2005年12月22日

定禅寺通り(冬の雨)

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http://www.city.sendai.jp/kensetsu/road/hiroba/jozenji/

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ここにあった喫茶店はなくなった・・・・一番いい場所にあったが・・

(定禅寺)ライブカメラ


残菊に枯木一本や今日も見ゆ

カラフルに子供服干して冬菜かな

広瀬川冬鴎群れ橋渡る

定禅寺語らい過ごし冬の雨

定禅寺銀杏並木の枯れにけり冷たき雨にぬれて行く人


仙台まで何ヵ月ぶりかでハンディバイクもって行った。長町でおりてそこから走り橋をわたる。電車で行くとこういう行程がなく駅からだから広瀬川の橋はわたらない、つまり何度も行っているけど電車だとこうしたちょっとした道の行程が省かれるから地続きの感覚がなくなるのだ。昔なら歩いていたから必ず橋をわたり仙台の街に入るのである。そこで橋の名前とか橋が意味を持つものになるのだ。これは車社会でも橋とかもっている意味が喪失したのだ。広瀬川に冬鴎が群れていたのも都会的だった。

そこから定禅寺に行き160円の喫茶店に入った。なぜこんなに安いかといかと隣が180円だから160円にしたのだろう。喫茶店はやはり外を通りをながめられるのがいい、銀杏の並木が見えたがあいにく冬の雨だった。でも冬の雨は雨なりに情緒があり俳句は写生だから冬の雨だったら写生すればそれなりに深い意味あるものとなる。ここで活きたのが「定禅寺」という地名、名前なのである。ここに禅寺があってそうなった。この名前と銀杏並木でここが歴史的なものと銀杏並木で独特の風情を作り出しているのだ。こういう情緒はこうした通りにしか作れない、ス-パ-とかデパ-トには作れないのだ。通りに面して店があることで通りが活きてくるのである。どうしても自転車だと通りを行きその通りにそったものを見るようになる。自転車だと路地を曲がったり街全体の通りを行くことになるのだ。

電車から見た赤い子供服が農家の庭に干されていたのとその下に冬菜があったのも写生しただけなのであるが鮮やかな対象を成した絵だった。

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2005年12月23日

師走の仙台へ(続2)

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外人の移り住むかな年の暮

仙台になると外国人にあう、今やどこでも外国人などめずらしくない、インド人もいた。まだ田舎では外国人にはあまり会わないが仙台辺りになると外国人の出入りが多い、インド人はめずらしいがインド人も結構会うし東京になるとそこがどこの国かわからないとかさえなている。だから外国人が引っ越してきたからといってめずらしくはないのだ。
坂を荷物をひいて日本人の女性が案内していたから気づいたのである東北では仙台が唯一の大きな大都会になる。

広瀬川に冬鴎が群れていたのはここは海に近いからである。そこでインタ-ネットで調べていたら

名取市から続いてくる国道4号線は、仙台市に入り中田・長町駅前を通りそして仙台駅へと続いていく昔の奥州街道で、辻標の建っているところが笹谷街道との分岐点、病院の前を過ぎ蛸薬師そして小学校、国道286号をとおり・・・山形へと抜ける笹谷街道のスタート地点であったそうだ。

「蛸薬師」、大昔の大洪水のときに薬師如来を抱いた蛸が漂着したという言い伝えからそう呼ばれているそうで、境内には馬の供養塔があり昔の宿場町だった長町の面影を残している。

http://birthday0317.hp.infoseek.co.jp/sendai-chimei.html#top

ここに蛸薬師があることは海が近いからである。インタ-ネットの面白さはこうした謂われがのっていることなのだ。なかなかこうしたちょっとした地蔵とかの謂われはそこに長年住んでいる人でもわかりにくいのだ。遠くに旅行するとほとんどわからなくなるから旅が浅薄なものになるのだ。いづれにしろ今の旅は途中がぬけすぎている。途中がぬけているから旅にならないのである。

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これは次の話から京都から伝わってきたものだった。

御深草天皇の建長(1249〜1256)の初めに善光という僧がこの寺に住んでいました。あるとき、母が病気になり、寺に迎え看病していましたが、母が「子どもの頃から好きだった蛸を食べると病気が良くなるかもしれない。」と枕元でささやきました。しかし、善光は僧侶の身であるので、蛸を買うことが出来ずに悩んでいましたが、病弱な母のことを思うといてもたってもいられず、箱を抱えて市にでかけ蛸を買って帰りました。これを見た人々は、僧が生魚を買ったことに不審を抱き、善光の後をつけて寺の門の前まで来ると、箱の中を見せるようにと彼を責めました。善光は断ることもできず、一心に仏に念じ「この蛸は母の病気が良くなることを思って買ったものです。薬師如来様、この難をお助けください。」と祈って箱を開けると、蛸はたちまち八足を変じて、八軸の経巻となり霊光を四方に照らしました。

http://www.shinkyogoku-miyage.com/shop/00takoyakushi.html

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蛸薬師は海とは関係ない、京都が発祥地でありこの伝説が基になり移動してきたのだ。この話の方が信憑性がある。僧侶は蛸を食えなかった。その蛸を食って母を直したというのは本当かどうかわからん、生臭坊主が蛸を食ってしまったいい訳かもしれんが僧侶と蛸にまつわる話が仏教の伝播とともにみちのくに伝わったのだ。こういうことはかなりあるからだ。どうもインタ-ネットだは地名であれ謂われの案内は良くしらべない人が多いことに注意すべきだ。


プログでわかったことはプログの検索だと一分ごとに最新の情報が次々にアップされていた仙台というキ−ワ−ドで次々にその日に仙台に行った人の報告が一分後とに新しい順にでてきている。その数もかなりのものである。そこげ雨の後雪になったのだがその写真をのせていた人もいたし、仙台のことがいろいろ書かれていた。プログは最新の情報か即座に時系列でアップされていることがわかった。ただ数が多いから最初の十くらいしか読めない、そこがインタ-ネットの検索の問題なことは同じだった。

このプログを約一カ月やったがまだわからない、ただアクセス数が30くらいあるはたいだとすると前は二三人くらいだとするとやけに多いなと感じた。プログだとペ-ジビュ-だと10倍くらいになることがありタイトルごとに別れるからペ-ジビュ-がふえる。しかし確かに訪問者30あることは確かなみたいだ。プログはアクセスされやすいというのは本当手ある。プログは詳しく分析できない、プログは書きやすいのでかなり書いた。これもインタ-ネットの新しい世界だったのだ。

2005年12月24日

師走の仙台へ3(長町から)

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長町ゆ仙台へいず広瀬川冬鴎群れ愛宕橋わたる

鴎むる広瀬川の岸冬の日や蔵という名のレストランあり

年の瀬や長町いでて仙台へ

長町や昔の宿場年の暮

冬鴎蔵という名のレストラン>


仙台に行く時は電車だと長町には寄らないから長町を意識したことがない、長町は通りすぎる街でしかなかった。それが自転車だと長町でおりるのが便利なので長町でおりて仙台に行く、それで長町を意識するようになった。長町は仙台市でも長町まで買い物に来る人はまれだろう。かえって長町は仙台の中心街から離れているから忘れられる。大きな中心街があるとそうなりやすいのだ。だから仙台に日常的に通っている人でも長町に来る人はまれである。来る用がないからだ。ところが昔なら仙台に行くには必ず長町を通る。そして長町は宿場町になっていた。ええ、仙台の数キロしかないのに宿場町なのかという疑問がでてくる。それが現代の交通感覚なのである。歩く世界では二三里の感覚で宿場町が必要だったのである。特に仙台に近いとなるとかえって必要だったとなる。昔の街道だったから必ず街道沿いの町や村は意識されるのだ。現代では電車でも自動車でも意識されない、通過点になりやすい、道の駅などでやっとその町を意識したりするようになる。

現代の交通は通過点になりやすい、通過するだけの旅になりやすい、だから長町というのも通過点に過ぎないから忘れられる。これはここだけの話ではない、江戸に入るにも京都に入るにも歩いて入るのと電車で入るのとは全然違う、何故なら電車だと上野の前に日暮里とかあり必ず駅名で意識する。ああ、上野に着いたなとかなる。つまり今や旅は駅名でしか意識されないのだ。昔だったら必ず宿場町として通る場所は意識されたのである。現代の旅は通過するための旅でありあとに何も残らない旅となってしまったのだ。だから仙台に来るなら長町から仙台に入るといいのだ。歩いてもさほどの距離ではない、ただ地下鉄も出ているが歩いて広瀬川に出て橋をわたり仙台にでるとそれなりに仙台に来たなという旅の喜びを持つことができるのだ。こういうふうに手間暇欠けないと旅にならない、それができないから通過するだけの印象にも残らなくなったのが現代の旅なのである。

商店街には八百屋、果物屋、種苗店、肥料店、竹の籠屋などが軒を連ね、長町は活気あふれる「仙台の台所」として栄えていきます。やがて市場は手狭になり、昭和38年に宮城野原、そして昭和48年に現在の卸町へと移転していきますが、・・・・・・
http://www.mazarain.com/sanpo.html

長町は江戸時代は宿場町でありそれからも「仙台の台所」だった。仙台に近いから長町の繁栄があったのだ。

2005年12月26日

師走の仙台へ4(五十人町)

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足軽の五十人町や冬鴎

仙台の三百人町や年の暮


仙台の昔はどうなっていたのか、仙台についての昔はあまり考えなかった。長町から仙台に行き愛宕橋を渡るとその辺が昔の下町だった。五十人町とか六十人町とか三百人町とかあるからだ。仙台は60万石で大きいから三百人町とか足軽が住んだ地域があったのだ。そして足軽が住んだ地域は城のあった所から遠い地域に住まわされた。だから鉄道の駅の近くになっていることがある。現存している茅葺きの新発田市の足軽長屋も駅の近くにあるのだ。青葉城の下に武家屋敷があり城を守る直属の家臣が住んでいた。城と運命をともにする家臣団であった。

一方足軽は雇われた人夫のようなものでありそれらは城から遠く離れて住んでいた。これらと町人はさほど暮しが違ったものではなかった。荒物売っている荒町とか材木町とあるのはここに運河があり材木を運んだ。地名で面白いのは江戸町通りとかあり江戸から大工を読んで住まわせた町があった。大工は職人は大きな城下町ができると移住して一団で住むからそこが地名となる。それから話題になっている姉歯横丁があり荒町小学校(土樋)近くに 姉歯新左衛門の屋敷があった。姉歯は由緒ある武家の姓でもあったのだ。

国見二丁目の国見小学校北側で撮影。 北八番丁通りを西に行って、 土橋通りと交わったところからの通り。 二代藩主忠宗が取り立てた旗本足軽二十二人が、 頭髪を半分剃っていたことから「半子」と呼ばれており、 彼らが住んだことから名付けられた。

これは髪形から名付けられた。昔は職業でも身分でも服装も髪形も違っていた。だから一目見てどういう身分とか職業かわかるのである。
古代の万葉集時代でも髪形でその土地に住んでいる部族のものを区別していた。今でも中国の雲南地方などの山岳民族に変わった髪形の人達が住んでいる。

青みずら 依網の原に 人も逢うはぬかも 石走る 近江県の 物語せむ(1287)

服装の他、頭髪については男子は朝服の頃は美豆良(みずら)が飛鳥時代後半まで許されたが、以後は髷(まげ)結って冠を被ることが義務付けられた。この青みずらの青はわからないが角髷であり依網の原の枕詞になっていた。青みずらの髪形の人がそこに多くいたのか髪形を特徴として枕詞になった。
この半子もこれと多少にている。

足軽町は城下はずれには下級武士の組士,足軽が配置され防御の第一線とされた。足軽町で足軽兵によって敵が攻めてくるとき防ぐのである。寺町も防御のために作られた町である。

白石市に足軽まんじゅうというのを売っている。これの謂われは

参勤交代の行われている時代、仙台様などの大名は伊達の大木戸から越河関所を経て、又、秋田、津軽などの大名は小坂峠を通って白石の城下に入っていました。
疲れた身体でようやくたどりついた峠の茶屋には、老婆と若い嫁この作るまんじゅうがあり、「これは甘味い」と思わず声がでるほどおいしいものでした。
足軽たちからは、「お陰様で足が軽くなりました」とたいそう喜ばれたそうです。それにちなんで「伊達藩足軽まんじゅう」と名づけられました


足軽というとき大名の下支えとして必要なものであり地名から足軽の生活が浮かんでくる。地名には昔の生活を偲ばせるものがあるのだ。昔と今が連続するときそこに町も生きてくる。仙台は大きい街だから歴史もあるから調べれば昔が偲ばれ浮かんでくる。こういう昔をたどることが人間の生活を豊かにするのである。

足軽のかたまってゆく寒さかな 井上士郎

「ぜんたい足軽などという者は、武士の恰好(かっこう)をした仲間(ちゅうげん)も同様、庭掃きか傘張り内職でもしていれば御用のたりる身分なので、それが武芸自慢をするなどとは慢上の沙汰(さた)だ」

足軽の下に仲間(ちゅうげん)がいて渡り仲間とかこれは時代劇でもヤクザまがいのがらの悪いのがでてくる。足軽はそれよりは上の身分だった。武家屋敷の門で出入りを検めたりガ-ドマン的役目とかしていた。仙台の長町から愛宕橋から五十人町などの足軽町から姉歯横町というのまであったから地名の旅は歴史なのである。

2006年01月12日

定禅寺の喫茶店から送信

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長町の昔の通り冬の暮

仙台の冬やビルの間昼の月

広瀬川橋の袂や冬芽かな

長町ゆ枯木の並木凍る雪橋を渡りて五十人町かな

広瀬川の水際凍りて鴨数羽橋に寄り見つ五十人町に来ぬ

定禅寺去年の落葉や街灯の点りてあわれ夕暮れにけり



長町から仙台へまたハンディバイクで行った。このハンディバイクは街を走るのにはいいがその他は役に立たない、走るのに加速しないから疲れる。必ず汗をかくのである。ただ軽いから車輪も小さいからまさにハンディであり駅の中も車輪をつけたままひっぱることができて楽である。ただ5、6キロ走っただけでもかなり疲れる。まあ、これで長町から仙台まで行くのにはちょうどいい距離だった。自転車だと通りの店を見る。入らなくても見るだけでも見るのだ。ええ、こんな店あったんだなと見るだけでも効果はある。そもそも仙台まで電車だったら見ることさえないからである。

長町から広瀬川沿いをゆくと広瀬川の凍る汀に鴨がいた。そこを遡りまた橋を渡り五十人町とか荒町とかにでて駅まで出て定禅寺通りの喫茶店に休みそこで写真をとりノ-トパソコンからプログに記事を送った。プログは外から通信で送るのにも向いている。文章だけだったら楽である。それでその利用の試しのために送ったのである。仙台というとそれなりに大きいのだが広瀬川があったりビルの間から昼の月がでてたりなんとなくのんびりした空気がまだある。田舎の大都市ともなる。そのくらいがいいのかもしれない、何かそうした間がぬけていたところがないと行き詰まるような世界になってしまう。東京なんかそうである。息抜きするところすらないのだ。独楽鼠のように立間っていなければ人でない感じになってしまうからだ。そういう所には俳句とか短歌ももはや作れない世界になっているのだ。

松の内というと松があるからこそ松の内なのである。ところが都会には松がないのだ。正月の行事は農村社会を基にしている。松の内というとき松というものが回りにあるからこそ松の内なのである。松の枝を田んぼにさして豊作を祈ることなどもあった。松は常緑の木だから常磐木だとか縁起のいいものとして松があったのだ。田舎ではまだ松があるから松の内が成り立つが都会では松の内も実際はなくなっているのだ。正月気分がなくなったというとき正月を作り出した農村社会が工業社会中心に変わったということなのである。
ともかく長町から広瀬川沿いを行き橋を渡るとそれなり情緒が生まれる。昔なら橋の欄干にもたれて寒々として川に群れて浮いている鴨を見ていた。そこから五十人町とか足軽町に行くのだから昔の姿がよみがえってくる。ここを足軽が行き交っていたのである。
すると

足軽のかたまってゆく寒さかな 井上士郎

ここからこの句がしみじみとわかる。江戸時代が人情の世界だというとき暖房も人が寄り合って温め合うとなる。子供の頃遊んだおしくらまんじゅうというのがそうである。みんなで集まりおしあって温まる遊びだったのだ。エアコンもなにもないから人が寄り合いあたためあう世界になるのだ。こうして昔が偲べればそこが昔の人との連続性が生まれ豊かな世界となるのである。


これは定禅寺の喫茶店から送信たもののに文章と写真を加えたものです

もっと歴史に興味ある方はこちらを読んでください

(長町から仙台へ歩きで見えた歴史)
http://www.musubu.jp/jijimondai32.htm#naga

2006年05月03日

仙台の芽吹く並木道(本の買い方が変わった)

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新緑や新幹線は仙台へ

橋わたり城下に入り八重桜

広瀬川芽吹き飛びくるカモメかな

仙台の並木芽吹くや朝の風

たんぽぽや駅前の広場歩き食う


今日は長町から歩いた。ハンディバイクで行ったとき歩いてもたいして変わらなかった。途中パソコンの相談所という店がありウィルス診断とか駆除とかのサ−ビスをしているところがあった。なんでもハ−ドディスクをフォ−マットしただけではウィルスお汚染されたのは消えないという、ゼロクリア−とかなんとか完全消去しないとだめなそうだ。これまためんどうでありウィルスに一旦汚染されるとパソコンはいかにやっかいなものになるかわかる。だから4,500円もしてウィルスソフトを買っても一旦汚染したらもうだめなのだ。こういう店は歩かないとわからなかった。街中にある店は歩いてみないとわからない、自転車でもわからなかったからだ。仙台に行くなら長町に降りて歩くことをすすめる。歩いてもたしいた距離ではない、そこからだと必ず広瀬川に出るから電車で行く場合と全然違った雰囲気を味わうことができるのだ。

仙台のブックオフで100円の福祉関係、老人痴呆関係の本をまた4冊ほど買った。百円だから安い、前もここで買ったがやはり百円で福祉老人関係の本が安かった。中味はかなりいいものである。本はやはり選ばれたものだから内容があるものが多い。でも今私は本というものをどういうふうに買っているかといと本屋ではほとんど買わない、アマゾンで中古本を買っている。ここにはあらゆる本がある。本というのは実際は膨大な数がある。仙台の一番大きな本屋にある本もほんの一部にすぎないのだ。本は無限にあるのだ。本は何年か前のはほとんど店頭から消えている。その数が膨大だから本の種類も膨大なのである。そして今はほとんど500円以下の本しか買わない、アマゾンでは一円とか百円とか二百円であり送料たしても500円以下でなかなか手に入らない本を買える。だから本屋で新しい本を千円以上で買うのが馬鹿らしくなったのだ。本の値段は本当は500円である。高くなっているのはあまりにもコストがかかりすぎるからだ。だから本は買わないし売れないのである。私はかなり本を買った家は本でうまっている。もともと本好きである。本は一時間くらいでさ−と読めばその要点がすぐわかる。興味をもったものは特にそうである。最近は認知症とか介護関係の本を数十冊読んだ。ほとんどアマゾンの中古本で読んだ。500円以下だからついつい買ってしまうのである。情報はある量を集めないと本当のところがわからない、認知症とか老人問題はこれはかなり多角的な研究が必要であることがわかったからだ。これが今や私の一つの緊急の課題になってしまったから集め読んでいるのだ。

本というのは書店とか出版社とかは今インタ−ネット時代、変革期にきている。本一冊一冊という読み方もそれなりの知の摂取方法なのだがインタ−ネット時代は別な知の展開が必要になっている。本買うこと自体がインタ−ネットで関心をもったものをリンクして本も読んでいるからだ。インタ−ネットで調べてええ、こんな本あったのかという本が実に多いのである。それらは店頭にはもはやないのである。書店というのもいづれ消えてしまうだろう。書店の効用は立ち読みでありこんな本もでていたのかと気づくことである。でも高いから買わずアマゾンでその本の題名で検索して500円くらいだったら買うかなとなる。今までは2千円と3千円でも買っていたが今は買わない、認知症となると広く浅く広範囲な知識、情報が必要だから一冊ではたりない数十冊読む必要があるから高いと買いたくないのだ。一冊のなかで十数行だけが重要なものとして必要なものがある。すべてがそれぞれにとって必要とは限らないのだ。そういう読み方を本ではできないことが問題なのである。しかし考えてみるとこれからいい本がでないと中古本も安くていいものが手に入らないことになる。本はやはり電子化して知識は安価に供給する時代になるべきである。知識の摂取の仕方でも出方でもインタ−ネット時代は変わってしまったからである。


橋わたり城下に入り八重桜

広瀬川をわたると仙台の城下に入ったことになる。橋が自然の境界になりその自然に基づいて街もできたのである。その城下に入ったらほのぼのと八重桜が咲いていた。50人町とか百人町とか足軽町のあったところだったのである。

2006年10月10日

仙台の秋

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広瀬川の河畔を歩み秋の蝶

掃除婦に朝の秋日や親し道

秋日さす生を惜しみて公園に

秋日さすベンチ二つや公園に

噴水に鳩水浴びや秋暑し

古本二冊仙台に買い秋深む

秋日さし来なれし道の公園の乙女の像に鳩のよるかな

久々に仙台に来て植木市とりどり映える秋の薔薇かな

久々に仙台の通り歩みきて惜しむ時かな秋の日さしぬ


春行ったきり仙台に行っていなかった。5カ月くらい行かないというのは長い、それだけ行けなくなったのだ。病人をかかえるとちょっと出るのがむずかしくなる。特にアルツハイマ−のショックは24時間夜まで離れられなくなることを書いている人がいる。これでは鬱病になってしまうのが当然である。今では簡単に外出できないから外出する時間が特別貴重な時間になってしまった。
生を惜しみてというとなんか癌を宣告された病人のようだがだんだん先の短い時間になっているからおおげさではない、余りにつくりすぎるとリアリティがなくなりいい作品でなくなるが秋の日のさす通りを歩いて何かそれだけでいとおしいものに感じてしまった。

2006年11月29日

仙台の冬の銀杏並木

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若者に初老のまじり街時雨

街歩み人ごみのなか初時雨

盲人に車椅子通る冬ぬくし

冬の街乳母車入る喫茶店

金色に銀杏輝き街に来る

仙台の裏の通りや冬柳

書店一つ銀杏並木や灯のともる

郊外の家にともる灯冬菜かな

仙台や道行く人に銀杏散る外人も交じる並木道かな

日に映えて銀杏輝きつ散りにける並木つづきぬ仙台の街


仙台くらいになると街の情緒があるのかもしれない、銀杏の並木はきれいである。銀杏の葉は舗装の道に散るから土に帰らない、掃いてすてるのも大変である。普通土に帰るのが自然だがコンクリ−トの都会では土に帰らないのだ。でも銀杏の木は自然なのである。都会というとそこにいろいろな人間模様がある。今どきどこでも外人が多いのも特徴である。どこでも国際化しているしグロ−バル化している。仙台の裏の通りを歩けばそこには大きな街なりの古いものがあるかもしれない。古い店があるかもしれない、ただよくわからないが冬柳がたれて古い老舗のようなものがあっている。

自分の家で障害者をかかえるようになってから障害者を見る目が変わってしまった。より身近になってしまったのだ。普通無関心なのだが家で障害者をかかると他人事でなくなるのだ。車椅子を押す人がいたが家族なのだろう、大変だろうなとか盲人の女性が歩いてくる、どんな感じで歩いているのだろうかとか考えてしまう。障害というのは家族とか自ら障害者にならないと実感しえない世界なのである。同情するにも他人事になってしまうのだ。

今年は暖冬なのだろうか、冬の感じが今日はしなかった、そして街中で初時雨だった。村時雨とかあるから街時雨もあって不思議ではないので街時雨にした。明日は寒くなるというから本格的な冬はこれからだろう。それでも暖冬気味だということは障害者とか介護者には気分的に楽にする。寒いのはやはり弱者には辛いとなる。やはり仙台くらいになると街としての魅力、面白さがでてくる。5万くらいでは街とはいえないのかもしれない、つまり5万とか10万の街でも今は商店街もさびれているから街の魅力が喪失している。50万くらいでやっと街の魅力がでてくる。街の魅力はやはり歩いてみて気分よくなる刺激を受けることなのだ。そこに並木道とか公園とか自然があると街にきても楽しいとなる。

2007年01月13日

枯木の並木道(長町から仙台へ)

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南天に菊を飾れる着物(和服)店

長町に魚の匂い冬の暮

長町の通りを歩みシクラメン三種類ほど飾る店かな

広瀬川の岸辺の道や人会うも枯木つづきて黙し去るかな

仙台の枯木の並木歩みつつまた行くべしや我が帰り来ぬ


長町は昔は仙台の市場だった。長町は相当にぎわっていた。いろいろな店もあった。仙台があるから市場として活気があった。今は必ず長町を歩いて仙台に入る、広瀬川の橋を渡り仙台に入ると仙台駅から入るのと違った感じになるのだ。本当は歩く感覚で道を行くと必ず何か感じるものがあるのだ。それは同じ道でもそうなのだ。今はデパ−トとかス−パ−とかで通りが消失した。通りを歩む楽しさが消失してしまった。買い物だけになってしまったのである。

店とは見せるからはじまったように街を歩くことはまず見ることだったのである。長町には魚屋があったりするとそれだけが昔からあったような店である。魚の匂いというのが何か人間臭いとなる。今はその隣が花屋だったりパソコンの修理屋だったりと変わっている。呉服店など昔はあったがこれも今はない、でも南天に菊というのは合っていた。着物は日本的情緒をかもしだすからやはり日本にはあうものなのだがこれも失われた。

仙台という街はやはり並木が生きている、街の中に自然があるということはやはり街を潤いあるものにする。広瀬川も街の中を流れている。まだ沈黙が街の中にもある。枯木の並木を歩き黙して去りまた来て歩むのである。仙台には確かに通りがあるが他の街ではなくなっている。通りはシャッタ−通りになってしまった。仙台くらいの規模だとやっと通りが維持できるのかもしれない、東京だと大きすぎて騒音通りになってだめなのである。

やはり通りを歩むのが都会に行く楽しみとするときそれがないと都会もつまらないとなる。旅で行く街が寂れているので残念だった。旅ではデパ−トとかス−パ−には行きたくないからだ。街の通りは一つの文化であり街の通りがなくなることは文化の破壊だったのだ。文化について語ってきたが文化は人間の血肉であり文化が失われることは影響が大きいのである。でも便利さや経済の効率追求で容易に破壊されたのが文化だったのだ。

ノスタルジックな仙台の長町

橋姫の祠を知るや冬の暮

長町を新幹線の過ぎ行くに昔偲びて冬の暮かな


橋姫明神の裏側には長町橋(旧名で永町橋)の礎石がおかれております。この二つが昔の長町橋の面影を残すものになりました。橋姫の他にも広瀬川には人柱の話が残されております。現在では穏やかな川の姿が印象的ですが、昔は色々と氾濫があったりしたのでしょうね。

長町は名取郡に属していて代官所が置かれ宿場町だった。広瀬橋ではなく長町橋だったことは長町の延長としてこの橋があり仙台橋は仙台の青葉城への橋として名づけられた。橋姫伝説があり今も祠があるのだがこれは何回か通ってもわかっていても良くみていなかった。こうした細かいものは見逃してしまうのが現代なのである。現代は車で電車で早く早く通りすぎるから歴史の跡を見逃してしまうし忙しくて関心がないのだ。今なぜこの長町に関心をもったかというとここを仙台に行くたびに歩くようになったからである。いかに歩くことがその場に親しむことになるからわかる。

仙台というと相馬辺りでは通勤圏内でありかなり働く場所にもなり買い物の街にもなっている。仙台は福島県でも岩手県でも生活圏内になっている人が多いのだ。だから旅で一回限り通りすぎるのとは違うからそこの歴史について知りたくなるのである。過去を知るということは自ずとそこで生活していれば徐々に知りたくなるものである。ただ旅できた人はこうした歴史的小さなものは見落としがちなのである。現代の騒々しい仕事に忙しく追われて生活している人は過去のものを意識することなく忘れている。過去のものにも意味がある。何かを現代に伝いようとしているのだがそれが伝わらない、橋姫明神の祠に注目する人はまれだとなる。それだけではない様々な過去のものが埋もれてしまっている。過去は誰かが注意して喚起しないと忘れられるものなのである。しかし過去と現在を結びつけることによりはじめてその街のことを知ったことになるのだ。

とにかく長町の過去は実にノスタルジックなの場所である。仙台の市電の終点であり秋保電鉄があった。石を運ぶために作られた。秋保というと温泉で有名だしここから鉄道にのって行けたらまた何か情緒的に違った旅ができたのである。長町は歴史とかいろいろな面からノスタルジックな街だったのだ。

これは歴史的の読み物があるから興味深い、それも連続して書いているから長町の歴史を知るにはいい。

長 町  ゆ と り 〜 と
http://www.mazarain.com/yuto.html

2007年03月07日

三月に初雪?(仙台に買い物)

三月にはつに雪舞い仙台の喫茶店二つめぐり帰りぬ

今日はじめて雪ふった。すぐに消えたが寒の戻りだった。BD-1を買いに行ったが注文だけになる。一四万は高すぎるが折り畳みで軽く早く走るのはこれしかないのだ。自転車はやはり軽快に走らないとだめなのだ。走ることが気持ちいいからだ。軽快に走らないと自転車はただ移動のためのものになる。風のように走るのが自転車の醍醐味なのである。登山は上るのは苦痛だが自転車は走ること自体が喜びをもたらすから軽快に走る自転車が必要になるのだ。近くしか行けないのだからこれで走って気分転換するほかない、あとで困るので高くても仙台で買うほうなかった。

携帯はソフトバンクの店があったのでやすいのでいいだろう。一カ月千円というのは安い、子供用で緊急に連絡できるものや地図を示すGPSまでついて同じ値段なのは安い、携帯にもいろいろある。実際携帯はほとんど遠くにも行かないし使っていないから安いのでいいのだ。
最近やたら携帯のアンテナの鉄塔がそちこち立っている。鹿島区でも二つ新しく立った。一つは景観の一番いい場所に立って目障りになった。そこは見晴らしのいい田畑でありそこに一つ塔が立って景観が悪くなったのだ。そしたらソフトバンクでは鉄塔が景観を壊さないように木の形にするとか隠れた目立たない場所に建てるとかしていると聞いてなんでドコモは景観を破壊する場所に建てたのかおそらくこれはいつも住んでいる人にしかわからない、それも自分のような景観にこだわる人−変わり者しか考えない、農民さえ考えない、農民は収入は考えても景観をとやかくいわない、景観は金にならないから容易に破壊されるのだ。

仙台でも茶室がある前がマンションかビルでさえぎられてしまい全く趣きがなくなっている。京都の町屋の前にもおおいかぶさるようにマンションができて景観は破壊される。美しい日本の景観が一番容易に破壊される。景観は当面は経済的効果がないから破壊されやすいのだ。高速道路ができればこれも景観の破壊なのだが経済優先で誰一人反対するものはいないのである。

原町区にショピングセンタ−できるのは常磐高速道路ができて仙台に客が奪われるからとか乗り合わせた人が話していた。?そんなことあるのか、車で仙台に客が行ってしまう。私も買い物で今回仙台に行ったから仙台に買い物にゆく人は多い、でも食料品などは地元でまかなうほかない、なんでも仙台とはならない、交通費も二千円以上かかるのだから買い物もみんな得とはならないからだ。

相馬市と南相馬市(原町区)の人が話していて、相馬市の人は閉鎖的だとか原町市は相馬市とは違っているとかいう。たいして違わないと思うけど相馬市は相馬藩の城下町で原町区は近代化で発展したところで人口も増えたから多少人間に違いがあるのか、これも実際はほとんどないだろう。新地は火力発電所あるから税金入って相馬市と合併しなかったのか?鹿島区は相馬市と合併すれば良かったとか地元の話しもいろいろあるし地元のこと私はつきあいがなくうといからわからない、ただ市町村合併の名前のことで地名にあり書いてきた。地名は歴史であり文化でありこれが意外と単なる物好きとはいえない奥深いものがあり人間はなんでも歴史が大事であり背景の歴史を知らないとその土地のことも人間のことも浅薄な理解しかできない、歴史はどんなものにもあり人間は歴史的動物だということを知るべきなのだ。

私は喫茶店が学生時代から好きだった。友達としゃべるのではなくそこで本読んだり考え事をしたりして詩を書いたりするので好きだった。都会だといくつかの喫茶店を回るのが楽しみだとなるが今は均一の安いチェ−ン店なので味気ないといえば味気ない、やはり喫茶店は個性があればいい、でもそうなると金がかかるので入れないとなるからどっちも満足させることはむずかしいのが人間の社会なのだ。

2007年03月13日

春寒し(仙台へ)

春寒し並木の影を踏み歩む

風強く電車行くかな椿ゆれ昨日ふる雪の白さに赤しも


BD1を仙台で買った。これは軽くて早い、折り畳みでこれくらい軽くて早く走るのは驚きだ。パソコンは今や10万でどれも違わない性能である。メ−カ−品でなくてもほとんど同じになった。でもこの自転車の性能は格段の違いがある。私はメカに詳しくないから自転車のことはわからなかった。自転車に通じていれば最初から高くてもBD1を買った方が良かった。
自転車は25万のカ−ボン製のを買った人がいた。これも7キロだから驚くべき軽さだ。これも怖いくらいのスピ−ドがでる。タイヤが細いので道の悪いところではのれない、やはり軽さが驚異的なのだ。自転車は軽快に走れないとだめである。乗っていていやになる。走る醍醐味がない、自転車は遠くへ行く道具ではない軽快に走るためのもの、走って爽快になるためのものなのだ。自転車はいろいろでてきたがやはりBD1は自転車の最高傑作なのだろう。

今日は風が強く電車をゆっくり走らせていた。今ころになり寒くなった。仙台の並木の影の道を踏んで歩み帰ってきた。携帯もソフトバンクの安い簡単な子供用の買った。緊急連絡するブザ-がついているので便利だと思ったからだ。2年間契約しなければならなかったが一カ月1200円でソフトバンク同士なら9時まで無料だというのは安いとなる。まあ、たいして使わないから安い方がいいのだ。

椿が強風を受けて昨日降って残っていた雪に映えて真っ赤に咲いていた。電車からながめるとまた別な詩となっているのだ。

2007年06月06日

仙台−定禅寺通り(夏)

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朝の駅野茨におい若き女(ひと)

夏菊や一駅過ぎて走りさる

もの思ふ青葉の影濃き定禅寺

定禅寺青葉に深き影なして久々にして我が歩むかな
 
また久しぶりに仙台に行った。最近なかなか行けない、久しぶりに行くとやはり何か新鮮にもなる。仙台は通勤圏だから見るべきものもなくなっているが実際は違っている。仙台が青葉の街だというとき確かに欅の影が深い定禅寺通りは趣がある。あそこにある喫茶店は立地条件がいい、喫茶店は立地条件が左右する。でも今は喫茶店だけではやっていけないのでめっきりすくなくなった。160円では安すぎるのでケ−キを買うことになるのも不思議だ。安いと別なものを買うことになる消費者の心理がある。あるものは安くしてもべつなものでもうけるのも商売である。都会にもこうして自然があると憩えるところとなる。盛岡なども街のなかを川がいく筋か流れているからいい街なのである。
 
電車にのるのはやはり気持ちがいい、若き女性はまさに野茨である。茨(いばら)であり刺が鋭い、都会というと仙台とかそれから平泉から盛岡は散策にはいいだろう。この辺はなんとか日帰りの範囲ではあるがそれすら今や余裕がないから行きにくくなるなど考えもしなかった。今や自由の身から捕らわれの身になってしまったのだ。
 

2007年06月07日

仙台へ(新しい駅−太子堂)

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黄菖蒲や新駅一つ仙台へ

太白山見えて夏の日仙台へ

夏菊や朝の電車の走りさる
 
南仙台駅 - 太子堂駅 - 長町駅
 
「太子堂」(近辺にあった祠の名前から命名)の方が地元の認知度が高いためこの名称となった。
 
長町は仙台の近郊として開発している。仙台は相馬から通勤圏内である。ただ一つ新しい駅ができたので5、6分仙台につくのが遅くなった。前にも一つ亘理の次に逢隈駅(おおくまえき)ができた。仙台圏内だから人口が増えるから駅もふえるのだ。他はふえていないことでもわかる。駅の名前も太子堂が地元の人にとってなじみあるものだろうか?そういう祠みたいなものが駅名になることも何かそぐわない、新興住宅地になるとその土地の歴史と関係ない名前になったりするのがふさわしい気もするが駅名も歴史的に名づけられるのが多いみたいだ。でも長町は昔の街道だから歴史ある場所なのである。ただ相馬からくると太子堂とかは何かなじみがないものとなる。どうしても地名にこだわるのが自分である。太白山は形がはっきりしているから見分けやすい、新幹線の高架橋からのぞくのも現代である。太白山は金星のことでありなぜこんな名前がついたのかも謎である。
 
相馬は福島市より仙台が身近なのである。それは阿武隈高原にさえぎられているのと交通が不便なためである。交通は人間の交流に大きな力を発揮する。地理的に遠くても交通が便利なら近いのである。東京まで新幹線で二時間ならその時間の距離で遠さが決まるのが現代なのである。会津は半日もかかるから相馬からさらに遠いのである。もし新幹線で相馬と会津が結ばれれば30分くらいになるとすぐ隣に行く感覚になる。新幹線の凄さがここにあったのだ。ともかく汽車は電車は日本中乗ったから愛着がある。電車から見える風景はまた違ったものなのである。

2007年09月26日

初秋仙台を歩みて(五十人町百人町)

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白菊の清楚や着物洗い店

奥に人白菊清楚奥ゆかし

仙台の裏町通り虫の声

古き店残る一軒秋柳

新しき駅に古き名初秋かな

長町を初秋に歩み広瀬川昔の橋の礎石残りぬ

広瀬川川の音さやけく初秋かな一つの橋を我が渡るかな


長町のいつも花を飾っている店は着物洗う店だった。写真をとってわかった。着物を売っているわけではない、呉服店ではない、ただあの白菊を飾る奥に人がいるのも奥ゆかしいとなる。着物自体が奥ゆかしいものだったのだ。肌を見せないようにつつみこむ。行動的になものではないが着物は日本の文化だった。菊と着物もあっている。おそらく着物にも秋の装いとか春の装いがあった。着物の美を知ることは今や特別な人でないとわからないだろう。日常的なものではなくなったからだ。ただ和服は明らかに日本の文化だから日本人の心もそこにあったのだ。店は見せるでありやはり何気なく奥ゆかしく見せるのはいい、今はこれでもかこれでもかと嫌なくらいどこでも見せつけられる、人間だってそうである。でかでかとメデアで宣伝されるような人間にろくなやつがいないのである。それは商品化された人間になっている。メデアによって売り出された人間なのである。奥ゆかしいという日本的な美徳は失われたのだ。着物の文化が失われたというときそれと同時に日本の文化も失われたのだ。だからイスラムでヘジャブに異常にこだわるのも伝統と文化が失われるからこだわるのだ。日本人は余りにも伝統的にもっていた日本人の美徳を捨てすぎたのである。


街のことでも歴史を知りたいなら短い距離でも歩くべきである。新幹線から電車からでも見ている景色と歩いた景色は全然違っていた。電車からいつも墓地とかあることは見ていたが実際その脇を通って歩いてみたら違っていた。近くに寺がありサルスベリの花が咲いていたりそこを歩めば何かしらその土地と一体化してくる。五十人町、百人町という地名もそこにあった。ここは城から相当遠いのである。足軽が住んでいたところはたいがい城から遠い、城の近くには城を守る武家屋敷があった。足軽はずいぶん城から遠いところに住まわされたことが実感としてわかる。歩いてみないとその土地のことは実感としてわからないのだ。第一橋をわたるときは歩くべきである。日本の橋は昔から情緒あるものだったのだ。広瀬川にもいくつもの橋があり情緒があるのだ。日本の橋は外国の橋とはかなり違った情緒的な橋なのである。もともと木だったから余計そうなっていた。


建築関係では、法隆寺を建立したことなどから職人の神様として信仰されており、大工や職人のつくる太子講が各地で今も続いている。世田谷の円泉寺にも古くから聖徳太子像を祀ってきた太子堂があり、周囲の地名の由来となっている。


新しい駅が太子堂という古い歴史に由来する名だった。太子堂は職人の神様となっているのは法隆寺から由来しているというとずいぶん古い、これも全国にあるからだ。あそこも職人が集まっている場所だったのだろうか?なぜ駅名が大事かというとどうしても太子堂となると乗る旅にその名前がでて来るからその駅が街が太子堂というイメ−ジになってしまうからである。
今日は新幹線の高架橋の下を遠回りになりかなり歩いた。これこそ過去−現代を象徴的にしていた。最高速の新幹線の下に昔の五十人町とか百人町があってそこを歩いていることは昔を偲び見上げれば現代の最速の新幹線が走っているからだ。


初秋五十人町百人町


初秋の長町から広瀬橋を渡り

橋姫の謂われや昔の橋の礎石残り

新幹線の高架橋の下を歩み

そこは五十人町百人町

城から遠く離れて昔足軽達のここに住むかな

白石に足軽まんじゅうの名を残すもあわれ

裏の町に昼鳴く虫のかそけく

墓地あり寺あり店ありぬ

急速にめまぐるしく変わる世の中

真上を新幹線が突っ走る

そんな世の中だからゆっくり歩むがいい

その土地を踏みしめて歩むがいい

昔を偲び一歩一歩歩むがいい

昔からそこにも人が住んでいた

五十人町百人町荒町姉歯横丁

広瀬川の水澄み流れがひびく

城から遠く離れて昔を偲びて秋の日暮れぬ


足軽まんじゅうというのを白石の菓子屋で売っている。足軽が力をつけるために生まれたまんじゅうというからなるほどと思う、相当な数の足軽が仙台には住んでいたのである。何しろ六十万石だからそうなる。相馬藩は六万石だから十倍にもなるのだ。この差は大きい。今でも仙台は東北の中心になっているのもわかる。地理的にも相馬は仙台と密接だが福島市とは交通の便も悪く交流が希薄なのである。もし福島市と会津と新幹線で結ばれれば福島県は確実に一体感をもてる。交通がいかに大事かこれでもわかるのだ。

2007年11月21日

冬の広瀬川河畔(詩)

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広瀬川瀬音ひびきて冬の菊

広瀬川河畔の家や冬の菊

黄落の並木に朝の光さし定禅寺にそ木の葉散るかな

冬の広瀬川河畔

広瀬川の河畔の道や

落葉の静か人の行く

老いにし人ともあい

枯れし柳に風そよぎ

鴎のあまた群れ飛び

愛宕橋渡るもあわれ

昔もここに橋のあり

三百人町五十人町や

足軽の固まり住みぬ

城より離れて遠しも

青葉城の石垣の反り

その構えの厳しくも

伊達政宗の居城かな

北風唸り閉ざすかも

陸奥の主の睨みけり


長町から広瀬川かはんの道は何度歩いても情緒がある。やはり歴史のある場所は何か違う、詩になるものがある。韻を踏むわけではないが自然とぴったりな詩ができたのだ。枯れた柳といい橋といい足軽町がある、それも三百人町となるからさすが仙台六十万石となる。仙台はやはり陸奥の中心なのである。福島県はどうしても山にさえぎられて一体感がない、帰りの電車が信号の故障で二時間遅れたが半分以上が相馬や原町から来た人だった。相馬から通勤している人も多いのだろう。学生も多い、仙台はやはり相馬から身近なのである。福島市は岩沼で乗り換えるから不便だから隔絶している。会津になるとさらに東京より不便なのである。阿武隈高原を横断する電車ができれば福島市も会津も身近になるのだが福島県は一体感がないのは交通の便が悪いからなのだ。大阪とか奈良、京都、琵琶湖などは交通が私鉄が発達しているから一体感がある。交通は大きく人間の生活に影響するのだ。


今日は寒かった。昨日は仙台で雪だった。最初は晴れていたが今日は冷たい雨だった。定禅寺は名前がいい、名前が詩になるのだ。地名だけも詩になることは得なことなのである。

2007年12月21日

定禅寺通り(仙台の枯木の並木と喫茶店)

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碑の一つ烏一羽や冬芒
証とて礎石一つや冬の暮

ピチピチと朝の川飛ぶ冬の鴨

朝の川水はねとばす冬の鴨
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定禅寺枯木三本黒い窓

定禅寺盲人も行く枯木かな

定禅寺車に散りぬ枯葉かな

銀杏町古木を守り冬の暮

仙台に来たりて花屋にとりどりのシクラメン映ゆクリスマスかな

定禅寺残る枯葉のかそけくも散るや我またここを歩みぬ

定禅寺昼や枯木に日のさして木の葉散りにき我が来たるかな

定禅寺欅の枯葉一枚や喫茶店に我休みもの想うかな

宮城野原面影もなし冬の日や千歳の銀杏杜に残りぬ
 
広瀬川には昔の橋の礎石が残っている。これには謂われがある。鴨がピチピチと飛ぶというのも水をはねるのも朝の川にあっている。都会の川と田舎の川はかなり違ったものになる。この道を広瀬川そいに通って橋をわたり今は地下鉄で公園の方へゆき定禅寺にでる、定禅寺はこの名前と欅の並木とで情緒ある通りとなっている。今日は黒い窓の喫茶店に入った。あそこは180円とかで入れるがここは250円だった。でも雰囲気が違うので価値がある。喫茶店は雰囲気を楽しむから場所が大事なのだ。喫茶店というのは昔から好きだった。喫茶店はやはり外の景色も大事であり通りが必要なのである。ビルの下の地下とか全然情緒がない、自然もないところでは楽しめないのだ。喫茶店だけでは今は成り立たないので相当数喫茶店は減少した。特に地方の都市ではそうである。仙台くらいになるとまだまだ喫茶店はある、それも250円ではまだ安いのだ。仙台に住んでいたらこうしして毎日喫茶店に来ることが日課になるかもしれない、仙台は確かに森の都というから木が多いので自然がまだあり情緒がある。黒い窓というときこれを格子窓をイメ−ジした。格子窓から見える景色として枯木がマッチしていたのだ。車に木の葉が散るというときあそこでは車が徐行運転しているからスピ−ドを落としているから自然とマッチする。つまり車で遅くなると自然とマッチして情緒がでてくる。江戸時代の駕籠の遅さには驚く、これは今からすると時が止まったようにさえ遅い感覚なのである。なぜ駕籠だったのか江戸時代は便利なものをかえって制限した時代だったから不思議である。
 
宮城野原は地下鉄になり何の情緒もない、樹齢千二百年の欅だけが守られ残っていた。ここが銀杏町となっているのはこの銀杏があったからである。それをインタ−ネットで知ったので訪ねてみたが宮城野原をおりてすぐ近くだった。身近でもわからないことはいくらでもある。小さなものに注意すればさらにわからないことがあるのだ。今や近くしか行けないのだから宮城県辺りは交通の便がいいので一日圏として行ける。一日あれば結構行けるもんだなと再発見した。それでも夜8時頃まで帰れればもっと行ける。これがむずかしいのだからあまりにも拘束された囚われの身にになってしまった。
 
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2008年04月15日

松島の春(瑞巌寺)

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タンポポや鴎飛び交う朝の海

春の朝海猫とまる赤い橋

朝風にイソヒヨドリや椿映ゆ

船に着き瑞巌寺にさす春日かな

 
 瑞巌寺の春

瑞巌寺の古りにけるかな

岩肌に五輪塔の刻まれて

杉木立の参道に春日さし

春の鳥のしきりに鳴きぬ

二本の古き梅馥郁と香り

鐘厳かに鳴りてひびけり

昔より船の出入り絶えぬ

松静か五大堂に海望めば

鴎鳴きつ飛び交いやまじ

双子島離れず睦みあうや

松島の春の海や朝煌きぬ


 
松島にまた行ってきた。今回は瑞巌寺がテ−マだった。本堂には寄らなかった。ここはまた行ってみよう。近いから何回も行けるからいい、瑞巌寺は古いし歴史がある。五輪塔が岩肌に彫られているのは面白かった。松島は必ず船でくることである。アプロ−チは塩釜から船できて瑞巌寺に参ることである。電車だと歴史がわからなくなる。海と密接に結びついていたからである。これは福山城の桜でも書いたが昔から豪華な船で松島に来ていたのである。そこがまちがいやすいのである。陸路を来ることはなかった。船で参拝したのである。昔と同じ道をたどらないと昔はわからないのである。瑞巌寺についてはいろいろあるし相馬氏とも関係していたから歴史的には郷土史とつらなる場所である。今回は漢詩にはできないが詩として書いた。次は浦戸諸島の「朴島」と「塩釜」の桜について連続して書く、今日の分は瑞巌寺で終わりである。抽象画は偶然の産物であり全くでたらめで加工しただけでできた。瑞巌寺をテ−マにしたとき海と杉木立の森があったからそれに詩を書き加えようとしたらこんなものが偶然にできたのである。これは前も書いたがパソコンが勝手に作り出しているのだ。ただ森と海とパソコンは見ることはないが人間は森と海と見ることがちがっているのである。

2008年04月16日

塩釜神社の桜

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歌十首詠みつつ歩み夕鶯


塩釜の裏参道や夕鶯

塩釜の標や古りぬ夕桜

船に着く塩釜古りぬ花に月

塩釜に辻の多しや春の闇

海望み塩釜神社花盛り


夜桜や塩釜神社に月の影


 



濃艶に枝垂桜の塩釜の社を飾り夕暮れにけり


木蓮の白き清楚さ神主の楚々と歩みてもの言わざりし

七曲がり道の古きや鶯の鳴きあい夕べ我が踏み歩みぬ

七曲がり道の古きや散る椿夕陽のさして我が踏み歩みぬ

塩釜の社の桜様々に色合い深く夕暮れにけり

花の色織りなし深め海暮れて夕月光る塩釜の社

境内に桜古りにつ並ぶかな塩釜神社夕暮れにけり

清楚にて榊一本祀るかな春の夕暮神主歩む

春の花通りに飾り老いも若きも行き交いにけり

朴島をめぐり帰りぬ塩釜の社に詣ず春の夕暮

島々をめぐりてここに神々を集め祭らむ春の日暮れぬ


 
●塩釜にも八十島祭り
 
塩釜の 浦吹く風に 霧り晴れて 八十島かけて すめる月影  千載和歌集
 
八十島は国土を意味する大八洲(おおやしま)の古いよび方である。岡田精司(おかだせいし)氏によれば、この祭りは新しく即位した天皇の体内に、国土の支配者として、大八洲の国魂(くにみたま)を取入れる呪術的な祭儀であったとされている
 
大阪には八十島があったけどそもそも日本の国は島を治めることからはじまった。だからシマとはまさにオレのシマだというとき自分の支配する国がシマなのである。だから八十島祭りと天皇が古くから密接な関係があった。八十島祭りというとき松島も八十島がありにているのだ。一つの島を巡り帰り塩釜の神社に詣でるときその島の国の御魂を持ち帰り本殿に祀り集める、それが八十島祭りの原型だったかもしれない、島々を治めることが国のはじまりだった。そこに密接に天皇が祭祀として関係していたことでもわかる。
 
神社とは何かというと何を祀っているのか?これが定かではない、桜を祭っているのか?榊が一本祀られている、榊は文字通り神の木であるから木を祭っているのか、明らかに自然のものを神として祭っている、そして自然に仕えるのが神社の原型なのだろうか?塩釜神社は鎮守の社として狭苦しい街の中に保存されている。参道は四つくらいあるのも面白い。裏参道は芭蕉が参拝した道であり今回降りた道は別な参道だが裏参道のようであった。七曲がりとかいろいろあるのが塩釜神社の面白さである。昔の通りも歌の石碑や水が流れていたり伊勢物語の屏風を石にしたりとなかなかいい工夫をして作っている。塩釜は狭苦しいので道がわかりにくい、辻も多いからわかりにくいのだ。なれればわかるにしてもはじめての人は迷ってしまうだろう。
 
●芭蕉が見れなかった塩釜の桜
 

待侘候(まちわびそうろう)塩竃の桜、松島の朧月
と書いた芭蕉でした。塩竃の桜と、松島の朧月を観ることが、出発前のおおきな期待だったようです。

塩がまの浦に入逢(いりあひ)のかねを聞(きく) と書いていますから、夕方です。日没に打たれる“暮れ六つの鐘”を、聞いたのでした

塩竃に着いた時は、朝からの小雨もすっかり止んで、この日は月星の夜であったようです。
  五月雨(さみだれ)の空、聊(いささか)はれて、夕月夜かすかに、籬 (まがき)が嶋も程ちかし 


塩竃に着いたこの日は、鹽竈神社・裏参道、女坂を下ったところに在った“治兵衛”という名の旅籠に宿泊。

帰りは七曲がり坂を下って宿に泊まった。塩釜で句を作らないのはやはり季節にもよる。塩釜の桜は見事であった。この桜を見れず芭蕉は去った。
 
塩釜の桜を見るに遅しかな芭蕉は去りぬ五月雨のあと

芭蕉を知ろうとしたらその跡を歩いてみないとわからない、それは相当な労力であり簡単にはできない、しかしできないことはないのだ。自転車でもいい、とにかく芭蕉のスロ−な時代に近づける努力をしない知ることはできないのだ。早すぎたらだめなのである。奥の細道はそれなりに遠大な旅であり一歩一歩歩み陸奥の奥に分け入れる旅だからである。その息づかいを知るには同じようにスロ−な旅を試みるしかないのである。バイクとか車だったら全く理解できないものである。
 
細道を一足一足歩む影芭蕉の跡や今日もたずねむ
 

塩釜でも句を残せず松島でも句を残せないのは季節的なものがあたかもしれない、また松島を良く見ていられなかった?意外と旅は急ぐから見れない場合がある。事前の知識も問題になる。今ならどこでも何度でも行けるから詳細に検討できる。私自身最近遠くに旅行できないので近くを探索している。すると仙台から近い所が一番行き安いことがわかった。そのなかで松島はやはり一番魅力ある場所なことに気づいたのである。
いづれにしろ塩釜→松島→石巻では句は残していない、夏になっていたというから季節が関係していたのか?でも平泉では残している。五月雨とかなるとやはり句も残しにくかったことは確かである。

 
 
 
 
 

春の松島駅

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海望みはや蝶まじる松島駅

 
海見えて春の島々松島駅

トンネルの向こうにのぞく春の海

船だまり春の日ざしや電車行く

春の花通りに飾り老いも若きも行き交いにけり

塩釜の春の夕暮角々に喫茶店あり何か語らむ
 
塩釜は思ったより情緒ある所だった、狭苦しいのであまり好きになれなかったがここも良くみていなかった。今になってその良さがわかった。近くでも良くみていないことが多いのだ。海と港の旅情は松島から石巻辺りが一番あるのだ。福島県にはない、東北では海の情緒はあまり感じられない、荒涼とした感じになっている。福島県の浜通りは荒い浪が打ち寄せるだけである。ここは湾になって島が多いから瀬戸内海のような情緒をかもしだしているのだ。黄色の蝶も飛んでいくつかまじり舞っていたから春も本格的になってきた。ここはちょっと駅からの視点として書いた。次は朴島について書く、プログは分離して書くことに向いている。だから短くても一つの作品となって読めることになる。ただあまり短いと中味がなくなる、そういうのが多いので困るのだ。一タイトルだけをとると結構いいことを書いている人がいるから参考になる。ただ全部となるとなかなかいいものが見当たらない、それはなぜか?人間はどんな人でもあることには詳しくなれるからだ。反面どんなに才能があり天才でも全部に詳しくなれることはできない、これがプログを読んでわかった。だから特別才能あるものだけがプログの記事を書けないということはないのだ。必ずあることについては詳しい人がいるのである。それらを集めて編集するとまた一つの別な作品となる。ただここで微妙なのが著作権なのである。これもわからないように編集できる、著作権に触れないように作ることができるのだ。これはもはや盗作とは言えないのである。写真の合成などもそうである。これはれっきとした創作となっている。

春の朴島をたずねて(浦戸諸島)・・・・

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春の朴島をたずねて(浦戸諸島)・・・・

朴島の小道に舞いぬしじみ蝶

朴島のタブの木古りぬ春の暮

朴島に家十軒ほど落椿

朴島の春や牡蠣殻墓所に船

朴島や菜の花匂う昼間かな

朴島の小径歩みてしじみ蝶

朴島やはや道尽きて落椿

朴島に家一〇軒ほど落椿

朴島や畑に水仙暮らしかな

朴島隠さる宝春の暮

朴島にタブの木茂り春の風

春の朝海より望む高き山

船めぐる浦戸諸島や春の暮

汽笛なり船着く港春の朝

春の朝沖にいでむや鴎飛ぶ

島々や海に面して芽吹きかな
 

many islands
facing to the sea
breaking buds


朴島に何を見なむや船の着き墓所をたずねて春の日帰りぬ


朴島は小さき島や道尽きて椿散り海の光りぬ

朴島に残れる梅の香りつつ牡蠣棚見えて散るもかそけき
 

面積0.15km2人口約40人。浦戸諸島では最も奥にあり、最も小さな島である。島名の由来は、鳳凰が住んでいたからとも、烽火(狼煙)場があった
からとも、仙台藩にまつわる宝島伝説があるからとも言われている。毎年ゴールデンウィークの時期になると、見事な菜の花が島全体を覆い尽くす。また、島内にはタブノキの原生林がある。朴島の周囲にある、大森島、鷺島、味噌玉島、烏帽子島などの無人島群は、烏帽子列島と呼ばれている。


四方を海に囲まれた浦戸は、その恩恵を受け、昔より牡蠣や海苔の養殖、又、刺し網漁などが盛んで島民の半数以上が、漁業にたずさわつて、生活して参りました。
 その中でも牡蠣の養殖は古く今からおよそ三百年ぐらい前にさかのぼり、

私の住んでいるここ、野々島に住む内海庄左衛門さん(昔は野々島村といいました)が、天然の牡蠣を採り集めそれを売つて生計を立てていたそうです。
 しかし庄左衛門はあるときこのまま採つてばかりでは牡蠣がなくなつてしまうと思い周りにあつた稚貝をあつめて一定の場所に放し育てたそうです。これが宮城の牡蠣養殖の始まりだといわれています。


朴島堂ヶ崎、共同墓地の北側畑中(行人塚)に古碑(縦90センチメートル横35センチメートル)があり、弘安10年(1287年)の碑と称し、内海喜右衛門家代々観音様と言われ供養を続けられています。
 摩滅していて判読が難しいですが、梵字の碑文が刻まれています

(朴島−歴史) 

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朴島は朴(ほほ)の花とは関係ない、当て字である。具体的な実用的な名づけ方なら烽火(狼煙)場だったのか、そのくらいしか役目がないのか、この島は実に小さい島である。そこに人が住んでいる不思議がある。それも江戸時代から住んでいる。相当に住んでいる弘安10年(1287年)の碑なのだろうか、こんな古い碑があるのか、これは本当に確かめられているのか、内海という姓は浦戸諸島に縁が深いし有力な家だった。朴島に訪ねて見るのは墓くらいだった。文化の時代の墓もあったからここから古くから人が住んでいたのである。この島の特徴は本当に小さいのである。回りは無人島が多いのにこの小さな島に人が住んでいるから不思議である。日本人はこうした小さな島の生活が基になり文化を作ってきた。こうした島にいると微に入り細に入り隈なく島一つが世界になり宇宙になってしまうのだ。そこにある一つ一つ草一本すら大事なもののように見える。草一本石ころ一つ一つまで数えるようにまでなる。それが日本の美意識を培い茶室のような文化を作ったのである。この島は実に面白い島であった。
 
墓には円が刻まれていたから禅宗の墓である。円通寺とあれば円に通じるは禅の悟りに通じる意味がある。瑞巌寺は禅宗であり禅宗は鎌倉から伝わってきてここにも伝播した。ここの無縁墓は若松家となっていた。この島にきて見るべきものはこの墓所は神社とタブの木くらいである。写真は他とそっくりのがあるがこれは実際自分がとったのものである。全く同じ写真はありうるのだ。俳句でもありうる。短歌は長いからなかなかないが俳句は全く同じものがあるし写真もあるのだ。松島はこの浦戸諸島とか歴史的にも興味深い場所だった。遠くに行けなければ微に入り細に入りいろいろ探求することになるのが人間である。ここは仙台から近い日帰り圏内だからまた行き安いのである。福島の方は岩沼で乗り換えるからめんどうになる。仙台からのびる所は交通の便がいい、特に石巻方面は交通の便がいいから行きやすい、ここには相当な歴史が埋もれているのも魅力である。
 
海から見えた高い山は泉が岳だろう、海から望む高い山は気持ちがいい、海で暮らす人には船が帰る目印となる、灯台ともなる、海からの視点はなかなかえにくいがここには海の景観と文化がある。
 
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2008年04月25日

浦戸諸島を訪ねて(続編2)


浦戸諸島を訪ねて(続編2)

 
島と島結ぶ小舟や春の昼

春光や島々飛び交う鴎かな

島に住み春の別れや鴎かな

朴島は宝の島と春の海

昔より生業古りぬ牡蠣棚に島の梅散り香り流れぬ

島にしも畑作りてあわれかな船待つ湊春の日暮れぬ

野々島に広き野ありと船のより春草生えて鴎飛ぶかな

石浜と味気なき名や船のよる日々の暮らしや春の訪れ

寒風沢の島に残れる地蔵なれ栄いは消えて枯芦の沼
 
東北の太平洋岸では松島は島が一番多いから特殊な地域だった。海の文化がある育つ地域だったのだ。ここでは貝塚がいくつも発見されているから昔から人が住み暮らしやすい場所だった。波は荒くないし内海になり島が点々と連なる。太平洋岸は海の魅力にともしいのだ。島や入江があることによって海は魅力をますし文化が育つ、牡蠣はすでに
その中でも牡蠣の養殖は古く今からおよそ三百年ぐらい前にさかのぼり、野々島に住む内海庄左衛門さんが、天然の牡蠣を採り集めそれを売つて生計を立てていたそうです。しかし庄左衛門はあるときこのまま採つてばかりでは牡蠣がなくなつてしまうと思い周りにあつた稚貝をあつめて一定の場所に放し育てたそうです。これが宮城の牡蠣養殖の始まりだといわれています。

牡蠣の養殖もすでに古くからはじまっていたのだ。この島々は古くから人が住んでいたということも魅力である。隣の島に簡単に小舟で行けるし塩釜にも昔から舟で行っていたから交通は島々でもあり陸へもさほど遠くないから交流できたのである。小さな瀬戸内海のようになっていた。ここの風景は京にも知られたというのもわかる。本塩釜とかここの風景を庭に作ったというのもここは都の人にも魅力的だったのである。
 
 

2008年05月21日

宮城県-丸森の金山城跡へ

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宮城県-丸森の金山城跡へ 


残雪の蔵王を仰ぎ農作業


新緑や蔵王の見える地宏し

金山城我が上りゆく落椿

夏草に切り株埋もれ城の跡

遠き日の屋敷の跡やシャガの花

草分けて城跡の道シャガの花

草深し日影ににあうシャガの花

老鶯や道のり遠し相馬まで

山越えて他国の空や夏雲雀

夏山のかなたは相馬金山城

新地駅海風涼し夕べかな

丸森を我がさりゆくや桜咲き夕べあわれや相馬近しも

金山城伊達と相馬の攻防の城や古木の青葉に風鳴る

夏の日に蔵王を望み相馬へと我が帰るかな時鳥鳴く

金山城その跡淋し何語る夏草埋もれシャガの咲くかな

雄々し蔵王を望み相馬へ我が帰るかな夏の夕暮

桐の花一輪道に散りひそか新地にゆく人まれに事なし

丸森は相馬から近いと言っても相馬市からは結構遠い、台風の風がまだ吹いていたので電車で岩沼から東北線で槻木(つきのき)まで行き乗り換えて阿武隈急行で丸森まで行った。こういう行き方は実際は昔はありえないので昔を偲ぶことができなくなる。電車は前にも述べたけど瀬戸内海の福山城は駅のすぐそばにある。というより福山城が駅のようになっている。電車でのりつけるようになっているが実際は瀬戸内海から船で行った人も多い、船の交通があり船が便利だったからだ。電車は歴史的過程を無視するから昔を偲べなくなる。相馬の城から峠を越えて丸森の金山城と行ったときそれは歴史の道なのだ。一時は金山城は相馬藩に属してあとで伊達の城となり伊達政宗初陣の地ともあり相馬と境をなす要衝の地となった。相馬の本城があるとすると出城なのである。だから密接な関係があったのだ。相馬からしょっちゅう行き来してしていた城だったのだ。距離的にも相馬から近く行き来しやすい場所だった。それでも昔は歩きでも馬でも遠いとなる。自転車でも遠いという記憶があった。それで電車にしたのだが実際は新地駅に回ると意外と近かった。折り畳み自転車で新地から帰ってきた。
 
金山城はこの年まで何回も丸森に行って見なかったというのは失敗だった。遠くの方ばかり旅していて注目していなかった。ここの城も石垣が残っているから何もないよりはいい。そして錯覚していたのがインタ-ネットの写真で見た石垣は立派に見えた、こんな立派な石垣残っているのかと不思議に思った。なぜなら小さい城だからである。実際に見たらこの石垣はかなり小さく粗末な石組みであった。写真と実際で見たものとは違っている。写真の方が良く見える、きれいに見えたり大きく見えたり立派に見えたりするのだ。これは人物でもそうだろう。写真は錯覚を作り出す場合がある。テレビもメデアも実物を見ているわけではないから錯覚を作り出しているのだ。どんなにテレビや写真の映像を見ても実物とは違うのである。でも錯覚してしまうのである。これは石垣が残っていても相当貧弱な粗末なものでありこの城にかえってふさわしいものだった。立派な石垣を作りえようがないからだ。それでも石垣が残っているだけで他とは違っている。ほとんどこの辺の小さな城は残っていないからだ。
 
どんな町にも個性がある。新地には何もない、どういうわけか前にもここで桐の花の咲く時期に行き桐の花のことを書いた。不思議に今回も桐の花が一輪ひっそりと道に落ちていた。ただそれだけしかない、新地駅の特徴は海がすぐ近くであり海からの風が吹いてくる。常磐線が浜通りを通るにしても海の近いのは富岡と新地駅くらいである。新地の特徴は駅をおりるとすぐに海にでられることなのだ。
 
幽邃やシャガに古木の日影かな

夏の海新地から見える島の影

桐の花日影にひそか咲きて散る新地の町にしばしたちよる
 
前に書いた新地の句と歌である。
 

新地から牡鹿半島が見えた
http://musubu.sblo.jp/article/15012668.html.

 
今回は金山城から遠望した写真をデジカメのバッテリ-がきれてとれなかった。次は新地駅からゆくと丸森はすぐに峠を越えるだけだから近いのでまた行ってみよう。丸森はいろいろとまだ魅力ある場所である。今回は疲れていろいろ書けなかったが次にまた回想して書いてみよう。
 

2008年09月03日

仙石線−松島(瑞巌寺)−石巻線−夏の俳句

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仙石線−松島(瑞巌寺)−石巻線−夏の俳句
 
 


新しき駅一つふえ朝の蝉


向日葵や子を抱く母仙石線

曽波神は何を語るや初秋かな

佳景山の駅はつに知る初秋かな

瑞巌寺石窟古りて蝉の声

瑞巌寺門いで涼し海の風

杉木立苔に秋日や古仏かな

青々と苔雨に濡れ蝉の声

水写る蓮と睡蓮争わず

お釈迦様瞳に二つ蓮の花

遣り水に苔にソバナや茶亭かな

日日草今日のメニュ−や店に入る
 
今日は久々に仙石線から石巻線で小牛田に回り東北線で松島にきて瑞巌寺にちょっとだけよった。天気はぱっとしないが今になり暑い、残暑である。
 

『式内社調査報告』によると
明治四十二年十二月、曾波山の愛宕、雷神、
上中坪の高玉などの神社を合祀したとあるが、
現在、愛宕神社は、山頂の別の社殿に祀られている。
また、『平成祭データ』には
境内社として高玉社の名が記されている。

 
佳景山(カケヤマ)の名前の由来は、欠山という山から来ています。佳景山駅の裏側にある山がそれです 桃生郡河南町鹿又字欠山がある。

曾波山は由来がわからないが高玉氏の氏神かもしれない、高玉氏については相馬の郷土史研究で書いた。高玉氏は伊達氏に滅ぼされたが相馬氏と伊達氏に子孫を残したのである。佳景山とは美しい山と思ったが欠山であり欠けている山だった。これでは印象が悪いので当て字で佳景山にしたのだ。こういう地名が結構ある。確かに欠けている山となるとなんか感じが悪くなる。人間はイメ−ジに左右されるからだ。
 

電車の旅は駅名の旅であることは何度も書いてきた。駅名だけが印象に残るたと多いのだ。曾波神駅は何だろうとなりいつまでもその名が心に残りその由来を知りたくなるのである。仙石線は仙台の通勤圏でありひまわりがにあう。常磐線は通勤圏は亘理くらいまで通勤圏である。
 
瑞巌寺の特徴は海に面して海の寺である。江戸時代から塩釜から大きな船で松島巡りをして瑞巌寺に参拝したのである。参道の脇の石窟の仏は古いものだろう。最近雨降っていたから青々とした苔ににあっていた。瑞巌寺周辺は良く和風の世界が作られている。外人も松島にはかなり来るからそうした日本文化と調和した世界を見せる必要があるのだ。すべてが商業主義になるとこれもむずかしいかもしれない、でもここで調和するように制限されているのだろう。

 
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2009年05月20日

奥松島⇒石巻⇒田代島⇒網地島⇒鮎川(夏の日)

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奥松島⇒石巻⇒田代島⇒網地島⇒鮎川(夏の日)




 
朝光る海や桐咲く奥松島

島一つ奥松島や藤の花

夏の海荒れてゆるるや小型船

初夏の海にい出るや島二つ 


静けさや石に落ちなむ桐の花

老鶯や茅葺き二軒船泊まる

老鶯や年金暮らしの島の人

老鶯や船待つ島の暮らしかな

老鶯や船の巡りぬ島二つ

金華山鮎川に仰ぎ夏つばめ

三陸へかもめ飛び行く夏の夕

夕暮るる小網倉小積藤の花

夕暮れや牡鹿の浦々藤の花

浦々に夏の夕日や牡鹿かな


 

 

灯台に老人寄りて語るかな小舟さしつつ夏の海荒る

網地島灯台一つ老人の昔を語る夏の海荒る

文化の碑もあり古りぬ網地島細き路地行き老鶯鳴きぬ

網地島細き路地行きその辻に菖蒲の咲きて一人逢うのみ

大きなるかたつむり二つ殻拾ふ夏の昼下がり網地島の道


わずかなる土地を耕す島の人波のひびきて夏の海見ゆ

島の中やはり空家や夏の日に草むし淋し誰か住みなむ

住む人の変わらざるかな網地島阿部氏の墓地や夏の日暮れぬ

夏の夕牡鹿の浦々波静か藤の花垂れバスの行くかな

 
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  (網地島にて)
 
石巻から船で田代島から網地島に向かった。途中田代島の大泊に船が泊まったがそこに二軒の茅葺きの家があった。前はみんな茅葺きの家だったのだろう。田代島も網地島も江戸時代から人が住んでいた。網地島には文化時代の金比羅の碑があったからだ。網地島におりて一時間くらい折り畳み自転車で走った。というよりは島特有の細い道なので歩いた。一すじの道を行くと灯台があり激しく波打ち寄せる岩場に出た。その灯台により一人の老人がいた。しきり小舟をさして漁のことを言っていた。
 

「私は昔は海で働いた、外国にも行った、今は年金暮らしだよ、妻と二人」
「島には若い人は今は住まないでしょう、老人が多い」
「あの舟見ろ、網で魚とるんだよ、あんな舟でも三百万くらいするんだよ」
「ええ、そんなに、大変だ、今は魚とれなくなってますから」

この老人はなぜかその小舟をさして話する。相当気になっいる。おそらく知り合いの人がのっているのだろう。この島ではたいがい知り合いである。墓地はみんな阿部一族だった。こういう島では他から入る人はいなかったからだ。ここからは金華山がまじかに見えるし鮎川も対岸であり船ですぐつく。
 

「この辺では昔鯨とれたでしょう」
「鯨は今日のような波が荒いと来ないんだ」
「波が荒いと来ない」
「波が荒いと魚もとれない」
「波が荒いとだめなんだ」


確かに小型船で来たからかなり波にゆれた。相馬の松川浦でも魚がとれて売りに来るの買っているけどしょっちゅう海が荒れてとれないというから海の漁は天候に左右される。それでシケているという言葉は海で漁をする人からもたらされた言葉だった。シケる荒れるだからである。
ここの昔を考えるとやはり魚がとれないと畑もわずかに耕している人がいるけど米もとれないから米を買う必要がある。島の暮らしはなかなかわかりにくい、でもここには文化や文久の碑があったから江戸時代から人が住み暮らしがあったのだ。鮎川は鯨で有名だからそれで人が集ったことはあるし遠洋漁業で稼ぎ年金暮らしになった老人が島に住み着いているのもわかる。

「廻船業をいとなむほどの者ならば豪放闊達でおそれ知らぬ持ち主でなければならなっかった。その気宇を失ったときはどのうように栄えてもたちまちにして滅びるものであり廻船業の栄枯盛衰はじつにはげしいものだった。」海に生きる人々-宮本常一
 
海で暮らす人は平地で山で暮らす人は気質的にも相当違ってくる。波のゆれるなかで常時生活している人、安定した平地や山で暮らすのはそもそもそこから違っているからだ。これは文学的に外部から推測しても実感は出ない世界である。日本人の気質として山が遠いからヤマトが国名になったけど回りが海に囲まれているのだから海人の性格も深く混入されている。海彦山彦であるが海彦の国でもあったのだ。
いづれにしろ島の暮らしは陸地の暮らしとはかなり違っている。そこが一つの小宇宙となってしまう。だから人の存在感はその小宇宙のなかで限定され存在感をもつのである。でも病気になったりしたら困るだろう。ここにも医者はいるらしい、・・・医院とかの車が走っていたからだ。外からたまに訪ねるにはいいが島は一種の牢獄みたいになってしまうのだ。これは島だけではない、どこに住んでいたってそうなってしまう。「町は極めて狭く大男一人ふさがれば犬も通れぬような気がする古風な家がわずか五六十軒ばかりある」荻浜を啄木がよったときの感じをうまく表現している。古風な家とは田代島の大泊の茅葺きの家が港にあったのだ。荻浜だけでなく島はみんなこんな感じになる。何しろ狭いからそうなる。つまり島では人はみな大男になってしまうのだ。人があふれているところでは人はみんな小人になっている。人は人の中に埋もれて存在感がないのである。
今回もやっと一日だけここに来れた。ここに来たの始めてだった。東北では島はまれである。こうして外海に接してある島は田代島と網地島くらいである。奥松島の島は島という感じがしなかったからだ。つまり内海にある島であり島という感覚がもてない、陸地の延長のように見えたからである。この二つの島は島らしい島なのである。

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網地島から船で鮎川に渡るとすでに夕暮れであったが燕がしきり飛んでいた。鴎も牡鹿半島から三陸の方へ飛んで行った。気仙沼まで一回自転車で行ったことを思い出したからだ。ここからバスが出ていたので助かった。金華山は東北では江戸時代の碑があり明治にも東北の人が相当来ていたのだう。なじみのある参拝する島だった。鮎川からバスに乗った人は一人である。ずっと一人しか乗らなかった。でもあそこでバスがないと泊まる他なく不便になる。バスはやはり必要なのである。、土日はのる人があるのだろう。第一バスで5時ころ石巻に出ても帰れなくなるのだから乗らないことはわかる。旅にでも行くならいいが普通は往復できないのだから乗らない、途中小網倉はか小積とかにとまる。まるでただバス停は地名を記憶させるようにとまる。それでもこの辺は浦々がつづき波静で景色がいい、荻浜には明治時代、北海道からの定期船が通っていた。そこで啄木が荻浜により短歌を残した。明治時代はまだえと時代の延長で結構船を使っていたのかもしれない、北海道まで汽車で行き青函連絡船の時代もつづいたから船は重要な役目を果たしていたのだ。支倉常長の航海などが松島とか牡鹿半島の入江から出たことは納得がいく、必ず外洋への航海には内海が必要でありそこから外洋へ船を出して行く、船を作る技術も気仙大工とかに培われてあった。宮城県の松島と牡鹿半島、三陸には入江が多いのだ。だから海の文化が東北で太平洋側であった地域だった。ただ海は今も危険であり江戸時代でも遭難した船のことがいたるところで記録されている。不思議なのは伊達藩で仙台から福山まで船が出ていたことが記録されている。伊達藩は大きいから瀬戸内海まで交流があった。
 
次は石巻の袖の渡しについて
 
 
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2009年05月21日

網地島創生(詩)


網地島創生

 


外海の波はげしく打ちつけぬ岩場かな

島一つ神の手に打ち固められぬ

力強くも海に抗い成りにけり

ここも神の住む場と斎き祀れ

島にひびける波の音やまじ

波うつ岩場鴎の群れの一心に飛ぶ

夏の日真近に金華山を仰ぎ見て

今し牡鹿半島の緑うるわし

神の御意にし固くその場を占めぬ網地島

田代島と相並びつつ友誼を深む

時に鯨の潮吹きあげ通る海

そは神の恵みとかしこくも祭られけるかな

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2009年05月23日

石巻(袖の渡り)

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(石巻)

夏の朝海見え鴎一羽飛ぶ

みちのくの川もそそぎぬ夏の海

川と海交わる夏の石巻

石巻かもめあまたや夏の海

古の袖の渡りや松に藤

釣り人や袖の渡りに松と藤

夕藤や袖の渡りの松古りぬ

夕焼けや海風そよぎ石巻

女川へ線路伸びにき夏の夕

海よりの夜風涼しき石巻


石巻海より朝の風そよぎ船の泊まりて藤の花垂る

藤棚の下に休める人や松古りて釣り糸たるる石巻の人

夏の日に袖の渡りに我がよりぬ芭蕉もよりし社の古りぬ

藤垂れて袖の渡りの松古りぬ旅路よる袖の渡しに夕風涼し

海よりの夜風涼しき石巻ギタ-をひきて若者歌う


石巻の袖の渡しに実際に立った。風光明媚ないい場所だった。それで今でもその場所の雰囲気が残っているからここが袖の渡しと理屈ではなく直感した。千年たっても場所自体は変わっていない、芭蕉が立った場所自体は変わっていないのだ。そこに立ち寄る人間が変わっただけである。だから以前として旅するとき歴史を知るとき場所の意味は大きいから一度でも歴史の場所に立つことは大きな意味があるのだ。石巻には夕方も袖の渡しに行くつもりだったが道に迷い行けなくなった。暗くなり二時間くらい自転車でさまよっていた。それで考えたことは昔の人は一回限りしか歌枕の名所には立てない、人もは場所も一期一会であり二回来ることは本当にまれである。西行だけは平泉に二回来たが江戸時代になると芭蕉でも他の俳人でも一回は来ているが二回は来ていない、だからこそ千載の記念(かたみ)としての奥の細道が成ったのである。今のようにまた来るからいいやとかそうした軽い気持ちではない今生の別れとしての人であり場であったことは違っている。今でも遂に人は別れ旅してもその場に二度と立つことができなくなる。ここ四年間遠くに旅できない、今からもまだ旅できないことを自ら経験して痛切に感じたのだ。老人になると人が逢うことこそ不思議である。何故なら死ねば永遠に会えなくなる、人間がこの世で逢うことこそ不思議であり普通ではない、そもそも別れこそ常であり永遠に会えなくなることこそ普通であり今生で会っていることこそ不思議だとなる。六〇年一緒にいようがそれは同じだった。この世で人と人が逢うことこそ不思議である。なぜなら永遠に会えなくなる、そのことこそ常である。

陸奥の袖の渡りは石巻の説
http://www.musubu.jp/hyoronsodenowatashi1.html

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陸奥の袖の渡りは石巻の説

 
 

陸奥の袖の渡りは石巻の説
http://www.musubu.jp/hyoronsodenowatashi1.html

 
これは長文になったのでホ-ムペ-ジにのせた。

2009年05月26日

仙台から小鶴新田で途中下車(仙石線の旅)

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仙台から小鶴新田で途中下車(仙石線の旅)

新緑や小鶴新田に若き母

躑躅映え若き母押す乳母車

鳩の来て空地にクロ-バ-朝の駅

夏の朝小鶴新田途中下車

夏の朝小鶴新田に雪残る泉が岳を我が望むかも

母思ふ小鶴新田に残る古歌我が心にしみて家に帰りぬ

90過ぐ母を思ふ日知るべしやここより帰る夏の夕暮

宮城野その涯(はて)広く知らざりき小鶴新田夏の陽没りぬ

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小鶴新田駅へ仙台から乗った。小鶴新田駅までの電車が結構でている。この駅は最近できたのか、
2007年度の1日平均乗車人員は4,698人である。2003年度、開業直後の1日平均乗車人員は、1,166人だった。宮城県仙台市宮城野区新田東三丁目にあり「新田東駅」から名前を変えた。ここは住宅地として発展した地域だった。仙台はやはり発展する地域、拡大化する地域があり若い街なのである。だから若い母が目立つ、郊外にも若い人が目立つ、一方小さな町には若さを感じない、老人化、高齢化で若い母は少ないのだ。宮城野というともともと淋しい地域だったが宮城野には全くその面影はない、でもそこから小鶴新田まで来るとまだ野が広がっている。宮城野延長としての野の感じがまだ残っているのだ。ここからは雪の残る泉が岳も見えて気持ちよかったここで意外な発見は古歌が残っていた不思議である。


千歳ふる 小鶴の池も かわらねばおやの齢(よわい)を 思いこそやれ (源重之集)

こんなところに新興地にこんな古い歌が残っていたのが不思議である。小鶴の池は変わらないけど親の齢はたちまち変わり老いるものだという意味だろう。しかし今や小鶴の池はないしその自然こそまるで変わってしまった。古代では自然の変化はすくないからこの歌ができたのである。つまり自然は変わらないものだが人間は変わるものだというのが古代の常識である。今は自然の方が先に変わる。
宮城野は古いから残っているがここには残っているとは思っていなかった。宮城野からはやはり湿地帯や沼地が多かった。新田は湿地帯を埋め立てて田を作った。そもそも小鶴とは鶴とつく地名はいたるところにある。小鶴明神というのは南相馬市にもある。鶴と関係して伝説を残しているがこじつけなのだ。鶴とは関係ない、ツルは湿地帯のことである。ツルツルするというのにその名残がある。古代郷名で「小鶴郷」が南相馬市にあるから古い地名の名づけ方なのである。とにかくここには新しいものばかりと思ったが古い歴史があることもわかり興味深かった。老いた母が確かに待っているがまさか90過ぎまで生きた母を思うということは想像すらできなかったろう。せいぜい50か60であり90過ぎてるよと知ったらそんなことありえるのかと古代の人は驚くだろう。やはり旅は途中下車が面白いことがこれでもわかる。何かしら必ず謂われや見るべきものがあるからだ。


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仙石線の旅は次は奥松島⇒野蒜⇒石巻まで折り畳み自転車でつづくので御期待!


                                                                                         

2009年05月27日

奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)

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奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)


---奥松島-----


波たたぬ松島暮れぬ桐の花

夏の山かなたやいづこ旅の駅

小鳥の音朝ひびきて桐の花奥松島の道をゆくかな

桐の花ひそかに暮れて奥松島心に残る島一つかな

島一つ常にし見えて安らぎぬ奥松島や桐の花暮る

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---野蒜---

広々と野蒜海岸朝開けハマヒルガオの風そよぎ咲く

広々と野蒜海岸開けたり朝の光に鴎飛びかふ

---鳴瀬町---

水濁り築港跡や暑しかな

老鶯や旧家二軒の門古りぬ

石巻河口開けて夏雲雀

石巻へ野の広々と夏雲雀

夏雲雀縄張り広くとりにけり

夏の海そそげる川の五つほど

松影の運河の道や黒揚羽

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鳴瀬川海にそそげる夏の日や鴎しきりに飛び交い暮れぬ


大きなる八大龍王の碑に祈る海上安全夏の日の朝

松二本古りて影なしこの通り古碑のいくつか夏草うもる

松一本古りて影なし道さえぐ夏の真昼に行く人もなし

この村の旧家二軒の門古りぬ松二本(まつふたもと)の影も涼しき

道さえぐ曲がりし松の残るかな夏の午後下がり人影もなし

北上川そい下り来て住吉の袖の渡りや夏の日暮れぬ

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仙石線では松島より地元の人にとっては奥松島がより松島的になる。ちょうど大塚駅からいつも見える島-松が島がポイントととなる。あの島が見えるところ景色が落ち着くのだ。今日はそこでおりて折り畳み自転車で石巻まで向かった。藤の花は散ったが桐の花は途中咲いていた。
この辺は落ち着く道だった。次に東名の駅に出た。そこからの眺めが良かった。泉が岳と不忘山も見えるとか泉が岳はわかるが不忘山はわかりにくい、少し離れて並んで見えるのがそうなのか、泉が岳は松島湾の海上から常に見える。5月だとまだ雪が残っている。一日でも旅である。一カ月くらい平気でどことなくふらふら旅していたことが今では考えられない、一日しか旅できない、でもやはり旅は旅なのである。これだけ旅してきたとなると常時旅に何ていたのだ。夏はやはり一番旅に向いているのだ。特に今の時期は一番向いている。

ここか野蒜海岸に出た。ここは広々として気持ちがいい、すでに砂浜にハマヒルガオが咲いていた。ここから鳴瀬川と吉田川の合流する河口にでた。しきり鴎が飛び交う河口だった。釣りする人がいた。「〜だっちゃ」という言葉を良く使う、だよね・・・という意味、最近仙台近くから家に手伝いにたまにきている人も・・・だっちゃ・・・という、おそらくこれは岩沼辺りまで使う方言かもしれない、阿武隈川を越えるとそうでもないかもしれない、でも白石でも使うとなると宮城県は一般的に・・だっちゃなのかな・・・相馬弁ではだべえ・・となるんだろう。
ここの河口で八大龍王の大きな碑があった。嘉永(1850)とあるから江戸後期である。この鳴瀬町からも鳴瀬川で船が利用されここに港があり米などが運ばれていた。だから海上安全の大きな碑が立っていた。八大龍王というのは海の守り神だったのか、これは目立つ碑だった。川を渡る向かい側は鳴瀬町でありここの河口には築港跡で有名である。

貞山運河
http://teizanunga.com/nobiruchikkouato.aspx
野蒜築港(絵)
http://0313.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_03b7.html

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この港は壮大なものだった。鳴瀬川や北上川や阿武隈川まで運河で東北を結ぶ物流の拠点となる港だった。いかに鉄道ができるまえは川を交通路として考えていたかわかる。川を交通路としてどう活かすかが交通を発達させる基本だった。川は海と通じて海外までも通じることができるからである。その拠点がここだったのだ。

鳴瀬町は鳴瀬川から名づけられた。川の方が重要であるから川のそばにあるから鳴瀬町になった。もともと村や町の名があり川の名前となるのが普通である。吉田川はそうだろう。ここの河口には浜市村とかもあり浜で市が開かれていた。もともとそういう人が集る場所だったのだ。今回注目したのが白萩とか平岡、牛綱村とかである。ここは人もほとんど通らない閑散とした村だった。確かに家が密集しているが往還などとある幹線道路からはずれている。車もほとんど通らない静かな村だった。そこで目立ったのは松だった。それも古くなり大きな松だった。老松町とかあるがここがその名にふさわしい村、町だと思った。曲がった松が道をさえぎったままになっている。あれではトラックは通れない、トラックは通らないのだろう。松が主人公になっいる村だった。普通だったら車の通行に邪魔だから今ならあの松は切っているのが普通である。
それがあのように曲がったままのこしているのだ。曲松町とか曲がった松の名を地名としている所もある。その古い松の下に古い碑が夏草にいくつか埋もれてあった。文政(1820)くらいのもあった。

ただここが静でいいなと思ったが実際はそうではなかった。このすぐ近くに自衛隊の航空基地があって飛行訓練の爆音がすさまじい。そこでがっくりした。こんなところに忘れられたように村があったなと思ったけど突如飛行機の爆音が空をつんざくようにひびいて平和は乱されてがっかりした。夏雲雀の石巻までの野にさえづっていたがそれも飛行機の爆音でかき消された。沖縄でも風光明媚でも基地があり騒音で悩まされている。松島も風光明媚でも自衛隊の基地があった。これは戦前からありつづいている。これでは風流も破壊された。
芭蕉が「人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。」ここは実際そういう場所だった。松島を出て奥松島になると淋しくなる。石巻で突然繁華な港になる地域だったのだ。今もその感じがあったが飛行機の爆音でかき消された。あんな所に住みたくないと思うようになったのが残念だった。

その後は北上運河沿いを延々と走った。ここも松が延々と影なす道で気持ちよかった。そして住吉公園の袖の渡りにでたが藤の花はすでに散っていた。北上川を下りこの川が平泉まで通じている交通路であることを再認識した。やはりある程度自転車など実地に見聞しないと地理の感覚は身につかない、今回は一日の旅でも内容が濃い旅になった。一日でもこれだけの旅ができるし相馬⇒仙台⇒石巻は交通の便もいいし奥松島でおりても石巻まではかなり近いことがわかり一日の行程として結ばれていることを実地に走り納得した。福島県は地理的一体感がない、阿武隈山脈にさえぎられ、会津は交通の便が悪く日帰りでは行きにくい、宮城県は日帰りコ-スであり特に海岸の石巻まで交通で一体化していることがわかる。
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2009年11月09日

石巻-田代−網地島-牡鹿-短歌十首(冬に入る)


石巻袖の渡りや冬鴎


船来るを待つこと長し島暮らしあわれや江戸の古き碑ありぬ

金華山ながめつ島に老いにける相馬より訪ぬ冬となるかな

荻浜に啄木寄りしは昔かな鯨もとれず冬に入るかな

鮎川に鯨もとれず何をとる訪ねて淋し冬に入るかな

点々と牡鹿の湊あわれかな牡蠣殻の山 冬に入るかな

石巻袖の渡りの冬に入る都よりはるか思う人かな

石巻袖の渡りに一本の松も古りにき冬に入るかも

石巻葛西氏の城その跡や滅びしものや冬に入るかも

北上川流れし遠く平泉石巻に思う冬に入るかも

相馬にも金華山の碑古りにける誰か詣でし冬に入るかな


相馬藩には宮城県関係、伊達藩との関係が深い、信仰も金華山でも青麻権現とか小牛田の山神関係の碑とか館腰の碑などもあり多い、実際に相馬からお参りに行っていたのだろう。最初は出羽三山とかが多い、湯殿の碑が多いからだ。その後宮城県の伊達藩への信仰が広まった。金華山は比較的新しいものである。幕末から明治にかけて金華山信仰が広まった。金比羅信仰も実は幕末から明治にかけて盛んになったのだ。明治に盛んになったということは鉄道と関係しているかもしれない、交通が便利になって遠くまで行けたということもある。そして幕末から明治にかけて農民でも豊になったから遠くまでお参りできるようになった。当時は観光がお参りでもあったのだ。それから病気の快癒を祈る人が多かったのである。医療が発達していないから祈るしか方法がなかったからである。歴史的にこのように宮城県と相馬は深いかかわりがある。名取に妙見が祀られているのが多いというのもそのためである。それから石巻から平泉とこれは一体化している。北上
川を通じて平泉とは結ばれていたからだ。石巻の袖の渡りはやはり由緒ある歴史的地点なのだろう。


知るらめや袖の渡りは時雨して道の奥まで深き思ひを(寂然「夫木」)

この歌のよう道の奥はこの辺まで知られていた。しかしみちのくの真野の草原からは相馬からはさらに遠い地域である。今は近くてもみちのくでも奥がある。今は交通の便がよすぎるから奥の感覚がなくなったのである。歩くたびなら常に奥へ奥へと誘われる旅になるのである。石巻にある葛西氏の城の跡は伊達氏が勢力を持つ前に葛西氏が治めていたからである。葛西氏は南北朝から勢力をもって陸奥に進出していた。だから霊山にも勢力をもち玉野辺りまで勢力を広げたかもしれない、その一族の笹町という名を地名に残したかもしれない、この辺はまだ考証が必要である。


いづれにしろ牡鹿半島から田代島-網地島は景観的にも魅力がある。東北で島というとき松島となるがここには人は住んでいない、塩釜から奥松島の島々には人が住んでいる。寒風島とかある。でもここは島という感じがしないのだ。明確に島として海のなかにあるのではない、陸地のようにつながっているようにしか見えないのである。田代島-網地島は本当に海に浮かぶ島である。金華山もそうだけど東北ではこうした本当に海に浮かんでいる島は少ないのである。鮎川では鯨がとれていたし、荻浜は汽船の航路の港であり啄木もここで泊まり歌を残した。かえってその頃の方が活気があった。今は牡蠣の養殖がすべてである。


陸奥の袖の渡りは石巻の説
http://www.musubu.jp/hyoronsodenowatashi1.html

2009年11月17日

みちのく冬の短歌十首(東北の歴史的地政学)


みちのく冬の短歌十首(東北の歴史的地政学)


伊達の領広がる春や海の風

霊山に木枯らしうなり木の葉舞う南朝滅び逃れし裔かな

山国の城にしあれや会津藩雪に埋もれて京は遠しも

政宗も天下を狙う青葉城夢はついいて北風唸る

政宗の陣を張りたる名護屋城韓国望み冬の海見ゆ

義経も政宗もまた会津藩も無念を残すみちのくの冬

政宗の大軍率い繰り出しぬ天下制覇も春の夢かな

支倉を欧州に派遣その船に夢をたくして望む海かな

みちのくに蝦夷の恨みや木枯らしのうなり吹きつつ森の鎮まる

みちのくに南部藩あり一国や城跡静か冬に入るかな

伊達藩に相馬は抗い境の木北風唸り木の葉舞い散る

(丸森-戊辰戦争の碑)
伊達藩の防ぐもあえなく討ち死にや墓に無念や木の葉舞い散る  


弘前に朝雪の降り最果ての城跡訪ね我が去りにけり


朔北の蝦夷の地なれや浄らかに雪はふるかな弘前の朝

 


東北でも弘前までとなると相当遠い、弘前城は最果ての城である。雪でも信濃の雪でも会津の雪でも越前越後の雪でも京都の雪でもみな違っている。一茶の生まれた信濃はどんよりと曇って雪に閉ざされる陰鬱な所だった。それとは対照的に弘前の雪は明るかった。朝に降った雪の光景は忘れることができない、本当に雪に浄化された光景だった。雪の感覚も場所と時で相当みな違っているのだ。旅をするときやはりその場所を歴史的見地から見ないと印象に残る旅はできない、日本だとその人にもよるがそれなりに歴史をさかのぼり見ることができる。一応城があればここは江戸時代にさかのぼる。それにしても津軽とか弘前になるとみちのくでも最果てである。実際青森県は最果てであり秋田県でも東北では遠い、みちのくというとき福島県と宮城県の範囲でありそれ以外は本当に化外の地域だった。それがわかるのは伊達政宗が日本歴史上はじめて中央の政治に影響力を及ぼしたことでもわかる。秀吉と渡り合ったがかなわなかった。それでも伊達藩の領域は東北では最大になった。伊達藩から東北を見るときどうなるのか、相馬に住んでいれば相馬藩として見るのだが伊達藩から見るとまた視点が違ってくる。伊達藩が拡大化したとき最初伊達郡でありここでは海を望んでいない、政宗は若いとき海を望むことがなかった。山国の人だった。やがて領地が松島や石巻に拡大したときそこが東北で唯一の内海と島があり太平洋に開けていた。それで太平洋をわたり支倉常長を欧州に派遣する事業を計画しえた。


そういう壮大な世界的視野をもつことができたのも海を望み船を作り得る内海と島を持つようになったからである。相馬から仙台まではそうした大きな内海がない、入江がない、だから太平洋だけが荒寥として広がりそこから太平洋に乗り出して欧州まで渡る視野がもてないのだ。もちろんそこには宣教師の力を借りたからできたことでもあった。ともかく政宗がそれだけの大きな視野をもち得たのは松島などの内海に領地を広げたからである。会津を見ればわかる、山国に閉ざされて海を見ることがないから閉鎖的になり時代から遅れて最後は悲劇となった。海でも太平洋と瀬戸内海を比べるとあまりにも違いすぎている。それから伊達藩は一見大藩でも実際は商人は力をもちえなかった。豪商とかは東北ではいなかった。西では豪商がかなりいて明治維新を応援したのである。東北はそれだけの経済力がなかった。薩摩も中国の貿易で経済力があったのだ。やはり経済力が基盤にないと大きな力となりにくい、実際個人的なことになるが百万円という金を今まで自分は自由に使ったことがなかった貧乏性である。それで自分の自由に庭作りした。金があれば小規模でも文化は作れる。個人的には家作りでも庭作りでも最大の事業だからである。その個人的なものを拡大化したのが大きな文化、ルネサンスを起こしたのである。フィレンツェのメジチ家がそうである。財を蓄えて文化に費やしたからあれだけのものが作りえた。それは天才の成果だけではない、そのバックに蓄えられた財とか技術とかを運用する力があったためである。だから豪商は立派な庭を残したりするのもそのためである。一個人でも何億とかあれば自分なりの庭作りができるからやはり東北には財がないからルネサンスは起こらなかったのである。

いづれにしろ東北は権力争いに敗れたものが逃れる場所であり中央の政治で覇を唱えることが遂にできなかった。そういう風土でもあった。だから芭蕉のような敗者に同情をよせる詩人には合った場所だったのである。
 

月さびよ明智が妻の話せん   義仲の寝覚めの山か月悲し 芭蕉

木曽殿と 背中合せの 寒さかな  又玄

東北には古代からそうした敗者が葬られた場所だった。蝦夷森と各地にある。これは東北だけではないがやはり東北には多い、いづれにしろ東北にしても実際は相当広いのだ。とても一くくりで語れるものではない、すでに福島県自体が大きい、会津は山国であり古代から別の一国であるから福島県を歴史的に一つの国と見ることができないのである。

2010年01月12日

松島瑞巌寺の歴史的背景(伊達政宗について)

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松島瑞巌寺の歴史的背景(伊達政宗について)
 

●政宗の松島を賞す漢詩

    中秋月を松島に賞す   政宗
  
    今宵月を待って吟きょうに倚(よ)れば
  
    蒼海茫々一気濃(こまや)かなり
  
    思ひ見る清光佳興しきりにして
  
    道人も緩く打たん五更の鐘

この漢詩も佳作なのだろう。五更の鐘とは朝四時頃とある。蒼海茫々としてあるごとく瑞巌寺は海に面した寺だった。BSの朝日テレビで放映してたように瑞巌寺は政宗が建立したものであり伊達家の菩提を禅宗の寺だった。武者隠しなどがあるからそもそも戦国時代から寺は武士の菩提を弔うことを第一とした建てられていた。また金沢の寺町とかあるけど要塞としての役割もあった。城の延長として寺があった。だから戦国時代が終わると役所の役割も果たしたのである。瑞巌寺がどうして青葉城近くに建てられなかったのか、海に面して建てられたのか?やはり政宗はスペインに支倉常長を派遣したように海を意識していた東北ではめずらしい英傑だった。戦国武将で漢詩を作ったのは政宗くらいしかいないということでもいかに文武両道の達人だったかわかる。文に優れていれば武に劣るし武に優れていれば文に劣るのが普通だからだ。
 

●瑞巌寺は第二の城だった

 例えば、参道が途中で屈折して本堂が見通せないことや、庫裏の「煙出」は事実上の望楼であること、巨大な武者隠しの存在や矢弾の貫通を防ぐ厚い畳など、単なる菩提寺とは思えない防御が整えられている
http://golog.nifty.com/cs/catalog/golog_article/catalog_002888_1.htm?page=2


大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』

 ここは寺というより第二の城郭だった。しきり民衆の安寧を祈ったというのも違うだろう。東北の民は貧乏だったし伊達家が華々しく装ったのは無理をしていた。それは参勤交代が影響していた。江戸では見すぼらしくしたくない、諸国の大名と威勢を張らないとならない、伊達者というとき派手にしたその裏はかえって東北の貧しさ故だった。これは宮本常一の指摘である。これは別に一国のことではない、個々人でも家族でも見栄を張るのは普通である。近親者にそういう人いたしそういう人は普通にいる。実際に金がないと思えなかったのである。実際に見栄を張って家業が倒産したとかもある。つまり江戸で伊達者とか派手な姿をみていれば事情を知らない人は豊かな暮らししているのかと錯覚するだろう。その頃情報が不足している。でも実際に東北に来た人は仙台でも貧しい街だったと驚いている。実際に東北を見た人はすぐに貧乏だとわかったのである。東北の民衆は疲弊していたのである。東北にはそもそも関西のように豪商が育つことはなかった地域である。中産階級が育たない、侍と貧乏な農民しかいなかったのである。だから会津が薩長に攻められても町民は傍観していたしかえって歓迎したというのはそのためである。会津の北にむしろ喜多方が町人の商人の街として栄えることになったのである。喜多方-喜び多い町になったのである。
 

大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』
瑞巌寺も豪壮なものにししてもやはり民衆の犠牲があった。殿様の間を作るのは普通だがその臣下の集る間まで作るのはまれだろう。ここは伊達家の重臣が集る場でもあった。だから仏教的色彩より武家的な豪壮なものとして作られている。安土桃山文化の華やかな色彩が黄金の襖に残された。それ以上にここが第二の城だからこそここで政宗が家康の幕府に攻められたら自害まで覚悟していたのだからやはり第二の城のような作りになったのである。

いづれにしろやはり民衆的な寺ではなかった。そもそも寺は民衆的な場所ではないのだ。武士にはたいした戒名をさずけるが民衆は姓も戒名も格が落ちるとか差別があった。それで明治時代になり民衆が豊になり立派な墓を造りたいとか武士と並ぶ格の高い戒名をさずけてもらいたいとかなった。これも馬鹿げているのだ。また廃仏毀釈が起こったのは神社側が江戸時代に武士社会で不遇だったからその恨みだったというのもやはりそれだけ寺が武家の菩提寺として優遇されていたからである。だから瑞巌寺に参るとき伊達家の菩提に参るのかということにもなる。歴史的にそういう性格の寺になっているからだ。純粋に僧が修行する寺とも違うのである。仙台の定禅寺通りも有名で度々書いてきたけどやはりここも政宗が禅宗を学んだから禅寺があったところである。宮城県には禅宗が多いのもそのためである。
 

●伊達政宗の側室に朝鮮人?
 

伊達政宗にしても歴史的人物ならいろいろな見方がでてくる。政宗の側室は多い。
新造の方、飯坂の局(松森御前)、塙直之女、阿山方、弘子姫、香の前(お種)、勝女姫、妙伴、
朝鮮人女子某
朝鮮人側室とともに、隠居所である若林城(現宮城刑務所)と政宗が再建した松島、瑞厳寺に、朝鮮から持ち帰らせた「臥龍梅」が残っている

政宗正室。三春城主田村清顕の女。母は相馬氏である。文禄・慶長の役で秀吉は朝鮮が陶工を連れてきたことは知られている。女性も連れてきていたのだ。女性は戦国時代では戦利品の一つだったのである。側室というのも政治の道具として女性が使われていたから多かった。必ずしも色欲からではない、戦国時代の習わしだったのである。ただ今からすると和歌もうまいし漢詩もたしなみ武将として優れているし政治家としても抜群だとなるとそういう人は今の時代にはいないのだからいかにその当時は総合的人間として育つ環境があったことを証明している。現代ではこうした総合的人間が育たない、育てられないということにかえって後退しているのである。武士の教養はやはりその生活そのもの城の中で武家の屋敷で自ずと育つ環境に庵たのである。学校とかでは養われないものが日々の生活の中で養われていたから違っていたのだ。安土桃山時代は国際的な時代でもあった。武士の間では絢爛豪華なものが好まれたのである。

滴水瓦が日本に普及するのは16世紀末で、文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)に従軍した武将が帰国後に城郭建築に使い始めた。これは異国趣味がブームとなった桃山時代の気風を反映しており、それ以前の日本建築にはこのような異国的な瓦は受容されていない。高麗瓦とも呼ばれている
http://musubu2.sblo.jp/article/29286555.html

相馬藩の大手門は大手高麗門と呼ばれているから明らかに伊達藩から朝鮮出兵の折りその技術が伝わり作られたのである。伊達藩と相馬藩は常に密接な関係があったことの証明である。
松島は古くは中世は霊場であった。

だから鎌倉後期にこの島を訪れた一遍上人(時宗の開祖)の高弟、他阿弥陀仏(たあみだぶつ)は

        紫の雲の迎いを松島や仏みるてふ名さへなつかし

と詠んでいる。

  (松島三句)

みちのくの松島に満つ淑気かな

松島に鴨の百羽や暮れにけり

冬の海鐘鳴り暮れぬ瑞巌寺
 
 
冬の短歌十首-東北の歴史的地政学
http://musubu2.sblo.jp/article/33693754.html
 
雪の松島-俳句、短歌-政宗のこと
 http://musubu.sblo.jp/article/35083956.html


 

2010年02月02日

雪の松島-俳句短歌-政宗のこと

雪の松島-俳句短歌-政宗のこと

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走り去る電車や雪に椿かな

みちのくに金の障壁画冬鴎

抹茶飲む観欄亭や冬障子

鴨群れて観欄亭や冬障子

秀吉の威勢及ぶむ冬障子

政宗の伊達も威勢や冬障子

松に雪観欄亭に藩主の座

さしだせし名器の茶碗松に雪

みちのくに島の少なし冬鴎

松島や雪に散り赤し椿かな

尋ねざる奥松島や雪となる

松島や雪また雪や夜の更けぬ

塩釜に海見つ墓所や冬深む

雪となり夕べ遠しや石巻

北上川上の遠きや冬の月


松に雪かもめ飛びつつ松島や瑞巌寺の門古りて暮るるも

松に雪鴨の群れつつ波にゆれ松島暮れて旅人の去る

小松島小さく見えぬ幾度も松島たずね冬のくれかな


ねんごろに茶碗を手にし島望む観欄亭の冬のくれかな


老木の枯木の磐に根づきつつ雪の積るや松島の海

文永の碑のあり遠き松島は祈りの島や雪のふるかな

大いなる港ととならむその跡やみちのくの海に雪のふるなり

夏の日に一度はたずぬ鳴瀬町松に家古り冬となるかも

石巻冬に遠きや葛西氏の城跡古りぬ河口の島に

葛西氏は滅びけるかな石巻その跡たずぬ冬のくれかな

勝つものの陰に滅びしもののあり政宗たずぬ冬のくれかな

さらに遠し石巻より平泉北上川 に雪のふるかな

小牛田の碑相馬にあれや山神を祈り祀るや冬深むかも



歴史を知るというとき例えば伊達(だて)は派手好みとして中央に秀吉などに見せて有名になったけど実際は東北は貧しい農民がほとんどであり財力はなかった。それでも政宗は財力あるように装うために伊達者を演出した。そういう歴史的背景を知らないと歴史は全く違ったものとして解釈してしまう。また逆に秀吉の時代でもみちのくのことは情報が入りにくいからわからない、すると派手な格好した伊達者がいるので陸奥は裕福なのかと思うこともある。一方で葛西氏などは秀吉を見くびり秀吉を甘くみて滅ぼされた。その当時社会情勢を理解すること自体むずかしいことを物語っているのだ。地理的に隔絶された世界であり時代の情勢を読むことはむずかしいからそうなる。葛西氏は相当な有力な氏族でも滅びた。石巻を中心にして領地をもっていたが滅びてしまった。政宗は常に脚光をあびるが葛西氏はその陰に歴史の地層の下に埋もれてしまったのである。こういうことは歴史には常にある。政宗は余りにも華やかであり常にスポットライトをあびる存在である。でもその陰に必ず滅びて埋もれた人々がいた。観欄亭にしても冬だと冬障子であり確かに金の障壁画が残っているが秀吉の豪勢な安土桃山文化からすればとるにたらないものとなる。だからむしろ冬障子というものがにあいだとなる。みちのくには豪勢な城も文化も残らなかったのである。平泉にしても金色堂だけが辛うじて残ったように関西や京都と比べるとの規模は余りにも小さいのである。ただ政宗の時代に世界まで羽ばたこうとしたことは政宗だけだった。それだけの世界的視野を陸奥でもち得た人だったのである。

今回、雪ふってきたので奥松島から石巻に行かなかった。この頃何か近くでも遠くなっている。一日泊まることさえ容易でないから近くでも遠くなってしまった。奥松島から鳴瀬町から石巻まで自転車で行った。石巻からは必ず北上川をさかのぼる、すると石巻から平泉までイメ-ジする。それは北上川を通じてイメ-ジされるのだ。石巻からは平泉は北上川を通じて結ばれている。そうでなくても石巻からは平泉をイメ-ジする。芭蕉も石巻から平泉に行ったからである。石巻は地理的に特殊なのだ。その港は江戸まで通じていた。仙台平野の米が運ばれていた。
 

川上とこの川下や月の友 芭蕉


これは隅田川でありここでは船の行き来が多かった。北上川はそんなに多くはない、でも川が道として結ばれていた。 でも平泉となるとやはり相当奥なのである。それで「北上川上の遠きや冬の月」とかイメ-ジして作った。陸奥は奥深いのだ。平泉よりさらに奥に広がっていたのが陸奥である。芭蕉の奥の細道でみちのくの地理的感覚の基礎が作られた。だから石巻は重要な地点だったのである。宮城県関係の神の碑が相馬には多い、館腰宮やその他いろいろある。それだけ宮城県とは密接な関係が江戸時代からあった。相馬藩は伊達藩との関係が深いのである。地理的にも一体化しているのだ。いづれにしろ冬になると近くも寒いとか雪がふるとかさらに私的な事情で家から離れられないとかなり遠く感じてしまった。冬はやはり近くでもこれだけ交通が発達しても遠い感覚になる。新幹線で近いじゃないかともなるがやはり冬は遠出しにくいから遠くなる。いづれにしろ宮城県の神社が江戸時代では相馬藩の人がお参りしたとしてもやはり遠いのである。ともかく今日は夕方から松島が雪になり奥松島も雪になり石巻も雪となり平泉はかなたであり遠く感じた。でも相馬の方は夜は晴れていたのである。東北でも広いから遠いなと感じることがある。それが普通の感覚なのである。

2010年02月23日

冬田の中の石巻線、短歌十首と詩


冬田の中の石巻線、短歌十首と詩


石巻平泉の間に登米ありぬまだ我行かじ冬の日暮れぬ

石巻線佳景山駅や冬の日にとまるもあわれ乗る人まれに

曽波神駅何を意味するまだ知らじ石巻線に冬田広がる

誰が訪ぬ涌谷の城跡冬の日や我が下りずして過ぎにけるかな

小牛田に冬の日つきぬあわれかな栗原電鉄の今はなきかな

相馬には小牛田の碑山神の碑あまたあり冬の日暮れぬ

我が旅の尽きざるけるかな晩年を石巻線や冬の日暮れぬ

みちのくの平泉なお遠しかも冬田広がり我が帰りけるかな

品井沼その名に偲ぶここに来て冬田広がり淋しかりけり

みちのくは広しや冬に束稲山京に知らるを想いて暮れぬ


石巻平泉の間に登米があるがここは行っていない、電車が通っていないと行けない地は相当ある。
ここもだからこの年まで行っていないし行けないのだ。でも芭蕉が石巻から登米を通って平泉に行ったから一度は通ってみたい町でもある。近くでも行けない場所はいくらでもある。車がないとやはりかなり行けない場所が出てくるのだ。石巻線はこれも乗る人が少ないし良く残っていると想う線である。途中の涌谷町は初めて黄金を出したことで奈良に知られた所だから歴史的に古い。でもここを注目している人は少ないしよる人もすくないだろう。涌谷城がありその城跡の石垣が残っている。ここにも城があったのかと改めて想う。石垣が残っているのだからやはり城があったとなる。石垣だけでも残っていればそれなりに昔を偲べるのだ。でもここにも寄ってはいない、めんどうだから通りすぎてしまうだけになる。この石巻線だと一旦下りたらいつまた来るかわからないような線であるからだ。ここの駅も曽波神駅(そばのかみのえき)とかこれも何なのかわからない、佳景山(かけやま)駅はもともと欠け山であり山が欠けている、実際にそういう山があるが名前として良くないので佳景山(かけやま)にしたという。いづれにしろこの線は閑散としている。特に冬だから余計にそう感じた。でもここもみちのくでありみちのくの広さが意識される場所である。みちのくはやはり広大な地域なのである。小牛田は相馬でも小牛田の碑があり山神の碑はここの神様に由来してお参りしていた。宮城県の神様が相馬には碑となってかなり残っている。近いから実際にお参りに来ていたのである。江戸時代から地理的には伊達藩の方に近かったのである。



冬田の中の石巻線

曽波神とは何の神様だ

これも未だわからんな

佳景山とは欠けた山だったと

そんな山しかこの辺にはねえのか

涌谷では黄金がとれていた

奈良の都に知られていた有名な場所だ

それも遠い昔だな

ちょっとでも砂金がでてきたんだってな

ここには涌谷城の石垣が残っている

こんなところにも城あったのか

まだ訪ねたことはねえな

今はただ冬田が広がっているだけだ

小牛田についたな

小牛田は相馬にも碑があるし

山神様でなじみの場所だけどな

ここからでていた栗原電鉄は廃線になった

最後に記念に乗ったのが良かったな

石巻線も廃線になるのか・・・

平泉と言えばまだ遠いな

束稲山は都に知られた山だ

品井沼は大きな沼だった

この辺も昔は広い湿地帯だったな

ここも伊達領になったんだよ

なんだかオレも旅ばかりしていたけど

年とってしまったな

近くでも知らない所がまだまだあるんだよ

一生かかっても行ききれない

そのうち死んでしまう

遂には近くでも見納めになる

石巻線はその頃廃線になっているかもな

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

廃線となった栗原電鉄
http://www.musubu.jp/jijirailway.htm#kuriharahaisen
 


 

2010年02月27日

伊達政宗の紋章

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伊達政宗の紋章

伊達政宗は海と縁が深い、海を望み最後はスペインにまで使者を派遣た。だから海の色がにあうのである。東北であの時代にヨ-ロッパまで目を向けたこと自体例外的だった。その後も東北は海外に視野をもったことがないからだ。だから伊達政宗は海と結びつくのである。



 

2010年05月17日

亘理から阿武隈川を下り海へ(夏の短歌)

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阿武隈川大橋わたる夏雲雀


夏の日や大川二つ渡るかな

郭公や大川二つ渡るかな

名取より飛行機雲や夏の空

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山下の駅にはおりず朝静か菖蒲咲きにき電車過ぎさる

夏の朝阿武隈川の広々と太平洋に注ぎ入るかも

夏の朝まばやく光る太平洋阿武隈川のここに尽きにき

阿武隈川流れは尽きて海見えぬ蔵王を仰ぎ船はいでゆく

松原の影長々と涼しかな白波のよす仙台までも

松原の朝の緑の清しかな蔵王を仰ぎ波のひびけり

夏の日や海岸線に波白し仙台までもつづきけるかも

阿武隈川河畔の広し競い鳴く雲雀の声や朝に行くかな

阿武隈川河畔の広し郭公の声のひびきて大橋渡る

阿武隈川土手の袂に社古り夏の日よりぬ日影涼しき

荒浜や河口に浪のひびくかな夏の海より鴎とびくる

阿武隈川河口広がる郭公の鳴く声遠くひびきけるかな



(二木の松)

岩沼の女しあわれも日傘さし二木の松の下を行くかな

二木の松謂われも深き岩沼に夏の真昼や旅人よりぬ

岩沼に藤の花咲くあわれかな二木の松より旅人去りぬ

二木の松芭蕉のよりしと夏の日や汗をぬぐいて我が寄り去りぬ

二木の松我が立ち寄りぬ岩沼の相馬に近き夏の日暮れぬ


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阿武隈川くらい大きいとやはり川のドラマがある。人の一生にもにている。遂に最後に太平洋が開けて大河は海にそそぐ、荒浜からは船が江戸まで出ていた。仙台藩で米を運んでいたのだ。大河が海にそそぎ海は江戸に通じていたのである。阿武隈川の土手はサイクリング道路として整備している。平らなところはサイクリングに向いているのだ。そして必ずビュ-ポイントがある。阿武隈川では梁川で写真を出したけどあそこの大きく蛇行して急流となるところがビュ-ポイントだった。最後は海にそそぐ阿武隈川もビュ-ポイントである。ただ鳥ノ海は大きい自然の海かと錯覚していたが小さい漁港の湾だから景色的には良くない、蔵王は見えるが景色的にはそんなに良くない、むしろ岩沼に行く一面の松原の海岸線が見物だった。その松原から残雪の蔵王が美しかった。あそこがビュ-ポイントだった。あそこは車からは見れない、車が通れない所になっていた。ビュ-ポイントは実際に地元の人でないとわからない点があるのだ。鳥ノ海より松原から蔵王を見ると美しいし海岸線もどこまでもつづいているので夏らしかった。


阿武隈川の土手を上って行ったらいつのまにかに岩沼についていた。そこで二木の松というのがありあれこれが二木の松かと思った。確かにそれらしい松になっていた。阿武隈川に出て河口から岩沼に来て二木の松を見るのも不思議だった。あれもやはりみちのくの歌枕だったのだ。この時期確かに芭蕉が寄ったのだ。
 

名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日逗留す。

あやめ草足に結ばん草鞋の緒

菖蒲が咲いているとき確かにここを通ったのだから今の時期だったのである。その二木の松の下を日傘をさした女性が歩いてゆくのが絵になっていた。今日は本当に夏らしい夏がもどってきた。こういうふうに電車だけでは旅にはならない、電車からおりて二木の松を見るのとはるばる歩いてきて二木の松にたどりつくのとは大きな感興の違いがでてくる。旅は過程でありアプロ-チの仕方で同じものを見ても違って見えるのだ。今の時代は旅をするには自ら回りくどく演出しないとできくなっているのだ。余りにも簡単に行くことができるし通りすぎることも多いからである。
今日は朝六時の電車で行った。やはり朝は気持ちいいし蔵王がどこからも見えた。亘理から見える蔵王はきれいである。でも松原の上に見えた蔵王の写真は蔵王そのものが写っていない、今回は景色はそれなりに良かったがいい写真がとれなかった。遠景はなかなかいい写真がとれないことがある。

2011年01月20日

2011年 冬の仙台へ

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2011年 冬の仙台へ

寒烏木に黒々と百羽ほど


家の前大根あらわに頼もしき


新幹線枯蔦這いぬ高架橋


風花や喫茶店に入る通りかな


喫茶店向かいに一人枯木見ゆ


仙台に消防車出る寒さかな


古本をまた買い集め冬籠もり


冬満月海より昇り新地駅


阿武隈川広々として鴨の群れゆうゆうとして冬の日暮れむ


打ち曇り蔵王の見えず雪の中みちのくの冬農家古りにき


油絵に教会の塔や仙台の喫茶店に入り冬のくれかな



今日はひさしぶりで仙台に行ってきた。9月ころ行ったがあとは行っていない、黒々と百羽くらい日本の枯木に烏がとまっていたのを見た。あんな光景もめずらしい、いかにも冬らしい風景だった。冬のイメ-ジは黒なのである。駅近くの喫茶店に入った。そこに油絵が飾ってあってすいていた。二階があり休むのにいい、前は隣のチェ-ン店に入っていたが休みだった。そこでこの喫茶店に入った。280円くらいでコ-ヒ-が飲めたから高くはなかった。喫茶店はやはり芸術的な場でもあったのだ。絵を飾ってそれを鑑賞するに向いている。雰囲気を楽しむのにいいのだ。個性ある雰囲気作りだせばそれだけでも入る人がいるだろう。また場所も大事である。定禅寺通りはいいが遠くて行けなかった。窓から景色が見えないと閉鎖された気分になるからいやなのである。仙台と喫茶店を回る楽しみがある。寒いのと時間がないので駅前だけで終わった。仙台の街はそれなりに情緒ある場所である。古本をデパ-トで出していたのでまた買った。変わった本があるから面白い。でも今や本は読みきれないのだ。本を読む限界がきた。もう老人になると本を読んで消化することがむずかしいのだ。だからつくづく何回も言っているけどくだらない本を読んでいたら本当に時間の浪費である。本も読めなくなるときが意外と早くくるからだ。人間の時間は限られている。時間の浪費が最大の浪費なことを老人になったらいやがおうでもきずかされる。


今日はまだ病院にいるからかえって夜遅くなってもいいからでかけられる。今度家に帰ってきたら夜になったら帰ってこないといけないから仙台までも出かけられない、介護で一番困ったのは自由を奪われることなのだ。それも何日も旅行に行くとかではない、ちょっと出かけることすらできなくなるのだ。介護度3になったからショ-トスティのサ-ビスは受けられる。それにしても障害者をかかえることは本当にやっかいであり辛いことなのである。老人が障害者かというけど実際は頭も半分ぼけていたりしたら障害者と同じなのである。自分で食事の用意もいろいろなことができなくなるからだ。すでに五年間くらいつづいているのだ。老人の介護には家でも社会でも限界がやがてくる。高齢化社会はやはり社会的な整備ができなければどうにもならなくなる。在宅になればその負担が大きすぎるのだ。軽いといったって家族が少ない時代には大変なのである。一人に二人めんどうみる人が必要なのである。それがいないと一人だとちょっと出かけることすらできなくなるのだ。

2012年03月12日

松島-多賀城の春の俳句短歌と写真


松島-多賀城の春の俳句短歌と写真

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冬の海波うちしぶき沖に船

荒寥と津浪の跡や冬の海


磐根付く古木くねりて残る雪


松島の松の残りて春の風


春日さし松風鳴りて五大堂


鴎浮き春日穏やか双子島


春の昼金華山見ゆ赤い橋


赤い橋鴎のとまり春の島


松島や島陰の渚残る雪


島陰に雪を残して暮るるかな


瑞巌寺竹の清しく残る雪


瑞巌寺鐘楼鳴らず冬の暮


見張塔瑞巌寺守る冬の暮


瑞巌寺去るや杉の間残る雪


瑞巌寺海よりそよぐ春の風


島々の松の緑や春の鴨


多賀城跡浮島神社や春の暮


多賀城の正殿跡や春浅し


枯葦に昔の面影砂押川


早春の多賀城駅や鴎飛ぶ



太き松その間に見える小町島春の日おだやかまたたずねけり


松島の春やしきりにかもめなきむれつつ飛びて島のうるわし


松島の海穏やかに春の日に照り映えにつつ津浪まねがる


太しくも末の松山二本の残りし松に春の風吹く


太しくも末の松山二本の松の契りや椿赤しも


多賀城に末の松山沖の石津浪の跡や春の日暮れぬ

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2012年05月18日

丸森から梁川へ 春の短歌十首 (金山城、小浜城、梁川城を訪ねる)

 

丸森から梁川へ 春の短歌十首

(金山城、小浜城、梁川城を訪ねる)

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幾代の城主や梁川花の散る


丸森へ我が入りゆくや山の間に鳥なきひびき山桜咲く


丸森に入りて知られじ梅林の馥郁とにおい家そひそけき


丸森の夕べの桜あわれかな我が坂越えて相馬へ帰る


丸森の金山城に残雪の蔵王の光り新緑に映ゆ


一時は相馬の城や金山城夏草踏みて跡をたずねき


丸森に山越えてこそ東風(こち)吹きぬ政宗の初陣相馬を望む


丸森の坂越え相馬へ還り来て何を伝えむ夏の日暮れぬ


一時は政宗が居城山城や花咲きそめて我が訪ねけり


丸森の我が坂越えて梁川や城跡古りて桜散るかな


一時は会津の治む梁川やせめぎ合いにつ夏の日暮れぬ


残雪の吾妻蔵王を望みつつ桜は桃の伊達の春かな


梁川や柳青める城跡を訪ねてあわれ夕ぐるるかも



春のサイクリング-丸森-梁川-阿武隈川-丸森(短歌の部)
写真
http://musubu2.sblo.jp/article/37411301.html

 

丸森(金山城)

金山城は、永禄年間に相馬氏の家臣井戸川将監、藤橋紀伊が築城したと言われる。
その後伊達氏と相馬氏の争奪戦が展開された。
天正9年(1581年)には伊達政宗が初陣を飾り、同12年(1584年)に伊達氏の領有となった。
そして、金山城は政宗の家臣中島宗求が2千石で拝領した。


小浜城

永禄11年(1568年)小浜城主・大内義綱は田村氏に通じて主家の石橋尚義を追放し、塩松地方一帯を支配下に置いた。大内氏はその後、田村氏からの独立を目論んで伊達氏・蘆名氏の側に転じた。
天正12年(1584年)伊達政宗が家督を継ぎ、当主・大内定綱は引き続き伊達氏への従属を誓ったが、翌年には離反し、蘆名氏に属する。この後政宗は小浜城を二本松氏攻撃の拠点とし、
天正14年(1586年)8月までの約1年間滞在した。
天正19年(1591年)、奥州仕置によって塩松が蒲生氏郷領となると、家臣の蒲生忠右衛門が2万5千石を与えられて小浜城代となった。現在、本丸跡に残されている石垣はこの時築造されたものである。その後、上杉氏時代は山浦景国、再蒲生時代は玉井貞右が城代となり、寛永4年(1627年)廃城となった。


梁川城

伊達義広 粟野大館(梁川城?)
伊達政依 梁川城?
伊達宗綱 梁川城?
伊達基宗 梁川城?
伊達行宗 梁川城?→霊山城→伊佐城→梁川城?
伊達宗遠 梁川城?
伊達政宗 高畠城→赤館
伊達氏宗 赤館
伊達持宗 大仏城(後の福島城)→梁川城
伊達成宗 梁川城
伊達尚宗 梁川城
伊達稙宗 梁川城→桑折西山城→丸森城(隠居)
伊達晴宗 西山城→米沢城→杉目城(隠居)
伊達輝宗 米沢城→舘山城(隠居)
伊達政宗 米沢城→黒川城(後の会津若松城)→米沢城→岩出山城→仙台城→若林城(隠居)

http://musubu2.sblo.jp/article/33335304.html
 
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梁川の川の岸辺に桜咲き柳も青みて夕暮れせまる


梁川はこの川と柳が印象的な場所だった。街からはずれたところに阿武隈川が大きく蛇行しているのも見物である。阿武隈川は意外と魅力に欠けているがあそこは蛇行して激流となり流れるから魅力がある。桜も桃も映えて川は丸森の方へ流れてゆきやがて亘理の方へ流れ海に出る。


やはらかに柳あおめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 石川啄木

柳は北上川でも一本の柳ではない、それなりに目立って何本もの柳なのだろう。この辺では川に柳を見ない、するとイメ-ジしにくいのである。他では川に柳がある。
川柳(せんりゅう)」という歌は、江戸時代に実在した柄井八右衛門という人の俳号「川柳」に由来するもの。川に柳はつきものだったのだ。


柳橋とかもあるし柳と川は一体としてあった。
ただ桜だったわかるけど柳をそれほど泣けとごとくに心の目でイメ-ジしたことがわからない、
春の息吹を感じるのは梅であり桜であり柳というわけではない、ただ川にあっているから川を思い出して柳が目に浮かんできたのである。梁川には旅してやはりこの柳があっていた。
ただ一時いただけであり急ぎ去ったからそれほど印象に残ったとはいえない。ただ梁川はこの柳の方があっていたことは確かである。旅も印象が薄れるとどういう場所だったかわからなくなる。
それで写真を見たりして思い出すのである。近くだと思い出しやすい、梁川は歴史的にも伊達氏の拠点となって城であり地理的にもそうだったのだろう。



丸森の金山城とか小浜城の魅力は小さいけど城の最初の形を維持していることである。山城であり山が防御のために利用されている。小浜城は小さいようだけど山を利用したもので頂上まで上り攻めるのには地形的に難儀する。地形を利用した要害である。南相馬市の江垂(エタリ)の中館も山を要害とした砦でであった。それが中世から起こった城であり最初は山のような要害を利用した山城だった。あとに平城になった。鹿島区の駅の近くの田中城が石田三成の戦国時代に最期の興亡の城となったのは地理的なもの地形が影響していた。平地の城で戦うことになったからだ。その城は回りが湿地帯であり今回の津浪でその近くまで津浪が押し寄せて今は湿地帯化していることでもわかる。
中世の城は館(タテ)と呼ばれていて地名化している。飯館村でももともとは大館村などがあり合併した。大きな館(たて)があり地名化した。館は山を要塞として不便な地域にあった。山自体を要害としていたからである。


その地域を見る場合、こうした山城の跡でもあれば古いとわかる。それから古墳などもあれば古代からつづいている地域だとわかる。梁川は城跡があってもこれも城があったのかどうかもわかりにくい、でも古い要の場所だから伊達政宗が抑えていた。ただ今は街を改造したので新住宅地にして古い町並みもなくなっているのでここは新しい街なのかと錯覚する。でも城跡があったから古いとわかる。そこからその町を見る必要がある。どんな所に行っても旅しても最低の歴史認識は必要である。
梁川などは城跡見ないと新しくできた町かと錯覚する。でもそこでは代々つづいていたのであり興亡があった。この辺では相馬市の玉野の領地争いで象徴されているように会津、米沢、伊達、相馬で争っていたのである。だから交互に城主にもなったりしていた。金山城はそうだった。


この三つの城あるところは景観が優れている。小浜城から安達太良山が大きく見える。丸森に入ると小高い丘に金山城がある。そこから見た蔵王は近くに見えるから威容がある。それから丸森から坂を越えると残雪の吾妻嶺がかなたに望まれ蔵王すら見えてくる。そして阿武隈川が梁川で合流していたり蛇行してその景観が雄大だった。伊達には桜と桃が一時に咲くのも見物である。桜咲く時期が一番見物である。日本はどこでも地形が複雑であり地形的に魅力がある。ただ平坦な地ばかりつづいていたら満州のように嫌になる。日本はだから旅してあきることがないのだ。日本ではどこでも桜咲く時期が一番美しくなる。放射能騒ぎでもこうした景観には影響していない、桜も桃も実は食べられなくても花は咲いて鑑賞できる。でも桃などは実が食べられないとしたらやめる人も出てくるだろう。
花だけでは売り物にはならないからだ。とにかく山の美しさは中通りから会津にあり浜通りにはない。でも高い山は阿武隈高原からも望まれる。景観的には福島県は中通りまでは望まれるが会津になると視界に入らない、そこには2000メ-トル級の山がひしめきあっている。だから福島県でも別世界になってしまうのである。それだけ福島県は広いのである。日本の地理のわかりにくいのは山が縦横に重なっていて視界をさえぎるからである。山の中にまぎりいると方向も地理もわからなくなるからだ。


俳句とか短歌とか詩の鑑賞でもこうした地形をよまないと鑑賞できない、最低限の歴史的認識は必要なのである。だから小さな山城でもその跡でも訪ねる必要がある。何度も丸森に行ったけどちょうど相馬との境が坂を上った所にある。金山城は相馬領に最も近い所にあった。日本は坂が境になりやすいことがわかる。自転車でその坂を越えたり下ったりしたことが体に刻まれているから記録が蘇るのである。丸森は相馬から遠いようで近い。海の風が春吹く東風(こち)が山を越えて吹いてきたのがわかった。政宗の初陣の地として有名であり政宗は相馬との戦いで海をはじめて意識したという、海は丸森から確かに近いし山から見えるのである。


丸森を去るときいつも夕暮れが迫っていてそこで夕桜をいつも見て相馬の方に帰ってきていたのである。つまりそういう難儀な過程があって旅になっている。車だとそういう記録が残りにくいのである。坂という感覚すらなくなってしまうのである。地形と一体化できない、つくづく車がいかに便利でも自然との一体感とか人情の世界を破壊してしまったかわかる。浮世絵とか見れば自然であれ街であれ江戸であれ明治であれまだ人間は外界との一体感があった。情緒的に人間と外界は分断されていないのである。人間と外界は自然であれ街であれ現代は分断されている。でも自然の景観自体は大きくは変わっていないのである。丸森から梁川から阿武隈川を下ってまた丸森に帰る道は景観が雄大である。ここは観光コ-スとしてお勧めである。