2013年03月14日

津浪がもたらした良いもの (海がきれいになった?人間界の悪を暴いた)


津浪がもたらした良いもの

(海がきれいになった?人間界の悪を暴いた)


津波のおかげ、と言ったらいいのでしょうか。
湾内の海底がきれいになりました。

津波は、人間が生産し、排出したヘドロを、陸上へと返して寄越したんですね。
まるで、天罰のよう。


その後、重茂地区を襲った津波の写真を再び見ました。
外洋の津波の色は、青いのです。
だから、黒い津波は、人間の色。
人間は、たぶん腹黒い。


そして、今、岸壁に付着している海藻類やシュウリ貝を成長を目にし、たくさんの稚魚を見ると、海がきれいになったような気がする。

津波は、海を再生させたんだ、きっと。


津波の記憶 11
http://platinum-room.seesaa.net/category/11960509-1.html


津浪はあまりにも陰惨な悲惨な光景しか写しださなかった。それで自分が津浪で美しい八沢浦がもどったという記事を書いたとき「お前はここで死んだ人のことを考えないのか」と意見があった。実際に死んだ人はいた。一家で三人くらい死んだ人もいる。でも一方で本当に八沢浦開拓する前の元の入江にもどった。そのことに自分は正直驚嘆した。八沢浦は村が壊滅するようなことはなかった。家も入江になった中には一二軒しかなかった。海岸に接してあったが数軒だった。自分はいつもあそこが入江だったらどんなに美しいだろうとイメ-ジしていた。それが一時現実にそうなったからそっちの方に関心が向いてしまった。奥まで水が入り込んでキラキラと朝日に光り浦波が岸辺によせてきたときは本当に奇跡のように感じた。これは偽らない感情である。あとで確かに泥の中を自衛隊が死体を探していた。その残酷さ無惨さも事実であり一時津浪によって美が現れたことも事実なのである。


プログなどで報道を素人がするようになったとき、報道とは何だろうと思った。それは事実を報道することなのだ。いろいろ解説する前に事実を報道することなのである。ところが事実が報道されないのだ。テレビでも新聞でも事実が報道されない、必ず隠蔽されるものがある隠されるものがある。
津浪のプラスの面は報道されていない、津浪によって暴かれた悪が確かにあったのだ。それは前にも書いた。それは戦争中と同じ悪だった。すべてが原発の利権に群がり原発を推進してきたのである。そこでは原発で不祥事が小さな事故があっても報道されなかった。報道管制がしかれていたのである。報道はいろいろと解釈するのではなくまず事実の報道がベ-スになるべきなのである。その事実が報道されないのである。だからまずニュ-スにテレビ局やマスコミで色をつけないで事実そのものを報道すればいいといわれる。その事実が報道されないことが大きな過ちにつながる。ある意味で事実を報道することは命懸けになるのである。


この世の中は複雑であり悪と善が入り交じり何が悪か善かも見えない世界である。まさに津浪のように醜悪なものと美が混在していたのも事実なのである。圧倒的に醜悪な陰惨なものであったがその中に津浪のプラスの面もあったのである。これも事実だったのである。だから津浪には海を浄化する作用があったということである。それは原発事故の悪を暴いたと同じではないか?おそらく津浪がなかったらこんな巨大な悪は暴かれることはなかったのである。検察までかかわり巧妙に絶対的権力で隠蔽されていたからである。だから朝日新聞さえ東電からかなりの宣伝費をもらっていたのである。これは戦争中と同じだったのである。日本が原発で大政翼賛会になっていたのである。創価などのカルト宗教団体もそうだしあらゆるものがそうだったのである。金が入れば利権になればと原発を推進してきたのである。それは地元の人でもそうである。国民も戦争に熱狂的だったとか言われるのと同じである。こうなると事実であっても隠蔽されるから本当のことはもう闇の中になり突然今回のような事故で明るみに出される。それは人間の力ではない、自然の力というか神の力さえ感じた。

津浪は海上では青かった。ところが陸地に入ってくると黒くなっていたのである。まさに人間の住む陸地に向かったときどす黒くなった。これも意外だった。津浪は海上から黒いと思っていたからだ。まさに腹黒いという表現がひったりである。人間界は腹黒いやつで一杯なのである。


外洋の津波の色は、青いのです。
だから、黒い津波は、人間の色。
人間は、たぶん腹黒い。


津浪とはだから自然の浄化作用という側面もあった。今回の津浪が想定外というときこれも人間の奢りを打ち砕いたのである。このプログの記事は漁師だから海を津浪を良く冷静に観察していたのである。一般には津浪を冷静に観察できない、津浪に対する憤りに満ちていたからだ。
津浪は大きな人間の想定を越えた自然の作用であった。そして神からの警告でもあった。原発のようなものを日本のような地震国には作るなという警告であった。でもまたこの警告は忘れられようとしている。

posted by 天華 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2013年03月16日

松川浦の尾浜の漁師から津浪の話しを聞く (津浪はともかく早く逃げないと助からない)


松川浦の尾浜の漁師から津浪の話しを聞く

(津浪はともかく早く逃げないと助からない)

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原釜(はらがま)は鎌倉のようにカマ(鎌)の地形だった。もろに津浪に襲われる地形だった。
尾浜は山にさえぎられて津浪が弱められた。ただもう一方からも津浪が来たがそれも離れていたので
被害も大きかったが原釜よりは被害が少なくてすんだ。津浪はちょっとした地形で被害が違っていた。

地形により津浪の大きさは違っていた
http://musubu.sblo.jp/article/44126846.html



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ボランティアが金沢で砂を掘り起こして津浪の漂流物を掃除していた

南相馬市の原町区の金沢でポランティアが砂浜を掘り起こして津浪で流された木片などを掘り出していた。金沢の浜はサ-フィンで有名だった。サ-フィンをする人がすでにきていた。ボランティアは一人は静岡で東京の人であった。他にも結構遠くから来ている。それから松川浦の尾浜で漁師をしている青年にあって津浪の話しを聞いた。その人は屋根に上ってそれから山の方に上り助かったという。おじいさんは死んだという。家が流されなかったのは高台にあったのと柱が太い鉄骨だったかめだという。鉄骨が細かったら流されていたという。柱に鉄骨を使っている家はすくない、ましてや太い鉄骨は使わない、ただコンクリ-トの家は流されず残ったということはある。もし鉄骨でなかったら一階まで津浪が来たのだから家自体が流されてしまって助からないということもあった。


テレビで最初3メ-トルと聞き次に6メ-トルと聞いたがそれほど驚かなかったという。ところが10メ-トルと聞いたとき驚いて逃げたがそれまでの時間がないので屋根に即座に上ったという。つまり津浪は時間の余裕がないのである。津浪でんでこというときばらばらになってとにかく早く逃げろというのはそのことであった。予兆としては川が異常に退いてた。こんなに引いたことはないという、津浪の予兆は川であれ海であれ異常に引くのである。これだけはみんな言うから間違いな兆候なのである。そしてすぐに逃げない限り助からないこともこれまで経験したことで伝わっていた。四倉では即座に松の木に登り助かった人がいた。四倉は砂浜が広く緩衝地帯があったため意外と被害が少なかったのである。この辺では松に登っても海岸線では助からない、強烈な10メ-トル以上の津浪が襲ってきたからである。


原釜は直接に波がおしよせる所にあり被害がひどかった。波が二方面から来て原釜で渦巻いていたというかち恐い。新沼の方も低地であり津浪の被害が大きかった。だけど松川浦に面していた尾浜は裏の山にさえぎられ前からの津浪も多少緩和したから家は残っていた。海岸に接していた磯部では土台しか残らず壊滅した。津浪は地形の影響を受けやすいのだ。八沢浦では海岸に近いのに前に山がありそれで緩和されて助かっていた。その家ではじいちゃんだけが死んだだけだったから被害が少ない方だとも言っていた。船も沖に出して助かった。船を沖に出すのを遅れて船が流されてつかまってそこから脱出して助かった人もいたという。松川浦では船を沖にだしたので90艘くらいは被害がなかった。今回は意外と老人が逃げずに津浪にのまれた。それはなぜかというと老人は自分の経験から津浪など経験していないから津浪などこないと逃げなかった人が多いのである。家族のものが逃げようと言っても津浪なんか来ないと逃げずに死んだ人が多いのである。


津浪はそもそもこの辺では400年前に起きたことであり誰も知らない、相馬藩政記に一行700人溺死と記録されていただけである。どういう状態なのかもわからない、一方宮城県の方では岩沼辺りでは船が山まで流されてきたとか伝説が伝えられていてその話を聞いた東北電力の副社長が10メ-トルでいいではないかと決められるところをもっと高くして女川原発は助かったのである。相馬地方では津浪の伝説すら聞いたことがない、津神社が津浪を記念したものだともわからなくなっていた。


これでわかることは長い歴史になるともう生きている老人に古老に聞いてもわからないことである。400年前のことをどうして知り得るのか?それはただ一行しか記されていなかった相馬藩の記録しかなかったのである。だから歴史はこういうふうに昔になりすぎると生きている人間からは知り得ようがないのだ。そしたら何で知るのか?文献には一行だけ残っていたが誰も注目もしなかった。伝説もないとすると知り得ようがなかったのである。そしてかえって老人は津浪など来ないとして死んだ人が多いのである。歴史というのは長い時間のことであるけど老人は百才生きても400年前のことは知らない、経験しないものについてはかえってありえないとして対応できなかった。


若い人はなんとなく危ないと感じて助かったしまた逃げるのも早いから助かるということがあった。老人は逃げるにしても遅くなると助からないのである。今回の教訓として歴史は長い時間のものでありその中で歴史を見直す必要があることだった。400年前としても現実にここでもあったことだからそれを検討する必要があったのだ。それは老人に聞いてもわからなかったのである。そこに人間はとても三代くらいの期間ではわかりえないものがあるということを知った。もちろん歴史は古代から勉強している。でも津浪についてこれほどこの辺で看過されていたのはなぜなのかという疑問がある。最近の地層の検査でかなり松川浦の奥まで津浪が来た証拠が津浪の砂が発見されていたのである。それもあまり注目されていなかった。人の経験は三代過ぎたらもう伝説になるしわからなくなる。するとどうして後世に伝えるかとなると文献に残すというのもある、伝説もある。ただそれにしても不確かなものとなっていた。庶民は文字を書けない時代だから津浪のような体験でも残しにくいということもあった。ただ口誦で伝説すら残らなかったというのはなぜなのだろうか?その疑問がこの辺ではある。


漁師だからその話しも興味深かかった。放射能検査でも魚はわからないという、一匹くらい選んで検査してもわからないという、米だったら全部検査できるから安心だという。魚は検査しにくいのである。そして補償金はもらっているが検査のための漁でも船に乗って出ないと金はもらえないという。その人は船ももっているからそれなりに補償はあるのだろう。ただ今でも原発から汚染水が海に流れだしているという、なぜなら海に流れた水をとりかえても何度も計っても放射能の濃度が下がらないという。水をとりかえてもまた汚染された水がながれだしているためである。このことは報道されていないという。何から放射能は常に隠されているから困るのである。
海にはまだ相当数放射性物質が流れだしているのだ。だから濃縮される魚が危険だとはいえる。
魚の安全性はわからない、正確な検査がむずかしいからだ。一方で米などは正確に検査ができるから安全だとなるのか?海の汚染は今もつ
づき相当なものだが濃度が薄められるから危機を感じないのである。その人は仕事しないから体がなまってきたという、母親なども仮設で畑仕事などしないから心臓病になったとか言っていた。やはり仮設暮らしは運動不足とかになり体に悪いのである。

posted by 天華 at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2013年03月25日

失われた貴重な右田の松原 (残された詩で思い出す)


失われた貴重な右田の松原

(残された詩で思い出す)


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松影老鴬

松影の道
釣人並び
沖行く船
老鴬鳴く
車輪梅咲き
南風そよぐ
我が歩む
海辺の道



右田の松原は松川浦よりもいい松原だった。調っていたし松風や松影が気持ちよかったのである。あの松原に注目していた人が少なかった。松の幹もそれなりに太かったしいい松原だった。あそこは一本一本の松として意識していない、今は残った松を一本一本意識している。松原としてあったから一本一本の松を意識しなかったのである。陸前高田市の松も一本一本の松ではなく松原として意識していた。あそこの松原の前の旅館に一度だけ泊まったことがあった。確実にあの旅館は津浪で流されてしまった。松も一本も残らなかった。前の広田湾は静かでいい湾だなと思っていたけどあそこあんな被害にあったのはショックである。今回の津浪は美しい光景の場所が津浪にあってめちゃくちゃにされた。陸前高田市でもあの松原は憩いの場所でありその生活に密着した場所だった。特にあそこは街と一体化していたから余計にそうだった。ただ街の方には行っていなかった。あんな大きな街があったとは知らなかった。風光明媚な地がもう人が住めないくらい破壊されたことは信じられない、街が大きかっただけでにダメ-ジも大きかった。そして松原は人の記憶にしか残らなくなった。

一本の松をその松原を思い出すために建てた気持ちもわからないではない。ただ松原としてあったのだから一本の松を建てても思い出とはなりにくい。右田の松原もあくまでも松原として意識されていた。ただ不思議なのもその松原が消失したのだから松原があったということはただ記憶の中にあるだけである。現実にはもうないということが未だに信じられないというか不思議だとなる。
松原がある風景の中で暮らしていたものが失われた。それは二度と経験できなくなったのである。
人工的自然であったがそれは失われたから二度ともどってこない、松原はただ思い出の中にしかなくなった。

だからこの詩もたいした詩ではないにしても松原を思い出すものとして貴重かもしれない、正直自分でもものたりないのだが松原があったときの風景を思い出す一つにはなる。
夏になると釣りする人が必ず車で来て並んでいたのである。その前の海には漁船が見えた。それは烏崎港から出た船だった。それは別になんでもないいつもの風景だったけどそういう風景をもう見ることができないのだ。車輪梅も咲いていたがそれも根こそぎ喪失した。崩れた防波堤があるのみである
実際このように消失してしまうと思い出すことがむずかしくなる。もっと写真とか画家がいたら松原の風景を描いてもらっていたら思い出したかもしれない、それももうできないというショックである。貴重な財産が一瞬にして喪失したのである。風景そのものが消失したというショックである。
それはここだけではない、松原は仙台辺りまで延々とつづいていたのだ。それらは根こそぎ喪失したショックである。そしてそれらはもう回復しないというのもショックである。ただもともと松原は人工的な風景だから元の自然に原野に帰ったといえばそれまでである。でもその衝撃は圧りにも大きすぎたのである。
posted by 天華 at 14:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2013年03月29日

永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった (400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった

(400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


本多徳次さんが昭和61(1986)年に著した『四倉の歴史と伝説』という本に「千人塚」の話が載っている。本を読むまで知らなかった。伝説をかみくだいて言うと、ざっと500年前の永正年間、四倉の大浦全域に津波が来襲し、家屋が流失した。死者が続出したため、仁井田浦に遺骸を合葬して「千人塚」を築いた。今は跡形もないという。 永正年間に津波が押し寄せたのは事実なのだろうか。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
 その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余。四倉、小名浜に千人塚を築く」。そのわずか19年前の延宝5(1677)年にも、磐城の浜に「大津波来襲、死者800名余」の大惨事になった。
http://www.j-cast.com/2012/01/22119521.html


永正9年(1512)8月4日、津波が宍喰を襲い、宍喰浦で3,700余人の犠牲者が出て、1,500余人は助かったという。この時代には、城や宍喰の中心は現在の正梶の地にあったが、津波により街が壊滅したため、その後現在の愛宕山に城を移したと言われている。なお、この永正9年の津波は幻の津波と呼ばれている。この日、徳島はもちろん、国内のどこにも地震の記録が見当たらず、外国の遠地津波によるものでもないようである。暴風津波(高潮)という説もあるが、被害規模から、被害地域が宍喰浦のみというのは疑問が残る。


一つは「村越伝説」である。静岡県史には、この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。
http://murakushi.net/information/history_06.html


1498(明応7)年の大地震の津波で太平洋の遠州灘の接する箇所決壊して海と湖水が通じ、
さらに1511(永正7)年の大津波でその間が広まり、今切という地名の名前が生まれた。

舞阪の象徴ともいえる浜名湖に浮かぶ弁天島は、1498(明応7)年の大地震で島となったところで、1709(宝永6)年に今切り渡船の安全を祈願して弁天神社が建てられてから、弁天島と呼ばれるようになった。
http://home.q08.itscom.net/you99/maisaka.htm


1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊
達政宗領内で溺死者5,000人[12]。仙台平野で内陸を2km溯上したと見られ、北海道南東部沿岸も大きな被害。最古の「津波」という語句の記載(『駿府記』)。


相馬藩政記-700人溺死



こうした記録は何を語っているのだろうか?津浪の記録は消失しやすい、だから永正9年(1512)の津浪は幻の津浪とされている。ただその後の慶長津浪は伊達藩にあり明確に記録されている。相馬藩政記-700人溺死と記されている。しかしただ一行だけでありどういう被害があったかは記されていない。
永正9年(1512)の津浪が四倉にあったというのは推測であり不明である。「千人塚」も津浪の死者を埋めたところとは限らない、戦死者とか台風とか他の被害もある。インタ-ネットでは津浪の被害で死んだというのは見いだされない。ただあまりにも多くの人が死んだので墓標のように埋められた死体があった。だから千人塚とういうこともありうることは推測できる。塩木が塩が来る-潮来というのもどうなのか?塩を焼く木を切った所かもしれない、そういう地名はあった。山の方でなく海辺にある村とするとどうなのか?そもそも四国や静岡などで起こった津浪が磐城地方でも起きたのか?
そういう明確な記録がないだろう。第一この津浪が幻とされているのだから磐城地方の四倉にあったということはどういうことなのか謎である。幻と言ってもそれなりに記録や伝承があるのだからあったことは確かだろう。


この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)

1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。
1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊達政宗領内で溺死者5,000人[


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の間は12年
慶長地震から慶長三陸地震津浪は6年である


12年後と3年後にまた津浪が来ている。そんなに短い間に津浪が来るものなのか?3年後としたらこの辺は2年過ぎて3年目になるのだから津浪の警戒が必要だとなる。

伊達政宗領内で溺死者5,000人という数字はほぼ正確ではないか?相馬藩の700人溺死も数としてほぼ正確ではないか?なぜなら今回の津浪被害で宮城県が一番大きかったからだ。伊達藩は山元町までありそこも浜の方で被害が大きかった。伊達藩では津浪の後も開拓して米作りしていた。人手がたりなくなったので相馬藩の武士も開墾に従事した。その時は今のように津浪の来る所をさけるようなことがなかった。それより江戸に送る米が必要だからあえて危険でも開拓した。塩分はぬけるし米は塩分にも強いらしい。松川浦の和田の人は塩分の田んぼでも米をがとれたとか言っていた。放射能よりはましだとなる。


こういう記録を見ると400年前に慶長津浪は確実にあり 東南海地震,津浪もあったのだから周期的に東北でも東海道、四国でも起きることは推測されていた。それは科学者の仕事でもあり最近は貞観津浪が相馬市の松川浦の奥まで押し寄せたという砂が発見された。他にも貞観津浪の痕跡が明確に証拠として発見されていた。記録的にも400年後であり大きな地震が東北にも東南海にも起きる時期だったのである。貞観津浪のことは言われていたが慶長津浪のことはあまり言われなかった。
やはり記録からして東南海地震や津浪はいつ起きても不思議ではない、ただその時は東南海地震の6年後に慶長三陸地震が起きた。つまり今回とは逆になるのだ。でもプレ-トがつながっているから互いに影響し合うことが考えられる。互いにプレ-トがバランスをとるために交互に大きな地震が起きる。これは素人の推測だが何かわかりやすい解釈である。最近の河口湖の水が退いているのも前触れなのか?何か不気味である。

四倉は今回は被害は大きくない、広い砂浜が緩衝地帯になりあれだけ海に近くても被害が少なかった。海岸の松によじのほって助かった人がいたがここでは松ごと流されたから助からなかった。
津浪は地形に影響されやすいのだ。四倉の街が津浪にのまれたら大被害になった。久之浜は海岸にじかに接しているから被害が大きかった。だから四倉に永正9年(1512)の津浪があったということは何か疑問なのである。記録では海嘯としているからそれはあたっている。津浪は慶長三陸津浪のあとに呼ばれるようになったからだ。

元禄 9(1696)年の大津波のときだった。 その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余
 
元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)
http://www.bosaijoho.jp/topnews/item_5820.html

この津浪の名前が磐城小名浜大津波であり限定された地域の津浪だった。津浪が幅広く押し寄せるときこれはどうしてなのだろうか?局所的大地震だったのか?プレ-ト地震ではなかったのか?
磐城小名浜にこれだけの津浪があれば原発のあった所の双葉浪江でも影響があったろう。
相馬藩の記録にはない、この地震の津浪なら四倉に確実に影響した。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
千人塚がこの時のものだとすると永正7年(1510年の津浪で死んだ人たちではない。


明治の学者・大須賀筠軒の著した「塩木村誌」を読む。「耕田寺縁起を按スルニ永正年間海嘯アリ近隣諸村併セ民家悉(コトゴト)ク流滅ス。天文ノ頃海嘯猶ホ来る故ニ潮来(シホキ)村ト名ツク後轉ジテ塩木村ニ作(ナ?)ルト云フ」


海嘯は慶長三陸津浪の前の名前だった。ただこの記録はどうして四倉に残ったのか?

ただこれらの記録から推察すればいかに双葉や浪江は近いのだから危険だったか明瞭である。
なぜ東電や政府はこうした津浪に警戒しなかったのか?その責任は重いはずである。
津浪には全く警戒していなかったのだ。ただ一応危険を指摘はしていたが何の対策もしなかった。
コストがかかるとあいまいにしてしなかったのである。


元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)


この津浪を話題にしているものがほとんどないというのも不思議である。すぐ近くだから危機感があってもいいはずだった。これは300年前のことだった。津浪は短い期間の間にも来るし300年とかの間にも大きな津浪がどこかに来るということである。プレ-トだけではない、局所的なものとして津浪が来ることが記録から判明している。プレ-トのことばかり指摘しているが地震はどこに起きるかわからないのである。それに応じて津浪もどこに起きるかわからないのである。だから原発は日本では危険なのである。
 

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永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった (400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


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永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった

(400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


本多徳次さんが昭和61(1986)年に著した『四倉の歴史と伝説』という本に「千人塚」の話が載っている。本を読むまで知らなかった。伝説をかみくだいて言うと、ざっと500年前の永正年間、四倉の大浦全域に津波が来襲し、家屋が流失した。死者が続出したため、仁井田浦に遺骸を合葬して「千人塚」を築いた。今は跡形もないという。 永正年間に津波が押し寄せたのは事実なのだろうか。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余。四倉、小名浜に千人塚を築く」。そのわずか19年前の延宝5(1677)年にも、磐城の浜に「大津波来襲、死者800名余」の大惨事になった。
http://www.j-cast.com/2012/01/22119521.html


永正9年(1512)8月4日、津波が宍喰を襲い、宍喰浦で3,700余人の犠牲者が出て、1,500余人は助かったという。この時代には、城や宍喰の中心は現在の正梶の地にあったが、津波により街が壊滅したため、その後現在の愛宕山に城を移したと言われている。なお、この永正9年の津波は幻の津波と呼ばれている。この日、徳島はもちろん、国内のどこにも地震の記録が見当たらず、外国の遠地津波によるものでもないようである。暴風津波(高潮)という説もあるが、被害規模から、被害地域が宍喰浦のみというのは疑問が残る。


一つは「村越伝説」である。静岡県史には、この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。
http://murakushi.net/information/history_06.html


1498(明応7)年の大地震の津波で太平洋の遠州灘の接する箇所決壊して海と湖水が通じ、
さらに1511(永正7)年の大津波でその間が広まり、今切という地名の名前が生まれた。

舞阪の象徴ともいえる浜名湖に浮かぶ弁天島は、1498(明応7)年の大地震で島となったところで、1709(宝永6)年に今切り渡船の安全を祈願して弁天神社が建てられてから、弁天島と呼ばれるようになった。
http://home.q08.itscom.net/you99/maisaka.htm


1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊
達政宗領内で溺死者5,000人[12]。仙台平野で内陸を2km溯上したと見られ、北海道南東部沿岸も大きな被害。最古の「津波」という語句の記載(『駿府記』)。


相馬藩政記-700人溺死



こうした記録は何を語っているのだろうか?津浪の記録は消失しやすい、だから永正9年(1512)の津浪は幻の津浪とされている。ただその後の慶長津浪は伊達藩にあり明確に記録されている。相馬藩政記-700人溺死と記されている。しかしただ一行だけでありどういう被害があったかは記されていない。
永正9年(1512)の津浪が四倉にあったというのは推測であり不明である。「千人塚」も津浪の死者を埋めたところとは限らない、戦死者とか台風とか他の被害もある。インタ-ネットでは津浪の被害で死んだというのは見いだされない。ただあまりにも多くの人が死んだので墓標のように埋められた死体があった。だから千人塚とういうこともありうることは推測できる。塩木が塩が来る-潮来というのもどうなのか?塩を焼く木を切った所かもしれない、そういう地名はあった。山の方でなく海辺にある村とするとどうなのか?そもそも四国や静岡などで起こった津浪が磐城地方でも起きたのか?
そういう明確な記録がないだろう。第一この津浪が幻とされているのだから磐城地方の四倉にあったということはどういうことなのか謎である。幻と言ってもそれなりに記録や伝承があるのだからあったことは確かだろう。


この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)

1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。
1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊達政宗領内で溺死者5,000人[


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の間は12年
慶長地震から慶長三陸地震津浪は6年である


12年後と3年後にまた津浪が来ている。そんなに短い間に津浪が来るものなのか?3年後としたらこの辺は2年過ぎて3年目になるのだから津浪の警戒が必要だとなる。

伊達政宗領内で溺死者5,000人という数字はほぼ正確ではないか?相馬藩の700人溺死も数としてほぼ正確ではないか?なぜなら今回の津浪被害で宮城県が一番大きかったからだ。伊達藩は山元町までありそこも浜の方で被害が大きかった。伊達藩では津浪の後も開拓して米作りしていた。人手がたりなくなったので相馬藩の武士も開墾に従事した。その時は今のように津浪の来る所をさけるようなことがなかった。それより江戸に送る米が必要だからあえて危険でも開拓した。塩分はぬけるし米は塩分にも強いらしい。松川浦の和田の人は塩分の田んぼでも米をがとれたとか言っていた。放射能よりはましだとなる。


こういう記録を見ると400年前に慶長津浪は確実にあり 東南海地震,津浪もあったのだから周期的に東北でも東海道、四国でも起きることは推測されていた。それは科学者の仕事でもあり最近は貞観津浪が相馬市の松川浦の奥まで押し寄せたという砂が発見された。他にも貞観津浪の痕跡が明確に証拠として発見されていた。記録的にも400年後であり大きな地震が東北にも東南海にも起きる時期だったのである。貞観津浪のことは言われていたが慶長津浪のことはあまり言われなかった。
やはり記録からして東南海地震や津浪はいつ起きても不思議ではない、ただその時は東南海地震の6年後に慶長三陸地震が起きた。つまり今回とは逆になるのだ。でもプレ-トがつながっているから互いに影響し合うことが考えられる。互いにプレ-トがバランスをとるために交互に大きな地震が起きる。これは素人の推測だが何かわかりやすい解釈である。最近の河口湖の水が退いているのも前触れなのか?何か不気味である。

四倉は今回は被害は大きくない、広い砂浜が緩衝地帯になりあれだけ海に近くても被害が少なかった。海岸の松によじのほって助かった人がいたがここでは松ごと流されたから助からなかった。
津浪は地形に影響されやすいのだ。四倉の街が津浪にのまれたら大被害になった。久之浜は海岸にじかに接しているから被害が大きかった。だから四倉に永正9年(1512)の津浪があったということは何か疑問なのである。記録では海嘯としているからそれはあたっている。津浪は慶長三陸津浪のあとに呼ばれるようになったからだ。

元禄 9(1696)年の大津波のときだった。 その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余
 
元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)
http://www.bosaijoho.jp/topnews/item_5820.html

この津浪の名前が磐城小名浜大津波であり限定された地域の津浪だった。津浪が幅広く押し寄せるときこれはどうしてなのだろうか?局所的大地震だったのか?プレ-ト地震ではなかったのか?
磐城小名浜にこれだけの津浪があれば原発のあった所の双葉浪江でも影響があったろう。
相馬藩の記録にはない、この地震の津浪なら四倉に確実に影響した。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
千人塚がこの時のものだとすると永正7年(1510年の津浪で死んだ人たちではない。


明治の学者・大須賀筠軒の著した「塩木村誌」を読む。「耕田寺縁起を按スルニ永正年間海嘯アリ近隣諸村併セ民家悉(コトゴト)ク流滅ス。天文ノ頃海嘯猶ホ来る故ニ潮来(シホキ)村ト名ツク後轉ジテ塩木村ニ作(ナ?)ルト云フ」


海嘯は慶長三陸津浪の前の名前だった。ただこの記録はどうして四倉に残ったのか?

ただこれらの記録から推察すればいかに双葉や浪江は近いのだから危険だったか明瞭である。
なぜ東電や政府はこうした津浪に警戒しなかったのか?その責任は重いはずである。
津浪には全く警戒していなかったのだ。ただ一応危険を指摘はしていたが何の対策もしなかった。
コストがかかるとあいまいにしてしなかったのである。


元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)


この津浪を話題にしているものがほとんどないというのも不思議である。すぐ近くだから危機感があってもいいはずだった。これは300年前のことだった。津浪は短い期間の間にも来るし300年とかの間にも大きな津浪がどこかに来るということである。プレ-トだけではない、局所的なものとして津浪が来ることが記録から判明している。プレ-トのことばかり指摘しているが地震はどこに起きるかわからないのである。それに応じて津浪もどこに起きるかわからないのである。だから原発は日本では危険なのである。



「大仏石」が伝えていた大津波 過去の自然災害に鈍感だった【福島・いわき発】

http://www.j-cast.com/2012/10/05149145.html

こういう伝承があるだけで津浪に関心をもつ、相馬ではそういう伝承があったとしても身近に聞いたことがない
そういうモノも残っていない、神社さえ津浪を記念したとしても由来が不明になっていたのだ。

こういうものがあるとすると塩来は津浪由来なのかな・・・・

 

posted by 天華 at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2013年04月04日

地元の人に津浪の話しを聞く(鹿島区の御刀神社の後ろの家の人)(東部高速道路のようなものが津浪には有効だった)


地元の人に津浪の話しを聞く(鹿島区の御刀神社の後ろの家の人)

(東部高速道路のようなものが津浪には有効だった)


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海老村の歴史
http://musubu2.sblo.jp/article/43585610.html


北海老村-下海老村は壊滅した



今日はたまたま老人が家から出てきていたので津浪のことを聞いた。場所は写真の所である。御刀神社がありそこは林になっていてその後ろの家は結構被害が大きかった。ボランティアが来て泥をとるのを見ていた。京都や大阪から来ていた。今日話を聞いたのはその後ろの家である。床上ちょっとだけ浸水した。ただその前のは家は氏神の社を残してなくなった。御刀神社の前の家はほとんど喪失した。あそこが家が残るか残らないかの境界線だった。


ただ不思議だったのは津浪は海老の方から高くなって押し寄せてきたという。それでその前に坂になって高い道がありそれで波がさえぎられて助かったという。ええ、あんな坂が津浪をさえぎったのか?それを聞いて何か納得がいかなかった。津浪は海老の方で高く押し寄せたという、海老の家が密集している所は右田などから比べると高台になったのであそこが壊滅状態になったことで驚いた。
だから津浪は低い所に高く押し寄せたのかと思っていた。それがある部分的に高くなって津浪は押し寄せていた。それで海老の崖になっている所も高かったのだがあそこに高い波が押し寄せたからあんな被害になった。


反射・屈折・干渉などの「波」の性質を持っていて、条件により変化するため、予測されないところで被害が生じる場合がある。波の中では孤立波、その中でも伝播中に形状や速度が変化せずお互い衝突しても安定している「ソリトン」に分類される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2


これはわからないにしても津浪と海底が浅かったり深かったりしても影響する。津浪は一様な高さで押し寄せるとは限らない、津浪はまた地形に影響されやすいことは前にも書いた。
今回聞いた津浪の話しでも同じだった。その地形とは高い坂になった道路だった。でもその道路はその道路だけが高いというのではない高台に作られた道路だったのである。道路というより地形の影響だったのだろう。津浪が海老の方から高く押し寄せてきて右田の方の平坦な地域からそれほど強い波が押し寄せたのではなかった。津浪の押し寄せる力は場所によって違っていたのだ。ただ御刀神社を境にしてその前の家はなくなった。全部流されたわけではないが被害がひどいので壊されてなくなった。御刀神社の後ろの家が残ったのは流された木材などが神社の林でおさえられたこともあったろう。その後ろの家は被害がひどく壊されてなくなった。
その後ろの家の人に今日津浪の話しを聞いた。家が三軒ほどでも前がさえぎられて海が見えなかった。


津浪が来たときその前の家の人に聞いて逃げたという。最初の一波はひたひたと押し寄せる低い波なのだ。その時逃げればみんな助かった。それは磯部の人も海を見に行ったら低い波がよせてきて逃げて助かった。最初の一波は低い波なのである。それから津浪はある程度距離があると津浪が来るのが見えてからでも必死で逃げれば助かる。大内は結構距離があるから津浪が来てトラックで逃げて助かった。八沢浦の人は海が近いのだけど前に小山があってその小山にさえぎられ津浪が弱められた。

そし津浪が見えていたから後ろの山に逃げて助かった。つまり津浪は見えてから逃げて助かるということがあった。あそこには4軒くらいしか家がないのにその家にさえぎられて前が見えないから海がみえないし津浪が来るのもわからないとなる。もちろん外に出ればあれだけ視界が開けているのだからわかる。ただ家から海の方が見えないのだ。この海が見えないということが死角になっていた。


多賀城と石巻とか都会は家が密集して海が全く見えないし海を意識すらしない、ただ砂押川をさかのぼってきたのでそれで川と海がつながっていることを改めて知ったのである。海が見えないということが意外と死角となっていた。石巻の大川小学校の悲劇も住宅にさえぎられて海が見えない、だから津浪が来るのが見えないからわからなかった。それで逃げ遅れたのである。海は意外と近くにいても見えない場所が多くなったのである。この辺でも松原があると海は見えなくなっていた。常磐線では海の見える地域が極一部である。だかち海が近くても海が見えないのである。浜吉田も浜がどこにあるのか海を意識したことがなっかたけどあそこまで津浪が押し寄せて海が近いと改めて知ったのである。


亘理から名取の海岸線を走る東部高速道路はかなり高いからバスからの眺めがいい、鳥の海とか河口か見えて海が見える、あそこの高速道路に必死に上って助かった人がいた。あれだけ高いと津浪には効果的だった。あれがもっと海岸線近くに作られていたら相当に津浪を防げたので参考になった。
今回聞いた話でもあの道路があのわずかに高い地形が影響して津浪をさえぎったというので不思議だった。津浪は地形に影響されるし津浪自体が良く解明されていない、それはかなり複雑なものであり海底の浅さや深さでも違ってくる。


南海老村は被害がなかった。下海老村と北海老村が壊滅した。そこはあとから人が海の方に向かって開けた地域である。だからその神社も新しいとなる。神社が津浪の被害からまねがれたというとき北海老や下海老村の神社は新しいから流された。古い神社は津浪が来た経験から高い所や津浪の来た地点を記憶していて昔の人が建てた。神社が古ければ古いほど津浪が来た所には建てていないというのは本当なのだろう。


あの辺の田んぼは塩害やら放射能で使い物にならないので農協であづかり広く整地するという。今まではなかなか土地を農家の人が手放さないのでできなかったがもう何もできないとあきらめて農協が一括してあづかることになったからできる。そういうことで大規模な農業経営に移行しやすいということもあった。宮城県などでも津浪で壊滅した町は御破算になってしまったから新しい町作りを一からはじめられることはある。そうはいってももう人が流出していてはできない。これだけ被害が大きいと今までの狭い土地に執着することや何か他でも新しい発想が必要になってくる。それが何なのか模索することになる。そうはいってもなかなか新しくするというのはむずかしいだろう。でも町自体消えることはそうならざるをえないということもあるのだ。

posted by 天華 at 17:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2013年04月17日

相馬氏が慶長三陸津浪の一ケ月後に城を小高から今の相馬市に移した謎 (津浪の復興ではなく伊達氏の津浪被害による弱体化が原因では?)


相馬氏が慶長三陸津浪の一ケ月後に城を小高から今の相馬市に移した謎

(津浪の復興ではなく伊達氏の津浪被害による弱体化が原因では?)


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図のようにもともと相馬市の領域は相馬藩の支配地域ではなかった。1600年(慶長)前は相馬氏の支配地域になっていない、だから相馬半郷とか相馬半分と呼ばれていた。だから伊達氏と相馬氏の興亡は北郷の鹿島区の田中城で行われていた。伊達側についた黒木氏と相馬氏との戦いが田中城をめぐって行われた。小高城を基点として相馬氏が進出して小高城の北にあるから北郷になったのであり歴史的には小高城が中心として相馬氏は今の相馬市地域に進出した。歴史的に言えば相馬藩では小高が一番古い場所だとなる。その後原町の牛越城などに移ったりしたが小高城が基点であり最後に城を中村(相馬市)に移した。

相馬市になぜ館腰宮などがあるのか?伊達氏関係の信仰が残っているのはもともと相馬市領域は伊達氏の領地だったのだからそうなる。館腰宮というのはめずらしく感じられる。それが日立木にもある。仙台の近くに館腰駅があるから何か親しいのである。単なる地形的なものかと思っていたが信仰的なものであり同類の神が祀られていたのだろう。伊達氏関係の神が結構相馬藩内に多い。特にもともと伊達領だった相馬市には多いのはそういう歴史の経過を見れば当然だとなる。相馬藩は伊達氏と戦っても密接な関係にあったのだ。ただ伊達氏は強大な勢力だからそれに対抗できた相馬藩の力はどこから出たのかともなる。軍事力の強化によってできた。それで野馬追いがその歴史の証しとして残ったということがあるのだろう。たとえば北朝鮮でも小国であり何で力を見せつけるかとなると軍事力でありその象徴が核になってしまう。他にはなにもない、貧乏な国だけになってしまうからである。絶えず軍事力を示していないとたちまち他国に侵略されたりするだろう。そういう位置に相馬藩もあったのかもしれない、新地に伊達氏の居城がありそこでも興亡があった。新地には伊達氏の子孫がいて相馬市との合併を拒んでいたというのも今につづいている相馬氏と伊達氏の歴史的因縁である。


1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震津波

この『駿府記』にある「松平陸奥守政宗献初鱈、就之政宗領所海涯人屋、波涛大漲来、悉流失、溺死者五千人、世曰津波云々」が、文献に現れる最古の「津波」という語句の記述とされる。


慶長三陸津波の後、仙台平野において塩害で約10年が経過しても米が収穫できず、名取郡の農民が仙台藩の奉行に年貢の申上状を提出したとされる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%B8%89%
E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87


この津浪の衝撃は伊達氏領地で大きかった。それで全国的に津浪という言葉がこの津浪によって定着した。塩害で十年も米が収穫できないというのも痛手だった。当時はまだ科学が発達していないから手だてがなかったのだろう。

ただここで不思議なのはこの津浪の後に今の相馬市になぜ小高から城を移したのかという謎である。これは相馬藩内でも700人溺死したという記録がありかなりの被害だった。そんな混乱の中どうして城を移すような大事業をしたのだろうかという謎である。これは津浪の復興事業として城を中村に今の相馬市に作ったという説を出したとしても何かわかりにくい。


逆にもしかしたら伊達氏の被害が甚大だったのだからその時伊達氏は混乱して弱体化していたのだから今の相馬市に城を作りやすかったということもあるのではないか?そんな津浪の被害のときにわざわざ城を移す理由がわからない、もちろん城を移せば公共事業のうよな役割はあったかもしれない、でも今と昔はちがう。そんな混乱のときはそんな財力もないだろうし無理をしないだろう。相馬藩内で財を出すのだからそんな余力がない、公共事業というとき今は政府から出るからそれにたかるとなっているのだ。そういう時代とは違っている。

だから津浪被害の混乱に乗じて伊達氏の弱体化に乗じて津浪の一か月後に城を移し作ったという説もありうる。この津浪を分かれ目にして伊達氏は今の相馬市の領域から後退しているからだ。この津浪による激動がそうさせたともとれる。これだけの大きな災害は政治も変えてしまう力をもっていたのである。今回でもこの津浪の被害は原発事故もともなって日本全国に影響があり変革を迫るものであったと同じだったのである。
 
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2013年04月28日

相馬藩の石高からみる津浪被害の大きさ (日本の歴史は米を作るための開墾開拓の歴史だった)


相馬藩の石高からみる津浪被害の大きさ

(日本の歴史は米を作るための開墾開拓の歴史だった)


正徳元年7月郷村高辻帳



栃窪村-915石
南屋形-730石
鹿島村-1117石
小島田村-664石
南海老村-713石


北右田村 719
南右田村-450石


(飯館村)

草野村 330石
飯樋村 450石
小宮 35石
関根 16石
二枚橋 45石



この石高を見ると村の規模が数字で明確化される。全部の分析はできないが500石になると上位になる。そしてどこがその郷の中心地だったかわかりやすい。飯館は今は草野だけど元は飯樋村がちゅうしんだったことがわかる。そこには塩の番屋が置かれて60人も役人がいたとか塩を管理していたので人数が多かった。石高も多かった。つまり草野と飯樋村の他は極端に少ないのであり原野が広がっていた。飯館村は明治以降でも開拓に入った人が多い土地だった。それだけの未開の土地が多かったのである。

この石高で注目したのが北右田と南右田である。それから小島田村である。ここはすべて津浪の被害を受けたのである。ここはもともと海であり開拓された土地だったのである。北右田が南右田より古い。北右田から野馬追いの甲冑競馬に出る人と話したことを書いた。南右田村は江戸時代からあったとしても新しい。意外なのは栃窪村が石高が多い、そしてそこは水がいいから鹿島区では一番がうまいと自分の家でも買っていたのである。そしてどういうわけか栃久保という姓の人が相馬藩内の村に結構いるのだ。栃窪村の人が他の村に移住して栃久保と名乗ったのだろう。栃窪村はそれだけ大きな村だったとなる。
北右田-南右田村と小島田村をあわせても石高はかなり多くなる。1700石とかなる。鹿島村は1000石であり小高村も1000である。1700石となるとかなり相馬藩内では大きな石高になる。大内村なども被害にあったから2000石くらいの面積が津浪の被害にあったのである。当時の経済からすると津浪の被害は思った以上相馬藩の財政の負担になったかもしれない、ただその状況は記録されていない、そして津浪で海になった所はそもそも海であり開拓された所だったということである。逆の見方をすれば2000石くらいが開拓によって米の生産高をあげたということである。つまり相馬藩が六万石として2000石はその開拓によって得られたものだということである。これは相馬市の磯部とか他にもありその石高は一万とかになるかもしれない、それだけ開拓によって得られた米が相馬藩の経済を支えたことになるのだ。


このことは伊達藩にあてはめれば桁違いの面積が仙台平野が開拓されて米が生産されてその米が江戸に商品として運ばれて伊達藩の力となった。伊達藩の力は開拓から生まれたとも言えるのだ。米中心の経済では米をいかに増産するかが問題となる。それには日本では土地がないから海の方に開拓地を広げた。その開拓したところが今回の津浪で被害にあった。その被害はあまりにも大きかったのである。
小島田も島のようになっていた田であり真野川の河岸が湿地帯のようになっていてそこに島のように田が最初作られて人が住み着いた。鹿島区の中心はもともと鹿島村ではなく栃窪村の方にあった。
なぜならそれだけ水が良く良質の米がとれる場所だったからである。海側になるとどうしても水が良くないからいい米がとれないからである。でもとにかく米の増産のために無理して海側を開拓していった。その結果として津浪に襲われてすべてが元の海にもどってしまったのである。


飯館村でもそうだが日本の国力は米の増産にかかっていて日本全国の開拓はつづいた。それは大正時代でも小高の井田川浦が開拓されたり戦後も戦争から帰った人たちがこの辺では小池とかにも開拓に入っている。そういう人を現実に自分は知っていた。あそこに開拓の碑がある。飯館村は開拓者のしめる割合が他よりずっと多かったのである。それだけ原野が未開の広がっていたからである。
日本の歴史を土台からかえりみれば開墾開拓の歴史だったのである。土地が少ないから棚田でもそうだけど狭い土地を開墾して米作りに営々と励んだ歴史だった。海側の開拓はだから津浪の被害を受けたように自然条件を越えて無理した結果としての被害だったとなる。でも日本では土地が狭いからその土地をえるためにやむをえなかったのである。


だから満州のような広大な日本では想像すらできない土地に憧れたこともわかる。そしてその寒冷地帯でも米作りしていたのである。日本の歴史は米作りの執念が綿々としてつづいたのである。それでも米が満足に食べられたのは戦後十年以後でありそれまでは麦飯であり農家すら満足に米を食べていなかったのである。白い飯を食べていなかったのである。ご飯が食べられると東北では兵隊になった人もいた。米なんかいくらでもある、米なんか減反しているじゃないか、今はパンでも何でもなる。米に頼る必要はないというとき先祖から罰があたるともなる。その営々とした労苦の歴史が無視されるからである。だから現代の豊かさも過去の歴史の継続としてふりかえらないと傲慢なものとなりその豊かさによってかえって自然から復讐されることがある。そんな米作りより今は科学だ、原発だとかなりかえって故郷すら住めなくなったこともそういう歴史をふりかえり国作りであり村作りでありしなかったからではないか? 科学は原発でもそうだがあまりにも魔法的要素が多かった。その富をもたらすものは危険に満ちていたのである。またそこに過去の米作りのような労苦の積み重ねの歴史もない。科学は確かに富を便利さをもたらすのだが一面常に危険なものとしてもあった。自然との調和も計られていなかった。それが見逃されていたのである。なぜなら米作りさえ海側を開拓したことさえ自然の調和を計ったとはいえなかったからだ。それが津浪で証明されたのである。


 

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2013年05月01日

プログに記録された右田浜の松原の写真 (もはやもどらない松原の風景)


プログに記録された右田浜の松原の写真

(もはやもどらない松原の風景)


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この写真のように松の記録は津浪で海中に消えたようになった


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台風で決壊した八沢浦の防波堤の工事

プログを読み返した。そこでまた右田浜の松などが写っているのを発見した。
自分で書いても忘れている。プログが備忘録というように忘れることに備えるために書いているとなる。
ともかく人間は忘れやすいのである。えか、こんなこと書いていたの、こんなこと写真にとっていたのとか全く忘れているのだ。2005年からはじめたから2年間くらい見たものだった。


まず右田の松原はもはや見ることもできないし再現もできないものとなった。
これは平和な時に松原があったときの写真である。


八沢浦は津浪の前に台風の嵐で前の家の何軒かに潮水にひたった。その時防波堤が壊れてしまったからだ。その防波堤を直していた。今回は津浪で全部喪失した。直しようもなくなったのである。
松二本だけが残された。


もう松原を回想する方法がない、松原がありその前に田植えをして実りがあった風景がおそらくこの辺で何百年とつづいていたのだ。それがみんな喪失したから信じられないとなる。
右田浜のキャンプ場の松もなくなった。あそこは歩くようにできていた。
でもあのコンクリ-トの歩く場所もみんな流されたのである。
確かに名残の松は残っている 。でも当時を偲ぶことはできない、今は荒れ果てたものとなってしまった。


右田の松原はただここに残した写真でわずかに思い出すほかないのか?
松は津浪と共に消えてしまった。幻想のように消えてしまったのである。


 松に寄りてここに変わらぬ秋薊

松というのは常盤木であり変わらないものの象徴だったのである。それがみな消えたということが
信じられない。変わらないものとしてありそこに秋の薊(あざみ)がよりそうように咲いていたのである。そのよりそう松はみんな消えてしまったのである。
この自然の変化はあまりにも大きすぎたから想像すらできないものであった。
もはやよりそう松はないのである。
 
 

posted by 天華 at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2013年05月06日

丸森の深い森から出れなくなった恐怖 (人間は文明化して自然への恐怖(津浪など)、畏れを失っていた)


丸森の深い森から出れなくなった恐怖

(人間は文明化して自然への恐怖(津浪など)、畏れを失っていた)

イノシシの左右に駆けて夏の闇


丸森で闇の中でイノシシに出会った。二三匹いた。かなり大きなもので迫力があった。警戒して盛んに左右にプットワ-クがよく機敏に動く、このイノシシにぶつかられたら大けがすると思った。
イノシシは別に夜行性ではないらしい、警戒して里近くでは夜に行動している。
野生のイノシシにあったのはじめてである。イノシシは良くみかけるといっても山の方に行っても猿はいてもイノシシはみかけなかった。野生で見るものは何でも迫力がある。
飼っているイノシシとは違うからだ。ただ本当の野生は喪失している。
野生が何かわからなくなっている。

丸森の森は大きく深い、落葉杉の葉で道がうまり道なき道を奥に行き過ぎた。どこかに道があると思い行き過ぎた。人間は普通に生活していれば今ではどこにでも道があるから迷うことなどないと思っている。それが文明社会である。人間は今やあまりにも文明社会に馴らされているのだ。
だから野生が何かわからなくなっている。秘境などどこにあるのだとなる。

丸森になぜ米沢藩と伊達藩と相馬藩で争いが起こったか?これは歴史資料としても有名であり論文もでている。森林資源を巡って争ったのである。それだけここが木材資源が豊富だったのである。
飯館村よりも豊富である。飯館村はそれなりに平地があるがここは山が重なり森が多いのである。
だから樅の木の原生林などが残されていた。樅の木はもともと原生林を形成していた。今は一本か二本しかないのが普通である。人間は森がどういうものか実感できなくなっている。
今回の経験は富士山の麓の樹海のように森から出れなくなるという恐怖だった。それだけ森が深く丸森では覆っていたのである。

人間は自然の中で本当の自然が何かわからなくなっている。自然というと動物園のようなものが自然だと錯覚している。動物も動物園でしか接していないからだ。野生の動物に接していないからそうなる。それでカバに中国人の子供が近づいて殺されたとかのニュ-スもあった。子供でも動物園の動物しか知らないしペットの動物しか知らない。おもちゃの動物のような錯覚もしている。

人間はこれだけ文明化されているとき本当の自然を肌で知らない。観念的にしか自然を知らないのである。丸森で森林資源を巡って争いが起きたことはこの原自然の状態があって必然的に起きたことである。それだけここの森林資源は豊だったのである。それだけ森が深いことをの証明だった。
そんなことをわかっているじゃないかというけど実際にこの深い森で道に迷って出れなくなるという恐怖からこの森がいかに深いか知った。

人間は今は自然を甘くみている。それも文明化された便利なものの延長として自然がある。だから森でもどこかに道があるだろうと思ったのが失敗だった。
道が途切れ道がなくなっていたのである。そこに樹々が暗い森がどこまでもおおっていた。

こういう自然の恐怖、例えば砂漠でも迷ったりしたらそれこそ命にかかわる恐怖である。
まず水がないから死につながりやすいのだ。森にはまだ水は流れているから命がつなぐことができる。しかし砂漠ではできない、水がないことが致命的となり死にいたるのである。だから水のある場所を探すことが最優先されるしその方向が間違ったら即集団でも死にいたるのである。
そういう自然の恐さを今は知らない、どんな場所に行っても自動販売機があるんじゃないかと思ってしまう。道はみんな舗装されていると思ってしまうのである。
だから近くの低山でも遭難することがあるということはやはり自然も奥深いものがあるからだ。
道がなくなると低山でも近くでも危険なのである。


自然を甘く見たというとき津浪もそうだった。津浪も一つの自然現象だった。しかし400年前に起きたことであり忘れていた。津浪によっても自然は恐いものだと改めて自覚させられた。あまりにも
文明化した世界に住んでいるとそうした自然の本当の力とか恐怖と恐れを感じなくなったのである。今は科学を敬っているというとき宗教のようになっているとうときまさに自然は科学で知り得るものだという信仰になっているのだ。ところが津浪で原発事故でもそういう自然の人間の力を越えたものに直面して狼狽した。つまりまさに自然の驚異、野生の驚異が地球にはまだある。とても文明だけでは計りしれないものが自然なのである。人間は計られている存在であり自然計ることができないのである。そのことをまざまざと示したのが津浪だったのである。
人間はどんなに文明化したとしても自然の驚異から逃れることはできない、自然の力は常に人間よりまさるものなのだ。人間はその前になす術もなくなる。それを示したのが津浪だったのである。

「心の青雲」で地震とは予知できないという、つまり学者がただ部分的に専門分野でみているだけで全体をみていない、地震は天体とも月などとも関係しているという、プレ-トがどうのうこうのという学説至上主義も疑っている。それもまた一理あるなと思う。要するに学説至上主義も一種の科学の信仰に近いものとなるがそれも信用できないのである。科学によって地球のすべてが解明されることなどないのだ。ただそういうふうに思い込まされているにすぎない。だから科学も詐欺的なところがあった。原子力関係者がすべての日本の支配階級が組んだペテンの面があったのだ。つまり核のことは実際は解明されていなかったのである。そういうものに手を出した結果としてこれだけ痛い目にあったのである。科学の力は偉大だし肯定されるべきである。でもすべてを人間が解明できないし科学者には限界がある。それが錯覚して原発事故のようなものがこれからも起きてくる。神は必ず人間の奢りを打ち砕くのである。これはどんなことしても神が造ったものは神しかわからないということである。そこに神に対する畏れをもつべきなのである。

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2013年06月02日

南相馬市原町区金沢地区の津浪の後の変化 (延命地蔵の神社が残っていた不思議)


南相馬市原町区金沢地区の津浪の後の変化

(延命地蔵の神社が残っていた不思議)

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南相馬市の原町区の金沢の方に行ってみた。ホテルが一軒また建っていた。近くにも作業員のプレハブのホテルがあるのにまた建った。この辺で増えたのはホテルである。それも滞在型のホテルである。まだ作業員が来ているから需要があるのだろう。


金沢地区の火力発電所はもうもうと煙をあげていたから前と同じように発電所しているから正常化したのだろう。やっぱりサ-プィンしている人が数人すでにいた。サ-フィンでまたにぎわうのだろうか?そのためにはあそこにまた施設を建てないとだめだろう。津浪はもう当分は来ないからサ-フィンをする人は来るから何か施設が必要である。


雨降ると湿地帯化してくる。ここは相当低く感じる。もともと湿地帯だったから元の状態にもどってゆく。木が二本建っている所には結構家があったけど二軒しか残っていない、それでも良く残ったと思う。地形の関係で辛うじて残った。この残った木はやがて枯れてしまう。
この木を見ていると何か津浪の凄まじさを感じる
まだ何とか残ろうとする執念を感じてしまう異様さが漂っている。
もしかしたら木にも気持ちがあり庭にある木はすでに自然の木ではない
人間の思いがこめられた情が移った木だから余計にそう見えるのである。
この二つの木は本当に不思議である。


そこから神社があった。延命地蔵とありこれは津浪で流されなかった。それほど高いというものではない、碑も流されていない、あそこに逃げれば助かったし裏山にすぐ逃げれ助かった。
烏崎の八龍神社も津浪からぎりぎりまねがれたのである。
なぜそういう場所にあったのか?
もしかしたら慶長津浪のことを聞かされていて高い所に建てたのかもしれない、そういう言い伝えがあって高い所に建てられたのかもしれない、津浪で被害からまねがれた神社が多いからである。

ここではどれくらいの被害があったのか?
この延命地蔵は江戸時代のものでそれなりに古い。

安政とか江戸時代の後期のものか?
水天宮というのはめずらしい。安産と子を授かる神である。
子育て地蔵とか安産の願いの碑は結構ある。

それだけ安産を願うものが切実だった。

それにしてもこの神社も不思議である。よく津浪から残った、それが延命地蔵だというのも不思議である。まさに津浪から延命したのである。長生きを望んだものだから違うにしろ何か津浪から逃れたものとして記念される。

ここの部落はもう消滅するからこれは記念として残されるだけになるのか?
ただこれは文化財としては貴重である。


まずあの二本の木もそうだが海岸の松も赤みがかり枯れてくる
一葉松は葉が緑であり枯れないみたいだ。
やはり津浪をまともに受けていないし塩分もそれほどしみこまなかったからだろう。
あれが残ったのは良かった。


津浪の後遺症はまだまだつづく、でも自分としては何か楽になったので気分的には正常化したように思う。6年間は異常な悪夢だった。人間わかったことは体が悪くなったらどんなことしても心も正常ではいられない、その体が弱くなったとき他者から責められたから辛かったのである。

津浪の後の風景は以前としてつづいているしやはり時間とともにまた変化していたのである。
 
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2013年06月10日

原野と化した津浪の跡(短歌十首) (夏の日に海老浜-八沢浦-松川浦をめぐる)

 

原野と化した津浪の跡(短歌十首)

(夏の日に海老浜-八沢浦-松川浦をめぐる)

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海老浜-この両脇に家が並んでいた

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車輪梅

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大きなとんぼが飛んでいたのは驚き

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トオスミトンボやオタマジャクシなどがすむ


松川浦から相馬市へ

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和田

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クロ-バ-匂いの強く夏の海
和田に来て船の泊まるや木陰かな
街中に光のまぶし夏柳
黄菖蒲の田の面に写りまちばばし


朝日さし黄色の夏菊映えにけり浜風そよぎ燕飛び交う

夏の花眩く咲きて沖に船釣り津浪の跡に風吹きわたる
津浪跡松の赤くも枯れゆかむここに死ぬ人時は過ぎゆく
海鳥の高くさえづり夏の朝浜風吹きて沖に船見ゆ
津浪跡沼の生まれてトオスミの命かすかやここに育む
津浪跡沼の生まれて生き物のをここに育む夏の日まぶしく
新にそ生まれし沼にオニヤンマ勢いよくも飛びにけるかも
人絶ゆも自然の営みつづくなり花々おおい悲しみつつむ
百間橋長きをわたるそよぐ風松川浦より涼しかりけり
宇多川の河口に葦のそよぎつつ蟹のひそむや浦波よせる


一面にクロ-バ-の原野になってしまった。海老の道の両脇には家が並んでいたがみんな消えてしまいクロ-バ-が咲き満ち都草が咲いていた。菖蒲も咲いていたがあれは庭に咲いていたものだろう。
家がないから海が視界に全面的に入ってくる。沖に船のゆくのが見える。風が原野にふきわたってくるのはまさに北海道の風景である。海老浜は車輪梅の南限の地として有名だった。車輪梅は咲いていた。黄色の菖蒲も咲いていたし夏の小さな黄色の花が一面にまぶしかった。だんだんこんな風景が見なれるとここに人が住んでいたのかとなってしまう。ここは土台が残っているから人の住んだ痕跡が残っている。しかし八沢浦には海岸沿いは残っていなかった。何軒かあったがみんな流されてしまった。そして沼がいくつか生まれていたのも不思議である。オタマジャクシもいたしトオスミトンボもいたしオニヤンマが勢いよく飛んでいる景色は不思議としか言いようがない、北海道にはこうした原野が多いのだ。草原とか北海道化したしまったのだ。


何か大きな鳥が海から飛んでくる。それがいかにも生き生きしているというのも不思議である。つまり原野化して野生の生き物が生き生きとして現れ見えたのである。またこんな事を書いているとここで無惨に死んだ人のことを考えないのかと言われる。あの枯れた松の下では子供も死んで墓標があったがなくなった。時間がたつにつれて松も赤く枯れてきたからあれは枯れてしまうのだろう。
八沢浦の沼になったところには数軒の家があったが家は少なかった。だから海老や烏崎村のように無惨さを感じない、それでもそこで被害にあった人は家族をなくした人は悲しんでいるだろう。
全然違ったものとして見るだろう。でも原野化するということは自然にもどることでありそれは風景としては悪いものではない、美しく花々におおわれてしまう景色はその悲しさをおおってしまうのだろうか、忘れさせるのだろうか?

これが多賀城市とかなると家が工場とかも密集していたから原野化しない、都会だと家が密集してビルもあり工場もありとそこはこんなふうに原野化しない、汚い人工のものが残るのである。
だから東京みたいなところが一旦大災害になると地獄絵図になってしまう。神戸の地震のうよに無惨なものとなってしまうのである。ビルが倒れ道路が壊れ家がぐちゃぐちゃになり地獄の業火に焼け出された風景はすさまじかった。津浪も地獄絵図だったが原野にもどったときそういうものは家族や家を失ったものは違っても他の人はそういう地獄絵図は忘れてここでは感じなくなるだろう。

なんだか気持ちいいなとかなってしまう。これも不遜にはなるが偽らざる気持ちだからどうしようもない、花々におおわれ沼がうまれ自然の生き物がもどってきている光景は不思議である。
こんなこと生きている内経験するとは思ってもいなかった。北海道に梅雨の時期にはいつも行っていたがここが北海道になるとは思いも寄らなかった。


松川浦の和田の方は奥まっていて静かであり趣があった。場所を帰るとまたちがって見える。和田の人と病院であった。あそこで牡蠣とかうなぎとかいろいろとっていた。放射能など関係なく食べていたという。牡蠣は確かにとったのがあった。松川浦は何がいいかというとやはり荒い太平洋の波を感じない゛男性的なものから優しい感じの浦になる。浦波がよせ浦風がよせる。それが穏やかに感じるのだ。それで八沢浦でも一回だけそうなった風景を見たから感動した。そこで死んだ人のことを考えろというのも家族を失った人から見れば不遜になる。でも津浪でも美をもたらしたこと、美があることは救いであった。故郷の景色をいろんなふうに太古の自然から見直すことになったのである。
想像で太古の自然をイメ-ジしていたがとてもこんな現実の太古の世界を見ることはできない、現実は想像を越えたものだった。


それから相馬市に来て田町通りの柳を見た。あの柳は見物である。そこから日立木にでて「まちばばし」をわたる所に黄菖蒲が田の面に写っていた。まちばばしという名がなにかいいのである。まちばというのを感じる不思議がある。なんかいろいろ変化がありすぎてみんな書くことができない、改めてまた書いてみよう。今回は俳句短歌を写真にのせなかった。各自あてはめてみるほかないだろう。

 
 
 


 

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2013年07月06日

津浪に残った二本の樹(詩) (原町区で津浪の被害者の取材で殴られた?)


津浪に残った二本の樹(詩)

(原町区で津浪の被害者の取材で殴られた?)

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津浪に残った二本の樹

二本の庭の樹の二年過ぎて
枯れんとして枯れず残りぬ
その樹の離れがたく
あたかも老夫婦の如く
津浪の跡の荒野に残りぬ
津浪の傷痕深く
数多の人の命奪いゆぬ
涙はここに流れ嘆きは尽きじ
木の根っこのように
江戸時代の社の残り壊滅したる村よ
なお人のここに生きむとするや
凄まじき津浪の猛威を語りつ
二本の樹は離れがたくここに残りぬ
(我が子の津浪に死すと悲しかな海をながめつ年は巡りぬ)



元朝日新聞記者の烏賀陽弘道さん、福島の被災地に取材で暴行を受けたとツイートするも当事者に反論される
http://togetter.com/li/524179?page=2

他から来た新聞社の記者が原町区の津浪被害者になぐられたという。何があったのか?やはり被害者の心証を害すようなことがあったのか?新聞社も人の被害者や事件起こしたとか災害地域でも土足で家にあがりこんでくるようなことをする。まるで特権者のように横柄に振る舞うことがある。
何かここて泣いて下さいとか場面を作りをする。だからそうしてテレビ局や新聞社に作られた映像が流される。お涙頂戴のどうぞ同情してくださいとかの映像は今回は嫌というほど流された。
そこには被害者の本音とは違ったものともなっていた。
テレビとかテレビ局で作られた映像が流される。涙流さないと絵にならないんだよとかなる。
そもそもそういうところに取材にゆくことが自体はばかれるものであった。
家も流され家族も死んだとなるとそういうところに行って声かけるのもはばかれるということがある。

自分も美しい八沢浦がよみがえったと写真を出してプログで書いたらコメントとしてお前はあそこで死んだ人のことをどうおもっているのだ。子供の死体まで泥から掘り出した人のことを考えてみろとコメントがあった。確かにそういう反感を買うのも当然だったかもしれない、家族が死んだ人いたらそうなるのが当然かもしれない、ただ自分が言い訳するとそもそも自分は郷土史を研究していた。
そして美も探求してきた。だから八沢浦が入江だったらどんなに美しいだろうと何度も想像していたしそうした合成写真も出していた。それから湿地帯であり低地だったとしたところは今回は予想通り海水にひたり海になってしまったことに驚いた。津浪が証明してくれたのである。

海老とか烏崎や磯部などは家が多く壊滅したからそこが美しいとはならなかった。しかし八沢浦は確かに死んだ人もいたが海水が入り込んだところには家は数軒しかなかった。回りにはあったがほとんど田んぼの所が海水につかった。だからガレキの山のようにはならなかったのである。

確かに崖の所で一家三人とか死んだ家があった。それは八沢浦の田んぼではなかった。
お前は人が死んだのに喜んで写真をとっていたのかとかなるが自分としては驚嘆すべきことだから写真にとった。その時自分は病気であり管を体に入れていたのだから自転車に乗ることが苦しかったのである。ただどうしても見ておきたいと一度だけ見て写真をとったのである。
今思うと津浪の写真でも刻々状況は変化しているからその時写真をとらないと記録としてはわからなくなる。記録として残すことも郷土史からも必要だった。
今では右田の松原の写真などがただ写真だけでしかみれなくなったから貴重である。
そしてプログをこうして毎日書くのも家事から介護しているのだから大変なのである。

正直その後も湿地帯化してそこに沼ができたり水葵が咲いたり今でも大きな沼が生まれてトンボが飛んでいたりと自然と原初の状態にもどったことに驚いた。明かにトンボは増えている。原初の状態にもどれば自然の生物も増えてゆく。ただ蝶は増えていない、減ったように思う。
津浪の跡に蝶が異常に増えたことがあった。そういう現象は今は起きていない。


ともかく津浪や原発事故でこの辺はまるで映画が現実化したような世界になっている。その変化には未だに驚くべきものである。海老でも家がなくなりそこにクロ-バ-がおおい黄色の花が一面にまぶしく咲いていたときはきれいだと思った。それは北海道で見た風景だったのである。
例えば防波堤が破壊されて白い波がうち飛沫き砂浜と化した所によせる、何かその時原始の力を感じた。自然は何か歓喜しているように感じた。野生の力をとりもどして歓喜しているように思えたのである。そこでかなりの人が死んでいるからまた不謹慎だとなるが自分には自然が本来の野生を取り戻して歓喜しているように見えたのである。


この辺ではいろんな変化が激しすぎたのである。それになかなか対応できない、避難している人だってそうだし津浪や原発被害地域はみんなそうである。混乱状態が未だにつづいているのだ。それだけどう対処していいかもわからなくなっている。ただその時々を記録として残していればそれが後の資料的価値がでてくるかもしれない、そんなこと不謹慎だといわれてもそれが正直な気持ちだからどうにもならない。ただ被害にあった人は家族を失った人は海の見方が変わったことはいえる。
海がこんなに酷いことをするのかと海をながめているだろう。
その傷痕はあまりにも深すぎたのである。

 
 
 
 
 
 
 
 


 

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2013年07月13日

三陸町の波伝谷は津浪の伝承を伝える名前 (古代史は真野の草原の歌から石巻からさらに三陸まで結ばれていた)


三陸町の波伝谷は津浪の伝承を伝える名前

(古代史は真野の草原の歌から石巻からさらに三陸まで結ばれていた)

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三陸の伝統文化を伝える波伝谷(はでんや)は、戸倉神社を残しすべて、津波に流された。
神社が丘に打上げられ、神社を信奉したという伝説と同じ歴史が繰り返された。

●渡来人がかかわっていた船の伝承


三陸の伝統文化を伝える波伝谷(はでんや)は、戸倉神社を残しすべて、津波に流された。
神社が丘に打上げられ、神社を信奉したという伝説と同じ歴史が繰り返された。


常陸国で造船された大型船が海底の隆起で座礁し、波で船が転んだ谷、
最近七世紀後半の水軍による蝦夷征伐に関する古代史でも注目されている。

「安永風土記」にある水戸辺村の村名の由来として「当村は当郡北沢村不動尊百済国より御渡波成候節塩釜津浦へ御到着岸に付往古は塩津浦と申候」


戸倉神社及び神社下の船沈池がある。百済よりの船は、嵐にあい塩津浦にて風待ちしていたところ波が押し寄せ船が沈んだ、この場所を沈船池(明神池)であり船にあった宝物と共に祀ったのが戸倉神社だという。


戸倉大明神縁起


常陸国の一つの宮鹿島神宮に迎い奉りその神宮に配祀してある所の天児屋根命を守護神として二神を小型の船に奉遷し・・・・供奉の人々は神慮を畏こみて別に大形の船に乗り東海に回航して波伝谷にいたり碇を下した揚陸の機の到来するを待て滞留数旬に渉る然るに一夜海底隆起して丘陵となり海波荒み立ち上がり波に轉しられて船は遠く水面を離れて戸倉山の谷に在り供奉の人々驚きて引き下すんとなすとも船動かずこれにてここに宮殿を造営して三神を相殿に祀りこれを小鋭神社と称して波伝谷という名称もままたここより始まると


波伝谷の民族

http://www.thm.pref.miyagi.jp/archives/book_pdf/minzoku/hadennya_minzoku.pdf



この縁起は相当に歴史的に意義深いものがあるかもしれない、今回の津浪で意識されたのは福島県の浜通りから岩手県の宮古から海岸地帯が実は一つの海洋文化圏であったことが共通認識された。
岩手県とか宮城県はリアス式海岸であり明治にも津浪があったから津浪地帯だと意識していたが実は仙台の沿岸地帯や名取とかから亘理-山元町から浜通りは一つの海岸を共有した海への歴史をもつ共通の場であったことを知ったのである。福島県というとき中通りと会津があるけど海とは関係ない、山との関係が深い。だから地理的歴史的になかなか一体感がもてない地域だった。
今回の津浪で明瞭になったのは宮城県から岩手県とその海岸地帯は津浪の被害にあい共通の海の文化圏に庵たことを意識させられたのである。
大和朝廷の水軍による蝦夷制服はまず常陸からはじまり徐々に塩釜から三陸方面と伸びていた。常陸の鹿島神社は船と関係していた神である。船の操作にたけた人々が祀った神ともとれる。その船の建造や操作にかかわったのは渡来人の技術者であり百済国の人がまず塩釜に来て戸倉に移って来たとか百済の船が沈んだという池の伝説などがあったのも何か百済と関係していた。百済王敬福が宮城県遠田郡涌谷町の黄金の採掘に来たことは有名である。「すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く 大伴家持」は有名である。

この歌によってみちのくが黄金の国であることの伝説が生まれた。それとと同時に古代において大和朝廷が水軍の蝦夷制服がありそれが伝説化して残っている。それが「みちのくの真野の草原・・」の草原は萱が繁っている場所ではなく地名説を出して前に書いた。草(かや)は伽耶(かや)の国に通じるとも書いた。ここでは百済であるが伽耶は後に百済国になった。その前は伽耶だったのである。

そして今回の津浪で塩崎の船着とか市庭と地名が残るところまで津浪が押し寄せたのである。常磐線の線路をくぐり津浪が押し寄せたことには驚いた。船も六号線まで流されてきた。だから万葉時代は海だったことを明確に意識させられたのである。真野の草原と歌われたのが南相馬市の鹿島区の真野郷だとされるが一方で石巻に真野があり萱原という地名が今も残っているからそこが真野の草原だとしていた。ただ歴史的遺物や文献からは南相馬市の鹿島区の真野が有力だとされている。唐神という地名が残っているのもそうである。唐は韓(から)であり朝鮮半島のことである。それでも三陸の波伝谷というと石巻からさらに奥でありそこにもこうした伝承が残っていることがそれを示している。現実に石巻からは真野公という木簡も発見されているから明かに常陸から真野一族の製鉄族とみられる一団が海沿いを移動していたのでありそれは三陸の方にも伸びていたのである。
だから津浪によって古代史も見直されるということがあった。常陸から福島県の浜通りから宮城県から岩手県の海岸地帯は一つの共通の場として海を通じて古代史も形成されたのである。そこには深く渡来人がかかわっていたのである。唐神という地名が残っているのもそうである。


●波伝谷の津の宮村はまさに津浪の村だった

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さらに津浪で注目すべきは波伝谷では津の宮神社がありそれは一つの村を形成していた。津の宮村となっていた。これは津浪があって祀られた神である。でも津の宮神社を中心にして村が形成されることはなかった。それは津浪に由来する村となるからだ。だから三陸は津浪に度々襲われているのだからそういう村があっても不自然ではないのである。ただ南相馬市の鹿島区の烏崎に津神社があった。これは結構大きな神社だった。だけどその由来は津浪であったことが忘れられていたのだ。なけぜなら鯨の祭りをしていて鯨の碑があったり金比羅の碑があったから津浪を記念した神社とは地元の人も思っていなかったのである。

松川浦の津の宮神社はまだ津浪を意識していたらしい。なぜなら津の宮神社に逃れれば助かると実際に逃げた人がいた。ちょうと津浪を逃れる高台にあった。でも烏崎の神社は平地にあり今回の津浪で完全に消滅した。一方家が集中していた烏崎の集落の高台にあった八龍神社はぎりぎりで残った。その石段は急でありあぜあのような高台に作られたのか不思議である。

そもそも平地に作られた津神社のあったところと家が密集していた烏崎はどっちが古かったのかとなる。地形からするとどうしても真野川の沿岸であり河口が広がっていたからその川岸の袋村が江戸時代になくなったように津神社があるところが八龍神社より古いとも思えない、もともと浜町とあるから家が集中していたところが古い町だったのか?港ははあとからできた。南相馬市でも実際に津神社は12もあったのだ。それが津浪に由来していることも忘れていたのである。福島県かち宮城県から岩手県の海岸沿いに津神社があれば400年前の慶長津浪に由来していたのである。ただそれを意識的に学問として警告していた人はまれだろうしいなかった。今回の津浪でみんな意識させられたのである。

岩沼でも津浪で押し上げられた船の伝説が残っていてそれを聞いた東北電力の人が津浪を恐れ女川で高くして原発を造り助かったのである。もちろん津浪は岩沼辺りではそんなに襲っていないが女川では津浪は400年前でなくても経験している。その相違の方が大きく危機感を作り出していたともなる。福島県の浜通りではまず津浪の危機意識がほとんどなかったのである。それが東電の原発を一旦高くして作ったのにコストカットとして知られた清水社長とかの意向があり低くして津浪の被害にあったのだ。自然災害も日本では度々あり歴史そのものが自然災害史のような所があり天皇がその自然を畏れ災害をないことを祈る役割があった。自然災害は天皇の責任だとまでなっていたのである。

それほど日本では津浪でもそうだが自然災害が国をゆるがすものとなるから歴史的にそうなったのである。それがこれだけ文明化したとき自然の恐ろしさを忘れてしまっていたのである。科学文明が自然を征服したような奢りになっていたのである。数学の確率で百万年に一回しか事故は起こらないとか真面目に言う科学者がいた。その根拠がどこにあったのか?全く科学者も科学的だとなり全能の神のようなことを言っていたのである。ともかく奢りとか油断が原発事故を引き起こした。
日本の土地がどういう土地だかも忘れていたのである。地震や津浪がどれほど恐ろしものか?
それは神戸地震で知っていたが津浪は忘れていたのである。


ともかく波伝谷の民俗というのは興味深い、いかにそこに暮らしが形成されてきたか?その村の全容が記されている。その村が今回の津浪で壊滅的被害にあった。もはや村が消滅するような危機になった。志津川町のちの三陸町は湾が穏やかでいい所だと思っていた。何回か電車で行った。岩礁に大きなh浜菊が咲いていたのが印象的だった。三陸とか岩手県のリアス式海岸の町は湾があるから穏やかに感じていた。陸前高田市でも広田湾がありあの湾が穏やかに感じる。福島県の浜通りとか荒い波が打ちつけるのとは違っているからである。だからあんなふうに壊滅的被害を受けたのは余りにも悲惨であった。女川もそうだった。湾があって穏やかだと思っていたところがみんな壊滅的被害を受けたのである。なぜなら町が海岸に密着してあったからそうなったのである。村とは違い街があったから被害が大きくなったのである。


●志津川町は(三陸町)は浜菊が印象に残っていた


岩礁に浜菊大きく湾暮れぬ


志津川の湾の巌に大輪の浜菊咲きて夕べ明るし


わが国の本州、茨城県から青森県の太平洋側に分布しています。日当たりの良い断崖や砂浜に自生し、高さは50〜80センチになります

茨城県から青森県というとき今回の津浪の被害にあった地域の範囲だった。ただ函館にも津浪が押し寄せていたことには驚いた。函館を津浪が襲ったらどうなるのか?何か今回の津浪はそうした恐怖が現実化したのである。


この花は南には咲かない北方系なのか?南方系と北方系で花を分けるのもいい、文化圏も植生と同じく別れることがある。浜通りの地域が真野の草原地域が植生的にはマルハシャリンバイが奄美大島から流れてきて南相馬市の鹿島区の海老の浜が南限の地だというように地理と文化的歴史が一致していることがあるのだ。福島県の浜通り南方的植生であり最近をナギという木の苗のうようなものを相馬市の駅前の花屋で買ったけどこれは熊野神社の御神木にもなっている。凪ぎ(なぎ)草原をきる、なぎるでありナギになった。それが海のことをいうのに凪ぎとなった。草原と海が通じている言葉なのである。津浪でなぎ倒されて海岸近くが草原化しているの風景とも一致する。草原は人為的なぎ倒す、刈っていないと森化してゆくのが日本の風土である。なぐ、なぎという行為は草原を維持するために常に必要だったのである。

歴史は自然から始まっていてその自然に人間がいかにかかわってきたかが歴史でもある。だから常陸から茨城県から宮城県から岩手県、青森まで一つの自然的歴史的文化圏として見直す作業が必要なのである。福島県は会津があってもそこは山国文化圏であり異質なのである。むしろ福島県の浜通りは常陸から宮城県や岩手県の海岸地帯と共通の文化圏を形成していたのである。

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2013年07月17日

歴史や祭りを変えると後の人に災いが・・ (烏崎の津(浪)神社が鯨の神社に変わり津波は忘れられた)


歴史や祭りを変えると後の人に災いが・・

(烏崎の津(浪)神社が鯨の神社に変わり津波は忘れられた)


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津神社の裏側にあった-鯨大明神

名取に鯨が打ち上げられた(相馬(鹿島区)にもあった鯨の碑)

http://musubu.sblo.jp/article/7998365.html

なぜ烏崎の津神社が津浪を記念した神社なのに鯨の神社になっていたのか?鯨の祭りをしていたのか?そのことを原発事故は誰の責任なのかということでも書いた。つまり鯨の祭りになったのは最初は津浪を記念したものであっても寄り鯨がありその恵みが大きかった。それが土地の人に印象に残り津浪のことは忘れられてしまった。鯨は津浪のように一回だけではない何度も寄り鯨がありうるから忘れることはない、その恵みも大きいから忘れられない、一方で津浪の被害も大きかったからこれも本当は忘れにくいものだったはずである。今回の津浪の被害をみれば別に家族を失ったものでなくても簡単に忘れられないし代々語り継がれる大惨事だった。それが忘れられたことはなぜなのか?とにかく400年たつなかで忘れられてしまった。


神社の意義はなになのか?それは別に信仰の対象ではない、ただ津浪を記念したというときそれは大きな意味があったのだ。後世への津浪の警鐘としてまた記念として神社が建てられた。ただ烏崎の津神社はもともと小さいものだったろう。それが鯨神社になったとき大きくなったのだろう。津神社はみんな小さい祠のようなものだったろう。ここで問題だったのは祭りが変わり津浪のことを忘れられたということである。祭りはある事実の何か重大なことの継承だった。それはまた信仰とは違ったものであり歴史の継承の役割があった。神社を祭りをおろそかにするということが祟りがあるというときそれは今回それとにたものを感じた。歴史の改竄とかはよく言われる。それは確かに常に行われてきた。しかし祭りを変えたとかはあまり言われない、それは大きな国の歴史とはかかわらない地域の歴史だからそうなった。でも地域の歴史でも祭りは歴史の継承であり由来がわからないくなったものもある。ただ祭りだけが千年とか継続されているものがある。それは歴史の継承でありその祭りを変えることは重大なことだったのである。神社が畏れ多いなど今は思わない、でもそう思うとき神社を祀って建てたのはそれなりの意味が当時あったから建てられたのである。その意味が400年もたって不明になって別な祭りに変化していた。これは歴史の改竄だったのである。このことが重大なことと認識されたのは今回の津浪の被害の甚大さによってなのである。


よく縁起が悪いとか今でも言うけど昔はもっと言われていた。この世にはわからないことが多々あり縁起が悪いというとき今のような科学も発達しないから縁起が悪いとなり神仏に地蔵にも祈っていた。その土地の神にも祈っていた。その縁起が悪いということが実は津浪を記念した津神社を鯨の神社に変えたことであったのだ。そういうふうにもともとあったものには長くその土地にあったものには何か意味があったのだ。地名のことも津浪で言われた。浪江は標葉郷でありこの標葉は禁断の意味だった。まさに縁起が悪い地だったのである。そんなこと科学の時代に通用しないとなるが今回わかったように科学でもわからないことが多々あるからそのように縁起が悪いということに人間はこだわりつづけてきたのである。なぜ相馬氏が小高の城から海岸に接した村上城へ貴布根城として移したがすぐにそこは縁起が悪いとして城を今度は原町の牛越城に移したのである。やはり村上城は縁起が悪かった。なぜならそのあとすぐに慶長の津浪に襲われていたからである。昔の人は何かと縁起が悪いというのはやはり一つの人間としての危険を感じる感だったのだろう。


それが単に迷信的でなかったのは今回の津浪でわかった。科学ですべてがこの世のことはわからないからこそ縁起が悪いということもそんなこと馬鹿げているとはならなかった。現実にその土地のことは千年以上の歴史がどこにでもあり神社もありそれが何かに由来していて建っている。特に古い神社には何かしら必ず由来があり建てられた当時は意味があって建てられたのである。それが神社には由来がわからなくなったのが多いのである。それを今回は現実にこれほどの津浪の被害を受けて思い知らされたのである。なぜ津神社の由来を鯨の神に変えてしまったのか?その怒りが今回の津浪になったんじゃとかさえなる。津神社の由来をおろそかにしたからこうなったんじゃともなる。なぜならもし津浪のことを伝え祭りしていたら津浪がここにあったということを意識するし早く逃げて助かった人も多かったかもしれない、そういう意識をもたさせる役目が神社にはあった。ただそれは神仏の信仰とは別である。要するに古いものには何でもそれなりに意味があった。言葉でも廃れる言葉が多いがそれも歴史的に意味あるものであった。その言葉の意味が変わったり意味がわからなくなるのともにている。


だから神社とか古い碑があった場所とかは変えない方がいいし祭りも変えない方がいい。場所を変えたらそこが津浪があって高台に建てられたということも忘れられてしまうだろう。由来も変えて祭りをしていたら津浪のことも意識させられないのである。原町区の雫(しどけ)にも小さな津神社があり今回の津浪からまねがれたという。雫というとあれだけ高台なのに津浪に襲われた衝撃があった。
あそこにもすでに人が古くから住んでいて慶長津浪の時被害があったのである。だからこそ津神社が祀られていたのである。歴史は時間がたつとひっそりとした目立たないものになりそれに深い意味がある場合がある。でもそれは後世の人が見いださない限り不明になる。現代でも大げさにマスコミやテレビで騒ぐものに意味がなくなりたちまち忘れられる。歴史的に意味あることは例え残されていても忘れられているからそれを後の人が見いださない限り不明になる。だから歴史には重大なことがまだ埋もれていることもある。発見されず身近にあっても忘れられているということありうるのだ。

人間は今でも例え家族でも60年とか一緒に暮らしていても死ぬとたちまち忘れられ謎になり不明になりやすいのである。死ぬともうその人を思い出すことがむずかしくなる。津浪で死んだ人は写真だけが思い出となり手がかりとなった。それで泥の中から必死で写真帳などを探していたのである。
つくづく人間は忘れやすいものであり過去は失われやすい、だからこそ古くからあるものには何かしら意味があり伝えるものがあり大事にせねばならないとなる。特に現代のようにあらゆるものがめまぐるしく変わる時代はそうである。過去というものを見いだすこともむずかしくなる。それが大きな災いに通じていることもありえた。それが今回の津浪だったのである。


 原発事故の責任者は誰なのか? (巨利に目がくらんで事故になった-烏崎の津神社も鯨の恵みで津浪は忘れられた)
http://musubu2.sblo.jp/article/70998128.html

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2013年09月20日

民間の津波の伝承の語るもの (津波はやはり天罰だったのか?)


民間の津波の伝承の語るもの


(津波はやはり天罰だったのか?)

●柳田国男の全集より-津波の伝承


故佐藤喜真興英君の集めた南島説話の中に中頭郡美里村大字古謝の出来事として、次のような口碑が採録されている。昔この村に一人の塩焼男がいて海水を汲みにでて一尾の魚をとりそれを籠に入れて我が家の軒につるしていた。

その籠の中から「一波寄するか二波寄するか三波寄するか」という声がする。不思議に思って覗いてみると魚よりほかに何もない、こんな魚は放す方がよいと思って家にでると途中に知り合いの無頼漢に出会った。放すより私にくれといって、もっていって料理して食べようとしていると、ちょうどその時に大海嘯がやってきて近隣の人畜ことごとく押し流してしまったというのである。


ものを言う霊魚を害しようとした者が大津波によって罰せられたとういことは同時に一方のこれを放そうとした者の助命を意味しこの塩焼き男が生き残った故に恐ろしい話は後に伝わったのである。

南の島々で古くからの災害としていわゆる、シガリナミ(海嘯)の記憶の最も印象強く残っているのは自然である。これがただ一尾の魚を尊敬するかせぬかによってさういう恐ろしい結果を生じたざとつ伝えるのは考えて見れば不思議なことである。
(柳田国男全集-五巻-もの言う魚)


今回の津波ほど不思議なことはなかった。どうしてこんなことが起きたのか?それいろいろ書いてきた。しかしその疑問は解けないだろう。そこには想定外であり人事越えたものが働いたとなるからだ。ただ過去にも日本では津波がまれにしても全国であったのだからその伝承が残されている。その一つがこの話である。これはまさに今回の津波をどう解釈するのかを考えるときかなり参考になるし示唆的である。

「一波寄するか二波寄するか三波寄するか」津波は一波二波三波と寄せる度に大きくなってゆく、最初の一波で逃げた人は助かっている。一波は低い波だったのである。


一人の無頼漢がそのもの言う魚を食べようとした。この無頼漢とは何なのか?これは前にも書いたがこの辺では萱浜(かいはま)の松林で女高生が殺され犯人が首つって死んだのである。それは津波が来る何日前だったのである。だから津波が来てあとで女高生の死体も見つかった。これは津波が来たからこのことも関連あるものとして見るようになったのである。それは他の人もインタ-ネットに書いていた。そういう伝承は津波によってただの犯罪ではない、津波と関連づけられるようになる。自分もこの六年間の苦難を書きつづけてきた。津波の半年前に酷い犯罪にあった。そして津波が来るまでその犯罪者を激しく呪いつづけたのである。その人は別に警察に逮捕されていない、しかし警察に逮捕されない事件など山ほどあるのだ。ただこれもこれだけの津波が起きたから津波との因果関係を考えるようになった。他の人もいろいろ津波の後に考えているかもしれない、無頼漢とは自分の経験では犯罪者だった。田舎でもみんな素朴ではない、特に現代は広域社会だから昔の素朴な村社会とはまるで違う。

 

田舎の素朴さがう失われたというときそれが今回の相馬双葉漁業組合のことを度々とりあげた。原発事故では漁業権者が一番恩恵を受けていたのである。その補償金で億の金をもらったとかは船主なら嘘ではないだろう。原発事故以後も漁業権者には手厚い補償金が支給されているのだ。だから相馬総合病院に入院したとき請戸の人が特別室に入り家を建てると言っていたとき船主なのか?やはり漁業権者でありそれだけの金が入るのが原発だったのである。富岡町長の五億円の津波に流された金庫が話題にのぼったのもそれだけ原発から生まれ金は巨額だったのである。今でもこんなに補償金がでること自体驚きであった。右田の人が町内に立派な家を建てられたのもやはり漁業関係者だからだろうとなる。
ただ金をもっていても土地がないと家は建てられないから地元だから土地が手に入ったから建てられたと推測される。

 
●一尾の魚が意味しているもの
 
この伝承が意味しているものは何なのか?


これがただ一尾の魚を尊敬するかせぬかによってさういう恐ろしい結果を生じたざとつ伝えるのは考えて見れば不思議なことである。

漁業者が一尾の魚を尊敬するなど今は全くないだろう。一尾ばかりとったってなになるのだ。大量にとらなければ商売にならないとか常になっている。そして漁業では金にならない、だから跡継ぎもできない、これは農業でもそうである。一粒の米に感謝していた昔とは大違いである。常にどれだけの金になるのかが問題になる。それもやはり買うものが増えすぎたからそうなる。家もほしい車も欲しい電気製品も欲しい子供は大学まで出すのが普通だとなると常に金がかかるのが現代の生活だからである。
ただそこに大きな落とし穴があった。何か大事なものが見逃されていたのだ。

それは一尾の魚でも神からの贈り物であり一尾の魚をありがたく食べさせてもらう感謝の気持ちが喪失していた。このもの言う魚は神の使いであり危険を告知するものだったともとれる。自然からの何らかの警告として生き物もみるべきものがある。漁業権者にももらろん自分のような魚を食う方にもそうした意識は皆無になった。ただ金を出せば何でも食えるし必要なものは手に入るという感覚になってしまった。そこに人間の奢りが生まれていた。一尾の魚に一粒の米に感謝する心はない、ただ足りない足りないという嘆くだけだったのである。

今回の津波でどこでも漁業にたずさわる人々が村や町自体が消滅するほどの被害にあった。それでみなん天罰だというときそれは確かに一理あるのだ。それは松川浦の近くの磯部辺りでも立派な家が建っていたという人がいたから福島県の浜通りはそれだけ原発の恩恵が大きかったのである。なぜなら漁業権者の許可がないと原発はまず建てられないからだ。今でも汚染水の問題があり漁業権者と相談しているがそこでも交渉すればさらに補償金が上積みされるともなる。だから漁業権者の権利が一番大きいものだったのである。
それで天罰があたったというと言うの地元の人たちでもあった。


現代は科学が信仰にまでなている時代だから何か郷土研究など好事家のすることであり真剣なものではない社会に役立つものではないと見られていた。しかし津波のことで郷土研究でも実際は大事な学問であることを認識した。それは東北電力の副社長が岩沼に住んでいて山の方まで舟がながされてきたという伝承を聞いていたから危機意識があり10メートルの所をもう15メートルにしろと主張して今回は女川の原発はぎりぎりでひ助かった。
ただこれは近くの三陸でも明治に大津波で一万人と死んでいるのだから危機意識が違っていたのである。東電は最近になり津波のことを科学者によって指摘して危ないと何度も警告されていた。自分も時事問題で相馬のかなり奥まで津波が来た痕跡が砂の採取でわかっていて報告されていたのでそのことだけ注目した。それは貞観津波のものだった。
でも慶長津波は400年前のことだったのである。


●科学万能時代の警告が津波だった


人間は今や科学で何でも解明されている。そういうふうにみんなが思うようになってしまった。ところが科学で解明されないことがまだまだある。でも科学でやがて解明されると思うようになった。それで原発を推進していた科学者が確率的には一万年に一回しか事故は起こらないとまじめな顔で言っていたしみんなも信用していたのである。でも400年に一回くらいは大津波が来るのだからそれは全く歴史を無視したものだったのである。
つまり津波の盲点は人間の歴史が軽視されていたことなのである。歴史というとき災害の記録も歴史であり戦争のようなものだけが歴史ではなかった。人間は歴史を無視するとこういう恐ろしい結果になるということが証明されたのである。現実に松川浦にも津神社があり今回訪ねた原町の北原にも高い所に隠されるように津神社があった。それが何なのか地元の人も注目しないし忘れられていたのである。津神社の下には普通だったら津波のことが記憶されていれば家を建てない、これより下に家を建てるなという津波の伝承が残っている地域もある。だからどうしてそういう危険な場所に家が密集してしまったのか?
それは津波の伝承が失われてしまったためなのか?その辺はこれからの研究が必要である。


人間はすべてを科学で解明できない、例えは浪江の標葉郷はシメハはシメノであり禁断の地の地名だった。だから地元の人が郷土史家がここは禁断の地だから原発を建てるべきではないと言ったら笑われるがそれも馬鹿にできないものだったことが津波の後に判明したのである。科学的なことでこの世のことがすべて解明できないから縁起が悪いとかなどが今でも生きているのである。人生にしたってそうである。どこかに神の働き関与がありそれは科学的にはすべて解明できないのである。例えば放射能にしてもこれはどこまで体に影響するものなのか?これも実際は経験しないことだからわからないのである。そういう資料もないからわからない。本当に住めないのか?その判断は何によって決めるのか?
ただ科学的なものだけで決められるのか、現実問題として老人なら放射能と関係なく愛着ある家にもどり暮らしたいという要望がある。そういうのも無視はできない、だからチェルノブエリでは老人は帰って野菜を作り生活していた。それはもう放射能の線量だけでは判定できない、人間としての切実な要求を無視できるのかとなる。別に老人なら多少の放射能を気にしないからである。


今回の津波では一尾の魚にも恵みとして感謝してきた、何か最近自分の一身上ではただ自分から金だけをむしりとりむさぼり感謝もしない、ただ金さえとればいいんだとして自分の財をむさぼりくらおうとする人ばかりと接していやになった。何かしてくるならいいが何もしない、お前は金だけをよこせばいいんだとそれは強盗に近いものとなっていたのである。現実に強盗が入ってきたのである。そういう社会風潮になっているのも何か今回の津波と関係しているかもしれない、どういう因果関係があるのか?ただ科学的に規則的津波は起こるだけでは納得できないだろう。ただそういう伝承は科学の時代には軽視されてきた。現代は一般の人でなくても科学者であれ官僚であれ東電の幹部でも政治家でももの言う魚を奪った無頼漢となっているのかもしれない、あの人たちは事故前は紳士とみられていた。エリートであった。でも津波以後は科学に奢り金持ちとなっていた強欲な人たちだとなり罰せられるべきだとなった。それは地元の人たちにも言えるし自分にも言える。

つまり一尾の魚も尊重し資源として食べ物として貴重なものとすることが現代社会からなくなった。あらゆるものが足りない足りないという人が多すぎる。魚でも食べ物でもただむさぼり食らうだけであり食べ物に感謝している人などいない、農民でもなぜ米が高く売れないのだと商品として見ているのが今の社会である。実りそのものに感謝する人はいないのである。自分もただ金を要求されるむさぼられる対象でしかないと同じだった。感謝も何もない、金をもらえばあんたなんか何の用もない、死んでしまいとまでなっているのだ。それは親子でもそんな風潮でありモラルの頽廃が末世症状を呈しているのだ。
こうした末世にはやはり大きな自然災害が起きてくる。そういう考えるのもやはり科学的なことだけで人間の起きる事象が解明できないからである。

 
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2013年09月23日

津神社の謎 (烏崎村の津神社は高台にあったのを移動したのか?)


津神社の謎
(烏崎村の津神社は高台にあったのを移動したのか?)

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《流された神社は11社ほどありました。8社は南相馬市鹿島区に集中しています。その8社のうち、いくつかの由来については市史・町史に記述が残っていました。それによると、例えば、津神社(番組に出た相馬市の津神社とは別)は、番組にも登場した八龍神社(もともとは港の神)が、船の大型化による港の移転の際に、年代は不明ですが、低地へ分社して成立したことになっています。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20110830


鹿島区の8社の神社が流されたというのはなぜか?その場所が新しい場所だった。江戸時代にしても南海老村でも北海老村が先にあり海の方に人家が増えて新しい村が形成された。もちろん八沢浦は明治時代に干拓されたのだから新しい、その一つの神社も流されたし南海老村の神社もいくつか流された。

そして烏崎村に津神社があったがこれがなぜ今の港の近くにあったのか?これはもともと
平地にあったのではない、つまりここで指摘されているようにもともとは家が密集していた浜町という所の高台にあったものが移されたのかもしれない、あそこにあった八竜神社は高台にあり急な石段でありなぜあんな高い所に建てたのか不思議である。

そもそも神社は一般的に高い所に建てる、古い神社はだから一般的には高い所に建てる。ただ今回井田川を回って下浦では新山神社がありあれがなぜあんなに高い所にあるのかも不思議だった。あんな高い所まで津波が来たとか思えないし新山神社と双葉に新山という城があった所がありそこから移住した人が祭ったのだろう。それは江戸時代になるのかそれ以後なのか?ともかく新しい神社でありでもあんなに高い所に祭ったのである。

これは津波とは関係ない神社である。別に高い所にあるからといってすべてが津波と関係しているわけではない、ただ不思議なのは相馬市の松川浦の津(つのみや)神社や烏崎村の八竜神社は津波からぎりぎりでまねがれて社が残ったのである。北原の島商会にゆく坂の入り口の津神社も明らかに津波の記憶からあれだけ高い所に祭ったことは確かである。

津波は道とか斜面を押し登ってくるからかなり高い所まで津波が来るのだ。島商会に行く坂の入り口にある津神社があれだけ高いのはそうした津波が実際は登ってくるからあんなに高い所に建てた。また烏崎の八龍神社も急峻な石段になっている。

小高の綿津見神社もぎりぎりで残ったのだろう。前は崖だったけど津波の勢いが崖では強くなっていた。だから双葉の原発がある所の崖に津波が押し寄せて勢い良く大波がぶつかり砕ける様は恐ろしいものだった。その衝撃がものすごいものだったのだ。
だから海岸線の村は一瞬にして木っ端みじんになった。家が吹き上げられたようになって流された。津波がいかに海岸に接している所で恐ろしいものかまざまざと見せられた。
だから津波の経験があれば絶対にあんな危険な場所に家は建てないのである。またあんなに密集して家を建てない、そういう危険があるのになぜあれだけ家が密集するようになったのか?時間がたつにつれて津波のことが忘れられたのだろう。


古い神社は一般的には高い所にあった、平地にあったのは新しいものだったというとき
相馬藩ではそうだった。烏崎村でも牛島は今の港があったところは家が密集して八龍神社があった所より新しい、なぜならそこは湿地帯でありその後ろに袋村があったが消えたことを考察したが牛島でも牛とつくのは湿地帯でありそこに人が住んだのは新しい時代である。そもそもあそこの港ができたのはいつなのか?明治になってからなのかもしれない、
江戸時代にはなかった。新しい港でありそこに津神社があったけどそれは浜町とか家が密集したところから移された神社だった。もともとは高い所にあった。

烏崎村は烏浜であり岩松氏が鎌倉時代に船で上陸した地点であり烏浜はその伝説に基づいてなづけられた。だから烏崎村は古いのである。牛島にある港はずっとあとにできたのであり明治以降なのかもしれない、ともかく津神社は牛島にはなかった。家が密集していた高台にあったのが移されたのである。そしていつしか津神社が津波を記念したものだということを忘れてしまった。鯨を祭るようになってしまっていたのだ。だから神社の裏側には鯨の碑や金比羅の碑があったのである。


いづれにしろみんなが津波のあとに一番疑問に思っていることはあんな危険な場所に人が密集して住んだのかということである。三陸辺りではここより下に家を建てるなという言い伝えがあった。ならば相馬市の松川浦の津神社(つのみや)の下には家建てるなとなる。なぜなら津神社の下は原釜であり一段と低くなり海岸に接して家が密集していた。

原釜には塩田があった。それは江戸時代である。だからすでにその時から海岸に接して家があった。でもあれだけ家が密集するようになったのは明治以降であり昭和であり最近なのかもしれない、ただそこでも津神社のいわれも明確ではないし無視されていたのである。島商会に行く坂を登る津神社は本当に隠されるようにしてあった。あの神社は本当に不思議である。まさに隠されたまま注目されず何の由来かも知らずひっそりと四〇〇年間存続していたのだろう。神社は由来がわからないのが結構多い、その由来がわからないということはいくら神社があってもその由来が村の人によって伝えられていなかったということなのだ。それが大きな被害となったのである。


結局神社の名前にも問題があった。もし津波神社となっていたらわかりやすかった。なぜ津神社としてまぎらわしいものにしたのか?浪分神社があったが名前から分かり安い、津神社だけでは津波のことをイメージしにくいのである。ただ津波は四〇〇年前の慶長津波から生まれた名前でありそれで津の一字になった。津というのが何なのか?つはつづらとかつづくとかのつであり津の意味はもともとそういう意味だとすると津波に由来していた。なぜ津波になったのか?つづく、つづら、とか地がつづいていて浪がつづき押し寄せることの意味だった。そういうふうに津波を見るようになったから津波に名前が変わった。それまでは海嘯とか全く別な名前だったのである。浪がつづき押し寄せるから津波になった。ただつくづく人間は名前に左右される。津神社と津波神社ではまるで違ったものとなっていたのである。地名でも常にその名前からその土地をイメージする。それが実際の地形とか由来とは違ったものでも名前から人間はイメージする。だから名前がいかに大事なものなのかわかる。津波神社となっていれば誰でも津波なのかと即座に思うからである。ただ津神社では何なのだろうとなって津波を意識されなかったのである。

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島商会へ行く坂の登る入り口の津神社は一番不思議である。
雫(しどけ)とかの村があるけどこれは古いのか?
萱浜(かいはま)はここよりかなり低い地域にあり被害が大きかった。
ここは越中からの移民が主に開拓したところだった。
ここでも村の新旧が問題になる。
津神社のある場所は古いのだろう。萱浜に移民が住んだのは江戸時代である。
津神社が建てられた後に住んだ。では高台の方はそれより前に人が住んでいた。
萱浜の人たちには津波のことが伝えられなかったのか?
移民した人が多くなり津神社のこと津波のことは忘れられたのだろうか?
あの辺の歴史はわかりにくい、どこが古いのかわからないのである。

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小高から浪江にゆく坂の「綿津見神社」もかろうじて残った
これは海岸に接していたからかなり高くないと流された。
これも不思議の一つである。
これだけ高いから流されなかった。
これも古いから津波を警戒して建てられたのか謎である

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この神社の下は津波の水で沼になっていた。
その下は崖になっている。


南相馬市鹿島区の袋村が消えた謎
http://musubu2.sblo.jp/article/61811783.html

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2013年09月24日

津波で消失した右田の松原を回想する写真と短歌


津波で消失した右田の松原を回想する写真と短歌

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常磐木の松の緑のうるわしく浪に揺られし船今日も見ゆ

粛々と松風鳴りぬ秋の日や船もいでたつ漁もありしも
松と松健やかにあれ長き日や実りを豊かに里を育む
松と松よりて松原ありにしを津波に消えて秋となるかな
津波にて妻の死せしとあわれかな家の跡にし菊を献げぬ
松林野路菊あまた夕日さし綿のごとしも実り刈り終ゆ
残りたる庭の大石松二本烏崎村にまた秋の来ぬ
海を見て量にいでざる漁師かな恨みも深く秋となるかな
寥々と松風鳴りて右田浜冬の海にも漁船いでしも


右田の松原は松川浦の松原とは違っていた。松川浦の松林は木が細いしあれは松原というものではなかった。その違いは右田の松原は防潮林として稲作を米を塩害から守るために作られたのだ。松川浦の松林はそういう用途で目的で作られていない、環境的に景色を良くするためにだけ作られていたのである。

右田の松原は田んぼに米の実りがあり質実な松と調和していた。稲と松と海が調和して景観を作っていたのである。青松白砂の風景は松原の風景は稲作と密接に関係して作られていたのだ。松原から確かに海が見えるが一方で松原からは田んぼが広がり秋には豊かな黄金の実りとなり松原と調和していたのである。

そして浜通りで右田の松原のように整った松原はなかった。右田の松原は松風は気持ち良かったのである。松原らしい松原だった。

そういう風景になじんでいたしそれか消失することなど想像すらできなかった。
全く風景が変わってしまった。たた松原がないから広々と海が望めるようになった。
これも新しい景色というよりもともとは松原がなかったのだから海が広々と見えたのである。それはそれなりに気持ちがいいということを経験した。

常磐線からは海が見えないから海を意識しなかったのである。それは松原とか家にさえぎられていたから見えなかったのである。浜吉田駅でもあそこがあんなに海が近いと思わなかった。それは海か見えないからそうなっていた。多賀城辺りでも都市化して建物が密集して海が近いということを意識されなくなっていたのである。

いづれにしろ右田の松原は消失してただ思いだすだけになった。一つの作られた景観だったけどやはり自然景観の消失だった。それはもう再現できない、ただ思い出すだけのものとなってしまった。でも松原や田んぼの景観はいつの時代からかわからないが百年以上とか長いだろう。江戸時代からも作られていた。三〇〇年くらいで作られた松原の風景が根こそぎ消失することは今でも信じられないことたった。
だから松原の松の供養もしないといけなかったのかもしれない、松もまた生き物だからである。松がまだ枯れそうになって何本か残っているのも凄まじい光景である。
一つの執念なのかもしれな、それはなんとか生き残ろうとする人間の執念にも見えるのである。

 
 
 
 
 
 
 
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2013年10月11日

自分の家に訪ねてきた若き研究者 (津波のことで相馬藩内のことを詳しく調べていた)


自分の家に訪ねてきた若き研究者

(津波のことで相馬藩内のことを詳しく調べていた)

今日郷土史について聞きたいと若い研究者が自分の家たずねてきた。名刺にハーバード大学の研究所とあり何のことか思った。ハーバードというと凄いと思ったからだ。
そのことはよくわからなかった。
ただ若いにしては相馬の津波に関して相当に研究しているし地元の人より詳しいなと感心した。こんなに詳しく外部の人が研究するものかと思った。
それよりそんなに関心をもって外部の人がかかわれるものかと思った。
もちろんその人はそういう専攻であるから当然にしてもそこまで調べたということが感心したのである。地元の若い人でも老人でも関心をもたない人はもたないし知らない人は知らない。


その人はフィルードワークを一番重んじている。だから直接土地の人に聞いている。それから詳しく神社を実地に訪ねている。それは自分より相馬藩の神社のことを知っていた。神社は多いから未だに訪ねない不明な神社も多い。
その一つが津神社だったのである。津明神でもあった。原町区の雫(しどけ)の近くの島商会へゆく坂の入り口にあった津神社など自分も土地の人さえ全く注目していなかった。
そこに夏たずねたとき木立の影暗くかなりの坂を上った。そしてさらに上に隠されるように津神社が祭られていたのである。ある意味で神秘的だった。


夏の日に木立の暗き参道や久しく隠さる津神社かな

なき跡のしるしとなればそのままに訪はれずとても有りてしもがな

この歌はひさしく忘れられて隠されていた津神社にぴったりだった。なぜなら津波の跡にしるしと建てられたけど誰もその由来も訪ねずわすれられていたけど有りてしもがな・・・あるべきものだったとかなる。この夜には神社でもそうだが由来もわからなくなっても誰も訪ねなくてもありつづけるものがあるし何かを伝えるためにありつづけるのがある。でもなくなるのも多い。それは誰も由来も訪ねないがありつづけていたことは確かなのである。

この辺では相馬藩内では津波の話などほとんど聞かなかった。だけど津波の後に津神社のことがしきりに話題になった。この神社は津(明)神社と名前のつくのは三陸辺りでも津の宮村まであるのだから津波にまつわる大事な神社だったのである。
それがなぜほとんど忘れられてしまったのか?
なぜ言い伝えられなかったのかとかが問われた。


その人が言うには伊達藩内ではそれなりに津波の伝承があるが相馬藩内になるとぱったりとてくなる、ただ聞いてあるいて新地辺りとか松川浦の近くの神社にも津波の言い伝えがあった。ないわけではなかったが非常に少なくほとんどそういう話は聞かされていないのである。第一「本邦小祠の研究」で詳細に相馬藩内の神社祠を調べ尽くした人が津神社が津波を記念した神社だと書いていないのだからあとはおしてしるべきである。
あれだけの専門家がなぜ津波のことについて書いていないのか不可解だった。
それは結局そういう聞き取りもしないし聞くこともできなかったのである。
何か一番重要なものが欠落していたことが津波が来てわかった。

この郷土史の研究は外からも一般にも何か好事的なもの物好きなものが暇人がしているという感覚であり実用には役立たないものとみなされていた。
第一そうした津神社が津波と関係していて津波の警告として東電に注意を喚起する人はいなかった。

最近貞観津波の堆積物が松川浦の奥で発見された。これは最近のことでありそのことで一回だけ注目して時事問題の深層に自分は書いた。こうした科学的研究は最近注目されて大学教授も東電に進言していた。それでも仙台平野の海側が住宅が密集していて土地の値段が下がるからそなこと言うなと不動産屋に脅されていたのである。
ただ神社の研究よりそうした科学の時代には科学的なものを信じる。
すると東電でも科学者技術者の集まりだからそういうものは検討するものだと思った。
ただ金がかかるのであとまわしになっていたのである。


ともかくその若き研究者は人から直接聞いて回っている。相当の人に聞いている。それから実地にその土地の状態や神社もたずねている。それで柚木に「急ぎ坂」という話を聞いたという。そういう地名が昔言い伝えとしてあったのか?それは津波のことだったとしたら重要な言い伝えだった。こうした口碑を聞き歩いたのが柳田国男だった。これはみんなできることではない、そうして聞くことができるのは能力だったのである。民俗学にしろ民衆と接して理解を深める作業が必要である。本ばかり資料ばかり読んでいても具体的に実感としてわからないのである。ともかく学問はまず問題意識を持つことから始まる。
学問とは学び問うことである。はじめに問うことなのである。

自分の一番の関心もなぜ相馬藩内ではほとんど津波について伝えられず語られなかったのかということだった。その問題意識は共通していた。

これまでの歴史は或る特定の事件を取り上げて検証し、
遺跡地の発掘から得た検証 などを構成したものが主流だった。
しかし、全く逆の方向からの研究をおこなった のである。
地方に残された書かれていない歴史叙述、
つまり「空白の歴史」から得る研究である。

http://www.hondainsatsu.co.jp/pg113.html


なぜそこに津波に関する言い伝えなどの伝説などの空白が生じたのか?そのことが自分でも一番不思議なことだった。なぜそのことが問題になるかというと津波のことが伝えられないからこそ被害がこれだけ大きくなったということもあるし警戒しないことにもなっていたからだ。今でもすべてがニュースでも伝えられない、その伝えられないことに重大なものが知らされないということが常に起きている。これだけの情報社会でも何が重要なのかはわからないし自分で注意しないかぎり関心をもたないかぎた重要なものも重要なくなるのだ。知らされないことが命にかかわることもある。知らないということが致命傷になり死ぬこともある。これだけ複雑な社会だと知らないことで飲む必要もない薬を飲んでかえって病気が悪化して早く死んだりしている人もいる。戦争でも日本が負けているなど知らされない、そうしてやはり津波のように甚大な被害が知らされない知らないことで拡大化してゆくのである。


そして今になるとなぜ海岸に接してなぜ集落があったのか、密集して人が住んでいたのかということである。それは津波のことが伝えられなかったからなのか、そのことか今になると重大な問題として浮かび上がってきた。
一つの仮設として磯部でも砂州の所に人が密集した。烏崎でも人が密集した所は海に接していても湿地帯ではなかった。今の港のあるところはあとでできたものであり新しい、
湿地帯には人が家を建てにくいということがあったのではないか?

それで海岸に人が集まり家を建てたのかもしれない、たた漁業をするとなると海岸に接していた方が便利なのだから人が三陸のように集まったのか、その辺のことはよくわからない。それでも海の神様より農業の神様が多く大事になったということは稲作が広まり湿地帯は田んぼに変わった。烏崎の回りも田んぼになっていた。だから水葵がでてきたのである。水葵は田んぼだったところに咲く花なのである。

このことを話しあって問題意識を共有した。それで自分が集めた資料や本を調べ直して
かなり重要な発見があった。


この次はその調べたものを書いてみよう、若い研究者と共同研究的なものになる。
こういう学問もやはり様々な分野の人ととかかわり啓発される必要があるだろう。
その研究範囲が広範囲になっていたからである。

posted by 天華 at 00:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2013年10月12日

南相馬市鹿島区烏崎村の八龍神社の謎は深い(一部) (津波をまねがれたその位置に解く鍵が・・)


南相馬市鹿島区烏崎村の八龍神社の謎は深い(一部)


(津波をまねがれたその位置に解く鍵が・・)

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●岩松氏とのかかわりを探る
 


元亭3年(1323)  相馬 重胤建武元年 (1343) 代官岩松本阿弥陀仏と申す者 千倉来住(会津四家考)
建武元年 真野五郎氏康南軍(北畠顕家軍)に味方す
建武2年(1335) 北畠顕家(16歳)父 親房とともに義良親王を奉じて多賀城に入る
建武3年 相馬 重胤(北軍)鎌倉法華堂にて自害
建武3年 五月南軍の顕家軍北軍相馬氏の小高城を攻め落とす
建武4年 顕家軍 多賀城より霊山に移る
暦応元年(1338)真野五郎顕定江垂村中館に居館す

貞和3年(1347) 南軍顕信の拠る霊山城落ちる
この時が宝財踊りの起源となる

貞治5年(1366)桑折五郎元家伊達桑折より横手村に移り真野五郎と改称す
応永13年(1406) 鎌倉公方足利満兼、岩松義政に奥州下向命ず
                 この時善導大師六号名字(船板名号)船鼻に奉じて来る

                この年中目山阿弥陀寺開山と定める
慶長地震津波(1611年)

慶長16年(1611-地震の後一カ月後) 相馬 利胤(一七代)城を小高より中村に移す

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暦応元年(1338)真野五郎顕定江垂村中館に居館す


これは岩松氏が千倉の庄を所領するより早くあった。鎌倉南北朝の頃は混乱しているからわかりにくい。ただ津波を探る場合、岩松氏の時は津波は来ていない、慶長津波から200年間くらいの期間がある。

それで烏崎の地名は最初は烏浜だった。烏は空の州のことでありそこに上陸して名付けられた。後に烏崎と変わったのは地形から見ると烏崎は後ろが小高い山であり台地があり崎としての地形となっていた。最初は浜を意識したのだがあとでここは崎が目立つものとして烏崎になった。あとで地形を良く見て名付けたのだろう。最初は上陸した浜だけを見ていて烏浜と名付けたがあとで地形全体を見て烏崎とした。
岩松氏は烏崎に上陸した時、そこには住み着いていない、住むには適していなかったのだろう。でも人はすでに住んでいたのである。だから大内の方に移った。大内は住みよい場所であることは今でもわかる。烏崎は住みにくいのである。まわりは湿地帯であり辛うじて崎になっている山の前が湿地帯ではなく住む場所に適していたのかもしれない、なぜなら回りは湿地帯であり乾いた土地がないとしたら家も建てられないのである。

そこで問題になるのが津波で辛うじて残った八龍神社がいつ建てられたのか?
その疑問は相当に大きい。大きな問題点は慶長津波の前にあったのか、それとも後に建てられたのかという疑問である。津神社は津波の後に建てられたことは誰でもわかる。
しかし八龍神社はいつの時代のものか特定できない、ただこれは岩松氏が烏浜に上陸したことと深い関係がある。岩松氏は鎌倉から阿弥陀信仰をもってきたし他にもいろいろな神を信仰をもってきたのである。岩松氏が烏浜に上陸してから津波まで約200年が過ぎている。その200年の間に何があったかが問題になる。200年は長い。その間に様々な変化もあったし烏浜には人も住み着くようになったことは確かである。


●烏崎に残された貞低3年(1686)の碑の謎

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「鹿島町の石造遺物」では烏崎に貞低3年(1686) 為月庭妙と記された自然石があった。
これは何を意味しているのか、それなりに古い、慶長津波は1611年だとすると75年後に津波が来ていることになる。この期間に烏崎がどういう状態だったか予想がつかない。岩松氏は上陸してすでに大内村に移っている。大内とは御所になぞらえて岩松氏が名付けたというから岩松氏に由来している。千倉とか御前内もそうである。ではそこに人が住んでいたのかとなる。
そもそもこの文字の意味は何なのか?それが問題である。戸屋の所にあり八龍神社の近辺にあったことは八龍神社も古いものなのだろう。

貞低3年(1686)から二年後に元禄時代になっている。元禄時代に近いのだから人が烏崎にもすみつき寺もできてこの碑が残されたのだろうか、隣の金沢は元禄時代に開拓されていたから古かったのである。狭い地域だから開拓しやすかったのだろう。


ていきんおうらい【庭訓往来】 


往来物の一種。作者不詳。南北朝後期から室町初期の作と推定される。庭訓は,孔子が庭で息子を呼びとめ,詩や礼を学ぶべきことを説いた故事から出た語で,家庭での教訓,父から子への教訓を意味する。手紙文の形式をとり

庭訓とは、孔子の子伯魚が庭を通った時、孔子に呼び止められ、 詩や礼の大切さを 教えられた故事[論語季氏]から、 家庭の教訓、 家庭教育を意味する。また往来は往復 の ...
そもそも「往来」とは、往復の書簡の意で、平安時代後期に編まれた『明衡【めいこう】往来』以来、手紙のやりとりの形態をとって文字を学ばせるためのテキストでした。後には、手紙文以外のものも行われ、特に江戸時代には、教訓、地理・歴史、法政、算学から実業的な内容を含むものまで幅広い広がりを見せました。


http://shakaigaku.exblog.jp/1917083/


さんがつ‐ていきん 〔サングワツ‐〕 【三月庭▽訓】
 
正月から12月までの手紙を集めた「庭訓往来」を手本として字を習う者が、3月あたりでやめてしまうこと。勉強に飽きやすいこと。三日坊主。

そのつき、何のをり、その人の詠みたる歌はいかに』と問ひ聞こえさせ給(たま)ふを」

庭とあるから庭訓のこと教えることなのか、為月(月のため)とあってもこれはお月さまとは限らない、月々の教えかもしれない、庭とあるから庭訓が浮かんだ。これも鹿島御子神社の神宮寺であったのが寺になり寺子屋となり不詩朗謡と記され天保と記された石碑と同じ類のものなのか?戸屋はすでに家があり寺もできたのか?大きな寺ではないにしろ寺のようなもお堂のようなものができていたのか?貞低3年から二年後が元禄であり元禄には隣の金沢浦が開拓されていたのである。あそこは思った以上に古かったのである。

ただ鎌倉文化を岩松氏が持ち込んだとするとそういう場所として最初烏浜があったのか?それは津波の後の60年後とかなるとどういうことになるのから岩松氏とは関係ない。60年という歳月も長いから津波の伝承は忘れられていたかもしれない、寿命が短い時、10歳で津波を経験しても60年過ぎたら70でありその時は死んでいる人が多いからである。ともかく岩松氏が烏浜に上陸してから200年後に慶長の津波が来ている。

その間に八龍神社が建てられたのか、または岩松氏が烏浜に上陸した記念として祭ったのだろうか、無事に航海して到達したということでそのお礼に八龍神社を祭ったのか、
なぜなら八龍神社は海の神でもあり航海の神でもあったからだ。ただ岩松氏は阿弥陀信仰があり船の先に阿弥陀を奉じていた。現実に祭ったのは阿弥陀信仰の仏像であり阿弥陀堂が今でも残っている。八龍神社は岩松氏の伝承ではどこにも語られていない不思議がある。


●烏崎には真野氏系統の有力者がすでに住んでいた


上陸後当地を横領していた田中の城主真野太郎信家との政治折衝が進められこの仲介役を成したのが烏崎の住人遠藤形部と申す人である。(中目山阿弥陀寺史)

岩松氏が烏浜に上陸したときすでに真野氏や相馬氏の勢力があった。そうすると烏浜という名は岩松氏が上陸する前に地名としてあった。有力者も住んでいたのである。


三苫虚空蔵菩薩由来

 桓武天皇御代延暦二十四年四月最澄傳教大師入唐求法帰路六月十三日花鶴濱(古賀濱)に上陸一ヶ月滞在の折巡錫布教の砌り三苫虚空蔵菩薩像を彫刻安置し地区住民の財宝の恩恵を授けるの始で千百八十有余年の歴史を持ち今日まで法統連綿として引継がれ家門隆昌の守護を授けるものなり  俗に空(無一文)から蔵が立つという七福神の一体でもあり三十三忌の守り本尊でもあります
http://www.jinja.sakura.ne.jp/higashiku/no45/no45.htm


これなどは上陸記念として祭られたものである。綿津見神社と八大龍王は一体として祭られている。このうよなことがあると岩松氏が上陸した時もそういうことがあったのか?
ただ阿弥陀信仰は語られても八大龍王については何も語られていないのである。
つまり八大龍王神社について語られることが何もないということが謎なのである。

八龍神社の最大の問題は津波の前に建てられたのか?後に建てられたのか?
前とは後ではずいぶん違ったものになる。なぜなら前だったらどうしてあんな高い所に建てたのか?後たったら津波のことを知っていてあの高い場所に建てたとなるからだ。
その違いは大きいのである。
あれを見ると何か津波のことを知っていてあの高さに建てたと想像する。それはぎりぎりだったからである。ぎりぎりで助かる高さだったのである。

現場を実地に歩めば一番不思議なのはなぜあの位置に八龍神社があったかということである。断面図みたいのを描いたがあそこに岩松氏が上陸したのはあそこしか烏浜では上陸する場所がない、今の港のある所は湿地帯であり上陸できない、あそこは坂になっていて一段高くなっているから湿地帯ではない、それで人もすみついた。坂を下ると湿地帯が広がりそこが江戸時代から干拓されて田になった。だから人家の密集地帯からすぐ近くが沼となり元の自然にもどり水葵が咲きだしたのである。

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●八大龍王神社は南朝の戦いで霊山から落ち延びた武士が真野氏からもたらされた?

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八大龍王総本山龍光寺


 生駒山上にある龍光寺には、楠公(正行)が四條畷へ向かう時(足利家の高軍と戦う前)、龍光寺に宿営し、「八大龍王の神前に額づき『我れ無き後も永へに八大龍王の清水の絶えたる事無きが如く、我が菊水の水も絶える事無し』と祈願せられ、以て八大龍王の本殿に菊水の定紋を残して、至誠の真を表し給ふ。」


八大龍王信仰は鎌倉時代辺りから急速に日本全国に広がった神である。それは水と深く関係していた神である。だから盲点として南朝の北畠顕家が霊山にあり奮闘して真野地域に敗れて落ち延びた人たちがすでに先住民だったのである。八龍神社は海側にあると思っているけど山側や平地にもある。なぜか烏崎辺りに集中しているというけど川子にもある。では川子と烏崎の八龍神社がどっちが古いのかとなる。南朝の北畠家系統から真野の中館に落ち延びた武士が八大龍王神社の信仰をもたらしたとしたらやはり古いものであり津波の前にも建てられたとなる。なぜなら岩松氏が烏浜に上陸した時、遠藤氏など有力者がすでに住んでいたのである。だから遠藤氏などが八龍神社を祭ったことも推測されるのである。ただその時津波が来る前だからなぜあの高い所に祭ったのか、もしかしたら見晴らし台のような役目も果たしていたのかもしれない、あそこで漁したとなると遠くを見晴らす必要も出てくる。神社には信仰だけではなく何か別の役目もあった。実用的なものとしても建てられたことも考えられる。明らかなことは岩松氏関係の伝承には八大龍王信仰の関係のものがないことなのだ。真野氏関係だったら岩松氏より古いとなる。


八龍神社の位置はあそこは坂を上ったゆきどまりでありもともと高い地域でありそしてそのゆきどまりに八龍神社が建てられた。一般的に神社が古く寺があとになるというときすでに戸屋のところに寺ができた時あの八龍神社があったのか、鹿島御子神社のように由来がはっきりしているのはわかりやすいがあの神社はそもそも祠のようなものであり小さいしそこに人が住んでも忘れられていた感じなのである。でも神社だから由来もわからなくても土地の人の信仰が薄れても残っていたのだろう。土地の人が信仰つづけていればその回りに必ず石碑が建っている。あそこには何の石碑もないのである。ただ社だけがある。それは原町の雫(しどけ)の近くの津神社も同じである。ただ烏崎村の牛島の港のあったところに建てられた津神社は大きい、ただその神社にしてももともとは小さかったのだろう。それでも津神社という津波ということの記憶を保存していたのである。

それではなぜあそこに建てられたのか、やはり慶長年間に湿地帯が開拓されて建てられるようになったのか、神社は今でも移動することがある。津波によって神社が破壊されて今回浮州神社が大内に移転したし慶長津波でもそういうふうに移転することがあったのだ。

推測としては八大龍王信仰は岩松氏と関係ないとするとすでに勢力があった真野氏系統のものが烏浜に建てた。遠藤氏という名前も正確に伝わっているとすると津波の前にすでにあり相当に古いものだとなる。それは津波と関係なく建てられたのであり偶然に津波からまねがれたものだとなる。もし津波の後だとするとその解釈はまるで違ったものとなる。

 
posted by 天華 at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2013年10月14日

津波がなぜ伝えられなかったのかその不思議 (仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)読む


津波がなぜ伝えられないのかその不思議

(仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)読む


●津波に対する人間の心理(嫌なことに目をそむける)

 寺に葬った時、住職が過去帳を開いて、世にも不思
議なことがあるものかと驚いた。140 年以上前の宝永年
中にも、この家では母と三婦、二女の女六人が死んだこ
とが記録されていたのであった。過去帳にも載っている
程のことなので、この家では、地震の際に船に乗っては
ならないことを申し伝えておけば良いものを、そうしな
かったのであった。災害のことを話せば、悲しくて耐え
られないので、兎に角、言わないようにしていたのであっ
た。そして、100 年以上たって、災害の教訓は多くの人々
に伝えられなかったのである。
 この話は繰り返す災害ということ

。「悲しい出来事は早く忘れたほうが良
い」、「悲しい出来事は言わない方が良い」と考える人々
が多いこと。自分が被災した経験を人に伝える活動を続
けられる人はむしろ少ない。その少数派の体験者が年を
とり、亡くなってしまえば、教訓が伝承されないのであ
る。
 津波災害はめったに起こるも

http://www.rits-dmuch.jp/jp/results/disaster/dl_files/13go/13_3.pdf
 

今回の震災も後世にこんな風に残すなら、どういう方法がいいのでしょうね。電子媒体だとデータが消えたら終わりだし、読み込めなくなっても終わり。文書に残しても破損したり紛失したりしたら終わり。何か絶対に伝わる方法があれば一番いいけど、江戸時代の震災の記録だって残っていたのにダレもそれが近々起きるなんて思ってなかったのだから、こういう記録を残してもやっぱり伝わらないのかな・・・。
http://love.mania.daa.jp/?eid=990003


つらいこと、嫌なこと、こうした災いは、いつのまにか歴史の外においやられ、時間の経過とともに事実を隠し長い長い年月を経ているうちに過去においてこの地に確かに大きな津波を来たにもかからわず遠い昔のことであるためにいつのまにか昔話となってしまうということなのです
(仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)


なぜ津波のことがこれほどの大惨事なのに語り継がれなかったのか?それは人間の心理的なものもあった。あまりにも悲惨なこと自体、人は目をそむける。死人などや無残な病人でも人はそういう場にいたくない、病院でも悲惨な状態だからそういう場に長いはしたくないし病気も重病になると誰もよりつかない、南相馬市立病院に入院していた浪江の人はそうだった。ただ手をやっとあげるだけでありしゃべることもなにすることもできない、ただ妻が手をにぎるときやっとわかるのか手をにぎりあとは何もできないのである。
そうなったとき土地の農業の指導者だったけど誰もよりつかないと奥さんが怒っていた。人間はみんなそうなると寄りつかない、そうした悲惨な姿に目をそむける傾向があるのだ。そもそも汚いもの苦しい姿を見たくないというのが人間の心理である。それは冷たいというものでもなく人間の正直な心理なのである。


それは別に病気でなくても老人はみんなみにくくなるのでその姿自体に嫌悪する。だから医者であれ看護師であれ過酷な仕事だから性格がゆがんでいるきつい性格になるというのはやむをえないことなのである。
でもそうした嫌なこと汚いことに誰かが従事せざるを得ないのも事実なのである。
人間には隠微して隠したいものがある。確かに「八沢浦が元の美しい入江にもどった」と写真だして紹介したとき「お前はここで死んだ泥まみれの子供のことをどう思うんだ」と言われた。自衛隊の人が泥をかき分けて死体を探していたのである。それは水が引いたあとだった。でもそういうものは見えず美しい入江にもどった八沢浦に正直感嘆していたのだ。そこに住んでいた人ならそんなふうにはみない事は確かである。


●ポンペイのように津波で壊滅して語り継ぐものがいなかった


津波伝説の残される地域


(1)津波伝説は津波の空白域といわれる海域周辺に接する地方に多い。
現在の仙台地方の多賀城地方に津波伝説が多いのはこの二地方は貞観津波、慶長津波以来の空白地域にあたるからである

(2)津波浸水の最終到達付近に津波伝説が良く残される
(3)津波伝説は小高い山、高台、高所、丘、と何らか関係をもって作られる
こういうところには津波の生存者がいて、事実を語り継がれている場合が多い
(4)津波浸水の最終到達点へ来る前の通過地域に津波伝説が少ない。


(仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)の本が津波の前に出ていた。津波を郷土史を研究して警告していたのである。今になって注目されたが当時はほんとんど注目されていないのだ。津波にあの辺も無警戒だったのである。科学者も仙台の海側が宅地が広がっている時、昔津波が来ていたと警告したが無視されただけではない、不動産屋が土地の値段が下がるからそんなこと言うなと脅迫さえしてきたのである。人間は原発でも同じだけど現在の利益に頭が一杯になる。過去とか未来とかを考慮することに極端に欠けているのだ。
現在にすべてが身も心も奪われているのが人間である。特に自分の利益にかかわると目の色を変えるからこういうことを平気で言うのである。


自分もそうだがなぜ相馬藩内でも700人が死んだ津波の被害があったのにほとんど語られなかったのだろうという不思議である。新地辺りの地蔵森には津波の伝説が残っていた。それは海岸からかなり奥になる。津波がここでもそうだがこんなところまで津波がきたのかと津波の来た到達地点が問題になる。それで残り谷(残り屋)という地名が残る理由もわかる。この家が良く残ったと感心したのここでも同じである。

そしてなぜ最も被害の大きい海岸に接した所ではかえって津波のことが語られなかったというのも不思議である。一つの理由として海岸に接したところは人家も残らず人もみんな死んで壊滅した。今でも磯部とか烏崎村はそうだった。人家も残らず家族が全部死んだらその地点の伝承も残らない、誰も語るものがいないから津波の伝承も伝説も残らなかったというのも津波の恐ろしさを示している。ポンペイのように一瞬にして火山の爆発で埋もれた街は最近まで二千年近く忘れられていたのである。それは生き残るものがいなかったから伝えられることもなかったためである。そういう恐るべき自然災害が過去にもあったのである。


本村八幡(多賀城市八幡)には上千軒、下千軒といって繁盛していたがいつの頃だったか大津波に流されて砂原と化してしまったという伝説が今でも残っている。


今でもというとき多賀城はあれだけ海に接して人家が密集している。昔もそういう時があって不思議ではない、これだけの家が一瞬にして流されて消える。そのあとに津波の跡のよう茫漠とした原野と化してしまう。そういうことはこの辺りでも目の当たりにしたしそのことを写真入りで度々プログに出してきた。家があったところが何もなくなり沼と化して鴫たつ沢になったということも書いた。津波はまるで夢のようなだと最初から書いてきた。一年くらいは全く夢心地であり現実に思えなかったのである。一瞬にしてこれだけの人家が消えればそれはまるで夢のようだとなりその街自体消失して誰も伝えるものがなく幻の街があったとなるだけである。それは草戸千軒というのもそうなのだろう。何も伝えがない不思議があった。でも最近の考古学の発掘で遺物がでてきてそれが証明されたのである。つまり幻の街ではなかっのである。
人間の街も消える時は一瞬にして消える。徐々に消えるのではない一瞬にしてすべてが消えてしまうのである。それが最後の審判の時である。徐々に消えてゆくのではない、一瞬にしてすべてが消えるのだ。それが人類最後の有り様なのであり津波からそういうことはリアルにシュミレートされるのである。


ただなぜ津波の事が語り継がれなかったのか?


津波伝説は津波の空白域といわれる海域周辺に接する地方に多い


こう言っているけど相馬地方では伝説すら極めてまれでありほとんど伝えられていない、だからこそ津神社が津波の神社でも全く忘れられていた。「本邦祠の研究」の岩崎氏も津神社を津波の神社だと書いていないのである。津波については知り得ようがない状態がこの辺にはあった。多賀城や名取でもあの辺には結構津波の伝説が多い。だからこそ飯沼氏も津波を警告するまでの本を書いていたのである。相馬地方ではそういうことすら書くこともできない状態だった。何も伝えられていないとしたら書くことも警告する事もできない。ただ科学者が松川浦の奥まで津波が押し寄せて残した砂などを発掘してこれば貞観津波のものだと言っていたのでそんなことがあったのかと一回だけ面白がって時事問題の深層に書いたのである。


●一瞬にして幻のように消える街は歴史の事実


相馬地方でも海岸地域に烏崎村でもすでに人が住んでいて壊滅的状態になった。人家もなくなりその惨状を生き残る人もいないから伝えられなくなっていたのかもしれない、なぜならその時もっと人家がまばらであり烏崎に人が集中してもそこだけでありそこが壊滅してしまいば語る人がいなくなるからだ。それほど語る人まで奪ってしまうほど津波は恐ろしいものだったということである。一瞬にして千軒二千軒の家が消失して跡形もなくなり後は原野となってしまう。現実にそういう場面を写真で報告してきた。


歴史を考える時、嫌なこと目をそむけたくなるようなことを人は語り継ぎたくない、そのことはかなり危険なことであることが津波の経験からもわかった。例えば戦争のこともその悲惨なことは実際は隠されている。戦場で人を殺したということなどあからさま今生きている人も語らないのである。語れないのである。実際に戦争に遠くのことが隠されている。それはあからさまにできない悲惨なことであるからだ。ただ事実だから隠し終えないで今になり伝えられる。でもどうしても隠したいということが働くのが人間の心理でありかえって戦争が美化されるのも現実なのである。その美化されることに危険がありまこた戦争になるという危険がある。人間は個人的にもそうである。嫌なことは忘れたいのである。そして何か人生を美化してしまう。何らか罪を犯さない人はいないしそういうことも隠される。でも実際は隠せるものではない、良心の痛みとしてそれは死ぬまでひきづることになる。だから若い時の過ちは実際は軽いものではなく重いものとして老人になってかえって苦しめられることになるから注意すべきなのである。でも若気のいたりというのは誰にでもある。


とにくか相馬地方では伝説すら残らなかった。その理由は明確でないにしろこういう一面があった。人間は悲惨なことを忘れたい隠したいという人間心理が働いた。それと今回のように磯部や烏崎のように村自体が壊滅して消失して伝える人がいなくなっていた。
だからここに千軒二千軒の街があったとか村があったとか幻のようになり伝えられなかったのである。こうして幻のごとく街自体が消えてしまうこともあることなのだ。
人間もそうだが村や街といってもいかに繁華であっても一瞬に消えることがあるという事実なのである。このことこそがまさにこの世の無常だとかしかいいようがないことだったのである。


ポンペイは一瞬にして炎と煙につつまれ消滅した
以来灰と土に埋もれて二千年忘れられていた
抱き合ったまま死んでいた男女死体もあった
誰も語るものもなく埋もれてしまった
その無常は津波の被害とにていた
村や街は一瞬にして津波にのまれ消失した
人々は街を捨てて悲劇を忘れたい
最愛の家族を失ったことは語りたくない
あまりにも無残であったから
ただ平和の日の良き思い出だけを語りたい
思い出したいとなるのが人間の心理
でも災害は災難は常に人間に逃れがたくやってくる
病魔もそうであり自然災害もそうである
幸せを粉々に打ち砕きどん底に陥れる
それが無常の世なのは変わりなかった

posted by 天華 at 15:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2013年10月16日

地名は知っていた(上)太宰幸子を読んで (なぜ奥松島から野蒜から鳴瀬町の旅行のことが読まれているのか)


地名は知っていた(上)太宰幸子を読んで

(なぜ奥松島から野蒜から鳴瀬町の旅行のことが読まれているのか)

奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)
http://musubu2.sblo.jp/article/29414836.html


地名から津波の被害地域を回って書いた本だが地名の深い考察はここにはなかった。津波の被害地域を回ってその状態を報告したという本である。地名はもっと字地名とかの分析が必要になる。この本にはほとんどなかった。
それでも今回の津波は東北の海岸地帯が一つに結ばれていることを意識させられたのである。津波の被害ということで意識させられた。これまでは津波は宮城県の三陸などでは度々襲われているから語られてきた。でも宮城県でも松島とか多賀城から名取などはあまり語られていない、それでも福島県の浜通りよりは伝説が残されていた。

だからある程度津波については知られていた。しかしやはり危機感が不足していた。
被害を大きくしたのは仙台の市街地が海岸沿いに無制限に広がったことである。
だから多賀城などでは家が密集して海が全く意識されなくなっていた。
でも砂押川に津波が押し寄せてきりぎりで土手でとめたという。意外と海は近かったのである。末ノ松山も多賀城駅からすぐ近くだったのである。
貞観津波では古代の多賀城近辺までおしよせたのでその恐怖を書き記して都であった京都に伝えたのである。


一衣带水


一本の帯のように狭い川や海またはそれによって隔てられること、たとえ隔たってもそのことが互いの往来を妨げないこと


この意味とも違うが東北の海岸地帯は海で共通の文化が意識された。大陸は大河で結ばれるけど日本は回りが海なのだから海で結ばれることが古代からあった。ヤマトタケルの東の国への遠征が舟て行われたというのもそのためである。それはどの辺まで来たのかめいかくではないにしろ多賀城も視野に入る東北の長い沿岸であった。


市がたつような場所はどちらかというと城下から少し離れた川沿いや浜沿いが多かった。古い時代には八幡川の名彼と海岸に近い場所だったと想定できる。川や海が運んでくる大量の土砂が退席していつか土地が安定してくると人々はそこに集まり家が建つようになり埋め立てが行われる。
(志津川-十日町)


これは確かにそうである。磯部の家密集していた所は砂州だったけども田として開拓した地より地盤が安定していた。砂州だからそんなことはないように見えても当時は湿地帯が広かったのだから湿地でないところに家を建てた。それは烏崎でもにている。

浜市から離れて牛綱村というのがある。牛綱村は昔は吾妻街道であったが漁師は漁をするために海辺まで綱を牛によって運んだので牛綱村となったという。
綱で牛をひいて浜市まで来た、浜市には牛で運べるものが魚でもとれたので売っていたので運んだということなのか?牛綱村と浜市には人の行き来があった。もともとは牛綱村に人が住むのが先であったが浜市が市場になり人がそこに移動した。そういう関係が烏崎村にもあった。ここの津浪の被害も大きかった。


白萩はシラはシロは「まっさらになること」ハギは「表土や土地がはがされること」を意味することが多い


あそこがこんな状態になったのか?相当に家が集まっていて街のようになっていた。たた道が細く松の枝がおおいかぶさるように伸びていた。あの写真などが消えたので注目されているのか?白萩とは一面に萩が咲いている所とはまるで違った意味だった。

ともかく東名とか野蒜とか鳴瀬川一帯、白萩、牛綱などはいい場所だった。それが根こそぎ津波で破壊された。そこはもう仙石線は通らないという。津波の被害地域には通さないから高台に移動する。すると廃線後としてプログで紹介していたサイトがあった。
あの辺は家が密集していたから被害も大きかった。でも仙台の郊外であり別に職を失うわけではないから人口はそんなに減っていないという。残る人が結構多い。石巻などや牡鹿半島でも零細な港は漁業が牡蠣などが生業だったが野蒜は仙台の延長として通勤圏としてあったから違っていた。

東名とかまでは海に接して仙石線が走っていた。真近に島も見えて写真をとっていた。あういうふうに海に接して走ることがなくなるとその経験は貴重だったとなる。だからあの辺を津波の後どうなっているか訪ねてみたい、でもあの辺は交通が遮断されているしめんどうである。車がないからなかなか行きにくいし自分の事情もある。

ただ津波の被害で東北の海岸がつながっていたことは意識された。例えば津神社は海岸にしかない、その津神社は慶長津波の記念だったとすると前にも東北の海岸地帯は同じような被害があった。ただこの津神社は津波の神社として一連のものとして意識されなかったのである。もし津波神社とみんな名前になっていたら意識したのである。津神社というのがあいまいにして津波を明確に意識させなかったのである。八龍神社は海側だけではない、山側にもある水の神である。津神社は明らかに津波の記念だとすると海岸に接した所にしかないのである。たたあとで綿津見神社とかなり稲作の神となり内陸部に広がった。
そもそも綿津見神社が内陸部に広がることがわかりにくい、海の豊漁を願うなら海岸にあるべきだが内陸になると稲作の実りを祈る神となるからだ。オコゼを山の神にささげたというとき海と山との交流があったことは確かである。それは魚を山に住んでいる人も食べたいのだから歓迎されることは今でもわかる。


ただ海の歴史は消失しやすいのだ。海は大地のように何かモノでも記憶させない、海に船が沈んだら記憶から消える。港も一時的に栄えても船が来なくなり衰退すると船が一杯きて物を運んできたとか言っても時間がたつにつれそれが伝説の港になってしまう。船の交流は記録として残りにくいから小高に港があって船が入ってきて栄えていたといっても遺跡も遺物もないから想像もできなくなる。古墳などはいつまでも形を留めて残っているからそこから歴史をたどりやすいが海の交流は記録が残らないからそこに誤解が生まれているのである。津波の記憶すら明確に残されないのもそのためである。なぜなら町ごと村ごと津波で全部流されたら何も残らないとてる。神社すら流されてしまい消えたからである。

posted by 天華 at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2013年10月20日

気仙沼の地図から今回の津浪の被害をよむ (山と海の狭間の地形で土地がなく海側に宅地を広げた)


気仙沼の地図から今回の津浪の被害をよむ

(山と海の狭間の地形で土地がなく海側に宅地を広げた)


気仙沼復興街作り調査
http://web.sfc.keio.ac.jp/~shimnov/kesennuma_reconstruction_research.pdf


まずここを読んでください。
KESENNNNUMA1111.jpg

クリック拡大!


(網地島の伝説)


文永3年(1266)建立の神石碑が鈴木寛也氏宅の角にある。この後方の東森山頂上には、部落の人たちが海上安全を祈願した安波大明神が祭ってある。

【安波大杉神社】は関東から東北地方にかけての太平洋側の漁村に信仰されている神様で、女神やお船霊様であるとされている。発祥は茨城県稲敷郡桜川村にある安波大明神である。(安波様は長渡の根組の半島にもあり、春には大漁と海上安全を祈願して祭りが行われる)
寛永18年(1641)頃には寄磯の人口は30人以上になり平和な年月を送っていたが、天保4年(1835)に大飢饉が起ったため部落民は食料を確保するため悪天候の中へでも出漁せざるを得ない状況が続いていた。


そんな危険な綱渡りの様な漁を繰り返していたある日、渡辺平五郎という人が出漁中の時、天候が俄かに悪化し風浪高く荒れ狂い、小船は大破して乗組員全員が絶体絶命の危機に陥った。がしかし一心で安波大明神を念じたところ、辛うじて海岸にたどり着き危機は逃れる事が出来たという事故が起きた。(この渡辺平五郎が遭難した場所は以後平五郎根と呼ばれるようになった)
http://ajisime.web.fc2.com/txt/yoriiso.htm


安波祭( あんばまつり) (浪江町請戸)がありこれは気仙沼にもあり茨城県の太平洋岸から伝わり太平洋岸にそって伝播した。気仙沼に安波山とあるのがまさにそうである。
気仙沼の中心にあるように鎮座する山となる。前にも書いたけど今回の津浪は非常に海を意識させられたのである。津浪の被害にあった茨城から岩手県までその範囲は広範囲でありこの一体はもともと海と密接な関係を保ち生活していた地域だった。だから共通の海の文化があった。その海が忘れられていたのである。確かに漁港があり海が港が中心のように見えても実際の生活は海の幸より工業化して海で暮らす人はみんな魚をとって暮らすわけではなかった。それを象徴していたのが牡鹿半島だった。あそこには小さな港が点々と孤立したようにあった。零細な自給自足の港であり近年はもう漁期業でも跡継ぎがいないとか漁獲高にしろ牡蠣の養殖であれ落ち込んでいたのである。

漁業は衰退産業になっていた。これは日本全国で同じでありそれで女川の原発で働く人が多いというときまさに福島県の浜通りとにていたのである。
ただ漁獲高は10倍とかあり福島県の浜通りとは規模が違っていた。
漁業だけでは生活していけない、農業だけでは生活していけないとなっていて原発に頼るようになり事故が起きたのである。
津浪が来たから漁業が成り立たないのではなくその前に衰退していて津浪の一撃で致命的な打撃を受けたのである。


気仙沼の地図を見るとその成り立ちをたどることができる。つまり海岸沿い海に直接接している所はもともと海であり塩田になっていた。そしてさらにそこを埋め立てたのが新しい町、新浜町だった。その埋め立て地域か一番被害が大きかった。
古町は前の町であり海岸から離れている。そして三日町八日町と市がたつ所があり八日町まで津浪が来ていた。また寺や神社があるところは比較的高い所にあり津浪をまねがれた。それは人が住んだ順序を示していたのである。
人は最初海に接して住んではいない、そこは湿地帯とかであり塩田になった。
こういうことは海岸沿いで同じである。海であった所を湿地帯などを干拓して人が住むようになった。防潮林として松原を作ったのも白砂青松の日本的風景を作っていた。
それは人工的に作られたものだった。それが津浪で根こそぎ破壊されたのである。


なぜこれほど津波の被害が甚大になったのか?それはまさに共通している原因か海であった所を開拓して埋め立てて田にした。それから気仙沼辺りでは街にしたし仙台や多賀城では海に接して街が広がり住宅地となってったのである。それが被害を大きくなった主要な原因だった。もともと気仙沼とかに津波は度々襲ってきている。津波の供養の碑もあった。それても海側を埋め立てて人家をふやしていったのである。ここでも日本の国土の狭さが影響していた。なぜなら土地が狭いから海側に干拓しても埋め立てても広げざるをえないことがあった。気仙沼なとどをみればわかる。後ろ山が迫り土地がないのである。
だから埋め立てて土地を作る他なかったのである。これは日本全国どこでも同じである。海だったところを干拓したり埋め立てて土地を確保して米を作りまた市街地として人家を拡大したのである。仙台は特にそうだった。


津波も一つの自然現象とみるとき、自然に逆らって生活圏を広げたのが日本だった。
その原因かあまりにも土地が限られていることだったのである。日本人が満州に憧れたのは広大な土地があったことなのである。それが戦争の原因にもなった。土地バブルが起きたのも素ためである。日本の地形はどこまでも平坦な土地が少なく海と山の地形である。海と山のはざまにわずかに平坦地がある地形である。特に三陸から岩手県の地域は後ろが山がそびえ住める場所は限られていたのである。そのことは津浪の被害を大きくした根本原因である。


網地島の伝説でもわかるように日本自体が小さな島にも例えられる。そこで生活するには厳しいとなる。飢饉が起きたときやはり島でも食料が米など入らず苦しくなった。
それで海が荒れても漁に危険を犯して出でざるをえなかった。
相馬藩の原釜でも飢饉で死んだ人が結構いた。それはやはり漁業だけでは食料をまかないためだった。魚は定期的にとれるものでないから定期的に収穫がある農業が必要だったとなる。日本だけではもう人口が増えてやっていけないとなり満州や戦後はプラジルとかに移民になった。それも農業するためだったのである。農業には土地が必要だからそうなった。

今回の津浪の教訓は何なのか?それはいろいろあり様々な問題提起の場所になった。

明らかなことは自然に逆らうことは大きな危険がひそんでいたことである。海に接して人家をふやしつづけたのは人間側の事情である。でも自然から見ればそんなことは知ったことではない、自然には自然の営みがあり人間側のいいようにはならない、津浪も別に人間に敵意を抱いて起きたわけではない、津浪は自然現象でありそれは例え400年に一回でも起こるものなのである。だから自然に逆らう人間側に責任があったとなる。
自然は無情だというのも確かだが闇雲に自然は害を及ぼすものとも違う。

人間側で自然と調和する方法はあった。それができないのはまた日本の自然条件があったということがある。やはり自然は何か必ず制限するものがありその制限を越えると危険なものとなり自然から制裁を受ける。

原発事故でもそもそも核を破壊するとかは科学者でも神を畏れぬ不遜てものだったとか謙虚に反省している人もいる。原子力は何か人間の思い上がりの結果生まれた面があった。人間には常に限界がありそれを突破することはできない、神の領域がありそれを越える事がてきない、神のみが全能だからである。それを越えようとするとき今回のような天罰が下るようなことが起きてくる。

ともかく人間はまずその風土に適合して暮らすことを自然から要求されている。いくら土地がないにしろ日本には日本の恵みがある。それを活かし生きる他ない、それを越えて逆らう生活は今回のように大きな災害に見舞われる。日本の土地には土地の宿命がありそれを越えることはできない、原発は地震国の日本には適合しないものだったのである。

津浪がくる前にすでにこわれていたように原発は思った以上ずさんに作られていたのである。ともかくそれぞれの国にはそれぞれの風土がありそれに適合したように住むほかない。日本の国土が狭いにしろそれが美を作っていたし恵みもあった。その中で暮らす他なかったということである。日本の人口は6000千万くらいが適正規模だというとき1億2千万はもう日本の国土では養え切れない人口になっていたし海側に発展しようとしてもそこには無理があったのである。だから人口抑制が自然の働きかけであり少子高齢化も自然の成り行きだったともなるのである。

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2009(平成21)地震洪水パザードマップが南相馬市から出ていた [切迫していると書いてあった)


2009(平成21)地震洪水パザードマップが南相馬市から出ていた


(切迫していると書いてあった)
KOUHOUSOMA1.jpg

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ここで地震だけではない、津浪も警告されていた。

切迫性が指摘されてあり中央防災会議の検討対象として選定した津浪の中で福島県大熊町以北の沿岸では最大の水位と名とされ、
そのマグニチュードは8・2です


このように切迫されていると専門家の間でも予想されていた。
8・2というのは今回9だとしてもそれに近い予想うをしていたのである。
津浪も予想されていた。専門家の予測してすでに警告していた。

それがなぜ東電ではきかなかったのか?
政府ではなぜ危機感をもたなかったのか?

想定外と常に言うけどこれだけ警告されていた
津浪の危険も東電に専門家が政治家でも共産党などが進言していた

東電はそれを聞かなかった。

政府も保安院も何ら対策を打たなかった。
市町村レベルでもこのように切迫したものとして警告していたのである。

そもそも原発は国策だから気象庁でも優秀な地震津浪に関しての優秀な専門家がいた。
それらをなぜ活用できなかったか?

すべてを東電にまかせきりの体制になっていた。

ただ津浪が起きる前に学者を再三警告していたのである。
なぜ手を打たなかったのか
それはやはり東電はまずコストのことを考える
そもそも土台を高くしたのをわざわざ低くしたのはコストのためである。
地下に電源を置いたのもそのためである。
高いと不便になりコストがかかる。
津浪対策でも膨大なコストがかかる
そこでうやむやにして先に延ばしていた

政府も真剣に津浪対策などしない
保安院は何の働きもしない税金食いだった
ただ飾りだったのである
東電のいいなりだったのである。
だから政府にも責任があったというのは一理ある


大島の土砂災害でも津浪とにていたと言われる
それも火山のことは経験しているから火山にばかり注意を払う
土砂崩れは想定外となっていた
人間は二つのことに注意できないのである。
こうつうじこかさけられないのは目が二つあっても
見るのは一方であり必ず死角ができるからである。

一つのことにしか人は集中できない
そして一つのことにかかりきりだと必ず他のことは忘れているのだ

家事でも主婦のように専門的に日常的にししていれば管理しやすい
でも他に仕事をもっている人とか何か創作とか別な仕事に集中している人は
簡単な家事でもいろいろ忘れやすく集中できないのである。


人間の弱点は二つのことに集中できないことである
一方に注意を払えば一方は必ずおろそかになる。
右ばかり注意している左からの危険を見逃すのである


南相馬市でもこれだけ警告していたのだから宮城県ではそれ以上警告していただろう
でもあれだけの広範囲な大惨事となった。

そしてどういうわけか危険な時は悪いことが重なるのである。
ちょうど大島では町長が不在だったとか
代わりの副町長を置かなかったとか不備が必ずある


それは個人的にもそうである
急激に緊急に来ること人間は一番弱いのだ
急に病気になったり異変が起きることに弱い
そこで悪いことが重なりどうにもならなくなる

それをここ6年間の苦しみで自ら経験したのである。
まず備えが人の関係でもまるでなかった
助けを呼ぶ人もいなかった
家族も病気になり自分も病気になった
それで火事場泥棒にあい甚大な被害にあった
こうした備えが自分には全くなかった
信頼すべき人もいなかった


大島でも同じだった。
町長が留守になり信頼して留守をまかす人がいなかったのである
また気象庁や政府との連絡も密に行われていなかった
共産党の市長だからと批判もある
確かに批判は学者のように得意でも実務はまた違っている
そもそも政治家は官僚よた実務にはうとい
選挙で選ばれていつも専門の分野で働いてるわけではないからだ
だから官僚支配になる
政治家は行政について熟知しているとはならない
政治家は一時的に配置されているだけであり実務は官僚しているとなる
そういう行政は危機には弱い


やはり危機に強いのは戦国武将だったろう
いつも危機にあるのだから危機意識が違う
そういうとき信長のようにとっさの判断が生死を決する
そううい人がいないと全滅してしまう恐怖である

津浪も災害もそういうとっさに来る危険だから対応できないのである

専門家が土砂崩れが起きやすい危険だということ察知して連絡はしていた
でもそれを決めるのは市町村の長だというときその判断にすべてをゆだねるのも危険だとなる
だから個々人で危険を判断すべきだということがしきりに言われる
しかしそれまた素人にはむずかしいとなる


南相馬市の広報など津浪避難マップなど真剣に見ていた人もいないだろう
でも切迫しているというのは専門家の見方だったのである

結局津浪で逃げ後れた死んだ人たちはいろひいろ責任を言っても逃げないで死んだ人が悪いとなってしまったし現実にはそうである。
自分の命を救うのは自分しかない、行政でも他人も緊急の場合は助けないということがある

津浪デンデコは他人のことをかまっていたら自分も死ぬということになるから生まれた言葉である 他人のことを心配して引き返して一緒に死んだ人もいる

聖書でゾトムゴムラが神の罰一瞬に滅ぼされるとき、ロトはふりかえって石になって死んだ。
まさに緊急のときはふりかえるとそのまま死んでしまうことを暗示している。
一目散にふりかえらず逃げるほかなかったのである。

ただ緊急の場合はどう判断していいかわからないのが普通である

これも誰が責任かというとなかなか言えない、南相馬市では広報で津浪のことは警告していましたよ、それを真剣に読まない市民が悪いともなる。
今になと南相馬市は津浪に対して警告していたし責任は果たしていたともなるかもしれない、ただ原発に対しては福島県全体で無防備だったのである。


あの地震が起きた時は今まで経験しないものだった。
だから海側の人は津波の危険を察知するべきだった
それももしこの広報を真剣に読んでいたら違っていたかもしれない
頭の中に少しでも危険情報が入っていたら反応することがある
津波はこの辺では400年起きていないのだからとっさに反応するのは難しい
でも広報に書いてあったから津波が来るかもしれないと
反応することはありうる
ただほとんどの人は広報など真剣に読んでいないのである。
ということはやはりこれは個々人の責任になるのかとなる

posted by 天華 at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2013年10月23日

なぜ相馬藩では慶長津浪が伝えられなかったのか? (伊達藩の政宗が中央政治とかかわり相馬藩は小藩で情報が伝えられなかった)


なぜ相馬藩では慶長津浪が伝えられなかったのか?

(伊達藩の政宗が中央政治とかかわり相馬藩は小藩で情報が伝えられなかった)


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1579年 (13歳)
陸奥国磐城三春城主、田村清顕の娘、愛姫と結婚。

1581年 (15歳)
相馬氏攻めで初陣

●家督相続
1584年 (18歳)
父、伊達輝宗の隠居により、家督を継ぐ。

陸奥国岩代の人取橋の戦で、佐竹、蘆名連合軍に勝利。
●奥州南部平定

1589年 (23歳)
陸奥国岩代の摺上原の戦で蘆名義広を破り、奥州南部を制圧。

その後周辺の諸族を支配下に置き、出羽国羽前南部、陸奥国岩代、陸奥国陸前南部など合計114万石の太守に。
陸奥国岩代の黒川城(会津若松城)に本城を移す。

●秀吉に臣従
1590年 (24歳)
小田原城攻めを行っていた豊臣秀吉に、ギリギリのところで伺候し臣下につく。

1591年 (25歳)
惣無事令違反、領内での一揆(葛西大崎一揆)を煽動した疑いなどから、米沢など約150万石から陸奥国陸前玉造郡など58万石に減封となり、岩出山城(岩手沢城)に入る。

岩手沢城を岩出山城に改名。

1592年 (26歳)
文禄の役(朝鮮出兵)に参戦。
出陣の際の装束が派手で、「伊達者」の語源となった。

●青葉城
1601年 (35歳)
仙台城(青葉城)を築城し居城とし、初代仙台藩主に。(60万石)

1611 慶長津浪
伊達藩の死者-5000名


相馬藩の溺死者700名


一カ月後相馬氏が小高より中村に今の相馬市に城を移す


相馬藩の武士、津浪の跡に開拓に入る


1613年 (47歳)
支倉常長を慶長遣欧使節とし欧州へ派遣。

1614年 (48歳)
大坂冬の陣に
参陣。

相馬氏参戦

1615年 (49歳)
大坂夏の陣で、豊臣方の後藤又兵衛を討つ。



「政宗領所、海涯の人屋、波濤大いに漲り来り、悉く流失、溺死者五千人、
世にこれを津波と曰うと云々
……
時に海面滔天、大浪山の如く来る。肝を消失し魂を失するのところ、こ
の舟彼の波上に浮びて沈まず。しかる後、
波の平らかなるところに至る。こ
の時心を静め眼を開きてこれを見るに、彼の漁人住するところの郷辺、山
上の松の傍なり、
これ所謂千貫の松なり。
すなわち舟を彼の松に撃ぐ。波濤退去
の後、舟松の梢に在り。

政宗これを語る由、後藤少三郎御前に於てこれ
を言上す。」

『駿府記』には伊達政宗に献上する初鱈を獲るため侍2人を遣わし、漁人らは潮色が異常であるとして難色を示したものの、「主命を請けて行かざるは君を誣するなり、止むべきにあらず」とて出漁した漁人らは津波に逢い漁人の生所なる山上の千貫松の傍に流れ着いたが、家は一軒残らず流失したとある[1]。この『駿府記』にある「松平陸奥守政宗献初鱈、就之政宗領所海涯人屋、波涛大漲来、悉流失、溺死者五千人、世曰津波云々」が、文献に現れる最古の「津波」という語句の記述とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%B8%89%

E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87


ビスカイノの三陸沿岸の探索は1611年(慶長十六年)七月七日、徳川家康に対して日本の東沿岸の測量や造船などに関する朱印状交付の為の請願書を提出したことに始まった。・・・・・

伊達政宗との出会い
旧暦五月十四日、ビスカイノ達の暦では六月二十四日だった。(この日は聖ファン(ヨハネ)の日)
彼は隋員と一緒にミサに参加するため聖フランシスコ会の修道院に赴いた。
その時、政宗が多数の士卒と騎乗の士を率いて江戸市街の木戸に着いた時、ビスカイノ一行を見た。
政宗はすぐさま伝言を送り、火縄銃を発射する様子を家臣たちに見せたいと伝えた。
 要望受け射撃が実行され、出し抜けに二回発射されたので、政宗は驚き両耳をふさいだという。
他の者達の馬は大音響に混乱し、主人達を地面に投げ落として逃げ出し、食料などを積んだ馬は転倒し大騒ぎになった。
この出来事をきっかけに両者の交流が始まった。
この日がサンファンの日であることから、サン・ファンバウティスタ号の船名になったという説があるが、定かではありません。




慶長津浪死者数

伊達藩 5000
相馬藩 700

5,000 / 700 = 7.1
...............................

今回の津浪の福島県の死者数


宮城県死者-9537

福島県 1606
9,537 / 1,606 = 5.9


なぜか死者数の割合が同じだという不思議である。相馬藩は磐城は入っていないがほぼ割合的には同じ人数が死んでいる。ただ慶長津浪でも今回でも圧倒的に伊達藩が宮城県の被害が大きいのである。

そしてなぜこれほどに伊達藩では慶長津浪の記録が残された。その原因は当時伊達藩は東北をたばねる一大大名であり秀吉も恐れたし家康も恐れていたのである。全国制覇をもくろむ地位にあった。だから政宗の動向は常に注意が払われていた。
伊達藩で起きたことも中央政府に報告され監視されていた。


津浪が起きた時、隠居中の徳川家康をめぐる政治情勢を記した日記。1611年(慶長16)8月1日から15年(元和1)12月29日までの約4年半に及ぶ駿府記で記録されたように徳川幕府から情報が拡大化した。それはスペインの使節からもヨーロッパに報告されて記録された。
伊達政宗の時代は国際的な時代だった。政宗は仙台にいる日数は少なく絶えず大阪の秀吉の伏見城や京都に滞在していた。そこに愛姫(めごひめ)が人質として住んでいて仙台には帰ることなく住んでいた。だから当時でも国際的視野をもつことかができたのである。

そして津浪の情報も外部との接触がありつたから伝えられ安かった。つまり情報は戦国時代辺りだとどうして伝わったかというとそうした政治の中枢部に影響していないと伝わらない。それは多賀城で奈良や京都の人がかかわりちょうど貞観津浪を京都の官吏も武人も目撃して京都に伝えたのである。それで末の松山がみちのくの歌枕となり残された。
それは京都の人がかかわって全国に知られるようになったのである。

当時だと情報は中央中心にしか伝わらない、地方の情報や事件はほとんど伝わらない、中央政府とかかわったとき伝わり歴史に記録された。そういうシステムになっていた。

みちのくの歌枕もそうした情報の伝え方でありその歌を通じて遠いみちのくをイメージしていたのである。写真もない何もない時代は歌枕が頼りになる。だから短歌は一つの情報伝達の手段でもあった。それが後世に残された。ただ事実を伝えるより短歌の方が興味をひくということがあった。事実の羅列だと無味乾燥になってしまうかちだ。
記録にしても無味乾燥だとただ事実の羅列だと興味をひかないから庶民まで事実自体が残らないということがある。今でもテレビで事件をあくことなく放送しているのは見ている人が興味をもつからである。それが下賤でも興味本位でも一応テレビを通じて全国に伝わるからそういうことがあったという事実を全国で認識する。
短歌はそういう興味をひきつけるものとして情報を後世に伝えた。


相馬藩がなぜ慶長津浪のことが溺死者700名しか記録がないのか?
津浪の記録の空白地帯になっているのか本当に謎である。
その一つの原因が相馬藩が中央に影響を及ぼす力のない小藩だったことにもあった。
相馬藩のことは伊達藩を通じてしか中央に知られなかった。
ただ戦国時代に石田三成が相馬藩内にきている。鹿島の田中城にもきている。それで三成の旗が野馬追いに出ていたのである。ここでは直接かかわっていたのである。

そのあとは家康の徳川時代はかかわっていない、伊達政宗を通じてしか相馬藩のことは知られないということがあった。

だから不思議なのは伊達領の仙台平野の六郷に津浪の後に開拓に入って地名まで残した相馬藩の武士が何人がいた。それは一団だったからどれくらいの数かしらないが50人とかの規模になっていたかもしれない、一族郎党をひきいるとそれなりの数になっているだろう。一方で相馬藩も津浪の被害にあったのにその被害の後のことは語られず地元の郷士などがどうしたのかとか一切不明なのである。伊達藩のこととして相馬藩が語られていて相馬藩独自では津浪のことは記録されていないのである。


それは伊達藩中心の世界があり伊達藩が中央政治とかかわりそれが歴史記録となった。
中央とかかわらないと歴史として記録されない、少数民族の歴史が消失するのとにていたのである。情報は常に中央の権力中枢から発信されている。それは今でもマスコミが情報発信の中枢をになっていたことで同じである。地方から全国に発信するこはむずかしかった。インターネットはそれを打ち破るものとして生まれた。南相馬市の市長がYUTUBEで世界にきけ窮状を訴えて反響があり世界の百人に選ばれたということでもわかる。

インターネットは地方からも一応発信する機会を与えたのである。

それでも中央が中枢となり情報は発信されやすい。情報を発信することも権力をもつことなのである。例えはキーワードでも自分のサイトに来るのをみていると京都 俳句とか
奈良 俳句とか鎌倉 俳句とかか一番多い、仙台 俳句などほとんどないし相馬 俳句や短歌で調べている人がほとんどいないのである。そういう有名な場所に集中しやすいのである。だから京都 俳句とあったらそこからまた東北でも相馬でもリンクをたどれるようになっていると注目されるのである。情報の注目度は今でも中央に偏るのである。
インターネットでも発信する能力があっても注目されなければ知られないということなのである。ただ今回は福島県は相馬でも原発事故で世界まで注目されたのである。
だからフクシマから来たというと誰でもわかる、悪い意味で有名になったのである。

だから自分のサイトもまた500名とか訪問者が増えた。常時リンクが1000とかなっている。ただ福島県とか相馬意外からどれくらいの割合できているか今のサーバーでは分析できない。外部からも相当来ている。
半分以上は外部からのものだろう。それは原発事故がが世界的興味となり注目されたからなのである。


慶長の津浪の被害が当時も甚大だったのにそのあと三年後に大阪冬の陣とかに出陣したり相馬藩でも出陣しているその後ヨーロッパに使節う派遣したりとどうしてそうした大事業ができたのか、それだけの経済力があったのか、今なら被災地はうちのめされて復興にはなっていない、この辺は原発事故だからまた事情が違っていても慶長津浪では大きな被害にもかかわらず大きな事業をしているのは謎である。津浪の被害にあった田は十年くらい塩害で回復しなかったというから余計にそうである。今なら技術が発達しているからそういうことはない。ただ当時は農業中心の社会だから農業に対する熱意が全然違っていた。いくら被害があっても農業でやるほかないということでは一致していたからである。

今の状況とは相当違っている。今は漁業でも農業でも衰退産業であり高齢化でありそういう所に津浪が襲ったので壊滅状態になった。この際やめた方がいいという人が多いのも当時とは事情が違う。

ともかく仙台なら津浪が来ると最近警告の本が出て紹介した。それもそうした記録や民間の伝承が残っているから可能だった。相馬藩ではほとんど残っていないのだからそういう警告すら出せなかったのである。ただ最近科学者が相馬の松川浦の奥深くまで貞観津浪の時の砂が発見されたと報告していたので自分も時事問題の深層に軽い気持ちで面白がり出していたのである。ただそうした情報は専門家の間では重要てものとして新しい発見として注目されていた。他の人はほとんど関心がなかった。


それでも南相馬市の2009年の広報で大きな地震が宮城県沖で来ると警告していた。津浪も警告していた。それも真剣に読む人はほとんどいなかった。東電でもとりあわなかった。女川原発が津浪の被害を辛うじてまねがれたのはやはり仙台には津浪の記録や伝説があり三陸とも近いのだから福島県とは違っていた。福島県は津浪の記録の空白地帯だったのである。だから東京電力となると余計に危機感がなかった。
だから原発は東京に建てるべきだったというのは正論だったのである。
そしたら緊張感で仕事していたし危機にも備えていたのである。
責任の重さの感じ方がまるで違ったものなっていた。
それでも東京にばみんなが反対するから建てられない、それなら建てるべきではなかったとなる。

posted by 天華 at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2013年11月05日

なぜ相馬藩では慶長津浪が記録が皆無に近いのか? (初代の時に津浪の被害があり戦国時代で混乱していたから?)


なぜ相馬藩では慶長津浪が記録が皆無に近いのか?

(初代の時に津浪の被害があり戦国時代で混乱していたから?)

相馬藩初代となる利胤は、天正9年に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれる。
慶長元年(1596年)元服の際に父義胤は石田三成に烏帽子親を頼み、三成の一字を得て三胤と名乗る。
これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、以来三成と昵懇であったためであった。


徳川家康は会津の上杉攻めに向う途中、下野小山で石田三成の挙兵を聞き兵を返す。
慶長5年(1600年)8月関ヶ原本戦で家康が勝利、この報を聞いた義胤は遅ればせながら翌慶長6年正月に上杉領であった安達郡を攻めて失敗している。


慶長7年(1602年)5月24日に関ヶ原不参により義胤は領地を没収される。このとき常陸の佐竹義宣も領地を没収されて、出羽久保田20万石に移封されたが、義胤には佐竹領のうち1万石が分与される予定であったという。

さらに慶長6年(1601年)に正室を亡くしていた密胤は、秀忠の側近土屋忠直の異父妹で旗本岡田元次の二女を正室にこ迎えた。
旗本の二女ではあったが秀忠の養女として嫁ぎ、この婚姻の仲立ちとなった土井利勝の利の字を偏諱として再び改名し、利胤と名乗りを改めた。また、徳川家と縁戚となったなったことで従四位下、大膳大夫に昇任している。

この間、慶長3年(1598年)に小高城から本拠を牛越城に移しているが、領地没収騒動を不吉として。
慶長8年(1603年)には再び小高城に戻っている。

慶長12年(1607年)江戸城普請の手伝い、慶長16年(1611年)12月には小高城から宇多郡中村城に本拠を移している。以後、ここが相馬藩の城下町となる。
利胤は宇多川の流れを変え、碁盤の目状に街割を行って城下町の形成に意を注いだが、この際に北方の伊達氏を仮想敵として考慮したという。




慶長地震の津浪が起こる前のことからたどると詳しく初代の利胤の記録が残っているのだ。この時注意しなければならないのは戦国動乱の時代であり相馬藩は初代であり安定していない。つまり政治といっても藩主の関心は戦国時代の中でどうして藩を維持するのかということが最大の関心事だった。だから石田三成が主役の時代は三成にとりいることが政治であり名前まで三成からもらっている。野馬追いの旗にも三成の旗印が残っているのもそのためである。鹿島区の田中城にも実際に三成は来ていたのである。
相馬藩の初代が戦国時代でありそこでの関心は民にはない、城も中村城に移る前は何度も移動しいる。一端中村城に移ってからも移動している。それほど安定していない、こういう中で民に気を配ることすらできないだろう。
だから記録としてはそうした戦国時代で領地をどうしたら安堵してもらえるかが政治だったのである。


さらに慶長6年(1601年)に正室を亡くしていた密胤は、秀忠の側近土屋忠直の異父妹で旗本岡田元次の二女を正室にこ迎えた


こういうことまで記録されているのになぜ700人も死んだ津浪のことか全く空白になっているのか?今の時代からすると理解できないが当時の事情からするとそうではない、相馬藩の基盤が安定していない、だから民のことはないがしろにされていた。


文禄二年に(1559)に相馬三郡の検地があった。


文禄に検地があった?とすると新地にあった文禄の碑は検地を記念したものなのか?
検地の時に記念として年号を石碑に刻む傾向はあった。明暦とか元禄とかにも検地があり葛尾村の落合にあった碑にも刻まれていたのである。その時あの辺に検地が施行ささたのかもしれない、検地の記念として年号が刻まれた。ただその時新地は相馬領になっていたのかどうか不明である。


文禄の時代でも慶長津浪の11年前にもそうした記録は正確に残っているのだ。だから慶長津浪の記録が残されないということは民の歴史を藩では行政では無視したということになる。その前に度々戦争があり戦死者150名とかも月夜畑の戦いであった。
そういう方には関心があり津浪の被害とか死者数には関心がなかった。

ただ一方でなぜ民間で津浪のことが伝承されなかったのか?
それも深い謎なのである。伝説にも残らないし都神社か津浪を記念したとしても不明となっていた。津神社がすべて津浪を記念したものとは限らないしその謂われも不明となっていたのだ。


つまり津浪に対して全く相馬藩では記録の空白地帯となっていたのである。
伊達藩では相馬藩より歴史が古く伊達政宗の活躍の時代だから慶長津浪のことは伊達藩から全国に知られるようになったのである。ただ相馬藩の津浪に関しては閑却されていた。
だから歴史の記録は必ずぬけおちるものがある。その事実もわからなくなるものが相当にある。何が事実だったのか特定して証明することが歴史研究だともなる。
ある人が存在したのか存在しなかったのかも証明することが歴史だとなる。

歴史の記録の欠落には重大なことが見逃されているということをかえって証明しているのだ。そういうことを掘り起こすことは容易ではない、柳田国男が民間の人たちから口碑として聞いたものを集めて学問にしたことでもわかる。それは文書で記録されたものに対しての反抗として生れた学問だったのである。
膨大な伝説とか民話とかそうした民間で語られたものの中にも歴史があったということである。そういう歴史は文書に残されないことで忘れられてしまった。それを掘り起こすことが学問になった。
そういう民間の歴史の消失がいかにあとで重要なものとなっていたか、津浪のことでわかったのである。柳田国男か戦争ばかりが歴史ではないというときまさにそうだったのである。ドラマでも面白いから戦争のことばかりドラマにするけど地味な民間の伝承とかは話題になりにくいから忘れられるのである。


その当時でも津浪で700人死んだということは民間人から見れば大事件だった。でも戦争に追われていたものが支配者だったとき戦争で死ぬことの方が大事件になっていた。
こういうことは歴史をふりかえるとき研究する時必ずある。
忘却された記録されない歴史の空白が実は重大なことを語っているということがあるのだ。津浪のことが伝えられない語られないということでこんなひどい被害になったともなるからだ。


ただ伊達藩の記録には名取辺りまでは濃厚に民間の伝承は伝えられていた。ただ相馬藩になると地元の人もほとんど注目していなかっのたである。伊達藩でそれだけの津浪の被害が記録されていれば相馬藩でも注目するべきだったのである。それも郷土史というと一地域の狭い範囲のことに関心が向きやすいということもある。全国的レベルで共通の課題を研究することに欠けている。そういう方法もなかった。インターネットでそういう方法が生れたことは言える。
まず郷土史研究が何か科学のように命にかかわるようなものというより好事的なものであり一般的に暇人がしていくくらいしか思われない、でも歴史の研究は民俗学であれ何か重大なものか命にかかわるものさえあったということである。
もし貞観津浪とか慶長津浪のことをもっと知っていれば海岸に接して人は住まないだろう。最近は科学で証明もされていた。それでも危機感をもちえなかった。
歴史を忘れてしまうことは常にそうした危険がある。戦争のことでもすでに何かわからないものとなっている。300万人以上死んだ戦争すらだんだん霧の中になり忘却されてゆきまた同じような戦争も起こりうるのである。


だから歴史は繰り返す、個人的にも家族的に家系でもカルマは消滅せず繰り返されるのである。カルマが何かというときそのカルマ自体が何か気付かない人が多いのである。だからカルマを繰り返しているということにもなっているからである。あなたにはこういういうカルマがありますよと指摘してもそんなこと意に介さない人が多いのである。そしてどうしてこんなに不幸なことばかり起きるのかとかばかり言っているのだ。仏法なら原因があり結果があるということでありただナムナムナムと唱えて入れは解決するとはならないのである。でもカルマを直視することは厳しいからできないということもある。ナムナムナと唱えれば何でも解決しますよと言うのが楽だから人間は楽な方に目が向いてしまうのである。そのために人間のカルマは一向に解消しないということがあるのだ。歴史もまた一つのカルマを背負っているのである。
そのカルマについて良くしらないと重大なことが見逃されてしまうのである。

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2013年11月06日

相馬藩が中村城に移転したのは津浪の復興などと何の関係もない (当時の戦国時代の政治的事情で無視された)


相馬藩が中村城に移転したのは津浪の復興などと何の関係もない


(当時の戦国時代の政治的事情で無視された)



1611(慶長16)年12月2日、三陸沖、M8.1

さらに慶長16年(1611年)12月に宇多郡中村城に本拠を移し、ここが相馬藩の城下町となった。
治家記録慶長16年11月30日条に、この津波の到達した場所を推定できる記載がある。海に出ている間に地震発生、津波に流され、舟ごと「千貫松」に流れついた記載。

「相馬藩世紀」には相馬中村藩の領内(現在の相馬、南相馬、浪江、双葉、大熊、飯舘の各市町村)で約700人が津波で死亡したとある

400年前の津波の後、相馬中村藩は城を軸に城下を整備する都市計画を進め、商工業の振興を促したという
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/04/post_921.html



1611年 (慶長 16年)、相馬利胤は藩境を接する伊達政宗に備えるため相馬藩の本拠地を小高域から 中村城に移し、廃藩置県を迎えるまでの260年余りの間、相馬中村は城下町となりました。


烏帽子親であった石田三成の一字を賜って初名を三胤といったが、これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、それ以来三成と昵懇であったためであった。


三成の旗印が野馬追いに残ったのもそのためだった。


江戸に上る際に三成の偏諱をはばかって密胤と名を改め、その後さらに幕閣の実力者土井利勝の利の字を偏諱として再び改名し、利胤と名乗りを改めている。


名前も二度も変えているのである。名前は普通は簡単に変えないけどそれだけ上からの圧力が強い時代だった。この戦国時代の時は、まずどれだけ領地を守ること一族を守ることに必死になっていたかわかる。こういうとき中村城に移転したのか慶長津浪から一カ月後なのである。なぜそんな時期にわざわざ難儀な城の移転をしたのか?
それまた問題になった。これも学者が津浪の被害がありその復興のために中村城に移転したという説を出した。

これもその当時ありえないことである。まず公共事業で経済を活発化するなどという現代の感覚などゼロである。中村城移転は何ら津浪とは関係していない、伊達に備えるためだったというのがやはり正解だろう。新地が一時伊達領だったことでもわかる。
この戦国時代には領地の奪い合いなのだから領地を守るとなれば中村城が一番適地になる。それは津浪が起きたこととは何ら関係ない。

そもそも溺死者700名としか相馬藩政記に記されていないことがその証明である。
政治の中心は津浪の被害より領地を守ることに専念されていた。

そして相馬氏一族の安泰を計ることが第一である。たから家来が戦死したとかは藩政記に記されている。でも津浪で死んで被害がどうだこうだとかは全く記されていない、その時の関心は領地を守ることでありそれに必死になっていた。
その時津浪の被害も報告されたがただ溺死者700名としか記されない、もし公共事業のように中村城を移転したならもっと津浪のことについて書いている。
津浪で民が被害にあい苦しんでいる、そのために・・・と何か記しているはずである。
それがまるっきりないのである。だからむしろ津浪の被害者はこの時の政治で無視されたのである。津浪の被害は政治の最重要課題になっていないのである。
だからといって津浪の被害を受けた人たちにとって最大の問題だった。

でもその当時政治の課題は領地を守ることであり津浪の被害があってもそれは無視された。だから三カ月後に今度は徳川家康の冬の陣に大坂城に参戦している。これも津浪の被害の後にそれだけの財力があったのかと思う。今ならもう津浪の被害に政治がかかりきりなるはずだからである。つまり津浪の被害はほとんど無視されたから記録されなかったのである。もちろん津浪のために中村城に移転したということはありえない、ではなぜ津浪の被害にあった人たちの声が残されなかったのか?


これも謎なのだけど津浪の被害にあった民衆にその記録を残す力がなかったとも言える。もしかしたら被害を訴えたかもしれないけど政治の最重要課題は領地を守ることであり津浪の被害に対処できる状態ではなかった。だから無視してその財力も徳川を応援するための参戦するために使われた。つまり津浪の被害者には何ら藩では助力もしなかったともなる。それもできなかったともなる。だからそっけない一行で700人溺死としか記さなかった。その他のこと相馬藩の存続にかかわる跡継ぎ問題などは詳しく記されているからだ。
津浪のことが記されていないことは当時の相馬藩の政治事情のためでありそれで無視されて記録もされず忘れられてしまった。政治は今でも何が第一の課題か問題になる。何を優先するかが問題になる。それは必ずしも民衆をの要望を第一にするとは限らないのだ。
だから津浪で死んだ700人は当時は無視され歴史の闇に消えてしまったのである。
その消えたこと消されたことが実は大きな歴史であり意味あるものとして見直すことが必要だった。


相馬藩は歴史が古いために藩主相馬氏の蔵入地は他藩と比べて極端に少なかった。太閤検地の際の相馬氏の蔵入地は16%に過ぎなかったといわれている。実に8割以上が、藩士や寺社領であった。

このように財政基盤が弱いところに、江戸開幕後の軍役負担、中村城築城などの出費があり、たちまち財政難に陥った。つまり相馬藩は成立時から財政難に苦しめられたのである。

(戦国時代における蔵入地は、戦国大名が自己の所領のうち、家臣へ与える知行地に対して代官を派遣して直接支配を行って年貢・諸役などの徴収にあたった直轄地を指す。)
http://roadsite.road.jp/history/chishi/hanshi/mutsu-soma.html


まずこれだけ財政難なのだからそもそも津浪との被害のための復興としての公共事業などという発想すらできない、藩士や寺社領だったということは自前の財力がない、ただ藩士や寺社の領地が津浪の被害を出したら寺社でも藩士でも損害だからて何らか記録が残ったかもしれない、でも寺社にしても津浪で死んだから供養したなどない、海側が被害にあったのだからそこには自分たちの領地が少なかったのかもしれない、海側は米がとれないから漁業だけだと年貢にならない、検地もしないから記録として残りにくいということがあったかもしれない、様々な事情が重なって津浪の被害は無視されたのである。


実際に今なら津浪の被害者の名前がみんな石碑に刻まれているから忘れられることはありえないのだ。当時は津浪の被害にあった人たちはそうした石碑を残すことさえできなかった。それだけの経済力がなかった。墓を庶民が残せたのは江戸時代の後期だったのである。では伝説などで語り継がれなかったのか、それも謎なのだけどやはり津浪の被害は普通の災害とは違っている。・・・千軒とかが伝説に残されているように一瞬にして村自体が消滅するような災害である。すると村自体が消失したら歴史も記録も消えてしまうことになりかねない。例えば津浪で村自体が消失して他の村や町に移ったときそのことを語っても信じられなとならないか?みんな死んで村がなくなってしまったんだよと語っても信じられないとなり語り継がれることもなくなった。草戸千軒などはそうである。最近になって遺物が発見されてあったとなっているからだ。溺死者700人というのはそれとにて歴史から消失してしまった。しかしそのことか今になって重大なこととして蘇ったのである。その当時の記憶が同じ津浪が呼び起こされたのである。

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2013年11月26日

なくなってはじめて意識する人間の感覚の不思議 (歴史には記憶が消える空白化が膨大にある)


なくなってはじめて意識する人間の感覚の不思議

(歴史には記憶が消える空白化が膨大にある)

日々通るこの道の脇家の跡誰か住みしと冬のくれかな


●その家が消えてはじめて意識する人間の感覚の不思議


人間の不思議はその家がある時はその家のことを意識しない、六号線の脇の家もそうだった。誰が住み何をしているのかも意識しない,普通にありふれた一軒の家にすぎない、そこに誰が住んでいて何をしているのかも関心がない、しかしなぜその家がなくなった時、その家のことを意識したのだろうか?
そこを散歩の為に毎日通っているということもあった。毎日通るからどうしても更地と化したその場所が気になる、意識するのである。
もう一つはその家について誰が住んだのか何をしたのか?そうしたことが全く不明なためである。だからこの家は何だったと意識する。
これは人間として奇妙なことである。それは人間特有の感覚である。
あった時何も意識しない関心もないのになくなったとき意識する。


例えば墓にしても碑にしても名前がなかったり何も書いてないものがある。字も薄れて何が書いてあるのか年代もわからない、すると何とかその書いてある字を知りたいとなる。知り得ないから余計に知りたいとなるのも不思議である。かえって明確に字が記されているとああそうかで終わりになる場合もある。だから人間の感覚は不思議である。
謎であればその謎を知りたい究めたいとなる。
古代文明の興味はすでにわからない謎になっているからいつまでたっても興味の対象となっているのだ。

そしてもう一つは人間は何らかの空白に耐えられないのだ。真空になっていることを許さない、そこに何かがあるべきものとしての感覚である。何もないということはそれは物理的現象だけではない人間的に存在についても言えるのである。
何もないということはあってはならないことなのだ。

だから奇妙なことなのだけどここに住んだ人は誰だったのだ?何をした人だったのだ。
故郷にとってどういう人だったのだとかまで考える。
この辺は津浪で家をなくした人が多い、それから移動したり何かで家が壊されて更地になった所もふえた。そして次々と家が建っているのが現実である。
そういう変化の激しい地域になっている。
だから家がなくなったのはこの家だけではない、でもなぜかその家を意識するのは自分が毎日通るということにもあった。
その家に住んだ人について何も語り得ないことが空白になっいることがかえって余計に意識するようになっている不思議である。


●人間も生きている時は意識せず死んだ時意識する


人間でも生きている時は意識しない、死んだ時かえってその人を意識するようになる。
大原の斎藤茂延さんのことを忘れていたが死んだと聞いてまた意識した。より深く意識するようになった。一カ月ではなかった。実際二〇日間くらい一緒に病院にいて話を聞いただけだったが病院は閉鎖された特殊な異様な空間でありそれで親密になったということもあった。ただその前にその人のことを全く知らなかった。大原についても興味はなかった。だけどその人を通じて大原に関心を持つようになった。
そして死んだ時さらに関心をもつようになった。


あの人がここに生きて死んだ、この土地で農業していたからこの土地に愛着をもっていただろうな、それで跡継ぎがないとか廃屋が増えて村が廃れてくるとか何かそういうことに関心をもつ、そして山の中に田んぼなのか荒地になっているところを見たら先祖がさぞかし苦労して開墾した土地なのに捨てられる、放射能汚染地域でもう誰も耕さないのかとなると悲しいとなる。

それがちょうどその茂延さんの墓所のすぐ近くだったのである。

そして茂延さんは死んだのだけどまだ愛着ある大原に生きていると感じるのも不思議である。なんか大原の道を歩いているとひょいと出てきて逢うような気がするのも不思議である。これは都会に暮らしている人と違ってその土地と密着して生きた農家のような人たちはそうなる。死んだらその土地の先祖となりその土地の霊となる。山の神となるというのはそれは理屈ではなく日本人の自然な感覚だったのである。


●歴史にも記録の空白化がいくらでもある


いづれにしろ人間はどんな人でも死んだ時点で死んだ時その人を一時的でも意識する。
近くに住んでいた人は一回も話していないし名前もしらないし何をした人かもしらない、仙台から拾ってきたんだとか噂していた。でも三〇年も一緒にいたのである。
周りの人も何もしらない、一人だけ知っていた人はいるにはいた。
でもほとんどの人はその人について何も知らない、それで夫は金がなく市で始末してくれるだろう、無縁仏になると言っていた。でも最近籍に入れていたとすると墓に入れられたのである。でも貧乏だから母親の名前も墓誌に刻んでいないから何もできないのである。そういう人でもその人は何だったろうとなる。
それなりの人生があったのだろうと思う、すぐ隣にいても全く不明だったという不思議である。無縁仏になっていてもそれなりの人生はあったとのだろうとなる。
ただもう誰もわからないし知り得ようもないのだ。誰ももう聞こうともしない、これも全くの消失空白化になっているから気にかかるということもある。


歴史的にも歴史となると膨大な人々が生きているのだからいくらでもこうした記憶の空白化は起きている。人間は日々死んでいるのだから日々忘れられてゆくというのも現実である。相馬藩でなぜ溺死者七〇〇人としか四〇〇年前の慶長津浪のことが記されていないのか?これも謎であり歴史の空白化現象なのかもしれない、他に・・千軒とか街ごと消失した伝説が各地にある。多賀城にもあり横浜にもあり草戸千軒は有名である。
それらについてもただ・・・千軒があったということしか伝えられていない、だから本当にあったのかどうかさえわからないのだ。ただ草戸千軒の場合は最近発掘物で実際にあったとわかったのである。

相馬藩政記のことを時々紹介しているけど他のこと戦争のことや跡継ぎ問題などはことこまかに記録している。だから津浪で七〇〇人死んだということの記録が一行だけというのはやはり一つの歴史の空白を作り出していたのである。
津浪でも相馬市の奥まで津浪が来ていたと土を掘り下げてわかった。それは貞観津浪の砂だった。とにかく歴史となると長いからそうした記録の空白がいくらでもある。
 津波で神社のことが問題になったけど神社についても謂われもいつ建てられたのかもわからないのが多い。
建てたときはやはり何かしら建てる理由があり建てられたけどわからなくなってしまったのだ。
でも何らかの記念であったことは確かなのである。
津神社などは何かわからなくなっていた。それが津波の記念だったのかどうかなのもよくわからないのだ。
津波のあとの百年後とかにも建てられているからだ。
意味不明の神社が相当数ある。それも歴史の空白化現象なのである。

 
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2013年12月01日

歴史は事実を基にしているからフィクションの小説は誤解を生む (慶長、元和の大津波-近衛龍春の疑問)

 

歴史は事実を基にしているからフィクションの小説は誤解を生む

(慶長、元和の大津波-近衛龍春の小説の疑問)

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なぜこの小説で相馬藩の津浪のことが書かれている。それは何を根拠にしているのか?
その根拠となるものがない、相馬藩政記には「700人溺死としか書いていない」
ただ700人と書いてあるのだからその被害を記したことは確かである。700人という数を調べて記録した。だから全く藩でかかわらないということではなかった。
ただ津浪のことはこの記録意外何もわからないことなのだ。
だから確かに小説のようだったと勝手に想像して面白く書くことは非難できない。
つまり小説はあくまでもフィクションでもいいし面白く書いてもかまわない。
ところが現代はNHKの大河ドラマのようにあくまでフィクション化したものを
歴史の真実と見ている人が多いのである。


現代は様々なメデアの時代であり小説であれドラマであれ映像であれフィクションが
現実のように思わせることが多い時代である。それでやらせの問題がでてきた。
動画さえ架空のものを真実と思わさせられるのである。
そういう技術が発達した時代である。写真さえそれが本物なのかわからない、
合成して作り出せるからである。

司馬遼太郎は小説家であり歴史家なのだけどそこにフィクションが確実に作り出されている。「竜馬が行く」で竜馬のことが小説化してことさら英雄化された。
そこにフィクションが事実のように思い込まされたことがあるのだ。
竜馬についての歴史的真実は何だったのかとなるかそれを考証することは普通の人には容易でないから大衆はフィクションを本当のことだ信じてしまうのである。
だから坂本竜馬は司馬遼太郎によって誇大に小説化されて英雄化されたという批判があるのだ。つまり歴史的真実は今やわからないからそう批判されるのである。

この小説にしてもなぜこの時期に出たかというと津浪があったからであり話題になるからである。でもどうして津浪のことをまるで真実のように書いてあるのか?

小説だからフィクションだから何を書いてもいいとなるのが相馬藩では当時の主君の義胤でも何も記していない、ことこまかに記されているのは戦争のことであり跡継ぎ問題などである。飯館村の飯樋の木材資源をめぐる争いなどはことこまかに記されている。
津浪はそれより重大な問題であり被害があった。それが全く700人死んだとしか記されていないしまた伝説にも残ってない、それは何なのだろうと他の人たち、研究者も疑問に思って調べていた若い研究者の人がいた。その人は相馬藩内にも津浪の伝説はあった。
柚木に「急ぎ坂」という言い伝えがあった。津浪で急いで逃げたからなのかこれもどこまで慶長の津浪に由来するかは不明である。相馬藩ではほとんど津浪の言い伝えを聞かないからである。だから庶民の側でもなぜ記録を伝承でも口伝えでも残せなかったのか不思議だとなる。そこに何らか事情があったのか?その辺は謎である。


ただ城を中村に今の相馬市に津浪の復興事業のために移したと岩本氏も言っているがこれもどうしてそう言ったかのかその根拠は何なのか記されていないのだ。何かその根拠となるものを示せば納得するだろう。そういうものが一切ないのである。では学者なのになぜそういうことを言ったのだろうか?小説ならわかるがそれも解せないのである。
むしろこの記録されないということが何か大きな問題をふくんでいる。
歴史の大きな記憶の空白を生んだことが実はそこに歴史の真実があるとなる。
例えば蝦夷というものが大和朝廷に滅ぼされたけどこれも歴史として残されないから謎となっている。歴史は勝者の記録だとするとき敗者は無視される。だから敗者の歴史は埋もれてしまった。それも歴史の大きな空白なのである。


結局700人溺死という津浪の被害は当時の行政だったもの君主だった義胤にも無視されたともなる。その頃まだ相馬藩の政治は戦国時代であり安定していない、だから戦争のことや跡継ぎのこと飯館の飯樋の森林資源の争いで財政を確保することなどが重要であり津浪の被害まで頭が回らなかった。だから例え津浪の被害を訴えてきてもとたあわない、とりあう余裕もなかった。徳川の城普請も要求されたり財政的に余裕もない、だから津浪の被害者のことは無視された。復興のために中村に城を移したとか復興事業に尽力したことなどなかったのである。なぜならそうしたことを何もしりえようがない、資料もないのである。


歴史はフィクションではない、でも容易にもう遠い過去のことだからフィクション化されやすい、聖書は事実を記したものである。でもフィクションだという人がいるがそれはすでに信仰の問題でありその事実を否定するものは信仰も成り立たなくなる。
でも一般的には歴史の事実を知ることは庶民にとってはめんどうだから小説の方を事実のように見てしまう。これは原発事故でもそうだった。安全神話が政府指導で作られて誰も本当のことを知らせないようにした。また調べることもできないようにした。
戦争中も皇国であり日本は絶対に負けないと負けた事実を信じないで嘘を信じていたのである。要するに人間は嘘でもそれが大きな嘘は信じやすいということである。

それは人間はあらゆることを知りえない、特に科学はむずかしいから知りえようがない、そして原子力は科学のなかでもさらに一番むずかしいから何が真実かを知り得ようがないからだまされたとなる。

マスメデアが批判されるのはメデアが権力化して伝えるべきものを伝えない相馬藩の津浪のように重大なことが知らされない、原発でもそうだった。そこに大きな空白が生まれ
事故につながった。相馬藩の津浪でももしことこまかに記されていればここにそんな津浪があったのだと日頃から意識されていたはずなのである。ただこれはここだけの問題ではないからいちがいには言えない、でもここでは全く津浪が意識されることがなかったのである。だから津浪の危険を警告もできなかった。


他でも人間がだまされやすいのは大きな事業をしている人なのである。事業のことはわかりにくい、異種業者になるとわからない、でも何か大きな事業をしているとなると素人にわかりにくいからだまされるのである。電気関係の事業をしている人が一億円の資産があるといったとき信じてしまった。それは電気のことなどわからないからである。
そういう技術的なものはもうけが違っているのかと思ってしまうのである。
その事業者は借金で首が回らなくなっていた。事業の危険は20人に一人しか成功していないという厳しさだったのである。
つまり歴史でも嘘を真実だとフィクションを真実だと信じていることが相当数ある。
なぜなら遠い過去になるとますます事実が何かわからないからそうなっているのだ。

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2013年12月10日

権利ばかり主張して感謝しない時代 (民主主義の弊害-津浪は神からの罰だった?)

 

権利ばかり主張して感謝しない時代

(民主主義の弊害-津浪は神からの罰だった?)

●人間はそんなに権利がそもそもあるものなの


現代は民主主義社会では常に権利が主張される。どんな人にも権利がある。人権も人としての権利がある。だから障害者だろうが生活保護者だろうが最低限の生活はする権利があると主張する。そして権利は平等だとなる。だから親の財産でも平等に分けるべきだとなり絶対にゆずらない、権利はrightのことである。何か正しいという根拠に基づいて権利がある。だから権利は最初は権理と名付けられていた。なにかしらreasonがあって権利がある。ただいくら権利があるといっても後進国ではでは生活保護の権利があるとデモになるかといえばならない、生活保護は豊かな国で保証される権利である。

つまり豊かでなければそんな権利はありえないのだ。乞食が恵みが足りないと怒り相手を恐喝するのともにている。ただ生活保護は今は高齢化社会での老人は別扱いだと思う。
いくら一生働いても公務員のように高い年金をもらえるとは限らないからその不平等を補うために生活保護もある。ただ若い内はやはり安易に生活保護になるのは問題だろう。


民主主義で権利だけ主張するようになったのは人間の欲望は全面的に認めるべきであり満たされるべきでありその権利があるということにもなっている。欲望を抑えるべきではない、それが欲望資本主義なのである。禁欲から修道院からはじまった資本主義が歯止めのない欲望資本主義になった。だから権利と欲望は必ず一体化しているのだ。
遺産を兄弟で分けるのが問題ある時がある。土地をもっていて兄弟で分ければ農業ができなくなることもある。でも権利を主張するから認められるからそこでかえって兄弟の和は破壊される。つまり人間の欲望は限りないから止めることができないから権利を認めればそうならざるをえない。


自分の場合でも遺産の問題でもめた。でもそれは二〇年以上前のことであり相手は時効になっていることも気付いていないのだ。殺人でも時効になっている。裁判に訴えるというとき、それは何の法律的権利もなくなっていた。でも相手はどうしても金が欲しいから権利を主張する。
こちらではそういうことではなく何かしてやろうとしても相手はそのことが当たり前であり何の感謝もしない、要するに当然もらえるものを権利を主張しているだけだとなる。
権利はあったにしても権利ばかり主張してお前は金だけをよこせとなるともう交際はできない。これは今の親子関係でも起きている。金だけをよこせばいい、感謝などはしない、なせならそれが子供の権利だからとなってしまう。
だからもう金をやらないことにした。またそうできない事情もあった。
福祉関係だからめんどうになるからだ。


何かこういうことは現代ではどこでも起きている。常に人は権利だけを主張する。
その権利はあらゆる欲望は満たされるべきだという権利なのである。
そんなこと果たして神が自然が許すものだろうか?
この地球の富は資源は人間のために利用するの権利がある。
人間が地球の主人だからともなる。
それが古代では最初は人間は自然の実りに対して感謝していた。食料でも何でもとれることに神に自然に感謝していた。それが一つの祭りになっていた。
するとこうした祭りは近代的ではない科学的ではないと否定されてきた。
神であれ自然であれ感謝することが意外と大事なことだった。


●相手に尽くしても感謝しない人が増えた


なぜなら魚一匹でもとれることに感謝する。それは神から与えられた贈り物のように感謝する。現代は例えば漁師でも農家の人でも神に自然に食料がとれたからと感謝しない。
魚でももっと多く多くとり売りたいとなる。食料でも野菜でも米でもみんな商品化している。売れれば得したとなり自然そのものに感謝することはない。買うものが無限にふえたということもある。だから自然にとれるものは自然の神に感謝するよりもっと多く取り多くのものを買いたいという欲望に変化したのである。


そういうことは一体神から見たらどうなるのか?
なぜ神はこれほどのものを与えているのになぜ人間は感謝しないのか?
ただ足りないもっと欲しい、もっと売って得をしたいとしか思わないのか?
漁業権者は漁業権ばかり主張して莫大な富を原発で電力会社から得た。
彼らが一匹の魚を得たことでどれだけ感謝したか?
彼らは電力会社に感謝していたのである。
自分たちにそういう権利があると心底思っていたからである。

人間-神-自然という関係ではなく、人間-人間の関係だとわかりやすい。


「患者が感謝の気持ちを示してくれなかった」 しゃべれない患者6人の骨を折った看護師女(26)供述 兵庫 (227)
http://r-2ch.com/t/newsplus/1268381885/


看護師が感謝しないと殺す事件もあった。これも一見異常に見えるが看護師という仕事がそれだけハードだから起きてくる。看護師とか介護士とかは直接人間と接するから余計感じるのだ。なぜこれだけ世話している尽くしているのに感謝がないのかとなる。
そういうことを自分も介護とかして感じた。
これは子供でも育てるのが大変だから親が思うこともあるだろう。
昔だったら子供は何であれ親に感謝して親にその恩を報いるべきだとなっていた。

これは神-自然と人間にあてはめると

「なぜこれだけ私(神)は人間に与えているのに人間は感謝しないのか
もう人間に与えるのは嫌だ、災いを与えてやろう」


何かそういう心境になるのがわかるのだ。ただいくら尽くそうと感謝を感じない人は感じないから強制などできない、でもそれを感じないことが神ー人間でも人間ー人間でもありうる。その時相手にこれだけ世話して尽くしているのに感謝もされないなら馬鹿らしいからやる気がないとか極端になると殺してやるまでなる。神にしても人間はただ自分たちの権利だとして欲望をみたすことだけを要求する。そんな人間の権利をすべてかなえられるか?となり神は怒り災いももたらすとも考えられる。


●津浪はやはり感謝もしない神の怒りだったのか?


つまり津浪というのがあまりにも大きな災害だからこれは何なのだと思い考えつづけてきた。小さな災害なら台風とかなら考えない、通常のことである。今回の津浪はあまりにも大きな災害でありそれが大きすぎるからこれは何なのだという疑問が消えないのである。
ただ人間社会でも尽くしても感謝されない、やる気がなくなるなど日常的に起きている。家族のなかでも妻が夫に尽くしても感謝しないとかこの逆も起きている。

自分はいろいろ矛盾もあったが家族には感謝している。やりたいことをやらしてくれたことなどで感謝している。だから介護も供養もしている。
親でもいろいろありただ毒だけの親も普通にいるから自分は矛盾した普通の家族でも自分にとっては良かったと今では思う。

ともかく現代は民主主義であれ資本主義であれ欲望の無限の権利を主張する。
あらゆることが「権利だ、権利だ、権利を勝ち取れ」となる時代である。

カルト宗教団体でも宗教も同じである。ただ自分たちの権利だけを欲望を得るために団体化する。そして欲望を権利を主張するたげである。それは様々な利権となっている。
それは仏教から神道から新興宗教はほとんどそうである。檀家なども戒名利権だとか京都なら観光利権だとか利権団体なのである。こうした利権団体は巨大化して誰も批判できない。この辺では漁業者には漁業権があり原発から多額の補償金をもらっていたなと批判していない、今でもできないだろう。それはここだけではない社会すべてに通じているのだ。個人もそうであり団体もそうであり利権を主張するために団体化する。
利権というとき権利というとき何か正当な正義の実現だと思われる。実際は個々の欲望を実現するためのものでありその欲望がすべて正しいとはならないのだ。


その反面感謝することがない、そういう社会に人間に神が怒ったのが津浪だったとか思うようにもなる。
原発事故にしても人間の欲望から生れた。その欲望を神はかなえさてくれなかったのである。それは何かタブーを無視したのでありそれに神が怒ったのである。
だから今回の津浪はノアの方舟とか火を盗んだプロテウスの罰とかとにていると書いた。神の罰のような恐ろしいものが津浪であり原発事故だった。
プロトニウムの毒が二万年消えないとかもそれだけの恐ろしいものが消えずこの辺に残ってしまうものとなってしまったのである。

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2013年12月13日

南相馬市小高区福岡で津波のボーリング調査 (十和田湖カルデラ火山の灰の下から貞観津波の砂を発掘)



南相馬市小高区福岡で津波のボーリング調査

(十和田湖カルデラ火山の灰の下から貞観津波の砂を発掘)


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この図では富士山火山活動と貞観地震は5年後に起きている。すると貞観地震と関連している。それから46年後に十和田湖火山爆発が起きている。これが関係しているのかどうかはわかりにくい、そして慶長地震津波はずっとあとである。
だからポーリングで砂が発見にしにくいのか?時代が特定しにくいのかわかりにくい。



■■■貞観11年5月26日  三陸沖〜九州・貞観大地震(東北大震災と同等クラスあるいはそれ以上?)

陸奥国に大地震 津波

陸奥国、地大いに震動りて、流光昼の如く陰映す。しばらくのあいだに人民叫び、伏して起つ能はず、或は屋倒れておされ死に、或は地裂けて埋れ死にき。馬牛は驚き奔りて或は相昇り踏む。城郭倉庫、門櫓牆壁のくづれくつがえるものは其の数を知らず。海口(みなと)は哮吼えて、声いかづちに似、なみ(驚濤)湧き上がり、くるめ(泝)き、みなぎりて忽ちに城下に至り、海を去ること数十百里、浩々としてそのはてをわきまえず、原野も道路もすべてうみ(滄溟)となり、船に乗るにいとまあらず、山に登るも及び難くして、溺れ死ぬる者千ばかり、たから(資産)も苗もほとほと残るもの無かりき。

 京都延暦寺の僧侶によって平安時代に書かれた『扶桑略記』(ふそうりゃっき)の延喜十五年(915年)七月の条に,「915年8月18日の朝日には輝きがなく,まるで月のようだった.人々はこれを不思議に思った.8月26日になって,灰が降って二寸積もった.桑の葉が各地で枯れたそうだ,と出羽の国から報告があった.

 京都は十和田湖から800km離れている.火山灰を運ぶ上空の風の速さは,ジェット気流(西風)で時速100km程度,北風の場合はもっと遅いから,京都から見える水平線の位置で朝日の見え方に影響を与えるためには,噴火はその前日に起こっていなければならない.したがって,毛馬内火砕流の噴火は915年8月17日に起こったと考えられる.
この噴火では50億トンのマグマが噴出した.浅間山の1783年噴火(7億トン),雲仙岳の1991年噴火(4億トン)より桁違いに大きい.十和田湖のこの噴火は,過去2000年間に日本で起こった噴火のなかで最大規模である.
この地震の5年前の貞観6年(864年)には富士山の青木ヶ原樹海における溶岩流を噴出した貞観大噴火が起きている

陸奥国地大震動を十和田カルデラの噴火に関連するものと考えた研究も存在するが[6]、古くから吉田東伍は「流光如昼隱映」は噴火によるものとは限らず、この発光現象は他に原因があるものと考えていた。十和田カルデラの噴火は『扶桑略記』にある915年(延喜15年)に発生したと推定されており、このテフラの堆積物(火山灰)は貞観津波堆積物層(砂)の直上に位置し、貞観津波堆積物と明確に区別可能であり、またこの堆積物が貞観津波によるものであることを容易に識別させる時代考証の指標にもなっている[22]。

小高の福岡でボーリング調査で十和田湖カルデラ噴火の火山灰が掘り出された。その下に砂も掘り出されたからその砂は津浪によってもたらされた砂だという、つまり貞観津浪の砂だったのか?十和田湖火山の火山灰から年代を推測すればそうなる。
でも福岡という地域は海に結構近い。今回は完全に津浪に没した地域である。
小高は駅を越えて津波が街内まで入ってきたことに本当に驚いた。
だから福岡の地点では驚かない、ただ年代的には貞観津波の砂としか考えられないのだ。それよりあの辺は縄文時代海だとすると平安時代も深く海が入り込んでいた。
だから砂が掘り出されても不思議がないともなる。
もっと奥だったら貞観津波の大きさを実感できただろう。
ただ十和田湖火山の火山灰が積もっていたということの驚きである。


十和田火山灰より上位に津波堆積物と考えられる砂層が検
出された.歴史記録から判断すると,この砂層は西暦
1611年慶長津波によるものと推定される.


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火山灰より上位に津波堆積物と考えられる砂層が検
出された.歴史記録から判断すると,この砂層は西暦
1611年慶長津波によるものと推定される.

http://unit.aist.go.jp/actfault-eq/Tohoku/06_08_03.pdf

この火山灰により年代特定ができる。火山というのも未知であり鹿児島のような桜島げは日常的にか火山灰の被害にあっている。それだけ火山灰はやっかいなものだけど過去には火山灰は肥料のような役目を果たしていた。焼畑農業はまさに人為的に森を焼いて灰を作っていたのだ。


姶良カルデラが吹き上げたAT層は酸性で赤いから焼畑くらいしかできないが、阿蘇や日本アルプスや阿武隈山地の火山灰土は真っ黒で「黒ボク土」といわれている。
滋味豊かで畑作にも使うことができる。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54501093.html


相馬市のボーリング調査でも松川浦からずっと奥で砂が発見された。それは貞観津波のものだろうと言われる。
それにしても不思議なのは慶長津波の砂が相馬市でも小高の福岡でも発見されていないのか?この辺の科学的研究も実際はまだまだなのだろう。砂が発見されなくても砂はありうるからだ。だからすべて科学的研究だけで解明されるというものではない、でも現代は科学的研究が一番信頼される。
ただ慶長津波の砂が相馬地方で発見されない、相馬市の調査でも慶長津波ではなく貞観津波のものだった。


貞観津波の記述で


船に乗るにいとまあらず、山に登るも及び難くして、溺れ死ぬる者千ばかり、


船に乗ると助かったが乗れなかった。山に登ろうとして途中で波にのまれて死んだ人もいる。この記述は実際に見た人の証言だった。

津波でもそうだが十和田湖級の火山爆発になるとこれまた想像を絶するものとして日本全体に影響した。とにかく日本は火山が多い、それだけ日本の国土は大陸と違って若いのである。火山があることにより富士山のうよな優美な山ができた。火山国だから日本の自然は作られた。そして地震国であり津波国なのが日本だった。
ただ最近日本の風土的特徴を忘れていたことがある。今回の津波でそのことを思い知らされた。

この調査結果を東電に報告した時は貞観津波の砂ことであり慶長津波のことではなかった。貞観津波の砂は十和田湖火山灰の堆積により特定しやすいということなのか?

貞観時代辺りは地震や津波や火山が続発して起きた活動期である。だから南海東海地震も津波も起きる゛富士山噴火も警告される。自然が何も起きないときは眠っているのではない、巨大なエネルギーを地下であれ海底であれ蓄積しているのだ。だから何も起きていない、地震がないということで安心できないのである。

自然も絶えざる変化なのである。小笠原諸島の西之島kのそばに海底火山が噴火して新島ができたように地球は絶えず海底でも地下でも活動している。宇宙でも活動している。そうした活動を休むことはない、休む時はエネルギーを蓄積しているだけなのだ。土地でも冬には休ませるという、肥料をやって眠らせるという。すると春には土は肥えて実りをもてらす。ふゆはふゆ(ふえる)ことだというとき増える準備をしているのが冬なのである。活動するために眠っているだけなのである。
だから自然が完全に眠る停止するということはないのである。

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2014年01月16日

忘れやすい歴史認識力が欠如している日本人 (四〇〇年前の相馬藩の津浪災害も復興のために尽くしたとか美談化している危険)

 

忘れやすい歴史認識力が欠如している日本人

(四〇〇年前の相馬藩の津浪災害も復興のために尽くしたとか美談化している危険)


オームの事件も二〇年過ぎたのか?二十年過ぎると忘れないにしろ何か興味なくなる。関心もなくなる。あれだけ騒がれたものでももう日本人の関心は薄れオウム事件を知らない20才の若者もすでに発言していた。戦争のこともその遺品が売られているとか忘却されてゆく、ただ一通の手紙が残っていて家門の誇りとか家には迷惑をかけないとか書いて死んでいった若者がいた。家門などというのも今は相当な旧家でないと出ない言葉になってるだろう。まだ家というのが大きな役割を果たしていた時代だったのだ。
オウムのことも戦争のことも何だったのか?日本人は過去を執拗に探求しない、あいまいにして忘れてゆくだけである。台風一過のようにからっと忘れてゆく、それが日本の風土と関係していたというのもわかる。

日本は災害国家であり次々に災害が起きる。でもその災害も次々に起こるから忘れてゆく、津波はあまりにも大きな災害だからまだまだ忘れない、それでも部外者は関心がうすれているだろう。地元だとまだまだ生々しく津波の跡が残っているから忘れない。

神戸の地震だってもう二〇年過ぎたとなるとこれも過去のものとなる。特にもう地震の災害の跡の建物も建て替えられたりして元のようになると余計にあれだけの災害でも思いだすものがなくなってしまう。二〇年の歳月はそれだけ一昔以上になる。十年一昔というけど日本では災害が多いから次々にそういう災害を追っていると前のことは忘れやすいのである。大島での災害も部外者はすでに関心がない、新しいものが災害も事件も次々に起こるからそれに追われて忘れてゆく。全国規模になると世界規模になるとと大きな災害でも事故でも事件でも忘れやすい、それはニュースの画面だけで一時だけ見て終わりでありまた次に新しい事件があり新しいことが起こり前のことは忘れてゆく。


日本人の国民性は明らかに忘れやすい、過去を水に流すとか過去を記憶しないで次々に新しいものを求める。伊勢神宮の遷宮も二〇年ごとであり新しい宮に建てかえる。
つまり二〇年が区切りでありその二〇年で過去は水に流して忘れてゆく。
そして新しい宮で神様を迎える。新年を迎えるとなる。
だから初日の出とか初という言葉が日本人は好きなのである。それは忌まわしい過去など忘れて新しいものを迎えて再出発するという感覚である。これは神道の感覚でもあるのだろう。だから日本人は過去から積み上げた歴史が作れないのである。
言葉でも英語のように時制がないし過去を意識されないのもその要因である。

ただそれだけではない、日本人はどんな過去でも水に流したいという感覚がある。

一方でヨーロッパでもその文化が石の建築から成り立っているから石は二〇〇〇年前でも残っているからローマ時代となると現代と全くかけ離れた世界ではなく現代とも密着して連続したものとして具体的に意識されている。いたるところにローマ時代の石の遺跡がヨーロッパに残っているからそうなる。二〇〇〇年前からでも歴史を過去から積み上げて認識することが具体的にも言葉でも様々な文献でも何でも過去から現代を認識されやすいのである。中国も歴史の国であり青史に名を残すとは歴史に名を残すことを生きる目的としていることでもわかる。

日本人は過去を執拗に探求しない、過去は水に流すものである。そして絶えず新しものこそいいものである。だから日本人は歴史認識にヨーロッパや中国よりも比べて欠けている。あれだけの戦争のことも何だったのか日本人は追求していない、過去は水に流す方がいいのだとかなりただ美化するようになる。

この辺で学者でも小説家でも相馬藩が四〇〇年前の慶長津波で七〇〇人溺死と記されていたがそれ意外のことは一切記されていない。それでも城を中村に移したのは津浪の復興のためだったとか小説でも美談のように書かれている。相馬藩の侍でもそうした津浪の復興事業にかかわったことなど一切記されていない、でもあたかもそれが事実のように美談のように書いている。だから知らない人はそんなことがあったのかとその架空の小説が歴史だと思う人も結構いるのだ。それは戦国時代でも維持維新でも小説化ドラマ化されると何か事実なのかわからなくなる。ドラマを事実だと現実に思っているいる人も多くなるのだ。なぜなら大衆はわかりやすいことを望むから水戸黄門のうよなドラマの方がわかりやすいからそういうもので歴史をみてしまう。


歴史が事実を基にしていることは間違いない、架空のことを事実としたら歴史に対して間違った認識を与えるから危険なものになる。相馬藩で慶長津浪で七〇〇人溺死と記されたことは事実である。ただそれ意外の事実は調べようがない、わからないのである。だから小説でもたいがい事実を基にしている。その事実が全くないのに現代の公共事業のように津浪の復興事業が行われたとか書いているし学者も小説家も書くのは何か納得できないのである。歴史小説でも事実を踏まえて探求したものを書くべきだろう。そこに小説の重みも生れてくる。

いづれにしろあれほど騒がれたオーム事件も二〇年たって自分自身も興味なくなった。
津浪とか原発事故とかの当事者になったりして余計に興味なくなったのである。

一身上のことでも大事件があったりすると人間は自分のことに追われて忘れてしまう。
今年だってそうである。離婚騒動にまきこまれ新しく出会った人間に関心をもち前につきあっていた人は忘れてゆく、結婚でも何十年で一緒にいても離婚したらまた忘れてゆく。人間は次々に新しく起きることに追われ過去は忘れてゆく運命にあるのだ。
年取ると段々新しく起こることについていけなくなる。これから同時代の人も次々に死んでゆく。
するとすでに同時代の人さえ忘れてゆく人が膨大になるのだ。
あの人死んだか、あの人も死んだか、あの人は何だったのか、もうどうでもいいやとかなり関心なくなるのである。ただ一時ニュースの画面に出て消えるだけなのである。

 
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2014年01月25日

南相馬市の復興の最大問題は住宅問題だった (南相馬市の全壊数が4682軒もあった!)


南相馬市の復興の最大問題は住宅問題だった

(南相馬市の全壊数が4682軒もあった!)

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ここの区画は30軒である。
二階建てが十軒ある
二階建ては結構広い感じがする
子供がいる家族用になるのか
あとは一人用二人用になる

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これが自分の墓の前に建った
三階建てでも高いから圧迫される
何かこの辺は都会化しているんだよ
街の中心にこれだけのものが建つとそうなる
団地より一軒家の方がいいだろう
今はただ一軒家相当ぜいたくになってしまった

これだって50個くらいだからな

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津浪原発事故から3年たとうとしているけど結局三年間も混乱状態はつづいていた。その混乱状態の中で冷静に見られないものが多々あった。何が全体的に起きているのか問題なのかわからないことがあった。今になると最大の復興の問題は住宅問題だった。
仮設も三年目であり5年目で仮設を出て復興住宅などに移る予定になる。

この辺で最初から土地がないか土地がないかと避難者から必ずたずねられる。みんな土地を求めている。新しい家を建てるための土地を求めている。そのことか避難者の一番の関心事である。仮設はあくまでも仮の住まいだからそこに定住はできない、家が建てられれば家族とともに住めるからまず家を欲しいとなり土地を求めている。
家の前に土地がないのである。
だからなんか六号線の鹿島区から金沢に入る所の狭い場所を整地していたからあんな所に家が建つのかと思った。もっとましな土地があると思うがないからそうなる。
金沢地区も津浪の被害で相当数家を失っているからだ。


自分が今になって驚いたことがあった。


南相馬市の全壊数が4682軒もあった!


こんなに多いのかと今になって驚いた。相馬市では1000だからである。えか、それにしても多いなと驚いた。死者数よりこの全壊した数に今になって驚いた。
つまりこの数はどれくらいのものか?本当にこんな数が全壊したのかということか実感できない。
この数から推測すればいかに新しい住宅が必要かわかる。確かに鹿島区でも新しい家が相当数建った。50軒なのか百軒なのかわからないか新築ラッシュになった。それでもこの全壊した数から見ればほんのわずかだということなのである。
新築できた人は財力もある幸運な人たちだったけど一部にすぎないのである。

災害復興住宅が立ち始めたけど40軒くらいのがすでに形になりできあがっている。そこでも一区画30軒くらいだろう。一区画の土地を確保するだけでも容易ではない、
900もの区画した土地が南相馬市で必要だと聞いた時嘘だと思った。
そんな区画した土地が作れるのかとなる。

考えてみると900×40にしても3600だからそれでもたりないとなる。900の土地区画でもたりないだけの人が入る新住宅が必要となっているのだ。
この復興住宅ができないと仮設から出れない、復興にはならないのである。
この圧力は大きい、ものすごい重圧となってきている。
そんなに土地でも家でも建てられるのかとなる数である。

だから土地が欲しい土地が欲しいとなり空家でも土地ごと欲しいという人が多いということがわかる。それにしてももう空屋にしても借り上げ住宅にしても限度がある。

それに加え原発避難者も小高などに帰らずに原町区や鹿島区に家を建てることを求めるとなるととてもまかなえきれない数である。
さらに双葉町であれ浪江町も受け入れるとするとさらに膨大なものとなってしまうのである。
南相馬市だけでも精一杯でありたりないのに受け入れられるのかということが現実問題としてあるのだ。
安い市営の住宅があるけどあれなども仮設が閉鎖になったら需要がまして満室になる。
復興住宅で全部まかなえきれなのである。


ただ土地がないということではない、田畑が原発事故の放射能で荒地化している。でも田畑は農家関係ではなかなか売れないようになっているとか農業が再開できないのは土地を新しく整理するためだとか言われている。もともと田畑は特に田んぼはなかなか売れないようになんていた。だから今でも田となっていた土地が広大でもそれは売れないし宅地に転化できないのである。

田畑は田舎ではなくなったら田舎でなくなる。でもこれだけの住宅が必要だとなるとまた別な発想が必要になっていないか?減反とかの政策があったけどもう田畑を今までのように守ろうとするのではなく宅地に転用する。何かそうした特区的政策が必要になっているのではないか?それだけの土地と新築の家が早めに必要だからである。
そうしなければ復興はありえないのである。

シルバータウン特区というのもそうだったが何かこの辺では今までの規制概念ではもう復興はできない、思い切ったことをしなければもう復興ができない、それは特区構想になる。そういうことが強いられた場所になってしまっているのだ。
もう思い切って自分ももとのままがいいのだが極端にしろ農地の半分を別な用途に使うとかの変革が要請されているのではないか?
農業自体が存亡の危機にも面している。


いづれにしろ3年目でも何ら未来は見えてこない、その最大の問題が新しい住宅を確保できないことなのだ。津浪で4632軒が全壊してさらに小高区が一万人以上避難者になり仮説に住んでその人たちも新しい土地と家を求めるとなるとそれに応じるには個々人ではもはや無理である。何か特区を設定して思いきった施策が要求されている。
それが新市長にできるのだろうか?何かそういうことができないということで批判されつづけられたが再選した。対抗馬も魅力がないからそうなった。

結局三年目でも何ら復興は端緒についたばかりである。
その最大問題が新しい家が建てられないということにあったのだ。

 
 
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2014年01月29日

南相馬市鹿島区の右田浜から雪の蔵王連峰がはっきり見えた (津浪の後に原始の風景に戻った右田浜)


南相馬市鹿島区の右田浜から雪の蔵王連峰がはっきり見えた

(津浪の後に原始の風景に戻った右田浜)

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蔵王連邦がはっきりと見える

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何を見ゆ一本松や冬の暮

海見えて枯野暮るるや一本松
津浪跡残る木の根や冬の海
離れざる木の根露に冬深む


新年や津浪の後によする波かなたにましろし蔵王望みぬ

北風の吹いて砂浜に風紋の生まれ変わりし右田浜かも

御堂一つ津浪の跡に残るかな冬の夕暮北右田村

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この松の方が松らしい

全部クリックして見て下さい


右田浜の川口から見た景色は見物だった。一番の見物が雪の蔵王連峰がはっきりと大きく見えたことの驚きである。八沢浦から見えていたが右田浜からあんなに大きく蔵王連峰が見えるのは驚きだった。今までも見えていたのかというとこの年で見えたことがない、
それは家や松原に遮られていたからなのだろう。何もなくなった結果、蔵王が小さくではなく連なった連峰が見えていたのである。
そもそもあんなに身近に大きく蔵王が見えること自体ありえないと思っていた。
蔵王は意外とみじかに福島県でも見えるものなのである。

確かに奇跡の一本松とか鹿島区に残っているのも不思議である。あの松は高い松である。今までは別な残った松に注目していた。
別な残った松の方が枝振りも良く松らしいからだ。その残った松もよくも残ったという凄まじさを感じた。
この一本松にはあまり感じない、ただ高い松だというだけである。
でもこれもやがて枯れるのだろうか、どうしても海岸線の松は枯れてゆくのではないか?
今のうちだけ見れるものなかもしれない。
いつまでも残っていれば明らかに名勝になる。

実際この写真を見ればわかるようにここは明らかに景色が変わり景色的には名勝になった。
原始の状態に戻った驚きである。原始の状態はこんな風景だったのである。
ただ松原とか防波堤とか家でさえぎられて見通しがきかなくなっていた。
それがとりはらわれた結果、蔵王連峰がくっきりと見えたのである。

これでわかったことは何か松原でもさえぎられていたから見晴らしがよくなく見えないものがあった。
海ももちろん松原げさえぎられて浜通りでも見えなかった。
もともと海は遠くからも見えていたのである。


このことから江戸でも富士山がくっきり見えたことがわかった。
浮世絵でははっきりと見えて絵の中心になっていることでもわかる。あのように本当に見えたのである。
高層ビルなどないのだから見通しがよく富士山が浮世絵のように本当に身近に見えたのである。
浮世絵は絵だけど当時の写真でもあったのだ。


ともかく津浪がもたらした驚きは生々しい跡はい以前として残っている。
右田の浜は石ゴロゴロだった。今はその石が流され一つもない、そして砂浜に北風が吹いて風紋ができている。
北風で生じた風紋であることはその方向を見ればまちがいない。
冬はこの辺は毎日くらい北風が吹くからである。
ともかく原始状態に戻った自然を見るというのもなかなかできないだろう。
だから津浪の驚異は驚くべきものだったのである。
確かに右田浜でもとこでも死んだ人がいたがこうした原始状態戻った景色は名勝になる。
新たな名勝が津浪によって生まれとも言える。

 
 
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2014年02月10日

寛政地震で相馬藩内で8人死んだ津波があった (200年前だったがこれも記録されていなかった)


寛政地震で相馬藩内で8人死んだ津波があった

(200年前だったがこれも記録されていなかった)


1793年 2月17日
(寛政 5) 陸前・陸中・磐城 8〜8.4 仙台藩(現、宮城県)で死者12、家屋破損1,060余。宮城南部の震度は5〜6程度であった。相馬で津波があり、死者8発生。
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/information/council/shuto-research/jishin_kentou/c_js06.html


寛政五年正月七日午刻(昼九ツ時過)(1793年2月17日正午過頃)牡鹿半島沖に大地震が発生した。
『古廟山主将記録』には、大津波が発生し須賀浦にて家17軒が流れ12-13人が流死したとある。『東藩史稿』には仙台藩領内で圧死12人、馬13頭、潰家1060余とある[1]。
全体で潰家および流失家1730軒余、船の流失・破損33、死者44人以上とされ、相馬では余震が10ヶ月以上続いた記録がある[2]。


宇佐美龍夫(2003)は、津波が相馬、いわきで引き波で始まったことから1896年の明治三陸地震にも似ていることを考慮して震央(北緯38.5°、東経144.5°)をより沖に定め、規模もM8.0-8.4と推定した。1897年の地震との類似を考慮すればM7.9程度になると推定している[2]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E5%9C%B0%E9%9C%87


寛政五年(1793)宮城県沖に
発生した地震の詳細震度分布と津波の状況
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_19/16-Namegaya1.pdf



ここの図では松川浦から請戸で2メートルから4メートル浸水している
この時8人死んだということはそれなりの被害があった
津波は慶長地震の津波だけではない、相馬藩内でも寛政地震であった。
慶長地震が400年前でありその200年後に寛政地震があり相馬地方にも津波があった
それは今から200年前でありこの辺が津波の伝承を聞かないというとき
200年前だったらその伝承が残ってもいいはずであった
400年前は無理にしろ200年前となるとそんなに昔とはならないからだ

ただこれについても相馬藩政記に記されていなのだろう

慶長津波では400人溺死と記されている。寛政地震津波では記されていないとすると
このことも謎になる。
まあ、死者8人くらいなら軽くみることもわかる。
でも津波の記憶は残しておくべきだった、伊達藩には記されていて伝えられた。

そして慶長津波も寛政地震津波も今回の三陸沖津波も震源地か近いのである。
だいたい同じような場所から起こっているかことに注意するべきだった
そこには明らかな周期性があり大きな地震が百年単位とかで起きている。
明治時代にも三陸津波で大きな被害があった。

だから相馬は宮城県とも岩手県とも近いのだから無視できるものではなかった

それが何か相馬では福島県の浜通りでは津波は起こらないという感覚になっていた
三陸で岩手県でまた津波か、ここには津波は起こらないよという感覚になっていた
ても歴史を調べれば400年前にも200年前にも大きな津波がきていたのである。
ただ200年前の寛政地震津波でも8人死んだくらいだから記録にも残らなかった
だからここの津波についてもほとんど相馬藩でも知られていないのである。
民間の伝承も残っていないのである


ただ津波が200年前にもあった、
それも8人も死んだということは重大なことだったのである

つまり歴史では何が重大なものかその時ではわからない
この時は相馬藩は戦国時代ではなく政治も安定していた時代である。
だから自然災害にも藩で注目してもいいはずだった
それも注目されなかったのはなぜかという空白が問題になる


相馬地方では津波か来ないということがみんなで思いこまれていたのである
だからまるで危機感がなかった
三陸に起きても相馬では起きないという確信のようにまでなっていたのである。
でも現実に200年前にも来ていて8人か死んでいる
だから相馬地方でも浜通りでも津波は来ると警戒してければならなかった
今回のようなき巨大なものではないにしろ津波は日本の海岸では必ず来るものなのである
そういう宿命、カルマを背負った国土が日本だったのである

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2014年02月11日

津波被害の裏話 (銀行では流された書類を探していた)


津波被害の裏話

(銀行では流された書類を探していた)

●書類もコンピューターに保存されて残っていた


津波の被害にはいろいろあった。そのことは各地で語られているがまだまだわからないことが多い。被害が広範囲になったからである。

銀行に勤める孫をもっている人が言うには銀行も津波の被害がありその時、金庫とかではなく紙幣ではなく書類を探していたという。預金者などの書類の方が大事だったのである。それを探して見つかったという、どろどろになっていたが見つかった。
こういうことは他にもあった。役所でも書類が流されると大変なことになる。


ただ実際はその書類でも何でもコンピューター化しているからどこかに保存されているのが現代である。だから貯金している情報はコンピューター化されて本部にでもどこでも保管されている。それは一枚のディスクでもいいわけである。
膨大な情報も一枚のディスクに保存される時代である。

ただコンピューターの弱点は何かで記録したものが一瞬にして全部消えることがある恐怖なのである。それもいくつもコピーしてあるからなかなか消えないといかことはあるだろう。だから紙でも津波などで流されるということは想像外のことだった。
だから役所などでは苦労したろう。


ある人は銀行にあづけてある預金など金は数字にすぎないという。数字として金はある。紙幣としてもそれは紙切れであり数字にすぎないという。だから数字はゼロになることがありいくら金をもっていても金だけでは紙に過ぎずその資産はゼロになるという恐怖がつきまとっているのであく。それで土地バブルが起きた。土地は数字ではなくゼロにはならないからである。

。被災庁舎の金庫内で回収された土地台帳は、デジタル化されておらず今後の復興作業でも不可欠な文書のため町では対応に苦慮していた。 

 6 月初旬に公文書の被災状況の調査に訪れた群馬県に公文書の復旧が要請された。

濡れた文書の乾燥、
塩分や汚れの除去、綴り直し、文書目録の作成、背文字の貼付で、土地台帳、家屋台帳、戸籍関係の書類など 339 冊であった。なお、被災した公文書は、


東日本大震災で津波被害を受けた自治体の公文書
http://www.archives.pref.gunma.jp/20110311-hisaibunsyo/
20110311-hisaibunsyo-hou/20110311-hisaibunsyo-hou-ona.pdf


●自衛隊の幹部が部下が拾った金庫をネコババして解雇された


東日本大震災津波で流された金庫が5,700個?
http://www.onoe-kaikei.com/hac/2013_6.pdf


富岡町長の5億円の金庫が流されて回収してくれと頼まれたことなどか話題になった。
これだけの金庫が流されたのも流された家の数の多さからそうなった。
たいがい家に金庫はある。金庫でも重いものもある。
そんな重いものでも今回は軽く流されたのである。


自衛隊では死体など探していたがそれで流された金庫を発見した。
それを上の幹部の隊長なのか知らないけど届けた。
その金庫がネコババされたことがわかった。
隊員は手帳に記録することが義務づけられていてそれでわかったという。
その隊長は解雇されたという。

そういうふうに組織で安全策を講じている

推理小説のドラマでよくノートを手帳を調べているけどこれはこうした事実を基にしていたのである。
ただ今はパソコンで記録しているとなるとそれが証拠になるのかどうか問題になる。
ただ一枚のディスクでもパソコンだと膨大なものが記録できるのである。
それは無尽蔵に記録できる。
この記録はクラウドとかどこにでも記録できるからかえって災害の時は記録は保存される。
ただこれにも弱点があり一瞬にして何かの銚子て消えることが恐怖なのである。


●記憶は一時期であり記録は歴史の時間で残る(記憶⇒記録⇒歴史的価値ずけ)


記録は流されても、記憶は流されない
http://www.jibun-shi.org/modules/blog/details.php?bid=30


記録というのはどうしても消えることがある。記録というものはいくら記録されていてもその意味をもたせないと価値がなくなる。
なぜなら記録は今や膨大な天文学数字としてある。
それらをいちいち読み価値づけすることができなくなる。
戦争のことだってその記録は膨大でありそれを読み解くこともむずかしくなる。

「人は誰しも歴史を持っている。それはささやかなものであるかもしれないが、誰にも顧みられなく、ただ時の流れに消え去るものであるかもしれない。個人史は当人にとってはかけがいのない生きた証であり、無限の想い出を秘めた喜怒哀楽の足跡なのである。この足跡を軽んずる資格を持つ人間など誰ひとり存在しない」(色川大吉『ある昭和史―自分史の試み』から)


これは言える。だから自分は相馬郷土史研究でそういう個人に焦点をあてて老人の話しを聞いて時々書いてきた。
そういう個人的なことはやはり家族史、家の歴史にもなる。
だから郷土史はおばしちゃんやおじぃちゃんから聞いた話しからはじまるというのはそのことである。
それが一番身近だからである。

では記録と記憶の相違は何なのか?記録がなければ過去のことがわからないということも事実である。
ただ記録が写真が文書が家が流されても以前として各人は生きている限り
記憶を維持されているから延々と語り続けることになる。

誰かが誰かに語るということは記録を読むのとは違う。
そこには感情的なものや様々なその人なりに伝えるものを聞くことになる。
語ることから「民話」が生れたのである。
語ることを書き記すことによりまたそれが記録され後世に残されたのが歴史でもあった。
語ることは記録としては消えやすいのである。
文書にすると消えにくくなる。
だからその人自身の書いたものが残っていると歴史もわかりやすいとなる。

誰かに語ったことは尾ひれがついて何が真実か事実なのかもわからなくなってしまうことがあるからだ。

だから記録は流されても 記憶は流されない・・・
というとき実はそれは一時代とか短い時間だったら記憶は流されないが長くなると流される、消えやすいということなのだ。
生きている内は語り続けてもいづれは死ぬと語る人は語ることもなく残された記憶しか
ふりかえることができなくなるからでてある。


ただ記録はすべて歴史ではない、記録は無限であり膨大であるとしたとき、
その記録をすべて解読することも関心うもつこともできないからである。
その記録を自分のものとして読み解く時、歴史は価値あるものとなる。
そしてそうした記録は無数に埋もれていて不明になっているのだ。
江戸時代の古い碑を紹介して読み解く作業をしたけどそれらは記録として残っていても
今では意味がわからなくなっているのだ。

posted by 天華 at 16:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年03月01日

津波から三年たつ海老村の状況の写真 (旅館が一軒と喫茶店が一軒新しく建った)


津波から三年たつ海老村の状況の写真

(旅館が一軒と喫茶店が一軒新しく建った)

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この字がよめなくなっている

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この旅館の庭は石の庭である
まだ完成していないのだろう



何もなき海老の村かな庭の石点々と残り春の日曇る

碑の一つ字もわからずに津波跡残りてあわれ春の夕暮

春の海曇りて一艘貨物船沖ゆく見ゆる海老の浜かな

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宮城県の人などもきていた

テレビの宣伝でくるものなのだろうか

鹿島区の仮設食堂の双葉はテレビで宣伝したから入るのだという

テレビの宣伝がそんなに効果あるものなのかわからない




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納屋を改造したものだがしゃれた作りになっている

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cafeeeemappp1.jpg

ニコニコ堂への道はわかりにくい
案内もない
阿弥陀寺と八沢小学校の中間の道である
その道をまっすぐ言くと
マッサージ浅野という看板がありそこを曲がるとある



海老村に南海老と北海老があったが北海老村はほとんど墓地を残して壊滅した。
そこに「富士旅館」というのが建った
あれは津波からも残ったのかと思っていた。
残った家を改造して旅館にしたのだろう。
それはその家の人ではなく外部の人が買い取り旅館にした。
今営業しているかどうかわからない
その前はほとんど全部の家が津波で流された
だから海まで見える見晴らしのいい場所になった

あそこに残った庭の石が散らばり積み重ねられている
あの石にも所有者がいて勝手にはできないという
ただあの場所にはもう住む人がいないのだから
まだ早いかもしれないが公園のような場所にするほかないだろう
だからそこに残った石を活かすかとも考えねばならない
新しく家を建てた人は自分の石をまた庭にもってゆく
残った石は使用しない石は津波の跡のモニュメントのようにする
石を買い取るほかないとなるとまた問題だかこれはあくまでも一つの構想である

いづれれにしろ景観まるで変わったから
あそこの富士旅館は見晴らしは抜群である
そういうことで泊まる人がでてくるかもしれない
津波のことはそこで必ず語られる


石碑が倒れてあった。あれは金砂神社のものなのか?
字すら津波の力でそがれてわからなくなっているようだ
津波で流された石碑はどうなったのだろうか?
それも文化財の消失だった
村ごと消えるなど想像もできなかった


そこからテレビで写された海老の新しい喫茶店を探したがわかりにくかった。
あの辺は屋形村であり海老村とは思えない
まるで隠されるようにあった
入り口に看板もないのでわかりにくかった
六号線のダイユーエイトを海の方に行きそこで曲がり
阿弥陀寺の方に行きそこから八沢小学校の手前の道を入りマーサージ浅野という
看板の所を入って行った場所で本当にわかりにくい
もともと納屋だったのを改造した
中は結構しゃれた造りになっている
人数にしても15人くらい入れるから狭いとも言えない


ただここの弱点は海老村とあっても海は全く見えない
山陰になっていて見晴らしが悪い
見えるのは前の畑と庭である
ここで花などは見れるようになる
喫茶店とかレストランでも立地が作用する
見晴らしがいいと食べるのも休むのもいい
津波の跡でまだ観光気分にはなれないが
海が見えたらやはり気持がいいだろう
海を船がゆっくりと行き来して
カモメが飛んでいるのを見ていると海らしいとなる
あそこはそうした海が全く見えないから喫茶店としては
かなり立地条件では落ちる


海老や屋形村の方から右田の方を見ると低くなっている。
海老村に向かって田んぼは低いにしても段々畑のように高くなっている。
右田村や烏崎は高低ではかなり低い場所であり
それが津波で判明した
この辺で海側で一つ所はみんな湿地帯か海の延長部分だったのである
八沢浦はまさに奥まで入江になっていたことでわかる


ともかく津波から三年たつがその間にまた変化があった
海老村は二軒新しい商売の店や旅館ができた
観光気分ではないにしろ津波の跡地利用どうするかが今後問題になる
津波の跡で観光気分かここで人が死んだんだぞ
そこで笑って観光かともまた遺族からしかられるかもしれない
でもいづれは何らか記念的なものモニュメント化するだろう

三年目はそうした津波の悲しい記憶ばかりを語ることはできなくなるだろう
その跡地をどうするかということが実際問題として考えねばならなくなる

だから庭の石を活かすモニュメント公園もいいじゃしいかという一つの提案である
その庭の石に腰をおろして海を見るということはやはり津波をふりかえることでもある
その石は津波に流されたり残ったりしたものだからである。


海老村に自転車で街に来るニートをよくみかけた。
その人が住んでいる家がわかった。
あそこから見るとスーパーのある街はかなたに見えた。
かなり遠く見えた
だから買い物するだけでかなりの労力である
その人は車がないからそうなる
近くに店屋もない
前は万屋(よろずや)などがあったがそんな店も今はない

だから田舎だと街から離れていかに不便になるかである
タクシーにしても1500円とかかかることになる
だから田舎は広いから車がないと住めない
でも街内だとなんとか住める

つまり田舎は街もあり街から少し離れても農家になり
さらに離れて村があり漁村がありと複雑なのである。
生活も土地土地で多様なものとなっていた
だから田舎のことは都会の人にはわかりにくい
まず誰か詳しい案内人がいないと知っていないと住めないだろう
人間関係も狭いから都会とはあまりにも違いすぎるのだ


こうした土地の距離感とか土地の高低はまず地図など見てもわからない
実感としてわかるためにはその土地を現実に踏まない限りわからない
そこに何か田舎に対しての誤ったイメージを描くのである
ともかく津波原発事故から三年は大きな区切りの年だろう
いつまでもかわいそうな人たちだとかそんなことばかりで
外部の人にあまえてはいられなくなるだろう。
だからいつまでも津波の跡を放置してゆくことはよくない
津波のことは忘れないにしても何らかの対策することが必要である

 
 
posted by 天華 at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年03月03日

海老村は慶長三陸津波の一二年後にかなりの人が住んでいた (海老村の歴史は古く先に人は海岸沿いに住んだ)


海老村は慶長三陸津波の一二年後にかなりの人が住んでいた

(海老村の歴史は古く先に人は海岸沿いに住んだ)

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ニコニゴ堂の住所
福島県南相馬市鹿島区北海老字藤金沢110


あそこの喫茶店はどうみても屋形村である。海老村とは思えなかった。
そこで前に書いた海老村の発展経路が間違っていたことに気づいた。
なぜなら南屋形村が岩松氏の阿弥陀寺があり鎌倉時代にさかのぼり一番鹿島区では古い。
その南屋形村から海の方に向かって北海老村と南海老村となったと解説した。

しかし北となると方向が違っていた。
南屋形から見て北の方向にはない、北屋形村が八沢浦の方にある。
それは明らかに南屋形から見て北の方向になる。
ただ北海老村が明暦からの記録がある

南海老村は寛永からの記録がある


慶長元年 1596


1611年12月2日(慶長16年10月28日)、慶長三陸地震津波で相馬藩で700人溺死


元和元年 1615

寛永元年 1624 寛永中田ほ査丈士位上、村秣千五百三四石五斗六升四合 南深田この時にあり海老一村なり

正保元年 1644
慶安元年 1648
承応元年 1652
明暦元年 1655 検地開始
万治元年 1658
寛文元年 1661
延宝元年 1673
天和元年 1681
貞享元年 1684
元禄元年


南海老村の方が北海老村より記録的には古い、南海老村は新しいものかと思った。
すると南海老が北海老村より古いとなる。
そうなると海側に進出してそれから山側の北海老に住居を広げたのかとなる
山側は津波の後にかなり新しい家が建っているからそれなりの土地があった
そこは津波の来ない高台にあった

では南海老が北海老より古いとするとこれも解せないのである
ただ地形を見ると南海老であれ山側はかなり急な山の斜面になっているから
人は住みにくい、屋形の北海老はまだ住むのにはいい
それでも南海老から北海老村に別れて発展したというのも解せない
北屋形村から北海老村に山側から発展するのはわかる

でも実際は南海老に人家が寛永時代から集中したのである

人口が集中したから下海老村と上海老村は南海老村から分かれたのである。
北海老村ではない南海老村に集中した。
そこは海に面して今回の津波で壊滅した地域だった。

南海老が北海老より早く開け屋形よりも早く田も作られていた謎である。


そして最大の謎は慶長三陸津波の後の寛永元年に鹿島町誌に記録がでている。
慶長三陸津波から一二年しか過ぎていないのにそこに人が多く住み始めて
田まで作られていた。
何らか慶長津波では今回のようにそこはどうなってしまったのか
その時はまだ人がすんでおらず津波で人が死んだりしなかったのか?
津波で死んだとしてそこに一二年後に住み始めたのだろうか?
現代の感覚では住めないというのが普通である
もちろんそこが津波の被害にあったかどうかは皆目不明である。

ただ慶長三陸津波は今回と同じくらいの津波だとすると何らか被害があった
その時どれくらい南海老村に人が住んでいたのかわからない

ただ南海老村が屋形より古い記録があり人が古くから住み始めた。
それはもともとあそこは海側は湊ととなっていて塩などをとっていた。
魚もとっていた。明治時代には帆掛け舟もみかけたと聞く
すると海の幸を求めて早くからそこに人が集まったのか?

でも慶長津波から一二年後にそんなところに人が集中するだろうか?
今回のように北海老村の山側に住居を写して北海老村ができたのか?

何かここにも慶長津波の謎を解く鍵がある
慶長津波は烏崎にもかなりの被害を与えた
ただそこがどういう状態だったのか
人が住んでいたのかどうか
ただ記録的には岩松氏が上陸した地点であり
すでに人が住んでいた。
だから慶長津波の被害があった


つまり一見浜側は新しく住み始めた人たちだったとしているがそうでもないのかもしれない、
田んぼがなくても米がとれなくても魚介類をとっていれば縄文人のように一応飢えずに暮らせるということもある
だから海側でも早い時期に人が住み始めたということがある

慶長津波をもし南海老村で経験した人がいてその一二年後に住みはじめることがあるのか?
その頃は津波に対する考え方も違っている。
三陸ではあれだけの被害があってもやはり海側に何度も住んでいる
それはそこが魚介類がとれて便利だからである
だからここでもそういうことがあったのだろうか?
つまり生活の糧を得ることが先決であり
津波の被害より当時はその方が大事でありまた住み始めたとも考えられる
今の時代との考え方は違っているからである

ただ今回の津波を経験した人は怖くて絶対に住めない
だからその当時だって津波を経験したら住めないと想像する
それでも背に腹は代えられないと住んだのだろうか?


追記

北海老村に古墳群があったから北海老が南海老村よりは古い地になる。
南海老村にはないし貝塚も鹿島区では発見されていない
するとなぜ南海老村が鹿島町誌では寛永からの記録があるのか
それは魚介類をとるためとも思えない
田があったとするとあそこは津波の後も田として開拓した

慶長津波の後に相馬藩の侍が伊達藩の津波の被害のあった地点に開拓のために移住した。
津波の後でも開拓していたのが当時の状況である
すると海老村もそれとにた状況があったのか?
慶長津波から一二年後でも開拓する場所を求めて田を作った
そこは無所有の土地でありそこで早くから開拓に入った
他の土地は岩松氏などの所領であり開拓に入りにくかったのか?
伊達藩でもそこに開拓する人手が必要になり敵方の相馬藩の侍でも受け入れた

いづれにしろこの謎もまた深い
でも一つの発見でありまた研究すれば津波のことがわかる可能性はある
ただその資料は少ないしその謎の解明は容易ではない

posted by 天華 at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

南海老村は漁村ではなく干拓された田の地域だった (津波の被害にあっても田んぼを作らねば生きていけなかった)


南海老村は漁村ではなく干拓された田の地域だった

(津波の被害にあっても田んぼを作らねば生きていけなかった)

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南海老村の領域には広い田んぼがあった-クリック拡大

そもそもどういうふうにして海老村でも烏崎村でもできたのか?
磯部村でもそうである。
そこは海岸線に密集して家が人が集まってできた村である
だから何か漁業と関係してできたように見る
でも最初は漁業はそれほど盛んではなかった
鹿島区でも小高区でも縄文時代の前期は海側に集落がなかったのだろう
後期になり海側に進出して集落を形成した
だから縄文時代も海の幸の恵みは受けていた

だから鹿島区の桜田山の下に縄文時代の遺跡があり
そこにはいろいろな魚が食べた跡や鹿を食べていたことがわかっている
つまり魚も食べたし鹿も食べた
「狩浜」なとの地名は鹿などを狩りしていたから海側でもついた名だろう
鹿島区では桜田山の下辺りが海からかなり引いた所だから縄文時代は
住むには適地だったのかもしれない

山側の北海老村に古墳があるというとき今の南海老村はその後に住む人が集まった

ではなぜ南海老村がすでに人が住んでいて
慶長三陸津波の12年くらい後にまた住みはじめたのか?
それは日本の土地が山が多く平地は湿地帯が多く米作りする土地がなかった
葦原瑞穂の国というときそうだった
平地があっても湿地帯が多くまた山が多いから米作りする土地が確保しにくかった
中世でもまず鹿島区では江垂の中館とか屋形でも山側に敵から守るための
館(たて)を作った、館とつく地名は中世の城であった
それは多々敵から守るというだけではない、
平地が湿地帯であり住みずらいということがあった

湿地帯には害虫も多いし蛇や蟹や害になるものも多い
それで蛇田とか蟹田とかの地名はそういう所に田を作ったからである
また沼田という地名が非常に多いのもそのためである。
今回の津波では本当にあちらこちら沼が生れて湿地帯化したのである

まず縄文時代のような狩猟と漁労とかの生活では人口は増やせない
一定の人口しか保てないだろう。
弥生時代になり稲作がはしまり飛躍的に人口がふえる
それだけの人口を養えるのが稲作だったのである。

だから北海老村に大きな藤金沢の溜池がある。
それは拡張されて大きくされた
その功績があった人の名も伝えられている
その水は南海老の田んぼに流れていたのである。
南海老村は御刀神社の辺まで広がっていた
つまり南海老村は田んぼの領域が広い
漁村とは違っていて田んぼが干拓されてできて南海老村ができた


だから結局なぜ津波の後に12年くらい後に干拓して住みはじめたのか?
普通ならもうそんな津波の被害のあるところには人は住まない
ところが当時の事情は平地がない、米作りには平地が土地が必要だった
山側では稲作する土地が得られないである
すると現代のように津波の被害のあんたところはこりごりだと街に移り
そこで会社にでも入って新しく生活をやり直そうとかにはならない
そういうことは簡単にできない
生きる糧はその土地にしかないのである
するとどうしても津波の被害にあってもそこで米作りする他ないとなる
それが津波の後の12年後くらいでも住んだ理由なのだろう
それは伊達藩でも同じであった
米はすでに江戸に船で運び商品として売っていたから津波の後でも
米作りをやめるわけにいかなかった


結局日本は土地がない、山国であり土地が極めて制約される
平坦な土地も湿地帯であり条件が悪いからそこで苦闘した
田下駄とか下駄は湿地帯で米を作るためのものだった
下駄の起源がそこにあったことでもわかる
湿地帯との苦闘の歴史が下駄を生み出したのである


磯部村でも南海老村でも烏崎村でも海岸線に家が密集して人口が集中したのは
漁業のために見えるが違っていた
その後背地は広い田んぼであり稲作をしていた
大内村で海老村と同じ地形があった
山側に先に館が作られ海側へはあとに人が住んだ
それが津波で明確にわかった。
海側に住んだ人は津波の被害にあい山側に住んだ人は無事だったからである

その後に南海老村が上海老村とか下海老村とか人口も増えたのは
それは海と関係した仕事が増えたためである
何らか塩を作る技術とか舟を作る技術とかがもたらされ
海の幸を得ることができて南海老村は人口が増えた

ともかく慶長三陸津波では相馬藩で700人溺死している
その数は当時からすれば相当な数であり被害である
そのことはすでに海岸側に人が相当数住んでいたからそうなった
縄文時代あたりだったらそんな被害はない
もともとそこには住んでいなかっただろうからである

結局自然の制約を越えて無理に田んぼでも干拓して造らねば人口はふやせない
稲作文明も人工的文明でありそれは自然に逆らうものがあった
それは文明というものはみんなそうである
ただ稲作は第二の自然であり松原もそう見ていた

ただ原発でもそれは文明の成せる業でありそれが自然の報復を受けた
津波もまた自然に逆らって海側を干拓して田んぼを作り集落を作った
そのことが津波の被害を大きくしたのである
でも稲作文明を維持するためには土地が必要であり
そこにまた住まざるを得ない宿命になっていたのである

だから原発がやめられないというとき文明をやめることになるからできない
原発と心中するほかないと言った時、稲作文明にも言えたのである


日本にはふえる人口を養う土地がない


これが満州まで土地を求めて戦争までになった
日本の悲劇がここから生れていたというのも日本の歴史だったのである


不思議に今もその問題は継続している。
津波や原発事故で全壊した家が南相馬市で4600軒もあった
そして住宅地にする区画が900も必要だという
そんな土地がどこにあるのだろうかとなる
でも実際は広大な田んぼはまだこの辺にはある
そこに建てたらいいじゃないかとなる
でもそこは農地であり簡単に宅地にはできない
その発想は以前として土地が大事であり農本主義的発想である
農か基という発想である
それは自分も田舎は農本主義であるべきだと思う

でも津波や原発事故でそうもいかなくなっている
つまり復興住宅の用地がそれだけ必要なのである
そうなると田んぼでもつぶしてそこに建てる他ないということにもなる
それては農業は破壊されてしまうとなるのもわかる
そのことは津波の被害があった慶長三陸津波の時と同じなのである

いづれにしろ津波原発でこの辺で課せられたものはあまりにも大きすぎたのである
だからどうしたらいいのだろうとなるときただ困惑するだけだと今でもなっている
「もう農業なんかみんなやめたかったのだからこの際やめる」
そんなふうになるのもわかる

では農業やめてこの辺は何を主要産業にするのだろう?
結局浪江町のように廃炉事業の基地の街にしようとなった
そんなものしか思いつかないのである。
後は核の廃棄処理場でありそんな市町村が何なのだろうとなる
殺伐とした風景となった原発事故の廃墟の街なのだろうかとなる
石炭全盛時代に栄えた街が衰退する、夕張などと同じになるのだろうか
津波から原発事故から三年過ぎてもその被害が大きすぎるから未来が見えないのである

それにしても自分はいつも海側の田んぼを見ていた
黄金色に実る稲穂の原をみて松原を見ていたのである
ただそこは右田の松原であり南海老村の領域が先立ったとは思わなかった
これも意外と地元のことですらなかなかわかっていない
農業はやはり実地に農業している人でないとわかりにくい
屋形の農家生まれの人の話を聞いて実感したのである

posted by 天華 at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2014年03月04日

相馬市鹿島区の屋形村に田中城主-相馬郷胤をたづねて思う (権力闘争の興亡は詳細に歴史に記されても慶長津波の被害者は無視された)

 

南相馬市鹿島区の屋形村に田中城主-相馬郷胤をたづねて思う


(権力闘争の興亡は詳細に歴史に記されても慶長津波の被害者は無視された)

tanakajyouuuuguide.jpg


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陽山寺はここが起源になっている


相馬郷胤【そうま・さとたね ?〜1601(慶長6)】
義胤の弟。父盛胤の隠居地、田中城(館)で同居し、盛胤が中村城に移った後は田中城代となる。

南相馬市鹿島区台田中の墓を調べる (田中城に由来する墓?)
http://musubu.sblo.jp/article/14899907.html


ここに田中城主の郷胤の墓があったことは気づかなかった。
確かに慶長と記されているから相馬藩内を調べた年号では自分が見つけた限りでは一番古い。
この郷胤が死んだあと慶長16年に慶長三陸津波が起きた。
つまり10年後だったのである。


ではなぜここに屋形村にあったのか?
田中城内にあればわかる
でも離れた屋形村にあった。
なぜ墓をどこに作るかはどうして決めるのか?
これもわかりにくい
単に適当にその墓の場所を決めるのだろうか
この墓はもともと郷胤の墓のみであり
孤立した墓でありあとにつけくわえられた墓もある
ただ別に田中城からそれほと遠いということではない
その距離が問題かもしれない

もう一つの問題はここに城主だけの墓を作ったことである
田中城は滅びたのだから田中城内には作れなかった
それでも田中城近くにはかか作られたのがわかる
自分が城主だからその近くにありたいということは人情である


田中城滅びて近く郷胤の墓のありしや春の日暮れぬ


慶長の年号確か郷胤のここに眠るや春の日さしぬ


いづれにしろこういうふうに相馬藩では権力争いのことは詳しく記されて残されたが
慶長津波のことは700人溺死としか記されていない
だから歴史というのは民衆のことは消されやすいということだろう
歴史を記すものが権力の興亡にかかわって生きているからそうなる
権力闘争の中で歴史を記す人も生きていて何が大事かとなると
自分の身がどうなるのかということがあり権力闘争の結果が自分にもひびくから
ことこまかにそうした跡継ぎ問題とかは記される
その中で民衆のことは忘却される

それは津波の被害でも原発事故でも同じ傾向があった

原発の安全神話は権力をもつものが操作して作られたのである。
現代の権力構造は複雑であるがやはり事故の後に明確になった
政治家官僚(検察)宗教団体、労働組合、漁業組合、マスメデア・・・
現代の権力を作るものが安全神話を作っていたのである。
そこには金が流れていた、マスコミには宣伝費として流れていた。
宗教団体にも雑誌の宣伝費として流れていた
それはあらゆる所に金がばらまかれていたのである。


歴史がはじまって以来、そもそも権力者が民衆のことを考えるだろうか
考えるとしても権力を得たいためであり権力をもちたいためである
議員でも民衆のためとか嫌になるほど訴えるが自分が権力を得たいためであると
議員自身が言っているのだからまちがいない
戦国時代とか江戸時代はそうした嘘はない
ただ力あるものが上にたち治める
民衆のためとかという現代的感覚がないから正直である

現代は大儀名文ばかりで心にもいなことを平気で言う時代である
民衆のことなどどうでもいい、俺は議員になり威張りたい、金も得たい、
そのためなら嫌なことでもするし心にないことも言うし嘘もつく
それは自分の欲望を達するためにそうするのである
だからあらゆる所で正直さをなくした社会ともなる
二枚舌になりやすい社会と言える


こういう激しい権力闘争の興亡の後に慶長津波が起きた
それは何を意味しているのか?
やはり世が乱れる時、自然も乱れる
貞観津波でも蝦夷征伐の時期であり世が乱れていた
慶長津波の時も戦国時代の延長がつづいていた
そして大津波が来たのである

そして今も世は大きく乱れている
そういう時、自然も乱れ大災害が起こる

つまり700人溺死としか記されなかったことが権力者への抗議となっている
その惨状を苦しみをとりあげ記述していない
そのことが実は民衆を無視していた証拠である

歴史として記されないから存在しなかったとなる
蝦夷の征伐についても蝦夷について記されないのは
歴史は勝者の歴史だから記されないのである
大和朝廷に征服された蝦夷についてわからないのはそのためである
それは民衆でもそうであり民衆のことは記されていないのだ


ただ現代の進歩は民衆が伝える力を訴える力をもったことである。
ただそれも巨大な数となり団体となりしないと訴えられないのは同じである
だからまた民衆が今度は権力をもつ時代になった
でも国民戦争になったときもやはり権力者に操作されるということは常にあった
結局民衆も権力を求めている。
つまり人間の欲望は消えないし権力をもって上にたちたいというのが民衆でもありみんな同じなのだ。
虐げられた人間は特にそうなる。そうした状態に満足する人はいないのである


ともかく実際に津波で死んだ人がいてそれをいたむことがあってもいいはずである
相馬藩の侍は教養かあるのだから歌を作っていた
そしたら歌の一つも津波の被害者に対して作っているのが普通なのである
それが一切ないということは謎になる
何か津波の被害を無視したとしか思えないのである
どうを考えてもまた慶長津波の被害にあった

民衆にしても何も伝えなかったというのも謎である
いくら伝える術がないとしてもそれだけの被害かあれば
やはり子孫に伝えようとするだろう
すると何かしら伝説でも伝承でも残っていいはずなのである
そういうものがほとんどないということがやはり謎なのである

現代ではこれまでも個人が何かを残し訴えることはやはりむずかしかった
本など出版できるのも権力をもった団体の後押しがないとできなかった
だからこそ原発の安全神話は作られたのである
インターネットは最近のものだがそうした個人が発言することを可能にした
影響力は弱いにしてもやはり一つの進歩である

これだけ津波のことにくいて写真でも残して本でもインターネットでも語られたら
400年たったら忘れられるとは思えないのである

ただかえって記録過剰で肝心なものが見逃されるということはありうる
地元のことでもこんなに身近にあったものが今頃、もう死も近いというとき発見していることでもわかる。
近くでも人間は知らないことが多すぎるのだ。
かえって地球の果てのようて所に行くことができるから
そっちの方に詳しい人も現代ではいる
しかし肝心な一番身近な所を知らないという皮肉が現代にある。
灯台下暮らしはこれがたけの情報社会でも同じだったのである。
津波のことをもっと関心をもっていいはずだったが全くもたなかった。
原発でも近くでも関心をもたなかった
それが危険につながっていたという皮肉があったのである

posted by 天華 at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処