2012年06月07日

現代の万葉集の意義 (自然から離れた都会はカルトの温床)


現代の万葉集の意義

(自然から離れた都会はカルトの温床)



現身(うつせみ)は数なき身なり山河の清(さや)けき見つつ道を尋ねな


渡る日の 影に競ひて 尋ねてな 清きその道 またもあはむため.


水泡なす 仮れる身ぞとは 知れれども なほし願ひつ 千年の命を  大伴家持


日本人の心の根源に万葉集がある。万葉集は日本の風土と一体化したことに意味があった。現代では日本の風土と一体化する、アイディンティを求めることがむずかしい。どこの国でも自然と一体化することが神を尋ねる道である。ビルと車の騒音なのかで神を求めること尋ねることができない。
結果的に宗教は政治化して経済化してカルト化する。オウムも異常なものに見えてもやはり現代という環境が作り出したものである。その中で有為な青年が今や五十代とかなりその青春を浪費して人生を浪費した。古代のように自然の中に道を求め尋ねていたらこうはならなかったろう。結局文明自体の歪みがオウムであれ創価であれ様々なカルト団体を生み出ししているのだ。自然の山や岩や樹とかに自己をアイディンティ化したら自己同一性を求めたらあのようになることはなかったろう。
これは原発の安全神話にも通じている。これも一種のカルトだったのである。科学を絶対化して科学者にだまされたのである。科学者も科学を宗教のように絶対化した詐欺師だったのである。


万葉集の意味は時代によっても違ってくる。戦後は大君、天皇への忠誠心として過剰に天皇礼拝になりすぎたのである。大伴家持の大君への極端な傾斜は古代ではやむをえなかった。それが明治維新で過剰に利用されたのである。江戸時代まで天皇は京都で貧しい生活をしていた。それが明治維新で過度にもちあげられすぎたのである。それが皇国の戦争へとなり多大な犠牲ともなった。でも万葉集のいい面は庶民まで歌っていることであり権力者だけのものではなかった。そこに国民的最古の古典としての意味があった。日本の風土と一体化したものとして残ったのである。

尋ねるべき所はどこかなのか?今や寺院や神社を尋ねてもそこに仏も神もいない、キリスト教の世界ですら大聖堂を尋ねたとしても神はいない、シナイ山にもエホバはいない、神の居場所は移動するのは結局人間が入り込んでくると必ず汚されるからである。必ず宗教の場は政治や経済の場に変貌するのである。そこで心を清めることは不可能である。今はエホバは神はヒマラヤの最高峰に住んでいる。ヒマラヤは未だ汚されない場所だからである。イスラエルが聖地だとしても実際は違っている。
誰にも人間によって汚されない場所に神は住む。それはもはやヒマラヤにしかないのである。


大芦とか地蔵木のことを秘境として語ったが江戸時代はほとんどの地域が秘境だった。隣村すら未知の世界であり秘境となっていた。村と村は交通も歩くとか馬とかだからそんなに行き来しない、閉ざされて住んでいたのである。だから明治になっても民情が違うから合併しなかったとかなる。どこでも村は自給自足が基本であり交流しなくても基本的に所では生きていけたのである。今は地球の裏側からものが入らないとかで大騒ぎになるのとは大違いである。どんな山の中でも交通が発達していないから自給自足が基本だとすると人が入らない秘境が普通にあったのである。そんなものを探す必要もない、いたるところが秘境だったとなる。

 


飛鳥から吉野川右岸の竜門山中にある山岳寺院、「竜門寺」を訪ねた時のこと。
彼が残したという漢詩が、日本最古の漢詩週『懐風藻(かいふうそう)』に、収められている。


命駕遊山水
長忘冠冕情
安得王喬道
控鶴入蓬瀛


この詩は葛野王の心境を吐露したもので、「馬車を命じて竜門山の山水に遊び、しばらく高官高位の身にある煩わしさを忘れたい。この竜門山で王子喬(中国の仙人)のような仙術を会得して、鶴に乗り仙人が住むという蓬瀛へ行きたい」というものである。葛野王は、慶雲2年12月20日(706年1月9日)に薨去しているので、これ以前から龍門山は神仙的または霊場として認識されていたようである。

蓬瀛は奈良の都のすぐ近くにもあった。今とはまるで違った環境だからそうなっている。葛野王は政治的争いのただなかにありそこから逃れたいということでこの漢詩を作った。ところがそういう所で生活する人がいたしその人たちはまさに蓬瀛に住んでいたのである。ただその生活は不足が多く苦しいものだった。大芦とか地蔵木もそういう場所だったしどこでもそういう場所はいたるところにあったのである。ネパ-ルなどもあんな高いところ高い所に住むほかなかった。まず天に住むほかないくらい高い所に住んでいることに驚く。それだけ耕地がなかったということである。

葛野王は逃避の場所として蓬瀛を求めた。第一馬車に乗ってというのが贅沢だとなる。空想的なものとして心の中でそういう場を逃避の場を求めたのである。


現身(うつせみ)は数なき身なり山河の清(さや)けき見つつ道を尋ねな


渡る日の 影に競ひて 尋ねてな 清きその道 またもあはむため


人間は都会で道を求めてあうことありえない、ただ政治として権力としてもともと奈良の都でもあり現代はけたはずれの大規模なものとして都会がある。そういうところに道を求めること自体、本末転倒もいいところであった。仏教も結局、政治権力化して堕落したのは奈良時代からはじまっていたのである。京都が寺の都となったときもそうである。あらゆる権力が寺院に集中した。それで信長はその既得権勢力をつぶしにかかったのである。職人でも寺院に仕えているからその職人を安土城などで働かすには寺院勢力から奪うほかなかった。


近江国内には比叡山延暦寺をはじめ、多くの有力な寺院があり、それぞれが石垣や瓦の技術をもった自前の普請集団を抱えていました。近江由来の石垣といえば、一般には「穴太衆」や「穴太積み」などとして知られていますが、「穴太」とは比叡山の麓にあった地名であり、「穴太衆」とは近江国内に散在する石垣集団の1つに過ぎなかったものと、今では考えられています。
http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.turedure4.htm

職人も寺院の権力の下にあった。だから僧侶の権力集団から職人を奪うほかあの安土城も築城できなかったのである。
万葉集の意義も時代とともに変わってくる。戦争中はどうしても大君への過度な忠誠を換気するものとなり悲劇を生んだ。万葉集にも政治的なもの色濃く反映されていた。国家神道が神道でないというときそうだった。神社がすべて皇統の中に組み入れられたのも神社が権力化されたのである。一方で日本の自然と一体化したアイディンティ化したものが読み込まれていた。千歳の命を望んだときやはり岩のように長くありたいということがあった。それは自然な人間の心である。極最近まで長く生きること自体が価値があったのである。五十くらいで死んでいたときは長生きの価値は大きかったのである。長生きするとその土地と一体化してゆくのが人間も生物だから同じなのである。都会で今やアイディンティを求めることは至難である。だからカルト化した政治化した科学化した経済化したものがアイディンティとなる。自己同一化になる。それが極端化したものがオウムであり創価でも幸福の科学でもやはり根は同じなのである。


 

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2012年06月19日

地名のイメ-ジ力-万葉集の衣摺 (吉原と聞けば何をイメ-ジ)


地名のイメ-ジ力-万葉集の衣摺

(吉原と聞けば何をイメ-ジ)


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吉原はもともと現在の日本橋人形町近辺にありました。このあたりは当時誰も住んでいないアシばかり生えている沼地で、昼間でさえ強盗が出るような荒れ地でした。それで売春窟でもつくれば、ちょっとはましな土地になるだろうと、吉原が開設されました。アシばかり生えてる原っぱ、アシは「悪(あ)し」に通じるので「よし」と言い換え、「よしはら」になったというのが通説です。その後、吉原は現在の場所に移るので、移転前を「元吉原」、移転後を「新吉原」と呼ぶようになりました。
http://www.tanken.com/yosiwara.html


津浪の跡は葦(ヨシ、アシ)になった写真を出した。それはもとの自然状態にもどったのだ。そこにヨシキリが鳴いて巣を作ろうとしている。そこはもともと人家は少なかったから人家が密集しているような津浪の跡のようにはならなかった。砂浜にうもれ葦が茂り風にさやいで海からの風が涼しい、ところどころ湿地帯になりそこに花が咲き生き物がすむとそこは北海道とにているのだ。
自然にもどるということはそこがもとの自然の美におおわれるということでもあった。

ところが神戸とかの大都会だと地震の跡は自然に埋もれたりしない、人工化された世界だから建物の崩れた山と化す、人口の密集した市町村ではそうなっている。石巻とか大きな市だとそうなっている。ただ津浪の被害は海が前にあるからそこが自然なのでありその自然は変わっていない、海の景色は変わっていないのである。東京辺りで大地震があり津浪の被害があったからあれだけ家が密集しているのだからその被害は無残なものとなる。そこが湿地帯とか草原とか砂にうもれることはない、
瓦礫の山が延々とつづく、醜悪そのものの地獄絵図になる。


人間社会はすでに地名一つとってもすでに汚れたものがしみついていることがわかった。吉原というとき何か繁華な色街となりそこからエロが発散してくる。今なら客引きして外国人があふれている新宿歌舞伎町のようになる。吉原もいきな風流の場所としてあったことは違っていてもやはり吉原というと極めて人間的な欲望のエロが氾濫しているようなイメ-ジがこの地名からあふれているのだ。

吉原からすでに葦の原という原始の状態をイメ-ジできないものとなっていた。地名はもともとそういう原始の状態から名づけられたものが多かった。田の場合はたいがい田になる以前の原始のままの自然の状態に田がついたのである。葦は吉田となり芦田となったりと無数にそういう地名が田にはある。まだ田だからそういう地名は遊廓化した吉原とは違っている。原町というと今はどこでも市街になっているから原っぱだったということをイメ-ジする人はない、前の原町市もそうである。でも実際はそこは野馬追いの牧だった、原っぱだったのである。


それは「地名」が、始祖の神が降り立ったということによって名づけられたものだからです。つまり「地名」は、「神話」に裏付けされてできたものと考えられたのです。


飛鳥-明日香とうとき何か意味がわからないにしろ美しいものをイメ-ジする。名から人をイメ-ジするように人間は地名からまず言葉からイメ-ジする。知らない地でも言葉から地名からイメ-ジする。百伝う磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 大津皇子これも半分が地名であり地名が喚起する歌であり万葉集には地名から喚起するきが多い。地名自体がすでに大きな意味をもっていた。「みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎」これはすでにみちのく-真野が地名でありさらに草原(かやはら)が地名だとしたら半分が地名である。それでもこの歌の意味は歴史的にも大きな意味をもっている。

現代はすでに地名の喚起力が薄れている。地名の基となったものがすでに都会では失われているしないのである。だから地名だけからイメ-ジすることがむずかしいのである。


 『衣摺』は、古くは“きぬずり”と読んだともいい、地名の由来は、布に模様を染める技術をもつ人たちが住んでいたからではないかと言われています。
 この近くの大阪市には鞍作(くらつくり)、八尾市には弓削(ゆげ)という地名が残されていて、古代に、物部氏がこのあたり一帯に大きな文化圏を形成していたようです。
http://www.do-natteruno.com/con_c/c82/c82.html


月草(つきくさ)に衣ぞ染むる、君がため、斑(まだら)の衣、摺(す)らむと思ひて 大伴家持


摺をする渡来人の部民集団が住んだ所となる。それなりに古い家があるとしてもやはり万葉時代とはあまりにも違っている。月草と露草であり辺りには露草が一面に繁茂していたのだ。これはかなりの量がとれる花である。そういう自然のあるところに自ずと月草を染料にする部民が住み着いた。そういう材料がないところには住まないのである。とういうことは自然の中に地名も生まれていたのである。ただ機織りというと戦前までは家々でしていたのである。だから機(はた)の音が聞こえていた。それが工場化したときそうした風情も喪失したのである。地名はそういう素朴なものから生まれている。それが都会化したり工場化してイメ-ジがまるで違ったものとなってしまったのである。


いかるがのさとのおとめはよもすがらきぬはたおれりあきちかみかも 会津八一


これもリアルな現場から離れ空想的にイメ-ジ化しているのだ。会津八一の歌はそうしてできた。
詩的にイメ-ジした回想なのである。万葉集はそうした詩的イメ-ジとも違う、大地に根付いた生活感あふれたものであり現実だったのである。君がためというときも具体的な相手がいて機を織っているのである。万葉集の歌は空想ではないし回想でもない、当時の生の現実をそのまま歌っていた。それは美として作られたものではない、美そのものが現実だったのである。月草と言った時、それは具体的な自然の素材を利用するものでありそういう日々の仕事中から極自然に生まれた歌なのである。
だから現代ではそういう歌は作れないのである。

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2012年06月21日

岩井の水を飲めどあかぬかも (便利な文明の生活は災害に弱かった)


岩井の水を飲めどあかぬかも

(便利な文明の生活は災害に弱かった)


馬酔木なす栄えし君が穿《ほ》りし井の岩井の水を飲めどあかぬかも 巻七


山の井の清水を飲みて今になお暮らせる人やここにいつきぬ



馬がこれを食べると苦しむので馬酔木という名前がついたということですが、本当に馬が食べる訳ではありません。


馬酔木(あせび、あしび)の花が注目されていたのはなぜか?この花は花とは思えない、何かのいわれがあって注目されたのか、実用のためのなのか、そうでもない、馬の餌にもならなかった、害になるものであった。ただこの花に注目していたというのはやはり万葉人だからこそである。素朴なものとして見ていたのかもしれない、馬酔木は歌にする気にもなれないしこれが美しいと思ったことはないからだ。桜が咲いて栄えるなら梅が咲いてでも特に牡丹ならわかるけど馬酔木ではなぜこれが栄えたものの花になるのかわからないのだ。ただ万葉人にとっては馬酔木は栄の象徴ともなっていた。その辺が現代感覚とは違っている。
今でもこの辺では山の方では山の清水を井戸を掘って飲んでいる人がかなりいた。山の水は飲めたのである。牡鹿半島でもあんなに低い山でも裏山から清水が流れて尽きることがないという。震災と津浪で電気がこなくなり水道もとぎれたとき裏山の清水を運んで飲んでいた。なぜ牡鹿半島のような所に住めたのかというとあのように水があったからなのだ。ほとんど田畑も作られなくても水はあったから人はすみつくようになった。日本は水に恵まれていたのだ。だからこそ稲作りが広がった。山の中でも水が豊だから米を作ることができた。


現代の便利な生活は災害に弱い、牡鹿半島とか三陸の僻地でも水道の水がなくても電気がなくても一か月くらい過ごすことができた。井戸の水を清水を運んでいたのである。この辺では水道の水が飲めなくなった所がある。でも電気は通っていたしガスもプロパンガスだから火が使えたから米があったので米をたいてしのいでいた。ノリくらいオカズで二週間くらい過ごせた。あとで米もなくなり地元で配給になり助かった。米があり水があり火があれば二週間くらいは生き延びられる。都会では清水を使うわけにはいかない、いくら水をたくわえていてもどうなるかわからないから都会は災害に弱い。水すら自給できなくなる。皮肉なことだが文明は昔の自給自足生活からすると余りにも文明的な便利なものに頼る生活である。だから一旦災害になりそうした便利なものが途絶えるとパニックになる。車がその象徴だった。車が車だけで何のようにもならなかった。ガソリンが入ってこないから使い物にならなくなったのだ。ガソリンスタンドに長蛇の列となった。この辺はあとあとまで放射能が怖いとか外部から物資が入らなかったのである。その時車は何の用にならなかったのである。
車が今回の津浪でもかえって被害を大きくした邪魔なものに何ていたのである。

人間は車でも石油と不可分にあったから石油なしでは成り立たない文明である。だから一旦石油がきれたらパニックになる。戦争にもなる。それが便利な文明の危険なのである。原子力に一旦頼れば原子力なしでは暮らせなくちなる。それが双葉町の現実である。原発をまだ増発しろとかプルサ-マルを要求したのも双葉町とかでありそれに今の県知事も従ったというからそこるで原発の依存になっていたのである。だから一旦事故や自然災害になると文明は弱いものだった。自給自足的生活をしていれば水があり米があり薪も裏の林にあるから燃料にもなる。電気がなくても一か月くらいならやっていけるという見通しがたつ。都会ではさらなるパニックになる。外から援助が来るまでは相当に時間がかかるからだ。よってたつものがすべて外部頼りであり中にないからそうなる。

そうはいってもここでは相馬市の方は早く回復して電動自転車で買い物に行った。電気があってできたことであるがなんとか自転車でも買い物に行けただろう。来るまでは行けなかったのである。
電気が途絶えることが災害ではある。その用意ができていない、この辺だって燃やすものがないから困ったろう。山の方だと薪があったから放射能に関係なく裏山の木を切って燃料にしたろう。

文明的便利な生活になれていてそれが当たり前となっているときそこに危険がひそんでいたのである。そういう便利な生活がもろくも崩壊するということがある。放射能汚染は水や土を汚染するから田舎では致命的なものとなる。三陸のように山の清水も山の木を燃料として利用できなかったら万事窮すになった。自給できないということはそういうことである。だから東京辺りは地震災害でも想像もつかない空恐ろしいものとなる。便利であるだけにその便利さ故に災害には弱いのである。


馬酔木なす栄えし君が穿《ほ》りし井の岩井の水を飲めどあかぬかも


馬酔木が咲き山の清水があってこそそこは栄えている、その水は飲んで飽きることがない、枯渇することもない、いろいろなものを食べ飲んでいるけどそういうものは金がかかるし一旦災害になったら入ってこない、水だけでもあればそれを基に生き延びられる。
この辺では放射能汚染で水さえ危険になっているから宅配水の商売が生まれた。富士山の水を定期的に買うのである。機械は借りて電気で湯にも冷水にもできる。でも一か月いくらと金がかかる。
それでも水に不安があるから水道の水に加えてそうした心配もしなければならないし金がかかってしまう。水すら水道でも自給できなくなっている。
万葉集時代の方が生活の充実感、豊かさを感じていたともなる。それは自然に根付いて生活していたからである。ただ井戸を掘るにしてもその当時は大変だから栄えているというのはそういう資力があってできた。「岩井の水を飲めどあかぬかも」というとき三陸の方ではその山の清水に助かったと感謝しているかもしれない、今になると田んぼは荒廃して荒地となり水が流れない、その時かつての豊かな水が流れる風景がなつかしく、水ってありがたいなとしみじみ思っているのと同じである。


山のべに桜は咲けり日もすがら代田(しろた)に余る水あふれつつ 東長二


これは歌会始めの当選の短歌だった。生活感覚があふれている秀句である。農民でないと作れない短歌であった。桜が咲き代田が作られ水が張られ田植えがはじまる。そういう光景は別に農民でなくてもあきるほど見てきて当たり前だったのである。でもそれがなくなったときいかに水が貴重であり水なしの世界が荒れ果てたものになるか知ったのである。水あふれつつ・・というのはまさに水の豊さのなかで稲作りが日本では二千年とか行われてきたのである。水に感謝するなどはあまりに水に恵まれているから日本ではない、砂漠のような世界だったら水の一滴は血の一滴だとか現実になっていた。日本では余っているからありすぎるからそんな感覚もないし感謝もしなかったのである。水に恵まれすぎて感謝するなどありえなかったのである。水がありがたいものだということにはなりえなかったのである。

posted by 天華 at 11:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

2012年06月29日

今日の万葉集の一首 (美しい自然と真直なる心があれば嘆くことはなかった)


今日の万葉集の一首

(美しい自然と真直なる心があれば嘆くことはなかった)

豊国の企救(きく)の浜辺の真砂土(まなごつち)真直にしあらば何か嘆かむ


万葉集は日本人と日本の汚されないときのアイディンティティとして作られた。ただ恋だけのものとしたら浅薄であり自分の場合は評価しない、人によって万葉集も評価は違うし見方も違う。
ただ日本の原自然との共感として貴重であった。それは大和言葉と日本の原自然が一体化したものであり今になるとそのアイディンティティは失われた。神道の心は万葉集にあった。

神聖にもみえる人の手の入らない清浄なる真砂土(まなごつち)の上にかしこくも人がある。今でもわずかにそうした砂浜があったがほとんどの砂浜はコンクリ-トの防波堤となり消えた。その防波堤が津浪で破壊されたのには驚いた。そのまま自然にまかせればまた砂浜になってしまうのか?
磯部はもともと砂州であり人が住めなくなって元の原始の状態にもどった。


万葉集の時代の自然にふれたらその感激はいかなるものになるだろうか、日本はこんなに美しい砂浜がつづいていたのかと驚嘆するだろう。あまりにも海岸線の美は人口化して破壊されてしまったのである。その時同時に日本人の心も失われたのである。真砂土がありその心も真直であれば人は嘆く必要はない、これはキリスト教の罪の意識とは違っている。キリスト教の罪の意識は深刻なものであり絶えず生きた動物が犠牲にされて清められていたのである。


日本ではもともと自然がこのように極めて美しいものだった。手つかずの自然はまさに神がそのまま住むような世界だった。どこも神の庭となっていたのだ。日本の自然そのものが人の心を浄化するものだった。だから罪はつつむだとかつつみかくされるとかつつましいとかいう大和言葉が生まれた。つまり自然の美の中に罪が隠されという感覚になった。もちろん人が存在するだけで焼き畑でも原始的生活でも自然を破壊した。だからギリシャでもヘシオドスは人の営みを隠せと言った。自然の中に隠す自然がまだあったのである。今や人間の生活は都会だとむきだしになっておぞましいほどになっている。そこに美はないのである。


どんなに繁栄してもそこに美がなく醜いものがむきだしになっている。そこに日本人の心は養われるだろうか?日本は自然が失うとその心も失うのである。真直なる心は神に通じる心である。真直なる心というとき日本の武道はもともとは真直なる心を醸成するものとして真直なる体と心を作るものだった。欧米のスポ-ツとは競争心とは勝つことだけを主眼とした闘争的なものとは違う。日本の武道は中国とも違う,何か精神的なのがある。日本では神道では道を究めるというとき職人でもそうだった。そういう伝統があったがオリンピックなどでも失われた。何でも欧米化することは古来の日本人の心を失うことに通じていたのである。ではキリスト教は日本人に必要ないのかというとそうではない、内村鑑三とか手島などのキリスト教は日本的な心を基にしたキリスト教なのである。日本的伝統を否定していないのである。ただそもそも日本的伝統といっても神道でも仏教でも賽銭と御布施ばかりを要求する堕落したものしかない、そういうものではない純日本的なものとしてあったものの再生なのである。
その真直なる心が喪失したらいかに文明として豊に繁栄しても虚しいとなり絶えず嘆きの声だけが充満しているのである。原発事故の放射能汚染も日本のこの神聖なる自然を汚したから大罪だった。むしろ神によって原発は忌むべきものとして破壊されたのである。日本の神が怒り破壊したのである。


日本から日本人の心が失ったというとき自然が破壊され失ったことが根源にある。それと同時に真直なる心も失って殺伐とした風景となった。都会には文明の殺伐とした風景しかない、東京にいて心安らぐなどという人はいないだろう。そういう所に人間が住んでいること自体、人間の感覚は麻痺している。美の感覚も麻痺している。もちろんそんなところから美が詩が創造されることはない,歪んだロゴスを喪失した言葉しか生まれない、言葉自体が日本の原自然をオリジナルとして生まれたのだから当然である。結局都会は大規模に日本の神によって地震であれ津浪であれ今回のように破壊されるのではないか?その醜い文明の産物なる都会を破壊するのではないか、なぜかえって風光明媚なみちのくの自然が破壊されたのか?それは次なるもの大都会が集中する西に向かっての警告だった。
次なる大規模な破壊が日本に起こる、それは神の怒りだったのである。


今でも神聖なる場所は意外に身近な所にもある。松島の赤い橋を渡ったところの渚には春になっても雪が残っている。それが手つかずでありあそこにふれるものはいない、だからすがすがしいのである。遠くに金華山も見えて春には気持ちいい場所である。人間には人の営みがなく全くの自然が作ったままの状態の所があるべきなのだ。万葉集時代はそういう場所がいたるところにあった。江戸時代にもあった。だから日本人の心は欧米人より真直だったのかもしれない、欧米人の心は物質的に欲望が深い、奴隷貿易でも世界の富を集めて豊になった経過もある。中国人もあらゆるものを食して人肉も料理の内だったとなるほど貪欲なのである。日本人の心は何か淡白である。それは牧畜民族ではない、漁労民族、採集民族の淡白さが縄文時代からあったからだろう。それはとりもなおさず日本人は日本の特殊な風土によって特別美しい自然によって作られたということになる。日本人が欧米化したときそれにならって好戦的になり貪欲になったのである。日本独自の文明があるというとき、それは日本の自然に根ざしたものでありそれはドイツの文化がゲルマンの森が生まれたというのと同じである。自然にアイディンティティがありそこから深い思想でも文化も生まれたのである。


別に日本だけが美しい場所ではない、ギリシャでも花々は乾燥地帯だから色鮮やかだし南国のジャングルだって美しいしヒマラヤの美はとても日本では創造すらできない神々しいものだった。グロ-バル化の時代は世界の美にふれられる。ヒマラヤに十回も行ったという人には驚く、ヒマラヤに魅せられて50代くらいの若い女性の医師が死んだことがあった。ヒマラヤに魅せられて死んだのである。
そういう死に方もある。ヒマラヤはそれだけの価値があるのだ。日本人だったら富士山を見て死にたいと思ったのと同じである。山にはそれだけの魅力がある。その美はとても文明の構築物の比ではない、ただ日本の自然はやはりまたかなり違った自然であり一つの神の別な創造の産物であった。

日本が一つの海に囲まれた宇宙を形成していたのである。それで江戸時代の鎖国がありそこに日本心の心が養われたことは確かである。それが欧米化や極度な文明化で破壊されたのである。だから豊になってもただ嘆くことばかりが多いのである。伝統が失われることの深刻さは一旦失うと取り戻せなくなるということである。自然もそうだけど義理人情など古いというけどそういうものすら今やなく殺伐としている。金だけが唯一の価値となっている。過去に普通にあったものを取り戻すことができなくなる。その深刻さを考えないで欧米化した。それも浅薄なところで欲望だけを追求するものとして欧米化したから今日の殺伐とした自然にも心にもなったのである。津浪だってだから自然の側からすれば自然のバランスをとることであり清めの作用だったかもしれない、無情といえば無情なのだけど自然に清めの作用が働くことがありうる。それが信じられないとてつもない災害となりうる。それも神の働きともなる。人間の想定外ものもとして働くのが神だからである。


松島の島陰の渚残る雪人しもふれず清しかりけり


松島がもともとは霊場だったというのがわかる。松島の自然は今でもそういう名残は残っている。日本では美しい場所はどこも霊場となっている。松島の歴史はそれだけ古いものなのである。

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夏の松島俳句二十句と写真に御期待!
posted by 天華 at 03:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

2012年07月18日

あしひき--の足は葦だった (みちのくの真野の草原と葦原の謎の解明)


あしひき--の足は葦だった

(みちのくの真野の草原と葦原の謎の解明)

●味真野の味は葦だった


味真野に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ


題詞 (中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌)

越前市味真野地区は、万葉集にゆかりが深い場所です。奈良時代、聖武天皇に仕える女官 狭野弟上娘子と恋に落ち、何らかの理由で天皇より味真野に流された中臣宅守。引き裂かれた二人が交わした歌が万葉集には63首残されています
 


篠山の地名考-「味間(あじま)」


 「味間」という言葉の起こりを調べてみますと、むかしむかし、このあたりは沼地が多く、広大な湿地帯が広がっていたようです。したがって、湿地や沼には、たくさんの葦(芦)が生えていたのでしょう。そうした葦の合間に見えるところ・葦間(芦間)から言葉がなまって、「味間」と呼ばれるようになったという説があります。
兵庫県文化財保護指導委員  大路 靖

「味鴨」とは別に「葦鴨」という名詞を使った歌もあります
これは葦の間にいる鴨ということで使われています

味真野というとき葦真野だったのである。真野という地名があるとき味は葦は一体であり真野の前に葦があったのである。だから味真野-葦真野という地名が生まれた。真野の原風景が葦真野だったのである。


みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎


みちのくの真野は味真野-葦真野でもあった。真野とつけは葦と一体でありそういう所に真野がつけられたこともありうる。味真野という地名が原風景の地名なのである。でも真野だけではない、日本の原風景が葦原だったのである。


我が聞きし、耳によく似る、葦(あし)の末(うれ)の、足ひく我が背(せ)、つとめ給(た)ぶべし

意味: 話に聞いた通りに、葦(あし)の先のように弱々しい足を引きづっているあなた、早く直してくださいね。


家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも

番号 20/4419
題詞 (天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)


【語釈】◇葦火 葦などの草を燃料として焼く火。山国でない武蔵国の庶民にとっては、炭は高価な燃料であった。◇恋しけ思はも 「恋しく思はむ」の東国訛りであろう。


万葉集-葦の歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/flower/asi.html


あしひき---という枕詞は葦引きであり葦をひきながら進むことなのである。あしひき---とあったら必ず葦をイメ-ジしなければならない、


「天地[あめつち]初発[はじめ]の時、高天原[たかまのはら]に成りませる神は……次に国稚く浮脂[うきあぶら]の如くにして、海月[くらげ]なす漂へる時に、葦芽(あしかい)の如く萌騰[もえあが]れる物……」


日本の原初の状態はこのような状態であり一面の葦の原だった。葦火焚けども・・・これは葦を燃料としていた時代があったのである。筑紫ではすでに炭があったから先進国であった。外国の技術が入ってくる場所だった。それを対称的に東国の防人が故郷では葦火たいていると歌ったのである。


しらぬひ 筑紫の綿は 身に付けて 未だは着ねど 暖けく見ゆ


沙弥満誓(笠朝臣麻呂)


この歌は筑紫が外国文化の入る先進地帯だったことを示しているのである。
    
●葦原と草原(かやはら)の謎


岡山市北部のごく限られたエリアでありながら、重要な文化財が集中する足守地区。
足守の地名は、古くは日本書紀応神天皇二十二年(推定五世紀初頭)の期に「葉田葦守宮(はだあしもりぐう)」の記述に見られます。「葦守」が「足守」に転じており、「葉田」は「秦」を示します
古代足守郷に勢力をふるった賀陽氏の名が刻まれていますが、宮を創建した吉備仲彦は香屋臣(かやおみ)の祖。その血統が賀陽氏に引き継がれているといいます。

http://www.city.okayama.jp/kitaku/asimori/asimori_00001.html


みちのくの真野の草原(かやはら)は伽耶(カヤ)の国に由来するという考察をした。なぜなら草原郷(かや)となるときそれがこの賀陽)かや)とか香屋臣(かやおみ)の祖に由来している。カヤはこの渡来人からのカヤであり萱が繁っているというのではないと考察した。沙弥満誓は笠氏だから笠女郎の父親であり笠女郎の故郷は吉備の萱(カヤ郷)の出で笠氏は賀陽(かや)からの帰化人だったという説である。足守という地名が葉田葦守宮(はだあしもりぐう)」ということは秦氏の葦守だとなっている。渡来人の守る葦守になっている。渡来人⇒味真野⇒葦真野というふうにもなる。草原(かやはら)が何か不明にしても渡来人の匂いが色濃くするということは疑いないのではないか?


ただ葦(あし)と草(かや)は根本的に発音が違うのだから別な種類のものである。別な意味をもっている。発音がカヤとなるとき賀陽)かや)とか香屋臣(かやおみ)と結びつく、単なる草原(かやはら)を自然の景色なのかという疑問がある。これは一地名だと考察したのもそのためである。すでに真野という時、味真野として古代的原風景の葦真野をイメ-ジするから次に葦とにた草(かや)をここに入れるのは不自然ともなる。ただ大萱葦 (信濃)と萱と葦が合体した地名もある。ここでは萱と葦は別なのである。萱というのは萱場とか枯れた状態の萱でありこれは材料として茅葺き屋根に大量に使われた。萱は枯れた状態の萱であり風景としてはそれほど美しいともいえない。葦原の方が今回の津浪や原発事故で田んぼが葦原になったことでこれが原初の風景だったなと改めて認識した。萱原の萱はあくまでも美しい光景としてより萱を材料としたものとして表現していた。


語源は、葦(よし)(イネ科の多年草)で葺(ふ)いた粗末な家屋のあったところをいった「葦屋」か、「や」が「湿地」を表し、葦の生えた湿地のことと考えられてる。


家屋が葦屋となるのは家屋を基にしているから言葉のこじつけになっている。カヤとアシは別ななものであった。


●みちのくの真野の草原の無難な解釈


実際の所は草原の謎は深い、自然情景なのか草原が伽耶とかの関連しての港地名なのか、その判別が明確にできないのである。もしこの草原が自然情景の草原だとしたら茫漠たる津浪の跡に繁った葦の原野をイメ-ジされる。そういう茫漠とした遠い僻地を思わせる。そういうところを女性が恋の歌として思い浮かべるのは何か違っている。何かそぐわないのである。みちのくの真野の草原の草原が港のような地名だったらまた別である。どんなに遠くに行こうが私は家持様を思い浮かべますよ、面影に見ますよとなる。「面影にして見ゆというものを・・」これは茫漠とした草原のこと葦原のことなのか?それとも大伴家持のことなのか?これも判別しにくい、確かに多賀城に大伴家持は晩年派遣されて来たという説もあるが定かではない、ただここでのみちのくの真野は遠い所として知られた場所としての真野だったのである。それを奈良の都で知られていたから遠い所の比喩として使われた。
とすれば真野の草原の草原は萱原としての自然情景ではないのである。


みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎


この意味は陸奥という真野と知られた遠い地の草原(かやはら)という港がある地、そんな遠くに例えあなたが行ってしまってもあなたの面影は忘れることはありません・・・そういう意味になる。
自然情景ではないのである。そんな遠い所の地を面影に偲ぶということはありえないのである。

それも女性でありそんな荒寥とした地を歌うのにはふさわしくない。ただ古代の女性だからその辺の感覚はまた違っている。それでもやはりこの歌の解釈は自然情景を歌ったというよりはあくまでも恋の歌でありみちのくの真野の草原は遠い知られた地を例えとして作られたのである。それが無難な解釈ではなかろうか?それにしてもこの辺があまりにもまぎらわしいのである。この歌は非常に誤解しやすい歌だったのである。万葉集にはそうして誤解しているのがいくらでもあるに違いない、それは一重に当時の情景が余りにも違っていたためである。この辺で津浪が塩崎までおしよせたことに驚嘆した。船も港から流されてきた。そして古代に船着とか市庭とかいう地名があった。それがリアルに再現したことに驚いたのである。自分も葦というものをこれほど意識したことはなかった。古代の自然の情景が実際はイメ-ジできなくなっていたのである。この辺で大葦辺りを秘境だと書いたがまさにあそこも葦が繁った辺鄙な地域で開拓に入ったのである。いかに葦がいたるところに繁茂していたかわかる。田んぼが津浪で原発で葦原になったことは本当に驚きだったのである。

 


 

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2012年08月13日

飛鳥の国見の歌になぜ鴎が (海を難波の海を意識していた人が作った)


飛鳥の国見の歌になぜ鴎がなぜ飛ぶ鳥なのか?

(海を難波の海を意識していた人が作った)



夏の日や大坂城に鴎飛ぶ


大阪城に関するテレビ番組を見ていたら鴎が飛んでいた。鴎が飛ぶのか、飛んで当たり前だとも思った。ただ大阪は大都会だから街の中まで飛ばないと思った。一瞬鴎が飛んでいることが新鮮だった。テレビではなかなかその自然背景までわからない、大坂城は海に近いから鴎が飛んでいても不思議ではない、こういうことは住んでいればわかることだが住まない人にはわかりにくい、旅をしても鴎を見ることはないだろう。ただ鴎は琵琶湖ではいつも群れている。鴎は川をさかのぼり飛んでくる。
鵜も川をさかのぼり飛んでくる。だから鴎でも川の奥まで飛んでくることがありうる。琵琶湖の鴎は淀川などをさかのぼってきたものかもしれぬ、琵琶湖は広いから海のように感じて鴎が群れなしていつもいる。浮御堂のところにはいつも鴎が群れている。


秋鴎群れつつ暮れぬ浮御堂


こんな句も作ったことがあった。鴎はとにかく川があれば海からかなりさかのぼって飛んでくる。その川が大きければ川をかなりさかのぼって飛んでくる。海から近い川にしろそういう光景はいつも見ている。飛鳥に歌われた万葉集の国見の歌に鴎がでてくるのはやはり難波の海から川をさかのぼってとんできたものなのか?ただ海原とあるから海が望見できた地帯だということで奈良の古代地形でそのことを書いた。

 



天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌


大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は


海原は見えないにしても古代は海でありさらに難波の海を意識してこの歌が作られた。難波の海と飛鳥と奈良は川で荷物を運んでいたり古代から結ばれていた。だから海原は難波とつながりを意識した国見の歌ともとれるのである。 


津浪が明かにした日本列島の地形のダイナミズム
(奈良盆地は海湾→海水湖→淡水湖→盆地に変化した)
http://musubu2.sblo.jp/article/45685693.html


飛鳥に最初に都が築かれたのは大和盆地が湖であり湿地帯だったから山際の飛鳥が選ばれた。山際にそっこ山辺の道が日本の最も古い道となったのもそのためである。地形的要因でそうなった。難波は広大な湿地帯であり海湾だからそこが便利でも都にすることはできなかったのである。


飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ 元明天皇 巻1・78


飛鳥は飛ぶ鳥という枕詞からも由来していた。なぜ明日香が飛ぶ鳥が枕詞になるのか?その鳥とはいかなる鳥なのか?もしかしたら飛ぶ鳥とは国見の歌の鴎のことなのか?鴎のように私は明日香を去って難波の方へ去ってゆく、川を下って海へとでてゆく、これは鴎を意識しているのかもしれない、なぜなら山の奥の明日香が飛ぶ鳥とんう枕詞がつくはずがないからだ。飛鳥(明日香)は難波の海と結ばれていたのである


明日香皇女のきのへの殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌


飛ぶ鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひをれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる 

 御食向ふ きのえの宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ しかれかも あやにかなしみ ぬえ鳥の 片恋嬬 朝鳥の 往来はす君が 夏草の 念ひ萎えて 夕星の か往きかく去き 大船の たゆたふ見れば なぐさむる 情もあらず そこゆゑに せむすべ知れや 音のみも  [巻2-196]。


ぬえ鳥とは夜に鳴くとりである。朝鳥とは何なのか?鴎なのだろうか?目覚めてみれば鴎が飛んでいて海へと通じている。大船の たゆたふ見れば・・ここになぜ船がでてくるのか?それも大船である。これは海を意識している。難波の海を意識している。鴎は夏にふさわしい鳥でもある。いづれにしろここになぜ大船が突然でてくるのか解せないのである。そもそも明日香が飛ぶ鳥が枕詞になっていること自体不思議である。飛ぶ鳥といったとき山の中や近間を飛んでいる鳥なのか?それとも海まで通じて飛んでいる鳥、鴎のようなものをさしているのか?国見の歌に鴎がでてくることは鴎だということもありうる。ともかく明日香(飛鳥)は難波の海と結びつくものがあった。大坂城に鴎が飛んでいることは大坂城が海と結びつき堀も海へと通じていた。飛鳥や奈良が海とは遠く通じていないと思っても川とかで通じていたのである。


吉野から入った神武天皇の久米歌にも


我が待つや鴫は障らず いすくはし障る


神風の伊勢の海の大石にやい這ひ廻る細螺(しただみ)の細螺の吾子よ吾子よ細螺のい這ひ廻り撃ちてし止まむ撃ちてし止まむ


鯨とか細螺(しただみ)巻き貝とかでてくる。海人族が山に侵攻してきたからこの歌ができた。だから海が見えないにしろ国見の歌は海を意識するからこそ作られたのである。海を生活の根拠としている人たちが入ってきたから山でも海のことが意識されてこの歌ができたのである。

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2012年11月05日

みちのくの万葉集の歌の意味するもの (福島県の古代-みちのくの大地を深まる秋に想う))


みちのくの万葉集の歌の意味するもの

(福島県の古代-みちのくの大地を深まる秋に想う)


会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲びにせもと 紐結ばさね (万葉集 14−3426)


会津大塚山古墳は後円部の中心から南北2基の割竹形木棺の痕跡が検出され、さらに南棺からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出された。環頭大刀、靭(ゆき)、鉄製農耕具なども出土した。


『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。このときの両者の行軍経路を阿賀野川(大彦命)と鬼怒川(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。
吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。別名は五十狭芹彦(いさせりひこ)。吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられているが、古事記には吉備津彦の名は出てこない。


安達太良の 嶺に伏す鹿猪の 在りつつも 吾は到らむ 寝処な去りそね
陸奥の 安達太良真弓 弦著けて 引かばか人の 吾を言ひなさむ
陸奥の 安達太良真弓 はじきおきて 反らしめ置なば 弦著かめやも


この歌で注目すべきは鹿、猪に例えている妻問い婚の原初的世界があり狩猟時代の世界があった。真弓という弓がでてくるのは万葉集時代の蝦夷の武器は主に弓でありこれは狩猟のとき使っていたから武器として使いやすいから弓が常にでてくる。弓は日常的に使うものだった。


 安積香(あさか)山、影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を、わが思はなくに


葛城王陸奥国に遣はされける時に、国司の祗承(しじょう)、緩怠なること異に甚だし。ここに、王の意悦びずして、怒りの色面に顕れぬ。飯饌(いんぜん)を設けたれど、肯へて宴楽せず。ここに前の采女(うねめ)あり、風流(みや)びの娘子なり。左手に觴(さかづき)を捧げ、右手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠む。すなはち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なり、といふ。
(「万葉集」巻十六)


滋賀県甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、
万葉集と古今和歌集に収められている2つの和歌が記された木簡が見つかり、

阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓
   あさかやま  かげさへみゆる  やまのゐの あさきこころを  わがおもはなくに

反対側の面には『古今和歌集]』仮名序の

   難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
   なにはつに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな

の歌が書かれていました。
万葉仮名に復元すると、

   奈迩波ツ尓佐久夜己能波奈布由己母理伊麻波々流倍等佐久夜己乃波奈
   なにはつに  さくやこのはな  ふゆごもり  いまははるべと さくやこのはな

となり、赤字部分が今回出土した部分です。

紀貫之は『古今和歌集』仮名序(延喜5年(905))で、
「・・・この二歌(ふたうた)は、歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける。」と、
初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。


天皇(すめろき)の 御代栄えむと 東(あずま)なる 陸奥(みちのく)山に 黄金(くがね)花咲く(大伴家持・巻18−4097)



福島県は実に広い。ハマ、ナカ、アイヅと分かれていてナカは浜通りからすると阿武隈高原に遮られ遠いし会津はさらに遠い。福島県で一番古く知られたのは会津だったということは古代の中央の勢力がまず日本海から阿賀野川から侵入して会津にたどりついた。

会津大塚山古墳は後円部の中心から南北2基の割竹形木棺の痕跡が検出され、さらに南棺からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出された。

三角縁神獣鏡がみちのくではここにしか発見されていない貴重なものである。これは吉備国と同はんのものであり古事記の吉備津彦が来たとすると吉備国が当時まだ大和が統一されていない時代大きな国だった。そういう時代に会津に来て三角縁神獣鏡を授けた。この時すでに吉備など近畿の有力氏族とかかわっていたのである。それは日本海側から船の交通があったからとなる。「郡山史考」で福島県は弥生人で弥生時代のとき、人口も多く常陸より今の茨城県より栄えていたとある。常陸はあとから大和政権の勢力などが進出してから開墾されて開けた地域である。その進出はやがて浜通りそいに拡大化したことは史実からも明確である。しかしもともとは阿武隈高原を越えた山側からの方が古く人の交流があった。南相馬市鹿島区の古代真野郷として大和政権に組み入れられる前に「浮田国造」があった。それは毛野王国の系統であり今の栃木県との交流を物語っているからだ。弥生時代に福島県が栄えたというときその前に縄文時代があり山側の方が人口が多く栄えた。山村は今思うより自給自足する生活には向いていた。山の幸や木材資源に恵まれ薪としての燃料や特に水に恵まれていた。弥生時代に稲作が行われたとしても水が豊富で水の質が良くないと稲作はできない、稲作は最初の内はだから県(あがた-上田)で行われた。それは良質な水に恵まれていたからだ。平地は湿地帯であり
まだ開拓されていなかった。だから奈良でも広い平地があっても最初は広い湖であり沼地であり湿地帯であり人は住んでいない、山際に大きな古墳が並び山を神体として住んでいた。大和は山戸であり山の入り口のことだった。三輪山がそうであった。

吉備国に加夜氏(賀陽氏、賀夜氏、香屋氏)、笠臣氏などがいた。笠というの韓国に加佐という地名がかなりありここから来ているから渡来系統であり賀陽氏、賀夜氏、香屋氏は伽耶国を示している。「みちのくの真野のみちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎」の笠女郎はやはり笠氏の系統であり沙弥満誓-笠朝臣麻呂の子だという説も否定できない、


日本書紀によると534年、安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされる。何の基盤もない当地に突如として、畿内に匹敵する中型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見えるヲワケの父の名のカサヒヨがカサハラと読めることなどから考えれば、笠原を本拠とした武蔵国国造の墓ではないかという


この説は笠原というのも笠氏の系統になる。真野という地名ももともと味真野で吉備国にあじま神社がありアジマは葦間であり葦間から葦真野になり味真野になり真野になった。地名の由来が吉備国から出ていたのではないか?そうすると会津の吉備がかかわった大恷R古墳のことも納得がいく。つまり吉備国由来でありそれがみちのくの真野の草原に通じていたのである。真野という地名がもともと葦間野だとすると更に萱の原があったということは疑問になる。草原は伽耶氏に由来して伽耶国をイメ-ジするようになる。



あしひき--の足は葦だった
(みちのくの真野の草原と葦原の謎の解明)
http://musubu.sblo.jp/article/57107299.html


岡山市北部のごく限られたエリアでありながら、重要な文化財が集中する足守地区。
足守の地名は、古くは日本書紀応神天皇二十二年(推定五世紀初頭)の期に「葉田葦守宮(はだあしもりぐう)」の記述に見られます。「葦守」が「足守」に転じており、「葉田」は「秦」を示します
古代足守郷に勢力をふるった賀陽氏の名が刻まれていますが、宮を創建した吉備仲彦は香屋臣(かやおみ)の祖。その血統が賀陽氏に引き継がれているといいます。

http://www.city.okayama.jp/kitaku/asimori/asimori_00001.html


会津の吉備からもたされた三角神獣鏡があり真野という地名が葦間であり葦間から葦の間に見える野ということで真野となった。そういう地名もここからもたされた。こう重ね合わすとやはり吉備が深くかかわり真野の草原の地名が生まれということも類推される。



いづれにしろ安積山の歌はしがらき宮の木簡の発見でもともと手習いとして暗誦していた民謡のようなものだった。郡山は江戸時代にも開けていない、須賀川や二本松が福島県では中心で栄えていた。だから明治維新のとき一時は二本松県になっていたのである。だから二本松の城はその天守も高く四方を見回すとあそこが福島県の中心だと地理的直感として感じるし古代もそうだった。
安達太良の歌は郡山の安積山の采女が歌った浮いた宮廷人の歌とは違う土着的なものとして歌われているから異色なのである。なぜなら安積山の歌もそうだけどみちのくの真野の草原もやはり都から見た思われたものとして歌われているが安達太良の歌は地元から土着的なものとして歌われているのである。土着的なものとして歌われているのがみちのくにはこれくらいしか万葉集にはないのである。
福島県がすでに弥生時代人口が常陸より多かったということは山際に豊富なきれいな水を利用して稲作がすでにはじまっていてそこに大規模な灌漑、池を作る技術をもった渡来人などを主流とした人々が開拓に入ってきた。福島県の場合、多賀城以北のように蝦夷との戦闘はそれほなかったらしい。

というのはここの海岸沿いの鳥打沢の大製鉄所跡でも発見されたのは武器かと思ったら仏教関係のものが多かった。唐神(韓神-カラカミ)などの地名が真野郷にあることでもわかる。各地に国分寺が建てられたのは平和的に大和政権に組み入れるためだったのである。常陸の広大な平地は渡来人などにより大規模な工事が行われて稲作地帯になった。大仏に鍍金するためにみちのくに黄金が発見されたことを都では喜んだ。福島県は奈良と近畿とすでに深い関係があった。意外と会津が奈良からすると遠く今も僻地のように思うが古代は近畿地方とも日本海を通じて川を通じて深く結ばれていたのである。

みちのくと言って芭蕉の時代でも盛岡まで行っていないのである。平泉までがみちのくのようになっていた。でも岩手県だけを加えても実に広い領域なのである。岩手県だけでも相当に広い。この広い地域はさらに道の領域だった。歴史をふりかえるのは重層的なものとして形成された、大地と一体化して形成された歴史をしることである。みちのくの大地というときまずもともとあった原自然があり次に歴史的に形成されたものがある。みちのくは鎌倉文化がゲルマンににているというとき、みちのくもゲルマンの深く広い森の領域でもあった。そこに重厚な文化が形成されるバックグランドがあった。この大自然のバックグランドなしに何ものも成らない、文化もこの大地に根付くのである。

みちのくも蝦夷が何かわからないにしろゲルマンのようになっていたらそこにゴシック建築やら荘厳な重厚な文化が形成されたた。鎌倉文化がある程度そうなったようにみちのく独自の文化が形成された。そういう自然の基盤を持っていたのである。今でもやはりそれは変わりない、なぜならどうしても会津は広く深い山国でありここをなかなか直感的なものとしてとらえられないのである。浜通りに欠けているのはまさに安達太良もそうだが高い重厚な山なのである。阿武隈山脈は山ではない高原地帯でありここに高い山はないのである。だからどうしても重厚なものを感じないのである。


みちのくというときやはりその大地から離れて何も成らない、その大地にバロック音楽などの重厚なものがひびきわたる。音楽すらそうした大地の森の背景なくしてひびかないのである。人間もそうした自然のバックグランドがなければ偉大になりようがないのだ。その自然のバックグランドに映えるから人間も巨大化するのである。東京のような大都会だったら巨大な高層ビルが主人であり人間はただ蟻のように徘徊しているだけである。秋深まるなかやはりみちのくは何かというときその深い広い大地を思うべきである。だからこそ原発事故はそのみちのくの原自然を壊したから許せないのでありここに住む人も深く反省しないと東北の未来はないのである。文化がここに栄えることはないのである。


みちのくの大地はいしずえ根ざしつつ都を想ふ秋深まりぬ


原自然の大地なくして本当の文化は生まれないし育たない、深まる秋にみちのくの大地を想うべきである。


●参考

私の郡山史考
http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/folder/399057.html
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2012年11月06日

秋深まる奈良の短歌十首(平城宮をみちのくより偲ぶ歌) (小国が分立した時、文化が生まれ天才が生まれた)

秋深まる奈良の短歌十首(平城宮をみちのくより偲ぶ歌)

(小国が分立した時、文化が生まれ天才が生まれた)

飛鳥には百済の仏微笑みて大和の国の実り豊けし
飛鳥にてガラスの工房その跡や瑠璃の杯見つ西域思ふ
大仏の掌厚く慈悲の眼や日本(やまと)の国を見守りはるかな
みちのくの黄金に塗られし大仏の金箔はげて秋深まりぬ
秋日さし大仏殿の甍にそ黄金の鴟尾光り大和の成りぬ
大仏の力みなぎり大和国治まりけるかな秋深まりぬ
大仏は大日如来大きなる眼の見開きて国を見守る
あおによし奈良の都や唐国へ遣わさる人思う秋かな
仲麻呂の帰らざるかな天の原月を仰ぎて唐国に死す
女郎(つらつめ)の家持思ふ奈良にありみちのく真野や帰らざるかな
三輪山は神そのものと祈りける尊きものや秋深まりぬ
薬師寺の塔の古りにき土壁の塀に秋の日さして暮れにき
法隆寺芒なびきて塔古りぬ大和の道を踏みしめ歩みぬ
会津なる大古墳かな吉備国の謂われをたずね秋深まりぬ
安達太良の名は奈良にしも知られてそみちのくの暮れて秋深まりぬ


(天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも-阿部仲麻呂)


福島県までは思ったより近畿と奈良との関係はまだ大和政権にならない時代から結びつきがあった。会津の大恷R古墳に吉備国と同はんの同じ型の三角神獣鏡が埋蔵されたことでもわかる。東北でここしかない貴重なものだった。大和として統一国家ができる前から吉備国などと通じていたのである。そもそもそんな遠い地域にどうして吉備国がかかわったということも謎である。吉備国は奈良の大和ができる前には大きな国だった。その力は韓国と深いかかわりがあり実際に吉備韓子という人すらいた。そして笠氏は吉備笠と古くは呼ばれていたし吉備と一体だったのである。棚倉の八槻神社の謂われにあるように神依媛と神石萱という二人の巫女がいた。これはこの地にいた原住民の巫女である。神石萱というときこの萱は伽耶に通じている。萱は当て字なのである。カヤというのは日本に韓国から渡ってきたとしても相当に古いのでありそれで在地の勢力となったともとれる。ただこの萱がまた単なる萱なのか繁っている萱なのかわかりにくい、石巻の萱原もそうである。ただそこに真野公という木簡が発見されたからその真野公から真野川の地名が起こり萱原の地名が残ったのかもしれない、萱原という地名はまれであり萱が繁っているだけのものとは思えないのである。福島県はこのように古代には吉備であれ奈良であれ近江であれ意外と関係深い地だったのである。
奈良の大仏は華厳宗でありこれは極めて国家的色彩の強いものであり鎌倉の大仏とはまたその歴史的意味が違ってくる。大日如来でありまさにその威容が余すことなく示されている。これは蝦夷を殺したための供養のためにもあった霊を鎮めるためにあったというのも本当だろう。坂上田村麻呂を祭ってある清水神社もそうらしい。蝦夷というものは相当に奈良の大和政権で恐れられていたのである。ただその実体は歴史の中で勝者により消されてしまって不明なのである。


ともかく奈良だったらもう読み書きできるのは貴族と僧侶階級だけであり庶民はほとんど読み書きできないから経文も書き読みできないからただ経文を暗誦するほかない、その暗誦すらないから奈良の大仏を見たとき仏の力をもまざまざと見たのである。現実にやはり古代にあれだけ大きい仏殿を建て大仏を作ったら庶民も平伏するのは今でもそうである。それは国家鎮護の大仏でありその現すものは内面化した鎌倉仏教とは余りにも違っていたのである。その頃の仏教は貴族と僧侶階級だけのものであり庶民は関係なかったのである。ただあれだけ巨大な大仏を見れば国家の威厳を力を何も言わずに示すことができたということである。ただでは大きいだけなのか?大きいだけだったら歴史的遺産とはならない、そこに内実があり外観と一致して歴史的意味があったのである。明治以降に作られた相馬市日立木の百尺観音や最近観光のために作られた巨大な仏像とか観音様などはただ見せ物にすぎないのである。何らそこに価値や意味を見いだせないのである。日本の最初の国家がなり日本の国家の栄あれという祈りがこめられているのだ。そんなものは宗教の強権的な支配だという批判も必ずある。でも現代の政治を見たまい、全くそこにはこうして千年後にも残るようなものが作られているのか?ただ毎日胃袋のことであり物質的なものだけが追求されているのである。もちろん国家の百年の計などはない、ただ物質的経済の追求でありそのために政治も科学も宗教もある。宗教も全くカルトてあり異様な集団化した現代文明の病的現象なのである。国家の威厳とか重さとかは消失しているのだ。そして個々の欲望の追求が資本主義となりただすべての価値が金の追求になってしまったのである。


今歴史をふりかえれば奈良時代、万葉時代は日本の大地と一体化した理想的なものとして見えてくる不思議がある。日本人のアイデインティティが築かれたのは万葉時代だった。もちろんその後も日本の歴史が積み重ねられてきた。江戸時代もそうだし過去は今からすると極端な貧乏しかないから誰もそんな時代に帰りたくないというがそれと歴史をふりかえるのは歴史の価値を見いだすのは別なことである。その時代時代に築かれた全体として歴史を見るのである。日本ではやはり近い所では明治時代は和魂洋才で文化的には充実していた。今は洋才和魂であり日本的な文化が魂が衰退している。
奈良も唐と一体となって文化が華開いた時代であったので明治時代とにていたのである。ただ唐の文化のように日本化、国風化できていない、奈良の後に国風文化が起きたように今は欧米化から国風文化の時代である。それは政治的にもアメリカや中国からと日本はまた独自の道を模索する時代にもなっている。


日本はまた国風化するというときその大地に還る必要がある。ところが今やその大地は消失してしまった。大阪でも東京でも文化復活の基である故国の大地や森が消失したのである。それは世界的にもそうである。グロ-バル化というのは経済の追求であり文化を作らない、文化はその国の土地に根ざした時生まれる。その土地を耕す時、culture-cultivate-になる。みちのくにはまだなんとかのその耕すべき大地がある。原発事故で大きな痛手負ったので福島県は苦しいがみちのくは岩手県とかさらに広い地域がまだ残されているのだ。福島県でも会津は本当に広く古代から一国である。そこは放射能汚染からなんとかまねがれたのである。つくづく自分が相馬という地域にありアイデインティティを追求してきた。なぜなら現代はこのアイデインティティをもつことが至難なのである。このアイデインティティはやはりそれなりに狭い地域でないともてないから郷土にこだわるということがあった。一つの関連する有機的に結合した場所として追求したのである。ちょうど相馬藩くらいが適した広さだったのである。それで面白い一文を本から発見した。


ルネサンス時代、イタリアは小いさな独立した地域に分かれていた。その土壌からダビンチやハケランジェロなどが天才が綺羅星のごとく輩出した。近代ではゲ-テ、シラ-モ-ツアルト、ベ-トベンなどが神聖ヤ-マ帝国から離れ小国が乱立したとときに輩出した。ビスマルクがカイザ-のとき統一したときドイツは矮小化した。(40歳過ぎてからの賢い脳の作り方-高田明和)


「世界国家かできこれが大きくなると文明の創造性は消失する」トインビ-
これは現代のグロ-バル化は経済だけの追求でありそこからは文化は生まれない、文化は小国でもその国の大地に根ざすとき耕すとき生まれる。ヨ-ロッパはもともとロ-マ帝国から中世になり小国に分立したからこそ様々な多様な文化が創造された。ヨ-ロッパでなせあれほど天才が多いのかというのもこれで納得がいく。それぞれの国が個性を育んだのである。例えばベルギ-などもベルギ-人としてこだわる、自分たちの国は小国でも別なのだとこだわるのがヨ-ロッパなのだ。日本だったらそれぞれの藩にこだわるのとにている。そういう態度が独自の文化を生むのでありグロ-バル化でどこでもコカコ-ラを飲んでいるとかでは料理すら独自のものが生まれないのである。小国の利点は有機的に結合したなかで生活できるから一つの世界観を作り安いのである。人間はあまりにも大きくなるとアイデインティティが見いだすことがむずかしく作りにくいのだ。中国とかアメリカはあまりにも大きいからなかなか自分たちのアイデインティティをいだしにくいのである。例えば福島県でも実際は広すぎる。だから会津についてはあれだけの山があっても浜通りに住んでいるとその山国のことが未だにわかりにくいのである。毎日山を見ていれば一体化してゆくだろうがたまに行くだけでは一体化できないのである。だから会津は会津としての国意識がありそこで独自の文化がもともとあって育まれるのである。会津には独自の山の文化が生まれる素地がある。一方浜通りは海に通じた文化が創造される。海から昇る太陽と山から昇る太陽はまるで違ったものなのである。風も海から吹いてくる風と山から吹いてくる風はまるでちがったものなのである。山風と海風はまるでちがったものでありそこに文化の相違が生まれるのである。

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2012年11月13日

万葉集の枕詞などがなぜわからなくなったのか? (自然から遊離した文明は言葉の力を詩語を喪失した)


万葉集の枕詞などがなぜわからなくなったのか?

(自然から遊離した文明は言葉の力を詩語を喪失した)

空見津  倭國  青丹吉
そらみつ  やまとのくに  あをによし
常山越而  山代之  管木之原・・・
ならやまこえて  やましろの  つつきのはら


なぜ万葉集がなぞなのか?枕詞というのが未だに謎である。そらみつは空見津であり空からみた大和の国をほめたたえる言葉だというが空に満ちる-空満つ-とも解釈できる。空か関係していることはまちがいない、ではどうして空から見る感覚が生まれたのかというのも古代にすると不思議である。
地上から見上げる感覚はあるけど空から見下ろすという感覚はリアルにもちにくい、高い塔もない時代にどうして空から見えるのだろうかとなる。言葉の感覚としては空満つというのがなにか力強い。空(そら)はまさに空(くう)をあてた。これはからっぽのことである。だから空っぽな空間は何かで満たさねばならない、例えば大仏殿のような大きな建物は空に映えて満たす感覚になる。
なぜ万葉集が解読できないものがかなりあるのかというと人間は自然の生活からかけ離れてしまったからである。万葉集は日本の自然と結びついた原始的感情の発露でありそれは直観的にしかわからない世界である。理屈としては解読できない、そらみつ・・・はその言葉の直観的感覚としてそらに満ちるなのである。これも一つの日本の発祥地に生まれた詩語である。日本語でも最初は詩語として言葉は生まれた。ほとんどの言葉は詩語なのである。


日本人でも文明人は自然とかけ離れた生活になったというとき言葉も詩語だなどと意識しない、今や言葉は数字のようにこえなっている。深遠な言葉の意味の喪失の時代である。言葉が死んだというときまさにそうである。そもそも人間の言葉がどこから生まれたかというと自然から生まれたのである。自然なくしてこの神が創造された宇宙-自然-大地がなくして言葉もありえないのだ。その自然から遊離した文明生活になると言葉も形骸化する。リアルな存在感を失うのである。言葉は自然と結びついて言葉の力、言霊の力が発せられるのである。例えば「石」という言葉があるとする、その石をさすものは何なのか?石といっても無数の石の形があり色がありと違っている。石は言葉にするとき実は具体的に存在する石から石を認識しているのだ。自分が石を詩にするときは必ず故郷に存在する具体的な石から発想している。まさに現実にその石があるからこそその石から言葉が詩が生まれている。


ところが東京のような大都会になると仙台くらいでも石というときその具体的な石を思い浮かべない、抽象化した具体的な石ではない。具体的だというとき石のある場所が極めて大事なのだ。何か存在するとき場所と切り離せず存在する。万葉集では地名が大きな役割を果たしているのは場所がそれだけ大事だからである。場所から発想する、地名から発想することが多いからである。万葉集は奈良という日本の国が起こった大地と山と密接に結びついている。具体的に存在する自然と結びついている土着的なものだった。そこに言葉の力が呪術的なものとして言霊として働いているのだ。そこに今の言葉との詩との大きな相違がある。この辺で橲原にある立目石というのがある。この石は橲原村の入り口にある。場所が限定されてこの石がある。石の力はここから発せられる。抽象的な石ではない、その場所が限定された石なのである。石でも固有名詞化した石なのである。


橲原の立目石かな冬になり久しく行かじもそを思うかな


万葉人が歌ったものはたいがい抽象的なものではない、一般的なものではない、具体的にどこどこにある石を歌ったのである。そこに言葉の力が発せられた。そらみつ大和の国はというとき大和は実は一地域の名前だったことでもわかる。それが日本全体をさす国の名になったのである。具体的な一地域、村が大地の上にあってそうなったのである。ミクロコスモスがあってマクロコスモスに発展したのである。自分が相馬という一地域にアイディンティティを求めたのと同じである。


現代の人間がなぜ生に充実感がないのか?人間はただ常に経済化され政治化されるのか、経済の一単位であり政治の一票としてしか数えられるないのか?カルト宗教団体も全く現代文明の物質化した中にあり単に一票としての数としての価値しかない、もはや数としてしてしか人間は計られない、そこで人間は極端に矮小化される。蟻のようにされてしまうのである。人間の存在も自然の中で存在感をもつのであり自然から離れた存在感を失う。上野霄里氏の言う原生質や原生人間とはそういう自然と一体化した人間なのである。万葉人にはその自然と一体化した原始的心情としての歌が生まれた、詩が生まれたのである。恋愛でも今の恋愛とは違う、自然のなかでも鳥が歌で呼び合うような歌になっていたのである。現代のようなあらゆる技巧をこらすものとは違う。人間が同質化、一体化、アイディンティティを求めるのが自然から離れたらどうして偉大になれるのか、生の充実感が得られるのか?だから人間は巨大な都会では高層ビルに比べたら蟻のようなものになっている。ただ蟻のように徘徊して矮小化される。そこに万葉時代のような自然と密着した歌が生まれようがない、その言葉の元になる自然がないからだ。だから言葉が死んだというとき自然から離れて人間が存在感を失ったということである。万葉集時代の復活をしろといってもその自然が失われたところではありえようがないのである。奈良でも東京のようになったらもう万葉時代を偲ぶことすらできない、まだその自然が残っているから万葉集の歌と具体的に結びつく自然が残っているから生きているのである。大阪などにも結構万葉集の歌は残っている。


百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りしうぐひす 鳴きにけむかも  巻8−1431


百済野といってもそこはもはや家やビルが密集したとき偲ぶことすらできない、でも百済野と地名化したときここに百済の人が住み着いてかなり年月がたっている。移住して落ち着いたからこんな歌が残された。萩の古枝に象徴されるように住んで古くなったからこの歌が生まれた。なんとものどかな雰囲気を伝えている。地名として定着するには百年くらいかかるかもしれない、でも野がなくなればイメ-ジもできなくなる。奈良にはまだ郊外に野が残っているから万葉集の歌も生きているのである。

みもろの厳白檮(いつかし)が本(もと)、白檮(かし)が本(もと)、ゆゆしきかも、白檮原童女(かしはらおとめ)-古事記


この歌もまさに厳白檮(いつかし)という具体的に存在する樹と童女が一体化して存在する。その童女は神に仕えるものとなる巫女になったのである。だからそれは処女であらねばならなかった。そういう何か自然への神聖な感覚、畏敬が喪失したのが現代なのである。それは津波でも原発事故でもそうである。江戸時代までは農耕も葉山信仰などで自然と密接に結びついていたものである。その生活そのものが自然から離れて存在し得ないものだった。山から水が供給されて田があり米作りがあった。そういう自然の循環の中で人の営みは営々とつづいてきたのである。そういう生活が急激な文明化でうしなわれたとき自然より電気の力が太陽の力に匹敵するのだとなる。それが原子力発電になると原子力が太陽であり原子力信仰にまでなっていたのだ。それが事故で一瞬にして破壊されてしまったのである。マヤ文明では太陽信仰でありその太陽が衰える、太陽の光が衰えることを一番畏れていて人間の命が犠牲にささげられた。

まさに現代は石油であれ原子力発電であれ石油がなくなることは文明の死を意味するから戦争さえする、命は石油のために犠牲にされる。原子力発電も人間の命より大事だと犠牲にされる。現実事故では一人も死なないというけど避難してすでにその過程で百人以上は死んでいる。人間は石油がなくなると車も動かなくなるから、石油のために戦争になり命が犠牲にされる。そういう大きな観点から見ている人は少ない、文明そのものを見直さなければ解決しえない問題である。そういうとお前は電気なしで生活しろとかなるが電気を何に使うかでありあらゆるものに使うということの制限になるのだろう。人間の生活は制限すること減らすことが苦手なのである。
スピ-ドもそうだし量的拡大もそうだし制限したり制約したりする思想がないのである。増大の思想があるだけなのである。だから江戸時代などは制限された極めて自然と調和した省エネ社会だったから世界的にも見習うものがある。人間は結局グロ-バル化のうよに無限の欲望の拡大は地球すら破壊してしまう。制限された制約された中で生きることが自然に適ったことなのである。そこに幸せを見いだすべきなのである。

 


 英語で石にaがつくのとtheがつくのでは違っている。aは抽象化した石であり実際に自分でみた石とは違う。theとなると自分で実際に見た知っている石のことなのである。その差は大きい。それを
「万葉集の枕詞などがなぜわからなくなったのか」などで書いた。万葉集は一般的な抽象化したものを歌ったのではなく実際に見ている、theの世界だった。だからaとtheの相違は意外と大きいのである。現代はthe の世界ではなくaの世界、抽象的な世界に生きている人が多いのである。だから血が通わないとういことがある。
 
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2014年07月21日

松川浦の地名の謎 (松がうらにさわゑうら立 ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも)の考察(2)



松川浦の地名の謎

(松がうらにさわゑうら立 ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも)の考察(2)

●松川浦は松ケ江村が基の地名

麻都我宇良爾佐和恵宇良 太知麻比等其等於毛抱須 奈母呂和賀母抱乃須毛/ 万葉集巻十四東歌
 松がうらにさわゑうら立 ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも

1908年(明治41年)1月 - 松ヶ江村、飯豊村、磯部村の三ヶ村組合により河口の掘削を開始。
1910年(明治43年) - 掘削が終了し、河口に板橋を架橋する。
1913年(大正2年)8月 - 台風で板橋が流失し、渡船にて河口を横断し始める。
1951年(昭和26年)3月27日 - 松川浦県立自然公園が指定される。
岩子小学校は、松ヶ江小学校に合併され、岩子分教場となった

「松」がつく地名は、マツ族の根拠地だったのかマツラ 2 で紹介した松浦は、苗字でこそ「マツウラ」と読むが、地名の場合は、地元では「マツラ」といっている。 ... があって、それが松浦をはじめとする《マツ》系の地マッパラマッハラマツザキ名を西から東へと移動させたのではないかということである

地名・苗字の起源99の謎: あなたの祖先はどこから来たか
http://urx.nu/ajqO

松は松ではない、当て字である。松川浦の地名はまず松ヶ江村から発していた。
このマツは何を意味しているのか、末羅国のマツラがもとになっていのであり松ではない、ただすべてにあてはまるわけではない、古代郷名としては飯豊郷があったのだからこの地名が古いのだからその辺から歴史的になぜ命名されたかを探る。
ここで注目したのは松川浦ではなく松ケ江となっていることなのだ。この江とは何かなのかとなるとわかりにくい、入江ともあり江はよく使われる。江の島となると江の中にある島となる。江とは海でありその中に島があって江の島となった。これは地形的にわかりやすい。江とは広く背後に海とつながっている時に江となるのだろうか?

「浜、浦、潟、港」が現在の地形になったのは比較的新しい時代で、大半がこの千年位の間に形成されている

浦が新しい地形の地名だというのはなぜなのか?では江は古いのかとなるとそういう感じもない。エには江をあてたがこれは中国の漢字が入ってあてたのである。エでなくエィとか何か違った発音だったかもしれない,エミシのエもエである。エは縄文時代からあった言葉でありそれは何かわからなくなっている。ウミはミが水であることがわかるがエだけだったら何か語源がわからない、だからどうしてエに江をあてたかわからないのである。ここで問題にしているのは松ケ浦が浦になっているけどもともとは浦ではない、江であった。江として認識されたから松ケ江村となっていた。

ここが万葉集の松ケ浦なのか、それがどうして証明されたのかまだ研究していないのでわからない。ただ東歌だということは方言が使われているからまちがいない、東歌だということが貴重になっている。それは地元の人が残した歌だからである。
つまり短歌を作ることは結構万葉集時代にはむずかしいと思う。それだけの素養がなければ歌いないだろう。方言を使って短歌にしたことはそれだけの知的発展があってできたのである。なぜなら縄文時代とか弥生時代とかには詩は残されていないからである。
もちろん文字もないからではあるがやはりそれだけの知的進歩がなかったためだとなる。

●江と浦は違ってている

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そもそも松川浦の歴史はいつからはじまっているのか?津宮(つのみつ)神社については考察したけどそれは渡来系のツノガノアラシトのツノであった。それは産鉄族の一団が吉備や近江から移動したことは考古学的にも証明されつつある。その中核となったのが渡来系だからその関係の神社が祭られることになった。角部(つのべ)とはまさにそうした一団が住んだらか名付けられた。三代実録にもあるというときそれは古い神社になる。
しかしその時、松が浦という地名は存在したのか?飯豊郷は存在した。飯豊郷がありその中に松ケ江村が生れたのである。だからわけもなくマツと名付けたのではない、やはりそれなりの謂われがあるとなる。松ケ江とつけたときもそうである。浦でなくて江だったということは松川浦の地形を見ると浦というより江の地形なのだろう。
浦となると地形が陸地により深く入り込んでいる感じになるし何か一段と人間臭くなり生活の匂いが濃くなってくる。霞が浦というのもやはりその回りには相当人が住んでいた。
では松川浦にどれくらいこの歌が謳われた時、住んでいたのかとなる。むしろ新地の手長明神のあるところが縄文時代から貝をとって暮らす人たちがいた。松川浦にはそういう伝説がない。
江とはもともと中国の漢字が入ってきてあてた。中国の江は河であっても湖であっても広大であり海を思わせるのである。琵琶湖も広いが太湖になるとその三倍はあるとかスケールが違ってくる。中国では河も海の感覚になるのだ。だから江は浦と違って海を思わせる広い感覚なのである。江の島はまさに広い海の中にある島なのである。松江にしても広大な江であり海である。松川浦とにた地形でもある。
現在の大阪市内に相当する草香江などもそうでありそれは広い湾であり海なのである。

今回の津波で松川浦はまさに磯部が壊滅して広い海に江になったことに驚いた。
日下石(ニッケシ)まで海になったことに驚嘆した、松川浦は浦という感覚より江の感覚だった。八沢浦は江の感覚ではなく浦である。だから江と浦の感覚は違っている。
近江と言った時も江であり琵琶湖を海のように見ていた。江州が近江だった。
ただ霞ヶ浦というとここも広いのにどうして浦なのかとなる。
陸地に深く入りこんでいたから浦だったのか?その区別もなかなかむずかしい。
浦というのが新しいという時,西は古い地名が残っていることになる。
江という地名が多いとなるのかもしれない、ともかく感覚的に浦となったとき、松が浦となったとき、人間臭いものが感じるのはやはり地名に何かそうした理屈ではない長年の日本人の生活が地名にしみこんでいるからそう感じる。それだけもう地名は理屈だけでは語られないものとなっている。

●田舎の人間関係は万葉集時代と同じ見張られている

麻都我宇良爾佐和恵宇良 太知麻比等其等於毛抱須 奈母呂和賀母抱乃須毛/ 万葉集巻十四東歌

 松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ 我がもほのすも

ただこの歌の意味はわかる。近くに住んでいる人は街内から一キロも離れていないが田んぼの中にあり回りは農家なのである。親戚もいて監視されていると憔悴したように言う。もう一人の女性も絶えず見られていて何かと言われるので嫌だという。
田舎は見ていないようで見ている。何かそうなりやすいのだ。だから小さな町でも町内と農村地帯になると違ってくる。農村地帯だと四六時中監視状態になる。
今でもそうなのだがら万葉時代になれば余計にそうなりこうした人の噂に悩まされて恋愛もできないようになっていた。人の目が絶えず注がれていたからそうなる。
それは今でも変わらなかったのである。田舎では「部落中の家々のことはかまどの灰の下までおたがいにわかっているとういうふうであった」こんなふうになる。
万葉時代はもっとひどいから人ごとしげみ・・・・でありこれから逃れることはできない、閉塞された時代だった。それは江戸時代もそうだった。現代は田舎は同じなのだがやはりこれだけ時代が違うといくらそうでも万葉時代や江戸時代とは違うのである。
世界の情報が入ってくるしそうした外からの働きかけを拒否できる時代ではないからだ。


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この漢詩は中国らしく雄大である。その隔つ感覚のスケールが違うのである。江を挟んで向こう岸は別な国の人になる。河は海なのである。だから中国人的な発想と日本人の狭い田舎の発想とは古代から違っている。万葉集でも非常に狭い範囲で生きていたが故の悲哀がにじみでている。それも日本では今も継続されている。
田舎になるとそうした狭い人間関係から出られず閉ざされて最近でも山奥の村で仲間外れにされた老人が殺人事件になった。そこは谷間であり出口がない、小さな部落だったのである。日本人は田舎だけではない、その風土から大陸的発想はできない国である。
海に閉ざされ山に閉ざされた国である。大陸だったらモンゴルのように果てしない大陸に民族移動が行われる。戦争とは民族移動の面があったのだ。国境と言ってもあれだけ広ければ国境は作れないからこそ万里長城を国境の壁として作ったのてある。

岳陽樓に登る   <杜 甫>

昔聞く 洞庭の水
今上る 岳陽樓
呉楚 東南にけ
乾坤 日夜浮かぶ
親朋 一字無く
老病 孤舟有り
戎馬 關山の北
軒に憑って 涕泗流る

湖にが広がり国を二つに分かれさせてしまった。自然の変動で国が二つに割れたとなる。ここでも自然のスケールの大きさがあった。自然の変化で国が二つになるというのも中国である。今回の津波はそうしたスケールの自然の変動が日本にもあることを経験したのである。その後遺症はかなり長くつづく、村が壊滅して何もないというのは以前として変わりないからだ。

国風と東歌に見る人言

(松がうらにさわゑうら立 ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも)の考察(1)

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2014年07月24日

松川浦の「松け江村」の謎 (松が浦の浦はあとからできたものなのか)


 松川浦の「松け江村」の謎

(松が浦の浦はあとからできたものなのか)
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地図を見ていくと面白い、インターネットだと本のようではなく海岸線をたどってゆく、どういうわけ三浦半島は浦とつくごとく浦が多い、ここは浦が多いし現実に人々が浦で古くから生活していた。何か江とつく地名は少ない、面白いのは江の浦という地名があったなぜ江の浦なのかとなる。江が先にあり江の中に浦がある。
それは地形的にそうである。江川とあるとき、川が江になっている。江はもともと中国では川であるから不思議ではない、でも江川と二つつくと何なのだろうとなる。
海岸線に川はあるところが江となりやすい、江が広い範囲のものであり川がその中にある江の浦も江が広いからその中に浦がありうる。
浜野浦とか浜浦も浜という広い地域があって浦があった。
ただ浜とつけられた地帯は非常に多い、日本には浜清み・・・という万葉集にあるごとく浜の多い国だった。その浜は白砂の浜であり美しかった。そこには防波堤などなかったのである。

だから「松け江村」もそういう地形の中にあった。松川浦はもともと江でありその中に川が二つ流れ込んでいてそこに松ケ江村がある。浦と認識していたのではなく最初は江と見ていたから松ケ江村となった。
松川浦とはあとから名付けられた名前である。川をつけているのはやはり二つ川が流れ込んでいるからだろう。
それで万葉集の松が浦の歌が松川浦を歌われたのかどうか疑問になる。

浜というのは海岸線をたどるとわかるがそこは砂浜のつづく人が住んでいないような地帯である。だから浜というのは新しい地名だというのがわかる。九十九里浜などが典型的な浜である。どこまでも砂浜がつづいて人気がないのである。
ハマというのは端(はし)であり間(ま)である。だから人が住んでいないよう地帯だった。かえって人が住んでいないと浜市とか浜町とか市がそこに開かれたかもしれない、河原も中世では人が住んでいないので市になっていたからだ。

日本の地名が多様なのは地形が複雑だからである。大陸のようにどこまでも平坦な地が山もない何もない平坦な地がつづく風景はない、変化に富んでいるのである。海あり山あり川ありと変化に富んでいる。こういう風土は世界的に少ない。満州に行ったらどこまでもトウモロコシ畑でありこんなにトウモロコシを作ってどうするんだと思った。
平坦な地帯が延々とつづきその中を馬車一台ゆく、そして小さな村があり川は泥川である何か見ていて変化でなくあきてしまった。ただ広いというだけなのである。
あういうところに住んでいたらあきる。地形に変化ないからだ。
日本は狭くても地形に変化があるから自転車で行ってもあきないのである。
相馬藩内だけでも相当に変化に富んでいるのだ。だからまだ未発見の土地がある。

いづれにしろ松川浦を歌われた東歌も謎でありそれが松川浦だとは確定されない。
万葉集自体が謎が多いし東歌自体もどうしてできたのか謎であり解明されていない。
方言があるといってもそれが松川浦地帯の方言かというと「なも」は東歌全体にあるのだから東は浜名湖辺りも東になる。名古屋もそうであり広い範囲なのである。
そこで「なも」が使われたとしてその広い東の共通的方言だったら方言なのかとなる。
そもそも方言はほとんど青森でも沖縄でもそうだが大和言葉を変化させたものであり
だからこそ大和言葉の古いものが辺境に残っていたのである。
すると万葉集時代に方言があったということはすでに全国的に大和言葉が普及して方言化していたとなる。そしてそこから方言になるのは時間がかかる。
東歌ができたのはそれだけすでに東でも大和言葉が普及した結果だとなる。
それもさらに辺境の蝦夷のみちのおくの地域で使われたというのはどういうことなのだろうとなる。
つまり松川浦まで東の方言があることはそんなに広く使われているものだろうかとなる。

 
タグ:松が浦
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2014年08月22日

万葉集の歌が津波の跡に甦った (八沢浦が葦原になって実感した)



万葉集の歌が津波の跡に甦った


(八沢浦が葦原になって実感した)

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●万葉集では萩は美的鑑賞として歌われている


古い時代から、季節感だけではなく暮らしに役立つ植物として愛されてきた。
枯れ枝で屋根を葺き、皮を剥いで縄をなった。
家畜のエサになり、根は薬になった。
若葉は乾燥させてお茶代わりに飲んだというし、
種は粉にしてご飯に混ぜたという。
http://northend.exblog.jp/4592818

萩をこんなふうに見ている人はまれだろう。ウサギが萩の若枝を食べる。そんなことも知らないだろう。萩はやはり原初の状態だと相当に密生していた。
萩は自然の中で様々な効用があり活きていた。
人間は今自然のことがわからなくなっている。都会生活していると自然を実感としてわからない。田んぼもないのだから米がどうしてできるのか実感としてわからない。
教科書や映像でみても米がどうしてとれるのか実感としてわからないのだ。
自然はやはり日々の生活でじかに接しているとき実感としてわかるのだ。
これは萩だけではない、他の植物でもそうでありまずただ美的鑑賞するものとして最初はなかった。

1541: 我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿

1598: さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露

1599: さを鹿の胸別けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる

万葉集では萩が恋の歌が多いことは宮廷人が歌ったとなる。萩を実用的なものとてし見ていない、美的な鑑賞的態度である。ただ一面が萩原になっているとき、そこに白露が玉となっている感覚は現代にはないだろう。
現代ではやはり一面の萩原とか葦原とか花の原とかはない、自然があっても一部分である万葉時代は一面に自然が密生していた風景が奈良の平城宮の回りにもあった。
鹿がいる風景も普通にあった。それで奈良には鹿が今も飼われている。
「さを鹿の胸別けにかも・・」という表現は万葉時代で萩の原があってこそ歌われるものだった。
こういう風景が山の中に入ったからあったのではなく身近にあってこそ歌われた。
鹿は日常的に野生として自然の中で観察できていた。
だからこそ人間と鹿は一体化してゆく、動物に人間を見るというのはその時代からあったのではなく今でもある。家畜であれペットであれ人間的感情が移入される。
それを感じたのは野良猫だった。子がいる母猫であり四匹も子を生んだ、でも餌がない、親自体が餌がないのだから子供はどうしているのだろうと思う。
その時、雨がふり子供ぬれて鳴いていた。そして親を見たら歯をむきだして自分をにらんだ。子に餌をやらねばならない、守らねばならない、その顔は母親としての必死の形相があった。これはやはり人間と同じなんだなとその母猫を見ていた。
どうしても犬とか猫は人間の感情が移入されるのである。
野良猫と野生の動物は違っている。それでも鹿が野生の中でどうして生きているかは今ではわかりにくい、ただ鹿が自然の中から消えたわけではない、北海道では原野でも見たし雪の知床でも見たのである。

知床の雪に埋もれてエゾシカの鳴き声鋭くひびきけるかな

エゾシカは北海道では必ず見れる。だから鹿が自然界から消えたわけではない。
鹿が原初の自然に生きている姿はそれ自体が美になる。野生の動物はもともと自然と野生の中に自然と調和して生きるとき美しいものとなる。
そういう姿を実感できないのが現代なのである。
だから自分は津波の被害で死んだ人には申し訳ないけど原野化した自然というのは不思議な光景だなとつくづく思う。
この風景は何なのだろうと否応なく意識される風景なのである。

●海老村の跡に雉が十羽も出てきた

海老村は壊滅したけどそこが原野化してキジが十羽くらい出てきたのには驚いた。
普通は今までは一二羽である。なぜ10羽もでてきたのだろうか?
原野化して増えたのだろう。津波と原発事故が重なりこの辺は田畑を作らないのでそこが原野化した。それでカヤネズミなどが増えてそれを餌とするノスリが増えた。
ノスリが七八羽集まって所を見たからである。
10羽のキジを見たときこれなら狩りもできるなと思った。
原野化するとそこはもともと江戸時代でも狩場になっていたからだ。
狩というとき山の奥に入って狩りするというのではない、身近な場でもしていたのであるそもそも野馬追いが野生の馬を追いつかえまて焼き印を押して神に献げる神事だったのでありそれはまさに馬を狩りすることであり動物を狩る狩猟時代にさかのぼることなのである。

ともかく八沢浦でも一面が葦原になってしまった。それは日本の原風景だった。
日本で一番多い地名は葦原だろう。飯館村も葦原になってしまった。八木沢峠の麓の
バラ坂なども人が住まなくなり元の自然に戻った。そして羚羊が出てきたのには驚いた。羚羊は今まで見たことがない、つまり人が住まないと自然の野生動物が住みやすくなるのである。

雉(きじ)で、名前が鳴女(なきめ)という者を遣わしましょう。」
とお答え申し上げたので、鳴女に言われました。
「おまえが行って、天の若日子にこう尋ねよ。
「この葦原の中つ国は私の御子が治める国で、私が委ねて与えた国である。
しかし、この国にはすばしこい荒ぶる国つ神どもが大勢いると思われる。
そこで、どの神かを遣わして、帰順させてほしい。」と。

神話とかが今実感として理解できないのはあまりにも文明化した結果、原初の自然から離れた結果なのである。東京に住んでいる人がビル群がある東京に帰って見えてくるとほっとするというのも異常な感覚である。それほど文明化してしまって自然から離れてしまっているのだ。全く人工的環境の中で生きている。
ただそこで食べているものはその人工的空間からは得られない、自然からしか得られないのだけどそううい感覚もなくなっているだろう。実感として食料でもどうして得られるのかわからない、ただスーパーには何でも並んでいるか金さえあれば食べられるという感覚になってしまう。

●葦原は日本の原風景

葦原といってもそれを実感として感じることができないと葦原を知り得ないのである。
そういう風景がなかったら理解し得ようがないのである。
八沢浦はもともと入江だったことは今回の津波で実感した。ただ今葦原になっていることはこれも予想外だった。この葦原も原初の風景にもどったのである。
この一面の葦原を日々見ていると葦原が実感できる。

4419: 家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも

651: 難波人葦火焚く屋の煤してあれどおのが妻こそ常めづらしき

 現代語訳すれば、「難波人が葦火を焚く部屋のようにすすけて古びているけれども、わたしの妻はいつまでも可愛くて一番だよ」ということでしょうか。
 古代より、難波の地は葦が生い茂っていることで有名でした。昔、燃料として用いた葦は火力が弱く、煙って家の中は煤(すす)だらけだったようです。
 「まるで家の中の真っ黒な煤のように、顔も手も煤で黒くなり、若い頃の初々しさはないけれど、それでも女房は世界一だ」と貧しいながらも明るく生きている庶民のくらしと思いが生き生きと詠まれています。

 この大阪の昔からの象徴を、関西大学は校章に用いているわけです。
http://www.kansai-u.ac.jp/presiweb/news/column/detail.php?i=1160


人類史上、最初に「文字」を考案したのはメソポタミアの人々である。
当初はエジプト同様の絵文字だったが、エジプトと違い書くものが粘土板だったため、絵文字は書きにくい→葦を粘土板に押し付けて絵文字っぽい模様を書き始める→簡略化して楔形文字に という流れで一連の楔形文字が確立していく。この文字はメソポタミアを中心に、広く西アジアで使われるようになる。
http://55096962.at.webry.info/201202/article_12.html


現世の人々の住む住居は葦や日干し煉瓦造りの粗末な物であった。朽ちにくい石造には永遠性への観念が込められていた

葦は世界中でもいたるところに生えている。だからエジプトでも生えていて利用した。
パスカルの考える葦というのもこれも原初的思考があった。葦が身近なものだからこういう思考になった。葦原はは世界的にも原初の風景なのである。

1324: 葦の根のねもころ思ひて結びてし玉の緒といはば人解かめやも
2134: 葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る
2468: 港葦に交じれる草のしり草の人皆知りぬ我が下思ひは
2565: 花ぐはし葦垣越しにただ一目相見し子ゆゑ千たび嘆きつ
2745: 港入りの葦別け小舟障り多み我が思ふ君に逢はぬころかも
2748: 大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも
2762: 葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな
3279: 葦垣の末かき分けて君越ゆと人にな告げそ事はたな知れ
4459: 葦刈りに堀江漕ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに

萩は宮廷人の美的鑑賞の歌になっているけど葦は原初的生活感覚の歌になっている。
葦が燃料となっていたこと時代そうである。つまり一面の葦原を見ていたらやはり
何か役に立たないかと考えるのが普通である。
つまり八沢浦で見る葦原はそうだし津波の跡は他でも葦原になっている。
その中にエゾミソハギの花が咲いていた。それは北海道で見た風景だった。

468: 港葦に交じれる草のしり草の人皆知りぬ我が下思ひは

ここまで深く葦を生活に則して感じることは今はできないからこのような歌も作れない。この葦の歌はたいがい生活と密着してできているからである。

748: 大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも

この歌なども不思議である。葦を刈って船に積んで何かに使った。その積んだ荷の上に妹の心がのるというのはどういうことなのか?
まずこんな歌を今なら作り得ようがないから理解するのかむずかしくなる。
これは理屈ではなく生活実感から生れたからである。
生活の中でその仕事する人と妹が一体になっていたのである。

2762: 葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな

この歌などは八沢浦の葦原の中に咲いていたエゾミソハギを見たがそれを思い出すと実感できるのだ。
ともかくこの辺は津波と原発事故で原初の自然がもどり縄文時代に還ったような風景にもなった。だからこの辺は何かいつも前とは違うものを感じるから新鮮だともなる。
ただ津波の犠牲者とかありそれを喜ぶのかともなるが八沢浦が葦原になったということも入江になったときもそうだったがあまりにも大きな予想外の自然の変化だったのである。
タグ:万葉集
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2014年11月15日

万葉集東歌二題の鑑賞 (空間と時間の感覚が現代とあまりにも違っていた)



万葉集東歌二題の鑑賞


(空間と時時間の感覚が現代とあまりにも違っていた)


信濃(しなの)なる須賀(すが)の荒野(あらの)にほととぎす鳴く声聞けば時過ぎにけり

天(あま)の原富士の柴(しば)山木(こ)の暗(くれ)の時移(ゆつ)りなば逢はずかもあらむ


万葉集の歌はその後の古今集との歌の相違は大きい。
古今集になると宮廷内の歌になり一般の農民の生活とは離れた感覚の歌になった。
宮廷人の歌であり源氏物語のように宮廷内のことが話題の中心になる。
万葉時代はそうした宮廷内とは全然違ったものとして歌われている。
東歌は土地に根ざした歌であり方言ば使われいるから余計にそうなる
万葉集の歌は何を意味しているのか理解しにくいというとき
短歌の歴史で万葉集と古今集の相違が大きいから理解しにくくなる。
古今集になると生々しい庶民の土の匂いのようなものがなくなり
何か宮廷内の遊びごとになり日々の生活から離れてしまった。
そもそも庶民の歌はなくなり宮廷人の歌しかなくなったのだから当然だとなる。
自然でも宮廷内の庭を見ている自然とか何か自然を人工化した自然を歌うようになる。
それは現代にも通じている。
とても狭い庭では自然を現し得ないのである。
だから京都に庭の文化があるとしてもそれは雄大な自然とはあまりにも違う。
人工化したし自然である

信濃(しなの)なる須賀(すが)の荒野(あらの)・・・万葉集には地名が歌われることが多いというときその場所に特別な思いがあり歌われている。
信濃という全体があり須賀の荒野がある。当時は荒野がどこでも広がっていたから珍しくない。その広大な荒野にホトトギスが鳴く、それか時を告げる声として広大な荒野に響いている。
現代の時は機械で一分一秒が刻まれている機械の時に酷使されている。
万葉時代は広大な自然空間がありそこに過ぎてゆく時である。
要するにここでは空間と時が一体化している。
現代ではこうした広い空間で時を意識することはない
例えば常に時は学校であれ事務所であれ工場であれ家庭ですら何か狭い範囲で時は意識されている。常に時に追われているのが現代人なのである。
それは空間の感覚が失っているからである。
働く場所でも工場とか事務所とか狭い範囲で過ごしているからそうなる。
そういう中で一分一秒で時が刻まれて酷使される時間の中に生きている。
奈良時代は200万人くらしか日本全国で住んでいなかったというのも意外である。
その時日本が広大な原野の部分が広がっていたのである。
だから空間の認識も違っていたのである。
ここでは時は広大なな空間にありホトトギスが鳴くことによって時の移るのを知る。
雄大な自然が時を知らせている。

天(あま)の原富士の柴(しば)山木(こ)の暗(くれ)・・・

これもそうである。天の原というときさらに広い空間を視野に入れている。
冨士山の壮大な姿が望まれ柴山というのは柴は燃料として使うものとして生活がある。
そういう雄大な空間があり生活があり人と人が会うのである。
文明はそうした雄大な自然の空間も奪ったのである。
絶えず空間が建物でさえぎれさまざまなものでさえぎられている。
人間があうというときそれは雄大な自然空間の中で会うのではない、林立するビルの下とか狭い路地とか狭い家の中とか何か狭い押し込められたような所で会う。
万葉人は広大な自然空間で合い別れる。
すると人間が会い別れるとしてもその後に広大な自然がそこに広がっている。

単に人間が会う別れるにしても今とは感覚的に相当違っていた。
ただ会う別れるにしても深い余韻を自然の中に反映されていたのである。
時の流れも悠長である。

時移(ゆつ)りなば逢はずかもあらむ

時が移ればあわてなくてもまたあなたと会えるでしょうという感覚であり追われて会うのとは違う。この広大なの天地でまた会うことがあるでしょうという時間感覚なのである。
ここには不思議なのが言葉の感じから例え別れても必ずこの広大な天地の中に二人は会うというたことを暗示している。合わなということはないでしょう・・・という確信みたいなものが歌われている。だから何か会う別れるにしても悲哀感が感じられないのも不思議なのである。
要するに現代ではこうした空間感覚でも時間感覚でももてなくなった。
だから万葉集のような歌は一見なんでもないようでも今になると作れないし理解できないものとなっているのだ。

この二つの歌は調べ自体が日本語の大和言葉でまるで水が流れるように自然に歌われている。言葉がよどみなく詩となっているのだ。
つまりその国にはその国から生まれた言葉があり言葉はまず詩語であったというとき万葉集の歌はまさに日本人の原点となるものがあった。
万葉集の歌は多様であり古今集とか宮廷人の歌とはあまりにも違っていた。
タグ:万葉集東歌
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2014年11月16日

東歌の富士山の歌の解釈が間違っていた (木の暗とは青木が原の樹海だった)



東歌の富士山の歌の解釈が間違っていた


(木の暗とは青木が原の樹海だった)


天(あま)の原富士の柴(しば)山木(こ)の暗(くれ)の時移(ゆつ)りなば逢はずかもあらむ

柴山の木の暗(くれ)とは青木ヶ原(あおきがはら)の樹海だったと説明する人がいた。
木の暗(くれ)とは(木の下の暗い茂り)てはないが此の暗の時刻がすぎたら会わなくなるであろうかという意味だった。
ということは柴は確かに燃料として使うものとしてと青木が原にとりにいった。
しかしそこは今も広大な樹海であり昼なお暗いのである。
だからその暗さは今も変わりない、確かにここでは暗いということをイメージする必要があった。それは今でも昼なお暗いから変わっていないのである。
これだけ広い樹海で一度会って別れたらもう会えないということを暗示していた。
今の時代とは違って歩きであり離れていれば会えなくなる。
当時はもっと暗いしその樹海はさらに広がっていたのである。
今も怖いが当時はそういう樹海に行くことは怖いということもあった。
道に迷ったりしたら出てこれないという恐怖もあった。
まともな道すらない時代だからである。
そういう経験を丸森でしたから樹海は出れなくなるということで怖いのである。
日本は森が深く今でも道に迷うことがあり近くでも遭難している人も多いことでわかる。
この歌は解釈が間違っていたけど何かやはり当時の自然の広大さを偲ぶものである。
万葉時代は二百万人しか住んでいないから広大なの原野とか開拓されない土地が広がっていた。それは今では想像を絶するものとなっていた。

天地の別れし時ゆ、神さびて、高く貴き駿河なる富士の高嶺を、天の原振り放け見れば、渡る日の影も隠らひ、
照る月の光も見えず、白雲もい行きはばかり、時じくぞ雪は降りける


富士山はこんな感覚で歌われていた。その下は原野であり樹海の上にそびえていたのである。
東歌は男女の生々しい土着的な赤裸々な表出である。
だからこの歌は何か自然の広大さを歌にしているから何か異質なのである。
もちろんこれも男女の相聞歌にしても何か違っている。
樹海になると昼なお暗いとする本当に太陽が傾き暗くなったら本当に怖いとまでなる。
この歌はまだ手つかず広大な自然の中の逢瀬があってもそれが自然によって会えなくさせられる。自然によって人間の生活は覆われて別れさせられてしまうことを暗示していたのである。
つまり万葉集時代の自然というのをイメージできないから何か間違った解釈になる。
この解釈の間違いは言葉通りに読んでいなかったことにあった。
言葉の正確な解釈をしていなかったことの失敗だった。

この歌は逢はずかもあらむ ・・・とあるときもう会わないだろう、会うこともないだろう・・・という深刻な歌かもしれない、それが現代にも通じていたのである。
青木ヶ原樹海は自殺の名所であり今も行方不明者が白骨化して埋もれていた。
それを考えると何かこの歌は不気味なのである。
別れるは万葉時代は死別でありまた二度と会わなくなるという深刻なものがかなりあった今のように一回別れたもう二度と会えないということがあった。
それは江戸時代でも一旦別れたらなかなか会えない、飛行機で帰るというわけにもいかないからである。だから別れるということは今とは全く違っていた。

「幼くして母と別れる」

◇『万葉集』八九一「一世にはふたたび見えぬ父母をおきてや長く吾(あ)が和加礼(ワカレ)なむ」(山上憶良)

別れるは死を意味していたし一旦別れたらなかなか会えないということがあった。
だから別れるというのは今とは全然違ったものだった。

武藏野の小岫が雉(きぎし)立ち別れ去にし宵より夫ろに逢はなふよ(3375)

戦争でも別れて二度と会えないということが無数にあった。現代は会うとか別れることの意味が浅薄になったのである。簡単にどこでも会えるとなれば会うことも別れることもそんなに意味がなくなってゆくからである。

陰々と昼なお暗き青木ヶ原
誰そ埋もれて知らじ
相別れて跡もなしかも
その闇深くヅクの鳴く声木霊す

何かこの歌は謎であり不気味なものを感じる歌である。要するに万葉集に解読できないものがあるのはその背景がわからなくなくなったからである。


タグ:青木ヶ原
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2015年02月05日

ももはなぜ百になるのか? (万葉集の大和言葉は日本の原自然から生まれた)



ももはなぜ百になるのか?

(万葉集の大和言葉は日本の原自然から生まれた)


ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日(けふ)のみ見てや雲隠(がく)りなむ

巻三(四一六)
…………………………………………………………………………………………………
(百に伝う)磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を最後に、僕は雲の彼方に去って行くのか
…………………………………………………………………………………………………
この歌は謀反の罪で処刑されることになった大津皇子が、磐余の池に鳴く鴨を見て読んだ一首と云われています。


日本語の一字で意味がある、もともと日本語は大和言葉は一音が基礎である。
二音はその一音から派生したものである。地名からこれを探求した人がいるし他にもいる
ヒという一音があり日があてられる。ネという一音があり根になる。
もの起源は藻であり藻屑に派生する。
藻は一杯あるものでありもも(百)になった。
チは地であり血であり千があてられる。
千歳がそうでありチは地であるから千歳と長いものに通じている。
千歳とは地(大地)から発したものである。
ネも極めて大和言葉的でありその痕跡は多く連なっている。
ネにつながる言葉があまりにも多いのである。
それでネから地名を解読する人もいる
もから動詞的にはモルがある。何かを盛ることである。名詞的にはモリ(森)がありモノ(物がある
つまり大和言葉でモから発する言葉はそれなりに主要語になっている。
第一モノは一番使われる言葉である。モノとは藻のように一杯あったものであり
それが物の起源だとなる。
一つの物をさしていたのではない、つまり原始の日本はモノにおおわれていたからそういう表現が生まれた。
ものがつく・・・表現は一つのものにつくのではなく・・・おおくの物がありそれにつく、おおわれることなのである。
つみが罪でありつつむから発したのも原始の日本では木であれ草であれ森であれ原始状態の自然につつまれていたからその言葉が発している。

この言葉を探求している人がいたけどこれも何か原始的な言葉である。
モモークキーネ・・・・これは原始状態の自然である。
たくさんのネがありクキ(茎)がありーネ(根)がある。
そこには道もなにもない原野の状態なのである。
地名は原野の状態をさしていることが多いのである。
この辺で山の奥の方の薔薇坂が何だろうと思ったら茨(いばらーうばら)だったのである。そこを開墾して住んだとき茨がありその名がついた。
茨城(いばらぎ)の由来も茨の中に足か住んでいたとか言われる。
万葉集時代は日本全国で二百万人くらいしか人が住んでいない
まわりはほとんど原野か山だったのである。
要する密生した木や草や森にとおわれていたのである。

なぜ大和言葉や言葉の驚異が言霊が失われたかというと言葉が生まれた日本の原自然が文明化とともに失われたからである。文明というとき弥生文明は稲作文明が原自然を破壊することから生まれた。
だから津波で松原が根こそぎ破壊されたことには驚いた。
松原は稲作で潮風を防ぐために作られた人工林だったのである。
杉林もそうである。楢とかブナがあるのが普通である。混成林が自然の状態なのである。
語源は不明。役に立たない木として、木へんに無でブナと読ませた。別名で、ソバの名があるのは、実が蕎麦の実に似ているため。
実は野生動物の食料になっていた。

ブナは用材にならないから役たたないから切って杉林にしたということがある。
それが自然破壊になり洪水が起きて麓の村が住めなくなったということもある。
原自然を破壊して文明化することは常に自然災害を作り出す基を作る。
松原ではなく混成林だとすると特に竹林だと根が強く張るから津波をある程度弱めたのではないかと混成林を新たに作る作業をした。
つくづく津波で感じたことは原自然がどうなっていたか?
縄文時代の自然を知ることが大事だったことを痛感したのである。
つまり海側に開拓した稲作文明自体が自然を無視した危険なことだったことを知ったのである

いづれにしろ百(もも)伝う・・の歌がなぜ不思議なのか
ここには日本の原始の自然の状態がありそれがなぜか理屈をこえて訴える
ただこの池は人工的な池だというときため池のようなものだというときまた違っている。ももづたふ磐余(いはれ)の池・・というとき大和言葉の理屈ではない言霊を感じる
磐余(いはれ)とはなにかわからないにしても磐と関係しているから重厚感がでている。万葉集の魅力は日本の原自然とイメージさせるから魅力的なのである。
枕詞でもそうである。現代はもう文明化が極端になり万葉集とかけ離れた環境になっているから万葉集を理解できないのである。


百才が(もも)であり桃色のちゃんちゃこになっている、でも江戸時代でも明治でも百才まで生きた人はいないだろう。90才まで生きた記憶はある。百才まで生きた記録はないだろう。
だから百才まで生きてモモが何だろうと自分なり解読した

日本(ヤマト)にそ百歳生きなば何思ふ大和心を汝(な)は知るべしかな

そもそも大和心は何なのか今やわからない、唐心が欧米の心が優勢になりすぎたのである
ただ日本人として生まれたらやはり大和心も知るべきなのである。
ただこういう文化的なことを理解するのは時間がかかるのてある。
百歳まで生きる時代になれば大和心を理解するということはある。
文化の時代は平和の時代であり吉田松陰の大和魂とか戦争中の大和心とは関係ないのである。
これまた戦争に利用されたのである。吉田松陰については最近疑問をさしはさむ人がでてきている。
そもそも大和魂とは何なのかとなるとこれまたわからないのである。
大和魂となると何か外に向かって攻撃的なのである。
それが外国の圧力に対して生まれた言葉だったのである。
原発の時も東京の消防隊が決死で水をまいた時に大和魂が言われた。
あれは何にも効果ないものだったからおおげさだったが犠牲的精神のことだったのだろうしかしこれも誤解されやすいものだった。
つまり大和心と大和魂は全く違ったものに由来している。
大和魂は吉田松陰が造語したものである
大和心に平和があるが大和魂は戦闘的なのである。
明治維新は海外に向かって戦闘的にならざるをえなかったからこの言葉が生まれたのである
時代によって言葉が死語となり新たな言葉の意味が生まれる、言葉は一定していない、常に時代によって解釈が違ってくる。



タグ:百(もも)
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2015年12月18日

万葉集の歌に死者を悼む歌を感じさせるもの (忌中にふさわしい歌)


万葉集の歌に死者を悼む歌を感じさせるもの

(忌中にふさわしい歌)


太宰帥大伴の卿の京に上りたまへる後、沙弥満誓(さみのまむぜい)が卿に贈れる歌二首

真澄鏡(まそかがみ)見飽かぬ君に後れてや朝(あした)夕べに寂(さ)びつつ居らむ


万葉集の歌は未だに解明されていない、今の時代の感覚では解明できないのが多いのだ。だから相聞歌でも恋愛の歌が多いというときそれは現代の感覚なのである。
折口信夫が言っているように死者を乞う歌だというときより深刻なものになる
恋は乞うでありこうであり今の感覚とは違うのである

何かだから死者を弔うときと関係ないようでもそうしたものが他にもある
この歌も不思議なの歌である。何か荘重な歌であることに気づいたのは母か死んだことでそれと重ね合わせてこれが死者を思う歌にふさわしいと思った。


これは死んだ人を偲ぶ歌としてもいい,丁度忌中であり今の感覚はこんな感じなのであるこういう歌はなかなか今の時代には作れない、簡単なようでも何か違っているのだ。
それは何か人間と人間の関係でも今は機械的でありこんなに深い情でつながらないかということがある。
常にそういう人間の純な感覚が失われたのか現代である。


真澄鏡(まそかがみ)


『池水に 左の目を洗ひ 日霊に祈り 右の目を洗ひ 月に祈り イシコリトメが マス鏡 鋳造り 進む』ホツマ4文

『天地を領らする 現の子を 生まん思いの マス鏡 両手に日・月 擬らえて 神 生り出でん 事を請ひ 頭 廻る間に アグリ 請ふ』ホツマ4文

『マス鏡 青人草も 直ぐとなる 人に於けらば 限り無し』ホツマ17文

「人を直ぐにする鏡」である。
「直ぐにする」とは「直す (なおす)」である。「直す」とは「(反り・曲がりを) 収める・合わす」ということである。


ここのサイトの説明も不思議である。真澄鏡とかが枕詞になったのは鏡か神宝となったのはそれが写ることなのである。それは姿だけではない心を写すから恐れられたのである。だから万葉人は心を清くするために真澄鏡を見ていた。今のように女性が化粧するだけのものではない、人間の心を見るものとして鏡があったのである。
神は人間の心を見るというときそれと匹敵するものとして鏡があった。
万葉人はやましい心があることを恐れたのである。それは真澄鏡に写されるということで恐れた。

要するに万葉人は日本の純な自然と直結して生活していた。それが神道と通じあっていた万葉集は恋愛集ではない、それは宗教ではないにしろ何かそうした神道に通じるものがある。
それはどこの国でも古代にはそうした自然への宗教心とかがあった。日本の宗教心は清浄な日本の自然を基にして起きてきたのである。

見飽かぬ君に後れてや、、、後れてとは死者に置かれている生者である。
それはまさに死別の歌にも通じている、忌中の歌にふさわしいものだと発見した。
つまりこうした厳粛てものが常に万葉集にはあり恋愛集ではないのである。
タグ:真澄鏡
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2015年12月21日

万葉集の死者を偲ぶ歌 (死者は自然と一体化して生き続ける)


万葉集の死者を偲ぶ歌

(死者は自然と一体化して生き続ける)


そして万葉集で歌われたものは何か現代人とは違っている
その人の別れでもその情が深いのである
人間は特に現代は人間の情が希薄化してしまった時代である。
でもさすがに人が死んだときはやはりその思いは変わらないことはある

時はしもいつもあらむを心痛くい去(ゆ)く我妹(わぎも)か若き子置きて(467)

悲緒(かなしみ)息(や)まずてまたよめる歌五首

  かくのみにありけるものを妹も吾(あれ)も千歳のごとく恃みたりけり(470)
  家離りいます我妹を留みかね山隠つれ心神(こころど)もなし(471)
  世間し常かくのみとかつ知れど痛き心は忍(しぬ)ひかねつも(472)
  佐保山に棚引く霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし(473)
  昔こそ外(よそ)にも見しか我妹子が奥津城と思(も)へば愛(は)しき佐保山(474)
  
大伴家持の歌だけどこれは死者を悼むものである。

子供残して死んだ女性の歌であり、これらは死者を悼む歌としてふさわしい

かくのみにありけるものを妹も吾(あれ)も千歳のごとく恃みたりけり(470)

千歳とでてくるところが何か今とは違う、千歳の巌(いわほ)となると自分も作歌したがそれともにている。

万葉時代は人間は死んだとき山に葬られた、その葬られた山はただの自然の山ではなくなる、愛する人が埋まっている山となるから違っている
奥津城というときそれは山の奥になる、山そのものが神体になるときそこに人が死んで埋められているからそうなった。それがやがて先祖がいて守ってくれるというのは一種の自然信仰なのである。それは人間であれば自然にそうなるともいえる

昔こそ外(よそ)にも見しか我妹子が奥津城と思(も)へば愛(は)しき佐保山(474)

佐保山は別に特別な山ではなかった。でも我妹子の奥津城となったとき特別な山になったのである。
そこに愛するものが埋まっているからである。妹というときいろいろある、女性全般の意味でもある。自然も人間が死ぬことによって深い意味をもつようになる
それまではただの山であり石であったが人間が死ぬことによって深い意味ある価値あるものとなる
人間の死が樹となり石となり山とも化してゆく、それが古代の素朴な感情だった。
だから都会での死は浅薄となる、ビルに囲まれていては何か人間が威厳が意味がもてない死という重大なものでも意味がもてないのである。
墓でもしょっちゅう通る線路の脇にあったり雑踏の隅にあったり窮屈であり騒音の中にあるからとても奥津城という言葉はあてはまらない、死が荘厳にならないし死者も威厳あるものとはならない、何か人間を威厳あらしめるのは人間の作ったものではない、自然によって人間は威厳をもたらされている、ただヨーロッパの建築とかなるとラファエロのアテネィの学堂のようにアーチの建築が人間に威厳を与えている
それはヨーロッパは駅まであのような古代のローマ風のアーチの建築になっている
だからそうした駅についたとき人間に威厳がもたらされているのである。


天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴の卿の京に向きて上道する時によみたまへる歌五首
  
  我妹子が見し鞆之浦の天木香樹(むろのき)は常世にあれど見し人ぞなき(446)
  鞆之浦の磯の杜松(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえめやも(447)
  磯の上(へ)に根延(は)ふ室の木見し人をいかなりと問はば語り告げむか(448)
  
ここで注目するのは「磯の杜松(むろのき)見むごとに、、、、」「磯の上(へ)に根延(は)ふ室の木見し人を」とか樹と人間を一体化しているのである。
それは古代の感情である。自分でもそういう短歌とか詩を書いてきたからである。
そういうことが今の時代の感覚ではなくなっているからである
自然と一体化して生活していれば自ずと自然と一体化した感情の表出がある
だから万葉集の恋の歌ですらなにか自然と結びついて原始的なものを残している
今の恋愛の歌とは違う。

奥山の磐本菅を根深めて結びし心忘れかねつも(笠女朗)

こういうふうに恋愛の歌で今は作れない、磐本菅を根を深めて結ぶ、、、何か自然と結びついた原始的感情なのである。
例えば萱根という地名があり萱は強く根を張るというときそれが農民の生活感覚から生れた、萱が根を張って動かない、それは土着的思考なのである。
現代はそういう感覚が失われているのだ。

例えば原発事故で避難した地域が山深い村がある、

村人の去りて淋しも一本の樹によりあわれ秋の陽没りぬ

その樹は人間化した樹なのである。津波でも何か不思議だったのは庭の木が今でも離れがたく悄然としてのこっている、それが常に人間に見えたのである。
庭の樹とか人間の生活があるところの自然は人間化した自然でもあったのだ。
万葉集ではそうした感情は自然と深く接していたから普通であり自ずと歌によみこまれたのである。

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

人間が自然の一部と化して残る、それはやはり死でも荘重なものとして自然化することなのである。

家離りいます我妹を留みかね山隠つれ心神(こころど)もなし

これは家離りというとき例えば今なら骨を四七日置くとかあるがその後は骨納めをする、すると家から離れる淋しがある。
山隠れつとはやはり山の奥深い所に死体を葬ったからだろう
その時まだ墓を建てなかったから心神(こころど)こころともなしとなったのかもしれない江戸時代でも死体はこの辺ではホトケッポとかという所に葬っていた。
つまり墓は庶民にはなかったのである。ましてや万葉時代になれば墓はなかったろう。
それでこころともなしとなったのかもしれない、墓は古墳でもあったから墓がないということではない、心ともなしというのはやはりこの場合は墓がなかったととれるのである。



タグ:死者を偲ぶ
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2017年06月20日

万葉集志賀の白水郎(しかのあま)の歌の解釈


万葉集志賀の白水郎(しかのあま)の歌の解釈

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古代の対馬(つしま)は、対外貿易の中継基地として重要であった。時の政府は、年に一度、秋の収穫後に九州本土から食糧を送るよう命じていた。玄界灘を輸送する船団の人数は百数十人。その水先(みずさき)を務める船頭の腕には責任がかかる。
 その年、太宰府は、経験のある筑前の津麻呂(つまろ)を船頭に任命した。しかし、年老いて気力のなくなっていた津麻呂は、友で年若い漁師、志賀島(しかのしま)の荒雄(あらお)に頼んだ。義侠心が強く、友情に厚い荒雄は、同じ海に生きる男として、進んで頼みを引き受けた。

志賀の山 いたくな伐りそ 荒雄らが 
     よすかの山と 見つつ偲ばむ
     
(志賀の山の木を、あまり伐ってくださるな。荒雄の縁のある山として、見ながら夫のことを偲(しの)ぼうとおもいますので。)
 形が変わるほど木を伐らないでくれと訴えている。志賀島は山の島である。とはいっても、最高部の潮見公園でも166m。カシやマテバシイに覆われている。

官(つかさ)こそ さしてもやらめ さかしらに 
    行きし荒雄ら 波に袖振る


荒雄らは 妻子(めこ)の産業(なり)をば 思はずろ 
     年の八歳(やとせ)を 待てど来まさぬ

沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来(こ)ば 
    也良(やら)の崎守 早く告げこそ
    
 「沖つ鳥」は「鴨」の枕詞。防人とその地の民衆との関わりが推測できる歌。能古島にはいま狼煙(のろし)台が再現されている。


 沖行くや 赤ら小船(おぶね)に つと遣(や)らば 
     けだし人見て ひらき見むかも
     
(沖を行くあの赤い丹塗(にぬ)りの官船の小船に、包みをことづけてやったら、もしや夫が包みを開いて見はしないか。)
 沖の彼方、海の底に生き続ける夫の姿を思う。

 大船に 小船(おぶね)引き副(そ)へ 潜(かづ)くとも 
     志賀の荒雄に 潜(かづ)きあはめやも
     
(大船に小船を引き連れて海に漕ぎだし、海に潜(もぐ)って捜そうとも、志賀の荒雄に海中で逢うことができようか、いやできはしない。)




志賀の山 いたくな伐りそ 荒雄らが 
     よすかの山と 見つつ偲ばむ
     
これは何なのだろうか?漁師は山を目印しとしている、でも木を切るなというとき木があってこその山である、山をよすか(よすが)にするというとき山には先祖が眠る、死者が葬られているということもあった、海からながめた山はまた地上からながめる山の感覚は違っている、でも木が繁っていてこそ日本では山である。
山は神聖な場所だったのである。
だから最近飯館村とかで山がソーラーパネルとかになるとそのよすかとする山の森が消失する、それは経済的な問題ではない、精神に影響する問題である。
飯館村は森におおわれているとき一つの別世界を形成していたのである。
ここには景観問題もあった、景観を自分は常に重視したというときそれが心に影響するからである。

荒雄らは 妻子(めこ)の産業(なり)をば 思はずろ 
     年の八歳(やとせ)を 待てど来まさぬ

ここに八年待ったということに重みがある、いつも帰ってこないかと待っている
漁師というのは夫が無事に帰るか心配になるのは今でもそうである。
いくら待っても待っても帰ってこないとなる、こういうことはいつの世もある
戦争のときも戦地に出て帰ってこない息子や夫を待っていたのもそうである。
夫が去って暮らしするのにも苦しいからこの歌ができた

沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来(こ)ば 
    也良(やら)の崎守 早く告げこそ

海での暮らしは船を出して海に出ることは常に見送り帰ることを待つ場なのである。
当時の舟は遭難しやすいから余計にそうなる
待つ場所というとき鉄道の駅も出てゆき待つ場所なのである。
ただ鉄道だと安全であるが海は常に危険な場所だから違っていた。
そして海では今でも遭難した人がいて若くして死んだ人がいるのが普通である。
だから海での暮らしは変わっていない側面があるのだ。
海での暮らしは舟が無事に帰ってきたというとき大きな喜びがあったとなる
    

沖行くや 赤ら小船(おぶね)に つと遣(や)らば 
     けだし人見て ひらき見むかも
     
(沖を行くあの赤い丹塗(にぬ)りの官船の小船に、包みをことづけてやったら、もしや夫が包みを開いて見はしないか。)
 沖の彼方、海の底に生き続ける夫の姿を思う。

 大船に 小船(おぶね)引き副(そ)へ 潜(かづ)くとも 
     志賀の荒雄に 潜(かづ)きあはめやも

これらの二首は切実な夫への思いである。何かこれは現代風に解釈すると津浪で死んだ人を思うのともにている
実際に未だ死んだ人が行方不明になっていて探している人がいるからだ
でももう海の底を探しても見つからないのである。

ここで一番感心したのは

志賀の山 いたくな伐りそ 荒雄らが 
     よすかの山と 見つつ偲ばむ

志賀の山の森の木をあまり切ってくれるな、そこは心のよすが(よすか)にする山だからというのはやはり山が単なる木材を供給するだけではない「心のよすか」になっていたことなのである。つまり日本の自然が心のよすかでありその心のよすかがなくなったとき日本人の心も消失するのである。
飯館村ではソーラーパネルになりそういうことが起きている
他でも日本は戦後は高度成長で自然を破壊してきたのである。
そしてそこに現れたの殺伐とした風景だったのである。        
     
     
      
  
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2019年04月05日

万葉集の松の歌 (古代人の直き心の歌が万葉集であり神道に通じている)


万葉集の松の歌

(古代人の直き心の歌が万葉集であり神道に通じている)


0066: 大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ

0141: 磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む

0145: 鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ

0309: 石室戸に立てる松の木汝を見れば昔の人を相見るごとし

matuone111.jpg

家の跡の松一本


家の跡誰か棲みたる
一本の松の立ちにき
その松の人にし見ゆる
今し春なり
残れる庭に水仙や
小さき花も咲く
ありし日のごと
その家の跡に土筆も生えぬ
松はここを離れがたくも
今も立ちつつここに根付く
この松と庭の消える時
また新たな家が建つとき
ここに誰か住むも知らず
その跡すら消えぬ
となれば偲ぶこともならじ
その松はなおここに住みし
人のごとくに一本立っている
まるでこの屋の主のように
ここを離れがたく立っている
人の世はうつろい無常なり
長くもあらむとしてもならず
遂には消えて跡なし
ただこの松一本の長くもあれ
ここに住みにし主の如くに・・・・

松は本当に人間に見える、それは万葉時代からそうだった、松は人間に最も親しい木だったのである、他の木は高いし太いし人間に見るのは無理なところがある
松は高さでも人間のサイズなのである
そして松は待つからきているのか?
松は人間だからこそ人間を待っているという感じになる 

人こそ知らね松は知るらむ

というときも松は人間のように見えるから誰も知らなくても松は知っているとみる
そこに松の不思議がある 

松が根に枕のように寝るというときもこれ実際の経験の歌である
松が人間のようになってそれを枕にして寝ているという感じになる
松に結ぶのもいかにも松自体が人間だからである
松は何か誠実に見える、まさにそういう人間に見える
松は嘘偽りのないもの、誠実な人間に見える、だからこそ枝を結び願いをこめる結ぶのであるそういう古代人の心境は今でもわかる 
こういう古代人の心境は深く松と自然と一体化していたのである
何か現代人はこうした素朴さを失った
自然と人間の深い交流シンパシーを喪失したのである

自然は素直であり直き心を反映したものとしてあった、その直き心を自然の基でも石でも山でも見ていたのである
現代人は機械に囲まれ、あまりにも複雑な法律で悪から逃れるようとする
守ろうとする、でもその法律でも機械でも悪いことに常に利用されるのである
松は誠実さを現している、万葉人もそのことを感じていたのである
万葉集の心とは何か?それは神道の直き心に通じている

日本人が失ったものまたそれは古代の万葉集に残されている、それは素朴な時代を生きた人間の真心の歌だった、国家神道とかではない、それは農民とかの生活から生まれた大地に根付いた土着的なものである
そういう時代から今を見るとあまりにも人間の心は穢れたものとなっていた
確かに生活は食べ物でもなんでも恵まれている
でもその心はスモッグのように汚染されて醜悪なものになっている

確かに科学技術は最高点まで達した感じがある
でもその科学技術だって原発事故のように何かそこには人間の欲が肥大化したものでありそこに人間が群がったのである
あらゆる人が科学者であれ学者であれ官僚であれマスコミであれ地元民であれ原発は巨大な欲望の象徴でもあったのだ
だから葛尾村でも原発で働いていて景気が良かったと言っている
飯館村ですら原発で働いていた、それだけ原発は金の成る木だったのである
ただ津波と事故で一挙にそれが崩壊したのである
それも何か自然からの罰なのか神の罰なのか、あまりにもむごいのでそう感じてしまうこともある

それも人間の心が物質的なものの追求ばかりで汚れてしまったからかもしれない
直き心などより科学技術による便利な欲望の限りなき追求になっていたのである
もうそれは地元だって足りることを知らないものとなっていた
だから原発事故というのは神からの罰だったのか?何かそういうことすら感じてしまうのである


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2019年08月10日

万葉集の死者を偲ぶ歌、死者と会いたいという歌が基にある


万葉集の死者を偲ぶ歌、死者と会いたいという歌が基にある

万葉集がなぜ理解でないのか?それは現代的感覚で読んでいるである
私的恋愛というのは万葉時代にはなかったというときもそうである
なぜこんなに恋愛の歌がありそれを現代的には私的なものとして個人的なものとして理解する、でも万葉時代は原始的部族の延長のようなところがありそうした部族では個を私を主張することはタブーになる
つまり常に共同のものとして自然でも共有関係があり私という感覚は希薄なのである
共同の祭りとしてあらゆるものがあり私的なものは認められないし自覚されないのである
その理由として私(わたくし)するということは共同の利益に反することでありとがめられるものである、また英語でもプライベイトとは奪うということであり共同体からするとそれは悪だったのである

公的・儀礼的であった挽歌が、個人の私的感情を盛り込むことのできる器として整えられていることがわかる。公的な挽歌を利用して、私的な感情は表現の水路を見出したと言ってもいい。個人の意識や意思が寄せ集まって、共同体的意識が生まれてくるというのは誤りである。むしろ共同体的意識のなかで、個人の意識や意思が発見されると言ったほうが正確だろう

ここが一番万葉集で誤解しやすいのである、だから現代の感覚で読んでいるからその当時の社会がどういうものだったか理解できないから間違った解釈になる
例えば我とは割れるから来ている、共同体から割れるが我なのである
万葉集を理解するにはむしろこの共同体から割れたもの、我がない世界を知らないと誤解するのである 

明日よりは 春菜摘まむと 標し野に 昨日も今日も 雪は降りつつ(8・1427)

この歌でも個人的な歌として解釈する、でもそもそも標し野とは共同地として特定されて禁断の地だったともなる、だからすでにそこは共同体のものであり個人の土地ではないのである
すると春菜摘むというのは何か個人が摘むというものではなく共同体の中で春が来たらみんなで春菜を摘むことを暗示している、その時みんな農民の社会に生きていたのだからそうした意識が共有されている
俳句で季語が無数にあるのはそれはもともと農民が季節感覚に敏感だったからである
それが共有されて文学になったのである

君が行く 日長くなりぬ 山尋ね 迎へに行かむ 待ちにか待たむ(2・85

ありつつも 君をば待たむ うちなびく わが黒髪に 霜の置くまでに(2・87)

たとえば「待つ」という表現は、死者の魂との交感の場面で、とりわけ切実な意味をもった。死者の面影が甦り、その魂が自分に寄り添ってくれるのを「待つ」のだ

この歌も不思議というか理解しにくいし深い意味が隠されているのである
山尋ねということ自体、人が死んで山に葬られる、ということは死者を尋ねる、墓参りすることだともなるし山に葬られた死者を尋ねるともなる
君をば待たむ・・・というのは生きている人なのか?
死者を思っているのかとなる、黒髪に霜の置くまでとなればそんなに長く待つとういうことはありえないともなる
それは死んだ人と会うことを待っているのかともなる
何かこうして万葉集は今の感覚からでは想像できないものがある
そこに当時の人間の原始的感情というものがありそれが現代では理解できないのである

「待つ」という表現は、死者の魂との交感の場面で、とりわけ切実な意味をもった。

待つとは恋人を待っているのではない、死者と会うことを待っているとなる
そうすれば君が行く日長くなりぬとは死んだのだから会えないのだから当然そうなる
死者と会うことを待ちにか待たむとなる

あなたは死んでからもう久しいけど葬られた山へ私は迎えに行きます
このように長くもあなたと会うことを待っています 

これは死んだ人と会いたいとなれば切実なものとなる、それは恋の歌とも違うのである
死者と会いたいということなのである、でも会えないから切実なものとなる
恋が乞うであり死者と会うことを乞うから来ている
とにかく万葉集がなぜ理解できないのか?
それは当時の共同体とか原始的感情というべきものをイメージできないからである
現代のようにすべて個人的なものとして私的なものとして理解するからである

つまりもうそうした原始的人間の共同体そのものが現代では消失している
だから共同意識も喪失している、そこで勝手に現代的感覚で理解することになる
だからそもそもこんなに相聞歌が多いのは何なのか?
それはもともと公的なもの共同体の中で読まれたものであり祝詞とかに通じていた
それは天候とかいろいろ関係してみんな農民だった時、その共同の祈りとして歌もあったのでありそんなに私的な恋愛だけではなかったのである
その辺に何か誤解して読んでいる、つまり我(われ)がない時の時代を知るべきなのである、そこにこそ共同の世界があり共有する意識があり重要だとなる
私的なものはその後に生まれたものだからである

母と姉死したるのちも離れざれ我が身にそいてふるさとに住む

こういうふうに死者の魂が身にそうということがある、それが理屈ではなく人間の原始的感情である、それが今でもありうるのである
60年も一緒に暮らしていたからそうなったのである
自分の場合は子供の時から姉と母は一緒にいたからそうなったのである
他では妻とかでも長くいればそうなる、ただ夫と一緒の墓に入りたくないという人や
姑と一緒の墓に入りたくない人が多いのもわかる、むしろ実家の墓に入りたいという時子供の時から暮らした親元の方が親しいとなるからである
それは人によって家族の事情が違うからむずかしいのである



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2019年12月30日

万葉集にみる国意識 (場所とのアイディンティティが人間の存在意義を作る)


万葉集にみる国意識

(場所とのアイディンティティが人間の存在意義を作る)

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会津嶺の歌」『万葉集』巻十四、3426番、東歌に会津の歌が収められています。

「会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね」


この歌が何か国を象徴している、会津嶺という山があり「紐結ばさね」と妻との強い絆を歌う、それは妻だけではない家族でもはあり人との絆でありつながりを歌っている
ただ国となるとそれなり大きいのである
第一会津となると面積では福島県の半分にもなるから広い
ところが故郷ととなると古里であり里は極めて小さな地域なのである
だから国と故郷はまた違ったものにもなる
古里意識と国意識は違う、だから会津となるとどうしてそれだけの広い国意識をもったのかともなる、どのくらいが国の範囲かわからない
それより国意識は外部との関係で持つことが多い、あなたはどこから来ましたとなるとき・・・の国ですとなるからだ
日本でも日本国内では国意識をもてない、外国に出ると国意識をもつ
日本という国を意識するのは外国に出たとき最も意識するからである
故郷は別に対外的には関係ない、何か家族くらいの狭い範囲なのである

忘れがたき故郷 如何にいます父母恙なしや友がき

これは父母であり故郷の人との絆を歌っている、これと国意識は違っている
国となると会津のように広いのであり家族とかでもない広い共同意識である
それは地形とか地勢とか風土とともに作られたアイディンティティである
だから会津にはそうした風土と歴史があり国意識が作られた
それで明治維新で薩摩長州が攻めてきて踏みにじられたとき特別の憤慨があった
そこに生きてきた人たちのアイディンティティが踏みにじられたということがあったためである、それはベトナム戦争の時もあった
なぜ強大なアメリカに抵抗できたのか?それは根底にこうしたその国に生きる根強い国意識があって抵抗できたとなる
ある土地を知ることはその国の全体を知ることであり一部分を知ることではない
料理でもそれは一部分である、全体は風土であり歴史でありそこから醸し出されるものである、会津にはそういうものを感じやすいのである
福島県では他に感じにくいのである

ただ国と言ってもそれが日本となるとその国意識は違ってくる、国家となるとそれは風土があっても広すぎるから国意識から離れる
最初の大和国家でもそれは奈良中心の狭い範囲なのである
大和とは一地域名だったからである

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし

この歌は奈良盆地のことであり広いにしてやはり日本全土にすれば一地域なのである
多多国意識は山と関係して日本では生まれている、これだけ山が多ければそうなる
外国でぱ国意識は父なる川のラインとか長大な川がありそれがアイディンティティ化して国意識になっているのだ
だからここが日本人にとっては理解するのがむずかしいのである
いかに川に対する思いが深いかわからないのである
ケルンの塔に上りライン河を見たときそれがオランダの方まで流れるのが見えた
そして平坦だからさえぎるものがなくイギリスまで望まれる感覚になる
そのライン河の河口にオランダという国が生まれたのか?
これも何か地形的な要素がありそうなったのか?
とにかく川はドイツの大地を貫きまたフランスの境界となっている
それはまたローマが支配できない場所とゲルマン民族の国としてライン川はあった
世界でぱガンジス河でも中国の川でもエジプトのナイル川でも長大だから四大文明もその川の側にできたのである

日本の国は比較的その範囲が狭いものとしてあった 

天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

  大和には 群山(むらやま)あれど 
  とりよろふ 天(あめ)の香具山

  登り立ち 国見をすれば 
  国原は けぶり立ち立つ 
  海原(うなはら)は かまめ立ち立つ

  うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづ しま) 大和の国は 」 

          巻1−2 舒明天皇

天香具山は低い山である、そこから見える範囲はかなり狭いのである
各地にある国見山でもあんなに低くはないのである
南相馬市を一望できる原町の国見山でも高いと思う、天香具山は小高い丘なのである
そこから国見するとしたらその範囲は狭い
でもここに歌われているのは海原とかまた国原とか広い感覚なのである
それが謎になる、そんなに広い空間を天香具山に上っても見えないのである 
鴎というときどうしても海をイメージするからである
現実になぜ琵琶湖に鴎の群れがいたのか、それは川を通じて海から鴎が飛んできて琵琶湖に来たとなる、だから大昔は飛鳥の近くは海になっていたしもともと奈良盆地は湖だったということもある、ただそんな昔までさかのぼれるのか今になると不可解になる

南相馬市の国見山から見る景色は広い、太平洋も一望できるしまた片倉のフラワ―ランドからは金華山と牡鹿半島が見えたからそれだけ広い範囲が見える
そしてその石巻の沖が震源地になり大津波がここにもおしよせてきたのである
そういう海を通じて一体化したのが相馬とかでありまた浜通りだったことを地理的に意識したのである

相馬藩内だと飯館までが国意識をもてるかもしれない、なぜなら飯館村は阿武隈高原としていつも南相馬市側から見ているし川でも真野川だと南相馬市内に流れてくるからである原町の新田川でもその上流は飯館村に通じているからである
それで飯館村は実際に鎌倉時代から鹿島の屋形に住んでこの地を支配した岩松氏がいて飯館村も支配していたことでもわかる
だから行政的にも相馬藩内にあった歴史があり古いのである

飯館に久しく行かじ冬の雲山にたれこめ今年の暮れぬ

飯館村はこのように山の向こう側であり山にさえぎられても地理的には一体感をもつのである、でも標高が高いから飯館村は飢饉があった地域である
米の被害が大きかったのである
それで南相馬市の合併を計られたことはそういう地理にあったからである
だから放射能被害でも放射性物質は真野ダムから真野川を通じして流れて来る
それを飯館村だけを隔離して見れない、土地はつながっているからである
飯館村を南相馬市とは別な地域として関係ないとできないのである

うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづ しま) 大和の国は

このうましというのは大和言葉としていい言葉である
ただ今になるとうましとは食べ物がうまいということだがそれだけではない、食べ物もうまいがその土地自体がうましなのである
それが放射能汚染でだいなしにされたのである

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2020年08月24日

自然に宿る御霊(魂)の謎    (万葉集に歌われる死者と交流する日本人の霊(魂) 


 自然に宿る御霊(魂)の謎

 (万葉集に歌われる死者と交流する日本人の霊(魂) 
  


 吾が主のみたま賜ひて春さらば奈良の都に召上げ給はね  山上憶良  (万5、八八二)

 天地の 神相うづなひ すめろぎの 御霊助けて 遠き代に なかりしことを 朕が御世に 現はしてあれば 

 「すめろぎの 御霊助けて」は、歴代の天皇の霊力が聖武天皇を助けて、黄金を産出させたという意味で、憶良の歌の「みたま賜ひて」と同じ観念である。

 稲の魂を「倉稲魂(うかのみたま)」といい、それを神格化したのが「倉稲魂命」(「神代紀」上、第五段一書の六)であり、剣も「布都御魂」(『古事記』神武東征条)と呼ばれ、社に祭られて「石上坐布都御魂神社」(『延喜式』


 
 古代日本人は、あらゆるものに神が宿ると考えていたと思われる。自然宗教に分類されるアニミズムは、物体に生気と動きを与えるのは精霊だと考え、死とは霊魂が永遠に身体を離れ、宿るべき身体を失った状態である。 死によって、魂の抜けた身体は、魔ものが入るとして、危険視されていた。危険を回避し、魂をあの世 に送ることができるのは儀礼であり、とりわけ、あの世からこの世へと再びよみがえるという生の再生のためにも、死者儀礼は重要な意味をもっていた。

 日本語の言葉には日本人の心が精神が宿っている、その日本人の言葉が活きていたのが奈良時代であり万葉集となり結実した
人間であれば言葉は重要である、言葉なくして人間でありえない、だからどこの民族でも言葉はあった、ただ文字は文明の基となったように高度なものである
だから日本には文字がなく漢字を取り入れたのである
その時一段上の文明が中国にあったからだ、その文字さえ何か最初発明した時は神秘的なものでありそれでヒエログリフのように神聖文字となった
それはアジアでもインドで経文となったように同じである
高度な文字の体系ができた地域が最先端の文明が起きた場所であったことでもそれを証明している

日本人とは何かというときやはり日本語から知らねばならない、それで本居宣長が大和言葉と唐言葉を分離して日本人の心を魂を知らしめたのである
日本語の中に古語の中に日本人が尊んだものがあり言葉に化石のように残されているのである
現代はもう言葉は数字なのか化学式なのか神秘的なものではなくなった
でも依然として人間が言葉をもつことは動物とも植物とも違っているのだ
それで言霊信仰になる、何かしら口から発した言葉が自分にも他人も影響するからだ
憎む言葉を発せればやはりその言葉を実際恐ろしいものとなる
人は実際に人を殺す前に言葉で殺している、心の中で殺している、その心が言葉となって現れるから怖いのである
人間のみが心と言葉が一体化しているからである

万葉集は日本語の原初の呪術的なものが残されている
だから日本人の心を知るには万葉集を知らなければわからないのである
いわば日本人の聖典のようになっているのが万葉集なのである
でも万葉集は解き明かされていない、それはなぜかというと古代の原始的心性というべきものが理解できなくなっているからだ
そんなもの科学の時代に迷信的だとかなるが何か第一人間の心は依然として不可思議であり解明されない、心だけはどんなに科学が発達しても解明されないと思う
どんな機械でも人間の心を見ることはできないのである

日本語だと霊、玉というのが心になる、日本人は心を玉と言っていた
魂(たましい)でもそうである

たまきはる、たまかぎる 玉櫛笥 玉衣(たまきぬ)、玉垂の、玉梓(たまづさ)のたまぼこの

玉として美的に詩的に表現されている、

魂(たま)合はば相(あひ)寝むものを小山田(をやまだ)の鹿猪田(ししだ)禁(も)るごと母し守(も)らすも    作者不詳 万葉集巻十二

「空蝉のからは木ごとにとどむれど魂のゆくへを見ぬぞかなしき」〈古今・物名〉

直接は合わなかったけど魂(たま)は合ったとなる、魂は心は通じたとなる

吾が主のみたま賜ひて・・・普通だったら物を賜る(たまわる)であるがみたまを賜るというのが現代では理解しかねるのである
日本人の心が何か?何を重要視したかをこうした日本語から知るべきである
賜るというのが今なら物を賜ることなのである、それが魂を賜るということがまるで違った世界に住んでいたのである
人間は今や物の中に生きている、毎日が物に追われている、そこで心はかえって失われてしまったのである
物がない万葉時代にはかえって魂は生きていたのである

というのは神道には経典がないからこそ日本語とか万葉集から日本人の心を魂に通じるべきだとなる
魂が合うというとき合わなくても魂は通じる、心は通じるということである
そしてやはり現代でもこういうことは不思議に起きて来る
会いたいと心で想う人にまた出会い合うとなる

そしてまた人間は死んで骨となり灰となり全くその姿が消失する、でも本当にすべてが消失したのではない、依然として何かがある、魂(たま)が消えずにこの世にあり生者とともにある、また死んだ人を迎えるその魂を迎える送り火とかがお盆にある
死んだ人の魂は家にお盆に来る、そういうことは理屈ではない、まさに魂で感じるものなのである
何かもう60年も一緒に暮らした人は死んでいない、でも本当にいないのだろうかとなると何か家にいて近くにいるという感じがするときがある
それは家族だけではない、別に親しくもなかったけど隣の女性が突然死んだ時は驚いた
だから何か死んだばかりだと依然としてそこにいてこっちを見ているような感覚になるのだ 

ましてや60年も一緒に生活していたら死んで簡単にすべてが消えるとはならないだろうだから人間の一番の不思議は死ぬことである、肉体も消えてなにもなくなることである
その変化はあまりにも大きいからとまどうのである
そして死者はどこに行ったのかと常に思うようになるのである
それで折口信夫は恋とは乞うことであり死者を乞うことだということは家族が全部死んでそのことがそうなのかと思うようになった
なぜそうなるのかというと死者とは二度と会えないからである
そうなるともう一度でもいいから会わせてくれと乞うことになるからだ
万葉集はなにかすべて恋愛の歌のように読むと浅薄なものになる
もし死者を乞う歌だとなれば深刻になるのである                                      

「空蝉のからは木ごとにとどむれど魂のゆくへを見ぬぞかなしき」〈古今・物名〉

この歌でも蝉の殻が残されて人は死んでしまった、何もない、その魂はどこに行ったのだろうとなる、死んだ人はそもそもどこに行ってしまったのだろうか?
全く何もなくなってしまったのだろうか?
人間はそういうふうに思えないのである、まだ何かがある、それは見えないが何かがあるそれが魂をもった人間だとなる、動物とは違うからである

日本の信仰では、霊魂が人間の体に入る前に、中宿ナカヤドとして色々な物質に寓ると考へられてゐます。其代表的なものは石で、その中で、皆の人が承認するのは、神の姿に似てゐるとか、特殊な美しさ・色彩・形状を具へてゐるとか言ふ特徴のある物です
(折口信夫)

死んだ人の魂は消えるのではない、依然として未練がありこの世をさまよっている
それで祟りの霊ともなるから魂を鎮めるとして祈ったりした
死者に祟れることを日本人は相当に恐れたのである
それから魂が何か自然のものに宿るとした、玉とはその人間の魂が宿ったものとして表現されたのである

ともかく現代とはもう物質文明であり機械文明であり大衆文明でありそこに人間の魂は消失したようになっている、蝉の殻のようになっている
そしてその彷徨う魂の宿る自然も大都会にはないのである
墓にしても団地のように狭い空間に魂は押し込まれているのである
人は死んで骨となり灰となり海にまいたりも今はしている
ただそういうことをしても魂は別なのである、なぜなら魂とは目に見えないものだからである、それで魂合うというときそれは離れていても合うということになる

現代文明とは人間の本来の魂を否定した消失した文明である、だから古代人は現代文明人からしたら遅れたものであり野蛮人なのだとみる
ところが魂から精神から心からみればなにかかえって現代文明人の方が野蛮なのである
たましいが失っている、無数の物質に囲まれていて肝心の魂が失われている
物(もの)というとき物と心は一つのものだった、物に魂が宿るのである
それが西洋的思想と東洋的思想の相違である
西洋的思想では人間の心と精神は分離してみる、日本語では物は心でもある
物には心があり心が宿り魂が宿る
物と心は一体なのである、現代文明は物と心が分離しているからそこで物が豊かでも心は貧しい、病的なものになっているのだ 

つまり現代文明は魂から心から見れば病んでいるし一つの病的なものとなっているのだ
それかカルト教団だとかナチスを産んだのである
現代文明は心の面から魂の面からみれば異常であり狂気的なのである
それゆえに万葉集とか古代の人にかえって学ぶとなるのである
人間の関係でもそれは商品交換のためにあるのではない、物の交換のためにあるのではない、心を通じ合う、魂合うということが人間の人間たるゆえんなのである
グロ−バル経済とかなるともう商品のみがあり物だけがあり心は決して通じ合うことはない、そこに異常性が生まれる、なぜ戦争になるのか?
物と心が実際は分離しているからである
世界自由市場などは株式の世界で作られたものである、数パーセントの人に世界の富が吸い上げられている博打場だというときそうである
物と心は分離している、そこに紙幣とか貨幣が媒介して人間の魂も心も魂合うものとはならないんのである、魂離れになってしまうのである

うつそみの人なるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む

万葉巻二に、大津皇子の亡骸を、葛城の二上山に移葬し奉った時、大伯皇女の御歌二首と詞書きのある第一首目の歌(165)である。 

山を人間としてみている、これは西洋ではなかなかないだろう、ただ自然でも擬人化することはある
確かなことは自然に人間の魂が宿るこということなのである
山は大きいからなかなかそうなりにくい、でも二上山は比較的低いやまだから人間化されたとなる

 我が母の亡き魂宿らむ石なれや影なし涼し今日もありなむ

 我が家に嫁ぎてあわれ百歳を生きて死ににき霊宿る石

 我が母の目ただずありぬ歳月や亡き魂石に宿り鎮まる  

 我が家の庭に静まるその石に母の魂宿り虫の声聞く

死者の魂は石に宿る、私は石をテーマにしてきたから石が心となる、魂となり宿るとなる人間が生きて死ぬ、でも人間の肉体は消えても何か依然として残っている
それで人間が生きた所には伝説となり石でも人間を語るのである
それがまさに人間らしいのである、それで例えば原発事故の避難区域になった町や村ではもぬけの殻のようになった、蝉の殻だけが残っているという感じになった
古い空家などがそうである、そこには人は住んでいても老人だけである
すると死んだ町、村になる、ここで考えるべきは実は死者の魂が生きている
それがそこに人が住まなくなると幽鬼となり彷徨うなるから不気味なのもとなる
そこに生活して生者がいるとき死者の魂もともにいる感じになるからだ

そして死者の魂は石とかに宿り依然としているとなる
伝説の石となり村で語られて生き続けるのである、奈良では万葉集の歌われた場所が残っていて偲ぶことができるのである
それは1300年前のことなのである
でも依然としてそうした大昔でもその場所から偲ぶことができるのである
死者は語られることによって生き続けているのである
これは日本人的死生観であり神道なのかとなる、また日本人の文化なのだともなる
ただこれはキリスト教であゃ仏教であれイスラム教であれユニバーサルなものになりにくいのである
第一砂漠のような所に住んでいるとき、魂でも石すらなく宿るものがないのである
だから
だから魂は天に昇るとなってしまうのである、ただ本当の神は砂漠に住んでいたのであるそこは汚れない場所だったからである、水で禊したとしても水も汚れるからである
砂だと水のように濁ることもないからだとなる
そこを絶対的空間として神が存在したとなる、そこではとても山を人間などと見えないからである、だから日本の自然は親和的であったというのが違っていたのである





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2020年09月02日

真野の草原(かやはら)は境界線 (海水温も境界になっていたー台風でわかる)


真野の草原(かやはら)は境界線

(海水温も境界になっていたー台風でわかる)

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本当にこさも不思議である
真野の草原が海水温の境界になっている
海水温まで関係していたのかともなる


今日のテレビの天気予報で台風が来て海水温を出していた
海水温が高くなると台風が発生しやすい
それでわかったことがその海水温でもみちのくの真野の草原の万葉集の歌が歌われた南相馬市の鹿島区がその境界線になっていた
これも不思議だとなる、天気予報を見ていると何か前も何回も境界線になっていることを報告した

今回もそうだった、ちょうと南相馬当りが境界線になっている
マルハシャリンバイの南限の地としてあるのはいかに植物が気候と関係しているかである照葉樹林帯というのは温帯でありこれが亜寒帯だとそうはならない、それはやはりこの辺が境界線なのである、つまり温帯とか亜寒帯の境界線なのである
それが海水温まで関係していたのである

つくづくだから真野の草原(かやはら)が実は萱ではない、むしろマルハシャリンバイが自生していた南限の地でありむしろ萱とかの寒々しい風景ではない
照葉樹林帯の温帯地域にある、すると何か南として温帯地域として意識されていたのである、つまり草原(かやはら)というイメージにあわないのである
それでやはり草原が地名説とした私の説が正しいとなる
何かみちのくだから草原が寒々しい風景が似合うように詩的にイメージしたのである
そこが錯覚の元になったのである

私自身は詩を作ったりしているからそうしして空想的にイメージしやすいのである
でも俳句は正岡子規に習った写生俳句だからそうはならない、それで写生俳句は写真と相性がいいのである

いづれにしろ科学的思考が歴史にも欠かせない、それで天候から温度の変化とかから古代を調べる人もでてくる、そうなると理系になり私にはできないとなる
ただこうして天候を見ていると必ずこの辺が南と北の境界線になっていることは間違えないのである
つまり大和朝廷の支配領域は天候と関係していたのである
気候と一致して境界線があったとなる、つまり人間が作った歴史と自然の境界線が一致していたとなる、境界となる場所の要素として何か自然の地勢とか天候でも関係している
ライン川のように川が境界になったりするのが普通である
そしてこの境界線は歴史でも自然を知る上でも大事な要素なのである

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

要するにこの歌は大和朝廷の支配領域になった地として境界として奈良時代に知られていた、実際にこの歌にして慕った大伴家持は陸奥に赴任したともされている
ただそれは明確な証拠がないがそれを論文で出している学者もいる
だからこの歌はとにかく大和朝廷のみちのくの進出がありその境界線として歌われたものだとなる

posted by 天華 at 10:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集