2014年03月05日

慶長津波が起きた相馬藩の前後の歴史 (戦国時代の混乱の延長で財政は困窮ー津波の被害者は無視)

 

慶長津波が起きた相馬藩の前後の歴史

(戦国時代の混乱の延長で財政は困窮ー津波の被害者は無視)

 


慶長3年小高城より牛越城に移る慶長6年 田中城郷たね病死 屋形村北原に葬る この菩提の位牌所として鹿島村に陽山寺を建立
慶長11年 参勤交代始まる、江戸屋敷を置く
慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも
慶長 1611 12月 中村城に移転
慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務

慶長19年 大阪陣に参加



慶長三陸津波の時、1611年ころは相馬藩の草創期であり政治は安定していない

中村城普請、江戸屋敷の普請、参勤交代の資金・・・などが費用で苦しむ


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える


寛文8年(1668) 百姓の騒動、給人三人切腹

給人の知行開発があまりに多い故、山野がゆきづまり百姓たちが春の草をとるとことや、
馬をつなぎ、稲を干す場所もなくなり困り果てていた

それで新田開発を一人十石限りとされた
慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも


津波があった前後の日本の政治情勢は戦国時代の延長でしり不安定だった。
そういうときに津波の被害があっても政治の優先課題は別な方にあった
財政的にも苦しく津波の被害者に注意を払う余裕がてかったのである
つまり津波の被害者をあえて無視するというより混乱期でみる余裕がなかったのである。
ただ被害にあった民衆にすればそれだけの被害だから何か伝えるものがあってもよかった
それがないのはなぜなのかということは謎である


給人の知行開発が多いということは開拓が盛んに行われた。
それでもともといた百姓が土地を奪われて困った
前にも述べたように戦後十年までは土地が生活の糧だったからそうなった
明治になって八沢浦の開拓、大正になっても
小高の井田川浦の開拓とつづいていたのである

このことは津波の被害があっても土地を開拓しないと人を養えない
だから津波の被害のあった所でも開拓をすすめた
それは伊達藩の被害も今回の津波のように被害が大きかった
そこで相馬藩の侍が開拓に入ったというのもそのためである
相馬藩には津波があったときでも養える土地が不足していたのである

結局なぜ相馬藩では慶長津波のことが記されていないのか
民衆でも伝承しかったのか?
それは政治的には戦国時代の延長の混乱期であり
津波の被害に目を向ける余裕がなかった
財政的余裕などほとんどなかった
それゆえ津波の被害者は無視された

ただなぜ津波の被害者自身が語り継がなかったのかは謎である
当時の政治事情と関係なくそれだけの被害があれば何かしら語るからである
それとも政治的に上から被害を語るをことを禁止されたのか?

ともかく財政的困窮を言えなかった。

慶長19年に大阪陣に出陣したことでもわかる。
その費用も大きい出費である
でもその費用の方をけずることはできない
それが戦国時代である
まだ津波の被害があり免除してもらいたとはなれないのである

それにしても津神社が津波を記念して建てられたというが
これすら実際はわからない
津神社は各地にあり津波の記念の神社なのかもわからない
これもまたなぜそうなっているのか謎である
ただ海側にあるからその確率は高い
八竜神社は山側にも多く津神社は限定されている
それにしてもその伝承すらないということがな謎なのである


「殿、民が津波で大きな被害がありました」
「なに、今は余はそれどころじゃない、藩の財政は火の車なんじゃよ
中村に移り新しい城の普請の費用、江戸屋敷の普請、
役金を課したが給人は不満で反乱を起こすと言っている」
「そうはいいましても津波の被害も甚大です、何も記さないわけにはいきませんでしょう
「では死んだ数だけ記しておけ、あと一切必要なし」
「それだけではものたりないのでは、その惨状を記しておくべきでは」
「そんなことはどうでもいい、今の藩の財政では何もできんのじゃ
役金を収められないから給人は刀、武具、馬具、家財まで売り払っているのじゃ
それほどにしてもまだまだ役金はたりず集まらないのじゃ、
役金が集まらないと江戸への参勤もままならぬ、それはさけねばならぬのじゃ」
「殿、そのことは重々承知していますが津波の被害も重大です
そのことを記さないと後世のためにもなりません」
「ともかく死んだ人数を調べてそれだけを記しておけ」
「それではたりないと思いますが・・・・・」
「お前は余の家来であり余の言うままに記すのが勤めしゃ、うるさく言うな」
「はあ、ではそういたします」

津波のことはこうして死んだ数は調べられたが700人溺死としか記されなかった。
それで無視された700人き溺死者の怨霊であったのか、
400年後にまた大きな津波に襲われて大惨事となった

「俺たち津波で死んだもののことを忘れたからそうなった、その時代もあったが
俺たちはあの時は無視された、そして忘れられた・・・」
いつかそうした民の苦しみを記されず忘れた時、同じ大きな災いがまたやってくる
それが歴史のカルマとなってゆくのだ」

それにしてもなぜ藩では記さないにしても民の間で津波の被害が語り継がれなかったのか、
字が書けなくても語り継ぐことはできた。
なぜその時700人も死んだ人たちの供養もされなかったのが、その碑すらないのか
今回の津波では嫌というほど語られ映像に残されるから400年たって忘れられることはないだろう。
ただ400年の歳月は何を語るのか予測はつかない、ただ津波はまた必ず襲ってくる
それは海側に住むもの宿命である。
でも今回は海側に住む人がいないから津波の被害はおさえられるだろう。

 

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野馬追いの金札旗ー財政を示す

戦争でも金がないとやれない

金はその時も政治を左右するものだったということ

posted by 天華 at 15:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年03月06日

津波原発の緊急事態に即断できなかった (大川小学校でもそうだが集団行動では緊急時には対応できない)


津波原発の緊急事態に即断できなかった

(大川小学校でもそうだが集団行動では緊急時には対応できない)



「この山に子供を上がらせても大丈夫ですか?」、住民は「ここまで津波は来ない」と言っていたのを聞いていました。教師は、「学校の方が安全だから残った方がいい」と、小学校6年男子は「山さ逃げだ方がいい」とそれぞれ訴えていました。その後の惨事だった。

大川小のワケワカ行動は偶然校長が不在だったことがすべてだと思う。

個人の中で、危機的自覚、状況の把握、最悪の状況の想定、自分の存在と責任をかけた行動の選択
このプロセスが行われていれば、結果はもっとメリハリのあるものになっていたような気がする。
結局、いきなりの集団稟議体制で情報の錯綜、留保、遠慮、妥協が続いてズブになった感がある。
普段から校長がいなければ話は違ったろうし、いたとしてもどこまで役に立ったかは判らんがw



緊急時代になるとそれぞれがどうして判断していいかわからなくなる
大川小学校の悲劇もそうだった。急に強烈な地震が来ても津波が来るといってもどう対処していいかそれぞれがまちまちになる。
そんな議論をしている暇に時間がたち津波に襲われる。議論しているその危険が何なのか調べたり判断する時間がないのである。
即断しないと助からなかったのである。
でも誰が即断するのか?校長なのか教師なのか、普通だったら校長であり校長の命令にしたがって避難すればいい、
でも校庭に生徒を並べて集団で避難しようともしていた。
でもどこに避難するかとまどっていた。それがこの議論になっていたのである。

こういうことは銀行でもあった。上司の命令にしたがって死んで訴えられた。
他にも山元町では自動車教習所の車で集団で逃げる時津波にのまれて若い人が死んで
裁判になっている。

緊急の時は人間は即断できない、津波が来るといっても6メートルの津波が来ると言ってもたいしたことがないと思っている人もいた。
自分も6メートルなんか聞いたことないと思った。そのあとすぐに10メートル来るというときは驚いた。
まず地震でものが落ちてそのことで頭が一杯で津波のことなど考えもしなかった。
だから自分も津波が来る地域にいたら逃げなかったろう。
ただここは津波が来る地域ではないからそのことは安心していた

ただ今度は原発が爆発したときも何が起こったのかのみこめなかった。
ただ爆発したのだから何か大きなことが起きたのかとは思った。
そしたら町の体育館に集められて何か市の職員がぼそぼそ言っていた。
それも聞き取れなかった。市ではバスを用意するから避難する人は避難してくださいということだった
ただそれも良くのみこめなかった。
バスは全員に用意できないということは聞き取れた。
じゃ、すぐに乗らないと避難できないのかと思った。

自分は介護している家族がいるしそのことを言ったら何かわからず体がふるえていた。
年も年であり無理して避難したら死んでいた。
そうして死んだ人もかなりいるみたいだから介護されているような人は避難するべきではなかった
双葉町の原発の近くの人も介護していて逃げなかったことがわかる
ここではしきりに家から出ないでくださいとは町でスピーカーでアナウンスしていた。
でも自分は一番線量が高い時、外を出て歩いていた。
他の人はどうしたのだろうと思い見て歩いた。
ただ他の人が避難したのか避難しないのかわからなかった


南相馬市の市立病院では相当に危機感があった。院長が死ぬのではないかとテレビで言っていた。
そうした危機感をもった人もいた。そもそも放射能についは皆目わからないから危機感を持つ人はもった。
医者は知っているからそういう危機感を感じたのかもしれない
その時病院の看護師は半分は避難した。そのことで今は非難されている。
患者を見捨てたとか非難されている。現実に双葉病院では置き去りにされて患者が死んだとかあった。
それも誤解だったらしい。

結局津波でも原発事故でも緊急で経験がないから
どうしていいかわからず判断できなかった

石巻大川小学校でも300年も津波が来なかったという、もう津波を伝えるものがこの辺と同じく何もなかったのである。
そういう未経験のことは判断しにくい。

大川小学校は地形的に津波に襲われやすい場所だった。
なぜならまず川を津波は上ってくる、その前に小高い山でもあると被害は少なくなる。
大川小学校の前にはそうした小高い山もなく大きな川を津波が上ってきたから被害が大きかった。

津波デンデコ・・とはそれぞれとにかく早く逃げろが津波の教訓だった。
集団でまとまって逃げるとなると時間的遅くなる。整列するだけで時間がかかる。
でも日頃は集団で行動しているの学校であり会社である
だから教師の命令や上司の許可を得ないと行動しないという習慣がある。

でも子供自体が危機感を感じて山に逃げた方がいいと思っていたのは正しかったのである。
釜石では子供はそうして全員助かった。

危機の時、集団が一致して行動することはそれだけ時間がかかる。
時間がないのだから集団で行動すること自体も危険になる。
集団をまとめるだけで時間がかかるのである。
しかし学校は一般的には常に集団で整列して教師の命令に従うように訓練されている
会社でもそうである。それで助かればいいが今回はそうはいかなかったので批判される。

自分でも原発事故で屋内退避の地域でも30キロ圏外でも半分は避難した。
その時、近所の人に聞いても正しい判断はできなかったろう。
そもそも何が起きたのか理解できなかったからである。
放射能自体何なのかもわからない、だから飯館村ではかなり被爆しても避難しなかったのである。
放射能自体を市町村の役所でも知らない
だから浪江町では一番線量の高い津島に避難していたのである。
それは町長の指導でそうしていたのである。


結局こういう危機の時、誰も正確な判断はできなかったろう
政府すら正確に判断しないで住民を被爆させたのである。

ただ常に学校でも会社でもどこでも集団的に行動することが習慣化していると危険になる場合かある。
集団が一致して行動することは正しいようで危機の時は正しくない。
だから現代社会はすべて権力集団化して行動している。
労働組合でもカルト宗教団体でも会社自体でもそうである。
学校はそもそも集団行動のためのしつけをする所であり各自が独自の判断をするようには教えられていない、
そういう強制的集団行動の組織である。


ただ南相馬市立病院などは別に院長とか上司のことなど関係なく危険を感じて半分は避難したのである。
これは賛否両論があるがそもそも放射能で死ぬという判断を院長までしていたらそれもやむをえないとなるだろう
。危機感を感じた人はそうなった。
後の人は何が起こったのかわからず右往左往して介護しているからとやむなく残ったりした。
まあ、患者は家族とは違うから置き去りにするのもわかる。家族だったらそんなことはしないだろう。
看護師だって自分の命を二の次には考えないのが普通である。
患者を嫌悪している看護師も結構多いから患者を置き去りにしても不思議ではない。
看護師は天使でもなんでもない、普通の人間であり人の痛みすら感じない人も結構いる。
いちいち一人一人あわれんでいたら体がもたないごたろう。
だからかえって看護師が残酷になる悪魔に変身するというのもある。
300人殺した医者が外国にいた。もう病人が嫌になって一挙に始末したい、病院の財政事情でもそうなった。
それもまた病院の真実なのである。

ただ自分の場合は

30キロ圏外は屋内退避で避難指示は出なかった
その30キロ圏外だということが多少の安心感になっていたかもしれない
ただ正直何が起こったか津波でも原発事故でもわからなかった。

結局教訓としては緊急の時は集団で行動すること、上の命令に従うことも危険である。
政府や東電もその時何ら助けにならなかった。
「ただちに影響しません・・」そういうだけだったのである。
その時、政府の人でも東電も避難してあるものは外国まで逃げた人もいたとか、
現実に東京から九州に避難した人もいた。危機感を感じる人はそれだけ感じたのである。


いづれにしろ集団行動は地獄への道づれになるということもある。
カルト宗教団体などでも巨大な集団だから救われるなど全くない
それは地獄への集団行動なのである。
それは戦争の時だって日本全員が一致して地獄への行進だったともなる
みなんで赤信号わたれば怖くないというのは集団心理なのである。

みんなで地獄に行くなら怖くない・・

こういうことだって現実今の社会ではそうなっている。何百万人が団体化していれば救われるとなる。
これは身近なことで実験した人がいた。
みんな行くので同じ方向にいった。その方向は危険な場所だった。
それが人間の集団心理なのである。
根拠もなにもないのにみんなが行く方にしたがって行くことは常にあることなのだ
大勢が正しいとは限らないし集団行動が危機を救うということもない

それは日頃の行動でも同じなのである。
集団で成仏することもないし集団で天国に行くこともない
むしろ集団は地獄への道になる。宗教の場合はそうである。
ただ今回は個人でも危険を判断しにくかった。

では誰かに聞いたり上司に聞いたり集団で行動に従ったりしても助からなかった。
かといって各自で判断しても助かるものと助からないものがいた。
津波なんか今まで来たことかないからと逃げない老人が死んだ。

それでも双葉町民はすぐ全員避難した。
それはあれだけ近いから危機感が違っていたしそれなりの情報も全員共有していた。
それでも混乱した。

津波だって海岸沿いに住んでいる人は何か危機感をもつべきだった。
それは海側は怖いと海は怖いと常に言っている人もいた。
そういう何か本能的に察知する危機感が消失していた。
なぜなら相馬藩でも200年前にも津波が来て8人死んでいたのである。
そしたらそれなり警戒してもいいはずだった。
だか全く警戒もしなかったのである。

結局津波でもどこまで裁判でも責任が問われるのか判断はむずかしい
自分でも判断できない状態に陥っていたからだ。

posted by 天華 at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年03月10日

津波原発事故から3年過ぎて (なぜ復興はすすまないのかー文明の崩壊現象が起きている)


津波原発事故から3年過ぎて

(なぜ復興はすすまないのかー文明の崩壊現象が起きている?)



東北の被災地は被災前から高齢者が多く過疎化していた。神戸の復興は震災後2年すると仮設住宅からでて、自力で再建の道を進む人が多かった。都市部で人口も多く、若いひとたちは立ち直って新たな生活を築く力があった。
http://himawari-gumi.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-0e49.html

地方都市に行くと、農地の中に住宅がばらばらに点在して、これではインフラの整備が大変だろうと思う。日
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/90e61af78b413efff3f2ebf6c9ed7122


 被災者の人々は、被災前の元の街に戻してほしいという希望が
あると思うのですが、全てが流されてしまった被災地を元通りに戻すのは
現実的には不可能なんおではないでしょうか。
http://ainodennsyobato.at.webry.info/201303/article_7.html


被災地で緊急を要する事案であるのに、
 通常ルールで申請をして、
 許可を得なければならない。
また、復興交付金制度を使い山を削ろうとしたら、
 今度は都市計画設計をしなければならないという
 ルールもある。




今回の災害はあまりにも大きかった。どこがどうなっているのかも近くでもわからない。だから一体どう復興を進めていいのかもわからない、原発事故周辺は津波の被害もあってかさなり何らすすんでいない、今回の復興がすすまないのは社会自体の文明自体の崩壊現象のようなものが起きたからではないかとも書いてきた。
それほど被害が大きくどう理解していいのか何が起きたのか今でもわからないものがある。放射能汚染だってこれも今でもどこまで有害なのかもわからない、その原因をあげたらきりがないだろう。それはすでに現代社会自体の様々な矛盾や問題が災害とともに一気にふきだした感じなのである。


この災害によって今の社会の文明社会の隠された問題も表面にでてきてむきだしになった。だから文明の崩壊現象のようなことが起きた時、それを簡単に復興することはむずかしい。もう前のようには元どおりにはならないというあきらめ感もでてくる。
大きく言えば新しい文明の再構築すらせまられているのかもしれない、そうでなくても今までの規制の社会に基づいた考えでは復興はない、それほどまでに破壊された恐怖だった。だからもううちのめされてあきらめるになる人も高齢化社会ではでてくる。
高齢者は老後は楽に暮らしたいという人が多いからそうなる。
そして肝心の若い人は流出してゆくときさらに街の再建や復興は絶望的になる。


ともかくどれだけの問題がここに生まれたかとても手に負えないものとなっている。
縦割り行政の問題もある。国と地方が対立していることもある。地方自治力の衰えがあり国指導になってうまくいかなこともある。そのことは別に災害前にもあったことが震災後に露骨に現れたにすぎない、すべての問題が震災のためではない、すでにそういう問題が噴出する根は震災前にあったのである。
だからインカ帝国などが滅びたのは簡単に何百人かの侵略者によって滅びたのはその社会がそのシステムが機能しなくなっていて外部からの侵略者によって簡単に滅びたとも言われる。

何かそうした文明のシステムの弱体化とか機能不全状態に陥っている。問題が災害とともに噴出した結果、いろいろ問題が山山積みであり解決しない、人手不足でも深刻であり福祉の建物ができてもそこで働く人がいなとかなり建物より人の確保が大事だともなる。

だから再建しようとするとき今までの社会のモデルを参考にはできない、全く新しい発想が必要だというのもそのためである。
一面これだけ破壊されたらそこには全く新しい構想の街も作りやすいということはある。規制の概念にとらえられない街作りも可能になる。
ただそれもまた少子高齢化で担い手がいないとかなんとか問題が山積みなのである。


歴史をふりかえると農業や漁業や山林業など一次産業主体の社会だったら比較的復興はしやすかったのかもしれない、別に道路だ、水道だ、建物だ・・・と言ったインフラは必要ない、もともとその土地での自給自足を基本にしていたのだから例え津波で水田がだめになってもやはりそれがまたチャンスとなって相馬藩からもわざわざ伊達藩に開拓に入っている。今は農業でも第一次産業主体でないからこの際跡継ぎもないから高齢者ばかりでやる気もないからやめるというふうになってしまった。
高度成長期のような社会ではなく衰退する成熟する社会で起きた大災害でありそれで復興もできない、それはもう個々ではいくら努力しても無理でありもう社会自体が沈滞化して衰退してゆく、街の復興などももうできないというあきらめになってしまう。


まず復興住宅にしても数パーセントしか達成していない、その数が膨大なことと土地も膨大であり進まない、その後の生活設計も見えてこない、だからすでに津波でも原発被害でも被害がひどい街は放棄されつつある。新たな場所に移って再建をはじめている。
飯館村でも長泥地区では建築業の人が福島市に移り再開したからもうもどらない。
農業中心だったら土地が必要でありそんなことはできないが今は飯館村でも農業だけでは成り立っていない、それなりに会社があって工場があって成り立っている。
それはどこでもそうでありだから土地に制約されないとすると他に移っても抵抗感がないのである。


国主導の復興に問題があるとしても予算は国からでくから金をにぎっているのが国だから地方自治体は従わざるをえない、現代とは地方の地方の自治力が弱体化していたから災害でもそうなる。つまりすべての問題は災害によって起こったわけではない、その前からそうした問題は指摘されていた。それが震災であらわになっただけなのである。
だから個々の努力が必要にしてもそこには限界がある。
今までにない新しい社会の構想が必要になる。でもそんてものが簡単に見えないし作れないのである。ただ文明の崩壊現象が起きているからそれほど何か新しいものを作り出すものが必要になっている。


そういうことは明治維新の時にも起きた。社会を根本から作り直す必要にせまられたのである。戦争に負けた跡もその焼け野原は今の壊滅した市町村の状態ともにていた。
ただそうした歴史をふりかえっても今回の方が再建は復興はむずかしいようにも見える。インカ帝国のように社会自体が文明自体が衰退してゆくときに起きたことだからである。つまり大きな文明的問題に直面しているから復興がなかなかすすまないとも言える。
個々の問題は山積みでもそうした大きな社会文明の転換さえ要求されいるうような巨大災害だったのである。




文明が崩壊するのは、「脳が文明を手に負えなくなる」からだ。本書はそう主張する。マヤ、ローマ、クメール、どの文明も、始めは不利な環境や障害を克服して立ち上がった。その後も予想を上回る困難に遭遇するが、創意工夫や多様性で乗り切っていく。しかし、やがて、潜在的な問題が複雑さを増してきて、正しい解決方法を考えることが難しくなる。そして遂に、文明がもつ知識で解決可能な「認知閾」を越えてしまい、問題を次世代に先送りするしかない状況に陥る。これが、文明の滅亡のプロセスだという。

http://honz.jp/9606



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2014年04月07日

海老村に残った二本の松の根 (津波の時以来そのままの海老村に土筆が生える)


海老村に残った二本の松の根

(津波の時以来そのままの海老村に土筆が生える)

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家消えて津浪の跡に土筆かな

津浪跡根のみそ残り松二本海老村消ゆも土筆生えにき
凄まじき津浪を語る松二本根のみ残りて春北風(はるきた)唸る

場所替えて海老村の人のこの町になお根づきつつ生きるものかな

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山の激流を感じる庭である
この庭は見物である
ここからは海も一望できる


壊滅した海老村は三年過ぎても何も変わらない、その時のままである。
ただ春になり土筆が生えていた。
なんか今回の津浪や原発事故周辺の不思議はかえって
自然の方が復興していることなのだ。
津浪の跡にも土筆が生えタンポポも咲いていた。
土筆が生えたということは自然は復興しても人間の方は復興したとはならない

原発事故で人が住まなくなった飯館村行く山の道には羚羊がでてきた
人間世界の不思議はもし人が住まなくなったらどうなるのか?
それは元の自然が回復してゆく不思議である。

人の世界は消えても自然は元あった自然に回復する
それは東京のような大都会でも未曾有の災害が起こり巨大な街が消失しても
その跡にはやはり自然が回復してゆく
野が森が海が回復してゆくことは美しい自然がまたもどってくるということなのだ
この辺は別に美しい自然はあった。ただそこにさらに元の自然にもどってゆく


いづれにしろ海老村の跡は津浪の起きた時と同じであり何も変わっていない
だからよそからきた人はこれを見れば津浪のすさまじさを一目見てわかる。
この二本の松の根は残された。
海老村は墓地を残して消えた。でもその住民はこの土地にまだ住んでいる
三陸の方では住まない人も多くなっている。
こうしていつまでも荒れ果てた状態になっているのか?

復興とは何なのかこの辺では三年過ぎても同じである

変わったのは富士旅館である。
その庭か芸術品なのである。
激流か流れてその上に石の橋がかかっている
石がごつごつした山の磐の道が作られている
ここは旅館なのだろうか
まだ人は泊まったり使ったりしてはいない
ただ前に家がなくなり海が一望できるしこの石の庭は圧巻である
春北風(はるきた)がまだ唸っていた

 
posted by 天華 at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年04月08日

八竜神社と津神社は慶長津波と関係していたのか (津神社は二つは確実だがあとは関係していないと推測)


八竜神社と津神社は慶長津波と関係していたのか

(津神社は二つは確実だがあとは関係していないと推測)

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高台にある鹿島区川子の八龍神社


八龍社
大同元年(806)上栃窪村 八龍明神 天津彦火々出神 近代冠嶺神社
永長元年(1096) 江井村(館内) 八龍社 大綿津見神 江井氏の守護神
永亭(1437) 馬場村 八龍大権現 大綿津見神
文安2年(1446) 萱浜村 八龍大権現
天文十三年(1545) 小島田村 八龍大権現
元亀元年(1570) 萩迫村 八龍大権現 綿津見神
天正年中(1573ー1592) 川子村 森山 八龍大権現
烏崎村 八龍社?

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川子の森山の八龍社ができて何十年後に烏崎村の八龍社ができたのか?
順序としてはそうなる可能性が強い
ただ百年後とかではないからその時間差が何を意味しているのか
30年後とかに作るのか
神社がなぜ作られたのか不明なのが多いのである。



津神社

大宝二年(702) 棚塩村 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)
(貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神)

慶長年中 烏崎村 (牛島) 津大明神
享保年間 北原村(1716ー1736) (本屋敷) 津明神 3月23日祭り


烏崎村の八龍神社は津浪が来た水位ですれすれで残った。
これは何かと不思議に思うのは当然である。
慶長津浪の後に作られたから津浪を知っていて祭ったからあの高さに作った。
急な石段を上るからそういうふうに見える。
しかし神社の謂われは意外と古く、東北でも古い。
古代にもさかのほり大同村とかあるように蝦夷の大和王権の征服と関係して建てられた神社が多い。
鹿島神社もそうである。
これは国津神系統である。征服神である。

その他の無数の神社は何を祭っているのか、何に由来しているのかわかりにくい。
しかし調べてみると古い時代のものであることがわかる。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)に起きた津浪の前にできたものが多いのである。
八龍社にしてもそうである。烏崎村には慶長津浪の起こる前に南北朝時代に霊山から逃れた桑折氏などが住み、
その系統の遠藤氏がすでに住んでいた。
だからいつ建てられたのかというと慶長津浪より前だと推測する。

その重要な手がかりが川子村の高台の森山にあった。
そこの八竜社は目立たないので新しいと思ったが古かったのである。神社は新しいようで古いのである。


天正年中(1573ー1592) 川子村 森山 八龍大権現


これは慶長津浪の前にできたものである。
その後、20年後に慶長津浪が来ているからこの時間差が何を意味しているのか?
一つの予測としては川子の八竜社ができて次に順序としては烏崎村に作ったと推測される。
ただこの逆もありうるが順序としてはそうなる。

八竜社に共通しているのは綿津見神である。
海の神であるから海と関係していたとしてもあとはまた違ったものとなっている。
自分の予測ては慶長津浪の前に建てられたのであり偶然に津浪のすれすれで残った。
もし本当に慶長津浪を知っていて建てたならもっと津浪を怖がるから高く建てるということも考えられる、
すれすれでは危険だからである。
慶長津浪の高さがその時烏崎でどのくらいの高さまで来たかはわからない。
だからなんともいえないことはある。

一方津神社を見ると


大宝二年(702) 棚塩村(浪江町) 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)


貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神


この津神社は何なのか?これも貞観津浪とかは関係ないだろう。
津神社というのは岐阜県にもあるからこれも津浪とは関係ない
津とついているからと津浪とは関係ない


確かなのは烏崎村の牛島の津神社は明らかに津波を記念した神社だった。
なぜなら慶長年間に祭られたとすると時代的にあっているからだ。
海岸沿いにあるのはおかしいとなるがそこが鯨を祭っていたというのは
津波で鯨が打ち上げられたからかもしれない、そういう例は他にもある。
それで鯨を祭るようになったのかもしれない。
だから海岸に接してあってもとかしくないのである。


享保年間 北原村(原町区)(1716ー1736) (本屋敷) 津明神 3月23日祭り


この神社は慶長津波から百年後に建てられている。
これは高い所にあり今回の津波でもあの高さまでは来ない高い所である。
それはなぜなのか?なぜ百年後にあそこに建てたのか
慶長津波と関係していたのだろうか?
もし慶長津波を知って建てていたらあの高さに建てれば津波は来ない
だからこそ建てたとなる。
でも百年後になるとする津波の記憶もうすれているはずである。
なぜそのころ建てたのかという疑問になる。
伝承として伝えられたからあらためて建てたのだろうか?

相馬市の津神社(つのみや)は津波が来たとき逃げれば助かるという言い伝えがあったという。
あの高さでも危険ではあったがまねがれる位置にあった。
だから津波と関係して建てられたのだろうとなる

結局相馬郡では慶長津波でもその伝承は二三残っていたとしても希薄だった。
だから津神社にしても津波の伝承は明確に残されていない
神社が津波から残ったのはただ偶然だったともなる。
平地で津波か来た地点にあった浪分神社などは明らかに津波の来た地点を示していた。
その他はどこまで証明できるのかかてたむずかしい作業である。

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2014年04月10日

八沢浦と磯部の地形と神社 (津波との関係は・・・)


八沢浦と磯部の地形と神社

(津波との関係は・・・)




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蒲庭に行くところ

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この熊野神社江戸時代に祭られたのか


磯部村

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寄木神社


 窪地が選ばれた理由には、都市域の拡大とともに、寺院が時の権力者によって強制的に郊外へと移転させられたことが関係している。寺院の移転先は、当時はまだ、利用されていなかった土地が多かったのだ。利用されていなかった場所とは、谷戸や窪地、湿地などのことである
http://matogrosso.jp/suribachi/suribachi-12.html

仙台藩では大規模干拓が行われ、60万石から220万石まで増産した。その過程であらたな干拓地への移住が行われ、元の集落の本社から新集落への分社もあったはず。

まず移住、条件のよい場所へ分社の設置が行われ、その後干拓の進展によって海岸線が後退、集落は前進していく。そして現在、当初の集落の位置と等高線を反映した場所に神社が残っており、相対的に標高が高く、海から距離があったことで、結果的に津波を免れやすかったのではないか。
http://shinonome-do.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-7a92.html


権力者によって作られ街はかえって整然としている。権力者が真っ直ぐな道路を作る時必ずそこに住んでいれば障害が生まれる。
でもまっすぐな道路を作ることは便利になる。
だからローマ帝国ではまっすぐな道を作った。
日本でも大阪には緑地が少ないという、江戸にはそれなりに緑地があるのは
幕府の権力が強く緑地を残したということもインターネットで読んだ。
寺は武士に所属する官僚のような役目をになっていた。下部権力構造として幕府を支えていた。
でも権力者の都合で不便な土地に移転させられた。

不便な所に住むのは草分けとかではない、あとから入ってきた人や草分けから分かれて土地を求めた人は当然悪い土地、
不便な土地に住み着くことになる。
いい場所はすでに開墾されて人が古くから住んでいる土地だからである。

縄文時代は人は自然にさからなわないで逆らえず住んでいた。
まず稲作のために海を埋め立てたりできない、そんな技術力がないから自然条件に適合して生きる他なかった。
だから湿地帯とか海の平坦な地には住まない、だから津波が来るような場所には住まない
高台に人が最初に住んだという時、平地はヨーロッパでも湿地帯であり
害虫やその他のバイ菌などが発生するので高台に住んだのは同じである。


八沢浦では明治になって開拓された。江戸時代までは入江であり浦であり海が奥まで入り込んでいた。
それは今回の津波で一時その江戸時代の風景が再現されて驚いた。
それで妙見神社が海近くに祭られていて流されたのである。
神社の関係では熊野神社がこの丘の反対側の小高い丘にあり祭られていた。
八沢浦は明治時代以降住み始めた人が多い。
でもここは江戸時代から住んでいたかもしれない、熊野神社は古いからである。
ただ前は入江の海になっていた。でも小高い丘だからそこには住めた。

今回の津波でこの丘が防波堤になりその反対側の家は流されたりしなかった。
浸水しても家は残り今も住んでいる。

津波が来た時も津波がきた瞬間でも裏山に逃げれば助かった。
実際逃げて助かった人もいる。逃げ場家の後ろだから逃げやすい。
神社まで逃げなくてもちょっと上れば助かった。ここでは人は死んでいないだろう。
津波は地形によってその影響がかなり違っていたのだ。
新地相馬の火力発電所が海岸にあって被害が少なかったのはちょっとした地形の差にあった。
原町火力発電所はもろに津波をかぶってしまったのである。


蒲庭から古磯部の入江に牛頭天王神社が高台にありこれ津波からまねがれた。
古磯部となると磯部より古いから古がついた。
もともとはここが磯部の地名の発祥地である。
松川浦の方には後から人が住んだとなる。
ここも開拓された浦沿いに人が住んでいて津波で流された。
ただここは丘があり丘にもともと人が住んでいたところである。
だから磯辺小学校のある丘に住んでいる人には被害はなかった。

稲荷神社と寄木神社もこの丘の所にあり津波の被害からまねがれた。

神社は一般的に高い所にある。それは八沢浦にしても前が海であり低地には建てられない、
牛頭神社もそうである。あそこも入江だったからである。
磯部は砂州のような低地でありそんな危険な所に神社は建てられない。
だからこれらの神社は津波が来るすれすれではない、余裕ある高さに位置していた。

ただインターネットではしきりに学者でも津波の被害を経験していたから
その津波の被害の経験から津波の来ない高さに神社を祭ったというのは違っている。
もともと神社は津波を警戒して建てられた形跡あるものはわずかである。
津波は今回でも400年に一回くらいしか来ないとすると川の洪水のうよには警戒しない
もともと古ければ古いほど高い所に建てられる傾向かあるのが神社である。
高いところはそもそも理屈なしで神様がいるにはいい場所だからである。


津波は地形の影響が大きいという時、日本ではそうした警戒感がなく津波に流されるように街を作っていた。
磯部でも砂州のようになっている所に家を密集して作ったので壊滅した。陸前高田市でも三陸でも津波をもろに受ける場所に作っていた。
それは百年前とかにも大被害があってもそうしていたのである。
そこは仕事するのに便利だから同じように人が海近くの低地に生活するようになった。

そして今回の津波の被害を大きくしたのは稲作とも関係あるのかもしれない
海老村でも漁業するより稲作をする場所として最初に南海老村があり北海老むらになり
上海老村とか下海老村とかに分かれた。
海老村というと漁業の村のように思えるが実際はその前は稲作をしていた田んぼだった。

それは烏崎村でも一見漁業の村のように見えても袋村が消えたように開拓して田を作り広げていたのである。
漁業だけで村が生まれ発展するということはなかなかない

海はそもそも危険であり船を作る技術なとが進まないと住めない地域である。
それを象徴していたのか鳴瀬町の牛綱村だった。
漁業で使う網のつなを作り浜町に運んでいたからである。
浜市とあっても背後に農家がないと成りたたないのだ
漁業だけで生活するのは初めは無理だった。


そして浜側に家が密集したのはその後ろが広い田んぼになっている。
その田んぼでは米をとるので家を建てにくい、すると海側の狭い地域に家を密集して建てたということもある。
日本では土地がすくない、田んぼにする土地が少ないから苦労してきたのである。
家として確保する土地より田んぼとして土地を確保して家を建てるというのが順序だったかもしれない。
それで海岸の砂州のような危険な場所に家か密集したということもありうる。

 
posted by 天華 at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

津波の後の三年後磯部台畑を春に訪ねるエッセイ


津波の後の三年後磯部台畑を春に訪ねるエッセイ

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台畑

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寄木神社

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その畑は隠されていた。家の前の一区画の小さな畑である。ここは小高い丘であり崖のようになっていてそこを上らないと見えない、たまたま残雪の蔵王が見えて桜の木があっておりしも咲いたのでその桜を視界に入れた写真をとろうとその崖を木の根につかまって上った。そこに思わず畑があった。そこには梅林があり梅がまたおりしも紛々と匂っていた。確かに家は下から見えたのだがここに畑のあることは梅が咲いていることは見えなかった。


ここに上ってみたらここは複雑な地形であり丘陵でありそこに家があり畑があった。地名は台畑だからあっていた。
そもそもこういう丘に住むということは不便だと思う。上ったり下りたりするのも不便である。ここに人はいつから住み始めたのだろうか。人と土地の関係で大事なのは一体いつからそこに人が住みはじめたかである。江戸時代から住みはじめたらそこは古い場所である。でもここは住みにくい場所である。だから意外と新しい場所なのかもしれない。

その小高い丘の上から下る畑の中に道があった。そこの畑には人がいた。こういうところに家があり人がいることか意外だった。その畑の下りる道に薪を積む家があった。薪の風呂に入っているのだろう。結構薪を積んだ家を街中でもみかける。薪の風呂はあったかさが違うという。だから薪の風呂は今は贅沢である。確かに家が見えても隠されるような場所にあった。なぜか地名に一畑とかある。それは一つの畑である。小さな畑かもしれない。
一反田という地名もありこれも人が住み着いて名付けられた地名である。
日本では土地が狭く耕地が山が多く得難い、だから畑にするにしろ田にするにしろ平坦な地は少ない、だからこそ海側に平坦な地を求めて開墾して広い田を作ったのである。

そこが今回の津波で被害にあった。
狭い土地でも畑にするといろいろなものか収穫できることがわかった。小さな一つの畑でもそれなりに野菜がとれて収穫がある。だから自給自足するくらいのものはとれたといえる。だから小さな一つの畑でも田でも日本では貴重なものとなっていた。

この隠されたような場所の不思議はすぐ下まで津波が推しよせていた。磯部村は人家も多くそこは壊滅した。その人家が密集していたところは原始の状態では砂州のようになっていた所である。なぜそんなところに家が密集していたのか?
その後背地は広い干拓された田であり津波で一時広い湖のようになったことには驚いた。この小高い丘から高い丘の方の家は津波の被害をまねがれた。

磯部では500人が死んだとか被害が大きかった。だからこの小高い丘に住んでいた人は助かったのだからほっとしているだろう。

磯部村はもともと古磯部という地名があるようにそこも入江になっていてそっちに先に人が住んでいた。その入江は狭く干拓しやすかったのかもしれない、その低い場所に住んでいた家は流された。その家の数は少なかった。今回壊滅した磯部の海岸沿いは悲惨すぎた。今や何もない、そこは松川浦とつながっている。
そして寄木神社というのがありこれも津波からまねがれた神社である。石段も残っていてそれからまた上だからかなり余裕があった。この神社の謂われは何なのか?
石巻の方から移住してきたとか碑に記されてあった。姓は君島である。

磯部村は江戸時代からありここの津波をまねがれた隠された土地はむしろ新しく人が住んだ所かもしれない、不便なところだからあとから開墾して住み着いた。その丘の平坦な地に畑を作り家を作った。斜面も畑になっていた。

ここで感じたことは人間の住む場所は特に日本のような狭い土地の少ない場所ではこうした丘のような所でも人はすむ。むしろ壊滅した海岸沿いの村はもともと人が住むには不自然だったのである。こうした小高い丘にこそ人は先に住んだのである。
ただここが住んだのが江戸時代からであり古いのかはわからない。古い碑などがあれは目安となる。墓地もそうだが墓地はもっと高い場所にある。

しかしそれにしても今回の津波だけは恐ろしいことはなかった。津波の被害にあった人が家が上に吹き上げられたのをこの丘から見たという。その人も被害者だった。その光景を見たら信じられないもであり恐怖におののいたろう。
津波から三年目にしても磯部でも何ら変わっていない。荒寥とした風景があるのみである。ただ新しく道路が松川浦の方に向かってできたのは変わっていた。

磯部からも残雪の蔵王が大きく見えていた。前に家がなくなると視界が開け蔵王が見えやすくなったのだろうか、こんなに蔵王を見えたことはなかった。蔵王がかなり迫ってきて見えるのである。ここから蔵王までの距離は相当にある。それでも見えるのだからやはり蔵王はかなた標高が高いことがこれでもわかる。山は美しく見える場所がある。
富士山でもそうである。山は見る場所や視点によって見え方がみんな違っているのである。だから山を知るにはそうしたきれいに見える場所から見ることである。
山形県側から見ると蔵王は美しくに見えないのである。


こうして小高い丘の上にその隠された家があり一つの畑がありそこに紛々と梅がにおい桜が咲いてかなたに残雪の蔵王が見える風景は美しい。原初の状態にもどれば今田んぼになった所も一時海のようになったから入江の浦のかなたに残雪の蔵王が見えた。
この丘の方に新しく家を建てた人もいる。もう海岸沿いには家は建たないだろう。
一つの畑が丘の上に隠されるようにあり家もあり何かここに春の平和を感じた。

やはり寄木神社などはその土地の一つの拠り所であり最初に住んだ人が祭ったのだから
その土地の先祖を祭ったともなる。だから津波で壊滅した磯部の海岸沿いをその神社から見る時何か不思議である。

要するにその神社を要として村が開かれその子孫が代を重ねてすんだ。その碑にあった君島とかはその土地に最初に住み着いた人なのだろ。その神社はその土地の根っこのような存在だったのだろう。今、その神社に立ってみると全く津波の前とは違った感懐を抱くのである。これだけの人家が消えてしまうと磯部村そのものが成り立たなくなるだろう。
三分の二以上消失したら村が成り立たない、未だに磯部の人は仮設に住んでいる。
ここでも復興するとはどういうことなのだうと思う。ここには人が住まないとなると復興は別な土地ではじまるとなる。
ただ村の根っことしての神社は残っているという不思議があるのだ。


隠されて一畑に人梅匂ふ

 
 
posted by 天華 at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年04月13日

八沢浦の津波の被害にあった人に聞く (海岸沿いには30軒くらいあった)


八沢浦の津波の被害にあった人に聞く

(海岸沿いには30軒くらいあった)

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30軒くらいあった
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旭化成の工場

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流されてきた石

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この崖の上に逃げて助かった

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高い場所でも海に近く前にさえぎるものがなく被害を受けた。

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古歌にある長岩も完全に津波でくぐった
割れたようになっているのは前からそうだったのか
津波の衝撃のためなのか?


八沢浦でもここは前に障害となる山もない、距離的には一キロもないかもしれない、だからもろに津波を受けた。
海岸沿いに30軒くらいあったという、10軒くらいしかないと思っていた。
八沢浦は海老村とか烏崎村とかと違って被害が目に見えて見えない
磯部でもそうだけど村ごと壊滅したところは悲惨そのものである。
何も言わなくてもそこに立てば一目瞭然である。
でも八沢浦はそんなに家が密集していなかったように見えたのである。
ただ港とあるから港の機能があった。


江戸時代は浦になっていたから船が行き来していた。荷物を乗せる大きな船も行き来したから港となっていた。
だからそこには家が昔からあったとなる。
ただ八沢浦は明治に開拓ささたのだから明治以降にできた村だと思っていた。
一部は北海老村になっているから30軒流された家は江戸時代から港があったときから住んでいた人がいるかもしれない、
あそこは北海老村であり八沢村ではない、そこが間違いやすい。

旭化成の工場がある地点も高いようだがぎりぎりだったのかもしれない、あそこに建てたのは土地がなからだろう。それで助かった。
工場は土地がないからあういう土地としては価値がないところに立つことがある。
あの丘があるおかげで津波が防げてその背後の家は被害が少なくて家も残ったのである。

一方で前に何もない、海岸沿いとそこから一キロも離れていない写真にとった場所は家も破壊されてない。
この家は結構高い場所に建っていたのである。
でも前に何もなくもろに津波が押し寄せたからひとたまりもなかった。
浪が一方からではなく横の方からもおしよせたという、浪がこの辺で合流したようになり強さを増しておしよせた。

津波は地形によって変化するし強さの度合いも違っているのだ。
そしてあの崖によじのぼって助かったという、あの崖の下まで津波が来たのである
あそこて津波を見てから逃げたのか?それだけの距離があり時間あって助かったのか?
後ろが山であり津波を瞬間的に見てとっさに逃げたのか、でもほとんど時間はないから
津波警報がでてから逃げたのだろうか?

この辺は詳しくわからないがあの崖の上に立って津波が来るのを見ていたらどんな気持になったのか?
それは経験した人しかわからない、あそこでは海に面した崖の上の家族が子供をふくめて何人か死んで墓があった。
白石から移った人だったという。これも不運としかいいようがない。


その女性が言うにはいくら津波の怖さを言っても理解してもらえない、忘れられると言っていた。
津波の被害を近くであったとしても被害にあわない人はその怖さや苦しみを理解できないのである。
現実に自分も八沢浦が津波の被害にあったとき、それが江戸時代の浦のようになったので
入江になったので美しい八沢浦がもどったと報告した。
そしたらここで子供も死んで泥から取り出されたのだとか批判された。
しかし自分はいつもあそこが入江になっていたらどれだけ美しいかといつもイメージしていた。
正直そのことの方に関心があったから実際にそうなったとき浦になみ春の光に浦浪が光りよせたとき美しいと思った。
浦浪というのはこの辺では見ないのである。]荒々しい浪しか見ないからだ。

そして八沢浦は家がまばらにしかないと見えていた。でもあの海岸沿いでも30軒もあったのである。
だからそれなりに瓦礫も流れてきたのである。
海老とかとは違ってもやはり被害がかなりあった。
その海岸沿い港は土台すらなくなって沼になってしまったのである。
津波が土台まで運んでしまった。それだけ強い浪が襲ったのである。
コンクリートの土台がえぐりとられるほどの津波の猛威だったのである。

その女性が言うには

私らは津波の被害にあってから考え方が変わってしまいましたよ
もう貯金などしない、命があるだけでもうけものです
今を生きることです、明日のため将来のために用意して生きることはしません


津波の被害にあった人は実際に人生観まで変わった。あまりの衝撃に命が助かっただけで良かったとなり
将来のために貯金などしていられない、死んでしまってはなにもならないとなった。
現実に家も何もなくなった人が多数いるからだ。
その人たちにとっては今生きているということが幸福になっているのかもしれない。
明日のことなど考えられないとなった。
これはそういう経験した人としない人の差は大きいのである。

人間はどんな体験でも苦しみでも経験しない人は理解できないのである。
だから津波の被害にあった人は被害の苦しみを言うけど介護の苦しみを言ってもたいしたことないよと言っている。
これもやはり自分としては納得いかないのである。

その人は介護の経験がないからそう言っているのだ。
それはみんな同じなのである。経験してみないとどんなことでも津波すらこれほどまじかにあっても
経験しないと実際に被害にあわないとわからないのである。

だから津波の被害にあった人と同じ町に住んでいても津波の被害にあわない人の差がものすごく大きいのである。
同じ町でもなんら被害がない人は無関心なのである。
でももしなんらかの津波によるダメージを受けたらこんなことにはならない。
自分は地震や原発事故での被害を受けているが津波の被害を受けていないから
津波に関しては何か同じ町に住んでいても他人事なのである。
だから面白がって写真撮って報告しているのかともなる。
津波の被害にあった人にしてみれば腹ただしいともなるのだ。

それは事故や事件でマスコミが取材するのとにている。
マスコミにとってそうした事故や事件は格好の餌であり別に助けるわけでもない
同情するわけでもない、報道して視聴率をとることが第一とされているのと同じである。

自分の場合は地元だから津波のことを関心をもって何が起きたのか追求している。
これも一つの郷土史だということもあるからだ。
郷土史として記録しておくことも必要だからである。

その女性はすでに仮設に一年いて家を建てたから良かったという、仮設にいても将来がない
仮設は早くでるべきだと言っていたのは同感である
復興住宅にしろ小高に帰るべきであり仮設ははやく去るべきところなのである。
近くで烏崎の人が家を建てたがこれもほっとしているだろうなと思う
家もなくなってどうしよかと途方にくれていたのだから家ができたということは安心する
その人も家が建てられたから安心したと言っていた。

ともかく港は前も防波堤が台風で決壊して海の水が流れたこんで被害があった。
干拓した場所だから低い場所だった。
その時、ここは危険だと感じて他に移れば助かった
でも人間はなかなか長く住んでいる場所から離れられない
よほどのことがない限り離れられない
自分もここが不便で嫌なことがあっても土地と家があるから離れられないのである
だから人間と危険なところでも住み続けている傾向があるのだ。

posted by 天華 at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年04月15日

津波の被害は現場に立って説明されなと実感しない (八沢浦の悲劇ー崖の上に上りぎりぎりで助かった)

 

津波の被害は現場に立って説明されなと実感しない

(八沢浦の悲劇ー崖の上に上りぎりぎりで助かった)

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名付ければ「命拾いの崖」なのか



八沢浦で現場で津波の被害の話を聞いた時ある程度実感した。
津波の被害はその現場に立たないとその恐ろしさが実感しにくい

「浪が前からも横からもきてここで合流したんですよ、
あそこの家の人はあの崖によじ上って助かったんですよ
白石から移り住んだ家族は何人か一緒に死んだからかわいそうでした
海岸沿いには30軒家がありましたよ
もう私等は貯金なんかしませんね、生きていたのがもうけもんですよ
家も何も流された人の気持などわかりっこないですよ
いくら言っても他人事ですから・・・・・」


前に書いた八沢浦は前に丘があるとないので明確に明暗を分けた。
意外と津波はみんな一様によせてこない、それを目の当たりに見たものと
見ないものの差は大きい。
一時テレビでも津波が渦巻いていたとき恐ろしかった
あそこでも崖の前で津波が前からも横からも押し寄せた時、どれだけ恐ろしかっただろう。
というのは八沢浦では海老でも崖の所や高い町があった所に高く寄せてきたという。
その浪が海老から下った鶏足神社がある坂でさえぎられて弱まって助かったという人がいた。
なぜあそこに津波が高く寄せたのかわかりにくい。
津波は一様な高さでは寄せてこない、ある所では高く寄せてきていたのだ。
それは海底の地形とも関係していたとか複雑である。


とにかくあそこの崖に上って助かったというとき、あそこの前の津波は空恐ろしいものだった。
その崖にしてもギリギリの線だったから津波にのみこまれる恐怖におののいていた。
その時助からない死ぬと思っていたかもしれない、その恐怖がどんなものだったか
想像もできない、ただなぜ自分が今回その話しで
ある程度津波の恐怖を感じたのかというとあそこの崖を見たからである。
あそこのぎりぎりで助かったということがあの地形を見て崖を見て実感したのである。
あの崖の上に逃れて助かった人が戦慄するさまがイメージできた。
だから津波の被害はその現場に立って被害を受けた人から聞けばある程度実感できる。
その高さと地形の関係が一目瞭然になるからだ。
だから津波の被害にあったビルを三陸の方で残すべきだというのはその高さ実感できなくなるからだ。
思った以上に津波は高いから想像できなくなっているのだ。


津波の被害は今でも残っている。こんな大きな石が流されてきたとか残っている。
それよりやはり津波は高さがわかるとその恐怖をイメージしやすいのだ。
あそこはあの崖が高さを示しているから実感しやすかったのである。
だからあそこの崖の上に立ってみて津波のことを想像すると空恐ろしいものがよみがえってくるだろう。
実際に「こんなに高いところに津波がおしよせた」ということが実感できるのがあの崖の上だったかもしれない、
あそこは何かそういう点で津波を知るのにわかりやすい場所に見えたのである。

 
posted by 天華 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年04月22日

グローバル化時代には世界が他山の石となる (なぜ日本ではスマトラの大津波のことをもっと検証しなかったのだろうか?)


グローバル化時代には世界が他山の石となる

(なぜ日本ではスマトラの大津波のことをもっと検証しなかったのだろうか?)




他山の石(たざんのいし)の意味
他の人のつまらないおこないであっても、それを参考にすれば自分を成長させる役に立つこと。

「他山」…他人
「他山の石」…他の人のつまらないおこない

「友人の失敗を他山の石とする」

これは中国的大陸的発想なのだろう。中国は広いから他山の石とかは普通にある。
他山の石となると関係ないように見えても中国という広い国でも関係しているということが成り立つ。
日本人的島国的発想は他山の石をそもそも認めにくいのである。
村という小さな単位が生活の基本にあったから遠い国の価値もない石などに価値を認めない、何の関係もないと関心をもたない。
それが日本人の島国的偏狭性を作り出した。

ただ世界がグローバル化したとき、世界があらゆることで他山の石となってしまった。

毎日のように世界の出来事がニュースで流されるから他人事ではなくなる。
それでも日本人はそういうことを他山の石として価値あるものとして自分たちの生活に影響するものとしてとらえていないのだ。
それは島国的閉鎖的環境で培われた国民性である。

日本から離れた国で何が起ころうとそれが自分たちに何の関係があるのだと思ってしまう国民性である。
大陸は陸続きだから隣の国に異変があれば必ず影響する。
その危機感覚は相当に違っているのだ。だから外国の情報に対しては敏感になる。

日本は海に囲まれていたから海が障壁となっていて守られているという感覚になっていた
しかし日本は海についても他山の石だったのである。

なぜスマトラのあの大地震震度9があり大津波があったとき、それを他山の石としなかったのだろうか?
そのことが今になると不思議なのである。
絶えず報道していたのは津波に対する警戒態勢がなかったとか日本ではありえないことだったということばかりだったのである。
日本ではみんな逃げていたからあんなに死者は出なかったろうとという報道が体制だった
スマトラでは津浪に無警戒だったとか日本ではありえないとか思っていたのである。
津浪国でありながら他国の津浪を他山の石としなかったのである。


それは原発事故でもそうだった。チェルノブエリの事故も他山の石にすることはなかった。
日本の技術は優秀だという先入観があり安全神話が官民一体となり作られていた。
日本の技術が優秀だという時、すべての技術が優秀ではなかった。
それをとりちがいていたのである。カメラでは優秀でも原発という総合技術になると優秀ではなかったのである。
総合的な面ではアメリカの方が優れていたのである。


現代ではあらゆることで他山の石が要求される時代である。世界中のことに関心をもつことが要求される。
グローバル化がいい悪いということがあっても現実に世界が狭くなり結びついているから無関心ではいられないのである。
だから何が他山の石になるかわからないのだ。
一見つまらない世界の事件が他山の石となり日本にも参考になるし影響してくる。
そういう時代に否応なくさはんせられているのが現実なのである。


だからなぜスマトラであれだけ巨大地震があり大津波があったのにそのことについて日本でも恐怖しなかったのか?
いろいろな面から探求していないのか不思議だった。
日本ではそんなことが起こらない、警戒態勢があるから起こらない、人はそんなに死なないと思っていたのである。
あれだけの津浪が起こったのだから日本でももっと警戒すべきだった。
日本では津浪国でありあんなに人が死ぬことなどありえないと思っていたのである。
つまり他国の友人の失敗を他山の石とする とすることができなかったのである。

現代は世界中で起きることが他山の石とすべき時代となっている。
「あんなこと外国で起きているけど日本じゃありえないよな・・・・」
そういうふうに見ている人が多いのである。
でも世界に起きることが即日本にも起きるし影響するのがグローバル化の時代なのである。
グローバル化がいい悪いという面があっても世界が一体化することはさけられないのである。

それは自然現象でもそうなった。スマトラは日本との地震の関連性はプレートは違うし関係ないよと専門家さえそう見ていた。
でもあれだけの津浪の被害を見たら日本は震度9の地震が近くで起きたらどうなるだろうと真剣に検証してもいいはずだったのである。
日本人は海のことにもっと関心をもっていいはずだがなかったというのも不思議なのである。
スマトラも海に囲まれていたし日本も同じだった。

いづれにしろ日本人の島国的発想はグローバル化時代では危険である。
日本人は卑下することもないけど何か日本人は優秀なんだとか特別なんだという意識が
醸成されやすいのが日本の島国的環境なのである。
そういう面はあってもまた反面大陸的発想がないが故に他山の石的発想がない故に
日本は世界から孤立したり自画自賛になりやすい国柄なのである。
日本のいい面はいい面として認めることは否定しない。
でもあらゆることで日本が優秀だとはならないのである。


スマトラのように津浪であんなに死んだようなことは日本では起こらないよな
チェルノブエリの事故のようなことは日本では起こらないよな
日本は津浪国だし日本の技術は優秀だからな・・・・


こういう発想が日本人にあったからこそ津浪と原発事故が起きたともいえるのだ。
だから中国とかインドとか大文明を作り出した国に学ぶべきものはかなりある。
ところが現代だと中国でもインドでも何か後進国として見ている。
何も学ぶべきものがないとなってしまっている。
欧米から学ぶべきものはあっても中国とインドにはないと思っているのだ。
それは技術的な面ではそうでも文明は技術だけではない総体的なものだから
大文明を作り出した国に学ぶべきものはやはりあるのである。

ともかく諺など日本でもいろいろあってもそんなもの哲学とか宗教からすると低いものだと思っていた。
でも最近、いろいろ自分の一身上で深刻な経験を積んで諺(ことわざ)がいかに
人間の普遍的経験から生み出したものであり今も通用しているか身にしみてわかった。
「金の切れ目が縁の切れ目」というとき、これも全くそうだった。
金だけのつながりは必ず切れる。親戚でもそうだしそうういことは時代が変わっても変わらなかったのである。
むしろ現代では金がすべてになるときその言葉が最も適用されている時代になっていたのである。
他山の石もむしろグローバル化した現代にこそ最も普遍的なものとして通用するものとなっていたのである。

posted by 天華 at 09:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年04月26日

慶長津浪で相馬藩政記に700溺死、伊達藩で5000人死亡 (この事実の重みを知っていたのか)


慶長津浪で相馬藩政記に700溺死、伊達藩で5000人死亡

(この事実の重みを知っていたのか)


慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも

今回の津浪の被害で盛んになぜあんな危険な海岸に接して人が住んでいたのだろうと何度も言われる。
今になるとそれは当然である。
ただ浜通りなどではほんとんど津浪のことが語られないのだ。
確かに伝説のようなものが二三残っていた。
それについても知っている人は極まれだったろう。
でも相馬藩政記に700人溺死と記されていたことは今になると重大である。


相馬藩で700人、伊達藩で5000人死亡


この事実は今回の津浪と同規模だったのである。
この事実に一番驚愕しなけれはならなかったのは誰か?
それは今回津浪の被害にあった海岸に接して住んでいた人たちだった

津浪は毎日海を見ている人にとっては本当と一番怖いものである。

相馬藩でも宮城県でも海に面していても例えば自分の南相馬市でも
海岸に接している住んでいる人たちとそうでない人たちがいた。
海をじかに見て毎日暮らしている人たちとそうでない人たちがいた
今では松原などがあり海はさえぎられて見えない
海が見えないということは海を毎日意識することはない

ところが海に直接面して日々海を見て暮らしている人たちがいる。
この辺の浪は荒いからその浪の音を毎日聞いて寝る人たちもいた
その人たちにとって海は怖くないかと感じていた。

ただ自分もよく小学校前までゆくとそこからは人家が少なく
田んぼが海まで広がっているのでその小学校前まで浪にのまれる夢を見ていた。
今から思うとそれが津浪だったのである。
自分の住んでいる街は海からは相当離れていると思っていた。
だから海に対する意識は海に接して海を毎日見て生活している人たちと
海が近くても海が見えない浪の音も聞こえない
地域に住んでいる人たちの意識は相当に違っている。


相馬藩で700人、伊達藩で5000人死亡


慶長津浪でこれだけ死んだという事実を知っていれば恐怖感は違っていた。
それが毎日海を見て荒い浪の音を聞いて眠っている人たちが
この事実を知っている人はいたのか?
郷土史を研究している学者でも自分でも知らなかった。
この一行が注目されたのは今回の津浪か起きてからだったのである。


ただ時事問題の深層で相馬市の奥まで津浪が来ていてその砂が
ボーリンク調査で発見されたということを興味本位で自分も書いていた。
そんなところまで津浪が来ていたのということはあったが真剣に考えなかった。
それは貞観津浪の砂だったのであり400年前の慶長津浪ではなかった
もし400年前の砂だったら歴史的記載の事実と一致するから危機感をもったかもしれない。
貞観津浪のことは国史にも記されて京都の人たちにも知らされていた。
だからそのことは全国的に知られていたのである。
だから東電に警告したのは貞観津浪のことであった。
慶長津浪のことではないし相馬藩政記に700人溺死と記されたことを例にしていない


結局歴史の重大な事実でもそれが注目されていなかった
相馬藩政記にはことこまかに跡継ぎ問題や戦争のことは記されている。
でも700人溺死という事実は注目されなかったのである。
そのことに一番恐怖すべきは海岸に接して住んでいる人たちだった。
松川浦であれ海老村であれ烏崎村であれ萱浜であれ・・・
その海岸に接している人たちはその事実を知っていれば恐怖しただろう
それは宮城県地域ではさらにそうだった。


結局本当に当事者になるのは同じ地域でも地域によって違っている。
原発でも毎日原発の煙突を見て暮らしている人とそうでない人たちは危機感が自ずと違っていた。
南相馬市でも30キロ離れていたから自分では危機感をそれほどもたなかった。
となると危機感をもつべきだったのは津浪でも原発事故でもすぐ近くに住んでいた人たちとなる。
ただ飯館村などはそうした危機感とは遠い所にあった。
それは原発というものがどういうものかわからないことにあった。

津浪の後には被害者は海が怖くて近づけないとか津浪がトラウマになって
精神障害に陥っている人たちが紹介された。
それはこの辺でも3キロ離れたところで津浪の被害にあった人は海が怖くて近づけないという
何か幽霊でもさまよっているようで夜が怖いとか言う

実際に津浪の被害にあった人達とあわない人たちの差も同地域では大きい。

「八沢浦が元の美しい入江にもどった」ということを書いて被害者がここで泥に埋まった
子供の死体を発見されたのだと正気なのかとも批判された。
つまり同じ地域でも津浪の被害にあった人たちとあわない人たちは違っているのだ。

これは別に津浪でなくても日頃でもそうである。
人はいろんな困難に出会うし苦しみがある。
でも自分に関係がなければ無関心なのである。
あそこの家で何かあったのとかなるだけなのである。


だから今回も海老の浜が津浪の跡にタンポポが一面に咲いていて
明るさに満ちていたなどと俳句にした。
以前としてそんなことが言えるのかと被害者の立場にたてばそうなる。
ここで家族や家を失った人たちよすれば何が明るさに満ちているとなる
以前としてそこに長くいられなかったとかなる。
では自分もそういう気分になれというのだろうか
暗く沈んで悲しいふりでもしていろとなるのだろうか?
これもまた疑問なのである。
あえて喜ぶ必要がないけどやはりタンポポか一面に咲いていることは明るく感じたのである。
津浪の被害にあわない人たちは同じ地域でもそうなるからその差が大きいのである。


同じ地域に住んでいてももっと海側に住んでいた人たちは今になると
津浪のことを知って恐怖すべきだったとか言われる。
それは浜通りでも松川浦とか海老村とか烏崎村とかは海に接して家が密集していた。
だからその人たちと海から離れて住んでいた人たちの感覚は違っていたからである。
人間はやはり当事者意識が生まれるのは同じ地域でも違っていた。
犯罪でも近くで凶悪な犯罪が起きればテレビのニュースで遠い所で報道されるのとは
違った危機感をもつのと同じなのである。


歴史とはもともとは事実を基にしている。
その事実が忘れ去れる
何が事実かもわからなくなる
今になれば


相馬藩で700人、伊達藩で5000人死亡


この慶長津浪の事実がいかに重大なことか再び事実でもって証明されたのである。

posted by 天華 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年04月27日

歴史もカルマだった (個々人にも国にも報いは必ず来る)


歴史もカルマだった

(個々人にも国にも報いは必ず来る)


歴史は繰り返すという時それは個々人のカルマと同じだった。
カルマの法則は厳しいし逃れることができない
カルマを意識しないことが多いがいづれは意識される
相馬藩政記に慶長津浪で相馬藩内で700溺死と一行記されていた。
それが見逃されていたのである。
それが今回カルマとなって同じ被害が生まれた。

しかし400年前の慶長津浪のことを知っている人はまれであり
海岸に接して住んでいた人もほとんど知らないだろう。
でもすでに400年前でも人が住んでいたからそれだけの被害があったのである。
この事実がほとんど看過されていたことの不思議である。
例えカルマは意識されまいが忘れていようが必ず現実化して起こる
カルマはいづれ個々人でも集団でも国単位でも意識される
カルマを逃れることごまかすことができないのである。

700溺死とあるときその頃の相馬藩の状況は戦国時代であり戦争のことや
跡継ぎ問題が主要な政治のテーマだった。
だから誰々が・・戦いで死んだとか跡継ぎの問題はことこまかに記されている。
しかし慶長津浪で死んだ人たちのことはただ700溺死としか記されなかった。
そこに為政者の大きな問題があった。
報道でも報道されないことが多々ありそこにマスメデアの問題が指摘される。
歴史でも常に戦争のことは大きく記されるが日常的な庶民のことは記されない

ドラマでも面白いから戦国時代のことは多く放送される
その他のことは放送されにくい、地方の歴史は全国版ではドラマ化されにくいのである。
今回相馬藩で津浪が起きたことか注目されたのは実際に津浪の被害があったからである。
だから相馬藩内で起きた700溺死という事実は大きな一つのカルマになっていた。
それが今回の津浪で否応なく意識されたのである。


個々人でもいづれはカルマを意識させられる。カルマの特徴は意識されないことなのだ。
自分になぜこんな苦しいことが起きるのだろうというときカルマか関係している。
この7年間の自分の苦しみも自分のカルマを清算させられるために起きたことが意識させられた。
なぜなら自分はそれだけ親に世話になりカルマを積んでいたのである。
なぜこんなに介護で苦しまねばならないのか?
そう問うとき、それは自分のカルマだったのである。
なぜ個々人でもこんな目にあわなければならないのかと問うとカルマだったことがわかる
カルマとは法則であるから原因があれば結果として必ずでてくる。
だからカルマから誰も逃れることができないしカルマの清算を要求される
借金がごまかせないのと同じく厳しくカルマの返還を要求されるのである。


歴史のカルマというと国でも大きいからわかりにくい、でも今回のように災害も単に自然の作用であり
人間にはどうにもならないとういことではなかった。
もし400年前の相馬藩内で700溺死ということを絶えず意識させられていたら
こんな大被害にならなかったかもしれないのである
カルマの特徴は個々人でも国単位でも意識しにくいのである。
わかりやすいのはアメリカが日本に原爆を落としたことは逃れられないカルマなのだ
だからアメリカは日本を恐れている、それはあまりにも歴然としたカルマ立ったからである
そのカルマはいつか返すことを要求される。
アメリカに原爆が落とされてカルマが清算されることになるかもしれない
そういう恐怖をアメリカからぬぐいさることができないのである。


戦争は何なのか未だにわかりにくい、善悪でも判断しにくい、戦争自体が人類のカルマになっているからだ。
だから何度も戦争というカルマをくりかえし人類は滅びるということも予言される。
日本の戦争にしても全部日本の非があるわけではない、
全体の当時の世界の政治関係で起きたことなのである。
だから日本だけを責めるのはかたよっているしアメリカも責められるべきなのである。
喧嘩両成敗なのが歴史でも同じなのである。
一方的に日本だけの非を責めるのは偏ったものとなるのだ。


ともかくカルマは意識されないことが一番の問題なのである。
歴史的に相馬藩内で700人溺死したという事実は大きなカルマだった。
ただそのカルマは400年の間に意識されず忘れていったのである。
当時の相馬藩の指導者も何か後世にとって重大なことかを記さなかった。
ただ跡継ぎ問題や個々の戦争のことばかり記していたのである。
その時700人溺死した民衆の苦しみを何も記さなかった。
それがある意味で怨霊ともなり今回の大被害にもなった。
何らの供養するものもなくただ忘れられ消えてしまった無念があった
だからカルマの報いは必ず来る
意識されなくても忘れてもまた再び歴史は繰り返し事実として起きてくる。



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2014年04月28日

人間は自ら痛みがないと無責任になる (100円でも金を寄付することをしぶる、痛みがでてくるから)


人間は自ら痛みがないと無責任になる

(100円でも金を寄付することをしぶる、痛みがでてくるから)

津浪で家を流され家族まで失った人たちがこの辺でもかなりいる。
でも不思議なのはそうした同じ小さな町に住んでいても津浪の被害のない人は
その痛みを感じていないことなのだ
だから海老の浜で別荘があり他にも家があって流されたな・・・
あの別荘は一千万で売り出していたけどゼロになったなとか
そこで家族や家を失った人たちの痛みを感じないことなのだ
なぜなら津浪で何の被害もない人は感じないのである。

でももし人間は自分の金を百円でも千円でも盗まれたら頭に来る
それは金持ちだって同じなのである。
それは自分の金だからである。

ところが他人のものになると一千万で売り出された家も津浪で流されたな
もったいなかったなとかは言っても本人は全然痛みを感じないのである
だから被害にあった人からすればずいぶん非情だと思うだろう
現実に村自体消滅したような所でも同じ地域に住んでもそういう面がある
そうしたら他から来る人は興味本位で見に来る人はいくらでもいる
観光気分で来る人はいくらでもいる

それでも千円でも寄付しろとなるとそうはならない
なぜなら自分の出す金だから痛みをともなうからだ
すると千円でも寄付すれば痛みをともなうことになる
そしてその金がどういうふうに使われるか千円寄付した人でも考える
よそ事としてではなく自分の痛みがあるから真剣に考える
その寄付がどこかに寄付を集める人に勝手に使われるとかあると
千円でも寄付した人は怒ったりするのだ
それだけ寄付した人は当事者意識が生まれている。

ともかく何でも自分で金を出さない人は自分に痛みがともなわない
例えばある人は一千万盗まれたとか言っても何の痛みもない
それは他人の金で自分の金ではないからだ
でも盗まれた本人にすれば金持ちでも痛みがともなう
なぜ官僚が莫大な国の税金を無駄使いするかというと
国民の税金であり自分の金ではないからなのだ。
何兆円の金でもそれは自分の金ではない
もし自分の金から出していたら千円でもどう使われるか真剣になる
そういうふうに痛みをともなわない金は無駄に使われやすいのである


なぜ人は他人の苦しみに無関心なのか?
それは自分が何の痛みも感じないからなのだ。
人が殺されても痛みを感じない
でも自分がその被害者になったら死ぬまでも延々と恨みつづけるだろう
ついに復讐して殺すということもまでも毎日思いつめる
でも他人は痛みがないからそんなに恨んでも無駄だとか他人事として言うだけである。

だから同じ地域に住んでも家族が死んで家が流された人たちの痛みを共有していない
それは自ら何ら痛みを感じていないからである。
むしろ家と土地ある人はこの辺は値段が上がって良かったなとかなる
人間はつくづくそうして利己的なものなのである。

他人が一千万盗まれようが殺されてすら無関心なのである
盗まれる方が殺される方が悪いんだとかなり無責任でいられる。
それは自らが何ら痛みを感じないからである。
だから日常的に他人の苦しみには無関心なのである。
津波の被害者もあんな危険な所に住んでいたのがあまりにも無警戒だった
住んでいる人もにも責任があった
原発事故でも周辺地域は責任があり自業自得だとか言われるのである

具体的に金を払うということは金持ちでも痛みをともなっている
ただその金がどういうふうな金なのかでまた相当に違っている
百万円を建築現場で汗水流して危険を犯しても稼いだ金と
遺産のように何の苦労もしないで入って来る金は違っている

だから若い時苦労して土地と家を買った人は
その家に特別愛着があり離れたくないという

ところが遺産として家をゆずり受けた人にはそういう気持にならない
なにか家に住んでいても間借りしていたよう気分なのである。
その家を建てるために何か努力したわけでもなく
痛みが苦労がともなっていないからである。


でも結局、津浪の被害にしても家族や家を流された人たちが
その現場に立ってどういう思いになるのか?
それはその本人しかわからないのは被害のない人には痛みがないからなのだ
故郷を離れて避難した人たちでもあいつらは補償金でぜいたくしている
それらは国民の税金であり、多少でも自分でもその税金を出している
なんであんなに補償金がもらえるんだとかなる
反面避難した人たちもなぜこんな苦しみを受けねばならないのかということがある
その痛みもなかなか他者にはわかりにくいからである

つまり人間は他者に同情するとき、自らも痛みをともなわないとできない
それは一つの犠牲になる。
千円でも寄付すれば痛みがともない犠牲ともなる

つくづく他人の金だと無責任になる痛みをともなわないからそうなる
金は具体的に痛みをともなうものだからわかりやすいのである
どんな金持ちだって勝手に金を出さないのはそれなりに痛みをともなうからである
身銭を切るというのはそれだけ痛みをともなうのである。
それは貧乏人だったら百円の寄付でもすれば痛みがともなう
その差はあるにしても金持ちが全く痛みをともなわないかというとそうではない
その度合いは違っていても痛みがある


人間が他人の苦しみや不孝に無関心なのは痛みをともなわないからである。
少しでも自らが痛みを感じれば無関心ではなくなる
百円でも千円でも寄付すると痛みをともなうから違ってくる。
その時苦しんでいる人と不孝な人と共有するものがでてくる。
ただ口でかわいそうですねとか言ってもそこには痛みがともなわないからだめなのである
現実はその女性は口だけでは盛んに心配しているんだよとか言っているけど
全く愛情もなにもなかった
だから自分たちが借金で追い詰められるようになったとき
入院して苦しんでいる自分に借金を要求してきた。
一種の恐喝だったのである。
それには弱い立場にあったから逆らうこともできないから恐怖だったのである。

痛みをともなわない同情は同情にならない
でも千円だって人間は寄付したなくないのが普通である
自腹を切る、身銭を切ることがいかに少ないかでもわかる
他人の金なら税金なら湯水のように使うが自分の金だったらそんなことできないのだ

だからボランティアなんか無駄だというがそうでもない、
泥を運び津浪の被害の家で手伝ったことはそれなりに労働という痛みをともなっていたからだ。
だから人間は自ら痛みをともなわないと不孝な人たちとかかわれないだろう。
ただ歌を歌ったりしていたのでは痛みがともなわないから同情したとはならない
かわいそうですねとかは誰でも言うことができる、でも痛みをともなうことはできない

百円すら寄付することをしぶるのが人間なのである。
ただ何か痛みを犠牲をともなえば不孝な人たちと深くかかわってくる
それは大きな犠牲ではなくても百円の寄付でもそうだったのである。
百円すら一体どう使われるのだろうかと無責任にはならないのである。
一兆円とかでも自分の出した金でないとなんら関心がないのは自分の金ではないからなのだ。
この世のことを考えるときやはり金というのは具体的わかりやすいから例にされるのである

posted by 天華 at 17:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年04月29日

今回の津浪災害の責任論 (一体この世の問題の責任は誰にあるのか?)


今回の津浪災害の責任論

(一体この世の問題の責任は誰にあるのか?)

●責任は個人にとどまらず必ず他人に負わされる

NHKのクローズアップ現代で生前に障害がある子供のことがわかるようになった。
それで中絶する人も多くなったがあえて産む人もいた。
その判断には悩んだというのもわかる。
障害者を産んだら生涯めんどうみなければならないのか社会でどう受け入れられるのかと悩んだ
それはすでに一個人の問題ではない、社会の問題でもあった。
社会で障害者をどう受け入れるのか、そんなやっかいな子供を生んでくれるなという
社会の要請もある。社会での負担も大きいからである。
すると産むか産まないかは個人ですら決められない、
個人ですべて負担しきれないからそうなる。
障害児を産み育てることは他人が無関係ではない他人もかかわる問題だったのである。

だからつくづくあらゆることの責任は誰にあるのかとなる。

離婚にしてもその影響は子供も一番受けるし回りも必ずまきこむのである。
離婚は別に二人だけの問題であり二人が責任をとればいいとはならない
子供も大きな傷を受けるし影響も受ける、回りも大きな影響を及ぼす
必ず離婚でも回りをまきこみ混乱させる。
親戚も混乱するしいがみあいにもなる。
だから離婚も二人だけの問題ではない。
その責任は二人だけではなく他者にも及ぼすのである。
そしてあまりにも無責任な結婚と離婚が多すぎるのである。
その責任は本人は負わない、離婚してすぐ生活保護を受けるとかするものもいる
そうした個々人の無責任な態度が社会の負担となってゆく


これは借金でも同じである。
見栄から借金しているのが実に多い、身の丈にあった生活をしていれば借金する必要はなかった。
でも借金して見栄を張り成功者を装っていた。
その責任は本人がとらない、他者に責任転嫁される。
その被害者が自分でもあった。
病気の時まで相手は借金で追い詰められているから自分を助けるところではない
「金をだせ、金をだせ・・」と請求される
弱者であり前からの関係もあり助けるものと思って頼った。
そしたら軽く一千万の機械を買ってくれとか要求してくる
何か頼めばそれだけの金を要求する
もし車を頼めば一回百万もとられるかもしれないような恐怖だったのである。
相手はそう思っていなくても事業している人の金銭感覚はそうなのである。
だからとても頼めないと思っていたがなりゆき上頼らざるをえなかったのである。
こうして人は自分の責任をとらない、他者にその責任をおしつけるのだ。
自分の弱さにつけこんで火事場泥棒にもあったし
こうして借金の要求をされて苦しめられたのである。
脅迫罪とは実際には害を与えなくても恐怖心を与えたことで罪に問われている。
だからこうして恐怖心を与えたものも罪に問われる
恐怖心を与えたものは何も感じていないのである


●津波災害の責任を誰に問うのか

今回の津浪原発事故の責任も一体誰の責任なのだろうか?
天災となれば責任は人間側にはないからあきらめるほかない
でも簡単にそんなであきらめつかないからいろいろ責任論がでてくる
古代だったら天皇に責任があったとか王様に責任があったとか
王様自体が責任をとらされて殺されたということもあった
それだけ被害が大きいから犠牲が必要になったのである


●津浪は天災だから責任が問いない
●津浪を警戒しなかった住民が責任がある
●津浪を警戒しないで逃げない住民に責任がある
●気象庁やマスメデアがNHKが適切に警告しなかった
●これは無念の死者の怨霊
●人心の乱れによる人間世界に対する罰としての災害
・・・・・・・・・

その責任を問いば一つではない、様々な複合要因でそうなったとなる
死者の怨霊とかは馬鹿げて非科学的だとも現代では批判される
でも相馬藩で700人溺死と一行しか記されないことが
今回の津浪の被害を大きくしたことにも通じていたことは確かである。
その責任は誰にあるのか、為政者にもあったとなる。
400年前の人に責任があるのかとなればそれはもう問うことはできないにしろ
400年前まで責任を問うのが歴史だということも認識されたのである。
その因果が400年前までさかのぼって問われたのである。
歴史の因果とはそうし千年でも二千年でも現代に影響しているということなのだ。


人心の乱れもそんなもの自然が起こすことであり科学的な法則として起こってくる。
プレートは人間の世界とは関係ない地球の規則的運動であり人間の世情とかとは関係ないというのもある。
でも本当にそうなのか?人間界が乱れる時自然も乱れることはありうる。
自分の一身上のことも関係ないのか?
なぜ自分はこんな非情な目にあわねばならなかったのか?
それはお前のカルマであり自業自得だとも言える
でもそうした非情があり呪いつづけたとき津浪原発事故が起きたのである。
他人の一身上のことなど関係ないというが自分にすればそうではなかった
そういう非情な目にあったときやはり自然も非情になり怒ったともとる
だから古代に無念に死んだ人の怨霊を恐れたというのもわかる
その怨霊と自然災害を関連づけたのもわかる。


貞観津浪や慶長津浪といった大津浪が起きた時は日本の歴史では混乱していた時代である
蝦夷征服で大和政権に殺された蝦夷の怨霊が問題になったのもわかる。
慶長津浪では戦国時代でありここでも時代は乱れ混乱していたのである。
その時は人心が乱れ殺された人たちの怨念に満ち満ちていた時代だったのである。
戦国時代から鎖国の300年は貧乏でも人心は安定していたのである
だから大災害も比較的起きていないのである。


明治維新以降は西欧化され日本的なものが否定され日本人の心は乱れた。
三回も大戦争があり犠牲者があった。
太平洋戦争では300万人死んだとか犠牲者があった。
明治以降は人心が歴史上最も乱れた時代なのである。
戦後60年は経済成長の時代であり確かに平和がつづいた。
ただこの高度成長時代は金だけが唯一の価値となり人間は非情化した
だから人心はやはり乱れていた。
そうして60年後に津浪原発事故が起きたのである。

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2014年05月03日

野蒜海岸や東松島の牛綱や浜市の津浪の跡をたずねる(1) (奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)


野蒜海岸や東松島の牛綱や浜市の津浪の跡をたずねる(1)


(奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)
http://musubu2.sblo.jp/article/29414836.html

nobirutebou1.jpg

nobirutebou22.jpg

nobiruyama1.jpg



東松島(牛綱、浜市、白萩)

matuhama1[1].jpg

matuuuuuuu111111111.jpg

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前の写真と重ねると確かにこの松である

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newmatumagaru1[1]_FotoSketcher.jpg


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ここにあった家はほとんど流された

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社があった


shirahagiiii1.jpg

tagayasuuuu11.jpg

クリック拡大


自分のプログのこのページが長い間一定の人が見ていたことが不思議だった。
というのは写真にしてもたいしたこともないし紀行文としてもたいしたものではない
ではなぜ見られていたのか?
それが今回同じように野蒜から鳴瀬街から石巻と訪ねてみてわかった。
特に松の写真をとった場所がなんにもなくなっていたのである。

つまり野蒜から東松島市になった鳴瀬町とかは1000人が死んだとか被害が大きかったのである。

まず野蒜は未だにその被害が大きいことが感じられた。
かなりの家が破壊されたし駅も復興していない。更地が多く松も残っていても痛々しい、ただ結構松は残っている。
その理由が防潮堤にあった。幅が広く分厚いために津浪でも破壊されなかったのである。
低い防潮堤だったが全く壊れていない
これだけ厚ければ津浪でも壊れないことがわかった。
ただ低いから軽くその上を越えて津浪がおしよせた。
でも結構松が残っているのは津浪の勢いがこの防潮堤でそがれたためなのである。
だから防潮堤が無駄だとは言えない
ただこの防潮堤にしてもその上を津浪が押し寄せたのだから被害が大きかった。
ここは前に島もないのでもろに津浪に襲われた。
電車も津浪におそわれて曲げられらた映像が写された。


ここは今は高台に住宅地を移すために大工事が行われている。
高台の山の土を削りそれを機械で運び野蒜駅前には高い大きな山を作っているから驚く
その山の高さが高いのである。まるで人工の山である。
あんなに高くしたら景観的には海辺の街という感覚はなくなる。
野蒜の海は変わらず砂浜が広がりきれいだった


そこから陸前小野まで代行バスで行き前通った白萩地区の町の方に向かった。
浜市小学校などがありここも大被害だった。ここは廃校になった。
かなり海が近い場所であり被害が大きかった。
鉄道まで津浪をかぶった。
鳴瀬川の堤防も越え津浪の水が流れてきたので堤防を高くする工事をしていた。
津浪はまず川をさかのぼってくるから川が意外と危険なのである。
大川小学校の悲劇は北上川を津浪がさかのぼってきたことにあった。

白萩地区というのは地名の考察では真っ白に土がばきとられるという意味だとかなるとまさにそうなっていた。
萩がはぎ取る意味だというのも謎である。

ここは牛綱村とか浜市にしても江戸時代の文書が残っているように古い村だった。
家が密集して狭い道があり写真のように松が道を覆っていた。
そこで思ったことはこの道はトラックなどが通れない道だと思った。
だからこの松が印象として残っていたのである。
何か隠された車も通りにくい場所とかイメージした。
実際はここは東松島の自衛隊の基地がありジェット機が飛ぶ所で有名だった。
その騒音で早い時期から移転問題すらあったのだ。
そういうことを知らないから隠された村のように錯覚していたのである。


いづれにしろここは自転車で一回だけ通っただけである。
それでもここがそこに住む人にとっても自分にとっても忘れられない場所になったのは
一回だけ通ったにしろその村すらほとんど消失してしまったことなのである。
津浪はこうして村ごと町ごと消滅させるから怖いのである。
ただ自分がとった松の写真の一本は確かに残っていた。
だから確かにあの道を通ったことは確かである。
それもなんともいえず不思議な光景としかいいようがない。
近くに津龍院という寺があるのも不思議である。津浪と関係あるのかとも思う。


帰りに陸前小野駅の鉄道線路の前で畑を耕す女性に聞いた。

「どの辺まで津浪が来ましたか」
「鉄道の線路を越えましたよ」
「ええ、あの線路も越えたのですか」
「今は移転している家が多いですがもっと家があったんです」
「確かに家があったようですね」
「松もありましたが塩水をかぶり枯れたして残っていない、塩分に強いのは欅です」
「ここも津浪をかぶっていますが大丈夫ですか」
「塩分に強い野菜をつくっています」
「そうですか、自分の近くにも津浪が来ましたが、津浪は低くても被害が大きい、いろんなものが流れてきますから」
「この辺もそうですよ,だから家を壊したのが多いんですよ」


塩分に強いというとき、松は弱いらしい、松は津浪には弱い、
ただ原始状態の混生林だと竹でも他の樹でも根を深く張るから津浪の衝撃に耐えやすくなるとか書いている人がいた。
松林は防潮林でも津浪を防ぐものではなく塩害を防ぐものとして作られていたのである。
津浪には竹藪のようなものがかえっていい、現実に相馬市の新田では竹藪があり津浪の勢いがそがれたとか聞いた。

今回の津浪ではいろんなことが問題になったのである。
それはあまりにも多岐にわたるものであり日本の国土を見直すきっかけとなった。

いづれにしろ自分にとってそこを通ったのは一回だげであり
それが今回の津浪でその通った場所が村が消えてしまうというのが信じられないことだったのである。

ともかく津浪はなかなか映像だけからでもわからない、現場に立たないと実感しえない。
あの野蒜の土を運び山を作っているのもその高さが実感しにくい、こんな高くしてどうするのだという感じになる。
そのことがいかに今回の津浪が高いものだったかを逆に証明しているのである。

 
 
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2014年05月17日

津波でもどった日本の原初の景観 (松原は人工林であり津波には弱かった)


津波でもどった日本の原初の景観

(松原は人工林であり津波には弱かった)

●白砂青松の景観は自然林ではなく危険だった


松原遠く消ゆるところ
白帆の影は浮かぶ
干綱浜に高くして
鴎は低く波に飛ぶ
見よ昼の海
見よ昼の海

島山闇に著きあたり
漁火淡し
寄る波岸に緩くして
浦風軽く沙(いさご)吹く
見よ夜の海
見よ夜の海

こういう風景が日本の風景だった。


室町幕府の武将にして歌人、今川了俊(いまがわりょうしゅん)が九州に向かう途中に立ち寄った明石(あかし)の海浜を、浜は雪を敷いたように白い砂で覆われ、年輪を重ねた松が強い風に捩じ曲げられた枝々に深い緑の葉を茂らせていると和文で記してい
るのである。



松林の下に自然に生えてくる広葉樹の若木を下刈りすることなどがその典型だといえます。しかしそれは、皮肉にも津波に対する防潮機能をいちじるしく弱めることになってしまいました。

 たとえば陸前高田市の「高田松原」は、まさに日本の「三大白砂青松」の地と呼ばれてきました。しかもここのマツ林は、明治三陸大津波や昭和三陸津波の際には津波の被害も大きく防いでくれました。しかし、明治三陸大津波の際には、「下木として多数の広葉樹が生育していた」(213)そうです。それがその後、昭和15年には「史蹟名勝天然記念物」にも指定され、保護管理区域として「林内で広葉樹が生育しないように、毎年、除草と下刈りが行われ」


マツの単植林が防潮、防災に適さない理由として、一般的に広葉樹に比べて根が浅いという点があげられる。

http://hiroshige724.blog22.fc2.com/blog-entry-124.html

松原は美的観点からだけみれば問題なかった。ただ美的なものではなく防潮林であり
塩害を防ぐ役目も果たしていた。なぜなら干拓して田を広げた時作られたからである。
松原が人工林だったことはやはり田畑もそうだが松原すら自然破壊の産物だったのである。
それが美しいと見えたのは人工林としての庭園美のように見て称賛されていた。
前に書いたけどぶなの木が無用の木ではなく山林にはもともとあった樹である。
ところが杉林になったとき人工林化して洪水に弱くなり土砂崩れを起こす原因ともなった。
ぶなが無用ではなく自然ではその無用と思われるものが有用だった。
それは荘子の思想にあった。そこに中国の大陸的思想があった。

つまり人間の狭い料簡ではとても自然は計れないということである。
人間はそもそも自然を計ることはできない、計られる存在なのである。
だから確率論で一万年に一回しか事故は起きないとか真面目に原発のことで言っていた
科学者がいたがそうした自然を計ろうとした人間の傲慢が津波で打ち砕かれたのである。

山林でもいろいろな樹がぶなでも何でも混合しているのが自然であり単一化しているのは自然ではない、
だからもともと海岸にも原生林がありいろいろな種類の樹が森が形成されていた。
松原だけの単一化したものではなかった。

そういう種々の樹が密生していると今回のように無数の松がなぎ倒されて消失するようなことがないかもしれなかった。
例えば竹林の方が津波には強かった。根が強く広く張っているから根こそ流されなかったという。
それと津波を防いだのは緩衝地帯があった場合相当に違っていた。
四倉は海岸に接して街があっても比較的被害が少なかったのは緩衝地帯の砂浜が広かったからである。
松川浦でも原釜や海にじかに接していたところは被害が大きかった
でも浦に面した所はそこが緩衝地帯となり津波の勢いが弱まり被害が少なくてすんだ。
海岸沿いの道が堤防のようになり浦が感傷地帯となり津波の勢いを弱くした。


●人間が生き始めた時自然破壊が必然的起きていた


要するに自然に手を加えたものはすでに自然を破壊した人工的なものである。
それは人間が住み始めた時からはじまっていた。焼畑農業がこれも森林破壊であり
肥料を簡易に作るために森林を燃やした原始的農法である。
農業にとって肥料がいかに大事か実際にしている人は痛いほどわかっている。
そのために洪水で土壌流出が起こり安くなったのである。

人間が自然の中で生きる時必ず自然破壊が起こりそれが災いともなる。
人間の技(わざ)は必ず災い(技わい)を生むのである。
それはプロメテウスが神から火を盗んだ時からはじまっていたのである。
人間の業(わざ)は自然を破壊しないと生きられないということにもあった。
人間の業は必ず自然を逸脱するものとなりその報復が自然から災害として受ける宿命にある。
だから農業自体が大規模な自然破壊の文明でもあったのだ。
そのことが津波で証明された。
無理して海側に干拓した地帯や人工林の松原が根こそぎ喪失してしまった。
何万本もあった松が陸前高田市では一本も残らなかったのである。
もし自然林だったらそういうことはなかったろう。
欅などは塩分に強いとかなると塩分に強いものが自然にはあり津波の跡でも生育してゆく
松原という単一化は庭園のように人間の美的感覚だけで作られたものであり生来の美ではなかったのである。


そもそも自然は多様性であり多様な植生であり多様な生物が生きるものとして作られていたが
単一化することは自然の文化の破壊だったのである。
米だけの単一生産もまたコーヒーだけの単一生産が危険なのは
外国から食料を輸入できないと飢えに直面することなのである。
現実に東北では江戸に米を商品として作りすぎて天候不順で冷害とかなると飢饉で餓死者を多数だした。
これは多様な食料を作っていれば飢えなかった。
冷害にも強い種は食料となるものが自然にはあるからだ。
食料でも単一化は人間の生物であれば危険なのである。
だから松の人工林である松原や杉林は自然ではないから災害には弱いのである。


●山も松原と同じように単一化された人工林になっていた


カラマツは、日本の天然林に多く見られるブナに比べると、その保水能力は数分の一とかなり低く
ブナの木は山の保水能力を高めること、 野生動物のエサとなる(人間でも食べられるらしいが) 実をたくさんつけることがわかりました。


樹齢250年のブナの木は、8トンの水を蓄えるだけの保水能力を持っているんですよ。


広葉樹は横に根を張り、土壌を安定させるのに対し、
針葉樹は縦に根を伸ばす為、保水能力が低い。


人工林は針葉樹ばかり。
つまり、現代の洪水は、人災。

bunaaaa1.jpg

ぶな?(木偏に無)がなぜこの字になったのか?この木はもともと森にあった先住民である。それがなぜ無駄な木、無用の木とされたか?それは杉とか檜が効用があったからそうなった。ところが自然にとっては森にとっては欠かせないものだった。不可欠なものだった。保水能力があり木の実は動物たちの食糧になる。ブナは生態系を維持するために不可欠なものとしてもともと山にあった。それを無用のものとして切り杉や檜を植えたとき保水能力が失われ麓で洪水が増えた
http://musubu2.sblo.jp/article/48417815.html



山も杉林などで一様化し単一の森にした。それで土砂崩れが起きやすくなったのである。
ブナの木を無駄としたのは人間の一方的利便性の追求でありそれが自然のバランスを壊すことになった。
自然のバランスを人間の知恵では計り知れないほど微妙なのである。
人間の体さえ未だにわかっていないというのは生命というのが
地球と宇宙と切り離されず一体として生れたからである。だから津波も天体と月とかとも
関係していたというのも本当かもしれないしまだ人間の力では解明されていないのだ。


津波の予兆というのはいろいろ言われる。津波の前の年が夏が異常に暑かったのである。
あんな暑さを経験したことがない異常な暑さだった。
確かに温暖化で暑くはなっていたがあの暑さは異常でありそれが天体の異変と結びつき
津波と起こす予兆だったかもしれない、月が満ちるとかあるが天体にも何かそういう作用があったのかもしれない、
地球と宇宙も別なものではない、一体だからそう考えるのも不自然ではない。


いづれにしろ人間の知恵は永遠に神の知恵に及ぶことはない、
この世界を人間を創造したもののみが知っているのである。だから万能細胞などありえないのである。
要するに奇跡としかいいようがないのがこの世界なのである。
そしてまた新しい奇跡は神の力によって起こされる。
それがいかなるものかは知り得ない、それも想像を絶するものなのである。
文明というのはあくまでも人間の小賢しい知恵であり技でありそこには常に何か危険なものが生れる。
原子力にしても原子とかを操作するから危険が生れた。
もし神のような知恵があれば可能だが人間にはもち得ないからもう毒が出てとめられなくなり人類滅亡にさえなる。
だから火を盗んだフロメテウスの神話から人類に警告されてきたがそれは便利さの追求のために無視されてきたのである。


●文明は津波に敗れて山河あり


漢詩に「国破れて山河在り」とあるが、今日では「国栄えて山河破れ」となる。

国ではなくもはやグローバル化した世界では文明栄えて山河破れに共通になっている。
今や文明による環境破壊は世界的であり世界自体が狭くなっているからそうなる。

津浪は自然のそうした大きなバランスを保つための作用であり
自然界が悪い意図で人間を苦しめているというのではないのだ
四〇〇年に一回であれ千年単位で起きる津浪も自然のバランスを保つ為の作用であった。

異論はあるにしても原始の状態に自然が回帰するようになったのはそれは
自然の作用であり自然のバランスを保つために津波が起きたともとれる。
自然は無情で非情だと呪ったりもしたが津波によって元の自然がもどったということは
自然の美が回復したのである。

白砂というのは右田浜だろうがどこでも日本ではほとんど消失していた。
松原は松風など吹いて気持良かったが海岸線は防波堤でありブロックの山であり
そこに美はなかったのである。そんな美観より災害に備えるのが先だというのはわかる。
でも津波を防ぐ防波堤を海が見えなくするほど高くするのはどうかと思う。
海が見えてこそ海辺に住むものの良さがある。
確かに松原の景色はこの辺で失われたが変わって海が広々と見えるようになった。
今までは松原とかにさえぎられて見えなかったのである。
草原化して原野化して砂が運ばれてまるで北海道のような風景になった。

ただ3キロも津波がきて原野化したのだからその範囲はつくづく広いと思った。
それだけの広さの土地を干拓して人工化したというのもその労力も大変なものだと思った。
それが一瞬にして失われたのである。

津波で失われた所はもとのままにして手を加えない方がいい、
人はもうそこに住まないで元の自然に返す方がいいという意見の人がいた。自分もその意見に賛同する。
防潮堤とかそんなもの作っても無駄でありむしろ津波が来ない地域に住むようにした方がいいとなる。
漁業するにも港に通うというのがいい、車があるのだから昔とは違うからである。
米だって減反時代だからここでとれなくても他からいくらでも入ってくる。
もちろんそうしたら何で生活してゆくのだとかなるがそれはまた別問題である。


津波はただ否定的なものとしてばかり災害としてばかりとらえているが
自然側からすれば自然のバランスを保つための作用だったとなる。
自然の作用だからそこには必ず美が生れる。富士山も噴火した時は被害を与えてもあのような
優美な姿が噴火によって作り出されたのである。
文明破れて山河は残るのである。津波とは自然から見れば大きな浄化作用だっかもしれない。

ただ否定的な面ばかり主張されがやはり元の自然の状態にもどることは悪いことだけではなかった。
自然の美が回復したということはあったのだ。
そんな美よりここで死んだ人を思いというのもわかる。
ここで死んだ人の気持がわかるかというのも犠牲者になればそうである。
ただそればかりを思いつづけいたら復興もなくなるだろう。
いつまでもそうして暗い気持で生きていいのだろうかという疑問がある
被害者になってみなければそれはわからないというのもある。
それは別に死別は常時ありいつまでも死者のことにこだわるのも問題なのである。
一方で忘れるのも問題なのである。その辺の兼ね合いがむずかしいのである。
妻をなくしした人がペットは死ぬから別れるのが嫌だから飼わないと言う
その真意はわからないにしてもいつまでも死者にこだわるのも問題なのである。


いづれにしろ日本は津波国なのに津波災害に対して甘かった。
女川でも石巻でも海岸に密集して家があり石巻の日和山のところにあんなに
家が密集していたのを不自然に思った。こんなに海岸に接して家が密集していたから目立った。
女川でも地形的にまるで津波を呼び込むような地形になっていた。
平坦な地域がほとんどないのである。

それも利便性からそうしした危険な地帯に住むようになったのは
文明が自然を破壊せずに生きていけないのとにていたのかもしれない。
文明とはそもそも利便性の追求でありそれに歯止めがかからないのである。
科学も利便性の追求であり交通事故があろと車を一割も減らすことは生死にかかわるとかなりできない、
もちろんエネルギーも減らすことができないのである。
人間社会には減らす思想がないのである。
一方で宗教は老子であれ釈迦であれキリストであれ清貧であり物質のあくなき豊かさの追求を戒めるものだった。
人間はどこまでも物質的豊かさを求める時、制御がなくなるとそこに文明の崩壊が起きてくる。
その引き金となるのが今回のような大災害だったのである。

 
posted by 天華 at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年05月22日

相馬藩が中村に城を移転したのはなぜか? (津波の後の復興のためなのかー伊達藩の政宗の政策から推測した)

 

相馬藩が中村に城を移転したのはなぜか?

(津波の後の復興のためなのかー伊達藩の政宗の政策から推測した)

●慶長時代には海側に住む郷士はいてもわずかだった


青原氏からの質問があって確かに700人溺死の中に郷士もいたの
だから藩で全く津波の被害を無視したという自分の説には疑問だというのもなるほどなと思った。
相馬藩は他より郷士が多い、農民兼侍だったのが郷士である。
だから野馬追いの時は原町とか相馬とかでも街内からでるのはほとんどないのである
農家の在の方から出るのである。
だから海側の村でも必ず郷士の末裔で野馬追いに出ている家がある
ただ慶長津波が起きた時、どれくらいの人が海側に住んでいて郷士だったのか
それはわかりにくい、海側に住んで郷士の人がどれくらい被害にあったのかわからない。

ただ海岸に接した村は比較的後から住んだ人たちが多い。

鹿島区では海老村でももとは海側でなくて後ろの田のある地域に住んでいた。
それが塩をとるとか港ができて海に進出するようになり海老村になった。
右田村も真野川沿いであり湿地帯であり開拓されたのは江戸時代でも遅くなってからである。
大内村は古く山側に住んでいた人たちは今回の津波でも助かった。
そして大内村の出村のような袋村は真野川の河口と海岸に接していたが消失した。
江戸時代に村としてあったが消失したのは真野川の洪水とかで稲作ができなくなったのだろう。

八沢浦も明治になってから開拓されたのでありだから妙見神社が祭ってあった。
小高の井田川は大正になってから開拓されたのである。
だからそういう住むのに適していない場所に郷士が入ったのは慶長時代以前だと
少ないかもしれない、ただ確かに郷士がいないということはありえないだろう。

だから津波の被害にあったら郷士が藩に窮状を訴えたはずである。
でもそうであったら余計に何らかもっと藩で対策を考える、その窮状を記録してもいいはずである。
その辺の事情が記録がないのだからわからないから推測するほかなくなる。
つまり郷士が津波の被害にあったらもっと何か藩でもその窮状に対して
どう対応したかなど記していてもいいということも考えられる。
そのことが700人溺死としか記されていないのだからやはり無視されたともとれる


●伊達藩の政宗の政策に習ったのか?


なぜこういう説が出たのか?それは実際は何ら根拠のないものであった。
ただわかったことはこの説は伊達藩から政宗の政策から出ていたのである。
それをプログに書いていた人がいる。


@領内の金山の管理の徹底、開発の推進→慶長十七年二月より
A徳川家との関係強化→慶長十六年十二月十三日、江戸城は将軍徳川秀忠御前における
   嗣子虎菊丸の元服。秀忠よりの「忠」の一字拝領
B遣欧使節派遣による海外交渉・貿易の実現→財政を豊かに。国を豊かにするため。


遣使船サン・ファン・バウティスタ号の建造。これは、石巻・牡鹿地方という三陸津波の一大被災地で行った一大公共事業です

アマーティの『伊達政宗遣欧使節記』の第十二章には「国王(政宗)は大急ぎで船の建造に取りかかるように命じ、その作業に八〇〇人の大工と七〇〇人の鍛冶、それから三〇〇〇人の人夫を投入した。」(翻訳『仙台市史 特別編8 慶長遣欧使節』平成22年刊
http://blogs.dion.ne.jp/honmarukaikan/archives/10071959.html

ここに公共事業と明確に書いてあるのでこの辺を参考にしていたのかもしれない。
津波被害で伊達藩内だけに目を向けていては復興できない、
それよりも対外的にスペインまで目を向けて津波の被害を克服しようとしたという説である。
そのような大災害の時、外国に目を向けて貿易で復興しようとしたというのも当時からすると
スケールが大きいというかその目的が何であったのかは明確にはなっていない。
徳川幕府に家康に対抗するためにだとも言われる。
まだ天下取りをあきらめていないから最後の手段をスペインの協力をえて天下をとろうとしたともなる。


ただその船の建造も大事業であり今なら復興の公共事業になっていたことは言える。
資金は金山から生れたのか?やはりそれだけの財政の裏付けがないとできない。
その時幕府では援助しないからである。むしろ政宗の弱体化を望んだろう。

つまり伊達藩の政宗がそうした津波の被害の復興をどうしたのか?
それを相馬藩では知っていて相馬藩でもこの際、中村に移転しようと決心したのか。
相馬藩では対外的には伊達が最大の敵なのだからその境の中村に城を移転するのが一番ふさわしかった。
その時、移転するとはり城下町の整備が公共事業的なものとなったことはありうる。
ただ伊達藩のようにそうした記録がほとんどないので資料がないので証明するのはむずかしく推測になるだけである。


不思議なのは


相馬市
「城は破損し再築中」「同市も海水の漲溢に依り海岸の村落に及ぼしたる被害
の影響を受けたり」(『ビスカイノ金銀島探検報告』)

http://www.dcrc.tohoku.ac.jp/surveys/20110311/docs/20111202_04_ebina.pdf


ここの相馬市とは東京の方になっているのはなぜなのか、間違いなのか?
相馬藩について『ビスカイノ金銀島探検報告』で百行くらい記されているというがその内容はわからない。
これが相馬市のこと中村城のことだとすると今の城の所まで津波が来たのかとなる。
川をさかのぼってくることがあるからどういうことなのかわからない。
ただ城は破損し再築中とあれば津波の被害があり再築していたとなる。

ということは慶長津波の前にすでに城はあり工事はしていたが藩士や主君が移動したのは
別に津波があったからではなく津波の前に移転することは決まっていて工事していたともなる
そうなれば別に津波が起きたからではなく前からの計画ですでに工事もしていて津波にかかわらず実施したとなる。
ただ津波の被害があったことが移転に何らか影響していたことは推測される。
でもそうした記録が一切ないから推測の域を出ないのである。


●相馬藩士が慶長津波の後に伊達藩に開拓に入った謎


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/


これは結構大規模な移住だった。中野というのは中村のことである。
なぜ相馬藩での被害も大きいのに伊達藩に藩士が開拓に入ったのか?
伊達藩では積極的な津波復興の奨励策をとり人を呼び込んだ。
だから相馬藩でも入る人がいた。それも藩士だということはそれに従うものは
その家来や従者がいるから侍でないものも従ったのである。
これもなぜなのかというと謎である。


つまり相馬藩で被害が大きいのだからまず相馬藩内の復興が優先されるはずである。
それがなぜ相馬藩士が移住したのか?
ここにも一つの相馬藩の慶長津波のことを解く鍵がある。
相馬藩の被害が大きく復興できないような状態に陥っていたのか?
伊達藩でも被害は今回と同じく相馬より被害が大きかった。
ただ伊達藩では相馬藩より復興策が政宗の陣頭指揮でとられていた。
相馬藩は小藩だから対策がとれなかったのか、資料がないのでわからないのである。


相馬藩士が移住したのは郷士であれ被害を受けて相馬藩内で生活できなくなり
奨励策をとっていた伊達藩に移住した。その時伊達藩でも被害が大きいから人材が必要だった。
それにしても相馬藩内はその時どうなっていたのか?
相馬藩士自体が見捨てて他藩にゆくのか?
これはやはり相馬藩内での慶長津波の結果として伊達藩に移住した。
その理由はわからないにしろそういう激動を体験した。
津波であれ原発事故であれそういう激動の時に人は移動しやすいのである。
避難民であふれるようにそんな緊急事態が起きていたのだろう。

ただ津波の被害を受けてまた津波の被害地に移住するというのも何なのだろうとなる

いづれにしろ相馬藩と伊達藩は敵同士でも密接な関係があり
伊達藩から相馬藩のことが解きあかされることがある。
まさに中村への城の移転が津波の復興のためとか公共事業のためとかの説がでてきたのは
伊達藩に政宗の政策にならったものを相馬藩でも実行したのだという説になったのである
ともかく資料がないので推測になる。
慶長津波が政治にどう影響したのかはこれもあまりにも大きなテーマだったのである。
リスボンが地震で衰退してしまったように甚大な災害は歴史を大きく変えてしまうことがあるし
日本は災害の国だから特に天災が国に影響することが大きかったことは確かなのである。

posted by 天華 at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年05月26日

津波の被害が記録されない空白が作り出される謎 (相馬藩内では1677年延宝房総沖地震津波の被害について全く記録されていない)


津波の被害が記録されない空白が作り出される謎

(相馬藩内では1677年延宝房総沖地震津波の被害について全く記録されていない)

●津波の伝承や記録が希薄であり忘れられる


1677年延宝房総沖地震津波では下川(小名浜)から四ツ倉にかけて死者84人・流出家屋487軒、なかでも江名・豊間両浦で死者44人・流出家屋218軒という被害は、2011年東北地方太平洋沖地震に類似する。同地震でも豊間・薄磯で多数の死者と家屋流出が発生している。

いわき市薄磯地区には、「大きな地震が発生したら津波が来るので薄井神社が鎮座する丘に避難すること」という伝承が残されているが、これは1677年延宝房房総沖地震津波の体験による可能性が考えられる。

tunamizuuuuu1.jpg


慶長津波が1611年であり1677年に延宝房総沖地震津波があった。こ66年後にまた大きな津波があった。
この津波についての記録は岩沼まで被害の記録がある。
でも相馬藩から新地から亘理まではないのも不思議である

慶長津波では相馬藩で700人溺死したとある。でも77年後にも大きな津波が来たのである。
その被害もあったはずだが何にもこの時は記されていない、
慶長津波の前でもその後でも江戸への普請のことでは人数とか記されている。
江戸幕府からのそうした圧力が大きなものであり財政が逼迫して給人が税を支払えないと訴えている。
当時の政治は中央が地方に援助するというのではなく中央が幕府が地方から税をとり労役を課すことだった。
だからそうした幕府からの圧力が強いし負担となっているから相馬藩の政治でも
その負担をどうしたらいいのかというのが課題となる。
だからそこは記録されている。


しかし慶長津波でも延宝津波でも特に延宝津波では何の記録もないのも解せないのである
四倉となると浪江とか双葉とか富岡の隣であり近い、双葉は相馬藩の境であり富岡は岩城藩内ではあった。
それにしても明らかに塩釜まで被害があったら相馬藩で被害がなかったとはありえないのである。
要するにこの時も津波のことは空白状態になっていたのである。
それはなぜなのか不明であるがこの記録の空白が後の世に今回の津波のように大被害をもたらす要因になった。

相馬藩内では確かにわずかだが慶長津波のものと思われる伝承はあった。
しかしそれは地元の人でも知らない、取り上げないものであり津波が海岸に接している人たちにも伝えられていない
、海岸に接して津波のことを意識したのはチリ地震津波のことだったのである。
その時のことを経験してチリ地震津波から津波を推測していたのである。


1793年の「寛政津波」については、<1793年〜1796年がまったくの空白>であり、<飢饉災害として処理された>と記述。1995年、飯沼氏は『仙台平野の歴史津波〜巨大津波が仙台平野を襲う〜』


相馬藩内だけではなく津波については記録されない、空白現象が起きている。
「津波を忘れるな」と警告した碑が残されているのも津波は台風などの被害と違い忘れやすいのである。祖父母ですら経験していないのが普通だからである。すると伝説とか
記録が頼りになるがそれも一行くらいしか記されていないからわかりにくくなる。
ただこの津波の伝承や記録の空白現象が今回のような大被害の要因になっていた。


●女川原発が救われたのは危機意識が違っていた


宮城県ではそれなりに大きな津波被害があったから伝説も残りそれで岩沼に1611年(慶長16年)に発生した
大津波は阿武隈川(※1)を遡上して氾濫し、千貫松まで届いたとか残っている。

この伝説を聞かされて東北電力の副社長だった平井弥之助氏人が女川の原発を14メートルの高さにした。貞観津波まで考慮していたという。


三陸地方は過去に何度も津波の被害を受けていたため、津波の怖さを多くの人々が共有していたと思われる。三陸地方の人々にとって津波は常識であろう

「女川原子力発電所における津波に対する安全評価と防災対策」のスライドである。これを見ると、東北電力の方々が津波に関する考古学的調査や津波の数値シミュレーションなどに真面目に取り組んでいたことを理解することができる。東北に生まれ育った人が、原子力発電所が立地する東北の地域の安全環境を守ることを自分達の問題として捉えていたと想像することができる


東京電力の原子力発電所の計画・建設に参加した人の大部分は東北地方と関係がなく、東北からみればよそ者であった。そのため、津波に関する畏怖がなく、立地する地域に原子力災害が及ぶ可能性を想像することができなかった。 仕事のときだけ福島に赴き、任務が終われば東京に帰り、現地への愛着が薄かったのではないか-Riyuu.html

http://oceangreen.jp/kaisetsu-shuu/Onagawa-Tasukatta


要するに津波に関しては宮城県の方が危機意識をもっていた。
それは三陸などでもそうだが明治にも津波の大被害があったのだから違っていた。
津波に対する恐怖の意識があるところだったのである。
これが致命的な分かれ目になっていたのである。
女川の原発すら実際ぎりぎりで助かったのでありある意味で幸運でもあったのだ。
女川の街は壊滅したのでありもう立ち直れないような状態になっている。
その被害を見たら原発の方が残ったというのも皮肉である。
近くの人も津波の時、原発に逃げたのである。
だから奇妙なのは街が壊滅して原発の方が残ったということも何か示唆している。

原発という危険極まりないものでもそれなりに危機意識をもっていれば事故にならない。
ところが一方で街に住んでいる人達は津波に対して女川原発に対してもっていたように危機意識がなかったのである。
もし東北電力が想定した津波の高さを真剣に考慮すれば街だって壊滅することはわかる
しかし肝心の街に住む人たちはそんな高い津波のことなど想定していない、危機意識がなかったのである。


●津波の記録の空白地帯だった双葉の原発


そもそも双葉は夜ノ森が相馬藩の殿が余の森として相馬藩と岩城藩の境となっていたところであり
森であり原野の地域だったのである。
そこは近くに大きな病院もないもともと不便な場所であった。
だから双葉でも浪江でも南相馬市立病院に入院していた人がいた。
片道30分もかけて往復して看病していた人がいた。
南相馬かイワキの方にむずかしい病気はみてもらえないのである。
原発はそうした遅れた不便な地域に建てられやすい、
今でもそうした地域では経済活性化のために積極的に原発でも誘致しているのだ。

原発はまた大都会近くに建てにくい事情もある。
だからそうした辺境地帯が立地条件がいいとしてねらわれるのである。

結局津波に対する危機意識でも東京に建てれば一千万人が常に危機意識をもつ、
その前に危険だからと東京にはとても建てられないからそうした辺境地帯に建てられた
今回の事故でも危機意識を東京の人たちは離れているからともっていなかった。
東電でも事故があっても離れているからという意識になった。
もし地元に住んでいればまた危機意識をもつから違っていた。
ただ一時的に勤めてまた東京に帰るというふうになるから土着意識がなかった。
東北電力には土着意識がもともと地元だからあったのである。
岩沼の津波伝説を聞いて決めたというよりあの辺はもともとそうした津波の危機意識を共有していた地域だった。

だから原発ともなるとそれだけの危機意識をもっていたからギリギリで助かったのである
それだって幸運だったのであり危ない状態だった。
それはまず女川が壊滅したことでもわかる。女川の被害は最悪だったのである。

危機意識というとき、人間は平和な生活が長くつづくともてなくなる。
平和がいつまでもつづくと思うようになる。
でも人間の歴史をみると絶えず天災でも戦争でも起きていて平和な時代はつづいていない、
だから江戸時代は世界史では例外的な状態だった。
戦後は確かに戦争で300万人が死んだというあとにしては平和で繁栄の時代だった。
団塊の世代はそれで恵まれていたとなるが今やそうした繁栄から衰亡の時代に入った。
そして再び天災でも対外的にも危機の時代に入っている。

でも以前として平和になれているから危機意識がないから日本は他国に簡単に侵略されるかもしれない、
危機をあおるわけではないが平和になれると油断が生れそこをつかれて滅びしまう
そういうことは平家であれローマであれ中華帝国であれ常に起きていることなのだ。
危機の問題は急激にやってくるから対応できないのである。

女川にはおそらく原発ができる前に行っている。鯨の解体しているのをみているのだ。
牡鹿半島では鮎川が鯨の基地だったから女川でも鯨と関係していた。
女川という地名も何か気にかかるようになった。
女川はオナミであり男波でありこれは津波と関係していたとか
他にも福島県浜通りにも浪江とかにもあるので言われようになった。
深い入江になっていて逃げ場がない地形だった。
だから津波を奥まで勢いよく上って行ったのである。
ともかく津波というのは実感するためには現場に立ってみる必要がある
なぜなら地形とかと深く関係しているから現場に立たないとわからないのである。
それで女川に行ってみたいと自分でも思ったのである。

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2014年05月30日

地元に根ざした土着的メデアの必要性 (南相馬市の博物館に東北大の学者が津波のことを警告していた)

 

 地元に根ざした土着的メデアの必要性

(南相馬市の博物館に東北大の学者が津波のことを警告していた)

すでに10カ月もいる地元の津波のことを主に調査研究している人が
南相馬市の博物館にも津波のことを最新の研究から警告しにきていたという。
でもとりあわなかったという。

自分も前に時事問題の深層で松川浦からかなり奥まで津波が来ていて
その砂が発見されたということを書いた。
ボーリング調査でそのことがわかってきていたのである。
それは宮城県でもそうであり実際は科学的調査は進んでいた。
その実績をふまえ東電にも貞観津波のことを警告していたのである。
それを東電では全くとりあわなかった
南相馬市の博物館に来て警告してもとりあわなかった。
ただ一応南相馬市では津波に備えよと広報で出してはいた


ではなぜ南相馬市博物館でとりあなかったのか?
それは津波は郷土史と関係ないと思っていたのかもしれない
野馬追いのことなどが主要なテーマであり
貞観津波のことを言われてもなんのこととなったのだろう。
南相馬市は原発に実際に勤めていた人は思った以上に多かった
そうならば原発にもっと関心があっても良かったはずである。
でも意外と関心がなかった
ただ小高にできるとなると関心がでてきたろう。
それも実際に小高にすでに東北電力で原発が建てられることが決まり
工事がはじまるところだったのである。
それも原町や鹿島では知らない人も多かった。
自分も知らなかったし原発の話しは聞いても関心がなかった
30キロ離れているということで関心がもてなかった


でも相馬藩となると原発が建った双葉地域も相馬藩内だった。
郷土史という観点からすると郷土史的に関心をもつべきだった
郷土史というと狭い範囲のものだと思っているが
実際は郷土史は自然史の段階からはじまるからまず広範囲な知識が要求される
だから郷土史といっても一人の手に負えるものではない広範囲な研究分野なのである
郷土史など狭い範囲だから調べ尽くされて新しいものはないだろうと思っている
ところが実際は灯台下暗しでわからないのである。

最近すぐ近くの神社に「天明」と刻まれた碑があった
そこは子供の頃遊んだ神社である。
そこに天明の碑があることを知らなかった
天明というと大飢饉があり相馬藩が疲弊してどん底に陥った時だったのである。
するとこの辺もその被害がありその碑が建てられて天明と刻まれたのかとなる
町内だから新しい地域だと思っていたのである。

このように人間は最も身近な所が意外と知らないのである。
鹿島御子神社のある脇の墓地にも天保の碑があったが
天明はそれより古いという驚きなのである。

郷土史というときそれはトータルな学問でありそれは別に過去だけではない
過去から現代に通じるものであり歴史から今を考察するのである。
人間は過去を知らなければ現在をしりえないのである。
ある人の一生でも過去がどうだったのか知らなければしりえようがないだろう。
だから津波のことがこの辺では記録もほとんどなく忘れられてしまっていた。
そのことが今回のような大被害になった
磯部や海老や烏崎など見れはわかる、壊滅して土台しか残っていない
そしてなぜあんな危険なところに密集して住んでいたのかと盛んに言われるようになった
それは原初の自然の状態から歴史を還りみないとわからないのである。


もし東北大の学者が東電でも警告してそして南相馬市の博物館にもきて津波のことを警告していた。
そういうことがあったのかと真面目に答えて郷土史をふりかえれば津波の対策もでてきたし
原発をかかえているのから余計に関心をもつべきだったのである
そういう歴史がほとんど相馬藩では記されていないし語り継ぐこともないから
今回の大被害になったともいえる
ただ比較的記録が残っていた宮城県でもそうだったからいちがいには言えない

科学者が言うには千年前のことを言ったりすると笑われるという。
予言者のようになり誰も信じないという。
仙台の海側に住宅地として広がった所は不動産屋に津波があったと警告しただけで
学者に土地が安くなるからそんな警告するなと脅されたということでもわかる

宮城県では伊達藩では慶長津波の被害のことは比較的記されて語り継がれていてもそうだった
ただ女川原発はやはり百年前にも三陸で大被害があったから危機感が違っていて高くしてぎりぎりで助かったのである。
相馬藩では津波のことはほとんど記されず伝えられなかった
それで双葉の原発にしても危機感が地元の人でもなかったのである。

要するに地元の人の危機感のなさが危険な原発を容認した
女川のように原発を建てるにしても安全性を見ていない
金さえもらえればいい、安全だとあれほど言っているのだから安全だ
それより金なんだよとなっていた

そういうのを警告するのはメデアの役目である
でも福島県のメデアは新聞でも雑誌でも原発から金をもらっているからしない
地元だからもっと地元メデアとしての使命があったが成されなかった
なぜそうなるかというと新聞でも雑誌でも金がかかりすぎるのである
新聞は毎日だけど雑誌なんか一カ月に一回しか出していない
するとどうして給料が支払われるのだろうとなる
それは企業とかからの宣伝費とかになる

すると東電の宣伝費だったらそれだけ経営が成り立つとなり
原発の危険性などどうでもいい金が先だ、経営が先だとなってしまうのである。
それで福島民報でも聖教新聞を刷って経営が成り立つような状態である
つまりメデアも経営的には弱い立場だから権力の笠下につくだけである。
それが象徴的だったのは東電で朝日新聞でもなんでもマスコミの幹部を
中国に招待していたとき原発事故が起きたのである。
何かこれも象徴的なことだったと思う。


マスコミでもそうだがメデアは自立していない、その経営は宣伝費でありそれは大会社のいいなりになるということになる。
すると地元のことでも何か企業のことでも批判できないのである。
だからメデアはメデウムであり中間というとき片寄らない報道が大事なのである。
それがマスコミにも地元メデアでもできないのである。
それは例えば地元でも漁業組合を批判することはできなかった

今になると漁業組合は事故前も事故後も破格の補償金を東電からもらっていたことがわかった。
でも地元のメデアで漁業組合のことを批判できたかというとできない
今でもできない、民友では汚染水問題で漁業組合で「苦渋の決断」をしたと
社説で書いている。これにしてもおかしいのである。
一旦どんなものでもそれが団体化して組織化するとタブー化して誰も批判できなくなる。
必ず抗議が団体から来るからできなくなる
そうなると批判されないからそうした組織団体は増長してゆき
今回のようにな大災害とか事故で明るみに出されるのである。
それは韓国のフェーリー沈没事故でも同じだったのである。
カルト宗教団体というのもいかに危険なものになっているからわかる
必ずそうしたものは増長してとめるものがなくなりついには巨悪となり
それを暴いたのは人間ではない津波であり神の力だったともなる


いづれにしろ民主主義ではメデアの報道のもつ役割は大きい。
知らされなければわかりえようがないし危険なものでもそれを暴くこともできない
政府ー東電ーマスコミが結託したとき、その隠された真実を暴くことはできなくなる
地元のメデアはマスコミとも違って地元密着型にならねばならない
郷土史でもやはり自然史から古代史から災害史から様々な角度から郷土のことを検討するべきなのである。
インターネットで発信することが無料なのだから自分のプログもそうしたメデアの一つとして多少の力を発揮するようになる。
そういうことはこれからのメデアでは必要である

福島県でも広いから福島県のメデアだけではないさらにその土地に根ざしたメデアが必要なのである。
それは企業の宣伝費とかで成り立つようでは地元全体のためにはならない

だから「標葉郷」が浪江のもともとの名でありそれは禁断の地だったのである。
こういうことも何か不吉だとして原発を建てないとするものも必ずしも非科学的だともならない、
わずかに残っていた伝説もそうだった
郷土史とは好事家のものではなく総合的なものとして現代に通じたものであり
そういうメデアは相馬藩を基にしてもつべきだったのである
福島県だと広すぎるからかえって原発のことに危機感をもつことはできなかった
中通りまで被害があるとは思いもよらなかったのである。



時事問題深層2005


スマトラ大津波の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録)


陸奥国府を襲った貞観年津波(じょうがん)

  3代実録(日本紀略、類聚国史171)の貞観11年5月26日(西暦869年7月13日)の記録に、 次の注目すべき災害の発生が記されています。「陸奥国地大震動。流光如晝隠映。 頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。 城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不知其数。海嘯哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。 泝徊漲長。忽至城下。去海数千百里。浩々不辧其涯俟矣。原野道路。惣為滄溟。 乗船不湟。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。」

  内容は、光を伴った鳴動と共に大地震が起き、 次いで押し寄せた津波は平野の奥深くまで侵入して陸奥国府の城下まで達し、 1000名を越す犠牲者が出た、と解読されます。

 
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この期待を持って発掘を試みたところ、厚さ数pの砂の層が仙台平野の広範囲にわたって分布 している事実が明らかにされました。様々な地球科学的分析により、砂は津波によって運ばれ堆積 したと結論されました。地層に含まれる木片の放射性炭素年代は、砂層の堆積年代が貞観の時代を 示唆しています。す同様の砂層が相馬市でも発見され、津波堆積層の広がりから正史の記録に誇張 はないと判断され、津波は仙台平野を水浸しにしたのは事実のようです。

 貞観津波の数値的復元に成功しました。 これにより、仙台平野の海岸で最大で9mに達する到達波が、7・8分間隔で繰り返し襲来したと推定されました。
 
相馬市の海岸には更に規模の大きな津波が襲来したようです。将来予測は、科学の最大目的の1つです

津波被害はくりかえす
http://web.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi16/mm16-45.html


スマトラ大津波の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録)
http://musubu.jp/jijimondai25.htm

これは2005年にスマトラ津波が起きた時自分が書いた
今になるとこれを書いたということは今回の津波のにつながることであった
そういう意識は全くないにしろこうして何かの事件に対して記しておくことは
あとあと見直されることがある
そういうことはマスメデアではしていたが個人ではできなかった
インターネットがはじまって個人でそれぞれの記録を記すことができるうよになった

だから意外とこれを記したことは大事なものになっていた
結局歴史は何が大事になるものかあとになってみないとわからないこともある
その時重要なことでなないと思っても重要なことがある
重要だと思われても重要でいないこともある
だから個々人が記す記録などでもあとで重要になることもある
ただその情報が膨大になると結局個々人の記録は忘れられ消失する


スマトラ津波の時、言われたことは盛んにインドネシアでは日本のように
津波を知らないから逃げられなかったのが被害を大きくしたと言われた。
これも他山の石としないことだったのである。
日本が津波国でも逃げないで死んだ人がスマトラと同じように多かったのである。
そして原発事故でも過去にチェルノブエリ事故があったが
あれは日本とは違いソ連の技術は遅れているからな日本は技術は優れているから
事故にはならないよなとみんな日本人は見ていたのである。
これは戦争の時と変わらない、アメリカなんかたいした国じゃないよ、
日本は神国だから神が守ってくもる国だから勝つに決まっているよ
こういう国の奢りが滅びに通じていたのである。


 相馬市の海岸には更に規模の大きな津波が襲来したようです。


これは本当は相当に注目する必要があったのである。
もしそんな津波が来たら原発が危険だと察したからである
原発だけではない危険な場所に住んでいた人たちも真剣に考えたらこんな被害にはならなかったのだ

somatunami11.jpg

図を拝借したが相馬地域が黄色であり一番大きな津波が来ていた

地震も仙台より揺れが激しかった、地震の波動は相馬市へ一番強く向かっていたのである。

岩本氏が貞観津波の記述は相馬市のことだったというのも科学的にみると根拠のないものでもないのか?

不思議なのは原発は現代の最先端の科学であり津波のこうした最近の調査も最先端の科学なのである。
どちらも伝説とかとは違う、ではなぜ科学者同士がそうしたことに互いに検討しあい
危険を回避する方法をとれなかったのか?
科学者は科学者と話し合えば話しがあう、なぜなら伝説などを根拠にしているのではない

「津波の砂が発見されたんですよ」
「それは本当ですか、科学者だから科学的に発見されたのだから嘘ではないです
あなたたちも科学者だからわかるでしょう」
「・・・・」


なぜこうならなかったのか科学者はどういう人たちなのか自分にはわからない
人間は科学でも総合的見地かはものを見ることがみんな苦手になっている
専門化しずきている。それが盲点となり事故が起きた。
原発は戦艦大和だったというのはわかる
その指揮官は国の運命をになうような重責だった
そういう意識が国にも東電にも欠けていたのである。

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2014年06月01日

「慶長奥州地震津波と復興」 蝦名裕一を読む (慶長津波の後に伊達藩から相馬藩へ塩作りが伝播された)


「慶長奥州地震津波と復興」 蝦名裕一を読む

(慶長津波の後に伊達藩から相馬藩へ塩作りが伝播された)

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北屋形村 釜前 東釜前


八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く

南海老村


常願壇


この地を常願壇という、往時常願なるも者八沢塩場を開く、故に常願明神と崇め塩釜7社の内に加えこれを祭る


北海老村


地勢小山多し東方平地北方瀬浦塩場多し


塩入 釜舟戸


下海老村 高屋釜


塩崎村

北の山側に塩会屋あり、今あやまりて鳥屋前という、鳥屋前より海を隔てる一里ただし上古のことなり


相馬中村藩における塩田開発


慶長津波から程なくして製塩事業が開始されたという話しがあります
松川浦の辺りの和田村に村社塩釜神社があります

江戸時代に記された塩釜神社の縁起によれば元和元年に諸国を徘徊している堀内玄番という老人が訪れました。
この人は千葉県の行徳の出身で和田村にとどまっているうちこの村が故郷の行徳ににているのでよい塩場になるだろうと見込んで村の人に製塩法を伝えました
これにより和田村には相馬藩領内でも最上級の塩場が完成しこの場所を玄番壇という地名がつけられました。


塩害の土地で塩の生産


塩害で農業が困難になった地域に塩の生産をはじめる
川村孫兵衛が製塩事業を伝えた場所はその地名に(釜)の字が用いられていた

仙台藩が安永年間に作成した地誌「安永風土記」の中の「代数有之御百姓書出」に亘理郡高屋村鳥屋崎浜の塩田の歴史が記されています

伊藤三郎左衛門という孫兵衛と同じく長州からやってきた浪人でした。
伊藤三郎左衛門元和6年(1620)8月に仙台藩の重臣である佐々若狭と川村孫兵衛に呼び出され塩田に適する場所を見立てるように命じられました


この本は慶長津波のあとに水田として利用できなくなった土地を塩田にして復興したという趣旨である。
そういえば塩田として活用すれば一番適していたことになる
つまり塩作り塩田の歴史から慶長津波のことを解明してゆくことに焦点をあてた
塩田の歴史も失われたものが多くわかりにくい、わずかに地名などに痕跡を残している

この本を読んで塩田で塩作りで津波からの復興をしたというとき、相馬藩でも塩田作りに着手した。和田村は松川浦の奥まった所であり波静かであり塩田には最適だったのである。

そして相馬中村藩でも塩田作りが伊達藩よりは遅れていても和田村ではじめられた。
のちに塩は相馬藩では原釜で作られ重要な産業となり飯館村まで塩の道が形成された。
飯樋には塩の役所があり60人が住んでいたとか塩は相馬藩にとって大きな役割を果たした。
当時の産業は木材とか塩とかでありそのために争いが起きたことでもわかる。
入会権の争いであった。当時では木材は石油に匹敵しているし塩の価値も高かった。
アフリカの砂漠では塩と黄金がとりひきされていたとかそれだけ貴重なものだったのである。

不思議なのは伊達藩の塩田開発したところの地名と
北の山側に塩会屋あり、今あやまりて鳥屋前という、(塩崎村)

亘理郡高屋村鳥屋崎浜とあるのもなぜだろうか?
それから高屋村とあり高屋釜と下海老村にある。

相馬藩と伊達藩は戦国時代は争ったけど戦国時代が終わると平和な時代になり交流が深まった。
だから相馬藩内には伊達藩から来た神が多い、小牛田神は山神でありこれが一番多い。
その他に信仰に類するものも多い。館腰という地名があったがこれも信仰として相馬藩内にも伝わっていたのである。
例えば相馬中村城の大手門の門の瓦は滴水瓦であり朝鮮系統の技術の伝播であり伊達政宗が朝鮮出兵で伝えたものらしい。
伊達藩から入ってくる技術があり伊達藩との関係が相馬藩では深いのである。
伊達と相馬の境のさくら、花は相馬に実は伊達に」というのはまさにそうである。

だから慶長津波の後に塩田開発が相馬藩でも行われたという時、それは伊達藩が先であり伊達藩の人が技術を伝えた。
それで同じような地名がつけられた。


慶長津波のすぐあとに相馬藩士が伊達藩に移住したのか?
中野村でありその時城もできていた。
それなのになぜわざわざ伊達藩に津波の跡に移住する必要があったのか?
これも塩田開発の技術習得のために移住させたのかもしれない、その後相馬藩でも松川浦の和田をはじめとして塩田開発が行われた。
ただ藻塩焼くとか原始的な状態であったことは推測できるが塩田となるとこれはかなり
高度な技術だからどのくらいの規模で行われたかはわからない。
北屋形、海老村にあり塩崎村にもあったかもしれない、なぜなら塩崎村まで津波が来ていて塩害に苦しんでいた。
すると塩田にしたのかということもありうる。
ただその資料はないのでわからないのである。
塩田の歴史もなかなかわかりにくいのだ。


八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く

八沢浦というのも謎である。ここは漁業だけではなく塩を焼いていた。ただ塩を焼くとなると藻塩焼くであり原始的な製法になる。
ただ塩場となると塩田のような小規模のものがあったのかもしれない。
自分が一番気にかかっているのは七荷運舟があったということである。
これは明らかに外洋に出るそれなりの大型の船だったのか?
七つの種類の荷物を運ぶとなるとその七荷は何だったのか?
塩が運ばれたのか?何を積み出したのかも謎である。
たた船は出入りしていたことは確かであり八沢浦は深い入江であり港に適していたのである。

古歌として八沢浦八景が残っているけど都の人たちは八沢浦に船で入ってきたのかということである。
もしそうだとすると歌の解釈もかなり違ってくる。
その歌もいつの時代かわからないけど八沢浦は明らかに港であり船の出入りがあり
現実に大型の船も出入りしていた。
また松川浦には名取の船乗りが難破したという名前を記した碑が貝殻地蔵にあった。
海の交流はなかなかわかりにくいが今回の津波は相馬から伊達藩内から岩手県まで海を意識させられたのである。


もしおやく海女の苫屋を霧と見て滝の沢辺に落つるかりがね
高瀬さす八沢が浦の夜の雨に波のうきねを明かしかねつつ
磯桜八沢が浦の夕浪に色をみだせる雪の遠山
塩釜の浦浪遠くてる月の影もへだてぬ秋の夜すがら


藻塩焼くとなれば原始的な塩を焼く風景である。ただ塩場があったとなると塩田の小規模なものがあった。

高瀬さす八沢が浦の夜の雨に波のうきねを明かしかねつつ

この歌は船旅として八沢浦によったとしたらこういう感覚になるだろう。
波にゆられるて波の浮寝ということは船で寝ていたからそうなった。
船で八沢浦に来たということはこの歌の読み方が違ってくるのだ。
だから八沢浦が元の美しい入江にもどったというときただ想像ではなく現実としての
八沢浦が再現されたから驚きだったのである。



参考年号表ー元号の最後の年を明記

1591 大正
1595 文禄
1614 慶長 1611 慶長津波
1623 元和
1643 寛永
1647 正保
1651 慶安
1654 承応
1657 明暦
1659 万治
1672 寛文
1680 延宝
1683 天和
1687 貞享
1703 元禄
1710 宝永
1715 正徳
1735 享保
1740 元文
1743 寛保
1747 延享
1750 寛延
1763 宝暦
1771 明和
1780 安永
1787 天明
1800 寛政
1803 享和
1817 文化
1829 文政
1843 天保
1847 弘化
1853 嘉永
1859 安政
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2014年06月02日

相馬藩内の慶長津波が伝えられなかった謎? (結局伊達藩の記録から相馬藩のことを推測するほかない)



相馬藩内の慶長津波が伝えられなかった謎?

(結局伊達藩の記録から相馬藩のことを推測するほかない)

相馬藩世紀、第一御年譜(利胤)の慶長16年10月28日条には、「海辺生波にて相馬領の者700人溺死」

正式な文書としてはこの一行が唯一だと言ってもいい、浪江の同慶寺に「同年一〇月廿八日、奥州筋生波(津波)上波」と記されています。津波記したものだとするは文書で残っているのは他にないだろう。津波が一般化するのは慶長津波以後になるがこの表記はまだ一般化されるまえだからこの表現になった。津波にはいろいろな表現がありまだ一定していなかった。慶長津波以後一定したのである。
同慶寺は南北朝時代の記録もあり古いから残ってていも不思議ではない。

そしてこの津波が襲って溺死した人が700人とあるがその内容も全くわからないのである。
その後に津波にどう対処したのかもわからない、ほとんど津波に関することが浮かんでこないのである。
例えば700人溺死とあれば当時にすれば今回の津波被害に匹敵する大被害だったのである。
他ではそうした資料が残っているが相馬藩内には残っていないのである。
だからなぜこうした歴史の空白が生じたのかということがかえって疑問になり知りたいとなるのも不思議である。

つまりそもそも700人溺死とあるがその人たちはどういう暮らしをしていたのか、
漁業を主にしていた人たちなのか、田畑を作っていた人たちだったのかそうした死んだ人がどういう人たちだったのかも皆目見当もつかないのである。
ただ海辺に住んでいた人たちだということは見当はつく、でも海辺といっても
その時漁民だけではない農耕していた人達がいたかもしれないし生業が何かも全くわからなのである
結局だから伊達藩の資料を基にして相馬藩内の津波でも想像するほか手がないのである。
物産に鰻、百貫、鮭八十尾、鰯四百駄と記される漁業中心の村だったと
次の資料にあるごとく純粋に漁村が成り立っていた。ここで鰻(うなぎ)百貫というのが興味深い、
なぜなら屋形の老人から父親が明治のとき、川俣町まで天秤棒かついで鰻を売りに行っていたというのだた。
そんなところまで天秤棒かついで行けたのかということが信じられないのである。
ただ鰻が結構貴重な食料であった。海辺では鰻がとれる。天然の牡蠣もとれる。
和田村の老人は松川浦では鰻でも貝でも浦でとれくものを食べていたという。
放射能など関係ないと言っていた。85にもなっていたらそうなる。鰻は自分の父親が田んぼの畦で
ミミスを餌にして穴にさしこんでとっていた。その待つ時間が長いのである。
当時にすれば鰻は栄養価も高いし売れるということもあった。
当時の生活というのも様々な観点からイメージしてゆく作業は必要である。

(家蔵)によると寛永九年(1632)に開発がはじまり、
寛文三年(1663)二木村から分離する。正保二〜三年(1645〜6)頃
の「正保郷帳」に田五貫五十五文・畑壱貫七百三十文とあり、水損と注される。
「名取郡地誌(=皇国地誌)」によると明治
十年(1878)頃の戸数は五十三、男二百六・女百八十五、馬三十一で、舟
が五十七艘あった。物産に鰻、百貫、鮭八十尾、鰯四百駄と記される漁業中心の
村だった。 (平凡社「宮城県の地名」参照)
(六郷の歴史)

ここの六郷では相馬藩の侍の家臣団が移住して中野村まで形成していた。
伊達藩では津波の後にも大規模な開拓が行われたし塩田作りも行われた。
それだけのことができたのは伊達政宗など家臣団が陣頭指揮で復興事業の開拓でも塩作りでもかかわっていた。
そういう藩全体が津波の復興事業にかかわりかえって前より豊かになっていった。
でも実際の津波の被害状況は今回の津波のように凄惨なものだったのであり
そのために村を捨てた人もかなりいた。
今回の津波でももう住めないとか復興自体あきらめた人もいた。
最も被害の大きかった村が壊滅して消失した所には伝説が残らないという時、みんな死んでしまい語る人がいないということだった。
現実に津波で壊滅して村ごとなくなったこの辺では磯部や海老や烏崎村の状態がそうだった。
なんにもない、なんにもなくなってしまう、村があったということすら信じられなくなる。そのように全く消えてしまった町や村も過去にあったのだ。
草戸千軒とかそうであり最近発掘してここに町があったということが実証された。
多賀城辺りにも津波でそういう市場を成していた町が消失して不明になっていた。
相馬藩でも記録がないということはそういうふうに村ごと消失してしまって語るものものもなくなっていたからかもしれない、
つまりそれほど津波の被害は恐ろしいものだったということである。その様相は三年たっても何ら変わりないのである。

慶長津波の後の復興のために中村に城を移転したというのはビスカイノの報告が残っているのでありえない。
ビスカイノが城を訪ねた時、城が破壊されて工事中だったと報告されていた。
つまり城はすでに津波が来る前から建設されていた。
慶長地震でその工事中の城が破壊されていたのである。
南海老村に中村天守造営にたずさわった大工がいたと鹿島町誌に記されている。
その怪異の伝説は何を示しているのか?津波のことも関係しているのか
なぜならその時南海老村にも津波が襲っているからである。
この記述からは津波の被害のことより中村城の天守造営が優先されていた。
津波のことに関しても鹿島町誌には何の記述もないのである。

何か相馬藩は家臣団でも積極的に津波の復興のための開拓などにかかわった記録もない、
そして不思議なのは中野村に居住していた藩士の家臣団が六郷に移住して津波の後の開拓に携わっていたのである。
普通だったら相馬の侍の家臣団が率先して津波の後の復興のために開拓に入っていてもいいはずである。
伊達藩ではそうしなければとても復興の開拓ができる状態ではなかった。
相馬藩内でも同じなのに伊達藩へ移住してそこで開拓に従事したことが解せないのである。
このことが何か津波の後の相馬藩の特殊な事情があった。
だから相馬藩内の津波に関しては知る資料がない、伊達藩内から相馬藩のことを推測するほかないのである。
塩田の開発でも伊達藩が先でありそのあとに相馬藩内で行われた。

ただ不思議なのは津波の跡は所有者がいなくなり誰の土地だか不明になり新規に参入しやすい状態になっていた。
それで寛永九年(1632)に開発がはじまり、寛文三年(1663)二木村から分離する。
その頃は田畑なくしては生活が成り立たないから常に土地を求めていた。
分家するにも土地を与えないとできなかった。すると誰の土地でもなくなった津波の跡は格好の開拓地になったということもある。
だから現代の考え方とは全然違っている。今だったら誰もすでに農業などやりたくない、
津波の前からも農業は金にならないと跡継ぎがいないとか問題だった。
その当時は農業中心だから土地が最も大事なものだったのである。
だから津波の跡の誰の所有地でない土地は貴重だったとなる。
今はとても農地としして利用するなど考えないだろう。

津波からの復興というとき慶長津波のことは現代では時代が違いすぎて同じようにはできない、
観光などというとまた反発されるが漁業とか農業とかの側面ではなく
現代的な復興となるとそれも一つの手であり他にも現代的価値観に基づかないと
復興はむずかしくなるだろう。ただこれだけの変化があるとき、被害でうちのめされたにしても
新しいものを作り安いということはありうる。
何にもなくなったのだから全く新しい発想のものが作り安いことなのである。
それが何なのかはそれぞれの立場によって違ってくる。
ソーラパネルがはやっているが何か自然景観を壊すので自分では嫌なのである。
お花畑にしたらいいとかなるとこれまたお前の頭はもともとお花畑なんだよとなる。
でも何か新しい発想で新しいもの作り出さなければ復興がないことは確かなのである。
伊達藩で津波の跡が無所有の土地となって新規の人が参入しやすくなったという時、
漁業でも農業でも既得権で外部から参入しにくくなっているがそういう古いものが津波で問われる、
なぜなら何もなくなったとき、新しいものが入り安いからそうなる
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2014年06月06日

巨大津波は400年1000年間隔になり伝説化しやすい (相馬藩内溺死700人はなかったという説への疑問)



巨大津波は400年1000年間隔になり伝説化しやすい


(相馬藩内溺死700人はなかったという説への疑問)

●巨大津波は神話にもなり伝説にもなり謎となる

関東南部の遺跡分布を観てみよう。海抜20m以下の地域に、BC1世紀以前の遺跡が何一つない。東京湾東部には、100を超える貝塚があるが、住居跡などの遺跡は皆無。その原因は大津波だろう。古事記上巻は、この事実を書き記している。東日本大震災も、この歴史的教訓を学んでいれば軽減できた…。

BC1世紀、関東地域を大津波が襲った。古事記は、その歴史的事実を「國稚如浮脂而久羅下那洲多陀用幣流之時」と記す。栄えていた上代日本の文明は一夜にして壊滅。その復興に立ち上がったのが、宇摩志阿斯訶備比古遲と天之常立だった。数代後、伊耶那岐と伊耶那美が国土の「修理固成」を決断する。
http://www.geocities.jp/waikoku/twittera046.html

これなどは津波が日本の国造りの起源にしている。古事記に残された記述は津波の証拠だったとなる。
なぜこういうことが今語られるのか?それは津波があまりにも想像を絶するものだったからである。
こうした津波が400年に一回とか起きないとするとそれは経験した人は死んでいるのだからもう語り継ぐ人すらいなくなる。
この辺で老人は「ここに津波が来た話しは聞いていねえ」と早く逃げろと息子が言っても聞かずに死んだ人が結構いる。
400年前に起きた津波など誰も生々しく語り得ようがない。
そして相馬藩内では伝説すらわずかに残るだけでありそれに注目したのは
今回の津波があったからであれそれまではなんら注目していない。
「津波なんかこの辺ではこねえ」と老人が頑固になり死んだことでもわかる。


相馬藩内で700人溺死と相馬藩政記に記されているのが唯一の公式な記録である。
それすらその700人がどういう人たちなのかどんな暮らしをしていたのかも皆目わからない。
ではそもそもどうして700人と割り出したのだろうか?
700人死んだと記すだけでもそれなりの根拠があったはずである。
だいだいの人数にしてもどうして700人となったのだろうかとなる
それで津波原発を調査している人が


700人死んだというのは信用できない、慶長津波の襲った所には人は住んでいなかった


その記述まで否定する仮設を出してきた、それだけ津波のことが皆目資料がないからそうまでなる
でも烏崎には遠藤氏という人が津波の前に南北朝の時から住んでいた。
真野中館は霊山落城の時逃れた武士がたどりついた場所だった。その時から住む人があり烏崎に住んだの
その流れをくむものであり遠藤氏の名前がある。
そして八竜神社は川子にもあり小島田にもあり慶長津波の前からあった。
小島田の方が古いというのも不思議である。
だから烏崎のぎりぎりで残った八竜神社は慶長津波の前からあった。
あそこに物見丘とかあり相馬藩の番所もあり海を見張る場所だった。


●慶長津波の前にも縄文時代以来の生活の継続があった


調査員の報告では岩崎氏の本で八竜神社はもともと縄文人の遺跡のある上にあるのが多いというのを統計的に割り出している。
つまり八竜神社は多くその由来も古く縄文時代までもさかのぼるのかともなる。
八竜神社が今回の津波で被害がまねがれたのはそうして古い神社だから津波の来ない高台とか海岸より奥に祭られていた。
小島田にしても津波の被害があったが全壊とかの被害がまねがれている。
だから小島田は津波からまねがれるぎりぎりの地点にあったと今は見る。
そうでなければもっと海側だったら全滅していたからである。
南右田も北右田も江戸時代からあってもほとんど全滅して人は住めなくなったからだ。
ということは小島田も江戸時代より前より人は住んでいたとなる。


だから調査員が言っている700人溺死はなかったという説が生れた根拠は
そういうことではなく津波の被害にあった地域はまだ田としては開拓されていない
原野だったということは言える。
原野に津波が来ても別に被害がないから報告されることもないのである。

その証拠が慶長前からあった「田中城」である。
その回りは湿地帯であったと記録にある。
あそこが湿地帯の中にあったということはその前の広大な地域はまだ干拓されていない、田とはなっていない今のような原野になっていた。


貞治5年(1366年)桑折五郎元家は伊達郡桑折より真野郷に移り中館を居城として真野五郎と名乗った。その後桑折治部少輔忠家の時に田中城に移り以後代々桑折氏の居城となった。


天文11年(1542年)伊達稙宗と伊達晴宗による天文の乱で、稙宗方にあった黒木城主黒木弾正が田中城を攻めた時、城主桑折久家は相馬顕胤に従って掛田の陣中にいたが、顕胤の命で急ぎ田中城に戻り防戦に努めた。一度は退けたものの再び大軍を率いて攻めてきた黒木弾正は城下で戦い策を持って退いたが、これを追った桑折父子は伏兵にあって討死した。(七橋の戦い)

天正年間(1573年〜1592年)頃、相馬義胤の弟相馬郷胤が田中城代となり、田中忠次郎郷胤と称したが、慶長7年(1602年)廃城となった。

tanakajyou111.jpg
田中城のすぐ近くまで津波は来ていた

千倉庄田中の城へ黒木武石東郷の面々押し寄せたり、田中の城三方は大
淵囲み古松、老柏、繁茂して容易に近づきかたければ冬より夏にいたる。

此の城平野の田畑となりしは近き世、石田治部少輔三成堀久太郎大崎の仕置きに下りしとき数日田中に逗留するとき大樹を倒し堀を埋め立て平地となす、顕胤は掛田帰陣も近ければ不日にもに田中を責め落とさんと評議せり(奥相茶話記)

天正18(1590)年2月、父・相馬義胤は関白豊臣秀吉から小田原へ参陣するよう命じられたものの、5月下旬に小田原へ着陣という失態を演じてしまった。このとき、石田三成の周旋によって特に咎めはなく済み、かえって秀吉の御前に招かれて、懇ろな上意を賜った。こののち、相馬義胤と石田三成と入魂になる。12月7日、秀吉から行方・宇多・標葉三郡四万八千七百石の朱印状を拝領した。


 天正19(1591)年、義胤は妻子を連れて上洛し、北野千本に屋敷を拝領し、上洛時の賄料として近江国大森村五百石が宛がわれた

ただし隠居・義胤は中村には移らずに、慶長17(1612)年4月、標葉郡泉田村に移り住み、隠居料として泉田・高瀬・棚塩・室原村から三千石が給された。
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/hanshu1.htm#tositane


これは正式に記録されたものだから信頼できる。そこに棚塩とありここは津波で被害があった。
海に接していて危険な場所だった。その棚塩をふくめた地域から隠居料が支払われた。
しかし棚塩は慶長津波の被害があった。慶長16(16111)が慶長津波だった。
なぜその棚塩からまで隠居料として払わされたものがあったのか?
相馬藩の武士は慶長津波に関しては何ら記していないからわからないのだ。
慶長津波の前は四万八千七百石でり六万石になるのはそのあとであり足りない石高はほとんど慶長津波の後の開拓によるものだった。
だから慶長津波でもその時は今回のように田んぼが津波の被害にあったということは少なかった。
それは伊達藩とは違っていた大きな相違かもしれない。
では700人死んだというのは何故なのだろうか?
その人たちはどういう人たちなのか、確かに人は死んだのである。


●田畑をもっていない漁労民が死んだ?


その記述を疑う根拠は何なのか、自分の考えでは700人は確かに死んだ
その人たちは田畑をもっている農民ではない、純粋な漁労民だった。
百姓の意味は百の仕事を持つ人の意であり米を作る人の意ではない
農民の前進は必ずしも米を作っるだけの人ではない
暮らしは海にもあり海では魚も貝もとれていたから縄文時代から暮らしがあったのである弥生時代から稲作がはじめられたにしても延々と以前として縄文時代の漁労生活は海岸沿いにあったのである。
だから人は住んでいた。そうでなければ津波の一年後に棚塩が隠居料を支払う土地にはなりえないのである。
津波の被害があった後にもすでに人が住んでいたのである。


これも一つの謎だけど田んぼや畑だったら津波の被害にあったらその後長い間十年以上も使い物にならなくなる。しかし海が別である。一年後でも別に粗末な小屋を建てても魚もとれるし貝だって多少はとれるようになっていたかもしれない、だからこそそこには人が住み始めていたのである。
三陸の津波でも早い時期からあれだけの被害でも人は海近くに住居を構えたのはそこが便利であり海の幸をとりやすい場所だからもどってきたのである。
今の水道が使えない、電気が使えない、道が使えない・・・などインフラなど必要ない
もともと漁師など掘っ立て小屋に住んでいたのである。
だから津波の後でも簡単にそういう家は建てられるのである。
津波の被害にあっても放射能汚染とは違うしまず魚や貝を食べないとその当時は生きていけない、補償金などもらえない物資も入ってこないからである。


おそらく700人死んだとあるがその人たちは農民ではない、漁労民だったのである。
その漁労民は年貢を収める農民と違って軽く扱われていた。
つまりすでに慶長津波の前に四万八千七百石あったからそこから年貢が収められていて藩の財政は成り立っていた。
漁労民はその時そうした藩の財政に寄与するものがなかったのである。
だから相馬藩にとって700人溺死でもさして財政的には打撃ではなかった。
伊達藩では広大な田が津波で大損害を受けたから立ち直るために開拓しなければならなかった。相馬藩ではもともと原野でありそうした田の被害はなかったのである。
ただ700人の貧しい漁労民が死んだのでありそれで無視されたのである。


義胤は妻子を連れて上洛し、北野千本に屋敷を拝領し


この北野とあるが相馬市の松川浦近くの梅田川そいの程田村に北野神社がありその時その北野からもたらされた神社かもしれない。
そして新田村まで津波の被害があり北野神社までは津波は来ていない
でもその時もその前はまだ開拓されず原野だった。
つまり神社古ければ古いほど原野のある所には建てないから津波をまねがれたとなる。

津波というのは何かここまで海だったのだと意識するようになった。
海はこの辺では遠いと思っていたが吹いて来る風にしても今まではあまり感じなかった
でも町近くでもこの風は海から吹いてくると感じる
実際に海が見えるから当然そうなるし海の水が押し寄せてきたのだから当然だとなる
それで3キロ離れて被害にあった家の人は夜に海の方を怖がっているのもわかる。


涼し津波の後に海見える


その海の風は3キロ4キロ離れても海から直接吹いてくる風と感じるのである。


●人間の営みは海辺でも延々と細々でも続いていた


会田綱雄氏の名作「伝説」が想起されます。


   湖から

   蟹が這いあがってくると
   わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
   山をこえて
   市場の
   石ころだらけの道に立つ
   蟹を食うひともあるのだ
    (略)
   蟹は銭になり
   わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
   山をこえて
   湖のほとりにかえる
   ここは
   草も枯れ
   風はつめたく
   わたくしたちの小屋は灯をともさぬ
    (略)
   わたくしたちのちちははも
   わたくしたちのように
   この湖の蟹をとらえ
   あの山をこえ
   ひとにぎりの米と塩をもちかえり
   わたくしたちのために
   熱いお粥をたいてくれたのだった

   わたくしたちはやがてまた
   わたくしたちのちちははのように
   痩せほそったちいさなからだを
   かるく
   かるく
   湖にすてにゆくだろう
   そしてわたくしたちのぬけがらを
   蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
   むかし
   わたくしたちのちちははのぬけがらを
   あとかたもなく食いつくしたように
   それはわたくしたちのねがいである

これは山の方からの視点だけど海側からもこういうことがあったのではないか?
つまり津波の跡に漁師の生活も魚を売り米や味噌とかを買っていたのかもしれない
その人たちは米を作っていないからそうなった。
ただ味噌には塩が必要だから塩を作って売っていた。
米を作っていない漁労民がいてその人たちは津波にのまれ記録も残されなかった
ただそういう人たちがどれこだけいたのか?700人死んだというのは多すぎるということもある。その辺は謎にしても海辺だけで暮らす人々がいたことはいたのである。
おそらくその数は大雑把なものでありそんなに死んでいないかもしれない
ただおよそものとして記したのかもしれない、300人程度かもしれない
その実体は全く資料がないからわからないのである


その人たちは津波にのまれあとは海から這い上がってきた蟹によってその死体が食われたかもしれない
それもまた無情、無常なのだけどそれは自然の中への大きな流転の現象かもしれない
人間は一時神から糧を与えられてやがてまた死んで自然に還るということを考えれば
それまた自然な死だったともなる
人間の営みにしてもそんなに永続するものはない、自然から見ればはかなく自然の力には及ばないから抵抗しても無駄であり自然の流転に従い津波が来たあとにも同じような漁労民の営みがあったともなる。
三陸では明治でも二万人とか死んでいても同じように便利な海近くに住むようになっていたのである。
そこで魚をとり貝をとりしなければ生きていけないからそうなった。
補償金ももらえないし何か援助してくれるものもないし他に食べていける手段がないからそうなった。

今はいろいろあるから贅沢になりもう住んでいられないと都会に住み簡単に離れてゆく

中世とかの死生観も今とは全然違っている。
生きている地獄であり死ぬのが一番いい、極楽だという苦しいものだった。
だから念仏でも唱えて死ぬの往生するのがいいとなった。死体は路上に転がり橋のようにつながっていたとか悲惨だったのである。
医者にかかることもできないから念仏唱えて死ぬ他なかったのである。
その死生観もまた時代にあったものでありそれまた生けるものの無常だったのである。
これからも津波に絶対に負けない防波堤を作るとか自然に逆らう人間の技(わざ)はかえって災いをもたらす、むしろ自然の力にまかす、自然の流転のままに生きることもまた
人間にとっては必要とも言える。

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2014年06月07日

南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説 (これは唯一津波の伝説なのだろうか?)



南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説

(これは唯一津波の伝説なのだろうか?)

藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。

棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。



南海老に伝わる鹿島町誌に記された伝説は何なのか?
何か皆目見当もつかないような内容である。
ここで大事なのは 、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり
こう記されていてこれは中村に城が移転された時天守造営にたずさわった大工だったということである
。中村の城には相馬藩の城は殿様が倹約のために民を困らせるから作らなかったとか伝えられるが天守は作られてあった。
のちの話として相馬の殿様が名君であったとか美化されて話しが作られたのである。
こういうことはよくあることである。
権力者は常にそういうことをしている。
だから歴史書も当時の支配者となった勝者となった権力者が記しているのだから
公平なものとしては記されていない、何かそこに今回の津波のことが記されていないように肝心なものが欠落している。
それは原発の安全神話が作られて政府や東電やマスコミが一体となり情報操作したのとにている。


それよりここで問題なのはこの伝説が慶長津波と関係しているのがどうかである。
南海老なら確実に津波の被害が慶長津波でもあった。
そして中村に城を移転したとき天守造営にかかわり毎日通っていたのである。


寛永18年(1641)将軍家光公は上覧に供すべしと命ぜられ、
その頃、相馬の家譜、官禄、勲功・・・・の文書はつまびらかでなく
探したが見つからなかった。

天守の梁に結びつけて置いた包物を発見して、筆史がこれをおろしてみると金の輪に九曜の紋がついた菱皮の籠があり、
中には八幡大菩薩の文字の旗、証文、雑文などが百余通が入っていた。


天守の梁と奥相馬秘鑑にでている。天守閣はあったのである。


円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし
また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、・・・・


これは茶碗のようなものがそれも大きなものが転々としたという、それは津波で流された日用品を意味しているのか?
垣とは垣根であり壁の意もあり路をかなり大きなものがさえぎっていた。
何度もそのことがしったということは長い間津波の後に残された瓦礫のうよなものであったのか?
南海老なら津波の時、そういうことはありうる。


その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る


死んだ善次の棺が持ち運ばれてしまった。これもなぜなのかわからない、大原村と関係あることは確かである。
それよりも


葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと


ここで海水で洗うととありそれも葬礼とありこれはもともと津波で死んだ人たちのことにまつわる話しかもしれない、津波で死んだ人たちの遺品は海水で今回の津波でも洗われていた。
六十六部回国上元なる者の塚ということはこの人は仏教の修行者であり
もしかしたら津波の被害者を弔ったのかもしれない、その時、津波の被害者の遺品などを海水で洗ったことからこんな伝説が生れたのか?

こじつけになるかもしれないがこれは一つの津波の被害があったがそのことを訴えたが
相馬藩では戦国時代の最後の仕上げの時代でありそんなことにかまっていられなかった。つまり南海老村なら津波の被害がありそれを訴えてもいいはずである。
それができないことがこんな伝説に残ったとも推測される。

その犠牲者になったのが善次という大工だったのである。

「善次よ、中村城の天守造りに励んでいる時か、津波の被害の惨状を見ろ
こっちの方で働くべきなことはいわなくてもわかるだろう」
「そんなことを言っても殿様の命令には逆らえないんだよ、首が飛ぶよ」


南海老に住んでいた善次は慶長津波の被害をまのあたり南海老だから見ていた。
その時、中村城への天守の造営にかり出されたのだがうしろめたいものを感じていた。
それで夢にうなされていたりして怪異なことが起きた。
垣が路をさえぎるということは中村城に行くなということの例え暗示かもしれない。
中村城の天守造営をひきとめるものが何かあった。

ただ「おいか」というのがわかればいい、これもどう考えても「おいか」とは「おまえ」の意味だろう。
なぜ死んで入った棺桶が大原の方から来た黒雲にもちあげられたのか?
これもなぞだけど何かの祟りだったのか、善次という中村城天守造営にたずさわったものは何か呪われたのである。
そうではないか?中村城の天守造営にたずさわることは名誉なことであり
こんな怪異なことが起こり得ようがないのである。

これは民間で伝えたものであり相馬藩政記などには記されなかった。
六十六部の墓とは津波で死んだ人かもしれない、ともかくこの伝説を津波で解くと
それなりに辻褄があう、いや合わせているのかともなる
津波に関する伝承が全く記されていないからこれが唯一そうなのかと思った。

この伝説も何なのか本当は皆目わからない、ただ中村城の天守造営に日々たずさわっていた大工が南海老村にいたということは大事である。
その時、慶長津波が起きているからである。



垣はkakinojoii1.jpgの字である
 
 
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2014年06月09日

なぜ慶長津波のことが相馬藩で700人溺死としか記されなかったのか? (歴史は勝者と権力者によって記されたから無視された)


なぜ慶長津波のことが相馬藩で700人溺死としか記されなかったのか?


(歴史は勝者と権力者によって記されから無視された)

南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説
http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=99130060


歴史というのは例えば大和王権に対して蝦夷が抵抗したことはわかっている。
では蝦夷が何者かというとほとんどわからない
ただ蝦夷は強大な大和王権に抵抗する勢力だった
それはアイヌの一部が交じっていたかもしれないし
最近では大阪辺りでナガスネヒコや物部などが政権争いに敗れ
東北に逃れて在地の勢力を従い反抗した
その中にさまさまな勢力がありカヤ(伽耶)族も交じっていたかもしれない
伽耶というとそれだけ古い渡来人であり日本に土着化していたのである


歴史が勝者の歴史としたとき、勝者の側にたって歴史は記される。
だから蝦夷は賊とされ征伐されなければならないものとして記される
それは鬼ともされるが実際はそうではない、むしろ鬼としたのは征服側である
だから蝦夷のことをいくらわかろうしとしても資料がないからわからないままである
大和王権のことはいろいろと記されても蝦夷のことは記されない


それで柳田国男はそういう権力者側、支配者側ではない民間の人たちの側にたって歴史を見る作業をしたことに功績があった
文字で記されない民間人が伝える口碑を解きあかして民間人側からの歴史を見させるようにした。
そういうことが今回の津波にもあった。

これだけ巨大な慶長津波のことが記されなかったのか?
それはやはりその時、戦国時代の終わりであり津波の被害のことなどに
復興などに財源を使えなかった、大阪の陣の出費やら江戸城の普請などに
かりだされた時期でありそういう余裕がなかった。
そして相馬藩ではまだ開拓されない原野が津波にあい被害が少なかった
とはいえ700人溺死と記されていたのだからそれだけの被害があった

ではそれは誰が死んだのかというと謎なのだけどやはり漁労民などが主に死んだのだろうただその内訳は不明である、その手がかりとして南海老村に残された伝説を引用した。

南海老という場所や中村の天守造営にたづさわった大工の伝説である。
それが何か慶長津波を示唆しているのだ。
茶銚が大きくなり転々としたというのは津波に流された様子であり垣が路をさえぎったというのは津波で流されたものかもしれない
六十六部の墓から青い光を発したというのも海の色を思わせる。
この六十六部は仏教の修行者であり津波の被害者をとむらったのかもしれない
海水で洗うとこの怪異があるというのはそのことを示唆している。
海水で遺品や死体を洗ったかもしれないからだ


そして中村の天守造営は大工にとって名誉なことなのに引き止めるものがあった。
その理由は何なのか?
それが何か自分などが探求した慶長津波のことが記されなかった無視されたことに通じている
この大工は何か呪われたようにして死んだのである。
普通だったら天守造営にたずさわったものなら代々の名誉として記される
それが南海老村の伝承では呪われたものとなっている
これは相馬藩政記に記されたのとは違い民間人側から記されたのである。

歴史に記されないくても何かそのことで民間人の間で伝説が残される
蝦夷にても大和王権側には記されないがアラハバキ神社などが残された
何かは痕跡は残される、だからこの南海老村の伝説は何か記されなかったことの
象徴的なものであり謎がここにあるかもしれない。


「天守造営より津波の被害の復興のために善次は大工は働け」

そういうことがまわりからあったが主君の命令でできなかった。
それで津波の供養をした六十六部の墓から青い光となり茶銚が転々としたとか
垣が路をさえぎったとか津波のことを生々しく思い出させるものを示した
ただ藤金沢は高い場所だから津波は来ていない
でもすぐ近くには津波が来ていて被害があった


相馬藩の主君は

「善次よ、津波より天守の造営に勤めよ、津波の被害のことは忘れよ」
「そのことはわかりますが津波の被害も甚大でありこちらでも働かねばならないのですが・・・」
「主君に逆らうのか」
「滅相もございません、ただあまりにも津波の被害が大きく仲間も死んでおりますので・・」
「それよりも天守造営こそ大事だ」
「わかりました、わかりました」
その時、相馬藩の歴史を記す筆吏が
「津波の被害のことはいかがいたしましょうか」
「まあ、人的被害は大きかったが原野が主に津波の被害にあったから米は例年のようにとれるようだ、だから700人溺死とかしるしておけ」
「700人では多くないでしょうか」
「だいたいの数でいいよ、これだけの津波だからそのくらいは記しておかないと・・」
「かしこまりました、おおせの通りにいたします」


こんな調子だったのかもしれない、ただその津波で死んだ人たちは善次にその無念がふりかかって善次は呪い殺されたともなる。
つまり700人溺死した怨念がここに残っていたのかもしれない、
あとで相馬藩で民のことを思い天守は財政的に苦しいから民のために使うため作らなかったなどと言っているが実際は天守造営を中止した。
それはその時津波の被害があり何か天守を建てるのをためらった
津波の被害者のことを恐れて天守を作らなかったのかもしれない
それがあとで相馬藩の主君は名君で民のことを思い天守は作らず民のために作ったとなったのかもしれない・・・・


いづれにしろ当時の慶長津波のことを解きあかす資料はほとんどないから
これが唯一の資料かもしれないとしたら貴重である。
ただ伝説の解釈はいろいろあるが中村城の天守を造営していた大工が南海老村にいたということは大事である。
時期的にも場所でも津波の被害と深く関連していたからである。

posted by 天華 at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年06月12日

津波がきた3キロ地点で何度も海の水にのまれる夢を見た (人間の夢は何か告げているー古代では夢を重んじた)


津波がきた3キロ地点で何度も海の水にのまれる夢を見た

(人間の夢は何か告げているー古代では夢を重んじた)

maptunamisc111.jpg


子供のときから今に至るまで繰り返し見ているのが、大きな波に呑み込まれる夢だ。
パターンは色々だ。
海水浴場で遊んでいると、大津波が水平線の向こうから聳え立つ。
城塞都市の坂道を歩いていると、坂道の下から白い波がとぐろを巻いて押し寄せてくる。

ガラス張りの旅館のロビーの、そのガラス戸いっぱいに津波が打ち寄せ、窓を破って押し入ってくる。

それでもいったん呑み込まれると、体は波に囚われたままいつまでも浮かびあがらず、もう少し、もう
少しで顔が出ると、我慢しているうちにどんどん息苦しくなってくる……。

http://blog.livedoor.jp/taeko_asano/archives/361351.html


溺れる(溺れそうになる、誰かが溺れている)夢は、精神的に追い詰められたときによく見る夢であると言います

 


人間は水に溺れる夢を見るのは誰でもある。一面が海になっていて取り残されてもうだめだ、死ぬんだなんて夢を見る。
水にのまれて必死になって泳いだりして浮き上がろうとするがもう助からないという夢を見る、たいだいもうだめだというとき目が覚める。


海水浴場で遊んでいると、大津波が水平線の向こうから聳え立つ。
城塞都市の坂道を歩いていると、坂道の下から白い波がとぐろを巻いて押し寄せてくる


ここまで大津波として夢を見る人はまれだろう。
津波は普通は経験できないし見ることもできないものである。
海の水が押し寄せてきたとしてもそれは津波とは普通は自覚できないだろう。

自分は地震とか火事とか炎につつまれて苦しんでいて脱出するような夢は見ない
ただ水にのまれる夢は何度も見ている
一面が海になってもうどうにもならないという夢も見る
それは何か津波とにているが津波という意識はこれまでもなかった
普通に他の人も見ているだろう
一面が水に囲まれ海に囲まれ絶体絶命になっている
そういう夢は津波とにている
ただ海側に住んでいて津波を今まで考えたこともないし意識したこともない

相馬では400年もこんな巨大津波などなかったのだから誰も津波など来ないと思っていた

ただ自分は今回津波が来た小学校の前で何度も海の水がおしよせてその水に飲まれる夢を見た。
それが今回ちょうど鹿島小学校の前で津波が止まったのである。
その鹿島小学校の前で海の水がおしよせて海の水にのまれ溺れもうだめだという夢を何度も見た。
それは小学校の前だというときその前が家がまれであり田んぼになっていて海に出る
もしかえってそこに家が多く建っていたらそうしたし夢は見ないだろう。
海が近くても住宅地化していたり工場地帯とかなっていたら海がさえぎられるから
海の水がおしよせるような夢は見ない


水におぼれる夢などは何かに追われているから追い詰められているから見ると言われる
もう脱出できないというのはそういう心理状態にあるから見ると言われる
でも何かそうでもない、別にそういう心理状態の時でなくても見ている
だから鹿島小学校前でそういう夢を何度も見たこととが津波が来てから不思議になった。
海から離れて街に住んでいてもそういう夢を見る、そしたら海に接して荒い波の音を聞いてくらしていた人は怖くないのかといつも思っていた。
海を身近に毎日見ていたら何かその海にのまれる夢は日常的になる
海から4キロとか離れてもそういう夢を見ているからだ。

一面が海になるのと違ってその夢が場所が特定されていたことが不思議なのである。
ただ漠然と水にのまれ溺れる夢ではない
鹿島小学校のじき前でそういう海の水にのまれる夢を見たのである。
その鹿島小学校の校舎のある前で津波は止まったのである。

鹿島小学校の近くが住宅が何十軒かあり津波の被害にあった。
あんなところでも床上になり被害が大きかった。
津波の後でもたいして家が破壊されていないからたいしたことないと見ていたのである。しかし津波の被害にあった人は今も津波の来た海の方向が怖いと言っている。


不思議なのは仙台辺りでも石巻でも直接太平洋に接して住宅地になっていた。
石巻などは日和山の前など過密に家が密集していてこんなに家が密集していいのかと通りすぎたことがある。
その密集した家が根こそぎ津波で流された。
そこは入江でもない太平洋に直接面していたのである。

なぜあんな危険な所に人は住んだのかと津波の後に盛んに言われるようになった

そもそも弥生時代になると稲作がはじまり江戸時代辺りから開拓事業が拡大した。
伊達藩でも相馬藩でも海側に原野を開拓したのである。
でも慶長津波では相馬藩内は原野の所が多かった。
でも津波が来ていて危険な場所だという認識はあったはずである。
でも日本では土地がないから米を作るために海側を開拓してきた。
有明海でついに開拓する場がなくなったとき、農民は満州に移住した。
そこでも米作りしていたのである。
日本の宿命は土地が狭く耕作地がないから農業には限界があった。
その限界を突破するために海側を開拓して土地を広げた。
そういうことを可能にしたのは文明の力だった。
それだけの技術力が生れてできたのである。


縄文人が海を埋め立てるのを見たら驚き神罰があたるよとか言ったかもしれない
それは自然を恐れないものであり自然とともに生きていたからそう言った。
自然への畏れが常にあった。弥生時代になるとそういうことなくなった。
ただ米をそうして拡大して作ることによって急速に人口が増加したのである。
人口が増加したのは文明の力だったのである。
縄文時代だったら人口は増加できないのである。

弥生時代になり稲作文明になったとき、すでに自然への恐れは弱められた。

今回の津波ほど自然の恐れを感じさせたことはなかった。
自然の力はとても人間の想定できない力をもっていると驚いた。

古代では人間の夢を尊んだ


 西郷信綱の『古代人と夢』は、昔の人は夢をこんなふうに考えていたのかという新鮮な驚きに満ちている。王位継承者を夢で決めたり、夢の中に現れた観音様のお告げを信じたり、夢の売り買いまでする人々がいた。西郷は夢を主題化することによって「人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたい」という。それにしても、夢を信じる、言い換えれば、夢ももう一つの現実であるという認識は、どのように生じるのだろうか。

 西郷がくりかえし強調するのは、夢の他者性である。夢は自分のものではなく、「人間が神々と交わる回路」であり、「神や仏という他者が人間に見させるもの」だという。

「住の江の岸による浪よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ」(藤原敏行朝臣)
http://d.hatena.ne.jp/hyakkenn09/20140427/1398575416


これは興味深い、夢は神の御告げのような役割を果たしていたのだ。
それだけ人間の夢は不思議でありその夢を解くことが要求された。


人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたい


津波は400年に一度となるとみんな忘れてしまい相馬藩では伝承などほとんど残っていなかった。
しかし津波のことを忘れていても海にじかに接して住んでいれば何か海への恐怖感が日常的にあるのが普通である。それが海に接してすむ人たちになかったのも理解できないということはある。

 
例えば
 
海に接して住んでいる人にこんなことを言った。
 

「わたしは何度も鹿島小学校の前で夢を見たんです
海からの水がおしよせてその水にのまれて溺れそうになる夢です
目が覚めると夢がさめてそ助かったなと何度見ていたのです」
「それは何なんだろう、あんなところに海の水が押し寄せるということはない
かなり離れていて海も見えないんだけどな」
「いや、小学校の前は家は少なく田が広がり海に通じている、だから海が近くに感じることもあるんだよ、前に住宅地があって海がさえぎられていると見えない
だから海を意識しないこともある」
「でもそんなところで海の水にのまれるとはなんなのだろう、
俺たちのように海に接して住んでいればわかるけど遠いからな」
「だからこの夢はなんなのか不思議だろう、この夢を買ってくれ」
「そんな夢を買えるか、海を見て俺たちは毎日暮らしている
海を恐れていてはここに住むことすらできなくなるべえ」
「それならいいですが、何か災いが起きなければいいんですが・・」
「俺を脅すつもりか」
「いいえ、その夢を何度も見たから言ったまでです」

ともかくあの地点ということが自分の夢では明確だった。漠然としたものではなかったのである。


住の江の岸による浪よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ


これだけど恋人が波がよるのにも寄ってくるのが見えるというのはこの辺ではありえないいつも荒々しい波が防波堤に打ちつけていて荒寥としていた。
西の海とは違い穏やかな海ではない。

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、波ばかり。


曇った北海の空の下、

浪はところどころ歯をむいて、
空を呪つてゐるのです。
いつはてるともしれない呪。


中原中也

この辺ではこういう海だった。人魚は沖縄だったらふさわしいだろう、実際にジュゴンがいるのだから空想でもなかった。
その海とはあまりにも違っていたのである。

いづれにしろ文明が発達するとそうした人間の夢でもそんなもの意味ないよとかなる
でも鹿島小学校前で自分が何度も海の水がおしよせてきて溺れる夢を見たことの不思議である。それは明らかに今になると津波だったのである。

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2014年06月14日

慶長津波で相馬藩の湊が喪失した (小高ら中村へー岡田清一氏の論文の再考)


慶長津波で相馬藩の湊が喪失した

(小高ら中村へー岡田清一氏の論文の再考)


小高ら中村へー戦国武将相馬義胤の転換点
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_01.pdf

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●中世は思ったより船運が盛んであり大きな湊が各地にあった

慶長津波のことがなぜ一行しか記されなかったのかということを探求するには
慶長津波の前後の相馬藩内の政治情勢とかどういう暮らしをしていたのかということを知らねばならない。
その時代は戦国末期であり秀吉や家康と相馬藩はかかわり四苦八苦していた。
相馬藩の領土すら安堵されていないし領地を失う危機も経験している。
相馬氏は相馬藩内を統一支配する状態にはなかった。
だから中世以来在地の館をもった有力氏族が力をもっていた。
その筆頭になるのが岡田氏であり中村城では別個に岡田館をもったことでもわかる。


小高郷塚原村に「郷中の年貢を大船に罪、当海より東都に運送」するための「蔵院」が置かれた。その間の流れる河口には
「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」


その岡田氏が力をもった背景は何かというとき、それが慶長津波と深い関係があったのだ塚原や村上には海運をになう湊があり物資の流通があった。
そこにそれだけの湊があったからこそ村上に城を作ろうとした。
それは朝鮮出兵で名古屋城に行くと瀬戸内海を見聞して海に接した城、海城を見てヒントを得た。「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」が存在した。

また義胤はその海運のために銚子とか海上へ役夫を出している。
そこまでやるということは当時の舟運は思った以上盛んだったとなる。

「宇多の湊に比定される松川浦の南端位置する磯部を支配したのは佐藤好信は岩城氏の旧臣であったが佐藤一族は「岩城之船」にかかわる氏族であった。
中村城も松川浦(宇多の湊)に面した城館であり南北朝時代に熊野堂や館腰遺跡には「瓦宿」=河原宿という地名も残っている。


八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く

磯部もすでに大きな湊があり船の出入りがあった。八沢浦にも七荷というから七つの種類の荷を運んだのだからすでに中世にそうした湊があり海老村とも関係していた。
八沢村はなく海老村の領域になっていたからだ。

それで善次という大工が津波の被害にあった地域に住んでいて中村の天守造営の時、怪異があったというのは何か津波を示唆しているかもしれない、中村城移転の時、天守造営が行われたからである。
つまり在地の寺社や館をもっていた中世の領主がいてそのおかかえの大工だった。
その領主は中村城への移転に反対していたのである。
相馬氏の支配に入ることを拒否するものがあった。
その天守造営のとき、津波が起きた、ただ津波からしばらくたったにしてもそういう記憶が残っていた。
いづれにしろ海老村の輪蔵館などの寺社勢力があってその配下の大工の善次はその間にあって苦しんで呪われ死んだのである。
そういう権力争いの犠牲者は常に世界でも起きている。
最近ではウクライナであり二つの国に分裂するのは背後の大きな勢力によって分断されるのである。
  
宇多の湊も岩切と同じである。海に通じて川があり川さかのぼってそこに市が開けた。
河原は市になりやすい,また河原宿というとき野宿する場として適地だったのである。
自分も自転車で旅してテントで良く河原に泊まったから河原は泊まるのにいい場所なのである。当時はもっと堤防もなく河原は広かったからだ。

村上城から牛越城から中村城へ移転するときは同時に相馬藩内も激動の時代だった。
その時に慶長地震津波が起きたのである。

牛越城も新田川から舟を利用して河口の古代の泉かんが跡がある所に出るから湊があったもともと桜井に古墳すら川と海が交わる所あり何らかすでに交通の要所としてあった。

古代に泉官衙であった泉廃寺跡に物を運ぶために運河を作っていたことでもわかる。
「大磯の湊」というのもあったということは古代から延長として利用されていた。
それほど川の交通が重視されていた時代なのである。
交通の要所をにぎるものが権力をもつというのは世界的にもそうである。

その湊を管轄して支配していたのが岡田氏であり泉氏などの有力氏族であった。
それらの在地の豪族を牽制するために牛越城が作られた。その位置は確かにそうした背景を物語っている。


●網野史観の忘れられた海民が津波で大勢死んだ


前にも書いたけど海の視点から歴史を見ることが資料などが残らないで見えないのであるそのことが大きな歴史の欠落を生み誤解が生れる。
それを覆したのが網野史学であった。



漁業をやれば必ず魚を売らねばならぬ、これは塩の場合も同様で漁業や塩業をやれば必ず商業と廻船がそれに結びついてくる。


明和7年(1498)の大地震と大津波は伊勢から関東にいたる海辺の湊に大きな被害を与え、一時的に太平洋水運に破壊的な影響を与えたと推定される。


「漁村には資料が少ない」という声をこれまでしばしば見にした。
確かに漁村には火事、津波などの天災が多くそのようなこともあろう。
紀州熊野十八浦の連合によって形成された「岬会合」の二百冊近い貴重な日記類は
1945年の南海大地震の津波のために流出したという
密集した家並みの一軒に火事がおこるとあっというまに燃え広がるのも漁村に大いにありうる。


由利千軒、草戸千軒・・・何々千軒と言われる所はかつて栄えた町があって現在では消え去った時につけられる名称です

由利島は、「由利千軒」の伝承をもち、寺屋敷、長者屋敷、船頭畑、鍛冶屋の尻などの地名が残り、矢立明神、儀光寺、毘沙門天などの寺社のあった港町のある島ではなかったかと思われる。こうした「――千軒」の伝承は列島各地に伝わっており、「草戸千軒」の場合のように、発掘によって埋もれた都市の存在が実証されているので、今後、さらにそうした事例は増えると思われるが、(以下略)(網野善彦「残された課題」)


山野河海等は元々“無主”の地としての特性を持ち、そこを生業の場とする非農業民は農地を占有する農業民と利害が対立します



つまり検地すことにより石高がわかりその土地の生産高が決められていたがその範疇に入らない人々がいた。百姓と農人は明確に別れていたのであり百姓とは百の仕事をもつ人たちだったというのもそのことを物語っている。多様な仕事をしていた人たちである。
田畑ばかりを作っているのではない、松川浦の和田の人は牡蠣をとったり鰻をとったり
田畑も作り馬も飼っている。海ではそうした多様なものが成り立つ環境があった。
そして船が出入りするから湊になり物資が運ばれて都市機能をもつようになる。
都市はギリシャでもそうだが海運と関係して貿易によって栄い都市化してそれはポリスとなり国家に成長した。


ただそういう海と関係した歴史は資料が残りにくいから見逃され忘れられ今になるとどんな暮らしをしていたかも海側がわからなくなったのである。
そして津波によってそうした湊が壊滅状態になり丸ごと失われたことがあった。
それが相馬藩内でも起きたのだ。その時そうした湊を支配していた岡田氏とか泉氏は大打撃を受けた。
しかしそのことがかえって相馬氏の支配を強化できて中村城への移転で中央集権体制の相馬藩が作られたのである。中世の相馬藩内の館が38もあった時代から一つの城へとまとまる政治体制が中村城移転で完成したのである。

ここで慶長津波がそうした激動の相馬藩にどう影響したのか?
それは岡田氏とか泉氏とか湊をもち力をもっていた氏族の力がそがれた。
湊は壊滅して喪失した。その後そうした湊は再建されずわすれられていった。

ではなぜ相馬藩では一行700人溺死としか記されなかったのか?
単なる漁労民とかではない、湊機能がありそこは都市機能さへもっていたとなると
その被害は甚大であり何かしらもっと記されてもいいはずである。
岡田氏や泉氏でもまた磯部館もあったのだから何らか伝えるものがあってもいいはずだがなかった。

そのことは当時の政治の情勢と深く関係していたのである。
相馬氏にとって慶長津波はかえって中村城へ移転して支配を完成する好機となった。
村上でも牛越でも何か反抗があり牛越では領地を失う危機にさらされていたのである。
それは岡田氏や泉氏の反抗があった。
その時慶長津波がきてその力をもった湊が壊滅したのだから反抗するところではなかっただから中村城への移転が慶長津波の後に本格的に決行されたのである。


●慶長津波によって戦わずして在地の勢力を統合できて中村城が作られた


結局慶長津波によって相馬藩は各地を在地の勢力を一つに統一できたとまでなる。
だからこそ復興のために支援するとかそんなことを一切記さない
復興などする必要がなかった。湊を復興したらまた岡田氏や泉氏が力をもち相馬氏に統一することがむずかしくなるからだ。
戦国時代そうして敵対するものの権力をそぐことが常に行われていた。
それは現代の感覚ではわからない、それが戦国時代だったのである。

だから岡田氏や泉氏がいくら慶長津波で大被害を受けたことを訴えてもとりあわなかった。ただ一行700人溺死とそっけなく記すだけだったのである。
また津波の被害のことを語るのは禁止されたということもある。
その時の政治の最優先課題は相馬藩の領地を安堵することであり相馬藩を統一することであった。
もし岡田氏や泉市のために復興のために力を注いだら岡田氏や泉氏を利するだけであり
相馬氏にとっては危険になる。

ただそういう権力構造の中で湊で働いていた人たちは犠牲になり忘れられていった。

それで海老村の九九部が津波の犠牲者を供養したのだが善次という大工が中村城へ移転した天守を造営のためにかりだされた。
海老村には輪蔵館という館もあったのだからそれは寺社系統であり海老村も津波の被害にあったから大工はその津波の被害の方で仕事をすることも強いられていたがどうしても主君の命令に従わねばならないと無理をしたが呪われて死んだのである。

慶長津波のことが記されなかったのは相馬藩内での権力闘争があり岡田氏や泉氏の台頭を相馬氏が恐れた。それで津波の犠牲者のことは語られなかった。

それでも今度は逆に漁労民だけではない、湊がっあってそこに働く人が死んだならやはりその数が多いから何かしら伝えられてもいいとなる。
そのことは他でも・・千軒とか多賀城辺りでもそういうことが津波で起こった。
だから相馬藩だけではない゛千軒が一瞬にして消滅して消えて語られなくなってしまうことが歴史にはある。草戸千軒などは最近の発掘調査でわかったのだからポンペイと同じだった。一瞬にしても千軒が消失して記憶か消える。
それは津波の跡を見ればわかる、土台しか残らず一軒の家もなくなる。
そこに村や町があったことも全くわからなくなる。

相馬藩は特殊な事情としてその時内部で権力争いがありそれが津波のために犠牲になったこ人たちのことが無視された。相馬氏は中村城に移転して相馬氏の支配が確立したのである。

もし相馬氏の支配が確立していたら復興事業もありえた。それができなかったのは相馬氏主導の体制がまだできていなかったからである。
だから伊達政宗はすでに強力なリーダーシップをもったのはそれだけ伊達藩をまとめる力をもっていたからなのだ。
第一スペインまで視野に入れて船まで自前で建造した。瑞巌寺は見張り塔もあり武士の城であり寺だった。海に面した城でもあった。
そういう大きな船を作れるということはそれだけの船の海運の進歩がすでにあったのである。

ただ相馬藩内は津波でそうした湊機能が壊滅した。それが語り伝えられなかったのは例えば石碑一つ建てるにしても金がかかる。今より金がかかるからできない、そんなことより大阪の陣への出兵、江戸城普請に力を注ぐことが領地を安堵することだから腐心していたのである。

歴史は権力争いで犠牲になるという時、それは民同士が戦うというより権力者が己が権力を死守ふるために戦う、民衆はどっちについても暮らしは同じだとなる。
だから明治維新後、会津でもヤーヤー一揆が民衆から起きた。会津の城で白虎隊が討ち死にするが民衆にとって城は命かけてまもるものではない、領主が変わるだけであり民衆の暮らしは変わらないからである。

相馬藩では権力争いで津波による犠牲者は無視された。では支配下においていた岡田氏や泉氏などはなぜ記録を残さなかったのか、被害にあった人たちは語り伝えなかったのか?
結局語り伝えるにもそれだけの力が必要でありその力がなかったともなる。
文字として記すにも民衆は文字を知らないとできないし語り伝えるにしても相馬氏が支配するとそれを訴えることになるから禁止されたとかなる。
相馬藩の場合そういう特殊な事情で慶長津波の被害のことが記されて語りつづけることができなかった。
ただ他にも全く何も語られることもなく消失した千軒というのがあるのだから以前として謎は残る。


会津のヤーヤー一揆
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6618/honmon2/96.html

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2014年06月16日

中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか? (伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)

 

中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか?

(伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)

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鬼越館の近くまで津浪が来ていた。
浪の浸食により移動したと記されているが何かしら慶長津浪も関係していたかもしれない
なぜなら鬼越館はいつ建てたか不明となっているからだ


●佐藤氏が磯部館から鬼越城へ


築城年代は定かではないが永禄6年(1563年)頃に佐藤伊勢好信によって築かれたと云われる。佐藤氏は源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の後裔を称し、好信ははじめ岩城氏の家臣であったが、後に相馬顕胤・盛胤に仕えて軍奉行を務めた。天文11年(1542年)伊達輝宗との合戦の功により磯部・日下石など宇多郡の内六ヶ村を領しはじめ磯部館(佐藤伊勢館)に居を構えた。しかし、
海水による浸食が激しく鬼越館を築いて居を移したという。

好信の子佐藤宮内為信は永禄9年(1566年)伊倶郡小斎城代となり移ったが、天正9年(1581年)謀叛を起こして伊達氏に仕えた。これは父好信が郡左馬助の諫言により三ヶ村の所領を没収され、天正7年(1579年)無念のうちにに病没したことを恨みに思い、郡左馬助を討って亘理元宗を介して伊達氏に属したもので、伊達氏においては家格を一族に列せられた。
 鬼越館を築いたのは、相馬氏の家臣であった佐藤伊勢守好信である。佐藤氏は磯辺・日下石等6ヶ村を領し、もともとは海岸近くの磯辺館を居館としていた。しかしそこは波浪による浸食が激しくなってしまったため、永禄6年(1563)、鬼越館を築いて移り住んだ。『相馬氏家譜』には「伊勢好信、磯辺の館より立谷東山館を築いて住居」とある。この立谷東山館というのが、この城館のことであると思われる。
  天正9年(1581)、詳しい経由はわからないが、当時の城主佐藤為信は、相馬義胤にそむき、伊達輝宗に属した。そのため相馬氏に攻められることとなり、鬼越館は落城し、佐藤氏は伊達氏のもとに身を寄せていった。

http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/soumasi.htm

立谷家の「鬼越館」の近く立谷邑中屋敷に1335年頃に立谷の館を構えました、今も館の後が残っています(道の駅そうま)の西側500メートル当りで外堀も残っています、

佐藤好信は源義経の家来であった佐藤忠信・佐藤継信の子孫を名乗る。今の福島県浜通り地方を中心に活躍し、その名に恥じぬ勇名を馳せた。

もとは富岡城(楢葉郡)にいた岩城氏の重臣であったが、相馬氏の武勇を慕い富岡右京進・富岡美濃らと共に相馬領へ来て相馬顕胤・盛胤の二代に仕えた。草野直清・青田顕治の反乱鎮圧戦などで活躍し、軍奉行として優れ、数多くの功績を立てたが、それを妬んだ別の家臣の讒言に遭い、軍奉行職を解かれたうえ、所領を没収された。これを恨みながら、まもなく死去したという。


佐藤為信 

 佐藤 為信(さとう ためのぶ、天文 (元号) 天文11年(1542年) - 天正19年(1591年))は相馬氏の家臣。佐藤好信の嫡男。
 小斎城代として重用されたが、父・好信が讒言により減封され、果ては憤死に追い込まれたことを恨みに思い、讒言した家臣を討って相馬氏から伊達氏に寝返った。その際伊達氏の一族に迎え入れられている。佐沼合戦における佐沼城攻略の際に、兜の八幡座を鉄砲にて射抜かれ討死。

「東奥中村記」と言う奥州相馬藩の史書が有って(相馬市史5)、これによれば、相馬氏の家臣「佐藤伊勢」が、小高の浜から船に乗って、宇多郡磯辺の城の椎葉勢に乗込み、夜討ちして、士及び雑兵の首60余級を討ち取った事が書かれている。その他には、松ヶ江辺に夜討ちして敵を脅かす事、両三度に及んだと言う。この様に海(水)上とかの活躍は、奥州相馬氏の南北朝時代(北朝方としての相馬文書)とか、戦国時代の史書を探せば、未だ有るかも知れません。尚、相馬氏には「奥相秘鑑」と呼ぶ史書が有って興味深いが、これ等は近世期の編纂資料で有って、果たして天文年間の正確な資料でしょうか。小高城からの出騎の項に「神岡館」と有るのだが、これは「福の隷書体」を「神と誤って」表したものでしょう。正しくは「小高町の福岡字有山」に有った「福岡館」でしょう


相馬氏と水運ー4(東奥中村記)半杭正幸
http://red.ap.teacup.com/hangui/2915.html

半杭氏も海運に注目して残された文書の記録に間違いあることを指摘しているのだから
磯部館が山側の鬼越館に移ったのはいつかは確定できないのである。
津浪だったのを浪の浸食としたとういのはありうるのである。

●在地勢力を支配下に置くことに相馬氏は四苦八苦

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この記録の中に何か慶長津波のことが隠されている。相馬氏は小高に本拠地の城を置いていたが村上に城を移転したが火事があって縁起が悪いと原町の牛越城に移転した。
それはもしかしたら塚原や村上などで湊を支配していた岡田氏などの抵抗にあったのかもしれない。ここは自分たちの領地だとかなり火をつけられたということもある。
相馬氏は領地がまだ安堵されていないから秀吉にとりいることや後に家康にとりいることに必死だった。牛越城では実際に領地を没収される危機に直面していたのである。

慶長津波を考える場合、こうした当時の戦国時代の相馬藩内は中世以来の豪族が館をもち支配していた。だからこうした有力な豪族を支配下に置くことに腐心していた。

特に古代の宇多郷、今の相馬市地域はまだ伊達氏の影響力が大きかった。
もともと今の相馬市地域は伊達氏が一時支配していた地域でもあり相馬氏が進出することには抵抗があった。
小高を中心とてして北に向かい相馬氏の支配を確立しようと腐心していた。
だから今の鹿島区は北郷であり小高から見て北になるから北郷になった。
一連の城の移転は小高では湊を所有していた岡田氏をおさえようとする動きであり
牛越城は今の泉かんが跡にやはり湊をもっていた泉氏をおさえるために作られた。

そして中村城移転はこうした在地の中世以来の豪族を相馬氏が支配することだった。

今の相馬市地域は伊達氏がまだ勢力をもっていた。伊達氏をおさえるためにはどうしても中村に城を移転せねばならなかったのである。
佐藤氏の息子が丸森の金山城の城主となって伊達氏に寝返ったとかでもわかる。


天正9年(1581)、詳しい経由はわからないが、当時の城主佐藤為信は、相馬義胤にそむき、伊達輝宗に属した。そのため相馬氏に攻められることとなり、鬼越館は落城し、佐藤氏は伊達氏のもとに身を寄せていった。

「東奥中村記」と言う奥州相馬藩の史書が有って(相馬市史5)、これによれば、相馬氏の家臣「佐藤伊勢」が、小高の浜から船に乗って、宇多郡磯辺の城の椎葉勢に乗込み、夜討ちして、士及び雑兵の首60余級を討ち取った事が書かれている。


これなども小高に湊がありその小高ら磯部の湊へと船にのって夜討ちしたということはそれができる船の運行があり湊があったということである。
小高でも磯部でも今のような砂浜ではなく入江のようになっていたのだろう。
だから湊にしやすい船が入りやすいものとなっていた。

ただこうした記録もどこまで史実なのか半杭氏も書いているようにわからないのだ。
鬼越館でもいつ作られたかも実際は不明なのである。だから年代通りでもないことがある。鬼越館の名は鬼は鬼門であり北を意味しているから北風が吹きつけて通りすぎる所となるから位置的にはそういう場所である。
ただ慶長津波の前の数十年間は戦国時代の激動の時代であり相馬氏の支配は確立していない、伊達氏に一時黒木氏が加担して鹿島の田中城で戦いがあったように伊達氏と相馬氏の争いは鹿島から中村地域移動したのである。
相馬氏はまだ相馬藩として支配を確立していない有力な豪族のおさえるために四苦八苦していたのである。


●相馬藩は財政難で慶長津波のすぐ後にも高い役金を課していた


時代的にはずれているから慶長津波とは関係ないとなるがそれでも慶長津波の近くに
波の浸食が起きたというが時代がずれて記されているかもしれない
文書に残っているからとすべてが正しいとはならない、そこには粉飾があり年代もずれている場合があるからだ。実際に記述の間違いを半谷氏は指摘している。

なぜ慶長津波のことが記されなかったかというとそれは伊達氏でも伊達政宗は一言も津波のことに言及していないのは相馬氏と同じだった。
当時の藩主と津波の被害を公にできない事情があった。
ただ伊達藩では慶長津波のことを他の氏が記している。

記録したり宣伝したり何か伝えるにも権力が必要になる。権力あるものは集団は大宣伝ができるから真実は曲げられる。
マスコミもまた一つの大きな権力である。メデアは権力だというときそうである。
常に権力によって情報は操作されるのである。原発でも批判は封じ込められていた。
本を出すにも確かに出ていたが隅の方に冗談のようにSF小説のように置かれていたのである。
本を出版するにも権力が必要なのである。
それだけの被害にあったのだから本来は被害にあったものが直接訴えればいい伝えればいいのだが
権力かないとできないということもあったのである。 


三本塚周辺の開発


慶長年中、比屋
海上より潮押揚海辺村々之者人馬多潮水におぼれ横死、田畑殊之所外荒所罷成候所、元和之頃、御上より荒所開発望令族開発可仕由御触、右ニ順て家友、当初へ取移三今之屋敷(二ツ屋敷)ヨを構へ住し、熟地見合、田畑十五町余り開発,子孫へ伝え候(佐藤家家譜)

この津波の後、相馬地方の相沢、大友、柴崎氏が当地の荒地開発にあたっと言われます


佐藤家とは相馬氏の磯部の伊達氏寝返った佐藤氏一族のものなのか?
ここに相馬氏の武士が移り開拓したとなるのか?
相沢氏は伊豆の相沢郷が出自であり柴崎氏は千葉の我孫子に柴崎城があり相馬柴崎とあり相馬氏系統である。
佐藤氏も磯部館の伊達氏に寝返った佐藤氏なのか、何か相馬氏とつながりある所に開拓に入った。
不思議なのは相馬藩内でも伊達藩と同じような慶長津波の被害にあったのにこうした開拓に入ったという記録は一切ないのである。

中村城普請、江戸屋敷の普請の費用、参勤交代による費用などがあり在郷給人にその他寺社方、職人などに至るまで百石につき山両一分の割りで慶長18年から元和二年までの間、役金をおうせつけられた。
さらに財政が苦しく二分増しの三両三分とされた。
給人はこれまでも困窮していたためにその収入で上納もできかね、重代の大刀、刀、武具、家財まで売り払い下男下女まで売り払って役金を収めた。
これでは苦しいと役金の免除を申し出た。
でも殿は参勤交代の金も工面できないと許さなかった。
その後役金が免除されないなら知行地を返上したと再三訴えた。
このために他藩に行く者もあった。

寛永八年(1668)百姓の騒動があった。
切腹させられ給人が6人ほどいた。

百姓どもが訴訟申し上げたのは給人衆の知行開発があまりに多い故、山野がゆきづまり百姓たちが春の草を刈る所、馬をつなぎ、稲を干す場所もなくなっていて]困ったからである。
(奥相馬秘鑑ー森鎮雄)



慶長津波の後に起こったことを知るてががりにこの記録はなるだろう。
相馬藩ではまず慶長津波の後でも財政難で役金が給人からとらねばならなかった。
そもそもこんな財政状態で津波の被害の復興などありえないだろう。
相馬藩では寛永八年(1668)頃まで50年後まで津波の跡は開拓もされず放置されていたのである。給人がこういう状態のとき、相馬藩を出てよそに出る武士もいたというとき、それが相馬氏一族の相沢氏とか柴崎氏だったのである。
ただ慶長津波から50年たつと盛んに郷士の開発が行われて在地の土地の住民に迷惑にさえなって切腹させられた武士まででてきたのである。
約50年すぎて相馬藩では活発に津波の跡でも開発が盛んに行われるようになった。
それまでは放置されていたのである。

つまり伊達藩と相馬藩は慶長津波の対処が違っていたのは事情が違っていたからである。こういう財政難でも津波の被害を訴えたりそれを取り上げたりまた津波の被害のことを
外に言うこともはばかられた。
当時は戦国時代でありなるべく藩が力あるものとして外部に見せねばならなかった。
それで伊達政宗がハデな演出して伊達者と全国で知られるようになったのは実際は藩は貧しい農民が主なのだがハデに装うことによって隠していたのだと言う人がいた。
陸奥には西のような豪商もいない農民が主体の社会だったからである。


●慶長津浪の被害者の忘れられていたが思い出さされたこれもカルマ


慶長津波のことが文書に記されなくてもやはり慶長津浪に由来するものがその時あった。新地の地蔵森の伝説や相馬市の諏訪神社の津浪伝説は貞観津浪の時のだという。
慶長津浪に関しては本当に記録も伝説もほとんどないのである。
それは相馬藩の戦国時代の特殊な事情がそうさせたのである。
伊達藩は伊達政宗の支配が完成していていた。ただそれにしても伊達政宗も慶長津浪には言及していないのである。
それも外にそうした困窮状態を口外することが戦国時代では不利になるという意図があった。でも内部では津浪の跡を開拓する作業すでにはじめていたのである。
そこはすでにもともと田畑となり開発されていた場所である。

相馬には荒地の方がもともと多かったのだろう。
だからこそ相馬氏の相沢とか柴崎氏とかが伊達藩の開拓に入ったのである。
相馬藩ではそもそも相馬氏が在地の豪族をまだ完全に支配していない、統一していなかった。そこで津浪の後にも役金を徴収していたのである。
だから給人が反乱を起こすような所では伊達藩でも外に出て領地を得て開拓した方かいいとなって移住したのである。
なんらかそういう不利な所に移住するには事情がある。
越中などの移民にしても飢饉の後の荒地に来るのは来る方に事情があったのである。

相馬氏にとって慶長津浪はやはり財政難に拍車をかけたしいいものではなかった。

ただそれで在地の勢力がそがれたので津浪の後に中村城へ移転を結構できて統一できたというプラスの面もあったのである。
そして津浪から50年後は盛んに郷士の開拓が行われて在地の農民や漁民や山民が迷惑になり訴えるようになった。
50年という津浪の跡の原野でも塩分はなくなり開拓して田にもできたのである。

慶長津浪の被害者は不運に不運が重なったのは戦国時代という中で起きたことである。
まず津浪が起きた2年後に役金を課しているということ自体、相馬藩で津浪の被害者を
援助するとか復興するとかありえない状態だった。
津浪がさらなる財政逼迫を生み幕府で助けるわけでもないしかえって江戸城普請とか参勤交代とかで出費がかさむ。給人にしてもまるで暴力団への上納金のように役金が払えないと暴動まで起きることが実際に画策される。

何か海老村の善次の伝説はこうした当時の事情があり天守造営にかりだされたのだがその土地の支配者が輪蔵館などが出したのだがその館の支配者にとってはしたくないことだった。でも一方で行かざるを得ないという事態に追い込まれていた。
そういう板挟みの中で津浪の被害の後に天守造営にまつわる伝説が生れた。
支配者同士の争いで戦争で民衆が犠牲になることは世界でもあった。
権力をもっているものがさらなる権力をえるために戦うがそのために民衆が犠牲になるということがある。


原発事故でも権力をもつものが政府指導ではじめてその土地の民衆が利したとしても
やはり犠牲になったということはいえる。
結局この世の中今だって弱肉強食の世界は変わっていない。
相手が弱った時攻められる。そういう経験を自分もしてきたから人間は怖いと思う。
相手が弱ったから同情するということはない、戦国時代は特にそうだったのである。
常にその地位が脅かされていたのである。相馬藩も牛越城の時、改易になるのを辛うじて逃れた。その領地も地位も安泰ではなかった。
そういう時慶長津浪が起きたのであり犠牲になった民衆は犠牲にされ忘れられたのであるその数は多かったが例えは太平洋戦争で三百万人死んだと一手も四〇〇年もたてばその一人一人のことなど忘れてしまうだろう。
いつまでも戦没者供養などしていないだろう。三百万人死んでも忘れられてしまう。

今回はすぐに犠牲になった人たちの供養碑が建った。それは四〇〇年後にも残るだろう。ただ四〇〇年後がこの辺がどうなっているかなど想像もできないのである。

慶長津浪と同じ規模の津浪が襲ったからこそ四〇〇年前のことを考える。
もしまた日本が戦争があって何百万人死んだとなればまた太平洋戦争のことでも真剣に考える。
歴史もカルマであり繰り返しなのである。カルマは本当に個々人でも厳しいものがあり
逃れることができない、何か先祖のカルマを津浪の被害で意識されたということがあるのだ。
人間は常にカルマを負った存在だということを津浪が意識させたということはある。
津浪でも四〇〇年でも定期的に起きるものでありそれは科学的にそうでありそうた災害に人間は備えることができなかった。
個々人でも何代も前の先祖が戦争で人を殺していたからその償いのために看護師になっているとか言う人もいた。長い眼で見れば歴史でもありねその地域地域にもある。
地域の独特のカルマがありその中で生きている。相馬藩は津浪が起きた時、こうした特殊で戦国時代の事情があって津波の被害者は忘れられてしまったのである。


参考にした本


「仙台平野の歴史津浪」ー飯沼勇義

飯沼氏は実際に津浪のことを警告して仙台市にも訴えてしいたし南相馬氏の博物館にも来て津浪を警告していた。でもとりあわなかった。

郷土史というと好事家が暇で研究しているという感覚になる。
でも実際今回の津浪で郷土史というのは郷土全体を視野にした長い歴史を探求するものでありそこには重大な使命が隠されていたのである。
盛んに地名まで津浪と関係あるのではないかとか神社は津浪をまねがれたとか様々なことが津浪で浮き彫りにされた。
日本では災害が大きな歴史の中に組み込まれていたのである。
ただ災害は百年に一回とか四〇〇年に一回とかなると忘れる。
それが忘れたことが災いにつながっていた。

カルマは個々人でも意識されない、でも今回のように同じことが起きればカルマを意識させられるのである。
例えはアメリカが日本に原爆を落としたことはアメリカのカルマである。
でもアメリカ人はそのカルマを意識しない
それがそのままでありえない、アメリカにも原爆が落とされた時深刻にヒロシマに原爆を落としたことを真剣に考えるようになる。
9・11のビルの崩壊もそうしたカルマが現実化したということはある。

 
 
posted by 天華 at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年06月17日

相馬藩の牛越城移転で泉氏が人夫徴発で火を放つ (津浪の記録の再検証ー人馬一体となり死す)


相馬藩の牛越城移転で泉氏が人夫徴発に不満で火を放つ

(津浪の記録の再検証ー人馬一体となり死す)

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野馬土手で囲む前はもっと広い原があって馬が放牧されていた。
原町は原という地名が多く広大な原があった


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桜井古墳の前まで津波がきていた


●牛越城で泉氏が人夫徴発のことで不満で館に火を放つ

牛越城の施行は慶長二年(1597)近郷の土豪を夫役に徴発してはじめられた。
中ノ郷の備頭(そなえかしら)泉右衛門政胤(泉館在住)はこの人夫徴発のことで不満があり館に火を放って会津の上杉氏に走る事件があった。

野馬を神馬扱いにして大事に保護したため、馬が増えるばかりで近隣農民にとっては農作物の被害に迷惑しながらやむをえず従っていた。
その不満はつのりこれをみかねて忠胤の時、寛文六年(1666)ようやく農民の保護と興武のための対陣作戦の必要から牛越原に野馬土手を築くことになった。


村上城から牛越城へさらにまた小高城へとなぜ転々と城を移転せねばならなかったのか?
村上城で火事があり不吉だとしてとりやめたのは岡田氏や館がありこれも泉氏と同じ理由で火をつけられた。各地にまだ相馬氏に反抗する勢力があり統一されていなかった。
この動乱の時に慶長津浪が起きた。
慶長津浪のことはただ700人溺死としか記されていないが海老村の大工の善次も輪蔵館から人夫として中村城の天守造営に出されていた。
そのことが泉氏と同様不満があり善次はとめられたが無理して行こうとして怪異があり
不慮の死を遂げた。
それは明らかに牛越城築城に泉氏が反対したと同じ理由があった。
牛越城の時はまだ慶長津浪は来ていない、しかし海老村の伝説は明らかに中村城の天守造営と記してあるのだから慶長津浪がありその後のことにしても何らか慶長津浪の記憶がある時だったのである。

慶長津浪の後の数十年、30年から40年くらいは原野のままに放置されていた。
そこは湿地帯にもなっていたから人は入りこみにくい状態だった。

ただ萱浜に「巣掛場」とか地名があるから狩りの場になっていた。

その後大規模な野馬土手が作られた。これは今の原町の市街をつつみこむように作られ周りに木戸がいくつも作られた。それが大木戸として地名化している。
これほど大規模な馬の放牧地を作り馬を重んじたのは戦国時代の延長として相馬藩が伊達に対抗するための軍事訓練の場として作った。
これは軍馬であり戦争するための馬なのである。
戦国時代は馬が最大の武器となるのだから馬の飼育には力を入れた。
鎌倉武士が平家に勝ったのは騎馬軍団をもったからである。
だから鎌倉時代とかその後南北朝時代、戦国時代は馬の時代だったのである。
放牧地が広大な牧が各地にあったのだ。
だから江戸時代は何か田んぼが広がる景色のように見えるがその前は牧が広がっていたのある。

だから相馬藩の野馬土手は実際に広大なものだった。
そこで気になったのが桜井古墳から上渋佐まで野馬土手が広がっているのだが
上渋佐で微妙な線を描いてとまっている。
あそこまで津浪が来ていたのである。
津浪が来た線でとまっているのはそこは原野になり湿地帯になっていた。

慶長津浪の後にまだまだ開拓されていないから田畑は少なかった。
ただ萱浜の巣掛場木戸というのがあったとするとずいぶん海岸近くまで広がったいたとなる。
巣掛場辺りは今回の津浪をもろに受けた被害の大きい所だった。

野馬を神馬扱いにして大事に保護したため、馬が増えるばかりで近隣農民にとっては農作物の被害に迷惑しながらやむをえず従っていた。
その不満はつのりこれをみかねて忠胤の時、寛文六年(1666)ようやく農民の保護と興武のための対陣作戦の必要から牛越原に野馬土手を築くことになった。

これをよく読むと野馬土手を作ったのは馬を囲いこむためでありそれまではもっと広い原野がありそこを馬が駆けていた。野馬土手がないから馬が田畑まで入りこんだのである。それだけ広い馬がいる原があった。モンゴルの草原ではないにしろそれは日本にしては広大な広さである。
田畑より牧の方が中世には広いということがあった。
その牧に放した馬を家に連れて帰る絵を見たがその家に帰る道も長く農家が一軒ある。


●人馬三千余名死すー人馬一体となり死す


今回の津浪では野馬追いに出る家も津浪の被害があり野馬追いのことが語られた。
海老村では妻をなくした人が弔いの野馬追いに出るのが放送された。
浪江からも野馬追いに出て復興の野馬追いになった。相馬藩の祭りとして相馬藩が一体になるものとして復興の野馬追いになったのである。


相馬藩御経済略記:同年10月海辺津波御領分ノ者700人溺死

相馬藩政紀第一(御年譜利胤):10月28日、海辺生波にて相馬領の者700人溺死

相馬市「城は破損し再築中」「同市も海水の漲溢に依り海岸の村落に及ぼしたる被害
の影響を受けたり」(『ビスカイノ金銀島探検報告』)

青森県沿岸「南部・津軽の海辺の人屋溺失して人馬三千余死す」(『駿府記』)
宮古市「大津浪にて門馬、黒田、宮古、以の外に騒動…」(『宮古由来記』)

仙台藩の歴史が記されている「伊達氏治家記録」にも仙台藩の領内で津波で1783人が死亡し、牛馬85頭が死んだという記録が残っている。

相馬藩の記録では牛馬の死は記されていない、伊達藩では85頭まで記されている。
青森県沿岸で人馬三千余死すとある。野馬追いの地で馬のことが記されていない。
牛馬の数をそこまで詳細に記したことはやはり牛馬を重んじていたのだろう。
牛馬も死んだと記しているだけでも津浪には相馬藩より関心があり記した。

宮古市「大津浪にて門馬、黒田、宮古、以の外に騒動…」

宮古市では騒動まで起きたというから生々しいものとして残っている。
騒動が起きても不思議がないほどの大被害だった。
何か物騒な状態になっていることが記録されたということは
食うや食わずで家も失った人たちが津浪の後に彷徨っていたはもなる

相馬藩では700人溺死だけでその他何かてがかりになるものが残されないないのが
慶長津浪のことを解きあかそうにもできないのである。
ビスカイノの報告が唯一の資料ともなる。これにしても城が破損したということは記されている。その他のことは不明である。


海辺津波御領分ノ者700人溺死


ここに津浪と記してあるのはなぜだろうか?相馬藩で津浪ということを知っていたのか?
これは当時記したものではなく後から津浪が一般的になり記したものなのか
生波と記したのはこれはその時津浪ということを知らないから記した。
だからこれはその当時に記しことになる。

いづれにしろ津浪に関しては相馬藩では何ら資料がない、だからいくら探るにも限界がある。相馬藩ではその歴史はいろいろい記されている。
でも津浪に関しては何一つ記されていない、700人溺死しか記されていない
ただこの数は伊達藩の死者と比べてみると死者数の数は今回の津浪より数が多い感じがする。それほどの被害だったのである。
在地の豪族が相馬氏の政治に不満をもつことは語られている。
実際に事件もありそのことを記されている。
ただ慶長16年に起きた津浪に関しては記されていない。

伊達藩でも詳しく記したのはたまたま伊達藩内に来ていた人たちだった。
それで津浪のことが全国に伝えられこの時から津浪という言葉が一般化した。
外から来たものは津浪を伝えるのにはばかるものがなかったが伊達藩でも伊達政宗が一言も津浪について言及していないように津浪の被害を隠していた。

誤解しやすいのは貞観津浪と慶長津浪が混同していることである。
貞観津浪の伝説が慶長津浪の伝説だとしている。
岩沼の千貫松の伝説も貞観津浪のことだろうというのもそのためである。
相馬藩の新地の地蔵森でも諏訪神社でもとても津浪の来るような所にはなく
奥の方になっているからだ。


●慶長津浪の明確な年代は本当はわからない?


慶長三陸津波を起こした地震は古い地震で謎が多い。発生したとされる時期も一般に採
用されている1611(慶長16)年の他に、1614(慶長19)年、1616(元和2)年など

慶長16年と記されていても慶長年間と記されているのもある。だから年代も明確ではない慶長年間なのがまちがいないというだけである。


慶長地震とは一つの地震ではなく、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称だった。更に正確に言うと、文禄5年9月1日、4日、5日と大地震が連続したので、慶長と改元したが、その後も地震が連続したのだそうだ。慶長地震(ウィキペディア)から抜粋する


慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0
慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、M 7.0〜7.8、死者710人。
慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、
京都や堺で死者合計1,000人以上。
慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総 沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少な かったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万
慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地 震でM8.1。

慶長年間というのはこれだけの地震の被害もあった。大地震が連続して起きていたのである。文禄からはじまり慶長年間は地震で象徴されていた時代である。
この時は戦国時代だったのである。動乱の時代でありそれに地震や大津波でまさに末世の様相を示していたことは今回の津浪は日本の動乱の時代のはじまりなのかもしれない。

算命学 2011


国家を揺るがすような強烈な出来事が起こってもおかしくは無いのです。
貯蓄・防災・危機管理の徹底など、いざという時の為に備えは万全にしておきましょう


これは2011年1月に占いの人のプログに書かれていたのである。
プログの特徴は日付が記されているからそこから個人であれ歴史を読むことができる。
だから20011月の3月11日の津浪の前と後では時代が明確に区別されるのである。

1611ー2011とかアメリカのビルが破壊された9・11とか何か11は不気味である。
1ははじまりであり開始でありだからその前に大規模な破壊が起きることはありうる。
ただ占いも不安をあおり金儲けにしているものもいる。
それでも2011ー3・11という数字が並んだことは不気味だった。
となると2111が最高に危険な年になる、人類滅亡の年になるのか、その時は自分は死んでいるからどうでもいいともなるが・・・

posted by 天華 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年06月18日

相馬藩では慶長津波のすぐ後に野馬土手や田作りに励む (津波については探る資料がない)


相馬藩では慶長津波のすぐ後に野馬土手や田作りに励む

(津波については探る資料がない)

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慶長16年中村に市坊を置いた。街道の宿駅の整備

同じ頃宇多郡中村城に馬場を開き,騎馬演習を行った。
南北百八十間、東側の濠の土手には桜を植え故に桜の馬場といった。

また慶長年間、行方郡横手村より真野川に堰を作って東流させ
屋形村に引き鹿島、両海老、両右田の五村に分水して田を潤した。

これは慶長年間なのか?二宮仕法で行われたともある。


そもそも慶長年間に鹿島、海老はあった。右田はそのあとに開発されたのではないか?
だから時代的に後であり時代というのも間違って記していることが多々ある。
今回の津浪では田中城まで津浪は来なかった。
屋形とか山沿いから下の田畑は右田の方から比べると一段と高くなっている。
だから屋形や海老の山沿いに大きな溜池を作ればその高いところには田畑が作れる。

ただ津浪のことを考える時、慶長津浪の影響があったことは何も記されていない
記録から読む限り慶長津浪があったということはどこにも見いだせない不思議がある。

なぜなら慶長津浪の後に相馬藩が力を注いだのは津浪の復興などではない
街道の宿駅の整備、そして一番力を注いだのは野馬土手の整備なのである。
それから堰を作り溜池を作り田を作ることが鹿島の屋形村や海老村で行われた。

普通だったら津浪の復興が第一となる。伊達藩ではやはり津浪の被害が大きくそういうことが記録から感じられる。
ただ相馬藩では鹿島区でも津浪の被害にあった所は原野であり田畑化されていなかったのだろう。
だから津浪の被害にあわない屋形の山沿いから田を作りはじめたのかもしれない。


グーグルの写真地図で見ると津浪の浸水地域は海岸の南海老村と右田の方になっている。海岸の方はあとから人がすみはじめた地域である。
屋形村や南海老村でも山沿いの所は一段と高くなっていてそこは溜池から水を引けば
田にできた。その面積もそれなりに広い。だから慶長年間にそこは田にしたのかとなる。

陸前浜街道は慶長津浪があり津浪が来ない所に道が作られたというのも今回の津浪から見ればそうなる。でもまだ相馬藩では田を開拓され作っていない原野が湿地帯が多かった。だから湿地帯をさけて道を作ったともなる。
必ずしも慶長津浪が影響して津浪が来ない所に作ったということではないだろう。


いづれにしろ相馬藩は慶長年間まで戦国時代の延長であり相馬氏が支配を確立していたわけではない、中村城に移転した時支配が一応確立したのである。
野馬土手作りに力を注いだのはやはり軍事を優先したからである。
北朝鮮でも軍事優先であり飢えている子供がいるということは外部の人によって明るみに出されたのである。当時は藩が国だとすると外部に弱みを見せないということで
津浪の被害を隠したのかもしれない、慶長津浪のことは全く探る手がかりもないからだ。外部の人に伝えなければ餓死してるとか悲惨なことはわからない。
ミサイルを打ってくるくらいだからかえって恐れたりしている。
内情は兵士は食べ物もなくやせ衰えていたのである。
今でも対外的には強い所を常に見せておかないと他国に攻められるのは同じなのである。

そして伊達藩でも岩手県の宮古でも牛馬が死んだと記されている。
それは馬が人間と一体化していたから馬が大事だからその数も記された。
相馬藩では死んだのは人間しか記されていない
それも野馬追いがある相馬藩では変だなと思う。
ただ野馬土手などが作られたのは慶長津浪以後であり津浪の被害にあった所で馬をまだ飼っていない地域だったかもしれない、海岸地域は馬を飼いにくいこともあった。
それでも何か解せないものがある
記録にも時代が間違っていたりすべて真実とはならないことも問題なのである。


家屋から家財道具まで流され、先祖伝来の武具、文書、飼い馬も一緒に流されて
誇りや伝統も一緒に流されちまったよ! と言ってたな親戚が‥返す言葉が無かった。


津浪には飼いにし馬も傷つくも負けじといでぬ祭りなるかな


津浪で流された馬もいたし傷ついた馬もいたのである。人間だけじゃない牛馬を津浪の被害者だった。今だったら馬が死んだ数まで記さないだろう。
津浪の被害にあった家が野馬追いに出ることが放送された。
そういうことは慶長津浪ではなかった。それより資料がないから推測もできない。
ただ原町でもそうだが馬を放牧する広い原があったということはそれだけ原野がまだ
相馬藩では多かった。
そうなると海側も原野が広がっていたとなる。

それではな海側に人がどれだけ住んでどんな暮らしをしていたのかとなる。
湊があり湊中心の漁労生活者だったのか?そういう人たちが死んだのか?
まだ田畑の被害は原野だから少なかった。
それにしてもなぜ700人も死んだのだろうとなる。
その死んだ人たちのことを探ることが資料がないから皆目わからないとなる不思議がある歴史にはそうして消失したしまった人たちはいくらでもいるのだろう。

相馬藩でも戦争で死んだ人のことはいろいろ記してありその功績も記されている。
しかし津浪で死んだ人たちのことは何一つ記されていない、700人溺死としか記されていないのである。
被害にあった民衆の間でも語り伝えられてもいいものだがそれもなかった。
そうなると本当に慶長津浪の被害が本当にあったのかとまで疑うことも不思議ではない
歴史的事実として何をもってそれだけの被害があったか探りようがないからだ。
神話でも伝説でも何かしら事実があって語り継がれる。
でも小説では相馬藩が復興に力を注いだと美化しているがそんなことどこからも事実として何もないのである。

posted by 天華 at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年06月24日

なぜ慶長津浪の被害は語られなかったのか? (津浪の後に役金を課して民を苦しめていた謎ー下海老村に米を積み出す湊があった


なぜ慶長津浪の被害は語られなかったのか?

(津浪の後に役金を課して民を苦しめていた謎ー下海老村に米を積み出す湊があった)


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●相馬氏統一の前の中世の館

一国一城になるまえは各地に館があり城となっていた。中村城に移転することによって中央政権体制がでる。そこで相馬藩内で38もの館があったが廃止された。
ここには抵抗があった。特に有力な豪族は海側に港をもち物資を運び財力があった。
小高の村上や塚原がそうであった。
だからこそそこをおさえるために村上に城を築いたが地元勢力の反発がありすぐに中止した。何か不吉だからということではない、在地勢力の抵抗があったためである。


標葉郷 泉田館 両竹館

小高郷 岡田館
中之郷 泉館 泉氏から岡田氏へ
大甕館 岡田氏
北郷
上海老輪蔵館


輪蔵館 反畑にあり 往昔この地に一切経蔵あり。故に輪蔵館と名づく
天文弘治の頃、桑折上野直家この塁に居る。
直家は田中城主桑折左馬助久家の弟治部助家の嫡子なり。


●津浪の二年後に役金を課して民を苦しめる


はじめは天守も築かれていたが、寛文10年(1670)に落雷のため焼失する。この時の藩主は相馬貞胤で、領民に負担を懸けるに忍びないと言って天守は再建されなかった
その性格は江戸時代以降の相馬氏の居城中村城がお殿様のお屋敷という雰囲気なのに比べ小高城は実戦的な砦という 感じがします


最近の小高城の発掘で小高城に火事がありそれは戦闘の結果らしいとか報告があった。
中村城は岡田館などがあるように中世の館とも違いそれほど防備に重点をおいていない城だった。


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務
慶長19年 大阪陣に参加

慶長三陸津波の時、1611年ころは相馬藩の草創期であり政治は安定していない
中村城普請、江戸屋敷の普請、参勤交代の資金・・・などが費用で苦しむ

慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える
http://musubu2.sblo.jp/article/89007433.html

財政が困窮し給人から役金(えききん)を要求した。これが元で一揆さえ起きるほどになった。給人の身分の返上さえあった。つまり役金がとられるのが死活問題になったのだ。

寛文8年(1668) 百姓の騒動、給人三人切腹

給人の知行開発があまりに多い故、山野がゆきづまり百姓たちが春の草をとるとことや、馬をつなぎ、稲を干す場所もなくなり困り果てていた
それで新田開発を一人十石限りとされた

慶長津波から50年くらいたってこういう状態になった。


慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも
慶長 1611 12月 中村城に移転
慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務
慶長19年 大阪陣に参加


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える

慶長18年は慶長津浪から二年後である。その時どうして給人、寺社方、職人まで役金、税金を課してのか?
給人、寺社方、職人とでているが寺社方というのは中世では仏教や修験者の勢力が大きかった。ここで気になるのは寺社方であり職人である。
●南海老村の大工の善次はその役金への不満の象徴だったのか?


南海老村の伝説は善次という大工が中村城の天守閣の造営にかりだされていた。
それが九十九部という仏教の修験者がかかわっていた。
それは確かに南海老村には輪蔵館という寺社の館がすでにあったのである。


輪蔵館 反畑にあり、住昔この地に一切経蔵あり、故に輪蔵塁と名づく、けだし仏閣ありか、天文弘治の頃、上野直家の塁に居る。直家は田中城桑折左馬助久家の弟治部助家の嫡子なり。


相馬 利胤(そうま としたね、1581年(天正9年) − 1625年10月11日(寛永2年9月10日)は、江戸時代前期の大名。相馬義胤(第16代)の長男。陸奥相馬中村藩初代藩主。初名は相馬三胤、相馬蜜胤
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%88%A9%E8%83%A4


武家天野氏羽衣の来由

天野尾張同筑後正常あり、正常義胤公に仕えますます戦功を積んで加田を賜る。
その後天野備後なる者、勇猛の士なり。利胤公の世、牛越後経営の時に当り公の
慮に違へ采地を没せられて下海老村に蟄居す。
荒川某数々備後の過無きを訴え君公之許す。
天野家塁世功あるをもって采地二十二石賜ふ。爾後下海老村に居り代々天野新兵衛と号す方今新兵衛高祖祖父天野新太郎となる者、村絆官管船官となる。
力量抜群、槍柄二を合わせその先に載せ槍柄を取って是を揚ぐ。
一時米を運船に積む。米包多く積みその中につき一包抜く。又これを入れるること元の如し。その他人目を驚かすこと算・・あらず。以て美談となす。

下海老村の地図
http://musubu.sakura.ne.jp/sblo_files/musubu/image/ebimuramap111111111.jpg


下海老村 倉庫海岸にあり、この郷の税米を収め江戸に運船す

下海老村には湊があり船で江戸まで米が運ばれていた。それはすでに相馬氏が中村城に移転して地域を統一したときである。


相馬 利胤(そうま としたね、1581年(天正9年) − 1625年10月11日

この時代に慶長地震と津浪が起きているのだ。

そのことは何一つ記されていない謎である。
その時確かに下海老村もあった。そこには湊もあった。
そして重要なことは津波のあったときかもしれない、
そしたら慶長津浪のことはなぜ一言も記されていないのだろうか?

その時生きていた人物の由来も明確に記され慶長津浪のあった利胤の時代にこれだけのことが記されている。それでなぜ甚大な被害のあった津浪のことが記されていないのか?
今回の津浪から見ればその被害はやはり壊滅的だったはずである。
それが何一つ記されていないのはなぜなのだろうか?


ただ一つ南海老村の大工が確かに中村城に移転したとき、天守造営にかかわっていた。
そこで海水で洗うと怪異が起きたというのは津浪で死んだ人たちがいてその死んだ遺骸などを海水で洗ったものなのだろうか?

慶長十八年に財政困窮したというのは慶長十六年で津浪の被害が甚大で影響したのか?
でもそこにさらに役金を課すということはどういうことなのだろうか
そのために南海老村の輪蔵館支配下にあった善次という大工は中村城の天守造営にかりだされたが領主は輪蔵館にありひきとめられたということもあるのか?


●やはり津浪の被害は相馬藩の当時の政治事情で語ることを禁止されたのか?


いづれにしろ慶長津浪のことが一行だけ七百人溺死しか記されていないことの謎は
解明しようがない、ただその前後に何があったかは詳しく記されているのだ。
不思議なのは慶長津浪の後にも下海老村に湊があり船が運行して米が積まれて運ばれていたのである。
もともとそこには塩場があり塩もとっていた地域である。
津浪があっても塩とることには影響されない、むしろ塩をとるのは津浪の後の方がやりやすいということもあった。ただ湊が破壊されることは船が使えないので打撃だった。
でも下海老村の湊は津浪の後も使われていたのである。
その当時の湊はどうなっていたか不明である。
今のような護岸のある港ととは違う、それでも米を積み出すくらいだからそれなりに港の機能はあったのだろう。

不思議なのはすでに慶長津浪のあったときはそこに住んでいた人物の由来もはっきりしているしその子孫も明確だし今日までつづいているのである。
それがなぜ慶長津浪に関して何も伝わらないのかが大きな謎なのである。

慶長津浪の後の二年後に役金を課しているということそれに不満があったことが記されないことに影響しているのか?
つまり相馬氏にとって津浪の被害を訴えられて役金を徴収できなくなるから津浪の被害のことを無視して記さなかった。それはその時の政治情勢でそうなった。
相馬氏のその時の最大の課題は秀吉や家康との関係を良くして領地を安堵してもらうことだったからである。そのために今の時代だったら津浪の被害があったら外部から援助されるがその時はそんなことはない、だから牛越城の時改易される取りつぶしの危機も経験しているからそっちの方が政治の優先課題であり津浪の被害は無視されたのである。

ただそれにしても相馬氏では無視してもそれだけの被害があればその土地のものとか何か記してもいいはずである。現実に伊達藩では津浪の被害にあったその土地の支配者が記している。それすらないということがとをいうことなのか解明しようがないということである。
「津浪の被害は語るな、口外するな、・・」
何かそういうことが相馬氏から強制されていたのかともなる。

だからただ一つ南海老村の天守造営にかりだされた善次の伝説が津浪を語っているのかとなる。
新地の地蔵森や相馬市の諏訪神社の津浪伝説は貞観津浪のことだったらしい。
慶長津浪のことは何か相馬藩ではほとんどわからない、資料も伝説すら残っていないのである。
柚木の急ぎ坂とか・・・が慶長津浪のことだとすると南海老村に近いし八沢浦の被害からみればありうることである。
地蔵森や諏訪神社より慶長津浪の伝説としてはありうる。
それにしたってもっと何か具体的に伝わるものがあってもいいはずなのである。
それが一切ないということがあまりにも不可解であり謎なのである。


南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説
http://musubu2.sblo.jp/article/99130060.html


ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと・・・

葬礼と関係しているから津浪で死んだ人たちがいたことが伝説化していたのか?
ここがなんか伝説にしても津浪の被害を語っているように思える
なぜなら今回も津浪で流された家族の遺品を懸命に探していたからである。



円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし

また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、・・・・


転々として大いなること茶銚のごとし



これは津浪で流される様を表現したものではないか
津浪によって転々と大きなものでも日用品でも流されたからである

垣の如きもの路に横たわる


これは垣とは壁だとか垣根であり津浪で流されて道をさえぎった様を言っている。
これも津浪の被害をその様子を知っていて記されたのかもしれない
ただ本当に津浪の被害のことは資料がないから知りえようがないのである。

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2014年06月25日

津波は鯨の伝説や神社として祭られて記憶された (相馬藩内の津神社は津浪に由来するのか?)


津波は鯨の伝説や神社として祭られて記憶された

(相馬藩内の津神社は津浪に由来するのか?)

●全国の津神社

魚吹八幡神社(うすきはちまんじんじゃ)は、兵庫県姫路市網干区宮内193にある神社。「津の宮」とも呼ばれている。神功皇后の三韓征伐のおり、神託により創建されたと伝わる。延喜式神名帳の名神大社である中臣印達神社の比定社の一つ。


「角宮」は別称「津の宮」とも言われ、別所池から下流の広大な耕作地域を潤す水源として水神様が祀られています。

また、阿蘇神話の伝説がある穿戸羅漢山の真下に位置し、「角宮」には阿蘇大明神の家来だった鬼八が落とした角が祀られているとも言われています。
鬼の角が落ちたことから、どんなに激しい夫婦喧嘩でもたちまち収まり(角がひっこむ)http://www.town.takamori.kumamoto.jp/kankomap/kanko/post-2.html


名称から、式内社津神社に比定されることもある。
『式内社調査報告』では、国府が近いことから、
式内社・国津神社であると論じられている。

長崎県壱岐市石田町池田西触19
http://www.genbu.net/data/iki/tunomiya_title.htm


広島県福山市津之郷町大字加屋

利根川を臨む津の宮の鳥居

香取神社から徒歩40分。
http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kanto/katori2.html


宮津の地名は、当神社の祭神を海辺に祀り、宮の津と称せしにはじまる。現境
内は、宮の津即ち宮祭る港の址なり、海中の巌を今日も遺す。此巌は神の依代
で、万代の巌又は『波越巌(なみこしいわ)』と呼ぶ。


津守(西成区);難波津を守り、住吉大社の神職を務める津守氏(津守連のちに宿祢)が
いた。

ひさかたの 天の探女が 石船の泊てし高津は 淺せにけるかも〔292〕


敦賀郡津守郷

外からの渡来人や文化に関しては、ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐)の渡来説話がある。かれは、意富加羅国の王子で、初め穴門(長門国西南部)に至り、そこから北つ海から廻って出雲国を経て、角鹿(敦賀)に着いたという
http://yoshi-bay.com/index.php?id=114

大津皇子の竊(ひそ)かに石川郎女に婚(あ)ひし時に、津守連通(つもりのむらじとほる)のその事を占(うら)へ露(あら)はすに、皇子の作りませる御歌一首 いまだ詳(つばひ)らかならず
大船(おほふね)の津守(つもり)が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りてわが二人宿(ね)し

巻二(一○九)



千葉県道253号香取津之宮線香取市香取
http://www.jorudan.co.jp/bus/highway/busstop_%E6%B4%A5%E3%81%AE%E5%AE%AE.html


かきつばた香取の神の津の宮の宿屋に上る板の仮橋

第10歌集『青海波』に収録されている歌である


祭神
上筒之男命(うわつつのおのみこと)
中筒之男命(なかつつのおのみこと)
底筒之男命(そこつつのおのみこと)

通称 津明神・楫取津神社
例祭日 四月第一日曜日
鎮座 いわき市岩間字輪山249

寛元四年、領主岩間次郎隆重が領内海産業の興隆を祈願し、摂津国津の宮の分霊を勧請したことに始まるという。古来、「輪山28」の地に鎮座していたが土砂崩れにより崩壊、昭和十三年現社地に遷宮した。
http://iwakinokamigami.blogspot.jp/2014/01/blog-post.html


津の郷があり津神社(つのみや)ともいう、津の宮は宮津ともなる。津神社とツノミヤ神社は違う。宮は津に湊に祭られた。津が湊となり宮が祭られた。
単純に津神社もあり津とあっても区別がある
ともかく古代では津は湊である。天然の湊である。
だから松川浦の津神社(つのみや)は下に大津とあるからそこが船着き場だった。
その湊を守る神社でありもともとは津浪とは関係ない
ただ津浪の時、そこに上れば助かるというのは別に津浪のために祭られたのではなく
そういうふうに津浪が来た時、そこは坂を上れば助かる場所にあったからそういう言い伝えが生れた。盛んに津浪の故に祭られたというがそういう謂われはない。

磐城市岩間の津明神が、摂津国津の宮の分霊を勧請したとありこれはもともと津神社の基が摂津にあったことを示している。
角とか書かれていてつのみやと呼ぶ場合もある。単に津神社ならそこが湊があったかどうかわからないがツノミヤと呼ぶならそこには湊があった。

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津神社(旧村社)

鎮座地   福島県いわき市勿来町九面九浦九九
祭 神   海津見神 ワタツミノカミDSCF0100.JPG

宵 祭   11月 2日
例 祭   11月 3日

本 殿  春日造
末 社   八坂神社  大塚神社  稲荷神社

由緒沿革   九面湾に面した黒浦山に鎮座し、海の守護神とし  
て奉斎されたものである。 宝暦五年の棟札には「奉造立九面明神」 とあり、
天明八年の棟札には 「奉督改津明神」とあり、九面明神から津明神となったことが伝えられている。


広島県福山市津之郷町大字加屋

この住所も不思議である。津之郷町とあり加屋とあるのは伽耶なのか?
単なる萱なのか?津之郷町とあり加屋があることの謎である。
津守とあるようにもともと津神社は湊の守り神から発していたことはまちがいない
ただツノガノアラシトとかがありツノガが角となり津之郷ともなるのでまぎらわしい。


●鯨と津浪は関係していた

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烏崎の津波に流された津神社にあった「鯨大明神」

「藤沢の地名」(藤沢市発行)によると、「浪合という地名は、かつて大津波が岩屋不動尊のあたりで片瀬川の流れとぶつかり、浪が合わさったところという意味があるといわれている。下諏訪神社の前の池(諏訪池)という大きな池には、むかし大津波に乗って川をさかのぼった鯨がこの池に打ち上げられたという伝承があり、この鯨の骨を埋めたという鯨塚があったそうで、そのため、このあたりは鯨骨と呼ばれ小字名にもなっている。赤山は、現在、湘南白百合学園の辺りで、昔、津波が片瀬村を襲ったときに、この山の中へ逃れた村人の一人が赤ん坊を産んだことからこの地名がつけられたという」
http://shonan-fujisawa.jp/newpage4288.html


『利別川の鯨』

この口碑伝説は更科(1955)によって記録された.
「十勝川第一の支流利別川に、フンべポネオマナ
イ(鯨の骨のある川)という川があるが、この川はある
年の大津波でこの附近の人が皆死んでしまったとき、
鯨も津波におされて来て骨だけが残ったところである
という。(音更町・細田カタレ姥伝)」
フンべポネオマナイの場所は,明らかに
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_20/29-Takashimizu.pdf


実は、このクジラの座礁は大地震の予兆として有名だ。昨年2月のニュージーランド大地震前には、同国南島南西沖で107頭のゴンドウクジラが海岸に乗り上 げていたし、日本でも3・11の1週間前に、茨城県鹿嶋市の海岸でカズハゴンドウクジラが約50頭も打ち上げられていた。

琉球大名誉教授の木村政昭氏(地震学)が言う。
「クジラは音に敏感で、超音波を聞いて方向を決めているといわれています。地震の発生前にも音波が出ることから、座礁との因果関係は否定できない。≫


 『新地町史』には次のような話が続けて紹介されている。
 <明地に近いところに小鯨というところがある。これは大津波のとき鯨が寄ったところだという。
 また新地駅の北の作田に八千(はっせん)山という小高い山がある。やはり大津波のときこの山に登って八千人(多勢の意)の人が命を助かったと伝えている。

なお小鯨は、福田小学校から北西に7〜8百メートルの地点。少なくとも舟輪沢まで浸水したとすれば、小鯨まで鯨が流されてきても不思議ではない。
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-81.html


泉(原町)の津明神は地名をとって大磯神社とも呼んでいるが昔、大鯨がこの浜に上った時、祭られたという


新地の伝説と原町の泉、鹿島区烏崎の津神社は鯨と関係しているから慶長津浪との関係があるかもしれない、津の宮と津神社は違っている。津の宮となるとき宮が津にあり港を守る神社となり津守と関係している。
だから津の宮となると高台にあるのが多い、高津となると高津の宮となりそこが津を守る神社があった。松川浦には大津があるからそこはやはり船が寄った所なのか
それでその大津を港を守るものとして津の宮神社が建てられた。

烏崎の津神社は鯨を祭り鯨の祭りをしていた
そこに鯨明神という碑と金比羅という碑があった。それは明治時代に建てられた。
鯨と津浪が何か因果関係がある。それでインターネットなどで調べ列挙した。
これくらい集めると鯨と津浪は関係しているとという証拠になる。

烏崎の津神社鯨を祭り鯨の祭りをしていた。
鯨を祭っていた神社だともなる。

烏崎の牛島の津神社は低い場所にあり鯨を祭っているから津浪と関係しているともいえる港ととしてあそこはまだなかった。
烏崎の山際が港だったからである。津浪はめったに来ないので鯨の神となってしまった。
高台にあればもっと古くからあった神社になるからだ。
八竜神社はぎりぎりで津浪からまねがれて残った。
それは別に慶長津浪を体験してあの高さに建てたのではない
古い神社は高台にあり津神社でもツノミヤと読んだりすると湊を守るものとして高台にある。


●津神社は貴船や安波様と合殿になったきが多い


新地町釣師のあんばは、現在津明神と合殿である。もともとあんばさまと呼んでいる所は海の出っ崎の地名あるから安波のお宮はもともとそこにあったらしい。


棚塩の津明神社は貴船と合殿で九月十九日を祭日とするが大宝某のこの月この日に海中より出現したという、


豊間(磐城)の海岸の津明神社の社の何か置いてある高さ十三ほどの小祠をみこしとしてかつぐもので・・・


「本邦小祠の研究 岩崎)


津神社


(宇多郷) 尾浜3 原釜1
(北郷)烏崎
(中郷)堤谷 金沢、萱浜、小浜、泉
(小高郷)角部内
(北標葉郷)棚塩


今回の津浪で神社のことも話題になった。特に相馬では津神社のことが実は津浪神社のことだと言われてそうなのかと不思議に思った。
でもよくよく調べれば津神社は津浪の神社という証拠は何もない、津浪に由来する神社という言い伝えも文書もないのである。
確かに相馬氏の松川浦の神社はツノミヤとかツノミツ神社と言われる。津神社ではなく
ツノミヤかツノミツ神社と言われる。ツノミツだ津に満つるだから津浪に由来したのもかとなる。ただこれも三代実録に列挙された由緒ある神社とも言われる。
この神社に逃げれば津浪から助かると言う言い伝えがあり実際に逃げて助かった人たちがいた。でもあそこは原釜の低地から高台にありまず低地の原釜は人が住んでいなかったろう。神社は比較的もともと高い所に建てられる傾向がある。
海側は特に高い所に建てられる傾向がありそういう神社は古い。


八竜神社は各地に多くこの辺でも実に多い、それは今回の津浪からまねがれたものが多いそれは古い神社であり慶長津浪の前にも建てられていた。そして数も多い。
それは縄文人の遺跡とも関係しているともあり古いから津浪からまねがれた。
縄文人は縄文海進があり海だった所には住んでいないからだ。

ところが津神社は相馬藩内では多いのだろう。日立の海にもあるが津神社自体は全国的にあったとして散在しているしまれであろう。
なぜ伊達藩内、宮城県には見当たらないのも不思議である。

浪江の棚塩の津神社の謂われはなぜ702年とか大宝の時代なのなのか?
そんなに古い謂われをどうしてもっているのかとなる。
海中から現れたという時津浪と関係しているのか?

津神社は目立たない神社である。貴船神社は結構あり有名であるがそれと合殿になったり安波(あんば)様と一体化したりして津神社の名も消えている。

ただ相馬藩内の海岸に満遍なくあるということはそれなりの意味をもっているのかもしれない。
鹿島の烏崎の牛島をのぞいて比較的高い出鼻にある。原町の北原の津神社は本当に高い所に隠されるようにあった。
この津神社が目立ってあるのは相馬市の松川浦の津神社(ツノミヤ、ツノミツ)である。
それと鹿島の牛島の津神社も隠されるようにはない、港に近くにあった比較的大きな神社だった。

小高の角部内にある津神社は何なのか?これも角宮とあるごとく津神社と関係していたのか?
ここに津神社が祭られて角部となったとしたら慶長津波の時に名付けられたのか
その時地名化していたらここは重要な地域である。
角のように海に出ている所でもあり地形から名付けられたのか
ただ津神社が祭られていることから地名化したとなると慶長津波以後なのか
時代的には特定できない

烏崎の津神社は慶長年間に建てられているから時代的にも慶長津浪を記念したものだろうあとは時代が早かったり遅かったりしているからだ。
慶長年間に建てられ津神社は相馬藩内でも明確にはわからないからだ。

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2014年06月26日

海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来? (元禄時代の俳句にも残った津浪の共通性ー津浪に由来する神社など)


南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来?


(元禄時代の俳句にも残った津浪の共通性ー津浪に由来する神社など)

●神社でも津浪のことは伝えられている(相馬市の諏訪神社の謎)


いわき市泉町にある諏訪神社は平安時代にその由来を持つ神社である。

天文年中(1532ー1554)に津波によって社殿が壊れ、山の上へとそのご神体を移し、江戸中期に泉藩の祈願社となり、安寿と厨子王の祖父とも言われる岩城判官政氏公の旧舘跡に奉還。現本殿は寛永八年に泉藩の藩主本多忠籌公により建てられ。諏訪跡宮、若木神社、秋葉神社、判官社、金刀比羅神社、足尾神社も境内末社として祀っている。
古からこの土地を見守って来た泉諏訪神社の神の使いは龍


諏訪神社もたいがいは古い神社である。この神社も多い。相馬市の諏訪神社は樹齢500年の姥杉とかあるからいかにも木立に囲まれて古い感じがする。


大津波があったとき、このイチョウのてっぺんさ、舟をつないだんだと> (岩本氏が幼少の頃、祖父の義妹から聞いた話)
また、次のような郷土史研究もある。
<大昔大津浪があつた時、その(境内の杉の大木)いただきに舟をつないだ


あんなに海から離れた所にそんな伝説があるのか謎である。あそこだけは離れすぎているからだ。岩沼の千貫松は津浪が来るとリアルにイメージできる距離である。
相馬市の諏訪神社は想像もできない、ただ神社は遷座することがあるから海近くにあっても遷座すれば磐城の諏訪神社のように不思議ではない。
新地の地蔵森の伝説にしても離れすぎているのが謎なのである。


太東崎先に運気が立ち上り、漁師が網をかけてみましたが魚は一尾も入らず、かわりに光を放つ奇像がとれました。

漁師が網をかけてみましたが魚は一尾も入らず、かわりに光を放つ奇像がとれました。
漁師は驚きあわて、奇像を抱いて住職に届けたところ、住職は一目見てそれが飯縄不動尊だと悟りました。

つまり飯縄寺の前身・万蔵寺と無動院飯縄寺は別の場所にありました。これが一つの敷地で同居するようになったのは元禄の大津波だという話があります。
『岬町文化史年表』によれば、―――飯縄寺は往古、大東岬の上にあったが、この津浪の害を受けて、現在地に移築した。―――
http://pub.ne.jp/kayusou/?entry_id=3981694


●残された津浪の俳句と南海老村の伝説の共通性


まがきまで津浪の水にくづれ行  荷兮

 仏喰(くひ)たる魚(うを)解(ホド)きけり (芭蕉)


爰は津浪に一郷一群の荒たるさまを附て、前句の米を禁裡よりの御救ひ米と執なしたるなり

http://santouka.cocolog-nifty.com/alpha/2008/03/index.html


荷兮の長句(ウ九)の句意は、「垣根まで津波の水で押し流されてしまった」。その芭蕉の短句(ウ十)の句意は、「魚を捕らえて、その腹を切り開いたら、津波で流された仏像が現れた」というのである。荷兮の津波の句も面白いが、芭蕉の付句はその荷兮の句以上に何ともいえない味わいを有している。それは、後の川柳の原型の一つともいえる、「俳諧武玉川」(初篇)の「津波の町の揃う命日」をも彷彿させる。これらの芭蕉の句に接すると、芭蕉が名古屋連衆に驚きを持って接した

山本荷兮(慶安元年(一六四八)〜享保元年(一七一六))
http://yahantei.blogspot.jp/

この津浪を俳句にしたのは貴重である。これも一つの記録である。古くなるとそれは文学的価値より歴史的価値が高くなる。末の松山でもそうである。まさに「波こさじ」という距離にあったことが証明されたから全国から注目された。
津浪は四百年五百年に一回とかなるとなかなか経験しない人は理解できないものとなる。でもこれだけの被害なのだから何かしら人々の心に残り伝えられてゆくのが普通である。
だから南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説は津浪を語っているのではないかと考察した。


藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。


青い光を発す・・とか垣の如きもの路に横たわる・・荷兮の長句(ウ九)の句意は、「垣根まで津波の水で押し流されてしまったとあるのと同じである。
これは津浪を見ているからこの表現があったとも見れるのである。

 仏喰(くひ)たる魚(うを)解(ホド)きけり

「魚を捕らえて、その腹を切り開いたら、津波で流された仏像が現れた」
これもまた不思議なの句である。スマトラ津浪でも地元の人は魚が人を食ったので当分魚を食わなかったというのもわかる。それだけの人間が死んだからである。
その死んだ人間を食った魚を食えないというのも心情的にわかる。
魚はいつも人間に食われていたが津浪では魚に食われるはめになったのである。
仏像が海中から青い光を放ち現れたのを祭った由来を語るものが結構多い。津浪ではそういうことがある。
貴重な仏像でも石碑でも神社の神体も鳥居もみんな流されてしまったからだ。


●八沢浦近くの柚木に残された津浪の伝承

八沢浦の柚木(ゆぬき)には津浪の伝承が残っている。

ここに、「てんとう念仏」と通称で呼ばれている場所がある。
 水田から民家の脇を通って、丘に登っていく。
 <津波が来たときにこの山に登り、念仏に唱えて津波が収まるように祈った>ということから、この地が「てんとう念仏」と言われるようになったという。

 もうひとつは、すぐ近くにある「急ぎ坂」と呼ばれる坂。
 <大きな津波が来て急いで駆け足で坂道を登った>ということからこう呼ばれるという

これは南海老村に近いし民間に伝承されたということで貴重である。そこは八沢浦から少し上った所でも近い、慶長津浪の時は八沢浦は今回の津浪でわかったように柚木の蓬田まで来ていた。だからすでに今回の津浪でわかったようにそこまでが八沢浦だとしたら
もっと奥まで津浪は来たはずである。
八沢浦は今回の津浪の来た所まで八沢浦で海になっていたからだ。
だから近すぎると思った。
地蔵森とか諏訪神社とかは遠いのである。そういう近い所に津浪の伝承が残っている。
小伝承が相馬藩では一番なにか慶長津浪の切迫感を残している。

あとは相馬藩政記では一行七百人溺死としか記されていないのである。

この伝承の謎は当時の八沢浦からしたら近い、すぐ近くである。
普通津浪の伝承は遠い地点に津浪の達した地点に残りやすい。
なぜこんな近くに津浪の伝承が残ったのかというのも問題になる。

ただ八沢浦は海のすぐ近くでも前に山があって意外と被害が少なかった場所があった。
そこでは裏山がありすぐ近くで津浪が来たのを見て必死に逃げて助かった人がいた。
だから「急ぎ坂」という伝承が残ることは納得できるのだ。
津浪の恐怖の余り「津浪がおさまってくれ」と念仏を唱えるのも理解できる。
だからこの伝承には信憑性がある。

相馬藩では他にこうした民間の人が伝えるものがほとんどないのでそれは何故なのかと探求してきた。

磐城の神社でも津浪の被害があり移ったとかの伝承がある。神社にもそういう津浪に関する伝承も残っていない。そういうなかでこれだけが残っていることも不思議である。

まだまだ津浪のことは民俗学でも伝説でも探求されなかった。岩崎氏の「本邦小祠の研究」でも一言も津浪のことを記されていないし今回の口碑でも知っていた人が相馬藩でどれくらいいたのかともなる。他にもあったが伝えられず忘れ去られたのかもしれない。
だからそもそもこの伝承が良く伝えられていたとなる。
でも相馬では四百年も津浪が来ないのだから注目している人はいなかった。

ただ科学者が貞観津浪の砂を松川浦からずっと奥でボーリング調査で発掘したということがあって報告された。それからフクシマの原発でもそのことを報告して危険を訴えたがとりあわなかった。
自分も科学的実証があったのだから注目したのであり津浪のことについては無関心だったのである。

ともかくインターネットはキーワードから調べられるから家にいてもある程度できる。
ただもっと深く調べるにはインターネットだけでは無理だろう。
図書館はまず調べるのがめんどうであり時間がかかりすぎるのである。
だから自分は介護やらで五年間くらい行っていない、コピーするもの手間だし時間が何でもかかりすぎるのである。

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2014年06月28日

津波の跡の南相馬市萱浜をたずねる (天明の墓があったことの驚きー萱浜は移民が早い時期に開拓した地域)


津波の跡の南相馬市萱浜をたずねる

(天明の墓があったことの驚きー萱浜は移民が早い時期に開拓した地域)

南相馬を見守る白狐:津波止めた稲荷神社の神使−二百年の時を超えて
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-M0URWX0YHQ0X01.html

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 天明と記されている


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湊家とあるのはここに湊があったからだろう

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ここは一家で死んだのでしょうか
夫の名前はでていない
こういう悲惨な被害は津波であった
冥福をお祈りします

死んだ人はやはり60以上が8割くらいいるから多かった



半信半疑で海を見つめていた人は逃げ遅れ波にさらわれた」(5月22日付北萱浜地区の住人作成のメモより)。

北萱浜の伝承では、その稲荷神社の2頭の白狐は、江戸時代後期に起きた天保の大飢饉(1833−1839年)で亡くなった人々の魂を鎮め村の安寧を祈願するため、京都の伏見稲荷大社から連れてこられたという。また、南相馬市博物館によると、天保時代に北萱浜に「白狐が棲みついたので村人は『相学稲荷』と呼んで祭祀をした」と「奥相志」に記されている。


かなり広く途方に暮れる。みんな年老いている。原発が近く放射能が多く飛んでいて本当に復興できるのか。先が見えない」と不安げに言う。


ここで海を見ていたという時、海岸では海だけを見ていると津浪が来るのはわかりにくい、海から離れた所だと何か異様な感じがした時、津浪が襲ってきてそれが見えてそこであわてて逃げて助かったという話しを直接自分は何人から聞いた。
津浪を見てから逃げて助かったというのは津浪はまだ見えてから逃げれば助かることがあった。
ただ好奇心で見ていた人は死んだのである。この変は400年もの間津浪がないのだから
津浪についての伝承も何も予備知識がない人がほとんどだったのである。
津浪はどんなものだろうと海岸に見に行った人はかなりいる。
磯部では津浪を見に行って水があがってきたので逃げたという。
一回目の津浪は低い津浪だったのである。二回目に大きな津浪が押し寄せたのである。


ただ不思議なのは調査では津浪が見えない地域で逃げて助かったというのもある。
それはなぜか?ここの報告のように津浪を見に行って死んだ人も結構いたということもあるのかもしれない。
津浪が見えて助かったのは何キロか離れた所である。かえって海岸地帯は家が密集していれば津浪は見えない、だから警報ですぐ逃げた人は助かったからそういう調査がある。
まず津浪警報がでて津浪を見にゆくかなどとのんびりかまえていたら逃げる時間がないということもある。津浪はいかに早く逃げるかが一番肝要になっていたのである

萱浜(かいはま)であんな海近くに墓地があるとは思わなかった。
それで墓をみたら「天明」と刻まれた碑があったことである。
これは相当に古い墓である。自分が相馬藩で見た限りでは庶民の墓では一番古い
屋形の北原に田中城の城主だった相馬氏の墓は確かに慶長と時代が記されているから古いでも庶民の墓で天明と記されているのはみていない
たいがい碑なら古いものがある。文禄とか元禄とかはあった。
ただ庶民の墓では見たことがないのである。
ではなぜここにこんな古い庶民の墓があのか?
それは明らかに真宗の念仏の墓だから移民して来た人の墓である。
「寛政」の墓も二つ見つかったからこれも庶民の墓としては古い。
萱浜が新しい場所と思っているけど古い地域だったのかなと思った。


 1781 天明 01 
 1788 天明 08 

 1789 寛政 01 
 1800 寛政 12 

 1804 文化 01  
 1817 文化 14 
 1818 文政 01 
 1829 文政 12  
 1830 天保 01  
 1842 天保 13 


北萱浜の伝承では、その稲荷神社の2頭の白狐は、江戸時代後期に起きた天保の大飢饉(1833−1839年)で亡くなった人々の魂を鎮め村の安寧を祈願するため、京都の伏見稲荷大社から連れてこられたという

天保というとこのあとである。ただ天明の飢饉が有名であり一番被害があった。
だから天保の大飢饉というのは史実的にはよくわからない。
天明の飢饉があって越中や北陸などから移民がやってきた。
そして萱浜は低い所と高い所があり低い所はあとから開発された場所である。
そこは今回津浪で被害が大きい所である。

ここで問題になったのが慶長津浪の伝承がこの萱浜でも残っていなかったかということである。
ただ慶長津浪から1611年だから150年とか過ぎれば伝えられにくい、特に移民だと元からそこに住んでいないのだから伝えられないということもあったかもしれない。
北原の津神社は慶長津波と関係していたのかと考察したがこれも定かではない
慶長津波の百年後に建てられたとかあり何も伝承も残っていないからだ。

ここでの墓の謎はなぜ移民の人が天明と刻んだ墓を残し得たかということである。
北萱浜は条件の悪いところである。でもその条件の悪い所に入植した人たちがかえって豊かになったという。やはりそれだけ苦労して豊かにしたのだろうか?
人間は条件が悪ければそれだけ努力しなければならなくなる。
だからヨーロッパでも寒い所ドイツで資本主義のプロテスタントの勤勉の思想が生れて繁栄した。
歴史にはそういう逆説がある、南国のように食料に恵まれた所ではかえってなまけものになり勤勉の思想は生れないのである。

つまりあそこに文明と刻まれた墓、次の寛政と刻まれた墓があるのはそこが豊かな地域とすでになっていたからである。
庶民が墓を作ったのは江戸後期である。それが文明という早い時期に墓を作ったということは当時としては豊かだからできた。

もう一つの原因として湊と地名があり湊としての機能があり漁労があったことでも豊かになっていたのかもしれない、海側はそうした湊とか漁労とかが農業以外にあり豊かになる要素がかえってあった。
だから南海老村は北海老村から下海老村から上海老村と別れて発展したのである。
そこでは塩場があり塩をとっていたからそれだけ発展したのである。

萱浜にも江戸時代から松原があったのだがなくなっていた。
明治から戦前にもあり写真が残っている。
萱浜はそれなりに古いということである。右田浜より古い歴史をもっている。
金沢も元禄に開拓されたから明治に開拓された八沢浦より古いのである。
金沢とか古磯部は入江でも小さいから開拓しやすいという条件があったからともいえる。

萱浜での津波の被害者を見ると60歳以上の老人が多い、今回津波の犠牲者になったのは60パーセント以上は60代以上であり高齢者が多かった。
萱浜の犠牲者を見てもそうである。
それで
「かなり広く途方に暮れる。みんな年老いている。原発が近く放射能が多く飛んでいて本当に復興できるのか。先が見えない」と不安げに言う。」
まさにこれは別に津波被害者だけではない原発事故周辺でも言えることである。
小高などでも若い人は帰らないとか外に流出していることが問題なのである。
老人だけ残ってどうするのかという問題である。

ともかく津波では郷土史的には見えないものが見えてきたということはある。
あそこにあんな古い墓地があることに気づかなかったのである。

萱浜の古さ思いぬ津波跡天明と記す移民の墓かな
posted by 天華 at 12:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年06月29日

天明と記された墓は移民の墓ではなかった (歴史的背景は事実であり私の主張は間違いではない)



天明と記された墓は移民の墓ではなかった

(歴史的背景は事実であり私の主張は間違いではない)

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*道号(阿号・誉号・釈号・日号) 生前雅号とか別名を持っている人がありますがそれと同じです。

中国では名の他に字(あざな)を持ち、その人を尊ぶ場合字を用いました。

この字の事を道号といいます。最初は禅門に始まったのですが、他宗派でも用いられるようになりました。
本来は仏道を証得した者が称するものですが、現在では一般の人の戒名として用いられています。 


信士、信女は、優婆塞、優婆夷の意訳で、ともに五戒、または十善戒を保ち、清洋で、正を信じ、邪を信じない仏弟子をいい、信心の篤い者に、


この墓は天明と記されていたが移民の墓ではなかった、他に真宗系の移民の墓はあった。天明の大飢饉の時に移民を呼んだのであり天明に死ぬということはないだろう
これはもともと地元に住んでいた人である。

蓮華道とあるのは僧侶なのかもしれない、ただ信士、信女とあるのは一般の庶民である。江戸時代の後期にはそういう墓が多い
ただ墓を建てられる力を財力をもっていたのは僧侶だとするとこの辺はわからない。


蓮華道信士
姥善信女?


これは僧侶とも言えない、ただ蓮華という戒名は普通の人はつけないからわからない。
何か特別な人であったから僧侶でなくてもこの戒名がついたのか謎である。

ただこれは真宗系統の移民の墓ではない、そこが大きな間違いだった

天明の時期にこの地に来たとしてもすぐに墓を建てられた人はいないし死んだという人もいないだろう、移民が来たのはもっとあとである。

いづれにしろ相馬藩では移民の墓が必ずある。墓地をたずねれば五分の一くらいが移民の墓だということは本当に多い。それだけ移民が入って来たということであり
自分の主張したことは別に誤っていない
そういう歴史的背景は事実だからこの墓についてはそうでなくても
その事実から今を見れば自分の主張していることは間違ってはいない


相馬充胤がここでこの土地のものに石碑を建てられて感謝の意を現したということは
それも歴史的事実である。
でも慶長津波で藩主が復興のために努力したということは一言も記されていないし
そうした事実もないし何の記録もないのである。


この墓が移民の墓ではなかったにしろ他に移民の墓はこの墓地にあった。
だから自分の主張していることが間違いではない
ただ天明の墓が古いと思い良く見なかったの失敗だった。

posted by 天華 at 13:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年07月05日

民俗学で口碑伝説を重んじる意義は大きかった (その最大の弱点は時代が特定できないこと)


民俗学で口碑伝説を重んじる意義は大きかった

(その最大の弱点は時代が特定できないこと)

 

文書の記録より口碑を重んじたのが民俗学を創始した柳田国男である。歴史というと文書が中心だかけど考古学などが発達して地中に埋もれたモノからも歴史を探るようになった考古学は年代を測定できるので証拠が確実にあることで信用されやすい。
文書にはそれがすべて正確とは言えないしその時の権力者の恣意によって左右される。
権力者に都合の悪いことは記されない、今回の原発事故でも権力側によって情報が操作されたことでもわかる。
マスコミも真実は報道しない、NHKもしない、権力によって権力側の圧力によって情報が操作される。NHKは中国や韓国寄りだということが常に今でもネットから批判される。
在日の人が牛耳っているからそうなるとか言われる。NHKもかたよって情報操作をしている。


だから歴史というのは力の弱いものから見る視点が常に欠けているし消されてしまう。
蝦夷というものが大和王権に滅ぼされたがその実体は不明になる。
蝦夷側から何か記して残すことができなかったとなる。敗者は勝者によってその記録も残されないし消される。
権力者のことは事こまかく記されるが一庶民のことは記されない
だから記録として残っているのは戦国時代なら戦争のことでありそれで家臣が死んでどうだこうだと事こまかに記されている。相馬藩でも慶長津波があった時期も戦国時代の末期であり秀吉、家康の時代だからそのことは事こまかに記されているのだ。
慶長津波のことは溺死者700名した記されないない、だからその時の庶民の暮らしがどうだったのかというのもほとんどわからない。
一庶民は何かその頃、日記に記すようなこともなかった。何かを記すには紙も高価だし字も書ける必要があるし簡単にできない、墓すら高価で庶民は残せなかった。
江戸末期に庶民豊かになりわずかだが墓を残すようになった。


だからそうした庶民の歴史は伝えられないので戦争ばかりが歴史ではないと柳田国男が口碑を重んじる民俗学を創始した。文書に残らない学問の追求だった。
そのことはやはり今回の津波で歴史研究では大事なことが判明した。
慶長津波のことを文書に残っていないから知る術もないということである。
相馬藩でも関心は戦争のことであり跡継ぎ問題であり慶長津波については700に溺死としか記されていない。
だから本当にそんな津波があったのかとまでなる。
そんなに被害があったならなにかしらもっとその被害状況などが記されていいはずだからである。それが全くないということが大きな歴史の空白を生みこの辺には津波が来ないんだという信念にまでなっていた。
それは慶長津波についての記録がないことがその原因だったのである。


そもそもその前に海辺で暮らしていた人の暮らしもよくわからないのである。
どんな人が住んでいてどんな暮らしをしていたかもわからない
庶民が日記を残したりしていないからである。
記録を残すにしても400年前となるとそれを残し維持するだけでむずかしくなる。
相馬藩政記が残されたのは相馬藩の政治として権力があって残されたのである。
庶民は権力がないのだから残せないのである。
つまり庶民の暮らしより戦争に勝ったか負けたとかが大事になる。
そこで死んだ家臣のことは詳しく語られるのである。


だから津波に関しても柳田国男の追求した口碑とか伝説とか民俗学はやはり歴史をどうとらえるかで重要な新しい学問だったのである。
郷土史というとき、それは広範囲な知識が必要であり一人だけではできない
地質学となると科学的知識も必要だし生物学的知識も必要である。
そういう総合的なものとして郷土史がある。


原発でもそうした津波を考えるのにも伝説とか郷土史などは無視された。
ただ最近科学的調査でポーリング調査で津波の痕跡が発見されて忠告したが東電ではきかなかった。
この辺にはこんな伝説がありますよと言っても科学者は耳を傾けないだろう。


『双葉町史』に以下のような伝承が記載されている。
 <(双葉町細谷は)伝説細谷千軒といって、海岸まで大変に栄えたという。
 古老の話では、昔、海津波で被害を受けてから、人家も移動したとのことである。
 現在は、海岸もかなり浸食されているが、昔はかなりの集落で、出土品も耕地整理の折に発見されている。『双葉町の人と伝説』より>(『双葉町史』第5巻 民俗編)

『大熊町史』に以下のような伝承が記載されている。
 <野上向山に「魚畑(いよばたけ)からかい森」がある。大昔、大津波が起きてこの地一帯は海水に侵され、その水が引いたあと魚介類が残ったので名付けられたという。『双葉郷土誌』>


こういうことを調べて忠告しても聞くことはなかったろう。
からかい森とあるようにからかっているのかとさえなる。
郷土史はそれだけ科学の時代には重要視されない


ただ口碑とか伝説とか庶民が伝えたものの最大の弱点はそれがいつ起こったのか、ただ昔々にあったとさでは信用できない、文書に記されたものもすべて信用できないのだがそこに時代を書いてあることが一番大事なのである。
時代が特定できることが歴史にとっては一番大事なことであった。
口碑や伝説は時代がわからないことが最大の弱点である。
なぜなら「てんとう念仏」という言い伝えが柚木に残っているとしてもそれが慶長津波なのかどうかわからないということである。
むしろ自分が発見した海老村の大工の伝説は中村の天守造営の時と時代が特定できるから資料として信頼できるとなる。


自分が郷土史に興味をもったのは墓を見たり石碑を見てからである。そこには必ず時代が特定できる。萱浜の墓地にも天明と記された墓があったからここは古い場所なのだと知ったのである。他にも新地の神社に文禄という碑があったときもこれは古いと見た。
おそらく文禄時代に検地がはじまっていて文禄と記された。検地を記念して石碑が残された。葛尾(かつろう)村にも明暦と元禄の碑があったのでここも古いなと思った。
時代が特定できないと津波のことでも一体それが貞観津波のことなのか慶長津波のことなのかそれとも別な津波のことなのか時代を特定できないから困るのである。
だから文書中心の歴史の解釈になってしまうのである。

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新地町の神社にあった

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2014年09月10日

海老村の津波の分析 (津波はどこが高くなるかわからない)


海老村の津波の分析

(津波はどこが高くなるかわからない)



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坂の手前までは来ていない

だからネギ畑を作った

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ここから下は低く津波が流れ落ちて行った


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海老の海岸の道は通行止め




海老村は高い場所にあったから津波であれだけ被害があったのは意外だった。
津波はどこがたくなるかわからない。海底の状態にも左右される。
海老村ではんみに接した崖のところが避難所になっていたという。確かにあそこは高いがあの崖を軽く越えて津波が襲いかかった。
だからあそこがなぜ高くなったのかわからない。
津波は一様な高さでは来ない、あるところで高くなる。
崖の上の海に接していた家は悲惨だった。
三人くらい子供も死んだ。あの崖は高く感じていた。
あの崖を軽く越えてきたのだ。

テレビでも双葉の原発がある場所の崖に津波が高く襲って生きた映像は恐ろしかった。
三陸せも高い防波堤でも越えてきた。高くしても津波を防げない、
津波に効果的なの土を盛り人口の丘を作ることである。
それは低くても津波の勢いをそぐことができる。
松原は津波には弱かった。

ともかく鶏足神社の前の坂まで津波は来ていなかった。
あの坂で遮られたと思っていた。実際はそれより前までしか来ていない、だから坂の脇でネギを作っていた。
塩水はかぶっていないからネギを作り始めたのである。
今は天候不順で野菜が高いから農家でも畑を始めたところが多くなっている。
やはり人間は働いていあないと土地も自然も活きて来ない、
防波堤は高くしているからあそこは当分工事が続く、
海岸の道は立ち入り禁止になった。


タグ:津波
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2014年09月16日

東京の危機迫るー貞観津波の時と同じ傾向 (茨城から千葉、埼玉と地震が頻発)



 東京の危機迫るー貞観津波の時と同じ傾向


(茨城から千葉、埼玉と地震が頻発)

これまでの地震は散発的に起きていた。東日本震災から違っている。周辺に集中的に起きているのはやはり東日本震災の影響である。埼玉に震度5弱が起きたのは不気味である。
東京は東電が原発を福島に浜通りに作った。それは一千万の東京を維持するために作られた。東京は自らの危険を避けて東京に作った。そして原発事故の災禍をもたらしフクシマでは浜通りでは人も住めなくなった。
この災いをもたらしたのは東京のような巨大都市がありそれが負荷となり原発事故がもたらされたのである。東電や政府は東京から離れたところで安全策を図ったのである。
そして飯舘村のような原発とは関係ない自然と共生を図って暮らしていた村に住めなくさせたのである。その罪は余りにも大きすぎたのである。
そのカルマを支払わせるために東京に危機が迫っているのだ。
貞観津波の時も陸奥は大被害を受けた。それはそのとき大和王権が陸奥の蝦夷をふみにじり虐殺していたのである。

そうして人心が乱れるとき自然も乱れる。その乱れを蝦夷の怨霊を鎮めるために祇園祭が始まったという。そのときの政権は奈良から京都に移っていた。
そのときは首都は京都だったが今は首都は東京である。
そういう人間の歴史とも災害は関係して起きてくる。
大災害はまた人間社会の根本的変革をうながす強制するものとしても易姓革命を起こすものとしても起きる。
原発事故も天の警告であり変革をうながすものとして津波が襲ったのである。
東京一局集中も国土利用では間違っている。天の配剤がありそれに反するとまた天変地異が起きてくる。東京はすでにもうそうした自然から見れば異常に肥大化した自然に天の理に反したものとなっている。
だから天の理に従って大災害が起きて新たな日本の国造りを強いるのである。
それはとても人間の力ではできるものでないから天が関与するのである。
原発事故でもその悪が暴いたのは人間ではない、国家的犯罪になると人間では裁けないから天が神が自然を動かすともなる。

蝦夷の怨念と同じものが今回も起きている。貞観津波では京都だったが今度は東京になる。
東京では常にに地方を軽んじてきた。第一次産業を食料を提供する地方を軽んじることは自然を軽んじることに通じているのだ。
大きく見ればグローバル経済というのも日本を起点にして見直される時期に来ている。
食料は国内で自給するのが基本であり外国に頼るのは天の理に反するのである。
だらこそ天から罰を加えられる天変地異が起きてくる。
tppもアメリカの第二の属国化なのである。

都会には都会のカルマがある。関東大震災があったが東京では必ずそういう地震災害が起きる。都会は災害に弱いからである。だからカルマを繰り返す、東北でも津波は繰り返されてきた。日本自体がそうした国土のカルマをもっている。その運命から逃れられないのである。歴史を振り返ってもその地理が歴史を作るように災害も繰り返される。
ただ日本人は忘れやすい民族なのである。何か一過性で台風のように荒らされてもその後の青空のように忘れる。
神戸の地震でも都会の被害は甚大になる。それを考えたら普通はあんなに密集して住んでるのは地獄を作り出すためにお膳立てしているとしか思えない、それは津波でなぜ危険な海岸に家が密集していたのかと言われるのと同じなのである。
高層ビルに住むということはやはり人間の危険に対する感覚がマヒしているとしか言い様がないのだ。

東京が大被害受けることは日本の国土再建計画が起こり地方に危険を分散させる政策が取られる。東京オリンピックは中止され国土再建に向かう。東京遷都も具体化するそれだけの衝撃がない限り本気の改革はできないのである。

窮まれば変じ、変ずれば通ず(易経)

正に被害地はこうなっている。原発事故ではそもそも町や村がなくなった、住めなくなったのである。これ以上の変化ない、これに対処するには変じるしかないのである。
これはまた明治維新とか戦後の焼け野原と似ているのだ。
東京に大地震が起きたら全国規模で国土再建をせざるを得ない、それはそうしいられるのである。 その後にまた新しい日本国土の天の理にかなった再建が行われる。
そうでないければとても大きな根本的改革はできないのである。
そのときまた荒廃の極点に達していた日本人のモラルの再建もありうるのである。
つまり人間の力だけではモラルもあらためることができないのである。
だからそこに天の力が働き国土の改革が行われる。そのための犠牲として津波原発の犠牲があったともなる。戦争の犠牲者があって戦後の復興があったと同じである。
時期的に明治維新から70年で戦争へ戦後約70年で大災害になった。そいう節目に自然災害も起きてくる。それも天の理だったのである。



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2014年11月08日

NHKの放送の原発近くの熊川の津波の被害の写真 (ここを通った桜が咲いている写真があった)


NHKの放送の原発近くの熊川の津波の被害の写真


(ここを通った桜が咲いている写真があった)




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桜の木は枯れた
でも木が結構残っているのは不思議である。
この辺はほとんど海に接している地域だからである。

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熊川を下り開ける桜咲き沖に船見ゆ鴎も飛びぬ



NHKで時系列で20113月の津波と原発事故以後の被災地の状態を放送していた。
原町の萱浜(かいはま)で家族四人もなくした人が出ていたがこれも悲惨だったとなと思う一挙にそれだけ亡くすとなるとその衝撃は大きすぎる。
それでも息子と新しい家をすでに建てていた。
ともかくこういう悲惨な悲劇から立ち直るのは容易ではない
忘れろと言ってもなかなか忘れられないだろう。
ただ近くでも被害にあわない人は家族四人なくなったからといって痛みにならないのである。
ただ自分が苦しめられたことは延々と忘れられないのである。
つくづく自分のみに災いがふりかからないかぎり無関心な利己的なものだと思う
現実自分が苦しい目にあっているとき誰も同情しない
かえってチャンスだと様々なことを苦しめられてきたのである。
だからそのことが自分にとっては忘れられないのである。

六号線から海の方に出やすかったので熊川の方に出た。
あそこがあんなに事故のあった原発に近いと思わなかった。
なかなか原発は意識しにくいこともあった。
あそこからは原発は見えていない
でもなんか川下ると海が見えて沖に船が行くのが見えた。
桜が咲いてのどかな風景だと思った。
あそこにもそれなりに家はあった。
誰かが耕して休み船を見るとかいう俳句を作っていたがあの辺だったのだろう。
畑があり海があればそうである。そういう平和な風景が根こそぎ失われた。

六号線は全線開通している。
だから通販の品物が早く来るようになったのか
六号線を東京から直通だと早くなる。中通り通ると一日は確実に遅れていたのである。
あそこの熊川の隣は小良が浜(おらがはま)だった。
おらの浜だとして岩城氏と相馬藩が争った地域であり境界だったのである。
六号線を行ってみたいが自転車では行けない、車だと行けるようになった。
でも六号線だけでありあそこには行けない
あの辺は相当な放射線量だろう。
いづれにしろあそこなども誰も住まなくなるだろう。
原野化したがそのままであり津波の跡の海岸線はどこも同じである。
タグ:熊川
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2014年12月20日

スマトラ津浪でモーケン族が津浪から逃れられた理由 (相馬藩でもなぜ400年前の津浪が忘れられていたのと通じる)


スマトラ津浪でモーケン族が津浪から逃れられた理由


(相馬藩でもなぜ400年前の津浪が忘れられていたのと通じる)


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今回の津波は小高の駅を越えてきたのに驚いた


モーケンは「海の遊牧民」と呼ばれる海洋民族で海岸に住んだり船上生活をしていて、おもに漁業を営んでいる。
 海洋民族にとって潮の満ち干は頭に精密に入っているが、それ以上に潮が引いたのだ。

モーケンは「海の遊牧民」と呼ばれる海洋民族で海岸に住んだり船上生活をしていて、おもに漁業を営んでいる。
 海洋民族にとって潮の満ち干は頭に精密に入っているが、それ以上に潮が引いたのだ。
 先祖からの言い伝え通り津波が襲ってくる。そう直感し、ただちに245戸、約1200人の集落全員が村の高台に避難した。

モーケン族(Moken)とは、ほぼ一年中海上で過ごす海洋民族。モーケンやモーケン人とも呼ばれる。モーケンは、自称でビルマ語では、サロン族と呼ばれる。別名「海のジプシー」。
アンダマン海、タイ王国、ミャンマー、メルギー諸島(英語版)の近海に暮らしている。ミャンマーとタイの政府はモーケン族を文化的に同化させようと試みてきたが、その成果は限られたものである

主に、カバンと呼ばれる家船(えぶね)に住んでいて、見知らぬものと出会うことを恐れている。しかし最近はミャンマー政府の政策により、海岸で定住生活をさせられている者もある



海の遊牧民などというのはなじみがない、海だけを生活にしている人達である。でも狩猟もしている。ただ定着しないだけである。だから海というのは国境がないから広範囲に国を越えて海をわたりあるく人達だとなる。
砂漠の国でも国境はなくそういう人達が今でもいる。
砂漠とか草原は海とにている、馬であれラクダであれ平坦であり移動しやすい、そして国境は作りにくい、壁を作るにしてもできないからである。
だから今でもどうしても移民でも大陸は入りやすいのである。

そもそもなぜこれに注目したのか?学者が注目したのはやはり今回の地震と津浪でなぜ海岸沿いに住んでいた人達が津浪に対する警戒感もなく避難することもなく甚大な被害になったのかということが延々と語られているからである。
相馬藩でもたった一行700人溺死とした記録が残らないのはなぜかと探求してきたが良くわからない。
つまり津浪になぜこれほど無警戒になっていたのかということが解せないのである。
スマトラの被害も甚大だった、10万人とか死んだというから想像を絶する。
そのとき日本ではあそこでは津浪を経験していないから無警戒だったとか盛んに言われたのである。それがまもなく今度は日本で津浪で大被害にあった。
日本なら津浪の経験があるのだからこんな被害にならないとなるが実際は違っていた。

するとなぜこのモーケン族が津浪をさけることができたのかとなる。
そもそも津浪はそんなに度々こない、でもスマトラでも巨大な津浪が2500年の間に三回来ていたことがわかった。堆積物からわかったのである。
つまり今回だけではない前にも巨大な津浪が来ていたのである。
ただそれが忘れられていた、それでモーケン族だけが津浪をさけたのはなぜかとなった。
モーケン族がそんなに昔から一部族を形成して海をわたり生活していたのかとなる。
そんな古い人達なのかともなる。たいがい同化するのが普通だからである。
古代には日本にも隼人(はやと)などが九州にいたけど日本ではそうした異民族が蝦夷征服で終わっている。もう日本人しかいないし日本人に同化しない民族はいない。
モーケン族が小さい集まりであり部族だからそういうものが今までずっとつづいてきたのかとなる。
そういう一部族が存続していたというがどれだけ古いのかわからない。
ただその一部族が残ったということは何か民族の化石のようなものになるのか?
モーケン族は海を舞台に常に活動しているとなると海について詳しくなければ生きていけない。でもそもそもどのくらいの歴史があるのかとなるとわかりにくい。
ただ津浪についての知識をもっていた。だから大きな津浪は400年と2か500年とかのスパンで起こるからそういう津浪のことを伝えるということはそれだけ長くそうした部族が生き続け津浪について語りつづけねばならいないのである。
ただ海の遊牧民としての生活がつづいていたのだから海から離れなかったのだから津浪についてもその知識が伝えられたとなる。

相馬藩ではどうなっていたかというとちょうど津浪が起きた400年前は相馬氏が進出した時期であり戦国時代であり相馬地方はそうした地元でも混乱した状態になっていたのである。相馬氏は外来の氏族であり地元の勢力ではなかったのである。
だから海側に勢力をもっていたのは在地の勢力であり相馬氏ではなかったのである。
相馬氏が進出してきたときちょうど慶長の津浪が起きた。
それは相馬氏にとってはかえって海側の在地の勢力が津浪で大打撃を受けて勢力が衰退したのである。それは相馬氏にとって好都合だったともなる。
相馬氏進出の経路を考察してわかったことは小高に進出して原町は深野(ふこうの)は在地の勢力があり館とかの地名が残っている。それで大原に進出したのである。
ここは未開の原っぱになっていたからである。その大原から小池の方に進出した。
今の鹿島区は北郷となっていてもともとは岩松氏などが支配していた。
その家来の系統が横手にもいたりするからなかなか進出できなかったのである。
相馬市でも磯部館がありその後日立木の鬼越館に移りそこでも相馬氏と争いがあった。
伊達市と通じるとか海側の在地の勢力とは対抗していたのである。


海老村の藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。
その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。
海老村に残るこの伝説で注目すべきは
その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。


なぜ大原村が関係しているのかというとまさに大原は相馬氏が最初に原町で進出してきた場所だったからである。

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相馬氏古支配帳(文禄)

このように大原にはいくつも記録されていることでもわかる。
相馬氏と何ら海老村の在地の勢力が敵対して争ったことが伝説になった。
これはちょうど中村城の天守閣造営にかかわっていたし慶長津浪の時期と一致するから
何か津浪とも関係していたのかもしれない、他に津浪の伝承はない
あっても慶長津浪かどうか判定できないのである。

今回なぜ福島県から宮城県と津浪の被害がこれほど大きくなったのかその原因はモーケン族のように一つの部族であれ語り継ぐ歴史が失われたからかもしれない。
宮城県でも大きな被害があったのは海側に都市化して住宅化したところだった。
多賀城でもそうであり家が密集してしまっていてもうそこにも津浪があったということすらイメージできない場所になっていたのである。
貞観津浪の末の松山が伝承として残っていたがその前はもう住宅地で家が密集してそこが海だったかとイメージもできない場所になっていた。
そして学者が津浪がくると仙台の海側の住宅地に警告したら不動産屋が価格が下がるからそんなこと言うなと脅されたという。
まさにこのことが象徴しているように津浪を警戒するということはまずモーケン族のように海と切り離されて生活しているのだからそういうことを意識できないのである。


そもそも海岸の港でも海を常に意識して漁業で暮らしている人は少ない、ただ松川浦では津浪が来たら海に船を出せということでそれを実行して90パーセントは船に被害がなかったのである。だから海と生活しているというときそういう伝承は伝えられていた。
でも住宅地化したらそんなことは関係ない、海側は景色が良くて涼しいから気持ちいいとかなるだけである。
海側に住んでいるからといって今は漁業している人はその海側に住んでいる人でも少ないのである。海老村などではほとんど海とは関係なくなっていた。
そこに漁港があったとしてみんな漁師になっているわけてではないのである。
そしてモーケン族のように代々強固な一族として継続していない、相馬氏が入ってきていろいろな氏族が混じり合うようになるとそうした伝承も残りにくくなる。
相馬氏が支配者になれば相馬氏の都合のいい一番関心のあることだけが相馬藩政記でも記されるようになる。そこでは跡目争いのことなどが詳細に記されている。
そして誰が功績があったとか戦争で活躍して恩賞をもらったとかが記される。
その時津浪の被害が大きくてもかえって相馬氏にとって敵対勢力が衰退すれば都合が良かったとなるのである。今の時代の考え方とは違ってる。

小高の縄文海進時代の地図を見ればわかる。小高の駅を越えて城近くまで津浪がやってきた。縄文時代は小高の城があった浮舟城当たりまで海が迫っていたのである。
だからその縄文時代が再現されたから驚きだったのである。
もともと海だったところが本当に津浪で海になったのである。
もし縄文人がモーケン族のように残っていれば津浪のことを伝承されたかもしれない、もうそうした共同体も複合体になり失われていた。
つまり何らかの伝承でも伝説でもその土地に残るとしたらモーケン族のような強固な族として残っていないとそうした伝承は忘れられる。
モーケン族は今でも海を生活の糧として一団として残っていたから津浪の被害にあわずにすんだとなる。
昔からのものを何か残す伝えるにしても社会が変わってゆくと忘れられ伝えられなくなるのである。

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2014年12月24日

南相馬市鹿島区の大内村で津浪の被害にあった人の話 (家もなくなり原発の補償金ももらえないので同情)



南相馬市鹿島区の大内村で津浪の被害にあった人の話


(家もなくなり原発の補償金ももらえないので同情)



河原の土手で休んでいる人がいたので話しかけた。
その人は大内村の人で津浪の被害にあっていた。
大内村の不思議は道をはさんでわずかに高くなっている場所の家は
被害が少なく残っていた。
道を挟んで田んぼ側は被害が大きかった。
だからもともと古い家は道を挟んで高い所にあったのだろう
大内村はも古い村である。館とあるのは中世だろう。
古代にも船がさかのぼってきたという曽賀船の地名がある。
これも前が海だった時のことを伝えている
船が海からさかのぼってきたからその名がついた。
烏崎の船着も船が着いたからその名がついたけどそこが海だったということを意識することはむずかしかった。
ただ今回の津浪で本当に古代に海だったところが海になっていたのである。
大内に潮水が流れてきたとか言っていたけど真野川から何か小川をさかのぼって潮水が流れてきたことも考えられる、それなりに海の影響があったともなる

ただ大内村は道を挟んで高い所と低い所で明暗をくっきりと分けたのである。
その人が助かったのは家族でみんな石神の親戚に行っていたから助かったという。
でも家も何にもなくなったという。
大内の低い場所は海から離れているけど意外と被害が大きかった。
あそこのトラック運転手が津浪が来るのを見てトラックで必死になって逃げたという話を聞いた
あの位置だと津浪を見てまだ逃げられる場所にあった。
でも大内村だったらすぐに坂を上れば助かったのである。
トラックで逃げたということはトラックを流されないようにするためだったのだろう。


その人はすでに90才越えていたけど自転車にのりしっかりしている。
ただ小高の人が原発被害で避難して仮設に入っていることがわからない
今の事情は飲み込めない、自分の母親も99になって津浪や原発のことを言ってもわからないのとにている。
その人は困っているのは冠婚葬祭に出る着るものがなということだった。
田舎ではそういう場に出るのが多いからそう言っているのかもしれない
でも着るものもみんな流されて何にもないとか家も金が建てられないというのはあわれだと思った。
ただそれは冠婚葬祭用の礼服がないということであり着るものに困るということではないだろう。
真野川は大内川とも河口では言っていた。浪江で高瀬川が下流では請戸川になっていたのとにている。

往古鮭を漁するもの上流上栃窪村坂上神祇八竜権現を以て真野川の鎮守と崇め豊漁を祈るといふ。古より毎秋初鮭を捕へ公に献ず、袋村また当村に属して課業す
(鹿島町誌)

八竜権現は多い神である。水の神だから川の神にもなっていた。
川子の高台にもあり烏崎にもある。烏崎の八竜神社は津浪からぎりぎりで助かった。
だから何かあれは奇跡的に思えたのである。
そしてなぜあんな高い所にあの場所に建てたというのが問題になった。
津浪の前に建てられたのか後に建てられたのか追及したがわかりにくい。
烏崎は岩松氏が船で上陸したという伝説があり南北朝時代にもすでに寺があり遠藤氏が住んでいた。大内にも遠藤氏が多いからその系統が移り住んだ。
慶長津浪の前に八龍神社はあったと推測される。
袋村は消失したがもともと大内村の人が開拓して開いた村だった。


その人は津浪のとき石神の親戚に家族で行っていたということは運が良かったのだろう。そうでなければ家族の人も死んでいるいうこともあった。
ただ家は流されて何もなくなってしまった。金もないから家も建てられない、そして原発避難民のように補償金ももらえないから損だとなる。
ただそうした事情がのみこめないから別に小高の人をどうだこうだとは言わない
津浪の被害者もあり原発被害者も同じ仮設にいる。
だから鹿島では原発被害でも補償金がわずかだから同じ仮設に住んでも不満が大きい。
この人は着るものもなく家も建てられないから他の人より不遇だとなる。


その人は20才で甲種合格で中国に行ったという,20だと90まで生きていればまだ戦争のことを直接聞くことができるがやがて直接は聞けなくなるだろう。
戦争で生き残ったのもやはり運が良かったのか、無惨に死んだ人達のことを語っていた。今回も津浪の時に家族で親戚の所に行っていて助かったのである。
これも運か良かったからかとなる。
そのことは次に書いてみよう




posted by 天華 at 14:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処