貞観津波の記録だった多賀城の末の松山の古歌
「二十六日 陸奥国で大地震。流光が昼のようにひかった。その時、人びとは悲
鳴を上げ、伏したまま立つことができなかった。ある者は家が倒れて圧死し、ある者は地割れにのまれて埋まった。馬や牛が驚いて走りまわり、互いに踏み合うありさまだ。城郭、倉、門、囲いの壁が崩れ落ち、ひっくりかえった。その数は数え切れない。海口が吠え叫び、雷のような音がして津波が押し寄せ、たちまち城下にまで達した。海から遠く離れていたが、言い表せないほど広大な土地が水に浸った。野原も道路もすべて海原となった。舟にも乗れず、山に登って逃げることもできず、溺れ死んだ者千ばかり、資産や農作物は、殆どのこること無し」
馬や牛が驚いて走りまわり、互いに踏み合うありさまだ。城郭、倉、門、囲いの壁が崩れ落ち、ひっくりかえった。その数は数え切れない。海口が吠え叫び、雷のような音がして津波が押し寄せ・・・・
これは作り話ではないし誰からか聞いた話でもない、実際に見た人が書き記したのだ。結構大きな城もあったのだ。
海口が吠え叫び、雷のような音がして津波が押し寄せ・・・・これは今回の津浪と同じだった。
海口とあるから広い河口のような所からおしよせたのか雷のようなものが鳴ったというのは凄まじい音もしたのである。空恐ろしい光景だった。
朽ちのこる 野田の入江の ひとつばし 心細くも 身ぞふりにける
夫木和歌集 平 政村
せきかくる 野田の入江の 澤水に 氷りて留まる 冬の浮き草
いずれも『末の松山』は、どんな津波をも越えることの出来ない、つまりありえないこと永久不変の象徴として、男女間の永遠の恋の理想とされてきたのである。
では実際に“末の松山”でそのような出来事があったのかというと、今から千年以上も昔の869年(貞観11年)多賀城で溺死者千人を超える大津波が襲来したようである。
しかし、小高い丘上の“末の松山”だけは波が越えなかったとの貞観津波の噂が都人の耳にも聴こえ、それが歌枕の故事となったとされている。
ところで“末の松山”の山麓南方100mには“沖の石”と呼ばれるもう一つの歌枕(地図参照)があり、百人一首にも二条院讃岐の次の歌
(1183年千載集)が載っている。
「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」即ち、私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ、他
人は知らないだろうが(涙に濡れて)乾く間もない・と歌っている。
つまり“沖の石”は引き潮でも海中にある石だったが、江戸時代以降は陸化された池の石として伊達藩によって保護(上写真)され、「守人」が置かれていたそうである。
http://blogs.yahoo.co.jp/hsm88452/42803702.html
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/27528452.html
末の松山については詳しくインタ-ネットに出ている。城下にまで達したというその城下は今の多賀城跡なのか岩沼の岩隈跡なのか分かれている。今回の津浪が押し寄せた地点としては岩沼の岩隈跡だと本当に城下までおしよせていた。多賀城の下までは押し寄せてはいない、それでも当時の海は一キロ奥に入っていてそこから津浪が3キロも押し寄せたら距離は相当でてくる。いづれにしろ多賀城は海に近いところにあり海が見えたのである。江戸時代には松原ができるようになり海が見えにくくなった。江戸時代前は海は丸見えだった。それがわかったのは山元町や浜吉田でも海が近いから駅まで津浪が来ていた。新地でわずかに海が見えたから海が近いと常磐線からは意識する。ところが長年住んでも海が見えない浜吉田が海に近いから浜吉田と浜と意識することがなかった。人間はつくづくそうした景色を意識させられなくなっている。
多賀城の歌枕になった「末の松山」など関心をもてなかった。なぜなら今そこの場に立っても歌枕の景色が喪失しているから感じないのである。私は何回も仙台港から船にのった。その時多賀城からも中野栄駅からも下りて仙台港に行った。しかしあの辺りで歌枕となった地域の昔の景色を思い浮かべることは全くなかった。あの辺はそんな面影は全くない、工場地帯であり家も密集している。そこに津浪が押し寄せたのだ。多賀城駅にも津浪がおしよせた。工場地帯も押し寄せて津浪にのまれた。仙台港には石油のタンカ-があり燃えつづけた。津浪によって太古の昔の景色が蘇った。この歌ができたのは明かに貞観津浪の記憶から生まれた。つまりそれほど古いということに今更ながら驚くのだ。歌は単に風流というだけではない、史実の記録でもあった。
きみをおきて あだしこころをわがもたは やなよや
すえの松山波も越え、越えなむや
波も越えなむ
土地の風俗歌として歌われていたのを宮廷歌として整えた。これは万葉集の東歌と同じである。
池の沖の石には貝殻やフジツボの殻が目にとまった。(永野孫柳)
そこまで海だったことは確かである。末の松山とこの沖の石は600メ-トルくらい離れている。そこは坂を下った所にあるから沖の石は海に沈んでいたことが納得がいく。
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
これはまさに想像ではなく実際の景色から生まれた歌だった。こういう光景は今はどんなふうにしても思い浮かばない、住宅地や工場地帯に埋もれてしまっていたのだ。だからそこを一回も訪ねていないし興味もなかった。みちのくの歌枕の地をたずねてもそもそも当時の風景が消失したとき何の感懐もなくなる。あそこで常に意識したのは工場地帯の風景や倉庫群、石油のタンクとかだけであった。そしてそこには黒々と蟻の道ができているだけであった。情緒が全くない所だった。というこは今や人間もそうした情緒のないところで蟻のように働いているだけだともなる。
今回の津浪で沖の石までは津浪がきたが坂になった小高い末の松山には津浪はきてない、ここは大きな津浪でも目前にきても津浪が越せないような場でもあった。波越さじかも・・・というときこの松山までは波は越さなかったなという実感から生まれたのだ。短歌とか俳句は正岡子規の写生が基本だというときまさに本当に見たものからこそ実感の歌が作れる。本当に見なかったら作れないのだ。八沢浦が津浪で深い入江になったとき本当にそこに残った古歌を実感として鑑賞できた。そうでないと想像しただけでは実感できないことがいくらでもある。今回の津浪はそうした実感として千年前とかのことが眼前に現れたから驚いたのである。その実感からすると岩沼の岩隈に城下あったという新説は信憑性があるかもしれない、岩沼は本当に奥まで来ていた。街の一歩手前まできていた。意外と岩沼から名取と仙台も海に近かったのである。
海が見えないから海を意識しない、仙台の波分神社辺りで津浪が来ていたことがあった。とするともっと津浪は奥に来ていた。その頃内陸部に一キロ海が侵入していたからそのくらいの距離だから計算的にはあうのだ。過去にもここまで津浪が来たという証として神社が残された。そして遠見塚古墳もその近くにあった。遠見とは遠くを見る、海を見る、場所だった。海岸にある古墳はなんらか遠くの海を見るための場所だった。南相馬市の桜井古墳でもかなり高いから海が見える場所だった。その下まで津浪は来ていた。そういう昔の海岸線に貝塚が点在して縄文人が暮らしていたのである。
吉田東伍の研究論文
http://wind.ap.teacup.com/togo/html/aidai.pdf