2012年05月06日

自然に悪意はない、津浪はただ自然のバランスを取り戻すためだった (失われた白砂の風景が津浪で回復する)


自然に悪意はない、津浪はただ自然のバランスを取り戻すためだった

(失われた白砂の風景が津浪で回復する)



もし,防潮堤が造られていなかったら,どうなって
いただろうか.時に浜や松林が侵蝕されることはあろ
うが,また徐々に浜に砂が戻り,自然に復元される.
昔ながらの風景が残されたのではないだろうか?
http://www.gsj.jp/data/chishitsunews/05_12_03.pdf

どんな文明はそもそも自然破壊になる。文明は人工的に自然を改造することである。縄文時代は自然とマッチしていた生活だけど稲作は文明でありその時飛躍的に人口がふえた。この稲作文明は日本でも二千年ととかつづいた。だから江戸時代になるといたるところ開墾して山では棚田を作り海側を干拓するようになった。それは一見自然のように見えて美しいのだけど自然破壊から成り立っていた。焼き畑農業にしても自然破壊だった。森を切って畑を作れば自然破壊なのである。人間は自然破壊しなければ生きていけない宿命を背負っていたのである。動物は自然破壊をしない、ある種だけが異常にふえたりしない、増えれば淘汰されバランスを保つ、自然は絶妙なバランスの上に成り立っている。そのバランスを壊したのが人間だった。道具をもつことも自然破壊に通じていた。だから老子は2千年前に道具をもつことさえ否定した。小国寡民が理想だとした。それは自然を破壊しない生活だったのである。縄文時代は小国寡民である。弥生時代は稲作はイナリが鋳成りのように鉄の道具と密接に結びついていた。稲作は土木事業であり鉄器の鍬や鎌などの道具がないとできないから一大文明だったのである。


もう江戸時代になると米を作る場所がない、もう人口は増えない限界に達していたのだ。稲作中心の文明は限界に達していた。そこから工業化が起こり明治になるとまた飛躍的に人口がふえたのである。結果的にはもっと大規模な自然破壊になった。自然破壊は今や頂点に達していた。白砂青松の風景は人工的な風景であっても美しかった。ただ白砂はどこでも喪失していた。青松は松原はどこでもあっても白砂の浜辺を見る所はまれになっていた。だから江戸時代にあった白砂青松の風景はなくなっていたのだ。海岸の浸食も激しくただ海岸では防潮堤を見るだけになっていた。今回の津浪は悲惨だったけど元の自然にもどったということがある。防潮堤は破壊されて白波が海岸に直接よせて白い波が砕けている。防潮堤がなくなれば元の白砂の浜辺に戻るかもしれない。

松原がなくなり名取り辺りまでの海岸線は白砂の浜辺になるかもしれない、遠くから海も見えるようになる。湿地帯であり白砂の浜辺は北海道になる。それは元の自然にもどった。自然は無常であり残酷というけどそもそも人間に自然が敵対して人間に罰を与えるとかそういう意図はない、ただ人間側に悪が蔓延すると天変地異が起こるというのはむしろ自然災害によって地を清めるという作用もあった。津浪は元の自然にもどした。自然はそういうバランス感覚がある。海岸線は白砂が長くつづいていてそこは丁度海の前庭だった。海には前庭が必要だった。そこが人工的に干拓されて田になったということが不自然だったのである。自然から見れば何か悪い意図があったということでない。人間側で無造作に不用意に自然を改造しすぎたから津浪がきて元の状態にもどされたともなる。津浪が自然の側からすれば特別なことではなく自然なことだったとなる。


自然災害は文明化すればするほど被害が甚大になる。都会はだから災害に弱い。大地震がきてこれからどんな被害になるか予想もつかないのはそのためである。原発事故も文明故の災禍だった。そんな危険なものを作るなよという自然からの警告だった。前から書いてきたけど文明はあまりにも天地から遊離してしまったのである。誰も古代のよう天にお伺(うかが)いをたてることなどしない、お伺いは科学者にたてる。科学者が現代文明の神官だからである。天に海に古代のようにお伺いをたてることなどしないのである。文明とは人間が神となってしまったことに通じている。すべては人間の力で解決できる。科学時代は科学の力で解決できる。科学万能時代になった。それは絶対化して科学が宗教になった時代である。何かあれば科学的に説明してくれ。それで納得するとなる。でもその科学的説明がかえって科学的ではなく人をだましてしまった。

科学的に人をだますということである。宗教的に人をだますということもカルト宗教ではある。宗教的詐欺がある。宗教は責任は問われない。直人間に手をかけて治療したりしない、手術したりはしない、工事をしたりもしない、それを実際にやるのは科学者であり技術者である。科学を絶対化すれば科学も宗教になる。天にお伺いたててどうなるんだ、科学的に解析して証明すれば問題は起こらないというのが現代だったのである。浪江はやはり津浪を暗示した名であり標葉(しめは)とは禁断の地だったのか?人間が入ってはならない地だったのか?何かそういうものを暗示したものだったのか?そこが今回原発のあるところであり津浪が来て事故になったのである。


「こゝへ畑起してもいヽかあ。」「こゝに家建ててもいヽかあ。」「こゝで火たいてもいいかあ。」「すこし木(きい)貰(もら)つてもいゝかあ。」それに森は一斉に「いゝぞお。」とか「ようし。」と答え・・・(賢治-狼森と笊森、盗森)


森におうかがいをたてている。ここに畑を作っていいかとか、田を作っていいかとか、村を作っていいかここに町を作っていいかとか・・そんなことを自然におうかがいをたてることなどしない、それはすべて科学者が技術者が決めることでありその人たちが万能になっていたのである。神となっていたのである。確率的には百万年に一回しか事故は起こらないと統計的数学的に確率論で割り出していることこそこれも宗教的詐欺とにている。科学によって人を信じさせていたのである。科学が宗教になればそうなる。単なるあてずっぽうではなく科学的だから確実であり信頼できるとなりだまされたのである。結果的には科学もだます一つの手段だったとなる。ただ呪文を唱えている時代とは違う。科学は確実に効果を効験があるから科学時代になった。そして科学が宗教になったときそこに落とし穴があったのである。ともかく科学は万能ではない、原子力のことは全部知らないしもともとコントロ-ルもできない危険なものだったのである。だから火を盗んだプロメテウスのように過酷な罰を受ける結果になった。人間はどれだけ科学は発達しても万能にはならなし神が最終的には左右する力をもっている。神が奇跡を起こすというときまさに科学を越えたものを神はできるし奇跡を起こしてきた。万能だからできることである。その万能の神に最後は祈るほかないとなる。津浪によって人間はその無力を知らしめられたのである。

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2012年04月17日

警戒区域解除の南相馬市小高区の写真


警戒区域解除の南相馬市小高区の写真


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六号線を津浪が越えた。堤谷の付近
向こうに海が見え波しぶきが見える。

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六号線を津浪が越えた


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小浜の方面、この高さが写真だけからはわかりにくい
あそこは高いから津浪は来ないと思っていたろう
そういう所まで津浪が来た

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村上城のあった所、この一つの山が津浪をやわらげその前の家が流されていなかった。
前に何もない所は一軒の家も残らない、こんなに海に近くて家が残っていたのは
この山のおかげである。
小高は海側に大きな集落がないから鹿島区の海老村や烏崎村のような被害にならなかった。

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ここにも庭の石が残っていた。


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意外とここは松が残っていた。

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ピアノをここでひいていた。

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車がここまで流された。

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小高駅を越えて津浪が街に入ってきていた。小高は海に近かった。

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ゴ-ストタウンというときこういうのを見ると確かにそうである。小高の通りは歩道など整備ささたから鹿島区より感じがいいと思っていた。医院でも泌尿器科がある所があった。老人が増えると泌尿器科にかかる人がふえるからいいと思った。こういう病気は近くにあると便利なのである。


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核兵器廃絶宣言

鹿島区でもこの辺で核兵器廃止宣言の町と看板を出していた。これは何であったのだろうか?
広島でも原水協では核兵器には反対でも平和利用の原発には賛成していたのである。というのは労働組合が中心だとそのなかに必ず電力会社の組合が入っていたからである。この組合は強力であり資金力もある。そうすると平和利用はいい、原発は安全だと言われればそうかなとなり賛成していたのである。そこが誤ってしまった。核そのものが危険なものだったのである。

結局思うに組織団体化したところは巨大な利権団体でありその圧力が大きいから何も言えなくなる。カルト宗教団体も大きな力をもっているしどこにでもいる。創価の圧力も大きい。電事連合とかも大きな力をもっている。そういう組織の意向によって社会は動かされているのだ。
原水協自体がそうでありすると原発が危険なものだという安全神話にくみしていたのである。
ただ共産党系の一部が原発の危険を指摘していた。しかしそれもかえってイデオロギ-的に特赦な人たちとして見られていた。だから原発反対はSF的架空の小説のように見られていた。
現実的に危険なものでも科学的にも検証されないし一般人には安全神話で知らされていなかったのである。

このことで情報は常に権力をもっているものによって操作されていることがわかった。権力を操作する側にとって都合の悪いことは知らされないのである。スピ-ディが最初に知らされたのがアメリカであり日本ではなかった。これも信じられない、日本人に知らせないでアメリカに知らせていたのである。そして浪江の人たちは放射線量か高い津島に集団として避難した。そこで被曝したのである。それで国を訴え裁判になる。
何か今になると核兵器の核は反対だけど平和利用の原子力はいい核だとういのも権力側によって作られたいたのだろうか?小高にも鹿島もこの看板があった。それが何だか虚しいのである。

今回は井田川の方に行けなかった。雷が鳴り雨がふってきた。山の方は雲で暗かった。
原発事故でゴ-ストタウンが生まれた。雨もちょっとふって暗かったから余計に暗く感じた。
そして浪江の方も暗く浪江の方には行けないというとき双葉辺りが昔の相馬藩の境であり余の森、藩主の森として領有を宣言した所である。あの辺は大野とか広野とあるように江戸時代は森がおおっていた。だから今になると森に帰り閉ざされた地帯になってしまうのかと思った。
ただ小高までは自由に出入りできるので燕が飛んできたりと気持ち良かった。
出入りが自由になるとゴ-ストタウンではなくなる。飯館村は人が住んでいなくても出入りは自由であり人影も見えるのでゴ-ストタウンとは違っている。これからあとかたづけとかインフラ整備とかで人が入ってくる。放射線は計測器を忘れて計れなかった。

明日はまた井田川の方に行ってみたい、まだ水がある内に見たい、今度は放射線量を計ってみよう。
 


 

posted by 老鶯 at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年04月11日

相馬市の日立木の「日下石(にっけし)」「日ケ子(し)」で地名の謎が解けた 怪しい地名の研究-鳥野博文氏


相馬市の日立木の「日下石(にっけし)」「日ケ子(し)」で地名の謎が解けた

怪しい地名の研究-鳥野博文氏
 http://www005.upp.so-net.ne.jp/unolab/timei4/timei4.htm



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津浪の浸水地域(相馬市日下石-磯部)

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「西(にし)」と「東(ひがし)」


「太陽の昇るのが東で、沈むのが西」と教わり、同じ事を子供たちに教える。このフレーズは何回発せられたであろうか。日本人に限らず世界の多くの人々が方位の認識に「太陽」利用している。
ところで、正反対の方位である「にし」と「ひがし」はともに末尾は「し」である。

東日本に分布が厚い「橋」の付く地名の語源解釈のなかで、「は」は「端(は)」で、「し」は単なる部分ではなく重要な部分という意味ではないかと考えた。「橋」は「端の重要な部分」ではないかと考察した。

東は太陽(ひ)の昇る方向であり、太陽にとって重要な部分すなわち「日ケ子(し)」ではないか、とだれでも考えることだと思う。



相馬郷土史研究をしているので地名も研究しています、もともと小生は学問に興味をもったのは旅をして地名に興味をもったからです。「怪しい地名の研究」はプロ級だと思い感心して読みました。
ただこの頃原発事故のあった所に住んでいるので他のことに注意が向きません
怪しい地名の研究も読んでいませんでしたし深く検討もしていませんでした。 今回ちょっと読み直して発見がありました。相馬市では津浪がありました。津浪には本当に驚きました。津浪によって今までわからないことが明かにされたことが多々ありました。その中で縄文海進時代の海の状態が明らかになった。再現されたことには驚きました。縄文海進時代が目の前に再現されたのです。


この辺では「日下石(にっけし)」という地名はアイヌ語で解明していました。日本語では解明しにくいからそうなったのでしょう。それで「日ケ子(し)」と書いてあることに驚きました。まさにここの日下石(にっけし)そのものです。その日下石(にっけしのすぐ近くまで津浪は来ていました。
あの辺に磯部から死体が流れ着きました。磯部の被害は大きく、相馬市磯部村 1,813人 497世帯
このうち250人死んだとすると13パ-セントが死んだことになる。家は一軒も残らずもともと砂州だった所が砂州に戻ったのは驚きです。


最近出版された「この地名が危ない」楠原祐介は興味深いものでした。小名浜(いわき)女場(おなば-小高)とか女川(おながわ)は男波(おなみ)であり津浪のことだという指摘など津浪関係のことが書いてあった。どうも怪しい地名の研究でも日本語の一字から解明しているけどこれは縄文語にも通じる古いものだった。アイヌ語ではない縄文時代から使われていた言葉だった。ヨコがヨから解明していたりネという言葉やワという五十音の一字に注意していたのは自分もそれを解明しようとしたができなかった。南相馬市小高の縄文時代のことを書きましたがやはり縄文人が住んだ所の遺跡はもともと海だった所をさけて住んでいた。それより海だから住めなかったのです。そこが本当に津浪で海になったから驚きです。海側の地名は縄文海進時代からものでそれだけ古いことがわかった。これは津浪でわかったことです。


最近原発事故とかのことで忙しいので「怪しい地名の研究」などでも読んでいません。最初からこれほど研究されていることに驚きました。そこまでインタ-ネットでは出さないから学者並だと思っていました。大和言葉の五十音の一字一字には深い意味がある。そこが怪しい地名研究の発見ではないでしょうか?そこから新しい地名の発見があるでしょう。それが「日下石(にっけし)」が「日ケ子(し)」という発見だったのです。


「にし」とは「土、地面」の上のどこかにある「日」の没する重要な部分ということになる。日の昇る場所が「日ケ子」で、日の没する場所のあるところの重要な地面が「土(に)子(し)」である。九州到達までは方位の定義としては適切である。


「日ケ子」は日下石(にっけし)でありニに日(陽)をあてたのは正解です。太陽のことです。津浪でわかったようにまさに太陽が昇る所だったのです。地名には重要なことが隠されているようです。

誤解があった-日ケ子(ひけし)?であり日下石(にっけし)である。

陸の方向「土(に)子(し)」だとする日下石(にっけし)は西の方角になる。日ケ子(ひけし)のことですか?東はひんがしであり日が昇る岸でしょう。不思議なのは日下石(にっけし)まで海になったとき太陽は沈むのを見ました。それは日下石(にっけし)西の方に沈んで行ったのです。つまり陸地の方に向かって沈んでゆきました。その前は海でした。ということは陸からみて陽が昇る岸がひんがしであり西は海から陸になる地帯である。ともかく海から見た感覚であり陸地から太陽を見ていないとなる。日本人は海洋民族であり海から望むということは船で陸地を見ている人の感覚である。
日下石(にっけし)が西の方向という感覚はわかりにくい、海に接しいるのだから西となると海側から見て陸地だから西だとなる。日はひではなくニに当てた字である。

地名は科学的に証明するのがむずかしい。統計的に証明しようとしたのは科学的に証明しようとしたからその努力には驚きました。

最近、原発事故のことで忙しいのでいろいろ読めません、本を献呈されても深く読めません。

インタ-ネット上で暇があったら相馬郷土史研究の一つとしてまた発見があったら書いてみます。
どうもコメントやら本の献呈やらの申し出ありがとうございます、アマゾンでも買えるようですから買うかもしれません。いろいろ本も読むのが今あり目を通せません


ところで津浪に関しての地名についてインタ-ネット上で書いているでしょうか?
書いていたらお知らせください、今津浪のことを継続して研究していますのでよろしくお願いします



あとがき

 
海から渡ってきて陸の方に太陽が沈む、陸を意識して西のニが土だということはわかる。つまり陸からみて陸に沈む太陽ではなく海から見て陸に沈む方向が西だった。これが大陸だったら陸から昇り陸から沈むから日本人の感覚にはならない。日本人は海を意識した民族というのは海に囲まれているから当然である。だから津浪と海岸線の地名は深い関係があるかもしれないということはありえますねこの辺が今回の津浪で解明されれば興味深いし警告にもなるということです
posted by 老鶯 at 21:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年03月28日

なぜ人は危険な海岸沿いに住むようになったのか? (弥生文明-米作りも自然破壊文明であった)

 

なぜ人は危険な海岸沿いに住むようになったのか?

(弥生文明-米作りも自然破壊文明であった)

●海沿いに人家が増えたのは米作りの結果


今回の津浪でみんなが思ったことはなぜあんな危険な場所に住んでいるのかということだった。三陸などは何度も津浪に襲われ大被害を受けていたのにやっぱり海近くに住んでいた。それは便利だからという漁業に便利だからそうなった。一方で宮城県から福島県の浜通りは津浪が来ないという思い込みが形成されていた。400年前に慶長津浪の被害があったのだか忘れられていた。でも慶長津浪の後に田を干拓して人は住んだのである。津浪のことを知らないで住んでいたのではない、津浪のすぐあとにも開拓していたのである。その感覚が今ではわかりにくい、その時の主要な産業が米作りであり米なしでは成り立たない生活だった。伊達政宗の伊達藩では特に米を商品化して石巻港から輸出していた。江戸で消費される米の量の3分の1にも達した。この米の量は多い。それだけの米を江戸に出すにはそれだけの田にする土地が必要だった。その土地が得るために海側を干拓したのである。津浪の後にもすぐに干拓している。名取の六郷には相馬藩士も干拓に入っていて記録が残っている。今の感覚だとわかりにくい、米余りであり高齢化でありあきらめるというのが現代の農業の現実である。

しかし江戸時代は米なしでありえない経済だった。売るのも米であり自ら食べるのも米である。米はその両方のために作らざるをえなかったのである。こういうことは戦後もつづいていたのである。

そもそも満州に日本が進出したのは農業をする土地がないというこが原因となっていた。その頃は農業中心の社会だからそうなっていた。あの寒い満州でも日本人は米作りに挑んでいた。それほど米に執着していたのが日本人なのである。だから日本の隅々まで米作りが行われた。その米作り故に海岸沿いにも集落が増えたのである。海岸沿いというとき漁業のことを思うが海岸沿いに人家が増えたのは必ずしも漁業だけではない、半農半漁の生活であり漁民は農民でもあった。漁業といっても塩作りも大きな産業だった。塩田が松川浦でも行われていた。双葉辺りでも戦後まもなく塩田があり塩作りして東京に売りに行っていたという。塩作りは大きな産業であった。塩田が大きな産業となり海側に集落が増えたともいえる。それと同時に米作りも海側に集落が増えた要因だった。磯部村にしてもなぜあれだけの人口があったのか?漁業だけではない、塩田となると原釜の方である。むしろ磯部村の前に広がっている田んぼが干拓されて作られたとき海側に人家が増えた。それは宮城県の広く干拓された名取などとにている。米を運ぶために運河まで作られた。そのために海側に人口が増えた。


●人は便利な場所から不便な場所に住む


村の新旧でも磯部の前は高台の古磯部が磯部であり海側の低地に人家が集中したのは新しい。海老村南海老村と下海老村があり北海老村があり海側の村は新しい村であり烏崎村も前は大内村との間に袋村があった。右田村もここでは漁業はないのだから港もないのだから湿地帯の低地を開拓してできた村である。海側に人口が集中したのはかえって陸地から米作りして増えたのである。漁業だけでは零細であり生活が成り立たなかった。なぜ海岸沿いに人家が集中してきたのかというと干拓して田を作り米作りのために集中したのである。ただ石巻のような港は違っていた。大きな港であり貿易港となっていた。日本は国土が狭いから土地がないから海側を干拓して米作りしてきた。それが今回の津浪の被害を大きくした原因だったのである。人間は人が増えると住むに適した地から不便な所に移るほかない、その土地で一番住み安い土地はその土地で最初に人が住んだ。南相馬市の鹿島区だと浮田国造(うきたくにのみやっこ)の置かれた地域であることが納得がいく。平坦な高台であり前は湿地帯になり海になっていた。海側の住みにくい場所を干拓して住んだのは人が増えて養うのにはそうした不便な所に人が住むほかなかったのである。ネパ-ルでもなぜ高いところ高いところとまるで天空まで人が住むのかというふうにさえ見える高いところに住む。それは山国だから低い所は人が住んで住めない、どうしても不便な地に住むほかないからである。鹿島区でも上萱は戦後開拓に入った人が住んだ。あそこもあんな不便な場所なのに住んだのは住む場所がないからである。


●文明とは自然破壊であり現代文明は自然から復讐を受ける運命に


こうした歴史をふりかえると国土造りを考えさせられる。縄文時代なら人口は弥生時代より相当に少ない、弥生時代になると米作りが盛んになり飛躍的に人口が増えたのである。しかしその人口を増やすために元の自然をかなり無理して使った。もともと海であったような住むには危険な地域も干拓して米作りして住むようになった。縄文時代は自然を無理やり開拓したりする技術もないからそんな無理をしないしできない、だから自然にとって適正な規模の生活をしていた。だから津浪のような大被害を受けることはなかった。そんな危険な場所には住めないからである。結局米作りは実際は相当な自然破壊の側面があった一大文明であった。農耕の道具として鉄器も使用したし灌漑事業でもあり大規模な土木事業でもあった。それで帰化人の技術者が活躍した。青松白砂の情景は日本的な自然な風景となったが実際は人工的な風景だったのである。しかしそれからが津浪で一挙に破壊されたのはショックだった。でもよくよく考えると米作りも一大文明事業であり自然破壊がありそれで自然から復讐されたのかもしれない、米作りなどは自然とマッチしたものであり自然と調和する文明だと思っていた。それでも自然破壊の面があった。文明とは自然を破壊してしか成り立たない側面がある。

米作りすらそうだった。その後の文明は自然破壊が未だかつてない巨大な規模で行われている。
文明が滅びるとか崩壊するというとき自然に対する負担が過重になるとき起こるのかもしれない、

今や文明は過去の弥生時代であれどれだけの過重な負担を強いているか、世界的な経済発展によりどれだけ地球に負担をかけているか、それは恐ろしいほどである。文明が崩壊するというときそうした過重な負担が限度に来たとき来るのかもしれない、その一つが今回の原発事故だった。これも本当は反自然なものであり自然破壊する最たるものだった。自然にない物質、毒を生み出して半永久的に自然を汚染してしまうものだった。一見そういうことを明確に認識できなかったが事故が起きてみんなその危険性を嫌でも認識させられたのである。原子力によって原子力文明によって自然は致命的に破壊され文明そのものが衰退して崩壊する。過去にもマヤ文明などが崩壊して消失した。その原因はわからないにししても高度な天文学や科学技術文明があった。それが何らかの原因で崩壊して衰退して消えた。それは原発事故と同じ様なことが起こったのかもしれない、そうした事故によって一挙に衰退し消滅したかもしれない、そういうことありうるんだということを原発事故から知ったのである。なぜ過去の文明が古代文明が崩壊して消失したとかが不明なのは人間では予測できないことから起きているからである。今回の津浪も想定外の自然の力が加わり原発事故が起きた。予測し得ない力が自然にはありとてもそれに備えることは人間にはできない、そこに人間の限界がある。だから原発のような危険なものは作ってならない。文明が滅びるのは人間の予測し得ないものから起きる。人間は未来をしることはできない、未来は神の手の中にあるからだ。それを知ることはできないのである。それは個々人の運命すらそうである。個々人の宿命や運命も不可解なものと同じ様に人間の未来もしりえようがないからだ。

つまり文明は予測しえない、意外な原因で滅びる・・・・


穏やかな雲間に雷雨が潜むように

今日私に媚びるものが明日には私を傷つける

ほとんど重量とてないとるにたらぬ原子から

世界は最後の審判を受ける
(ハンス、カロッサ)


偶然に原子力が発見された、そしてその原子力が核が基で世界が滅びる、それは予測すらできないことだった。人間は全く予測しえないことで滅びる、予測しえないからこそ人間は危険を知らずに住んでいる。でもある時原発事故のようなものが起こりたちまち滅びてしまう。神にはかわっていた、そんなものに人間よ、手を出すなと・・ただ警告しても人間はきかないから滅びる。神によって滅ぼされるのである。いづれにしろ今回の津浪や原発事故ほど驚いたことはなかった。一年たっても以前としてこれは何なのだろうという疑問が消えないのである。
 消えた村

一瞬にして村は消えた

その自然のなみする力の脅威よ

ここの集落に一軒の家もない

もとの海岸の砂州、砂地にもどった

ぼうぼうと風が吹き集落の跡は砂に埋もれる

 千本の松は一挙に消えさり

ただ一本の二本の松が辛うじて残っている

ここにあったものは何もない、何もない

ただ人は茫然とたたずみ無常

何もない、何もない、ただ風の音、浪の音

思い出は砂に埋もれてしまった

一枚の写真が残る、それが過去の記憶

あとはみな消え去ってしまった

ここにも春は来たが春はない

村人は散り散りになり人はもうここには住まない

無人の境にただ風が鳴るのみ


 

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2012年03月27日

津浪から一年すぎた松川浦-(海老村)の写真


津浪から一年すぎた松川浦-(海老村)の写真


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海老村は墓所が残り家はほとんど消えた。

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パノラマ写真

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八沢浦干拓の碑

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磯部の近くの神社の杉

塩害で枯れるから切ったのか?はらまち一葉松も塩害心配されている。

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岩の子の蔵は残っていた

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岩の子の塩釜神社

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慶長津波の後に復興して建てられた

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船溜には船が積み上げられていた
あそこは一軒も家がなくなった


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パノラマ写真(クリック拡大)

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原釜に残った松

沖には船が見えた。


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パノラマ写真クリック拡大

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新沼までは津波は来ないにしろかなり近くまで来ていた。
飢饉のことはもう忘れて春の日がさしていた。
しかし津波は近くまで来ていたのだ。飢饉は語られていたが津波のことは
語られなかった。津波の被害も大きかったはずなのに語られなかった。
飢饉で三分の一人口へったから飢饉の被害の方は語られ続けていたのである。


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沖に船海面光りて朝雲雀

津浪こぬ高台にさす春日かな

春日さし遠き昔や飢饉の碑


家消えて墓所のみ残る海老村に春の日さすもあわれなるかな


大杉のここに一本社あり春の日さして形見と残す


津波にも残る文字島春日さし向き合う形しげしげと見ゆ

津浪にも残れる松や春日さし船の入りくる原釜の港


春北風(はるきた)に松川浦の波だちぬ鴎飛びつつ港の跡かな


船溜(ふなだまり)春の日させど荒寥と松川浦に松の残骸

飢饉の碑遠き昔や春日さしまじかに迫る津波の恐怖


海近く湿地の沼に春の日のまばゆく光り雲雀鳴くかも



家とか松原がなくなったから見晴らしが良くなった。遠くに船が見えて春の日に光り雲雀が鳴いていた。海老村では墓所だけが高いところにあり家は消えた。墓参りはできても家がないからがっかりするだろう。この逆だと良かった。墓は流されてもいいから家が残っていればなと思うだろう。
他でも墓は残って家がなくなっている。石巻がそうだった。墓は残り先祖に祈り家はないというのも奇妙である。


磯部は古磯部がありそれは高台の方であり磯部で古く住んでいたのは高台の方だったのだ。古町が古いのであり古磯部が古いのである。低地に住んだのはあとだった。磯部は砂州のような地形になっていた。そういう危険な場所に住んだのは慶長の津浪の後だろう。でもその記憶があれば怖いから住まないとなるが便利だから住むようになった。松川浦から魚をとるようになって住むようになった。
磯部は家が多かったから被害も大きかった。一軒の家も残らなかった。

磯部から少し離れたところに神社があった。あそこにあったのを知らなかった。大きな杉が一本あった。それもきられた。半分残っているのが奇妙だけどずいぶん大きな杉だったことがわかる。


松川浦には杉の残骸がまだかたづけられず大量に残っていた。どれだけの松が流されたかわからない。岩の子に蔵が一つ残っていた。あそこはかなり津浪の被害が大きかった。浦にも近いから津浪の衝撃も強かったが蔵はそっくり残っていた。蔵は津浪にも強いのかもしれない、岩の子の塩釜神社は小高い丘にあった。あそこに逃げれば助かった。あの神社は慶長津浪があった次の年に復興して建てられた。小高から中村へ今の相馬市に城を移したのが慶長津浪から一か月後であり次の年に復興したとあるから津浪の被害があって復興したと記したのかもしれない、ただ神社が建てられたのはそれより300年前とかになっている。それが本当だとすると神社もずいぶへ古いとなる。津浪は余りにも被害が大きいし驚くべき恐るべきことだから何らか記念として残すということがあっても不思議ではない、ただ時間がたつにつれて忘れられてしまったのである。


文字島が残ったのは不思議である。あれだけの津浪だから破壊されても不思議ではない、でも残っていた。津浪に残るというだけでそれが貴重なものに見えるのも確かである。この形が人が向き合う形でもある。一方は男であり一方は女にも見える。この島にはさほど注目していなかったが津浪に良く残ったと思い今回は注目した。


原釜の津神社(つのみや)は高台にある。あれも慶長津浪の記念に建てられたのか縁起は記されていない、でもあそこに逃げれば確実に助かった。松川浦は一軒食堂をやっていたが閑散としている。
高台は春の日がさして助かって良かったなとぽかぽかした気分になるが被害のあった地域は悲惨である。高台で家が助かっても回りが悲惨だし仕事も松川浦全体でしていたから影響をもろにうける。高台で助かったとしても回りの影響で仕事にならないとか空き地や空家があった。これは石巻とかでも同じである。あそこも全体への影響があまりにも大きすぎたのである。


松川浦の原釜から新地の方に行くと沼があった。溜池らしいが湿地帯の沼に見えた。もともとこの辺は湿地帯で沼が多かったのだ。海岸近くは湿地帯であり沼地だったのである。

原釜とか釜石とか鎌倉とある釜は噛まれたような地形と指摘していたがそうかもしれない、それより釜は鎌であり鎌の形をした地形である。原釜もそうであり鎌倉もそうである。地名は地形と密接に関係していたのである。

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2012年03月24日

古代文明と原発事故 (科学技術の力が権力を作ったことで同じだった)


古代文明と原発事故

(科学技術の力が権力を作ったことで同じだった)


●未来は過去から作られる


岩戸隠れ」神話とは、弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴な行為に怒り、
天照大神が天の岩屋にこもると、世の中が真っ暗になり、


困り果てた神々が相談して、一計を案じ、岩戸を開けて大神を外へ連れ出すと、
世の中がもと通り明るくなった、という物語です。


天文学者の斎藤国治氏は、この物語のモチーフを皆既日食と見て、
日本列島上で起こった日食を分析したそうです。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-1-4.htm


古代文明というと原発と何の関係があるのかと思うが今起きることはいかに複雑高度化しても常に過去と関係していないものはない。すべての期限は過去に求められる。だからこそ歴史が人間にとって欠かせない知恵の源になる。歴史を忘れれば人間に未来すらない、未来は過去から起こるということを知らねばならない、明治維新も日本古来の伝統の復古、維新があり国が改められた。今度の津浪ほどそれを意識されたことはないのだ。こうした災害すら過去をふりかえることが歴史がいかに大事なものだったか思いしらされたのである。なぜなら三陸のリアス式海岸では何度も津浪に襲われているから津浪対策をしていた。それでも巨大津浪で大被害を受けた。そして仙台平野とか福島県までの浜通りは津浪は来ないと思っていたから警戒もしなかった。でも過去に400年前に相馬藩の記録に700人溺死した慶長の津浪の被害があったのである。ただそれを取り上げる人も話題にする人もいなかった。一行700人溺死としか記されていなかった。その前に貞観津浪があり相馬市の奥まで津浪の堆積物が発見されたことを最近になり科学者が発表していたしフクシマ原発でもそのことを警告していたのである。

津浪でもいかに過去をふりかえることが大事だったか思いしらされたのである。過去をもっと重視していれば津浪も予測できたのである。そして今回いかに予測するということが大事なものか生死にかかわるものか思い知らされた。未来を予言することが人間にとってもっとも大事なことだから聖書が生まれた。聖書は予言の書であり予言者は未来を予言するものであった。ノアの方舟でも誰も大洪水のことを言っても信じなかったから津浪のように水にのまれて死んでしまったのである。人間は未来を予言する予測することがいかに大事なことか思い知らされた。今は予言者の代わりを科学者がしている。それで貞観津浪のことも科学的な物証として提示して警告していたのであったが無視された。原発に従事する科学者はフクシマ原発は百万年に一回の割合でしか事故にならないと確率論で計測した。これがいかに馬鹿らしいものだったか露呈した。貞観津浪のことをすでに知っていたのだからその規模の津浪が来れば確実に原発は破壊されたのだ。ということは千年に一度の大津波が来たら破壊された。百万年に一度しか事故にならないというその科学そのものがまるででたらめだったのである。


●権力の源泉は古代も現代も科学技術だった


古代文明と現代の高度な文明が原発が何の関係があるかというとき古代文明も文明だから今の文明と由来は同じ面があるのだ。文明とは人間の力を神のような力をもつものとして作られる。神のような力をもつにはどうすればいいのか?それは権力をもつことである。どうしたらその権力をもつことができるのか、そこに原発と同じ起源があった。科学の力によって権力をもつのである。エジプト文明でもマヤ文明でも高度な知識をすでにもっていたのである。マヤ文明は謎であるが宇宙人が作ったとか言われるほど高度な文明だった。その力は天体の知識にあった。王は神殿に立つとき背後から太陽の光にまばゆく映えるように設定され建築されていたのである。それはエジプト文明もナイル河を観測して氾濫の時期を予測して権力をもつようになった。テクノクラ-ト、科学技術神官が権力をもつようになった。今なら科学技術官僚であり東電の会社である。つまり権力と科学技術はすでに古代文明から権力の源だったのである。これを考えれば古代文明と原発は人間の文明の歴史の流れとして必然的に生まれたことがわかる。技術の進歩の極限として核が原発が生まれた。日食にしてもその日食の日をあらかじめ予言すれば民衆は科学技術神官に従うことになる。神のごとき力をもつことになるのだ。つまり権力の源泉は古代文明と現代の文明と同一であり変わらなかったということである。
人間は本質的には古代から変化していないともなるのだ。


権力というとき歴史では宗教が大きな力をもっていた。それはエジプト文明でもマヤ文明でも同じである。その宗教の力の源も科学と密接に結びついていた。最初は奇跡の力が宗教の力となった。次に奇跡より科学的なものが技術が人間の権力をもつ力となった。宗教も結局は科学や技術と同じく力をもちたいということでは同じである。病気になれば宗教に今でも頼っている。科学が医学でもいくら発達しても万能ではないからだ。カルト宗教団体がこの科学全盛の時代になぜこれほど増えているのかそれはこの世の人間のことが以前として科学だけで解決できないからそうなっている。人間がいかにしてし権力をもつか権力の源泉は何なのかと問えばそれは今と同じ様に科学やそこから発した技術にあった。人間はこの科学技術にひれ伏すのだ。もともと天皇が日本の王が鉄の王だったというとき鉄が権力の源だったというときこれも科学技術がテクノクラ-トが権力をもち支配者になったことと同じである。権力はテクノクラ-トが持ち王もそのテクノクラ-トの上にある。


それはエジプト文明でもマヤ文明でもそうだった。農業の上に実は鉄器を作り得る技術が必要だった。鉄器は鍬や鎌など農業生産を増大するのに不可欠なものだった。だから天皇は鉄の王だったというのもそこからきている。つまりテクノクラ-トによって日本も支配されていたのである。そのことを顕著に示したのがオウムだったのである。サリンを製造して権力を持とうとしたのがオ-ムだった。テクノクラ-トが優秀な理系の人が集ったのもそのためである。それは原発を作った技術官僚や科学者や会社の技術者と同じ構造だったのである。権力の源はまさにその科学技術を操作するものにあったのだ。それに付随したのが政治家でありマスコミでありカルト宗教団体でもあった。巨大な利権がそこに生まれたからである。金が紙幣が権力の源泉ではない、金を生み出すものが権力の源泉である。それが科学技術であり原発だったのである。


●文明の崩壊は科学技術(テクノクラ-ト)の破綻から起こる


その権力がもろくも崩れ去ったのはまさに科学技術神官が未来を予測できない、予言できない、ヒュ-マンエラ-のためだった。科学技術神官の権威と権力は事故で一挙に失墜した。それはマヤ文明の崩壊とかともにている。何らかで科学技術神官が権威を失墜したのである。それは原発事故と同じ様なことが起こったのかもしれない、太陽が衰えてゆき死んでゆくとかの迷信に陥ったためかもしれない、それは日本の天の岩戸神話と共通している。それは明かに原発事故とにている。この事故によって科学技術官僚、神官の権威は権力は一挙に失墜した。もともと政治家やマスコミには権力はなかった。科学技術にこそ力の源があった。だからそこに巨利を生むから政治家や官僚やマスコミが群がったのである。現代でも古代でも権力の源泉は科学技術だったのである。天皇が鉄の王だったとするとき電力を生むものが王になっていた。東電は電力会社はテクノクラ-トであり国家より政治家より力があったのである。マスコミなどは軽くとりこむことができた。現代の文明は電気の文明だった。その前は鉄の文明であったから天皇は鉄の王となっていたのだ。その権力の構造は変わらなかったのである。そして人間にとって未来を予測することがいかに大事かそこに生死がかかわっているかわかる。でもその未来を知るのは神のみである。


個々人の運命すら神が支配している。なぜなら未来がどうなるかわからない、一寸先は闇なのである。別に津浪がこなくてもそうである。突然の病に倒れるものもいるし認知症とかわけのわからない病気になる人もいる。人間がいつ死ぬのかもわからない、百才近くになっても死にそうでも死なない人もいるし突然若くても死ぬ人もいる。人の死ぬ時期は知り得ようがないのだ。人間の未来は神しかしりえないのである。そこに人間の限界があるのだ。それはどんなに科学技術が発達してもそうである。その科学技術がいかにもろいものだったか原発事故で思い知らされた。完全な科学技術などありえないのだ。人間が作るものは不完全であり必ず事故が起きてくるのだ。百万年に一回などという科学者の馬鹿げた確率論がでてきたのもそのためでてある。人間は全能ではない、神のみが全能だからそうなる。文明が崩壊するというとき科学技術文明が崩壊するということである。人間は全能の神のような力をもちえないからである。


鉄は国家なり 、石油は国家なり、原子力は国家なり
(原発事故の歴史的考察)
http://musubu2.sblo.jp/article/47022054.html

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2012年03月20日

津浪とロトの妻の運命 (財産に未練を残した結果死んだことでは同じ)


津浪とロトの妻の運命

(財産に未練を残した結果死んだことでは同じ)

一刻も早く町の外に脱出すること。そして、低地に留まらずに山中に逃れること。また、山中に入っても、いかなる事態になろうとも、決して後ろを振り返ってはならないということなどである。  
 しかし、その忠告にもかかわらず、ロトの妻は、残して来た財産への未練なのか後ろを振り返り、塩の柱に変わり果てて死んでしまうこととなる。


今回の津浪ほど驚いたことはないし恐怖したことはない、まさにこの世の生き地獄だった。だから未だに現実ではない、夢のような感覚からぬけだせないのだ。現実に被害にあった人はなおさらそうなっているだろう。村ごとなくなってしまっている、街すらなくなってしまった。それも一瞬にしてである。それが現実に思えない、ただ茫然として津浪の跡に立っている。これは戦争中のような焼け野原のような体験がないから余計にそうなのかもしれない、異常なことを体験していればこういうことは世の中にある、戦争体験者ならそう思うかもしれない、戦後60年はあまりにも平和な時代だったとなる。


一時は津浪原発事故でこの世の終わりかとさえ思った。本当にこの世の終わり聖書で予言する終末が来たのかと真剣に思い驚愕した津浪と原発事故はそういうこの世の終わりともなるような恐ろしいものだった。放射能については恐怖していなかった。放射能の怖さを知らないからこの辺では屋内退避だったけど外に出ていた。本当は爆発したときなどこの辺にも3時間くらい20マイクロシ-ベルトとかになっていた。その時ヨウソを吸うと甲状腺癌になっていた。これは8日間で消えるが大量に被曝したらそうなっていた。だから避難しなかった人や浪江のように津島などの飯館方面の山側に逃げた人は被曝した。ヨウソは大量にばらまかれそれらは8日間で消えた。だからこそ最初の時期に素早く避難することが必要だったけど放射能の無知からそうしなかったし政府でもそうさせなかった。
その時も安全だ、安全だと言っていたのである。つくづく人間は危険から素早く避難できない、それは津浪でも起こったことである。


ロトの妻は、残して来た財産への未練なのか後ろを振り返り、塩の柱に変わり果てて死んでしまうこととなる


津浪では野良仕事にでていても避難勧告がでて家に通帳とかなにか取りに行った人は死んだりしている。野良仕事していたらそのまま逃げなければまにあわない、そういうことを語っていた人がいた。それほど時間が切迫していたのである。財産に未練があり家に帰った人は死んだケ-スがかなりあった。タンス預金もあったろうし通帳は大事だから通帳だけはと家にもどったりした人は死んでいる。緊急のときはそういう余裕すらない、着の身着のまま逃げるほかない、もし財産に未練残していたらロトの妻のように死んでいる。津浪の被害にあった人はロトの妻と同じ様な恐怖を味わったのである。

ソドム、ゴモラも一瞬にして消失した。その後に海の水が流れ込み死海が生まれた。地殻変動があったから巨大な地震が起きたのかもしれない、今回の地震でも地盤が沈下したからだ。街自体がなくなるという光景が信じられない、でもヒロシマ,ナガサキは原爆投下で焼け野原になったから津浪の被害よりケタが違っていた。その凄まじい光景は津浪より恐怖であった。大きな街が一瞬にして消失するということが過去にもあった。それは別にソドム、ゴモラだけではない、日本にもあったし被害にあった人も目撃した人もまだ生きているのだ。草戸千軒なども災害で消失したのだろう。ただ東北では神戸の地震被害もヒロシマ、ナガサキも遠いからなかなか実感しえないものとしてあった。ただ今度の津浪の被害は目の前で起こったからショックだった。こんなことがありうるのかというショックであり被害にあった人人も夢うつつになっているのではないか?あまりにも急激な変化を人は受け入れられないのである。


ただこうした緊急の危機の時は財産に執着すると命も助からない、命あってのものだねとなる。現実に着の身着のままで逃れて仮設住宅に住んでいる人がかなりいるのだ。その人たちはただ命が助かったというだけであった。それでもだんだん時がたつと失った財産が惜しいとか財産への執着がでてくる。金も必要になってくるからどうしてもまた失った財産のことを思うようになる。


一刻も早く町の外に脱出すること。そして、低地に留まらずに山中に逃れること・・・・・


ソドム、ゴモラは低地にあり海とつながり海の水が流れてきて水没もした、低地はやはり危険なのか?低地には水がながれこむ、人はもともと低地には住まなかった、海に接ししていても低地には住んでいない、邪馬台国というのは台とあるのは高台のことである。水の危険を感じていたし低地は湿地帯などであり住むことができなかった。


もう一つは一刻も早く街から脱出すること・・・それは家が密集している街から脱出しろ・・・ということである。そこは火の海になったり建物が壊れその残骸が流れて危険になる。家の密集した所は災害のとき危険になる。ということは東京や大都会はもはや街から一刻も早く脱出できないからいかに災害に弱いかわかる。帰宅困難者とかあふれ大パニックになる。古い建物が密集しているところもあり神戸のように火事になったら最悪である。つまり東京などは山中や高台など逃れる場所がないのだ。津浪ではまだ後方に逃れる場所がある地域だったがと東京などは逃れる空き地もないし高台も山もないのである。その恐怖をリアルにイメ-ジしたら戦慄するだろう。今からでも東京を脱出しておく方がいいと逃れる人がいても異常ともいえないのである。すでに大地震が近々予測されているし確実なのだから。


今回の津浪のような大災害はやはり人間の想定を越えているから何らかの神意があって起きたのかと思う。原発のような危険なものを作るなとか日本人に対しての神からの警告だった。しかしなぜその警告をまた無視して原発を再稼働させようとしているのか?さらなる災害が今度は西の方に東京の方に起きることはまちがいない、日本人はまだ真剣に反省していない、最後のとどめをさす災害が起きる。そして日本は海に囲まれて逃れる場所がない、放射能でも狭い日本では逃れる場所がない、日本は滅亡してしまう。放射能で飢饉が起きる、日本で放射能汚染で食べるものがなくなる。それでも日本人は原発に固執する、映画で原発を神と崇めて滅んだ人々のように、あれはアメリカであった。
日本もまた同じ運命をだどる。核は軍事力としてもあり平和利用はいいとされたが核で滅びるというとき核戦争でも原発でも滅びることで同じだったのである。核そのものの利用が人類を滅ぼすことになっていたのだ。それにヒロシマの被害者は気づかなかった。原発に賛成していたのである。

 
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2012年03月17日

津浪で失われた風景 (春の海-海岸沿いをゆく-大熊-請戸)


津浪で失われた風景

(春の海-海岸沿いをゆく-大熊-請戸)


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熊川-請戸(写真)
http://musubu2.sblo.jp/article/17459204.html


過去の情報としてこれは貴重だった。熊川から海に出た所だった。ここは明かに津浪にやられた。
家もあったからその家も流されたし死んだ人もいるだろう。
浜通りで海をみて俳句を作っていた人がいた。農家の人だった。


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春耕や一時休み沖に船


耕しというのがあった。海辺の農家だったら海を見ている。そういう風景は普通にある。
海江田とか海田という地名はあっている。広島県安芸郡海田町があり海田駅もある。瀬戸内海辺りだとそれは日常的な風景だろう。この辺は海が荒いし海は親しみ安いものでもなかった。


ともかく大熊や浪江は警戒区域で入れないのだからこの写真は貴重である。熊川の桜も津浪で流されたかもしれないし人が入れない、請戸の港の写真も貴重である。あそこは一軒の家もなくなった。
土台しか残っていないことが信じられないのだ。この辺は全く春が来ない、春が失われてしまったのだ。

春耕がこの辺では見られない、南相馬市では耕作していないからだ。相馬市に行けばまだ春耕はありうる。いづれれにしろ海辺の方は津浪の被害で春耕という平和な景色は見れない、殺伐としているのだ。

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2012年03月11日

黙祷(震災津波より一年)


黙祷(震災津波より一年)

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津波より一年過ぎぬ亡き人の思いの深くここに留まる


志津川の湾の巌に大輪の浜菊咲きて夕べ明るし


北海道日本海側磯菊の咲きつづきつつ風の荒しも

震災から津波から一年たった。海の方に向かって黙祷した。故郷というとき今の時点だけではない時間がそこには積み重なっている。死者も故郷にいるのだ。墓参りの地として故郷もある。死んだ人とともに思い出がそこにあるのだ。だからなかなか故郷を離れられない、田舎だとどうしてもその土地に愛着をもつし土地と一体化する。長く住むとその土地の樹や石のらうになってゆく・・・それが生物として自然なのことである。そして故郷の土になる。時間のなかで積み重ねられたものはなかなか外の人には理解しにくいのである。だから旅してもその土地の歴史を理解することがむずかしい。特に外国にゆくとそうである。二千年の歴史があるといってもその場にたっても理解できないのである。それは東京にもう日本人だって江戸時代をしりえようがないのと同じである。余りにも変わりすぎてしまったからである。そうした時間として積み重ねられた歴史を奪ったのが原発事故でもあったのだ。

富岡町でまだ生活していた人がいた。90何才かの母親を介護しているから家で死にたいといっていたから家に留まった。原発事故では死んだ人は一人もいないというがその関連で百人くらい死んでいる。老人が衰弱して死んでいるのだ。自分の家も同じ介護があったから逃げられなかった。そのことを余り報道されていないのである。今回は実際はこれだけの被害だから報道されないことはいくらでもある。1万5千人も死んだらその一人一人が語られないからである。特別目立ったものしか語られない、そして数が多いからみんなに注目できないのである。
南三陸町というとき前は志津川町と言っていた。町名が変わったから今まであそこが志津川町だと思わなかった。町名が変わることも困る。川にちなんだ名前だがその志津川を津波がさかのぼったことを知ったから思い出した。南相馬市も名前が変わった時、何かしっくりこない、なじんでいないからそうなる。原町市というのがなじんでいたからその方がピンとくる。あんまり市町村名は変えない方がいいということがこれでもわかる。志津川町は志津川というとひびきが良くかえって前の名前が良かった感じがする。南三陸は広い地域にしたからわかりにくくなったのだろう。南三陸は他から見てわかりにくいのも難点だった。

津波はまず川からさかのぼってくる。多賀城の砂押川もさかのぼった津波を見たとき恐怖した。あの小さな川に津波の水があふれたのである。ここも真野川から津波がさかのぼりあふれるということがあったから恐怖した。それにしても志津川町は前が穏やかな湾で静かな町であった。陸前高田も大きな広田湾があり静かな所だと思った。それが一転して悲惨なもの凄惨なものになった。津波にとっては危険な場所だったのである。


志津川町で記憶に残っているのは巌に大きな白い浜菊が咲いていたことである。あそこでも長い間訪ねたことはないから記憶から薄れていた。だから南三陸町になったということがわからなかったのだ。海辺に咲く菊というときこの辺では南限の地として車輪梅が有名であった。それも根こそぎ津波でなくなった。それから北海道の留萌辺りを自転車で走っていたとき、磯菊が咲きつづいていた。
黄色の磯菊は日本海側にあった花だった。地に根を張り生命力がある花の感じだった。やはりその土地にあった花というのがある。車輪梅というのは奄美の方に咲く南国系なのである。

太平洋側の黒潮流域としてつながりがあった。これは明るい感じであり磯菊は何か渋い感じの花である。日本全国を旅ばかりしていたけどその土地にあったものが思い出となる。花もその土地にあったものだと思い出として残る。ただ思い出も日々薄れてゆくだけなのである。留萌辺りは風が強いことで有名な地帯だった。自転車で走るのには向いていなかった。それも記憶が薄れてしまったのである。これが車だとその風の記憶さえ覚えていないだろう。便利なんだけど記憶に残る旅をしないとあとでふりかえることもできなくなる。


震災から津波から一年たったけど自分の住んでいる場所は原発事故から30キロ圏から数キロ離れたところであり津波の被害もなかった。飯館村のように放射能の被害もあったにしろ故郷を離れるようなこともなかった。そういうことで比較的客観的に冷静に見れる立場にあった。だから俳句とか短歌を書けた。当事者の気持ちにもある程度なれた位置にあった。被害をもろに受けた場所にあったらこうして客観的に冷静になっていられなかった。現実に津波で家も家族もなくした人はその場に立ったら川柳も作られなかったのである。ものを書くにはやはり客観的にならないと書けないのである。
自らが過酷な被害者になると客観的になれない、いろいろ書けたのはそういう客観的立場にたてる位置にあったからでる。

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2012年03月10日

深夜にあの津波に襲われたら、死者は10万人に達していた (津波を見てから逃げて助かった人がかなりいた)


深夜にあの津波に襲われたら、死者は10万人に達していた

(津波を見てから逃げて助かった人がかなりいた)
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1331076028/

陸前高田にボランティアに行った
そこで地元の人の話を聞いたんだが
「生き残った人は津波を見て死に物狂いで逃げた人が多い

死んだ人は波を見ることが無かった人だ」と言うことだった


津波を見なかったので、最後までのんびりして死んだ人が多いらしい

そうすると波の見えない夜中は警察の言うように
死者は爆発的に増加したはずだ 本当に昼間で良かった


こういうこともあったんだな、磯部の人も一波の浪が防波堤を越えてから車で逃げた。他でも最初の浪は大きくない、でも浪が防波堤を越えて来たら即逃げないとまにあわない、津浪を見ようと海の方に行った人はかなりいる、津浪はなかなか経験したものしかわからないのだ。
テレビでは津浪を見てから必死に逃げていた人がいた。あれでも助かっている。津浪を見て必死で逃げれば助かることもありうる。津浪を見ない人は助からなかったということはわかる。
津浪が家にさえぎられて見えないので恐怖を感じず被害にあった人がいる。


海は今は松原や家や街にさえぎられて見えない場所が多くなっている。相馬から宮城の海岸線でも海が見える所がないから普通海を意識していないのである。山元町でもあそこであれほど被害にあったことに驚いた。そんなに海側に家があったのか、松原で海が見えないから普通海を意識していないのだ。駅には新興住宅地があったから家があったことはそれなりに意識していた。ただ海は意識していなかったのである。例えば今回のように松原も家もなくなり海が広々と見えるようになったとき、もし津浪が来たら肉眼で見て津浪を来るのを知ることができた。他の人も高い建物から津浪を来るのを見ていた。それでビデオにとっていた。その様子は危機感がなかった。、たいしたことないと見ていた。最初はみんなそうだった、だんだん高くなってきたので驚いたのである。


津浪に関しては経験がない人がほとんどだからのんびり構えていた人が多かったのである。だから海の方に見にゆくとなった。昼間だから津浪を見て裏山に逃げたりして助かった人はかなりいた。
裏がすぐ小高い丘になっている所がありそこに逃げて助かった人がいた。津浪が来るのを見えて家の裏山に逃げて助かった人もいる。昼間だから津浪が見えて助かった人は確かにかなりいる。夜だったら津浪が見えないから死者が十万人とかありえたかもしれない、夜はそれだけ津浪では危険だったのである。津浪に対する危機意識は低いから余計見ない限り逃げないという人もいた。


南相馬市の鹿島区の大内の人も右田浜の松原を軽く越える津浪を見てからトラックで逃げたと言っていた。これも津波を見てから逃げて助かった一人である。もし夜だったら逃げられず流されて死んでいたかもしれない、昼間だったということが幸いしたことは確かである。
つまり津波を見て逃げて助かった人がかなりいるということは夜だったら被害は十倍にも拡大していたということはありえる。考えてみると津波が夜来た場合の訓練をしていない、津波の避難の訓練は昼にしているからだ。こういう所も盲点なのである。今度は夜に地震がきて津波が来るかもしれないのだ。そういう備えをしている人は少ないのである。そしてまた大きな被害になる。
東京辺りでも夜に大地震がきて停電になったりしたら情報も入らないしパニック状態になり騒乱状態になり被害が拡大化する。懐中電灯すら探せず真っ暗な中で取り残されて津波が襲ってきたら最悪である。


ともかく現代は海が近くても海が見えない所に住んでいる人が多い、津波の映像でも家が密集しているから津波が襲ってくるのが見えないのである。松原によってもさえぎられているから遠くから津波が来るということは見えない、海は今は松原であれ家であれ高い建物であれさえぎられて見えないことが多いのである。海が近くても海を意識しないことが多いのだ。そこが盲点となり津波の被害を拡大化した。自分の場合、郷土史とか研究してここはもともと海であったとか常に書いてきた。その所が津波で海になったことに驚いた。もともと海だったところは何らか海として意識する必要があったのかもしれない、多賀城市でも東松島町でも自衛隊の駐屯地として海側に作ったのは失敗だったと今は反省している。ここでも津波の備えはなかった。ただ多賀城市では奥に入った地域だから津波は来ないとされていた。でもその見通しが甘かった。そもそも太古は海が深く入り込んでいた。それで沖の石があった。そこまで海の底だったのである。

そういう太古の状態があった。都会化したことによって海が見えなくなり海は意識されなくなっていた。多賀城市などは全く海を意識できなくなっていた。多賀城市の場合、駅前の砂押川に津波があふれたのである。この川はかなた海に近かったのである。ただ家やマンションやビルや工場地帯が密集しているから海の視界が全くさえぎられてしまったのである。川は津波では遡上してくるから危険だった。川を通路にして津波が遡上してくるからである。

今はどこでもそういうことがありうる。海は松原であり家であれ工場であれ何かそうした文明化したものによってさえぎられ見えなくなっている。海が意識されにくくなっているのだ。

海に囲まれた日本なのだけど意外と海の近くでも海を意識していないのである。海岸沿いに住んでいても海がさえぎられていることが多いと海を常に意識しているわけではないのだ。
ともかく江戸時代に松原を防潮林として作ったとき海への視界がさえぎられた。そのことを危険なものとして指摘する人はいない、松原は白砂青松の日本的風景として定着していたのである。
松原は美しいのだけど遠くから海が見えにくくなったとか気にしている、危険を感じた人はまれだろう。ただ津波がおしよせてからその津波を見て逃げて助かった人はかなりいる。津波は見えてから逃げても助かるということである。地震は見えないから助からない、津波は一応見えるので見てから逃げて助かる確率があるということなのだ。

津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌
(南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)

http://musubu.sblo.jp/article/54362182.html

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2012年03月09日

津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌 (南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)


津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌

(南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)

●津浪で意識させられた海

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八沢浦の夜雨  磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ


長岩の晴嵐    雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風


南相馬市の鹿島区の八沢浦は歌枕として注目されていない、地元の人でも注目していない、ただ今回の津浪で八沢浦が元の満々と水をたたえた入江にもどったときほど驚いたことはない。前からここは海だったと想像してその合成写真も出していた。実際に海になったときは想像を越えていた。
浪が奥に打ち寄せキラキラと春の光にきらめいていたのである。この光景を見たのは一回だけだった。浦浪というのをここではじめて見た。この辺は海岸沿いは荒波しかないのである。だから入江があり浦浪がよせる景色はなんとも穏やかで美しいものだった。それは一時奇跡の光景だった。
ここは明治になってから開拓されたのである。


磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ


磯というときこれは入江が磯となっていたのだろう。この辺では磯はない、浪のうきねというとき入江によせる浦浪だった。そもそも磯桜という表現はあまりしないだろう。これを歌った人はやはり海辺の磯のある所に住んだいた人なのか?京都の人でもそういう風景に親しんだ人かもしれない。
浦浪がよせてきて旅人は興奮して眠れない、そういうことは旅では良くある。桜が咲いていたということは美しい光景だった。それは入江があり浦浪がよせることで美しい光景となっていたのである。長岩というのも海に浮かんでいた。確かに長い岩であり松がその上に今もある。
みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを・・笠女郎の歌の草原も地名だと考証した。その塩崎の市庭とか船着という地名が残っているところまで津浪が来たことには驚いた。古代の海の情景を津浪が再現したのである。


八沢浦は八つの浦だった
http://musubu2.sblo.jp/article/44187778.html


今回の津浪の影響はより海を意識するようになった意識させられたのである。海は別に近いのだから特別意識する必要もないというが常磐線で海が見える所はわずかだから電車に乗っても海を意識しない。相馬から仙台で海を意識するのは新地駅だけどそこもわずかかしか海が見えないのだ。今回の津浪で六号線でバスでゆくと広々と海が見えるようになった。今までは町や松原でさえぎられて海が見えなかったのである。浜吉田とあっても浜だから浜があるはずだけどあそこで海を意識したことは一度もないのだ。海はかえって遠くにあると思っていたのである。その浜吉田駅まで津浪が来たことには驚いた。昔は広々と仙台までの常磐線沿いは海だったのである。


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六号線のバスから海の方を見たら沖に船が見えた。まずこうした景色は見れなかった。海は近くても見えなかったのである。景観が変わってしまって海が広々と視野に入ってくる。一面この光景は海を意識させるし新たな景観を作り出したというより元の海の景色を再現したといえる。


●末の松山をたずねる


末の松山は多賀城駅から近い、多賀城駅まで津浪が来たのも驚きであった。今度は高架橋を作り駅を作っていた。末の松山は砂押川の橋を渡り近かった。駅からもその松山が見える。末ノ松山から沖の石まではかなり落差があり末ノ松山の下が海でありあの石が沈んでいたのだろう。その感覚はやはり歩いて見ないとわからない、あの辺には古い農家があり蔵が残っていたからわかった。そこにも津浪の被害があった。新しい街並のなかに古い農家が埋もれていたのである。津浪でも蔵はここでも残っていた。


春の暮末の松山残りたる松二本や浪こさじかも


享保四年(1719)の「奥州観蹟聞老志」に「丘上有青松数十株」とあり、当時、数十本の松が群生していた。しかし、仙台藩の儒学者舟山万年が著した「塩松勝譜」によれば、それから百年ほど後の文政六年(1823)ごろになると、わずか五本を残すのみとなった。

末松山(末音寿衛)。附宝国寺。八幡坊々側寺アリ。宝国寺ト云フ。寺後ニ高丘アリ。累々墓ヲ為ス。是末松山ナリ。往時ハ松樹、山ニ遍満ス。今存スルモノ僅カニ五株。而シテ其最モ東ノ一株、之ヲ末松ト称スルナリ。
(「塩松勝譜」)


多賀城は高いマンションとか工場地帯でありここは確かに太平洋汽船の船がでているから何度も利用したにしろ多賀城でもビルや家にさえぎられるから海を意識しない。海が全くさえぎられているし海が見えないから海を意識しないのである。だからあえて歌枕の地でも訪ねることはなかった。そういう情緒がまるで感じられないものとなっていたのだ。それはすでに江戸時代にも古代の面影はなくなっていた。あの辺で古代を感じることはほとんどなかった。ただ今回の津浪で古代の海を意識するようになったのである。多賀城駅の前の砂押川にも津浪が押し寄せて被害があった。津浪はまず川をさかのぼる。それでこの辺でも被害があった。この川は実際は海に近いからかなりの勢いで津浪が押し寄せた。それではじめてこの川は海とつながっているのかと意識した。普通あの辺は住宅が密集してビルが高いから海を意識しないのである。つまり今回の津浪は今まで海を意識しないところが海を意識させられたのである。だから砂押川に鴎が飛んでくるとき海が近いから当然鴎が飛んできてもおかしくない、鴎も津浪と同じ様に川をさかのぼる。それで枯葦がしげっていたので古代の風景を思い浮かべることになったのである。今まではこの辺は何か都会化した殺風景なものとしてしか見ていなかったのである。


枯葦に昔の面影砂押川


早春や多賀城駅に鴎飛ぶ

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こんな句ができたのも津浪の影響だった。それから野田の玉川の昔の光景も浮かんできた。


ゆふさればしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり 能因


ふままうきもみぢのにしきちりしきて人もかよはぬおもはくのはし (山家集-西行)


仙台藩の儒学者佐久間洞巌著「奥羽観蹟聞老志」(享保四年<1719>刊)によれば、「野田の玉川」は、往昔、月影を映し、海水が遡る河流だったが、当時、既にその面影はなく「唯野田の溝渠(みぞ)を遺すのみ」の小流になっていたという。


「思惑の橋」というときここがすでに人間臭い橋となっていた。でも古代は淋しい風景だった。
潮風が吹き千鳥が鳴くのみの淋しい光景だった。そういう光景をこの辺からは全く思い浮かべることもできなかった。情緒が全くない景色だったのである。まず潮風自体感じないし吹いてこないのである。津浪で見直すべきは多賀城を中心とした地域は海に近く海を意識しないでは語られないものだったのである。だから浮島神社があるというのもそのためである。多賀城近くに海に浮かぶ島があったのである。そしてなぜこれほど末ノ松山とかが都の人に意識されたのか?

それは貞観津浪というのは赴任した都の人にとっては驚くべきものであり忘れられないものとなっていたから京都に伝えられた。貞観津浪の供養のために祇園祭りがあったということもそのためである。それだけこの津浪は衝撃的だったのである。

宮城野というともともと淋しい地域だったが宮城野には全くその面影はない、でもそこから小鶴新田まで来るとまだ野が広がっている。宮城野延長としての野の感じがまだ残っているのだ。ここからは雪の残る泉が岳も見えて気持ちよかったここで意外な発見は古歌が残っていた不思議である。


千歳ふる 小鶴の池も かわらねばおやの齢(よわい)を 思いこそやれ (源重之集)


こんなところに新興地にこんな古い歌が残っていたのが不思議である。小鶴の池は変わらないけど親の齢はたちまち変わり老いるものだという意味だろう。しかし今や小鶴の池はないしその自然こそまるで変わってしまった。古代では自然の変化はすくないからこの歌ができたのである。つまり自然は変わらないものだが人間は変わるものだというのが古代の常識である。今は自然の方が先に変わる。
小鶴新田辺りから多賀城辺りまで今も田野が広がっているからかえってあの辺が古代を偲べる。多賀城市は家が密集してビルが高いからかえって古代を意識できないのである。歴史はやはり地理であり原始の状態からその歴史をたどる必要がある。それが都会化するとできなくなるのだ。今回の津浪はそうした古代の情景が再現されて海をより意識させられたのである。


仙台から小鶴新田で途中下車(仙石線の旅)
http://musubu2.sblo.jp/article/29398767.html

 
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松島は大きな島が防波堤になり被害が少なかった (松島は普通に観光できる)


松島は大きな島が防波堤になり被害が少なかった
(松島は普通に観光できる)

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松島の地形は複雑であった。200くらいの島がありその位置関係がわかりにくいのだ。松島の津浪の被害は少なかった。今行ってみるとどこが津浪の被害を受けたのかわかりにくい、石巻とは大違いである。観光に行っても別に悲惨な状態がないからいつものとおり観光できる。それでも観光客が半分に減っているという。その原因が津浪というよりは原発の放射能の風評被害だという。放射能の方を怖がっている。これも変だなと思った。ただ牡鹿半島から一関の方に放射性物質が流れ一関にホットスポットができたというのは風の流れでそうなったのである。風の影響でとんでもない遠くに影響するのが放射性物質の流れだった。

それにしても津浪は瑞巌寺の門を入ったが本堂に入る入り口の入場券を売るところでとまっている。あの辺までしか来なかったのかという意外さである。地図を見ればわかるように宮戸島や寒風沢島とか大きな島がありそれによってさえぎられたのである。あれは島ではなく半島かと思っていた。

この辺の地理はわかりにくい、地図を見れば確かに松島はこの大きな島によって守られていたのだ。一方宮戸島や寒風沢島とか防波堤の役割をした島はそれなりに被害が大きかった。
そして多賀城市もかなりの被害があった。前に島があっても宮戸島や寒風沢島のような大きな島ではなかった。それでそれなりの被害があった。塩釜も被害があったがここは多賀城市の隣でも入江となっていたので津浪の勢いをそいだ。津浪は地形によって被害が違っていた。前にちょっとした丘のようなものがあっても津浪の勢いがそがれる。津浪をまともに受けた海岸線は壊滅した。


松島の人が言っていた。風呂の水があふれるように津浪が来た。なるほどと思った。もろに津浪が根こそぎ松や町を破壊したりしなかった。徐々に水があふれ水かさがましてゆく、1.2メ-トルくらいの高さで確かに松も水にくぐったとしても松は倒れなかった。水の勢いがただ風呂の水があふれるように徐々にあがっただけだったからである。石巻の方を見れば前に何もない、海の前に島もなにもないからもろに津浪を受けて被害が甚大なものになったのだ。津浪の被害は今でも凄惨な感じがする。相馬辺りでも磯部は一軒も家がなくなった。石巻でもそうだが凄惨なものを感じてしまう。

しかし松島はそういう凄惨も被害はない、どこが被害にあったのだといぶかる。海に面した松や樹が倒れて流されたというがそれもほとんどわからないのだ。松は今まで通りあるからどこが被害にあったかわからない、牡蠣は被害にあって半分にへったという。今までは大きな牡蠣を出していたが小さな牡蠣でまずかった。そういう影響はあった。風景そのものは何ら変わっていないからほっとした。ちょうど春の日がさしていて海は穏やかに輝いていた。松島だけは地形によって救われた感じだ。

野蒜海岸でも前に大きな島がないから大きな被害になった。あそこの松は流された。

いづれにしろ松島は別に観光でも普通に行けるし違和感がない、石巻などは観光というわけにはいかない、まだ凄惨な感じが生々しく残っているからだ。それであそこだけは救われた感じがした。
風光明媚な風景は何ら変わっていなかったのである。

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2012年03月01日

津浪で流された家の跡に残っている二本の木の不思議 (春の日に金沢や烏崎をめぐる)


津浪で流された家の跡に残っている二本の木の不思議

(春の日に金沢や烏崎をめぐる)


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小高工業のプレハブ校舎

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一葉松

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港の松
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公園に三本の木春日さす


街離れ一葉松や残る雪


春の日や勢いよくも鵜の飛べり


人はなし港の跡に春の鴨


春の日や港の跡に松二本


二本の木の残るかな家の跡人は帰らじ春となるとも


どういうわけか津浪の跡をめぐると必ず家の跡に二本の木がある。対になったように二本の木が残っている。一本ではなく二本なことが不思議なのだ。松も一本のところがあるが二本が対になって残っているのがある。そしてその木や松はあの脅威の津浪のことを語っているようだ。生き残ったものとして語っている。つまり生き残った松は貴重なのである。戦友のように生き残っている。
高田の松原の松はついに一本残った松も枯れる。全滅してしまったのである。その凄まじさは言葉にならない。ともかく庭とか家の回りにあった木なども自然の木とは違っていたのである。
それは人間化した木や松だった。ペットもほとんど人間と同じだから介護までしてその施設まである。野生の動物とは違う、人間化した動物である。庭の石だって人間化した石である。だから突然家も家の人もいなくなって唖然としている。それにしてもなぜ二本の木なのだろうか?偶然とも思えない、何か夫婦のような感じもする。だから二本なのか?

鹿島区烏崎の港は全滅した。一軒の家も残らなかった。それなりに船もあり魚もとれた。津浪を記念したという津神社も跡形もない、ただ今は鴨が港に浮かんでいる。鵜が何匹か勢いよく陸地の方に飛んで行った。廃墟と化した港に鴨が浮かんでいる風景も不思議である。季節はめぐって春となったが荒寥とした風景は変わらない、烏崎の港などは復興するのか?公園のようになってしまうのだろうか?とても住民が前のように帰って住み漁業をするというわけにはいかないだろう。松川浦辺りは漁船の数が多いからいづれ漁をはじめるかもしれない、それも原発事故の影響で先が長い、それでも二十軒の旅館が半分がはじめたということはそれだけまだ家があそこは残っていたのである。

原町の六号線のゴルフ場に小高工業高校のプレハブ校舎が建った。今日は卒業式でばらばらにしていた。今度はここに集るのだろう。小高は警戒区域でもさほど放射線量が高くないのだから帰れると思うけどどうなっているのか?仮設に住めるのは二年である。仮設に住んでいてもその回りの地元の人には迷惑だという面もある。その一番の要因が働かずに遊んでいる、パチンコやサウナに昼間から行って遊んでいるというふうに見られることなのだ。回りの人は普通は働いているからそういわれる。働かない限りまた地元に定着するということはない、そういう落ち着かない状態を仮設は作り出している。だから肯定的に見られないのである。

今日はあたたかかったから金沢から烏崎と回ってきた。あたたかくなると遠くまで行ける、でもなんかあと疲れる。


 

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2012年02月11日

東北の太平洋岸は一つのつながりある地域だった (津浪の共通体験でそれがわかった)


東北の太平洋岸は一つのつながりある地域だった

(津浪の共通体験でそれがわかった)

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雪残る鳴瀬川や朝の海


冬鴎車窓より見て亘理かな


どうしても津浪とか原発事故がクロスオ-バ-してくる。これはさけられない、その影響は余りにも大きかった。石巻の津浪の被害は甚大だった。宮城県は津浪に関しては被害が福島県より何倍も大きい。石巻でも市街が津浪の被害にあった。そこから牡鹿半島の小さな漁村もみな津浪の被害を受けた。宮城県は港が多いから津浪の被害が大きかった。福島県は浜通りでも津浪の被害あっても原発事故の被害の方がずっと大きかった。その相違があった。亘理駅で鴎が飛んでいるのを見たとき、あまりみかけないけど鴎が飛ぶということは海が近いのである。ところが常磐線でも電車から海が見えるのは新地町だけであり他は見えない、するとこの辺に住んでいる人でも海を意識しないのである。
浜吉田という駅があったけどここで海を意識したことはない、その駅まで津浪が来ていたことには驚いた。海が近かったのである。亘理もそうだし岩沼もそうだったし名取もそうだった。だから鴎が飛んでいるのを見たとき海が近いと今度は意識したのである。


鳴瀬川にひかれるのは名前がいいからである。何かリズムカルであり響きがいいのである。そしてこの川が海に注いでいるということで気持ちいいのである。この川はまた電車からもバスからも見えた。バスは高速で行くので海を見えるところにはとまらないが鳴瀬川は見えた。それほどの被害はなかったのかただ松原が半分くらい残っている。やはり津浪の衝撃は他より弱かったのか、名取から相馬から磐城など松原は根こそぎ流された。陸前高田でも松原が全部流された。あそこには湾があっても衝撃が強かった。津波の強さは地域によって違っていた。それは地形と関係していた。ともかく今回の津浪の被害は青森県から岩手県から宮城県から福島県と広範囲だった。一番被害が大きかったのは宮城県だった。津浪の被害は一度その場に立てば実感する。テレビとかで見てもなにかもう一つ実感しないのである。津浪の被害の跡に立つと荒寥としたものを一段と感じる。それはテレビで見ているのとは違っている。体全体で感じる荒寥感である。石巻はそうだった。


今日の一句一首も津浪や原発事故とは関係ない平和なときの営みである。でも津浪の被害や原発事故はあらゆるところに影響した。自然の見方自体変わったのである。自然そのもの地形すら変わった。あらゆるものがその影響からまねがれることはできない、地形的には福島県の浜通りは宮城県の海岸沿いの港とかずっと海を通じて関連していた。それが津浪で同じ海側に面した共通性を認識したのである。三陸の津浪は三陸独自のリアス式海岸だから津浪の被害が大きくなるということは何度も言われていた。でも名取など平地はそれほど言われなかった。でも名取には津浪の被害が前にもあり伝説も残っていたし最近では地下の土を採取して津浪が奥深くまで津浪が来ていたことが証明されていた。そういうことに福島県浜通りでも無関心だった。隣合っているのに無関心だった。福島県とか宮城県とかはあくまで人工的に作られた境でありそういうものにこだわるより自然の地形的な連鎖反応が大事だった。福島県浜通りは明かに海側として海岸線として共通の自然の地形の中にあった。地形の一体感があった。山国は山国でありそうして海を通じた地形の一体感はない、ただ海側でもそうして広い範囲の一体感を共有していなかった。三陸には津浪が来るが仙台から福島県などの平地の浜通りには来ないとか安心していたのである。歴史的人工的な世界観より自然の形成された世界観が必要だったのである。


三陸などは宮城県、岩手県の海側は漁業が昔から産業だから海と密接にかかわり生活していた。宮城県の仙台辺りから名取、亘理、福島県の浜通りは漁業が盛んでないから海と密接にかかわるという生活ではなかった。むしろ仙台や名取でも米を作る開拓地として意識されていた。でも松川浦では津浪が来るときは沖に船を出した方がいいと言い伝えがありいち早く船は沖にだして助かった。海とかかわっているからそういう言い伝えがあった。でも郷土史で津浪の言い伝えをほとんど聞いたことがない、ただ最近地下の土を採取して津浪が相馬の奥深くまで来ていたことがわかった。そのことを一時時事問題の深層に書いたことがあった。だからその時自分も多少津浪のことを意識したけどこんな津浪が来るとは思いも寄らなかった。だから郷土史なども狭い範囲だけの研究では役に立たないということもあった。自然の上に人間の歴史があるとき、相馬藩が成立したのは400年前くらいであり確かにその時、慶長三陸津浪でここも700人死んだとか相馬藩政記に記録されていた。記録は残っていたのである。ただ詳細な記録とはいえず見逃していた人が多いだろう。でもそれは大きな事実の記録だったのである。他に何か明確な記録がないとしたら記録されただけで貴重だったとなる。
今回の津浪は東北の太平洋岸が自然的一つのつながりある地域だったことを認識した。津浪で共通体験したからそういう意識が生まれたことは確かである。


 


スマトラ津浪の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録) 2005
http://www.musubu.jp/jijimondai25.htm#suma

わが町(亘理)に「三十三間堂遺跡」というのがあります。小高い山地に整然と並んだ礎石群があり、当時は多賀城に陸奥国府が置かれ要所に郡衙(グンガ)と呼ばれる出先機関があったようです。その中でも最大規模のものだったようです。敷地は10万坪以上の広大さで、礎石群から数百メートル離れた雑木林に政務を司どった正殿の柱穴などがあって確定されたということです。礎石群の用途はそこに倉庫が建っており、税として集めた米倉だったというのです。
現在は陸地であるにもかかわらず、「島」という地名がたくさんあります。愛島、笠島、小豆島などなど、これらはかつては海岸線が奥地まで侵入していた時代の名残を示すものだと思っています。近くの貝塚を見るたびにこんなことを考えてしまいます。


亘理に住んでいる人の日記に書いてあった。亘理から逢熊駅にとまるとそこの小高い丘に確かに「三十三間堂遺跡」と案内板があった。国府の多賀城が津波に見舞われたからその教訓から高い所に郡衙を作ったのか、それはわからないにしても確かに島という地名はかつてはそこは島だった可能性がある。海が深くは入り込んでいたからだ。その入江のような所に島が浮かんでいた。そういう光景は日本には多かった。大坂湾も古代には八十島が浮かんでいた。日本は島が多い国なのだ。それにしても相馬にもこの大津波が押し寄せてきたことには驚きだ。最近やたら地震がつづいているので不安になる。こんな千年に一回とかいう大津波を警戒することはむずかしい。それでも日本地震国だからこうした記録が残っているのだ。これは丁度大和政権が多賀城を築き蝦夷を征服しようとする最中であったからその様子が伝えられ記録に残った。そうでなければ文書としては残らず伝説になったかもしれない、国というのは歴史を災害でも記録するという役目があったのだ。今回のスマトラ大津波についてはツナミということばさえわからない世界だった。ツナミは世界の言葉になっているごとく日本から生まれた言葉なのだ。津波もまた身近なものだった。

 



これを書いてから6年後に今回の大津波が起きた。この時もっと日本でも警戒するべきだったのである。世界的に陸はつながっているのだし海側はやはりつながりが深いのである。


 

posted by 老鶯 at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年02月08日

石巻の津浪の被害を見に行く(短歌十首)


石巻の津浪の被害を見に行く(短歌十首)

 

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袖の渡しの松は残っていた

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この松は枯れるだろう
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遠くに田代島-網地島が重なり見えた



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この寺だけが残り前の住宅地は壊滅した

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千人風呂とあるからまだ風呂に入れない人がいるのか?
共同の風呂なのか?



冬鴎車窓より見て亘理かな


風花や仙台の通り鳩歩む


松二本根元結ばれ冬深む


津波後冬満月の照らす海


冬満月海を鎮めむ津波跡


(袖の渡し)


津波にも残れる松や我がよりぬ袖の渡しや冬の日暮れぬ


石巻悲しみ深く冬の暮残れる松に我がより去りぬ


この河を津波上りて大川の小学校の悲劇語り継がれむ


(日和山)


日和山松風鳴りて残る雪かなたに重なる島二つかな


冬のくれ牡鹿半島の小さなる島一つ見ゆ日和山かな


みちのくに我が住みにつつ日和山冬に上りて沖に船見ゆ


日和山松の太しも船を待つ冬にしあれど我がより去りぬ


日和山上りて遠く松島の島一つ見ゆ冬のくれかな


石巻海の光りて冬の暮日和山に松風鳴りぬ


日和山松島近く瑞巌寺ありしを思ふ冬のくれかな


 

凄まじき津波の跡に墓残り松風鳴りて冬の日暮れぬ


街中を津浪の襲う石巻傷跡深く住む人語る


津浪にて流さる家のその跡やたずねてあわれ北風の鳴る


石巻なお死ぬ人ありにしと傷跡深く冬の日暮れぬ


石巻相馬の津浪語りつつ北風鳴りぬ海に面して


生き死にのくりかえしつつ人の生津波襲うも定めなるかも



石巻まで行ってきた。津浪の被害のことはその場にたたない限り実感がわかない、テレビで見ていても実感がわかない、テレビでも写真でも一部を切り取ったものであり実感がわかない、人間はやはりその場に立てば五感が働く、視覚だけではない、情も働く。自然でも人間でも物でも人間の情がうつる、反応する。だから津浪の被害は確かにテレビで見ただけで写真でも悲惨なのだけど本当の実感はその場にたたないと実感できない、感覚的にわからない。物見遊山で観光で津浪の被害を見物すべきではないというのも言える。でもそもそも津浪の被害のひどさはその場にたたないと実感できないのである。それで石巻に行ったのは自分で確かめてみたいからだった。北上川沿いは意外と家が残っている感じだった。実際は土地の人からすると当時はひどかった。空き地になっているところ結構あるけど家も結構残っているなと感じた。近くで村自体消失した一軒も家がないところを見てきたので特にそう思った。松川浦とにている。山陰の所は家は残っていた。


でもあの川沿いを上って大川小学校があり悲劇が生まれた。津浪で川は危険である。でも川沿いに意外と家は残っていた。津浪は一回だけではない、何回も来る。一回目はたいしたことがない、そのあと大きなものが来る。石巻でも何度も津浪がきた。あとのほうが大きくなった。磯部でも最初たいしたことがなくて油断した人がいた。水があがってから車で逃げて助かった人がいた。津浪が来てから助かる人もいる。日和山の海岸に面した所は全滅だった。昼間で働いていた人たちも犠牲にあった。水産加工場が多かった。車で逃げた人も死んだ。やはり渋滞になったらしい。後ろの日和山に逃げれば良かったように思うが車だと物を積めるから車で逃げたのかもしれない、着の身着のまま逃げるというより何か車に積んで逃げようとしたときそれが徒になったのかもしれない、日和山がすぐ後ろにあるのだから歩いて逃げた方が助かった。ただあの辺の状態がどうなっていたのかわからない、寺が一軒あり無残にそこは墓だけが辛うじて残っていた。あとは家は全滅だった。寺は墓を守っているのだから墓は残ったといえ肝心の家は全滅したのである。あそこは一番悲惨だった。墓が残るより家が残ってほしかったと思っているだろう。


日和山の喫茶店で話ししたが高いところは何ら被害受けなくて良かったですねと言ったらみんな被害にあった人と関係しているからそういうことはない、下の水産加工場に勤めていて死んだ人もいる、今日も死んだ人の所に行くとか言っていた、まだそうして死ぬ人がまだいるということである。だからまだ観光というわけにもいかない、日和山の下には多数の死者が出たから手を合わせる、供養しなければならないような状態である。ただ日和山にはいい松があり景色もいい、宮城県沿いの石巻までの海岸線の松は全滅というのではない、半分くらい残っているみたいだ。石巻でもそっくり松原が残っていた。衝撃がそれほど強くなかったのか?相馬の方の松はほぼ全滅だった。ただ宮城県は全般的に福島県の浜通りより津浪の被害は大きかった。海岸に面した地域が多かったからである。石巻の被害は街の中まで及んだ。駅まで津浪が来たというのには驚いた。それだけ広範囲に津浪が来たし人家が多いから被害も大きかった。店を閉めたり空き地化している所も所々見える。こんなところまで津浪が来たのかと驚く。だから石巻はもう十年くらいは津浪の被害が尾をひく、神戸でも十年かかった。まず津浪で全滅した海に面した所には前のように家はたたないだろう。そうするとそのまま生々しい津浪の跡がそのままに残ることになるのだ。だからまだ観光で訪ねような場ではない、日和山の下で多数の死者がでている、その上で観光気分になれないし地元の人もそんな気持ちになれない、供養するとか寄付とか復興の応援をかねて訪ねるようになる。でも日和山からの風景は実にいい、その美しさまで否定することはないだろう。


今度はなんとか相馬-原町間が電車が通るようになったので遅く帰ることができた。バスの外は冬満月だった。海が近くなったから海を照らしていた。月でも地球に関係しているかもしれない、天体が地震とも関係しているかもしれない、月も太陽も星も宇宙も全体として関連している。ただそれがまだ人間はすべてわかっているわけではない、だからこそ想定外のことが起こるのだ。ただ津浪も人間が縄文時代から生死をくりかえしてきたなかで必ず津浪は何度も来ていたのだ。それは海側に住むものの定めだったのである。そういう自覚がいつのまにか忘却してしまったのである。

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2012年01月29日

慶長時代は連続して大地震が起きた時代 (会津の大地震の三日後に慶長三陸地震で津波の被害)

 

慶長時代は連続して大地震が起きた時代

(会津の大地震の三日後に慶長三陸地震で津波の被害)

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慶長地震とは一つの地震ではなく、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称だった。更に正確に言うと、文禄5年9月1日、4日、5日と大地震が連続したので、慶長と改元したが、その後も地震が連続したのだそうだ。慶長地震(ウィキペディア)から抜粋する(ココ)。



・慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線における地震。
・慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、豊後国をおそった地震。M 7.0〜7.8、死者710人。中央構造線と連続している可能性がある別府湾・日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震である。
・慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。六甲・淡路島断層帯における地震とされる。上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。
・慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少なかったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万人を数えた。
・慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者3,700人。
・慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1。実際には千島・色丹沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。


この地震において、現在の三陸海岸一帯は強震に見舞われたが、太平洋側沿岸における震度は4 - 5程度と推定され、地震による被害はほとんどなく、津波による被害が大きかったことから津波地震と推定されている。この地震による津波被害は「慶長三陸地震津波」あるいは「慶長三陸津波」とも呼ばれている。さらに、この地震の7年前には同じく津波地震と考えられ、東海・東南海・南海のトラフ寄りが震源とされる慶長地震があった


『駿府記』には伊達政宗に献上する初鱈を獲るため侍2人を遣わし、漁人らは潮色が異常であるとして難色を示したものの、「主命を請けて行かざるは君を誣するなり、止むべきにあらず」とて出漁した漁人らは津波に逢い漁人の生所なる山上の千貫松の傍に流れ着いたが、家は一軒残らず流失したとある[1]。この『駿府記』にある「松平陸奥守政宗献初鱈、就之政宗領所海涯人屋、波涛大漲来、悉流失、溺死者五千人、世曰津波云々」が、文献に現れる最古の「津波」という語句の記述とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%B8%89%
E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87


慶長三陸津波の後、仙台平野において塩害で約10年間経過しても米が収穫できず、名取郡の農民が仙台藩の奉行に年貢の申上状を提出したとされる。



慶長会津地震

慶長16年(1611-9月27日)に大地震があった。この地震のときには盆地の真ん中に湖ができ、柳津の虚空地蔵様をまつったお堂は只見川に転がり落ちまた鶴ヶ城の七層の天守も大きな被害を受けた。鶴ヶ城の天守は慶長の大地震で大きく傾き石垣はすべて崩れ落ちた。明成は領民に大動員をかけて七層の天守を今の五層に改めほぼ現在の鶴ヶ城の規模を作り上げた。


慶長時代にこれだけ地震が起きていた恐怖である。地震は連続して起こる。巨大な地震が起きるとき大規模な地殻変動が起きているためなのだろう。こんなに連続して地震が起きる。この辺は今でも地震が起きつづけているし関東でも地震が多いから4年内に大地震が来ると警告を出した。


相馬市と南相馬市の烏崎の津神社について書いたが津波と表記されるようになったのは慶長三陸津波からである。だから津(津の宮)神社となった。津波神社を約したのが津神社なのだろう。なぜならそれまでは津波という表記はなく海嘯とか別な表記だったからである。津というのは日本独自の地形であり津に入ると波が急激に高くなるから津波となった。津々浦々というように日本にはそういう地形が多いためでありそれが津波の被害を増大させたためである。

慶長時代に慶長会津地震があったというのも驚きである。これは慶長三陸地震の津波の起きた地震ではない、慶長会津地は慶長16年(1611-9月27日)に大地震があった。慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日であり同じ年でも三ケ月後だった。でも三ケ月後というのは短い。4-5年おきに大地震があった年であり関東地方に4年後に大地震が起きるという推測はこうした過去の記録も参考にしているのだろう。
 


慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0
慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、M 7.0〜7.8、死者710人。
慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、
             京都や堺で死者合計1,000人以上。
慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総               沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少な             かったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万
慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地                                   震でM8.1。


(1596)年9月1日-(1596年)9月4日-(1596)年9月5日-(1605)年2月3日-(1611)年9月27日-(1611)年12月2日



3日後に大地震が連続して起こった。10年後にまた起きた。地震はやはり連動しているのか、地下で地殻がつながり影響しあっている。地殻変動が活発化するときは全国に及ぶ。会津でも大きな地震があり地形が変わり湖までできたことには驚く。七層の黒川城も五層に改築された。それは地震の影響だったのである。城でも日本は耐震構造にしないともたない、石垣がすべて崩れ落ちたというのも凄い衝撃だった。今の五層の会津城が地震の影響でそうなったということをふりかえればまた別な見方がでてくる。会津でもこれだけの地震の被害がありその三か月後に大津波で仙台でも相馬藩でも大被害を受けた。十年間塩害の影響があったというのも十年間くらい塩害をとりのぞき元にもどすのにかかる。ただ現代は技術が発達しているからそれよりは短くなるだろう。ともかくそういう一時代のことが今やよみがえってきているのかもしれない、だから全国的に地震の警戒状態に入る。ここ十年間でまちがいなく巨大地震が起きる。。過去の記録をないがしろにしていた結果として今回の津波の大被害があった。この辺でも四百年前に大津波の被害を受けていた。そういうことはほとんど語られなかった。しかし慶長時代は全国的に大きな地震が連続して起きた時代だった。たからこそこの時から津波という言葉が定着したのである。


   七層の黒川城の崩れたり五層に直して今にあるかな

七層の黒川城
http://www.asahi-net.or.jp/~de3m-ozw/0aizu/0byako/oshiro/oshiro00.htm

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2012年01月28日

津波で消失した風景の不思議 (北右田の蔵は残った-磯部の船溜は消滅)



津波で消失した風景の不思議

(北右田の蔵は残った-磯部の船溜は消滅)

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流された家を配置 クリック拡大!
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クリック拡大!

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磯部の船溜-バス停には船溜とあった


蔵二つ津波に残り冬の暮


御堂一つ部落に残り冬の暮


津波跡残れる樹々や山脈を望めば雪に北風鳴りぬ


思ほえず死にしものかな庭の石残りて一つ寒さ身にしむ



あの辺は家は少ないけどまばらにあった。公会堂もあり一つの集落ではあった。でも残ったのが蔵と御堂だった。家も残っていたがコンクリ-トの家をのぞいて壊したのだろう。蔵はそっくり残っていた。やはり蔵は頑丈なのか?火事でも蔵は残る。防火用として蔵は建てられた。ただ蔵でも蔵のあった家は流された。多少海に近い方だったからか、あの蔵は頑丈でない蔵だった。写真が残っていたので元あった所に写真を配置した。実際は道に沿ってあった。それにしても残った二つの樹がまるで門のようであり御堂が残っている風景も不思議である。今日は部落の人がみんなでかたずけをしていた。まだまだかたずけるものがあるのだ。土に埋もれているからだ。それにしても御堂が残ったりしたけどあそこの集落は前のように復興できるのだろうか?もともと家が少ないからどうなるのか、何か残された風景を見ると不思議である。蔵が残り御堂が残り樹が残った。何か集落の骨格だけが残ったような不思議さがある。烏崎村では大きな庭の巨岩が一つ残った。あれも不思議な光景である。

今年は寒い、その寒さが荒寥とした風景の中で身に沁みる。人間も相当数死んでいるから余計に荒寥としているのだ。

松川浦の磯部の方の船溜も壊滅した。写真は鮮明ではないがあの辺の家は全滅して一軒も残っていない。土台しか残っていない、磯部は一番悲惨だった。写真は鮮明ではないが貴重になった。磯部には家が多かった。その家が跡形もなく土台だけを残して壊滅したのである。松川浦の原釜とか旅館のあるところはまだ家が残っているが磯部は一軒も残らないから悲惨だった

津波で残った烏崎の庭の大石
http://musubu2.sblo.jp/article/50543018.html


1月27日


津波で消えた松原の写真(南相馬市右田の松原など)

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車輪梅で有名だった海老と右田の松原
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岩沼の海岸から仙台の方を望む
この辺は松原がつづいていた

これは2010年にとっていた写真である。時系列に並べて調べてみたらでてきた。津波で失われた風景はかなりある。警戒区域で立ち入れできない所の風景も今は見れない、原発事故でも風景自体が失ったわけではないから高瀬川渓谷などは別に警戒区域が解除されれば見れる、放射能を度外視すれば風景自体が失われてはいない、津波では風景自体が失われた。陸前高田市では7万本の松が流され一本残った松もかれてゆく、この辺ではまだ多少松は残っている。それでも右田の松原とか松原自体はどこもなくなり景観は失われたしもはやもどってこない、松原がなくなると思っていなかったから写真もとっていなかった。ただこの時松原に雪がふりその雪景色がめずらしいので写真にとっていたのである。


海老浜の車輪梅は南限の生息地として有名だった。海老村はほぼ壊滅したし防波堤も破壊された。
烏崎村も壊滅した。残ったのは庭の大きな岩だけだった。その破壊の跡はあまりにもすさまじい。
阿武隈川を下り仙台の方に行ったところの松原もなくなったろう。亘理でも岩沼辺りでも破壊がすさまじかった。あの松原から雪の蔵王が見えた。あの松原もなくなった。岩手県までの海岸沿いの風景はかなりの部分喪失した。特に松の破壊はすさまじかった。ただ記録として貴重となったのでここにのせておく。他にもまだあったので探してだしておこう。

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2012年01月20日

津波で流された貴重な松の写真


津波で流された貴重な松の写真

●右田の松原はなくなった

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右田の松原

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残った松
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松川浦の松原



右田の松原はいい松原だった。それが流されたこと消えたことが信じられない、残った一本の松は凄まじい、津波の猛威をこの残った一本の松から今も感じる。全身傷だらけになり残った。

松川浦の松原も消えた。松は多かったが太い松はないから右田の松原の方がいいと思っていた。でも松影の道がまっすぐ伸びて気持ち良かった。この辺をサイクリングするのは気持ちが良かった。


●石巻の袖の渡しの松は残っていた


残った松
http://blog.goo.ne.jp/ebijirusi/c/b6504b8c2681f1b077f3a78d15ba94cc/8


石巻-袖の渡し
http://www.musubu.jp/hyoronsodenowatashi1.html


あの松が残っていたということは意外だった。距離的に海に近いから松も流されたかと思った。
やはり家とか河口で多少奥に入っていたから残った。海岸にじかに接したところはほとんどの松が
根こそぎ流された。やはり家が密集していてそれが障害となって流されなかった。
奥の方でも前に障害物がないと流される。中州は障害物がないから完全に流された。

ともかくあそこの松はいい松だったので残って良かった。救われた感じた。また行けばやはり昔を偲べる、昔すら偲べない所がかなりある。陸前高田は一本も松が残らない。海岸に接していたから流された。今回の津波が襲った所はいい松林が松原のある所だった。その松が流されたことがショックだった。白砂青松の景色が根こそぎ奪われた。白砂は少ないにしてもやはり松原が根こそぎどこも流された。その被害が余りにも大きかったのである。

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海からそれなりに距離があったから松も残った。


 

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2012年01月08日

日本人の歴史感覚の欠如が今回の津波の被害の原因 (ヨ-ロッパと比べて歴史感覚がなさすぎる日本の文化)


日本人の歴史感覚の欠如が今回の津波の被害の原因

(ヨ-ロッパと比べて歴史感覚がなさすぎる日本の文化)


●ヨ-ロッパ人の歴史感覚


彼らと話して驚くのは何気ない会話の中にも正確な歴史年号がよく出てくることである。丁度、煉瓦をきらんと積み重ねてゆくように彼らの考えの中に、無学な一般の人でも過去何千何百年歴史の一コマ一コマが、きちんとして西暦年号で積み重ねられている。(ドイツの森-小塩節)

大部分のヨ-ロッパ人にとって洋服タンスは重要な装飾家具であり例えばそれがブル-地に城の花模様のバロック箪笥タンスならベッドもブル-に白の線の入るバロック、という風に、時代とスタイルを揃えるのが。常識である。木材もロ-ズウッドのテ-ブルがあればサイドテ-ブルもイスモロ-ズウッド。時代がエドワ-ドならカ-テンの模様もエドワ-ドの風とそろってくる。そしてそのような家具は曽祖父から祖父母へ父母へ受け継がれてゆく(ラインの岸辺-犬養道子)


古代の列中と中世の教会が合体した珍しい建物。2世紀にアントニウス帝が妻ファウスティーナに捧げるために建造し、二人の没後は墓所となったとされています。


邸宅の前の坂に連なるアーチは、坂の麓のひとつだけが、
ノルマン民族に侵攻された11世紀のもので、あとはゴート族に侵攻された
5世紀のものだそうです。
ひとつだけ、色が違うので、いわれてみるとなるほど、です



ヨ-ロッパの歴史の地層は明確に残っている。その時代もその地層から見分けることができる。その歴史感覚は日本とは相当違っている。そもそも庶民レベルで西暦年号まで記憶して語っている人は特別な専門家しかない、庶民レベルでは日本では江戸時代すら語られていない、明治時代ももう生きている人がいないので「明治は遠くになりけり」になる。実際に何度も甚大な津波の被害を受けたのに堤防を高くしたにしろ警戒を怠って即座に逃げない人が多かったというのもそういう昔がリアルにありありと日々語られていないということにあった。つまり日本人は過去を忘れやすい民族である。その原因が過去の遺物がほとんど残らないということがある。そのことが過去を意識されないのだ。
ヨ-ロッパでは過去をいやおうでも意識させられる。遺跡がそっくり残っている、石だから残っている。そこで歴史感覚が自ずと養われる。同じ家に一世紀に二世紀とか住んでいることが考えられない。コロッセウムの隣にあった教会は地下はロ-マの遺跡でありその上に教会が建築されている。あれなどもまさに歴史が明確に連結されて時代分けされているのだ。だから時代感覚も養われる。


オランダの風車も住居になっているが二百年前のものだと聞いて驚く。それが今もまだ使われていた。アムステルダムの商人の邸宅の街並みも昔のままである。ドイツでも中世の街並みが塀に囲まれた街がそっくり残っている。日本では街自体が城下町でも近代化されたなかでビルの中に埋もれてしまっている。城下町といっても城だけがわずかに残って新しく建築されているが街並みから昔を想像することはむずかしい。江戸時代があっても東京に行って江戸時代を偲べる場所がない、江戸城の跡は皇居になったけど江戸城がどういうものだったかわかりにくい、むしろ東京で一番建物で意識されるのが東京駅なのである。明治の象徴としてのオランダのアムステルダム駅をまねた駅だけなのだ。あとは全部変わってしまって江戸時代を偲ぶ建物がまれである。せいぜいどこどこの屋敷跡というだけでそこはビルになり何も残っていないのだ。ロ-マだったら貴族の邸宅跡が未だに残っている。その礎も遺跡として残っている。常に過去が歴史が意識されるのがヨ-ロッパである。ロ-マの遺跡はヨ-ロッパ中にありそれがいつも背景となっている。だからロ-マを具体的に常に意識するのである。
それは専門家でなくても庶民レベルで日常生活の中で意識しているのだ。だから家具でもその時代時代の特徴でアレンジすることができる。それは庶民レベルでもそういう歴史感覚が育まれているのだ。言葉でも英語には時制が明確であり過去を意識して未来を意識するということを言われている。


●日本人は生(き)の文化、今だけに生きる文化?


日本の建築にしても神社が伊勢神宮では20年後とに建て変えるという社があり新しい方がいい、神の意にかなうということが日本の文化なのである。生(き)の文化だというときそれを端的に象徴している。それが生ものとして生きている時じ旬であり建築もそういう意識がある。日本の家はせいぜい30年しかもたないというのもそのためである。家が確かに歴史感覚を作る基になるときそれがないからそこでも庶民レベルで歴史感覚が希薄になる民族なのである。日本では祭りは由来がわからなくても一番歴史を意識させる、祇園祭は貞観地震の津波などの供養のためだったというときそんなに古いかのかと感心した。それでも一時的まさにお祭騒ぎで歴史が日常的に意識されることはない。

日本は過去を意識することがあまりにも希薄な民族なのである。過去というと時、歴史というとき

戦国時代の信長、秀吉、家康くらいしか一般的には意識しないだろう。そもそも何々時代の家具をそろえることなどできない、家具を置くだけのゆとりある家もまれだった。そういう豊さがなかったこともいえる。ただ日本人は例えば水に流すというようにみんなその時その時で水に流すという傾向が強い。今回のこれだけの被害にあったことでも正に水に流すで忘れてしまうのだろうか?そうなるとまた同じ被害を受ける、相馬藩政記は相馬藩内だけではない他の人でも参考にしている。相馬藩は代替えがない大名であり一貫して継続したので資料になりやすい。そこに確かに400年前の慶長津波のことが記されていた。それも津波があった、7百人死んだというだけである。ほかは何も記されていないのだ。もっと詳しく書かれていれば津波のことを恐怖して読んでいたかも語れていたかもしれない、そういうことが余りにもなさすぎたのである。わずかに碑が忘れられたように残っていただけである。その碑も本当にいつの時代かもわからない、字すら消えていたのである。


日本人はただ今に生きているだけの民族なのかもしれない、今の旬、生(き)なるものを生ものの寿司などを味わう文化なのかもしれない、過去は忘れて今を生きるだけの文化なのかもしれない、それでも明治時代とか大正時代は特徴があった。大正ロマンとかあり短い時代でも郷愁ある時代としてみている。大正生まれの人は90以上でもまだ生きている。その後は昭和からは何か時代的特徴を見るのはむずかしい。ただモノや技術だけで計られる時代なのかもしれない、鉄道時代や車時代やテレビ時代・・・とか技術の進歩が歴史でありそれくらいしか時代を見分けることがないし特徴もないとなる。祭りのように過去は一時的お祭り騒ぎで過ぎ去ってゆくものなかもしれない、ヨ-ロッパのように石のようにしつこく大地に刻印されて残り意識されるのとは違った歴史感覚なのだ。その歴史感覚は津波のような被害だけではない、対外的にも外交でも大きな失敗につながり大きな犠牲を生む、大東亜戦争というのもそのためだったという指摘も否定はできない。ヨ-ロッパの歴史もアメリカの歴史も中国の歴史も深くコミットすることにかけていた。言葉からもそういうことは言えた。


●successは成功でなかった、継続の意味


succeed:(自動)1) 成功する 2) あとを継ぐ、(他動)1) あとを継ぐ 2) 次いで起こる(「後について行く」ことから。sub- は「下、副、従」などを表すが、ここは「後に従って」。「成功する」は「後にうまくついて行く」ことから)

success:(名)成功
successful:(形)成功した
succession:(名)連続、継承
successive:(形)連続する(consecutive と異なり中断が入ることもある)
successor:(名)後継者

に続くこと → あとに続くこと → うまく事がはこび続けること


筆者はホテルに戻って早速、英英辞典を引くと、語源的には successful は continuous という意味がもとであるということを発見する。


  不思議な国ニッポン
  自分一代での「せつな的成功」と「継続は力なり」で何世代も続ける努力
  木造建築と石造建築のちがいからくる、日本文化と欧米文化とのちがい


その時々の成功ではない、継続することが歴史を受け継ぐことが成功の起源である。津波でこれほどの被害を受けたのは過去を受け継がないから大失敗をしたのである。常に人間の生を継続しているものとして考えないから起こった。これだけの大津波もただ祭りとして過去のこととしてし大騒ぎして忘れてしまうのだろうか?あれだけ被害をだした戦争にしても忘れてしまうのだろうか?ここの原発事故も忘れてしまうのだろうか?原発事故でも過去のことをまるで考慮しなかったために失敗した。
貞観津波のことを学者が指摘しても全く受け入れられない、それは余りにも遠い過去として考慮されない、それも歴史感覚がないためではないか?ヨ-ロッパだったらロ-マ時代でも記録が膨大であり生々しく再現される。そして現代とその生活感覚たいして変わりないことに驚くのである。もう近代の生活と変わりないことがかなりあるのだ。現代の身近な生活として受け継がれているものがある。
日本人の歴史感覚は見直すべき時だろう。歴史的にものを考えることは長期的視野で考えることである。今でも常に今日明日が問題であり10年後をどうするなど考えられない、それは世界的傾向としてそうなったが長い時間をかけて歴史的に構築するという時間感覚が失われることは危険である。それは津波のことでも意識されたのである。

 
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2011年12月07日

震災津浪の被災地を励ます詩


震災津浪の被災地を励ます詩

 秘密


    カロッサ


星は天空にあって
眠ることなく燃えねばならぬ
地球を包んで
緑の生命が息づくためには


血は流さねばならぬ
多くの血が、多くの涙が
私たちにとって地球が
真の故郷となるためには


さまざまの力が荒れ狂い
傷つきにくみ合うところ
清らかな治癒の泉が
よき死の底から湧きあがる


私たちが迷い迷うあいだ、
私たちを見守ってくれる力がある。
にがい苦しい努力のうちに
私たちは一致して光を求める


すべての奇跡は
はるかな岸辺におこる
私たちはみな、きそって
自由な岸辺をめざす


私たち身に
太陽の物質を背負っている
私たちは消えてゆかねばならぬ
それほどまでに私たちは強いのだ


どこまで行っても終わりはない
ただ燃えるような奉仕があるだけ
くだけ散りつつ、私たちは
あたりに光を放射する

 


この詩は震災や津浪や原発事故の被災者を慰めるのにぴったりではないか?


多くの血が、多くの涙が
私たちにとって地球が
真の故郷となるためには


これは津浪の被害にあった人達である。どれだけ多くの涙が流れたことだろうか?多くの血が流れたというときこれは戦争だったらそうなるが今回は涙の方だろう。こういうことがそもそも人類の歴史だった。戦争でもどれだけ多くの血が流されたかわからない、戦争は経験してしいなくても400万人も死んだとなれば忘れられるものではない、延々として語られるだろう。今回の津浪の被害もそうだった。原発事故も未だかつてない事故の経験だった。その傷痕は余りにも深いのである。


どこまで行っても終わりはない
ただ燃えるような奉仕があるだけ
くだけ散りつつ、私たちは
あたりに光を放射する


どこまで行っても終わりはない・・・この震災や津浪や原発事故の被害は終わりがない・・・それぼと被害が大きすぎた。そして燃えるような奉仕が確かに必要とされている。原町の産婦人科の院長などはそうした人の一人になるだろう。病気になったということは砕け散りつつともなる。そういうことが強いられたともなる。あたりに光を放射する・・・・・奉仕しながら死んでゆくのだからそれが光となっている。これはむずかしい詩ではない、でも震災にあった人達にはぴったりの詩ではないか?これは戦争で傷ついた人達をイメ-ジして作られたのものだろう。でも震災や津浪や原発事故にもあてはまる。原発事故では放射能で汚染されたからその自然が汚されたということがこれはなかなか修復できないのでその傷痕は大きすぎる。ただボランティアとかはそういう奉仕があったことは確かである。その奉仕はやはり光を放射していた。それを批判する人もいたが実際に何もしないよりは光を放ったのである。被災者のなかで働くことは金儲けより奉仕になっていたのである。


この辺では働く若い人が避難していなくて困っているということでもわかる。残されたのは老人だけになり老人だけで支えることはできない、そういうときこういう放射能汚染地帯で働くことは誰もしたくないから奉仕だとなる。これはまた別かもしれないがこういうところで誰も働きたくない、そしたら老人だけが残されて衰退してしまう。こういうときここで奉仕させるというのは無理でも残った金のある老人は働く若い人をとどめるためにも金を多く払わねばならなくなるということもある。
働く人がいないということは働く人が貴重なのである。

今までのように時給いくらとかでは働く人を確保できないかもしれない、働きたいという人が大勢いればそれでかまわないが、働く人がいなければそうなる。ただこれだけ移動が自由な社会だから年金を多くもらっている人はサ-ビスのいい市とかに移動はできる。現実そうして移住している人はいる。年金をもらい金がある人はできるのだ。

こういう放射能汚染地帯とかにいればいいサ-ビスは老人でも受けられない、だからサ-ビスを受けようとすれば人件費はかなり高くなってしまうのではないか?なぜなら働く人がいないということは人手不足なのだから賃金も上がるからである。その上がる賃金分をここに住む人が払わねばならないのだ。要するにこの詩の燃えるような奉仕をする人はがまれだとすると賃金をかなりあげないと誰も働かない、働き手も入ってこないということである。本当に外国人でも中国人でも入れないと働く人がいなくなってしまう。中国人などなら今の給料でも高いとなるから働くとなる。そういうことはすでに震災被災者ではなく日本全国で人手不足になり外国人を入れるほかないとか特に医療や介護分野では問題になっていたのである。特に被災地では顕著になったということである。

ハンスカロッサは医者であり戦争にも参加して献身的に働いたからこの詩ができた。
ということは原町の産婦人科の院長も共通していたのだ。
詩もそうした実践の経験がないと書けない
想像だけでは書けない、つまらないことでも実践していることが言葉になり詩になったりするのだ

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