
町中を行きてソバナの咲くあわれ行く人もまれに雨しととふる
和名は軟らかな若葉を蕎麦菜(そばな)にたとえ,また岨菜(そばな)で、昔、山仕事をした杣人(そまびと)が使った
杣道沿いによく生えるところから名がついたといわれている。
小さな町の脇道にソバナの花が咲きはじめていた。この花は普通山に見かけるものだった。それが町の中の歩道に咲いていた。このような花が咲くのにふさわしいさびれた町だとなる。でもそうした花が目にとまるのもさびれて静かだからだとなる。あまりにもにぎやかだったらこうした花に眼を向ける余裕もないだろう。自然は大都会では映えにくいのだ。5万から10万の市ではかえって自然と人工美が調和して映えることがある。生活自体はそうした規模だと一応生活に必要な物はそろうだろう。介護になってから今やこんな小さな町を毎日行き来しているだけである。前は通っていたにしても注意していなかったが毎日通る、通るとここに飲み屋があったとか今まで気づかないことが気づくのだ。こんな小さな町でも気づかないということがある。買い物がス−パ−だし街自体が生活とかかわりなくなったためともいえる。街の通りは生活とかかわりなくなると買う人にもかかわりのない死んだ街になってしまうのである。
カテゴリ−に分けるというのもわからなかった、このプログはかえってホ−ムペ−ジ作りよりわかりにくかった。簡単なことができないし自分仕様にできないのだ。忙しくてこうしたこともよくわからなかったのだ。今日の一句一首は認知症日記と一緒になって書きつづけたが分けることにした。認知症に関心のある方は認知症日記を読めばそこにまとめられることになる。でも前に書いたものはかなりあるからこれをまとめることができない、これはリンクでホ−ムペ−ジの方でまとめるという方法がある。プログは日記形式だからホ−ムペ−ジのような作り方ができないので困る。