2006年07月17日

吉野の桜(桜前線の短歌追加)

yoshinonohanapic.jpg


夢になお吉野の花の散りやまじ

吉野なれ足下を埋む花の屑

朝風に吉野の桜流れ散る


桜前線の短歌

http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm

花は散り吉野を去るやみちのくの我と別れぬ都人かも

みちのくゆ訪ねし我や花散りし後にたたずむ西行庵に

さし昇る朝日に映えて暇もなく花吹き散りぬ吉野山かも

一陣の風に散れども尽きせぬは吉野の桜山を染めにき


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき(西行)

わきて見む老木は花もあはれなり今いくたびか春にあふべき

老づとに何をかせまし此春の花待ちつけぬわが身なりせば


(なお生きて吉野の桜見なむかも時のうつりのはやかりしかな−老鶯)

吉野山奧をも我ぞしりぬべき花ゆゑ深く入りならひつつ

(花にそい吉野の山の奥に入る古巣の跡に西行の影−老鶯)

旅を30年間してきて今や旅は思い出す旅となった。旅はありありと思い出せば旅していたのだ。でも団体の旅とかグルメの旅は旅ではないだろう。移動であり旅とは違った現代の観光旅行である。本当に旅している人は現代ではまれだし旅が昔のようにできなくなった。だから旅人も存在しえないのが現代なのである。

今旅を回想して10回も行ったのが北海道だから北海道はまた行きたいし次に京都とか奈良とか吉野もいい所である、というよりそこが日本の国が起こった歴史的な地点だからそうなる。吉野の桜はやはり特別である。咲く場所が特別にいいのだ。やはり桜で一番いいのは吉野である。そこにもまたもう一回行ってみたい、今や本当に私が行けるどうかになってしまったから旅のことを回想している。今や二度と見れなくなるということを考えたことがなかった。しかしそれが現実になることがあるのだと実感した。そうした特に美しい場所に行けず二度と見ることなく死んでゆくかもしれないということが現実となってきたのだ。そうすると吉野の桜を心置きなく見たことこれは貴重な時間だと思った。そうした美しい光景を二度と見れなくなる。病気になったり介護になったりしたら旅ができなくなる。するとそういう自由な時間がいかに貴重だったかを自覚したのだ。


ナポリを見て死ね
吉野の桜を見て死ね


もし死ぬ前に最後に見たいものは何か?あなたはこの質問に答えられるか?ええ 別にいつでもまだ若いし行けるからそんなこと真剣に考えないよ、若いのならそうなんだけどこれが老人になってゆくとそうならない、健康で自由に行ける人もいるがもし自分自身が病気になったり介護する方になったりと何かあったら行けなくなることがありうるのだ。そしたらもう一度富士山を拝みたいとかなる。文字通り見納めとして拝みたくさえなるのだ。それはもう二度と見れないということが現実になっているからなのだ。そして失われた時間はもどってこないのである。あなたに与えられた時間は消失してしまうのである。この世の濁世を迷宮をさまよっているうちあなたは白髪頭となりその迷宮を出た時、実は墓に入ってしまうのだ。だから濁世とかこの世の迷宮の中に入るべきではないのだ。カルト宗教とかわけのわからない世界に迷い込んだらそこからぬけでるだけで大変でありやっとぬけでたら白髪となり墓場に入っていたとなる。文明は巨大な迷宮である。出口がない迷宮なのだ。人間は巨大な文明の迷宮に飲み込まれ逃れ出られず虚しく朽ち果ててゆく恐怖の場所である。

西行のように桜に魅せられて死んで行ったのならそれはそれで幸せな人生だった。桜とともにあの世へへ旅立ったのか?予言通りに桜の咲く春に死んだとするとその生を美しく全うしたとなる。あのようには簡単には死ねない、みんな認知症のように濁世にどっぷりとひたりもがき死んでゆくのが普通だからそうした美しい死に方をできる人はよほどめぐまれた幸せな人だったのである。
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