2014年04月03日

山笑ふ俳句十句 (人の苦しみや悲しみは言葉だけでは同情にならない)


山笑ふ俳句十句

(人の苦しみや悲しみは言葉だけでは同情にならない)

mountainlaugh1.jpg


『広辞苑』には、「山笑う」の解説に、
 山笑う  [画品、郭煕四時山「春山淡冶にして笑うが如く、夏山蒼翠
    として滴(した)たるが如し、秋山明浄にして粧うが如く、冬山
    惨淡として睡(ねむ)るが如し」] 春の芽吹きはじめた華やかな
    山の形容。冬季の山の淋しさに対していう。笑う山。<季・春>。
とあります。ここでは、出典を『画品』として挙げているわけです。


余裕あり耐えてこそあれ山笑ふ
追われざる心にあれや山笑ふ
病癒えなお生きなむや山笑ふ
健やかな日のもどらむや山笑ふ
大らかな姉の笑いや山笑ふ
悠々とありて動かず山笑ふ
我が里に動かず幸い山笑ふ
所得てここに動かず山笑ふ
立ち直る人の心や山笑ふ

百才もなお健やかに山笑ふ



山笑ふという表現がどうして生まれたか不思議である。この由来は中国である。
まず春の山をみて山笑ふとはならない,あとは漢詩の表現は日本でもなじむし理解できる。
山笑ふいうのは春の山を見て思わない、それは何か人間の内面的な表現である。
厳しい冬をこして人間の心も笑うから山も笑うということになる。
人間の内面的表現が山笑ふになったのである。
だから春の山の実景から作られた漢詩ではない、人間の心の表象として春の山を例えにして山笑ふとなった。
あとの表現は心の表象というよりは写生でありそれぞれその通りだからである。

自分の心の状態も今年は山笑ふという心境になった。
これまでは苦しみの連続でありそういう気分とは遠かった。
震災や原発事故などでもこの辺は山笑ふなどと俳句を出すと不謹慎だとなるかもしれないし
そう津波の被害で家族を失った人達からみればなる。
ただ人間の苦しみは別に津波という災害だけではない、常に個々の人生で家族でも起きてくる。
それはさけられず起きるものでありカルト宗教団体が言うような罰とかとは何の関係もない、
現実にカルト宗教団体の人でも家族でもそういう苦しいことは常に起きている。
みんな知っているように悲惨な死に方をしている人などカルト宗教団体の方が多いのである。


とにかくカルト宗教団体では人が不孝になるとあいつは罰が当たったとか喜ぶ傾向がある。
でもカルト宗教団体の方が調べればわかるが不孝な死に方をしている人も多いのである。
いづれにしろ人間は苦しみとか不孝をまねがれることたができないようになっている。
どんな宗教団体に入ろうがそうである。病気にならない人がいないと同じである。
もし病気にもならない、不孝にもならないとなれば全員入っているからである。

震災や原発事故では全国から同情されたことがあった。

自分は全く誰からも同情されなかった。むしろ病気の時も金のことで脅迫されたし
病気をいいことに火事場泥棒にもあっ大金を失った。
そういう人間の無慈悲を味わったのが自分だった。
震災では家を失い家族も失ったが全国からは同情されたから自分から見ればそのことは良かったと思う。
これも一方的な見方で勝手だともなるが結局人間は相手のことを理解できない
相手の身になれないことを書いたが震災でも津波の被害でも近くで被害があっても苦しんでいた人のことを知らなかった。
最近あんな近くに津波の被害の人がいて苦しんでいたことを知ったのである。

津波の被害にあった人はその人しかしりえないのである。
「家をなくして悲しいですね、最愛の家族をなくして悲しいですね、同情します」とか言われても何も反応しないかもしれない
「俺たちの悲しみをどうしてわかるのだ、苦しみをどうしてわかるのだ、それならお前の財産の半分をくれ、
家をもっているなら家をくれ・・・そうしたら多少同情していることを認めるよ・・・」
とかなるだろう。だから人間は言葉で同情してもそのまま認められないのである。

言葉などいくらでも言うことができるからである。
「お前のこと同情しているんだよ」と口ではいくらでも言うことができるからである。

結局その人の苦しみや悲しみはその人がになっていて肩代わりできない、津波震災でも同じである。
個々に苦しみや悲しみは違っている場合があるからだ。
だから人の苦しみとか悲しみはなかなか慰められないところがあるのだ。
金を与えても家を与えてもそれはとりもどせる。
しかし家族を失ったらもうその命はとりもどせないからである。
そこが一番深刻なのである。

ともかく山笑うは写生にはならない、心境的なものが反映されているからだ。
ここでも移動させられ人が多いから動かないということが幸いとなり山笑ふとなってしまった。
また自分の姉は太った人で笑い方も豪快だった。人の笑いもまた性格などで違っている。
あまりにも苦しんだ人は何か心から笑いなくなっているのかもしれない
捨てられた猫もそうだった。何か未だに人になれない、人に不信感をもっている。
犬が吠えるように攻撃的になり人を警戒しているのである。
人間はあまりにも虐げられたり苦労するとそうなってしまうのである。
去年まではこんな心境の俳句を作ることができなかった。
今年はできたからかなり心に余裕をもてるようになったのである。

 
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