2012年05月18日

丸森から梁川へ 春の短歌十首 (金山城、小浜城、梁川城を訪ねる)

 

丸森から梁川へ 春の短歌十首

(金山城、小浜城、梁川城を訪ねる)

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幾代の城主や梁川花の散る


丸森へ我が入りゆくや山の間に鳥なきひびき山桜咲く


丸森に入りて知られじ梅林の馥郁とにおい家そひそけき


丸森の夕べの桜あわれかな我が坂越えて相馬へ帰る


丸森の金山城に残雪の蔵王の光り新緑に映ゆ


一時は相馬の城や金山城夏草踏みて跡をたずねき


丸森に山越えてこそ東風(こち)吹きぬ政宗の初陣相馬を望む


丸森の坂越え相馬へ還り来て何を伝えむ夏の日暮れぬ


一時は政宗が居城山城や花咲きそめて我が訪ねけり


丸森の我が坂越えて梁川や城跡古りて桜散るかな


一時は会津の治む梁川やせめぎ合いにつ夏の日暮れぬ


残雪の吾妻蔵王を望みつつ桜は桃の伊達の春かな


梁川や柳青める城跡を訪ねてあわれ夕ぐるるかも



春のサイクリング-丸森-梁川-阿武隈川-丸森(短歌の部)
写真
http://musubu2.sblo.jp/article/37411301.html

 

丸森(金山城)

金山城は、永禄年間に相馬氏の家臣井戸川将監、藤橋紀伊が築城したと言われる。
その後伊達氏と相馬氏の争奪戦が展開された。
天正9年(1581年)には伊達政宗が初陣を飾り、同12年(1584年)に伊達氏の領有となった。
そして、金山城は政宗の家臣中島宗求が2千石で拝領した。


小浜城

永禄11年(1568年)小浜城主・大内義綱は田村氏に通じて主家の石橋尚義を追放し、塩松地方一帯を支配下に置いた。大内氏はその後、田村氏からの独立を目論んで伊達氏・蘆名氏の側に転じた。
天正12年(1584年)伊達政宗が家督を継ぎ、当主・大内定綱は引き続き伊達氏への従属を誓ったが、翌年には離反し、蘆名氏に属する。この後政宗は小浜城を二本松氏攻撃の拠点とし、
天正14年(1586年)8月までの約1年間滞在した。
天正19年(1591年)、奥州仕置によって塩松が蒲生氏郷領となると、家臣の蒲生忠右衛門が2万5千石を与えられて小浜城代となった。現在、本丸跡に残されている石垣はこの時築造されたものである。その後、上杉氏時代は山浦景国、再蒲生時代は玉井貞右が城代となり、寛永4年(1627年)廃城となった。


梁川城

伊達義広 粟野大館(梁川城?)
伊達政依 梁川城?
伊達宗綱 梁川城?
伊達基宗 梁川城?
伊達行宗 梁川城?→霊山城→伊佐城→梁川城?
伊達宗遠 梁川城?
伊達政宗 高畠城→赤館
伊達氏宗 赤館
伊達持宗 大仏城(後の福島城)→梁川城
伊達成宗 梁川城
伊達尚宗 梁川城
伊達稙宗 梁川城→桑折西山城→丸森城(隠居)
伊達晴宗 西山城→米沢城→杉目城(隠居)
伊達輝宗 米沢城→舘山城(隠居)
伊達政宗 米沢城→黒川城(後の会津若松城)→米沢城→岩出山城→仙台城→若林城(隠居)

http://musubu2.sblo.jp/article/33335304.html
 
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梁川の川の岸辺に桜咲き柳も青みて夕暮れせまる


梁川はこの川と柳が印象的な場所だった。街からはずれたところに阿武隈川が大きく蛇行しているのも見物である。阿武隈川は意外と魅力に欠けているがあそこは蛇行して激流となり流れるから魅力がある。桜も桃も映えて川は丸森の方へ流れてゆきやがて亘理の方へ流れ海に出る。


やはらかに柳あおめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 石川啄木

柳は北上川でも一本の柳ではない、それなりに目立って何本もの柳なのだろう。この辺では川に柳を見ない、するとイメ-ジしにくいのである。他では川に柳がある。
川柳(せんりゅう)」という歌は、江戸時代に実在した柄井八右衛門という人の俳号「川柳」に由来するもの。川に柳はつきものだったのだ。


柳橋とかもあるし柳と川は一体としてあった。
ただ桜だったわかるけど柳をそれほど泣けとごとくに心の目でイメ-ジしたことがわからない、
春の息吹を感じるのは梅であり桜であり柳というわけではない、ただ川にあっているから川を思い出して柳が目に浮かんできたのである。梁川には旅してやはりこの柳があっていた。
ただ一時いただけであり急ぎ去ったからそれほど印象に残ったとはいえない。ただ梁川はこの柳の方があっていたことは確かである。旅も印象が薄れるとどういう場所だったかわからなくなる。
それで写真を見たりして思い出すのである。近くだと思い出しやすい、梁川は歴史的にも伊達氏の拠点となって城であり地理的にもそうだったのだろう。



丸森の金山城とか小浜城の魅力は小さいけど城の最初の形を維持していることである。山城であり山が防御のために利用されている。小浜城は小さいようだけど山を利用したもので頂上まで上り攻めるのには地形的に難儀する。地形を利用した要害である。南相馬市の江垂(エタリ)の中館も山を要害とした砦でであった。それが中世から起こった城であり最初は山のような要害を利用した山城だった。あとに平城になった。鹿島区の駅の近くの田中城が石田三成の戦国時代に最期の興亡の城となったのは地理的なもの地形が影響していた。平地の城で戦うことになったからだ。その城は回りが湿地帯であり今回の津浪でその近くまで津浪が押し寄せて今は湿地帯化していることでもわかる。
中世の城は館(タテ)と呼ばれていて地名化している。飯館村でももともとは大館村などがあり合併した。大きな館(たて)があり地名化した。館は山を要塞として不便な地域にあった。山自体を要害としていたからである。


その地域を見る場合、こうした山城の跡でもあれば古いとわかる。それから古墳などもあれば古代からつづいている地域だとわかる。梁川は城跡があってもこれも城があったのかどうかもわかりにくい、でも古い要の場所だから伊達政宗が抑えていた。ただ今は街を改造したので新住宅地にして古い町並みもなくなっているのでここは新しい街なのかと錯覚する。でも城跡があったから古いとわかる。そこからその町を見る必要がある。どんな所に行っても旅しても最低の歴史認識は必要である。
梁川などは城跡見ないと新しくできた町かと錯覚する。でもそこでは代々つづいていたのであり興亡があった。この辺では相馬市の玉野の領地争いで象徴されているように会津、米沢、伊達、相馬で争っていたのである。だから交互に城主にもなったりしていた。金山城はそうだった。


この三つの城あるところは景観が優れている。小浜城から安達太良山が大きく見える。丸森に入ると小高い丘に金山城がある。そこから見た蔵王は近くに見えるから威容がある。それから丸森から坂を越えると残雪の吾妻嶺がかなたに望まれ蔵王すら見えてくる。そして阿武隈川が梁川で合流していたり蛇行してその景観が雄大だった。伊達には桜と桃が一時に咲くのも見物である。桜咲く時期が一番見物である。日本はどこでも地形が複雑であり地形的に魅力がある。ただ平坦な地ばかりつづいていたら満州のように嫌になる。日本はだから旅してあきることがないのだ。日本ではどこでも桜咲く時期が一番美しくなる。放射能騒ぎでもこうした景観には影響していない、桜も桃も実は食べられなくても花は咲いて鑑賞できる。でも桃などは実が食べられないとしたらやめる人も出てくるだろう。
花だけでは売り物にはならないからだ。とにかく山の美しさは中通りから会津にあり浜通りにはない。でも高い山は阿武隈高原からも望まれる。景観的には福島県は中通りまでは望まれるが会津になると視界に入らない、そこには2000メ-トル級の山がひしめきあっている。だから福島県でも別世界になってしまうのである。それだけ福島県は広いのである。日本の地理のわかりにくいのは山が縦横に重なっていて視界をさえぎるからである。山の中にまぎりいると方向も地理もわからなくなるからだ。


俳句とか短歌とか詩の鑑賞でもこうした地形をよまないと鑑賞できない、最低限の歴史的認識は必要なのである。だから小さな山城でもその跡でも訪ねる必要がある。何度も丸森に行ったけどちょうど相馬との境が坂を上った所にある。金山城は相馬領に最も近い所にあった。日本は坂が境になりやすいことがわかる。自転車でその坂を越えたり下ったりしたことが体に刻まれているから記録が蘇るのである。丸森は相馬から遠いようで近い。海の風が春吹く東風(こち)が山を越えて吹いてきたのがわかった。政宗の初陣の地として有名であり政宗は相馬との戦いで海をはじめて意識したという、海は丸森から確かに近いし山から見えるのである。


丸森を去るときいつも夕暮れが迫っていてそこで夕桜をいつも見て相馬の方に帰ってきていたのである。つまりそういう難儀な過程があって旅になっている。車だとそういう記録が残りにくいのである。坂という感覚すらなくなってしまうのである。地形と一体化できない、つくづく車がいかに便利でも自然との一体感とか人情の世界を破壊してしまったかわかる。浮世絵とか見れば自然であれ街であれ江戸であれ明治であれまだ人間は外界との一体感があった。情緒的に人間と外界は分断されていないのである。人間と外界は自然であれ街であれ現代は分断されている。でも自然の景観自体は大きくは変わっていないのである。丸森から梁川から阿武隈川を下ってまた丸森に帰る道は景観が雄大である。ここは観光コ-スとしてお勧めである。

2012年03月12日

松島-多賀城の春の俳句短歌と写真


松島-多賀城の春の俳句短歌と写真

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冬の海波うちしぶき沖に船

荒寥と津浪の跡や冬の海


磐根付く古木くねりて残る雪


松島の松の残りて春の風


春日さし松風鳴りて五大堂


鴎浮き春日穏やか双子島


春の昼金華山見ゆ赤い橋


赤い橋鴎のとまり春の島


松島や島陰の渚残る雪


島陰に雪を残して暮るるかな


瑞巌寺竹の清しく残る雪


瑞巌寺鐘楼鳴らず冬の暮


見張塔瑞巌寺守る冬の暮


瑞巌寺去るや杉の間残る雪


瑞巌寺海よりそよぐ春の風


島々の松の緑や春の鴨


多賀城跡浮島神社や春の暮


多賀城の正殿跡や春浅し


枯葦に昔の面影砂押川


早春の多賀城駅や鴎飛ぶ



太き松その間に見える小町島春の日おだやかまたたずねけり


松島の春やしきりにかもめなきむれつつ飛びて島のうるわし


松島の海穏やかに春の日に照り映えにつつ津浪まねがる


太しくも末の松山二本の残りし松に春の風吹く


太しくも末の松山二本の松の契りや椿赤しも


多賀城に末の松山沖の石津浪の跡や春の日暮れぬ

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2011年01月20日

2011年 冬の仙台へ

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2011年 冬の仙台へ

寒烏木に黒々と百羽ほど


家の前大根あらわに頼もしき


新幹線枯蔦這いぬ高架橋


風花や喫茶店に入る通りかな


喫茶店向かいに一人枯木見ゆ


仙台に消防車出る寒さかな


古本をまた買い集め冬籠もり


冬満月海より昇り新地駅


阿武隈川広々として鴨の群れゆうゆうとして冬の日暮れむ


打ち曇り蔵王の見えず雪の中みちのくの冬農家古りにき


油絵に教会の塔や仙台の喫茶店に入り冬のくれかな



今日はひさしぶりで仙台に行ってきた。9月ころ行ったがあとは行っていない、黒々と百羽くらい日本の枯木に烏がとまっていたのを見た。あんな光景もめずらしい、いかにも冬らしい風景だった。冬のイメ-ジは黒なのである。駅近くの喫茶店に入った。そこに油絵が飾ってあってすいていた。二階があり休むのにいい、前は隣のチェ-ン店に入っていたが休みだった。そこでこの喫茶店に入った。280円くらいでコ-ヒ-が飲めたから高くはなかった。喫茶店はやはり芸術的な場でもあったのだ。絵を飾ってそれを鑑賞するに向いている。雰囲気を楽しむのにいいのだ。個性ある雰囲気作りだせばそれだけでも入る人がいるだろう。また場所も大事である。定禅寺通りはいいが遠くて行けなかった。窓から景色が見えないと閉鎖された気分になるからいやなのである。仙台と喫茶店を回る楽しみがある。寒いのと時間がないので駅前だけで終わった。仙台の街はそれなりに情緒ある場所である。古本をデパ-トで出していたのでまた買った。変わった本があるから面白い。でも今や本は読みきれないのだ。本を読む限界がきた。もう老人になると本を読んで消化することがむずかしいのだ。だからつくづく何回も言っているけどくだらない本を読んでいたら本当に時間の浪費である。本も読めなくなるときが意外と早くくるからだ。人間の時間は限られている。時間の浪費が最大の浪費なことを老人になったらいやがおうでもきずかされる。


今日はまだ病院にいるからかえって夜遅くなってもいいからでかけられる。今度家に帰ってきたら夜になったら帰ってこないといけないから仙台までも出かけられない、介護で一番困ったのは自由を奪われることなのだ。それも何日も旅行に行くとかではない、ちょっと出かけることすらできなくなるのだ。介護度3になったからショ-トスティのサ-ビスは受けられる。それにしても障害者をかかえることは本当にやっかいであり辛いことなのである。老人が障害者かというけど実際は頭も半分ぼけていたりしたら障害者と同じなのである。自分で食事の用意もいろいろなことができなくなるからだ。すでに五年間くらいつづいているのだ。老人の介護には家でも社会でも限界がやがてくる。高齢化社会はやはり社会的な整備ができなければどうにもならなくなる。在宅になればその負担が大きすぎるのだ。軽いといったって家族が少ない時代には大変なのである。一人に二人めんどうみる人が必要なのである。それがいないと一人だとちょっと出かけることすらできなくなるのだ。

2010年05月17日

亘理から阿武隈川を下り海へ(夏の短歌)

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阿武隈川大橋わたる夏雲雀


夏の日や大川二つ渡るかな

郭公や大川二つ渡るかな

名取より飛行機雲や夏の空

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山下の駅にはおりず朝静か菖蒲咲きにき電車過ぎさる

夏の朝阿武隈川の広々と太平洋に注ぎ入るかも

夏の朝まばやく光る太平洋阿武隈川のここに尽きにき

阿武隈川流れは尽きて海見えぬ蔵王を仰ぎ船はいでゆく

松原の影長々と涼しかな白波のよす仙台までも

松原の朝の緑の清しかな蔵王を仰ぎ波のひびけり

夏の日や海岸線に波白し仙台までもつづきけるかも

阿武隈川河畔の広し競い鳴く雲雀の声や朝に行くかな

阿武隈川河畔の広し郭公の声のひびきて大橋渡る

阿武隈川土手の袂に社古り夏の日よりぬ日影涼しき

荒浜や河口に浪のひびくかな夏の海より鴎とびくる

阿武隈川河口広がる郭公の鳴く声遠くひびきけるかな



(二木の松)

岩沼の女しあわれも日傘さし二木の松の下を行くかな

二木の松謂われも深き岩沼に夏の真昼や旅人よりぬ

岩沼に藤の花咲くあわれかな二木の松より旅人去りぬ

二木の松芭蕉のよりしと夏の日や汗をぬぐいて我が寄り去りぬ

二木の松我が立ち寄りぬ岩沼の相馬に近き夏の日暮れぬ


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阿武隈川くらい大きいとやはり川のドラマがある。人の一生にもにている。遂に最後に太平洋が開けて大河は海にそそぐ、荒浜からは船が江戸まで出ていた。仙台藩で米を運んでいたのだ。大河が海にそそぎ海は江戸に通じていたのである。阿武隈川の土手はサイクリング道路として整備している。平らなところはサイクリングに向いているのだ。そして必ずビュ-ポイントがある。阿武隈川では梁川で写真を出したけどあそこの大きく蛇行して急流となるところがビュ-ポイントだった。最後は海にそそぐ阿武隈川もビュ-ポイントである。ただ鳥ノ海は大きい自然の海かと錯覚していたが小さい漁港の湾だから景色的には良くない、蔵王は見えるが景色的にはそんなに良くない、むしろ岩沼に行く一面の松原の海岸線が見物だった。その松原から残雪の蔵王が美しかった。あそこがビュ-ポイントだった。あそこは車からは見れない、車が通れない所になっていた。ビュ-ポイントは実際に地元の人でないとわからない点があるのだ。鳥ノ海より松原から蔵王を見ると美しいし海岸線もどこまでもつづいているので夏らしかった。


阿武隈川の土手を上って行ったらいつのまにかに岩沼についていた。そこで二木の松というのがありあれこれが二木の松かと思った。確かにそれらしい松になっていた。阿武隈川に出て河口から岩沼に来て二木の松を見るのも不思議だった。あれもやはりみちのくの歌枕だったのだ。この時期確かに芭蕉が寄ったのだ。
 

名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日逗留す。

あやめ草足に結ばん草鞋の緒

菖蒲が咲いているとき確かにここを通ったのだから今の時期だったのである。その二木の松の下を日傘をさした女性が歩いてゆくのが絵になっていた。今日は本当に夏らしい夏がもどってきた。こういうふうに電車だけでは旅にはならない、電車からおりて二木の松を見るのとはるばる歩いてきて二木の松にたどりつくのとは大きな感興の違いがでてくる。旅は過程でありアプロ-チの仕方で同じものを見ても違って見えるのだ。今の時代は旅をするには自ら回りくどく演出しないとできくなっているのだ。余りにも簡単に行くことができるし通りすぎることも多いからである。
今日は朝六時の電車で行った。やはり朝は気持ちいいし蔵王がどこからも見えた。亘理から見える蔵王はきれいである。でも松原の上に見えた蔵王の写真は蔵王そのものが写っていない、今回は景色はそれなりに良かったがいい写真がとれなかった。遠景はなかなかいい写真がとれないことがある。

2010年02月27日

伊達政宗の紋章

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伊達政宗の紋章

伊達政宗は海と縁が深い、海を望み最後はスペインにまで使者を派遣た。だから海の色がにあうのである。東北であの時代にヨ-ロッパまで目を向けたこと自体例外的だった。その後も東北は海外に視野をもったことがないからだ。だから伊達政宗は海と結びつくのである。



 

2010年02月23日

冬田の中の石巻線、短歌十首と詩


冬田の中の石巻線、短歌十首と詩


石巻平泉の間に登米ありぬまだ我行かじ冬の日暮れぬ

石巻線佳景山駅や冬の日にとまるもあわれ乗る人まれに

曽波神駅何を意味するまだ知らじ石巻線に冬田広がる

誰が訪ぬ涌谷の城跡冬の日や我が下りずして過ぎにけるかな

小牛田に冬の日つきぬあわれかな栗原電鉄の今はなきかな

相馬には小牛田の碑山神の碑あまたあり冬の日暮れぬ

我が旅の尽きざるけるかな晩年を石巻線や冬の日暮れぬ

みちのくの平泉なお遠しかも冬田広がり我が帰りけるかな

品井沼その名に偲ぶここに来て冬田広がり淋しかりけり

みちのくは広しや冬に束稲山京に知らるを想いて暮れぬ


石巻平泉の間に登米があるがここは行っていない、電車が通っていないと行けない地は相当ある。
ここもだからこの年まで行っていないし行けないのだ。でも芭蕉が石巻から登米を通って平泉に行ったから一度は通ってみたい町でもある。近くでも行けない場所はいくらでもある。車がないとやはりかなり行けない場所が出てくるのだ。石巻線はこれも乗る人が少ないし良く残っていると想う線である。途中の涌谷町は初めて黄金を出したことで奈良に知られた所だから歴史的に古い。でもここを注目している人は少ないしよる人もすくないだろう。涌谷城がありその城跡の石垣が残っている。ここにも城があったのかと改めて想う。石垣が残っているのだからやはり城があったとなる。石垣だけでも残っていればそれなりに昔を偲べるのだ。でもここにも寄ってはいない、めんどうだから通りすぎてしまうだけになる。この石巻線だと一旦下りたらいつまた来るかわからないような線であるからだ。ここの駅も曽波神駅(そばのかみのえき)とかこれも何なのかわからない、佳景山(かけやま)駅はもともと欠け山であり山が欠けている、実際にそういう山があるが名前として良くないので佳景山(かけやま)にしたという。いづれにしろこの線は閑散としている。特に冬だから余計にそう感じた。でもここもみちのくでありみちのくの広さが意識される場所である。みちのくはやはり広大な地域なのである。小牛田は相馬でも小牛田の碑があり山神の碑はここの神様に由来してお参りしていた。宮城県の神様が相馬には碑となってかなり残っている。近いから実際にお参りに来ていたのである。江戸時代から地理的には伊達藩の方に近かったのである。



冬田の中の石巻線

曽波神とは何の神様だ

これも未だわからんな

佳景山とは欠けた山だったと

そんな山しかこの辺にはねえのか

涌谷では黄金がとれていた

奈良の都に知られていた有名な場所だ

それも遠い昔だな

ちょっとでも砂金がでてきたんだってな

ここには涌谷城の石垣が残っている

こんなところにも城あったのか

まだ訪ねたことはねえな

今はただ冬田が広がっているだけだ

小牛田についたな

小牛田は相馬にも碑があるし

山神様でなじみの場所だけどな

ここからでていた栗原電鉄は廃線になった

最後に記念に乗ったのが良かったな

石巻線も廃線になるのか・・・

平泉と言えばまだ遠いな

束稲山は都に知られた山だ

品井沼は大きな沼だった

この辺も昔は広い湿地帯だったな

ここも伊達領になったんだよ

なんだかオレも旅ばかりしていたけど

年とってしまったな

近くでも知らない所がまだまだあるんだよ

一生かかっても行ききれない

そのうち死んでしまう

遂には近くでも見納めになる

石巻線はその頃廃線になっているかもな

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

廃線となった栗原電鉄
http://www.musubu.jp/jijirailway.htm#kuriharahaisen
 


 

2010年02月02日

雪の松島-俳句短歌-政宗のこと

雪の松島-俳句短歌-政宗のこと

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走り去る電車や雪に椿かな

みちのくに金の障壁画冬鴎

抹茶飲む観欄亭や冬障子

鴨群れて観欄亭や冬障子

秀吉の威勢及ぶむ冬障子

政宗の伊達も威勢や冬障子

松に雪観欄亭に藩主の座

さしだせし名器の茶碗松に雪

みちのくに島の少なし冬鴎

松島や雪に散り赤し椿かな

尋ねざる奥松島や雪となる

松島や雪また雪や夜の更けぬ

塩釜に海見つ墓所や冬深む

雪となり夕べ遠しや石巻

北上川上の遠きや冬の月


松に雪かもめ飛びつつ松島や瑞巌寺の門古りて暮るるも

松に雪鴨の群れつつ波にゆれ松島暮れて旅人の去る

小松島小さく見えぬ幾度も松島たずね冬のくれかな


ねんごろに茶碗を手にし島望む観欄亭の冬のくれかな


老木の枯木の磐に根づきつつ雪の積るや松島の海

文永の碑のあり遠き松島は祈りの島や雪のふるかな

大いなる港ととならむその跡やみちのくの海に雪のふるなり

夏の日に一度はたずぬ鳴瀬町松に家古り冬となるかも

石巻冬に遠きや葛西氏の城跡古りぬ河口の島に

葛西氏は滅びけるかな石巻その跡たずぬ冬のくれかな

勝つものの陰に滅びしもののあり政宗たずぬ冬のくれかな

さらに遠し石巻より平泉北上川 に雪のふるかな

小牛田の碑相馬にあれや山神を祈り祀るや冬深むかも



歴史を知るというとき例えば伊達(だて)は派手好みとして中央に秀吉などに見せて有名になったけど実際は東北は貧しい農民がほとんどであり財力はなかった。それでも政宗は財力あるように装うために伊達者を演出した。そういう歴史的背景を知らないと歴史は全く違ったものとして解釈してしまう。また逆に秀吉の時代でもみちのくのことは情報が入りにくいからわからない、すると派手な格好した伊達者がいるので陸奥は裕福なのかと思うこともある。一方で葛西氏などは秀吉を見くびり秀吉を甘くみて滅ぼされた。その当時社会情勢を理解すること自体むずかしいことを物語っているのだ。地理的に隔絶された世界であり時代の情勢を読むことはむずかしいからそうなる。葛西氏は相当な有力な氏族でも滅びた。石巻を中心にして領地をもっていたが滅びてしまった。政宗は常に脚光をあびるが葛西氏はその陰に歴史の地層の下に埋もれてしまったのである。こういうことは歴史には常にある。政宗は余りにも華やかであり常にスポットライトをあびる存在である。でもその陰に必ず滅びて埋もれた人々がいた。観欄亭にしても冬だと冬障子であり確かに金の障壁画が残っているが秀吉の豪勢な安土桃山文化からすればとるにたらないものとなる。だからむしろ冬障子というものがにあいだとなる。みちのくには豪勢な城も文化も残らなかったのである。平泉にしても金色堂だけが辛うじて残ったように関西や京都と比べるとの規模は余りにも小さいのである。ただ政宗の時代に世界まで羽ばたこうとしたことは政宗だけだった。それだけの世界的視野を陸奥でもち得た人だったのである。

今回、雪ふってきたので奥松島から石巻に行かなかった。この頃何か近くでも遠くなっている。一日泊まることさえ容易でないから近くでも遠くなってしまった。奥松島から鳴瀬町から石巻まで自転車で行った。石巻からは必ず北上川をさかのぼる、すると石巻から平泉までイメ-ジする。それは北上川を通じてイメ-ジされるのだ。石巻からは平泉は北上川を通じて結ばれている。そうでなくても石巻からは平泉をイメ-ジする。芭蕉も石巻から平泉に行ったからである。石巻は地理的に特殊なのだ。その港は江戸まで通じていた。仙台平野の米が運ばれていた。
 

川上とこの川下や月の友 芭蕉


これは隅田川でありここでは船の行き来が多かった。北上川はそんなに多くはない、でも川が道として結ばれていた。 でも平泉となるとやはり相当奥なのである。それで「北上川上の遠きや冬の月」とかイメ-ジして作った。陸奥は奥深いのだ。平泉よりさらに奥に広がっていたのが陸奥である。芭蕉の奥の細道でみちのくの地理的感覚の基礎が作られた。だから石巻は重要な地点だったのである。宮城県関係の神の碑が相馬には多い、館腰宮やその他いろいろある。それだけ宮城県とは密接な関係が江戸時代からあった。相馬藩は伊達藩との関係が深いのである。地理的にも一体化しているのだ。いづれにしろ冬になると近くも寒いとか雪がふるとかさらに私的な事情で家から離れられないとかなり遠く感じてしまった。冬はやはり近くでもこれだけ交通が発達しても遠い感覚になる。新幹線で近いじゃないかともなるがやはり冬は遠出しにくいから遠くなる。いづれにしろ宮城県の神社が江戸時代では相馬藩の人がお参りしたとしてもやはり遠いのである。ともかく今日は夕方から松島が雪になり奥松島も雪になり石巻も雪となり平泉はかなたであり遠く感じた。でも相馬の方は夜は晴れていたのである。東北でも広いから遠いなと感じることがある。それが普通の感覚なのである。

2010年01月12日

松島瑞巌寺の歴史的背景(伊達政宗について)

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松島瑞巌寺の歴史的背景(伊達政宗について)
 

●政宗の松島を賞す漢詩

    中秋月を松島に賞す   政宗
  
    今宵月を待って吟きょうに倚(よ)れば
  
    蒼海茫々一気濃(こまや)かなり
  
    思ひ見る清光佳興しきりにして
  
    道人も緩く打たん五更の鐘

この漢詩も佳作なのだろう。五更の鐘とは朝四時頃とある。蒼海茫々としてあるごとく瑞巌寺は海に面した寺だった。BSの朝日テレビで放映してたように瑞巌寺は政宗が建立したものであり伊達家の菩提を禅宗の寺だった。武者隠しなどがあるからそもそも戦国時代から寺は武士の菩提を弔うことを第一とした建てられていた。また金沢の寺町とかあるけど要塞としての役割もあった。城の延長として寺があった。だから戦国時代が終わると役所の役割も果たしたのである。瑞巌寺がどうして青葉城近くに建てられなかったのか、海に面して建てられたのか?やはり政宗はスペインに支倉常長を派遣したように海を意識していた東北ではめずらしい英傑だった。戦国武将で漢詩を作ったのは政宗くらいしかいないということでもいかに文武両道の達人だったかわかる。文に優れていれば武に劣るし武に優れていれば文に劣るのが普通だからだ。
 

●瑞巌寺は第二の城だった

 例えば、参道が途中で屈折して本堂が見通せないことや、庫裏の「煙出」は事実上の望楼であること、巨大な武者隠しの存在や矢弾の貫通を防ぐ厚い畳など、単なる菩提寺とは思えない防御が整えられている
http://golog.nifty.com/cs/catalog/golog_article/catalog_002888_1.htm?page=2


大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』

 ここは寺というより第二の城郭だった。しきり民衆の安寧を祈ったというのも違うだろう。東北の民は貧乏だったし伊達家が華々しく装ったのは無理をしていた。それは参勤交代が影響していた。江戸では見すぼらしくしたくない、諸国の大名と威勢を張らないとならない、伊達者というとき派手にしたその裏はかえって東北の貧しさ故だった。これは宮本常一の指摘である。これは別に一国のことではない、個々人でも家族でも見栄を張るのは普通である。近親者にそういう人いたしそういう人は普通にいる。実際に金がないと思えなかったのである。実際に見栄を張って家業が倒産したとかもある。つまり江戸で伊達者とか派手な姿をみていれば事情を知らない人は豊かな暮らししているのかと錯覚するだろう。その頃情報が不足している。でも実際に東北に来た人は仙台でも貧しい街だったと驚いている。実際に東北を見た人はすぐに貧乏だとわかったのである。東北の民衆は疲弊していたのである。東北にはそもそも関西のように豪商が育つことはなかった地域である。中産階級が育たない、侍と貧乏な農民しかいなかったのである。だから会津が薩長に攻められても町民は傍観していたしかえって歓迎したというのはそのためである。会津の北にむしろ喜多方が町人の商人の街として栄えることになったのである。喜多方-喜び多い町になったのである。
 

大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』
瑞巌寺も豪壮なものにししてもやはり民衆の犠牲があった。殿様の間を作るのは普通だがその臣下の集る間まで作るのはまれだろう。ここは伊達家の重臣が集る場でもあった。だから仏教的色彩より武家的な豪壮なものとして作られている。安土桃山文化の華やかな色彩が黄金の襖に残された。それ以上にここが第二の城だからこそここで政宗が家康の幕府に攻められたら自害まで覚悟していたのだからやはり第二の城のような作りになったのである。

いづれにしろやはり民衆的な寺ではなかった。そもそも寺は民衆的な場所ではないのだ。武士にはたいした戒名をさずけるが民衆は姓も戒名も格が落ちるとか差別があった。それで明治時代になり民衆が豊になり立派な墓を造りたいとか武士と並ぶ格の高い戒名をさずけてもらいたいとかなった。これも馬鹿げているのだ。また廃仏毀釈が起こったのは神社側が江戸時代に武士社会で不遇だったからその恨みだったというのもやはりそれだけ寺が武家の菩提寺として優遇されていたからである。だから瑞巌寺に参るとき伊達家の菩提に参るのかということにもなる。歴史的にそういう性格の寺になっているからだ。純粋に僧が修行する寺とも違うのである。仙台の定禅寺通りも有名で度々書いてきたけどやはりここも政宗が禅宗を学んだから禅寺があったところである。宮城県には禅宗が多いのもそのためである。
 

●伊達政宗の側室に朝鮮人?
 

伊達政宗にしても歴史的人物ならいろいろな見方がでてくる。政宗の側室は多い。
新造の方、飯坂の局(松森御前)、塙直之女、阿山方、弘子姫、香の前(お種)、勝女姫、妙伴、
朝鮮人女子某
朝鮮人側室とともに、隠居所である若林城(現宮城刑務所)と政宗が再建した松島、瑞厳寺に、朝鮮から持ち帰らせた「臥龍梅」が残っている

政宗正室。三春城主田村清顕の女。母は相馬氏である。文禄・慶長の役で秀吉は朝鮮が陶工を連れてきたことは知られている。女性も連れてきていたのだ。女性は戦国時代では戦利品の一つだったのである。側室というのも政治の道具として女性が使われていたから多かった。必ずしも色欲からではない、戦国時代の習わしだったのである。ただ今からすると和歌もうまいし漢詩もたしなみ武将として優れているし政治家としても抜群だとなるとそういう人は今の時代にはいないのだからいかにその当時は総合的人間として育つ環境があったことを証明している。現代ではこうした総合的人間が育たない、育てられないということにかえって後退しているのである。武士の教養はやはりその生活そのもの城の中で武家の屋敷で自ずと育つ環境に庵たのである。学校とかでは養われないものが日々の生活の中で養われていたから違っていたのだ。安土桃山時代は国際的な時代でもあった。武士の間では絢爛豪華なものが好まれたのである。

滴水瓦が日本に普及するのは16世紀末で、文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)に従軍した武将が帰国後に城郭建築に使い始めた。これは異国趣味がブームとなった桃山時代の気風を反映しており、それ以前の日本建築にはこのような異国的な瓦は受容されていない。高麗瓦とも呼ばれている
http://musubu2.sblo.jp/article/29286555.html

相馬藩の大手門は大手高麗門と呼ばれているから明らかに伊達藩から朝鮮出兵の折りその技術が伝わり作られたのである。伊達藩と相馬藩は常に密接な関係があったことの証明である。
松島は古くは中世は霊場であった。

だから鎌倉後期にこの島を訪れた一遍上人(時宗の開祖)の高弟、他阿弥陀仏(たあみだぶつ)は

        紫の雲の迎いを松島や仏みるてふ名さへなつかし

と詠んでいる。

  (松島三句)

みちのくの松島に満つ淑気かな

松島に鴨の百羽や暮れにけり

冬の海鐘鳴り暮れぬ瑞巌寺
 
 
冬の短歌十首-東北の歴史的地政学
http://musubu2.sblo.jp/article/33693754.html
 
雪の松島-俳句、短歌-政宗のこと
 http://musubu.sblo.jp/article/35083956.html


 

2009年11月17日

みちのく冬の短歌十首(東北の歴史的地政学)


みちのく冬の短歌十首(東北の歴史的地政学)


伊達の領広がる春や海の風

霊山に木枯らしうなり木の葉舞う南朝滅び逃れし裔かな

山国の城にしあれや会津藩雪に埋もれて京は遠しも

政宗も天下を狙う青葉城夢はついいて北風唸る

政宗の陣を張りたる名護屋城韓国望み冬の海見ゆ

義経も政宗もまた会津藩も無念を残すみちのくの冬

政宗の大軍率い繰り出しぬ天下制覇も春の夢かな

支倉を欧州に派遣その船に夢をたくして望む海かな

みちのくに蝦夷の恨みや木枯らしのうなり吹きつつ森の鎮まる

みちのくに南部藩あり一国や城跡静か冬に入るかな

伊達藩に相馬は抗い境の木北風唸り木の葉舞い散る

(丸森-戊辰戦争の碑)
伊達藩の防ぐもあえなく討ち死にや墓に無念や木の葉舞い散る  


弘前に朝雪の降り最果ての城跡訪ね我が去りにけり


朔北の蝦夷の地なれや浄らかに雪はふるかな弘前の朝

 


東北でも弘前までとなると相当遠い、弘前城は最果ての城である。雪でも信濃の雪でも会津の雪でも越前越後の雪でも京都の雪でもみな違っている。一茶の生まれた信濃はどんよりと曇って雪に閉ざされる陰鬱な所だった。それとは対照的に弘前の雪は明るかった。朝に降った雪の光景は忘れることができない、本当に雪に浄化された光景だった。雪の感覚も場所と時で相当みな違っているのだ。旅をするときやはりその場所を歴史的見地から見ないと印象に残る旅はできない、日本だとその人にもよるがそれなりに歴史をさかのぼり見ることができる。一応城があればここは江戸時代にさかのぼる。それにしても津軽とか弘前になるとみちのくでも最果てである。実際青森県は最果てであり秋田県でも東北では遠い、みちのくというとき福島県と宮城県の範囲でありそれ以外は本当に化外の地域だった。それがわかるのは伊達政宗が日本歴史上はじめて中央の政治に影響力を及ぼしたことでもわかる。秀吉と渡り合ったがかなわなかった。それでも伊達藩の領域は東北では最大になった。伊達藩から東北を見るときどうなるのか、相馬に住んでいれば相馬藩として見るのだが伊達藩から見るとまた視点が違ってくる。伊達藩が拡大化したとき最初伊達郡でありここでは海を望んでいない、政宗は若いとき海を望むことがなかった。山国の人だった。やがて領地が松島や石巻に拡大したときそこが東北で唯一の内海と島があり太平洋に開けていた。それで太平洋をわたり支倉常長を欧州に派遣する事業を計画しえた。


そういう壮大な世界的視野をもつことができたのも海を望み船を作り得る内海と島を持つようになったからである。相馬から仙台まではそうした大きな内海がない、入江がない、だから太平洋だけが荒寥として広がりそこから太平洋に乗り出して欧州まで渡る視野がもてないのだ。もちろんそこには宣教師の力を借りたからできたことでもあった。ともかく政宗がそれだけの大きな視野をもち得たのは松島などの内海に領地を広げたからである。会津を見ればわかる、山国に閉ざされて海を見ることがないから閉鎖的になり時代から遅れて最後は悲劇となった。海でも太平洋と瀬戸内海を比べるとあまりにも違いすぎている。それから伊達藩は一見大藩でも実際は商人は力をもちえなかった。豪商とかは東北ではいなかった。西では豪商がかなりいて明治維新を応援したのである。東北はそれだけの経済力がなかった。薩摩も中国の貿易で経済力があったのだ。やはり経済力が基盤にないと大きな力となりにくい、実際個人的なことになるが百万円という金を今まで自分は自由に使ったことがなかった貧乏性である。それで自分の自由に庭作りした。金があれば小規模でも文化は作れる。個人的には家作りでも庭作りでも最大の事業だからである。その個人的なものを拡大化したのが大きな文化、ルネサンスを起こしたのである。フィレンツェのメジチ家がそうである。財を蓄えて文化に費やしたからあれだけのものが作りえた。それは天才の成果だけではない、そのバックに蓄えられた財とか技術とかを運用する力があったためである。だから豪商は立派な庭を残したりするのもそのためである。一個人でも何億とかあれば自分なりの庭作りができるからやはり東北には財がないからルネサンスは起こらなかったのである。

いづれにしろ東北は権力争いに敗れたものが逃れる場所であり中央の政治で覇を唱えることが遂にできなかった。そういう風土でもあった。だから芭蕉のような敗者に同情をよせる詩人には合った場所だったのである。
 

月さびよ明智が妻の話せん   義仲の寝覚めの山か月悲し 芭蕉

木曽殿と 背中合せの 寒さかな  又玄

東北には古代からそうした敗者が葬られた場所だった。蝦夷森と各地にある。これは東北だけではないがやはり東北には多い、いづれにしろ東北にしても実際は相当広いのだ。とても一くくりで語れるものではない、すでに福島県自体が大きい、会津は山国であり古代から別の一国であるから福島県を歴史的に一つの国と見ることができないのである。

2009年11月09日

石巻-田代−網地島-牡鹿-短歌十首(冬に入る)


石巻袖の渡りや冬鴎


船来るを待つこと長し島暮らしあわれや江戸の古き碑ありぬ

金華山ながめつ島に老いにける相馬より訪ぬ冬となるかな

荻浜に啄木寄りしは昔かな鯨もとれず冬に入るかな

鮎川に鯨もとれず何をとる訪ねて淋し冬に入るかな

点々と牡鹿の湊あわれかな牡蠣殻の山 冬に入るかな

石巻袖の渡りの冬に入る都よりはるか思う人かな

石巻袖の渡りに一本の松も古りにき冬に入るかも

石巻葛西氏の城その跡や滅びしものや冬に入るかも

北上川流れし遠く平泉石巻に思う冬に入るかも

相馬にも金華山の碑古りにける誰か詣でし冬に入るかな


相馬藩には宮城県関係、伊達藩との関係が深い、信仰も金華山でも青麻権現とか小牛田の山神関係の碑とか館腰の碑などもあり多い、実際に相馬からお参りに行っていたのだろう。最初は出羽三山とかが多い、湯殿の碑が多いからだ。その後宮城県の伊達藩への信仰が広まった。金華山は比較的新しいものである。幕末から明治にかけて金華山信仰が広まった。金比羅信仰も実は幕末から明治にかけて盛んになったのだ。明治に盛んになったということは鉄道と関係しているかもしれない、交通が便利になって遠くまで行けたということもある。そして幕末から明治にかけて農民でも豊になったから遠くまでお参りできるようになった。当時は観光がお参りでもあったのだ。それから病気の快癒を祈る人が多かったのである。医療が発達していないから祈るしか方法がなかったからである。歴史的にこのように宮城県と相馬は深いかかわりがある。名取に妙見が祀られているのが多いというのもそのためである。それから石巻から平泉とこれは一体化している。北上
川を通じて平泉とは結ばれていたからだ。石巻の袖の渡りはやはり由緒ある歴史的地点なのだろう。


知るらめや袖の渡りは時雨して道の奥まで深き思ひを(寂然「夫木」)

この歌のよう道の奥はこの辺まで知られていた。しかしみちのくの真野の草原からは相馬からはさらに遠い地域である。今は近くてもみちのくでも奥がある。今は交通の便がよすぎるから奥の感覚がなくなったのである。歩くたびなら常に奥へ奥へと誘われる旅になるのである。石巻にある葛西氏の城の跡は伊達氏が勢力を持つ前に葛西氏が治めていたからである。葛西氏は南北朝から勢力をもって陸奥に進出していた。だから霊山にも勢力をもち玉野辺りまで勢力を広げたかもしれない、その一族の笹町という名を地名に残したかもしれない、この辺はまだ考証が必要である。


いづれにしろ牡鹿半島から田代島-網地島は景観的にも魅力がある。東北で島というとき松島となるがここには人は住んでいない、塩釜から奥松島の島々には人が住んでいる。寒風島とかある。でもここは島という感じがしないのだ。明確に島として海のなかにあるのではない、陸地のようにつながっているようにしか見えないのである。田代島-網地島は本当に海に浮かぶ島である。金華山もそうだけど東北ではこうした本当に海に浮かんでいる島は少ないのである。鮎川では鯨がとれていたし、荻浜は汽船の航路の港であり啄木もここで泊まり歌を残した。かえってその頃の方が活気があった。今は牡蠣の養殖がすべてである。


陸奥の袖の渡りは石巻の説
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2009年05月27日

奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)

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奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)


---奥松島-----


波たたぬ松島暮れぬ桐の花

夏の山かなたやいづこ旅の駅

小鳥の音朝ひびきて桐の花奥松島の道をゆくかな

桐の花ひそかに暮れて奥松島心に残る島一つかな

島一つ常にし見えて安らぎぬ奥松島や桐の花暮る

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---野蒜---

広々と野蒜海岸朝開けハマヒルガオの風そよぎ咲く

広々と野蒜海岸開けたり朝の光に鴎飛びかふ

---鳴瀬町---

水濁り築港跡や暑しかな

老鶯や旧家二軒の門古りぬ

石巻河口開けて夏雲雀

石巻へ野の広々と夏雲雀

夏雲雀縄張り広くとりにけり

夏の海そそげる川の五つほど

松影の運河の道や黒揚羽

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鳴瀬川海にそそげる夏の日や鴎しきりに飛び交い暮れぬ


大きなる八大龍王の碑に祈る海上安全夏の日の朝

松二本古りて影なしこの通り古碑のいくつか夏草うもる

松一本古りて影なし道さえぐ夏の真昼に行く人もなし

この村の旧家二軒の門古りぬ松二本(まつふたもと)の影も涼しき

道さえぐ曲がりし松の残るかな夏の午後下がり人影もなし

北上川そい下り来て住吉の袖の渡りや夏の日暮れぬ

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仙石線では松島より地元の人にとっては奥松島がより松島的になる。ちょうど大塚駅からいつも見える島-松が島がポイントととなる。あの島が見えるところ景色が落ち着くのだ。今日はそこでおりて折り畳み自転車で石巻まで向かった。藤の花は散ったが桐の花は途中咲いていた。
この辺は落ち着く道だった。次に東名の駅に出た。そこからの眺めが良かった。泉が岳と不忘山も見えるとか泉が岳はわかるが不忘山はわかりにくい、少し離れて並んで見えるのがそうなのか、泉が岳は松島湾の海上から常に見える。5月だとまだ雪が残っている。一日でも旅である。一カ月くらい平気でどことなくふらふら旅していたことが今では考えられない、一日しか旅できない、でもやはり旅は旅なのである。これだけ旅してきたとなると常時旅に何ていたのだ。夏はやはり一番旅に向いているのだ。特に今の時期は一番向いている。

ここか野蒜海岸に出た。ここは広々として気持ちがいい、すでに砂浜にハマヒルガオが咲いていた。ここから鳴瀬川と吉田川の合流する河口にでた。しきり鴎が飛び交う河口だった。釣りする人がいた。「〜だっちゃ」という言葉を良く使う、だよね・・・という意味、最近仙台近くから家に手伝いにたまにきている人も・・・だっちゃ・・・という、おそらくこれは岩沼辺りまで使う方言かもしれない、阿武隈川を越えるとそうでもないかもしれない、でも白石でも使うとなると宮城県は一般的に・・だっちゃなのかな・・・相馬弁ではだべえ・・となるんだろう。
ここの河口で八大龍王の大きな碑があった。嘉永(1850)とあるから江戸後期である。この鳴瀬町からも鳴瀬川で船が利用されここに港があり米などが運ばれていた。だから海上安全の大きな碑が立っていた。八大龍王というのは海の守り神だったのか、これは目立つ碑だった。川を渡る向かい側は鳴瀬町でありここの河口には築港跡で有名である。

貞山運河
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野蒜築港(絵)
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この港は壮大なものだった。鳴瀬川や北上川や阿武隈川まで運河で東北を結ぶ物流の拠点となる港だった。いかに鉄道ができるまえは川を交通路として考えていたかわかる。川を交通路としてどう活かすかが交通を発達させる基本だった。川は海と通じて海外までも通じることができるからである。その拠点がここだったのだ。

鳴瀬町は鳴瀬川から名づけられた。川の方が重要であるから川のそばにあるから鳴瀬町になった。もともと村や町の名があり川の名前となるのが普通である。吉田川はそうだろう。ここの河口には浜市村とかもあり浜で市が開かれていた。もともとそういう人が集る場所だったのだ。今回注目したのが白萩とか平岡、牛綱村とかである。ここは人もほとんど通らない閑散とした村だった。確かに家が密集しているが往還などとある幹線道路からはずれている。車もほとんど通らない静かな村だった。そこで目立ったのは松だった。それも古くなり大きな松だった。老松町とかあるがここがその名にふさわしい村、町だと思った。曲がった松が道をさえぎったままになっている。あれではトラックは通れない、トラックは通らないのだろう。松が主人公になっいる村だった。普通だったら車の通行に邪魔だから今ならあの松は切っているのが普通である。
それがあのように曲がったままのこしているのだ。曲松町とか曲がった松の名を地名としている所もある。その古い松の下に古い碑が夏草にいくつか埋もれてあった。文政(1820)くらいのもあった。

ただここが静でいいなと思ったが実際はそうではなかった。このすぐ近くに自衛隊の航空基地があって飛行訓練の爆音がすさまじい。そこでがっくりした。こんなところに忘れられたように村があったなと思ったけど突如飛行機の爆音が空をつんざくようにひびいて平和は乱されてがっかりした。夏雲雀の石巻までの野にさえづっていたがそれも飛行機の爆音でかき消された。沖縄でも風光明媚でも基地があり騒音で悩まされている。松島も風光明媚でも自衛隊の基地があった。これは戦前からありつづいている。これでは風流も破壊された。
芭蕉が「人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。」ここは実際そういう場所だった。松島を出て奥松島になると淋しくなる。石巻で突然繁華な港になる地域だったのだ。今もその感じがあったが飛行機の爆音でかき消された。あんな所に住みたくないと思うようになったのが残念だった。

その後は北上運河沿いを延々と走った。ここも松が延々と影なす道で気持ちよかった。そして住吉公園の袖の渡りにでたが藤の花はすでに散っていた。北上川を下りこの川が平泉まで通じている交通路であることを再認識した。やはりある程度自転車など実地に見聞しないと地理の感覚は身につかない、今回は一日の旅でも内容が濃い旅になった。一日でもこれだけの旅ができるし相馬⇒仙台⇒石巻は交通の便もいいし奥松島でおりても石巻まではかなり近いことがわかり一日の行程として結ばれていることを実地に走り納得した。福島県は地理的一体感がない、阿武隈山脈にさえぎられ、会津は交通の便が悪く日帰りでは行きにくい、宮城県は日帰りコ-スであり特に海岸の石巻まで交通で一体化していることがわかる。
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2009年05月26日

仙台から小鶴新田で途中下車(仙石線の旅)

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仙台から小鶴新田で途中下車(仙石線の旅)

新緑や小鶴新田に若き母

躑躅映え若き母押す乳母車

鳩の来て空地にクロ-バ-朝の駅

夏の朝小鶴新田途中下車

夏の朝小鶴新田に雪残る泉が岳を我が望むかも

母思ふ小鶴新田に残る古歌我が心にしみて家に帰りぬ

90過ぐ母を思ふ日知るべしやここより帰る夏の夕暮

宮城野その涯(はて)広く知らざりき小鶴新田夏の陽没りぬ

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小鶴新田駅へ仙台から乗った。小鶴新田駅までの電車が結構でている。この駅は最近できたのか、
2007年度の1日平均乗車人員は4,698人である。2003年度、開業直後の1日平均乗車人員は、1,166人だった。宮城県仙台市宮城野区新田東三丁目にあり「新田東駅」から名前を変えた。ここは住宅地として発展した地域だった。仙台はやはり発展する地域、拡大化する地域があり若い街なのである。だから若い母が目立つ、郊外にも若い人が目立つ、一方小さな町には若さを感じない、老人化、高齢化で若い母は少ないのだ。宮城野というともともと淋しい地域だったが宮城野には全くその面影はない、でもそこから小鶴新田まで来るとまだ野が広がっている。宮城野延長としての野の感じがまだ残っているのだ。ここからは雪の残る泉が岳も見えて気持ちよかったここで意外な発見は古歌が残っていた不思議である。


千歳ふる 小鶴の池も かわらねばおやの齢(よわい)を 思いこそやれ (源重之集)

こんなところに新興地にこんな古い歌が残っていたのが不思議である。小鶴の池は変わらないけど親の齢はたちまち変わり老いるものだという意味だろう。しかし今や小鶴の池はないしその自然こそまるで変わってしまった。古代では自然の変化はすくないからこの歌ができたのである。つまり自然は変わらないものだが人間は変わるものだというのが古代の常識である。今は自然の方が先に変わる。
宮城野は古いから残っているがここには残っているとは思っていなかった。宮城野からはやはり湿地帯や沼地が多かった。新田は湿地帯を埋め立てて田を作った。そもそも小鶴とは鶴とつく地名はいたるところにある。小鶴明神というのは南相馬市にもある。鶴と関係して伝説を残しているがこじつけなのだ。鶴とは関係ない、ツルは湿地帯のことである。ツルツルするというのにその名残がある。古代郷名で「小鶴郷」が南相馬市にあるから古い地名の名づけ方なのである。とにかくここには新しいものばかりと思ったが古い歴史があることもわかり興味深かった。老いた母が確かに待っているがまさか90過ぎまで生きた母を思うということは想像すらできなかったろう。せいぜい50か60であり90過ぎてるよと知ったらそんなことありえるのかと古代の人は驚くだろう。やはり旅は途中下車が面白いことがこれでもわかる。何かしら必ず謂われや見るべきものがあるからだ。


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仙石線の旅は次は奥松島⇒野蒜⇒石巻まで折り畳み自転車でつづくので御期待!


                                                                                         

2009年05月23日

陸奥の袖の渡りは石巻の説

 
 

陸奥の袖の渡りは石巻の説
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これは長文になったのでホ-ムペ-ジにのせた。

石巻(袖の渡り)

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(石巻)

夏の朝海見え鴎一羽飛ぶ

みちのくの川もそそぎぬ夏の海

川と海交わる夏の石巻

石巻かもめあまたや夏の海

古の袖の渡りや松に藤

釣り人や袖の渡りに松と藤

夕藤や袖の渡りの松古りぬ

夕焼けや海風そよぎ石巻

女川へ線路伸びにき夏の夕

海よりの夜風涼しき石巻


石巻海より朝の風そよぎ船の泊まりて藤の花垂る

藤棚の下に休める人や松古りて釣り糸たるる石巻の人

夏の日に袖の渡りに我がよりぬ芭蕉もよりし社の古りぬ

藤垂れて袖の渡りの松古りぬ旅路よる袖の渡しに夕風涼し

海よりの夜風涼しき石巻ギタ-をひきて若者歌う


石巻の袖の渡しに実際に立った。風光明媚ないい場所だった。それで今でもその場所の雰囲気が残っているからここが袖の渡しと理屈ではなく直感した。千年たっても場所自体は変わっていない、芭蕉が立った場所自体は変わっていないのだ。そこに立ち寄る人間が変わっただけである。だから以前として旅するとき歴史を知るとき場所の意味は大きいから一度でも歴史の場所に立つことは大きな意味があるのだ。石巻には夕方も袖の渡しに行くつもりだったが道に迷い行けなくなった。暗くなり二時間くらい自転車でさまよっていた。それで考えたことは昔の人は一回限りしか歌枕の名所には立てない、人もは場所も一期一会であり二回来ることは本当にまれである。西行だけは平泉に二回来たが江戸時代になると芭蕉でも他の俳人でも一回は来ているが二回は来ていない、だからこそ千載の記念(かたみ)としての奥の細道が成ったのである。今のようにまた来るからいいやとかそうした軽い気持ちではない今生の別れとしての人であり場であったことは違っている。今でも遂に人は別れ旅してもその場に二度と立つことができなくなる。ここ四年間遠くに旅できない、今からもまだ旅できないことを自ら経験して痛切に感じたのだ。老人になると人が逢うことこそ不思議である。何故なら死ねば永遠に会えなくなる、人間がこの世で逢うことこそ不思議であり普通ではない、そもそも別れこそ常であり永遠に会えなくなることこそ普通であり今生で会っていることこそ不思議だとなる。六〇年一緒にいようがそれは同じだった。この世で人と人が逢うことこそ不思議である。なぜなら永遠に会えなくなる、そのことこそ常である。

陸奥の袖の渡りは石巻の説
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2009年05月21日

網地島創生(詩)


網地島創生

 


外海の波はげしく打ちつけぬ岩場かな

島一つ神の手に打ち固められぬ

力強くも海に抗い成りにけり

ここも神の住む場と斎き祀れ

島にひびける波の音やまじ

波うつ岩場鴎の群れの一心に飛ぶ

夏の日真近に金華山を仰ぎ見て

今し牡鹿半島の緑うるわし

神の御意にし固くその場を占めぬ網地島

田代島と相並びつつ友誼を深む

時に鯨の潮吹きあげ通る海

そは神の恵みとかしこくも祭られけるかな

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2009年05月20日

奥松島⇒石巻⇒田代島⇒網地島⇒鮎川(夏の日)

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奥松島⇒石巻⇒田代島⇒網地島⇒鮎川(夏の日)




 
朝光る海や桐咲く奥松島

島一つ奥松島や藤の花

夏の海荒れてゆるるや小型船

初夏の海にい出るや島二つ 


静けさや石に落ちなむ桐の花

老鶯や茅葺き二軒船泊まる

老鶯や年金暮らしの島の人

老鶯や船待つ島の暮らしかな

老鶯や船の巡りぬ島二つ

金華山鮎川に仰ぎ夏つばめ

三陸へかもめ飛び行く夏の夕

夕暮るる小網倉小積藤の花

夕暮れや牡鹿の浦々藤の花

浦々に夏の夕日や牡鹿かな


 

 

灯台に老人寄りて語るかな小舟さしつつ夏の海荒る

網地島灯台一つ老人の昔を語る夏の海荒る

文化の碑もあり古りぬ網地島細き路地行き老鶯鳴きぬ

網地島細き路地行きその辻に菖蒲の咲きて一人逢うのみ

大きなるかたつむり二つ殻拾ふ夏の昼下がり網地島の道


わずかなる土地を耕す島の人波のひびきて夏の海見ゆ

島の中やはり空家や夏の日に草むし淋し誰か住みなむ

住む人の変わらざるかな網地島阿部氏の墓地や夏の日暮れぬ

夏の夕牡鹿の浦々波静か藤の花垂れバスの行くかな

 
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  (網地島にて)
 
石巻から船で田代島から網地島に向かった。途中田代島の大泊に船が泊まったがそこに二軒の茅葺きの家があった。前はみんな茅葺きの家だったのだろう。田代島も網地島も江戸時代から人が住んでいた。網地島には文化時代の金比羅の碑があったからだ。網地島におりて一時間くらい折り畳み自転車で走った。というよりは島特有の細い道なので歩いた。一すじの道を行くと灯台があり激しく波打ち寄せる岩場に出た。その灯台により一人の老人がいた。しきり小舟をさして漁のことを言っていた。
 

「私は昔は海で働いた、外国にも行った、今は年金暮らしだよ、妻と二人」
「島には若い人は今は住まないでしょう、老人が多い」
「あの舟見ろ、網で魚とるんだよ、あんな舟でも三百万くらいするんだよ」
「ええ、そんなに、大変だ、今は魚とれなくなってますから」

この老人はなぜかその小舟をさして話する。相当気になっいる。おそらく知り合いの人がのっているのだろう。この島ではたいがい知り合いである。墓地はみんな阿部一族だった。こういう島では他から入る人はいなかったからだ。ここからは金華山がまじかに見えるし鮎川も対岸であり船ですぐつく。
 

「この辺では昔鯨とれたでしょう」
「鯨は今日のような波が荒いと来ないんだ」
「波が荒いと来ない」
「波が荒いと魚もとれない」
「波が荒いとだめなんだ」


確かに小型船で来たからかなり波にゆれた。相馬の松川浦でも魚がとれて売りに来るの買っているけどしょっちゅう海が荒れてとれないというから海の漁は天候に左右される。それでシケているという言葉は海で漁をする人からもたらされた言葉だった。シケる荒れるだからである。
ここの昔を考えるとやはり魚がとれないと畑もわずかに耕している人がいるけど米もとれないから米を買う必要がある。島の暮らしはなかなかわかりにくい、でもここには文化や文久の碑があったから江戸時代から人が住み暮らしがあったのだ。鮎川は鯨で有名だからそれで人が集ったことはあるし遠洋漁業で稼ぎ年金暮らしになった老人が島に住み着いているのもわかる。

「廻船業をいとなむほどの者ならば豪放闊達でおそれ知らぬ持ち主でなければならなっかった。その気宇を失ったときはどのうように栄えてもたちまちにして滅びるものであり廻船業の栄枯盛衰はじつにはげしいものだった。」海に生きる人々-宮本常一
 
海で暮らす人は平地で山で暮らす人は気質的にも相当違ってくる。波のゆれるなかで常時生活している人、安定した平地や山で暮らすのはそもそもそこから違っているからだ。これは文学的に外部から推測しても実感は出ない世界である。日本人の気質として山が遠いからヤマトが国名になったけど回りが海に囲まれているのだから海人の性格も深く混入されている。海彦山彦であるが海彦の国でもあったのだ。
いづれにしろ島の暮らしは陸地の暮らしとはかなり違っている。そこが一つの小宇宙となってしまう。だから人の存在感はその小宇宙のなかで限定され存在感をもつのである。でも病気になったりしたら困るだろう。ここにも医者はいるらしい、・・・医院とかの車が走っていたからだ。外からたまに訪ねるにはいいが島は一種の牢獄みたいになってしまうのだ。これは島だけではない、どこに住んでいたってそうなってしまう。「町は極めて狭く大男一人ふさがれば犬も通れぬような気がする古風な家がわずか五六十軒ばかりある」荻浜を啄木がよったときの感じをうまく表現している。古風な家とは田代島の大泊の茅葺きの家が港にあったのだ。荻浜だけでなく島はみんなこんな感じになる。何しろ狭いからそうなる。つまり島では人はみな大男になってしまうのだ。人があふれているところでは人はみんな小人になっている。人は人の中に埋もれて存在感がないのである。
今回もやっと一日だけここに来れた。ここに来たの始めてだった。東北では島はまれである。こうして外海に接してある島は田代島と網地島くらいである。奥松島の島は島という感じがしなかったからだ。つまり内海にある島であり島という感覚がもてない、陸地の延長のように見えたからである。この二つの島は島らしい島なのである。

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網地島から船で鮎川に渡るとすでに夕暮れであったが燕がしきり飛んでいた。鴎も牡鹿半島から三陸の方へ飛んで行った。気仙沼まで一回自転車で行ったことを思い出したからだ。ここからバスが出ていたので助かった。金華山は東北では江戸時代の碑があり明治にも東北の人が相当来ていたのだう。なじみのある参拝する島だった。鮎川からバスに乗った人は一人である。ずっと一人しか乗らなかった。でもあそこでバスがないと泊まる他なく不便になる。バスはやはり必要なのである。、土日はのる人があるのだろう。第一バスで5時ころ石巻に出ても帰れなくなるのだから乗らないことはわかる。旅にでも行くならいいが普通は往復できないのだから乗らない、途中小網倉はか小積とかにとまる。まるでただバス停は地名を記憶させるようにとまる。それでもこの辺は浦々がつづき波静で景色がいい、荻浜には明治時代、北海道からの定期船が通っていた。そこで啄木が荻浜により短歌を残した。明治時代はまだえと時代の延長で結構船を使っていたのかもしれない、北海道まで汽車で行き青函連絡船の時代もつづいたから船は重要な役目を果たしていたのだ。支倉常長の航海などが松島とか牡鹿半島の入江から出たことは納得がいく、必ず外洋への航海には内海が必要でありそこから外洋へ船を出して行く、船を作る技術も気仙大工とかに培われてあった。宮城県の松島と牡鹿半島、三陸には入江が多いのだ。だから海の文化が東北で太平洋側であった地域だった。ただ海は今も危険であり江戸時代でも遭難した船のことがいたるところで記録されている。不思議なのは伊達藩で仙台から福山まで船が出ていたことが記録されている。伊達藩は大きいから瀬戸内海まで交流があった。
 
次は石巻の袖の渡しについて
 
 
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2008年09月03日

仙石線−松島(瑞巌寺)−石巻線−夏の俳句

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仙石線−松島(瑞巌寺)−石巻線−夏の俳句
 
 


新しき駅一つふえ朝の蝉


向日葵や子を抱く母仙石線

曽波神は何を語るや初秋かな

佳景山の駅はつに知る初秋かな

瑞巌寺石窟古りて蝉の声

瑞巌寺門いで涼し海の風

杉木立苔に秋日や古仏かな

青々と苔雨に濡れ蝉の声

水写る蓮と睡蓮争わず

お釈迦様瞳に二つ蓮の花

遣り水に苔にソバナや茶亭かな

日日草今日のメニュ−や店に入る
 
今日は久々に仙石線から石巻線で小牛田に回り東北線で松島にきて瑞巌寺にちょっとだけよった。天気はぱっとしないが今になり暑い、残暑である。
 

『式内社調査報告』によると
明治四十二年十二月、曾波山の愛宕、雷神、
上中坪の高玉などの神社を合祀したとあるが、
現在、愛宕神社は、山頂の別の社殿に祀られている。
また、『平成祭データ』には
境内社として高玉社の名が記されている。

 
佳景山(カケヤマ)の名前の由来は、欠山という山から来ています。佳景山駅の裏側にある山がそれです 桃生郡河南町鹿又字欠山がある。

曾波山は由来がわからないが高玉氏の氏神かもしれない、高玉氏については相馬の郷土史研究で書いた。高玉氏は伊達氏に滅ぼされたが相馬氏と伊達氏に子孫を残したのである。佳景山とは美しい山と思ったが欠山であり欠けている山だった。これでは印象が悪いので当て字で佳景山にしたのだ。こういう地名が結構ある。確かに欠けている山となるとなんか感じが悪くなる。人間はイメ−ジに左右されるからだ。
 

電車の旅は駅名の旅であることは何度も書いてきた。駅名だけが印象に残るたと多いのだ。曾波神駅は何だろうとなりいつまでもその名が心に残りその由来を知りたくなるのである。仙石線は仙台の通勤圏でありひまわりがにあう。常磐線は通勤圏は亘理くらいまで通勤圏である。
 
瑞巌寺の特徴は海に面して海の寺である。江戸時代から塩釜から大きな船で松島巡りをして瑞巌寺に参拝したのである。参道の脇の石窟の仏は古いものだろう。最近雨降っていたから青々とした苔ににあっていた。瑞巌寺周辺は良く和風の世界が作られている。外人も松島にはかなり来るからそうした日本文化と調和した世界を見せる必要があるのだ。すべてが商業主義になるとこれもむずかしいかもしれない、でもここで調和するように制限されているのだろう。

 
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2008年05月21日

宮城県-丸森の金山城跡へ

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宮城県-丸森の金山城跡へ 


残雪の蔵王を仰ぎ農作業


新緑や蔵王の見える地宏し

金山城我が上りゆく落椿

夏草に切り株埋もれ城の跡

遠き日の屋敷の跡やシャガの花

草分けて城跡の道シャガの花

草深し日影ににあうシャガの花

老鶯や道のり遠し相馬まで

山越えて他国の空や夏雲雀

夏山のかなたは相馬金山城

新地駅海風涼し夕べかな

丸森を我がさりゆくや桜咲き夕べあわれや相馬近しも

金山城伊達と相馬の攻防の城や古木の青葉に風鳴る

夏の日に蔵王を望み相馬へと我が帰るかな時鳥鳴く

金山城その跡淋し何語る夏草埋もれシャガの咲くかな

雄々し蔵王を望み相馬へ我が帰るかな夏の夕暮

桐の花一輪道に散りひそか新地にゆく人まれに事なし

丸森は相馬から近いと言っても相馬市からは結構遠い、台風の風がまだ吹いていたので電車で岩沼から東北線で槻木(つきのき)まで行き乗り換えて阿武隈急行で丸森まで行った。こういう行き方は実際は昔はありえないので昔を偲ぶことができなくなる。電車は前にも述べたけど瀬戸内海の福山城は駅のすぐそばにある。というより福山城が駅のようになっている。電車でのりつけるようになっているが実際は瀬戸内海から船で行った人も多い、船の交通があり船が便利だったからだ。電車は歴史的過程を無視するから昔を偲べなくなる。相馬の城から峠を越えて丸森の金山城と行ったときそれは歴史の道なのだ。一時は金山城は相馬藩に属してあとで伊達の城となり伊達政宗初陣の地ともあり相馬と境をなす要衝の地となった。相馬の本城があるとすると出城なのである。だから密接な関係があったのだ。相馬からしょっちゅう行き来してしていた城だったのだ。距離的にも相馬から近く行き来しやすい場所だった。それでも昔は歩きでも馬でも遠いとなる。自転車でも遠いという記憶があった。それで電車にしたのだが実際は新地駅に回ると意外と近かった。折り畳み自転車で新地から帰ってきた。
 
金山城はこの年まで何回も丸森に行って見なかったというのは失敗だった。遠くの方ばかり旅していて注目していなかった。ここの城も石垣が残っているから何もないよりはいい。そして錯覚していたのがインタ-ネットの写真で見た石垣は立派に見えた、こんな立派な石垣残っているのかと不思議に思った。なぜなら小さい城だからである。実際に見たらこの石垣はかなり小さく粗末な石組みであった。写真と実際で見たものとは違っている。写真の方が良く見える、きれいに見えたり大きく見えたり立派に見えたりするのだ。これは人物でもそうだろう。写真は錯覚を作り出す場合がある。テレビもメデアも実物を見ているわけではないから錯覚を作り出しているのだ。どんなにテレビや写真の映像を見ても実物とは違うのである。でも錯覚してしまうのである。これは石垣が残っていても相当貧弱な粗末なものでありこの城にかえってふさわしいものだった。立派な石垣を作りえようがないからだ。それでも石垣が残っているだけで他とは違っている。ほとんどこの辺の小さな城は残っていないからだ。
 
どんな町にも個性がある。新地には何もない、どういうわけか前にもここで桐の花の咲く時期に行き桐の花のことを書いた。不思議に今回も桐の花が一輪ひっそりと道に落ちていた。ただそれだけしかない、新地駅の特徴は海がすぐ近くであり海からの風が吹いてくる。常磐線が浜通りを通るにしても海の近いのは富岡と新地駅くらいである。新地の特徴は駅をおりるとすぐに海にでられることなのだ。
 
幽邃やシャガに古木の日影かな

夏の海新地から見える島の影

桐の花日影にひそか咲きて散る新地の町にしばしたちよる
 
前に書いた新地の句と歌である。
 

新地から牡鹿半島が見えた
http://musubu.sblo.jp/article/15012668.html.

 
今回は金山城から遠望した写真をデジカメのバッテリ-がきれてとれなかった。次は新地駅からゆくと丸森はすぐに峠を越えるだけだから近いのでまた行ってみよう。丸森はいろいろとまだ魅力ある場所である。今回は疲れていろいろ書けなかったが次にまた回想して書いてみよう。
 

2008年04月25日

浦戸諸島を訪ねて(続編2)


浦戸諸島を訪ねて(続編2)

 
島と島結ぶ小舟や春の昼

春光や島々飛び交う鴎かな

島に住み春の別れや鴎かな

朴島は宝の島と春の海

昔より生業古りぬ牡蠣棚に島の梅散り香り流れぬ

島にしも畑作りてあわれかな船待つ湊春の日暮れぬ

野々島に広き野ありと船のより春草生えて鴎飛ぶかな

石浜と味気なき名や船のよる日々の暮らしや春の訪れ

寒風沢の島に残れる地蔵なれ栄いは消えて枯芦の沼
 
東北の太平洋岸では松島は島が一番多いから特殊な地域だった。海の文化がある育つ地域だったのだ。ここでは貝塚がいくつも発見されているから昔から人が住み暮らしやすい場所だった。波は荒くないし内海になり島が点々と連なる。太平洋岸は海の魅力にともしいのだ。島や入江があることによって海は魅力をますし文化が育つ、牡蠣はすでに
その中でも牡蠣の養殖は古く今からおよそ三百年ぐらい前にさかのぼり、野々島に住む内海庄左衛門さんが、天然の牡蠣を採り集めそれを売つて生計を立てていたそうです。しかし庄左衛門はあるときこのまま採つてばかりでは牡蠣がなくなつてしまうと思い周りにあつた稚貝をあつめて一定の場所に放し育てたそうです。これが宮城の牡蠣養殖の始まりだといわれています。

牡蠣の養殖もすでに古くからはじまっていたのだ。この島々は古くから人が住んでいたということも魅力である。隣の島に簡単に小舟で行けるし塩釜にも昔から舟で行っていたから交通は島々でもあり陸へもさほど遠くないから交流できたのである。小さな瀬戸内海のようになっていた。ここの風景は京にも知られたというのもわかる。本塩釜とかここの風景を庭に作ったというのもここは都の人にも魅力的だったのである。
 
 

2008年04月16日

春の朴島をたずねて(浦戸諸島)・・・・

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春の朴島をたずねて(浦戸諸島)・・・・

朴島の小道に舞いぬしじみ蝶

朴島のタブの木古りぬ春の暮

朴島に家十軒ほど落椿

朴島の春や牡蠣殻墓所に船

朴島や菜の花匂う昼間かな

朴島の小径歩みてしじみ蝶

朴島やはや道尽きて落椿

朴島に家一〇軒ほど落椿

朴島や畑に水仙暮らしかな

朴島隠さる宝春の暮

朴島にタブの木茂り春の風

春の朝海より望む高き山

船めぐる浦戸諸島や春の暮

汽笛なり船着く港春の朝

春の朝沖にいでむや鴎飛ぶ

島々や海に面して芽吹きかな
 

many islands
facing to the sea
breaking buds


朴島に何を見なむや船の着き墓所をたずねて春の日帰りぬ


朴島は小さき島や道尽きて椿散り海の光りぬ

朴島に残れる梅の香りつつ牡蠣棚見えて散るもかそけき
 

面積0.15km2人口約40人。浦戸諸島では最も奥にあり、最も小さな島である。島名の由来は、鳳凰が住んでいたからとも、烽火(狼煙)場があった
からとも、仙台藩にまつわる宝島伝説があるからとも言われている。毎年ゴールデンウィークの時期になると、見事な菜の花が島全体を覆い尽くす。また、島内にはタブノキの原生林がある。朴島の周囲にある、大森島、鷺島、味噌玉島、烏帽子島などの無人島群は、烏帽子列島と呼ばれている。


四方を海に囲まれた浦戸は、その恩恵を受け、昔より牡蠣や海苔の養殖、又、刺し網漁などが盛んで島民の半数以上が、漁業にたずさわつて、生活して参りました。
 その中でも牡蠣の養殖は古く今からおよそ三百年ぐらい前にさかのぼり、

私の住んでいるここ、野々島に住む内海庄左衛門さん(昔は野々島村といいました)が、天然の牡蠣を採り集めそれを売つて生計を立てていたそうです。
 しかし庄左衛門はあるときこのまま採つてばかりでは牡蠣がなくなつてしまうと思い周りにあつた稚貝をあつめて一定の場所に放し育てたそうです。これが宮城の牡蠣養殖の始まりだといわれています。


朴島堂ヶ崎、共同墓地の北側畑中(行人塚)に古碑(縦90センチメートル横35センチメートル)があり、弘安10年(1287年)の碑と称し、内海喜右衛門家代々観音様と言われ供養を続けられています。
 摩滅していて判読が難しいですが、梵字の碑文が刻まれています

(朴島−歴史) 

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朴島は朴(ほほ)の花とは関係ない、当て字である。具体的な実用的な名づけ方なら烽火(狼煙)場だったのか、そのくらいしか役目がないのか、この島は実に小さい島である。そこに人が住んでいる不思議がある。それも江戸時代から住んでいる。相当に住んでいる弘安10年(1287年)の碑なのだろうか、こんな古い碑があるのか、これは本当に確かめられているのか、内海という姓は浦戸諸島に縁が深いし有力な家だった。朴島に訪ねて見るのは墓くらいだった。文化の時代の墓もあったからここから古くから人が住んでいたのである。この島の特徴は本当に小さいのである。回りは無人島が多いのにこの小さな島に人が住んでいるから不思議である。日本人はこうした小さな島の生活が基になり文化を作ってきた。こうした島にいると微に入り細に入り隈なく島一つが世界になり宇宙になってしまうのだ。そこにある一つ一つ草一本すら大事なもののように見える。草一本石ころ一つ一つまで数えるようにまでなる。それが日本の美意識を培い茶室のような文化を作ったのである。この島は実に面白い島であった。
 
墓には円が刻まれていたから禅宗の墓である。円通寺とあれば円に通じるは禅の悟りに通じる意味がある。瑞巌寺は禅宗であり禅宗は鎌倉から伝わってきてここにも伝播した。ここの無縁墓は若松家となっていた。この島にきて見るべきものはこの墓所は神社とタブの木くらいである。写真は他とそっくりのがあるがこれは実際自分がとったのものである。全く同じ写真はありうるのだ。俳句でもありうる。短歌は長いからなかなかないが俳句は全く同じものがあるし写真もあるのだ。松島はこの浦戸諸島とか歴史的にも興味深い場所だった。遠くに行けなければ微に入り細に入りいろいろ探求することになるのが人間である。ここは仙台から近い日帰り圏内だからまた行き安いのである。福島の方は岩沼で乗り換えるからめんどうになる。仙台からのびる所は交通の便がいい、特に石巻方面は交通の便がいいから行きやすい、ここには相当な歴史が埋もれているのも魅力である。
 
海から見えた高い山は泉が岳だろう、海から望む高い山は気持ちがいい、海で暮らす人には船が帰る目印となる、灯台ともなる、海からの視点はなかなかえにくいがここには海の景観と文化がある。
 
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