地平線から上り地平線にもえるよにう沈んでゆくとき地球の広大さと太陽や月の光輝が映える。日本は山に昇る陽であり山に沈む陽なのだ。広さがないことが欠点なのである。
石の庭と残菊の合成写真に障子を合成した写真に作り直した。これは無料の障子の素材を提供するところがあってできた。合成写真芸術はパソコン故にできた新しい芸術の分野なのである。それがなぜできるのか?豊富に写真とかの素材がありまたwebの素材があるからできる。絵が全然書けなくても合成写真はできる。偶然に操作していてできることがあるのだ。
バ-チャルトリップ(禅庭)へ
2005年12月17日
日時計
日時計に冬の日めぐる寂けさや
the sun rolling over
and shining in winter
a sundial in stillness
日時計や枯野に薄る日ざしかな
時の感覚は時計の時の感覚と日時計のように自然のリズムを基にした時の感覚は実際はかなり大きな変化であった。時計になると一秒刻みの時の感覚である。しかし太陽を基にした感覚はより自然だから時計によって追われ精神がさいなまされることもない充実した時の感覚なのである。そういう時の感覚だと心も充実してくるしいやされる。人間は今や時間によって消耗されている。時間によって充実しないのだ。古代の神の像はある意味で人間を模したものだがアモイの像でもその顔には自然の大きなリズムが投影された悠久さが感じられる。その眼は海原のかなたを見つめ風の音を聞き時の中に充実したまさに人間の顔、原生人間の顔があったのだ。時によって消耗されない人間の偉いなる顔があった。遠くの海原を見つめているということは期待する時間なのである。何かを期待して待つ顔なのである。今人間の顔はピカソの顔のように文明によって消耗され分裂、アトム化された人間ならざるものになっているのだ。そこには自然のリズムが反映していないからそうなるのだ。
日時計で気づいたことは星時計の方が正確だということがでていた。北極星とか北斗七星にあわせる星時計が正確でありそのペンダントを売っているのも面白い、これは実際航海につかわれた。砂漠でも星が目印であり星が方向を示す、砂漠や海では方向が大事だから星が目印になる。だからたいがい砂漠では星をあしらった国旗になる。砂漠とか草原の遊牧民が航海民になったということはこうした文化の同質性からである。インタ-ネットでは言葉から探すから変わった物を売っていることに気づいた。星の時計なんか持っているだけでもいい飾りになる。5千円だからこれも買うとなると高いがそれでもそういうものがあるということにインタ-ネットで気づかせるからこうした変わったものが売れることがでできた。こういうものがあるということを知るから欲しくなるのだ。ただこうしていちいちこういうものを買っていたら大変である。
星時計
2005年12月18日
風花
風花の舞うや静けき籠もる家
ここはほとんど雪はふらない、阿武隈の向こうは多少雪がふる、中通りもさほど雪はふらない、雪のふるのは会津の方なのである。福島県は大きいからそうなる。ここはだから風花としての雪である。雪は積もるのは一年に一度二度である。ただ阿武隈の山脈から雪雲がおおい風花が舞ってくるのだ。その風花を見て一日家にこもっている。これもなんか年になるといい趣がある。風花をじっと見ていて心が清められるのである。
ただ昨夜は驚いた。隣で大騒ぎがあった。なんらかのもめごとで若いやつがガラスを割るはものをなげつけるわ、死ねとか大声でわめき殺人事件に発展するかと思った。外に出てみていたらこっちにくってかかるようなので引き返した。あういうことがあるとかかわりたくないとなる。変なとばっちりを受けるし事情がわからないからかえって迷惑になることもある。警察を呼ぶ他ないと思っていたらすぐに警察がパトカ-できた。刺股(さしまた)をもってその男を追いかけた。つかまったどうかわからない、ただす近くでこんな事件が起きたのでびっくりした。年の瀬ということもあるのかこんな身近で暴力事件が起きたというのも驚きだ。今年の事件としてはいつも行く道で二回も交通事故があり二人も死んだこと一人は自転車で18歳だったのだ。ともかく世相としては何か暴力的に粗暴になっているのかもしれない、特に若い世代ヴそうかもしれない、余りにも陰惨が事件が多すぎた。
年の瀬や刺股に追う事件かな
刺股はあれは役立つだろう。刃物もっていてもおさえつけられるからだ。でも一人だと相手が強ければおしかえされる。江戸時代の捕り物でもあれで役人がみんなして襲いかかりおさえつける場面がよくある。相手が刃物をもっていてもかなり大きなものだから遠くからおさえつけられるのである。
ここはほとんど雪はふらない、阿武隈の向こうは多少雪がふる、中通りもさほど雪はふらない、雪のふるのは会津の方なのである。福島県は大きいからそうなる。ここはだから風花としての雪である。雪は積もるのは一年に一度二度である。ただ阿武隈の山脈から雪雲がおおい風花が舞ってくるのだ。その風花を見て一日家にこもっている。これもなんか年になるといい趣がある。風花をじっと見ていて心が清められるのである。
ただ昨夜は驚いた。隣で大騒ぎがあった。なんらかのもめごとで若いやつがガラスを割るはものをなげつけるわ、死ねとか大声でわめき殺人事件に発展するかと思った。外に出てみていたらこっちにくってかかるようなので引き返した。あういうことがあるとかかわりたくないとなる。変なとばっちりを受けるし事情がわからないからかえって迷惑になることもある。警察を呼ぶ他ないと思っていたらすぐに警察がパトカ-できた。刺股(さしまた)をもってその男を追いかけた。つかまったどうかわからない、ただす近くでこんな事件が起きたのでびっくりした。年の瀬ということもあるのかこんな身近で暴力事件が起きたというのも驚きだ。今年の事件としてはいつも行く道で二回も交通事故があり二人も死んだこと一人は自転車で18歳だったのだ。ともかく世相としては何か暴力的に粗暴になっているのかもしれない、特に若い世代ヴそうかもしれない、余りにも陰惨が事件が多すぎた。
年の瀬や刺股に追う事件かな
刺股はあれは役立つだろう。刃物もっていてもおさえつけられるからだ。でも一人だと相手が強ければおしかえされる。江戸時代の捕り物でもあれで役人がみんなして襲いかかりおさえつける場面がよくある。相手が刃物をもっていてもかなり大きなものだから遠くからおさえつけられるのである。
2005年12月19日
雪の朝(あした)
我が孤影枯木の影と交わりぬ
汚れ消ゆ雪の朝の目覚めかな
朝目覚めたら雪だった。でも雪はすでにやんでいる。雪によって汚れは消される効果がある。死んだらそこは一面の銀世界のように汚れが消せれた世界である。だから死というものは悪いとはいえない、この世の闇は消えることはないからだ。今回の建築偽造事件にしてもその闇は余りにも深い、この世を支配するのは闇の主なるサタンである。この闇がはらわれないとしたらこの世にいることはいくら努力しても絶望しかないのだ。だか死ねばこの世から去ってゆくし一瞬にして天国に目覚めてそこは汚れのない闇のない世界になっているのだ。だから今や死後の世界に期待することになる。年齢的にも死というものが身近だから常に死を思うのである。
汚れ消ゆ雪の朝の目覚めかな
朝目覚めたら雪だった。でも雪はすでにやんでいる。雪によって汚れは消される効果がある。死んだらそこは一面の銀世界のように汚れが消せれた世界である。だから死というものは悪いとはいえない、この世の闇は消えることはないからだ。今回の建築偽造事件にしてもその闇は余りにも深い、この世を支配するのは闇の主なるサタンである。この闇がはらわれないとしたらこの世にいることはいくら努力しても絶望しかないのだ。だか死ねばこの世から去ってゆくし一瞬にして天国に目覚めてそこは汚れのない闇のない世界になっているのだ。だから今や死後の世界に期待することになる。年齢的にも死というものが身近だから常に死を思うのである。
2005年12月20日
冬の蝶
川上の流れの澄みて冬の蝶
人去りぬあとにあまたの落葉かな
インタ-ネットを見て歩いていいのは写真である。プロ級の写真がありこれに俳句をつけたりしているがその俳句はよくないのが残念である。明らかにその写真から俳句が作れるのだ。ここの落葉の写真は優れている。うまく落葉をとった。こういう視覚で落葉をとらえているのに感心した。写真は相当にいい写真が多い、ただいい俳句は少ない、一万もプログで俳句が出てきた。一万人が俳句を日記のように書いているということはあきれるというかそれをみんな読むのかという疑問がでてくる。インタ-ネットは写真を見て歩くといいものが必ずある。写真は目立つからかもしれない、外国でも写真は絵はわかりやすいのだ。言葉になると直感的にわからないから何かいいものが発見されないのだ。人間は身近なものでも良くみていない、いろんな角度から見ると同じ風景でもまるっきり違ったものになるという不思議である。旅すれば確かに新しいものに接するから詩になりやすいのだが身近なものでもいかに人間とは見過ごしているかわかる。日本人はこの細部にこだわるのが得意なのだ。狭い所に住んでいるからどうしてもそうなる。物作りでも微に入り細を穿つ物作りである。だからデジカメとかの物作り、ミニマニストになる。極小の世界を極めるのに向いているのだ。俳句もまさにそのミニマナイズされた日本的芸術なのである。日本人は大局的に見ることはこうした狭い風土に生きているから苦手なのである。そういう大局的大陸的発想そのものもができないのだ。そういう世界がそもそもないからどうにもならないのである。
(下のURLで調べてください)
またはキ-ワ-ド-落葉の足おと(グ-グルで調べる)
http://www.shashinten.com/g/showphoto.php?photo=19261&sort=1&size=medium&cat=507
師走の街
風転ぐ枯葉やせわし師走かな
just blowing winds
a dead leaf rolling over
at the end of the year
前畑に老夫婦や冬日没る
冬の日やネギの畑に忘らる碑
街中に農家のありて冬日さし古木の影に蔵の古りにき
五六万の市だとかなり田舎である。郊外も田舎だし街中にも古い農家があり庭が広く野菜を作っている。江戸というと今の東京とかとは全然感覚的に違う、かなりの田舎だったのである。そもそも米中心の経済だし経済そのものが農民に負っていたのだからそうなる。絶えずそこには農民が行き交っていた。肥料として絶えず便や尿が運ばれていたことでもわかる。この農家の庭の畑になぜ馬頭観音の碑があるのか不思議だ。やはりここが古い昔の道で馬を使っていたから供養に置いたのだろう。つまりなんらかこの街でも馬を使っていたのである。そういうことは想像できない街なのだが昔は馬を荷馬車とかいろいろ使っていたからどこにでも馬頭観音があるのだ。
行倒レ死人取片付(天保8) 18 越後米小諸御城中へ附届(天保8) 19 放チ馬有之ニ付佐久郡中へ御触(天保8) 20 千曲川筏越ニ付書留(天保8) 21 御無尽申付(天保14) 22 入会山論ニ付会合(天保15) 23 密通ニ付叱り申付(天保15) 24 郷夫奉公人余荷金取定メ 郷夫奉公人夫銭取立(弘化2) 25 追分へ売女買ニ参り置去りニ致シ候ニ付取縺(弘化2) 26 傅馬人足割付(弘化2) 27 御頼金御證文献立 28 虚空蔵菩薩開帳(弘化3) 29 豊作ニ付御初穂米献上(弘化3) 30 関東御取締出役様ヨリ囚預り(弘化3) 31 御影役所御手先無宿者召捕(弘化3) 32 村芝居差留(弘化4) 33 馬士仲間馬頭観世音ノ建立(嘉永元) 3
(長野県佐久市資料)
放チ馬 傅馬人足割付 馬士仲間馬頭観世音ノ建立(嘉永元)
放ち馬とは家から逃げた馬なのか、野生化した馬だから持ち主がとりにこいとかの御触が出されたのかもしれない、今でもこういうことがあるから昔もあったのだ。この目次からでもいろいろなことが想像できる。追分へ売女の取り締まりがあったということは街道筋で飯盛女とかに売られる女性がかなりいた。でもそれが役所で禁止していたのかとなる。馬頭観世音は馬士仲間が建てた。荷馬車が子供の頃まだつかわれていた。その後ろにのって遊んだことがあったからだ。馬頭観世音はあそこには一つだかすぐ近くにもいくつかあるしいたるところにある。それだけ馬が欠かせない社会だった。
前畑というと前にも書いたが門田とか前田とか農家にとって一番大事な畑や田だったのである。そこに老夫婦が働いている光景はいい光景である。人間やはり自然と結びついた農家とがないと都会だけでは疲れる。何か特殊な世界となってしまうのだ。ともかくなんか枯葉が風に転げるようにせわしくなった。
2005年12月21日
冬菜
街中の農家の庭や冬菜かな
代々に根づく農家や冬菜かな
今日も行く倉庫の間や冬の雨
さらに地元農民の努力による品種改良が進み、小松菜や練馬大根といった、いわゆる「江戸野菜」も開発されるようになります。区内には小松川、練馬、蓮根、茗荷谷、とか野菜の名のついたのがある。小松菜は地名からとった。江戸は農民の生活と隣接していて商人や武士や職人だけではない農民の町でもあり混在していたのだ。だから墨田川辺りで其角だったか雨乞いの句を奉納した。江戸は四季がふんだんにあった。百万都市でも今の東京からすれば田舎だったのである。江戸でも農民が身近に存在したことで今とは全然違っていたのだ。京都でも炭をもらう大原と山の人にありがたいと感謝していることでもわかるように互いの生活は目に見えて結ばれていた。地球の裏側から食べ物が運ばれてくるのとは全然違っていた。農民は天気のことが切実な問題であり天気を気にする。冷害で不作とかなると全体に影響するから農民の力が大きかった。工業化社会になると天気を気にしない、生活に密着したものとして天気を気にしないのだ。だから野菜も工場で作れば効率的だとなってしまう。江戸時代は職業が違っていてもいろいろなものを共有した時代だから精神的に安定はしていた。過去の理想化、美化は危険でも今から見るとすべて悪いとはいえないのだ。
2005年12月25日
年の暮
うたたねし死人現る年の暮
クリスマスだけど年の暮でもある。クリスマスは信仰していない人には関係ないけど商売の人のために必要になっている。これも実際は不敬なことである。主-キリスト自身が神殿で商売するなと商人を追っ払ったからだ。何でも商売に宣伝になるのはよくない、いつのまにか商売にされてしまう宣伝にされてしまうこともある。それほどすべてが商売になったのが現代である。宗教団体そのものが商売そのものになってしまっている。宗教と商売は分離すべきである。日本人の宗教の特徴として神社でもなんでも御利益宗教だった。得することと徳は同じなのである。神社にお参りするときもほとんど御利益のためだから日本人には本来あまり宗教心はない民族である。これほどどこでも凄まじいほど御利益宗教であることは本来の宗教はどこにも存在しない、クリスマスを種にして商売して酒飲んで一年の憂さ晴らしくらいにしか考えていないのが現実なのだ。
うたたねしていたら死んだ人が現れて「ああ、生きていたのか」と喜び合った。これもずいぶん昔になるので夢に見たことがなかった。交通事故で死んだ人だった。年の暮には死人も現れる。死人も現れて一年を回想することになる。今年も終わりだがあんまりいい年ではなかった。というより老人家族だからいいことはない、軽い痴呆症の病人をかかえるようになったのもそうだし家族自体にいいことはもうないのだ。プログをはじめて一カ月だけど結構書いた。そもそもこのホ-ムペ-ジとかでも軽く書けるから書きやすいからちょっとした感想でも書きやすいからこうして書きつづける人が多いのである。これを長文で本のように書くとなるとほとんどの人は書けないからだ。まあ、30人読んでいるとしたら前からするとかなり読まれていることになる。これはあとから検索と整理に便利なのだ。前の膨大なログがありこれを整理する必要がある。ただ整理しきれないくらい多くなってしまった。一部屋が本の山になったと同じである。
2005年12月26日
年の暮2(貨幣のこと)
中国の古銭にル-ブル年暮れぬ
今の時代は金、金、金の時代だから金にまつわる話も世界的になる。中国では始皇帝の時代から貨幣があったのだから貨幣の歴史は古い、日本より千年は古い。そんな古い銭を土産に買ったりいろいろ集まった。貨幣は明らかに世界の歴史であり歴史の証拠である。だから語り尽くせない物語がそこにあるのだ。今年の旅行はロシアと中国-満州だった。国境の街-満州里では金の交換で銀行ではなく中国人の闇の交換で千円くらい損した。銀行で交換できなかったのだ。歴史的には宋銭が日本にも大量に出まわったときは宋銭は今のドルであり宋は商業で栄えた。
ところがこの和平条件は、南宋が金に対して臣下の礼を取るという、今までと正反対の関係になり、しかも毎年宋が金に対し、金と絹を贈ることになりました
http://www.uraken.net/rekishi/reki-chu12.html
金で経済力で国の安全を計ったのが宋なのである。こうしたことは今の日本にもあてはまる。アメリカに金を払って守ってもらっている。経済力で国の安全を図っている。宋銭が東南アジアや日本に出回った時代は今の日本の円が世界でそれなりに通用した時代とにている。一方、金とか回りの遊牧民は軍事力の国だったのである。常に遊牧民は軍事力の国でありその対策として万里の長城とか金で安全を買うとかが必要になったのだ。アメリカは世界を支配する軍事力をもっているから落ち込むことはないが日本は経済力だけの国となるとその円の価値も暴落してしまうときがくるかもしれない、その時日本は今の東南アジアのように中国とか他の国から買春にくる逆現象が起きてしまうかもしれない、世界の歴史ではそうした逆転が常に起きてきたからである。
まあ、今年も終るが金は日本ではオワシと言っていたから旅にはどうしても必要なのであった。金が今でも足なことは変わりない、写真はなぜか家に残されたものである。その人については知らないというのも謎である。戦争中どこかであった人なのか戦後まもなく送ってきたものだという。五円(御縁)がありますようにというのも日本的文化の一つだったのか?これも年の暮の話の一つである。
2005年12月27日
年の暮(ボケ老人の回想)
老人の死んだ人数え年終る
寒星や風吹きすさび家ゆする
しんとして足音もなき寒夜かな
常に行く樹々の枯葉の見過ごして散れる時こそ心騒ぎぬ
十人くらい死んだ人の名を読み上げている。そういえばそんな人いたなと思った。月日はたちまち過ぎて忘れ去れる。八十以上になると死んだ人を数える方が多くなる。これも人の世の無情である。あんな人いたな、あの人はどんな人だったのかそのことさえ記憶が定かでなくなる。人間はそれほど覚えられないもの、忘れ去れるものなのだ。わずかに多少ぼけた老人に読み上げられてああ、あんな人いたなと思うくらいで全く忘れていた。思い出すこともなかった。人間の生きた証もなにもない、ただ普通の人は忘れられてゆくだけである。なんか多少ぼけた老人に読み上げられている死人の名だから滑稽にもなっているのだ。ぼけ老人に回想される故人というのもなんか奇妙である。それほど人間もはかないということかもしれん。
いつも行く道の樹々の枯葉を見過ごしいて何も感じなかったが風が吹き散った時、その散る枯葉に心が騒いだ。他の人間に無関心でも死んだ時はええ、なぜ死んだのか、知っている人が死んだ時、心が騒ぐ、普通はほとんど関心なくても死んだ時くらいはその時は思うがたちまち忘れられてしまうの人間である。年の暮にはそれぞれ人であれいろいろと回想する時である。
しんとして足音もないこの頃の寒い夜というのもいいものである。あまりに多くが騒ぎすぎるのが現代だからこのような静寂も心鎮めるのには必要なのだ。
そういう場所が必要なのだ。江戸時代辺りは江戸でもそういう場所がかなりあったのだ。どこの都会でも今よりはずっと閑散としていたのだ。
足音の消えて時雨の又寝かな (坂本朱拙)
騒音の時代にこうした静けさの句がなかなかできにくい、自動車の騒音とかに人間の足音は消される。微妙な感覚がもてないのだ。江戸時代の静寂は今では信じられないものだった。物音一つしないような深夜が普通だったのである。
江戸時代の句の深さがそうした静寂の世界から生まれたのだ。それは今ではありえない世界である。誰かの足音が消えて行ったがその足音の余韻は残っているのだ。
寒星や風吹きすさび家ゆする
しんとして足音もなき寒夜かな
常に行く樹々の枯葉の見過ごして散れる時こそ心騒ぎぬ
十人くらい死んだ人の名を読み上げている。そういえばそんな人いたなと思った。月日はたちまち過ぎて忘れ去れる。八十以上になると死んだ人を数える方が多くなる。これも人の世の無情である。あんな人いたな、あの人はどんな人だったのかそのことさえ記憶が定かでなくなる。人間はそれほど覚えられないもの、忘れ去れるものなのだ。わずかに多少ぼけた老人に読み上げられてああ、あんな人いたなと思うくらいで全く忘れていた。思い出すこともなかった。人間の生きた証もなにもない、ただ普通の人は忘れられてゆくだけである。なんか多少ぼけた老人に読み上げられている死人の名だから滑稽にもなっているのだ。ぼけ老人に回想される故人というのもなんか奇妙である。それほど人間もはかないということかもしれん。
いつも行く道の樹々の枯葉を見過ごしいて何も感じなかったが風が吹き散った時、その散る枯葉に心が騒いだ。他の人間に無関心でも死んだ時はええ、なぜ死んだのか、知っている人が死んだ時、心が騒ぐ、普通はほとんど関心なくても死んだ時くらいはその時は思うがたちまち忘れられてしまうの人間である。年の暮にはそれぞれ人であれいろいろと回想する時である。
しんとして足音もないこの頃の寒い夜というのもいいものである。あまりに多くが騒ぎすぎるのが現代だからこのような静寂も心鎮めるのには必要なのだ。
そういう場所が必要なのだ。江戸時代辺りは江戸でもそういう場所がかなりあったのだ。どこの都会でも今よりはずっと閑散としていたのだ。
足音の消えて時雨の又寝かな (坂本朱拙)
騒音の時代にこうした静けさの句がなかなかできにくい、自動車の騒音とかに人間の足音は消される。微妙な感覚がもてないのだ。江戸時代の静寂は今では信じられないものだった。物音一つしないような深夜が普通だったのである。
江戸時代の句の深さがそうした静寂の世界から生まれたのだ。それは今ではありえない世界である。誰かの足音が消えて行ったがその足音の余韻は残っているのだ。
2005年12月28日
老松町
老松に北風鳴りて社あり里の静かに今日も暮れぬる
猫の恋老松町も更けにけり 三橋敏雄
曲里(まがり)の老松-長崎街道-ここに俳句あり
http://www.k2.dion.ne.jp/~n_clinic/haiku_fall.htm
老松町は各地にある。曲里の老松は有名らしい。曲里というのも曲田(まがた)とにた発想で名付けられた。田は今のように真四角な田はなく必ず曲がっていたから曲田(まがた)と名付けられた地名が多いのである。老松町で一番有名なのは大阪の中心街の御堂筋にある北天満宮の老松町である。老松神社もあった。ここが古美術店街になっているのもふさわしい。地名もその街作りに影響するのである。地名からイメ-ジされることがかなりあるからだ。
冬の日や古美術街の老松町
これは大阪の繁華なところだからイメ-ジ的にはあっていないが猫の恋は老松町とあることで不思議な感じを出しているのだ。老松町とあることでそこが何かいかにも古い町だと意識してしまうのが人間なのである。長崎街道というとき長崎に向かう道はまた何か他の街道とは違う趣がある。しかしこれも今の旅では街道を旅しないから昔のように長崎に向かうという旅心がわからなくなっている。旅は道を一歩一歩踏みしめて遠くを目指すときイメ-ジがふくらんでくるのである。途中が大事なのである。途中がぬけたら旅ではない、それが現代の旅を貧しくしたのである。私がこうした絶えず過去の旅をイメ-ジ化してなんとか昔の旅を蘇らせようとしているのもそうしないと昔に戻れなくなっているからだ。長崎街道となると東北からでは遠いからほとんどイメ-ジ化すらできないのだ。ただ江戸時代は長崎まで歩いて医学を学ぶために行った人がいたのだ。東北からすると江戸時代は長崎は地の果てのように遠い所だったのだ。
猫の恋老松町も更けにけり 三橋敏雄
曲里(まがり)の老松-長崎街道-ここに俳句あり
http://www.k2.dion.ne.jp/~n_clinic/haiku_fall.htm
老松町は各地にある。曲里の老松は有名らしい。曲里というのも曲田(まがた)とにた発想で名付けられた。田は今のように真四角な田はなく必ず曲がっていたから曲田(まがた)と名付けられた地名が多いのである。老松町で一番有名なのは大阪の中心街の御堂筋にある北天満宮の老松町である。老松神社もあった。ここが古美術店街になっているのもふさわしい。地名もその街作りに影響するのである。地名からイメ-ジされることがかなりあるからだ。
冬の日や古美術街の老松町
これは大阪の繁華なところだからイメ-ジ的にはあっていないが猫の恋は老松町とあることで不思議な感じを出しているのだ。老松町とあることでそこが何かいかにも古い町だと意識してしまうのが人間なのである。長崎街道というとき長崎に向かう道はまた何か他の街道とは違う趣がある。しかしこれも今の旅では街道を旅しないから昔のように長崎に向かうという旅心がわからなくなっている。旅は道を一歩一歩踏みしめて遠くを目指すときイメ-ジがふくらんでくるのである。途中が大事なのである。途中がぬけたら旅ではない、それが現代の旅を貧しくしたのである。私がこうした絶えず過去の旅をイメ-ジ化してなんとか昔の旅を蘇らせようとしているのもそうしないと昔に戻れなくなっているからだ。長崎街道となると東北からでは遠いからほとんどイメ-ジ化すらできないのだ。ただ江戸時代は長崎まで歩いて医学を学ぶために行った人がいたのだ。東北からすると江戸時代は長崎は地の果てのように遠い所だったのだ。
2005年12月29日
冬の雁
隊列を変えて素早く冬の雁
gooses in winter
changing a line of flight
going away in the distance
電車行き夕べの空を冬の雁
足音の確かに一人寒夜かな
The footstep which he follows
alone at a quiet cold night
冬の雁が一群は素早く隊列を変えて飛びまた一群は夕べの空を飛んで遠くに消えた。冬の雁というとあまり季題になりにくい、でも今年は寒いから冬らしい冬だから冬の句が生きていることに気づいた。まさに冬は本当に寒いときこそ冬なのであり冬の景色が生きてくるのだ。最近列をなして飛ぶ雁を見ないが今日は数十羽列を成して飛ぶ雁を見た。電車が走る夕空に一列になって飛んでゆく冬の雁を見て気持ちよかった。寒い澄んだ空に飛んで行く雁は何かひきしまって美しい、冬は空気が住んで全体を美しくしていることに気づいた。近くに火力発電所の煙などが見えるのだがここはまだ空は澄んでいる。それでロシアは確かに極寒の地だが自然はこのようにひきしまり澄み渡っている。その空も大きく大地も広いから自然の厳しい美が生々しく存在している。北海道辺りでも零下二十度とかなると塵までダイヤモンドダストとかなるから塵まで宝石に変えてしまうのが寒さなのだ。もちろん冬の星も一段と美しい、やはり暖冬というのは自然現象としては異常であり自然の美をそこねたものだったのだ。
この寒い静けさのなかで一人の足音を確かに聞いた。現代はあまりにも多数の足音、騒音となっておしよせている。しかし本当にそこに聞くものがあるのか?みんな雑踏、雑音となって消えてしまっている。この寒い夜にこそ一人の足音こそ聞くべきである。一人の存在感を確かめるべきである。烏合の多数ではなく一人にこそ本当の存在感がありその一人こそ自然に融合して自然に感応する存在なのである。大勢に感動すべきではない、その一人の足音が確かに聞こえることその存在感に感動すべきである。alone at a quiet cold nightは機械翻訳だったけどぴったりだった。機械翻訳も役立つ時がある。
この一カ月ずいぶんこの「今日の一句一首」は前とは違い長く書いた。やはりタイトルごとに別れているからそこでしぼって書くのが違っていた。一タイトルとして要約するように書く、また一タイトルとして書く、こういう書き方は今まではない、短いから書くことを積み重ねることができる。あとから検索するにも整理されているから便利だからメモ帳として使っている人がいるのもわかる。プログも外からキ−ワ−ドでアクセスされるようになるとアクセス数が増えてくることは確かである。今20-30だがこれでも時間的には二十四時間かなりアクセスされているのだ。アクセスはやはり何かが回っている、プログも生きているということになるからみんなアクセスにこだわるのだ。
2005年12月30日
冬耕
前畑に老夫婦あり冬日没る
冬の日や箱を集める夫婦かな
冬耕の老の一人や里暮れぬ
前畑とか前田とか門田はすぐ家の近くで即仕事場なのである。農家は庭も脱穀したり仕事場だった。農家は家も蚕とか馬を飼っていたりと仕事場になっていた。私が見た光景も全く平凡そのものの仕事している風景にすぎない、これは全くなんの変哲もないいつも見かける光景である。こうした句は誰かも作っている。それほどありふれた見慣れた光景なのだ。優美な山とか花を題材にしているわけではないからだ。しかしなぜここに心うたれるものがあったのか?静かな冬の日にひっそりとダンボ-ル箱を集めている。それは割りのいい仕事ではない、その仕事をしている夫婦は意外と若かった。こういう仕事は年配の夫婦がしていることが多いからだ。今や仕事というと一千万もらっている医者さえ不満たらたらでありネットで愚痴をこぼしている。一体いくらもらったら満足するのだろうか?すべて金で仕事の満足感を計っているのが現代である。
しかし仕事には仕事すること自体に意味がある。農業には仕事すること自体天地と和する融合することなのである。農業とか漁業とか遊牧などでも仕事自体が自然と深くかかわるからありふれたものでも深い意味があるのだ。農業でないにしろ単に物を運ぶ仕事でも戸外で仕事しているのを見るとそこに人間の営みとしての意味を感じる。現代は人が仕事している姿が見えない、工場とか事務所とかで働いていても働く姿が見えないのだ。だから外からみて仕事の意味が見いだせないのだ。人間が働くということは実際は尊い意味があるのだがそれがわからないのだ。江戸時代とかその働く姿が見えるから仕事の意味も実感できた。
冬耕という季語自体にすでに多くの意味がふくまれている。老人一人が里の畑を耕すこと、それはありふれたことだが老人がなお里を働いて支えている姿なのである。それは深い意味があるものなのだ。では江戸時代の俳句に農民的なものがあるかというと意外とない、というのは俳句を残したのは比較的裕福な商家の人が多かったからだ。商人的眼で俳句を作っているのが多いのだ。蕪村は確かに農民的な眼を持っていたがやはり文人墨客的な見方が多い。ただ市井の人への農民への眼差しがあったことは確かである。現代は逆に農民でもいくらでも詩でも俳句でも作るしめずらしくない、だから農民的な俳句がいたるところにある。ただ読んでいないし鑑賞していないだけである。
俳句は鑑賞力が大事なのだ。何故なら短いから鑑賞するのがむずかしい、深く読みこむことがむずかしいからだ。俳句を作る人も大事だが俳句を鑑賞する人もそれに劣らず大事なのだ。芸術は鑑賞できる人もそれなりに芸術家だともなる。私が作ったこの三つの俳句に自分は感じ入るものがあったが他の人はなんだこんなものが俳句かとなり意味を認めない人もいるだろう。芸術はあまり変わったものに注意を向けると本当のものはできない、そうした変わったことは時代的にはめったに起こらない、明治維新のようなことをもはや起こらない、志士になれとかいうのは時代にあわない、むしろ江戸時代の平凡な日々の生活に意味を見いだすのがこれからの時代なのである。だから明治より江戸時代を知ることが大事になってくるのだ。
江戸時代の回帰(次の時代の模索)-時事問題の深層(本サイト)http://www.musubu.jp/jijimondai31.htm#edo
2005年12月31日
トラックバック一件あり
トラックバック一件ありましたので「評論と鑑賞の部」にコメント
今のところプログがよくわからないのでトラッグバックがわからない
コメントされた方がURLを書けば一応読みにゆきますので書いてください
今のところプログがよくわからないのでトラッグバックがわからない
コメントされた方がURLを書けば一応読みにゆきますので書いてください
今年も終る
乗り合わす湯沢の雪や帰郷かな
どよめきて雁の大群年終る
今年も終わりだがこのプログは24時間書く方も読む方もつながり回っているのかもしれない、一日何回書いてもいいし細切れに発信できるからだ。トラックドックを一回受けたがわからないので送っていない、実験的にやってみる必要があるだろう。やってみないとわからないのがこの世界だからだ。ほとんど一人舞台でやってきたがトラックバックは相手とのつながりができるのか、記録が自分のプログに残るからそこからアクセスの径路ができてくるのかもしれない、最初のうちは実験である。
湯沢で温泉のガスが噴出して死んだのには驚いた。鳴子を越えて湯沢辺りになると雪が深くなるのを肌で感じた。雪というのは信濃の雪とか会津の雪とかみな違う、日本海の雪は世界的にみても何か特別の雪なのだ。雪質が違うのかもしれない、雪国のことは意外と暮らしてみないとわからないだろう。
山形の大石田の次年子(じねんこ)という地名は面白い、雪が深くて子供が生まれても役場に届けるのが遅くなるから来年になるから次年子となるとそれが地名化した。しかしこの地名は役場となれば明治以降地名化したのである。明治村とか大正村や昭和村も明治以降の地名なのである。日本の雪の世界は独特だろう。今年は特に雪が深い、雪というとここでは雪の世界がわからないから雪の世界を知りたければ会津とか秋田とかに行かねばならない、まあ、近いから温泉に行くのもいいだろう。
何百羽の雁の大群が冬田におりてきて飛んだ、あんなにいたのかと驚いた。今年も終わりだ。雁とか鳥はへることはない、人間はへっても鳥は増えるのである。最後に一斉にどよめき今年も終った。
どよめきて雁の大群年終る
今年も終わりだがこのプログは24時間書く方も読む方もつながり回っているのかもしれない、一日何回書いてもいいし細切れに発信できるからだ。トラックドックを一回受けたがわからないので送っていない、実験的にやってみる必要があるだろう。やってみないとわからないのがこの世界だからだ。ほとんど一人舞台でやってきたがトラックバックは相手とのつながりができるのか、記録が自分のプログに残るからそこからアクセスの径路ができてくるのかもしれない、最初のうちは実験である。
湯沢で温泉のガスが噴出して死んだのには驚いた。鳴子を越えて湯沢辺りになると雪が深くなるのを肌で感じた。雪というのは信濃の雪とか会津の雪とかみな違う、日本海の雪は世界的にみても何か特別の雪なのだ。雪質が違うのかもしれない、雪国のことは意外と暮らしてみないとわからないだろう。
山形の大石田の次年子(じねんこ)という地名は面白い、雪が深くて子供が生まれても役場に届けるのが遅くなるから来年になるから次年子となるとそれが地名化した。しかしこの地名は役場となれば明治以降地名化したのである。明治村とか大正村や昭和村も明治以降の地名なのである。日本の雪の世界は独特だろう。今年は特に雪が深い、雪というとここでは雪の世界がわからないから雪の世界を知りたければ会津とか秋田とかに行かねばならない、まあ、近いから温泉に行くのもいいだろう。
何百羽の雁の大群が冬田におりてきて飛んだ、あんなにいたのかと驚いた。今年も終わりだ。雁とか鳥はへることはない、人間はへっても鳥は増えるのである。最後に一斉にどよめき今年も終った。
2006年01月01日
2006元旦
地方色版画に豊か初暦
新疆の綿のタオルと年明けぬ
握手して露人と別れ犬の年
曙や白鳥啼いて目覚めけり
年明けむアメリカ人と時差のあり
ロ-ソンで新疆(しんきょう)の綿のタオルを売っていたので買った。タオルは上質なのが欲しかったからだ。新疆というと北京のユ-スで会った学生が新疆のコルラ出身なので驚いた。シルクロ-ドの果てのような所だった。あんなところに住んでいる人がいるとは中国は広いと思った。中国はまさに地球の半分である。ここには漢人の弾圧があったり実際は大変な場所らしい、余りそうしたことは中国では報道しないからわからないのだ。それにしてもタオルまで新疆の綿を使っているとか中国製になっていたのである。日本のタオル業界は中国の安いタオルが入ってきて倒産するとか騒いでいた。こういうものはハイテクでないから中国でも簡単に作れるから入ってくるのだ。
私が会った露人(露西亜人)は素朴であり誠実な感じの人だった。ロシア人は個々人としては素朴であり質実であり誠実なのである。中国人と商売していたが中国人は商売上手であり計算高いともなる。去年はロシアに行ったことは視野を広げた。今や誰でも国際的になっている。なぜ露西亜人と犬年が関係しているかというと犬は忠実であり誠実であり正直の象徴だからである。露西亜人は犬のように誠実であり忠実である友でありたいという希望があったのだ。ただ露西亜人にもいろいろいるから結局すべてとはならない、これはどこでも同じである。一般的にまだ素朴な傾向が残っているということである。
まあ、俳句もなんらか国際的になるのは時代である。国際的な俳句がどこまで通用するのか理解されるのかはわからない、短すぎるからむずかしい面がある。このプログは24時間書きつづける、連続して発信できることもわかった。あとから整理して直すのにも便利である。トラックバックが一件あったようにリンクしして相互につながりをもちやすいのも特徴である。ただ簡単にトラッックバックをするというのも問題なのか、今のところ私は実験段階なのでトラックバックを受け付ける。そのあとは良くわからないのである。
将棋24でアメリカ人が入ってきた、日本にいたから日本語できる、今の時間を聞いてきた。時差があるから日本は新年でもアメリカは一日遅れるのだ
これも国際的なことなのだろう。
今年もこのように書きつづけるのでよろしく
新年の歌(蔵王)
新年に雪の蔵王を仰ぎつつ太平洋の浪の音ひびく
轟ける太平洋の浪の音に今年も走るかなた目指して
新築の家建つひびき冬の空
年明けて浦穏やかに舟溜
親子して郷土の神社に初詣
元旦は晴れたので自転車で相馬まで海沿いを回ってきた。やっぱり自転車で走ると気持ちいいのだ。八沢浦から蔵王が大きく見えることの不思議である。あそこは湾を干拓したところだから一段低くなっているから見えるのだろう。相馬市の方からは見えないのだ。山にさえぎられ見えないのだ。
奥(みちのく)を ふたわけさまに 聳(そび)えたまふ 蔵王の山の 雲の中に立つ(斉藤茂吉)
この歌は有名なんだけどみちのくを二つに分けた様に蔵王が大きくそびえている。福島県と山形県と宮城県から蔵王が見えるのだ。磐梯山とか他の山は高くても見えないが三県から蔵王が見えるからみちのくを二つに分けたようにという形容が一応活きている。二つに分けるというのではなく三つの県から見えるということがこの表現が活かしている。宮城県と山形県を分けているかもしれないが福島県までは分けていないからだ。ただ三つの県から見えるということが蔵王を象徴しているのだ。福島県の浜通りからは高い山は見えないから物足りないものとなっているが蔵王が見えることは気持ちいいのだ。
芸術の評価はかなりむずかしい、百年後に評価されたり多数に認められても価値ないとかされることがよくある。ふたわけさまという表現はあっていないがみちのくの三つの県から見えるということでこの表現は活きているのだ。斉藤茂吉もそれなりに名歌を残してはいるがそれほどに評価されるものか疑わしい、芸術の評価はむずかしい。つまり相当その人の歌やら何やら詳しくならなければ批評できない、一冊の本を書くくらい研究しないと批評できないし軽はずみなことはいえないからである。
今日はこの辺にして明日相馬編のつづきを書こう。

2006年01月03日
なごみの里
数軒なごみの里と枯木かな
冬日さし江戸の年号名もなし碑
相馬に来冬の城下や路地の裏
石垣のわずかに残り城跡の遠き昔や冬の日暮れぬ
冬日さし六万石の城の跡遠き昔となりにけるかな
なごみの里ととあったがあそこには家が数軒しかない、なごみの里とあるだけでなごむ感じがするからいい、今年の正月は自分の家にはなごみすらなかったからつくづく感じた。痴呆症はかなりの数いる。これはかなりやっかいなものであることがわかった。
相馬の城は石垣がわずかに残っているだけで城があったという感じもしない、なんか遠い日の世界になってしまった。それでも相馬は野馬追いがあるから相馬藩の殿様がまだ生きているのだ。東京に住んでいて殿様をお迎えしているから殿様生きているのである。こういうことは他ではなくなっているが相馬だけは野馬追いがつづいているからそうなっているのである。
「五十代はローマ、ところどころに遺跡がある」
「六十代はエジプト、いたるところに廃墟がある」
http://homepage2.nifty.com/GOMAME/2005/11/051111.htm
ここに詩人たちの同人誌の紹介があった。詩というのも無数にある。ただこうしたものは書店に並ばないからインタ-ネットで公開すれば関心ある人が読むようになる。書店とかもはやこうした文化活動の場として用をなさない、書店に置いてもらうこと自体あきらめた方がいい、書店自体いづれかなりの部分必要なくなるのである。
これが面白いと思ったのは50代がロ-マだいうのはあっている。なぜならロ-マ帝国とは広大な版図があり50代になるとロ-マと同じような年期と視野をもてる時代だからである。過去の人生の思い出も遺跡のように残っているのだ。ところが六十代になるとエジプトのように現代には通じないような遠い過去の遺跡になってしまう。遺跡より廃墟になってしまうのである。遺跡の意味でもかなり違っている。ロ-マの遺跡は以前として現代に通じるものをもっているがエジプトの遺跡はなかなか現代には通じていないからだ。
松川浦にあった名もない墓に 寛永 1624-1644 享保1716-1736の年号があっ。これはかなり古い、東北では江戸時代のものをみるのはまれなのだ。寛永は本当に古い、でもそれが何を意味しているかもはやわからない、なぜあそこに残されたのかもわからないのだ。三が日もおだやかにしていたかったが今年はできなかった。今年はいい年になることはないことがすでにわかったのである。
なごみの里、平和(やわらぎ)の郷(さと)を求める時代(2006年のトレンドは国風文化の見直し)(本サイト時事問題32)
http://www.musubu.jp/jijimondai32.htm#na
2006年01月04日
小松
冬の日や小松が下に家の墓
北風に揺すられ小松耐えてをり
新年の銀河の輝きいやましぬ
今年は今ものすごい風が吹いて家を揺さぶっている。松の内というおだやかな気分はない。家のなかも新から外も内もおだやかな正月ではなかった。家の前に墓がある家で小松の下にある。いつも先祖がそこにいるとなるからお参りがいつもできるからいい。小松というのも日本人になじみな日本的なものである。小松という地名も結構ある。庭の小松でも日本的な風景としてある。でもその小松が激しく風に揺すられている。人間の安らぎは本当に生きている限りないような気がする。死ぬまでいろいろな災難が内から外から襲ってくる。今や家の外からも中からも激しく揺すられている。日本人にとって松というのは特別な意味があった。その考察はあとにしよう。
2006年01月05日
枯木一本
月細し松の間に立ち冬の草
月細し農家一軒冬芒
枯木一本裸身の清し月光る
故郷のこの道静か枯木一本また我が寄れば月の光りぬ
冬の草とか冬芒とかなかなか句にしにくい、粛條として冬芒のなかに農家一軒あることは詩であり絵である。誰しもあるところに長く住んでいると同じところを通りそこにいつも立っている木がありそれに親しみを感じる。またここに来たなとなる。今日は夕べ冷たい三日月が出て光っていた。あんなところに利用もしない野球場を作ったりまた温泉を作るとか10億円とかなんか公共事業は無駄が多い。枯木には無駄なものをそぎ落とした美がある。静粛でありそこに冷たい月が光る。冬の月はこの裸身の枯木に光るにふさわしい。茶室の精神も簡潔であり無駄をそぎ落としたところの美を追及したのだ。それは枯木のシンプルな美なのである。
月細し農家一軒冬芒
枯木一本裸身の清し月光る
故郷のこの道静か枯木一本また我が寄れば月の光りぬ
冬の草とか冬芒とかなかなか句にしにくい、粛條として冬芒のなかに農家一軒あることは詩であり絵である。誰しもあるところに長く住んでいると同じところを通りそこにいつも立っている木がありそれに親しみを感じる。またここに来たなとなる。今日は夕べ冷たい三日月が出て光っていた。あんなところに利用もしない野球場を作ったりまた温泉を作るとか10億円とかなんか公共事業は無駄が多い。枯木には無駄なものをそぎ落とした美がある。静粛でありそこに冷たい月が光る。冬の月はこの裸身の枯木に光るにふさわしい。茶室の精神も簡潔であり無駄をそぎ落としたところの美を追及したのだ。それは枯木のシンプルな美なのである。
2006年01月06日
万両
万両に長寿の母や小松かな
新年に銀河を仰ぎ勇みたつ大いなるもの我呼ばんかな
万両、千両、百両というのまである。葉から見て万両だろう。冬に赤い実をつけるからめだいものとされた。この赤い実を見て90になる母が意識がはっきりして耄碌しないという驚きである。今90になっても意識明瞭な人はいて当たり前だがこの長寿の時代は今までにない時代なのである。一方で80以上で5人に一人が痴呆症になっているという。数が多いからそうなるのである。ニ-トも現代的な問題だったがこの超高齢化社会も現代が産み出したものなのだ。この赤い実が90になっても意識が明瞭なことに見えたのである。
母でも自分でも体力的には弱い体質である。自分にしても20代頃かなり無理したので一時的に体力がかなり減退した。20代というと本当は最も体力ある時である。その後30代頃から体力が多少持ち直して現在にいたっている。老化の兆しはあるが精神的には充実してしいる。人間は確かに生まれつきに体力とか能力が影響されるがなんかこういうものも人間は後天的に変わる。どんなに体力あるものでも不摂生したものはだめになる。節制したものは長生きになる。能力も天才は別にしても積み重ねると発展してゆく、開発されてゆくのだ。私が20代に作った俳句とか短歌は余りに幼稚だった。ほとんど五七五とかに言葉を並べたにすぎない、だから誰も認めるものではなかった。そんな幼稚な句をプログとかに今はみんな出している。ではそれが将来どうなるかはわからないのだ。二〇代から五〇代までつづけていればそこで発展しないことはありえないからだ。
人間が積み重ねとか節制とか忍耐が大事だというとき、酒を飲むのは精神を惰弱にするし脳の力を弱めることはまちがいない、自分は酒は飲めるにしても酒は飲んでいない、タバコもやめた。欲を節制しているから体力的気質的に弱くても六〇近くになって健常になっている不思議があるのだ。つまり人間は先天的なものでなく後天的なものによって作られることが多いことは経験から間違いないから凡人でも節制と積み重ね、努力を怠らなければどんな分野でもそれなりのものになるのである。
2006年01月08日
冬籠(相馬焼のコ-ヒ-カップ)
冬籠愛用のカップは相馬焼
my favorite teacup
made in Soma
in retreating days
in winter
このコ-ヒ-カップは前も書いたけど安い割りにはものがいい、黒い光沢が普通の黒と違っている。中は相馬焼き独特の緑のひび割れで走り駒が書いてある。伝統的なものと新しいものがミックスされたのだ。茶碗とかは別に特別高いからいいとは限らないのだ。益子焼からなんでもない江戸時代に使っていた益子焼の美を発掘した陶芸家がいる。芸術は別に芸術品として作られたものではなく日用品として作られていたのである。ベ-シックなところでは日用品であり日々に欠かせないものが芸術化したのである。そもそも芸術というのが俳句でもなんでもそうだがその良さを発見することがむずかしいのである。これはたまたま相馬の道の駅で買ったものだったがそれが愛用となった。その人が使い込み愛用しているものをプログとかに出ているがこれからの買い物はそういう個々人が愛用したようなものがプログなどを見て欲しいとなり売れるかもしれない、それを実行している人もいた。いろいろな茶碗を自分で集め紹介して売っている人がいるのだ。その人は茶碗に造詣深いからできるのである。これからの売り方はインタ-ネットでかなり変わってくる。
そもそも売るということ何かその品物であれ道具であれその人が特別の思い入れが知っていなければ売れないのだ。その点本なんかでもその本に特別思い入れがある人が紹介すればその本が売れるようになる。それは簡単にインタ-ネットで紹介できるからである。書店などはただ出版社から機械的に流れてくるものを置いてあるだけであり何か特別思い入れがあるものを置いたりしないのである。無名の人の本など絶対に置かない、出版社が権威を持っていてそれに従うだけである。これからの物を売るときは個々人が使った使い具合が紹介されるから物の売り方が変わってくる。テレビだけの一方的宣伝の時代は終ったのである。プログは24時間放送体制にある。プログの応用はまだかなりあるみたいだ。検索とかもしやすいから俳句とか短歌を分類して検索されるようにするのがいいみたいだ。枯木一本で夕月と使ったがこれは秋の季語だった。夕べ出る月だから夕月としたが月細しとなおした。夕月というと春とか夏の感じしないか?季語は本当は完全に決まったものではないこともいえるのだ。冬の夕月というのはふさわしくなかったことは確かだろう。
made in Somaは相馬焼くらいしかない、地方独自の産物が必要になって来ることは確かだがこうしたものは一朝一夕には作れないから問題なのである。
2006年01月09日
冬ごもり(窯元)
窯元に孟宗竹や冬ごもり
浄土ヶ浜巌に雪や朝清し松が枝張りて鴎飛ぶかも
池氷り松風鳴りて風花の舞いつそのあと光る月かな
昨日のつづきで茶碗の句だがこれは私は全国の陶芸の地をほとんど回っている気がする。日本でお土産とかその土地独特のものは陶芸なのである。これは歴史が古く江戸時代からつづいている。相馬焼は藩ご用の窯でありこれも古いから相馬焼の技術を教えに益子などに行っている。益子は民窯であり新しいのだ。この句はこれもずいぶん昔になってしまった。そこで絵つけなどした。手作りの職人とかなると陶芸の世界くらいしか日本に残っていない、陶芸の世界はその土地と結びついて歴史があるから魅力あるのだ。
この句は笠間で作った。ここに陶芸美術館ができたらしい。益子の方が有名になった。
浄土ヶ浜は松や巌や入江は絵ハガキのような景勝の地となっている。これは二回目に冬に訪ねて作った。最近の寒さは尋常じゃないがこの寒さのなかで自然がひきしまり厳しい美を現した。北風に松風が鳴り風花が舞い皓々と月が光り池は凍っている。こうした寒さのなかでいっそう映える美を見たのもこの寒さのためだった。ただ新潟辺りになると雪が美しいという感覚にはならないだろう。雪は邪魔になってしまう。雪害になってしまう、雪との戦いが強いられる。
ここ30年旅しつづけてきた。今になるとこうして旅できたことに30年間平穏無事だったことに感謝する。30年間という歳月は相当な歳月だったからだ。30年間平穏に過ごせたということは今になると本当にありがたいことだと思ったのだ。この間になんらか事故にあう危険性は何度かあったが平穏にすぎたのである。明治維新からは日本は平穏でなかった。戦争の犠牲も全く平穏でない犠牲にされた人生だった。人間には災難はどんな人でもくる。災難つづきなのが人生である。しかしこの30年間平穏だったということは今になると感謝であったのだ。身内に災難が起きてわかったのである。家族に病気人をかかえていればそこに平穏はなくなる。特に最近痴呆とか鬱病とかをかかえている家族が多い。ここにはもう平穏がなくなってしまうのだ。老年になると意外なこととるにたらないことに感謝するようになる。それは単なる平穏無事なことがいかに価値あることだったことかわかったのである。
2006年01月10日
窯元(益子、勿来、相馬の焼き物の歴史)
![kamamofuyukomo2[1]234.jpg](http://musubu.sakura.ne.jp/sblo_files/musubu/image/kamamofuyukomo25B15D234-thumbnail2.jpg)
唐津焼の窯元尋ね落椿
●勿来土瓶は益子と相馬へ
益子は焼き物の産地としてはそう古い方ではない。黒羽藩の御用窯として生産を開始してからの約150年の歴史である。かめ、すり鉢、片口、土瓶などの台所用品が主な生産用品であった時代が長い。明治中期の山水土瓶、明治後期の勿来土瓶は代表作であり、簡素な紋様の健康的で丈夫な実用品が作り出された。
益子も御用窯だった。相馬焼の方が古いから相馬焼を教えに行ったのである。黒羽藩というのはなじみがないがここにも自転車で行ったのである。城の跡もあるし芭蕉の寄った場所でもあった。
大堀相馬(おおほりそうま)焼は大堀焼とも呼ばれています。
福島県浪江町大堀(旧大堀村)の半谷休閑の下僕左馬が、相馬中村で製陶法を身につけて1690年頃開窯し、駒の絵を描いて評判をとり、以来村をあげて徳利・土瓶など種々の日用陶器を生産しました。維新後は衰退しましたが、1873年頃松永政太が考案した鮫焼土瓶(鮫肌焼)がアメリカへ大量に輸出されました。
これはいわき市勿来産の陶石を用いたので、勿来土瓶・勿来焼・とも呼ばれました
この勿来土瓶は大堀にも伝わり益子にも伝わった。陶器は土が重要であり土を探し歩いたりまた火力の強い松が必要だった。陶器作りはその土地に根ざすものだから材料が大事になるのだ。ブランド品はその土地から生まれるがこれは土とか燃料とかその土地のものを活かして歴史の積み重ねで作られる。そこに陶芸の魅力があるのだ。土地のお土産が土の産となっているのがまさにそのためでありお土産に一番いいのが陶器なのである。
●黒羽に寄った芭蕉
芭蕉と曽良は4月3日玉生を立ち日光街道を矢板−沢村−大田原−黒羽へと到着する。黒羽には13泊14日間で道中では最も長い。そして余瀬の翠桃邸に5泊、淨法寺に8泊と曽良の随行日記に記されています
黒羽に芭蕉泊まると秋日和
黒羽や昔の街道秋日和
秋の日や馬頭太田原別れ路
雲巖寺落葉を掃きぬ僧二人
この辺は那須の原とか開けていて見通しがいいところである。この辺の記憶も定かではないが益子も黒羽藩の領域だった。山の方に入ると雲巖寺という山奥の寺があった。そこから八溝の山を自転車で分け入り上ったのを覚えているのだ。旅はあとで思い出せれば豊かな旅立ったのだ。忘れてしまい思い出せない旅は旅になっていなかったのだ。車とかでは通りすぎる旅になるから忘れやすい、記憶に残らないのだ。鉄道だと駅名しか記憶に残らないことが多い、車窓の景色もまたたくまにすぎて人間の脳に記憶されないからだめなのだ。
2006年01月11日
眠る山
前畑の冬菜に月や里の道
幸いは患いかけず眠る山
人の手に湯たんぽ受けとる温かさ
ひよどりに烏に雀年明ける
前畑とはテ-マとなっている。田舎だと農家の前には必ず前畑があるから当たり前だとなるが自分の家の前が庭のようなところが生産の場となっているのは都会ではないのだ。
冬菜というのもその前畑にある。そこに夕べ月がでていた。眠る山は家のなかから外から人の世は患いで一杯であり静かに眠ることがない、都会は真夜中でも眠らない、冬は眠りの季節、休みの季節だから眠るべきなのである。眠るのが自然のリズムなのである。眠らないから鬱病とか四倍になっているとか様々な精神の疾患が生まれて来る。
今年は湯たんぽを毎日していた。エアコンもあるがこの湯たんぽの温かさがいいのである。これを人の手から渡されることに温かみを感じた。人間には人の温かい手が必ずどこでも必要なのである。ロボットに人間の介護などできないしコンピュタ-とか機械に欠けるのは人間の手のようなぬくもりが欠けていることなのだ。つまりすべて機械で人間は代用できないのも自然の理(ことわり)なのである。
鈴が音の早馬駅の堤井の水を賜へな妹が直手(ただて)に
この歌のように直接温かい手から受けとる水だからこそその水は何倍ものうまさとなって疲れた人の喉をうるおし癒すのである。
自然のリズムに反して生活していると様々な狂いが人間に生まれる。痴呆に関してはこれも余りにも自然の法則に反して人間が文明により長生きさせられたことだともなる。植物人間もいるしこれは人間の尊厳死の問題もありやはり自然の法則に反したことなのである。人間がこれほど長生きすることは未だかつてないから痴呆(認知症)という病気がクロ-ズアップされたのだ。ニ-ト問題も豊かな故に起こる問題であった。ひよどり、烏、雀が来てそれぞれに年が明けた。動物もそれぞれ違った生き方をしている。人間も職業が違いばそれぞれ生き方も考え方も様々な面で違って来る。それぞれの新しい一年がはじまったのである。
2006年01月14日
冬の雨(中国製のジャンパ-)
中国の安いジャンパ-に冬の雨
冬の雨ぬれて烏や田舎町
我が町に三本の枯木や帰る駅
鴨眠り池の凍りて写る月
中国製のジャンパ-は2千円くらいだから安い、ホシイモなども安い、中国製のものが入らないと困る人がかなりでてくる。下流社会が形成されるとなると中国製が入ってこなかったら最低限の生活すらできなくなる。中国とかアメリカでは貧富の差が大きくても階層社会でも最低限の生活を支えるシステムはアメリカの場合はあるらしい、福祉とか教会関係が支えている。中国でも安い宿がそれも百円くらいのがあるから貧乏人でも泊まる宿がある。日本の社会は総中流社会用に作られたから高かった。百円ショップとかホテルでも仙台の駅から離れた所で3千円のがあった。下流社会用のサ-ビスが用意されてくるとそれなりに暮しができる。学校でも修学旅行に行く金が出せない人がかなりでてきたというのも明らかに階層分化してしまった。
それから格差社会は地方にとってもそうなる。大都会の一部は金持ちになるが地方は今度は自前でやらなければならず苦しくなる。公務員の待遇も悪くなるしリストラになる。公務員は待遇が良くすぎたことは間違いない、たいしたスキルがないのに金ばかりもらっていると下流社会から妬まれたのもわかるのである。グロ−バリゼ-ション−化の世界では国際競争に勝たねばならぬのだから優秀な人はそれなりに待遇しない会社自体が成り立たなくなっているからこれはみんなが下流の層も認めているのだ。しかし公務員はそうでないからここに恨みが集まり自民党が勝ったのである。小泉首相の政策はアメリカ型の格差社会にすることだったのだからそれが現実化してきたのかもしれない、その負の側面として犯罪とかがふえてくる。金持ちは防犯つきの壁の中で暮らしている。中国でもそうである。こういう格差社会が日本にあっているのかどうかいいのかどうかは疑問である。つまり冬の雨をひとしお冷たく感じるようになるのが下流社会であり地方であるから中国製の安いものが入らないと余計ひどいことになる。
冬の雨ぬれて烏や田舎町
我が町に三本の枯木や帰る駅
鴨眠り池の凍りて写る月
中国製のジャンパ-は2千円くらいだから安い、ホシイモなども安い、中国製のものが入らないと困る人がかなりでてくる。下流社会が形成されるとなると中国製が入ってこなかったら最低限の生活すらできなくなる。中国とかアメリカでは貧富の差が大きくても階層社会でも最低限の生活を支えるシステムはアメリカの場合はあるらしい、福祉とか教会関係が支えている。中国でも安い宿がそれも百円くらいのがあるから貧乏人でも泊まる宿がある。日本の社会は総中流社会用に作られたから高かった。百円ショップとかホテルでも仙台の駅から離れた所で3千円のがあった。下流社会用のサ-ビスが用意されてくるとそれなりに暮しができる。学校でも修学旅行に行く金が出せない人がかなりでてきたというのも明らかに階層分化してしまった。
それから格差社会は地方にとってもそうなる。大都会の一部は金持ちになるが地方は今度は自前でやらなければならず苦しくなる。公務員の待遇も悪くなるしリストラになる。公務員は待遇が良くすぎたことは間違いない、たいしたスキルがないのに金ばかりもらっていると下流社会から妬まれたのもわかるのである。グロ−バリゼ-ション−化の世界では国際競争に勝たねばならぬのだから優秀な人はそれなりに待遇しない会社自体が成り立たなくなっているからこれはみんなが下流の層も認めているのだ。しかし公務員はそうでないからここに恨みが集まり自民党が勝ったのである。小泉首相の政策はアメリカ型の格差社会にすることだったのだからそれが現実化してきたのかもしれない、その負の側面として犯罪とかがふえてくる。金持ちは防犯つきの壁の中で暮らしている。中国でもそうである。こういう格差社会が日本にあっているのかどうかいいのかどうかは疑問である。つまり冬の雨をひとしお冷たく感じるようになるのが下流社会であり地方であるから中国製の安いものが入らないと余計ひどいことになる。