2006年10月14日

認知症の衝撃−半年の記録

認知症の衝撃から半年間の記事をまとめました

(季語はあまり関係ありません−俳句と一緒になってしまったのでそのまま題にしました)
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高齢化社会の悲惨(役割喪失がボケに通じている)7月27日
http://www.musubu.sblo.jp/article/1035796.html

私のプログへのキ-ワ-ドからの認知症問題 7月25日
http://www.musubu.sblo.jp/article/1027162.html

銀行 金おろせない(数字、漢字がわからない認知症−抽象化思考できない)7月16日
http://www.musubu.sblo.jp/article/972881.html

NHKの福祉番組を見て(男性は介護に向いていない)7月15日

http://www.musubu.sblo.jp/article/969280.html

私のプログのキ-ワ-ド分析7月11日

http://www.musubu.sblo.jp/article/958632.html

老人の狂気と認知症−病気にもいい面がある 7月11日

http://www.musubu.sblo.jp/article/957340.html

梅雨の晴れ間の月(正常と異常の見極め?) 7月4日

http://www.musubu.sblo.jp/article/933725.html

姥柳(認知症と家の関係)6月29日

http://www.musubu.sblo.jp/article/917033.html

刑務所の認知症問題−病識をもった認知症6月28日

http://www.musubu.sblo.jp/article/912928.html

宣伝媒体となるものは信用できない(病気の原因の謎)6月16日

http://www.musubu.sblo.jp/article/852094.html

高齢化社会の疑問(長生きはすべて意義あるものなか?)6月14日

http://www.musubu.sblo.jp/article/847915.html

見当識障害 6月12日
http://www.musubu.sblo.jp/article/835699.html

認知症の責任能力の不思議 6月11日

http://www.musubu.sblo.jp/article/831976.html

夏雲雀(人間の皮肉−楽園ではボケになる?)6月7日

http://www.musubu.sblo.jp/article/818090.html

不具者の思想(優生思想の危険) 6月6日

http://www.musubu.sblo.jp/article/814389.html

芍薬(ボケないためには仕事の継続が必要)6月6日

http://www.musubu.sblo.jp/article/812914.html

小話(ボケたばあさんと村の辻の石) 6月4日

http://www.musubu.sblo.jp/article/806930.html

老鶯(認知症の対処方法は環境を変えないこと)6月3日

http://www.musubu.sblo.jp/article/802590.html

夏雲雀(右脳を使わないとボケやすいのか−認知症になる原因は?)
5月31日
http://www.musubu.sblo.jp/article/793206.html

芍薬(日本の認知症の施設には期待できない?)5月28日

http://www.musubu.sblo.jp/article/724800.html

NHK教育ETVワイドともに生きる (認知症の人が語る番組)を見て 5月27日
http://www.musubu.sblo.jp/article/723703.html

鈴蘭(認知症、ボケはダンテの地獄編か?)5月27日

http://www.musubu.sblo.jp/article/722849.html

夏つばめ(認知症への差別、偏見) 5月26日

http://www.musubu.sblo.jp/article/720541.html

夏菊(認知症は関係障害?−母性本能は強烈なエゴか?) 5月20日

http://www.musubu.sblo.jp/article/702572.html

藤の花(ボケの予防には運動が一番)5月19日

http://www.musubu.sblo.jp/article/698372.html

延齢草(ボケにならないだけで善幸)5月18日

http://www.musubu.sblo.jp/article/695966.html

白藤(文学はカルタシス?)5月17日

http://www.musubu.sblo.jp/article/692950.html

老鶯の句のまとめ(楽隠居は現代ではボケに通じる)5月14日

http://www.musubu.sblo.jp/article/684235.html

老鶯(福祉関係の給料はなぜ安い)5月13日

http://www.musubu.sblo.jp/article/680494.html

老鶯(遊びで堕落した人間−高齢化社会はボケの大量生産?)5月12日

http://www.musubu.sblo.jp/article/676226.html

延齢草(記憶力は強く意識しないとつかない)5月7日

http://www.musubu.sblo.jp/article/654844.html

老鶯(認知症の原因は環境の変化−役割喪失か?)

http://www.musubu.sblo.jp/article/650147.html

春の夕(末期の眼−終末期をともに生きる)5月4日

http://www.musubu.sblo.jp/article/641123.html

春逝く(認知症、ボケになる人ならない人?)4月29日

http://www.musubu.sblo.jp/article/623679.html

春の日暮れる(老人に学ぶ−大正生まれは忍耐の時代)4月26日

http://www.musubu.sblo.jp/article/614661.html

蛙鳴く(不定愁訴?) 4月25日

http://www.musubu.sblo.jp/article/609319.html

春の嵐(神の万能 人間の力の限界)4月21日

http://www.musubu.sblo.jp/article/598055.html

春の庭(病気の暗さへの対抗) 4月20日

http://www.musubu.sblo.jp/article/595669.html

老いの悲しき結末(認知症は社会的環境の病気でもある)4月16日

http://www.musubu.sblo.jp/article/567153.html

あどけない花(おごりたかぶる人間の末路)4月14日

http://www.musubu.sblo.jp/article/559941.html

紫のクロッカス(認知症の人の何に敬意をはらうのか?)4月10日

http://www.musubu.sblo.jp/article/548995.html

つばめ来る(認知症の人に敬意をはらうことはできない)4月9日

http://www.musubu.sblo.jp/article/546259.html

春の月(「門閉じても家にいても災いは天から降ってくる」)4月8日

http://www.musubu.sblo.jp/article/541076.html

燕来る(高齢化社会の明暗) 4月7日

http://www.musubu.sblo.jp/article/535039.html

マ−ガレット(無能人間にされる認知症の衝撃) 4月6日

http://www.musubu.sblo.jp/article/532291.html

春寒し(遠い記憶−認知症の語り)3月31日

http://www.musubu.sblo.jp/article/516149.html
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2016年10月19日

南相馬市の65歳以上35バーセント (看護師不足などー地域で育ったものは地域に貢献する時代)


南相馬市の65歳以上35バーセント


(看護師不足などー地域で育ったものは地域に貢献する時代)


高齢者人口は3384万人、総人口に占める割合は26.7%と共に過去最高
80歳以上人口が初めて1000万人を超える

南相馬市は35バーセント 相馬市も30パーセント

福島県では25パーセント

百歳以上も増えつづける

平成22年68744,449
平成23年76247,756
平成24年80751,376
平成25年81354,397
平成26年86258,820
平成27年97061,568
平成28年1,04665,692

高齢化社会というとき南相馬市は原発事故などで急速にすすんだ。35パーセントが65歳以上なのである。10人いるとすると3,5人となるこれは全国平均で26パーセントとするとき
かなりの多さである。何か街を歩いても目立つのは老人なのである。
この辺では人口が流動した。だから今でも除染であり工事関係者であれ5000人くらいまだ入ってきているという、だから実質の人口は増えているのである。
そして小高は住民票があり南相馬市に入っていても浪江であれ大熊であれ飯館であれそういう所から入ってきた人は南相馬市の人口になっていない、住民票が以前として前の町にあるからである。それでいわきでは税金を納めないとか問題になった。
家を建てても税金を納めないとすると住民でもないとなるからだ。
でもジレンマは住民票を移せば原発事故の補償金がもらえなくなる、だから移った先に住民票を移さないのである

だから南相馬市でも相馬市でも他でも原発事故の関係で福島県は実際そこに生活している人が増えても増えていない、住民票を移していないので移った先の住民になっていないのである。
だから例えば鹿島区の復興住宅に80所帯が買い上げで入るとしてその人たちは南相馬市の住人になるのだろうか?
補償金がもらえなくなれば打ち切られればそうなるのかもしれない、ただ以前として前の町や村に住民票を置くということも行政などでまた何かあるかもしれない。
この辺はそういうことでも混乱しているし原発事故は福島県全体をまきこんだものだったのである。

高齢化というとき百歳以上を毎年3000人から5000人規模で増えているのも驚きである。
この調子で増えてゆくとするとどうなるのかとなる
自分の母親も百歳で死んだ、百歳で死ぬことはどういうことなのか?
楽に死ねることは確かだろう。自分の母親は老衰でありほとんど苦しまずに死んだ。
約一週間前に水も飲まなくなっていたがホータブルトイレには行っていたし手がかからなかったのである。それで自分のような不器用な人間でも介護できたとなる
百歳まで生きることで得なことは楽に死ねることなのである。
その他は病気で死ぬから苦しむことになる

高齢化社会は日本全国でも影響が大きい、この辺は特に35パーセントになっているから先取りして高齢化になった。
復興といっても高齢化の影響でできないというのが現実なのである。
小高は避難解除しても帰ったのは90パーセントは65歳以上だろう。
老人だけが帰って町が成り立つのかという深刻な問題になっている
もともとこういうことは予測されていたのである。
たから高倉の老人は時期が早まっただけだとも言っていた。
子供は外に出て跡を継がないし老夫婦だけが取り残されたのである。

それにしても金山町とかは50パーセントが65歳以上である。二人に一人が65歳なのであるこうなるともう町でも村でも成り立つのかとなる、会津の高齢化は深刻である。
浜通りはそうではなかったが原発事故後急速に高齢化したのである。

それから南相馬市では看護師不足が以前としてつづている。それで市では奨学金制度で生活費まで援助するが南相馬市の病院に勤めればその資金は払わなくてもいいということでいくらかの看護師を確保した。それでも20パーセントがたりないとかなっている
というのは中通りでは200人とか看護師が増えた、双葉や浪江など相馬地域から原発事故で放射能を怖がって看護師が流出したのである。
子供をもっている看護婦も多いからそうなる。
何かだからこれからはそれぞれの市町村では今までのような考え方ではやっていけなくる今までは地元からどこにでも就職してもいいということがあった。
東京で人手不足なら東京に就職してもしかたないとなる

でも時代が変わった、別に東京と地方を比べるとき生活の水準が今はそれほど変わらない、通販やインターネットとかで情報的にも遅れるということもない社会である。
ただ就職先がないということで東京に大都会に出るという若者が多かった。
でも時代が変わり地元で育てたものは地元に貢献するというのが筋になる。
だからなぜ放射能汚染があっても子供が親を捨てて出て行くのか?
苦労して育てたのに何にもならないとなる、それは看護師の流出や不足に象徴されていたのである。放射能は低い所もありそれが即子供に影響するとはならないのである。
その影響はまだわからないからである。


これも広域社会だから起きたことである。看護師となるとどこでも就職できるからであるかえって給料がいいからと東京の方でもひっぱりだこになって移っている人もいる。
でも何かこういう広域社会グローバル経済社会の矛盾がでてきている
放射能汚染があった、何か困難が生じると他に移ればいいとなるとそれでいいのか?
家族すら離散していく、そんなに頼りないのか?何かそこに疑問が生れている
他で移り親がいるのに親のめんどうを見ないで他の病院で他の親のめんどうをみている。子供を育てた親は馬鹿らしい、なんのために育てたのかともなるだろう。
地域にしてもそうである。地域でその子供を世話しても外にでていくだけだとなれば
世話しても何にもならないということにもなる

「遠くの親戚より近くの他人」となる、それは隣の村でも歩いてきたら遠いから看病などでもできないのである。車でも通うとなるとめんどうになるのである。
だから娘がいたとか東京だとかなるといくら親孝行したくてもできないのである。
一方で血縁だらか遺産があれば遺産だけはもらうとなるとそんなら自分を助けてくれる近くの人にやっ他方がいいとなる。
何か老人になると近くが大事になるのである。若いときは健康だし人に頼る必要があまりないからそういうことを考えないのである。
ただ近くだから助けてくれるとは限らない、自分は全く助けてもらえなかったからであ
る、かえって弱者化したときこれ幸いと火事場泥棒とか脅迫されたりしたからである。
それでも近くの人を助ければ近いのだから助けられることはありうる
その確率の方がずっと高いのである。遠くになれば助けようにも助けられないからである。

高齢化社会というときマイナス面が強調されるがそれだけではない、社会に影響するというとき高齢化はスロー社会になるからなにか急がないゆったりとした社会にもなる
どうしても団塊の世代が活躍した時代は高度成長時代でありがつがつしていた、欲望でぎらぎらしていた時代である。
それが今はない、何か全体的に活力というものがないのだがスロー社会であり落ち着いた生活をよしとするようにもなる
高度成長時代の企業戦士とかなると獰猛な肉食系の人が活躍した。
今は草食系とかいわれるのもそのためである。老人になればどうしてもその土地に根ざした生き方になる。植物的に根を張る生活であり農業的なものになってゆく

自分でも若いときは世界へ羽ばたくというか拡大化してゆく旅である。新しいものを貪欲に吸収する、それで旅ばかりしていたとなる。
でも旅したことでも今度はその意味を深化させる、旅だけではなくこれまで経験したことをその意味を深化させるのが老人に向いているのである。
ただ新しいことはもう吸収できない、これまで吸収したもので花咲かすのである。

何か老人だと誰でもその人の経験した話が面白い、札幌から来た自転車旅行の67歳の人は冬山にも上り一緒に登った人が死んだというときそこに驚きがある。
そんな経験はなかなかできないからだ。山は自分も登ったが一番疲れるし危険でもある。自転車旅行では交通事故があっても遭難などはないのである。
何かそういう人の体験しない話を聞くのが面白いのである。
そうなると平々凡々の生活をしてきた人の話は面白くないとなるかもしれない、公務員とかはそうなるかもしれない、冒険がないからである。
一般の社会人でも企業でも冒険があると話も興味深いものになるかもしれない
漁師とか農民の話も実際は興味深い、それは自然と深く結びついたものだからである。
札幌で暮らしているとかなるとそれは大都会であり都会人だから興味ないともなる
本当の北海道人だったらやはり牛を飼っているとか農業をしている人とかになる。
他に漁師もいるからそういう仕事の人の話を興味深いものとなる

老人の価値を若い人は金だけだと思っている、金だけを求めているがその人の経験があり特別な経験をした人の話は面白いのである。
要するに老人は経験したことから芸術でも学問でも何でも創作しているのである。
若い人はそういう経験がないから書くものでも浅薄になる。
若い時は何か芸術でも深く見れない、鑑賞できない、思想でも哲学でも深く本でも読めないのである。理解できないのである。
老人になると理解力であれ鑑賞力であれ何かを深くみる創作するということに向いているのである。
創作する人にとっては芸術とかなると長生きした方がいいのである。
長生きすればするほどその芸術が深いものとなるからだ。
ただ人間の価値はいろいろであり芸術だけではない、何かしら老人でも価値をもとめればある。

しかしただ長生きしただけで人間の価値が生れるかとなるとそうはならないだろう。
人間は何かの価値に生きる、それがただ長生きだったら価値あるとははならないのであるこの人に何の価値があるのか?それはそれぞれに違っているからなかなかわかりにくい。
それはこの人は長く生きたから価値あるとも言えない、百歳生きた人が価値あるかどうかはわからない、みんなが果たして価値あるものになるかどうかわからない。
自分の母親は家族のなかでは価値があった、自分も支えられたから価値があったが家族外では価値があるものなのかどうかはわからなかった。
社会的に価値ある存在というときそれがどういうものなのか見極めるのはむずかしいとなる。
社会的にはこれだけ高齢者が多いというときただ社会にとって重荷であり迷惑であるということも高齢化社会では顕著になるからである。

posted by 老鶯 at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 認知症半年の記録

2018年07月05日

近くの同年代の人は要支援なのだろう (金がなくて援助が頼めない)


近くの同年代の人は要支援なのだろう

(金がなくて援助が頼めない)

介護施設を利用する際にかかる居住費・食費は保険対象外の全額自己負担となり、これを理由に特養への入居をあきらめる人が増えたという。

要介護状態の利用者が、要支援状態の利用者が多すぎて、本来のサービスが受けられなくなることへの対策という部分が強いように思われます。

要支援が要介護に統合されるのではありません。
介護予防サービスが市区町村の自主サービスになり、介護保険サービスから外れるのです

その人は近くで同年代でありその親と自分の親とは親しかった、でも死んだ
その時はヘルパ−がきていた、農協関係なので来ていた
その後その人は脳梗塞になり足が悪くなった、買い物でも車が運転できるので一人で足をひきずりきている
その人も一人暮らしだが弟が隣の市にいてめんどうみている
でもうまくいかないとか言っている

そして自分のことを一人女性に手伝ってもらっているからうらやましがっている
その人はその女性の前の夫とかと仕事をして知っていたのである。
何か手伝ってもらいたいことがある、でも金がないからできないとかいう

でも自分にしても手伝ってもらうにしてもその女性は三日に一回皿を何枚か洗うだけなのである、その他は一切何もしない、でもその人自体が貧乏だから金をせびられる
あんなふうに遠慮なく金をせびる人もいるのかと思う
その人に自分は手伝ってもらう必要はない、家事は今は全部できる
でも誰も来ないよりはいいと思って金を出している
ただ外から見ているとあの人は金があるからお手伝いさんを雇えるなのだとみる
その人はそう見ている
それは足が悪くて苦しいからそう見るようになる

考えてみれば確かにもし市町村から支援を受けるとしたらその人は優先される、家事を多少手伝ってくれる人が派遣される、要支援になっている
でも要支援が廃止されたから援助が受けられない
ただその人には弟がいるとき今はその弟が支援してくれ介護してくれとこれからなる
介護は誰かに押し付けられそれがやはり兄弟となるとそうなる
現実的には誰も他人が介護したりしない
そしておそらく弟もやっかいだからもめているとなるとこれから重症になったらどうなるのか?

「金があればできるのにな」というがその金でも相当な金持ちでないとお手伝いさんすら頼めない、皿二三枚洗って…円も払わなければならないのか?
自分はやめたいと思っている、その女性も年でありいつもどこが痛いとかいい医者通いであり貧乏なのである。障害者もかかえてその世話に追われている
第一金がないのだから金のない所には行かない
その人のことは知っていても声をかけるが行かない、その負担を背負いようがないからだただ自分のしていることくらいはできる、でも金にならないから行かないのである。

こうして金がないと皿二三枚すら洗ってもらいないというが自分の所に来た親戚というものではないがその人たちは自分が苦しい時でも皿二三枚も洗わなかったのである。
なんの援助もしたくない、借金した人は金を要求して脅迫するまでになる
あとは金をとろうとして現実にそうなって大金を失った
そこに金目当てしかないのである。だから金があっても非常に家に入れることは危険極まりないとなる、へたするとその金のために殺されるともなるし現実にそうなっている
和歌山のドンファンが殺されたのもそのためである。
金の恐ろしさがそこにあった

介護保険とは金のあるなしでなく公平に援助するという制度である。つまり金のある人はある程度お手伝いさんを頼める,でもそれは今では大金持ちしかできない
そしてお手伝いさんを頼むにしても現代では危険がつきまとっているのである。
だからこの世は金だけではなんでも解決しない,一見確かに金をやればなんでもしてくれるではないかというがそうでもない,金だけならその金をねらわれるからだ
動機が金だけになるからそうなりやすいのである。
そこに何かそもそもあわれむとか助ける気持ちがないからである。
福祉とは営利だけではやれないことでありそこに問題が生じている
でも貧乏な人は金が欲しいからするのである
それが動機にならざるをえない、金にならなければ貧乏な人は生活に困っているのだから他者を援助できないのである。

つまり福祉とは確かに金ではあるが金だけでは解決しないことがある
でも金だとみんな思っている、介護士がたりないのは給料が安いからだとなる
なんにも得られないなら人はなにもしてくれないというのも現実なのである。
また介護の仕事をしてそこで得られものは何なのか?それも問題になる
仕事がいろいろあり若い内ならスキルを磨く、仕事に生きがいを見出すとかあるが介護にはないとしたら仕事そのものがつまらない得るものがないとしたらやる人もいない
では金をもらえばやるというとき福祉にはその動機だと勤まらないとなる

福祉が金の世界になるとどうなるのか?
極端な話、水一杯やるから10万出せとかにもなる、これを運んでやるから10万やれとかなる、なにかちょっとしたことでもしてもらうのにそうなる、
お前にはそれだけの金があるから払えるだろうと脅迫されるのである。
福祉が金だけが動機だったら極端でもそうなるのである。
そして逆に金の払えない奴はなにもしないとなるのである

ただ別に元気な老人はいくらでもいる、パ‐クゴルフ場ではそうした暇な老人であふれているし復興住宅に入っている避難者でも遊んでいる
仮設の時も自分も介護だったがそんなこと関心がなく毎日パチンコ通いだった
つまり人材がいないわけではない、きつい仕事ができないにしろ元気な老人はいる
でもその人たちはそうして要支援のような人を助けるかといったらしないのである。
介護は誰もしたくないのである。ただ軽い内ならちょっと手伝うことくらいはできるかもしれない、でもそれすらしない、自分の所に来た人たでもそうである
借金しているからパチンコ屋で働いていて余裕がない、自分の家に来てもなにもしない
ただ金をくれというだけである、その人も余裕がないからそうなる
第一他人の家に来て皿を洗うとかなると普通に暮らしている人はしない
特別貧乏な人がやむをえなくしているのである。
だからそういう人は問題あるにしろありがたいともなるのだ
なぜなら誰も他人の家に来て皿二三枚でも洗ってくれないからである。

これまでこんなことは考えもしなかった、なぜなら食事は三食常に用意されていたし
家事もしない、買い物はしていたが後は何もしなかったからである。
だからこれもつくづく自分のカルマだと自覚した
何か自由に旅行したが今は家に誰もいなくなるのでできない、誰も家を守るものもいないからだ、留守にできないからだ、これも何か自分のカルマだったなと思う
楽していることもやがて必ず苦となりカルマを自覚するのである。

ともかく福祉というとき本当は競争社会に生きてきたのとは違うものが要求されている、助け合いとか相互扶助とかが要求される
それを立派な施設に金をかけたりそこで今度は介護士を雇うとか金がかかる、要支援段階くらいだと相互扶助の近隣とかの助け合いでやれるかもしれない、でもそれすら今はない、共同体とかがない、するとすべて金頼みとなる
結果的に国でもそんなに金を払えないとなるのである。国の金はまた国民の税金なのである。
国民もすると税金をそんなに使わないようにするには要支援とかの軽い段階で助け合いした方が節約になる
ただそんなことを考える人はいない、そもそもみんな自分のことしか考えない、そして金の社会だから金を得ればいいとしかない、


posted by 老鶯 at 13:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 認知症半年の記録