2014年05月30日

夏菊、菖蒲、クローバーの原野などの写真



夏菊、菖蒲、クローバーの原野などの写真

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今日も行く黄菖蒲映えて遠くへと
日立木の細道通り菖蒲かな
道の駅札幌のナンバー夏燕


紫と黄色の菖蒲城跡のお掘りに写り相馬市暮れぬ

松が枝の道を覆いて街道や影なし涼し菖蒲咲くかな

クローバーの匂いの満ちぬ北海道旅せし時を思い出すかな

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全部クリック拡大しないと見栄えしないです
今回は特に大画面にしているのでクリック拡大してください



昨日は原町へ行き今日は用事あって相馬市に行った。
疲れていたが無理して行った。
梅雨になる前に外に出歩いていないと行けなるなるからだ

つくづく旅をすることは贅沢だった
何が贅沢かというと金を使うからではない
時間を自由に使えるということだったのである
旅をするには常にオールフリーという状態に
常時あることが旅をする用意があったことだったのである。
旅に集中するにはオールフリーの状態でないと旅にならない

だから毎日介護で三食の用意しなければならないとか
何か勤めがあり迫られるものがあり負担になるものがあると
もうその時点で旅する状態にはない
6時になるな、また食事の用意だとなるとそれだけで負担になり
自由な心が奪われてしまうのである


だからつくづく勤め人には旅はできない
保養で旅館でうまいものなとを食べることはできる
でも旅はできないし旅人にはなれない
芭蕉などでも人生そのものが旅となってしまったのは
常時旅する状態にあった
たとえ家にいたとしても旅はつづいていてその家自体が旅の宿だったのである。
現代ではまず旅人となることはできない
江戸時代辺りは歩いて旅するから別に風流人でなくても旅をするようになった
現代はただ便利な車とかで移動しているだけなのである


現代は写真の時代であり写真で記録を残す時代になった。
だから芸術でも写真ときりはなせなくなる
写真がないと何か訴える力に欠けてくるのだ
写真は一目見て感じるものがある
だから大衆的にもなる
そして写真をみてまた見直すことができる
今回の写真は大画面で見ないと迫力がでてこない
クリックしないと鮮明に見えない


今は菖蒲の季節である
日立木の松並木は松の枝が道を覆っている
あれは東松島の鳴瀬川の辺りの白萩とか浜市とかの細い道で
松の枝が伸びて道をおおっていたのを思い出した。
あういうところはなんか車もあまり通らない道に見えた
つまりトラックのようにな大型のものが通らないから
そこが人間的になっていたのである

街道は細い道であり日立木は細い道だからその名残りがある
細い道ということは人間的だとなる
「奥の細道」になるのだ
ただ芭蕉が通った中通りは全くそういう面影がなくなっている
白河の関所の所だけに残っている


クローバーというとき北海道の旅を思い出す
この辺が原野化したとき本当に北海道のようになったのだ
北海道には日本の原初の状態が残っていたのである。
北海道の匂いはラベンダーなどもあるが
クローバーの匂いであり牧草地帯だからそうなる
でも季語でウマゴヤシとかなると馬の肥やしになっていて
これは江戸時代に入ってきた帰化植物だったのである。
これは一面に繁殖しやすい植物だったのである。
昔からそういう風景があり原野化したときその風景がもどった

ともかく晴れがつづいて夏らしい夏となってきた。

相馬の道の駅に北海道の札幌のナンバーの車があっても
何か車だと遠く来ていると思わないのだ
なんかすーとここに一気に来ているような感覚になってしまう。
車がそういう距離の感覚をなくしてしまっているのである
もし江戸時代ならともかく遠くから来た人は好奇の目で見られていたろう
遠くのことを知りたいということがあったからだ
それが今は全然ないというのも遠くがあまりにも近くなってしまったからである。

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