2006年11月18日

冬の日の飯館村をめぐりて

冬の日の飯館村をめぐりて(なぜ老子の無為自然が実行されないのか?)

時事問題の深層33へ

http://musubu.jp/jijimondai33.html#iidatefuyu

静粛な冬、山村のたたずまいは心すがしい安らぎを与えた。一軒一軒の家が離れていること山陰に家が点々と隠れるようにあることなんとも自然に調和している。ゴルフ場を飯館に作らないということはいいことである。
しかしすでに文明の雑音と騒音とはおしよせてきている。

アクセスはやっぱり100くらいだろう。コメントスパムで読まれていたと錯覚した。最近リンクのスパムはないのだがコメントスパムが急激にふえている。訪問者が440になっても300がコメントスパムなのだ。いちいち消すのは10くらいだがHTMLにはスパムが記録されている。

このプログの弱点はスパムをもろにうけることなのだ。ホ−ムペ−ジはそういうことない、プログはスパムをさけることができない、メ−ルもそうだがインタ−ネットの問題はスパムなのだ。これでいやになり閉鎖したところもある。こういうものがまぎれこんでくると真面目にやるものは気分がそがれる 本だったらこういうことはないからだ。インタ−ネットの場合、いいものも悪いものもごちゃまぜになってしまう。これもしかたない面はある。
そもそもインタ−ネットでやるのはマスコミとか本とかで出せない人だからである。それは情報として意味あるものなのだ。
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飯館村冬の日(巣箱)

冬の日や巣箱一つの加えらる

飯館や古碑に冬日や今日も暮る


何が付け加えられるべきなのか、巣箱一つが付け加えられるのによい、この前近くで啄木鳥を見た。野鳥観察はいい、古碑に昔を偲ぶのもいい、ただ時代と意味がわからないが何かしら意味があったものだろう。誰かが探り紹介する必要がある。

老人はただ何もせず日向ぼっこしている古碑なのだ。何が刻まれているのか、過去のみが問題となる。刻まれているものはこちらから聞き出さないとわからない、古碑はやはり村にふさわしいものなのだ。

冬の日の飯館村をめぐりて(なぜ老子の無為自然が実行されないのか?)

時事問題の深層33へhttp://musubu.jp/jijimondai33.html#iidatefuyu


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2006年12月29日

飯館村に伎芸天

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村の碑に伎芸天一つ冬菜かな

飯館村に伎芸天の碑があった。あまりこれはみかけたことがない、馬頭観世音は多いが伎芸天は見たことがない、なぜここにあるのか?いかなる願いで供養でここにあるのかわからない。馬頭観世音は馬の供養だからわかりやすい、飯館村にもいろいろ碑があったけどわかりにくかった。これは冬菜のあるこの写真と連続したものである。この農家への道にあったのだ。ここだけとっても広々としたところでありそういう点では田舎はぜいたくだと思った。空間が広いから気持ちいいのだ。都会の貧しさはこうした広々とした空間がないことなのだ。日本の社会はかなりアンバランスなのだ。地方こそ本来人間が生きる場所なのである。
ここに伎芸天があることはやはり技芸も田舎にもあってほしいとなる。それは技術であり芸であるから芸術というのもある。冬菜というと貧しい象徴ではあるがその中でも技を芸をはぐくむものが必要なのである。

冬日山村(飯館村)http://www.musubu.sblo.jp/article/1742505.html
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2007年02月13日

飯館村大倉の老婆が相馬女学校出たと・・・

大倉に昔を語る老婆かな春はまだしや街の遠き日

大倉出会った老婆は相馬の女学校を出たことを自慢していた。ええ、こんな山の中からも女学校出たのと思った。私の家族でも女学校に行けないこと今でも悔しがっているからだ。相当な金持ちでないと女学校には行けなかった。女学校出たということは当時では一つのステ−タスだったのだ。団塊の世代で大学を出たということも地方ではまれだった。しかしその時から大学の価値は低下していたのだ。マスプロ大学であり大衆化していたのである。戦前の旧制高校は本当のエリ−トであり誰も一目置いていたし世間でも特別扱いだったのだ。そして学生は選ばれた人であり優れた青年が多かったのである。団塊の世代の大学生はそういう特別なエリ−トととは違い、学生運動が起きたのもマスプロ教育の反感から起こったのである。エリ−トたるべきものがエリ−トでないという鬱憤を晴らすことがあったのだ。もちろん有名大学の学生も参加したのだから全部はそうでないにしても学生は特別なものでなくなっていたのだ。新宿で石を投げると学生にあたるとか毎日マ−ジャンしているとか学生らしからぬものが急増していたのである。学生の質の低下もひどかったのである。それでも高度成長期で人手不足でみんな就職できたのである。

大倉のような山の中でなぜ女学校に行かせるほどの金持ちがいたのだろうかという疑問である。炭焼きをやっていたと言っていたから当時は炭焼きが現金収入として大きかった。上萱のような所でも炭焼きをしていた。町の燃料店が一括して買っていたのである。炭焼きはどこでも盛んだった。長野辺りを旅した人が次から次と炭俵を背負った女性に出会ったというしその老婆も荷物を背負って仕事したという。背負うということが当時は仕事だった。山には何もないかというと当時は木材も売れたとすると山には長者がいた。昔も山には長者がいたのだ。鉄をとったり資源があったから長者になった。
なぜ原町に森林鉄道があったのか飯館の木材などを運ぶためだった。森林鉄道は各地にあったし鉱物資源を運ぶためにもあった。森林鉄道というのはマニアでないと知らないし全く忘れられたものとなっていたのだ。

私の家は大倉で木こりをやっていた同級生がいい柱の木を提供してくれた。昔風の家であり柱が太いのと壁が土壁だからその頃では土壁は最後だった。

大倉に切り出す木の我が家の柱となりて支え古りにき

当時の木材は近くの山だったし大黒柱になったのもそうである。今は外材になったから家であれ食べ物であれ地元と結びつかないけいざいになってしまったのだ。だから山は街の人にとっても疎遠な過疎地域になっているのだ。経済的に結びつかないからである。

その女性は鹿島区の親戚の家から相馬女学校に通ったという。今なら車で通いるかもしれんが当時は交通の便が悪いから通いなかった。親戚の家で気を使って勉強できなかったとか言っていた。昔は尋常小学校が普通だったから女学校に行けるとなると羨望の的だったのだ。山の生活というと今や過疎だけが話題になるが山は昔はそれなりに木材や炭焼きなどでにぎわっていたのである。蚕なども桑を作るには山でもいいし山の中でも蚕の一大生産地になってたから蒸気機関車が通ると桑が煙でだいなしになると汽車を通らせないようにすることが各地で起こったのもそのためである。

その老婆はまたここではうまい米がとれるんだよ、あそこがおらえの家の田んぼなんだとしきりに言っていた。確かに山は水がいいから米がうまい、鹿島区でも米がうまいのは栃窪であり山の方でありそこは水がいいから米がうまいのだ。私の家でも栃窪から米を買っている。一地区でも米の良し悪しがある。それは水が関係している。米作りは水と不可分にある。八沢浦などは干拓地だから米はそんなにうまくないとなる。土壌が干拓地だとすると悪いのも影響する。郷土史で一番大事なのはどこが古くから人が住みついたか古い村なのかを知ることである。新旧が混じり合っているところもあり複雑である。大倉の峠を越えた所に二軒家があり一軒だけが残っているがそこに共栄橋とあるからこれは明治以降に入植したからである。古いと思っても新しい場合が結構あるのだ。

大倉というとダムの底に主要な家は沈んでしまった。葉山祭りというのは相当古いから大倉部落は古くからあった。ダムができないときその部落自体神秘的だった。そもそも山の奥にある部落は人があまり行き来しないとき交わらないし知られないから神秘的であり桃源郷のような秘境であったのだ。椀貸し伝説とかあるのも人がめったに入っていかないから神秘的秘境化したのである。現代は頻繁に車で行き来するからどこにも神秘性はなくなったのである。ただ秘湯巡りなどがブ−ムになるのも今やそうした昔の山の部落の神秘性を求めるからそうなる。大倉では今でも車で春にお浜下りで浜で神事を行うから鹿島区とは関係しているし近くに「大倉ばっぱ」とかダムに沈んで移住した人が住んでいたりする。飯館は一応山中郷で相馬郡に入っていた。今は合併しなかったから南相馬市に入らず飯館村として残ったのである。

飯館村の共栄橋から発信
http://www.musubu.jp/jijimondai15.htm#kyoei
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2007年05月04日

春の塩の道をたどる(二本松までの絵巻物の詩)





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春の塩の道をたどる
(二本松までの絵巻物の詩)


春の塩の道

牛の啼き
鶯の鳴き
飯館村の
山陰の道
日のさし
温かきや
黙せる石
患いなく
耕しの婦
辛夷咲き
良き日和
一本の松
そに寄り
旅人行く
祈る像は
塩の道に
春草生い
古りにし
恋の恨み
地蔵にそ
残る伝い
春の愁い
かなたや
山木屋へ
三春へと
二本松へ
道分かれ
はるかや
山間の里
蛙鳴きつ
誰か棲む
田に蛙石
枝垂桜に
一村古り
合戦場跡
伊達政宗
勇名残す
二本松城
我が至り
あわれや
宴も終え
花散る跡
霞け城や
夕日さし
余花散る
本丸跡の
高きかな
相馬の方
三春の方
見晴らし
残雪の峰
安達太良
夕日映え
二本松の
昔の酒屋
千恵子や
哀しきや
安達太良
影覆いぬ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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恋の悩みを背負わされて肩をそがれた地蔵尊

旅の若い石屋が真福寺に頼まれ地蔵を作ることになった。峠の麓の宿に泊まり頂上近くの仕事場で石を彫った。峠の茶屋に美しい娘がいて恋におちいった。彫り終えたら別れねばならぬと石屋は不安になりはんばできあがった地蔵の肩をそぎおとした。これは「きっつぉこね地蔵」と呼ばれた。「きりそこね」という意味である

これは実際にあったことだろう。こういうことはどこでもあるからだ。技術者は遠くから呼ばれる場合がある。やはり地蔵彫るとなるとそれなりに腕がよくないと作れないからだろう。そして今でも誰かが両親でも離婚したりどこかでもめごとがあれば必ず回りのものがとばっちりを受けるのだ。喧嘩しても回りのものがとばっちりをうける。暴力団の抗争でもそうだし戦争でもどこかの国と国が争うととばっちりを受ける。それがこの世の中だからこの世にあるかぎり平和であることはありえない、一人だけ平和でも回りが平和でないからそうなるのだ。そして喧嘩とかもめごとはなくなることはないからこうした伝説は今の話しでもあるのだ。

二本松までの塩の道は情緒ある道である。これは詩にしたように絵巻物のように旅する必要があるのだ。蛙石というのが本当に途中にあったのも面白い。一連のものとして絵巻物にするとわかりやすい、でも細かいのは見逃されているしわかりにくいのだ。車だと途中をぬかすし人間のペ−スがなくなるから昔を知る旅にならないのだ。歩くのが一番いいのだが時間がかかりすぎるから自転車が一番いいのである。自転車でも相当遠いのである。奥の細道は昔だったら魅力あるが今は阿武隈高原のようなあまり人の通らない道が奥の細道なのだ。この塩の道は塩は生活に不可欠だから実用の道として長く使われていた。道中安全を祈る地蔵も当時の人にはかなり頼もしいものとしてあったし今でも時間がとまったように地蔵だけは残り祈りつづけている。実際山木屋に出る山の上の道の観音像は塩の道の目印しとしてなんとか残っている。時代は「天和」とあり確かに江戸時代のものである。天和(1681-1684)だから実に古い。寄進した人の名前が裏に彫られてあった。このくらい古いものはめったにない、この辺では幕末期とあとは明治時代のがほとんどだからだ。

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相馬から二本松へ(春の塩の道すじ)
http://musubu.sblo.jp/article/3869298.html
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春−三春へ
http://www.musubu.jp/trymiharu2.htm
阿武隈の魅力は道にある
http://www.musubu.jp/abukumichimiryoku.htm
阿武隈の歴史の道(相馬から川俣へ)
http://www.musubu.jp/somaabukumarekishimichi1.htm

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2007年10月10日

秋の暮(飯館→川俣−半日の旅)

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飯館や見るべきものなく薊かな


草の花薊の交じりあまたかな

飯館に牛四五頭や木槿かな

秋日さし牛四五頭や朝の牧

一山を越えるに遠し虫の声

木立の間祈れる像や秋の暮

道しるべ祈る碑二つ秋の暮

川俣や橋に夕日や秋柳

(バス)
一人下り樅の木とあれ秋の暮


我を待つ人あれあわれ待宵草

飯館の裏方の道秋日さし朝すずろに虫の鳴くかな

飯樋(いいとい)をまた通るかな桔梗咲き我が一人去りてゆくかも

ようやくに飯館村をい出ゆくや虫かそか鳴き食事とりにき

川俣に一時ありぬ日も暮れむ待宵草を我が見つつをり

夕日さし待宵草のあまたかな二枚橋過ぎ臼石に入る

山木屋に出てからはバスにのって川俣に出てまたバスで帰ってきた。この頃食事のめんどう見るだけで疲れるし遠くに行けないのである。飯館に見るべきものがない・・・というとき芭蕉が卯の花をかざしに・・・とにている。卯の花は目立たない野の花である。それがみちのくへ入るにはふさわしいとなる。阿武隈山地は温泉もなければ高い山もないので魅力がない、でも縦横に山の中をたどる細道に魅力があるのだ。奥の細道というとき今や芭蕉のたどった道は騒音の道であり昔を偲ぶことはまるっきりできない、でも阿武隈山地の道には奥の細道を感じる。奥の細道は変わってしまったのだ。阿武隈山地の細道を行った方が奥の細道を偲ぶことができる。
バスから待宵草が一杯咲いていたところがあった。そこから二枚橋とか臼石−飯館と行く、地名が鄙びていて待宵草にあっていた。間(あい)の宿というのを山木屋まで行くのに距離がありその前で必ず休み食事するのでそのことから実感した。昔の人と今も歩いたり自転車なら全く人間として同じ感覚になることが体でわかるのだ。


間(あいの宿)について

http://musubu.sblo.jp/article/5805913.html



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間宿(あいのしゅく)について(飯館村)


間宿(あいのしゅく)について

新酒くむ村と村の間(あい)の宿(蕪村)

虫の音や昔を偲ぶ間(あい)の宿(老鴬)

一山越えるに遠し虫の声

ようやくに飯館村をい出ゆくや虫かそか鳴き食事とりにき
間宿(あいのしゅく) 宿場と宿場の間が長い場合,その途中の街道沿いに休憩所として茶屋や立場が設けられたが,その立場が発達して大きな集落となったもの。多くの施設が立ち並んだが,宿場町を保護するため,宿泊は幕府によって厳しく制限された。
新酒の季節なのだ。冬から春にかけ、蔵人たちによって造られた酒は、樽に詰められ酒蔵の中で秋まで貯蔵される。

 ◆茂田井宿の入口に立つ道標。そばの立て札には、こう書いてある。
「江戸時代、茂田井は望月宿と芦田宿の中間に設けられた間の宿で、文久元年(1861)和宮御下向の際は、十二軒が御弁当宿となった。現在も豪壮な構えの家が立ち並ぶ古色豊かな集落である」
 
諏訪高島藩初代殿様『頼水』は上諏訪宿と金沢宿の間が長いため、
茅野村に宿場を造る(諸役免許)を作成しました。

半日の旅でも自転車や歩きだと旅になる。なぜ間(あい)の宿というのに興味をもったかというと一山越えると飯館から川俣に入るしもう一坂越えれば山木屋に出てそこにコンビニがありおにぎりも売っているからそこまで行けばいいのだがここでかなり疲れるから休む、いい具合に店があるのだ。前もここで休みパンやジュ−スを買って休んだのだ。ここは歩きとか自転車だったら必ず休息する場所になる。車だったらこういうことはない、必ず便利なところに行けるし距離も関係ないからだ。自転車は一山越えるのが大変なのである。私の場合は坂は歩いているからさらに遠くなるのだ。でもこれが旅なのである。不便なこと難儀なことが旅なのである。それがないから今は旅はない、半日でも歩いたり自転車なら旅になるのだ。
間(あい)の宿は十二軒が御弁当宿となったというように弁当を食う場所だった。私と同じ経験を昔もしていたのである。どうしても宿場と宿場の間は遠くなるからそこで弁当を食うことになる。だから御弁当宿となったのだ。これは今でも自転車で行けば同じ感覚であることが実感できる。つまり昔の人も同じことをしていたことが体でわかるのだ。車だと全く旅のことはわからなくなる。
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2007年10月12日

飯館村が残った理由(地形的境界と歴史的境界


飯館村が残った理由(地形的境界と歴史的境界)-地名談義
http://musubu.jp/somagappeijiji.htm#iidachikei

 
飯館村が南相馬市と合併に加わらなかったのか?財政的問題とかあるみたいだけどやはり地理的一体感がもてないのも理由だったのか?小高−原町−鹿島はそもそも常磐線沿線としてもすでに経済的にも地理的にも一体化していた。飯館村は地理的に山でさえぎられている山国として別なのである。交通の難所として山に隔てられている。むしろ川俣の方と地理的一体感をもちやすいのだ。歴史的にも小手森があり小手姫伝説が伝わっている地域である。相馬には伝わっていないからだ。今回の合併問題はやはりいろいろな問題があった。地理的に一体感がもてないものを無理やり広域市化したのも問題だったしまた文化の破壊もあった。飯館村が残ったのは山国の小国が独立国として残ったという感じでもある。南相馬市とは別な山国としての独自なものとして残ったから良かったのか、経済的には苦しくなるから悪かったのか、合併問題は文化的な側面もあったから地名変更は単なる名称の変更に留まらなかった。最悪なのは美里とか全国で何カ所か変更したことである。これはあまりにもありやれた美称であり何の根拠も個性もないものであり地域性も文化も抹消してしまったのである。
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2007年10月25日

竜胆(飯館村の喫茶店)

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朝日さし我に影さす秋の蝶

水澄みぬ鏡のごとく朝の鳥

鶏頭の朝日に映えて一四五本

手押し車息子の押すや柿なりぬ

山の上に朝露光る一雫

百本の枯れて残れる秋薊

山の上清流に和して虫の声

上り来し朝の峠や秋の空

山の村刈田をながめコ−ヒ飲む

山の村喫茶店の窓秋の蝶

夕日さし飯館村や月見草

山の村釣瓶落としや分かれ道

夕日さし影の深きや秋の山

分け入りし朝の山陰竜胆に草の花咲きひそけかりけり

ひとしおに秋の夕べに山深みさえずる鳥の心にしみぬ

今日もやはり写生のつづきだった。鶏頭の一四五本のありぬべし(子規)・・・そのぴったり一四五本の鶏頭が農家の庭に真っ赤に咲いていた。やはり一四五本という数が問題だった。一四五本がひとかたまりとして鶏頭が咲くにふさわしかったのだ。飯館にきて百本くらい薊が咲いていた、その半分以上は枯れていたが百本はゆうに咲いていたのだ。百本は結構圧巻だから写生でも映える。しかしまた道を作っていた。短い道だが昔の塩の道を壊して道を作っていた。ちょっと遠回りなだけである。道は作りすぎる。トンネルもできたが行くときはトンネルは必要ではない、無駄な公共事業が多い、それをなんとか福祉介護の方にまわしてもらいたい、それは自分だけでないだろう。田舎でも切実なものとなっているからだ。六〇くらいの息子が手押し車を押すというのも普通の光景になるのか・・・田舎は今やすでに老人が多すぎる時代になっている。一万の町で百歳が一〇人もいるのだから驚く。
AggriGateとはラテン語で「土地」「耕地」を意味し「Agriculture(農業)」の語源である「Agri-」と「凝集する」を意味する−農業の耕すという英語は「Cultivate」であり、それが文化「Cultivation」の語源となっています。
飯館村にあるアグリというコ−ヒ豆とか自家製のパンを売っている所は意外と中は人が入っていた。外からそんなふうに見えないのだが中にはウエトレスも三人とか働いている人が五六人も忙しく働いていた。これはコ−ヒとか自家製のパンとかケ−キを買って行く人が多い、車社会だから相馬の方でも川俣でも遠くから来ているのだ。近くでもコ−ヒにこっている人は買いにくるらしい。八〇くらいの老人でも若い人と一緒にいる人はコ−ヒを飲んでいるのだ。今は田舎といっても外国に行った話をしていたり国際的にもなっている。そこで自家製のイギリスパンを買った。それにしても外は刈田でありその刈田をながめてコ−ヒを飲み自家製のパンを買うというのも奇妙な光景なのだ。飯館では高原であり寒いから米をとるのに苦労する土地だった。その米と関係ないパンを買いに来る人が多い。農家の人もパンを買いにきているのかもしれない・・・NHKで米の議論をしていたけどこういうところにもなんか矛盾を感じる。鳴子の旅館で地元の米を買って客に出すというのはわかるがここは地元にとれるものとは関係ない世界なのだ。でも人が遠くからも買いにくる。車社会は辺鄙な所でもいいものを売れば売れるということがわかる。あそこがうまいとなると車で遠くからでもやってくる。場所は関係なくなっているのだ。
竜胆にはいろいろなものがある。尾瀬竜胆となると大きいて岩手乙女とか名がついた竜胆もあった。蝦夷竜胆なども大きく色が濃い、近くにも咲いていたものがあったが今年は見かけない、やはり山深くなると咲いているし山深いところににあっている。飯館は高い峠を越えてたどりつくところでいいのであり一気に車で上るとそういう感じがなくなる。自転車で八木沢峠上ったらえらいことになる。自転車で道を知らないとあのような急な坂を上ったりするから要注意である。大倉の方だと比較的楽だかやはり歩くから時間がかかるのだ。

秋に鳴くには夏の鳥のように鳴く鳥だった。山雀ではない、小雀なのか?春のさえづりのように鳴くのだが今や秋の夕暮れだから違ったものに聞こえた。
 
このつづきはここで
 
 飯館村で考える農業の問題(飯館村で自家製のパン買う矛盾)−時事問題の部へ
 http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=6172529


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2007年10月26日

飯館村で考える農業の問題(飯館村のコ−ヒ−店で自家製のパンを買う矛盾)


飯館村で考える農業の問題

飯館村のコ−ヒ−店で自家製のパンを買う矛盾)
 
●また道路を作っていた
 
飯館村で塩の道であったところに直線道路を作っていた。農家の裏側が塩の道になっていた。こんな農家の裏側を馬で荷を運び通って行ったのかと歩いたことがあった。そこは壊された。塩の道といってもそれほど村では大事にしていないのかもしれない、あそこに短い道路を作る意味があるのか?遠回りにはなるがほとんど車だったら変わらないだろう。自転車でもそれほど不便には感じないからだ。トンネルは必要だったかもしれない、それにして無駄な公共事業、道路作りが多い、車をもっていないから車をもっている人にはそうでないのかもしれない、でもなぜこんなに道路ばかり作っているのだうという疑問がある。自然破壊になっているし文化遺産も破壊することにもなる。そういうことに文句を言う人もいないが最近福祉とか介護に公共事業の財源をまわしてくれと言う意見がでている。そういう声の方が切実になっているのだ。近くで施設を経営したのは建築関係の会社である。その人たちは確かに建物を建てるのは得意だが介護となると未経験だし余りにも分野が違いすぎるから対応がむずかしい。それは人へのソフトな対応になる。ハ−ドの施設としての建物とは違ったものとなる。だから公共事業が減っても福祉には簡単に移行できないのである。
 
●コ−ヒ−豆、自家製パンを売る−山の村の喫茶店
 
飯館村にあるアグリというコ−ヒ豆とか自家製のパンを売っている所は意外と中は人が入っていた。外からそんなふうに見えないのだが中にはウエトレスも三人とか働いている人が五六人も忙しく働いていた。これはコ−ヒとか自家製のパンとかケ−キを買って行く人が多い、車社会だから相馬の方でも川俣でも遠くから来ているのだ。近くでもコ−ヒにこっている人は買いにくるらしい。八〇くらいの老人でも若い人と一緒にいる人はコ−ヒを飲んでいるのだ。そこで自家製のイギリスパンを買った。それにしても外は刈田でありその刈田をながめてコ−ヒを飲み自家製のパンを買うというのも奇妙な光景なのだ。飯館では高原であり寒いから米をとるのに苦労する土地だった。その米と関係ないパンを買いに来る人が多い。農家の人もパンを買いにきているのかもしれない・・・食事も朝はパン食にしている家が多いかもしれない、私の家でも自分で食事を用意するとなると簡単なものがいいからパン食になってしまったのだ。パン食になると和食とは違いパン食にあったものを用意する。ご飯の食とは違ったものとなる。そしてどうしてもうまいパンを食いたくなる。これは米でも同じだから人間はうまいものを追求することではパンでも米でも変わりないのだ。NHKで米の議論をしていたけどこういうところにもなんか矛盾を感じる。鳴子の旅館で地元の米を買って客に出すというのはわかるがここは地元にとれるものとは関係ない世界なのだ。でも人が遠くからも買いにくる。車社会は辺鄙な所でもいいものを売れば売れるということがわかる。あそこがうまいとなると車で遠くからでもやってくる。場所は関係なくなっているのだ。今や仕事は広域化しないと仕事にならない、今までは歩く範囲の狭い自給自足に毛の生えたような経済だった。今は広域化しないと仕事自体が成り立たない、近所だけ相手の仕事は消失した。地名すら広域的に観光に有利だからと外からみて有名な地名をつける。
 
●企業−消費者−生産者の立場の相違
 
農業とか米の議論をしたらきりがない、米すらコシヒカリとかは台湾とかに輸出するとか中国の金持ちに売るとか米というものが商品化してグロ−バル化の競争食品となっていることに驚く。今日NHKでやったフランスの伝統的なワインもグロ−バル化で危機に瀕している。どこでもグロ−バル化で食料も商品化して競争せねばならないという牧歌的な零細小農の日本的文化からはかけ離れたものとなっている。経済そのものが日本国内でも競争して広域化して市場で勝たねば農業も成り立たない、親戚のログハウスを設計して建てている人もインタ−ネットで全国から注文を受けて遠くに建てているだから那須だ、猪苗代だ、蔵王だと車で現場に行かないといけないから大変だと言っていた。これも広域化で仕事が生まれたのである。そして企業−消費者−生産者でもその内部でも意識の相違がある。企業は厳しいグロ−バル化の競争のなかで生きているからコスト意識が高い、だから農家も企業のまねするべきだというのも農家にとっては厳しいとなる。農業は特別だから補助金が必要だとなる。中国の農産物は安いから輸入するのは当然だとなり日本のものは高いから買わないとなりこれもかみあわない、グロ−バル化のなかでそうなっているのだ。グロ−バル化はagri-cultureをcultureを破壊するというのは本当である。フランスの土地ごとについていたワインの名前も意味がなくなりその土地はゴルフ場になるというのもそのためである。消費者にしてもパン食にするのは現代的時間に追われる生活からパン食が便利だからそうなっているのでありご飯を食いというのも困る。その他自給自足的に小地域の生産者を守れと言われても不便だと困るのだ。買い物でもどうしても買う種類が多いからス−パ−になってしまう。買い物も結構な手間なのである。すでに飯館村という小さな山の村でも農業の問題は凝集されてあるのだ。


  今日(5月27日)NHKで飯館の凍み大根作りを放送していたけどやはり飯館のような寒い地域にあっていた。雪野のなかに大根を干している風景も飯館にあっていた。その土地と風土にあったものが文化−cultureなのだ。あの凍み大根は最近作ったものではない、代々作っていた。そこにも意味があった
 
飯館に代々作る凍み大根その味よしや土産とせむかな
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2008年04月25日

飯館村はなぜ南相馬市に合併しなかったか? (地形的要因が大きい)


飯館村はなぜ南相馬市に合併しなかったか?
(地形的要因が大きい)

 
町(街)、村の魅力を形成するもの
 

●天然−地形
●歴史
●現在の活動


地域を活かすとか街の活性化とか言われる時代になった。地域の魅力とか街の魅力、個性とは何かとなるとこの三つが核となって形成される。戦国時代だと地の利、天の時、人の和が国を守るとされた。それも今も活きている。地の利が戦略上一番大事でありこれは今も変わらない、地の利がなければ国も町も市も栄いない、奈良や大阪が先に日本の中心地なったのは地の利のためである。これは神の配剤であり人間の力を越えた所で神が計画したものだからその備えられたものにより人間は歴史を作り文化を作ってきた。これは世界的にもそうであり小さな地域でもそうなのだ。隣の村というだけで言葉がちょっと違っていたりそれぞれの個性を育むものが生まれてくる。culture-その土地をル−ツとして耕すものが文化となった。日本は狭い島国だが国土は多様性に富んでいる。山あり川あり海ありと変化に富んでいる。一つ山を越えると別な異境に行くような感覚になる。坂−境が非常に多い国なのである。天の時はやはり時が熟さないと実りもない。栄えるには長い時間がかかるし外部からの刺激も必要であり時を待たねばならない、時間の作用も大きいのである。

今の時点を見るのは空間は容易に今でも体験できるが時間は歴史的に積み重ねられた時間を体験することは身近なところでもむずかしい。この辺でも江戸時代にどんな暮らししていたのかとなにとすでにわからなくなっている。
 
福島県にしてもこれも山国の会津がふくまれると多様性に富んでいる。会津はもともと一つの大きな国であり山国であり異質なのである。福島県が会津をふくんでいることは地形的に無理があった。どうしても地形的には宮城県との仙台の一体感が強くなる。会津は浜通りからすると交通も不便であり行きにくいし山が多くてもその山についてなかなか知ることができないのである。この地形的な地勢による一体感は飯館村が南相馬市と合併しなかったことでもわかる。地形的、地理的一体感がもてなかったのである。小高−原町−鹿島は鉄道でも地形的にもすでに一体のものとしてあったから抵抗がなかったのである。飯館は八木沢峠でも相当な高度の差もあり別世界なのである。地形からすると中国の内モンゴルでも遊牧民のいる地帯は標高が相当高いから寒冷地帯である。これは鉄道でなくて車で行ったから実感した。スケ−ルの違う高原地帯なのである。飯館もまた阿武隈で最も高い所に位置する高原地帯でありそれで寒冷化の影響が受けやすく米をとることもむずかしい所であり江戸時代に飢饉の被害者が出たということもわかる。南相馬−相馬市からみるとイギリスであればスコットランドのような別世界になっている。ただ川俣の方からすると地形的、地理的一体感はあるのだ。ただ歴史的に相馬氏に属することになった。地理的境界があったのだが歴史的に相馬に支配された。こういうこともありうる。地理的境界を無視して歴史的境界も作られる。すべてが地理によって地形によって人間の生活は制約されるとは限らない、国境も地理的境界だけでは決められない、一般に地形的、地理的境界になるが例外的に歴史的境界、人工的に作られる。いづれにしろ飯館は地理的境界として地形的一体感がもてないから飯館村として自立的に存続したともいえる。チベットともにているとなる。
 
相馬という狭い地域でも南相馬の原町区は東洋一の無線塔建てられたように明治以降一早く近代化した街としての歴史が原町市のイメ−ジを作っていた。それは今でもそうしたイメ−ジが継続される。相馬市は城下町だから原町とは雰囲気が相当違っている。原町には相馬藩の歴史を思わせるものが少ない。無線塔とか戦争中に飛行場があり飛行機を収める倉庫の跡が残っていたりと近代化された都市としてのイメ−ジがある。今でも対象的なのが道の駅の南相馬と相馬市である。南相馬の道の駅は今年になってできたのだが六号線の繁華な所にあり相馬市は曲屋風の建物で田んぼのなかにある。これも市の個性であった。南相馬の道の駅には現在の活気が感じられる。相馬の道の駅は田んぼのなかにあるから感じが相当違っているのだ。駅という時鉄道の駅が前は主役であり駅から新しい街が発展した。駅前通りが中心となった。これは小高でも原町区でも街の作りが駅前から作られていることでもわかる。それが車社会になった時、駅前通りは廃れるようになった。江戸時代は街道沿いが交通の場だからそこに家が建ち並んでいた、次に鉄道の時代となると駅前通りでありその次は車社会になると道路にそって街が発展することになった。人間の生活は交通の影響が大きいのである。飯館は交通でも不便であり一体化しにくい、一方で地形的には飯館は別世界になるので相馬市−南相馬市からすると魅力的だとなる。自転車で上るのは大変だがその落差が大きいから山を下る時は爽快であり気持ちいいとなる。いづれにしろ町(街)の村の個性は地形(地勢)−歴史−現在の活動から作られる。それが一体となる時個性的な魅力をもつことになる。過疎化という現象は現在の暮らしの活気が失われることでありこの影響が今は一番多い、いくら自然的魅力があっても人々の暮らしに活気がなければすべて活きてこないからである。病院すらそこに人々が集まる故に活気ある場所だったようにやはり人々が集まり生産、消費する遊ぶ場が活気を作るのである。

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2008年06月07日

飯館地名歌集

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飯館地名歌集 
 
山木屋に分かる道三つ芽吹きかな

飯館の名を昔の人聞けばいぶかし知らじいづこにありと

家の前乳神の碑ある畑かな佐須は遠しも久しく行かじ
落葉踏み卒塔婆峠ゆく人の今日一人あり猿の知るらむ

我が越ゆる卒塔婆峠遠きかな玉野への道秋の日暮れむ

 

臼石二枚橋や昔より人の暮らしや飯館の村

久しくも小宮には行かじ別れ道今日風荒し春の午後かな

飯館に辛夷の花の咲きにつつ耕す人あり鶯鳴きぬ

飯樋(いいとい)墓にし眠る人その名をよみつ春日暮れにき

飯樋の一軒の店我がよりぬ坂こえ昔の茶屋の跡かな

遠くより来る石工の物語春の日あわれわれはよりにき

古き碑の比曽にあわれや柳かな人のまれにし遠き道かな

山木屋に道は分かれて春の日や安達太良望まむ我はゆくかな

山木屋に三春への道小出谷へも通ぜし道や春の風吹く

相馬の街道たどり霞城たずねてみれば花は散りにき


飯館は飯樋村と大館村があり合成地名だった。この合成地名は地名をゆがめてしまった。昔の人がたずねた時、飯館村はありえないのだ。ここに歴史の継続がたたれてしまったのだ。臼石とか二枚橋は元からありそれなりの謂われがある。佐須は焼き畑のことだから現実に焼き畑が行われる地にふさわしい奥地なのだ。そこには家が一軒あってその前の畑に乳神の碑があった。あんな奥地では昔は牛乳もないのだから乳が出ないことは深刻だから碑をたてて祈っていたのだ。飯樋に出ると草野より広々としているから気持ちがいい、飯樋には塩の道の陣屋が置かれていたし役人が60人もいたとかなると塩の道として行き来がかなりあり昔の交通の要所でありにぎわっていたのだ。
 

山中郷(がう)草野村を以て開業に当てん。
夫(そ)れ草野村なるものは山中高山の間にあり、夏は冷気にして冬は最も寒し。
故に三年の中一年は五穀実らず。
是を以て貧民多く、戸数減少田圃(でんぼ)荒蕪(くわうぶ)し極めて難村なり。
故に此の邑(むら)を以て領中再復の始(はじめ)となすべしと。
即ち此の議を以て東都(とうと)に達し、草野村に開業せん事を先生に請(こ)ふ。

 

 報徳記巻の7【2】先生相馬藩の分度を確立す
http://plaza.rakutenco.jp/jifuku/diary/20071219/


相馬藩の陣屋の記録によれば、江戸時代の飯舘村は人口2888人、それに対して馬は1400頭、実に人間の半数に及ぶ馬がいたことになる
 
飯館村のもう一つの特徴が1400頭の馬が飼われていた。これは今は牛が飼われているが実に多いのに驚く、野馬追いの馬もここで飼われて供給されたのかもしれない、これだけの馬は売るために飼われていたのである。馬や炭や薪も供給していた。相馬藩の山中郷としてそれなりに供給するものがあった。 ただ高原地帯で寒いということは生活するには厳しい所であり宝暦の飢饉の供養の碑があることでもわかる。冷害にあいやすいことはまちがいないからだ。
 
山木屋は塩の道の別れ道であり三春にも通じているから交通の要所だった。今はさほど重要でない場所でも昔は重要だった。時代が変わり忘れられてしまうのである。小出谷は小出屋であり出作り小屋のことだった。

ともかく地名はやはり村や町や市を知る手がかりなのである。地名を目安に村をみることがある。地名は歌枕にもなったが飯館という小さな地域でも歌枕になるのだ。
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2008年07月12日

山中郷(飯館村)の山の旗印は「山中郷」を意味していなかった (野馬追いの一つの旗の謎−続)

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山中郷(飯館村)の山の旗印は「山中郷」を意味していなかった
(野馬追いの一つの旗の謎−続)


野馬追いの旗は新しくつくられることはないみたいだ。だから山に○の旗印は山中郷になったからその象徴として新しく作られたというのは小説的虚構になってしまった。今の感覚で歴史を作ると史実に反することになる。ただ今なら山中郷も野馬追いに参加して盛り上げるの一興だということにもなる。それにはこの旗標を新しく作ればいいとなる。山中郷も江戸時代は野馬追いに参加していたが14騎とか少ない、やはり山中郷は野馬追いに参加することは容易でなかった。でも山中郷には牧があり津島や葛尾村など広大な地域だから相馬藩の軍馬を用立てた。当時は必ず一軒に最低馬一匹が飼われていたからだ。
 
ともかくこの山に○の旗印は宇多郷の旗印に山園とあり園は図の字の簡略化したものかもしれない、これはまるで囲む意とあるから旗印はそういう意味で作られたのかもしれない、山とつく旗印が二つある。他に水とか川もあるから普通に旗印に使われていたから山中郷が新しく相馬に加わったからといって山の旗が作られたわけではない、旗印はもともとあったものでありそれに手を加えるのが旗印である。山園?という苗字の武士が宇多郷に実在してそれが山中郷に移動したのかもしれない、ただなぜ佐藤氏がこの山の旗印を受け継いだのか?山中郷になったから山にしたとはならない、この山園氏?とつながりがあって旗印をもらい受けたのかもしれない、それでも新しく作られた旗印は新郷士の佐藤太治右衛門の場合はあった。新しく土地を与えられ開墾をした郷士であり新郷士となった。それで自分の名の一次の太をとって旗印にした。これはわかりやすい、自分の名を旗印にするのはあまりないから誇らしいものだった。相馬藩の郷士として新しく加わったということで自分の名の一字を旗印にした。山中郷に土地を与えられ新しい旗を作ったことはありえたのである。山と○で囲んだのも佐藤氏だったからこれと関係あるのか?旗印の由来を調べることはかなりむずかしいから推測だけになるかもしれない、一興として野馬追いだから旗を話題にしたのである。
 


 相馬の高玉氏


 

相馬市の玉野小(佐藤昌則校長)の高玉菜摘さんら6年生4人と5年生3人は27日、福島民友新聞社を訪れ、新聞社の仕事を学んだ。
http://www.minyu-net.com/honsha-annai/kengaku2006/0704kengaku.html

 
高玉海苔店/工場, 0244-38-6661, 福島県相馬市和田字北迫
 
飯館村史にのっていたカタバミの旗主は高玉氏でありこれは
 

 同年十一月十七日、畠山氏を救援するため北上してきた佐竹・芦名・岩城・相馬・二階堂・白河・石川氏の連合軍三万の軍勢と人取り橋(福島県本宮市・郡山市)付近で戦い、大きな犠牲を払いながらも、かろうじて退けることが出来た。
http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/date.html

 
高玉務・志賀源三郎が負傷するなど、中村藩ははじめての死傷者を出すことになる
 

天文年間(1532-55)二本松城主畠山氏一族、高玉太郎左衛門尉常頼が築いたとされる(天文二十年(1551)安積伊東氏一族、高玉紀伊守頼継が築いたとも?)。
 天正十四年(1586)二本松城を攻め落として安積郡を手に入れた伊達政宗は、畠山氏旧臣の高玉近江守にこの地を与えた。しかし一族の高玉常頼は伊達氏を嫌い、会津黒川城主蘆名氏に従って伊達氏に反抗した。
http://www.asahi-net.or.jp/~ds6s-wtnb/oshiro/kaisetsu/fukushimaken/c_kooriyama02.htm


高玉氏は仙台の泉市にも高玉神社などがあり相馬にもその代がつづいている。高玉氏から玉をとって玉村とか玉野むらになったかは定かではない、高玉氏が山中郷にあり旗印がカタバミに一本の線、赤と青とで分家したから高玉氏一族は勢力を山中郷にきて拡大したのであ。


いづれにしろ野馬追いの旗は明確にその出自を探ることがむずかしい、予測になってしまう。妙見信仰の北斗七星意外はわかりにくいのだ。野馬追いの改革だというとき歴史を忠実に再現するなら祭り自体変えることはできない、ただもともと飯館の山中郷は14騎と少なくても野馬追いに参加していたのである。だからまた参加すれば盛り上がる。その時山中郷の新しい旗−山が翻れば飯館も相馬なのかと再認識する。でも飯館村は南相馬市の合併に加わらなかった。歴史的には相馬藩だったのだから地理的隔たりがあるものの不自然なことはなかったのである。

 

野馬追いの旗の分類(1)
http://musubu.sblo.jp/article/16940230.html

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2009年07月22日

蝉の声(飯館を下る)

山高く深くひびかふ蝉の声

大倉に残る家々蝉の声

夕暮れに飯館下る蝉しぐれ

蝉の声も平地では単発的というかまだ数多く鳴いていない、でも山の方に行くと耳を澄ますとすでに相当な蝉の数が鳴いている。蝉の合唱が山に木霊している。これもしかし車で行くとバイクでもその蝉の声が聞こえない、ここに自然に触れるのに車やバイクだと自然に触れえないという問題があるのだ。だからと言って自転車は老人になるとつらい、最近自転車で遠出をすると体中が痛くなるのだ。だからバイクくらいに乗って山を越したいと思うようになった。ただバイクで飛ばせば蝉の声も響かなくなる場合がある。スピ−ドが早すぎる、蝉時雨を感じるにはやはり自転車くらいの速度が必要である。いづれにしろ人は便利になり機械に頼るようになりかなり自然への感受性が減退した。

めずらしく客が二日泊まったりそれから新しいパソコンの画面に縞模様が出るようになった。これは一年もたっていない、こんなに早く故障になるとは思っていなかった。パソコンの故障はめんどうである。そもそも一台を故障したから新しいのを買った。ビスタを買ってかえって使えないソフトが増えたりビスタでは途中でソフトが不具合になり使えなくなるのが多く腹ただしかった。パソコンという機械はまだ使いずらいものを残しているのでやっかいなのだ。通信販売で買ったのではないから電気で修理できるだろう。故障した前使っていた一台が回復していたのも不思議である。これは長く使っていても画面は正常である。パソコンは故障するとやっかいすぎるのだ。別に前のでプログには書けるからいい、やはりプログは一日でも休むと調子が崩れる、毎日書くことに意義がある。読む人も期待している、ともかく毎日書くことがプログでありそれができないと読む人も離れる。毎日書くことがプログを継続させるのであり一日でも休めば書く方も読む方も影響がでる。新聞と同じであり何か記事で埋めないといけないのである。

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2009年09月09日

初秋の飯館村へ(栃窪から大倉からあいの沢)

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クリック拡大-写真は大きくしないと見栄えがしない
栃窪の奥に墓地あり秋の蝉

葉山湖に風さわやかに朝わたる

飯館や風爽やかに息深し

御影石のテ-ブルに座り秋の蝶

飯館にアグリブレンド初秋かな

悠々と岩五六個や秋となる

秋の日や大岩二つ飯館村

あいの沢木道歩み秋あざみ

飯館に岩五六個や秋あざみ

栃窪の夕べや山に秋の蝉

大岩に木洩れ日さして木々わたり風のさやげる飯館村かな

山陰に月見草咲き夕暮れの飯館村の道を帰りぬ

栃窪の奥に墓地がある、自転車で行くとき蝉の声も聞こえるが車だと自然を遮断するから聞こえなくなる、車は風流ではないのだ。風流とは自然の風の流れであり風を遮断するのである。
今日ははじめてロ-ドで飯館村までひさしぶりで行った。何カ月かぶりである。やはり宮田のロ-ドは軽いから楽だった。坂もかなり上れた。あういう軽いのに乗ると重いのには乗れなくなる。荷物は乗せられないが最近はロ-ドばかり乗っている。車だと距離感覚も喪失しがちである。自転車だと栃窪でも広いから栃窪の奥と意識する距離感覚がある。歩いた時代ならさらに距離感覚が違うのである。飯館は坂がきついので自転車では苦しい、でもロ-ドの軽いのだと一時間くらい早くついた。この一時間が貴重なのである。例の御影石のテ-ブルで休んだが飯館では御影石をとっているわけでもない、墓石のほとんどは中国産なのである。墓石まで日本の先祖まで祀る石が中国産になっているのだ。今や中国と経済的にもたつことなどできなくなっているのが現実なのである。

飯館でどこかに寄るとしたらアグリのコ-ヒ-店とあいの沢くらいである。アグリプレンドとあるからここは相当コ-ヒ-にこだわった店なのである。ただコ-ヒ-通ではないから味はわからない、次に地元の物産店で休んでいると飯館は何か特別見るべきものはないですねと訪ねて来た人に言ったらいやここは整地されていて気持ちいいですよとかいった。何のことわからなかったが整地されているとは整備されている、石の記念碑なども多く気持ちいいですよと言った。確かに飯館は何もないけどなにかここに来るといつもリフレッシュする。ここは高原であり自然の気が違っているのだ。あいの沢も溜め池でしかないのだが整地されている、人工的にでも大きな庭のように作られている、それが評価されていたから自分の感想と同じだった。福島市から一カ月に三度来ているというからやはり飯館村の良さを知っていたのである。
あいの沢には大きな岩がいくつかあった。あそこには石の句碑もある。あれも商売として考えたのだろうがちょっとディレタントの自己満足になる。あの句自体あまり読む人がいないのではないか?まあ、石の村として売り出したことには評価できるが御影石自体とれていないというのも現実なのである。石のモニュメントの村としては別に御影石がとれなくてもいい、自然の石を活かした庭作りは評価できる。あまり作りすぎてもまずいが自然の大岩がそのまま活かされているから気持ちいい、流れは清流とはいかない、溜め池から流れる水だからいくら清流を装っても清流にならないのが残念である。

デジカメによって新しい目を人間は獲得した。写真を趣味にしていた人はそれを知っていてのめりこんでいた。写真だと合わせることがむずかしい、すべて自動になってデジカメになって新しい目を獲得したのだ。人間は機械の補助がないと新しいものを見ることや体験できないのも現実である。自転車に乗ること自体すでに歩くことではできない体験をしているのだ。車でも遠くに行けるから視野が無限大に拡大化した。つくづくデジカメの威力は感動的だった。今回の蝶でもデジカメでとってその影に気づいた。肉眼では見えない、大きな岩もかえってデジカメでとった結果迫真力を確認した、肉眼ではこう見えなかったのである。こういうことはデジカメでは普通にある。だから何枚でもとにかくその場でとっておいてあとで再確認する。今回は一眼レフでとった。やはり一眼レフだとさらに見えるものが違ってくる。より鮮明に深くとれるのだ。
今自分は自然をとる写真家になりたいと思った。自然には常に感動がある。別にアフリカまで行かなくても自然の感動はシャ-タ-で身近でとらえられることを知った。つまり人間はいかにあらゆることで知らないことが多く見逃しているか知ったのである。やはりデジカメは早めに一眼レフに移行して写真のすばらしさを知るべきである。

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2010年01月23日

冬の短歌十首(風花の飯館村)

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大石に重なる石や冬深む


風花や大石眠るひそけかり

土盛れる墓の五つつや冬芒

誰が眠る松風鳴りて残る雪

飯館の溜め池はみな凍るかな

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川上に残れる雪や朝清し巌の静か鳥飛びたちぬ

飯館に蛹一つのあわれかな風花舞いて池の凍れる

池凍り蛹一つや松風の鳴りて残れる雪に暮れにき

池凍り松一本やここにあり道はつづきてしばしとどまる

飯館に夕暮れ迫り奥の峰雪ふりこめて隠さるるかも

飯館に喫茶店一つ我が寄れば風花静か舞いつつ暮れぬ

飯館の喫茶店に入り焼きたてのパンを食しぬ冬のくれかな

清水汲みコ-ヒ-を沸かし我が飲みぬ雪の残れる流れの岸に

雪雲の厚く垂れこむ飯館や飢饉の碑のここに残れる

使用人もともに眠りぬ墓一つ飯館静か冬深まりぬ

山陰に雪の残れるこの道を行く人一人街にいでにき


 


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電動自転車で大倉に出て飯館の七曲りの道を上り草野に直接出た。あれだけの坂を上ったからかなり電池を消耗した。でも飯館まではなんとかもった。ヤマハのパスブレイスは一番いいのはさほど疲れず遠出できることなのだ。半分バイクになっているからだ。途中もゆっくり人間的ペ-スで行けるのもいい。飯館はやはり標高が相当高いから寒い、一時雪がふり厚く雪雲たれこめていた。でもここもそんなに雪は降っていなかった。雪は溶けたのか?わずかに残っているだけだった。飯館では寄るところは決まっている。アグリという喫茶店で焼きたてのパンを食べる、あのパンはおいしい、次に道の駅の物産店によりキコリのホテルによる。あそこは高いから眺めがいい、遠くの峰が雪にふりこめられて隠された。やはり飯館からさらに西になると雪が降っているのだ。浜通りの方に帰って来たら雲は切れて明るい空が広がっていたからだ。


ともかく一本の松があそこでも必ず立っていて親近感をもつ、それから山の陰には雪が残っていたがそこを
出たらすぐ街になる。街といっても街という感じはしない、でもス-パ-などがあるから一応街なのである。
飯館は石の村とかなっているが確かに石が多いのかもしれない、あいのさわの近くの大きな石は目立つ、一つだけ大きな石がありあの石は特徴がある。その石を中心にして石が重なっている。飯館村というと実際何もないが何かここは広々としていることが気持ちよさを作り出しているのだ。窮屈ではない、家も点々と広々として悠々として住んでいる。他から来た人もそう言っていたから何もないのだが広々としていることが特徴なのである。川俣辺りは何か窮屈な土地なのである。

何も見るものがないからまた墓を見て歩く、飯館で江戸時代の墓をまだ見つけていない、飯館に古いものを見つけるのはむずかしいのか?葛尾村では明暦と元禄の墓を見つけたから意外だった。飯館ではまだ見つけていない、ただ一つの墓の前に名前だけを記された道標がいくつも埋まっているのを見た。これは使用人だと思った。家族だったらそんなに埋め方しない、昔は使用人も家族のように一緒に仕事して墓もその使用人の家の墓に葬られたということがありうる。大家族制でありその中には使用人も入っていたのである。現代だと搾取されていたとかこき使われたとか言うがともかく墓まで一緒だということは使用人でも因縁が深くなっているのだ。近代的会社ではそういうことはありえない、江戸時代から明治までそういう大家族の拡張したような家で働いていたのが多かった。それは商家でもそうである。それは今にはない人情のある、人間的な社会だったともなる。派遣とか何とか今は人情などない、あまりにも経済合理性だけの乾いた殺伐とした社会である。だからこそそうしたものをふりかえり見直すことも必要なのである。
いづれにし飯館はやはり飯館村として合併しないで残った方が良かったのかもしれない、南相馬市と合併すると南相馬市飯館区となるのでめんどうになるし小高区鹿島区ではいいことなかったとか、原町にいいところはみんなもっていかれたとか不満となったから飯館村は残った方が良かったのかもしれない、ただもし南相馬市と合併していれば市長選挙も一緒になるから一体感はやはり生まれたのである。
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2010年03月05日

春の日八木沢峠を越えて飯館村へ

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春の暮別れる道の三つかな
 

three parting ways
in the evening of spring
in the distance


春日さし細枝の影交わりぬ橲原村の午後の静けき


橲原に春の日さして細枝の影交わりて墓の眠りぬ

午後静か春の木漏れ日苔にさし木の根露に流れひびきぬ

八木沢の峠に望む海なりき冬の名残りの雲棚引きぬ

二筋の滝のひびけり八木沢の峠を越えぬ春の日さして

春の鳥夕べ静けくなきにけり家のともしき飯館村かな

飯館の深谷淋しも一二軒ゆく人まれに春の日翳る

飯館の森に鳴きける春の鳥その声のみそひびき暮れにき

残雪の安達太良見えてなおはるか会津の方に春日沈みぬ

飯館に二本の木静かなり春の日影の移ろい暮れぬ

飯館の森に鳴きける春の鳥その余韻の深く静まり暮れぬ

飯館の深谷に入り春の鳥鳴くや静けく我が聞き入りぬ

飯館の森の広しも春の鳥また一羽鳴きひびき暮れにき

飯館の森の静けく春の鳥遠くにひびき友を呼ぶかも

飯館に心鎮めよ春の鳥森の深きに鳴きて暮れにき

飯館の池の氷も溶けにけり一本の松夕暮るるかも
電動自転車で午後から飯館に出かけて7時ころ帰って来た。八木沢峠を上ることができた。ここがやはり飯館には一番近道なのだ。この坂は長いから予備の電池をもっていってもやっとまにあうくらいだった。やはり坂だと電池をくう。でもこれだけの坂もスイスイ上れるのだから気持ちいい、眼下に太平洋が見えたが以前として冬の名残りの鈍い雲がなびいていた。阿武隈からここに出たとき海を望めるから海に出るという気分になるだろう。浜通りの人はここから見ると以前として冬の名残りの雲がたなびき山は閉ざされた感じになる。海はやはり解放する感じになるのだ。

飯館はいつ来ても何かしんみりとしてしずまりかえっている。街すらないのだから森が覆って家が点々と離れて置かれている。春の鳥の声だけが澄んでひびいてくる。あとは何も聞こえない、森閑として静まりかえっている。飯館だけは他の村とは違い特別に静寂につつまれている。
何も変わったものがないのだけと常に特別な静寂を感じてしまう。今どきこうした静寂境の村は貴重な存在だろう。電動自転車だと半日で来れるようになったから気楽である。深谷というところも何かその地名にあった場所だった。ほとんど通る人もいない、車も通らない、まさに谷はないが深い谷の感じである。その道をゆくと道は三つに別れていた。月館と霊山の方にゆく道である。春だからなんだか遠くに誘われてゆく・・・でも今はなかなか行けないのだ。とにかく電動自転車は役に立つものだった。気楽に飯館まで来れることは行動範囲が広まる。なんと言っても坂をスイスイ上れることが行動範囲を広めるのである。近くでも坂が多いからなかなか行けないところがかなりあったからだ。

 

短歌とか俳句はやっぱり縦書きがいい、縦書きだと頭に記憶されやすい、横書きは記憶しにくい、やはり日本人の文化は縦書きだから頭もそうなっているのだ。だから今度縦書きにして出してみる。
                                                                                      
 

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2010年03月06日

神話の村 (飯館村の早春)

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神話の村 (飯館村の早春)

森に覆われ家のともしも

その静まる森の上に

その澄むみ空の中に

神の鳴らす弦の置かれみる

そこにただ妙なる楽を奏でる

オルフェスのそこに住むかな

美しき音色に鳴きつつ暮れぬ春の鳥

その声の余韻深まる森の静寂

新たな神話の村にこそあれ

人よここを乱すなかれ

その微笑みを池に写して

春の陽は輝き山間に没る

飯館村の紋章(3)
http://musubu.sblo.jp/article/36057011.html


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飯館村の紋章(3)

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2010年04月10日

春の日の飯館村(俳句短歌十句十首)

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二三段滝落ちひびき芽吹きかな


山の蝶流れに沿いて舞い下る

石くれの粗末な墓群れ落椿

流れ澄み春の光の波紋揺る

蟻いでるあと越える坂いくつかな

日永きや大石六つ飯館村

a sunny long day
in spring
the six fixed stones
in IIDATE villige


春の日や番を忘れて犬眠る

蕗の薹にとまる鮮やか山の蝶

飯館の分け入る奥や春の山

飯館の山陰の家夕鶯

山越えて飯館村や夕鶯



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橲原に今年も散りぬ椿かな粗末な石の墓群れ隠りぬ


上萱を越えて飯館山陰になお雪残る我が上りゆく

春日さし飯館村やほのぼのと身のあたたまる寒き地なれど

山雀の枝にとまりてほこらしげ春の日さして飯館村かな

道々に蕗の薹かな春を告ぐ山に住む人健やかにあれ

分け入りぬ飯館村のその奥に家またありぬ春の山見ゆ

山陰にまた一軒の家ひそか細道たどる春の夕暮

飯館の林に春陽輝きつ没りゆく静か山を下りぬ

飯館の家々離れ鶯の鳴きつつ暮れて静まる森かも

飯館の夕暮れ静か森の奥処に群れ鳴く春の鳥の声かな

日の長くなりにけるかな帰れる山路なお明るしも

日の長く暮るる山々健やかにして事もなきかも



昼から上萱から飯館村に行った。2時間くらいで行けた。前は電動自転車でないから朝に出て午後の二時についていた。坂を歩くとそのくらいかかるのだ。今は体力なくなったから電動自転車に乗るのがいい、もっと体力がなくなるとバイクになってしまうだろう。橲原の墓所で不思議なのは粗末な石の墓群れが杉林に隠れるようにある。あそこに椿が散っていた。その落椿が何かその墓ににあっている。あそこの墓は明治以降のものである。江戸時代のものがないとしたらあとから開拓に入った人たちの墓なのだろうか、橲原自体は江戸時代からあるし慶応という石碑もあった。
上萱から飯館に入ると山陰にまだ雪が残っていた。今日は暑いくらいだったから雪はないと思っていたがあの辺はいつまでも雪が残る日影の道なのだ。飯館は南相馬市からすると相当標高が高いから寒冷地でありそれで悲惨な飢饉を経験してきた。だからこそあたたかい春をひとしお感じるものとなる。今日の不思議はいつまでも明るい、日が特に長く感じられたことである。こんなに日が永いのか、いつも暗くなるのが早いから追われていた。こんなにいつまでも日が永いのかと不思議であった。いつまでも明るく暗くならないのだ。これならゆっくり回れると思い道草をした。桜も咲き始めたからやはり春は盛りになり相当日が長くなっていた。日が長いということに特別なものを感じた。全体が明るくなっている。山々も明るい陽光の中にある。そして健やかに感じた。認知症とか何か病気とかかわったりすると自分もそうだけどそのために相当に病んでしまった。健やかな気分が消失してしまうのが鬱病であれ精神の病なのである。
 

山雀は四十雀とは違うから見分けがつくなかなか見れないけど飯館村で見ることができた。飯館村がなぜ他と違うのか、いつきても他とは違う、それは家々が山の陰や森の中に隠れるようにある。だから飯館村を回っても家々は隠されているから人がいるように意識されないのだ。意識されるのは森とか山の自然そのものなのだ。だからこそ気持ち良くなるのである。ではそこに住んでいる人とかかわると気持ちいいのかとなるとそうはならない、人は自然の中に隠されているからいいのだ。美瑛なども丘が多い所で有名になっているがそこの農家に泊まったがその人は畑をもっているが延々ともう農業なってやっていられないいられないといいつづけていた。そして最期には中国人の方がまだましだとか愚痴が尽きることがなかった。実際農業がそれだけひどいのだろう。でも外からくる人は美瑛の丘の風景にひかれて来るのである。つまりそこに住む人の生活とはかかわらないから美瑛は美しいとなるのだ。飯館村も同じなのである。
人の生活が家が隠されているからあとは森や山の精気がそこに満ちて感じて帰ってくるからいいのである。そこに住むとは自然の中に住むのではない人と住むから嫌になるのである。それはどんな美しい場所に行っても同じなのである。

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2010年08月16日

涼しさ(飯館へ)

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庭広く前畑つづき芙蓉かな

飯館に夕風涼し石眠る

橲原(じさばら)や木の間に明るし夏の月

森深く夕べ夏の山迫る

飯館に栃の木古りぬ森深く常陰(とこかげ)なして黒揚羽舞ふ

夕風の森にそよぎて涼しかな鳥鳴き眠る山の村かも

 
飯館に午後から行った。午後6時過ぎて27度と道路に表示されていた。ところが南相馬市に帰ったら温度計は32度であり夜まで暑い、昨日も今度は夜が暑くなっている。何しろ今年は相馬の辺も暑い、福島市は盆地で暑いがなぜ海に近い相馬がこんなに暑いのか?磐城の方は2度くらい低くなっているのも不思議である。飯館村は相当に標高が高いから涼しかったのだろう。昼間はやはり暑いのか、夕方になり27度というのは涼しい、今年の暑さは異常である。暑さにはうんざりした。夏ばてでぐったりしてしまう。夏に疲れてしまった。
 
農家の庭は広い、前畑がありそこにゆったりと芙蓉が咲いている。大倉から飯館行く坂道にある栃の木はいかにも古い感じだ。飯館には湧き水とかないし川もないからものたりない、前は大倉から峠を越えたところに細い隠された川があったがこれも道路ができて川が分断されて死んでしまった。ただ飯館は森におおわれて家が隠されているから気持ちいいのである。今年は秋の月にはならない、木の間から見た月は明るい夏の月である。ともかく涼しくならないことには何か書くということもすすまない、暑さの疲れで毎日ぐったりしてしまっている。特に夏が長引けば余計にそうなる。夜まで32度というのは異常な暑さである。今年はどこかに避暑したいとつくづく思ったがそれもできない、本当に自分は自由がなくなった。30年間自由があって今や自由はない、拘束されているだけである。
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2011年05月08日

菜の花(飯館村の悲劇)



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春の日や牛の啼く村座る石

菜の花の匂いや村を離れざる


風そよぎ巌の堅く芽吹きかな


飯館の土に放射能春なれば鳥は知らずにさえづりにけり


飯館に長くも住みてあわれかな牛とも別れ悲しみ深し


飯館の石にしよりて春の日の暮るるはよしや村隠されぬ


二輪草の一輪残りひそけかりこよなく愛す我が庭にあれ


鶯にヨシキリ鳴きて我が里の季(とき)の移るや夏となるらむ



飯館村に起きていること、それが何なのか?住んでいる人も理解できない、長泥に子供も住んでいる。それが20シ-ベルくらいでありものすごく高い、土から近く計ればさらに高くなる。南相馬市に水素爆発したときも20マイクロシ-ベルトになっていた。これは非常に高いシ-ベルトだった。しかしこれは3時間くらいで急速に低下した。いわき市も一時期爆発したときそうなった。
しかし浪江の山中から飯館から福島市は長く高いレベルがつづいた。飯館はその後も長くシ-ベルトが高い。それでもなかなか離れられないのは農業とか酪農の村だからである。もう一つは高齢化が影響しているのだ。実際に102才の人が村から出るのが嫌だと言って自殺したことでもわかる。60以上になったら住み慣れた所を移りにくくなる。そこで若い人は子供をもっている人など移りたいのだが村長は移らせないように縛っていると文句を言っている。放射線とか60以上の人には影響しても5年後10年後にガンになるとか言われても危機感がないのだ。放射線については様々な学説もあるし何を頼っていいかわからない、現実に飯館村で講演した長崎の学者は体に何の影響もありませんと安心させた。でも放射線は20マイクロシ−ベルトととなったら異常に高いのである。今は3マイクロシ-ベルトくらいに落ちているがこれでも高いと言われる。飯館村はまちがいなく土にセシウムなどが堆積してしまったことが問題なのである。そこから持続的に放射線が放出されつづけているのだ。そして体内被曝も怖いからどうしても土の埃からセシウムなどを吸い込むから怖いとなる。


でも放射線の怖さをいくら言っても危機感をもてない、目に見えないしすぐに何か症状として現れないのだ。そして60以上とかなるとたいして影響もない、5年後10年後20年後にガンになるかもしれない、その確立はいくらだと言ってもピンとこないのだ。放射線をあびなくても60以上になるとガンになる率は高くなる。今60以上で死ぬ人はほとんど癌である。癌でし死ぬ人は増えている。放射線に関係なく増えているのだ。その増えている癌にわずかにまた増えるだけだとなれば高齢者はいくら危険を言っても危機感をもてないのである。そこに今の飯館村がなかなか避難できない理由がある。


飯館村はアルカディアであった。それが一転して放射能汚染の村となり世界的にも有名になってしまった。そして村を廃村にするとか信じられないことが起きている。村人も今の自体をどう理解していいかわからないことがある。放射能の影響が実際はどのくらい出るのか誰もわからない、だから鳥が知らずに同じように鳴いている。でもあとで奇形の鳥が生まれただとかチェリノブエリでもあった。しかしそれもどれくらいの割合なのか放射能汚染にはデ-タ-がないのである。いづれにしろ60以上とかなる気にしてもしょうがないということがある。だからそうした年寄主導の村だと若い人も村から離れられずに悲劇を生むかもしれない、それでも結果を見ない限り誰もあとのことはわからないのだ。

牛を育てて牛に恵みを与えられて生きてきたとか泣いて語るとき悲劇である。放射能の悲劇は汚染された土地に住めなくなることである。飯館村は悲劇の村となってしまった。土に密接にかかわって生きてきたときその土が最も汚染されてしまったことが致命的である。それは福島県の半分くらいにそういうふうに汚染された。その中に風評被害もあるが汚染されたから農家では困る。この辺でも土を耕さないでくださいと役所から言われること自体信じられないのだ。農業で生活している人が多いから困る。でも60以上とかなると汚染された食べ物を気にしないで食べる。5年後であれ10年後とか20年後ではいづれにしろ死ぬのだからかまわないとなるのだ。た40以下の人は怖がることはやむをえないが60以上の人はどうでもいいとあきらめがつく、だから村を離れられないのだ。


季節は夏になっていく、ヨシキリが鳴いたら夏である。そういう季節の変化は別に放射能あびても変わりがない、放射線というのはそれを知らされない限り何にもわからない、結果としてガンになった、奇形の子供が生まれてはじめて放射線の影響だったのかとなる。おそらく草が生えなくなったり木が枯れたりもしない、花は咲くし自然にも変わりないのだ。そのことがかえって怖いといえば怖いのである。木が枯れたり花が咲かなくなったり水が濁ったりすれば感じるのだが感じるものがないから困るのだ、ただ毎日数字だけを追っているのであり数字からしか危機感を感じないから困るのである。

今日は強風である、風が唸ってふきつけている。そしてまた原発で黒煙が出た。東電でも放射性物質を放出すると連絡した。黒煙が出るということは何か異常なのである。でもライブカメラはとめられた。以前として改善していないのである。午後から放射性物質を放出するとしたら今日はモニタリングポストで放射線量が増大するかもしれない、ただ風向きは西風だとすると
陸から海に吹くから影響ないのか?ただ放射性物質を放出するとなると多少はどこかで影響する。モニタリングポストの放射線量に注意する必要がある。それにしてもこんな日がいつまでつづくのだろうか?放射線は数字でしか感じない、それでも心労がでてくる。やはり絶えず注意していないと飯館村のように知らないまに大量の被爆をするかもしれない、自分も水素爆発があった時、この辺が20マイクロシ-ベルになったとき屋内退避が命じられたとき外に出ていた。危険性をまるで感じなかったのである。放射線は目に見えて危険を感じないのである。
だから学者が危険でないと言えば簡単に信じてしまうのが放射線の問題だったのである。

飯館村では本当に村から離れにくいだろう。長く住んでいると樹とか石のようになってしまう。菜の花とかなりににおう、長年親しんだ所を一カ月くらいで離れてください、ここには住めませんと言われても戸惑うだけである。放射線の問題は人間の五感では意識化されない、数字だけでは危機感を感じないから困るのである。

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2011年05月11日

飯館村の価値は何なのか?


 飯館村の価値は何なのか?

スティムソンは1920年代、少なくとも三回京都を訪れていた。その美しさに魅了された彼は、その文化的・宗教的重要性を認識していた。ある日、もし自分が提案されている標的リストから京都を除外したら、君は私を「感傷的な老人」と思うかとマクロイ陸軍次官補に尋ねたことがある。(『アメリカの日本空襲にモラルはあったか 』235p)

人間の価値観はいろいろである。一定した価値観はない、常に東京の人などが言うのは限界集落みたいなものは何の価値もない、経済的価値がない、お荷物だからなくなってもいいという発言である。これは経済的価値からだけみている。一千万の大都会の方が経済的価値などからした比べようがない、ちっぽけな村など経済的には何の価値もない、だからこの世から消えてもたいして問題ないとなる。経済的統計的価値から見ればそうなる。それはあくまでも経済的価値かみ見たものであり文化的価値となると違ってくる。また自然的価値というものもでてくる。自然景観の価値は計りしれない、富士山は正に日本の自然的価値の最大のものである。

価値観は多様なものであり自然がない所は本質的に価値を作り出せない、だから東京には経済的価値はあっても自然がないから自然的価値からみたら価値がない、例え経済的価値があっても自然的価値はゼロに近いのである。アメリカが京都に原子爆弾を落とさなかったのは日本の文化的価値が京都に凝縮されていると知っていたからだろう。外国でも文化的価値観があり文化は尊重される。ヨ-ロッパに原子爆弾を使わなかったのはヨ-ロッパは歴史的にアメリカの故国にもなるからまた文化的歴史的価値がアメリカに通じているから落とさなかった。アジアはそうみていなかった。ただアメリカ自体に経済的科学的価値はあっても文化的歴史的価値にともしいということもあった。文化の面からしたらヨ-ロッパのように芸術も哲学も文学も何も世界だった。だから今でも経済的価値、金であり軍事的価値が突出して文化的価値はともしい、ないに等しいからアメリカという国は金持ちでも成り金であり文化的価値がない国だとなる。


人間の価値観は多様であるからこそ文化になっている。文化がcultureがcultivate-耕すからきているように土と関係しているのだからその土地土地に個性が耕す個性が生まれる。文化とは土地と密接に結びついているのだ。土地とは自然のことであり自然が作り出す景観などは人間には作り得ようがない、どんな価値も神から与えられた自然を基にしているのであり自然がなければ人間は美など作り出せないのである。高層ビルディングを背景にして美がありえようがない。そこには確かに経済的価値はあっても美は生じない、東京タワ-にしろ最近できたスカイツリ-にしろくだらない、エップェル塔には美はあっても鉄骨の塔でただ高いというだけで美が感じられない、京都にある五重塔には文化的価値がある。現代の文明に欠落しているのは美がないことなのだ。東京に美を見出すことはむずかしい。ヨ-ロッパの街には歴史的価値があり文化的価値がある美しい街並みがある。日本にはそうしたものが欠落している。街が猥雑するぎるのである。日本の首都である東京には文化的価値がともしい。全然ないとはいえないが経済的価値だけぬきんでいて文化的価値はともしい。ただ江戸時代だったら浮世絵のように美しい所が各地にあった。それは百万都市の江戸でも回りは豊かな自然にかこまれていたためである。だから江戸時代の江戸なら行ってみたいとなるが今になると東京にゆく魅力がないのである。ただビジネスとしては東京は価値がある。


飯館村なんか何の価値もない、限界集落であり日本から消えても何の痛手もないとなりうるのか?東京から経済的価値だけ見ればそうなる。逆に東京なんかなくなってもかまわない、あんな醜悪な街は消えた方がいいということさえ言える。文化的手自然的価値は東京にはないからこの世から消えても痛手にならないとさえ言える。それは極端にしろ文化的価値として東京には価値があるかといったら非常にともしいのである。前にも飯館村には俳句や短歌や詩に書いたけど人間として理想的にな住み方をしている村だった。一軒一軒が離れて森につつまれていて静かな村である。田舎でも街の中に住んでいると狭苦しい、隣が家でさえぎられる。それが悠々として一軒一軒が離れてある。ずいぶん贅沢だなと都会から来た人も思うに違いない、だからこういう所で暮らしてきた人はアパ-トなどに都会の団地などに住みたくないというのがわかる。あまりにも違いすぎる環境なのである。田舎は今では都会より豊かな生活をしている。車を一人一台もっているし持ち家をもっていれば農家なら悠々として暮らせる。今は専業農家は少ないから現金収入もそれなりにある豊に暮らせる。田舎でも団地のようなものが増えてきたけど持ち家が多くそれなりに現金収入があれば今は交通も発達して何不自由しないから田舎の方が暮らしやすいのである。田舎がすべていいとは限らないこともいえるが物にしろ情報にしろ今は都会と同じような生活をしているから都会自体にそんなに憧れる人はいなくなっている。


今回の原子力事故で飯館村が放射能に汚染されて突然住めなくなったということが信じられない、そこに住んでいる人も何でそうなったのかということが納得がいかないし何になったのだろうと今も理解できない人はいる。放射能自体理解することがむずかしいからだ。自然の景色は何ら変わっていない、緑は豊だし花も咲いているし水はきれいに流れている。放射能は一体どこに影響あるのだろうかと今も行ってみてもわからないのだ。広島や長崎の原爆だったらその衝撃は余りにも大きいからその悲惨さもこの世の地獄だから否が応でも原爆の恐ろしさを知る。ところが今回のような原発事故はその悲惨さすぐ目に見えて現れないのである。あれ、何にも変わりない、どこが問題なのだとなる。だから放射線は健康にいいんだといって信用する人もいるし別に村を出なくてもいいんだと思う人はいる。ガンになると言ったって今のことじゃないから10年後とかなると被害を直接感じられないのである。でも実際は放射能は恐ろしいものである。ただ原爆のようにすぐに大量の死にいたらしめるようなものではない、チェルノブリのように人も死んでいないから何か切迫感がない、住民にもそうである。ただ土が汚染されたことが致命的であり住めなくなるということが原子力の怖さだった。その土地が文化の基となるものが根こそぎ破壊されるのが原子力事故の放射能だった。だった。もう何十年も住めないということが信じられない、だから村を離れない老人はでてくる。人間そのものがそうなるとその土地の石や樹のようになっている人がいるからだ。だから村を離れろというのは一番酷なことになる。いづれにしろ限界集落のようなものは経済的荷物だから一つくらい消えてもいいという価値観は傲慢である。東京のような都会の方が消えてもいいということさえ言える。しかしこのような自然と調和した村は残されるべきだとも言えるのだ。

 


 

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2011年05月16日

飯館村に行く

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飯館村のコンビニにとまっていた

山の村石に風鳴り菖蒲かな

何残す人去るあとにすみれかな


山の道行く人まれに鶯の警戒音のみ高くひびきぬ


声合わせ蛙の鳴きて春の来ぬ飯館村に我は休みぬ


飯館に耕す人も見えずして春になれども淋しかりけり


飯館を去りにし家やとりどりに庭に花咲く春になれども


飯館に生まれ育ちて暮らせしにいでよと酷し春となりしも


飯館を人は去りゆく石のみそここに残りて帰るを待つかな



飯館村ではセブンエレブンとス-パ-一軒しかやっていない、ス-パ-の品物は減っている。昨日から計画的避難がはじまったらしい、引っ越しの会社の車がきていたのもそのためらしい。
今日テレビでそのことをやっていた。役場の方に行けばそのことがわかった。あいのさわで休んで帰ってきた。あそこにいい石がある。飯館は石の村としても石の彫刻が多い。ともかく飯館村は確かに山の村はどこにもありこの辺でもあるが何かが違っている。病気の人がいて風にあたると気持ちよくなるとか言っていた。何か特別な自然の癒しの効果がある。それは説明つかないものであり自然の神秘の作用である。自然の中に説明のつかない場の効力がある。同じ山の村でも違っている。おそらく標高が一番高いということで空気がより新鮮に感じるためでもあった。飯館村はまた広いから一軒一軒が森に隠れるようにある。川俣町とは全然違っている。川俣町は町のなかは狭苦しい感じになる。飯館村は街といってもコンビニとス-パ-一軒くらいしかなかったのである。人より牛の方が多い村でもあった。そういうアルカディア、桃源郷的な村が放射能汚染の村になったということが信じられないのだ。何の因果でそうなったのかとそこに住んでいる人もわからない、なぜ移り住まねばならないのかわからないと言っていた人がいたが当然である。突然一か月以内に村を出なさいということを簡単に受け入れることはできない。放射能にして俺はもうたっぷり放射能すったよと笑っていた年配の女性がいたが放射能に対してそんな感覚しかない。


実際は飯館村はやはり放射線量が異常に高かった。だからどうしても子供には影響するから問題になった。老人はもう放射線なんか関係なく移りたくない人はいる。おそらく最後まで強制退去になるまでいるのではないか?ただみんないなくなるとどうしても生活しにくくなるからこまる。ス-パ-でも閉鎖されてしまったら困る。車があれば川俣とか買いにいけるのは行ける。でもやっぱり村の人がいなくなり村が機能しなくなるのだから暮らしにくくなる。やがて電気が水道もとめられることになるかもしれない、人がいなくなればそうなる。
そして20キロ圏内と同じように立入禁止区域になるのだ。ここがまた立入禁止区域になると交通の問題がでてくる。20キロ圏内が立入禁止区域になった結果六号線は閉鎖され物流や人の出入りが制限される。飯館村が立入禁止区域になるとやはり福島市とかの物流や人の出入りが制限される。一体飯館村に人が住まなくなったらどうなってしまうのだろうか?ある人はイノシシ料理を出している人はイノシシの楽園になるだろうとか言っていた。イノシシは人がいなくなったら我が物顔に里にでてくるのだろうか?立入禁止区域は将来的にどうなってゆくのだろうか?ここでも隣が緊急避難準備地域とか回りが立入禁止区域とかそんなふうになっていることは暮らしにくいのだ。介護するようになってから刑務所に収監されたような状態になりさらに回りが立入禁止区域になり身動きがとれず刑務所に入れられたようにさらになってしまった。海の方に行けば津波の被害でありその避難者が千人も町に来る。やはり350戸くらい仮設住宅が建つ。


つくづくなぜこんなふうになってしまったのかと思う。仙台に行こうとしたら相馬市からバスしかない、亘理までは復旧している、四倉までは常磐線は復旧しているがここはいつになったら復旧するかもわからない、刑務所に入れられたと同じになっている。自由にしていた自分の生活にしてもここ五年間は介護になってから刑務所に入れられたと同じだったがさらに回りが立入禁止区域になりそこを通ることもできなくなってしまった。こういう状態は一体何なのだろうかと思う。今や自分だけではない津波の被災者でもそうだし原発で強制的に避難させられる人もそうである。浜通りは気候的には住みやすい場所だった。海が見えるということはやはり山だけの閉ざされた世界と違い心を解放する、自然は心に大きく影響する。会津のわかりにくいのは山国であること、山だけに囲まれ生活しているとどういう気分になるのかわかりにくいのである。高い山があるからその高い山を見ているとこれも心に影響することはまちがいない、でもそこに住んでいる人でないとわかりにくいのである。ロシアでは海に接していないから海に憧れるというのはわかる。海は人間を開放的にする。山でもそうだが自然に心に影響する、性格も作る。

ここは海もあり山もあるからいい場所だったのである。それが立入禁止区域になり行くことさえできない、それが信じられないのである。こうして何か毎日疲れてしまうのだ。人を助けるといっても自分が疲れてしまっていてはできない、とにかく閉塞された世界でありそれがますますひどくなってしまったのである。

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2011年06月04日

東南の風が本流となり飯館村に放射性物質を運んだ


東南の風が本流となり飯館村に放射性物質を運んだ

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一の図と下の自分が描いた図は風の流れと一致する。3月15日の福島原発からの放射性物質は東南の風にのって浪江の赤字木(あこうぎ)椚平(くぬぎたいら)辺りに一番多く放射性物質を運んだ。その時そこに雪が降ったから余計にそこに堆積したのだ。太い赤い線が大きな強い風の流れだった。それが放射性物質の本流の流れを形成した。そして塩浸(しおひで)が別れ道であり風の別れ道にもなった。だから津島も放射線量が際立って高くなった。塩浸から広い道がありそこを風が流れた。塩浸から手七朗方面に流れた風は本流の風である。東南東の風でありそれは谷間を通り道にして流れ飯館村まで放射性物質を大量に運んだ。ただ距離があるからその時相当強い風が吹いたのか?津島だったら距離がないから風で大量に運ばれるのがわかる。飯館とかさらに霊山辺りになると遠い。福島市になるとさらに遠いから風の流れがどうなっているのかわかりにくい、段差も関係していた。高いところから低いところ風は流れやすい、山から風が吹き下ろす、そうすると飯館は標高が高いからその段差があって福島市の方面に吹いた風が放射性物質を運んだ。八木沢峠から吹き下ろした風が谷間を通り大原の大葦辺りに放射性物質を運んだ。だからその辺にある家も計画的避難地域に指定してくれとなる。放射線量が高いからだ。それから橲原渓谷を風は下り南相馬市の橲原村も高くなった。これは風の方向からもわかりやすい、地形からもわかりやすい。


でもわからないのが田村市の三春が放射線量が低いことなど風の流れや地形がどう関係したかわかりにくい、葛尾(かつろう)村は一時期高い時があったが津島と隣り合わせなのに今は低いのはなぜか?これも風の流れから分析すると葛尾(かつろう)村は高瀬川にそって流れた風に影響された。そこはかなり急峻であり風をさえぎった。方向的にも東南の風とはちょっとずれている。都路はまた隣だが山にさえぎられている。つまり飯館村に吹く本流の強い大きな風とは違う風が吹いたのかもしれない、伊達市の霊山辺りも風の流れは本流の流れにそっていてわかりやすい、わかりにくいのは二本松市とか郡山市とか白河市とか田村市である。福島市はわかるにしても本流の風の突き当たりになり盆地だから滞留したことはイメ-ジできる。ところが郡山市がなぜ高いのかとなるとわかりにくい、白河も結構高いから一旦白河に風が流れてその白河から福島市の方に風が吹いて阿武隈川をそって福島市に流れたと分析する人もいた。
白河の風の方向は茨城方面の平野から吹くのが多いからだ。でもその時は福島県では西風とか北風が吹く、東南の風が本流の流れを作ったとするとむしろ福島市に滞留した放射性物質が阿武隈川にそって郡山市に流れて白河市に流れたとみるのが自然なのかもしれない、放射線量も郡山>白河になっているからだ。もし白河から郡山に流れたなら白河市の方がもっと放射線量が持続して高くなっているはずである。


放射性物質はやはり爆発したり一気にもれたときの風の流れが影響して地形が影響した。海側は放射線量が低かったのは海に風で流れたからである。30キロ圏内の避難指示は地下水の汚染などや警戒地域として設定された。飯館村や浪江の山中は原発の地下水の影響はないからだ。放射性物質の流れはやはりその時の風の方向で明暗を分けた。地形も影響したことは確かである。谷間は風を吸い込むような働きもするし段差のある山の頂上からは風が吹き下ろし谷間に沿って吹いてくる。実際に四国の祖谷のかづら橋の袂に吹いてきた風は相当に低い場所から海の方向から吹いてきたかもしれない、あそこは相当に奥であり高い地域である。だから飯館村も標高が高いから海からの東南の風が谷間に沿って吹き上ってくることはありえたのである。祖谷(いや)でも谷間が切れ込んで深いからそこから高知の海であれ瀬戸内海からも風が吹き上げてくることはありうる。山が高いだけに谷も深いからだ。ただ風の流れは本当にとらえにくい、それが今回の放射性物質が福島市とか郡山市に高かった謎を作り出したのである。


詳しい地図とグラフをを集めたサイト
http://hamanora.blog.ocn.ne.jp/kaiin02/

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2011年09月07日

飯館村も警戒区域と同じか (パトカ-の見回りがうるさいから入れなかった)


飯館村も警戒区域と同じか

(パトカ-の見回りがうるさいから入れなかった)

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南相馬市鹿島区栃窪村で放射性物質の汚染された
土を埋めていた。


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何軒か木蔭涼しき屋敷林


栃窪に名もなき墓群秋の蝉


栃窪の奥や今年も秋の蝉


大岩にスズメバチの巣残暑かな



飯館村の真野ダムの方へ行ったみた。途中の栃窪村で放射性物質の土を埋めていた。結構な量であり放射性物質の土をとりぞくとしたら莫大な量になる。それをどこに置いていいかもわからない。ここに埋めたとしても放射性物質は消えるわけではない、ここから放射線が放出される。放射性物質は燃やしてもなちならないやっかいなものである。除染するといっても方法がないのだ。田んぼが草茫々になっているのは荒れ果てた感じになる。一方津浪で湿地帯化したところは自然が戻ったという感じになりそれほど荒れ果てた感じとはならない、元の自然にもどればそこはそれなり美しい場所となるのだ。


真野川の例の大きな岩に何かついていた。あれはスズメバチの巣だった。大きいからわかった。あんなところにスズメバチの巣を作るものだろうか?ずいぶん目立つ所に作ったものである。家の軒先にも作るからどこでも作るものなのか?なんかすごいと思った。


晩夏から秋にも見られる巨大な巣を見ると信じられないことかもしれませんが,スズメバチの巣は1頭の母バチがその年の春〜初夏に作り始めたものです。どんなに大きな巣でも秋になると空になり,翌年再利用されることは,少なくとも日本ではありません。母バチが1頭でまた一から始めるのです。
http://www.ffpri-kys.affrc.go.jp/kysmr/data/mr0025k2.htm


そんなに前にできていたのか?あそこにはずっと行っていなかったからそんなときに作られていたのか?ここに60年住んでいるけどあんな岩に作られたスズメバチの巣を見たことがない、やはりこの辺に人があまり入らなくなったためなのだろうか?放射能汚染でも野生の動物などが死に絶えたりしない、かえって活動が活発化するのはチェルノブエリとにているかもしれない、ここに熊が出るとあるけど熊が出たのは2,3年前であり阿武隈高原には熊は出たことがなかった。餌がなくなりこっちの方にも出るようになった。熊なども阿武隈高原では放射能に汚染される。
キノコなど放射性物質を吸収しやすい。でも熊は頭数がわずかだからほとんど影響がないだろう。影響があるのはイノシシである。

案の定、真野ダムに来たら飯館村に入るから見回りのパトカ-にとめられた。山口県警のパトカ-だから驚く。その警察官が山口県は鯨で有名ないですよ、学校の給食は鯨だったんですよと言うのは初耳だった。インタ-ネットで調べると長門など江戸時代から鯨とりで有名だった。だから鯨にまつわるものが残っている。鮎川なども鯨で有名だが明治以降であり遠洋漁業の鯨取りで有名になった。女川では鯨の解体作業を見たことがあるし鯨は日本では欠かせない蛋白源だった。なぜか南相馬市鹿島区の烏崎にも鯨の碑があった。鯨をとったのではなく鯨が浜に打ち上げられることがあった。名取で最近もあった。それで碑を建てて供養したのだろう。それは明治以降の碑である。江戸時代となると歴史的に碑でも価値がある。


飯館村は避難するにもあわててする必要はなかった。だから貴重品はもちだしたはづである。でも貴金属を盗む人がいるという。あれだけ警戒しているのだからなかなか盗むにもよりつかないはずである。そんなもの盗んでどれほどの金になるだろうか?金のあるのは双葉や富岡町だった。津浪で流れた町長の金庫には5億円入っていたとか、郡山に家を新築したとか本当だと思う。それくらいの金は東電のボケットマネ-である。玄海町でも町長には巨額の金が建設会社を通して入っていた。玄海町では漁業者にも金は入っていた。反対運動するのは電力会社から金をもらうためだという側面もあった。ふくしま財界などが東電のプルサ-マルを追求する記事を書いて脅して金をせしめたのと同じである。浪江の請戸では漁業者は5千万くらいもらって原発御殿を建てていた。漁業者の権利は大きいのである。三陸でも耕地が結構あっても耕されなくなったのは漁業の収入が大きいために漁業の方に仕事を求めたからだと言っていた。
漁業は魚がとれれば金になる。農業は田を作ったくらいではたいして金にならないのである。
原発の金は福島県の漁業者に配布されていた。その金は大きいからまた責任も重かったのである。飯館村は牛の村だからそんなに金がある村ではない、貧しい村である。


世の中小盗は警察につかまる。大盗はつかまらない不思議がある。犯罪で警察につかまるのはほんの一部である。大盗はつかまらない、罰せられることもない、大盗は確かに本当に大泥棒というのが普通の庶民でもいる。でも本当の大盗は原発で大金を手にした町長とかであろう。こういう人は別に犯罪にならないのだ。もちろん原発にかかわった特権階級も官僚から学者から警察関係もそうである。警察も官僚であり東電に天下っているのだ。東電の用心棒にもなっていたと批判がある。検察すらつくづく権力側につく、だから検察も信用できないものだと思った。検察が動くときそれは権力が変わるときそうなる、検察というのも信用できないのが現実である。盗むといいうとき外から来るものより内部に平然と入ってくる人の方がぎれだけ危険かわかった。家の中に入ってくる人は最高に危険である。トロイの木馬がそれを象徴しているから人間は時間が経っても変わらないものがあるのだ。


それは一国でもいえる。多数の外国人が今は日本に入っているけどその人たちは日本の内情に内通している。だから事あれば簡単にその人たちが動けば内部から制圧できる。原発を人質にとることさえできるのだ。だから外国人に選挙権を与えたら権力の中枢をにぎられますます日本は外国に侵略されやすいのである。内部の敵ほど怖いものはない,日本が安全だったというとき村単位で生活していたからである。その村も小さいから悪いことはできないしよそ者を入ってこなかったからである。
村単位というとき隣の村さえ交流がまれでありよそ者なのである。隣近所だったらなかなか犯罪を起こせない、しかし隣の村や町の人となると危険になるのだ。長く住んでいるだけで信用ができる。今はたとえ狭い範囲でも市町村単位でもそれなりに広く交わっているから治安が悪くなったのである。隣の町から人が仕事に来るなど普通でありそれだけでも実際は家の中に入れるとなると本当に危険になった信用できなくなった。


いづれにしろ大盗はのうのうとしている。大盗はいろいろある。警察が罰するのは小盗でしかない、大盗はのうのうとしている。もちろん大盗にあてはまるのは誰になるか?ある程度の財産をもっている人は気づいていなくても大盗になっているかもしれない、公務員なんかもそうかもしれないのだ。身内が公務員だったから恩恵を受けたから自分も一部そうかもしれない、つまり大金がある人はやはりなんらか大盗になっいるかもしれないのだ。いくら正当に稼いだとしても億の金とかなるとそうである。地主とかも大盗になるだろう。大盗はそれでも罰せられることがないのだ。


いづれにしろこの辺は飯館村にしても高瀬川でもいい場所だったのに行くことさえできなくなっている。警戒区域だと自分の家があるのに許可を受けてしか入れない理不尽である。飯館村にしてもいつ入れるかわからない、山口県とか他の警察を見回りにきているけど地元だったら回りの市町村でも思い入れがありかかわりがある。そういうかかわりがたたれてしまうことが理不尽なのである。これも全部原発のせいだったのである。飯館村には行けない、大倉の真野ダムでもパトカ-が見回りしていてうるさいからだ。鹿島区内だったらそうはならない、でも真野ダム辺りまで行きたいのに行けないとしたら全くひどいことなのだ。地元に住むものの権利が奪われてしまったということである。

ともかく今日は暑かったから残暑だった。今年は寒暖の差が激しいから困る。夏はまだまだ終わらないのだろう。



大盗について
http://www.st.rim.or.jp/~success/kennji2_ye.html


古式捕鯨の里通(かよい)へようこそ!
http://member.hot-cha.tv/~htc09819/hayakawake.html

 
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2011年10月29日

人の消えた飯館村の不思議(秋の短歌十首)


人の消えた飯館村の不思議(秋の短歌十首)


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農家には一軒一軒蔵ありて朝の日さして柿のなるかな

秋日さしここに確かにいつも見ゆ石のありしも人は去りにき


町の辻野菊とともに月見草咲き残しつつ人は去りにき


飯館の道に蛇の這い人住むぬ村にのびのび主となるかな


飯館の森にかそかに鳥の鳴く秋の午後かな人も見えじに


飯館に人の去りにき秋の日に鏡のごとく沼の鎮まる


村人のここに暮らしぬ今はなきいづこに暮らす秋の日暮れぬ


飯館になお知られざり道のあり我がめぐりつつ秋の日暮れぬ


牛鳴かじ人去る村の静けさや裏の山路に落葉積もりぬ


この村に牛のありしと牛の鳴く声を聞かずに秋の日暮れぬ


この山路ゆく人なしに山陰の暗き家や人は去りにき


我が一人この道来たり家一軒ここにありしと知らざりしかな


飯館の裏の山路に家一軒残りてあわれ秋の夕暮


飯館に灯のともらぬ家々や帰りを待ちて秋の夜ふけぬ


栃窪の麓の家や今年また薪を積みつつ冬に備えぬ

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人がいなくなった飯館村も不思議だった。ゴ-ストタウンとは違っている。警戒区域で立入禁止区域はペットが野犬化したりダチョウが町の通りを歩いていたり牛が野生化している。そういう風景とは違っている。なぜなら交通は遮断されていない、原町と飯館と川俣の幹線道路は普通に結ばれているからひっきりなしに車が通っている。立入も自由であり村民も自由に出入りしている。仕事をしている人もいた。それでも家には人が住んでいない、しかしその家は廃屋とは今は違う、まだ荒れてはいない、ちょっとだけ留守にしたという感じでありすぐに帰ってくるよという感じなのだ。ただ前のように牛の鳴き声が聞こえないからさらにしんみりとしている。そういう点で人の気配とか牛の気配がない。もともと飯館村はいつも不思議だった。特別にしんみりとする所だった。それは言葉では言い表せない感覚である。それはやはり変わっていなかった。ただ一段とさらに淋しくなった。


草ぼうぼうであり田は芒がおいしげり元の原野に戻り森にもどってゆく、溜池がありその側の家には人が住んでいない、するとさらにその溜池が静かになってゆく、なんとも不思議としか言いようがない、裏の山の道を行ったら一軒の家が隠れるようにあった。こんなと所にも家があったのかと思った。飯館村は広いから回りきれない、だからぽつんぽつんと忘れられたように家があった。こんな所にも人が住んでいるのだと思うような所に住んでいたのである。それで人がいなくなって今更ながらここにも人が住んでいたのだなとあらためて思った。人が住まなくなっても人が住んだぬくもりはまだ色濃く残っている。廃屋化したのとは全然違っている。人がまたすぐに帰ってくるという感覚なのである。だから立入禁止区域とは違っている。人が住まなくてもまだ人が自由に出入りできればゴ-ストタウンにはならない、それなりに森も自然も人が入れるから全然無干渉にはならない、別に放射能を気にしない人はここに遊びに来てもいいし住んでもいいような気がする。飯館村は住んでみたい場所だった。ここに住むには車がないと住めない、買い物は川俣まで行かないとできないからだ。だけどここに人が住まないのがもったいないように思えた。


まずこういう人が住まなくなった村をたずねることなど普通はできない、限界集落で廃村になった村が確かにありそういう村もテレビで写していたからにている。でも規模が違う、6000人の住人が突然いなくなったということはない、だからここを訪ねることは映画のうよなことではない、現実としてこんなことがありうるのかと思う不思議を経験する。こういうことは経験しにくい、これは作られたことではなく現実の世界だからである。なんだか一匹の蛇が道を我が物顔によぎり蛇がこの村の主のようになったのか、原初の自然にもどってしまうのか?ただ車がまれにしろ以前として通っている。

全く無人の村ではない、村の人が自由に出入りしているのだ。飯館村のような所でも老人なら放射能を気にしないなら住める、だから老人から先に帰り住ませるということはわかる。ただ福祉的サ-ビスは受けられない、それでも住みたいという人は空家がいくらでもあるのだから借りて住めばいいような気がする。ただ最低電気とか水道がないと住めないだろう。そういうことを覚悟住みたい人は住めばいいのではないか?何かもったいなのである。あそこは本当に環境がいい所だからである。

ここ五年間自分が経験したことは不思議なことばかりである。それは家族の認知症からはじまったのである。認知症というのもこれは何なのだというとき本当に理解できない不思議極まる病気だったのである。良く狐につつまれたようなというけどそういうことが次々につづいたのである。その中には犯罪もありそれも狐につつまれたようなというのがぴったりである。「事実は小説より奇なり」というのをこれほど感じたことはない、事実ほど理解しがたいことはないのである。認知症、津波、犯罪・・・これらは全く理解しがたいことである。そういうことが5年間つづいて我が身に起きてきたのである。こんなストリ-を誰も作り得ないのである。


放射線量は実際に自分で計測器をもって計らない限り実感しないことがわかった。そして場所によってかなりの違いがあったのである。飯館村はやはり高かかった。2マイクロシ-ベルトとか公表されても地面にじかに計測器を置くとその三倍くらいにはなっていた。その辺の差が大きい。低い所では南相馬市でも街中は0・1-0・2だから低い、地面に直接置いても同じである。それと比べると飯館村は高いと思った。いづれれにしろ計測器なしでは放射能はわからない、飯館村があれだけ高いと住むのがむずかしいということを実感する。それでも老人はそれぞれの自己判断で住めるようにしてもいいと思う。ただ福祉のサ-ビスは受けられない、まだ飯館村は人が自由に出入りできているから死んだ村にはなっていないのが救いだった。


田舎の恵まれているところは人が悠々と住める、持ち家の人が多いし農家だったらみんな蔵をもっているし悠々している。逆に田舎では資産をもっていない人はすみにくい、都会のようなアパ-ト住まいは少ない、元から住んでいた人が持ち家に住んでいるからだ。土地をもって家をもって住んでいるのが田舎である。そういう所ではあまり格差がないから安心社会となっていた。公務員も恵まれているから安定の役割を果たしていた。一方で無産化階級はすみにくい所でもあったのだ。だから田舎でも犯罪がふえているように思える。田舎ではかえって格差が目立つということもある。都会だと人が多いから目立たないのである。ともかく飯館村は人が消えても人が住まなくなっても今は人は帰ってくるような雰囲気である。ゴ-ストタウンとは違っていた。廃村をたずねたり廃線マニアや廃墟マニアがいたりするが飯館村は警戒区域でないので自由に出入りできるからこれは不遜になるが経験できないことを経験できる不思議があった。


この次は佐須から霊山の方へ行ってみよう、ただ自転車だと最近筋肉が弱り痛くなる。今回も一日動けなくなり寝ていた。疲れが激しくなるのだ。でも行けないことはないからなんとかまた行ってみよおう。

posted by 老鶯 at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2012年05月31日

夢みたものは……立原道造の詩より (飯館村を想いて・・)

 

夢みたものは……立原道造の詩より

(飯館村を想いて・・)
 


夢みたものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
立原道造


幸福は失われ 愛も失われ 散り散りに
村はもうなく 村人は帰ってこない
いつしか森におおわれるのか 鳥は住んでいる
石は残っている、村人の帰るのを待って


しかしいつの日になるのだろう 村人が帰るのは
森におおわれ 村人の記憶もうすれるや
村で暮らしていた日々が 脳裏に鮮やかに蘇る
牛と暮らしていた日々が なつかしく蘇る


森はさらに鬱蒼として 風にさやぎ鎮まる
人の住まない村で 森は生きつづける
森はここに棲んだ 村人のことを忘れる
森は太古の 静寂の日にもどる


されど村に暮らした日 それは長い
人の思いは たやすくは消えないだろう
森の中の石に わたしは座っていた
いつまでも村の人も その石に座りたかった


忘れな草や 忘れずの石やそこにあれ
先祖代々の村人よ またここに暮らさむ
汝らの土地こそ その森と地なれ
汝らの眠る場所 汝らの奥津城


深々と呼吸せし 踏みしめし土地
森に風はそよぎ鳴り 鳥も鳴きぬ
一本の道の辺の樹 夕日さし暮る
村人を待ちてそ 淋しく立ちぬれ


夢みたものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある


わたしは山なみのこちらに 久しく住むもの
そして山なみのあちらの 村を思いしもの
山の隔たつも かしこに深き思いあるもの
一つの幸福 一つの愛 村にもどるべしかな


飯館村は相馬藩の山中郷だから相馬藩であり江戸時代は野馬追いにもでていた。浜通りの方から郷士が移り住んだ。境目付が多いから伊達藩の境として防御のために移り住んだ経緯がある。葛尾(かつろう)村も相馬藩内であった。馬の飼料の草など供給していたし炭も作っていた。葛尾(かつろう)村で草鞋を作り野馬追いのためにも作った。草鞋は現金収入にもなった。ともかく草鞋は靴と同じであったから貴重だった。草鞋はいたみやすいからいくつもの草鞋をもって旅をした。草鞋の需要が大きかった。


飯館村の状況として今でも寒い所であり最近でも米がとれないときがあった。高原の寒冷地帯だから飢饉の時があった。だから飢饉の碑が今でも残っている。そういう農業には悪条件でも人は住んだ。山林とかの資源があり炭焼きをしていたときは豊かなにる人もでてきた。江戸時代は塩の道の中継地点として相馬藩の役所があり六十人くらい勤めていた。それだけ塩の道の中継点として重要な地域だった。そこから山木屋を通り二本松まで運んだ歴史の道があった。

最近では牛の村となっていた。でも牛は一頭百万とかで東電が買い上げとかもう飯館村で牛を飼ったり農業をつづけることはむずかしいのかもしれない、もともと条件が悪いし高齢化の問題もある。

ただ最近外部から農業をしたいという人が移り住んでいた。環境がいいのでそこで暮らしたいという若い人があり若い人が環境のいいところで子育てしたいということかあった。若い人が愛着をもっていたという。「飯館村は負けない-岩波新書」を読んで知った。時代的には必ずしもすべて都会志向というのではない、若い人でも田舎志向になっている時代でもあった。時代の要望は変わる。
老人だけの限界集落は金がかかるだけだら効率悪いから廃棄すべきだという都会の人の一方的な意見はどうかなとも思う。時代が変わり見直されるときが来るとそういう村がなくなることは大損失だったともなる。

六千人も住んでいた村がなくなるということは今まであったのか?それがどういうことなのかイメ-ジしにくいしそこに住んでいる人たちも未だにどうしていいのかとまどっている。飯館村だけではない、避難区域になった市町村がそうである。将来を描けないから浪江町でも六十二歳のス-パ-経営の人が一時帰宅で絶望して自殺した。田舎と都会の違いは、土地への家への愛着があることなのだ。

代々住んだ人もいるし例え二代住んでいても人はその家とか土地に愛着をもつ、特に農家の人は代々土地を受け継いできた。その土地を開墾したり苦労して育ててきた。それが失われることが辛いのである。人間はやはり何であれそこに長く住むと愛着が生まれてくる。家でも女性が嫁いだ家に長くなると愛着がでてくる。だから女に家が嫁だということをつくづく感じる。病気で寝ていてもちょっとだけまだ台所で食器を洗ったりしている。そのまな板も古くなっている。すでに嫁いだ家に六十年とかたっているのだ。そして未だに嫁いだ家で勤めている。家でも一代だってそうだし村が作られた時間は長いし長い時間中でしか信頼と共同は作られない。そこが都会と田舎の根本的な違いなのだ。

村がなくなるということは住んでいた人だけではなくよそに嫁いだ人も帰る実家がないとか田舎がなくなったということでなげているのもわかる。ただ自然は以前と同じ様に変わらず美しいといっていた人がいた。山菜取りなどはできないにしろ自然は前と変わりない美しさを保っているのである。

木が枯れたり花が咲かなくなったりはしていないのである。だから一見見たとき何も変わらないじゃないかと見てしまうのである。

たまたま読んだ立原道造の詩が何か今の状況とびったりしていた。山脈の向こう側に飯館村がある。まさにこの詩とひったりなのである。何か現実的に商売とかでかかわらないにしろ飯館村にはしょっちゅう行っていた。精神的には深い結びつきを感じる村だったのである。前は栃窪から大倉村の坂を越えた所にあの広い道はなかった。あそこに小川が流れ道もなく森になっていたのである。だから余計原始的な状態だった。あそこに道を作ったことでその原始の自然は失われた。そしてまた今や人が住まないとなると原初の状態にもどるのか?しかしそうはならない、人間が一旦住んだ所は人間化した自然なのである。石も樹も人間化する。あそこにあった石に座ったことがあった。その石はないにしろそれは一度人間が自然にかかわったら人間化したものとなる。人間化したものとして語られつづけるのだ。だから百年後であれいつか人はもどってくる。一旦人が住んだらそこが原野になったり元の自然には還られない、そう見えてもやはり人間的なものがつきまとってゆく、人間化したものとして語られつづけるのである。


夢みたものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある


今村民が思っているのはこのことではないか?村が一つにもどる幸福、一つの愛で結ばれる村、それは今や夢みているもとなっている不思議である。人間は何か必ず喪失する、愛する人との死別もあり喪失する、でも村自体がなくなるということはイメ-ジすらできなかった。今ねがっているものはまさに今まであった村がもどることなのである。

posted by 老鶯 at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2012年06月25日

NHK【ETV特集】飯舘村 一年 〜人間と放射能の記録〜を見て (飯館村で混乱する人々の事情)


NHK【ETV特集】飯舘村 一年 〜人間と放射能の記録〜を見て

(飯館村で混乱する人々の事情)

●京都の伏見区に避難した若い人


NHKのこのドキュメントは興味深いものがあった。そもそも今回の震災と津浪と原発事故ではその土地の歴史とか避難した人の問題とか毎日のように全国放送のテレビで放送された。普通は地元ですらどんな人が住んでどんな生活をしているかわからない、農家でないと酪農家でないとその仕事のこともよくわからないのだ。それが毎日のようにテレビで放送されたから生々しく見ていた。

今回は飯館村を避難した人は京都の伏見区に移住していた。なぜ京都なのだろうかと思った。そんな遠くになぜ移住したのかと思った。地元出身だから親戚を頼ったわけではない、ただ受け入れる市があれば遠くでも移住している。大阪にも浪江の人が住居などを提供されて移住したのをインタ-ネットのテレビで見た。ちょうど京都の伏見区に興味をもったのは伊達政宗のことを調べていたら伏見区とは深い関係があった。秀吉が伏見城に住んでいた「最上」「政宗」と地名が残るほど屋敷があり参勤交代の江戸のように秀吉に仕えていたのである。現実に政宗もその妻の愛姫(めごひめ)も伏見区に屋敷があり住んでいた。愛姫は仙台に住んでいたのではない、伏見に住んでいて子供も生んでいる。政宗も一年とか何度も長く滞在していた。伏見から世界の情報に通じていたのである。東北だから「伊達」「最上」と並んで屋敷があり地名として残った。


まあ、それとは別にそれぞれ織田信長が最後を迎えたのが安土城にいたとき、豊臣秀吉が最後を迎えたのが伏見桃山城にいたときということで死んだときにどこにいたかでそういうネーミングになったのではないでしょうか?


築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第、伏見城を次々に建造し、大坂城よりもそれらに居城した。1599年(慶長4年)秀吉の死後、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から、完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老の徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執った。


露と落ち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢


秀吉のこの辞世の歌は伏見城に住んで作られていたのだ。そこが錯覚していた。大坂城のことでそれが難波の夢かと思っていた。安土桃山時代とは安土城と京都の桃山の地名からとった。桃山は華やかな安土桃山文化かからイメ-ジされて江戸時代以降にそのイメ-ジから桃山になったという。安土桃山というとき文化的なものをイメ-ジするからだ。伊達政宗は安土桃山文化にふれ瑞巌寺に立派な障壁画や茶室を作った。そういう歴史ある場所が京都伏見区なのである。

そこで飯館村の人が牛肉屋に勤めているというのも不思議である。牛を飼っていたから何かもう一度畜産の仕事に帰りたいからその仕事についたというのもわかる。それだけ飯館村や仕事に愛着をもっていた。ただもう妻の方は帰りたくない、帰れないとか言っていた。子供を自由に外で遊ばせられるからここがいいとも言っていた。ただ夫の方はなにか鬱的になったとか住居が狭いことなどや空気が影響してなったと言っていた。確かにあれだけ広々とした広い住居に四世代で住んでいたのとはまるで変わった環境になったのだからわかる。そういうことはそこに住んでいなくても予想できた。
今回の津浪原発では若い人と老人では意識に差が生じてそれがまとまりのないものになった。
老人は残りたくても若い人は放射能が危険だからと住みたくないとなる。そして老人は老人だけが住むならそこは姥捨山にされると言っていた。双葉町では棄民だと訴えていた。


田舎と都会の違いはいろいろある。土地をもっていて家があり大家族で今は四世代で暮らしている家もあった。飯館村はさらに農業酪農の村だからそうなっていた。南相馬市相馬市は中心部は街だから違っていた。飯館村は一軒一軒が隣と離れていて森につつまれ悠々と住んでいたのである。住まいとしては理想的だと見ていた。そういう所に住んでいる人が都会に住めるのかとなる。京都は確かに大阪とか東京とは多少違っている。それなりに山に囲まれて自然がある。でもやはり都会なのである。ただ景観的にあまり高いビルを建てることはしていない、それも中心部だけである。町家風の宿にとまったとき前に大きな高いマンションのようなものが建っていたのにはがっかりした。やはり都会なのである。現代は都会に住むメリットと田舎に住むメリットは医療関係が違っているだけでそれほど違わないかもしれない、病気にならない若い人なら田舎でもかまわないとなる。文化的にも差があるにしても現代ではむしろ都会の方が住みにくいのである。飯館村のように住んでいた人が都会になじめるかとなる。それで鬱的になったというのがわかる。買い物でも本でもアマゾンで注文すればほとんどどんな本で買えるからそういう点では別に都会に行かなくてもいい、本を買うために自分は仙台に買い物に行っていた時代とは違っている。


●若い人と老人の分断


飯館村の問題は本当にいろいろあるし深刻だから語りきれないだろう。その問題はさらに悪化して深刻化してゆく、実際に避難した老人の中に弱い人たちは死んでいる、孤独死も増えているという。
飯館村で奪われたものはいろいろある。土地を仕事を何世代同居の分断化で家族がばらばらにされて家族失った。近くの仮設でも孫を来るとか言っていたから若い世代と老人は分断された。飯館村だから四世代で住むことも可能だった。家は広いし家族も多ければそういうことが可能になる。それは昔ながらの生活であった。ただ他から見てわかりにくいのは牛の名前を十頭以上も書いて仮設に張っていた女性がいた。十頭以上もの牛の名前を覚えられるのかと思った。一頭一頭に名前がつけられていることは同じ家族だという意識でそうしていたという。家業としてやっている時は百頭とか飼っている工場的な感覚の経営とは違うからそうなっている。百頭にもなったらいちいち牛に名前さえつけられないだろう。家族の一員だというときその規模が小さければなりうる。考えてみると現代は何でも会社化工場化しているから家族的な経営からはかけ離れている。そうなると人間も番号になり牛だって余計に番号になってしまう。今や人間すら番号で呼ばれ統計化される。それはどこでも規模が巨大化すればそうなってゆく。


飯館村の村長が一人一人の復興をと言っているときまだ小さな村だからそういっている。一人一人をみる村の規模だったのだろう。都会だったらそうはいかない、今は宗教団体でも会社でも工場でも規模が大きいから一人一人より数として計算している。そういう人間疎外の時代である。だからこそ飯館村のような村がかえって人間的いいという人もいたろう。もちろんそうして積極的価値を認めて住んでいる人だけではない、昔から住んでいるから継続として住んでいる人もいる。田舎の特徴は土地とか家とか先祖を誰でも背負って生きていることなのである。死んだ人の写真がどこでも家に飾られているし農家だと先祖代々の土地をもっているし家ももっているし生業も受け継いでいる。そこが都会と違っている。何か都会の方が生活するなら気楽なのかもしれない、
自分も明かに家族の一人は死んだしもう一人もずっと前に死んだし他にも一人と死んだ人を背負っている。農家だったら何代も背負っている。そういう人の継続のなかでも生きているのが田舎である。代々の人の継続が若い人と老人が分断化されて失われてゆく、それにしても京都は遠すぎる。
東京でも離れると福島県でも遠くなり親の介護とか病気のときなど頼りにならない、近くにいる人が頼りだとなる。そういう時若い人がいないと老人はまさに棄民と言ったけど棄民となり姥捨山になる。飯館村では老人が住むのが嫌だというとき支える若い人がいないところではそうなってしまうからである。


●飯館村で相馬市に避難した仮設の人が解雇されたのはなぜなのか?


そのうちに日本一卑しいムラとか、日本一腹黒い除染利権のムラとか言われたら、だれがこんなムラ訪れるか。
もう昔の飯舘村は存在しない。今も。そして今後も。二百年くらいは絶対無理

こんなところに戻るのは、利権がらみのやつらに扇動されるやつか、もうあまり先がなく、故郷なしでは生きられない年寄りだけだろう


これは除染の問題だが除染が利権化して今や飯館村は村に帰れないなら賠償金をもらった方がいいとかなる。除染費用の分を金としてもらった方がいいとなる。一億円もらったら新しくはじめられるとか言う人もでてくる。除染はあまりにも課題が多すぎるからだ。

そして飯館村の人が相馬市の仮設に入ったのだがぶらぶらしているわけにもいかないので相馬市のトマトを作る農家に就職したと喜んでいたが解雇された。なぜだろうといぶかったら飯館村の人は補償金をもらっているから雇わないという。ええ、そんな非情なのかと一瞬それだけ考える人は思うだろう。テレビはそういう一部分の映像とかコメントとかに反応しやすく感情的になるのだ。なんだその農家はとかなる。でも地元でよくよく考えれば相馬市では補償金を全くもらっていない、そして松川浦辺りでは津浪の被害が大きく多くの人が死んでいる。するとそういう人たちの方が現実的に切迫して困っているのだからその人たちを雇うのがいいと判断するのも不思議ではない、この補償金問題ではいろいろもめる。本当に一人十万もらっているとすると田舎では家族が多い場合がありかなりもらえることになる。その他仕事してもらえるとなるとかなりの収入になってしまうのである。
ただ大工とか瓦関係とかは職人が不足しているからそういうことはない、ただいつまでも補償されるかというとそうはならない,いづれやはり自立させられるだろう。生活保護とは違うからである。


そこで問題が起きているのがいわき市などでは補償金で働かない避難者が批判されている。金はあるから金を使うのはいいにしてもそこで働かせられているのは地元のいわき市の人である。補償金もらっている人は毎日パチンコだサウナだとか飲み屋だとかなんかそんなことで遊んでいるのに働かせられていることに不満が生まれた。実際はそういう苦境にある人は逆に下働きで働かせられるのが普通だった。現実に関東大震災なのか北海道に移住した人は餓死したとか書いた。原発事故でも金があるからとそんなに遊んで暮らして地元の人たちはどう思うかとなる。人間は金だけではつくづく物を買えても人は買えない、これは自分も経験したからわかった。人に手伝ってもらって助けてもらうことほど容易なことはない、いくら金だしても手伝ってもらえない、助けてもらえないことがある。なぜならよほど信頼する人でないと家の中では働いてもらえない、家の財産をもっていかれてしまう。。家の中で働いてもらうことはそれほど大変なことなのである。だから避難して仮設で遊んで暮らして人に働かせているだけだといくら金があってもその回りの人は不満になるのである。


カー用品の店員は「この半年で新規会員が急増した」と話す。
「もう毎日毎日忙しくて仕方がない。
まあ商売繁盛でいいんですがね・・・」
と震災バブル景気で喜ぶはずが、
なぜか複雑な表情を浮かべる。
私が聞いてもいないのに、
「ほら、原発避難者の人は働かないでしょ・・・」
と非難めいた口ぶりで話してくれた。
http://mblog.excite.co.jp/user/kasakoblog/entry/detail/?id=18069956


津浪の被害者もいわき市にはいて待遇が原発被害者より良くないとか不満がある。結婚した人が部屋が一杯で借りることもできないとかいろいろな不満が生まれているのである。


いづれにしろ飯館村一つをとっても問題は山積みになっている。それらをどう解決していいのかわからない、先が見えない、村はやっぱり住めないからなくなってしまうのか?まだもどり生活できるのか、これから若い人は暮らすのは無理なのか、俺たち老人はどうしていいのか?そうした不安がうずまいている。一人一人でもその思いや事情は違ってくる。一人一人の復興と言っても村の人の心は分断されている。一人一人復興してもみんなが復興しなければどうにもならない、そういう問題はこれからも長くつづくのである。

 
 
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2012年07月11日

人が消えた飯館村の夏 (写真と俳句、短歌)

 

人が消えた飯館村の夏

(写真と俳句、短歌)

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葦が繁り草ぼうぼうとなった田んぼ

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緑濃く磐の反るや朝の鳥
三十ほど睡蓮紅し松一本
石一つ木蔭に涼し森の奥
夏の蝶旅ゆく道に死ににけり
飯館に古りし碑一つ菖蒲かな
人消えてヨシキリふえぬ飯館村

鳥の声万緑に木霊し日は暮れぬ

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この辺までクリック拡大!

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蝶が死んでいた

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朝日さし藪甘草のここに咲き我が喜びてまた来たるかな

飯館に蛍袋のまだ赤く色づかぬかもまた我が来たらむ
街に出て夏菊の家に明るしも人住まぬ村淋しかりけり
夏菊の咲きつづくや燕のみ飛び交い行き交う車かな
飯館に葦の茂りてヨシキリの住みつき人の住まずなりにき
ヨシキリの声のみ高くひびきけり人住まぬ村陽差しの強し
道の辺の一本の木影なして村人帰る待ちにけるかな
家に入る道を装う夏の花華やかなりしも人は帰らじ
この道に我がもの顔に歩けるは猿の群れかな人は消えにき
人も来ぬ池に咲きにし睡蓮を松見守りて夕暮れにけり
夏草を踏みしたずぬは我のみや木蔭の深く石は動かじ
大きなる鳥の隠れる夏の森茂みの深く人住まぬ村

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牛の背の石である、この石は飯館村の象徴的石になった
本当に牛の背とにているのだ。

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これは子牛の石である

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これは亀石となるのか?面白い形である。

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あいの沢にはひっそりと睡蓮のみが咲いていた

 
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飯館村に大倉から行った。草茫々となり葦が茂りヨシキリの声だけが高くひびいていた風景も不思議である。何か自然にもどったというより荒れ果てたという感じがする。草茫々の中に空家がある。
ただ飯館村で救われているのはまだ幹線道路は通じているしひっきりなしに車が通っている。ガスリンスタンドだけが営業していた。自由に出入りできるから死んだ村とも違う。浪江とかは警戒区域で入れないから死んだ町、ゴ-ストタウンになってしまった。人が入れれば違う。人が一人でも入れれば死んだものとはならないのかもしれない、あいの沢も草ぼうぼうになっていて道は苔で青くなっていた。そこには睡蓮がひっそりと咲いていた。大きな石がある所にはやはり石はどっしりと動かない。あの石は牛に見えた。牛の背中に見えた。いい石たとつくづく思った。牛の村だったけど今や残ったのは牛の石である。牛の名前を書いて十ほど仮設で偲んでいた人がいた。


飯館村はあいの沢でも7から8マイクロシ-ベルありなかなか帰れる算段がつかないだろう。やはり高すぎるのだ。老人は帰れるというけど姥捨山になると老人が言っていたことがわかる。店もない、もともと病院もないような所でどうして住めるのかと思う。食料くらいは運んでくれるかもしれないがていのいい姥捨山になることは確かである。でも帰れないとなるとこれからどうするのだろうとか心は毎日揺れているだろう。そしてだんだんもう帰れないのか、では他でなんとか生活をしていこうという決断する人が増えてくるだろう。他で牧場を浪江の人と組んではじめた人がそうだった。いつまでも中途半端な状態ではいられないと決断したのである。


いづれにしろ人の住まない村の風景は何なのだろうと思う。飯館村の町のところにでると夏菊が光を受けて明るく咲いていた。しかし人は住んでいないのである。人が住んでいてこそ花も映える。自然のままでも映えるがもともと人が住んでいて映えるものがある。家までの道に何か花のようなものが咲いていた。しかし人が住まなければその花も死んでしまう。一本の樹でもそれは人間化した樹であり村人が帰るのを待っている樹なのである。ただもともと森が深いからその森がさらに深くなり大きな鳥がその森に隠れてしまった。それは自然にもどったという感じになる。全体が自然にもどればそうなる。猿も道にでてきたけど人が近づいても恐れない、人があまり来ないから恐れなくなっているのだ。


川俣まで行こうきしたが行けなかった。日ざしが強かった。体力もなくなっているし電動自転車の電池もきれるから行けなかった。途中月館に行く別れ道に文化の古い碑があった。飯館村ではなかなか江戸時代の墓とか見つからなかった。ここに江戸時代のものがあったなと注目した。飯館村は江戸時代から相馬藩の山中郷としてあったから古いのである。ただ墓に江戸時代のものがみつからなかったのはやはり新しい人の方が多いともいえるのかもしれない、それにしても草ぼうぼうとなり葦が茂りヨシキリの鳴く声が高くひびいている光景は不思議である。あのような状態がいつまでもつづき人は帰ってこないのだろうか?飯館村は放射線量からするとかなり深刻である。栃窪に出ると人が住んでいるけど田畑は草茫々だから同じである。相馬市に出ると田畑も普通であり何ら変わりない、津浪の被害地帯は同じである。いづれにしろいつまでも仮設にいるわけにはいかない、これからどうするのかそれぞれが決断が迫られる。住み続けるのか他に住む場所を求めるのか迫られる。この辺だって小高の人が仕事もなく居すわることはできない、小高に帰る他ないとなる。一部原町鹿島に家を建てて住むようになった。でも大方は帰る他ないのだろう。

]
俳句というと写生で追記をしてきたが「三十ほど睡蓮紅し松一本」というのは写生そのものだった。30くらい紅い睡蓮が咲いていてあそこの幹線道路は車がまだ行き来している。まだ死んだ村ではないのだ。道がだけは生きているのである。あいの沢は人は全くこない、たずねたのは自分だけだったのも不思議だった。蛍袋はまだ色づいていない、蛍袋が色づくときは梅雨の時期なのでなかなか見れない、人の住まない村に灯火のように蛍袋が色づき咲くというのも不思議である。


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除染しているのは大成建設だった

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キクチス-パ-に止まっていた車
香川県からも来ている。
福島の原発の作業には九州からかなり来ていて磐城の歓楽街がにぎわっているとか
まだこの辺もそうした人たちが来ている。


飯館の村の部をカテゴリ-にまとめた
http://musubu.sblo.jp/category/1556933-1.html

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飯館村の部をカテゴリ-にまとめる


飯館村の部をカテゴリ-にまとめる

飯館村の部をここにまとめました、今はここでまとめて読んでください
あとでこちらにも追加します
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2012年07月17日

飯館村が原初の葦原になり伝説化した (葦笛の詩として引用構成)


飯館村が原初の葦原になり伝説化した

(葦笛の詩として引用構成)


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●葦が日本の原初の状態


この葦原だが古事記の記述によると日本は豊葦原 の瑞穂の国 とよあしはらのみずほのくにとされている 言葉のとおり豊かな広々とした葦原のようにみずみずしく 美しい稲穂が実る国ということであろう弥生時代になって人 々が低地に定住して米作りを始めると河川の氾濫平原や湿地 はもっとも米作りに適した土地として豊かさを象徴する存 在になったに違いない当時の地形と現代の地形ではかなり の違いがあると思われるが現代の沖積平野のほとんどが氾 濫河川敷や葦原の低湿地だったと考えられる

 根の家で生活する農民達がヨシで編んだ魚籠を用いて漁をして おり壁土の材料として稲ワラの代わりにヨシを利用していま した  日本でもヨシズの材料として古くから利用されているが
http://fjfj.enokorogusa.com/BiotaHatogaya/BiotaHatogaya03.htm


日本では稲刈りの後に芦刈が行われ、各地の風物詩となっていた。軽くて丈夫な棒としてさまざまに用いられ、特に葦の茎で作ったすだれは葦簀(よしず)と呼ばれる。また、屋根材としても最適で茅葺民家の葺き替えに現在でも使われている。日本神話ではヒルコが葦舟で流される。最近では、葦舟の製作も市民活動として行われるようになってきている。ちなみに、南米で葦舟といわれるのは、この葦ではなく、カヤツリグサ科のフトイの仲間を、古代エジプトにおいては同じくカヤツリグサ科のパピルスを使っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7


世界中で葦が原初の風景であり原風景だった。パピルスが葦でできていたことでもわかる。ナイル河畔にも葦が繁っていた。葦船は日本にもあった。葦の用途は広いのである。葦は海岸地帯にも生えるのは塩分にも強いからであり葦がいろいろな効能がありそれは知らなかった。

ヨシ生態のおぼえがき
http://www.lberi.jp/root/jp/31kankou/3113kenkyureport/syoho_bi/09/09-05.pdf


●葦(あし)が古い地名の発音で葦(ヨシ)は平安時代以後の発音


日本の国を『豊葦原(とよあしはら)の国』(日本書紀)とも呼ばれていました。平安時代までは「アシ」と呼ばれ、今でも「アシ」と呼ぶ地方もあります。正式な名称(植物学名)は、「ヨシ」(竹と同じイネ科の仲間)と呼びます。

葦牙とは、葦の芽のことをいう。その二柱の神がつくった島々は「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国」といわれた。これにより、日本の古名は豊葦原瑞穂の国という。更級日記では関東平野の光景を「武蔵野の名花と聞くムラサキも咲いておらず、アシやオギが馬上の人が隠れるほどに生い茂っている」と書き残し、江戸幕府の命で遊郭が一か所に集められた場所もアシの茂る湿地だったため葭原(よしはら)と名づけられ、後に縁起を担いで吉原と改められた。


平安時代までアシと西では言っていた。もともとはアシと言っていた。ところがアシが縁起が悪いとしてヨシになった。ということはアシと発音するのは地名的に古くヨシと発音するのは新しいとなる。吉原は新しい呼び名である。吉田もそうである。


●片葉の葦の謎


、柳田國男の説くところの日本の生贄の風習である片目片足をつぶし、生贄のしるしとした伝承。それを証明するかのように片目の魚と神、片葉の葦と神の伝説は日本中至る所にある。そしてそれらが産鉄民と繋がる事は歴史家の間では今や常識、片目の神は北欧、エジプト、日本と、世界的に神の条件のひとつでもある。片葉の葦は「かたわの足」である、産鉄族は火を扱い片目になったり片足になったり体を酷使するためにそうなりやすいのである。またはたたら吹きの強い風のために葦の葉が一方に偏ってしまった。
http://www.musubu.jp/manoirie.htm


これは自分が前に書いたが産鉄族にかかわる伝説でありその後の親鸞とかの伝説ではない、別なものに変化して全国に残っている。ここも産鉄族が深くかかわったから伝説が残っている。これは全国くまなく残っているのだ。


●葦に関する詩


枯れみだれた葦(あし)の穂波
ごうごうと鳴りひびく一眸(いちぼう)の原。
セメント 鉄鋼 電気 マグネシユウムら
寂莫(せきばく)として地平にゐならび
蒼(そう)天下 終日人影(じんえい)なし。
(小野十三郎)



葦笛と風の恋

悩みも苦しみも 呑みこんで 笛は輝く
その内に風はみなぎる
風はやどす 土の声を
消え去りゆく とおいひかりを


葦笛と風は 深い谷さまよい
葦笛と風の 目覚めを月みつめ
その甘い調べ 花とともにひらく 花とともにひらく
http://sironekoq.exblog.jp/992968/


これはオリジナルではない、翻訳したとあるがやはり著作権がある。引用するのはまずいかもしれない、つまりどこまでオリジナルなのかわかりにくい、オリジナルなものを出さないと本当は発表できないだろう。インタ-ネットは自分のも勝手に引用されている場合がある、引用は創作的範囲で可能であり創作がなければ引用はできない、ただ引用だけしているのは著作権違反なのである。

葦笛の詩については古来多い。それだけ葦自体がなじみ深いものだったからである。


風はやどす 土の声を
消え去りゆく とおいひかりを


これは飯館村を象徴するような詩になっていた。消え去りゆく遠い光を・・・消え去りゆく村人のことを言っている感じもする。「風がやどす、土の声を」飯館村には人が住んでいないから風と土の声だけが残された。その土の声は放射能の声だったというのも不思議である。
葦笛と月はあっている。深い谷をさまよいというのも飯館村の山間のことであり深谷という地名もある。飯館村が葦繁る原初の状態にもどってしまったのである。もともと自然が豊だから余計にそうなったのである。一方で小野十三郎の詩は大阪の詩でありそこも葦原だったのだがそこはまさしくセメント 鉄鋼 電気 マグネシユウム・・・の工業地帯になった。飯館村とかこの辺はもともと自然が豊だから津浪の跡でも葦繁る自然にもどったのである。そのことを写真を出して何回も書いてきた。思うに飯館村とか津浪の跡は物語化゛伝説化した地帯になるのかもしれない、元の自然に還り人間のことが伝説的に語られることになる。


"Selected Poems of Rumi" Jalal al-Din Rumi, Maulana : R.A.Nicholson
index > 『ルーミー詩撰』

『ルーミー詩撰』 メヴラーナ・ジェラールッディーン・ルーミー


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「葦笛の歌」1


葦笛を聴け、それが奏でる物語を、
別離を悲しむその音色を。

葦笛は語る、

慣れ親しんだ葦の茂みより刈り取られてのち、
私の悲嘆の調べには、男も女も涙する。

別離の悲しみに私の胸は引き裂かれ、
愛を求めて、痛みは隠しようもなくこぼれ落ちる。

誰であれ遠く切り離された者は切実に願う、
かつてひとつであった頃に戻りたいと。

どこにいようとも私は嘆き悲しみの調べを奏でる、
不幸を背負う者たちの、私は友となり慰める。2

それぞれの思いを胸に、誰もが私の友となるが、
私が胸に秘める思いにまでは、思いいたる者などいない。

私の音色は私の嘆き、胸に秘めるこの思い、
だが耳も眼も塞がれた者に、光が届くはずもない。

魂は肉体の覆いなどでは断じてない、
また肉体も、魂の錘などでは断じてないのだが。

それでも、未だ誰ひとりとしていないのだ、
魂をかいま見ることを許された者など。

葦笛の調べは燃え盛る炎、それはそよ風などではない。
この炎を胸に持たぬ者など、一体何ほどの者であろうか!

これこそは愛の炎、これこそが葦笛の愛。
これこそは愛の熱、それは葡萄酒にも見出せよう。

誰であれ別離を嘆く者の、葦笛は無二の友となる、
葦笛に課された嘆きの深さが、我らの心の眼を開く。

葦笛を聴け、それが奏でる物語を、
別離を悲しむその音色を。

別離の悲しみに私の胸は引き裂かれ、
愛を求めて、痛みは隠しようもなくこぼれ落ちる。

誰であれ遠く切り離された者は切実に願う、
かつてひとつであった頃に戻りたいと。
http://www.levha.net/rumi/selected_04.html


飯館村の人の気持ちはこうなっている。原発避難民の気持ちがこうなっているのも不思議である。故郷からの別離、家族との別離に引き裂かれている。故郷は葦がぼうぼうと繁る場所になってしまったのである。ただそれが大阪のような都会的なものとは違う、自然がもどったのだから月などとマッチして美は残っているから伝説的になるのである。


「放射能」や「原子力発電」や「人間と自然」などの「この事件」で発見した凄いことを展示して研究する場所にしてもいい。「飯館村」は世界的に有名になった、それをシンボルとして残すことを考えよう
http://www.k-system.net/mandala/?p=137


飯館村はどうなるのか、今でも老人が一部野菜を栽培してそれ子供にやったら子供はそれを棄てたという、飯館村は警戒区域になっていないからいい、他は警戒区域で立入禁止になっているから入れないのだ。放射能汚染は自然の美は破壊されていない不思議である。都会化は大阪のようにズタズタに自然を破壊した。すると大阪のような大都市より自然の美が残っているからましではないかともなる。ただ避難民化した人たちはそんなことは言っていられないだろう。かけがいのない故郷を失ったのだから・・


●自作の詩


葦に埋もれた村

葦が生い茂り
田畑は消えぬ
葦が風にさやぎなり
月の光に灯は消えぬ
原初の日にここはもどる
人の声は聞こえず
牛の声も聞こえず
石は再び深い眠りにつく
誰か見えぬ詩人(うたびと)のここに残り
葦笛の楽を奏するや
その音のもの哀しくも切なく
今はただ森に山にひびくのみかも
人家の灯は消えて
蛍袋がその灯なのか赤々と咲く
かつてここに我は棲みしと語るもあわれ
ただ葦原は風にそよぎぬ
いづこへと人は去りしや
村は葦に埋もれ人は帰らじや
詩人の一人残り葦笛を奏するのみかも


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飯館村は本当に不思議としかいいようがない、津浪の被害にあった地域もそうである。まるでポンペイの跡のようになった。だから伝説的な場所となってしまったのである。ただ大都会と違うのはもともと自然豊だから自然がもどり自然に埋もれるという浄化の作用があった。放射能汚染したのが水や土を汚しても外観なんら変わりない、美が同じ様に残っている不思議があるのだ。都会には美が消失してヘドロとか工場地帯の煤煙とか自然の美はない、自然に埋もれるということはない、石油タンクとか美観をそこねるものが延々と残っている。だから大災害がきてもそのあとはやはり無惨な人工の跡が残る。田舎のように自然に埋もれるということはないのである。

 


インタ-ネットは編集して読むものである。これだけ葦というキ-ワ-ドから書けたのは収穫だった。
知の世界はやはり興味があったときどれだけ深く広く知識を深めることかできるかが問題になるのだ。もし世界の知識が公開されてこのうよに編集できればいながらにしてアレキサンドリアの図書館を有すると同じになるのである。  
posted by 老鶯 at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2013年06月17日

飯館村の喫茶店の椏久里(あぐり)の思い出 (二年過ぎて飯館村を思う短歌十首)


飯館村の喫茶店の椏久里(あぐり)の思い出

(二年過ぎて飯館村を思う短歌十首)


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珈琲の香りの満ちて飯館の喫茶店の窓秋の蝶かな

飯館の喫茶店に入り秋日さし珈琲飲みつパンの味かな
人々のここに集いて様々に話せし日やそれもなくなりぬ
飯館に住みにし人の様々に思うことあれ二年のすぎぬ
飯館に住みにし人の何思ふ思いで深く帰れざるかな
嘆けども仮設暮らしの身につくや飯館は馴れ二年のすぎぬ
故郷は遠きにありて思うもの思い出深き暮らしなるかも
庭広く花々映えぬその家も人の住まずに夏も淋しき
川俣に来ればここに暮らしあり古き農家に春の日暮れぬ

川俣に別れし道は山木屋につづくとあわれ春の日暮れぬ

飯館村に行けばよる場所というと椏久里(あぐり)という喫茶店しかない、あそこは単なる喫茶店ではなかった。特製の自家製のパンを作っていたのである。それがおいしかったのである。飯館村だったらとれているのは米だから米パンでもいいかなと思うがやはりパンは麦でないと味が出ない。
飯館村では外からもあの店にはよっていた人が多い。だから今になるとあの店は価値があったなと思う。この辺で起きていることは未だに信じられないことである。津浪で村ごと消失するとか原発事故で町や村がなくなるなど想像もできなかった。そしてもう二年もすぎたのである。

仮設暮らしも二年すぎるとそれなりになれたということもあるかもしれない、しかし不思議なのは飯館村で暮らした歳月は長いしそんな簡単に忘れられるものではないだろう。他でもそうである。

そこに暮らした時間が長ければ長いほど思い出は深いものとなる。だから仮設暮らしの人々がどんな心境でいるのか不思議である。いくら自分がその代わりに短歌にしてみても本人の思っていることはまた違っている。飯館村の特徴はみんな一軒家でありそれも森につつまれていて庭も広々としていた。人間の住まいとしては理想的だったのである。だからそういうところから仮設とか都会に暮らすとその相違が大きいのである。広々とした家や庭やその回りは森につつまれている。そういうところから都会や仮設で暮らすのはあまりにも違いすぎるのだ。

思い出というときそれは今生きている人だけではない、飯館村は江戸時代からの歴史があるからそこに生きていた人たちは死んだ人の思いがこめられている。飢饉の時は苦しんだからその人たちの苦しい思い出も残されている。そういう思い出が失われることはどういうことになるのか?
葦が茂り原始の状態に還るのかとなると一旦人のすんだ所はそうはならない、人の思いがこもった場所だからそうなる。もし原発事故で人がすまなくなった町村はどうなるのか?過去は忘れられる。そこに人が住んでいれば過去を思い出すことができるがその土地を離れたらできない、その土地と共に思い出が歴史が刻まれているからだ。


いづれにしろ時間がすぎて価値がでてくるものがあり一旦失われて価値がでてくるものがある。思い出というのはそういうものである。その時
はその価値がわからないのである。青春などもたちまちすぎてしまう。その時はしかしその価値がわからないのである。そしてものの価値は思い出はその場所とともにある。場所が意外と大事なのである。椏久里という喫茶店は飯館村という山村にあったことが価値があった。都会にあったら他の喫茶店と変わりないだろう。福島市に古民家を改造して再開してもそこには場所の価値がないのである。相馬市の花屋のことを書いたけどあそこも場所の価値があった。駅前の店は前は場所の価値があった。今でもス-パ-は便利でもモノを買うという価値しかないのである。


啄木の短歌の特徴は故郷であり何でもあれつまらない日常的なことが何か人生で貴重なものになった。それが彼独特の天才的感受性で短歌にしたのである。それはすでに15才のときにできたのだから天才だったのである。そして27才で死んだからすでにその時60才くらいの心境になっていた不思議があるのだ。故郷のことでもあれだけ思い出深いものになった。故郷は遠くにありて思うもの・・まさにこの辺の不思議は住んでいた場所から離されたからそうなってしまった。いろいろなものを見直すことになったのである。それは一人一人また思い出があるからわほからないにしろ一旦長く住んだ場所を離れたらそのことを思い出深いものとして見直すことになるのだ。


だから椏久里(あぐり)という喫茶店はもう二度とあそこでコ-ヒ-が飲めないのだから思い出だけになったから不思議であり価値が大きくなったのである。なぜなら人生でも青春が失われれば老いれば二度と帰ってこないと同じなのである。その時は二度と帰ってこないのである。二度と帰ってこないものはそれだけ価値が大きい。もう二度と経験できないからそうなる。つまり椏久里で飲んだコ-ヒ-にしろパンの味にしろそれを味わうことができなくなったのである。福島市でできるかとはできるが飯館村の場所で味わうコ-ヒ-の味とパンの味は違っていたのである。その場所が味を深めていたのである。

 いづれにしろ川俣にでると暮らしがあったが飯館村にはもうない、その相違が大きいのである。
 暮らしがあってこそ思い出がありうる。その暮らしもまでいな暮らしとか目指していた。
 所得も福島県では一番低いものであった。だから原発マネ-は入っていなかったから飯館村は悲劇の村になった。ただ警戒区域になっていないから人が入れるので他とは違っている。
 全く無人の村とも違っているのだ。ただこれからどうなるのか?
 やはり人が帰って住む人もでてくる。でも前のようにもどることはないのか?みん,な模索中でありわからない、ただ一旦離れてみて思い出が深くなりその価値を見直したということはある。
 つまり当たり前であったものが実は金では変えられないような価値があったということがあるのだ。いくら補償金をもらってもそうした価値は金ではとりもどせないことがあったのである。
 
 
 盛岡の中学校の露台(バルコン)の欄干(てすり)に最一度我を倚らしめよ


これとにていたのが椏久里(あぐり)だったのである。啄木には啄木調が作ったから独特だった。芸術でも印象派という手法が生まれたときそれは芸術の新たな分野が生まれた。そういうことができるのはやはりどんな分野でも天才なのである。でもそのあとにそれをまねする人が普通の人でもでてくる。ともかく啄木の短歌は60才以上の老境になって作れるものであった。だから凡才である自分でも今になって啄木調の短歌が作れたとなるのだ。

posted by 老鶯 at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2014年02月05日

飯館村には人の記憶は残りつづける (牛がいなくなっても臥牛石が残る)


飯館村には人の記憶は残りつづける

(牛がいなくなっても臥牛石が残る)



冬日さし飯館にあれ臥牛石牛も鳴かずにここに残りぬ
十頭の牛の名覚え仮設にそ暮らして長く雪の積もりぬ
石ふたつ動かざるかなともにあり寒さに耐えし高原の村
北風の唸り吹きつつ石五つ離れざるかも山の村に住む
鹿島より佐須は遠しも久しくも我は行かじも春また行かむ


人が消えた飯館村の夏
http://musubu2.sblo.jp/pages/user/search/?keyword=%90%CE%8C%DC%82%C2

ここに牛が臥したような大きな石があった。臥牛石となる。あいのさわであったがこれは良くとれていない。とり方がまずかった。本当に大きな牛の背のようだったのである。
また行ってとってみよう。



飯館村はどうなってしまったのか?すでに一年以上は行っていない、人が住まなくなった家はなおも点在している。だけど冬の灯はともらない、冬の灯というと街に住んでいるものとは違う、何か飯館村となると人も一体感がでてくるだろう。
もちろん現代は山の村でも昔とは違う。でも飯館村として南相馬市に合併しなかったのが今になると良かった。つまり飯館村としての個性を作れて村づくりができたのである。
地理的にも南相馬市とは離れていることもあった。小高と鹿島はもともと地理的には一つだったから南相馬市になってもそれほど違和感がなかった。ただ原発事故では小高は小高の事情ができたし原町は原町、鹿島は鹿島の事情ができて分断されたから小高は小高町のままの方が良かったといっている。原発の賠償金を浪江のように一致して請求できるからである。

飯館村は標高がかなた高く高原の村であり南相馬市の平地よりずっと寒い。だから飢饉の被害も大きかった。でも耕地面積はかなり広い、米作りが盛んだったとも言える。
平地が思った以上多いのである。それから木材資源が江戸時代から豊富でありそれで入会権で飯樋で争いがあったことでもわかる。

飯館村は今までは牛の村でもあった。飯館牛が売りだった。だから牛を飼っている家が多かった。だから避難した人が仮設で十頭もの牛の名を覚えていたのである。

牛でも名前が呼ばれれば人間化している。一方病院では番号で呼ばれたとかなり牛より人間扱いされないということもある。ペットの方が人間より大切にされているとかホームレスが不満を言うのもわかる。ただ十頭の牛の名前を覚えるということは結構むずかしいと思う。牛はだいたい似ているからどこかで牛の個性を区別して覚えないとできないことだろう。みんな同じだったらなかなか区別ができない、ただ牛の個性がどこにあるかはわからない。ただ犬でも猫でもみんな何かしら違いがある。もちろん黒い猫はクロだとかなり区別しやすい、牛はみんな同じに見えるのである。

犬でも猫でもそうだがこれは自分で飼ってみないとわからない。
野良猫に餌をやって猫を観察していると猫のことが具体的感覚としてわかってくる。
猫は相手をみて探っている。ただ自分をどんなものと近くしているのかはわからない。
餌をくれるから近づいて来るが絶対に触らせないし餌をとるにも一定の距離を保っている。いじめられてなつかなくなったのである。
動物を知ることは通じ合うことはなかなか簡単にはできない、猫と犬は対象的である。
犬にはあまり神秘性を感じないが猫には感じる。猫は結局謎めいているのからである。

エジプトではあらゆる動物が神となった。それは動物を非常に身近に生活と一体となって見ていたからである。だから牛のミイラまであったのである。エジプト人にとって動物は神秘的な神でありそれが人間の日々の生活に組み入れられていたのである。

動物が身近だった時は人間と動物の交流は深く動物と結婚する話しはいくらでもある。
先祖も動物だったというのが一般的でありそれぞれの部族がトーテムをもっていた。
猿のトーテムだとすると猿を日々の生活で深く観察していたのである。鷲でもそうであり今の人より動物は人間に近かった。最近この辺は荒地になりカヤネズミとかが増えてノスリがふえたのである。七羽集まっているのもみた。するとノスリを深く観察することになる。

いづれにしろ人間と動物は戦前でも宮沢賢治の小説のように深い関係があった。そうでなければあのような童話は書けない、江戸時代から残っている民話でもそうである。

そういう動物との交流が現代では欠落した。そこで動物というものがわからなくなってしまった。機械との交流の方が主になってしまったためでてある。昔は車の代わりが馬だとすると馬には詳しかった。この辺では相馬野馬追いかあるから馬を飼っているところがあるから馬を見る機会が多い。でも馬も飼ってみないと馬のことはかわらないのである。
人間はやはり野菜でも自分で栽培してみると実地に経験していると何かわかる。

だから街中に住んでいる人は回りが田んぼでも農家のことがわからないということがあったのだ。

自分は牛とか馬がみじかにいても触るのも怖いのである。だから動物と通じ合わない、ただ詩を書いたりするときはただイメージ化して創造で書いている。
牛でもやはり高村光太郎のような「牛」の詩はなかなか書けない、その時代でないと書けないものがある。何かそうしたものを書く基盤が失われて動物のこともわからなくなった。狼のことなどもう想像の世界でしかわかり得ようがなくなっている。

ともかく飯館村は人が去ったとしてもそのあとあとまでそこに人が住んでいるという記憶はなかなか消えないだろう。それは原発の避難地域ではみんなそうである。そこに江戸時代から人が住んでいたからである。

だから例え牛の鳴く声が聞こえなくなっても臥牛石が残りなおそこにまだ人が住んでいた記憶が残り続ける。つまりそれだけも原自然に還えるとか言ってもそこに住んだ人間の記憶は残りつづけるしもう元の原自然に還るということはありえないと思う。
石一つが残っていても過去の人間の住んだ記録となる。もともと人が住まないところにあった石とは違うものとなっているのである。

posted by 老鶯 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2014年06月06日

GREEN IITATE(飯館村の抽象画) (人間は歴史的にも長く住み続けた所を簡単に捨てられるものなのか)


GREEN IITATE(飯館村の抽象画)

(人間は歴史的にも長く住み続けた所を簡単に捨てられるものなのか)

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飯館村の紋章

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森の都

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飯館村に行ったらグリーンイイタテとか書いてあった。前にそんな詩も書いた。
飯館村は70パーセントが森であるからそうなる

飯館村は地形的にも山の村はして個性がありそれで南相馬市と合併しなかった。
それで飯館村の独自性を保つことができた。
だから飯館村がなくなるなどということをイメージすらできなかった。
飯館村には会社とか工場が結構あって働き場もあったらしい。
農業だけの村でもなかった。
ただ所得としては一番低かった。
飯館村にも外部から入ってきている若い人もいた。

飯館村は何か特徴がないのだが広々としていい気分になるところだった

家が一軒一軒離れていて森につつまれるようにありそれがぜいたくだと見ていた。
だから福島市でも団地のような所に住むようになったり
京都に移住した人も鬱になったというのもわかる
そこは全然環境が違っているからそうなる
田舎も人間関係は嫌なのだけど東京や大都会の混雑した所は嫌なのである
自分は大学時代で性格的に静かな所を好み人間関係も得意でないので田舎に帰った
そもそも人間嫌いでありあんなに人間が混雑している場所にはいたくない
田舎はそうした環境では相当にぜいたくである
東京などには何もない空間が一番贅沢なのである
実際はあれだけ混雑していればそういう空間こそが一番価値あるものになる。


相馬藩内は海があり山があり自然的には恵まれた所だった。
会津の方だと山家あっても海がないからものたりないものを感じる
そこに住むとなるとどこがいいとなるといろいろな条件がある
そこの気候も問題になる。
浜通りは海があり涼しいということがあった
最近の温暖化で35度に普通になるとそんなところに住みたくないとなる
寒さでも極端な寒い所は嫌だし雪のふる会津とかも嫌だとなる
すると暑からず寒からずの浜通りがいいとなる

だから避難者も気候的な問題で浜通りに帰りたいとなり実際帰ってきている人もいる
気候の問題は体にかなり影響するから深刻なのである

浜通りとかでも芸術的感性を磨くにはいい場所だったとなる
芸術的感性だって一朝一夕に作れないのである
長い間住んでいると自ずとその風土と一体化して文化が生れる
それはその人の個性というよりはその土地が作り出してゆくのである。
そんなもの飯の種にならないというのもそうだが
やはり現代ではかえってまた田舎が見直されるという価値観が変わる時代にもなっている
経済的には恵まれていなくてもそれに代わりうる価値が田舎に見いだす人もでてきている

ただ放射能汚染で飯館村が被害が大きかった時、これかどうなるのか?

人間はそんな簡単に江戸時代からも長く住んでいた村そのものがなくなるということが
できるものだろうかという疑問である。
それだけ長い間住んでいたらそこに残りつづけようとする力が働くのではないか?
例えば樹にしても石にしてもそれは人間化したものであり
単に樹や石があるということは自然のものではない人間化した樹や石が残りつづけて生きようとしている
それは津波の跡に今も残っている樹の不思議さを何度も書いた。
何か家の跡に残っている樹は普通の樹ではない不思議なのである
それは何か人間化していた樹だからそうなった
家を長年囲んでその樹は立っていたからそうなった。
だからその家と離れがたく樹も立ち続けていたのである。

近くの人は何度も言う、俺は若い時から裸一貫でこの家を建てた
この庭も作った、だからこの家に愛着がある
そういえば自分は家があってもそれは親からゆずられたものであり
何ら苦労して手に入れたものではないから
家でも住んでいる人の気持が違うものだと思った。
その庭は山のように何トンも石で組まれている
その石のようにその土地に家に愛着をもっていて動こうとしない
性格も堅い人であり何かその石にふさわしいと思った。
飯館村の人だってそういうふうに思っている人もいるだろう


だからそんなに簡単に村時代が消えるということが考えにくいのだ
人間の意志が生き続ける意志が樹や石となりそこに残る
それは人間の意志であり自然そのものである樹や石とは違っている
芸術にしてもその村が消失してしまいばありえない
土があって樹が成長して花が咲く
土はその土地に生産するものがあって花が咲く
花は芸術でありそこに土から実るものがないなら花も咲かない
だから芸術だけ存在することはありえないのである

ただ不思議なのは放射能は花には影響しなかった
花の栽培しても食べるわけではないから花の栽培をしている農家がいる
放射能汚染の土地をひまわり畑にした所もあった
ただみんながお花畑になったらそこでどうして食べていけるのかとなる

ともかく飯館村は一体どうなるのか?
避難地域となったところの問題は一家庭とかを復興させることではない
全体の町とか村を復興させることだからむずかしいものとなる
それには町とか村全体の一丸とならないとできないだろう
ところが実際は補償金をもらって他で牛を飼いたいとか
もう他で新しい生活をしたいという若い人や様々に分裂しているのである
つまり現代はかさえあればどこでも暮らせる
だから歴史的にあった長年住んだ村でもこだわりがなく捨てるということがあるのか?
この辺は以前として様々なもことが問われる場所になっているのだ。

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2014年07月23日

原発事故で失われたもの(飯館村を例にして) (補償金に頼る堕落した生活になったー嫌悪される避難民)


 
原発事故で失われたもの(飯館村を例にして)


(補償金に頼る堕落した生活になったー嫌悪される避難民)

●働くと帰還すると損だということの矛盾


たとえば震災前に月収30万円だった夫が妻と子供2人と暮らす場合、30万円プラス40万円で70万円が支給されている。新たな要求に基づけば月収分の30万円プラス慰謝料35万円×4人分で140万円、計170万円が毎月支払われる計算だ。ここには財物損害、いわゆる失われた資産などの補償は一切含まれない。(避難区域)
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/31912093.html

夫婦二人と子供三人の家庭でN市の仮設住宅に避難している個別事例。月額で70万円。この主人は半分を生活費として奥さんに渡し、残り半分を自分が使う由。自分の使う分でレクサスをローンで購入し、残りはパチンコに使う(といっている)。(飯館村)
http://blogos.com/article/74517/

原発事故で起きてきたことは何なのか?津波でもそうだが当たり前にあった生活が失われたことである。そもそも故郷に住んでいることこそ当たり前であり故郷が何かなど普通の人は考えたこともないだろう。その当たり前のことが当たり前の生活が失われたことなのである。
津波もあるが原発事故の結果故郷全体が失われたことなのである。
津波だったら被害が大きくても海岸地帯だけの被害ですんだのである。
避難区域になった所は住めなくなったし未だに田畑は原野になっている。
そして不孝なのは実は故郷を失って苦しんでいるのではない、かえって多額の補償金で楽になり仕事を失っても補償金で遊んで暮らしているその人間の堕落にあったのである。
人間の悪い面が多額の補償金をもらって露骨に現れたのである。
もともと田舎に住んでいる人たちが素朴だとかない、今はどこでも金が第一になっているそういう広域社会に住んでいる。だから金さえあればいい暮らしができる。
それが避難民に露骨に現れたのである。
レクサスを買いギャンブルに毎日興じている。東京まで行ってギャンブル風俗に行っている人までいるし仙台にも遊びにゆく、仮設にフィリッピンの女性が来ているとか、何か補償金の額が大きいから遊び人間になってしまったのである。


では避難民が働こうとするとその分が補償金からひかれるとか働くと損になるというのもそうした遊び人にさせる。それが避難民にとっては馬鹿らしいから遊んでいた方がいいとなる。相馬市でトマトを作る農家に雇ってくれと言ったら飯館村の人が断られた。
これは冷たいなと外から見る人にはなる。でも実際は多額の補償金をもらっているのだからお前たちは働く必要はない、それより相馬市では原発の補償金はもらっていないから津波の被害者が優先だというのもわかる。浪江でも工場経営者が元の仲間に仕事をくれと言ったらお前らは補償金をたんまりもらっているのだから仕事しなくてもいいだろうと言われた。確かに工場経営者だったら軽く億の金がもらえる。牧場経営者で5億円もらった人がいるとかその額が大きいのである。
「お前らは仕事しなくてもいい、補償金で遊んでいろ」となるのも変なのだけど現実にそうなっている。


一方で外からでも避難民を受け入れたところではそういう人たちに対して不満になる。
イワキでも福島市でも全然補償金をもらっていないからである。なんだあいつらは補償金でぜいたくして毎日パチンコにゆき遊んで暮らしている。俺たちは何ももらえず働いている、あいつらのために働かせられているとまでなる。やはり避難した人たちは何らか避難した先では周りの人はが働いているから生活できる。でも避難民は補償金で働かないからそう言われる。
その補償金の額では内部でももめているのだ。双葉とか大熊とかイワキに補償金で新しい立派な家を建てた住宅地が出現した。しかし道を挟んでまだ仮設に住んでいる人たちがいる。それは広野町とか補償金が少ない人たちなのである。
都路村でも道をはさんで補償された者とされないものでもめた。南相馬市でも鹿島区は30キロ圏外で補償金が少ないから不満である。それで小高区の人たちが仮設が大勢住んでいるのでその人たちをうらやみ車をパンクさせたと聞いた。
それがもっと激しく起きているのがイワキである。2万人も移動したらその軋轢は激しくなる。

●ギャンブラーになった避難民


原発事故周辺では何が起きたとかというと補償金が多額な故に内部でももめているし外部からは遊び人だと批判される、では補償金をもらっている人たちにしても言い分はある。なにしていいかわからないし金があれば遊んでいる方がいいとなる。帰還する意欲をなくさせているのである。仕事するにしたって農民だったら簡単にできないし仕事しない方がいいと普通はなる。だからギャンブルになった。
田舎に住んでいたからといって普通はその人たちが今は素朴だとかいい人だとかない。
つまり人間の醜い本性があからさまに現れてしまったのである。
金があるんだから遊んでいればいい、何しようと勝手だとなる。
だから避難民は浪江だったら一人35万にしろとか補償金を要求するだけの人たちになったそういう人たちをみている時、いろいろ理由はあっても今は嫌になるだろう。
それで大内村に住んでいた外部の人は嫌で去ってしまった。


つまり当たり前にあった生活が失われた、その当たり前の生活とは何だったのか?
それは実は人間の本性たる悪が隠されていた生活だったのである。
田舎の人が素朴だとかいい人だとかはない、ただ今までだったら貧しい人は貧しい人なりに生活していた。飯館村は県民では一番所得が低くかった。飯館村が原発補償金もらっていたろうと言う人がいたけどないと思う。何か目立った施設もなかったからである。
そこは一軒一軒森につつまれて隠されるようにあった。
その時人間の生活は隠されていてそうした人間の悪い本性が露骨に出てきていなかったのである。
確かに場外馬券場とかはあったからギャンブルはあった。でもそれは全体ではない、一部である。ただ場外馬券場は鹿島区にもあり田舎に住む人がギャンブルをしないということはなかったのである。それが原発事故で露骨になり全体に波及してしまったのである。
だから避難民はギャンブラーとなり遊び人となってしまったのである。

そのことの影響の方が今になると大きい、教育上もよくないしそんなことばかりしていたら人間がどうなってしまうのか?
毎日家でも博打の話しばっかりになったらどうなるのか?
そのことの影響が今は大きいのである。それは別に避難民でもない回りの人にも影響するなんだあいつら補償金で遊んで暮らせる、俺たちは働くのが馬鹿らしいよなとなる。
生活保護者の方が俺たちより金をもらっているから馬鹿らしいよなというのともにている

ともかく自分にしてもこういう人たちばっかりになったら嫌になるしそういう話題ばかりしかないとしたら嫌になる。現実になっている。確かに外部から人が入ってにぎわうのだがそれも何か普通ではない、プレハブとか労働者でも大勢きていると何か治安が悪くなるとか心配するのもそのためである。やはり田舎だと一軒一軒土地があり広い敷地に住んでいるのがあっている。ただそれを今までは当たり前としてみていたのである。
だからそれを特別なものとしては見なかったのである。でも仮設に住んでいる人たちと広い敷地の農家に住んでいる人たちはあまりにも違っているから意識するようになったのである。


●神は人間の生活を隠したー飯館村がその例だった


だが,不死の神々は,優れて善きことの前に汗をお据えなられた、
それに達する道は遠く,かつ急な坂で,
始めはことに凹凸がはなはだしいが,頂上に到れば
後は歩きやすくなる――始めこそ歩きがたい道ではあるが.
(『農耕と暦日』289 - 292 行)

この引用箇所における「優れて善きことの前に据えられた汗」というのは,
ゼウスの「正義」(ディケー)を実現するための「仕事」(エルガ)に他ならない
「怠惰な生を送る者に対しては,神も人もともに憤る」
(『農耕と暦日』303 行)とあることからも,
今の世の人間たちと神々との関係は,決してよいものとは言えない.
神々との関係を修復するために,ゼウスが人間たちに唯一残した道―
それこそが「仕事」(エルガ)なのである.

【主要参考文献】
廣川洋一『ヘシオドス研究序説』(未来社,1975)

http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/jinbun/web/img/pdf/research25/002.pdf


仕事とは単に金を得ることだけでない、他にもいろいろ仕事には意味と意義があった。
そんなこと普通は意識していない、深く考えて仕事している人はいないからだ。
ただ金になればいいとかは常に意識させられる。でもでは多額の補償金が入ってきた時
金があれば働かなくてもいいとなる。その時人はギャンブラーとなり生きる価値すら失ったとなる。そんなやつらは目障りだから追放されることにもなる。
もちろん仕事がすべて肯定されるわけでもない、仕事にもいろいろあるからだ。
ただ今回の原発事故では仕事が奪われた当たり前にあった故郷がなくなったとか当たり前にあったことの意義が問われたのである。


もう一つはヘシオドスが「神は人間の生活を隠した」というとき人間の生活が自然の中に隠されてあったとき良きものであったのだ。人間の本性は本来悪であり田舎の人間もやはり悪であり欲望も深い、ただそういうもの欲望でもおさえられてその本性が隠されて暮らしていたときそういう悪は隠されて見えない、だからそもそも日本の神道でも罪はつつむであり自然の中につつみかくされたとき覆われてみえなくなると意識したと同じである。日本の自然はその自然が神道の基なったごとく美しかったのである。
それが文明化して都会化したとき人間の生活がむきだしになり日本がもっていた本来の美は真直なる美は失われたのである。



隠された村


深い森につつまれて飯館村はありぬ
花はのどかに咲き日は静かに過ぎてゆく
人々の生活は山間に森に隠されてありぬ
その醜い人間は森の中に山の中に隠されありぬ
小鳥は本然の歌をここで歌い
その声は森にひびきわたり暮れぬ
自然に飾られて何も飾らぬ村よ
石はそこに寄り合い誠実の日がある
人々の欲はそこにおさえられて
森が深く息づき本然の生を養ふ



こんなふうになっていたのが飯館村だった。飯館村は何か違っていた。それは他より森とかに隠されていて本然の自然が深く息づいていたからそう感じたのである。
自然の神秘性がありそう感じたのである。
それが失われたとき、人間の悪が本性が露骨に現れだけとなってしまったのである。
そのことが最大の悲劇であったのだ。金では買えないものが飯館村全体にあったが失われたのである。
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2015年03月24日

失われた伝説の森の村(詩) (森におおわれていた飯館村)


失われた伝説の森の村(詩)


(森におおわれていた飯館村)

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人知れず花は草にうもれ咲き
石は頑なに太古の沈黙を守りぬ
森に覆われた村の家々は
一軒一軒隠されて森につつまれぬ
私はたずねぬ一日人も通らぬ木暗い道を
深い森に神秘の蝶は美しい羽根を広げ
ひそかに息ずき森に消えぬ
山鳩は睦み合い森につつまれ眠りにつく
その高原の村に銀河は流れ星々はきらめきあいぬ
ああ しかし今は人が住まぬ村となれり
住人は去り葦が茫々と茂るのみ
人散り散りになり消えにしや
いづこにありて故郷を思ふものなれ
人々の暮らしもここには絶えぬや
ただ寥々と葦笛の歌のみが奏でられる
森深く千歳の岩は再び沈黙に返る
伝説としてのみその村は語られるのみかも
石と石はなお相寄りてここに残りぬ
その村のことをなお語りつづけるや
石と石はやはりなお村の住人のごとく
ここに残りてなお動かざるかな
その一つの石は臥牛石なりしも
牛を飼い牛と共に暮らしありしも
そこを訪ねればやはり人の如く語るものかも
ただ失われた伝説の村の物語を・・・
ああ かつてはここにありしとなつかしく
帰れざる人々は哀しくも思うのみかも


飯館村は7割が森であった。だから江戸時代から森林資源が豊富だから争いも起きた。
玉野の木材資源の争いは有名だが飯館村でもあった。
飯館村は江戸時代から森の村だった。
飯館村は森林資源も豊富だが意外と平地も多く稲作の面積が広い。
でも高原で冷害があった。標高が高いから夏だと涼しいのである。
八木沢峠を越えて見ればわかる。あれだけ高いということである。
八木沢峠ではなく大倉から入ることもできる、ただ共栄橋のところにでると新しい道ができて車が通り安くなった。

でも自分はあそこに道がないとき通っていた。そこには隠されるように小川が流れていたあそこは神秘的な所だった。未だ人が入らないという山陰にあった。
自分としてはあそこが道になったのは残念だった。
今になると人が住んでいないからあの道を作っても無駄だったように思える。
ただ七曲がりの道は車では行きにくいから車を通りやすくするために道路を造ったのである。
大倉からでも相当な峠道でありまるで秘境への道のようににもなっていた。

一方川俣から来るとそんなふうには見えない、川俣は街であり道路沿いには食堂とか暗たし家もずっとあったからである。
福島市から来ても秘境という感じはしない、ただ南相馬市など浜通りから来ると山深いところを通るから感覚的に相当違っているのだ。
特に高の倉ダムから入る道は確かにやっと車一台くらい通れるにしても森の中の道であり一日車一台くらいしか通らない、その森の道をぬけてゆくと家がある所にでる。
その家も森に隠された家である。飯館村はそうして森の中に家があるのが多かった。
あんなところに家があるというのも不便であり家があること自体不思議に思った。
あそこは森の中の本当に暗い道なのであ。舗装もされていない原始的な道だともなる。

人間は森があるということは森林資源としても有効だが人間の心に相当影響する。
昼なお暗い森が亜ということはそこは瞑想るき場であり心を静める場所になる。
だからそういう場所をもつことは心に作用する。
だから森がないとか自然がないところに生活していると自分は住んでいられない
心鎮める場所がないからである。
ビジネスだけの工業と商業だけの世界では心が疲れてしまうだろう。
だから良く東京のような所に住んでいられるものだと思う
特に自分は隠者的傾向が強いからそうなる。
飯館村もそうだが丸森もまさに森とあるごとく森が深いのである。
そこで森にまよって抜け出れなくなったとき恐怖した。
延々と森がつづいていたのである。日本は山国であり森が多い国である。
外国でははげ山が多い、日本は森におおわれた国である。

ともかく飯館村からは人が去り葦原にうもれ原始の森がおおいそこに放射能の廃棄物が埋められる。そこには人が住まなくなり葦と森におおわれてしまうのか?
それは原始の状態にもどるということにもなる。
葦原でもやがて日本では木が生えて森になってしまうのである。
最近一年くらい飯館村に行っていない、やはり休む場所がないと行きづらい。
飯館村で意外なのは工場がありそこでは人が通っている、住んでなくても通う人が結構いるのである。
つまり農業だけではない牛を飼うだげではない工場もありその工場は放射能の被害がないから人が通っている。
第一次産業は放射能で汚染されたから致命的だった。
工業なら影響はほとんどないから仕事ができているのである。
だから飯館村は無人の村とも違っている、人が普通に出入りしている。
でも家があっても人は住んでいないのである。

飯館村の人が仕事がなくなりギャンブラーになったというときそれもまたこの辺で補償金をもらったため起きたことである。
ただ飯館村でもまでいな村とか原発とは関係しないだろう。
南相馬市では働きに言っている人が結構いたから関係していた。
飯館村となると原発のある双葉は遠すぎる。
川内村は三分の一が原発で働いていたから関係が深かった。
飯館村はそういう村ではなかったのである。

それにしても飯館村は伝説の村になった。津浪で一瞬にして消えた村も伝説になる。
こんなふうになるとはイメージすらできなかった。
ただ森とか山とか川とか自然そのものがなくならない。
石でも残っている、自然を破壊するのはダムとか道路工事とかの方が影響が大きいのである。
飯館村は常磐高速道路ができることを待ち望んでいた。観光客が来るのを待ち望んでいた都会の人にとって森の村でありオワシスとなった。
それも消えてしまったのである。
ただ森はあるのだから森を活かすことはありうる。
自分の想像では電気も水道がなくても放射能など気にしない人が住むようになるかもしれない。それは昔の自給自足的な生活になる。
ただ放射能を気にする人は住まない、水が汚染されたことは致命的だともなる。
水を買っていては自給自足にならないからである。
除染しても七割が森なのだから焼け石に水であり放射能がへるまでほうっ,ておくしかないとなる。
そうなると百年とか人が住まないで原始の森にかえる、ただ森がはげ山にはならない
木の放射の汚染は簡単にはとりさることができないからやっかいなのである。

とにかく

飯館村が原初の葦原になり伝説化した
(葦笛の詩として引用構成)

これ相当に読まれている。自分でもこんな詩があったことは不思議である。
なぜか飯館村の人たちの心境に一致していたのだろう。
ただ詩はむずかしいから普通は関心ないけどこんな状態だから読んでいるのだろう。



タグ:飯館村
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2016年12月09日

飯館村考(高倉から長泥、比曽への道) 江戸時代から原発事故までの考察)


飯館村考(高倉から長泥、比曽への道)


江戸時代から原発事故までの考察)

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●江戸時代の飯館村

飯館村というとき歴史がそれなりに古い、大きな杉木立の居久根があり氏神を祭る社があり中に古い鉦が下がっていて延享2の年号と先祖の菅野伝左衛門の銘がありました。

1747延享 
1750寛延 
        1751宝暦 
1764明和 
1772安永 
1781天明 

1747延享 から歴史が始まるから古い、比曽はヒソであり焼き畑に入った場所である。佐須もそうである。なぜなら草野が中心部でありそこからまた離れている山中にあるからだ。佐須もそうである。地名というのは何か人間の営みと自然と関係して命名され残されている。
ただこれは何か地図を見てもわからないのだ。飯館村自体が本当に広いから地理をわかるのは容易ではない、それは狭い地域でもそうなのである。

飯館村は中心部の草野と飯樋(いいとい)とその周辺部から構成される
草野は臼石とか二枚橋とかも含まれる、館東とか地名があるのももともと大館と飯樋が明治以降合併して飯館村になった。
草野は最初は伊達氏に半分くらい属していた。飯館で何か伊達と争いがあった。
戦山(いくさやま)とかあるのはそのこととかんけいしているかもしれない

大倉は鎌倉から来た南相馬市の鹿島区の岩松氏が大倉を所領としていた。館とつく地名は中世の江戸時代の前の館でありそこが城の役目を果たしていた。
だから館、楯とつく地名がある所は古いのである。
南相馬市だと今の市街を形成した原町の市街は雲雀が原の野馬土手があったところで原っぱだったのである。あそこが中心部ではない、その周辺の深野とかその他が古い場所である。
郷土史というとき村の新旧とか時代を知ることがまず第一なのである。その市町村でどこが一番古い場所かである。
飯館村の場合は草野になる、なぜならそこは上田が多かった、いい田が多かった。
飯館村というと山が多いから山だけのように見えるが広い平地もありそこに田が作られ米がとれた。一番とれたのは草野地域でありそれでそこに人が一番多く住み中心地になった

次ぎに飯樋が飯館村の二番目に人口が多く集中したところである。江戸時代には塩の道の番所があり60人もの役人が勤めていた。そしてそこで伊達藩と相馬藩が森林資源をめぐって争いがあった。玉野では伊達藩と米沢藩と相馬藩が三つ巴で森林資源を争ったことは有名である。飯館村は伊達藩と争う境界であり境目付とか横目付とかが多いのである。
江戸時代でも村と村は自給自足体制で合同しないから境畑とか境がつけば何か村と村の境だった。
飯館村はそうした境の土地だから比曽でも川俣の山木屋に近くそうした争いが生まれる土地だった。山木屋となると三春藩の領域とも接する、山木屋から三春へ自転車で行ったことがあり三春に通じているのである。
ただ飯館村は広いからふりかえってもその地理がわからなくなっている
大倉から佐須から霊山の道はわかりやすいが比曽はわかりにくいし頭の中で位置が混乱している。
高の倉ダムから道なき道というか森の中をゆく道がある。高の倉の奥に行ったら長泥であり通行止めになっていた。長泥は放射線量が高く住めない地域になっていた。
すると高の倉も放射線量は高かったとなる、国見山で7マイクロシーベルとあったからだ

●明治以降の比曽からも原町に通じていたトロッコ(森林鉄道)

明治以降の飯館村の歴史は今に通じる、やはり木材資源や石材や資源がある村としてあった。もともとは自給自足体制経済である。だから交通として馬を利用していたがその飼料となるのは草でも山から供給できた。今なら車でもガソリンが必要になる
馬が足となっていた時代は長い、だから馬頭観音の碑が今でもいたるところにある。
それは明治以降のものであり大正時代以降も多いのである。江戸時代はかえってまれなのである。馬車屋があったように運搬はもっはら馬だったのである。
つまり馬は野馬追いのように軍馬ではなく運搬用とか耕作用として使われていたのである
それが変わったのはトロッコが森林鉄道ができたときからである。この森林鉄道は網の目のように全国にめぐらされていたのだ。例えば浪江の高瀬川そいの岩をくりぬいて葛尾村の落合まで通じていた。それだけ木材の需要とか石材の需要があったためである。
それは原ノ町機関区から蒸気機関車で東京に運ばれたのである。
常磐炭鉱だと石炭がエネルギーとして運ばれた、それから森林でおおわほれているから飯館村は炭焼きをした人は金持ちになり羨まれたとかある。
街でも炭で煮炊きしたり暖をとっていた、自分の家でも囲炉裏があったのである。
すると炭の需要が大きいから山村でも生活できていたのである。
それで大倉の老婆が「わたしは相馬の女学校に行っていたんです、鹿島の親戚の家から鉄道で通っていたんです」と言っていた。
相馬の女学校というとき入れる人は相当な金持ちでありほんのわずかしかいなかった。
たいがい尋常小学校くらいである。自分の姉は頭が良かったから女学校に入りたかったができずに看護婦の免許を東京でとった。看護婦もその頃簡単になれない、東京まで行って試験を受けねばならなかったのである。
まず相馬の女学校出たというだけでこの辺では大学を出たという感じになるお嬢様になるその大倉の老婆はそんな感じは全くなくなっていた。
ただ当時山だと金持ちがいた、山持ちは金持ちになっていたのは木材が利用されていたからである。

いづれにしろこのトロッコはいたるところにあり目だっていたのである。
それで何か自分の姉が葛尾村の親戚に行くとき歩いて行ったことを何度も話していた。
そこでもしきりにトロッコのことを語っていたのである。
そのトロッコで面白いのは高の倉に鉱山があり石炭を掘っていた、比曽の人が働きにそこに行った、
芥川の小説にも「トロッコ」という題の小説を書いている、トロッコはどこにでもありなじみがあった。石炭を掘り出してもトロッコで積み出していたからである。

塵労じんろうに疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………

まさにそのトロッコの道は細々と残されている、その森林鉄道をたどって探すマニアがいる。この時トロッコは坂は馬でひっぱった。原町までは坂道が多いから下るのは楽だったそして街にでて買ったのは米だったという、だから米には不自由しなかったという。
それは闇米で帰りは藁に隠して運んだ、馬にひっぱらせて上って行った。
まだ馬はかなり使われていたのである。森林鉄道というときトロッコであり人力だったのである。
ここで興味深いのは飯館村が米がとれていても比曽とか長泥となるととれるのはわずかでありその米は原町から運んだものだのであった。
要するにあのような山中の村でもなぜ生活がなりたつかというと外との交流があったからである。一見孤立して自給自足に見えても確かに水とか炭とか木材とかで自給していたが塩の道があったように外部との交流なしでは山村でも暮らせないのであるる。
自給自足の村だったというとき基本的なものはそうだが全部はそうではなかった。
その辺が誤解しやすいのである。

うちの母は腸捻転で亡くなったけど亡くなるとき「おなかが痛い痛い」と言ってトロ(トロッコ)にのせて原町に下って各医者を回ったけど手遅れでトロに乗って帰ってきた。その時は死んでいた。
(もどれない故郷ー長泥)

こういう話は全国にあったろう。辺鄙なところでは病気は死につなかる。、北海道の雄冬という地域でもおんぶして子供を連れてゆくうちに死んでいたとか不便な場所はそうなりやすい。救急車もない時代だったのである。
電話一本で救急車が来るということかいかに便利であり助かることか今になるとそのありがたみを感じないのである。人間はそうした過去の苦しみを忘れるのである。
ここでは原紡で働いていたことも書いてある。その時原町紡織は軍需工場になっていた。自分の母親が働いていたときは糸取りであり絹織物を作っていた。
パラシュートとか帆布とか軍服を作っていた。
原紡というときこの辺の中心的役割を果たした工場だった。

今になると飯館村が原発事故で住めなくなったというときやはり原発で働いていた人もいたし山中でも山菜だけをとって暮らしていたわけではないのである。
大内村でも原発から近いから三分の一が原発で働いていたから成り立っていたのである。そこが何か誤解しやすい、今は木材でも国内のものを使わないから何か山村と街とか都会とのつながりを感じなくなっているのである。
そうなると山村はなんであるんだ、都会の人が税金をはらい馬鹿高いインフラを維持しなくてはならないとなり不満になる。
別に炭をエネルギーとしていれば山の清水で水道も使わないし最低限の生活は維持できるそれが今のように何でも電気になれば車でも一人一台もつとなればガソリンも必要になる飯館村だってとても金がないと生活できないのである。
まず飯館村だったら自分は住めない、車がないから住めないのである。買い物すら車がなかったらできないからである。

最近自分はユニットバスを作ってもらったけどこれも水の使う量が増えたりガスも使う量が増えたりやはりエネルギーを多く消費するようになる、でも風呂であたたまってあとは眠れるからいいし運動したあともあたためるといいとなり一旦こういう便利なものを使うとやめられなくなる、車でもそうである。

●飯館村の贅沢は一軒一軒の家が森につつまれていた

ただ自分の場合、別に飯館村に行ったとしても原発事故前はその生活のことを考えなかった。自分が飯館村と一番親しい場所は大倉から入った人も住んでいない森となっていた地域である。そこには森に隠され清流が流れていたのである。
あそこは人の手が入らない神秘的な場所だったのである。そこには大石があり春にはキクザキイチゲが残る雪のように咲いていたのである。
そこが自分にとって一番印象的な場所だったのである。
それから高の倉ダムから長泥や比曽に出る場所も長い森の道で暗い、夏でもそこは影なして涼しいとなる。そういう場所があることが何か心に安らぎを与える
それをイメージするとき心の中にやはりその奥深い森の影が反映されるのである。

飯館村の一番の特徴は何かというとき、何か目だったものがないのだが深い森の村だったとなる。そして一軒一軒が森の中につつまれるようにあった。
それが贅沢だなといつも見ていたのである。都会のようにこの辺の街でも街になると家々が接して狭いからである。
一軒一軒の家が広い庭と森につまれてあったのである。だからそのことがかえって贅沢なのである。
東京辺りだと電車にのるのも満員電車でぎゅうぎゅうづめになる、田舎だったらこの辺だったらがら空きとかなる、それが贅沢なことなのである。
ただ反面経済的活力はなく「死者の眠る街」と書いたが生者も眠る街になってしまうのが問題なのである。田舎の方がエネルギー効率が悪いというのもそうである。
人が集まりすめばまとめて住めばそれだけエネルギーは効率的に使える
飯館村のようにあんなに広いところにぽつんぽつんと家があり住んでいればエネルギー効率は悪くなる,でもそういう場所に住むということは都会から見れば贅沢なのである。

田舎の良さは本当はそうした自然と一体となり生活を充実させることにあった。それは別にそういうまでもなくそういう暮らしをするほかないのが田舎だった。
最近だからここに一本の樅の木がある、その陰に隠されるように家がある、街から離れているから農家だとなるが今は必ずしもそうではない、でもこの一本の樅の木が真っ直ぐにたっているとその陰に家があるとき村や町でも支えているのは農家であったとか意識する飯館村などはそうした道々でも木がいくらでもある。
そうした自然と一体化するアイディンティティ化するのが田舎なのである。

一本の樅のすぐに立つ冬の陽の没りて陰にそ家のありしも

樅の木は田舎ではどこにでもみかけるのである。飯館村では奥の誰も入らないような所に重厚な樅の木があった。それは古い神殿の石の柱のように見えたのである。
飯館村のような所になると一軒一軒の家に重みがでてくる。存在感がある。
都会にはとてもそうした存在感を豪邸に住んでももていないのである。
家はなにか家だけでは成り立たない、見晴らしのいい場所とか自然が反映する場所に建っていれば価値は百倍にもなる、それが都会には得られないのである。
飯館村には古い家が残っているというときそれは森林があり木材が豊富だから作れた。
自分の家も木材は橲原からとられたもので柱もいいものだという、飯館村などになると大黒柱になりさらに重みがあるものとなる
だからそういう家から離れるのは捨てるのは嫌だともなる。

●万葉集の歌から飯館村をイメージする

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

右は、聞かく「左大臣長屋王(ながやのおほきみ)の佐保の宅(いへ)に御在(いでま)せる肆宴(とよのあかり)の御製(おほみうた)なり」といへり。

板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ちて参ゐ来む

黒木取り草(かや)も刈(か)りつつ仕(つか)へめど勤(いそ)しき奴(わけ)と誉(ほ)めむともあらず

これらの万葉集の歌は飯館村をイメージすればイメージしやすいとなる
現実にそういう古い家が残っていたしその材料は身近にありとることができた。明日にでももってこようというのはそのためである。
そういう自給自足の中での生活の充実があった、でも反面すでに自給自足でもそれが豊だと意識しないということもある。
その土地の黒木でも草(かや)でもとって働き仕えてもほめてくれないというのはそのことだろう。何か別なことならほめるとなる、現代なら米などありあまっているとか米を作る人などほめない、余って困っているんだとかなるだけなのと同じである。
減反政策などもそれと通じている、つまり都となればそれだけすでにそうした黒木であれ草(かや)をとっても価値ある労働とはならない、別なものが価値あるものとなる。
それは今なら車とか電気製品とかいろひいろありすぎるから米は価値がなくなる、木材でも外材になり価値がなくなる、それで本来の価値が自然と一体化した生活の価値が低下させられる、それが高じて原発を作り事故になり飯館村のような所が最大の被害地になったのである。

●までいなとは(真手とは)

飯館村ではまでいな村作りを盛んに言っている、でもこのまでいなとは何か?
ていねいにおそろかにしないということである。
片手だと何か軽くなるが両手だと真心をこめて対処するとなる
ただこれはどういうことなのか良くわからない面もある。

「左右手」を「まで」と読ませています。この謎を解いて下さい。


(答え)「ま」=「真」で「完全なもの」。「左右手(両手)」で「真手」となるわけです。普段から両手で何かすることを「真手(まで)」と言っていたのでしょう。それを「〜するまで」という助詞の用法に当てはめたのです。

「諸手」「二手」で「まで」と読ませています。

◎左右の臣。羽の臣。鏡臣と剣臣。

『あまのこやねと ものぬしと まてにはへりて みちものへ』ホ27
『おしくもと くしみかたまと まてにあり たねこはみこの おおんもり』ホ27

「まつ(和つ)」の名詞形。
ここでは「A: 合う/合わす・匹敵する・対になる」などの意。
また「まつ(和つ)」+「て(方・手)」の合成。

原文: 大海尓 荒莫吹 四長鳥 居名之湖尓 舟泊左右手

作者: 不明

よみ: 大海(おほうみ)に、あらしな吹(ふ)きそ、しなが鳥(どり)、猪名(ゐな)の港(みなと)に、舟(ふね)泊(は)つるまで

・・・・まで(真手)は待つことにも通じている、しながとりとは何か悠長に待つものの例えかもしれない、嵐よ、吹いてくれるな、猪名(ゐな)の港(みなと)に、泊つるまでは吹いてくれるな、何かそうした祈りみたいなものがこの歌にはある。
歌は祝詞でもあったからそういう言霊の祈りとしての歌が感じられる
両手を合わせて祈る姿なのか、真手というとき真直 (まなお )とかもあり大和言葉の原始性があるのかもしれない

これを現代的心境にこの辺をイメージすると津波だ原発事故で避難したり翻弄されたが嵐にあったが港に船は泊まりそこで休みたいともなる
ただその港に住んでいた村や町に帰れないということにも通じている
ともかく万葉集には一つ一つの歌に深い意味があり日本の自然と一体化したもので同じものが作れないことにある。

飯館に我が帰りたしも帰れじに時はすぎゆく今年も終えむ

こんな心境にもなる、いづれにしろ飯館村がどうなるのか?草野辺りにコンパクトシティ化タウン化して生き残るのか?
二千人くらいの規模蜷というがそれまた村を維持することは容易ではない、老人は帰りたいと言ってもそれを支える若い人が流出したことが致命的なのである。
それは限界集落とにているのである。飯館村だけの問題ではない、全国的な地方の衰退が極端なものとしてこの辺で津波と原発事故で起きたのである。

タグ:飯館村
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2017年04月05日

避難解除した飯館村の春をめぐり短歌十首と俳句


避難解除した飯館村の春をめぐり短歌十首と俳句

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真野川の上流
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根元石
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根付き石-ここには人は住まなくなった

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滑の残雪
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クリック拡大ー残雪の吾妻嶺
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森につつまれ一軒一軒ある家
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クリック拡大
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前田の古い碑ー江戸時代のもの 

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前田の墓地にあった老木、

俺はここに残って死にたいんだ

そんな執念のような木に見えた


 


大倉や春の日さして根元石
飯館にまた人住まむ春の雲
春北風(はるきた)や峠を肥えて伊達に行く
前田には古き碑並び残る雪
春日さし老木の墓地に残るかな
飯館に春田のなしも悲しかな
春日さし石あたたむる動かざり


川上の春の流れの清しかも瑞枝の影のやわらきかな
清流の磐打ちひびき流るかな残れる雪のここに清しき
天上に浮かびしごとく残雪の吾妻峰仰ぐ神々しかも
山津見の社や遠く奥深し残れる雪に住む人ありぬ
知られざる道に誘われ春の日や遠くに行かむ山を望みて
八石山石切り場かな飯館に営みありて春の日さしぬ
前田より開けし土地や古き碑のここに並びて梅におい散る
広々とと飯館めぐり春の日や深く息して帰りけるかな
飯館の広々として春の鳥さえづりつつもわたり飛ぶかな
根付く石ここ離れじも淋しか春は来れど人住まぬ家
飯館に春の灯ともれ人影にほのぼのとして村も活きなむ

飯館の佐須から霊山に行きまたもどり山津見神社から八つ石をめぐり前田に出て臼石から草野を回り大倉から真野川に出て帰ってきた
つくづく山津見から前田の方には行ったことがない、飯館村は本当に広いからまだ行っていない道がある。
前に阿武隈高原の魅力が道にあると書いた、道が縦横にありどこまでもある。
その道を春の日がさしてきままに誘われ自転車で行くとき気持いいのである。
ただ介護十年で自由が奪われたので行けなかった、三食用意するとなるといつも追われていてゆっくりできないからである。
いつ帰ってもいいなと思うと楽であり追われることもなくなったのである。

飯館村は奥深いからところどころまた雪が残っていた、やはり寒い所なのだと思った。
あたたかくなったから雪は残っていないと思ったからである。
ただ最近まで寒い日があったから雪が残っていても不思議ではない
佐須から峠を越えて伊達市に入り霊山から望む吾妻峰は雪が厚く最高の景色であった
山は見る場所によって相当に印象がちがう、季節によってもそうである。
福島市から吾妻嶺を見てもそんなに美しく見えないのである。それも富士山でも同じである。場所や季節によって山の見え方は相当に違うのである。

今回は大倉の奥に木の根元にあったから根元石とか草野から大倉に出る所の石は根付き石とかなづけた。ぽかぽかと春の日がさしていた、そして石はそうして春の日がさして気持ちよく動きたくないとなる、老人になると特に動きたくなくなるのだ
「ここがいいな、ぽかほか春の日にあたたまって」とかなる
老人になるとそうして慣れ親しんだ所がいいのであり移動するのが不幸になる
だから大内村とかで70ハーセントも帰るとか飯館村でも30パーセント帰るというとき老人が多いからだろう。老人は慣れ親しんだ所に帰りたいのである
原発事故の酷さはそういう場を奪ったことにもあった。老人に過酷だったのである。

ともかく飯館村は何軒か避難解除になって住む人がいた、でももう住まない人もいて空家になっている、根付き石の所にある家も壊されていた、人が住まないということはどういうことになるのか、そして普通だったら春田になっている、春田というときこれから田に水が流れて田植えがはじまるという時期の田であり単なる荒地ではない
今はその春田がなく荒地になっている、そういう暮らしが消えるときそこは何なのだろうとなる、飯館村は広いから牧場とかあり土地が広いからそこをどう利用するのかとなる
ソーラーパネルとかになりやすいのである。

次回も飯館村に行って感じたことを書く
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2017年04月06日

飯館村考(歴史をさかのぼり現状をみる)


飯館村考(歴史をさかのぼり現状をみる)


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●みなみそうま(南相馬)と記された古文書があった

真野川をさかのぼり真野ダムにでる、そこは大倉である。ここは岩松氏が相馬氏などが関係して岩松氏が滅ぼされてその奥方が逃げた場所であり湯舟とかの地名が残っている
奥方が妊娠してそうなったとかある。大倉に逃れてきて悲劇の死をとげた。
草野は岩松氏の所領にあった。ただ相馬氏の岡田氏とか伊達氏もかかわり所領争いがあった地域である。前は大館とかがあり中世の館があり飯樋問と大館が明治に合併して飯館になった歴史がある。

地名にも歴史があり由来がある。面白いのは相馬岡田文書に

ゆつりかわたすそうまの小次郎たねもりのあとの事

下総(しもつさ)のくに、みなミそうまのうちいつみ(泉)のむら、ならひのむつのくになめかたのこおりおかたのむら(岡田の村)、このところは五郎たねやすそうりょうしきとして永大知行すべし


しもつさの国ミなミそうまのむら、かなやま(金山)、かミやなと、ふなつ(船津)
ならひにミつの国なめかたのこおり(郡)おかたのむら(岡田)やつうさぎ(八兎)
いといのかりくら、(飯樋、狩倉)かのところはたねやすちうたい(重代)さうてん(相伝)のしりょう(私領)たる間・・・

ここにみなみそうま(南相馬)として出ていることである。すると南相馬市の由来はここにある、ただその領域は小高中心なのである。
もともと小高に相馬氏の城がありそこが相馬氏の中心であり拡大した、それで鹿島はその小高から北であり北郷となっていたのである。当時のみなみそうまとは小高中心であり原町の領域、中ノ郷は入っていないのである。
ただ歴史的にみなみそうまというのが古文書に記されていたことは重要である。
ではなぜみなみそうまなのか?この時むしろ北を意識してみなみそうまと記したのだろうか?わざわざみなみそうまと記すのはなぜなのか?
つまりみなみそうまとは今の南相馬市とは領域が違っている、原町(中の郷とか北郷(鹿島)は入っていないのである。小高を南相馬としていたのである。
ただすでに南相馬市(南相馬)という名称があったということである。
すると南相馬市は歴史的地名なのかとなる。ただこれがどうしてみなみそうまになっていたのか?その解明が必要になる

●伊達市になったとき感覚的その領域が拡大した

伊達市というとき

1898年(明治31年)1月19日 掛田村が町制施行して掛田町となった。
1928年(昭和3年)1月1日 小手川村が町制施行して月舘町となった。
1940年(昭和15年)4月1日 長岡村が町制施行して伊達町となった。

2006年(平成18年)1月1日 伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町が合併して伊達市となった。

伊達町があったとしてもその前に伊達町はなかった、長岡村だったのである。伊達市というとどうしても伊達政宗をイメージする、相馬市とか南相馬市だと相馬氏を意識するようになった。
それで佐須の峠を越えるとき伊達市に入るとなり感覚的に前とは違ったものとなる
前は霊山町だったから霊山神社があり南北朝の由来にもとづく地名として意識していた。た、伊達市になると南北朝時代から伊達政宗と相馬氏が争った戦国時代になる。
ここから伊達市に入るというとき伊達政宗の時代を意識するのである。
それが地名の大きな影響なのである。もともと

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に

といわれたように境が意識されていたし現実に境があった。飯館村では岩松氏の所領ともなり相馬氏の所領ともなり伊達氏も領地争いにかかわっていた。

「草野通率一族」とあるように相馬一族のものが草野村の一部を所領していた

「草野通」とあるようにこの村を一筋の道があって行方郡と伊達郡(小手保9を通じて知られていた

これは地理的にも今でそうである。原発事故避難区域になっていてもこの草野通だけは交通として閉鎖されず通じていたのである。これはやはり地理がわからないと歴史も理解できないのである。

●前田は草分けの地、注意すべき戦後入植した人たちが多いこと

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前田 
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豊栄は戦後入植した地名


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ここに入植した人が住んでいた

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山津見神社から前田に出たが前田というときそこは必ず草分けとなった農家がありその前田から村が発展したのである。
前田には江戸時代の古い碑が並んでいたことでもわかる、他でも大原の前田という地域は大原の奥にありそこに南相馬市立病院で同室だった斉藤氏が住んでいた。
その家は代々つづいた古い家だったのである。その人はすでに死んだ
その前田からさらに八木沢の方へ遠田という地名があることでも前田を中心にして大原があり拡大したことがわかる

佐須というとき佐須は焼き畑の地名である。他にヒソとかもそうだった。最初に入ってきたのは焼き畑をする人たちだった。縄文時代から人は住んでいてもそのあとは焼き畑をしていた。飯館村というとき何か新しい感覚になるけど古い村から成り立っている

比曽村には氏神を祭る社があり中に古い鉦が下がっていて延亭2(1745)年の年号と先祖の菅野伝左衛門の銘がありました

比曽村にこんなに古い由来があったのかと驚く、ともかく飯館村は広いのである。
何十年も前に一回くらいか比曽村とか長泥村を通った記憶がありそこにも古い碑があったのである。
葛尾村にも元禄の碑があったからあそこも古い、草野になると鎌倉時代からはじまり館がありそれが今の飯館村になっている。

ただここでまぎらわしいのは飯館村の人口をみると

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戦後開墾に入った人たちが多くそれが混同しやすいのである。一万人近く飯館村の人口があったことに驚く、それは戦後引揚者が生活の場がなく農業で生活するために辺鄙な山村にも入ってきたからである。
例えば自分が知っている人でも小池でも町に近い所に開墾に入っている、菅野漬け物の倉があったところにである。そんなところが開墾する場だったのかとなる
それだけ戦争が終わり仕事がなく開墾に入った歴史がある。
それは全国的にそうであり浪江の津島でもそうでありそれで苦労したので団結力があると報道されていた。
第一一万人も飯館村に生活していたということが驚きなのである。どんな生活をしていたかとなると相当に貧しい生活である。炭焼きとかが主流となっていたのだろう。
それは現金収入にもなり豊になった人もいたからである。
あとは木材とか石材の供給地でありそれなりに生活できていた。その後は牛を飼うようになった。

この戦後入植してき来た人たちは山村に多いことを注意する必要がある。飯館村でもそういう場が多いからだ。豊栄とか共栄橋とかの地名は開墾に入った場であり昔からある地名ではないのであく。戦後開拓に入った人たちがなづけた地名である。
それで豊栄辺りで聞いてみたらやっぱり戦後開墾に入ってすみついた人であった
その人はそこに避難解除になり住んでいる、息子は川俣の会社に勤めているという。
もともとは農家であり牛などを飼っていた。
今飯館村で仕事しているのは菊地製作所とかの小さな工場である。他は仕事をしていない
牧場があり牛が放牧される広い土地がありそこは何にも使われていない、そこがこれから何に使うのか?ソーラーバネルとかになりやすいのである。
すると飯館村の景観は破壊されるし昔の飯館村とは違ったものとなる

飯館村のモニタリングポストでは佐須とかで0・6とかある、でもモニタリングポストの放射線量は実際の半分なのである。なぜなら土をけずりとって設置していたからである。
自分もその脇を計ったら倍だったからである。
そもそも名もあのヴらなモニタリングポストが必要だったのかとなる、放射線量をごまかすためにかともなる、それも本来の復興のために金が使われなかったということなのである。
ただ飯館村はもともと放射線量が高かった、草野で7くらいもあった、だから今でも0・6とあっても実際はその倍にもなるとなると今では相当高いともなるからそこに住むのが嫌だというのが理解できるのである。
それで裏山の木を切って除染したのに一億円かかったというときその一億円をもらった方がいいというのもわかる。除染してもまた山から森から放射性物質がでてきて減らないからである。だからなんのために除染しているのかとなる
無駄な金かゼネコンに流れただけだともなるからだ。

それで村に居残る派と補償金をもらい村を出る人に分かれ争いになった。
ただそうなると一体江戸時代からある古い村はどうなるのか?元の自然に環るのかとなると還らない、そこはソーラーバネルとか放射性廃棄物の処理場とかにされる
なぜなら土地をもっている人がいるしその人たちに権利があり金にしたいとなるからだ
ただ荒地にしていても金にならないからである。
小さな工場だけが仕事しているというとき農業ができないからである。
農業がない飯館村がイメージできない、ソーラーバネルを見るだけとなったら飯館村の魅力はなくなる。だからこれからの村造りをどうするかとなるとその解答は簡単に出ないのである。
でも何軒かは人が住みはじめたから人が住まないことには村も活きてこないのである。

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佐須で0・7は高い、この倍にはなっている
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