2011年04月02日

八沢浦が元の美しい入江に戻った!(南相馬市鹿島区の津波の被害写真)



八沢浦が元の美しい入江に戻った!
(南相馬市鹿島区の津波の被害写真)


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美しい八沢浦に戻った!
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ヤ沢浦干拓の記念碑が倒れる

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明治に干拓された八沢浦の記念碑が倒されていた

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高台の中間地点まで津波が来た



海老村は壊滅

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坂を下った六号線(小島田)に流れ着いたもの(烏崎からのもの)
港があった烏崎は壊滅した

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今回の大津波は八沢浦を元の風景に戻したし縄文海進の時代に逆戻りした。八沢浦は明治になってから干拓されたのであり江戸時代は浦だった。その浦に戻った不思議がある。一般的に津波の後は瓦礫の山になっているがここは家も少ないから潮水が大量に入りこみ美しい入江の風景に戻った。前から海が入り込んで湿地帯だったということを書いてきたし八沢浦は元の状態になったらどれだけ美しいかと書いてきたがそれが現実になった驚きがある。確かに人が多数死んだからそんなこと言っていられないということもあるがここは瓦礫の山ではない、美しい自然の風景を一時的でも現実になった驚きがある。思うに陸前高田市とか三陸沿岸の入江はみんな元は海が入り込んでいた。平地には海だった。その平地に街を作った。そこは津波になったら海になるところだった。そういうところに街を作ること自体、自然に逆らった街作りであり今回の大津波で全滅した。高台の家だけが残った。自然の地形に沿って自然に逆らわず生きていればこうはならなかった。


太平洋沿岸でも仙台平野でも福島県の浜通りでもそもそも海をだったところを埋め立て田を作ってきたところであり右田の松原も塩害を防ぐものとしてあった。もともとそこは何もなかった砂浜だった。松原は人間の手で作った人工の自然だった。それが根こそぎ喪失したのである。元の自然の状態に戻ったのである。津波は確かに悲惨だったがこんな風景を生きてみること自体ありえないことであり驚きだった。人生でこれほど驚いたことはない、信じられないことだった。

確かに街などが全滅して悲惨な光景となっているが八沢浦などは瓦礫の山はなく美しい元の自然の風景になっている。それを生きてる内にこの目で見ることができたということは信じられないとなる。八沢浦はもともと家が少ないから被害が少ない、海老村は壊滅した。烏崎村も壊滅した。沿岸はどこも壊滅状態である。津波の潮水は鹿島小学校の前まで来ている。海から約3キロも入っている。そこまでは昔は海だった。古代の真野の入江は塩崎(しおのさき)まで来ていたことを書いてきたが実際に船着という地名の残っているすぐ近くまで来ていたことに驚きである。船は烏崎から津波で流されて6号線まで来ていた驚きである。


今回は風景を変えてしまった。右田の松原は喪失して名残りの松が何本か残されただけである。陸前高田では一本だけ松が奇跡のように残った。いたるところで松も根こそぎ津波に倒され流された。しかし松も流されずに残ったものがかなりありそれが一つの伝説と名所になった不思議がある。いたるところに伝説を後世に残す物語を作り出したのである。写真はやはり部分的に見てもわからない、地図と照らし合わせて見る必要がある。これはやはりそこに住んだ人でないとわかりにくいのだ。

posted by 天華 at 22:02| Comment(6) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2011年04月07日

八沢浦は八つの浦のことだった!(津波で元の海にかえった) 八沢浦は八つの浦のことだった!(津波で元の海にかえった)


 

八沢浦は八つの浦のことだった!(津波で元の海にかえった)


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八沢浦の一つ(八つの浦の一つ)


●もともと海であり湿地帯の田は津波で海にかえった

八沢浦の名前は八つの浦があったからであった。回りに浦が入りこんんでいた丁度八つが浦になっていた。そこも田になったがその浦まで今回の津波で海水が入り込んだ。ええ、こんな奥まで海になっていたことに驚いた。日本海にある深い入江になっていた。前にもそのことを予想したことを図解したがその通りになった。八沢浦は思った以上一杯の海水にひたされた。奥の方まで相当奥まで海水が入り込んでいた。だからそきままだったら本当に美しい日本海のような入江になっていた。そして今まで注目していなかったが八沢浦は実は浦が回りに入り込んで八つの浦があった。その浦も海水が入り込んだ。その浦は奥になると高くなっているからその高いところは早くから田になっていたのかもしれない、つまり八つの浦の方に明治に干拓される前に人が住んでいた。それで八沢浦という地名は江戸時代からあった。地名にはその土地に根ざした古い根拠がある。そして今度津波や地震の被害が大きかったのは江戸時代であれ海岸の干拓されたような土地に集中している。千葉県の浦安の液状化した地域ももともと干拓された海岸の砂地であり沼地だったからである。日本はそもそも国土が狭いからもともと自然的条件の悪い所に田を作り住居を拡大化した。つまり自然条件に逆らい無理な開拓をしてきたのだ。それが今回の津波で大被害になった。

行方郡金沢村も古は大沼あり元禄15年に干拓して田地とした。
宇多郡程田村に山田の堤ができたがこれは大恚v芳が農民の用水に苦しむのを見て山田に土手を築き程田、神田、柏崎の三村を灌漑したものである。


こういう海側へ干拓したところは今回の津波で海に還ったのである。

●千年に一回来る津波に対処できなかった浜通り


八沢浦は海岸に接して三軒くらいしか家がないから被害が少なかった。もともと海だった所にも一軒くらいしか家がなかった。浸水しても家そのものは破壊されなかった。でも海老村とか烏崎村は海岸に接して集落化していたから壊滅した。不思議なのはなぜ日本人は海岸にじかに接して住んで津波の危険を考慮しなかったのか?三陸では津波があったが福島県浜通りとか宮城県から名取から相馬までの海岸線では大きな津波は起きていなかった。貞観津波は千年前の話だから実感がない、津波は来ないものと安心していたのである。相馬でも今回の津波は同じように相当奥まで津波は来ていたし今回の津波で実証された。千年に一回来るような地震とか津波は想定外になり油断になり今回の悲劇となった。自然のスケ-ルはそれだけ大きく人間の時間のスケ-ルと違っていた。人間の時間のスケ-ルは小さすぎるのだ。一年刻みであり百年後まで考える人もいない、それが悲劇を生んだのである。青松白砂の風景は人工的なものでありそれが日本の美となっていた。そこは開拓して塩害を防ぐために作られた危険な場所だったという認識をもつものはいない、それが今回の津波で一挙に破壊され原始状態に戻った驚きがあった。海側への開拓は危険なものだった。人間は縄文時代でも危険な場所には住まない、高台に住んでいた。ところが田を作るようになってからもともと海だったところまで住むようになったのである。八沢浦はあそこが元の入江に戻ったらどれだけ美しいとか書いてきたが今は水が引いてしまってない、写真をとったときええ、海水に満たされていたことに驚いた。
そして水が引いたあとに行ってみたら残雪の蔵王が眩しく光り見えた。それはやはり八沢浦八景の歌はここの実景を元に作られたと思った。


●八沢八景の歌はぴったりの歌だった


遠山の暮雪 高瀬さす八沢が浦の夕波に色を乱せる雪の遠山

雪の遠山とは蔵王しかない、八沢浦から蔵王がはっきりと見えるからだ。夕波というのもぴったりなのである。

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八沢浦の夜雨    磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ


長岩の晴嵐     雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風

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これが長岩か


わざわざ磯桜として浪のうきねというのも浦にふさわしい。旅してきたとき何か心も落ち着かなく浪がゆれた感じになっていることを経験している。この歌はかなりいい歌だったこともわかった。旅しているとなかなか眠れないことがあるからだ。これは明かに旅人の歌なのである。
京都から旅してきたとすれば旅人だからこういう感じはわかる。長岩というのは今も海だったころ露出した岩かもしれない、いづれにしろ信憑がある歌だったとなる。

(八沢浦が元の美しい入江に戻った!)-写真
http://musubu.sblo.jp/article/44114737.html

posted by 天華 at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

南相馬市原町区の北原や小浜の被害写真(20キロ内の立ち入り禁止地域へ)


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兵庫からのボランティア

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一番高い所にも津波が

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坂を上りきって下る所-右側が小浜の部落


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磐城大田の海を望む

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江戸時代の古い碑があった(この下は小浜部落)

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南相馬市原町区の北原や小浜の被害写真(20キロ内の立ち入り禁止地域へ)

今日は南相馬市の北原地区を回り海沿いを太田川が海にそそぐ小浜という村を回って20キロ の禁止区域の所まで行ってきた。ここはまだ原町区内であり小高区ではなかった。磐城太田駅がある地域だった。太田神社のある所であり太田川が海に注ぐ地域だった。北原で兵庫県から来たというボランティアの人が一人で泥を掘り返していた。はなまるホ-ムとあるから福祉関係の仕事の人なのだろう。ホ-ムペ-ジに兵庫県とでていたからそこのホ-ムの人なのか?
兵庫県というと神戸があるから震災の被害には同情するのである。ともかく全国から支援の人が入ってきている。

かなりの坂を上ってゆくがその坂の頂上まで津波が来たことに驚く。テレビで見ただけではこの高さがわかりにくいのだ。その高さにびっくりするだろう。こんなに高い所まで来たのかと信じられないのである。高台には松が残っていた。高台だからこそ残ったのである。その坂を越えて下ると磐城太田地域であり防波堤は崩れ海が入りこんでいた。津波が越えた崖の下は「小浜」という村だった。江戸時代の碑があったから古い部落である。ここで土地の人がいて聞いたら6人死んだという、死体を探している小沢地域では多く死んだらしい。小浜地区は直接海に面していないから被害が少ないと思ったが6人死んだ。やはり高く津波が来たので被害があった。


今日NHKで写していた白い防護服の人がこの地域で小沢地域で死体探しをするのを放送していた。小浜地域は坂を下りたところでありその向こうが小沢地域だった。そこは確かに20キロ圏内であり立ち入り禁止地域になっている。なぜそこでも白い防護服を着ているのか、そんなに放射能が危険なのか?あれを見たらいかにも放射能が強く危険だということを示している。でも車で来た人もいる、土浦の人とボランティアの兵庫の人は阿武隈高原の方を遠回りして来た。その人たちはマスクもしていない、仙台から来た人もマスクをしていない、放射能は別に恐れなければ恐れることはない、原子力発電所内で作業するのとは違っている。なのになぜあんなに白い防護服を着て死体探しをしているのおそらくそういう決まりだからそうしているだけなのだろう。そんなに危険だとは思えないのだ。

南相馬市の原町区は自主避難地域であるからややこしい。一度避難した人も長く避難所にいられないので帰ってきている。知人の夫婦は帰っていくが孫は学校に行けないということで避難している親戚の家からその土地の学校に通うそうである。だから両親は残っている。孫の夫婦はのこらざるをえない、でもその妻の夫は原子力発電所のある大熊のス-パ-で働いていたのである。その職も失った。今原町区で問題のはこうして職を失った人が多いことである。これは他の津波被害にあったところでも同じである。特に放射能の被害にあった地域はさらにひどいことになっているのだ。仕事がなければ住めなくなるのだ。そして小高区は立ち入り禁止であり小高区から原町区に避難して来た人がある。ホテルをもっていたので原町区に移った。でもそこも30キロ圏内であり30キロ圏内は避難指示にするという方針だと政府で言っている。とするとそこにも住めなくなるかもしれない、自分の住んでいるところは30キロから2キロ離れているにすぎない、避難地域を50キロまで延長するとも言っていたからそうなると本当に困る。人間長く住んでいたところに住めなくなるほど苦しいことはない、そんなことがありうるのかと今度の原子力事故でつくづく思った。チェルノブエリでは確かに30キロ圏内は立ち入り禁止となった。ここもそうなってしまうのではないかと浪江の人がテレビで言っていた。これは本当に深刻な問題である。
人間そんな簡単に今まで長く住んでいたところから移り住めないからだ。茨城県に移った人は住宅を与えられて中国人がいなくなった農家で農作業をして金を稼いでいる。中国人までいなくなるのか?中国人も放射能を恐れるのか、中国ではもっとひどい汚染がある地域がある。その中国人まで逃げているということがわからない、風評被害としか思えないのだ。

posted by 天華 at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2011年04月10日

大津波の後(無情の短歌)


大津波の後(無情の短歌)

大津波妻の命を奪いしもなお住みつづけむ故郷なれば


大津波無情に奪いし命かもあまたの霊の海に浮かびぬ


妻と子と親を奪いし大津波その慟哭のやまざりしかも


今日もまた津波のあとの荒寥と死体を探す消防隊員


累々と屍のごとく家々の残骸無惨大津波のあと


津波来て生死を別つその話語られあまた忘れざるかも


身一つにからがら逃げてその話大津波の恐怖消えじも


大津波の無念無数に生き残る人の話の語り尽きじも


大津波のみこむ命数知れじ千年後まで叫びつづけむ


人作る防潮堤の今にしておもちゃのごとし津波の驚異


一瞬に家も家族も失えるこの世に生きるは悪夢なりしも


千年前大津波ありと語りたる学者の言うは誠なりしも


想定をはるかに越えて大津波人のおごりを打ち砕くかも


無惨なり瓦礫の山より思い出の品を探すやあわれなるかも


行方不明なお三〇人と軽く言うかく人命も軽きものかな


今日もまた瓦礫の山の道を行く津波の爪痕心に刻みぬ


凄まじき津波の跡の延々と東北沿岸無情極まる



今回の津波は実際にその被害の場に立ってみると実感する。一番驚くのはこんなに高く津波が来たのかということである。その高さの感覚はテレビで見てもわからない、実際に見ないとその場に立たないとわからないことがある。こんなにひどいものかというのはやはりその場に立たないとわからない、こんなことになるとは思いもよらなかった。戦争と同じだった。これほどの人間が一瞬に津波にのまれて死ぬということが信じられない、人の命も戦争のとき短歌にした人がいたがこれほど軽いものかとなる。延々と90過ぎても介護されて大事にされている時代である。そういう時代に一瞬にして人の命を無情に無数に死にいたらしめた。これほど人間は簡単に大量に死ぬものかと思う、石油がなくて焼くこともできず土葬にして埋める。その光景は戦争で死んでゆく人と同じである。これは千年に一回のできごとでも子々孫々に語られつづける。
その話も無数にあり語り尽くせない、その涙も尽きることがない、こんなことが実際にあるということ、原発事故とともに今起きていることが何なのか今理解することはむずかしい。人類の滅亡なのか、その場に立ちあっいるのかとも思う。自然の力は人間の想定をはるかに越えている。
人間の奢りは打ち砕かれた。原発も人間の奢りの結果でありそれも打ち砕かれた。この惨禍は人類の滅亡の前兆なのかもしれない、それほどに地獄絵図だったのである。

posted by 天華 at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2011年04月14日

新地の津波の被害の跡

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曲がったレ-ル
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旅館だった

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自衛隊の駐屯地


新地の津波の被害の跡

新地は電車の車両がへしまげられた映像で有名になった。警察官が誘導して乗客を助けたのだがあの辺は平地しかない、歩いていたら助からなかった。車があって乗せることができたので助かった。津波は15分とか20分できているから逃げる時間がなくて津波にのまれた人が多い。一刻を争う時間なのである。でも話を聞くとそうした切迫感はない、着るものを家に取りに行ってそのまま津波にのまれたとか一旦家に戻って津波にのまれた。戻る時間などなかったのである。津波が早くくるという切迫感がまるでなかったのである。何かのんびりししていたのである。全く津波を警戒していな人も多かった。津波もたいしたことがないだろう、いつもの津波なら一メ-トルにもならない、それでも注意を喚起したりしていたがそれも慣れっこになっていた。津波注意報などしょっちゅうあるから慣れっこになっていた。大津波警報も津波注意報くらいに思ってしまったのである。人間の慣れは怖いことを今回は証明した。三陸などでは警戒しても宮城県から福島県の浜通りには大きな津波は来ないから油断していた。全く警戒していなかったのである。人間は常に危機感をもつことがむずかしい、平和な生活が常態でありその生活が長ければそんな大それたものが来るとは思いもよらなかったのである。


津波は二階建てで下の方が破壊された海から離れた所でも津波にのまれ死んでいる。新地でも駅から離れた下が破壊された海から結構離れた高台でも死んでいたのでる。そこに住んでいる人が説明していた。知っている人が死んでいるのだ。なんでも昔から大きな屋敷と土地をもっていた武家の出の人のも流された。あそこがそうだよと指さして教えてくれた。新地では有名な人の家だったのだろう。新地では伊達とのつながりが深い武家の人がいて相馬市と合併しなかったというのも意外だった。まだ相馬と伊達がこの境の地では争っているのかと思った。こういうことは地元の人に聞かないとわからない、なかなか本を読んだだけではわからない、郷土史は地元の人に何でもいいからささいなことでも聞くと実感として興味が湧くのである。新地城は境の城としてあった。

亘理郡長助役であった目黒重真が、明治の新しい時代を迎え「これからは教育が最も大事」という考えにたち、新地方部11カ村の村長や有志に学校設立を呼びかけ、宮城県に対して「宇多郡村学校設置願書」の設立して認められ、仙台藩校養賢堂の教授であった氏家晋(号 閑存)を招き、民家を利用して学校を設立した。


亘理とか仙台藩がかかわって観海堂も作られた。相馬藩ではなかったのである。それも全く津波にのまれ跡形もなく消失した。長い手を伸ばして貝を食べていたという手長明神跡はやはり海の近くにあった。場所的に今回の津波でどの辺が海になっていたかわかったからである。六号線まで海であり人は住んでいなかったのである。新地駅はもっとも海に近い場所にあった。

明日はへしまげられた車両はかたづけられる。でも常磐線が全線開通することがあるのか、なぜなら原発から20キロ圏内は立ち入り禁止であり入れないとするとそこはもう鉄道も通らなくなるからだ。亘理までは開通してもなかなか相馬の方まで開通することは先のことになる。
ここの海岸沿いの家は全滅である。帰りに廃校となった相馬女子高等学校の避難所に行ったら600人もまだいることに驚いた。原発関係で避難している人もいるのだろう。明日半分は飯坂温泉の旅館に移るという、それならここよりは楽になるし温泉にも入れるからいいとなる。それにしてもまだこれだけの避難している人がいることは今回の被害がいかに多いかわかる。他でも避難者が多いことが今度の災害の特徴なのである。仮設住宅はなかなか間に合わないからだ。福島市に移動したくない人はここに残るという。

posted by 天華 at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2011年04月18日

南相馬市原町区金沢地区や北泉地区の津波の被害

 

南相馬市原町区金沢地区や北泉地区の津波の被害

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土手の手前は損傷が激しい

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土手の向こう側の家は無傷だった

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泉の方面へ

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この坂の上のコンビニまで津波が来た
この坂を上れば助かった

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一葉松まで津波が来た

津波の被害の大きかったのはこの辺では磯部とか海老とか烏崎とかであった。他でも名取とか仙台でも海岸に接して平坦な所は壊滅した。松島などは島が防波堤になって1.5メ-トルしかならなかった。この南相馬市の原町区の金沢を見るともともと浦であり江戸時代に干拓したところである。青松白砂の風景は江戸時代の干拓して新田を作った人工的美であった。名取辺りでも広範囲に津波で冠水した所はもともと海だったのである。その海であったところが今回の津波で被害を受けた。金沢地区では海から近いところでも写真で見ればわかるがちょっと高い所の家は無傷のまま残っている。庭には津波が来たが家そのものは損傷していない、相当に津波は高く来たのだからあの辺もかなり損傷してもいいはずだがそうなっていない、良く見ると家の脇に土を高く厚く盛って壁となっていてそれが津波をさえぎったのかもしれない、なぜならその土手の前は損傷が激しく土手の向こう側の家はほとんど無傷だった。津波はみんな一様に被害を受けたわけではない、地形の影響もあった。堤防もここは低いが壊れていないから津波の衝撃をやわらげたかもしれない、津波はまともに当たるところだったらその衝撃は凄まじいからひとたまりもない、ちょっと高くて土手があっただけでも津波の被害をまねがれた所があった。

鹿島区の海老村は高い所にあったが海からさえぎるものがないから壊滅した。ちょっと高いと思っても被害が大きかった所もある。なぜなら今回の津波は本当に想定以上に高いものだった。
北泉の方の家々は壊滅した。坂のコンビニがあるところまで水はきた。でもその坂があってそこを逃げれば助かった。そこは歩いても行ける所だから津波警報が出たらすぐに逃げれば助かった。烏崎でも近くに山がありすぐに逃げれば助かった。でもこの辺では津波には警戒していないから逃げないで逃げ遅れて死んだ人が多いだろう。ここは明かに逃げる場所がすぐ近くにあった。歩いても走ってもすぐに安全な場所に逃げられた。でも早く逃げなかったら安全な場所が近くても死んだのである。子供のおもちゃがあったが今回の津波で死んだ人は老人は七八割くらいいたろう。高齢化社会であり特に高齢者が多い場所だったのである。それでも子供も死んでいるからこうしたおもちゃも残っていたのである。親を亡くした子供もいたから悲惨だった。


確かに今回の津波がおしよせた所は昔は海だった。桜井古墳や新地の手長明神が祭られている所はすぐ海になっていたことがわかった。つまり広い入江がありそういうところでは貝などが大量にとれて食料になっていたのである。外海に出なくても貝などはとれたから住むことができたのである。そして景観的にも入江は美しいものだった。それは八沢浦があれだけ一時期海となったことに驚いた。水の量があんなに多くなる入江になるとは思わなかった。これは想像してもなかなかわかりにくい、本当に海になったのを見たから驚いた。今でも津波にあったところから海の方を見ると一軒の家も見えない、ただ残った松が何本か海岸に見えるだけである。あとはまだ瓦礫が散乱しているだけである。いづれにしろ昔は家も何もない広々とした入江であり海だったのである。日本には実に浦が多く入江が多い、そこが縄文時代から貝などをとる生活の場となっていた。


今でも三陸でもどこでも浦では牡蠣の養殖などしているから養殖にしても浦は生活の場として変わらないのである。ただ江戸時代に浦は埋め立てられて田になったのである。日本は土地が狭いからやむをえないことだった。人口を増やすにはそうするしかなかった。でももともと海だったところや沼だったと所を埋め立てて家を建てるべきではなかった。地震で液状化で苦しんでいるのもそのためである。青松白砂の風景は一見美しいものだったがそれは実は自然を破壊したということでもあった。人間はすでに田を作るにしろ焼き畑にしろ自然を破壊しないと生きていけない、そういう業をもっていた。その業が遂に原子力発電になったのである。職業とは人間の業であり必ずいい面だけではなく自然を破壊することに通じていた。
明かにこれから未曾有の災害が大都会を襲う、それは自然に反して作っているからその被害も大きくなる。巨大なビルが倒れてくることを想像しただけでどれだけ恐ろしいことかわかる。
現実神戸の地震では起こった。結局何が被害をもたらすかわからない、意外なものが被害をもたらす、今回の津波も誰も予想もしないものだった。

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これは民間の仮設住宅か?一人用であり最近建った、外からくる人や
家をなくした人などふえたから需要が増えた。
アパ-トを借りる人も増えた。2,500円だからホテルより長期滞在用である。
場所は鹿島から原町へ六号線の坂を上りきった十字路から海の方に入る場所にあった

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2011年05月04日

巨龍は千年海底深く眠っていた(大津波の詩)


巨龍は千年海底深く眠っていた(大津波の詩)

巨龍は大海深く眠っていた
その間に人はせせこましく
その上で暮らしていた
巨龍はそれらを知らず無視していた
海岸近くを田にして米を作り
松原を作り調和した美を作り出していた
でもそこはもともと海だった
人は人口が増えたためやむなく
そういう適地でない所に田を作りはじめた
それも千年巨龍は無視して眠っていた
そして田だけではない
人間は電気を発明して文明を作った
夜も皓々と電気の灯は地上を昼のようにしている
一千万の大都会の灯は宇宙からも見える
そのエネルギ-は莫大なものだった
その電気は危険な原子力から作られていた
そして遂に巨龍は千年の眠りから突然目覚めた
大津波は千年間に築いた人の暮らしの場に襲いかかった
一瞬にして海であった原始の状態に戻した
何万人の命は津波に一気にのまれた
その時海岸に電気の元の原子力発電所があった
そこが地震津波にやられ爆発して故障した
危険な放射性物質はまきちらされた
大都会の燎原のような電気の灯は
まるで一吹きで消され元の暗い闇に帰った
大地は沈下して陸はずれて動いた
その凄まじいエネルギ-に驚嘆するばかりだった
人間の力は小さい、文明も簡単に滅ぼされる
自然の神の力のとてつもない巨大さを見せつけられた
千年また巨龍は海底深く眠ってしまうのか
元禄と安政の津波を警告する碑は隅に忘れられていた
四五百年の時間がたてば忘れてしまうものなのか?
いつも人は目先のことで四苦八苦するだけである
人間がいくら科学者が合議しようが
自然の力には知恵にはかなわない
科学者よ、原子力の核など弄ぶな
神の力ははるかに人間の知恵を凌駕する
計り知れぬ宇宙、底知れぬ海、底知れぬ大地・・・
神は人智を越えてなおそこに住む
世界は決して人間の知と技で解明されない
故に神を畏れねばならない・・・
神は人間の奢りをたやすく打ち砕く
科学者の奢りも簡単に打ち砕く
今回の津波以上のものが襲いかかる
文明はそれで簡単に滅びるのだ
文明はアトランティスのように海の底に沈み
宇宙の伝説として語られる
この大津波により神話と伝説が復活した
自然のスケ-ル、神の力のいかに偉大なるか
非情の神を呪うとともに賛嘆する
文明は人の奢りの故の産物
そんなものは簡単になみすることができる
人よ、神を畏れつつましく暮らすが良い
文明は神の世界を地上を汚しすぎた
一挙に洗い流す大津波が大都会を襲う
恐るべき力を知るべしなり
再び原初の世界に戻す神の力を知るべし

posted by 天華 at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2011年05月21日

津波で明らかになった南相馬市鹿島区の土地の高低


津波で明らかになった南相馬市鹿島区の土地の高低

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東日本大震災で津波被害を受けた宮城県から福島県にかけての太平洋岸では、「貞観地震」(869年)を挟み、約450〜800年間隔で大津波が起きていたとみられることが18日までに、産業技術総合研究所の分析で分かった。
http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011051801000727.html

人間がどのようにその土地で暮らすようになったか?それは自然の条件の制約の上に暮らすようになった。南相馬市の鹿島区を例にとれば最初に浮田国造(うきたくにのみやっこ)と文献にあり最初の国がこの地域にあった。その土地を見れば一目瞭然である。この辺では一番住みやすい所にあった。平地であり高い所だった。土地の高低はわかりにくいが鹿島の歴史をたどると自然条件に基づいて発展したことがわかる。浮田国造のある平地の高いところが最初に人が住み次に山際の高い所でありそして浮田の前の横手古墳群のある所から田中城のあった台田中が中心地になった。今回の津波でなぜ田中城があそこにあったかわかった。津波はすぐ近くまできたが田中城の回りまでは来ていなかった。田中城の回りは湿地帯だった。その前も湿地帯であり海が迫っていたのである。そして津波により土地の高低が浮き彫りにされた。真野川に沿った地点は両側は土地が低くあとから開墾された場所であった。だから小島田でも津波が六号線近くまで押し寄せたことに驚いた。島田とあるごとく湿地帯に島になっているような地形だったのだ。


それから右田ももちろんあとから開拓された場所であり大内村の前の田もそうだった。そして常磐線の鉄道の橋の下をくぐりぬけて塩崎(シオノサキ)まで津波が押し寄せていたことには驚いた。そこには船着という平安時代のものらしい地名も残っている。本当に船が来ていたからその名がついた。化石のような地名だった。そもそも塩崎というのもそこが海を前にしていたからその地名がついた。地名はそれだけ古いということである。その辺は低い土地だったのである。この土地の高低は歩いても見ていてもわからない、津波によってわかったのである。低い場所にはより深く津波がおしよせた。もともと塩崎は真野の入江とされてをり遠浅の海だった。みちのくの真野の萱原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)・・・この有名な万葉の歌の草原は地名だったと自分が書いたがまさに草原は真野の入江の港だったのかもしれない、でも笠女郎はここには来ていないのだからここを面影にまで見るということがありうるのかということで疑問に思って書いたのである。結局以前として謎なのである。ただそこが深い入江であり船着という地名や市庭があった。品物を取引する場所があったとするとなんらか港の役割を果たしていたとなる。今回の津波で一番驚いたのは八沢浦が前の入江に戻ったことだった。満々と水をたたえる入江に戻ったこと奇跡のようだった。明治時代に開拓された場所だったから大昔のことではない、それにしても夢見ているようだった。磯部も全滅したらそこはもともとは砂州である地形がはっきりした。ちょうど北海道のような荒寥とした風景になったことに驚いた。北海道はまだまだそうした原初の地形のままに残っている所が多いからである。広大な砂浜が残っているからである。


右田の松原は江戸時代からの開拓で作られた。そこはもともと海だったのである。日本人は江戸時代に海の方へ開拓をすすめた。青松白砂の風景は人工の美として人間が作ったものである。そういう場所が各地にあることはそれだけ人間が開拓した場所が多かったということである。それが根こそぎ今回の津波で破壊された。この開拓も自然条件に逆らうものだったことは確かである。なぜそういう無理な開拓がつづいたかというと日本の土地は狭く人口を増やすのに限界に達していたのである。だから幕末辺りでは江戸時代ではすでに人口を増やすことができずグラフは横ばいになっていた。つまり江戸時代は開拓で田を作り人口を増やしたのである。それが海側への埋め立てや開拓でありそれが自然条件を無視したものでありやむをえなかった。それが今回の津波でもとの原初状態に戻ったのである。そして青松白砂の無数の松がなぎ倒され流された。それは信じられない風景だった。津波の猛威をまざまざと松に残したのである。でも500年周期くらいで大津波が来ているとしたら海側に開拓が進んだ江戸時代は仙台平野や福島県の浜通りでもそうした大きな津波はなかった。三陸にはあってもここにはなかったのである。それも500年単位になるととても人間の歴史の単位も越える。だから江戸時代から五百年はそんなことは考慮しないのである。平和のうちに危険だった場所の開拓はすすめられ人口は増えたのである。


今回の津波が明かにしたのは何なのか?それは五〇〇年が過ぎて大きい津波が来たことも忘却されていた。三陸は違っていたが仙台平野から福島県の浜通りについてはそうである。人間の記憶は五〇〇年もすると失われ忘れられる。人間は忘れやすいのである。忘れたころに災害がやってくるというのはそのためである。五〇〇年も何もなかったら全く忘れてしまう。三陸とここは違っていた。でも海は怖い、だから海側に住んでいる人は浪が海が押し寄せてくる夢を見る。小学校の前辺りまで浪がおしよせてくる夢を見ていたが現実になった。夢はどんなものでも現実化するのかもしれない、誰も隕石が落ちてくるような夢は見ない、それはほとんどありえないことだからだ。海は違っている。毎日接しているから恐怖の夢を見るのである。それが現実になったのである。人間は危険を察知すま能力か弱くなっているのかもしれない、あまりの文明化で機械化で人間の五感も直感も衰退した。これだけ情報化文明化しても人間は危険を察知する能力が衰退した。震度9の地震はスマトラでも起こっているし他でも起こっているからそこに注意していれば日本でも起こるのではないかと危険を感じることができたが不思議にスマトラのことは他人事であり警報装置がなかったから津波のことを知らないから被害が大きくなったと言っていた。日本人はこれだけ地震があるのに警戒していなかったことも不思議である。

人間は今やどこでも自然条件を無視して生活範囲を拡大化している。だから災害の被害は信じられないほど巨大化する。自然に制約されていればこういうことはない、海側にはそもそも人は住めなかったからである。三陸ももともと八沢浦のような入江でありもともと平地には人は住んでいなかったのである。でも平地が便利だから住むようになった。その平地を田にしたことも確かである。田にして米を作りすることが日本人の文明でもあったからだ。田を作るにしてもやはり文明というのは自然に逆らうことになるのだ。そしていかに文明が今や自然に逆らったものとなっているか?その一つが原子力事故でもあった。これも実際は自然に逆らうものであった。何故ならどうしてもとも自然にない物質、放射性物質を作り出すようなもの毒を作り出すようなものを作ること自体が自然に逆らうものだったからである。文明はそういうことで常に自然に神に呪われている側面があった。それが津波でまざまざと見たから驚いたのである。

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2011年05月30日

南相馬市小高区の縄文時代 (津波で縄文の海に戻った)


南相馬市小高区の縄文時代
(津波で縄文の海に戻った)

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黄色は六千年前
赤は3,000年前以上(新しい)
桃色は縄文遺跡



小高も津波で縄文時代の海になった。その貝塚分布を見るとその地点がちょうど入江になった貝などをとるに一番適した地点だったことが証明された。黄色の●の6千年前の縄文遺跡、上浦の宮田貝塚からは鯨の骨のようなものが発見されている。かなり大きな魚とっていたのか?
そんな大きな魚なら入江に入り打ち上げられたのたもしれない、縄文時代でも最初に人間が住み着いたのは海より離れていた。人間は最初から海の近くには住んでいない、狩猟、採集が先であり貝とか海の魚を食べたのは後だった。シカとかイノシシとかウサギとかそうした動物とか木の実を採集して食べていた。だから縄文時代の遺跡の分布は小高でわかりやい。縄文早期は赤い小さな点が遺跡の発見された所である。六千年前に海の入江の奥に貝塚ができたことは自然の地の利から当然だった。人間の生活は自然村であり自然の条件にそって作られたのである。海に最も近い角部や浦尻は3000年前とかなるから新しいのである。栗(くり)が
グリ(石)となったのはやはり栗のように固いものとして海岸の石を同類のものとして表現した。

平地や山側が先に生活の拠点となった。狩猟や採集の縄文時代は長かった。海に進出して生活するのは新しかったのである。四国に狩浜とあるのはまさに魚をとることは獣を狩りすると同じだったのである。海岸に接して角部とか浦尻に貝塚ができてから縄文晩期になると貝塚はできず集落も縮小した。その原因は海が後退して狭まったためか?何らかの自然の変化によるのだろうか?縄文時代もゆきづまると人口は伸びない、自然に制約されていたら人口は伸びない、縄文時代の人口は停滞する。

人口が伸びるとき何らかの技術革新などが起きた時である。縄文から弥生と米を作るようになると飛躍的に人口は増える。人口のグラフを見たら明治維新から異常な伸びでありかつてこれほどの伸びがあったことはない、なだらかにしか増えていない、明治維新からの欧米化文明化は異常な人口の増大でありそれは自然に大きな負荷を与えたのだ。自然に反する行為だった。その行き着く先が原子力の事故だったのである。

明治維新から百年の近代化は実際は異常な無理をした時代であり自然の負荷も極端に増大した。それが今回の大津波とか原発事故の原因になっている。なぜ縄文時代の海に戻ったのか?それが本当に不思議だった。こんなことがありえるのかと驚嘆した。一見米作り田作りは文明でないと思っているが相当な文明である。稲荷が田の神だというとき鋳成りであり鉄の神だった。田を作るには米を作るには鎌など鉄器が必要であり大規模な田作りは灌漑も必要であり土木事業だから大きな文明だった。鉄の王が天皇の起源だったというのもそのためである。


今回の津波の驚きは縄文時代の海の状態を再現したことである。一番驚いたのは八沢浦だった。あれだけ満々と水をたたえた入江になっているのに驚嘆した。それだけ凄い津波だったのである。六号線も津波は越えてきた。井田川(浦)は大正時代に開拓されたとなると遅い。丸木船など残っているからここでの漁労生活はずっとつづけられていた。ともかく浜通りは松川浦しか入江がないと浦がないと思っているけどいかに浦が多いか入江が多い場所だったか知るべきである。太平洋の東北でもこの浦伝いに航行すれば船も使える。外海は無理にしてもこれだけ浦があるということは浦伝いに遠くまで行けることになる。瀬戸内海はそうだったが太平洋でも浦が多かったのである。日本は浦だらけだった。そこが牡蠣の養殖の場になり今日につづいている。その浦が今回の津波にのまれた。海に接して集落を形成した所は壊滅した。それは弥生時代から始まった青松白砂の光景はそもそも海だったところを開拓してできたものでありその海だったところは松をなぎ倒して再現された。田や米作りの文明を破壊したのである。液状化で苦しんだところももともと海だったり沼だったりした軟弱な地盤だった。これも自然条件に見合わない作り方でそうなった。人間は自然条件に逆らい生活圏を拡大した。それが大津波で破壊されたのである。原子力発電だって自然に逆らうものでありそれが自然の力で破壊された。

自然はやはり何か人間に対して復讐するということがありうるのか?そういう大きな自然の力を感じたのが今回の津波だった。

いづれにしろ郷土史研究の一つの場が20キロ圏内の立入禁止区域で失われた。小さい範囲でも地理とかわかるのは時間がかかる。学問も時間がかかる。何かを理解するには時間がかかる。郷土史は地理が地形が基だとするとそれを知らなければ理解できない、小高は海の方にも一回くらいしか行っていない、意外と海が近かった。桃内駅辺りまで津波が来ていた。立入禁止区域になって入れなかった。小高の人は原町の小学校に避難していた。高見地域の小学校だった。あそこを通ったから小高の人がまだいたのかと思った。小高の人は散り散りになった。これも信じられない、立入禁止区域だと入れないことが困る。小高は放射能がそれほど高くない、平地とか海側は原町区や鹿島区と変わりない、0.7から1マイクロシ-ベルトなのだ。
20キロ圏内となるとやはり爆発したとき危険だから立入禁止区域にした。でも海側は住んでも何ら支障なく低いのである。だからあそこなら帰れると思う。飯館はむずかしい。ともかく行けなく名た所が多いから困る。住んでいる所が刑務所化、塀の内になってしまったのである。



浦尻貝塚の概要
http://www.city.minamisoma.lg.jp/mpsdata/web/3189/2.pdf


鯨の骨 (宮田貝塚)

http://green.ap.teacup.com/naraha/709.html

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2011年05月31日

復興へ向かう短歌十首


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夏菊の白と黄色の風にゆる

この道や昨日の嵐に倒れたる菖蒲のあわれ我が見て通る


 復興へ向かう短歌十首


墓倒れ故人も驚く地震かな安らけき日のいつ戻りなむ


墓倒れ地割れの道や復旧の道のり長くこの道を行く


雨しとと蛙の鳴きて我が一人昼餉の用意なお余裕あれ


悲しみのなおも深きも生き残る人はひたすら生きるほかなし


生き残る人はなお湧きぬ力あれ樹々の芽吹きてここに生きなむ


家族をも家をもなくしこれよりは何をよすがに生きむとせむ


故郷に長くしあれば離れじを生きる力のここより生まれむ


よすがなる牛や土地や仲間とも分かれて生きる何を頼りに


その土地に長くしありし石なれば動けざるかなここに生きなむ


荒廃の津波の跡に芽吹きかな残れる人は生きるが勤め


復興の力の湧かむもろともに海と地と山再生へ向かふ

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昨日は嵐だだった。松川浦ではまた地盤が低くなった所が冠水した。毎日通るところにひっそりと咲いていた菖蒲が倒れていた。墓も倒れて直されていない、この災害は長く尾をひく、歴史的災害である。神戸の震災では商店が復興するのに10年かかった。長かったと言っていた。経験者の言葉だから重い。この復興には長くかかるということを覚悟する必要があるのだ。とても一年に二年とかで復興するものではない、長い根気のいる復興の時間が必要になる。
だから50代とか60代の人は第一次産業に従事している人はあきらめる人も出てくるかもしれないもともとも跡継ぎのいない人もあきらめるかもしれない、これから長い時間をかけても復興するという人でないとやっていけないかもしれない、即席には解決しない、嘆いてもどうにもならない、こういうときみんなあせっているけどかえって今なんとかしようとするとできないかもしれない、長い目で見て復興するならば復興できるかもしれない、その長さに耐えられるのか?それが問題になってくるだろう。神戸の商店街では10年かかったというときまさにそれだけの長さが復興には必要となる。だから途中で投げ出す人もでてくる。こういうときやはり50代以上になると苦しい、でも第一次産業は50代以上は本当に多いのだ。農業でもそうだしそこに大きな復興の問題がひそんでいた。かえって原発事故なら保証してもらった方がいいという人もでてくる。
そもそも跡継ぎがいない人が多いからだ。でもその土地に残る人は復興ということが課せられている。テレビでも地元の人が無償で便利屋を勝手でている。若いときはワルであっても今は違う。なんとか地元のために復興のために力をになろうとしている。でもこれは先が長い、ポランティアは遠くから来てくれたが一時的なもので終わる。ところが地元に住む人は延々とつづくのである。放射能汚染は元にもどるのに何十年かかるというからこれも先が長いのである。その頃、年寄は死んでいるのだ。そんな先の長いことに耐えられない人もでてくるのだ。


 

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2011年06月03日

津浪が明かにした日本列島の地形のダイナミズム (奈良盆地は海湾→海水湖→淡水湖→盆地に変化した)


津浪が明かにした日本列島の地形のダイナミズム
(奈良盆地は海湾→海水湖→淡水湖→盆地に変化した)

人が住むところに道ができるのは当たり前だが、ではなぜ「山の辺の道」は標高60m〜70mの高度を保ちながら三輪山の山麓をめぐっているのだろうか。その理由を大和湖の存在に求める学者がいる。三輪山麓に人類が住みついた縄文前期の約6千年前、大和盆地にはまだ巨大な淡水湖が存在し、その湖岸にできた道が山辺の道の最初の姿だというのだ。
http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=201616


地図
http://yamatai.cside.com/katudou/bonntiko.htm


後に紀伊半島の地盤隆起に従って、大和平野の地盤は次第に海面から離れて行くことになった。(中略)つまり、大和盆地はもと湖であったが、地盤の隆起につれて排水が進行すると湖面が次第に低下し、最後には干上がって浅い摺鉢状の盆地になったと理解されます。(樋口清之「日本古典の信憑性」『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/kaguyama.html


奈良のカラ-の地形図
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/edo/index.html

大阪平野、山城平野、奈良盆地は太古は海だった。その海がしだいにしりぞいてゆき今の地形が形成された
海湾→海水湖→淡水湖→盆地


大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば国原は 煙立ち立つ

海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は


この歌はまさに太古の情景が作者のイメ-ジの中にあり作られた。極めて日本の典型的な地形の歌だった。国見をしたら海原が見えとは海が実際に奈良盆地までつづいていた。そして群山があるのも極めて日本的である。今回の津波の驚きは海湾→海水湖→淡水湖が再現された。写真にとった磯部方面の田が津波で冠水して広大な海湾になった。次に海の水はひいたが大雨になり雨水がたまり広大な淡水湖になった。それから奈良盆地になったというのはここではない、その変化のスケ-ルは余りにも大きかった。でも今回の大津波で自然の変化のスケ-ルの大きさを実感した。こんなことがありうるのだということを実感した。

日本最古の山辺の道は太古の盆地湖をさけて山側に作られた道だった。その山辺の道にそって巨大な前方後円墳が並んでいる。代々の大和の王の墓が並んでいる。そこが日本の国の発祥地だった。


やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし


ここには海が欠けて山に囲まれた地をまほろばとしているが実際は海であったところが後退して盆地になったのだ。そうした自然の大きな変化のスケ-ルを読み込む必要がある。それが実感となったのが今回の津波の経験だった。


陸前浜街道も津波が来た所をさけて通っていたという発見もそうだった。常磐線の浜吉田駅から新地駅まで津波に襲われた。名取付近も奥深くまで津波に浸水してかつて海だった所であった。浜街道は広大な海であった所をさけて道が作られていた。これは奈良の山辺の道と同じだった。万葉集は太古の古代の地形の記録を残している雄大なものだった。それは失われた日本の地形を歌っていた。「 陸奥(みちのく)の、真野(まの)の草原(かやはら)、遠けども、面影(おもかげ)にして、見ゆといふものを-笠女郎-もそうである。津波で実際に塩崎まで潮水がおしよせた。そこに船着という地名があり船も流れてきたから驚きである。奈良の場合はさらにスケ-ルの大きい地の変化があったのだ。そういう視点をもつことはなかなかできない、でも今回の津波で現実化したからこういうこともありうるのだと実感した。海だったところが湖となり平地となりやがて山に囲まれた盆地になり大和(ヤマト)となった。その名残としして山辺の道が日本最古の道として残ったのである。そういうスケ-ルの大きな自然の変化から万葉集を読みまた歴史を解読することが必要なのだ。歴史でも太古から見ればそこにスケ-ルがいかに巨大かわかる。
津浪は恐るべき自然のドラマだった。津浪にのまれた人々もまた様々な語り尽くせないドラマと伝説を作った。こういうこと一生の間でもなかなか経験できないだろう。何百年と生きてしか経験できないことである。しかし自然の時間のスケ-ルは余りにも長く大きいから計り知れないものとなる。日本列島は実際に大陸とは違い桁外れに若いというのは本当なのだろう。だから絶え間なく地殻変動があり火山の爆発があり地震があり津浪が襲ってくるのだ。でもこれだけの津浪を経験するのは5百年に一回くらいとなるから歴史を忘れていたのである。


日本では現在の海岸線よりずっと内陸まで海になる時期が長くつづきました。縄文時代の貝塚が栃木県のような
内陸の山奥でも発見されるのはそのためです。そしてこれは現在の日本の海岸線がの多くが数千年前はには海底だったことを意味します。したがって海岸線はどこでも堅牢な岩盤ではなく土や泥が堆積してできたもろい地盤が多いのです。(広瀬隆)


これらの地域は、古東京湾の最も奥(今の渡瀬遊水池付近)につくられたものです(地図)
http://www.maibun.or.jp/qa/a21.html

こう分析して日本の原発は危険地帯にみんな建っているから危険だと警告しているのもわかる。つまりそうした千年とかのスケ-ルの歴史で見ないことが今回の原発事故を防げなかったの要因である。日本は大陸とは違い変動しやすい大地であり地形である。特に海に囲まれているから海の変化を受けやすい、それが津浪だったのである。


先人たちは、津波をよけて街道・宿場町を作った
http://tokyotimetravel.wordpress.com/2011/04/24/



 

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2011年06月05日

仙台平野の津浪の歴史

仙台平野の津浪の歴史
 


 
長稱寺記録によると慶長十六年(1611)大津波があり、寛永九年(16
32)二木村から七軒の百姓が井土浜のこの地に移住し荒地を開墾、草分け百
姓になったという。

仙台市・三本塚の旧集落は慶長津波によって荒廃し,長く放置された
という記録もある.我々は,以上のような歴史記録に残され

山元町と亘理町の調査測線沿いで,現在の海岸線からそれぞれ3 km,4 km内
陸まで追うことができた.従って,貞観津波は仙台平野南部(山元町・亘理町)において,少なくとも 2−3kmの遡上距離を持っていたということになる.
http://unit.aist.go.jp/actfault-eq/Tohoku/06_08_03.pdf


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/
archives/sagufuji.pdf


藤塚・井土両民が、潮風を防ぐため三十万本の松を植えた記念碑がある。石
碑は大正三年(1914)に建立された。
碑には、次のように記されている。両区で開拓が行なわれたが、潮風による


塩害に悩まされた。そのため六郷村山田甚助村長の尽力により、二十五町歩の
荒地(砂浜)に潮風を防ぐため三十万本の松を植林した
(六郷の会)



貞観津浪は今回津浪が押し寄せた地点とほぼ同じ地点にあった。浜堤という堆積物から証明された。それは相馬でも同じだった。今回と同じ規模の津浪が押し寄せていたのだ。その研究から最近警告されていた。福島原発でも貞観津浪のことがあるから津浪対策をしろと忠告されたが全く無視された。これは科学的に証明されたものだから現実味があった。ただ千年前ということであり起こり得ないと判断されたのである。

その後江戸時代にも津浪は仙台平野に押し寄せていた。仙台平野に慶長十六年(1611)に津浪がありより海岸に近い所が新たに開拓者入った。相馬藩でも開拓に入った。この頃日本全国が開拓であり土地を求めていたからそうした津浪で荒廃した地にも人が入ってきた。
人口を増やすのには開拓して土地を増やすしか日本では方法がなかった。だから危険な海側や荒廃した地でも土地があればそこで米作りをしたのである。仙台平野は広大であり貞山堀も作られて船げ米を輸送するように作られたが未完成で終わった。伊達藩の米倉となり江戸にも船で運ばれた。仙台平野の開拓により伊達藩の財政的な力を増大した。

津浪がありそのあとに混乱があり人の移動があり社会が動いた。それは今の状態とにている。

この津波が相当大きなもので記録に残された。津波のあとで開拓に入った。他の人も慶長津波の後に新しく開拓に入っている。名取もヌタリであり湿地帯が海の方に向かって広がっていたのだ。津波の後に伊達藩では開拓に入る人を必要とした。それで相馬藩からも呼んだとなるのか、相馬藩でも飢饉のとき人口が減り越中から人を呼んだからだ。相馬、相馬と草木もなびく・・・という民謡は相馬に人を呼ぶのために作られた。

農家をしている人は新しい土地を求めて移住して働けとかいわれるのもそのためである。原発事故の難民化した農民にも言われている。でも現代は農業一辺倒でないし高齢化しているからそれもままならないのである。ただ今回のような津浪が歴史的にふりかえれば500年前にあったし500年単位でみれば必ず大きな地震や津浪がきていたのである。だから山元町でも海に近いし新地や相馬もそうである。津浪は三陸違いここには来ないとしていたが実際は奥深くまで来ていた。その対策は全くちられておらず壊滅してしまった。

三十万本の松を植林したということはいかに塩害に悩まされていたかわかる。松原は景観のために作られたのではなく塩害を防ぐ実用的なものとして作られたのである。そうでなければ三十万本の松を植えない、それだけ塩害は大きいものだった。陸前高田市でも7万本の松が植えられ一本しか残らなかった。30万本の松も根こそぎ津浪でなぎたおされた。いたるところに松の残骸が今も無惨にさらされている。
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2011年06月06日

三陸の港の津波被害の短歌20首 (日本の地形から考える津波の被害)


三陸の港の津波被害の短歌20首
(日本の地形から考える津波の被害)

●短歌20首


野の浜を津浪襲いぬ年なれば漁師やめるとあわれなるかも


野の浜に暮らす歳月その漁師津浪のあとに思い出語る


小さなる漁港点々津浪きて暮らし奪いぬ誰か跡継ぐ


弁天島津浪防ぎぬ助け合う小竹の村や春の日暮れぬ


細々と小さき湊に暮らせしを無情の津浪なべて奪いぬ


水なくば水汲み運ぶ老人やたくましきかな村を支えぬ


小さななる湊にしあれ水揚げの喜びのありその日思いぬ


小さなる湊も代々受け継がれそもなくれば淋しかるべし


貧しさに身を寄せあいて暮らしける三陸の湊に無情の津浪


漁師として暮らす歳月長きかな小さき湊の愛しかるべし


残谷(のこりや)の地名を残し三陸を再三襲う津浪なるかも


高台に集落作り助かりぬ先人の形見石碑尊し


今日もまた津浪の残骸トラックに運ぶや尽きぬガレキの山かも


三陸の鉄道無惨に砕かれぬトンネルくぐり人歩み来ぬ


悲しみ尽きざりしかも万人の死を償うは何にあるべし


何故の犠牲なりしも天と地と海に慟哭のやまざりしかも


何をもて償うべしや万人の死の悲しみ尽きざりしかも


東北の海岸瀬や津浪あと語り尽くせぬ涙なるかも


七万の松なぎ倒し一本の松あ残して街壊滅す


今日も見ゆ松の残骸あわれかな故郷に長く立ちてありしも



●津波の被害を受けた海岸線の相違


今回の津浪の被害は神戸の地震とは根本的に違っていた。東北の第一次産業地帯を特に海岸線に被害が集中した。その海岸線でも仙台平野から名取から福島県の浜通りは三陸のリアス式海岸地帯とは様相や暮らしも違っていた。仙台平野は伊達藩時代から開拓された田が広がるところであり三陸の漁村とは違う。その広範囲な田が津波の被害を受けたのだから漁港の被害より農業の被害が大きい。塩害で田植えもできなくなった。実際に70万本もの松を塩害を防ぐために植えられた。その松が根こそぎなぎ倒された。その松は田と関係していた。青松白砂の美は塩害を防ぐために作られたものであり土地がないために海側に田を開拓したために作られた人工的美だった。確かに漁港もあったから漁港の被害も大きいのだが三陸は背後に平地がなく牡蠣とか漁業だけで暮らしている所だった。それも零細なものであった。それは日本的典型的風土から生まれた生業である。日本の地形は平地が少ない、山と三陸のような平地がない土地なのである。平地がないからやむを得ず狭い平地に集落を作る。津波にあっても高台は不便だから平地に家を建てることになる。仮設住宅すら建てる場所がない土地である。ただ豊かな漁場がありそんな不便なところでも暮らすようになった。


日本が小さな村が生活の基本になったのは共同体の基本になったのは日本の地形がそうしたのだ。三陸にしても小さな湊が多いというとき、小さな湾があり入江がありそこが港となるか他との港とは山にさえぎられ隔絶される。そもそも日本は山が多いから隣の村は山の向こうとなり行き来もままならないから小さな村で助け合い自給自足の生活を強いられた。坂は境になり村々は地形的に隔絶された。
ただ魚は米と交換する必要があり売らねばならないとなるとき漁業から商業に変化しやすいことはあった。漁師でも商売人になる素地はあった。牡鹿半島でも唐桑半島でも三陸でも点々と小さな漁港が隠れるようにある。日本はそうした小さな港や小さな村々が多いのである。そういう地域が今回の津波の被害を受けたのである。

NHKで放映していた。小竹浜は真正面に弁天島がありそれが津波をさえぎったので被害が少なかった。松島も島があり塩釜も入江が深く島々にさえぎられているから被害が少なかった。

松川浦でも原釜は海とじかに接しているから被害が大きかった。小高い山をうしろにかかえた松川浦に面した所は被害はあっても家ごと根こそぎ破壊されていない、被害の大きいところはどこも壊滅して家の土台しか残っていない、名取辺りからは直接海に面していて被害が大きかった。この辺では磯部-海老-烏崎が壊滅した。磯部は一軒の家もなくなった。ちょっとした地形で津波の被害は違っていた。東京湾は奥深いので津波の被害は少ないだろうというのは地形から見てそう言っている。ただ隅田川を津波がさかのぼっていた。川を通じて津波がさかのぼってくるから川のあるところは危険である。四倉では広い砂浜があって比較的被害が少なかったのか?海に直接面している久之浜などは被害が大きかった。やはり丘であれ広い砂浜であれ前に津波を和らげる緩衝地帯かあるといいみたいだ。波除けブロックや低い防波堤は何の役にもたたなかった。人間の力も地形そのものは変えられない、そこに防災の限界があるような気がする。


残谷(のこりや)とかの地名が残ったのも三陸らしい。つくづく津波の後にこの家は良く残ったな感心してし見てあるったからだ。つまり今回の津波はそうした想像だけではない、実感として切実に感じることが多かった。こんなことが本当にありうるのだということを実際に見たことが違っていた。そうでなければ切実にはならない、空想的なものとして終わっている。だから残谷(残り家)という地名まで残っていることの意味は重いのである。実際に街全体が破壊される残っている家がなくなった!残っている家は貴重だったのである。


女川町野々浜

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2011年06月08日

近くの仮設住宅のこと


近くの仮設住宅のこと


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労務者の木陰に休む田舎かな

我が家に巣作り励む燕かな


六号線食堂にぎわい燕の子

 



質より量とスピードを優先するのが普通じゃねえのかよ
この無駄に豪華な仮設住宅にはなんかの利権が絡んでいると見た

今回の被災者はジジイババアが多いから、家も仕事も失って、
自動的に生活保護に突入する人が沢山いそう。

そういう人間が引越しなんて出来る訳が無い。

仮設住宅は俺の家よりはるかに立派です。
被災地に行って、いえなくなりますた?って詐欺してこようかな。
ちなみに日本人だよ。しかも東証上場企業勤務。


とにかくやっつけ仕事で数こなさないといけないから
実際は貧弱で建材や調度が新しいから良く見えるんだよ
寒冷地で毎回問題になるのが結露とカビで退去の頃には畳はカビだらけだよ
床は一般には部屋の間取りに合わせて基礎打って床下に継柱張るけど
簡易基礎にコンパネ載せただけだから音がすごいんだ
プロレスのマットのイメージで端の部屋の歩く音が別の端の部屋まで響くんだ


確か台湾地震の時に、日本の中古仮設住宅を送ったら、
「日本から高級住宅が送られてきた」って喜ばれたんだよね。
理由は、台湾では床の間は金持ちの家にしかなくて、
仮設住宅には床の間がついていたから。
http://jishin.ldblog.jp/archives/51691854.html


積水ハウス
http://www.youtube.com/watch?v=Z8pbuIBR9sU


近くにあるから毎日見ているのが仮設住宅である。完成したと思ったらしていない、玄関をとりつけていた、あんな玄関必要なのかとも思った。それなりに全部につけると費用もかかる。日本の仮設住宅は贅沢だと外国にうらやましがられたのもわかる。緊急のことだから外国だったら寝る空間があるくらいのものだろう。電気製品もそろっているとなるとエアコンもあるとなると贅沢である。どうしてこうした贅沢のものを作るのかというとやはり公共事業のためなのかとも思う。六号線の千倉体育館や鹿島小学校に行くのに立派な地下歩道は無駄であり高架橋でまにあうと前に書いた。地下歩道は都会なみなのである。公共事業は無駄でもやはり業者のためにやるということがある。だから玄関などなくてもいいと思っても金を使うのかもしれない、ただこうした贅沢な時代には贅沢な仮設住宅や住民の要求も贅沢になるのはやむをえない、何故なら亘理の積水ハウスが作った仮設住宅は立派なアバ-ト並でありこれよりずっといいからだ。

仮設住宅はいたるところに建つ、仙台の長町の空き地にも立っていた。仙台の近くだから駅も近いから便利である。でもその回りは瀟洒な住宅地になっているので仮設に住む人はうらやましいとなるかもしれない、仮設住宅が今話題になることはわかる。

実際今回津波とかで被災した人はみんな家をもっていた。庭も広い庭もあるような農家とかが多い。一番住環境として贅沢なのは飯館村だった。あそこは一軒一軒の家が離れているし庭も広いし森につつまれているからいつ行っても広々として気持ちいいところだとな思っていた。それは他の人も思っていた。住環境は一番贅沢だった。都会のような狭い空間ではない、都会でいくら豪邸に住んでも回りが森につつまれたようなところはない。田舎は自然があるからかえって贅沢なのである。住環境なら前が広々として見える所がいい、自分の家など前が家でさえぎられてるから窮屈になる。田舎でも街中に住むものと郊外に住むものは住環境でも違っているのだ。皮肉なことだが田舎の方がエネルギ-を消費しているというのは本当である。人間が密集している方がエネルギ-の消費量は少ない、車もみんなもたなくても交通の便がいいから困らないのである。田舎でも一人一台車をもっているから贅沢であるし必需品である。車なしでは生活できない、みんな街中に住んでいないからだ。広い田舎で生活できているのは車があるからであり車は一番エネルギ-を消費する贅沢なものである。


昔だと都会の生活と田舎の生活はかなりの差があったから田舎に憧れた。今はかえって田舎の生活に憧れる。なぜなら田舎の方がかえって文明的生活ができるという皮肉があるからだ。ただ震災以後アマゾンでの配達がこの辺はできなくなった。六号線が立入禁止になってル-トが断たれたためだろう。電車も通らないから不便になった。でも車があれば困らないのである。自分は車がなくても街中でなんとか暮らせる。仮設住宅に入っても街中だと車がなくても生活は今の平均的な生活を送れるかもしれない、ただ田舎の人は住環境は贅沢だから仮設に耐えられない人はでてくる。それより仮設に入ると三食つきでないとか電気水道ガス代がとられとか結構出費になるから入らない人ででてきているのもわかる。そうした基本的なものに金をとられることが震災にあった人はなかなかできない人もいる。そういうときは昔のように水も湧き水やら井戸水やら洗濯は川でするようなら労働だけでただで良かったのである。

現実に三陸の方ではインフラがたたれ井戸の水をくむために何度も坂を上る老人がいたのである。水は苦労して遠くから運ぶことがあった。今でも後進国では水を運ぶことが女性の仕事とかに何ているのだ。結局電気水道がたたれ昔の生活に戻ったのである。仮設住宅に入っても老人が被災者になっているのが今回の震災の特徴である。そうしたら老人ホ-ム的な仮設住宅が必要なると言う人もいるし何かそうしたものを相馬市の方で作るとかあるのもわかる。とにかく死んだ人も老人が多いし生き残った人も老人が多いからこれから仕事するということはむずかしい。ただ世話になる人となる。だからなかなか仮設から出れないし収入がなくて困るという人もでてくる。まだ入っていないからどういう人が入るのかもわからないが必ずいろいろ問題がでてくる。

千倉体育館の六号線の仮設には樹があるからその木陰休む労務者がいた。労務者は大阪などからも来ていた。田舎だから自然の場所でゆっくり休むということがある。そういう姿にほっとする。あそこは夏はあの木陰で休むことができる。そういう点で憩いの場所になる。他はあのような樹はないからだ。仮設に入る人は南相馬市だと小高区の人が多くなるのか?小高は立入禁止区域になったからだ。家があっても家に帰れない人が仮設に住むのか矛盾している。

原町の小学校にいた人は小高の人だった。津波の被害にあった人もいた。ともかく鹿島区には人が増えて集る。そういう状態を考えるとき人が効率的に住むには街中に集中して住んだ方がいいとなる。コンパクトシティである。なぜならそうなると車がなくてもなんとか暮らせるからだ。今JRの代行バスが出ているがこれも前の駅前からであり離れていると利用しにくいからだ。病院だって近くだと行きやすい、ただ鹿島区だけでは生活できないから原町や相馬などに必ず行かねばならないのが不便なのである。タクシ-利用したら往復一万近くとられたから車がないと困る時がある。緊急だったのでしかたなかった。JRの代行バスも原町-鹿島-相馬は便が少なくて不便なのである。相馬から亘理は30分おきにでているから電車より便利である。そういう点は改善したのである。


六号線の相馬よりの食堂に入ったら燕の子がないていた。相馬よりは正常化している。自分の家でも今年はめずらしく燕が巣作りしている。庭を直したからだろう。

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2011年06月14日

南相馬市鹿島区右田に残った松


南相馬市鹿島区右田に残った松

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家がなくなった人がここに鯉のぼりを置いたのか?
ふつうこんなところにこいのぼりをしないから


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前畑にダリヤ明るし朝に映ゆ


凄まじき枝折れあらわ凛々しくも津波のあとに残る松かも


今はなき右田の松原防波堤崩れ打ちよす浪の音かな


なぎ倒す松数しれず根のあらわその一本のまた残り見ゆ


家はなく庭石残る茫然と石も驚く津波なるかな


もともとは庭にありにしその石の荒野に残りあわれなるかな



右田の松原は松が太いからいい松原だった。あまり注目されていないがいい松原だった。松川浦よりいい松があった。松川浦の松は細かったのである。だからいい松原とは思わなかった。ともかく今回の津波では松の被害が甚大である。どれだけの松がねこそぎ倒されたか数しれない、何十万本の松が津波で根こそぎ倒された。松原は防潮林として植えていたからその松がすべてなぎたおされた。津波の威力をそこでまざまざと見た。陸前高田市では7万本の松の一本が残ったがそれも危うくなっている。あの辺この辺より津波が激しかった。街自体が壊滅した。まるでポンペイの跡である。この辺でも磯部とか烏崎はそうなった。街とか村ごと一瞬にしてなくなったた恐るべきものだった。身の毛のよだつような津波の猛威だった。


右田だとしょちょう行っていた。駅近くの踏み切りからまっすぐな道だったが家は少なかった。
それでも家はあった。一千万で最近リホ-ムして売り出していた家があった。あの家を売った人は運が良かった、命も助かり財産として価値あるとき売ったからである。海老にあった喫茶店などをしていた別荘も1200万で売り出していた。それも土地だけは残ってももはやあんなところには誰も別荘は建てない、別荘は海側に建てる人はなくなる。日本では結構津波のことを考えず別荘を建てていた。こんな金銭的な大損失はいくらでもある。一瞬にして家も土地も財産もなくなった人たちが何万人といるからめずらしくもない。


あそこに大きな石のある庭があった。その石はどこにいったのか?写真のよりもっと大きい石だった。庭の石も津波によって流された。庭の石は荒野の石とは違う。人間の情がうつった石になっている。ペットと同じである。石に情がうつらないというかやはり庭の石は人間化した石なのである。いづれにしろ以前として異様な光景は変わっていない、これも何年かたつとそんなものかと日常化するのだろうか、それにしても一本残った松はまるで戦場で必死に生き残った侍のようである。なぎ倒された松、殺された松は部下だったのだろうか?凄まじい津波の猛威にたえて残った一本の松、痛々しくもしかし凛々しい松である。これを画家が絵にすれば名作になるかもしれない、一幅の絵になっているのだ。右田の松原は消えただ今はこの残った松の英姿を見るだけである。


前畑や前田というときなんともないようだが農家だったらまず前田が前畑が映える。そこが昔なら生活の拠点となったからである。今は遠くの会社に通うから自然な生活が失われた。前畑や前田を生活の拠点にすることが自然な人間の生活である。あそこは田中城があったところでありあそこまでは津波が来なかった。その手前まではきていた。やはりあそこは高くなっているから城が作られた。あとは低く湿地帯だったのである。


ともかく前田や前畑が生活の拠点となるのは自然であった。車や交通の便がよくなったから遠くが生活の拠点になる、それは人間にとって不自然なことである。都会では今回の地震で帰宅できない人があふれた。そして自転車通勤した人は帰れたのである。便利なものに頼っていると災害のとき困る。便利なものに頼れば頼るほどそうなるのだ。原発の事故もそうだったのだ。その災厄は何百年つづくとか土地まで耕せなくなった。津波の荒野に原発事故の放射能汚染の荒野の世界である。こんなこきになるとは誰も想像もしなかった。でもそれが今の現実なのである。


 

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2011年06月29日

津浪で八沢浦の奥に寄せた浦浪 (今危機のとき日本人は万葉集を読み直すべき)


津浪で八沢浦の奥に寄せた浦浪
(今危機のとき日本人は万葉集を読み直すべき)

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朝日がさしてきらきら光りうよせてきた浦波

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今回の津浪で一番驚いたのは八沢浦だった。相当に奥まで水がたぷたぷと満たした。あれだけの入江であり浦だった。前にも想像図で書いていたけどそれを現実に見るとは思わなかった。よく夢で鹿島小学校辺りまで浪が来るのを見た。というのはあそこまであまり家がないから海の水が寄せてくる。それがちょうど鹿島小学校前だったのである。その通りに津浪が押し寄せてきたことには本当に驚いた。現実となったことに驚いた。夢で見るのと現実で見るのは余りにも違っていた。それは奇跡のようだった。津浪の被害で多くの人が死んだが自然現象としてこれだけのものを見れることはあと千年はないかもしれない、千年に一度の巨大なスケ-ルの現象を見たのである。
そして奥の方に朝にきらきらと波が寄せていた。春の朝であり鶯が鳴いていた。浦波というのが入江にはたちそれは何ともやさしい穏やかなものなのである。いつもみる荒々しい太平洋の波ではない、瀬戸内海辺りには浦が多いからこうした波は普通に見るけど東北では見れない、それで不満だった。


浦浪の光りよせにき春の朝八沢浦の奥の岸辺に


八沢浦奥の岸辺に浦浪のよせて静かに春の夕暮



玉津島絶えぬ流れを汲む袖に昔をかけよ和歌の浦浪(九条良経)


八島国 百船人(ももふなひと)の 定めてし 敏馬(みぬめ)の浦は 朝風に 浦波騒き 夕波に 玉藻は来寄る 白真砂(しらまなご) 清き浜辺は 往き還り 見れども飽かず(山部赤人)



浦浪が絶えず寄せている光景であるからこそこの歌ができた。浦浪にかけるのもやはり浦浪が日常的に見えるもの寄せているからなのだ。朝風に 浦波騒き 夕波に・・・というのもそうである。なぜこの浦浪にこだわるかというと実感としてこの辺では感じることができないからである。
それを今回の津浪で浦浪を一回だけだが現実に八沢浦に再現された驚きである。きらきらと浪が光り寄せて来たのを見たのは本当に奇跡的だった。それは残念ながら一回しか見ることができなかった。これは想像しても決して見られない光景だった。


ともかく今回の津浪は余りにも驚くべきものであり自然の驚異をまのあたりにした。この辺では相馬から双葉郡から久之浜とか故郷から離れて体育館などに避難した。これも信じられないことだった。故郷から切り離される大勢の人達を見た。故郷に住めなくなるという信じられないことが現実に起こった。そして今故郷に住むとはどういうことなのか、故郷を守るとはどういうことなのか?そういう根源的なことがこの辺で問われることになった。その時何を手本とするのか?
故郷とは何なのか?それは風土と一体となって生きた人間を基におくことである。そこに故郷があるのだ。万葉集はその風土と一体となり生きた日本人の魂を集大成したものであった。
日本人の原点がここにあった。故郷とというとき正に自然と人間が一体となった所が故郷でありそれを歌にして残したのが万葉集だった。だから万葉集は日本人の原点なのである。
故郷とは何かというとき東北という地をもう一度見直す、故郷を見直す作業が必要になっているのだ。その原点になるのが万葉集だったのである。


結局自分も万葉集を深く読んでいなかった。万葉集は単に恋だけの歌として見ると何か浅薄なものとなる。万葉集には奥深いものがある。日本の原点であり日本を再興させるような力あるものが秘められている。それは日本の風土と一体となったものだからである。それはもう生活が余りに変わったから失われた世界のことであるとあまり関心がなくなっている。それぞれの個人趣味で拾い読みして終わっている。でも万葉集はそれだけで終わっていいのかというとなる。

こういう日本人の危機の時、先人の残したものが蘇る。原発のような事故を起こして日本の清らかな風土をけがしたことは日本の神の怒りをかうとなる。日本文明を再興するには日本の風土を汚すようなものを作っていいのかとなる。根本的に日本文明を再構築するにはどうするかとなるとき、やはり万葉集を見直すということも大事である。万葉集は天地(あめつち)と一体となる歌である。それが今原発とかで全く日本の天地(あめつち)はけがされた。それはゆるしがたいことなのである。日本の風土がけがされ消えるとき日本も消えるのだ。原発がなくても日本の風土があれば日本は再興する。それが今福島県に課せられた課題なのである。今は福島県は受難の時である。しかし福島県から新しい未来の芽がでてくる、天地と一体となった新しい福島県の未来が生まれてくる。だから今もう一度万葉集を深く読み一体故郷とは何なのか心に刻む必要があるのだ。


津浪で死んだ家族の写真を並べて偲んでいる人があった。


太宰帥大伴の卿の京に上りたまへる後、沙弥満誓が卿に贈れる歌二首
真澄鏡(まそかがみ)見飽かぬ君に後れてや朝(あした)夕べに寂(さ)びつつ居らむ 0572


このうよな歌を読むとき何か慰められる。荘重に亡き人を偲ぶことができる。万葉集に真率な日本人の魂が宿っているのだ。文明化した人間にはない日本人の真率な魂がありそれが日本の風土ともにひびいているのである。

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2011年06月30日

津波の後の写真(右田浜など)


津波の後の写真(右田など)


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右田の松原で残った松は凄まじい、幹の方が割れている


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ここは河口ではない、防波堤が破れた水が入ってきた

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ここは松川浦だった、堤が崩壊して水が広く流れだした。
松川浦はさらに広大な浦だった

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原町の火力発電所で火事になった、これも大きくなったら危険だった
仙台では石油貯蔵庫が大火事になった



今回の津波の特徴は膨大な映像を動画でも残した。これが記録となって後世に残されることが違っている。
口や文章ではない、生々しい映像で伝えられるのは始めてである。
だから石碑で残して忘れられるのとは違う、津波の怖さを映像通して焼き付けられた
そう簡単にこれは忘れられるとは思えない、それが後世にどう伝えられるか
映像の膨大な記録がどう影響するのか、それははじめてのことだった
posted by 天華 at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2011年07月04日

相馬の荒寥とした原初の風景 (津浪で再現された原初の松川浦)

相馬の荒寥とした原初の風景
(津浪で再現された原初の松川浦)


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北山八景で歌われていた



山上春霞 真柴たく煙も空にうち消えて長閑にかすむ山上の里


高松寒月 高松の山風寒く暮るるより面影すごき冬の夜の月


中野 飛雪 寒けしなゆき来も絶えてふりしきる雪の中野の冬の夕風
http://musubu2.sblo.jp/archives/200912-1.html


この中で「山上春霞」は地名として山上に紙漉き沢とか残っているからそういう冷たい清水が流れる所だった。今でもその地形は変わらず昔を偲べる。高松というのも今も変わらない淋しい場所である。今は墓所になっていた。墓地にふさわしい場所だった。
そして想像できなくなったのが中野飛雪である。こんな淋しい所だったのか?枡形があるということは城下町への入り口でありにぎやかに思えるがそうではなかった。人がほとんど通らない道だった。街道の道でもそうだった。江戸時代とはそういう城があってもそれだけ淋しい場所だった。夜だったら物音一つ聞こえないのである。冬だったら雪がふったりしたらひとっこ一人も見えない世界なのである。まるで道があっても原野と等しい世界だった。城だってしんみりとして冬籠もりであった。そういう世界は今になると想像しにくいのだ。人が絶えるなどありえない世界である。20キロ圏内とか飯館村とか避難した村はゴ-ストタウンになりそれとにたものになった。江戸時代は例え人が住んでいてもいかに淋しい世界だったか現代からは想像がつかないのだ。


磯部漁火
・・・・とかなると今になると一軒の家もなくなったから原始の砂州にもどったから江戸時代を偲べる風景ともなる。松川浦だって磯部だって家は少ないし淋しい世界だったのである。もちろんあんなに旅館などない、荒寥とした風景である。津浪で松川浦は磯辺辺りまで広大に広がる浦だった。それが再現されたから驚いた。松川浦は今の浦の何倍もの広さだった。広大な海が迫っていた。火力発電所の辺りは新沼とかありあの辺は低湿地帯であり津浪は六号線まで迫っていた。あういう低い土地は他にもあり危険だった。原釜でもちょっと高いところにあった家は残ったのである。その差が大きかった。磯部には一軒の家も残らなかった。ポンペイの跡である。不遜かもしれないが結局もう再建するよりそこをポンペイの跡のような記念公園にでもするほかないのかもしれない、そしてその悲劇が語り継がれる。再建できなくなったような場所になったところが今回の津浪ではあった。そこは悲劇の場所であり伝説の場所ともなった。松川浦は旅館はやがて再建される。そして磯部は悲劇の村として誰しもたずねる場所となる。砂だけの世界になってしまった。北海道にはそういうまだ原野と砂の海岸が広々と長く残っている。それと同じだった。


津浪はまず原釜方面から松浦大橋のすぐ下まで押しよせ尾浜方向に押し寄せた。その時まともに波を受けた原釜は被害が大きかった。それでも高台の家は残っていた。新沼方面は土地が低くこれも被害が大きかった。そして尾浜は低い丘がありそれが津浪の衝撃を和らげた。
それで家はなんとか残っていた。ところが海岸方面から白い波が吹き上がりおしよせてきた。
結局尾浜辺りは二つの津浪に襲われたことなる。海岸方面から松川浦大橋を渡り灯台のあるところから磯部へ向かう海岸線におしよせた波を凄いものがあった。その波により磯部は全滅した。尾浜のような少しでも小高い丘が連なっているだけでも津浪の衝撃を和らげることができたのである。


松川浦はもともと柏崎とあるごとく崎はまさに海の崎だった。そして磯部は長い砂州だったことが判明した。柏崎に広がった海も広大だった。それは今も六号線から見える。あれだけの広い土地を埋め立てて田にしたのである。まさに原始時代そのものの光景が現出した。


松川浦広々として満たす水春の夕陽の輝き落ちぬ


これもなんと表現ししていいかわからなかった。ただ一回しか見ていないのが残念だった。ただ今でも水がたまると柏崎から磯部辺りは大きな湖になっているのだ。湖をウミと言ったのはわかる。それから湖-ミズウミとしたのは水は潮水が淡水化した海になったからだろう。こういう風景は北海道には今でも残っている。広い海跡湖が残っている。サロマ湖などと酷似している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%9E%E6%B9%96



松川浦に押し寄せた津波
http://www.jiji.com/jc/movie?p=top305-movie02&s=324&y=&rel=m&g=phl

サケは成熟すると、また海水じゃ生きられない体になるそうだ。
仮に帰るべき川が無くなってたとしても、そのまま海に居続けると死んじゃうから、
仕方なく近くの他の川に遡ぼるんじゃないかと言われてるみたい。


オショロコマは北海道でも降海型は殆どいません。しかし、同じ系統で西欧に住むアルプスイワナはその殆どが降海します。これはオショロコマ類の生息南限に北海道が当たっているからです。 

 


海と川の交わる所に生物の進化のドラマがあった。それは何億年の生物のドラマであり神秘である。その謎は解きあかされていない、生物の神秘は本当は謎が多く神秘として残されているのだ。何でもわかったように科学が錯覚させられているだけである。カワイルカなども大陸の大きな河だとそこが海のようになるから残って海に出なくなった。そういうことは想像できる。川の魚には海と河の淡水化した河に住んでも海が故郷だから海に降るのである。


人間は最初海の近くには住んでいない、それは小高の縄文時代でも説明した。海側から引いた土地で狩りと採集で生活していた。だから
ドングリとかクリは硬いものの意味でありグリグリというのも縄文言葉である。ハマグリは浜の石ということでもわかる。グリはもともとは石のことだった。陸から生活がはじまり海に向かった。他の生物は海から上がり陸に向かった。その道が河だったのである。アイヌの生活は川上に上ることが優先された。だから川上が頭になり川下は尻になる。
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川はそもそも下るものではない、溯ってゆくのが川であった。上へ上へさかのぼってゆくのが川であり川は原始の道だった。実際に和名抄に川道郷があったから川は道としてとらえていたのだ。それが一番示しているのがアイヌの言葉である。アイヌ語では川口は尻であり川上が頭である。川は上ってゆくものであり下ってゆくものではない、それは人がまず川を上っていった。川を上ってゆく暮らしをしていたからだ。日本の下は川下は湿地帯であり虫や蟹や蛇などがうじゃうじゃいてバイ菌もでて住みにくかったのだ。これは外国でも地中海辺りでも最初の住居は高台にできたことでもわかる。平地はかえって住みにくかったのだ。邪馬台国(やまだいこく)というのも高台にあった。ダイとは高いところだからだ。稲作は水が良くないといい米がとれないからアガタから山田とか小山田とかがいい米のとれる場所だった。


邪馬台国(やまだいこく)
とは湿地帯が多い日本の地形の中で高台にあった国ということである。今にしてみたら津浪でそのことが明確化された。低い場所は津浪で海になったからである。
人は台に高台に住んだ。鹿島区の台田中もそうでありそこに中世の城があった。その回りは湿地帯であり現実に津浪で近くまで海になったことでもわかる。最初の国は高台に作られたのである。
http://www.musubu.jp/kashimakayanazo7.htm


 

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2011年07月09日

海老-八沢浦-松川浦の津波の後の写真


海老-八沢浦-松川浦の津波の後の写真


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海老の一番高い崖の上の家
これは建てて二年とか新しいものだった




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三菱化成の工場は被害がない
あの辺はすれすれであり津波の高さからすると危なかった
原町の島自動車商会のあるところは相当高くても
駐車場が津波にやられた

あの工場がやられなかったのはどうしてか?
山が衝撃を受けて津波をおさえたのかもしれない・・・・
福島原発でもちょっとでも高ければ助かった
高い盛り土したのだか地盤が弱くなると低くした
それが致命傷になったのである。

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自衛隊がかけた鉄の橋


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崖から下りた八沢浦の海岸に接した数軒の家では二人死んだ
八沢浦では人はそれほど死んでいないだろう
海から近くてもすぐ後ろの山に逃げて助かった
この辺は海に近いのに被害が少ない
波がなんらかで強い波ではなかった、高い波でもなかった



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松川浦は松がなくなり広々として見えるようになった

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磯部では死んだ人が多かった





涼しさや海風吹いて残る石

夏草に石の埋もれる右田かな


涼しさや残れる石に海の風


夏草に石の埋もれる右田かな


海の風浦広々と夏雲雀


夕蝉の遠くにひびき屋敷林


六号線夕風涼し一路行く


家もなく野原の石や夏の月


土台のみ残れる跡に夏の月




父と母妹眠る墓標かな夏の海よりそよぐ風かな


磯部にも二本の松の残りけり家の土台に夏の夕暮


松川浦津浪はすぎて二本の松の残れる夏の夕暮


松川浦残れる松の十数本風そよぐかな夏の夕暮


十数本残れる松に松川浦昔の面影偲ぶ夏かな


津浪にて生き残る人あわれかな松も残りてなおも生きゆく


広々と浦の展けて夏の日や松みな消えて風わたるかな


街道の松の太しく鶯のなお鳴きにけり城下を去りぬ





津浪の跡は放置しておくとやはり湿地帯化してゆく、塩のふくんだ硬い泥炭層ができている。こういう場所にセシウムはたまり堆積するとあった。ここに餌があるのだろうか?白鷺が餌を探している。鳥にとって人間のことなど我関せずである。湿地帯化すればそこに生き物も集るのかもしれない、原始の状態に戻りつつあるのだ。
八沢浦で海から近いところで被害にあった人に聞くと突き当たりの小高い山に逃げたという、津浪が来たとき見えたとき逃げてもまにあったというのはわかる。後ろの山に駆け上ればまにあった。そしてそれほど高くあそこには来ていなかった。あれだけ近いのに被害が少なかった。これも明かに地形のためである。前の山が浪の強さを緩和した。八沢浦は海岸に接していないところはそれほど被害はなかったろう。死者は海岸に接した家であった。そこで二人死んだと聞いた。海岸に接したところはどこももろに津浪の衝撃をうけた。高台にあった海老の家もあんなに高いのに死んだのは津浪の衝撃が崖にぶつかり激しかった。そのためにもろに波をかぶりその衝撃で人が死んだのだろう。津浪の浪の衝撃はみんな一様ではない、地形によってその強弱が異なる。これは確かにわかりにくが被害状況を調べるとわかるのだ。津浪は後ろに小高い山でもあればすぐに逃げられるから助かる。その山もそんなに高くなくてもいいのである。

磯部は小高い山も何もない、平らなところだから被害が大きかった。松川浦の松林も根こそぎなくなった。その松がなくなった結果見晴らしが良くなった。海側の方からみると松川浦は広々として見えるのである。前は松にさえぎられて海側からは大きく見えなかった。今回はいろいろと津浪のことが実体験としてわかった。磯部のような平な所だったら避難所として高台が必要なのである。人工的な高台が必要なのである。コンクリ-トの公共施設の建物は津浪に流されず残っている。だからコンクリ-トの高い建物が必ず必要である。でも相当の高さが必要である。
そういう教訓を今回の津浪は残した。

いづれにしろ津浪で景色が変わってしまった。不思議なのは右田というと松原だったけど今は庭の石が野原にある。それが一つの右田の景色となりつつあるのも不思議である。庭の石から野原の石になった。広々としたところにあるから海からの風がそよげば涼しいという感じになる。
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2011年07月15日

貞観津波の記録だった多賀城の末の松山の古歌


貞観津波の記録だった多賀城の末の松山の古歌


「二十六日 陸奥国で大地震。流光が昼のようにひかった。その時、人びとは鳴を上げ、伏したまま立つことができなかった。ある者は家が倒れて圧死し、ある者は地割れにのまれて埋まった。馬や牛が驚いて走りまわり、互いに踏み合うありさまだ。城郭、倉、門、囲いの壁が崩れ落ち、ひっくりかえった。その数は数え切れない。海口が吠え叫び、雷のような音がして津波が押し寄せ、たちまち城下にまで達した。海から遠く離れていたが、言い表せないほど広大な土地が水に浸った。野原も道路もすべて海原となった。舟にも乗れず、山に登って逃げることもできず、溺れ死んだ者千ばかり、資産や農作物は、殆どのこること無し
馬や牛が驚いて走りまわり、互いに踏み合うありさまだ。城郭、倉、門、囲いの壁が崩れ落ち、ひっくりかえった。その数は数え切れない。海口が吠え叫び、雷のような音がして津波が押し寄せ・・・・


これは作り話ではないし誰からか聞いた話でもない、実際に見た人が書き記したのだ。結構大きな城もあったのだ。
海口が吠え叫び、雷のような音がして津波が押し寄せ・・・・これは今回の津浪と同じだった。
海口とあるから広い河口のような所からおしよせたのか雷のようなものが鳴ったというのは凄まじい音もしたのである。空恐ろしい光景だった。




朽ちのこる 野田の入江の ひとつばし 心細くも 身ぞふりにける
                                      夫木和歌集 平 政村
せきかくる 野田の入江の 澤水に 氷りて留まる 冬の浮き草


いずれも『末の松山』は、どんな津波をも越えることの出来ない、つまりありえないこと永久不変の象徴として、男女間の永遠の恋の理想とされてきたのである。


では実際に“末の松山”でそのような出来事があったのかというと、今から千年以上も昔の869年(貞観11年)多賀城で溺死者千人を超える大津波が襲来したようである。

しかし、小高い丘上の“末の松山”だけは波が越えなかったとの貞観津波の噂が都人の耳にも聴こえ、それが歌枕の故事となったとされている。


ところで“末の松山”の山麓南方100mには“沖の石”と呼ばれるもう一つの歌枕(地図参照)があり、百人一首にも二条院讃岐の次の歌
(1183年千載集)が載っている。


「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」即ち、私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ、他
人は知らないだろうが(涙に濡れて)乾く間もない・と歌っている。

つまり“沖の石”は引き潮でも海中にある石だったが、江戸時代以降は陸化された池の石として伊達藩によって保護(上写真)され、「守人」が置かれていたそうである。
http://blogs.yahoo.co.jp/hsm88452/42803702.html


http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/27528452.html



末の松山については詳しくインタ-ネットに出ている。城下にまで達したというその城下は今の多賀城跡なのか岩沼の岩隈跡なのか分かれている。今回の津浪が押し寄せた地点としては岩沼の岩隈跡だと本当に城下までおしよせていた。多賀城の下までは押し寄せてはいない、それでも当時の海は一キロ奥に入っていてそこから津浪が3キロも押し寄せたら距離は相当でてくる。いづれにしろ多賀城は海に近いところにあり海が見えたのである。江戸時代には松原ができるようになり海が見えにくくなった。江戸時代前は海は丸見えだった。それがわかったのは山元町や浜吉田でも海が近いから駅まで津浪が来ていた。新地でわずかに海が見えたから海が近いと常磐線からは意識する。ところが長年住んでも海が見えない浜吉田が海に近いから浜吉田と浜と意識することがなかった。人間はつくづくそうした景色を意識させられなくなっている。
多賀城の歌枕になった「末の松山」など関心をもてなかった。なぜなら今そこの場に立っても歌枕の景色が喪失しているから感じないのである。私は何回も仙台港から船にのった。その時多賀城からも中野栄駅からも下りて仙台港に行った。しかしあの辺りで歌枕となった地域の昔の景色を思い浮かべることは全くなかった。あの辺はそんな面影は全くない、工場地帯であり家も密集している。そこに津浪が押し寄せたのだ。多賀城駅にも津浪がおしよせた。工場地帯も押し寄せて津浪にのまれた。仙台港には石油のタンカ-があり燃えつづけた。津浪によって太古の昔の景色が蘇った。この歌ができたのは明かに貞観津浪の記憶から生まれた。つまりそれほど古いということに今更ながら驚くのだ。歌は単に風流というだけではない、史実の記録でもあった。


きみをおきて あだしこころをわがもたは やなよや
すえの松山波も越え、越えなむや
波も越えなむ


土地の風俗歌として歌われていたのを宮廷歌として整えた。これは万葉集の東歌と同じである。


池の沖の石には貝殻やフジツボの殻が目にとまった。(永野孫柳)


そこまで海だったことは確かである。末の松山とこの沖の石は600メ-トルくらい離れている。そこは坂を下った所にあるから沖の石は海に沈んでいたことが納得がいく。


わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし


これはまさに想像ではなく実際の景色から生まれた歌だった。こういう光景は今はどんなふうにしても思い浮かばない、住宅地や工場地帯に埋もれてしまっていたのだ。だからそこを一回も訪ねていないし興味もなかった。みちのくの歌枕の地をたずねてもそもそも当時の風景が消失したとき何の感懐もなくなる。あそこで常に意識したのは工場地帯の風景や倉庫群、石油のタンクとかだけであった。そしてそこには黒々と蟻の道ができているだけであった。情緒が全くない所だった。というこは今や人間もそうした情緒のないところで蟻のように働いているだけだともなる。


今回の津浪で沖の石までは津浪がきたが坂になった小高い末の松山には津浪はきてない、ここは大きな津浪でも目前にきても津浪が越せないような場でもあった。波越さじかも・・・というときこの松山までは波は越さなかったなという実感から生まれたのだ。短歌とか俳句は正岡子規の写生が基本だというときまさに本当に見たものからこそ実感の歌が作れる。本当に見なかったら作れないのだ。八沢浦が津浪で深い入江になったとき本当にそこに残った古歌を実感として鑑賞できた。そうでないと想像しただけでは実感できないことがいくらでもある。今回の津浪はそうした実感として千年前とかのことが眼前に現れたから驚いたのである。その実感からすると岩沼の岩隈に城下あったという新説は信憑性があるかもしれない、岩沼は本当に奥まで来ていた。街の一歩手前まできていた。意外と岩沼から名取と仙台も海に近かったのである。

海が見えないから海を意識しない、仙台の波分神社辺りで津浪が来ていたことがあった。とするともっと津浪は奥に来ていた。その頃内陸部に一キロ海が侵入していたからそのくらいの距離だから計算的にはあうのだ。過去にもここまで津浪が来たという証として神社が残された。そして遠見塚古墳もその近くにあった。遠見とは遠くを見る、海を見る、場所だった。海岸にある古墳はなんらか遠くの海を見るための場所だった。南相馬市の桜井古墳でもかなり高いから海が見える場所だった。その下まで津浪は来ていた。そういう昔の海岸線に貝塚が点在して縄文人が暮らしていたのである。


吉田東伍の研究論文
http://wind.ap.teacup.com/togo/html/aidai.pdf

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2011年07月20日

末の松山について(続き)

 
末の松山について(続き)



枝折れて末の松山に残る松長くもあれな海も見えずに


沖の石海の証と残りしに津浪来たりて海をしらしむ

http://www.bashouan.com/piTagaUtamakura.htm

この写真では団地かマンションかさえぎられて海は見えない、仙石線沿いは田んぼと海の景色だった。仙台市街から住宅地が拡大して住宅地が広がった。中野栄駅でおりて仙台港から良く太平洋フェリ-にのり苫小牧とか仙台に行った。苫小牧に着くとそこは北海道だった。空気も違うし広々とした原野が市の近くから広がっている。海岸沿いに広がっている。そこにソ-ラ-パネルを置いて電力を作る計画が生まれたというのもわかる。広い未開の地がまだ北海道にはあるからだ。
苫小牧は仙台港から何回も行ったから親しくなっている。ただ北海道も広すぎるから地理がわかるのはむずかしい。


夏の日や地平の遠く北海道


苫小牧船に我がつき広がりぬ原野のかなた青鷺飛びゆく

自分の経験としては仙台港と苫小牧は結びついている。多賀城が作られた時代は海は見えても船が行き来したということはない、港があったということではない、ただ海は見えたから海は意識していた。だから海に関する歌が残り伝説も残ったのである。多賀城については良くわからない、勉強不足である。でも歴史は地理がつくづく大事である。このことは何度も言っていたけど地理がわからないと歴史はわからない、今回津浪であの辺一帯が海だったということをリアルに認識した。そうでなければ海の記憶は住宅地となり工場地帯となり消失してしまっていた。だから海を思い浮かべることはない。


千歳ふる 小鶴の池も かわらねばおやの齢(よわい)を 思いこそやれ (源重之集)
http://musubu2.sblo.jp/article/29398767.html


小鶴新田については前にプログで書いた。小鶴新田までは仙石線も開通した。小鶴新田停まりの電車も多かった。ここにこんな歌が残されているのもこの辺が沼や湿地帯であり海が近くに広がっていたのである。多賀城からは今のような仙石線の住宅地は見えないのだ。広々として湿地帯や沼であり田があるだけだった。新田だから江戸時代にようやく田が作られはじめた。

小鶴新田の駅におりて印象的だったのは泉が岳が見えることだった。

ともかく仙石線沿いは何回も行っているし自転車でも行った。その辺が全部津浪に襲われたことはショックだった。プログでもその紀行文を書いた。こうした親しい場所が津浪に襲われ流されたことはショックである。あの辺にあった古い碑も写真にとったが流されたろう。すぐ海が近いからだ。鳴瀬川辺りも津浪にのまれた。今回の津浪ではそうした江戸時代からある古い碑なども流され貴重な歴史の証も流された。 宮城県はやはり松島などがあり入江もあり海の文化が東北ではある所だった。伊達政宗が支倉常長を欧州に船で遣わしたようにまた貞山堀を築いて江戸に石巻などから船で米を運んだように海が視界にあり海を活かした英傑だった。東北ではそういう人は少ない、やはりそれも宮城県はめずらしく船を活かす港を作る地形があった。入江があり港になる地形があった。それが基となり海へ活路を見い出すことができた。福島県などは全くそうした港ととなる地形がなかった。だから歴史は地理に大きく作用されるのである。


それにしても末の松山に関心もっている人かなりいる。キ-ワ-ドで5百万ヒットすることは多いなと思った。そんなにここに関心をもつものなのか?実際に訪ねて海も見えないし何の感懐もない、奥の細道の旅でもそういう場所がかなりある。あまりにも変わりすぎたからである。今回は津浪で海岸沿いに興味をもった。津浪で被害を受けた所はもともと海だったからである。

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2011年07月28日

津波の跡が湿地帯化して原初の自然がもどる


津浪の跡が湿地帯化して原初の自然がもどる

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草の種類が違っている


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海よりの風のそよぎて涼しかな沼地に水のさざなみよせぬ


嬉々としてトンボ飛ぶかな新しき沼地を見つけアメンボウ来る


新しき沼地の生まれ生き物のさとく見つけて集る夏かな


草原に風のそよぎて草なびき揚羽蝶舞い燕飛ぶかも


草原に雷の鳴りにきまっすぐに道は海へとつづきけるかも


塩沼池の形成(植物が塩分の濃度を調節



西表島においては,海側にオヒルギが優占するマングローブ林が分布し,内陸に入りますとヤエヤマヒルギが優先する林になります。何故
樹種が変化するのかには諸説があり,土壌のpH,塩類濃度,耐塩性の違いなどが挙げられます。
http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/13/1347.htm


マングローブ林を構成するヤエヤマヒルギやアエギアリティス・アンヌラタ(イソマツ科)
は,外界の塩分濃度が高いときには塩を排出し,低いときには蓄積すると云った,植物
体内の塩分濃度を調節する働きを持っています

ある種の塩生植物は植物体の一部をゴミ箱のように使い,溜め込んだ塩を体外に捨て
て,体内の塩分濃度を調節しています。イグサ科のユンクス・ゲラルディやユンクス・マ
リティムスは極めて耐塩性が高い。これらは,高濃度の塩分を古い葉の中に集積し,葉
内の塩分濃度がある程度以上になりますと葉を落とし,直ちに新しい葉を展開し,より
高濃度の塩を吸収するようになります。



沖縄ではマングロ-ブの林がある。絶えずここは塩分の潮水にひたっていても植物として生きているから塩分があくからと植物が育たないということはない、今回の津浪ほど不思議を経験したことがない、この辺の自然は500年前の自然に還った。津浪をかぶった所は湿地帯だった。松原もなにもなかった。そして津浪の後にどうなっているかというとその500年前の自然状態の復元を日々している。海岸に近い方では草が生えないが離れると草がぼうぼう生えて湿地帯化して草原化している。あるところは沼地化している。そこにトンボが飛んで来たりアメンボウが飛んできたりと原初の自然に回帰した。嬉々としてこういう沼地に生き物は生きていた。

海岸近くは塩分が深く浸透した。それで草も生えない、一方海岸から遠い所は津浪の浪も浅く深く浸透しないので草が生えた。その種類も違っている。

原発事故で田畑が荒地化してそこにも草が生えている。ある所は風にそよぎきもちよく草がなびいている。草原地帯の気持ちよさがモホンゴのような平原の気持ちよさが一部に現れた。その風になびく草原に揚羽蝶が飛んでいる。一羽だけだが白鷺も沼地化したとこたろに飛んできた。沼地化すればそこに生き物が集る。蛙なども住むが餌となる虫も寄ってくるからだ。ここに現れた新しい自然は本当に不思議である。これは生きた理科の教材になる。理科は苦手だがそれでもこれには興味をもつ、塩分をふくんだ塩沼湖がやがて淡水化してくる過程をここで実際に見れる。500年前の自然に逆戻りした自然が見れる。人間は空間を旅すらなら今では地球の果てまで旅することができる。しかし過去にはできない、それでも過去こそ最も興味深い世界である。江戸時代にもどれたらなと何度も思うし想像して江戸時代のことを郷土史で書いてきた。自然にしてもそうである。それで八沢浦が元の入江にもどったとき驚いた。これほど驚いたことはない、たぷたぷと水にひたされた深い入江になり浦浪が春の光をうけて奥深い岸辺に寄せてきた。それはまさに奇跡だった。ただ八沢浦は明治に開拓されたのだから遠い昔ではない、今回の津浪は遠い昔の自然が再現したのである。


ある田んぼに今度は雨がふり水がたまる、その水が透明でありさざなみが海からの風でよせる。それかなんとも気持ちいいのである。他ではまだ津浪の跡は泥で汚れているがここは透き通った水でありそれが沼地化して光がさしてよせてくる。こういう風景は北海道にある。北海道には頻繁に行ったから一番思い出深い場所である。その北海道の風景を眼前で見れるというのも不思議だし津浪の被害者に悪いが気持ちいいのである。実際に今や白砂青松の風景は失われていた。松原はあったにしろ白砂の風景はどこでもない、防波堤に荒い浪が打ちつけるだけでありこれも荒寥としていた。この辺には入江や浦がないから特にそう感じていた。でも500年前は入江や浦や湿地帯が海岸地帯の風景だった。それは今の北海道の風景だったのである。磯部も砂州にもどったしまさに北海道の海岸地帯の風景である。


だから津浪の被害者には申し訳ないけど津浪の跡が湿地帯化するとそこは釧路湿原の小規模な自然が再現される。そこが観光になるようにここもそうなりえる。水田はどこにでもあるから見飽きている。しかし500年前の自然が再現された光景の不思議はつづく、津浪というと何か瓦礫の山やら汚泥やら荒廃した情景だけだが一部はそうではない、美しい原初の自然が再現されている所がある。原初の自然がどれだけ美しいものだったかいくら想像してもそれはしりえないが津浪でそれが一部再現したのである。

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2011年08月01日

万葉集にある津浪の死者を思うこととにかよった歌


万葉集にある津浪の死者を思うこととにかよった歌


夕霧に 千鳥の鳴きし 佐保路をば 荒しやしてむ 見るよしをなみ 


ゆふぎりに ちどりのなきし さほぢをば あらしやしてむ みるよしをなみ

http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/6812768.html

これは死者を偲ぶ歌だったのか。これは不思議な歌である。万葉集は本当に理解しかねる不思議な歌がある。これは津浪の跡の風景にもにている。荒しやしてむ・・・・・これは荒寥とした津浪の跡でありそこに死んだ人が多数いる。家の跡も残っている。千鳥が鳴くというとき自然に還ってしまった砂浜があり死んだ人は消えた。そこで死んだ人をもう見ることができない、そんなふうにも解釈できる。万葉集の解釈にはいろいろありその人の心象風景によっても違っている。これも死者を偲ぶ歌として秀逸なものとなる。万葉集には生きている人ではない、死んでいる人を思っている、偲んでいる歌がかなりある。死んだ人を思うことこそ偲ぶことこそ最も深いものがある。ただ恋だけだとすると何か浅薄なものとしかならない、そんなことありふれたこととなるからだ。


本当に磯部などでも一軒の家もない、砂に埋もれた原始の砂州に還った。荒しやしてむ・・・・
と死んだ家族を思っても見ることはできない、そういうことが過去にも万葉集時代からどこでもあった。思う人、愛する人、・・・が消えてしまった。ただ自然に戻りそこは砂州となり海の鳥が歩くようになる。万葉集時代だと自然が今とは違って残されているから余計に荒しやしてむ・・・という光景がいたるところにあった。荒野が広がりやすいのである。津浪の跡はこの辺では荒野に、原野になってしまった。でも現代でこんな原野になることなど滅多にない、いづれにしろ万葉集は何を思って歌にしたのか不可解なのが実は多いし謎が多い、その謎は何か今になると解明できない、でも現代に通じるものがある。これも津浪の跡の荒廃した自然と通じている。

ともかくこれほどの人間が死んだことは経験していないし一人の死者を弔うのではない、万人の死者を弔うことは戦死者を弔うのとにている。戦没者慰霊祭みたくなってしまう。今年のお盆はそうなっししまう。


万人の死者を弔う盆にあれ死者の無念を深く思うべし


みちのくの津々浦々に万人の死者の霊浮かびけるかも


まだまだ死者の霊が津浪の被害の跡にはただよっている。突然のことだから死者も浮かばれないということもある。やはり非業の死とか突然の死は無念でありその怨念ではないにしろ無念が残る。国民の鎮魂が必要となっているのが今回の津波の被害だった。

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2011年08月03日

天変地異の貞観時代の再来 (民心の乱れが怨念が自然に影響した)


天変地異の貞観時代の再来
(民心の乱れが怨念が自然に影響した)


祇園祭の起源は平安時代初期にさかのぼります。当時、京の都では疫病が流行していました。人々はその原因が恨みを現世に残して死んでいった人々の怨霊の祟りであると考えました。そこで神仏に祈りをささげて祟りを鎮める事を目的に、市中を練り歩く「御霊会〔ごりょうえ〕」を行いました。
この時代は天変地異の時代だったんですねえ。貞観3年に隕石が落下し、16年間の間に、火山噴火だけでも4つの山が噴火し、地震もあっちこっちであり、11年に貞観地震で津波が発生しています。。


869年 貞観地震 大被害、大津波
878年 関東地震 関東地方大被害
880年 出雲地震 島根県大被害
881年 平安京地震  京都大被害
887年 西日本地震 津波発生 南海東南海連動地震の可能性大


地層堆積物から、西暦1500年ごろ、貞観津波、西暦430年ごろ、そして紀元前390年ごろに今回のと似た広範囲を襲った津波があったとしている。津波の再来期間は450〜800年程度。そして、直近の津波が1500年ごろにあったのだとしたら

貞観大噴火(じょうがんだいふんか)とは、平安時代初期の864年(貞観6年)から866年(貞観8年)にかけて発生した、富士山の大規模な噴火活動である。


そして11年には貞観地震と貞観津波が陸奥国を襲いました。自然災害ではありませんが、この年には新羅の海賊が博多に侵入しました。貞観の韓冦と呼ばれます。

13年には鳥海山が、16年には開聞岳が噴火しています。
京都の夏をいろどる八坂神社の祇園祭は、まさにこの混乱の時代に成立しています。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
 (758-811) 武将・公卿。征夷大将軍。大納言。苅田麻呂(かりたまろ)の子。791大使・大伴乙麻呂(おおとものおとまろ)の下で征夷副使となり、796陸奥出羽按察使(あぜち)・陸奥守・鎮守(ちんじゅ)将軍を兼任、797・804征夷大将軍に就いて蝦夷(えぞ・えみし)を征討、798東山に清水寺(きよみずでら)を建て、802陸奥に胆沢(いさわ)城を造営、蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)を降し、810大納言に昇進、薬子(くすこ)の変でも活躍した。


どうして平城京から長岡京・平安京と二度も遷都を繰り返したのかについて、それ が「怨霊」のせいだと知っている。実際この天皇は、生涯を「怨霊」の祟りから逃れる事に費やしたような天皇だった。作家の井沢元彦が「逆説の日本史」の中で指摘するように、「怨霊」が古代における政務・政策の意思決定に深くかかわっている事が、最近ようやく認識されようとしている。



みちのくと奈良や京都の関係はあまりないと考えるがみちのくは奈良の平城宮時代から深い関係があった。清水寺の起源も蝦夷の鎮魂に由来しているとなるといかに古いかわかる。
そういう歴史的背景を知って訪ねるのと知らないで訪ねるのでは感想が違ってくる。奈良時代から平城宮時代から実は蝦夷とは深い関係があった。 陸奥(みちのく)真野(まの)の草原(かやはら)、遠けども、面影(おもかげ)にして、見ゆといふものを(笠女郎)もそうである。祇園祭りの起源がこれほど古いものであった。貞観時代から発していたとかそれも疫病を鎮めるためだとかそれは天変地異の貞観時代は日本中不安に襲われていた。だから天皇の政権争いの怨霊だけではない、蝦夷の怨霊も深くかかわっていた。だからこそ奈良の大仏はその蝦夷の怨霊を鎮めるための国家鎮護の大仏だった。奈良時代は日本国家統一の時代であり国家が深くかかわる、国家を強く意識する時代だった。それが遣唐使を遣わしたことでもわかる。対外的にも唐ではあるが意識した時代である。奈良時代に日本国家の礎ができたのであり極めて国家を意識した時代である。その後の平安時代となると万葉集のように国を意識したものはなくなり平安貴族の宮廷の物語になってしまった。

だから歴史をふりかえると貞観時代はちょうど明治時代にもにている。対外的に唐を中国文化を国家的にとり入れた時代である。明治維新も国家的にヨ-ロッパの文化をとり入れた時代である。そして今なぜ貞観時代と同じような傾向になったのか?それは多賀城下まで津浪がおしよせ大混乱になったことが記されている。多賀城には京都などから来た官僚がいてその津浪に恐れおののいた。蝦夷の軍事征服は決着したとしてもまだ蝦夷の怨念はみちのくに強く残っていた。そういう時代に大津波が襲い多賀城下までおしよせ都の人はおそれおののいたのである。怨念が自然に影響して動かすことがありうるのか、そんなことは科学的ではないとなり受け入れられないが民心が乱れるときそういう天変地異も起きてくる。だから貞観時代と現代は通じるものがあるかもしれない、民心は今や乱れ飽和点に達していたのだ。それを明かにしたのが津浪で破壊された原発事故だった。いかに政治家から官僚からマスコミから科学者がただ利得のみを求め原発を推進したか、これには国民全部がかかわる問題だった。原発を推進した指導者たちが犯罪者だったことが明らかになった。津浪が知られざる罪を暴露したのである。


これは人間の力ではできないものになっていた。だから天変地異にはそうした天からの警告があり罰である場合がある。本当に巨大な天変地異で滅びたアトランティス文明があるとかそういう巨大な変化が起きたことが知られざる遠い過去にあったかもしれない、そういうことも起こり得る。江戸時代が飢饉があり地震があっても比較的平穏だったのはやはり民心がそんなに乱れていなかった。何か全国的な怨霊となるような事件が少なかった。それで白砂青松の人工的な日本の美が海岸線の開拓とともにありえた。その時は大津波は来なかったのである。もし来ていたら海岸近くの開拓をしていなかっただろう。江戸時代の三百年は平和が満喫されたのである。それは民心が乱れず安定していたともとれる。明治時代以降は民心は安定せず乱れが激しくなった。世界戦争にも加わり大きな犠牲があった。それから民心はやはり金銭崇拝となり物質至上主義のモラルの荒廃時代の極点に達していたのだ。その時、大地震、大津波、原発事故になったのである。原発事故は疫病の再来でもある。疫病になれば食糧も安全ではない、これは貞観時代の再来である。それも民心の乱れがあって貞観津浪と同じように東北に起こったともとれる。だからこれから東海地震,南海地震とか連続して大地震が起こり津浪も起こる。それはすでに科学的に予定されているから単なる脅しではない、貞観時代と同じになってくる。しかしその被害は文明化しているからとてつもないものとなる。そういう不安の時代に突入しているのだ。だから祇園祭りのように日本の天地を鎮める祭りも必要になってくる。やはり人心の腐敗は自然にも影響するのである。


個人的にもここ五年間に自分に起きたことは未だに信じられない、それは家族の認知症からはじまった。そこから歯車が狂ってしまった。家族はばらばらに住むようになりそれから自分の病気や犯罪などにあう、交通事故にもあうこれほどの災難があるのかと思った。自分に起きたことは今は回りで起こっている。家族はばらばらに住むようになるとか家を留守にして火事場泥棒にあうとかそういうことが同じように起こっていることの不思議である。これも自分に起きた不運と関係していた。自分だけではない、他でもこういうことが起きている。金にまつわる事件は増えている。そして人々の心はすさんでいる。それぞれに怨念が強くなり増大の一途をたどっている。そういう人心の乱れが怨念が自然に影響したということはありうるのだ。定期的科学的に起こるものであり関係ないとはならない、貞観時代は今とにて人心の乱れがあったのである。

 
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2011年08月08日

悪想念を一掃するため東京から西に大地震大津波が起こる


悪想念を一掃するため東京から西に大地震大津波が起こる


●幕末から明治時代は大地震が頻発


巨大な天変地異もまたその流れの中に有り、これから地球という生命体が、人類の悪想念という雲(悪想念エネルギー)を払うため、自浄作用として地殻の活動を活発化させると思います。
http://thelawsofgod.jugem.jp/?eid=225


二千年という時間は、神の目から見ればそれほど長い時間ではなく、地上の文明の軌道修正と浄化が必要になることがあらかじめ分かっていて、人類に警告されているのである


1853年嘉永小田原地震
1854安政東海地震
1855年安政江戸地震
明治時代1868
1894年明治東京地震
1923年関東大震災。
首都圏は、関東大震災を最後に、大地のひずみを解放し、静穏の時代に入ります。


この地震の連続も規則性があった。明治時代がはじまる前のわずか10年前から幕末-明治維新の激動の時代だった。その時地震が活発化していた。そして最後に関東大地震で10万人が死んで一連の地震は集束した。それから約100年でまた大地震とかつてない大津波が来た。

不思議なのは江戸時代でも海の方に盛んに開拓されて稲作が行われて白砂青松の景色を作った時代は比較的平穏だった。もしこの時代に仙台平野とかが大津波に襲われていれば大規模な開拓はしていないのである。三陸は津浪が宿命的にくりかえす場所だから仙台平野とは別なのである。


地震と想念が何の関係あるのかとなるが地上に悪想念が満ちるとき自然も神も怒る。そもそもこの地は人間のものではない、神のものである。人間のものは一つもない、その地も海も山も森も全部が神のものであり人間は神から土地も借りて住んでいるのであり人間のものはそもそも何一つない、みな神が造り神が人間に与えたものなのである。だから神のものを粗末に扱えばどうなるのか?確実に神が罰を与えるのだ。江戸時代の三百年は比較的なぜ天変地異も少なく人々は平和に暮らせたのか?明治時代に訪れた外国人が日本人はみな幸せそうな顔をしていたという。今のような豊でも不幸に沈んでいる顔ではなかった。なごやかな穏やかな顔が多かったのである。ところが幕末から明治維新と激動の時代になった。この変化は余りにも大きすぎた。それと同時に地震も多発したのである。貞観時代も蝦夷征伐のあとであり奈良時代は今の明治時代だった。この時も社会は劇的に変化した。奈良時代と明治時代はにていた。最も国家を意識した時代だった。自然の災害と人間社会の変動期が一致している。これはまだ科学的には検証されていない,でも研究する価値がある。歴史は神話の時代からあり未だに解明されていなのだ。


●アトランティス文明の運命が待っている


人間にとって想念の影響は意外と大きい、その想念が清浄な自然に影響する。すると清浄な領域に住む神もその人間の悪想念に耐えられなくなる。ある程度は許しても今のように巨大文明化するともうその影響は神にとって耐えられないものとなる。それで悪想念を一掃するため天変地異が起こす、易性革命を起こす、天の力、神の力が働くのである。高度な文明がアトランティス文明が海に沈んだというようにそうなることもありえる。


大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことである。強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。


ギリシャ神話が形成されたのは2千年から3千年前である。しかしプロメテウスとかの神話が原子力の火として現実に人類滅亡の恐怖として災いをもたらした。それが身近で起こったことはこうしたことが再度起こりえる。それほどの大きな津浪の恐怖だった。次に東海南海大地震が起こり今度は東京から西が大災害にあう。その辺は東北より想念は何百倍も悪化している。
悪想念の黒煙がもうもうと立ち上っている。それは放射能のように目に見えなくても神の眼には見える。東北の大津波はその前兆であり警告だった。本番は東海南海地震なのである。だから本当に東京から西の大都市は危険である。東北の放射能から逃れろと盛んに西の人が大阪の人達が面白半分に言っているが本番は東海南海地震でありそこは標的になる。悪想念からしたらどうしてもそうなるからさけられないのである。10万規模の死者が出るかもしれない、首都機能は停止してしまう。その前にゾトム、ゴモラが滅びる前に逃れるほかなくなる。東京より西は実際は東北より危険である。


悪が地上に満ちたから神は大洪水を起こした。ただノアだけを方舟で助けた

ソドム、ゴモラは神の怒りで一瞬に滅んだ
迷宮と化してクレタのミノス文明は滅びた
アトランティス文明も神の怒りで海中に沈んだ


ミノス文明も、紀元前1400頃、突然、歴史から消滅する。その原因は、2つ考えられている。1つはギリシャ本土から南下してきたミュケナイ 人に滅ぼされたという説。もう1つは、サントリーニ島で地球規模の火山爆発が起こり、その地震と津波で滅んだという説である。
 http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-4.htm


過去にあったことは必ず現在にも起こる。2千年前3千年前の神話も現実から伝えられた。全く空想ではないから起こるのだ。そういう危機の時代に突入したのである。そして巨大に複雑に文明化した世界はもはや想念を鎮めることができない、悪想念はもう目に見えないが多量の放射能として地上から消えないように出てきて堆積している。核というタブ-に手をつけた人類は危機なのである。その危機に対する認識があまりにも甘すぎたのである。


近いうちに必ず起こる東京大地震で東京も壊滅確定 被害額112兆円
http://blog.livedoor.jp/omoidesokuhou/archives/2417929.html


●古代の遷都の理由も悪想念を一掃するため



 601年 斑鳩宮 聖徳太子
 630年 岡本宮 舒明天皇
 636年 田中宮 舒明天皇
 640年 厩坂宮(4月) 舒明天皇
 640年 百済宮(10月)  舒明天皇
 642年 小墾田宮 皇極天皇
 645年 難波長柄碕宮 孝徳天皇
 656年 岡本宮(両槻宮・吉野宮も造営)斉明天皇
 667年 近江宮 天智天皇
 672年 飛鳥浄御原宮 天武天皇
 694年 藤原宮 持統天皇
 710年 平城宮 元明天皇
平安遷都までも、紫香楽宮、難波宮、甲賀宮、長岡京と新宮の造営が行われました。


水銀が命絶つ「遷都の原因は大仏建立による公害」仮説唱える
http://lbv.jp/case/mercury_story.html



なぜこれほど遷都しなければならなかったのか?遷都することは一新することである。一カ所に人間が留まるとそこはたまり水のように汚れるからである。気も汚れるし怨霊もそこに留まる。怨霊もその土地に巣くうので逃れた。最近の説では公害説もでてきた。ともかく場所を変えることにより一新させるためである。今だって場所を変えれば気分も変わる。一カ所にいるとどうしても心も濁る。悪想念が一カ所にいるとたまる。想念の影響は思ったより大きいのである。古代には広々としたフロンティアが荒野が回りに常に広がっていたから可能だった。人間にはどうしてもフロンティアが必要だった。ヨ-ロッパのフロンティアはアメリカだった。日本は北海道だった。北海道は今もフロティアとしてあり本州とは空気まで違っている。まだ怨霊とかが巣くっていない、アイヌはいたがそれは素朴な人々でありその人たちの伝説は残っている。現代の不幸はフロンティアが喪失したことである。宇宙に求めても得られない、結果的にもうフロンティアがないからアトランティス文明のように汚れた都市は都は海中に沈むほかない、滅びるほかない、古代において東北はフロンティアではない,日高見の国がありこっちの方が日本国の起源だというとき東北の歴史はそれだけ古いのである。縄文時代は東北の方が人口が多く栄えていたからそうなる。
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2011年08月11日

真野川で灯籠流し(南相馬市合同慰霊祭)



真野川で灯籠流し(南相馬市合同慰霊祭)

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動画




この花火は長岡の人がきてやっていた
静岡放送局でも来ていた

今ややっている
小高の人もみんな見ている

真野川に灯籠の灯や延々と

みんな見る小高の人も花火かな

満月のい出ておりしも供養する灯籠流し霊の安かれ




真野川で灯籠流しを今日していた。合同慰霊祭でありこれは南相馬市の津浪で死んだ人達の供養である。原発事故では一人も死んでいないのだ。でも実際あとあとまで災いだったのは放射能問題で原発事故だった。森も汚染されて危険だとかがっかりする。田舎に住むメリットがなくなってしまう。


小高区の人が集るから人出がある。わかったことは人口というのが活気に相当影響があることだった。いたるところで目立つのが小高区の人である。そうでないと人口が少ないと何か祭りをするにしても人が集らないのである。3000人とか増えると町は確実に変化する。活気が出てくる。それも5千人増えればさらに活気がでてくる。鹿島区の全盛期はちょうど今の人口に5千人たしたくらいであり子供も多く活気があった。5000人減ることはいかに影響するかわかる。

そして子供が多い若い人口が多かったことである。だからさらに活気があったのだ。今は5000人へってさらに老人の人口ばかりふえる、高齢化するから活気がなくなってしまったのである。

ともかく満月がこうこうと光っていた。霊の安かれと祈るほかない。夜も暑くなった。
posted by 天華 at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2011年08月21日

400年前に巨大な津浪が宮城県福島県(相馬)にもあった


400年前に巨大な津浪が宮城県福島県(相馬)にもあった


1611年慶長三陸地震の被害

北海道の南東岸でアイヌの溺死者多し(青森県防災HP)
南部・津軽:「海辺の在家・人馬等3000余溺死すと云々」(貞山公治家記録)
今泉(陸前高田市)で溺死者50人、家はほとんど流された。(気象庁)
鵜住居・大槌で死者800人、船越で50人、山田・津軽石・宮古で330人(中央防災会議)
宮古でも一軒残らず波にとられた。(気象庁)
仙台藩領:「1783人溺死し、牛馬85匹溺死」(貞山公治家記録)、「里へ下れば、一宇も残らず流失す」(同、別条)
相馬藩領:「約700人が津波で死亡」(相馬藩世紀)


宮城野区岡田地区は「荒井付近まで達したという慶長16年(1611年)12月の地震による大津波では深刻な被害を受けたが,元和(1615〜)から寛永年代(〜1644)にかけて行われた仙台藩の新田開墾奨励によって再生した」とある。また、「元和年代に、吉田権六茂友という藩士がここで八百余石の禄を受けていたが、荒廃した土地の開墾を奨励して、更に七百余石の田地を開き、計千五百石の禄を領するようになった。続いて、寛永年代にかけても、岡田・新浜の開田が盛んに行われた」とにある。
この頃はまだ慶長三陸地震経験者も存命していたはずだが、食糧増産の命題が優先されたのか、海側低湿地での新田開発及びそれにともなう新田村の取立が盛んに行われたのである。


岡田の歴史
http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/miyaginoku/13/13-05-06.htm#rekisi


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/

 

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この辺では津浪が来たという話しや言い伝えを聞かない、そうした謂われあるものもないが
松川浦では津浪の被害が大きかったが漁師の間では津浪になったら沖に船を出せということで120隻ある船の90隻が助かった。時間もあったから助かったのかもしれない、それにしてもそういう言い伝えがあったからやはり漁師には津浪を知っていた。松川浦にある津(つのみつ)神社に逃げて50人が助かったというのもその神社がいつ建てられたのか?慶長の津浪のとき建てられていたのだろうか?400年前に明かに今回と同じ様な大きな津浪がきて被害があった。それが相馬藩政記に記されていた。400年前と言ったら千年前の貞観地震とは違いそれほど歴史的遠い昔ではない、それでもなぜこの辺では津浪にこれほど無防備だったのだろうか?

それは三陸でもあれだけ津浪に襲われ被害があっても同じ様に被害にあっているのだから人間はやはり津浪より生活優先になってしまうのだろうか?この辺でも400年前に大地震があり津浪の被害があった。それがあまりにも看過されていた不思議である。400年もたつと人間はそうした記憶も消えてしまうのだろうか?それでも双葉町の原発を建てられた地域でも慶長の津浪の被害があったかもしれない、相馬であったとすればあった。すると貞観地震が千年前で昔だとして400年前となるとそうはならない、歴史的時間では短いのである。人間はそれだけ忘れやすい、記録されていてもそれをもう現実のものとして受けとめられないのである。今回は津浪が現実にあるんだということを思い知らされた。そして遠い昔のことは今にかかわっていることを再認識したのである。祇園祭は貞観地震で死んだ人を慰霊するためだという時もそれだけ祭りの起源が古いことに驚く、京都だから当然だとしてもその頃からみちのくのことは京都に詳しく知られていたのである。



海老村は屋形村から発展したから上海老であり海に面したところは下海老となる。下海老が中心になっている、人家が多いのは昔は漁村であり塩も作り江戸時代は米も船で運んでいたということが鹿島町誌からわかる。海に面して漁業があり塩作りがあり米の運搬までしていたのだから下海老村の方に人口が集中してきたことがわかる。北海老村は下海老村のあとに作られた。http://musubu2.sblo.jp/article/43585610.html


下海老村は海岸に接してありそこでは塩もとれる米を船で運べる港があったから海岸沿いに人が集中してきた。そういうことは三陸の町でもそうなった。どうしても海岸に人が集中してくるのはそこが暮らしの拠点になりやすいからである。下海老村に人が集中したのは慶長の津浪の後である。でもその津浪のことは言い伝えられていたはずである。それでもそういう危険な場所に人々は便利で住むようになった。 宮城県の岡田地区でも慶長津浪のすぐあとに開拓されているのはなぜだろうと思う。今とは事情が違うのだろう。どうしても開拓せねばならぬ切羽詰まった理由があったしか言いようがない。瀬に腹は変えられないということがあったかもしれない、三陸の港でも何度も津浪の被害があったのに海岸沿いに住んだのは豊かな漁場と便利だったからである。外からも人が入ってきている。

 
 
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2011年08月23日

(看過されていた慶長津浪の被害) 小高から中村(相馬)に城を移したのは津浪の復興のため?

 


(看過されていた慶長津浪の被害)
小高から中村(相馬)に城を移したのは津浪の復興のため?



1611(慶長16)年12月2日、三陸沖、M8.1

さらに慶長16年(1611年)12月に宇多郡中村城に本拠を移し、ここが相馬藩の城下町となった。
治家記録慶長16年11月30日条に、この津波の到達した場所を推定できる記載がある。海に出ている間に地震発生、津波に流され、舟ごと「千貫松」に流れついた記載。

「相馬藩世紀」には相馬中村藩の領内(現在の相馬、南相馬、浪江、双葉、大熊、飯舘の各市町村)で約700人が津波で死亡したとある。

400年前の津波の後、相馬中村藩は城を軸に城下を整備する都市計画を進め、商工業の振興を促したという。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/04/post_921.html


慶長津浪の後に復興させるために小高から中村に移った。それと伊達市から守るために中村に城を築いた。そもそも相馬の城が津浪の復興のためだったとは思いもよらなかった。津浪の影響がこの辺でそんなにあったのかということである。伊達氏との争いは相馬の歴史では常に語られている。しかし津浪のことなど誰も注目しなかったのである。確かに津浪で被害を受けたらその復興になったことはありえる。被害を受けた人々を中村に集め仕事を与えることもできた。双葉、大熊まで今回の津浪と同じ様に被害を受けている。それにしてもなぜ東電では400年前にこれだけ被害のあった津浪が記録として正式に残っているのに全く考慮しなかったのか?

貞観津浪は千年前以上だから考慮するとなると現実感がなくなるかもしれない、それにしても400年前にこれだけの被害の記録が現実にあったのである。700人は今回死んだ数に匹敵するくらいだろう。人口密度がまだまだ低い時だからである。東電は地元の歴史を良く研究しなかった。東北電力では女川は津浪を考慮して高台に建てて助かった。女川はもっと津浪の被害があったことがわかっていた。入江であり危険な地形だった。東電は東京だから地元の研究していなかった。?でも地震のことは科学者の専門家がいるのだから危険性は提起されていたのだ。


住民団体や日本共産党は、再三にわたって、国と電力会社に申し入れを行い、国会で質問し、対策を求めてきました。しかし、国と電力会社は、「現実には起こらない」「多重、多様な電源設備がある」などといって、この問題に目をつむってきました
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-06-02/2011060204_01_1.html

実は5年前の2006年3月1日の衆議院予算委員会分科会で、まさに今回同様の事故への懸念が指摘され、危機を回避するための措置を講じることが「約束」されていたのだ。
質問者は日本共産党の吉井英勝衆院議員、答弁者は二階俊博経産相(当時)と政府参考人の広瀬研吉保安院長(同)。以下はその議事録からの抜粋だ(敬称略)。

吉井「冷却系が喪失するというのが津波による(略)問題」「大規模地震によってバックアップ電源の送電系統が破壊される」「老朽化したものの実証試験を行ったということはどれぐらいありますか
http://president.jp.reuters.com/article/2011/04/01/
650DA4AE-56B6-11E0-8777-12CF3E99CD51.php

 


これほど指摘していたのに何ら対策をしない、清水社長はコストカッタ-でのしあがったとか言われるから金をかけたくないから古い型のマ-ク1を使いつづけたし津浪対策もあえてしなかった。ただマスコミに安全神話を作るために湯水のように金を使っていたのである。その責任は余りにも重すぎる。

郷土史というとこうした災害とか余り関係ない深刻なものがない好事的なものとして追求している面があった。でも実際は郷土史にも重大な危険を教えるものがあった。それがこの津浪の記録だった。しかしこの辺でもこの津浪のことを特別とりあげて警告している人などいなかった。
やはりただ700人が死んだという記述だけではものたりない、どういう被害が浮かんでこない、しかしこのことをもっと注意していればこんな被害にはならなかった。海岸線でも余りにも無防備だったのである。海岸線に家があれだけ密集していることがどれだけ危険なことか慶長地震の津浪を想像していたら恐怖していたはずである。何かしらの備えをしていた。ただ松川浦近辺で津浪の被害があったところは湿地帯であり津浪の後に開拓されたのだろう。それは仙台平野と同じだろう。漁師が被害になったのか?どういう被害にあったのか詳細がわからない、ただこの津浪の後にも開拓されて田が作られたことは確かである。新百姓として松川浦に入った人もいる。そういう人は漁師をするというより田を作ったのだろう。塩場をもっている人がありそれは原釜などでは大きな収入源となったから津浪の後でも仕事をはじめた。ただ慶長というと小高から中村に移ったばかりだからいろいろ整備されていないことは確かである。津浪で潮水をかぶったところより奥も湿地帯であり徐々に海側に開拓していったことは確かである。今開拓されて田になっている所はみな慶長の津浪の被害を受けたあとに田になった所なのである。津神社(つのみつ)は慶長の津浪の記念として祈念のために建てられたのだろうか?


ともかく地震の専門家も東電にはいるし十分に研究できる金もある。そして厳しく危険なことを指摘されていたのに東電では一向に手をうたなかった。事故の直前まで指摘されていた。
そして内部をしりえたのはGEの技術者、アメリカ人だったのである。その人は身の危険を感じていた。東電は過失致死罪にあたるとか言う人もいる。でも検察では罪に問えないとか言っているのも結局検察も官僚であり東電擁護に回っているからである。検察、警察官僚の有力な天下り先が東電だからである。今回の事故は想定外の津浪のためだというけどそもそも東電では津浪の備えなどしていなかったのである。想定外もなにも津浪そのものを無視していたのだ。だから東電の罪は大きい、これだけ危険なものなに危険でないという安全神話を作るためにのみ膨大な金をマスコミに使い政府と一体となっているから余計に奢りになった。その奢りをとがめる人もいない、保安院は内部の人であり厳しくチェックする人達ではない、だから津浪のことに関しても甘いし見逃しているのだ。これは想定外のことではない、そもそも津浪を想定していなかった人災だったのである。ただ地元の人も自分もふくめ津浪に関心がなかった。400年前にそんな大きな津浪の被害があったなどはじめて聞く人が多い。それだけ関心がなかった。貞観津浪は学者が最近、土壌から砂が発見されたなど津浪の跡を科学的に証明していたので関心があった。慶長津浪についてははじめて聞くことだったのである。そこに津浪がこの辺では盲点となっていたのである。

posted by 天華 at 05:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

なぜ東北の慶長地震の津浪は大きく伝わらなかったのか? (マスコミからインタ-ネットへの変化は社会を変えるのか?)


なぜ東北の慶長地震の津浪は大きく伝わらなかったのか?
(マスコミからインタ-ネットへの変化は社会を変えるのか?)

●貞観津浪は多賀城があり京都に知られた


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貞観津浪は千年前以上で古いのに京都まで広く知られていた。つまり中央政府に知られていた。それは多賀城があったためである。中央の役人が相当数きていて短歌も残しているからわかる。末の松山と有名な歌枕となったがそれは貞観津浪があったために歌枕の地となった。
歌枕となったということはみちのくの奥でも都に知られたということである。その当時は都に知られる意義は今よりずっと大きい。なぜなら京都から遠く離れていると情報が伝わらないからだ。
遠くの情報は貴重になる。だからこそ歌枕として記録された。歌枕はだから単なる風流ではない、どうして陸奥をしるかという目印であり地図だった。地図すらないときは歌枕が地図でありその地名から知るほかない、だから芭蕉の奥の細道でも歌枕をたどっているのは特別に風流を求めたわけでもない、地図として歌枕が指標となっていたからである。

そしてなぜ慶長地震の津浪も貞観津浪に匹敵するものだったのに都の人にも伝わらず地域的に伝えられるにすぎなかったのか?それも詳細はわからないし都の人の話題にもならなかった。それはすでに多賀城の時代は終わって江戸時代に入っていたのである。蝦夷征服は昔のことであり多賀城も遺跡として埋もれてしまった。だからかえって都にも伝わらず全国的にも伝わらなかった。相馬藩と宮城県の伊達市には伝わっていた。それも何百人死んだという記述しかない。その規模は貞観津浪と同じくらいでも地方的な災害として終わった。貞観津浪は京都の祇園祭がその犠牲者を弔うことに由来があるというときそれだけ都の人々にも全国的な広がりのあるものとて知られていたのである。だからかえって地域的なものとして知られていないからそんなに話題にもならず地域的な災害の記録としてしか残らなかった。学者が研究したのも貞観津浪であり慶長津浪でなかった。そこに慶長津浪が歴史的に注目されない理由があった。
それだけの災害でも封建時代になると藩中心の社会だから他に伝わりにくかったのである。


●インタ-ネットなどで情報が世界的に拡大


それに比べると今は世界的に情報は即時に伝えられる。ベルギ-にいたサッカ-選手の川島が「フクシマ、フクシマ」と原発のことでやじられ怒っている抗議している姿がテレビで写された。
ベルギ-までフクシマのことが知られてそんなヤジが飛んでいたことに驚いた。フクシマの原発事故はそれだけ世界的関心がもたれた。南相馬市長がyoutubeで窮状を訴えて世界的に有名になったというのもインタ-ネットが普及したためである。それほどインタ-ネットが情報伝達に有効なのかという疑問はあった。でも今や世界的なデモや革命がインタ-ネットを通じて成されていることが情報環境が変わったためである。インタ-ネットを通じて社会が変えられるということは日本ではあまり考えられない、まだ遊び的な少数派のものだと思っていた。でもインタ-ネットにアクセスする人が初期の段階からすると10倍以上に増えているかもしれない、すると当然影響力も大きくなる。仮設住宅でもインタ-ネットしていることに驚く。インタ-ネットは必需品になりつつある。インタ-ネットが今までのマスコミのように伝達力を備えればマスコミの力は衰える。インタ-ネットは実際は余りにも簡単に情報を伝達できる。それも文章でも映像でも音声でも素人でもできるから新聞とかテレビとかラジオとか本とかを一緒にしたような機能を素人でも使いこなせるのである。それをなぜ今までのマスコミがインタ-ネットでしないのか?コストも極端に安くなる。インタ-ネットはまだ陰のメデアとしてマスコミ側がしておきたいのである。ただこれも相当に変わってきている。インタ-ネットなしでは情報通になれない時代になってきた。かえってマスコミだけの情報では取り残されるという不安感も生じている。


●会社人間、組織人間が隠蔽を生み原発事故につながった


そしてインタ-ネットは個人でメデアを持てることが画期的だったのである。ここにはいろいろ問題あるにしろ機能的にはそうなっている。マスコミというとき今はどこでも会社人間になっているようにマスコミもあくまで会社人間であり会社の命令に従うのであり会社には逆らえない、社命に絶対服従である。個人として取材して何か社会に訴えたいとしても無理である。東電を批判したいとしてもできない、社命でするなと言われればできないのが今の社会である。それは別にマスコミだけではない、会社人間と化して社会では会社の命令は絶対であり逆らうことはできない。東電に勤めている人もやはり巨大な国のような会社の一員として行動する。いろいろ原発でも問題があっても内部告発できたのはGEのアメリカ人しかいなかった。会社には逆らえない、もし逆らえばやめるほかなくなってくる。会社をやめれば路頭に迷うことになる。だから会社を告発することは一番むずかしいことなのである。そういう会社人間組織人間であるから戦争のときのように上らかの命令には社命として従わねばならない、何か不正があったり告発したくてもなかなかできない、会社や組織からはずされたら死を意味する場合もある。江戸時代から明治の初期とかは会社人間はいない、職人でも商人でも個々人でやっていたのである。大店とかに奉公もあったが基本的には今のような大きな会社がありそんな力をもっていない。そういう会社人間化したことも今回の原発事故の原因となっていた。内部から告発しにくいのである。だから悪は隠蔽されつづけたのである。侍にはモラルがあったが会社人間には利益優先主義しかないのも問題である。だから東電の清水社長はコストカッタ-としてのしあがったことでもわかる。安全よりコストでありそれが会社なのである。事故が起きなければ問題なかったのである。


いづれにしろこれだけフクシマが浜通りが相馬が全国的ニュ-スなったことはない、全国的ニュ-スになるのは野馬追いくらいだった。毎日全国的ニュ-スとしてこの地域が報道されている。
そういうとき報道の醍醐味があることがわかった。マスコミも何百万の視聴者がいて社会を動かせるということで醍醐味があった。マスコミの操作によって社会を動かせるとなればやりがいがある。しかしそれが衰退してゆく今は過渡期にあることは間違いない、相馬郷土史研究ではアクセスは百くらいだったが今は400もある。これは一時的にしろこれだけ毎日あるとすると報道する方もやる気にもなる。今や個人レベルで報道の魅力にとりつかれる人がでてきている。
今ニュ-スで逆立ちしてオ-トバイに乗っているところをyoutubeに投稿して逮捕された。自作自演で自分を見せたいがためにそうした。前には放火したのを実況放送した女性も逮捕された。これはマスコミでもやらせとして常に操作して大衆の眼をひくためにやっていたのである。それが個人レベルでやるようになったのである。そして広告もペ-ジごとに出されるとそのペ-ジはいつまでも消えないのだ。キャッシュとしても残りそこからアクセスされると効果的である。ヤマハの電動バイクについて詳しく書けばそのペ-ジはいつまでも残りアクセスされている。それで困って有料でやっているからやめるように言っているが通じていないのでまた交渉である。一見インタ-ネットの広告は有効でないようでもあるペ-ジはいつまでも消えないしそこにアクセスがつづいて関連があれば効果的だとなる。インタ-ネットは新聞やテレビのようにその日その日で消えるメデアではないのである。情報が蓄積されて無限に増大していてアクセスできることが違っているのだ。

 
 
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2011年08月24日

津浪の跡が湿地帯化して水葵咲く (原初の湿地帯にもどる不思議-南相馬市鹿島区烏崎)


津浪の跡が湿地帯化して水葵咲く
(原初の湿地帯にもどる不思議-南相馬市鹿島区烏崎)

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夏菊や湿地に残る船一つ
船残り夏草茂り夕暮れぬ


ひぐらしや土台のみ残る村の跡


夕靄や辺りうかがふ鷺の二羽


鷺の二羽出会う沼地や夕暮れぬ



沼生まれトンボ飛びきて夕暮るや津浪の跡に水葵咲く


二本の松に土台庭の石残りて夏草繁り暮れにき


津浪あと湿地広がり青鷺の沼地におりたつ夏の夕暮


津浪あと湿地広がり靄深く沼点々と夏の夕暮


草茫々村も埋もれて夕靄に青鷺餌を沼に探しぬ

 

 
東歌


苗代の子水葱(こなぎ)が花を衣(きぬ)に摺(す) 馴るるまにまに何故(あぜ)か愛(かな)しけ


上野伊香保の沼に植る子水葱かく恋ひむとや種求めけむ


上つ毛野伊奈良の沼の大藺草よそに見しよは今こそ勝れ

 伊奈良村(いならむら)は群馬県の南東部、邑楽郡に属していた村 


ミズアオイ科ミズアオイ属、東南アジア原産の水田雑草で、主に本州から九州に発生し、北海道では少ない。稲作に付随して日本に伝来したとされ、現在の有機水田では、最も一般的な水田雑草である。

 コナギと良く似た水田雑草にミズアオイがある。かつて食用に供されたと言われるこのミズアオイの古名を「葱(なぎ)」と呼び、ミズアオイを小ぶりにした姿のコナギは「小葱(こなぎ)」と呼ばれるようになったようである。

除草剤を使わな稲作では、おびたたしい数のコナギが水田を覆うことがある。
http://tarikidict.jugem.jp/?eid=44


植子水葱(うえこなぎ)=ミズアオイが栽培されていた証拠となる言葉。
 水葱(なぎ)=ミズアオイの古名である。


醤酢に蒜樢き合とて鯛願ふ我にな見えぞ水葱の羹

 ひしおすにひるつきかとてたいねがふわれになみえぞなぎのあつもの


 意味 ひしおすにノビルをつきこんだ和え物と鯛を食べたい思っている私に、見せつけてくれるな。水葱の吸い物なんか!
 本意 ??(ミズアオイが一般的に食されていた証拠となる歌)

http://homepage3.nifty.com/nagi/onibasu/manyousyuu.htm


小沚潟 こなぎがた ・・・という地名が熊本県にある。こなぎが一杯茂り咲いていたのか?

 



東南アジア原産の水田雑草で、主に本州から九州に発生し、北海道では少ない。稲作に付随して日本に伝来したとされ、現在の有機水田では、最も一般的な水田雑草である。


福島民報に烏崎に水葵が咲いていたというのが出ていたので行ってみた。
なぜ津浪の跡に沼地化した所に水葵が咲いたのだろうか?これは水田に繁茂して困る草でもあった。農薬を使わない水田ではどうしても繁茂するから取り除かねばならない、水田を作るにはやっかいな草だった。でも花が咲くし染料としても使われたから有用なものとしてもあった。
食糧にもされていた。水葵をベトナムで見たことあるが稲作に付随して日本に伝わってきたというのは驚きである。湿地帯に自生してるのかと思ったが稲作とともに伝播したというのは驚きである。


東歌はまさにこうした湿地帯の風景とともにあり水田と密接に関係していたのである。なぜ水葵がなくなってしまったのかというと農薬のせいだった。農薬をまかないとこうした雑草が生えるから農薬で殺していたのである。農薬は自然をかなり殺している自然破壊でもあった。でもそれがなければこうした雑草をとりのぞくために農民の労苦はふえる。大藺草もただの草ではなく花を咲かせるから美しいとみて恋の歌にもなった。こういうもの水田で日常的に見ていたからこの歌ができた。東歌だからより生活と密着した歌を作ったからである。水葵は伊豆沼とかでも見た。沼地なら必ず見える花である。これは結構生命力強いのだろう。ともかく湿地帯と化した風景はまさに原初にもどったのである。万葉集がなかなか理解でないのは原初の風景とともにありそれが今とかけ離れているから理解しにくいのである。


いづれにしろ田んぼがなくなり津浪の跡が湿地帯となり沼地化している風景は北海道の風景である。北海道にはこうした広大な原野がまだ残っているからだ。それにしても庭の石と家の土台と松が二本残っている風景は不思議としか言いようがない、庭の石も自然の石となり松も自然の松のようになった。それは想像もしえない風景だった。そういうことが日々起こっているのが津浪と原発事故の現場なのである。人の住まない地域が広がりそこは水田も草茫々になり湿地帯化している。原初の自然にもどっている。飯館村辺りではイノシシが増えるというのは本当だろう。人が住まなくなればイノシシも里にでてくる。イノシシは原町区の大原にもでてきたと聞いた。結構家のある所までイノシシはでてくるとすると人がすまなくなったらイノシシは悠然と里にでてくる。原初の自然にもどる。原発周辺は自然の楽園となるというのも実に奇妙なことである。放射能の影響はあっても森が死んだり植物が死んだりしない、チェルノブエリを見ればわかる。だから皮肉なのは放射能が自然をとりもどすという一面もある。人が住めなくなるのだからそうなる。放射能で木も花も枯れないのである。人体には有害でも自然が死ぬわけではないのが不思議である。ともかく広大な地域が原初の自然に帰る不思議さである。

 


福島民報では水葵の写真一枚だけ出していたけどやはり地元だともっと詳しく報告できる。

自分のプログがリンクされればもっと詳しく見れる。ただマスコミとインタ-ネットは協力関係にはない、マスコミが主導権を握りたいからそうなる。インタ-ネットはマスコミに従属するものとして
権力をもっていたいのである。でも今やマスコミだけではもうやっていけない、写真でも大きく出せるし動画も出せる。リンクさせればもっと詳しく興味あることを知ることができる。水葵と検索すればこれだけのことが知ることができたからである。

ここは南相馬市鹿島区の烏崎であり村は津浪で消失してしまった。


 

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2011年08月26日

相馬市の津浪の対応はどうだった (磯部では津波の避難訓練をしていなかった?)

 

相馬市の津浪の対応はどうだった
(磯部では津波の避難訓練をしていなかった?)

本市でも自主防災組織率100%の磯部地区で盛大に行われた。子供から老人に至るまで実に系統的に行動し、立派。婦人消防隊のおにぎりの美味いこと。磯部の米ってこんなに美味かったっけ
http://www.city.soma.fukushima.jp/mayor/essay/essay.asp?offset=220&id=02


相馬市長エッセーにこう書いてあったから津浪の訓練はしていなかった?地震の訓練だったのか?この辺で生みに接していても津浪の訓練をしていない、鹿島小学校では津浪から逃げる訓練をした。手前まで津浪が来たからだ。磯部の米がうまいと言ったのは山の方は水がきれいだからうまいということがある。海側はまずいのが普通だからそういったのかもしれない、相馬市では津神社(つのみつ)神社は慶長津浪のあとに建てられた。漁師の間では津浪が来たら船を沖に出せということで90隻が助かった。津浪に関する言い伝えなどが全くなかったわけではない。実際に津神社に逃げた50人助かったと言っていた。市長もあの付近で育った。それにしても磯部は余りにも悲惨であり無惨である。一軒も家がなくなった。車で今の小学校のあるところに逃げようとして渋滞で車を流され死んだ人がいた。磯部は山の方にはすぐに逃げられない。鹿島区の烏崎とか海老は逃げられた。車は意外と津浪には危険なものだった。でも今の時代みんな車を利用しているのだから車で死ぬということになった。



慶長16年10月28日(1611年12月2日)に発生したこの地震について「伊達政宗 政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」と記され、『津波』という言語が日本で初めて使われたものでもある。


さらに慶長16年(1611年)12月に小高から宇多郡中村城に本拠を移し、ここが相馬藩の城下町となった。

「相馬藩世紀」には相馬中村藩の領内(現在の相馬、南相馬、浪江、双葉、大熊、飯舘の各市町村)で約700人が津波で死亡したとある。
400年前の津波の後、相馬中村藩は城を軸に城下を整備する都市計画を進め、商工業の振興を促したという。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/04/post_921.html

 


1611年12月2日に津浪が発生してその月に小高から中村(相馬)に移るものだろうか?同じ月といっても12月以内だったら移ったのはいつだったのか?一週間あとくらいなのかとなると忙しい。そもそも最初から移ることを計画していなければ大がかりな移転などできるものだろうか?
それとも津浪があったので移転を決断したその際実行したのだろうか?い岩本氏が指摘したことだから信憑性があるにしてもこのことはまだよく歴史的詳細は証明されていない謎である。
ただ城が移ったのだから経済的効果お大きかったことは確かである。


それにしても市長の仕事は大変である。普通は関心がないが今回だけは市町村長の役割がいかに大きなものか自覚させられた。現代は複雑な社会だから高度な広い識見が要求される。管首相は東工大卒だから原子力に詳しいとして率先して現場に来て指示した。でもそれが誤りだったか真意はわからないがいろいす言われた。原子力に詳しい政治家などそもそもわずかである。相馬市長は医者だから医療方面には詳しいから対策がたてられる。しかし防災関係で津浪まで考慮することはなかった。それは責められることではない、浜通りはみんなそうだった。浪江町ではどこに逃げるから決めた場所があったから全く津浪に無防備ではなかった。

相馬市長が津神社の下で育ったとしたら津浪ことを聞いていたのか?そしたら津浪に対する意識は違っていたかもしれない、でも磯部で地震の訓練はしても津浪の訓練はしていないようだ。そんなことまで要求するのは無理だとなる。市町村長となるとそうしたことまで識見のもつ人が要求される。郷土史もある程度知る人も必要になる。そしたら津浪の避難訓練をしていて住民が助かったということもありえた。


岩手県北部にある普代村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った


村長があえてこの高さの防潮堤を作ったのである。普通は10メ-トルくらいでありそこでは大被害になった。5メ-トルの差が生死を分けたのである。ただ市町村長に課せられことはあまりにも今は多いからあらゆることに対処はできない。得意分野はできるにしてもあらゆることにはできない。 ただそうした識見があったら市長の命令で津浪の避難訓練していたなら多少は助かる人がいたかもしれない、 市町村長となると昔なら村の長(おさ)とか長老とか村のことを知り尽くした人がなった。それは老人がなり責任が重かった。 人間の経験は限られているから例え市長になっても万能人間にはなれない、それでもこんな状態になるとそういうことが市長に要求されてしまうのである。


これからはどうしても南相馬市より相馬市の役割が大きくなってゆく。なぜなら南相馬市から南は交通が寸断されたことの影響が大きいのである。だから福島市と結ぶ高速道路の建設が許可された。そして相馬港の役割も活きてくる。福島市の物流は横浜港だったり飯館村の木材の積み出しは石巻だったりしていたのである。相馬港は物流基地の港になっていない。相馬市まで行けば亘理までバスの代行が頻繁にあり便利である。病院も相馬になった。相馬市に拠点を移す会社もある。そういう変化が津浪と原発事故で起きたのである。


今回は相馬市は相馬市民として南相馬市は南相馬市民としてさらに飯館村は飯館村の村民としてそれから双葉町や富岡町も町民として自覚させられた。それぞれの市町村の外部の評価も頻繁に成された。双葉町への批判は大きいから双葉町町民は肩身の狭い思いをした。
自業自得だとも言われた。飯館村は同情された。日頃市民とか町民とか村民の意識を普通過度にもたない、どこに属していてもたいして変わりないとか思っていた。今回はどこの市町村に属しているかで大きく明暗を分けたのである。日本ではそもそも市民意識とかない、育たなかった。ヨ-ロッパのような都市国家がなかったからかもしれない、都市が独立した国であることを経験していない、外国ではどこの都市に属しているか必ず聞かれるしパスポ-トにも記される。それが大事だからである。日本では藩意識が都市になるのだろう。都市の市民感覚は伝統的にもっていないから市民意識も育たないから市政にもなかなか関心がもてないということもあった。歴史的には藩意識であり都市の市民という感覚がなじまなかったのである。



相馬市磯部村  1,813人  497世帯

このうち250人死んだとすると13パ-セントが死んだことになる。犠牲としては多いのか、他ではもっとひどいところがある。磯部村は家が全滅しているからもっと人が死んでいるかとも思った。それなりに避難して助かった人がいた。家はなくなっていても津浪で人命は助かるということがある。
テレビで1800軒があったというのは大きな間違いだ。!人口であり所帯数であり家の数ではなかった。これは誤解される。1800軒となればその数が多すぎるからだ。
posted by 天華 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2011年09月02日

日本人が歴史感覚が欠如している原因 (時制がない日本の言葉にあった)


日本人が歴史感覚が欠如している原因

(時制がない日本の言葉にあった)

timemap1221.jpg


She lived in tokyo for 10 years.

彼女は10年間東京に住んでいたことがある。(今は住んでいない)


She has lived in tokyo for 10 years.

彼女は東京に住んで10年になる。(まだ住んでいる)


I lived with my familyr in my house for a long time

I have been living with my family in my house for a long time

I had lived with my family in my house for a long time



この英語の時制にこだわる言葉は何を語るのか?それは時間の感覚の相違なのである。
日本語の時間の感覚は単純である。過去はあっても昨日が過去でありさらにさかのぼった過去を言葉上で表現しにくい。住みつつけている・・・住み続けていました・・・過去をこうして明確に分けることはできない。あま一定期間住んでいるとき、ある過去の一時点がら住んでいるときは過去完了進行形になる。単に住むといっても過去から住んでいるのか今住んでいるのかでは違っている。過去の時間を重んじる思考があるからそうなる。日本語は単純な過去であり継続した過去としてとらえていないのだ。英語の時制は単なる過去でもない、過去から常に継続している時間、生きている時間を現している。時間のとらえ方としては深い。日本語は時間感覚では浅薄である。ということは歴史的時間を生きることが苦手である。日本人はそれなりに歴史があっても歴史の認識には弱いのである。なぜ三陸であれだけ度々津浪の被害にあっているのに高台に住まなかったのか?そのことが責められている。なぜ責められるかというと今や国民の税金が使われるからそう言われる。江戸時代のような地域のみで生活していたならそういうことは言われないのである。だから今や地域の問題は必ず全国の問題になるし世界の問題にも成る。勝手に地域で自己責任でやればいいのであり他は関係ないから無関心ではいられない、日本でもそうでありグロ-バル化すればグロ-バルな責任問題にもなる。世界で起きることが必ず日本でも影響してくる。中国の原発は安全なのか、勝手に危険なものを作って迷惑かけられては困るとなる。

日本人は歴史感覚にともしい民族だったのか?ヨ-ロッパや中国は歴史感覚が日本とは違っているだろう。それだけの長い時間の集積した歴史がある。ヨ-ロッパでは石の建造物が多いからロ-マ時代のものも明確に残っているからそこから歴史感覚を磨くことができる。日本は木の文化だからなかなか昔のものがそのまま残っていない、家すら10年くらいで建て替えるとなると庶民レベルで歴史感覚が身につかない、外国だったら何世代も住み続ける家がある。パリの石造りの家などがそうである。日本人は水に流すとか過去を留めない民族性がある。過去が昨日の過去であり歴史的なことが過去から継続しているという時間感覚が希薄なのである。そういうことが全般に影響しいるかもしれない、原発にしてもそうした長い目で見る歴史的感覚があったら津浪の対策もしたし安全性を考慮した対策もした。もちろん千年に一度大津浪となると想定外だというのもわかる。しかし日本人は根本的に歴史的時間感覚がヨ-ロッパや中国に比べて浅薄なのだろう。それは肝心の言葉にも現れている。言葉が思考の基だというとき常に歴史的感覚が欠如した思考をしているということになるのだ。過去完了とかには明確に過去を存在化するものがあるが日本語の・・・・したという感覚は過去に重みを置かない表現である。


I have been living with my family  in my house for a long time


これは一見なんの変哲もない文章に見えるが哲学的に考察すると大きな違いがある。
過去から継続した時間を示しているのだ。日本語だったらこういう表現はできないのである。
過去か現在か未来しかない、非常に単純なのである。時間は継続していることに意味がある。・・した・・で終わらないのが時間であり人間の生活である。そして未来はwillだとするとwouldになり意志となる。未来はこうあってほしいというときそれは人間の意志として未来はある。未来は人間の意志によって構築されるものでありまた変えられるものであるという思考になる。そこにはどうになかなるだろうとかなりゆきまかせとかそういう他力本願思考とも違うものとなる。未来への積極的意志が言葉にも現れている。そこには主語が明確にあるから主体が明確でありそういう言葉を使っているから日本人のようなあいまいななりゆきまかせの思考とはならないというのは言える。

過去も継続しているし未来も過去から継続している。そういう時間感覚が歴史的時間感覚である。長い間一つ家に住んでいた家族は継続した時間の中で生活していた。そして死んでもその生活した時間は継続している。過去は過去ではない、人間の中では常に継続している。過去は何か・・した・・ということで終わることがないのだ。家というのは建物だけではない、家には長い時間の中で作られた思い出がありそれは家族との思い出があるから認知症の老人でも家に帰りたいというとき実は昔の家族団欒の家に帰りたいという願望なのである。家という建物だけではない、家族がともに暮らした時に帰りたいという願望なのである。だから故郷とか家とかは長い時間を共有したものとしてあるからなかなか離れがたいのである。特に老人ににとってはそうである。老人はただ思い出だけになる。今さら思い出を新たに作ることはできないからそうなる。それで故郷や家から切り離されることが深刻な問題となるのだ。そして遂には墓に入りますと言って死んだ高齢者がいたこともその気持ちがわかるのである。


時制がない日本の言葉
http://www.musubu.jp/jijimondai28.htm#en

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2011年09月09日

高齢化社会を直撃した津浪,原発事故


高齢化社会を直撃した津浪,原発事故



東日本大震災で死亡が確認された約1万3千人のうち年齢がわかった7935人を朝日新聞が調べた結果、65歳以上の高齢者が55.4%を占めることがわかった。
http://www.asahi.com/national/update/0409/TKY201104090357_01.html


 国道45号を挟んで、海岸から山手にかけて民家が建ち並ぶ岩手県釜石市嬉石(うれいし)地区。寝たきりの高齢者を助けようとした男性8人が津波にのまれ、その高齢者を含む4人が死亡・行方不明となった。「津波てんでんこ」の教訓を知っていながら救助に向かった生還者は「『てんでんこ』はやっぱりできない。ならばどうすれば良かったのか」と自問を続けている。
http://blog.goo.ne.jp/jp280/e/dc6cc4e823657b835b815807efd3b067

 


テレビで救急隊員とか消防隊員が呼吸器をつけている高齢者をタンカ-で運んでいるうちに後ろから津浪がきて何人か死んで二人が屋根の上に逃げて助かった。高齢者の問題がここにも現れていた。高齢者を助けるために祖父母を助けるために様子見るためにとかで津浪にのまれ死んだ話をよく聞く、津浪から助かるためには人を助ける余裕がない、つなみでんでこという言い伝えは具体的にわかった。ちょっとばあちゃんを見てくるとかで死んだ話を良く聞くからだ。助かった消防隊員も89才の老人をおぶって逃げていたのである。幸い後ろから津浪がきて水につかったのだが助かった。それはただ偶然にすぎない、死んでも全くおかしくない状況だった。一見これが平時なら美談になり社会から称賛された。

でも今回はそうともならない、あまりにも死者が多すぎたのである。残酷だけど死にかかった人より市町村を支える若い人が生き残るべきだったとなる。高齢者より若い人がかんばらなければ町は消滅してしまうという危機になったからだ。消防隊員は今回この辺で相当数死んだ。高齢者や自分の祖父母を助けようとして死んだ人がかなりいる。それが何か美談とならないのもあまりにも死者が多すぎたためだった。死んだ消防隊員も救急隊員も看護師も町にとっては貴重な人材だった。
そういう人を失うことは町を再建できなくなる。ただこれも高齢化社会を大災害が襲ったからこうなったのだ。その後も高齢化社会というのが

どこでも問題になる。どうしたら市町村を再建できるのだとなるとき高齢者が主役にはなれない、なぜなら50代以上になると事業をはじめるのにも先が短いとなるからだ。それで第一次産業の人は高齢者が実に多い。農業でも漁業でもそうである。跡継ぎがいないということで困っている。それは南相馬市の原町区の大原辺りでもすでに三軒が廃屋化しているし一人残された老人も5町の田をもはや病気と年でやっていけないからかえって東電に補償された方がいいという状態だった。息子は市役所に勤めているから
跡をつかないからだ。


そこで深刻なのが浪江町だった。すでに13パ-セントが住民票を移している。その人たちのほとんどが子供をもっている子育て中の若い人なのである。そういう市町村を支える若い人がいなくなることは市町村が消滅する危機となることを具体的に知った。最後に高齢者だけ残される姥捨山になる恐怖である。現実に原発事故で避難した人達が故郷に帰ってきても支える若い人がいない、看護師なども相当流出しているのだ。市町村を支えるものは建物ではない、立派な病院という建物があっても南相馬市辺りでは医者が流出して入院もできないのでベッドがあいている。そこは高齢者でうまり収入がそこからあり病院は経営されていたのである。やはり市町村から医者が流出したら他にもいろいろあるが命にかかわるから危機である。だからどうしてもお医者様になることもわかった。医者だけではない看護師も重要な役割をになっていた。
なぜなら今や田畑が荒れて何も作らなくても食糧は他から金さえあれば入ってくる。ただ他から入る分高くは最近なっている。でも米など安いから困ることはない、しかし病院だけは病気だけはどうにもならない、町が崩壊するとき最初に医療から崩壊する。高齢化社会だから余計に医療に頼る面が大きいからそうなった。


高齢化社会はさまざまなことで社会に影響している。自分にしても老親二人の介護で大変な目にあった。寿命まで縮まった。自分自身が病気なのに医者に早く行かなかったから悪化していたのだ。今回も動けないから原発事故でも残る他なかった。そうして避難できないと死ぬということが津浪などでは起こりえた。他にもそういう介護で苦労している人がいて避難できなかった。そういうことは自分だけではない高齢者の親の介護のためにいろいろと犠牲にされることがあり問題となっている。社会から介護のために若い人の労働力が奪われるという問題があるのだ。今回の津浪、原発事故は一面高齢者を直撃したのである。再建問題でも高齢者が足かせになっている。高齢者だけでは町を支えられないという深刻な問題が具体的に現れたのである。こんなふうになると余計に露骨に現れた。現実に浪江町では若い人たちと老人化した人達は分断されている。それはもう修復できない深刻なものとなっているのだ。高齢者は早く死んでくれとか隠れていた本音が具体的になっているのだ。
故郷に帰りたいというのもわかるが若い人が支えなければ町は成り立たない、将来もないとなると若い人はすまないから子供もいない、もともと子供すらへりつづけていたのだから更に拍車を欠けた結果になった。


飯館村などでもそうである。老人は早めに帰らせるとか村で二年後とかに住める計画をたてている。でも若い人はもどってこない、そうなるとどうなるのか?本当に姥捨山になる。老人の死に場所となり村の跡を継ぐ人はいないし消滅してしまうのである。老人はもう死に場所としてそこで死ぬのもいいのかもしれない、放射能など気にしない人が多い。ただそこに住んでもいいですが誰ももう手厚い介護はないしそういう所ですから覚悟して住んでくださいともなる。行政の助けもない、細々と生きて死を待つだけの姥捨山になる。そういうことが冗談ではないから笑ってもいられない、姥捨山となり核の廃棄場にされてしまうのである。そして故郷を偲び老人は仮設で泣いている。特に会津とか遠くに避難した人達がそうである。いづれにしろ高齢化社会の問題が今回の津浪や原発事故で具体的に露骨に現れたのである。若い人たちは高齢者と一緒にはやっていられない、命の問題だとか故郷を捨てることがあからさまに表面化したのだ。
代替地は今の時代では無理だろう。だから残るのは老人だけでありそこは姥捨山になってしまうのである。

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2011年09月13日

壊滅した南相馬市鹿島区烏崎村に残った神社の謎 (湿地帯と化して水葵と別な花も咲いた)


壊滅した南相馬市鹿島区烏崎村に残った神社の謎

(湿地帯と化して水葵と別な花も咲いた)

 

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水葵も増えたし別な花も咲いた、湿原化している。

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八龍神社
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キツネノカミソリと露草が咲く

kayahamaa111.jpg

360度バノラマ写真

原町区萱浜の瓦礫の山か化した海岸




人皇38代天智天皇の御代大職冠藤原鎌足の末孫 藤原内匠は藤原山の領主であったが、建久2年(1191)に上京するとき、海上で暴風雨にあい、船が難航してあわや沈没しそうになった。内匠は一心に八龍宮を念じ、「私がもし遅滞なく岸に着くことができたら帰国の上は領地宗廟の神として崇め奉ります」。と祈誓したところ、不思議に風波が静まって無事に岸に着くことができた
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=1317

烏崎村は伝説では鎌倉時代に烏浜とありそれから烏崎村になった。鎌倉時代には人は住んでいない、記録は明暦からあり元禄から人が住みはじめた。戸数83人員と記録にある。だんだん人が増えて人口が文久になると336人になっている。ただここで塩に関する記事が町誌にはない。地名をみると蟹田とか北蟹田になどがるが海外沿いを干拓した名としてはあっている。
それで水葵が咲いて何か白い湿地帯に咲く花が津波の跡に咲きだした。この辺はもともと湿地帯でありそこを蟹が住むような所を干拓して田にした。その田があった所には水葵が咲いていたが田にとっては邪魔なのでとりのぞいていた。万葉集にも水葵が歌われているのは田と密接な関係があった。食糧ともなっていたから田があれば見られたものだろう。これはベトナムの水田などでも見たから田のあるところに常に見られるものだった。もう一つ咲いた花は何なのか?これも湿地帯に咲く花である。


貴布根神社があり文政年中宇多郷坪田村高松より勧請とある。これは宇多郷坪田村から移住した人が勧請した。神も人とともに移動する。八龍神社がいつここに祭られたのか?江戸時代からあった。八龍神社は全国で多い、鹿島区の川子村の小高い丘にもある。これが全国に多いのはなぜか?水とか雨とか水害に関係していた。もちろん水と関係していたから海の守り神であり船の安全を祈ったのもそのためである。ともかく日本は水の被害がどれだけ多いか、津波は最大の水の被害であり台風では山が半分崩れるとか大変な被害になる。それもみんな水のためだったのである。水に恵まれているが水の被害も日本では古来から多いから八龍神社が多いのである。


時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめさせたまへ 源実朝


津波もまた水と関係していた。日本は四方を海に囲まれているから水に恵まれていても水の災害がつくづく多い。それで今回の津波で不思議と神社が高台にあり津波の災害をまねがれたと研究報告があった。松川浦に津(つのみや)神社があって話題になった。そこにのぼって助かった人が50人くらいいた。その津神社が烏崎にもあった。写真に出したのは八龍神社であり津神社ではない。牛島に津神社があるとしたら今回の津波で完全に流された。ただ津神社が津波を記念して建てられたとするとかなりきちょうものだった。神社は何らかの記念碑である。過去の記録である。ただその由来が伝説化して不明なのが多いのである。松川浦の津(つのみや『神社も津波が来て話題になったのでありそれまでそういう言い伝えがあったのかどうかあったとしてもそんなに語られてはいなかったろう。


この辺にはすでに慶長地震の津波から400年とか経過していたから忘れられていたのである。高台に神社があり津波の被害をまねがれたというが平地にも神社は多く流された。その因果関係は明確ではない。事実烏崎村の津神社は海岸沿いの平地にあり流された。牛島辺りは湿地帯であり最も危険な場所であった。なぜそこに人が住むようになったのか?おそらく漁港ができたからかもしれない、最初は袋村があり海岸沿いに向かい干拓した。そのあと袋村はなくなり烏崎村に併合された。福島県では最初から港はない、干拓が田を作ることで海岸沿いに村が生まれた。ただ海老村と松川浦は塩をとったり港の機能が江戸時代からあった。烏崎村にはなかった。確かに八龍神社に逃げればぎりぎりで助かった。崖のようにきりたっている場所に建っていたからだ。なだらかな坂だと津波は這い上がってかなり高い所までくる。三陸のような山の狭間だと40メ-トル近く這い上がったというのはそのためである。また前方に岬や山があると津波の衝撃はおさえられる。海岸から近くても被害が少ない所は地形のためだった。


八龍神社奇しくも残り津波跡キツネノカミソリと露草の咲く

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2011年09月17日

津(津の宮)神社の謎 (やはり慶長地震の津波を伝えたものか?)


津(津の宮)神社の謎

(やはり慶長地震の津波を伝えたものか?)


●相馬藩内の津(つのみや)神社


相馬市

松川浦-尾浜3 原釜1

南相馬市

鹿島区烏崎
原町区 金沢 小浜 米々沢 堤谷

浪江 棚塩
yoneyonesawa.JPG
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志津川(避難所)津の宮生活センタ-
http://www.pref.miyagi.jp/kikitaisaku/jishin_chishiki/tunami/yosokuzu/574173-4.PDF

tunomiya111.JPG


この神社の由来はわからない、本当に津波の後に祭られたものなのか?時代的にそうなのか?
尾浜に三つも津神社があったのはなぜか?あそこはやはり高台になっていることとも関係しているのか?原釜でも高台は津波の被害をまねがれた。烏崎にも一つあったが海近くの平地だった。他に金沢とか小浜もすべて海岸沿いだから海と関係していたことは確かである。小浜は崖の上を通り越して小浜村に津波がきていた。平地からもきていた。あんな高い所まで来たのかと驚く。地図では米々沢まで津波がきていてそこにも津神社があった。すると前にもそこまで津波が来たからその記念として建てられたのか?どこにその神社があったか詳しく調べれば津波の被害をまねがれた地点にあったらやはり400年前の慶長地震の津波を記念するものかもしれない、それが真実だったら貴重な津波の過去の記録でありそのことを良く伝えていれば警戒したことは確かである。相馬藩政記に確かに記録されていても一行だけでありどんな被害があったかも全く不明である。ただ津波があったというだけである。それでも貴重だがそれ以上にもし津神社が津波を記念して建てられたものだったらその方がどこまで津波が来たかなどわかるからより貴重なものとなった。烏崎の八龍 神社は海に面した崖にあり辛うじて残った。あの高さに建てられたということが謎である。第一あのような急な場所に上るだけで大変だからである。そのような崖の場所が何か意味があった、何かを伝えるものだったのだろうか?

志津川の津の宮も津波に関係する神社だったのか?避難所になっていたというのもそこに津の宮神社があったのか?神社の謂われはいろいろでありわかりにくい、でも津波を伝えるものだったら貴重だったとなる。


●船田(ふなだ)の地名との関係


松崎も昔大津波があったと文献にあります。 海から4km程の内陸地に船が来たそうです。今回の東北の大津波の様子から、松 崎は壊滅だったでしょう。鎌倉時代より前のようです。調べています。  
「船田」までということでしょうか。船田の名の由来はあるいは?と思ったりしていました。

岩科川沿い弁天河原の水田の中に石祠があり、安政大地震の津波で弁天さんが流れてきて止まった処と言われている」と。

http://p.tl/If-K

長生町には船付、船田という地名があり、さらに奥に入って大津田がある。この辺りが古い港と想像される

せんだ」で調べると「千田」であるとか仙田、泉田、川田、船田、扇田というような「せんだ」と読める地名はそれこそ日本各地にいくらでもある。


船田というのも各地にある地名だからこれが津波とみんな関係あるとはいえないだろう。海辺の田だったら海から船が見えるのだからそれだけでも船田とつく、現に船を見ながら田植えや稲刈りしている所は各地にある。ただ今回の津波で船が遠くの田まで流されて今もそのままになっている。船付、船田となると何らか関係あるともいえる。鹿島区の真野の入江は有名でありそれが津波で再現されたことに驚いた。船着という地名が塩の崎にあり船がそこまできた証としての地名だった。奈良時代辺り、万葉集時代は相当奥まで海が入り込んでいた。だから古い港は海から遠い場所にあった。そういう所が日本には多いのだ。大津田とは大津波田ともとれる。津波がその田まできたのかもしれない、ただ船田を船田(せんだ)と読むときは違っている。内陸部にも船田は各地にあるからだ。


●津波に関する神社や伝説は多いが忘れられていた


津波は日本には何度も襲ってきても何百年に一度とかなると忘れやすい、忘れさられていた。宮城県から福島県の平坦な海岸沿いはそうだった。しかしそこはもともと海だったのである。
だから海にもどっても不思議ではない場所だった。そしてもともと低い場所は津波が奥まで来た。そこもまた津波におそわれれば被害が大きくなる。縄文海進とかあり万年とかの年月で海は変わる、奈良時代なら千数百年まえだから地球の時間にすれば短い、その時今回津波が来た地点まで海だったのである。その前はさらに奥まで海だった。だから時間がたてばまた海が奥まではいりこむようになる。そういう繰り返しが何千年単位になれば周期的に起こる。


この辺ではなぜ津波についてこれほど無防備だったのだろうかと思う。夢では海を見ていたら常に津波でなくても波にのみこまれる夢をみる。海からかなり離れていても海の水が押し寄せてくる夢を見ていた。それがちょうど鹿島小学校の前までだった。あそこまで家があっても少ないし海まで広々と田んぼになって見渡せたからである。人間は隕石か落ちてくる夢などは絶対に見ない、ただ海岸近くの集落ならいつも海をみていたらそういう夢を常にみている。その夢を現実化したのが津波だった。なぜそうした夢をみていたかというとやはり津波でないにしろ海に接しているとそういう夢を常に見ている。それは自分だけではない、そういう夢を見やすいのである。だから不安でありいつかそういうことが現実化するのではないかと思っていた。その危機感は夢にすぎないとしても生きている内にそういうことが起こるのではないかという不安はあったのである。ましてやいつも海をみて浪の音を聞いて暮らしている人はもっとそういう夢を見ていたにちがいない。その感覚は特別なものではなく普通にあった。するといつか津波が来るんじゃないか、そういう危機感をもつ人がいても不思議ではない、そういう言い伝えの神社があっても忘れられていたのだ。最近貞観津波のことを地層を研究して伝えた学者がいた。だから現実味がまして仙台の海岸沿いで陳情までしていたのである。相馬でも奥まで津波がきていた。

そういうことを真剣に考えていたらこんなに被害大きくならなかった。それは科学的根拠があったから説得力があったのである。ただ千年前とかなるから真剣に考えなかった。でも400年前にも大きな津波があったのである。慶長地震で起きた東北地方の津波でその時津波という言葉が定着した。それ故に津(波)神社が祀られたのだろうか?慶長地震の時にはじめて津波という言葉が使われたからである。日本はいつ大きな津波が来るわからない。だから海岸にある原発は本当に危険である。


「津波」の語は、通常の波とは異なり、沖合を航行する船舶の被害は少ないにもかかわらず、港(津)では大きな被害をもたらすことに由来する。「津波(浪)」の語が文献に現れる最古の例は『駿府記』[1]で、慶長16年10月28日(1611年12月2日)に発生した慶長三陸地震についての記述「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」である。なお、表記は「津波(浪)」の他に「海立」、「震汐」、「海嘯」と書く場合があり、これらすべて「つなみ」と読む。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2


日本では津々浦々というように津が多いから津波も多いのである。これは宿命的なものでありそういう津波に関してこれほど無警戒だったというのは日本人には歴史記録とか歴史意識に欠けているとしかいいようがないのではないか?津波は確実にこれからも起こる。過去にも定期的に起きていた。千年前の津波でもやはりまた起きる、大規模なものが起きることを証明したのである。


津波最新ニュ-ス

都司准教授らは、同地震の津波でヒラメがあがったという伝承が、沼津市戸田地区の平目平に残っていることに着目。現地で測量を行い、海抜36・4メートルまで津波がさかのぼったと考えられると結論づけた。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110917-OYT1T00389.htm

平目平がヒラメが打ち上げられてその名が残ったとはなかなか気づかないだろう
蛸が打ち上げられたのを磯部の近くで見た。そこが蛸平などとなるのか
そういう地名でも伝説でも由来がわからないのが多かったのである。
posted by 天華 at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2011年09月18日

神戸震災の中で作られた俳句


神戸震災の中で作られた俳句


枯草や住居なくんば命熱し     永田耕衣
.


その後、避難所生活ののち、老人ホームで生涯を閉じた。享年97。
耕衣は常々「雑草の哲学」と口にしていたらしい。


神戸の震災は遠いからそれほど実感しなかった。ただ驚いたのがアナウンサ-が燃えたばかりの骨を手にもって報道していたことである。それが熱いといっていた。あの長田区の火事はテレビで見ただけで凄まじいものだった。神戸に近い大阪辺りだったらその恐ろしさを実感したのだ。6千人も死んだのだからあの地震も恐怖として焼きついていた。ただ遠いということでイマイチ実感に欠けていた。やはり遠いということはいくらテレビで報道しても実感できないのである。
それでもあの映像を見たときショックだったから3000円送った。今回は見舞金5万もらったから少なかった。ただこの5万円は原発が関係している。あと30キロ圏外でも一人十万はもらえる。
原発の被害は意外と大きいものだった。田畑が耕せなくなったり地元で作ったものが食べられないのは本当に困る。


・・・・焼かれ芽吹きぬ・・・・・
http://tsdai181.blog61.fc2.com/blog-entry-119.html


この俳句も異常である。やはり火の恐怖がここにあった。津波の恐怖は水の恐怖だった。気仙沼では火事もあったから火と水の恐怖が一度にやってきた。そこにいた人の恐怖はどれだけのものだったろうか。自分も津波と原発事故が重なったとき本当にこの世の終わりが来たかと真剣に思った。家族の認知症介護から次に自分の病気から犯罪にあうことや災難続きであり
今度は地震、津波、原発事故と来れば本当にこの世の終わりかと思う。人間は火と水で滅ぶというのを実感した。今は放射能でも滅ぶ。


永田耕衣は

1995(平成7)年、阪神淡路大震災、永田耕衣は夜中にたまたまトイレに入って、全壊の家から、トイレの手水の金タライをカンカンと打ち鳴らし、近所の青年にトイレの窓から助け出された95歳の時である。耕衣は震災を詠んだ



95才でこうした大災難にあいそのまま死んだ人もいる。今回の津波原発事故でも百人くらい避難所とかで高齢者が弱り死んでいる。こんな年まで災難はある。95才の母は動けなかった。
神戸の地震災害にあった人は体験しているから今回の津波でもいち早く支援してくれたということがあった。こんな災害のとき俳句とか短歌などよんでいられないきが普通である。ただ習慣的に俳句短歌を作った人はそういう場合でも作るのである。習慣とはどんな時でも継続されているのだ。


枯草や住居なくんば命熱し


95才でこんな俳句作れるものだろうか、相当気丈夫だったのか、健康だったのか?95才だったらこれだけの災難にあえばまいってしまう。自分なんか年としては30年違っているからその年に驚く、ただ今は90才は珍しくなくなっている。そこまで゛生きるのはわかるにしても命熱くとなるだろうか?命がなえてしまわないか?なんか自分は病気になって気弱になったからそう思うのだろう。90才を想定した人生は本当に長い。あと30年生きるとなるとこれも一つの人生の期間である。25才頃師が90才の人生と言っていたが本当にそれは長いのだ。ただ高齢者でも津波の被害にあった人はたくさんいるし死んでもいる。原発事故では避難所暮らしした人もいるし今は仮設で暮らしている。だから高齢者も災難を逃れることはできなかった。戦後生まれの人は災難とは何か知らない、戦争を経験した人は知っている。人生に災難はさけられない、自分の家でも二回水害で浸水している。一回目は伊勢湾台風では家が流されたと思ったが辛うじて残ったのである。倒産-貧乏-戦争-貧乏-水害-病気-地震-津波とかそういう時代を85以上の人は送っている。人間は死ぬまで災難がつづくのだ。火宅の世に生きるのが運命なのである。


「火宅無常の世界は、万のこと皆もって、空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します」(歎異鈔)

 「この世は、ひさしに火のついた家に居るように、常のない、不安な世界である。ただ、阿弥陀如来の本願だけが、不変不壊の絶対の幸福に救いたまう、真実なのだ」


つくづくこういう世界に人間は生きている。人とて頼りにならない、裏切りなどはどこにでもある。こういうことをここ5年間に一時に体験した。だから念仏のみとなるのは今の世ではありえないにしろこれだけ種々のものに恵まれている時代でも火宅の世に変わりなかった。ただたまたまそれが来るのが遅かっただけである。


芽吹きと地割れ
http://musubu2.sblo.jp/article/44138907.html

 
posted by 天華 at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2011年10月01日

磯部の津波の被害にあった人の話 (津波警報の出し方に問題があった)


磯部の津波の被害にあった人の話

(津波警報の出し方に問題があった)

磯部の人と原町区の火力発電所の所であって話を聞いた。磯部は一軒も家が残らなかった。土台だけであり相馬市で五百人ほど死んで半分は磯部の人だった。死体がここに流れ着いたんですよと聞いたときは生々しかった。その人の話では津波がどうしてやってきたか説明していた。突然に大きな津波は来ない、テレビの映像だと突然に大きな津波が巨大な波飛沫をあげて襲ったように見えるがそうではなかった。まず警報がでたとき海がどうなっているか見に行ったという、写真にとろうとして見に行った人もいた。あんな巨大な津波が来るとはそもそも思いもよらなかったのだ。防波堤は6メ-トルあるから大丈夫だとかここは津波が来ないとかまるで津波に対する警戒心がなかった。だから津波を写真にとってみようかとかなる。珍しい津波がくるから記念にとっておこうというくらいの意識しかなかった。九十才くらいの老人でも津波を警戒していなかった。そもそも津波の経験がないのだから歳には関係なかった。チリ地震の津波もあったがそれもたいしたことなかたことが警戒しないものになっていた。この心理は三陸とかでも同じだった。あそこでは何度も被害にあっていたのだからもっと警戒してもいいき思ったが同じだった。防波堤がありまずそれに安心していた。それからチリ地震の津波くらいだと過少評価していた。その大きな原因が最初の津波警報にあった。


3メ-トルの津波が来る
6メ-トルの津波が来る


つまり最初に出された水位がそんなものだった。自分は6メ-トルとテレビで見たとき驚いた。そんな高い津波警報が出たことがなかったからだ。津波注意報はしょっちゅう出ていた。津波警報はめったに出ないものである。でもこの津波警報の出し方が大きく影響していた。6メ-トルといってもそれほどでないと思う人がいた。最初から10メ-トル以上の津波が来るといったら対応の仕方も違っていたかもしれない、10メ-トルとなればかなりの衝撃を与える。磯部では地震の時、停電してテレビを見れなくなった。それでも海を見たいたら水はひいたという、それから第一波がやってきた、それは最初たいしたことがなかった。水が堤防を越えてきたのであわてて車で逃げたという、ええ、水が来てから逃げられたのかと思った。テレビではものすごい勢いで波が高く打ち上がっていたから見ただけ恐ろしかった。水があがってから車で逃げて助かったのか?近くの磯辺小学校の所に逃げて助かった。第二波、三波が来るまでそれなりに時間差があり助かったのだろうか?第二波、三波は巨大なものであり家が吹き飛んだのを見たという、それから凄い音がしたという、何かに爆撃されたような状態だった。


ともかく津波警報の出し方が大きな問題があった。今はテレビの情報を頼りにしている。人間の経験とか五感ではない、川の水がひいたからとか海の水がひいたからとかで危険を感じるのではない、テレビの情報に頼っている。ただそこに錯覚が生まれたのである。3メ-トルか6メ-トルかとその数字を見てたいしたことがないと判断した人もいる。現代は人間の五感とか経験を頼りにしていない、テレビの情報を頼りにしている生活でありそれが習慣化しているからとっさの危険の場合もそうなった。そこが盲点ともなっていたのだ。テレヒだけに頼るということが実は危険をまねいていた。誰かが今度の異変は普通とは違う、大きな津波が来るぞと予感してもそのことを言っても従う人はまれだったろう。テレビで気象庁から科学的な根拠のもとで発表するものだったら信じる。人間の五感とか第六感とかとっさの危機感よりテレビの気象庁の科学的根拠を基にした情報に従う。そのことがかえって今回裏目に出たのかもしれない、防波堤を作ったということでも安心していた。それも裏目にでた。また停電したり携帯が使えなくなったりすると情報も遮断されるからそういう日頃便利なものが一旦使いなくなったときどうにもならなくなる、各地で停電が起こり携帯が使いなくなったからだ

このことは原発事故でもそうである。気象庁とは誰かといえば原初力専門家委員であり政府でありマスコミでもあった。そういう所の情報を信じていたし放射能については地元の人も知らないから突然の事故に対処する方法がなかった。事故には全く備えていなかった。安全だと気象庁から言われていれば信じる。それは科学的根拠に基づいているから信じると現代でなっている。つまりかえってそういう情報の権威が一方的になっているとき他の情報をとり入れる方法がない、今でこそすべてのマスコミが原発が危険だと言っているけど事故の前は全部が安全神話を作る方だったのである。それは戦争と同じだった。戦争前は日本は勝つという情報しかださない、負けたとたんにアメリカ一辺倒になった。だから信じられなくなった。今回の原発事故でも「原発は危険だ」という情報が極めて少ない、原発は安全だという情報が圧倒的である。するとどうしても原発は危険だということから考えることがない、はじめに危険ありきから考えられないのである。現代ではマスコミが危険を知らせる役目をになっていた。しかしその役目を果たせなかった。だから津波の水が来てから逃げていたというのも他からは考えられないがそれでも助かっていたのである。津波は第一波ではなく第二波や第三波が巨大となり怖いということである。ともかく津波警報は今では6メ-トルくると言っても恐れない、10メ-トル以上の津波来ると言ったらその効果は相当違っていた。とっさに逃げる人もいた。つまりNHKの情報の出し方が問題だった。津波警報だけでは人々は即座に避難しないのである。


10メ-トルの津波来るぞ


こういえばかなりの効果が出ていたかもしれない、情報がテレビ時代となり危険を察知するのもテレビだけとなるとやはりそこに問題が生まれたというのもあった。それは津波の情報だけではない、様々な問題でテレビだけから情報をとっているとそういう間違いを犯しやすいのである。政治的判断でもテレビを見てばかり判断しているとそうなる。増税はやむをえないという発信ばかり聞いていたらそうかなといつのまにか思ってしまう。増税は役人や官僚がしたいのであり都合がいいからそうなる。国民が痛んでも官僚や役人は痛まないからそうなる。増税が震災復興のためにはどうしても必要なんだというときしかたがないとかなる。それもやはりマスコミがそういうとしかたがないのかともなる。いづれにしろ情報は出し方と受け取り方によってずいぶん解釈も違ったものとなる。テレビでもマスコミでも出される情報がすべて信用していいものではないしそのまま受け取っていいものでもない、独自の分析が必要になったりする。津波のような危険情報の時はそういう考える分析する余裕もないから情報が出す方が責任がある。その時人々の生死がかかっていたからである。



地震発生から1〜2分以内にあるいは発生後揺れが収まらない内に津波が到達することもあり、今後も警報・注意報の発表が津波到達時刻に間に合わない事例の発生が考えられる(現実に、津波警報等の発表の時点で第1波の到達予想時刻が「すでに到達と推測」となっていたケースは1999年以降でも幾つか存在する)。ゆえに海岸付近の住民は揺れを感じたら津波警報の発表を待つまでもなくすぐに津波の襲来を考えて、安全な高台に避難する事が第一優先といえる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2%E8%AD%A6%E5%A0%B1

市役所のアナウンスに全然危機感ない所に役所のクソっぷりが出てるな 
津波が腰まで来てんのに「大津波警報が〜、高い津波が観測〜」ってバカか 
「沿岸部で今車押し流されてっからすぐ逃げろ!!!」くらいに煽れよバカ 
そういう呑気な警報だから逃げ遅れるんだろうがクソ役所



こういうこともあった、役所の人はこういうことある、普通の時はいいがこんな緊急事態だと対応できない

機転がきかない、そういう場に遭遇した経験もないから普通のような対応していた


波がきてからでも助かっていた人はいた、第二波、第三波でのまれ死んだ人が多かった


posted by 天華 at 19:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2011年10月02日

牡鹿半島の村で再び定置網で大漁の喜び (津波被害で消滅の危機の村)


牡鹿半島の村で再び定置網で大漁の喜び

(津波被害で消滅の危機の村)

テレビで見た大谷川浜での定置網漁は興味深かった。村落が消滅しかかっていたが漁をはじめたら魚はもどってきて大漁だった。その時漁師の顔は喜びに満ちていた。それまでまず避難所暮らしやら仮設暮らしで何もしていない、仕事がないというとき金がないというだけではない、仕事そのものが生きがいになっていることを自覚させられた。日頃何気なくしている仕事がもしできなくなったらどうなるのか?生活できなくなるということもあるが仮設で一応援助があって暮らしていけても何年も仕事がなかったら退屈するし生きがいがなくなる。その生きがいが特区にして企業に雇われるようにすればいいというがそれでは生き甲斐がなくなる。サラリ-マンになるのは嫌だいう漁師の気持ちを察してやれというのもわかる。自分の暮らしている場所が見える海で漁ができて生活が成り立つ、それが漁師にとっては生き甲斐なのである。それは農家だったら前田で働くことである。家の前の前田や前畑で働くことは充実感がある。サラリ-マンのように家から遠くへ出勤するのとは違う。つまり農家とか漁師は大地とか海と直結して一体化して生活する。自分たちの村のすぐ前の海で漁することは前田と同じ感覚である。人間の基本的生活感覚はそこから生まれたのである。牡鹿半島というと山も低いが大谷川村では清水が湧きでていて小さなサンショウウオまでいた。その清水は涸れたことがないというから水に恵まれていたことの不思議である。耕地になるような田畑はないが水に恵まれていればそれなりに生活できる。ただ鮎川は明治以降に鯨の遠洋漁業で栄えた。


鮎川は明治中期まで55戸ほどの寒村にすぎなかった。しかし,捕鯨会社の進出により,一躍,労働者がたくさん流れ込んできた。


網地島に隠居していた老人も遠洋漁業に行っていて話したことがある。鮎川は寒村に過ぎなかった。金華山は相馬辺りでも碑が結構ある。
でも金華山は古代まで歴史がさかのぼれるのか疑問である。
この辺の碑は明治以降になってから建てられたりしている。湯殿とかは古いが金華山信仰は新しいのである。

荻浜は北海道との航路があり港があり明治時代に栄えた。そこで啄木がより歌を残した。月が浦からは支倉常長の船がメキシコ回りでヨ-ロッバまで行った。東北では海への歴史がそれなりにある場所である。牡鹿半島を地形的に見ると後背地に山しかなく田畑は作れない、すると漁業だけで生きてゆくほかない、それで遠洋漁業に活路を見出すのは必然だった。そういう場所は対馬とかにもあった。山と海しかないのだ。海山の間がないから地形的に活路を見出すとなると海に乗り出すほかないのである。


今回はその漁村が壊滅的打撃を受けて村が消滅する危機に瀕している。もともと第一次産業は高齢化であり跡継ぎがなくなっていた。大学などを出せば故郷にはもどってこない、もしその土地で暮らすなら別に教育はいらない、その土地のこと海の漁のことに通じればいいのである。それは長年経験を積んだ両親とか祖父母から学べばいいのである。そこに世代間のつながりが生まれてくる。そういう生活が長い間つづいてきた。そういう生活が津波で奪われたとき皮肉なことに海に魚がもどりみんなで定置網で漁をして大漁になったときその喜びは深かった。津波で被害があっても海は死んではいなかった。海は豊かな恵みを与える海だった。海を恨んだがまた海に感謝する営みがもどった。その時の喜びは深い、人間の生活はもともと海であれ大地であれ山であれそういう自然と結びついていることにこそあった。そういうものが文明が発達したとき喪失してしまった。みんなサラリ-マンになり工員になってしまった。実際に第一次産業にたずさわるものは一割くらいになったときその価値は極端に低下したのである。現実は女川でも原発があり雇われる人が多く漁師だけで生活している人は少なくなっていた。それは漁業だけではない農業でもそうである。8割が第一次産業に従事していた時代とはあまりにも変化しすぎたのである。その時第一次産業にたずさわる人の心も変化した。農業であれ漁業であれ金にならない、跡継ぎもなくなるとか社会全体で価値が低いものとされたのである。

そのことが原発事故とも関係ないこともなかった。つまり漁業権を私的権利として原発を作るとき多額の補償金をもらっていた。浪江の請戸では5千万をもらった人もいたと白状した。それだけの権利が漁業権にはあったのだ。福島県の漁業組合ではみんな東電からもらっていたのである。この辺は牡蠣の養殖とかもないし漁業は盛んではない、だからまた容易に漁業権を売り渡すことにもなった。
でも農家でも漁師でも海と共に大地と共に山と共に生活する喜びとか価値を見出せなくなっていた。それより金になっていた。そういうことが原発を容易に建てさせた要因でもあった。現に原発のある玄海町でも漁師が反対しても金をもらっていたのである。金の魅力があまりにも大きくなりすぎたのである。それでも人間の本当の生活の喜びは山とか大地とか海と共と一体となってある所にある。

そういうことが見失われていたが津波や原発事故でそういうことが見直された。漁師が魚が踊る、大漁旗をかかげる、そこにこそ生きる喜びがあった。そういうことは金に代えられないものでもあった。それは農民でもそうだったがそういう生き甲斐とかより金だとなるとき容易に原発を誘致して手っとり早く金を得るということにひかれる。自分たちが求めていたものが何であったのか、そういうことを見直す機会にもなったことは確かである。海に大地に山に感謝しない文明生活はやはり神から見ると不遜なものだった。確かに津波はその自然からの大被害を受けたのだが人間は文明生活に浸り大地にも海にも山にも感謝しなくなっていたのである。江戸時代の生活は第一次産業がほとんどだから自然を畏れ感謝する生活をしていたのである。それが信仰にもなっていた。それが喪失したとき容易に原発が誘致されたともいえるのだ。ともかく金になればいいということでそうなったからである。それで津波が天罰だったというときそういう面も確かにあったかもしれないし人間の本来の生活を見直す契機になったのはそのことを証明している。



網地島
http://musubu.sblo.jp/article/29256713.html



再び大漁の喜び



再び魚が踊る

その魚をとらえる

鮭ももどってきた

その感触がいい

再び大漁だ

喜びが満面に満ちる

その魚を積んで村に帰る

妻や子供がそこに待っている

魚は村のものに分けられる

その喜びは深い

何にも得難い喜びがあった

久しぶりに働いた充実感

それは体全体にみなぎる

仲間とくみ交わす酒がうまい

人の絆がさらに深まる

津波はあまりにも酷かったが

海には魚がもどっていた

その魚の恵みがうれしい

再びまたここで魚をとり暮らせたら

そうつくづく漁師達は心から思った

・・・・・・


 


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父の形見の大漁旗
http://www.daily-tohoku.co.jp/special/sansya/news/news2011/san110803c.htm


大漁旗にはいろいろな思いがこもっていた。大漁旗のキ-ワ-ドでわかった。こういうときインタ-ネットは便利である。

TBS

集落消滅の危機に・・・男たちは海に賭けた (2011/10/1 放送)

posted by 天華 at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2011年10月03日

原町区の萱浜(かいはま)は元の萱の浜にもどった


原町区の萱浜(かいはま)は元の萱の浜にもどった


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烏崎の沼

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萱浜

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萱浜にあった家

ここまでクリック拡大!

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瓢箪や平和もどらむ二つかな

水葵色濃くなりてここに咲きまた来たりて秋となるかな


萱浜はぼうぼうとして萱の原元に帰りて秋風の吹く


誰か住む形見と残る庭の石草も枯れつつ秋風の吹く

 


烏崎の沼になったところは不思議である。水葵は色が濃くなったみたい、もともとあのような色なのか?あそこだけが本当に沼のようになった。他は水がたまっても浅いし汚い、あそこだけなぜ水葵と白い花が咲いたのか謎である。もともとそういう素地があって沼になった。なぜならあそこだけが自然に帰ったのである。他はあのように自然に帰っていない、湿地帯化しているところがあるが汚いのである。あそこの水は何か深く感じるし湿地帯の沼である。
いづれにしろ津波の跡は何度行ってみても不思議としかいいようがない、萱浜(かいはま)はもともと萱の原だったからこんな情景だった。江戸時代に越中から移住した人などが苦労して開拓した地域であり今でもその時のことを語り伝えていた。それが今や水の泡になった。元の萱の浜に帰った不思議である。一軒の家があった所に庭の石だけが残っている。これはどこでもそうである。庭の石だけは残ってあとは土台だけになってしまった。老人ホ-ムがあったところまで水が来て被害があった。


ともかくなんとも荒寥とした風景になった。あの辺にはもう家は建たないし田を作ることもないだろう。無理して田んぼを作り米作りする時代ではないから農家でも廃業する人はふえるだろう。すると萱の浜のまま放置されるのか、でも土地は広いから何か利用するというとき産業廃棄物とか放射能の処理場にいいとなってしまう。その他にソ-ラパネルでも置くかとなり現実にそういう会社がアメリカから来たりしている。津波の跡はもはや水田にはならない、それだけの労力を費やす人はもういないだろう。湿地帯化すれば自然がもどったことになるがきれいな北海道のような湿地帯になるかどうかはわからない、菖蒲などが咲けばそうなる。

瓢箪は秋の季語であり平和がもどってほしい、今までの普通の日常がもどってほしい、津波と原発事故の前は瓢箪が下がっていてこの辺はのんびりしたところがあった。今は毎日毎日放射能がどうだこうだそしてぼうぼうとした草がなびく津波跡とか平和が失われたのだ。瓢箪とか糸瓜を養う余裕がなくなった。そういう余分な人を養う余裕がない社会もまた窮屈なのである。年金暮らしの人は金の心配がないから残れるというけどそうでもない、現実に南相馬市から半分の医者や看護師がいなくなった。すると金があっても世話する人がいなくなるのだ。だから年金をもらっても金があってもサ-ビスを受けられると限らないし金があると安心もしていられないのだ。市町村でも全体が衰退することの影響が大きいのだ。全体が衰退したらもう個々人でも家でも栄えることはありえない、個々が栄えることは全体が栄えてはじめてありうる、全体が衰退したらあらゆるものが衰退してゆく、芸術とかもやはり生まれない、育まれない、決して個々人が金があるとしてもそういう市町村では栄えることはない、そういう衰退する市町村では金の価値すらなくなっているのだ。そもそもサ-ビスを受けられないからだ。物は通信販売でも手に入っても医療とか福祉関係など人的サ-ビスは受けられなくなる。
posted by 天華 at 17:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2011年10月10日

熊野山地の洪水の山崩れも自然破壊にあった (原発事故周辺の町も十津川村と同じ運命に)


熊野山地の洪水の山崩れも自然破壊にあった

(原発事故周辺の町も十津川村と同じ運命に)



白神山地のブナ林の土壌は「ブナの森から出る水に肥料いらず」といわれるほど理想的な森林土壤であり,高い保水能力を持った土壤である。ところ力 5 ,昭和 33 年から人工造林計?が始まり,ブナを伐採して逮材用のスギゃヒノキなどの針染樹を植えた結果、洪水被害が増えた。


大きいブナだな”と思うもので樹齢は約250年


 カラマツは、日本の天然林に多く見られるブナに比べると、その保水能力は数分の一とかなり低く

ブナの木は山の保水能力を高めること、 野生動物のエサとなる(人間でも食べられるらしいが) 実をたくさんつけることがわかりました。


樹齢250年のブナの木は、8トンの水を蓄えるだけの保水能力を持っているんですよ。


広葉樹は横に根を張り、土壌を安定させるのに対し、
針葉樹は縦に根を伸ばす為、保水能力が低い。

人工林は針葉樹ばかり。
つまり、現代の洪水は、人災。



ぶな?(木偏に無)がなぜこの字になったのか?この木はもともと森にあった先住民である。それがなぜ無駄な木、無用の木とされたか?それは杉とか檜が効用があったからそうなった。ところが自然にとっては森にとっては欠かせないものだった。不可欠なものだった。保水能力があり木の実は動物たちの食糧になる。ブナは生態系を維持するために不可欠なものとしてもともと山にあった。それを無用のものとして切り杉や檜を植えたとき保水能力が失われ麓で洪水が増えた。山崩れの原因もブナと杉では根の張り方まで違っていた。ブナは土に密着して広く深く根を張っていたから土壌を堅くする用をなしていた。人間側にとって無用と見えたものが実は山にとっては不可欠な有用なものだったのである。人間はもう文明が開始された何千年前から自然のままではない人工的自然を作って住んできたのである。それが結局常に災いのもとになった。技(わざ)わいなのである。ブナを無用だとすることは人間の一方的な便利さのみを追求した結果であり自然の知恵によって作られた山と森と水のシステムがあった。それを壊した結果洪水が増え山崩れが増えた。今回の熊野地方の山崩れ災害はそのためだった。そしては十津川村は北海道に移住して第二の故郷の十津川村を作った。文明の崩壊が自然破壊と密接に関係していた。イ-スタ-島では森林を破壊しつくして崩壊した。土壌が疲弊して荒廃して文明が崩壊することもある。船を作るためにレバノン杉をとりつくして王国が滅亡した。
ウルクの王ギルガメシュは、ウルクの繁栄を願い、盟友エンキドゥとともに香柏(レバノン杉)を得るために、香柏の森の守護者(半獣半神)のフンババを退治に出かけることを決意しました。戦いのために、ギルガメシュは、エンキドゥと刀鍛冶を訪れて、3ビルトゥ(90Kg)の強力な青銅の斧と大太刀を作らせました。


人間はやはり自然に逆らうと復讐を受ける、そもそもプロメテウスも火を盗んだ結果として過酷な刑罰を与えられたのもそうである。今回の津波でもそうだった。もともと海だったところを開拓して水田にした。防潮林として松林を作った。それは自然とマッチした人工の美だったのである。その風景が根こそぎ津波で失われたのには驚嘆した。これも自然が自然をとりもどすために津波を起こしたのかともなる。青松白砂や水田さえ自然破壊をして作られた風景だったのである。津波があったところは自然に則して生活していれば津波の被害にあわない。人間は自然から離れ自然を破壊して文明を作ってきた。だから今の大都会は一旦災害には弱い、不自然なものであり極端に人工化した所だからである。その例が神戸大地震だった。火の海になり大被害を出した。海より低い場所に住宅地を作ること自体いかに危険なことか今回の津波でわかった。東京辺りにはそういう一帯があるからいかに危険かわかる。


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ともかく老子が無用の用を二千年まえに主張したときまさにこういうことだったのである。ブナを?(木偏に無)としたときまさに人間が便利なもの人間にとって便利なものだけを有用なものだけを追求した結果としてこの字をあてた傲慢があった。そういう人間側だけからの自然利用は必ず復讐を受ける。それが山崩れであり山津波であり今回の大津波でもあった。その復讐は恐るべきものになる。自然はとても人間の知恵では今でも計り知れないものだった。そういう計り知れない自然を畏れることなく原子力発電を海岸に作った。それが自然に復讐されたのだ。自然を甘くみてコストカットのみを追求した、そして自然にはない物質を原発は作り出してその毒で回りは住めなくなったのである。それは自然からの人間の傲慢に対する復讐だったのである。そういうことは地球全体にあり地球の自然が人間側の便利さや有効さなどの追求の結果として起こる。資本主義というのも貪欲に自然を人間側の欲のために破壊してゆくから大きな自然災害が起きて復讐される。自然には自然の知恵と理があって存続している。それを人間側の一方的論理と便利さのみ追求は危険なものとなる。


1889年 奈良県吉野郡十津川村水害遭難、壊滅。
1957年 新十津川村、町制施行。「新十津川町」


原発周辺の住めなくなった市町村はどうなってしまうのか?北海道に移住するようなことは今はできないだろう。すると散り散りになり消滅する。その歴史も断たれてしまう深刻なものとなってしまう。市町村が消滅するということはどういうことなのか?それは歴史と風土とかすべて失うことになる。そこに原発事故の残酷さがあったのである。

posted by 天華 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処