文化の時代は方言が見直される
(ちゃっこいはなぜこんなに東北で使われているのか)
ちゃっこいは宮城県の方言
http://musubu.sblo.jp/article/91044080.html
地元でもわからなくなった方言
http://musubu2.sblo.jp/article/91010809.html
ちっちゃこいは関東から茨城県から福島県の中通りまで広がり
福島市を境として宮城県からはちゃっこいに変化した。
ということは福島県は茨城県とか関東の影響が大きかったのか
中通りは特にむしろ古代は茨城県の影響が大きかった
ただ方言はいつそんなに広範囲に広がったのか
どうしてちっちゃこいが北海道まで広がったのか?
それは明治以降なのかそれとも最近広がったのか
北海道だと明治以降だろう
ただ方言がみんなしゃべるようになるまでは相当な時間が必要である
北前船が京言葉をもたらしたというときそれだけ交流があり
時間的にもあったからそうなった。
ただ物が入ればどうしても他の土地の言葉が入り安いのは確かである。
その物を言う入ってきた土地にない時があるからだ
それで漆(うるし)がJAPANになったことでもわかる
ちゃっこい
石巻ちゃっこいバッグ展
ちゃっこいけどアツい。
好きなんです、川崎が
「いずれ古里に戻りたいんです。好きなんですよ。川崎が」。一関市川崎町出身。現在は岩手大学農学部に在籍し、盛岡市に住む菅原花さ
ん。ストレートに古里への愛を語る一方、
ちゃっこい村のでっかい花火大会
岩手県・東磐井郡川崎村
ちゃっこい店
岩手県盛岡市南大通1丁目10−31
『ちゃっこい仙台駄がし chacco(¥500
小さい という意味です。
「あんやぁ〜、このびっきちゃっこくてめんけごど」
(あら〜、このカエル小さくて可愛いこと〜)
http://www.hougen-love.com/dialect_akita/akita_chakkoi.php
みちのくちゃっこいギャザリング***知って話してネットワークづくり♪♪♪
浅虫温泉にあるちゃっこい温泉宿、宿屋つばき - 温泉
おらんどのちゃっこい博物館「向山駅ミニミュージアム」がオープン
先日、北海道から上京してた義父がこう言って、
パートナーも普通に「そうかぁ、ちゃっこいのか〜」と。
ちゃっこい??茶色っぽい??
どうやら「小さい」と言う意味らしいです。
ちゃっこい・・・かわいい。
ちっちゃこい
今日の福島弁(中通り)「ちっちゃこい」
「
小さい」を横手゛弁で
"ちっちゃこい "って言うんだ
チッチャ に わざわざ "こい"って付けるんだな
"ちっちゃこい わらし "
"ちっちゃこい 車 " (軽自動車)
こんな 感じだな
あんなちっちゃこい子が、こんなに成長するんだな....えっ??
日曜日モリタさんと青梅のちっちゃこい山をハイキング
●宮城県の影響が大きい相馬地域
ちゃっこい、ちゃっこいとよく言う相馬生れの女性がいる。
でも相馬生れの同年代で「ちゃっこい」と聞いたことがない
そんな方言あったのかといぶかった
それでわかったんだけどその女性は宮城県の松島の男性と結婚していた。
それでその方面の方言をしゃべるようになった。
その男性は相馬に来てからも宮城県の方言をしゃべっていたのである。
そういうことは相馬出身でも名取の方に長く暮らした人がだっちゃ、だっちゃと語尾につけるので目立った。それは明らかに仙台弁なのである。
この辺ではだっちゃなど言わない、んだ、んだとしか言わない
ちゃっこいという方言は広い範囲に広がっている、インターネットで調べたら宮城県から岩手県から秋田県から青森県には確実に広がって使っている。
それからちっちゃこいとなると東京とか茨城県でも使われている
北海道でもちゃょこいとちっちゃこいが使われている。
小さい⇒ちっちゃい⇒ちっちゃこい⇒ちゃっこい
と変化した。福島弁で福島市や中通りでもちっちゃこいを使っている
相馬では使わない、「ちんちぃ」という言葉を使っていたような気がする
ちっちゃいという方言はちっちゃこいとなり関東から中通りを通り宮城に入り岩手県から秋田県から青森県に広がった。
ちっちゃこいとちゃっこいはもともと同じ意味である。
方言は狭い一地域のもののように思えるが実は関東から福島県の中通りを通って仙台から青森まで広がっていた。それは昔から中通りは奥の細道の通路であり人と物が入る道だった。相馬の方は浜通りは関東の方とは通じるのは遅い。
それにしても方言はそんなに広く広がるものなのか?
それはいつごろからそんなに広がったのだろうか
江戸時代からなのか明治とか戦前なのか、交通が発達したら方言も広がるのか?
相馬生れの女性は毎日顔をあわせていてちゃっこいという言葉を聞いていたからいつのまにか無意識にしゃべるようになった。
普通方言はその土地に生れていなと簡単にはしゃべらないだろう。
だから方言はそんなに広がると方言ではないようにもなる
関東から東北から北海道までちっちゃこい、ちゃっこいを使っていたら方言なのかともなる。
方言の研究はそもそもむずかしい、調査するにしても直接聞くとなるとむずかしい。
●方言は文化であり文化の時代は地域性を追求する時代
ただなぜ方言に興味をもつかというとそれがその土地独特のものだからである。
方言は文化であり標準語は文化ではない、国々の言葉みんな違っていて文化である。
人間社会は地域性があった方がなんでも面白い。みんなどこに行っても同じじゃないかとなるとつまらなくなる。
海外旅行したってどこでもグローバル化で一様化したら面白くない。
ベルギー人が「自分はベルギー人」だというときベルギーという国にこだわっている。
ベルギーってなんなのだというと他からわかりにくいからだ。
文化の時代というとき地域性を出すことが魅力を作る。だから言葉だってもてなすのにも標準語ではなく方言があたたかみがでてくる。東北は全国になるとずーずー弁はしゃべりたくないということはある。
でも方言がないと何かその土地の特徴が出せないのである。
これからの時代は何でも地域的なものにこだわる文化の時代になる。
自分は自分の生れた土地にこだわり自然を基に詩などを書いてきた。
必ず自然にはその土地独特の景観とか地勢とか石でもある。
そういう土地土地の自然と一体化してゆくアイディンティティ化してゆくことが文化なのである。
一時は東京化してどこに行っても同じだとなり旅もつまらないとなった。
それは地域性が消失してしまったからである。
その土地の個性を作り出すのは自然である。
その自然は樹や石でも山でも長い眼でみないと会得できない
旅では一時的に滞在するだけだから深く見れないのである。
いづれにしろ東京一極集中になったら面白くない社会である。
経済効率はいいにしろ地方は衰退するから文化も衰退する。
自分は東京の大学に四年間いたけどその後は故郷に帰った
それからは地元志向であり主に自然との一体化を計ってきた。
それは文化面だけではあるがそうだった。
もちろん全国を旅していたが基点となるのは故郷の自然だった。
いづれにしろ経済効率性を追求すると多様な生活は失われる。
山には山の暮らしがあり海には海の暮らしがありということで
文化の多様性が保たれていたのである。
こうして地域性を追求するとき、津波や原発事故は相当に打撃だった。
地域の衰退に拍車をかけて村も町すら消滅する危機になった。
土地のものを食べさせようにも放射能汚染でできないとか
苦しい立場にたたされたのである。
だから津波原発事故地域はその将来像を描くことは本当にむずかしい。
町自体村自体が消滅するとなるとゼロからまた作り直すのは容易ではないから
町から人が流出してゆくだけである。