2008年01月12日

磐城−相馬街道(百街道一歩の道中記)を読み−歌にして偲ぶ−(浪江町の正西寺の歴史の謎)


磐城−相馬街道(百街道一歩の道中記)を読み−歌にして偲ぶ
http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidouipponoiwakisoumakaidou.htm


浪江の正西寺の歴史の謎
 

正西寺は、浪江駅の西側にある。ここには、明応元年(1492)相馬氏によって滅ぼされた標葉清隆・隆成父子の墓である五輪塔、義人志賀秀周の篤行碑などがある。志賀秀周は、極貧至孝の相馬藩士で、150余年前の先祖が受けた恩義を果たさんがためにはるばる丸亀に赴き、念願の素志を果たしたという。「雁金を雲井の空に尋ねつゝ返す心ぞ人の道なる」と書かれているので、先祖の借金を返しに行ったのだろうか。お堂の軒下に菊の御紋がある。南朝ゆかりの寺だったので創建に際し菊の御紋の額を賜ったとも、南朝方親王の寓居跡だからとも言われている
 
誰か知る戦い終わり草むして眠れる墓は芸州の人

相馬氏に滅ぼされし一家臣標葉の父子の寺に眠りぬ

よく見れば菊の御紋の軒下にありや南朝の名残りの寺と

このサイトほど詳しく街道を歩いている人はいないし、地元の人すらこれほと丹念に調べて歩くことはない、忘れられた碑とか一つ一つ丹念に実地に調べ歩いているから感心する。実際は歴史は昔の街道には様々な物語が残されているけど埋もれて忘れられてしまったのだ。この正西寺にも歴史が地層のように埋まっている。軒下まで見て南朝のゆかりの寺だとか探しているのもつくづく感心する。浪江から近い都路も南朝に由来するらしい。寺というのは武士の菩提寺になり優遇されていたのだ。だから歴史を保存している。一方神社は江戸時代は武士の社会だから待遇がよくなく明治になり廃物稀釈運動が起こり仏像などが壊されたのである。寺は当時役所の戸籍係とか役所の役割を担っていた。次に明治になると神社が一部役所の役割を担うようになった。神社が組を通して御札とか配り寄付金をとるのは役所的役割を果たしているから逆になったのである。天皇と神社結びつき寺と武士は一体の関係だった。この力関係で変わるのは古代から神道派と仏教導入派で争った時からはじまっていたのである。今どきは外国までお守りのことを言う人がいた。ギリシャのアテネでそういう人がいた。日本人が教えたのである。


ともかく明治維新の戊辰戦争すら遠い過去であり忘れられてしまった。芸州となるとどこの人となる、安芸藩であり広島の方になってしまうのだ。九州の福岡県の人も戊辰の役で死んで墓が残っている。相馬藩内でもそれなりの戦いがあった。この歴史を調べて本にした人もいるようだが歴史はこうして狭い地域でも詳しく調べればいろいろ掘り出されるし各自の関心も違ってくるからいくらでも郷土史の種はでてくるのである。つまりこの正西寺の歴史を掘り起こすだけで相当な物語(ストリ−)歴史が埋もれている。なぜ丸亀の方まで行けたのか?そこは金比羅宮があり金比羅の信仰は各地に広がり必ず金比羅の碑がある。鹿島区の栃窪にもあるのだ。この人が丸亀まで行ったということは金比羅参りにも行ったのかもしれない、どうしてそんな遠くまで行けたのだろうかと不思議に思う。実際金比羅参りした人はこの辺でどれくらいいるのかとなると不明である。

 

江戸時代後期、金毘羅信仰の広まりとともに、いわゆる金毘羅五街道のひとつ金毘羅参詣道阿波道の西ルート(箸蔵越え)として、多くの参拝者が利用した。
萬延元年(1860)、奥州栃窪村(現 福島県鹿島町)の住人によって寄進された「箸蔵寺百丁」の道標。ここから険しい箸蔵越えの道のりが始まる


これがインタ−ネットで発見したのだけど詳細はわからない、でも借金を返しにわざわざ丸亀まで行ったとすると金比羅まで行った人がいた。その借金とは何なのかわからないがただ金比羅まで行って寄進しているという人がいたのだから関連づけられることもある。「雁金を雲井の空に尋ねつゝ返す心ぞ人の道なる」
雁金は借金であり・・・まさに雲井のかなたまで借金を返しにゆくといのはよほどのことがあったのだ。

 

中神谷(なかかべや)という読みにくい集落にあるいわき市立平第六小学校は、神谷(かべや)陣屋跡だったという。福島県歴史の道調査報告書によると、ここは、笠間藩の分領の代官屋敷があったところだ。元文一揆で延岡へ移封された内藤氏に代わって、常陸笠間から井上正賢が平藩主として入部、内藤氏移封先の延岡から牧野貞通が笠間藩主となる。その笠間藩が、上方に持っていた所領と磐前・磐城・田村三郡内の三万石分とを替地させられて、分領を有していたという。戊辰戦争で西軍側についたため列藩側の平藩兵によって陣屋は焼かれた。
 
ここでなぜ笠間藩に興味をもったかというと笠間焼の窯元にゆき、そこで絵つけをしたことがあったからだ。これもいつのまにか相当古い話になったが今でも絵つけしたものが家に残っている。笠間焼というととにかく私がいかに旅をしているか、我ながら今更ながらずいぶん旅をしてきたものだと回顧するようになったのである。
 

相馬焼の歴史→ここに笠間焼の絵つけの茶碗の写真
http://www.musubu.jp/somayakimono1.html

 
一時は笠間藩の分領と平藩内に歴史残しぬ

遠き日や我が旅をして笠間焼絵つけせし茶碗家に残りぬ

歴史は相馬藩内でも語り尽くせないものがある。実際一家族も歴史だとなると相馬藩でもその家族にもそれぞれの歴史があり物語があるとなるからである。歴史は物語は常に忘れられ埋もれているのである。そこに住んでいても鬼越館のことなど関心もなかった。最近どうしても遠くに行けないから近くに注目するようになったこともある。その当時は鬼越館でもそれなりの存在感があったのだが全く忘れられてしまったのである。立谷氏は立谷町となりそれなりに継続して存続して街道沿いに存在感を示していたが鬼越館のことを知る人は地元でもまれである。いづれにしろこのサイトでこれだけ微に入り細に入り地元でもないのに調べ歩いているのには感心したのである。
 
誰が偲ぶ鬼越館と立谷の東昔知られしを
posted by 老鶯 at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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