まんさくや仁兵ヱ(にへい)弥平も村の辻
まんさくや畑仕事終え村の辻
まんさくや福子も遊ぶ村の辻
まんさくやまたたずねゆく飯館村
万作や苔生す山の石二つ
まず咲く花”ということでだんだんと ”まんさく”になっていったらしい。
また、花がたくさんつくので 「豊年満作」から命名されたとも
花言葉は「幸福の再来」(満作)。
まんさく(万作、満作)は変わった花である。花とも言えない花である。豊年満作として豊作を願う農民によって名づけられたのだろう。稲穂をイメ−ジしたのかもしれない、餅花でも豊作を願う農民から生まれたのであり豊作を願う行事が正月にはつづいたのだ。小正月というのもあったからだ。村の辻というとそこに村の人が交わる場所であった。今はほとんど村の人すら交わらない、でも畑仕事を終えて帰るとき村の辻にでてくるかもしれない、今は車で畑や田んぼに行っている時代だから村の辻というのも廃れたのかもしれない、近間で生活していれば村の辻は生きていた。やはり車の影響があまりにも大きかったのである。これは高齢化になると車の運転できない人は村に住めなくなるというほど深刻なのである。でも高齢者は運転できなくなる人がふえてくるから問題なのである。近くの病院まで隣に行くようだったら楽である。でも600円でもタクシ−代がかかるとするとそれなりにかかるとなる。これが町から離れると1500円とかタクシ−は高すぎるから使えないのである。
村の辻というとき道が分かれていることに魅力を感じる。阿武隈高原は特別魅力あるものがないのだが道をたどってゆくと別れる道が無数にありこの道を行ったらどこに行くのだろうと道に未知を感じる。道の魅力は未知だったのである。山奥深く入っても道があり分かれる道がある。そしてやはりどこまでも家がある。
山深き道三つ分かれ秋の暮
二つに分かれることもあるし三つに分かれることもあり四つに分かれることもある。道は尽きることはない、この道を行ったらどこにゆくのだろうとなる。そういう道−未知はいくらでも残されるのである。
知的障害者を江戸時代に福子と呼んでいた、福を呼ぶ子というのも不思議である。三年寝太郎とか村の中には実際は今よりかえっていろいろな人が交わり住んでいた。また村のなかでそうした障害者もかかえざるをえなかった。施設もないのだからあづけることはできない、どこにでも旅すると確かに知的障害者に出くわすから江戸時代も相当数いたのである。これらの俳句は想像の俳句だからよくない、苔むす山・・とあるのは写生だった。ただまんさくという花からイメ−ジされるものを書くことになるので書いたのである。