現代の万葉集の意義
(自然から離れた都会はカルトの温床)
現身(うつせみ)は数なき身なり山河の清(さや)けき見つつ道を尋ねな
渡る日の 影に競ひて 尋ねてな 清きその道 またもあはむため.
水泡なす 仮れる身ぞとは 知れれども なほし願ひつ 千年の命を 大伴家持
日本人の心の根源に万葉集がある。万葉集は日本の風土と一体化したことに意味があった。現代では日本の風土と一体化する、アイディンティを求めることがむずかしい。どこの国でも自然と一体化することが神を尋ねる道である。ビルと車の騒音なのかで神を求めること尋ねることができない。
結果的に宗教は政治化して経済化してカルト化する。オウムも異常なものに見えてもやはり現代という環境が作り出したものである。その中で有為な青年が今や五十代とかなりその青春を浪費して人生を浪費した。古代のように自然の中に道を求め尋ねていたらこうはならなかったろう。結局文明自体の歪みがオウムであれ創価であれ様々なカルト団体を生み出ししているのだ。自然の山や岩や樹とかに自己をアイディンティ化したら自己同一性を求めたらあのようになることはなかったろう。
これは原発の安全神話にも通じている。これも一種のカルトだったのである。科学を絶対化して科学者にだまされたのである。科学者も科学を宗教のように絶対化した詐欺師だったのである。
万葉集の意味は時代によっても違ってくる。戦後は大君、天皇への忠誠心として過剰に天皇礼拝になりすぎたのである。大伴家持の大君への極端な傾斜は古代ではやむをえなかった。それが明治維新で過剰に利用されたのである。江戸時代まで天皇は京都で貧しい生活をしていた。それが明治維新で過度にもちあげられすぎたのである。それが皇国の戦争へとなり多大な犠牲ともなった。でも万葉集のいい面は庶民まで歌っていることであり権力者だけのものではなかった。そこに国民的最古の古典としての意味があった。日本の風土と一体化したものとして残ったのである。
尋ねるべき所はどこかなのか?今や寺院や神社を尋ねてもそこに仏も神もいない、キリスト教の世界ですら大聖堂を尋ねたとしても神はいない、シナイ山にもエホバはいない、神の居場所は移動するのは結局人間が入り込んでくると必ず汚されるからである。必ず宗教の場は政治や経済の場に変貌するのである。そこで心を清めることは不可能である。今はエホバは神はヒマラヤの最高峰に住んでいる。ヒマラヤは未だ汚されない場所だからである。イスラエルが聖地だとしても実際は違っている。
誰にも人間によって汚されない場所に神は住む。それはもはやヒマラヤにしかないのである。
大芦とか地蔵木のことを秘境として語ったが江戸時代はほとんどの地域が秘境だった。隣村すら未知の世界であり秘境となっていた。村と村は交通も歩くとか馬とかだからそんなに行き来しない、閉ざされて住んでいたのである。だから明治になっても民情が違うから合併しなかったとかなる。どこでも村は自給自足が基本であり交流しなくても基本的に所では生きていけたのである。今は地球の裏側からものが入らないとかで大騒ぎになるのとは大違いである。どんな山の中でも交通が発達していないから自給自足が基本だとすると人が入らない秘境が普通にあったのである。そんなものを探す必要もない、いたるところが秘境だったとなる。
飛鳥から吉野川右岸の竜門山中にある山岳寺院、「竜門寺」を訪ねた時のこと。
彼が残したという漢詩が、日本最古の漢詩週『懐風藻(かいふうそう)』に、収められている。
命駕遊山水
長忘冠冕情
安得王喬道
控鶴入蓬瀛
この詩は葛野王の心境を吐露したもので、「馬車を命じて竜門山の山水に遊び、しばらく高官高位の身にある煩わしさを忘れたい。この竜門山で王子喬(中国の仙人)のような仙術を会得して、鶴に乗り仙人が住むという蓬瀛へ行きたい」というものである。葛野王は、慶雲2年12月20日(706年1月9日)に薨去しているので、これ以前から龍門山は神仙的または霊場として認識されていたようである。
蓬瀛は奈良の都のすぐ近くにもあった。今とはまるで違った環境だからそうなっている。葛野王は政治的争いのただなかにありそこから逃れたいということでこの漢詩を作った。ところがそういう所で生活する人がいたしその人たちはまさに蓬瀛に住んでいたのである。ただその生活は不足が多く苦しいものだった。大芦とか地蔵木もそういう場所だったしどこでもそういう場所はいたるところにあったのである。ネパ-ルなどもあんな高いところ高い所に住むほかなかった。まず天に住むほかないくらい高い所に住んでいることに驚く。それだけ耕地がなかったということである。
現身(うつせみ)は数なき身なり山河の清(さや)けき見つつ道を尋ねな
渡る日の 影に競ひて 尋ねてな 清きその道 またもあはむため
人間は都会で道を求めてあうことありえない、ただ政治として権力としてもともと奈良の都でもあり現代はけたはずれの大規模なものとして都会がある。そういうところに道を求めること自体、本末転倒もいいところであった。仏教も結局、政治権力化して堕落したのは奈良時代からはじまっていたのである。京都が寺の都となったときもそうである。あらゆる権力が寺院に集中した。それで信長はその既得権勢力をつぶしにかかったのである。職人でも寺院に仕えているからその職人を安土城などで働かすには寺院勢力から奪うほかなかった。
近江国内には比叡山延暦寺をはじめ、多くの有力な寺院があり、それぞれが石垣や瓦の技術をもった自前の普請集団を抱えていました。近江由来の石垣といえば、一般には「穴太衆」や「穴太積み」などとして知られていますが、「穴太」とは比叡山の麓にあった地名であり、「穴太衆」とは近江国内に散在する石垣集団の1つに過ぎなかったものと、今では考えられています。
http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.turedure4.htm
万葉集の意義も時代とともに変わってくる。戦争中はどうしても大君への過度な忠誠を換気するものとなり悲劇を生んだ。万葉集にも政治的なもの色濃く反映されていた。国家神道が神道でないというときそうだった。神社がすべて皇統の中に組み入れられたのも神社が権力化されたのである。一方で日本の自然と一体化したアイディンティ化したものが読み込まれていた。千歳の命を望んだときやはり岩のように長くありたいということがあった。それは自然な人間の心である。極最近まで長く生きること自体が価値があったのである。五十くらいで死んでいたときは長生きの価値は大きかったのである。長生きするとその土地と一体化してゆくのが人間も生物だから同じなのである。都会で今やアイディンティを求めることは至難である。だからカルト化した政治化した科学化した経済化したものがアイディンティとなる。自己同一化になる。それが極端化したものがオウムであり創価でも幸福の科学でもやはり根は同じなのである。